短編 #1119の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
コチ、コチ、コチ。 時計の音だけが、静まり返った空気を揺らしていた。 サーモンピンクの短針は、十一時をさしている。 私は、机の上に突っ伏すようにしてただ時計を眺めていた。約束の時間は、九 時だった。とうにそれを回っても、電話ひとつかかってこない。 三日前だったら、仕事が終わらないのだろう、と先に寝てしまったけれど。膝 の上で丸くなっているハーブの背中をそっとなでる。やわらかな毛並み、暖かい からだ、この子のように何も考えず眠れたらいいと思う。 鳴らない電話の隣、ママからの伝言がボードに貼ってある。 [今日は九時までに帰るわ、可愛い佐和子へ] おそらく私の様子がおかしいのに気が付いて、わざわざ書き残していったんだ と思う。そんなことしないでくれれば、いっそ諦められるのに。信じたいと思っ てしまう、自分が嫌だった。 「……嘘つき」 呟いた私の声は、ひどく冷たく聞こえた。 ママの様子が変わった、それに気が付いたのは二日前の夜だった。今日のよう にママはなかなか帰ってこず、私は先にベッドに入っていた。 目が覚めたのは、夜中だった。枕元の時計が3時過ぎを指していた、あんな時 間に起きてしまったのは、多分ハーブと一緒に夕方うとうとしてしまったせいだ と思う。 水でも飲もうかとそっと部屋を出た私の耳に、その時ごく小さな声が入ってき た。 「……るわ、ええ」 ママの、声だった。でもなんだか私の知っているママの声とは、同じなのに違 う気がした。いつもよりなんだか……綺麗な、声だった。 「そう、私もそうよ」 相手の声はしないから、電話だろうと推測できた。私は、何故か一歩も動けな かった。ひとの電話を立ち聞きするなんて、家族でもよくないと思っていたけれ ど、足は動かなかった。 こんな時間に、誰と話しているのか。どうしてあんな綺麗な声で話しているの か、気になって動けない。 「困った人ねぇ……いいわ」 家の、ではなく自分の携帯でかけているのか、声はママの寝室から洩れていた。 ママの声は、艶を帯びたり、時にははしゃいだようにすら聞こえた。私には、絶 対聞かせてくれない声、だった。 急に、私はそこにいることを後悔していた。 てのひらがじっとりと汗ばんで気持ち悪い、立ち聞き云々ではなく、ママの声 が私を圧迫していた。 怖かった、何が怖いのか解らないけれど、私はとても怖かった。 早く部屋に帰って、安全なベッドに潜り込んでしまいたいのに、足は動かない。 耳を塞いでしまいたいけれど、指一本でも動かしたらママにばれてしまいそう な気がして、どうしても動けなかった。 そして、私は絶対に聞きたくなかった言葉を、耳にしてしまった。 「愛してるわ……」 少し掠れたような、それは《女》の声だった。 ママの声ではなく、紫野ゆかり、という女性の声だった。 涙が勝手に溢れてきた。 ガクガク震える膝を必死に制御して、私はどうにか部屋に帰った。 その後は、結局朝まで眠ることは出来なかった。 みゃあ、とハーブがないた。 目が覚めたのかと思ったけれど、私の指先をペロッとなめるとすぐにまた眠っ てしまった。どうやら、ちょっと寝ぼけていたみたいだ。 暖かいこの子を抱きしめていると、少しだけ心がなごむ。 「もう、寝ようかしら」 ここでこうしていても、何も解決なんかしないことはよくわかっていた。ママ が本当に仕事で遅くなっているのか、だれかとデートをしているのか、そんなこ とわかりっこないのだ。 なんだか一人で待ち続けた自分が、急にバカみたいに思えてきた。 「寝ようね、ハーブ」 膝の上のハーブをそっと抱き上げて、枕の脇に寝かせてやる。 コロン、とハーブが転がった。無邪気な寝顔が、空条君を思い出させた。 「空条君、どうしてるかな」 私のこと、好きだって言ってくれた男の子。 私と会いたいって理由で、部活をさぼってたって知ったときにはびっくりした けれど、ちょっと嬉しかった。だけど、ここ二日ほど顔を見ていない。その理由 を知ったのは、今日の放課後だった。 栗林さん、空条君のクラスメイトで部活も一緒という女の子が、教えてくれた のだ。空条君は部活の追加メニューでとてもじゃないけど図書室に寄っている暇 はないらしい。それを聞いたとき、ちょっと寂しい半面ほっとした。彼が、来な いのではなく、来られないとわかったからだ。 だけど、栗林さんの話には続きがあった。 それが私の中に不安を生んでいた。 空条夏生君、彼はとても優しい男の子だ。 素直で、一生懸命で……私にないものを、たくさん持っている。 彼の笑顔なら、信じられる気がした。ううん、私は空条君なら信じられる、信 じられないのは……。 その時、電話が鳴った。 心臓が、跳ね上がった。 ドキン、ドキン、ドキン……。 こめかみにまで響く音を意識しながら、私は電話を取った。 「はい、紫野です」 「佐和子、こんな時間まで待っていてくれたの? 遅くなってごめんなさい」 ドキン。 電話の向こう、遠いママの声に紛れて、グラスの音がする。少なくとも、ママ が会社から電話をかけているのではないことがわかった。 「今日は、遅くなるから先に休んでいてくれる? 修学旅行も近いんだし、体調 を崩したらいけないわ」 優しい声、ママの声、嘘なんてかけらも感じさせないような声。 「うん……わかったわ。ママも、身体に気をつけて」 私はそう答えて、静かに電話を切った。 自分の声、普段と同じ……何も気が付かなかったふりをする声、それが耳の中 でリフレインする。 ベッドに倒れ込むようにして、私はこみ上げてくるものを押し殺した。 「空条君、空条君、く……夏生君」 彼に、笑いかけて欲しかった。 嘘のない笑顔を、見たかった。 彼の笑顔なら信じられる、信じられないのは……私自身。 私は、声を殺して泣いた。 信じることが出来ない、ママとだんだん似ていくような自分自身が、私は誰よ りも嫌だった。
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