#543/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (XMF ) 87/12/ 6 10:44 (130)
メッセージ <暗い話> コスモパンダ(130行)
★内容
メッセージ <暗い話> コスモパンダ
(注)以下の話は小説や作り話ではありません。
「空中分解」にアップする私のタイトルは2種類あります。
【 】で囲まれたメッセージは作品です。架空の物語です。
< >で囲まれたメッセージは実話であり、作り話ではありません。
暗い! ワーン、みんな若いのにどうしてこんな暗い話を書くんだーっ!
と言って、ふと思い出しました。
私も暗いストーリーにどっぷり漬かった時期がありました。
死は永遠であり、愛に支えられた死こそ、もっとも優美である。
などという思想に浸っておりました。
私は十代の頃、漫画を書いていました。しかし、先の思想の為、到底公開できないと
思い、ついに人目にさらしませんでした。
最後に主人公の死。それが頭にいつもあったのです。
今、考えると、どうやら石森章太郎の「サイボーグ009」の第6巻のラストがその
元凶だったようです。
地底世界から宇宙に脱出した宿敵、ブラックゴースト団の魔神像の中に、超能力赤ん
坊の001ことイワンにより、009こと島村ジョーはテレポートで送り込まれます。
ジョーは魔神像の中で死闘を演じ、ついにブラックゴースト団の最高首脳の三人の脳
を倒し、巨大な魔神像を破壊します。
魔神像の破壊は自分の死であるにもかかわらず・・・。
そして、009の安否を気遣って能力の限界ともいうべき宇宙へ飛行して来た002
ことジェットは、爆発した魔神像の破片の中からジョーを救い出します。
しかし、ジェットのサイボーグ足のジェット燃料は残り少なくなっていたのです。
手を放せと叫ぶジョーの身体をジェットはしっかり抱き締めて放しません。
大気圏に突入した二人は大気との摩擦熱で燃え上がります。
「ジョー、君はどこに落ちたい?」
ジェットはそう尋ねますが、ジョーは答えません。
炎に包まれ輝く二人は、流れ星となって地上を光で照らします。
二階の物干し台から空を見ている姉弟。恐らく日本のどこかです。
「流れ星に願い事をすると願いがかなうのよ」と言う姉に、弟は「お姉さんは何を祈っ
たの?」と尋ねます。
「わたし? わたしはね、世界がいつも平和でありますように。世界中の人がいつも幸
せでありますようにって」
これは「あしたのジョー」のラストと並ぶ名シーンです。
この印象は強烈で、その後の私の人生、思想に大きく影響を与えました。
しかし、それは今、考えると一部歪んだ考えでもあったかもしれません。
命を掛けて平和を守る。全ての人の為に身を投げ出す。これは非常に魅力的に思えま
した。
そしてあの三島由紀夫の自衛隊乱入、自決事件です。
日本の為に必死に考え、日本を憂いて命を捨てた彼を人々は不思議な目で見つめ、マ
スコミは狂人三島のレッテルを貼りました。
私は三島由紀夫が好きだった訳でも、彼の考えに引かれていた訳でもありません。
そして右翼でもありません。
しかし、何かが私の中で変化してきました。
高校時代に見た映画「サークルゲーム」はアメリカの学生運動を通してアメリカが抱
えている問題を浮き彫りにしていました。
そして、またまた強烈な印象を与えられました。
当時のアメリカは泥沼のベトナム戦争に参加していました。
学生達はベトナム戦争の無益を訴え、人間の命の尊さを訴え、人が人を殺すことを拒
否しました。しかし、彼らは徴兵されベトナムへと向かったのです。
自由の国、アメリカ。信ずる思想に忠実に生きようとした若者達は刈られ、洗脳され
て兵士としてベトナムに向かったのです。
「サークルゲーム」のラストは大学構内の体育館に立て籠もり、平和を唱える大勢の学
生達を突入した警官隊が蹴散らし、殴り、血だらけになった若者を更に数人の警官達が
殴り、蹴り、引きずっていきます。
気がつくと、学生達自身が体育館の壁に取り付けていたアメリカ合衆国の国旗、星条
旗は体育館の床に落ち、無残にもクシャクシャになり、血と泥に塗れていました。
血と泥のベトナム戦争、それは実はアメリカ自身だったのです。
何を信じて、何を行うべきか・・・。私はその時また変わりました。
そして大学の頃に見た映画「ポセイドン・アドベンチャー」。パニック映画の走りと
でもいうべき映画です。主演はジーン・ハックマン、脇役にアーネスト・ボーグナイン
が出ていました。
大津波の為に転覆する船、その中から脱出しようとする人達。しかし、一人二人と彼
らは消えていきます。
ジーン・ハックマン演じる牧師は、はみ出し者の牧師です。彼は、強靱な精神力と気
力で人々を転覆した船の船底まで連れて行きます。
最後の最後、もう少しという所で熱い蒸気が吹き出すパイプに進路を絶たれます。
が、牧師は決死の思いで蒸気のバルブにぶら下がりながら、バルブを閉めながら叫ぶ
のです。
「神よ! なぜだ。我々はここまでやって来た。だが、仲間は一人二人と死んだ。もう
沢山だ。何もしないなら、もう邪魔しないでくれ!」
彼は神に仕える身でありながら、神を冒涜する言葉を吐き、そして力尽きて火の中に
落ちていったのです。ゆっくりと・・・。
その時、叫んだのは映画の中の仲間達ではなかったのです。
映画館内の観客、男性も女性も確かに叫んだのを私は聞いたような気がします。
その叫びは他を助けるために自分の身を犠牲にした彼の死に対するものではなかった
と思います。
「なぜ? 彼は生きようとしていた。彼は皆を助け、そして自分をも救おうとしようと
したのに・・・。なぜ、彼は死んでしまったのだ。この映画の作者はどうして彼を死に
おいやったのだ。なぜ!」
観客は私を含め、映画の製作者に対して怒りの叫びを発していたのです。
その時、私の中で何かが大きく変わりました。
「人は無駄に死んではならない。何もせずに人は死んではならない。そして、人は自ら
の命を断ってはならない。そして自らが生きる為に他を犠牲にしてはならない」
でも現実はなかなか厳しいものです。
1985年8月12日、あのJAL123便は私の妹を御巣鷹山に送ったのです。
彼女は漫画、イラスト、詩、随筆を書いていました。
そしてもうそれも書けなくなったのです。
私は毎週、大阪と東京を往復する生活を送りました。
新幹線のホームで、そして車内で楽しそうに笑う若い女の子達。妹と同年令か少し若
い彼女らを見ている内に私は妙な考えに囚われるようになりました。
「この連中を皆殺しにすれば、お前の妹を生き返らせてやる」
そんな声が頭の中に聞こえてきました。その度に私は我に返り、そのおぞましさに身
を震わせました。
妹は私より文才も、知識もあり、兄の文章を批評する厳しい目も持っていました。
彼女の生前に、読ませた私の自信作に対して彼女は不思議な批評をしました。
「吉永小百合が真っ白なレースのドレスを着て、ピアノの陰から手を広げて飛び出して
来たような台詞だ」
そう、彼女ははっきりと下手と言ったのです。
そして彼女を見返そうと、一生懸命に書いた作品をついに彼女に読ませることはでき
ませんでした。が、その作品は完成させました。
それから、私は彼女の代わりに今日も書いています。
いつか、彼女に褒められるようになりたいと・・・。
この世で無理なら、転世輪廻を信じ、未来のいずこかの時間、いずこかの空間で彼女
と逢った時に決して馬鹿にされないよう。
そして、明るい作品を、楽しい作品を彼女が目指していたピリッとした作品をできる
だけ多く残したいと思っているのです。
みなさん、暗い話、世紀末的な話はある種の麻疹です。
しかし、現実に遭遇した時、我々は自らの無力さ、自らの小ささを感じざるを得ませ
ん。
悲劇や暗い話、それは私には書けないのです。
なぜなら、私は本物を経験してしまいました。地獄の釜の淵を覗いたのです。
本物以上に書けません。
だから、明るい話、楽しい話、読んだ人が涙を流す程楽しい話。それを目指していま
す。
まだまだ道は遠くにあります。
演劇の世界では、「観客を泣かすのはたいして難しくない。人を笑わす役者程、名役
者」と言われています。
楽しい話、人を笑わす話を、あなたも書いてみませんか?
今日は真面目なコスモパンダでした。