AWC 長編



#5495/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:42  ( 88)
お題>涙(下)       青木無常
★内容
「近づいてこない?」
 不安げにシェラがつぶやいた。
 アリユスはうなずく。
「わたしたちの臭いでも、かぎつけたかしらね」
 いいながら懐から色砂をとりだし、地面に模様を描きはじめる。あわててシェラ
も習った。
 魔法陣。単純に要約するなら、この世界と異世とのあいだに穴を穿つ作業だ。特
定の図像にアリユスのような訓練された幻術使の意志を付与して、物理的な手段で
は対応できない種類の脅威に対して効果のある力を抽出する。図像自体には意味が
あるともないともいわれる。どうあれ、鍵はひとの意志にある。
 陣をしくあいだ、かげろうのごとき少年の姿をした“神”は無言で見守っていた。
 作業を終え切らぬうちにどっぷりと陽が暮れて――“肉体”が出現した。
 物音ひとつ立てなかった。ただとてつもなくおぞましい“気”がどんどん近づい
てきて、崩れかけた家屋の陰から不意に姿を現したのだ。
 もとは動物だったのであろう、と推測していたが、もはやどのような獣であった
のかは判然としなかった。ただ溶け崩れた肉の塊、それ以外のなにものでもない。
 その腐肉塊が、蛞蝓のごとくもろもろと蠢きながら近づいてくる。
「シェラ、中に入って」
 自ら魔法陣の中心に立って印を結びつつ、アリユスが叫ぶ。
「もう少し」
 少女はいって、化物を背にしながら夢中になって砂袋をふりつづけた。
 アリユスもそれ以上はいいつのらず、陣の中心に膝をついて呪文をとなえはじめ
る。
 耐えがたい腐臭を放ちながら、妖物はぞわぞわと近づいてきた。触手か何かのよ
うに、幾本もの突起がにゅるりと生え出てシェラの背を求める。立ちこめる臭気は
形を備えそうなほどに濃密だ。
 腐汁をたらす突起の先端が触れる寸前まで、シェラは作業をつづけた。ぎりぎり
で陣内に踏みこみ、アリユスの隣に片膝をつく。呪文に唱和した。
 見えぬ壁に阻まれて腐肉塊は、陣の周囲をねろねろと巡った。ゆっくりとだが、
色砂の境界を浸食しながら。
 未完成な陣には、力がたりないのだろう。
 かたわらに佇む、おぼろな少年の姿にはまるで注意を払わない。
“神”の魂は無表情になりゆきを見守る。
 その“魂”に向けて、アリユスは語りかけた。
「始めるわ。でもいいの? この“肉体”は、縮み始めている」
「かまわない」
 淡々とした口調で“神”はいった。
 わかった、と答え、アリユスは印を組みかえた。
 二人が唱和する呪文の音調が変わる。
 同時に、化物の動きが活性化した。腐肉の塊に過ぎないが、それでも苦悶してい
るように見える。
 しばらくはそのまま何の変化もなかった。ただふるえながら肉の塊が徐々に、徐
々に、魔法陣を崩して前進するだけだった。
 が不意に――少年の姿をした“魂”が口をひらいた。
「ああ……」
 と、それはいった。
 恍惚の吐息とも、苦悶のうめき声ともとれた。
 表情に変化はない。
 それでも、二人の呪文がつづくにつれ、その姿がゆっくりと、だがはっきりと薄
らぎはじめた。
「ああ」
 再び“神”が声音をもらす。
 音もなく、宙を滑るようにして肉塊に近づいた。
 ゆっくりと。
「これはなんだ」と“神”はいった。「感情か? 人の肉を貪り喰らうときの歓喜
に似て、めまいがするほどに激しい感覚だ。しかしそれとはちがう。初めて体験す
る感覚だ。これはなんだ」
「嘆きかな」アリユスが答えた。「哀しみ。あるいは怒り。わたしにはわからない
けれど、そんな気がする」
「なるほど……これが嘆き悲しむ、ということなのか。おれは嘆き悲しんでいたの
か」
“神”はつぶやく。あいかわらず淡々とした口調。
「だとすれば“魂”はおれではなく、こちらに宿っていたことになる」
「ひとつになりなさい」
 ささやくように口にして、アリユスは呪文に戻った。
 苦悶する“肉体”は前進をつづけた。
 が、やがてその速度が鈍り始め――ついにはただ全身を小刻みにふるわせるだけ
でその場から動かなくなった。
 少年の姿をとった“魂”は、醜悪きわまる“肉体”のなかにゆっくりと溶けこん
でいく。
 溶けこむにつれてその姿も薄れていき――呼応するごとく、腐肉塊も縮小しはじ
めた。
 じわじわと腐汁が流れて色砂の陣を押し流していった。それでも肉塊は前進を再
開することはなかった。
 アリユスが印を解いて立ちあがり、シェラの肩に手をかける。
「もういいわ」
 一心に呪文を唱えていた少女は、夢から醒めたような顔つきでアリユスをながめ
あげた。
「もういいわ」幻術使はくりかえした。「腐汁が流れてくる。さがりましょう」
 見ると破れた陣のあいだからアリユスの言葉通り、汚汁が流れこんできていた。
 シェラはあわててあとずさる。
 汚汁の筋をあちこちに広げながら、腐肉の塊はみるみるうちに縮んでいった。
 やがて、ほかの腐汁だまりと区別がつかなくなった。
「死んだのかしら」
 ぽつりとシェラがつぶやいた。
 かもね、とアリユスはいった。
「そう彼自身が、願ったのかもね」
                                涙――了



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