空中分解2 #2923の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
§皆川かなえ 「ふーっ」 かなえは大きく溜め息を一つついた。 仕事の終わった後、美浜中央病院に立ち寄りそこに入院している婚約者の母親を見 舞った帰りであるが、今の彼女は極めて憂鬱であった。 「かなえおねえちゃん」 マンションの近くに差し掛かったとき、かなえは幼い声に呼び止められた。 いつの間にかかなえの横に並んだ車の窓から、小さな少女が顔を出し手を振ってい る。 「マキちゃん」 かなえは見知ったその少女の名を呼ぶ。実はその少女の事もかなえを憂鬱にしてい る原因の一つだった。 マキの父親が経営する工場が、既に倒産状態で多額の借金を抱えていることはかな えも噂で知っていた。 もともと子ども好きのかなえは、近所に住むマキをよく可愛がっていた。そしてマ キも、かなえに懐いていてくれた。 それだけに倒産のことには、かなえも密かに心を痛めていた。 そしていつもなら朝から金策に走り廻っているはずの両親と共に、今日はマキの姿 が見られず、何か不安なものを感じていたのだ。 『私の思い過ごしだったみたいね』 かなえはそっと安堵した。 「おねえちゃん! あのね、あのね、マキね、きょう、ディズニーランドにいってき たんだよ」 大きな瞳を輝かせ、嬉しそうにマキが話しをする。 「そう、それは良かったわね。いいなあ、お姉ちゃんもミッキーに会いたかったな」 かなえは腰を屈め、視線の高さを車の中のマキと合わせる。 マキが楽しそうにディズニーランドの事を話すのを、かなえはにこやかに聞いてい た。 「ほら、マキちゃん、お姉さんは疲れてるのよ。いい加減になさい」 あまりにもマキの話が長く続くので、母親が止めに入る。 「すいません、かなえさん。この子、すっかりはしゃいでしまって」 「いえ、いいんですよ。私、マキちゃんとお話してると、とっても楽しいんですよ。 マキちゃん、今度のお休みの日に私の部屋に遊びにいらっしゃい。お姉ちゃん、もっ とディズニーランドのお話聞きたいな」 「うん」 二人の会話が終わったのを見て、マキの父親が車を発進させようとした。 「あっ、パパ。まって」 「?」 「あのね、おねえちゃん。いいものあげる」 マキの小さな手がかなえの手に触れる。そしてかなえの手に小さなビー玉が手渡さ れた。 「あのね、マキのおまもりなの。でも、もうマキ、いいことあったから、おねえちゃ んにあげる」 動きだした車の窓からマキが言った。 熱いシャワーを浴びたあと、乾いたタオルで髪を拭きながらかなえは冷蔵庫を開け た。よく冷えた缶ビールを取り出す。 「あー。気持ちいい」 ビールの缶を頬に充て、楽しそうに呟く。 −−プシュ−− −−ゴク ゴク ゴク−− 冷たく苦味走った液体が、かなえの喉を潤す。 「ふーっ」 缶を一気に開けると、再びかなえの心に憂鬱な気持ちが沸き起こってくる。 「いいのかなあ。このままで」 片手に二本目のビールを持ちながら、ソファーに腰を下ろす。 かなえはこの春、昨年まで職場の同僚であった秋山久と結婚する。本来なら、今頃 は幸福の絶頂にある筈だろう。 しかしかなえの心は、その日が近づくごとに暗く滅入って行く。 久はかなえが仕事を止めて、家庭に入ることを強く望んでいた。かなえも愛する人 のためならそれでもいいと、始めは思っていた。 だがその日が近づくごとに、そのことに疑問を感じ始めてくる。 子どもの頃から教師になることを夢見て、努力を続けてきた。そしてその甲斐あっ て教師になることができた。しかし、かつて自分が理想としていた教師像と現実との ギャップに落ち込み、そんな時に久からプロポーズを受けた。 かなえが久のプロポーズを受け入れたのは、本当に彼を愛していたからなのだろう か? それは現実からの逃避なのでは無いだろうか。 そもそも久はかなえを愛しているのだろうか? 病気がちの母の面倒を見る人間が 欲しかっただけなのではないだろうか? 酔いも手伝って、かなえの心を様々な思いや不安がぐるぐると回って行く。 「嫌、そんなのは嫌。私は私のために生きる。私は教師を止めたくない……。私はま だ、何もしていないじゃないの? 何のために必死で勉強してきたの? あの人の歳 老いた母親の面倒を見るためじゃない」 強い衝動に駆り立てられて、かなえは受話器を握りしめた。 −−ピッピッピッピッピッピッピッ・・・−− 何度も掛け慣れた男の番号を押す。 −−トゥルルルルル トゥルルルルル トゥルルルルル−− −−ガチャ−− 『はい、秋山です』 「あ、もしもし、久さん。私です」 『ああ、なんだかなえか』 「あ、あの……、私」 『ん? どうしたんだ? ああ、そうだ。今日も病院に来てくれたそうだね。ありが とう、母さんも喜んでいたよ。で、何の話しだっけ』 「ううん、なんでもないの。ちょっと声が聞きたくなって」 『妙なやつだな。どうしたんだよ、一体』 「本当に……本当になんでもないの。お休みなさい」 『かなえ?』 −−ガチャ−− 何て事だろう。何も言えなかった。 このままではいけない。このままでは私の人生は終わってしまう。良き妻、良き母 親になることに幸せを感じる事などかなえには出来そうになかった。こんな気持ちの まま久と結婚すれば、生きながら墓場に入るようなものだ。 突然電話が鳴り響いた。先程の電話を不審に感じた久が掛けてきたのだろうか。 「はい、皆川です」 『もしもし、あ、かなえさん?』 「お母さま」 電話は久の母、秋山芳子からであった。 「どうしたんですか、お母さま。病院からですよね? 何かあったんですか」 『いいえ、私のほうはあなたのお蔭で順調よ。さっき、あなたが来てくれたとき何だ か様子がおかしかったから』 「わ、私は別に……」 かなえは人前で、己の感情をさらけ出すほど愚かではないつもりだった。まして病 気で入院中の、婚約者の母に対してなど。そこまで馬鹿ではない。 『いいのよ、かなえさん。別にあなたの態度に出ていた訳じゃないの。ただね、何と 無くそう感じたの。あの子は昔から鈍いところがあって、気が付いてはいないでしょ うけど……。かなえさん久との結婚、後悔しているんじゃないかしら』 「そんな、お母さま。私、後悔なんか」 言葉では否定しながらも、その指摘に焦りが出たのかも知れない。それを芳子は敏 感に察知したようだった。 『やっぱり……』 「お母さま、私は」 『ごめんなさい、かなえさん』 「えっ」 『きっと、私たちがかなえさんを縛り付けていたのね。本当にごめんなさい』 「………」 かなえはどう言っていいのか分からなくなっていた。何か言ってこの場を誤魔化す ほど、かなえは嘘が上手ではない。 『かなえさん、久のことは私に任せて。あの子にも分かるはずだわ、一人の人間の生 き方を自分が決めてしまう権利なんて無いことを』 「お母さま」 「でも、これだけは信じてちょうだいね。久は本当にあなたのことを思っているの」 「私……、自分で久さんとお話します。どうなるか分かりませんが、話し合ってみま す。あの、正直、自分でも自分の気持ちがよく分からないんです。久さんのことを愛 しているのかどうか」 『そうね、そうするのが一番いいわね。どうかお願い。他のことは考えないで、あな たにとって一番いいと思う様にして下さいね』 「はい」 かなえは静かに電話を切ると、再び久の番号をプッシュする。 『はい、秋山です』 「かなえです……」 『何かあったのか?』 受話器の向こうから、久の怪訝そうな声が聞こえてきた。 「あの……。お話したい事があります。今から三十分後に喫茶『みるきぃ』に来て下 さい」 『分かった』 かなえの様子にただならぬものを感じたのだろう。久はかなえの言葉に一切の追求 をせず、会話は終了した。 電話が終わった後も、かなえは受話器を握りしめたまま立ち尽していた。 「もう……、後には退けない」 三十分後には全てをはっきりさせなければならない。 かなえが『みるきぃ』に着いたとき、既に久はテーブルでコーヒーを飲みながら、 彼女を待っていた。 かなえの姿をみとめ、久は右手をあげて合図を送った。 席についたかなえはウェイトレスにコーヒーを注文するとそのまま黙り込んでしまっ た。久も口を開こうとはしない、重苦しい時間が続いた。 「お袋がな……」 沈黙を破ったのは久だった。 「俺達と別居するって、いいだしてな」 「えっ」 「俺だってな、やっぱりお前の親と同居しなければならないって言ったら、正直、考 えるしな」 「私は別にお母さんの事は」 「それなら仕事の事か?」 「……………」 「だよな、俺だって子どもの頃からの夢を結婚と引き換えにすてろ捨てるとなると、 考えるもんな」 「私……」 「かなえが望むなら教師を続けて構わない。でも、すまんがお袋の事は我慢して欲し い」 久がかなえに対して大きく頭を下げた。そしてかなえはここに来るまで、頭のなか でいろいろと考えていたことが再びぐるぐると回りだし、分からなくなってしまった。 「私……分からないんです。お母さまの事も、仕事のことも。いえお母さまと暮すこ とが嫌な訳じゃありません。仕事も続けたいのか、辞めてしまいたいのかはっきりし ないんです」 久は目を閉じた。そして無言で何事かを考えている。 かなえは言葉を続けた。 「お願いです、もう少し時間を下さい。私の気持ちがはっきりするまで、どうか結婚 は………」 「分かった」 久の声に怒った様子は無かった。いや、むしろ子どもと話すときのように穏やかだっ た。 「ただこれだけは覚えていていてくれ。俺は心から、かなえを愛している」
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