短編 #0198の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
火曜日の夜、まだ八時をまわったばかりのバー、フロイズインの化粧室で女は鏡に 見入って唇にルージュを引き直していた。小指で縁をととのえ、真一文字に何度か口 を閉ざして唇に潤いをもたせた。 鏡に映った彼女は小柄ではあるがアンナ・カリーナみたいな肉感的なボディを胸の 大きくあいた赤いワン・ピースで覆い、そこに太めのベルトを腰骨の上に軽く巻きつ けることで、肢体のラインを浮かび上がらせていた。まだ二十歳を過ぎたばかりの彼 女の肌は雪のように白く、丸い輪郭に情熱的な厚い唇、意志の強そうな太い眉のその 顔を、ボブカットで細面に見せていた。この手の顔にありがちな軽薄そうな面持ちも 鼻筋がとおっていることで、ご破産になっていた。鏡に映ったもう一人の彼女の、そ のつまらなそうな表情から退屈と倦怠が見てとれた。 黒く塗りつぶされた化粧室は、ペンキが所々剥がれ落ちていた。鏡の側のその壁の 上に彼女は誰かがなにか鋭角的なもので書きなぐるように彫り込んだ小さな落書きを 見つけた。そこにはこう刻まれていた。 もう勇気は品切れか それでは酒場に仕入れにいこう リバティ・バランスを射った男 なんだか彼女は嬉しくなった。この言葉が彼女の心の闇の側にあるまだ曖昧な生地 の上に勢いよく一直線にスカラーの歯形を残した。 * フロイズインはつくばの片隅にある小さなバーだった。薄暗い部屋にカウンターと 立ち飲みのテーブルと壁にコートをかけるためのフックがあるだけだった。十人も入 ればいっぱいになってしまう。狭くて殺風景な店だが、不器用な男がひとりでやって いくには広すぎるくらいだった。マスターは無口で物静かな男だった。もういい年な のにその面差しから年齢を感じさせない顔をしていた。カウンターのなかで暇をもて あまして腕組みしながら遠くを見つめて煙草をふかしている。世界中をリュックひと つで渡り歩き、何でも見てやろう何処へでも行ってやろうという世代の男が結果とし てたどり着いたのがこの店だった。小説家や売れない飲み屋のマスターなんてものは ひねくれ者がいきつく最終的な結論なのかも知れない。もはや漂白を停止し、ニヒリ ストの海を越えて酒場にたどり着いた。そんなところだろうか。 さっきまでこの店の客は彼女だけだったが、化粧室から戻ると彼女の飲みかけのキ ールの向こう側に客がもうひとり座っていた。見たところその男は欧米人のようだっ た。カウンターに頬杖をついて飾り棚のガラスに映った自分を見るとはなし眺めてい た。物憂げなその瞳はウィレン・デフォーでもマット・ディロンでもなく、「長距離 走者の孤独」のトム・コティネイに似ていた。彼女の気配に気がつくと男はビールの ジョッキを目よりも少し高くかざして彼女を見つめて小さく笑った。その無防備な微 笑みに彼女も無意識のうちに笑みを返していた。 女はキールのグラスを見ながら、ごめんなさい隣に座ってもよろしいかしらと英語 で話しかけた。 「どうぞ、ここはもともとあなたがいたのだから謝らなければいけないのは私のほう だ。君はなかなか流暢な英語を話すね。どこかで習ったのかい?」 「習ったことはないわ。中学、高校、短大と八年も学校で教えられたけど学校で教え る英語なんてつまらないし、ちっともものにならなかったわ。強いて言うなら私の先 生はジョン・レノンとボブ・ディランかしら。六十年代後半から七十年代の音楽が好 きなの」 「どうやら気が合いそうだね。だけど英語がもっと上手くなりたいんだったら名詞の 前にはブラディをつけなきゃ駄目だ」 「随分口が悪いのね」 「そうでもないさ」 「あなた、イギリス人でしょう?」 「どうして?」 「だってアメリカ人だったらあなたみたいに野暮ったくないもの」 「随分口が悪いんだね」 「そうでもないわ」 「名前は?」 「洋子」 「まさかオノって言うファミリー・ネームじゃないだろうね」 「そうよ、どうしてわかったの?」 「悪い冗談だね」 「いいじゃない、名前なんて何だって」 「この辺に住んでいるのかい?」 「あなた探偵みたいね」 「そうじゃないけど、ちょっと気になったからね。君の事が」 「いいわ、答えてあげる。そうよ私はこのつくばで生まれて東京の短大で二年間生活 した以外はここから出たことのない可哀相な女なの。田舎になんか帰って来たくなか ったけど両親に泣きつかれて嫌々帰ってきたのよ。向こうにいたときはアパレル関係 の仕事に就こうと思っていて、仕事も覚えたら独立しようなんて夢も希望もあったけ ど、今はつくばのデパートで白地にグリーンのストライプのブラウスを着て輸入物の 洋服生地を売るのが私の仕事。どう、最高の人生でしょ。これで満足した?」 「ああ、まあね。君のために何か一杯おごらせてくれ。何がいい?」 「そうね、あなたの国のやりかたでシャンディーにしておくわ」 洋子はシャンディーのグラスに口をつけてからこういった。 「今度はあなたの事を聞かせて」 男はビールのジョッキを口に運び、一杯飲み干してから話し始めた。 「そうだな、君の言う通り私はイギリスで生まれたんだ。イギリスのミッドランド、 ノッティンガムという炭坑町でね。そこの工科大学で情報処理を専攻していたんだ。 町の中をトレント川が流れ、遠くにペナイン山脈が見える。ロンドンにも近いし、そ う、つくばによく似ているよ」 「シャーウッドの森があるところね」 「そうさ、よく知っているね君は」 「ちょっとね、本で読んだことがあるの。詩人のヴァイロンも確かノッティンガム出 身じゃなかったかしら?」 「最低だね、ヴァイロンなんて」 「あら、どうして私は好きだわ。同じノッティンガム出身でもロレンスよりはましで しょ。少なくとも他人の奥さんを寝取ったりはしなかったはずよ」 「そんなにノッティンガムが好きならシリトーを読んでみるといい。あれには俺達ミ ッドランドの男達のことが書いてある。今気がついたんだが、考えてみたらあの作家 達はみなノッティンガムを捨てているんだ。自分の生まれ故郷を愛していながらどこ か馴染めなくて、時には憎しみさえ感じていたんじゃないだろうか。実を言うと私も そうなんだ」 「私も早くつくばを出たいわ。退屈で死にそう。あなた、つくばには仕事で来ている んでしょう?」 「そう、二週間前からイギリス政府の命令でね、つくばの光エネルギー研究所に大学 から研究員として派遣されたんだ」 「違うわ。あなたの本当の仕事、当ててみましょうか?」 「面白そうだね、是非聞かせてもらおうか」 洋子はカクテルで喉を潤し、細い薄荷煙草に火をつけて話を続けた。 「あなたはね、どこかの国のスパイで光エネルギー研究所の最高機密に属する情報を 得るため、大型コンピュータにアクセスするためのパスワードを盗みに来たハッカー なのよ。85年のハッキング事件以来、当局は神経をとがらせているから外部からの 侵入は困難になったわ。それで特別な訓練を受けた諜報部員であるあなたに内部潜入 の依頼が来たのよ。どう図星でしょ?」 男は洋子の突飛な想像力に苦笑いした。 「どうやら君にはストーリーテイルの才能があるみたいだね。もし仮に私がハッカー だとしてもわざわざ研究所に潜り込んだりはしないよ。彼らにしてみたら機密は二次 的なもので、本当の目的はいかにしてパスワードを解析してそのコンピュータにアク セスするかって事なんだ。中には悪質なハッカーもいるが、彼らにしてみれば難解な パズルを解いているようなものさ。それに私の仕事はどちらかというとハッカーをい かにして防ぐかということだからね。」 「まだ名前を聞いてなかったわね」 「デビットだ。デビット・ウィルキンスン。まだここに来て日が浅い。そうだ、今度 つくばを案内してくれないか。ちょうどこの前、私と入れ替えで国に帰った友達のカ ローラもある。79年型の骨董品だがまだまだ走るよ」 洋子はなかば呆れ顔で言った。 「79年型ですって!よくそんな車があったものね。骨董品を通り越して博物館もの ね。今時そんな車、カトマンズのタクシーだって使っていないわよ。いいわ、私のも カローラだから私の車で行くことにしましょう」 「それじゃ今度の日曜日はどうだい」 「日曜日は駄目。もう予定が入ってるもの。もう一度ここで逢うことにしましょう。 そうね、明後日。木曜日にここで逢って決めましょう」 洋子が時計に目をやると、まだ九時を過ぎたばかりだったが、その時彼女は父親の 事を考えていた。 「今日はもう帰るわ。たまには早く帰らなくちゃね。さよならデビット」 洋子はドアのノブに手をかけたとき、もう一度カウンターの方を振りむき思いだし たようにこう言った。 「そうだ、最後にひとつだけ聞いていい。ノッティンガムの若い人たちって女の子の 家に遊びに行った夜、玄関で親に聞こえるように大きな声で別れの挨拶をしてそのま まふたりで部屋に戻ってしまうって本当なの?そんな風習があるって誰かに聞いたこ とがあるわ」 デビットは日本人みたいな曖昧な表情を浮かべてこたえた。 「そして、それは親も承知の事なんだ。父親も母親もずっとそうしてきたことだから ね」 「ありがとう。それじゃ木曜日に」 洋子はレヴィンのイグニンションキーを回そうとしたとき、これから何か新しい事 が起こるのではないかという予感を感じた。それは前に何度か感じたものだけれども もう忘れかけていた不思議な気分だった。帰り道、短いドライブの間に、星も月も夜 さえも私に見方してくれているような気分だった。さっきのシャンディーとカーステ レオから流れるRCのバラードに少しだけ酔えた。 * 父と母は居間でお茶を飲みながらテレビを見ていた。テレビの中ではNHKのアナ ウンサーがニュースの原稿を読んでいた。洋子が二階の自分の部屋にたどり着くため には、どうしても居間の前を通っていかなければならなかった。見つかれば小言のひ とつやふたつ言われることは判りきっていた。こんな時はやはり黙って素通りするに 限る。居間の前をそっと通り過ぎようとしたとき、母親に呼びとめられた。 「ちょっと待ちなさい。今何時だと思ってるの」 「毎晩遅くまで帰って来ないで。たまは早く帰って来るもんだぞ」と父親が言った。 「いつまでも子ども扱いされたくないわ。それに家に帰ったからって何があるってい うの?」と洋子はふてくされた顔で言った。 「お父さんはあなたのことを心配して行ってるのに、どうしてあんたはそういう言い 方しかできないの」 「私は私の私生活のことであんた達にとやかく言われたくないの。仕事だって家のこ とだってちゃんとやってるわよ」 「あんた達って誰に向かって言ってるの?お父さんに謝りなさい」 「もういいっ!!」 洋子は家をとび出していってしまった。母親と父親は戸惑いを隠しきれないでいた。 どうしていつもこうなんだろう。洋子は学生時代に手にいれた自由と引き換えに手 にいれた車を走らせながら考えていた。どこでももいから、ここでないどこかへ行き たかった。 ヘッドライトが車線の縫い目に沿って夜を引き裂くように裁断していく。信号が青 から黄色になったのもおかまいなしで洋子はアクセルをおもいっきり踏んずけた。も うどうにでもなってしまえと思った。体が熱くなって涙で目がかすんできた。何度拭 いてもあとから涙があふれてとまらなかった。どうしていつもこうなの。 土浦の高架道を越え、気がつくとヨットハーバーまで来ていた。洋子は車を降りて 外の空気を吸ってみた。 停泊している何艘ものヨットの帆先はまるで夜空の星を数えている子供の指のよう に波に揺られてゆれていいた。夜は優しく彼女を抱いて、まあるいお月さまがどうし たのって泣き虫の顔をのぞきこんでいた。 風が吹いてきた。彼女は胸で、ため息ともしゃくりあげともつかぬ深呼吸をした。 心のほころびの応急処置に縫い合わせた針と糸を奥歯をくいしばって引きちぎった。 よしっ。何か自分に言い聞かせまた彼女は車に乗りこんだ。 車をまたフロイズインに向けて走らせていた。そうだ、いつかきっとデビットのた めにリバティプリントの柄のシャツを作ってあげよう。それから彼女はあの時の壁の 落書きのことを思い出していた。 もう勇気は品切れか それでは酒場に仕入れにいこう Nameless Cat.
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