空中分解2 #3045の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
カラーリンスに想いを込めて 翌3月20日の土曜日、私は朝5時にガバとはね起き、風呂場に飛んで行きシャン プーをしました。朝シャンです。カラーリンスがしっかり染み込むまでの10分間が ひどく長く感じられました。あ、私の娘もお出かけの前には必ず朝シャンですが、そ れとは大きく意味が違います。私はパン屋という職業柄諸々の材料の臭いが髪に付き やすい訳です。無味無臭を心がけている私としましては、失礼のないようにとシャン プーした訳です。カラーリンスはですね……うう。 ヒゲも念を入れて剃りました。最近ヒゲにも白髪が混じるようになり、そのあたり を特に気合いを入れて剃りました。初めてヒゲに白いものを発見した時にはショック でしたね。あわててとげ抜きで抜きましたが、あれは痛いですね。今それをしたら、 顔中が腫れ上がってしまうほどの本数になってしまいましたのでしませんけど。 次に、タンスから真新しいニッカボッカを取り出し、鏡の前でセーターとの色合わ せをしてみました。ニッカは何年ぶりかで買い替えたものです。この日に合わせて買 ったのではありません。なにせ、今迄はいていたものは、お尻のあたりが薄くなって きており、一触即発の危険な状態でしたから、不測の事態に備えて新調した訳です。 パンツが見えたら大変ですから。セーターも悩みましたが、山用のゴツイのはやめに して、街で着る軽やかな春物に決定しました。春うららの低山ハイクですから、山の 色に合わせないといけません。 そしてトレードマークの緑のハンチング。これは少々くたびれていますが、さすが 英国製、腐っても鯛、風格があります。とは言うものの、あちこちに糸のほつれが目 だつなぁ。あわてて洗濯機で洗ったのがいけなかったか。やはりクリーニングに出す べきだった。 さあ、どうだろう、うん、なかなかいいぞ。これでタキシードをまとえばそのまま 乗馬クラブにも出かけられそうだ。あ、いえ、英国風に地味にまとまっているという 意味です。 しかし、荷物が重くなってしまった。1000メートル以下の日帰り登山とは思え ない量です。ガスコンロが二つ。7、8人分の味噌汁がタプタプ作れるほどの大きな コッヘル。ツェルトにレジャーシート。トマトソースの入ったタッパー。割れては大 変とがっちり荷造りした卵が1ケース。おみやげ用も含めたパンが段ボールに一つ。 一眼レフカメラ。水筒兼用のケトル。まな板、着替え……。ああ、男はみんなこうし て重き荷を背負うて長き道を行くものよ……。 さて、昨夜ミンクオイルをしっかり塗り込んでおいた革靴をきりりと履いて、私は 待ち合わせの場所である新宿駅のアルプス広場へと出かけたのでありました。足元で 替えたばかりの赤い靴ひもが軽快に揺れている。 今日の目的地は中央線沿線の高畑山と倉岳山。このあたりの山々は普段は素通りで すが、たまにはいいでしょう。 アルプス広場に8時集合ということでしたが、私は新宿に近いこともあって、駅に は早めに着きました。朝食がまだでしたので、広場に隣接する立ち喰いそば屋でそば を食べてから行きました。もちろん失礼があってはいけませんから、ネギは抜いても らいました。無味無臭。 広場に着いてみると羽衣姫はすでに来て待っていました。 「やあ、どうも、どうも……」 「あ、おはようございます……おはようございます」 これで、1日もつのだろうか……。まあ、無理もない。これで3回目の顔合わせ。 3回目、そう、1度目は高水三山、2度目があの羽衣姫パン屋不意討ち事件。 私が羽衣姫のくれた礼状に対してそのまた礼状を書いたことは書きましたが、実は その私の書いた手紙は戻って来てしまったのです。宛先にこの人はいないという意味 の赤いはんこが押されていました。私はその戻ってきた手紙を見て、なるほどねと思 いました。若い娘がそんなに簡単に自分の住所や名前を人に教えるものじゃありませ ん。「キョウビの若い者にはめずらしく……」なんて感心した私がバカだった。つま り、嘘の住所や名前が書かれていたのだろうと思ったのです。それで、この件に関し ては私は軽く忘れることにしました。山で偶然知り合った人に写真をとってもらい 「送りますから」なんて言われてその気になって住所を教えても何の音沙汰もないこ とがままありますが、これはその逆で、でたら目の住所を教えたんだろうと読んだ訳 です。 折りも折り、年末という時節柄、私の店も1年で一番忙しい時期に突入していまし たので、ほんとのところすっかりその件については忘れかけていた12月の中ごろ、 彼女は私の店に突然現れました。 「マスター、お店に山でケーキを貰ったとかいう人が来てますけど……、綺麗な人で すよ……、マスターも隅に置けないわねー」 私は直感的にあの羽衣姫だと思いましたが、それでもあの山では何人もの女の子が いましたから、ドキドキしながら店に出てみました。そこににこにこ笑って立ってい たのは、やはり羽衣姫でした。相手が男ならここで「やあ、やあ」と握手でもすると ころですが、そうもいきませんから、近くの喫茶店に行き30分ほど話しをしました。 ちょうど焼き上がるまでに30分ほどかかるパンをオーブンに入れたばかりでしたか ら、その間だけでもと抜け出たわけです。時計を気にしながらも取り留めのない話し をして「今度機会があったら山に行きましょう」と再会を約し彼女は帰って行きまし た。運良く焼き立てのフルーツケーキがありましたので、それを買っていってくれま した。 彼女と話して分かったのですが、あの住所は決して出たら目などではなく、会社の 寮であるために郵便物がきちんと配達されないということでした。う〜〜む、疑った 私が恥ずかしい。郵便というのはそういうものなんですかねぇ。 そんな訳で誤解は解けたのですが、私の心にポッと明かりがともったことは想像に 難くないでしょう。こんなちょっとした出合から人と人が友達になれるというのがほ んとうに嬉しかったんです。パソコン通信なら何でもないようなことが、そうでない 普通の世界ではこうした行ったり来たりの手順がいるわけですから。 広場で待っていた羽衣姫はキナリの綿パンに薄手のセーター、そして白い帽子。靴 はと見れば、軽快なハイキングシューズ。ザックは小指でも持ち上げられそうなデイ パック。私と並んで立っているところを他の人が見たら、これからアルプスを縦走す るモサを駅まで見送りに来たキャシャな女の子といったところでしょうか。 「あれ、他の人達は?」 「まだみたいですね」 今日のハイキングには初めのうちは私の他に5、6人の参加者がある予定でしたが、 若い人達もなにかと忙しいんでしょう、最終的にはあと二人来るということになって いました。残りの二人のうちのひとりの男性A君こそ、今回のハイキングの立て役者 でありました。 今からほんの10日程前のことです。またまた私の店に見ず知らずの男性から手紙 が届きました。開けてみるとそれはあのトマトスープひっくり返し事件の張本人、あ の男性リーダーからのものでした。簡単な自己紹介とあの時のお礼などが書いてあり、 3月20日に高畑山に会社の仲間で行くことになったが、是非あのパン屋さんも誘お うということになったといういきさつが書いてありました。 実は私はこの連休で、家族とスキーに行く計画をずいぶん前から立てていまして、 宿まで予約しておいたのに、いざ近づいてみると、娘2人に振られるという悲哀とい うか辛酸をなめさせられていました。「いいよ、いいよ、父さんは山の友達が沢山い るんだから」とすねていたところでした。私にオムツを取り替えてもらう時のあの気 持ち良さそうな表情、肩車をしてキャッキャッ遊んだあの野原、あのすばらしい日々 はどこへ行ったのだ。そんな訳でしたから、これを渡りに船と言わずしてなんと言え ば良いのでしょう。私は一も二もなくこのハイキングに同行することに同意しました。 さて定刻に現れた彼は一人でした。羽衣姫が駆け寄ります。 「あら、○○ちゃんは?」 ○○ちゃんとは、もう一人の参加予定者のようです。 「それがさー、熱出しちゃって、寝てるんだ」 もう一人は確か女性。その人は寝ている。それを彼は知っている。深い関係なんだ ろう。勘ぐる暇もなく彼は事実を明らかにしました。そのもう一人とは彼の奥さんだ ったのです。どうもこのグループは会社の同僚だけではなく、そうした家族ぐるみで 山を楽しんでいる仲間のようです。フッと私の昔のことを思い出しました。私の妻も 若い頃は一緒に山に行ったものですが、しっかりとゼイ肉がついてしまった今、彼女 は車で温泉を渡り歩き麓から山を見るのが精いっぱいになってしまいました。ああ、 北アルプスの峰々をカモシカのように飛び跳ねていた彼女の輝くような映像をもう二 度と見ることは出来ない。 という訳ですから、これで参加者は全員揃ったということになります。つまり、羽 衣姫、A君、そして私の3人です。パソコン通信の仲間なら例え何十人でも恐くあり ませんが、会社の山仲間に混ぜていただくとなると、私は内気ですから「あんまり人 数が多いのもなぁ」と思っていたところですから「まっ、いっか」と3人並んで中央 線のホームに向かいました。 ところで、このA君、実にがっしりとした頑丈な体つきをしています。ちょっとそ のことに水を向けると「はあ、学生時代ボート部にいたんです」という答でした。ボ ートと言えば数あるスポーツの中でも最もその運動量が多いと言われているあのボー トです。そのボート君の上半身の筋肉の隆起はそれは立派なものでセーターの上から も確認できます。それよりも私が注目したのはふとももです。彼もやはり綿パンをは いているのですが、そのズボンがはちきれんばかり。ただ太っているという太さでは ありません。「う〜〜む」私は心の準備に余念がありません。その上、彼も小指のデ イパック。このふとももで風船のようなデイパック。一方私は駅の階段で既にあごを 出すほどの低下した体力にボッカ訓練のような大荷物。気心がしれている仲間ならま だしも、このケースでは山の途中でバテるのだけは避けなければならない。 「ボート君はいくつなの?」 電車に乗り込むなり私はさりげなく訊きました。 「今26です」 「で、東京で生まれたの?」 「いいえ、博多です」 やおら反対側の羽衣姫に振って、 「姫は?」 「27です」 ああ、私はなんてずるいんだ。許せんなぁ、純情な若い女性を罠にはめるなんて。 白状しますが、ほんとはボート君の歳より姫の歳に興味がありました。と言いますの は、私の店に来てくれた時には時間もありませんでしたし、初めから歳を訊くなんて 出来ませんでした。ただ、印象として23、4かなとは思っていましたが、今日また 会ってみると、若々しさの中に微かな愁いがあることに気づいたんです。そうなると、 ひょっとしたら30近いのかも知れない。いやいや、このお茶目な明るさはやはり2 0代前半か。 いくら日本人の悪い癖と言われようと、私はまず年齢の確認から入ります。誰が悪 い癖などと言ったのか知りませんが、これは一種のおもいやりだと私は思っています。 その相手のジェネレーションを知っておくことで、話題のネタが違って来るわけです し、逆に、そのギャップに対して相手がどういう反応を見せて来るかは、その人の人 間性を知る上で格好の材料になるからです。こういうほとんど初対面のような場合な ら、私でなくとも気にするところでしょう。 私の店にこの娘さんが来てくれた時の印象というのは、それは神々しいばかりのも のでした。お勤めが銀座ということもあるのでしょうが、あの街の洒落た緊張感をそ のままあたりに漂わせていました。スーツにハイヒールであったからではないでしょ う。私の店にも銀座にお勤めで住まいがこちらという若い女性が、勤め帰りに寄って くれることがままありますが、そういう女性達は疲れた顔を隠そうとはしません。そ れは自宅のある街に帰って来たという安堵感から来るのでしょう。責めるべきもので はありません。しかしながら、あの時の彼女はそういう帰宅途中の女性とは較べよう もなく輝いて見えました。パートのおばさんの私を見る目があれ以後変わったことか らも、そう感じたのが私だけではないということが立証されています。 しかし、今日のようにラフなスタイルもいいですね。気さくな性格がそのまま出て います。よくケラケラと笑い、話す時に相手の目をまっすぐ見て話します。彼女が暖 かい人達に囲まれて、心優しく生きてきた証でしょう。 あのスープひっくり返し事件の後始末が大変だったという話しや、パソコン通信の 話し、そしてボート君の新婚旅行先である尾瀬の話しなどで盛り上がった頃、電車は 鳥沢駅に着きました。 ホームから見上げる高畑山方面には雲が低く垂れ込めていました。その雲が風に流 されて時折姿を見せる山頂付近には真っ白に雪が着いています。私の脳裏を黒い鳥が 飛び去るように不吉の影がよぎったことは否定出来ません。
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