長編 #4790の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「あ」 忘れない内に、めくっておかなくちゃ。 純子は水仕事に濡れた手を拭き終わるや、壁掛けカレンダーの前に急いで立 った。そっと手を添え、スムーズに破り取る。 (今日は……2*便、B74*に乗るのね。今頃、雲の上かしら) カレンダーには簡単な旅程が書き込まれていた。 カーペットの上にぺたりと座り込み、破り取ったカレンダーに折り目を付け ながら、純子は窓の外に目をやった。淡いピンク色が踊っている。桜だ。窓ガ ラスを開け放てば、乾いた陽風に乗って花びらが流れ込んでくる。 (こっちでは、ぴかぴかの一年生は春じゃないのね) 折り目に沿って鋏を走らせる。メモとして使うため。でも、たまにカレンダ ーの写真に気に入ったものがあったときは、そのまま残しておく。 手が空くと純子は立ち上がり、何をしようか頭を悩ませた。 (折角のお休みも一人だと、ね) 夫は旅行中、子供はまだ授かっていない。近所の知り合いの奥さん達も、休 みの今日は家族団らんに忙しいことだろう。 お昼の準備に掛かるには早すぎるし、読書しようにもベストセラーの大長編 を昨日で読み終わったばかりで、今ちょっと気力に欠ける。 室内をぐるりと見渡し、クローゼットの棚にある作りかけのテーブルクロス が目に入った。当てもなく始めたパッチワーク。 (続きでもしようかしら。でも、あれは時間を見つけて少しずつ作るつもりな のよね) 思わず腕組みして考え込もうとした矢先、電話の呼び出し音が鳴った。軽や かな音色に、純子はしかしゆっくりと動く。 (「もしもし」じゃない。「ハロー」) 習慣とは簡単には直らないもの。間違えないように心構えをしてから、送受 器を手に取った。 「ハロー? ディス イズ ジュンコ=ア――」 「元気な声だ」 日本語が聞こえてきたので、気持ちを切り換える純子。記憶にある声との照 合をハイスピードで行わねば。 次の瞬間、向こうとこちらの声が被さった。 「地天馬です」 「地天馬さんですか?」 自分の話すトーンが上がったと分かる。久しぶりに声を聞いたような気がす る。エアバッグみたいに瞬時にして膨らむ懐かしさ。 「お久しぶり」 地天馬の口調はいつまでも若々しい。加えて今は歯切れもよい。よほど機嫌 がよいようだ。バックに聞こえる喧騒は、レストランかスーパーマーケットら しかった。 純子は近くの椅子に落ち着きながら、挨拶から始めた。 「ご無沙汰しています。地天馬さんもお元気ですよね、その調子だと」 「もちろん。しかし、涼原さんの元気のよさには負け……る……」 「どうかされました?」 不意に切れた台詞に、純子は大きな声量で問い返した。もしかしたら通話状 態がよくないのかもしれないと思ったから。 だが、そうではなかった。 「旧姓で呼んでもいいかな」 「ああ! はい、かまいません。みんなはジュンと呼んでくれるんですけどね」 「ジュンね。いや、よそう。その呼び方、君の昔の芸名をイメージしてしまう」 純子のかつての活動ぶりは、地天馬さえ知っている。と言うよりも、この名 探偵は久住淳の写真を一目見ただけで正体を看破したのである。 「今は時間、いいのだろうか」 「暇を持て余してました。何でしょう?」 「特に緊急の用事があって電話したんじゃない。こちらには事件解決のために 来てね。解決したあと、君達の家が近くにあるなと思い出した。日本語が聞き たくなって、つい」 「え? じゃあ、いらしてください」 一段とトーンが高くなる。対する相羽は変わらぬ口調。ただし、ほんの少し 微笑が混じったかもしれない。 「邪魔ではないかな」 「いいえ、ちっとも! このチャンス逃したら、またいつ会えるか分からない のに。大歓迎です。寂しくなくていいし」 「――ひょっとすると彼は不在?」 口調が初めて明確に変化した。 「ええ。たまに一人になると、だめなんですよね。いつもが楽しくて、うふふ」 「戸締まりはしっかりしてるかい。治安のいい土地柄と言っても、あくまで比 較。海に血を一滴垂らしたところで、色が変わるわけではない」 「はい、それはもう。あっ、心配してくださるんでしたら、ぜひ地天馬さんに ガードしてほしいな」 「ふむ。では、三時間ほど待っててくれ」 思い出話に入る前に、電話は切れてしまった。 「三時間? 近くと言ってたけれど」 送受器を握りしめたまま、つぶやく。目は天井の模様を追っていた。 そして改めて感じる。 (感覚が日本と違うわ。広いっ) それはさておき……時計を見る。三時間後と言えばちょうど昼食の時間帯と 重なる。 (何にしようかな。日本の人をお迎えするのって滅多にないから分からないけ ど、こういうときは和食? ポテトとミンチがあるから肉じゃがができる。う うん、それとも外に食べに行った方が。ああ、それよりもざっとお掃除を) 食堂を抜けて台所へ向かう道すがら、あれこれ考えを巡らせていると、再び 電話があった。 地天馬さんかなと思いつつ、今度は駆け足で電話へと戻る。 喋り出すのは相手の方が早かった。 「ハロー? アイム ケンシン=ワシュウ」 「――鷲宇さん? 私です、純子です」 「おや。まだお手伝いを雇ってない。電話する度に、今回こそ英語が流れてく るだろうと楽しみにしてるのに」 純子は苦笑を漏らした。電話をくれるといつも同じことを言われる。働き口 を少しでも多くするのはぜひ行うべき行為と説かれているのだが、純子として はもうしばらく二人きりの暮らしを送りたい。 「それで今日は何か。また例の話ですか?」 「そうそう。本格的にカムバックする気は起こってないでしょうか?と思いま してね」 「起こってません。ふふふ、ごめんなさい」 「残念」 挨拶代わりのやり取りだ。鷲宇は自身のアーティスト活動と並行して、他者 のプロデュースにも力を入れている。 「仕方ない。本題に入りますか。これからニーナと二人で、そっちに寄っても いいかい?」 「え? ニューヨークじゃないんですか」 「そっち――というかすでにこっちに着いてるんだ。なに、知り合いの俳優が 大根のくせして映画に出てねえ。プレビューあるから来いだなんて、ふざけた ことを言ってくれた。幸か不幸かオフに入っていたから、ま、渋々。何か他に 楽しみはないものかと考え、君達に会いたいなと」 鷲宇の口調は弾んでいた。役者の招待に嫌々応じたというのは単なるポーズ なのかもしれない。 「かまいませんけど」 重なるものねと偶然に驚きつつ返事すると、言葉尻を捉えられた。 「『けど』って? 不都合があれば遠慮するよ」 「都合が悪いわけじゃないんです。他にもお客様が来るので、一緒になっても いいのかなって」 「僕の知らない人? 誰だい?」 「地天馬さんと言って、日本の探偵の方です」 「探偵! まさか、かつてのアイドルの現在を探りに、日本のテレビ局が放っ た調査員じゃないだろうね」 冗談混じりに笑い飛ばす鷲宇へ、純子は一瞬、イエスと答えようかと思った。 しかし、ドラマでの演技を別にすれば嘘をつくのが下手だと自覚しているの で、あっさりあきらめる。 「いえ、昔からの知り合い。一風変わったところもありますけど、頼りになる 人なんです。あっ、久住淳の写真だけで、私の変装だと見破ったんですよ」 「凄い、本物だな。会ってみたくなったよ。先方がよければご一緒したい」 「私からは連絡取れませんが、多分、大丈夫」 「それはよかった。ところで旦那サンは? 手が空いてるなら話がしたいな」 純子は地天馬にしたのと同じ説明を繰り返した。 「なるほど。では、一刻も早くにぎやかしに行くとしますか」 「待っています。ニーナさんにもよろしくお伝えください」 鷲宇達の到着は地天馬よりも早くなりそうだった。 電話を切ると、純子は腕まくりをした。 「さあ、忙しくなるわ!」 ――つづく
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