AWC 長編



#5480/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:13  (199)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(20/25) らいと・ひる
★内容
「話をするならそこの部屋を使うといい」
 美咲の姉はそう言って、さっきまで寺脇くんといたプレハブを指す。
「ありがとう」
「ただし、変なマネしたらあんたたちに選択の余地はなくなるからね」
 藍はくるりと彼女たちに背を向け、わたしの手をとって元いた場所へと歩いていく。
 後ろでは、この騒ぎの後始末を美咲の姉が指示を出して収拾をつけようとしている。
 美咲は……美咲は姉の横で下を向いてしゅんとしていた。もう、わたしたちはあの
頃には戻れないのだろうか?
「あたしの奴隷の手当を! 後、寺脇と熊谷、それから美咲が連れてきた男の子二人
を探して! あの子たちとの争いに紛れてどこかに逃げたみたい。でもまだそんなに
遠くに行っていないはずよ」
 テキパキとした声が響き渡る。


 ぱたん、と戸を閉めると藍が鍵をかける。
 わたしはぼんやりとその様子を眺めていた。
「茜。話がある」
 その言葉で、ようやく思考が正常に戻り始める。
「ねぇ、どうやって逃げるの? なんか考えがあるんでしょ?」
「逃げられないよ」
 藍の冷たい言葉がわたしのココロに突き刺さる。だから、彼女が何を言ったのかが
理解できない。
「え?」
「もう私らの手に負える問題じゃない。こういった組織がらみの事はいったん目をつ
けられたらもうおしまいなんだよ」
「ちょっと待って……なに言ってるの?」
 藍はあきらめたってこと?
「もとは茜の好奇心から始まったこと。世の中には知らなくていいことがある。河合
美咲の言ってたことは正論だよ」
「たしかに寺脇くんにノコノコついていったのはわたしのミスだし、藍たちを巻き込
んだことは悪いと思っている。だけど、どうしてそんなに簡単にあきらめることがで
きるの?」
「茜は復讐がしたかったんだよね」
「え?」
「茜の部活の仲間の橘さんだっけ? 彼女をあんな目に遭わせた奴らが憎いからこの
組織に復讐がしたかったんだよね」
「……」
「だから寺脇偲に干渉した。そして裏で操っている組織の事もわかった。ゲームとし
てはいいトコまでいったんだよ。だけど、所詮私らはゲームの中で踊らされているに
すぎない。今、茜ができることは組織の末端部分と心中をするか、奴らの仲間になる
か、それとも快楽に支配される毎日を送るか」
「わたしが考えなしに行動した事は謝るし、藍にも酷い選択をさせてしまったことも
謝るよ。ごめんなさい。だから……だから、なんとかここを逃げる方法を考えようよ」
「今の状態ではそれは無理。それは茜にだって理解できると思う」
「それだったら、いったん仲間になるフリをして」
「甘いよ。私らが仲間になる為には、後戻りができないようなテストをするはずだよ。
例えば誰かを殺させるとか」
「……」
 わたしは答えられない。いや、答えなくちゃいけない。
「藍はそれでいいの?」
「私は別にいいんだよ」
 なげやりに答える。藍はなんでそんなに自分を大切にすることを放棄するの?
「わたしは嫌!」
「なんで?」
「だって、だって……」
「さくらお姉ちゃんの為?」
 藍の口からお姉ちゃんの名前がこぼれる。久しぶりに他人が口にするのを聞く。も
う忘れてしまったかと思っていた。
「そうだよ。だから、そんなケガれた事なんてできない。わたしの身体はわたしだけ
の物じゃないんだよ。お姉ちゃんはまだここで生きているんだよ」
 わたしはそう言って腹部に触れる。ここにはお姉ちゃんの細胞がある。
「だからそんなに無理をしているの?」
「そうだよ! そうじゃないとお姉ちゃんに悪いでしょ。わたしはお姉ちゃんの分ま
で生きてるんだよ」
「茜……聞いて。わたしが今日来たのは話があるから。あんたを助けるためじゃない、
伝える事があって」
「……え?」
「さくらちゃんの最後の伝言」
 身体が震えてくる。藍はお姉ちゃんの最後の言葉を聞いているの?
「茜にはずっと内緒にしていたこと。あんたの為にはその方がいいって、さくらお姉
ちゃんもあんたの両親も言ってたからわたしは今まで言わなかった。でも、茜がそう
いう状態になったら迷わず言ってって」
「なに……?」
 わたしはなんとなく聞くのが怖かった。なぜか身体が震えてくる。
「茜に臓器移植したのはさくらちゃんじゃない。あんたの母親だ」
 なにをいっているの? あいちゃん、うそはよくないよ。さくらおねえちゃんはう
そつきなんかじゃないよ。
「……」
「さくらちゃんはもう存在しない」
「……」
 ひどいよ、ひどいよ、ひどいよ、ひどいよ、ひどいよ……。
「さくらちゃんの代わりに生きる必要なんてないんだ」
「……うそつき」
 みんなうそつき、みんなうそつき、みんなうそつき……。
「さくらちゃんはね、死ぬ間際までずっとその事を気にしていた。私が行った時はも
うダメだったみたいで、病室の外で待ってた私を茜の両親は入れてくれて、親しかっ
た私と最後の話をさせてくれた。その時、みんなで約束したの。本当は退院したら臓
器移植はさくらちゃんのじゃないって言うはずだったけど……あんたお姉ちゃんっ子
だったからね。ショックでまた具合悪くなるんじゃないかってご両親は考えて、それ
で嘘をついたままでいようって事になったんだ。……でも、最後の最後にさくらお姉
ちゃんは言ったんだ。「もし茜がわたしのために無理をするようなら本当の事を言っ
て、そうじゃないとあの子は前へは進めないから」って」
「……お姉ちゃん」
 わたしはずっとお姉ちゃんに近づこうと頑張っていたのに。
「茜に干渉してもしょうがないことはわかっている。それがどういう理由かは今は言
わないであげる。でも……約束をしたのは私が変わる前の事だから」
「……うぅっ、うぅっ、お姉ちゃん」
「伝えたよ」



◆石崎 藍


「伝えたよ」
 そう言って私は背を向ける。茜だけでも逃がしてやるのが人の道というものかもし
れないが、今の私にそれだけの力も知恵もありはしない。
 私は私の意志で動く。今まで蓄積されたデータベースを参照しながら、プログラム
が働いていく。
 だから、茜は茜の意志で動けばいい。あの子にはあの子なりのプログラムがある。
選択するのはあの子自身だ。
「しばらく一人にしてあげる。その間によく考えるといい」
 そう言って、私はドアのノブに手をかける。「さよなら」と言った方がいいのかな。
きっとそうなるという予感はしている。私はさくらちゃんの次に茜の事をよく知っ
ているつもりだから。
「藍」
 私を呼び止める声。そうか、茜も気づいていたんだよね。振り返ってあの子の笑顔
を記憶に焼き付けよう。あの子は笑って別れを言うはずだ。そういう子だから。
 私はドアにかけた手を離す。
 その瞬間。
 爆音と衝撃が私の身体を襲う。
 そしてそのまま、後ろへと吹き飛ばされた。
 耳鳴りがして何も聞こえない。思考回路は混乱しかかっている。落ち着いて。こう
いう時は状況を把握しなくてはいけない。
 右手首が痛い。出血は……ない。そうか、ドアを開けようとしてたから、なんらか
の衝撃でドアごと飛ばされたのか。骨にでもヒビが入ったか、筋をやられたか。頭は
……痛くない、左手で触れても出血していそうな感触はない。最悪の事態はまぬがれ
たようだ。
 立ち上がろうとすると、右足首にも僅かな痛みがある。これは捻挫かも。
 そうだ。茜は?
 部屋の隅にあの子は倒れていた。私は痛む左手を支え、足を引きずりながら彼女の
元へ行く。
「茜!」
 返事がない。
 首筋に手をあてる。脈はある。呼吸もしている。出血らしい出血はない。頭を打っ
ていなければいいけど。
 私は茜を動かさないことにし、そのまま右手の窓の外を窺う。
 窓ガラスはない。割れた破片が部屋の中に散乱している。爆発だったのか? だっ
たらその規模が弱かったのが幸いしたのだ。この建物ごと吹っ飛んでいたら、私も茜
もこの世には存在しない。
 窓の外には、隣りにあったもう一軒のプレハブが燃えているのが見える。あの中に
は数十名の男女がいたはず。たぶんもう助からないだろう。私は反対側の窓を見る。
こちらは割れていない。やはり爆発の規模が小さかったのだろう。少しだけ開けて外
の様子を窺う。
 外にはさっきの男たちが動き回り、河合美咲の姉がいろいろと指示を出しているよ
うだ。男たちの中にも怪我人は何人かいる。
 私はもう一度、あの子の側に寄る。
「茜。……茜」
 返事はない。頭を打っていた場合を考えて動かさないのがベスト、いやこの場合は
ベターかな。これだけの騒ぎを起こしているのだから、外部に漏れないわけがない。
 美咲の姉の部下たちが必死で消火作業を行っている。鎮火しなくても騒ぎで警察が
やってくる。
 とりあえず、茜はここにおいていこう。本当は一緒に逃げられればいいのだが。
 私は外に出ると、足を引きずりながら河合美咲の姉のもとへと行く。
「何があったの?」
「ああ、あんた大丈夫かい?」
 彼女は、私を認識するとそう返事をした。
「右手がちょっとまずいみいたい。あと左足は軽い捻挫かな」
 私は手首をさすりながら彼女の前へと立つ。
「後で病院を紹介してあげるわ。でも……あんたどうして逃げなかったの?」
 彼女は微かに笑いながら私へとそう問いかける。
「仲間になったからだよ」
 本当は状況を把握したいだけ。単なる事故なのか、それとも……。
「アネさん!」
 彼女の部下らしきサングラスの男が慌ててやってくる。
「なに? どうしたの」
「あの小僧、ここに爆弾を仕掛けてやがった」
「やっばりね。だからあたしはあのガキは信じられないって言ったんだよ。あの弥勒
の口添えがなければ叩き出してやったってのに」
 なるほど。状況はだいたい理解できてきた。
「姉御! あのガキが隠れているところがわかりました」
 上の方から部下の声が聞こえる。
「よし、今行く」
 彼女はそう言うとこちらを向き、首に巻いてあったスカーフを取り、私の腕にあて、
三角巾の代わりにしてくれる。
「しばらくはそれで我慢してね。まあ、あんた結構根性座ってるからそれぐらい平気
かもしれないね。ガキを始末したらあたしらは撤退する。ついてきなさい」
 部下に慕われるのはそれなりの理由があるのかもしれない。私はなぜか笑みを浮か
べた。
 さて、どうしたものか。
 彼女の後に続き、倉庫の2階部分に上がる。2階といっても、ほとんど吹き抜けで
あるため、ロフトの小部屋がついているだけだ。
 小部屋の手前で、一人の男が腹を血染めにして座っている。刺さったままの矢を抜
こうとしないのは、もうすでに死んでいるからなのか。
「アネさん。あのガキ、奥に籠城して入ってくる奴をボウガンで狙い撃ちしてやがる
んです」
 背の低い男が彼女にそう報告している。
「威力のある銃を持ってきな。蜂の巣にしてやる」
 部屋に籠城していて、相手を生かす必要がないのなら、攻撃力のある銃で何発もの
弾を撃ち込めばそれですむ。だけど、そんなに彼は単純なのだろうか。
  部下の一人が5丁ほどの自動小銃を持ってくる。これは、たしかロシア軍の採用し
ている突撃銃だ。こんなものまで手に入るとは、組織としてはかなり大きな規模のも
のなのだろう。単純にヤクザっていうのとは違うのかもしれない。
「用意はいいかい?」
 男たちが銃を構える。これで寺脇偲のゲームは本当に終わるのか?
 そんなわけない!
 私は危険を感じて部屋から背を向ける。足に激痛が走る。かまわず階段を下まで一
気に駆け下りる。
「姉御! あの小娘逃げやがった」



#5481/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:14  (200)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(21/25) らいと・ひる
★内容
「ほっときな、ケガしてるからどうせ遠くまでいけないよ。いいから撃ちな!」
 連続した銃声が。
 それと同時に私は柱の影へと伏せる。
 その数十秒後。
 予想通りの爆発音。
 しばらくの間、耳鳴りがしている。今度は気づいていたのだから、片方だけでも耳
を塞いでいればよかった。
 
 2階のロフトの小部屋付近は爆発で炎上し、その下には焼けこげた死体がいくつも
散らばっている。
 このありさまでは誰も助からなかっただろう。たぶん、あの人も。
 やっぱりトラップだったんだ。ボウガンを自動発射させるのは簡単。本体を2つほ
ど交互に使って矢の装填も自動にしたんだろう。あとは銃で撃たせて火薬に火をつけ
させればいい。失敗しても時間稼ぎにはなる。
 わたしは足を引きずりながら茜の元へと戻ろうと考える。倉庫自体に燃え広がった
ら茜の身が危険になる。組織の人間がいなくなった以上、あの子を助けない理由が見
あたらない。
 理由?
 どうして私はそんな事を考えるのだろう。
 理由がないことに私はほっとしている。
 私の思考は過去のデータを参照して検証し、あの子を助ける事を望んでいる。だか
ら、ほっとしている。では、なんで助けない理由など探さなければならないのだろう。
 ……。
 なぜ?
 やっぱり、思考さえも制御を失っているの?
 支配されているはずの思考でさえ、制御を失いかけて壊れていく。ただ、それだけ
なのか。
 ワタシハコワレテイク……。
 目眩がする。
 ここに立っているのは、石崎藍。肉体というハードウェアに組み込まれた意識とい
うプログラムがただ働いているだけ。
 ヒトというシステムがソンザイシテイルダケ……。


「石崎さん」
 目の前に突然人影が現れる。
「寺脇……偲?」
 一瞬、判別が遅れる。私はこの人間に対して警戒しなければいけない。直感的なも
のがそう告げていた。
「あのトラップに気づくとは、やはりボクが見込んだだけのことはあるね」
 寺脇偲の右後ろには、無表情の大男が立っていた。先ほど茜に倒された男だ。
「私に何か用? そういえば、最近、茜にちょっかいかけてたんだってね」
 私は警戒をゆるめずまっすぐに彼を見る。
「それは逆だよ。彼女の方がボクにちょっかいをかけていたんだから。ボクが興味が
あるのはキミだけだよ」
「どーでもいいよそんなこと」
 彼から目線を逸らす。大男は相変わらず無表情で身動きせずに彼の側にいる。
「どうだい? ボクの仲間にならないかい。キミが仲間になるはずだった河合英子…
…河合美咲の姉さんはもういないよ」
「……」
 私は焼け焦げた肉片を見る。
「単純なトラップにも気づかない、レベルの低い人間の行く末さ。その点キミは違う。
だからボクはキミに興味があるし、ぜひとも仲間になってもらいたい」
「仲間?」
「そうだよ。キミとボクが組めば何だってできる」
「断るっていったら?」
「なんでだい? あの組織には入ってもよかったんだろ?」
「私はあなたが苦手だから……」
 理由なんてわからない。いや、わかっていて私は考えるのをやめているのかもしれ
ない。
「それは酷いな。でもキミには理解できるはずだよボクの考えが」
「人間は支配される生き物だってこと?」
「そうだよ。簡易なプログラムに従っている人間には、高度なプログラムは理解でき
ないからね」
 聞いたことのある台詞。ぼんやりと浮かぶ男の子の顔。
「なんか誰かさんも似たようなこと言ってたな。でもあいつは人間自体がすでに高度
なプログラムを持っているって」
「それは誰だい?」
 私はおかしくなって笑う。
「あんたの嫌いな幾田だよ。あんた、幾田に警告したんだってね。ふふふ、ありがと。
でもあれくらいで懲りるような奴じゃないから、困ったもんだよね」
「キミも困っているのなら、奴には構わない事だ」
「私ね、幾田ってあんまり好きじゃない。でも寺脇くん、あなたの方がもっと嫌いな
んだよ」
 嫌いという感情は無くなっていたつもりだった。だが、目の前にいる寺脇偲を見て
いると不思議と嫌悪感を抱いてしまう。
「それは同族嫌いというやつかな?」
 同族? 同じ生物という意味では当たっているかもしれない。それとも彼と私は似
すぎているのか?
 ふいに妙な感覚に襲われる。今まで閉ざされていた回路が開かれるように。
「さあ? どうしてだろうね」
 私は強がっているだけなのか?
「つれないねぇ。まったく知らない間柄ってわけでもないだろ。忘れてしまったかい?
 こうやって話すのは2年ぶりくらいかな。あれは1年の2学期だったね」
 私は寺脇偲と初対面ではない。クラスは一度も同じにならなかったが、一度だけ接
触はあった。
 あれは、2年前の秋。二重のフェンスで囲まれた監獄のような屋上。せっかくの景
色が金網で台無しだって、そんな感想を茜から聞いたこともあったっけ。
 私の通う学校の屋上は、周りだけでなく天井も網で囲われている。つまり、よじ上
って向こう側に行くことさえ不可能ということ。飛び降り自殺者を出さないためなの
か、それとも本当にここは監獄なのか。私にはどうでもいいことかもしれない。


**


「虫かごみたい」
 私はぽつりと呟いた。
 別に誰かにそう言いたかったわけじゃない。でも彼にはしっかり聞こえたようだ。
「人間なんて虫と変わんないよ」
「誰?」
 後ろに人がいたなんて気づかなかった。なんとなくぼーっとしながら屋上へ来たか
ら、気が緩んでいたのかもしれない。
「誰でもいいじゃないか」
「そう。だったら、名前は聞かない」
 私はその時、少しだけ警戒していたのかもしれない。それは本能だったのか、それ
とも安定しない心のせいだったのか、よくわからない。
「虫も人間も変わらないって話知ってる?」
「そりゃ同じ生物だからね」
「じゃあ、コンピュータも人間も変わらないって話は?」
「どっちもプログラムされたものが行動結果となるって事でしょ。不確定要素でさえ、
人間固有の物じゃないからね。コンピュータだってランダムで物を選ぶ事はできるし、
癖だってある。もともと人間に似せて創られた物だから」
「いやぁ、お見事」
 彼は大げさに拍手をする。
「くだらない場所だと思ってたけど、意外にも収穫があったな」
 彼は続けてそう言った。
「学校はくだない場所?」
 くだらないという感覚は私と似ているかもしれない。
「そう」
「そうだね」
「キミの名前は?」
「なんでそんな事聞くの?」
 いきなり名前を聞かれてその時は驚いた。でも、すぐにそれが橋本誠司の時と同じ
なんだという事に気づく。
「聞きたいからだよ」
「A組の石崎藍。学年は上履き見ればわかるでしょ」
 一応社交辞令みたいなものだ。言わなければ調べられるに決まっている。だったら
自分の口から言っておいたほうがいい。
「ありがとう。ボクは」
「名前だったらいい」
「どうして?」
「興味がないから」
「そう。だったら興味を持ったら調べるといい。キミならそれくらい簡単だろ」
 なんとなく見透かされたような顔。
「興味をもったらね」
 私は興味なさげに言う。しつこくなければいい。しつこい奴は鬱陶しいから面倒だ。
 結局、彼との直の接触はその一回限りだった。ただ、常に見られているという感覚
はあった。
 それは彼が私を同族と見ていたためなのだろう。人間は自由ではない。他の生き物
……いや、この地球上のすべての物質が同じように支配されているという事に気づい
ていたのだ。人間の行動、自分の感情さえ組み込まれたシステムが反応しているだけ
なのだと。
 でも、ただ一つだけ私と違うことがあった。
 それは……。



◇井伊倉 茜


 頭が痛い。
 こめかみを押さえながらわたしは立ち上がった。
 ここは?
 記憶がぼやけている。
 ……そうだ、さっきまで藍と一緒だった。
 あの子が話があるって言ってきて、この部屋に入って、そして真実を聞かされた。
 残酷だよ。
 どうせならずっと嘘をついていて欲しかった。
 ずっと……。
 痛みだす心の傷。わたしは痛みを消そうと感覚を麻痺させていく。そんな中、ふい
に聞こえてくる連続した破裂音。
 これは、銃声? まだ誰かが戦っている?
 ぼやけていた頭に急にこみあげてくる嫌な気配。
 その瞬間。
 爆音。
 わたしは床にうずくまる。
 キーンとしばらく耳鳴りが続き、再び意識は闇の中へと溶け込んだ。


 再び軽い頭痛に襲われて、意識が覚醒してくる。
 いったい何が起こっているの?
 わたしは咳き込んだ。あたりを漂う煙が呼吸器を刺激する。
 立ち上がって状況を把握しようとして、部屋の中にガラスが散乱しているのに気づ
く。気をつけて外に出なければ。
 ドアを開けて周りを見る。しばらく思考がうまく働かなかった。
 そこにあるのはただの焼け焦げた肉片の山。
 そう、ただの肉片……。
 わたしはむせ返るような匂いを我慢しながら、ゆっくりとその中を歩いていく。
 奥の方にちらりと何かが見える。その物体にわたしは見覚えがあった。
 どうしたんだろう頭がぼーっとしている。大丈夫だよね? わたしは生きてるんだ
よね?
 ぼんやりしながらわたしはその物体に近づいていく。
 鉄骨らしきものが、幾重にも重なって床を埋め尽くしているその一角。その中に白
と赤の見覚えのある物があった。
「美咲?」
 なんでだろう? わたしはまたいつものように彼女を呼んでいた。まるで何事もな
かったかのように。
 しばらく肩を揺らしながら下を向いていた美咲の顔がこちらを向く。
 泣きはらして真っ赤にしながらも、その奥に憎しみがこめられていることがすぐに
わかった。
「茜!」
 真っ直ぐに、彼女はわたしに対し銃を向けて立ち上がる。
 わたしにはもう、逃げる気力も刃向かう気力もなかった。ただただ、美咲の顔を見
つめることしかできない。
「どうしたっての? さっきの威勢はどこいったの? あんただって生き残りたいん
でしょ。誰かを犠牲にしてでも生きたいって思ってたんじゃないの?!」
 破裂音がした。どこかで跳ね返るような金属音がする。
 音は、また続く、2回、3回、4回……わたしはもうすぐ死ぬんだろうか?
 死んだらお姉ちゃんに会えるかな? ……バカだね。会えるわけないじゃない。



#5482/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:15  (199)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(22/25) らいと・ひる
★内容
「なんで!?」
 美咲の悲痛の叫び声が聞こえる。
「なんで逃げないの?」
 なんでだろう? もうどうでもいいのかな?
「どうでもいいんだよ」
 そう言葉こぼした瞬間、自然と涙がこぼれてくる。頬を伝う雫が温かい。
「何があったっての?」
 美咲が近づいてくる。
 額に冷たい感触。銃口が触れたらしい。
「やっぱりさ、美咲は正しかったよ」
「今さら何言ってんの……」
「世の中さ、やっぱり知らなくていいことはあるんだって。世界はウソで固められて
いるんだって。ホントはそんな事、わたしだって気づいていたよ。だって、わたし自
身だっていっぱいいっぱいウソはついてたんだもん」
「茜?」
「そういえば美咲って、しきり藍の事を気にしてたよね。わたしと藍の関係も不思議
がっていたよね。でもね、わたしとあの子を繋ぐものってそんなに大したものじゃな
いんだよ。……昔ね、わたしにはお姉ちゃんがいたの。わたしはお姉ちゃんの事が大
好きだったし、藍はお姉ちゃんとよく遊んでいた。ただそれだけのこと。わたしは昔、
藍の事は大嫌いだった。それだけだよ……それだけなんだよ」
 わたしはもうその場で涙を流すことしかできなかった。
「大嫌いって、あんた彼女の事あんなに心配してたのに」
「そう大嫌いだったけどね。でも、わたしお姉ちゃんのマネしたかったの。憧れてた
からね。だから、必死で好きになろうって、自分自身に暗示をかけたの。そうしたら、
変われた。ウソみたいに違う自分になれた。友達もいっぱいできたし、困った人の相
談にのってあげることもできるようになった。でも……でもね、ほんとは気づいてい
たんだよ。わたしはウソをついているんだって。ほんとの自分は幼い時においてけぼ
りにして、ウソついて生きてきたんだって」
「今のあんたも嘘をついてるの? お姉さんに憧れてた気持ちも嘘なわけ?」
 美咲の言葉はなぜか、優しくわたしを叱りつけるようにも感じられる。
「わかんない。もう、わかんないよ……」
 嘘をつきすぎると何が本当なのかわからなくなる。わたしがお姉ちゃんに憧れてい
たのは何のため?
「茜。あんたはそのお姉ちゃんを誇りに思ってたんじゃないの? その為に強くなろ
うとしてたんじゃないの?」
「……」
「もしかしたら茜はさ、嘘をついてたと思っていたことでさえ、本当は嘘なのかも知
れないよ」
「嘘?」
「裏の裏は表っていうでしょ。あんた嘘なんかつかず、ものすごく素直に生きてきた
のかもしれないってこと」
 わたしにはまだ何が本当のことかなんてわからない。
「茜の場合、過去への負い目が自分の気持ちを嘘だと思い込もうとしていたのかもし
れないよ」
「?」
 よくわからない。ホントのわたしはとうの昔に時間を止めてしまったから。
「まったく……そんなんじゃあんたを憎めないじゃない。わたしだってお姉ちゃんを
殺されて、誰かにその怒りをぶつけなきゃどうにかなりそうだってのに」
 美咲は銃口をわたしの額から外すと、構えていたその両腕で今度はわたしの身体を
優しく包み込む。温かいヌクモリ。忘れかけていた感触。
 自然とわたしのロから言葉がこぼれる。
「わたしね。昔、臓器移植を受けたことがあるの。それで、今までずっとそれはお姉
ちゃんが提供してくれたものだって思い続けてきたの。でも、やっぱりそれはウソだ
ったの。さっき藍がそれを教えてくれたの」
 さっきから涙はずっと止まらない。枯れるまでわたしは泣き続けるのかも。
「そっか。それでそんなに弱くなっちゃったわけ。酷いね。石崎さんも」
 わたしは美咲に甘え始めてしまった。
 そんな気持ちに気づいたのか、美咲は包み込んでくれていた身体を優しく離す。
「でも茜もバカだよ。くだらないよ。茜は一人できちんとここまで生きてこれたんで
しょ?」
「え?」
 わたしはずっとお姉ちゃんの幻を追っていただけ。たぶんそれは一人ぼっちで。だ
から、バカだと言われてもしょうがない。
「私は茜の事、ほんとは好きじゃなかった。変に優等生ぶってて……無理してるのは
気づいてたからさ。でも、あんたは一生懸命だったんだね。生きることに」
 彼女の表情が柔らかくなり微かに笑みが浮かぶ。
「美咲?」
「友達になれたらよかったね」
 微笑みを浮かべながら、美咲は涙を浮かべていた。
「え?」
「バイバイ茜」
 くるりと向けた背中を見て、わたしは引き留めることなんかできなかった。
 だけど……わたしだって友達でいられたらどんなに良かったかって後悔してるんだ
から。ホントのことなんか知らなくてもよかったから、みんなで楽しくしていられた
らと思ってたんだから。ウソをつくのもつらいけど、ホントの事をさらけ出すのもつ
らいんだから。
 どうしてみんな、幸せにはなれないんだろう。



◆石崎 藍


「きみに見せたい物がある」
 寺脇偲はそう言って、口元を緩める。
「見せたい物?」
 彼に対しあれだけ理由もわからず嫌悪感を抱いていたというのに、その一言でそれ
までの感情が揺らいでしまう。
「無理に仲間になれとは言わない。でも、ボクにはキミが必要だし、キミにはボクが
必要なのかもしれない」
 状況が状況でなかったら私は笑い飛ばしていただろう。今どきそんな口説き文句を
使うヤツがいるものか、と。
 だけど……。
「私はあなたなんか必要とは思っていない……」
 私の中で迷いが生じ始めている。
「見てから決めても構わないんだよ」
 何を私に見せようというのだろう。わずかな好奇心が私のシステムに干渉している。
他人が見せびらかしたがるものなんてくだらないものしかない。でも、あの『寺脇偲』
の見せるものという条件が、私の中で好奇心を生み出したのかもしれない。
「……」
 遠くの方からサイレンの音が聞こえてくる。あれは、消防車? パトカーの音も微
かに混じっている。
「時間がないよ」
 その時、後ろから聞き覚えのある声がする。
「偲!」
 振り返ると湊が立っていた。着ている制服はすす汚れてボロボロにはなっているが
、外傷はほとんどないようだ。
「湊か。今いいところなんだ。邪魔はしないでくれるか」
 彼の口元が僅かに崩れる。少しだけ苛ついた口調でもあった。
「ごめんなさい。でも……」
「湊。おとなしく帰るんだ」
「でも、でも……ボクは偲が何をやっているか知りたいんだ。別に悪い事をやってた
って構わない。ボクも偲の仲間に加えてもらいたい。だから」
「邪魔をするなと言っただろ」
 同時に破裂音。
 寺脇偲は懐から出した拳銃で容赦なく湊を撃った。彼は肩を抑えて膝をつく。ケガ
よりも精神的ショックが強いようだ。
 わたしははっとして湊に駆け寄ろうとして、再び迷いが生じる。その隙をついて寺
脇偲の言葉が私の心に絡みつく。
「石崎さん。邪魔して悪かったね。さあ、選択してくれ。ボクについてきてくれるか
い? それともその玩具とともにここに残るかい」
「玩具?」
 振り返って彼を見る。
「湊はただの玩具だよ。でも、もうボクには必要ないね。キミが来てくれるのなら」
 彼らしい台詞なのかもしれない。それならば……。
「私は新しい玩具?」
「違うよ。言ったろ、キミはボクにとって必要な存在なんだ。ボクとキミは対等だ」
 それは彼の本心だろうか? 彼は危険ではあるし、仲間になることにメリットがあ
るとは思えない。
「……藍先輩」
 湊の弱々しい声が聞こえてくる。
 再び振り返ることは簡単だ。このままここに残って彼を慰めてやるという選択もで
きる。
 だけど……私は寺脇偲に何かを期待している。彼ならばこの呪縛を解き放してくれ
るかもしれないというくだらない僅かな幻想。
 私の壊れたプログラムは、そんなものに反応しているんだ。
「湊」
 私は振り返らずに彼の名を呼ぶ。
「先輩?」
「大した怪我じゃないんだから一人で帰れるよね?」
「え?」
「湊から借りたナイフはここに置いておくよ」
 屈んで足下に彼のナイフを置く。
「さよなら湊」
「そんな……先輩までボクを見捨てるなんて……」
 もともと私は湊には特別な感情を持っていない。
 玩具?
 退屈しない時間を作るためのただの道具。私だって寺脇偲と何ら変わるはずもない。
 湊とのつながりなんて所詮その程度のものだ。
「いいよ寺脇。ただし、つまらないものを見せられるのは嫌だからね」
 私は精一杯の強がりを寺脇偲に向けて示した。もう、湊との関係は断ち切れた。こ
の先、出会うことがあったとしても、彼は私に笑顔は向けてくれないだろう。
「きっとキミも興味を示すと思うよ」
 そう言って彼は私についてくるように指示をする。
 ちょうど河合美咲たちが入ってきた扉を開けてすぐ、横に地下へ続く階段があった。
 暗いその階段を下りて、低くなった天井を真っ直ぐ歩き、汚水の匂いのする小部屋
に入る。
 そこからは、部屋の中心のマンホールの蓋を開け、さらに下るようだ。
 大男は彼の指示を受け、重そうな蓋を素手で持ち上げる。
 そして、先に彼が入り、次に寺脇偲が地下へと下っていく。
「?」
 ふいに何かの気配を感じて私は後ろを振り返る。
 先に降りた寺脇偲は、わたしが一瞬下りるのを躊躇ったことを不思議に思ったのか
「怖いのかい?」と聞いてきた。
 私は気にしないことにして、そのまま降りる。
 数十分歩いただろうか、やっとはしごを上がり、再び違うマンホールの蓋を開けて
小部屋へと出た。
 その部屋の扉をあけて、ちょっとした廊下を歩くと、急に天井が高くなり大きな鉄
製の扉が目の前に見えてくる。
「ついたよ」
 彼は一言だけそう言うと、その扉を開けるように促す。
 私は一瞬だけ躊躇すると、一気にその扉を開いた。
 中にはドラム管ほどの銀色をした円筒形の物体が置かれていた。何かの本で見た覚
えのある形。
「アート作品には興味はないけどね」
 私は彼の表情を伺いながら、わざとそう言ってみせる。
「ある意味芸術作品だよ、それは。でも、気づいているんじゃないか?」
 私の中で、ある種の推測が成り立つ。
 彼が作ったわけではない。もらったりしたわけでもないだろう。なんらかの形で横
取りしたのかもしれない。
「気づいていたらどうするの?」
「答えを聞きたいね」
 彼のこれまでの言動、支配への固執、それらから導き出した答えは単純であった。
「その前にこれが本物である証拠は? だいたいどこから手に入れたっていうの?」
 目の前にある物体は、大量殺戮兵器である可能性が高い。細菌兵器……いや、形状
からして核の類なのかもしれない。
「ロシアからの直輸入だよ。あの組織はこういうものにも精通しているらしい」
 解体処分されなかったものが裏のルートで出回っているわけか。
「いったい何に使うっていうの? 信管は外してあるんでしょ。あと、このままじゃ
目的地まで飛ぶことすらできやしないじゃない」
「飛ぶ必要はないさ。リモートで起爆できるから」
 つまりそういうことか。
「脅迫の材料?」
 テロリストを気取っているつもりだろうか?
「脅迫じゃないよ。ゴミ掃除みたいなものさ」
 彼はニヤリと冷たい笑みを浮かべる。
「どういうこと?」
「取引するのは政府じゃないよ。組織の奴らさ。でも、取引は成立しない。なぜなら
、取引場所で起爆させるからね」



#5483/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:16  (190)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(23/25) らいと・ひる
★内容
 彼のその思考は容易に理解できてしまう。ただ、それは私が同じだからじゃない。
「その巻き添えで何万人という人も消滅させるわけだ」
 彼の行為に対し、怒りは感じない。何も感じない。普通の人なら、その残虐さを責
めるだろう。
「確実に組織の上の連中を消すためだよ。ついでにこの国の人口の調整もできる」
「後処理が大変そうだけどね」
「この国に愛着はないからね。しばらく放っておくさ」
 私は少しの間沈黙し、考える。彼が望むものと自分が望むもの。それが等価値であ
るかということを。
「すぐに答えを出す必要はないよ」
「もう少し質問していい?」
「ああ、構わないよ。答えられる範囲で答えてあげる」
「仲間は何人いるの?」
「仲間というには語弊があるが、協力者なら10人以上いるよ」
「協力者?」
「仲間にするのはキミだけだよ」
「みんなあなたの指図で動くわけ?」
 私は彼の隣りにいる大男の方を見る。
「そう、弱味を握っているからね。あと、こいつのような忠実な下僕もいる。彼らは
僕の命令しか聞かない。いや、聞けないといったほうがいいかな。だから、対等な仲
間はキミだけなんだよ」
 対等? 何が対等なのだろう?
「それだけ仲間がいれば私が加わる必要がないと思うけど」
「言ったろ。仲間はいない。だからこそキミが必要なんだよ」
「じゃあ、それ以外の人間は自分の支配下に置きたいわけ?」
 確認しておきたかった。彼が何を本当に望んでいるのか。彼と私は本当に同類なの
か。
「安心していいよ。キミとボクは対等だ。キミを支配する気も束縛する気もない」
「きちんと質問に答えて。アナタの望みは自分よりレベルの低い人間を支配したいわ
け?」
 そんなこと今さら確認しなくてもわかっていたんだ。あの屋上で初めて彼に会った
ときから。
「そうだよ。ボクらは特別なんだ。本能に従うことしか知らない人間にはボクらの思
考は理解できない」
 特別。彼は特別を望む。それだけの事。理解はできる。デモ、ワタシハソレヲミト
メラレナイ……。
「アナタは特別?」
「ああ、それはキミも……」
 そう言って彼は私の変化に気づく。この頬を伝う雫は、ナミダというものか?
 果たしてこの雫は何を意味するのだろう。自分でもわからない。いや、誰にもわか
りはしない。なぜなら私は……。
「私は特別じゃないよ」
「石崎さん……」
「あなたも特別じゃない。そう……特別な者に憧れる、ただ自分以外の他人を支配下
に置きたがるという本能に操られた【普通】の人だよ」
「な、なに言ってるんだ!」
 自分の言葉が否定されたことによってあからさまに怒りを露わにする。それは普通
の事なんだよ。
 もう彼の顔は見ていられない。私のこの身体もこの思考も、そして涙でさえすべて
は普通でないから。
「私はね、特別でもなんでもない。ただ【壊れている】だけなの」
 彼には理解できないだろう。
「な……壊れているって」
「だからアナタは正常なの。普通なの。私には破壊も支配も何も望まない。そのかわ
り空しさしか感じられないの」
「でも、ボクはレベルの低い普通の人間なんかじゃない!」
「アナタがそう思うのは自由だよ。だから私の関知するところじゃないの」
「関知するところじゃないって……キミはボクに興味があったんじゃないのか? だ
からついてきたんじゃないのか?」
「さよなら。あなたの仲間になることができないのは残念だけど」
 彼に背を向ける。
「待て!」
 私は振り向かない。もう彼には用はない。
「待ってくれ。ボクはずっとキミを見ていた。キミは壊れてなんかいない。優秀な人
材なんだ。ボクと組めばなんだってできる。だから」
 帰り道は覚えている。
「熊谷! 彼女を帰すな!」
 目の前に彼の命令を受けた大男が立ちはだかる。
「お願いだ。ボクはキミに期待していた。ボクの思考が理解できるのはキミだけだと
思っていた」
 私は立ち止まって天井を見つめる。人の構造、心のメカニズムが理解できないわけ
ではない。
「あなたの考えていることはわかるよ。何かを支配したい欲望も誰かと共有したい感
情も何かを破壊したい衝動も。でもね、私にはそれを自分のものにすることができな
いんだよ」
 理解した上で、私はそれを容認できない。空しさというバグが私の心を埋め尽くす。

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 私自身でさえ私を制御できない。なぜなら、壊れてしまっているから。

「あくまでもボクを拒むというのか?」
「拒みはしないよ。でもあなたは私にはついてこれない。それだけのことだよ」
 アナタは普通の人間だから普通に生きていけばいい。
「……」
 もう彼は説得で私を引き留めることはないだろう。あとは、このままおとなしく逃
がしてくれるか、それとも彼の感情を満足させるために永遠に逃がさない手段をとる
か。
 銃声と同時に天井に火花が散る。
 そうだね、いっそのことめちゃくちゃに壊れてしまえたら、こんな中途半端な感情
に支配されることもないのに。
 生物として機能しなくなれば、私は永遠に苦しまなくてすむかもしれない。
「さようなら」
 私は目を閉じる。
 でも、それならば私はなぜ今まで自ら命を絶とうと考えなかったのだろう。

−「話は終わったようね」

 どこからともなく響いていく声。
 続いて銃声。痛みはない。足下にどすりと肉塊の落ちるような音が。
 瞼を開くと、あの大男が倒れていた。そして、大男が立ちはだかっていた場所の前
にはあの河合美咲がいた。。
「おまえは!」
 私の背後からの彼の叫び声が聞こえる。彼女は涼しげな顔でそれを受けて、容赦な
く引き金を引く。
 連続した3発の銃声。すべて彼女から発射されたものだ。
 うめき声と人の倒れるような音がする。寺脇偲が生きているかどうかなんて確認す
るまでもないだろう。
「殺したの?」
 私はまっすぐに彼女の顔を見る。
「ええ。組織を裏切ったんだからね」
 少しだけ寂しげな表情を見せながら彼女はきっぱりと答える。
「もう学校には戻らない気?」
「そうだよ」
 彼女のその答えに、なぜかあの子の顔が浮かぶ。裏切ったとはいえ、仲は良かった
はずだ。
「茜が悲しむね」
「きちんとさよならを言ったからいいんだよ。でもね、それぐらいじゃ茜は悲しまな
いよ「
 それは自分が裏切った事を後悔している、そんな表情ではなかった。
「どういうこと?「
「悔しいから教えない「
 そう言って一瞬だけ笑みを見せて、彼女は背を向ける。
「殺さないの?「
 呼び止めるかのように私の口からそんな質問がこぼれる。
「誰を?」
 私は無言のまま天井を仰ぐ。
「……」
 これは自分で答えるべきものじゃない。
 しばらくの沈黙の間の後、彼女は口を開く。
「あなたは組織の人間じゃないし、裏切ったわけでもない」
「でもあなたたちの秘密を知ってしまった」
「秘密? この組織の何を知ったっての? うぬぼれるのもいい加減にしておいたほ
うがいいわね。いい? わたしらなんて所詮、組織の末端部。そのイザコザをみられ
たからといったって上の連中にはたいしたことじゃない」
 本当にそうなの? たとえ些細なことでも見逃さないというのが事実ではないのか。
 わたしは彼女の背中をじっと見つめる。
「疑ってるんでしょ? そんなに簡単に逃すはずがないって。でもね、わたしさえ黙
っていればこの場のことは闇に葬られるのよ。だから、あなたは殺さないであげる」
 彼女は振り返らない。
「なんで?」
「ふふっ、教えてあげない。あなたにわたしを理解してもらおうとは思わないからね」
 そう答えると、彼女はそのまま歩いていってしまう。
 後に残された私は再び天井へと視線を向ける。
 どうしてみんな他人に何かを期待するのだろう?
 どうして自分は他人に何かを期待してしまったのだろう?
 どうして?



◇井伊倉 茜


 あれから警官に保護されて、警察署の中の会議室みたいなところに座らせられて、
信じてくれないかもしれないから半分くらいホントの事……橘さんやクスリの話や寺
脇クンの事を矛盾のないように話して、後は適当に誤魔化した。ホントは美咲の事も
話さなければいけないんだけど、わたしにはもう何が本当かがわからないくなってい
る。もしかして、明日になれば何事もなかったかのように、美咲と佳枝との三人でく
だらない話に花を咲かせる日常が戻ってくるんじゃないかって情けない幻想を抱いて
いるのからかもしれない。

 話し終わったら気が抜けてしまって、机につっぷしてぼんやりする。刑事さんは
「家の人に迎えに来てもらうから待ってなさい」と優しく言って、部屋から出ていっ
た。

 結局わたしは、傷だらけになって大切なものを失ってしまったというのに、何も得
ることができなかった。
 橘さんは一生ベッドの上。
 美咲はもう戻ってこないつもりだろう。
 藍とも気まずいまま。
 今までわたしを支えてくれていたお姉ちゃんは、細胞のひとかけらも存在しない。
 わたしの好奇心は、わたしの日常だけでなく大切なものをことごとく奪っていった。
 自業自得なんだけどね。
 だからわたしは馬鹿だったんだ。昔からずっと馬鹿だったんだ。
 あの頃と変わらないまま、ずっと仮面を被り続けていた。いつのまにか、それが心
の中までかぶり続けなくてはならなくなって、どうにも身動きがとれなくなって一気
に崩壊してしまった。
 わたしはこれからどうやって生きていけばいいのだろう。

 ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんもつらいことあったんだよね。どうやってそれを乗
り越えていたの? わたしには難しすぎてわからない。わたし馬鹿だからわかんない
よぉ。



#5484/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:17  (174)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(24/25) らいと・ひる
★内容
 心の中でみっともないくらい、存在するはずもないお姉ちゃんに泣きついている。
 なにやってるんだろう?
 わたしはもう、一人きり。
 違う、わたしはとうの昔に一人きりだったんだ。
 だから、これからもずっと一人きりで生きていく。
 お姉ちゃんはもう何も答えてくれないから。
 でも、わたしは何か大切な事を忘れているはず。それがなんであるかが思いつかな
い。
 たぶん、それを思いつかない限り、わたしはずっとこのまま泣き続けてしまうのだ
ろう。
 なんだか疲れた。
 ココロもカラダもすべてが重く感じられる。
 ゆっくりとわたしは瞼を閉じた。
 やりきれない感情を抱きながらわたしは眠りに落ちていく。


**


 気がつくと、見慣れた天井があった。
 ここはわたしのベッドの上?
 今までのことは全部夢だったの?
 だったらわたしは何も悩む必要はない。今まで通り、再び仮面を被って生きていけ
ばいいのだから。
 がちゃりと部屋のドアが空く。
「起きた?」
 起きあがってそちらを向くと、そこには穏やかな表情をしたお母さんがいた。
「うん。わたし制服のまま寝ちゃったんだね」
 そう言って自分の着ている服を見る。すす汚れた痕、カラダのあちこちに擦り傷が
あって、酷い箇所にはガーゼがあてられていた。
 僅かな痛みとともに蘇る記憶。
 それは、今までの事がすべて現実であったことを示している。
「あんたをおぶってここまで連れてくるの大変だったんだからね」
 お母さんの穏やかな表情は維持されている。
「そうなんだ……ありがとう」
 なんだかわけがわからない複雑な表情を浮かべながらお礼を言うと、お母さんはゆ
っくり近づいてきてわたしの頭にぽんと手を置いた。温かい手のヌクモリ。
「あんた成長したよね」
「え?」
「重くなったし」
「やだお母さん」
 そんな、年頃の娘にむかって体重の話なんて……。
「なに膨れっ面してるのよ。あんたをおぶったのなんて7、8年ぶりなんだから当た
り前じゃない。それにあんたはあれ以来きちんと自分の足で歩いてきたものね」
 それは違う。わたしはお姉ちゃんの幻影を求めながら生きてきたんだ。一緒だと思
い込んでいたからこそ、わたしは自分の足で歩いてこれたんだ。
 わたしが黙り込んでいると、お母さんはくしゃくしゃっと頭を撫でる。
「さっきね。藍ちゃんから電話あったわよ。あんたにあのことを言ったからって、教
えてくれた」
 そういえばお母さんもわたしを騙していたんだよね。
「ひどいよね」
 自然とそんな言葉がこぼれる。もう、涙はこぼれない。
「嘘をついたのは悪いと思ったわ。でも、さくらはあんたの支えでもあったから……
それであんたが元気になれるならそれはそれでしょうがないと思ったんだよ母さんは」
 優しく見つめるその瞳を見て、わたしははっとする。
 そうだね、わたしが生きてこれたのはそのせいなんだから。ふと、わたしは言わな
ければいけないことをようやく思いつく。
「お母さん」
 声がかすれる。今までは意地をはって生きてきたから、言葉に出すのは少しだけつ
らい。でも、わたしは言わなければいけない。
「なぁに?」
 お母さんはまるでわたしが何を言おうとしているのかわかるかのように微笑んだ。
 その顔を見て声がつまる。
 言わなければいけない。言ってしまったらわたしは何もかも認めなくてはいけない
けど。
「ごめん……ね」
 ようやく言葉がこぼれる。
「あんた、謝るようなことでもしたの?」
「違う……違うの……」
 涙はもう涸れてしまった。この感情は悲しみであって、悲しみでもない。
 そっと見上げる。
 わたしが忘れていた大切なこと。
「わたしはお母さんにお礼を言わなければいけないの。そう。わたしが生きてこれた
のはお姉ちゃんのおかげじゃない。お母さんのおかげなんだよね」
「……茜」
「ありがとう。本当にありがとう、お母さん」
「どうしたの? 急にそんなこと言って」
「……うん。わたしは今まですごく罰当たりな事をしてきたんだって気付いたの。知
らなかったからってそれは許されることじゃないよね。だから、遅くなったけど『あ
りがとう』なの」
「まあ、あんたが素直に感謝してくれるのなら、わたしはその気持ちをありがたくい
ただいておくわ」
「うん」
「でもね、感謝しているからって母さんの為に生きていくような考え方はやめてね」
「え?」
「あんたは誰の為でもない、自分の為に生きていってほしいの。それが母さんの願い
であり幸せでもあるの」
「どうして?」
「あんたも自分の子供を持つようになればわかるわ」
 お母さんは、もう一度わたしの頭をくしゃくしゃっと撫でると、優しい笑みをわた
しの心に残してそのまま部屋を出ていった。



◆石崎 藍


 廊下で茜とすれ違う。あの子はまっすぐと前を見て歩いていく。挨拶は交わさない。
 無事に帰還できた私達は、ほんの少し前の日常とは違う日常を歩み始めていた。
 特に茜は失うものが多すぎたのだろう。でも、人間は忘却さえ糧にしてしまう生き
物だ。つらすぎる過去は記憶から消し去ってしまった方がいい。そうやって人間は前
へと進んで行くんだ。せめて茜だけはそうやって前を向いていて欲しい。
 私には、同じ道は歩めないから。
「よっ! 石崎」
 ノーテンキな声が背後から聞こえてくる。いちいち反応するのも面倒だ。
「大変だったな、腕大丈夫か?」
「大丈夫だったら包帯巻いて手首固定してるわけないでしょ」
 いちいち反応するのは面倒だが、あいつに一方的に喋らすのも癪に触る。
 そういえば、わたしにもまだこういう感情が残っていたのか。
「それは失礼。でも、ま、無事にあそこから帰ってこれただけでもよしとしないとな」
「まったく、下手すりゃあんたは殺されてたかもしれないってのに……」
「ま、結果オーライって事で」
 どこまでも楽観的な人間だ。でも、そんな彼が私は少しだけ羨ましかったりする。
そう……あの寺脇偲の時とはまったく違う感覚だった。
「あんな目にあってノーテンキでいられるなんて、羨ましい性格だこと」
 私は軽く受け流す。本心を込めながら。
「よく言われるよ」
 本当に羨ましい性格だ。
 わたしはその言葉に何も反応せずに歩き出す。


 放課後、私は学校の屋上からずっと空を眺めていた。青い空はやがて血のような真
っ赤なタ焼けとなり、校舎からは下校放送が静かに流れていく。
 階段を下りて昇降口へと向かった。旧校舎へ続く渡り廊下に出ると、外気の冷たい
風が頬を刺す。
 今日はまぶしいくらいの快晴であったのに、気温はかなり低かった。
 風で舞った後ろ髪を押さえながら、横を向くと視界に見慣れた人物が映る。
 名前を呼ぼうとして、それがすでに意味をなさないことに気づいた。
 もうあの日常には戻れないのだから。
 私はそのまま通り過ぎようとした。
「藍先輩」
 ふいに、ぽんと肩を叩かれて名前を呼ばれる。
 何事かと振り向いて彼の手に光るナイフが目に入る。そしてそれがまるでスローモ
ーションのようにゆっくりと振り下ろされた。
 とっさに刃が向けられた頭部をかばうように、左手が反応する。
 手のひらが熱い。
 生暖かいものがどくどくと私の手のひらからこぼれていく。
 赤い体液。
 身体の中からすべて血が抜き取られたかのように、全身が冷たく感じられる。
 飛び散った赤。
 後頭部がしびれた感じ。耳鳴りが止まらない。
 生暖かい雫が唇にかかる。鉄の味。
―「キャー」
 女生徒らしき悲鳴が聞こえてくる。
 彼は構わずにもう一度ナイフを大きく振り上げる。
 キケン。
 彼の表情は夕闇でよくミエナイ。ワラッテイルノカ? ナイテイルノカ? ソンナ
コトハドウデモイイ。
 ハイジョシナクテハ。
 視界が靄に包まれていき、意識を保てそうにない。そこで私はブラックアウト……。
「藍!」
 聞き慣れた声。記憶を読み込むのに、不思議な感覚を覚える。コレハ、ナツカシイ
トイウコト? ココチヨイトイウコト?
 全身に血の気が戻っていく。と同時に私の意識も再び浮上する。
 反射的に右肘を前へと繰り出す。目標は彼の顔面。
 鈍い感触。勢いにまかせてそのまま振りかぶり今度は逆に肘を返して、再び打撃。
 彼はナイフから手を放しそのまま崩れ落ちる。
「藍! 大丈夫なの?」
 真っ青になった茜が駆け寄ってくる。と同時に何人か生徒と教師が集まってくる。
「石崎。ほれ、手をかせ」
 気づくと副担任の井上先生がポケットから取り出したハンカチで、私の手をぐるぐ
ると巻いて止血をしていた。
「先生。わたしこの子を保健室に連れてきます」
「ああ、任せた。場合によっては救急車を呼んでもらった方がいいぞ」
「はい」
 茜と先生のやりとりをぼんやりと聞いていると、急に手を引っ張られた。
「藍。痛くない?」
 痛みはあまり感じない。ココロの機能と共にマヒしている。
「平気だよ、これくらい」
「ならいいけど」
 茜の顔に少しだけ血の気がもどったように感じた。
 保健室につくと保険医の先生に消毒してもらい、救急車を待つことになった。
 傷がかなり深いので縫うことになりそうだということだ。
 私にとっては何もかもどうでもいいことであった。



#5485/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:18  ( 86)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(25/25) らいと・ひる
★内容
 次の日、本当は先生にも学校を休んでもいいと言われたのだが、特にやることもな
いのでそのまま登校した。両手が使えないのが不自由であるものの、別に特にノート
をとらなければならない授業もなかったので、それはそれで不都合はなかった。
 放課後再び屋上へとあがる。昨日はぼんやりと見ているだけだったが、あらためて
ここに来ると再びナツカシイ感想を抱いてしまう。
「虫かごみたい」
 呟いてから背後の人の気配に気づいた。
「せっかくの風景が台無しだね」
 振り返ると、茜はニコニコと笑っていた。そして「本当だったら、屋上って人気の
スポットなのにね」と付け加えた。
「まだいたんだ」
「うん。まだいたんだよ」
「茜はこの場所、好きじゃないんでしょ」
「コレさえなければね」
 彼女は憎たらしそうに金網を両手で掴む。
「でもさ」
 そう言って、茜は金網に顔を近づけた。
「こうやって顔を近づければ金網なんてぜんぜん気になんないんだよね」
 遠くのものに焦点を合わせれば、近くにあるものの焦点はぼやけてしまう。カメラ
のピントと同じ。
 人は元来そういう性質の生き物だ。遙か遠くを見据えて生きていくために、自分と
すれすれの位置にある不具合は、ぼやかしてしまう方がよい。
 近くの物ばかりに焦点を合わせていたら、人は前へは進めない。
 そんな茜を見て私は無性に羨ましくなる。
 私はきっと、このまま人間の不具合ばかり見つめて生きていかなければならない。
だから、この穏やかな時間だけは少しだけ思考を停止させてもらおう。
 ソレガココチヨイトイウコト?
 それから二人で久しぶりにとりとめのない話をして、一緒に下校することになった。
「ねぇ、どうして私に干渉する気になったの?」
 昨日から思っていた疑問。茜は私を見限ったのではないのか?
 あの時だって放っておけば良かったんだ。私は茜に酷いことをしたんだから。
「あれ? 昨日の朝、挨拶しなかったの根に持っているんだ」
 彼女がわずかに笑みを浮かべる。
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
 茜はからかうような口調でそう言って、歩く速度をあげた。
 彼女の背中を見て思う。昨日、彼女は私の手を引いて歩いていた。昔の茜は誰かに
手を引かれて歩いているような子だった。
 人はこんなにも変わるものだ。例えそれが嘘から始まった事であろうと、人は確実
に成長していく。
 ふと、茜が言葉をこぼす。それはまるで、私が何を考えていたのかわかっているか
のようだった。
「わたしね。藍とは友達になりたいってずっと思ってたの。さくらお姉ちゃんと遊ぶ
藍には嫉妬してたけど、でも本当は一緒に遊びたくしょうがなかったんだと思う。わ
たし初めは藍の事嫌いだったけどね、でも話しているうちにどんどん好きになってい
った。それは多分、嘘じゃないと思うから」
「茜は嫌いなものでも好きになれるの?」
「うん。だって、唯一大好きだったお姉ちゃんを抜かせば、昔のわたしは嫌いなもの
しかなかったんだよ」
「でもそれは羨ましい性格かもしれない」
「うふふ」
 茜が含み笑いをする。
「なに?」
「藍にうらやましいなんて言われるのは初めてかも」
「初めてなのかな? わたしはずっと羨ましいと思っていたよ」
「嘘? だって、藍は文句ばっかり言ってたじゃない」
「……」
 文句ではない。私の思考が勝手に空しさを生み出しているだけだから。
「ま、いっか。あの石崎藍ちゃんにうらやましがられるなんて、こんな自慢できるこ
となんて他にないからね」
「勝手に自慢してください」
 私にしてはめずらしく冗談まじりでそう答えた。
 もしかしたら私のココロに残っているわずかな人としての感覚が、このとりとめの
ない時間を心地よいと思っているからなのかもしれない。
 夕闇がどっぷりと浸食をしてくる。
「すいません。ちょいと道を尋ねたいんですが」
 ちょっとくたびれた中年の男が声をかけてきた。頬にいくつかの傷はあるものの、
まるで顔中が笑顔といった感じのとても人のよさそうな表情をしていた。
 わたしは無愛想でいたが、茜が愛想良く対応する。こういうことは彼女の方が得意
だ。 茜が丁寧に道順を教えると、
「ありがとうお嬢ちゃん」
 そう言って中年の男はお辞儀をして去っていく。
 茜はそんな彼を優しげに見送っていた。
 そして、男が角を曲がり、姿が見えなくなったところで茜はぽつりと言う。
「……がした」
 風に吹かれて声がよく聞き取れなかった。
「なに?」
「あの人……」
「あの人がどうしたって?」
 私の急かすようなその言葉に、あの子は一瞬間をおいて答える。
「リスキーエンジェルの香りがしたよ」
 そこにはもう優しげな表情は消えていた。



                                 了



#5486/5495 長編
★タイトル (NKG     )  01/08/15  23:21  ( 18)
嘘と疑似感情とココチヨイコト(あとがき) らいと・ひる
★内容
 前回の「恋と友情とミエナイキモチ」から約3年ぶりのアップとなります。
 物語としては完結しているので、前回分をお読みにならなくてもわからなくなるこ
とはありません。もし、前回分をお読みでない方で、今回の物語を少しでも気に入っ
ていただけたのなら、ぜひお読みくださることをお勧めいたします。

 さて、人物設定のみで引っ張った前回に比べ、今回はかなりエンターテイメント色
の強い物語となっています。そういう意味ではラストの部分はかなり悩みました。
 ある種の読者好みの展開か、それともあくまで私らしい作品にするか……悩んだ末
にどのような結末を私が選んだのか、それは本編をお読みになってご確認ください。

 本来、あとがきをだらだらと綴るのが私の趣味なのですが、諸事情により今回は短
くまとめさせていただきました。

 もし、作品を最後までお読みになりましたら、ご意見、感想などいただけるとあり
がたいです。もちろん、読了報告だけでも構いません。


                        2001年8月15日 らいと・ひる



#5487/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/23  23:58  (182)
鼻親父と豆腐の美女(1)    時 貴斗
★内容
  やかん

 腹が減ったので、カップラーメンを食うことにする。流し台の前に行
き、水道の蛇口を見つめる。白く汚れているのを見るたび、嫌気がさす。
ガスコンロの上にはやかんが置きっぱなしになっている。ずいぶんと前
に入れた水は、そのままになっている。蓋を開けると、水に鼻親父がつ
かっていたので、私はとても嫌だった。目玉親父という妖怪がいるが、
それとよく構造が似ている。首から下は普通で――とは言ってもかなり
サイズが小さいが――頭は鼻なのである。いやいや、鼻の頭でもないし、
頭に鼻がついているでもない。頭が鼻なのである。こんなふうに頭、頭
と同じ言葉を繰り返していると、なんとなく違和感が生じてくるのは私
だけだろうか。あたま、あたま、あたまあたまあたま。あまたあまたあ
また。あったまたま。あれ、あたまでいいんだっけ? 
 鼻親父は甲高い声で、「おい、鬼太郎!」というようなことは言わなか
った。かわりにおっさんくさい低い声で、「あーあ、今日も疲れた」とつ
ぶやいた。
 もう少し水を注ぎ足した方がいいと思った私は、彼を驚かさないよう
に、慎重にやかんを持ち上げた。
 水を流し込むと、彼は「うわっとっと」という声をあげた。
「今日もラーメンかい? 骨がもろくなるよ」とけだるく言う。
「そんなこと気にしてたら、何も食えないさ。合成着色料に、合成保存
料。牛を殺して、肉を切り刻んでるんだよなあとか、魚はそのままの姿
で、焼いてるんだよなあとか、人間って残酷だなあとか、そういうの考
えてたら何も食えないよ」
「いやそういう事じゃないが、まあいい。めんどくさい」
 私はやかんをガスコンロの上に戻し、蓋をした。
「今日も今日とて桃の実を」中からくぐもった声が聞こえる。聞いたこ
ともない歌だ。「さんざん放って踊り出す」
 私は火をつけた。輪状に並んだ炎が揺らぐ。
「ラーメンの中にゴキブリがーああ、あんあ、たくさん並んでうごめく
よっと」
「いらいらするから止めてくれないか」私は抗議した。
「はーあ、疲れた」彼は憂鬱そうに言った。
 私は居間に戻り、座布団の上にあぐらをかいた。卓の上にプラスチッ
ク製の弁当箱や、空になったラーメンのカップが散乱している。捨てな
ければならない。しかしゴミ箱はいっぱいだ。だからまず、下のゴミ捨
て場に行かなくてはならない。だが外は寒い。
「タンスの中からお巡りさん、『失礼します』と進み出る」
 流し台の方から小さく歌声が聞こえる。
「麺を口に入れるとーお、途端にぬるぬる這い回る」
 嫌な奴だ。
 私は膝でにじり寄って、テレビの上に三つのっているカップラーメン
の中から一つを取り上げた。ビニールをはがし、ふたを半分開く。中の
いくつかの小袋を出し、粉末スープとかやくを麺の上にふりかけた。
 こうしてまた、卓上にゴミが増えていく。
 やかんには沸騰したことを知らせる笛がついていない。鼻親父待ちだ。
彼がいて助かるのは、その点だけだ。
 壁のしみを見つめる。だんだん人の顔に見えてきた。目をつり上げ、
口を大きく開いている。
 他のしみも見ていろいろなものを連想しているうちに、湯がわいてき
た。ごごご、という音が聞こえる。
 おや、鼻親父の歌が聞こえない。どうしたのだろう。まさか、溶けた
のではないだろうな。ふたを開けて、スープ状になっていたら嫌だな。
まあ、そんなことは今まで一度もなかったので、大丈夫だとは思うが。
 湯の音が徐々に大きくなっていく。私の不安もふくらんでいく。
「ピー! ピー、ピー!」
 突然、親父は甲高い声をあげた。私は跳ねるようにして立ち上がり、
やかんの前に行った。
 ふたを開けると、もうもうと湯気がたちのぼる中に彼の姿がかすんで
見えた。
「はーあ、いい湯だわい」
 彼は耳親父になっていた。
 私はとても嫌だった。


  風呂と爺さん

 風呂場に入ると、異様な者がいた。ユニットバスで、バスタブの横に
様式の便器があるのだが、それに見知らぬ爺さんが入っている。いや「入
っている」という表現はふさわしくない。彼はすっぽりと便器にはまっ
ているのだ。上半身と、ひざから先だけが見えている。
「よう、先に使わせてもらってるよ」
 爺さんは頭にのせたタオルを手に取ると、顔を拭き始めた。少ない毛
が濡れて頭にへばりついている。背は小さく、痩せている。
「いや……」と言いかけたが、何も言葉が浮かばず、仕方なく湯船につ
かった。
「相変わらず寒いねえ」
「ええ、まあ」私はあいまいに返事をした。
「マラソンしてきたのかい?」
「いえ、今日はしていません」
「てっ! 三日坊主かい」
 そう言われても、困ってしまう。健康のために夜走ることを始めたの
は、一年も前だ。しかし毎日というわけではない。やる気がしない時に
は無理に走らないのだ。とは言っても、三日のうち二日はそういう気分
だが。しかし私は、それを彼に説明するのが億劫だった。
「おや、湯があふれそうだけど、いいのかい?」
 言われて初めて気づいた。水かさが徐々に増してきている。蛇口から
は一滴の湯も出ていない。なぜだ。
「魚が全然売れなくてねえ」魚屋なのか? 「不景気だねえ」
 ついに湯船からあふれだした。その勢いはどんどん増していく。
「あ、そうそう、八百屋の奥さん、おめでただってよ」
 まるで滝のようだ。床に湯がものすごい勢いでたまっていく。
「あの、これ、どうなってるんですか」私は怖気づいて言った。
「次から次へと、よく作るねえ。もう八人めだぜ」
 ついに湯船が水没した。
「家計は大丈夫なんだろうかねえ。火の車だろうぜ」
 そんなことはいい。そんなことはどうだっていいのだ。
 私の体は浮き始めた。爺さんも浮いていた。便器からは抜けたようだ。
「あの、そこのドア、開けてくれませんか。早く逃げないと」
「八百屋の売上げで育てていくのは、大変だあ」
 ひょっとして、ドアの隙間から漏れ出しているのか? だとしたら台
所は水浸しだ。いやそんな事を言っている場合ではない。
「このままだと、天井に着いちゃいますよ」
 室内が湯で満たされたら、息ができなくなってしまう。こんなふうに
溺死してしまうのは嫌だ。
「しっかりしなよ。上よく見てみな」
 いつの間に開いたのか。天井には人一人が通れそうな四角い穴があっ
た。
 ついに穴のすぐ下に来た。私は腕をのばし、縁につかまった。どんど
ん水位が上がって、私は上に出た。
 そこは廊下だった。だが私が住んでいるボロアパートではない。立ち
上がり、足元を見るが、何もなかった。ただ体から滴る水が床を濡らし
ているだけだった。
 爺さんはどこに行ったのだろう。そんなことより、何とかしないと。
誰か来るとまずい。素っ裸のところを見られてしまう。私は廊下を進み
始めた。
 途中に、ドアがあった。中から鼻歌が聞こえる。爺さんの声だ。
 勢い良く開けて入ると、彼はすでに服を着ていた。赤いトレシャツに
トレパンという変な格好だ。そこはスポーツ選手が使う着替え室のよう
な部屋で、ロッカーが並んでいた。
「へっくしょい!」爺さんは威勢良くくしゃみをした。「湯冷めしちまっ
た」


  金太郎飴

 鏡に映る像はなぜ左右が逆で、上下は逆にならないのか不思議に思う
人もいるだろう。そういう人は寝転がって鏡を見ればいい。ほらね、ち
ゃんと上下が反転したでしょう?
 え、しないって? それは向かい合っているからであって、鏡に映っ
た自分と、実際に存在する自分を横に並べて見ることができたとしたら、
頭と足の位置関係が逆になっているはずだ。
 そんなことは不可能だって? そりゃそうだが。しかし、よく考える
と普通に顔だけ映った場合でも、それを横に並べて見ることはできない。
わざわざ写真でも撮らない限り。
 待てよ? すると私は、鏡に映る顔が左右反対になっていると、どう
して分かったのだろう。
 そうだ、金太郎飴だ。彼の顔を見て知ったに違いない。
 金太郎飴を製造する過程を考えるだけで、嫌気がさしてくる。目の部
分、口の部分、そういったパーツを細長く作っていく。それを職人の熟
練した技術で、正しい位置になるように他の飴で巻いていくのだ。違う
かもしれないが今はそういうことにしておいてほしい。
 その技を習得するためには、気が遠くなるほどの修行が必要だろう。
金太郎飴の職人でなくて良かったと、つくづく思う。
 ふとした疑問がわく。私が金太郎飴を見たのは、何年前のことだろう。
いや生まれてこの方、そんなものは見たことがないのかもしれないぞ。
 テレビで見たのは、おぼろげながら覚えている。しかし二つに折った
のを並べて放映したのではないのかもしれない。
 金太郎飴とは、どんな味のものなのだ。金太郎飴とはいったい、何な
のだ。
 私はどうすればいい。誰か教えてくれ!
 おおそうだ。確かめなくてはならない。熊を倒していい気になってい
る、その傲慢な面をおがんでやるのだ。
 私は近所を歩き回った。スーパー、お菓子屋、コンビニエンスストア、
そういった場所には、置いていなかった。この現代社会で、いったいど
こに行けば手に入るのか。
 電車に乗り、三つめの駅で降りた。古き良き時代の風情を頑なに守っ
ている駄菓子屋があったはずだ。一時間ほどかかって、ようやく見つけ
出した。
 その店にはお婆さんがいた。顔中しわだらけの、小さい老婆だ。金太
郎飴は隅っこの、しかも一番下の棚にあった。心の中で大はしゃぎし、
しかし表情はあくまでも平静を装い、金を払い店を出た。
 ガチャガチャがあったので、なつかしく思いながら百円を投入した。
ハンドルを回すとカプセルが出てきて、中に小さなおもちゃが入ってい
る、子供にささやかな喜びを売るマシンである。昔は十円、二十円程度
のものであった。
 この機械の呼称は「ガチャガチャ」でよかっただろうか。自分でそう
思いこんでいるだけで実は誰もそんな名では呼んでいないのかもしれな
い。
 幼少時に見たのと比べ、ずいぶんと大きなカプセルを開けると、ロボ
ットの形をしたゴム製の人形が出てきた。ロボットのくせにぐにゃりと
曲がっている。
 私は安らいだ気持ちで帰った。もはや金太郎に対する憎しみもなかっ
た。
 まな板に飴をのせ、包丁で切ろうとするのだが、うまくいかない。な
ぜ拒むのか。のこぎりを使うように引いては押しを繰り返し、最後には
刃を叩きつけてようやく切断することに成功した。
 私はやっと、金太郎と対面した。二つの顔は左右が逆に……あれ?
 彼の顔は左右対称であった。どういうことだこれは。私は慌てて鏡の
前に駆け寄った。二本になった飴をつきだした。
 そこには、二つの書類に同時にはんこを押そうとでもしているように
飴をかまえた、仁王の表情をした私の姿があった。



#5487/5487 長編
★タイトル (VBN11820)  01/10/23  23:58  (182)
鼻親父と豆腐の美女(1)    時 貴斗
★内容
  やかん

 腹が減ったので、カップラーメンを食うことにする。流し台の前に行
き、水道の蛇口を見つめる。白く汚れているのを見るたび、嫌気がさす。
ガスコンロの上にはやかんが置きっぱなしになっている。ずいぶんと前
に入れた水は、そのままになっている。蓋を開けると、水に鼻親父がつ
かっていたので、私はとても嫌だった。目玉親父という妖怪がいるが、
それとよく構造が似ている。首から下は普通で――とは言ってもかなり
サイズが小さいが――頭は鼻なのである。いやいや、鼻の頭でもないし、
頭に鼻がついているでもない。頭が鼻なのである。こんなふうに頭、頭
と同じ言葉を繰り返していると、なんとなく違和感が生じてくるのは私
だけだろうか。あたま、あたま、あたまあたまあたま。あまたあまたあ
また。あったまたま。あれ、あたまでいいんだっけ? 
 鼻親父は甲高い声で、「おい、鬼太郎!」というようなことは言わなか
った。かわりにおっさんくさい低い声で、「あーあ、今日も疲れた」とつ
ぶやいた。
 もう少し水を注ぎ足した方がいいと思った私は、彼を驚かさないよう
に、慎重にやかんを持ち上げた。
 水を流し込むと、彼は「うわっとっと」という声をあげた。
「今日もラーメンかい? 骨がもろくなるよ」とけだるく言う。
「そんなこと気にしてたら、何も食えないさ。合成着色料に、合成保存
料。牛を殺して、肉を切り刻んでるんだよなあとか、魚はそのままの姿
で、焼いてるんだよなあとか、人間って残酷だなあとか、そういうの考
えてたら何も食えないよ」
「いやそういう事じゃないが、まあいい。めんどくさい」
 私はやかんをガスコンロの上に戻し、蓋をした。
「今日も今日とて桃の実を」中からくぐもった声が聞こえる。聞いたこ
ともない歌だ。「さんざん放って踊り出す」
 私は火をつけた。輪状に並んだ炎が揺らぐ。
「ラーメンの中にゴキブリがーああ、あんあ、たくさん並んでうごめく
よっと」
「いらいらするから止めてくれないか」私は抗議した。
「はーあ、疲れた」彼は憂鬱そうに言った。
 私は居間に戻り、座布団の上にあぐらをかいた。卓の上にプラスチッ
ク製の弁当箱や、空になったラーメンのカップが散乱している。捨てな
ければならない。しかしゴミ箱はいっぱいだ。だからまず、下のゴミ捨
て場に行かなくてはならない。だが外は寒い。
「タンスの中からお巡りさん、『失礼します』と進み出る」
 流し台の方から小さく歌声が聞こえる。
「麺を口に入れるとーお、途端にぬるぬる這い回る」
 嫌な奴だ。
 私は膝でにじり寄って、テレビの上に三つのっているカップラーメン
の中から一つを取り上げた。ビニールをはがし、ふたを半分開く。中の
いくつかの小袋を出し、粉末スープとかやくを麺の上にふりかけた。
 こうしてまた、卓上にゴミが増えていく。
 やかんには沸騰したことを知らせる笛がついていない。鼻親父待ちだ。
彼がいて助かるのは、その点だけだ。
 壁のしみを見つめる。だんだん人の顔に見えてきた。目をつり上げ、
口を大きく開いている。
 他のしみも見ていろいろなものを連想しているうちに、湯がわいてき
た。ごごご、という音が聞こえる。
 おや、鼻親父の歌が聞こえない。どうしたのだろう。まさか、溶けた
のではないだろうな。ふたを開けて、スープ状になっていたら嫌だな。
まあ、そんなことは今まで一度もなかったので、大丈夫だとは思うが。
 湯の音が徐々に大きくなっていく。私の不安もふくらんでいく。
「ピー! ピー、ピー!」
 突然、親父は甲高い声をあげた。私は跳ねるようにして立ち上がり、
やかんの前に行った。
 ふたを開けると、もうもうと湯気がたちのぼる中に彼の姿がかすんで
見えた。
「はーあ、いい湯だわい」
 彼は耳親父になっていた。
 私はとても嫌だった。


  風呂と爺さん

 風呂場に入ると、異様な者がいた。ユニットバスで、バスタブの横に
様式の便器があるのだが、それに見知らぬ爺さんが入っている。いや「入
っている」という表現はふさわしくない。彼はすっぽりと便器にはまっ
ているのだ。上半身と、ひざから先だけが見えている。
「よう、先に使わせてもらってるよ」
 爺さんは頭にのせたタオルを手に取ると、顔を拭き始めた。少ない毛
が濡れて頭にへばりついている。背は小さく、痩せている。
「いや……」と言いかけたが、何も言葉が浮かばず、仕方なく湯船につ
かった。
「相変わらず寒いねえ」
「ええ、まあ」私はあいまいに返事をした。
「マラソンしてきたのかい?」
「いえ、今日はしていません」
「てっ! 三日坊主かい」
 そう言われても、困ってしまう。健康のために夜走ることを始めたの
は、一年も前だ。しかし毎日というわけではない。やる気がしない時に
は無理に走らないのだ。とは言っても、三日のうち二日はそういう気分
だが。しかし私は、それを彼に説明するのが億劫だった。
「おや、湯があふれそうだけど、いいのかい?」
 言われて初めて気づいた。水かさが徐々に増してきている。蛇口から
は一滴の湯も出ていない。なぜだ。
「魚が全然売れなくてねえ」魚屋なのか? 「不景気だねえ」
 ついに湯船からあふれだした。その勢いはどんどん増していく。
「あ、そうそう、八百屋の奥さん、おめでただってよ」
 まるで滝のようだ。床に湯がものすごい勢いでたまっていく。
「あの、これ、どうなってるんですか」私は怖気づいて言った。
「次から次へと、よく作るねえ。もう八人めだぜ」
 ついに湯船が水没した。
「家計は大丈夫なんだろうかねえ。火の車だろうぜ」
 そんなことはいい。そんなことはどうだっていいのだ。
 私の体は浮き始めた。爺さんも浮いていた。便器からは抜けたようだ。
「あの、そこのドア、開けてくれませんか。早く逃げないと」
「八百屋の売上げで育てていくのは、大変だあ」
 ひょっとして、ドアの隙間から漏れ出しているのか? だとしたら台
所は水浸しだ。いやそんな事を言っている場合ではない。
「このままだと、天井に着いちゃいますよ」
 室内が湯で満たされたら、息ができなくなってしまう。こんなふうに
溺死してしまうのは嫌だ。
「しっかりしなよ。上よく見てみな」
 いつの間に開いたのか。天井には人一人が通れそうな四角い穴があっ
た。
 ついに穴のすぐ下に来た。私は腕をのばし、縁につかまった。どんど
ん水位が上がって、私は上に出た。
 そこは廊下だった。だが私が住んでいるボロアパートではない。立ち
上がり、足元を見るが、何もなかった。ただ体から滴る水が床を濡らし
ているだけだった。
 爺さんはどこに行ったのだろう。そんなことより、何とかしないと。
誰か来るとまずい。素っ裸のところを見られてしまう。私は廊下を進み
始めた。
 途中に、ドアがあった。中から鼻歌が聞こえる。爺さんの声だ。
 勢い良く開けて入ると、彼はすでに服を着ていた。赤いトレシャツに
トレパンという変な格好だ。そこはスポーツ選手が使う着替え室のよう
な部屋で、ロッカーが並んでいた。
「へっくしょい!」爺さんは威勢良くくしゃみをした。「湯冷めしちまっ
た」


  金太郎飴

 鏡に映る像はなぜ左右が逆で、上下は逆にならないのか不思議に思う
人もいるだろう。そういう人は寝転がって鏡を見ればいい。ほらね、ち
ゃんと上下が反転したでしょう?
 え、しないって? それは向かい合っているからであって、鏡に映っ
た自分と、実際に存在する自分を横に並べて見ることができたとしたら、
頭と足の位置関係が逆になっているはずだ。
 そんなことは不可能だって? そりゃそうだが。しかし、よく考える
と普通に顔だけ映った場合でも、それを横に並べて見ることはできない。
わざわざ写真でも撮らない限り。
 待てよ? すると私は、鏡に映る顔が左右反対になっていると、どう
して分かったのだろう。
 そうだ、金太郎飴だ。彼の顔を見て知ったに違いない。
 金太郎飴を製造する過程を考えるだけで、嫌気がさしてくる。目の部
分、口の部分、そういったパーツを細長く作っていく。それを職人の熟
練した技術で、正しい位置になるように他の飴で巻いていくのだ。違う
かもしれないが今はそういうことにしておいてほしい。
 その技を習得するためには、気が遠くなるほどの修行が必要だろう。
金太郎飴の職人でなくて良かったと、つくづく思う。
 ふとした疑問がわく。私が金太郎飴を見たのは、何年前のことだろう。
いや生まれてこの方、そんなものは見たことがないのかもしれないぞ。
 テレビで見たのは、おぼろげながら覚えている。しかし二つに折った
のを並べて放映したのではないのかもしれない。
 金太郎飴とは、どんな味のものなのだ。金太郎飴とはいったい、何な
のだ。
 私はどうすればいい。誰か教えてくれ!
 おおそうだ。確かめなくてはならない。熊を倒していい気になってい
る、その傲慢な面をおがんでやるのだ。
 私は近所を歩き回った。スーパー、お菓子屋、コンビニエンスストア、
そういった場所には、置いていなかった。この現代社会で、いったいど
こに行けば手に入るのか。
 電車に乗り、三つめの駅で降りた。古き良き時代の風情を頑なに守っ
ている駄菓子屋があったはずだ。一時間ほどかかって、ようやく見つけ
出した。
 その店にはお婆さんがいた。顔中しわだらけの、小さい老婆だ。金太
郎飴は隅っこの、しかも一番下の棚にあった。心の中で大はしゃぎし、
しかし表情はあくまでも平静を装い、金を払い店を出た。
 ガチャガチャがあったので、なつかしく思いながら百円を投入した。
ハンドルを回すとカプセルが出てきて、中に小さなおもちゃが入ってい
る、子供にささやかな喜びを売るマシンである。昔は十円、二十円程度
のものであった。
 この機械の呼称は「ガチャガチャ」でよかっただろうか。自分でそう
思いこんでいるだけで実は誰もそんな名では呼んでいないのかもしれな
い。
 幼少時に見たのと比べ、ずいぶんと大きなカプセルを開けると、ロボ
ットの形をしたゴム製の人形が出てきた。ロボットのくせにぐにゃりと
曲がっている。
 私は安らいだ気持ちで帰った。もはや金太郎に対する憎しみもなかっ
た。
 まな板に飴をのせ、包丁で切ろうとするのだが、うまくいかない。な
ぜ拒むのか。のこぎりを使うように引いては押しを繰り返し、最後には
刃を叩きつけてようやく切断することに成功した。
 私はやっと、金太郎と対面した。二つの顔は左右が逆に……あれ?
 彼の顔は左右対称であった。どういうことだこれは。私は慌てて鏡の
前に駆け寄った。二本になった飴をつきだした。
 そこには、二つの書類に同時にはんこを押そうとでもしているように
飴をかまえた、仁王の表情をした私の姿があった。



#5488/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:10  (195)
鼻親父と豆腐の美女(2)    時 貴斗
★内容
  美女と豆腐

 馴染みのバー、「フランソワ」に入ると、サラリーマンらしき男がビー
ルを飲んでいるだけで、他に客はいなかった。私はカウンターに行き、
ブランディーを注文した。テーブルの上で腕を組み、沈思黙考している
と、私の前にグラスが置かれた。
 氷のかわりに、さいの目に切った豆腐が三つ、浮かんでいる。私は用
心深くまろやかな液をのどに流し込んだ。
 決して豆腐を口に入れてはならない。酒と混ざると異次元世界とでも
形容すべき味がするのだ。もしもの場合にそなえ、魚の形をしたプラス
チックの容器に入った醤油をポケットにしのばせてある。コンビニで売
っているそばについている、おろし生姜の小袋があれば完璧だが、残念
ながら今ストックがない。
 扉が開き、金髪で、瞳の青い美女が入ってきた。アメリカ人だろうか。
フランス人のようにも見える。彼女は私から椅子二つ分、離れた位置に
すわった。
「ワイン、ヲ、クダサーイ」長い髪をかきあげる。「アカデース」
 すぐに胃が温まってきた。ブランディーを半分ほど飲み干した頃、彼
女の前に赤ワインが置かれた。驚いたことに、それにも豆腐が三つ浮か
んでいた。
 ワインに氷を入れるというのは、聞いたことがない。いかんいかん、
と自分に警告する。これはあくまでも豆腐なのだ。氷に鰹節とねぎをの
せ、醤油をかけて食うか? そんなバカな話はない。味噌汁に氷が入っ
ていたら、どうリアクションせよと言うのだ。すぐにとけて水になって
しまうぞ。
「うーん、ちょっと薄いな」でいいのか? それとも、「うーん、ちょっ
とぬるいな」か?
 やわらかな白い面が、女の唇に当たる。
 いけない。見とれてしまった。胸ポケットから煙草とライターを取り
出し、一本抜き出して火をつける。そんな私を見て、彼女は微笑んだ。
「オヒマ、デスカ?」
 水商売なのか? そんなふうには見えない。
 通じなかったと勘違いしたらしく、彼女は眉を八の字にして言いなお
した。
「ヒマジン、デスカ?」
「ノー、ノー。アイ、アム、ア」すっかり慌ててしまった。「ペン」
「アー、アナタハ、ペンサンデスカ」
 彼女は再びグラスを口につけた。驚愕すべきことに、豆腐がするりと
中に流れ込んだ。
 私に向かって微笑んだまま、くちゃくちゃと噛む。異次元世界の味が
広がって、何とも思わないのか?
 よく見ると、下唇の付近に、豆腐の小さなかけらがついていた。
「あのう」私は指を自分のあごに当て、二度軽くたたいた。
 しまった! 人差し指ではなく、中指を立てていた。
「オー、ガッデム!」彼女はグラスの中身を私にぶっかけた。
 驚いて口を開いたひょうしに煙草は落ち、かわりにワインと豆腐が飛
び込んだ。
 奇怪な味が私を襲った。
「うぐ!」
 慌ててポケットから醤油を出し、ふたを開け、急いで吸った。


  早口ラップ

 (できるだけ速く読んで下さい。)

「お前な、高校生がこんな所で遊んでていいのか」
 私は甥に説教していた。いわゆるクラブと呼ばれる店で、たまたま彼
が入るのを見かけたので、来てしまった。
「勉強しなきゃだめじゃないか」
 色とりどりの光が乱舞する中、若い男女が踊っている。私達は隅のテ
ーブルで向かい合っていた。
 騒々しい音楽が鳴っている。ラップとかいうやつだろうか。
「生麦生米生卵なーま麦生米生卵」
 変な曲だ。こういうのが流行っているのか?
「来年受験だろ? こんなことしてる場合じゃないぞ」
「赤巻き紙青巻き紙黄巻き紙、まーいて巻いて黄巻き紙」
 徐々にテンポが速くなっていく。
「だいたい、その髪の色はなんだ。学校で許されているのか」
「お綾や親にお謝りさあさあお綾やお謝り悪いことしたんだからお謝
り」
 猛スピードだ。よく舌がもつれないものだ。
「隣りの客はよく柿食う客とーなりの客はよく柿食う客とーなりの客は
よく柿食う客、だあー!」
 ドンドンドン、ドド、ドン、ドドドドドン。
「このこの竹竹竹竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立
て掛けたかったから竹立て掛けたの、さあっ!」
「そのイヤリングはなんだ。姉さんはなんとも言わないのかいや姉さん
というのは母さんのことでいやいや俺の母さんじゃないつまりはお前の
お母さんのことで何も言わないのか」
 いかんいかん。私の口調までおかしくなってきた。
「坊主坊主ぼぼ坊主が上手に坊主が上手にびょうぶびょうぶびょびょ上
手にびょうぶに坊主の絵をかい、たあーっ!」
「先生が注意しないのか先生は何をやっているせんせせんせ何やってん
だ」
「武具馬具武具馬具ぶぐぶぐぶぐぶぐ武具馬具武具馬具三武具馬具あー
わせて武具馬具六武具馬具あーわせて武具馬具むぶぐむぶぐむぶぐむぶ
ぐばぐばぐ」
「お前が俺をお前と言うないつからお前はお前お前と言うようになった
ああ分かったよお前をお前と呼ばないからお前も俺をお前と呼ぶな」
「この竹たたたた竹竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたのは竹立て掛
けたかったから竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けた
の、さあーっ!」
 ああ、耳がもつれる!
「ハーイ、ペンサーン」
 声のした方を見ると、豆腐の美女が手を振りながら歩み寄ってきた。
 相手が外国人の時、どうするのだろうか。握手でもするのか? そう
思った私は、立ち上がった。
「コンナミセ、ヨクキマース!」
 え? 「あなたのような歳の人が、よくこんな店に来ますね」の意味
だろうか。それとも、「私もこの店にはよく来ます」と言いたいのだろう
か。
「やあ、この間はどうも」私は手を差し出した。
「ピーターパイパーピッペッピッペパー! (Peter Piper picked a peck 
of pickled peppers!)」
「はい?」私はいきなり呪文のような文句を言われて、とまどった。
 彼女は音楽にあわせて腰をふっている。
「ハウマッチウッドウダウッドチャックチャックイファウッドチャック
クチャックウッ? (How much wood would a woodchuck chuck if a 
woodchuck could chuck wood?)」
「……」私は石像のように固まってしまった。
 彼女の目がつり上がった。
「オーウ、ワタシ、ニホンノブンカ、リカイシヨウトスル。ナゼニホン
ジン、アメリカヤヨーロッパノブンカ、リカイシヨウトシナーイ」
「いや、そう言われても」
「シット! (Shit!)」
 私はすわった。
「オウ、ガッデメッ!」
 彼女はすたすたと歩み去った。
 怒りっぽい人なんだなあ、と私は思った。


  たこ焼き君

 いい匂いがした。見ると、露店でおばちゃんがたこ焼きを売っていた。
つい足がその方に向いた。
「いらっしゃい」
 職人の手さばきで、あざやかに引っくり返していく。
「一つ、もらおうか」
「あい。有難うございます」
 私は紙でくるまれたたこ焼きを受け取り、金を払い、立ち去ろうとし
た。
「たこ焼き君が入っているかもしれないから、気をつけて」
「はい?」
 振り返ると、おばちゃんは何事もなかったようにうつむいて、手を動
かしていた。
 何と言ったのだ? 「たこ焼き君」というふうに聞こえたが。怪しく
思いながらも家に帰りつき、流し台の横を通り過ぎようとした時、やか
んの中から声がした。
「お、いい匂いだねえ」
 鼻親父だ。彼は時々現れる。たいていはやかんの中だ。
「やらないよ」
 彼は気力がすべて消失しているかのようなため息をついた。
「心配しなさんな。食べやしない」
 居間に行き、紙包みを開けた。透明なプラスチックの箱の、セロテー
プをはずす。
「たこ焼きから触手が生える」また変な歌をうたいだした。「一本、二本、
三本」
「やめてくれ」
 うまそうな丸い食い物達と対面した。と、突然そのうちの一つが浮か
んだのでびっくりした。
「たーこ焼ーきくーん!」
 よく見ると、そいつには胴体があった。鼻親父と同じ構造をしている。
「な、なんだ?」
「だから、たこ焼き君だっつってんだろ。あ?」
「あんた一人だけだろうな。他のは大丈夫……」
「ふああっ!」
 彼はその小さな両腕を私に向けて突き出した。一瞬、風景がゆがんだ
ような気がした。
 私は立ち上がり、やかんの前まで歩いて行った。ふたを開けると、相
変わらず鼻親父が水につかっていた。
「おや、どうした。目がうつろだよ」
「ラーメンを食うんだよ」
「ラーメンって……たこ焼きはどうした?」
「たこ焼き? そんなものはないよ」
「嘘だね。鼻だけは自慢できるぞ。あれはたこ焼きの匂いだ」
「変な歌うたうな!」
 私は水を足し、ふたをし、火をつけた。
「会話として成立していないだろう。まあ、別にどうだっていい」
 私は居間に戻った。台所から鼻親父がまだぶつぶつ言っているのが聞
こえる。
「たこ焼き君がいるのか? あいつにはあまり関わらない方が……まあ
わしには別に……」
 テレビの上からカレー味のカップ麺を取り上げ、袋を破りふたを開け、
粉末スープをふりかける。卓上になにか丸いものが並んでいて、そのう
ちの一つに体がついていて、腕組みしてじっとしているが、まあいい。
気にしない。壁のしみに人の顔を見出しながら待つ。
「ピーッ!」
 鼻親父はなげやりに一回だけ合図をした。歩いていきやかんをつかみ
居間に戻り湯をかけガスコンロの上にもどした。
「あまり乱暴に扱わないでくれ」と鼻親父は言った。
 腕時計を見てトイレに入りすっきりし手を洗い卓の前に行き座布団に
すわり……
「ああっ!」
 ふたは取り去られ、麺の上に丸いものがこんもりと盛られていた。た
った今思い出した。それはたこ焼きだ。
「お前、私に術をかけたのか。これは、お前がやったのか」
「ふふふ、さあどうする。ラーメンから食うのかい? それともたこ焼
きから食うのかい?」彼は意地の悪い口調で言った。
 なんという奴だ。このままではスープがたこ焼きにしみこんでしまう。
慌ててつまようじを探すが、おばちゃんはつけてくれていなかった。立
ち上がり、冷蔵庫の横の、棚の前に行く。急げ! 箸かつまようじが必
要だ。
「やれやれ、変な奴が来てしまったな」鼻親父が気だるく言った。
「お前が言うな!」私は激しい口調で突っ込んだ。



#5489/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:14  (193)
鼻親父と豆腐の美女(3)    時 貴斗
★内容
  饅頭恐怖症

 なになに恐怖症と名のつくものには、たくさんの種類がある。高所恐
怖症、先端恐怖症、赤面恐怖症、疾病恐怖症など、など、など。何かが
怖くてたまらないならば、その人はそういう恐怖症なのだ。
 ああ、ビデオデッキが怖いよう。電源を入れた途端、「ハアーッハッハ
ッ」という高らかな笑い声とともに不気味な仮面を着け、黒いマントに
身を包んだ男が画面に現れ、呪いをかけるよう。掲げた両手から輪っか
みたいなのがたくさん出てきて、同心円状に広がりながらこちらに向か
ってくるよう。休日のお昼に、ちょっと気を抜いた瞬間に、デッキの取
り出し口からビデオカセットが、にゅっ! と顔を出すよう。兄さん、
怖いよ兄さん。
 ビデオデッキ恐怖症である。
 カレンダーが怖いよう。一枚破りとろうとしたら、今月の分までいっ
しょに破ってしまうんだよう。月の初めが、日曜日から始まっていない
と落ちつかないよ。一日(ついたち)の隣りの空白が微妙に怖いよ。ふ
と、月曜日が左端にあるカレンダーなんて、あったかなあ、と思ってし
まうと気になって眠れないよう。ああ、なぜ苦しめるカレンダー!
 カレンダー恐怖症である。
 そんな奴はいないが、今私の目の前にいる佐々木という男は饅頭恐怖
症である。
「お金の件は、もう少し待ってもらえませんか」彼はかしこまって言っ
た。
「ああ、いや、そういうつもりで来たんじゃないんだ」
「借りた五十万は、必ず返します」
「まあまあ、気にしなさんな。近くを通りかかったんで寄ってみただけ
なんだから。あ、そうそう」
 私は紙袋から菓子の箱を取り出した。
「すぐそこに良い和菓子屋があるね。手ぶらじゃなんだな、と思って買
ってきた」
「そんなお気使いなさらな」
 私はいきなり包装紙を破いた。
「せっかくだから、二人でつまもうじゃないか。私も小腹がすいたんで
ね」
 ふたを開けた途端、彼は小刻みに震え出した。
「あのう、お金は必ず……」
「その話はやめにしないか?」
「しかし、私が饅頭を怖がることは、ご存知ですよね」
 私は箱を彼の方に押しやった。顔が少々青ざめたように見えた。
「なんでも、恐怖症というやつは、幼少の頃に受けた心の傷がトラウマ
になっているんだそうだよ。君も克服しなきゃ。金なんかいくら遅くな
ってもいいさ。私はむしろ、君のことを心配してるんだよ」
 目が大きく開かれている。呼吸まで荒くなってきた。
 私は饅頭を取り上げ、ビニールの袋を開けた。かじると、甘味が口い
っぱいに広がった。
「こんなにおいしいものが、なぜ怖いのかね。さあさあ、お一つ、ど、
う、ぞ」
 私だってこんな真似はしたくないのだが、こちらの家計が苦しくなっ
てきたので、仕方がない。
 彼はおずおずと饅頭を手に持ち、袋を開いた。
「せっかく、そう言ってくださるんですから」
 彼は目をつぶり、かじった。猿の脳みそでも食ったかのように、顔が
ゆがむ。
「なんだ。食えるじゃないか。慣れてしまえば、どうということはない。
さあ、全部食ってしまいなさい」
 残りをいっきに口の中に押しこんだ。今にも泣きそうだ。
「君を見ていると、『饅頭怖い』という落語を思い出すよ」
 なんとか飲みこもうとするが飲みこめない、という感じで、口を一生
懸命動かしている。
「他に怖いものはないが、饅頭だけはだめだ、という男がいて、日頃バ
カにされているみんなが、そいつが寝ている間に周りに饅頭を並べるん
だ」
「題名だけは聞いたことがありますが」やっと嚥下した彼は言った。「そ
んな話でしたか」
「ところが目を覚ました男は、全部たいらげてしまうんだな」
「それが落ちですか」
「ええと」待てよ? 『饅頭怖い』の落ちって、どんなだったかな。「と
にかく、私が言いたいのは、君は本当はその男のように、怖いふりをし
ているだけなんじゃないの? ってことさ」
「とんでもないです。私の場合、本当に怖いんです」
「他に怖いものはない、と?」私は意地悪く言った。
「いえ、一つあります。笑わないで下さいよ」
 私は興味を引かれた。まだあるというのは、初耳だ。
「百円玉です。実は、あの銀色のぎらぎらする感じが、どうしてもだめ
なんです」
「は! それで小銭が貯まらないと、そういうことかい」
「いやいやそうじゃなく、純粋に、本当に百円玉がだめなんです。十円
や五円は平気なんです。信じて下さい」彼は心底困ったように言った。
「饅頭を怖がるような男ですよ? 不思議ではないでしょう」
「ほう、そうか。ではそれも克服しなくちゃな」


 ふふん、いい事を聞いたぞ。
 次の日私は銀行で五万おろし、全部百円玉に両替してもらった。受付
の女の子は変な顔をした。夜みんながすっかり眠りこんだ頃、結構な重
量のそれを佐々木が住む木賃宿まで持っていき、ドアの前にばらまいた。
 ふっふっふっ。すっかり降参した彼はしばらくしたらやって来て、丁
重にわびて金を返してくれるだろう。
 一週間後、彼から手紙が来た。

 ――私の都合で、突然故郷に帰ることとなりました。事前にご挨拶を
申し上げなかった非礼をお許し下さい。これまで大変親切にして頂き、
有難うございました。風邪などひかないよう、健康にはお気をつけ下さ
い。
 あ、そうそう。『饅頭怖い』の落ちは、男の台詞で『今度は熱いお茶が
一杯怖い』ですヨ。                     敬具

 何てえバカだ! 私は自分を呪った。彼は、私から同情をひき、金を
返さずに済ますためにお芝居をしていたのだろうか?
 おのれ佐々木! 「もう勘弁して下さい」と言いながら泣くまで饅頭
を食わせ、トラウマにし、本当に饅頭恐怖症にしてやるぞ!


  悪心

 風邪をひいてしまった。病院に行き、薬をもらって帰ってきた。袋の
中にはたくさんの薬が入っていた。総合感冒剤に、消炎酵素剤に、鎮痛
剤。小さな紙片に、これは何という薬で、どういう効能があって、どん
な副作用があるかといった説明が書き連ねてある。なんとも親切なこと
だ。副作用の記述に、吐き気や悪心といった言葉が多く見受けられる。
恐ろしいな、と思う。そういうのを覚悟の上で服用しろというのだろう
か。
 まてよ? 「悪心」って、何?
 辞書をひいてみた。まさかと思ったが、ずばりそのまま、「わるいここ
ろ」とあった。風邪薬を飲むと、ジキルとハイドのようになるのか? ま
あ、どうでもいい。何も起こりゃしないだろう。そういうもんだ。
 食後服用とあり、腹はすいていたがかまわず飲んだ。
 煙草を吸いながら、テレビを見る。熱のせいで内容がよく分からない。
「はう!」
 突然、何とも言い表しようのない衝動が私を襲った。なんだこの感覚
は。燃えるような、下降するような……いや違う。適当な言葉が見つか
らない。
 ぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。ぎゃふん! と言わせたくなっ
た。もしかすると……これが、悪心なのか? だめだ、冷静さを保つの
だ。たかが風邪薬に負けちゃいけない。
「ふふふ、へへへ」
 勝手に笑いが口からあふれた。いいじゃないか、別に。俺達全員、地
球のそばにブラックホールが突如現れたら、みんな吸いこまれて死ぬの
だ。催眠術師がテレビに出演したら、みんな操られてしまうのだ。橋の
上で風景を撮ろうとしている時に、背後から知人に「よう」と声をかけ
られ、肩をたたかれ、驚いてカメラを下のゆるやかな川の流れの中に落
としてしまったら、「はああ!」というすっとんきょうな声をあげるのだ。
誰だってそうだ。
 そんな人類が絶滅し、新たな種が支配する世界になったとしても、宇
宙の膨張が止まり、縮み始めたとしても、構うものか。地球上のありと
あらゆる卵が消えうせ、オムレツが永遠に味わえなくなっても、俺の知
ったことじゃないね。
 テレビを消した。こんなものを見ている場合ではない。今こそ、やっ
てやるのだ。悪の限りをつくすのだ。
 財布だけ持ってスーパーに行った。ホースを二本とゼリーをたくさん
買った。これで人々を恐怖のどん底に落とすことができるのだ。さっそ
く、そのスーパーに罠を仕掛けることにする。
 俺はトイレに入った。だめだ。人がたくさんいる。エスカレーターで
一つ上のフロアに行った。そこの便所には誰もいなかった。いいぞ、し
めしめ。水道も一つしかない。俺が望む要求を満たしている。
 袋からホースを出し、結わえてある紐をほどいた。輪状のそれを、ま
っすぐに伸ばす。急がなくてはならない。誰か来たら大変だ。
 俺はホースを水道の蛇口にはめた。もう片方の端は床の上に放った。
「ふふふ、ははは」
 思わず笑ってしまった。任務完了だ。これでもう、誰も手を洗うこと
はできない。
 ティッシュを丸めてつめるとかではだめだ。すぐに取り除かれてしま
う。その点ホースだと、何らかの意味があるのではないかと思い、はず
さないのだ。人々は泣く泣く他の水道を探さなければならない。
 残酷だ、あまりにも。俺は自分が悪魔にでもなったかのような気がし
た。「ああ、自分には、手を自由に洗う権利さえないのか」と言って、お
のれを嫌悪する男達。「パパ、ママ、手が洗えないよう。僕は、僕は、ど
うしたらいいんだよう」と、泣き叫ぶ子供。鬼だ。俺は、鬼になったの
だ!
 だが、愚かなる人類よ。この程度で許されると思ってもらっては困る。
なぜ、もう一本ホースを買ったか分かるか、ええ? 今度は、不潔感に
さいなまれるくらいでは済まない。命にかかわるのだ。
 俺はさまよい歩いた。条件を満たす場所がどこかにあるはずだ。
「あった!」
 公園に、それは存在した。水飲み場だ。栓をひねると、水が上に向け
てふき出す、渇いた人々を癒す装置だ。俺はさっそくそれにホースをは
めた。噴き出し口の方がやや直径が大きかったので、少々苦労した。
 ふっふっふっ。これでもう、喉をうるおすことはできない。マラソン
をしている人が、「ああ、喉が渇いたな。あの公園で飲むとするか」と思
い、ここへやって来るのだ。そして愕然とする。ひざまずき、両手を大
地にあて、荒く呼吸をするが、誰も助けてはくれない。
「水、水をくれ。頼む、私はもう、倒れそうなのだ」と嘆き悲しんでも
救いはない。砂漠だ! そして現れたオアシスは幻なのだ。
 その公園には、もう一つの悪夢を実現させるためのものはなかった。
俺は根気よく探した。別の公園でそれを見つけた。すべり台だ。俺は色
とりどりのゼリーを、ついていたプラスチックのスプーンで、できるだ
け形をくずさないように慎重に取り出してすべり台の下に並べた。その
作業には結構時間がかかった。
 純朴な子供に大きなトラウマを与える、悪夢の仕掛けだ。「わーい」と
言いながらすべってきた子は、ゼリーに気づき青ざめるのだ。だがもう
遅い。甘い、やわらかな天使のお菓子が、別の側面を見せた時、子供は
裏切られたことに気づき、そのショックは一生心に刻まれるのだ。足で
着地できればまだ被害は少ないが、とっさの判断ができなければ、お尻
に怖気をふるう形態と化したゼリーが大量に付着するのだ。
「あっはっはっ。あーっはっはっ」


 気がつくと、私は畳の上に寝転がっていた。テレビがついたままにな
っていた。
 すべては夢だったのか? そうだ、そうとも。私があのような悪魔の
行いをするはずがない。
 そばに薬の説明が書いてある紙があったのでつかみ上げ、読んだ。総
合感冒剤の副作用の記述に、「眠気」とあった。



#5490/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:37  (192)
鼻親父と豆腐の美女(4)    時 貴斗
★内容
  能

 今日は能を見に行った。客の入りは少なく、席には十分な余裕があっ
た。人に話せば老人のようだと言われるが、私はあの音楽のような台詞
の言い方が好きなのだ。優雅な立ち居振舞いを見ているうちに、話は中
盤にさしかかっていた。
 舞台中央に中将の面をつけ、厚板の着付けに大口をはいた武将が立ち、
扇をゆるやかに上下させている。
「おやーじのーせたーけ、さんーめーとる」
 能を鑑賞するという行為は、ヒーリングと似ている。観客は幽玄の世
界にひたり、日常のわずらわしい事柄から解放される。
「洗濯機にいいいー、洗剤を入れるつもりでえええー、床にこぼして、
おおおおおーあわああーてー」
 江戸、あるいはもっと昔の室町の時代には、芸術などではなく、純粋
に娯楽であったはずだ。今の映画や芝居にあたるものだ。
「靴の中にいい、糊を満たしいい、足を入れて感触を楽しむうう」
 ドラマの俳優は面をつけないが、別の人間になりきるということは、
面をつけるのと同じではないだろうか。
「インスタントやきそばのおお、湯切りに失敗してええ、麺を流しにぶ
ちいいまけええるうう」
 笛と鼓の囃子が入る。
「天からーボクサーがああー、いきなり降ってきてええー、パンチされ
たらーいやああーだなあああー」
 現代人にとっては、お芝居を楽しむというよりも、むしろ原始的な音
楽にあわせてダンスを踊る民族を見る感覚に近い。
「口がああ裂けてもおお、痛くないいー。目のおお中にいい入れてもお
お、しゃべええらないいー」
 落語や相撲も、やがて芸術作品として尊ばれる日がやって来るのだろ
うか。
「千利休がああ、出された茶を飲んでええ、こんなもん飲めるかと言っ
てええ、ちゃぶ台をひっくりいい返すうう」
 日本古来のものは、心情に訴える。海外から来たものは、エンターテ
イメントの要素が強い、と思う。
「ダイエットしても痩せられない風船んんん、体中がかっかと熱くなる
でんんんしれんじいいい」
 俳句に代表されるように、わびとさびの文化なのだ。ひかえめで自己
主張しない日本人の性格がよく表れている。戦後、海外に追いつけ、追
い越せという競争社会になったが、それはアメリカの影響が大きいのだ
ろう。大昔のムラの時代、その生活は実に慎ましやかなものであった。
 一旦競う道を歩み始めると、もう後戻りはできないのだ。子供達は受
験という過酷な試練によって、無理やりこの道に引きずり込まれる。そ
れ以前に自分のやりたい事を見つけられなければ、否応なしにこの関門
をくぐらされる。そして大人になってから、もっと大切な事に使うべき
時間を削ってまで勉強した国語、算数、理科、社会の知識が、ほとんど
役に立たない事実を知って愕然とするのだ。ただ、人と競うことを習わ
されただけである。
 むろん、昔も、武士は戦わなければならなかった。しかし農民や商人
が人口の多くを占めており、彼らは少数であった。今は日本国民の大部
分が侍になってしまったように思える。
「街を闊歩するプリンター星人んんん。口からA四サイズの紙を大量に
吐き出すううう。街はプリンター用紙でいっぱいだああ。その紙には『稲
庭うどん星人に気をつけろ』と書いーてあるーうう」
 能のような癒しの文化が残っているのは、大変貴重なことだと、私は
思うのだ。


  私の仕事

 私は月、水、金曜日にバーコード職人をやっている。シールにあの密
集した縦線を捺印するための印鑑を作っているのだ。熟練した腕と、い
い材料を選ぶ優れた目が必要になる。
 最も良い印材と言えば、本象牙であろう。ワシントン条約によって輸
入が規制されているために希少価値が高く、硬度、印肉のなじみ、印影
の美しさ、どれをとっても素晴らしい。
 そしてオランダ牛の角。一本一本違うマーブル模様に味わいがあり、
乾燥による反りや割れが生じにくい。黒水牛もいい。深みある艶と色む
らのない漆黒の肌、きめの細かい繊維質が特徴で、プラスチック材には
真似の出来ない鮮明な捺印が可能だ。
 より良い材料を求め、北へ、南へと転勤する。そのため私は単身赴任
だ。
 私は今、もっとも慎重さが要求される象牙に取り組んでいる。刀をそ
の面にあて、全精神を指先に注ぎ、一ミリの狂いもなく彫っていく。だ
が、職人にとって一番重要なのは正確さではない。心だ。
「機械さん、機械さん、これはお惣菜ですよ。小なすのそぼろあんかけ
で、二百三十九円ですよ」と念じながら彫る。でなければ読み取り機に
は通じない。そういう気持ちが大切だ。
 安い食材にも最高級の印鑑を使ってくれるお店は有り難い。だから真
剣さも普段の十倍は必要だ。
 人のけはいを感じた。見ると、いつの間に来たのか弟子の深山君が正
座をし、私の匠の技を注視していた。
 私は印刀を置き、微笑んで、自分の右腕を軽く二度叩いた。
「盗めよ」
「いや師匠、それはいいんですけど」と彼は言った。
「なんだ。今集中しているところなのだが」
「師匠のバーコードが、読み取りエラーが多発しているという苦情が殺
到しているのですが」
 私は驚いて、深山君に向かって右手を、何かを鷲づかみにしようとす
るかのような格好にして突き出し、そしてすぐさま引いた。
「ニャチョーン!」
 彼は冷静なまま、じっとしている。
「ううむ、そうか。私の気持ちの入れ方が足りなかったのだろうか。そ
して君は若いので、何のギャグか分からないかもしれないが」
 私は再び彼の顔を握ろうとするかのように手をのばし、引いた。
「ピャチョーン!」
「師匠、唾がとびます」
 私は腕組みした。
「そもそも、バーコードとは何だ」
「はあ、商品の値段を読み取るための、まあ記号というか符号というか」
「喝!」
「かつって……」
「バーコードとは、人間から機械へ言葉を伝えるための手段なのだ。こ
れはマスクメロンですよ。ええとても高いんです。千五百円もするんで
す。どうかよろしくお願いしますね。そういうもんだ。だから気持ちを
こめて彫らなければならん」
「どちらかというと、物から機械へ情報を伝達するための」
「大昔、人間は天にまで届く塔を築こうとした。これに怒った神は人々
の言葉をばらばらにした。この時からコミュニケーションの難しさが発
生したのだ。だが外国人の言葉を理解しようとする気持ちがあったから
こそ日本は国際社会でこれほどまでの地位を維持しているし君は若いか
ら私よりもよほど知っていると思うが」
「あの、今回の件はいかがいたしましょう」
「機械にコミュニケーションさせる手段として電気信号を使うことを人
間は考えそしてそれは一と〇の膨大な組み合わせからなり文字も絵も音
さえも最小単位はビットで人の心を電気的に伝える方法を発明したとい
うことは画期的なのだ」
「本社に、連絡した方が」
「だから偉大な発明をした人に感謝するために精一杯の気持ちをこめな
ければならず例えばインターネットは大繁盛しているがこれは個人が世
界に向けて自分の気持ちを伝えたいということのあらわれではなかろう
か」
「あのう、師匠」深山君はとても困った顔をしていた。
 私は立ち上がった。
「修行だ。気持ちのこめ方が足りなかったのだ。滝に打たれてくる」
「た、滝に打たれるのですか?」
「ここから電車で一時間ほど行ったところに温泉があったな。確かあそ
こに打たせ湯があるはずだ」
 温泉かよ! と深山君の目が訴えていた。


  デジタルな世界

 私は内壁が機械類でびっしりと埋まったチューブの中を高速飛行して
いた。背中に取り付けた噴射機によって、流れるように空中を移動する。
和太鼓とコンピュータによって作り出された音がミックスされたミュー
ジックが鳴り響いている。もうすぐ奴の居場所に着く。私は緊張が全身
を支配するのを感じた。何重もの扉が、私をいざなうように次々と開い
ていく。
「ここから先は、危険。ここから先は、危険」機械的な女性の声が響き
渡る。「システム・メンテナンス以外の目的で入るあなたのチップIDI
DIDオーバーフローオーバーフローオーバーフロー」
 コンピュータは私が狂わせておいた。でなければ、私は今頃セキュリ
ティ・システムによって蜂の巣にされていただろう。
 最終兵器マッドマンの破壊、それが私の使命だ。
 ついに、人類が作り出してしまったもっとも禍々しい悪魔の住処にた
どり着いた。赤、青、緑、様々な光が渦巻く巨大な球の内部に、奴がい
た。
 ぬるっとした銀色に輝く鎧に覆われた巨人が宙に浮き、瞳のない眼で
私をにらんだ。
「とうとうここまで来たか、トーテム・ポール」
「私はそんな名前ではない!」
「我を倒そうなど、一年早いわ、ポール」
「そんなに短くていいのか!」
 私達を取り囲む球はゆっくりと回っている。
「死ね、ポール!」
 大量の赤い三角錐が、回転しながら飛んできた。私はその一つ一つを
レーザー銃で正確にねらい、撃ち落した。
「ひしゃくな奴だ」
「こしゃくなだろ……お?」
 カクカクしたポリゴンの柄杓が向かってきた。撃つと、それは無数の
四角錐や直方体となって飛散した。
「おしゃくな奴だ」
「まあ、一杯」と言いながら、銚子を持ったワイヤーフレームの中年親
父が回転しながら迫ってきた。
 間に合わない! とっさの判断で私はよけた。
「手助けするぞ」
 声に驚き横を見ると、今はすっかり歳をとって田舎に引っ込んでいる
はずの父が、皮のような光沢を持つ戦闘服に身を包み、浮いていた。
「バカめ。人間ごときが束になってかかってきても、すずめ蜂が刺すほ
どにも感じぬわ」
 それは結構痛いのではないか?
「はああっ!」マッドマンは手の平をこちらに突き出した。私はすばや
くかわした。
「ああっ」隣りで声がした。
 なんという事だ。テクスチャーを貼りつけやがった。父は木目調にな
った。
「お前……あれを使え」
「分かった」私は腰に装着したバッグから究極の武器を取り出した。
 サルティンバンビッチ博士から聞いた、唯一奴に対抗できる兵器、そ
れは豆腐だ。
「やああっ」私は思いきり投げた。見事にマッドマンの口に入った。
 だが、次に彼が吐いたのは実に意外な言葉だった。
「うがあ、異次元の味が」
「なに? 酒にひたしてあったのか! いつの間に」


 私は目を覚ました。電脳空間は影も形もなく、かわりに汚い我が家が
次第にはっきりと見えてきた。卓の上にワイングラスと、倒れたビンが
のっている。どうやら酔いつぶれてしまったらしい。まろやかな赤い酒
に、ためしに浮かべた豆腐は三つあったはずだが、いつの間にか二つに
減っていた。誤って口に入れたのか? そうしたらすぐに分かるはずだ
が、酔っ払って食べてしまったのだろうか。ああ恐ろしい。それでこん
な悪夢を!



#5491/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:40  (191)
鼻親父と豆腐の美女(5)    時 貴斗
★内容
  夜走る

 今夜は気分が安楽な状態なので、走っている。私はいわゆるランナー
ズ・ハイになりやすい体質なので、困ってしまう。脳内麻薬が大量にあ
ふれだすのだ。こういう時には変な物を見やすいので、注意が必要だ。
 ふと、いつもは行かない細い路地に入ってみる気になった。木々で両
脇がおおわれている、さびしい道だ。走るにしたがってだんだんゆるや
かな坂になり、私は山に入ったのだと悟った。時々現れる明かりを頼り
にして進む。しばらく行くと、道が開けて、広場に出た。周りを家々が
囲んでいる。山奥の小さな集落だ。奇妙なことに、真ん中に線路があっ
て、路面電車が停まっている。どうやらここが終点のようだ。おかしい
な、と私は思う。なぜこんな山の中に?
 いけない。これはきっとランナーズ・ハイだ。注意しなければ。
 車両は一つだけで、中から明かりがもれている。二人の人物が見える
が、様子が変だ。言い争っているようだ。私は興味をひかれ、電灯に誘
われる羽虫のようにふらふらと近づいていった。
「どうするんだ。爆発するぞ」
「落ちつけ」
 聞こえた会話に驚き、思いきってドアを引き開けた。乗りこむと、二
人の男が振り返った。黙っているので、私の方から声をかけた。
「どうしましたか」
「ああ、あなた、来ちゃだめです」と、背が低い割りに顔の長い男が言
った。肌の色が妙で、だいだい色に近い。あごがしゃくれている。「早く、
遠くに逃げて下さい」
「待て、待て。二人で考えるより、この人にも加わってもらった方がい
い。三人寄ればもんじゃの知恵と言うじゃないか」頭が変にとがってい
る、体の細い男が言った。まるで鉛筆のようだ。
「あの、もんじゅ」
「さあさあ、こっちへ来て下さい」
 鉛筆男にうながされて、私は彼らのそばに行った。そして、そこにあ
る物を見て仰天した。
「これは、爆弾では?」
「そうです。爆弾です」だいだい色の男が答えた。彼の顔はまるで三日
月のようだ。
「いつ爆発するんですか」
「それは分かりません。時計がついてないんですよ。しかし、おそらく、
もうすぐです」
 精密な機械が茶色い筒を取り囲んでいる。だが、彼の言う通り時を刻
むような物は何もない。
「今我々が直面している問題は」鉛筆が言った。「青い線と赤い線のどち
らを切ればいいかということなんです」
「ああ、青い線と赤い線」
 ドラマ等で爆弾解除のシーンが出てくると、必ずといっていいほどこ
うなる。どうもしらじらしい。本物を止める時にも、二つのうちのどち
らかを切断する仕組みになっているのか? それともやはりこれは幻覚
なのだろうか。
「早く決めなければいけません。あなたはどっちだと思いますか?」
「え、そう言われても、私は爆弾のプロではありませんし」私は狼狽し
た。「ただの通りすがりのおじさんですし」
「我々も同じです。直感で決めるしかありません」だいだい色の男は目
をつり上げた。
 我々も同じ、と言ったが、そもそもこいつらは何者なのだ?
「では、せっかく三人いることですし、多数決で決めましょう。おい、
お前はどっちを切ればいいと思う?」
「ああ、俺は青かな。赤っていかにも危険そうだし」鉛筆は三角形に近
い額に冷や汗をかきながら答えた。
「俺は赤だ。赤は血を連想させる。俺は血を見るのが嫌いだ」相当あせ
っているのだろうか。だいだい色は変なことを言う。「さあ、一対一にな
りました。あなたの選択で決まります」
「えっ? そんな、私? 困ります」
 私は腕組みし、考えた。片方は周りの家をすべて吹き飛ばす。片方は
みんなを救う。そういう時人間は、どちらの色をどちらに割り当てるだ
ろうか。犯人はどうして、そんなトラップを仕掛けるのだろう。私が犯
人だったら、どっちを切っても爆発するように仕組む。
「青、いや赤、いや青、赤、青」
 答は出ない。出るはずがない。
「決めて下さい。時間がありません」だいだい色はつめよった。
「そうです。あなたが運命を握っているのです」鉛筆も語気を強めた。
「待って下さい。私は理学にも工学にも強くないが」私はつばを飲んだ。
「何らかの論理的な解決があるはずです。爆発を回避する、科学的、工
学的な方法が」
「どうしろというのです。我々にはこれの仕組みが分からないのです
よ? 知識を持ち合わせていないのですよ?」だいだい色は怒鳴るよう
に言った。なぜ脅すのか!
 こんなことが本当にあるだろうか。彼らが狐や狸ではないと、どうし
て言えるだろう。狐と狸、プラス、ランナーズ・ハイ、これは強力だ。
 青か、赤か。幻か、本当か。どっちが狐で、どっちが狸なのか! シ
ョートケーキとモンブラン、どちらを選べというのだ! 私は一体何者
なのだ! 人類はどこへ行くのだ!
 その時、私の頭の中に光に包まれた女神が現れ、微笑んだ。
「あなたはお婆さんに席をゆずったことがありましたね。あなたは池で
おぼれそうになっている蟻を助けましたね。だから、私が救ってあげま
しょう」
 そして、脳内に様々な数式が嵐のように流れた。
「おお」私は恍惚とした。
 だいだい色と鉛筆はきょとんとした。
「おおお」私は喜びに打ち震えた。そしてひらめいた。すごい。天才だ。
「方法が分かりました」
「あの、大丈夫ですか?」三日月顔が心配そうに言った。
「片方だけ切って、爆発しなければいいのでしょう?」
「ええ、ですから早く決めないと」
「まず、両方の皮をむいて、銅線を剥き出しにして下さい」
 二人はしばし呆然としていたが、私の自信に満ちた口調に動かされて、
作業を始めた。てきぱきと進み、完了した。
「では、二つの銅線をくっつけて下さい」
「こうですか?」と鉛筆が言った。
「そうです。そしてどちらでもいいから、その状態で切るのです。片方
はカットされても、もう片方を橋渡しにして電気が流れます。だから爆
発しません」
「すごい。あなたはすごい人だ」
「そんな方法があったのか。いやあ驚いた」
 彼らの賞賛に私は酔った。
「では、いきますよ」鉛筆はカッターを銅線にあてた。寄り集まった細
い線が、一本一本切れていく。
 もうすぐ完全に分断される。その瞬間、私は一目散に逃げ出した。
 後ろを振り返らず、全速力で山を駆け下りた。叫んでいたかもしれな
かった。何かが間違っているぞと、本能が教えたのだ。やっとの思いで
家に帰り着いた私は、ぶっ倒れるようにして眠りこんだ。


 翌朝、私は昨日のことがとても気になってきた。結局爆発は起こらな
かったのだろうか。大丈夫だろうか。
 今度はゆっくり歩いて、山の中に行った。狐や狸にばかされたわけで
はなかったらしく、路面電車はそこにあった。どこにも異常はないよう
だ。
 用心して私は乗りこんだ。誰もいない。もう何十年もそこに放置され
ているような雰囲気だが、散らかっているゴミは真新しい。ガムのかす
や、ジュースの缶といったものがある。
 確かに電車はあったが、どうもあの男達は幻のような気がしてならな
い。爆弾も見当たらないし、あれはいったい何だったのだ?
 私は、昨夜男達が立っていた場所に行き、床を見て、はっとした。そ
こには柿の種とつまようじが落ちていた。
「つまようじだったのか」と、私はつぶやいた。


  おふくろの味

 なにしろ私は単身赴任なので、飯は自分でなんとかしなくてはならな
い。というわけで、今日もスーパーでお買い物だ。
「アーラ、ペンサーン」
 アウチ。豆腐の美女だ。
「オヒサシ、ブ!」彼女は日本女性のように微笑んで口に手をあてた。
「リデース」
「あの、私はペンという名では」
「オトコガヒトリサビシク、オカイモノデースカ」彼女は長い髪をかき
あげた。「ニョウボウ、ニゲマーシタカ」
「いえ、いえ。私は単身赴任でして」
「ナンダトオ!」目付きが鋭くなった。「ニンシンシマシタカ? タイヘ
ンデスネー」
「違いますよ」
「オーウ、ゴメンクダサイ、ワタシ、ニホンゴ、リカイシヨウトシマー
ス」彼女は眉を寄せた。「ソウゾウニンシン、デスカ?」
「一文字も合ってないですよ。いや、漢字で」
「あなたが好きなのはお母さんなのよ奥さんじゃないのよそんな事だか
らスーパーで晩御飯を買うはめになるの」
 え? 私は自分の耳を疑った。
「あ、あの、流暢な日本語ですね」
「ナンノコトハナーイ。ドラマノセリフ、オボエタデース」
「ああ、なんだ。びっくりしました」
「ナニヲカイマスカ。レバニライタメデスカ。オミオツケデスカ。アル
イハ、レバニライタメツケデスカ」
 私はレバーとにらを鬼のような形相でまな板に叩きつけている料理人
を想像し、嫌な気分になった。
「まあ、焼き魚と、ご飯と、ひじきくらいですかね。あなたは何を?」
「ワタシ、オフクロノアジ、カイニキマーシタ」
「肉じゃがとか、味噌汁とか、そういうのですか」
「ワタシ、オフクロノアジ、ミタコトナーイデス。ナンデモ、アタタカ
イモノノヨウデス」
「ええ、ですから、肉じゃが」
「スーパーノウリモノ、ミンナヒエテマース。デモ、キャサリン、スー
パーデカエル、イイマース」
 キャサリンとはいったい誰なのか。
「おふくろの味という食べ物があるわけじゃないんですよ。子供の時に
お母さんが作ってくれた」
「サノバー、ビチ!」
 何なのだこの人は。
「ソレハサテオキ、オフクロノアジトイウノハ、ナンデスカ。フルーツ
デスカ。オカシデスカ」
「いや、そういうのじゃなくて。いや、場合によってはそういうのです
が」
「アア、イジラシイ!」
「あー、落ちついてくーださい。ユー、チャイルドの頃、イートしたも
の、ママンが作ってくれて、おいしい、おいしい、ユーのメモリーに、
残っているもの」
「あなた私のことバカにしてるの? これでももう日本に来て五年にな
るのよ」
 じゃあもっと、ちゃんとしゃべれよ。
「アー、デモ、アナタノチセツナセツメイノオカゲデ、ダイタイワカリ
マシタ」
「ああ、そうですか。まあ、分かったのなら良かった」
「ワタシ、トウフヲカウデース」
 えっ? 嫌な予感がする。
「アツカンニ、ソイツヲウカベ、キュットヤルデース。キュキュット。
オフクロノアジ、ソウイウコトニシテオクデース」
「いや、それはたぶん、おふくろの味ではないと思うんですけど」
「トウフ、ドコニアリマスカ? アア、アソコニアリマース」
「あの、異次元の味が、あの、やめておいた方が」
 彼女は私に向かって微笑んだ。
「モシモウマカッタラ、アナタニモ、テホドキシテヤッテモイイデース。
ソノトキワタシハ、アナタノイエ、カナラズミツケダシテヤル!」
 どうか来ませんように! 私は必死に祈った。



#5492/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:43  (195)
鼻親父と豆腐の美女(6)    時 貴斗
★内容
  おやじギャグ襲来

 今日は嫌な一日だった。バイオリズムが低調だったのか、幸運の女神
がそっぽを向いたのか。ささいな偶然が積み重なり、いっきに破裂した
のか。確率のいたずらか。とにかく、延々とおやじギャグにせめられる
という、大脳新皮質がすっかり疲弊して真っ白になる日だった。
 公園のトイレで手を洗っていると、紺の背広を着た、腹が出ていて頭
髪の薄い男が、私の横に立ち、水道の栓をひねった。
「はあー、やれやれ」
 お疲れのご様子だ。彼は突然ポケットからくしを取り出すと、残り少
ない毛を手入れし始めた。
 気にせず去ろうとする私の背後で、男はいきなり言った。
「おお、髪をとこう」
 他には誰もいない。私に言っているのか? 少し驚いて振り返る。彼
は相変わらず髪を整えている。
 彼の手の動きが止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「うわあっ」
 思わず叫んでしまった。彼の顔には獣の剛毛が隙間なくはえていた。
「あなた、どうしたんですか、その顔」
「それはお前を、食べるためだよ!」
 私は自分でもわけの分からないことを何やらわめきちらしながら、一
目散に駆け出した。
 随分と走って、やっと止まる頃には、額に汗が流れていた。横にお爺
さんとお婆さんがいて、のどかに立ち話をしている。
「隣りの家に囲いができたってねえ」と、少しの期待をこめた表情で、
じいさんは言った。
「ええ、ええ。何でも泥棒に入られたそうでねえ。かわいそうにねえ。
山田さんも気をつけた方がいいですよ」
 山田と呼ばれた老人が、意気消沈していくのが、私の心に伝わってき
た。
「囲いだけでは心配なので、犬を飼ったんですけど、その犬がまあほえ
ること、ほえること。迷惑なんですけど、そうも言えなくてねえ。それ
でも足りなくて、防犯システムとかいうのもつけたんですって。高かっ
たらしいですよ。ほんと、物騒な世の中になりましたねえ」
「へえ」
 ああ、なんと言うことだ。お爺さんの寂しい気持ちを私は感じ取る。
いたたまれなくなって、その場を離れる。
 これはひょっとして、おやじギャグなのか? そんな疑いを抱いた私
に向かって、執念に燃えているような表情の大男が走ってきた。彼はい
きなり私の胸ぐらをつかんだ。
「ダジャレを言ってるのは、誰じゃ!」
 足が宙に浮いたまま、私は彼を凝視することしかできなかった。
「俺だよ!」
 男は駆け去ってしまった。これはもう間違いない。おやじギャグだ。
風水か、仏滅とかそういうのか分からないが、今日は私にとってそんな
日なのだ。おお、おお、なんと恐ろしい!
 逃げなければならない。なんとかして、この呪縛からのがれるのだ。
 だが、少し進むと、向こうから中年男が歩いてきた。何かやるぞ。私
は身構えた。突然左右からころがってきた二つの巨大な歯車が彼をはさ
んだ。
「ぎやっ!」男は叫んだ。
 あうう。なんてつまらないんだろう。このままでは脳が疲弊してしま
うぞ。
 八百屋の前を通り過ぎようとした時、店のおいちゃんと主婦の会話が
耳に入ってきた。
「この長ねぎ、もっと安くならない?」
「ちぇっ。奥さんにはかなわねえなあ」
 鋭敏になってきた私には分かった。ねぎを値切っているのだ。しかし、
気づかない方が幸せなのだ。
 まるで、霧の濃い森をさまよっているかのようだった。いつの間にか、
私は公園に来ていた。そこには親子がいた。だが、私は完全に緊張の糸
が切れていた。
「パパ、漏れちゃうよ」
「よしよし、トイレに行っといれ」
 子供は分からなかったらしく、駆け去ってしまった。だが、私は全身
の血が凍っていた。おやじギャグには、体の、そして心のぬくもりを完
全にうばってしまう効果があるのだ。これは恐怖だ。
 そんな目に何度もあっているうちに、すっかり日が暮れてしまった。
私はおでんの屋台を見つけた。腹を満たすことにし、椅子にすわった。
「親父。はんぺんと、こんにゃくと、卵と、あと熱燗」
 ほどなくして、うまそうなそれらが目の前に置かれた。だが、すぐに
私の体は緊張に支配された。そうだ、油断してはならない。
 親父を、ちら、ちら、と見る。何かするぞ。どんな手だ。どんな手で
仕掛けてくるんだ。私は、どうすればいいのだ。
 先制攻撃だ。それしかない。
 私は湯気をたてているこんにゃくに、指を押し当てた。熱い! しか
し、我慢するのだ。ねじるようにして、なんとか突き通した。
 そのまま持ち上げ、さらに第二関節まで進めた。それを親父に向けた。
「こんにゃく指輪!」私は叫んだ。
 彼の蔑むような視線が、私を射抜いた。
「寒ぶっ」親父は自らの体を、両腕で包み込んだ。


  チョー・コギャル

 私は職場から家へ向かう電車の中にいた。途中の駅で乗ってきた女子
高生と思しき二人組みが正面の席にすわった。片方は、ブームが去りか
けている山姥メークの子だ。驚いたのはもう一人の娘だ。髪は真っ白、
目の下は黒く、ほほにあざがある。良く見ると、それが全部化粧なのだ。
山姥メークならぬ、白髪鬼メークだ。最近はこんなのがはやっているの
か。
 山姥娘がひざの上に広げた雑誌を異形の子に見せている。
「このカマドって、ちょーやばくない?」
 カマド? ああ、人気バンドのボーカルか。
「あああ、ちょう、あざとい。ちょあざ」
 大丈夫なのか?
「えー? そんな脂ぎってるー?」
 何を言っている、山姥。待てよ? 「あざとい」ってどういう意味だ
っけ。
「おおお、おお、ちょお、こざかしい。カマドはちょこざ」
 こざかしい、か。ホラーな雰囲気なのに、面白い事を言う、彼の態度
を言っているのだろうか。
「知ってるー? カマドの彼女、他の男とくっついたんだって。浮気さ
れてんの。ちょー笑える」
「おーのーれー、姦夫姦婦によって、おとしいれられたのか。ちょう、
呪わしいー」
 震えている。恐ろしい目つきだ。
「でさー、カマドったらあー、その女から慰謝料が欲しいとか言ってん
の。ちょーあぶねー」
「ちょう、嫌気」
「そーうよー、嫌気さすって、感じよねー」
「カマドは……うっ」
 白髪娘は突然自分のみぞおちをおさえた。
「ちょ、ちょっと優子、大丈夫?」
「カマドは……って言うかカマドよ……復讐するのだ。姦婦に、ああ生
まれてこなければ良かったと後悔させるような、地獄の復讐をするのだ
……って言うか、ちょう復讐」
「追っかけの子がいてさー、しつこくカマドにくっついてまわるんだっ
て。朝起きて、ドア開けたらそこに立ってるんだって。それって怖くな
ーい?」
「護符を貼るのだ。あらゆる入り口に護符を貼るのだ。そして、どんな
ことがあっても絶対に出てはだめだ。朝が来たと思っても、決して戸を
開けてはいけない。ちょーやばいぞ」
 誰なんだ、お前は。
「でさー、持ってきた手料理渡そうとするんだって。それが、これくら
いの弁当箱なんだって」
「小さいつづらを選ぶのだ。大きいつづらを選んではならない。チョベ
リブブって感じ」
 ブブ?
「カマドったら、その追っかけのこと、豚とか言ってんの。ひどくなー
い?」
「藁の家に住んではいけない。丸太小屋もだめだ。レンガ造りの家なら、
狼に襲われはしない」
 電車は駅に着き、停まった。二人は相変わらずしゃべっている。白髪
娘は枯れ木に花を咲かせろとか、血を吸えとか、変な事ばかり言ってい
る。これが、コギャルの次に来るブームなのだろうか。
 山姥は窓の外を見た。
「ねえ、ちょっと。優子が降りる駅じゃなーい?」
「なにおうっ!」
 慌てて立ち上がり、よろよろと歩いていった白髪の目の前で、無情に
もドアが閉まった。
「あーけーろー。ここから、出してくれー」
 電車は走り出した。


  さよなら、鼻親父

「口の中に、虫歯がいるよ」
 鼻親父が歌っている。
「羽根は四枚、脚は六本」
 相変わらず嫌な歌だ。
「ほうらほら、飛び立とうとしているよ。神経をちょん切って、歯茎か
らぼこっと抜けて、大空に羽ばたいていくよ」
「いい加減に……」
 やかんのふたを開けた途端、あやうく腰を抜かしそうになった。彼は
口親父になっていた。とても、嫌だった。
「おや? 顔が青いよ」
「お前こそどうしたんだ、その顔」
 唇と歯があるが、奥は真っ暗闇で、どうなっているのか分からない。
「鼻でいるのが一番居心地がいいんだが、ほら、飽きるだろ」端がつり
上がった。笑っているらしい。「しかし、太ももやあごになっても、なん
だか分からないし。目、鼻、口、耳、あとは指くらいか」
「普通に、顔をのせればいいんじゃないか?」
「悪趣味だなあ」
 どっちがだ。
「今日は一つ、言いたいことがあるんだよ」
「なんだ」
「もうそろそろ、ここを出て行こうと思う」
 え? あまりにも突然の言葉に、私は動揺した。
「へえ、そりゃまた急に。でも……」
 でも、出ていってくれるなら、それにこした事はない。
「でも、どうしてかって? わしも長い間、この家に幸運をもたらして
来たが、もう十分だろうと思ってな。他の不幸せな人を救ってやらんと
な」
 そういう奴だったのか? 違うような気がするが。
「ああ、そうかあ。それは残念だなあ」私は悲しく見えるように、眉を
下げた。「でも、まあ、仕方ないか」
「分かる、分かるよ。なごり惜しいだろう。悲しいだろう。こらえてく
れ」
「ああ、本当に。何か、できることはないか?」
「いや、いいんだよ。あんたの涙を見ないうちに、わしは行くよ」
 親父はやかんから出ると、床に水を滴らせながら、空中を漂っていっ
た。後頭部は赤いUFOのようだった。そして彼は、寂しそうに振り向
いた。
「それじゃあ、元気でな」親父の前歯が、泣いているように見えた。
 突然、ドアが開いた。
「ハーイ、ペンサーン」
 なぜ豆腐の美女が! 
 私は何か言おうとした。だが、遅かった。彼がむこうを向いた途端、
二人は熱いキスをした。
「ブーリー、シット!」
 彼女の猛烈な発音が、親父を吹き飛ばした。


<了>



#5493/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:37  (180)
お題>涙(上)       青木無常
★内容
 腐臭の底に気配を感じて、アリユスは顔をあげた。
 窓外には、眼前の惨劇に似合わぬ午後の陽光。人影ひとつ見あたらない。感じた
違和感の正体はつかめぬまま、あらためて室内の惨状に向き直る。
 かたわらで、口と鼻をおおったシェラが耐えかねた風情で上体を折った。
「だいじょうぶ?」
 同じく膝をついて少女の背中に手をかける。ごめんなさい、といいかけてシェラ
は激しくせきこんだ。
「外に出ていたほうがよくない?」
 背をさすりながらいう。少女は弱々しく首を左右にふったが、言葉は出ない。口
をひらけば充満した腐臭がなだれこむからだろう。
「待ってて」
 いいおいて立ちあがり、麗しき幻術使は結印した。口中で呪文をつぶやく。
 開け放たれた背後の扉から、びょおと風が鳴いた。吹きこんだ流れはすさまじい
勢いで縦横に逆まき、雑然とちらかされた家具類にさらなる無秩序をほどこしたあ
げく、腐臭とともに窓から外へと過ぎ抜ける。意志を持つ小さな台風のようだった。
 軽減した悪臭とひきかえに、民家の内部は文字通り足の踏み場もなくなったが、
苦情を申し立てる住人もおそらくいまい。なぜなら、かれらは臭気の源と化してい
たのだから。
「なにがあったのかしら」
 えずきのあいまにシェラがつぶやく。無論、アリユスにも答えなどない。
 室中の家具をなぎ倒しながらもがき苦しんだとおぼしき五つの屍は、どれもすさ
まじく腐敗していた。腐肉喰いの虫がむきだしになった臓器に小山とたかり、ぞわ
ぞわとうごめく。アリユスの風によって払われたはずの刺激臭がはやくも、濃密に
立ちのぼり始める。
 そして、床一面をおおった腐汁らしきもの。壁や卓上などにもかなり目につく。
汚液をしたたらせた巨大な蛞蝓のたぐいが、ところ狭しと這いまわりでもしたかの
ようだ。
 吐き気をこらえながら、異変の原因をさぐろうと懸命にあちこち視線をとばすシ
ェラに、アリユスはいった。
「出ましょう。ここにいても気持ち悪くなるだけ。何もわからないと思う」
 少女は素直にうなずく。
 開け放した扉をくぐり屋外の空気を吸いこんで、二人は同時に深い安堵の息をつ
いた。臭気は外にも立ちこめていたが、気になるほどではない。
 汚汁は小川わきの砂利道を、ずっと先へとのびている。
「里が……」
「あるでしょうね」
 眉根をよせるシェラのつぶやきを、アリユスがひきとった。
 道にできた吹き出もののごとき腐汁を追って、最初にたどりついた民家がこのあ
りさまだ。先にあるだろう人里の状況を想像すると言葉すら出ない。
 屋内の屍の腐り具合からすれば、かれらの悲劇的な死から数日は経過していると
思えたが――奇妙なのは家わきにしつらえられた竈に火が入っていることだ。かけ
られた鉄釜には野菜と香辛料を煮こんだ汁が、沸騰しながらもまだ底に残っている。
くべられた薪も余力は充分。
 太陽は中天を巡ってまもない。昼食のしたくがはやめに行われたのだとしても、
数刻と経ってはいない計算になる。
 そのあいだに、何が起こったのか。そしてたったそれだけのあいだに、平凡な田
舎家の家族とおぼしき五つの屍を腐敗させたのはいったい何なのか。
 答えは、つきまとう気配にあるとアリユスは考えた。屋内にいたときにかすかに
感じた、あの気配だ。
 幻術使は四囲をながめわたした。定かなものは何もない。
「何かさがしているの?」
 眉根をよせて少女がきいた。上の空で、ええ、とだけ答えつつ女幻術使はなおも
つかみきれぬ気配を追う。
 ぎくりとした。
 二人とも。
 シェラが幻術の弟子として、アリユスとともに旅するようになって一年ほど。多
少の術は会得したものの、まだまだ素人の域を脱していない。
 そのシェラにすら、はっきりと感じられるほどの異様な気配が、濃密に渦をまき
はじめたのである。
 そして不意に――
 二人は息をのんだ。
 眼前の路上に、もやが立ちのぼる。
 かげろうともとれるほどかすかなゆらめきが、見るまに渦をまきながら収斂し、
やがてゆっくりとひとつの形をとりはじめた。
 人の姿と思えた。
 戯画のごとき人の姿だ。
 ゆらゆらとゆらめきながら、顔かたちらしきものがひらめいては消える。定まら
ぬままにそれは音もなくたたずみ、ただ濃密な気配だけが戦慄と化して二人に吹き
つけてくるのだった。
「何か用かしら」
 アリユスが優雅な口調で問いかける。もちろん視線に油断は微塵もない。
 かげろうのようなものは――応えるがごとく、不安定なその像を前後にゆすった。
 と不意に、収斂と拡散をくりかえしていたその姿が凝結した。
 もやとも薄布ともとれる白い像であることに変わりはないが、明確に目鼻立ちを
備え、衣服まで着こんでいる。いや、衣服を模しているというべきか。
「あら」
「まあ」
 二人は同時に口にした。アリユスは感嘆、シェラのはとまどいが濃厚だ。
 さもあろう、もやのとった形は、どことなくシェラに似ていた。少女を男の子に
変えれば、こんな姿になるかもしれない。
「この波長はなじみやすい」
 白い少年は淡々とした口調でいった。シェラはますます困惑を深める。
 くすりと笑いをもらし――アリユスは真顔で少年に向き直った
「で、どういったご用向き?」
「おまえたちは何者か」
 即座に返った応答は、アリユスにも困惑を伝播した。
 頓着するふうもなく、白い少年はつづける。
「奇妙な気を放っている。人間ではないのか」
「あら失礼だこと。わたしたちのどこが人間に見えない?」
 アリユスは大げさに憤慨してみせた。
「人間にしては奇妙に気配が強い。おれは今日まで、おまえたちのような者に遭っ
たことがない」
「わたしは幻術使よ。この世界と――そう、あなたのいるそちらの世界との境目に
立って、こちらの理法を超えた力を借用するたぐいの人間、といえば理解してもら
える?」
「それは巫師のようなものか」
「ん、まあ近いわね」
 少年は――あるいは、少年の姿をかたどったものは、無表情にアリユスとシェラ
を見つめた。あげく、
「理解しがたい」ときた。「おれの知る巫の者は、何ら人間と変わるところなどな
かった。おまえたちは明らかに異質だ」
「喜んでいいのかしらね、このセリフ」苦笑しつつシェラの耳もとにささやき、あ
らためて異怪に視線を向ける。「ところで、そんなわたしたちにも教えていただけ
るかしら。あなたこそ何者?」
 淡々と少年は答えた。
「おれは神だ」
 アリユスは寸時、疑わしげに眉をひそめた。が、かたわらのシェラが心底から驚
いた顔をしているのに気づき、思わず苦笑する。
「で」やや緊張を解きつつ、あらためて問いかける。「この状況を招来したのは、
もしかして神であるところのあなた?」
「否であり、応でもある」
「あら哲学的。さすが神さまだわ」皮肉じみたセリフにも、眼前の“神”は顔色ひ
とつ変えなかった。「でもわたしたち、神さまの理解力にはとうてい及ばないの。
申し訳ないんだけど、そんなわたしたちにもわかるように説明していただけないか
しら?」
「よかろう」“神”は真顔でいった。「この所業は、わが肉体が行ったものだ」
「まあそうなの。では、あなたは何? 魂?」
「人間の言葉にあてはめれば、それがもっとも適切だ」
「じゃ、もうひとつ。あなたがその“肉体”とやらにこれをやらせているの?」
「ちがう」あいかわらず淡々と“神”はいった。だがその一瞬だけ――アリユスに
は、少年の姿をしたその者の顔貌に苦渋の色が浮かんだように思えた。「あれはお
れの制御を受けつけぬ」
「ふうん」つぶやき、アリユスはつぎの言葉を待ったが、少年の姿をしたものは真
顔で見つめ返してくるばかりなので、しかたなくきいた。「で?」
「おまえたちには、力がある。その力で、おれをおれの肉体に還すことはできるか?」
 眉間の皺をますます深めながら、アリユスは横目でシェラに視線を向けた。
 きょとんとしながらも、シェラは応諾の意志を視線にこめて見返した。ひとの頼
みを断れない娘なのだ。
 苦笑をもらしつつ、アリユスはいう。
「それは依頼?」
「依頼とは?」
「ひとにものを頼むときは、報酬を呈示するものよ。わたしたちがあなたに肉体を
とり戻させたときには、かわりにあなたは何をしてくれるの?」
「なるほど、そういうことか」口調に得心がこもった。「できることはいくつかあ
る。病を遠ざけるか? 家の不幸をとり除くか? 田畑に実りをもたらすか? 不
死や寿命の延長は、おれにはできない。子孫の繁栄も尺がながすぎるからだめだ」
「なんだかお参りの文句みたいですね」
 シェラが不思議そうに“神”に向かっていった。
 その言葉に、アリユスはハッとした。まさしくそのとおりなのかもしれない。
「あなたはこの近くに、神として祀られているのね?」
「そのとおりだ」
“神”は答えた。
 なるほど、とアリユスはつぶやく。
 土地に根づく精霊が、人間の築いた堂や社などに宿る例は少なくない。充分な力
を持ち、人間の言葉や意志などを理解できるものは、可能な範囲でその願いに応え
る場合もある。願いがかなうという評判が立てば、人々はいよいよその存在を神と
崇めたてまつる。そういった人間の意志や気を受けて、最初は小さな存在であった
としてもやがて“神”の名にふさわしいだけの風格と、場合によっては力を増幅さ
せていくこともないわけではない。
 通常、それらの存在は幻術使や賢者たちのあいだでは“地神”と呼ばれる。
 この“神”も、その地神のたぐいであろう。
「わかったわ」アリユスはうなずいた。「じゃあ、わたしたちに憑いている病のひ
とつも取り除いてもらえるかしら」
「よかろう」いって神は、つい、と手をひとふりした。「終了した。おまえには、
胃の腑によくないものがとり憑いていたのでそれをひねりつぶした。しばらくはだ
いじょうぶだろう。おまえは目に立つ病の源を持っていない。ほかの願いはあるか?」
 問いかけは、シェラに対してのものだ。
 少女はびっくりしたように目をむき、考えこんだ。あげく、
「わたしには何もありません」
「それは困る」地神は淡々と口にした。「何かないか」
 シェラは困惑しつつ、再び考えこんだ。自分の願いをかなえてもらおう、という
よりは、相手の要請に応える手段はないのかと懸命になっているのだと、アリユス
にはわかった。
 やがて、少女がおずおずと口をひらく。
「わたしの家族が、みんなで仲良く暮らせるようにしてもらえますか?」
「よかろう」地神は答え、瞑目した。が、しばらくもしないうちに再び目をひらき、
「だめだ。距離が遠い上に、おまえの家族に憑いているものはどれもひどく力が強
いか、あるいは魂に刻印された妄執が根づきすぎている。それに――おまえ自身に
も、おれには想像すらつかぬほどの存在が憑いているな」
 ハッとしてシェラは、アリユスと目を見交わした。
 ほかに願いはないか、と神は重ねる。
 少女は哀しげに首を左右にふった。
「それでは、おまえはおれの要請を受け入れることができぬ」
「だいじょうぶです」とシェラは、努めて明るくうなずいてみせた。「わたしはア
リユスの弟子だから、アリユスが報酬をもらったなら、わたしもわたしにできるこ
とは何でもします。いきましょう」
 有無をもいわさぬように、率先して歩きはじめた。
 アリユスは“神”の顔を見た。“神”は見返すことなく、すたすたと先をいく少
女の背中を追いはじめる。あわてて後に従いながら、瞬時見た横顔に困惑を見出し
たのは気のせいなのだろうか、と疑問を浮かべた。



#5494/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:41  (162)
お題>涙(中)       青木無常
★内容
“肉体”のあとを追うのは簡単だった。腐臭を放つ汚汁を追えばいい。が、進むに
従ってアリユスは、惨状の範囲が拡大していくことに気づいた。
 最初に遭遇したときは、人ひとりが歩いた程度の幅にしか残っていない腐汁が、
徐々に広がりはじめたのだ。
 それはやがて道の周囲に生えた雑草のたぐいにも影響を及ぼしはじめた。しおた
れたものが増えていき、やがて明らかに溶解した残骸がそれに混じりはじめた。数
軒の民家にいきあたり、最初のそれに劣らぬ惨状を見出したがそのころにはあたり
一面、腐敗する生の残骸と化してもいた。
 道も四囲も汚汁にどっぷりと浸かっている、というわけではないのでどうにか跡
をたどることはできたが、アリユスが指先で少し触れただけで痺れるような痛みと
ともに猛烈な悪寒を惹起した。汚物に足を踏み入れでもしたら、靴をだめにするく
らいではすみそうにない。
 おそらく、転がる屍も一瞬にして腐敗してしまったのだろう。
「ねえ」アリユスは“神”に問いかけた。「あなたの“肉体”が制御できなくなっ
たのはなぜなの?」
 シェラについて先をいく“神”は、しばらくは無言のままだった。
 が、やがてふりかえりもせずひとりごとのように語りはじめた。
「最後の贄を喰ろうたときから、ああなった」
 いつからかは定かでない。気がついたとき彼は、村人から崇められる存在として
山中の堂に巣くっていたのだという。
 供物はさまざまだった。果実、野菜、時には家畜とおぼしき肉。彼の味覚をもっ
とも満足させるのは肉だった。ほかのものは手をつけないか、多くを残したが肉だ
けは最後の一片までしゃぶりつくした。やがて供物はもっぱら動物の肉が納められ
るようになった。“神”はすべて喰らいつくした。
 願いごとは、かなえることもあればかなえないこともあった。気まぐれからそう
することもあり、彼の手には余る願いの場合もあった。それでも奉納が絶えること
はなかった。
 ある日、死者をよみがえらせてほしいという願いが届けられた。死神から死者を
奪う所業は手に余ったので放っておいた。よくあることだった。だが誓願者は毎日
のように供物を捧げ、同じ願いをおいていった。
 かまわず供物だけを貪っていると、ある時――人間が供物として捧げられた。若
い少女だった。
“神”はそれを喰らう。美味だった。骨までしゃぶりつくした。生きたまま喰らう
のも、それまでは知らなかった快感を“神”にもたらした。
 彼はあくる日も、妙なる供物を待ちうけた。だがそれが届けられることはなかっ
た。あくる日も。あくる日も。それからは、ときおり死んだ動物の肉が奉納される
ことはあっても生きた人間の贄が捧げられることはなくなった。死んだ動物の肉は、
以前ほどの魅力を喪失した。どうあっても人間を喰らいたい、と彼は渇望するよう
になった。
 だから、それを捧げた人間の魂をのぞき、そこに刻印された容貌を見た。そして
その形どおりに泥水をこねて肉体をつくりあげ、それをあやつって請願者のもとへ
届けた。
 その日のうちに、山ほどの供物が捧げられたが、“神”の所望する人間の肉では
なかった。“神”は失望し、泥のかたまりをあやつるのをやめた。
 すると、泣き叫びながら請願者がやってきた。帰ってきたはずの息子が動かなく
なったと嘆きかなしみ、人間を贄にしつづけることは長である自分にも不可能だと
訴え、死んだ動物の肉でそれに変えることはできぬのかと問いかけた。
 彼は人間の姿を模してそのものの前に現れ、それはできぬとこたえた。請願者は
退散した。
「そのとき、その願いごとをしたひと自身を食べなかったのはなぜですか?」
 おぞましげに話をきいていたシェラがふりかえってきいた。
“神”はしばし無言だったが、やがて「それはできない」とだけ答えた。
 口調に畏怖がこもっているように、アリユスには思えた。
 話から類推するに、彼はもともと何らかの肉食獣に宿った精霊であると考えられ
た。獣であれば、人間への恐れをその魂に刻みこまれたものは多い。その名残が彼
のなかに残っていて、捧げられたものしか受け入れることができないのではないか。
 が、あえてそれを質そうとはせず、さらに神が語る言葉に耳を傾けた。
 またしばらくのあいだ、供物の捧げられぬ日々がつづいた。飢えに苛まれながら
神は堂にいた。するとまたある日、動かぬ息子を得た請願者が再来した。
 贄はどうした、と問うと、村に祟りを下してくれ、という答えが返った。
 先に捧げた娘は、人目を盗んでさらった村の幼童であった。そういうことを幾度
もくりかえしてはそのうちに誰かに見つかるし、第一人間をくりかえし贄にさしだ
していればそのうちに村人は絶えてしまう。それよりは例えば十年に一度と期限を
定めて定期的に贄をさしだすよう定めてしまえば、ならいごととして絶えることも
なく長い年月つづけることができるだろう。だがいくら村の長である自分でも、今
まで捧げなかった贄をいきなりさしだせと村人にいってもだれも肯んずることはあ
るまい。だから祟りを下せ。
 そういったようなことを、請願者はどもりながら語ったのだという。
 十年に一度というのは気が遠くなりそうなほどながいスパンだったが、まるで手
に入らぬよりはましだと彼は考えた。
 だから腹黒い長の言葉に従って、村の田畑を無差別に根こそぎすくいとり、贄を
さしだせ、さしださねば片端から喰らいつくそうぞ、とひとびとの魂に語りかけた。
 しばらくして、ふたりめの贄が堂に届けられた。満月の夜だった。彼は陶然とし
ながら生きた娘の肉を喰らいつくした。
 それから泥のかたまりをあやつった。ものを食うふりをし、かたことで語らせ、
ときおりそこらを歩かせる、といった程度だがそれでも父親である村長は嬉々とし
て泥塊に語りかけ、母親はなにくれとなく世話を焼いた。ひとの肉は無理でも、堂
には定期的に肉を届けるようにもなった。彼は泥をあやつることをつづけた。
 同時に、ひとの世の営みをつぶさに観察することになった。ひとには男と女とが
いて、むつみあい子を設けることを知った。そして十年めに、つぎの贄がさしださ
れた。
 彼はひとのまねをしてその娘とむつみあってみた。だがさほどの興は覚えなかっ
た。営みをやめて彼は娘を喰らい、泥塊をあやつりながらつぎの十年を待ちつづけ
た。
 やがて村長は死に、その妻も死に、何人かいたうちの息子たちのひとりが長の地
位を継いだ。“神”はあいかわらず泥人形をあやつりつづけたが、以前のごとく熱
心に泥塊の世話を焼くものはいなくなった。試しにあやつるのをやめると、死んだ
ものとして埋葬された。
 その後も供物を持って願いを捧にくるものは減らなかったし、十年めには新たな
贄がさしだされた。面倒になったので、ひとの願いをかなえることはいつのまにか
やめていたにも関わらず。見返りを求められることもなく、彼は存分に贄を喰らい
楽しんだ。つぎの十年も。そしてそのつぎの十年も。
 必要はなくなったが、人間のようすを観察するのはやめなかった。人間たちの日
々の営みは、奇妙に彼の興味をひいたらしい。
 彼は喰らい、観察した。
 ある年、ひとつの魂が産声をあげるのを彼は感得した。その魂の輝きは、奇妙に
彼を惹きつけた。
 生まれた幼子は娘だった。何が特別だったのかはわからない。ほかの人間とは、
魂のありようがまるで違うように彼には思えたが、どこがどう、とは自分にも定か
ではなかった。わけもわからぬまま彼は娘の成長を見守り、ものごころつくように
なってからはひとの姿を真似てその眼前に現れては語りあい、しばしばともに時を
過ごすようになった。
 娘は神と交信できるものとして、巫女と崇められた。それほどの器量よしという
わけではなかったらしいが、彼にはそんなことはどうでもいいように思えた。ただ
娘とともに過ごす時間がひどく大切であるように思えた。
 やがて娘は年頃に育ち、生まれた時とはまた違う輝きを発するようになった。そ
の輝きに彼は抑えようもなく魅かれるようになった。試しに、一度きり試みただけ
の、男女の交わりをしてみた。ひとの発するようなあえぎや歓喜が彼に訪れること
はなく、行為そのものには感興を覚えなかったが、しばらくして娘のほうから交わ
りを求めてきたので、定期的にそれをするようになった。
 そうして、新たな十年めが訪れた。巫女の娘は十六になっていた。当然のごとく、
贄に選ばれた。神に気に入られたものならば、贄にはふさわしかろうと。
 期待もこめられていたかもしれない。少女を贄として出せば、以降はあたら若い
命を無意味に出さずともよくなるかもしれぬ、と。
 彼自身にもわからなかった。
 巫女は村内に建てられた神の宮から、山中の堂へと贄として移され、そして夜が
きた。少女はおそれてはいなかった。微笑みながら神の入来を待ち――そして彼は
少女を貪り喰った。何も考えてはいなかった。ただ十年分の渇望が、ためらいもな
く少女の喉笛に焦点を結んでいただけだった。
 それから一両日を彼は、堂でひとりきりで過ごした。語りあう者のない時間は、
ここ数年では初めてのことであった。
 そして気づいたとき、彼の魂は肉体から分離していた。
 肉体は勝手に堂を出て歩き始めた。ひとの姿すら留めてはいなかった。獣じみた
姿はとろとろと腐りはじめ、あとに汚汁を残していった。あやつられるように村を
目ざし、行き当たった民家になだれこんで驚き逃げまどう家族をつぎつぎに貪り喰
った。貪り喰う端から、人間たちは彼と同じように腐れて落ちた。腐れ死んだ屍に
は興味を失い喰らうのをやめてそこらに投げ捨て、肉体はほかの獲物を追いまわし
た。
“魂”は、暴虐きわまるその所業を見守ることしかできなかった。肉体に戻ろうと
試みても、まるでうまくいかなかった。
「肉体が行っているのは、おれがひとの肉の味を覚えて以来、やりたくてたまらぬ
行為だった。思うさま人間を貪り喰らう。おれはいつも飢えていた。喰らいたくて
たまらなかった。だが何かがおれのその飢えを抑えていた。いまおれの肉体は抑制
をものともせずに、望んでいた行為を行っている。だがおれには何の感興もない」
「でしょうね」ため息とともに、アリユスはいった。「で、その肉体を捨てること
はできないの? つまり、もうひとつ別の肉体を用意することは?」
「やってみたが、できなかった。あれ以外に、おれの肉体はないらしい」
 そう、とアリユスは重ねて嘆息する。
 肉体から分離した魂を呼び戻す呪文なら知っている。肉体が生きてさえいれば呼
び戻すことはできるが、この場合にもその呪文が有効なのかはわからない。
 だが問題はそれよりも、この存在が人を喰らうことを覚えた魔怪にほかならない、
という点にある。
“肉体”と遭遇すればそれから身を守らねばならないのはまちがいないし、それを
どうにかできたとしても、魂と肉体とが一体化したときの“神”がどういった反応
を示すかもまるで未知数だった。へたをすれば、自動人形化しただけの今の状態よ
り、始末に負えない存在になることもあり得ないことではない。
 厄介な事態になってしまったが、報酬を受けた以上、逃げるわけにもいかない。
例え逃げたところで只ですむとも限らない。
 しばし無言のまま進む。腐汁の範囲の拡大は、しばらく前からおさまっていた。
ひと三人がつらなって横たわる程度の大きさだ。ある予感がアリユスにはあった。
 やがて陽が暮れはじめたころ、里が見えた。盆地の底に、民家が軒をつらねてい
る。その真ん中に、うごめく影があった。
 一行は足をはやめる。
 汚汁は縦横無尽にちらばっていた。山道を下っているときはわきにそれることも
なかったのでその大きさも伺い知ることができたが、もはや範囲も何も判然としな
い。半壊した家屋。溶け崩れた屍。なかには犬らしきそれも見受けられた。生きた
存在はどこにも見あたらない。むごたらしい物色の残滓が、腐臭を立ちのぼらせて
横たわるだけ。
 だがアリユスにもシェラにも――そしておそらくは“神”自身にも――気配だけ
は感じられた。
“肉体”の発する、異様な気配。
 腐臭そのもののように、吹きつけてくる。



#5495/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:42  ( 88)
お題>涙(下)       青木無常
★内容
「近づいてこない?」
 不安げにシェラがつぶやいた。
 アリユスはうなずく。
「わたしたちの臭いでも、かぎつけたかしらね」
 いいながら懐から色砂をとりだし、地面に模様を描きはじめる。あわててシェラ
も習った。
 魔法陣。単純に要約するなら、この世界と異世とのあいだに穴を穿つ作業だ。特
定の図像にアリユスのような訓練された幻術使の意志を付与して、物理的な手段で
は対応できない種類の脅威に対して効果のある力を抽出する。図像自体には意味が
あるともないともいわれる。どうあれ、鍵はひとの意志にある。
 陣をしくあいだ、かげろうのごとき少年の姿をした“神”は無言で見守っていた。
 作業を終え切らぬうちにどっぷりと陽が暮れて――“肉体”が出現した。
 物音ひとつ立てなかった。ただとてつもなくおぞましい“気”がどんどん近づい
てきて、崩れかけた家屋の陰から不意に姿を現したのだ。
 もとは動物だったのであろう、と推測していたが、もはやどのような獣であった
のかは判然としなかった。ただ溶け崩れた肉の塊、それ以外のなにものでもない。
 その腐肉塊が、蛞蝓のごとくもろもろと蠢きながら近づいてくる。
「シェラ、中に入って」
 自ら魔法陣の中心に立って印を結びつつ、アリユスが叫ぶ。
「もう少し」
 少女はいって、化物を背にしながら夢中になって砂袋をふりつづけた。
 アリユスもそれ以上はいいつのらず、陣の中心に膝をついて呪文をとなえはじめ
る。
 耐えがたい腐臭を放ちながら、妖物はぞわぞわと近づいてきた。触手か何かのよ
うに、幾本もの突起がにゅるりと生え出てシェラの背を求める。立ちこめる臭気は
形を備えそうなほどに濃密だ。
 腐汁をたらす突起の先端が触れる寸前まで、シェラは作業をつづけた。ぎりぎり
で陣内に踏みこみ、アリユスの隣に片膝をつく。呪文に唱和した。
 見えぬ壁に阻まれて腐肉塊は、陣の周囲をねろねろと巡った。ゆっくりとだが、
色砂の境界を浸食しながら。
 未完成な陣には、力がたりないのだろう。
 かたわらに佇む、おぼろな少年の姿にはまるで注意を払わない。
“神”の魂は無表情になりゆきを見守る。
 その“魂”に向けて、アリユスは語りかけた。
「始めるわ。でもいいの? この“肉体”は、縮み始めている」
「かまわない」
 淡々とした口調で“神”はいった。
 わかった、と答え、アリユスは印を組みかえた。
 二人が唱和する呪文の音調が変わる。
 同時に、化物の動きが活性化した。腐肉の塊に過ぎないが、それでも苦悶してい
るように見える。
 しばらくはそのまま何の変化もなかった。ただふるえながら肉の塊が徐々に、徐
々に、魔法陣を崩して前進するだけだった。
 が不意に――少年の姿をした“魂”が口をひらいた。
「ああ……」
 と、それはいった。
 恍惚の吐息とも、苦悶のうめき声ともとれた。
 表情に変化はない。
 それでも、二人の呪文がつづくにつれ、その姿がゆっくりと、だがはっきりと薄
らぎはじめた。
「ああ」
 再び“神”が声音をもらす。
 音もなく、宙を滑るようにして肉塊に近づいた。
 ゆっくりと。
「これはなんだ」と“神”はいった。「感情か? 人の肉を貪り喰らうときの歓喜
に似て、めまいがするほどに激しい感覚だ。しかしそれとはちがう。初めて体験す
る感覚だ。これはなんだ」
「嘆きかな」アリユスが答えた。「哀しみ。あるいは怒り。わたしにはわからない
けれど、そんな気がする」
「なるほど……これが嘆き悲しむ、ということなのか。おれは嘆き悲しんでいたの
か」
“神”はつぶやく。あいかわらず淡々とした口調。
「だとすれば“魂”はおれではなく、こちらに宿っていたことになる」
「ひとつになりなさい」
 ささやくように口にして、アリユスは呪文に戻った。
 苦悶する“肉体”は前進をつづけた。
 が、やがてその速度が鈍り始め――ついにはただ全身を小刻みにふるわせるだけ
でその場から動かなくなった。
 少年の姿をとった“魂”は、醜悪きわまる“肉体”のなかにゆっくりと溶けこん
でいく。
 溶けこむにつれてその姿も薄れていき――呼応するごとく、腐肉塊も縮小しはじ
めた。
 じわじわと腐汁が流れて色砂の陣を押し流していった。それでも肉塊は前進を再
開することはなかった。
 アリユスが印を解いて立ちあがり、シェラの肩に手をかける。
「もういいわ」
 一心に呪文を唱えていた少女は、夢から醒めたような顔つきでアリユスをながめ
あげた。
「もういいわ」幻術使はくりかえした。「腐汁が流れてくる。さがりましょう」
 見ると破れた陣のあいだからアリユスの言葉通り、汚汁が流れこんできていた。
 シェラはあわててあとずさる。
 汚汁の筋をあちこちに広げながら、腐肉の塊はみるみるうちに縮んでいった。
 やがて、ほかの腐汁だまりと区別がつかなくなった。
「死んだのかしら」
 ぽつりとシェラがつぶやいた。
 かもね、とアリユスはいった。
「そう彼自身が、願ったのかもね」
                                涙――了



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