長編 #4706の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
男は容赦ない力で、マリィの頬を打っていたのだ。 マリィにとって幸いだったのは、男の平手が逃げようとしたいた方向に抜ける 形で放たれていたとこ。マリィの動きか、男の平手が反対方向からであったなら、 カウンターの衝撃は重大な結果を残していただろう。 しかし受け流す形にはなっていても、男の力はマリィの身体を弾き飛ばすのに は充分なものだった。むしろ、逃げようとしていた方向に力が働いたことで、容 易く飛ばされてしまうしまうこととなった。 単に横倒し立った姿勢から九十度、四分の一回転しただけに過ぎないが、体験 しているマリィには身体が宙で数回転しているように感じられた。回転する視界 の中、マリィは急接近してくる壁を見た。いやあるいは床なのか。 咄嗟に両腕で、頭を包み込むようにして庇う。もし頭を庇うのが、百分の一秒 でも遅れていれば、それで命を失っていたかも知れない。両腕に、落雷が落ちた かと思われる衝撃。それは腕を通じ、庇っていた頭にも届く。 衝撃は痺れとなり、痺れから強い痛みが生じる。 鈍くなってしまった感触の中、マリィは自分がぶつかったのは床と壁のつなぎ 目であるらしいと知った。 金属音のようなものが聞こえるが、耳鳴りがしてよく分からない。自分の身体 に、何か傷害がないかも気になったが、とにかくマリィは立ち上がることを優先 させた。男の暴力が、平手一発で終わるとは限らないからだ。倒れ込んだままで は、恰好の標的となってしまう。男の次なる行動に備えるためにも、すぐに立ち 上がる必要がある。 男はまだ、飛ばされる前にマリィのいた辺りに立っていた。嘲る視線でマリィ を見下ろしながら。 「いいのかよ、お宝を放っておいても」 真っ直ぐ立ったつもりだが、目に映る室内の光景は揺れていた。どうやら、足 がふらついているらしい。男の言葉の意味が分からないマリィは、相手に向けた 視線は逸らさぬようにしながら、足下をちらりと見遣る。 床には数枚のコインが散らばっている。 先ほど、男が投げたものか。 いや、しかしそれにしては枚数が多い。 「あっ」 床のコインはマリィのものだ。 コートのポケットに入れていた、今日の稼ぎが倒れた勢いでこぼれ落ちたのだ。 慌てたマリィは床を這い、コインを拾い始める。もう男を警戒している場合で はなかった。悔しいが男からお金を取ることは諦めてもいい。それより散らばっ ているお金を失う方が、マリィにとっては痛手だった。 「ふん、浅ましい姿だ」 ぴちゃ。 コインを拾うマリィの手に、なま暖かいものが降り掛かる。 四つん這いの姿のまま、マリィは動きを止めて手に掛かったものを見つめた。 男の吐いた唾である。 「これに懲りたら、二度と楽をしてあこぎに稼ごうなんて了見は持つんじゃない ぞ」 捨て台詞を残し、男は部屋を出ていこうとした。 「おまえなんか………おまえなんかに、何が分かる!」 マリィの脚は、床を強く蹴っていた。 自分の商売への悪態が許せなかった。 娼婦を楽だと言われたのが我慢ならなかった。 自分だけではない。 アネットが、フランシスが、リリアが、ベネッタが。 そしてレナが。 どれほど辛い思いをして、この仕事をしていたのか。 そして死んで行ったのか。 知りもせず嘲笑う男に、マリィの怒りが再燃してしまった。 男の背後から、全ての力を込めた体当たりを喰らわす。だが小柄なマリィの体 重では、わずかに男をよろめかすのが精一杯だった。そしてマリィの行為は、自 分の措かれている立場を、さらに悪化させることとなった。 「まだ分からねぇらしいな………この強突張りが。この俺さまが、世間ってもの を教えてやる」 振り返ったのは、歪みきった男の顔。おおよそ、人にこんな表情が作れるもの かと驚愕さえさせられる顔であった。 続いて、マリィの脚が蹴りつけられる。次は腹部に当てられた拳。さらにもう 一発、蹴りが飛んでくる。 男の暴力に、マリィも必死で抗った。たがその力の差は歴然としており、マリ ィの抵抗など無にも等しいものだった。ただ一方的に加えられるだけの暴行。 他の部屋に客はいない。どれほど激しい暴行が加えられても、誰も助けは来な い。宿の主人はお金を取り、部屋を提供するだけで、そこで起きる一切のことに 関わりはしない。どんな犯罪が行われようと。警察も介入を避けるスラムでは、 殺人さえ日常の出来事として無視されるのだ。 いつ果てるとも知れない、男の暴行が続く。嬉々とした表情は、本心から暴力 を楽しんでいるらしい。この男なら、相手が赤子であったとしても容赦なく暴力 を振るえるだろう。 マリィは無駄である抵抗を止めた。ただ身を守ることだけに集中する。 もう、ルウやデニスとは逢えないかも知れない。 薄れていく意識の中で、そんなことを考えていた。 まるで氷のように固体化していた空気が、突然風となって動き始める。露出し た肌を、刃物と化して掠めて行く冷風。実際、風に吹き上げられた小さなゴミや 埃がぱらぱらと身体を叩く。だが風の吹いている時間は、そう長くはなかった。 風は前兆に過ぎない。 吹き始めたときと同じように、風は突然に止む。風に代わって夜のスラム街を 闊歩したのは、激しい騒音。風よりも冷たい雨だった。 濡れた髪が額に貼り付く。打ちつけられる雨に、目を開いていることもままな らない。 雨は傷ついた身体を濡らし、容赦なく体温を奪っていく。しかしマリィはその 足を速めようとはしない。その気にはなれなかったし、出来もしない。右足が酷 く痛む。骨は折れていないようだが、青黒く腫れている。あるいはひびが入って いるかも知れない。痛みを堪えながら、引きずって歩くのがやっとのことだった。 羽織っていたコートは、背中の縫い目から二つに引き裂かれていた。かろうじ て数本の糸が残されてはいたが、もはや防寒具としての役目を期待出来ない。右 袖は完全に失われている。 時折、どこからか射して来る微かな光が雨に拡散され、マリィの姿を浮かび上 がらせる。けれどコートの下、黒く見えるはずのマリィのシルエットは雪のよう な白だった。まとっていた黒のドレスは見る影もなく、わずかな布片が名残を示 している。雨に曝されているのは、白い、マリィの素肌。 だがよく見れば、その肌も純白ではない。赤い血痕、青と黒のあざ。男に受け た暴行の痕跡が、無数にあり痛々しい。 視界が霞むのは、雨のせいなのか、それとも涙のためか。 自分が泣いているのは、悔しいからなのか、痛みのためか。 もうマリィ自身にも分からなくなっていた。 長い長い、一方的な暴行からようやく解放されたマリィ。痛みに耐えながらも、 散らばったお金を懸命に拾い集めた。しかし回収できたのは、半分にも満たない。 ベッド以外、然したる家具もない部屋のこと。一枚二枚ならともかく、物陰に落 ちたとも考えにくい。 数刻後、どうにか立ち上がったマリィは、延長分の料金を払い、宿を出た。宿 の主人は、超過料金は請求しても傷だらけのマリィの姿を、何一つ気に掛けるこ とはなかった。このスラムでは、ごく当然の反応。 「おお、どうしたミス・マリィ、その姿は。客とのトラブルかね? 可愛そうに ………」 白々しく、同情したふうを装うボルド。 宿を出た直後、マリィに声を掛けてきたのはボルドだった。出来過ぎた偶然。 「だからいつも言っているのだよ。私の元へ来いと。私の下で働いていたのなら、 こんなトラブルには巻き込まれていなかったのに………なんて気の毒な。命があ ったのは幸いだな。いまからでも遅くはない、よく考え、その気になったら私に 相談しなさい」 マリィは何も答えず、目さえ合わさず、ボルドの話を聞いていた。そして悟っ た。あの男も、ボルドの差しがねであったのだと。 遠ざかるボルドと手下たちの笑いを聞きながら、マリィは知った。どれほど強 がってはいても、所詮自分は無力な存在なのだということを。 無駄にろうそくを使わないようにと、部屋は暗くしたまま、デニスは幼い少女 とベッドで横になっていた。が、そろそろマリィが帰ってきてもいい時間になる と、少女を起こさないように、ベッドたから抜け出る。 何もしてはやれないが、せめて疲れて帰ってくるマリィのためにと、ろうそく に火を灯す。窓から外に漏れた明かりが、人のいる証となり、安心感をあたえる だろうと思って。 結局、デニスはそれから一時間以上を待つこととなった。 そして。 控え目に廊下の床板が軋む音。いつもとは、何かが違う。 たしかに帰りが深夜となるため、マリィは足音を立てないように注意して歩く。 それは珍しいことではない。だが、今夜は何か違うのだ。 ドアの前で停まるものと思っていた足音は、そのまま過ぎて行ってしまった。 デニスの違和感は、確信となった。普段であれば、マリィは自分の部屋に戻るよ り先に、必ずこの部屋を訪ねる。ルウの顔を見るために。 「お、と………が?」 この部屋を訪れなかったということでなく、実際に足音のリズムが違うのだと デニスは気がついた。雨に濡れたせいなのか、何か引きずるような音なのだ。そ れで、先に着替えてからルウを迎えに来ようというのか。 すぐに、隣り、マリィの部屋でドアの開けられる音が聞こえた。 雨のためだけではない。やはり何かおかしい。こちらから、マリィの部屋を訪 ねてみようか。 そんなことを考えていたデニスより、行動が早かったのは寝ていたはずの少女 だった。 前兆もなくベッドから飛び起きたルウが、立ち上がり掛けたデニスを追い越し、 まさに脱兎のごとき勢いで部屋を出て行った。 「おい、ルウ」 少女に遅れてデニスもマリィの様子を窺うため、部屋を出る。デニスが廊下に 顔を出したのと、隣りの部屋でドアの閉じられる音がしたのは、ほぼ同時であっ た。 廊下に少女の姿はない。ルウを迎え入れてドアが閉じられたのだろう。 「マリィ………おっと!」 マリィの部屋に向かおうとしたデニスは、足を滑らせて危うく転び掛けてしま った。持ち前の運動神経で難を逃れると、足下に目を向け、危機をもたらした原 因を探る。 探し回る必要もない。その原因はすぐに知れる。 開け放った自室から漏れる、ろうそくの灯火。幽かな明かりを受け、きらきら と微光の筋が廊下に続いているのが見えた。水である。 マリィの歩いた跡だろう。雨具を待たないマリィは、やはり濡れて帰って来た のだ。 再度足を滑らすことのないように、注意を払いながらデニスは廊下を進んだ。 とは言っても、マリィの部屋はすぐ隣りである。たどり着くまでに、大して手間 も時間も掛かりはしない。 「………っ」 マリィの部屋の前に立ったのはいいが、第一声をどう発していいのか戸惑って しまう。夜遅くに帰って来るマリィが、いつもデニスの部屋を訪ねるのは、そこ に少女がいるからだ。その少女はたったいま、マリィとともにこのドアの向こう に消えて行った。ならば疲れ切って帰ったマリィがデニスを訪ねる必要はなく、 デニスにもそれを心配してマリィを訪ねる理由がない。 「マリィ、帰ってるんだろ?」 さんざん逡巡した結果、やはり声を掛けてみることにした。思い過ごしであれ ばいいのだが、今夜のマリィは何かおかしいと感じたからだ。 「ん、どうしたのデニス。なにか私に、よう?」 「いや、別に用事なんてないんだけどさあ………ほら、今日はマリィ、俺の部屋 に顔、出さなかったから。どうしたのかな、って思ってさ」 マリィからの返事がない。 話の途中で眠ってしまったのだろうか。 それともどこか具合が悪いのか。 部屋に入って様子を見た方がいいのだろうか。デニスがそんなことを思いはじ めたころ。 「…………雨」 ようやく返って来たマリィの言葉。 「雨で濡れちゃったから………着替えてから行こうと思ったの。でも、ルウがす ぐに来たから」 予想通りの答え。けれどデニスにはまだ、マリィの声に元気がないように思え、 気に懸かった。 「そうか、なら、いいんだ。なんか、様子がおかしいような気がしたからさ。ど っか具合でも悪いんじゃないかって思ったんだ」 「そんなこと………ないよ。でも、今日はとても疲れて。ごめんなさい、私、も うやすみたい」 「あ、ああ、ごめん。悪かったな」 「ううん」 「おやすみ、な。マリィ」 「おやすみ、デニス」
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