#250/1160 ●連載
★タイトル (pot ) 04/04/22 12:16 ( 6)
alive(0) 佐藤水美
★内容
!WARNING! この作品はフィクションです。
本作は、男性同性愛者を題材とする「やおい」「JUNE」「ボーイズ・ラブ」等
と呼ばれるジャンルに属しております。またストーリーの展開上、作中には暴力描
写及び性描写が満載ですので、これらを不快に感じる方や18歳未満の方は、ご覧
にならないようお願い致します。
#251/1160 ●連載 *** コメント #250 ***
★タイトル (pot ) 04/04/22 12:19 (488)
alive(1・2) 佐藤水美
★内容
1
荒れ狂う炎が夜空を焦がしている。
僕の生まれた家が、思い出と共に焼け落ちていく。
壁が、柱が、屋根が、恐ろしい音を立てて崩れる。
叫びたいのに、声が出ない。足がすくんで、動けない。
家は燃え続けている。
どうしても、行くの?
あいつが言う。
行くよ。
僕が答える。
わかった、もう止めない。
青ざめた頬を伝う、ひとすじの涙。
あいつは笑って、首筋にナイフの刃を押し当てる。
やめろ!
白く光る刃が皮膚を切り裂いて……
「わあっ!」
僕は悲鳴を上げて飛び起きた。心臓が、狂ったように速い鼓動を打っている。
夢か……。
額の冷たい汗を拭い、ため息を吐いて再び横になった。
部屋の中はまだ暗い。いったい何時なのだろう。僕は手を伸ばして枕元を探り、
目覚まし時計をつかんだ。すぐにライトをつけ、デジタル表示に目をこらす。
闇の中に、AM4:48という時刻が浮かび上がった。起きるには早すぎる。時
計を元の場所に戻し、僕は真っ暗な天井を眺めた。胸の鼓動は少し落ち着きを取り
戻していたけれど、目を閉じても眠れそうになかった。
久しぶりの悪夢。高校卒業後に伯父夫婦の家を出て、ひとり暮らしを始めた頃、
毎晩のように見ていた馴染みのヤツだ。就職してからはほとんど見なくなったから、
存在すら忘れていたのに、向こうは僕を解放する気は全くないらしい。
しばしベッドで寝返りを打っていたものの、結局僕は起き上がって、部屋の明か
りをつけた。眩しくて、思わず目を細めてしまう。
パジャマの上着のボタンを外しながら、風呂場に行く。熱いシャワーを浴びれば、
気分も良くなるだろう。いや、良くなってくれなければ困る。今日は水曜日、仕事
は忙しく週末も遠い。
僕はガスをつけると、汗で湿ったパジャマと下着を脱ぎ捨てて、洗濯機の中に放
り込んだ。洗面台の鏡に、痩せすぎて貧弱な身体が映る。あいつに抱かれたときの
まま、変わらない体型。視力が低くてぼんやりとしか見えないけれど。
シャワーを浴びて着替えを済ませても、時間はたっぷりあった。メガネをかけ、
冷蔵庫の中を覗き込む。朝食用に買ったサンドイッチには手をつけず、紙パック入
りの野菜ジュースだけを取り出した。食欲は全くない。僕はのろのろとした足取り
で居間に戻り、座椅子に腰を下ろした。ローテーブルの上にあるリモコンに手を伸
ばし、テレビをつける。
ニュース番組にチャンネルを合わせると、こちら側に向かって深々と頭を下げる
男たちの画面が現れた。G銀行破綻、昨夜のトップニュースだ。
「不況だな……」
僕は小さく呟いて、紙パックの穴にストローを通した。ひとくち飲んで、座椅子
の背もたれに寄りかかる。
燃えさかる炎と、青い顔の少年。
あれからもう何年になるのだろう。暗い記憶の波がゆっくりとうねる。アナウン
サーの声が次第に遠ざかっていく。
僕の実家が火事で全焼したのは、中学2年生のときだった。トラッキング現象で
生じた炎は、真冬の乾燥した強風にあおられて大火となり、瞬く間に家全体を飲み
込んだ。
また、出火の時刻が夜中の2時頃だったことも災いした。熟睡していて異変に気
づくのが遅れたからだ。
必ず助けてやる!
力強い父の声を思い出す。父は自分の言葉どおりに僕を助け出してくれた。そし
て取り残された母を救うため、近所の人が止めるのも聞かず、炎の中に飛び込んで
いった。そのときの後ろ姿を、今でも鮮明に覚えている。
ふたりとも無事に戻ってきて欲しい。でも、僕の願いはかなわなかった。父と母
が帰らぬ人となった結果、僕は父の兄つまり伯父に引き取られて……。
もう、やめよう。
僕は短いため息を吐いて立ち上がった。どんなに思い煩っても、過去は変えられ
ない。もう一度画面に目をやり、時刻を確かめる。
5:42、まだ6時前か。
僕は野菜ジュースを一気飲みすると、紙パックを握りつぶしてゴミ箱に捨てた。
そしてクローゼットの扉を開け、仕事用の上着を出す。
家で余計なことを考えて心乱すより、出勤したほうがずっといい。電車は空いて
いるだろうし、前日のケース記録を書くことにもじっくり取り組める。
10分後、僕はアパートの階段を下りていた。2月の風は冷たい。思わず肩をす
くめ、コートのファスナーを胸元まで引き上げた。
2
午前6時56分。僕はM総合病院の職員専用入り口から院内に入った。守衛待機
室の隣で、自分のタイムカードにスタンプを押す。
総合受付にはカーテンが下りていて、広い待合はがらんとしていた。静かな時間
は、あと34分で終わりになる。7時半に正面玄関が開き、8時に受付が始まる頃
にはいつもの喧噪が戻っているはずだ。
渡り廊下を歩いてB棟へ向かう。小児科と眼科の間を通り抜けたところに、『医療
相談室』というプレートを掲げた一室がある。ここが仕事場だ。
僕の肩書きは医療ソーシャルワーカー(MSW)。病院や保健所のような保険医療
施設で、患者やその家族が抱えている様々な問題を、福祉の側面から共に考え解決
をはかる専門家だ。業務内容は、医療費や生活費などの金銭的な問題解決から、退
院後の日常生活の不安に関する相談まで幅広くある。平たく言えば、患者が安心し
て療養に専念し、社会復帰ができるように手助けする仕事だ。
『本日は終了しました』という札を外してドアの鍵を開け、室内に入って電灯を
つける。少し寒かったので、暖房のスイッチを入れた。自分のデスクの上に鞄を置
き、コートを脱ぎながら予定表に目をやる。
今日の面接の予定は、午後2時に1件のみ。昨日のケース記録はなるべく午前中
に終わらせて、面接の後は担当患者の病棟回りに当てよう。電話連絡を入れなけれ
ばならないところもあるし。
でも、予定どおりに過ごせることはめったにない。飛び込みの相談に対応したり、
救急外来から呼び出されたりと、予想外の出来事がしょっちゅう起こるからだ。
M総合病院には、僕のほかにふたりの女性MSWがいる。ひとりは室長でもある
経験15年のベテラン金子さんと、今年の4月に2年目を迎える中里さんだ。僕は
彼女たちに挟まれた中堅どころ、といった感じ。
コートをロッカーにしまい、『医療ソーシャルワーカー 上条幹彦』(かみじょう
みきひこ)と書かれた名札を胸につける。金子さんや中里さんは必ず白衣を着るけ
れど、僕はあまり身につけない。救急外来では着るときもあるが、基本的に白衣の
持つ威圧感が嫌いなのだ。不安を抱えて相談室にやってくる人たちに、心理的な圧
迫を与えたくないと思うのは僕だけだろうか。
相談室は間仕切りによって、面接コーナーと、MSWの事務机やロッカー、パソ
コン、小さいシンクがある場所とに分けられている。本格的な清掃は業者が行うが、
日常のちょっとした掃除は自分たちでやらなければならない。まずは面接コーナー
からだ。ラックにある様々なパンフレットやチラシをそろえて並べ直し、床をモッ
プで拭く。
「えっ? あれっ?」
いきなり人の声が聞こえ、僕は間仕切りから首を出して入り口のほうを見た。後
輩の出勤だ。鍵がかかっていなかったから、とまどったらしい。
「おはよう、中里さん」
「あっ、おはようございます!」
中里さんはちょっとびっくりしたような顔で言うと、ぺこりと頭を下げた。昨日
と髪型が少し違うようだ。
「もしかして、髪切った?」
「わかります? うちの家族ったら、あんまり変わってないって言うんですよ」
「そうかなあ、いいと思うけど」
「ほんとですか?」
中里さんの表情が、ぱっと明るくなった。彼女に暗い顔は似合わない。
「そう言ってくれるのは、上条さんだけです」
急に真顔になって言ったかと思うと、中里さんはつかつかと僕に歩み寄ってモッ
プを取り上げてしまった。
「掃除なら私がやりますから」
午前8時。室長の金子さんが出勤してきた。
相談室が開く8時半には前日の申し送りが済み、僕と中里さんはそれぞれ自分の
ケース記録に取りかかる。金子さんは9時から面接の予約が入っているため、その
準備に余念がない。
「今日は静かな朝ね」
資料に目を落としたまま、金子さんが言う。
「そうですね、このままだとありがたいんですけど」
僕が同意して答えた途端、救急車のサイレンが聞こえた。けたたましい音が次第
に大きくなり、そしてぷつりと切れた。
「あれは……来るわね」
金子さんは低い声で呟き、顔を上げてデスクにある内線電話を見た。彼女がそう
言うと、必ず救急外来からの呼び出しがかかるのだ。
「どうしてわかるんですか?」
中里さんが素朴な疑問を口にする。僕も聞きたい。
「なんて説明したらいいか……要はね、サイレンの音が微妙に違う感じがするの」
「サイレンの音が?」
後輩は納得しかねているようだ。音がどうのというより、経験から来る動物的カ
ンみたいなものじゃないのか。僕は心の中でそう思ったが、何も言わなかった。
「私にはみんな同じ音に聞こえちゃう……」
中里さんが言い終わらないうちに、内線電話の着信音が鳴った。僕はすぐに腕を
伸ばして受話器を取り上げる。
救急外来からだった。ホームレスと思われる男性が搬送されてきたが、意識障害
があり、氏名や生年月日などが不明だという。
金子さんは面接の時間が迫っていたし、中里さんには飛び込みで来る人の対応を
してもらわねばならない。僕はロッカーから白衣を出し、袖を通しながら救急外来
へと急いだ。
搬送された患者はすでに処置室に入っていた。担当看護師が僕を手招きする。
「患者さんの容態はどうですか?」
「良くないわね。大量吐血が原因で出血性ショックが起きてるの。呼吸停止状態で
意識もない。今、向こうで心肺蘇生してるけど、万が一ってこともあるから」
「わかりました。患者が救急車に乗せられた場所はどこですか? それから、身元
を確認できるような物はありますか?」
MSWには、今回のように、外で倒れて意識不明になった患者の情報を得るとい
う仕事もある。正確な氏名と生年月日、住所、保険に加入しているのかいないのか、
勤務先はどこか、親族はいるのかなど、実態を把握しなければならない。
また、患者が無保険で収入がなく、医療費を支払えないようであれば生活保護の
申請をすることもある。保険が使える状態なのかどうかわからないが、このケース
もおそらく、役所へ連絡する必要が出てくるだろう。
「ええと、乗った場所はC区のH公園内ね。彼の持ち物はこれよ」
看護師は眉をひそめて言い、薄汚れたリュックサックとビニール袋に入った衣類
を台の上に置いて、数歩後ずさりした。
ホームレスの人たちの荷物、特に衣類は強烈な悪臭を放つ。僕はディスポーザル
手袋をはめ、覚悟を決めてビニール袋を開けた。
鼻をつく臭いがする。中身はよれよれのジーンズと、黒っぽいシミが点々とつい
ているジャンパー。さっそくポケットの中を探ってみるが、底が破れていたり、糸
くずだけしか入っていなかったりして、手がかりになるような物は何もない。
次にリュックサックのほうを開けると、奇妙なものが出てきた。
「やだ、ぬいぐるみなんて……」
いつの間にかマスクをつけた看護師が、あきれたように呟く。どこにでも売って
いそうな形の、古くて色あせた犬のぬいぐるみだ。大きさは、幼稚園児が持つのに
ちょうどいいぐらいだろうか。ホームレス生活になっても手放さなかったほどだか
ら、よほど愛着のある品なのかもしれない。
僕は中に手を入れて、奥のほうを探った。いくつかの堅いものに触れたので、取
り出してみる。胃腸薬の空き箱、ガスが少し残っている100円ライター、タバコ
の吸い殻2本、財布、そして紙とビニールにくるまれた、ハガキより小さい長方形
の物体。これらの中で一番期待できそうなのは財布だった。
所持金は172円。カード入れの部分ひとつひとつに、指を差し込んでいく。最
後のポケットで確かな感触をつかんだ。中指と人差し指で、それをつまんで引っ張
り出す。
「車の免許証ね、失効してるけど。これで名前がわかるわ。さすが上条さん、ドラ
マに出てくる刑事みたい」
看護師が変なほめ方をする。でも僕は、自分の動揺を押し隠すのに精一杯で、愛
想笑いもできなかった。
免許証にあった名前は相川瞬(あいかわしゅん)。よく知っている生年月日。写
真の顔には、昔の面影がはっきりと残っていた。
「待って下さい。患者は本当に……、この人ですか?」
声がうわずってしまう。僕は写真を指さして看護師に訊いた。
「無精ひげが生えてて、かなり痩せてたけど……。目のあたりとか、鼻のかたちは
そっくりだから間違いないと思う」
返す言葉がない。胸の鼓動が急に早くなった。
瞬、嘘だろ?
「こうやって見てみると、案外いい男ね。でも、それがどうかした?」
「いえ、別に……」
僕は首を横に振り、免許証を財布の中に戻した。瞬じゃないという証拠を見つけ
たくて、長方形の物体を手に取った。
外側のビニール、便せんのように罫線が入っている紙をていねいにはがす。中か
ら出てきたものは、数枚のスナップ写真だった。
1枚目には、見知らぬ男が写っていた。モデルのようなすらりとした身体と華や
かな美貌に、ちょっと感心してしまう。いったい誰なんだろう?
複雑な心境で2枚目の写真を見た瞬間、僕は顔をしかめて目を閉じた。こみ上げ
てくる熱いものをぐっとこらえる。
「どうしたの? 大丈夫? マスクしなかったせいかしら」
看護師がうろたえたように言う。
しっかりしろ、幹彦。
僕は自分自身を叱咤し、ゆっくりと目を開けた。
「ご本人にお会いしてみないと、確実ではありませんが……処置室の患者さん、僕
の従弟(いとこ)かもしれないんです」
「ええーっ!」
看護師の驚く声が室内に響き渡った。
患者は幸いにも、緊急輸血と心肺蘇生で意識を回復したが、その後の消化管内視
鏡検査で胃に穿孔寸前の潰瘍が見つかった。主治医の話では、内視鏡下のエタノー
ル局注療法で止血できたものの、潰瘍が深いため再出血の危険性が高いということ
だった。出血を繰り返すようなら胃切除が適応されるし、病理組織検査でクロと出
れば、さらに厳しい結果を受け入れなければならない。
処置が終わって安静期病棟に運ばれた患者が、本当に相川瞬であるのか確かめる
必要がある。僕は主治医に無理を言って、5分間だけ面会させてもらうことにした。
入り口で専用の内履きに履き替え、備えつけの白衣を着て、手指を消毒してから
中に入る。瞬とおぼしき患者のベッドは、4人部屋の窓側にあった。僕は患者の安
静を妨げないよう、仕切りのカーテンを静かに開けた。
僕が伯父の家を出てから、もう11年経つ。瞬が家を飛び出して音信不通になっ
たのは、9年ぐらい前。父親である伯父が、一昨年くも膜下出血で急死したときも、
居所がまるでつかめず、知らせることができなかった。
どうしてホームレスに? いくら考えても理由はわからない。
酸素マスクをつけ、点滴につながれている痩せた男が瞬だとは、にわかに信じが
たいものがあった。ベッドに近づいて、患者の顔を覗き込む。
肉の削げ落ちた頬と無精ひげ。顔色は、まだあまり良くない。眠っているらしく、
まぶたは閉じられたままだ。14歳の寝顔が、ふいに記憶の底から蘇る。僕はある
ことを確かめようと、微かに震える指先で、患者の病衣の右襟をそっと引いた。細
い首筋があらわになる。
5センチほどの細長い傷跡を発見したとき、僕の胸はズキリと痛んだ。爆発しそ
うな感情をなだめるように、瞬の頭を優しく撫でる。昔もこんなことをしたっけと
思った途端、今度は熱いものがせり上がってきた。
「う……うん……」
くぐもった声がする。瞬は小さなまばたきを数回繰り返した後、ゆっくりと目を
開けた。
「瞬……」
小声で名前を呼ぶのが精一杯だった。僕は言葉を詰まらせ、唇を強く噛んだ。瞬
が上を見つめたまま、再びまばたきをする。その瞳には、気性の激しさを秘めた昔
の輝きは全くない。
瞬! 心の中で叫び、僕は自分の口元に手を当てた。
「……ひ……こ?」
瞬の視線がこちらに向く。僕は黙ってうなずくことしかできない。
「み……き……ひこ?」
僕は答えの代わりに、瞬の点滴されていないほうの手を握りしめた。
「……ほんと? 俺……会えたの?」
「本当だよ。やっと会えたんだ」
ひとすじの涙が、僕の頬を伝い落ちていく。
「やっぱ、俺……死ぬんだ……」
「ば……馬鹿っ、そう簡単に死なせてたまるか」
僕が慌ててそう言うと、瞬は薄く笑った。
「ちゃんと病気治して、元気になろうな」
「……うん」
瞬は小さくうなずき、再び目を閉じた。
僕がいったん相談室に戻ると、『不在です』の札がドアにかけてあった。金子さ
んは面接を終え、中里さんと一緒に病棟回りに出かけたのだろう。
誰もいないのは、かえって好都合だった。鞄からアドレス帳を出し、伯母の家の
電話番号が記載されているページを開く。ちょっと深呼吸してから、外線用の受話
器を取り上げた。
呼び出し音が数回鳴った後、向こう側の受話器を取ったのは伯母本人だった。
「はい、相川でございます」
声がどことなく弱い感じがするのは、気のせいだろうか。
「こんにちは、幹彦です。伯母さん、ご無沙汰しています」
「まあ……幹彦くん。本当に久しぶりね。あの人が亡くなって以来だから、もう2
年ぐらい経つのかしら」
「そのぐらいになるかもしれませんね。ところで、今日電話したのは報告したいこ
とがあって……」
「わかった、あなた結婚するのね? お相手はどんなかた?」
伯母はそう言うと、ほほほと笑った。
「結婚はまだまだですよ、相手もいないんですから。あの……単刀直入に言います、
瞬が見つかりました」
伯母が息を飲んだのがわかる。
「今朝、僕の勤務する病院に救急車で搬送されてきて。胃潰瘍が原因で吐血したん
です。主治医の先生からは、精密検査を受けることと、1ヶ月程度の療養が必要と
言われています。M総合病院の住所と電話番号を教えますから、瞬に会ってくれま
せんか?」
意外にも、受話器の向こう側は沈黙していた。
瞬は3人姉弟の末っ子だ。過去にいろいろあったとはいえ、かわいくないはずは
ない。
「もしもし、伯母さん。僕の声、聞こえてますか?」
「え、ええ……」
「よかった。瞬はきっと伯母さんに会いたがると思うんです。今日明日とは言いま
せん、ご都合がついたらで結構です。見舞いに行ってあげて下さい、お願いします」
「……無理よ」
誰かに聞かれまいとしているような、ささやき声が返ってくる。
瞬は、たったひとりで病気と闘っているというのに!
「無理って、なぜですか? 顔を見に来てくれるだけでいいんです。医療費がご心
配なら、僕が会計課と交渉します」
親族が面会や費用の支払いを拒否するというケースは、特別珍しいものではない。
死亡届の申請さえ渋る人もいるくらいだから。
ただ不思議なのは、伯母が瞬の様子を何ひとつ聞こうとしないことだ。9年も行
方不明だったのだから、どこでどうしていたのか知りたがるのが普通ではないのか。
「瞬はホームレスになっていたんですよ。でもまだ若いですし、身体さえ良くなれ
ば立ち直って自立できると思います。僕はそのための手助けをしていくつもりです
が、瞬には何よりも伯母さんの支えが必要なんです。どうか、瞬に愛情を……」
僕はふいに声を詰まらせた。こみ上げてくる感情を必死で押さえつける。
「あなたたち、ほんとに仲が良かったものね……」
夢でも見ているように、伯母が言う。
僕はメガネを外し、左手で目元を押さえた。胸の奥が締めつけられる。
「瞬に必要なのは……、私じゃないわ」
「伯母さん! そんな……」
「幹彦くん、瞬を頼むわね」
その言葉を最後に、伯母は一方的に電話を切ってしまった。
「なんでこうなるんだよ!」
僕は声を荒げ、受話器を叩きつけた。部屋の中が滲んで見える。
伯母の性格は昔と変わっていなかった。感情が乱されるのを極度に嫌い、ひたす
ら日常生活の平穏だけを願う。自分が好ましいと思うものしか見ようとしないし、
目にも入らない。
瞬は、兄の恭一と違ってエリートコースは歩めなかった。自らの引き起こした暴
行事件によって、有名私立大学の付属高校を退学させられ、そのあげくに家を飛び
出してしまった。道を外れた息子は、伯母にとって「死んでしまった子供」同然な
のかもしれない。
でも、そんなふうに瞬を変えてしまったのは……この僕だ。
昼休みの後、僕は瞬のケースを金子さんに報告した。そして担当になるのと同時
に、彼の保証人になりたいと申し出た。
「従弟さんを助けたいっていう、あなたの気持ちはわかるけどね」
金子さんはそう言うと、僕の顔をじろりと見た。
「両親からの援助はどうなの? 少しは期待できそう?」
「父親は一昨年に亡くなっています。午前中に母親と話しましたが、いい返事はも
らえませんでした」
電話でのやりとりを思い出すと、心が重くなった。瞬は実の母親からも見捨てら
れたのだから。
「兄弟とか姉妹はいる?」
「はい、姉と兄がひとりずつ。姉は結婚してF県に住んでいます。同居中の夫の両
親に介護が必要なので、難しいでしょうね。兄とは昔から折り合いが悪かったし、
僕が説得しても援助してくれるかどうか……」
「私があなたの立場だったら、生活保護の申請をしてるわね。おそらく保険にも入
っていないでしょう?」
「ええ……無資格でした」
「厳しいことを言うようだけれど、あなたが保証人になったら、たぶん彼は自立で
きないと思うわ」
予想外の言葉に、僕は眉をしかめた。
「一度ホームレスになった人間が立ち直るには、周囲からの援助も大切だけど、絶
対に戻らないっていう本人の覚悟と、大変な努力が必要になるの。あなたが保証人
になって何もかもやってあげたら、彼はいつまで経っても自分の立場を自覚できな
いし、甘えてしまうようになるわ。そんなのは本当の自立じゃないでしょ?」
「それはまあ、そうですが……」
「きちんと療養してADL(作者注・日常生活動作のこと)が戻ったら、自分自身
で仕事を探してもらう。これが原則よ。従弟さんはまだ若いし、彼に必要なのはど
ういう援助か、冷静になってよく考えてみることね。それでもあなたが保証人にな
りたいのなら、私は止めないし、止める権利もないわ」
冷静になって、か。金子さんの言うとおり、今の僕は頭に血が上っているのかも
しれない。だけど……。
瞬、僕は君に償いをしたいんだ。
「あの、ちょっといいですか?」
中里さんが間仕切りの後ろから顔を出す。
「上条さん、面接の予約のかたがお見えになってますけど」
もうそんな時間なのかと、壁の時計に目をやる。午後2時5分過ぎだ。
「すみません、すぐにお通しして下さい」
気持ちを切り替えなければ、他の業務に差し支える。瞬の件に気を取られて、相
談者の訴えを聞き漏らしてはならない。
「少しだけ時間をくれませんか?」
ファイルとメモ帳を出しながら、金子さんに声をかける。
「私はかまわないけど、時計の針は待ってくれないわよ」
「わかってます」
僕は用意した物を持って、面接コーナーに入った。
面接を終えると、僕は病棟回りに出た。当初の予定にそった行動だが、先ほどの
相談で、顔を出しておかねばならない病室がひとつ増えてしまった。
今ごろ、瞬はどうしているだろうか。なかなか来ないエレベーターを待ちながら、
やつれ果てた従弟を思う。
本音を言えば、仕事など放り出して瞬のそばにいたい。ひとりぼっちのあいつを
抱きしめてやりたい。それで僕のしたことが許されるはずはないのだけれど。
「上条さん!」
呼び声と共に肩を軽く叩かれ、僕は我に返った。
「あれ? 中里さん……」
「まだ、上がってないと思ったんです。ここのエレベーターって、遅いから」
後輩は走ってきたのか、息を少し弾ませて言う。
「僕に何か用でも?」
「ええ。福祉事務所の室田さんから、電話がありました」
「あ……」やばい、すっかり忘れてた!
「5時まで事務所にいるそうなので、連絡下さいとのことでした。それから、これ」
中里さんは白衣の胸ポケットから、ポケベルを取り出した。見覚えがあるなと思
ったら、僕のものだった。
病院内では携帯電話が使えないため、MSWは全員、緊急連絡用として各自のポ
ケベルを持っているのだ。
「相談室に置きっぱなしでしたよ」
「ありがとう、助かったよ。商売道具を忘れるなんて、呆けてるな」
ポケベルを受け取り、僕は苦笑してごまかした。新人時代にもしなかったミスを
2回続けてするなんて、瞬に気を取られている証拠だ。我ながら不安になってくる。
「あの、いろいろ大変でしたね。室長って、ときどきキツイから……」
金子さんとの話を聞いていたのだろう。中里さんは同情するような目で僕を見た。
「あんまり気にしてないよ。もう慣れてるし、それに言われたこと自体は間違って
いないからね」
エレベーターがようやく到着して扉が開く。看護師や医師、売店に行くらしい入
院患者、見舞客らが次々と降りてくる。
「何かお手伝いできることがあったら、言って下さい」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
僕は少し笑って答えると、空になったエレベーターに乗り込んだ。
病棟回りと電話連絡を終えた時点で、すでに午後4時47分だった。相談室の業
務は、いちおう5時で終了するのだが、時間どおりに終わったことはない。本来の
仕事の他に、雑多な事務をこなしているせいだ。実際に相談室を出られるのは、早
くても午後7時すぎになってしまう。
瞬のいる安静期病棟は、一般病棟と違い面会時間が制限されている。午後3時か
ら3時15分までと、午後5時45分から6時15分までの1日2回だ。
もう一度、瞬の顔を見たい。僕はじりじりする思いを抱いて、パソコンのキーボ
ードを打ち続けていた。
「今日はもういいから、上がんなさい」
金子さんが珍しいことを言う。
「ですが……」
「早くしないと間に合わないわよ」
ありがたかった。僕は金子さんに礼を言い、そそくさと帰り支度をして相談室を
出た。その足ですぐ、安静期病棟に向かう。
昼間と同じ手順を踏んで中に入ると、僕と同じように白衣を着た人が数名いた。
おそらく見舞客だ。患者用の食事を載せたワゴンから、みそ汁の匂いが微かにする。
瞬の部屋でも夕食の時間だった。でも食べているのは他の患者たちで、瞬は点滴
につながれたまま横になっている。大量吐血した後なので絶食中なのだ。
「来たよ、瞬」
僕が声をかけると、瞬は薄く目を開けた。酸素マスクは取れておらず、昼間より
息づかいが荒い。枕も氷枕に変わっている。突然の発熱に、僕は不安になった。む
ろん、そんなことはおくびにも出さなかったけれど。
「相川さん、お熱をはかりますよ。あ、お見舞いご苦労様です」
体温計を持ってきた看護師は、そう言って僕の顔をちらりと見た。
「お世話になってます」
僕は軽く会釈して後ろに下がった。看護師の仕事をじゃましてはいけない。
「あの、いつごろから熱が?」
「午後になってからですね。下がってくれれば、明日にでも一般病棟に移れるんで
すけど。もしかして、お身内のかた?」
「そうです」
「病歴調査をしたいんですけど、わかる範囲で結構ですから答えていただけます
か? 急なお願いで申しわけありません」
「いいですよ」
「よかった、すぐ書類を持ってきますので」
看護師がほっとした表情を見せて、部屋を出ていく。瞬のほうは、脇の下に体温
計をはさんだまま、眠りに落ちたように目を閉じている。
懸命に闘っている病人に、これ以上頑張れとは言えない。僕はただ黙って、子供
のころのように瞬の頭を撫でてやった。額にキスしたい衝動に駆られたけれど、周
囲の目もあるからしなかった。
体温計のアラーム音が鳴る。脇の下から取り出してやり、表示に目を落とす。
「何度……?」
本人も気になるらしい。
「38度だよ」
「やべ……また、上がった……」
瞬はうめくように呟き、苦しそうな呼吸をした。
「辛かったら、我慢しなくていいんだからね」
「……うん」
代われるものなら代わってやりたい。僕はたまらなくなって、瞬の痩せた手を握
りしめた。
「……らかい」
「ん? 何?」
「柔らかい、幹彦の手……」
「そうか?」
「昔と、おんなじ……あったかい……」
薄い胸が大きく動く。
そんなこと、言うなよ。僕の涙腺が緩いの知ってるくせに。
「すみません、お待たせしました」
さっきの看護師が書類を持って現れる。僕は瞬の手を握ったまま、体温計を彼女
に手渡した。
少し上がっちゃいましたねと言いながら、看護師はつないだ手をちらりと見る。
どう思われたってかまうもんか。
病歴調査には、僕の知っている範囲で答えた。本来なら瞬が自分で話すべきなの
だが、本人がこういう状態なので僕が代理を務めたのだ。
瞬は疲れてしまったのか、何も言わずに目を閉じている。家を出てからの9年間
は、どんなふうに過ごしていたのだろう。すごく気になるのだが、今訊くわけには
いかない。
「それから……相川さんの平熱、わかりませんよね?」
「わかりますよ。だいたい35度2分前後です。もともと体温が低いので、高熱に
はとても弱いんですよ」
「よく知ってらっしゃるんですね。私には妹がいますけれど、彼女の平熱なんてわ
かりませんもの」
感心したように言いながら、書類にボールペンを走らせる。僕はただ苦笑するし
かなかった。
「ところで、彼の荷物はどこにあるんでしょうか?」
「荷物? ええと、どこにあったかしら……。ちょっと訊いてきますね」
看護師が行ってしまうと、僕は再び瞬に話しかけた。
「瞬の荷物、僕が引き取るけどいいかな? 置いとくわけにはいかないし」
「……うん」
目を閉じたまま答える。
「服はどうしようか。洗っておく?」
「……捨てて」
「わかった」
瞬の荷物は守衛待機室にあるという。タイムカードのスタンプを押すついでに、
受け取って帰ればいい。
午後6時15分。
僕は瞬の病室を出た。心を半分、残したまま。
to be continued
#252/1160 ●連載 *** コメント #251 ***
★タイトル (pot ) 04/04/22 12:25 ( 71)
alive(3) 佐藤水美
★内容
3
アパートに戻って荷物を置き、僕は近所のコンビニに出かけた。そこで自分の食
料と瞬の日用品を調達して部屋に戻ったときは、すでに午後8時を回っていた。
売れ残っていた弁当を電子レンジで温めている間に、ビール缶のタブを起こす。
忘年会や新年会のシーズン以外はほとんど口にしないけれど、今夜ばかりは飲まず
にいられない。空きっ腹に落ちる液体が、昔の痛みを少しでもやわらげてくれるよ
うにと願ってみる。
結局、弁当はおかずの一部をつまみ代わりに食べただけで、後は残してしまった。
もったいないよなあ、なんて他人ごとのように思いつつ、弱いくせにビールの空き
缶ばかりを増やしていく。
ローテーブルの上に空き缶を4本並べ、5本めのビールを飲みながら、僕は瞬の
リュックサックを手元に引き寄せた。衣類が入っているほうは、臭いが漏れないよ
うゴミ用のビニール袋で二重にくるみ、キッチンに置いてある。
ファスナーを開けて、一番気になる物を取り出す。例のスナップ写真だ。外側の
ビニールと紙をはがす前に、心を落ち着けるべく深呼吸を数回繰り返す。心臓の鼓
動がやけに早く感じるのは、きっとビールのせいだ。
覚悟を決め、外装部分をはがして1枚めの写真を見る。
「瞬、こいつ誰だよぅ?」
写真を持っているくらいだから、特別な関係だったのかもしれない。モデルかタ
レントのような顔立ちをしたこの男が、僕の知らない瞬を知っているのだと思うと、
悔しくてならない。
「くそっ!」
ビールを一気にあおり、缶をテーブルに叩きつける。空き缶は耳障りな音を立て
て転がり、底に残っていた黄色い液体がじゅうたんの上にこぼれた。
「バカヤロウ……」
せめて名前だけでも知りたい。僕は試しに写真を裏返してみた。
「……ん?」
裏側には、文字のようなものがひとつ書かれていた。半ば消えかかっていて、見
えにくい。僕は、焦点が合わなくなりつつある目をこらした。
「希望の望?」
いくら何でも「ボウ」だけじゃ変だ。男の名前だから、「のぞむ」になるのかな。
待てよ、必ずしも名前とは限らないか。
僕はめまいのようなものを感じ、いったん写真から目を離した。座椅子の背もた
れに寄りかかって上を向く。天井がゆっくりと回っていた。
飲み過ぎたな……。
僕は小さなため息をついて、再び写真に目を落とす。次のやつは、見るのも辛い。
肩を組んで写っている、瞬と僕。瞬は真新しい中学の制服を着て、僕は県立高校
の学ラン姿だ。ふたりとも、あきれるほど屈託のない笑顔じゃないか。
これは確か、瞬の入学式の日に伯父の家の庭で撮ったものだ。シャッターを押し
てくれたのは、瞬の姉の冴子だったと思う。まるで本物の兄弟みたいだと言って、
彼女は笑っていた。
この写真を撮ったとき、すでに僕たちは橋を渡りきっていた。セックスがオープ
ンになり、カミングアウトという言葉の意味が知れ渡るようになっても、秘め続け
隠さねばならない関係。
後悔は、していない。
でも僕は、結果として瞬をひどく傷つけた。
彼の人生を破壊するほど。
「瞬……」
目の奥が熱くなった。ここは自分ひとりの部屋だ、遠慮などいらない。でも僕は
そのとき、写真の厚みが不自然なのに気づいた。
「あれ、くっついてるのかな?」
いじっているうちに、写真の角がふたつに割れた。どうやら、裏にもう1枚ある
らしい。画像面を痛めないよう、ゆっくり慎重にはがしていく。
現れたのは、退色しかかった古い写真だった。
「これって、まさか……」
砂だらけの子供がふたり、大きな口を開けて笑っている。彼らの後ろにいて、優
しく微笑んでいるのは……。
「父さん……母さん……」
涙が堰を切って溢れ出す。僕はメガネを外し、震える手で目を覆った。火事と共
に失った思い出のひとつが、今この手の中にある。
瞬は学校が長い休みに入ると、決まって僕の家に泊まりに来た。歳は少し離れて
いたが、なぜか気が合って、兄弟みたいに仲が良かった。
B海岸へ海水浴に行ったのは、瞬が小学1年生で、僕が5年生のときだ。あのと
き泊まった民宿では、ふたりともはしゃぎすぎて父さんに叱られたっけ。母さんは
日焼けしてヒリヒリする背中に、クールローションをたっぷりつけてくれた。
写真ちょうだい。瞬の求めに応じて、これをあげたのは僕だ。毎日が楽しくて、
未来はすべて輝いているのだと信じていた。炎に飲み込まれた、あの夜までは。
僕は写真を握りしめたまま、声を上げて泣いた。
to be continued