長編 #4709の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
マリィが思っていたより、その中の振動は少ない。だが微かな揺れが、傷つい た身体に痛みを走らせる。それでも脚を引きずって歩かなくていい分だけ、楽で はあった。 何より、その狭い空間の暖かさは、薄着のマリィと少女にはありがたいものだ った。床に置かれた行火の熱が、滞っていた血の巡りを足先に蘇らせてくれる。 冬に暖かい場所にいられる。それだけでマリィには、夢のようである。窮屈で あることも気にはならない。けれどこれだけの快適さも、豊かな老紳士には不充 分らしい。ルウに膝掛けを譲ったこともあり、寒そうにしている。 老紳士にしばらく待っていてもらったものの、結局ルウの歌声を聴かせられな かった。歌えない以上、寒い街角にいつまでも留まっている理由はない。老紳士 には丁重な詫びの言葉を述べて、マリィたちはアパートに引き返すことにした。 「見たところ、お嬢さんはけがをされているようだ。歩いて帰るのは辛いだろう。 どうだろうか、差し支えなければ私に家まで送らせてもらえまいか?」 マリィにしてみれば、思いも掛けない老紳士からの申し出であった。 同じスラムに在っても、弱い立場にあるマリィ。街に住む人間、中でも特に恵 まれた立場にある者から蔑まれたことは数知れないが、親切にされた経験は記憶 にない。ましてや老紳士が聴きに来たいう、ルウの歌が歌われることはなかった。 老紳士に対して、マリィたちは何も与えてはいない。スラムの子どもとして、娼 婦として、常に大人たちの醜い面ばかりを見てきたマリィには、老紳士が申し出 た無償の行為というものが、にわかには信じられなかった。そして警戒もした。 そんなマリィを、老紳士は半ば強引に抱き上げ、馬車へと運んだ。後ろにルウ を従えさせて。強引ではあったが、乱暴ではない老紳士に、マリィは抗うことは しなかった。仮にもし、老紳士に悪意があったとしてもボルド以上の悪人ではな いだろう。マリィが知る限りにおいて、ボルドに勝る者はないのだから。 老紳士はマリィをそっと馬車に乗せ、さらにルウが乗り込むのをも手伝った。 その後御者へ何やら告げ、自らも馬車に乗る。 それからしばらくの間は、沈黙が続く。幼い少女は、落ち着かない様子できょ ろきょろとしているものの、騒ぐはずもない。マリィにしても、貴族らしき老紳 士と談笑出来るような話題など持ってはいない。そして老紳士も何かを考え込む ような、難しい顔をしていた。 ただ一度、老紳士は馬車を停め、「用事を済ませてくる」と降りて行った。用 事の内容は分からないが、老紳士は十分ほどで戻り再び馬車を走らせる。次に馬 車が停められたのは、街とスラムの境界線に近い場所だった。 馬を下りた御者が、少女の横のドアを開く。 「君たちの住まいは、この先にあるのだろう?」 「はい」 マリィの返事を確認して、老紳士は外に立った御者へ向き直る。 「私はスラムの中まで、と申したはずだが。なぜこのような場所に停めるのかね」 「これより先は危険です。はくしゃ………旦那さまをそのようなところへと、赴 かせることは出来ません」 「このお嬢さん方に、家まで送らせてくれと頼んだのは私なのだよ。どうか私に、 恥をかかせんでくれ」 「いいえ、旦那さまのご命令でも、こればかりは」 「むう、それは困った。ならば仕方ない。お嬢さん、申し訳ないがここからは、 この老人の背中で我慢して欲しい」 「旦那さま、どういうおつもりでしょうか?」 「君が馬車を走らせてくれぬのだから、致し方あるまい。私がこちらのお嬢さん 方を背負って歩くよ」 「なりません、失礼ながら、旦那さまはスラムの恐ろしさをご存じない。後でど のようなお叱りも覚悟の上、身体を張ってでもお止めします。 言葉遣いこそ、主に対しての礼を忘れてはいなかったが、御者は頑とした態度 で臨んでいた。それは忠節を尽くせばこそと言っていいだろう。誰の目にも富め て見える老紳士が入るには、スラムは危険すぎる場所なのだから。 「あの………私たちなら平気です。ここからは、そんなに遠くないですし、歩い て帰れます」 突き刺さるような御者の視線を感じながら、堪らずマリィは言った。御者の言 うことはもっともであり、またマリィも親切にしてくれた老紳士を危険に曝すこ とは出来ない。 老紳士の返事を待たず、身体の痛みを隠しながら少女とともに馬車の外に出た。 「えっと………あの、おじいさん、ありがとうございました。おかけで、助かり ました」 マリィが老紳士に礼を述べると、少女もそれを真似ておじぎをする。 主を気遣う御者の目が、マリィに早く去れと無言で告げている。また老紳士が どうしてもアパートまで送ると言い出したら面倒だ。 「待ってくれ」 果たしてマリィの思いは、老紳士に通じていないのだろうか。歩き出すために 背を向けるより先に、そんな声とともに老紳士が馬車を降りてしまった。 「旦那さま!」 「心配はいらん。君の言葉に従うよ」 慌てて駆け寄る御者を、老紳士は手で制す。 「お別れの前に、お嬢さん方に渡したいものがあるのだ」 そう言って、老紳士は馬車の後ろへと回った。老紳士はちょうど馬車の座席、 その真後ろにあたる部分を押す。すると押された板が、ゆっくりと上部へ跳ね上 がる。マリィの位置から中は窺えないが、どうやらそこが収納スペースになって いるらしい。 何かを取り出した老紳士は、マリィの元へ歩み、立つ。 「これを受け取って欲しい」 「これは? あっ」 老紳士が差し出したのは、大きな袋。中を覗き込んだマリィは、思わず息を飲 む。その傍らで、袋の口の高さまでは背丈の足りない少女が、中を覗き込もうと 飛び跳ねていた。 「お嬢さんが持つには、少々重たいよ」 そんなルウに中身を見せるため、老紳士は袋を下に置く。少女は顔を袋の中に 突っ込んで中身を見た。その顔が袋から出されたとき、少女の瞳は輝いていた。 嬉しそうな目で、マリィを見つめる。 袋の中身は、絵の具とキャンバスだった。他にも数本の筆や液体の入った瓶、 たぶん油だろう、など油絵の道具らしいものがいくつかあった。 それはデニスに絵を描いてもらいたくて、マリィとルウが欲していたもの。な んとかしてそれを買おうと、無理をしたためにかえって遠くなったもの。 それがいま、マリィの目の前にある。老紳士はそれをくれると言うのだ。ただ 手を伸ばせば、誰に責められることなく得られるのだ。 「ルウ、触っちゃだめよ」 その言葉が納得出来ないのだろう。不満そうな少女がマリィを見つめる。 「せっかくですが、これはいただけません」 「なぜかね?」 ルウほどには表情に出さなかったものの、マリィの言葉には老紳士も得心いか ない様子だった。 「確かに期日までにはもう、いくらも時間がない。だがいまからでも頑張れば、 なんとかそのデニス君とやらは絵を仕上げられると思うが」 「私は………立派なものではないけれど、仕事をしてお金をもらっています。デ ニスだって働いています。ルウ………この子だって、歌でお金をもらいました。 私たちはみんな、何かをすることで、その報酬としてお金を頂くんです。何もせ ず、初めて会った方から、ものを頂くことは出来ません」 穏やかな口調の中にも、毅然としてマリィは言った。 「お嬢さんの言うことは分かるのだが……困ったな。私としては、是非とも受け 取って頂きたい理由もあるのだが」 「ごめんなさい」 くい。 頭を下げるマリィの裾が引っ張られる。ルウだ。 「なに? どうしたの」 マリィの問いかけに、少女の唇が短く動いた。 「えっ………でも」 「………」 「そんな、無理をしちゃだめよ」 「………」 少女の唇は、同じ動きを繰り返すだけだった。 「なんの話だろうか?」 声のない少女との会話を、理解のしようもない。老紳士が訊ねてきた。 「この子が、歌うと言っています」 「歌う?」 「はい………自分が歌えば、これを頂く理由になると思ったらしいんです」 「なるほど。確かに私は、この子の歌を聴きたかったのだから、理由になるな。 それでお嬢さんにも、納得してもらえるだろうか?」 「は………はい」 これまでルウが歌で得たお金と、油絵の道具の値段とはとても釣り合うもので はない。けれど少女の思いと、老紳士の言葉に圧され、マリィも承知するしかな かった。 「でもこの子、無理をしてきたせいか昨日も今日も、全然歌えなかったんです」 「少しで構わない。よい声が聴けたなら、私は満足なのだよ」 「…………」 一小節分でも声が出れば、それがどんなものであれ老紳士は満足したと言うだ ろう。それではマリィは納得行かなくても。 だがそれ以前に、少女に歌うことが出来るかさえ不安であった。 が、それは杞憂であったと、マリィはすぐに知ることとなった。 雨 冷たい雨 私を濡らすの 悲しみに疲れてしまった私 雨を避けることも出来ない 雨 冷たい雨 私は身を任せる 膝を抱えて ただ雨に打たれるばかり このまま雨に溶けてしまおう 雨に溶け 大地を潤す川となり 海まで流れてゆこう 海に出た私は やがて空の雲となるでしょう きっとそこで 逢える 天に召された あの人と あの人と私は 一つになるの 悲しみのない とわなる世界で 雨 冷たい雨 私を濡らすの 天を見上げて その身をさらす私を濡らすの だけど 雨は私を溶かさない ただ涙ばかりをさらってゆくの 辛くても 悲しくても 私は雨に溶け 水に返ることが出来ない あの人のいる 天にゆくことが出来ない ただ雨に 濡れるだけ 永遠に降り続く雨など ありはしないよ 誰かが言った 誰だろう? 雨に煙って その顔は分からない でもとても 優しくて 懐かしくて あの人を 思い出させる声だった 悲しみもそうなのかしら? いまの私には この悲しみの終わる日があるなんて とても思えない けれど雨は 私を溶かさない だから私は 歩き出す 冷たい雨を避ける 屋根を探して 悲しい今日を 生きてゆくために
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