長編 #4697の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「はあ? 声で、ございますか」 「お前には聞こえんか? この歌声が」 老伯爵にそう言われ、御者は耳を澄ませてみる。 人々の足音、蹄の音。 ざわめき、鳩の鳴き声。 正体の分からない様々な音。 少なくとも御者の耳は、その中から『歌声』と呼べるものを探し出せなかった。 「あいにく、私(わたくし)めの耳には………」 言いかけて。 「あっ」 言葉が小さな叫びに変わった。 雑踏、騒音の中に混じり、かすかではあるがそれらとは異質の音が聞こえた。 風の加減か、ずいぶんと遠くから聞こえて来るようだ。御者には、はっきりとそ れを歌声として聞き取ることは適わなかったが、どこか美しい調べに感じられる。 「うむ、実によい声をしている。これは、歌劇『小さき川の流れに』の中の一曲 だな。確か雨中のシーンで、ヒロインの歌う曲だ………ええ、なんという曲だっ たか。最後に聴いたのは、ずいぶんと昔だったからな」 御者にはメロディ・ラインすらよく聞こえない歌を、この老伯爵の耳にはその 歌詞に至るまで届いているらしい。 「しかしこれは難しい歌だぞ。相当の技量がなければ、とても歌いこなせるもの ではないが………あの時の歌手も素晴らしいと感じたが、いま聴こえているもの と比べれば、まだまだ未熟であったと言わざるを得ないだろう。いや、違う…… …技術的にはあの時の歌手の方が、遥かに高い。いま聴こえる歌は、どこか拙い のだが………そう、まるで幼子のような声だ。が、何と言うのだろうか………歌 に込められた情感。胸が締めつけられるようだ。 驚きだ………この街に、これほどの歌い手がいて、なぜ今日までその噂が私の 耳に及ばなかったのか!」 一度は閉じられた目も、いまでは大きく見開かれている。老伯爵がとても興奮 していることが、御者にもよく分かった。 それから御者には、こと芸術に関しては広く、かつ深く関心を示す老伯爵が次 に何を言い出すのかも、容易に想像が出来た。 「うむ、会いたいぞ。是非ともこの歌い手に会いたい………さて、この歌はどこ から聴こえてくるのか? うん、こちらだ。この方角から聴こえてくる! すま ぬ、急いで馬車をこの方角に走らせてくれ!」 「な………なりません、伯爵さま!」 老伯爵が指し示す方角を見て、御者は驚いた。慌てて興奮しきった伯爵を制す る。 「その方角は、旧市街地です。街の者たちが、スラムと呼ぶ場所でございます」 「スラム………戦中、工場のあった街か」 突然、昂ぶらせていた気持ちを映していた老伯爵の表情に翳りが射す。直接運 営に関わっていなかったものの、立場上老伯爵はあの工場を興すのに資金提供を していた。そのため、工場を巡る戦いで多くの死者が出たことに、老伯爵は少な からず責任を感じ、心を痛めていたのだ。 「それならなおのこと、行ってみたいものだ」 「いいえ、絶対になりません。あそこは警官さえ踏み込むことを躊躇うほどに、 治安が悪い場所です。特に最近、ボルドとか申す者が無頼者をまとめ徒党を組み、 一層治安が悪くなってると聞きます」 「しかし………あのような歌が流れる街、危険はないだろう。誰かがクリスマス ・パーティの練習をしているのかも知れんな」 スラムの実状を知らない老伯爵は、そんな希望的な想像をする。しかしそれを 聞いている御者も、知識としてのスラムしか分かってはいない。 「それにお約束のお時間が迫っております。先方さまをお待たせしても宜しいの でしょうか」 普段であれば老伯爵の望むまま、何処へでも黙って馬車を走らせる御者も、今 日だけは頑なにそれを拒んだ。主人に忠実であればこそ、その身を案じ、老伯爵 がスラムに入ることを見過ごせなかったのだ。 「うむ、そうか………仕方ないな」 使用人に強く窘められても、老伯爵は激昂することはない。相手が正しいこと を言っていると思えば、素直に従ってくれる。そんな主だからこそ、御者も長く 使えることが出来たのだろう。 「それでは、もう馬車を出しても宜しいでしょうか」 「ああ、頼む」 老伯爵が扉を閉じたのを確認し、御者は黒く輝く馬を進ませる。後方に迫って いた辻馬車が、先を譲って停止したのに軽く会釈をして。 再びリズムを刻み始めた蹄の音にかき消されたのか、あの歌声らしきものは、 もう御者の耳には聴こえない。 「ようこそおいで下さいました」 男は両手を広げて、歓迎の意を表した。本人には意識がないのだろうが、その 仕草は男の恰幅の良さをより誇張して見せる。 「お久しぶりですな。すっかりとご無沙汰しておりましたが、いや、しばらく見 ぬうちにずいぶんと立派なものが出来たようで、私も嬉しく思いますよ」 老伯爵が褒めたのは、もちろん男の恰幅の良さではない。周囲を見渡しながら、 いま自分の前にある建物を感嘆し、褒めていたのだ。 「建築中も立派な建物だと思っていましたが、いざこうして完成してみると荘厳 ささえ感じさせますな」 「ありがとうございます。これも、伯爵さまのご協力があればこそです」 男は伯爵に向けて恭しく礼をした。 「いやいや、私は少しばかり資金面での援助をしたに過ぎません。全てはポリッ シュさんの情熱の成果ですよ」 「恐れ入ります」 再び伯爵は建物を見上げた。白い大理石が陽光を反射し、眩しかった。正面玄 関を飾る四本の柱、その中央の膨らみが示すように古代ローマの神殿をイメージ に、近代的なデザインにアレンジした巨大な建物。おそらく、戦後国内において 最初の大建築であろう。 「ところで、陛下はご健勝で在られましたか」 ポリッシュは話題を国王の健康についてへ、切り換える。二週間前まで伯爵は 首都に滞在し、国王に謁見していたのだ。 「ん………まあ、陛下はご健勝のご様子でしたが………」 それは伯爵にとり、あまり語りたくない話題だった。そのため、つい口ごもっ てしまう。 「そうそう、伯爵さまに紹介したい人物がいるのです。中で待たせておりますの で、ささ、どうぞこちらへ」 伯爵の様子に、ポリッシュもそれを察したのだろう。それ以上の話を聞き出そ うとはせず、伯爵を奥へと招いた。 その案内に従い、伯爵も建物の奥へと歩を進めた。 建物の奥の一室。『執務室』の表示も真新しい部屋の中で、伯爵はポリッシュ から一人の青年を紹介された。 「ご紹介します、彼はアルベルト・ローダン。貴族のご子息であり、現在の国立 美術アカデミー首席でもあります」 「アルベルト・ローダンです、伯爵さま。貴族と言っても、貧しい田舎貴族です ので、まさか伯爵さまとお目にかかれる栄誉に預かれるなんて………まるで夢の ようです」 些か芝居じみて見えるほどに目を輝かせ、金髪に軽いウェーブの掛かった青年 が右手を差し出して来た。それに応え、老伯爵が握手を返すとアルベルトと名乗 った青年は、さらに瞳を潤ませ、涙さえ流す。 「ああ、私は今日という日を、生涯忘れることはないでしょう」 「いやしかし、再開されて間もないとは言えど、首席を取られるのだ。さぞ素晴 らしい実力をお持ちなのでしょう。君のような若者が、あの戦争で失われずに良 かった………よくぞ無事に帰られましたな」 「いえ、あの………」 老伯爵の言葉に、青年の瞳から感激の輝きが消えた。代わって、気まずそうな 色が青年の瞳を支配する。 「アルベルト君は身体が弱くて、兵役に着けなかったのですよ」 伯爵はポリッシュの説明で得心した。 たぶんアルベルトの身体が弱いと言うのは嘘だろう。戦時中、健康な男子であ れば身分に関わらず兵役が義務づけられてはいた。しかし、富める者が金を積ん でそれを免れるのは、よくある話だ。実際大商人、富豪、貴族の子息で戦争に出 ていた者は稀であろう。 田舎貴族と自称してはいるが、芸術アカデミーに入学出来るのだ。それ相応の 財はあるはず。 そうと察しは着いたものの、伯爵は敢えて口にはしなかった。 伯爵自身は若い頃、数度に渡って軍に参加していたが、大貴族であるがため初 めから上級将校として後方に陣を取り、危険な戦いに晒されることはなかった。 国の愚行としか言えなくなっていた戦いに参加しなかった者を、責めるつもりも ない。 「しかし、ポリッシュさんがこうして私に紹介するということは?」 「ええ、アルベルト君には、ここのこけら落としである絵画コンクールに参加し てもらいます」 ポリッシュの瞳が、夢を語る少年のように輝いた。彼の家は代々画商を営んで 来た。だが長い戦争の間、絵は商売にならなくなってしまった。画家も育たない。 そのため軍需産業に手を広げ、そこでも成功を収めることは出来たのだが家を継 いだポリッシュには満足がいかなかった。 そこで戦争が終結すると同時に、事実上廃校状態にあった美術アカデミーの再 開を各方面に働きかけた。そこで老伯爵と知り合うことになる。 戦争で興廃してしまった、国の文化を取り戻したいと考えていた伯爵とポリッ シュは意気投合した。そして若い芸術家たちが集い、サロンを行える場所として アウストラック伯爵支援のもと、ポリッシュがこの建物を建てたのだった。 「もし私がサロンを企画する先に、アルベルト君の絵を見ていたなら………少な くとも今年は絵画展は見送ったでしょう。なぜなら私にはとても、いまのこの国 にアルベルト君以上の絵画を描ける者がいるとは思えないからです。彼の存在を 知った上で行う絵画展は、悪い言い方をすれば出来レースのようなもの。それほ どまでに彼は群を抜いた才能と実力の持ち主なのです」 もともとこのポリッシュという画商は、役者のように表現を大袈裟にする傾向 がある。あるいは商いとして客に絵を売り込むには、そのくらいの方がいいのか も知れない。たださすがにそこは商売人、自分が絵を評価する立場となると、画 商として一流の目を持つ。そのポリッシュにここまで言わしめるのだから、アル ベルトの実力は本物なのだろう。 「私もぜひに、アルベルト君の絵を拝見したいものだな」 老伯爵もアルベルトの実力に少なからず興味を持ち、言った。 「それが………まったく以て申し訳ないのですが、私の手元にもアルベルト君の 絵は一枚もないのです。まだ学生であるにも関わらず、アルベルト君の絵の人気 は高く、私が感銘を受けた彼の作品も、既に買い手が着いておりました。あとは 今回出品予定の作品なのですが………」 戦争が終わって二年。首都を始めとする大きな街では、徐々にではあるが戦中 廃れ掛けていた文化芸術も復興しつつある。しかし贅沢品とも言える絵は、ポリ ッシュのような画商が充分な収入を得られるほどに売れる物でもないと聞く。ま すますその絵に興味を持った老伯爵は、アルベルトへと視線を向けた。 「申し訳ございません、伯爵さま。確かに出品予定の絵をこちらに持って来ては おりますが………まだ仕上げが済んでいないのです。未完成のものは人様にお見 せしない、というのが私のポリシーでして………」 「いやいや、それなら仕方ない。芸術家というものは、それぞれに冒すことの出 来ぬ信念があるものだそうですからな。コンクールを楽しみに待つとしましょう」 「はい、ありがとうございます」 「ところでポリッシュさん」 老伯爵はまだ見ることの出来ない絵へ興味はひとまず収め、今日ここを訪ねた 一番の目的を果たすことにする。 「実は私も、面白い絵描きを見つけましてな。しかし所詮絵に関して、私は素人。 そこで専門家であるポリッシュさんに、その実力のほど見て頂きたいと思うので すが」 「ご謙遜なされますな。伯爵さまの絵を見られる目は確かなもの。それはこの道 のプロである私が保証します。わたくしも見てみたいものですな。伯爵さまのお 目にとまったと言う、絵描きの作品を。して、いったいどんな人物なのです?」 「まだ若い、14、5の少年で、似顔絵描きをしておりました」 「似顔絵描き? ほう」 一瞬、ポリッシュは複雑な表情を浮かべた。 それはポリッシュ自身が、数多くの評判の似顔絵描きという連中を見てきたか らだろう。戦中はもちろんのこと、戦後もまだ文化・芸術に関する教育は一般に 普及してはいない。辛うじて地位のある者、裕福な者の間で行われている程度で あった。それらの者が街で似顔絵描きをすることは、ほとんどない。街角で似顔 絵描きをしているのは、貧しい者が大半を占める。日銭を得ることだけが目的で ある彼らは、当然正式に絵を学んだこともない。ただ他に出来る仕事がないため、 多少絵心がある程度で街角に立つ。実際、これまでにポリッシュが見てきた似顔 絵描きの中に、画家としての才能を持つものは一人も見い出せなかったと言う。 「まあ仰りたいことは分かりますが、騙されたと思って一度見てやって下さい」 「い、いえ、私は伯爵さまの目を信じております」 ポリッシュは自分の考えが表情に出ていたことに、気づいていなかったらしい。 老伯爵の言葉で、狼狽えたように笑顔を繕った。 「では次の水曜日、お時間は取れますかな?」 「はい、午後からでしたら………」 「しかしまあ、アルベルト君ほどの才能は期待出来ないでしょうが………」 最後に老伯爵は、ライバル登場とも聞いて取れる話題に、穏やかではない目を していたアルベルトへの気遣いを忘れなかった。
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE