長編 #4730の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
そんな奇跡があるはずはない。人づてに聞いたのであれば、笑って否定してい たであろう話だ。だがデニスには笑えなかった。光に包まれて歌う、少女の姿を 目にしたデニスには、そんな奇跡が素直に受け入れられてしまう。 あるいは本当に、この少女は神が遣わした天使なのかも知れない。神を信じず、 その奇跡を語る昔話を荒唐無稽と言ってはばからなかったデニスが、そんなこと を考えてしまう。 「やだ、ルウ………この子、濡れてるわ!」 「あっ!」 マリィの声に、デニスは慌てた。いつまでもマリィの無事を喜んでばかりもい られなかったのだ。まだ少女の服は濡れたままであることを思い出す。 「ルウ、その服を脱いで」 裸でも、濡れた服を着続けるよりはいくらかましであろう。とりあえず、サイ ズは大きすぎるが自分の服でも着せてやろう。そう思って少女の肩へ手を置こう としたデニスだったが、交わされてしまう。少女が動いたため、デニスの手は空 を切ったまだ。 「ルウ?」 驚きの声は、マリィのもの。少女は、横になったマリィに抱きついたのだ。 「こらこら、マリィはまだ病気が治った訳じゃないんだぞ。ベッドを濡らしたら、 マリィの病気がまた、悪くなっちゃうだろ」 デニスが促すまでもなく、少女はすぐにベッドから降りた。ただし、マリィの 顔にいくらかの水滴を残して。 けれどマリィは不快な顔は見せない。むしろ嬉しそうに少女を見つめていた。 マリィとルウ、二人の間は強く結ばれた手によって繋がれていた。 「さあ、いいかげんに服、脱ごうな」 今度こそ、とデニスが腕を伸ばし掛けたとき。 「ママ、だいすき」 マリィの目が、大きく見開かれる。 デニスの動きも止まる。 「ル………ルウ、あなた……いま………」 驚きと喜びの混じり合った声のマリィ。興奮のあまりか、まだ本調子ではない はずの半身を起こしていた。 少女の頭がゆっくりと動き、眩い笑顔がデニスに向けられる。そして。 「パパ、だいすき」 幼く、優しく、可愛らしい声。 歌声ではなく、初めて聞く少女の声。 自らの意志で語られた、初めての言葉。 死の淵まで行きかけたマリィが回復の兆しを見せ、少女が初めての言葉を語っ た。夢が失われたことさえ、いまのデニスには小さな出来事となった。 少女は空いている方の手で、デニスの手をつかむ。それを引き寄せ、もう片方 の手が握るマリィの手と重ねた。繋がったデニスとマリィの手。 この瞬間、デニスは十四年の人生の中で、最高の至福を感じていた。 だが。 いつもそうだった。 幸せは貧しい者を嫌う。貧しい者のところへ、留まろうとはしない。 つかみ掛けたと思われた幸せは、後に絶望を残し、どこかへと消え去ってしま う。 何度も何度も、そんなことを繰り返して来た。 もう信じない。もう望まない。 自分は幸せになることなど出来ないのだ。 そう、分かっていたはずなのに。 見えてきた幸せに、つい期待をしてしまう。 今度こそ、それを自分のものになるのだと思ってしまう。 それど今度も、幸せは留まらない。 声は出なかった。 デニスも、マリィも。 手を差し伸べてやる間さえもなかった。 繋がれたデニスとマリィの手の向こう、嬉しそうに笑っていた少女が。 初めて言葉を口にした少女が。 二人をパパ、ママ、と呼んだ少女が。 大好きと言ってくれた、小さな少女の身体が、床へ崩れ落ちた。 「おおい、君たち。待ってくれたまえ」 振り返ったネスたちは、呼び止めた相手の姿を見て緊張していた。 このスラムの街には、あまりにもそぐわない、立派な紳士たちがこちらへと駆 け寄ってくるではないか。 皆が一様に、その顔に警戒の色を浮かべる。自分たちの知る限り、ここでまと もな服装をしているのはボルドと手下だけだ。警察から逃れた連中が、追ってき たのだろうか。 無言のうち、ネスを中心とした男の子たちが、女の子たちの前に立つ。万一の 場合、自分たちの身体を盾にして、女の子たちを逃がすつもりだった。 しかし間近まで相手が迫ると、緊張は当惑に変わってしまう。相手の恰好が、 立派過ぎるのだ。どんな高級品を身に纏っても、ボルドやその手下は下品な感じ しかしない。ところが近づいてきた人たちは、どう見ても本物の紳士として目に 映る。 やって来たのは四人。一人は老人で、それだけでもボルドの一味ではないと知 れる。もう一人は貴族か商人の使用人といったところだろう。若い女性もいる。 一人太った男性が、三人に遅れて着いてくる。 「君たちは、この辺りの住人だろうか?」 ネスたちにはあまり経験のない、自分に向けられた丁寧な問われ方は、警戒心 をさらに薄めた。この老紳士たちは、ボルドとは無関係であると確信する。 「そうですが、なにか?」 「それならば、訊ねたいのだが。この近くに、君たちと同じ年頃で、デニス・ラ ングレイという少年が住んでいるのを知らないだろうか」 「デニス………?」 みんなは顔を見合わせた。ボルドの仲間ではないにせよ、街の住人、しかも特 別に身分の良さそうな者がわざわざスラムまで、デニスを訪ねて来る理由が思い 当たらない。あるいは何か、デニスにとって不利な事情かも知れない。 「ねえ、もしかして絵のことじゃないかな?」 潜めた声で囁いたのは、リリアであった。 「おお、デニス君を知っているのかい? そう、私はコンクールの関係者なんだ。 デニス君に是非とも知らせたいことがあり、こうして訪ねて来たんだよ」 微笑む老紳士に悪意はなさそうだ。 コンクールを目指すデニスを応援していたネスたちは、少なからず期待を抱く。 コンクールの関係者が、こうして足を運んできたのは、良い知らせに違いないと。 「デニスなら、よく知っています。俺たちも、いまから行こうとしていたところ ですよ」 「あの、そこに小さな女の子はいないでしょうか!」 老紳士とは異なり、何か焦っているかのよに女性が訊ねて来る。 「小さな女の子? ああ、マリィの所に一人、おちびちゃんがいたけど………そ れがなにか?」 「いやいや、デニス君の絵のモデルになっていたのでな。私たちも、その少女に 会ってみたいと思ったのだよ」 女性を宥めるような仕草を見せ、老紳士はそう説明をした。 「ここに………ライアがいるのですね」 ファルネッタが見上げるアパートは、本当にここに住む者がいるのかと疑いた くなるほど、酷く傷んでいた。壁に刻まれた、無数の傷は銃撃や砲弾の跡。その 傷が雨水の浸入を許し、さらなる亀裂を呼ぶ。ガラスが完全な形で残っている窓 は、一つも見あたらない。 老伯爵の目から見れば、とても快適な暮らしを出来るとは思えないアパートで あった。だがそれでも、周辺の他の建物に比べればこのアパートはまだまともな のだ。 街では忌まわしい戦争を忘れ、日々確実に復興の道を進んでいる。しかしこの スラムでは復興などという言葉は、その欠片すら探すことが出来ない。まだここ は、戦争の最中に置かれているようであった。 「さあ、我々も参りましょう」 ここまで案内をしてくれた子どもたちは、皆アパートの中へ消えた。立ち尽く すファルネッタを促し、老伯爵も中へと入る。その後ろに画商と御者も続く。 アパートの中も、荒れ方は酷い。 どこから、と特定することも出来ないほど、風が自由に行き来をしてる。まだ 老伯爵たちは一階にいるというのに、雪解けの水だろうか。数カ所で雨漏りして いるのが見られ、大きな水たまりを作っていた。 勾配の急な階段を、老伯爵はファルネッタを気遣いながら登り、子どもたちを 追った。その行き先は三階、一番奥の部屋だった。 「マリィ? マリィ、俺だ、ネスだ。フランシスたちもいる。開けてくれないか」 先に部屋の前に着いていたネスがドアを叩いていた。老伯爵たちはその後ろに 立ち、ドアが開かれるのを待った。だがしばらく待っても、何の反応もない。 「ここがデニス君の部屋なのかい?」 「いえ、マリィって女の子の部屋なんですけど。デニスの部屋は留守だったんで ………けど、おかしいなあ。マリィもデニスも出掛けてるのかな」 「ちょっと失礼」 老伯爵がドアの前に進み出ると、場所を譲って少年は下がってくれる。それに 軽く会釈を送り、老伯爵はドアを叩く。 「デニス君、私だ………アウストラックだ。覚えているだろう? 今日は大事な 用があって来たのだ。いるのなら、開けてはくれないか」 周りの子どもたちがざわつく。老伯爵はまだ自分の身分を、子どもたちへ明か していなかったと思い出す。アウストラックの名を待つ者は、街に伯爵家以外な く、それで気がつかれたのだろう。 しばらく待ってみたが、やはり部屋から返事はない。代わって後ろから聞こえ てきたすすり泣きに、その場の人間全ての関心が向けられた。 ようやく会えると思っていただけに、その不在に気落ちしてしまったようだ。 ファルネッタが声を押し殺して泣いていた。 「あの、どうなされたんですか?」 黒髪の少女が、優しく声を掛ける。事情を知らない子どもたちの、不思議そう な視線がファルネッタへ集中していた。 「留守だとすると、デニス君たちの行き先に、見当はつかないだろうか?」 「さあ………デニスだけなら商売に出てるのかも知れないけど。その日によって 行き先は違うし、マリィも一緒となると」 ネスの答えに、周囲の子どもたちも頷く。ここにいないとなると、他を探のに も苦労しそうだ。このまま帰るのを待った方が賢明だろうか。 そんなことを考えているとノブが回り、いやな軋みを響かせながらドアが開き 始めた。 「なんだよ………騒々しい」 聞こえてきた声には、どこか覇気が感じられない。半開きになったドアの向こ うから現れた少年は、うなだれるようにして目を伏せていた。 「おお、いたのかデニス君。君の絵は、無事出品を受け付けられた。それを知ら せたくてな」 「俺の………絵?」 デニスが伏せていた顔を上げ、老伯爵を見つめる。その表情に、老伯爵は一瞬 息を呑んだ。 それは老伯爵の知る、デニスのものではない。思えばその絵の実力より先に、 老伯爵は澄んだ瞳に魅せられ、デニスに興味を持った。だがいまのデニスの瞳に は、一片の輝きもなく、まるで死者のようであった。 「俺は……絵なんか、出してない。粉々になってしまった………」 デニスの口から紡がれる言葉にも、感情の抑揚が感じられない。まるで一本調 子なのだ。 「デニス君のところに小さな女の子がいるだろう? 確かルウ、と言ったはずだ。 その子が君の水彩の絵を、届けてくれたんだよ」 「ルウが………あの水彩画を………そうか、あのばか。そんなことのために」 振り返ったデニスの言葉に、かすかな感情の揺らぎが現れた。声が震えていた のだ。 半開きのドアが邪魔になり室内は窺えないが、奥にあの少女たちがいるらしい。 「ライアに会わせて下さい!」 老伯爵たちのやり取りに待ちきれなくなったファルネッタが、子どもたちを押 し退けて前へ進み出た。こちら側に戻されたデニスの顔には、声に現れた感情は なかった。 「ライア………なんだよ、それ。あんた、誰なんだよ」 デニスにしてみれば、突然過ぎるファルネッタの言葉を理解できないのは仕方 ない。しかしそれにしても涙を見せる女性に対し、デニスの反応はあまりにも冷 たかった。老伯爵は、わずかに嫌悪感さえ覚えてしまう。
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