長編 #4702の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
しばらくパンを食べる真似を続けてから、ふいに口元に寄せていた手を後ろに 組み、ぶんぶんと首を左右に振った。首の動きに併せ、ろうそくの明かりを受け て淡い黄金色に輝く髪が踊る。少女に目線を合わせるため、身を屈めていたマリ ィの頬を、柔らかな髪が撫でて行った。 それで少女の黙劇は終演した。自分の意志が伝わったのか、不安なのだろう。 少女は小首を傾げてマリィを見つめている。 ルウが何を伝えようとしているのか、マリィにはすぐ分かった。 「デニスのために、ごはんは我慢するって言うのね」 マリィの推測に間違いはなかった。意思が正しく伝わったと知った少女は、嬉 しそうに微笑み、大きく頷いた。 ルウにはまだ、デニスがコンクールを辞退しようとしているのが理解出来てい ないのだ。だからその前にマリィが話した、食事を我慢してデニスのためにお金 を残そうと提案を、早速実行しようというのだ。 「いいのよ、ルウ。今夜のぶんは、ちゃんとあるの。あるぶんは我慢しないでい いんだからね」 その言葉に、少し考えるような仕草を見せてから、ルウはまた大きく頷いた。 もう一度、お腹を鳴らしながら。 幼いルウが、デニスのために空腹を堪えようとしたことが健気で、そして愛お しくマリィには思えた。 ここがスラムの一角であるとは、とても思えない。 夜も更けたというのに、煌々とした明かりに満ちた室内。それは金銀の装飾が 施された、きらびやかな燭台とランプから生み出された光によるもの。わずか一 室のためだけにしては、あまりにも大袈裟な量だった。ろうそく一本を、大事に 使うマリィたちの生活とは、それだけで比較のしようもない。 部屋の四方を取り囲む壁には、クリーム色の壁紙が貼られており、わずかな汚 れも見られない。敷き詰められたカラフルな絨毯は、外国の熟練した職人が数年 掛かりで編み上げた最高級品。非常に高価な品で、貴族ですらなかなか手の出せ ないものだった。 その他の調度品の一切も、それぞれに名のある職人が最高の材料を使って仕上 げたものである。何も知らぬ者が、突然この部屋に連れて来られたなら、ここの 主は国王陛下だと思い込んでも不思議ではない。だが少しでも裕福な暮らしを経 験した者であれば、違和感を覚えていただろう。 室内を飾る全てのものは、どれも超のつくほどの一級品である。だが、全体的 な均一性がまるでないのだ。ただ高級なものを手当たり次第に集めた。そこに計 画性などというものはない。上流の暮らしを知る者であれば、この部屋の主がに わか成金だと容易に知れてしまう。 そして何より調和を崩しているのは、他ならぬこの部屋の主自身であった。 部屋の奥、その中央にでんと置かれた黒檀の机。上質の革を張った椅子に、深 く腰を下ろす矮小な男。あまりにも深く腰を下ろしていたため、机の反対側に立 つ者からは、ほとんど頭だけしか見えない。一見しただけでは、少年かと錯覚し てしまう身長しかない男であったが、決してそうではない。改めて近くに寄って 見ることが出来たのなら、その経歴など知らずとも、誰もが男の尋常ならない凶 悪さを感じ取り震えることだろう。 「ふん、今月はまた、ずいぶんと稼ぎが少ないんじゃないか?」 香りのきつい葉巻を銜えた男は、その煙を意識的に相手の顔へ向けて吐き出し た。手にした紙に記された数字が、気に食わないことを露骨な態度で示す。 「最近じゃ、警察もうるさくて強引な商売が出来ないんだよ。その上悪い病気が 流行っちまって、すっかり客足も遠退いちまってるんだ」 机の前に立ち、言い訳をする女の声は少し震えていた。 「つまらねぇ言い訳をするんじゃねぇ!」 唐突であった。 露骨な態度こそしていたが、それまでは静かに話していた男の口は、耳にした 全ての者がすくみ上がりそうな怒声を発する。そして女に向かい、何かを投げつ けた。 女も予測はしていたのだろう。そうでなければ、この近距離から投げつけられ、 避けきれるものではない。 女の頬を掠めた何かは、そのまま反対側の壁、ドアのすぐ横に当たると激しい 音を立て四散した。それはクリスタル製の大きな灰皿であった。 床に散らばったガラスと吸いがらを見て、女の顔から血の気が引いていく。男 はそれを、まるで手加減なしで投げつけたのだ。もし女が避けていなかったら、 とても怪我だけでは済んでいない。視線を少し上げれば、灰皿の当たった壁には 剣呑な衝撃を示す、巨大な穴が残されている。 「警察がなんだ? 病気がなんだ? てめぇらには、いい場所で商売させてやっ てるんだ。四の五の言ってないで、しっかり稼いでりゃあいいんだよ!」 矮小な身体ではあっても、その狂暴性は野獣よりも遥かに恐ろしい。激昂した 男、ボルドの前ではこれ以上の言い訳も無駄である。女は青ざめた顔で、ただ頷 くしかなかった。 「分かったならいい。てめぇら売女は売女らしく、客を引っかけて腰を振ってり ゃあいいんだ。この次は、今日の倍は収めるんだぞ、いいな?」 「えっ………ば、倍?」 男の要求は限度を超えたものだった。今日の分でさえ、女たちにしてみれば精 一杯の金額である。その倍となると余分に客を取ったとしても、自分たちに残る ものはなくなってしまう。 「無理ならいいんだぞ。ただし、今後てめぇらを守ってやれなくなるがな……… それとも、ガキどもに場所を譲るか?」 「わ………かりました。収めるよ、倍の額を」 震える声で答えると、女はふらふらとした足どりで退室して行った。それから 女と入れ替わりに体格のいい男が入室して来た。しかしボルドは手にした紙に目 を落としたまま、入ってきた男を見ようとはしない。 「ガキどもの稼ぎも落ち込んでるな?」 先ほど灰皿を投げてしまったため、ボルドは葉巻を机の上に押し充てて消す。 「はい、レナのやつがくたばったことが、いまだ尾を引いてるらしくて。それに やっぱり、あの二匹を勝手にさせてることも、悪い影響を与えているようですぜ」 いかにも凶悪という言葉を具現化したような手下の男であったが、それもボル ドの前では腰も低くなっている。 「まあな………マリィのヤツは磨けば大人の娼婦以上の珠になるしな。デニスの 野郎のスリの腕だって、他のガキとは比べものにならない。度胸や腕っ節も、貴 様ら以上かも知れんぞ。出来ることなら、二人とも無傷のまま、俺に従わせたい」 ようやくボルドは手下へと顔を上げた。そして不気味な笑みを浮かべる。 「が、いい加減甘やかし過ぎたかもな。聞き分けのないガキには、少々大人の恐 さというものを思い知らせてやるのもいいだろう。その身体にな」 「はい」 ボルドの言葉を聞き、手下もまた不気味な笑顔を浮かべた。 なんとも落ち着かない気分だった。 娼婦を稼業とするマリィの、主な活動時間は夜である。いつもであれば昼間の この時間、彼女は眠っている。レナを弔ったあの日から、ルウに併せて昼間の生 活をしていたものの、それでも明るい時間に街に出るのは久々のことだった。 加えて、仕事をしている時でもマリィに許された場所は街からやや離れたとこ ろにある。こうやって陽の光の下、大勢の人たちが行き交う街を見るのは、いつ 以来だったか思い出すことさえ適わない。まるでたったいま、田舎からたどり着 き、初めて街の雑踏を目にした少女のように不安な気持ちで包まれてしまう。 ともすれば、泣き出したくなってしまうが、どうにか堪えている。それは不安 な気持ちよりも、自分が保護者であることのほうが強く意識されていたためだっ た。つないだ掌から伝わる、ルウの温もり。それがマリィに小さな勇気を与えて くれる。 「どうにもならなかったね………」 歩き疲れた、と言うよりも精神的な疲れのあったマリィは、近くにあった建物 の端の階段に腰を下ろした。それに倣い、幼い少女もマリィの横へ、ちょこんと 座った。 今日マリィはルウを伴い、画材店を覗きに行った。目的はもちろん、油彩の道 具を見るためであった。 一縷でも望みがあるのなら、なんとかデニスに油絵を描かせてやりたい。そう 思ってルウと道具を見に行ったのだが、それは改めてデニスが出品を諦めた理由 を痛感させられるだけだった。 その日のパン代にさえ、汲々としているマリィにとって、それはあまりにも高 価すぎる代物であった。油絵を描くのに、最低限必要な道具を揃えるだけで、マ リィの三週間から四週間分の稼ぎと同等かそれ以上の金額が掛かってしまうのだ。 「せめてあと一ヶ月、ううん、二週間でも時間があれば、なんとかしてあげられ たかも知れないのに」 ルウに、と言うよりもそれはマリィの独り言だった。 コンクールの締め切りまでが二週間。いつもの二倍働いても、道具を手に入れ るだけでその時間は過ぎてしまい、実際にデニスが絵を描く余裕は残されない。 しかもその間に、全く食事をしないという条件までついてである。いくら足掻こ うと、それはとても無理な話であった。 天気は良かったが、マリィたちの座っていた階段は日陰になっている。さすが にクリスマスを間近に控えたこの時期、陽の射さない場所は寒かった。気温の低 さに加え、改めて知らされた自分の貧しさ、無力さが心に寒さを呼ぶ。心だけで なく、実際身体も冷えて来てはいるのだが、ここから動こうという気力が湧かな い。立ち上がる代わりに、マリィは自分の羽織っていた防寒具としてはほとんど 役目を果たさないケープを手に取り、それを隣りで膝を擦って暖めていた少女に 掛けてやる。 「これじゃ、あんまり暖かくないけど、ないよりはいいでしょ?」 マリィを見上げる少女は、まるで肩に掛けられたケープの匂いを嗅ぐかのよう に、それで自分の顔を包んだ。 「ん、ずいぶん長く使ってたからね………私の匂いが着いちゃってるかも。我慢 してね」 言葉を失った少女は、笑顔で応える。マリィの匂いの着いたケープが、嫌では ないと。それから身体を傾け、小さな頭をマリィへと預けて来た。少女の温もり が、マリィにとっても心地良かった。 しばらくそのままで、マリィは通りを行き交う人々を眺めていた。スラムで暮 らすマリィたちに比べれば、街に住む人々は皆裕福であった。デニスのように日 雇いの仕事を求めて、スラムから出て来ている者たちもいるはずなのだが、目の 前の通りを行く人々の中にその姿は見られない。 マリィには自分たちのみすぼらしさが悲しく思えた。そして、着飾り談笑して 歩く人の姿を見る度に、腹立だしささえ覚えた。 毎日辛い思いで仕事に励んでいても、デニスに絵の具一本買ってやることは出 来ない。なのに目の前を行き過ぎる人たちは、今夜の食事を心配することすらな い。 どんなに辛くても、どんなに貧しくても他人を怨まず、妬まず、正直に生きて いこう。誰にも恥じることなく生きていれば、きっといつか幸せになれる。仲間 たちに言い続けて来たマリィだったが、それは自分自身を励ます言葉でもあった。 しかし自らの言葉を、全面的に信じていた訳ではない。本当は言いながら、自分 はどんなに努力をしても一生この暮らしから逃れることは出来ないのかも知れな い。なんとかしようと足掻きながら、幸福とは縁のないまま死んで行くのではな いだろうか。そんな不安が、常につきまとっていた。 そう、レナのように。 レナの最期は、明日の自分の姿なのかも知れない。 だからこそデニスには、目の前へ現れた大きなチャンスに挑戦をさせてやりた かった。スラムに住む者にも、惨めな暮らしから抜け出せる希望があることを見 てみたいと思っていた。 十字路の角に立ち止まり、談笑する婦人の姿がマリィの目に飛び込んで来た。 長いつばに、色鮮やかな鳥の羽をさした帽子。白く毛足の長いコート。マリィに してみれば、身に着けるどころか、指で触れることすら適わない高価な代物であ った。それをごく当たり前のように身にまとった婦人。その手の中の小さなバッ グに、マリィの目が釘付けになった。 腕に提げているのではなく、手でつかんでいるだけのバッグ。きっと中には、 いまのマリィが欲している以上のお金が入っているのだろう。立ち話に夢中にな っているいまなら、後ろから近づき奪い去ることも容易いのではないか。 そんな考えが、マリィの頭に浮かんできた。 考えだけに止まらず、マリィの身体は実際に動き出していた。 自分では意識していなかったが、座っていた階段から腰を浮かし、立ち上がろ うとしていたのだ。しかしマリィの邪(よこしま)な考えは、実行されるに至ら なかった。一旦は浮かし掛けた腰を、慌てて元に戻すことになったからである。 婦人のバッグにばかり目が行ってしまい、忘れかけていたがマリィの横には小 さな少女がいたのだ。マリィが急に立ち上がろうとしたことで、その身体に頭を 預けていた少女は転びそうになった。すぐに気がついたマリィが、腰を元に戻し 少女の身体を支えたことでことなきを得た。 だが怪我はなかったものの、少女を驚かせてしまったようだ。潤んだ瞳が、マ リィを見つめている。 「ごめんね、ルウ。私ったら、つい、うっかりして………あなたを驚かせるつも りなんて、なかったの。ごめんね、本当にごめんね」 その髪を撫でようとマリィが手を伸ばし掛けた瞬間、涙の滴る顔が急激な早さ で接近して来た。少女がマリィの首へと抱きついて来たのだ。くしゃくしゃにな った顔で。マリィには、聞こえるはずのない少女の泣き声が聞こえたような気が した。 少女の肩に掛けていたケープが、静かに落ちていく。 「ごめんね、ルウ………ごめんね」 マリィは酷く後悔をしていた。 少女を驚かせてしまったことと、その原因となった自分の邪な考えとを。 そして感謝していた。 今日まで信じて守ってきた正しさを、危うく冒しそうになった自分を留めてく れた少女の存在を。 声もなく身体を震わせて泣く少女の背中を、ただ優しく撫でる以外に、マリィ には何も出来なかった。
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