長編 #4691の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「だからさあ………マリィとルウを描きたいんだ」 いち早く反応を見せたのはルウだった。自分が絵に描かれると言うことに、興 味を持ったのだろう。口の中いっぱいに詰められたパンで頬を膨らませ、デニス の方へ身を乗り出す。思い出してみれば、まだルウの前で絵を描いたことはない。 あるいはルウも、絵に描かれるというのは、生まれて初めての経験ではないだろ うか。 「だめよ、そんな」 が、その後に続いたマリィの反応は、デニスの希望を否定するものだった。 「だめって………俺に描かれるのが、イヤなのか? けど、いままでは何回か、 描かせてくれたじゃないか」 まだデニスは着色された絵を描いたことはない。けれど鉛筆や炭を使ったモノ トーンでは、幾度かマリィを始めとしたアパートの仲間たちを描いている。もち ろん白い紙一枚でさえ貴重品である暮らしの中、そう機会が多かった訳でもない。 だからこそ、デニスが絵を描こうとすれば、みんな競ってモデルになろうとした ものだ。いまでも画帳の初めの方のページには、仲間たちの笑顔が残されている。 中でもマリィは、デニスの画家になりたいという夢を一番に応援してくれた仲 間だった。そのマリィが、初めて着彩しようとする絵のモデルとなることを拒ん でいる。それは、デニスにとって大きなショックだった。 そんなデニスの気持ちを、少女が態度を以て代弁してくれる。 少し前まで湛えていた微笑みをその表情から消し、目を伏せているマリィ。そ のマリィの袖口をつかみ、少女が顔を見上げる。マリィと少女の視線が重なる。 少女の頭に、マリィの掌がそっと置かれた。そのままマリィは、少女の髪を優し く撫でる。 「イヤじゃない………ちっともイヤじゃないよ」 「それならどうして?」 興奮のため、つい声を荒げてしまいそうになるのを堪えながらデニスは問う。 「だって、その絵の具じゃ、一回きりしか描けないんでしょう。それなら、もっ とデニスにとって絵の勉強になるものを描くべきだわ」 マリィの答えはショックを受けていたデニスを、安心させるものだった。そし て同時に、嬉しくさせるものでもあった。 マリィがモデルを拒んだのは、デニスをのためを思ってのこと。 ただ嬉しさの中にも、デニスはもどかしさをも感じていた。 「だったら、やっぱりマリィとルウを描きたい。画家にとって、その時描きたい と閃いたものを描くのが一番なんだから」 デニスは自分でも些か過ぎると感じるほどに、気取って見せた。それは自らの 言葉を冗談めかすためである。けれどその裏では、冗談を装いながらの本心が込 められていた。 『マリィだって、分かっているだろう』 言葉にはせず、心の中で呟く。 マリィへの想い。 マリィだってそれに気がついているはず。少なからず、デニスへの好意も持っ てくれているはず。 だがそれは、言葉によって確かめられたことはない。 デニスもマリィへの気持ちを言葉にしたことはない。 「閃いた?」 「そうさ………その、いまのマリィとルウを見ていたら、なんて言うのかな。俺 が本当に描きたいものは、こういう風景なんだな、って………そんな気がしたん だ」 「よく分からないよ」 マリィは、はにかんだような表情を浮かべた。彼女にしては珍しい表情だった が、その年齢を考えればごく自然な反応なのかも知れない。本当のマリィは、あ のレナのように内気な性格であるのに、スラムで生きるために強がっているよう な気がする。 「どうしようか、ルウ? デニスが私たちの絵を描きたいんだって」 一瞬、ルウの小さな身体が宙に浮いた。そしてそれを行った手によって、ルウ の身体がマリィの膝の上に下ろされる。 窮屈そうに首を曲げ、幼い少女はマリィの顔を見上げた。 そして言葉を待たない少女は、満面の笑みを以てマリィの問いかけに答えた。 マリィには、絵に関する専門的な知識など皆無であった。 だからその評価も世間でどう見られるかではなく、自分が好きかどうかでしか 判断は出来ない。 けれどその基準で言えば、マリィはデニスの絵が好きだった。もちろんマリィ には、デニスのためにアドバイスしてやることも適わない。デニスの絵が、世の 中の人たちにも認められるよう、応援するが精一杯だった。 しかし自分や、かつてはともに暮らしていた仲間たちを元気づけてくれた、デ ニスの絵だ。もちろんそれまで見てきた絵は、黒一色のみで描かれたもの。マリ ィの浅い知識で知る、高名な画家の絵とは比べようもない。それでもデニスの絵 が、名画と呼ばれるものに引けを取るとは、マリィには思えない。きっといつか は、デニスの絵が世の中の人たちにも認められる日が来る。そう信じていた。 夜もだいぶ更けてきたというのに、相変わらず降り続く雨の音が、幾重にも重 なり合うよう響き渡る。だが雨音は室内を完全に支配しきれない。わずかではあ ったが、それに抗する音が存在していた。 紙の上を走る筆の音。 その筆を、水が満たされた瓶で洗う音。 そして小さな、少女の寝息。 いつもは陽気なデニスも、ひとたび絵を描き始めると、もの凄い集中力を見せ る。最初のうちは、慣れない絵の具に四苦八苦しているさまが傍目にも明らかだ ったが、やはり生来のセンスがあるのだろう。少しばかりの試行錯誤を見せた後、 まるで生まれたときから絵筆を握っていたのだろうと錯覚させるほど、軽やかに 手を走らせた。 少ないものでは、筆でチューブを押し絞っても、小指の爪ほどしか残っていな かった絵の具。それを慎重に水で溶き、大胆に筆を踊らせている。 もう、絵を描き始めて三時間ぐらいが過ぎただろうか。デニスの集中力は、全 く衰えを見せない。何度かデニスの絵のモデルを経験しているマリィでも、これ ほどまでの時間、その完成を待つのは初めてのことである。けれど描くことに熱 中するデニスを見ていると、時間の経過は気にならない。むしろ真剣な眼差しで 絵と向かい合うデニスの姿が、好ましくさえ思えた。 ところがルウの方は、そうはいかない。小さな子どもに、長時間じっと絵の完 成を待っていろと言うのは無理がある。ものの十分もしないうち、じっとしてい ることに飽きて、マリィの膝の上でもぞもぞと動き出してしまった。さらに時間 が経つと、夜も更けてきたことと、久しぶりの満腹感も手伝ったのだろう。いつ の間にか大人しくなっていたかと思えば、すやすやと寝入っていた。 ルウが動き出したときも、眠ってしまったときも、デニスは落ち着きのない小 さなモデルを叱ることはなかった。ただ無心に筆を走らせる。 「ねえ、デニス」 暖を取るための火は、少し前に消えてしまった。けれど膝の上にルウの温もり があるおかげで、マリィはそれほど寒く感じない。それでも開いた口からは、白 い息が煙のように立ち昇った。 「ごめん、あと少し、あと少しで完成するから」 紙の上で小さな動きをする筆先を見つめたまま、デニスが応える。 「引っ越し、しない?」 「はあ、なんだって?」 筆を止めたデニスが、怪訝そうな瞳を上げる。 「引っ越しって、このアパートを出るってことか」 「ううん、そうじゃなくてさ」 言葉をまとめるために、マリィはやや間を置く。そんなマリィからの答えを待 って、デニスの筆は止められたままだった。 「いまはもう、このアパートにいるのは私とデニスと、そしてこの子の三人だけ でしょう。だからね、二階が男の子の部屋で、もし外から変な人が来ても三階の 女の子のところに行く前に防げる、ってあまり意味がないと思うの」 「まあ、確かに誰かが来ても、俺が気がつかなけりゃあ、それまでだけど。けど、 俺は俺なりに注意はしているつもりだぜ」 自分が信用されてないと思ったのか、口元を曲げたデニスは、拗ねた顔を作る。 ただ本気で拗ねてはいないのだろう。言葉には先刻まで絵に向かっていたときと はまるで違う、いつもの陽気さが見られる。 「だからそうじゃなくて………もう三人きりなんだし、お互いが近くにいた方が 安心だし、なにかと便利でしょう」 どうしてだろう。 言いながらマリィは思う。 何気なく言ったつもりの言葉に、マリィ自身が緊張してしまった。鼓動が早鐘 のように打ち鳴らされる。一番近くでその音を聞いているはずの、少女が目覚め てしまうのではないかと心配されるほどに。 まだ恋愛も知らず、ただそれに憧れを抱き夢想する乙女のように。 マリィは思う。 滑稽だと。 もう自分は無垢な乙女ではない。 生きるため、糧と引き替えに失ってしまったのだ。いまさら純情ぶっても見苦 しいだけではないか。 けれどマリィは気づいていない。 肉体的には乙女でなくなっていたが、いまだ本当の恋愛を終えていないことに。 そして初めての恋愛が、心の中に小さく芽生えていることを。 「なあ………それってもしかして、さ」 マリィの正面にある、デニスの瞳は大きく見開かれていた。何かに酷く驚いて いるように。 「俺もこの部屋に寝泊まりしろ、ってことかい?」 「ば、ばか! 勘違いするんじゃないよ」 マリィは即座に否定する。 部屋が薄暗いことに感謝しながら。もしこの部屋に煌々とした明かりがあった のなら、マリィの顔の紅さが怒りではないべつの感情によるものと、悟られたか も知れない。 「隣りが空いてるだろう。隣りが」 「ははは、そう言うことか。了解、了解」 おかしそうに笑うデニスを見て、マリィは彼が冗談を言っていたのだと理解し た。少し悔しくも思ったが、腹は立たない。 「まったく………あんたは、つまらない冗談ばかり………」 「そう怒るなって。なんかさあ、今日のマリィはやけにしおらしくて、らしくな かったからさあ。でも、これでいつものマリィらしくなった」 「なによ。あんたの絵のモデルをしてたからでしょ。もう………」 「そりゃ、そうだな。ごめんごめん。じゃあこの絵を仕上げたら、早速荷物を移 動させとこう………っと、もっとも荷物なんて、ほとんどないけどな」 一頻り楽しそうに笑うと、デニスはまた真剣な眼差しに戻り、絵の仕上げに掛 かった。 「おっ、グッドタイミングだな、ルウ」 少女が目を覚ましたのは、デニスが「完成だ」と声を上げた直後のことだった。 デニスは完成した絵を自分の方に向けた画帳を手に、満面の笑みでルウを見つ めている。出来上がった絵に、ルウがどう反応するのか楽しみで仕方ない、と言 った様子だ。 けれど当のルウは、目覚めたばかりで状況がよく分かっていない。デニスの笑 みを困ったように見つめ返し、それから静かに大きなあくびを一つ。眠そうに目 をこする。 ルウを膝に抱いているマリィは、その小さな身体が震えたのを感じた。暖を取 るための火が、消えていたことを思い出す。風邪をひく前に、ルウをベッドに寝 かせてやらなければと思うが、その前に絵を見せてやらなければ期待して待って いるデニスにも気の毒だ。マリィは少しの間、ルウをベッドに運ぶのを待つこと にする。 しかしただ眠たげにするばかりのルウに、デニスの笑顔も曇りだしてしまう。 一度寝入ってしまった子どもに、その寸前の記憶が戻るのを期待するより、デニ スの方から先に見せてやればいいのに。そう思うマリィではあったが、敢えて口 を挟むことはしない。 五分ほど待っただろうか。部屋には時計もないため、正確には分からない。 ルウはようやく、デニスが自分の絵を描いていたのを思い出したようだ。まる でバネが仕込まれたオモチャのように、少女はマリィの膝から飛び起きる。一直 線にデニスの元まで行くと、小首を傾げる。声を発することの出来ないルウだっ たが、その仕草から「見せて」とお願いする言葉が聞こえたような気がした。 「あの、あのさ………俺、色の着いた絵って初めてだから、あんまり上手く描け てないかも知れないんだ」 小さな子どもを相手に、何を言い訳しているのだろう。 吹き出しそうになるのをぐっと堪え、マリィはその様子を見守る。 画帳の上にたったいま完成したばかりの絵が、ルウの方へ向けられ、大きな手 から小さな手へと渡される。 本当はマリィもデニスの元へと行き、早く絵を見たくて仕方なかった。けれど 最初はルウを優先させてやりたい。これはマリィ自身の希望であり、デニスの希 望でもあった。二人ともまだ強く意識してはいないが、その生活はまだここへ来 て間もない少女を中心に考えるようになっていた。 少し距離があり、部屋も薄暗いため、マリィからはその絵がはっきりと見るこ とが出来ない。だが、ルウの背中越しに垣間見えるその色使いが、とても好まし く思える。そして何より、ルウの表情が輝いたのが、後ろからでも感じられた。 それがデニスの絵の素晴らしさを言葉より雄弁に語ってマリィへ伝えている。 そんなマリィの判断が、決して誤っていなかったことはすぐに知れる。 絵を手にしたルウがくるりと半回転し、マリィの方を向いた。正面から見る、 ルウの表情の輝きは眩しくさえ思えるものだった。その眩しさは、瞬きする間も なく大きくなる。ルウは短い距離を、走ってマリィのところまで戻って来たのだ。 何も言うことはない。言うことが出来ない。 そんな少女の唇が、何かを語りたくて動く。 マリィにもデニスの絵を見て、と言いたいのだろう。双の手でしっかりと支え られた画帳が、目の前に差し出されていた。
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