●連載 #0263の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
7 4月になって、僕は無事3年生に進級した。しゃべるほうはリハビリの効果が出 て、口数は多くないものの通常レベルに近いところまで回復し、授業を受ける場所 も保健室から新3年生の教室になった。 正直言って、新しいクラスに馴染めるかどうかという不安はあったが、深く考え ないことにした。あと1年もすれば、皆それぞれの進路を行くのだし、卒業の前に は高校受験が横たわっている。 瞬との関係は、変わった。仲がいいのは同じでも、キス以前とは明らかに違う。 ふたりだけの場所が欲しい。そう願う点では、僕たちは普通の恋人どおしと同じ だった。瞬が僕の部屋に来てドアに鍵をかけてしまえば、空間としての密室は完成 する。でも階下の伯父や伯母、向こう側の部屋にいる恭一の気配を消すことはでき ない。同時に、僕たちの様子も彼らに伝わっているのではないかという恐れが、常 につきまとっていた。 抱き合う、キスをする。 たったそれだけの行為に、細心の注意を払わねばならない。瞬は僕の腕の中で、 ときどきこう言うことがあった。 「幹にいちゃん、ほんとにいいの? 後悔してない?」 それに対する僕の答えは、いつも同じだった。 「心配しないで、後悔なんかしてないよ」 僕は橋を渡りきったのだ、今さら引き返せないし引き返すつもりもない。 瞬の柔らかな唇をしゃぶりながら、早く大人になりたいと切実に願う。 悶々とした日々は、このまま永遠に続くように思われた。 年が明けて、1月。 僕の受験勉強は、いよいよ最後の追い込みに入った。 伯父は好きな高校に行けばいいと言ってくれたが、その台詞を額面どおりには受 け取れなかった。冴子はN女子大の2年生で、恭一はY大入学が決まったばかり、 瞬に至ってはまだ小学5年生だ。実の子供たちの教育費だけでも相当な金額になる ことは、世間知らずの僕でも容易に想像がついた。 経済的な負担はなるべくかけたくない。志望校選びは、まずそこから始まった。 学費の安い県立で、しかも通学のための交通費が少なくて済む高校。アルバイトを 認めてくれる学校なら、もっとありがたい。かといって、偏差値があまり低すぎる のは困るけれど。 そういう条件で絞り込むと、家から自転車で15分のK県立Z高等学校というの が第1候補に挙がった。担任の教師は、僕の学力ならもっとレベルの高い学校に行 けるのにと残念がったが、こればかりは仕方がない。 あの日も、僕は夜遅くまで勉強していた。眠気覚ましに洗面所で顔を洗い、居間 に入って電灯のスイッチを入れる。白い蛍光灯の光が部屋の中に満ちた。 壁掛け時計の時刻は午前0時10分。伯父は出張で昨日からおらず、伯母も自分 の実家に急用ができて夕方から出かけてしまった。後で電話があって、帰りは明日 に(日付が変わったから今日ということだけど)なるという。しんと静まりかえっ た中に、スリッパのペタペタする音が響く。 僕はコーヒーを入れようと、食卓の上にある電気ポットの中身を確かめた。 お湯が入っていない。やむなくキッチンへ行って水を半分程度入れると、食卓に 戻って電源をオンにした。沸騰するのを待つ間、マグカップにインスタントコーヒ ーの粉とクリーム、砂糖を入れる。 ポットがゴボゴボいう音を聞きながら、僕は椅子に座って背もたれに寄りかかっ た。冷たい水で顔を洗ったばかりだというのに、もう眠気が忍び寄ってくる。 メガネを外して、目と目の間をゆっくりと揉みほぐす。知らず知らずのうちに、 ため息が出た。模試では合格圏内でも、試験は当日やってみないとわからない。失 敗できないというプレッシャーと、先が見えないことへの不安。これではよけいに 疲れるのも当然だった。 ポットの電子音が鳴る。沸騰完了の合図だ。 僕は給湯ボタンを押してマグカップに熱湯を注いだ。スプーンで中をかき混ぜる と、コーヒーの芳香がほんのりと漂う。 ああ、やっと飲める。 吹いて冷ます暇さえ惜しくて、マグカップに口をつけた。 「あちっ……!」 唇と舌がひりりとする。部屋に持っていってゆっくり飲もう。そう決めて、おも むろにメガネをかける。椅子を後ろに引いて立ち上がったとき、僕は階段を下りて こちらへ向かってくる誰かの足音を聞いた。 「なんだ、幹彦か」 居間に入って来たのは恭一だった。何というタイミングの悪さだろう。 「こんばんは。じゃ、お先に……」 さっさと逃げるに限る。僕は軽く会釈をすると、マグカップを持って恭一の脇を すり抜けようとした。 「そんなに慌てるなよ」 恭一は薄笑いを浮かべて僕の前に立ちふさがったかと思うと、マグカップの中を 覗き込んだ。 「あれ、いいもの持ってんな。俺にも作ってよ」 コーヒーぐらい自分で入れろ。この家で、恭一に面と向かって強制力のある物言 いができるのは、伯父しかいない。伯母は彼の言いなりだったし、冴子は文句を言 いつつも、結局は弟を手伝ってやるのだから。 内心むっとしながらも食卓に引き返そうとしたとき、恭一はいきなり僕の腕をつ かんだ。 「やっぱ、いいや。おまえのもらうから」 「えっ? でも、口つけちゃったし……」 「気にしない。これ、入ってるんだろ?」 どういうわけか恭一も僕も、コーヒーにはクリームと砂糖をたっぷり入れて飲む ところは同じだ。 「それはそうだけど……」 「じゃ、決まり。ちょうだい」 甘えたような目つきでこちらを見る。その眼差しが瞬によく似ていて、僕はどき りとした。頭に血が上って、顔がカッと熱くなるのがわかる。ふたりは血のつなが った兄弟だから当然なのだけれど。 ぼろが出ないうちに、早く部屋に戻って勉強しよう。僕は恭一にあっさりとマグ カップを手渡し、居間を出て行こうとした。でも恭一は、僕の腕をつかんだまま離 そうとしない。 「ちょっとぐらい話したっていいよな?」 「まあ、少しだけなら……」 恭一が自分からそんなことを言い出すなんて初めてだった。何を考えているのか 知らないが、薄気味悪い。 「座れよ」 なんてことだ。僕はしぶしぶ、さっきと同じ椅子に再び腰を下ろした。その隣に 恭一が座る。 「おまえ、メガネかけると叔父さんに似てるな」 「……そう?」 突然父さんのことを持ち出され、僕はうろたえた。メガネは去年の夏に作ったも のだ。何故今ごろになって言うのだろう。 「叔父さん、優しかったな。うちの親父とは正反対でさ」 遠くを見るような目つきをして、しみじみと言う。どう答えたらいいのかわから ない。恭一は僕の困惑をよそに、平然とコーヒーをすすった。 「おまえとこうやって話すこと、あんまりなかったよな」 「……そうだね」 「あのときは……ごめん。自分でも馬鹿なこと言ったって思ってる」 「えっ?」 いったい何のことかと言いかけたが、ハッとして口をつぐんだ。僕に対して、施 設行きになるはずだったという暴言を吐いたことへの謝罪だろう。 「ずっと謝りたいと思ってたんだけど、おまえにはいつも瞬の奴がくっついてるか らな。あいつは近頃、俺が近づくと露骨に睨むようになったんだぜ。知ってた?」 「睨まれても……しょうがないんじゃない?」 君の自業自得だと、はっきり言ってやってもよかった。瞬にしてきた仕打ちがど んなに理不尽なものだったか、恭一は本当に理解しているのだろうか。 「そう……だよな。確かに、しょうがない」 自嘲気味につぶやいて、唇の端をわずかに歪める。 「僕のことはいいから、瞬にはもうちょっと優しくできないかな?」 「優しく、か。じゃあ俺、どうしたらいいわけ?」 恭一は唐突に訊くと、再びコーヒーを飲んだ。絶句する僕を尻目に、彼はさらに 続けた。 「ガキの頃から一番になれって言われ続けてきて、相手を蹴落とすことばかり考え てた。急に優しくしろなんて言われてもさ、わかんないんだよね」 「ライバルと弟は違うよ。僕には兄弟がいないから、もしかするときれいごとを言 ってるのかもしれないけど」 恭一は反発しなかった。何も答えず、コーヒーを口に含んで飲み下している。静 かな横顔にはやはり瞬の面影があって、僕は切なくなった。 去年の夏休み以降、瞬は僕の部屋に来ていない。受験に集中するからという理由 で話し合い、お互いに納得したのだ。むろん、同じ家に住んでいるのだから、顔を 合わせる機会はいくらでもある。 だけど――。僕たちは、ただの従兄弟どおしじゃない。 瞬の柔らかな感触を思い出しながら、幾度となく自分自身を慰めてきた。手のひ らの白濁した粘液を見つめるときのむなしさを、いったい誰に告げればいいのか。 「俺はたぶん……嫉妬してるんだろうな」 恭一はそう言うと、マグカップを食卓の上に置いた。 上の子が、生まれてきた下の子に嫉妬していじめるという話は、聞いたことがあ る。でも幼児ならいざ知らず、恭一は高校生だ。そんな子供じみた行為からは、と うに卒業してもいいと思うのだが。 「嫉妬なんて……。恭一さんは何でもできるじゃない、うらやましいくらいだ」 「俺が? 幹彦にはそう見えてるわけ?」 恭一の声は、明らかに怒りを含んでいた。 「違うの? 僕は正直に話しただけだよ。自分に都合のいい意見だけ聞きたいのな ら、悪いけど役に立てない」 「待てよ。おまえ、意外と短気だな」 席を立とうとする僕の腕を、恭一は強く引いた。言葉とは裏腹に、すがるような 目を僕に向ける。 だめだ、恭一の中にどうしても瞬を見てしまう。 僕が諦めて椅子に座ると、恭一は再び口を開いた。 「優等生やるのも、楽じゃないんだぜ。失敗が許されない人生ってどんなものか、 考えたことあるか?」 「でも、そういう生き方を選んだのは……」 「俺じゃない!」 恭一は突然声を荒げたかと思うと、深いため息を吐いた。 「瞬がうらやましいよ。あいつは赤ん坊の頃から、努力しなくても目をかけてもら えた。つまんないことでも褒めてもらえた。でも俺の場合は……」 食卓のマグカップを手に取り、眉をしかめて中身を一気に飲む。 僕は混乱していた。いつも注目されるのは恭一自身だったではないか。 「3月にはこの家を出る。お袋は反対してるけどね。ついでにテニスもやめるんだ、 好きじゃなかったし」 「もったいないなあ、全国大会でベスト8に入ったのに」 「そんなもの、何の価値もないね。肘壊してまでやりたいとは思わない」 恭一は今痛んでいるかのように、自分の右肘をさすった。 「でも不思議だよな。幹彦の顔見てると、他人に聞かれたくないことまでベラベラ しゃべっちまう。まるで……叔父さんと一緒にいるみたいだ」 また父の話が出る。恭一は瞬と違って、泊まりがけで遊びに来たことはほとんど なかった。僕の記憶が正しければ、一緒に旅行した経験もない。お盆とか正月のと きには、祖父母の家に集まって過ごしたことが何回かあるが、そういう機会に話を していたのだろうか。いくら想像をたくましくしてみても、ふたりがじっくりと話 し合っている姿は思い浮かばない。もっとも、僕が気づかなかっただけかもしれな いけれど。 「父さんとはいつ……」 話したのかと言いかけて、僕は口をつぐんだ。恭一がぐっと身を乗り出し、こち らをじっと見つめている。 「何? どうしたの?」 「やっぱ……似てる」 真面目な口調で言う恭一の眼差しには、瞬を思い出させる何かがある。そうでな ければ、僕は従兄から目をそらしていただろう。 「そんなに?」 「俺は……泣かなかった……」 「えっ?」 「……めちゃめちゃ悲しかったのに。男は人前で泣くもんじゃないなんて、馬鹿ら しいこと考えててさ。ほんとは瞬みたいに……」 恭一はふいに声を詰まらせた。きつく結んだ唇を震わせたかと思うと、いきなり 立ち上がって僕に背を向ける。 「あの、恭一さん……」 僕も立ち上がって声をかけてはみたものの、それ以上は言葉にならなかった。苦 しみ抜いた末にやっと整理できた感情が、再び揺らぎ始めている。 「……大好き、だった……」 うなだれたせいで、すっかり丸くなった背中がつぶやく。 僕は、恭一の告白めいた言葉の真実を直感した。自分が従兄弟どおしの関係を越 えて瞬を愛したように、彼もまた……。 嘘だろ!? 父さん、こいつと何があったの? 僕は自分の胸に手を当てた。嫌な動悸がしている。 「もう、会えないなんて……嫌だ……」 悲しみの言葉が嗚咽に変わる。 父さんは母さんを助けようとして、再び炎の中に飛び込んだ。それを止められな かった僕が、悪いのか。 恭一は僕を責めているのではないと、頭では理解していても、感情は納得しない。 生き残ってしまったという罪悪感は、たちまち従兄への激しい怒りに変わった。 「僕だって……もう一度会いたい。いろんなこと、話したかったよ。でもさ……あ の火事のとき、僕はどうすりゃよかったの? 母さんを見殺しにしても、父さんを 止めればよかった? 何にも知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」 「俺は、そんなつもりじゃ……」 恭一が涙に濡れた顔を向ける。胸の奥がズキリと痛んだが、暴走を始めた怒りは 止まらない。 「ふたりとも生きてて欲しかった! どんな姿になってもいいから生きてて欲しか った! 僕の気持ちが君にわかるか!? 毎日毎日悲しくて苦しくて、死にたいっ て思い続けてきたんだ! ふたりのところに行けたらどんなに楽かって! のたう ちまわって苦しんで、やっとここまでたどり着いたのに! どうして今頃になって そういうこと言うんだよ!」 「……ごめん……ほんとに、ごめん……」 「もういい、もういいよ! 何も聞きたくない!」 恭一の顔が滲んで見える。僕は身を震わせて言い放ち、従兄の脇をすり抜けよう とした。動悸が激しくて気分が悪い。 「待てよ」 恭一が僕の前に立ちふさがった。上背があるせいで、自然とこちらが彼を見上げ るような格好になる。 「何!? 用なんかないだろ?」 「幹彦、おまえ誤解してる。叔父さんと会ってたのは、ボランティアのときだけだ」 「父さんは、そんなこと話してなかった」 「それは……俺が内緒にしてくれって頼んだから。他には何もなかった。ほんとだ よ、信じてくれ。ただ俺がその……勝手に好きになって……」 恭一は哀願するように言い、僕の両肩に手を置いた。 「触るな!」 身をよじって怒鳴り、恭一の手を振り解く。彼が父さんへの想いを吐露した今、 何もなかったという台詞を素直に信じられなくなっていた。それにも増して、ふた りが秘密を共有していたことは、僕にとって衝撃の事実であり、同時に許しがたい 行為でもあった。 「父さんを汚さないでくれ!」 僕は瞬との関係を棚に上げて、恭一を一方的に断罪する道を選んだ。従兄の表情 が険しいものに変わる。 「君はいいよ、生きてるんだから何とでも言える。でも父さんは違う!」 「俺は、貴志さんを汚してはいない」 叔父さん、ではなかった。恭一が父の名を口にしたことで、僕は完全に冷静さを 失った。 「何でそんなこと言えるんだよ!?」 「じゃあ訊くけどな、幹彦、おまえはどうなんだ?」 恭一の目が凶暴さを秘めてギラリと光る。 「瞬を部屋の中に入れて、何やってるんだよ。勉強教えてるとか遊んでやってると か、見え透いた言いわけはしないで欲しいね。親父やお袋はてんで気づいちゃいな いが、俺にはわかる。あんな奴でも、いちおう弟だからな」 言葉が冷たい氷の刃となって、胸に深々と突き刺さる。血の気が引いていくのが、 自分でもはっきりとわかった。 恭一がいつもの薄笑いを浮かべる。僕に致命的な打撃を与えたと思っているのだ ろう。 でも……絶対に認めない、認めちゃだめだ。 「残念だけど、君の想像とは違うよ」 「いや、違わないな。瞬をここに呼んできてしゃべらせれば、本当のことなんてす ぐにわかる。たかが小学生だ、腕でもひねれば簡単に白状するさ」 「自分の弟だろ!? 何考えてんだよ!」 「瞬を巻き込みたくなかったら、いさぎよく認めろ。自分はホ……」 恭一が言い終わらないうちに、僕は彼の左顎に鉄拳を命中させた。油断していた 従兄はそれをまともに食らって、大きく後ろによろめいた。 自分自身で引き起こしたことに、しばし呆然と立ちすくむ。他人を殴ったのは、 生まれて初めてだった。 「今のは……効いたぜ」 恭一が顎をさすりながら言う。こちらを見つめる目は屈辱と怒りの炎に満ちてい て、僕は彼を本気で怒らせたのだと改めて悟った。でも、退くわけにはいかない。 「男とやるのって、どんな感じ?」 「したことがないからわからない」 事実だった。自慰はするけど、瞬とセックスはしていない。抱き合ったりキスを したりするだけで、心が満たされて寂しさを忘れられる。おそらく恭一には、絶対 に理解できないだろう。 「やっぱ、瞬を連れてくるしかないみたいだな」 「瞬は関係ない!」 僕は居間を出て行こうとする恭一の腕を、慌ててつかんだ。 「そんなにあいつが大事か? だったら、おまえの身体に直接訊いてやる」 そう言うが早いか、恭一は僕の胸元をわしづかみにして、メガネが傾ぐほどの激 しい平手打ちを食らわせた。頬の猛烈な痛みと、一瞬のめまい。唇が切れたらしく、 血の味がする。 「みんなおまえが悪いんだ!」 恭一は胸元をつかんだまま僕を引きずって、今度は身体ごと何回も壁に叩きつけ た。背中と腰、後頭部に、数秒間息が止まるほどのすさまじい痛みが走って、思わ ず呻き声が上がる。彼が手を離すと、僕は崩れ落ちるように床に倒れた。視界の片 隅で、壁かけカレンダーが揺れている。 「幹彦、俺のものになれ」 恭一はそう言って片膝をつくと、僕の顔を両手で優しく包み込んだ。 「い……嫌だ……」 息も絶え絶えに答え、僕は顔をしかめた。身体中が、痛みに悲鳴を上げている。 恭一は僕の中に父さんを見ているに違いなかった。そして叶えられなかった欲望 のはけ口を僕に求めている。こいつとやるくらいなら、今すぐ殺されたほうが遙か にマシだった。 「……離せ、触るな……うっ!」 恭一の手を振り解いて身をよじると、背中がびりびりと痛む。僕はそれでも何と か起き上がろうとして、床に肘をついた。かばいきれなかった後頭部に手をやる。 こぶができているような感じがするのは、気のせいだろうか。 「おまえ、案外強情だな」 笑いを含んだ冷ややかな声が降ってくる。悔しいが、痛みを堪えるのがやっとで 返す言葉も出ない。 「まあいいや、立てよ」 再び胸ぐらをつかまれ、引っ張り上げられるように立たされる。 「は……離せ!」 僕は、恭一の手に思い切り爪を立てた。体格では圧倒的に不利な僕の、せめても の抵抗だった。 「いてっ!」 胸元から手が離れるのと同時に、僕はメガネが吹っ飛ぶようなきつい一発を頬に 食らった。目から火花が飛び散るような衝撃を受けて、床に沈む。唇だけでなく、 口の中の粘膜も切れたようだ。傷口からの出血が喉に入り、思わずむせてしまう。 僕はひどく咳き込みながら真っ赤な唾液を吐いた。 「さあ、どうする? 俺のものになるなら、優しくしてやる」 恭一は僕の身体に馬乗りになると、腫れた頬をそっと撫でた。 変態野郎! 心の叫びは呻き声にしかならなかった。メガネがなくなったせいで、恭一の表情 もぼやけている。 「こうなったのは、全部おまえが……」 「恭一っ!」 居間中に響く鋭い声。 まさか、瞬!? 少しも気づかなかった……。 「幹にいちゃんから離れろ!」 カチカチッという小さな音が聞こえる。 「瞬か。まあ、落ち着けって」 恭一は後ろを振り向いて、余裕たっぷりに言った。 「離れろって言ってんだろうが!」 「わかったわかった、怖い顔するなよ」 いかにも相手をなめた調子で答え、恭一はやっと僕の身体から退いた。 腕でもひねれば簡単に白状するさ。 残酷な台詞が耳の奥で蘇る。こいつなら本当にやりかねない。 「あのさあ、瞬。おまえが持ってる危ないやつ、しまったほうがいいと思うな」 「嫌だね、僕は本気だよ」 冷たく、抑揚のない声。さっきとは全く違う。 カチカチカチカチカチッ! 瞬が何らかの刃物を持ち込んでいることは明らかだった。 ふたりの間に入らなければ! 奥歯を食いしばって上体を起こす。年の離れた兄弟は、無言で睨み合っている。 僕は顔と背中の激痛を堪え、腹這いになってメガネを探した。幸いにも指先にフ レームが当たって、すぐに発見することができた。 手元に引き寄せてみると、レンズの片方には小さなひびが入って、フレームは歪 んでいる。それでもないよりはマシだ。 「そんなもの振り回すと、おまえが怪我するぞ」 「聞こえなかった? 本気だって言ったんだよ」 僕は壊れたメガネをかけ、壁を伝って立ち上がった。パジャマ姿の瞬が、怒りに 燃えた目で恭一を睨みつけている。そして兄に向けているのは、工作用の大きなカ ッターナイフだった。真新しい刃をいっぱいに伸ばしてある。 「瞬……やめろ」 言葉を発した途端、口元から生暖かいものがこぼれた。慌てて袖口で拭う。声に 振り向いた恭一は、無言のまま複雑な表情で僕を見つめている。 「幹にいちゃん! 血が……!」 瞬が目を大きく見開いて絶句する。こんな姿だ、驚いて当然だろう。 「……ナイフは……よくない」 「恭一がやったの!?」 どう答えても、瞬は激昂するに違いない。我を忘れて暴れ出す前に、カッターナ イフを取り上げてしまう必要がある。恭一と僕との問題に、瞬を巻き込むのは絶対 に嫌だ。 僕はよろよろと歩いて、恭一の前に出た。瞬は切っ先をこちらに向けたまま、ひ るんだように一歩後ろへ下がる。 「さあ……ナイフを渡して」 ゆっくりと右手を瞬に差し出す。 「そこ退いて! 恭一と決着つける!」 「駄目だよ……」 僕は首を横に振った。 「瞬には……誰も傷つけて欲しくない」 「無駄だ、幹彦。いつかはこうなると思ってた」 恭一が後ろで投げやりな台詞を口にする。 「馬鹿なこと言うなよ、自分の弟じゃないか!」 僕は顔をしかめ、肩越しに振り向いて強く言った。口の中が痛い。 「いいんだよ、幹にいちゃん。僕たちは昔から、お互いに大嫌いだったんだから」 「でも……!」 瞬は唇の片端を歪めて、ぞっとするような笑い顔を見せた。カッターナイフを両 手に握り直す。 「恭一、いつまで後ろに隠れてるんだよ。さっさと出てこい!」 「うっせえ! その減らず口、一生きけないようにしてやる!」 飛びだそうとする恭一を、僕はとっさに押さえつけた。従兄の身体に腕を回して しがみつく。 「離せっ、幹彦!」 「瞬、部屋に戻れ! 早くっ!」 「馬鹿野郎っ!」 恭一は罵声を発したかと思うと、非力な僕をむしり取るように振り払った。勢い あまって、テーブルの端に嫌というほど脇腹をぶつけてしまう。内臓に響く激痛に 襲われ、僕は悲鳴を上げた。 「恭一! てめえ殺してやる!」 瞬がカッターナイフを振り上げる。 「やめろーっ!!」 僕は夢中で瞬の前に飛び出した。止められずに振り下ろされたナイフの刃が、胸 に吸い込まれていく。ちりりとした痛みが走り、僕は思わず胸を押さえてその場に うずくまった。 「幹にいちゃん!」 「幹彦! 何やってんだよ!」 カッターナイフが床に落ちて転がる。瞬は僕にしがみついて、激しく泣き出した。 「みんな瞬のせいだからな! おまえらイカれてるぜ、マジでお似合いだよ!」 恭一は捨て台詞を残し、足早に居間を出ていった。階段を駆け上がる音と自室の ドアを乱暴に開閉する音が、ここまで響いてくる。 「……瞬」 僕は泣きじゃくる従弟の頭を撫でた。胸の傷は思ったほど痛くない。トレーナー の裾をめくり、下から手を入れて探ってみる。 「大丈夫、大したことないよ」 僕はそう言って、瞬の背中を軽く叩いた。 触った限りでは、傷は予想以上に小さく浅い。服を脱いで実際に見なければ断言 できないけれど。ざっくりと切れた厚手のトレーナーが、僕の身を守ってくれたよ うなものだ。 「救急箱、持ってきてくれる?」 瞬の耳元でささやく。従弟はしゃくり上げながらうなずき、救急箱を取りに行っ てくれた。切られたトレーナーを目の当たりにすると、やはりぞっとする。 「いたたっ……」 裾をつかんで一気に脱ごうとした途端、僕は情けない声を出した。背中と脇腹の 痛みが強くなったのだ。殴られた頬や口の中、後頭部も同じだった。 顔を歪め、ギシギシと軋む身体をなだめながら、ゆっくりとトレーナーを脱ぐ。 胸の傷は思ったとおり浅く、血が少し滲んではいるものの、ひっかき傷に近い状態 だった。消毒してバンドエイドでも貼っておけばいいだろう。 しかしそれより心配なのは、脇腹の打撲だ。薄い腹にはすでに大きな青あざがで きていて、そっと押しただけでも飛び上がるほど痛い。湿布を貼るだけでいいのか、 不安になってしまう。 なるべくなら病院には行きたくない。どうしてこんな怪我をしたのかと訊かれた とき、ごまかしきれる自信が僕にはなかった。 恭一をかばっているのではない。受験直前の大切な時期に、これ以上のもめごと を起こしたくないだけだ。 瞬が救急箱を抱えて、ようやく戻ってきた。涙と鼻水にまみれた、ひどい顔をし ている。僕と目が合うと、うわああんという大きな泣き声を上げた。 結局僕は、自分の怪我の手当より先に、瞬の顔を拭いて鼻をかませた。動揺して いる従弟が少し落ち着くまで、寒さを堪えて抱いてやる。 僕自身のことに手が回るようになったのは、それからだった。瞬に手助けしても らって胸にはバンドエイド、脇腹と背中、頬には冷湿布をべたべたと貼りつける。 後頭部は、保冷剤をタオルで包んだもので冷やすことにした。満身創痍とは、まさ にこれかと思う。 「……ごめんなさい」 瞬は謝罪の言葉を口にすると、再び大粒の涙をこぼした。 「いいんだよ。瞬は僕を、助けようとしたんだよね」 思えば僕が、恭一との会話の中で冷静さをなくして、感情的になったのがまずか った。瞬のことを持ち出されて引っ込みがつかなくなり、相手のペースにはまって しまったのだ。 父さんと恭一。今はもう、何も考えたくない。 壁掛け時計の時刻は、すでに午前3時。 その夜、瞬と僕は同じベッドの中で眠った。 to be continued
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