長編 #4739の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「ったく、いい加減、静かになさいな。一応、対戦相手のお兄さんとも顔を合 わせたんだし、少しは控える」 「はあい、分かってるって」 会場が静まるのを待っていたのだろう。審判が相羽と江口を手招きで、中央 に呼んだ。そのあと、口頭で注意事項を告げる。 相羽が多少緊張気味の顔つきで、こくりとうなずく。それに対して江口は両 拳を腹の前で交差させたまま、相羽をじっと見据えている。江口の方が場慣れ している模様だ。 「線まで下がって」 審判の声が聞こえた。畳の上に貼られたガムテープの赤い線まで下がる両者。 「――始めぃ!」 二人の間にかざされていた審判の手が、すっと引かれた。 試合開始の合図と同時に相羽も江口も積極的に動く。互いに三歩ほど右に回 ってから、おもむろに距離を縮めにかかる。ともに、相手の襟や袖口を掴もう と手を飛ばし合う。ここまでは柔道さながらの展開だ。 次に双方がっちり組み合い、敵の姿勢を崩そうと揺さぶりに出た。文字通り 腕力で揺さぶったり、足を飛ばして転ばそうとしたりと試みるが、決め手を欠 いた。 「あいつ……倒れねえな」 「あいつって、相羽のことか、対戦相手のことか?」 唐沢と長瀬が話を始めたが、その視線は試合を追いかけている。 「相羽のことだよ。どっちかって言うとあいつ細身だから、倒されやすいと思 っていたんだが、案外……」 「なるほどな。相手は見た目にもはっきり、腰を落としているのが分かるが、 相羽は自然体という感じだ。まるで柳」 「身軽に逃げてるのかな」 「俺達が思ってる以上に、相羽の腕力が強いのかもしれない」 想像だけは自由にできるが、正しいかどうか不明だ。 試合の方は膠着状態が続いたため、審判が割って入り、両者を一時分けた。 最初の立ち位置に戻り、改めてスタート。 この瞬間、相羽はスタミナが切れたかのように、天井を仰ぎ見た。しかも腕 を両方ともだらりとさせ、棒立ちの状態である。 それなりのキャリアを積んでいるらしい江口が見逃すはずがない。身を低く すると、タックルを狙って突っ込んで行く。 が、次の一瞬、相羽は信じられないほど素早く反応。左に半歩動いてタック ルをかわす。いや、防御だけでなく、攻撃も見せた。敵の影が消えたことに急 ブレーキをかけて対応しようとする江口の身体に横から張り付き、帯を掴んだ。 間髪入れず引き倒すと、転がる勢いを利して相手の上を制す。押さえ込みの体 勢を確保した。 会場の一部からどよめきが起こった。それほど見事な動きだった。一連の仕 掛けが流れるように鮮やかで、理にかなっている。 「わあ、凄い凄い!」 ぱちぱちと手を叩くのは富井。 この段階になると、白沼は固唾を飲んで見守っていた。 「やるじゃないか!」 「おお。あとは相手のあの太い腕を決められるかどうか」 「もしくは押さえ込みを続けて、優勢のまま逃げ切るか」 男子三人は興奮するのを感じつつ、展開を占う。 相羽が選んだのは、腕を決めにかかる道だった。 汗で滑ることのないように、道着の袖を巧みに絞り上げながら、江口の左腕 をじりじりと伸ばしていく。体重の預け方も堂に入ったもの。下の江口はもが くばかりで、効果的な抵抗は全くできないでいた。 あと少しで肘関節が決まる。観衆の誰もがそう信じて疑わなかっただろう。 と、その刹那。 「う」 短いうめき声が二度、聞こえた。相羽のものだ。 そう思う間もなく、相羽が押さえ込みの姿勢を解き、仰向けに倒れる。 「どうしたんだ?」 「え、何なに? 何が起こったの?」 事態の急変に動揺したのは唐沢や富井達だけでない。会場全体がざわめく。 審判が相羽の顔を覗き込む。途端に表情が険しくなり、相手の江口を立たせ ると、何やら注意を始めた。 江口は初めこそうなだれていたが、突然、何もかも鬱陶しくなったと言わん ばかりに首を横に激しく振るとそっぽを向いた。審判が後ろから腕を取って引 き止めようとするも、振り切られる。大多数の者が唖然とさせられる中、江口 主税は控え室へ引き返して行く。 「ばかたれ!」 不意に轟く怒声に、会場内は新たな緊張感に包まれた。 江口の属する道場の指導者らしき年配の人物が飛び出してきて、通路に仁王 立ちしている。 そのあとに続く言葉までは聞き取れないが、叱りつけているのは雰囲気でよ く分かった。身振り手振りから判断すると、どうやら畳の上に戻れと言ってい るらしい。 その畳の上では、審判や同じ道場の仲間に上体を起こされ、鼻を押さえる相 羽の姿があった。 助けようとする仲間の手を断り、相羽は自力で立ち上がる。審判の言葉に、 鼻を押さえたままうなずく。怒りを携える細く、きつい目。 江口はと言えば、説得も聞かず、戻って来なかった。 彼を引き止め、いさめていた男の人が代わりに上がり、審判や相羽、相羽の 所属道場の師範らに頭を下げた。 「江口主税選手の反則行為――拳による顔面殴打及び膝蹴りにつき、相羽信一 選手の勝ち」 審判のコールも、心なしか元気がなかった。江口の行為が、それだけ不測の 事態なのだろう。 相羽は、鼻血が出ていないかどうか気にするように、指を鼻に当てながら走 って引き上げていった。 「行ってみようよ、控え室」 状況を完全には把握できず、呆然としている中、町田が提案した。 * * 覚悟していた最悪のケースに比べると、随分早く終わった。 ガラス越しに外の景色をぼんやり眺めながら、脱力感を覚えた純子。駐車場 からはまた一台、車が出て行く。派手で華やかなワインレッドのワゴンには、 先ほど店を出た家族連れ五人が乗っているのだろう。 遅い昼食を摂るために入ったファミリーレストラン内は、休日のせいか、半 分ほど埋まっていた。純子達のいる窓際の席の両隣は、ともに空いている。鷲 宇や市川が静かな場所をウェイトレスに望んだのだ。 「意外と美味しい」 鷲宇が感激した風な口振りで言った。手にした箸には、トンカツの肉が一切 れ。汁が滴っている。 ファミリーレストランの類に入ったことがなく、また、和食党だと称する彼 は最初嫌がっていた。もっといい店まで足を伸ばそうとさえ主張した。鷲宇の 希望が却下されたのは、単に各人のスケジュールの都合のためである。 「こういうのを食べると、向こうでの和食は、ほとんどが和食もどきだったん だなと感じる」 「それはそうですよ。アメリカはこと料理に関しては、後進国です」 市川が言い切った。そんな彼女は、貝のスパゲッティを食している。 「その証拠に、日本料理やフランス料理、イタリア料理、中華料理という言葉 はあっても、アメリカ料理なんてないでしょう?」 「なるほどね。卓見かもしれない。……イギリス料理も聞いたことがないよう な気がしますが」 箸を置き、静かに笑った鷲宇。 「代わりに英国には、格式高いアフタヌーンティーの伝統がある」 水を一口飲むと、思い出すように続けた。 「昼食と言えば、ハンバーガーやホットドッグ、クラブサンドの繰り返しだっ たけなあ。お茶漬けが恋しくなったときは、『ああ、俺も日本人だ』と我がこ とながら感心してしまった。子供の頃はスパゲッティだのグラタンだの、洋食 を好んで食べてたくせにね」 話を聞く内に、純子は自分の食事も忘れて笑い出してしまった。一体どうし たの?という周囲の怪訝な視線を受けて、目尻を拭いながら答えた。 「鷲宇さんが日本人だなんて言うの、何だかおかしくて」 「そうかい? 事実を述べたまでですよ、僕は」 丸いサングラスを押し上げながら、鷲宇は応じた。このサングラスと、髪型 をわずかばかり変えたおかげか、店内の誰も鷲宇憲親の存在に気付いていない。 「イメージに合いません。こんなところでカツ丼をかき込んでいるのを見たら、 ファンの子達は泣くと思いますけれど」 「ふうん。それじゃ、君は僕のファンじゃないんだ? あはは」 指差され、純子は目をぱちくりさせた。 (あ、そっか。失敗) 後悔しつつ、取り繕うために純子も笑った。表情がひきつってしまうけれど。 「えっと、私は……昔ファンで、今は生徒です。だから何を目にしたって泣き ません」 「ふっふ。僕が先生か。それじゃあ、先生から生徒にお願いだ」 「え?」 目配せした鷲宇に、純子はまたもやきょとんとしてしまう。横目で、市川が 苦笑するのが見えた。 「僕のイメージが崩れないよう、カツ丼を食べてた事実を誰にもばらさないこ と。友達だろうが家族だろうが、絶対に」 ジョークであるのは明白だった。 しかし、純子は敢えて真面目に捉えた。考えがあってのこと。 「分かりました。その代わり、こちらもお願いが……」 「ん? 何?」 「初めてお会いしたときから、ずっと頼もうって思ってたんですが……サイン くださいっ」 鷲宇憲親という有名人を相手にした緊張感が、久しぶりに蘇った。からくり 人形を思わせるぎこちない動作で、ぎくしゃくと純子はお辞儀をした。 鷲宇はテーブル備え付けの金色の容器からナプキンを抜き取ると、胸ポケッ トにあった鉛筆を使ってさらさらとサインを書き殴った。 「これでいい?」 そして純子の前へ、数ある皿を縫うようにして送り出す。細い細い字が、円 を描いて踊っていた。紙が薄いためではあろうが、本当に「鷲宇憲親」と書い てあるのかどうか定かでない。 「あの」 返事に戸惑う純子に、鷲宇は声を上げて笑い始めた。こんなにはっきり楽し がる鷲宇は、そうそう見られるものではない。 「わ、私、真剣にお願いしたんですけど!」 「すまない」 純子の抗議口調に反省したのか、それとも周囲から注目されるのを厭ってか は分からないが、鷲宇は静けさを取り戻した。まるで、スイッチ一つで感情を コントロールできるみたいに。 「いつでも応じましょう。それよりも、他人のサインをねだっている暇がある なら、自分のを考えたらどうかな」 お礼を言おうとした純子の口が半開きの時点で止まった。そのまま、市川へ と顔を向ける。 「いずれ、ジュンもサインをする立場になるでしょうね」 「は、はい……ちっとも現実味がありませんけれど……練習しときます」 上目遣いになって、どんな風にすればいいのかを考え始めた矢先、注意があ った。 「くれぐれも、『涼原純子』で考えちゃだめよ」 「……」 純子は頭をかいた。 * * 控え室にはあっさり入ることができた。関係者以外立入禁止なんていう制限 があるわけのではないようだ。 しかし、相羽の方から、「他のみんなに迷惑だから」とのお達し。なるほど、 このあとの試合に出る選手達がたくさんいてウォームアップに励んでいる。 そのため、相羽が無事なのを確かめたあと、彼を含む全員で会場外に出た。 相羽はまだ鼻を押さえていた。手にはタオルで包まれたアイスノンがある。 適当な小岩を見つけ、そこへゆっくりした動作で腰を下ろした。 「格好悪いさま、さらしちまったな」 自嘲気味だが、存外明るい口調で始めた相羽。 応援に来た側としては、何と話しかけていいのやら、誰もが困った様子だっ たが、この声の調子を聞いて少しほぐれた。 「女の子、連れて来なかった方がよかったか」 言って、軽く笑う唐沢。 「さあ。どっちがよかったかな」 「相羽君、どういうことだったの、結局?」 町田が聞いた。 他の女子三人は、対照的に静かだ。先ほど控え室に入れてもらった際、散々 「大丈夫? 大丈夫?」を連呼し、相羽がひとまず無事と分かると一安心。反 動でぐったりしたといったところらしい。 「うん……押さえ込んでて、次の展開を狙ったら、膝で脇腹を突き上げられて」 相羽はぽつりぽつりと語り出した。 −−つづく
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