#1161/1165 ●連載
★タイトル (sab ) 26/01/10 22:56 ( 79)
「ナショナリズム的誘拐事件」1 朝霧三郎
★内容
心療内科の娘の住友惠子(21歳。バーブラ・ストライサンド似)が誘拐された。
10月半ばとはいえ、東京は十分寒かった。
そろそろユニクロのヒートテックを買ってもいいぐらい。
惠子も寒い思いをしているかも知れない。
玉置誠(佐藤浩市似)は、その知らせを大学の6号館2階のラウンジで聞いた。
誠と惠子は大学のサークル、サルサ研究会で一緒だった。
サルサとはラテンのペアダンスで、何でそんなものが流行っているかというと、
カソリック系の大学なので、
南米からの留学生が多い為にそんなサークルが出来たのだった。
留学生はコロンビア人、エクアドル人、ペルー人などで、ほとんどが野郎だった。
大学は品川にあるfラン大学だ。
JR山手線大崎駅から首都高速C2の下を歩いて行った、
峰原通り沿いにある、全くお洒落ではない、
企業の研修センターか郊外にある学生会館を思わせる校舎の大学だった。
6号館2Fのラウンジスペースに玉置誠は、
友人の町田君(町田市在住の為。立花隆似)と
熊五郎(見た感じが熊。麻原彰晃似)と屯っていた。
サルサは、4F多目的スタジオで踊るのだが。
ラウンジは、時間帯によっては、ラティーノがうじゃうじゃいるのだが、
今は一人のコロンビア人がソファにいて、日本人の女が3人寄り添っていた。
ラティーノは、『シックスセンス』のテッド・バンディみたいな、
こまっちゃくれた顔をしている、頭が妙に小さい男だった。
スペイン人とインディオを掛け合わせるとああいう顔になるのか。
怪鳥音みたいな甲高い声で話す。
「日本の女、みんな優しい」
インターネットラジオで、コロンビアのFM局が流れていた。
曲はプエルトリカンパワーの曲。
「故郷を遠く離れて寂しくない?」と女の一人が言った。
「故郷の味ならアルコイリス五反田店に行けばいいんじゃない?」と別の女。
「あれはペルー料理よ。コロンビアとペルーじゃあ、
ライオンとハイエナぐらい違うんだから」
「だったら私が作ってあげる。サンコチョとか煮てあげる」
「サンコチョってバンドが『ルンバ・テ・トゥンバ』って曲を出しているよ」
「なに、頓珍漢な事言っているのよ。アグアルディエンテもあるのよ」
ソファーの反対側の席で、熊五郎が言った。
「全く友達が誘拐されてもなんとも思わないんだろうなあ、ああいう女どもは。
あいつら平気でコロンビア人を家に招くんだろう。
ここならいいが、俺は外人なんて絶対に、家の敷居をまたがせないね」
「だったら何でラテンダンスなんてやってんだよ」と誠。
「だって、
六本木のクラブだって日本人だけじゃあ白けるから黒人がいた方がいいけれども、
だからって、黒人を自分ちに入れるか」
熊五郎は渋い顔をしてコロンビア人を見ていた。
「全く、折角可愛い女を集めても、
ラティーノがやらせる女のリストを持っていて、
ラティーノ同士でそれを回してやっているんだから、
せっせと女を集めて、奴らに提供しているようなものだぜ」
「元々ラテンダンスが好きな女なんて、
ラティーノ好きなビッチが多いんじゃないの?」と町田。
「あいつらは、冒涜という意識がない未開人どもだ」と誠は言った。
「素人の女子大生なんて大事にしてやらないといけないのに。
傷物にしちゃいけないのに。
お嫁に行けなくなっちゃうから。
セックスのタブーもあるしな。
素人の女子大生とやるというのは、近親相姦的な感じもするし」
「お前も素人童貞っぽい事言うよな」と熊五郎が誠に言った。
「ラティーナだったら気楽でいいんじゃない?」
「ラティーナのうんこは許せるよな。
日本人の素人のうんこは許せないけれども」と町田。
「ラテン人なんて、ペットみたいなものだからだ」と熊五郎。
「惠子なんて元々ラティーノ好きのヤリマンじゃないか? 自業自得だよ」と町田。
「ラティーノ好きというよりか、日本人が苦手なんじゃないの?
わちゃわちゃ系が苦手なんだよ。
どっちかというと、『東電OL』
(東電の慶応卒のキャリア女性がネパール人相手に渋谷円山町で売春をしていて、
最後は殺された事件)みたいな、
拒食症の女なんだよ」と誠。
「え、なに、どういう事?」
「手編みセーターを着ている様な女がわちゃわちゃ系で、
『東電OL』系の女ならブランド品を身に付けているんだよ」
「カルティエとかロレックスをしていたな、惠子は」と熊。
「金持ちだからな」と町田。
「システムが好きなんだよ」と誠。
「お前もシステムが好きなんだろう。fjクルーザーに女を乗っけて
カーナビをセットすると萌えるんだろう」と熊。
「まあな。とにかく、惠子を誘拐したのはラティーノだと思うね。
あいつら土人だから、
素人の女は大事にしてやらないといけないっていう感覚がないんだよ」
「惠子ももういい所にはお嫁に行けないな。無事に帰ってきても」と町田が言った。
#1162/1165 ●連載
★タイトル (sab ) 26/01/10 22:56 ( 86)
「ナショナリズム的誘拐事件」2 朝霧三郎
★内容
住友惠子誘拐の翌日、大学に警察が入った。
品川の外れにあるこのFラン大学に、パトカーが横付けされる光景は場違いだった。
昼下がりのキャンパスは、いつも通りのんびりしている。
講義に向かう学生、ラウンジでスマホを眺める留学生、
校舎の外では煙草を吸いながら時間を潰す連中。
そんな呑気な空間に異物が混じっている感じだ。
六号館2階のラウンジに、岩本警部補(遠藤憲一似。50歳)と
大友秋絵巡査(渡辺満里奈似。27歳)が姿を現した。
秋絵は現役の巡査でありながら、臨床心理士の資格を持ち、
脳科学にも首を突っ込んでいる変わり種だ。
ラウンジの一角で、サルサ研究会のメンバーを探す。
秋絵は駒込(岡山天音似)という男に目を留めた。
へらへらして、要領のよさそうな学生だ。
「住友惠子さんのお友達って誰か、知ってる?」
穏やかな声だったが、2人で圧をかけて逃がさない。
駒込は少し考える素振りをしてから言った。
「玉置誠だな。彼は……惠子のアッシー君みたいなもんでしたよ。
送迎とか、呼ばれたらすぐ行くし。
正直、利用されてたと思います。
キレてやったんじゃないですかね」
岩本はメモを取る手を止めなかった。
秋絵は、視線だけで誠を探している。
「どの人?」
「あそこにいるよ」とラウンジの奥に座っている玉置誠を指さした。
やがて二人は、玉置誠の前に立った。
誠は、警察というだけでドギマギしていた。
警察だの教授だの医師だのというだけで、ドギマギしてしまう。
「玉置さん」秋絵が声をかける。
「住友惠子さんのことで、少し話を聞かせて」
「……あ、あの、その……」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから」
秋絵の声には、尋問の色はなかった。
誠は深く息を吸った。
「自分……アッシー君にされてた、って言われてますけど。
苦痛じゃなかったんですよ」
「どういう意味?」
秋絵が首を傾げる。
「自分はシステムオタクなんです」
誠は急に饒舌になった。
「待ち合わせは新宿の目。
そこから歌舞伎町の地下のサブナード駐車場に行って、
カーシェアはタイムズじゃなくて、三井の方で。
スマホで操作して、1000万のランドローバーを予約するんです。
湾岸線を走って、ららぽーとTOKYO―BAYまで走る。
その一連の流れが、たまらなく楽しいんです」
岩本は眉をひそめたが、秋絵は興味深そうに聞いていた。
「車を運転するのが好き、ってこと?」
「違います」
誠は即座に否定した。
「システムに触れるのが好きなんです。スマホのアプリで予約して、
時間になると、カチャっと車のロックか解除されてハザードが点滅して、
その瞬間が萌えるっていうか」
事情聴取が終わり、二人がラウンジを出ると、秋絵は小声で岩本に言った。
「彼は違うと思います」
「理由は?」
岩本は立ち止まらずに聞いた。
「システムオタクは、扁桃体の反応が独特なんです。鈍感なところと、
異様に鋭いところがあるんですが、
一度ハマると、前頭前野で興味が長く持続するタイプで。
クレッチマーで言えば、粘着気質寄りですね」
秋絵は、簡単にクレッチマーの気質分類論を説明した。
クレッチマーによれば、人間は3つの気質に分類できる。
即ち、循環気質(肥満型で社交的だが躁鬱気味)、
分裂気質(やせ型で、内向的、非社交的、神経質)、
粘着気質(闘士型で真面目、頑固で癲癇気質)である。
誠は粘着気質のシステムオタクなので、今回の犯人とは違うんじゃないか、
と秋絵は言う。
「誘拐犯じゃない、と」
「ええ。今回の事件、もっと粗い、場当たり的で、衝動的な感じがします。
循環気質っぽい匂いがします。
循環気質というのは、快楽を味わう扁桃体だけで生きている様な人間で、
思慮分別を司る前頭前野がないんですよ。だから場当たり的で」
警察が去ると、ラウンジは元のまったりとした空気を取り戻した。
誠は熊五郎の隣に腰を下ろし、低い声で言った。
「俺じゃねーよ。もっと、組織的な連中だろ」
「例えば?」
熊五郎が笑う。
「カンボジアあたりの中国人マフィアとか。
闇バイト使って、誘拐して、現金を奪取する。
そういうシステム化された犯罪に、正直、憧れるけど」
熊五郎は肩をすくめた。
「ノワール的なのがいいんじゃない? 誠、お前は素人の女が苦手だろ」
「……」
「『東電OL』みたいな、どこか壊れた女の方が、安心するタイプなんじゃないのか
?」
誠は答えなかった。
#1163/1165 ●連載
★タイトル (sab ) 26/01/11 13:50 ( 81)
「ナショナリズム的誘拐事件」3 朝霧三郎
★内容
誠は熊五郎と町田と一緒に、3号館の地下へ移動した。
地下1階のカフェは、地上の貧相なキャンパスとは切り離されたような、
おしゃれで落ち着いた雰囲気。
電源席も備わっており、PC作業をしている学生も多い。
が、席の半分以上は留学生で埋まっていた。
コロンビア、ペルー、どこか東南アジアの外人。
アメリカ、ロシア、イタリアなどの白人系もいた。
言葉の断片が交錯し、笑い声だけが大きい。
誠はそれを眺めながら、コーヒーを口にした。酸味が強いが、美味しい。
「少子化で学生が減っただろ」誠は独り言のように言った。
「だから留学生を入れるんだよ。勉強なんてどうでもよくて、
出稼ぎで来てるような連中を」
熊五郎は砂糖を三袋入れ、かき混ぜながら聞いている。
町田はスマホに目を落として黙っている。
「うちの大学だけじゃない。Fランだの専門だの、料理学校、
アニメの学校……どこも半分は留学生だ。
受け入れなきゃ経営が成り立たない。
だったら潰れればいいのに、って思っちゃうけどな」
(全くどいつもこいつも目先の事しか考えない)と思いつつ、
誠はコーヒーを一口飲んで、急に別の話を始めた。
「そういえばさ、システムの話だけど」
熊が顔を上げる。
「最近、アドレス110を買ったんだよ。
前はヤマハのJOGで、50ccに乗ってたけど、あれだと二段階右折が面倒でさ。
110にしたよ」
町田が笑った。「バイクの話かよ」
「違う。システムの話だ」誠は真顔だった。
「バイクが変わると、自賠責も任意も全部変更になるんだけれども、
令和七年十月二日の午後四時から、ってきっちり時間が決まってるんだよ」
誠は指でテーブルを軽く叩いた。
「だから納車も、その時間ぴったりにしてもらったんだよ。
そこがズレると、保険が効かなくなっちゃうんだよ」
熊は呆れたように鼻を鳴らす。
「で、メーカーの盗難保険があるんだけど、条件が厳しい。
駐輪中は必ずU字ロックをしておかないと保険が効かない」
誠の目が、少しだけ輝いた。
「だから十月二日、ローソン受け取りでアマゾンにU字ロックを注文したんだよ。
最初から“その日受け取り可”って表示されてたからな」
町田が口を挟む。「普通、バイク屋で買うだろ」
「それじゃダメなんだよ」誠は即答した。「ポチって、配送状況を追っかけて、
予定通りに来るかどうかを見る。それがいい」
声が低くなる。
「ところが、配達遅延、“翌日になります”って表示が出た」
誠はコーヒーカップを置いた。音がやけに大きく響いた。
「そんなの許されないよ。アドレスを受け取ってから丸一日、
盗まれたら保険が効かない状態じゃん。下手すりゃ15万は損する」
熊は苦笑した。「大げさだな」
「だからコールセンターに電話したんだよ」
誠はその時の声色を真似るように、少し鼻にかかった調子で言った。
「“お待たせいたしました、
アマゾンコールセンターの郭がお受けいたします”ってさ。変な中国訛りで」
町田が眉を上げる。
「で、どこから電話してるのか聞いたら、“北京です”だと」
誠は肩をすくめた。
「遅れたら困る、最初からその日って書いてあった、
って強く言ったらな……遠回しに脅してきた。
住所も知ってる、日本に住んでる中国人の知り合いもいる、みたいな言い方で」
熊五郎は一瞬、笑うのをやめた。
「もちろん、はっきりは言わない。でもなんとなくそんな事を言うんだよ。
バイク泥棒は在日の中国人かも知れない、とか。
こっちは個人情報を握られてるし。
電話の向こう側に顔のない中国人がいると怖いよ」
誠は少し黙った。
「その瞬間、思ったよ。こいつ、本当にマフィアの知り合いがいるかもしれない。
俺の住所も知ってる」
町田が言った。「考えすぎだって」
「そうかもしれない」誠は認めた。「でもよお、アマゾンのシステムって、
便利だけど、怖いよな。全部が繋がってるし。金も、住所も」
熊はコーヒーを飲み干した。
「結局、U字ロックは来たのかよ」
「翌日にな」
「じゃあ問題ないじゃないか」
誠は首を振った。
「違う。システム通りに行かないっていうのは、もうアウトだよ」
留学生たちの笑い声が、カフェの天井に反射して降ってくる。
誠はそれを聞き流しながら、どこか遠くを見ていた。
「バイク屋で買えばよかったのに、って言うだろ」誠は続けた。「でもさ、
アマゾンでポチって、予定通りに来るかどうか、追いかけてる時間が一番いいんだよ。
システマティックで……生きてる感じがする」
熊五郎は黙ったまま、誠の横顔を見ていた。
町田は何も言わず、再びスマホに視線を落とした。
#1164/1165 ●連載 *** コメント #1163 ***
★タイトル (sab ) 26/01/11 14:02 ( 42)
「ナショナリズム的誘拐事件」4
★内容
システムといえば、誠は最近、楽天モバイルに乗り換えたのだが…。
或る、学校帰りの夕方の事だった。五反田TOCのユニクロに寄った。
昭和の匂いが残る巨大ビルの中で、店内だけが均質な白い光に満たされている。
誠はヒートテック極暖を一枚手に取り、値札を確認した。1990円。
別にこんなものは通学用だった。サルサを踊る時には、
ドルチェ&ガッバーナを着ている。
本当は矢沢永吉をモデルにしているのでヴェルサーチェでも着たいのだが、
柱のささくれにひっかけただけで40万おじゃんにするのはもったいなので
買わなかった。
ユニクロのレジに立っていたのは、又しても中国語訛りの日本語を話す若い女だった。
名札にアグネスとあった。年は二十五前後、顔はBOA似か。
「ユニクロ公式アプリをインストールすると、五百円分プレゼントになります」
決まり文句のような口調だったが、その言葉に含まれる“アプリ”という単語が、
誠の注意を引いた。
「でも、格安スマホで、スピード遅いから」
「大丈夫です。今、入れてください」
彼女は即答した。
誠はその場でダウンロードを始めた。
だが、進捗バーは遅々として動かない。少し進んでは止まり、また止まる。
その間、背後の列は別のレジへと流れ、誠のいるレジだけ塞がった恰好だ。
でも中国人の店員のアグネスが“いい”と言ったのだから、いいだろう。
十分ほどして、ようやくインストールが完了した。
支払いが終わり、全てがスムーズに終わったと思っていたのだが、
アグネスが、お釣りとレシートを渡す時に、誠の手の平にぎゅーっと押し付けてきた。
(この中国女め、自己主張が強い。日本人だったら絶対に余計な事はしないのに)。
店を出ると、誠はすぐに電話をかけた。店長を呼び出し、事実だけを並べた。
その場でアプリを入れるよう指示されたこと。十分ほどレジが使えなかったこと。
釣り銭を渡す際に不必要な接触があったこと。感情は混ぜなかった。
翌日、同じ時間に店を覗いてみると、アグネスはレジにいなかった。建物の外で、
冷たい風に晒されながら、段ボールを整理していた。
薄い上着の隙間に晩秋の冷たい空気が入り込む様に見えた。
(俺がクレームを入れたからだ)と思って、誠はアグネスに接近して、声をかけた。
楽天モバイルではない、もう一台のスマホ2
ーー以前サルササークルにいた留学生から譲り受けた端末を取り出し、
番号を交換した。「何か仕事が出来たらやるよ」。善意の申し出の積りだった。
彼女は短く頷き、視線を落とした。その反応を、誠は肯定として受け取った。
帰り道、ユニクロのアプリを開く。購入履歴が写真付きで並び、
ポイントが加算されている。オンラインで買って、店舗受け取り。
大学の帰りに寄ればいい。ユニクロなんて、
ヒートテックとエアリズムとソックスしか買わないから。
柳井が気に入らないから。山口県の衣料品店のおっさんの癖に、
東レの技術と東南アジア人からの搾取で儲けやがって。こ狡い商売人が。
#1165/1165 ●連載 *** コメント #1164 ***
★タイトル (sab ) 26/01/11 14:08 ( 63)
「ナショナリズム的誘拐事件」5
★内容
システムといえば、誠は、
自分が知らない間にアッシー君になっている場合がやたらと多い、
という事実を思い出さずにはいられなかった。
誰かに「送っていってあげようよ」と頼まれた瞬間には、反射的に嫌悪感が走る。
人を乗せる、時間を奪われる、責任を背負わされる。
そういう生身の関係が、誠はどうにも苦手だった。
ところが一度、車に乗り込み、エンジンをかけ、
カーナビの起動画面が青白く点灯した瞬間から、事情は一変する。
住所を入力し、ルートが計算され、予想到着時刻が表示されると、
その行為はもはや「人を送る」ではなく、
「システムを完走させる」ことにすり替わる。
そうなった途端、誠の中で、奇妙な熱がめらめらと立ち上がるのだった。
その夜もそうだった。サルササークルの顔役で、月に一度、
新宿のクラブ・ライオンでレギュラーDJを務めている
djサミー(本名寒川。山口馬木也似のイケメン)と
djデラルス(オルケスタ・デ・ラ・ルスのカルロス菅野似)のイベントが
終わった後のことだ。
クラブ・ライオンは、靖国通りから一本入った雑居ビルの地下にあり、
階段を下りるにつれて湿った低音が腹に響いてくる。
フロアにはミラーボールが回り、紫と赤の照明が入り混じり、
汗と香水とアルコールの匂いが渦を巻いていた。
サルサというよりも、もはや人間そのものが回転しているような夜だった。
ラテン音楽特有の過剰な陽気さが、踊る者の体温を一様に引き上げ、
終電間際だというのに、誰一人として帰る気配を見せていなかった。
イベントの終わり際、同級生の保坂(村上春樹似)ーー痩せていて、
無表情で、どこか作家然とした雰囲気の男だーーが、
誠のところにやって来て、軽い調子で言った。
「春日部のペルー人の女の子が二人いるんだけどさ、送って行ってあげようよ」。
誠は即座に顔をしかめ、「冗談じゃねえ」と吐き捨てるように言った。
新宿から春日部。距離もあるし、何より、知らない女を乗せるという状況そのものが、
誠の神経を逆なでした。
ところが、クラブを出て、路上に停めてあった家のfjクルーザーに乗り込み、
エアコンを入れ、何となくナビの画面を立ち上げてしまった瞬間から、
歯車が噛み合い始める。住所を聞き、指でタップし、地図が引き伸ばされ、
首都高と一般道の選択肢が表示される。その一連の操作の中で、誠の中の拒否感は、
いつの間にか使命感に置き換わっていた。結局、ペルー人の女二人を後部座席に乗せ、
夜の首都高を北へ走った。カーステからは、
まだクラブの余韻のようなサルサが流れていた。
後日、その話を聞いた知り合いの駒込に、
「おめー、野郎のアッシー君もやっているのかよ」と笑われた時、
誠は反論する気にもならなかった。自分でも分かっていたのだ。
自分は、人に頼まれるから動くのではない。システムに触れてしまうから、
動いてしまうのだ、と。
その癖は、家の中でも同じだった。父、母、下の姉と暮らしていた実家で、
最近の話だが、母親から「お歳暮、二十件分、とらやオンラインで送っておいて」
と言われた時も、最初は心底うんざりした。住所録を整理し、商品を選び、
支払いを済ませる。その一つ一つが面倒に思えた。だが、パソコンを立ち上げ、
とらやオンラインのページを開き、myページにログインした途端、
誠の目は変わった。送り先一覧が整然と並び、過去の購入履歴が即座に呼び出され、
同じ操作を反復できる構造が見えた瞬間、胸の奥で、
システムオタクの炎が音を立てて燃え上がった。
気がつけば、二十件分の発送手続きを、一気に終わらせていた。
だが、完全なシステムは存在しない。
送り状に反映されない電話番号という瑕疵にぶつかり、誠は仕方なく、
とらやオンラインのコールセンターに電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、はっきりしたズーズー弁の女の声だった。
丁寧ではあるが、どこか生々しい、人間そのものの対応。
その瞬間、誠は強烈な白けを感じた。
ああ、違う。自分が欲しいのは、こういう声ではない。
感情も訛りも介在しない、無機質で、完結した回路なのだ、と。
電話を切った後、誠は画面に残る注文完了の文字をしばらく見つめていた。
自分は、人に使われているのではない。システムに使われているのだ。
(なんでそうなるんだろう)と自分でも不思議に思った。