CFM「空中分解」 #1684の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
或る小さな郵便局に勤める、きわめて堅実な男がいた。名前を木村浩之と いう。彼は薄給ではあったが、それなりに仕事はよくするし、若い割にはひ どく温厚な性格だったので、多くの同僚たちから信頼されていた。そうして、 彼は物持ちがよいというか、どんな品物でも異常なくらい大切にして、乱暴 とか、破壊という事を激しく嫌悪していた。けれども、それは物品に関する 事だけであって、金銭の場合は、必要な時なら必要なだけ気持ちよく出した。 要するに、彼の強い原形保存の欲望は、愛着のある品物に対してのみかかる のであり、この点、世間の小学生の女の子が、自分の気に入った愛らしいノ ートの類を、白紙のまま大事にしまっておく事に似ていた。 木村は今日も、朝の九時には局に来て、すぐに自分の仕事である郵便物の 選り分け作業を始めた。少し遅れて、気の知れた同僚たちが、次々と出勤し て来る。みんな面倒臭そうに、自分の職務にとりかかる。やがて各自がそれ ぞれの仕事に没頭して、局内は熱気を帯びる。何時間か経過して、ようやく 昼の休憩時間になる。局員たちは仕事から離れて、外へ出て行く。机の上で 弁当を広げる者もある。木村も手を休めて額の汗をぬぐい、ひとりで外へ出 る。仕事場から近い食堂に入る。そうして、いつも座る席をふと見ると、誰 か先客がいる。あの特徴のある後頭部は中川だ。木村のよく知った同僚であ る。木村はうしろから「中川さん」と声を掛けておいて、中川の前に回った。 「やあ、木村さんですか。どうぞそちらの席へ」中川はにこりと笑った。木 村は中川の正面の席に腰掛けた。それを待っていたかの様に、「あなた、毎 日この店へ来てるんでしょう。私はいつもは別の店に行っているんですが、 今日はちょっとあなたにお話があって」 「ほう。何でしょう」近づいて来た店員に、いつものやつ、と言ってから、 木村が答えた。中川は用心深そうな小声で、 「耳寄りな話ですよ。実は私、少し前から自動車のブローカーというか、そ んな大袈裟なものでもないのですが、ささやかな副業として、やっているん ですよ」 「何ですって。いけませんね」木村は少し大きな声を出した。「だってあな た、公務員というものは、副業が禁止されているんじゃありませんか」 「静かにして下さい。まあ、ここでは上司に聞かれる事もないでしょうが、 小さな声で話しましょう。あなたはちょっと真面目過ぎて困ります。アルバ イトをしている人なら、私の他にも局内に何人も居ますよ」 「そうでしょうか」 「ええ。とにかく、本題に入りますが、あなたは確か、自動車は持っていま せんでしたね。少し前まで乗っていたのが故障してそのままにしているとか。 今、私の手元に、かなり高級な車があります。中古ですが、ドイツ製のごく 上等なものです。ほら、私が一度、仕事場に乗って来て、あなたにも見せた 奴ですよ」 「ああ、あの大きく立派な車ですか」木村はその自動車のつやつや光る高級 感を思い出して、やや狼狽した。「私の給料、あなたも知っている筈です。 そんなドイツ製だなんて」 「いやいや、その点は安心して下さい。驚かれるかも知れませんが、これだ けでいいのです」中川はそう言って、指を何本か立てて見せた。 「何ですって。それは嘘じゃないでしょうね」金額は木村でも十分手の届く ものだった。 「本当です。これだけ値を下げると、私も利益はほとんどありませんが、普 通の値段で売ろうとしても、とうてい買える人がいないんですよ。どうです、 今決めて下さい」 木村はしばらく沈黙して、何やら考える素振りを見せていたが、やがては っきりした声で、 「売ってください」と言った。彼は以前使っていた自動車が駄目になってか らは、毎朝電車通勤を続けており、このごろはその満員電車に乗る事によっ て味わう激しい疲労と不自由さに、甚だ憂欝を感じていた矢先だったのだ。 中川も安心した表情になって、 「わかりました。こんなことをお願いして、どうもすみません。支払いは遅 くなったってかまいませんよ」 「いや、今週中にでも振り込んでおきます。ですから車の方も出来るだけ早 くお願いしたいのです」 「いいですよ。ではそういう事で」 四日後、木村は自動車を手に入れた。中川の言った事は嘘ではなく、車体 もそう古くはなかったし、傷もほとんど見あたらなかった。木村は満足して、 出勤帰宅のたびにそのハンドルを握った。けれども、彼は物を大切にする男 である。どんなに急ぐ時でも、決してスピードを出し過ぎたりはしなかった し、無理に止まろうとして急なブレーキ操作をする事もなかった。タイヤが わずかに擦り減る事さえ、彼には堪え難かったのである。 それから数日経って、日曜日、彼は朝からドライブに出掛けた。前日のう ちに同僚たちに声をかけ、遠出をしようと誘ったのだが、運転するのが木村 だと聞いて、みんな遠慮した。長い間電車通勤だったのだから、まだ運転に は慣れていないというか、昔運転していた時のコツを思いだしていないので はないかという懸念が広まっていたのだ。 彼は仕方なく一人で出発した。目的地は街から三十キロほど離れた湖を選 び、さらにあらかじめ道路地図を調べて、舗装されていない道は避ける様に コースを決めた。小石をタイヤで踏んだりして起こる振動が、自動車の精密 部分に少しでも影響を与える事を恐れたのである。 木村のドイツ製自動車は、郊外の広い道路を気持ちよく走った。空も美し く晴れて、道路のわきに植えてある木々の緑を生きいきと見せた。と、そこ へ突然、彼の車のものとは違う、激しいエンジン音が、後ろから近づいて来 た。見る間に木村の車はその後続車に追い抜かされた。黒塗りの改造車であ った。 木村は少し動揺したが、すぐに落ち着いて、そのまま走り続けた。改造車 は凄いスピードで道路を走り抜け、すぐ先にあったゆるい曲り角を、スリッ プしながら無理にまがった。その際、改造車のタイヤは完全に路面に密着し ていたものの、その上に載っている車体は、確かにタイヤとは別に急激に傾 いていた。自動車というのは、タイヤと車体がサスペンションというばねで つながっているから、そんな風に柔軟なのである。木村はその様子を見て、 大きな問題点に気がついた。自動車が曲がる時には、必ずあのばねに負担が かかっている。負担がかかればかかる程、ばねはいたむ筈だ。場合によって は、自動車にとっての致命傷にもなりかねないではないか! 彼は改造車に 続いて曲りながら、それだけ考えて、陰欝な気分になった。ドライブさえ、 このままやめたくなったのである。けれども出発した以上は目的地まで行こ うと考えなおし、暗い気持ちのまま走り続けた。改造車はもう見えなかった。 二時間ほど走って、いよいよ湖の沿岸まで来た。道は細くなって、湖の周 囲に沿って続いているのだ。木村は沿岸を一周してみる事にした。一周して、 早く帰りたかった。少しスピードを出して、直線部分を走り抜ける。カーブ が見えて来る。ややスピードを落とす。そこでふと考えた。こんなカーブを 曲れば、さっきの改造車の様な現象が起こる事は当然だ。自動車がいたむぞ! けれども曲らなかったらどうなる。正面に見える林の、あの大木の幹に衝突 するではないか! 木村は一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。 次の瞬間、木村のドイツ製自動車は、野生林の中に突入した。激しい衝撃 の後、フロントガラスが砕け散って、サイドミラーが二つともへし折れた。
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