AWC 短編



#1301/1336 短編
★タイトル (AKM     )  01/01/15  01:25  ( 33)
黒船
★内容
 「黒船が攻めてきた。」
 テレビゲームをしていたぼくは、突然の大声に驚いて振りかえっ
た。そこには父さんが立っていた。口をぽかりと開け、視線は中空
を捕らえ、ずり下がったパジャマのズボンからはブリーフの幾分伸
びて波打ったゴムが覗いている。上半身は裸だ。
 ぼくは驚嘆して言葉がでない。
 やがて、父さんの視線は水中に沈んでいく石っころのように漂う
と、ぼくを発見した。
 「ペリー提督がやって来たんだ。母さんはもう帰らない。」
 父さんは危機迫った表情でそう言うと、ぼくの腕を掴み、強引に
立ちあがらせた。父さんは、ぼくの腕を掴んだままずんずん歩きは
じめると、やがてクローゼットの前で止まった。父さんはクローゼ
ットを開いた。父さんは振りかえり、ひとしきりぼくを眺めると、
やにわにぼくをクローゼットに押し込み始めた。ぼくは必死に抵抗
した。クローゼットはぎしぎし悲鳴を上げる。ところが、父さんは
筋肉をどこかに置いてきたかのように無力だった。ぼくは父さんの
肩を軽く一突きした。父さんはもんどりうってばたんと倒れた。父
さんは必死に立ち上がろうとするが、ひっくり返されたカブトムシ
のようにじたばたするばかりだ。父さんは息も絶え絶えようやく立
ちあがった。
 「おまえの気持ちもわかるが、父さんの言うことを聞くんだ。父
さんも母さんのことは残念に思っている。」
 父さんは目に涙を浮かべている。ぼくは思わず哀れみを感じて体
中の筋肉が弛緩した。と、その瞬間父さんは猛然と襲いかかってき
た。ぼくはあっという間にクローゼットに押し込められていた。父
さんはクローゼットを力まかせに閉めた。クローゼットの中は地震
さながらだ。
 ぼくは父さんの卑劣さを心の中で詰った。
 父さんは外で悪態を吐きはじめた。
 「おまえのせいで母さんはいなくなったんだ。」
 父さんは最後にそう言い捨てると、何処かへ走っていった。
 辺りは静まり返った。衣類からは微かに母さんの匂いがした。遠
くで父さんの叫び声が聞える。



#1302/1336 短編
★タイトル (AKM     )  01/01/18  00:20  ( 27)
顛末
★内容
 やあ、みんな。
 今日、ぼくたちは結婚することに決めたよ。
 ぼくたちはがっちりと指と指を絡ませ、水平線から昇る太陽を熱
い眼差しでともに眺めたというわけさ。はっはっ
 ぼくたちは高校生さ。ぼくたちは出会って三日になる。誤解を招
く恐れがあるので少々付け加えるが、ここで言う三日というのは真
の出会いから今日までのことさ。それまで、ぼくたちは、クラスメ
ートとして半年間、同じ教室に机を並べていた。これからぼくたち
の三日間を語ることにしよう。いや、三日間というのも正確でない。
「出会いから結婚を誓うまでの顛末」これを語ることにしよう。 
 三日前、ぼくはその頃【ああ、三日前のことが遥か昔に感じられ
る。】人生の一大痛恨事に見舞われ、その生キズからは、眩しいほ
どの鮮血がとめどなく溢れていた。羞恥、憤怒の情、復讐したくて
も出来ない非力感、復讐へと向かう欲求と渇望、ぼくは亀だった。
二度と手足、頭までも甲羅から突出しないことを神に誓った亀だっ
た。
 【しかし、ぼくはその一大痛恨事について語ることはしないこと
にするよ。もはや、それらのものは、ぼくの表層状では全くぼくと
和解しているからさ。今のぼくにとっては取るに足り無いものとい
うわけさ。】
 万物をギラつかす太陽、アスファルトの温気、草木の気違いじみ
た繁盛、ぼくはそれらのものを全て歓迎していた。その日の夕刻、
ぼくは夕立に見舞われた。その大粒の雨も、ぼくは例に漏れず歓迎
した。ぼくは雨の中を一歩一歩冷静に歩を進めるたびに昂揚してい
った。
               
                         つづく



#1303/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/01/22  20:48  (194)
「おせちはどこに行った」    時 貴斗
★内容
 目が覚めると二十一世紀だった。そう、今日は二〇〇一年一月一日、新しい世
紀の始まりだ。とは言っても、別にどうということもない。生活は何も変わりは
しない。今日は昨日の延長に過ぎない。失望だったら、去年すでに味わった。ミ
レニアムなんて言われて、何かが変わるのかと思ったら別にたいした違いはない。
お祭り騒ぎもなかった。ハレの日は遠い昔の人達のものであり、僕らには世紀の
変わり目なんていうすごい時期でさえ、何の宝物も待っていない。ただケの日常
を繰り返すだけ。
 僕は大あくびをしながらベッドを降りると、窓際に近寄って外の景色をながめ
た。ビルがたくさん建っている。向かいのアパートの壁は薄汚れている。空中を
車が飛んだり、円錐形やドーム型の建物が並んでいたりしない。ボーマン博士が
宇宙の旅をしたりしそうにない。あと五年もすれば宇宙ステーションができるら
しいが、実験や研究用のものに過ぎない。テレビ電話はできたけど、動きがコマ
送りだし、画質も悪い。僕らが子供の頃思い描いた二十一世紀とはかけ離れてい
る。
 ネットワークで全世界がつながったなんて言われているけど、インターネット
は電話料金がかかり過ぎて使いものにならない。
 この十年で飛躍的な進歩を見せたのはテレビゲーム機くらいか。
 バブルがはじけて長い年月がたつが、相変わらず不況、不況と言われている。
今年も日本の雇用率は回復しやしないだろう。
 つまらない。ああ、つまらない!
 僕は机の上の置時計を見た。八時十三分か。昨日は年越しそばを食べて、家族
で「明けましておめでとう」と言いあって、その後少しだけテレビを見ていたが、
二十一世紀の幕開けだというのに芸能人達は例年通りの事しかやらず、あきれ果
てて寝てしまった。
 九時からお決まりの雑煮とおせち料理を食べることになっている。まだ少し時
間があるので僕は再びベッドに上がった。
 どうせみんなでマラソンでも見るのだろう。人が走っているだけの番組の、ど
こが面白いのか。
 冬休みが終われば、また大学だ。面白くもない講義を聞いて、東野や木田と毎
日同じような事をしゃべって、帰ってテレビ見て飯食ってレポート書いて……。
 それが今後ずっと繰り返されるのだ。新しい世紀になったところで、何も変わ
りはしない。
 そんな事を考えているうちに眠ってしまった。


 目が覚めると二十一世紀だった。おや? さっきも同じことを考えたな。僕は
卓上の時計を見た。八時五十分。もう起きなきゃ。
 僕は頭をかきむしり、立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「は?」
 僕は凍りついた。なんだこれは! 外の風景がおかしい。ビル群はなくなり、
銀色の、円錐形やドーム型や、その他もろもろのシュールな形の建物が並んでい
る。ほっぺをつねってみた。痛い。どうやら目は覚めているようだ。
 早くも正月ぼけが始まったのか? 冗談じゃない。まだおとそも飲んでいない
のに。
 突然ドアをノックする音が聞こえ、僕は心臓が口から出そうなほど驚いた。
「卓也、起きてるの? 朝ご飯食べるわよ」母親の声が耳から入り、真っ白にな
った脳に文字となって書かれた。
「ええ? うん。ああ」
 足音が遠ざかっていく。
 そうだ、親に聞いてみるのがいい。いったい何が起こったのか。僕が寝ている
間に、隣りに遊園地でもできたのか? バカな。わずか三十数分の間に?
 すぐに問いただしてみなくてはならない。
 僕は部屋を飛び出し、廊下を走った。ドアを開け、台所に入った途端、唖然と
した。
 父と妹がテレビのマラソンを見ている。問題なのは服装だ。ビニールか皮のよ
うに光っている。妹のはピンク色で、父のは黄色だ。思わず下を向く。僕はその
時になって初めて、自分が光沢のある青い服を着ていることに気づいた。
「おはよう」父がたるんだ声で挨拶した。
「おは、よう」
 僕はロボットになってしまったかのような調子で歩いていき、テーブルの前に
すわった。
「これって、どうなってるの?」僕は父に尋ねた。
「何が?」
「いや、外の景色だよ。どっかのパビリオンか、博覧会みたいになってるでしょ?」
「沢井が追い上げてきたぞ」
 父の目はテレビに釘付けになっている。
「あのさ、聞いてほしいんだけど。ほら、僕らの服も変だろ? なんでこんなの
着てるの?」
「新しいパジャマを買ってほしいのか。そういうことは母さんに言え」
「いや、そうじゃな」
「沢井が抜かしたよ」妹が口をはさんだ。
「いいぞ、沢井」
 ランナーは困ったような、怒ったような顔をしている。
「ほら、昨日までアパートとかマンションが建ってただろ? いつの間に隣りに
あんなの、できたの?」と僕は聞いた。
「何ができたって? 何もできてないだろ」
 どうやら父は、これを普通のこととして受け入れているらしい。なぜだ。
「今日もアパートやマンションは建ってるじゃん」
 妹もだ。
「じゃあ聞くけど、あの筒や円錐がアパートだってのか?」
「お兄ちゃんおかしい。何言ってんのか分からない」
 変なのは僕の方か? どうなっているんだ。壁にかかったカレンダーを見る。
二〇〇一年の一月だ。タイムスリップしたわけではないようだ。すると、僕は異
次元の世界に飛ばされたのか? 他に考えようがない。僕の頭がおかしくなった
のでなければ、の話だが。
 よく見ると、テレビのマラソン中継も変だ。外ではなく、どこかのドームの中
を走っている。
 つやつやした緑色の服を着た母が歩いてきて、ビフテキがのった皿を置いた。
「涼子、料理運ぶの、手伝って」
「はあい」
 フライドポテト、サラダ、ビールといった洋食が、テーブルの上に並べられて
いった。
「あのさ、雑煮は?」僕は母に聞いた。
「あんな古いもの、卓也は食べたいの?」
「父さんが子供の頃、よく食ったな」父はテレビに目を向けたまま言った。
「じゃあ、ひょっとして、おせちも?」
「おせちって、おせち料理のこと?」母は少し怒って言った。「そんなもの、今ど
こにも売ってるわけないじゃないの」
 やっぱり異次元だ、と僕は思った。子供の頃思い描いた二十一世紀に、入りこ
んだのだ。
 僕らはコップを顔の高さに掲げた。母と妹のグラスにはオレンジジュースが、
僕と父のにはビールが入っている。
「明けましておめ」
「ハッピーニューイヤー!」三人は大声で言った。
 僕は琥珀色の液体をのどに流し込んだ。ステーキをナイフで切り、口に入れた
時、はっとした。僕は悟ったのだ。きっと、つまらない、つまらないと念じてい
たから、神様が願いをかなえてくれたのだ。そうに違いない。こうしてはいられ
ない。僕はだんだんうれしくなってきた。
 僕は大急ぎで飯を食い、歯をみがき顔を洗い服を着替え――洋服ダンスにピエ
ロが着るようなものしかなかったので驚いたが――外に飛び出した。
 近未来的なデザインのビル群に向けて、両腕を上げ叫んだ。
「二十一世紀だ!」
 周りの人間が不思議そうな顔で僕を見たが、構わなかった。
「子供の頃夢見た二十一世紀が、やって来たんだ!」


 最初はとまどったものの、僕は徐々に新世界に慣れていった。大学の校舎はソ
フトクリームのような形になり、黒板とチョークはなくなり、代わりに壁一面に
文字や図形が描かれた。教授が棒でつつくと、DNAの構造図が回転しながらの
びていくのだ。
 夢だったのだ。あの薄汚れたビル群や、古びた講堂の方こそ、嘘だったのだ。
あんなものが現代社会であるはずがない。
 二月三日、僕の誕生日がやってきた。
「今日卓也の誕生日ね。何が食べたい?」
 と母から聞かれて、僕は少し迷った。あれから、お米を食べていない。朝昼晩
パンやシチューやサラダが続き、いい加減欧米の食事に飽きてきた。この二十一
世紀では和食がすっかり衰退してしまっているようだ。
「すしが食べたい」
「ええ?」母は目を丸くした。「ぜいたくねえ。でも、まあ、いいわ。なんだかあ
んた、お爺さんになったみたいね」
 米は高級品なのか? でも、僕は久しぶりに日本食を味わいたいのだ。正月に
おせちや雑煮を食べられなかったことに、未だに違和感が残っているのだ。いつ
もはどうでもいいと思っているものも、抜かすと何故か嫌な気分だ。
 その夜食卓に出されたすしを見て、僕は少々落胆した。
「何これ、手で握ったやつじゃないじゃん」
 それは、明らかに機械で成型されたものだった。
「当たり前じゃないの。手で握ったすしなんて、今時あるわけないじゃないの」
「お兄ちゃん、この間から変。すし職人なんて、今いると思う?」妹は眉根を寄
せた。
「お父さんが子供の時はすし屋があったな。回転ずしだったら、昭和の終わり頃
まであったんじゃないか? 卓也が小さい頃、連れていったと思ったぞ」父はト
ロをつかんで醤油をつけた。「きっとその時のこと覚えてるんだな」
 回転ずしには何度も行ったが、言うことはできなかった。
 僕は、猛烈に和食が恋しくなってきた。お茶漬け、梅干、味噌汁、焼き魚、肉
じゃが……。そういったものは、もう食べられないのか? 他の人間はいい。で
も、僕は、去年まで毎日米の飯を食べていたのだ。今までまったく気にしていな
かったのに、いざなくなってみると、なんだかとても大事なものが失われてしま
ったような気がした。


 四月、宇宙船マシューズ号が木星に旅立ち、僕らは父の誕生日を祝った。七月、
アメリカが〇.二七秒前の過去に行くことに成功し、僕らは妹の誕生日を祝った。
十一月、七基めの宇宙ステーションが赤道上で完成し、僕らは母の誕生日を祝っ
た。ペキンダック風のチキン、チーズシガレット、ベイクドポテト、こしょうが
よく効いた、グリルドサーモン……。だがついに、おふくろの味が食卓に並ぶこ
とはなかった。
 大学で、僕は友達以上恋人未満の万理江に言った。
「こんなんでいいのか! 日本文化は、海外文化と融和していくべきじゃないの
か? 歌舞伎はどこにいった。相撲はどこに消えた。餅や、白いご飯はどうなっ
てしまったんだ! 日本古来のものが失われて、みんな何とも思わないのか!」
「結城君、この間からなんか変よ。いつから国粋主義者になったの?」
 僕がわがままなのか? 子供の頃夢見た「二十一世紀」が、やって来たのだ。
それと引き換えに「日本の味」が失われてしまったことくらい、どうだというの
だ。だが、今の僕は、海外に何十年もいて、故郷の味に恋焦がれる人のようだ。
 そして二〇〇二年一月、この世界に来て二度目の正月を迎えた。
 僕はステーキを半分以上残してしまった。
「あら卓也、もういらないの?」
「うん」
 僕はふらりと外に出て、街をさまよい歩いた。一軒一軒、窓から見える食卓の
風景をのぞく。だがどこも同じだ。おせちはいったいどこに行ったのか。答は明
快だ。僕が元いた世界には、今もちゃんとあるのだ。おせちは、次元の向こう側
に行ってしまったのだ。
 遠い昔、おせち料理は人々にとって年に一度食べられるご馳走であったはずだ。
しかし欧米の食文化が広まるにつれてその意味は徐々に失われていった。やがて
スーパーでも買えるようになり、有り難味が薄れてしまった。僕は、そんなおせ
ちなどやめてビフテキやケーキを食わせろよ、と思っていた。
 だが、それが実現すると、無味乾燥なものになってしまうことを思い知った。
 ビフテキだったら、いつでも食べられる。正月に食って何の意味があるという
のか。
 足が棒になるほど歩いて、僕はついにおせち料理を見つけた。
 そこは、アメリカ人かヨーローッパ人か分からないが、外国人のいかにも金持
ちらしい家庭だった。ブラインドの向こうから、甘そうな黒豆や、栗きんとんが
僕の目に飛び込んできた。子供がはしゃいでいる。おとそで顔を真っ赤にした父
親が微笑んでいる。母親が銚子を持って、おしゃくをする。
 伊達巻、お煮しめ、数の子が、重箱の中から僕をさそう。口の中につばがあふ
れる。
 母親が、僕に気づいた。彼女は立ち上がり、鬼のような形相で窓に歩み寄って
きた。
「ノウッ!」
 僕の目の前でブラインドがぴしゃりと閉じられた。


<了>




#1304/1336 短編
★タイトル (XVB     )  01/02/12  00:26  ( 63)
お留守番  $フィン
★内容
まあちゃんは七つ、えっちゃんは四つ、まあちゃんはしっかりものの
お姉さんで、妹のえっちゃんは少し泣き虫です。二人はときどきけん
かもするけれど、とても仲のよい姉妹です。
ある夏の日、お母さんは美容院に出かけることになりました。
「お昼までには帰ってくるね。二人ともよい子でお留守番できるわね?」
まあちゃんは「だいじょうぶ」と言いました。
えっちゃんはちょっと心配そうに「早く帰ってきてね」と言いました。
「それじゃ行ってきますね」と言ってお母さんは出かけていきました。
まあちゃんとえっちゃんは初めのうちは、お人形で仲良く遊んでいま
したが、一時間が過ぎ、二時間が過ぎてもお母さんは帰ってきません。
晴れていた空はどんよりした雲におおわれて、いつの間にか真っ黒に
なってしまいました。
ピューピュー。風が吹いてきました。庭の木がゴウゴウとゆれていま
す。あたりは一瞬ピカッと光りました。そのとたんドーンというもの
すごい音が聞こえてきました。
「いやだ。こわい」
「だいじょうぶ。おへそをかくしておけば、かみなりさまは来ないか
ら」まるでお母さんがするように、えっちゃんの小さなおなかをポン
ッと軽くたたいて、まあちゃんは言いました。
でも、あらしとかみなりはやみません。それどころかどんどんひどく
なります。
ピカッ、ドーン、ガラガラ、大風が吹いて大雨が降って、今まで見た
こともないようなものすごいかみなりがひっきりなしに落ちてきます。
えっちゃんはかみなりが鳴ってこわいのと、お母さんがいないさびし
さでとうとう泣き出してしまいました。
「こまったなぁ。えっちゃんを泣きやますためには、いったいどうし
たらいいのかしら?」まあちゃんは自分も泣き出したいのをこらえて
必死に考えました。
「そうだ! おいで、えっちゃん」まあちゃんはえっちゃんを連れて
台所へ行きました。
「見ていてごらん。今いいものを作ってあげるから」そう言うとまあ
ちゃんは流し台のじゃ口をひねり、勢いよく流れ出た水で手を洗いま
した。それからおひつのふたをとると、塩をひとつかみ手のひらにの
せ、もう一方の手でしゃもじにごはんをよそいました。
そうです。まあちゃんは妹のためにおにぎりを作ろうとしているので
す。
でもまあちゃんの手はお母さんの手のように大きくなかったので、ご
はんは床にボロボロこぼれています。それでもまあちゃんは一生懸命
です。ごはんを何度も何度もしゃもじでよそって、大きな大きなおに
ぎりを二つ作りました。
「いただきまーす」まあちゃんはそう言うと、大きな口を開けて大き
な大きなまんまるいおにぎりをパクリとほおばりました。
「いただきます」えっちゃんも小さな口を開けて大きな大きなまんま
るいおにぎりをパクリとほうばりました。
「あんまりおいしくない」
「文句を言わない」
まあちゃんにとっては初めて作ったおにぎりでしたから、お母さんが
作るようなおいしいものとはいえませんでした。それでもまあちゃん
とえっちゃんはおにぎりを全部食べました。おなかがいっぱいになり
ました。
そうしているうちに、いつの間にか雨はやみ、かみなりはどこかに行
ってしまいました。お日さまがでてきたころにお母さんは帰ってきま
した。
突然かみなりが鳴り始めたので、心配していたお母さんは、二人の話
を聞いてびっくりしました。
「まあ? まあちゃんがお昼をこさえたんだって?」お母さんは台所
へ行ってみました。床は水でビショビショ、テーブルは塩とごはん粒
でベトベトです。でもお母さんは小さく笑って、台所を汚したまあち
ゃんをしかりませんでした。
「あの子がねぇ・・・」
まあちゃんとえっちゃんは、お母さんからお留守番をしたごほうびに
おもちゃをもらいました。けれども本当にうれしかったのは、お母さ
んが帰ってきたことだったのです。



#1307/1336 短編
★タイトル (WCM     )  01/02/19  01:36  ( 99)
どうして犬は   多田秀介
★内容
オフィスの昼休み。わたしは屋上にあがって、朝のうちに買っておいた
パンをかじっていた。このところの異常気象のため、日差しはなんとも暖
かく、風も気持ちがいい。こんな日は、この時間を屋上で過ごす人間も多
い。
 ワイシャツ姿の男が二人、ベンチに座っている。わたしの耳に、彼らの
会話が聞こえてくる。
「…………ねえ、実はちょっとした気味の悪い話があるんだが、聞いてく
れないか」
「気味の悪い話?」
「うん…………きみは、どうして犬は人間の数万倍も鼻が利くのか知って
るかい?」
「さあ」
「答えは単純なんだ…………でもその答えを言う前に、僕の話を聞いてく
れ」
「なんなんだ、いったい?」
「きみは、僕が毎朝山手線で通勤しているのを知ってるよね?」
「うん」
「つい最近、韓国で航空機が墜落したのも知ってるよね?」
「当然さ」
「よし、それなら僕の話もわかりやすいだろう」
 これはこれは、非常に興味深い会話ではないか。わたしは彼らのほうへ
耳を向けた。
 男は続けた。
「…………実は、僕が毎朝通勤に使っている山手線の車両に、きまって乗
り合わせるサングラスの女がいるんだ。僕の話というのはその女のことな
んだが、その女は色白で、つやつやした長い髪を顔の両側に垂らしている
。服装も趣味がいい。そして、いつも大きめの真っ黒なサングラスをかけ
ているんだ。彼女は車両に乗り込むと、必ずドアに張りつくようにして立
つんだが、電車が動きはじめ、ホームを出ると、おもむろにサングラスを
外すんだ。もっとも僕には彼女の後姿しか見えていないから、サングラス
を外すような仕種をするとしか言えないがね。彼女は電車が動いているあ
いだ、じっと窓の外を見ているんだ」
「ふんふん」
「そしてね…………彼女は時折、小さく笑うんだよ。彼女がいったい何を
見て笑っているのか、僕は以前から気になっていた。だからこのあいだ僕
は、彼女のすぐ後ろに立って、彼女と同じように窓の外をのぞいてみたん
だ。ところがね、彼女が窓の外を見て笑うとき、どこを見ても、笑うよう
なものは何もないんだよ」
「確かに気味が悪いね」
「いや、まだ続きがあるんだ。彼女はそうやって電車の動いているあいだ
じゅう、窓の外を見ているんだが、やがて電車が次の駅に差しかかると、
またサングラスをかけるんだ。まるでホームに立つ人たちに、自分の顔を
見られたくないようにね。そして再び電車がホームを出ると、また同じよ
うにサングラスを外す。それを繰り返しているんだ」
「顔に自信がないんじゃないのか? その女は窓の外を見るのが趣味だけ
ど、自分の顔に自信がないから、人にあまり顔を見られたくないとか……
……」
「僕もはじめのうちは、そんなふうに考えていたよ。両側の長い髪も、
ちょうどまわりの人間から彼女の顔が見えないようにうまいこと垂れてい
るしね。でも、彼女はいったい何を見て笑っているんだろう? 僕にはそ
れがわからなかった。頭のおかしな女でもなさそうだしね。ところがつい
最近、その秘密がわかったんだ」
「ほう?」
「…………きみも覚えていると言ったけど、この前、韓国で航空機が墜落
したよね? ちょうど僕が電車に乗っている時間に」
「ああ、朝早くだったね」
「あの朝、僕はやっぱり彼女のすぐ後ろに立っていたんだ。彼女はいつも
のように、大きなサングラスを外して、窓の外を見ていた。すると彼女の
口から、『あっ』という小さな声が聞こえたんだ。僕は彼女の顔が向いて
いるほうをながめてみたけど、そこには別に何も見えなかった。彼女はそ
のあとで、『落ちる…………』とつぶやいた。僕には何のことやらさっぱ
りわからなかったよ。ところが会社に着いてみると…………テレビの速報
を見た誰かが、航空機の墜落の話をしていた。詳しく聞いてみれば、墜落
した時間というのが、まさに僕が電車に乗っていた時間じゃないか」
「あははは…………それじゃあなにかい、きみは、その女がそれを見たっ
て言うのか?」
「そうさ」
「おいおい、山手線の線路から韓国まで、いったい何百キロあると思って
るんだい?」
「しかし、そう考えると納得がいくじゃないか。彼女は韓国で航空機が落
ちるのをその目で見たんだ。いつものように、何か面白いものを探して窓
の外を見ているときに」
「本気で言ってるのかい?」
「僕も今朝までは、冗談半分だったよ」
「と、いうと?」
「…………今朝僕は…………彼女の顔を見たんだ。電車の揺れによろけた
ふりをしてね…………顔を見られた彼女は、そそくさと次の駅で降りて
いってしまったよ」
「…………ほう…………」
「…………きみは僕の最初の質問を覚えてる?」
「『どうして犬は人間の数万倍も鼻が利くのか』、だろ?」
「うん…………もう一度聞くけど、どうしてだと思う?」
「…………さあ…………」
「答えは単純なんだ…………答えはその顔のつくりにある…………」
「…………ふむ…………」
「犬はね、顔の半分が鼻なんだよ…………」
「…………」
 
 わたしは手に持ったパンの最後のひと切れを口に放り込んだ。わたしの
心に、なにやら幸せのようなものが、微かに膨らみつつあった。
 日差しも暖かく、気持のいい日だ。わたしはううんと伸びをした。
 向かいのビルの屋上にいたさきほどの二人の男たちは、やがてどこかへ
行ってしまった。
 わたしのすぐ後ろのドアを開けて、誰かが出てきた。今年入社した新入
社員だ。彼はわたしに気がつくと怯えたように、。…………こんにちは…
………」と言い、おかしなつくり笑いを残して、そそくさと立ち去った。
最後にわたしの耳をもう一度ちらりと見た。
 しかし、わたしと同じような境遇の女性がいたとは。
 山手線か。思い切って声をかけてみようか。



#1308/1336 短編    *** コメント #1307 ***
★タイトル (WCM     )  01/02/19  01:47  (  2)
Re: どうして犬は   多田秀介
★内容
WCM27681さんは2001年02月19日 01:36にいいました。
あれ?



#1309/1336 短編
★タイトル (EJM     )  01/02/26  07:33  (179)
お題>すべてを得る者       青木無常
★内容
――唯一なるラウナルディアのこと――
 ラウナルディアは群神であった。夢をつかさどる神マウイヴェラティ・アウリエ
の紡ぐ無数の夢を背に、風の神イア・イア・トオラの放つ四つの風獣に乗って夜毎
バレエスのあらゆる場所へと舞い散っていく夢の運び手であった。
 そのころ世界は、名をとなえてはならぬ大いなる神の無垢なる暴乱により、死と
絶望の蔓延する廃墟となりかけていた。地には絶えず嵐が吹き荒れ緑は根こそぎ倒
れ伏し、花々は実を結ぶことなく立ち枯れて獣どもは餓えと嘆きにうめき歩き、そ
してひとびとは血を流しながらそれでも苦痛にみちた生を生きのびていた。夢は悪
夢だった。わずかに幸せなまぼろしがひとびとの夜をかすめることもあったが、そ
れはやがてくる絶望の朝への前奏に過ぎなかった。
 ある夜、いつものようにラウナルディアの一匹が風に乗ってただよいながら今宵
の夢の降り溶ける場を求めていると、ひとりの乙女が洞窟の奥でか弱い寝息を立て
ているのに出会った。夢の運び手は舞い降りる。
 乙女の身は暴虐の嵐にさらされて灼けただれ腐りかけていたが、その魂は美しか
った。神属なるラウナルディアには、骨すらのぞくおぞましき醜貌など意味をなさ
ず、ただただその魂の気高さに感嘆の念を覚えるばかり。
 乙女の寝息は絶えず襲う苦痛にいろどられて重く切なげだった。悪夢をたずさえ
てきたラウナルディアは風の精に頼んでべつの場所へと飛び去り、乙女は一夜、夢
のない眠りを過ごした。
 あくる夜、かのラウナルディアはおのれの主神(あるじ)たるマウイヴェラティ・
アウリエのみもとにかしずき、願いをのべた。
「わが主神たるウル・マウイヴェラティ・アウリエよ、わが見初めし乙女の、苦痛
にみちた眠りを安らげるための慈愛と歓喜にあふれし夢をわれに与えたまえ」
 マウイヴェラティ・アウリエは己が陪神のささやかで切実なる願いにうたれたが、
夢神自身にも己が夢の制御をすることはできなかった。なぜなら、夢神のみる夢は
世界のみる夢の鏡像に過ぎず、世界に苦難と絶望のみちた今、そこによい夢のまぎ
れる余地などほとんど存在しなかったからであった。
 それでもマウイヴェラティ・アウリエは陪神に告げた。
「わがしもべなる小さき神よ。わが眠りよりかぼそき翼もて立ちのぼる無量の夢を
ことごとくながめるがよい。そなたは力よわき神なれど、心よりの望みもてながむ
れば、夢の色を見ることあたわぬとも限らぬかもしれぬ。悪い夢は苛烈なる赤や底
知れぬ黒、またもの憂き紫などにいろどられ、不安と不快にゆらめきながら舞い上
がる。そしていまや届き難きよき夢は、無垢の白に近き色や光を発していよう。そ
の色を見ることあたわば、そなたは慈悲と歓喜にみちみちた夢を、くだんの乙女の
もとへと運ぶこともできるやもしれぬゆえ」
 そして夢神は今宵の夢を紡ぐため、みずからも深き眠りの底へと沈みこんでいっ
た。
 世界をうつすかぐろき夢に眠る神はうなされ、そのうめき声は不安と化してつぎ
つぎに天空へと立ちのぼっていった。無量のラウナルディアがそれらの夢を背負っ
て風の精の翼に乗り、世界へと散らばっていくなか、かのラウナルディアは一心不
乱に舞い上がる夢どもをながめやったが、その色を見ることはどうしてもできなか
った。
 しかたなしに最後の夢を背負ってラウナルディアは地へと降りくだった。夢は悪
夢だった。乙女のもとへは訪れなかった。
 翌日もその翌日も、かのラウナルディアはマウイヴェラティ・アウリエのかたわ
らにあって一心不乱に夢たちをながめやっていたが、夢の色を見ることはどうして
もできなかった。
 いつしかラウナルディアは夢を運ぶのをやめて空身のまま乙女のもとをおとずれ、
そこにほかのラウナルディアが降りくだらぬよう一晩中うずくまって見張るように
なった。眠る乙女の魂はあいかわらず美しいままだったが、そのいのちの炎は日に
日にやせ衰え、やがて死に至るのは明白となった。
 ラウナルディアは哀しみ嘆いたがなすすべもなく、ただ乙女の衰亡していく姿を
ながめやるしかできなかった。
 やがてかのラウナルディアも、希薄になりはじめた。ラウナルディアも神のはし
くれである以上、死のあぎとからは遙かに遠かったが、夢を運ばぬ運び手は死なぬ
かわりに存在が限りなく薄く儚くなっていき、やがては風に舞う塵やほこりと変わ
らぬ、とるにたらぬものと変じてしまう。乙女の衰弱に足なみをそろえるようにし
てかのラウナルディアはゆっくりと消失していき、主神たるマウイヴェラティ・ア
ウリエは嘆き哀しんで夢を運ぶよう懇願したがそれが受け入れられるときはついに
なかった。かのラウナルディアはただ哀しげな目をして、夢の色を見ることができ
ませぬとつぶやくばかりだった。
 困り果てたマウイヴェラティ・アウリエは己が主神たる憐憫の神ユール・イーリ
アのもとを訪れた。ことの次第を語ってきかせ、何か手だてはないかと主神にすが
ったのだが、憐憫の神にもよい智慧はなかった。
 ユール・イーリアは地の底に降って智慧の神イムレスのもとを訪れた。地上の絶
望ににおし流されたあらゆる汚物が沈殿する、世界のもっとも低き場所にまします
智の神のみまえにひざをつき、ユール・イーリアは問いを発したが、かつての智の
神はおそるべき魔神の毒牙にかかってその英知を喪失し、ただ痴呆の笑いを発して
意味のないつぶやきを虚空に吐き出すだけの存在となり果てていた。
 しかたなしにユール・イーリアは東の果てへと飛び来たり、その地にふるくから
横たわるエジェなる名の土着神を求めた。エジェは“ふるき智のエジェ”なるふた
つ名をもつ土地神であった。その知識はかつてのイムレスには及ばぬものの、ヴァ
イル十二神が降る前のバレエスでは、深い英知を誇るものとして崇敬された存在で
あった。
 ふるき智のエジェは大地に四肢を投げだして物憂げに横たわっていた。その前に
頭(こうべ)をたれてユール・イーリアは、力よわき小さき神が夢の色を見られるよ
うになるにはどうすればよいかと問うた。
 ふるき神は大儀そうに片眉をあげて憐憫の神をながめあげたが、けだるい口調で
短くこたえた。
「大いなる力を得ればよかろう」
 ユール・イーリアはさらに問うた。
「大いなる力を得るには如何にすべきか」
「大いなる力もつ者の心臓を得ればよかろう」
 物憂げにエジェはこたえた。ユール・イーリアはさらに問う。
「大いなる力もつ者はどこにいるのか」
 するとエジェは蔑むように声を立てて笑いながら、わずかにその顎を浮かせ、い
った。
「この世界を滅ぼしたものこそ大いなる力もつ者にほかなるまいが。名をとなえて
はならぬ暗黒神のみもとを訪うて、その心臓を手にすればよかろうが」
 そしてふるき神はまた組んだ手の上に顎をもたせかけ、不満げな吐息とともに物
憂い眠りへ沈んでいった。
 かぐろき絶望の重荷を背負いユール・イーリアは己が宮へと戻り、陪神にことの
次第を語ってきかせた。夢の神マウイヴェラティ・アウリエもまた困惑に眉をよせ
つつ、哀しげな目をして夢が立ちのぼるのを待つ、かのラウナルディアにふるき神
の託宣を伝えた。
 ラウナルディアは風の精の翼に乗って暗黒の山々をこえ、凍てつく氷海の彼方に
どすぐろく浮かぶ暗黒の島の“人間の洞窟”をくぐって、名をとなえてはならぬ神
の眠る神殿を訪うた。
 破滅をふりまいた暗黒神は、夜の女神レレバ・セレセのひざに憩い目覚めるよう
すもなかったので、小さき神は夜の女神に呼びかけた。
「われは夢の色みる力得るため、名をとなえてはならぬ神の心臓をもらい受けにま
いりました。どうぞわれに慈悲をたまわり、大いなる神の心臓を与えたまえ」
 暗黒のとばりにおおわれた夜の女王は静かに小さき神をながめおろしたまま、な
がいあいだ言葉を発することなく過ごしていたが、やがて問うた。
「なにゆえにわが良神の心臓を求めるのか」
 ラウナルディアがことの次第を語ってきかせると、夜の女神はおかしげに笑った。
「そなたの想い人はひとであろう。ひとであれば、どれほど美しかろうと神の美し
さに比すべくもあるまいに。なにゆえそのように執心するのか」
「わが見初めし乙女の魂のうるわしさ、気高さは、神々のそれに勝るとも劣りませ
ぬ」
 小さき神がこたえると、夜の女王はまたながい黙考に沈みこんだ。
 が、やがていった。
「ではわれの顔(かんばせ)をながむるがよい。ひとの娘とわれと、その美しさをひ
き比べ、もしそなたがわれよりひとの娘がより美しいと感じたならば、わが良神の
心の臓をそなたに与えることとしよう。大いなる神の心の臓を手にすれば、そなた
は世のあらゆる事象を思うがままにすることができよう。なれば、夢の色をみるこ
となど、息をするよりたやすいわざ」
 女神の申し出に、小さき神は瞬時、怖じけたが、苦しみに沈む乙女の魂の輝きを
思い出して勇み、肯んじた。
「では帳をこえてわがもとに来るがよい」
 女神の言葉にうながされ、かのラウナルディアは暗黒の帳をくぐって歩を進め、
おそるべき暗黒神をそのひざに横たえさせた夜の女王に向けておもてをあげた。
 だが魂をみるラウナルディアの目には、女神の美しき容貌は映らなかった。
 ただ底なしの暗黒のみが、その目に像を結ぶすべてであった。
 あなたさまの顔をながめることができませぬ、と小さき神は告げようとしたが、
それでは乙女の魂を救うことができぬと思い直し、こういった。
「わが乙女の美しさにかなう美は、このバレエスには存在しませぬ」
 深々と頭をたれる小さき神を、ながい、ながいあいだ、夜の女神は無言で見おろ
していた。
 が、やがていった。
「では大いなる暗黒の神の心の臓、その手にたずさえ想い人のもとを訪れるがよい。
今日よりそなたは、アシュヴィヴァスと名乗ることとなろう」
 謎めいた言葉を期に、額をすりつけるラウナルディアの眼前に、脈うつ暗黒が投
げだされた。
 大いなる神の心臓を手にするや、小さき神の身内にあふれんばかりの力がみなぎ
りはじめる。おどろいてラウナルディアは心臓を放りだそうとしたが、脈うつ暗黒
は手のひらに融合して離すことあたわず、しかたなしに小さき神は風の精を呼ぶた
め立ちあがった。
 すると瞬時に、天へと飛び立っていた。
 世界を遙かに見おろす頂にいる己を見出し、小さき神は驚愕に打たれたが、それ
が心臓を手にした己の新たなる力であると得心し、喜びいさんでユール・イーリア
の憐憫の宮へと飛び帰る。
 眠る夢神の背後より立ちのぼるゆらめきを目にしたとたん、かのラウナルディア
はかげろうのごとき無量の夢のひとつひとつにとりどりの色を見とめて驚喜の舞を
踊り、それから注意深く選別にかかった。
 悪夢の色が無数に乱舞するなか、こころよき夢の姿など数えるほどもなかったが
、大いなる力を得たラウナルディアには真白き輝きを放つとびきりの良夢をすぐに
見つけることができた。
 かのラウナルディアはその夢をわしづかんで一足飛びに乙女のもとを訪れた。
 だが乙女の息はまさに絶えるところだった。与えようとした夢はかすみとなって
消え失せ、乙女の魂を狩ろうと待ちかまえていた死神の二匹の猟犬が、そのおそる
べきあぎとをひらく。
 かのラウナルディアは怒りの咆吼とともに猟犬どもを切り裂き、乙女の復活を願
った。と、大いなる神の力が発現し、またたくまに乙女は生き返った。のみならず、
生前のもっともうるわしき姿でさえ遙かに及ばぬほどの、輝かしき美の顕現となっ
てかの神の前にたたずんだ。
 己が復活と、それにも増して己がみめのあまりの変わりようとに、乙女はとまど
い戦(おのの)いたが、それが大いなる神の恩恵によるものだと知ると、畏れはにわ
かに歓喜へとかわり、さらには増大する欲望へと変形(へんぎょう)する。
 富貴、若さ、永遠の命、あらゆる美と快楽の蒐集と、かつて乙女であったものの
欲求はとどまることを知らず、そのひとつひとつを叶えていきながらラウナルディ
アは可憐だった魂がまたたくまにどすぐろく薄汚れていくさまを呆然とながめやる
しかできなかった。
 肥大した欲望にふさわしく、その魂もたるみ歪んだ肉塊のごとき醜貌を呈するに
至って、ついにかの神の想いも破れはち切れ、かつて切望した魂の消失を願う。
 乙女だったものの魂は虚空へと飛び去り、欲望だけをたぎらせた魂のない肉塊が
あくことなき貪婪(どんらん)の地獄へとのみこまれるのを尻目に、ラウナルディア
・アシュヴィヴァスは地に腰を落として頬杖をついた。
 いまや大いなる力を得てあらゆる事象を望むままにできるようになった唯一なる
ラウナルディアは、だが一切の希望を喪失してもの想わぬ彫像と化す。あふれでる
力は一帯を花畑にいろどり、抑えるあたわぬ生命力がほとばしって傷つき倦んだ世
界にふりそそいだ。
 大いなる暗黒神の暴虐のもと破滅に瀕したバレエスは、こうして新たな力を得て
滅亡の手前に踏みとどまり、死を待つばかりだったあらゆる神々、あらゆるひとび
と、あらゆる生命にかりそめの猶予をもたらしたのだという。
 そして、もの想わぬ彫像と化したラウナルディア・アシュヴィヴァスは、いまも
世界のどこかにあるいちめんの花畑に座し、沈黙の視線を虚空に投げかけているの
だという。
           すべてを得る者−唯一なるラウナルディアのこと――了



#1310/1336 短編
★タイトル (GVB     )  01/03/04  12:46  ( 48)
大型生活小説  「排水管にあこがれて」  佐野祭
★内容
 梅田さんご一家はどこにでもある普通のご家庭です。
 3LDKの賃貸マンションにご主人と奥さん、小学生の長女と幼稚園の長男の
四人暮らし。いつも笑い声が絶えない梅田さんご一家です。
 そんな梅田さんちには、排水管を見張っている人がいます。
 松本喜三郎さん27歳。松本さんはここで、排水管がつまっていないかどうか
常に目を光らせています。
「もしもし松本です。梅田さん宅で洗面所の排水管がつまった模様です。至急対
応願います」
 さっそく作業員がかけつけ、排水管の掃除が始まりました。
 作業すること30分。排水管はすっかりきれいになりました。
 奥さんの手児奈さんも大喜びです。
「ほんと助かってます。もし見張る人がいなくて排水管が詰まったらと思うと、
ぞっとしますね」
 今日も松本さんは排水管を見張ります。そんな松本さんの夢は、台所の排水管
の担当になることです。
「やはり台所の排水管が一番詰まりやすいんで、経験が必要なんですよ」
 いま梅田さんちの台所では、松本さんの先輩が排水管を見張っています。松本
さんは台所の排水管を見張る資格を取るべく、休みの日も遅くまで勉強していま
す。
 松本さんは排水管の担当になる前は、蛍光灯の見張りをやっていました。蛍光
灯が切れそうになっていないかどうか、常に目を光らせているのです。
 いまでも梅田さんちでは、松本さんの後輩たちが各部屋三人ずつ配置されてい
ます。上の輪を見張る係。下の輪を見張る係。そして、豆球を見張る係です。
「やっぱ将来はね、松本さんみたいに排水管の見張りをやりたいですよね」
 排水管を見張るのは厳しい社内審査を通った人でないとできません。若者たち
は今日も排水管を見張る日を夢見て蛍光灯を見張り続けます。
 松本さんの上司にあたる杉野森さんは松本さんについてこう語っています。
「とにかく真面目にこつこつやってますね。将来はドアが半開きになっていない
か見張る係を任せてもよいのではないかと思ってます」
 そう語る杉野森さんは、いま梅田さんちでブレーカーの見張りをやってます。
 今日も奥さんの手児奈さんがうっかり電子レンジを使いながら掃除機をかけて
しまいました。
「落ちました」
 さっそく作業員の人が飛んできてブレーカーを元に戻します。
 そんな梅田家に、新人が配属になりました。
 新人がまず最初にやる仕事は、ベランダですずめが来ないか見張る係です。
 来ました。すずめが三羽、梅田さんちのベランダで遊んでいます。
 新人さんはさっそく梅田さんに連絡を取ります。
「あもしもし、今すずめが三羽ベランダに来ているのですがどうしましょうか」
「そのままで結構です」
「了解しました」
 梅田さんの判断で、すずめを追い払うことはしないことになりました。
 松本さんはそんな新人の姿を頼もしそうに見つめています。
「私も新人のときはまずすずめの見張りから始めました。当時はそうですねえ、
自分が排水管の見張りをやる日ってのは、ちょっと想像できませんでしたね」
 梅田さんちの快適な生活は、数多くの人々によって支えられています。

                                [完]



#1311/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/03/05  22:41  (110)
「階段」    時 貴斗
★内容
 私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、
分かりきっていた。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選
択肢はない。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったよ
うに、同じ事をやっている。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズ
ムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられてい
るのだろうか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱
い光が、私の不安を増強する。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、
人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎ
ないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓があ
る。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。
どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速
にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどう
せよと言うのか。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を
見るような格好に描かれている。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのも
のではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭を
なでながら女の肖像画を見下ろしている。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、
慎重に歩いていく。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいない
ことだけは覚えている。理由は分からない。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。
まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感
覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構
造としてはやや奇異な感じを受ける。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているよう
な彫刻がほどこされている。
 私は部屋に入った。中は真っ暗だ。勘を頼りにしてさまよう。ふいに、
「ふふふ」という少女の笑い声が聞こえた。もう何度も聞いているのに、
慣れることはなく、体が寒くなって鳥肌が立つ。明かりのスイッチを見
つけることさえできれば、とは思うのだが、何度来てもどこにあるのか
分からない。あるいは、そんなものはないのかもしれない。ふいに、部
屋の闇が黒さを増した。カーテンの向こうからさし込む月明かりさえ見
えない、真の暗黒だ。それとは逆に、頭の中が突然真っ白になる。ぼん
やりする。記憶があいまいになっていくような気がする。完全に消去さ
れるのではなく、半端な形で残される、そんな感じだ。外部の闇と内部
の白の矛盾する光景の中、もう一度不気味な笑い声が聞こえ、それだけ
は強く印象づけられる。私は耐えきれなくなり、部屋から飛び出し、ド
アを閉じた。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているよう
な彫刻がほどこされている。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。
まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感
覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構
造としてはやや奇異な感じを受ける。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいない
ことだけは覚えている。理由は分からない。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、
慎重に歩いていく。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭を
なでながら女の肖像画を見下ろしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのも
のではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を
見るような格好に描かれている。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどう
せよと言うのか。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓があ
る。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。
どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速
にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎ
ないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、
人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱
い光が、私の不安を増強する。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられてい
るのだろうか。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズ
ムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったよ
うに、同じ事をやっている。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選
択肢はない。
 私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、
分かりきっていた。

<了>



#1312/1336 短編
★タイトル (BRM     )  01/03/21  14:33  ( 68)
さくらももも外伝(1):さくらももも
★内容
 うーん・・・。みなさんの作品を拝見するたびに自らの文章
の稚拙さを痛感する毎日です。
実は本当に私が目指したいのは、いえ、あこがれるのは純文学
の世界なのですが今の私にはああいう子供じみた作品しか作れ
ません。
ただ、ああいう幼稚な文章でも目を閉じた時にその情景が鮮明に
浮かんでくる(勿論、空想の世界なので人それぞれ違うとは思い
ますが)事だけは注意して書こうと思いました。(その点でも
まだまだだとは思いますが)
かのピカソはあの独特な立体的な表現を確立する事で現在もっと
も偉大な芸術家の一人として知られていますが、その彼も初めは
他の多くの画家と同様に何の変哲もない写実的な表現をするただ
の一人の画家にすぎなかったそうです。
ただ、当時の彼のその絵はとても精巧で本物と見間違うほど優れ
ており、やはりその分野でも他の画家に抜きん出ていたそうです。
つまり、ピカソの絵は素人が見たら子供が書くような幼稚な絵に
しか到底見えませんが、彼の絵は画家として身につけるべき土台
がしっかり確立された上で成り立っているものなのだと知りまし
た。
比べて、私の作品はどこにでもあるような幼稚で安っぽい恋愛も
のでしかなく、その土台づくりを根底からやり直さないと純文学
どころの話ではないなと感じています。
ただ、純文学の世界とは相反する事かもしれませんが少しも気合
いを入れなくても誰でもすっとその文章に入り込めるようななじ
み易い作品でもありたいとも考えます。
まあ、ただ欲張りなだけなんでしょうね。
おっとっと!自己紹介をするつもりだったのを忘れていた。
わたくしのさくらもももというペンネームは勿論、「ちびまるこ」
で有名なさくらもも子さんの名前を参考に考えました。
また、「ぷよぷよ」と言うゲームがあるんですがそこに確か
「ももも」というキャラクターがいた(違ったかな?)ので、それ
も参考にしました。
この「さくらももも」というペンネームを見て、「ひょっとして
作者は女性かな?」と考えた方はいますか?
すいません。残念ながら、男なんです。
「男のくせに少女漫画のような恋愛ものを書くな!紛らわしい!」
と思われましたか?
実は深夜に「めぞん一刻」というアニメ番組をやっていて、なにげ
にそれを見たんです。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、その話は過去になくした
亭主のことをひきずった未亡人とその未亡人にあこがれる少々だら
しのない学生との恋愛ものだったのですが、そのいらいらするよう
な恋愛を見ているうちに「こんな風ななにげない恋愛ものを自分も
書いてみたい」という気持ちになりました。
この「めぞん一刻」の作者は以前から高橋留美子さんだとは知って
はいたのですが、なぜかあまりこの「めぞん一刻」という作品には
興味が沸かなくてほとんど内容を知りませんでした。
ほんとに高橋さんは「うる星やつら」の諸星あたるに代表されるよう
にだらしのない男を描くのがうまい人だなと感心しました。
男と言う生き物を本来の獣のオスと言う観点からみると種の保存の
ために種をあちこちにばらまこうとする性質を持っています。
「だから男が浮気性なのは仕方がない。」と言っているのでは勿論あ
りません。
ただ、男にはそういったどうしようもない本能が元々あるという一方
で、人がただの獣と違うのはその種をばらまこうとする性質を理性と
いうものが働くことで成り立っているということなのです。
浮気をしない男というのはその理性が人並みに強く働くか、あるいは
その度胸がないかのどちらかであると思われます。
こんなわたくしにもこの人と思う女性がいますが、その女性の行動を
見るたびに(他の多くの女性もそうですが)理性とはちがった純粋な
気持ちが感じられます。
「だから、男の恋愛は偽物だ。」というわけではありませんが、少な
くとも女性がもつ独特の愛情の深さにはかなわないなと思います。
一方で男にやたらと偽善者が多いのはそうした本能の部分が顔を出そ
うとして、それを認めたくなくて隠そうとする悲しい性のような気も
します。
そのように考えるとわたくしには高橋さんの作品に登場するそのどう
しようもない男達から妙な悲哀が感じられてならないのです。



#1313/1336 短編
★タイトル (AZA     )  01/03/25  01:57  (  1)
分裂   永山
★内容                                         21/08/01 16:49 修正 第2版
※都合により、一時非公開風状態にします。




#1314/1336 短編
★タイトル (XVB     )  01/03/27  23:10  (187)
少年について  $フィン
★内容
 「いらっしゃい」ラーメン屋のおやじの声が店内に響き渡る。なぜ響き渡るかと言
えば客がいないからだ。今この店は暇である。というより四六時中暇なのだ。ラーメ
ン屋のおやじは長年ここに店を開いているが、なぜかいつもこの調子である。味には
自信があるつもりだ。まるごとの鶏と丁寧に下処理した豚骨をベースに各種の素材を
手間ひまかけて煮込んだスープは琥珀のごとく澄みわたりさっぱりとしていながら実
に深い味わいがある。それに絶妙にマッチする麺は太からず細からず微かにちぢれた
歯ごたえと喉越し最高の熟成された手揉みの特注品だ。これらが渾然一体となってか
もしだす味覚のハーモニーたるやすでに快感を超えて悦楽に近い。長年かけて編み出
した秘伝の味は付近の同業者には絶対負けないという自負はある。しかしなぜか客は
こない。おやじはもんもんとしているのである。
 まあ客商売である以上そういうこともある。場所が悪かったり客層がちょっとずれ
ていたりして誠実な努力がむくわれないこともあるのだ。わかってはいるのだが、やっ
ぱりおやじも人間だから自信を失いかけることだってある。

 そんなある日、青白い顔をした少年がふらりとラーメン屋にやってきて最初のおや
じの声になったのである。少年は小さい声でチャーシューを頼んだ。手作りチャーシ
ューがこれまたおやじの自信作である。汁のなかにひたひたに浸ったそれはたっぷり
と肉汁を含んでボリュームがありながら箸の先で軽く触れただけで解きほぐれるほど
柔らかい。少年は隅でうまそうに麺をすすりチャーシューをおほばった。おやじは満
足そうにそれを眺める。旨いものを食べているときは誰でも幸せそうな顔になる。そ
れを見るのがおやじは好きなのである。閑古鳥が鳴いていてもラーメン屋をやめよう
という気にならないのはそんなわけがある。

 ところがおやじがふとよそ見をしている隙に少年の姿が消えてしまった。
「ややっ、食い逃げか?」
 あわててカウンターをまわってふと見るといままで少年の座っていた席に湯気をた
てたままのチャーシューメンが残されている。驚いたことにはいましがた調理して出
したときのまま麺にも具にもまったく手がつけられていないのである。
「どうしたことだ? いったいぜんたい、こいつは?」
 狐につままれたような気分でおやじは丼を下げ、中身をそっくり捨てながら考えた。
「考えてみりゃあ見かけない少年がたった一人で食べにくるってのも妙だ。こりゃ、
あんまり客がこないので居眠りをしているうちに寝惚けて夢でも見たに違いない……
ええい、情けない」
 おやじはひどく落胆して自分自身に言い聞かせた。
「そろそろ暖簾をたたむ潮時かな」
 だが次の日からおやじの運命は変わった。


 「らっしゃい!」寿司屋の板前の声が店内に響き渡る。ガラスケースの中には生き
のよいネタがあまっている。客がこないからである。親方は職人気質の男でちょっと
でも味の落ちたネタは惜しげもなく捨ててしまう。もったいないと思う。親方は新鮮
なものを新鮮なうちに出す心意気だから、仕入れも朝一番にいっていいものを仕入れ
てくる。妥協をゆるさない彼の下での修行は辛いが、そんな親方の気風のよさに惚れ
て、この店で長年勤めているのである。だが、そんな経営が裏目にでて、この店の内
情は火の車だ。最近では親方とおかみさんの喧嘩が絶えない。新鮮なネタを出し、腕
も並外れていいはずなのに客はこない。改築して当節流行りの回転寿司にでもすれば
ずいぶん違うのだろうが、頑固ものの親方がそんなやりかたを納得するわけもない。
 
 そんなある日、青白い顔をした少年が一人でやってきて最初の板前の挨拶になった
のである。少年は鯛を頼んだ。ありふれたネタだ。しかしここの店のはそんじょそこ
らの鯛じゃない。身の締まった明石の天然ものしか使わないのだ。そのうえで日高産
の最上の昆布の上に切り身を並べ手すきの和紙をしいて軽く塩までしてある。その塩
だってニガリを含んだ赤穂の自然塩だ。それだけ手間をかけていながら値段は他の店
とほとんどかわらない。おかげで儲けはまるでない。しかし最高の材料を使い一切手
を抜かない。それが店の親方のやり方なのだ。
 
 ところが板前がほんのわずかよそ見をしている間に煙のように少年は消えてい
た。
「いけね。逃げられたか?」
 しかしいままで少年がいたはずの席を見るとちゃんと鯛が一貫並んでいる。
「ええ? どうなってんだい?」
 確かに少年が旨そうに寿司を食べている姿を見ていたはずなのに、板前は自分の記
憶に自信がなくなってきた。
「薄気味わるいな。狐か狸に化かされたか? ちえっ、いくら昔堅気のこの店だからっ
て、二十一世紀の世のなかにそんな馬鹿な……」
 板前はひどくがっかりして自分につぶやいた。
「あんまり暇なんで頭までおかしくなっちまったかな。やれやれ、これじゃせっかく
の寿司職人の腕が泣くってもんだぜ。親方にゃあ世話になってるけど、そろそろ見切
りをつけて他の店をあたったほうがいいのかなあ?」
 だが次の日から板前の運命は変わった。

 「いらっしゃいませ」
 ギャルソンの声がフランス料理店に響き渡る。そんなに広くない店なのに、店が広
く見える。客がいないからである。まだ宵の口だとはいえ、今の時間繁華街には食欲
を満たすために老若男女を問わず大勢の人が飲食店に入っているはずである。それな
のにこの店はほとんど客がこない。この店のシェフは本場三星レストランで長年修業
をしてきたという男である。ギャルソンもこのシェフの味に惚れてこの店に押しかけ
るようにして働かせてもらっている。だけども、客はこない。ひとつにはいかにも場
所が悪いのだ。繁華街からちょっと離れた住宅街にあるこの店にはたまに近所の顔見
知りたちが足を運ぶ程度である。グルメな若者たちは都心の洒落たスポットに集まっ
てしまう。店構えをもっと明るく流行りのエスニック調のものにでもしたらいいのだ
ろうが、オーナーが戦前から開店していたこのレストランのレトロな雰囲気をいたく
気にいっているらしく頑として建て替えようとはしないのだ。
 
 そんなある日、青白い顔をした少年が一人でやってきてギャルソンの最初の台詞に
なったのである。少年はプレーンオムレツを注文した。ありふれた料理である。普通
わざわざ本場で修業したシェフに頼む料理ではない。しかしシェフは全力投球だ。手
早く卵を解きほぐしバターが溶けるか溶けないかの瞬間を見計らって一気に流し入れ
る。一瞬、熱せられた良質な卵とバターの渾然一体となった馥郁たる香りがたちのぼ
る、と見る間にふつふつと煮え立ったそれらは手早く折り畳まれフライパンの端に寄
せられる。その柄を数回とんとんとたたいて形をととのえると奇跡のような手つきで
返されたフライパンからオムレツは暖められた皿の正確な中央に移される。熱いけれ
ど未だとろとろに溶けたままの中身をやさしく包み込むスポンジケーキのような外皮
は湯気をたてつつ、まるでコンパスで描いたかのような正確で美しいふっくらとした
優しい曲線を描いている。じつは本当に美味しいオムレツを作るのは難しいのである。
素材、火加減、手際のよさ……単純なだけに料理人の腕がもろにでてしまう。そして
ここのシェフが腕をふるったオムレツは間違いなく天下一品なのだ。この絶品を最高
の状態でお客さまの前に出すのはギャルソンの仕事。彼はいつも料理の皿をサービス
しながらこの上なく誇らしい気分になるのである。
 しかし彼がちょっと窓際の花瓶の花を整えている隙に忽然と少年は消えていた。
「……そんな馬鹿なっ?!」
 呆然とたたずむ彼の目の前にはシェフのオムレツが手つかずのまま残っていた。ギャ
ルソンは確かに少年がそれにナイフを入れたとき熱い半熟状態の中身がとろりと溢れ
出るのを見ていたのである。
「夢でも見ていたんだろうか? あ、痛っ」
 彼は自分の頬をつねり、それから古びた渋い洋館のなかでそんな馬鹿なことをして
いる自分の姿を想像してちょっと情けなくなった。
「この館、幽霊屋敷なんだろうか? 確かにこれだけ閑散としていりゃあ、幽霊もで
るわな。職場を間違ったかなあ? ほかの仲間たちみたいにさっさとホテルにでも移っ
たほうがよかったかも」
 だが次の日からギャルソンの運命は変わった。

「はあい、ここが今大評判のあのカリスマラーメン屋の前でーす」
 派手なピンクの服を着た新人のバラドルがカメラに向って叫んでいる。暖簾の前に
は大勢の人が自分の番をまって並び行列は数ブロック先まで延びている。あの少年が
入っていったラーメン屋である。ラーメン屋のおやじが店をたたもうと決意した次の
日から客が急に入り始め、評判が口コミで広まっていつのまにかテレビや週刊誌でも
とりあげられて、今や行列ができる超有名店に変わったいたのである。ラーメン屋の
おやじは食事する暇もないぐらい超多忙なラーメン作りに毎日励むことになった。

「またきましたよ。ご亭主」
 暖簾を分けて入ってきたのはいまをときめく若手の歌舞伎俳優と最近襲名したばか
りの人気の落語家である。こちらもまた例の少年が鯛を注文した寿司屋。あの翌日か
らなぜか客が殺到しはじめたのだ。あっというまに馴染みが増え、それがまた新しい
お客を呼んでくるという具合でいまでは予約を入れないとまず食べられないというほ
どの人気ぶりなのだ。舌の肥えた上客がはるばる都心からタクシーを飛ばしてやって
くる毎日である。店を変わろうと考えていた板前も目のまわるほどの忙しさのなか、
親方同様若いものたちをしかりとばしながら生き生きと働いている。

「ようこそいらっしゃいました」
 ギャルソンはオーナーともどもドアの外まで来客を出迎えた。
「どうぞこちらへ」
 彼は緊張した面もちで、それでも誇らしく到着した予約客たちを館の最上の席へと
案内した。まるであの少年が呼び込んでくれたように、あのあと急に客が増えはじめ
たのだった。昭和初期の雰囲気を残すレストランのなかで出される極上の料理は評判
が評判を生み、まもなく一流企業の役員が会合や接待に使ってくれるようにまでなっ
た。そして今日とうとう駐日フランス大使が自ら主催するディナーパーティの下見の
ためにはるばるこの店を訪れたのである。

 そんな店が一件、一件と増えていく。そのうちある共通点に世間は気がついた。キー
ワードは少年である。不思議な少年が入った店はまたたくまに行列のできる店に変わ
るのである。興味深いこのネタにマスコミがとびつかないはずはなかった。『現代の
ざしきわらし』とキャンペーンがはられ、少年の身元の情報提供者には多大な賞金が
送られることになった。賞金目当ての我こそは多くの情報提供者が出た。しかしそれ
らを確かめてみるとどれも不思議な少年とは何の関係もないごく普通の少年たちであっ
た。しかしそんなことにもめげず、騒ぎは小さくなるどころか少年を探せとますます
大規模なキャンペーンが展開されるのだった。

 そんなある日、味がよいが客が入らないとある店に青白い顔をした少年が入ってき
た。話を聞いていた店主はもしやと思い、たまたま置いてあったカメラでそっと写真
を撮ってみた。少年が消えた後で現像してみるとはたして半透明のその姿が映ってい
たのだ。それから後の事態の進展は早かった。テレビ、ラジオ、週刊誌マスコミがそ
の写真を掲載して一斉に少年探しをはじめたからである。その結果自分のところにい
る入院患者こそ例の不思議な少年かもしれないというある病院関係者からの情報提供
があったのだ。
 その患者の写真を行列のできる店の者すべてに見せて確認した結果、やはり現代の
ざしきわらしはこの交通事故で重傷を負い長い間意識不明のままの少年であることが
わかった。ニュースはまたたく間に世の人々の知るところとなり、不幸な少年に同情
して膨大な量のお見舞いの手紙や品物が病室に届いた。いっぽうでどこでどう調べた
のか少年の生い立ちや趣味、親族の写真に、資産関係まで公表する大衆向け週刊誌の
報道合戦が始まった。そのあげくついには眠れる少年に求婚する女性まで現れる始末
であった。
 しかしそんな騒動が1ヶ月たち、2ヶ月立つうちにあれほど騒いでいた世間も少年
のことをいつのまにか忘れ去り、そのうち週刊誌もまた昔どおり大物芸能人の離婚騒
動を追いかけるようになっていた。

 それから一年後、突然地球上空に無数のUFOが出現した。それらは地上に降り立
ち、中からタコそっくりの火星人型、なまこ型、珪素型、翼の生えた天使型など、あ
りとあらゆるタイプの宇宙人がぞくぞく繰り出してきた。当然ながら日本のみならず
世界中が驚天動地の大狂乱、大狂態の騒ぎとなった。驚いたことにはそれらの宇宙人
たちは侵略にきたわけでなく、また地球の代表者と通商や銀河連邦への加入の話し合
いをするわけでもなく、ただの旅行者としてひたすら料理を食べまくったのである。
それも少年の現れた店にまっさきにやってくるのだ。どうやら少年の夢はテレパシー
によって全宇宙に中継され、宇宙メディアを通じて放送されていたようなのだ。
 つまり眠れる少年は宇宙では人気絶大のグルメレポーターだったのだ。どうやらこ
の地球でも彼の強力なテレパシーは周囲の人間に無意識の影響を与えていて、それが
人々を彼の訪れた店へといざなっていたらしいのである。しかも彼は事故にあう前ま
で料理人を目指していたほど生まれついての天才的な味覚センスの持ち主だったから、
その夢遊病的なレポートも実に的確で質の高いものであったのだ。美味しい食べ物へ
の執着と怨念とが彼を離脱幽体に変えて優秀なグルメレポーターとしていたのである。
 そんなわけで星々から彼のもとに様々な文化的催しにからむ表彰状だのトロフィー
だのメダルだのがつぎつぎと送られてきた。あわてて政府もまた国民栄誉賞を少年に
送り、人気のない内閣総理大臣が少年の眠るベッドの横でにこやかに笑っている写真
が新聞の第一面を飾った。
 だが意識不明の眠れる少年は何も知らない。世間の騒ぎとはうらはらに少年は栄養
点滴のチューブを静脈に差し込まれたまま病室でひたすら眠りつづけているだけだっ
た。



#1315/1336 短編
★タイトル (AKM     )  01/04/15  14:58  ( 13)
日曜         直方
★内容
 日曜の午後、おれはソファーにふんぞりかえり、ものすごいスピードでテレ
ビのチャンネルを変えつづける。全くくだらない番組しかやっていない。しか
し、だからといって、テレビを消す気にはならないのだ。テレビを消すといろ
いろなことを考えてしまう。とりとめのない想念に付き合うほど無益なことは
ない。心の健康を損なうのだ。特におれの想念はタチが悪い。おれを自殺に追
い込みかねない。おれはチャンネルを変えるスピードを更にあげた。
 おれには夢がある。まだかなってはいない。行動に移していないのだからあ
たりまえだ。「いつまでも夢をもちつづけることはいいことだ。」どこかでこ
んな金言を聞いたことがある。夢を持っているおれは優越感で心踊る。
 ふとチャンネル変える手をとめた。いつのまにか太陽が沈みかけているのだ。
夜は好きだ。面白い番組がたくさんある。わくわくする。もはやチャンネルを
変えつづける気にはならない。おれは太陽が沈んでしまうまでの間、たっぷり
と時間をかけてマスをかくことにした。



#1316/1336 短編
★タイトル (GVB     )  01/05/13  21:24  (156)
大型天文小説   「春分の発見」   佐野祭
★内容
 五千年前にだって新入社員がいる。
「ようこそヤサブローくん、エジプト王立天文台へ」
 所長のキサブローが挨拶した。
「これから天文台の中を案内しよう。君がこれから実際どういう研究をするのか、
ぜひ見てくれたまえ」
 ヤサブローはあたりをキョロキョロ見回しながら所長のあとをついていった。
 さすがに王立天文台の設備は充実している。窓の外には、ピラミッドが冬の長
い影を落としているのが見える。
「この部屋が、君の先輩たちがレッスンを受けている部屋だ」
 レッスンというのは天文学の講義かな、とヤサブローが思う間もなく部屋の中
からは軽快な歌声と規則正しい手拍子が聞こえてきた。

   ナイルで生まれたから ナイルで生まれたから
   ナイルで生まれたから ワニは今日も口を開く

   ギザギザの背中と ピカピカの尻尾
   バリバリの歯 それだけじゃ足りない
   いつか太陽を飲み込んで いつかナイルを飲み干して
   ワニがワニであるために 生きてくために

 部屋の中では三人の男たちが繰り返し踊りながら歌っている。その前にはスラ
リとした女性が拍子を刻みながらときどき「テンポキープ」と声を掛けている。
その傍らには何やら記録している男たちがいる。
 所長とヤサブローがはいってきたのに気づくと、その女性は傍らの男たちの一
人に目で合図した。男は、「交代です」と言って女性に代わって拍子を打ちはじ
めた。歌っているメンバーは何事もなかったかのようにそのまま歌い続けている。
 交代した女性がヤサブローたちのところにやってくると、所長がヤサブローに
紹介した。
「トレーナーのテコナくんだ」
「はじめまして、テコナです」
「ヤサブローと申します。よろしくお願いします」
「ヤサブローくんにも、さっそくレッスンを受けてもらうことになるから、テコ
ナくんみっちりしごいてくれたまえ」
 テコナはちょっと苦笑しながらうなずいた。
「この歌のレッスンはわれわれのカリキュラムの中でもっとも重要なものの一つ
なのだよ。われわれがこのカリキュラムを導入してから十年以上になるが、研究
における成果はまことにめざましいものがあった。一番大事なことがなんだかわ
かるかね。リズムなんだよ。一人前の研究者になるためにはまずは歌のレッスン
を欠かさないことだ」
「あの、所長」
「現在この研究所では三百人の研究員が毎日歌のレッスンに」
「あの所長」
「励んでおる。もちろん、リズム感を養うためにダンスも重要な」
「所長」
「要素だ。常に我々は歌とダンスとペアで……どうかしたかね」
「あの、すみません、一つ質問が」
「言ってごらん」
「なぜ天文台の研究員が歌のレッスンをしなければならないのでしょうか」
「ふむ。それを説明するには、まず、太陽の動きから説明しなければならない」
 所長は傍らの石版に図を描きながら説明をはじめた。
「君も知っての通り、冬は日が短く、夏になるにつれて日が長くなる。そしてあ
る日を境に、また日は短くなり、冬になる。これはわかるな」
「はい」
「長年に渡る研究の末、当天文台ではそのもっとも日が長くなる日をつきとめた。
この日は夏至と呼ばれている」
「はい」
「同様にもっとも日が短くなる日、冬至の存在もつきとめた」
「はあ」
「ということはだ。冬至と夏至の間のどこかに、昼と夜の長さがちょうど同じに
なる日があるのではないか。……これが現在の我々の研究テーマだ。我々はその
日を、春分と名付けたよ」
「春分、ですか」
「さよう。夏至と冬至の間にあるのは秋分だな」
 ヤサブローはしばらく考え込んでいたが、まだ納得いかなそうに尋ねた。
「うーん、そういう日があるってのはわかるけれど、その日を見つけて何か役に
立つんですか」
「役に立つ、か」所長は笑った。「役には立たないさ。そうやってこの宇宙の仕
組みを知る。それがこの天文台なんだ」
「ふーん……」ヤサブローは一瞬納得しかけてあわてて付け足した。「じゃなく
て。なぜ、天文台の研究員が歌のレッスンをするか、ということなのです」
「わはは、そうじゃった。つまりな。昼と夜と長さが同じ日を見つけるには、昼
と夜の長さを測らなきゃならんだろ」
「はい」
「どうやって?」
 ヤサブローは返答に詰まった。
 そこでなんで返答に詰まるかなと思った人は、現代の感覚に毒されている。こ
の時代、まだ、時計がないのだ。
「我々もその問題に直面したのだよ。そこで編み出されたのが、この方法だ」
 ヤサブローはしばらくポカンとしていたがおずおずと切り出した。
「というと、歌の長さで、時を計るわけで……」
「その通り。さすがは王立天文台の新入社員だ」所長はにこにこと笑った。「テ
コナくん説明してやってくれたまえ」
「はい。まず、三人一組になって歌って踊るの」

   何を食べて生きてるの 夜はどこで寝るの
   ワニのこと何も 知らない私

   ナイルで生まれたから ナイルで生まれたから
   ナイルで生まれたから ワニは思いきり口を開く

「ずっと続けているとどうしてもテンポが遅くなるから、百番まで歌ったところ
で一人ずつ交代するの。三人いっぺんに代わるとテンポが代わってしまうから、
まず百番の時点で一人」
 床になにやら記録していた男が言った。
「レフトチェンジ」
 そばに控えていた研究生が立ち上がり、左側の男と交代して踊り始めた。
「こうやって前のテンポを持続したまま、百五番の時点でもう一人交代」
 記録係が言った。
「ライトチェンジ」
 別の控えが立ち上がり、右側の男と交代した。
「そして、百十番の時点で最後の一人が交代」
 記録係が言った。
「センターチェンジ」
 別の控えが立ち上がり、真ん中の男と交代した。

   ぐちゃぐちゃな川底 かんかんな日差し
   どろどろの藻 それも悪くはない
   いつか太陽を飲み込んで いつかナイルを飲み干して
   だってワニが西向きゃ 尾も西だから

 交代した男たちは汗を拭いている。記録係が言った。
「ネクストスタンバイ」
 歌い踊る三人の男たちの後ろに別の三人が座る。
「記録係交代します」
「現在まで四百二十回です」
「復唱します。現在まで四百二十回です。お疲れさまでした」
「よろしくお願いします」
 半ば呆然としているヤサブローにテコナが説明した。
「本番ではこれを五チームに別れてやって、一番回数が多いチームと回数が少な
いチームの記録を捨てて真ん中三チームの平均をとります。もちろん五チームは
相互の影響を受けないように、この天文台の東西南北と中央で別々に演技するの」
「さあ、じゃあその演舞台を案内しよう」
 所長はテコナに軽く礼を言うと、ヤサブローを連れてレッスン室を出た。
「おそらく春分は冬至と夏至の真ん中あたりにあるだろうと我々は考えているが、
ちょうど真ん中かどうかは定かでない。そこで我々は、冬至と夏至の真ん中の日
を挟んで三十五日間、この記録をとることにしている」
「大変なんですね」
 ヤサブローはしばらく歩きながら考えていた。
「僕まだ納得行かないんですけど、春分ってそうまでして見つけなきゃいけない
ものなんでしょうか」
「疑問を持つのはいいことだ」所長が言った。「我々もこの研究がすぐに何かの
役に立つとか、そういうことを期待しているわけではない。だが、我々は季節の
中で生活しているのだ。穀物は実る時期が決まっており、ナイルの氾濫は毎年同
じ頃に起こる。この三六五という周期の中に隠されたそのリズムを見つけだすの
が我々の役目だ。まずは知ることだ。それが役に立つかどうかを決めるのは」
 所長とヤサブローは演舞台の石段を登った。
「のちの人間だ。百年後かも知れないし、千年後かも知れない。さあ、ここが西
の演舞台だ」
 演舞台に立つと、ピラミッドがその影を長く落としているのが見える。
「もう一つのチームではこの影を測っている。いま我々が仮定しているのは、そ
の春分の日には太陽は真東から昇るのではないか、ということだ。その時の影は
この」
 所長はピラミッドを指した。
「真西にできるはずだ」
 冬の日が陰るのは早い。ヤサブローは夕日がピラミッドの向こうに沈んでゆく
のを見つめていた。どこからか研究生たちの歌声が聞こえる。

   空に向かって口を開く 河に身を横たえる
   きっといつかは スフィンクス

   ナイルで生まれたから ナイルで生まれたから
   ナイルで生まれたから ワニは思いきり口を開く

 そして、今に至るも春分は何の役にも立ってない。

                                [完]



#1317/1336 短編
★タイトル (BLN     )  01/05/18  01:57  ( 74)
短編小説「旅先にて」
★内容
「旅先にて」

 一面に畑が広がる田園風景の中、列車は走っていた。列車は何の変哲もな
い地方を走るごく普通の特急列車だ。列車の中には、これから旅行に出かけ
る家族やカップルに地方出張で移動中のビジネスマンなど、様々な人が乗っ
ていた。
 そんな中、年齢は20代くらいのある男はいた。向かい合う席には少し年
上の30代くらいの男が座っている。20代くらいの男は車内の席に座りな
がら、ただ、外の景色を眺めていた。窓の外は、一面に広がる田畑のほかは、
家もまばらに点在するだけの何の変哲も無いごく普通の田舎の田園風景だっ
た。

 随分、遠くへ来たもんだな・・・

 20代くらいの男はそう思った。というのも、男は、今まで都会育ちで、
東京に長く住んでいたのだ。だから、そんな彼には、窓の外の一面に広がる
田園風景はある意味、とても新鮮に見えたことだろう。

 彼の名は鈴木一郎。
 これから、地方のある1都市に転勤で向かう最中だ。だが、会社の命令と
はいえ、今まで住み慣れた街から、まだ、ほとんど知り合いもいないような
未知の場所へ行くのはやはり、気が重い。と同時に、鈴木は思った。

 これから、行った先で果たして、自分は上手くやっていけるのだろうか?

 彼の脳裏にそんな思いがよぎる。だが、そんなとき、ふと近くから、自分
を呼ぶ声がした。
「兄ちゃん、これから、どこ行くんだい?」
いきなり真向かいの席の30代くらいの男に声を掛けられ、鈴木も確かに初
めは戸惑った。しかし、
「えぇ、今度、ある所に転勤で行くんですけど、それでこれから、そこへ行
く最中なんです。」
「ほぉ、そうか?だが、これから、まだ、知らない場所に行くんだろうけど、
早く新しい場所での生活に慣れるといいな。」
「はい、そうなんです。」
そんな風に、徐々に2人の心は打ち解けていった。そして、2人の何気ない
会話が続いた。しかし、そんな中の出来事だった。
「失礼します。車内販売です。お弁当にサンドイッチ、ジュースにお茶は如
何ですかぁ?」
車内販売の若い女性の声がする。そして、声の持ち主の彼女は、徐々に車内
の通路を今、何気ない会話を楽しんでいる2人の男達の方に、売り物の弁当
類やジュース類などが入れてある手押し車を押しながら、歩いて来ていた。
そんな中だった。向かいの席の30代くらいの男は言った。
「オイ、ジュースでも飲まんか?」
「えぇ、そうですね。」
鈴木は答える。そして、それに応えるように、向かいの席の男も、車内販売
員の女性が丁度、自分達の目の前に来たとき、彼女に話しかけた。
「すみません。お姉ちゃん、ジュース2本、ちょうだい。」
「ありがとうございます、300円になります。」
そうこうして、男はジュースを2本、買った。そして、男は車内販売員の彼
女から、買ったジュースのうち、1本を、
「ほらよ、俺のおごりだ。」
鈴木に手渡す。
「あ、でも、わざわざありがとうございます。ご馳走になります。」
鈴木は答えた。だが、2人の男の間では、その後もただ、何気ない会話が続
いた。そんな、何気ない時間がただ過ぎて行く・・・
 しかし、今、そんな目の前のさっき、出会ったばかりの男と、ただ、何気
ない会話を楽しんでいる鈴木の視界の中に、ふと、外の田園風景が目に入っ
て来た。そのとき、彼は思った。

 しかし、これから、自分が行く所は果たして、どんな所なのかなぁ?
 果たして、自分はそこでの新しい生活に慣れて、上手くやっていくことが
出来るんだろうか?そして、果たして、そこでどんな出会いが自分を待って
いるというのだろうか?
 そう・・・たった今の目の前の男とのこんな何気ない出会いのように・・
・・・

 彼はそう思った。
 だが、そうこうするうちにも、彼らを乗せた列車は、田舎の田園風景の中
を、ただ、轟音をあげながら、目的地に向かい、走っているのだった・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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#1318/1336 短編
★タイトル (BLN     )  01/05/18  02:09  ( 72)
短編小説「霧の中にて」 M.YAMADA
★内容
「霧の中にて」

 寒い冬のある日の出来事だった。
「やべ、急げっ、このままじゃ、遅刻だぁ。」
 その日も男は走っていた。男の名は佐藤一郎。都内のある、食料品を扱う
中堅商社に勤める一介のサラリーマンだ。だが、今日もそうだが、朝、6時
に家を出て、毎朝、通勤電車を2時間以上掛けて、会社に通うのは辛い。だ
から、そのせいか、彼は朝寝坊して、会社に遅刻しそうになることも良くあ
るのだった。
 よって、そんな具合だから・・・今日も彼は不覚にも、朝寝坊してしまっ
たのだった。
「やば。もうこんな時間だぁ。」
一瞬、青い顔になって、彼は飛び起きた。急いで背広に着替え、朝食のパン
をかじり、宅配されたビンの牛乳もいっきに飲み干す。そして、彼は素早く、
自分の腕をコートの袖に通し、急いで靴を履き、玄関のドアを開けた。だが、
そんな具合で、今日も家を飛び出して来たのだった。
 しかし、彼が異変に気付いたのはそれから、しばらく後だった。

 今日も遅れてしまったが、急げば何とか、6時30分の電車に間に合う。

 そう思い、通いなれた道を猛ダッシュで駅に向かう彼だが、周りの風景が
何故か、妙に変なのだ。というのも、彼の周りはいつの間にか、深い霧に包
まれており、周りの風景も全然見えないのである。だが、

 妙だな。

そう彼が思ったときのことだった。

 ドスン!

     「ぎゃぁ!」

 霧の中で視界が不充分だったせいか、彼はいきなり前から走ってきた何者
かににぶつかってしまったのだった。そして、
「イタタタ!」
ぶつかった拍子にしりもちをつき、倒れている佐藤の前に
「オイ、大丈夫か!」
40代中盤くらいの男が立っていたのだった。
「えぇ、それに私も不注意でしたし・・・」
それに対し、佐藤も相手を心配させないように返事をし、自力で起きあがる。
だが、妙なのはこれからだった。
「ところで、キミ、最近仕事のことで悩んでいたりしないか?そうだろう?
図星だろう?でも、心配すること無いぞ。頑張っていれば、いつか、報われ
るときが来るからな。」

・・・・・何、言ってるんだ。このおっさん。

 彼のぶつかった、40代中盤くらいの相手のおっさんが全然、意味が分か
らないことを言ってるのだった。だが、佐藤は内心、ドキリともしていたの
だ。事実、彼自身、最近、なかなか商談で契約も取れないなど、仕事が上手
く行かず、悩んでいたからだ。だが、いつまでもそこにいたら、遅刻してし
まう。だから、
「悪いな、おっさん。俺は急いでいるから、もう行かなくちゃ、いけないん
だ。じゃあ、またな。」
彼は急いで、そこを後にしたのだった。

 だが、彼がそこを後にした後、おっさんはこうもつぶやいていたのだ。

「そういえば、あのときもこういう霧の深い日だったよなぁ。だが、あれか
ら、20年・・・その間、死に物狂いになって働いたさ。そして、今じゃ、
俺も仕事でそれなりの結果を残し、現在、妻子と家族3人の平和な家庭を築
いている・・・だがな、とにかく、頑張れや、20年前の俺よ。頑張ってい
れば、いつかは報われるからさ・・・」

 だが、その頃、佐藤はいつの間にか、霧の晴れた周囲の景色の中、猛ダッ
シュで通いなれた道のりを駅に向かうのだった。

彼の人生の長い旅は続く・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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#1319/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/06/20  23:46  (158)
お題>誤解    時 貴斗
★内容
 ひどく暗い夜だった。空を見上げると、星一つ輝いていない。月さえ
出ていない。すっかり疲れていたが、女房殿と、子供の笑顔と、温かい
料理が迎える様子を想像し、体に鞭打って足を進める。
 駅から十五分。ぽつり、ぽつりと和菓子屋や酒屋が建っている、細く
寂しい道を歩いていく。どの店ももう閉まっている。
 ようやく視野が開けて、建ち並ぶマンション群が見えてきた。ビール
を飲み、飯を食い、風呂に入ってテレビを見て寝る。ささやかな幸せが
私を待っている。
 門をくぐった途端、自然とため息がもれた。マンションのくせに、エ
レベータがついていないのだ。いまいましい階段を八階まで上らなけれ
ばならない事を思うと、いつも気が重くなるのだ。
 六階まで来た時、妙だな、と思った。明かりがいつもより薄暗いよう
な気がする。特にこの階の蛍光灯は今にも切れそうにぱちぱち言ってい
る。
 息が切れてきたが、ようやく八階にたどり着いた。階段のそばに若い
男が突っ立っていたが、気にせず八〇五号へと急ぐ。しかし、ドアの前
に来て札を見た時、おや? と思った。そこは九〇五号であった。何と
いうことだ。間違えて九階まで来てしまった。
 ああ、疲れる。いらいらしながら、通路を戻る。さっきの男のそばを
通りぬけ、やや急ぎ足で降りる。いったい彼はどうしたのだろう。まあ、
きっと女と喧嘩でもして、中に入れてもらえないとか、そんなところだ。
 八階に来た途端、思わず「あっ」と声をあげてしまった。そこには男
がいた。私が凝視しているので、彼は不快そうな顔をして、「何か?」と
言った。
「いえ、別に」
 札を見ながら、通路を進む。九〇一号、九〇二号、九〇三号……。お
かしいな。今日は酒を飲んでいないぞ。
 仕方なく引き返す。男の横を抜け、一階下へ。悪い予感がした。そし
て的中した。
 またこいつだ。これは一体どうしたのだ。横でハアハア言っている私
を見て、彼は嫌そうな顔をした。さっぱり状況が分からないが、しょう
がないので歩を進める。反対側の端――九〇六号まで来た時には心の中
に暗雲がたちこめ始めていた。こんなバカな話があるだろうか。
 男が立っている場所まで戻る頃には、こめかみに汗がつたっていた。
どうにかしなければならない。彼に聞いてみようか。しかし、何と言え
ばいいのだ?
「あのう、すみません」と口に出してみたものの、説明のしようがない。
困ってしまった。「あなた、下に行ったはずの私が上から降りてきて、変
だと思いませんでしたか?」
「は?」
 言い方がまずかったらしい。参ったな。
「いや、つまり、私はあなたの横を何度も通りましたが、どうやら迷っ
てしまったらしくて」
「いいえ、僕があなたと会ったのは、今が初めてですよ」
「えっ」私は仰天してしまった。「何を言っているんです?」
 私は最初に九階に来てからこれまでにたどった道順を説明した。男は
怪訝そうな顔をするだけだった。
「そんなはずはないですよ。あなたは通路を歩いてきて、今僕と会った
んです」彼は眉をしかめた。「酔っ払ってるんですか?」
「では、君は私が部屋から出てくるところを見ましたか? 何号室から
です?」
「そんなこと僕に言われたって……知りませんよ」
 途端にあいまいになった。怪しいぞ。
「まあいいですよ。もう一度下に降りて、君と会わなかったら解決だ。
もしまた会ったら、私の話を信じてくれますね?」
 彼はむすっとして、返事をしなかった。
 慎重に、一段一段足をおろしていく。コンクリートの硬い音が、いや
に大きく耳に響く。
 そして、私は絶望した。彼は相変わらず立っていた。
「ほらね? 言った通りでしょう?」
「はい?」
「だから、私は上に行っても、下に行っても、ここに来てしまうんです
よ」
「えっ、何ですか?」
 ああ、腹がたつ。
「さっき言ったでしょう。忘れてしまったんですか?」
「あの、以前どこかでお会いしましたか?」
 なんてえ奴だ。また、私とは今初めて会ったと言うつもりだ。いや、
ちょっと待てよ。こいつはどこか変だ。現代では信じられないことだが、
まさか……。
「なんだか、狐か狸に化かされているようだ」
 彼はおおげさに首を傾げて、そっぽを向いてしまった。それがいかに
も演技のように見えて、ますます怪しくなってきた。
 今度は上に行った。うんざりするが、若い男はそこにいた。
「ほら、変でしょう? 階段をのぼって、下から出て来たのに、君は不
思議に思わないのですか」
「だから、あなたと会ったのは初めてですよ」
「おや? それは変だ。本当に初めてなら、そんな言い方はしないはず
だ」
「は? 何のことですか?」
 くそっ。またとぼける気だ。階段を再度下りながら考える。やはりそ
うだ。奴が私を化かしているのだ。それ以外に今の状況を説明する方法
がない。現れた男に私は指をつきつけた。
「やはり君は、狐か狸だ。いい加減にしてくれないか」
 顔から汗がふきだす。彼はきょとんとしている。
「あなたは何か、誤解しているようです」そして、独り言のようにつぶ
やく。「ええ、まったく、誤解ですよ」
「じゃあ何か? 宇宙人か、それとも悪魔か?」
「いやそうじゃなくて、あなたがなぜそんな事を言うのか、僕には分か
らないんですよ」
「ああそうかい。ではもう一度だけ君につきあって、階段を上がってや
る。その間に消えてくれよ。私は疲れきっているんだからね」
 荒く息を吐きながらのぼる。しかし、奴はまだそこにいた。
「なぜ今の時代に出てきた。都会にはもう、君達の居場所などないんだ。
早く里に帰りな」
「だから、誤解ですって」
「いいや違う。よく見ると、君はなんだか、動物っぽいぞ」
 彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あなたは晩御飯を食べましたか?」
「いや、まだだ」
「ではお腹が減ったでしょう?」
 言われて初めて気づいた。食欲がなくなってしまっている。
「変だな。さっきまで腹がすいてたんだが」
「おかしいですね。もし本当に僕が化かしているだけなら、時間がたて
ば腹が減るはずです。普通にね。ところで、あなたが最後にトイレに行
ったのはいつです?」
「さあ、夕方だったと思ったが」
「では今はどうです? トイレに行きたいですか?」
「いや、別に」
「それもおかしい。狐に化かされていても、生理的欲求で時間がたてば
もよおしてくるはずです」
 変な事を言ってごまかす気だ。だがそうはいかない。私は気づいたの
だ。彼は「狐か狸に」ではなく「狐に」と言った。自分が狐だと、白状
しているようなものだ。それに、トイレの方はいいとしても、まるで私
の食欲がないことをあらかじめ知っていたような話し方だ。きっとこれ
は狐によって見せられている夢なのだ。だから腹が減らない。
「時間が止まった、とでも言いたいのか」
「腕時計を見て下さい。動いているでしょう? 僕のも動いています。
しかし一つだけ、合理的な解釈があります。あなたが幽霊になってしま
ったということです。あなたは何らかの理由でこの九階に閉じ込められ
てしまった。たぶん、この階に深い恨みを持つ人間がいて……」
「バカバカしい。私は九階の人間と付き合いがない。それに、会社を出
てここに来るまでに、事故にもあっていない」
「ふうん、幽霊ではないのか。じゃあ、何でしょうね」
「では、仮に君が化かしているのではないとしよう。他の人間はどこに
行った! 八階以上の人間は、自分の家に帰ろうとした途端、この無限
ループに落ちこんでしまうはずだぞ」
「さあ、分かりません。他の人達は、無事に帰れたのでしょう。しかし
あなたは駄目だった。……体質の問題なのかな」
「君は、私をこんな目にあわせて楽しいか。もうそろそろ、許してくれ
よ」私は泣きそうだった。
「ですから、誤解ですよ」彼はふいに笑顔になった。「あなたが、狐や狸
に化かされているということがね。あなただけがこんな目にあっている
と考えるのも間違いです。しかし、原因はまったく分かりません」
「なんだって?」
「どうしてこんな事になったのか、僕にも分からないんですよ」
「つまり、君は異常な状態になっているのを知っていたんだね? 私と
初めて会ったというのは、嘘なんだね?」
「ええ、あなたとは何度も会っています」
「どうしてだ。なぜ私をだましたんだ!」
「どの部屋でもいいから、チャイムを鳴らしてみて下さい。誰も出ませ
んから」
 彼が言いたいことが薄々分かってきて、私は背筋が冷たくなるのを感
じた。
「誰もいないんですよ。助けてもらえないんです。あなたと会った時に
直感しました。ああこの人も犠牲者だなと。あなたに助けを求めても仕
方ないなと」
 私は九〇一号のチャイムを鳴らした。返事がない。急速に恐怖が膨れ
上がってきて、何度も何度も押し続けた。
 彼の言う通りだ。私は誤解していた。狐に化かされたなどという、さ
さいなことではなかったのだ。
 今度は、手すりの向こう側をながめた。空が暗いだけではない。その
時になって初めて、どの家にも明かりがともっていないのに気がついた。
「あなたも同じ運命の人が上がってきたら、からかってみたくなります
よ。すっかり途方にくれて、十日もここに突っ立っていたらね」


<了>



#1320/1336 短編
★タイトル (EJM     )  01/06/28  22:12  ( 95)
お題>誤解       青木無常
★内容
 ぼくがそのひとを見捨てたのは、そのひとが境界の向こう側にいるひとだったか
らなんだよ。
 イルミネーションにデコレーションされた泥の塔がいくつもいくつも立ちならぶ
街でぼくは、ひとびとの吐き出す汚念を食べながら暮らしている。だからその日も
いつものように、よい匂いをまきちらしながら行き交う派手に着飾ったきらびやか
なひとたちでごったがえした雑踏のなかで、ぼくは間断なく吐き出される汚念を一
心不乱に消費していたのさ。
 リゲルからおとずれた八本腕の旅行者や大気中をゆるやかにただよう羽の生えた
一族、滅亡したヴェガから逃げ出してきた皺だらけの隠者たちや踊り狂いながら派
手はでしく汚念をふりまく道化師まで、そのときもいつもと同じように街はにぎや
かな狂乱であふれ返って、すこし疲れているようだったよ。
 ゆるやかにカーヴしながら断崖に沿ってのびるアーケードは地平線のかすみの向
こうまでつづいていたし、極彩色の露店が建ちならぶ広い街路にひとびとは隅々ま
であふれ返って、いつものように暮れてゆく陽の朱に染められてとてもきれいだっ
た。
 だから最初は、そのひともほかのひとたちと同じように躰の奥底にたまりにたま
った汚念を噴き出させながら歩く、ふつうのひとだと思っていたんだ。
 ただ、何がぼくの目をひいたのかだけははっきりしてる。そのひとは、ガラスの
ように透きとおったボディにつるんとした顔のない頭を乗せた姿をして、一糸まと
わぬ裸でゆったりと、ぼくのいるほうに近づいてきたからさ。
 笑いさんざめく喧噪の流れとは明らかに異質の時間を、衣がわりのように身にま
とってそのひとは、奇妙にうつろな足どりでやってきたんだよ。
 ぼくはいっしょうけんめい汚念を吸いこみながら、ちらりちらりと横目でそのひ
との様子をうかがっていたのさ。なぜって、近づくにつれてそのひとが、ほかのひ
ととは明らかにちがっていることに気づいたから。
 何がちがっていたかって。
 そのひとは、汚念を吐き出していなかったんだよ。
 狂騒にあふれ返ったこの世界で、汚念を吐き出さずにすむひとなんているわけが
ないと思っていたから、ぼくはとてもびっくりして口をあんぐりとあけ、やらなき
ゃいけないことも忘れて思わずそのひとをしげしげと見つめてしまったんだ。
 でも、すぐに目をそらして、ふたたびもとどおり汚念をいっしょうけんめい吸い
こみつづけるふりをしたよ。
 だってそのひとが、死にかけてることに気づいたから。
 心臓の部分が砕けてひらき、そのあいだから静かに魂のかけらが、もやになって
ゆらゆらと立ちのぼっていくんだ。ああなったらもうながくはないって、ぼくには
わかっていたからね。
 そのひとは死にかけたひととは思えないほどゆったりとしたおちついた足どりで、
気づかないふりして汚念の吸引に精出すぼくの目の前を横ぎっていった。
 そしてぼくの背後にあった噴水池のほとりの、月片石でできた囲いの上に静かに
横たわって、そのままきたるべき時を待つ姿勢に入ってしまったんだ。
 正直いって、ぼくはかなり困惑したよ。猟場をすぐにかえるわけにもいかなかっ
たし、かといって死んでいくひとのかたわらで汚念を食べつづけるのもあまりいい
気分ではなかったし。
 なにより、そのひとの体内に、あるべき汚念がまったくないというその一点が、
ぼくをひどく居心地の悪い思いにさせていたからね。
 美々しく着飾った雑踏をいくひとびとは、静かにそのときを待って横たわるその
ひとの存在になど気づきもしないように、あいかわらず笑いさんざめきながら自分
たちの時間を消費していたよ。
 なかには横たわるそのひとの姿に気づくひとたちもいたことはいたけど、だれも
そのひとに手をさしのべようとはしなかったね。どっちみち、たすけようとしたっ
てできることなんか何もないのはひとめ見ただけでわかるけど、やっぱりだれひと
り声をかけさえしない光景は、うらさびしいものがあったのもまちがいないな。
 でも、なぜだれも声をかけようとしないのか、ぼくにはわかっていたんだ。
 そのひとは身体のなかに汚念を抱いかないひとだったから。
 だから、ガラスのように透きとおった姿をしているくせに衣服ひとつまとうこと
なく街を歩くことができたんだと思う。
 着飾る必要なんて、ないから。
 そしてたぶん――だからそのひとは、胸を砕かれて命を奪われようとしていたん
だと思う。
 このたそがれたにぎやかな世界で、そのひとひとりだけが完全に異質で――そう。
 孤高だったから。
 だからぼくもそのひとに声をかけることすらできないまま、ただひたすら一心不
乱に汚念を食べつづけるしかなかったし、それで正しかったんだと今でも思ってい
るよ。
 太陽が地平線の向こうに沈んできらびやかな電飾の映える夜がおとずれ、行き交
うさまざまなひとびとが垂れ流す汚念もいよいよその勢いを増していき、ぼくはい
つのまにかほんとうにそのひとの存在なんか忘れていっしょうけんめいやるべきこ
とを果たしつづけていたんだ。
 気づいたときは、夜明けだったよ。
 ひとの流れもとぎれ、電飾だけが空々しく点滅する街路にひとりぽつんと残され
ている自分に気づき、そのときようやくぼくは噴水池のわきに横たわるガラスのひ
とのことを思い出したんだ。
 もちろん、わかっていたことだよ。
 そのひとの命の息吹はもうとっくに、最後の一片まで気化しつくしてしまったこ
とは。
 月片石の上に横たわるのは、もうただのガラスのかたまりに過ぎないんだって。
 魂を喪くした躰だから、そのひとのガラスのからだだってたぶん、ぼくがちょっ
とふれただけで塵と化して消えてしまったにちがいない。
 でもぼくは最後の弔いもせず、ただ疲れ果てた肉体をひきずって寝るだけの窓へ
と帰っていったのさ。
 きっと、夜が明けきる前に吹く常世への風に吹き払われて、あのひとのガラスの
からだはちりぢりに世界に消えていったと思う。
 それだけのこと。
 それだけのことだから、ぼくは、躰のなかに汚念を抱かぬひとがこの世には存在
するのだという驚くべき事実も単なる事実として受け入れ、もしまた出会ったとし
てもあの日と同じように関わりあうこともなく、その汚念を受け入れることすらし
ないまま、ただすれ違っていくだけなんだ。
 そういうわけで、ぼくはいささかくたびれながらもあいかわらず、ひとびとが飽
きもせず吐き散らす汚念を貪りながら生活しているんだ。
 あの街ではない、どこか別の場所でね。
 きらびやかに着飾ったさまざまなひとびとはどこにでもいたけど、でもあの日以
来、ガラスのからだでゆったりと歩くひとにも、汚念をはかないひとにも出会った
ことはないよ。
 出会いたいかときかれれば、応えに困ってしまうけれどもね。
                               誤解――了



#1321/1336 短編
★タイトル (GVB     )  01/07/02  20:47  (127)
大型法律小説  「順番法」  佐野祭
★内容
  第一章 総則

 (目的)
第一条 この法律は、共同社会生活を送るために各自が最低限守るべき義務を定
め、社会生活の健全な秩序を維持することを目的とする。
 (定義)
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定める
ところによる。
 一 順番 一列に並ぶ、または整理券を配布するなどの手段により参加する者
の前後関係が明確にできる状態をいう。
 二 列 原則として前の順番の者の背中側に顔を向けて立つことにより、前後
関係が明確にできる状態をいう。
 三 列の主催者 その列が作られた目的である商品取引・サービスを提供する
者は列の主催者となる。
 四 順番の管理者 列の主催者及び整理券の配布者をいう。

 (列への参加)
第三条 列の構成は先着順とし、列に参加する意思がある者は現在ある列の最後
尾に原則として直線上に立つものとする。
2 列を構成する者の間隔は1メートルを超えてはならない。
3 第1項の規定に関わらず、場所の制約により直線上に立つことが不可能な場
合は折れ曲がって並ぶことを可能とする。この場合、列がそこで終わらずに曲が
っていることが容易にわかるようにしなければならない。
4 列の間に通路・道路等がある場合、第2項の規定に関わらず任意の間隔をあ
けることを可能とする。この場合、列の主催者はその列が一続きのものであるこ
とを明確にし、混乱がないよう管理担当者を配置しなければならない。

 (列の変更)
第四条 同一の機能を果たす複数の列がある場合、一方の列が短くなる、または
なくなるなどの理由がある場合、列の構成要素である者は短くなった、またはな
くなった列に移ることができる。この場合移動する前の列での優先順位は無効と
なり、新しい列の最後尾につかなければならない。

(整理券の配布)
第五条 列を作ることが場所の関係上または構成者の健康上の理由で好ましくな
いと思われるとき、順番の管理者は整理券を配布することにより列に代えること
ができる。

(整理券の形式)
第六条 整理券は前後関係が明確となるように正の整数の記入されたカードをも
ってこれにあてる。
 2 管理者が必要と判断した場合は正の整数以外にアルファベット、カナ等の
記号を用いることができる。
 3 小数点以下の端数がある小数、負の整数、分数は整理券に用いることがで
きない。 4 管理者は6と9が容易に区別がつくように整理券のデザインを定
めなければならない。

  第二章 順番
   第一節 順番の適用範囲

 (公衆便所の利用)
第七条 公衆便所を使用する際は、便器もしくは個室の前に、順番に並ばなけれ
ばならない。

 (列車の利用)
第八条 鉄道の駅で客車への乗車にあたっては、あらかじめ予定されている乗車
位置の前に順番に並ばなければならない。
2 前項の順番は、乗車後の座席の確保には適用されない。

 (バスの利用)
第九条 バスの乗車にあたっては、バス停の前に順番に並ばなければならない。
2 到着したバスが利用すべきバスと異なった場合は、一歩横に退いてバスを利
用しない意思を明確にしなければならない。
3 前項の規定に従いバスを利用しなかった際も、そのバス停における優先順位
は失われず、次のバスに有効である。

 (自動引き出し機の利用)
第十条 銀行等金融機関の自動引き出し機等を使用する際は、自動引き出し機等
の前に、順番に並ばなければならない。
2 一項に従い順番に並ぶ際に、一台の機械に対し一列に並ぶか、複数台の機械
に対し一列に並び空いた機械から用いるかは各金融機関が定める。
3 各金融機関は、どちらの並び方にするかを仕切りを設ける等の手段で明示し
なければならない。

 (レジの利用)
第十一条 レジスター式の金銭収受機を用いる小売り店舗においては、店舗がそ
の都度開設する窓口の前に、順番に並ばなければならない。
2 第四条の規定に従い列を変更が望ましいと商店が判断するときは、商店の従
業員は「お待ちのお客様どうぞ」等の案内を口頭で行うものとする。

 (チケットの購入)
第十二条 音楽会またはスポーツ大会等のイベントの入場券を入手する際は、窓
口の前に、順番に並ばなければならない。
2 売り出し開始までの時間が5時間を越える長時間にわたる場合は、第三条の
規定にかかわらずマットをしく、荷物を置くなどの手段で代用できる。この場合
、列を離れた場合も優先順位は失われない。
3 前項の規定において、売り出しが開始され列の位置に変動があった場合、列
にその時点でいなかった者の優先順位は失われるものとする。

   第二節 順番の適用除外範囲

 (駅の売店)
第十三条 駅の売店においては順番は適用せず、店員と目があった者を優先とす
る。

 (レジのない小売り店舗)
第十四条 レジスター式の金銭収受機を用いず、天井にぶらさがったざるで現金
の管理を行う小売り店舗においては、順番は適用しない。

 (チケットの電話予約)
第十五条 音楽会またはスポーツ大会等のイベントの電話予約等、一列に並ぶこ
とが物理的に不可能な場合には順番は適用せず、電話が早くつながった者を優先
とする。

 (バーゲンセール)
第十六条 大規模小売り店舗で行われるバーゲンセールにおいては順番は適用せ
ず、商品を早くつかんだ者を優先とする。
2 前項の規定にかかわらず、つかんだ商品を精算するときには第十一条の規定
に従い順番に並んで精算するものとする。

  第三章 権利侵害

 (割り込み)
第十七条 順番の前後関係を無視し、列に割り込むなどの物理的手段により本来
の優先順位より早い優先順位を確保してはならない。

 (管理者の指導)
第十八条 順番の管理者は順番の侵害者に対し、正規の順番に戻るよう注意を促
すことができる。

  第四章 罰則

 (順番の侵害)
第十九条 第十七条の規定に違反した者は、十年以下の懲役又は百万円以下の罰
金に処する。
 
                                [完]



#1322/1336 短編
★タイトル (PRN     )  01/08/05  15:02  ( 48)
お題>かげろう「終わり」  陽印月破
★内容
 おとこが部屋に入ってきた。丸太のように太い足で乱暴にドアを閉めた。
 だんだん気持ちが不安に傾いていく。六畳の部屋に私は独りだから。
 いんきそうなおとこは視線を沈めたまま「あの〜」といった。
 はい? 業務用の笑みを私は浮かべた。
 かなり昔ことで恐縮ですが、とおとこがいった。
 げひんな声だ。私は耳をふさぎたくなった。
 ろくでもない話なのは百も承知です。
 うるさいくらい何度もおとこはそうつぶやいてから、
 おしらせしなければなら無いことがあるのです! と、いって腕を振り回した。
 だいたんにもおとこは机前まできて、私の手を握りしめた。
 いきなりだったので、身構える暇もなかった。
 はらを割って話します。おとこは私の目を見つめて離さなかった。
 かまいませんよ。市の何でも相談員という仕事柄そう応える。
 げんせいで会うのはこれが最後ですが、とおとこがいう。
 ろくでもないと感じたのは間違いではないらしい。
 うんめいですよ。
 おとこが小声でささやき、唇を重ねようとした。
 だめです! と私は叫びたかったが、呼気が漏れただけだった。
 いすくめられた私は身動きもできなかった。
 はっきりといえるのは、おとこの目が優しかったということ。
 かなり長い時間、おとこは私の唇の感触を楽しんでいた。
 げっそりとした、そう男がわたしから離れると、やせ衰えていたのだ。
 ろうそくの燃え残りみたい物ですよ、私はね。と、おとこがいった。
 うんめいってやつは無常でねえ、と話を継ぎ足した。
 おとこに昔……どこかであった記憶がある。私は想い出をあさり始めた。
 だめもと、って言葉があるけど、やはりダメだったようですね。
 いいかげん思い出してもよさそうなものですが。
 はたちになったら私と結婚するといったでしょう? 男は一気にまくしたてた。
 かなり昔、そう私が幼児のころ、誰かとそんな約束をした覚えがある。
 げんきのかけらもでませんよ。といいながらおとこはうつむいた。
 ろくに声も出ない私は、声にならない声を漏らした。
 うんめいですよね、死に神があなたに恋をしてしまい、結婚するなんて。
 おとこは寂しそうな、それでいて暖かな声で私にふれてきた。
 だんだんとおとこの影が薄くなっていく。
 いいんですよ。結婚が人生の墓場なら、私は本望です。
 はなしながらもおとこの姿は消えていく。やがて痕跡すら消えてしまった。
 かなしみが私を支配した。
 げっそりとした顔が脳裏に浮かぶ。
 ろくでもないのは、私の方だったのに・・・。
 うそをついたのは私の方だった。ただアイスクリームが欲しかっただけ。
 おさない私は見知らぬ男をだましたのだ。胸が痛む。
 シニガミカア。いつのまにか、かすれてはいるが声が戻っていた。
 まだ唇に感触が残っている。私はおとこに恋をしたのだろうか?
 いきているうちには答えがでないかもしれない。

 −完−
 
(代理アップbyジョッシュ)



#1323/1336 短編
★タイトル (PRN     )  01/08/05  15:02  (132)
お題>かげろう   「幸福論」・・・・陽印月破
★内容
「あなたって本当に莫迦ねえ」
 雨音に混じって、お題、お題と繰り返しつぶやく俺に安喜は笑いながら肩に手をか
けた。香水のたぐいは娘の栞が生まれてからはつけていない。食べたくなるような甘
酸っぱい香りが袖口から漂うのは栞のものだろう。牛乳に砂糖を入れたような、いや
ミルクセーキにオレンジエッセンスを注いだような……安喜に鼻をつままれて、我に
返った。
「だいたいパパはパソコンばっかりよね〜。栞ちゃん、つまらないねえ」
 安喜が椅子に座った俺を背後から抱きしめた。
「ネットで月刊ノベルってサイト見てたら、小説がのってたわけよ」
 と、俺がいうと、ふーんという言葉とともに鼻息が首筋を撫でてきた。
「インターネットなんて面白いの?」
「そこそこかなあ。こんな土砂降りの休日なんて他にやることないしなあ。で、リン
クたどったらAWCってのがあってさあ、お題を募集してたわけ。俺も何か書こうかな
あ、なんて思ってしまった次第です。はい」
「それで、お題、お題ってぶつぶつ言ってたわけね」
「まあね」
 安喜の腕がゆるみ、俺の元から栞へと流れていった。
「インターネットって危ないんですって」
 キーボードに向き直った俺の背後から、ため息混じりともつかない声が届いた。
「?」
「Hなサイトを見に行って高額なお金を取られた人もいるんですって。今朝の新聞に
でてたの」
「ふ〜ん、うちは国際回線もダイヤルQ2もつながらないようにしてるから大丈夫だ
けどねえ。そんな用心は家の戸締まりと同じ事だよ」
 ハードディスクの不可視フォルダにはHな画像が山ほど入ってる。一瞬、ばれたの
かと思い、声がうわずってしまった。
「そうなの?」
「インターネットもケーブルの先につながってるのはパソコンじゃなくて、つまると
ころ人でしかないんだ。人と人との新しいつながりがインターネットだけど、結局は
この社会の延長線上でしかないと俺は思う」
 安喜は俺にかまわず、栞をあやしだした。栞の短い腕と小さな手が何かを求めて宙
をさまよいだしている。
 メッセンジャーが「ハロー」と声をかけてきたので、「子供が騒ぎ出したから後で
ね。m(__)m」と書いて送信し、不在通知のアイコンをクリックして席をたった。
 栞はリビングの中央に敷いた布団の上いる。
「ちょっと見てくれる?」
 返事も待たずに、安喜はキッチンへと向かった。
 栞の手をつぶさないように包み込む。力を入れれば壊れてしまいそうなくらいだ。
人差し指を栞の手のひらにつけると、握りこんできた。
「はい、はい、栞ちゃんはいいこですね〜。いま、ママがミルクをつくってくれまし
ゅよ〜。待っててね〜」
 まだ首の据わってない栞を抱き上げる。3キロとない重さは異様に軽くて、温かい。
それでも落とすことなどないように慎重に、と自分に言い聞かせた。
「ごめんね。ママのおっぱいでないくて」
 少しばかり悪びれた様子で、安喜が哺乳瓶を差し出した。右手で受け取り、返す刀
で安喜の頬に唇を当てた。
「はい、はい。栞ちゃんにもミルクをすわせてあげてね」と、軽くいなされる。
 栞はむしゃぶりつくと、音をたてて吸い始めた。
「幸せだなあ、と思う」
「えっ、何よ、唐突に」
 安喜が娘の顔をのぞき込みながら、オムツに手をのばした。
「だってさあ、ずっと何が幸せなのかなんて分からなかった。そりゃあ、他人と比べ
て自分の状態が幸せだとかっていうのは分かるよ。でも、幸せだって感じたことがな
かった」
「今は感じるの?」
「もちろん! 安喜がいて、栞がいて、それがとっても貴重なことに思えるんだ。当
たり前の事なんて何もない。栞にとって、俺や安喜がいることは当然のことかもしれ
ない。でも、それは当たり前のことじゃあないんだ」
「……ご両親の命日も近いわね」安喜がカレンダーに視線を泳がせた。
 それ以上、安喜は何もいわず、ただ微笑んでいた。
 俺は栞の頭を肩口に抱き上げ、げっぷが出るまで背中をさすった。
「ウンチしてるみたい。かえてくれる?」
 また返事を待たずに、おしりふきとオムツを置いて安喜は立ち上がった。部屋の片
隅に置かれたパソコンを指さし、電気代がもったいないわよ、といった。
 不在通知がしてあっても、メッセージは届く。メッセンジャーが「ハロー」という
のと、げっぷが出るのは同時だった。
 オムツを取り替えてから、栞を寝かしつけ、パソコンの前に戻った。
 栞は眠りについている。
 安喜はキッチンで洗い物をしてる。
 静かに時が流れる。
 ネットにつながってるのは人でしかない。でももしそれが死んだ両親だったら……
そんなこと妄想だって分かってる。分かってるのに考えてしまう。もし画面に両親が
映って話しかけてきたら……親父の怒鳴り声が聞こえるだろうか? それともおふく
ろの目尻が下がった顔で孫を見つめる姿が……いかにインターネットが仮想現実にた
とえられても、それはありえない。自分で言ったではないか、人としかつながってな
いと。
 大きく首を振ってから、メッセンジャーのメニューをクリックした。
「また変な音がしてるね」と、安喜がいった。傍らでエプロンをはずしていた。
「ああ、最近、唸るような音がするんだよねえ。時折ひどくなる」
 しばらく前からハードディスクが異音を奏でるようになった。風切り音というか唸
るというのか、言葉では適切には表現できないが、おかしいのは確かだ。
「古いから、寿命かなあ。でも完全にいかれるまで、新しいのは買わないけど」
「何だ、別に部品だけかえればいいんだよ。丸ごと買う必要なんかない」
「あら、ホント。それはラッキー」
 パソコンにはうとい安喜がそういって俺のほほをつねった。
「なにすんだよー」怒った振りをすると、安喜は「なんとなく」といって小さく舌を
だした。
 俺は幸福だった。

        *

「どうですか?伊藤さん」
 抑揚も感情も欠けた声でケアマネージャーが尋ねる。
「まさかハードディスクが2台同時にいかれるとは想像してませんでしたが……」
「ミラーリングも完璧な手段というわけではありませんからね。とはいえ、コスト的
にはそれ以上の事はできません。まあ、介護プランに組み込めないのは確かです」
「私とっては楽ですけどね。なんといっても動かないんだから、この人」
 この人と呼ばれた男は小さなベッドに横になっていた。四肢はなく、瞳孔反応もな
い。
 身体を特殊な生体ポリフォレンで覆われ、皮膚呼吸の代用をしている。警部及び咽
頭部には各種ケーブルやホースが取り付けられ生命維持装置に接続されている。頭蓋
には赤銅色のヘルメットがはめこまれていた。ヘルメットからは幅広のケーブルがベ
ッド脇の端末へとつながれている。
 伊藤は電脳介護師として端末の前に座っていた。ハード的な処置を終え、古典的な
キーボードを端末に接続した上で基本ソフトのカーネルをメモリー空間から解放した。
「これで、この人も外に出られるわけですね」
「ええ、さすがに外界を再現するにはメモリーだけではきついですから」
 と、伊藤が応えた。
「幼い頃、両親を交通事故でなくし、本人はガス爆発でこんな姿になって生きている。
しかも妻と赤子を同時に失ってしまった。不幸ですな」
 ケアマネージャーの頬がわずかにつった。
「不幸? それは事実です。でも、いまこの人は幸せですよ」
「なにゆえ。屍をさらしてるのに」
「誰しも、自分より外に幸福なんてないんですよ。幸せなんて、自分の中にしか存在
しないものです。幸せはあるのではなく、感じるものなんです」
「私には理解できませんね」
 ケアマネージャーがそういって背を向けた。
「あなたは幸せですか?」
 伊藤の問いに、ケアマネージャーは「さあ、どうでしょうね。で、あなたは?」
 と、いって後ろ手にドアをしめ、ロビーへと続く廊下へと出ていった。
 外は雨。
 ガラス窓にしずくが伝い落ちる。伊藤は窓のスイング式ロックを外して押し開けた。
 手のひらに感じる冷たさが心地よかった。
 段々と雨足がはやくなる。 遠くを眺めても景色はかすんでいて判然としない。
 もしかしたら、この世界も仮想現実かもしれない、と伊藤がつぶやいた。
「おれは幸せなんだろうか……」2度繰り返してから、窓を閉め、ロックをかけた。
 伊藤は寝たままの男の側にたった。
 男の顔が穏やかに微笑んでいるのを見て、小さくうなずいた。

 −了−

(代理アップbyジョッシュ)



#1324/1336 短編
★タイトル (PRN     )  01/08/18  05:45  ( 74)
「停電という名のオマージュ」 ……陽印月破
★内容
 この掌編は月刊ノベルで青木さんの「停電」を読んでから書いた物です。
 つい続きを考えてしまい、それを文章にしてみました。

  *

「おお、やっと出られたぞ」
 うれしそうにいうそいつの顔が、焦点のずれた懐中電灯に照らされた。光がもっと
収束されれば、レーザー光線になって、懐中電灯の魔神を打ち抜いてくれるのに……
なんて口を開けた状態でおれは考えた。
 魔神は背を向けたまま体を奇妙にくねらせている。
「なんだこれは」
 思わずつぶやいた。
「これ、とは何よ、これとは。失礼な人ね」
 それは、そういった。身長は懐中電灯と同じくらい。
「電池ぐらいまめに交換してよね」と、それがいう。薄衣をまとったそれは、場末の
キャバレーの踊り子と印象が一致する。尻からひょろりとのびたしっぽの先端が矢印
型でなかったら、という条件付きだが。
「なんだこれは」
 おれはもう一度口にした。
 そいつは顔をしかめて、「しつこいわね」とつぶやき、微苦笑を浮かべた。思わず
吸い込まれそうになり、おれは頭を軽く振った。
「わたしは懐中電灯の女神よ」
「めがみ〜?」
「そうよ」そいつは得意げに胸をそらした。小さいプリンが二つ揺れる……そんな幻
想にとらわれ、おれは頭を大きく振った。
「そんなもん、きいたこともねえ」
「莫迦ねえ、ろうそくの魔神なら知っているでしょう?」
「……」
「知ってるでしょう?」
「知りたくなかったけど、知ってる……」
「だったら懐中電灯の女神だっているに決まってるじゃない」
 自信たっぷりにいうそいつを見て、そういえばろうそくの魔神が出てきたときと展
開が同一であることに、やっと気がついた。
 もしかして、おれって間抜け?
 考えるほどに腹が立つ。
 だんだんと自分の声も大きくなっていった。
「納得できない。ろうそくなら滅多に点けることもないが、懐中電灯は世界中で夜な夜
な灯してるはずだ。急におれのところに現れるとは筋がとおらん!」
「ほんと、莫迦ねえ」
 呆れたようにそいつは肩をすくめた。
「ランプがたくさんあったって、それぞれにランプの魔神が住み着いてると思う? 
ろうそくだって同じ事。懐中電灯なら、なおさら。もともと魔神っていうのは絶滅種
みたいものなの、分かる? 希少種っていえば分かるかな? あなた頭悪いわね」
 腰に手をあて、そいつがのたまう。
「だいたい物事は考えてから口にするべきであって、あなたみたいに浮かんだそばか
ら喋るようでは、世知辛い世の中を渡っていけっこないわよ」
 なんでおれが説教を受けねばならないのだ。
 理不尽だ。
「ほら、すぐぶす〜っとする。刹那で顔に出すのがあなたの悪いところよね。仏教で
は顔施っていうの、あなた徳が無いわよ。あはっ。徳がないから地獄行き〜」
 甲高い声が耳障りだ。
「やかましい。いちいち細かいことを気にするやつめ。うざいんだよ! その話題は
もう終わり。終わりったら終わり。絶対に終わり!!」
 けんまくに押されたのか、そいつは黙り込んだ。空白の時が流れ、おれは半ば憮然
としながら問いかけた。
「で、なにしに出てきたんだよ。最初にいっておくが火事はお断りだ」
「よくぞきいてくれたぁ」
 きかなければよかった。
 そいつは軽く身体を弾ませながら「懐中電灯といえば明かり、明かりといえば明る
い、明るいと言えば陽気、リストラにあって職をやむなく離れたあなたを明るくする
のが私のつとめ、具体的には、この踊りで……」
 おれは懐中電灯のスライドスイッチをオフにした。安全のため裏蓋を外して電池を
抜き、床の上に投げ捨てた。液漏れをおこしたのか指先にぬめりを感じる。
 停電はまだとけない。星明かりを頼りに、おれは燃えないゴミの日にだす袋をめが
けて懐中電灯を放り投げた。空き缶にぶつかる音が聞こえてから、洗面所に行きカラ
ンを回した。冷たい感触が全てを洗い流してくれる……それが錯覚だと気がつくのに
時計は必要なかった。
 街灯に明かりはないのに、外がやけに明るかった。窓辺からいやにあごの尖った男
がこちらを見ている。そういえば、今日は三日月だった。
 そいつがにやっと笑ったので、おれはカーテンを閉めた。

 −了−

(代理アップ by ミヤザキ(ジョッシュ改め))



#1325/1336 短編
★タイトル (PRN     )  01/08/18  05:45  (159)
お題>かげろう 「うつせみ」・・・・陽印月破
★内容
 目が覚めてもしばらくは万年床から起きあがれなかった。枕元の目覚まし時計に手
を伸ばすのも億劫で、ただ固まっていた。
 頭が痛い。
 まだ酔いがさめない。しかし……。
 何か重要なことを忘れているような感覚に包まれ、目覚ましをつかんだ。午前10
時をすぎたばかり。一瞬、寝坊したかと思ったが、今日は祝日で会社も休みだ。
 目を閉じても、昨日のことはおぼろげにしか思い出せない。
 カードで給料の某かをおろし、飲みに行ったのは間違いない。
 最初の店は行きつけのスナックだった。歯抜けのマスターが笑い転げていたのを忘
れろというほうが無理だろう。酔いが回ってから、裏小路を抜け……そこから先の記
憶がおぼろげだった。欠けたネオン管の広告塔を眺めながら、薄暗い道をさまよい、
初見の店に入った。名前は思い出せない。たぶん、焼酎でボトルをいれたはずだ。お
金があればいつもそうするのだから、疑う余地はない。
 会話を交わした記憶はあるが内容は定かではない。たぶん話題はHDDカーナビゲー
ションシステムだろう。おれが持ち出す話題といえば最近これだけだから。
 顔は思い出せないが、マスターの口元には豊かにひげが蓄えられていた。その口ひ
げがうごめいて……確か、こういった。
「私の趣味は人を幸福か不幸にすることでねえ」
 そうだ、そういって欠けた小指をこれみよがしに見せつけた。一瞬、ぼったくり
かと思って内心焦った……はずだ。じょじょに記憶の糸がほぐれていく。
「幸か不幸か、だいたい二つにひとつだろう?」
 そういってから、新しいボトルを入れた。どうりで酔いが深いわけだ。
「三密をきわめてからは、いわゆる奇跡をおこせるようになりましてねえ」
 マスターのアフロヘアが揺れていた。段々と輪郭がはっきりとしてくる。
「この店に来る振りの客にはおまじないをすることにしているんですがね」
 いまどき、小学生でもやらない気がするけど。と、たぶん私は応えたはずだ。
 いやちがう、「無料で?」と、きいたんだ。
 マスターは小さく微笑んでから……その先は思い出せなかった。
 しばらく考えたが、考えても虚無しかないので、しまいには考えること自体やめて
しまった。

 顔を洗うと意識が鮮明になってきた。思ったより体調が良いようだ。部屋のコーナ
ーにあるローボードへとまっすぐすすむ。板上にはHDDカーナビゲーションシステム
が鎮座している。電源コンバーターのスイッチを入れ、カーナビを起動する。最新の
カーナビはローンを組んで購入した物で、たったひとつ自慢できる品物だった。性能
も価格も飛び抜けているが、買う価値はあったと思う。
「おはようございます」
 モニターの中でエリカと名付けたバーチャルオペレーターが微笑む。
「やあ、エリカ。おはよう」
「今日はお天気も曇りがちみたいですが、お出かけいたしますか?」
「そうだねえ、たまにドライブでもしたいところだけど、おれ車もってないし」
「デートはお預けということで、ではお話でもいたしましょうか?」
 バーチャルオペレーターは近所で行われるイベントについて話し始めた。
 商品名はBLACK BOX、1-DINコンポのHDDカーナビゲーションシステムとしては、も
っとも性能が良かった。だが購入に踏み切った動機はそこにはない。バーチャルオペ
レーターが別れた彼女に似ていたから、の一点につきる。
 振られたわけでも無かった、振ったわけでもない。自然消滅という言葉がいちばん
自然に感じられる。きっと彼女は燃えないゴミの日におれとの思い出を袋に詰めて送
り出したことだろう。
 それが自分にはできなかった。
「未練なのは分かっているけど……」
「未練ですか?」
 思い出の中の彼女はくせのないストレートなヘアで、笑うとえくぼができた。バー
チャルオペレーターにはそれがなかった。
「そう、未練ってやつさ」
「キーワードの入力を確認しました」
 と、彼女に似たエリカがいう。
「キーワード?」
「はい。キーコマンドの入力により、上位オペレーションシステムを稼働する、とい
うことです」
 何がなんだかさっぱり分からない。
「……デハ、サヨウナラ、タカアキサン」
 ブラックアウトした。モニターは黒いままだ。今の彼女にはえくぼがあったように
見えた。錯覚だろうか?
 思考はそれ以上すすまなかった。モニターが閃光し、瞼を閉じたからだ。
「じゃじゃじゃじゃ〜ん」
 うっすらと目を開けると、アフロヘアでひげもじゃの男がいた。眉毛も濃い。足元
を見ると皮靴を履いていた。なぜか宙に浮いている。
「マ、マスターか?」
「イエース。ヨーガマスターとは我なり。我はヨーガマスターの影なり。願い事を三
つ叶えるヨロシ」と、踊りながら。
 実際のところ、思惟もなにもなかった。
「エリカに逢いたい……」
「イエッサー」
 また、そいつが踊り始め、おれは我に返った。
「ところでおまえは誰だ?」
「ヨーガマスターとは我なり。ヨーガマスターの影なり。呼びにくかったら「影」と、
よんでも可なり。二つ目の願い事を先に叶えたなり」
 よく見ると、右手にも左手にも小指がある。と、いうことは昨日のマスターとは別
人か、それが影という意味になるのか? それにしても……
 古典的に頬をつねってみた。痛かった。
「じゃじゃじゃじゃ〜ん」と、影がいうと、全てが霞に覆われ、ゆっくりと晴れてい
った。
 霞の先に目を閉じて裸のまま立っているエリカがいた。彼女は身じろぎもしない。エ
リカの身長はおれと同じくらいだった。瞼の裏に浮かぶスレンダーなボディ。華奢
な指先。いまもそれは変わらない。
 無意識に生唾を飲み込んだ。震える指先で彼女の肩に触れた。
 カサッという音がした。紙に触れたような感触しか指先にのこらない。おそるおそ
る横に回り込む。彼女の厚さは1ミリもなかった。
「もしかして、バーチャルオペレーターのエリカなのか? ……これは願い事じゃない
、独り言」
「おっ、反応が早いねえ。そうなり、第一の願い事を叶えたなり」
「エリカ違いじゃないか? ちょっと、待ってくれ」
「第三の願い事は、ちょっと待ってくれ、ってことなりか?」
「いや、独り言」
 沈思黙考。まずい、まずいぞ。という言葉だけが頭の中を駆け回っていた。
「タカアキさん。おはよう」
 厚さ1ミリ弱のエリカが微笑んだ。そこに天使がいるようだった。
「おはよう、エリカ」
 反射的に応えた。
 願い事はあと一つ。何を願えば自分にとって一番よいのだろうか?
 大金を願えば? 鉄のかたまりが振ってくる可能性がある。
 通帳に一億ぐらいいれてもらうとか……おろしにいったら入力ミスといわれるかも
しれない。
「制限時間はあと三分」と、影がいった。
 時間制限か、これはきつい。下手な願い事をするわけにはいかないし、かといって、
時間切れもいやだ。
「幸福になりたい」
「具体的な項目がなければお引き受けできないなり」
「では、第三の願い事は、おれの願い事を死ぬまでずっと叶えるってことで、どうだ
ろう?」
「却下、願い事はあと一つしか叶えられないなり。それだと無限に近いなり」
「……」
「あと二分なり」
 影がゆらゆらと踊り始めた。
 懸賞で車を当てたい、これなら叶いそうだ。
 昨日買ったドリームジャンボ宝くじで特賞を当てたい、これでもいけそうだ。
 これが一番いいのかもしれない。しかし……
「タカアキさん、ドライブはどこにいたしましょう?」
 エリカがおれに尋ねた。右頬にえくぼがうかんでいた。
 ドリームジャンボで連番大当たり、というのが一番儲かりそうだ。
 これなら、影もきちんと願い事を叶えてくれるだろう。
 エリカはうつむきがきちに、サヨウナラデスカ、タカアキサンといった。
「あと一分なり」
 おれはまだ考えていた。
「あと30秒……15秒……5……」
「わかった彼女を……エリカを人間にしてくれ。普通の人と同じように歩けて話せて
……」
 影が自分の唇に人差し指をあてた。
「みなまでいうな。わかっておるなりよ」
 また踊り始めた。先にもまして激しい踊りだった。

 数ヶ月後の小春日和の日、おれはエリカと腕を組んで街中をウインドウショッピン
グとしゃれこんでいた。信号機のある交差点で青に変わるのを待っていたとき、横に
並んだ女性が声をかけてきた。
 でっぷりとした体躯に銀縁の眼鏡をかけている。小さな女の子と右手をつないでい
た。
「エリカ……か?」
「タカアキは変わらないわねえ。あれから……30年はたっているのに」
 と、いって彼女が笑い出した。
「おばあちゃん?」
 と、小さなな女の子がいった。わたしももうおばあちゃんよ、といって彼女がまた
笑った。えくぼがまぶしかった。
「娘さん? 私の若い頃にそっくりだから正直いって驚いちゃった」
「いや、嫁さん。結婚はまだだけど」
 戸籍がないから法律上の結婚はできない。
「お名前は?」
 エリカが彼女に名前をつげようとしたとき、信号が青に変わった。
「いくよ、おばーちゃん。はやくー」
 孫娘が走り出したので、彼女もつられて走り出した。
「おしわせにね」と、息を切らせながら彼女がいったように思う。
 ため息を一つついてから、おれはエリカと一緒にゆっくりと歩き始めた。
 あれから名前の知らないスナックを探してみたが見つからなかった。マスターにも
出会うことはなかった。HDDカーナビゲーションシステムは二度と動くことはなかっ
たが、それはそれでかまいはしなかった。
「私もあんな女の子が欲しいな」 エリカが小声でつぶやいた。
 おれは何も答えず、ただ彼女の肩を強く抱いた。

  −−了−−



#1326/1336 短編
★タイトル (EJM     )  01/08/31  18:12  (190)
お題>かげろう       青木無常
★内容
「リエ、ブルー・ゾーンて知ってる?」
 と真奈美がいいだしたとき、私はああまたか、と思っただけだった。
 そっけなくいいえとこたえると、真奈美は静かに微笑みながら話をつづけた。
「別の世界のことよ。この世と幽冥(かくりよ)との境の世界。私たちがいるのとは
まったく別の、海の底みたいに平安にみちた安らぎの国」
 有名大出で一流企業のOLでもある真奈美は案の定、おちついた、それでいてど
こか熱にうかされた口調で説明をはじめる。いわく、イギリスの高名な心霊研究家
によって名づけられた、いわく、私たちの世界に隣接するかたちでゾーンはどこに
でも存在する、いわく、ゾーンによって古今東西のあらゆる神秘現象、超常現象は
説明づけることができる。いつものお題目。
 真奈美とは子どものころ、よくいっしょに遊んだ。いわゆる心霊少女の彼女と遊
びたがる子どもはいなかったから、当時は私がほとんど唯一の友人だった。
 あまり活発ではなかった真奈美と遊ぶときはたいてい、彼女の部屋だった。
 たわいのないおしゃべりを除けば女の子らしくお人形遊び、といったところが私
と彼女との交流の主たるところだったが、ときおりはまったく違った色の時間に支
配されることもあった。
 それが超常現象に関する話だった。
 もちろん、どこそこの交差点には交通事故で死んだ子どもの霊が地縛されている
とか、駅わきの踏切は自殺者の霊の吹き溜まりでそれにとり憑かれたひとがまた自
殺するとか、そういったたぐいの話を淡々と語るのは真奈美のほうで、私はもっぱ
ら聞き役に徹して彼女の一言一句に悲鳴をあげたり身を縮めたり抱きついたりをく
りかえしていた。ふだんは気の強い私がそんなふうにおびえたり心細げにしている
姿は真奈美にとっても快かったのかもしれない。何より私自身、おびえる一方で真
奈美のそういった話を心待ちにしている自分に気づき、どこかくすぐったいような、
奇妙な違和感をともなった吸引力を彼女に感じていたのはまちがいない。
 中学にあがる直前に親の都合で引っ越してから、真奈美とは音信不通が何年もつ
づいていたのだが、去年の春にふとしたことで再会を果たす。
 大学時代からひとり暮らしを始めていたけど、就職を機にマンションをかえた。
その引っ越しさきで、ひとつおいた隣室に住んでいたのが真奈美だったのだ。
 偶然の再会を境に私たちの交流は復活したけど、ひとつだけ昔とちがったところ
があった。子どものころにはあれほど真剣にきいていた真奈美の心霊話が、いまの
私には与太話にしか思えなくなっていたこと。
 大学時代、新興宗教にはまった友人がいた影響が大きかったと思う。どう考えて
もキリスト教と仏教のよせ集めにしか思えない教義を得々と語りつつ入信を強固に
勧める友人の語る話のなかには、かつて真奈美からきかされた心霊話と共通する部
分が少なからず見受けられた。はたから見ればおとぎ話にすら劣る整合性を欠いた
教義を本気で信奉する友人の姿に恐怖すら禁じ得なかった私にすれば、再会した真
奈美の語るむかしどおりの心霊話はむしろ牧歌的にすら思えたが、かといって少女
のころのように全霊でそれを受けとめるには私は育ちすぎたのかもしれない。むか
しと変わらぬ真奈美に安堵を覚えると一方で、うとましさを感じなかったといえば
嘘になる。
 ただ、再会を果たしてからは毎日のように私の部屋をおとずれる彼女だったが、
ときおり思い出したように幽霊話をはじめることを除けば特に問題があったわけで
もなく、むしろ真奈美の存在は私にとって歓迎すべき友人であることはまちがいな
かった。だから、なかば呆れつつも彼女がそのたぐいの話をはじめたときはおとな
しく聞き役にまわるのが常だった。もっとも、むかしのように心底から彼女の話に
浸かりこんで、ともに抱きあいおびえあうようなことはなくなってしまったけれど。
 だから、彼女がブルー・ゾーンとやらの話をはじめたときも、ああいつものあれ
だな、と思っただけで格別注意を払うことはなかった。
 あやしげな宗教がらみの話だったら、私ももうすこし気をつけていたかもしれな
い。いま思えばたしかに彼女は、とり憑かれたような目をしていたし、話自体もい
つもの心霊話とは微妙にちがっていた。
 だが私にはブルー・ゾーンとやらも地縛霊だの浮遊霊だのといった話も区別はつ
かなかったし、彼女が見せていたわずかな変調の兆しにもまったく気づいてはいな
かった。
 就職して二年め、いよいよ本格的な仕事もまかされるようになって忙しく、疲れ
ていたという事実もあった。帰宅するのは終電間際という日もたびたびあったし、
そういったときは真奈美の相手をしている余裕もなくあわただしくシャワーを浴び
てベッドにたおれこむのが常で、そんな時間にもかかわらず呼び鈴が押されること
も一、二度はあったが夢うつつのままきき流していたし、元来が控えめな真奈美に
は、むしろそういった行為こそ例外的で幾度もつづくことはなく、疲労と不本意な
がらの充実にまぎれてそういったことがあったという事実さえ忘れていた。
 それが、彼女の発していた救難信号なのか――あるいは、学生時代の友人のごと
くの、楽園への勧誘のあらわれであったのか、いまとなっては私には区別がつかな
い。
 けれど――少ない機会を得て訪れた真奈美が“ブルー・ゾーン”の話をするとき、
なんともいえぬ安らぎにみちた至福の表情を彼女が浮かべていたことだけは思い出
せる。
 宗教にはまった人間が吹き出させる、あのどうしようもなく独善的でおしつけが
ましいオーラを彼女が放っていたとしたら、疲れ果てていた私でも何かおかしい、
と感じたかもしれない。残念ながら、真奈美は一度を除いて最後まで控えめだった。
 唯一の例外。そしてもしかしたら――彼女をこの現実にひきとめておけたかもし
れない、おそらくは最後の機会。
 その日私は休日にもかかわらず仕事先から急の呼び出しを受けて、無給の奉仕を
謹上する羽目となった。陽の残るうちにマンションへ帰りつけたのはいつもに比べ
ればたしかに早かったけれど、休みをまる一日つぶされての帰宅はいつもにも増し
て疲労感を助長していた。
 はっきりいってあまり機嫌はよくなかったし、せめて残された就寝までの時間だ
けでものんびりと過ごしたい、と考えていたところへ真奈美の訪問を受けた。
 どうでもいいと思いつつ請われるまま彼女の部屋を訪れたのも何かの符合だった
のかもしれない。こともあろうに真奈美は「ブルー・ゾーンがまたあらわれたの。
いま開いてるのよ、口が」などと譫言としか思えないセリフとともに私を誘ったの
だ。
 そういえば近頃は真奈美のする話はもっぱらブルー・ゾーンに関することに限ら
れていて、しかもそれが自分の身近に何度となくあらわれるのだというようなこと
も確かにいっていたな、と何となくは思い出したが、もちろんいつもの話と区別は
つかなかった。
 邪険にするわけにもいかず、かといって真剣にとりあう気にもなれず、どうでも
いいから早く終わらせてゆっくり自分の部屋の湯船につからせてくれ、などと思い
つつ、いつになく強引に私の手をとって先導する真奈美にひきずられて彼女の部屋
を訪れた。
「ほら、あそこ」
 有無をもいわせず寝室まで私をひきずっていった真奈美が、得意げにベッドの上
をさし示す。
 ブルー・ゾーンがひらいていると主張する彼女の指さす先を見ても、最初ははっ
きりいって何もないとしか思えなかった。あまりにも一途に主張する真奈美の懸命
なようすを目にしていなければ、最後まで気づくことなくもう勘弁してくれと早々
に退散したかもしれない。しかたなしに彼女のさし示す方向に目をこらし――
 ベッドの端、ちょうど彼女の枕があるあたりの壁ぎわに、それを見つけた。
 何か、ゆらめくもの。
 いわれてみれば、どこか異界へとひらいた門のように見えなくもない、奇妙なゆ
らめき。
 空気の温度差によって現出するゆらめきのごとく、少し気をそらせば見えなくな
ってしまいそうなささやかな異象に過ぎなかった。事実、炎天下の路上ででもあれ
ば単なるかげろうの一言でかたづけられるだろう。室内のベッド上で起こるにはそ
ぐわない現象だが、当の真奈美自身に危機感が欠落しているどころかむしろそれを
歓迎している事実もあって、だからどうした、という程度にしか私には感じられな
かった。
 いちおうは本気で驚き、一瞬は目を見はりもしたが、少し視線をずらせば見えな
くなってしまう程度のゆらめきだったし、見ているうちにそれもやがていつのまに
か消えてしまった。いつなくなったのかもわからない。とにかく、手でふれてみよ
うとベッドわきまで足を運んだときには、もうすでにそのかげろうじみた異象は霧
消していた。
 気のせいだったのかもしれない。まるで子どものように懸命に異界の現出を主張
する真奈美のけなげさがいつのまにか私にも伝染し、一瞬だけ共通の幻を垣間見せ
ただけなのかもしれない。
 狐につままれたような想いで何もない空間に手をふりながら、私はそう考えた。
するとそれが唯一のあり得べき可能性と思われ、ついさっき目のあたりにしたはず
の奇妙な現象そのものが、気の迷いに過ぎなかったとしか思えなくなった。
「消えちゃった」
 そこはかとない喪失感をただよわせて真奈美がそうつぶやいたとき、一瞬は賛同
の想いを抱いたもののすぐにわれに返り、かといって彼女の思いこみを合理的な説
明で封殺する気にもなれず、疲れているからといい置いてひとり自室へと帰った。
 それから彼女が私の部屋を訪れたのは二、三度だったと思う。ブルー・ゾーンが
だんだん定着するようになったの、そういったようなセリフを真奈美は口にしてい
た。それ以外はあまりものをいわず、ただ夢みるような目であらぬ虚空をながめて
いた。例によって私は忙しさのあいまをぬっての在宅で、蓄積された疲労が気分の
大半を占拠していたから彼女の話をまともにはとりあわなかった。
 真奈美が私の部屋に来なくなったことに気づいたのは、うかつにもそれから一月
近くが経ってから。
 心配になって訪ねてみると、ドアをあけた彼女はまるで寝起きのようにうつろな
目つきであらわれた。
 瞬時、あまりの異様さに言葉を失い、まじまじと彼女の顔を見つめる。身だしな
みは整っているし血色も悪くはなかった。病気で伏せっていたというわけでもなさ
そうだが――どこか病んだものを感じたのだ。
 そんな私のようすには気づかぬように、彼女はうつろな表情でかすかに微笑んだ。
「ねえ、ブルー・ゾーンはどうなってるの?」
 冗談めかしてそうきいてみると真奈美はのろのろとうなずきながら、
「うん。もうすこしで入れそうだよ」
 気のぬけた口調でたしかにそういった。
 そのとき強引にでも、寝室に押し入っておけばと悔やんでいる。
 それを許さぬように真奈美は、じゃあ、といって呆然としている私の目の前で扉を
静かに閉ざした。思い返せばこれもまた、それまでの真奈美なら決してやらなかった
たぐいの行為だ。
 もう一度ドアを叩こうとしたが、思い直したのは――彼女が迷惑そうだったから、
というのは単なる理由づけ。ほんとうのところは、恐かったからかもしれない。
 ともあれその場は、そのまますごすごと退散し、その後も忙しさにまぎれて彼女の
部屋を訪ねようとはしなかった。気にはなっていたけれども。
 一週間。
 そのあいだに何が起こったのかはわからない。
 珍しく早い時間に上がることができた夜、彼女の部屋の前で所在なげにたたずんで
何やらささやきあう二人の女性に行き当たり、いやな予感を覚えつつどうかしたのか
と声をかけた。
 二人は真奈美の会社の同僚で、二週間近くも無断欠勤して連絡もとれない彼女のよ
うすを見るために、なかば上司に強要されるかたちで訪問したのだという。呼び鈴を
幾度押しても反応はなく、かといって外から見れば部屋には照明が灯されているので
不在だとも判断しきれず、どうしようかと相談していたところだったらしい。
 動悸を抑えつつ私も呼び鈴を押し、声を出して呼びかけながら何度もノックをくり
かえしてみたが、やはりいつまで経っても応えは返らなかった。
 同僚二人は、関わりあいにならず早く帰りたい、かといってこのまま帰るわけにも
いかない、という相反した気持ちに自縛されて身動きならないといったようすで、し
かたなく管理人に電話をする。勝手に部屋をあけるわけにもいかないと至極常識的な
主張をゆずらぬ管理人と四人、困惑の時間を無為に消費し、真奈美の実家や警察にま
で連絡を入れ、ようやく禁断の扉がひらかれたのは真夜中近くになってのこと。決め
手になったのはこのままでは帰るわけにはいかないが電車がなくなってしまう、との
妙齢の若い女性二人の懇願だった。
 ひらいた部屋のなかには、生活感が欠落していた。
 わずかに寝乱れたままのベッドが唯一、ひとのぬくもりを感じさせたが、それも何
かの事件の痕跡を感じさせるほどではない。なにひとつ異常などない、ただ主の姿だ
けを欠いた空疎な部屋。
 もちろん口にはしなかったけれど、あの日垣間見た、かげろうのような“何か”も
そこには、かけらさえ存在しなかった。
 ただそこに横たわっていた女性が忽然と消失したのだとでもいいたげに、申し訳程
度にひとの形を残したベッドがひとつ。
 何が起きたか想像がついたのは、たぶん私だけだっただろう。警官や管理人はもち
ろん、会社の同僚も特に真奈美と親しかったわけではないらしい。
 もちろん――私が想像した彼女の行く末も、単なる想像に過ぎない。身近なものに
はあまりにも突発的な、それでいて世間的にはありふれた、単なる失踪事件として事
態は処理されたし、私だってなかばはそうであるのだろうと考えている。彼女の心の
なかで何が起こったのかはわからない、でも、なにもかもを捨てて行方をくらませて
しまいたい何かが、彼女に起こったのだろう、と。財布や貯金、あるいは身のまわり
のものがなくなっている形跡がないという点も、割によくあることなのだと後に警官
が語っていた。
 けれども、なくしたと思っていた私の心のなかの――そう、小昏い部分は主張する。
 真奈美は、この世界ではないどこか、明と暗の境にある私たちには踏みだし得ない
どこかで、いまでも確かに存在しているのだと。
 そこが彼女の語っていたとおり、安らぎと平和にみちた楽園であるかどうかはわか
らない。ただ私の閉じたまぶたの向こうにいる彼女はいつも、かすかな笑みを口もと
に浮かべつつ静かに寝息を立てている。
                              かげろう――了



#1327/1336 短編
★タイトル (SGH     )  01/08/31  19:55  ( 63)
毒舌ニュース   沖田珂甫
★内容
『売り上げ激減のIntel社 「本業で挽回」と自らを鼓舞』

Intel副社長兼プロセッサ事業部長のGabi Singer氏は、米サンノゼで開催している
Intel Developer Forum Fall 2001 (IDF)の4日目(現地時間2001年8月30日)、
「Enterprize Technologies - Innovations and Directions」と題した基調講演
を行った。
この中でSinger氏は、IntelのIA-64(64ビット)アーキテクチャ・プロセサ
「Itanium」ファミリ・ロードマップの概要を発表し、今後IA-64プロセサは1年ごと
に世代交代していくことを明らかにした。

既存のソフトウエア、ハードウエア資産の流用を妨げ、製品寿命を短縮して買換え需
要を促進し売上を確保することが主目的であり、ハードウエアバグが問題化する前に
次世代製品に引継ぎ、批判を回避するという意図も含まれている。現在のPentium4で
採用されており、また初代Pentiumでも採られた、次世代PCへの既存資産の継続使用
を不可能にすることで周辺企業の需要も喚起するという、
「企業に優しく、消費者に厳しく」
という従来の戦略を踏襲したものである。
ハードはあるがその機能を使えるOSが無いために売上が伸び悩むという過去の轍を踏
まぬよう、Microsoft社へ協力を要請している。これを受けてMicrosoft社では「デバッ
グなんて売上に貢献しない作業は規模を縮小して、新たな製品開発に注力していく」
との姿勢を示しており、WindowsMEのSPを提供しないままWindowsXPをリリースする
など、Intelに全面的に協力する方針である。

まず、2002年にはItaniumの次世代品「McKinley」を出荷する。採用する製造プロセ
ス技術は0.18μmで、CPUチップに集積する3次キャッシュ容量の違いによって、バック
エンド・サーバー用(3Mバイト)とミッドレンジ・サーバー用(1.5Mバイト)の2種類
を用意する。なお、現Itaniumは、CPUチップとは別チップで2Mバイトまたは4Mバイト
の3次キャッシュを搭載している。McKinleyに集積する3次キャッシュ容量は少なくな
るが、CPUチップに集積することでキャッシュへのアクセス時間が短くなる効果がある。
2次キャッシュ容量は96Kバイトから256Kバイトに増えた。

CPUコアに集積する整数演算器を6個(現Itaniumは4個)に増やすとともに、二つのロー
ドと二つのストアを同時実行できるようになった(現Itaniumはロードを2個またはスト
アを2個同時実行)。演算器に対して同時に発行できる命令数を9個から11個に増やす。
動作周波数は800MHzから1GHzに引き上げる。

外部バスのデータ・バス幅は64ビットから128ビットに広げ、同期周波数も266MHzから
400MHzに引き上げる。これによって、外部バスのデータ転送幅能力は2.1Gバイト/秒か
ら6.4Gバイト/秒へ大幅に高くなる。

これらの強化によって、McKinleyは現Itaniumと比較して1.5〜2倍の性能向上を見込め
るという。現Itanium用にコンパイルしたSPECint 2000のコードをMcKinley用に再コン
パイルせずにMcKinleyで実行しても、1.7倍性能が向上するとしている。

現ItaniumからMcKinelyに移行するには、パッケージが異なるためMcKinley用のマザー
ボードを必要とする。しかし、2003年に登場予定のMcKinley次世代プロセサ
「Madison(開発コード名)」は、McKinleyと端子互換になる。これによってM/Bメー
カーでの設計作業の軽減が図れ、Itanium用のチップセットとの互換性は機能を制限さ
れるという仕組みであり、Microsoft社との連係により新機能を組み込むことで消費者
の買い替え需要を促進する。
チップセット供給メーカーであるIntelとM/Bメーカー、OSを提供するMicrosoftにとっ
てはメリットがあるが、消費者の利益は皆無となる見通し。「端子互換」という表現は、
あくまでも消費者の批判をかわすための方便である。Madisonは0.13μm技術を使って製
造することで、集積する3次キャッシュ容量を3M/6Mバイトに増やす。

2004年にはMadisonの次世代品を投入する計画があり、マルチスレッド技術やマルチダ
イ技術を採用する予定。

このIntelの基調講演について、他のプロセッサメーカー(AMD、VIA)は「従来通りの
消費者を無視した戦略であり、我々の対応に特に変更は無いがMicrosoft社へは釘を刺
すつもりである」との非公式なコメントを出したらしい。




#1328/1336 短編
★タイトル (SGH     )  01/09/09  22:46  ( 43)
毒舌ニュース9/9号   沖田珂甫
★内容
 『放置プレーの次は縛り!<Yahoo! BB』

 公称最大速度8Mbpsを歌い文句にブロードバンド事業に
参入したYahoo! BBだが、9/6以降の新規申込者には従来の

「放置プレー」に加えて「一年間の縛り」

サービスを提供することを(ひっそりと)表明した。

 「低料金」と「高速な転送速度(あくまでも最大値)」を看
板に掲げてユーザーを魅了する一方で、大々的な「放置プレー」
を展開していたが、今回の「縛り」に関しては否定的な意見し
か出てきていない。

 20年近い歴史を誇る『大きな耳たぶ』(仮名)では

「前回の放置プレーについては拙いながらも評価するが、今の
段階で縛りに移行するのは時期尚早。そもそも放置プレーの醍
醐味は奴隷に『ご主人様(女王様)、早く!』と“おねだり”
させることなのだが、今ひとつ不十分だった。
長期間の縛り(緊縛プレー)の場合、奴隷に『ご主人様(女王
様)無しではいられない』という意識が不可欠だが、他店で同
様のサービス開始のアナウンスが矢継ぎ早に出されている現状
では客離れを促すだけ。損氏はSMというものを全く理解でき
ていない。
まぁ、会員制の店を切り盛りするだけの器量じゃなかったとい
うことかな。例えるならば損氏は、せいぜいぼったくりキャッ
チバーの客引き程度がお似合い」

と辛らつな評価を下している。

 このコメントに代表されるように、風俗業界では損氏の株は
急下降しており、

「そもそも損氏の顔は“ご主人様”と言うには...」
「やはり女王様でないと...」

などと、やや見当外れのコメントまでもが飛び交っている。

 なお、この情報が某掲示板を中心に流れてから、2日間でキャ
ンセルが1万人弱出た模様。これは現在の奴隷... もとい、開
通済みのユーザーの25%に相当する人数で、開通待ち奴隷...
もとい、申込者(Yahoo! BB発表)の2%に相当する。



#1329/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/09/11  23:47  (150)
「俺は時計の中」    時 貴斗
★内容
 俺は時計の中にいる。巨大で、なおかつ高級なやつだ。縁の部分で、
走っている。文字盤とガラスの間にはさまれている。幅は一メートルほ
どだ。笑わないでほしい。だってみんな同じようなもんだろ? 口から
出た途端に、胴の中に戻ってしまうクラインの壷とか、たたくたびにビ
スケットが二倍に増えていくポケットの内側とか、どうせそんな所にい
るんだろ?
 ほうら! も一つたたくとビスケットが千二十四。
 も一つたたくとビスケットが二千四十八。
 足元の床はリング状で、俺が向いているのとは反対方向に、ずっと動
いている。ベルトコンベアーみたいによ。だから、俺は走り続けなけれ
ばならない。少しでも休めば、上に押し上げられ、転がり落ちてしまう。
 まるでかごの中のハムスターだ。丸いやつの中、走ってるだろ? あ
れ、名前なんて言うんだっけ。あの丸いやつ。まあ、どうだっていい。
 ガラス板の外で、監督が怖い顔をしてにらみつけている。俺が休まな
いように、見張っているんだ。
 俺は気を紛らわせるためにいろんなことを想像する。あっ、思い浮か
んだぞ。ドミノ倒しをするんだよ。こう、北極点から始めてな、渦を巻
くように並べていくんだ。で、延々続けてだな、やがて南極に到達する
んだ。すげえぜ、こりゃ。地球はドミノで真っ黒に埋め尽くされるんだ
よ。飛行機で北極に戻って最初に置いたやつを指でちょん、と突く。長
いながーい時間をかけて、そいつらが倒れていくんだ。最後まで行った
ら感動もんだぜ。その直後に地球が爆発してなくなったっていいくらい
だ。
 問題なのは、表面にいる人間とか、その他の動物とか、林とか建物だ
な。意外にでこぼこしてやがる。どうやって並べるんだよ! とりあえ
ず、動いているものをなんとかしなきゃなんねえな。時間を止めるか。
 時間を止める、か。くそ! この時計、止まってくんねえかな。
 あ、海もあるぞ。ドミノって、浮いていられるのかな。人間が大丈夫
なんだから平気だろ。でも立てられねえな。だめだこりゃ。
 はーあ。俺っていつからここにいるんだろうな。生まれた時からこう
してるんなら、クラインの壷とか、北極とか、知るわけねえな。昔、豆
腐の角に頭をぶつけたら、どうなるんだろうなんて、くっだらねえこと
考えてさ。本当に豆腐の角に頭をぶつけてみて、その途端にここに来た
んだっけかな。覚えてねえや。
 監督が鞭をふりやがった。でもガラスでさえぎられているから平気だ。
 朝七時を過ぎても、飯が食えねえ。十二時になっても、昼食はねえ。
三時になっても、おやつはねえ。――食うことばっかりだな。
 パソコンがなくても、テレビがなくても、生きてはいける。でも、お
まんまは必要だな。
 夜の十一時、十二時を過ぎても眠ることはできねえ。
 じゃあ、俺っていったいどうやって生きているんだ?
 あの長針につかまりてえ。そしたら、足を休めることができる。
 分針は動きが速そうだな。時針の方が楽だ。秒針は無い。
 ――部屋の中が洋服ダンスだらけだったら、どうしようか。正確に、
縦横に整列しているんだ。扉が観音開きになっていて、棒があって、そ
れにハンガーで服を掛けるタイプのものだ。俺はそのうちの一つを開け
る。中にはズボンばかり吊るされているんだ。これじゃないな、と思い、
次のを見る。パジャマがたくさんある。これでもない。次のやつには背
広だけが、次のやつにはTシャツだけが吊られているんだ。これかな?
違う。これかな? 違う。そしてついに、探していたものを見つけるん
だ。タンスの中に、一回り小さいタンスが入っている。それを開けると
またタンスが、それを開けるとまたタンスが……。
 で、最後のやつはもう、靴を売る時に入れる箱くらいの大きさしかな
いんだ。そして、それを開けると……わああっ。
 あらゆる悪夢が飛び出してくるんだよ。罪と罰で世界が覆い尽くされ
るんだ。
 ってことは何か? 俺は潜在意識下で、パンドラの箱を求めているの
か? まあ、そうかもしれねえなあ。
 俺の右側はガラス板だからいいが、これがもし時計だったらどうしよ
う。しかも左側の二倍の速さで動いているんだ。時間の流れがふたつあ
るんだ。そしたらもう、どっちが正しいのか分からねえ。
 どう目に映るんだろうな。嫌だな。
 こんなクイズがあったな。内側が全て鏡になっている球の中に入った
ら、どんなふうに見えるか? 答が思い出せねえ。いや、それだってき
っと不快な風景に違いないと思ってさ。
 監督が腕時計を見てやがる。こんなでかいのが目の前にあるのに、な
んでそんなことするんだろ。
「金魚ーえ、きんぎょー」っていう声が聞こえるから、行ってみたら豆
腐売りだったらどうだろう。しかたねえから買って、家に帰って醤油か
けて食ったらいきなり口の中でぴちぴちはねるんだ。あ、中に入ってや
がったのか。そしたらどうするよ。飲んじまうか。で、腹を軽く二、三
度たたいて吐き出すか。そしたら新聞紙を束ねてひもで縛ったやつに変
わってやがんの。どんな口だよ。
 おかしいなーと思ってたら、次の日同じおやじが「さおやー、さおだ
けー」って歌ってんだ。新聞持って文句言いにいったら、「うーん、その
分量だとこれだけだね」ってトイレットペーパー一つ渡されるんだ。ち
り紙交換かよ! って言うかお前、何屋だよ!
 あ、さっきのクイズの答、思い出したぞ。真っ暗で何も見えない、だ。
右が時計の場合も同じだな。ここ、ガラス板ふさがれたら光入ってこな
いからな。
 あーあ、足が疲れる。
 マッチ買いの少女っていうのがいなくて良かったな。貧乏な彼女に謎
の人物Xから与えられた任務は、三時間以内にその辺を歩いている人か
らマッチを買うことだ。Xは非情だ。遂行できなければワニの餌にされ
てしまう。

 マッチを売って下さい。ああ、ああ、おじさん、マッチを売って下さ
い。寒いわ。こごえそう。なぜお店で買ってはいけないのかしら。そし
たらすぐ済むのに。あ、あのおばさんはやさしそう。すみません、マッ
チを売って下さい。ああ、そんな目で見ないで。もう時間がないんです。
なんてこと! あと三十分しかないわ。私、ワニの餌にされてしまうん
です。ああ、行ってしまった。
 あ、あの子マッチをすっているわ。私と同じで、不幸せそう。ねえ、
お願い。私にそのマッチを売って。何かつぶやいているわ。
「おいしそうな鵞鳥」って、私の話、聞いてる? 「きれいなクリスマ
スツリー」って、そんなものないわよ。
 かわいそうに。この子も私と同じで貧乏なんだわ。きっとこのマッチ
を売ろうとして一本も買ってもらえず、寒さと空腹のために幻を見てい
るのだわ。あ、そんなに無駄にすらないで。もったいないわ。なんとい
うこと。今ここに、のどから手が出るほど欲しがっている人間がいるの
に。早く気づいて。
 え? 「おばあちゃん、私も連れていって」って、ちょ、ちょっと、
行っちゃだめ! だめだってば!
 ああ、神様、この子と私にお慈悲を。
 そうだわ。これ、もらうわね。お金、ここに置いておくわね。私急ぐ
から。有難う、有難う。

 ちぇっ、泣けてくらあ。マッチ買いの少女がいなくて本当に良かった。
 あと、モアイとピラミッドがバミューダトライアングルの上に浮いて
いたらすごいぞ。ついでに、その海底にはアトランティス大陸があるん
だ。それぞれの摩訶不思議なパワーが渾然一体となり、とんでもないこ
とになるぞ。そんな所を航空機でも通ろうもんなら、そりゃあもう、間
違い無く消えるね。で、気がついたら火星だな。なんか変だなーと思っ
てよく見たら、表面に人面石がたくさんあって、こっちを見てにやにや
笑ってるんだ。と思ったら次の瞬間には宇宙の果てだね。羽根が生えた
巨大な人がふたりいて、ウェルカム! って顔してんだ。
 油断していたら今度は未来だ。おおお、これは西暦何年に消えたボー
イング何号だ、とか言ってみんな驚くぞ。そいつらは頭がやたらでかく
て、手足は退化して細いんだ。ってことは当然次は過去だな。原始人達
が手を振り回してわめいている。オウ、オウ、オオオウ、オウ、オウ、
オオオウ、ってな。「あれは黒いふくろうの蛇がつかわした、深い闇の鳥
だ」とか、たぶんそんなような事だ。ふくろうの蛇ってこたあねえな。
 その風景がゆがんだかと思うと、いつの間にかやかんの中にいるね。
小さくなっているんだ。航空機が。ものすごく熱いんだよ。煮えたぎる
湯とふたの間に浮いている。もうだめだ、墜落する! その瞬間、ピー
ピー鳴って、家の主が笛の部分を開けるんだ。勢いよく飛び出すね。
 で、何事もなかったかのように出発した空港に戻っている。ところが
乗客、乗務員はみんな三年だけ歳をとってるんだよ。三年っていうのが
微妙だね。白髪の老人になったとかじゃなくてさ。
 ああバカバカしい。ようし、あの長針につかまってやる! しかし、
そんな事をして大丈夫だろうか。監督が俺を見ている。
 グッドタイミングだ。ちょうど長針が下を向いた。つまり俺の真上だ。
やるんだ、やるんだ俺!
 はっはあ! ついに俺は足を休めることに成功した。そのかわり手が
疲れるがな。でも、ハムスターみたいに走りつづけるよりはよほどいい。
 ああ、極楽、極楽。うーんしかし体勢はつらいな。でも、四十五分に
近づくに従って楽になっていく。
 六十分――てことは〇分だな――に達すると、またつらくなった。こ
うして水平、垂直、水平、垂直、楽、苦、楽、苦を繰り返すんだろうな。
 だが、三十分の所に来る頃にはすっかり手がしびれ、落ちてしまった。
 なんてこった。一時間しか休めなかった。待てよ? 短針につかまれ
ば十二時間も休憩できるじゃないか。なんでそんな事に今まで気づかな
かったんだ、俺!
 ああ、神様のおめぐみだろうか。もうすぐ六時ではないか。
 よっしゃあ! 俺はジャンプした。だが、なんという運命の皮肉。

 ちくしょう! 時針は短過ぎてとどきゃしねえ!


<了>



#1330/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/09/11  23:54  (187)
「胃と壷」    時 貴斗
★内容
 トーストを食べながら、私は新聞を読んでいた。その間から一枚のチ
ラシがはらりと落ちた。
 白黒の粗い写真を見た時、私は仰天した。揚台という、名の知られて
いない中国の陶芸家が作った大昔の壷だ。マニアでなければその値打ち
は分からない。百万出してもいいくらいのものが、たったの十万とは!
 まだ売れていないだろうか。ぜひ手に入れたい。
 古物商、別府ゼブルという名前をみつけた時、どこかで聞いたことが
あるな、と思った。私はパンを皿に置いたまま、広告に見入った。
 二十数年前、客の手にやけどをおわせたために引退した手品師だ。売
れっ子ではなかったが、その事件だけは覚えている。同一人物なのだろ
うか。
 明日は土曜日だ。行ってみなくてはなるまい、と思い、私は朝食をほ
ったらかしにして立ち上がった。
 ネクタイをしめる手に自然と力が入る。帰りに銀行に寄るのを忘れな
いようにしなければ。今日は学生達に、無名の芸術家の話でもしてやろ
うか。私の心は踊っていた。


 電車を乗り換えるたびに、風景は田舎になっていった。チラシに載っ
ていた場所は、高木に囲まれた豪邸だった。華やかな舞台から追放され、
今は古物を取り扱い、細々と暮らしている元マジシャンがいるのだから、
雑居ビルの狭いオフィスであるとか、そういう所を想像していただけに、
意外だった。
 自宅で商売をするとはどういうことだろうか。売るというより、自分
が持っている珍しい物を、安価でゆずってやるから取りに来てくれ、と
いった気持ちだろうか。
「あのう、広告を見てきたのですが。揚台の壷をぜひゆずって頂きたく
て」
「いやあ、よくいらっしゃった」
 にこやかに応対する別府ゼブルは、背の高い、がっしりとした体格の
男だった。白髪をオールバックにし、これもまた白い口ひげとあごひげ
をたくわえている。風貌こそ変わっているが、二十年前テレビで見た手
品師と同一人物であった。
「婆や、揚台の壷を持ってきてくれ。一番奥の右端にある、青いやつだ。
あ、それから」私の方に向き直る。「昼食はお済みになりましたか?」
「いえ、まだ」
「少し早いが、お昼にするから、それも持って来てくれ」
 控えていた老女が、一礼して出ていった。
「そんなにしていただかなくても。ただ壷を買いに来ただけなのに」
「いいんですよ。こんな田舎に引っ込んでいると、寂しくてね。店を構
えているわけでもないから、客なんてめったに来ません。あなたは大事
なお客様ですよ」
 そう言って、彼は声をたてて笑った。
「あの、昔手品師をやっていた、別府ゼブルさんではありませんか?」
「ああ、覚えてくれている人がいたとは。有り難いことです。しかし」
彼は急にまじめな表情になり、私の顔をのぞきこむようにした。「手品師
ではありません。魔術師です」
「こ、これは失礼しました」
 思い出した。別府はよく、自分のは手品ではなく、魔法だと言ってい
た。しかしそれほど大げさなものではなく、素人でもトリックを見破れ
そうな、安っぽいマジックだったような気がする。だいぶ前の事だし、
有名でもなかったので、よく覚えていない。
「おや? あなた、腕時計はどうされました?」
「え?」
 見ると、はめていたはずの時計がない。
「あそこですよ」
 指差す先、本棚の上から二段目にそれはあった。
「いやすみません」彼は微笑みながら立ち上がり、その安物を私に返し
た。
「ポケットから出したのなら、手品です。しかし、あなたの目を盗んで
あんな所に置くことなど、不可能ですよ。ではこれはどうです?」
 いつの間にかテーブルの上にワイングラスが二つ、出現していた。深
い赤色の酒が満たされている。
「私には生まれつき、不思議な魔力があるのですよ。トリックなどあり
ません。世間は信じてくれませんでしたけどね」
 別府ゼブルという名は地獄の最高君主、ベルゼブルに似ている。ヘブ
ライ語で「高い館の王」という意味だ。偉大なるソロモン王を連想させ
るために、後にベルゼブブ――「蝿の王」に置き換えられてしまう。
 そんな悪魔をきどっているのだろうか。


 運ばれてきたのは、ステーキだった。まだ昼間だし、あまり強い方で
もないので、酒は遠慮した。テーブルの端に空色の壷が置かれている。
「見事なものですなあ」
「中国を旅していた時に見つけたものです。こんな掘り出し物がその辺
の露店に、ひょい、と飾られていたのですから、びっくりしましたよ」
「ああ、いえ、さっきのやつですよ。ちょっと視線をそらせて、元に戻
すと、もうワインが並んでいる。どうやったのかさっぱり分かりません」
 この二十年の間に、相当腕を上げたようだ。きっと、舞台へのあこが
れが根強く残っているに違いない。
「どうしても手品だと思われてしまうのですね。まあ無理もありません。
常人には理解できないでしょう」
 別府はフォークを一振りした。折れ曲がっていた。
「いやはや、参りました。それだけの手さばきができるようになるまで
には、何年もかかったでしょう?」
 彼の笑顔が、一瞬凍りついたような気がした。
「私がなぜ引退したか、ご存知ですか」
「ええ、確か……」
「客の一人がいちゃもんをつけたんですよ。そんなのは魔術ではない。
そのトリックは、こうで、こうで、こうだと」別府は遠い昔を思い出す
ような目つきをした。「強情な奴でね。素人でもできる手品だと言って、
一歩も引かないんですよ。つい、カッとなってしまいましてね」
 まさか、たかがそれだけの事で?
「そいつを舞台に上げて、こう、手を握りましてね。力が入り過ぎて、
やけどをおわせてしまったんです。いえ、ごく軽いものですよ。ところ
がマスコミが騒ぎ立てましてね」
「でも、水酸化ナトリウムを使うなんて危険ですよね。倫理に反します」
「そんな薬品を使ったのではない。魔術なのだ!」
 別府がいきなりテーブルを叩いたので、びっくりした。
 彼は私を見つめた。口元は笑っているが、目の奥にどす黒くまがまが
しいものを感じ、背筋が冷たくなった。
「大学の先生はおかしなことを言う。しかしあなたの専門は薬学でも化
学でもない。考古学のはずでは?」
 どうしてそんな事が分かるのだ。
「たしか、テレビでそう言っていたのだったか、雑誌で読んだのだった
か」
「素人がよく知りもしないことを言うべきではない」
 少し腹が立った。なぜ手品ではいけないのだ。
「私だって学者のはしくれです。魔術などという非科学的なものを信用
できません。私が大学の教授だと分かったのも、何か特有の動作をした
とか、しゃべり方をしたとか……」
「あなたは、カノプスの壷をご存知ですか?」
 いきなり変な事を言う。
「ええ、古代エジプトでミイラを作る時に使われたものです。遺体の肺
臓、肝臓、胃、小腸をおさめるための、ふたが動物の形をした四つの壷
です」
「さすが考古学者だ。その四つの壷が、ほら、そこに」
 別府は鳥が翼を広げ、はばたくように両腕を動かした。ゆっくりと、
ゆっくりと。
 一瞬、めまいがした。風景が揺れた。と、いつの間にか本でしか見た
ことがないカノプスの壷が、テーブルの上に現れていた。
「偉大なる西の王よ、私の肋骨の細胞四つを捧げるかわりに、この者が
今申した内臓を壷に移したまえ」別府は奇妙な呪文を唱えた。
 まるで夢の中にいるようだった。風景が古い写真のように見えた。
「肺と、肝臓と、胃と小腸でしたかな? 今あなたのを移しました」
「バカな。そんなことがあるはずがない」
「一週間も我慢できないでしょう。あなたは再びここを訪れますよ」
 口中に残る肉の味が、すっかり消え去っていた。


 揚台の壷は、結局買わずに帰ってきた。その後がひどかった。食欲は
あるのだが、腹が満たされない。どんな料理も、あまりうまいと感じな
い。というより、味がよく分からない。なんだか砂をかんでいるようだ
った。呼吸はできるが、胸が苦しく感じる。感じるだけで、実際に苦し
いわけではない。例えて言えば、夏から秋への変わり目だ。気温は下が
りつつあるのに、暑いと思う。むしろ、生ぬるい。寒くもないし、かと
言ってちょうどいい温度というわけでもない。どういう状態だと、はっ
きり決められない。実にもどかしい。
 本当に内臓がなくなってしまったのだろうか。もしそうなら生きては
いない。それとも、食道から先が壷の中の胃につながり、小腸から体内
の大腸に通じているのか。
 三日たち、体重計に乗ると、六キロ減っていた。こんなバカな事があ
るか。
 別府は術をかけたのだ。だが魔法などではない。五日目、ついに私は
たまりかねて、休講にしてもらい、再び彼を訪れた。
「お願いです。催眠を解いて下さい」
「私が言った通りになりましたね。しかし、なぜ催眠術だとお思いで?」
 別府の目がぎらりと光った。
「他に考えようがありますか。いきなり壷が現れたのも、私の体調がお
かしくなったのも、それで説明がつきます」
「悲しいことですなあ。しかし壷は西の王に預けていますし、あなたの
内臓はその中ですよ」
 彼は眉を下げたものの、口元には嫌な笑みが浮かんでいた。
「ええ、ええ、あなたのが魔術だということは認めますから、早く元に
戻して下さい」
 別府は少し考え込んでいたが、立ち上がり、「いいですよ」と言った。
 両の手の平を私にかざし、気を送るように動かす。
「偉大なる西の王よ、私の髪の毛一本と引き換えに、預けた内臓を戻し
たまえ」
 腕をおろし、微笑む。
「これでもう大丈夫です。いや、大人気ないことをしました」
 ――だが、その後も胃腸は治らなかった。呼吸の不快感はなくなった
ものの、食べても食べても、満たされない。腹の中に真っ黒な穴が開い
て、料理が異空間へ放り出されてしまっているような、そんな感じだ。
空腹感はないが、少しずつ痩せていった。なぜなのか。別府は内臓を返
してくれたはずなのに。いやいや、催眠を解いてくれたはずなのに。
 それとも、彼とは関係なく、私は病気ではないのか? もはやそうと
しか考えられない。これは大変だ。明日にでも病院に行かなくては。そ
んなふうに思っていたら、突然別府が来訪したので驚いた。
 とりあえず上がってもらい、妻にチーズと赤ワインを用意するように
言った。
「ああ、お気使いなく。すぐに退散しますから」
「あのう、どうして家が分かったのですか」
 彼はそれには答えなかった。
「今日伺ったのは他でもありません。大変なミスをしてしまいまして」
「カノプスの壷のことですか?」
「そうです、そうです。いやあ、失礼。胃を戻すのを忘れていました」
 と言って別府はまた、意味のよく分からない呪文を唱えた。
「偉大なる西の王よ、私の脳細胞一つと引き換えに、この者に胃を返し
たまえ」
 途端に私の腹は張り、彼と初めて会った時に食べたステーキの味が舌
によみがえり、唾液さえ口中にあふれてくるのだった。
「じゃ、私はこれで」
 薄笑いを浮かべ出て行く彼を、私は呆然と見送った。


<了>



#1331/1336 短編
★タイトル (AZA     )  01/09/30  23:10  (103)
推理クイズ>半分嘘    永山
★内容
<問題>
 A化学工業の開発課ナンバーワンのプレイボーイとして名高い若手社員・財
前満が死んだ。独り暮らしの彼が自宅で倒れているところを、訪ねてきた同僚
の孔雀勝子が発見したのである。
 検視官の女性は調べた結果を次のように報告した。
「死因は毒殺ね。毒は被害者の勤務する会社では容易に手に入る代物だから、
有力な証拠にはならないとみられます。死亡推定時刻は……死んでから二十〜
二十二時間経って発見されたと考えられるわね」
 そして捜査の末、容疑者として次の三人の女性が浮かんだ。
 一人目は孔雀勝子。そう、第一発見者でもある女性だ。彼女は入社直後から
財前と付き合っており、最初はうまくいっていたが、近頃は浮気性の財前に愛
想をつかしていたらしい。清算の意味合いで、殺害の動機ありと見る。
 二人目は、同じく財前の同僚で、少し年のいった玉置三枝子。オールドミス
の範疇に片足を突っ込んだ彼女にとって、財前の甘い言葉は救いに思えたのか
もしれない。その言葉が嘘だと分かったら、好意が殺意に変わっても不思議で
ないだろう。
 三人目は牟田綿子という、ある高級クラブに勤めるホステスで、稼ぎのほと
んどを財前に渡していた。これも結婚を餌に財前が仕掛けた罠だったのだが、
牟田はつい最近まで気付いていないようだった。こちらも動機は充分。
 この三人にはアリバイがない。他にも財前の付き合っていた女性は数多いの
だが、アリバイやら何やらで、容疑の枠から除外されたのだ。
 三人の女性は、警察で次のように証言をした。

孔雀勝子:玉置先輩が付き合ってたからといって、あの人に満さんを殺せるは
    ずないわ。たくさんの女を騙し続けたことの罪に絶えられなくなって、
    自殺したのよ、満さんは。
玉置三枝子:財前君が自殺なんてする訳ないですわ。犯人は孔雀さんよ、かわ
     いい顔して。
牟田綿子:殺したのは彼の年上のヒト、そう玉置とかいう年増だわ。もちろん、
    私は殺してない。

 このあと、事件は急転直下、ある有力な目撃証言によりあっさり解決したの
だが、結果的に、三人の容疑者の証言は、真実の一文と嘘の一文からなってい
ることが分かった。

 さて、財前を殺したのは誰でしょう? 犯人はこれまでに出てきた登場人物
の中にいます。念のために言い添えておくと、財前は自殺ではなく、明かに殺
されていました。

 答はこのあとすぐ!(^^)

























<答>
 三人の証言をもう一度見てみよう。

孔雀勝子:玉置先輩が付き合ってたからといって、あの人に満さんを殺せるは
    ずないわ。たくさんの女を騙し続けたことの罪に絶えられなくなって、
    自殺したのよ、満さんは。
玉置三枝子:財前君が自殺なんてする訳ないですわ。犯人は孔雀さんよ、かわ
     いい顔して。
牟田綿子:殺したのは彼の年上のヒト、そう玉置とかいう年増だわ。もちろん、
    私は殺してない。

 各々の証言は真実の一文と嘘の一文を含んでおり、ここに、財前の死が自殺
でないという事実を当てはめると、まずは以下が確定する。

孔雀勝子:玉置先輩が付き合ってたからといって、あの人に満さんを殺せるは
    ずないわ(真実)。たくさんの女を騙し続けたことの罪に絶えられな
    くなって、自殺したのよ、満さんは(嘘)。
玉置三枝子:財前君が自殺なんてする訳ないですわ(真実)。犯人は孔雀さん
     よ、かわいい顔して(嘘)。

 孔雀の証言の内、玉置に殺せるはずがない云々の部分が真実と決まったので、
残る牟田の証言の真偽は次のようになる。

牟田綿子:殺したのは彼の年上のヒト、そう玉置とかいう年増だわ(嘘)。も
    ちろん、私は殺してない(真実)。

 上をまとめると、孔雀は真実として「玉置に殺せるはずがない」と言い、玉
置は「犯人は孔雀」と嘘を吐き、牟田は真実として「私は殺していない」と言
っている。
 玉置でも孔雀でも牟田でもない。犯人がいなくなってしまった?
 否。この三人の中にはいないということに過ぎない。
 ここでもう一つの条件を思い出してみよう。「さて、財前を殺したのは誰で
しょう? 犯人はこれまでに出てきた登場人物の中にいます」と問題文にある。
登場人物は先の三人と被害者、それに検視官である。最初の容疑者三人は誰も
犯人でなく、被害者は自殺でないのだから、残る検視官が必然的に真犯人とな
る。

    −おしまい



#1334/1336 短編
★タイトル (XVB     )  01/11/21  04:04  (104)
ダイエット日記1  $フィン
★内容
お菓子をやめるだけで1年間30kg弱も痩せれる! これであなたもスマート美人と
言われるかもしれません。なんてね、わたしは1年間ダイエットの結果30kg弱痩せ
ました。


2000年11月19日 *2.0kg 最初からの値 0kg
この時、階段から足を踏み外したものがなかなか治らなくて、手術ということになっ
たのだけども、前日にアルファベットチョコレートを1袋食べたせいか、採血の結果
血糖値が異常に高かった(血糖値210ml/cl 基準値は60〜109ml/cl)
ため、手術を一旦、延期することになったのでした。私もこのままだと血糖値に驚
き、糖尿病になって毎日腹に注射を打つようになってはたまらないと、即ダイエット
に励むことにしました。

11月19日の食事
この時点でははかっていません。


2000年12月19日 *8.5kg 最初からの差 3.5kg
まず間食をできるだけ制限した結果、1ヶ月で3.5kg痩せました。メル友にカロ
リー計算を手伝ってもらうなどのサポートがよかったようです。

12月19日の食事
昼食 サンドイッチ(5枚切パン一枚 187kcal  ハム一枚 31kcal   レタス一枚
3kcal チーズ63kcalマヨネー    ズ 98kcal)
    牛乳300cc 177kcal      プリン108kcal
夜食 ごはん一杯 180kcal
    焼きうどん(1/3玉  キャベツ たまねぎ 牛肉)200kcal
    イカとこんにゃくの煮物 80kcal
           キャベツ一皿 12kcal(ダイエットドレッシング40kcal)
間食 博多名物ひよこ一個 110kcal インスタント紅茶13g 39kcal
    合計 1328kcal


2001年1月19日 *6.0kg 最初からの差 6.0kg
この月、今流行りのキトサンダイエットをはじめました。なんでもキトサンというの
は、カニの甲羅から作ったもののようで、受験生が神社でお守りを買っていくような
あんまり信用はないけれども、あった方が心強いかなって感じでした。金額1970
円なり。

1月19日の食事
昼食 マクドのハンバーガー1個 360kcal 
    チーズバーガー1個 400kcal
         コーヒー(牛乳200cc)118kcal
夜食 ほうれん草の白あえ150g 120kcal
     モヤシ炒め(もやし、豚肉、卵)150g  180kcal
        ハマチの刺身4切れ 180kcal
          ジャガイモとかぼちゃとちくわの煮物 200kcal
間食 トマトジュース32kcal
        合計 1590kcal


2001年2月19日 *4.0kg 最初からの差 8.0kg
少しづつ痩せてきました。1ヶ月2kg〜3kg程度の減量で身体も軽く、健やかに
なってきたような気がします。この前後に妹から今流行りの金魚運動機というものを
借ります。効果のほどはよくわかりませんが、湯で暖かくしたアイマスクと肩に貼る
タイプの低周波治療器、そしてお気に入りの音楽を聞きリラックスして15分かかっ
ていると気持ちよいような気がします。

2月19日の食事
昼食 ピザ66g 200kcal      トマトジュース37kcal
          かんとに昨夜の残り(だいこん じゃがいも   ちくわ 1個づつ)
160kcal
夜食 ギョウザ140g 290kcal       さわら70g 155kcal
            しろあえ135g 180kcal        キャベツ一皿(ドレッシング)88kcal
間食 インスタント紅茶一杯 35kcal     まんじゅう50g150kcal
       ソーセージつきパン3つで100g 210kcal
         合計 1505kcal


2001年3月19日 *3.0kg 最初からの差 9.0kg
気をよくして同じキトサンダイエットをより安い店で、1個1580円、3個474
0円のところを買ってきました。
病院で血糖値を計ってもらったら、食事2時間経過で76mg/clになり、手術可能
になりましたが、足の負担が減ったせいか、痛みは収まり手術をしなくてもよいとい
うことになりました。

3月19日の食事
昼食 たこ焼き12個 360kcal    ソーセージ1本15g 50kcal
夜食 スパゲッティサラダ280g 258kcal
          さんま(だいこんおろし)35g 55kcal
間食 チョコレートパン40g 120kcal  ミルキーあめ3つ 60kcal
    合計 903kcal


2000年4月19日 *9.5kg 最初からの差 12.5kg
キトサンダイエットのせいじゃないと思うけど、意志を強くして間食を極力減らし、
外食をやめ、自宅での食事に変えたのがよかったようです。外食は油分が多く、高カ
ロリーということがわかりました。ましてや私の好きなバイキングだと払ったお金を
取り戻そうと食べる食べる。食べるのがいけないのですね。家では和食中心の食事に
変えました。
それから薬局で遊んでいると、ビール酵母というものがあったので250g680円
で買ってきました。これは効くのかどうかわかんないけど、ヨーグルト100gに
ビール酵母5gを入れて、満腹感を出すというものだそうです。

4月19日の食事
昼食 サンドイッチ(6枚切パン1枚 チーズ1枚 ハム2枚 レタス マヨネー
ズ)286kcal 
    紅茶(砂糖なし 牛乳100cc)×2杯 118kcal
夜食 アジ(焼いただけ)90g 72kcal
         ほうれん草の白あえ130g 90kcal
        普通のそば241kcal
間食 ビール酵母入りヨーグルト77kcal×2個
        こんにゃくゼリー26kcal×1個
         合計 987kcal



#1335/1336 短編
★タイトル (XVB     )  01/11/21  04:05  (169)
ダイエット日記2  $フィン
★内容
2001年5月19日 *5.6kg 最初からの差 16.4kg 体脂肪47.
5
頑張っている私を見て、妹から体重は100g単位、体脂肪は0.5単位で計れる体重
計を買ってプレゼントしてくれました。今までの体重計はデジタルだけども、0.5
kg単位で計れるものだったので、毎日計ってもそんなに変わらずつい食べすぎてし
まうということもあった。これで楽しく計れるようになりました。
今月は薬局で、店員二人も何やら話をしているので、何事かと思っていると健康フェ
アーで、ダイエット商品のちらしを貰いました。わたしがダイエットしているのを
知っていて、話をしているのだと思いました。キトサンダイエット1個1570円3
個とビール酵母598円を購入するのがにくいものです。

5月19日の食事
昼食 サンドイッチ(5枚切パン1枚 ハム2枚 チーズ1枚 きゅうり40g ち
しゃ マヨネーズ)326kcal
    (紅茶100cc+牛乳100cc)×2杯 118kcal
夜食 ししゃも5匹70g 119kcal ちしゃ(ドレッシング43kcal)46kcal
     豚焼き(プライパンにサラダ油をひいて塩コショウで味付けしたもの)55
g 287kcal
     サラダ(キャベツ きゅうり ハム トマト マヨネーズ)180g 
200kcal
     地元産のタコ少々 40kcal
間食 アメリカンチェリー(種、皮、身つき)5.6g×24個 67kcal
        ビール酵母入りヨーグルト80kcal×1個
         合計 1283kcal


2001年6月19日 *3.0kg 最初からの差 19.0kg 体脂肪45.
5
よその店でビール酵母500gを1280円で買ってきました。さっそくヨーグルトに入れ
て食べたのですが、メーカーによって味が変わることがわかりました。なんでもビー
ル酵母はビールを作る過程ででき、ヨーグルトにいれることで腹が膨れるそうです。
家族の買い物でポケチを頼まれてスーパーでしていると見知らぬおばさんが寄ってき
て、買い物かごの中を覗き、こんなのばかり食べているからぶたになるのだと言われ
てしまいました。おかしい人もいるものです。

6月19日の食事
昼食 巻き寿司1本395g 500kal
夜食 地元産アジ65g(焼き魚)50kcal
         黒ギョウザ22.8kcal×10個   228kcal
        豆腐82.5g 48kcal     奈良漬少々  8kcal
     ちしゃ(和風ゴマドレッシング13kcal)25kcal
間食 アメリカンチャリー5個     13kcal
        ビール酵母入りヨーグルト100g×1個80kcal
         合計 952kcal


2001年7月19日 *0.3kg 最初からの差 21.7kg 体脂肪43.
0
サンドイッチのマヨネーズがわりとカロリー高いみたいです。マヨネーズを極力減ら
してサンドイッチをつくるようにしたいと思います。他に油を使う料理がカロリーが
高いので注意しないと太ってしまいます。

7月19日の食事
昼食 セブンイレブンおにぎり(海老マヨネーズ191kcal 紅しゃけ175kca
l) 
夜食 ソーメン175g 300kcal
    赤魚(焼魚白身)65g 90kcal
     自家製きゅうり+地元産タコ(酢物)70g 90kcal
    シューマイ15g×6個 240kcal   オクラ(酢漬け)50g11kcal
    レタス(和風ゴマドレッシング28kcal)31kcal
間食 とうもろこし(茹)115g 100kcal  枝豆少々 10kcal
     自家製トマト50g 8kcal
    ビール酵母入りヨーグルト100g×1個80kcal
    合計 1326kcal


2001年8月19日 *7.8kg 最初からの差 24.2kg  体脂肪4
1.0
最近ではずいぶん食事に注意するようになりました。筋肉を減らさないように、動物
性たんぱく質と植物性たんぱく質をできるだけ食事で取るようになりました。それと
今年になって、風邪を引きやすくなったような気がします。抵抗力が落ちないよう
に、決まった時間に食事をし、身体が弱らないように注意していきたいと思います。

8月19日の食事
朝食 インスタントコーヒ(牛乳100cc)118kcal
昼食 ソバ(茹でた状態)160g 246kcal
夜食 炊き込みごはん250g 500kcal
     コロッケ60g×2個 160kcal
    まめ(茹でたもの マヨネーズ付)130g 40kcal
         レタス(青しそドレッシング11kcal)14kcal
間食 白玉粉でつくっただんご175g 200kcal
          合計 1278kcal


2001年 9月19日 *5.6kg 最初からの差 26.4kg  体脂肪4
1.0
標準体重に近づいてきたので、ダイエット前の食事量(特にお菓子の量)は多すぎる
けど、今のままの食事量では、拒食症や過食症になるといけないのでぼちぼちダイ
エットをやめ、食事量を増やしていきたいと思います。あとリバウンドも怖いです。
この月に、お茶関係、ウーロン茶298円2個 プーアル茶298円、減肥茶298
円のところを買いました。
同じお茶を飲むのなら、美味しい水がいいからと近くの井戸から清水を週1回のわり
でペットボトル5本8L分を汲みにいくようになりました。味は美味しいような気が
します。ダイエットしていても水分だけはたえず補給しておくよう注意しました。

9月19日の食事
昼食 サンドイッチ(5枚切パン85g ハム2枚 チーズ1枚 きゅうり25g マヨ
ネーズ レタス)300kcal
    (冷コーヒー150cc38kcal+牛乳150cc)88.5kcal
夜食 野菜炒め(牛肉 ピーマン タマネギ)240g 400kcal
    赤魚(白身 焼魚)55g 69kcal  アジ(刺身)55g 80kcal
    豆腐134g 79kcal     オクラ(酢漬け)35g  10kcal
    レタス(青しそドレッシング11kcal)14kcal
間食 ビール酵母入りヨーグルト160g  128kcal
    合計 1168.5kcal


2001年 10月19日 *4.7kg 最初からの差 27.3kg  体脂肪
38.0
足部分だけのマッサージ機を買いました。すでに健康おたくになっているような気が
します。ダイエット前は見向きもしなかった健康番組(試してガッテン、あるある大
辞典、特報リサーチ等)を喜んでみるようになってしまいました。べとべと血、どろ
どろ血は怖いです。

10月19日の食事
朝食 食パン5枚切り1枚 206kcal
    インスタントコーヒー(牛乳200cc 136kcal)
昼食 スーパーのサンドイッチ200kcal
    牛乳200cc 136kcal
夜食 フライ(牡蠣80g 62.4kcal かしわ45g 92.7kcal)+衣+油等
355.1kcal
    だいこんおろし125g 22.5kcal
    豆腐200g 104kcal
    キャベツ(和風ドレッシング22kcal)×2    68kcal
間食 飴玉1個   20kcal
    試供品50ccカフェオレ1杯       15kcal
    合計 1262.6kcal

2001年11月19日 *2.9kg 最初からの差29.1kg  体脂肪3
5.0
この1年で使った健康食品は、
キトサンダイエット1970円×1個 1970円
キトサンダイエット1580円×3個 4740円
キトサンダイエット1570円×3個 4710円
ビール酵母 680円×1個 680円
ビール酵母 598円×2個 1196円
ビール酵母 449円×2個 898円
ビール酵母1280円×1個 1280円
ウーロン茶 298円×2個 596円
プーアル茶 298円×1個 298円
減肥茶   298円×1個 298円
ウーロン茶 188円×1個 188円
どくだみ茶 188円×1個 188円
合 計   19点 17042円

30kg弱減量するのに17042円(ヨーグルト代を除く)使っています。大金を使っ
たというか、小額で済んだという意見はいろいろあるでしょうけど、これらは補助的
なもので要は間食をしないという意志のもと頑張った結果でありましょう。
翌年1年間で10kgの少しづつの減量にはげもうかと思っています。ダイエット関係
の掲示板を探して書き込みしたいと思っております。そして無理なく運動して健康的
な毎日を送ることをもう一つの課題にしていきたいと思っております。
来年の11月はリバウンドしているか、それとも痩せているか、現状維持かどれかに
なっているでしょう(当たり前ですね)。来年の今ごろに報告していきたいと思って
おります。

10月19日の食事
昼食 ロールパン100kcal×2個 200kcal
    クノールスープ(クノールスープの素60kcal 牛乳200cc 128kca
l)
    ちしゃ(ドレッシング43kcal)46kcal
夜食 そば170g(茹でた状態です) 227.8kcal
    地元産アジ(刺身)55g 78.7kcal
    がしら(白魚 煮魚)120g 150kcal
    ほうれん草90g 25.2kcal
    ちしゃ(ドレッシング43kcal)46kcal
間食 酵母入りヨーグルト100g 80kcal
合計 981.7kcal

以上今年のダイエット日記はおわりです。



#1336/1336 短編
★タイトル (AZA     )  02/03/30  02:45  (305)
彼のちょっとした変化 <そばいる番外編>   寺嶋公香
★内容
 長瀬は、高校でも何らかの運動部に入るつもりでいた。彼の本領は陸上競技
であるが、同校同部は市内一円でもトップクラスで、全国大会で充分通用する
レベルの選手も過去に何名か輩出しているほどだった。
 よって……部活見学の際に、長瀬は半ばあきらめた。故障を抱えた自分がの
このこと入っていけるようなところではない、と。現在、走ったり跳ねたりす
る分に支障はないが、思い切り競技に打ち込んだとき、ひょっとしてまた怪我
をしてしまうのではないかというマイナス思考を、どうしても拭い去れない。
 せめて長瀬が中学三年生の頃、大会で目を見張るような記録を出していれば、
待遇が違っていたかもしれないが、彼が中学校時代の記録は、ほとんどが一年
生のときのもので、ベストも一年の秋に叩き出していた。最も力を発揮するは
ずの三年時の記録は皆無に近く、あっても数字的に凡庸だ。怪我が直りきらな
い内に無理を重ね、故障癖を付けてしまった結果である。よいコーチ、よいト
レーナーに恵まれなかったと言えなくもないが、やはり自己の責任に帰する面
が大きい。
 長瀬には、陸上が至上のもので、他のスポーツには目もくれないというよう
なところはない。だから、他の運動部も精力的に見て回った――主にやったこ
とのある球技を中心に。バスケットボールやバレーボール、野球にサッカー、
いずれも嫌いじゃない。小中学生の頃から打ち込んできた連中に比肩するとま
で大言壮語する気はないが、その背中に手が届くぐらいの能力があると自負し
てもいる。
 だが、膝と靭帯に不安があるため、踏み切れなかった。団体競技の輪に加わ
る自信をいまいち持てなかったことも、一つの理由になろう。個人競技のある
運動部に目を向けるのは、自然の成り行きだった。
 体操をするには未経験者であることに加えて、ばねが足りない気がした。格
技をやるのは親が反対しているので、なるべく避けねばならない。
 残った選択肢は、テニスか水泳だった。
 と言っても、最初の時点では、長瀬の眼中になかった運動部である。
 テニスは、中学生時にテニス部員の唐沢と遊びで対戦して、こてんぱんにや
られたことがあり、以来、苦手意識を持ってしまっている。それにやはり、膝
への負担が大きそうだ。
 水泳に対しては苦手意識はない。が、足を遠ざけたくなる理由が二つほどあ
った。「あった」というのは正確でない。「できた」とすべきだろう。
 それは、長瀬が入学して三日目か四日目のことだった。
 クラス揃って視聴覚室でパソコン利用の説明を受け、一旦は教室に帰ったの
だが、万年筆を忘れたことに気付き、取りに戻った。無事に忘れ物を見つけて
胸ポケットに収め、視聴覚室を出たとき、女の子の声が前の小部屋から聞こえ
た。
「と、届かない」
 プリンター室とプレートの掛かった小部屋の戸口は空いていた。気にすると
いうほどでもなく、何とはなしに覗いてみる。
 懸命に背伸びをしている女生徒がいた。小さいなというのが長瀬の抱いた第
一印象だった。
 彼女は左の小脇に何かのちらし数枚を持ち、右手を上方向に一杯に伸ばして
いる。その指先を延長していくと、スチール製の棚の最上段に、A4だかB5
だかのコピー用紙が、茶色の紙に包まれたまま丸ごと載っている。
「両手じゃないと危ないか」
 女生徒はつぶやき、ちらしを手近の長机の端に置くと、改めてポジション取
りをした。コピー用紙の真正面に立ち、足を揃えて、両腕を可能な限り、突き
上げる。
 長瀬は思った。台になる物があるじゃないか、と。
 確かに、踏み台はない。手頃な椅子も見当たらない。だが、長机をちょっと
移動させて、その上に乗れば、いくらあの子の背が低くても充分に届くはず。
 にもかかわらず、女生徒は自分の身体一つでコピー用紙の獲得を期している
ようだ。
(もしかすると、高所恐怖症かもしれないな)
 長瀬は好意的に解釈した。以前見たテレビで、インテリとして知られる芸能
人が、せいぜい一メートルほどの高さの脚立に昇れず、弱音を吐いていたのを
思い出した。
「手伝うよ」
 女生徒のボーイッシュな顔立ちと髪型、それに必死の目を見て、自然と声を
掛けていた。
「あ」
 相手がどうこう言わない内に、棚の斜め前に立つ。背伸びする必要もなく、
楽々と届く。両手で持つと、案外重量感があったが、それでも長瀬の腕力なら
問題ない。
「どこに置けばいい?」
「……じゃ、そこの机に。そう、機械の横の」
 ほんの少しのためらいの間があったが、女生徒は適切に指示を出した。長瀬
は言われた通り、コピー機そばの長机に用紙の束を置いた。それも、なるべく
近いように端に寄せて。
「コピーしようと思ったら、紙が切れていたのよ」
 照れ隠しなのか、非難口調で女生徒が言う。
「紙、俺が中に入れようか?」
「それは結構よ」
 女生徒は包装を破ると、コピー用紙を半分がた取り、所定のトレイに収めた。
 その合間に長瀬はちらしに目を留めた。初めてその内容を知る。クラブ活動
を勧誘するちらしだった。
「ふーん、水泳部……」
 そして目を斜め下方に向ける。ちょうど女生徒もこちらを向いた。察した長
瀬はちらしを渡した。
「水泳部員なんだ? 早いね、もう部活を決めるなんて。入った早々、勧誘の
お手伝いとは人使いが荒いような気がしないでも――」
「ちょっと」
 お礼の言葉を期待していたわけではないが、予想外のつっけんどんな調子で
応じられ、長瀬は幾度か瞬きをした。相手の顔をよく見ると、間違いなくむっ
とした風情が窺える。
「これを見なさい」
 彼女は自らの制服の襟辺りを指差した。一瞬、胸元の方へ目が行く。大きな
胸だった。
「……はあ……何か?」
 素知らぬ表情を保ちつつ、長瀬は聞き返した。何を見ろと言ったのか、理解
できない。
「こ、れ!」
 襟にある銀色のボタン、いや、バッチか。やや傾いていたが、ローマ数字の
二を型取ったデザイン。学年章だと知れる。
「それが何か……あ。もしかして、に、二年生……ですか?」
「そう」
 腕組みをした女生徒は、怒った目つきでにらんでくる。ちらしの束がかさか
さと音を立てた。続いて、彼女の右爪先が廊下の床をとんとんとんと叩いた。
「すみませんでした」
 長瀬は身体を折って謝った。
「あの、気が付かなくて、てっきり、同じ一年生かと」
「君、名前は?」
「長瀬です」
 顔を起こすと、相手の二年生の表情が多少和らいだ風に見えたので、ほっと
する長瀬。口調からは怒りや不機嫌さが薄まり、代わりに面白がる響きが滲ん
でいた。
「クラスは?」
 コピーをスタートさせた彼女は、半ばコピー機に寄り掛かる姿勢で聞いてき
た。長瀬の方は緊張感から背筋を伸ばしたままでいたが、相手の様子から心の
余裕が少しだけよみがえる。
「えっと、一年二組です。出席番号も言いますか」
「じゃあ、長瀬君。私は柏木(かしわぎ)って言うんだけれど、どうして一年
生だと思ったのかな」
「それは……先輩が若々しくて」
「ばか言ってるんじゃないの。どうせ、ちびだから、そう思ったんでしょ?」
 図星を指されると同時に、腰の辺りを力強くはたかれた。小さいからと油断
していたが、意外に力のこもった一撃だ。
「はあ、その通り」
「素直でよろしい。ところで、さっきの口ぶりだと、君はどこの部にも入って
ないみたいだね。よかったら、水泳部に入らない?」
「え……俺は」
 その時点では、水泳部も考えの内に入っていた長瀬だったが、目の前(目の
下)の先輩が、部でも先輩になるかと思うと、腰が引けた。
「まあ、そんな顔をしないで、考えてみてよ。じゃ、私は急いでいるので、こ
れで」
 いつの間にやら、コピーは全て終了した模様。紙を小脇に抱えると、爪先を
九〇度動かし、長瀬に敬礼めいたポーズをした柏木。それから前を通り抜けて、
廊下を小走りに行く。
 半ば呆然として見送った長瀬も廊下に出ると、まだ柏木の後ろ姿があった。
 と、視界の真ん中辺りで、柏木が突然立ち止まる。再び長瀬に向き直って、
距離を物ともせず、声を張り上げる。
「言い忘れていた。長瀬君、取ってくれてありがとね!」
「は……いえ、大したことでは」
 どう応じようか困惑して、頭をひょいと下げかけた長瀬だったが、すでにそ
の時点で柏木はまた走り出していた。

「長瀬君、入ってよ」
 四月の末頃になると、柏木から盛んにアプローチされるようになった。フル
ネームまで教えてもらった。現副部長の柏木京子(きょうこ)は色白で、小柄
な身体に比すと手足が長く、ついでに言えば胸も大きい。髪を短くしているの
は水泳部員だからという理由だけではなく、どうやら彼女に一番似合うヘアス
タイルだかららしい。
「何度も言ってるように、君は競泳向きのいい体格しているんだぞ。私が見込
んだのだから間違いないわ」
「あの、柏木先輩。前にも言いましたけど、男子の先輩がいないのが、ちょっ
とネックというか……」
 水泳部には男子部員がいなかった。普通は男子水泳部と女子水泳部が別個に
あるものなのに、この高校では水泳部と言えばイコール女子水泳部なのだ。
 長瀬を水泳部に入る気にさせないもう一つの理由が、これだった。
「いいじゃない。周りは女だらけで、もてるわよ、きっと。君のルックスなら、
部外の女生徒だって」
「もてるとかどうとかじゃなくて」
「スポーツしたいのよね? イルカみたいに泳ぎたくない?」
「イルカ……」
 その表現に唖然としてしまう長瀬。柏木はしかし、大真面目のようだ。
「イルカに乗った少年ならぬ、イルカになった少年! いいでしょ?」
 下からはしゃぎ気味に言った。
「先輩。俺ばっかりに声かけてないで、他も当たったらどうですか」
「今月一杯、声を掛けまくったわよ。だけど、まともに相手してくれたの、長
瀬君だけなんだもーん」
 馴れ馴れしいというか、親しげというか、腕を引っ張る柏木。放課後につか
まったのは、まずかったかもしれない。延々と口説かれかねない。
 端から相手しなければよかったかな、という思いが脳裏をよぎった。しかし、
初対面の状況が状況だっただけに、相手せざるを得なかったのだ。
 それに……まあ、こうして話をする分には、楽しくて愉快な先輩だ。男の先
輩よりも早く女の先輩ができるとは予定外かつ予想外だったが。
「もうちょっとしたら、プール開きでじゃんじゃん泳ぐようになるから、その
ときにまた見に来なさいよ」
「そう言えば、うちの学校の中では、水泳部は弱小なんですよね」
「……なーんで、『そう言えば』ってつながるのかしら?」
「いや、水泳部が滅茶苦茶強い学校なら、温水プールの設備があって当然だと
思ったから」
「うちの部だって、たまに市民センターの温水プールに練習に行くのよ」
「反論になってないような気が」
 長瀬が言ったが、柏木は全く相手にせず、名案を思い付いたとばかり、手を
打った。
「そうだわ。よかったら、市民センターまで来ない? 夏まで待たなくても泳
ぎっぷりを見せてあげられる」
「練習に行く予定があるんですか?」
「うーん、しばらくない。けれど、私一人が行けば事足りるでしょ。もうすぐ
ゴールデンウィークだし、ちょうどいいわ」
「てことは、わざわざ俺だけのために、水着姿を披露してくれるわけですか」
「キミ、キミ。力点の置き場所を間違ってる。練習を見せてあげようっていう
んだ。ありがたく思いなさい」
「実際、ありがたく思わないでもないんですが……」
 首を捻る長瀬。再三に渡る熱心な勧誘に、悪い気はしない。反面、どうして
これほどまでに俺に執着するのか、不思議に感じる。考えても分からないので、
最近では、よほど部員不足で苦しんでいるんだな、と思うようにしていた。
「俺と柏木先輩の二人きりというのは、やはりまずいのではないかと」
「何故」
 疑問形というよりも詰問調である。事実、柏木は一歩詰め寄ってきた。長瀬
はのけぞるような心持ちで、正直に答えた。
「それはもちろん、先輩の彼氏に悪いですから」
 柏木の目が見開かれる。と思ったら、睨むように細くなり、長瀬の表情をし
げしげと見上げてきた。
「……その顔は、からかっているわけではないようね」
「と、当然ですよ。からかうだなんて」
「私に彼氏がいるように見えた?」
「は、はい。こんなかわいらしい感じの人に、いない方が不自然かなって」
「ふむ。かわいらしいというのはちょっと引っかかるけど、そう思われたのは
嬉しくなくはないわね」
 迂遠な言い回しの柏木は、事実、嬉しげに両頬を手のひらで押さえ、にんま
りとした。次の瞬間、一転して目尻を悲しそうに下げ、深い息を吐く。
「でもねえ、現実は厳しいのだよ。一年生。こんな私でも、恋人はいないの」
「そうなんですか」
「どうやら、夏になると日焼けして、コントラストがはっきりするのが、お気
に召さないみたい。ほら、水泳部って」
「なるほど。そういうことにしておきましょう」
「どういう意味だ、こらぁ」
 殴る真似をした柏木だったが、長瀬が避ける素振りをしなかったため、振り
上げた手を仕方なく下ろす。
「長瀬君にはいるのかな」
 場つなぎのような空気を発散させて、切り返してきた。長瀬は分かっていた
が、敢えて、質問の意味が理解できないふりをした。
「彼女がいるのかって、聞いているの」
 柏木はおとぼけを見破ったのかどうか、苛立ちを垣間見せた。ここできちん
と答えないと、今度は本当に殴られるかもしれない。
「いませんよ」
「本当に? 中学のときいたけれど、高校が別々になったから自然消滅したな
んて言うんだったら、許さないよ」
 どうして知り合ったばかりの先輩から、“許さない”と凄まれねばならない
のだろう。
 長瀬は不条理に感じつつも、そのことを頭から打ち消した。何故なら、事実、
中学時代に付き合った相手はいないのだから。
「いませんてば。ただ……」
「ただ、何かな?」
 好奇心をそそられたらしく、柏木は舌先を覗かせ、上唇の端をなめた。
「小学校のとき、親しくしていたガールフレンドがいたんですけどね」
「な。ませてるわねえ」
 口を開けて、長瀬を指差しながら呆れる柏木。
「で、その子とどうなったのかしら。非常に興味あるわね」
「彼女の方が積極的すぎて、着いていけませんでしたよ。だから、ちゃんと話
をして、これっきりにしようと約束しました」
 必死の弁明めいてしまうのが、自分でも不思議だ。力説するようなことじゃ
ないし、話す義務もないのに。
「ふーん。でもさ、長瀬君。その子と中学、一緒だったんじゃない? たいて
いは同じ中学に進むものよね」
「はあ。一緒でした」
「どんな顔して会ってた? 気まずい感じが残るんじゃないの?」
「まさか。小学生の付き合いですよ。普通に話をしていました。むしろ、入学
した頃は、他に親しい女子が少ないから、そんな中ではよく話をした女子でし
たね」
 思い出がよみがえってしまった。別に封印しておきたい類のものではないが、
何しろ相手はあの白沼だったのだ。少なくとも外見はトップクラス。懐かしが
る内に、惜しいことをしたという考えが起きるかもしれない。そんな感情の推
移は、たとえ一時的なものにしろ、できれば避けたい。
「そう。なるほどね。小さな恋の物語は案外ロマンチックじゃない終わり方を
迎えるんだ。あっさりとしていて、散文的」
「何なんですか、そのコメントは」
「ふっ。こう見えても、私にも色々過去があってねー」
 横を向くと、柏木は斜め下のタイルを見つめ、やがて顔を起こすと、髪をか
き上げる仕種をした。
「……嘘だ。絶対に嘘だ」
 あまりにも芝居くさい。長瀬は決め付けた。
 柏木は肩をすくめ、「……どうして分かった?」とつぶやいた。
 どうやら長瀬の勘が当たったようだが、大した根拠もなしに決め付けたのは
後ろめたさを感じなくもない。長瀬は気の利いた答を探した。
「柏木先輩ほどの人をふる男が、この世にいるとは思えませんから」
「――ははは! 生意気にもいいこと言うね、君は」
 お腹を抱えて笑われてしまった。まあ、受けたのだから、よしとしよう。長
瀬は鼻の下をこすった。
「長瀬君、本当は女たらしじゃないのかな? それなりに二枚目だし、背もあ
るし、口がうまい」
「本気でそう思うんだったら、俺を水泳部に誘うのはやめた方がいいんじゃあ
りません?」
 ささやかな逆襲をしておこうと、長瀬はにやりと笑ってみせた。
「女子部員をみんな、ものにしちゃいますよ」
「さて。思惑通りに行くか、試しに入部してみない?」
 逆襲は不成功に終わったようだ。柏木の方が一枚上手。どうしても入部させ
たいと見える。
「まずは先輩の泳ぎを見てみないと」
 長瀬は仕方なく、話を大元に戻した。すると待ってましたとばかりに、柏木
は手を打つ。
「その気になったのなら、日を決めようじゃない。いつなら都合がいい?」
「えと、まだ何とも言えないです」
「もう、しょうがないな。見通しが立ったら、すぐ私に知らせるように。いい
わね? あ、電話でもいいから」
 手帳を取り出すと電話番号の数字を書き付け、そのページを破り取った柏木。
紙片を長瀬の手のひらに押し付ける。
「一応、注意しておくけど、君も水着を持ってくるように」
「あ、やっぱり」
 見学だけをしてすむのなら、これほど楽なことはないと考えていたが、甘か
った。案の定、柏木が頭に角を生やす。
「当ったり前でしょ! いい機会だから、泳ぎっぷりを見させてもらうからね。
私が見せるんだから、君も見せる。物々交換はあらゆる経済活動の起源よ」
 柏木は長瀬を指差しながらこう言い放つと、付け足す風に、楽しみだわとつ
ぶやいた。
「物々交換」
 その単語が耳に残る。長瀬は遅れて吹き出した。
「何よ。そんなにおかしかったかしらね」
「いえ。別に」
 忍び笑いを隠すため、上を向いた長瀬。柏木が低いところから、まだ何か文
句を言っている。
 だがもう気にしないことにした。しばらく、このかわいらしい先輩との付き
合いを続ける覚悟はできたのだから。
(浮力のおかげで故障個所への負担は少ないはずだし、軽いトレーニングのつ
もりで始めてみるかな)
 その意思を伝えるべく、長瀬が見下ろすと、柏木は腰に両拳を当てて、頬を
膨らませていた。
「背が高いと、大きな声で言わないと聞こえないのかしらね?」
 やれやれ。
 苦労しそうだなと、あきらめにも似た気分で長瀬は話を切り出した。

――『彼のちょっとした変化 <そばいる番外編>』おわり



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