AWC ●連載



#1067/1112 ●連載    *** コメント #1066 ***
★タイトル (AZA     )  17/02/02  20:34  ( 89)
クルーズに行ってみた2>無料だけど自由でない   永山
★内容
 避難訓練終了後は、一度部屋に戻って着替えました。今日のドレスコードはカジュア
ルですから、別に昼間の服装のままでもいいのですが、雨降りで中華街をうろうろする
間に濡れましたし、着替えてこざっぱりしようと。ついでに荷物の整理も。一泊分長い
だけで荷物がやたらに増えた気がする……まあ、インフォーマルデーがあるし、前回は
男の二人旅だった訳で、事情が違います。

 そうこうする内に、フェアウェルパーティの時間が来ました。出港に合わせたセレモ
ニーです。
 雨が降り続いていたなら、これも船内で行われるはずでしたが、開始時刻である16
:45の段階で、上がっていたようです。その証拠に、銅鑼を持った船員がプロムナー
ドデッキ(第七デッキの外周)を練り歩くのが、窓からちらと見えたです。これは急が
ねば。すぐさま準備し、プロムナードデッキへ直行しました。が、すでに人でいっぱい
でした。皆さん、いつものことながら――とベテランぶってみたり(汗)――早いな
あ。
 今回は悪天候だったためか、紙テープ投げはなし。先述の通り、すでにほとんど上が
っていたのですが、足元が濡れているからかな? また、飛鳥Uの本拠地・横浜港から
の出港であるせいか、派手なセレモニーもなしでした。一般の人が見送るのみだったよ
うです。それでも、“くじらのせなか”には大勢の人が見送り&見物に来ていました。
 船側はもっと盛り上がってたなぁ。噂に聞いていた、乗客と乗員が一緒になってジェ
ンガ風に踊る様も、今回は見ることができました。さすがに加わりませんでしたけれ
ど、凄く楽しそう。船のバンドによる音楽や歌が奏でられると、周りも乗って盛り上が
る。「カントリーロード」「いい日旅立ち」等、郷愁を感じる曲、旅立ちを思わせる曲
が揃っていましたね。
 出港時刻の17:00を十分ほど過ぎた頃、11デッキに移動。さらに12デッキに
も。撮影する分にはこれら上階からでもなかなかよく、さらにタイミングが合えば、夕
食前にレインボーブリッジをくぐる様を間近で見られるかなと考えた訳です。
 が、タグボートによる牽引などの動きを見ていると、夕食(前半組)の始まる17:
30にはちょっと間に合いそうにない。五分前まで粘りましたが、あきらめました。
 そして夕食の会場であるフォーシーズンダイニングへ。行列ができています。並ぶ必
要があるとは思えないのですが、何でだろ? 海の見える窓際のテーブルへ案内しても
らいたいってことなのかしらん?

夕食のお品書き
・アミューズ:雲丹のカクテル
・アペタイザー:真鯛の煎茶マリネ カルパッチョ仕立て
・スープ:ほうれん草と生姜のスープ
・海の物:鰆の知覧茶入りパン粉焼き
・メイン(下記の四つから一つを選ぶ。★はシェフおすすめ)
★1.神奈川県産ポーク肩ロースのほうじ茶煮 甘長唐辛子添え マスタード風味
 2.ひじきと貝柱のスパゲッティー玄米茶風味
 3.舌平目のポワレ
 4.季節の温野菜料理 〜ほうじ茶風味のポトフ〜
・デザート:抹茶ティラミス
・コーヒー又は紅茶

・飛鳥U自家製各種パン
・ドリンク各種(今回は指定銘柄に限りフリードリンク)

 今回はしっかりとメニューの紙を頂いてきました。ただ、全部を理解して書き写して
いるのではありません、あしからず(汗)。
 シェフの説明によれば、このディナーは健康のため、お茶を活かしたメニューになっ
ているとか。
 雲丹のカクテルは、カクテルグラスに、にんじんのムースとお茶の?ジュレを盛り、
さらに雲丹を乗せた一品。美味。味は濃くもなく薄くもなく、ただ雲丹の風味は濃厚に
感じた。このあとへの期待感が高まる。特に、お酒が好きな人なら酒・食ともに進みそ
う。
 真鯛の煎茶マリネは、鯛の切り身を煎茶でしめて花びらのように並べ、細切り野菜を
散らした料理。イクラの入ったソースが周囲を彩っていました。これも美味。野菜が食
べにくかったのと、ソースが残って勿体ない(笑)。
 スープは……普通。出汁の利いたコンソメスープっぽい汁物に、ほうれん草と生姜が
入ってるのを想像してもらえれば、だいたい当たっているかと。
 海の物は、お品書きでは「From the Sea」となっていましたが、意訳?し
ました。鰆の切り身に緑がかったパン粉をまぶして焼いた物。しめじか何かのソテーっ
ぽい物(でも味は佃煮に近かったような)が添えてありました。これも美味しかった。
けど、ナイフとフォークでは食べにくかった。魚の肉って下手にナイフを入れると、各
層単位でぱらぱらと剥がれちゃって、フォークで処理しづらいです。
 メインは、私は1を選びました。豚肉は拳サイズで、柔らかく煮込んでありました。
甘長唐辛子というがよく分かりませんが、辛くはなかった。他にレンコンや大根やにん
じんの煮物が添えてあった。これも美味しい。豚の角煮を、豚肉のかなりよい部位で作
ったら、こんな風になるかも(汗)。御飯が欲しくなる一皿でした。
 母は4を選択。小さな洋風鍋に、蓋をした状態で出て来たので、どんな料理なんだろ
うと思ったけど、中身は普通に、色んな野菜を煮込んだポトフでした。結構、熱かった
みたいです。

 デザートは抹茶ティラミスに、梅?風味のシャーベットが添えてあった。抹茶ティラ
ミスは抹茶とあずきの層を重ね、和のテイストに拘った感じ。“甘すぎない甘さ”より
はちょっと甘かったかな。シャーベットの方がより美味しかったかも。

 あと、ドリンクは前と同様、まずはグレープフルーツジュースを頼みました。その
後、二杯目のオーダーを取りに来た際に、今回のクルーズはフリードリンクなので折角
だから飛鳥ビールを試そうと思い、メニューを見ずに飛鳥ビールと告げたら、他のメー
カー品ならあるけど飛鳥はないよと言われちゃいました。知らなかった。というか、飛
鳥ビールが指定銘柄に含まれていないのね。別料金でも提供してないってことは、品物
自体がないってことかしらん。結局、ビールを取り消して、パイナップルジュースを頼
みました。
 なお、母はアップルジュースをオーダー。かなり甘かったらしい。二杯目は冷たい
ウーロン茶に変えていました。

 続く。ではでは。




#1068/1112 ●連載
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:08  (278)
斑尾マンション殺人事件 1 
★内容



●1

 震災から10日以上経った或る晩の事だった。
 高橋明子(26歳)は、飯山市内のアパートで、一人寂しく炬燵に丸まってテレ
ビを見ていた。
 リモコンでチャンネルをかちゃかちゃ変えてみる。
 画面には、3号機建屋爆発の瞬間とか、自衛隊ヘリの放水とか、むき出しの使用
済燃料プールなどが映し出された。
 ここ10日間、こんなのばかり見せられていて滅入る、と明子は思った。見たと
ころでどうにかなる訳でもないし、どっかで娯楽番組でもやってないだろうか。そ
う思ってチャンネルを変えても、テレビショッピング以外は全部震災関係の番組だ
った。
 しょうがないから映像の少なそうな解説番組を選んで、リモコンを炬燵の上に置
いた。
「地震酔いで嘔吐する人がいるんですよ」とテレビの中で言っていた。
「それは地震の時の恐怖を思い出して吐き気がする、という事ですか?」
「いやー、実際に揺れている時に酔うんですよ。船酔いみたいに」
「そんなに長時間、揺れが続くという事はあるんでしょうか」
「余震が頻発している地域では、そういう症状を訴える人も多いという事です」
 そんなのあり得ねー、と明子は呟いた。
 次の瞬間、ぐらっと来た。
「地震です」とテレビのアナ。「ただ今地震がありました。このスタジオでも揺れ
を感じました。各地の震度は、詳しい情報が入り次第お伝えします。えー、各地の
震度はー、長野県北部が震度5の強震、新潟県南部が震度5弱の強震、石川県の北
東部が震度3の弱震。震源が海底の場合には津波の心配もあります。えー、ただ今
長野県北部を中心に地震がありました。
 いやー、大きかったですねぇ」
 画面の下に出ている震度の数値を見ていたら、何故かゲップが出た。
 電灯の紐を見上げると、まだ揺れている。
 今の揺れで3号機の燃料プールがとうとう壊れてしまったんじゃないか、と明子
は思った。
 燃料プールを映していたチャンネルに変えてみる。さっきと同じ昼間の映像が流
れていた。
 今の様子は分からないのかも知れない、と思った。夜は真っ暗で見えないに違い
ない。明日の朝まで分からないのか。
 ネットだ。
 明子は炬燵の上のPCを広げるとスリープ状態から再開して、「福島原発 現
在」でググってみた。
 しかし何か重大な変化が起こったという情報は何処にも無かった。
 何でもなかったのかなぁー。思いつつディスプレイをぼーっと見る。
 右側の広告スペースに、ビートルズのCDやら書籍がべたべたと表示されていた。
 これは今日の昼休み、『ビートルズ殺人事件』というHPを見ていたからだろう、
と明子は思った。それは職場のパート社員が作ったページなのだが、それを見た時
にアマゾンやら楽天も開いたので、家に帰って来ても表示されるのだろう。
 その続きでも見てみようか。これ以上原発関係のニュースを追っかけてもブルー
になるだけだし、何が出来る訳でもないんだから。
 そう思って明子はそのページを表示してみた。
 黒の背景に黄緑の大きい文字で『ビートルズ殺人事件 byジョン・レノン』と
表示されている。
「おっ」明子は炬燵の布団を引き寄せると、マウスのローラーを転がしながら何気
に読み出した。


●2

『ビートルズ殺人事件 byジョン・レノン』

 今日は1967年6月3日だ。
『Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band』が発売されたのは一昨日だと思うのだ
が、ハッキリと思い出せない。
 今僕は、ロールスロイスを運転中だ。
 隣にはジョージが座っている。彼に何か話したい事があったのだがそれも思い出
せない。
 車の中からロンドンの空を見ると、どんよりとしている。これは、ロールスロイ
スのフロントグラスの上の方がサングラスみたいに色が入っているからだろう。
 いやー、やっぱり世界全体がこんなにぼやけちゃったのは、あの歯医者にLSD
を盛られてからだ。
 あの時はジョージも一緒だった。彼の妻のパティも、僕の妻も。
 パティが怒っている、とジョージが言っていた。「いくらビートルズの妻だから
って乱交パーティーなんてやりたくない。家庭はサンクチュアリなんだから」とか
なんとか。
 そりゃあそうだな。謝らないと、と思って助手席を見たら知らない男が座ってい
た。
 誰だ、この髭面のインド人は。
 一瞬ぎょっとしたがよく見るジョージだった。
「おいおい。何時から髭なんて生やしているんだ」と僕は言った。
「何言ってんだ、ジョン。自分だって生やしているじゃないか」
「何だって」僕は慌ててルームミラーを自分に向けた。本当だ。髭を蓄えている。
「おい、ジョン、運転中は前を見ていてくれよ。ポールみたいになりたくないだろ
う」
「ああ、そうだな。…えッ、ポールがどうかしたって?」
「ポールみたいに事故りたくないってこと」
「ああ、そうか。それで思い出したよ。今朝、起きた時から君に言いたい事があっ
たんだよ」と僕は言った。「よく子供の頃、夢の中で札束を握っていて、半分夢だ
って分っているもんだから、ぎゅーっと握り締めて、絶対にシャバに持って帰る
ぜーって思っても、目が覚めるとすーっと消えてしまう、そんな事、なかった?」
「あった、あった。リバプールに住んでいたガキの頃にね」
「それと同じで、いいメロディーを掴んでも、目が覚めると同時に、なーんだ、人
の曲かぁ、って思えちゃうんだけれども、それは人の曲じゃないんだよ。ぼーっと
していると人の曲に張り付いちゃうんだけれども、そうなる前にサウンドで固めて
しまえば、このシャバに持って来られるんだよ」
「その気持ちはよく分かるよ、ジョン。ポールがベッドから転がり落ちた瞬間に
『イエスタデイ』ができたなんていうのも同じ感じだろう。
 僕はLSDをやれば自由にメロディーを持って来れると思ったんだけど、そうは
行かなかったね。
 きっとポールっていうのは、自由にサウンドを掛け外し出来るんだよ。sound
(サウンド)ってsound(健全)だろう。ポールって天然的に世の中のサウンドか
ら開放されいているよ」
「お前もなー」と言おうと思ったが止めた。
「とにかく、今朝起きた時に、そのサウンドというか、時間や空間から開放されて
いたんだよ。それで…これからが君に言いたかった事なんだけど、それで、こう思
ったんだよ。昔何の気なしに言ったことが、今になって重大な結果となって襲い掛
かって来るんじゃないかって。
 それは寝起きに鏡を見て、あ、髭生やしている、なんでこんなの生やしているん
だろう、って撫でながら考えていて、ああそうか、ポールが事故って前歯が上唇を
突き破って出てきたんだっけ、それを隠すのに髭を生やしたんだよな、それで僕ら
も真似をしたんだ、って思い出したんだよ。その瞬間、頭の中で『Penny Lane』が
流れ出してきて、それで突然思い出したんだ。2年前かなあ3年前かなあ、何かの
時にポールが言ったんだ。ペニー・レインには象皮病や口唇裂の奴がいっぱいいて
気持ちわりーって。僕はそんなに具体的に言うべきじゃないって思ったんだけれど
も。あの時にあんな事を言ったものだから、『Penny Lane』を発売した瞬間にあん
な事故を起こしたんじゃないかと思って」
「まさかっ」と言うとジョージは長い歯をずらーり剥き出して笑った。「まさかそ
んな事、関係ないだろう。日本人のガールフレンドがそんな事を言っているのか
い? 因果応報とか」
「ヨーコはそんな事は言わないよ。でも、ヨーコってなんとなくベトナム人が入っ
ている感じがしない? そうすると、枯葉剤とか二重胎児とかのイメージがどんど
ん湧いてきて、もし彼女との間に子供が出来たらって思った瞬間、『ブッチャー・
カバー』のキューピー人形の肉の赤みが鮮明に蘇って来るんだよ。畜生、エプスタ
インの奴め、なんだって僕にあんな事をさせたんだ」そう嘆きながら僕はロールス
ロイスのハンドルをばんばん両手で叩いた。
 車は知らない間にスタジオの前に縦列駐車していた。
 それから僕らはスタジオに入った。ポールもリンゴも誰も来てなかった。
 そのままマリファナ部屋へ直行する。
 ジョージが手馴れた手付きで一本巻くと、さっさとくわえて火を付けた。
 深く吸い込むと、肺の粘膜に十分染み込むまで息を止めてから吐き出す。それか
ら指に持ったマリファナをくるくる回して、お香の煙でも広げるように、部屋中に
煙を充満させた。
 僕も一服決める。
「なんの話だっけ」とジョージが言った。
「だから、過去のちょっとした出来事が今頃になって祟ってくるって」
「そんな事言うんだったら、キリスト発言の方がはるかに祟るだろう」
「はぁー」僕はうなだれてしまったよ。
 それはこういう事だ、地元の新聞記者に楽屋でこう言ったのだ。イギリス国教会
よりも俺らの方が影響力があるって。そうしたらアメリカのテレビ伝道師が騒ぎ出
した。
「それにしてもムカつくのは僕らのレコードを焼いているアメリカ人のチープさだ
よ。あいつらの教会のレンガなんて鋳型から出てきた瞬間にコケが生しているのだ
から。もっとも、そんな事を言えば、丸でこっちが保守派みたいになってしまうが。
 それになんだかんだ言っても月面着陸までする国なんだから、リバプール出身の
僕らがチープだなんて言えないけれどもね」
 ジョージを見ると、片手をベルトの内側に突っ込んでいて、もう片方でマリファ
ナを摘んでいて、髭の生えた口に持って行くところ。そして煙を吸い込むと、丸で
インドの瞑想家が瞑想でもするように息を止めて、しばらくすると、煙を吐き出す。
 こいつに始めて会った時には、公立中学校でバッタの給食を食っていた。
 こんなのがロックンロールやらリズム&ブルースをやっていたらアメリカの黒人
はレコードを燃やしたくなるかもな。
「そう言えばミックが僕らの事をウィーン少年合唱団みたいだって言っていたよ」
とジョージが言った。
「何だって」
「She loves you yeah-----ってハモる所がそう聴こえるんだろう。
 それに演奏している様が、サンダーバードが踊っているみたいだって言っていた
よ。少し離れた所に濃い目のスーツを着たエプスタインが腕組みをして立っていた
けど、お前ら、踊らされているんじゃねーのって。シェア・スタジアムの写真の事
だと思うけど」
「ミックのやつ、そんなに生意気な事を言っていたのか。あいつ誰のお陰でレコー
ドを出せたと思っているんだ」
 僕はちょっとイラっとして、指先に火が付く程吸い込んだ。そしてむせたら、ジ
ョージが優しく背中を叩いてくれた。
 やがてスタジオの方から、がたがた機材をセットする様な音がしてきた。
 ジョージがおもむろに床からコーラのビンを取り上げる。そして火の付いたマリ
ファナをジュっと入れた。こちらにも向けてくるので僕も入れる。
 僕らはマリファナ部屋を後にして、天上の高いスタジオに入って行った。
 空気の冷たさが鼻腔で感じられた。脳がシャキッとするのが分った。
 それでジョージも来週のスケジュールを思い出したのだと思う。
「来週のマハリシのレクチャーだけれども、ジョンも是非とも参加するべきだよ。
その精神的な潔癖症を治す為にはね。何しろデリーじゃあ味噌も糞もみんなガンジ
ス川に流すんだから、そんなものはすぐに治ってしまうよ。でも、いきなりデリー
だときついから、前哨戦としてマハリシに会うべきだよ」
 そういうと、ジョージはポールの方へ歩いていった。
 あいつら高校の時からつるんでいる。

●3
 アパートに帰っても、「踊らされている」という言葉が頭から離れなかった。
 部屋に入るとすぐに、本棚の一番上に脚立で上って行って、写真の入ったダン
ボールを取り出して、ソファーの上に放り投げた。
  それはバウンドしたが床には落っこちないでその場に留まった。
 床に下りてそいつを持って机の所に行く。
 ライトの下で一枚ずつチェックする。「これじゃない」とトランプカードでも飛
ばすように、関係無いのは辺りに捨てた。そしてとうとうシェア・スタジアムの一
枚を見付けた。ベージュのミリタリーを着ているのだが、スタジアムの照明でオレ
ンジ色に染まっている。
 ライトに近付けてよーく見てみる。
 おかしいな、ぼけているぞ、これは一体何でなんだろう。
 メガネの度が合っていないのかと思って、メガネを外して写真に顔をくっつける。
 なんてっこった。ピントは僕らじゃなくてエプスタインに合っている。ステージ
の上で演奏する僕らはぼやけていて、その横で突っ立っているエプスタインがくっ
きりと写っている。
 これじゃ、本当に踊らされているみたいだ。
 くそー、と丸めると床に叩き付けて激しく踏み潰した。頭がくらくらしてきた。
 僕はそのままソファーに横たわった。
 天井が万華鏡みたいにぐるぐる回り出した。
  やがてそれは、リバプールのエプスタインの経営するレコード屋の天井の扇風
機に変わった。
 あそこには、色んなものがぶら下がっていたなぁ。アメリカのリズム&ブルース
のバンドのバスドラムのカバーとか、サイン入りの写真とか。
 そういうのはみんな、リバプール港の船員から只同然で巻き上げたものだ。
 他にも勿論大量のレコードがあったのだが、船の中で掛けていたものだから、み
んな傷だらけだった。
 値の張るものは、レジの前のガラスケースに入っていて鍵が掛けてあった。バデ
ィ・ホリーの使っていたカポとか、エルヴィスが映画で使ったハーモニカとその映
画のパンフレットとか。
 僕らが覗いていると、既に禿げ上がった薬缶頭のエプスタインが現れて、眉を吊
り上げて言った。「おい、ガキども。これは売り物じゃないんだぞ」
「なに言ってんだ。自分で作ったものなんて一個もないじゃないか。人の才能で商
売しやがって」と僕は言ってやった。
 あのショーウィンドーってそっくりそのままシェアスタジアムだよな。
 僕は正気に戻って、ソファーに座り直すと、しばらくぼーっとしていた。
 ふと思う。リンゴってエプスタインに重なる。頭の形が似ているのだろうか。リ
バプールの労働者階級の最下層から出てきた癖に、一丁前にロンドン郊外に家を構
えて女房子供なんて持っちゃって。ロールスロイスで突っ込んでやるか。


●4

 今日は6月20日だ。
 昨日ポールが「LSDをやってました」とマスコミに言ったそうだ。
 偶然だが、例の歯医者と昼食を取った。場所も、LSDを盛られたナイト・クラ
ブの近所のなんとか言う自然食レストランだ。
 歯医者はシーザーサラダにフォークを刺しているのだが、刺しても刺してもレタ
スが抜け落ちる。スーツの袖からシルクのシャツが飛び出していて、ヒラヒラ揺れ
ていた。チープなサイケのバンドみたいでインチキ臭い。
「最近、エプスタインだのリンゴだのが物凄くインチキ臭く感じるんだよ」と僕は
言った。「これってお前にLSDを盛られてからなんだよな。お前のせいで僕の性
格、おかしくなっちゃったんじゃない?」
「何を言っているんだよ。君が盛ってくれって頼んできたんじゃないか」
「何だって」
「ただの歯医者が天下のビートルズのお茶にLSDを混ぜる訳ないだろう。君が頼
んできたから盛ってやったんだよ。忘れたかい?」
「僕が頼んだって? 自分や妻やジョージにLSDを盛れって」
「本当に覚えていないのかい? こりゃ重症だ。
 君はこう言ったんだよ。自分がインチキ臭いって。人生の何もかもが『ごっこ』
の様に感じるって。ボブ・ディランの真似をしている自分、ブリジッド・バルドー
の真似をしている妻。こんな結婚は丸で結婚ごっこだって。
 この『ごっこ』感を拭うために、どんどん過激になるのが怖いって言っていたじ
ゃん。頭蓋骨に穴を開けようとか。
 だからもっとお手軽にリアルに接する方法を教えてくれって言うから、LSDを
教えてやったんじゃない。
 そうしたら、それを使って乱交パーティーをやりたいって君の方から注文してき
たんだぜ。覚えていないのかい?」
 メガネのレンズが、ぎゅーっと牛乳瓶の底の様に分厚くなる感覚に襲われた。
 確かに僕はそう言った。何もかもインチキ臭いと。丸で離人症の様だと。
 何で僕がディランに会おうって言うとインチキ臭く感じるんだろう。ジョージが
マハリシに会おうって言うと本物っぽく感じるのに。
 何でだろう。
 それどころか、同じLSD体験をしたって、ジョージが語ると凄い臨場感がある
じゃないか。あれをやって日光浴をするとベーコンが焼けるみたいにじゅわーっと
皮膚が焼ける感じがする、とかね。
 歯医者がナプキンで口を拭った。
 サテンの袖のサファイアのカフスがキラキラしている。
 それから彼は細いダンヒルを一本くわえるとダンヒルで火をつけた。
「さっき、リンゴやエプスタインがムカつくって言っていたけれども、それはなん
となく分かるよ」と歯医者が言った。
「何でお前に分かるんだよ」
「歯医者をやっている経験から言うんだけれども、うるさい患者っいうのは、ああ
いう薬缶頭でエラの張った顔をしているんだよ」と言うとダンヒルの甘い油粘土の
様な匂いの煙を吐いた。「それからポールみたいなのはフランス人気質っていうか、
治療中にはぎゃーぎゃー騒ぐんだが、エプロンを外す頃にはもうニコニコしている
んだな。
 あと、ジョージみたいなのは痛くないって言うからどんどん削ると、いきなり口
から泡を吹いて痙攣するって感じ。
 ジョンよ、君みたいなのはびびりだね。
 まあこれは経験的に、こういう顎関節をしている奴はこうだって思うんだけれど
も、やっぱり頭の形である程度類型化できると思うんだよ」そして彼は足を組み替
えて身を乗り出すと声をひそめて言った。「実はこういう事を専門的に研究してい
る精神科医を知っているんだよ。もし君が、リンゴやポールやジョージについて、
そして自分自身について知りたいんだったら、紹介するから会ってくればいいよ。
マハリシなんかに会うより百倍も意味があると思うぜ。なーに、LSDなんて使っ
たりしないから安心しろよ」










#1069/1112 ●連載    *** コメント #1068 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:09  (456)
斑尾マンション殺人事件 2
★内容
●5
 今日は6月27日だから、「アワ・ワールド」で『All You Need Is Love』をや
った二日後だ。
 僕は歯医者に紹介された精神分析医のオフィスに行った。
 ロンドンのクラブだのディスコだのがあるエリアから数ブロック離れた、古いビ
ルの三階に、それはあった。
 部屋に入ると窓が開いていて、車のエンジンやらクラクションの音が入ってきた。
 こんな騒がしい所で僕の心の扉を開けるんだろうか、と思ったが、医者が入って
くると、僕を長椅子に寝かせてから、遮光のカーテンを下ろしたので、静かになっ
た。
 部屋の中が暗くなると壁のランプが際立ってくる。その明りで肖像画が浮き上が
ってきた。ベートーベンとか、クラシックの作曲家だ。
 僕から見て左右と後ろの壁に肖像画があった。
 正面にはでっかい机があって、その向こうに医者が座っている。ダーウィンかダ
ビンチみたいな顔をした爺さんだ。
 やがて医者が喋り出した。思った通りしわがれた声で。
「レノン=マッカートニーというから、君が詩を書いてポールが作曲しているのか
と思ったら、そういう訳じゃないんだね。
 一昨日の番組でやっていた『All You Need Is Love』も、君が作曲したんだろう。
♪all you need is love…all you need is love…って繰り返すやつ。
 他の曲も聴いてみたんだが。『ノルウェイの森』とか、『Lucy In The Sky With
 Diamonds』とか。
♪lucy in the sky with diamonds…っていうリフレインを聴いていると、なにか、
こう、ラジオのイアフォンから漏れてくる様な高音で何かをなぞっている様な感じ
がするね。尖った針で型抜きでもしているみたいに。
 それから最近君が出版した「ア・スパニヤード・イン・ザ・ワークス」も見たけ
れども、あの漫画も尖った鉛筆で何かをなぞっている感じがしたね。
 何をなぞっているんだろう…、そう思いながらビートルズについて調べてみると、
元の名前は、quarry menっていうんだって? それって、「採石人」っていう意味
だろう。石とrockをかけているのか。だけどquarryっていったら、原石みたいな感
じだね。ふと連想したのは、フリーメーソンの祭壇なんだが、あれは左側に原石、
右側に完成した彫刻が置いてあるけれども、あれは何か具体的なエピソードを彫刻
したものではなくて、人間はこうであるべき、っていう概念を彫刻したものだろう。
真とか善とか美とか。
 君が甲高い鼻声で、♪all you need is love love love…と歌う時のloveも概念
みたいな感じがするね」と医者はここまで言うと、椅子から立ち上がって、ぐるり
と机を回って来た。僕が寝ている長椅子の前のスツールに腰掛けて、じーっと人の
額を見ていたね。
 それから「ちょっと失礼」と言うと、僕の額の眉毛の上あたりを指の腹で触れて
から、「ああ、やっぱりだ。おでこのここん所を前頭骨というのだが、触ってみる
と、かすかにへこんでいるのが分かる」と言った。そして机の向こうに戻って行っ
て椅子に腰掛けた。
「さーてと。私は趣味で、大まかにだが、音楽家を3つのタイプに分類しているん
だよ」。言うと彼から見て右側の壁を指差した。「まず第1のタイプがあれだ。あ
そこに掛けてある絵の一番上のがリスト、その下がベートーベン」。
 それから今度は部屋の突き当たりの壁を指差す。「第2のタイプはあれだ。バッ
ハにモーツアルト。シューベルトにメンデルスゾーンだ」
 それから部屋の左側を指差して、「第3のタイプがあれっ。上からシベリウス、
ワーグナー、ホルスト」
 それから僕を見据えて言った。「…どう見えるかね」
 僕は長椅子から上体を起こすと身をくねらせて左右、背後の肖像画を見た。僕の
額をチェックしたのだから、多分頭の形で分類しているのだろう、と思いながら。
 そう思って見ると、なんとなくリストだのベートーベンだのはずる賢い感じがす
るなぁ。バッハだのモーツアルトは福々しい感じがするし、シベリウスとかワーグ
ナーってフランケンシュタインみたいな感じだよなぁ。
「それじゃあ、それぞれのタイプについて、解説するよ」と医者が言った。
「まず第1のタイプ。これはリストやらベートーベンだ。私はこれらを『イタチ
型』と言っている。前頭葉がイタチみたいにぺったんこだろう。
 こういう型のアーティストが作る曲は、リストの『ラ・カンパネラ』が典型的だ
が高音での繰り返しで何かを描きだそうと…」
「ん?」。僕はかま首をもたげた。「ちょっと待った。それって僕の『Lucy In Th
e Sky…』のリフレインの事を言っているの?」僕はリストの肖像画を指差した。
「確かにあいつと僕の額のあたりの雰囲気は似ていると思うけれども、どうしてそ
れが音楽性と関係あるんだよ。それってナチスの骨相学みたいなものなんじゃない
のかい? 何か科学的な根拠でもあって言っているの?」
「科学的根拠ねえ」と言うと医者は椅子にふんぞり返った。
 ペンの様なものをへし折る様に持っていたが、机のランプが逆光になっていて、
よく見えなかった。
「私は臨床家だから、何百もの面接から得た経験から言うのだが、こういう前頭葉
がぺちゃんこで側頭葉が大きい人は、…勿論、そこには記憶野があるからなんて事
は言わないよ、ただそういう頭の形をしている人は因数分解をしながら経験を積ん
でいる感じがするねぇ。因数分解しながら学習をするのは普通の事なんだが、共通
因数に妙な意味をくっつけちゃうのだよ。
 例えば或る患者は、子供の頃にテレビか何かで電気椅子を見たんだが、それ以来、
床屋にも歯医者にも行けなくなった。恐らく『椅子』という共通因数を括り出して、
それに不安を結び付けているのだろう。
 又別の患者は、レモンをたらした牡蠣を食べて食中毒を起こして以来、オレンジ、
葡萄、チーズケーキを食べられなくなった。これもやはり、『酸味』という共通因
数を括り出して、それに吐き気を結び付けているのだろう。
 彼らが注目しているのは、『椅子』とか『酸味』といった概念と、それに結びつ
いた、不安や吐き気という症状だけであって、例えば『床屋の椅子』とか『チーズ
ケーキ』といった具体的なものは失われてしまっている。
 さて、日常生活においても、具体的な物質でありながら、ほとんど概念の様なも
のもあるだろう。例えばガス栓とか電気のスイッチなどだが。そして神経症患者と
いうのはガス栓を相手に『閉まっている、閉まっている、閉まっている』と甲高い
声でヒステリーを起こすんだよ。それは丸で『ラ・カンパネラ』のリフレインの様
なんだがね。
 この説明は不愉快かな?」
「自分こそリストとかジョン・レノンとかいう具体的な人間をすっ飛ばして、イタ
チという概念で括っているじゃないか。もしあんたの言っている事が正しいならば、
あんたの額こそイタチの筈だ」そう思って目をこらしたのだが、机の上のランプが
逆光になっていてよく見えなかった。それに僕としては、この話の続きも聞きたっ
たので、「ああ、いいよ」と鼻っ先のハエでも追い払うように手を振ったね。
「じゃあ先を続けるよ」と医者が言った。「続いて第2のタイプ。これはバッハと
かシューベルトだ。
 バッハを見てごらん。でこっぱちだろう。私はこれを『イルカ型』と称している
のだがね。イルカみたいに泳ぎながら音波を出して何かを見付けている感じ。何を
見付けているのかというと 森の中に心霊写真を見付けている様な感じだ。あそこ
にもあった、あそこにもあったと。ところが森自体も自分で作っているんだね。
コードでね。自分で作った森の上にアリアという心霊写真を見付ける。コードを変
えて又アリアを見付ける。コードを変えて又…。これがポールの『Penny Lane』だ
ろう。オーディエンスは、ベースで森を見せられながら、ポールの声で心霊写真を
発見させられている感じかな。
 じゃあ、これに科学的根拠があるのかと言われると、あんまり自信はないが、昔、
サーカスの綱渡りでロープから落下して前頭葉を損傷した患者がいたが、それ以後
その人はアリアを聴けなくなった。しかし『ラ・カンパネラ』は楽しめるんだよ。
 さあ。そして第3のタイプ。これはラクダだ。
 シベリウス、ワーグナー、ホルストなどがそうなのだが、こういう作曲家のは、
なんというか、脈絡がないんだよ。
 例えば有名な『フィンランディア』なんかそうだけれども。出だしは、嵐でも迫
ってくるような荒々しい感じ。かと思うと、鳥のさえずりでも聞こえてくるような
静かな感じ。かと思うと、突撃ラッパの様な雄雄しい感じ。一体どういう脳の構造
をしているんだ、と思わざるを得ない。丸で脳味噌を自然界に晒しているかの様じ
ゃないか。普通の人間の脳は大脳に囲まれているから、何かショックを受けると、
泣くとか笑うとか感情に変換して吸収するだろう。しかしこのタイプの人間は、丸
で脳幹むき出しでいきなりてんかん発作を起こすようではないか。と言っても丸で
科学者の言うことではないのだが。しかしクレッチマー博士の言っている通り、闘
士型の体格とてんかん発作の関係は否定出来ない。そして経験則からしてそういう
人間はラクダの様な頭をしている。
 更に第4のタイプとして、私が石臼型と呼んでいるものがある。
 これは文字通り石臼みたいな格好をしていて中身が空っぽの頭なんだね。オラン
ダの風車の中で、どんどんどんどん木槌に叩かれているあれだね。音楽で言うなら、
オーケストラの後ろの方でティンパニーを叩いている演奏者だな。ビートルズで言
えばリンゴってところだろうか。音楽の芸人ではあっても芸術家ではないから、肖
像画は無しだ。
 以上が私の音楽家の分類なんだが。どうかね」医者は回転椅子を動かしてこっち
を向いた。
「どうかねって言われても。リンゴが石臼だっていうのは分かる気がするけれど
も」
「そうかね。なんかあんまりピーンと来ていないみたいだね。この分類は、音楽家
に限らず、色々なシーンで有効だと思うんだがね。歴史上の大事件にさえ有効なん
だがね。ソクラテスの裁判とか。必ずこの4つのタイプが相互作用しているんだけ
れどもね」ちょっとムキになって医者が言った。
「そう言えば、『Paperback Writer』のPVを撮影した時に、植物園にそいつの像
が置いてあったよ。
 ミロのビーナスとか置いてあるのに、なんでこんな鼻の欠けたおっさんの像があ
るんだ? って聞いたら、それがソクラテスだって。そのソクラテスってが何をし
たって?」
「ソクラテスっていうのは、今のアテネ、アテナイという都市国家の人なんだけれ
どもね」医者は椅子を揺らしながらどうでもいい感じで喋っていた。「その人が生
きた時代は戦乱の世だったんだよ。スパルタ教育のスパルタと結託した連中に支配
されていてね。しかしアテナイ人がそいつらを追い出して民主的な国家を作ったん
だよ。その勢力の中にアニュトスという市民がいた。彼が後にソクラテス事件の首
謀者になるんだが」と言うと、医者は咳払いをして痰を切った。肘掛けに力を入れ
て座り直す。「話していて気付いたんだが、ソクラテス事件の4人というのはビー
トルズの4人と似ているなあ。似ているぞ。君、これは、ちょっと、ごちゃごちゃ
した話だが、聞く価値があるぞ」と言った。
「じゃあ、続けてみな」
「ああ、続けるとも。そのアニュトスはこう言ったんだよ。戦争時代の禍根を問う
まい、又戦争になるから、と。これをアムネスティーと言うんだがね。
 ところがソクラテスというのは、粘着な人で、自分が兵士ならばよく戦い、自分
が軍事裁判の係になれば兵士をかばう。
 まぁそれはいいのだが、粘着だから、ナメクジの様に過去を引きずっていてねぇ、
一応平和な世になったのに、昔の話を蒸し返すのだよ。
 アニュトス(首謀者)にしてみれば、何を晒してんだ、今更、折角平和になった
のに、という所だろう。かといって暗殺してしまっては自分が社会の秩序を乱す事
になる。
 そこでアホな詩人メレトス(詩人)に告発させた訳だ。
 そしてソクラテスは裁判に負けて毒杯を煽った訳だ」
 医者がここまで喋ったところで、ドアがノックされた。
 医者が許可を出すとメイドが入って来る。
 ティーポットやらカップの乗ったお盆をサイドテーブルに置くと、医者の耳元で
何やらささやく。医者は何やら指図している様だ。メイドがカーテンを開けた。し
かし窓までは開けなかったので地上の喧騒は聞こえて来なかった。
 それからサイドテーブルの上に置いた紅茶セットでミルクティーを入れてくれた。
飲み干すとお茶っ葉が底に残るやつを。
 医者は紅茶を銀のスプーンでかきまぜて一口すすると、机の上において言った。
「話の腰を折られたな。何の話をしていたっけ?」
「ソクラテスがどうのこうの」
「ああ、ソクラテスか」
「それが僕らにどういう関係あるの?」
「だから、ソクラテス事件の役どころはそのままビートルズにも当てはまるんだよ。
聞きたい?」
 そう言われれば、聞きたいと言うしかない。「聞きたいね」と僕は言った。
「まぁ、今ふと思い付いた事だから、お茶でも飲みながら聞き流してもらえばいい
んだが」と前置きしてから医者は喋った。
「ソクラテス事件のソクラテスは、ビートルズでいえばジョージだな。
 ジョージの特徴は、一言で言えばエピソードへの執着じゃないかね。言う事がモ
ロだろう。LSDをやって日光浴をするとベーコンが焼ける様だ、とか。そういう
生々しいエピソードを引きずってナメクジの様に進んで行くと、又新しいエピソー
ドにぶつかる。サンフランシスコでニキビだらけのLSDジャンキーに取り囲まれ
た、とかね。そうすると、エピソードとエピソードがガムテープみたいにびったり
へばりつくんだよ。それを、ばりばりばりーっと引っ剥がした瞬間にてんかん発作
の様になる。そして神のお告げだ、マハリシに会わないと、とか。
 何故そんな事になるのか。あの歯医者じゃないが、脳が薄いからエピソードをエ
ピソードのままで覚えているのかなぁ。というか、体で覚えている感じでもあるな。
 そういう人だから、意味の世界は全く理解出来ないだろう。『Taxman』で、税金
を払う意味が分からないと歌っているが。
 さて、ソクラテスもそういう人なんだよ。過去の生々しい記憶、ペロポンネソス
戦争の戦争体験とか、恐怖政治には命を掛けて協力しなかったとか、そういうのを
引きずって生きてきて、そして平和な世になったアテナイの愚民を目の当たりにし
て、ここで発作だ。神のお告げだ。自分が一番賢いと神が言っていると。
 そういうエピソードの世界に生きる人だから、ソクラテスも法律などは理解しな
い。
 いや、法律を守ったじゃないか、たとえ悪法でも法は法と毒杯を煽ったじゃない
か、と言われそうだが、そうじゃない。たとえ死ぬとしても、今起こっているエピ
ソードに執着する訳だ。
 それから、次は、ソクラテス事件の告発者、メレトス(詩人)だが、これはビー
トルズでいえばポールだな。ポールって刹那的な快楽主義者だろう。イルカってそ
ういう生き物だよ。イルカショーで輪っかを投げられれば突っ込んで行くだろう。
輪っかが無ければ漂っている。って事は自ら企ててやっている訳じゃないんだよ。
誰かにやらされているだけで。
 それは誰か。
 ジョンよ、君じゃないのかね。ビートルズのアニュトス(首謀者)は君、という
訳だ。
 君とはどういう人間なんだろう。
 君は、ポールは何時でもshe loves you、誰々がこう言っていたぞー、皆が噂し
ているぞー、みたいに、風説の流布をする策士、みたいに言っているけど、実は君
がそそのかしているんじゃないのかね。アニュトス(首謀者)がメレトス(詩人)
をそそのかした様に。
 君はそうやってメガネを掛けてじーっと見ているが、見ながら感じている訳じゃ
ないだろう。後で思い出すだけだ。だけれども、その時には、もう、生々しいエピ
ソードではなくなっていて、無味乾燥な概念だ。
 そういう君みしてみれば、ジョージの語るLSD体験は妙にリアリティーがある
と感じるだろう。ジョージの奥さんにも、リアリティーを感じているんじゃないの
かね。何しろ自分の女房はブリジッド・バルドーのそっくりさんだから。
 ジョンよ。君の愛は結局Love & Peaceのloveだ。具体的な対象を持たない。♪al
l you need is loveと歌いつつ楽屋を訪ねてくる身障者は嫌いなんだろう。目の前
の身障者無視。そして世界平和を求める。アニュトス(首謀者)だって秩序が欲し
かったのだよ。
 さて、これで、ジョージとソクラテス、ポールとメレトス(詩人)、ジョンとア
ニュトス(首謀者)の類似性は説明したな。
 後はリンゴか。
 これは、カリクレスというアテナイに住んでいた欲張り野郎だ。ソクラテス事件
には直接関わらないんだけれどもね。ソクラテスはカリクレスにこう言った。お前
の欲望はお前の愛人の欲望だ、とね。
 リンゴって、光物がすきだろう。指輪をいっぱいはめていない? あれってリン
ゴの欲望なのかな?
 ああいう石臼は、最初に見たものに価値あり、と思うのだよ。水鳥が最初に見た
ものを親と思う様に。だから、保守的といえば保守的なんだが、自分が最初に見た
ものの保守という訳だ」
 医者は机から受け皿ごとカップを取って、椅子にふんぞり返るとスプーンでくる
くるまわした。
「整理するとこうだ。
 社会をデザインしているのが、アニュトス(首謀者)。
 その社会の一部を見せられて、光っているからと飛びつくのが、カリクレス(欲
張り)。
 そんなのはおかしいと昔の話を晒すのがソクラテス。
 そしてそのソクラテスを黙らせようと、アニュトス(首謀者)がメレトス(詩
人)を使って罪に陥れた、という訳だ。
 つまりプロデュースしているのはアニュトスなんだよ。
 ビートルズをプロデュースしているのは、ジョン、君なんじゃない?
 君がポールやジョージを面白いと思って、それでオーディエンスに見せているん
じゃない?」
 医者はカップを机に置くと、肘掛に手を乗せて、しばらくじーっとこっちを見て
いた。そして「今日はこんなところにしようか」と言った。


●6
 帰りの車の中でも、「ビートルズをプロデュースしたのは君だ」という台詞が頭
の中でぐるんぐるんしていた。
 確かにそれは僕だった。
 リバプールに居た十代の頃、ポールとかジョージになんて、誰も見向きはしなか
った。あんなのは、リンゴ農園の息子と炭鉱夫の息子みたいなものだった。それを
僕が目を付けて、靴墨で染めたジャケットを着せて、右手にポール、左手にジョー
ジを立たせて、そうすると、ポールはぎっちょなので、蝶が羽を広げたような格好
になるのだが、そして僕が彼らの両肩に手を乗せて適当に歌った。そうしたらラジ
オののど自慢でラストまで行った。
 あれは僕がプロデュースしたのだ。
 もっと明確に企てたことがあった。
 二十歳ぐらいの頃、ハンブルグのクラブやストリップ劇場でやっていた頃の事だ。
 スッチーというメンバーがいた。
 僕もスッチーも元は画学生だから楽器なんてそもそも弾けなかった。それでも当
時やっていたリズム&ブルースなんて、ちょっと練習すれば弾ける様になったのだ
が。でも、やった事のないスタンダード・ナンバーをリクエストされたり、通りを
歩いている客を招き入れる為に、突然ノリのいい曲に変えたりする時には、手こず
った。ポールやジョージは下手ながらも歌う様に演奏できたのだが、僕やスッチー
が外す。そのうち客が、「あのバンドは合ってないなぁ」という視線を向けてくる。
でも、誰が外しているのかは分らない。そんなときに僕は「スッチーが又外してい
る」と繰り返しポールに言った。ポールはアホだからそう思う。当面そうやって自
分を守った。
 でもこれ以上外し続けたらビートルズが店を首になる、って時が来て、その頃に
は、自分は上達して即興で演奏出来る様になっていたから、ポールに「これ以上ス
ッチーが外したら命取りになるぞ。それにあいつはお前に借りた50セントも返さ
ないだろう。
 なんでそんなはした金を返さないんだよ。返さなくていいと思ってんだよ。
 お前の事をなめてんだよ。トイレから出てきてタオルが無いからお前のシャツで
拭いても構わないって思ってんだよ」と言ってやると、みるみるポールのリンゴほ
っぺが真っ赤に染まった。
「徹底的に突っ込めよ」と僕は言った。
 そしてポールは、便所でもシャワーでも演奏中でもツッコミまくり、とうとう殴
り合いになって、体はポールの方が全然でかかったから、結局追い出してしまった
なぁ。
 その時僕は思った。このイルカは使える、ってね。

●7

 8月24日、ヒルトン・ホテルで、インドの瞑想の指導者マハリシのレクチャー
を受けた。
 それが終わると早々にロビーに出て来て、僕は一服しながらポールに言った。
「今のはインチキ臭かったな。衣が白すぎるよ。ガンジス川で洗濯したらもっと茶
色くなるだろう。そう思わない?」
 しかしポールはソファの肘掛で頬杖を突いて、ぼーっと宙を見ていた。
「なあ、ポール。ポール」と呼んでも反応が無い。
 こいつはイルカの輪っか、というか、ヘフナーのベースを取り上げられると、
ぼーっとしちゃうんだな。
 そう思って、僕はそれ以上話すのは止めた。
 そしてふと思った。マハリシの格好をしてヨーコとベッドインでもすれば、受け
るんじゃなかろうか。
 ところがそう思った途端、『ブッチャー・カバー』のキューピーちゃんに巻き付
いていた肉の赤味が目に浮かんでくる。
 全くエプスタインのお陰で、とんでもない強迫神経症になってしまった。
 ところがそのキューピーちゃんの顔をよく見るとエプスタインの顔をしている。
隣に転がっているのはリンゴじゃないか。胃腸の病気で入院していた頃の小さいリ
ンゴだ。退院直前にベッドから落っこちて、手術の縫い目が裂けたと言っていた。
そこにはドレーンチューブが挿してあって、血だの体液だのがぽたぽたと流れ出て
来ていた。そうしないと腹の中で固まってしまうから。
「そっかー」僕はため息をつくと、ぼけーっとしているポールに言った。「明日っ
から、皆でバンゴアに行くだろう。エプスタインは行かないから一人で寂しいんじ
ゃない? それでゲイの仲間を集めてドラッグでもやったりするんじゃない? も
しかしたらドラッグのやりすぎで風呂で溺れるかも知れないな。或いは、誰か力の
ある奴に頭を押さえ付けられて、溺れさせられちゃうかも。その後で、ドレーンチ
ューブを喉の奥に差し込んで、ツナでも流し込めば、多分ドラッグでゲロ吐いて窒
息したと思われるんじゃない? そうした方が皆の為だと思わない? ぶっちゃけ、
彼とはシオドキって感じがしているんだよなぁ。聞いている?」
 ポールな頬杖をついたまま小指を噛んで宙を見ていた。モンティー・パイソンの
ボケ役みたいな顔をして。
 聞こえているのかなぁ、と僕は思う。


●8

 それから僕らはバンゴアへ行って、実際にマハリシから瞑想を教わった。
 瞑想から覚めて、絨毯の上で足を崩して、足首などをぐりぐり回している時だっ
た。
 隣に座っていたジョージが呟くように歌っていた。「♪i me mine  i me mine
  i me mine…
  LSDをやっている時には、ナイト・クラブの光だとか、テーブルの蝋燭だと
か、その光に浮かぶ女の顔だとか、色んなものが滲み出してきていて、あれで世界
と繋がれるって感じたけれども、あれはエゴだったんだなぁ。エゴに関係のあるも
のだけが肥大して見えていたんだ。でも瞑想をすれば本当のものが見える。宇宙の
オウムと自分が一体化するから、エゴとは関係ない本当のものが見えるんだよ」
 こりゃあ驚いた。ソクラテスが、宇宙のコスモスと人間の魂は自転車のチェーン
みたいに結ばれている、って言ったのと似ているじゃないか。
 突然僕は電話口に呼ばれた。
 電話の向こうでエプスタインが死んだと言っていた。
 ドラッグをやっていて食べ物を喉に詰まらせたと言う。
 僕は、瞑想していた部屋に戻ると、エプスタインが死んだと皆に伝えた。
 そして皆の様子を見た。
 ジョージは、まだ彼岸に行ったっきり。
 リンゴは最初から此岸にしがみついている。
 ポールは、足首をマッサージしながら庭の方を見ていた。こいつはナチュラルな
感じだ。宇宙とエゴの真ん中のネイチャーに住んでいるって感じだ。こいつは、農
場でアコースティックギターでも弾きながらマリファナを吸っているのが似合うよ。
 こんな奴がエプスタインをやったんだろうか、と僕は思った。或いは催眠術にか
かったみたいに時間が来れば自動的に動き出すのか。そうかもなぁ。スッチーの時
だって動き出したんだから。今はイルカの輪っかが無いから漂っているだけだ。輪
っかさえ投げてやれば動きだすんだ。
 多分世界中には、こういうイルカがいっぱい居るんじゃなかろうか、と僕はイ
マージンした。そいつらに輪っかを投げてやれば、皆が動き出すんじゃなかろうか。
そうだ、そうに違いない。
「なぁ、みんな。僕はヨーコとマハリシの格好をして世界平和を訴えようと思うん
だが」と僕は言った。
「いやぁー、止めた方がいいよ。その内、いかれたファンに射殺されるぞ」とポー
ルが言った。
「なんだよ、お前。僕の死を予言するのかよ。だったらこっちも予言してやる」
 そして僕は一人ずつに言ってやった。
「ジョージ。君はマリファナの吸いすぎで肺がんになる。
 次にリンゴ。君は、子供の頃ベッドから落ちて腹が裂けた様にもう一回腹が裂け
る。
 そしてポール、君はコイル工場の中庭で草むしりをしていたから、ステージで感
電死するぞ」
 皆、ぐったりと疲れた様子だった。
 これは、僕が言った事に疲れたのではなくて、塀の外には、エプスタインについ
てのコメントを求める報道陣が集まっていたので、うんざりしたのだろう。
 でも僕は前向きだった。だってあのマスコミを使って世界のイルカ達にメッセー
ジを送れるのだから。
 僕はカメラの前でベッドインするのだから。
 僕は勃起していた。

              【おわり】


 ●9

 読み終わると明子は、両手を後ろに突っ張ると、ぐーっと胸を張った。
 どきんと不整脈を打った気がして、慌てて背中を丸める。
「長かったなー。それに最後の所がいい加減だった感じがする。でも、パートのマ
ンション管理員がこれだけ書けるっていうのは凄い。それだけ夜間は暇なんだろう。
 しかし長かった。私だったら画面一枚に収められる」
 そしてワードパットを開くと以下の図をタイプした。

        マルチタスク
          −
          −
い ポール=イルカ型−ジョン=イタチ型   い
短 メレトス(詩人)−アニュトス(首謀者) 長
が   ――――――――・――――――――     が
間 リンゴ=石臼型 −ジョージ=ラクダ型  間
時 カリクレス   −ソクラテス      時
          −
          −
        シングルタスク

「うーん、こんな感じかな。
 座標の右上から左下へのラインが、良く言えばナチュラル、悪く言えば動物って
感じ」
 画面右下を見ると、時刻は11:24だった。
 ヨーグルトを食べないと、と思って明子は炬燵から出た。
 あれを食べて寝ると、朝、胸焼けがするのだが、目の周りが潤うのだった。ただ
単にむくんでいるだけかも知れないのだが。
 冷蔵庫を見ると、今日が賞味期限の4個割りのヨーグルトが3つもあった。それ
を全部持って来ると、炬燵で慌てて食べる。時刻が12時を過ぎる前に食べてしま
わないと、と思って。しかし途中で、何でそんな事をするんだろう、と思う。お腹
の中に入ってしまえば賞味期限が過ぎても平気って事?
 ふと、鏡を出して自分の額を見てみる。オデコを電灯に向けて頭蓋骨の形状をチ
ェックしてみると、眉毛の上の方に薄っすらと凹みが確認出来た。これは前頭骨の
繋ぎ目が陥没している訳ではなく、全体的に頭の両脇が万力の様なものでぎゅーっ
と締め付けた様に窪んでいるのだ。だからどっちかというと側頭葉の質量は小さい
様にも感じるのだが、実は頭のサイドの後ろの方が、大げさに言うとトリケラトプ
スの様に広がっているのだった。髪の毛に隠れていて見えないのだが。
 自分はジョン型なんだ、と明子は思った。だからグロ耐性も無いし、ヨーグルト
の賞味期限も気になる。
 明子は、高校時代から今でも付き合っている友達の事を考えた。沢尻エリカ様み
たいな凸っぱちで、将来中年男性にひっかかるんじゃないかと危惧していたのだが、
彼女に「これ、腐ってない?」と渡すと、賞味期限を見るまでもなく、くんくんニ
オイをかいで「腐っていない」と言う。
 ああいうのは、ポール型で動物的な行動なんじゃなかろうか。そう言えば、どん
ぐりの芽が出てきたから春だ、とか、夜中に虫の声が聞こえるから秋だ、とか、丸
で縄文人の様な事を言う。一方自分は結構デジタル化していて、季節の変わ目も、
お彼岸だからなどと暦で納得するのだが。
 そう言えば彼女は妙にグロ耐性がある。飼い猫が死んだ時にも、泣きながらもダ
ンボール箱にぎゅうぎゅう押し込んで市役所の人に渡していた。
 セックスやら異性に対しても鈍感で、鼻ピアスを裏返して見せたりしても平気な
のだ。
 あの鈍感力が、男女の関係を長続きさせるに違いない。
 片や自分はグロ耐性ゼロで潔癖だ。
 もしかしたら私ってお一人様になる可能性があるんじゃなかろうか。
 でも男女のペアだって、どっちかが動物だったら上手く行くんじゃなかろうか。
 ジョンはポールを操ったったと書いてあるから、ああいう動物を見付けて飼育し
てやればいいのではないか。
 しかしあの友達の性格を考えると、ボケてはいるものの、ボケツッコミという感
じで結構鬱陶しい。
 という事は、イルカよりもラクダ、つまりジョージか。ああいうのを探せばいい
のかぁ…。
「うーむ」唸りながら明子は腕組みをして、右手で顎をつまんだ。
 画面の『ビートルズ殺人事件』の最後の行に『蛇足』というのがあった。
「4人の身体的特徴がよく分かる動画」とある。
 リンクをクリックするとyoutube動画の『Your Mother Should Know』が
再生された。
 4人が音楽にあわせて階段を下りてくる。
 ポールはおでこだけではなく体もむっちりしているのが、タキシードの上からで
も分かる。階段を下りてくる足取りも軽やかでバランスがいい。
 ジョンは干物って感じで、スーツが遊んじゃっている。歩き方もよろけながらコ
ケそうになる。らりっているだけかも知れないが。
 ジョージは、農夫の様な太い関節で、がにまたで降りてくる。
 リンゴは体が一体構造になっているからか、肩で風切る様に降りてくる。
 それを見ていて、「こりゃあ、斉木の分類は案外当たっているんじゃなかろう
か」と明子は考えた。
  斉木というのはパート管理員の名前である。










#1070/1112 ●連載
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:10  (425)
斑尾マンション殺人事件 3
★内容
● 10

 翌朝、明子はアパートから出てくると駐車場に向かった。
 フード付きコートを着て、肩からショルダーバックを下げて、手にはお湯の入っ
たペットボトルを持っていた。これは昨夜、時ならぬ雪が降ったから、フロントグ
ラスが凍結していると予想したのだ。朝早くから暖気運動していると、ご近所様に
迷惑が掛かるとも思った。
 しかし社用のジムニーの所に行くと凍結はしていなかった。
 足元にお湯をどぼどぼと捨てる。
 今度は、この水たまりが凍結して誰かが転倒するんじゃないか、と思えてきた。
 こういう余計な心配をするから目の下にクマが出来てしまうのだ。
 車に乗り込むとルームミラーでチェックしてみた。そんなでもなかった。
 夕べのヨーグルトが効いたのかも知れない。

 車を駐車場から出して、道路に出る。
 しばらく走るとすぐに飯山市内に入った。
 車は疎らだった。時々路線バスとすれ違うと、ごとごととタイヤの音が響いてき
たが、それ以外は自分の車のエンジン音しか聞こえてこない。
 交差点で停車していると、自分の車のウィンカーの音が妙に響いてきて、辺りの
静寂さが分かる。
 何で、こんな人っ子一人いない交差点で待っているんだろう、と明子は思った。
 そんな感じで、交差点だの踏み切りを幾つか越えると、県道97号へ出た。
 やがてそれは蛇行する山道になる。

 明子が勤務するのは、マンション管理だの清掃だのを請け負う地元の中小企業な
のだが、事務所は斑尾高原スキー場直結のリゾートマンションの中にある。
 そこまで、直線距離で8キロ、走行距離にすると12キロ位だろうか。
 幾つもの峠をくねくねと上っていく。

 道路脇には、1.5m程度の積雪が続いている。
 溶けたり凍ったりを繰り返しているので、製氷皿の氷みたいな感じだ。
 その向こうには雑木林があるのだが、焼け跡の家屋の柱の様に見える。
 明子はコーナー取りをしつつ、なんだか春の気配を感じないなと思った。
 普通だったら、リスが枝の上をちょろちょろしているとか、雪解け水が小川に流
れ込んでいるとか、そんな感じなのではなかろうか。それともここら辺は長野県で
も北の端にあるので、気候風土が満州とかシベリアの様なツンドラに属する為なの
だろうか。或いはやっぱりこの前の東北大震災と福島原発の事故のせいで、本当は
美しい景色まで殺伐としたものに見えてしまうのかも知れない。
 …てなこと、考えつつ走っていると、車は左右にペンションの立ち並ぶエリアに
入り、更にそれを通り過ぎると、正面にマンションが見えてきた。
 背後には斑尾高原スキー場のゲレンデが広がっている。


●11

 このマンションの概要は次の如くである。
 世帯数は200戸である。
 間取りはリゾートマンションの為1LKから2LDKと小さ目なのだが、共有施
設が充実していて、天然温泉の温浴施設があり、スタジオがあり、フィットネス
ルームがあり、地下にはスキーロッカーもある。これは、居住者が、ここでスキー
靴に履き替えて、歩いて行ける距離のゲレンデでひと滑りして、帰って来るとひと
っ風呂浴びる、という行動を想定したものである。
 今考えると贅沢だが、このマンションが設計されたのが2000年で、ミレニア
ムだの何だのと言って、街中が青色LEDでちかちかしていた頃なので、当時の雰
囲気を反映していると言える。
 竣工は、2009年10月で 竣工と同時に販売代理店もマンション4階に開設
された。
 翌2010年春のスキーシーズン終了までに約半数が売れた。
 その後夏場は全然売れなかったが、下期になってスキーシーズンが到来したら、
又売れ出した。
 そして、この調子だったら今シーズン終了までに完売するのではないか、と思っ
た矢先、東北大震災とそれに続く福島原発の爆発が起こったわけである。
 客足はばったりと途絶えた。それどころか、震災3日後には計画停電の発表があ
り、1週間後には、今シーズンのゲレンデの営業終了が発表された。
 リゾートに来ていた客の大部分は帰ってしまった。
 残っている十数世帯は、現住所が東北地方にある事から、帰るに帰れない人たち
なのではないかと想像された。
 以上の様な事情から、販売代理店も、これ以上案内所を開けていても経費が無駄
になるだけ、と言って出て行った。
 そして、その後にこの号室に入り込んできたのが、高橋明子の勤務先である鰍`
Mであった。この会社はマンションの清掃と管理を請け負っている地元業者である。
  但し、マンションとの請負契約は直接なされているものではなく、東京に本店
のある大通リビングが元請会社になっている。大通リビングは施主である大和通商
の子会社である。
 AMという会社がこのマンションへ入居を希望した理由は次の如くである。AM
の元々の事務所は、飯山市内にあって、経営者所有の木造アパートの2間をぶち抜
いたものだったのだが、今回の地震で全壊してしまった。AMはとりあえず、事務
所の大部分を社長の自宅応接間に移動したのだが、斑尾マンションの販売代理店が
空き家になったのを知って、格安で借り受け、金子という所長と高橋明子を移動さ
せてきたのであった。
 格安にしてもらった訳は、今回の震災で起こるかも知れない諸々の事態、例えば
計画停電などに只で対応するというものだった。
 勿論そういう事でパート労働者の仕事の密度が濃くなったとしても、時給は1円
たりとも上がりはしないのであるが。

 このマンションで働いているAMのパートは次の十名である。

 チーフ管理員  蛯原敏夫(♂62歳)
         勤務時間:9:00〜18:00(火曜休み)

 コンシェルジュ 榎本恵子(♀55歳)
         勤務時間:同上(日曜休み)
 
  24時間管理員 大沼義男(♂60歳)
         斉木浩(♂50歳)
         鮎川徹(♂49歳)
         勤務時間:9:00〜翌9:00
     (一名が24時間常駐勤務を3名が交代で行う)
 
   清掃員    山城清(♂63歳)
         大石悦子(♀60歳)
         額田勇(♂64歳)、
         横田久美子(♀28歳)
         沢井泉(♀23歳)
         勤務時間:8:00〜17:00
     (日曜休み。但し午前中、浴室清掃は行う)
 あと、AMの金子所長は52歳、高橋明子は26歳である。












 マンションの平面図は次の如くである。

           サブエントランス
             ・―・
             | |
・―――――――――――――――――・―・  ・―――――――――・
|              |  | スロ―プ  |
| ・――――――――――――――・ |  |  ―――   |
| |          | |  |       |
| |          | |  |       |
| |          | |・―・       |
| |          | ||レ|自走式駐車場 |
| |          | ||エ|(屋上を含めて|
| | 居住棟      | |・―・ 4階建て) |
| | (10階建て。  | |  |       |
| |  1フロア20戸)| |  |       |
| |          | |  |       |
| |          | |  |       |
| |        ・―・ |  ・―=====――・
| |        |レ| |    リモコン式シャッタ―
| |        |エ| |   
| |        ・―・ |  ←ゴミ集積場
| |          | |
| |          | |
| |          | ・――――・
| |          | |共用棟|
| |          | |   |
| ・――――――――――――――・ |   |
|              |   |
・――――――――――――――――――――・――――・

 ゲレンデ側(南)
共用棟詳細(1階)。


・〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――・――――――――――・
|          |   |        |
|  吹き抜け    |清掃員|共用部     |
|          |更衣室|トイレ     |
|          |   |        |
・――・        ・――/―・ ・―――――――・
|エレ|              /    /
|  |       ・―――――――・――――/――・
・――・        |           |
|階段|   ラウンジ|           |
|  |       |    ボイラ―室  |
・――・    ・―・―・           |
|      |ト| |           |
|      |ン| |           |
|      |ロ| |           |
|      |フ| |           |
住居棟入口  ・―・   |           /
           |           |
|      ・―\―・            |
|エントランス|   |           |
|      |   |           |
|      |管理室|            |
|      |   |           |
|      |   |           |
・―正面玄関―・/――――・―――――――――――――――・


 ゲレンデ側(南側)

共用棟詳細(2階)。

・〜〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――――・――――――――・
|           |    |      |
|  吹き抜け     |スタジオ|フィットネス|
|           |    |ル―ム      |
|           |    |      |
・――・――――――――――――・――/――・――/――――・
|エレ|                    |
|   |        ・―――――――――――――――・
・――・         |           |
|階段|        | 浴場        |
|  |         |           |
・――・―――――・〜〜〜〜|           |
|        暖簾 |           |
|           |           |
|           ・―――――――――――――――・
| 休憩スペ―ス     |           |
|           | 浴場        |
|           |           |
|           |           |
|           |           |
|           ・―――――――――――――――・
|           |           |
|           | 露天風呂      |
|           |           |
・―――――――――――――――・――――――――――――――――・

 尚、地階にはスキ―ロッカ―がある。




●12


 さて、明子は、自走式駐車場に入ると一階一番手前に駐車した。
 車から降りると、マンション西側のゴミ集積場の前を通り、共用部脇のドアから
入館した。
 ボイラー室やらのある廊下を通って、更にもう一枚ドアを解錠してマンション内
部に入る。
 共用部トイレやら清掃員更衣室の脇を通り抜けてラウンジに出る。
 正面玄関からは日の光が入って来るが、節電の為消灯しているので全体に薄暗い。
 フロントは無人だった。本当は『ビートルズ殺人事件』を書いた管理員が居なけ
ればならないのだが、どうせ誰も通らないので、管理室内に引っ込んでいるのだろ
う。
 でも、そこからモニタで見ているかも、と思ってちらっと天井の監視カメラを見
た。
 居住棟に入ってエレベーターに乗ると、4階で降りる。
 マンションの構造は、真ん中に吹き抜けがあって、回りに通路があって、ずらー
っとドアが並んでいるという、アルカトラズ刑務所の様な感じであった。
 天井がガラスになっているので、昼間は明るい。夜間になると映画館の通路並み
に暗くなる。
 明子が廊下を歩くと、足音が響いた。居住者の大部分が居ないのでそう感じるの
だろう。一人になれば心臓の音さえ聞こえてくるのと同じだろう。
 エレベーターを降りて3件目に事務所はあった。
 その前に行くと、そこだけ人の気配がした。換気扇は回っているし、玄関の横の
窓から明かりが漏れてきている。
 ああ、居るんだな、と思って明子はドアノブを引っぱった。

●	13


・―窓――――――――――――・
|          |
|          |
|          |
|  和室      |
|          |
|          |
|          |
|          |
・――・      ・――・
|          |
|          |
|          |
|  リビング    |
|          |
|          |
|          |
|          |
・――・       ・―・
|風呂|   キッチン|
|  |       |
・―/・         |
|          |
・―/・       |
|WC|      ・―・
・――・      下駄箱|
|PS|       |
・―――――玄関――――――・

 玄関でスリッパに履き替えて、パタパタいわせながらリビングに入る。
 まずタイムカードに打刻する。ジーと音がする。
「おはようございます」
「おはよー」ノートPCから顔を上げないまま金子所長が言った。
 原発事故以来、毎日、Ustreamを見っ放しである。
 所長の机の前には応接セットがあり、部屋の隅にはFAXの複合機がある。
 部屋のあちこちにダンボールがうずたかく積まれている。これらは飯山の倒壊現
場から持ってきた物だ。その内24時間管理員にでも整理させる積もりなのか、所
長はそれらを放置していた。余震が来てもこの部屋はあんまり揺れなかったので、
崩れ落ちる心配も無かった。
 その様な足の踏み場もないリビングをすり抜けると、明子は奥の和室へ入った。
 部屋の真ん中にPCラックが設置してあり、足元には給料明細の封筒が入ってい
る紙袋が置いてあった。
  それを見て、ああ、そっか、と明子は思った。
 それらの給料明細は本来25日必着のものなのだが、今回は本社アパートの倒壊
やら引越しやらで遅れに遅れてしまっていた。
  金子所長は、天災だからしょうがない、と言ってくれていたのだが、気にし屋
の明子は気になってしょうがなかった。
 明子はクローゼットの所でコートのボタンを外しながら、何気に襖を3センチ程
開けて地上を見た。
 さっきは無人だったゴミ集積場で、清掃員がプラのゴミバケツを水洗いしている。
 冷たそうだ。
 あの人達はうるさくないのだが、パートの中には狂暴な人も居るのを思い出した。
 額に汗して最低時給で働いている人は本当に狂暴なのだ。そして給料明細が一日
でも遅れると自分にクレームを付けて来る。停電になると検針のおばさんに文句を
言う、みたいに。
 明子は、思い立った様に袋を掴むと所長の所へ行った。
「所長。これから郵便局に行ってきたいんですが」
「今、来たばっかりじゃない」PCの向こうからギョロった眼を向ける。「そんな
んじゃガソリン代がもったいないなぁ。今日の帰りにでも、持って帰ればいいんじ
ゃない?」
「そうしたら絶対に明日の朝には届かないし、そうすると私の所に文句が来るんで
すよ」
「じゃあ行ってもいいよ」あっさり言った。「その代わり、コーヒー入れてくんな
い? コーヒーでも飲めば気分が落ち着くからね。そんなに慌てていたら事故でも
起しかねないしね。それにコーヒーは血管を広げてくれるから体にもいいんだよ」
 そんな理不尽な。交換条件にコーヒー入れろだなんて、しかも、コーヒーを飲む
のはこっちの為になる、みたいな言い方をするし…そう思って所長を見ると、すご
い薬缶頭なのに気が付いた。50代だと思うのだが、コラーゲンが不足しているの
か、顔の皮が伸びきっていて、頭の形がよーく分かる。バーコードヘアから頭皮が
透けていて、整髪料でてかてかしている。エラが張っていて穀物食べてまーす、み
たいな。この人はリンゴ・スターだ。
 石臼型だ。
「なに見てんだよ」
「いや、入れます」
  言うと明子はそそくさとキッチンコーナーへ行った。
 電子魔法瓶を98度にして、天袋から真空パックに分包してあるドリップコー
ヒーを取り出して、カップにセットする。
 ちらっと所長の方を見た。
 あの野郎、女はコーヒーぐらい入れて当たり前と思っているんだな。奥さんにば
っちいパンツ洗わせているんだろう。
 コーヒーに湯を入れると、あたりに香りが広がった。
 それにしても凄い加齢臭だった。その上に床屋系整髪料を塗りたくられたんじゃ
あ、香りなんて分かる訳無い。
 リビングの応接セットにコーヒーを運ぶ。
 二人は向き合って腰を下ろした。
「一応香りがするじゃない」と言って所長がすすった。「ちょっと酸味が強いか
な」
 それはあなたの整髪料のニオイじゃない? と思いつつ明子もカップに鼻を近づ
けた。
「ん?」と小首をかしげてくんくん嗅いだ。「これって香料入ってません? これ
って100均のですよね。この前あそこで石鹸買ったらチープな匂いが漂ってくる
ので、匂いの元を辿って行ったら流しのヨーグルトのだったんですよ。コーヒーに
も香料入れるんだぁ」
 口を付けないままカップを置いた。ふと和室の障子が目に入る。
 みんな寒い思いして働いているんだろうなぁ。みんながここに来たら、自分達ば
っか暖かい部屋でコーヒーすすっている、と思われるんじゃないか。
 そう思った瞬間、キンコーンと玄関のアイホンがなった。
 ぎょっとして所長の顔を見る。
「誰だろう」と所長。
 明子は黙って立ち上がると、キッチンコーナーの壁に埋め込まれているアイホン
を覗いた。
 又しても石臼の様な頭が画面いっぱいに張り付いていた。
「清掃の山城さんですね」と言うとそのまま玄関に行った。
 U字ロックをしたままドアを開けて隙間から「なんでしょうか」と言う。
「開けてくれよ」山城は軍手をした指をU字ロックにひっかけてガタガタいわせた。
「あ、はい」と言ってドアを開ける。
 山城は 玄関で長靴を脱ぎ、持っていたモップを壁に立て掛けると、構わず上が
って来て、洗面所奥の風呂場のドアを開けた。
「こりゃあ汚れているな」と言うと液体が入った桶と大きなスポンジを浴室の床に
置く。
 それからリビングにどんどん入って行き「風呂の掃除はどうする? 今やってし
まおうか」と言った。
「いや、後で私がやるからいいよ」と所長。
 山城はテーブルの上のコーヒーカップを見付ける。「こりゃあ、おくつろぎの所
を」
「くつろいでいた訳じゃないんです。これから郵便局に明細を持って行くところ
で」
「だったらその明細を俺にくんな」と言うと軍手を外して節くれだった手を広げた。
「でも何時も郵送しているんですけど」
「そんなの2度手間だろう。清掃の分は俺によこせよ」
「でもぉ」と所長に助けを求めるような視線を送る。
「渡してあげなさい」と所長。
 明子は紙袋からこのマンションの束を取り出すと、輪ゴムを外して山城に渡した。
「はい、額田さん、大石さん、横田さん、泉ちゃん、山城さん」
「なんだ、切手が貼ってあるのか。来月からはこんなの貼らないで直接俺にくん
な」と言うとぐるり一周部屋を見渡してから、「そんじゃあ邪魔したな」と所長に
言う。
 そして、肩で風を切る様に歩いて出て行った。
 体が一体構造だから、ああなるのだ。
「なんだか威張りっぽい人ですね」
「いいんだよ、ああやって威張らしておけば。自分もパートなのに仕切ってくれる
からな」
 玄関の方を見ると、汚いモップが一本立て掛けたままになっている。
 山城の忘れ物だろうか。あれはオスのマーキングか。
 所長の床屋系整髪料もオスのスプレーみたいなものなんじゃあ…と思って所長を
見ると上体を反らし気味にして左脇腹を擦っている。
「さーてと、俺は便所に行ってくるから、君、郵便局に行くんだったら行っていい
よ」と言って席を立った。
 今のコーヒーはコーヒーエノマか。
 便所に入る所長を見て、変な音が聞こえない内に出かけてしまおうと思い、和室
に走るとクローゼットからコートを出した。
 ついでに襖を開けてあけて地上の様子を見る。
 ゴミ集積場で清掃のメンバーが一列に並んで山城から給与明細を受け取っている。
 なるほど、あれじゃあ山城に使われているみたいだわ、とつい唇をゆがめた。
 ふと目を凝らすと清掃員の一人が双眼鏡でこっちを見ている。
 反射的に身を引いて襖を閉める。
 同時に携帯が鳴った。
 びくっとして番号を見る。080から始まる知らない番号。auだろうか。
「もしもし」とよそ行きの声で言った。
「大沼やけど」今朝から24時間管理員の勤務に付く大沼だった。
「何でこの番号知っているんですか?」
「斉木君に聞いたんよ」
 管理室に電話すれば、壁に張ってある連絡先一覧から自分の携帯番号も分かるの
かも知れない。
「バスがこんのよ。自分、ここに来るって言うとったやろう」
「そんな事言いましたっけ」
「言うとったよ。木曜の朝一で郵便ポストに行くって」
「はぁ」
「来るんか?」
「行きますけど」
「そしたら乗っけてってくれんか」
「いいですけど、20分ぐらいかかりますよ」
「かまへんよ。斉木君にそう言っといて」
「はぁ」
「そんな、宜しくたのんます」
 携帯を折りたたみながら玄関に向かう。
 途中、便所の前で、「郵便局行ってきまーす」と言った。
 同時に、じゃー、と水洗の音。
 大急ぎでブーツを履くと玄関を出た。
 ドアには施錠しないまま、通路を小走りに走って行った。

 出勤してきたのと逆の順序で、明子はエントランスに戻った。
 まだ薄暗く、フロントは空のままだった。










#1071/1112 ●連載    *** コメント #1070 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:11  (433)
斑尾マンション殺人事件 4
★内容
●14  

 明子はカウンターに入ると管理室のドアをノックしてノブを引いた。
「お邪魔しまーす」
 中に入ると、家電量販店並の明るさ。
 真ん中にスチールデスクがあって、24時間管理員の斉木がPCにかじりついて
いた。
「今、日報と一緒にチクリメールを送っていたんだよ」斉木が言った。
 24時間管理員は、日々の日報を管理会社と同時に所長の所にも送ってくるのだ
が、斉木の場合、チクリメールも添付してくる。それは全て、蛯原に関する文句だ
った。
 蛯原は日中居る管理員で、主に居住者の相手をしていた。斉木らは24時間管理
員で、設備管理が主たる業務であった。
「又、何かあったんですか?」と明子が言った。
「全く蛯原って、嵐を呼ぶ男っていうか、あいつが騒ぎを起こすから仕事が増える
んだよね。
 夕べもそうだったんだけど、何が楽しくってああいう事をするんだか分らないよ。
 あれは『アビーロード』でポールが裸足になったのと同じかな。カメラマンの言
う通りにしていればいいのに」
「は?」
「いやいや。余計な事をするって事。夕べの出来事を聞かせてやろっか」言うと斉
木はPCのディスプレイに顔を近付けた。
「えーとね、昨日の夕方、マンションの裏に違法駐車があるというんで見に行った
んだよ。ワイパーにメモでも挟んでおこうと思って」と斉木は語り出した。
「そうしたら、帰りがけの蛯原がサブエントランスからしゃしゃり出てきやがって。
  ハシゴ車の駐車エリアだから、とか、消火栓の上に駐車しているから、とか言
って、早く警察に言ってどかしてもらえ、って言うんだよね。
 俺もそこで無視すればいいのに、つい電話しちゃったんだよなぁ。
 それで、110番通報したら、近所のお巡りが来たんだけれども、結局私有地だ
から駐車禁止にはならないし、呼んだ奴の免許証を見せろ、って俺の免許証をチェ
ックするし。ああやって、俺の個人情報が警察のデータベースに貯まるじゃないか、
お前のせいで、と蛯原に言ったら、
『警察を呼べなんて誰も言ってないよ。まして110番通報しろなんて誰も言って
いないよ。俺はただ所轄に連絡すればナンバーから所有者を割り出して連絡してく
れるんだから、そうすればいいのにって思っただけだよ。そんじゃあ俺は帰るよ。
おさきに』って、してやったりみたいな感じで帰りやがった。
 まあそれはいいんだけれどもね。
 夜中になってフロントでぼーっとしていたら、カサッ、カサッ、っとポストコー
ナーから音がしてくるんだよ。誰かが投函しいるんじゃないかって思って行ってみ
ると、無精ひげ生やした失業者みたいなのと、あと茶髪の元ヤンキーみたいな女が
せっせと投函しているんだよね。
 かーっとして。又俺のせいになるじゃないか。
『どこまで入れた』と俺は言った。
『え、いけないの?』
『入り口にポスティングお断りって書いてあんだろう。お前ら、どこのチラシ屋だ。
名前を教えろよ、上に報告するから』
 その時、俺はメモを持っていなかったんで、そいつらが投函したチラシを引っこ
抜こうとしたんだけど、他のチラシに引っかかって抜けな。思い切って引っ張った
ら破けたんだよね。
 そうしたら、元ヤンキーみたいのが、『人のおまんまのネタを破きやがって。こ
っちは一枚何銭でやってんだぞ』とか言ってきた。
『そんなの知るかよ。だいたい一回投函したらもうこっちの物だろう』
 そうしたら無精ひげの方が、床に落ちている民主党のビラを発見して、
『だったら民主党にもそう言えるのか』と言う。
『言えるに決まってんだろう』
『いやぁ、民主党には言えないでしょう』
『おめーよぉ、民主党はすごい、なんて思ってっから失業するんだぞ。いいから早
く帰れ。でないと警察呼ぶぞ』
『呼んでみろ。こっちはそれでおまんま食っているんだ』
『お前の境遇なんて、知らねーよ』
 とか言っている内に、何だか、こいつらが脱線したぷーたろーで、自分は制度内
にいるとでも思えてきて、そんなに聞き分けがないんじゃあ警察を呼ぶしかないな、
と又110番しちゃったんだよ。
 そうしたら、又夕方のお巡りが来て、又あんたか、ナルソックでも呼べばいいん
じゃないか、みたいに言うから、市民の生命財産を守るのはお前らの仕事だだろう、
と言ったら、それじゃあそうしてやるよ、って言って応援を呼んだんだよ。
 そうしたら、金網つきのランクルで機動隊みたいなのが4人も来た。
 やばいなーと思っていたんだけど、ヤンキーの女が機動隊に、『子供を保育園に
入れられないから夜中に働くしかない』とか『こんなリゾートマンションで贅沢し
ている奴らは死ねばいい』とか吠えてくれたんで助かったよ。
  決してむやみやたらに110番している訳じゃない、っていう雰囲気になった
んで」
  喋るだけ喋ると、斉木は背もたれに体重を預けて踏ん反り返った。
「その2番目の話は、蛯原さんと関係ないんじゃないんですか?」明子が言った。
「だって、そもそもポストコーナーの入り口に施錠しておこう、なんて言い出した
のは蛯原なんだから。ピンクチラシを入れられるから、って。そんなマンションっ
て普通あるのかねぇ。郵便配達が来る度にわざわざ管理員が解錠するマンションな
んて」言うと回転椅子を揺らした。「でも、このメール、やっぱ所長に見せなくて
いいよ。今喋ったら、そんなに大げさにしなくてもいいかなぁ、って思えてきたか
ら」
  そう言って斉木はにーっと笑った。そうすると、下顎に面の皮が引っぱられて、
頬骨の辺りが突出してくる。般若の面というか、星飛雄馬のスパイクの様な形状に
なるのだ。
 明子は、面白い顔しているなーと思って見ていたのだが、斉木のコメカミがツミ
レのように陥没しているのを発見した。「こいつはジョン=イタチ型だ」と思った。
しかし夕べ『ビートルズ殺人事件』を読んだ事は言わなかったが。
 明子はなんとなく辺りを見回した。
 正面に監視カメラや防災盤がある。そっち側からファンの音が響いて来ている。
 後ろにはNTTの盤が並んでいる。
 右手にはホワイトボードがあって1ケ月分のスケジュールが書かれている。
 左奥がキッチンになっていて、冷蔵庫だの電子レンジだのが置いてあるのだが、
パーテーションがあって見えない。
 斉木が立ち上がって、そっちに歩いて行った。
 明子も付いて行って何気に覗いてみる。
「こんな所にカビキラーがある」流しの横に置いてあるカビキラーを指して斉木が
言った。「誰がこんな所に置いたんだろう。夕べの6時からずーっと一人で居たの
に気付かなかったよ。こんなの食器にしゅーっと一吹きされたら胃洗浄だよ」
 斉木は冷蔵庫を開けてしゃがみ込むと、牛乳だの飲みかけのペットだのを出すと、
どぼどぼ流しに流した。
「えーッ。それって誰かが毒を入れたかも知れないから捨てちゃうんですか?」
「そういう訳じゃないけど。次に来るのは48時間後だしね。その間に停電がある
かも知れないから」
「でも今カビキラーがどうとか言っていたじゃないですか。職場の同僚が信用でき
ないっていうのは問題ですねぇ」
「じゃあ、これ飲む?」言うと斉木はコーラのアルミ缶を差し出した。「まだ開け
てないから。でも誰かが何かを注入したかも知れなよ。勇気があるなら飲んでみ
な」
 しかし受け取らないでいたら冷蔵庫に戻した。
 それから2人はスチールデスクの所に戻った。
「そうそう、明細渡しておきます」明子は袋から斉木分の明細を取り出した。「そ
れ、大変だったんですよ、12ケ月も遡って雇用保険、計算するの」
「おー、わりーわりー」斉木は受け取るなり破って中を確認した。
「斉木さん、辞めるんですか?」
「そうじゃないよ。停電だの色々あるから居住者の方から首にしてくるかも知れな
いから、念の為だよ」
「斉木さん、放射能が怖いから、沖縄の方に逃げるんじゃないかって、みんな言っ
てましたよ」
「どうせ逃げるんだったら、もっと遠くまで行くよ」
「ふーん」と言いつつホワイトボードの上の時計を見ると8時15分を回っていた。
「そう言えば、大沼さん、遅れるかも知れないから、そう言っておいてくれって言
ってましたよ。私がこれから迎えに行くんですけど」
「えー。あのおっさん、遅れんのかよ、残業手当なんか出ないだぜ。引継ぎの時間
だって毎回只で残業しているんだから」
「そうやって斉木さんが文句を言うだけ遅れるんですよ。じゃあ行ってきまーす」
と言うと明子は管理室の鉄扉を開けた。


●15

 外に出た途端に冷気が肌を直撃した。
  明子は慌ててフードを被った。
 これだけ寒いのに、マンション周辺の積雪に太陽が反射して眩しい。
 マンションを左手に見ながら駐車場を目指した。
 すぐにゴミ集積場に差し掛かる。さっき事務所から見ていた場所だ。
 山城以外の4人がゴミバケツの蓋を開けては閉めている。本来は水洗いするべき
ものなのだが、居住者が居ないので使われておらず、中身をチェックするだけで終
了なのだ。
 明子は「おはようございます。寒いですねぇ」とありがちな挨拶をした。
 額田という清掃員が「ちょと、あんた」と言ってきた。照り返し防止のキャッツ
アイを額にはめている。
「なんだって山城なんかに給料の明細を渡すんだよ。おらぁ、あいつに使われてい
るわけじゃないのに、あの野郎がこーんなに低い位置で」と言うと右手を思いっき
り下に伸ばした。「こんな所で渡そうとするから、こっちは自然とお辞儀をするよ
うな格好になって、丸で使われているみたいじゃないか」
「そんな事言われたって、所長が渡せって言うんだもの。所長に言ってくださいよ。
今事務所にいるから」と明子はマンションの方を見る。
 こちら側からだと日影になっていてよく見えない。
「所長の入れ知恵でやっているのかぁ」と額田が言った。「前のリーダーに代わっ
て入ってきた時にも、そんな事をしていたんだよ。誰よりも早く出勤してきて、清
掃員更衣室の床に掃除用具を出しておいて。モップだのデッキブラシだのを。そん
で自分は、パイプ椅子に腕組みをして踏ん反り返って居るんだよ。そんで、皆が、
おはようございます、って言って、清掃用具を取ると、自然と頭を下げる格好にな
るだろう。俺らを掌握する為にそんな真似したんだよ。何で同じパートなのに威張
られなくちゃならないんだい? 何で朝っぱらから深々と頭を下げなくちゃいけな
いんだい?」
  言いながら額田はだんだん興奮して来た。しまいには、うーうーと唸るような
感じになってしまい、体も上半身を硬直させて、両腕を激しく震わせて、足では地
団駄を踏み出した。
 なんだ、なんだ、これは。苦しんだ挙句、デビルマンみたいに変身するんじゃな
かろうか。
 そうだ、この人は、デビルマン、バッドマン、タックスマーン、ジョージ=ラク
ダ型だ。
「ほらほら、そんなに興奮すると、又ひっくり返っちゃうよ」と泉が言った。
「そんなになっちゃうの?」
「興奮すると、泡吹いちゃう。こーんなになって」と手足をびくびくさせて痙攣の
真似をする。
 この泉は、ポール=イルカ型だと思った。
 泉の後ろで低い声で笑っている横田は、デビルマンレディーという感じ。
 そういえばフローレンス・ジョイナーがてんかんである事を思い出した。
 やっぱ何か類型化できるな、と明子は思った。
 ふと横を見ると、大石悦子が望遠鏡でAMの事務所方向を見ている。さっき見て
いたのも彼女だろう。「家政婦は見た!」という感じである。しかし、覗いている
というよりかは、監視している感じだ。頭も石臼だ。
 こいつはリンゴ=石臼型だ。
「見える?」明子が聞いた。
「あんまり見えないねえ」
 明子は望遠鏡と取り上げると、つまみを調整してやった。
「ほら見えるよ、所長が手を振っているのが見える。所長ーーーーッ」
「どこどこ」大石は望遠鏡に目を当てるが首をかしげていた。
 明子はハッとして思い出した様に時計を見た。「いけない、こんな時間だ、私行
きます」
 明子は大急ぎでその場を後にして駐車場へ行った。
 ジムニーに乗り込み出庫すると、右手の清掃員達に手を振りながら車道へ出る。
 そして今朝上ってきた峠道を又下って行ったのだった。


●16

 約20分後、明子は、飯山駅から200メートル程度離れた路上に駐車すると、
ハザード出して車から下りた。
 歩道を横切って郵便局に向かう。入ろうと思ったが、ポストでも同じだと思い、
ポストに投函した。
 集配時刻を確認すると午前中は10時となっていた。
 これだったら今日の消印になるだろう。
 それからジムニーに戻ると大急ぎで駅に向かった。
 ロータリーの手前に停車すると、はぁ、と溜息を吐く。
「大沼さん、どこにいるんだろう」
 ハンドルにもたれかかってバス停留所の小屋を見てみた。
 それらしい人影は居ない。
 携帯を取り出して、着信履歴から大沼に掛けてみた。
「自分、見えとるでー」受話器の向こうで大沼が言った。
 明子はきょろきょろした。
「ここや 100均の前や」
 そちら方向を見ると、フィリピン人風の女性2人が、大沼に抱きついてキスして
いた。大きいコンビニ袋を持って、人目もはばからず。
 あのキスだけで、あんなに買ってもらえるのか。
 大沼は女と別れると、小走りにジムニーの方は駆け寄って来た。
 乗り込んでくるなり、酒と日焼けオイルの様な香水の匂い。
 それに、なんという格好をしているんだろう、ベティーちゃんが背中に刺繍して
ある革ジャンにブリーチしたGパン。どこで売っているんだろう。なんちゃってブ
ラザーが店員をしているヒップホップショップ?
「なんなんですか? あの人達」
「日系ペルー人や」
「何している人?」
「養鶏場で鶏の首、絞めてるんや」
「えー。なんでそんな人達と付き合いがあるんですか?」
「まぁ、ちょっとした事で知り合いになったんよ。一緒に飲む様になって、飯も作
りに来てくれるんよ、わしの夜勤明けには」
 こりゃあ何か訳ありだな。プレゼントを贈ってキスしてもらって。裏で何をして
いるのか分かったもんじゃない。
「斉木君も付き合っているんよ。彼、結婚するんと違うか」
 えっ。あの斉木が? 明子は彼の顔を思い浮かべた。
 いくら養鶏場で働いているからといって、斉木と一緒に居たいわけが無い。
「ずるいですね」と明子は呟いた。「あんなの、結婚できる男じゃないのに、出稼
ぎ労働者の弱みに付け込んでいるんじゃないんですか?」
 大沼は、ふんと鼻で笑った。「まぁ、ええから、ええから。はよ出して」
 明子は口を尖がらせつつサイドブレーキを外した。

 街を出ると、すぐに又県道97号の峠を上りだす。
 酒が残っていて吐いたりしないだろうか、と気をもんだが、
「タバコ吸ってもええやろ」と言ってきた。
「どうぞ」
 大沼は、一本くわえると窓を3センチぐらい開けて、使い込まれたライターでジ
ュポンと火をつけた。
 吸い込むとメラメラメラ〜と燃える。
 灰色の煙を吐き出す。
 煙の匂いが車内に広がった。
 これは高校生の時、遊び場の壁紙に染み付いていた匂いだ、と明子は思った。
 なんで大沼のタバコは臭くないんだろう。所長のタバコなんてプラスチックでも
燃やしたみたいにツーンとくるのに。
「仕事、どうや」
「うーん。疲れますねぇ」と明子は言った。
「仕事が増えた訳やないんやろ」
「うーん。でも、なんで疲れるんだろう」所長の顔が思い浮かんだ。眉に力を入れ
て弛んだ瞼を引っぱり上げる三角形の目。「所長がウザいから」
「あれかて俺より10も若いんやで」
 明子はちらっと大沼を見た。
 この人もジョージ=ラクダ型だ、と思った。
 フェリーニの『道』の主人公みたいな雰囲気がある。世間の約束とは関係なしに
獣道を歩いて行く人みたいな。あの映画みたいに行きずりの外人を拾ったりするの
が似合うのかも。
 でも、歳食い過ぎ。
「所長かて、雪が溶ければどっかに遊びにいってまうよ。春までの辛抱や」と言う
と、大沼は火種だけ窓の外にすっ飛ばして、吸殻を灰皿に入れた。
 そんなこんなの話している内に車はマンションに到着した。
 正面エントランスに横付けすると、大沼は「ありがと、ありがと」と言って降り
て行った。
 ベティーちゃんの刺繍を見ていて、フェリーニの『道』は褒めすぎかな、トリカ
ブト事件のスナック経営者にも似ているな、と明子は思った。


● 17

 大沼が降りてくる様子を、斉木は、フロントのカウンターから眺めていた。
 管理室の鉄扉が開いて大沼が入って来た。
 それからすぐに、コンシェルジュの榎本が、そしてチーフ管理員の蛯原も出勤し
てきた。
 この2人は、ラウンジを挟んで反対側にある清掃員更衣室で着替える。
 大沼ら24時間管理員は、ボイラー室で着替えていた。居住者の捨てたプラの衣
装ケースを拾ってきて、ロッカー代わりに使っていた。
 しばらくして、まず蛯原が戻って来た。
 Yシャツのボタンを3つぐらい外して、ネクタイをぶら下げて、ニットのベスト
を全開にし、開店前のスナックのマスターみたいないでたち。顔は北島三郎だ。
 フロントに居る斉木の前を、お前なんか居ないのも同じだよ、てな感じで、かす
れた口笛を吹きながらスルーして、管理室に入って行く。
 そしてまずデスクに携帯とタバコを置く。俺の領土、みたいに。
 それからキッチンコーナーに入って行った。あそこの冷蔵庫にはmyらっきょの
瓶が入っている。流しの横には小汚いmyタオルがぶら下げてある。
 自分で入れたインスタントコーヒー持って出てくると、タバコの横にどんと置い
た。
 こぼさないかなあ、と斉木は思った。こぼせばいいのに。そうすればPCの裏か
ら吸い込んでおシャカになる。
 蛯原はスチールデスクに半けつを乗せると、ばさっと新聞を広げた。
 ありゃ何気取りだ、カウンターから眺めつつ斉木は思う。デカ部屋の刑事コジャ
ックみたいな積もり? しかもタンソクだからつま先しか床に付いていない。だい
たい普段から誰かになり切っている感じだよな。ジェームズ・ディーンみたいなス
イングトップを着て来たり、刑事コロンボみたいなよれよれのコートを着て来たり。
 あんまり見るのは止めておこう。折角距離が取れているのに、下手にお近づきに
なったら、又厄介に巻き込まれる。夕べも設備屋から変な電話があった。あれは何
なのか聞きたいところだが、もし蛯原が何か画策しているのなら、下手に聞けば飛
んで火にいるなんとやらになってしまう。まず大沼に聞いてみよう。そして案の定、
何か企てていたとしても、全部大沼におっつけてしまおう。今は夜勤明けだ。俺は
すんなり帰りたいだけだ。
 そう思いながら顎を撫でるとじゃりじゃり音がした。
 榎本が現れた。スーツがパンパンで木目込人形みたいだ。喪服を着たら都はるみ
に似ているかも知れない。
 斉木はフロントの内側から「榎本さん、榎本さん」と呼ぶと、葉書を手渡す。
「誤配だって。居住者が持って来た。それから」と言うとポストイットの小さなメ
モを読む。「206の宅配ロッカーが荷物を出してもランプ付きっぱなし」
「はいはい。分りましたよ」
 榎本は管理室に入ると、すぐ左側のスチールのキャビネットの上に手帳を広げて
背中を丸めて亀の様に固まった。
 この狭いフロントと管理室に、9時〜6時で蛯原と一緒じゃあ堪ったもんじゃな
いだろう。
 前に、蛯原の座っている椅子の周りにぐるり一周、ファブリーズを噴霧した事が
あった、臭い、臭い、臭ぁーい、と。
 あの時には、蛯原も切れるんじゃないかと思ったが、脂汗を流しながら奥歯を噛
み締めて堪えていた。
 榎本も、ありゃあ四国出身と言っていたが、極道の妻じゃないのか、と眺めつつ
斉木は思う。清掃の山城と仲がいいから、あのオッサンを番犬にしているのかも知
れない。
 最後に作業着姿の大沼が現れた。斉木は立ち上がると、ポケットから鍵の束を取
り出して、それにつながっているビニールのスパイラル・ストラップを腰のベルト
通しから外して渡した。
 それから「ちょっと、ちょっと」と作業着を引っぱってフロントの奥に呼び込む。
「なんや、なんや」酒の残っている大沼はよろけながら引っぱられて行く。
「昨日の夜、設備屋から電話があったんだけど。管理室の外の下水管を工事するん
で、近い内に様子を見に行きたい、とか言ってたけど、なんか聞いている? 又な
んか蛯原が画策してんじゃないかと思って」と斉木は言った。
 そもそも管理員と言っても蛯原だの榎本だのは居住者相手であり、斉木、大沼ら
は設備の管理を主たる業務としていた。そしてこのマンションの設備管理で重要な
のは温泉施設の管理であった。
 その温泉について説明をすれば、ここの場合、どこか近所に活火山があって、熱
湯の温泉が吹き出していて、掛け流しで使う、というものではなくて、冷たいもの
を汲み上げて来て、直径2メートルのろ過器2台(屋内と露天)でぐるんぐるん循
環させて、途中のボイラーで暖めるという方式のものだった。そして、ろ過器の中
には湯垢やらバイ菌が溜まるから、掃除のために逆流させて排水する、という作業
を行わなければならなかった。しかし屋内風呂と露天風呂の両方をいっぺんに逆洗
すると、排水量が下水管のキャパをオーバーしてマンホールから溢れてくる。さり
とて片方ずつだと時間がかかる。だから一週間に一回でいいんじゃない、と24時
間管理員の間で勝手に決めていた。
 ところが先日保健所が来た時に蛯原が「週に一回の逆洗じゃあレジオネラ菌が湧
いたりしませんか? 毎日やった方がいいんじゃないですか?」と役人に言ったの
だった。そう言われれば役人は、そうやれと言うに決まっている。斉木としては、
「何を余計な事言ってんだ、この野郎。設備の管理は俺らがやっているんだから、
おめーが仕事を増やさなくても」と思ったのだった。
…そういう伏線があっての昨夜の電話だったので、「又何か企んでいるのでは」と
思ったのだが。
「なんも聞いとらんでー」と言うと大沼は管理室の中に入って行った。
 あいつが脇が甘いんで、蛯原に突っ込まれるんじゃないのか、と斉木は思う。
 大沼はふらふらと、蛯原の方へ歩み寄って、読んでいる新聞の一面を握り締める
と「爆発しとるでー」と言った。「斉木君、ペルーに行ったら空気がええんとちゃ
うか」
「あんまりはまらないで下さいよぉーほほほほほ」榎本は甲高く笑った。
 榎本も、大沼の日系ペルー人関係の話には興味津々だったのだが、蛯原もいる所
でその話をしたいとは思わなかった。だから中年女性特有の、笑いながら目の下が
痙攣している、という感じの返答だったのだが。
「おーい、早く引き継ぎ、やってんか」と大沼が言った。
「じゃ、やっちゃいましょう」ネクタイを締めながら蛯原が集合を掛ける。
 斉木もフロントから一歩だけ管理室に入った位置に移動した。
「おはようございます。今日は3月24日で」と蛯原がホワイトボードを見る。
「それじゃあ、斉木さんから何か」
「何もありませーん」と慇懃無礼に。
「榎本さんは」
「ありませーん」と手帳に目を落としたまま。
「分かりました、と。私の方からは、と」蛯原はホワイトボードを見る。「引越し
は無し」
 ある訳ねーだろう、と斉木は思う。
「計画停電は中止。大沼さん、仕事が増えなくてよかったね」
 おめーが増やしてんだろ。
「あと、そうそう」と思い出した様に蛯原が言った。「今日、小沢組が午前から来
て、管理室を出てすぐのマンホールのとこから水があふれるから、その工事をしま
す」
「え、何の話?」と斉木。
「両方いっぺんに逆洗すると溢れるっていうから下水管を太くするそうです」
「ちょっと待てよ。俺は何も聞いてねーぞ」後頭部のニューロンが一気に発火する
のが分かった。
「私もただ、大通リビングの工事部に言われただけだから」
「訳ねえだろう。わざわざ大通リビングが率先して銭使う訳ねえだろう。まず俺ら
に、片方ずつ排水しろとか言ってくる筈だよ。それをいきなり下水管の工事なんて、
おかしい。おめーが何か言ったんだろう」
「私はただ、保健所が毎日排水した方がいいって言っていましたよー、って。じゃ
あ何でやらないんだって聞かれたから、両方いっぺんに排水するとマンホールから
溢れて、そこが凍結して、居住者がすってんころりんして、管理会社が訴えられる
かも知れませんよー、って。それでもやりますか、って聞いたら、下水管を太くす
るしかないな、って言ってきた」
「やっぱりおめーが誘導しているんじゃないか」
「聞かれたから言ったまでだよ」
「下水管太くしたら毎日排水しなければならないじゃないか。大沼さん、なんとか
言えよ」
「あそこの配管ってこんなに細いんよ」と両手でわっかを作って見せた。
  なんの話をしているんだ、と斉木は思う。
「その向こうに避雷針が埋まっていて、こっち側にこの建物のH鋼があるんよ。そ
んでその配管が塩ビやから、それが絶縁体になっておるんよ。だから交換するんだ
ったら、変な埋め方をしたら、駄目やで」
 なにぬかしとんねん、この設備オタクが、と斉木は思う。
 しかし、どうして自分はこんなに簡単に頭に血が上ってしまうのだろうか、とも
斉木は思った。タイムカードを押して、さっさと帰ればいいじゃないか。次の勤務
日も、見て見ぬふりをしてやり過ごせばいいじゃないか。とにかく頭を冷やさない
と。それに喉もカラカラだ。
 斉木はキッチンコーナーに行くと冷蔵庫を開けた。アルミ缶のコーラを取り出す。
プシューっと開けてその場で半分位飲み干した。
 キッチンコーナーを出てくると、誰も居なかった。
 あれ、みんな何処行ったんだろう。
 フロントに出ても誰もいない。
 榎本、大沼は銭湯の券売機の精算に行ったんだろう。
 蛯原は何処に行きやがった。これじゃあ帰れないじゃないか。もう引継ぎは終わ
ったのだから帰ってもいいのだが、ちゃんとバトンタッチして帰らないとスッキリ
と夜勤明けを迎えられないじゃないか。
 畜生、何処に行きやがった、とフロントから出ると、後方の廊下から高橋明子が
現れた。
 さっき大沼を下ろしてから20分ぐらいたっている。途中のトイレでうんこをし
ていたんじゃなかろうか。
「あれ、そのコーラ、毒が入っているんじゃなかったんですか?」と明子はコーラ
を指差す。
「いやー、余りにも頭に来たんで、毒でも煽りたい気分なんだよ」と言ってから、
斉木は、これこれこういう訳で、と下水管交換の顛末を話してやった。
「それって丸でジョン・レノンのポールへの視線と同じですよ」と明子は言った。
「はぁ?」いきなりジョン・レノンって。こいつも話が飛ぶなぁ。
「ジョンは、ポールは何時でもシー・ラブズ・ユー、何かを企てている…、って言
っていたじゃないですか。斉木さんも、蛯原さんは何かを企てているって言うじゃ
ないですか。でも、ビートルズの場合には、ジョンの下衆勘だと思うんですよねぇ。
だって、今スマホで読んだんですけど、ジョンって、『アビイ・ロード』のジャケ
撮影の時にも、ポールは秘かに裸足になっていた、あいつは何時でも何かを企てて
いる、とか言っていたけれども、でも、撮影の時に一緒に居たんでしょう? 気が
付かない自分がおかしいじゃない? メガネの度があっていないんじゃないの? 
そう思いません? ジョンって思い出しちゃイマージンしているんですよ、きっと。
 だからって訳じゃないけれども、今の下水管の話にしても、おかしいのは蛯原さ
んじゃなくて斉木さんなんじゃないんですか?」というとハッとした様に口をおさ
えて「あ、変な事、喋っちゃった。私は行きます」と言って居住棟へ消えて行った。
 それから斉木はコーラを持った手をだらーんと下げて、立ち尽くしていたのだが、
今度は清掃の大石悦子が現れた。
「ちょいと。共用部の便所の電球、切れているわよ」
「俺、もう上がりなんだけれども」
「誰でもいいから、お願いね」












#1072/1112 ●連載    *** コメント #1071 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:12  (466)
斑尾マンション殺人事件 5
★内容

●18

 斉木は、空のアルミ缶を作業ズボンのポケットに入れると、共用部のトイレを見
に行った。
 センサーで反応するタイプなのだが、斉木が近寄ってみると、洗面所の片方の球
が切れているのが分かった。
 斉木は、ちっと舌を鳴らした。かったりー。
 後方の廊下を通って、ボイラー室に向かった。そこに電球の在庫が置いてあるの
だ。
 ボイラー室の扉を開けると、清掃員がパイプ椅子に座っていた。
 額田、横田、泉、大石。
 ボイラーが消えているので防寒着を着たままだった。
「山城は?」入りながら斉木が言った。
「変電室かどっかでタバコでも吸ってんだろ」と額田。
「ここじゃあ絶対に吸わせないからな。俺の勤務日には」
 言いながら斉木は、貯水タンクの下の台車を引っ張り出した。そして電球の在庫
を漁ったのだが、待てよ、と思った。勤務時間オーバーしているのに何で俺が交換
しなくちゃいけない。大沼がやればいい。でもあれもすっ惚けたオッサンだから、
その次の鮎川がやればいい。
 斉木は台車を足で蹴り入れると、天井の配管にぶら下がっている化繊ダウンを取
った。
 何時も着替えないで、作業着の上にそれを着て、そのままバイクで帰るのだった。
「俺、もう帰るわ」と清掃員に言う。
 出て行こうとする斉木に、大石が、すがる様に寄ってきた。
「ちょっと待って」
「何だよ、まだ何かあるのかよ」
「ちょっとさぁ」と困った様な顔をする。
 他の清掃員も心配そうな様子である。
「何?」斉木は眉毛を動かした。
「実はね…」
 大石が言うには、サブエントランスの裏口のドアに鳥の糞がべっとりこびり付い
ていたのでヘラでこじったら30センチぐらいの傷を付けてしまった、という事だ
った。自分らはパートと言っても請負契約社員だから、物損を出せば損賠賠償にな
るが、あんなドア、業者に塗らせたら3万も5万も取られてしまう。月に8万しか
貰っていないのに5万も取られたらもう何も買えなくなってしまう。
「週末にお父ちゃんと卸売りセンターでウニ丼を食べる積もりだったんだけれども、
それも諦めるようかねぇ、うぅーーー」
「斉木君、塗ってやれよ」と額田がパイプ椅子から言った。
「そんだったらよぉ、張り紙でもしておけばいいんだよ」言いながら斉木は清掃員
の方に歩いて行った。「雪で滑ります、とか、足元注意、とか書いて貼っておくん
だよ。それを蛯原の前でこれみよがしに書くんだよ。そうすればあいつがオスの
マーキングで、すぐにパウチの張り紙に交換するから。そうしたら又それを引っ剥
がして、又自分の張り紙をしておくんだよ。そんなの一週間もやっていれば、傷だ
らけになって元の傷なんて分からなくなるから。ガード下の電柱みたい」
「本当かい?」と大石。
「本当だよ」
 斉木はここに来て蛯原のこの習性をすぐに発見した。斉木がここに就職した頃は、
共用部の鍵など誰も管理していなかった。そこで夜中の暇な時間に、斉木が本数を
チェックし、鍵台帳を作成した。ところが次回の勤務日に来てみると、ベニヤ板に
鍵がぶら下がっているし、鍵台帳も作り直してあった。次に、割れたままの蛍光灯
のカバーがあったので、取り外して、サランラップで雨水が入らない様に養生して
おいたら、次の勤務日には、アロンアルファで直したカバーが取り付いていた。更
に、雨で滑ります等の張り紙をすると、すぐにワープロとテプラで作った張り紙に
貼り替えられる。
「なんだこいつは。犬か。小便した後に又小便を掛ける、みたいな真似しやがって。
でもこの習性を利用して何か出来ないかなって思ったんだよ、鮎の友釣りみたいに
さ。そんでこれは隠蔽工作に使えるなって。実は額田さんにもあるミッションを仰
せつかっているんだぜ」
 額田は舌を出すとデヘヘと笑った。
「何、何、それ」と女らが興味津々である。
「もうすぐミッションコンプリートだから、教えてもいいかな」
「いいよ」と額田。
 斉木は皆にそのミッションを説明した。
 それは、清掃グループの独裁者山城を追放し、自由と民主主義を回復するという
ものであった。
 このミッションは2つの作戦行動により完了する。
 まず最初の作戦は、清掃員更衣室を綺麗にするというものであった。
 斉木は、「清掃員の為にあの部屋を綺麗にする」と宣言して、小汚いモップにビ
ニール袋を掛けるなどした。
 そうすれば蛯原が真似をする、いやもっと大掛かりな事をするだろうと期待して。
 そうしたら蛯原は、まず、清掃員更衣室の清掃用具をボイラー室へ移動させた。
わざわざ大通リビングの許可を得て。それから、清掃員の為にと居住者の捨てた小
型冷蔵庫を拾ってきて、自動販売機屋からコーラを貰って入れておいた。
 この様に、一度清掃用具がボイラー室に移動され、清掃員の出入りが自由になる
と、ボイラーを焚いている時には暖かいものだから、だんだんそこに屯するように
なるし、しまいには休憩もそこでとるようになる。
「それが今のあんたらだよ」と斉木は言った。「独裁者からの解放はまず移動の自
由からだ。まあ、ここは難民キャンプみたいなものだよ。だけれども、あんたらは
故郷に帰らないといけない。それがミッションその2」言うと斉木は人差し指と親
指の2本立てた。外人みたいに。「蛯原には風説を流布する悪い癖があるんだよ。
誰々がこう言ってましたよーって。額田さんが、清掃員更衣室は寒いって言ってま
したよー、隣の農家の豚小屋にはストーブがあるのに清掃員更衣室には何もない
よー、って。そう蛯原が吹聴する様に俺が仕込んでおいたから」
「俺、そんな事、言ったっけ?」
「実際に言ったかどうかはどうでもいいんだよ。現代戦は情報操作だから。
  とにかく仕込みは完璧だから、ミッションコンプリートは近いぞ」


● 19

 フロントに戻ってもまだ誰も居なかった。
 斉木は、作業着のポケットに両手を突っ込んで、肩を怒らせて、その場をうろつ
いた。丸で人足寄せのトラックを待っている労務者の様に。
 やがて後方の廊下から蛯原がハァハァ言いながら戻って来た。
「あれ、まだ居たの? いやー、駐車場の屋上が凄い凍結だ。あれじゃあ人も車も
すってんころりん」と如何にも一仕事してきました、みたいな顔をしているが、す
っかり香ばしくなっている。
 でも、引継ぎの時にあれだけ揉めたのに、一服すれば忘れてしまうというのは、
ヒステリーの斉木にしてみれば有難くもあるのだが。
「じゃあ、俺、帰るよ」
「いいよ、いいよ」言うと蛯原は管理室を素通りして鉄の扉から出て行った。
 マンション右手に歩いていくのが正面の自動ドア越しに見えた。
 とにかくさっさと帰ってしまおうと踵を返した瞬間、カウンターの内側の電話が
鳴った。ここで出なければいいのに、やっぱり気にし屋なのでつい出てしまう。
「はい、斑尾マンション、管理センター、斉木です」
「高橋ですけど」
「なんだよ」
「事務所のドアが開かないんですよ。キンコン鳴らしても出てこないし。中で何か
あったんじゃないかと思って。ちょっと来てもらえませんか?」
 それだけ言うと、ぷちんと切れてしまった。
 何なんだよこれは、と思いつつエントランスに出て辺りを見回す。人の気配がし
ない。ちっと舌を鳴らすと「しょうがないか」と斉木は呟いた。
 しかし鍵がない。
 ボイラー室に行って額田から鍵を借りた。
  それで居住棟に入った。

 エレベーターに乗って4階へ。そして通路をちょっと行くと、AMの事務所前の
高橋が見えた。
「おーい。携帯がいきなり切れたけれども、何なんだよ」
「変な所いじっていたら切れちゃったんですよ」
「本当かよ。俺が気にし屋なのを知っていてわざとやったんじゃないの?」
 斉木はドアに張り付くと、キンコン、キンコン、キンコンとチャイムを連打する。
ドアノブをがんがん引っ張る。そしてドアをどんどん叩きながら「所長ーッ」と怒
鳴った。
 それから明子の方に向き直り「管理員だからって開けられる訳じゃないんだよ」
と言った。
 明子は斉木をじーっと見て「それはそうに決まっているけど。じゃあどうすれば
いいんですか?」
「ナルソックを呼ぶしかないね。3000円かかるけど」
「じゃあ呼んで下さいよ」
 斉木は携帯を取り出すと蛯原に電話した。これこれこういう訳で所長が閉じ込め
られている、と。
「そりゃあ大変だ。さっそく手配しないと」受話器の向こうでハッスルしているの
が分かった。
 携帯をポケットにしまいながら斉木が言った。「俺、今日は残業手当、請求する
からね。ナルソックだって飯山市内から来るんだから結構、時間食うんだから」
「所長に言って下さいよ」
「所長が死んでたら?」
「えッ」と後ずさりながらドアを見る。「これって火事とかだったらどうするんで
すか?」
「そりゃあ、いざとなれば、隣が未販売だからコンストラクションキーで入って、
ベランダの仕切りをぶち破るとか。でなきゃ上の階からロープを垂らして、『ダイ
ハード』みたいにベランダに飛び込むとか」
「ナルソックって、マスターキーみたいなの、持っているの?」
「タメ口利いてんじゃねーよ。まぁいいけど。あれだよ、管理室の壁にナルソック
しか開けられないキーボックスが埋め込んであるんだよ。もっとも管理室に入るに
は管理員が付いていないと駄目なんだけれども」それから斉木は声を潜めて言った。
「実は蛯原が、あのキーボックスを開けられないかって企んでいるんだよ。このマ
ンションを自分の家だと思ってんから」

 やがて蛯原がひょろりとしたナルソック隊員を連れてやってきた。
 そしてナルソック隊員が解錠する。
「警戒設定が解除になりました」というボーカロイドみたいな音声が鳴った。
 蛯原が開ける積もりで勢いよくドアをひっぱると、がたんとU字ロックに引っ掛
かった。
「あれ。チェーンが掛かっているぞ」そしてナルソックに向かって、「これ開けら
れる?」
「無理っすね。消防署を呼んでも大きいワイヤーカッターでばきばきばきーっと壊
すしかないんで」
「ところが斉木君が開けられる」にーっと笑って斉木を見る。
 かつて、居住者がドアの内側にあるU字ロックに帽子をぶら下げていて、自分が
出た拍子にU字ロックが掛かってしまった事があった。その時には鍵屋を呼んだの
だが、何やら特殊な道具で開けたと言うのだが、それがどんな道具なのだかを教え
ない。警察でも消防でも巨大ワイヤーカッターで壊すのに、何で鍵屋がそんな道具
を持っているんだろう…と斉木が考えに考えた末、ビニール紐で外側から外す方法
を発見したのだった。そして、鍵屋を呼べば2万3万と取られるのだから他の管理
員とも情報の共有をしておいた方がいいんじゃないか、とついうっかり蛯原にも教
えたら、居住者と廊下ですれ違う度に、「いい事を教えてあげますよ」と丸で手品
でも見せるように得意気に披露して、「これを知っておけば万一の時に鍵屋を呼ば
なくて済みますからね。まあこれは斉木から教わったんですけどね。斉木から」と
自分はあくまでも善意の第三者であるまま、シー・ラブズ・ユー方式に拡散してく
れたのであった。
「だから俺は開けないよ。泥棒被害でもあったら俺のせいにされてしまう。それに
紐も無いだろう」と斉木。
 蛯原がポケットからビニール紐をずるずると引っ張り出す。
「いやに用意がいいじゃないか」と斉木。
「俺がやってもいいんだけど、背が低いから届かないんだよ」
「でもいいや。開けても」突然斉木が態度を変えた。
 というのも、後日斉木はメーカーにクレーマー的に問い合わせをしたのだが、あ
れはあくまでも人間がドアの隙間から覗くのを補助する器具であって、鍵として使
用してもらっては困る、という説明を受けたのだった。それを思い出したのだ。
 斉木は蛯原から紐をひったくると、ドアの隙間からU字ロックに引っ掛けて、そ
の紐をドア上部から蝶番側に回すと、紐が弛まない様に引っぱりながらドアを閉め
た。
 閉まった瞬間に、パチンと外れる音がした。


● 20

 蛯原がドアを開けた。
 全員が何気に耳をすます。
「栗くせー。温泉で塩素の値が高過ぎるとこのニオイがするんだよね」と斉木。
「一番奥が和室だよね」と蛯原が高橋明子に聞いた。
 うなずく明子。
 蛯原が意を決した様に突入した。
 窓が開けられ、玄関も開け放たれているので、空気がさーっと流れて来た。
 そして、ナルソック隊員、斉木、高橋も入る。
 今や、玄関からリビングへの廊下に4人がひしめいている。
 ナルソックが洗面所に入りトイレのドアをあけた、が中は空だった。
 次に風呂場のドアを押した。
 ざーっという音が聞こえる。
 更にドアを押し開けると、所長が壁に背にへたり込んでいるのが見えた。Yシャ
ツに、スラックスの姿。両手両足を伸ばして、首をうなだれている。左手にはシャ
ワーを持っていて水が自分に掛かっている。口からは泡の様な吐しゃ物が出ていた。
 見た途端、斉木と高橋はリビングに逃げる。
「俺、グロ耐性、無いんだよ」
「私も」
 蛯原とナルソックが靴下を脱いで、浴室に入って行った。
 蛯原はシャワーのカランをバスタブに入れると「死んでんのか?」と言った。
 ナルソック隊員は首をかしげながら、しゃがんで、脚を揺らしてみる。
 蛯原も腹のあたりを突いてみた。「おい、所長。所長」と声を掛けるが返事がな
い。
「どうしたらいい?」
「もちろん119番通報でしょう」
 蛯原がその場で119通報する。「こちらは斑尾マンションです。住所は飯山市
斑尾高原**番地。目標になる公共施設等は斑尾高原スキー場のゲレンデです。こ
れは火災ではなく救急車のお願いです」とマニュアル通りの文言を言ってから、で
かい声で「とにかく救急車を出して下さい。それから、目の前で人が倒れているん
ですが、これはどうすればいいんですか。動きませんよ。口から何か吐いてます。
人工呼吸なんてやった事ないですよ。ナルソックがいるんですが」そこまで言うと、
携帯端末をナルソックに差し出した。「変われって言ってんぞ」
 ナルソックが出ると何やら指示を受けていた。
「じゃあ運び出しましょうか。そうしたら私が人工呼吸しますんで」
 2人で両脇と両足首を持ってリビングに運ぶ。
「おい、そこの防寒着を床に敷いてくれ」と言われて、斉木と高橋はソファの上に
丸めてあった防寒着を床に敷くと、今度は和室に退避した。
 所長を寝かせると、ナルソックが吐しゃ物を取り除き、ビニールのフェースシー
ルドを当てて人工呼吸と心臓マッサージを開始した。
 それを見守りつつ蛯原は「こういうのも覚えておかないといけないのかなぁ」と
誰へとも無しに言った。
 しばらくして大沼が全く緊張感なくスリッパをぱたぱたいわせながら登場した。
「所長どうにかしたんか」と見下ろす。
「風呂場でぶっ倒れていた」
「今救急車が来て、トランクルーム開けてくれ、言うてるけど、鍵どこにある
の?」
 トランクルームとはエレベータの突き当たりにある小スペースで、お棺やら救急
車のストレッチャー等を乗せる時に扉を開いて使用する。
「自分の鍵束にぶら下がっているだろう」と蛯原。
 大沼はポケットから鍵束を出すと、一個ずつ調べ出す。「はあ、これかあ」と言
いながら出て行く。
 しかし、ほぼ入れ替わりで、救急隊員が入って来た。
 そして所長をストレッチャーに乗せると運び出した。
 蛯原もナルソック隊員も一緒に出て行った。



● 21

 所長が搬送されると、斉木と高橋明子は2人きりになったのだが、いい大人が余
りにもグロ耐性が無かったので、気まずさを感じ始めていた。
「でもしょうがないよ」と明子が言った。「ジョン・レノンだって世界平和を訴え
つつも楽屋に身障者がくれば卒倒したんでしょう?
  でも、あれね、大沼さんって、メカにもグロにも強いと思ってたけれども、案
外メカには弱そうね。自分のぶら下げている鍵に気が付かないんだから。斉木さん
は案外メカに強そう。U字ロックなんて外せるんだから」
「いや、それが微妙に違うんだよ」と斉木が言った。「つーか、設備を修理するに
しても俺はナット締めが得意なんだけど、大沼はボンドとかが得意なんだよ。
 これは性格もそうで、俺は、なんか、カクカクしているんだよねぇ。話していて
も、『つーか、つーか』って区切って切り返す癖がある。
 つーか、大沼も『つーか』って切り返すんだけれども、大沼の場合には、自分の
身に迫ってきた事に関して切り返すんだよ。
 例えば、『大沼さん、最上階の手すりの外の排水口、掃除しておいてねー』
『よっしゃ、よっしゃ』と言いつつ、自分の靴紐を結んでいて、『つーか、落ちた
ら、俺、死ぬんやで』と今更気付く、みたいな。ナメクジか、おめーは、みたいな。
 でも気が付くと反応は早いんだよね。お疲れーって肩を叩くと、なにすんねん!
 と叩き返して来るから」
「えー。大沼さんってそういう反応するの?」
「反応っていうか、ボンドをひっぱたいたら、べたーっと手にくっついて来た感じ
かなぁ。粘着だな。
 まぁ蛯原も瞬間的に反応するんだけれども、あれはアスペルガーちっくって感じ。
俺の顔を見ていて、ホラー映画みたいとか言って来るよ。
 まぁ、蛯原はポール=イルカ型だな。今見ている事に反応しているのだから、オ
ンタイムではあるんだけれども。
 大沼は、ジョージ=ラクダ型だけれども、永遠の現在に粘着しているって感じで、
やっぱりオンタイムだな。
 まぁ、俺みたいなジョン型が、カクカク振り返る感じで、過去に生きるって感じ
だけれども。
 あと、石臼の反応っていうのもあるんだよね。
 これは、ボコられてもボコられても反応しないって感じなんだけれども。
 反応しないんだから、害毒がなさそうだけれども、一番たちが悪いんだよね。
 ああいうのが居ると辺りが膠着してしちゃうんだよ。
 清掃の山城がそうなんだけれども、ポール・モーリアの『Get Back』を繰り返し
聴いているから、こっちがオリジナルだよー、ってyoutubeの動画を見せて
やったら、俺はポール・モーリアのでいいって言うんだよね。
 自分が最初に見たものに正統性有りって思うんだよ。
 そういう感じで、自分の周りもの全てに関して、今のままでいいって思うから膠
着しちゃうんだよ。保守って言えば保守だけど。
 まぁ、これらは割合は、ジョン型20%、ジョージ型20%、ポール型30%、
石臼型30%って感じかなぁ。
 これは100人以上の居住者を見て判断したんだから、かなり正確だと思うけど
ね」


● 22

 しばらくすると蛯原が制服警官2名を連れて現れた。
 一人は、痩せて神経質そうな、しかし柔和な感じの警官だった。
 玄関を上がった所で、蛯原はこの警官を相手に、トイレがどうの、風呂場がどう
のと、身振り手振りで大げさに説明していた。
 その後ろには闘士型の体格をした警官が帽子を目深に被って歩哨の様に突っ立っ
て居た。更にその後ろにナルソックの隊員が居る。
 すぐにもう3名が到着した。
 長野県警とバックプリントしてある紺のウインドブレーカーを着ていて、腕には
『鑑識』の腕章をしている。
 それぞれ肩からジュラルミンのケースを提げていた。
 痩せた警官の下に行くと、あそことあそこ、みたいに指示を受けて、蛯原には目
もくれずどかどかリビングに入り、あぐらをかいて座ると、帽子のツバを後ろに回
して、耳かきの綿みたいなのでアルミの粉をはたき出した。
 蛯原は、身振り手振りで大げさに説明していたのを中断された上に、全く自分と
は関係なく捜査が進行している事に気が付いて、途端にむくれる。
「ちょっと待てよ。こんなに大げさな事なのかよ」と蛯原は言った。
「何時も協力してやってんだろう」と後ろの警官が言ってきた。
 帽子を目深に被っていたので気が付かなかったが、こいつはあの所轄のお巡りか、
と蛯原は思った。
 普段、蛯原は、ゲレンデに来た客がマンション敷地内に駐車をするのを防ぐ為に、
「違法駐車は2万円申し受けます」だの「レッカー移動します」だのの、脅しの張
り紙をしていた。と言うのも、110番通報したところで、私有地だから駐車禁止
の違反切符を切っては貰えないから。居住者にせっつかれてつい110番通報する
と、通報センターみたいな所につながって、そこから最寄の交通機動隊みたいなの
につながって、パトカーが来るのだが、結局私有地だから何も出来ない、しかし出
動したのだから、呼んだ奴の免許証を見せろだの、呼んだ側の情報だけ集めていく。
そうすると、クレーマーマンションになりかねないのだった。そういう事情が続い
ていたのだが、実は、110番ではなくて所轄の警察とか交番に電話して、困った
声を出すと、警察所有のデータベースから所有者を特定して、「じゃあ、警察から
所有者に、違法駐車で迷惑している人がいますよ、と連絡してあげる。でも相手が
出なかったらそれっきりだよ」という事をしてくれるのが分かった。それ以来、
堂々と「違法駐車は即110番通報」という張り紙に変えたのだが。それをやって
くれていたのが、このうどの大木か。
「恩着せがましい事を言うな。今日は何で来た。呼んでないぞ」と蛯原は言った。
「119番すれば110番に連動するんだよ」
「だからってこんな所にまで入ってきて粉ぱたぱたはたいていいのか。パトカーは
どこに止めた。あそこは私有地だぞ。勝手に入っていいのか」
「公務じゃないか」
「だったら駐車違反取り締まりだって公務じゃないのか。それともお前は仕事を選
ぶのか」
「まぁまぁまぁ」と、痩せた警官が割って入って「ざーっとでいいから聞かせて欲
しいだけなんですよ。最初に見付けた人は誰だとか、誰が通報してきたのかとか、
その時の様子はどうだったとか」となだめる様に言ったのだが、蛯原はその警官に
矛先を変えて、
「呼んでないのに誰が呼んだと聞くのはおかしい」とか「あの死体が目を覚ました
ら直接聞いてみろ」とか「でなければ管理主任者にきけ」などとほざくのであった。
 管理主任者とは、居住者とマンション管理契約を結ぶ際の、管理会社側の当事者
なのだが。
 痩せた警官は、はーとため息をつきつつ、鑑識らと目配せをした。
 鑑識らがあんまり出ない、みたいに首をふると、「じゃあ引き上げるか」と出て
行った。
 蛯原は、更に追いかけて行って、エレベーターの前で、「防犯ビデオだって裁判
所の命令が無ければ見せないぞ」とか「日本は法治国家だから行政の言いなりには
ならないぞ」などと言っていたのだが。




● 23

 この段階で、部屋に残されたのは、斉木、高橋、ナルソックの隊員だった。
「俺も帰ろうかなぁ」と斉木が呟いた。
「あのー、判子をもらいたいんですけど」とナルソックの隊員が言った。
「シャチハタぐらいだったら押してやってもいいよ」

 斉木はナルソック隊員を連れて管理室に戻った。
 机の一段だけ割り当てられた引き出しからシャチハタを出すと「何処に押しゃあ
いい」と言った。
「ちょっとすみません、作業がありますんで」と言うとナルソック隊員は、なにや
ら作業を開始した。
 何を始めたかというと、まず使用した合鍵の先端部をビニールで覆い、その上を
10桁の数字の書かれたシールで封印し、その番号を報告書に記入した。そしてホ
ワイトボードの後ろの壁に埋め込まれたキーボックスの前に行くと、磁気カードを
かざす。ブーっと音がして、赤いランプが点滅する。素早くキーボックスの扉を開
けて、鍵を元に戻すと、扉を閉める。もう一回ブーっと音がして、ガシャンと扉が
施錠される音がした。
 斉木は、シャチハタをついたらすぐに帰れると思っていたのに、この作業の間、
待たされたものだから、イライラのオーラ全開で、徹夜明けの充血した、文字通り
血眼の目で、ガン見し続けて、早くしろ、早くしろと念を送り続けていた。
 それが余りにも強烈だった為に、ナルソック隊員は、封印の番号を報告書に書き
写す際に間違えていたのだった。
 それは斉木も気付いたのだが、教えてやらない。
 それから警備員は、手が震える程焦りながら報告書を完成させると「あのー」と
言った。「判子もらえないでしょうか」
「判子ぉ? 何の判子だよ、今更。警察だの消防だの七人も八人も来たっていうの
に。それって、おめーがちゃんと仕事しましたーって紙じゃないの?」と嫌味を言
った後、「それに、封印の番号、間違っているぜ」と言った。
 えッ、という顔をすると、隊員は封印台帳から今使用したシールの半券を取り出
して、報告書と比べると、しまった、てな顔をして、慌てて、訂正すると斜線をひ
いて訂正印を押した。
 そういう作業の間にも、例えば封印台帳が入ったアタッシュケースを開ける為に
腰に付いているキーホルダーに手を伸ばすなどして、隊員が体をよじっただけで、
防弾チョッキの様なダウンベストにぶら下がっている警棒だの無線機だのががさが
さ音を立てるのだが、あれは何かロボコップのオムニ社の隊員の様で、クールじゃ
ないか、と斉木は思った。
 自分も紺の上下の制服を着ているが、どっちかというと菜っ葉服っぽい。
 斉木の血眼は羨望の眼差しに変わっていた。
 斉木は、起こっている事を全くオンタイムでは感じられず、眼前で起こっている
事はすべて過去の記憶を呼び覚ますトリガーでしかなかったのだが、今彼の記憶野
からは、かつて警備会社の面接に行った時の事が読み出されていた。
 それはたかがパチンコ屋の警備員の応募だったのだが、その場で採用という訳に
は行かず、一応履歴書から前職等を調べて、その後に4日間の講習があるのだ、と
言われた。
 随分堅苦しい事をするんだな、でもこれは、講習とかいう名目で、警察OBでも
講師で招いて、そうやって金品を渡しているんじゃないか、と斉木は思った。そし
て、その面接の帰りがけに、前回採用分の人達の講習風景を、ドアの羽目ガラス越
しに覗いたのだが、よれよれのTシャツに髭面の老人で、ほとんどホームレスみた
いなのが受講していたので、あれだったらいくら俺でも採用されるだろう、と思っ
たのだが、翌週、不採用の通知が届いた。何故だ。もしかして高校時代に万引きで
捕まった記録がスーパーより警察に提出されていて、今でも残っているんじゃなか
ろうか。
 とにかくその知らせを聞いた日に飯山市内を歩いていたら、偶然、靴の量販店に
警備会社のワンボックスが到着する場面に出くわした。売上金の回収に来たらしく、
警備員の一人がジュラルミンのケースを抱えて店内に入って行くと、もう一人が伸
び縮みする金属製の警棒をカシャ・カシャ・カシャと伸ばして、通行人を威嚇する
ように自分の手の平を打っていた。
 この野郎。警察でもない癖に格好つけやがって。ちょっと因縁つけてやろうか。
そう斉木は思ったが、警備会社の研修にも警察OBが来ていたので、裏でつるんで
いるんだろうと思い止めたのだが。
 それ以来、あの防弾チョッキの様なベストとか、金属製の警棒などを見るとムカ
つくのであった。
「どうもすみませんでした」とナルソックが書類を出すと、
「俺が指摘してやらなかったら、どうなっていたんだよ」とまだシャチハタを押さ
ない。「どうせこんなマンションの管理員なんて馬鹿にしてんだろう」
「まぁまぁ」と蛯原が入って来た。
 いつの間にか戻って来ていて、フロントから管理室の中を見ていたらしい。そし
て入って来ると「彼は今日はよくやってくれたじゃないか。人工呼吸もしたしな」
と言うと斉木の耳元で、「おい、ああいう耳の丸まった奴は、ひょろーっとしてい
ても柔道かなんかやっていて強いんだぜ」
「だからなによ」
「斉木君、疲れてんだろう。イライラしすぎだ。もう帰りなよ」と言うとなれなれ
しく背中をとんとん叩いた。
 時計を見るともう12時近かった。さすがに斉木も馬鹿らしいと感じ、ここで退
場する。


● 24

「徹夜明けだから気が立っているんだろう。俺がサインしてやるよ」言うと、蛯原
は引き出しからシャチハタを出して突いてやる。「ところでさあ」と言うとホワイ
トボードをがらがらーっと移動させてキーボックスを露出させた。「このキーボッ
クスって鍵自体はタキゲンとか栃木屋のだよなあ」
「さあ」
「そりゃあよく知ってんだよ。管理の仕事をしているんだから。だけれども、ぴっ
とカードをかざしたりするだろう。それが無いと開かないんだろ」
「勿論そうですよ」
「じゃあもし、停電とか、電気保安協会とか来た時にだよ、もしその時に非常事態
で居住者のドアを開けなければならない、ってなったらどうする?」
「これは普段はコンセントから110Vを取っているんですよ。でも停電になると
その防災盤のバッテリーから12Vが供給されるんです」
「じゃあ、そのバッテリーが無くなったらどうなるの?」
「そうしたらロックは解除されますが。なんでそんな事聞くんですか?」
「確認だよ。停電の時にゃぁ、どっかから電源供給されるんだろうとは思っていた
けど、どこなのかぁーと思って。だってここの安全をあずかっているんだから、居
住者様に聞かれて答えられなかったらまずいだろ。…計画停電があったら、あんた
ら大変だなぁ。信号もみんな止まるんだぞ」
「はぁ」
 ナルソックを帰してしまうと蛯原は、とにかく井上に連絡しないと、と思い、大
通リビング東京本店に電話したのだが、あいにく昼食で外出中、との事だった。
 井上というのは、斑尾マンション担当の管理主任者で、年齢は29歳である。
  通常、マンション管理会社には、工事部と管理部がある。
  工事部は、小さくは電球の交換、大きくはマンションの大規模修繕などを行う。
管理部は、マンション管理規約の作成、理事会や総会の開催や議事録作成などを行
う。
  この後者の担当者が管理主任者である。









#1073/1112 ●連載    *** コメント #1072 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:12  (432)
斑尾マンション殺人事件 6
★内容


● 25

 井上はその頃、東京本店の近所のカレーハウスにて、アイスコーヒー&カレーを
注文した所だった。
 タオル地の黄色いおしぼりで顔をぬぐってから水を飲むと、正面に座っている同
僚の女性に話し出した。
「斑尾の駐車場だけれども、何でみんな使用料を払うんだろう」
「はぁ?」
「だって、あそこの敷地権は居住者にあるんだよ。自分の土地に車を止めておいて、
何で使用料を払うんだろう。
 あそこら辺の月極駐車場の相場が4千円だからって、みんな4千円払っているけ
ど、あそこら辺のタイムスは売上の何十パーセントかは地主に払うだろう。だった
らあそこの居住者だって、4千円の何十パーセントかは戻ってくるべき、とは思わ
ないのかね。あそこの立体駐車場もマンション購入価格の一部で 毎月ローンを払
っているのだから。そうだろう。そも思わない? なんか、これは叙述ミステリー
的なトリックがあるんじゃなかろうか」
「そういうのは、正しいとか間違っているとかどうでもよくて、契約上の問題なん
ですよ。井上さん、2年連続、宅建落ちたんですって?」
「忙しくって、勉強、出来ないんだよ」
「じゃあ、宅建の練習、っていうか、契約とは何かって感じですけど。いいです
か?
 設問。間違っているものを選びなさい。
 数字の3と4では4の方が大きい」
「ピンポン」
「だから、間違っている方を選べ、って言っているじゃないですか」
「あ、そっか」
「ジャンケンのグーとチョキではチョキの方が弱い」
 少し考えてから「ピンポン」
「間違っている方を選べ、つってんの」
「そっか」
「井上さん、目が点になってますよ。もう、永久に宅建、受からないよ」
 それからアイスコーヒーが運ばれてきたので、井上はガムシロップとクリームを
入れるとストローを差して、ぶくぶくぶくーっと空気を送り込んでかく拌した。
「ちょっと、井上さん。何やってんですか。他のお客さんが見ているじゃないです
か」と言われた。
 井上は頭をかきながらあたりを見渡したが、自分が何をやらかしたのだか、よく
分からなかった。
 それからカレーライスを食べ終わったら、香辛料のせいで血の巡りがよくなった
せいか、井上は鼻血を出した。しかしティッシュもハンカチも持っていなかったの
で、止むを得ず店の黄色いおしぼりを鼻に当てた。
 どんどん血を吸って、みるみる真っ赤になってしまった。
「そんなの置いていったら二度と来られなくなるから、帰りに表のゴミ箱に捨てて
行って下さいね」と女。
「そんな事をしたら泥棒になるじゃないか」
「井上さん、やっぱりちょっと違うのかなぁ」女は呟くように言った。


●26

 社に戻って、自分の机に戻った途端、他のOLが言ってきた。「井上さーん、斑
尾マンションの蛯原さんから電話。3番でーす」
 丸でお酢でも含んだような顔をしながら受話器を取り上げると保留になっている
ボタンを押した。
「井上ですけど」
「井上さん。AMの所長、死にましたよ」いきなりズバっと言った後、蛯原は、占
有部の風呂場で倒れていた、救急が搬送した、警察が来た、病院で死亡が確認され
た、死因は塩素ガスによる吐しゃ物を詰まらせて、等の顛末の詳細を言った。
「混ぜるな危険とかやったんじゃないんですか?」
「多分ね。でもまずいことが数点ありましてね。まず第一に鍵を開けたのはナルソ
ックなんですが、U字ロックが掛かっていて、それを開けたのがうちの斉木なんで
すよ」
「ああ、あの紐で開ける方法でしょ。あれって何かまずいんですか。あれをやんな
きゃ壊すしかないんでしょ」
「まぁそれはいいんですがね。警察が高橋さんとかを、疑っている様な」
「誰ですか、それ」
「AMの事務員ですけれども」
「それってうちに関係あるの。AMの社長とかに電話したんですか?」
「しましたけれどもね。申し訳ない事をしたって言ってましたよ。
 あそこは販売のモデルルームみたいなものだったでしょう。それを井上さんのご
好意で又借りしたのに、そんな所で人が死んだんじゃあ、もういわく付き物件だか
ら売れないかも知れないし」
「ちょっと待って下さいよ。別に僕が紹介した訳じゃないでしょう」
「ですから、ですから、AMから不動産屋に連絡してもいいんですが、そうすれば
不動産屋から施主に連絡が行って、施主から大通リビングに連絡が行くでしょう。
それよりかは井上さんから施主に連絡した方がいいかと思って」
 井上はメモに関係図を書いた。宅建でも民法の問題などでちょっと複雑になると
訳が分からなくなる。







施主・大和通商    斑尾マンション管理組合
↓      ?    ↓
(販売委託)  ?  (管理委託)
↓         ? ↓
不動産屋       大通リビング 井上
↓           ↓
(転貸)       (業務委託)
↓           ↓
AMの事務所     AMの蛯原以下。
   の所長が死亡。

 施主の大和通商というのは大通リビングの親会社だ。
 井上は奥の方で肘掛け付きチェアに座っている役員連中を見た。
 ああいうのはみんな親会社から出向していきている人間だ。
 蛯原の言う通り、不動産屋から施主、そこからあの役員の耳に入るのはまずい気
がする。自分からあそこに座っている役員にほうれん草すればそれで免責になる。
「分った。僕から上司に言ってみる」
「井上さん。来た方がいいと思いますよ。大和通商の営業なんて神出鬼没ですから
ね。何時来るか分からないですよ。その時にまだ管理会社が一回も来てないという
んじゃどうかと。明後日から又雪ですから、来るんだったら今日か明日ですよ」
 井上、スマホのスケジュールを見た。
 今日明日は時間を作れない事もないな、と思った。


● 27

「分かった分かった、とにかく上司に相談します」と言って受話器を置いた後、こ
れって飛んで火に入るなんやらじゃないのか、と思った。
 蛯原の言う通りにすると、何だか知らないが騒ぎに巻き込まれる。
 そう言えばつい先月もそうだった。
 まだ地震の前で、あの頃は居住者も大勢滞在していて、風呂もにぎわっていた頃
だった。
 蛯原が言った。「居住者様の意見として、風呂上りにビールを飲めないのは寂し
いっていうのがあるんですよ。休憩スペースの自販機にビールを入れればいいんじ
ゃないかと。
 それからあそこのスタジオ、あんなところ、誰も使っていないのだから、あそこ
でカラオケが出来たら、という意見も多いんです。
 だってマイクも大型スクリーンもあるのだから、カラオケDVDだけ買ってくれ
ばいいんでしょう?
 どうしてそのぐらいの事が出来ないのか。
 何で、設備の有効利用をしないのだろうって。
 ついでに麻雀も出来たらもっといい。そんな事は公団住宅の集会所でもやってい
る事じゃないですか。
 そうやってみんなが仲良くなれば、居住者同士の交流も広がって、結果、温泉利
用者も増える、共用部の赤字も解消できる。
 これは居住者にとっても管理会社にとっても、WIN・WINの話じゃないです
かね」
「そう言われてみれば、そうですね」
「そうでしょう。設備は全て揃っているんだから、それが金を産むならやらない手
はない」
 というんで、先月の理事会に提案したのだが、一部の理事から猛烈な吊し上げを
食った。
「あの蛯原っていうのはどういう男なんだ。
 あいつ、こう言ったんだぞ。
 ここには露天風呂もサウナもあるのに、垢すりとかないのは寂しいですね。タイ
式垢すりでも、南米人のボディーシャンプーでも入れて、休憩室でビールでも飲め
れば最高なのに。
 …それって、1階がパチンコ屋、2階がサウナみたいな店の話じゃないのか。
 そのタイ式垢すりだって、タイ式マッサージだのタイ式ヘルスだのに近い感じだ
ぞ。
 その上、カラオケだ麻雀だって。
 普通のファミリーが住んでいるマンションにそんなもの作ってどうする積もりだ。
 だいたい、カラオケだの雀荘だのっていうのは、繁華街にしか作っちゃいけない
んじゃないのか。
 あなたはそういうのの専門家だろ、宅建とか。教えてくれないか」と理事会で迫
られて焦った。
 確か一番土地柄の悪いところにキャバレー、ストリップ劇場があって、その周り
に雀荘、パチンコ屋、その周りにカラオケだったような。こんな都市計画法上の用
途規制なんて覚えていられない、とその時には思った。後で調べたら、そもそもあ
のリゾートマンションは都市計画区域外なので、そんな規制は無かったのだが、あ
の場で答えられなかったのはまずかったなぁ。


● 28

 井上は、スマホ片手に、上司である出牛取締役のデスクに行った。
「ジューシさん、斑尾のマンションで事故がありました」
 それから今朝からの顛末を簡単に述べた。
 マンション管理で管理会社が責任を問われるのは、共用部の設備に関して管理員
の不手際で起こった事故、例えばマンホールを開けっ放しで子供が落っこちたとか、
の場合だけなのだが。
「蛯原が、物件がいわく付きになるんじゃないか、とか言っているですが」
「そんなの関係ないよ。でも警察が動いているっていうのはどうなんだろう」と言
うと出牛は椅子を反対側に向けて窓際にいる山田を呼んだ。
 山田は推定年齢55歳の警察OBだ。
 大通リビングではこわーい人対策に、5年に一人の割合で警察OBを受け入れて
いる。
「実はね、斑尾で死亡事故があって、警察が」なんたらかんたらと今の説明をする。
 山田はオデコにぐにゅ〜っと皺を寄せて言った。「そりゃあ一応調書を作るんだ
ろうから、誰っかしら事情を聞かれるかもしんないけど、それがその蛯原とかいう
パートじゃまずいだろう。やっは井上君、行った方がいいんじゃないの?」
「それは、あっちの警察に行けって事ですか?」
「いや、まんず、事情を掴んでおいて、顛末書ぐらい持っていないとまずいんじゃ
ないの? 俺もついていってやろうか?」
「いや、いいです」反射的に井上は断った。
 山田の顔を見ていて思ったのだ。
 ああいう初老の凸っぱちっていうのは、若者を出汁にして自分が生きがいを感じ
るに違いないのだ。
『ロッキー』のマネージャーみたいに。もっともあれは映画の登場人物だが。
『空手キッド』のミヤギみたいに。あれも映画の登場人物だが。
 リアルだったら、エディ・タウンゼントやら、マラソンQちゃんの小出監督など
だ。絶対にそうだ。だいたい蛯原もその傾向があるんじゃないのか。
「私一人で行ってきますよ。まだ斑尾は寒いだろうし」
「じゃあ俺に頻繁に連絡しろ」


●29

 30分後、井上は既に松本行き『あずさ』の車中の人になっていた。
 自由席はがらがらだった。背もたれを思いっきり倒すと、スマホで現場の人員の
チェックをした。

木3月24日 管理員:蛯原、榎本 24時間:大沼 清掃員5名
金3月25日 管理員:蛯原、榎本 24時間:鮎川 清掃員5名
土3月26日 管理員:蛯原、榎本 24時間:斉木 清掃員5名
日3月27日 管理員:蛯原のみ。 24時間:大沼 清掃員午前のみ1名

 松本駅で『しなの』に乗り換え、長野駅で飯山線に乗り換え、そして飯山駅で下
車する。
 プリウスのタクシーに乗ってくねくねした峠を上って行く。
 3時ちょっと過ぎには斑尾マンションに到着した。
 タクシーから降りると蛯原が旅館の番頭みたいに出迎えていた。
「お疲れ様。カバン、お持ちしましょうか」
「いいですよ」
 すぐ脇で、業者がマンホールに塩ビの下水管を運び入れていた。
「何やっているんですか?」
「温泉の水が溢れてくるんですよ。工事部の指示でやっているんですけどね」
「へぇー」
 管理室に入ると、ちょうどフロント側から、清掃の山城が入って来た。肩に20
キロ入りの石灰の袋を担いでる。
 ドサッっとNTTの盤の前に降ろすと、「ボイラー室に置いといたんだが、大沼
がダメだって言うんだよ。ろ過器が錆びるからって」言うと山城は出て行った。
「こんなの買ったんだ」井上はコートをハンガーに掛けながら言った。ハンガーは
パーテーションに引っ掛ける。
 蛯原がキッチンコーナーでインスタントコーヒーを入れて持って来た。
「明後日から又大雪だっていうんで居住者の歩く所だけでもまいておけって、工事
部に言われたんですよ」
「色々大変なんだなぁ」
 井上は油圧式チェアに、蛯原はパイプ椅子に座った。
  二人はコーヒーをすする。
「なーに、冬には冬の事、春には春の事をすりゃあいいんですよ」
  言うと蛯原はカップを煽って、上目遣いで井上を見る。スリや置き引きがター
ゲットを決めた瞬間に見せる狂った意志が浮かび上がる。
「そもそも雪かきなんていうのは、清掃員の仕事には含まれないんですよね」と蛯
原は言った。「規約にも自然災害、土砂等は管理には含まれないって書いてあるし。
まぁ、そうは言っても、こんな雪山のリゾートホテルですってんころりんされたら、
井上さんがお縄になりかねない。だから皆も納得してやっているんですよ。ただ、
手足が冷えちゃって可哀想ですよね。
 実は、このマンションの西に農家があるんですが、ここが建ったら日当たりが悪
くなったと言って、豚小屋にストーブを入れたっていうんですよ。そういうのは清
掃員が外周掃除の時に見て来るんですけどね。それで清掃員がね、『あそこの豚小
屋にはストーブがあるのに、ここの更衣室には何にもない。俺たちゃ豚以下だ』っ
て言うんですよ。とりあえず今はボイラー室で休ませていますけれども、俺たちゃ
豚以下だ、って迫られると私も辛いものがありますよ」
「まあ、そう連呼しないで下さいよ。夏には、『俺たちゃゴミ以下だ』と言って、
スポットクーラーを買わせたじゃないですか」
 このマンションには24時間ゴミ出しOKの屋内ゴミ置き場があって、そこには
臭い防止の為エアコンが設置されていた。
「あの時にはまいりましたよ。理事会から居住者から私の上司にまで『俺たちゃゴ
ミ以下だ』を連呼されて」
「そんなタカリみたいに言われてもなぁ。実際に清掃の皆はシモヤケ作って作業し
てんだから。ストーブなんてたった1万なんですよ」
「じゃあいいですよ、買っても。領収証もらっておいて下さいよ」
 井上は1万ぐらい安い、と思ったのだった。外部の除雪業者に頼んだら1人1時
間で1万円とられる。




● 30

「もう一杯コーヒーを入れましょうか」蛯原が言った。
「いや、もういいですよ。館内巡回して来ますよ。顛末書を作りに来たんだから」
「じゃあ、案内しますよ」
「いやいや、コートとカバンを置いていきますから、見といて下さいよ」

 井上は管理キーを受け取ると、居住棟に入った。
 エレベーター、アルカトロズ風通路を経由してAMの玄関に行くと、アイホンを
押す。
「大通リビングの井上といいますが」
 ドアの隙間から高橋が不信そうな顔を覗かせた。
  しかし明子の顔には、みるみるトキメキの表情が現れた。
 実は、これこれこういう訳で、東京から参ったんですが、と井上が言うと、
「あー、そうですか、そうですか。少々お待ちを」とドアを一旦閉めた。
 所長のローファーを足払いで下駄箱の下に押し込むとスリッパを並べて玄関を開
ける。
「このたびは大変な事で」みたいな挨拶を取り交わした後「ちょっと現場を見てお
きたいんですが」と井上が言った。
「どうぞ、どうぞ」と軒下の仁義みたいなポーズで奥へ奥へと招き入れる。「コー
ヒーでも入れましょうか?」
「いや、今飲んで来たところだから」とトイレ前に立ち止まると、「ここがトイレ
ですか。ちょっと失礼して拝見しますよ」
「どうぞ」
「ここに入っている時に出掛けたんですね」
「ええ。じゃーっと流した後に」
「よく覚えていますね」
「ちょうど大沼さんから電話があったんです」
「うーむ。じゃあちょっと写真を。顛末書に添付しますんで」言うとスマホで一枚
撮る。
 そして洗面所を挟んで反対側の風呂場を開ける。「ここで倒れていたんですね。
怖くないですか?」
「霊感ゼロですから。グロ耐性もゼロなんですよ。井上さんはグロ耐性、ありそう
ですよね」
「どっちかって言うと、そういうのには鈍い方ですね」言いながら風呂場の中を見
回す。「パイプマンにカビキラーか。みんな塩素系ですね。あの桶は温浴施設ので
すよね」
「あれは、カビキラーの中身を清掃の人が持ってくるんですよ。桶に入れて。どっ
かに業務用のが大量にあるらしくて」
「ふーん」と言いながらスマホで一枚。
 洗面所を見渡して「あ、このスイッチは常にオンにしておいて下さいね」と言っ
て、洗面台の横のスイッチを入れた。「これは下水管の換気扇のだから、入れてお
かないと、嫌なニオイがしてきますから」
 それからリビングに移動した。
「ここ、結露、ひどくありません?」
「夜間だけあれを回しておくんですよ。結露しないように」と明子は除湿機を指し
た。
「コンセントのところにぶら下がっているのは何?」
「タイマーですよ。古いやつだから、タイマー内臓じゃないんですよ」
「へー」言いつつスマホで一枚撮影。
  それから奥の方を見て、「あっちが和室ですか。ちょっと失礼して」言うとス
リッパを脱いで上がり込む。窓のところまで行くと障子を開けた。「ゴミ集積場が
見下ろせるんですねえ」
「そうそう、今朝私が出かける時、ここに所長が立っているのが見えたんですよ
ね」
「えっ?」
「今朝、郵便局に用があって出掛けたんですけど、ゴミ集積場から望遠鏡で見たら、
ここで所長が手を振っていたんですよ」
「望遠鏡で?」
「ええ。清掃の人が持っていたやつなんですけど。てか清掃の人と一緒に見たん
だ」
「へー」といいつつ障子をしめて、何気にクローゼットの横の押入の取っ手に手を
かけたが、「ここまで見なくってもいいか」と呟いた。
「はぁ?」
「いえいえ。あ、そうだ。後で聞きたい事があるかも知れないんで、一応携帯の番
号教えて貰えます?」
「あー、全然いいですよ」というと明子は自分の携帯の番号を教えた。
 井上はすぐにその番号に発信すると「それが私の番号ですから」と言った。「じ
ゃあ私はこれで行きますんで」
「そうなんですか。何にもお構いしませんで」
 玄関に行くと井上は中腰になって人差し指で靴を履きながら、「これからぐるり
一周回って、顛末書作って、なるべく早い電車で帰りたい」と唸る様に言った。
 足腰強そう、と明子は思った。
「もしよかったら、私が送っていっても…。どうせ私飯山市内に帰るんです」
「へー、何時頃ですか?」
「だいたい6時頃ですけど」
「じゃあ時間が合えばお願いしようかな。とにかく行ってきますわ」
「行ってらっしゃい」
 井上が出て行くと、明子はべたっと魚眼レンズにへばりついた。井上の背中が見
えなくなると和室に走っていって、障子を数センチ開けて見た。
 丸で家猫が野良猫に発狂するかの様であった。



● 31

 マンションの一階まで非常階段で降りると、井上はサブエントランス脇のドアか
ら外に出た。
 駐車場の西側を回ってゴミ集積場に出る。
「ふむふむ。ここから所長が手を振るのが見えたんだな。今は西日が差しているか
らよく見えるけど、朝方は逆光になって見えないんじゃなかろうか。それに距離も
結構あるので、あれが所長だ、と特定できるのだろうか」思うと井上は、高橋に電
話した。
「もしもし。先程はどうも。ちょっとお願いがあるんですけれども。さっきの和室
からゴミ集積場に向かって手を振ってもらえませんかねぇ」
 言うと同時に4階事務所の障子が開いた。早っ、と思ったが、とにかくそれをス
マホに録画する。
 それから立体駐車場に入ると、ぐるりと反対側に回って、エレベーターで最上階
に行く。
 屋根のない屋上は、全面にグリーンのウレタンが敷いてある。
 辺りを見回しながらスロープの方向へ歩いて行く。
 スロープ手前で、はめ込み式の壁の隙間から西日が漏れているのに気が付いた。
近寄って押してみると、ぐらぐらしている。
  なんだろう、と井上は思った。
  何気に足元を見ると、妙な傷が、ウレタンに付いている。人間の指ぐらいの大
きさで生爪を剥がした様に見える。
  一回剥がしたものを接着剤か何かでくっつけたのだろうか。
  そういう傷が、スロープに差し掛かった所から、壁面に向かって、左側にカー
ブする様に、点々と付いていた。
  床掃除に使うポリッシャーで掃除をしようとしたら左にそれて、壁に激突した
とか。そんな事ぐらいしか思い付かなかった。後で工事部に確認してみよう。

 駐車場を一階まで歩いて降りる。
 ゴミ集積場の前を通って、西の後方入り口から入館した。
 ボイラー室のドアがあったので開けてみた。ろ過器2機、ボイラー2機が轟々と
音をたてて動いていた。コインランドリーの大型乾燥機が空のまま回っているかの
様である。
  その手前にプラスチックの段ボールシートを敷いて、毛布に包まって寝ている
人が居る。
  24時間管理員の大沼さんが仮眠中なのだろう、と思った。
 ボイラー室を後にすると、更にドアを一枚解錠して、共用部のトイレの前に出る。
隣の清掃員更衣室のドアが開け放ってあって、清掃員が談笑しているのが見えた。
  井上が首を突っ込むと、
「今日はもう、ぜーんぶ掃除が終わったんで、時間が余ったんですよ」と額田が言
った。
「いや、いいんですけど」言いながら清掃員の雁首を見回した。4人が扇型に座っ
て居て、要の位置に遠赤ストーブがあった。
「もう買って来たんですか」
「いやあ、どうも」
「もう、俺たちゃ豚以下なんて言わないで下さいよ」
「そんな事言いませんよ」ぶるぶるぶるーっと激しく鼻っ先で手の平を振る。
 それから井上は壁でチカチカしているクリスマスの飾りを指して「あれは、なん
ですか」と聞いた。
「ありゃあ去年のクリスマスからぶら下がっていたんですよ。ストーブと一緒にコ
ンセントを入れたんじゃないの」
「じゃあ、その冷蔵庫は?」
「これも蛯原さんが拾ってきて、ベンダー屋からコーラもらって冷やしているんで
すよ。1本飲みます」言うと冷蔵庫の扉に手を掛けた。
「いや結構です。それじゃあ、火の元にはくれぐれも注意して下さいね」と言って
出て行く。
 井上が出て行くと4人は小声で話した。
  このストーブは斉木君の仕込みが実を結んだのだろうか。自分らがボイラー室
で休む様になった段階で独裁者はハブにされた様なもんだろう。今度は大通リビン
グがストーブを買ってくれたんだから、これは錦の御旗なんだから、自分らはここ
で休まざるを得ない。そうなると今度は独裁者が出て行かざるを得ない。そうして
気が付くとコーラやクリスマスの飾りが飾ってある。これは斉木君によればネオリ
ベのやり口だっていう事だよ。
 再び井上が首を突っ込んできた。「そうだ。今朝、ゴミ集積場で、AMの高橋さ
んに望遠鏡を貸した人っています?」
「私だよ」と大石が言った。
「それ、ちょっと見せてもらえます?」
 言われて、大石はエプロンのポケットから取り出すと渡した。
「これで所長が見えたの?」
「そうよ」
「これ、借りていいですか?」
「やるよ。くれる」
「どうも」と言うとスーツのポケットにしまって、その場を後にした。

 フロントに戻ると、カウンターの中に蛯原が、エントランスの床の上に榎本が立
っていた。
「ストーブ、みんな喜んでいましたよ」と井上。
「そうでしょう」と蛯原。
「それじゃあ、2階を見てきます。今、誰か温泉入ってます?」
「本日の利用者、ゼロでーす」と榎本。
「井上さん、入って来たらいいじゃないですか。自分で首まで浸からないとお客さ
んの気持ちは分かりませんよ」
「でもタオルとか持っていないし」
「タオルだったらありますよ」言うと蛯原は管理室に入ってmyタオルを取って来
た。「はい、これ。冗談ですよ。ちゃんとこっちに綺麗なのがある」と白いタオル
を出す。
「おーっほほほほほ」榎本の笑い声がエントランスの天井にこだました。










#1074/1112 ●連載    *** コメント #1073 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:13  (323)
斑尾マンション殺人事件 7
★内容

● 32

 その頃、2階の休憩スペースでは、山城がソファーに座って、見るでもなくテレ
ビを眺めていた。
 くそー。と山城は思う。
 何で俺の居場所が無いんだ。ボイラー室には大沼が仮眠しているし、清掃員更衣
室では額田以下が時間を潰している。だいたいあいつらは俺の兵隊だったんじゃな
いか。
 テレビのチャンネルは地元のケーブルテレビ局だった。飯山の新幹線新駅が映し
出される。
 山城は、腕組みを解いて身を乗り出した。
 山城はあの近所に2ヘクタールの田んぼを持っていた。
 売れば億になるが売らない。米も売らない。みんな親戚に配る。皆にそう言って
やった事があった。それで皆、俺を妬んでいるのかも知れない、と山城は思った。
 いや、あいつらそれぞれ、土地を持っているものな。
 やっかむとしたら、24時間管理員の中年ぷーたろーどもだ。
 特に斉木だ。
 あいつは、飯山から更にバイクで20分も行った原野でアパート暮らしをしてい
る。
 ああいう、持たざる者は人民主義者の扇動家になったりするんじゃなかろうか。
 そういえば、先月の今頃もそういう事があった。
 AMの懇親会も兼ねて、飯山雪祭りを見物に行ったのだが、俺と斉木が、清掃員
と管理員をそれぞれ代表して、早い時間に行って場所取りをした。俺は行きの電車
の中で、ワンカップと柿ピーで一杯やっていた。
 そうしたら斉木が「こんなに混んでいるのに、目の前に子連れの妊婦が立ってい
るのに、つーっと飲んでんじゃねえよ。丸で朝マックの時間帯に、朝刊を広げる散
歩帰りの年金生活者みたいだ」とかなんとか言ってきやがった。
 俺の方が先に座っていたのに何で譲らないといけない、と俺は思った。
 それにあの女は、豊野駅で急行から乗り継いできたので、県外のよそ者なのだ。
 それが証拠に、ガキの鼻水を拭いたティッシュをそこらに捨てて行ったじゃない
か。
 それを拾って、俺はワンカップの空き瓶と一緒に捨てた。
 すると斉木が「携帯灰皿を持っているだけで迷惑かけていないと思っている勘違
いじじい」とか言ってきやがったな。いちいち。
 会場に着くと、雪中花火大会に備えて俺はビニールシートを広げて場所取りをし
た。
 夜になるとだんだん混んできて、押すな押すなになって来た。
 後から来た奴が羨ましそうに見ていたが、あれは、俺の畑の周りに住んでいる団
地族の視線だ。
 その内、子供を抱っこしていた母親が「すみません、ちょっとここに座ってもい
いですか? 気分が悪くなって」とかなんとか言ってきやがった。
 俺は言ってやった。「あんた甘いんだよ。こっちは昼間っからここで頑張ってい
るのに、今更のこのこ出て来て座れると思ったら大間違いだ」
 そうしたら斉木が「おーい、みんな、ここは誰の土地でもないんだぞー」と言っ
て、回りに居た群衆がざーっとなだれ込んできた。
 それでも、結局、あいつら、飲んだり食ったりしたものを片付けて行かない。最
後に俺が一人で掃除したんだ。
 山城は、ふーっと憤怒の鼻息を吐いた。
 テレビを見ると、飯山の緑の田んぼに、アパート、マンションが迫っているのが
分かる。
 丸で皇居に迫る雑居ビルじゃないか。あんな奴らに俺の田んぼを汚されてたまる
か。お堀でも掘りたいよな。
 ふと人の気配を感じて暖簾の方を見ると、スリーピースを着た長身の若者が、不
動産屋みたいな営業スマイルを浮かべながら迫ってくる。
「どうもー」と言いながら井上が斜め前のソファーに座った。
「もう今日の仕事は終わったよ」チャンネルを変えながら山城は言った。
 液晶画面に韓流スターが現れた。東方神起だと? 正月に紅白に出ていた奴らだ。
「あんたこういうのをどう思う」
「は?」
「大和撫子がこういうのにきゃーきゃーしていたら面白くないんじゃないのかね」
「さぁ」
「実は泉がそうなんだ」と山城は言った。
「イズミ?」
「清掃の泉だよ。あの馬鹿は、紅白にああいうのが出るのはいい事だと言う。ああ
いうのが出ればジャニーズが独占状態のダンスボーカルの世界にブレイクスルーが
起こるとかなんとか。
 泉の小理屈などどうでもいい。
 それに、俺はいけないって言っているんじゃないんだ。紅白に出る事はないだろ
う、って言ってんだ。
 俺だって、コレアンパブでマッコリ飲みながらトロットを聴く事もある。
 だけれども鎮守の祭りでアリラン流す事は無いだろう。
 そうだ、思い出した。
 あの時、泉に説教していたら、又又あの斉木がどっからか湧いて来やがったんだ。
 そして、俺はただ単に、大和撫子から戦艦大和を連想して、戦艦大和の主砲は東
京湾から駿河湾まで飛んだ、と言っただけなのに、あの野郎は、大和の主砲で大和
撫子の貞操を守ろうってか、とか絡んで来やがった。
 斉木はガキの頃、戦艦大和は世界最大級の戦艦であり、本当はもっとでっかい戦
艦を造れたんだけれども、ワシントン海軍軍縮条約で、米英日5対5対3って決め
られていたから、それ以上でっかいのは造れなかった、と学校で教わったと言う。
そして家に帰って『コンバット』を見ていたら、サンダース軍曹がダッダッダッダ
ッーっとドイツ人を撃って居たので、帝国軍人だったらそう簡単にはやられない、
と言ったら、奴の親父が、旧日本陸軍38式は一発ずつしか出ない、と言ったとい
う。
 斉木は言う。一発ずつしか出ない? は? どういう事? 一発ずつっきゃ出な
いんだったら、外れたらどうするんだよ。いきなり降伏かよ。そんなの聞かされた
ら、ワシントン海軍なんたら条約なんて、脳内条約だったんじゃないのってと思え
てくる。考えてみりゃあ、日本なんて帝国主義と関係ないものなあ…。
  そう言うんで、俺は、ただなんとなく、日本は大日本帝国だろう、と言ったん
だよ。
 そうしたら斉木が、
 まさかそれって、日本帝国と、モンゴル帝国とかローマ帝国を一緒に考えていな
いよねえ。まさか、俺、そんな馬鹿と話していた訳じゃないよね。ねえ。
 あの野郎、最初から挑発して俺を誑しこむ積もりで誘導していやがったんだ。
 俺は、かーっとして、
 この野郎、失礼な事いってんなよ。本当に憎らしいんだから。お前気をつけろよ、
みんな言ってるぞ、俺じゃなくてみんながお前んところに行くぞ、と怒鳴ってやっ
た。
 するとあの野郎、
 そんなに興奮する事ないじゃないですか。頭、つるっぱげになる歳なんだから、
とか言いやがって」
 山城は、東方神起など観るのも不愉快という風にチャンネルを変えた。
 今度はサッカー中継だった。
「キリンカップは原発事故を受けて中止となりました。本日は、1970年代、
ヨーロッパサッカーを代表する、カイザー・ベッケンバウワー、ボンバー・ミュー
ラー全盛時代のドイツと南米サッカーの歴史をダイジェストでご覧頂きます。解説
は元日本代表の夜露死苦・アルマンドさんとホセ・愛羅武勇さんです。お二方、ど
うぞよろしく」
「サッカーは点取りゲームかね、それとも陣取りゲームかね」突然山城が井上に言
った。
「うーん。ドイツサッカーなんて、セットプレーで陣取りゲームっぽいですよね。
南米サッカーはコンビネーションプレーで点取りゲーム的かな」
「そうだよなあ。前にワールドカップを見ていたんだよ、蛯原と。勿論休憩時間中
にね。そうしたら、セットプレーに終始して、全然シュートを打たないんで、撃
てー撃てーッって言っていたんだよ。そうしたら又又どこかから斉木が湧いてきて、
絡んできやがる。
 まったくこいつらサッカーというよりかは競馬やボートでも観ている感じだな、
まくれー、まくれー、みたいな。まぁ、サッカーよりかはボクシングが似合いだけ
どな。それもファイティング原田とかジョー・フレージャーみたいに、ひたすら攻
めて行くタイプのがいいんじゃね。しかし、ああいうファイターっていうのは何で
凸っぱちで手足が短いんだろうか。それにしても、日本のサッカーって、どうして
相手がどんなんであろうとも、セットプレーを繰り返すんだろうねぇ。いくらサム
ライ日本つっても、元寇相手に、一騎打ちを臨む鎌倉武士じゃないんだから…
 とかなんとか言い出して、それから又、コンバットがどうの言い出したな。
 本当はサッカーっていうのは、『コンバット』の要塞攻めみたいなもので、足の
速いケリーはあそこの切り株まで走れ、リトルジョンは左の茂みから回りこめ、
カービーは後ろから援護しろ、みたいに、相手に応じて変わるし、仲間は有機的に
繋がっているって感じなんだけれども、日本のサッカーって、ひきこもりの詰め将
棋みたいな感じだな、
  とか何とかなんとか言っていた。
 とにかく俺は、そんな事言ったって、突っ込まないと点を取れないじゃないかっ
て言ったんだよ。そうしたら、
 もしかして、サッカーの事、点取りゲームだと思っていない? あれは陣取り
ゲームなんだよ。だからオフサイドがある。陣地を確保するまでは撃てないんだよ。
まさか知っていたよね。それを知らないんじゃあ、アウェイで日の丸振っている馬
鹿と同じだよ。
 又、こいつは最初から俺を誑しこむ積もりでいたんだな。
 それでかーっとして、
 どうしてお前は、そういう食ったこと言ってくるんだ。最初からおちょくる積も
りで言ってんだろう。一丁スポーツでもするか、表でるか、と怒鳴った。
 そうしたら、
 そんなに吠えないで下さいよ、犬みたいに、と斉木は又又嫌味を言う」
 山城は鼻の穴全開にして、鼻息を荒げている。
「斉木さんの言っている事は適当じゃあありませんね」井上が言った。「『コンバ
ット』の要塞攻めはコンビネーションプレーでも陣取りゲームだったんですよ。そ
もそも、ノルマンディー上陸作戦自体、オフサイドみたいな作戦だったから、アウ
ェイで戦うんだから、コンビネーションプレーをするしかなかったんですが。なん
でそんな事をしていたかっていうと、ソ連と陣取りゲームをしていたからなんです
よ。あれを点取りゲームとは言えませんね」
 何を言っているんだこいつは、と山城は思った。『朝までテレビ』の軍事評論家
の様な奴だ。
  俺は、ノンルマンディー上陸作戦などどうでもいいんだよ。
  そんな事より俺の田畑を守らないと、あのすばしっこいイタチから。まだ早春
だというのに、地震の影響か、ぼちぼち出てきているのだ。あんなの竹やりで突っ
ついても本当に鎌倉武士みたいなものだ。強力な薬品で、一気に駆除してやる。そ
んで、みんな隣の養鶏場に追いやってやる。あそこは、東京から来た奴がペルー人
を使って経営しているから、イタチがペルー人を食ってしまえば、一粒で2度美味
しいじゃないか。そうだ。今夜まいてやる。大々的に。
 そう思うと、山城は腰を上げた。



●33

 30分後、茹だった体にYシャツ、ノーネクタイという格好で井上は戻ってきた。
 管理室の中では、大沼が暇そうに回転椅子を揺らしていた。
「これから朝までこうしているんですか?」
「しょうがないやろ。出前でもとる?」
「そういえば、腹減ったなぁ」
「そば? 中華?」
「そばの方が温泉っぽいですよね」
「じゃあ長寿庵や」言うと引き出しから品書きを出した。「わしゃ、カツ丼や」
「じゃあ僕は」と品書きを見ながら。「カツ丼と天ぷらそば」
「食うねえ。若いから」言うと、管理室の電話で蕎麦屋に電話する。
 フロント側の入り口から私服に着替えた榎本が入って来た。
「帰りまーす」と言いながらホワイトボード横のタイムカードで打刻するとそのま
ま出て行った。
「あの人、足はあるんですかね」
「旦那が迎えにきとるんやろ」
「へー」
 すぐに蛯原も現れる。「じゃあ、私も帰りますんで」
「帰るんだ」
「何か?」
「別にいいですけど。足は?」
「私はバイクで通っているんですよ」
 蛯原もジーっと打刻した。

 同じ頃、4階の事務所で高橋もタイムカードを押したところだった。
 玄関に施錠すると、通路、エレベーターの順番で降りて行った。
 共用棟に移るとエントランスは既に真っ暗だった。
  管理室の扉が開け放たれていて、光が漏れて来ている。
 その中に入りつつ「帰りますけど」と言った。
 回転椅子の大沼と、パイプ椅子の井上が同時にこっちを向いた。
 何だ、あの頭の形は、と明子は思った。丸で、星野一義と鈴木亜久里ではないか。
ヘルメット取っても又ヘルメットって感じ。そういえば、セナもプロストもああい
う感じだった。やっぱりメカに強い人はああいう頭の格好をしているのだろうか。
「なに、見とるんや」大沼が言った。
「私、帰りますけど、井上さん、乗っていかないんですか?」
「出前、頼んじゃなったんですよ」
「泊まってったらええやん」
「しかし…」
「今から東京、帰んのんか」
 確かに言われてみるとすごいかったるく感じがした。
「スタジオで寝ればいいんや。静かやでー」
「奥さん待っているんじゃないですか?」
「え、僕って、そんなに所帯じみて見えます?」
「一人もんや。泊まってったらいいんよ。なんだったら街にでも繰り出して。冗談、
冗談」と笑う。
「じゃあ、僕、泊まってきます」
「じゃあ、私、帰ります」
  と2人を見ていて、大沼はボンドという台詞を思い出した。
  そうだ、試してみようという悪戯心が起こった。
  大沼に近寄ると、明子は「お疲れさま」と言って肩に手を置いた。
  瞬間、ブルース・リー風にあちゃーっと唸って払ってきた。
「なんの真似?」驚いて手を引っ込める。
「いや、一応、一回は一回って事で」
 信じられないと明子は思った。こいつら大人かよ。こういうのが世の中に20%
もいるのか。
 とにかく、そのまま退場したのであったが。


● 34

 2人は出前を食べ終わると、2階の自販機で買ってきた緑茶を飲んだ。
「そう言や、井上さん、顛末書の下書きって出来たの?」
「それはですねえ」
  井上はポケットからスマホを出すと擦った。「こんな感じですよ。今朝の高橋
さんの行動を振り返ると、まず所長が便所で水を流した直後に出掛けて、この管理
室を通過して、ゴミ集積場でみんなと一緒に所長に手を振って、車を出して、大沼
さんを迎えに行って、帰って来て下ろして、駐車場に車を戻して、そして4階事務
所の玄関前から管理室へ電話した、と。以上をホワイトボートに書きますと」言う
と井上は書いた。

8 : 10 大沼から着信
8 : 15 エントランスに高橋、現れる
8 : 20 ゴミ集積場に高橋。所長に手を振る
8 : 25 高橋出発。
8 : 45 高橋帰ってくる。
空白の30分超。
9 : 20 4階より管理室に電話。

 そしてパイプ椅子に戻った。
「この大沼さんから電話っていうのは証明できますか?」
「できるで」大沼は携帯を開いて発信記録を見せた。
「その次の、エントランスに現れるっていうのは防犯カメラに写っていますか?」
 大沼が監視カメラのビデオを巻き戻して時間をチェックすると、確かにその時間
に高橋はエントランスに現れていた。
「じゃあ、8時25分にここを出て45分に戻って来られますかねえ?」
「わしが一緒やったからなあ」
「マンションに帰って来てから、4階の事務所に戻って管理室に電話をするまでが
30分以上もありますよね」
「便所に入ってたんやろ。更衣室の隣の共用部の便所に」
「それはカメラに写っているんですか?」
 またまた大沼が再生して確認する。
「写っとるよ」
「そうすると時間は正しいとして。私の大胆な推理はこうです。所長は便所で死亡
した。トリックは、便所の水溜りにサンポールか何かの酸性の液体を入れておいて、
ウォシュレットのノズルの中に塩素系の液体を入れておく。そしてケツを洗った瞬
間に混ざって塩素ガスが発生する」
「だけれども流した音はしたんやろ。それで流れて証拠隠滅になるかも知らんが、
流したのは本人やから生きていたちゅー事やろ」
「じゃあ、ウォシュレットじゃなくて、便所の水溜りに酸性のもの、タンクの中に
塩素のものを入れておいて、流した瞬間にガス発生、っていうのはあり得るかな
ぁ」
「苦しいなあ。じゃあ仮にそこで死んだとしてやな、その後、望遠鏡で見とるやろ。
大石さんと一緒に。手ぇ振って。それはどう説明するんや」
「今日、ここに来る時、プリウスのタクシーに乗ったんですよ。そうしたら、フロ
ントウィンドウにメーターだのナビだのが映るんですよね」
「なんの話や」
「いや、それで思い付いたんですけど。こうやって予め所長が手を振っているシー
ンを撮影しておいて」言うと、スマホのカムレコーダーを再生して大沼に見せた。
事務所の窓からゴミ集積場に向かって手を振る高橋が映っている。そして井上は望
遠鏡を取り出すと、スマホのディスプレイにくっつけて大沼に覗かせた。「こうや
って、朝のゴミ置き場で大石さんに覗かせれば、あたかも所長が和室から手を振っ
ているように見えないですかねえ」
「ほー」
「まだあるんですよ。実は、高橋さんは、自分が出かけている間に所長が発見され
るように仕組んで行ったんじゃないかと思って」
「どうやって」
「便所で所長が死ぬでしょう。その後高橋さんが所長を風呂場に引きずって行くん
ですよ。洗面所を挟んで隣だから短時間で出来るでしょう。
 そして、自分が出かける時に玄関の鍵を120度ロックして警戒
定するんですよ。
 こうしておいて、高橋さんが市内に行っている間に警報がなってナルソックでも
来てくれれば、アリバイが成立するじゃないですか。
 じゃあ、どうやって警報を鳴らすか、っていうと、これですよ」
  言うとスマホのカメラで撮った除湿機を表示して見せた。「そのコンセントに
タイマーがぶら下がってますよね。それ、8:30にセットしてあったんですよ。
それが夜間なのか朝なのか分からないけれども、朝だとしたら…。その除湿機を見
て下さいよ。吹き出し口の所にリボンがついているでしょう、電気屋に展示してあ
るみたいに。そうすると、8:30になって、除湿機が動き出すと、リボンが舞っ
て、センサーが感知して、警報が鳴ると。ところが作動しなかった。何故なら、そ
のタイマー、50Hzなんですよ。AMの元の事務所って飯山市内にあったんです
よね。あそこって、東北電力だから50Hzなんですよ。ところが斑尾はこんなに
近いのに中部電力だから60Hzなんですよ。それで作動しなかったんじゃないか
と」
「そんなアホな」大沼は笑った。「そんな芸の細かい事、する訳ないやろ。仮に上
手く行ったって、ネタがみーんな残っとるやないか。そんな事せんでもわしやった
らなあ」大沼は自説を語り出した。「あの部屋、下水管の換気扇のスイッチ、切っ
てあったやろ。だいたい引っ越してきて2、3週間はみーんな気付かないんやけど
な。
 そんでな、ここのマンション、安普請やから便器がI社なんよ。世の中の大部分
はT社やろ。T社のは大の時には手前にレバーを引くんや。そやけど、I社は逆な
んや。そうすると大でも小しか流さんやろ。そうするとS字のところで詰まるんや。
しかも換気扇のスイッチが入っていないから、ニオイが逆流してきよる。そういう
クレームが何十件もあったんや。そんで、ニオイが入ってくるっちゅー事は、塩素
ガスも入って来るってことやろ。
 でな、あの事務所の上の階も下の階も空き室なんよ。だから、下の階で下水管に
詰め物してやなあ、上の階からまず塩化カルシウムでも入れて、それからサンポー
ルでも入れてやれば、事務所ん中に塩素ガスがたちこめるやろ。そんで、あとで詰
め物を外せば密室犯罪や。どや」
「可能かも知れませんね。まず下の階の下水管に詰め物をしておく。それからター
ゲットの部屋の水道の元栓を止めてしまう。そうすれば便所の水を流した後、S字
の箇所に水が溜まりませんからね。そこで上の階から塩素と酸を下水管に流し込む。
塩素ガスが発生してターゲットの部屋にたちこめる。ミッションが終了したら、下
の階の詰め物を外す」
「そやな。それで出来るかも知れんな」
 ラクダ頭の二人は密室トリックについて夜遅くまで語っていた。









#1075/1112 ●連載    *** コメント #1074 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:14  (398)
斑尾マンション殺人事件 8
★内容

 35


 その頃、そこから10数キロ離れた信州中野駅の出口の柱に、斉木は寄り掛かっ
て立っていた。
 化繊ダウンのフードを被って、『Can't Buy Me Love』を口ずさみながら。
  can't by meだと思っていがcan't buy meなんだな、と斉木は思った。
  ポールは何時でも他人の事を歌う、とジョンは言うが、ちゃんと環境の中で感
じて歌っている気がする。具体的な環境の中に自分が居て、相手が居て、インター
フェースは金じゃあダメ、と。ジョンの場合、自分の事を歌うと言っても、環境と
は無関係な脳内自己だからなぁ。なんだか商品に興味の無いセールスマンと話しを
しているみたいだ。
 そんな事を考えていたら、いきなり尻の肉をつねられた。
 斉木が振り返ると、カミーラが笑っていた。飯山駅で大沼に抱き付いていた日系
人だ。
 女が頬を突き出して来るので、斉木は一応チュっとやった。

 歩道を横切ると、すぐにタクシーに乗った。
 後部座席で、カミーラは財布からCDのチラシの切れ端を出した。
 小さく折り畳んであって、端っこは擦り切れていた。
  こんなもの後生大事に持ち歩いているんじゃあ本当に欲しいCDなんだろう、
と斉木は思った。
「TSUTAYAに行けばあるかも知れないよ、ラテンのCDも」
  言うとカミーラの横顔を見る。額から鼻のラインが真っ直ぐだった。
  ローマ人の末裔だね、と思う。コインに彫ってあってもおかしくないよ。
  彼女は日系人だが、色々混血していた。インディアだの西洋人だの。
 こんな女が大沼にアモルを感じている訳はない、と斉木は思っていた。
  だいたいそんなに日本語を喋れる訳じゃないので、コミュニケーションが取れ
ないだろう。ただ単に携帯をくれたり、送金したりしてくれるから、便利だから付
き合っているだけだろう。
  しかし、しばらく観察していると、これってアモルがあるんじゃないのか、と
思える場面に遭遇する事があった。例えば、何か美味しいものを口にすると、「美
味しい」と喜んで、同じスプーンで大沼の口に運ぶとか。ガムが一枚あったので大
沼が何の気なしに口に放り込んだら「どうして自分に半分残しておかない」と本気
で怒るとか。ただの便利屋だったら、そんな事するだろうか。
 斉木は、自分はローマ人の末裔に愛される訳がない、と決め付けていた。しかし、
大沼が愛されているのを見ると、あんなのは元設備屋のおっさんだろう、という事
はカミーラなんて設備屋の女じゃないか、だったら俺の方が…と思えてくるであっ
た。
  これってきっと、クラプトンが、芋ジョージに比べりゃぁ…とパティを寝取っ
たのと同じだろう、と斉木は思った。
「何、考えている」カミーラが言った。
「あぁ、あそこの店は大きいけど、でも、田舎だから無いかも知れない」
「そうしたらあなたがインターネットで買ってくれればいい」
「大沼に頼めばいい」
 カミーラは自分の肘をとんとんと叩いて「タカニョ」と言った。
 これはケチ、という意味だ。
  彼女らの生業は養鶏場の労働者だが、小遣い稼ぎに売春もしていた。潰れた映
画館の、コの字になった廊下の左右の喫煙所に布団を敷いて、一発5千円で客をと
っていた。入り口の売店横の喫煙所が置屋みたいになっていて、テーブルの上には
ウィスキーだのペットの天然水だのが置いてあった。一杯やりながら女の品定めを
するのだ。女は4、5人居た。
  ある時女がコップに紙ナプキンを被せて100円玉を乗せて、火の付いたタバ
コで穴を開けるゲームをやろうと言ってきた。
「私が負けたらキスしてあげる。あなたが負けたら千円頂戴」
「何で俺が金を払わなきゃいけないの?」斉木は真顔で言った。
  女が「タカニョ」と言って肘を叩いてきた。
 しかし斉木は、ここで鼻の下を伸ばしてそんなゲームをやったら本当に馬鹿にさ
れるだけだと知っていた。
 こいつらの前ではおまんこ泥棒に徹するべきなのだ。それでこそ一目おかれる。
マラドーナの神の手みたいなのが尊敬されるのだ。映画館では5千円は払うのだが、
あれは入店料みたいなものだ。チップを払った訳じゃない。店外デートでただまん
を決めればおまんこ泥棒は成立するのだ。Can't Buy Me Loveだ。
「これ、素敵だな」斉木はカミーラのピーコートを摘んだ。「大沼が買ってくれた
の?」
「そう」
「その方がずっといいよ。それだったら普通の留学生に見えなくもない」
 もし今夜あの立ちん坊みたいな格好で来られたらどうしようかと思っていたのだ。
 ところが留学生という意味がわからずカミーラは眉間に皺を寄せた。
「スチューデント」と斉木が言う。
 ああ、と言って彼女はにこーっと笑った。
 その表情の表れ方が、スルメを網に乗っけたぐらいの勢いだったので、表情があ
るよなぁ、と思った。これだったら西洋人からしてみれば日本人なんてアルカイッ
クもいいところだろう。
 斉木は前を向いた。
 何の積もりかカミーラが斉木の腕を抱えて身を寄せてきた。
 コートの上からでも胸の膨らみが分かる。
 ちんぽがぴくぴくっと反応した。
 CDの2、3枚も買ってやりゃあ、俺のアパートに来るかも知れない。待て待て。
そんなことして何になる。八百屋の姉ちゃんに余った野菜を貰う様なものじゃない
か。そんな事するぐらいだったらおまんこ泥棒に徹した方がいいのだ。CDは自分
で買わせて、どさくさにまぎれて一発やってやる。

 ビルに入るとエスカレーターに乗った。
  吹き抜けの向こう側の店が、年度末の決算セールとかで、キラキラと飾り付け
されていた。カミーラの目もきらきらしてきた。
 こりゃあ気を付けないとやばいぞ、と斉木は思った。
 エスカレーターを乗り継ぐ時にワゴンセールをやっていて、ちょっと油断をした
隙に、「あそこに風船が浮かんでいる」と言ってカミーラはワゴンに吸い寄せられ
て行った。
 「ちょっと、みるみる」と言って見る。ミロだのミレだのはスペイン語でも『見
る』だ。
 ワゴンの靴を取り上げて、頬ずりすると、「ああ、柔らかい。こんなにソフトな
靴はペルーには無い。お母さんが履いたらベリー・グー」
 斉木は用心した。この先は「でもまだサラリーない。あなた助ける出来ます
か?」となるんだろう。そして買ってやると、レシートも寄こせという。そして養
鶏場で誰かに転売だ。
 そうなる前に、斉木はワゴンから彼女を引き離した。
「ああいうのはみんな4月になれば半値になる。そうしたら大沼に買って貰え」
 こうやってけん制して、マラドーナが肘でけん制しながら5人抜きをするように、
タカニョの肘でけん制しながらただまんにゴールしてやる。

 TSUTAYAには南米のサルサは無かった。それどころか、ラテンのコーナー
すら無く、ワールドミュージックのコーナーに、グロリア・エステファンだのリッ
キー・マーティンだの、超ポピュラーな物が10数枚並んでいるだけった。
 それでもカミーラはしゃがみ込むと、CDの背中をなぞってみたり、唇をつまん
で考えたりしていた。
 何を考えているんだろう、と斉木は思った。養鶏場で転売できる商品はないかな
ぁ、この機会を逃したら次は何時たかれるか分からない、とか?
「無理して買わなくもいいよ」斉木はフランクに言った。「あなたの欲しい曲はイ
ンターネットでダウンロードしてきてあげるよ。その代わりその金でステーキを食
べよう」
「ステーキ?」
「そうだよ。こんなに大きなステーキが1500円なんだ。サラダバーもついてい
る。ビールも」
「ふーん」と言うとカミーラは唾を飲み込んだ。
 斉木は、カミーラの脇の下に手を突っ込んで引っ張り上げると、そのまま売場の
外に引きずり出した。
 ところが、すれ違いに田舎っ臭い男女が、入って来た。
 サルサがどうの言っている。
「あいつら、サルサなんて聴くんだろうか」と斉木は思った。
 目で追って行くと、さっき自分らが見ていた棚を見ている。
 突然斉木は、「やっぱりここまでのタクシー代を考えると、何も買わないで帰る
のは馬鹿馬鹿しい」と言い出した。
 カミーラを引っ張って行って、そいつらの横に並んだ。
  田舎者は「エステファンっていうのは亡命キューバ人を売りにしているんだよ
ねぇ。本当のクーバって言うのはブエナビスタみたいな、ソンみたいな」等々、村
上龍あたりのイベントで仕入れてきた様なネタを話していた。
「こんな所にロクなCDは一枚も無い」突然でかい声で斉木は言った。「甲府まで
行けば、養鶏場で鶏の首を落としているペルー人が沢山居て、そいつらのイベント
に行けばフェンテスのアナログ版をコピーしたのとかが手に入る」と、大沼から仕
入れたネタを、スペイン語混じりの日本語で、まくしたてた。
 その余りのテンションの高さに圧倒されて、田舎者達は退散してしまった。
 そして、対象が居なくなると斉木も白けたのだ。
 斉木は思う、「自分はジョン型だと思っていたが、てんかん気質の衝動みたいな
のも多少入っているじゃなかろうか」と。

 通りに出ると「あそこのビルにステーキハウスがある」と向いのビルを指した。
 その屋上のボーリングのピンを見て、「あれはなに?」とカミーラが聞いた。
「ああ、あれは」と脳内で説明の文章を組み立てようとしたが、なかなか上手く行
かない。
 百聞は一見にしかずだ。そう思うと斉木はカミーラの手を引いて、向いのビルに
入った。
 2階のボーリング場フロアに行くと、ボールの棚の所から、レーンを見る。
 若い男女4人組がボールを投げていた。
 斉木自身、ボーリング場に足を踏み入れるのは10数年振りだった。
 ボールがレーンを滑っていく音や、ピンの砕ける音が迫力があって、全く贅沢な
遊びをしていやがるなぁと感じた。
「あなた、これやった事ある?」カミーラが言った。
「当たり前じゃん」
「だったら私、やってみたい」
「おお、いいよ」
 フロントに行って、申し込みをすると靴を借りた。
 ボールを選びながら斉木は、スコアの計算方法を思い出していた。
 スペアだったら次のを足して、ストライクだったら2つ先まで足すんだったっけ。
 しかし、指定されたレーンに行ってみると、昔は自分で書いたものがプロジェク
ターで映し出されていたのだが、今や、ボールを投げると自動的に計算されてディ
スプレイに表示される様になっている。
 こりゃあ進化している。丸で懲役15年で出て来た奴がパチンコだの公衆電話だ
のの進化ぶりに目を白黒させる様なものなんじゃないのか。
 しかしそんな驚きはおくびにも出さず、「ボールを投げるとあそこに数字が出る。
2回で全部倒せばスペア。スペアだと…」とルールを説明してやった。「さあやっ
てみな」
 しかしカミーラはボールを抱えて、レーンの端まで歩いて行くと、その場にぼと
んと落とすだけ。後はレーンの傾斜でよろよろと転がって行き、ガーターになるだ
けだった。

 ステーキハウスでメニューを見ながら「これ、スパイシー?」とカミーラは聞い
た。
「スカイシーなのは苦手なの?」
「私はスパイシーなのは嫌いだよ」
 何故スパイシーなのが嫌いかというと、昔、ヨーロッパ人は武器をアフリカに運
んで奴隷狩りをし、奴隷を南米に運んで胡椒栽培をし、そして胡椒をヨーロッパに
持ち帰るという三角貿易をしたから、と日西英ごちゃまぜで言った。
 それは胡椒栽培じゃなくて綿花の栽培じゃないのか、思ったが。とにかくそれっ
て、豊かな商品をカミーラに見せびらかして、カミーラを田舎者に見せびらかして、
田舎者の疎外感を見て自分が喜ぶ、という三角貿易を皮肉っているのか、と思った
が、そんなに難しい事を考えられるわけないだろう。
 スパイシーではないステーキが運ばれて来ると、カミーラはそれを頬ばった。
 彼女を見ていて斉木は思う。さっきこの女を田舎者に見せびらかしたのは、ジョ
ン・レノンがジュリエット・グレコのそっくりさん、それがオノ・ヨーコだと思う
のだが、それを大衆に見せびらかした様なものだろう。でも、そんな事したって、
全く当事者感覚に欠ける。
  じゃあ何で、大沼はカミーラの当事者だって思えるんだろう。
「大沼って何なんだよ」
「恋人だよ」カミーラはあっさり言った。
  斉木はびっくりした。
「そんなわけないだろう。あいつは映画館で金を払ってお前を買っていたんだぜ」
「それはあなたも同じ」言うとジッと見据えた。
 この女、ここでそんな事を言うか、と斉木は思った。
 今は俺と居るんだから、大沼の事は棚上げにしておけばいいじゃないか。やっぱ
り、こいつもガムテープなんだな。ガムテープ同士でべっとりくっつけ。
「大沼は、タバコが好きでしょう」斉木が言った。「だから胸が悪い。後でサンタ
マリアかも知れない」サンタマリアとは死ぬという意味だ。「彼がサンタマリアに
なったらお金が入るでしょう。でも、日本人がいないとペルーにお金を持って帰れ
ないでしょう。どうする?」
「あなたが助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」

  養鶏場のアパートは、新幹線新駅の近くにあった。
  近所までタクシーで行くと斉木も一緒に降りた。
  舗装された農道を歩いていると、「アパートまで付いてくる気?」とカミーラ
が言った。
「俺のアパートはここから20分ぐらい離れているんだよ。タクシーで帰る気がし
ないから、朝までバスを待っているよ」
「こんなに寒いのに?」
「しょうがないだろう」
  それから2人は農道を歩いた。
  左手には田んぼ、右手には雑木林があった。真っ直ぐ行けば養鶏場がある筈だ
が、まだ距離があるので、飼料や糞のニオイはしてこない。空気が湿っているから
漂って来ないのかも知れない。
  湿った空気が空中で凍ってしまいそうな冷え込みだった。50メートルおきに
外灯があって光のワッカを作っていた。
  歩きながら斉木はカミーラの顔をチラ見した。これだけ寒いのに、マフラーに
包まれた顔は紅潮している。さっき食ったステーキが血になって体中を巡っている
んだろう。脇の下やおっぱいにも汗をかいるんじゃなかろうか。今ひん剥いてやっ
たら、湯気を立てるんじゃなかろうか。肛門の皺や、膣液に濡れた陰毛が目に浮か
ぶ。
「しょうがないから泊まって行ってもいいよ」彼女が言った。「でも私の部屋には
お姉さんが居るから、社長の部屋で寝ればいいよ。あそこは倉庫になっているか
ら」

  アパートの社長の部屋に入ると斉木は周りを見回した。
  倉庫といっても普通のワンルームでユニットバスもある。
  ここで一発やれる、と思った。
  壁に熊やらキツネの毛皮がぶら下がっていて、部屋の隅には猟銃が立て掛けて
あった。
「あれ、使えんの?」
「イタチを追っ払うんだよ」
「あんな所に放置しておいていいの?」
「何本もある」
 カミーラは一度部屋から出て行って、しばらくすると紅茶を入れて持ってきた。
それにたっぷりとブランデーを入れて飲んだ。
  斉木が「俺はT(tea)も好きだけれどもU(you)の方がもっと好きな
んだぜ」と言った。
「でも、I(愛)よりHが先だと順番が逆だね」
「でも、やって好きになるって事もあるだろう」と言いながらにじりよる。
「分かった、やるよ」とカミーラは言った。
 斉木は黙って服と下着を脱いだ。
「結構太いね。根元のところの絆創膏から血が出ている」とカミーラは言った。
 その太いのをずらすとカミーラは絆創膏をチェックした。
 斉木は痛さで少し顔を歪めた。そして言った。「安心しろよ。人にうつったりす
る病気じゃないから」
「でもシャワー、浴びてきて」
 斉木はユニットバスに入ると、シャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血
した。
  シャワーから出てくると彼女の姿はなかった。
  体を拭きながら待っていると、ドアが押し開けられた。
  隙間から銃身が差し込まれる。構えている奴の顔は見えなかった。
「こっちに向けるな」と斉木が言った。
 しかしそのままズドンと火を吹いた。
  驚いて身をよじると、胸からどくどくと血が流れ出した。
  斉木は衣服を小脇に抱えると、ベランダに飛び出た。そこにあったサンダルを
突っ掛けると、手すりを乗り越えて、雑木林の中に入った。
  10数分歩いて、農道に出たところで、斉木は失神した。


●36

 翌朝、高橋明子は、マンションに向かう車の中でカーラジオを聞いていた。
  ニュース解説の評論家が興奮しながら喋っていた。
「いっくらねえ、原子炉が十数センチの鋳物で出来ていようと、そっから出ている
配管なんて、原発プラントというよりは、そこいらの水道屋の技術なんだから。そ
こらへんの継ぎ目から、放射線を含んだ湯気がしゅーしゅー漏れていても不思議は
ないんですよ。NYの冬場の景色を思い出して下さいよ。道路のあちこちから水蒸
気がもくもくと漏れてきているでしょう。あれはねぇ、NYの高層ビルにセントラ
ルヒーティングの熱湯を供給している会社があるんだが、その配管があっちこちで
ひび割れていて、それで漏れてきているんですよ。それと同じ技術でスリーマイル
の原子炉を冷やしているんだから、チャイナシンドロームが起こらない訳がないん
ですよ」
『チャイナシンドローム』のジャック・レモンは凸っぱちで蛯原に重なる。
 そう言えば蛯原も、ボイラー室の配管から水が漏れている、と所長に言っていた。
「いっくら大通リビングの工事部に連絡しても動かざること岩の如しなんですよ」
「いいんだよ、そんなの放っておけば。たとえ浴槽の底が抜けて理事長が素っ裸で
落っこちて来ようと、工事部にほうれん草した段階でAMとしては免責」と所長が
言っていた。
 そうなんだ、と明子は思ったものだ。
 いくらマンションの施工や管理がずさんでも、自分の属している会社だけはちゃ
んとしているのだ、と。
 ところがその所長が死んで24時間も経つっていうのに、何の指示も無い。こっ
ちから電話すればいいのだが、そうするまで何も言ってこないというのも不安だ。
 斉木あたりが、残業代がどうとか言ってきたらどうすればいいんだろう。まぁそ
の段階で連絡すればいいのだが。
 …てな事を考えている内にジムニーはマンションに到着した。
 自走式駐車場一番手前に駐車すると、何時もの様に、ゴミ集積場前、後方入り口、
廊下の順番で歩いて行く。
 エントランスに出ると、フロントは無人だったが、開放されたドアから管理室内
の騒がしい気配が伝わってくる。
 なんだろうと思って、勝手にフロントの中に入って管理室の中に半身を入れる。
 ジャック・レモンのようにYシャツに緩めたネクタイをぶら下げた蛯原がホワイ
トボードの日付欄に何やらごちゃごちゃ書き込んでいる。
 それを見詰める作業着姿の大沼と鮎川。
 この鮎川というのは、蛯原みたいな凸っぱちなのだが、イルカほどの俊敏性はな
くスナメリみたいな感じだ。
 その手前にスーツ姿の井上も居た。
 入り口には榎本の丸い背中。
「鮎川ちゃん、大沼さん、鮎川ちゃん、大沼さんで回していける?」と蛯原言った。
 24時間の管理員は3名が交代で行うのだが、2名交代でも行けるか、という問
いかけなんだろう。
 ホワイトボードにも
3月25日金 鮎川
3月26日土 大沼
3月27日日 鮎川
 と書いてある。
「俺は平気だよ」と鮎川。
「大沼さんは」
「ええけど、限度があるで」
「どれぐらい?」
「一週間やろな」
「それまでにAMから誰かくるとしても、ド素人をよこされてもなあ」蛯原が思案
顔で腕組みをする。「そうしたら、俺が24時間に回って、井上さん、フロントお
願い出来ますか?」
「え、僕が?」
「事態が事態だからしょうがないでしょう」
 明子は最後尾にいた榎本の耳元に「何かあったんですか?」と小声で囁いた。
「ちょっと、ちょっと」言いながら、袖を引っ張って明子を連れ出すと、榎本が言
った「斉木さん、撃たれたんですって?」
「は?」
「銃で撃たれたんですって」
「えー」とそっくりかえる。
 榎本はネットのニュースを印字したもの広げると読み上げた。
「昨日、深夜0時過ぎ、大字飯山の雑木林で飯山市上境在住のマンション管理員斉
木さんがイタチに間違われて猟銃で撃たれました。斉木さんは市内の病院に搬送さ
れました。弾は肺にまで達していましたが、一命は取り留めました。銃は近所の養
鶏場の宿泊施設から発射された模様ですが、養鶏場経営者によれば、昨夜はイタチ
狩りをしていないとのことです。警察は被害者の回復を待って事情を聞く予定…で
すって」
「まさかー。それで井上さんにフロントをやらせて、あの3人で24時間管理員を
やるって?」
「もう張り切っちゃってるんですよぉ」
 明子は管理室を覗き込んだ。
 大沼、鮎川、井上を相手に、蛯原が水性マーカーを持った手で身振り手振りで大
げさに指示している。
 何であいつが仕切っているのか、と明子は思う。
 井上がホワイトボードの前で指示を出すべきなのに水性マーカーで指されて「お
前がフロントに立て」とか言われている。
 明子は意を決した様に、管理室に入ると、「井上さん、ちょっといいですか」と
背広の肩をつついた。
「何ですか?」
「ちょっと」と言うと腕を取る。
「ななな、何、何」とヨロヨロしながらも明子に引っ張られてフロントまで出てく
る。更に「何ですか、何ですか」と言いながらも、ラウンジまで引っ張られて行っ
たのだが、しまいには「何なんだ」と大き目の声を出すと乱暴に腕を振り解いた。
 井上は眉間に皺を寄せて小鼻を膨らませていて、如何にも、男の職場に女がちょ
ろちょろするな的オーラを出していた。
 あー、すっかり蛯原の超音波にやられちゃっているんだなぁと明子は思う。
「井上さん、フロントに出る積もりですか」
「いけませんかッ」
「そんな事をして、もし居住者に、あれー、どうしたんですかーって聞かれたらど
うするんですか」
「えっ」
「いやー、ちょっとうちの管理員が銃で撃たれましてね、その交替ですよ、とでも
言うんですか」
「…」
「井上さんがフロントに立つって事は、斉木が撃たれた事はもちろん、日系人と付
き合っていたとか、全部井上さんが承知していた事になるんですよ」
「日系人?」
「聞いてないですか?」
「いや、なんにも」
  なんだ、聞いていないのか。そういう事を知りつつ、蛯原に鼻づら掴まれてい
い様に振り回されているのかと思ったら、そういう訳でも無いんだな。だったら自
分が説明してあげないと、と明子は思った。
「私、見たんですよ。大沼さんが日系人とぶちゅーっとやっているのを。駅前で。
  大沼さんに聞いたら、あれは養鶏場の女で斉木さんも絡んでいるって言ってい
ました」
「え? なに?」井上の目は宙を泳いでいた。「養鶏場の日系人女性が斉木さんを
撃ったって事?」
「そこまでは分からないけれども」
「うーん」井上は床の大理石のアンモナイトを見詰めて考えた。今一状況が掴めな
かった。斉木は養鶏場で撃たれて、大沼は養鶏場の日系人と関係がある、という事
か。だったら大沼に聞いてみようかと思ったが、下手な事を知ると、善意の第三者
では居られなくなってしまう。「本店に電話してみる」言うと管理室に戻ろうとす
る。
「どこに行くんですか」
「会社に電話」
「だめだめだめ。あの管理室に入ったら蛯原の超音波にやられちゃいますよ」
「はぁ?」
「あの人のそばに行くと、おかしくなっちゃうんですよ」
「しかし、こんな所から連絡するのも」と手を広げた
「うちの事務所を使ってもらってもいいんですよ」
「AMの?」
「そう。私も昨日あんな事があったんで、一人で居るのが怖いっていうのもあるし。
それよりなにより、井上さんの耳に入れておきたい事があるんです。でもそれは蛯
原とかにも関わる事なので管理室では話せないんですよ」
「蛯原も絡んでいるんですか?」
「たぶん」
「分かりました。じゃあちょっとカバンを取ってきます」
 そして二人で管理室に一旦戻る。
 まさに舌好調という感じで、蛯原が身振り手振りで大袈裟に「今我々が考えるべ
きことは」などと言っていた。










#1076/1112 ●連載    *** コメント #1075 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:14  (453)
斑尾マンション殺人事件 9
★内容

●36

 AMの事務所に入ると明子は、電気を付けたり、カーテンを開けたり、エアコン
を入れたりした。
 突っ立っている井上に「どうぞそこにお掛けください」とソファを勧める。
 そして井上が座ると、「そこ、昨日まで所長が座っていたんですよ」
「えっ」
「大丈夫ですよ。化けて出たりしないから」
 キッチンコーナーでアイスコーヒーを入れて、それを持って応接セットに戻った。
 コーヒーを飲みながら明子が言う。「蛯原さんって、井上さんをみんなの前で使
って見せて、何かの出汁にする積りなんじゃないですかね」
「実は僕もそう思っていたんですよ」と井上が言った。
 それから、共用部2階の雀荘化計画や、清掃員に遠赤ストーブを買わされた話な
どをした。
「でも遠赤ストーブにしても何にしても、私は策士というか、首謀者がいると思う
んですよね。蛯原さんは、そんなに計画的な事は出来ないと思うから」
「誰ですか。その首謀者って」
「斉木さん」
「だって、斉木さんって撃たれたんでしょ?」
「ですからそれはちょっと話が込み入っているんで、ぐーっと遡って時系列的に話
すしかないと思うんですよ。
  さっき耳に入れておきたいと言ったのもその話なんです」
 そして明子は、ぐーっと遡って時系列的に話した。
「所長や私がこっちに来る前は、24時間管理員は、飯山の事務所に日報を送って
きていたんです。bccで。
 それを印字して所長に渡すのが私の仕事だったんですけど、斉木さんは日報以外
にも、チクリメールも送ってきていたんです。
 それは、所長には現場で何が起こっているのかは分からない、とか、蛯原に聞い
たところで、自分に都合のいいジグソーパズルのピースしか見せないから所長は全
体像を把握出来ない、とか言う愚痴メールだったんですけど。
 でも、去年の春頃だったんですけど、かなり具体的なチクリメールが来ていたん
です。
 それはどういうものかと言うと、鮎川さんの前に草津さんっていう管理員が居た
じゃないですか。あの人は結局蛯原さんにイジメ尽くされて辞めたんですけれども、
それがどういう段階を踏んでなされたかっていうものだったんです。
 で、チクリメールによると、まず第一段階としては、朝の引継ぎの時に、蛯原さ
んが草津さんにこう言うんです。『昨日の3時頃、居住者からどこどこに犬の糞が
落ちているってクレームがあった。それで俺が掃除したが、あんた、気が付かなか
ったのか?』と。
 すると草津さんは『いやあ、気が付きませんでした』と言う。
 でも、実は蛯原さんは防犯カメラを巻き戻していて、草津さんが犬の糞を見て見
ぬふりをしていたのをチェックしていたんです。
 そして、『お前、嘘つくな、ネタは上がってんだぞ』と中学生だって体育館の裏
でやる様な事を引き継ぎの場で延々とやる。
 ここまでが草津イジメの第一段階です。
 第二段階としては、この『草津は嘘つきだ』というイメージの拡散です。所長は
勿論、井上さんにも、更には、居住者との世間話の際にも『いやー、草津がすっと
ぼけて取らなかったんですよ』等々言うんです。
 そして第3弾、というかトドメなんですけど。そうこうしているうちに、イーマ
ンションの口こみ掲示板に『夜の7時とか8時とかにフロントで居眠りをしている
管理員がいる』という書き込みがあったんです。
 そこで蛯原さんは、『草津に決まっている、カメラにも写っている』と言うんで
すよ。
 草津さんは『カウンターの内側のPCをいじっていただけだ。うつむいていたか
ら寝ているように見えるだけだ』と弁明するんですけど、蛯原さんは『また、草津
は嘘をついた』と言う訳です。
 つーか、それが事の真相だ、と、斉木がチクリメールで言ってきていたんです。
 それでですねぇ、こっからが重要な事なんですけど、ちょっと頓珍漢に聞こえる
かも知れないんですけど、その斉木が、夜な夜な、『ビートルズ殺人事件』という
小説も書いていたんですよ。
 それ、ネット上で見られますから、井上さん、スマホでちょっとググってもらえ
ません?」
「え?」井上は怪訝そうな顔をした。
「夕べ殺されかけた斉木が小説を残しているんですよ」明子は強い調子で言った。
「そっか」
  井上はスマホで検索すると『ビートルズ殺人事件』を表示した。
「うん。確かにある」
「じゃあ、それ、長いですから、スッチーで検索して、スッチーの一件だけ読んで
みてくれません?」
「すっちー」
「そうそう。そこの所だけ読んでもらえません?」
「今?」
「そう今。私、コーヒーを入れてきますから、その間に読んでおいて下さい」
 明子は、テーブルの上のグラス等を掴むと、キッチンコーナーに引き上げた。
 横目でちらちら井上を見ながら、ドリップコーヒーを入れる。
 そしてコーヒーカップを持って応接セットに戻った。
「そのスッチーの件って、草津さんお件と似ていると思いません?」と明子は言っ
た。
「どういう点が?」
「まず、ビートルズの場合だったら、バーの客が、ビートルズの誰かが外している、
と言った訳ですよね。でも誰が外したのかは分からない。そこでジョンは自分だと
思われたら困るから、ポールを使ってスッチーだと印象付ける。そしてこれ以上外
したらビートルズ全体が下手だと思われるとなると、いよいよスッチーを刺す。
ポールに『50セント返せ』と連呼させて。同時にスッチーには、『50セントぐ
らいなら友達なら返す必要はない』とでも言ったんじゃないですか?
 それを草津さんの退職に置き換えると、まず居住者が、管理員の誰かが居眠りし
ている、と言う、でも誰だか分からない。そこで斉木は自分だと思われたら困るか
ら、蛯原を使って草津だと印象付ける。そしてこれ以上居眠りしていたら管理員全
体が駄目出しされそうになると、いよいよ草津を刺す。蛯原に『草津は嘘つきだ』
と連呼させて。同時に草津には『休憩時間は休めよ。夜の7時から8時は休憩時間
だろう。お前が休まないと他のメンバーも休めない』とか言ったんじゃないです
か?
 つまり私は、草津さんの件の首謀者は斉木だと思う。斉木が蛯原を使ってやった
んだと」
 そこまで話すと明子は井上の様子をうかがった。自分の話が余りにも頓珍漢なの
で笑っているんじゃないか、と思いつつ。
 しかしそういう雰囲気もないので明子は更に言った。
「実は私、所長の件も首謀者は斉木さんなんじゃないかと思っているんです。エプ
スタイン殺しの首謀者がジョンである様に」
「そんなぁ」井上は苦笑いを噛み殺す。「その、スッチーの件と、草津さんの件が
似ているというのは分かるけれども」
「もっとおかしい事があるんですよ。エプスタインも所長もマネージャーでしょう。
そして二人とも吐しゃ物をノドに詰まらせて死んだじゃないですか。
 その次にジョンと斉木でしょ。二人とも銃で撃たれたじゃないですか。
 これって偶然ですか?
 これって見立てなんじゃないですか?」
「見立て?」
「そうそう、見立てですよ。そうだとすると、エプスタイン、ジョンの後で、ジ
ョージ、リンゴ、ポールの順に死ぬ事になるんですよ。そう書いてあるんです。そ
の小説に」
 井上はスマホをテーブルに置くと「しかし」と言った。「ジョージって肺がんか
何かで死んだんでしょう? それって自然死じゃないですか。それにリンゴとか
ポールってまだ生きているし」
「だから、これはリアルビートルズじゃなくて、『ビートルズ殺人事件』の見立て
って事なんですけど」
「斉木はまだ死んでいないし」
「きっと死にますよ」
「うーん」井上は唸りながら腕組みをした。ハッと思い出した様に、背広の内ポケ
ットから懐中時計を出す。懐中時計…。「あ、こんな時間だ。会社に電話しない
と」
  スマホを持って和室の方に行く。
  数分で戻ってきた。
「なんて言ってました?」
「なんでそんな事高橋さんに言わないといけないんですか」
「ただ、どうしたのかなーと思って」
「状況を把握しておけって言われましたよ。蛯原さんにでも聞いてみるかなぁ」
「だめだめ。それをやったら蛯原に都合のいいジグソーパズルのピースしか出てこ
ないんだから」
「じゃあ誰に聞けと」
「そうですねぇ」
 言いながら明子は立ち上がった。




● 37

 リビング入り口に行くと、タイムカードの上の行先表のホワイトボードを取って、
明子は戻ってきた。。
「所長が救急車で搬送された時に、私、斉木と二人になったんです。その時にあの
人が、ビートルズの誰誰がこのマンションの誰誰に対応するとか言っていたんです
けど、それによると…、
 ジョン=イタチ型が斉木自身、
 ジョージ=ラクダ型が大沼、
 リンゴ=石臼型が山城、
 ポール=イルカ型が蛯原、って事でした。
 所長は薬缶頭だったから山城と同じ石臼型だと思うんですよね。
 そうすると、もし見立て殺人が進行しているのなら…」
 そしてホワイトボードに書いた。

 エプスタイン 所長 死亡
 ジョン    斉木 重傷
 ジョージ   大沼
 リンゴ    山城
 ポール    蛯原
「こういう順番になると思うんですよね。だから、とりあえず大沼さんに聞くべき
じゃないかと」
「いや、別にこれから起こる事件について聞きたい訳じゃなくて、今まで起こった
事について把握しておきたいだけなんですけどね」
「ぞうだとしても、斉木さん銃撃事件にしても、犯人が養鶏場の女かも知れないん
だから、そうしたら大沼さんが絡んでいるのかも知れないし」
「大沼さんか。しょうがないな。あの人に聞くのが常識的なんだろうな」と何やら
ぶつぶつ言ってから、「じゃあ、大沼さん、呼んで」と言った。
 しかし明子がフロントに電話をしたところ、大沼は既に帰宅したとの事だった。
「え、帰った? じゃぁ、しょうがないなぁ。鮎川さんにでも聞くか」
「いや、24時間同士って、あんまり接点ないんですよね、引継ぎだけで。むしろ
横山さんあたりに聞いた方がいいかも」
「横山さん?」
「清掃の横山さん。あの人は大沼さんと仲がいいんですよ。昼ごはんも一緒に食べ
ているし、ペンション村で」
「じゃあその横山さんにインタビューするか」


●38

 明子が再びフロントに電話したところ、横山はマンション外周の拾い掃きをして
いるので昼までは戻ってこない、との事だった。
  昼になって再度電話してみると、今度は横山が出たのだが「ペンション村に昼
食を取りに行く積もりだったのに」などとごねる。しかし長寿庵のカレーライスを
ご馳走するからということで納得してもらって来てもらう。
 そして井上、明子、横田の3人で食べた。
「蕎麦屋さんのカレーってカレーうどんのカレー? とろみを出すのに片栗粉使っ
てるみたい」言ってから横田は笑った。
  声はハスキーなのだが笑うとキャンと犬でも踏み潰した様な音を出す。言葉を
発するというよりは、くしゃみ、とか、あくびの様な生理現象の様である。
 最初明子は、横田を見て、デビルマンレディーみたいだと思っていた。しかし、
近くで見ると純粋なラクダ型というよりは、ラクダとイルカの混合型なのではない
か、と思う。ちょっと古いが秋吉久美子とか原田美枝子、ビートル妻で言うならパ
ティー・ボイドがこのタイプではなかろうか。魔性の女、という感じだ。
 ラクダだのイルカだのと言っても、くっきりラクダになったりする訳ではないの
だ、と思った。
 多分、ホルモンが関節や骨の形成に影響を与えているのだろうが、ジョージみた
いに関節が太いのと、リンゴみたいに全体にずんぐりむっくりしているのとでは、
頭蓋骨はともかくとして、肢体に関してどう違うんだろう。
 例えばモー娘。で言えば、

      −
 イルカ型 −イタチ型
 加護亜衣 −後藤真希      
 ―――――・―――――     
 石臼型  −ラクダ型      
 辻望美  −矢口真里      
      −
 
 だと思うが、矢口と辻だったら関節は矢口の方が太いが筋肉は辻の方が厚いって
事だろうか。
 加護、矢口のラインって、ナチュラルで下ネタOKって感じがする。
 辻、後藤のラインって、ケミカルで下ネタNGって感じがする。
 矢口って、縦ロールにしているな、と思い出した。宝塚とかゴスが好きなんだろ
うか。
 そういえばフローレンス・ジョイナーも縦ロールにしていた気がする。
 そして目の前に居る横田も、髪を後ろで束ねているが縦ロールが入っている。
 やっぱり、ラクダ型なのではなかろうか。
「横田さんって、宝塚とかゴスとか好き?」明子は思わず聞いた。
「え、何で?」
「なんとなく雰囲気が…。髪とか」
「ああ、これは」
 横田の髪型は宝塚って訳ではなくて、『カラフィナ』というマニアックな女性
ボーカルグループが好きでやっているそうだが、そのステージは劇団四季風で、宝
塚に似てなくもないという。
「へー」と明子は納得する。
「ゴスが好きなのは泉ちゃんだよ。飲み会に行く時コスプレしてるし」
「あの子、そんな事するんだぁ」あのイルカがコスプレだって?「へー。みんな、
色々趣味があるんですね」
「じゃあ、まぁお話は尽きない様ですが、そろそろ、大沼さんの話を」と井上が仕
切ってきた。
「ちょっと下ネタ入っちゃうけどいい?」と横田が言った。
 この人やっぱり下ネタOKなんだなあ、と明子は思う。
 明子は蕎麦屋のどんぶりを下げるとお茶を持って来た。
 横田は、大沼さんが言っていた事だけれど、と前置きしてから話し出した。


● 39

  かつて大沼はこう語っていた。
「去年のクリスマスイブの話や。
 中野の営業停止中のフリィピンパブの様子を見に行ったんや。未練たらしく。
  相変わらず営業停止中やったけど、路地の向こうから、通称脂すまし、という
常連が歩いてきよる。
  CPO着て背中丸めて。
「なにやっているんや」
「仕事の帰りだよ」
「クリスマスイブに仕事かい」
  近くに来ると脂すましの顔がネオンに浮かぶ。
  相変わらず、女に縁のなさそうな顔をしている。
  自分じゃあクリストファークロスに似ているとか言うが、お獅子というか、ち
ょっとダウン症みたいな顔や。
「飯でも食う?」というんで、近所の定食屋に行った。
  脂すましは豚のしょうが焼き、俺は刺身定食を食いながら「最近、どこで遊ん
でいるんや」と聞いた。
  フィリピンパブで遊んでいる頃には、テレクラで素人とやりまくっていると豪
語していたが、今は、終電後の駅前をうろついている女をナンパしているという。
「どうやって誘うの」
「カラオケ行かなーい? って」
「それで着いてくるんか」
「くるよ」
「そんでカラオケ、行くのか」
「カラオケ行ってどうするんだよ。直行だよ、直行」
「ホテルに直行か」
「他にどこ行くんだよ」
「ふーん。そんで生でやるんか」
「そんな事やって汁でも漏れたらどうするんだよ。ゴムだよゴム」
「そんで一発やって帰ってくるんか」
「そうだよ」
「金は要求されないんか」
「財布広げて、あれー2千円しかないやー、ごめんねー、又ねー、で終わりだよ」
「それ、たちんぼとちゃうんか」
「素人だよ」
「素人と思えん」
「お前、なんでそうやってケチつけるんだよ」クリストファークロスがお冷を見詰
めて言った。「そっちが教えてくれって言うから教えてやったのに。前もテレクラ
の事を教えてくれいっていうから教えてやったら、そんなにいいんならどうしてフ
ィリピンパブに居る、とか言うし。だったら聞くなよ」
「おーわりーわりー。じゃあその定食はおごったる。情報提供料や」
  脂すましと分かれてから、居酒屋で飲んで、スナックで飲んで、赤提灯で飲ん
だ。
  そうしたら11時や。
  あほらしいと思いつつも駅ビルのシャッターの前へ歩いて行ってみた。
  でも誰もおらんかった。と思ったんやが、白いパーカーを着た女が一人立って
いた。シャッターも白っぽかったんで見えなかった。
  近づいてやり過ごしてから又戻ってくる。
  日本人やない。ハーフかな。へちゃむくれた顔や。ドリュー・バリモアとか、
クリスチーナ・リッチとか。
「自分なにしてる」と俺はきいた。
「人を待っている」
「もう人来ないで。電車終わっているもの」
 女は黙って前を向いていた。
「カラオケでも行くか」と思い切って俺は言った。
「カラオケは行かないけど、裏に映画館があるからそこなら」
「もうやってへんよ」
「でも、あそこなら遊べるよ」言うて人の顔を見てにっと笑った。
  駅前のビルと隣のビルの細い道を抜けると、裏にコンビニと潰れた映画館があ
った。真っ暗で廃墟っていう感じや。こんなところで昼間やったら青姦になるんや
ろう。
「こんなところでなくてホテルに」言うていて、気が付いた「ところで幾らなん
や」
「15分で3千円」という。
  それだったらわざわざホテルに行くのもアホらしいな。
  コの字の廊下の左右の、元は自販機でもあったようなスペースに布団が敷いて
あった。
  窓ガラスはダンボールで目張りがしてあって、LEDのキーホルダーが何個が
ぶら下がっている。
  ここでやるんか。
  3千円渡すと女はそれを財布にしまって、その手でコンドームを出した。
  赤ん坊がおしゃぶりでも銜えるみたいにコンドームを銜えると、萎んだままの
亀頭に吸い付いて、吸い込む力でちんぽを伸ばしながら被せてしまう。
  しかし酒のせいか、萎んだまんまや。
  もういいと言うと、まだ時間がある、と一生懸命しごきよる。
  なんでそんなに熱心なんやろう。
「そんじゃあ話でもするか。どこからきたの?」
「ペルー」
「幾つ?」
「18」
「自分さっき、人を待っている言うてたが、あれはほんまか」
「お姉さんを待っていたの」
「どっから来るんや」
  養鶏場の名前を言うとった。
  彼女は、元々は金沢の水産加工会社で働いていたそうや。
  機械から流れてきて湯に浮いているおでんをひたすら串に刺す作業や。
  最初はきつかったがじきに慣れた。しかし慣れると経営者が機械のスピードを
上げるから又きつくなる。
  そんなの1年もやっとったらこんなになった、と言って手を出す。
  手の皮が足の裏みたいになってたで。
「だから今はお姉さんと一緒に、養鶏場で働いている」言うとごわごわの腕を引っ
込めて、白いパーカーを被ると震えた。
「自分寒そうやなあ。もう帰ったらいいんじゃないの?」
「私、お腹へったよ」
「そしたら、飯でも食いいくか。でもこんな時間やと、深夜営業のファミレスしか
やっていないよ」
「それでいいよ」
  映画館を出る時、売店横のソファにもう2人女がいたんやが、カミーラに二言
三言、スペイン語で話しかけていた。
  それからデニーズに行ったんや。
  あそこはメニューが写真やから、フィリピンの女を連れ出すんでもよく使った。
  カミーラはピザだのハンバーガーだのを食べとった。がつがつ食っているカ
ミーラに俺は言った。
「商売の時、先に金を要求すると白けるで。瞬間恋愛したいんやから」
「そんな事言っても払わない奴がいるから」
  脂すましが脳裏に浮かぶ。
「暴力をふるう奴もいるし、親指の爪を尖らせておいて、入れる寸前にコンドーム
を破く奴もいる」
「そんな奴がおるんか、大変やな」
  デニーズを出てから、結局ホテルに行ったんや。
 部屋毎に建物が別になっている、昔ながらもモーテルや。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミーラはうずくまるようにして腹を押さえるんで、何しているんやと
思ったが、Gパンのボタンを外しとったんや。ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽん
になった。
 俺もぎんぎんやった。それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、自分の首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来た。
 何をする気やと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんや。
 体が熱かったで。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音やろ。
  それから俺は考えたんや。
  危ない客が多いっていうのは可哀想や。斉木や鮎川や新聞配達なら大人しんと
ちゃうか。そやけどあいつらにやられるのもしゃくやな。あいつらには別の女を宛
がってやりゃあいいんじゃないのか。あの売店横に居たインディアの女でも。それ
にあいつら飢えているから5千円は払うやろ。2千円ピンはねしてやればええんと
ちゃうか。
 朝、彼女はシャワーを浴びていた。髪の毛を後ろでアップにして、スケベ椅子に
腰掛けて。
 それから備え付けの歯ブラシで歯を磨いていた。
 生活の無いのが惨めやった。
 それからデニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、客の件を提案した。
  彼女は目を輝かせていたよ」

「私が知っているのは、そこまで」と横田が言った。「続きは大沼さんに聞いて」
「聞くのが怖いよ。つーか、飯山に住んでいる人って、みんなそんな感じなの?」
「それって酷くありません?」明子が言った。「それって地方を差別していな
い?」


●40

 横田が帰ると同時に電話がなった。
  明子が出るとフロントの榎本からだった。
「警察が来たって言ってますよ。4人も。井上さんに話を聞きたいって」
「えっ、僕に?」
「どうします? 管理室で会います? それともここに来てもらいます?」
「うーん」と言いつつそわそわする。「とりあえず、ここに来てもらおうか」
 明子はその旨伝えた。
「いやー、困ったなあ。まだ顛末書も何も出来ていない」
「それは困りましたねぇ」言うと明子はにやにやした。「実はですねぇ、うちの所
長は、設備の業者から説明を受ける時には、必ずハンディーカムで録画していたん
ですよ。後で、このボタンを押せばいいって言った、いや言っていない、ともめる
から。
 あとパートの面接の時にも、後で言った言わないになるんで必ずICレコーダー
に録音していたんですよ。
 だからって訳じゃないけれども、私もさっきからからの会話を録音していたんで
すよね」
 言うと明子はシャツのポケットからICレコーダーを取り出して井上に差し出し
た。
「これは…。何が入っているんです?」
「だから、私が話した草津さんの件と、あと今の大沼さんの話。これを警察の人に
聞いてもらえば手間が省けるんじゃないですか」
「そうですか。実は私もですね」言うと井上はスーツの内ポケットからICレコー
ダーを出した。「インタビューの際には必ず録音しているんですよ」
「それには何が」
「昨日の夕方の山城さんとの会話と、高橋さんが話した草津さんの件、今の大沼さ
んの件」
「じゃあだぶっちゃいましたね」
  言うと明子はつまらなそうに自分のレコーダーを故金子所長の机の引き出しに
しまった。


●41

 制服警官が4人も入ってくると、部屋の狭さのせいもあるが、かなりの威圧感が
ある。
 井上がソファを勧めて4人は着席した。
 明子が日本茶を入れてテーブルに置いた。
「大通リビング、井上と申します」むにゃむにゃ言いながら井上がそれぞれに名刺
を渡した。
 警官の中の痩せていて人の良さそうなのが、「飯山南警察署の服部です」と自己
紹介した。
 所長の事故の時に来ていた警官だった。
  それから彼が他の警官の紹介もした。
「こちらが、三木警部」太っているが凸っぱちだ。50代だろうか。
「こちらが山本さん」定年再雇用って感じの初老だ。石臼タイプ。
「そしてこちらが何時もお邪魔している須藤」蛯原ともめていたうどの大木だ。
「君さあ」山本が井上に言った。「立ってないで椅子もってきて座ったらいいんじ
ゃないの?」
「えー、つーかですね、今日は勿論、斉木の事と所長の件でいらしたんですよねえ。
 その事に関しては私も色々調査しているんですが、まだまとまっていないという
か、まだ皆から聞いている段階なんですよ。それでですねえ、皆から聞いたものを
こちらに録音してあるんですが。20分ぐらいの録音が、3つ入っているんですが、
とりあえずこれを聞いて貰うって訳には行かないですかねえ」と言ってテーブルに
差し出した。
 服部が受け取って横の三木の顔色を伺う。
「いいんじゃねーの」と三木。
「じゃあ聞かせてもらいます」
「じゃあ私達はお茶でも飲んできましょうよ」明子が口を挟む。「その方がお巡り
さん達も話がしやすいと思うし」
「そ、そうなんですか?」と井上。
「とりあえずは聞かせてもらいますが」
「じゃあ、席を外していますから、用があったらそこに書いてある携帯に電話して
もらえますか」と名刺を指差した。

 そういう訳で、明子と井上は一階ラウンジで待機していた。
 夕方の5時頃、4人の警官は便所を借りに下りてきた。
  それから再び事務所に戻って、更に1時間経過した頃になって下りてきた。
「次に大沼さんが来るのはいつですか?」と服部が聞いてきた。
「今日は鮎川だから、明日の朝には」
 服部はこそこそと相談してから、「じゃあ、明日の昼頃に又連絡しますわ」と言
った。
 そして警官達は帰っていったのだが。









#1077/1112 ●連載    *** コメント #1076 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:15  (477)
斑尾マンション殺人事件 10
★内容

●42

 事務所に戻ると井上が、「あのお巡りさん達、何を話していったんだろうなぁ」
と言った。
「実はですねえ、さっき机にしまったレコーダーはスイッチが入っていたんです
よ」言うと明子は所長の机からICレコーダーを取ってきた。
 そして二人は、警察官のトークが始まる箇所から再生して聞き入った。

服部「今ざーっと聞いてみての感想ですがね。
 まずこの斉木って男ですが、戦艦大和の話をしていて、38式歩兵銃、サンダー
ス軍曹という言葉が出てきますよね。
 それから、サッカーの話題から、鎌倉武士だの、コンバットの要塞攻めだの言っ
ていますよね。
 という事は、目の前で起こっている事をそのままには感じられないで、過去の記
憶を呼び起こすトリガーにしてしまうという感じですよね。
 そして呼び出された記憶も、自己の経験ではなくて、メディアから得たものばか
りだ。
 この斉木に、このテープを聞かせたら、恥ずかしくて死にたくなると思いますよ。
それは、自分の経験でもないのに我が事の様に語っているから、つまり自己が無い
事を見破られるからなんですが。
 自己が無いって事は、出来事をエピソードとして感じられない訳ですから、絶え
ず世の中があっちに行ったりこっちに来たりして感じられる、と思うんですよね。
 例えば我々の持っている拳銃、これを見て最初は、市民を守ってくれている、と
思う、次の瞬間、今朝女房を殴ってきた事を思い出して、自分に向けられるんじゃ
ないか、と思ってみたり」
三木「うーむ。よく分かんねーな」
服部「そうですかぁ。例えばですねぇ、まあ随分前ですけどね、或る事件に関して、
長い調書を書いていたんですよ、私が。非常に興味深い事件だったんですが、全体
の4分の3位まで来たところで、突然白けたんです。何故かっていうと、終わりそ
うだ、と思ったから。その瞬間に、終わらせる事が目的になっちゃっうから、そう
すると事件に関する興味は失われてしまう訳です。
 それが世界があっちに行ったりこっちに来たりする感覚なんですが、まぁ私にも
そういう気はあるんですが、この斉木には日常的にそういう事が起こっているんじ
ゃないですかね。…そう言えば、あの事件に出て来たメンツって、このテープの斉
木、蛯原、大沼、山城に重なるなあ」
三木「なんだ、その事件って」
服部「いや、全く別の事件ですから。もう終わった事件です」
三木「なんだよ、気になるじゃねーか。言ってみろよ」
服部「まぁー、そうですか。じゃあ言いますけど、このマンションとは全く別の話
ですよ。
 やはり甲信越地方で起こった事件だったんですけれどもね、畑の真ん中に東南ア
ジア女性を使った売春宿があったんですよ。何でも常連の間では、8千円で2回や
らせるという噂があったらしいんですよ。そこである男が行き、そいつがこの事件
のホシなんですがね、そいつが行って、入り口で店員に、2回やらせるんだよね、
と確認したそうです。
 店員は、そんなのは、2回って言っても、たまたま早く終わった客が、間が持た
なくてなんとなくもう一回ってやっただけで、別に、2回を売り物にしている訳じ
ゃない、と言ったそうですが。
 じゃ、帰る、と男が、踵を返そうとしたところで、
 やっぱり2回やらせると店員が言ったそうです。
 ところが男が入るなり、東南アジア系の女性に、2回だよなーと迫ったものです
から、そこは向こうも白けてしまって、2回どころか1回もおざなりで済ませられ
た。
 そうして出てくると、2回って言ったじゃねえか、と店員に詰め寄ったそうです。
 そこで店員が、そんな事いったっけーとすっとぼける。
 それで頭にきて、その男は店への嫌がらせとして、警察に匿名の通報をしてきた
んですよ。
 そこで、仕方なく当方の生活安全課が行ってみると女が部屋で死んでいるじゃな
いですか。
 まぁ、これは男の暴力等によるものではなく、元々あった持病がコイタスの後で
悪化して死亡に至った、という事なんですが。
 ところが驚いた事に、その日の内にその男は別件でしょっぴかれてきたんですよ。
 っていうのは、その野郎は、その売春小屋の外に駐車していたんですが、駐禁の
ワッカをはめられていたんですな。
 それを、わざわざ交番に出頭してきて、自分はちゃんと30分以内に移動させて
おいた、だのなんだのごねだした。
 まあ、交番の巡査は、5分でも違法駐車になると説明したのですが、その警官が、
わざわざ出頭するからいけないんだよ、あんなワッカ、ペンチでぶったぎってそこ
らに捨てておけば取りこぼしちゃうんだから、てな事を言ったらしいんですな。
 すると男は、そんな網の目の粗い法律を作るのは不公平じゃないか、などと言っ
てきたらしいんですが。
 そこで又巡査が、法の網の目をくぐるのに、くぐれますかね、と聞いてくる馬鹿
はいない、と言ったらしいです。
 そこで男が警官の襟首を掴んで公務執行妨害の現行犯で逮捕になった訳ですが。
 あとこの事件では、検視の為、遺体を持って帰っていたんですが、その女の女衒
なる人物がふらーっと署に現れて、俺の女を返してくれ、と言ってきたんですよ。
  それからその時にたまたま店にいたこの店の常連で近所の地主にして幼稚園経
営者の男もしょっ引いたんですがね。
 さて、次に、実際に取り調べという段階になって、それぞれの個性が際立ってく
るのですがね。この妙に几帳面な客が斉木、店員が蛯原、女衒が大沼、地主が山城
に相当するんですが。
 まずホシである客ですが。
 こいつは人間を信じられないって奴ですが、そりゃそうでしょう、自己自身が無
いのだから、人間関係の情とか塩梅とか、そういうものには全くのKYなんですよ。
 となると、信じられるのは、約束だの制度だのって事になるのですが。
 そうすると、目の前に、具体的な存在として哀れな売春婦がいても、今ここで助
けようとは思わない。ただし、制度を変えなくてはいけないと思うんですな。
 実際この男は、アムネスティーだかユニセフだかに募金していると言うんですね。
しかし目の前に居る売春婦には、2回やらせるという約束を守れ、と迫るわけです。
 それは警察に対してもそうですから、駐禁の処理が適当だと、法律の運用が恣意
的だ、と切れる訳ですが。
 こういう人間は裁判においても情状酌量なんてものは求めず、裁判官と一緒に自
分の死刑判決を組み立てて行って達成感さえ感じるんですな。まあ、こいつの場合、
重罪ではないですから、死刑になどならなかったのですが。とにかく取り調べにお
いても厳密にやってくれって事だったんですよ。
 次に店員ですが。これは蛯原に相当するんですがね。
 こいつは取り調べの時に、丸で、取調官を喜ばせたいかの様にぺらぺら喋るんで
すな。
 実はこの店員には内縁の妻がおり、DVで悩んでいるという相談が署にもあった
んですよ。しかし店員の身辺を調べてみると、例えば、出入りの酒屋だの、新聞屋
だのにはえらい評判がいい。あの人はいい人だ、あの人には裏表がない、自分らの
ような下層の者にも人間同士として接してくれると。
 店の女にも評判がいいんです。女の為に、昔のコネを手繰っていって、医者だの
警官だのに助けを求めたりするんですな。
 そうすると被害者の妄想ではないのか、とも思えてくるのですが。
 どうもこの店員は、目の前にいる人間にだけ反応して、居なくなれば忘れてしま
うという男らしいんですな。
 目の前に妻が現れれば酷い事をする、居なくなって酒屋が現れれば丸で別の人間
になるという…。
 未解決の通り魔的な犯罪はこの手の輩がやり散らかしているんじゃないか、とい
う話もありましたな。何しろ現場を離れてしまえば本人も忘れてしまうのだから、
尻尾を出さない訳ですから。
 次に、女衒の男。これは大沼に相当するんですが。
 こいつらは、サーカスというか旅芸人の様な集団を形成して全国を移動していた
んですが、その中で、近親相姦はするわ、人が死ねば死体遺棄をするわ、本人らは
それを罪と思っていないわ、という、人間社会とは無関係に生きている奴らなんで
すな。
 それから、地主。こいつが山城に相当するんですが。
 ある時、この地主が店内で女衒と出くわしたそうです。
  この地主も女買いはしても、片方で幼稚園経営者という顔も持っているものだ
から、女衒など気に入らない。そこで、ちょっと説教たらしく、お前は売春を悪い
とは思わないのか、みたいに噛み付いたらしいんですな。
  すると女衒はこう言ったそうです。男が土方で体を使う様に、女が売春で体を
使って何が悪い、と。
  まぁ幼稚園経営者なんてものは人間に良心があって当たり前と思っているから、
こういう動物に出くわすとどうにもならない訳ですな。もっともこの地主とて、何
故セックスのタブーがあるのかなんて分ってはおらず、ただ、人とはそういうもの
だ、と刷り込まれているに過ぎないんですが。
  そこらへんを、ちょっとこの女衒に突っ込まれたらしいんですな。
 犬だって猫だって好き勝手にやっているのにどうして人間だけ好き勝手にやった
らいけないんだ、とその女衒に言われたそうです。
 地主は、人間は犬畜生とは違うからだ、としか言えなかったそうですが、その女
衒はこう言ってきたそうです。
 イワシでもスズメでも選挙なんてしないでもリーダーが決まる、人間のリーダー
も知らない内に決まっている、それだと不安だから、後から選挙だなんて理屈を付
けているだけだ。セックスだって同じだ。人間が好き勝手にやらないのは、ハーレ
ムのボスに殺されるからだ。しかしそれだと動物みたいだから、後から良心だの言
っているだけだ。それがお前が幼稚園でガキに教えている事だ。
 さて、以上を予備知識として、私はこの4人に面接したのですがね。
 面接に先立って私は彼らの身体的特徴をある程度想像していました。
 今日の心理学でも使われているオーソドックスな人格分類に次の3つがあるので
すが、
 分裂気質、これは痩せていて神経質な感じ、
 それから粘着気質、これは関節が太くて、愚鈍な性格、
 それから循環気質、これは肥満で、陽気な性格、というものですが。
 どうも私は、この循環気質なるものにピーンと来ないでいた。どうも、薬缶頭の
頑固オヤジタイプ、と、凸っぱちのヤンチャ坊主タイプの混同があるんじゃないか
と思っていたのですが。
 そこで私は、分裂気質、粘着気質、頑固オヤジ、ヤンチャ坊主の4種類に体格を
分類しているんですよ。
 といってもイメージ出来ないでしょうから、具体例を挙げますと、分裂気質は相
撲で言うと北の湖ですな。これは太っているから分からないが、実は体格はいいと
は言えない。
 粘着気質は、輪島みたいな関節の太い力士ですね。
 頑固オヤジタイプは、貴乃花、北天祐、など四つ相撲の力士ですね。
 ヤンチャ坊主タイプは、舞の海、朝青龍。これは非常にバランスがいいんですな。
 印象としてどうですかね。
 輪島、北の湖というと、本割りと優勝決定戦で2回連続して北の湖が負けた、し
かも同じ下手投げで、というのが印象深いと思いますが。あの瞬間「やっぱ中卒は
駄目だ」と声が上がりましたが、あれは何回やってもああなりますな。押し相撲の
力士が関節の強いのに当たっていけば。
  土俵の上ではそうなるんですが、相撲協会の経営となると、実は北の湖の方が
遥かに上手って事になる。永遠のライバルではあるんですが。
 まぁ、その後の千代の富士、大乃国なども同じですが。柔道でいえば、山下、斉
藤が相当しますね。斉藤も突っ込んで行って闘士型の韓国人選手に肘を折られまし
たが。
 さて、そういう予備知識を持って面接したところ、全くその通りの身体的特徴を
していましたよ、この東南アジア女性事件に関わった4人は。
 ですから、斉木、大沼、蛯原、山城を見れば、やはりそうだと想像しますね。
 つまり、
 分裂気質   几帳面な客  斉木
 ヤンチャ坊主 店員     蛯原
 粘着気質   女衒     大沼
 頑固オヤジ  地主     山城
 という訳ですが」
三木「うーむ。ちょっと待った。ちょっと便所に行きたいな」
服部「あそこにありますよ。それともマンションの入り口に公衆便所みたいなのが
あったと思いますが」
三木「そこ、行こう」
服部「私も行きますよ」
須藤「三木さんって、いっつも、俺が火の用心って言ったらみんなも火の用心って
言っていたら駄目で、バケツを用意するとか、夜回りをするとかしないと駄目だ、
とか言うけれども、結局服部さんがこういう感じだ、って言うから、三木さんがそ
の通りにおふれを出すって感じだな」
山本「余計な事を言うな。とにかく不良外人の犯罪に決まっているのだから。…俺
らも行くぞ」

  以上でテープの再生は終わった。
  聞き終わると明子が、「あのお巡りさん達も4種類に分類出来るの気が付い
た?」と言った。
「つまり…
 分裂気質    几帳面な客 斉木 服部 ジョン
 ヤンチャ坊主  店員    蛯原 三木 ポール
 粘着気質    女衒    大沼 須藤 ジョージ
 頑固オヤジ   地主    山城 山本 リンゴ
  って感じなんだけど」


●43

 井上は、その晩、飯山市内のホテルに泊まる事にした。
 東京に帰りたいのは山々だったが、明朝警察に大沼を引き合わせないとならなか
ったからだ。さりとてマンションのスタジオにもう一泊というのは背中が痛いので。
 ホテルまでは明子がジムニーで送ってくれた。しかし、そこで、それじゃあ又、
と言うのも悪い気がした。今日一日明子は大いに手伝ってくれたのだから。それに
一人で夕食をとるのも寂しいという気もした。そこで、一緒にディナーを、という
話になった。
 地中海風なんとかブイヤベースを肴に2人は白ワインをごくごく飲んだ。
「そんなに飲んだら運転が」と井上は心配したが、
「大丈夫です。私んちこの近所だから、車置いて行きますから」と言って明子は更
にあおった。
 しかし案の定飲みすぎて、
「少しのぼせてしまいました。井上さんの客室でちょっと休ませてもらえないでし
ょうか」と言う。
「はぁ」
 井上は、明子を抱えるようにして客室に運んだ。
 ベッドに横たわると明子は「井上さん、汗びっしょりじゃないですか。どうぞシ
ャワー浴びてきて下さい。私、少し休んでますから」
 15分後、スラックスにYシャツの姿で井上はシャワールームから出て来た。
「これ、クリーニングに出さないと」などとぶつくさ言いながらYシャツをいじっ
ている。
 明子は既に体調を回復していて、ベッドの上で上体を起していた。
「あ、お茶でもいれましょうか。酔い覚ましに」言うと井上はライティングデスク
の上に置いてあった緑茶のティーバッグを茶碗に入れて湯を注いだ。
 机の椅子をベッド方向に向けて座る。
 明子はベッドの上に座り直した。もじもじしながら衣服を整えていたら、ポケッ
トの中にICレコーダーが入っているのに気が付いた。取り出してディスプレイを
何気に見る。
「あれ。まだ再生していない録音が残っている。これ、音声感知で録音していたか
ら、お巡りさんがお手洗いから戻って来たら又動き出したんだ。再生してみま
す?」
「そうですね」
 明子は再生のボタンを押した。

服部「あの風俗店ではトップレスショーをやっていんですよ。東南アジア人女性が
全員出てきてステージで踊るんです。それを見て品定めをして、個室で買春行為に
及ぶ、というシステムだったんですな。
 それで、そのショーの見方でも、客、店員、女衒、地主では、違いがあったんで
す。
 店員と地主は最前列でかぶりつく様にして見ていて、客と女衒は後ろの方で白け
た様に見ていたというんですね。あと、聞き込みで分かったんですが、店員と地主
はオッパイ星人で、客と女衒はケツフェチだったというんですが。
 何でそういう行動の違いが現れるかというと、それぞれに求めているものが違う
からだったんじゃないか、と思われるんですね。
 地主が求めていたのは、女の体という物だったんですね。これは別に幼稚園経営
者だからペドという訳ではないんですが、老人になると女性に対しても、性愛とい
うよりかは猫の肉球でも触るような愛し方になりますよね。老人はよく盆栽とか鯉
にも興味を持ったりしますが。そういう、フェチとか収集癖みたいなものを女性に
求めていたきらいがある。
 それから店員ですが、こいつは女の体というよりかは、プレイそのものを求めて
いた感じなんですね。だから、パラで2人3人と個室に入ったりするそうです。
 几帳面な客ですが、こいつが求めていたのは、抜く事であって女の体ではなかっ
たという事です。そう言うと奇妙に聞こえるかも知れませんが、かぶりつきで見て
いる店員あたりに『お前も前にきてオッパイを揉め』と言われても、
『そんな事をして何になる。抜けないんだったら意味がない』と感じたそうです。
 一度など、個室サービスで射精した後、女がコンドームを外すのにてこずってい
たら、跳ね飛ばして自分で取った事があったという。
 女は驚いて『こんなに優しくない人は始めてだ』と言ったそうですが、その時こ
の客は初めて、『ああ、自分は女が欲しい訳じゃないんだ』と自覚したそうです。
他の常連など、個室で20分も30分も粘って店員に文句を言われるそうですが、
こいつの場合には、射精後は1秒でも早く出てきたかったそうです。 
 女衒はというと、『道』の様なものを求めているんですな。まぁこの男の場合に
は、自分が女衒ですから売る側なんですが、買春する側だったなら、店外まで、更
には売春婦の故郷にまで追いかけて行ったでしょうな。
 じゃあ、そういう彼らの行動の違いが何に由来しているのか、というと、自己の
ある・なし、記憶のある・なしで分類出来るんですな。
 まず最初に、几帳面な客ですが、このタイプは、自己が無い、しかし、記憶があ
る、というタイプですね。
 自己が無いのに記憶がある、となると、経験に根ざした記憶では無い訳ですから、
ぺっこん、ぺっこん変化する。となると、そんなものはアテに出来ない。その時に
心地良かったか、なんていう感覚はあてには出来ず、目的本来的になる訳です。2
回やらせろ、とか、法律は守れとかね。
 じゃあ、こういう男の売春婦に対する考えはどうかというと、店外デートをすれ
ば純愛になる、一歩店の外に出れば素人扱いになる、というものなんですな。だっ
て記憶はあっても経験に根ざしていないから、ぺっこんぺっこん変わる訳です。
 次に、地主にして幼稚園経営者ですが。このタイプは、自己がない、かつ、記憶
がない、というタイプですね。そうするとどうなるか。今ここ、しかないんですな。
自分の土地に被害が及ばない限りは風俗店で何をしていても構わない、その代わり
一歩自分の土地に入ったら、という感じですな。
 ですから、このタイプの売春婦に対する考えは、買春行為はしても自分の家の敷
居はまたがせないというものです。
 次に、店員ですが。このタイプは、自己があり、かつ、記憶がない、というタイ
プですね。となると、無節操になるんです。売春婦に対して無節操もへったくれも
無いだろう、と思われるかも知れませんが、この店員の場合、自分の女房を店で働
かせていたんですな、そして、「俺の女房を買ってくれ」と他の客に勧めていたそ
うです。
 次に、女衒ですが、これは、自己があり、記憶もある、というタイプです。本当
に経験に根ざした記憶があるのはこのタイプだけですな。だから、過去を晒す。そ
うすると売春婦に対する態度はどうなるのか、足を洗っても過去のあやまちを晒す
のか、というとそういう感じじゃない。女は一生において、ある時には玄人にもな
り、又別の時には素人にもなるという、病めるときも健やかなる時も、という考え
方をするんですな」
 ここでテープは止まった。
「分かった?」上目遣いで明子は井上を見た。「こういう事になると思うのよね」
 明子はライティングデスクにあったメモを引き寄せると、こう書いた。

            −
            −
店員          −几帳面な客
女房を買ってくれ    −店外デートをすれば純愛
            −
―――――――――――・―――――――――――
            −
地主          −女衒
売春婦に        −病める時も
家の敷居は跨がせない  −健やかなる時も
            −

「これって、そっくりそのままビートルズにも当てはまるんじゃないかしら。
  この客と店員って、ジョンとポールに相当すると思うのよね。
 ジョンとポールの面白い比較があるの。それは音楽じゃなくて文学に関してなん
だけれども。
 ジョンは若い時に、『小説を書きたい、でもそんな事したって、どうせ、ダヴィ
ンチに敵わないから意味がない』って思ったんだって。
  一方ポールは、『クロスワードパズルで単語を覚えたらクラスで一番難しい単
語が言える様になった』って喜んでいたんだって。
  つまり、ジョンの場合、欲望した瞬間に欠如、これを子宮と言ってもいいと思
うんだけど、それが発生するって感じ。そしてそこに、どんどん、恨み辛みを貯め
ていって、満タンになると、どぼどぼどぼーっと一気に排泄してカタルシスを得る
感じ。これってタナトスっぽいよね。ペニスというよりかはその中にあるシードの
快楽という感じ。つまりは抜く事が目的。
 一方ポールは、クロスワードパズルだから、刹那的なエピキュリアンって感じ。
シードのカタルシスではなく、射精自体の快楽って感じ。抜くのと射精自体とどう
違うのかっていうと、小説とクロスワードパズルの違いだけれども。
 あと、この地主は、リンゴが指輪を収集したりするのに通じる感じがする。こう
いう人は、ペニスが擦れる感覚を欲望していて…」
  ここまで来ると明子は、「ちょっと話が込み入ってきたから、もう一回めもに
描く」と言った。
 そしてメモ帳に以下の図を描いた。


         物質性小
           −
ス ポール(蛯原)  −ジョン(斉木)   ス
ロ 自己あり・記憶無し−自己無し・記憶あり ト
エ 射精自体     −ペニス < シード   ナ
・          −          タ
人  ――――――――・――――――――  ・
星          −          チ
イ リンゴ(山城)  −ジョージ(大沼)  ェ
パ 自己無し・記憶無し−自己あり・記憶あり フ
ッ ペニス > シード  −生まれてこの方の個体ツ
オ          −          ケ
           −          
         物質性大


「この座標の右側の様に、ポールもジョンも、女の物質性にはあまりこだわらない
と思うのよね。
 座標の左側は物質性が重要になってくる。
 リンゴだったら、処女性とか、売春婦には敷居をまたがせないとかいう事が問題
になってくる。
 ジョージの場合には、自分への執着って感じ。『i me mine』だものね。生まれ
てこの方の自分という物質性が重要になってくる。
 横軸はそうだけれども、縦軸について言えば、上の方がエロス、下の方がタナト
スって感じだな。
 どっちかというと、オッパイ星人の方が成熟している感じがする。そう言えば蛯
原とか山城はよく笑うし、ポールやリンゴもよく笑う。
 斉木、大沼は笑わないし、ジョンやジョージにもどこか影がある。
 ついでに、ミステリー作家でいうと、ジョン的なのはクリスティーって感じ。
『オリエント急行』だの、『そして誰も…』だの、狭い空間に大量に詰め込んで、
あんなの『やおい』だと思うんだよね。
 その対極にいるのがパトリシア・ハイスミス、『太陽がいっぱい』。あれはゲイ
そのものだものね。
 ところで、井上さんって、この座標で言うとどこらへんにいるの?」
「うーん」と考えると井上は座標下の左側を指差した。
「やっぱりねえ」
 それから二人はごく自然にベッドインしたのだが、座標下の左右の男女であるの
だから、体位は、69になった。


●44

 その頃、斑尾マンションの管理室では、24時間管理員の鮎川が机に向かって漫
画を描いていた。
 斉木原作の『ビートルズ殺人事件』の漫画化をしていたのだ。
 何故鮎川がそんな事をしているのであろうか。

 鮎川は草津の後に入ってきた管理員で、鮎川に新人教育をしたのは斉木だった。
2010年の春頃の事だった。
 最初、鮎川を見た時、斉木は、「こいつは、ナロードニキか何かじゃないのか」
と思った。その頃の鮎川の見た感じが、髪型は柳生博風1、9分け、顔は山本学の
弟、みたいで、インテリっぽかったからだ。しかし5分話している内に単なるボケ
と分かった。
「お前、なんでこんな仕事に応募してきた」と斉木は聞いた。
「将来、漫画家になりたいから、一人になれる仕事がいい」
「将来? お前、幾つだ」
「武藤と高田と三沢と同い年」
 武藤だのはプロレスラーの名前だ。という事は斉木の一個下という事になる。
「お前に将来なんてあると思ってんの? お前に才能が無いとかじゃなくて、発揮
する時間が無いっつーの。俺らなんて、もう老後を考えないといけない年齢なんだ
ぜ。つい先週も草津さんの送別会で、俺は2回もジジイ扱いされた」そして斉木は、
その詳細について語った。
「まず最初は、清掃の泉に、だよ。あの女って、マンションの周りで草むしりをす
る時には、ゴルフ場のキャディーみたいな格好してんだろ。だから俺は、そんなに
日焼けしたくないんだったら別の仕事に就けばいいのに、って思っていたんだよ。
ところが飲み会の時にゴスロリの格好をして来たんだよなぁ。耳たぶにピアス10
個ぐらいぶら下げて。ありゃあゴスの格好をしたいから日焼けしたくなかったんだ、
って思ったけど。
 ところで俺はよぉ、メタルロックが好きで、メタル→デスメタル→ディル・ア
ン・グレイの京、という文脈で、ゴスにも興味があったんだよ。だから、結構話が
合うんじゃないか、と秘かに期待して、ビールとコップを持って行って泉の隣に割
り込んでよぉ、ディルのアメリカツアーがさあ、とか言ったんだけれども、向こう
にしてみりゃあ、どっかのおっさんが、ナウいねと絡んできた感じだったんじゃね。
酒も入っていたし。若作りしてんじゃねーって思いっきり言われたよ。
 しょうがねえから、草津さんの所に行ってよぉ。
 これからどうやって食って行くの? って聞いたら、
 年金があるから、って言うんだけれども、そっちも年金もらってんの? だって。
 俺、まだ49だぜ。俺ってそんなに老けて見える? あれにゃあ凹んだよ。
 とにかくよぉ、俺ら、もうそんなに若くは無いんだから、お互い無益な争いは避
けて、仲良くやろうや」言うと斉木は鮎川の肩を馴れ馴れしく2回叩いた。
 ここまでが斉木と鮎川の出会った頃の話である。

 さて、それから夏になったのだが、鮎川が柳生博風1、9分けを丸刈りにしたら、
凸っぱちである事が判明した。
「こりゃあイルカだ。泉と同じだ」と斉木は思った。
 それに前後して、他の清掃員から、「泉ちゃんと鮎川は、どうも気が合うらし
い」という話も聞いた。
 途端にカリカリしてきた。
 引継ぎの時に、鮎川に、「お前、泉ちゃんと何か話したりしているの?」と聞く
と、
「オタク同士なもので」と言う。
 よく聞いてみると、オタク同士で自分の創作物、漫画やイラストを見せ合ったり
していると言う。
 鮎川の野郎、生意気だ。
「その漫画、俺にも見せろ」と斉木は言った。
 鮎川が持ってきた漫画は、村人が木に食われるとか、6次元なんとかとか、前半
水木しげる、後半石ノ森章太郎みたいな作品で、今一理解出来なかったが、それよ
りも理解できないのが、数十ページに渡る細かい漫画を、大学ノートに描いている
事だった。
「なんでケント紙に描かないんだよ。これどれぐらいかかった?」
「3ケ月ぐらいかなあ。それは中野のビルの立体駐車場の外にある、電話ボックス
ぐらいのプレハブの中で描いたんだ」
「お前、警備員をやっていたの?」
「そうだよ」
「よく採用されたな。何年ぐらいやっていたんだ」
「15年位かなあ」
「その前は?」
「自衛隊。俺、富士のすそ野で小銃を撃っていたんだ。俺、すごく上手くて大会と
かにも出させられたんだよね」
「何でそんな大事な事を言わないんだ」斉木は大声を出した。こんな野郎でも国家
に寄り添って生きていた時代があったのか、と思えたのだ。
「そもそもお前って、学校出てから何をしていたの?」
「最初はタツノコプロに就職して、そこを辞めて自衛隊に入った」
「ゲーセンでスカウトされたとか?」
「アニメージュの裏に描いてあった」
「自衛官募集って?」
「タツノコプロの募集」
「そうじゃないよ。自衛隊に入った理由だよ」
「それは親に言われて…。たるんでいるからって」
 それから色々根掘り葉掘り聞いてみると、どうも、連続幼女誘拐事件の時期と重
なる。
 なるほど、オタクの息子の扱いに困って、自衛隊に放り込んだんだろう。
「とにかく、そんなんだったら、あんな6次元なんとかじゃなくて、自衛隊時代の
事を描けばいいじゃん」
「それはもう描いたよ。コミケにも出品したんだ。それは大学ノートじゃなくてち
ゃんとケント紙に書いたんだよ。だって印刷して製本したんだから」
 この野郎、俺が盗むとでも思って、出し惜しみしていたんじゃないのか。
「じゃあ、それを持ってこいよ。俺がスキャンして、ムービーにしてyoutub
eにうpしてやるから」
 これは話の流れでそうなったのだが、内心、「泉とくっつかれるぐらいなら、俺
がそのコンテンツを牛耳ってやる」みたいな気持ちが斉木に無かった訳ではない。
それは、大沼とカミーラに割り込んで行ったのと同じ様な心理だろう。ブックオフ
でも人が見ている棚に割り込んだりする。
 しかし24時間勤務の夜中に、鮎川の『自衛隊物語』をスキャンして、ペイント
でコマごとにばらばらにして、ムービーにする、という作業をしている内に、
「鮎川に、俺の『ビートルズ殺人事件』を漫画化させて、ジャンプとかサンデーに
投稿したら漫画原作者になれるんじゃないか」と思いだしたのだ。
 そんなこんなで、鮎川にその作業を始めさせたのが、2010年の晩秋頃だろう
か。










#1078/1112 ●連載    *** コメント #1077 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:15  (372)
斑尾マンション殺人事件 11
★内容

● 45

 ここで又2011年3月26日の深夜の斑尾マンションの管理室に戻る。
  鮎川は『ビートルズ殺人事件』を熱心に描いていたのだが、机の上の目覚まし
時計が2時半になって、カチッと音を立てたので、我に返った。
 24時間管理員は、3時に新聞屋と通す為に、この時間に一度起きるのだった。
 鮎川は防犯カメラの所に行くと、駐車場屋上だのマンション外周だのを表示して、
屋外の様子を伺った。街灯の差している所だけ雪が舞っているのが分かった。
 それから鉄の扉を開けると実際に外を見てみた。既に数センチ積もっていた。
 寒みぃー。
 ぶるっとして扉を閉めた。冷気に反応してエアコンが動き出した。
 腹が減った。
 鮎川は防災盤の中に隠してあった鍋を取り出すと、キッチンコーナーでレトルト
のスパゲティ・ミートソースを温めてた。ココアも入れた。
 それらを食べながら、ネットでAKBの柏木を見る。
 大沼の紹介してくれた日系人とやればこういうのには興味がなくなると思ったが、
それとこれとは別だった。
 スパゲティーを完食して鮎川はゲーっとゲップをした。
 アイホンが馬鹿でかい音で鳴った。
 防犯カメラを見ると、新聞屋が3人、風除室のアイホンに張り付いている。
 鮎川は防災盤の所に行くと、ボタンを操作して自動ドアを開けてやった。
  自分もフロントに出る。
 入って来るなり新聞屋が怒鳴り出した。
 読売 : 一体どういう事なんだよ。
 鮎川 : 雪のこと?
 読売 : 斉木だよ、斉木。誰か知らないのか。
 毎日 : 斉木はペルー人と結婚する予定だったらしいぜ。
 読売 : じゃあ何で撃たれたんだよ。
 毎日 : 朝日が詳しい。
 朝日 : どうも斉木さん、女の写真を流出させたらしんだよ。
 読売 : ネットで?
 朝日 : いや、A4のファイルに入れて持ち歩いていたらしい。
 読売 : なんでそんな事したんだよ。
 朝日 : 自慢したかったんじゃないの? 俺はこんな女とやっているんだぜー、
みたいに。その内、当局の知る所となって、映画館が手入れを食ったって話だよ。
それで4人もたいーほされて、一人当たり300万の借金があったから3×4で1,
200万払えって言われたらしい。
 読売 : 誰に?
 朝日 : あいつらのボスだろ。
 読売 : それって男の日系人かよ。
 朝日 : そうだろう。
 読売 : そんな奴らの言いなりになっているのかよ。
 朝日 : 拒否ったら撃たれたんだろう。
 読売 : 全く、そんな奴ら、追放してやればいいんだよ。
 朝日 : そういう訳には行かないだろう。
 読売 : 何で。
 朝日 : だって、これだけ物が入って来ているんだから人だって入って来るよ。
この新聞紙だって南米の熱帯雨林から出来てんだから。
 読売 : おめー、そんな事考えながら新聞配ってんの? おめーはどうなんだ
よ。
 毎日 : 女だけなら入れてもいい。
 読売 : おめーはユニークだな。
 朝日 : とにかく早く配っちゃわないと。雪がどんどん積もるし。朝になって
固まるとワダチになるんだよ。さっきもハンドルを取られそうになった。
 読売 : 鮎川ッ。雪かきしておけよ。
 鮎川 : はい。
 そして新聞屋は居住棟に入っていった。


●46

 翌朝、明子と井上はジムニーでマンションに向かっていた。
 大粒の雪がフロントグラスに落ちると、すぐにワイパーが拭いて行った。
 歩道には真綿の様な雪が積もっていた。
 カーラジオからは天気予報が流れていた。
「日本付近は、冬型の気圧配置が緩み始めており、朝鮮半島から山陰にかけて弱い
気圧の谷が発生しています。この影響で、妙高山を越えて雪雲が流れ込んでおり、
野沢温泉地方では大雪になっています。午前8時現在の積雪は野沢温泉で52セン
チ、小谷で44センチ、飯山で37センチ」
 ジムニーをマンションの駐車場に止めると、二人は傘も差さずに正面玄関に回っ
た。
 入館すると鮎川がフロントに突っ立って居た。
 明子は、コートの雪を手袋でぱたぱた払いつつそっちに行く。
「まぁ、凄い雪だこと。鮎川ちゃん、そこの内側に、私のICレコーダーがあるん
だけれども、取ってくれない?」
「これですか」鮎川は見付けると渡してきた。
「あんがと」

 二人は、居住棟に入り、エレベーターに乗って、4階のAMの事務所に向かった。
 部屋に入ると、電気をつけ、エアコンを付ける。
「コーヒーにする? ダージリンティーもあるよ」明子が言った。
「じゃあダージリンティーで」
 2人は応接セットで紅茶をすすりながらICレコーダーを再生した。
 夜中の新聞屋の会話がそっくり録音されていた。
 テープを聞きながら、新聞にも気質があるのだ、と明子は思った。
 それはこんな感じだった。

     イルカ − イタチ
     毎日  − 朝日
    ―――――・―――――
     石臼  − ラクダ
     読売  −

 左下はサンケイだろうか、と思う。
 そんな事より、「斉木さんって、日系人のボスに撃たれたって言われているけど、
警察に言わないとまずいんじゃない?」
「そんな事をして、僕らがちくったみたいに思われないだろうか」
「ら、って言わないでくれない?」
「だって、テープを仕掛けておいたのはそっちじゃない」
「そうだけど、管理主任者はそっちなんだから」
 ふーと大きくため息をつくと、井上はソファに身を沈めた。「会社に電話してみ
よっと。警察OBが居るから」そしてスマホを出して掛けようとしたが、「今日っ
て土曜だよな。休みか」と言うとがっくり肩を落とす。
「大沼さんに聞いてみるかしかないよ。もうすぐ引継ぎが始まるから」

 フロントに下りていくと、二人は管理室を覗いた。
 引継ぎはまだ始まっていなかった。
 ホワイトボードの前で、大沼が鮎川に何やら言っている。
  日系人の話でもしているだろうか。
 榎本は何時もの様にドア付近で何事にも関わるまいと背中を丸めている。
 蛯原は居なかった。
 ほら、行ってきな、と、明子は井上の目を見ながら顎で命令した。
 井上は咳払いをしてノドの調子を整えてから、ホワイトボードの方へ進む。
「大沼さん」
「ん?」
「ちょっと言っておきたい事があるんですけど」
「なんや」
「大沼さん、日系人の女性と付き合っているらしいけど、時間外に何をやろうと勝
手ですけど、職場に持ち込まれるのは迷惑なんで、止めてほしいんですけど」
「おお、分った、分った」
「じゃあ、宜しくお願いします」
 言うと井上は戻って来た。
「それだけ?」明子は目を丸くした。「もっと詳しく聞いて、対応しないと」
「馬鹿を相手にしたってしょうがないよ」
「だってその馬鹿が今、問題を起こしているんじゃない。今のじゃあ、お互いの人
生を歩みましょう、って言って来た様なものじゃない」と言いながら明子は管理室
の中を見た。
「私が聞いてくる」言うと明子は大沼の所に歩み寄る。
「大沼さん」
「ん?」
「前に飯山の駅で抱きついていた女性なんですけど、あの人ってどういう人なんで
すか?」
「恋人や」
「恋人?」
「そうや。この歳になっても、惚れられるって分かったよ」
「は?」
「夜勤明けは、駅からアパートまで走って帰るんやで、早く会いたいから。あの気
持ちに嘘はないで」
 それから大沼は、自分が留守中に掃除がしてあるのだが本棚の本が上下あべこべ
になっている、だの、味噌汁の出汁に鶏の足を使うだの言う。
「自分の気持ちは嘘はない。もし間違っていたなら、そう思わせた世界に責任があ
るんや」
「それって、世界の中心で愛を叫ぶ、つーか、自己ちゅー? つーか、大沼さんの
気持ちなんてどうでもいいんですよ。今問題にしているのは入管法とか売春防止法
とかなんですから」
 ここで、知らない間に入って来ていた山城が言った。
「大沼さんよ、溺れちゃあいけないよ」
「なにぬかしとんねん。お前かて、あの映画館で遊んでたやないか。そんなのに、
自分ちの田んぼには入ってくるなってか」
「味噌と糞とを一緒にするなよ。米にかけていいのは塩だけだ。油で炒められてた
まるか」
「お前んちのお節料理かて、みんなペルー人が水産加工の工場で作っているんや
で」
 それを聞いていて、明子は自分が石油缶の蓋みたいに、ぺっこんぺっこんするの
が分かった。
 というのも、ついさっきまで、大沼など、例えば、チリ人妻を手引きする迷惑な
おっさん、という感じだったのだが、ここで山城が登場すると、こいつこそ、清く
清くと言いつつ汚れたオヤジ、と思えて来るのであった。
 うーん、と唸っているところに、今度は蛯原が入ってきた。
「井上さん、ちょうどいいところにいた。今、山城さんに雪かきを手伝ってくれっ
て頼んだんですけど、全然聞いてくれないんですよ。お前に使われているんじゃな
いって言って。井上さんから言ってもらえないですかねえ。これだけ雪が降ってい
るんだから。
 これ、どんどん積もりますよ。このままだと、屋上のスロープから車が滑り落ち
て、一つ下の階の車にぶつかりますよ。そんな事になったら管理会社は関係ないな
んて言ってられないですよ。そりゃあ確かに自然災害は関係ないってなっているけ
れども、ゲレンデ直結のリゾートマンションで雪対策が出来ていないんじゃあ、そ
もそも規約がおかしいって言われますよ。都内のマンションの規約を写してきたん
じゃないかって言われますよ」
「そういうのも含めて、ぜーんぶAMでやってくれないかなぁ。全部一括でお願い
しているんだから」と井上。
「そんなん、言っている間にもやってしまった方が早いん、違うか。これだけ人数
いるんやから」と大沼が言った。
「そうだなあ」言って蛯原は辺りを見回す。
 榎本、蛯原、井上、高橋、山城、鮎川、大沼が居る。
「そうしたら、あんた、誰がどこやるか、決めてんか」
 蛯原は、ホワイトボードに進み出ると、水性マーカーを取った。さっさっさっと、
マンションの周辺図を描く。
「じゃあ、正面は鮎川ちゃんがだいたい終わらせてあるから残りは榎本さん。それ
から、鮎川ちゃんと俺でマンション東南の歩道。井上さんも手伝ってくれるの?」
「いいですよ」
「じゃあ井上さん、大沼さんと、高橋さんも手伝えたら、3人でサブエントランス
周辺を。集積場は清掃がやるだろ」と山城を見る。
 じゃあ全員で取り掛かろう、と管理室から出て行くのと入れ替わりに泉ちゃんが
凸っぱちを覗かせた。
「私の事、呼びました?」
「泉ちゃん、こっちこっち」と蛯原が手招きする。そしてNTT盤の前に置いてあ
る石灰の袋を示しつつ、「あれを、駐車場屋上のスロープに撒いておかないと。そ
うしないと大変な事になるから。流しの所にバケツがあるからそれに入れていって、
撒いておいて」


●47

 大沼を先頭に、井上、高橋と、手に手に長い柄のついたプラの雪かきを持って、
サブエントランスに向かう。
 歩きつつ、明子は、人間のメモリにもタイプがあるのではないか、と考えていた。
 例えば、さっきの管理室の自分は何なんだろう。大沼を見ればチリ人妻を連想し、
山城を見れば水産加工会社のペルー人を連想する。大沼や山城がどうこうではなく
て、それぞれがトリガーになって、過去の記憶がぼろぼろ出てくる。これは丸で、
エクセルみたいなファイルでキーワード検索して、その行に書かれていた記憶が蘇
る様な感じである。
 自分に比べて大沼はどうなんだろうと、明子は先頭を歩いている大沼を見た。
 あの人は、自分の感性を疑わない、つーか、確かに自分はそう感じたんだからと、
その通りにハード、周辺機器を動かそうとする。つまり、ドライバみたいなものな
んじゃないのか。明子の記憶が、空想的なものなら、大沼のは、粘着というよりか
は粘膜という感じがする。ナメクジって粘膜むき出しでのろのろ移動して行くが、
その道だけを世界と思うなら、自分と世界とは粘膜越しに張り付いている訳だから、
リアルといえばリアルだ。
 山城のはメモリというか、プロダクトIDとかシリアルナンバーみたいなものな
んじゃないのか。大沼あたりが長い長い自己の経験から何かを言うと、山城は、そ
の経験は純正品じゃないと判定して駄目出しするという感じ。だからこの手の人が
何かを語っても、それは自分の経験ではなくて、世の中にある臭ーいものに反応し
ているだけだろう。あれも臭い、これも臭いと拒否って行って、残った箇所が彼の
求める清い部分なのだ。
 そして、蛯原は、キャッシュだな。まさに今の出来事に反応しているだけで、事
態が収束すれば全てを忘れる。
 それを図にすればこんな感じじゃないのか。

          動的
          −
小 ポール(蛯原) −ジョン(明子)   大 
は キャッシュ   −エクセル      は
量 刹那主義    −解釈学       量
の ――――――――・――――――――  の
憶 リンゴ(山城) −ジョージ(大沼)  憶
記 プロダクトID −ドライバ      記
  排他主義    −歴史主義
          −
          静的

 右上から左下へのラインが環境主義的で、その逆が解釈学的な感じがする。
 そうすると、こういう4人がコミュニケーションを取るという事は可能なのかと
も思う。だって、自分に何か言われても、エクセルシートのその行がアクティブに
なるだけだし。大沼なんて自分の歩いてきたナメクジ的足跡しか世界がないのだか
ら、例えば大沼と井上が話したとしても、お互いに紙芝居を見せ合っている様なも
ので、自分の意見やら考え方が変わるという事はない。山城に至っては家紋に向か
って話している様なものだ。そう言えば、リンゴ・スターの家には、祖父以外には
誰も座ってはならならない、何故ならそれは祖父の椅子だから、という椅子があっ
たという。格とか筋合いを大事にするのだろうか。
 あと、蛯原は話した瞬間はコミュニケーションが取れたとしても、電源を落とせ
ば消えるんだから。
 だから、そもそも人間が繋がるという事は出来ないんじゃないか、と明子は思っ
た。


●48

 サブエントランスに到着すると、先頭の大沼が言った。
「ここらへんは駐車場の影になっているやろ。西日で溶けて翌朝、又凍結するんや。
まー、今やったところで、今夜遅くまで降るっていうから意味ないが、人が歩く所
だけでもやってしまうか」
 そして、出口付近の雪かきを始めた。
 明子が井上に言った。「私、雪かきしながら、なんとなく大沼さんに聞いてみ
る」
「なにを?」
「だから、斉木が撃たれた事とか」
「ほっときゃあいいよ。昼には警察がくるし、大沼と一緒にICレコーダーを渡す
から」
「でも聞いてみる」と大沼を見る。
 柄の長い雪かきで作業をしている姿は、酪農家が牧草でもつついているように見
える。
 明子は大沼の背後に行くと雪かきを始めた。
「大沼さん」
「なんや」大沼も雪かきしながら返事をした。
「さっきの続きなんですけど、その日系人って結局どういう人なんですか?」
「だから、恋人や」
「恋人といっても日系人でしょう?」
「そうや」
「それって、怪しくありません?」
「何で?」
「だって、集団で売春をしていたり、斉木さんを撃ったりしたんでしょう?」
「斉木君の事は知らないけど、売春なんて昔はみんなやっていたんやろ」
「昔はともかく、今やっていたらまずいでしょう」
  言っている内に飯山で見たカミーラの姿が脳内に蘇ってきた。
  ファー付きダウン、きつきつのGパン、厚底ブーツ、ケバい化粧…。あんな如
何にもな格好に萌えるのだろうか。
「大沼さんって、あの人の事、好きなの?」
「愛しとるがな」
「何で?」
「いい女だから」
  いい女だから萌える、というのに明子は驚いた。
  自分だったら、飢えているから萌える、とか思うんじゃなかろうか。
  石臼だったら、みんながいいと言っているから萌える、とか言いそうだ。
  イルカだったら、そのポーズがいいから萌える、とか。
  愛が何に由来しているかをまとめるとこういう感じになるのではなかろうか、
と明子は思う。

     イルカ    − イタチ
     性行動への反応− 私の欠乏
       ―――――・―――――
     石臼     − ラクダ
     社会の欠乏  − 異性への反応

  そうに違いない、オスに限って言えば。
  明子は、雪かきを雪の塊に突っ立てると、柄に両手を乗せて大沼を見た。
  大沼が「俺がいいと思っているんだから、そう思わせるだけの何かが彼女には
あるんやでー」と言いながら振り返った。
  そして、ばさーっと両手を広げた。丸で怪人20面相がマントでも広げるよう
に。
  ところがそのまま我が身を抱きしめる様に丸まると、その場に倒れこんだ。
「うううう」とうめいている。
 「ひゃーっ。大沼さんが倒れた」明子は後ろを振り返った。
 井上が駆け寄って来る。
 何故かサブエントランスの外側からは蛯原が走って来た。
 途中でタバコを投げ捨てると、蛯原はかがみ込んで、「心臓か」と言った。
「息が苦しい」と言う大沼の顔がみるみる青ざめて行く。
「鼻からゆっくり吸ったらいいよ。しゃべるな。少しは楽になるだろう」
 大沼は微かにうなずいた。
 井上がコートを脱いで「これ、頭の後ろにでも敷いたら」と言う。
「いや、ここだと冷えるから、サブエントランスに連れていこう。二人で抱えるか。
井上さん一人で抱えられる?」
「どうやって?」
「お姫様だっこみたいに」
 井上がだっこしてサブエントランスの風除室に連れて行くと蛯原がコートを敷い
てその上に寝かせる。
 と、ここまでの一連の流れを見ていて、蛯原って頼りになるじゃん、と明子は思
ったのだが。
 しかし、蛯原が、ベルトに通した携帯ケースから、さっそうと携帯を取り出して
119番して、
「こちらは斑尾マンションです。住所は飯山市斑尾高原**番地。目標になる公共
施設等は斑尾高原スキー場のゲレンデです。これは火災ではなく救急車のお願いで
す…」
 というのを聞いている内に、又又、エクセルみたいに、かつての記憶が検索され
て、脳内に、所長が倒れた時の119番通報のシーンが蘇って来た。
「あの時の蛯原は、まるで、スーパーベルズの京浜東北線の歌、みたいな白々しさ
があった」
 そう言えば、これは榎本から聞いたのだが、福島原発の事故の当日にも、竣工以
来一回も使った事のない、全館緊急放送を使って、
「居住者の皆様にお知らせいた致します。温泉が沸きました。オンセンが沸きまし
た。本日、通常通り営業致します」と放送して、
「何か重大な発表があるのかと思えば温泉が沸いただと? ふざけるな」と居住者
に怒鳴られたという。
「もう、張り切っちゃっているんですよォ」と榎本は言っていたが、今も張り切っ
ちゃっているだけなのではないか。


●49

 救急車は約20分で到着した。隊員は大沼をストレッチャーに乗せて格納すると、
一人は運転席で病院に連絡し、一人は大沼をケアし、一人は外に突っ立っていた。
 ここまではスムースに運んだのだが、しかし、行き先がなかなか決まらない。ど
こかの病院に連絡をすると10分ぐらい待たされてから「今、他の救命救急をやっ
ているから」と断られ、又別の病院に電話すると又10分ぐらい待たされてから
「今日は呼吸器循環器の専門医がいない」と断られ。
 だんだん蛯原がいらついて来る。
 そして外にいた隊員に絡み出した。
「なんで、一箇所ずつ電話してんだ。いっぺんに電話して受け入れられる所に行け
ばいいじゃないか。
 それに、何でお前らマスクしているんだ。顔を隠しているのか。公務員には肖像
権がないんだぞ。それとも、自分だけ冷たい空気を吸わないようか。患者から病気
がうつるとでも思っているのか」
「これは、我々がハブになって感染を広げないようにしているんですよ」
「じゃあそのゴム手袋はなんだ。一回ずつ交換するのか」
「そういう訳には」
「やっぱり自分を守っているんじゃないか」
 運転席の隊員が後ろの隊員に何やら言っている。
 蛯原はとんとんとガラスを叩いて中の隊員に言った。
「おい、何時まで待たせる気だ。こんなの、心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死
んでいるぞ」
 オレンジ色の毛布に包まって安静にしていた大沼がギクッと目を見開いた。
 そして自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して「ここに連れ
ていってくれ」と言った。「何時もそこにかよっているんや」
「なんだ、診察券持っているのか。ここだとちょっと遠いけれども、普段診てもら
っているんだったら、ここに行きましょう」と救急隊員が言う。










#1079/1112 ●連載    *** コメント #1078 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:16  (394)
斑尾マンション殺人事件 12
★内容

●50

 病院まで蛯原が救急車に便乗し、井上と高橋はジムニーで追いかけた。
 病院に到着すると、救命救急センターは素通りして、病棟の個室に運び込まれる。
 処置をするからと30分ぐらい待たされてから、病室を覗いてみる。
 既に意識不明らしく人工呼吸器が付けられていた。
 中から看護師が出てきて、「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。
「違いますけど」と井上。
「どういったご関係の方ですか?」
「職場の同僚ですが」
「ご家族の連絡先は分かりますか?」
「大沼に家族なんていないよ」と蛯原。
「会社に連絡すれば、入社時の連帯保証人とかから分かるかも知れない」と明子。
「あんなの、いい加減だろう」
「これ、お渡ししておきますから、読んでおいて下さい」書類を蛯原に渡すと忙し
そうに看護師は消えた。

 ナースステーションのそばに談話コーナーがあった。
 テーブルが5、6個あって、壁にはドリンクの自販機や公衆電話が設置してある。
 3人は壁際のテーブルに座った。
 看護師の置いていった書類が、蛯原から井上へ、井上から高橋明子へと渡ってく
る。
 明子はぱらぱらめくった。
 人工呼吸器を付ける際ぐらついている歯があると気道に引っかかり危険なので、
巡回歯科医が治療する場合がある、つきましては実費200円をご負担願います
云々。治療上の必要若しくは入院患者の混み具合から差額ベッド代を負担して頂く
場合があります云々。
 こんなの渡されてもなぁ、と明子は思った。そんな事より病名が知りたい。ジ
ョージと同じなんだろうか。
 明子は前に座っている井上と蛯原を見た。
 井上の横顔がよく見えるのだが、妙にもみ上げが長いのに今更気が付いた。
 スーツもキルケゴールというか、リチャード・ブローティガンというか、腰の所
がぎゅーっと括れているスリーピースで、ベストのボタンも10個ぐらい付いてい
る。そこに懐中時計の鎖がぶら下がっている。
 今時懐中時計というのは何なんだろう、と明子は思った。
 ふと自分の腕時計に手を当てる。Gショックだ。
 井上の横に座っている蛯原は、椅子の上であぐらをかいていて、背もたれに肘を
乗せている。
「蛯原さん、おっきい時計してますね」と明子が言った。「それって、ローレック
スですか?」
「そうだよ。香港製の。山城が本物のローレックスを巻いているよ。分解掃除だけ
で8万もするって自慢していが」
 何でそれが自慢になるのだろうか。
 でも分かるけど。幾何学的な正確さに神のみ技を感じるんだろう。猫の下の歯並
びが綺麗だったりすると遺伝子を感じる様に。そういうのをメカに求めるとローレ
ックスになるんだろう。鳩山弟の蝶のコレクションも同じだと思った。
 自分も最初はそうだった。でも、ローレックスだけが時計じゃない、ラドーもチ
ソットもセイコーもある。そうやってどんどんオルタナが出てくると、もはやブラ
ンドではなく、『THE 時計』が欲しくなる。それがカシオだったんじゃないか。
 あと、懐中時計というのは自己への執着を感じる。私の時間、という感じ。『i 
me mine』とジョージは歌った。
 って事は、こういう表が描けないか。

     ポール      − ジョン
     香港製ローレックス− Gショック
         ―――――・―――――
     リンゴ      − ジョージ
     ローレックス   − 懐中時計


 脳内のこの表を見て、明子は「今一だな」と思った。「そんな事より、今は大沼
さんの病状か」。
 ふと顔を上げると蛯原が居ない。
 何処へ行ったんだろう、と見回すと、ナースステーションの前をうろついていた。
カウンターの中を覗いたりしている。
  それから廊下の方に行くと、体重計に乗ったり、身長を計ったり。終いには、
アルミの松葉杖を銃に見立てて構えてみたり。
 ありゃあガキだな、と明子は思った。水族館のイルカみたいに、鞠でも投げれば
そっちに飛んで行くんじゃなかろうか。イルカかぁ…。
 そして蛯原が戻ってくると明子は誰へとも無しに言った。
「うーん、さっきの看護師さんだけど、親族じゃないからって何も教えてくれなか
ったけれども、もし労災だったら、私が立て替えなくちゃならないんだよなぁ。コ
ンビニで下ろしてこなくちゃ。てか、社長に連絡しないと。
 労災じゃないとしても、それはそれでやっかいで、社会保険で、疾病手当金の手
続きとかしなくちゃならないんだよなぁ。もう、今月も26日だし、今月は決算で
忙しいし、来月になれば算定基礎届けもあるし、そこに大沼さんの手続きが重なっ
たらこっちが過労死しちゃう。だから少しでも早く事情を教えてくれれば助かるん
だけれども。どうせ私が社会保険に診断書を提出するんだから、病名なんて分かっ
ちゃうんだから。
 でもいいや。私がサービス残業して土日つぶせばいいんだから。はぁー」とため
息をついて立ち上がると「私、ちょっとお化粧なおして来ます」と言って廊下の奥
に歩いて言った。
 明子の姿が消えてしまうと、蛯原が立ち上がって井上に言った。
「あっしがちょっくら探りを入れてきますわ」
 そして、かすれた口笛を吹きながら、体を揺すりつつナースステーションの方に
歩いて行く。
 ちょうどさっき書類をくれた看護師がナースステーションに戻って来た所だった。
「あー、ちょっと看護師さん」と蛯原は迫って行った。
「今忙しいんですけど」
「3分だけ、2分、1分」とにじり寄る。
「何ですか?」
「大沼の病状なんですけど」
「教えられませんよ」
「そんな事言わないで、労災かどうかだけでも教えて下さいよ。でないと会計の時
に困るでしょう」
「別に払ってくれなくても後で会社に請求するからいいですよ」
「もしかして、“か”に点々?」
「かに点々? あー、がんか」
「やっぱりそっか」
「私は何も言ってませんよ」
「だって普通がんでしょう。ここは、呼吸器科なんだから」
「肺の病気は他にもいっぱいありますよ。肺気腫とか肺炎とか肺結核とか。とにか
く病名なんて絶対に教えられませんよ。本人に告知するかどうかだって予め聞いて
おくぐらいなんだから、単なる通行人に教える訳がないじゃないですか」とけんも
ほろろに言うとナースステーションに入っていった。
 今のは相手が悪かった、と蛯原は思った。
 若過ぎた。もっと、アラフィフ、つーか、上がる寸前の、『ごめんね、お母さん
も女なのよ』シリーズに出てくるようなオバサンがやりやすい。女として相手にさ
れなくなる不安から何にでもしがみ付いて来る。弱き人、汝の名はオバサン。
 蛯原は ふらふらと廊下を進んで行くと、大沼の病室を覗いた。
 見た感じ40後半の看護師が大沼をいじくっていた。
 こりゃあ、おあつらい向きだぜ。
 病室に入ると「どんな具合ですかね」と蛯原は声を掛けた。
「今、痰を吸引しますからねぇ」言うと看護師は人工呼吸器のマウスピースからチ
ューブを挿入した。
 ずずずーという音と共に、大沼が胸だの肩だのをびくびくさせた。
「それって、苦しくないんですか?」
「もちろん感じてませんよ」そしてチューブを抜くと「ご家族の方?」と聞いてき
た。
「いやあ、職場の仲間ですよ。俺ら24時間勤務のマンション管理員でね。徹夜明
けにぶっ倒れたんですよ」
「あら、大変だ」言いながら点滴などチェックしている。
「もしかして看護師さんも徹夜明け?」
「あら、何で?」
「目が真っ赤じゃない」
「ほんと?」
「でもまだ若いからどうって事ないでしょう」
「もう長いんですよ」
「じゃあ大沼も安心だ」と言って蛯原はベッドの柵を握った。「大沼さんよ、安心
しろ。いい看護師さんが付いていてくれているぞ。こいつはねぇ、元は電気工だっ
たんですよ。石綿を大量に吸い込んだのもよくなかったのかもな。あれもがんの原
因になるんでしょう?」
「うーん。むしろ体質の方が」
「体質?」
「ご兄弟にがんの方が居たとか」
「そい言えばこいつは姉をがんで亡くしているって言っていたな」
「じゃあ、がんの家系なのかも知れないわね」
「ついてねえな」蛯原は2、3回鼻をすすると目頭を押さえた。本当に涙が出てき
たので驚いた。「ちょっと失礼」と言って病室から出る。

 談話コーナー戻ってくると、蛯原は明子と井上に報告した。
「やっぱり、大沼はがんですね」
「すごーい、聞き出したんですか」
「なんたって、俺はオマワリに言って、車のナンバーから持ち主に連絡させる男で
すよ」
「そんな事、出来るんですか」
「所轄か交番に電話して頼み込めばね。ところが斉木の馬鹿はいきなり110番通
報して、自分がクレーマー扱いされたとかなんとか騒ぎ出す。今度は一転して、管
理規約に書いて無いからもう警察には連絡しないとかね。あいつは1か0かで使え
ませんよ。
  つーか、あいつはもう本当に使えないんだな。早く所長に言って人の補充をし
てもらわないと。つーか、所長も居ないんだよな。妙に人が減るなぁ」言うと蛯原
は井上の顔を見た。
 井上のスマホが鳴った。
 ディスプレイの番号を見て、「警察からだ」と言ってから出る。
「もしもし。はい、そうです。あー、大沼ですね、入院したんですよ。ええ。事故
じゃなくて病気ですけどね。意識がありませんから事情聴取は無理だと思いますよ。
詳細は病院に直接問い合わせて貰えますかね。ええ。病院は飯山市立三途の川病院、
医事課、0269…」




●51

 帰りは蛯原もジムニーに同乗して、マンションに向かった。
 雪はまだまだ降り続いていた。
 峠のあちこちで、ランクルやパジェロなどの大型4駆車が、自重でスタックして
いた。その脇を、3人が乗ったジムニーがするするとすり抜けていく。
「今日の24時間管理員ってどうするんです?」後部座席で蛯原が言った。
「まだ鮎川さんってマンションに居るんですよね。彼に昼間寝ていてもらって、連
投してもらうっきゃないでしょう。明日になったら本店に電話してみるから」
「今、電話してみればいいのに。上司の携帯ぐらい知っているでしょう?」と明子
が言った。
「電話したところで、僕が主任者なんだから、僕が決めないとならないんだよ」
「だったら今決めればいいじゃない」
「だから、鮎川さんに連投してもらうって決めたじゃない。でなければ、AMの社
長にお願いするしかないよ。高橋さんが電話してみればいいじゃない」
「つーか、そんな事を言っている場合じゃないんじゃない? もう3人も死んだり
病気になったりしているんだよ」
「それは警察の仕事でしょう」
「じゃあ、あんた、何をやるの?」明子はちらりとルームミラーで後部座席を見た。
「まあいいや。事務所で話す」

 事務所に着くなり、コートを脱ぎながらさっそく明子は「見立て殺人が進んでい
る」と言った。
「見立て?」
「だって、所長、斉木、大沼って来ているんじゃない」
 ぼーっとしているので、タイムカードの上に乗っかっている行先ボードを持って
きて表を書いた。

 エプスタイン 所長  吐しゃ物
 ジョン    斉木  拳銃
 ジョージ   大沼  肺がん

「こういう具合に、見立て殺人が進行しているのよ」
「だって斉木も大沼も生きているし」
「そうだけど、一応は関係が成り立っているでしょ」
「じゃあ、次は誰が狙われると?」
「『ビートルズ殺人事件』ではリンゴだから、リンゴに相当するのは山城さんよ」
「誰に?」
「そりゃあ分らないけど。
 ただ『ビートルズ殺人事件』ではエプスタインはジョンが首謀者でポールが実行
犯でしょう。このマンションでは、斉木が首謀者で蛯原が実行犯って感じ」
「だからその斉木は入院しているって」
「首謀者なんて居なくたって、実行犯が居れば勝手に反応するのよ。蛯原なんて、
ずーっと忘れていた癖に、クリスマスが来れば、クリスマスの飾りを思い出すでし
ょう? デスノートみたいに」
「それで、僕にどうしろと」
「だから、生き残っているのは山城と蛯原なんだから、その二人に関して調査しな
いと」
「又インタビューでもしろと?」
「そんな事したって、大沼さんは入院しちゃったんだから、そんな事したって、時
限爆弾の配線をちょん切る様には止まらないんだよね」
「じゃあ、どうする」
「飲み会でもやったら?」と明子は言った。「残りのターゲットは山城、蛯原の2
人なんだから、飲み会でもやって懇親をはかればいいんじゃないの?」
「そうだな」

 という訳で、井上は山城、蛯原の両名を飲み会に誘った。
 最初は難色を示したものの、二人とも、雪の為徒歩で出勤していたので、街まで
送って行ってあげるから、と言ったら、承諾した。
 普段は山城はチャリ、蛯原は原付で通勤していた。


●52

 明子、井上、蛯原、山城の4名は、その晩、飯山市内の居酒屋に行った。
 土間から一段高くなっている座敷に通されると、とりあえずビールで、お疲れさ
まーの乾杯をした。
「すぐにお造りがきますんで」と井上が蛯原、山城に気を遣う。
 明子は付け出しのもずくをすすった。「酸っぱい。ほっぺがぎゅっとなる」
 何気に、カウンター席の方を見る。
  天井からぶらさがっている棚にブラウン管テレビが設置してあった。
 ホリエモンが低線量被曝なんてものはそんなに心配しなくても平気だ、とか言っ
ていた。
「あの人、もうすぐ収監されるっていうのに、よく原発の心配なんてしているよ
な」つられて見ていた山城が言った。
「あの人は凸っぱちじゃないですか。ああいう人はイルカだから、目の前にある事
にしか反応しないんですよ。でも自分で考えているわけじゃなくて誰かに操られて
いるんじゃないのかなぁ」
「誰に?」
「例えばソフトバンクの社長とか。あの人ってイタチみたいなオデコでしょ。ああ
いう人って計算して色々企むんですよ」
「そういえば高橋さんもそんな感じのオデコしているよね」と蛯原。
「そんなあ、私そんなに計算したりしないですよ」
「じゃあ俺は」と山城。
「山城さんは、ホリエモンとか孫社長とかじゃなくて、もっと質実剛健な感じ。経
団連とか農協とか。まあ、IT企業で言ったら、アスキーの西って感じかなぁ。ち
ょっとマニアックですけど」
「まあ俺は昔ながらの男だからな」
「つーかね。うん」明子はビールをごくごくごくーっと飲み干した。「私が言いた
かったのは、例えばですよ、山城さんと蛯原さんが衝突したとしても、それは誰か
イタチが後ろで操っているって事ですよ」
「誰が?」
「斉木さんとか」言うと明子は蛯原と山城の顔を交互に見た。
 山城はなんの事やら分かっていないみたいだが、蛯原は何か思い当たる節でもあ
るやの雰囲気だった。
「因みに僕って今時の経営者で言ったら誰?」と井上が言った。
 ちょうどその時、店員がお造りの大皿を運んで来たので井上が受け取った。
「ワタミの社長かな」と明子が言った。


●53

 その頃管理室では、既に40時間以上も勤務されられている鮎川が、『ビートル
ズ殺人事件』の漫画化を進めていた。
 自分の描いた絵を見て、「なんだが、『ゲゲゲの鬼太郎』になってしまったな」
と鮎川は思った。
 ジョンはねずみ男、ポールは鬼太郎、ジョージはぬりかべ、リンゴは子泣き爺で
ある。
 鮎川は水木しげるを愛していた。

 かつて、斉木が「水木しげるっていうのはおかしい」と鮎川に絡んできた事があ
った。「普通だったら、戦争に行って腕とか失えば、軍部を恨むだろう。何でそこ
で、オカルトに走るんだよ。あと、『銀河鉄道999』って言うのもおかしいだろ
う」
「それは水木しげるじゃないけど」
「それは知っているけど、銀河鉄道なんていうのは無いんだよ。あるのは、西武鉄
道999とかだろう。
 俺が思うに、お前らオタクは制度内で非力だから、オカルトだの銀河鉄道だのっ
て言うんじゃないのか? そんで、制度とは関係の無い、オカルト少女だの戦闘美
少女だのに萌えるんじゃないの?」
「それは全然違うよ。自分は戦闘美少女には萌えないし」
「じゃあアンヌ隊員は?」
「アンヌ隊員は戦闘美少女だよ」
「ラムちゃんは?」
「ラムちゃんはオカルト系だよ」
「ラムちゃんには萌えるの?」
「萌える」オカルトだったら何にでも萌える。崎陽軒の醤油差しで抜けると言う。
「ふーん。って事は、アンヌ隊員に萌える奴っていうのは、まず制度内の弱者とい
う立場があって、それ故に、制服を着たアンヌ隊員に萌えるって事だな。だって、
ロハスな女だったら相手にしてくれる訳ないものな。アンヌ隊員だったらナイチン
ゲールのノリで優しくしてくれるかも知れないけど。
 そんで、ラムちゃんっていうのは、純然たる奇形って訳か。
 じゃあ、ここで話を『ビートルズ殺人事件』に戻すけれども。
 俺は前から、ポールっていうのは、世界には適応しているが要素の倒錯がある、
って思っていたんだよ。それって、絵画で言うとマグリット的だよ。
 偶然にも、アップルレコードの林檎のマークはマグリットが描いていて、あれは
ポールが所蔵していたのだけれども。
 そして、ジョンというのは、世界に倒錯を起こしていて、ムンクの『叫び』状態
なんじゃないかって思っていたんだよ。
 それから、ジョージは、倒錯というよりも疎外されていて、それはゴッホみたい
だと思っていたんだよ。
 あと、リンゴは、エプスタインと似ていて、それらの絵を買いあさる画廊経営者
みたいだなと。
 そのイメージで、ラムちゃんと戦闘美少女の分類も可能なんじゃないのか。つま
りこういう感じだよ」と言うと斉木は図に描いて見せた。


          倒錯
          −
  ポール     −ジョン
  マグリット   −ムンク       
  ラムちゃん   −アンヌ隊員
素 ――――――――・―――――――― 界
要 リンゴ     −ジョージ     世
  画廊経営者   −ゴッホ      
          −ゴス
          −
          疎外

「そうだ。これに違いない。
 この右上から左下のラインがリビドーに関わった欲動であり、その反対が超自我
に関わるんじゃないか。
 だから鮎川よ、そこらへんをよーくイメージして漫画化して欲しいんだよな」

 これはずっと前に斉木が言った事だった。しかし何の事だか分からないままに、
鮎川は『ビートルズ殺人事件』を描いていた。
 さて、鮎川は完成した漫画をスキャンすると、フォト蔵にしまった。
 それから何時もの様に、レトルト食品とココアで腹ごしらえをすると、新聞屋を
待った。
 しかし、その朝、新聞屋が来たのは予定を3時間も超えた6時だった。
 正面玄関の自動ドアを開けてやると、フロントに入って来るなり新聞屋の一人が
怒鳴った。
「鮎川ーッ。雪かきしておけって言っただろう。滑ってしょうがねえ」
 新聞屋が入館すると、鮎川は、ボイラー室からプラの雪かきを取って来て、正面
入り口から雪かきを始めた。
 既に夜は明けていて、雪はやんでいた。

 約2時間使って、やっと歩行者の通れる30センチ幅の通路を確保した。
 鮎川は空を見上げた。
 雲の流れが速く、時々切れ目から青空が見える。
 チャリン、チャリンとベルを鳴らされて視線を水平に戻した。
 山城が自転車でこっちに迫って来る。
「あれ、チャリンコで来たんですか」
「シャッター開けてくれ」と山城。
 鮎川はポケットをまさぐって、シャッターのリモコンを押した。
 山城は、鮎川を通り越して駐車場の方へ消えて行った。


●54

 駐車場に入ると、山城はバックミラーで鮎川を見た。
 又、チャリン、チャリンとベルを鳴らす。
 真っ直ぐ行って突き当たりのスロープを登ると、ぐるりと回って、エレベーター
前に到着する。
 自転車を立ててエレベータに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
 AMの自転車置場は最上階のスロープの下にあったのだ。
 屋上に降りると、一面に真綿の様な雪が降り積もっていた。まだ全然足跡が付い
ていない。
 山城は、嬉々として自転車を漕ぎ出した。
 真っ直ぐスロープには向かわずに、あちこちを旋回しながら、オリンピックの輪
の様にタイヤの跡を付けていった。
 何故か、『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出した。
 あの映画は妻と見に行ったのだった。
 妻は処女だった。雪のように白く清かった。
 『雨に唄えば』を口ずさみながら、山城は雪の上にタイヤの跡を付けて行った。
 俺だけが汚していいのだ、と山城は思った。後で、泉だの横田だのに汚されてた
まるか。あいつらほんとうに豆腐に指を突っ込むようなガキなのだから。
 散々ぐるぐる回ってから、階下に向かうスロープに向かった。
 その時になって、今日は日曜だから泉らは来ないのか、と気が付いた。同時に、
今自分が口ずさんでいるのは『雨に歌えば』じゃなくて、『明日に向かって撃て』
でポール・ニューマンがキャサリン・ロスを籠に乗っけて漕いでいる時の歌だ、と
気が付いた。
 次の瞬間に、自転車の前輪がスロープに差し掛かったのだが、突然、ハンドルを
取られるのが分かった。
 焦って斜面を見ると、積もったばかりの雪の下に薄っすらとワダチが出来ていて、
左側の壁に向かってカーブしている。
 あれッと思った時には、ずずずずーーっと滑り出していた。壁に激突する、と思
ったのだが、壁が外れて、自転車もろとも地上に転落した。
 こりゃあ死ぬぞ、ともがいている内に、自転車と自分が入れ替わり、自分が先に
背中から着地した。かなりの衝撃だったが、雪がクッションになって、助かった、
と思った。しかし次の瞬間、自転車が落ちてきて、ブレーキレバーが右腹部の肝臓
付近をざっくりとえぐった。その衝撃で自分はうつ伏せの状態になり、チャリは回
転して、脇の小道に飛んでいった。











#1080/1112 ●連載    *** コメント #1079 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:16  (451)
斑尾マンション殺人事件 13
★内容


● 55

 正面玄関で雪かきをしていた鮎川は、ぎゃっ、という短い悲鳴の後に、ちゃりー
んという音を聞いた。
 自転車でコケたのかなあ、と考えて、しばらくじっとしていたのだが、ハッと気
が付いた様に、雪かきを持ったまま走り出した。
 駐車場の真ん中を突っ走って、裏側の柵まで行く。
 舗道に自転車が落ちているのを発見した。
 植え込みの手前には、山城が卍みたいな格好をしてへばりついていた。
 鮎川は、柵の扉を開けて、山城に近寄ると、周辺をうろつきながら様子を見た。
 綺麗に雪が積もっている所に落っこちているので、もしかしたら生きているかも
知れない。
 雪かきの柄で、山城の腹部をぐーっと押してみる。腹の下から、どろーっと血が
流れ出してきた。
 フェンスの外側の松の木で、カラスがくっ、くっ、と咽を鳴らせて羽をばたつか
せた。
 鮎川は雪かきを振り回してみたが、カラスは微動だにしなかった。
 雪かきを銃に見立ててカラスを狙う。バーン、バーンと言った。
  小銃があればなぁ、と思った。鮎川は的に命中させて、同じ所にもう一発通せ
た。
 突然雪かきを放り投げると、口をへの字に曲げて頬を膨らませた。
 携帯を取り出して119番通報する。

 救急車よりも先に警察が到着した。服部、三木、山本、須藤の4人と鑑識である。
 鑑識らが、舗道にへばり付いた遺体を取り囲んだ。その中に一人白衣を着ている
のが居て、ひっくり返してくれ、と言った。
 鑑識二人で、一斉のせいでひっくり返す。その拍子に裂けた腹から内臓が飛び出
してきた。
「うわー こりゃあ又ど派手に裂けたもんだ」言うと白衣の警官は、手にはめたゴ
ム手袋を引っ張ってパチンと鳴らした。遺体の脇にしゃがみ込んで、腹の辺りをい
じったり、瞼を持ち上げてみたり、口を開いてみたりする。
 他の鑑識は、写真を撮ったり、メジャーで、駐車場壁面から遺体までの距離、そ
の他を測っている。
 救急隊も既に到着していたが、ストレッチャーの上に、オレンジ色の毛布だの、
オレンジ色のAEDのケースだのを積んだまま、待たされていた。
 4人の警察官は、駐車場の柵の近くから最上階を見上げていた。
「あそこから転落したのか」と山本が言った。それから「おい、君、ちょっとこっ
ちに来て」と鮎川に手招きする。
 そして、山本と須藤とで質問した。
「まず名前は」
「鮎川徹」
「どういう字を書きます?」
「シーナ&ロケッツの鮎川に、渡辺徹の徹」
「それじゃあ分からないよ」
 そこに、井上、高橋、蛯原が現れた。
「鮎川ちゃん、余計な事を言う必要はないぞ」柵の向こうから蛯原が言った。
 須藤巡査がぎろりと睨む。「又、お前か」
 須藤が一歩進み出ると、その隙間から、遺体が見えた。
  明子は口を押さえつつも思わず凝視してしまう。一気に口の中が酸っぱくなっ
た。一階スロープの影に走って行って、げーげーやった。
 蛯原は尚も、「べらべら喋る前に、弁護士を頼んだ方がいいぞ。その前に黙秘権
があるかどうか聞いた?」と鮎川に言った。
「別に彼は被疑者でも何でも無いよ」と須藤が言った。「単なる設備の事故なんだ
ろう?」
 井上がびくっとした。それだったら自分の責任になってしまう。
「鮎川ちゃんはフロントに行ってろ。俺が応対するから」と蛯原。
「あんたは何も知らないだろう」井上が強い口調で言った。「あんたこそ管理室に
行っていろ」
  そう言われて、蛯原は退場した。
 そうこうしている間に、遺体は救急隊員によって搬送された。
 そうすると明子も戻って来る。
  井上と共に柵の扉を開けて舗道に出て来た。
 明子、井上、鮎川、警察官4人の計7名で最上階を見上げた。
 壁面に、タタミ半畳ぐらいの穴が開いていた。
「あそこを見に行きたいんで、案内して貰えますか」服部が言った。

 7人は、2回に分けてエレベーターで最上階に行った。
 北側のスロープの所へ行って現状を確認する。
 スロープの真ん中から左側壁面に向かって、半径1.5メートルぐらいのワダチ
があった。
 壁面を見ると、はめ込みボードは脱落した訳ではなく、下一箇所のボルトでぶら
下がっているのが分かった。
「おーい、下の人。何時壁が落下するか分からないぞ」と服部が地上の鑑識に怒鳴
った。それからワダチを指し示して言う。「ここでハンドルをとられれば落下する
仕掛けになっている」
「こりゃ、一体どういう事なんだ」と三木。
 服部はワダチを見ながら首を捻った。
 山本と須藤が鮎川の両脇に付いていた。
「いっつも、山城という人が最初に出勤するのか」山本が強い調子で聞いた。
「そうです」
「その前にここに来た者は」
「居ません」
「見てたのか」
「そういう訳じゃあ」
「じゃあ何で分かる」
「防犯カメラを再生すれば分かると思います」
「カメラは何処にあるんだ」言うと山本は辺りを見回した。
「あそこにあります」鮎川は屋上南側の監視カメラを指差した。
「何日分録画してあるんだ」
「2週間です」
 やがて、下から鑑識も上がってきて、スロープやら壁面のチェックを始めた。
 そういうのを遠巻きにして見ていた明子が井上に、「もしかしたら斉木が鮎川を
使って細工をしたのかも」と言った。
「え?」
「鮎川は元自衛隊員だから、札幌雪祭りの経験からスロープのアイスバーンを削っ
たのかも」
「そうならそうでいいよ」
 今回のはマンションの設備が絡んでいる。これは、マンホールを開けっ放しにし
ておいて子供が落っこちた、とかと類似のケースだ。下手したら自分がタイーホさ
れてしまう。そんなんだったら鮎川が逮捕されればいいのだ。何れにしても工事部
に連絡しておかないと…、とここまで考えて、前回ここに来た時に見付けたスロー
プのウレタンの傷を思い出した。このワダチに重なるじゃないか。
「一昨日ここに来た時に、あのワダチのちょうど下の箇所に、ウレタンのめくれを
発見したんだよ。何か関係あるんじゃないのかなぁ」
「斉木が何かのトリックを仕掛けておいたんじゃないかしら。やっぱり見立てが進
行しているんじゃないかしら」
 しかし、井上は、『トリック』だの『仕掛け』だの『見立て』だの聞くと、子供
っぽいなぁと思えてくるのであった。
 なんでだろう。自分自身、メカやからくりは大好きなのに。
 トリックとか言うと、健康ランドのマジックショーに嬉々としている老人を連想
する。ああいうのは子供大人みたいな顔をしているよな、と井上は思った。



●56

 スロープのワダチを見ながら、三木警部が服部に言った。
「こういう小細工を見ていると、小学生並のガキの仕業に思えてくるなあ」
「ところが、そうとも言えないんですよ。うちの課にも、宴会でトランプマジック
をやる奴を軽蔑していながら、自分じゃぁ秘かにパズラーに投稿しているって奴が
居るんですよ。
 何て言うんだろう。文化人類学者が、色々分類する癖に、ある一つの事に熱中し
ている人を見ると、実験動物と言ってしまう様な感じでしょうか」
「どうも君の話は分かりづらいな。もっと具体的に言ってくれよ」
「うーむ」考えつつ、服部は壁の穴から地上を見下ろした。「あの、真っ白な雪の
上に広がった血は、カエサルのトーガに散った血に見えますな」
「なんだって?」
「いや、何でもありません。あの血を見ていて、ふと、カエサル暗殺を連想したん
ですが、どうも私には、統合失調患者のシンボル過多みたいな所があって、後で覚
めると、ストーブがいらないぐらい体が熱くなるんですよ」
「いいじゃないか、燃料費の節約になって。言ってしまえよ。途中で止めないで。
でないと、そのカエサルなんたらを言いかけた、とみんなに言いふらすぞ。全部言
ってしまえば黙っていてやる」
「うーん。そうですか。まぁ、複数犯の場合、首謀者は実際的な事を軽蔑している
場合が多い、という話なんですが。
  そういう奴が、誰かをそそのかしてやらせている、というケースが多いんです
よ。歴史的な大事件でも、最近の事件でも。
 たまたまあの雪の血を見ていて、私はカエサル暗殺を思い出したんですが、あの
場合には、『ブルータス、お前もか』のあのブルータス、あれこそ、実際的になれ
ない人で、首謀者だったんですね。
 彼は、私が前に述べた分裂気質にあたるんですが、軍事や政治に興味がもてず、
ひたすらストアの哲学を学んでいたんです。そしてカエサルに、『情熱はあるが自
分探しが終わらない厨2病』とまで言われたんですね。
 このカエサルの方は粘着気質なんです。実際にてんかん発作を起こしたという記
録もあるし、像を見ても、闘士型の体格をしています。
 このカエサルが、ガリア遠征から帰ってくる時に、武装解除しないでルビコン川
を渡ってきたんですなぁ。当時、ローマ市内に入るには、カエサルといえども武装
解除しなければならなかった。しかし大変な戦果を上げたものだから、それをしな
いで入って来た。本当にずうずうしく我が道を進んで来るナメクジ野郎って感じで
すね。
 こういうのは、秩序を重んじるブルータスにしてみれば我慢がならない訳です。
だから暗殺してやろう、しかし自分は実際的な事が出来ない。
 そこで実行犯というか実際的な面で活躍するのが、カシウスです。
 これはもう、当時のコインを見ても凸っぱちだし、エピキュロスに傾倒していた
いというから、これはもう私の言う、ヤンチャ坊主型ですな。
 この首謀者と実行犯、ブルータスとカシウスが、カエサルを暗殺する時に邪魔に
なるんじゃねえか、と気を揉んでいたのが、アントニーですね。アントニーとクレ
オパトラの。こいつはプロの格闘家並の体力があったから。
 ここの対応でも、ブルータスとカシウスの気質の差が出ますね。
 カシウスは、『それではアントニーも殺してしまおう』と言っんですが、ブルー
タスは『我々は殺人集団ではない』とあくまで秩序を保とうとしたんです。実際的
であるが故にカシウスをかっていた癖に、実際的な事を言うと軽蔑するわけです。
それがまあ、飲み会でトランプマジックをする奴と、それを軽蔑するパズラー投稿
者の違いなんですが。
 ですから、ここで話は本件に戻るのですが、このワダチに関しても、仕掛けがガ
キっぽいからといって、首謀者がガキとは限らないんですよ。もし複数犯であるな
らば」
「なるほど」と頷くと、三木はふと山本の方を見た。そして言った。「とろこで、
頑固オヤジタイプというのは出てこないのかよ」
「まあ、それを言うなら、スッラでしょうな。カエサルの前の独裁者ですが、非常
に強欲な奴で、女好きの上に男の妾もいたと言われています。最後は体に蛆がわい
て死んだそうです」


●57

 以上の会話を、スロープから東に数メートル離れた所に居た明子は、耳に全神経
を集中させて聞いていたのだが、本当にエクセルでマクロでも実行した様に、脳内
でセルの中身が、くるくるくるーーっと置換えられるのが分かった。
 それだったら、

 ブルータス=アニュトス 首謀者 イタチ ジョン =斉木 服部
 カシウス =メレトス  実行犯 イルカ ポール =蛯原 三木
 カエサル =ソクラテス 被害者 ラクダ ジョージ=大沼 須藤
 スッラ  =カリクレス 欲張り 石臼  リンゴ =山城 山本

 なんじゃなかろうか。
 ソクラテス事件とカエサル暗殺の構図は実に似ている、と明子は思った。既に誰
かが指摘しているのであろうか。とにかく、そういう構図があるのなら、このマン
ションでの連続殺人も首謀者は斉木であり、実行犯は蛯原なのではないか。それか
ら、所長、斉木、大沼、山城、蛯原という見立ても進んでいるのではないのか。
 その2点を、服部に伝えたいのだが、そんな事を言えば基地外扱いされてしまう。
 明子はスロープの方を見た。服部は三木と一緒に壁面を見てみたり、腕組みをし
て考え事をしたりしている。山本、須藤はまだ鮎川に質問している。その傍に井上
が居る。
 あそこに行って、斉木が首謀者です、なんて言っても、あの石臼の山本あたりに
一喝されて終わりだろう、そう思って、明子はじーっとしていた。
 しばらくして、服部一人が考え事をしながら、明子の方に歩いて来た。
 あの人一人にだったら言ってもいいかも、そう思って明子は、歩いてくる服部に、
にじり寄って行くと、「さっきのカエサルの話、私、聞いてしまいました」と言っ
た。
「えっ」と一瞬驚いた顔をしたが、「理解できました?」と言ってきた。
「できましたよ。つーか、同じ構図がこのマンションにもあるんです。つーか、微
妙に違うんですけれども。とにかく、この山城さんの件に関していえば、首謀者は
斉木で実行犯は蛯原じゃないかと思うんです」
 何を言ってんだこの女は、と服部は思ったが、同時に斉木だの蛯原だのいう名前
から、勝手に所長死亡事故の現場のシーンが蘇ってきた。
 蛯原と言えばあの時自分に噛み付いてきた奴だな。確かにあれは実行犯向きのお
でこをしていた。
「しかし、斉木の方は入院しているんでしょう?」と服部は言った。
「だって首謀者だったら前もって仕込んでおけばいいじゃないですか。
 それだけじゃないんです。実は、斉木はある場所で、
 所長、斉木自身、大沼、山城、蛯原が、それぞれ、
 吐しゃ物で、撃たれて、肺がんで、腹部を裂いて、そして、感電死で死ぬと予言
しているんです。
 大沼さんは昨日肺がんで入院しました。そして今朝、山城さんがこんな事に。
 これって、偶然ですか?」
「なに、なに? 所長、斉木、大沼、山城、蛯原の順番で、吐しゃ物、撃たれて、
肺がんで、腹部を裂いて、感電死で死ぬと予言していると。んー」斉木は脳内で反
芻した。「何れにしても蛯原さんには事情聴取したいんだが、今、どこに?」
「こっちです」言うと明子は服部を連れてエレベーター乗り口の建物に入って、南
側の非常階段に通じるドアを開けた。「共用棟が見えますよね。あのガラスの向こ
うがエントランスになっているんです」
 服部は、目を凝らしてみたが、距離がある上、西日よけのスモークが入っている
為、よく見えない。
 服部はスロープ方向へ怒鳴った。「おーい、三木さん、山本さん、ちょっと来
てー」
 その2人と、井上がやって来た。
「あのガラスの向こうがエントランスで管理室があるんですが、蛯原が感電して死
ぬという脅迫があるらしいんですよ」と服部。
「あそこにはそういう設備があるのか」山本が井上に言った。
「盤があるにはありますが」
「高圧なのか」
「さあ。指の太さぐらいの黒いケーブルがのたくってますけど」
「うーむ」
 唸りながら全員が共用棟を見た。
 その向こうにはゲレンデが見えた。ゲレンデの上には雪山が、更にその上には曇
った空が広がっていた。それが見ている人々の頭上にまで伸びてきている。
 嫌に遠近法を感じるのだが、これは雲が凄い勢いで流れて来ている為だろう。
 雲は積乱雲で、既に、雪山の上の辺りでは、蛍光灯の様にちかちかしていて、ご
ろごろ鳴っている。
「なんか凄い雲行きになってきたなあ」と山本が言った。
「迫力があるじゃねーか」言うと三木は、非常階段の踊り場に出て手すりから身を
乗り出した。
「三木さん、危ないですよ」と服部が言っても、
「大丈夫、大丈夫」と言って、更に身を乗り出す。
「俺も一枚撮っておこう」言うと山本はスマホを取り出して非常階段の踊り場へ出
た。
 なにやってんだ、こいつら、と明子は思ったが。
 そうしている間にも、雲はどんどん流れて来て、マンションの頭上も真っ暗にな
った。
 それを感知して、駐車場の明かりが点灯した。
 ほぼ同時に、ゲレンデの雪山に一発目の落雷があった。雲上から山肌に稲妻が走
った。雷鳴がとどろく。
 非常階段の三木は、目を見開いて、うぉー、と言った。
 山本はスマホを連写している。
 二発目は、すぐ近くに落ちた。光った瞬間につんざく様な雷鳴が響き、ごーーー
っという地響きがしたのだ。
 三木、山本は更に興奮して、チンパンさながらに手すりに捕まって体を揺すって
いる。
 なんなんだ、こいつら、と明子は思った。
 東南アジア人のトップレスショーにかぶり付いている地主と店員ってこいつらな
んじゃないのか。
 こいつら、オッパイ星人なんだ、と明子は思った。
 建屋の中を見ると、服部と井上が壁に寄りかかって何やら話している。
 こいつらケツフェチだな。
「長野県は、落雷による死亡事故が日本一多いんですよ」と服部が言った。
「それは昔の話なんじゃないですか?」と井上。
「最近の話ですよ。ほぼ毎年、死亡事故があります。槍ヶ岳が多いんですけどね」
「まぁ、ここは避雷針があるから大丈夫ですよ」
「ふむ」
 2人は壁に寄りかかったまま南の空を見た。
 次の瞬間、事故は起こった。
 どっかーんという爆音と共に、稲光がマンションを直撃したのだ。
 全ての明かりが落ちて真っ暗になった。共用棟の方から火災報知機のベルが響い
てくる。
「ここには避雷針は無いんですか」服部がでかい声を出した。
「あると思いますよ」
 ドアの外から山本が首を突っ込んで来た。「管理室を見に行くぞ」言ってから三
木と2人で非常階段をすたこら下りて行く。
 その後を服部、井上、明子、そして須藤巡査も付いて行った。

 非常階段で地上まで下りると、駐車場と居住棟の間を通ってゴミ集積場に出る。
 西側の後方入り口から入館して、更にもう一枚ドアを抜けて、エントランスに出
た。
 雲は既に強風に煽られて流れていってしまったらしく、正面玄関の自動ドアから
は、日の光が差していた。
 しかし、扉が開け放たれた管理室の内部は真っ暗で、黒煙が漂ってきている。盤
内のケーブルや機器類が焼けたらしく、プラスチックの焦げる臭いがする。
「ガスを吸わない様に」と服部が言った。
 皆、衣服の袖で口元を覆い、身を屈める。
「換気だ」山本が言った。「君、あそこのドアは開けられないのかね」住居棟入口
を指しながら井上に言う。
 井上が走って行って開けた。
「須藤、そっから出て行って表っから開けてこい」と又山本が言った。
 須藤は正面玄関の自動ドアを手でこじ開けて、一旦外に出ると、外から管理室の
ドアを開けた。
 管理室内に光が差し込む。同時に、すーっと空気が流れていった。
 皆が口元から腕を外した。屈んでいた姿勢も元に戻した。
 三木、山本、服部が管理室に入った。続いて井上、明子も入る。
 ドアの所の明かり先に須藤が突っ立っていた。
 その左側のホワイトボードが避けられた床面に、丸焦げになった蛯原が転がって
いた。
 顔は真っ黒に煤けていて、白目を剥いていた。魚類の磯辺焼きの様であった。
 壁面には、ナルソックのキーボックスがあったが、心なしか、焼死体はそちらの
方に手を伸ばしている様にも見えた。


●58

 前章をもって、事件の顛末に関しては概ね説明した事になる。
 それぞれの事件が、その後どの様に処理されたかを言うと次の如くである。
 金子所長の件は事故として処理された。
 斉木銃撃の件は、事件性はあったものの、斉木自身が「このままここに居ると狙
われる」と言って、強引に退院してしまったので、拘束する訳にも行かず、そのま
まになってしまった。
 斉木の退院に前後して大沼は亡くなった。これは自然死であった。
 山城の件は転落による事故死として処理された。
 蛯原の件は落雷による死亡事故として処理された。

 4月になると、大通リビングにも人事異動があり、斑尾マンションの管理主任者
も井上から他の者に変わった。
 斑尾マンションの管理員の欠員は、(株)AMから補充されたらしい。
 井上は最早受け持ちではなかったので関知しなかったが。
 そんな感じで、全てが風化して行った。
  春になると雪が解けて、初夏になると居住者も戻って来た。
 これは大部分がゴルフ客であった。
 マンション併設のゴルフ場では連日、クラブを振った瞬間の鞭のしなる様な音と、
かしゃーんという卵の殻でも踏み潰した様な音が響いていた。

●59

 或る日の事だった。
 大通リビング本店での昼休み時間、井上は机に突っ伏したままうたた寝していた。
 机の上には、古めのノートPCが広げてあった。以前、斑尾マンションで使用し
ていたもので、壊れたというので引き上げてきて修理に出していたのが戻ってきた
ものだ。
 それで昼休みに接続してみたのだが、その内睡魔に誘われて眠ってしまった。
 PCのデスクトップ上にウィンドウが開くと、スカイプの着信を知らせる音が鳴
った。
 井上は鎌首をもたげると、目を擦りながら応答をクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
 井上は椅子の上で座り直して、スーツのポケットからスマホで使っているマイク
フォンを引っぱり出し、PCのジャックに差し込んだ。
「斉木さん?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「ロレート」
「ロレート?」
「ペルーのロレートだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があって」ここで画面の中の斉木に、ノースリーブのワンピースを
着た女性が皿を運んで来た。女の顔は映っていない。斉木は「グラシアス、グラシ
アス」と言いながら皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、このスカID
があってんで、掛けてみたんだ。こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらな
んだけれども、俺ってどうなっているかなーと思って」
「あのまま何も言って来ないけど」
「じゃあ、あの連続殺人は事件として片付いたのかなあ」
「連続殺人?」
「所長から始まって、俺、大沼、山城、蛯原っていうやつ」
「それって、斉木さんがやったの?」
「俺がやった訳じゃないけど。まあ誘発させたって言うか…」
「誘発させたとは」
「まぁ、こういう感じだよ。
 俺が誰かを階段から突き落とせば罪になるけれども、例えば、氷点下の日に水を
撒いただけなら過失で済むだろう。更に、水を撒いたのが俺じゃなくて、俺はただ
単に、乾燥しているから水を打っておいた方がいいなーと言っただけで、それを聞
いた誰かが勝手に水を撒いたなら、俺は何らの罪にも問われないだろう。
 まぁ、そんな事したって、必ず誰かがすっ転んで、後頭部を打って死ぬ、という
訳には行かないのだけれども。
 ただ確率としては、300件ひやっとすると一件の重大事故が起こるっていう統
計があるんだよね。ハインリッヒの法則っていうんだけれども。
 という事は、ターゲットの周りに、毎日10件罠を仕掛けておけば、1ケ月で死
亡事故に至る筈なんだよね。
 まあこれは自動車工場で派遣社員をやっていた時に教えてもらったのだけれども。
 俺がこうやってべらべら喋るのも、俺が今居る所が絶対に捕まらない場所だから
なんだぜ。この前も裏山に日本人が入って行って、ヘラクレスカブトムシを採ると
か言っていたけれども、出てこないものね。左翼ゲリラに捕まって。そいつを助け
に行った地元の警察も出てこないし。
 俺が居るのはそんな所だから、今更手配したって捕まる訳ないんだよね。それに、
俺は斉木って名前で来ていないし」
「だったら、所長の件から順番に説明してよ」
「ああいいよ。別に」
 そして斉木は、所長、自分の件、大沼、山城、蛯原について、それぞれ語り出し
た。


●60

 所長の件に関して。
 まず所長の件だけれども、動機っていうのは特に無かったな。
 まぁ、常に不満はあったけれども。
 俺ら、24時間管理員は夕方6時から翌朝9時までは一人勤務になるんだよ。で、
その間に休憩時間が6時間も設定されていたんだよ。おかしいと思わない? 一人
勤務なのにどうやって休むんだよ。その時間に火災警報が鳴ったら無視していてい
いいのかよ。で、インターネットで調べてみたら、大林ファシリティーズ事件と言
うのがあって、住み込みで管理員をやっていた老夫婦が、自分らは起床から消灯ま
での勤務だと言って数十年分請求したら、犬の散歩時間以外は全て勤務時間という
判決が出たんだよね。俺なんて厳密な人間だから当然そういうのは所長に言ったけ
れどもね。勿論無視されたけれどもね。
 まぁそういう不満はあったけれども、それが動機って訳じゃないよ。つーか、今
は手口だろ、今知りたいのは。
 手口はねぇ、まず、所長らが引っ越して来た当初は風呂場はカビだらけだったっ
ていう前提がある。あれだけこびり付いていると一回じゃあ取れないから、家庭用
のカビキラーの容器を渡して、毎日やれ、って言ったんだよ。容器の半分ぐらい撒
け。中身は業務用のが大量にあるから毎日汲んで来てやると。
 そして清掃の山城に、「業務用カビキラーを桶にでも入れて持ってやったらいい
んじゃない? 毎日使うから。俺は3日に一回の勤務だから無理」と言うんだよ。
 それで山城はせっせと運び、所長はそれを撒いていた。
 ところで、あの事務所の風呂って、温泉が回ってっていたんだよ。温泉って、ス
ケール、湯の花ね、それを含んでいるんで、それが下水管にこびり付いていて流れ
づらくなるんだよ。だからカビキラーも配水管の奥の方で詰まっていたんだろうけ
れども。
 大浴場の方はスケール除去剤を温泉に混ぜて循環させていたのだけれども。ボイ
ラー室のろ過器の手前に薬注ポンプがあって、ぽたぽた注入する様になっている。
その薬品は強力な酸だから、塩素系の薬品と混ぜたら塩素ガスが発生するんだけれ
ども。
 そのスケール除去剤なんだけれども、毎回俺が薬注ポンプに補充していたので、
鮎川に文句言ってやったんだよ。何で毎回俺にやらせるんだ、次回はお前がやれよ、
って。
 同時に鮎川の勤務日に、薬注ポンプの減りがちょうど15リットルぐらいになる
様に薬の落ちる速度を調整しておいたんだよ。あと、薬注ポンプの横に風呂桶を一
個置いておくんだよ。そうすると、スケール除去剤は20リットルのビニール入り
だから補充すると余るだろう。ちょうどそこに桶があれば入れるだろう。
 そうとは知らず、山城は、「誰かがカビキラーを汲んでおいてくれたのだろう」
と錯覚して、それを事務所に持って行くだろう。
 これで、あの気密性の高い部屋に、塩素と酸が揃った訳だ。
 その後、所長がどうやって混ぜるな危険をやっちゃったかは不明だけれども。
 多分、何時もの様にカビキラーを噴霧して、温泉スケールでつまった配管にそれ
が溜まって、その後で、桶の中のスケール除去剤を捨てちゃったんじゃなかろうか。
そうすれば塩素ガス発生と同時に温泉スケールも溶けて、証拠も流れてしまうので、
一石二鳥になる訳だが。
 俺としては、あの家庭用カビキラーの容器にスケール除去剤を注げ足しちゃうん
じゃないかと思っていたが、そうはしなかったみたいだなあ。
 とにかく、あの事務所の風呂場で混ざった訳だよ。上手く行くかどうか分からな
かったけれども、こういうのを毎日10個仕掛けておけば統計的には1ケ月で死亡
事故に至るって話ね。
 事件の時、事務所の玄関に鍵だのU字ロックだのが掛かっていたというのは俺に
は分からないな。別段、開けっ放しでもよかった。
  所長が、風呂を洗っている間に賊にでも入られると思って掛けたんじゃなかろ
うか。
 しかし、今思うと、なんであんな事やったんだろうって思うけれどもね。あの頃
は日々ピンはねされていたんで、苛立っていたんだろうなあ。









#1081/1112 ●連載    *** コメント #1080 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:17  (213)
斑尾マンション殺人事件 14
★内容


●61

 次に、何で俺が撃たれたのか、何で撃たれても死なないのか、って話だけれども。
 そもそもあの映画館には大沼に誘われて行ったんだよ。
  5千円が魅力ですぐ常連になったけど。
 大沼が、新聞屋とかも誘ったので、女が足りなくなるんじゃないかと思ったけれ
ど、商売になるというのを聞きつけて、他の養鶏場の女も来たので、何時でも女が
余っている状態だったな。だから、大沼が、どんどん客を連れて来いという。
 だから俺は携帯で写真を撮って、管理室のプリンターで印刷してパウチまでして、
サウナの労務者に見せてやったんだよ。雨の日に飯場に居てもつまらないからって
来る奴らに。演歌歌手みたいな背広を着ちゃって。ロッカーで着替えた後でわざわ
ざ見せびらかしに戻ってくる奴ら。忘れ物をしたとか言って。だから俺も見せびら
かしてやったんだよ。俺は普段こういう女と遊んでいるんだぜーって。
 それが警察の知る所となって、4人もぱくられた。
 俺はそのまま放置しておいて、映画館にも近寄らないようにしていたのだが、カ
ミーラが、これが大沼の女なんだが、あの女が18歳未満で起訴できないから、自
分で家裁に行って少年審判を受けてこいって、警察を追い出されたって言うんだよ
ね。
 俺には信じられない。
 あのパスポートの18歳というのも疑わしいが、売春婦に、自分で裁判所に行け
という警察の感覚が信じられない。
 とにかく、そんなこんなで、人材派遣会社の知る所となったんだよ。養鶏場に日
系人を派遣している会社だけれども。俺はそこの事務所に呼び出された。スカーフ
ェイスの日系人が3人麻雀やっていて「一緒にやらない?」と言う。
「いや、それはちょっと」
 向こうの言い分としてはこうだ。
 ただでさえワールドカップで入国が難しくなっているのに、4人も連れて行かれ
たんじゃあ堪ったもんじゃない。彼女ら一人300万の借金が残っている。カミー
ラは帰って来たからいいとして、300かける3人で900万払ってくれ。それが
嫌ならこれだ、と猟銃をちらつかせる。
 ところで俺は胸に持病があって、前から市立病院に通っていたんだよね。
 この件の後も、何時もの様に病院に行って待合室で待っていた。
 そうしたら隣に大沼が座った。
「何やっての?」
「実はな、お前さんを、一発撃って来いって命令されたんよ。派遣会社の日系人に。
でないと連体責任だって言うんよ。あんたを殺せって言うんじゃない。脚とか腕と
か撃って来いって」
「そんで俺をここまで追いかけて来た訳?」
「そうじゃないよ。わし、肺がんなんよ」
 それから大沼はこう言った。自分はマンションを持っている。ローン2千万が残
っているが自分が死ねばそれは団体生命で支払われて、マンションの名義は親に移
る。しかし親はとうに他界している。自分としてはその名義人をカミーラにして、
彼女が売っ払って、故郷に帰ればいいと思ってる、が、カミーラのパスポートなど
信用出来ない。そこで、誰か信用出来る奴に名義人になってもらって、自分が死ん
だらあのマンションを金に換えて、彼女に渡してもらいたいのだが。もっともそん
な事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが。
「そんなの俺に聞かせて、どうするの。俺にやれって言うの? 断ったら撃つと
か」
「どっちにしても撃たないと駄目みたいやで。斉木君、どないする」
 しばらく考えて、ふと俺は思い付いた。
「俺はさあ、気胸でここに来ているんだよ」俺はシャツの間からドレーンチューブ
を見せてやった。「何回空気を抜いても脱腸みたいに飛び出してくるから今じゃあ
ずーっと刺しっぱなしなんだよ。これがこの前風呂場で抜けたんだよ。そうすると
胸に風穴が開いたままままになる。
 だから、そこに弾を突っ込んだら、派遣会社の日系人も納得するんじゃなかろう
か。
 例えば、鉄橋の下で、豚肉の塊か何かに撃って、それを俺の胸に入れて、こんな
でかい病院じゃなくて、夜間はアルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば、
撃たれたって事にならないだろうか。医者に感づかれたら逃げてくればいい。銃で
撃たれたってなったら、そういう診断書を書いてもらって、派遣会社に持っていく
よ」

 実際には、銃で撃たれたと診断された段階で、医師は警察に通報する訳だよな。
 それで、イタチ誤射事件に発展してしまったのだが。
 しかし、大沼の死後、マンションを処分して、こうやってカミーラとロレートに
来られたんだから、当初の目的は達成出来たけど。


●62

  次に山城の件に関して。
 あれは別に山城を狙った訳でもなかったのだが。
 あの冬、原チャリで走っていたら、雪のワダチにハンドルを取られて、そのまま
ガードレールに激突しそうになった。
 その時に思い付いたんだよ。マンション駐車場のスロープに半径1.5メートル
ぐらいの左カーブのワダチを作れば壁を突き破って地上に落下するんじゃないか、
って。
 どうすればそんなワダチを作れるだろうと想像したのだが。そして思い付いた事
を、こうすればそうなるんじゃないの? と蛯原に言ったらそうなったのだけれど
も。
 まず、雪の積もった後、半径1.5メートルの左カーブを残して、除雪しておく。
 そうすれば翌日には、そのカーブの箇所だけが凍結するだろう。
 そこで泉あたりに、あの凍った雪をとっておけと命令する。でも、清掃部隊の雪
かきはプラのだから、取れない。
「だったら柄の方でがりがりやれ。あそこで居住者が滑ったりしたら損害賠償10
0万円だぞ」と脅かす。
 それが効いて、泉が必死にこじったら、ウレタンがぺらぺら剥がれてしまった。
 泉は他の清掃員が帰ったあとで蛯原の所に来て、「屋上のウレタン、剥がれちゃ
った」と言ってきた。
「そりゃあ弁償かもしれないな」
「幾ら?」
「張り替えたら何十万もするんじゃない」
「えー、私知らなかったもの、ウレタンだなんて。コンクリの上に緑のペンキを塗
ってあるんだと思ったもの」
「しょうがねえなぁ。だったら俺がアロンアルファで養生しておいてやるよ。そう
やって誤魔化しておいて、春になれば2年点検があるから、そこでばれなきゃあ、
ちゃんと点検したのかよ、って言えるものな。
 だから、春になるまでは、二度とウレタンの剥がれた箇所をこじられない様にし
ないとな。
 それには雪が降る度に、塩化カルシウムを撒いておけばいい。でも、塩化カルシ
ウムにも限りがあるので、スロープ全面にまくってわけには行かない。だから、ウ
レタンがはがれている所にだけまいておきなよ」
 そうすれば、翌日には、ボブスレーのコースみたいに、1.5Rのワダチが壁に
向かって出来てる。
 ついでに鮎川あたりに、「雪が吹雪くと、あそこの壁面にも吹き積もる。それが
凍結して落っこちたら危険だろう。だから、あの枠のところに塩化カルシウムを撒
いておけ」と言っておけば、枠のボルトも錆びるだろう。
 そうしたら、ああなった。


●63

 最後に、落雷の件に関して。
 蛯原は、前から、あそこのマンションの空き室の鍵を欲しがっていたんだよ。飢
えた団地妻としけこむのに。
  未販売の部屋を使ってもよさそうなものだが、それだとコンストラクション
キーで開けられちゃうだろ、他の管理員に。だから、中古の空き室の鍵を欲しかっ
たんだよ。
 それは、管理室の壁面に埋め込まれているナルソックのキーボックスの中にぶら
下がっている。
 キーボックスの鍵自体はタキゲンだの栃木屋だのの市販品なので、簡単に手に入
るのだが、電磁式のロックみたいなのが掛かっていて、ICカードをかざさないと
開かない。
 停電になれば解除されるかも、と思って、電気保安協会の点検とか、計画停電の
時を待っていたのだが、停電になっても、どっかのバッテリーから電源供給される
んだろう。
 だったらそのバッテリーも壊れてしまえばいいんじゃないのか、という話になっ
た。
 ところで俺が勤め出したばかりの頃だけど、あのマンションに落雷があって、F
AXの基板を焼いた事があったんだよ。その時に業者が来て、避雷針から逆流して
いるんじゃないかって言っていたんだけれども。そして、避雷針の土に埋まってい
る、銅のヒラヒラした部分を確認して行ったけれどもね。
 それは管理室前のマンホールの中に埋まっているんだけれども、あのヒラヒラを
下水管のこっち側にもってくれば、落雷の時に鉄骨に逆流して、バッテリーを焼い
てくれるんじゃないかって思ったんだよ。
 その為には、毎日ろ過器を逆洗して、マンホールから湯を溢れさせて、凍結して
危ないから下水管を交換してくれと言って、その時に、ヒラヒラの位置を下水管の
こっち側にもってくればいい…と蛯原に言った。
 そうしたら蛯原が丸焦げになった。
 まあ、そういう訳だよ。それで全部だよ。納得してくれた?


●64

 なんとも性格が悪い奴だ、と井上は思った。
 何れの手口も長い時間をかけて用意されたものなのだが、その苦労が報われる瞬
間は、収穫をするというよりかは、脱糞するかの様である。
 もしかしたら、こうやって喋っている今もカタルシスを得ているのではないか。
 そう思って画面の斉木を眺めていた。
 スカイプだから鮮明ではないのだが、頬はこけ、無精ひげが生えていて、頭も薄
くなってきている。伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
 逃避行で疲れたのか、糖尿病でも患ったか。
 やがて斉木は机の上の皿から、スプーンですくってピラフの様なものを食べ出し
た。
 その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じだった。
 そこへ、さっきのノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木がペラだのプータだの声を荒げていたが、その内、ポルファ
ボールとか言って、命乞いでもする様に手を合わた。
 女が「ベンガ」とドア方に向かって言った。
 すると、機敏な動きの男2人が入って来て、椅子に座っている斉木の肩を両方か
らハーフネルソンで固めて、そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」と言うと、ぷちんとスカイプが落ちた。


●65

 午後1時近くになって、井上は昼食に出た。
 これは斉木の相手をしていたのでずれ込んだ訳ではなく、一緒に食事をする相手
と最初から1時に約束をしていたのだ。
 待ち合わせ場所の交差点に現れたのは高橋明子だった。
 近所にある大手不動産会社のスカート、ベストを着用していて、財布だけ手に握
っている。すっかり東京のOLさん姿が板についていた。
「何食べる?」と明子が言った。「中華でも食べようか」
 10分後、2人はバーミヤンで、フカヒレラーメンと半チャーハンを食べていた。
「そういえば、さっき斑尾の斉木から電話があったよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプに」
「あの人、まだ日本に居るの? てか、生きているの?」
「うん。ペルーに居ると言っていた。なんか揉め事が多いみたいだよ」
「そういえば、斑尾で一回だけ大沼さんのお見舞いに行ったのよ。あの居酒屋の飲
み会の後だったけど。そうしたら、カミーラちゃんが来ていたのよ。うん。
 ペルーに帰るけど、大沼と一緒じゃない、別の人だって言っていた。ペルーはす
ごい危険だからって心配していた。左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐事件が多発し
ているって。誘拐されるとバラバラにされてアメリカに売られるんだって。心臓と
か目とか。
 そんなんだったら旅行者保険に入っておかないと、あれに入っておけば万一の時
には保険金が下りるから、と言ったら、なんか目をきらきらさせていたなぁ。
 あの女って日本人殺しちゃうんじゃないかしら。大沼さん、行かなくて正解だっ
たよ」
 井上はフカヒレラーメンのスープをレンゲですくうと、ずずずーーッと音を立て
てすすった。
 これは、猫舌の為にこうやって冷ましながら飲まないと本当に口の中の粘膜が火
傷してただれてしまうのだ、と井上は言った。




【完】


参考文献
『ザ・ビートルズ/リメンバー』(クラウス・フォアマン)
『THE BEATLES アンソロジー』











#1082/1112 ●連載
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:18  (438)
【純文学】今夜一緒にいてーな 1
★内容                                         17/04/06 13:51 修正 第2版
 1


 ある初冬の月曜日の午後、俺は中央道を八王子から高井戸方面に向かって走って
いた。ストリップ劇場に行く為に。
 ストリップには10年ぐらい前、95年頃からはまっていた。
 当初は近場の劇場に通っていたのだが、当局の手入れでどんどん潰れて、今では
北関東の方まで行かなければならなくなった。それで、行く時にはいっつも、中央
道、外環道などを使ってひたすら北へ北へと上って行くのだった。
 それでも、平日だったらピストン西沢グルーヴラインとか土日だったらハウス・
ミュージックなどをカーステでがんがんかけて、ノリノリでハンドルを叩いたり手
拍子をしながら運転していくは楽しかったのだが…。
 しかし今日はそういう訳には行かなかった。AIDSの検査を受けたからだ。劇
場に行く途中で保健所に寄って結果を聞くまでは安心出来ない。
 俺が何時も行っているストリップ劇場には個室サービスというのがあって、店の
あちこちにユニットバスぐらいの小部屋があって、一発やらせてくれるのだが。し
かし、厚生省が、AIDSがどれぐらい広がっているのかを調べる為に、そこのコ
ンドームを回収して調べてみたら、なんと80本に2本の割合でHIVが発見され
たのだ。
 それがマスコミ沙汰になったのは、そういう方法でデータを集めていいのかとい
う事が問題になったのだが。
 しかし、80本に2本といえば40人に1人だから、あそこの店が満員になれば
一人ぐらいはHIVに感染しているという計算になる。あの店は、生ではやらせな
いのだが、中には親指の爪を尖らせておいて、入れる瞬間に傷を付けておいて中で
剥けるようにする、というふざけたオッサンもいるから、こっちはこっちで、たま
には勢いで生尺という事もあるから、そうすると間接キスじゃないけれども、その
オッサンのHIVが俺に伝染するという事もあるんじゃないか。そうやって考えて
いると、感染しない方があり得ない、と思えてくるのだ。
 そういう訳で、HIVの検査に行ったのが先週末だった。しかし結果が出るまで、
一週間も待たされる。そうすると、もう、AIDSノイローゼみたいになってしま
って、あの劇場での感染は勿論の事、あんな保健所に来ている連中はモーホーみた
いなのが多いに決まっているから、あそこで感染したかも知れない、もしかしたら
俺の前で採血した奴の注射針から伝染ったかも知れない、みたいにぐるんぐるんし
てしまうのだった。
 そういう訳で、劇場に行く前に保健所に向かっていた。保健所は八王子ではなく
練馬石神井のにした。そうすればついでに北関東の劇場で遊べると思ったから。
 高速を下りると、環八、井荻トンネルを経て、西武池袋線の高架をくぐったとこ
ろで左折した。くねくねとした裏道を行くと、石神井の街に入った。どっか止める
所はなーとしばらくぐるぐるしてから、駅の北側の市営住宅の中に駐車する。そこ
からは歩いて行った。
 保健所はレンガ造りの頑丈そうな建物で、玄関から入ると、受付の発券機で番号
カードを引っ張り出した。
 エントランスホールに入ると妙に採光が良くて、壁も床も薄ピンクに光っていて、
妙に脚の細い椅子やテーブルが設置してあって、そこらへんに、白人のグッドルッ
キングガイ二人組と日本人の幼児、とか、超デブの母親と逸見政孝似の旦那さんと
ハーフの娘、とか、壊れた様な家族が居る。こいつら全員感染してんじゃねーの。
 そいつらと距離を置いて、しばらく待っていると、俺の番号が呼ばれた。
 がらがらがらーと引き戸を開けて診察室に入る。白衣というよりか割烹着みたい
なのを着た若奥さんみたいな保健婦さんがいた。見た瞬間、これだったら大したト
ラブルはなかったんじゃないか、と思う。だって陽性で、いきなり泣き崩れたりし
たら、こんな女じゃあ対応出来ないだろう。
 偽名を書いた申込書を渡して検査結果をもらった。
 ぺろりんと開いてみると…HIV陰性、梅毒陰性、クラミジア陰性。
 俺は結構冷静だった。
 しかし、「質問はありますか?」と聞いてくるので、「キスではうつらないとい
うが、フェラチオではどうなんですか?」とか、「ディープキスをしていて相手の
女に口内炎があったらどうなるんですか?」とか、如何にも激しいセックスをして
いるんだぜ、みたいな事を言ったので、やっぱ俺は興奮していたんだと思う。普段
俺はこんな素人の奥さん相手に下ネタを発せられないから。
 エントランスに出てきた頃には喜びがこみ上げてくるのが感じられた。ほとんど
ガッツポーズしたい程に。しかし陽性の奴に刺されると困るので止めたけど。そし
て笑いを噛み殺して足早に走り去ってきた。
 そして、保健所の外に出た時には「陰性」の横断幕を掲げたい気分だった。なに
しろ一週間も不安に苛まれていたんだから。

 とにかくこんな所に長居は無用だと思って、俺は、石神井のビルの谷間を走った。
高架の向こうに向かって。
 すぐに市営住宅の中に戻って、車のところに戻ると、ポケットに手を突っ込んだ。
キーを出すのももどかしい感じで。
 が、何気バンパーを見ると、チラシが挟まっているのが見えた。…なんなんだろ
う。車検が近いからか。
 しかし、近くに寄って剥がそうとしたら、それは、なんと駐禁の輪っかだった。
 なんじゃ、これは。
 即腕時計を即見たが、まだ20分も経っていない。それに、タイヤにチョークの
跡も無いし。おかしい。
 前後の車を見てみると、ドアミラーには駐禁輪っかが取り付けられていたが、タ
イヤにちゃんとチョークが引いてあって、ちゃんと時間が書かれている。
 ああやって30分以上経っているのが駐禁になるんだよな。30分以内だったら、
ほんの10センチでも移動してしまえば、セーフなんじゃないのか。だからわざわ
ざチョークで線を引いているんだろう。
 だから、これは、前後の車だけが駐禁であって、俺のはただ巻き添えを食っただ
けなんじゃないか。
 こらあ警察に行って話をつけてこないと。

 車を出すと、富士街道に出て、とろとろ北上していった。左右に交番を見付けな
がら。しかし、なかなか見付からない。
 とうとう谷原の交差点まで行って目白通りに入ってしまった。が、すぐに反対車
線に交番を見付けた。Uターンすると、交番の駐車スペースに頭から突っ込んだ。
 下りていって交番の中を覗くと誰も居ない。
「すいませーん」俺は軒下から怒鳴ってみた。
 パトロールにでも行ってんのか。
 しかし、ジャーっとトイレを流す音がしてから、鉄扉が開いて、ヨレヨレの交通
整理みたいなジジイがズボンのチャックを上げながら出てきて、
「はいよ」と言った。
「あれなんですけど」とバンパーを指差す。
「あ、駐禁ね」
 お巡りは鍵を持ってデスクの向こうから出てきた。
 そして、俺と二人でバンパーのところに行って、輪っかを外してもらう。
 それを持って戻ってくると、お巡りは交番内のデスクに座り込んだ。俺もデスク
の前の椅子に座る。
 お巡りは、違反切符の帳面を出すと指を舐め舐めパラパラとめくる。
「そんじゃあ免許証を見せてもらえますか」
「ちょっと待って。その前にちょっと聞きたいんだけれども 俺、20分しか停め
ていなかったんだけど、30分まではいいんでしょう?」
「いやいや、たとえ5分でも駐車違反は駐車違反だよ」
「だって、俺のの前と後ろのには、ちゃんと30分計ってから輪っかが付けられて
いたよ。俺のにはチョークの跡もないんだから、時間は計られていなかったんじゃ
ないの?」
「…」
「つまり、前と後ろのをやったんで、ついでに俺のもやったんじゃないの?」
「いやいやそんな事ないよ」
「そんな事ない事ないよ。とにかく俺は、そんなもの払う気ないから」いきなり、
俺は、ぎーと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ちょっと待って、だったらこれを付けさせてよ」
 お巡りは、腰をくねらせて机の向こうから出てくると、駐禁輪っかをヒラヒラさ
せながら車に向かって走った。
 俺も、飛び出して行って、車に飛び乗った。エンジンをかけると、Rに入れてア
クセルを踏み込んだ。
 しかし寸でのところでお巡りが輪っかを付け直したところだった。
 危うくお巡りを引きずるところだった。

 そういう訳で、駐禁輪っかをぶら下げたまま環八に戻ると又北上していった。
 そして川越街道にぶつかると左折して、外環にぶつかると右折して、そのまま外
環の下を北上する。荒川を渡って、浦和、川口、草加とどんどん北上、越谷線にぶ
つかったら左折して更に北上する。
 こんなところまで来ないとメスにありつけないのかよ、と思ったが。
 しかし10キロぐらい行って、北越谷駅を超えると、ターゲットの劇場が見えて
きた。

 送電線の鉄塔がある空き地が駐車場になっていて、そこに車を突っ込んだ。
 そこからは歩いて行くのだが、歩道が無いので壁すれすれにダンプカーがび
ぃーーーうーーーっ、とかすめていく。
 劇場は戸建てのモーテルが2件あるみたいな佇まい。一歩敷地に入ると、あちこ
ちに築山みたいな植木が植えてあったりして、道路の騒音を遮って、竜宮城みたい
な雰囲気を出している。
 俺は、入り口で、会員証を提示して3千円を支払った。
 店員の背後の水槽には、へら鮒ぐらいの金魚が泳いでいる。これは昔、花電車で
こーまんから飛び出してきた金魚が大きくなったものだ。

 防音ドアを押し開けると、黒壁、黒天井の狭い場内にオヤジがズラーッと雁首を
並べていた。
 立ち見は居ないのだが、どっか座れるところないかなぁ、と見渡している、と、
奥の方で、通称カンクンと呼ばれる男が俺に気付いて、こっち、こっち、と手招き
してくれた。
 カンクンは黒田アーサー似のイケメンで、踊り子を連れ出しては食っているとい
う噂なのだが、いかんせん優男なので、こういうガサツな野郎の多いところでは襲
われる可能性があるので、どうも俺を番犬にしているらしい。
 カンクンが作ってくれた隙間に、どっこいしょと腰を下ろした。
 ステージでは、パンツにランニング姿のオッサンがせんべい布団にあぐらをかい
ていた。これから本番まな板ショーが始まるんだろう。もうちょっと早く来れば俺
も参戦出来たのに。
「どうだよ、最近。なんかおもしれーこと、あったかよ」途端に態度がでかくなっ
てカンクンが聞いてきた。
「どうもこうもないっすよ」
 HIVの検査に行って、それは陰性でよかったのだが、出てきたら駐禁の輪っか
がぶらさがっていた、という経緯を説明した。
「俺、20分も停めていなかったんですよ。こりゃぁなんかの間違いだと思って、
交番まで行ったんですけどね。警察は自分の間違いは認めないですね」
「なんでそんな余計な事するんだよ」
「えーっ」
「そんな事しねーで、構わずぶった切ってくりゃいいんだよ」
「そんな事して見付かったら…」
「見つかる訳ねーだろう」
「だって、前の車も後の車もやられていたんですよ」
「そうしたら前のも後ろのもちょん切ってくりゃいいじゃねーか。それが人助けっ
てもんよ」 
 カンクンはランクルにでっかいワイヤーカッター積んでいて、構わずぶった切っ
てそこらへんに捨ててくるんだという。仮に呼びだされても、そんじゃあ誰かが捨
てたんでしょうね、とすっとぼけてくるという。つーか、あんなものはワンクリッ
ク詐欺みたいなもので、大量にばらまいておいて、「本当に払わないといけないん
ですか?」とわざわざ律儀に尋ねてきた奴がターゲットになるんだ、そうやって目
を付けられたら終わりだ、最初っからすっとぼけていないと駄目だ、と言う。
「今からちょん切ってこようかな」
「駄目だよ、今更、そんな事したって」

 ぱら、ぱら、ぱらーっとやる気のない拍手が起こった。
 ステージを見ると、楽屋の袖から浴衣を着た踊り子が現れた。これからあのオッ
サンと本番をやるのだ。日本人の踊り子が本番をやるのは珍しかった。
 しかし、ほとんどの客は人のセックスになんて興味がないので、タバコをぷかぷ
かやりだした。凄い煙だ。禁煙の表示が見えないぐらいだ。
 そういえば俺は禁煙したのだった。AIDSも怖いけどガンも怖くなったのだ。
 それだけではなくて、俺は派遣社員だから、国保なので、社保みたいに傷病手当
金てみたいなのがないので、病気になったら途端に生活に窮するだろうと考えて、
アフラックにも入る事にした。あれだったら、医師の診断不要、誰でも入れます、
という触れ込みなので、高血圧、高脂血症の俺でも入れると思ったのだ。しかし俺
は何時でも自分の寸前でシャッターが閉まる、『シンドラーのリスト』にも俺の名
前は載っていない、みたいな気分があるから、これ、いざとなったら支払われない
んじゃないか、みたいな予感があった。そこでわざわざアフラックに電話して、こ
れこれこういう持病があるんですが、と聞いたら、「そういう場合には告知書にそ
の旨書いていただければ、ガンの場合のみ保証という事になりますから」と言われ
た。そこで俺は告知書に持病がある旨やら市民検診の時のHDL、LDLの値まで
書き込んで、確実にガン保険が支払われる様にしたのだった。
 しかし考えてみれば実際にガン保険なんてもらう頃には、今の俺の病気なんてう
やむやになっているんじゃなかろうか。自殺だって2年もすれば保険金が出るんだ
から。
 そうやって、何時でも俺は、チキンな犯人が犯行現場に現れる様な事をして墓穴
を掘る。

 ステージを見ると、浴衣をハダケた踊り子が跪いて、オヤジのちんぽを入念に拭
いている様がブルーのライトに浮かんでいた。
 曲は、エニグマのサッドネスというオドロオドロしい曲。
 コンドームを被せおわると、オヤジの肩を叩いて促した。
 仰向けになってパンティーを脱ぐと、一瞬、陸上のハードルでも跨ぐ様な格好を
してオヤジのちんぽを導き入れた。
 俺は、即、カシオの腕時計をストップウォッチにして時間を計った。
 オヤジが腰を降りだした。一回、二回、三回…わずか十八回で肛門周囲をビクビ
クっと震わせた。時間にしてわずか30秒。
「はい、おめでとう、コングラチュレーション」というアナウンス。
 ぱら、ぱら、ぱらーっとやる気のない拍手が起こる。
「あの女は具合がいいんじゃないんすかね」と俺は言った。
「なんで?」
「たった30秒で行っちゃったから」
「どうしておめーはそうやって杓子定規に考えるんだよ。オナホールじゃねえんだ
ぞ。溜まっていただけかも知れねーだろう」
「それはそうだけど…」
 女が引き上げると、蛍光灯がついて、場内は薄ピンクの明かりに包まれた。SM
APの『SHAKE』が小さな音で流れている。
 ところで今日の本番と個室サービスは誰なんだろう。
 俺は黙って立ち上がると、劇場の反対側に行った。そこの壁に香盤表が張ってあ
る。

 @★ダイアナ
 A 一色繭
 B★リンダ
 C 金城みゆき
 D エリザベス
 E★青木ひかる
 F★朝霧ケイト

 名前の上に★がついているのが個室サービスありの踊り子だ。
 青木ひかる、と、朝霧ケイトって日本人だろう。日本人が二人も個室をやってい
るのか。円安が進んでいるのだろうか。
 今、ラスト前だから、今、丸本をやったのが青木ひかるか。
 ふとステージを見ると、その踊り子がタッチショーをやっていた。アルコールテ
ィッシュで客の手を消毒しておっぱいを揉ませるのだ。
 本番客は、ステージの奥でステテコを履いていた。
 この女が個室サービスありか、と思って見る。顔は、酒井和歌子とか榊原るみ似
(ちょっと古いが)のキョトーンとしたうりざね顔で歳は27、8歳か。経産婦で
はないらしく張りもいい。何気、保健所の若奥さんを連想したな。
 この女に入ろうかなぁ、次の朝霧ケイトのジャンケンで負けたら。でも日本人っ
て幾らなんだろう。外人なら3千円だが、まさか日本人が3千円ではやらせないだ
ろう。受付に行って聞いてくるか。そんな面倒くさい事しないでも、目の前にいる
女に直接聞けばいいんじゃないか。
「ねえ、ねえ、お姉さん」俺は青木ひかる嬢に呼びかけた。「お姉さんの個室、幾
ら?」
「なーに言ってんのかしら、このお客さん」と女はますます目をキョトーンとさせ
た。「なにを言ってのかしら」
「え、だって この青木ひかるって、お姉さんなんじゃないの?」
「なに言ってんのかしら。変な事を言うお客さんがいるわねぇ」
 何言ってだ、この女、と俺は思った。今、ステージで本番やらせた癖に。堂々と
香盤表にも★がついているのに。
 女は多少不機嫌になって、ウェットティッシュでハタキでもかけるように客を追
い払うと「あー、もう終わり終わり」と言って引き上げて言った。
 ぱら、ぱら、ぱらーっとやる気のない拍手。
 最後列に座っていた、茨木から来ている常連の立松さん(エグザイルのヒロ似)
がぎょろりと見上げて言った。こいつもカンクンに勝るとも劣らないおまんこ泥棒
なのだが。
「有田君よぉ、いくら個室サービスをやってるからって、みんなの前で、『いく
ら?』なんて聞いたら駄目だぞ」
 有田というのは俺の名前だ。
「え、なんで?」俺は立松さんの隣にケツを割りこましつつ言った。
「そりゃあそうだろう。公然と言われたら、恥ずかしいだろう」
 えっ。公然と言われたら恥ずかしい?

 突然、ステージの照明が落ちた。
 音楽がアップテンポのハウス・ミュージックに変わった。
 ステージ正面の暗幕に、スポットライトの赤、青、黄色の明かりがくるくる回っ
た。
 ステージの袖から、大柄な日本人、というよりかはハーフみたいな女が現れた。
二十歳ぐらいか。
「グラインドの女王、朝霧ケイト嬢登場ーーっ!」というアナウンス。
 アマゾネスみたいな腰巻き胸巻きをまとったケイト嬢は、どんどん、どこどこ、
どんどん、どこどこ、と響くハウスのビートにのりながら、ステージ前面にせり出
してきた。
 どんどん、どこどこ、どんどん、どこどこ…… All Aboard Night Train!!!
 ステージの角までせり出してくると、陶酔した様に踊り狂う。
 オヤジどもは、手のひらも裂けんばかりに手拍子をする。
 どんどん、どこどこ……
 ケイト嬢は踊りながら反対側に移動して行った。身を乗り出して、腰と胸をくね
らせる。
 オヤジどもは狂喜乱舞の大はしゃぎ。
 更に数周、踊りながらステージを回る。
「燃えよいい女、燃えよギャラリーっ」という訳の分からないアナウンス。
 オヤジどもは揺れていた。
 突然音楽が止まった。スポットライトも消えた。
 ケイト嬢は「ありがとうございました」とちょこっと頭を下げると楽屋に消えて
いった。
「はい、それではジャンケン、よろしくー。なおジャンケンは公正にね。インチキ
ジャンケンはお断りー」というアナウンス。
 いよいよ本番まな板ショーであった。
 恥ずかしいなんて全然思わなかった。客なんて30人もいないし、カンクンだの
立松さんだの知り合いばかりなので、公然わいせつ的な気分にはならないのだ。
 俺を含めて5人が立ち上がった。
「このままやろう」、「分かれないでやろう」とみんなで協議してから、いざ勝負。
「よーし、ジャンケンポーン、あいこでしょ」と戦いが始まった。
 俺はすかさず、変化する奴、つまりグーを出したら次はグー以外を出す奴を見付
け出し、そいつに負ける様に出していった。つまり、そいつがグーを出したなら、
次に俺はチョキを出す。そうすればそいつは変化をするのだから、パーかチョキし
か出さないのだから、勝つかあいこに持ち込める。
 そうやって、ジャンケンを繰り返している内に、2人脱落、3人脱落していき、
とうとう2人残った。そいつは俺が最初に目をつけたのとは別の奴だったが、本番
の常連で、ちんぽはでかいがジャンケンは弱いというバカで、何時も必ずチョキか
ら出すのを知っていたので、見透かした様にグーを出して、勝つ。
「勝った、勝ったぁ」と宣言すると、俺はステージに這い上がった。他の奴がいち
ゃもんを付けない内に。
「挑戦者は布団を敷いて、パンツ一丁座って待つ」というアナウンス。
 俺は、ステージ横に畳んであったせんべい布団を広げると、パンツとユニクロの
Tシャツ一枚になってあぐらをかいた。
 やがてステージの袖から、ケイト嬢登場。
「はい、握手よろしくー。なお、本番中はお静かにね、そこらへんのメリハリをよ
ろしく」
 ケイト嬢はさっきとは違う、超ビキニのTバッグ姿だった。
 コンドームやらウェットティッシュの入ったポシェットを足元に落とす。
 俺の前につったって、マライア・キャリーの曲に合わせて腰をくねらせながら、
余裕で客を見回していた。
 俺はせっせと、太ももを擦った。
 しばらくそうやってから今度は尻をこちらに向けて腰をくねくねさせる。
 俺は太ももの裏を擦る。少しでもアナルの方に指を伸ばすと払われてしまった。
 又こっちを向いて腰をくねくねさせる。そうしながらブラをとった。白人の様な
でかくてぷっくりした乳輪で、ずぼぼぼぼっと吸いたくなる様な乳首だった。
 曲がセリーヌ・ディオンに変わった。2曲目だ。本番は3曲で終わる。
 女はパンティーの紐を持たせてきた。俺はそのまま引っ張った。上半分はぺろん
と取れたが、陰部がしっとりとしていて張り付いている。更に紐を引っ張ったら絆
創膏でも剥がすみたいにぺろ〜んと剥がれた。陰毛の剃られた割れ目が眼前に。
 ケイト嬢はしゃがみこんで、トランクスの上からちんぽを握ってきた。
 既にびんびんに立っている。
 このまま本番行為に突入すればいいのに、と思ったが、すんなりとは行かない。
 女は鼻息混じりに耳元に囁きかけてきた。
「あたな今日、車?」
「えー、なんで?」
「私、今日、千葉に帰りたいんだけど、送ってってくれる?」
「えー。俺はタクシーの運転手じゃないんだよ」
「私、お金払う」と言うと、ポシェットの中から4つ折りになったボロボロの千円
札の束を出した。厚み的に4千円はあったか。
「ねぇ、お願い、お願いぃ」
 よっぽど帰りたい事情があるんだろう。
「そんなのいらないよ。そこに恋人でも居るの?」
「居ないよ。ただ帰って寝るだけ」
「だったらそのアパートで一回やらせてくれたら、送って行ってもいい」
「ダメだよ。お客さんはアパートに入れらんないよ」
 お客さん、だって。お客さんなんて言わなくったっていいだろう。
 今、俺は本当に、可哀想だと思って送って行ってもいいと思ったのに。劇場が終
わるのは12時だ。そうしたら、ケイト嬢はトリだからぎりぎりまでステージがあ
るから、千葉まで電車で帰るのは無理だ。タクシーなんて銭がもったいないし。あ
の4千円だって、こーまんを酷使して稼いだ金だろう。そんな金は受け取れないし。
だから、俺は本当に人間の同情から、送って行ってもいいって思ったのに、お客さ
んだって。
 お客さんと聞いた途端に、萎えてくるのが分かった。
 それに、以心伝心か、女も急に冷たくなった様に感じられる。
 俺を突き倒すと、ポシェットからウェットティッシュを出してトランクスを引き
ずり下ろして職業的に拭いた。コンドームをおしゃぶりみたいに咥えると、俺のふ
にゃちんをずるずるずるーっと吸い上げながら被せていく。
 そして俺の腰を叩いて合図すると、ごろーんと仰向けになった。
 起き上がって膝立ちになって見てみると、すっかりマグロになっていて、陰部の
カミソリ負けの赤いぷちぷちを爪でカリカリやっている。
 又曲が変わった。最後の曲だ。
 俺はふにゃちんを握って前傾姿勢で、「ねえ、ちょっとぉ」とすがりついていっ
て、太ももを擦った。
 しかし、はぁーとため息一発、女は横を向いてしまった。
「アパートが駄目なら、途中のサービスエリアの便所でやらせてくれるんでもい
い」とか言っても無視。
 何も律儀に交渉しなくても、送って行くと言っておいて、この場だけでもやらせ
てもらって、後はすっとぼけて帰っちゃえばいいのに。
 ダメだ。そんな事をしたら騙した事になる。人間同士、騙しちゃいけない。
 とうとう3曲目のテープが止まった。
「はい、タイムアップ、又にしてね」というアナウンス。
 同時に、軽快なハウスがかかり、色とりどりのスポットライトがくるくる回り出
した。
 hey Yeah Yeah…hey Yeah YeahーーI said hey what's going on!!!
 女は羽でも生えた様に、楽屋に戻って行った。
 すぐにブラ一枚で戻ってきて、オープンショーを始めた。
 ステージの先端に行くと、後ろに手をついM字開脚、指でこーまんを開いて見せ
る。続いて横に寝そべるとL字開脚。ぐるりとうつ伏せになって、バックからこー
まんご開陳。
 それから反対側に飛んで行って、又見せる。
 hey Yeah Yeah…hey Yeah Yeah!!
 それをステージの四方八方に向かってやるのであった。
 俺は、後ろで、布団を畳んだり、ズボンを履いたりしていた。

 やがてステージが終わり、ケイト嬢も楽屋に引き上げて行った。
 ピンクの蛍光灯が点った。
 幕間のけだるい雰囲気が場内に充満した。今の女がトリだった。
 ステージから下りて行くと、立松さんが話しかけてきた。
「随分親しげに話していたな。何話していたんだ? デートの約束でもしたか?」
「いやー、アパートに送ってけって言うんですよ。だから、やらせてくれるんだっ
たら送ってってやってもいい、って言ったら駄目だって」
「有田君よぉ、やらせろなんて言ったら、やらしてくんねーぞ」
「じゃあなんで言えばいいんすか」
「今夜一緒にいてーな、って言うんだよ」
「今夜一緒にいてーな、ですか」
 そんな事言って覆いかぶさったら騙した事にならないか。最初からちゃんと約束
するべきなんじゃないのか。それが杓子定規なのか。
 防音ドアが開くと店員が半身を突っ込んできた。
「はい、朝霧ケイト、1番のお客さんどうぞ。朝霧ケイト1番」
 立松さんは、「俺だぁ」というと、Gパンのポケットからチケットを取り出して
立ち上がった。
 なんだよ。ケイト嬢のチケット持っていたのかよ。あいつが送って行って「今夜
一緒にいてーな」って言うのかな。俺と穴兄弟にならなくてよかったな。
 それにしても、俺はどうするか。今更ケイト嬢を買うのも馬鹿らしいし。ひかる
さんにも嫌われちゃったし。
 と考えていると、茨木さんの消えた向こうに、厚木君が座っていた。
 こいつも常連だが、劇場ではもっとも親しくしている友達だった。
「なんだ、居たのか」
 厚木くんは、アルミの筒に入った何かのタブレットをぼりぼり齧っていた。
「何食ってんの?」
「ビタミンB。これ寝ている間に脂肪を燃やしてくれるんだよね」と、甘そうなタ
ブレットをぼりぼり食う。
 見た感じ、立花隆か和歌山毒入りカレーの犯人みたいな顔をしている。
「食う?」
「いや、いらない。それより、日本人の個室っていくら?」
「5千円」
「5千円かあ。入場料と合わせて8千円コースになっちゃうな」
「俺は一発の単価がもっと安いところ見付けたよ」
「どこだよ」
 厚木君は、チノパンのポケットからティッシュに挟まったピンクちらしを取り出
した。
「ここだよここ。2発で8千円だよ」
 チラシを見ると、萌えヌキ倶楽部、王子駅から徒歩5分、8千円ぽっきり、など
書いてある。
「どこにも2発なんて書いていないじゃない」
「でもやらせるんだよ」腫れぼったい目を瞬かせた。
「女はどんな感じ?」
「若くてさぁ、女子高生か短大生みたいな感じ」
「本当かよ」
「俺が嘘を言った事があるかよ」
 確かにこいつが足で稼いできた情報には、それなりの信頼性があった。この前も、
練馬の花びら3回転という店を教えてもらったのだが。これは、10分ずつ3人の
女が代わる代わる出てきて、生で口の中で受け止めてくれるというものなのだが、
みんな女子高生みたいのが出てきた。それで3000円だというのだから、一体一
発幾らでやっているんだろうと思ったのだが。
 それで、3回射精した後、便所に行ったら、洗面所にイソジンがズラーっと並ん
でいて、「こりゃあ衛生的に問題があるな」と思って、二度とは行かなかったが。
 しかし、情報に嘘はなかった。
 それを思い出して「行ってみるかなあ」と俺は呟いた。
 厚木君からピンクちらしを引っ張り取った。







#1083/1112 ●連載    *** コメント #1082 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:19  (461)
【純文学】今夜一緒にいてーな 2
★内容                                         17/04/06 13:53 修正 第2版
 そういう訳で、俺は鉄塔の駐車場から車を出すと、今度は王子に向かった。
 八王子から80キロも北上して、今度は20キロ南下する。こんな事にガソリン
を使っていいのだろうか。
 カーラジオから、JーWAVEグルーヴラインのエンディングが流れてきて、一
日の終わりを予感させる。まだ一発もやっていないのに。
 この時間帯、都内に向かう上り線はがらがらで、すぐに王子に到着した。駅裏の
コインパーキングに車を突っ込む。
 チラシを見ながらうろつくと、すぐにターゲットの雑居ビルは見付かった。
 ビルに入った途端に、お湯のニオイがする。ビルのテナント全部が風俗店で、各
階にファッションヘルスだのの看板が出ている。
 3階の「萌えヌキ倶楽部」に入った。
「はい、いらっしゃい」角刈りのあんちゃんが、威勢のいい声をかけてくる。「い
い子がいるんですよぉ」
 さっそく、カウンターの上にクリアファイルをひろげると、ぱらぱらめくる。
レースクイーンだのミニスカポリスの格好をした女の写真が見える。
「この子なんてどうすか」
「ちょっと待って。その前に、8千円で2発って聞いたんだけれども、それは本当
なの?」
「そりゃあ旦那、たまたま早く行っちゃって、時間が余ったから話しているうちに
もう一回ってなっただけで、別に2回を売りにしている訳じゃないんですよ」
「そうなんだ…」
 という俺の落胆など意に介さず、女を勧めてくる。「さあ旦那、この子はどうで
すか。この子だったら今すぐ入れますよ」
「これかあ。ビニ本に出てきそうな女だなあ。もっと素人っぽいのがいいんだけ
ど」
「それじゃあ」と店員がぱらぱらめくるのにすかさず指を突っ込んで、
「この子は?」
「この子は、今、入っちゃっているんですよ。だから30分待ちだ。そうだ、旦那
にお勧めなのはこの子だ」
 と店員が勧めてきたのは、109にいそうな茶髪のギャル
「これかあ」唸った。「これで1発8千円だったら、うま味を感じないなあ。2発
やれるんだったらともかく。やっぱ、俺、ちょっと、考えるわ」と踵を返そうとし
たら、
「わー、ちょ、ちょ、ちょっと待って」カウンターから身を乗り出してきて、人の
袖を引っ張る。「分かった、やらせますよ。2回やらせます」
「本当?」
「本当だよ」
「2回やらせるんだったらこの女でもいいかなあ」
「いやあ、もうやらせますよ」
「約束だからな」
「いやあ、もう大丈夫」
「だったら行ってみる」

 待合室で、写真週刊誌をめくっているとすぐにギャルが現れた。タンクトップに
ホットパンツを着用。顔は、ギャル曽根みたいな感じ。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
 女に案内されて中に入って行った。間仕切りで区切られた迷路みたいな通路を歩
いて行く。
 個室に入ると、真っ暗だった。あちこちに、ぶつからない様にLEDのランプが
付いている。
 これじゃあ女の裸が見えないじゃないか。乳首でも黒いのか。
 それからポンチョみたいのを渡されて着替えた。
「ジャワーはここじゃないんです」
 又女に誘導されて、迷路の廊下を歩いて別室のシャワールームに行った。
 そこで、ポンチョを脱いで、女も裸になった。
 浅黒い肌にアーモンド色のびーちく。
 女はさっそく背中を丸めて、ポンプ式のボディーソープをスポンジに染み込ませ
た。
 それでも、蛍光灯の下で見ると生々しいな。
 シャワーを出してスポンジを泡立てる。
「失礼しまーす」と言ってちん洗いを始める。
 すぐに泡の中からちんぽが勃起してきた。
「たつと洗いやすーい」と如何にも低偏差値な事を言いつつ、しごく。
「あー、いいや。このままここで一回目出させて」
「えー。いいんですか。こんなところで行っちゃって」
「いいから」
 女がしごくと、簡単に、ぴゅぴゅぴゅーっと射精した。
 女がザーッとシャワーで流した。
 白濁した液体が排水口に流れ、塩素臭の残り香が立ち上る。
 くらくらする。何しろ八王子から80キロ、越谷から20キロだからなあ。

 シャワーが終わって、真っ黒い部屋に戻るとベッドに腰掛けた。
 女がCDのスイッチを入れるとパラパラが流れ出した。ディスプレイのLEDが
暗闇の中で揺らいでいる。
 超小型冷蔵庫を開けると瓶入りジーマを取り出して1本くれた。
 プルトップを開けて「かんぱーい」
 一口飲んで、「あー、美味しい」
「ところで名前なんていうの?」
「ユカリ」
「こういう曲、好きなんだ」
「好き」
「彼氏とかいる?」
「えー、いたらこんな仕事していないよー」と茶髪の毛先をくるくる指でまるめた。
「髪とか染めない方がいいよ。あと日サロとかもやめた方がいいよ。その方がいい
男が寄ってくる」
「えー、そうなんですかぁ」
「結局男は身持ちの固い女が好きなんだから。いい男を見つけりゃあ働かなくても
家でテレビでも見ていればいいんだし」
「ふーん」
 女はタバコを出した。
「吸っていいですか。吸います?」
「いや、いらない」
 女は火を付けると、深く吸い込んで、フーっと煙を吐き出した。
 煙が漂う。
「話す事なくなっちゃったな。それ、吸い終わったら2回目行こうか」
「は?」
「2回目」
「そんなの、ないよ」
「なんで。あるって聞いたぞ。2回で8千円だって」
「知らねーよ」
「知らねーよじゃねーだろう。つーか、まだ20分もあるし」
「じゃあ、チップくれたらやらせてあげる」
「幾ら?」
「1万円」
「なんでそんな金、要求するんだ…」
 劇場でも、先にチップを渡してサービスを引き出した方が利口だとみんな言う。
よかったら後で渡すなんて愚の骨頂だと。
「そんなの馬鹿らしい。つーか、俺はセックスだけを買っているんじゃなくて、嘘
でもいいから擬似恋愛というか…」
「だったらなんで2回で8千円とか言うんだよ」
「それは…」
「結局安くあげたいだけでしょ。遊び人の癖に金払いが悪いっていうのは、どうな
のかしらねぇ」
 瞬間的に、さっきの「お客さんはアパートに入れらんない」という台詞とか、昔
18歳の踊り子が60のジジイに貢がれて、結婚してもいい、とか言うんで、「あ
のジジイは金を払って個室に入ってくる男じゃないか」と言ったら、「あなただっ
て金を払って私のところに来る。どこが違うのか分からない」とか言われて、俺は
親身になって相談にのっているんじゃないか、どうしてその違いが分からないんだ。
 パラパラを聞きながら、首でリズムをとって、タバコを吸っている、このドン・
キホーテのコスメのコーナーにいそうなあばずれを見ていて、こんな女に払う銭は
ない、と思う。
「話しにならないな」
 ベッドから起き上がると、ポンチョを脱ぎ捨て、Gパンにシャツを着て、化繊ダ
ウンを抱えておん出てきた。

 受付に出てくると カウンターの外から店員に噛み付いた。
「おい、2回目、やらせなかったぞ」
「そりゃあ残念でしたねぇ」角刈りは、蛙の面に小便って感じで、鼻歌交じりにク
リアファイルをめくっていた。
「すっとぼけるな。話が違うじゃないか」
「だから、それはお客さんの持って行きようだ、って言ったじゃないですか」
「お前、2回って確約したじゃないか」
「ふん」と風営法の看板に手をかけると「うちはそもそも本番行為は認めていない
んだよ」
「何言ってんだ、俺はそんな法律の事を言っているんじゃない。さっき約束しただ
ろう。人間と人間の約束だ」
「なにが人間だい。2発やりたかっただけだろう。人間とかいうなら女の子の気持
ちも考えてみろ」
「偉そうな事言うじゃないか。俺がちょっとそこの公衆電話から、お恐れながらと
電話すりゃあ おめーも女も前科一犯になるのがわからないのか」と言って、俺に
正義はないな、と思った。
「やんな。やんな。こっちは風営法の看板出して営業してんだ。中で何をやったか
なんて、おめーが警察に行って説明しなけりゃならないんだぞ。おめーが裁判所で
証言しなけりゃならないんだぞ。そんな度胸あるのか。あーあー、何が人間だよ、
全く。人間のカスだ、おめーは」
 言うと角刈りは、店の入り口の盛り塩をこっちの足元に投げつけてきた。「帰り
やがれ」



 2

 翌日、俺は真面目に会社に行った。
 俺は派遣社員としてT芝日野工場で働いていた。通勤には車を使っていた。工場
のそばに月極駐車場を借りておいて。派遣会社は、勤務地に到着してから仕事は始
まると考えていて、交通費はよこさず、且つ、途中で事故があると雇用者の責任に
なるもんだから、公共機関を使えという。そんなのは無視していた。
 車から下りると、12月の冷たい空気を鼻腔で感じる。ダイソーで買ったポリエ
ステルのネックウォーマーを鼻までずり上げた。
 俺は、作業着の上に化繊ダウンを着込んで、スポーツバッグをたすき掛けにして
いた。
 工場のフェンス沿いを歩いていると、他の社員もみんな丸でミシュランマンの様
に着膨れしているのが見えた。そして西門に吸い込まれて行く。
 西門の前で加藤と出くわした。倉庫で一緒に働いている奴だ。
「いやー、昨日はひでぇ目に…」と会うなり言ったところで、言葉を飲み込んだ。
 こいつは前職不動産屋で、あること無いこと言いふらして人のイメージを毀損す
る、全く信用出来ない奴なのだ。
 黒目の上下に白目が見える。それを気にしてかメガネのレンズに緑色が入ってい
て、ますます変態っぽく見える。
 西門から入ると真ん中の道を構内に入って行った。
 右手の基板工場から、グッドウィルの派遣社員が、台車に基盤を積んで、左手の
プレハブの携帯工場に向かって運んでいた。そいつは作業着も貸与されず、グッド
ウィルのブルーのトレーナーを着ていた。基盤工場の出口の所では、T芝の作業着
を着た正社員が、クリップボードを抱えて、帽子を目深に配って、作業の様子を監
視していた。丸で強制収容所のナチスの兵隊みたいな感じ。あいつらは、T芝の作
業着にプライドをもっていて、俺らがT芝の作業着を貸与された時にも、「どうだ、
T芝の作業着を着れて誇らしいだろう」とかなんとか言っていた。
 朝日の当たっている芝生のところでは、グッドウィルのトレーナーを着た津村記
久子みたいなのが首から休憩中のプラカードを掛けてタバコを吸っていた。
 それを見付けて俺は、「あいつら、雨宮、赤木みたいに戦わないのかねぇ」と言
った。
「あいつらあれで、結構満足しているんだよ。つーか、部品の出し入れとか、組み
立ての段取りとか、そういうのに段々慣れてくると、働く喜びとか感じたりするん
だよ。そういうやる気をグッドとかT芝とかに利用されているんだけれども、そう
いうのは、鵜飼とか、豚にトリュフを採らせる様なものだな。ヒヒッ」と加藤はシ
ニカルな事を言う。
 一瞬、交番に出頭した事とか、アフラックに告知した事とか、俺の正直さを突か
れた様な気がしてカチンとしたが。
 携帯工場が終わったあたりの十字路の左側が出荷場になっていて、ナッパ服を着
たT芝物流の作業員が、木枠梱包されたでっかいパラボラアンテナを、トラックに
積み込んでいた。
 更にその奥に、薄暗くて日が当たらなくて裸電球がぶら下がっている、木枠梱包
だの、ダンボール箱への箱詰めなどをする作業場があって、梱包屋の社員が朝礼を
していた。紺色の作業着を着た、高齢男女なのだが、妙に小柄で、生まれた時から
貧しくて栄養状態が悪かったんじゃないかと思える様な人達で、グッドウィルの奴
らとは又違った感じの底辺さを感じる。一人前で喋っている所長だけは、俺らと同
じ年格好で、色白で、デブっていて、元暴走族の頭という噂だった。昔は集会で活
を入れていたのだろうか。
 その梱包屋の事務所に俺らのタイムカードはあった。
 俺の派遣元は、レインボーという会社なのだが、直接T芝に派遣されている訳で
はなく、レインボー→神本梱包屋→T芝、と二重派遣、つまり二重ピンはねされて
いるのだった。因みに加藤の派遣元はグッドウィルだった。
 さて、交差点の反対側の4階建の工場に俺らは向かった。
 4階の生産管理事務所のロッカーで着替えると、2階の倉庫に行く。
 倉庫といっても元は事務所だったのが今は空き家になっているのを倉庫に使って
いるのだが。
 左右のラックに、カメラ、テレビ、DVRがずらーっと積み上げられていた。こ
こで、この加藤と二人で、全国の営業所から来た伝票をチェックして、製品を出荷
場に持っていくのが俺らの仕事だった。もっとも最近はそれだけではなく、だんだ
ん労働強化されて、ワイヤーハーネスを作っておけ、とか、カメラに電源ケーブル
をつけておけとかいう作業もあったのだが。
 ラックの間から倉庫内部に入ると、真ん中に作業台があって、ネジ回しとか圧着
端子のついたハーネスが散らばっていた。作業台の脇には、ハーネスを取り付け済
みのカメラが4、50台積み上げられていた。
「俺が居なくてもちゃんと作業していたかなぁ」
「まあな」いきなり加藤はあくびを噛み殺す。
 しかし、何気、カメラを取り上げて見てみると、圧着端子はぐらぐらだし、平ワ
ッシャーの向きもまちまちだった。平ワッシャーの向きはバリが出ている方が外側、
とか、ネジはスプリングワッシャーが潰れてから15度ぐらい回したところで正し
いトルクが得られるとか、決まってんのに。
「加藤さん、これじゃあ駄目だよ。ぐらぐらじゃない」
「そんなの適当でいいんだろ。どうせ二重ピンはねされてんだから」
「そういう問題じゃないでしょう。こんな電源部のネジがいい加減だったら、どっ
か地方のコンビニで火事にでもなったらどうするのよ。そういうの平気なの?」
「平気だね」
「平然と言わないでよ、平然と。PL法で責任を追求されたらどうするのよ」
「別に俺達、教育も受けていないし、手当だってもらっていないんだから、責任な
んてないね」
「教わったじゃない」
「あれはやり方を教わっただけで、教育でも資格でもないよ。無資格の俺達に作業
させる会社がいけないんだよ」
 こういう奴が原発を作るから災害が起きるのだ。
「もう全部やり直しだよ。こんな事だったら、何もやってくれない方がよかったよ。
いちいち外すのも面倒臭いし」
「全部やり直すのかよ」
「当たり前だろう、こんなもの出荷出来ないだろう」
「あんた、真面目だな。でも、それがトリュフを採る豚だっていうんだけど。ヒヒ
ッ」
「うるせッ。お前みたいな適当な奴は、テキ屋か不動産屋でもやってろ。俺がやる
からお前は手を出すな」
「そんじゃあお任せします」
 言うと、パイプ椅子を広げて少年マガジンを読みだす。

 それから俺は、黙々と、ハーネスの付け直しをやっていたのだが、黙々と作業を
していると、だんだんムカムカしてくる。
 横目で加藤を見ると、平気で漫画を読んでいやがる。よく平気で読んでいるよな
ぁ、人にやらせておいて、目と鼻の先に居るのに。
 そういえば、あの野郎、俺の事を、トリュフを採る豚だと言った。という事は、
確信犯で俺にやらせているんじゃないのか。俺は、レインボーにもダンボール屋に
もピンはねされているが、その上加藤にまで利用されているって事か?
 ムカつくなあ。
 既に作業台の端には4冊も雑誌が積まれている。ああやっている間にも、あいつ
にも賃金は発生しているのだ。15分で300円ずつ、チャリーンと。300円つ
ったらかまど屋ののり弁が買えてしまう。昼休みになるとかまど屋が売店の前にワ
ゴンを出しているのだが。
 ああ、胸いっぱいに不公平感が広がっていく。
 あいつのパイプ椅子を足払いで蹴飛ばしてひっくり返してやるか。

 しかし午前中は堪えた。
 昼休み、かまど屋ののり弁と売店で別っぱらのスニッカーズを買って、社食に行
った。
 加藤はカレーうどんと稲荷セットを取ってきて食っていた。うどんにカレーの汁
をたっぷりと含ませて、汁ごとずるずるっとすする。唇の周りをカレーだらけにし
て。汁は全部飲み干していた。

 午後になってからは、出荷作業を行った。 
 営業所から回ってきた伝票を、加藤が読んで、俺が棚から製品を降ろす、という
風にやっていく。こうやってやった方が、それぞれが伝票を見ながらやるよりも、
早いのだ。でもこうやってやっていると、加藤に使われている様な気がしてくる。
逆でもいいのだが、そうすると、加藤は、先入れ先出しをしないで、手の届くとこ
ろから適当にとっていくので駄目なのだ。
 俺が這いつくばって奥から出すと、加藤がビンカードにシリアルと数量を書き込
んだ。こ汚い字で1なんだか7なんだか9なんだか分からない。
 そうやって倉庫一周を回って、台車一杯に、カメラだのDVRだのを集めてくる。

 作業台のところに戻ってくると、営業所の伝票を宅急便の伝票に書き写す作業が
あった。
「俺が汗だくになって、製品を出したんだから、そっちが書き写してよ」と加藤に
言った。
 そして俺はノートPCを広げて、エクセルのシートを開いた。
 加藤が書いたこ汚いビンカードなどアテにならないので、自分でエクセルの表を
作って在庫管理しているのだ。
 俺は、台車に積まれたダンボールを見ながら、機種、シリアル、数量をPCにタ
イプして行った
「なんでそんな事やんだよ」今日に限って加藤が言ってきた。「そんなの会社から
やれって言われてないだろう」
「そんな事言ったって、こうやってちゃんとしておかないと在庫が合わないじゃな
い、そっちの書いた字が汚いから」
「そうじゃないだろう。俺の字がどうこうじゃなくて、手書き自体が気に入らない
んだろう」
「ええ?」
「1か0かでやりたいんだろう。時計もデジタルだし」
「えっ」
「あんた、毎日シャワー浴びないだろう。その癖、ウォシュレットがないとうんこ
ができないタイプ」
「なんだよ、そりゃあ」
「ざーっとでいいから毎日入ればいいのに、あんたは局所的に潔癖にしようとする
タイプなんだよ」
「なんだよ、そりゃあ」
「要するに豚のきれい好き、って感じかな、ヒヒッ」
「なんだよ、そりゃあ。つーかおめー、朝から豚、豚、うるせーな」
「興奮するなよ、ヒヒッ」
 加藤は分厚い緑のレンズの向こうで細い目を見開いて、ヒヒッと笑っていた。

 台車を転がして出荷場に行ったら、神本梱包の事務所のガラスの向こうに所長が
船を漕いでいるのが見えた。
 ふと、加藤がいかにいい加減かを相談してみるかと思ったが、全く頓珍漢な事だ
と気付く。
 あの梱包屋は、レインボーに口座を貸して、口座使用料として数%をピンはねし
ているだけなのだ。本屋のマージン取りみたいなものか。
 突然、昔、笹塚のセブンイレブンで買った折りたたみ傘が開けた瞬間にバラバラ
になったので帰りに調布のセブンイレブンに文句を言いに行ったら、えらい威勢の
いい店長で「そんなもの、ロサンゼルスのポロショップで買ったポロシャツを東京
のポロショップで返品する様なものだ」と逆に怒鳴られたのを思い出した。
 こうやって昔の悔しい思い出でを思い出す時っていうのは、脳がかなり沸点に近
づいているんだよな。誰かに相談しないと。

 出荷が終わった後は、一服の時間なのだが、俺は禁煙してしまったので、加藤だ
け工場一階の喫煙所にやった。俺は一人で出荷場の隣の社食に行くと、自販機コー
ナーで、紙コップの粉っぽいコーヒーを飲んだ。
 それから二つ折り携帯を取り出してメールを打ち出した。

 To akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 Sub 一緒に働いている他社派遣社員について
 レインボースタッフ殿 高橋亜希子様
 お世話になっています。
 現在一緒に働いているグッドウィル派遣社員が不真面目で困っています。
 電源ケーブルをカメラにネジ止めする作業があるのですが、いい加減です。
 電源ケーブルですから、現地で漏電事故が起こる可能性もあるのに、関係ないと
言います。
 結局、彼には仕事を任せられず 小職が一人でやっている状態です。
 というか、私の真面目さを利用してサボっているのでは、とさえ感じます。
 現場には上長が居ないので誰にも相談出来ません。
 神本の所長に言ったところで無理だと思います。
 レインボー殿から、神本かT芝に言ってもらえないでしょうか。
 よろしくお願い致します。

 俺の担当は、今年大学を出たばかりの女子なので、あんまり言いたくはなかった
のだが。しかし、トリュフを採る豚なんて言われた日にゃかなわないぞ。炭鉱のカ
ナリアならともかく。
 しかし、その日メールの返事は来なかった。

 翌日になってもメールの返事は来なかった。
 あの女子大生にしてみたら、こんな日野の派遣社員なんてどうでもいいのか。
 とにかく、俺は、今日は公平に作業をしようと思っていた。昨日は俺一人が家畜
になって働いていた感じだからなぁ。
 午前中のカメラに電源ケーブルを付ける作業の前に俺は加藤に言った。
「加藤さんよ、今日は、俺が電源ケーブルを付けるから、加藤さん、ダンボールに
しまってくれる?」
「ああ、いいよ」と加藤は言った。
 そしてそういう役割分担で作業を開始した。
 ダンボールにしまうなど、なんのスキルもいらない単純作業に思えるが、ケーブ
ルを束ねたり、ビニール袋に入れたりして、ちゃんとダンボールの蓋が閉まる様に
格納するのは結構面倒なのだ。そういう肉体的負荷を加藤に与える事で、雰囲気的
に公平になる。
 もっともそういう作業は加藤はいい加減なのだが、別に適当に箱に入れたとして
も、ケーブルさえちゃんと付いていれば品質には問題ないので、俺は気にならなか
った。これも豚の綺麗好きなのか。
 そうやって午前中の作業は公平な感じで終わった。

 昼休みは又かまど屋ののり弁を食った
 加藤は又カレーうどんと稲荷セットで、カレーうどんの汁を全部飲み干すと、お
冷を口に含んで、舌で歯の表面の汚れを落とすと、そのまま飲んでしまった。
 見ていてゲーッとする。

 午後からも、作業の公平を期す事を第一とした。
 営業から回ってきた伝票を真っ二つに分けると、それぞれがやる事にした。こう
するとかえって時間がかかるおだが、お互いの体力の消耗が平等だというのがよい。
あと、加藤は先入れ先出しもしないし、ビンカードにも書いたり書かなかったりで
だらしないのだが、最後にエクセルに打ち込むので、在庫はちゃんと把握出来るの
で、豚の綺麗好き的には満足だった。

 そうやって倉出し作業を終えると、何時もの様に出荷も終える。
 その後、加藤は喫煙所に行き、俺は社食の自販機の所に行った。粉っぽいコー
ヒーを飲みながら、それでも今日は公平に仕事が出来たなぁと満足したのだった。
 しかし、今日はまだやる事があった。今日は水曜で掃除があったのだった。

 休憩の後、倉庫に戻ると掃除を始めた。
 これにも、不公平の無い様に、週ごとのローテーションがあって、どっちが雑巾
がけでどっちが掃除機がけというのが決まっていた。
 今日は加藤が掃除機の日だった。
 俺は、作業台やラックの隙間などを乾拭きしながら、加藤の掃除機がけの様子を
見ていたのだが。なんであんなに適当なんだろう。盲人が杖を突くように、或いは、
富士そばの天ぷらでも割り箸で突く様に、ペタペタペタペタ掃除機のノズルを床に
当てている。あれじゃあ全然吸い取らないだろうが。もっと床面にノズルをすべら
せる様にやらないと。
 俺は、ラックの隙間からジーっと見ていたのだが、とうとう我慢出来ず声を発し
た。
「なんだそのかけ方は。もっとちゃんとやってよ」
「いいんだよ。こんなの適当で」
「適当にやろうがちゃんとやろうが労力は同じなんだから、ちゃんとやってよ」
「だったら来週自分の番になったらちゃんとやれば」
 俺は、雑巾投げ捨て、駆け寄っていくと、掃除機を奪った。「お前、何もやらな
くっていいから漫画でも読んでろ」
 加藤は最初目を見開いてびっくりしていたが、表情を緩めると、
「そんじゃあお願いします」と言って、パイプ椅子を引っ張り出して腰を下ろした。
 マガジンを手にとってめくりだす。

 俺は掃除機をかけだした。パレットの周りではポールをどかして、作業台のとこ
ろではパイプ椅子をどかして。
 加藤は平然と漫画を読んでいやがる。何で手伝わない。お前は漫画でも読んでい
ろ、とは言ったものの、拘置所の掃除みたいに、パイプ椅子をどかすとか、コード
捌きをするとか、手伝ってくれればいいじゃないか。
 俺は加藤の方に迫っていって、掃除機のノズルをパイプ椅子の脚をごんごん当て
て、
「ほらあ、どいてくれよ、せめて邪魔しないでよ」と怒鳴る。
 加藤は、ひょいっと立ち上がって、パイプ椅子を移動させると、そこで又漫画を
読みだした。
 結局、俺一人で、全床面に掃除機をかけた。
 やっとこ終わると、へたばって、作業台のパイプ椅子に腰を下ろす。
 フェイスタオルで顔を拭う。
 おもむろにマガジンから顔を上げると、加藤が言った。
「あんたを見ていると死んだ女房を思い出すよ」
「は?」
「いや、俺の死んだ女房は世話焼きでさあ…」加藤は喋った。
「あいつは世話焼きでさぁ。
 俺の酒の肴のコレステロールが高いだの、小便が臭いから糖尿じゃないかだのと、
口から入るものからちんこから出るものまで、色々世話を焼くんだよ。もちろん口
からちんこの間のその他色々に関してもね。
 そして、さんざん世話を焼いておいて、突然キレるんだよ。自分は利用されてい
るーって。
 そのキレ方が半端じゃなくて、向こうの親まで巻き込んで騒ぎ出すので、もうカ
ウンセリングを受けろって話になったんだよ。
 そうしたら、嗜癖だって言うんだよ。
 嗜癖って知っている?
 嗜癖っていうのはね、例えば出汁ってあるだろう、ああいうのは豚骨とか昆布と
か、何かを煮詰めて出てくるものだろう。だけれども、味塩だけを舐める女がいる
んだよ。そういうのを嗜癖って言うんだけれども。
 セックスでも同じでさぁ、映画を見たり食事をしたり、色々な事があって、そう
いうのの一部、というか結果として、セックスあるんだけれども、セックスだけを
求めてくる奴がいるんだよ。セックスを嗜癖にしているんだよ。そういう奴はやた
らと回数をやりたがる。2回やらせろと迫って行ったり。そういうのはセックス依
存症だな。
 まぁ、そういう感じで、俺に関しても、食う寝る遊ぶがあって、俺のダメな所も
あるのに、俺のダメな所だけに注目してくるんだよ。
 そういう感じで俺のダメな所を嗜癖にしている、って言うんだな。
 なんでそんな事するんだろう。不思議だと思わない?
 カウンセラーによれば、自分に自信がないからだって言っていたよ。自分に自信
があれば、愛されて当然と思うから、どーんと俺にぶつかって来るんだけど。自信
が無いもんだから、何か自分を必要とする相手のだらしなさが必要になってくるん
だよ。
 それはちょうど、非モテがさあ、愛されて当然と相手の体を求めていけないから、
金を払って買春を繰り返す、みたいなものかなあ。
 まぁ俺にしてみれば、女房が俺のダメさをケアしてくれる訳だから、断る必要も
なく、ますますダメになっていく、女房はますますダメさをケアする、という負の
スパイラルが起こる訳で、これを共依存関係って言うんだよ。
 そしてその内、自分は利用されているのだとキレる。それにそういうのはやっぱ
りストレスになっていたらしくて、最後には乳がんになって死んだけれどもな。
 まぁ、俺には保険金が入ったけれどもな」
 喋るだけ喋ると、自分で勝手に受けて、ヒヒヒッっと笑う。
 こんな上下三白眼の鶏男にそこまで惚れる女がいるのか、と思う。もっとも加藤
の言う共依存関係とかいう理屈で行けば、ダメさがあるからこそ惹かれて行く訳だ
が。だめんず・うぉ〜か〜、みたいなものか。
 加藤と女房の関係は知らないが、俺と加藤が共依存関係だなんてあり得ない。俺
が加藤を求める訳がない。俺がこの鶏男に惹かれる訳がない。即にでもチェンジし
て貰いたいんだよ。俺はただ公平でありさえすればいいと思っているのだ。
 しかし、加藤の方では、こっちを共依存関係とやらと思っている訳だな。この野
郎、確信犯だな。







#1084/1112 ●連載    *** コメント #1083 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:19  (456)
【純文学】今夜一緒にいてーな 3
★内容                                         17/04/06 13:54 修正 第2版

 その日も又メールを打った。
 To akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 Sub グッドウィル社員に関して
 レインボースタッフ殿 高橋亜希子様
 お世話になっています。
 昨日、業務に関して、グッド社員がいい加減だと相談しましたが、
 業務以外にも、掃除などに関してもいい加減で困っています。
 わざといい加減にして、こっちが見るに見かねて手助けするのを待っている感じ
です。
 その事でこっちがストレスを感じてるのも知っています。
 実際結構ストレスが溜まっています。
 どうにかしていただけないでしょうか。

 差出人:akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 件名:他社様スタッフに関して
 受信日時:2004/12/08 21:07
 有田様
 毎々お世話になっております。
 忙しくてなかなかそちらにも回れず申し訳ありません。
 近い内に訪問する予定があるので、表題の件神本様に相談してみたいと思います。
 ただ、個人的に思うのは、掃除まで言うのは箸の上げ下げかなーって気もします。
 人間が違うので、有田さんの手足の様には動いてくれないと思いますよ。
 犬だって真っ直ぐ歩かせるのは一苦労でしょう。
 とにかく憎らしがったら人間関係は上手くいきませんよ
 少しおおらかに、気楽に付き合ってみてはいかがでしょうか。

 次の日の朝は、初霜が降りていた。
 携帯工場の前の芝生も真っ白でグッドウィルの派遣社員は休憩していなかった。
 出荷場の奥の神本でタイムカードを押す。
 社食の脇を通り抜けて、工場に向かう。
 一階の軒下の男子トイレと喫煙所をスルーして、防火扉の前を横切って階段に上
ろうとしたら、なんと、その手前のパートタイマー用タイムカードを乗っけた台の
下に、猫の糞を発見してしまった。寒いので湯気が立っている。
 こんなの踏まれたら、この建物中、猫の糞の足あとが付くぞ。どうしたものか、
と腕組みをして、ジーっと見ていた。
 三々五々出勤してきて打刻するパートさんに、「あ、そこ、猫のフンがあります
から。踏まないで」などと注意喚起しつつ。
 やがて、加藤が来た。
「おい、そこに猫の糞がある」
「だから?」
「どうにかしないと」
「は? なんでおルぇが」と巻き舌で言ってきたが、すぐに諦めた様に溜息をつく
と、さっさと階段を上がって行ってしまった。
 俺は、男子トイレからペーパーを取ってくると、ナマコでも摘む様な手触りを感
じつつ糞を摘んで、大便所まで持って行って流した。
 ホースを引っ張ってきて床にこびりついた糞を洗い流す。
 しかも、流した水が薄氷となって通路の上に固まったので、誰かがすってんころ
りんするんじゃないかとしばらく見ていた。
 日が差してきたのでその場を去ったが。

 倉庫に行くと、元はオフィスだったので、既に暖房が効いていた。
 加藤がぬくぬくと、パイプ椅子にふんぞり返ってマガジンを読んでいた。
「おい。そっちは平気で座っているけれども、あの猫の糞があのままだったら、こ
こらへんにも、ニオイが広がったかも知れないんだよ」
「それ、俺に関係があるの?」
「関係あるでしょう。そんな事になっていたら、そっちだってそうやって呑気に漫
画なんて読んでいられないんだから」
「だからって何で俺が掃除するんだよ。この建物には二百人も居るんだぜ」
「じゃあ、ここらへんが、猫の糞の足あとだらけになっていたらどうしていたんだ
よ」
「そうなる前に誰か気が付いて、始末してくれたんじゃない?」
「誰が」
「だから、俺の亡妻とかあんたみたいな気にし屋が」
「は?」
「あんたは、自分に自信がなーい」突然、加藤が言った。「そういうあんたがこの
世界に居場所を見付けようとしたら、世界のダメな所を見付けるしかないんだよ。
それが猫の糞なんだよ。そうやって世界のダメさにつけ込んで、世界に居座るんだ
よ」と言うと、マガジンに目を落とした。
 何言ってんだこいつ、と呆気にとられた。
 しかし俺も椅子に腰を下ろした。
 …俺が、自分に自信がないからって、世界のダメさにつけ込むだって? 奇妙奇
天烈な事を言う奴だよなあ。
 俺が猫の糞が気になるのはそういう感じではない。それは、例えば、ちゃんと手
を洗わないで料理をしたらバイ菌が増殖していく、みたいな不潔恐怖に近い感じだ。
あと、電源ケーブルをちゃんと付けないと地方のコンビニで火事がおきるというの
は、自分の部屋のガス栓を閉めてきたっけ、という強迫神経症みたいな感じだ。
 そして、そういう作業を公平にやらなくちゃいけない、というのは、フロイト博
士の快感原則と涅槃原則で説明出来る。
 人間には快感原則と涅槃原則があって、人間関係が上手く行っている時には快感
原則だが、しくじると涅槃原則に陥って厳密な事を言い出す、という説明だ。
 涅槃というのは、原子の世界だから、幾何学的な秩序があって、手書きのビン
カードではなくてPCのエクセル、みたいな感じなのだが。
 快感原則というのは男女の関係みたいな肉と肉の関係で、有機体的な関係で、結
構適当なものだと思うのだが。
 でも俺みたいに非モテだと、そういう人間関係を上手くキープ出来ないから、つ
い厳密になってしまって、「2回って約束したじゃないか」となる。つまり快感原
則に涅槃原則が入り込む。
 仕事に関しても全てを公平にしないと我慢出来なくなる。
 しかし、ここって、会社だよな。家族でも恋人でもない雇用関係の場だよな。だ
ったら、厳密でいいんじゃないの? 涅槃原則でいいんじゃないの?
 涅槃原則の世界なのだから、それを取り仕切る人が必要だ。
 厳密さを取り仕切る上司がいないのが問題なんじゃないのか。上司さえいれば何
の問題も起こらないんじゃないのか。
「おい」と俺は加藤に言った。「分かったよ」
「何が?」
「上司がいないのが問題なんだよ。上司がいてちゃんと指示してくれれば、そっち
ともそんなに揉めなくて済むんだよ」
「あんた、おかしいんじゃねーの。二重ピンハネされている上に上司にこき使われ
たいなんて、マゾヒストかよ。或いは奴隷だな。奴隷はご主人様に命令されると喜
ぶっていうからな」
「ちがーう。俺が言っているのは、赤木の言っているみたいな、"国民全員が苦し
む平等"を実現する鬼軍曹みたいな上司なんだよ。ソクラテスだって悪平等が人間
にとって良い事だと言っているじゃないか」
「まぁまぁ、興奮するなよ、ヒヒッ、ヒヒッ」
 加藤は、緑のグラスの奥で上下三白眼を見開いて、ヒヒッと笑った。

 誰も居ない午前中の社食の自販機の前で、俺はメールを打った。
 To akiko_takahashi@rainbow_tool.co.jp
 Sub グッドウィル社員に関して(3回目)
 レインボースタッフ殿 高橋亜希子様
 一昨日より、他社派遣社員加藤に関して、仕事がいい加減、掃除がいい加減とい
う事をメールしました。
 そしてそれを小生がフォローしなければならないという事も書きました。
 更に、向こうは人のいいのにつけ込んで、こっちにやらせている感じがある事も
言いました。
 (更に、今日は、猫の糞の始末までしました)。
 そういう事に関して、高橋さんは、おおらかに付き合えとおっしゃいますが。
 しかし考えてみれば、私は契約社員としてここにいるのですから、友達とか家族
みたいに、おおらかに付き合う必要もないのではないかと思います。
 そして契約なのですから、ちゃんと履行されているかどうかをチェックする人、
つまり上司がいなくちゃいけないのではないでしょうか。
 そういう人が居ないのが諸悪の根源ではないでしょうか。
 そもそも、使用者が居ない職場に派遣するというのは、偽装請負にも絡んでくる
と思いますが。
 そこらへんは派遣元としてどう考えているのでしょうか。
 実際に、そういう職場で苦労しているスタッフがいる、という現実を忘れないで
下さい。

 昼休み、社食でかまど屋ののり弁を食っていたら、携帯が震えた。
「もしもし?」
「レインボーの高橋ですけれども。今大丈夫ですか?」
 偽装請負なんて言ったから慌てて電話してきたんじゃあないのか。
「大丈夫ですけど」
「今日、そちらに伺いたいと思うんですけど、定時後、有田さん、時間あります
か?」
「えっ。今日、神本の所長、居なかったですよ。入れないかも…」
「いえ、たまには様子を見てみたいので。外からでも。それに話しておきたい事も
あるんですよ」
「え、なんですか?」
「それは会った時に…。豊田駅のドトールに5時半頃、来られますか?」
「そのぐらいだったらちょうどいいと思いますけど」


 3

 定時後、車は駐車場に置きっ放しにして、T芝のバスで豊田駅まで行った。
 ドトールの入り口の所に、高橋さんは立っていた。
 黒いスーツに、インナーはひらひらの一杯ついたブラウスを着ている。ちょっと
見シミーズみたいに見える。素人の着ているものって、全然分からない。手にはダ
ウンのコートをぶら下げていた。
 店に入って行くと、「あれ、有田さん、車で通っているんですか?」と俺のナリ
を見て言ってきた。
 作業着の上に化繊ダウンで、スポーツバッグをたすき掛けに掛けていたので。
「電車ですよ。今、T芝のバスで来たんですよ」
「凄いですねぇ、作業着で通勤ですか。じゃあ、ドリンク注文しましょうか。有田
さん、何にします?」
「じゃあ、ホットで」
「じゃあ、ホットとエスプレッソ」とカウンターの店員に言った。
 高橋さんが金を払った。レシートを貰っていたから会社から銭は出るんだろう。
 高橋さんは、左手にトートバッグとコートを持ったまま、右手にコーヒーの乗っ
たトレイを持って、操り人形みたいによろよろと椅子の間をすり抜けて行った。
 タイトなスカートにヒールを見ていると、女の人って締め付けられているんだな
ぁと思う。
 席につくと、とりあえず、コーヒーにミルクと砂糖を入れてかき回す。
「お仕事色々大変みたいですね」
「あー、すみませんね。色々メールで愚痴っちゃって」
「どんな感じなんですか?」
「それがですね…」俺はメールに書いた事を蒸し返した。
 …とにかく、グッドの加藤がいい加減で、カメラの電源ケーブルの取り付けとな
ども全くいい加減で、それで現地で火を吹いても平気だと言っている。
 結局、心配性のこっちがやってやっているが、そういう私の性質を、レインボー
も神本も利用していて、それは、豚の習性を利用してトリュフを採る様なものだと
言っている。豚ですよ、豚。
 それだけじゃなくて、掃除とかもいい加減で、それも、こっちが見るに見かねて
手を出すのを知っていてやっている。共依存関係なぞと言っていた。こっちが自分
に自信がないから相手のダメなところを見付けて、居場所を見付けるのだ、とか。
それと同じ方法で、女房を酷使して殺して保険金を手に入れたと言っていた。
 他にも猫の糞を見て見ぬふりをするというのもある。
 そんな奴と仲良くやれと言われても困る。あいつは友達でも家族でもないし、あ
くまで業務でやっているんだから。
 誰か上長がいて、指示を出してくれれば、こんなに揉めないと思うのだが…
「神本はただのマージン取りだから相談出来ないし、高橋さんがT芝に文句を言え
るって立場でもないんでしょう?」
「そうそう、その事で言っておきたい事があったんですけど」と高橋さんが言った。
「今、レインボー、神本って二重派遣になっていますよね。それがなくなるかも知
れないんです。いや、なくなりますね」
「そりゃ又どうして」
「実はですね」と高橋さんは説明してくれた。
 某大手家電量販店で二重派遣があって、ああいう所は、耳にトランシーバーをつ
けさせられて、白物家電に行け、黒物家電に行け、そのテレビは幾らまでまけてい
い、とか、バックヤードから正社員が指図して、もう、コントローラーで動かされ
るゲームキャラみたいにこき使われるので、ノイローゼになったとか、派遣元から
暴力をふるわれたとか。
 別に二重派遣だからそうなった訳ではなくて、派遣元がこわーい会社だったのか
も知れないけど…。
「とにかくその煽りを受けて、うちも二重派遣は原則しないって事になったんで
す」
 なんでそんな事を俺に聞かせるんだろう。日野工場はまだまだマシだとでも言い
たいのだろうか。
「じゃあ、神本が派遣元になるんですか? それともレインボーから直接T芝に派
遣されるんですか?」
「現状、なんとも言えないんですが。でも、レインボー、T芝だったら、現場でト
ラブルがあっても、こっちからもT芝さんの主任などに言ってあげられるんですけ
どね」
「だったら、レインボー、T芝でお願いしたいなぁ」
 俺は梱包場の奥の事務所でふんぞり返っている元暴走族の所長を連想した。
「あの所長は気に入らないんですよ。机のビニールの下にシャコタンの車の写真と
か入れているし。あと子供の七五三の時の写真とか、沖縄の成人式みたいだし。あ
りゃあdqnですよ。あんなのに使われるぐらいだったら辞めますね。…つーか、
私でも生産管理の主任とか購買の担当者とか知っている人がいるから、私からお願
いしてみましょうか」
「えー、有田さんにそんな事出来るんですか。でもいいですよ、そんな事してくれ
なくって。あっ、でも人脈の情報だけはお願いします」
 そういえばレインボーのスタッフの心得にも、派遣先のキーパーソンを見付けて
レインボーに報告、とか書いてあった。
 高橋さんはエスプレッソのカップを薄い唇に付けた。ゴクリと飲み込む。そして
上唇についた泡をピンクの舌の先っぽでぺろりと舐めた。
 見た感じ、綾瀬はるかに似ていて、真面目な感じ。あのファッションヘルスのす
れっからしとは大違い。
 高橋さんはカップを皿に戻すと大きく溜息を付いた。
「疲れませんか?」突然聞いた。
「疲れますね。もう、脚とかパンパン」
「高橋さんって、どこらへんまで回っているんですか?」
「多摩地区は吉祥寺、三鷹辺りから日野、八王子までですね。東西は南武線の鹿島
田辺りから、西は北朝霞辺りまで」
 レインボースタッフは元々は地域密着型の派遣会社だったのだが、今では吉祥寺
にも事務所を構えて、テリトリーを拡大していた。
「どこに住んでいるの?」
「八王子の寺田町」
「へー、じゃあ、私のアパートの近くだ。北野なんですけどね。何でまた寺田なん
かに」
「大学の関係で」
「法政?」
「いえ、家政学院大学というのがあるんです。小さい大学なんですけど」
「引っ越しすればいいのに」
「まだ一年目だし」と高橋さんは言った。
 そういえば、リクルートスーツみたいな感じがする。
 高橋さんは又エスプレッソに口を付けた。
 この人もこき使われているんじゃないか、と思う。でも、今はくつろいでいるに
違いない。今も仕事の延長で、ビジネスライクに済ませる積りだったら、適当に
「ブレンド」とかを飲む筈だ。それをわざわざエスプレッソなんて好きなものを頼
むのは、おざなりに済ませようっていうんじゃなくて、くつろぎの時間を俺と共有
しているんじゃないのか。
「そうだ」と言うと、高橋さんはバックからシステム手帳を出して、ページの間か
らチケットの様なものを取り出した。
「これ、今日の明日で急なんですけど」
 言うと、何やら黒地に赤青黄色で印刷されたチケットをテーブルの上を滑らせて
きた。
『レインボー多摩地区クリスマスパーティー&忘年会 ハウス・テクノナイト D
J名無し 12/17FRI 17:30〜23:00』
「本当は6ケ月以上在籍した人対象なんですけれども、有田さんももうすぐ半年に
なるし、よかったらどうですか?」
「いやー、こういうお洒落なのは」
「全然お洒落じゃないですよ。多摩地区の集まりですから。みんな普段着で来るし。
作業着じゃあこないけど」
「高橋さんも行くんですか?」
「そりゃあ私はホストというか」
「ふーん、面白そうだなあ」
「ぜひ来てくださいよ。ストレス解消にもなるし」
「そうですね」

 結局今日の用事は二重派遣解消の事と吉祥寺のクラブのお誘いか。
 ドトールから出ると、「それじゃあ明日吉祥寺で」と小さく手を振って、高橋さ
んは豊田駅方面に消えていった。
 俺は、夕食を買っていくから、と言って、その場で別れたのだが。しかし、車は
置いていっても、北野まで電車とバスでご一緒した方がよかったか。いやいや、あ
んまり長い時間一緒にいて白けてしまったら元も子もないない。短時間で複数回盛
り上がった方が好印象を与えるんじゃないか。

 アパートに帰ると即厚木に電話した。
「吉報だよ、吉報」
「なに?」
「派遣元の女と喫茶店に行ったんだけれども、俺の目の前でエスプレッソの泡を舐
めたんだよね」
「ほんとかよ、すげーな」
「しかも明日は、クラブでのイベントに誘われたんだよね」
「だったらやっちゃっていいんじゃないの?」
「えー」
「だって2回だろ。普通2回誘われたら、もうOKだぜ」
「しかし、両方とも仕事絡みだしなあ。事務所がないから喫茶店で話しただけだし。
それにクラブのイベントは忘年会みたいなものだし」
「うちの会社でも社内恋愛なんて、大抵は二人っきりで残業して、とかなんだぜ」
「へー」
「それに、これ見よがしに泡を舐めたなんていうのは、サインを送っているんじゃ
ないの? 女は絶対にやらせるとは言わないからなぁ」
「そうだよなあ。劇場の女だってそうだものねえ」
「まして、素人の女だったら、絶対にやっていいとは言わないからな。もう、本当
に森本レオ並の図々しさで迫っていかないと永久に素人童貞だぞ」
 森本レオ? 何故か脳裏に高橋源一郎の顔が浮かぶ。
「何で、強引に行けないのかなあ…」と俺は呟いた。
「そりゃあ、俺達はさ、病める時も健やかなる時も死が二人を分かつまで、という
感じにはなれないからなぁ」
 これは、病める時の自分になんて何の価値も無い、だから前金で払って…、とい
うんじゃない。病める時も健やかなる時も、という変化がダメなのだ。常に病んで
いるのなら、それなりの女を探す事が出来る。つまり原子の様に自分の状態が固定
していればいいのだ。そういうのがアフラックの契約とか2回やらせろ、なんだけ
ど…。
「厚木くん、この前、2回やらせる店とか教えてくれたけれども、酷い目にあった
よ」
 俺は、これこれこういう訳でやらせなかった、という顛末を語った。
「いや、その時だって強引にいきゃあ、やらせてくれたんじゃないの?」
「うーん」
「素人だったらますます強引に行かないとダメだぞ。
 こうすればいいんじゃない? 現地解散ならNGだが、そうでなければOKで。
明らかにOKだろう。現地解散じゃなくてどっかに行くんだったら。そう思わな
い?」
「そうだよなあ」


 4

 翌日、加藤とは一言も喋らないで、業務をこなした。
 定時になったら、すぐに4階のロッカーに行って、体中をギャッツビーのウェッ
トティッシュでごしごしやった。
 シャツは、黒いサテンのデザインシャツで、お兄系というかホストとかバーテン
みたいな感じ。
 仕上げに、昔ドンキで買ったジバンシー、ウルトラマンを脇の下だの頸動脈だの
に噴霧すると、ジャケットを羽織った。
 背後で、「おっ、デートかあ」というオッサンの正社員の声がしたが、答えない
で、キシリトールのガムを口に放り込んだ。
「お先にっ」

 この時間帯、上り線は空いていた。
 裏道を通って、新奥多摩街道に出るとすぐに甲州街道に至る。府中付近で東八道
路に入って、多磨霊園を超えれば三鷹周辺はすぐだった。
 吉祥寺通りに入ると、だんだん気分が高揚してきて、多分こんな曲がかかるんじ
ゃないかなーと思って、劇場のハウス・ミュージック掛けた。♪ライト・イン・
ザ・ナーイと
 吉祥寺の街に入ると多少道が混んできて、俺はゆっくりと流した。丸で地元を流
すジモティーの様に。
 ショップのショーウィンドウや歩道を歩くお洒落な女達が、シートにふんぞり返
っている自分の目線の高さで流れて行く。 
 雨がポツポツ降ってきた。街路樹や街灯にはクリスマスのLEDが蔦のように絡
まっていて、フロントグラスの油膜に滲む。
 俺は更に興奮して、カーステのボリュームを上げるとハンドルを叩きながら運転
した。
 やがて右手にターゲットと思しき、虎マークみたいな黄色地に黒でロゴの描かれ
た看板を発見する。あの近所だったな。
 吉祥寺通りが五日市街道にぶつかったら、クランク状に周って戻って来る。
 反対側のパーキングビルに車を突っ込んだ。
 街に出ると、やっぱり学生が多い感じ。あちこちに男女がたむろっていて、どこ
の居酒屋に入ろうか相談している。
 ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
 人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。カラカラカラーっと
いうローラーの音がアーケードにこだました。
 すぐに目的のビルは見付かった。
 ビルに入って、目的の階でエレベータを降りる。
 もぎりの店員は一瞬俺の顔を見て怪訝な表情を浮かべる。しかし、チケットを出
すと、にーっと笑って、入り口に向けて、いらっしゃ〜いのポーズをして招き入れ
る。

 一歩中に入ると、既に宴たけなわで、暗闇の中ミラーボールがクルクル回ってい
て、ハウス・ミュージックがガンガンに鳴り響いていて、ミニスカの女子がカウン
ターの上で踊っていた。
 劇場のチープなスピーカーと違って、天井のあちこちにBOSEのスピーカーが
ぶら下がっていて、フロアの角には冷蔵庫ぐらいのJBLが設置してあって、Ru
nーD.M.C Like Thatみたいな曲が、どんどん地響きの様に響いて
くる
 俺は雰囲気に圧倒されて、壁にへばりついた。
 と、フロアの群衆の中から、高橋さんが現れた。ブカブカのカーゴパンツにTシ
ャツといういでたち。
「きていたんですか」
「えー?」
「きていたんですかー」と耳元で怒鳴る。
「あー、今」
「もう、ビンゴ大会とかイントロ当てクイズが終わっちゃったんですよー」
「あー、そーうですか」
「ドリンクは?」
「えー?」
「ドリンクっ」
「ジンジャエールでも」
「飲まないんですか?」
「下戸なんですよ」
 高橋さんは、バーカウンターに行くと、マッチョな外人からジンジャエールと自
分用の瓶ビールを貰って戻ってきた。
 ビールの飲み口には火炎瓶の様に何かが突っ込んであるのだが、あそこからチ
ューチュー吸うのかと思ったら、それはレモンで、瓶の中に押し込んで飲むのだっ
た。
 とりあえず瓶をぶつけ合って、かんぱ〜い。
 そしてビールをカウンターに置くと、
「踊りましょうーよ」と言ってきた。
「いやー 踊り方が分からない」
「ほら、こうやって、音楽に合わせて体を動かせばいいんですよ」と言って両手を
取って揺すってくれる。
 そうやって、ノリノリで体を揺すりながら、くるくる回る。
 暗いので視線は気にならなかった。音楽がガンガンにかかっているので、踊りな
がらも繭の中に居る感じ。
 ライトが胸元にあたると、体の曲線が分かるのだが、のぞき部屋で覗いているよ
うな感覚。
 しかし、くるくる回ったら、群衆の中に誰かを見付けたらしく、
「ちょっと、あっち行ってきますねー」と言って、フロアの群衆の中に混ざってい
ってしまった。
 俺は手をにぎにぎして、感触を反芻した。素人の手って、カサカサしていなくて
しっとりと柔らかい。他の部分もしっとりしているんだろうなぁ。おっぱいとか、
陰部とか…と想像していたらにわかに勃起してきた。
 やばいと思って、顔を上げる。
 踊る人の群れは、踊るというよりかは、神輿でも担いでいる様に、全員で上下に
身を揺らしていた。
 音楽もハウスからトランスに変わっていて、音楽というよりかはサイレンか雷鳴
に近い感じ。
 場内真っ暗で、ストロボがチカチカしていた。踊る群衆のスケルトンがコマ送り
の様に浮き出る。
 しばらく見ていたが、見ていても面白くないし、いくら劇場で鍛えているとは言
っても、耳が痛くなってきた。
 ドリンクがなくなったところで、とりあえず退避。

 ロビーに出てきてもまだもモワ〜ンと耳鳴りがしていた。
 これじゃあ口説くどころじゃないな。クラブっていうのはひたすら踊るところな
んだなあ。
 しかし、廊下の壁に背を付けて見ていると、カップルになった男女が連れ添って
出てくる。
 あの大音響の中でどうやってひっかけたんだろう。それとも最初っから出来てい
たのか。
 そして、エレベータで降りて行く。
 時計を見ると、9時だった。
 どうすっかな、もう帰ろうかなぁ、と思案していたら、ダウンのコートを着た彼
女が出てきた。
「あれ、有田さんこんなところにいたんですか?」
「いやあ、中はうるさくて。もう帰るんですか?」
「9時からは、フリータイムだから」
「僕も帰ろうかなぁ」
「コートは?」
「車で来たんですよ」
 エレベータに乗ると気まずい雰囲気に包まれた。
「まさか会社にも車で通っている訳じゃないですよね」
「いやあ、今日は雨だったから」
 通りに出ると「雨、ふってないかなぁ」と独り言の様に言って、手のひらをかざ
した。
「送っていってあげようか」
「えー」とこっちを見ないで言うと、さっさと駅の方に歩き出した。
「どうやって帰るんですか?」
「西八からバス」
「西八から寺田までバスっていうのは信じられないなぁ」
 俺は丸でキャッチセールスの様に横にべったりとくっついて行った。嫌がられて
いるんじゃないかと思う。そっちはそっちで帰って下さい、と言われる前に自分か
ら引き下がった方がいいかも。いやいや、それがいけないんだよ。
 ところが、ロフトの少し先の雑居ビル入り口で、何やら揉め事が起こっていて、
2、30人の群衆が車道にまではみ出していた。その周りを、赤のトレーナーに赤
のベレー帽の集団が数珠つなぎに囲んでいたので、群衆が目立って見えたのだが。
「あれ、ガーディアン・エンジェルスじゃないの」
「えっ。あ、そうだ。何かあったんですかね」と高橋さんはトークしてきた。
 真ん中の方で揉めているらしく、その周りで押しくらまんじゅうの様に人が群れ
ていて、更にその周りをガーディアン・エンジェルスが取り囲んでいる。
「ちょっと見に行ってみようか」
「いや、止めた方がいいですよぉ。あっち側から行きましょうよ」と反対側の歩道
を指差す。
 そしてなんとなく共同歩調みたいな感じになって、二人して道路を渡って行った。
「やっぱ、物騒だから、送っていってあげようか」
「えー」
「だってどうせ僕、北野まで帰るんだし」
「じゃあ」








#1085/1112 ●連載    *** コメント #1084 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:19  (281)
【純文学】今夜一緒にいてーな 4
★内容                                         17/04/06 13:54 修正 第2版
 人気のないパーキングビルでは、靴音さえこだました。
 高橋さんが助手席に乗ってドアを閉めると、ドスンという音が駐車場に響いた。
 何時もの癖で、ドアロックすると、集中ドアロックなので全部のドアがロックさ
れた。
 高橋さんの緊張が伝わってくる。
「シートベルトしてもらえます?」
 あくまでも安全上の配慮だ、という雰囲気を醸し出す。
 そしてエンジンをかけると、いきなり、♪ライト・イン・ザ・ナーイと、と鳴り
響いた。
 慌てて、カーステのスイッチをオフにする。
「こんなの聞いているんですか?」
「いやいや、これはね、この前妹に車を貸した時に入れられたんですよ」
 立体駐車場のコーナーをきゅきゅーっとタイヤを鳴らしながら下りて行った。
 五日市街道から吉祥寺通りに入ると、さっきのロフトが見えた。
「もう一回さっきの騒ぎ、見に行ってみましょうか」
「いいですよ、君子危うきに近寄らずで」
「そうですね。それにしてもガーディアン・エンジェルスは気に入らないな」
「え? なんで?」
「前にテレビで見たんですけれどもね。あいつら、電柱にテレクラのちらしを張っ
ている様なひ弱な奴を捕まえて、あなたを逮捕します、私人による現行犯逮捕です、
あなた、逮捕されているんですよ、分かってます? 逮捕されているんですよ、と
か。逆にはめてやりたいね」
「え? どうやって」
「そりゃあ、なんかで挑発して、相手に襟首を掴ませて、お前今これやっただろう、
って自分で襟首を摘んで見せるんですよ。
 そんで、今から警察呼ぶからな、やっていないなんて言うなよな、これは傷害罪
じゃなくて暴行罪だからな、こっちが怪我していなくっても罪になるんだからな、
って。
 警察のカウンターでお巡りの襟首を掴んだら即逮捕だろう、一般人同士だって同
じ事が言えるんだからな、って」
「でも、ガーディアン・エンジェルスだって法律をよく勉強しているだろうから、
そんな簡単に襟首を掴んでこないんじゃないですか?」
「いやあ、人間、興奮させれば襟首ぐらい」
「ふーん。襟首を持たせるっていうよりか、美人局みたいな感じですね。最後に本
性を見せるって感じで」
 すぐに車は東八道路に入っていた。喧騒を抜けて、静かな夜の闇に潜り込んでい
く感じ。
「そういえば」と高橋さんは思い出した様に言った。「つい先月、事務所にあった
スポーツ新聞で見たんですけどね。元国家好委員長が警察に逮捕されたんですよ。
 その政治家が渋谷のセンター街にいたんですよ。それで、なんで昼間っから60
のじじいがセンター街にいるんだ、若い格好して、Gパンなんて履いて、って感じ
で。
 そりゃあ本人は、ただモスバーガーのシェイクを飲みたかっただけだ、と言って
いるけれども。
 でも、街には援交女子高生が溢れかえっていて。
 そりゃあ本人はモスバーガーのシェイクを飲みたかっただけだと言っているけど。
 とにかくそれで逮捕されて、署に連れて行かれたんですけど、誰もその人が国家
公安委長だって気が付かないんですって。課長が出てきても気が付かなくて、副所
長が出てきて初めて、これはもしかして先生じゃありませんか、ってやっと気付い
て。
 やっと気が付いたか、もっと早い段階で気が付かないとダメだ、とか。
 だったらモスバーガーで、自分は国家公安委員長だって言えばいいのに」
「ふーん。水戸黄門みたいな感じ?」
「水戸黄門っていうか、後から本性を出すのはずるいですよね」
 と言うと、あーーーと大あくびをした。
「お疲れの様で」
「そうじゃないです。最近眠れなくて」
「なんか悩みでも?」
「そうじゃないんです。アパートの隣の学生がうるさくて。友達を連れてきて、夜
中の2時3時まで話しているんですよ。毎晩」
「そりゃあ文句を言わないと」
「言いましたよ。管理会社に」
「いやー、直接言わないとダメですよ。私がいっちょ、話つけてやりましょうか」
「いいですよ」
 一瞬、学生って、法政の学生じゃないだろうか、と思った。
 あそこらへん、法政のラグビー部で、天山とか佐々木健介みたいな感じの奴が、
原チャリでビュンビュン走っている。
 あんなのにタックルされたらひとたまりもない。
「もしかして学生って法政とか?」
「多分、トヨタの専門学校生だと思うんですけど」
「専門学校生か。だったら余裕だな」
「いいですよ」
 東八道路が終わると、甲州街道を横切って、京王線の向こうまで南下して行った。
 川崎街道〜北野街道はがらがらで時速60キロぐらいで飛ばす。
 北野、寺田はすぐだった。
 アパートは、寺田団地から崖の下の方まで、いろは坂みたいな坂をくねくねと下
って行ったところにあった。
 とりあえず、ゴミ置き場の前に停車した。
「ここかあ、結構僻地ですね」
「…」
 ギーッとサイドブレーキを引くと、下りて行った。
 アパートは軽量鉄骨造りで、前と後に冬の田んぼがあって、擦り切れたブラシの
様に、刈り取られた後の稲が残っていた。
 アパート内の駐車場に入って行くと、足の裏でじゃりじゃり音がする。
「居るかな」と高橋さん。「居る居る、車があるから」と指差したのは、いかにも
自動車修理工が好みそうなハチロクのトレノ。
「いつもここをガレージがわりにしていじくったり、空吹かししたりしいるんで
す」
「へー、こんなポンコツをねぇ」
 バンパーに足をかけて体重をかけてみる。
「やめて、やめて」と声をひそめつつも激しく言った。
 一階の角部屋がトヨタの部屋で、その隣が高橋さんのだった。
 廊下まで来てもシーンとしている。
「静かですよねえ」
「それが、部屋の中だと響くんですよ」
 言うと、高橋さんは、バッグからキーケースを取り出す。
「それじゃあ、ちょっと散らかってますけど…」
 南京錠の鍵みたいな小さな鍵で玄関ドアを解錠した。
 電気をつけると、右側にユニットバス、左側に小型冷蔵庫、ガスコンロ、流し。
 この台所なんだか廊下なんだか分からない板の間を歩いて行ってドアを開けると
6畳のワンルーム。
 狭い。ジョン・ウェインのセットにでも入った気分になる。
 ベッドはなかった。クローゼットの中に布団があるのか。
「壁、薄そうだね」
 言うと、俺はなんとなく左側の壁に寄り添って、耳をそばだてた。
「話し声が聞こえるね」
「でしょう。今日も友達を連れ込んでいるんだ」
 俺は、いきなり、どーんと壁をぶっ叩いた。
「やめてー」と小声で叫ぶと、高橋さんは制する様に手を広げた。
 壁に耳を付けると、話し声は止んでいた。
 しかししばらくすると又話し出す。
「こりゃあ、やっぱ言ってこないとダメだな」
 俺は、ジャケットの前をはだけて両手をポケットに突っ込むと玄関に向かった。
 高橋さんもオロオロしながら付いて来る。
「手荒な真似はしないで下さいよー」
「そんな事はしませんよ」
 廊下に出ると、隣のチャイムを、きんこん、きんこん、きんこん、と連打する。
そしてどん、どん、どん、とドアを叩く。
 すぐにドアが開いて若造が顔を出した。エグザイル系でもジャニーズ系でもなく
吉本のボケ、又吉みたいな感じか。これだったらいざ武力衝突になっても余裕だろ
う。
「隣のもんだけど」と俺は言った。
「は?」
「うるせえんだけれど」
「すみません」
「すみませんじゃねーよ。おめー、トヨタの学生か?」
「はい」
「誰か来てんのか」
「あ、すみません、レポートがあって…」
「なんで修理工になるのに、レポートがいるんだよ」多少声を荒げた。「ここはト
ヨタの合宿所じゃないんだぞ。トヨタのせいでどれだけみんなが迷惑しているのか
知っているのか」
「えっ」
「名古屋の方じゃあ、トヨタがあるから、外国人労働者が殺人や強盗をやらかして、
みんな迷惑してんだぞ。分かってんのかよ」
「はい」
「二度と人を連れてくんな。今日はいいよ。だけれども金輪際人を連れてくるな。
今度連れてきたらトヨタの学校に電話するからな。近隣住民がとーよーたーのせい
で迷惑してますって。おめーの将来なんて電話一本で真っ暗に出来るんだからな。
分かってんのかよ」
「はい」
「じゃあ、今夜は絶対に喋るなよな」
「はい」
「よし、じゃあ、行こうか」と背後の高橋さんに言うと、俺はズボンに手を突っ込
んでつかつかと踵を返した。
 高橋さんも、あたふたしながら付いて来た。
 ワンルームの部屋に上がり込むと、再度、壁に耳をつけてみる。
「あんな言い方したら私がここに住んでいられなくなるじゃない」高橋さんが言っ
た。
「あんぐらい言ってやってちょうどいいんですよ」
 と言って壁から耳を離して振り向く、と、電灯の傘に頭が触れて、傘が揺れた。
 俺の陰も部屋の壁で大きく揺れている。
 なんとなく部屋全体の雰囲気が変わってしまった。
 俺は高橋さんの瞳をジーっと見詰めた。
 高橋さんも離れたタレ目でこっちを見詰めている。唇を真一文字に結んでいる。
 今しかない、と思った。
「今夜一緒にいてーな」と俺は言った
「えっ」
「今夜一緒にいてーな」
「ええっ」
 俺は一歩踏み出した。
 高橋さんは、後付さると踵を引っ掛けて、テレビと三段ボックスの間に尻もちを
ついた。
「今夜一緒にいてーな」俺は膝を付いてにじり寄って行った。
「いやだ、いやだ」
 嫌よ嫌よも好きのうち、俺は両肩を押さえにかかった
「いやっ」膝を抱える様に小さく丸まる。
「なんで。だって2回も外であっているじゃないか」
「ええ?」
「昨日も今日も一緒だったでしょ」
「それは、仕事でしょう」
「だって、ドトールでエスプレッソ飲んだでしょ。あれはくつろいでいたんじゃな
いの?」
「あの時には疲れていたから、甘いカプチーノが飲みたくて…」
「今夜も手に手を取って踊ってくれたじゃない」
「忘年会じゃない」
「そんな事ないっしょ。今夜一緒にいてーな」俺は更に迫って言った。「今夜一緒
にいてーな」
 高橋さんは「いやー」と頭を抱えて身を捩った。
 三段ボックスが揺れて、ドサドサーっと本が落ちてきた。
『100億稼ぐ仕事術』ホリエモン。『渋谷ではたらく社長の告白』サイバーエー
ジェント社長。
「なんじゃ、こりゃあ」プチプチプチっとこめかみで音がした。「てめー、こんな
もの読んでピンはねの勉強をしていたのか」
「…」
「お前も俺を利用していたんだな。このテレビも、ビデオも、俺からピンはねした
金で買ったんだろう」
「…」
「その上、俺を利用して隣の住人と戦わせた」
「…」
「お前、ピンはねされている人間の気持ちが分かるか。時給1200円でこき使わ
れる人間の気持ちが分かるか」
「…」
「お前に、代償を払わせてやる」
 俺はジャケットを脱ぎ捨てて、黒シャツのボタンを外した。
 その状態で覆いかぶさろうと、女の両肩に手を掛けた。
 女は恨めしい顔でこちらを睨むと、「いやなんです」と言った。
 そして、丸で紋甲イカでも網に乗せたみたいに、ぐにゅ〜っと顔の筋肉を歪ませ
ると、瞼を三日月形に持ち上げて、薄い唇をへの字に結んだ
「えッ、えッ、えッ、ひえ〜〜〜〜ん」と泣く。
 泣きながらも、三日月形の瞼の奥から黒目が恨めしそうにこっちを睨んでいる。
「ひえ〜〜〜〜ん」
 その顔が…。ガキの頃、妹をぶん殴ったら泣きながらこういう顔をして俺を睨ん
でいたな。
 突然俺はしんみりいてしまった。
 俺は、両肩を解放した。
 立ち上がって、電灯の傘の下に突っ立った。
 高橋さんは尚も泣いている。
 俺はシャツのボタンをかけるとジャケットを着た。
 泣くのが終わると、ひくひくしゃくりあげながら高橋さんは言った。
「私、隣の人に文句を言ってなんて頼んでいない。有田さんが勝手に、言ってやる
って買って出てきたんじゃない。
 T芝の主任に話を通すとか言っていた時にも、あれー、この人、自分で前へ前へ
と行く人なのかなぁ、って思ったけど。
 だから、グッドの人だって、勝手に前へ前へと行くって感じてんじゃないの? 
グッドの人が言うみたいに、やっぱり、共依存関係なんじゃないの? 弱みにつけ
込むのは自分に自信がないから、とか思った…」
 涙を擦ると、ずずーっと鼻を吸う。
「とにかく今日は帰って下さい」
「えー」
「帰って」毅然と言うと、高橋さん立ち上がった。
 そして、突然、北斗の拳の突きみたいに、「たーーーたったったっ!」っと突い
てきて、一気に玄関の外まで追い出されてしまった。
 転げ落ちる様に玄関から追い出されると、ドアがバタンとしまって、鍵のかかる
音、チェーンの降ろされる音がする。
 えー、っと一瞬呆気にとられたが、とりあえず、靴をちゃんと履き直す。
 それから合板のドアを見つめて、これで終わりかよ、納得出来ない、と思う。
 俺は、ドアノブに手を掛けようとした。が、突然、やばいんじゃないか、と思え
てきた。
 もしかしたら、サツにでも電話されるんじゃないか。
 俺は魚眼レンズを親指で押さえると、中腰になってドアに耳を当ててみた。
「げーっ、うえーっ」という嘔吐の音がしている。ユニットバスで吐いているのか。
 そんなに俺が嫌いなのか。
 ストレスで吐いただけなんじゃない?
 いやー、やっぱ俺の事が嫌だったんだよ。
 ここまでやられれば、すっきりするわい。こっちに勝ち目はなかったのだから。
チップのあるなしに関わらずただまんにはありつけない、という感じ。
 あー、すっきりした。
 俺はすっきりして、その場から踵を返した。

 田んぼの横の道から、アパートが見下ろせる。
 トヨタの自動車学校に、家政なんとか大学か。貧乏くさいアパート。
 しかしまてよ、と思う。俺は、決して、高橋さんが言うみたいに、自分に自信が
ないから隣の専門学校生を脅かして、その代わりにセックスしよう、みたいな取り
引きをした訳じゃない。
 ただ、上手く行くかも知れないしダメかも知れない、という男女の駆け引きは苦
手なのだけれども。職場での加藤との駆け引きが苦手な様に。
 原子みたいに固定した関係なら、かなり強引な事が出来るんだよ。例えば、本番
まな板ショーみたいにね。
 車に乗り込むとキーを回してエンジンをかけた。
 とりあえず明日からはもう会社には行けないな、と思った。
 辞めるっきゃない。だったら、会社都合にして、即、雇用保険を貰わないと。レ
インボーの事務所に行って大声を出せば、会社都合にしてくれるだろう。しかし、
吉祥寺まで行くには、道も混んでいるし、電車代ももったいないから、原チャリで
行く様かな。
 やっぱり、俺は先に先にと考える癖があるのか。
 つーか、明日は土曜だよなあ。明日は劇場に行かなくっちゃ。忘れていた。俺に
は劇場があった。
 何があったって俺には劇場があるじゃないか。
 あそこでジャンケンに勝ちさえすればただまんにありつけるんだ。
 カーステのスイッチを入れると、ハウス・ミュージックが流れだした。
 ♪ライト・イン・ザ・ナーイと 
   ライト・イン・ザ・ナーイと
 俺はオヤジと一緒に手拍子をしていた。
 ライト室からアナウンスが聞こえてきた。
「はい、ジャンケンよろしくー。なおジャンケンは公正にね。インチキジャンケン
はお断りー」
 俺の心は既に劇場にあった。


【了】














#1086/1112 ●連載    *** コメント #1067 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/11  20:51  ( 75)
クルーズに行ってみた2>船に“汽船”なし   永山
★内容
 夕食時のハプニングとしては、母が隣のテーブルのご婦人に突然話し掛けたのには、
びっくりしたです(笑)。いえ、私も少し気になってはいたのですが。
 というのも、そのご婦人、テーブルにお一人だけでしたから。言わずもがなですが、
通常、二人で一室だから二人以上で乗っている人が多いんです。一人というのは珍しい
はず。
 話を伺うと、クルーズ慣れしている方らしく、二人旅の予定が急用で一人になって
も、何ら問題なく参加したと。そういう一人旅がこれで二回目だとも。
 そういえばセイルアウェイパーティにて、男性が一人で、見送りの女性に手を振って
おり、近くにいた女性乗客が男性にご関係を尋ねるのが聞こえたんですが、その返答が
「夫婦」とのこと。え、夫婦別々? というか、妻が一人で行くのならまだ想像が付く
んですが、夫が一人で行くというのはちょっと意外。

 食事を終えたのが18:55くらい。出入り口の付近でメニューをもらって退出。
 20:00からのショーにはまだ時間があるので、部屋に戻ります。母は携帯電話が
つながる内にと電話をして、私はメモ書き。終わってから、船内のショップに行きまし
た。クルーズではあとになるほど商品が品薄になり、中には売り切れてしまう物も出る
そうなので、今の内に物色しておこうかと。
 同じ考えの人は大勢いるようで、四つある店はどこも賑わっていました。とりあえ
ず、価格帯が一番手軽なルブルーで、飛鳥チョコレートをまた買っておこうと見て回り
ましたが、ない! 早くも売り切れたか? そんな訳はなく、どうやら今回のクルーズ
では最初から並べていないようで。恐らく、飛鳥ビールと同じ扱いでは?
 ならばと他のお菓子を当たりますが、この時点では決められず。一部は試食できるん
ですけど、味見しようにも、お腹がいっぱいで食指が動かず(笑)。

 19:45になったので、プロダクションショーの行われるギャラクシーラウンジへ
移動。右手の席に座りました。例によって、飲み物等のオーダーはせず。別料金だし、
そもそも入らないし。
 今夜のプロダクションショーは「CINEMA」。一九五〇年代から九〇年代にかけ
ての名作映画をテーマに、その名画とスクリーンミュージックの数々を、ダンスと歌曲
で魅せていく。
 これも前回乗船時に感じたことと同じになりますが、出演者の皆さんが汗一つかかず
に、およそ四十五分間のショーを乗り切るのがまず凄い。
 ショーの構成は、名画の音楽に乗せて、主に、映画のシーンをなぞるようにダンスで
表現するスタイル。分かり易いところで、「雨に唄えば」「フラッシュダンス」。他
に、「ティファニーで朝食を」や「ラマンチャの男」「荒野の七人」「レミゼラブル」
等々。客層に合わせて古めの映画に重きを置くというようなことはなく、満遍なく選
び、ほぼ均等に時間を割いていたと思います。
 あとは、映画のワンシーンの再現で、そこに新たに登場人物が加わる流れを、客席の
通路を歩いて登場する演出が結構多用されてた。うまくすると、現実から映画の世界に
入り込んだような錯覚を生み出せますね。

 四十五分のショーが終わって、席から立つと足下に傾きを感じる。おお、揺れてる。
観ている間に、船が外海に出たようです。このときは天気が悪いせいだと思っていまし
たが、あとで聞いたところでは、太平洋を行くときはだいたいこんなものみたい。
 とは言え、酔いが回ったみたいふらふらしながら歩くのは疲れる。部屋の前の廊下を
行くときなんて、壁に手をつかねばならないほどでした。
 部屋に入っても、揺れは相変わらず。今回、船首寄りの部屋だったんですが、船の構
造上、船首と船尾の付近がより揺れるんだそうで。
 23:00スタートの夜食まで、色々と見て回るつもりでいましたが、ここに来て母
がダウン。船酔いの症状が出ております。薬の類は持ってきていなかったので、レセプ
ションに置いてある酔い止め薬をもらいに、部屋を飛び出しました。
 が、五十メートルほど行ったところで引き返す。慌てていたため、スリッパのままで
歩いてしまいました。船室に備わってあるスリッパは、飽くまで室内用。パブリックス
ペースはちゃんとした靴じゃないといけません。てことで履き直して、再出発。
 レセプションに辿り着くと、グッスミンなる酔い止め薬が置いてありました。説明書
きを読むと、続けて服用するなら少なくとも四時間は空けるとか、一日四錠までとあり
ましたので、とりあえず四錠をもらって部屋に戻りました。
 早速、母に一錠飲んでもらって、ベッドで横に。服用後、三十分は休むようにとあり
ましたので。

 その間に私は予定を変更し、お風呂をもらうことにしました。もちろん、部屋風呂で
はなく、グランドスパへ。夜、グランドスパで入浴するのは初めてです。グランドスパ
のある12デッキに通じているエレベーターは、後方にある三基のみで、今回の部屋か
らはだいぶ歩かねばなりません。長い長い廊下を歩くのは大変ですが、船旅ではいい運
動になるような気がします。
 グランドスパに入ってみると、この時間帯でも利用者はいました。そんなに多くはな
いけど、朝風呂で入ったときと同じくらい。ちゃっちゃと済ませて、湯船に浸かり、窓
の外を覗いてみますと……やっぱり真っ暗でほとんど何も見えません。わずかに、波立
つ白さが確認できる程度。ま、これはこれで悪くありませんが、やはり明るいときに入
って景色を楽しむのがベターでしょう。
 それよりも驚いたのは、湯船のお湯が前後?に結構大きく揺れてた点。いやー、さん
ふらわあで風呂に入ったとき、よく波立つ湯船だなあと思いましたが、太平洋に出れば
飛鳥Uも同じなんですね。さんふらわあには大変失礼をしました。すみません。

 続く。ではでは。




#1087/1112 ●連載    *** コメント #1086 ***
★タイトル (AZA     )  17/06/07  19:43  ( 50)
クルーズに行ってみた2>夜歩く&夜食う   永山
★内容
 グランドスパを出たのが21:50頃。部屋に戻ると、母は眠っていたので、テレビ
を入れてニュースのチャンネルに合わせて音を消して、あとは乗船記のためのメモ書き
をやってました。
 二十分ほどすると、母が起き出しました。船酔いは多少、回復したとのことですが、
船の揺れ自体は収まってないから、油断できません。一応、「夜食どうする?」と尋ね
たところ、少し考えて「今日はもう休んだ方がいいみたい」とのこと。風呂もグランド
スパはやめて、部屋の風呂を使うことに。前回、室内風呂はシャワーだけで、一度も湯
船に湯を張らなかったため、そのやり方を把握するまでに、やや時間を要したです。
 母が入浴中に、夜食がスタートする23:00になりましたが、さすがに食い気より
も心配する気持ちが強いんで、上がるのを待っていました。上がってから身支度が終わ
り、床に就くのを待って、23:50を過ぎていました。夜食タイムはあと四十分ほど
ですが、ここまで来たら急ぐこともあるまい。お休みなさいを言って、ゆっくり歩いて
5デッキの夜食会場へ。

 廊下を行く間も、ずっと揺れを感じていました。大げさに言えば、壁に手をつきなが
らじゃないと少々不安を覚えるくらい。お酒で酔っ払えっている人は、よりきつかった
のでは? ほんと、日本海側と太平洋側とではこうも差があるのかと驚きです。

 さて、階段を降りきって、フォーシーズンダイニングに到着。
 と、何だか、閑散としてます。前に乗った折は超満員だったんですけど。時間帯がや
や遅いせい? それとも、博多発と横浜発とでは客層が違うのかしらん。横浜港が本拠
地だから、慣れた乗客が多いのかな? “夜食なんて焦って食べなくてもいいよ”的
な。私が入った時点で中にいたお客は3,4組程度。人数にして二桁行ってなかったで
しょう。
 夜食は、紙の形ではメニューがありませんが、出入り口のところに掲げてあるので、
写真を撮っておきました。「きつねうどん」「笹おこわ」「揚げ出し豆腐」をメイン
に、ケーキ、フルーツ、ジュース、コーヒー、紅茶と記してあった……んですが、ケー
キとフルーツは既に全部片付いたのか、見当たりません。うむ、やっぱり大勢が早めに
来たんだなと納得(笑)。
 でまあ、うどんとおこわと揚げ出し豆腐をもらって、ほうじ茶を汲んで、一人で大き
なテーブルに着いた。席が空くのを待つ必要がないのはよかったです(笑)。
 さて、お味ですが、きつねうどんは、お椀に予めうどんの麺とかまぼこと細切りにし
た油揚げを入れておいて、そこに温かいつゆを注ぐだけの代物なのですが……これがま
たうまい! 前にも書いたかもしれませんが、何でここまでいい感じに仕上がるのと不
思議に感じます。
 揚げ出し豆腐は、一口サイズで食べ易かった。ただ、大変あっさり味で、濃い味に慣
れた自分には物足りなかったかな。思わず、うどんのつゆを掛けようかと。それはしま
せんでしたけど、揚げ足豆腐を食べた直後に、つゆを呷りました。
 笹おこわは、この日の夜食のベスト。しそが入っており、いいアクセントになってい
る。何よりも、米を食いたかったというが大きい。

 ごちそうさまをしてすぐさま部屋に引き返し、時計を見たら0:08。はやっ。実質
十分ぐらいで食べたことになるかな。あまりに早く戻ったものだから、母がまだ寝付い
ていなかったほど。
 そのあとは、テレビでナショジオチャンネルを小音量でちらちら見つつ、またメモ書
きに精を出し、歯磨きなどを済ませます。そしてアスカデイリーに目を通しながら翌日
(日付はすでに切り替わっていましたけど)の予定を立てたあと、二時ぐらいに寝まし
た。

 続く。ではでは。




#1088/1112 ●連載    *** コメント #1087 ***
★タイトル (AZA     )  17/06/11  20:08  ( 51)
クルーズに行ってみた2>寒くて暖かくて美味しい朝   永山
★内容
5/18(2016)
 そして――4:11に目が覚めた。
 時計を見た瞬間、日の出が4:25となっていた(アスカデイリーに書いてありま
す)のを思い出し、見よう!と急いで、しかし母を起こさないよう静かに着替えて部屋
を出ました。
 11デッキに着くと、寒い! 風が強い! 自転車で全力疾走以上のスピードが出て
いるだろうから、当たり前なんですけど、想像していたよりもずっと寒い。北上したせ
い?
 重ね着する時間が勿体ないので、がんばってそのまま12デッキに上がる。風さらに
強まり、気分的には吹き飛ばされそうな怖さが。
 多少は風がしのげるスペースに身を潜めつつ、太陽の出る方角を見当付けて、カメラ
を構えたものの、そこには厚い雲が。これは期待薄だと思いつつも、そのまま待って、
二枚ほど撮りましたが、やっぱりだめでした。朝焼け程度に終わる。
 冷え切った身体を両腕でさすりつつ、部屋に引き返したのが4:36。寝間着に再び
着替えて、布団に潜り込みました。
 正式に?起きたのが6:00頃。今度は携帯電話のアラームで目覚めました。カーテ
ンの隙間から差し込む光が、やけに眩しい。何だか悔しいぞ。日の出のタイミングでは
見えなかったのに。
 母もほぼ同時に起きました。具合を聞いてみると、少し収まったけど、まだ完全では
ないと。
 そういえば、船の揺れも昨夜に比べればましになったかな。外海からまた内海に近付
いているということでしょうか。入港予定が13:00なので、まだまだ距離はあるは
ずですが。
 女性の身支度に比べると、男は適当に済ますこともできるのでしばし暇。思い立っ
て、またグランドスパに行きました。眺めがいいです。あと、朝風呂に入る人が結構い
ました。
 てきぱきと済ませて、上がったあとは、モーニングコーヒーをやっている11デッキ
のパームコートへ。と言っても、コーヒーはもらわずに、トマトジュースとデニッシュ
一つをいただきました。甘いデニッシュにトマトジュースは変な組み合わせだけど、生
野菜不足を補うため。
 部屋に帰ったのが確か、6:45。旅行中は疎くなる世間の動きを、NHK−BSお
よび日テレ24のニュースで補いつつ、朝食が始まるまで時間を潰します。
 身支度が終わり、7:00ジャストに二人揃って部屋を出て、朝食に向かいます。ま
ずは(笑)和食、5デッキのフォーシーズンダイニングへ。夜食のときは閑散としてま
したが、さすがに朝食の時間帯は結構な人出でした。それでも割と窓際に近い席に座れ
たから、空いていた方かも。
 例によってお品書きをば。

・食前酢 特選十六ブレンド
・小鉢 刺身湯葉 ほうれん草のお浸し 下仁田こんにゃく
・焼き物 豆腐ハンバーグ和風生姜ソース
・汁物 具だくさん根菜汁
・香の物 温泉玉子 納豆
・五穀御飯、白御飯 又は お粥

 食前酢は前回乗船時と同じかな? 食欲増進によい感じ。すっきりします。
 前日は食べ過ぎというほどではなかったので、このくらいの朝食はぺろりと平らげた
です。こんにゃくは苦手なんですけどね。あ、湯葉が美味しく感じた。汁物の根菜も歯
応えが眠気覚ましによい(笑)。

 続く。ではでは。




#1089/1112 ●連載    *** コメント #1088 ***
★タイトル (AZA     )  17/06/21  21:53  ( 38)
クルーズに行ってみた2>撮られた写真を取捨選択   永山
★内容
 和朝食が終わると、続いてビュッフェ形式の洋食、11デッキのリドガーデンへ。
 前回の初乗船時は、こちらの方が大混雑していたのですが、今回はさほどでもなし。
混雑してるけど、大混雑ではないというレベル。そんな中、オムレツを焼いてもらえる
エッグスタンドがどこにあるか忘れちゃって、広いフロアをうろうろ。
 見付からないまま時間が経つのももったいないので、とりあえず別のコーナーで、フ
レンチトーストとパンケーキを一つずつ焼いてもらいます。他にもサラダやらフルーツ
やらスクランブルエッグやらを取ってきて、グレープフルーツジュースにコーヒーなん
かも用意し、二度目の朝食。フレンチトーストとパンケーキは半分ずつ分けて食べまし
た。やっぱり朝食には甘いと思うが、でも美味しい。初乗船時に食べなかったスクラン
ブルエッグは、ホテルのバイキングにあるのと同じ感じで、特別に美味!って訳じゃな
いけれど、火の入れ加減が私好みで、とろとろの仕上がり。食パンと一緒に食べたい、
というか食パンもビュッフェにあるんだけど、もうこれ以上はお腹に入らないので。フ
ルーツはキーウィが美味しかった、気がする。久々に食べたせいかも?
 食べ終わったのが、8:30ぐらいだったっけ? 出て行くときになって、たまたま
エッグスタンドの横を通りましたよ(苦笑)。

 部屋に戻ると、アスカデイリーに目を通す。色々催し物は行われていたんだけど、主
に身体を動かす系だったため、気力がわかず。それ以上に、四時過ぎに起きたつけが今
頃出て来て、眠気が。汁物の根菜による眠気覚ましも、長時間の持続は無理だった。こ
れは少し休まねば。
 母がお土産を確保しておきたいとのことでしたので、私が眠っている間に行ってもら
いました。
 10:00をいくらか過ぎた頃合いに母が戻ってきて、購入したお土産をいくつか見
せてもらう。職場で配るためのお菓子が、適当な数のがなくて迷ったそうで。

 眠気が一応取れたから、10:00から開いているフォトショップを見に行くこと
に。乗船時や食事の際に、飛鳥専属カメラマンがお客を撮って回った写真が張り出され
ており、欲しい物があればピックアップして購入できます。
 前回は、父がカメラを趣味にしているせいもあり、わざわざ購入する必要あるまいと
全く見もしなかったので、フォトショップを覗くのは今回が初めて。“自分達が映って
いるけど不要な写真は、こちらに入れてください”っていう箱が用意されているのを知
りました。確かに、いらない写真(映りの悪い写真とか)をいつまでも張り出されてい
ては恥ずかしいという気持ちは分かる。ただ、このシステム、特にチェックがある訳じ
ゃなく、全然関係ない人が写真をぽいすることもできそう。まあ、クルーズ船に乗って
いて、そんなくだらないいたずらをする人はいないでしょうけど(笑)。
 このときは二枚購入し、買わなかった一枚を箱に入れたです。

 続く。ではでは。




#1090/1112 ●連載    *** コメント #1089 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/09  20:18  ( 41)
クルーズに行ってみた2>出発前の腹ごしらえは続く   永山
★内容
 写真を置きにまた部屋に戻って、しばらくすると昼食の時間に。当然、和食から行き
ます。フォーシーズンダイニングに着くと、結構混んでました。朝よりは多い。アスカ
デイリーに牛タン料理とありましたので、皆さんそれに惹かれたのかも。でも、仙台入
港前に牛タンとはちょっと不思議。

・焼き物 牛タン陶板焼き
・小鉢 彩りサラダ
・食事 若布と春雨のスープ/麦御飯 とろろ添え/香の物
・デザート

 デザートが何だったか思い出せない……。お品書きに明記してあるものと思い込んで
いて、油断した(苦笑)。和菓子のはずなんだけど。大福か団子かくずきり?
 品名の区分もよく分からないなあ。“・食事”って、全体で食事じゃないのかしら
ん。
 それはさておき、牛タンはうまかったです。麦御飯とよく合う。あと、母がとろろを
ドレッシングと間違えて、サラダに少し掛けてしまった。とろろの入った器がそれっぽ
かったのだ。まあ、ヘルシーな組み合わせではあります。
 昼食時には、別料金でアルコール飲料を注文できます。ここでも飛鳥ビールがないか
とメニューに目を通しましたが、ありませんでした。用意されているアルコール類は全
て、夕食時のフリードリンクメニューと同じ。要するに、今回のクルーズでは飛鳥ビー
ルを積んでないってことでしょうか。

 昼食が終わったらまた昼食です。11デッキのリドガーデンに行きます。
 この頃になるとぼちぼち入港時間でして、港が近い。クレーンやらドックやらが目に
付きます。海面に目をやると、ブイとか養殖用の筏らしき物がどんどん増えてる。漁船
も多く行き交っていました。中には手を振ってくれる人も。漁師さんと言うより養殖業
者さんかな?
 リドはビュッフェスタイルなので、何を取ってもいいんだけど、やっぱり生野菜が欲
しくなる。他にチーズ。それからスイーツもようやく発見したので、二つほど取りまし
た。ただ、事前にパンフレットなんかで見たのとは、感じが違うな。パンフレットの写
真では、名称の書かれたプレートがあって、しっかりした容器に入っていてディスプレ
イされていたけれど、今目の前にあるのはティータイムのミニケーキなどと同じで、名
前はなし、容器に入ったのはプリンのみ。うーん。やっぱり品切れしてる?
 飲み物にパイナップルジュースとコーヒーを選び、窓際の席に座る。そういえば空い
てるなあ。オプショナルツアーの出発が入港から三十分後だからかな? そんなことを
思っていると、船内アナウンスで着岸したとのこと。時計を見ると12:32でしたか
ら、入港予定よりも三十分近く早い。どうやら「着岸」と「入港」は使い分けがされて
いるようなんですが、よく分かりません。その後、十五分ぐらいして上陸準備が整った
というアナウンスが流れました。

 続く。ではでは。




#1091/1112 ●連載    *** コメント #1090 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/15  20:13  ( 36)
クルーズに行ってみた2>初オプショナルツアー   永山
★内容
 アナウンスを機に昼食2を切り上げ、7デッキの港側に出てみると、ウェルカムセレ
モニーが始まるところでした。港を見渡すと、晴天の下、お偉いさんやコンパニオン的
な女性、ゆるキャラ数体が居並び、賑々しくやっている。
 事前に郵船クルーズからもらった資料では、大船渡市に比べて仙台市の歓迎の言葉は
素っ気ない感じだったので、あんまり期待してなかったのですが、思っていたよりずっ
とよかったです。それと同時に感じたのは、震災復興の進捗具合について。セレモニー
をやってる周辺では、ダンプが何台も行き交い、複数のクレーンが首を振り、港湾施設
の復旧が行われています。復興屋台村的な施設も見掛けました。五年でここまで来たと
思えるとこと、五年でまだこれくらいと思えるとこが入り交じってる印象。海に近い地
域は、やはり後者の割合が高かった。
 と、見ている内に、13:00過ぎ。今回は、初めてオプショナルツアーの一つに申
し込んでおり、それが本日これから催されます。
 ツアーの説明書によると、ツアー参加者は13:20までにギャラクシーラウンジに
集合し、説明を受ける必要があるとのこと。まだ二十分近くあるのでのんびり向かう
と、ギャラクシーラウンジ前には既に行列が。自分達が参加するツアーの一つ前のツ
アー説明かなと思いつつ、アナウンスに耳を傾けるとさにあらず。自分達が参加するツ
アーでした。すぐに並んで説明を聞いていると、番号の書かれたバッジを渡すから身に
付けるように云々、そして13:20で受付を締め切ると言ってる。
 え、そうなの? 13:20までにここに来ればいいのかと思ってたよ〜。たまた
ま、早めに来たおかげで問題なかったんですが、四台あるバスの四番目を宛がわれまし
た。満席になったら出発するシステムとのことで、四番目は当然、最後になります。し
かも全員が揃わないといけない。13:20に締め切ると言っても、ぴしゃっと切り捨
てられるはずもなく、漏れがないようにしばらく待つ訳です。
 時計を見るとじりじりすると思ったので見ませんでしたが、実際に全員が揃ったと
き、13:20を過ぎていたと思います。
 それからぞろぞろと歩いて、4デッキの乗下船口を通って上陸です。港には、以前の
境港と同様、物販のテントが立ち並んでいましたが、そちらの方に行く暇は無論なし。
募金箱を持った小さな子達も並んで立って、声を張り上げていたのですが……ごめん。
バスへと向かいます。
 他にもツアーが用意されてるため、すぐには分かりませんでしたが、自分達が参加す
る瑞巌寺と松島遊覧船ツアーのバスは、まだ四台とも停車していました。取り残されて
いないと分かり、ちょっとほっとする(笑)。バスに乗り込んでからも、すぐには全員
揃わず、少し待たされました。が、先行する三台に置いて行かれることなく、ほぼ同時
刻に発車と相成りました。

 続く。ではでは。




#1092/1112 ●連載    *** コメント #1091 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/26  21:04  ( 45)
クルーズに行ってみた2>ここから駆け足   永山
★内容
※ここからは記録が充分でなく、記憶も今となっては朧気なため、駆け足でざっと書い
ていきます。

 駐車場を出ると、土の露出した区画の隙間を縫うように仮設の道を進み、ときに誘導
員の手信号に従って、ダンプとすれ違いながら、大きな道路に出ました。ようやく街の
様子が分かる。人の住む場所は復旧を急いだのか、普通の町並みが続く。ただ、やたら
とダンプとすれ違う。その多くが、復興支援の車両だということを示す、プレートのよ
うな物をダッシュボードの辺りに置いていたように見受けられました。
 瑞巌寺に着いたのは、三十五分後ぐらいだったかな。バスガイドの引率で、瑞巌寺の
入口まで来て、何時までに戻るようにとか言われたんだけど、全然覚えてないです(
汗)。とりあえず、他のツアー及びガイドに後方から離れて着いて行き、説明を盗み聞
きしつつ、敷地内を回る(苦笑)。少し修繕中の箇所があって、通路が仕切られていた
ため、やや狭かった。
 あと、写真を結構撮ったんですが、すでにこの時点で左足に痛みが来ていて、歩くの
がしんどくなってます。座れるところを見付けては、少しずつ休んでました。
 売店というか土産物屋兼ドリンクスタンドみたいなところの前のベンチに腰掛け、船
から持って来たお茶を飲んでたとき、その店で売られているソフトクリームの種類がや
たら多くて、しかも名前が変わっていたのが面白かった。写真に撮っておけばよかった
のですが、疲れていて思い付かなかった。
 てことで、検索してみた。やはり有名らしく、「瑞巌寺 ソフトクリーム」だけでヒ
ットしたです。洗心庵というお店で、ソフトクリームには、黒バニラにホワイトコー
ヒー。日本酒、わさび、クラゲ、とうふ、しらず、ゆば等があったようです。元気なら
ば、二つぐらい試したかもしれないな〜。
 その後、土産物屋二軒に入る。特に母は、魚の干物を欲しがっていたので一緒に探し
ましたが、意外と見付からない。自分は菓子と、牛タンのしぐれ煮のレトルトみたいな
のを確か買いました。
 集合時間が来たので、店を出て、道路を前に信号待ちをしていると、海鳥がたくさん
飛んでいて、信号機の上にも何羽も止まっている。東尋坊でトンビにソフトクリームを
狙われたときのことがよぎりましたが、今回は何も食べ物を手にしていなかったので、
大丈夫でした(笑)。
 道路を渡って、オプショナルツアー参加者が揃ったところで、船着き場へ。松島遊覧
船に乗り込むまでは、何だかんだで十分ぐらい待ったかな。船は二階建てみたいになっ
ていて、先に乗り始めた人は大体二階に行った模様。二階の方が眺めが良く、仕切りと
なる窓ガラスもあまりないためか。後ろの方だった私達は、一階へ。
 程なくして出港。マリンゲート塩竃というところまで、約五十分の遊覧スタートで
す。
 詳細にメモを取っていれば、色々書けたんでしょうが、その場の雰囲気を楽しんでお
りましたので、メモは一切なし。松島湾内にある島々を巡るというコースは定番なんで
しょうが、船内ガイドの女性の喋りが達者で、面白かったです。
 このガイドさん、実は船内売店の売り子さんでもあり、ガイドが終わるや土産物の宣
伝に力を入れておりました。この口上がまた愉快で、ガイドの面白さと併せて、確実に
売り上げアップにつながったことでしょう。私達も乾燥?ワカメを二袋ともう一品、つ
まみ系の何かだったかな、買わせていただきました。

 続く。ではでは。




#1093/1112 ●連載    *** コメント #1092 ***
★タイトル (AZA     )  17/09/19  19:56  ( 43)
クルーズに行ってみた2>太平洋もいいらしい   永山
★内容
 遊覧を終え、確か16:38頃、船はマリンゲート塩竃へ到着、上陸。お土産などを
売っている建物の中を抜けて、バス乗り場へ向かいます。時間に余裕があったら、多分
ここでも買い物時間が設けられたんじゃないかという気がして、後ろ髪を引かれる思い
でしたが仕方がない。夕日の中、バスに揺られて戻ります。帰路でも、復興の模様が目
に付きました。オレンジ色に照らされたクレーンが、印象に残っています。

 仙台港へ着いたのが、17:15ぐらい。出港予定が21:00と夜遅いためか、こ
の時点で、何かセレモニーが行われていたように記憶しています。が、十五分後には夕
食が始まる我々は、じっくり観ている暇がなく、部屋に急ぎます。普通の宿ならいいけ
れど、船だと着替える時間が必要なもので。
 てことで、十五分間を使って、手早く着替え。ドレスコードはカジュアルなので何と
か間に合いましたが、これがもしインフォーマルやフォーマルだったら、恐らく無理。
尤も、船側も食事の開始時刻から十五分以内に来ることを推奨しているだけで、それ以
上遅刻しても食べられないなんてことはありません、多分。
 17:30になりましたので、フォーシーズンダイニングに向かいます。この日は和
食。飛鳥のディナーで和食は二度目です。境港クルーズのときは、ワイン寿司の悪い意
味でのインパクトもあっていまいちでしたが、今回はどうでしょうか。

先附  胡麻豆腐と金時草 和だしジュレ
向付  生鮪 かんぱち キビナゴ 烏賊 ホッキ貝 お造り盛り合わせ
焼き物 姫鱒柚庵焼き
凌ぎ  一口炭うどん
揚げ物 蓮根の挟み揚げ 夏野菜天麩羅盛り合わせ
食事  蛤の潮汁/白御飯/香の物
甘味物 最中

 お品書きはこうなってました。
 ぱっと見て分かる通り、特別な物・変わった物はなく、ごく普通の和食です。最中は
子供のこぶし大ぐらいの丸い物。緑茶に合う。
 極言するなら、朝食の品数が増えて少し豪華にした感じ。全体に薄味だったと思いま
す。優しい味というあれです(笑)。
 海外を巡る長期クルーズの終盤でこの手のメニューがぽっと出れば、凄く美味しく感
じるんじゃないでしょうか。三泊四日の国内クルーズ二日目に出されても、ありがたみ
があんまり(汗)。
 食事中、また隣の席の方と話をしました。今回は、相手の方から話し掛けられたで
す。応じるのはもちろん母が中心。
 年配のご夫婦で、やはり旅慣れている様子。飛鳥Uにも複数回乗っているけれども、
一番のお気に入りの船は、ぱしふぃっくびいなすのようでした。いやはや、そういった
好みを飛鳥Uに乗船しているときに堂々と言えるのは凄いなと、感心したです(苦笑
)。それはともかく、日本の他のクルーズ船にも乗ってみたいという気に、少しさせら
れました。比較するには他のにも乗らないと。

 続く。ではでは。




#1094/1112 ●連載    *** コメント #1093 ***
★タイトル (AZA     )  17/09/28  20:30  ( 54)
クルーズに行ってみた2>二度目のショー   永山
★内容
 二日目の夕食も終わり、お隣が退出するのに続いて、自分達も席を立ちました。時間
は……19:00を回っていたかな? お喋りをしていた分、これまでの食事よりは長
くなったはず。
 20:00から始まるショーまでは、部屋で休むつもりでしたが、写真が気になった
ので、フォトショップに見に行きました。このときも購入したっけかな? ついでに土
産の方も見て、お菓子やらエコバッグやらを二人して買いました。あ、チョコレートは
やっぱりなくて、そもそものスペースがないから補充される気配もなし。しょうがない
ので、似たサイズのクッキーを買いました。六種類のクッキーの詰め合わせですが、飛
鳥クルーズの二十五周年記念だかで、数字で25と焼き印された物が入ってました。
 購入した物を部屋に置きに戻ると、明日のアスカデイリーが配られていました。マジ
ックがあるのかどうか、期待して目を通しましたが、なし。うーん、仙台から乗り込む
こともなかったかあ。これはもう、今回のクルーズ中、マジシャンの乗船はないなと諦
めがつきました。
 翌日の十九日はオプショナルツアーを申し込んでおらず、シャトルバスで碁石海岸に
向かうことにしてましたから、そのバスの出発時刻を確かめて、昼ご飯に間に合うよう
な帰りのバスの時刻もチェック。そうこうする内に、20:00が近付いてきました。
プロダクションショーを観るために、6デッキに向かいます。
 ギャラクシーラウンジに着くと、そこそこ集まっていましたが、大盛況って程ではな
し。
 横浜発であることや三泊四日であることから、前回の初乗船時よりも今回は常連さん
が多い気がします。というのも、常連さんは(演目が被ることの多い)プロダクション
ショーをパスすることがよくあるそうで、それがこのときの客入りに現れていたのかも
しれません。
 で、かくいう私にとっても、この日の演目「リズムオブライフ」は前回観たものでし
た。でも、パスするほど見飽きていませんので、当然観覧します。まあ、内容の記述は
割愛しますが。常連さんの中には、以前と出演者が同じかどうかまでチェックしている
人もいるようです。そういえば私も以前、同じ公演を二度観たシルクドゥソレイユで、
ある演目の演じる人数が違っていたことには気付いたな(当たり前?)。
 話を戻して、前回観賞時と異なることがあるあとすれば、揺れ、でしょうか。初日の
プロダクションショーでも船は同様に揺れていたと思いますが、その影響を感じさせな
い出演者の皆さんは凄い。慣れと緊張感がちょうどいい塩梅に溶け合っているとでも言
えばいいのかしらん。
 四十五分間のプログラムは予定通りに進行し、20:45に終了。二度目だったけ
ど、意外と退屈せず、眠りもしなかった(笑)。

 メモによると、20:45〜21:15頃までフェアウェルパーティが出港に併せて
行われていたはずなんですが、ショー終わりのタイミングだったこともあり、本格的な
見物には行かず。
 その代わりという訳ではありませんが、部屋に戻るのを少し遠回りして、上のデッキ
の方から見てみた記憶が。時刻も定かでないけれど、岸から離れたところだったよう
な。あと、夜、暗い中でプールに外人さんが入っていたのを目撃したのも、このときだ
ったかな?

 部屋に戻ったのは21:00過ぎ。このあともまだ予定があるので、ひたらすら休
憩。備え付けの冷蔵庫にあったジュースを飲んだような。
 で、予定とは、21:45からクラブスターズで行われる、クルートークなる催し物
を観に行くこと。前日夜に配られた本日分のアスカデイリーに目を通した際に、すぐに
気付いていたのですが、触れるのを忘れていました。クルートークという名称の通り、
飛鳥Uの船員さん達が色々話してくれるトークショーとのことです。これは楽しみ。
 クルーズの乗客なら船員さんの話に関心がある人は多いだろうし、会場となるクラブ
スターズはさほど広くないので、時間ぎりぎりに行くとひょっとしたら満員で入れなく
なるのではないか? てことで、やや早めに行動を起こしました。

 続く。ではでは。




#1095/1112 ●連載    *** コメント #1094 ***
★タイトル (AZA     )  17/12/14  20:53  ( 54)
クルーズに行ってみた2>旅は長くトーク   永山
★内容
 飛鳥Uの船員さんらによるクルートークを観るため、会場に向かいます。
 クラブスターズまで行ってみると、行列ができていた、なんてことはありませんでし
た。クルーズ船に乗るくらいだから、船員さん達の話には興味関心がありますでしょう
に、乗客の皆さんお疲れで足を運ぶのを断念したのかな、などと思いつつ、ドアをくぐ
ると、店内はほぼ満席。おお、やっぱり想像していた通り、人気の催し物だったよう
で。
 一転して、これはひょっとして満席で追い返される? そんな危惧が脳裏に浮かびま
したが、幸い、奥の方のテーブルが空いていて、相席となりました。
 クラブというだけあって、中はやや暗い。ぎゅうぎゅう詰めってことはないけれど
も、掛け値なしの満席、定員ちょうどといった感じでしょう。ロシア系の女性店員がド
リンクの注文を取りに来たので、レモンスカッシュをオーダー。母は……メモしておら
ず、忘れてしまった(汗)。各ドリンクには、ナッツの盛り合わせ(といってもサイズ
はつきだし程度ですが)みたいなのが付いています。
 定刻通り、21:45にスタート。四名のクルーが登場し、店の中央辺りに立って、
自己紹介をされました。イベントを存分に味わおうと細かいメモは取らずいたので、
個々人のお名前などは分かりませんが、エンターテインメント部の人達でした。その
後、クルー達も椅子に腰を下ろしてトークに入ります。
 前もってテーマが決められている訳ではなく、お客から質問を受け付けて、それに答
えていくスタイル。何にも質問が出ないようなら、私が質問しようと思って事前に考え
ていたのは、
・「航海中に船内で事件が起きた場合、船長に捜査権があると聞きました。実際に捜査
権が行使されたケースはありますか」
・「映画やドラマなんかでたまに見掛けるように、救命艇に乗客が勝手に潜り込むこと
は可能ですか」
 の二つ。どちらも自分の執筆の参考にしようという、好み丸出しの質問(苦笑)。幸
か不幸か、この二つの質問を出す必要はありませんでした。
 以下、順不同で、乗客各人から出された質問を。覚えている分には、クルーからの返
答も記します。

Q.どんなきっかけで飛鳥のクルーになったか?
A.その1。マスコミ志望だったが三十社ほど落ちて、偶々知り合ったにっぽん丸(日
本三大クルーズ船の一つ)の関係者から話を聞いた その2。鹿児島出身で離島間の船
によく乗っていた その3.バスケットボールのイベント会社勤めだったが、ニュー
ヨークに行ったとき、エンターテインメントの素晴らしさに触れた その4。ホテルの
就職に失敗した直後、晴海ふ頭で飛鳥を見掛けた

Q.勤務態勢、休日の過ごし方
A.たとえば四ヶ月船上勤務の後、二ヶ月休暇。閑散期に旅行しやすいメリットが

Q.飛鳥Uがドック入りしているときの船員の過ごし方
A.船内で普段できないことをする。ストック品の確認や掃除(ドック入りの間は水や
電気が使えないから大変)

Q.給料の支払い方法
Q.クルーの船内居住区画について
Q.何カ国ぐらいの人が働いていて、日本語の勉強はどうやっているのか

 という風に、船のことに直結した、まともな質問が多かったです(笑)。知らないこ
とをたくさん聞けて、とても興味深かったし、満足の行くイベントでした。クルーの方
達も興が乗ったか、サービス精神か、三十分の予定だったのが、十分間延長して22:
25まで色々とお話をしてくださいました。お忙しいでしょうに、ありがとうございま
した。

 続く。ではでは。




#1096/1112 ●連載
★タイトル (AZA     )  17/12/31  23:07  (499)
百の凶器 1   永山
★内容                                         18/04/10 19:34 修正 第3版
・登場人物名の読み方
橋部秀一郎(はしべしゅういちろう)   小津翔馬(おづしょうま)
村上奈峰美(むらかみなほみ)      沼田瞳(ぬまたひとみ)
戸井田弘久(といだひろひさ)      真瀬健太(ませけんた)        
 関千夏(せきちなつ)          犬養麗子(いぬかいれいこ)
湯沢瑞恵(ゆざわみずえ)        柿原理人(かきはらりひと)

            *             *

 車でもそれなりに時間を掛けて行けるところを、敢えて徒歩で行くのは疲れる。道が
上り坂の山道なら尚更だ。なお悪いことに天気は対照的に下り坂。折角の絶景も、これ
では魅力が激減してしまう。
「帰りは車だから、ほら頑張れ」
 副部長の村上奈峰美が声を飛ばす。今から帰りのことを言われても、あまり効果はな
い。むしろ、車で行きたかったという思いが強まりそうだ。
 前々日、部長で二年生の小津翔馬と村上、そして唯一の三年生参加者である橋部秀一
郎は、三台の車で土砂降りの雨の中、合宿場所である旧キャンプ場へ先乗りしていた。
先乗りと言っても、そのまま泊まる訳ではない。面倒な段取りを踏むのは、様々な道具
類を前もって運び込むのと同時に、帰りを楽にするためである。車二台をキャンプ場の
駐車場に置き、もう一台で三人は下山した訳だ。
「――お。見えたぞー」
 先頭を行く小津の言葉に、初参加となる一年生は皆、ほっと安堵の息を漏らしたよう
だった。いつもなら耳障りな胴間声も、高い吊り橋を渡り、ぬかるんだ原っぱを抜け、
アップダウンの激しい山道を長々と歩いてきた果てのゴールを知らせるものともなれ
ば、ありがたく聞こえる。
「我々はどちらかというと頭脳労働が主だから、たまに運動すると、身体が鈍ってるの
がよく分かるな。だろ?」
 橋部が笑いながらいい、周りの何人かが無言で同意の頷きを返す。言葉を発する労力
が勿体ないといった感じだ。完全に到着するまでは、省エネで行かねば。
 そこからまた十分ほど歩き、目的地に着いた。ミステリ研究会の有志学生十名、脱落
者なし。

 九州南部にあるXW大学のミステリ研究会は、学園祭の打ち上げを兼ねて、三泊四日
の合宿旅行に来ていた。通常、学園祭のあとに合宿なんて真似、よほど奇特な部活動で
ない限り、まずあり得ないスケジュールだろうし、当ミステリ研究会がその奇特なサー
クルということもない。しかし、今年は特別な事情があった。
 例年、春の合宿で訪れる場所は決まっていた。OBが親族から引き継いだという南九
州はG地方の元キャンプ場を、ただ同然の費用で使わせてもらっていた。集会所兼受付
所のメインハウスを中心に、扇形に十のコテージが配置されており、施設としては旧い
が使い勝手はいい。立地条件の悪さ(山道を登った先にある)やライフラインの不便さ
(調理や風呂焚きにガスは極力使わない、電力使用は限定的等)から、今時の客商売と
しては考えものだろうが、合宿名目の学生達にとっては充分だった。
 ところが最近になって、再開発の話がまとまり、元キャンプ場は来年の三月には完全
になくなることが決定した。それならばと、なくなる前に今一度、思い出の地で合宿を
やろうじゃないかという話が持ち上がり、日程の調整をした結果、十一月頭の連休を利
用することになったのである。
 イレギュラーな合宿旅行であるためか、全員参加とは相成らなかったものの、十名が
都合を付けられたのだから上出来と言えよう。内訳は、小津部長に村上副部長、三年の
橋部の他、二年男子が戸井田弘久、二年女子が沼田瞳、一年男子が真瀬健太と柿原理
人、一年女子が関千夏に犬養麗子、湯沢瑞恵となっている。コテージの数とちょうど同
じということで、普段なら相部屋となるのが、今回は一人に一つ、独り占めできる。
「えー、部屋の割り振りは、出発前に渡したメモの通り。絵地図があるから、初めての
者でも迷わず行けると思う。鍵は――」
 メモ用紙から面を起こした小津は、誰かを探す風に視線を走らせた。その動きが止ま
るより早く、「私が今から渡すわ」と村上の声。手には楕円形のキーホルダーが束にな
っている。色はイエローに統一されているが、それぞれ1〜10の数字が記してあっ
た。ここで部屋割りを示すと、
1.犬養 2.関 3.湯沢 4.沼田 5.村上 6.戸井田 7.柿原 8.真瀬
 9.小津 10.橋部
 となっている。一応、女性が前半、男性が後半に来るよう分けているが、特に仕切り
がある訳でもなく、自由に行き来できる。
 鍵の受け渡しが済んで、改めて小津が口を開いた。
「見て分かるかもしれないが、施設内に外灯はほとんどない。だから、夜になると真っ
暗だ。そして、コテージ内には残念なことにトイレがなく、外に設置してあるトイレ
で、いちいち用を足す必要がある。夜だとちょっと足元が不安なので、各自、ケータイ
で照らすなり何なりして欲しい。ただ、ここは充電できないから、無駄遣いは要注意
な。電波もほぼ届かないけど」
 えー!と一部から悲鳴にも似た声が上がる。
「懐中電灯はないんですか」
「二本あるが、母屋――メインハウス用なんだ。緊急時に備えての。その代わり、コ
テージにはロウソクが二本ずつある。各自、マッチ箱を渡しておく。一個ずつしかない
から大事に使ってくれ」
 そうして配られたのは、煙草OKの喫茶店に置いてあるような小さな箱マッチで、中
には二十本ほどのマッチ棒が入っていた。
「私、マッチを使ったことないです」
 女子の一人、犬養が当たり前のように言った。えっと驚きの反応を示したのは男性陣
のみで、女子の面々はさほど驚いていないようである。
「こうやるの」
 村上がそばまで行き、手本を示す。犬養は自身のマッチを使って三度の失敗のあと、
四度目で着火に成功した。
「この調子だと、一番にマッチをなくしそう」
 ため息交じりに言う犬養に、隣に立つ湯沢が「私は夜目が利く方だから、足りなくな
ったら言って」と助けを差し伸べた。
「喫煙者がいたら、ライターの一つも持ってるんだろうが」
 一番後ろで聞いていた橋部が、そんな呟きをし、語尾を濁した。
「他にも諸注意があるが、とりあえず、コテージに行って、荷物を置いてこよう。そう
だな、四十分後に、またここに集合ってことで、一旦解散!」
 左手首の腕時計を見やってから、小津は号令を掛けた。小津達二年生や三年の橋部
は、勝手知ったる場所とばかりに、さっさと歩き出す。
 好対照なのは一年生で、皆、もらった鍵を握りしめ、絵地図をじっと見つめては、方
向を定めるために顔を上げる。それを二、三度繰り返した後に、ようやく出発だ。
「途中まで一緒みたいだな」
 背中の方から声を掛けられ、柿原は肩越しに振り返った。真瀬が小走りに近寄ってき
て、横に並ぶ。
「経路はともかく、距離感がいまいち掴めないね、これ」
 右手で絵地図をひらひらさせる柿原。手提げ鞄も持っているため、紙には皺が大きく
寄っていた。
「持ってやろうか」
 両手ともフリーの真瀬が言ったが、柿原は首を横に振る。
「どうせ、紙の方を持つ気でしょ」
「ばれたか」
 笑い声が起きたところで、分岐点が現れた。地図に当てはめ、コテージまで案外近い
らしいと把握する。
「そんじゃ、またあとで」
「うん」
「あ、俺の方からそっち行くから、待っててくれないか。三十分経っても来なかった
ら、無視してくれていい」
「分かった」
 そんな約束をして、柿原は真瀬と別れた。
 コテージはじきに見えてきた。メインハウスからゆっくり歩いても五分強といった見
当だろう。もう店じまいする施設だから、おんぼろな小屋を想像していたが、意外とこ
ぎれいな印象を受けた。三角屋根で丸太をふんだんに使ってある。戸口まで来ると、
コースターっぽく切った木の板に7と墨字で書いてあり、番地のつもりなのか、脇に打
ち付けられていた。また、短いながら庇が着いており、足元には土間の代わりになる平
たい石が一つ置いてあった。扉は金属製で、くもりガラスが上半分にはめ込んである。
鍵を使って解錠し、手前に引く。
「結構広いな」
 十畳以上あるように見えた。考えてみれば、二人以上での利用を想定しているのだか
ら、当たり前か。二段ベッドが右手奥に配置してあるほかは、座卓が一つに座布団が二
つ三つ重ねてあるくらい。特にこれと言った家具は見当たらず、殺風景である。
 柿原は靴を敷石の上で脱ぎ、中に入った。ベッドに接近して、その下が物入れになっ
ていることに気付く。衣装ケースが四つ、すっぽり収まっていた。
 柿原は少し考え、着る物をリュックから出し、ケースに移しておくことにした。それ
から、手提げ鞄の中身も出した。中身は、バーベキューをやると聞いたので、そのため
の便利グッズである特製の皿と、ノートパソコンだ。わざわざ後者を持って来たのには
理由がある。ミステリ研究会に入ったからには柿原も推理小説を書いてみたいと思って
いる。執筆には、このノートパソコンが一番しっくり来る。
(しかし、充電ができないとは参ったな)
 実は事前に聞いていたのだが、全然電気がない訳ではないらしい。メインハウスにて
最低限必要な電気は、太陽光パネルによる発電で賄っている。一方、キャンプ場の利用
者が使う分は、自家発電機を稼働させて得る電力なので、自ずと使用機会は限られてく
る。基本的に、何らかの緊急事態のときのみ使える。燃料を持って来たとのことだか
ら、緊急事態に陥っていらない限り、最終日にでも発電するのかもしれない。
(予備のバッテリー、重かった)
 道中の苦労を思い起こしながら、荷物の整理をしていると、外から足音が派手に聞こ
えた。落ち葉のせいらしい。
「来たぞ。開けていいか」
 真瀬の声に「いいよ」と返事して、とりあえず座布団を前もって出した。ドアを開け
た真瀬は、室内をぐるっと見渡し、「やっぱり同じ造りか」とどことなくつまらなさそ
うに言った。
「それで、どうするの? すぐに行くか、それともぎりぎりまでここにいるか」
「先輩達とずっと顔を突き合わせるのはきつい。しばらくいる」
 上がり込んできた真瀬は、左右の手に本を一冊ずつ持っていた。先に、左手の本を柿
原に見せる。
「これ、言ってたやつ」
 新本格と呼称される推理小説群の一冊で、刊行当初はさほど評判にならず、じきに絶
版。長らく入手困難な状態だったが、再評価の狼煙が上がると再版希望の声も高まり、
復刻された。が、しばらく経つとまた絶版状態になり、再び入手が難しくなったという
経緯がある代物。真瀬は今日、待ち合わせの時間までの暇潰しに覗いた古本屋で、これ
を見付けていた。
「いいなあ。よく見付けたね。戻ったら貸してね」
「合宿中に貸せたらいいんだけどな。読む暇があるかどうか分からないが」
「気持ちだけで充分だよ。ありがとう。四百円か、いい買い物をしたね」
 値札のシールを確認する。
「手放すつもりはないけどな」
 と言いながら、得意げな真瀬。
「そうそう、読書会の予行演習をしないか?」
 連日、何らかのイベントが予定されているが、明日の日中には一冊の推理小説を取り
上げての読書会が企画されていた。新角憂人の書いた『狼月城の殺人』という、西洋の
古城を舞台にした本格ミステリで、なかなかのページ数を誇る。
「予行演習って?」
「想定問答というかさ。議論に登りそうな点を、前もってチェックしておけば、意見も
スムーズに出るだろ」
「それは各人が個々にやればいい訳で」
「いや、入部してから痛感したんだが、柿原は思わないか。先輩らと対等に渡り合うの
は、生半可なことじゃないと」
「それはもちろん思うよ」
「だったら、気付いた点を挙げていこう。お互い、単独では気付けなかったことが、き
っとあるはず」
「……だったら真瀬君から言ってよ」
 促しておいてから、柿原は課題図書である『狼月城の殺人』を荷物の中から探し出し
た。
「じゃあ、まずは当たり障りのないところで、密室を作る必然性、理由が弱い。殺人を
やらかした身にしてみれば、四度も密室をこしらえて行く暇があるなら、さっさと逃げ
るべきだ。加えて、四度の密室全てが異なるトリックで作られているのは、サービスが
過ぎるってもの」
「ご尤もだけど、そこまで現実的な観点を持ち込まなくても。本格ミステリは、作為的
なトリックを許容するところから始まると思うんだ。そもそも、手間暇掛けてトリック
を弄することを批判の対象とするなら、本格ミステリに限らず、数多くの推理小説が当
てはまってしまうよ。下手なトリックを使うくらいなら、通り魔の犯行に見せ掛けるの
が一番ばれにくい、ってね。その辺りの線引きは?」
「ないな。少なくとも明確な基準は、持ち合わせてない。敢えて言うなら、程度問題。
一つなら許せるが、三つも四つもとなれば、そこまでやるか!ってなる」
「感覚的な問題ってことだね」
「理屈に拘る柿原には、納得できないかもしれないが、要するに個人の好みになる」
「それじゃあ、議論にならないじゃない」
 呆れ口調を露わに言った柿原は、続いて、今度は自分の番だねと意見の開陳に入る。
「僕はトリック歓迎派と言っていいけれど、この作品の密室トリックの一つには、首を
傾げた」
「え、どれだ?」
「三つ目」
「ああ、二つの部屋のトリック。あれは大掛かりで面白いと思ったぜ」
 敢えてなのか、反対の立場を取った真瀬。柿原は首を傾げた。
「面白いけど、実現可能性がない気がする」
「トリック歓迎派を自認しておきながら、現実味をあげつらうのかい?」
「いや、そうじゃなくてだね。建物の構造に仕掛けがあったことになってるけど、そも
そもあんな仕掛けは三次元空間では無理なんじゃないかと」
「仕掛けというと、石積みの階段の」
「そう。階段の裏に別の階段を作るって言うけれど、そこを通る人に異常を勘付かせな
いためには、本の説明の通りなら、向きがおかしいと思うんだけど、どうかな」
「……すぐには絵が描けん。もうちょっと詳しく」
 求めに応じ、言葉による説明を重ねようとした柿原だったが、時間が迫っていること
に気付いた。ここらで切り上げないと、再集合に間に合わない恐れがある。
「またあとで……と言っても、読書会までもう暇はないかな」
「本番でのお楽しみにしておく。分かり易い説明と、波乱を巻き起こすことを期待して
るぜ」
 二人は7番コテージを出た。泥棒がいるとは思えないが、念のため、鍵は掛けておい
た。
 そうして全員が改めて集まったあと、小津と村上の指名で、役割分担が決められた。
 真瀬は薪割り、柿原はそのサポート。戸井田は自家発電機を含む電気系統のチェッ
ク。このキャンプ場に詳しい小津は、水回りその他のチェック。橋部はイベントがうま
く進行するように、細かな準備を一手に引き受ける。
 女性陣は犬養、湯沢が料理当番。沼田と関が掃除。村上はその両方に顔を出す。
 真瀬と柿原が、薪割りの段取りが分からず、不安だと訴えると、小津が教えることに
なった。
「ちょっと準備するから待ってろ。あ、いや、道具のある小屋は9番が近いんだっけ。
じゃあ、二人とも着いてきてくれ」
 小津に言われ、真瀬と柿原は9番コテージへ続く道に入った。

 十一月になったばかりのこの時季、いくら山に近い地域でも、南国とされるだけあっ
て、まだまだ震えるほどの寒さまでは行かない。日中、外を歩けばじきに汗が滲んでく
ることさえある。
 にもかかわらず、小津は厚手の靴下を穿いていた。見た目から厚みまでは分からない
が、毛糸のもこもこした感じから暖かさが想像できる。膝頭まで隠れそうな長さで、灰
色地に赤と青のラインが入っていた。
「ここって、そんなに冷えるんですか」
 柿原が尋ねるのへ、小津は台詞の途中から首を横に振った。
「寒くなるのはもう少し先だ。この靴下は、防寒以外の意味がある」
「へえ? 何ですか」
「虫対策。昆虫だけでなく、クモやムカデなんかも含む。だから、普段から穿いてる訳
じゃない。山や森の中を歩くとき、この靴下に長靴でばっちりさ」
「対策ってことは、もしかして、刺されるのを警戒してると」
「当然。ハチには罠を仕掛けてるし、季節柄減ったが、クモやムカデはまだ元気だから
な。どっちもコテージの中に出現することがあるから、おまえらも気を付けろ」
「や、やだなあ。おちおち寝てられないじゃないですか」
「まあ、みんなにはなるべくきれいなコテージを割り振ったから、大丈夫だろう。俺の
入った9番が一番ぼろい。修繕はしてあるが、虫の出入りする隙間はどこにだってある
からな。俺みたいなベテランなら刺されないが。ははは」
 言われてみれば、やや日当たりの悪い位置に建つこの九番コテージは、どことなく湿
気を孕んでいるような。ただ、見た目だけではさほど差は感じられないのも事実。
「だったら、僕らのコテージだって、あんまり変わらないような」
「不安なら、俺のこの靴下、貸してやろうか。あと三組あるぞ」
 小津が首を振った先を見ると、衣装ケースに入れるつもりでまだ放ったらかしと思し
き、靴下や下着類があった。
「遠慮しておきます」
 新品ならともかく、他人が既に一度以上使用した靴下を、たとえ洗濯済みでも着用す
るのは避けたい。吹雪で遭難でもすれば、話は別だが。
「さて、待たせたな。準備できたから行こう」
 小津は立ち上がると、衣類はそのままにして、戸口に向かう。真瀬が聞いた。
「服は仕舞わなくても?」
「後回しだ。先に、おまえらに役割を教える方が効率的」
 三人は順次、外に出ると、物置小屋に向かった。小屋と言っても、完全な密閉空間と
いう訳ではなく、ガレージに近い。サイズは、各コテージの二棟分はゆうにあった。一
部、乗用車一台分の駐車スペースになっており、残りが物置だ。
「ここに斧があるから」
 と、小津が示したのは、小屋の向かって右の内壁。斧だけでなく、鎌や金槌など、長
さが比較的短めの道具が壁に打たれた釘にぶら下げられている。
 続いて、軍手はそこ、安全靴を兼ねた長靴はあそこと、置き場所を示す。
「薪割りってのは慣れない内は大変だと思うが、何でも体験しておくのも悪くないぞ」
「そう言うからには、小津部長は上手なんでしょうね。手本をお願いしますよ」
 真瀬の改めてのリクエストに、小津はもちろんと頷く。三人は軍手をはめ、長靴に履
き替えた。長靴には紐が付いており、きつめに結ぶことで、長靴の口がしっかり閉ま
る。厚手の靴下のせいで、小津が一番遅くなったのはご愛敬か。脱いだ靴は、壁に一段
高く作られた棚へ仕舞う。
「長靴は全員、必要になるかもしれないから、同じ物が人数分ある。あとで誰がどれを
履くのか決めるといい。目印は油性マジックなんかだとすぐに落ちるから、色違いのガ
ムテープでも貼るか。で、斧は二本しかない。一本は真瀬、おまえが持って来てくれ」
 残る一本を自ら握った小津は、先頭を切って歩き出した。風呂場の近くまで来ると、
裏手に回る。そこには既に、小さくて細い丸木が束ねてあった。その束がまたたくさん
ある。「縄を解いたら、そこの切り株を台に一本ずつ立てて、斧で割る」
 簡単そうに言い、そして実際、楽々と斧を振るって薪を作る小津。
「狙い通りに当てれば、まあ割れる。加減を間違うと、台に斧が刺さるって無駄な力を
使うし、振り下ろす刃がぶれたら薪がこっちに飛んでくるかもしれない。せいぜい注意
するように、頼むぞ」
 手本を示した小津は、真瀬に割らせてみて、まあまあだなと呟いた。
「こつか何かあれば……」
「うむ、そうだな。重力を利用したまえ」
「重力?」
「斧の重さに任せて、振り下ろすんだ。かといって、刃をふらふらさせるのは危ないか
ら、ぶれないように」
「改めて言われると、む、難しいような」
「ははは。ま、筋肉痛は覚悟しといてくれ」
「ですよね」
 おおよそ見当は付いていたので、半ばあきらめている口ぶりだった。筋肉痛に襲われ
たとしたら、このあと身体を動かす遊びやスポーツをしても、恐らく散々な結果になる
だろう。
 もう一度、真瀬に薪割りをさせてから、小津は言った。
「よさそうだな。よし。じゃあ、俺は水回りなんかの点検がてら、みんなの様子も見て
くるとするか」
 この一帯には農業用用水が引いてあり、直に飲むのには適していないが、水やりや掃
除、風呂には重宝するという。使う前に、元栓を開けねば始まらない。
「ここまでアウトドアな人だとは思わなかったな」
 先輩の後ろ姿を見送ってから、そう呟いたのは真瀬。柿原は丸木を切り株に立てなが
ら、「早く済ませようよ」と急かした。

 慣れない内は、殊更慎重に斧を振るう。それでも力の使い方が下手で、なかなか効率
が上がらない。早くも痛くなってきたのか、真瀬は作業を中断し、腰に両手を当てた。
「合宿以外でも、小津さん、ここに来たことあるのかな」
 柿原は頃合いとみて、最前から脳裏に浮かんだ疑問をはっきりした声で呟いた。
「何だ、藪から棒に」
 手を止めたまま、反応する真瀬。柿原はできた薪を集めつつ、発言の根拠を説明す
る。
「やけに詳しそうだったから。今の時季の、この辺のことを。春にしか利用してないは
ずなのに」
「なるほどね。俺が聞いた話だと、ここを持ってるOBというのが、小津先輩の父親か
お兄さんらしいぞ」
「知らなかった。それなら合宿以外でも来てる可能性が高いな。って、何でそんな曖昧
な情報になるの。小津さんの父親か兄か分からないなんて」
「単に俺が忘れてるだけ。多分、年の離れたお兄さんがいるって聞いた記憶があるんだ
が、確信が持てんのよ」
 そう答えると、斧を左右の手で強く握り、再び薪割りに取り掛かる真瀬。
「スイリストとして気になるんなら、直接気聞けば?」
 スイリストとは、真瀬が柿原に付けたニックネームだ。不必要と思える些細なことに
まで推理を働かせる癖のある柿原を、多少からかって“推理スト”。ストというのは、
アーティストとかスタイリストとかのストである。
「別にそこまで拘らないけどさ。仮にスイリストを自認するなら、直に聞くのは最後の
手段だよ」
 柿原は微笑交じりにそう答えると、新たに丸木を束ねた縄を片手で引き寄せ、苦労し
て解きに掛かった。

 午後三時半、三泊四日の合宿を過ごす土台が整ったところで、一息つくことになっ
た。と言っても、学生のほとんどは午前中の疲れもどこへやら、元気が有り余ってい
る。二時間後の夕食の支度開始までは自由行動とされた。早速、テニスをやるんだと隣
接する運動場に直行したのは、沼田と湯沢と橋部。橋部の誘いに女子二人が乗った形
だ。やはり近場の大きな池に向かい、ボート遊びに繰り出したのは、戸井田に村上、犬
養。戸井田が漕ぎ役に違いない。そしてあるいは探険がてら、山に入ろうとする者もい
る。
「しょうがねえな」
 机の上に原稿用紙を広げて何やら書いていた小津は、鉛筆を仕舞うと片膝を立てた。
「不案内なおまえらだけで、山に行かせるのはさすがに心配だ。天気もあんまりよくな
いしな」
 柿原と真瀬と関千夏の一年生三人で、山を探険してみたいと言ったところ、小津はし
ばし唸ってから着いていくと決めた。
「ちょっと準備があるから、待っててくれ」
 コテージから三人を追い出して、ドアをしっかり閉める。着替えを始めたらしかっ
た。
「小津さんて、案外寒がりなのかしら。あんな分厚い靴下、初めて見た」
 待たされる間、関千夏が呟いた。柿原は相手の顔を見上げながら、聞いたばかりの説
明――虫対策云々を彼女にしてあげた。
「なるほどね。私はスプレーを持って来たけれど、それで事足りるのかな」
「長靴があるから、大丈夫でしょう。それよりも、関さんがさっき言った案外っていう
のは?」
「うん? ああ、案外寒がりっていう? 小津さん、あれだけ日焼けしてて、ごつい体
格で、夏なんか常に汗を掻いてるイメージがあるから」
「うーん。今挙げたのは、夏が好きっぽいって要素。夏が好きってことイコール寒さが
苦手にはならないのでは」
「言われてみればそうだけれど。面倒くさいわね、スイリストって」
 関の台詞の途中で、ドアが開いた。と同時に「聞こえてるぞ。誰が常に汗を掻いてる
って?」と言われたが、別に場の空気が悪くなった訳ではない。
「虫にはおまえらも一応、気を付けるように。ちなみに、夏場は蛇が出るからたとえ気
温四十度超えでも、それなりに着込む必要があるんだぜ」
「ははあ。その割に、まだ一匹も怖い虫は見掛けてませんが」
 真瀬が呟いた。これを聞き咎めた様子の小津は、「そうか?」と呟くと、敷石の近く
を見回した。そして不意にしゃがんだかと思うと、何かをつまみ上げ、真瀬や柿原のい
る方へと放る。
「ほら、いたぞ!」
「へ? えっ?」
 何か分からないが、細長い物がこちらに向かって飛んでくるのは分かった。真瀬と柿
原は多少みっともない悲鳴を上げつつも、左右に分かれてやり過ごす。地面にべたっと
落ちたそれを見れば、ムカデのようだった。ゴム製のおもちゃっぽい見た目だが、顔を
近付けて観察すると、本物と知れる。
「あ、危ないじゃないですかっ」
「刺されたらどうするんです?」
 口々に非難を浴びせる後輩らに対し、小津はあきれ顔を露わにした。
「ちゃんと見たか? それ、死んでる」
「ん?」
 再度、ムカデに視線を合わせる。ぴくりとも動いていない。
「干からびてるだろ。何日か前に死んだ奴だな」
「な、なんだー。脅かさないでくださいよ」
「俺が触った時点で、死んでいるか作り物だと気付きたまえ、スイリスト」
 やり込められたところで、出発する。
 山と言っても、本格的な登山では無論ないし、すでにある程度標高のある場所まで来
ているため、ハイキングがてら丘を歩き回るのに近いかもしれない。経路も、登山道と
は呼べないまでも、ちゃんと歩きやすいなだらかな道が自然とできている。
「そこからここまで、見える範囲はだいたいうちの施設の土地だから、不法侵入を気に
する必要はまずないと思うが、一応気を付けてくれ」
「気を付けるって、まさか、侵入したら、鉄砲で撃たれるとか」
 冗談を叩く真瀬へ、先頭を行く小津は肩越しに振り返ると、「鉄砲はないが、電気び
りびりがある。張り巡らしたワイヤーに電気を通すんだ」
「またまた。脅かすのはもうやめてくださいよ」
「いや、まじだから、これ。張ってあるワイヤー全部に電気を通してる訳ではないけれ
どな。獣避けには有効なんだよ」
「獣……」
 クマ?と、一年生の誰ともなしに声が漏れる。
「いいや、野生のクマは九州にはいないとされている。この辺りは、イノシシとかタヌ
キとかだ。まれに、サルも出るらしいんだが、俺はまだ見たことない」
「電気って、どのぐらいの強さなんですか。命に関わるとか」
「知らん。建前上は、人が誤って触れても大丈夫な程度に設定するだろうが、ちょっと
いじれば電圧を上げるくらい、訳ない」
 そこまで言ってから、小津は急に笑い声を立てた。
「まあ、心配するな。こっちの敷地をはみ出したらいきなり電線がある訳じゃなく、緩
衝地帯というか余裕は取ってある。電気に注意っていう看板や黄色いテープも適切に設
けられている」
「な、なんだ。やっぱり脅かしてたんじゃありませんか」
 胸に手を当て動作でほっとしてみせる柿原に、小津はまた表情を引き締めた。
「念のためだよ。他の連中にも言っておいてくれ」
「この調子だと、他にも危ない場所、ありそうですね」
「そのために着いてきたんだ。と言っても、あとはあっちに切り立った崖が、こっちに
底なし沼と言われた池があるくらいか」
 右に左に腕を振って指差しながら、小津が喋る。
「ちょ、ちょっと。崖はまだしも、底なし沼はやばいでしょう」
「子供の頃に言われたもので、実際は底なしでも何でもない。大人なら、はまっても充
分に足が着く深さだ」
 池に小さな子供がむやみやたらと近付かないようにするための方便らしい。
「それと、言うまでもないと思ってたが、一応、言っとく。所々、ウルシが生えてるか
ら、かぶれやすい奴は気を付けろよ」
 皆、長袖長ズボンであるから、不用意に触りでもしない限り、大丈夫だろう。
「あ、木の実やキノコ類を見付けても、素人判断で食うなよ」
 木の実はともかく、キノコをその場で食べる人はなかなかいまい。
「他に何か注意点はなかったかな……」
「まだあるんですか?」
「うむ。俺は慣れてしまって、当たり前に捉えていることが、若い連中には備わってな
い気がしてきた」
 年寄りじみた言い種が、何だかおかしい。思い出したらその都度言う、ということに
なって、やっと山の散策に集中できる。
「男二人は分からんでもないが、関はどうして山に入ろうと思った?」
「ネタ探しです」
 即答する関。彼女の後ろを行く柿原からは、その表情は見えない。柿原の隣にいる真
瀬も当然、同じだろう。
「ネタ?」
「関さんは夏期休暇の終わり頃から、推理小説を物にしようとしてるんですよ」
 真瀬が話すと、小津はまた意外そうに「へえ?」と反応した。
「読む専門だったんじゃなかったっけ?」
「書かないと決めていた訳ではありませんから。春からの活動を通して、より興味が湧
いたし、一年生の内にやっておかないと、時間が取れなくなるんじゃないかなって」
「失礼な質問になるかもしれないけれど、長い文章を書いた経験はあるの?」
「人並みでしょうか。読書感想文や小論文程度ですね。嫌いじゃない方だし。短くまと
めるのに苦労しますけど」
「それなら充分だ。始めた時期は違えど、俺も同じ」
 自身、短編ミステリをいくつも書いている小津は、太鼓判を押した。それから一年の
男子学生二人に尋ねる。
「真瀬は書くんだったよな。柿原は、書くつもりはあるけどまだ書いたことはなくて」
「はい。探偵志望なもので。一人でワトソン役までやるのは、手が回りません」
 本気とも冗談ともつかぬ表情で、柿原ははきはきと答えた。
「ネタを考えて、人に書いてもらうっていうのは、我がミステリ研ではまだないが、そ
ういうのも面白いかもな」
「岡嶋二人的な共作ですね」
 話している内に、頂上に着いてしまった。頂と呼ぶのがはばかれるほど、平らかなス
ペースが広い。原住民が雨乞いの儀式で祈りと踊りを捧げそうな岩場が中央あり、その
周辺に低い木々が生えている。
「ここだけ植生が違う感じ……」
「昔の火山活動の影響なんだろうが、詳しくは知らん」
「コテージの一部が見下ろせますね。何か小さい物を落としたら、一直線で転がってい
きそうだ」
「実際にやっても、届かないけどな。下に辿り着くまでに大きく跳ねて、どこかあらぬ
方向へ飛んで行く。だからといって、試すなよ」
「トリックにするには不確実すぎますね」
 柿原が、関の顔を見ながら言った。
「考えを読まないでよ」
「すみません。当てずっぽうだったんですが」
 一通り見終わると、さっさと下山する。急ぐあまり、関が一度、柿原が二度、足を滑
らせて、ずるずると坂を下った。無論、一メートルも行かない内に止まるので、身体的
には何ともない。ただ、恥ずかしいだけだ。
「柿原、二度もやるのはどじ過ぎ。巻き込まれないようにしないと」
 柿原の前を歩いていた真瀬が、横をすり抜けて後ろに回る。その際、手で木の枝を幾
度か掴んでいた。
「あ」
 前後入れ替わったあと、柿原が声を短く上げる。その目を真瀬に向けた。
「な、何だよ」
「ウルシがあったような」
「え? あ、本当だ……」
 その葉っぱを確認し、次いで左の手の平を見つめる真瀬。
「今までに経験ないけど、出るとしたらどのぐらいで出るもんなんですか」
 先頭の小津に問うた真瀬だが、答をもらうよりも先に、「人を呪わば何とやらだな」
と笑われた。
「いや、柿原のことなら、別に呪っちゃいませんてば。ちょっとからかっただけ」
「そんな不安そうな顔、珍しいな。まあ、安心しろとは言わないが、出るとしたら大体
一日か二日経ってからが多い。結構鬱陶しいぞ」
「あーあ。筋肉痛だけでなく、ウルシもとは」
 真瀬がとぼとぼ歩き出し、柿原を追い抜いて再び前に立った。
「……斧、握れなくなるとか?」
 柿原はふと気が付いて、前方に質問を投げ掛けた。
「程度によるな。薪割り、柿原一人でやる羽目になるかも」
「そんなご無体な」
 へなへなとくずおれてみせる柿原。演技だとばれていないのか、振り返った小津は
「軍手をするように言わなかった俺にも責任あるし、いざとなったら手伝ってやるよ」
と請け負った。

 雲間から太陽の沈み行く様が見える。そんな中、メインハウスに戻ると、五時を十五
分ほど過ぎた頃合いだった。あと約十五分で、夕食の準備に取り掛かる。薪当番の柿原
達は、火を着けるのも手伝わねばならない。
「五時半ジャストに行って、なかなか火が着かなかったら洒落にならんから、早めに行
こうぜ」
 真瀬は洗面所で手をよく洗ってから、柿原に言った。
 柿原が応じようとしたのへ、やり取りを聞いていた関が口を挟む。
「お風呂の方も早めに用意しておいて欲しいんだけれど」
「今から沸かすのって、早すぎない?」
「五右衛門風呂タイプなら、確か、四十分ぐらい掛かるはずよ。サイズにも因るでしょ
うけど。それに、冷めにくいんだって聞いた覚えがあるわ」
「うーん」
 自分達だけでは判断できず、柿原が小津か村上を探し、決めてもらうことに。その
間、真瀬は調理場のかまどに向かう。
 柿原がコテージへと向かう枝道の起点となる位置まで来たとき、ちょうど村上と出く
わした。
「あ、副部長。ちょうどよかった」
 村上奈峰美は、両手に調理器具らしき物を持っていた。暗くなりつつあるので、何な
のかまでは分からない。

――続く




#1097/1112 ●連載    *** コメント #1096 ***
★タイトル (AZA     )  18/01/08  21:09  (480)
百の凶器 2   永山
★内容                                         18/01/30 03:21 修正 第2版
「風呂を今の内から沸かせという意見が出てるんですが、大丈夫でしょうか」
「いいんじゃないの。薪を使うと言っても、案外ハイテクなんだよ、ここのは。薪の火
が途絶えそうになったら、自動的にガスに切り替わるの。女湯と男湯があるから、二つ
ともやっておいて」
「了解しました。運ぶの、少し手伝います」
「ありがと。でも、これくらい平気だよ」
 メインハウスに戻り、村上と別れてから外にあるかまどに回ると、真瀬が犬養麗子と
一緒に、火を着けているところだった。と言っても、かまどの前にしゃがみ込んでいる
のは真瀬のみで、犬養は後ろに立って、覗き込んでいるだけだ。
「格好いいとこ見せてちょうだいよ」
「へいへい」
 節をくりぬいた細竹を両手の指で笛のように支え、火元へ空気を送る真瀬。息が若
干、乱れている。努力の甲斐あって、順調に燃え上がったように見えた。もちろん、そ
れまでの過程を柿原は知らないのだから、今ようやく火が着いた可能性もある。
 そう思って地面を見ると、マッチ棒の燃えかすが、結構な数散らばっていた。風呂焚
きには僕の分を使うべきだなと、柿原はズボンの右脇ポケットからマッチ箱を取り出
し、手に握った。
「お疲れ〜」
 肩に手を当て、労いの言葉を軽い調子で投げ掛ける犬養。真瀬は一旦、両手を地面に
ついてから、改めて起き上がった。同級生の女子に「どういたしまして」と応じた彼
は、柿原が戻ったことにすぐ気付いた。
「いたのか。どうだった?」
「風呂、すぐに沸かしてもいいんだって」
「じゃ、行くか。二箇所に火を着けないといけないんだろ」
「うん。でも、手、大丈夫?」
「今のところは。痒くなる前に、せいぜい頑張るとするさ」
「マッチは擦れたんだね」
 その会話を聞き咎めた犬養が、真瀬の手のことを聞いてきた。
「手、どうかしたの?」
「軍手してるから分からないだろうけど、山道に入ったとき、ウルシに触ってしまっ
た。後々、かぶれるかもしれない」
「……ウルシって二次感染するものなのかしら」
「二次感染?」
「真瀬君が素手で触ったところを、他の人が触っても大丈夫なのかなという意味」
「知らん」
 真瀬は心配してくれることを期待していた訳ではなかろうが、さすがにこの犬養の反
応には、がっくりきたようだ。代わりに柿原が答える。
「僕も知らないけど、真瀬君は戻ってからずっと、軍手をしてるから」
「それなら安心していいわね」
 犬養は素知らぬ体できびすを返し、屋内のキッチンに向かった。真瀬と柿原も、メイ
ンハウスから少し離れた場所にある風呂焚き小屋へ向かう。到着するなり、真瀬が口を
開いた。
「柿原がもし犬養に気があるのなら、やめておけとアドバイスするぞ」
「な? 何でいきなりそういう話になるの」
「違うのか。部活のとき、柿原が仕種から推理を巡らせないのって、犬養か湯沢さんぐ
らいのものだろ。だから、どちらかに気があるのかとてっきり。気があるからこそ、逆
に推理推測を巡らせたくないと」
「……半分、当たってるよ」
「てゆうことは、湯沢さん狙いか」
「まあ、狙ってるって程じゃない。いいなと思ってるだけ。あれこれ推理しないのは、
外れていたときにはこっちが恥ずかしい思いをするし、当たったときは向こうが恥ずか
しがるかもしれないし」
「犬養に関して、何も言わないのは理由があるのかな」
「あの人は、いわゆる令嬢だから、推理しにくい。むしろじっと観察の対象にして、
データを集めるのが吉だよね」
「今後の参考に、か。本気で探偵を目指してんの?」
「目指してるけれども、二足のわらじでもいいかと思ってる。そんなことより、真瀬君
の気がある相手を教えてよ」
「それが公平だってか。しょうがないな……教える前に、推理を言ってみ」
「うーん。推理って程じゃないけれども、関さん?」
「どうしてその名前を挙げたか、理由を述べよ」
「だって、山へ散策に行くって聞いて、自分もって言い出したじゃない。朝から登山、
午後は薪割りで身体に来てるだろうに」
「……おまえはどうして一緒に行こうって思ったんだよ」
「三人一緒なら、何があっても平気だと思って。実際は、小津部長に着いてきてもらっ
たけど。あ、それとも、僕、お邪魔だった?」
 柿原は、マッチ箱を持ったままの手で、自分自身を指差す仕種をした。マッチ棒が中
でかすかに音を立てた。
「そんなことはない。ただまあ……きっかけが何かあればいいなと、淡く期待していた
が、何にもなかったな。どちらかと言えば、恥を掻かされた」
 ウルシの葉を握った手を見つめ、苦笑する真瀬。
「そんなことないよ。僕も関さんも下り坂で滑ったし」
「でも、小津さんに言われたのは、俺だけ」
「それは多分、真瀬君が関さんに気があるって部長も勘付いてるから、からかったんじ
ゃあないかな」
「……」
 顔を赤くした真瀬は、早足になった。

 無事に風呂の焚き付けを成功させ、村上副部長が言うところのハイテクが機能してい
ることも確認できた。真瀬と柿原がメインハウスに帰ってくると、夕食のバーべーキ
ューがちょうど始まるところだった。
「天気がちょいと心配だが、予報通りならどうにか保ちそうだ。てことで、文化祭では
皆、お疲れ様!」
 三年生の橋部がいるので、丁寧語を交えながらの口上を述べる小津。
「また、ここので合宿はこれが最後になる。惜しみながら、三泊四日、存分に満喫する
としよう。では――全員、コップは行き渡ってる? それじゃあ、乾杯!」
 音頭とともに、初日の夕食がスタート。上下関係はゆるめのクラブであるし、下級生
が肉などを焼く係とかお酌をしなければならないなんてことはない。適度に気を遣いつ
つ、自由に箸が進み、コップを空ける。
「思っていたより、ずっと明るいね」
 湯沢の横顔を遠目でもしっかり見ることができた柿原は、隣の真瀬に話し掛けた。
「ああ。電気は自由に使えないと言っても、外灯があるもんな」
 メインハウスの周辺にだけ、外灯が数本立っており、暗くなると自動的に点灯した。
ここまで明かりがあるのなら、夜のトイレ時にも配慮した照明にしてくれたらよかった
のに。そんな風に思うのは、柿原一人だけではあるまい。
「橋部さん、あれ、結局どうするんです?」
 ふと、小津が橋部に尋ねる声が、風に乗って聞こえた。
「うーん、どうしようか。一応、持って来てはみたが、いざ皆の顔を見ていると、どん
引きの恐れもあるなと思えてきた」
 気にはなった柿原だが、真瀬には教えなかった。二人の辺りをはばかるような様子を
垣間見るに、内緒話であるのは間違いない。近寄って直接質問するのは無論のこと、聞
き耳を立てたり詮索したりするのさえ、よくないことのように思えた。もう敢えて聞こ
うとするのはよそう。
 とは言え、柿原は自他共に認めるスイリスト。考えることはやめられない。
(持って来たという言葉から、今回の合宿のために用意した物で、皆にどん引きされる
恐れがあるとはつまり、その持って来た物を僕ら部員に見せる気がなくはない)
 妥当な線を出したところで、邪魔が入った。いや、邪魔だなんて言えない。湯沢と関
の女子二人が、話し掛けてきたのだから。
「便利な物があるのね」
 関が言いながら見つめた先は、柿原の手元。彼は片手の前腕にはめ込むタイプのプ
レートを付けていた。バーベキューなどのとき、一度にたくさんの食べ物をキープでき
る上、隅に丸く穴が空いており、そこに紙コップを入れると安定して置ける。箸をキー
プできる溝があるのも嬉しい。特に食いしん坊という訳ではないが、柿原は重宝してい
る。
「指に填めるタイプは知ってるけれど、こういうのは初めて」
 しげしげと見るのは湯沢。彼女の両手は、コップと皿で塞がっている。
「サイズは男性向きという感じね。普通に私達でも使えそうだけれど」
「使う?」
 柿原が笑み交じりに水を向けると、湯沢は戸惑ったように手を小刻みに振り、「いい
よ、柿原君が持って来たのを取り上げたら、困るでしょ」と少し早口で応じた。
 これに柿原がさらに言葉を返すよりも早く、真瀬が横合いから口を挟んだ。柿原の肩
を叩きながら、
「こいつ、湯沢さんに気があるから、湯沢さんに使って欲しいんだ」
「え」
「ちょっ、ちょっと、真瀬君」
 酒は飲んでいないはず(年齢もある)だが、真瀬のいきなりの発言に、柿原は焦っ
た。思わずプレートが傾いて、肉が落ちそうになる。姿勢を保ってそれをどうにか避け
た柿原の耳元で、真瀬が囁いた。
「次はそっちの番。ばらしてくれていいぜ、俺の気持ち」
「な」
 何を考えてるんだと言いかけたが、柿原は次の瞬間には真瀬の心情を理解した。
(自分で告白する勇気がないものだから、このふざけた雰囲気の中、僕に言わせよう
と。こんなどさくさ紛れに言ったって、本気に受け取られるとは思えないけど、しょう
がないな)
 柿原は、空いている右手の平で、真瀬をぐいと押し離すと、いかにも先程のお礼とい
う演技を意識しながら口を開く。
「そういう真瀬君こそ、関さんのことをいいと言ってたよね」
「おま、それここで言う?」
 柿原の演技はたいしたことないが、真瀬の演技もさほど差はなかった。ただ、明かり
が乏しいおかげで、ごまかせたらしかった。関の様子を横目で窺うと、瞼をぱちくり、
瞳をくりくりさせている。ぽかんと開けた口からは、「はあ?」という声が聞こえてき
そうだ。
「何、いきなり言ってんのよ。最低限、TPOを弁えなさい」
 その反応は、決して嫌がっている訳ではない、と受け取っていいのだろうか。と、関
の発言に湯沢も追随した。
「そうよ。合宿が始まったばかりなのに、冗談でもそんなことを言われたら、意識して
しまって、普通に振る舞えなくなるかもしれないでしょ」
 うーん……。柿原は心中で唸った。いかようにも解釈できる反応だと思った。
「なーに、さっきから騒いでんだ」
 いつの間にやら、小津がすぐ近くに立っていた。軽くアルコールが入っているのが、
匂いで分かる。橋部との会話は終わったらしく、既に遠く離れている。
「そんなに騒いだつもりはないんですが……どこから聞かれてました?」
 柿原が聞くと、小津は真瀬に視線を当てた。
「おまえ達が姑息な方法で、交換殺人ならぬ交換告白をやるところから、ばっちり見て
いた」
「交換て。そうだったの?」
 関が真瀬と柿原に問うが、当事者であり首謀者でもある真瀬はすぐには答えない。
「僕は、否応なしに巻き込まれただけです」
 柿原が潔白もしくは情状酌量を訴えると、真瀬は一瞬、悔しげに顔をしかめた。だ
が、すぐに切り替えたのか、小津を標的にする。
「ひどいですよ小津部長。誰の迷惑にもなってないのに、ばらすなんて」
「すぐばれるような交換トリックを使うのを見ていたら、ばらしたくなった。だいたい
なあ、真瀬のやることは、見え透いてるんだよ。山に散策に入ったときだって、気を引
こうとしていただろう」
「別にそんなつもりは。格好悪いことにならないようにとは思っていたけれども……」
「いや、俺は見てたよ。隙あらば、下りで滑った関さんに手を差し伸べようとしていた
んじゃないか?」
「そりゃあの状況なら、助けようとするもんでしょう」
「下心が透けて見えるというやつさ」
 何だか知らないけれどエスカレートしている、まずいなと柿原は思った。部長、絡み
酒か?
「お二人とも、やめにしましょう。そこまで」
 落ち着いた調子の声で、静かに止めに入ったのは湯沢。
「小津さん、例年にないことを急いでスケジュールを組んで、大変でしたよね。ここへ
着いてからも、やることがいっぱいで。元々は、応募原稿の執筆に当てるつもりだった
んじゃありませんか」
「……まあ、それはこっち来てから暇を見て書けばいいと思ってたから、どうにかな
る」
 柿原と真瀬と関は、湯沢と部長のやり取りを聞いて、あっと声を上げた。三人で顔を
見合わせてから、真瀬が一つ頷き、小津に向き直った。
「すみません、昼間、邪魔をしてしまったんですね」
「……ああ、気付かれちまったか。俺が大人げなかったのは分かってたんだが。ちょっ
と苛ついてて」
 黙って頭を下げる真瀬に、小津は「もう気にするな」と手を振った。
「言ってくれればよかったのに」
 関が小声でこぼしたが、小津の耳には入らなかったようだ。そのまま立ち去ると、戸
井田のいる方に行く。
「湯沢さん、サンクス。助かった」
 小津の後ろ姿から視線を戻した真瀬が、湯沢に礼を述べる。柿原も同じ気持ちだっ
た。

 夕食がお開きとなり、バーベキューの片付けの最中、柿原に個人的ハプニングが起き
た。右手に怪我を負ってしまったのだ。空き瓶を詰め込んだビニール袋を片手で持ち上
げようとした際、まだ熱を持っていた焼き網に手の甲が触れてしまった。火傷をするよ
うな高温ではなかったのだが、思い込みで実際よりも熱く感じた柿原は、びくっとし
て、袋を手放した。それを慌ててまた掴みに行ったところ、勢いあまって袋の中に手を
突っ込んでしまった。運の悪いことに、瓶には割れた物もあった。結果、鋭いガラス片
で右手の平や指を何箇所か切るという憂き目に遭った。
 切った瞬間、柿原は低くうめいただけだったのだが、ガラスの音はかなり響いた。近
くにいた湯沢と沼田がすぐに気付いて、駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「あー、いや〜、ちょっとガラスで切ってしまったみたいで」
 手のひらを隠すように握ろうとしたが、また呻き声が漏れた。意外と深いかもしれな
い。
「明かりのあるところに」
 沼田が外灯の下に引っ張っていく。その間、湯沢はハンカチを取り出すと、「これ、
まだ使ってないから」と言い、傷口を押さえるようにと柿原へ渡した。
「汚れますよ、勿体ない」
「何言ってるの。救急箱か何かあるはずだから、聞いてくる」
 言い置いて、きびすを返す湯沢。普段はどちらかと言えばおっとりしているのに、今
は機敏そのものだ。
 外灯の明かりは充分とは言えなかったが、血がなかなか止まりそうにないくらい深い
傷であるのは見て取れた。
「メインハウスに行って、きちんと処置を受けないとだめね。あそこならライトがある
から。天気が悪かったとは言え、まだ残量は充分あるはず」
 残った沼田が、傷口をざっと観察して言い切った。
「すみません、先輩に手当てさせるなんて」
「いや、私、無理だから。人の傷や血を見たら、気分が悪くなるタイプなの。今も結構
きつい」
「それは……すみません」
 同じ言葉を繰り返した柿原は、じゃあ誰が手当てをしてくれるんだろう、と思った。
自分でやらなければいけないのか。
「――来た来た」
 沼田が面を起こした。そちらを見ると、救急箱を持って走ってくる湯沢の姿が、暗が
りに浮かび上がった。
「湯沢さん、治療を頼むわね。メインハウス、使っていいから」
「あ、はい」
 湯沢は目線を、さっさと行ってしまった沼田から、柿原の右手に移した。
「想像よりもひどそう。痛い? って聞くのも失礼か。動かせる?」
「問題ない。実は、痛みもあんまり感じてない。転んでできた傷と変わりないくらい」
 外の水道で血をざっと洗い流し、湯沢が新たに持って来たきれいな手ぬぐいで、傷口
を押さえる。そのまま、手を引かれるような格好で、メインハウスに入った。カウン
ターの前を通り、いくつかある通路口から左斜め前方を選んで入る。白い蛍光灯がある
部屋だ。最初は、部屋中央の長方形のテーブルを挟んで座った二人だが、思ったよりも
テーブルの幅があった。湯沢が移動し、柿原の右隣に着席する。
 ペットボトルの水を洗面器で受ける形で、再び傷口を洗うと、長さ三センチほどの傷
がはっきり見えた。深さは不明だが、ちょうど真ん中辺りが最も深いようだ。
 湯沢の手際はよかった。消毒を素早く済ませ、適切なサイズに切ったガーゼに大型の
絆創膏を重ねて傷口を覆い、細い治療用のテープで補助的に留める。最後に包帯を使っ
て、柿原の右手全体を保護できるよう、器用に巻いていく。
「これでよし。一丁上がり、よ」
「あ、どうもありがとうございます」
「何でそんな敬語」
 救急箱に使い残しのガーゼやテープ、消毒液にはさみ等を片付けながら、湯沢はおか
しそうに笑った。その笑いを引っ込めて、改めて柿原の右手を取った。
「血は……ああ、早くも少し滲んじゃってる。言うまでもないけれど、なるべく動かさ
ないようにね」
「うん。それよりも、ハンカチ……」
「大丈夫。気にしなくていいから、早く治してよね。合宿の間中、みんなが気にしなく
て済むくらいに」
「はあ」
 テーブルに置いた赤く染まったハンカチが気になって、生返事になってしまう。それ
に気付いたらしい湯沢は少し間を取ってから、閃いたようにこう言った。
「どうしてもハンカチが気になるなら、洗って返して。それでおしまい」
「それなら。うん。了解しました」
「よかった。じゃ、柿原君は休んでいて。安静にしておかないと、傷が塞がらないわ」
 大げさだなあとは思ったが、現状、役に立たない自覚はあるので、素直に従う柿原。
「みんなには私から説明しておくから、コテージに戻ってもいいのよ」
「さすがにそれは無理」
 何かできることはないか考えながら、彼女を送り出した。

 片付けが終わるまで、みんなの飲み干した空き缶を、足を使って平らに潰していた。
大した数ではないが、きれいに潰せるよう慎重にやっていたため、意外と時間も潰せ
た。
「怪我はどんなだ?」
 橋部と村上が顔を見せ、心配してくれた。柿原は、ごくうっすらと赤が浮かんだ包帯
を見せることで、返事とした。
「もしかして、小津さんは怒ってます?」
「どうしてそんな風に思うの」
 村上が、メンコのような形になった空き缶を集めながら、聞き返してくる。
「合宿初日から、怪我でお騒がせしてしまったので……。今も顔を見せてくれないみた
いですし」
「心配無用よ。来ないんじゃなくて、来られないのが正確かもね。ちょっと飲み過ぎた
みたいだったから、後片付けをする内に酔いが回ってきたらしいわ。コテージに引き揚
げちゃったのよ」
「あ、そういうことなら」
 納得した体の柿原だったが、内心では、ふっと別のことが浮かんだ。
(もしかすると、投稿作品を書きに戻ったのかも。ロウソク一本あれば、書けないこと
はないはず)
 この春に入学し、ミステリ研に入った柿原ではあるが、知る限りでは、部長はそんな
に酒に弱くはない。昼間の執筆予定が狂ったので、小さな嘘を吐いて早くコテージに戻
り、執筆時間を取り返そうとしても、責められない。
「じゃあ、完全にお開きなんですね?」
「そうなるわね。だから、柿原君も早くコテージに戻って、ぐっすり休んだ方がいいわ
よ」
「そうします」
「あと、十時になったら、自動的に外灯が消えるから。今ならまだ何もなしで出歩ける
でしょうけれど、それ以降は多分、マッチかロウソクの火がないと危ないから気を付け
るように」
「そうだ、聞こうと思ってたことが。もし雨が降ったら、火は消えますよね。傘、僕は
持って来てないんですが」
「それは……うまくやってとしか言いようがないわね」
 苦笑を交えた返事をもらって、柿原も思わず苦笑いを浮かべた。見上げると、夜でも
重たそうな雲が空いっぱいに浮かんでいることが分かった。

 早寝をした分、早起きできるとは限らないが、翌朝、柿原は六時前に目が覚めた。ベ
ッドからもぞもぞと抜け出て、まずは洗面器を覗き込む。
 昨晩、湯沢から借りたハンカチをきれいにするつもりで、余分な洗面器を一つ、持っ
て来た。手の怪我のせいで、洗ったり絞ったりが多少難しいため、とりあえずお湯にで
も浸けっぱなしにしておこうと、風呂場でお湯を汲みに行った。そして出て来たところ
へ、関千夏が通り掛かり、何をしてるのと問われた。事情は伝わっているはずだけどと
訝しみつつ、訳を伝える柿原。すると、関は手を腰の両サイドに当て、盛大にため息を
吐いた。
「やっぱり。何にも知らないんだから。血液の汚れ落としに、お湯は禁物。熱でタンパ
ク質が凝固して、ますます落ちにくくなる」
「知りませんでした」
「ミステリ読みとして常識かどうか分からないけれども、生活の知恵として知っておい
ていい基本よ、これ」
「お湯がだめだとなると、何がいいんでしょう」
「ここにあるとしたら、酸素系漂白剤。洗い場にあるかも」
 関が口にした商品名を柿原は暗記し、メインハウス内部の簡易キッチンに足を運ん
だ。運よくあったので、それを水に溶いて汚れたハンカチを浸しておくことにしたのだ
った。それが昨晩のこと。
「落ち、てる?」
 措置が比較的早かったせいか、漂白剤は存分に効果を発揮していた。あとはすすいで
おきたい。水を求めて、ハンカチを入れた洗面器を片手に、外に出た。
 ここでようやく、柿原の意識が手の傷に向いた。疼くような痛みはまだ残るし、じん
じんひりひりしている。でも、血は止まっているようだ。染みは広がっていない。
「思ったよりは浅かったかな」
 と、ここで指を開け閉めしようとしたのがまずかった。瞬く間に血が滲み、包帯がじ
んわりと赤くなり始めた。
 無理をして動かすと、すぐに傷口が開く程度の塞がり方のようだ。引きつる感触があ
った。あとで絆創膏を取り替え、包帯を巻き直す必要がありそうだ。が、今はハンカチ
が先である。
 水道のある場所は、トイレの方が近いのだが、そこの水ですすぐのは気が引ける。ど
うせ七時にはメインハウスに集合だし、ゆっくり歩いて行くことにする。ゆっくりと言
っても、短い距離なので、すぐに到着。まだ誰もいないようだ。朝食は、昨晩の残り物
を利したサンドイッチがあるとかで、準備に時間を要さない。だから、起き出すのが集
合時間ぎりぎりになったとしても、大丈夫なのだろう。女性はまた別かもしれないが。
 とにもかくにも、水ですすぎ洗いをやってみて、ハンカチの汚れがほぼ落ちたことを
目で確かめた柿原は、ようやく安堵できた。絞る方法を模索したが、いいアイディアが
浮かばないため、傷まない程度にくるくる振り回してみる。
「おいおい、乾かすのはいいが、回りをよく見てやれよ」
 後ろで小津の声がした。そのボリュームから、距離はそれなりにあると推断できた
が、水滴がどこまで飛ぶかは分からないので、謝りながら振り返る柿原。
「すみませんっ、まさか早起きしている人がいるとは思わなくて」
「いや、掛かってないから。でも、女の顔に飛びでもしたら、折角の努力が水泡に帰し
ていたかもな」
「水だけに、ですか」
 そのつもりはなかったと苦笑を浮かべた小津部長。その顔をよく見ると、どこかしら
元気がない。率直に尋ねてみると、小津からは快活な声で返事があった。
「そう見えるとしたら、見えないようにしないとな。昨日、しょうもないことで後輩を
からかったりして、罰が当たったのかもしれない」
「そんな合理的でないことを小津さんがはっきり言うのって、珍しいですね」
「そうか? 占いやおみくじなんかは、世間並みに気にする質なんだが。それよか、お
まえ、手の具合は?」
「いい感じに治りかけてたみたいなんですが、ちょっと動かしたら、また出血してしま
って」
 柿原は用済みになった洗面器を小脇に抱え直すと、じゃんけんのグーとパーの中間ぐ
らいに握った(あるいは開いた)右手を、小津に見せた。当然、まだ包帯があるので、
直には見えないが。
「その分じゃあ、作業は無理かな。ハンカチは洗えても、薪割りの手伝いはできそう
か。と言うより、やらない方がいいんじゃないのか」
「それはまあ、やるよりはやらないで安静にしてる方がいいんでしょうけど、他にでき
ることも少ないですし、真瀬を手伝います」
「分かった。無理そうだったら、いつでも言えよ」
 そう告げた小津は、メインハウスから離れ、山の方へ向かった。長靴を履いているこ
とからして、周囲を見て回るようだ。昨日の疲れが出ているのだろうか、歩幅を狭くし
てとぼとぼといった歩調だった。

 朝食後、戸井田から天候についての情報があった。乾電池式のラジオで天気予報を聞
いたところ、すでに雨模様は底を打ち、回復に向かっているという。この近辺の山々に
も降ったとのことだが、幸いなことにキャンプ場への直撃は避けられたらしい。
「ついでに、忘れない内に記念写真を撮っておきたいので、このあと、庭に出てもらえ
ますか」
 戸井田は両手でカメラを構えるポーズをしながら言った。丁寧な言葉遣いは、やはり
橋部がいるせいだろう。その証拠に、三年生以上がいない女性陣に対しては、
「メイクをやり直して、よりきれいになりたい人がいれば、多少は猶予を設けるよん」
 と、くだけた、かつ、ふざけた口ぶりで告げた。
 五人いる女性の中で、まともに反応したのは犬養一人。コンパクトミラーを左手で開
いてそのままキープ、右手は髪をかき上げる仕種に。そうして、満足げに頷いた。
「直す必要なんて、全くない」
 冗談なのか本気なのか分かりにくいが、笑いが起こり、場の空気はますます和んだ。
あとを受けて、小津部長が本日のスケジュールをざっと確認していく。ミステリ研究会
らしいイベントとしては、昼食のあと、午後一時からは読書会。夜は、暗がりの中で、
マーダーゲームの一種「百の凶器」をやってみようということになっている。
「読書会は熱が籠もれば延々とやってもいいと思ってる。だから、身体を動かしたい奴
は、午前の内にやっとけよー」
 小津の話に、柿原の横にいる真瀬がぼそっと呟く。
「薪割り係は、否応なしに身体を動かさないとな」
 今日の分を作っておかねばならない。ストック分に昨日作った物を加えれば、今日作
った分は実際には使わない可能性が高いが、念のためだ。
「早めに済ませて、テニスでもしたいな」
 朝礼?が終わり、戸井田の言っていた記念撮影も済んだところで解散となり、自由時
間に。と言ってもしばらくはやるべきことに費やすことになる。真瀬と柿原が薪割りを
するように、バーベキューの網をきれいにしたり、台所や風呂場を掃除したりと、役割
分担通りにこなす。
「テニスって、相手はいるの?」
 柿原が真瀬に聞き返すと、彼はしばしの逡巡の後、「実は」と口を開いた。
「関さんから誘われたので、受けた。終わったら、運動場へ集合」
「僕は遠慮しとくよ。手がこれだし、君の恋路を邪魔したくない」
「それが他にも、橋部先輩や犬養麗子が参加するっていうから、邪魔も何もないんだ
が。橋部先輩はやたらとうまくて、左右どちらでも強烈なサーブが打てるらしい。対戦
相手になると思うと、荷が重い。犬養は昨日、ボートを漕いでみて、意外と力強いとこ
ろを見せたそうだし」
「……どちらにせよ、行かないよ。真瀬君が頑張っている間、僕は湯沢さんといられる
ように努力してみるよ」
 全く宛てはなかったが、テニスに湯沢が行かないのであれば、自分は安静にしておこ
うと柿原は考えた。
「そうか。俺から湯沢さんに何か言ってみようか」
「いいって。ハンカチを返す名目があるから」
 曇天のおかげもあって、ハンカチがからっと乾くのはまだ少し時間を要しそうだが。
 ともかく、柿原の話を聞いて安心したのかどうか、真瀬は一人でテニスに加わること
にしたようだった。
 一日経って少しは慣れたせいか、薪作りは予想より早く終わった。
 柿原は、真瀬が準備をして、いそいそと出て行くのを見送ってから、さてどうするか
なと考えた。
「テニスじゃないなら、ボートの方かな。それとも、山登り? もし山なら、また小津
さんに“出馬”願うことになるから、避けたいな」
 柿原が思考過程を声に出していると、何と、メインハウスの方角から歩いて来る湯沢
の姿が、視界に入った。真瀬のコテージから戻るところだった柿原は、慌て気味に推理
を組み立てた。
(えっと、ここは真瀬君と僕それぞれのコテージへの分岐点で、ここまで来たと言うこ
とは、どちらかに用事があるはず。でも、真瀬君とはすれ違ったはずだから、つまると
ころ、僕に用事があるんだ、湯沢さんは)
 木の枝が邪魔をしていたのか、湯沢が柿原に気付くのは、柿原が湯沢に気付いた時点
よりタイムラグがあった。
「柿原君。薪割りしていたって聞いたけれど、手の怪我は?」
「手伝いだけだから、たいしたことはしてない。でも、ちょっとぶり返したかな」
 右手の平を見せる。赤の勢力範囲が、徐々に広がっている気がする。
「包帯を巻いてから半日経つし、交換しようか」
「……お願いします」
 柿原は湯沢とともに、メインハウスに向けて歩き出した。短い道中、昨日のテニスは
どうだったのと、当たり障りのない話題を振った柿原。湯沢は、橋部の凄さは無論のこ
と、沼田もうまくて、逆を突かれたときにラケットを持ち替える動作が参考になったと
語った。
「今日はしないの、テニス」
「もういいかな。私、どちらかというとインドア派だし、読書会の前に課題図書をちょ
っと読み返したい気持ちがあるし」
「ボートは?」
「そうねえ、いいと思うわ。湖面に浮かんだボートの中で、揺られながら読書するの」
 流れとしては、ここでボートに誘いたいところだが、現状、オールをうまく扱えない
であろう柿原には、その選択肢はなかった。
「包帯、新しくしたら、ボート乗りに行ってみる?」
 湯沢の方から誘ってきた。柿原は嬉しさよりも驚きの方が勝って、すぐには返事がで
きない。加えて、手のことがある。
「でも、漕げないよ、僕」
「私がやるから。昨日、犬養さんができたって聞いたわ。お嬢にできて、私にできない
とは思えない。最悪でも、戻れなくなるなんてさすがにないでしょ」
 両手で小さくガッツポーズを取る湯沢。細腕で非力そうに見えたが、柿原とて大差は
ない。
「それならまあ……」
 女性に漕がせるという点に、引っ掛かりを覚えたものの、この機会を逃すのはばから
しい。行くことに決めた。

 〜 〜 〜

「意外と読みにくかったよね」
「風がでてきたせいかな」
 桟橋まで無事に戻り、地面に足を着いての第一声がこれ。最初はよかったが、昼に近
付くに従って、揺れが強まった。
「寝そべったら、また違ったかも。ハンモックみたいに」
「言ってくれたら、スペース作ったよ」
「言える訳ないでしょっ。ごろごろしてるところ、見られたくない」
 怒った口ぶりで、でもころころ笑う湯沢。柿原は怪我のことをも忘れて、ちょっとし
た幸福感を噛みしめた。実際、ボートでのお喋りは盛り上がったと思う。ほとんどがミ
ステリに関する話題だったとはいえ。
「それにしても、柿原君の指摘は盲点だった。『狼月城の殺人』の第三のトリック」
「おだてられると木に登るよ」
「本心から言ってるの。城の構造上、階段に隠し通路を作ることはできたとしても、向
きが合わないのは確かだと思う。一方で、作者は読者にそれを気付かれないように、巧
みに装飾した表現を使ってる気がする。恐らく、意図的に」
「そこは湯沢さんに言われて、僕も感じた」
 トリックのミスを見付けた段階でストップしていた柿原に対し、湯沢はそこからもう
一歩進めて、作者の技巧――詐術とも言う――を読み取り、味わう姿勢を見せた。
 ボート遊びから戻ると、ちょうど、昼食の準備に取り掛かる時間になった。来たるべ
きイベントに備え、昼は簡単に、レトルト食品を温めて済ませる。それでも火をおこす
必要はあるため、真瀬と柿原の仕事量は昨日とあまり変わりなかった。
 早めの昼食が終わると、読書会までの一時間弱は、また自由だ。各人、コテージに戻
って読書会に備えるのが基本。柿原は真瀬のコテージを訪ね、例の第三の密室トリック
に関する疑問について、改めて説明をした。
 ところが、当の真瀬がどこか上の空だった。それに気付いた柿原は、ぴんと来た。
「ねえ、真瀬君。テニスでいいことあった?」
「う? うん、まあな」
 認めたものの、詳細は語らない真瀬。柿原も野暮はしない。読書会の話も含めて切り
上げる。
「それでは行くとしますか」


――続く




#1098/1112 ●連載    *** コメント #1097 ***
★タイトル (AZA     )  18/01/21  20:37  (500)
百の凶器 3   永山
★内容                                         18/01/28 21:07 修正 第3版
 読書会の会場は、メインハウスの集会所が当てられた。靴を履いたまま、皆で大きな
テーブルを囲み、会議めいたことのできるスペースだ。
 読書会の序盤は、長所の列挙で始まり、穏やかに進んだ。基本的に、物語の進行に沿
って意見を述べる形式を採る。なので、柿原が見付けた第三の密室トリックに関する疑
問は、だいぶあとになる。
「誉めてばかりもつまらん。ここいらで、小さな爆弾を投じるとするか」
 そう切り出したのは、三年の橋部。部長の小津が公平を保つためなのか、普段に比べ
ると発言数が少なく、大人しい。代わって橋部が、盛り上げ役を買って出た形だ。
「この作品に限ったことじゃあないんだが、名探偵は興味のある依頼が来ると、割と無
警戒に、ほいほいと出掛けていくよな。絶海の孤島とか名もないような山奥の集落とか
交通の便が悪そうな豪雪地帯とかへ」
「様式美の一つじゃありませんか」
 村上が軽く手を挙げてから発言した。
「閉鎖状況で事件を起こすためには、まず閉鎖状況そのものを作り出さなければいけな
い。そのための手口はありきたりで使い古された物が多いけれど、現実にある状況なん
ですし」
「ストップ。悪いな、副部長。言いたいポイントはそこじゃあないんだ。名探偵の行動
に問題があると思う。全部が全部とは言わないが、名探偵ってものは探偵能力に優れ
た、有名人だろ? そんな希有な人物が、おいそれと探偵事務所を留守にしていいもの
かね? 難事件の解決を依頼する人々が、殺到するかもしれないのに、名探偵がいない
んじゃあ、困ってしまう」
「それは、連絡が取れるようにしておくことで」
「果たして連絡が取れる状態か? 多くの場合、閉鎖状況と外界との連絡はつかない
か、ついても会話できるぐらいで、事件が起きたから帰ってきてくださいと要請されて
も、名探偵は帰るに帰れないことがほとんどだろうな。なんたって、閉鎖状況なんだか
らさ」
「……確かに」
「要するに、名探偵はいかなる理由で、この依頼を選択し、他の依頼が来る可能性を無
視したのかってこと。拘るのであれば、その辺も描いて欲しいと思う訳よ、俺は」
「たとえば、どんな風に描いてれば満足するんでしょう?」
 戸井田がタイミングよく尋ねた。この辺で橋部自身の解決策を聞いてみたいのは、確
かにある。
「そうさな。まず、依頼者が名探偵の身内とかかつての恋人とか、感情で動いても不思
議じゃない場合だ。論理や理屈とは真逆だが、これこそが名探偵にも人間らしいところ
があると示せる。二つ目は、ま、理想なんだが、きっちりとした根拠があって、数ある
依頼の中からこれを選択したっていう展開だな」
「そこまで分かっていたら、早く行って、事件の発生そのものを食い止めろよ!ってな
りません?」
 村上が聞き返すと、橋部はあっさり認めた。
「だよな。だから、あんまり事細かにやると、おかしくなるか。切迫性・緊急性を比べ
て判断した、というレベルでとどめておくのが、妥当かつ現実的かもしれないな。ここ
で時間を取るのもなんだから、三つ目で最後な。三つ目は、俺のアイディアメモにある
ネタで、いずれ推理小説の形にしたかったんだが、暇がないので、ここで公開するとし
よう。名探偵こそが犯人で、依頼があったことをこれ幸いと、島なり何なりに乗り込
み、殺人を犯すんだ。ポイントは、依頼自体は偶然で、名探偵はいつかあいつを殺して
やろ
うと気長に待つ構えだったという点だな、うん」
 こんな具合にして議論は進んでいき、あっという間に一時間半が経過した。
「三時にはまだ間がありますが、区切りがよいので休憩を入れるとします」
 小津と村上が相談して、そう決めた。三十分間は自由で、三時にコーヒーなど飲み物
と菓子を用意するから戻って来るように、そこからまたぼちぼち始めようということに
なった。

 午後三時になると、スケジュール通り、皆が三々五々、メインハウスに戻って来た。
「まだ来てないのは……小津さんと犬養さんですか」
 お茶の用意をした湯沢が、テーブルを見渡して言った。
「犬養はいつものことよ。ちょっと何かあると、化粧直しをするから、支度が遅い」
 村上はそう応じながら、食堂にいる顔ぶれをざっと見た。
「柿原君、二人を呼んできてくれる?」
「かまいませんけど、犬養さんもですか。色々と支度しているところを、男の僕が呼び
に行くと何だか嫌がられそう」
「大丈夫大丈夫。甘い物には目がないから、早くしないとなくなるとでも言えば飛んで
くる」
 柿原はそれならばと了解し、席を立った。玄関の手前で、壁に掛かる地図に目をや
り、コテージの位置を確かめる。メインハウスからの距離は各コテージで大差ないが、
コテージ同士を横につなぐ道はないため、意外と面倒かもしれない。方角さえ確実に分
かれば、林の中を突っ切ることも不可能ではないだろうが、実行に移すには地図が大雑
把すぎた。
 外に出た柿原は、少し考え、時間が掛かる恐れのある女性の方を先にすると決めた。
犬養に声を掛けておいて、そのあと小津のところへ向かう。この順番の方が、逆の順番
よりも時間の節約になるはずだ、多分。
「犬養さん、そろそろお茶の時間です」
「え、もう準備できたの?」
 ドア越しに元気のよい声が返ってきた。慌てる様が容易に想像できる。
「早くしないと、お菓子がなくなるかもしれませんよ」
「それはないわよ〜。分かったわ。すぐ行くから、君は先に戻って、食べ尽くされない
ように見張っておいて!」
「そうしたいところですが、このあと、小津さんを呼びに行くので」
 中からまた反応があったが聞き流して、柿原は元来た道を戻り、改めて小津のコテー
ジを目指す。呼んでくるように頼まれてから、9番コテージに着くまで、小走りでも十
分強を要した。
 息が少し切れ気味だ。整える時間を取る。最後に深呼吸を一つして、傷に影響が出な
いようドアを軽くノックした。
「小津さん、コーヒーブレイクですよ」
 しばらく待ったが、返事がない。再度、ノックし、耳を凝らしたが、室内からの応答
は聞こえなかった。
「小津さん? 小津部長?」
 三度目はドアを肘で強めに叩き、声のボリュームも上げた。そうして今度は耳に手を
当て、様子を探る。それもなお、反応はなし。
「おかしいな。コテージに戻ると言っていたのに。寝てます?」
 小声で呟き、一歩下がって敷石を降りる柿原。眠っているのなら、もっと大きな音を
立てれば目を覚ますだろうが、あまりしたくない。
 どうしよう……と、無意識の内にノブを持つ手に力を込める。すると、ノブは簡単に
回った。考えてみれば、一軒家ではないのだから、在室中であろうと鍵を掛けるとは限
らない。開いてしまったものは仕方がない。失礼を承知で、柿原は中を覗いた。
「部長、起きていますか……」
 問い掛けに対する返事を期待するのを、柿原はやめた。コテージが無人であること
は、明らかだった。例の厚手の靴下が五本、衣装ケースに仕舞われることなく、ベッド
脇にぽつんと放置されている。
 敷石には靴があるのに、不在とはおかしい。柿原はそこでふと思い当たった。
(小津さんは午前中、長靴を履いていた。外の見回りが終わったあとも、そのまま行動
をしていて、確か、昼ご飯のときも読書会のときも長靴履き。読書会終了後にまた長靴
で作業をするつもりだったのなら、履き替えるのが面倒になっていた可能性はある。つ
まりは、今も長靴でどこかに出ているとしたら。部長として責任感の強い小津さんが、
まだお茶の時間とは言え、遅刻するとは考えづらい。まさか、何らかのアクシデントで
動けなくなっている?)
 そこまで思考が行き着いたものの、どこを探せばいいのか、咄嗟には浮かばなかっ
た。みんなに声を掛けて、一緒に探す方がいい。そう判断して、ドアを閉めた。
 だが、道を引き返す前に、乱れた足跡に気が付いた。非常に分かりにくいが、若干湿
った土と落ち葉の上に、足跡がどうにか見て取れた。模様もはっきりしないが、サイズ
は小津のものと考えておかしくない。それとは別に、比較的整然とした同じ足跡も見付
けたが、こちらには傍らに蝋の滴った痕跡が、ぽつんぽつんと付属している。トイレの
ある方角と9番コテージの間を往復したようだった。多分、昨晩の内に小津はコテージ
を出て、用足しをしたのだろう。
 皆に知らせる前に、乱れた方の足跡を追ってみよう。柿原は急いだ。その追跡行は、
すぐに終わる。キャンプ場にある木々の中でも、特に太くて背の高い木の裏に回ると、
そこに小津がいたのだ。膝を折り、幹に左半身からもたれかかった姿勢の小津は、柿原
が来た方向へ顔を向けていた。苦しみが張り付いた表情だった。ズボンの左ポケットか
らこぼれ落ちたと思しきマッチ箱が半ば開き、マッチ棒が散乱している。助けを呼ぼう
と携帯電話を探ったのだろうか。小津は今回の合宿旅行に、携帯電話を持って来ていな
かったようだが、普段の習慣が出たのかもしれない。左手は空を掴み、右手は何故か右
足に履いた長靴に添えられていた。
 と、このような冷静な観察は、あとになってのこと。リアルタイムには、柿原は息を
飲み、転がるようにして小津のそばへ駆け付けた。後ろに回り、背中をさすってみた
が、表情は微塵も変わらない。その鼻の下に指をかざし、息がないことを知ると、柿原
は急いで立ち上がった。そして立ち上がる勢いのまま、ありったけの声で叫びながら、
メインハウスを目指して走り出す。
「みんな大変だ! 救急車!」

 実際には、救急車を呼べなかった。携帯電話の電波状態が悪く、つながらなかったの
だ。
 同時並行的に小津へ救命措置が施されたが、効果は上がらず、既に事切れていた。
「だめだ……亡くなっている」
 橋部が絞り出すように言った。
 死亡はまず間違いなかったが、それでも病院に運ぼうという意見が出た。救急車を呼
べないなら、自分達の車で送ればいい。
「待て。一応、変死、だよな」
 橋部が他の八人をじっと見回した。反対意見は出ない。死亡原因が分からない上、野
外で亡くなったとなると、変死としか言えない。
「だったら、なるべく動かさない方がいいだろう」
「でも」
 反発したのは、村上副部長。さっきまで脈を取っていたその指を自ら擦り合わせなが
ら、言葉を続ける。
「このまま放置は嫌です。どこか――9番コテージに安置するのはどうでしょうか」
「じゃあ、警察や救急は呼ばないのか」
「そんなことはありません。呼ぶべきです。電波の届く場所まで車で行くか、いっそ、
車で下まで降りて、近くの病院に知らせたっていいかもしれません」
「ふむ。行くのは誰が行く?」
「それは……副部長の私と、第一発見者の柿原君が妥当じゃないでしょうか」
 橋部はこの村上の見解を否定はしなかったが、全く別の角度から光を当てる発言をす
る。
「万々が一を考えて、三人で行くべきだと思う」
「どういう意味です?」
「俺がミステリに毒されているだけもしれないが、犯罪の可能性も考えておくべきじゃ
ないかという意味だよ」
 一瞬、場がしんとする。コンマ数秒後に、ざわつきが一気に広がった。
「小津さんは殺されたと言うんですか、橋部さん?」
「断定はしない。だが、否定もできない。それはみんなも同じじゃないのか?」
「確かにそうですが、しかし」
 二人の会話が、やや感情的な熱を帯びてきた。それを見て取ったのか、湯沢が言葉を
挟んだ。
「それで橋部先輩。三人で行くべきというのは、どんな理由からですか」
「飽くまでも仮の話として聞いて欲しい。殺人が起きたとして、九人の内の二人が別行
動を取る。その二人の内の一人が犯人だったら、次はやり放題じゃないか。ましてや車
に乗ってこの場を離れるのなら、楽に逃げられる」
「橋部さん、やっぱりミステリに毒されていますっ」
 湯沢ではなく、村上が反応した。
「連続殺人を前提にするなんて、どうかしています」
「仮の話と言ったろ。最悪のケースを想定してるんだよ、こっちは」
「連続殺人が起きるほど、険悪なムードがミス研内にあるとでも?」
 より感情的になっている村上を、同学年の沼田が黙って制止に入った。村上は冷静に
戻り、口をつぐんだ。が、村上が間違っているとは言えない。客観的かつ常識的に判断
すれば、橋部の思考の方が特異だと言えよう。村上を除いた二年生、戸井田と沼田が相
談して、方針を提示する。
「とりあえず、小津さんはコテージ9番に運び、安置することで決まりとしましょう。
車は、橋部さんが二人を選んで、行ってもらえますか」
「分かった。その前に、責任者というか代表者を確認しておこう。この合宿旅行は二年
生に代替わりしてからの企画なのだから、小津が亡くなった今、村上さん、君が代表者
になる。そこのところの自覚を持っておいて欲しい」
「分かりました」
 意外とすっきりした顔つきで、素直に受け入れる村上。切り替えが早いようだ。
「そういうことだから、村上さんはこちらに残るべきだろうな。二年と一年から一人ず
つ、男女も一人ずつを選びたいから……戸井田と関さん、いいか?」
 当人からも含め、異存は出なかった。唯一、湯沢が挙手して、「病院へ行くんでした
ら、柿原君を連れて行って、治療をしてもらった方がいいと思うんですが」と提案し
た。
 柿原本人は、部長の死に衝撃を受けて、自分の怪我のことなんて吹き飛んでしまって
いた。思い出してくれた湯沢には感謝だが、この状況下で、治療を受けている余裕があ
るのだろうか。
「警察や救急がここへ急行するってときに、一人だけ病院に残って治療を受けられるも
のなんしょうか」
「治療を受けること自体は問題ないが、あとで変に勘繰られる恐れはあるかもな」
「余計なことを考えないで、一緒に来ればいいわよ」
 関が言った。どうやら時間経過を気にしているようだ。携帯電話のディスプレイに、
しきりに目線を落としている。
 四人目として柿原が乗ることが決まりかけたが、「ちょっと待って」と村上からスト
ップが掛かった。
「残る男手が、真瀬君だけになってしまう。小津さんの体格を考えると、運べないかも
しれない」
「あ、そうか」
 結局、出発に先立って、小津を9番コテージへ運び込むこととなった。遺体とその周
辺の様子を、何枚かの写真に収めてから取り掛かる。怪我人である柿原を除く男、橋部
と戸井田、真瀬の三人でうまく持ち上げ、慎重に移動し、コテージのベッドへ安置する
ことに成功した。
「靴――長靴はそのままでいいのかしら」
 女性で唯一人、コテージ内に入った村上が、ベッド回りを整えたあと、誰ともなしに
聞いた。橋部が判断を下す。
「かまわないだろう。発見されたときの状態に、可能な限り近い方がいい」
「じゃあ、落ちたマッチ箱や入口のところにある靴もそのまま、あと、このコテージの
鍵も部長が身に付けてるはずですが、そのままと言うことで」
「ああ。――そうだ、ここの施錠も頼むよ。金庫に、合鍵があったよな」
 橋部は村上に確認を取る。
「あります。このあとすぐやっておきますから、橋部さんは早く、知らせに行ってくだ
さい」
 こうしてようやく、柿原を加えた四人が出発できることになった。その間際、副部長
の村上から、こう頼まれた。
「発見するまでのことを、なるべく克明に思い出しておいて。事件であってもなくて
も、必要になるはずだから」

 だが、柿原が病院で治療を受けることはなかった。そもそも、車は病院に行くどころ
か、山を出られなかったのだ。
「え、吊り橋が落ちた?」
「いや、多分、落ちてはいない。大量の土砂に埋まっていて、全貌は見えないが、通れ
ないことだけは間違いない。土砂は人為的に崩されたんじゃなく、自然災害のようだ」
 先々日までの大雨で、近隣の山々が大量の水を含み、その内の一つが耐えきれずに土
砂崩れを起こした。運悪く、XW大学ミステリ研が通ってきた吊り橋に土砂が直撃、一
部が埋もれた。詳細は分からないものの、不通となったのは厳然たる事実だ。悪いこと
に、吊り橋のある地点でも電波は不充分でつながらず。ミステリ研の面々は、道・電波
ともに遮断された状況に置かれてしまった。
「向こう側に人が通るのを待ったんだが、誰も来ない。仕方がないから、戸井田のラジ
オでニュースを聞いてみた。入りはよくなかったが、断片的な情報を集めると――消防
などへの連絡はとうに済んでいるものの、下の方でも土砂崩れで道が塞がれた箇所があ
り、復旧までは数日から十数日かかる見込み、だとさ」
「他に、他に道はないのですか」
 犬養が気負い込んで聞いた。答は分かっていても聞かずにはいられない。そんな体
だ。
「ない。強いて言えば、畑を含む人家が隣接してるはずなんだが、どちらの方角に行け
ばいいのか、詳しいことは分からない。分かったとしても、かなり距離があるらしい
し、林の中の獣道みたいなルートを突っ切る形になる。慣れていない俺達では危険だ」
「そんな。ここに私達が閉じ込められていると、外部に知らせないと、大変なことにな
りますわ」
 犬養の語調が、徐々にヒステリック気味になる。それを今度は村上が宥め役に回っ
て、抑える。
「大学側に合宿の届けを出しているから、事故が報じられれば、大学が動くわ。だか
ら、いつまでも知られないなんてことはあり得ない。単なる想像だけど、早ければ今日
中に、遅くても一両日中には」
「それは楽観視が過ぎるかもしれないぞ」
 橋部が異を唱える。村上は黙ったまま、聞く態度を取った。
「連休だってことを頭に入れておかないといけない。職員達も人間だからな。クラブ活
動の届けの内容をいちいち記憶してる訳ないし、日に一度、部活動が無事に行われてい
るかチェックするシステムがあるはずもない」
「それでは、三泊四日の予定が過ぎるまでは、気付いてもらえない可能性もあるという
んですね?」
「むしろ、そっちの方が可能性高いかもな。楽観的な見方を示して期待させておきなが
ら、がっかりさせるより、悪い目が出ることを考えておく方が、精神的にもよかろう」
「そう、ですね。ということだから、犬養さん、もう少し辛抱が必要かもしれないわ」
「……やむを得ませんね」
 そんなやり取りが行われる横では、湯沢が柿原の怪我のことを心配していた。
「治療、行けなくなっちゃったのね。今の具合は?」
「興奮してるせいか、痛みはほぼ感じない。逆に、出血の量は、ちょっとぶり返してき
たかも」
「巻き直そうか?」
「ううん、いいよ。時間そんなに経ってない。しばらくは放って置いて、固まるのを待
つのがよさそうな気がしてきた」
「様子見ね」
 話しているところへ、沼田がノートの切れ端のような紙を持って来た。一枚ずつ、柿
原と湯沢に渡す。
「記憶が鮮明な内に、今日のことを書き出しておこうってなったわ。特に柿原君、あな
たの証言は重要になるかもしれないから、頑張ってよ」
「事件になると決まった訳じゃないんですから」
「たとえ事故や病気でも、その直前までの小津部長の行動を掴んでおくのが肝心なんじ
ゃないの。書く物がなかったら言ってね」
 理解して、柿原も湯沢も、他の部員達も記憶の呼び起こしに努めた。
(橋部先輩に倣って最悪のケースを想定するとしたら、小津さんは誰かに殺され、犯人
は僕らの中にいる場合か)
 柿原は、思い出した事柄を箇条書きにしながら考えていた。
(殺人事件と仮定するなら、誰が犯人たり得るんだろう……? 死因が不明だから、殺
害方法も分からない。でも、小津さんが何かを飲んだり食べたりした形跡は、小津さん
の身体にも、遺体を見付けた周囲やコテージにもなかったよなあ。ぱっと見だけで、じ
っくり調べられた訳じゃないけれども。三時からおやつってタイミングで、その前に何
か食べるとも思えないし。毒物の線は薄いかな? じゃあ何なんだ。刺し傷や絞めた痕
は見当たらなかったし、溺死も違う。服が濡れておらず、着替えさせた痕跡もなかった
から)
 柿原は気になることがふと浮かんだ。近くで筆記している湯沢に尋ねる。
「ねえ、小津さんをコテージに運んだよね。そのあと出発したから詳しくは知らないい
んだけど、鍵は間違いなく掛けた?」
「えっと、村上さんが掛けたはずよ。鍵も村上さんが持ってる。あ、少し違った。小津
さんが使っていた鍵は穿いていたズボンの右ポケットに入っているのを確認後、そのま
まにして、施錠は合鍵でしたんだったわ。村上さんが管理してる合鍵の束で、その合鍵
はメインハウスにボタン入力式の金庫があって、そこに仕舞ってるって」
「それならひとまず安心か」
「え、何の心配をしてるの」
 柿原は、最悪のケースを前提に、もし殺人犯がいるのなら、遺体に何かして証拠をな
くそうとするかもしれない、という考えを伝えた。安心としたものの、先輩を疑うので
あればまるで意味がないのだが。
「鍵だけだと不安だから、ノブや窓に、ウルシの蔦でも巻き付けておこうかしら」
 こんな大変なときだったが、面白い発想だと感じた柿原。秘密裏にそのセッティング
ができるのであれば、案外効果があるかもしれない。
(さて……殺人だとしたら、僕が見付けるまでの過程以上に、午後二時半から三時まで
の間、誰がどう行動していたかが肝心になってくる。たった三十分の間隙を縫って、殺
人を成し遂げる。普通に考えるなら、相当困難なはず。だって、あの休憩は予定になか
ったのだから。犯人は、急な変更に見事に対処して、殺人を成功させたのかもしれな
い)
 想像を巡らせていると、小津の部屋や持ち物を調べたい欲求が起きてきた。事件か否
か不明だし、警察すら来ていない現時点で、それはまずいだろうと自制を掛ける。
(でも……部屋を見るだけなら、いいんじゃないかな? 現場は9番コテージじゃな
く、外なんだ。あとでチャンスがあれば、橋部さんか村上さんに頼んでみよう)

 小津の死亡という緊急事態により、読書会は中断したまま、終了となり、その後のイ
ベントも取りやめになった。
「みんな、さっきは変な言い方をして悪かった」
 明るい内に食事を摂りたいという希望が複数名から出て、メインハウスでの早めの夕
食となった。レトルト食品がメインとなったその席で、橋部が村上ら後輩を前に、頭を
下げた。突然の行為だったので、皆、戸惑っている。戸井田が聞いた。
「ど、どうしたんですか、いきなり」
「ひょっとしたら事件の可能性もあるんじゃないかと言ったのは、救急や警察にすぐ連
絡が付くと思っていたからで、こんな風に閉じ込められると分かっていたら、言わなか
った。疑心を煽る形になったのを詫びたい。本当にすまん」
「誰も思ってませんよ、そんなこと」
 戸井田が即座にフォローを返し、他の者からも「そうですよ」「きっと、事故か病気
ですって」と声が上がる。
「そう言ってくれると救われた心地だよ。村上さんにも謝る」
「私ももう気にしていません。ただ、小津さんについて話をするのでしたら、実際的な
事柄を話しませんか」
「賛成する気はあるが、たとえばどんな?」
「事故か病死をしきりに言っていますが、外から判断すると、事故には思えません。か
といって、小津さんが何か深刻な病気を抱えていたという話も、少なくとも私は聞いた
覚えがないです。誰か、聞いたことのある人は?」
 食堂をぐるりと見渡し、反応を待つ村上。約三十秒が経ったが、誰からも肯定の言葉
は出来なかった。
「見るからに健康で、元気だったもんな」
 ようやく出た発言は戸井田から。嘆息した彼の脳裏には、思い出が蘇っているのかも
しれない。
「運動のできる人で急死するタイプがいると聞いた覚えが……スポーツ心臓とか」
 柿原は、耳で聞いただけのうろ覚えの知識を口にした。全然詳しくないのに敢えて意
見を出したのは、議論を転がせていきたいという意図もあった。
「いや、スポーツ心臓は違うでしょう」
 即座に否定の声を上げたのは村上。
「持久力が求められるスポーツ、たとえばマラソンなんかの選手で、それもレベルの凄
く高い人が、稀になることがあると読んだわ。小津部長は、それには当てはまらない。
そもそも、スポーツ心臓自体は病気じゃないし」
「あの苦しそうな表情は、でも、心臓か呼吸が急に止まったみたいに見えました」
 思い出しながら発言を続ける柿原。ドラマや漫画でそういう絵面を何度となく見た記
憶がある。あの絵が現実に即しているのであれば、小津部長は心停止か窒息で亡くなっ
たことになる。
 そういった見方を柿原はみんなに伝えたが、決定打がない。次に議論に乗ってきたの
は、真瀬。
「仮に他殺だとして。窒息死や心停止に見せ掛ける方法って、薬物ぐらいしか思い浮か
ばない」
「そんな薬物を入手できる?って話になるじゃない」
 沼田が呼応する。
「今の私達には、無理でしょ。そりゃあね、死ぬ気になって盗みでも何でもやるってい
うなら、可能かもしれないけれども。そこまでして、部長を死なせたい動機のある人、
いる? いないよね」
「動機は外からは分からないこともあるから、何とも言えないが、やっとのことで手に
入れた薬物を凶器にするほど覚悟を決めた奴は、傍目からでも多少の緊張感が伝わって
きそうなもんだな」
 橋部が肯定的に言った。他殺ではない方向で結論を出したい気持ちが表れているのか
もしれない。とは言え、楽観的な見方を打ち出したあと、万々が一、第二の犠牲者が出
るようなことにでもなろうものなら、責任を問われる。そういった思いも残っているの
か、橋部は慎重だった。
「寝るときは、コテージの鍵を内側からしっかり掛けとけよ。第三者が敷地内に潜んで
いて、事件を起こした可能性、なきにしもあらずだからな」

 コテージに戻った柿原は、まずハンカチを取り込んだ。出入り口の庇に洗濯ばさみを
使って下げておいたのだが、想定外の事態を前に、完全に忘れていたのだ。日が落ちて
しまったせいか、ハンカチは冷たく、まだ湿っぽさが残っているような気がした。仕方
がないので、もう一度、庇に掛ける。
 それから、ドアの鍵を確かめる。手応えがあった。無意識の内に施錠していたよう
だ。橋部の注意を思い返す。安心してコテージの中に歩を進める。
「外部の人が侵入した可能性は、ほとんどないような」
 ドアを閉めて施錠すると、そうつぶやいた。黙考に入る。
(仮に殺人なら、傷や痕跡の見当たらない殺害方法から推して、恐らく計画的な犯行。
わざわざキャンプ場まで密かにつけてくるだけでもご苦労なことなのに、さらに、こん
な不便な状況下で殺害するなんて。逃げるときも、隣接する田畑には電線が巡らされて
いるから、かなり注意深く逃走する必要があるはず)
 同時に寝床を整える。手の怪我をかばいながらだったので、時間を要した。
(その点、内部犯と仮定すれば、尾行も逃亡も必要はない。ただ、わざわざキャンプ場
で殺す不自然さというのは、変わらないけど、今朝の小津さんは少し調子が悪そうだっ
たから、犯人は今なら殺せると考えたかもしれない)
 だから犯人は非力な女性、とはならない。小津は体格がよく、ミステリ研の中で体力
面でかなう者はいなかったと言っていい。
(それにしても、動機は何なんだろう? 小津さんを殺したいほど恨んだり憎んだりし
ている人がいるとは思えないし、お金の貸し借りがあったとも聞かない。部の方針で対
立していた人なんてのもいない。強いて挙げるとすれば、六月の読書会で戸井田先輩と
意見が食い違って、激しい議論になったこと。それと、新入生歓迎の犯人当てかな)
 六月の読書会で、戸井田は課題図書の機械トリックに関して難を述べた。課題図書を
高く評価していた小津は必死になって反論するも、機械に強く実際的な知識を有する
分、戸井田優勢のまま幕を閉じた。その直後、小津が「専門ばかにはかなわん」と吐き
捨てるように呟いたのが、戸井田には気に入らなかったらしく、少しの間、尾を引いて
いたようだった。学園祭やキャンプに来てからの様子を見た限りでは、とうに仲は修復
したものと思えたが……腹の底で考えていることを他人は窺い知れない。
 新入生歓迎の犯人当てとは、文字通り、新入生歓迎イベントの一つで、新歓コンパの
前に部員自作の犯人当てショートミステリが配布され、期限内に犯人を当てようという
もの。創作は二年生以上で書ける部員が持ち回りするシステムで、今回は沼田の担当だ
った。が、私用でどうしても無理ということになり、急遽代わったのが小津。新入生歓
迎とあって易しめの問題作りを念頭に書くのが習わしであるが、小津は、本人の弁によ
ると急だったせいで匙加減を誤った。ある意味、難しく、また別の意味で易しすぎてし
まった。つまり、小津が用意した筋道を通って答に辿り着くのはかなり難しいが、比較
的簡単に思い付く別解がある、という作品になっていたのだ。
(あの作品のロジックそのものはよかった。ただ、僕ら新入生が、別解でばんばん当て
たから、小津さんが他の先輩方からやいのやいの言われたんだよね。そのあと、お酒の
入った席で、小津さんが冗談交じりか悔し紛れか知らないけど、「今年の新入生は、人
数は多くても、頼りない。ミス研部員なら両方とも当ててくれ」なんて言ったから、一
瞬、空気が悪くなった。でも、村上先輩が取りなしてくれて場は収まったし、一ヶ月ぐ
らい後に、小津さんが短編の傑作を仕上げてきて、みんな参りましたってなって、恨み
っこなしになった)
 どちらもミステリの健全な楽しみ方の範囲に収まっており、殺人に発展するとは全く
思えない。
(他にあるとしたら……前の晩に聞いた、あれかな)
 柿原はあることを思い出していた。橋部と小津が交わしていた会話を。
(何て言ってたっけ。『皆が見たらどん引きする恐れのある物』っていうニュアンスだ
った、確か。秘密めいた会話だったし、ひょっとしたら、動機に関係しているのかもし
れない。部員の誰かに関する秘密とその証拠、とか)
 他に動機が浮かばないだけに、この考えはいい線を行っているのではないかと思えて
きた。
(二人の会話だと、みんなに見せるつもりがなくはない雰囲気だった。ということは、
他人からすれば大した秘密じゃない。けれども、当人にとっては重大な、たとえばとて
も恥ずかしいような事柄なのかな)
 ここまで脳内で想像を膨らませた柿原だったが、やがてかぶりを振った。取っ掛かり
に乏しいため、これでは妄想推理の域を出ない。かといって、直接、橋部に質問するの
も躊躇われた。
(この考えが仮に正解だとしたら、橋部さんから事実を教えてもらった時点で、僕も狙
われる? 一方で、橋部さんも当事者の一人として、小津さんが殺された動機に勘付い
ているかもしれない。動機に纏わる質問をしてきた僕を警戒する可能性、なきにしもあ
らず)
 閉じ込められた現状では、より慎重な判断が求められる。
(橋部さんに質問して、真実を話してもらえる確証が得られるに越したことはないけれ
ども、100パーセントは難しい。少しでも確率を高めるには……僕も小津さんから、
話を部分的に聞かされていたってことにしよう。盗み聞きしていたと話すより、ずっと
印象がいいはず)
 悪くないアイディアに思える。折を見て、橋部に質問をぶつけることに決めた。

 時計を見ると、六時二十分だった。
 朝を迎えた。柿原の内では一日前のわくわく感が嘘のように消えて、暗雲がどんより
と垂れ込めているような心持ちだった。皮肉にも、実際の天候は劇的に回復に向かって
いるようだ。雲こそ浮かんでいるが、青空が期待できる。
「とりあえず、無事に目覚めたことを喜んでおこう」
 独りごちると、柿原はベッドを離れ、コテージの窓から改めて外を窺った。見通せた
光景に、人の気配は微塵もない。物音も自然のものを除けば聞こえなかった。ここを出
た途端に襲われる、などという心配はしなくていいだろう。
(橋部さんに質問するのに、今はまずいかな。朝が強い人じゃなさそうだし、時間もあ
まりない。全員の無事を確かめるのが先か)
 明言された訳ではないが、食事などの生活に密着したスケジュールは予定通りのは
ず。二日目も集合時刻は七時。コテージを出るにはまずまずよいタイミングだった。
 ドアのノブを回したとき、手に痛みが走った。そうだった。小津の死のおかげで、怪
我を忘れていた。右の手のひらを見ると、包帯には赤色が浮かび上がっていた。どうし
ても右手を使ってしまい、治りがここに来て足踏みしている。
(……巻き直してもらおう)
 不意に思い浮かんだ。同時に湯沢の顔も脳内スクリーンに映る。
(いや、別に、彼女にしてもらわなければならないことはないんだけど。ハンカチ返す
の忘れてたから、会わなきゃいけないんだ、うん)
 部屋を横切り、ドアを開けて吊したハンカチを取る。乾き具合にOKの判断を下そう
として、ふっと気が付いた。
「おかしいな」
 独り言から首を傾げる柿原。その目は、ハンカチの端に焦点を当てている。四隅の一
つ、洗濯ばさみで摘まんでいたのとは正反対の角。そこに、赤茶色の染みがあったの
だ。
(昨日の夜は暗くて気付かなかったとして、それにしても変だ。洗い落としたつもりだ
ったのに。触ったときに、僕の血がまた付いた? いや、注意していたからそれはない
……と思うんだけどな)
 染みは小さなもので、血をたっぷり吸った蚊を叩き潰せばこんな感じになるかもしれ
ない。しかし、今の季節、この一帯に蚊はいないと聞いた。
(他の昆虫か小動物の仕業かなあ? うーん)
 釈然としないまま、これでは今日もハンカチを返せないじゃないかと思い当たる。
(こんなことになるんなら、火に当ててでも乾燥させておけばよかった。というか、こ
れ、血だとしたら、もう手遅れじゃない?)
 弱った。漂白剤は確か残っているはずだが、今から洗っても落とせるだろうか。とに
もかくにも、行動を起こそう。できることなら、ハンカチの持ち主に知られない内に、
対処したい。

 そうはうまく行かなかった。
 小津の死で神経が高ぶっている者が多かったのか、皆、起き出していたのだ。せめて
柿原が昨朝と同じぐらい早めに起きていたら、違っていたかもしれないが。
「あれ? ハンカチ、返してくれるんじゃないの?」
 柿原は胸に抱くようにしてハンカチを持ち運んでいたのだが、湯沢にあっさり気付か
れた。立ち止まって、訳を話す。
「――ということで、どうやら僕が不注意で、また汚してしまったみたい」
 そうじゃないと思っているが、そういうことにしておく。湯沢の顔を見ると、苦笑い
を浮かべていた。しょうがないなあという声が聞こえてきそうな表情だ。
「分かった。あとは私がやる」
「え、でも」
「いいから。そもそも、怪我の治りきっていない人に、手洗いさせるのが間違いの元だ
ったのよ」
 ハンカチを取り上げられてしまった。柿原の口が「あ」という形になる。その視線
で、湯沢のどこか無理をしたような笑みを発見した。
(努力して、明るく振る舞っているのかな)
 小津の死が事故であろうと事件であろうと、はしゃげる状況にないのは間違いない
が、沈んでばかりもいられない。自分達も閉じ込められているのだ。見通しが立たない
不安を一時的にでも払拭するには、普段通り・予定通りの行動を取るのがよいのかもし
れない。
「じゃ、じゃあ、お願いします。ハンカチ、ありがとう」
 柿原は礼を言って、さらに深々とお辞儀した。
「どういたしまして。それよりも、手の具合、悪そうなら、また巻き直そうか」
「……うん。でも、食後でいいよ。手を動かすと、どうせまた血が滲むだろうから」
 あとでしてもらうことにして、朝食の準備をできる限り手伝う。と言っても、湯沢で
はなく、真瀬のフォローに回る。今朝は温かい飲み物をと言う話になり、火をおこす必
要があるのだ。

――続く




#1099/1112 ●連載    *** コメント #1098 ***
★タイトル (AZA     )  18/01/25  21:17  (499)
百の凶器 4   永山
★内容                                         18/04/10 19:40 修正 第3版
「マッチ、足りてる?」
 既に火は竈の中で安定して燃えているようだが、真瀬がマッチ棒をよく消費していた
のを思い出し、柿原は聞いてみた。
「何とか足りてる。というか、足りてた」
「つまり、たった今、使い切った?」
「あ、ああ。いや、実はさっき、関さんに分けてもらった」
 言いながら、マッチ箱を開いてみせた真瀬。中には四本のマッチ棒が。
「夜のことを考えたら、心許ないね。僕のも分けようか」
「それなんだが、先輩に言って、一旦、全員のマッチを集めて、改めて平等に割り振っ
てもらえないかと思ってるんだ」
「いいアイディアかも。火起こし係がよりたくさん使うのは目に見えてるんだから」
「コツを掴んだし、あと一日だから、火起こしの心配はあまりしていない。心配なの
は、夜の方」
「……だよね。真瀬君は、事件と思っているのか、いないのか、どっち?」
「事件と思いたくはない。何らかのアクシデントだ、これは」
「確証があってのこと?」
「ないよ、そんなもん。ただ……そう思い込んでいないと、ミステリ好きの悪い癖が鎌
首をもたげそうで」
「悪い癖……クローズドサークルで発生した事件を学生探偵が解決するのを夢見ている
ってことか」
「夢見てる訳ではないけどな。ついつい、殺人だと考えて推理したくなるもんじゃない
か。実際、そんな話をしているのを聞いたぜ」
「誰と誰が話してたの」
「柿原はどう思ってるんだよ」
 柿原が答えようとした矢先、お湯が沸いた。今朝もパン食なので、コーヒーと紅茶を
用意した。天気は快晴。まだ地面の所々に小さな水たまりが残っているが、これらも午
後には干上がるだろう。
 七時過ぎに始まった食事は、暗黙の了解でもあるかのように小津の死には触れず、穏
やかな話題に終始した。が、食べ終わると、空気は一転。小津の死を受けて、どうする
かが話し合われた。
 まず、戸井田の口から、道の復旧がまだであることがラジオ情報として伝えられた。
それを受けて、橋部が話を始める。責任者は村上だと表明した割に仕切りたがるのは、
年長者故か、それとも元来の性格なのか。
「携帯電話もつながらないし、歩いて行ける範囲に人家はない。閉じ込められた訳だ
が、そのこと自体は、さほど心配しなくてもいい。遅くとも明日の夜には、学校の方が
異状に気付く。復旧作業だって進められている。その間、食糧や飲み水は足りるはず
だ。考えねばならないのは、小津部長のこと」
 言葉を一旦切って、橋部はコーヒーの残りを飲み干した。紙コップを握り潰し、近く
にあったゴミ入れに放ってから続ける。
「繰り返しになるが、事件か否かは不明であっても、用心するに越したことはない。状
況を整理しておくべきだと、俺は思う」
「賛成です」
 すかさず言ったのは、戸井田。小さく挙手までしている。前もって第三者のいない場
で、橋部から方針への協調・協力を要請されていたのかもしれない。
「やることもないから、基本的には賛成ですけど」
 続いて沼田。ただ、戸井田とは違って、彼女なりに何か思うところがあるらしく、意
見を付加する。
「状況を整理っていうのは、どこまでの範囲を? 犯人が特定できそうなら、してしま
う?」
「無論だ。これが事件であり、犯人が特定できたなら、その人物を拘束する必要も生じ
るだろうな。沼田さん、君は反対か?」
「……いえ。方針が明確であるなら、問題ありません。従います」
「結構だね。さて――村上さんは反対かな」
 橋部は、まだ何も言わない、それどころか何ら反応を示していなかった副部長に水を
向けた。村上の返答は早かった。
「ええ。無事に下山してからにすべきです。それでも遅くはありません」
「遅くないと言い切れるか? 犯罪だとしたら、捜査に少しでも早く取り掛かるのがよ
いに決まっている。時間の経過とともに、証拠が失われる恐れがあるのだから」
「それは理解していますが」
「仮に、連続殺人が起きていたら、村上さんは同じ立場を取るのかい? みんな殺され
ていくけど、犯人探しはせずに、家に帰れるまで待ちましょうって」
「……今、起きているのは連続殺人ではありませんし、殺人かどうかさえ、はっきりし
ていません。いえ、仰りたいことは分かります。小津部長の死が連続殺人の発端かもし
れないと」
「そうそう。分かっているのなら、君の明確な意見を聞きたい」
「どうすれば最善なのか、判断が付きかねているというのが正直な気持ちです。力を注
ぐのなら、犯人探しよりも、外部との連絡手段を探る方にすべきではないかという思い
がある、とだけお伝えしておきます」
「分かった。連絡手段や帰る方法も考えることとしよう。同時並行的に行えば、異論は
ないと解釈するが、いいね」
「致し方ありません」
 村上が不承々々ながら折れると、橋部は一年生に顔を向けた。「意見を聞こう」と言
われたが、この流れ、この雰囲気にあって、今さら異を唱えるのはなかなか難しい。状
況はできあがったと言える。
「あの、一つだけ」
 湯沢が、おずおずと挙手しつつ、しかしはっきりした声で発言を求めた。
「何だ?」
「犯人が分かったとして、追い詰めるようなことはしませんよね? もしかしたら、自
棄を起こされて、もっと大変な事態になってしまうかもしれませんし」
「犯人の出方次第ではあるが、なるべく穏やかに対処する。約束しよう」
「それでしたら」
 居住まいを正し、納得が行った様子の湯沢。一年生から他に異論が出ることはなかっ
た。
「では状況の整理に移る。と言っても、延々と犯人探しの議論をするつもりはない。今
は飽くまでも状況の整理だ。差し当たって、小津が亡くなる直前の、皆の行動を掴んで
おこう」
「昨日の午後二時半から三時にかけてのアリバイを申告する、ということですか」
 村上が言った。場の流れに積極的賛成ではなくても、頭の回転は速い。橋部が呼応す
る。
「そうなるな。言い出しっぺが口火を切るのが筋だろうから、まず俺から話す。読書会
の小休止が決まったあと、自分のコテージに一人で戻り、課題図書に関する簡単なメモ
を取っていた。読書会を盛り上げるために、他に何かないかと思ってな。その間、コ
テージに誰か来たってことはなかった。メインハウスに戻った時間は、正確には覚えち
ゃいないが、割とぎりぎりだったと記憶してる。要は、二時半から三時まで、一人でい
たので、アリバイ証人はいないってことだ」
「じゃあ、次は僕から」
 引き続いて、戸井田が話し始める。コンタクトレンズを普段使っている彼だが、今朝
は面倒になったのか、眼鏡を掛けていた。
「今回、記録係のつもりで動いているので、あのときもしばらくはメインハウスに残っ
て、写真をパシャパシャやっていたのは、何人かが見ていると思うし、写真のデータに
もある。それより前に、読書会での録音をその場でざっとチェックした。掛かった時間
が合わせて二十分ぐらい。もうコテージに戻る余裕はないと思ったから、そのままメイ
ンハウスにいて、残っていた一年生数名に、キャンプ場の感想を聞いていた。確か、真
瀬と柿原と湯沢さんに」
 確認を求める風な視線を寄越してきたので、柿原達は頷いた。一拍おいて、柿原が付
け足す。
「あ、ただ、少なくとも僕自身は、残っていたんじゃありません。お湯、沸かすのに人
手がいると思って村上さんに聞いたら、魔法瓶に保管した分で間に合わせるとのことだ
ったので、一旦、自分のコテージに戻ってます」
「俺もぶらぶらしてました」
 真瀬も追随した。残る湯沢は、「私は三時のお茶の準備を手伝っていたので、メイン
ハウスにずっといたことになるのかな」と答えた。いずれも、詳しいアリバイ申し立て
は順番が回ってきてからとして、次は村上が口を開く。
「私は、湯沢さんが言ったように、二人でお茶とお菓子の用意をして過ごしていたわ。
三十分ずっと掛かり切りだった訳ではないけれども、早く入れると冷めてしまうから、
タイミングを計っていたの。湯沢さんとお喋りをして時間を潰していた」
「途中で、戸井田が加わった?」
 橋部が質問を入れた。
「それは、彼女自身の口から」
 湯沢の座る席を手で示す村上。湯沢は一度腰を浮かして、座り直した。
「順番、私が次でも?」
「全然かまわない」
「それでは……今、村上副部長が証言された通り、二時三十分からお茶とお菓子の準備
を手伝いました。ほぼ、三十分間ずっと一緒にいたと言っていいと思います。三時十分
前ぐらいに戸井田さんが来られて、初めて来たキャンプ場やコテージの使い心地を尋ね
られました。五分足らずで終わったと記憶しています。三時直前にお茶を入れましたか
ら」
「なるほど。間違いない?」
 橋部は村上と戸井田に順に視線を合わせ、肯定の仕種を引き出した。
「次は、二年生最後ということで、沼田さん」
「最初、お茶の準備を手伝うつもりだっただけれど、人手は足りてそうだったから、副
部長に断りを入れてからコテージに戻ったのよね。何かしたいって訳じゃなかったの
で、ぼーっとしてただけなんだけど。あっ、靴紐が変に固結びになって、手を焼いたっ
け。今回、山歩きをするって聞いてたから、普段履かないような丈夫なスニーカーにし
たんだけれど。それで、紐を解いていたら、春にやった実験を急に思い出して」
 春にやった実験とは、今の一年生部員が入る前の合宿で行われた実験で、素になった
作品名をもじって、「他履くの紐」と名付けられた。テレビドラマ刑事コロンボシリー
ズの一作「自縛の紐」のネタばらしになるが、“人は他人の靴紐を結んでやるとき、自
分の靴紐を結ぶときとは逆の結び方になるのかどうか”の調査を目的としたもの。対象
者がそれと知ってやると実験にならないため、レクリエーションゲームの中に他人及び
自身の靴紐を結ぶシチュエーションを組み込んで行われた。発案者は小津で、彼とその
当時の部長を除いた全部員十三名を対象に行われた実験の結果は、逆になった者が十
名、同じになった者が三名という結果になった。ちなみに同じになった三名は揃って、
靴紐のある靴を滅多に履かない女性部員だった。
「思い出して、ぼんやり過ごしてた。あのとき、ふっと思ったのよね。小津君にどうし
てあんな実験を思い付いたのか、聞いてみようかなって。聞きに行っていれば、彼、死
ななくて済んだかもしれない」
 沼田は、少し涙声になっていた。小津と特別に親しかった訳ではないが、やはりきつ
いものがあるのだろう。
「気持ちは分かる。けど、今は冷静に事実を話してほしいんだ。他に、付け足すべきこ
とはないか? アリバイを証明できるような」
 橋部の促す口ぶりは、感情を抑えた、淡々としたものだった。
「充分なものはないです。メインハウスに向かう途中、関さんと合流したけれども、ほ
とんど着く直前だったし」
「そうか。それじゃ、次は関さん」
 指名を受け、関が少し考えるように斜め上を見やって、じきに始めた。
「昨日、メモ書きしようとしたときもそうだったんですけど、ショックのせいか、記憶
が曖昧で……ただ、真瀬君と途中で会って、少し話をしたのは覚えています。午前中に
遊んだこととか、他愛ない話でしたけど」
「会ったのはいつ、どこで」
「あれは」
 関の目が真瀬をちらと一瞥した。真瀬からは特段、反応や発言はなかった。
「十四時四十五分頃だったと思います。場所は、私のいる2番コテージの近く」
 関の証言に、真瀬から異論はない。軽く頷いたようだ。
「十分近く話して、そろそろ三時になるからって、メインハウスに向かって、そこで沼
田先輩や柿原君とも一緒になったところへ、戸井田先輩が来た。三人とも感想を尋ねら
れたけれども、三時が来ちゃったんで、私は答える暇がなかったんです」
 徐々に記憶が鮮明になったのか、断定調になった関。橋部が少し考えてから、尋ね
る。
「ふむ。気になる点がなくはないが、とりあえず、四十五分よりも前は?」
「読書会が休憩に入ったあとは、確か、2番コテージに向かって歩き出して……直行し
たんじゃなく、辺りを散歩していたと思います、ええ。読書会の頭脳労働で結構疲労感
があったので、頭をリフレッシュさせたくて」
「証人はなし? 分かった。念のため聞くが、沼田さんの証言だと、彼女は関さん一人
と合流したみたいに聞こえたんだが、関さんの証言だと君は先に真瀬と合流し、そのあ
と沼田さんや柿原と合流したように聞こえた。この辺は?」
 橋部は関と沼田、真瀬を順に見た。関がすかさず答える。
「あ、それは、私が離れて歩いていたからだと」
「自分もいいですか」
 関の語尾に被せるようにして、真瀬が発言を求めた。橋部は黙って首肯した。
「正直に言いますと、自分は関さんに会いに2番コテージに向かいました。途中で会え
て話ができたんで、それで満足して、元来た道を引き返したんですけど、あんまり近い
距離にいたら関さんに迷惑かなと思って、距離を取ったんです。俺がわざとゆっくり行
く感じで」
「なるほど。整合性は取れたようだ。ついでに、真瀬のアリバイ申告も聞こう。二時四
十五分よりも前は、どこで何をしていた?」
「さっきも言いましたように、ぶらぶらしてたのが嘘偽りのないところなんですが。関
さんより先にメインハウスを出てしまったから、待ち伏せする訳にも行かないし。誰
か、俺のこと、目撃してませんかね?」
 誰からも声は上がらなかった。真瀬は肩をすくめ、ややオーバーにため息を吐いた。
「もっと目立つようにぶらぶらしておけばよかった」
「どの辺にいたかぐらい、思い出せないか?」
「一旦、柿原のコテージに行って、時間を潰そうかとも考えたんですが、やっぱりやめ
て、風呂場や物置小屋の辺りをぐるっと回って、それから、2、3、4、5番コテージ
に通じる分かれ道の付近を、うろうろ」
 真瀬の証言はこれで終わり、続いて柿原に順番が回ってきた。
「僕は……先程少し触れたことですが、火の手伝いをするつもりが必要なくなったの
で、ゆっくりめにメインハウスを離れました。真瀬君の背中が見えたので追い掛けても
よかったんですが、急いでる様子が感じられたので、あきらめました」
「関さんが先に出たと思って、慌ててたんだ」
 横合いからそう弁解した真瀬は、悪いと片手で拝む格好をした。気にするなという意
味で、同じポーズを返した柿原は、自らの話に戻る。
「少し迷って、自分のコテージに行くことにしました。干したハンカチが気になったか
らなんですが、急いでもしょうがないのでゆっくり歩いて。それでも二時四十分までに
は着いたかと。ハンカチはまだ湿り気を感じたのでそのままにして、コテージに入っ
て、ちょっとだけ書き物をしていました。ノートPC、折角持って来たのに使わないの
も馬鹿馬鹿しいと思って。十分ほどしてコテージを出て、メインハウスに向かいまし
た。途中で真瀬君と合流して、あ、関さんや沼田先輩も少し先にいました。あとは、メ
インハウスに着いて、僕も戸井田先輩から感想を聞かれたので、思っていたよりも寒く
ない、暑いくらいですと答えた覚えがあります」
「確かに言ってた」
 戸井田がメモなどを見ることなしに、即応した。
「分かった。残っているのは、犬養さんだな。どうぞ」
「私は、皆さんご存知の通り、ほとんどずっとコテージにいました。柿原君が呼びに来
てくれたのは何時? 三時を回ってた? それはごめんなさい」
「一応聞くが、何をしていたんだ?」
「決まっています、身だしなみのチェックです」
 言いながら、両腕を前に伸ばし、左右の指を広げてみせる。今は自粛しているようだ
が、普段はマニキュアを塗っていることが多い。
「だろうな」
 橋部は僅かに苦笑を浮かべた。次に、出そろった申し立てのメモ書きをざっと見て、
顎に片手をやりながらぽつりぽつりと語り出した。
「こうして見ると……ほぼ確実なアリバイありと言えそうなのは、副部長と湯沢さん
か。あと、戸井田は写真のデータによって、アリバイ成立する可能性が高い。犬養さん
が微妙なところで、化粧直しを含めた身支度に、どれほど時間を要するものなのか、見
当が付かない」
「私のアリバイは不成立でかまいません。水掛け論になるだけで、無駄ですわ」
「待って」
 当人が不成立でいいと言っているにもかかわらず、村上が助け船を出した。
「犬養さん、あなた、私に『コテージに戻ります』と言って、メインハウスを出て行っ
たよね」
「読書会の休憩のときですか? ええ、確かそんなことを言ったと思いますが」
 犬養の方は、何を言われるのだろうと訝しむ気持ちを隠そうとしていない。村上は橋
部に向き直った。
「もし仮に犬養さんが犯人だとしたら、いつ呼びに来るか分からないのに、1番コテー
ジに戻りますと宣言して行くのは、何のメリットもない。何人かが言ったように、その
辺りを散歩してみますとでも言って、出て行けばいいのに、そうしなかったのは、彼女
が真実、自分のコテージに戻った証」
「なるほどな。しかし、戻ったふりをする、あるいは戻ってすぐに出て9番に向かうこ
とは、想定可能だろ」
「1番のコテージから小津部長の9番コテージまで、十分以上掛かるはず。しかも三時
過ぎには、犬養さんは1番コテージにいたことが、柿原君の証言で確定しています。往
復で二十分は掛かる上に、犯行時間を加えると、身支度の時間はほぼゼロになるでしょ
う。でも実際にはあのとき、犬養さんはきれいに化粧をして戻って来た。汗一つかいて
いない状態で」
「……そうだったな。遅刻だというのに、しずしずと歩いてきたのを覚えてるよ。とい
うことは、犬養さんもアリバイ成立と見なせそうだな。異議のある者は?」
 橋部が場を見渡す。誰も異論を唱えることはなかった。このあと、戸井田の撮影した
写真の検討も行われ、彼についてもアリバイ成立が認められた。
「俺も含めて、五人はアリバイが不充分。他に今、確かめておきたいのは、小津部長自
身の行動なんだが、誰か、昨日の午後二時半以降、小津を目撃したって人はいるか?」
 またも声は上がらなかった。たとえ目撃していても、下手に発言することで犯人扱い
される、という懸念が脳裏をよぎった可能性はあるが。
「言い方を変えてみようか。二時半に、ここを出て行く小津を見掛けた人はいるだろ?
 どっちの方に行ったか、分からないかな」
 これには数名が反応を示した。ただし、大して役に立つ証言ではなく、コテージのあ
る方へのんびり歩き出す小津の後ろ姿を見た、という程度だった。
「写真にも、部長は写ってませんねえ」
 戸井田がチェックした上で、そう補足した。
「分かった。よし、以上で終わりだ。みんなの協力に感謝する。ありがとう。このあと
の予定だが、正午までは基本的に自由としようと思う。食事はまたレトルトで。ただ、
正午より前になるかあとか分からないが、折を見て、橋の様子を見に行きたい。復旧作
業の人が来ているのなら、俺達の存在と現状とを伝えることもできるしな。それで、運
転は俺がするとしても、他は前回と違うメンバーの方がいいだろうから、三人ほど決め
てくれないかな」
 その場で決まった三人は、沼田、犬養、そして真瀬となった。

 午前中、やることを探していた柿原は、予備の薪作りを真瀬に提案した。
「心に掛かった蜘蛛の巣みたいなもやもや、あるでしょ? そいつを払う意味も込め
て、もう少しだけ薪割りをどうかなって」
「妙なたとえをしなくても、もやっとしてるさ。くさくさしてるっていうか。身体を動
かすなら、スポーツでもいいんだが、斧を振るう方がすかっとするかもしれん」
 真瀬は案外あっさりと乗ってきた。お目当ての関が、今は女子同士で固まっているた
め、彼自身は暇だったというのも大きいに違いない。
「そうこなくちゃ。あ、その前に。自分が怪我したせいですっかり忘れてたんだけど、
真瀬君、ウルシはどうなったのさ?」
「ウルシ? ああ、自分でも忘れかけてた」
 物置小屋に向かい掛けた真瀬は、苦笑いを満面に広げた。
「多少、痛痒い感じはあるんだ。でも、たいしたことない」
「よかった。斧を振るうのに支障はないね」
「……柿原は、俺を疑ってないの? 斧を持たせるのをよしとしてる」
「疑ってないとは言わない。全員を疑っているとも言えるし、疑ってないとも言える。
現時点では、全てフラット。事件か否かすら、決まってないんだし。小津部長の死因が
判明すれば、また違ってくるかもしれないね」
「さすがスイリストと言うべきかな。理屈だな」
 会話を切り上げ、物置に向けて出発した二人。道中、「忘れていたと言えば、マッチ
棒の再分配」と柿原が話を振る。真瀬の方は忘れていた訳ではないと断ってから、提案
した。
「マッチは、昼飯のときにでも言うとしよう。それまでは、柿原の分も使えば、充分に
保つだろ」
「うん、いいよ」
 それから物置に辿り着いた薪割り当番の二人は、ほぼ同時に足をぴたっと止めた。壁
に掛かる斧の一つに、異変が生じていた。柄の部分に赤い染みができている。
「これ」
 真瀬は指差しただけで最後まで言わない。柿原も単語を飲み込んでいたが、かぶりを
振って、声に出した。
「血、だよね。昨日まではなかった」
「また何か起きたってか?」
「でも、今朝は九人全員が揃っていたし、血が出るような怪我を負った人も、僕以外に
はいない」
「じゃあ……ありそうにない話だが、朝飯から今までに、誰かが襲われたとか?」
「うーん。この染み、結構乾いてるような」
 壁に掛かったままの斧に顔を近付け、目を凝らす柿原。赤い染みは、長径三センチほ
どの楕円形をなしていた。
「やっぱりそうだ。だいぶ時間が経っているよ」
「……らしいな。それに、染みと言っても大して染み込んじゃいない、かすれている。
表面を擦った風に見える」
「切られた側に激しい出血はなかった。あるいは、これを握った人が手に小さな怪我を
していたか。僕が言うのもおかしいけど」
 思考の途中で、第三者の声が邪魔に入った。振り返ると、走ってくる村上の姿があっ
た。
「何をしてるの? 薪割りをしてくれると小耳に挟んだから、様子を見に来たのだけれ
ど」
 深呼吸をし、眼鏡の位置を直しながら言っていた彼女は、不意に口をつぐむ。斧の染
みに気付いたようだ。
「何、その赤いのは。血だったら、勘弁してよね」
 現実を認めたくない気持ちの表れか、珍しく軽口を叩く村上。そこへ柿原が考えを述
べる。
「人の血液だとしたら、新たな怪我人がいるかを調べる前に、確かめておきたいことが
あります。怪我をしている僕が言うのも変かもしれませんが、僕は斧を握っていないの
で」
「怪我の他に何があるって言うんだ」
「小津さんを調べておきたいんだ」
 柿原が死者の名を挙げると、尋ねた真瀬だけでなく、村上もぎょっとしたように目を
見開き、息を飲んだ。
「生き返ったとでも言うの? それこそ悪い冗談はやめてほしいわ」
「いえ。この斧を使って、小津さんの遺体に新たに傷を付けた可能性です。先に調べて
おこうよ」
「小津さんの身体に傷……って、何のために」
「それは分からないけれども。例えば、小津さんが殺されたんだとして、犯人は憎しみ
が強烈なあまり、死んだあともなお、傷付けてやりたくなったとか」
「君のその発想が怖いわ」
 村上はそう言いながらも、さっと風を切って踵を返した。怖がってみせながらも、行
動に移すのが早いのは普段通りのようだ。
「あ、待って。この斧をどうにかしなくちゃいけません」
「どうにかって」
「証拠品だろうから、できれば保管しときたい。万が一、ここを離れた隙に持ち去られ
でもしたら厄介です。だから、ここには二人以上が残って、なおかつ、メインハウスに
戻る人は戸井田さんからカメラを借りてくる。携帯電話より、ちゃんとしたカメラの方
がいいでしょう」
 柿原の提案に、村上は一瞬考えるための間を取ったようだったが、すぐさま口を開い
た。
「いっそ、みんなをここに呼んでくるのはどう? 状況を全員に説明したあと、どうす
るか決める」
「それで行きましょう」
 村上が呼びに行くことになった。彼女の後ろ姿を見送りつつ、真瀬が柿原に尋ねる。
「証拠品はどう扱うべきなんだろうな」
「どう、とは?」
「後の捜査のために、遺体を動かすのはよくないと思いつつ、安置するために小屋に移
したじゃないか。この斧は、無闇に動かしていいのか」
「分からないけど、このまま放置していても、犯人が遺した痕跡は劣化するばかりだろ
うから、写真撮影した上で、きちんと保管する方がましなんじゃないかな」
「そうなると、丈夫な袋がほしいが、この小屋にあるのは見たところ、肥料の入ってい
たビニール袋か、古臭い布袋ぐらいだぜ」
「メインハウスに何かあるんじゃない?」
 村上副部長の走って行った方向に首を振る柿原。その意見に、真瀬は特に答えること
なく、別の話を始めた。
「他の斧も血が見当たらないだけで、凶器に使われた可能性、あると思うか?」
「さあ……。凶器だとしたら、どうなるのさ」
「凶器だとしたら、もう斧は使えないだろ。となると、薪割りができない。蓄え分で足
りるのかね」
「仮定に仮定を重ねた質問には、答えようがないよ。でもまあ、非常時用に卓上コンロ
があるらしいし、平気でしょ。コンロまで使い切るぐらい長引くなんて、まずないよ、
多分」
 希望的観測を述べる柿原。実際、土砂崩れからの道路復旧にどの程度の日数を要する
のか、見当が付かない。通常の道路より、橋の方が難物な気はする。
 やがて九人全員が物置小屋前に揃った。真瀬が状況を手早く説明し、さらに柿原の提
案に関しても言及した。
「血の着いた斧というのは不気味だが」
 橋部が顎を撫でながら言い、斧のある壁から皆の方へと向き直った。
「不幸中の幸いと言っていいのか、柿原がガラスで手のひらを切って以降、誰も怪我を
していない。斧で襲われた奴もいないようだ」
 そして柿原に改めて顔を向けた。
「柿原の意見は、それにしても突飛だな。ユニークな着眼点であることは認めるが、考
えてもみろ。小津を安置したコテージには、鍵を掛けてんだぞ。しかも、鍵を預かって
いるのは俺と村上副部長だ」
「今も掛かってるとは限りません」
「壊されているかもしれない、か」
 顎から手を離し、腕組みをする橋部。黙り込んで検討を始めそうなところへ、村上が
口を挟む。
「案ずるより何とやら、よ。早く見に行きましょ」

 結局、斧を保管するのは後回しになった。九人の内、五人が残って見張ることにし、
四人――橋部、村上、柿原、真瀬――が小津のコテージに向かう。途中、母屋に寄っ
て、村上が金庫に入れておいたコテージのスペアキーの所在を確認した。金庫はロック
されており、中に鍵はあった。
「橋部先輩は、肌身離さず持っているんですよね」
「ああ。自分の分と合わせて持っているから、絶対確実だ」
「もし、小津君の遺体に異状があったら、そちらの鍵が使われたことになりそうですけ
れども」
「決め付けるのは早い。通気のため、窓は開けておいたんじゃなかったか。格子は外か
らでも割と簡単に外せると聞くぞ」
 十一月の頭とあって日々、涼しくはなっているが、遺体を安置するとなると、風通し
をよくしておく必要がある。氷があれば、周りに置きたかったところだ。
「ともかく、急ぎましょう」
 9番コテージ前に到着した。一つしかないドアの施錠具合を確かめるのは、橋部。
「掛かっている」
 ノブを回そうとしたが、抵抗があったようだ。念のため、他の三人もノブを握り、ド
アをがたがた言わせて、鍵が掛かっていることを確認した。
「柿原の勘が当たっているとしたら、中にまだ人がいるか、窓を破ったことになるな」
「――そうだ、ドアを開ける前に、窓に見張りを付けましょう。念には念を入れて」
「想像を逞しくしすぎだと、俺は思うがね。斧の赤いやつだって、血とは限らないんじ
ゃないか。血だとしても、蚊を握りつぶしただけかもしれない」
「今の時季、この辺に蚊はいないわ。それに、薪割りの二人が斧に血を付けた覚えがな
いと言ってることを、重要視してください。他の人が握ったのなら、それは何のためな
のか」
 村上の指摘に、橋部は肩をすくめた。
「分かったよ。言う通りにしてやるよ。ただし、勘が外れていた場合、柿原に疑いが向
くぞ」
「かまいません。仮に、自分の推理通りの状況が明らかになったとしても、血を出すよ
うな怪我を負ってる僕が少なからず疑われるのは変わりないと思いますから」
 柿原はとうに肝を据えていた。実際、この時点では柿原自身も、自分の思い付きに確
たる根拠はなく、最初にチェックしておくべき事柄ぐらいにしか考えていなかった。
 橋部と村上が、コテージに複数ある窓を外から見張れる位置に立った。ドアは、鍵を
もらった柿原が、真瀬の見ている前で開けることになった。この程度の作業なら、手の
傷の影響は皆無だ。ただ、傷口が開く恐れはあったけれども、
「万が一、犯人が飛び出してきたら、俺が捕まえてやる。安心して開けろよ」
 真瀬の冗談とも本気ともつかぬ言葉を背中で聞きながら、柿原は鍵を鍵穴に挿した。
ノブの中央に鍵穴がある、ごく簡易なタイプのロックである。鍵を回すと、解錠される
手応えと音があった。
「じゃ、開けるよ」
 返事を待たずに、ドアを引く。恐る恐る、首から上を中に入れて、覗き込んだ。特に
臭ってくることもなく、また、人の気配もしない。薄暗いが、見通しが利かないほどで
はない。少し目を慣らせていると、やがて浮かび上がったのは、ベッドに横たえられた
小津翔馬の遺体。昨日、安置したときと位置は変わっていないようだ。
 しかし。
「あ、あれ、あれを見て!」
 室内から上半身を戻し、振り返る。そんな柿原の声にただごとでない空気を感じ取っ
たか、真瀬は即座に距離を縮めた。
「どうした?」
「とにかく、見て」
 三和土代わりの平らな敷石を降り、場所を譲った。石の上に立った真瀬は、左手でド
アをキープし、右手を外壁について、室内に頭を入れた。
「……なるほど。足首が、右の足先が、ない?」
 それだけ言って黙りこくった真瀬。やがて後退し、口元を片手で覆った。くぐもった
声で「吐きそう」と呟くも、表にある流し場に直行するようなことはなかった。
 柿原にしても、吐き気を催すほどではないが、コテージ内に足を踏み入れることを躊
躇っていた。とりあえず、先輩二人を呼び戻すべき。
「橋部さん! 村上さん! 異状が見付かったんで、来てください!」
 声を張り上げると、じきに二人がやって来た。
「何があった? 柿原と真瀬のやり取りがぼそぼそ聞こえただけで、さっぱり分から
ん」
 そう言う橋部と村上に、柿原はコテージの戸口を指差しつつ、見てもらった。
「これは……」
 橋部が息を飲む様子が、背中を見ているだけで分かった。続いて村上も状況を把握。
彼女の方は、相変わらず次への行動が早い。
「全員に知らせた?」
「いえ、まだです。そんな余裕は、ない――」
「じゃあ、事実を伝えて、目で確認したいという人にだけ見てもらいましょう。今はひ
とまず、鍵を掛けるのよ」
「あ、はい、そうですね」
 柿原は施錠すると、鍵を橋部に返した。施錠の確認は橋部と村上が行った。
「足首がどこなのか、探さなくてもいいのかな」
「それは後回しだ」
 柿原の呟きを橋部が拾って、断を下す。
「念のため、ここには俺と柿原と真瀬が残ろう。村上さんが皆に事情を伝えてくれ。距
離は短いが、くれぐれも気を付けて」
 村上は無言で頷き、ダッシュで物置小屋に向かう。不安げな視線で彼女を見送りつ
つ、真瀬が疑問を呈する。
「注意喚起するくらいなら、誰か一人、一緒に行けばよかったんじゃ」
「そいつが犯人だったらまずいだろ。この場に二人だけというのも、同じだ」
 後輩の疑問を切って捨てると、橋部は「それよりも気になることがある」と続けた。
「さっき、外から窓を見張ってるとき、気が付いたんだが」
 と、当人が見張っていた窓の前まで、後輩二人を連れてゆっくり移動する。その窓
は、白みがかった銀の格子が外側から付けられており、中のガラス戸二枚は通気のため
の隙間を残し、一応、閉じられている。カーテンが引かれているため、コテージ内は見
通せなかった。
「確かカーテンは開け放しておいた記憶があるんだが、覚えていないか?」
「開けていました。と言っても、僕が見たのは安置の直後だけでしたが」
 ドアを開けた瞬間、薄暗く感じたのはそのせいだったのかもしれない等と納得しつ
つ、柿原が即答。真瀬もこれを肯定した。橋部は難しい顔をして頷いた。
「だよな。なのに今、こうして閉められてるってことは、誰かが中に入って、カーテン
を閉めた可能性が高い。中での行為を、窓ガラス越しに目撃されないために」
 橋部はそこで言葉を句切ると、格子をよく見るように言った
「さっき危惧したように、何者かが格子を表から外し、事後、また戻したのかもしれな
い。どう思う?」
「ドライバー一本あれば、外せそうですね。ネジの頭に傷が付いているみたいだし」
 真瀬がざっと観察してから言った。柿原が彼に倣って、格子を観察しようとした。膝
を折って頭の位置を低くし、下から覗き込む。
「うん、ネジをいじったような形跡があるね。橋部さん、ここにドライバーってあるん
ですか」
「使った覚えはないなあ。でも、ドライバーなら、車に積んであるし、戸井田も持って
来ているはず」
「なるほど。あとでチェックすべきでしょうね」
「チェックしてもいいが、ドライバーに拘る必要はあるか? こんなネジ、どうしても
外したいんだったら、ナイフやコインを使ってでも回してみせるだろう。きちんとし
た」
「ああ、それもそうか……。ドライバーを黙って持ち出すリスクを取るくらいなら、コ
インかな。あっ、ついでになりますが、このキャンプ場に刃物はどのくらいあるんでし
ょう?」
「備え付けの奴っていう意味でなら、斧以外にはない。しかし、今回、持って来た分が
ある。洋包丁が二丁と、安全包丁というのか、プラスティック製の小振りの刃物が一つ
あったな」
「保管はどんな具合ですか」
「二年生に聞かないと分からないな。女性陣に任せきりじゃないか?」
「もし、刃物を自由に取り出せるのが女性に限られるのであれば、小津さんの足にあん
な酷いことをしたのは、男性という判断をすべきでしょうか」

――続く




#1100/1112 ●連載    *** コメント #1099 ***
★タイトル (AZA     )  18/01/31  21:25  (492)
百の凶器 5   永山
★内容                                         18/04/10 19:43 修正 第3版
「――いや、そいつは勇み足だ。足首切断をするには、包丁よりも斧と考えるのは、誰
でも同じだろう」
「ですよね……」
「凶器から絞り込むのは難しいんじゃないか。単なる直感だが、足首がどこにあるかが
重要な気がする」
 この見方に、いち早く反応したのは真瀬。ぎょっとしつつも、まさかという苦笑を浮
かべて、「犯人が足首をまだ持っていると考えてるんですか」と尋ねる。橋部は首を横
に振った。
「隠し持っているのなら、そいつが犯人てことになるだろうが、さすがにそれはあるま
い。逆に考えれば、どこかに遺棄するか、隠しているかしたに違いない。その発見が、
真相に行き着く近道な気がするんだ」
「先を急ぐのは、ちょっと待ってください」
 柿原が口を挟んだ。
「有耶無耶になっていましたが、小津さんの死を殺人であると見なすのでしょうか」
「ああ、そうなる。どんなに控え目に見積もっても、犯罪事件であることは確定した。
事故死や病死なら、足首を持ち去るなんて所業、誰がするってんだ」
「でしたら、外界との連絡が取れない現状で、僕達は最善を尽くすべきですよね。遺体
損壊の現場となった9番コテージを調べて、記録を取るべきだと思うんです」
 ここぞとばかりに力説する柿原。橋部は案外、簡単に理解を示した。
「ふむ……無闇にいじるのは感心しないが……時間が経過することで、失われる証拠が
ないとは言い切れないのも事実だな」
「じゃあ」
「しかし、独断では動けないし、おまえだけが調べるというのも通らない話だ。コテー
ジ内の調査は行うとして、方法は皆で考えようじゃないか」
「分かりました」
 その後、新たな展開が皆に伝えられてからが大変だった。小津の死が事件であるとほ
ぼ確定したことで、空気が重苦しいものになった。気分が悪くなったと訴える者も出
て、特に犬養は聞いたその場でへたり込んでしまうほどショックを受けたようだった。
それでも時間をおかずに回復し、9番コテージまで足を運んだのは、ミステリ研の部員
としての意地がなせる業か。
 とにもかくにも、真っ先に検証されたのは、ドライバーの在処だった。格子を外すの
はドライバーがなくても可能かもしれないが、夜の暗がりで効率よくネジを外し、また
取り付けるとなると、ドライバーは絶対にいるだろうという結論になったのだ。自然と
メンバーの目は戸井田に向けられる。
「それでしたらプラマイとも持って来てますが、車を漁らなくても、メインハウスのど
こかに置いてあるのを見た覚えが」
「誰もが気付きやすくて、かつ、誰でも持ち出せる状況だったか?」
 橋部の強い調子の質問重ねに、戸井田はたじろいだように、半歩さがった。
「え、ええ。多分、そう言えると思いますよ。ほら、ホワイトボードの縁に載せてあっ
たの、見ていませんか」
「ホワイトボードって、集会場所のか。はっきり覚えてないが、あったような気がす
る。すぐに確認しよう」
 と、ここでみんなの顔を見ていく橋部。そして胸ポケットに手を当てた。どうしたん
です?と声が上がった。
「いや、鍵を預かっていた俺、あるいは村上さんがドライバーの在処を見に行くのは、
どうなんだろうと思ってな。鍵を使える立場にいるならドライバーは必要ない、だから
犯人ではない、とはならんだろう?」
「それはそうですが」
 他の者達は一様に戸惑っているように見受けられた。そんな中、柿原が口を開く。
「だからといって、鍵を使えない立場の僕らが、ドライバーの所在を確かめに行くのも
変だってことですよね。ここは恒例になっている、複数名で確認するしかないんじゃあ
りませんか」
「だな。じゃ、村上さんと戸井田と……一年からは関さんで頼むとしよう」
 三人が確認して戻って来るまで、五分あまりで済んだ。三人が三人とも、多少息を弾
ませながら、口々にドライバーが消えていたことを伝えてくれた。
「消えた? てことは、犯人はドライバーをまだ持っている?」
「いいえ、別のところにありました。床に落ちてたんです。壁際に転がった感じでし
た」
 そう発言した戸井田は、デジタルカメラの画面を橋部に見せた。そのあと、待ってい
た六人にも見せていく。赤い柄のドライバーが、ホワイトボードの向こう側の壁際に沿
うようにしてあった。
(これだけで判断するのは乱暴だけども、使った人間がドライバーを戻そうとして、縁
に置き損ね、ドライバーは落下。壁のところまで転がったという印象を受ける。置き損
なったり、拾ったりしなかったのは、暗かったから、急いでいたからと推理するのが妥
当だよね。明るくなって以降は、戻すチャンスもなかったと)
 柿原が頭の中で考えていると、それと同じ趣旨のことを橋部が発言し、皆も賛成の意
を示した。
「よし。9番コテージを出入りするのに、ドライバーを用いて格子を外す方法が採られ
たことは、かなりの高確率で言えそうだ。と、鍵を持っている俺が言うと説得力が薄れ
るかもしれんが、ドライバーにさえ気付けば鍵の有無とは関係なく、誰にでも可能だっ
たんだから、その辺りを誤解しないように頼む」
 橋部は咳払いをし、話を次に進めた。
「さて……小津の遺体の状況を実際に見て確認するかどうかは、個人の意思に任せる。
見たくない者は、見なくてかまわない。あと、このコテージの中をよく見ておこう、調
べようという意見が出てるんだが、俺も賛成だ。異論のある者は?」
 誰からも反対意見は出なかった。全体としてはどちらかと言えば、調べたい欲求の方
が強いような雰囲気が漂う。
「では、方法だが、軍手着用は当然だな。仮に九人全員が調べるとして、三人一組で同
じ箇所を見て回るのがいいと思う」
「それは、現場の証拠品に細工をされないようにするためですか」
 村上が尋ねた。
「そういうことだ。もちろん、一度に九人が入ると動きづらいし、三人一組なら、見落
としも少なくなるだろうという理由もある」
「部分的に参加することは認められます? たとえば、遺体は見られないけれど、他の
箇所は見ておきたいという風な」
「認めてもいいんじゃないか」
 結局、全員が調べる意向を示したので、三人ずつの組み分けが行われた。男だけ及び
女だけのグループを作ること、仲がよくなりつつある柿原と湯沢ならびに真瀬と関を別
グループにすること、不調の犬養は村上と組ませること等の条件で絞り込み、(橋部・
戸井田・真瀬)(沼田・柿原・関)(村上・湯沢・犬養)という振り分けに落ち着く。
調べる順番もこの通りで、気付いたことをあとで報告し合う場を設ける、それまでは互
いのグループ間で話さないものとした。時間をあまりだらだらと掛ける余裕はないの
で、一グループにつき二十分を目安と決めた。その時間とは別に、9番コテージ内を写
真に収める時間が、五分ほど取られた。無論、戸井田一人が入って撮影するのではな
く、橋部と真瀬が見守る中、シャッターを切る。
 こうして橋部らの組が調べている間、残りのメンバーは斧の保管をしたり、体調不良
や怪我への対処をしたり、あるいは野外に何らかの痕跡はないか探すなどした。
「蝋が意外と落ちていない」
 村上に包帯を交換してもらったあと、六人で9番コテージ周辺を見て回ったのだが、
柿原は地面に蝋のしずくが少ないことに気付いた。
「どういうこと?」
 関が聞いた。柿原は、調査が行われているコテージの方を気にしつつ、答えた。ちょ
うど、ドアのある壁が見える。四足の靴――調査に当たる三人プラス小津の靴――が並
べてあるのが分かった。
「犯人が行動を起こしたのは夜だと思うんだけど、そうなると当然、明かりが必要にな
るよね。なのに、少ない。今確認できるものだって、ほとんど全部、小津さんがロウソ
クを使ったときのものじゃないかと。汚れ具合から言って」
「犯人が少しでも知恵が回る奴なら、ロウソクは使わないでしょうね」
 村上が意見を述べる。
「下手をすると、自分のコテージと9番とを往復したことが、地面に点々と落ちた涙蝋
で明々白々になってしまうわ」
「じゃあ、犯人は明るい内に行動を起こしたってこと?」
 沼田が半信半疑と言わんばかりの口ぶりで聞く。最前のドライバーの一件もあるた
め、辻褄が合わないと感じたのだろう。反応をしたのは柿原。
「いえ、小津さんが亡くなって以降は、夜を除いて、密かに単独行動を取れる時間帯は
なかったですよ。あってもせいぜい五分。こんな短時間で、人の足首を切断するのは難
しい、いや、無理でしょう」
「そうね。じゃあ、ケータイのライトを使った?」
 今度は関がアイディを出していく。
「充電できない状況下で、それはないと思う。まず間違いなくバッテリー残量はゼロに
なりますよ。突出してバッテリーの消費が激しかったら、怪しまれる。とはいえ、あと
で実際に確認すべきですね」
 村上に目を向ける柿原。意を受けたか、副部長は「ならば早速、ここにいる六人の携
帯電話を確認しましょう」と音頭を取った。すぐさま、めいめいが自身の携帯電話を取
り出し、バッテリーのメーターを見せ合う。みんな程度の差こそあれ、残量ゼロやそれ
に近いものはいなかった。閉じ込められているのだから、いざというときに備えて温存
したくなるのが道理である。
「携帯電話使用説は一旦、横に置くとして、他に考えられるのは、懐中電灯を思い浮か
べるだろうけれど」
 携帯電話を仕舞いながら、村上が言った。調べる間にも別の可能性を探っていたらし
い。
「前に来たとき、電池が切れていたから、今回、小津部長が乾電池を買って来ていたは
ずなの。新品未開封の乾電池が彼の持ち物の中から見付かれば、懐中電灯は使われなか
った、使えなかったことになる」
「そもそも、メインハウスのどこに懐中電灯は置いてあるんですか? 一年生の僕らは
それすら知らないので」
 それならすぐに確かめましょうと、村上は柿原を連れてメインハウスに急ぎ足で向か
う。およそ三分後、到着するや、出入り口近くの柱を指し示した副部長。
「そこの箱の中よ。蓋付きだけど、自由に開けられるから、手に取ってみて」
「じゃあ、念のため、指紋に注意して」
 テーブルに放り出してあったタオルを掴むと、それで右手をくるんだ柿原。開ける前
にその黄色い縦長の箱を観察したが、特記するような事柄は見付からなかった。小さな
つまみに、タオル越しに指先を引っ掛け、開ける。赤い胴体をした、普通サイズの懐中
電灯があった。
「外すと灯る仕組みのはずなんだけど、どうかしら」
「――あ、だめですね」
 持った瞬間に分かった。軽い。乾電池そのものが入っていない。村上に伝えると、
「前の電池は気付いたときに外して捨てたから、そのままってことになるわね」との説
明があった。もう一本、部屋の反対側に備え付けられた懐中電灯も、全く同じ状態で使
い物にはならず。
「使われていないみたいだけど、一応、荷物も調べないといけない。電池を一旦入れ、
また出した可能性を考えて」
「はい。僕らのグループが先にコテージに入りますけど、先に調べておいていいです
か」
「当然よ。早い方がいいわ。尤も、橋部先輩の組の誰かが気付いているかも」
 そのあと、念には念を入れて、懐中電灯に血などの付着物の有無をチェック。異常な
しと認められた。
 二人が9番コテージ前まで引き返すと、ちょうど橋部ら三人が調べ終えて出て来ると
ころだった。
「何が怪しくて何が怪しくないか、判断が難しいもんだな。気になるものは全部メモを
取ったよ」
 若干疲れたように苦笑を浮かべ、橋部が言った。左手に三枚のメモ用紙がある。各自
が書いたということらしい。
「次は沼田さん達だな。やむを得ず位置が動いてしまった物はあるが、なるべく戻して
おいた。君らも同じように頼む」
 沼田が些か緊張の面持ちで頷く。が、そのまま交代する前に、村上が近寄ってきて、
調査を終えた橋部達に、携帯電話のバッテリー残量を見せてくれるよう、意義を説明し
てからお願いした。
「ああ、そりゃそうだ。もっと早くに、俺が気付いてやっておくべきだったのに」
 橋部は即座に応じると、ポケットの多い服を着ていた戸井田がやや手間取ってから続
き、最後に靴を履くのが最後になっていた真瀬が取り出した。彼らのバッテリー残量
も、他の六人と大差なかった。犯人は夜の行動を起こすのに、携帯端末の明かりを利用
しなかったと考えられた。
「それでは改めて、頼むぞ」
 沼田が先頭に立ち、柿原、関と続いた。
 幸いと言っていいのかどうか、コテージ内に臭気が籠もるようなことにはなっていな
かった。三人はまず、遺体に意識を向けた。ベッドに横たえられた小津は、身体にタオ
ルケット、顔には白い手ぬぐいが掛けられている。
「この状態に変化はないよね」
 関が柿原に聞いた。安置の際にコテージ内に入って立ち会ったのは、この三人の中で
は柿原のみだからだ。
「ええ、変化なしです」
 一日近くが経過しようという現時点で、死因を特定し得る知識は持ち合わせていない
し、遺体の外見は昨日の内に見た。今の柿原が見たいのは、変化の生じた足である。
「あまり見たくないかもしれませんが、足の傷を」
「見ても、大した情報が得られるとは思えないけれど。せいぜい、凶器は斧である可能
性大とか、犯人は斧の使い方が上手いか下手かぐらいじゃない」
 沼田の言葉に柿原は同意を示しつつも、小津の足を両方ともよく見た。まずは右足。
足首から先がないように見えたのだが、近付いてしっかりと見たところ、脛の中程と膝
のちょうど間辺りで切られていると分かった。切断面から推測するに、斧が使われたの
は確実。傷口はきれいとは言い難かったが、それでも三度ほどで切断に成功したと見て
取れた。死後の切断だからだろう、出血はほとんどない。とは言え、触れれば血が付着
することも容易に想像できた。次に左足を目を向ける。当然、足も長靴も残っている。
「……長靴?」
 呟いた柿原に、女性二人の目が集まる。
「長靴がどうかした?」
「足の切断の位置が、ちょうど長靴と同じなんだなと。つまり、長靴を破壊せずに、足
を切断したことになります」
 柿原が指摘した通り、右足の切断された位置を線にして横に延ばすと、左足の長靴の
縁を僅かに越えた辺りを通る。
「それって、犯人は長靴を持ち去りたかったってことになるのかしら。でも長靴だけ持
ち去ったら意図がばればれになるから、いかにも足首を切断したかったかのように装っ
た……」
 関が考え考え、言葉を絞り出した。対する柿原は、「さあ、分かりません」とだけ答
える。そして沼田に顔を向けた。意見を求められたと感じたか、沼田は小首を傾げるよ
うな仕種から、これも思案げに口を開いた。
「判断に迷うわね。最初から足首目当てでも、運びやすさを考慮して、長靴ごと持って
行こうと考えたかもしれない。あるいは、長靴越しに足首を切断するのは難しいと考え
たのかもしれない」
「今はメモを取るだけで、結論は出さなくてもいいじゃないですか。時間制限がありま
すし、先を急ぎましょう」
 柿原の建設的意見に二人も同意し、コテージ内の調査・観察に集中する。続いて向か
ったのは、小津の持ち物だ。バッグを調べ、乾電池の有無を確かめに掛かる。使用済み
の例の分厚い靴下一組が出て来たときはやや辟易したが、くじけずに探る。するとサイ
ドのポケットから、単一電池の二個ワンセットが見付かった。パッケージされた状態
で、手付かずなのは明白だった。間接的に、懐中電灯は使用されなかったと断定してい
いだろう――そう結論づけようとした柿原だったが、踏み止まった。
(カセットコンロがあると言ってたっけ。あれに使われている乾電池が単一なら、懐中
電灯にも使える。あとで調べなきゃ)
 メモ用紙の端っこに走り書きをした。
 電池と使用済み靴下を元に戻すと、次は連想して衣類が気になった。最初にこのコ
テージの惨状を発見したとき、何かが心に引っ掛かったのだが、ぼんやりとして引っ掛
かりの正体をまだ掴めない。
「部室での整理整頓は、割と頻繁に口を酸っぱくして言ってたのに、自分のスペースと
なると、案外だらしなかったんだ」
 沼田がそんな感想を漏らした。関も同調し、「ですね。この靴下なんて、一本はどこ
かに行ってしまってるし」と、なんとはなしに寂しげに言った。
「靴下……あ、そうか」
 柿原の再びの呟きに、今度は何?とばかりに、沼田と関が振り向いた。
「この厚手の靴下を、小津さんは四足持って来たと言っていました。今ここにあるの
は、五本です」
「ええ。だから整理整頓がなってないと言って――」
「すみません、そうじゃなくてですね、数が合わないと思うんです。バッグにある使用
済みの一組を除くと三足、つまり六本。小津さんはここで長靴を履くとき、常に厚手の
靴下を穿いたみたいです。死んだときも靴下を穿いていたはず。だから残りは四本。と
ころがここに五本ある。何故なんでしょう?」
「……興味深い疑問ではあるけれども、まず、小津部長の左足を調べて、厚手の靴下を
実際にしているかどうか、調べる必要があると思う」
 沼田の意見に、一年生二人は賛成した。
 遺体の足を調べる役目は、普通なら男の柿原がやるところかもしれない。が、手に怪
我を負って包帯を巻いているため、柿原は軍手をしていない。そんな彼が触れると、血
が付くどころか、証拠を汚染しかねない。なるべく避けたい行為だ。そんな観点から、
関が自ら申し出て引き受けることになった。
「紐、解きますよ?」
 くだんの長靴は、紐がしっかり結わえてある状態が見て取れた。本人から見て輪っか
は右にできている。
「待って。一応、写真を。戸井田君が撮り忘れるとか、撮っていてもアップじゃないか
もしれないから」
 沼田が言い、自らの携帯電話を素早く操作し、シャッターを二度切った。柿原ととも
に出来映えを確認し、関にOKを出す。
 関は軍手の裾を改めて引っ張り、指を動かしてウォーミングアップした後、紐を解い
た。次いで、長靴を外しに掛かる。
(……もしや、左足首も失われていて、長靴は被せてあるだけだったりして。長靴の上
から触っただけでは分からぬよう、木や草を詰め込んでおけば……)
 不意に妙な思い付きが浮かんだ柿原。そんな馬鹿なことはあるまいと、かぶりを振っ
た。
 その間に遺体から長靴は脱がされた。足はあった。
「――靴下、履いてますね。厚手のやつだと思います」
 関の声は若干、震えているようだ。長靴を持ったまま、足の辺りを見下ろしていた。
さすがにそれ以上触るのはもちろんのこと、顔を近付けて観察するのも無理らしい。代
わって柿原が顔を近付けた。
「間違いありません。持って来ていた厚手の靴下の一つです」
「ということは……どういうことに?」
 沼田はしきりに考えている様子だったが、これでは先程と同じパターンにはまること
になる。残り時間を有効に使いましょうと、柿原が促した。
 このあと、窓のクレッセント錠やドアの鍵をざっと見るも、異状は認められず。柿原
としては、橋部と小津の会話で交わされた「あれ」が気に掛かるので、荷物をもっと調
べたかったが、よくよく考えると、「あれ」を持っているのは橋部であると思われる。
ここで小津の荷物をひっくり返しても、「あれ」は出て来そうにない。
「普通の靴下の本数も数えておいた方がいいんじゃない? 時間、厳しいですか?」
 関が突然言い出した。沼田は時間を確かめつつ、返事する。
「どこに何があるか分からないし、柿原君、君も普通の靴下が元は何足あったかなんて
ことまでは、把握してないんでしょ?」
「さすがにそこまでは」
 厚手の靴下の数が分かったのだって、たまたまである。
「あとの話し合いで必要となったら、みんなで調べたらいいと思うわ。さあ、他に気に
なる箇所はない?」
 カーテンを開け閉めし、その布にはどこにも血の痕がないことを確認。犯人が犯行後
にカーテンを触ったのではないことは分かったが、犯人特定にはつながりそうもない。
「あ、ロウソク」
 制限時間が迫る中、柿原は思い当たった。犯人がここまで何の明かりを頼りにしたか
は不明だが、室内ではロウソクに火を灯したのではないか。そして後に調べられること
を計算に入れて、自らの分は使わずに、小津のロウソクを使ったのでは。
 そんな想像を早口で二人に語って、ロウソクをチェックする。どこに置いてあるの
か、すぐには分からず、焦った。
(自分のコテージでは、衣装ケースの上に横にして置かれてたけれど、違うのか。あ
あ、違う。小津さんはもう使い始めていたんだ。そのあと、どこか別の場所に置いた。
燭台がないのは不便だと思ったけど、裸ロウソクの状態だと消せばどこへでも転がして
おける。一番便利なのは……枕元!)
 果たしてベッドの上、枕の周りを探すと、ロウソクが見付かった。各人二本ずつ用意
されたはずだが、あるのは一本だけ。長さは十五センチほどあり、本来の長さからほと
んど減っていない気がする。
「これ、犯人が使っていたとしたら、重要な証拠になるかもしれません。でも、一本し
かないってことは、犯人が使ったとしてももう一本の方だったと見なす方が……」
「そうでもないかも」
 関が不意に言った。その左手がベッドの下を示している。そこを覗くと、ツナ缶だか
焼き鳥の缶詰だかを空けた缶があり、その内底にはじきに使い切りそうなほど短くなっ
たロウソクが、蝋で固定されていた。僅かながら煤が付いているのは、蝋で固定する際
に、缶の方をさっと炙ったのかもしれない。
「小津さんと犯人のどちらが使ったか、決めかねますね、これだけでは」
 当てが外れた心持ちを隠さず、柿原は肩を落とした。
(その上、こんな風に空き缶を使えば、蝋を落とさずに動き回れる。犯人がしなかった
とどうして言い切れる? 言い切れる訳がない)
 ここでタイムアップ。二十分が経過したので、大人しく次の組に譲る。
 平らな石の上で靴を履くとき、何気なしに地面を見ていると、ふっと思い出した。
(待てよ。蝋は地面に間違いなく落ちていた。あれは落ちていた場所や古さから言っ
て、小津部長の落とした物。ということは、部長は缶を使っていない。よってベッドの
下にあったのは、犯人の物である可能性が高い!)
 大発見のように感じられて、思わずガッツポーズをしてしまった。おかげで、三組目
の村上から急かされた。
「手掛かりを見付けられたようなのは結構なことだけれど」
「はい、すみません、今退きます」
 急いでコテージを離れ、考えをまとめようとする。
(えっと、缶のロウソクが犯人の用意した物だとして、その目的は蝋を地面に落とさな
いため。斧を振るうとき、照らすのにも役立つだろう。だけど、缶が残されてるってこ
とは、帰りはどうやって明かりを確保したんだ、犯人?)
 ロウソクを立てた缶を二つ用意していてもすんなり戻れるだろうが、帰りも同じ缶を
使った方が手間が掛からなくて済む。ロウソクは短くなっていたものの、長い物を新た
に固定するだけで事足りる。
(どうしてその手間を惜しんだのか。もしかすると、小津部長のロウソクを当てにして
いたが、見付けられなかった、なんてのもおかしいかな。――ひょっとしたら、もっと
燃えやすい物でロウソクの代用をしたのか。ある程度の枚数の紙を捻ってたいまつ代わ
りにする。いや、でも、それだと目撃されたときに言い訳できない。灰も飛び散りそ
う)
 大発見、素晴らしい発見だと感じられた気付きは、実はそうでもない、かえって思考
の迷宮に誘い込む罠のように思えてきた。それでもメモ用紙に気になる点としてまと
め、あとで皆に意見を聞こうと心に留めた。
「ねえ、柿原君。さっき言ってた厚手の靴下の本数のことだけど」
 背後から急に話し掛けられ、びくりとしてしまった。柿原はその声を関と認識しつ
つ、振り返って、「何だ、関さんか」と応じた。関の後ろには、沼田もいた。
「9番コテージを調べたことについて、グループが違う人とは話せない取り決めだか
ら、今は君ぐらいしかいないのよね。それに、靴下の話、とても気になったし。どんな
解釈をしてるのか、教えてよ」
「まだまとまってないんですけど」
 念のため、橋部ら第一のグループの者がいない、メインハウスの裏側へ移動してか
ら、話を始めた柿原。
「厚手の靴下は結局、四足分全て見付かったでしょ? そうなると、小津部長の右足
は、素足だったのか、それとも通常の靴下を穿いていたのかが気になります。いずれに
しても、何故そんなことになったのか、理由もまた気になります」
「犯人はその事実を隠したくて、足を切断して持って行ってしまった?」
 沼田が仮説を唱える。柿原は首を傾げた。
「うーん、どうなんでしょう。手間の割には効果が薄い。現に、僕に気付かれている訳
ですし」
「だったら、逆かな。本当は左右とも素足だったのを隠すために、左足には厚手の靴下
を穿かせ、右足は切断し……だめ、訳が分からない」
 二つ目の仮説を、沼田は途中で放棄した。そう、両足とも裸足だったことを隠したい
だけなら、切断の意味がない。もちろん、皆を混乱させるためという名目が考えられな
くはないが、それにしても手間だ。現実的ではない。
「恐らく、切断の理由と靴下の謎との間に、直接的な関係はないと思うんです。切断は
犯人の都合であるのに対し、靴下の方は小津さん自身の都合である可能性が高い訳です
から」
「シンプルに考えてよいのなら、切断は、殺害方法を隠蔽するためだと思う」
 今度は関が堅い調子で言った。推理することは嫌いではないが、現実の事件、しかも
知り合いが被害者となった事件を前に、葛藤が残っている様子だ。
「同感です。たとえば、毒針的な何かで刺した傷があったのかもしれません」
 ぱっと思い付いた方法を口にしてみる。そんな毒が簡単に入手できるはずないが、他
に浮かばないというのが実情だ。それでも一応、無理をして絞り出した。
「被害者が自らの足のどこかに、簡単に消せないインクで犯人の名前を書いたとした
ら、犯人は必死になって持ち去ろうとするかもしれませんね」
「また怖い想像を……その設定なら、焼いた方が手っ取り早くない?」
「僕らがいるこの環境下なら、火が足りなかったと考えることはできます。燃料がたっ
ぷりあれば別でしょうけど」
「サラダオイルぐらいしか油はないはずだし、キャンプに付きものの燃焼剤は危険だか
らという理由でとうに処分されたと前に聞いたわ……小津君から」
 沼田が思い出す風に言い、少し間を取ってから再開する。
「あとは、車のガソリンだけど、人目を避けて盗み取るには難しい。だから、皮膚を燃
やすような方法は犯人も採りようがなかった。うん、筋道は通ってる。納得できたとこ
ろで、思い出した。小津君、亡くなったときの姿勢は、右手を右足に伸ばしてたじゃな
い」
「はい」
「あれって、右の長靴に犯人の名前を刻もうとした、なんて可能性はないかな」
「ユニークな仮説ですね。長靴に書こうとする理由は何です?」
「あの長靴なら簡単には脱がされないから。紐で結んであると、手間取る」
「命の危険を感じた人が、そこまで気が回るかどうかは棚上げするとして、可能性の一
つとしてはありでしょう」
「でも、現実には何にも書かれていなかったんだから、役立たずの仮説ね」
 今の時点で右の長靴は消えているのだから、完全な検証は不可能である。だが、もし
も長靴に字が刻まれていたのなら、ミステリ研究会九人の目が見ていて、誰も気付かな
いことはない。少なくとも二、三人は気付くに違いない。
「僕が引っ掛かってるのは、やはり蝋なんですよね」
 柿原は話のポイントを切り替えた。
「ロウソクを使ったとしたら、自分の分が大幅に減るか、なくなるから怪しまれる。で
も、それをカバーするには、小津さんの分を拝借すればいいと気付いたんです。僕が気
付くくらいなら、犯人も気付く」
「確かにその理屈は通るけれども、犯人の絞り込みに役立つ?」
「まだ分かりませんが、検討してみたいんです。一応、現時点で最大の謎は、缶に立て
てあったロウソク。何故、あれを使い切らずに置いていったのか。新しい一本を立てれ
ば、充分使えるのに」
 柿原は、缶に立てたロウソクを使ったのが小津ではないとする根拠も、合わせて伝え
た。熱心に聞いていた沼田は、感心した風に何度か首を縦に振った。
「言われてみると、不可解だわ。前もって二つ用意したとしても、そうする理由が分か
らない訳だ」
「とりあえず、缶の出所を知りたいんです。今回、必要な食材を買い揃えたのは女性部
員の皆さんでした。さっき見た缶詰は、その中にありました?」
「あった。そうよねえ、関さん?」
 沼田が同意を求めるが、関は他のことに気を取られていたらしく、生返事を口にした
だけだった。が、次の瞬間には我に返ったようだ。
「はい、何でしょう?」
 これに対して沼田は腰の両サイドに手を当て、呆れたように「関さん、あなたねえ」
と注意喚起した。
「どうしたの。もしかして、真瀬君が気になったとか」
「そんなんじゃありませんけど……すみません。少し変なことを思い出して」
「どんなこと?」
 沼田が気にするのを目の当たりにして、柿原も乗っかることにする。
「意識が散漫にならないためにも、先に吐き出しちゃった方がいいよ」
「たいしたことじゃないんだけれど。ハチって種類によっては今時分でも、この辺にい
るのかな?」
「いや、いないはず。稀に台風で、もっと暖かいところにいるやつが流れてくることが
あるそうだれど、台風なんて発生していないし」
「さっき、ハチみたいな虫が飛んでるのを見た気がしたのよ」
「あ、それなら多分、ハナアブの仲間かも。僕はここではまだ見てないけど、ハチにそ
っくりの姿をしてるやつがいる」
「そう、なんだ。よかった」
 胸を本当に撫で下ろし、ほっとした感情を体現する関。
(湯沢さんに比べたら、男っぽいところがあると思ってたけれど、意外と怖がりなのか
な、関さん)
 内心、微笑ましく感じた柿原だったが、言葉には出さない。表情の方には出てしまっ
た気がしたので、頬を踏ん張って(?)厳しい顔つきに努める。
「安心できたところで、買い込んだ食品の話よ。9番コテージにあった空き缶の缶詰、
買った中にあったわよね?」
「ありました。最初見たとき、ラベルが逆さまでぴんと来ませんでしたけど、落ち着い
てみれば買ってきたツナ缶に違いないです」
「そういうことなんだけど」
 沼田は柿原に主導権を返した。そして代わりに、推理を聞かせてとばかり、顎を振っ
て促してきた。
「いつ、誰が食べたのかまでは把握できてませんよね」
「さすがにね。だいたい、初日は缶詰を開けるつもりはなかったのに、いくつか持って
行ってしまったみたい」
「食べ終えた缶詰の缶は、どこかに集めてました?」
「当然。備え付けのごみ箱があるでしょ。その内の一つを、缶専用の物にしたわ。大き
なゴミ袋を中に入れて」
「じゃあ、そのごみ箱を漁れば、誰でも簡単に缶を入手できると?」
「そうなる。これってもしかして、残念でしたってこと?」
「え、ええ。犯人特定の材料には、まだなりませんね」
 他に取っ掛かりはないか、柿原が思案していると、程なくして9番コテージの方向か
ら物音が聞こえた。二十分が経ったようだ。村上を始めとする三人の女性部員が出て来
て、靴を履く様が見えた。

 三グループ九名の気付いた事柄を持ち寄って、全員による検討会がメインハウスで始
まったのは、午前十一時を回った頃合いだった。
 最初に、橋部のグループがどんな調査をしたのかが明らかにされた。男三人からなる
彼らは、あとのグループが共に女性を含んでいることを考慮し、自分達は遺体を中心に
調べる方針を採ったという。
「とは言え、服を脱がせるのは、元に戻すのが難儀であるし、仮にそこまでして遺体を
診ても、死因を突き止められるとは思えない。だから、服を着せたまま、覗ける箇所は
くまなく診たつもりだ。結論から言うと、右足を除けば目立った外傷は皆無で、せいぜ
い額の端っこや手に擦り傷があるくらいだった。外の見回りに熱心だったから、そのと
きにできたかすり傷なんだろう」
 さらに、針で刺したような傷がないかも、可能な限り調べたが、見付からなかったと
のこと。ここまでの調査に十分以上を要した。残り十分足らずは、三人が一番気になっ
た箇所を順に見た。橋部は小津が書いていた小説原稿を探し、それが盗まれてはいない
ことを確かめた。戸井田はコテージの施錠を重点的に調べた。ドアの錠は壊されておら
ず、無理矢理こじ開けようとした形跡もなし。また、格子はドライバーで脱着された可
能性が高いと判断した。三人目、真瀬はロウソク全般に注目。ベッド上のロウソクや、
ベッド下の缶に立てたロウソクも、もちろん見付けていた。
 続く二組目、柿原の属したグループに関しては先述の通り。包み隠さず、報告した。
 最後の組、村上ら女性ばかりのグループは、まず厚手の靴下が奇数であることに違和
感を覚え、そこからの連想で衣装ケースを調べたという。その結果、通常の靴下も奇数
本が残っていると判明。小津の遺体から長靴を脱がせることはしなかったが、厚手の靴
下と普通の靴下を片方ずつ穿いたものと推測していた。そのあと、衣服全般をチェック
するも、特に異変は見付からず。
「それから、ロウソクを立てた缶だけど、少しおかしいの。初日の夜に、部長がやって
来て、発泡酒のあてにしたいから缶詰一個もらっていいかと言うから、疲れてるみたい
だししょうがないわねって渡したのよ。そのとき渡したのは、確か焼き鳥の缶詰で、ツ
ナじゃなかった。先走るけれども、これってあの缶とロウソクが犯人の物だという傍証
にならないかしら」
 村上の証言及び推測には、皆が頷いた。村上達の組はこの缶詰の件を踏まえて、焼き
鳥の缶を探したが、コテージ内には見当たらなかったという。
「ツナ缶を持って行ったのが誰なのかは、分かってない。ただ、一日目の夕食の折に、
勝手に持ち出されて不特定多数の人が箸を付けたと思うから、持って行った人が即、犯
人とはならないわ。だから、もしツナ缶を持ち出した覚えがある人は、この場で申告し
て欲しいのだけれど」
 期待してない口ぶりの村上だったが、十秒ほど待つと、声が囁かれた。真瀬が橋部
に、「ひょっとしたら、あのときの」と何やら伺うような言葉を投げ掛け、対する橋部
が「かもしれないな」と返す。そして一つ頷いて、真瀬が挙手した。
「自分かもしれません。実は初日の夜、橋部さんや小津部長に言われて、適当に缶詰を
持ち出していて」
「本当――ですか?」
 村上と沼田の目が、橋部に向く。橋部は頭に左手をやってしきりにかいてから、さす
がにばつが悪そうに認めた。
「うん。バーベキューのタレの味に飽きてきて、何か違う物が食べたいなとなって、一
年生に頼んだ。三つぐらい持ってきてくれた。ツナと帆立と焼き鳥、だったかな」
「自分も適当に取ったので、正確には覚えてませんが、多分それで合ってると」
「真瀬君、食べ終わったあと、缶はごみ箱に捨てた?」
「はい、いや、ごみ箱じゃなかったっけ。ゴミ袋に入れた覚えはあります。他の空き缶
と一緒に」
「そう。だったら、最終的にはごみ箱に入れたはずだから、やはり、誰にでも手が出せ
る状態に置かれたことになる」
 話の流れから、このまま缶についての検討に入った。二組目と三組目の発見や考察を
合わせて、橋部がまとめる。

――続く




#1101/1112 ●連載    *** コメント #1100 ***
★タイトル (AZA     )  18/02/04  21:53  (495)
百の凶器 6   永山
★内容                                         18/03/14 10:34 修正 第2版
「状況を整理すると、完全なる断定は無理としても、高い蓋然性を持って、以下のこと
が言える。一つ、9番コテージで見付かった、ロウソクを立てたツナ缶は、犯人が持ち
込んだ物である。二つ、小津自身が持ち込んだはずの焼き鳥缶が、9番コテージから消
えている。三つ、ツナの空き缶はごみ箱に入れられ、誰にでも持ち出せる状況にあっ
た」
「これだけだと、犯人を絞り込む条件には、ちょっと弱いような」
 戸井田が残念そうに評したが、柿原が異を唱えた。
「いえ、そうでもないじゃありませんか。四つ目、焼き鳥の空き缶は犯人によって持ち
出された。こう仮定するとことにより、道が開ける気がします。犯人は今も焼き鳥缶を
持っているか、そうじゃないにしても近場に捨ててあるかも」
「待て待て。犯人が焼き鳥缶を持ち出したとする根拠は何?」
「全くの想像になりますけど、犯人同様、小津さんも缶を燭台代わりにしてたんじゃな
いでしょうか。一日目の夜、9番コテージから外に出たことを示す、地面に蝋の落ちた
形跡がありました。蝋はトイレまで往復していたと考えられ、外に出た人物が、小津さ
んであることもまた間違いないでしょう。蝋が滴り落ちたという事実から、そのときは
ロウソクを直接持って出たと見なせます。小津さんは不便さを感じたんでしょう、コ
テージに戻ってから、ロウソクの蝋を落ちないようにする手段を考えた。焼き鳥の空き
缶があるのを思い出し、ロウソクを立ててみる。これは使えるとなった。が、二日目の
午後、小津さんは亡くなったため、使われずじまいでロウソクと缶は残る。二日目の
夜、9番コテージに忍び込んだ犯人にとって、これほどありがたい道具はなかったに違
いありません。元々は、自分が持って来た缶に二本目を立てるつもりでいたのが、最初
から用意されていたような物です」
「ふむ。面白い。想像ばかりだが、ツナと焼き鳥、二つの空き缶の入れ替わりを説明で
きている」
 戸井田は柿原の推理を認めたようだ。判断を仰ぐかのように、橋部へと向き直る。
「やることは決まった。だよな、副部長?」
 その橋部は村上を見やる。ほんの短い間、きょとんとした村上だったが、すぐに答を
導き出した。
「各自の持ち物検査? ううん、それはまだ早い。先に、辺り一帯を探索する」
 問題の焼き鳥缶とロウソクを、犯人が後生大事に仕舞っていると考えるより、そこい
らに捨てたと見なす方がありそうな話だ。
 9番コテージ調査時と同じ三人ずつ三組に再び分かれ、捜索開始となった。受け持ち
は、1〜5番コテージ周辺は橋部ら男三人組、6〜10番コテージ周辺は村上ら女三人
組、その他のテリトリーを柿原のいる男女混成組と割り振られた。これは、当人の入る
コテージ周辺を当人自身が調べることのないようにする措置だった。
「用意し掛けていたのに、昼御飯どころじゃなくなった。それにこの分だと、吊り橋ま
で様子を見に行くのもいつになることやら」
 柿原のいるグループでは、二年生の沼田が先頭に立ったのだが、捜索範囲が一番広い
とあってか、早くも愚痴めいた言葉が口をついて出ている。メインハウス回りからス
タートしたはいいが、空き缶を入れたゴミ袋があり、それをチェックするだけでも手間
取った。
「思ったんですけど、ロウソクを缶から取り外している可能性が高いんじゃないでしょ
うか。捨てるにしても焼き鳥の缶だけかも」
 怪我のせいもあって、ゴミ袋やごみ箱を覗くような探索にはあまり役に立てない柿原
が、意見を述べた。沼田と関がほぼ同時に、理由は?と聞き返してくる。
「ロウソクまで捨てると、犯人の手元からロウソクが一本丸々消えることになります。
他人から見れば、消費が早すぎると映って怪しい。だから、ロウソクは手元に置いてる
んじゃないかと」
「もしそれが当たっているとしたら、そのロウソクには部長の指紋が付いているはず。
警察が調べて、一発で判明。めでたいことだわ。警察が来られたらの話だけど」
「ですね……」
 現状、早期の警察到着は望めそうにない。その間にロウソクを処分されたら、どうし
ようもない。ロウソクの消費が早い嘘の理由なんて、適当に考え付くだろう。
 ゴミ袋やごみ箱のチェックが異常なしで終わり、メインハウス内を見ていく。ようや
く積極的に加われる柿原だが、待つ間に思い出したことがいくつかあった。
「沼田先輩。先にコンロの電池、確認したいんですがいいですか」
「コンロ?」
 沼田のみならず、関も振り返った。柿原が理由を説明すると、女性二人は意味は解し
たが、どうして今さらという顔をした。
「ロウソクが使われたことは、ほぼ確実じゃないの。柿原君自身、言ってたじゃない」
 関の呆れ口調に、柿原は申し訳ないと思いつつも反論しようとすると、隣まで来た沼
田が、肩をぽんと叩いた。
「まあいいじゃない。スイリストとしては、細部に拘りたいんだよね?」
「え、ええ。夜、小津さんがツナ缶を食べ終わって捨てたあと、燭台の代わりにするこ
とを思い付いて、ごみ箱を漁り、焼き鳥缶を拾ってきた可能性はないかなと思ったの
で。もしそうだったら、9番コテージにあった缶は犯人の物ではないし、犯人が懐中電
灯を使った可能性が復活します」
「そいつは強引〜。仮に君の言う通りだったとしたら、9番コテージからメインハウス
近くのごみ箱まで、蝋が落ちてなきゃおかしい。そんな痕跡は見当たらなかった」
「確かに、そうですね。明るくなったあとなら、誰かが目撃していてよさそうなもので
すし」
 一応、納得して自説を引っ込めた柿原。それでも卓上コンロの乾電池を調べるのはだ
めと言われなかったので、この際やっておく。沼田に教えてもらって、壁に模した戸を
横滑りさせ、ウォークインタイプの物置スペースへ入ると、卓上コンロが段ボールの商
品箱に入った状態で保管してあった。開封はされているが、蓋のベロはガムテープで留
めてある。長い間、剥がされていないのは明白だった。
「開けるまでもありませんね。コンロの中に電池があっても、コンロ自体が箱から取り
出されていません」
 他にも三つ、同型の卓上コンロが出て来てが、どれも長期間、取り出されていないと
分かった。
「気が済んだら、本来の捜索に戻るように」
 関に言われたものの、ついでに言っておこうと決めたことがあったので、柿原は探し
ながら話を続けた。
「あの、真瀬君が言い出したんですが、マッチ棒の再分配ってできませんか。昼に言お
うと思ってたんですが、こんな調子だからいつになるか分からないと思って」
「マッチ棒、使い切りそうなの? あ、そうか、薪割りと火付け係だっけ」
 火付けだと放火みたいだ。笑える状況なら、声を立てて笑っていただろう。
 柿原は真瀬の現状を説明した。
「――そういえば関さんから数本、もらったって言ってた」
「え、ええ。そうよ」
 少々、恥じらうような口ぶりで返事があった。背中を向けられているので、柿原から
関の表情は見えない。
「私、夜はほんと目が覚めないから必要ないし、実際、ほぼ使ってない。初日の夜に試
しにロウソクに着けたのと、部長が亡くなったあと、念のため、もう一度ロウソクに着
けたときに一本ずつ使っただけ。だからとりあえず、半分くらい上げた」
「半分。と言うことは、十本近く?」
「ええ、数えて八本」
 この答を聞いて、ちょっと引っ掛かりを覚えた柿原。続けて聞こうとしたそのとき、
突然、「柿原君、いる?」と女性の大きな声。メインハウスの屋根の下から出てみる
と、コテージ群の方から村上が息せき切って駆け付けたところだった。
「どうかしたんですか。僕に何か」
「……」
 村上はしばらく無言で、奇異なものでも見付けたような目付きを、柿原に向けてい
た。
「あの、村上先輩?」
「――その様子じゃ、鵜呑みにする訳にもいかない感じね。ま、いいわ。他の二人も一
緒に来て」
「え? 捜索打ち切りですか」
 関が手をはたきつつ尋ねる。
「そうね。一旦中止ってところ。見付かったみたいだから」
 本当ですか? 柿原達三人の声が揃った。

 村上に先導されて向かったのが、7番コテージだと判明した時点で、柿原は嫌な予感
を抱いた。さっき、村上に真っ先に名前を呼ばれた理由も、これならよく分かる。
「あれよ」
 村上の声の顎を振る仕種に、目を凝らす柿原。示された先は、7番コテージの窓の
下。格子が昼間の太陽を浴びて影を落とす地面には、ロウソクを立てた缶が転がってい
た。
 その近くには、すでに他の五人が集まっていた。
「お、来たか」
 橋部が努力したような明るい調子で声を張り、手を柿原らに振った。
「この展開は正直、予想外なんだが。何せ、見付かるとしたら、もっとキャンプ場の外
れか、あるいは9番コテージの床下とかだと思ってた。でも、見付かったからには仕方
がない。一応な」
 コテージから距離を保った地点まで歩んできた橋部はそこまで喋ると、肩越しに振り
返り、着いてきていた戸井田に目配せをしたようだった。サインを受け取った戸井田
は、柿原らの前に回った。
「悪いが、あまり近付かないでもらおう、柿原」
 戸井田は両腕を広げ、通せんぼうのポーズを取った。無論、通り抜けるのは簡単だ
が、柿原は動かなかった。
「戸井田、その距離はあまりに酷だ。もう少し近付かないと、ブツが見えないだろ」
 橋部に言われ、戸井田は道を空けた。結局、柿原は問題の缶まで半メートル程度にま
で近付けた。右横では、戸井田がしっかり目を光らせている。さらに他の面々は、村上
や沼田、関も合流して遠巻きにする格好だ。
「缶は焼き鳥。ロウソクはないが、ロウソクを固定したと思しき、蝋の痕跡はある。探
していた物に間違いないだろう」
 橋部が言った。
「最初に明言しておく。これをもっておまえを犯人と決め付けちゃいない。第一、あか
らさまに過ぎる。コテージの中ならまだしも、外に落ちていたってことは、誰にでも置
けるってことだ」
 柿原は聞きながら、みんなの様子も窺っていた。軽くだが頷く仕種が見られた。とい
うことは、橋部の言葉に理があることを認めていると解釈してよさそう。
「まず、おまえが置いたんじゃないな?」
「もちろんです」
「犯人であろうとなかろうと、その答で当然だ。次に聞きたいのは、おまえはこれに気
付いていなかったのか。缶がここにあることに」
「気付いていれば、報告しています」
「気付いてなかったと。これまた当然だな。では、この辺りを見たのは、いつが最後
だ?」
「朝御飯のあと、一度戻って来て、視界に入ったと思います。そのときは何もなかった
……はず。コテージを出るときは、向きが逆になるので、見ていないです。振り返った
覚えもありません」
「コテージにいるとき、誰か来た気配を感じなかったか」
「感じなかったですけど、そもそも、あそこに缶を置くのに、近くまで来る必要はある
でしょうか」
「……放ればいいって訳か。下は土や草や落ち葉ばかりだから、多少の音は吸収される
し、クッションにもなる」
「はい、僕もそう思います」
 柿原の答に、橋部は納得したのか、黙った。代わって、戸井田が質問に回る。
「今の内に、他に言っておくべきことは? 取るに足りないことでも、僅かに変だなと
感じたとか、あれば早めに言っておく方がいいと思うぞ」
「……それでしたら、あれかな。ハンカチについてなんですが」
「ハンカチというと、あれか、湯沢さんから借りたという?」
 湯沢に視線が集まったようだが、柿原は話の続きに集中する。
「ええ。血で汚れたので、きれいにして返そうと、洗って干していたんです、7番コ
テージのドアの上に。それが昨晩の――」
「待て、それはコテージの外?」
 聞いていた橋部が、質問を挟む。
「あ、はい。外の庇のところに、上手く引っ掛けられるんです。昨日の晩から朝まで干
していて、今朝見てみたら、何故か少し汚れていたんです。赤茶色の染みが付着して。
昨日の夜、一度手に取ったときはそんな染みはなかったように記憶してるんですが、な
にぶん、明かりが乏しかったので見落とした可能性もゼロじゃないなと。だから、これ
まで言わなかったんですが」
 柿原が話し終わると、橋部と戸井田は顔を見合わせ、低い声で言葉を交わした。次に
聞いてきたのは、戸井田だった。
「筋は一応、通ってる。で、そのハンカチは?」
「朝の内に洗い直そうとしたんですが、湯沢さんに見付かって、そのときは自分が不注
意でまた汚してしまったことにしたんです。それを聞いて湯沢さん、僕には任していら
れないって感じで、ハンカチを取ってしまいました。あのあと、もう洗ったと思いま
す」
「――ということだけれど、湯沢さん、どう?」
「洗ってしまいました。ほぼ、きれいに」
 俯き、申し訳なさそうな声で返事する湯沢。
「惜しい。その染みが犯人の物か、そうでなくとも事件絡みだったとしたら、有力な証
拠になったかもしれないが、しょうがない」
「事件絡みだとしたら……犯人が、自身の出血か、もしくは部長の足を斬ったときに付
いた血を、拭き取るために、わざわざ僕のコテージまで来たことになりそうですが」
「ハンカチを干したことは、誰かに言ってないのか」
「具体的に明言はしてませんが、怪我の止血にハンカチを借りたことと、それを洗って
返すことは、皆さんに知れ渡ったと思いますよ」
 柿原が周りの面々を見ると、「そういや聞いた」「私も」という声が上がる。
「うむ、それなら柿原に罪を擦り付けようと、犯人が9番から引き揚げる途中、ここ7
番に立ち寄ったとも考えられなくはない」
「結論としては、どう捉えるんですか」
 頃合いと見たか、村上が橋部に聞いた。
「物的証拠とするには、だいぶ頼りないな。柿原に濡れ衣を着せようとした可能性の方
が高い気がする」
「私も同意します。ただ、濡れ衣説にはまだ疑問がなくはありません」
 はっきりそう言った村上は、柿原の手を見た。
「濡れ衣を着せる相手に、柿原君を選ぶ理由が分かりません。恨みがあるとしても、今
回の犯行の犯人像に、彼を当てはめるのはふさわしいとは思えません」
「ふむ。敢えて聞くが、柿原、斧を振るえるか?」
「できないと言いたいんですけど、無理をすれば、片手でも行けると思います」
 正直に答えると、案の定、「馬鹿正直だな」と言われてしまった。
「そういうことだから、濡れ衣説は有効としておく。ところで――さすがに腹が空かな
いか?」
 橋部の発言で、緊張感が若干、和らいだ。レトルトと缶詰中心の、遅めの昼食を摂る
ことになった。

 昼食の間ぐらい、事件を忘れたいところだが、そうも行かない。主な議題は、ロウソ
クについてとなった。焼き鳥缶に着けられていたであろうロウソクは、どうなったの
か? 回収・保管した缶をテーブルに置き、透明なビニール袋越しに眺める。
「燃え切った、使い切ったというのではなさそう」
 湯沢が当たり障りのないところから始めた。一時、犬養ともども不調に陥っていた様
子だったが、今は快方に転じているようだ。
「意図してロウソクを外し、手元に置いたのだと思います。犯人は自身のロウソクの
内、一本を使い切ったのは確かですから、その補充として」
「各コテージを家捜しします?」
 村上が、気乗りしない態度ながら、橋部に聞いた。橋部は食事の手を休め、腕組みを
して首を捻った。
「家捜ししたところで、有力な証拠が見付かるとは考えづらい。今の俺達が、ロウソク
を見て、これは小津の触った物であると判断を下せるのならやる値打ちはあるが、そう
じゃないからなあ」
「小津さんのロウソクに特徴的な印が残っていたとしても、犯人が消すか何かするに違
いないですしね」
 スプーンを小さく振りつつ、真瀬が言った。
「実験ができりゃいいんだけど」
 今度は戸井田。水を一口飲んで、話の続きに掛かる。
「ロウソクが一時間で平均何センチ燃えるのかとか、暗い中、ロウソク灯りだけで格子
の着け外しにどのくらい時間が掛かるのかとか」
「魅力的な提案ですけれども、難しいですわ」
 これまた元気を取り戻しつつある犬養が、口元を拭いてから意見を述べ始めた。
「ロウソクの燃焼速度はともかく、格子を外したり付けたりは個人差が大きいに違いあ
りません。さらに、わざと遅くする人がいるかもしれないじゃありませんか」
「確かに、そう、だよな」
 戸井田はすんなりと意見を引っ込めたが、柿原は頭の中で、それでも念のためやるべ
きかも、と感じた。
(ロウソクの燃焼が、僕らが漠然と予想しているよりもずっと早かった場合、格子の取
り外しと取り付けは、ロウソクではなく、別の光源を用いて行われた可能性が生じる…
…ってそこまで考えたら、ほんと、きりがなくなる。まあ、僕らの感覚と、実際の燃焼
速度に大差があるとも考えにくいし、大丈夫だよね)
 と、ここまで頭の中で思い巡らせていると、村上がやや申し訳なさげに話し出した。
「うろ覚えの知識ですが、ロウソクの燃焼速度も案外、個体差が大きいみたい。きちん
と計算して、蝋の質や量、それに太さと形状、芯の太さや材質に工夫を凝らすことで、
決まった時間に燃焼するように作ることも可能らしいですけれども、それは特殊。大量
生産品は、そんな風には作られていないはず。ですから、燃焼実験の方も、してもあま
り意味はないと言えるかもしれません。全部を燃焼させてみないと」
「へえ、そうなのか。言われてみりゃ、さもありなんな理屈だが。なるほどねえ」
 これにより、ロウソクに関する実験は完全になくなった。
 それでも、ロウソクの本数だけは把握しておきましょうという話がまとまり、食事が
済んだあと、各自がロウソクを持って来ることになった。そのまま、解散となりそうな
雰囲気だったが、柿原と真瀬がストップをお願いする。
「何かあったっけ? 柿原は遠慮してたのか、ロウソクについてはほとんど発言しなか
ったのが気になっていたが」
 橋部の反応に、柿原は顔の前で片手を振った。
「いえ、お話というのは、事件とは無関係のことでして」
 真瀬と顔を見合わせ、頷く。そうしてマッチの再分配を持ち出した。
「いいんじゃない?」
 橋部の返事は、早くて軽かった。あまりにあっさりしていたためか、村上が危惧を表
明する。
「いいんですか? 夜、犯人がどうやって明かりを確保したかは重大な要素だと考え
て、これまで色々と推測してきたはずですが」
 そうすると今度は、短い唸り声を漏らした橋部。
「うーむ。マッチ棒の数が、重要になるかもしれないのは分かる。でもまあ、昨日の夕
方までに使い切ったことを証明できる人がいれば、容疑者リストから除かれる程度だ。
再分配する前に、全員のマッチの残りを記録しておけば、必要充分じゃないか。何せ、
各マッチ箱に最初何本入っていたか、厳密なところは不明なんだし」
「それでは、ロウソクより先にやりましょうか」
 村上が提案した刹那、関が急に手を真っ直ぐ挙げた。そして何やら思い切ったような
口ぶりで、一気呵成に喋る。
「あの、私、真瀬君がマッチ棒を持ってなかったこと、証言できますっ」
 ええ、本当に?と訝る声があちこちから上がった。当事者の真瀬も少なからずびっく
り、いや、慌てているように見受けられた。
「え、言っていいの、関さん?」
 真瀬から関への意味ありげな呼び掛けに、橋部がいち早く反応を示す。
「おっと、真瀬。邪魔はいけない。自由に発言させてやれ」
「別に邪魔しようって訳では……いいですよ、もう」
 そのまま語尾を濁す真瀬。皆の視線は、関に集まった。
「昨日の夜、何時かは時計を見ていないので覚えてません。けど、多分、八時前後、真
瀬君が2番コテージに来たんです」
 2番、つまり関のコテージ。午後八時頃といえば、早めの夕食が終わって、それなり
に時間が経っている。とっぷりと日が暮れ、暗かったのは間違いない。
 関のこの発言に、何人かは驚いたようだが、少数派ながら明らかに平静に受け止めて
いる者もいた。
「なるほど。続けて」
 その少数派の一人、橋部が先を促す。
「私は少し焦りましたが、真瀬君に中に入ってもらいました」
「焦る? 驚いたり、怖かったりじゃなく?」
 沼田が問い質すと、関は至極当然とばかりに、首を縦に振った。
「焦ったのは、化粧っ気をほぼ落としていたから。怖がるというのは、事件のことを指
して言われたんでしょうけど、昨日の夜の時点では、まだ事件と決まった訳じゃなかっ
たし、私は事故か病気だったらと願い込みで信じてました。だから、犯人かもなんて、
ちらっともよぎりませんでしたよ」
「真瀬君は何の用でやって来たの」
 村上が、関、真瀬、どちらに尋ねるともなしに聞いた。答えるのはやはり関。
「心配して来てくれたみたいです。最初は私の様子を聞いて、戸締まりをきちんとする
ようにとだけ言って、帰ろうとしたくらいでしたし」
「それがどうして招き入れることに」
「私が誘ったんです。お喋りする相手が急に欲しくなって」
「話し相手なら、私達に言ってくれたらよかったのに。まあ、いいわ。どんな話を……
じゃなくって、やって来たとき、真瀬君はロウソクとマッチ箱を持っていたのね」
「はい、もちろん」
「話をしたのは何分ぐらい?」
「大体、三十分か四十分ぐらいだったと」
「話の間、部屋は真っ暗だった訳ないわよね」
「当たり前ですよ。いる間、私のロウソクを使っていました。真瀬君の分は消して」
「お喋りが終わって、帰るときに、マッチを擦ろうとしたら、箱には一本もなかったっ
てこと?」
 村上が関から真瀬に目線を転じ、呆れ口調になった。ようやく話すチャンスが回って
きたと思ったか、真瀬はいくらか噛み気味に答えた。
「そそんなことありません。二本、残ってたんです。でも、二本とも着けるのに失敗し
てしまって」
(関さんとお喋りできたことで、舞い上がっていたんだろうか。真瀬君が、終わったこ
とに緊張するとは思えないけれども……まさか、格好良くマッチを擦ろうとして失敗し
たのかな)
 勝手に想像を膨らませ、思わず笑いそうになった柿原だったが、我慢できた。真顔を
保ち、関と真瀬の話を待つ。
「仕方がないから、私がロウソクを使って、火を灯してあげて、送り出したんです」
「うん? そのときにマッチ棒を何本か渡そうとはしなかった?」
 村上の追及にも、関はごく普通に答を返す。
「思わないでもなかったんですが、真瀬君、早く帰りたがってたみたいだったので」
「真瀬、どうなんだ? お喋りし足りなくて、もっといたかったんじゃないのか」
 橋部が聞くと、真瀬は頭を掻きつつ、嘆息を挟んで答えた。
「マッチの着火に失敗した途端、滅茶苦茶恥ずかしくなって、逃げるように帰りました
よっ」
 思い出したか、赤面する真瀬。
(話の流れに不自然さはない。強いて言えば、マッチ棒の残りがたったの二本だった点
だけど、火起こしの役目を考えると、それくらいまで減っていても全くおかしくない。
事実、僕だって最初の頃の悪戦苦闘ぶりを目撃してるし)
 そこまでは合点の行った柿原だが、少しだけ腑に落ちないことがある。この場で言う
べきか否か迷ったが、伏せたままあとで二人で話すよりは、公にする方がよいと判断し
た。
 しかし、それを声に出すより早く、橋部が別の疑問を呈した。
「ほのぼのとしたエピソードでいい感じだが、ちょっと考えさせてくれ。マッチ箱が空
っぽでも、ロウソクの火は着いていたんだから、それを火種に、真瀬が9番コテージに
行って何だかんだすることが不可能だったとは言い切れないんじゃないか」
「あの、それが、真瀬君たらよっぽど慌てていたのかしら、ふふ、ドアを出てすぐ、鼻
息でロウソクの火を消してしまって」
「みなまで言うか」
 真瀬が嘆くように言ったが、関にかまう様子はない。
「私がまた着けるよー、って声を掛けようとしたら、ダッシュで行ってしまったんで
す」
「ほんとか、おい」
 この証言には目を丸くする橋部。対する真瀬は、またもや頭を掻いた。
「事実ですよ。暗いのによく帰れたなって思うんでしょ? 自分のところから関さんの
コテージまでのルートなら、目をつむっても何にもぶつからずに往復できるくらい、頭
に叩き込んだ、いざとなったら灯りなしでも平気です。実証して見せましょうか?」
「いや、いい。そこまで恥ずかしい話をするんだから、本当なんだろう」
 苦笑いを隠しながら、事実認定をする橋部。仮に、真瀬が9番コテージまでの往復
ルートを同様に覚えたとしても、火がなければ窓の格子の脱着は困難を極める。それ以
上に、暗いコテージ内で、長靴を破壊することなく右足を切断するのが不可能だろう。
小津のマッチを借用しようにも、野外でばらまかれて使えなくなっていた。真瀬を容疑
の枠から外すのは真っ当に思えた。
 と、そこへ、戸井田が補足的に言い出した。
「そういえばなんですけど、自分、夕べの九時前頃に、真瀬が灯りなしに歩いてるの、
見掛けてたんでした。方向が小津部長のコテージとは逆だったから、今まで言わなかっ
たですけど」
 戸井田によるとその時間帯、前夜に続いてラジオのニュースをよりクリアに聞けない
かと、外に出てうろうろしていたらしい。そこへ真瀬が急ぎ足で現れたものだから、互
いにぎょっとして声を上げたという。
「灯りなしに出歩くのは、事件とか無関係に危ないだろうと思って、『おいおい、あん
まり夜の闇を甘く見るなよ』って注意がてら声を掛けたら、真瀬のやつ、『はい、次か
らはできたらそうします』ってな感じの返事を言い捨てて、さっとてめえのコテージの
方に行ってしまった」
「はいはい、その通りでございます」
 真瀬は投げ遣りに認めた。マッチ棒を使い切っていたという一種のアリバイが成立し
たというのに、嬉しそうじゃない。散々な目に遭った、と言わんばかりに唇を噛みしめ
てへし口を作っていた。
 こういったやり取りのあとでは、もう新しく質問しづらいじゃないかと柿原は考えな
いでもなかった。だが、後回しにするのはやはり避けたい。
「あのさ、真瀬君。今朝、関さんから四本のマッチ棒をもらったと言っていた気がする
んだけど、あれは何?」
「覚えてたか。文字通りの意味さ。正確には八本もらった。――だったよな?」
 真瀬がいつもよりずっと早い口調で、関に同意を求める。
「ええ。柿原君には、ちょっと前に言ったわ」
「はい、そう聞いてます。ただ、真瀬君が見せてくれたのは、四本だったから、どうし
たのかなと」
「答は単純。火を起こすのに四本も消費してしまった、それだけだ。手際よくなったと
自信持ち始めてたんだが、関さんからマッチ棒をもらった直後は、夜のことが思い出さ
れて、手が震えちまったの」
「えー、意外ですわ」
 外野から犬養が遠慮のない感想を飛ばした。事件発生以降、初めてと言ってもいい、
比較的大きめの笑い声が起きた。短い間ではあったが。
 雰囲気が幾分、和らいだところで、マッチ棒の再分配が速やかに行われた。全員、マ
ッチ箱は肌身離さず所持しており、この場ですぐに始められる。
 三日目昼食後の時点で、各人が持っていたマッチ棒の本数は次の通りである。
   橋部13 戸井田11 真瀬3 柿原10 
   村上15 沼田14  関10 湯沢12 犬養7
 男の中で、火起こしをする二人が少ないのは当然として、戸井田が少ないのは、夜、
時折ラジオを聞くために外に出るから。女性陣では犬養が極端に少ないが、これはマッ
チの扱いに不慣れで、よく失敗するせい。証人もいる。しかも湯沢から三本もらっての
七本だという。なお、最初にマッチ箱を受け取った時点で入っていた本数は、どれも二
十本前後だが、正確なところは分からない。
「合計すると九十五本。一人十本ずつ行き渡る計算だな。余り五本は、真瀬と柿原で上
手く融通してくれるか」
 各人十本が配られ、残りの五本は真瀬が預かった。その後、橋部はマッチの本数をメ
モした紙を見ながら言い出した。
「さて、さっき記録した本数を見ると、最も残しているのは村上さんで、十五本。湯沢
さんも実質的に十五本残し。俺の感覚では、三日目の午前までで使ったのが五本という
のは、ぎりぎりの最低ライン。とても昨晩の内に、9番コテージで細工する余裕はない
気がするんだがどうだろう?」
「まあ、最初から計画していたのなら無理とは言えないでしょうが、この犯行って突発
的なものでしょうからね」
 戸井田が認める発言をする。特段、異論は出ない。村上と湯沢は敢えて何も応えない
ようだ。
 柿原としても、湯沢の無罪証明につながるのだから、この流れは歓迎すべき。
「元々、お二人にはアリバイがあるんですし、マッチの数を気にする必要はないんじゃ
ありません?」
 こう言ったのは犬養。アリバイとは、二日目の午後二時半から三時までの三十分間を
指している。
「確かにそうだ。検討すべきは、じゃあ、次に数の多い沼田さんか。六本使用は微妙な
線だな。何に使ったか、言ってみてくれるか」
「いいですよ。夜、メインハウスからコテージに戻るのに一本と用を足しに出たときに
一本、これが二日間で四本。残り二本は、水仕事しているときに、マッチ箱を落としち
ゃって。慌てて拾い上げたものの、二本がだめになったので、竈に捨てたんです」
「勿体ない。乾かせば使えたろうに」
 橋部が言った。結局、六本だと不可能とは言い切れないとされた。
 一方、ロウソクの調べは、夜に備えて持ち歩いている者もいるにはいたが、全員では
なかったので、全員が所持分を持ち寄るまでに五分ほど要した。
 一本が使いかけで、未使用のロウソクを丸々一本残しているのが男子学生全員と村
上。残りの女子学生は、二本あるロウソクを特に意識せずに使っていた。湯沢などは、
長さに差が出ないよう交互に使ったという。事実、湯沢の二本を並べるとほぼ同じであ
った。
「こうして眺めると、未使用の物でも長さの差はある。最大で、五ミリくらいだけど」
 橋部の言う通り、芯に燃え痕のない新品五本を並べ、比べてみると差は多少あった。
厳密を期すなら、芯の長さも異なるようだ。これも最大で約五ミリ。全体で一センチほ
ども差があるとすると、たとえ燃焼速度が一定であったとしても、ロウソクを犯人特定
やアリバイ証明に使うのは難しい。
「犯人は小津のロウソクを拝借したとは言え、自身の物も一本使い切って現場に置いて
いった。使い掛けのロウソクの長さを見れば、大まかにでも見当づけられるかと期待し
ないでもなかったんだが」
 橋部はあきらめ気味に言った。未使用のロウソク一本を残している面々の、使い掛け
の方の長さは、どれも似たり寄ったりだった。一番使っているのが当の橋部で、夜にな
っても眠れず書き物や読書をした分、消費したという。二番目が戸井田。彼の場合は分
かり易い。ラジオを聞くために頻繁に外に出ているせいだ。次いで、村上と真瀬が同じ
くらいの長さ。村上も眠れなかった口だが、外が気になって様子を見ようとしたのがほ
とんどで、真瀬は持って来た古本を読むのに費やしたという。
「あんまり頭に入ってこなかったけどな。で、柿原は?」
 真瀬に問われた柿原が、一番残していた。
「使う機会が比較的少なかった、としか言いようがないよ」
 ロウソクの長さについて、興味関心が薄れてきた柿原は、別の観点から皆に聞いてみ
ることにした。
「小津さんが触ったロウソクがどれなのか、後日、警察に調べてもらうために、今から
ロウソクを使わないで金庫にでも仕舞っておく、というのは無理ですよね」
「さすがに難しいな。夜が困る。危険が去ったとは言い切れないんだしな」
「未使用分の五本を、九人で分けるというのはどうでしょう? 未使用分は小津さんの
使っていた分ではないはずですから」
「ほう、面白い発想だ。……しかし、犯人もそれくらい見越して、対策を取ってるんじ
ゃないか? 例えば、ロウソクの表面を軽く火で炙っただけでも、人の触れた痕跡なん
て分からなくなる気がするぞ。DNAは洗剤に弱いとも聞く。そうでなくも散々、触っ
てるだろうし、望み薄なんじゃないかな」
「じゃあ、せめて僕の分はどこかに仕舞っておいてもらえませんか。客観的に、現時点
で一番怪しいのは、僕だと思うので、無罪を証明できそうな物を残しておきたいんで
す」
「斧の柄に付いた血と、空き缶のことがあるからか。気持ちは分かった」
 柿原の未使用分の一本が、ボタン式の金庫に仕舞われることになった。

 予定外のことが重なり時間を取られたため、吊り橋まで様子を見に行く件は中止にな
った。復旧がまだなのはラジオ情報で把握できており、また、旅程が明日一日で終わる
ことや安全確保には暗くなってから動くのは避ける方が賢明といった判断から、延期し
た形である。
 この日も早めの夕食――昼が遅かったため、かなり軽めでもあった夕食が終わり、片
付けも済んだところで、真瀬が柿原に話し掛けてきた。他に誰もいない、敷地内の端に
引っ張られたので、内緒話だと分かる。真瀬にはマッチ棒のアリバイがあるので、容疑
者の列で言えば最後尾に近い。柿原も安心して聞き役に回る。
「実は俺、暇を見付けては、ロウソクの垂れた痕跡を調べていたんだ」
「垂れた痕跡って……ロウソクから地面に落ちたという意味の?」
「ああ。曖昧な物もたくさんあったけれど、夜間の人の動きを知る手掛かりにはなる。
だろ?」
「なるとは思うよ。けど、缶を使われたんじゃ、落ちない場合もある訳で」
「だから、全員が使ってる訳じゃないじゃないか。柿原は使ってないし、俺だって使っ
てない。犯人が犯行時以外でも、缶に立てた状態でロウソクを使っているかどうか分か
らない」
「……確かに、カムフラージュの意味で、その方が賢いやり方かもね。それで、何が分
かったの?」
 俄に興味を覚えた柿原。先を急かすと、真瀬は「やっと乗ってきたな」とにやりと笑
った。
「さっきも言ったが、事件解明に関係するかはともかく、人の行き来が分かった。コ
テージからコテージへ、予想外の組み合わせで」
「予想外?」
「犬養さんと戸井田先輩さ」
 どうだと柿原の反応を伺うかのように目を見開く真瀬。柿原は一言、「驚いた」と小
声で漏らした。
「間違いなく、意外な組み合わせだね……。で、どうしてそう言えるの?」
「1番コテージと6番コテージをつなぐ道筋を、蝋の痕跡が往復していたんだ。無論、
絶対確実って訳じゃない。ただ、誰だってあの蝋の汚れ具合や続き方を見れば、往復し
ていると思うはずさ」
「二人のどっちが、夜道を往復したんだろう?」
「常識的に考えりゃ、普通は男の方が出歩くんだろうが、絶対じゃない。スタート地点
がどっちのコテージなのか、蝋だけじゃ見分けられなかった」
「うーん、まあ、二人が夜会っていたものとして、いつだったかの特定は難しいし、そ
もそも、二人とも二日目の午後二時半から三時までのアリバイが成立しているって、み
んなで認めたんだから、足首切断のときのアリバイまで検討する必要はないような」

――続く




#1102/1112 ●連載    *** コメント #1101 ***
★タイトル (AZA     )  18/02/15  21:37  (498)
百の凶器 7   永山
★内容                                         18/04/10 19:44 修正 第4版
「だから最初に断ったろ。事件解明に関係するかどうか分からないって」
「最初から関係ない、でよかったんじゃあ……」
「いやいや、決め付けるのはよくないな、スイリスト。何が手掛かりになるか分からな
いぜ。それに、蝋の痕跡を辿れば今まで見えなかった人間関係が浮かび上がるかもしれ
ないってのを意識するのは、事件解決に大きな武器になるはず」
「そうだね」
 前向きな見方をする真瀬に、柿原もよい影響を受けた。
「僕も改めて注意して、地面の蝋を見るとするよ。本を借りても読む暇はなさそう」
「あっ、そうだ」
 柿原が付け足しに言った言葉で、真瀬は自身が持ってきた古本を思い出したらしかっ
た。
「まだ全然読めてない。集中して読みたいのに、今の状況じゃまず無理だろうからっ
て、つい遠ざけてしまって。先に読むか?」
「僕も難しいと思うけど……ここから帰って改めて借りたとき、早めに返せるようにち
ょっとでも読んでおこうか?」
 話を合わせた柿原に対し、真瀬は大真面目に「そうしてもらおうかな。手元にあると
落ち着かなくてさ」と応じた。そこで、蝋の痕跡を探しがてら、真瀬のコテージに向か
うことにした。
「あんまり、落ちてないね。メインハウスから向かう分がほとんど」
 8番コテージに向かう道中、柿原は徐々に暗くなるのを気にしながらも、目を皿のよ
うにして蝋の痕跡を探した。真瀬が残したものを探すことと同等なので、当人に言った
のだ。
「元々、トイレが近い方じゃないからな。それに、昼間、蝋を見付けたら何となく蹴っ
飛ばしたことがあったから、その分、残ってないんだろ」
「通った覚えがないのに蝋が落ちてる、なんてことはない?」
「覚えてない。柿原は覚えてるってか?」
「うーん、無理だね。けど、好きな人のコテージまで往復するルートなら、必死に努力
すれば何とかなるかも」
「こいつ」
 柿原の方を小突くと、大げさなため息を吐いた真瀬。
「言っておくが、あれはまだ十時になってなくて、外灯は点いていた。完全な闇じゃな
かったんだからな。メインハウスに近いとこは明かりが届くから、普通に歩ける。枝道
だけ覚えりゃいい」
「ふーん」
「だいたい、計画的に前もって覚えたんじゃない。マッチの数が心許なかったから、帰
りは真っ暗になるかもと思って、行きしなに頭に叩き込んだんだ」
「へいへい、分かりました」
 話す内に到着。鍵で解錠し、ドアを開け、それでもなお警戒する風に中をしばし観察
してから、真瀬は靴を脱いで上がった。柿原が続き、後ろ手にドアを閉めようとする
と、「ちゃんと見ながら、鍵掛けないとだめじゃん」と、引き返して来て真瀬自らロッ
クした。
「すぐ出て行くつもりなんだけど」
「油断大敵と言うぜ。二人で枕を並べて討ち死には御免被る」
「その言い方だと、一人ならかまわないみたいに聞こえるよ」
「それはまずいな」
 冗談ぽく応じた真瀬だったが、柿原がさらに「僕なんかの心配するくらいなら、関さ
んを心配しなよ」と言うと、再び表情が引き締まった。
「えらいことが起きてしまった割に、何となくいい感じになってはいる。そこは認める
が、まさか同じコテージに入って、ボディガードみたいに張り付いてる訳にはいかな
い。なるべく他の女子と一緒にいて欲しい、これぐらいだな、言えるのは」
 犯人が男性とは限らないが、柿原は強いてそれを指摘するつもりはなかった。真瀬だ
って、承知の上で言っているに違いないから。
「俺に関さんのことを言うのなら、柿原はさぞかし素晴らしい対策を施しているんだろ
うねえ、湯沢さんを守るために」
 柿原に背を向け、リュックをがさごそやりながら、真瀬は言った。彼の表情が簡単に
思い描けたが、柿原はすぐに脳裏から追い出した。自分自身、ついさっき同じような顔
をしていたかもしれない。
「素晴らしい対策なんてものがあれば、こっちが教えて欲しい。犯人が狙うとは思えな
いけれども、絶対はない。不運にも巻き込まれることだって、ないとは言えないから
ね。犯行を目撃してしまうとか」
「……ま、そういうのは俺達にだって降りかかってくるかもしれない。できる限り、気
を付けるしかない」
 振り返った真瀬は、左手に本を持っていた。一日目にはなかったブックカバーを着け
てあった。
「これ、別に殊更丁寧に扱おうなんてしなくていいから。でも、血だけは勘弁な」
「そう言われるとかえって気にする。ていうか、ブックカバーありだと、いやでも気に
なるよ」
「値札のシール、きれいに剥がせそうにないんで、隠すためにカバーをしたんだ。書店
でのもらい物だけど、なかなか重宝してる」
 受け取った柿原は、その感触からカバーが紙製であると気付いた。黒地に白で幾何学
的な線の模様を誂えた、シンプルなデザインがよい感じである。
「念のため言っておく。もし読み終えたとしても、ネタばらしすんなよ」
「当たり前。ストーリー展開すらほとんど言うつもりないから」
 でもまあ、どんなに面白かったとしても読了は無理だろうなあ。心理的にも時間的に
も。そう思いながら、本を胸の前でしっかりと抱いた柿原。
「あー、あと又貸しはややこしくなる恐れがあるから、なしってことで」
「了解。それじゃ、気分転換を兼ねて、早速読んでみようかな」
 まだ陽の光がある内に、少し手を着けておきたい。そんな考えから、8番コテージを
早々にあとにすることにした。
 自分のコテージに戻った柿原は、一旦部屋の中央付近まで来て、本を置いてから、真
瀬の言葉を思い出し、鍵を掛けにドアのところへ戻った。それからベッドのそばまで行
き、床に足を延ばす格好で腰を下ろすと、ベッドを背もたれ代わりにした。自分の本な
ら、ベッドで寝転がって読むこともあるが、借りた物となるとちょっとできない。それ
に今は右手の怪我のこともある。傷口は塞がったようだが、まだまだ完治には程遠い。
薄手の手ぬぐいを上からくるくると軽く巻いて、万が一にも本を汚さぬように対策を施
した。
 しばらく読み進め、物語に没入しかけたが、じきに夕焼けの光が心許なくなった。ロ
ウソクに火を灯して読み続けるか、それとも一旦、巻を置くか。印象的な髪の依頼人が
探偵を訪ねた場面に差し掛かったところで、続きが気になったが、ひとまず灯りの準備
をすると決めた。読書を続行するか否かにかかわらず、コテージで過ごすつもりなら灯
りは必要だ。
(昨日まではまだ、明かりのあるメインハウスである程度時間を潰せていたのに)
 小津の遺体から足が切断されるという事件が発生して以降、風向きが徐々に、しかし
完全に変わった。コテージに籠もる人が、昨日の同じ時間帯に比べると増えたように思
う。尤も、このあとコテージを出て、メインハウス付近に足を運ぶ人もいるかもしれな
いが。
(ミステリだと、連続殺人が起きた場合、残り全員が一所にいれば安全だという考え
は、却下されることがほとんどだけど。実際問題、みんな集まってる方が安全な気がす
る。真っ暗闇だと安全度は下がるだろうけど、それでも個別にいるよりは……って、連
続殺人が起きてる訳じゃなのに、何言ってるんだ僕は)
 そんなことが頭をよぎったせいで、読書の気分ではなくなってしまった。結局、ロウ
ソクには火を灯さずに、少し考え、パソコンを起動させた。画面の放つ光で、コテージ
内がぼんやり明るくなる。
(バッテリーはあと六時間ぐらいある。実際はもう少し早くなくなるかもしれないけれ
ど、今まさに緊急事態なんだから、使おう)
 ネットにつながらないならあんまり意味がないけど……と思いつつ、ワープロを始め
た。何を書くと決めていた訳ではなく、しばらくは難読漢字の変換を無為に重ねた。や
がて、思考はやはり事件に向く。後でしようと思ってまだしていないことがなかった
か、書き出してみた。
(乾電池は調べた。ドライバーは、メインハウスにあったんだから、車の分までわざわ
ざ調べなくてもいい。刃物類がまだだったけど、実際に斧が使われたのは確定と見なせ
るから、もう調べる必要はないだろう。それから……ああ、部長と橋部先輩の会話に登
場した『あれ』に関しては、まだだった。聞きづらくはあるけど、動機絡みかもしれな
いから、聞かなくちゃな。あと、最大の捜し物は、小津部長の右足。見付けたいけど、
犯人が持ち去ったと仮定しするにしたって、まさか身近に置いているとは思えない。多
分、どこか離れた場所に遺棄するか、隠すかしてる。焼き鳥の缶を僕のコテージ近くに
捨てたのが犯人だとすると、同じように近くに捨てる可能性もゼロじゃないけど……犯
人が殺害方法の隠蔽目的で足を切断し、持ち去ったのであれば、少なくとも腐敗が進む
までは発見されないようにしたいはずだし。となると、池に沈めるか、土に埋めるか、
だよね。池を浚うのは無理でも、土の方は調べる余地はあるかな? 一夜にしてやって
のけたとすれば、土の柔らかいところを選ぶと思うし)
 メモを書き上げると、手が空いた。また少し考え、画面の明かりで本が読めるかどう
か、試してみようと思い付いた。真瀬から借りた推理小説を持ち出し、読み進めたペー
ジをしおりで探り当てて開くと、パソコンに近付けた。と、その拍子に何かがブックカ
バーと裏表紙との間ぐらいからするりと落ちた。もう一枚、しおりが挟まっていたのか
なと目を凝らす柿原だったが、いざ見付けてみると違った。レシートだった。
(あ、ほんとに四百円。税込みだったのか)
 柿原も行ったことのある古本屋と分かり、少し悔しくなった。そんなレシートを改め
て挟んでおこうとしたとき、汚れのような物に気付いた。レシートの上の方、日付に重
なる位置と、そこから三センチほど下、整理番号らしき数字に重なる位置とに、うっす
らとではあるが黒くて細い線がカーブを描いている。ラグビーボールの両端を切り落と
したような印だった。触れてみたが汚れは落ちない。
(――似たような形をいくらでも見たような)
 妙な既視感に、柿原は頭を捻った。とにもかくにも、レシートを元の場所に挟む。小
説の方は、どうにか読めると分かった。光量が充分でない環境で細かな字を読もうとす
るのは、視力低下を招くから避けるべきとする説、いや関係ない大丈夫だとする説の両
方があると昔聞いたのを思い出す。悪くなる場合を想定し、ここはなるべく自粛するこ
とに。
(推理を続けようにも、今の状態じゃあ、堂々巡りが関の山、か)
 真瀬以外の人とも意見を交換したい。が、各コテージを訪ねても怪しまれる恐れがな
きにしもあらず。
 午後九時前。パソコンの画面で時刻を確かめた。柿原は電源を落とし、メインハウス
に行ってみようと思い立った。誰か出て来ていることを期待して。

「あ、ちょうどよかった」
 行ってみると、一名ではあるが、期待した通りにいてくれた。橋部だ。この状況なら
ば、謎の「あれ」についても聞きやすい。柿原は続けて尋ねようとした。
 が、橋部からの返しに、機先を制せられる。
「おう。こっちもだ。ちょうどいいタイミングで来てくれたな」
「え? ちょうどいいとは?」
「みんなを集めるべきか否か、迷ってるんだ」
 橋部がいつもより小さな声で言った。影ができて見えづらいが、困り顔をしているよ
うだ。
「何かあったんですね?」
「うむ」
 橋部は頷いたが、何があったのかまではなかなか話そうとしない。柿原に対してちょ
うどいいタイミング云々と言った割に、伝えていいものかどうか、決めきれていないら
しい。
「隠したい訳じゃないんだ。起きたばかりだから、今動くことにより犯人の行動を抑え
られるかもしれない一方で、逆襲を食らう恐れだってある」
「起きたばかりって、どこで何があったんですか」
 気負い気味に聞いた柿原だったが、次の瞬間には冷静に分析していた。
(起きたばかりの事件があって、そこへ僕がやって来たんだったら、僕が第一容疑者
か?)
 心の内側に冷や汗をかいた、そんな嫌な気がした。
「それに加えて、犯人の仕業かどうか、判断しにくい面もあるんだ」
 橋部が言い終わるのと同じか、少し早いくらいのタイミングで、足音が聞こえた。柿
原は音のした方を向いた。ロウソクの明かりが次第に大きくなる。橋部がそちらへと声
を掛ける。
「お、村上さん。戸井田を一人にして大丈夫か?」
 村上はメインハウスの前、充分な光量のある位置まで来ると、ロウソクの火を消して
から答えた。ちなみに、ロウソクは空き缶の燭台付きだ。地面に、無闇矢鱈と蝋を垂ら
しては、後日行われるかもしれない現場検証に悪い影響を及ぼすかもしれない。そんな
判断から全員が、小津や犯人?に倣って空き缶を活用することになった。
「戸井田君から伝言を頼まれました。それに、あの感じだと人間がやったんじゃなく
て、やはり獣の可能性が高い気がします。何にせよ、放置しておくのも問題があるの
で、運ぶのにくるむ布でも用意しようかと」
 村上は柿原の存在に気付くと、すっと距離を詰めた。そして携帯電話を取り出した
が、はたと思い当たったように橋部の方を見た。
「彼に教えても?」
「うむ、まあいいだろう。遅かれ早かれ、全員に伝えなきゃいけないんだ」
「――見て」
 携帯電話の画面を柿原に見せてきた。
「安易に動かせなかったから、ひとまず撮影してみたの」
「これは長靴、と……」
 絶句する柿原。村上は続けて、何枚かの写真を見せてくれた。
 村上の言う動かせない物が何なのか、柿原にもすぐに飲み込めた。その写真には、右
足用の長靴とそれを履いた“足”が写っていた。恐らく、小津の物と見なして間違いな
い。夜、フラッシュを焚いて撮った物だから、詳細は分かりづらいところもあるが、土
にまみれているらしいと分かる。
「ど、どこにあったんですか?」
 どもりながら聞いた。
「と、聞かれても……あっちとしか」
 村上は暗がりの一方向――山の方を指差した。代わって橋部が答える。
「山に入ってみたんだっけか、柿原は」
「はい。真瀬君や関さんと一緒に、部長の案内で」
「長靴があったのは、そのちょうど上り坂に差し掛かる掛からないかぐらいの辺りだ。
アケビ、いや、今の季節は零余子か。零余子が実っていたぞ確か」
「そこまで見ていませんよ。部長も教えてくれなかったですし」
「そうなのか。辺り一帯じゃ、零余子はあそこの高い枝にしか絡まっていないって、不
思議がってたのにな」
「あのう、先輩方はそもそもどうしてそんな場所に、こんな時間……」
 零余子談義を打ち切って柿原が経緯を尋ねると、再び村上が答えてくれた。
「四十五分ぐらい前になるかな。メインハウスに集まって、善後策を相談してた。私と
橋部さんと戸井田君とで。学年で言えば沼田さんも入れるべきなんでしょうけど、小津
部長の死に相当ショックを受けているから、彼女」
「そうなんですか」
 傍目には、そこまでには思えなかったので、柿原はつい、確認をした。
「ショックは私達ももちろん受けている。沼田さんは耐性があまりないタイプと言え
ば、分かってくれるかしら。一年生がいる前では気を張ってるでしょうけど、そうじゃ
なくなれば、周りに委ねて、頼り切りになりがちというか」
「はあ、何となく理解できました」
「それで――話し合っている途中で、メインハウスの前を、低くて丸い影が横切った
の。ほんの短い間だったから、何かは分からなかった。念のため、その影が走ってきた
ルートを見回っておこうという話になり、山の方に行ってみた結果、長靴を発見した。
以上よ」
「泥か土にまみれているみたいですが、これは埋められていたんでしょうか」
「まだ埋められていた場所は分かっていないけれども、恐らくね。そして、獣の仕業じ
ゃないかと考える理由が、これ。橋部さんもどうぞ見てください」
 村上が新たに示したのは、長靴の踝辺りに、穴が開いている写真だった。くりぬかれ
たのではなく、何かが刺さってまた引き抜かれた感じだ。
「もしかすると、イノシシの牙?」
 誰もが真っ先に思い浮かべるであろう想定を、橋部が口にした。
「だと思います。断定は避けますが、走り去った影もイノシシに似ていました」
「確かに……。そうなると、長靴と足がこうして掘り起こされたのは、犯人にとって意
図しない、ハプニングということになる」
 橋部は再度、黙考し、程なくして決断を下した。
「しばらく伏せておこう。ひょっとしたら、まだこのことを知らないメンバーの中に、
犯人がいるかもしれない。よし、このまま戸井田と合流。十時までに済ませたいから
な」
「あっ、伝言を忘れてたわ」
 村上が珍しく叫ぶような声を上げた。
「橋部さん、懐中電灯を使いましょう」
「うん?」
「小津君の持って来た新品の乾電池があるじゃないですか。証拠品と言える代物でもな
いですし、使ってかまわないはずです」
「ああ、そうだ、そうだったな。証拠調べにはロウソクよりも懐中電灯の方が便利に決
まっている」
 メインハウスにある懐中電灯と9番の鍵を用意し、三人揃って小津のコテージに行
く。乾電池をもらって、その場で懐中電灯にセットする。スイッチを入れると、当然な
がら明るく灯った。
(ロウソクなんかの火には暖かみを感じるものだけど、今は、懐中電灯のライトにも、
凄くほっとするような)
 柿原がそんな感想を抱く間も、動きは止めない。橋部が懐中電灯を持って先頭に立
ち、他の二人はロウソクの火を補助として、移動を開始する。
 十分と経たない内に、長靴発見地点に到着。柿原達のいる道から見て、長靴は切断面
を横に向けていた。先に村上が戸井田へ、柿原が加わった経緯を説明し、それから今度
は戸井田が話し出す。
「思い付く限り、写真は撮りました。で、考えたんですけど、一緒に安置するべきじゃ
ないかと」
 戸井田の話は、既に村上から聞いたものとそこそこ重なっていた。充分に考える時間
のあった橋部は、即座に意思表示する。
「そう、だな。彼が死んだときも、移動させたんだ。足だけここに置いておくのは、不
合理というもの。みんな、かまわないな?」
 橋部は村上と柿原にも意見を求めた。
 村上は元から賛成のはず。柿原にとっても、反対する理由は見当たらなかった。強い
て挙げるなら、遺体発見の時点では事件性の有無は判断が難しかったのに対し、現在は
明らかに犯罪と分かっているという違いはあるが。
「埋められた足がこうして出て来たのが、イノシシの仕業だとすれば、この場所自体は
さほど重視しなくていいと思います。肝心なのは、埋められていた場所」
「うむ。だが、捜索は夜明けを待つべきだろうな。付着してる土を見れば、ある程度は
場所を絞り込めると思うし、準備が必要だ」
 橋部はそれから柿原を見た。
「動かす前に、柿原も見ておきたいだろ。俺達は一通り見た。一年生代表ってことで、
しっかり見といてくれ」
 提案をありがたく受ける。柿原は懐中電灯を借り、長靴に顔を近付けた。
「……この土の感じだと、比較的柔らかいみたいですね」
 そう述べてから、鼻をくんと鳴らす。普段からあまり鼻を利かせないでいる彼だが、
今は違う。慎重に、少しずつ鼻で息をして嗅いでみた。
「……」
 特段、異臭は感じられない。たいして時間が経っていない上に、気温も低めに落ち着
いているから、当然か。仮に炎天下を経てこの程度の匂いにとどまっていたなら、冷蔵
庫等での保管を疑う必要が生じるが、実際にはそうではない。
「靴紐は、最初からほどけていたんですかね」
「ああ。村上さんがいる内に、ちゃんと写真に収めたから確かだぞ」
 戸井田の補足に、柿原は満足して頷いた。
「長靴を脱がせてみましたか?」
「いや、してない。そこまで触っていいのかどうか」
「橋部さん、靴下の件がありますし、脱がせて確かめたいんですが」
「うーん、同意はするが、この場でやるのはふさわしくない。もし何かが飛び散った
ら、もう判別が付かなくなる恐れがあるだろ。9番コテージに運んでからにしようじゃ
ないか」
 納得したので、今脱がせて調べるのは中止する。ただ、靴下の種類だけはすぐにでも
知りたい。
「隙間を少し広げて、覗いていいですか」
「隙間って何だ。ああ、長靴と足との間か」
 橋部ら三人は短く相談し、OKの断を下した。村上が手近の枝を探したが、適当な物
が見付からなかったのか、胸ポケットの辺りからボールペンを取り出し、柿原に手渡し
た。
「ありがとうございます。なるべく、汚さないようにします」
「いいわよ。渡した時点で、覚悟は決めてる。そんなことより、私達にも見えるように
して」
 複数のロウソクを地面に置き、懐中電灯も加えて現状で可能な限り明るくする準備が
整ってから、柿原は長靴と肉体との間に借りたボールペンを差し入れ、長靴の生地の方
を外方向に広げようとした。が、強い手応えに、ほんの少し隙間が広がっただけで、中
を覗くまでには至らない。
「紐をもっと緩めてみるか」
 橋部はそう言うと、これは念のためと言いつつ、指先をハンカチのような物でくる
み、それから長靴の紐を触って、余裕を持たせた。
「これでどうだ?」
「やってみます」
 同じ段取りで試してみると、今度は見えた。
「――靴下は通常タイプ。厚手のじゃありません。柄から推測して、小津部長のコテー
ジに残っている、一本だけの通常靴下の片割れがこれだと思われます」
「うむ」
「私にもそう見える」
「同感」
 先輩三人の判断も同じ。確認作業が済むと、柿原はボールペンを村上に返した。村上
は全く気にする様子なしに受け取ると、隙間に入れた先に目を凝らした。
「何もなし」
 呟いてから、元の場所に仕舞った。

 小津の物と思われる長靴と足は、布にくるんで橋部が9番コテージまで運んだ。
「すみません」
 橋部に柿原は頭を下げてから、ロウソクを持つ自らの右手を見下ろした。手の怪我は
相変わらずだし、ロウソクもだいぶ短くなった。未使用の一本は預けているので、これ
が切れると、柿原は直にマッチ棒を持つしかない。
「気にする必要は全然ないぞ。下手に触らせて、間違いの種を蒔きかねないことこそ避
けるべきっていうだけの話だ」
 村上によって、9番コテージのドアが開かれる。中は暗い。十時を過ぎ、外灯もさっ
き消えたところだった。
「正直、背筋がぞっとするような」
 独り言らしき言葉は、戸井田が発したもの。そこへ橋部が、「下手な発言は、疑われ
る元になりかねないぞ」と脅かす。
「冗談はなしですよ、橋部さん」
「ばか、俺だって怖くないと言ったら嘘になる。でもな、小津が迷わず成仏できるよう
にするには、犯人を見付けてやるのが、今の俺達にできる最善の道という気も一方でし
ている。そのためには、何よりも冷静でいることが一番。霊だの何だのを持ち出すんじ
ゃない」
「それはともかくとして」
 村上が、それこそ冷静さを極めた声で、淡々と告げた。
「かなり暗いんですが、本当に今ここで調べます?」
「今こそ緊急事態なんだから、発電機を使えってか」
「そこまでは言いません。このあともしかすると犯人が正体を現し、暴れるようなこと
にでもなったら、電気はそのとき使う方がよいような気がしますし、発電機を動かすと
大きな音がして、私達以外の人達に何事か起きているんだと気付かれます。犯人がこの
四人の中にいないのであれば、気付かれないようにするのが得策でしょう」
「ふむ……発電機はなしで行こう。今は暗くてはっきり見えなかったとしても、朝にな
れば見られるんだ」
 ロウソクの火と懐中電灯を頼りに、いくつかの気になる事柄の確認が始まった。
 真っ先に行われたのは、傷口の照合。当然ながら、目で見比べるだけなので、科学的
とはとても呼べない。だが、その目視で充分だと感じられるくらい、二つの肉体の切断
面似通っていた。宛がえば、ぴたりとつながりよく収まりそうだ。小津の右足に間違い
ない。
 いよいよ長靴を脱がせる段になった。まず、下に古新聞紙を広げ、それから先程くる
んでいた布を、重ねて敷く。その上で作業が開始された。無論、柿原を除いた三人は軍
手を着用済みである。手袋の類を填められない柿原は、観察役に回る。
 靴紐は既に解けているため、あとは引っ張り出すだけだった。が、これが意外と難物
で、心理的な抵抗の他に、実際に固くなっているため、脱がせるのは簡単ではなかっ
た。靴紐を完全に緩め、長靴の生地を左右に広げてからずり下ろすことで、どうにか引
っ張り出せた。
「こりゃあ、うまく戻せるかどうか、自信ないな」
 額を手の甲で拭うポーズをしながら、橋部が言った。彼と柿原が観察役で、戸井田は
撮影役、村上が文字による記録役を主に受け持つ形で進められる。
「再確認になりますが、靴下は通常の物です。柄も一致」
「犯人がわざわざ穿き替えさせたと考えるよりは、最初から小津が自身の意思で穿いて
いたと考える方が理に適っているよな。例えば、仮に毒針のような物が凶器だったとし
て、厚手の靴下だと失敗の可能性があるから、犯人は小津に通常の靴下を穿かせたとし
よう。だが、それは生前にすべきことで、死んだあとにどうこうする話じゃない。むし
ろ、犯行方法をごまかしたいのなら、殺害後、右足の普通の靴下を脱がし、厚手の靴下
を穿かせておくべきだ。そうだろ? だが、現実には違う。そうしなかったのは、犯人
が靴下そのものには何ら拘りを有していない証拠じゃないかな」
「その点は認めるとして、では小津君本人が異なる靴下を穿く理由って、思い付きま
す?」
 村上が疑問を呈し、ボールペンを軽く振った。手元を照らす彼女自身のロウソクのお
かげで、仕種を捉えられた。
「今は思考より、観察調査が優先です。僕のロウソクも貧弱になってきたので、急ぎま
しょう。ここは思い切って、靴下も脱がせる」
 柿原が言った。
「思い切るも何も、それをしなけりゃ意味がない。さて」
 橋部は喋り終わるかどうかのタイミングで取り掛かった。遺体の一部という意識は早
くも薄らいだらしく、思い切りのいい手つきで靴下をずらした。が、全てを脱がせる前
に、動作が止まる。
「――」
 露わになった肌を目の当たりにし、誰もが息を飲んだかもしれない。
「これが犯人の仕業なら」
 橋部はまだ何か続けそうな口ぶりだったが、そのまま途切れてしまった。
 足は、何箇所か斬り付けられていた。乏しいの明かりの下、数えられたのは四つま
で。いずれも長さは約五センチ、縦横斜めと方向は決まっていない。深さははっきりし
ないが、一センチには達していまい。凶器は分からないが、それなりに厚みのある刃を
当ててゆっくりと引けば、こんな具合の傷になるのではないか。
 さらに凄惨さを増すのが、皮膚を三箇所で削がれている事実。
(こ、こういうたとえがふさわしくないとは分かっているけれども、ドネルケバブ…
…)
 柿原はそれ以上想像するのをやめた。ドネルケバブを食べられなくなる。
「――悪魔の所業と言いそうになったが」
 口元を覆った橋部が言った。先程の台詞の続きから始めたらしい。
「落ち着いて考えてみると、これ、殺害に使った凶器の傷口を隠す目的で、皮膚を切り
取ったんじゃないか」
「推理に符合してなくはないですけど……三箇所も?」
 村上は毒針一発で仕留める構図を思い描いていたようだ。
「三箇所とも傷口があったとは限らないさ。切除したいのは一箇所で、残る二つはダ
ミーってことも考えられる。今はそれより、いつ傷付けられたかの推定がしたい」
 そうは言っても、誰も専門知識は持ち合わせていない。足そのものの切断面と比較す
るのがせいぜいだ。
「ほぼ同じに見えますね。足を斧で切断後、あまり間をおかずにやったんだと思いま
す」
 柿原の見解がそのまま採用された。
「すると犯人の狙いは、これこそ本命。足の切断自体は、9番コテージを離れてじっく
り細工するためと、傷を付けた足を埋めることで、本来の意図を不明にするためだっ
た。こう考えてよさそうだな」
 橋部は携帯電話を取り出し、画面を見た。時刻を確かめたようだ。
「さて、そろそろ撤収するか。他の連中に知らせるのは、朝になってからでいいだろ
う」
「あ、撤収の前に、あと一つ。念のため、靴下を全部取ってみませんか。獣に付けられ
たと思しき傷を見ておきたいんです。」
「それがあったな」
 橋部は元の状態に戻そうとしていた手を止め、靴下を脱がせた。すると、踝の辺り
に、何かで突いたような傷ができていた。靴下の同じ位置にも穴が空いていたが、長靴
にできた物に比べると、かなり小さめだった。
「この傷は、他の傷に比べると、新しい感じがします。遺体なので、出血量や血の凝固
具合では測れませんが、乾き方に差があります」
「要するに、イノシシか何か分からんが、獣に付けられた傷と見ていいってことだな」
 今度こそ撤収だ。可能な限り、足と長靴を発見時の状態に戻す。
「次は、切除された皮膚捜し、やるんですかね」
 コテージから全員が出たところで、戸井田が誰に聞くともなしに言う。施錠を村上に
任せた橋部が呼応する。
「やってもいいが時間がない。それに恐らく、犯人によって処分されちまったんじゃな
いか。燃やすのは簡単だし、池に放れば自然に還るのも早そうだ」
「でしょうかね。わざわざ隠し持つ意味が見当たらない上、埋めるほどの大きさでもな
いのだから」
 二人の会話を聞きながら、柿原は村上から声を掛けられていた。
「ロウソクは足りそう?」
「何とか、ぎりぎりって感じですね。今夜このあと、暗い内に何かあったら、ちょっと
困るかも」
「それじゃあ、使い差しをあげるわ。私は未使用分を持って来ているから」
「え、あ、どどうも」
 空き缶の燭台ごと渡そうとした村上だったが、途中でストップ。足を止めてしばし考
え、柿原の持つロウソクと空き缶を指差した。
「交換するのが一番早いわね。ロウソクを外したり、また付けたりしていては、手がい
くつあっても面倒だわ」
 村上は先に柿原の缶を受け取り、次に自らの分を渡す。
「ほんと、ぎりぎりね。消えそうになったらもう一本に着ければいいだけのことだけ
ど、この辺で戻るわ。鍵と懐中電灯を仕舞わなきゃいけないし」
 他の二人にも聞こえるように言い置くと、村上は歩みを早めた。
「一人で大丈夫か?」
 橋部の声に、村上は背中を向けたまま、手を振って応えた。

 自分のコテージに戻ってきた柿原は、知り得たばかりの事実を基に推理を組み立てよ
うと、やや興奮気味であった。だが、冷静さを全くなくしていたのでもない。頭の中の
どこか片隅で、「これ以上の連続稼働はオーバーヒートを招く。短くてもいいから頭を
休めるべき。そうしないと思い込みに陥る」というシグナルが明滅してもいた。
 結局、ワープロソフトを使ってメモ書きの清書だけはしておこうと決めた。暗い中、
怪我の治りきらない利き手で取ったメモは、あとから見て読めない恐れが少なからずあ
る。記憶が鮮明な今の内に、早くテキストデータ化しておくに限る。
「――これでよし、と」
 電源を落とすまで、いや、落としたあとも未練はあったが、心身に休息を与えるべ
く、意識的に横になった。
 そして――目が覚めて、時計を見ると、朝の五時三十分だった。外はさすがにまだ暗
い。
「睡眠時間としては充分のはずなのに、感覚的には眠いような」
 上半身を起こしてから、独りごちる。
(推理に時間を使うのもいいけど、長靴が埋めてあった場所を、早く探したいな。で
も、明るくなるまで時間があるみたいだし、単独行動だと運よく見付けたとしても、素
直に信じてもらえないかも。他に気になるのは……9番コテージ。あの足が掘り返され
たことを知った犯人が、再び9番に侵入し、足を奪ってどこかに隠し直す、なんていう
流れは起こり得ないだろうか)
 これは推理していても始まらない。起き出して、実際にその目で確かめるのが手っ取
り早い。明るくなるのを待つのがもどかしかったが、柿原は着替えなどをして、時間を
費やした。
 やがて空が白み始めたので、コテージを出た。少し靄が出ており、この三日間に比べ
ると肌寒い。我慢できないほどではないので、そのまま行く。
 ただ、昨日の苦い体験が頭に残っていた。周辺をよく見ておくことも忘れない。幸
い、今朝は濡れ衣を着せるような工作はないようだった。
(埋めた場所探しは、完全に明るくなってからにしよう。何人かと一緒に行動すべきだ
ろうし。今は、部長のコテージだ)
 誰か人と会うことなく、9番コテージがよく見通せる位置に来た。柿原は目をこらし
つつ、急ぎ足になった。が、次の瞬間には足が止まる。向かって左側、妙な物が視界に
入った。そんな気がした。
(昨日の夜、あそこにあんな物、あったっけ?)
 不可解さに警戒を膨らませながら、それでもさらに急ぐ。9番コテージ前、ちょうど
小津が倒れていた場所に近い。ほとんど重なっている。
「これは」
 思わず声が出た。枝や使用後の割り箸を骨組みにして、手ぬぐいらしき布を巻き付け
た人形――それを人形と呼んでよいのなら――があった。大の字をした十五センチほど
のサイズ。頭部には木の実のような物が突き刺してある。何の木の実か断定できないの
は、その人形が火で炙られた形跡にがあったため。頭に該当する部分も含め、全体に黒
っぽくなっている。人形の下には、たき火をした跡も残っていた。割り箸や木の枝、そ
れに少量の紙くずを燃やしたらしい。火が消えてからだいぶ経っているらしく、煙は全
く出ていない。
 人形を火あぶりの刑に処したということか。これもまた犯人の仕業かもしれない。そ
う思うと、おいそれと触る訳に行かず、上からじっと見るにとどまる柿原。そしてすぐ
に気付いた。
「うん? 布に字が」
 胴体に該当する部分に、縦書きで文字が認められた。布に元々あったものではなく、
赤いインクのボールペンで直に書かれたようだ。頭の中で読み取ろうと試みる。
(最初は「怨」かな。次に「才」か、片仮名の「オ」。その次が……読みにくいけど、
「シ」「ツ」辺り。これ単独だから、さんずいじゃあない。その下は、もう読めない…
…。あっ、「怨 オヅ」か? 小津部長を呪う儀式? 亡くなっているのに?)
 柿原は、困惑と不気味さがじわっと染み込んでくるような感覚に囚われた。ぶるっと
身体を震わせ、振り払う。
(「怨」とあるんだから、復活の儀式ってこともないだろうな。とにかく、早く知らせ
ないと。でも、みんなに知らせる前に)
 柿原は9番コテージに急行し、異変がないことを確認した。少なくとも破られた様子
はない。それからまず、8番コテージを目指すことにした。真瀬に声を掛けてから、二
手に分かれ、さらに残り全員に伝える目算だ。

――続く




#1103/1112 ●連載    *** コメント #1102 ***
★タイトル (AZA     )  18/02/20  21:57  (495)
百の凶器 8   永山
★内容                                         18/03/14 10:36 修正 第2版
 全力疾走で真瀬のコテージに辿り着いた柿原は、出入り口のドアを、もたれかかるよ
うにして叩いた。勢い余って、真瀬の靴を蹴り飛ばしてしまったくらいだ。
「真瀬君! 起きて!」
 繰り返し呼び掛けること三度。「やかましいな」という声が返って来た。気配で、起
き出していることが分かる。じきにドアが開けられた。
「何だよ」
 真瀬は不機嫌そうに言った。眠たげな目の下には、少し隈ができている。
「なかなか寝付けなくて、やっと眠れてたんだ。何も起きてないなら、寝させてくれ」
「それが起きたんだよ」
「本当かぁ? 被害者が出たとかじゃないだろ?」
「それは出てないと思うけど」
 柿原は今し方、9番コテージの前で見付けた物について、言葉で説明した。話してか
ら、写真を撮っていなかったことを後悔した。写真で見せれば、もっと簡単に飲み込ん
でもらえるはずなのに。
 それでも真瀬は、奇妙なことが起きたと理解できたらしい。「見に行くから、案内し
てくれ」と言うや、靴を履き始めた。よく見ると寝間着でも部屋着でもなく、シャツに
ジーパンという格好の真瀬。9番へ向かいながら、柿原が服のことを指摘すると、「何
か起きたとき、すぐに動ける格好をしておくべきだろ。柿原はそうしてないのか?」と
逆に問われてしまった。
(ジーパンはどちらかというと動きにくいんじゃあ……)
 と思った柿原だったが、声に出しはしなかった。今はそれどころじゃない。新たな“
事件現場”へと急行する。

 人形と火の跡を確認した後、二人は携帯電話のカメラ機能で状況を収めた。それを携
え、柿原は6番コテージから、真瀬は10番コテージから声を掛けていくことにした。
そのあとのことは村上と橋部に判断を仰げばいいが、恐らく続けて皆を起こすように言
われるだろう。
 柿原が6番コテージの近くまで来ると、村上は既に外に出ていた。手頃な大きさ・形
の切り株に腰掛けた後ろ姿。片耳にイヤホンをして、音楽でも聴いているらしかった。
「あの、村上先輩!」
 距離のある内から大きな声で名前を呼ぶと、村上の肩がびくりと上下するのが見え
た。
「――柿原君か。びっくりするじゃないの」
 左手でイヤホンを外し、右手で機械を止めながら、村上は振り向いた。立ち上がる彼
女に、柿原は手短に状況を伝える。と、村上の顔色が、見る見る内に変わったように思
えた。血の気が引いた、その白い表情は、柿原が写真を見せると、多少赤みを取り戻し
た。
「こんな、死んだ人に鞭を打つような……冒涜だわ」
「それでどうしましょうか。皆さんの無事を確かめつつ、起こしに行こうと思ってるん
ですが、女性は女性が起こすのがいいんじゃないかなって。男の方は真瀬君が起こしに
行ってまして――」
「そうね。じゃ、写真、借りるわよ。柿原君は現場に戻って、見張っていてちょうだ
い」
 早朝でも村上の決断と行動は、鈍くならないらしい。きびきびと指示すると、もう走
り出していた。
 柿原は柿原で、スタミナ不足を感じながらも、可能な限り急いで9番コテージ前の現
場まで戻った。当然ながら誰もいない。
 が、一人の時間が長引くことはなかった。真瀬から話を聞いたのであろう、橋部が駆
け付けた。
「おう、柿原」
「あ、橋部さん、おはようございます」
 反射的に言ってから、ここで朝の挨拶はおかしかったかなという思いが、頭をよぎる
柿原。だが、橋部に気にした様子はない。問題の人形を見下ろせる位置まで来ると、顎
をさすった。
「これか、呪いの人形は」
「はあ。呪いというか怨みというか」
「ふむ……なるほどな、『怨 オヅ』と読める。最初に聞いたときは、『オズの魔法使
い』のオズじゃないのかと思ったんだが、写真でも、こうして実物を見ても、オズでは
ない」
 独特でちょっと興味深い発想だと感じた柿原だが、真相解明には役立ちそうにない。
「おや? これは自然に燃え尽きるのを待ったんじゃなくて、消しているな。踏み消し
た跡がある」
「――本当ですね」
 橋部が指し示した先の地面をよく見ると、靴跡の一部のような模様が残っていた。明
らかに、たき火の跡に重なっている。
「この足跡は多分、長靴ですね。同じ物がたくさんあるから、これだけでは証拠になり
そうにありません」
「犯人だって考えるわな。そこへ持って来て――ミステリ好きとなればなおさらだ」
 苦々しげに吐き捨てた橋部。
「だが、自戒も込めて言うならば、俺達は多かれ少なかれ、ミステリに毒されている。
村上がいみじくも言ったようにな。それこそが落とし穴になるかもしれない」
「考えすぎるとか、ミステリでのみ成り立つロジックに拘るとか、ですか」
「ああ。この人形はおどろおどろしくしようとしているが、恐らく何か他の目的があっ
て作られた物なんだろう。犯人は人形を拵える必要なんてなかったのに、カムフラージ
ュか何かのために作ったんじゃないか。作ったおかげで、手掛かりを残すことになるの
に」
 確かにそうだと柿原が思った。
「じゃあ、たとえば、この人形の材料も手掛かりになりますよね。枝や割り箸はともか
く、頭の部分はもしかしたら、特徴的な物かも」
「ん? どれどれ」
 やや芝居がかった台詞とともに、橋部は手を伸ばした。人形の頭部に直に触る。
「え、橋部さん、いいんでしょうか」
「ちょっとぐらいかまわん。ごちゃごちゃ言ってるときじゃない。なーに、表面のすす
を少し落とすだけだ、」
 橋部は手ぬぐいか何かを巻いた指の腹を使って、人形の頭を擦った。柿原の想像に反
して、黒いすすの下からも、黒っぽい物が覗いた。
「これ、零余子だな」
 橋部が言った。
「ほれ、昨晩、言っただろ。右の長靴が見付かった現場辺りの、木に蔦を絡めて、高い
ところで実を付けてる」
「あの話ですか。この付近では、あそこにしかないんですよね、零余子って」
「うむ」
「じゃあ、犯人がわざわざ零余子を取って、人形に使ったのかの理由が気になる……自
然に落ちた物を拾ったのかな?」
 考えるべきテーマを見付けたと喜んだが、落ちた実を拾ったのなら、犯人側にさした
る理由がなくても零余子を使うことはあり得ると思い直した。
「いや、それはない」
 橋部が意外にも断定口調で言った。
「実際に見れば合点がいくと思うが、俺が見たとき、零余子の絡んだ枝は、切り立った
崖の方に突き出ていた。あそこから実が自然に落ちたとしても、俺達が歩いて行けるよ
うな場所には転がらない。遙か下に転がっていくだろうさ」
「……それだと逆に、どうやって入手したのかが問題になりそうです。木に登ったんで
しょうか」
「うーん、木登り説はなさそうだな。元々、そんなに太くない幹だったし、老木だった
と記憶している」
「じゃあ、他にどんな方法があるんでしょう……?」
「梯子や脚立を掛けるのも難しい、というよりも無理な位置だし、あとは……物置に高
枝切り鋏があったはずだ。あれを目一杯延ばせば、二メートルくらいになるんじゃなか
ったかな」
 橋部は両手を使って、鋏を開閉する動作をしてみせた。それだけだと剪定鋏と変わり
ないようにも見える。それよりも、柿原には気になることが。
「枝を切る道具なら、結局、下に落ちてしまうんじゃあ……」
「お、知らないか。上手に捻れば完全に切り落とすことなく、回収できるんだよ」
 その台詞の途中で音量を小さくした橋部。何事かと、柿原が相手を見やると、橋部は
にやりと笑った。
「お互いに犯人ではないと信頼し合う必要があるが……今言ったことは、他の全員には
伏せておかないか?」
「――了解しました」
 受け入れる返事をした直後、あのことは聞いておかねばと柿原は強く思った。
(橋部先輩と小津部長との会話で出て来た『あれ』って、何なんですか?)
 聞き方をどうしようか、検討するのに時間を取ってしまった。
 やっと段取りが組み上がったちょうどそのとき、真瀬と戸井田が新たに姿を見せた。
(ああっ、これでまたお預けか? 信頼し合う必要があると言われたんだから、この場
ですっきりさせたかったのに)
 悔やむ柿原だったが、もう遅い。現時点では一旦引っ込めるしかなかった。
「女子の方には、誰か行ってるんだよな?」
 真瀬が柿原に聞いてきた。
「うん、村上先輩に行ってもらってる」
 答えてから、柿原は思考を巡らせた。
(危険はないよね? まさかこの明るくなった状況下で、犯人が開き直って暴れるとは
考えにくい。万万が一何かあったとして、男はここに全員いる。女性同士なら、体力的
に極端な差はない。各人、警戒を解いてないのだから、不意を突かれることもまずな
い。強いて言うなら、今日が当初予定されていた最終日だってことぐらい)
 頭の中では、何も起きやしないさと思っていても、不安を完全に拭い去ることはでき
ない。身体が勝手にそわそわし出して、十数秒に一度、メインハウスへと通じる方向を
振り返ってしまう。
 気もそぞろな柿原だったが、他の三人は今朝新たに見付かったこの犯行?について、
あれこれ議論し始めた。
「それにしても、犯人は何でこんな呪術めいたことを。まともに考えたら、虚仮威しに
すらならないと分かりそうなもの」
 真瀬が口火を切ると、戸井田は「いや」と否定から入った。
「虚仮威しのつもりかどうか、そこから議論する必要があるんじゃないか。本気で信じ
てやっているのかもしれないし、他のことを隠すカムフラージュなのかもしれない」
「そう、ですね。うーん、分かりません」
「部長が倒れていた場所を選んで火を燃やすくらいだから、本気っぽいような。カムフ
ラージュだったら、ここじゃなく、9番コテージのすぐ近くでやる気がする。火を放て
ば、証拠隠滅になる」
 戸井田はコテージの方を振り返った。皆、つられて同じようにする。ここでようや
く、柿原も話に加わった。
「実際にはコテージは燃やされていない、故に本気で呪うつもりだった? でも、もう
亡くなっているんですよ」
「そこなんだよなあ。橋部先輩は、どう思われます?」
 意見を求められた橋部は、腕組みをして首を傾げた。
「何の根拠もないが、俺はカムフラージュ説を採りたいな。そうあって欲しいという、
ミステリマニアの願望が自然に出ちまっただけかもしれないが」
「……犯人にとって、現場はコテージじゃなく、ここだとしたら」
「うん? どういう意味だ、柿原」
「犯人にとって、小津さんが倒れていたこの場所こそ、重要な犯行現場なのかも。何ら
かの痕跡を残してしまった自覚がある、あるいは後になって思い当たったので、火を放
った。証拠隠滅をしたかったと」
「ふむ、なかなかユニークだな」
 橋部が評したそのとき、メインハウスへと通じる道が俄に騒がしくなった。駆けてく
る足の落ち葉を踏みしめる音と高い声が、綯い交ぜになって耳に届く。
「湯沢さん!」
 その姿を認識し、柿原は思わず叫んでいた。続く「どうしたの」という言葉は、他の
者からの同様の台詞に飲み込まれたが。
「そんなに息せき切って、どうかしたのか。何があった?」
 橋部が問うが、ようやく辿り着いた湯沢は息を切らし、膝に両手を当てた。声が出せ
るまで、しばしの間を要した。
「た、大変です。関さんが、亡くなっています」
「えっ」
 聞き手の男四人はここでも同じような反応を示したが、特に声が大きかったのは真
瀬。一歩前に出て、「どういうこと?」と湯沢に詰め寄る。両肩を持って、揺さぶろう
とまでした。橋部と戸井田が止めに入り、引き離す。
 湯沢は橋部に促され、やっと続きを話せた。
「殺されたみたいなんです」
 震え声で。
 直後に、どすんという地響きにも似た大きな音がした。真瀬が両手両膝を地面につい
て、俯き加減になって目を見開いていた。口からは、形容しがたい唸り声が漏れてい
た。

 関は自身のコテージ内で、ベッドに上半身をもたれかかるようにして俯せに倒れ、絶
命していた。
 二人目の死者、そして明らかな殺人の発生に、一行のいるキャンプ場は一時的に恐慌
状態に陥った。寸刻の猶予もならず、事態を外部に知らせるべきと全員の考えが一致を
見て、土砂崩れの復旧現場まで伝えに行くことに決まった。行くのは何名で、誰々がと
いう段になり、
「複数人を選んでいるよりも、今はスピード重視。誰か一人で行って、またすぐ戻って
来るのがいいんじゃないか」
 という橋部の一声で、小津の事件でアリバイが成立すると考えられる村上、湯沢、犬
養、真瀬の中から、優先的に選ぶことになった。そして、精神的な面を考慮して興奮気
味の真瀬が抜け、犬養と湯沢は運転免許をまだ取得していないため、必然的に村上に決
定。
「伝えるのは、我々の身元と現在の状況、起こったことだけでいいから。あとは、でき
れば常時使える連絡手段を向こうで用意してもらえないか、聞いてみるといいかもしれ
ない。たとえば無線機ならスマートヘリで運べるんじゃないか」
「連絡手段の確保が無理だったら、次にあの場所まで降りていける時刻を決めてきま
す。他には……怪我人がいると伝えれば、より早急に対応してもらえるかもしれませ
ん。尤も、行ってみて人がいなければ、話になりませんが」
「天候は安定しているから、復旧作業がスタートしているのは間違いない。時間帯は確
かに早いかもしれないが、それでも一時間も待つ必要はないと思う」
 おおよその方針や見通しが立ったところで村上は出発、するはずだったのだが。
「パンクさせられている?」
 駐車スペースから戻った村上の知らせに、誰もが――犯人以外の――驚き、焦りの声
を上げた。
「全部なのか」
「ええ。二台とも。スペアタイヤまでは見ていませんが、四輪全てがやられていますか
ら、交換しても無意味かと」
 村上は悔しさを押し殺したような声で、淡々と告げた。
「パンクさせた方法は分かりますか」
 柿原の出した疑問は皆も同じだったので、全員で駐車スペースに移動した。並べてあ
る二台のタイヤを見比べると、同じ凶器で切られたのは一目瞭然だった。
「これはもしかすると」
 柿原は、「高枝切り鋏でしょうか」と続けようとして、言っていいものかどうかを迷
った。
(橋部さんとの約束は、零余子についてまだ言わないというものだけれど、その零余子
を採るには、高枝切り鋏の使用が必須らしい。となると、ここでは口にしない方が賢明
なのかな? そもそも、タイヤをパンクさせたのが高枝切り鋏である根拠はなく、印象
でしかない)
「もしかすると、何だよ」
 真瀬が聞いてきた。まだ高ぶりが色濃く残る口調だったが、関の死が明らかになった
直後よりは、随分とましになったとも言える。
「いや、一気に切られているように見えたから、斧かハサミみたいな物を想像したんだ
けど、八つのタイヤ全部を見てみたら、そうじゃない切り口のもあるね」
 一度突き刺してから下向きに引き裂いたような切り口もあった。どちらかといえば、
五対三で、すぱっと一直線に切られた切り口は少ない。高枝切り鋏ではないなと、柿原
は心中で結論づけた。
「ナイフか包丁、でしょうか」
 湯沢が言った。確かに、突き刺して引き裂くという動作は、ナイフか包丁によるもの
の可能性が高そうだ。一気に切られたと見える切り口は、たまたまそうなっただけのよ
うである。
「あとで調理場の刃物を調べるとしよう。問題は、犯人がこんなこと――関さんの殺害
と人形を炙ったことも含めて、これらのことをやった理由だ。それと、外部へ知らせる
のをどうするか、だ。言うまでもないが、歩いて行けない距離じゃない。現状で体力を
消耗するのが、身を危険に晒すことにつながるのかどうかって話だな」
「疲労したところを、犯人は襲うかもしれないってんですか」
 戸井田が悲鳴のような声を上げた。勘弁してくれよと言いたげに、繭を下げている。
「分からん。パンクさせた理由にしてもな。俺達を閉じ込めたいのか? だとしたら、
何で最終日になってからなんだろうな。昨日の時点で、移動する可能性は大いにあった
のに。歩いて行ける距離なのに、パンクだけっていうのも手ぬるい。靴はコテージの外
に出てるし、長靴も自由に出し入れできるんだから、足止めしたいなら全部処分しちま
えばいいのに。まあ、こっちだっていざとなりゃあ、裸足でも歩くし、パンクした車で
一気に走るかもしれんが」
 頭を左手でかきむしる橋部。心底、分からないといった体だ。
「……時間……時間稼ぎかもしれません」
 疲労が表情に露わな犬養が、絞り出すような口ぶりで言った。
「何のためかは分かりませんけれど、私達をこのキャンプ場へ釘付けにすることが、犯
人にとってメリットになるのでは?」
「ここに足止めされたら、どうなるか。通報が遅れるわな。科学捜査の介入が遅くなれ
ばなるほど、犯人にとってはメリットだろう。だが、それだけだと、最終日になって足
止めの工作をする理由が、いまいちぴんと来ない」
「昨日から今日に掛けて、何か大きな変化がありましたっけ?」
 戸井田が言いながら、自らの記憶を呼び起こしたいのか、デジタルカメラの画像を見
始めた。
「言うまでもなく、関さんが殺されたことが一番大きいが……その行為自体は、犯人に
とってコントロールできる。計画的な犯行なのか、予定外の犯行なのかで多少は違って
くるだろうが、すでに小津部長が死んでいるんだ。小津が亡くなった段階では、足止め
の時間稼ぎをせずに、今になってする。やっぱり、ぴんと来ない」
「あの」
 柿原は橋部に向けて、目で訴えた。
(もう一つ、大きな変化があったじゃないですか。部長の足が見付かったというか出て
来たというか。あれ、一部の人には伏せたままですけど、ここで言っちゃってもいいで
すか?)
 無論、目による合図だけでそこまで通じるはずもなし。橋部が小首を傾げるのを目の
当たりにした柿原は近寄っていき、耳打ちした。
「――ああ、そうか。色んなことが起こったせいで、忘れかけていたな。元々、朝にな
ったら言うつもりだったんだから、いいだろう」
 橋部は頭をもう一度掻いた。今度は自嘲の意味があっただろう。そうして橋部は、昨
晩、小津の物と思われる足が偶然見付かったことを、知らなかった面々に説明した。
「え。そんなことまで起きていたんですか」
 言ったきり、文字通り絶句したのは真瀬。関の死に比べれば衝撃は軽いはずだが、最
早感覚が麻痺しているのかもしれなかった。
「今、足はどうしてるんですか。まさか、見付かったまま、放置?」
 早口で聞いてきたのは沼田。村上が、9番コテージに運んだと話すと、沼田は大きく
息を吐いて、多少救われた様子になった。
「それで柿原君は、何を言おうとしていたの?」
 湯沢が言った。見られていたんだと意識した柿原は、返事するのが少しだけ遅れた。
「部長の足が見付かったことは、イノシシのおかげによる偶然で、犯人にとって予定外
だったと思う。だから、もしかしたら、今日になって犯人がパンクさせたことと、関連
してるんじゃないかって」
「ああ、そういう意味」
 得心した風の湯沢に代わって、犬養が聞いてくる。
「埋められていた場所は、もう突き止められたのでしょうか」
 これに答えるのは橋部。
「いやまだだ。まあ、埋められていたのは確実だ。犯人にとって、本当に足の発見がパ
ンクにつながる原因だったなら、犯人は今朝までに、足が掘り起こされたと知ったこと
になる。土に埋めたのは、人目に触れないようにするため。小津を殺めた際に、決定的
な証拠を残してしまったというようなミスをしていれば、腐敗させたいと考えるかも
な」
「犯人は小津部長の遺体には痕跡を残さなかったけれども、関さんの遺体には残したと
いう場合も考えられませんか」
「……いや、ないと思う。小津の足については、完全にハプニングだ。関さんの方は、
犯人にとって時間があった。たとえ痕跡を残したとしても、消し去る余裕はあったんじ
ゃなか。洗剤をばらまくだけでも、だいぶ違ってくると聞くし」
 橋部はそう言ったが、念には念を入れて、関の遺体をざっとでいいから検分しておこ
うという話になった。小津を調べたときと同じように、今度は四人ずつ二組に分かれて
調べる算段だったが、辞退者が出た。沼田と犬養と湯沢の三名だ。真瀬も迷う様を見せ
たが、最終的には加わることを決意した。
「五人なら入れなくはない。一度に視るとしよう。ただし、前と違って、飽くまで簡単
にだ。最低限、犯人が何らかの工作をしていないかだけが分かれば、いや、推定できれ
ばいい。あと、沼田さん達を外に置き去りというのは気になるが、何かあったら大声を
出してくれ」
 橋部の判断でことは進められ、とりあえず、犯人による隠蔽工作と思しきものは何ら
見付からず、これが結論になった。
 その他にも各人、気が付いた点があった様子なので、全員がメインハウスに集まり、
状況の整理が試みられることに。手始めに、発見時の状況から取り掛かる。
「私はまず、沼田さんに声を掛けて」
 村上が経緯を説明する。傍目には冷静なように映るが、実際のところは分からない。
声がかすれ気味である。
「そのあと、私が犬養さんのところ、沼田さんが関さんのところへ呼びに行くことにな
ったわ」
「湯沢さんが飛ばされてますけど、それは何か理由があるんですか」
 柿原は早口になるのを抑えつつ、質問を繰り出した。村上が答える。
「他意はないわ。ここに来てから、湯沢さんは連日早起きして、散歩しているのを知っ
ていたから。コテージにいる確率が高い人を優先したまでのこと」
 柿原はそれを聞いて納得した。話の続きに耳を傾ける。村上に代わって沼田が話し始
めた。
「ただ、私はまだ支度ができていなかったから、すぐには行動開始と行かなくて」
 彼女の方は、小津の死だけでもショックを受けていたのに、関の死が重なったこと
で、憔悴が明白になっていた。
「着替えだけして、できるだけ急いだつもりだったけれども、足が重い感じがしたこと
もあって、2番に向かう道を折れた頃には、村上さんが追い付いたわ」
 村上が頷き、補足説明を入れる。
「犬養さんも支度がまだで、時間が掛かりそうだったから、先に出たの。そうしたら、
ちょうど沼田さんと合流できたから、一緒に行くことにした」
 橋部が軽く手を挙げた。
「何で一緒に行こうと思ったの? 関さんは沼田さんに任せて、君は先に湯沢さんを探
すべきでは?」
「彼女が――沼田さんが特に体調悪そうだったから、心配で」
 間を取ることなく、また淀みもなくすらすらと答が返って来た。橋部は納得の体で首
を縦に振ると、「遮って悪かった。続けて」と先を促した。
「二人でここまで来ると、ドアをノックした。反応を待っていると、背後で声がして、
振り返ったら湯沢さんと犬養さんが」
 その証言を受け、湯沢が問われる前に説明しに掛かった。
「朝起きてから、メインハウスにいたんです。食事の下準備でもしようかなって。その
あと、自分のコテージに戻ろうとしたら、犬養さんと会って。彼女も詳しくは事情を知
らない様子でしたけど、事件に関係する何かが起きたのなら、一緒に行動するのがいい
と思って、二人で相談して、先輩達と合流しようと思いました」
「私は、村上先輩から9番コテージに行くように言われていたんですけれど」
 さらに犬養がフォローする。
「一人で行くより、皆さんと一緒の方が心強いと思えたので、合流することに賛成した
んです」
「それで……依然として関さんの返事がなかったので、四人揃って呼び掛けたんです
が、それでも起きてくる気配はなし。靴がありましたから、中にいるのは確か」
 村上が再び話し手に。発見時の状況を思い出したのか、顔色は青ざめて見える。
「仕方がないので――というより、嫌な予感がしたので、私がメインハウスへ鍵を取り
に行って、戻って来てもやはり無反応のままだと聞き、開けることに」
 深呼吸をした村上。
「ドアを開けてすぐ、関さんの姿が目に入り、ただ事じゃないと感じたので、急いで駆
け寄りました」
 靴を脱ぐのももどかしく、そのまま転がり込んだという。他の三人も続き、関の名を
呼んだり、背中をさすったりするも、相変わらずの無反応。それどころか、直に触れた
手に冷たさを感じたため、心肺蘇生を試みるべく仰向けにしようとした。
「でも、すでに身体は冷たくなっていた上に、顔を見たら、もう……」
 その言葉は多くの者に、つい先程見たばかりの、関の死に様を思い起こさせた。場に
重苦しい空気が漂い、どんどん沈殿していく。
 死因は一応、首を絞められたことによる窒息と推測された。首に微かに残る絞め痕と
爪痕(紐状の物で首を絞められた際、防ごうとして自らの手で首に傷を付ける場合が多
いとされる)、関の苦悶の表情、そして床に投げ出されたように置かれた一本のタオル
からの判断だ。凶器と思しき薄手のタオルは、関自身が首から掛けていた物。湯冷め対
策あるいは防寒にしていたらしいが、徒となった形である。
 ただ、死因を“一応”としたのには理由がある。関の遺体にはもう一点、顕著な異状
が認められた。胸板のほぼ真ん中辺りに包丁が刺さっていたのだ。ミステリ研究会が今
回持ち込んだ洋包丁の内の一本で、本来はメインハウスの調理場に置いてあった。斧と
異なり、小津の事件が発覚してからも管理を厳しくした訳ではないが、毎回の使用後に
複数人の目できちんと仕舞うところを確認するようにはしていた。だから、昨晩までは
メインハウスにあったことは間違いない。
「出血量は結構多い方だろう。だから、絞殺後に刺したのではなく、刺してから首を絞
めた、あるいは首を絞めて意識を失わせてから刺した。このいずれかだと思う」
 橋部が見解を述べた。異論は出なかったが、村上が意見を加えた。
「計画的な犯行ではない気がします。関さんの服装から、犯人は就寝前にコテージに来
たはず。一方、あの包丁は刃渡り二十センチ近くあると思われますが、鞘や専用のケー
スはありません。目立たぬように持ち運ぶのは、意外と難しい。少なくとも、剥き出し
の包丁か、それを何かでくるんだような物を携えた人に夜、コテージを訪問されたら、
警戒します。中に入れるとは思えません。きっと、包丁はあとから持って来たんじゃな
いでしょうか」
「ふむ……一理あるな」
 そう呟いた橋部に続いて、柿原が口を開く。
「さっき、現場を見せてもらったとき気が付いたんですが、関さんの首元に刃を当てた
ような小さな傷めいた物がありましたよね? 爪でできたのとは違う」
「じっくりとは見ていないから、気が付かなかった。爪の傷と思い込んでいたかもしれ
ん」
 他の者はどうだ?と問い掛ける風に、皆を見渡す橋部。村上と真瀬が気付いていた。
真瀬は黙って挙手しただけにとどまったが、村上は「あれは、ためらい傷のように見え
た」と感想を述べた。
「と言っても、自殺者のそれじゃなく、犯人が躊躇ったんじゃないかっていう意味。同
じミステリ研究会のメンバー相手に、躊躇うのが当たり前でしょうけど」
「ここまでをまとめると――関さんの遺体には隠蔽工作の形跡がなかった事実から、犯
人がタイヤをパンクさせたのは、小津部長の足を腐敗させる等して、自身の犯行の痕跡
を消したかったからと考えられる。犯人は最初に首を絞めたが中断して、メインハウス
まで往復してまで刃物を持って来ると、刺した。さらに首にも傷を付けようとしたよう
だ。いずれも理由はまだ不明。関さんの服装やコテージ内の様子から、彼女自身が犯人
を招き入れた可能性が高い。まあ、これは関さんが誰も疑っていなかったという場合も
あり得るので、あまり参考にならんな」
「あの、橋部さん。僕の話はまだ途中なんですが」
 遠慮がちに小さな声で伝える柿原。橋部は「おお、何だ?」と意見拝聴の姿勢を取っ
た。
「関さんの遺体発見時、包丁は刺さったままでした。一方、首の小さな傷からは、出血
はほぼ皆無でした。これは死亡後に首を傷付けたことに他なりませんが、不可解なの
は、何で傷を付けたかです。胸板に刺さった包丁を一旦抜いて、また戻したのではあり
ません。それくらいなら、見て分かりますからね」
「多分、判別できる。つまり、犯人は少なくとももう一本、ナイフか包丁を2番コテー
ジに持って来たことになる!」
 戸井田が珍しく興奮気味に反応を示した。対照的に、やや冷めた反応は真瀬。
「複数の刃物を持ち込んだことが、そんなに重要か?」
「うん。僕の考えではこうなる。犯人は小津部長にしたのと同様のことを、関さんの遺
体にもするつもりだったんじゃないかな。言いにくいんだけど、切断する気でいた」
「柿原!」
 真瀬が大声を張り上げたが、柿原はしかめ面をしながらも続けた。
「犯人は斧による“成功体験”がある。しかし、斧は管理下に置かれて、簡単には持ち
出せない。犯人は包丁一本だと不安だから、複数の刃物を持ち込んだんだ。でも、土壇
場になって躊躇した。知っている人の肉体を切り落とすなんて、それ以上は無理だった
んだ」
「切り落とすっていうのは、当然……?」
「頭部」
 単語で返した柿原に、真瀬はぐいと詰め寄った。相手が怪我人じゃなかったら、胸ぐ
らを掴み、持ち上げかねない勢いがある。
「関さんのどこに、そんなことをされなきゃならない理由があるんだよ!」
「それは……分からない」
 柿原は少し嘘を吐いた。一つ、思い付いたことがあるにはあったが、何ら確証や根拠
がないため、言葉にするのは控えた。
「実際には犯人はしなかったんだから、絶対に必要な行為ではなかったのかもしれない
し、もしかしたら逆に、絶対にそうしたかったが、どうしてもできなかったとも考えら
れる」
「――気休めにもならねえ」
 口ではそう言ったが、真瀬は柿原から離れた。激情がどうにか去ったところで、橋部
が口を開いた。
「柿原の推理は、心理的には結構ありだと感じた。何にせよ、包丁の類が何本持ち出さ
れているかぐらい、すぐに調べられる。仮に血を拭って戻されたなら、正規の科学捜査
を待たねばならないが。それから――柿原、話は終わったよな?――もう一つだけ、気
に掛けておくべきことがある。2番コテージの鍵だ」
 発見時、2番コテージは施錠されており、村上がスペアを使って開けた。最前の調べ
で、2番コテージの窓も内側から施錠されていた。室内にも見当たらない。となると、
犯人が退去時に使用し、そのまま持ち去ったと考えるのが妥当というもの。
「いつまでも身に付けているとは思えない。どこかに捨てたと思われる。鍵の行方も、
最優先事項ではないにせよ、注意しておくべきだろう」
 議論により状況性はここで一旦打ち切られ、包丁の所在確認に移った。調理場を見て
みると、洋包丁が二本とも消えていた。一本は現場で、遺体に刺さったまま。もう一本
は、犯人が隠し持っていると考えるよりも、遺棄したと見なす方が現実的に違いない。
ではどこに遺棄するか。
「――たき火にくべたんじゃないでしょうか? 鍵も、包丁も。指紋や汗や血、その他
タイヤのゴムなんかが付着したとしても、燃やせば証拠能力はほとんど失われると踏ん
で」
 柿原の閃きに、一行は9番コテージ前へと急いだ。
 橋部と村上が手頃な枝を拾ってきて、燃え跡をつついてみる。無論、その直前に、戸
井田に改めて写真を撮らせておいた。
 程なくして、村上が左手を止めた。少々舞い上がった灰を、もう片方の手で払いなが
ら、顔を近付ける。他の者も同じようによく見ようとした。枝の鋭い先端を使って、刃
の周りをがしがし削り掘る村上。マッチ棒などの燃えかすと混じって、土が徐々に取り
除かれた。
「刃、だけだわ。柄の部分は、木目調の柄が印刷されたプラスチック製だったみたい」
 黒く汚れていたが、現れた刃は洋包丁のそれに一致するようだ。
「おっ。こっちも成果ありだ」
 橋部が僅かに喜びを滲ませた声で言った。彼の持つ枝の先には、鍵の輪っかの部分が
引っ掛けられていた。
「こっちも原形はとどめているが、キーホルダーの部分は完全になくなってる。念を入
れて、2番コテージの鍵に入れてみるか」
 後ほど、その実験確認は行われ、燃やされた鍵は間違いなく二番コテージ用の物と特
定された。
「これで、火を燃やした狙いがはっきりした訳だ」
 真瀬が強い調子で言った。
「呪いの人形だの何だのっておどろおどろしく飾り立てようとしたって、無駄無駄。証
拠になりそうな物を処分したかっただけじゃねえか」
「確かに、虚仮威しの域だな」
 戸井田が同意し、犬養がさらに続く。
「証拠を単独で燃やしても勿体ないと考えたのかしら。そこで私達を脅かす小細工をし
た……無駄なことをしていると言いますか、私達を小馬鹿にしていると言いますか、理
解に苦しみます」
「人形を作る手間に比べたら、効果に疑問が残る細工だったね」
 柿原も、しっくり来ない物を感じつつ、他に思い浮かぶアイディアもないため、同調
しておいた。人形の作る手間、特に零余子に関してはこの場で言うと橋部との約束を破
ることになるため、口をつぐむ。
「さて、これで一安心という訳にはとてもいかないが」
 橋部は上目遣いに空を見やった。まだ青空はあるが、雲も増え始めた気がする。
「山の天気は、またいつ崩れるとも知らないからな。もしも、歩いてでも知らせに行く
というのなら、早めに決断した方がいい」
「行くかどうかはまだ決めかねていますが、行くのなら全員で動くべきです」
 いち早く意見を表明したのは村上。
「全員が行動を共にすれば、犯人はこれ以上何もできないでしょう。それに、犯人が捜
査の入ることを遅らせたいのなら、その妨害にもなります」
「基本的に賛成。動くにしても動かないにしても、全員一緒というのはいい。夜、暗く
なればまた別ですが、明るい内はそうする方が何かと都合がいい」
 戸井田が賛成すると、犬養も同意した。ただ、犬養は積極的に移動したいという訳で
はないらしく、心身共に疲労が溜まっていること、足が痛いこと、空腹であることを訴
えた。
「そういえば、何にも食べていませんでしたね、私達」
 湯沢が無理に作ったような明るい表情をなし、両手を開くポーズをした。おどけたつ
もりなんだろう。笑顔が若干、ぎこちない。柿原は間を開けずに言った。
「腹ごしらえするというなら、そっちに一票入れるよ。ああ、お腹空いた」
「腹ごしらえのあと、移動を始めるのか」
 真瀬が尋ねてきた。真瀬が移動を希望しているのか否か、外見からは判定しかねた。
「そのことも含めて、話し合いながらの朝飯ってことでいいんじゃないか」
 橋部がまとめる形で提案すると、他の全員が温度差こそあれ、賛成の意を示した。

――続く




#1104/1112 ●連載    *** コメント #1095 ***
★タイトル (AZA     )  18/02/22  22:00  ( 61)
クルーズに行ってみた2>食う(風呂)寝る朝陽   永山
★内容
※メモはほとんど尽き、詳しく記録したのはインフォーマルのディナーくらい、記憶も
薄らいでおりますので、ほんとに駆け足になります。

 充実のクルートークが終わり、部屋に戻ります。細かな予定を組んでなかったので、
トークが十分ぐらい延びても、何ら影響ありません。のんびりゆったりできる、船旅の
よさが出た感じ。
 あとは夜食ぐらい。いつも通り23:00からなので、三十分はあります。自分一人
だったら、あるいは男ばかりの旅なら、さっとグランドスパに行って、ひとっ風呂浴び
て、戻ってこられるんですが、今回はそうも行きません。母も前夜に比べれば船酔いの
影響は少なく、夜食に行ってみる気になっていましたので、入浴は後回し。例によって
メモをするなどして三十分を過ごし、23:00過ぎにフォーシーズンダイニングへ。
 入口のところにお品書きが出ていましたので、撮影。上海焼きそば、中華ちまき、中
華スープがメインで、あとはミニケーキ、カットフルーツ、飲み物各種と定番のメニ
ュー。早速並んで、メイン三品を受け取ります。ちなみに、開始間もなくに来たせい
か、昨夜の閑散ぶりが嘘みたいに中は賑わっておりました。座る場所を確保するのが大
変なほど。これぞいつもの夜食風景と感じたのは、いくら何でも慣れが早すぎるか(
笑)。空いているテーブルを見付けて、三品を載せたトレイを置くと、再び立って、飲
み物と適当にデザートを選んで戻る。
 滅茶苦茶お腹が空いてるって訳でもないので、ゆっくり食べたいところですが、入浴
時間のことがあるので、あまりのんびりもしていられない。自分は短くても済ませられ
るけれど、母はある程度余裕が欲しいでしょうから。てことで、このときの夜食は、じ
っくり味わってないので、印象に薄いです(汗)。ちまきは御飯を感じられて美味しか
ったような。揚げ物が欲しかった記憶があるけど、別の日かもしれません。
 食べ終わって席を立ったのが、23:30頃だったかと。これでグランドスパに直行
すれば、終了まで約一時間あるのですが、そこまで準備していなかったので、部屋に戻
ります。何やかやで時間を取って、グランドスパ前に辿り着いたのが23:50ぐら
い。母にとっては、初めての大浴場利用なので、ドアの前でざっと説明をします。男湯
と女湯とで構造が異なる――女湯の方が広めに作ってあるらしいし、靴を入れる袋の配
置場所なんかは左右逆かもしれないなと思いつつも、中に入る訳に行かない。まあ見れ
ば分かるでしょうってことで送り出す。
 早朝にも入っているから、一日に二度の入浴か、二十四時間単位で数えると三度にな
るな、贅沢だ〜なんて感じながら、今度こそのんびりすればいいものを、意外と利用者
が多く、落ち着かないため、早めに切り上げました。部屋に帰って、小説を書いている
こと二十分ほどでしたか、母も無事に(笑)戻って来ました。シャンプーなどについて
肯定的な感想を言っていた記憶があるのだけれど、メモに書いていない……。orz 
 明日の、というか日付は変わっていましたが、五月十九日の予定を確認し、床に就き
ました。

5/19(2016)
 この日も早くに目が覚めて、3:50になってなかったはず。アスカデイリーで日の
出の時刻を確かめると4:17とのこと。
 うーん、もうちょっとぎりぎりに目覚めたかった。でもこのまま布団にくるまってい
ると、また寝てしまう恐れが大きい。どうしようか考えること五分。日常生活であれ
ば、この五分間でも寝入ってしまうことが結構多いのに、やはり非日常の船旅は違いま
す。しゃきっと目が覚めて、ベッドを下りました。前日の寒さを思い出し、やや厚着を
して廊下に出る。昨日に比べると、起きている人が増えていたみたい。乗客何名かとす
れ違いました。このときに限らず、飛鳥で朝早くに起きている方は、男性が圧倒的に多
いようです。まだ二度目の旅で語るのはおこがましいと自覚しつつも、何か理由があり
そう。女性は夜まで目一杯楽しんで、朝はぐっすり。男性は夕食までの疲れが出て早め
に就寝、朝は勝手に目が覚める、という感じかしらん?
 で、肝心の天候は、この日も曇りがち。海そのものは穏やかで、船の揺れもあまり感
じませんが、雲はどうしようもない。水平線から顔を出す太陽は、またも拝めず。さす
がにちょっとぐったりして、部屋に引き返すと、また寝間着に着替えて、静かに布団
へ。同室の母は、ちょっとやそっとの物音では目を覚まさないと自負?しております
が、念のためですね。
 このあと、これまで通りならモーニングコーヒー(とパン)目当てに動き出すのです
が、今回はパス。目が覚めなかった訳じゃなく、ここいらで自制することを思い出し、
身体に覚えさせようとした次第(苦笑)。日課の腹筋運動が無駄にならないようにする
ためにも。

 続く。ではでは。




#1105/1112 ●連載    *** コメント #1103 ***
★タイトル (AZA     )  18/02/28  21:49  (499)
百の凶器 9   永山
★内容                                         18/03/14 10:38 修正 第3版

「関さんを最後に見たのは、午後十時になるからならないかのタイミングで、私と犬養
さんとで彼女のコテージを出たんです」
 食事の席は、お世辞にも明るいとは言えないが、重苦しいものでもなかった。ミステ
リ研部員としてこうしていることが一番集中していられるとばかりに、起こってしまっ
た二つ目の殺人について、活発な話し合いが行われていた。
「私もそのように記憶しています」
 湯沢の言葉に、犬養がお墨付きを与える。前日の夜十時以降、関の姿を見た者はいな
かった。そのことから、死亡推定時刻は十時以降。推測される犯人の行動や遺体の体温
低下の具合も考慮して、午後十一時から午前三時の間に収まるだろうと推測された。
「この時間帯にアリバイのある人は?」
 全員に対する橋部の問い掛けに、肯定の返事を寄越す者は皆無だった。四時間と幅が
ある上に、深夜帯となれば、それも道理だろう。
 “捜査会議”は一山超えた感があった。だが、場の空気が落ち着く方向に行きかけた
のを、柿原と真瀬が積極的に事件を解こうと話題を振ったせいで、再び熱を帯び始め
た。口火を切ったのは、その二人、真瀬から柿原への質問だった。
「柿原、手の怪我はどうなってるんだ?」
「え? ご覧の通り。治りかけてはまた傷が開くの繰り返しだよ、ほら」
 柿原が相手に見えるよう、右手の平を開いてみせる。今朝も動き回ったせいなのか、
血が若干、しみ出してきていた。
「なるほどな。そうなると、柿原にも可能な訳だ」
「何が?」
「タイヤをパンクさせる行為がさ」
「……まあ、確かに。傷が開いたことを考えると、他の人に比べて、やったんじゃない
かという疑いが強くなるかもね」
 あっさり認める柿原に、真瀬は拍子抜けしたのか、毒気を抜かれたかのように一瞬、
ぽかんとなった。だが、すぐに気持ちを奮い立たせるように、肩を怒らせると、今度は
村上に視線を向けた。
「村上先輩。スペアの鍵を自由に使えるのは、あなただけですよね」
「ええ。金庫の番号をセットしたのは私だから」
「さっき、たき火のところから見付かった2番コテージの鍵はカムフラージュなんじゃ
ないかと考えてみたんですが、どうですか」
「それだけじゃ分からない。詳しく話して」
 緊張感が高まるやり取りに、周囲の者は、少なくとも柿原ははらはらした。
「元の鍵を燃やすことによって、いかにも犯人は鍵を事前に用いることができずに、関
さんに招き入れられたように見せ掛けるんですよ。実際は、関さんが寝入ったあと、合
鍵を使って忍び込み、犯行に及ぶ」
「――そんなことをしても、犯人にとってメリットはないわ。招き入れられたんじゃな
いのを知られたくなかったとでも言う? だったら、私は違うわね。私が訪ねていけ
ば、彼女は開けてくれる」
「さあて、どうでしょう」
「無闇に疑うのもいい加減にしなさい。私には小津君が死亡したときのアリバイがあ
る。関さんが警戒を解く一人なのよ。だからね、私を疑うのであれば、そちらの方から
攻めなさいよ。合鍵がどうのこうのなんて言わなくても、私は関さんに招き入れてもら
える」
「……確かに、その通りです。部長が亡くなったときのアリバイも、ちゃんと理解して
いましたよ」
 一転して穏やかな口ぶりになった真瀬。左手の平を掻かきながら、にやっと笑う。計
算なのか、臨機応変に対処しているのか、端からでは掴めない。
「本気で疑ってなんかいない。試させてもらいました」
「おいおい、年長者をからかうもんじゃない。それも食事の席で」
 橋部が忠告めかして割って入ったのは、真瀬が自分にも疑いを掛けてくるのか、それ
こそ試す気持ちが働いたようだった。
「疑いを掛けるなら、真っ当な形でやれ。試すなんて気分が悪いだけだ」
「そうですね。言う通りにしたいんですが、橋部先輩がもし犯人だったら、あまりにも
無策で、ミステリマニア失格じゃないですか」
「というと? トリックを弄して、アリバイや密室を作れとでも言うのか」
「そうじゃなくて、仮にもミステリ研の部員が犯人なら、何らかのトリックを使って、
自らが容疑圏外に逃れるようにするもんでしょう。そういう立場から見れば、先輩は犯
人じゃない。だから、疑ってもしょうがない」
 無茶苦茶な理屈だなあ、真瀬君わざとやってるな……と、柿原は感じた。
(このタイミングで、橋部さんと小津部長の会話に出て来た『あれ』の話を持ち出した
ら、真瀬君も橋部さんを疑うようになるのかな。まあ、そんな真似をしても混乱を生じ
させるだけだろうから、しないけど)
 柿原は暴走気味の真瀬を止めるために、別の話を持ち出すことにした。
「真瀬君、僕も言わせてもらうよ。いいだろ?」
「独演会をさせてもらってる訳じゃあないしな、ご自由にどうぞってやつだ」
 真瀬は椅子に座り直すと、ほとんど進んでいない食事に、少し手を着けた。皿を引き
寄せる際に、また左の手の内側を掻いた。
「じゃあ、僕からは、さっき関さんのコテージにあったマッチ箱をテーマに。2番コ
テージに入った全員で見ましたけど、中に九本のマッチ棒が残っていました。再分配し
たのが、昨日の昼過ぎ。その時点で十本ですから、夜を迎えて一本だけ使ったことにな
る。事実、缶に立てたロウソクは少し短くなっていましたし、軸の半分ほどまで炭化し
たマッチ棒一本が、その缶の中にありました。計算は合います。でも、犯人は何故、マ
ッチ棒を持って行かなかったんでしょう? 夜の闇で行う作業が、犯人には残されてい
たはずです。9番コテージ前の、小津部長が倒れていた辺りまで行き、小サイズながら
たき火を起こし、2番コテージの鍵や凶器を燃やし、人形を炙る。まあ、人形作りまで
は、さすがに明るい内にやったでしょうけどやることは結構あります。マッチ棒は少し
でも多い方が心強いはず」
「そりゃあ、十本で充分だったんじゃないか」
 戸井田は当たり前のように言うと、口元を手の甲で拭った。
「下手にマッチ棒の所有数を増やして、調べられたら、証拠になりかねない」
「理屈は分かります。でも、逆に言えば、手持ちのマッチ棒が極端に少なかったら、も
しくは、ロウソクの消費が異様に早かったら、最有力容疑者扱いです。念のため、奪っ
ておいても損はない。多い分は、燃やせばあっという間に始末できるのだから」
「……焦っていたから失念してた、ぐらいしか思い付かん」
「僕も分かりません。不思議でしょうがありません。そこで提案です。今すぐに、各自
のマッチ棒の数を調べましょう」
 テーブルに着く全員を見回した柿原。この雰囲気の中、反対を唱える者はいない。橋
部から、「ロウソクは調べなくていいのか」との問い掛けがなされた。
「ロウソクはこの場に持って来ていない人がほとんどでしょうから、後回しでいいで
す。では、言い出しっぺの僕から。まず、火起こし用に余分にいただいた五本は、とう
に使いました。真瀬君とお互いに証言できます」
 唐突に名前を呼ばれたせいか、真瀬は暫時、目を見開いたが、じきに戻った。そして
「その通り」とだけ言った。
「五本では足りなくて、僕が一本、真瀬君が二本、竈や風呂のために使っています。こ
れで僕は残り九本。夜になってから二本使ったので、手元にあるのは七本」
 こう話してから、マッチ箱の抽斗を開けてみせた。間違いなく、七本のマッチ棒があ
る。
「じゃ、流れで次は俺ですね」
 真瀬が言い、席から立った。柿原とは逆に、語る前にマッチ箱をぽんと投げ出す。
テーブルの上で開けられたそれには、マッチ棒が八本あった。
「火起こし以外に全然使わなかったのか」
「夜、外灯が消える前にコテージに戻りましたから。前に言ったように、自分のコテー
ジまでなら外灯が点いている間であれば、マッチやロウソクの明かりなしに行けるもん
で」
「……待てよ。2番コテージまでも明かりなしで行けるんだったよな」
「二番目の殺人が起きたのは、どう考えても夜中ですよねえ? 外灯が消えたあと、明
かりなしで行くのは無理。無理だっていう証明は難しいかもしれないが、それを言い出
したら、皆さん方だって、本当は暗闇でも自由に行き来できるのに隠しているだけとい
う可能性は否定しきれない、ですよねっ?」
「いや、細かいことはいい。消灯後に行き来できたとしても、犯人なら、メインハウス
で包丁を探したり、9番コテージの前でたき火の準備をしたりせねばならない。マッチ
が絶対に必要だ。全く減っていないのなら、おまえをシロ認定するのは当然だ」
「どうも。そもそも、俺には動機がないですし」
 当たり前のことを認められても別に嬉しくない、と言わんばかりに肩をすくめた真
瀬。今度は左手で右手の甲をさする仕種をした後、マッチ箱を仕舞う。場の空気に刺々
しさを残したまま、他の部員達のマッチ棒の残りも確認がなされた。一覧にすると、次
のようになる。
      橋部5 戸井田8 真瀬8 柿原7
   村上8 沼田9  湯沢9 犬養6
 全員が十本でリスタートし、橋部の消費本数が多いのは昨夜、小津の右足が見付かっ
た件で、率先してマッチを使ったのが大きい。ただし、橋部以外がカウントしていた訳
ではない。五本の具体的な使い道となると、客観性はなかった。
 彼に次ぐのが犬養だが、相変わらず、マッチを擦る行為が苦手と言われるとそうかも
しれないし、着火に失敗せず、他のことに使ったかもしれない。
「折れて火が着かなかったマッチ棒、どこかに置いてない?」
 柿原が聞くと、犬養はそれを非難と受け取ったのか、ふくれ面になった。
「置いてません。そのままだと危ないと思って、燃してから捨てていましたの。いけま
せんか?」
「いけなくはないけど、前にも同じようなことがあったんだから、今度は置いておいて
くれたら、無実の完全な証明になったかもしれないのに、と思って」
「殺人事件が続けて起こるなんて、想像もしていませんでしたから」
 分かり易く機嫌を損ねた犬養だったが、戸井田が隣にやって来て、何やら声を掛ける
と、収まったらしい。すまし顔に戻った。
「皆、食べ終わったようだし、このままロウソクも再チェックと行くか」
 橋部が言った。マッチの本数で言えば、彼が一番怪しくなるが、ロウソクを上手く使
いこなせば、昨夜から今朝に掛けて行われたであろう犯行の数々に必要なマッチの本数
は、一本だけで済むかもしれない。その代わり、ロウソクは短くなるが。
「ロウソクの長さも大事でしょうが、外部との連絡についても、方針を決めないと」
 村上から釘を刺されたこともあり、ロウソクのチェックは手短に行われた。その結
果、仕舞われていた柿原の分一本を含め、極端に短くなっていた物はなかった。
「ついでにと言っては変ですが、割り箸も調べましょう」
 柿原が提案した。
「空き缶に小さな空気穴をいくつか開けて、その中で割り箸を燃せば、明かり代わりに
なるのを思い出したので。それに明かりとは別に、例の人形も使われていましたし」
 この合宿では、食事には各人が用意したいわゆるマイ箸を使っているが、調理には割
り箸を用いている。一日を通じて三膳ほどが使われるが、夕方には竈もしくは風呂焚き
に回されるため、残らない。よって調査対象は未使用の物に限られる。
「私達の把握している限りでは、新品の割り箸が二膳分、計算が合いません。少ない」
 料理を主に受け持つ女性陣を代表して、沼田が調べた結果を報告した。
「たったの? 四本だけではどうしようもない」
 戸井田が首を横方向に何度か振った。
「確か二本が人形に使われて、たき火にも残り二本を使ったとずれば、それで終わり」
「そこら辺の枝では、湿っていて燃えない、か」
 橋部が言ったように、問題のたき火跡でも、実際に燃えたのは割り箸と紙ゴミだった
らしく、枝はほぼ焼け残っていた。
 これらの経緯を受け、疑惑が橋部に向いてしまった。急先鋒は、やはりとすべきか、
真瀬である。
「橋部先輩、マッチとロウソクを調べて、最も容疑が濃いのはあなただと言うことにな
りそうだ。それ自体は認める?」
「証拠と常識的な理屈からすれば、そうだろうな。犯行を認めはしないが、疑われるの
はやむを得まい」
 当人は否定しなかったが、外野から意見が飛んだ。柿原だった。
「待って、真瀬君。最初の事件と違って、昨晩から今朝未明までの犯行に必要なマッチ
棒の推定は難しいと思う」
「どうして? 最低でも二、三本。闇の中で物を探すから、もっと必要だろう」
「はっきり説明してなかったけれども、切断された足を見付けて調べる過程で、懐中電
灯を使ったんだ。だからまず、犯行に懐中電灯が使われていないことを確かめたいな。
ねえ、村上さん?」
「あのあと、金庫に仕舞ったわよ」
 話のいきさつから、自らにお鉢が回ってることを予想していたようだ。村上は即答す
る。
「さっき、君のロウソクを取り出したときに見たから、いちいち調べに行かなくても答
えられる。間違いなく、懐中電灯はあった。動かされた形跡もなしよ」
「分かりました。ありがとうございます」
 柿原の言葉に被せるようにして、真瀬が「ほうら見ろ」と短く口走った。
「慌てないでよ、真瀬君。まだなんだ」
「まだ? そういえばさっき、『まず』とか言ってたな」
「うん。もう一つの可能性、携帯端末の明かりを利用した可能性を検討しないとね」
「携帯のって、そんなことすれば、あからさまな疑惑の材料を残してしまう。だから使
わないというのが読みだろ。それともあれか。裏を掻いたっていうのか」
「いや、自分の携帯を使う可能性はないと思ってるよ。まあ、調べてみてもいいだろう
けど、今僕が言いたいのは、亡くなった二人の携帯端末」
「あっ」
 真瀬以外にも、虚を突かれたような反応の声が複数あった。
「尤も、小津部長のコテージはしっかり閉ざされているし、再度、格子を外す面倒を犯
人がやるとも思えないから、無視していいかもしれない。最優先で調べるべきは、関さ
んの携帯」
 柿原は力強く言い切った。

 有志三名――柿原と村上と湯沢とで、関のコテージ内を改めて探すことになった。犯
人が関の携帯電話を持ち去った恐れが懸念されたが、幸い、すぐに見付かった。荷物の
一番上に置かれていた。代表して、村上が手に取る。念のため、軍手を填めている。
「彼女、ロックを掛けてないのね。――減ってはいるけれども」
 村上は首を捻りながら、液晶画面を二人に向けた。とりあえず、現時点での表示をカ
メラに収めておく。それからじっくり見ると、バッテリー残量は半分を少し下回ってい
た。
「ほとんど使わずない環境で、充電せずに四日目なのだから、自然に減った分がこんな
ものよ。単純に比較していいものか怪しいけれども、私のも確か同じぐらいの残量」
 喋りながら、村上は自身の携帯で確認をした。同様の減り具合だった。柿原と湯沢も
それぞれチェックし、「僕も同じくらいです」「私もおおよそ半分ですね」と知らせ
た。
「当然、何かを照らすのに使ってはいないと。残念だけど、橋部さんへの真瀬君の疑い
は、消せそうにない」
 携帯の電源を切ろうとした村上を、柿原が止めた。
「あ、待ってください。ついでに、少し調べましょう」
「調べるって、これを? プライバシーの侵害よ」
「そんなつもりはありません。村上さんも承知の上で、敢えて忠告してくれているんで
すよね?」
「……何を調べたいの」
「関さんはハチを気にしていました。ハチが苦手だとしても、あんなに気にするのはち
ょっと変だった。もしかしたら、事件に関連する何かに気付いて、ハチが気になったの
かも」
「ないとは言い切れないでしょうけど、今の時季、ハチは実際にはいないんでしょう
?」
「はい。だからこそ気になりませんか。関さんは多分、ハナアブをハチと見間違えたん
でしょうけど、怖がっている素振りは感じられませんでした」
 柿原が言うと、湯沢が同意を示した。
「私も関さんが言ってるのを聞きましたけれど、怖がっているという風ではなくって、
気にしてる感じ? もしかしたらハチがいるんじゃ……っていうニュアンスに聞こえた
かな」
「関さんは蜂蜜にアレルギーがあったとか、ないですよね」
 柿原が女性二人に尋ねた。村上と湯沢は顔を見合わせ、首を傾げた。
「聞いたことないわ。もしアレルギー持ちだったなら、日常生活で周囲の人達にも知っ
てもらわないと危険だから、黙っていることはないと思うけれど」
「あっ、私、関さんが蜂蜜の掛かったクレープを食べるのを、見た覚えがある」
 湯沢の証言ではっきりした。
「ハチの刺す行為を怖がっていたのではなく、アレルギーでもないとしたら、何が残る
のかしら」
 村上の疑問に対し、柿原はあることを思い付き、「携帯の検索履歴、見てみません
か」と言った。
「何故? キャンプ場を含むこの辺りでは、全然つながらないはずよ」
「だめと分かっていても、試してみたくなることってありませんか」
「もちろんあるわ。実を言えば、小津君が亡くなって、土砂崩れで閉じ込められたと分
かったあと、つながらないか、一度だけやってみた。だめだったから、すぐにあきらめ
たけれども」
「それです。村上先輩と同じ心理で、関さんはアクセスを試みたかもしれません」
「いや、だから、どうして検索履歴なの?」
「根拠はあってないようなものですが……ネットにつなぐか電話を掛けるかしようとし
た記録があったとしても、見たってしょうがない。意味があるのは検索履歴だと思っ
た、それだけのことです。つながらなかったはずですから、実際には変換履歴になるの
かな」
「ハチについて、関さんが何か調べようとしていたかもしれない、と言うのね。日本語
入力の変換履歴は――」
 柿原の意図を解した村上は、関の携帯を手早く操作した。
「あ。昨日、アブとアナフィラキシーショックを変換していた記録があるわ」
「アナフィラキシーショック!」
 疑問が解けた気がした柿原。だが、それはほんの短い間のことで、根本的解決にはつ
ながらないと思えた。
「アナフィラキシーショックって、ハチに二度目に刺されたとき、起こす恐れのある症
状でしょ? それをどうして関さんが調べてたのかな」
 湯沢が口にした疑問に対する解答は、推測が可能だった。
「多分だけど関さんは、小津部長の死はアナフィラキシーショックが原因ではないかと
考えた。でもハチはいない。アブでも同じことが起きるのかどうかを知りたかったんだ
と思う」
「アナフィラキシーを思い付いたのはいいとして、誰にも言わなかったみたいだが、そ
れは何でなんだろう。殺人じゃなく、事故だった可能性が高くなるのは、いいことじゃ
ないの」
 村上の眉間には深い皺ができていた。関の行動が理解しがたいものに映ったのだろ
う。
「……分かりません。小津部長の遺体の様子は、アナフィラキシーショックが起きたと
きの症状に似ている気がします。でも、関さんは明らかに殺されている。部長の死も、
アナフィラキシーショック等の事故じゃなく、他殺と見なすのが妥当……」
「わざとアナフィラキシーショックを起こさせたとしたら?」
 湯沢の放った意見に、村上も柿原もしばし言葉を失った。
「あの……?」
「故意にアナフィラキシーショックを起こさせたとしたら、れっきとした殺人。そし
て、犯人はそのことに気付いた関さんを口封じした――あれ?」
 村上は一気に喋ったが、不意に止まった。
「事故死を装うつもりだったなら、足を切断するのは真逆の行為だわ」
「そう、ですね」
 理屈が通らない。見通す先に光が差し込んだかと思ったのに、かえって混乱してき
た。
「右足に傷をたくさん付けたのは、ハチの刺し傷を隠すために思えます」
「そもそもの話、ハチはいないんでしょ? どうやってアナフィラキシーショックに見
せ掛けるの?」
 柿原は黙った。これ以上考えても、泥沼にはまり込むだけのようだ。
「村上さん、湯沢さん。この検索のことは、他の皆さんには打ち明けないでおきません
か。知ったら、今の僕らと同じように、迷宮に入って出られなくなりそうな気がしま
す」
「――なるほどね」
 村上は少し考え、分かったように頷いた。
「ここにいる三人の中に犯人がいないなら、犯人に対する情報隠しにもなる、というこ
とかしら」
「好きに解釈してくださって結構です、はい」
「基本的に賛成。でも、誰か一人だけ、他の意見を聞いてみたいわね。橋部さんとか」
「橋部さんはアリバイがないので、できれば避けたいですが」
 他にアリバイがあると言えそうなのは、戸井田、犬養、真瀬の三人だが、戸井田と犬
養はそれぞれどちらかに話せば、他方に喋ってしまう可能性が高い。真瀬は些か興奮気
味なのが気になる。アリバイのない沼田は、小津の死にショックを受けてから依然とし
て落ち着いていないように見える。
 こうして適任者がいないことを、柿原自ら認めた。
「結局、橋部さんが一番いいみたいですね。真瀬君に言わせれば、橋部さんへの容疑は
濃くなる一方なんだろうけど」
 湯沢からも反対意見は出なかったため、検索履歴の件は柿原が折を見て橋部に伝える
ことになった。
 小津の携帯端末のバッテリーも異常なしであることを確かめたあと、メインハウスに
戻った。と、真瀬が「時間が掛かったようだけど」と、柿原らにまで疑うような目を向
けてきた。
「携帯を見付けるのに、少し手間取ってしまってさ」
 予め考えていた釈明をしてから、柿原は関の携帯端末のバッテリーが、放置しておい
て自然に減る割合を逸脱していなかったことを告げた。
「そうか。こっちも待っている間、念のために、互いの携帯を調べていたんだ。誰もお
かしな減り方はしていない」
 真瀬はそれから、村上に顔を向けた。
「公平を期して、そちらの三人の分も調べたいんですけどね」
 拒む理由はない。調べた結果、村上、湯沢、柿原の携帯も通常の減り具合だった。
「残るは柿原、君のノートパソコンだ。前に何度か大学へ持って来たとき、バッテリー
がへたっているのか、減るのが早いと嘆いていたよな。満タンで八時間持つはずが、使
い始めて直に七時間ぐらいになるって。あれ以来、バッテリーは交換して――?」
「いない。勿体ないから、使える内は使うよ」
「その分じゃあ調べても意味がなさそうだが、持って来てくれるか。あ、いや、こっち
から足を運べばいい。今度は俺と村上先輩が着いて行くということで」
 イニシアチブを取る形の真瀬には、何かに取り憑かれたようなものを感じなくもな
い。今は大人しく従っておくとしよう。
 その後、7番コテージにて行われたチェックで、柿原のパソコンのバッテリー残量は
36パーセントと表示された。判断の難しい値に、村上だけでなく、真瀬も黙ってい
る。柿原はとりあえず、使用状況を話すことにした。
「夜になって色々メモを書いて、そのあと、このバックライトで本を読んでみたんだ」
「あれか。ロウソクを使うのかと思っていたら、こっちとはな」
 二人のやり取りのあと、古本を借りていたことを柿原が村上に伝えた。
「それで、六時前ぐらいに起動したときが残り六時間目安で。九時前にスイッチを切っ
たから、三時間使ったことに」
「計算上、おかしくないわね。昨日よりも前にも、こっちに来て使ったんでしょう? 
その分を含めると、昨日の夕方に起動した段階で残り六時間。三時間経って残り36
パーセント。満タン八時間の36パーセントは、大体三時間」
「疑うとすれば、夜六時前から九時前まで、ずっと点けていたかのかってことになる
が」
 真瀬の言葉には遠慮がなかった。
「ソフトを起ち上げ、文章も書いていたから、自動保存機能が働いていると思うよ。そ
の記録を見てくれたら、一定間隔で文書が保存されたと分かるはず」
「なるほど、理屈だな」
 真瀬と村上が柿原のパソコンを触って、タイムスタンプに当たったところ、六時から
九時までの間に、十分おきに文書保存がなされていると分かった。
「犯行にパソコンのバックライトを使ったという線も、これで潰せた訳ね」
 村上の言葉に真瀬は首を縦に一度振ってから、ただしと言い添えた。
「厳密には、十分おきに起動させることで、バッテリーの節約は可能だけれども、その
電源の入り切りの記録も残る。犯行に使ったとすれば、真夜中に使った記録だって残
る。あとで調べてすぐにばれるような嘘を、こいつがつくとは思えないので、認めるこ
とにしますよ」
「嬉しいよ。皮肉でも何でもなく」
 柿原が微笑を浮かべてみせると、真瀬は少々気まずそうに、ぷいと背を向けた。
 そうしてメインハウスに戻って来るなり、真瀬は言った。
「今度こそこれで決まり。現時点での最有力容疑者は、橋部先輩、あなたになります
よ」
 彼の声には、どこか勝ち誇った響きがあった。ぎすぎすした雰囲気の中、パソコンが
使われた可能性がなくなったことが知らされる。橋部は年長者として冷静に受け止め
た。
「そうだな。客観的には俺が第一容疑者になる。さっきも言ったように、犯行を認める
訳じゃないが」
 答えると、村上の方に顔を向けた橋部。
「すまないが村上さん、俺が主導権を握ってあれこれ決定を下すのは、ここまでのよう
だ。これからは君が決めてくれ。しっかりしたアリバイもあるし、村上さんなら皆、文
句あるまい」
「……やむを得ない状況ですから引き受けます。責任を問われる立場であるのは元から
変わりませんし」
 あきらめを含みつつも、改めて覚悟を決めたように、村上は応じた。そして混乱の口
火を切った真瀬に聞く。
「それで? 真瀬君はこのまま犯人探しを続けたいのか、歩いてでも早く下りていって
外部に知らせたいのか。どっちがしたいの」
「全員揃っての移動が原則なら、従いますよ。歩きながら、色々と言うだろうけど」
「結構。他の人も賛成――ああ、犬養さんは? 体調は戻った?」
「完全にじゃありませんけれど、だいぶ。ゆっくりしたペースなら、ついて行けると思
います」
 犬養がやる気を見せたちょうどそのとき、横に立つ戸井田が「あれ?」という声をこ
ぼし、斜め上方の天を見た。
「どうにか聞こえた予報じゃあ、降らないはずなんだけどな」
 そこには黒い雲がじわりと広がっているようだった。すでに雫が地を叩く音が、遠く
から届いている。十分と経たない内に、この辺りも雨に降られると容易に推測できた。
「出発は延期しなければいけないみたいね」
 村上が呟くのへ、真瀬が言った。
「本意じゃないが、再び土砂崩れが起きるってこともあり得るんじゃ?」
「そうね。雨が上がっても、出発は安全確認ができてからにしたい……戸井田君、ラジ
オの電池はまだ保ちそう?」
「新品を入れて来た訳じゃないから分からない。でも、多分、大丈夫」
 ラジオの乾電池は懐中電灯のそれとはサイズが違うため、代用は利かない。
(外部への通報が、どんどん遅れる……嫌な感じだ)
 出入り口まで来た柿原は、軒先の外へ右手を出してみた。雨粒が包帯に滲んだ。

 出発の準備という名目で、皆が各自のコテージに籠もり、しと降る雨がかえって静か
さを強調する。そんな中、柿原のコテージに橋部がやって来た。
「何か手伝うことないか」
「特には……」
 とりあえず、先輩の言葉を真に受けた返事をした柿原。そのあとに話が続かないのを
見極めると、逆に聞いた。
「事件のことで話があって、来たんじゃありませんか?」
「ご名答。手伝う用事があるってことにして、中に入れてくれ」
 応じると、橋部は上がり込んで、ドアをロックした。傘は外から壁に立て掛けたよう
だった。
「手短に言うと、零余子のことを見ておこうと思ってな」
「僕もそうしたいと思ってました。あと、高枝切り鋏も」
 柿原の返答に、橋部は我が意を得たりとばかりの笑みを浮かべた。
「天気はよくないが、見る分には問題ないだろう。何らかの発見があった場合、他の連
中に言うかどうかが、悩みどころ」
「何を発見したかによるでしょう。どちらかと言えば、何も発見できなかった場合、人
形に零余子が使われた事実を皆さんに知らせるかどうかの方が、重要な気がします」
「かもしれんなあ。うーん」
「橋部さんの他に、零余子の生える場所が限定的だという話を、どなたが知ってるんで
しょう?」
「うん? おまえを除くと、小津だけだ。というか、小津が最初なんだ。小津の親族が
このキャンプ場を所有してるって話は、したっけか?」
「噂で聞いたぐらいですが」
「充分だ。小津なら合宿時に限らず、このキャンプ場に何度か来てるだろうから、零余
子の生える特定の場所を把握できたんだな。それを春の合宿で、俺にこっそり教えてく
れたんだよ。いつかトリックに使うつもりだけど橋部先輩なら使ってもOKですよって
な。俺がその前の夏頃に、トリック作りのヒントをやったんで、そのお返しってことだ
った」
「ははあ。じゃあ、小津部長が亡くなるまでは、誰にも言っていなかったと」
「もちろんだが、俺も後輩のネタをそのまま使うのも何だかなぁ、と思って、お蔵入り
させていた。今回、小津が山の案内をしたと聞いたから、てっきりおまえ達に話したん
だと思ってたが、違っていたようだし、小津も誰にも言わなかった訳だ。他の部員が自
力で気付いた可能性を排除するものじゃないが、今頃の時季にここに何度も来たことが
なければ、気付けるはずがない」
「なるほど」
「それじゃ、行くか。雨、ましになったようだから、ちょうどいい」
 腰を浮かした橋部。が、柿原にはまだ話があった。自らも立ち上がって引き留める。
「朝食後、2番コテージに村上先輩達と行ったとき、ちょっとした発見があって、でも
内密にしていたんです」
 それから関の携帯端末にあった検索履歴(変換履歴)について、過不足なく説明す
る。
「と、そんな訳で、他の四人には今は内緒で。その上で、橋部さんのご意見を」
「聞いたばかりでは難しいな。考える時間をくれ。今は、零余子を先にしよう」
「はい。それと、あとでもいいんですけど、高枝切り鋏も見ておきたいんですが」
「分かった。先に鋏だな。みんなに見られても、他に凶器になり得る物がないか、調べ
ていたと答える。いいな?」
 黙って首肯した柿原だったが、また別のことを思い起こし、声を上げた。
「あ、僕、傘を持ってきてないんでした」
「……山を甘く見てるな。しょうがない。俺のはでかいこうもり傘だから、入れてや
る」
 男同士で相合い傘となった上に、橋部の方が背が高いこともあって、先輩に傘を持た
せる格好に。柿原が肩をすぼめているのは、雨を避けるためだけではなかった。
「よし。あった。あれが鋏だ」
 物置小屋に来ると、奥まで入って行き、橋部が指差す。高枝切り鋏は、左隅の棚に寝
かされていた。摘果用ではなく、剪定鋏の柄を長くしたタイプで、全長で約二メート
ル。全体は金属の銀色、所々に青や黒のラインが横に入っている。持ち手部分も黒色。
刃の部分にはオレンジ色のカバーが被せてある。
「最近、使用されたかどうかまでは分からないが、自由に持ち出せる環境にあったのは
確かだな」
「持ち手を捻って縮めれば、一メートルもないですね。これなら持ち出しても、さほど
目立たない」
 無論、目撃されれば何事かと聞かれるかもしれないが、言い訳はいくらでもできよ
う。
「次、行くか」
 物置小屋を出る前に長靴に履き替えておく。柿原は右手の怪我がちょっぴり気になっ
たが、紐を結ぶときはしっかりと力を入れた。
「器用なもんだ」
 感心した風な口ぶりの橋部。柿原は首を横に小さく振った。
「いやいや。あのときも感心したんだぜ」
「あのときって?」
「『他履くの紐』実験の第二弾だよ」
 『他履くの紐』:“人は他人の靴紐を結んでやるとき、自分の靴紐を結ぶときとは逆
の結び方になるのかどうか”を調べるミステリ研内の実験は、第一弾が現二年生と三年
生を対象にしたが、第二弾は新入会の一年生を対象に、散発的に行われた。
(あのとき居合わせた人で、今回来ている人は、小津部長を含む先輩方全員と、一年生
では犬養さんと湯沢さんか)
「あのときは意に沿わないやり方をしちゃったみたいで」
「あれはあれでよかったさ。そうそう、柿原は最後だったから直接は見てないだろうけ
ど、犬養さんの結び方がおかしかったんだ。変と面白いの中間みたいな」
「へえ、初耳です」
「結ばれる役は戸井田がやったんだが、犬養さんは何と、戸井田のいる側に回って、後
ろから手を回して結ぼうとしたのさ。あれには唖然としたよ」
「ははあ。なるほど、それでかな?」
「うん、何が?」
「えっと、あとで時間があるときに話します。お喋りで時間を取られてる場合じゃない
ですよ」
 準備万端整い、山の方を目指して歩き出した。と言っても、山の登るのではなく、そ
の入口とでもすべき地点だから、楽だ。初日と前夜に訪れているので、柿原にも勝手は
分かっている。
「あれだ」
 左手を伸ばして示した先には、びわの木が崖の方へと幹を伸ばしていた。その枝のい
くつかに、蔦のような物が巻き付き、螺旋を描くような感じで先端へ向かっている。
「――あ、切った跡みたいなものが」
 柿原は念のため、小さな声でその発見を伝えた。一本の比較的細い枝が、他と比べて
不自然に短い。よく見ると、その先端では白い木肌が覗いている。
「自然に折れた感じじゃない。高枝切り鋏を用いて、あの枝を切ったのは確かだ。零余
子の蔦も同時に切ったと思うが、さすがにはっきり断言できるもんじゃないな」
「さっき見た鋏で切った場合、落ちちゃいませんか」
 不安に駆られ、尋ねた柿原。返って来た答は、すぐに安心させてくれるものだった。
「うまくやれば、刃に挟んだ状態で、手元に持って来られる。いや、どちらかと言え
ば、きれいに切り落とす方が難しい。丁寧に手入れしてる訳じゃないからな」
「よかった。切られた枝、探してみます?」
「見付けたとしたって、あの枝の先端だったと決め付けられないと思うが……それらし
き物は落ちてるな」
 顎を振った橋部。その先を見やると、三つほどに細く分かれた、長さ七、八センチく
らいの枝が落ちていた。びわの木に間違いない。雨に濡れてはいるが、金属の刃で切断
されて、まださして時間が経ってないと分かる。
「あっ、蔦も絡んでます。零余子?」
「すまん。そこまでの知識はない。あの木を切った物がこれなら、蔦は山芋、つまり零
余子だってことは言える。何にせよ、物証になり得るから、保管しておくか」
「……目立たない方が賢明かもしれません。持ち帰ったところを犯人に見られたら、対
策を講じられる恐れがありそう」
「ふむ。人形だけでもかなり有力だが、枝を持ち帰ったことで逆に勘付かれては元も子
もない……理屈に叶ってる。ならば――」
 橋部は携帯電話を取り出すと、地面にレンズを向け、カメラ機能で問題の枝を写真に
撮った。さらに立ち木の方に焦点を合わせながら、「柿原も撮っておいてくれ」と言っ
た。

――続く




#1106/1112 ●連載    *** コメント #1105 ***
★タイトル (AZA     )  18/03/04  22:52  (467)
百の凶器 10   永山   (追記あり)
★内容                                         18/03/14 10:39 修正 第3版
 柿原は、一つの傘の下にいるのだから今すぐ撮影してもほぼ同じ角度の物ばかりにな
るだろうと思い、しばし待った。橋部が撮り終えた段階で、立つ位置を多少変えて、何
枚か写真に収めた。
「戻るぞ。また雨が強くなった気がする。すぐにやむと思ったのに」
「はい」
 急ぎ足で戻りながら、人形はどこに保管したんですかと聞いた柿原。
「村上さんに頼んで、例の金庫の中に。小さな金庫だから、これ以上、証拠品が出て来
たら、入りきらなくなるかもな」
「村上さんを信用できる人だと、橋部先輩も考えているんですよね?」
「まあ、事件に関してはな。小津が死んだ時間帯にアリバイがあるのが大きい。同じ理
由で、湯沢さんも」
「アリバイと言えば、犬養さんにもありますし、足の切断に関してなら真瀬君にも」
「柿原、おまえ、分かっていて言ってるんだろう?」
「何がでしょう」
「とぼけやがって。スイリストのおまえが見落とすとは思えん。ま、俺の私感を述べる
とだな、犬養さんのアリバイは、音だけで成り立っている点が気にならなくもない。真
瀬の方は、アリバイと言っても時間的な物じゃなく、マッチ棒の数だからな。たいまつ
でも拵えることができて、なおかつ、飛び散った灰や燃え残ったたいまつをうまく処分
できれば、可能性は残る。割り箸は否定されたが、紙を捻るなり何なりすれば、あるい
は」
「確かにそうですが、僕は犬養さんのアリバイ証人として、あのときの声は、コテージ
内から間違いなく聞こえたと言えます。たいまつ説については、燃え残りはともかく、
灰をきれいに消し去るのは無理だと思うんです。
 足の切断に関して、必要なマッチ棒の数を、落ち着いて考えてみたんですよ。9番コ
テージの格子は、八つのネジで固定されていました。暗がりであれを外すときは、ネジ
の頭を手探りで探せば何とかなるかもしれませんが、付けるのには、そうも行きませ
ん。ネジを落としたら元も子もないからです。ネジ穴を照らして見付け、ネジを穴に入
れ、ドライバーを宛がって回す。一箇所につきマッチ一本、少なくとも八本のマッチ棒
が余分にいる。他にも、犯人自身のコテージと9番コテージとを往復する際には、ロウ
ソクを使ったはずですが、点けっ放しだとロウソクが短くなり過ぎて怪しまれるので、
9番到着後、不要時には消したはずです。何せ、足を埋めるときは絶対にロウソクの火
に頼ることになるんですから、コテージでは節約しなければいけない。コテージの行き
来で二本。加えて、コテージ内で足を切断するときも、どうしてもロウソクで照らす必
要があったでしょう。合計すれば十一本になりますが、最後のネジを締めるときに使う
マッチで、帰りのロウソクにも火を着けたとしたら、十本で済みますね。結局、十本の
マッチ棒を余分に持ってないと、犯行は不可能になる。ロウソクが余分に手に入ったな
ら、マッチは一本あれが足りるかもしれないのですが、ロウソクの数は亡くなった人の
分も含めて、合っているみたいですし」
「分かった上で、一応、否定の理由を持っているという訳か」
「先輩はどう思われます?」
「柿原の分析に一票入れてもいい。だが、それだと容疑者がゼロになるんじゃ?」
「いきなりゼロにはなりません。単純計算で、十本以上使っていたのは、犬養さんと真
瀬君。十本使ったのが僕と関さんになります」
「関さんは被害者になったから除外。おまえは火起こし係だから、実際には十本を丸
々、犯行に費やせる訳じゃない。除外。真瀬にしても、関の証言で余分には持っていな
かったと分かった。除外。犬養さんだけが残った」
「犬養さんにもアリバイがあります」
 柿原は頑なに主張した。
「それを認めるとなると、結局、容疑者がいなくなるじゃないか」
「そうなんですよ。どこかで間違ったんです。どこだか分かりませんけれど」
 とぼとぼ歩いて、メインハウスまで引き返して来た。ようやく小雨になったので、柿
原はここからは自分一人で戻れますと言った。
「長靴はそのままでいいんだな? 気を付けて行けよ。履歴の件は、もう少し考えと
く」
 そう言う橋部に礼を述べ、柿原は7番コテージまで急いで走ろうとした。が、このタ
イミングでこそ聞けることがあったんだと遅ればせながら思い当たった。かかとで急ブ
レーキを掛けると、泥水が散った。長靴だから気にせず、きびすを返して橋部のあとを
追う。じきに追い付いた。
「うん? やっぱり傘に入れてくれってか」
 振り返った橋部に、柿原は「あと一つだけ」と言った。傘の下に再び入ってから、深
呼吸をし、改まった調子で始める。
「橋部さん、もう遠慮している場合じゃないので、率直に伺います」
「お、何だ?」
「最初の日の夜、食事中に部長と話していた『あれ』って何なんですか」
「『あれ』? そんな話してたか」
「ええ。秘密めかして話しているのが、偶然聞こえただけですけど、この耳でしっかり
と」
「『あれ』ねえ……」
 記憶の掘り起こしに努める風の橋部。顎に片手を当て、斜め上を睨む様は、ポーズの
ようにも受け取れる。が、やがてぽんと手を打った。
「分かった、思い出した。『あれ』」ってのは、DVDソフトのことだ」
「やっぱり」
「何だよ、おい。質問しといて、分かってたのか?」
「い、いえ。何らかの映像であることだけは想像が付いていたという意味です」
「中身までは不明か。そりゃそうだな。秘密めかしたのは、みんなに見せるまでは文字
通り秘密にしておきたかったのと、もう一つ、結構恥ずかしいネタだからだ」
「恥ずかしい物だというのも、何となく想像していましたけど……橋部さんが、です
か」
 部員の誰かにとって恥ずかしい物だと推理していたのに、まさか、用意した当人にと
って恥ずかしいとは一体……もしや、小津が橋部を脅そうとしていたのかとまで考えた
柿原。しかしその推理は外れていた。
「勿体ぶるつもりはさらさらないんだが、その手の恥ずかしい物だから、言い出しにく
いというだけで。仕方がない。見せてやるから、コテージまで来るか」
「ぜひ」
 10番コテージまで、気持ち急ぎ足で辿り着くと、橋部は鍵を開けて中に入り、バッ
グを持って戸口に戻って来た。
「――これだよ」
 バッグの中から、無造作に取り出されたそれは、DVDのケースだった。もちろん、
中身も入っているのだろう。ジャケットにある文字は、こう読めた。
「『聖子のお尻』?」
「『痴漢電車 聖子のお尻』な」
「アダルト、ですか」
「ああ、見たまんま」
「市販品、ですよね」
「うむ。かなり旧い。昔はビデオソフトで出ていたらしい。検索したら、多分ヒットす
るはず」
「あの……市販品に、誰か関係しているんですか」
「誰かって?」
「ミス研の誰かが、ですよ」
「何を勘違いしてるか知らないが、そういうことは一切ない。恥ずかしいってのは、シ
ンプルかつストレートに受け止めろ。女性部員もいる部活に、アダルト物を持って来る
のはどうかという」
「じゃ、じゃあ、何でわざわざ持って来るんですか。他の機会を作れるでしょう」
「それでもいいんだが……知らないみたいだから、この際、教えておこう。アダルトビ
デオながら密室トリックのあるミステリ作品でもあるんだよ、これは」
「へ?」
「今は視聴するような雰囲気じゃないし、この先もいつ見られるか不透明だが、とにか
くあとで確認するといい。ハードルを上げたくないんで、詳しい内容は言わんよ」
「はあ……つまり、このDVDは、事件とは無関係……」
「そうだな。俺は犯人じゃないから、断言はできないが」
 橋部の言葉を、柿原は肩を落として聞いた。
「事件のポイントかもしれないと思って、ずっと気になっていたんです」
「がっかりする必要はない。関係ないということが分かったんだから、収穫ありだ」
「ええ……事件の全体像が、これでだいぶすっきりしました」
 気疲れを覚えつつも、柿原は頑張って笑みを作った。

 いつまで経っても、雨が上がることはなく、どちらかといえば天気自体が下り坂に入
ったようだった。
「お昼が来ちゃったか」
 時計と空とを交互に見やっていた村上が、困った風な声を漏らした。方針を決めるべ
く、メインハウスに集まったところだが、文字通り雲行きが怪しい。
「決断のタイムリミットは……四時といったところかしら? それ以降だと、橋のとこ
ろまで辿り着いた頃には、誰もいないなんてこともあるかもしれない。見張りの人が交
代で立つとは思うのだけれど、確証がないし」
「雨の勢いが強くなるようだと、監視カメラを置いて完全撤収ということもあり得そう
だからなあ」
 戸井田も先行きを見通せない現状に、不安を隠せない様子。ため息が増えている。
(事件が起きてなけりゃあ、一人か二人、体力のある人が行けば済む話なんだよね。ま
あ、事件がなかったら、車をパンクさせられてないだろうけど)
「俺としちゃあ、証拠が流れてしまう方が気になりますね」
 真瀬がやや唐突な物言いをした。挑発ではないにしても、何もできない今の状況にい
らいらしているのかもしれない。
 実際のところ、できる限りの応急処置はしておいた。雨の影響をもろに受けるのは、
たき火跡だが、大型のバケツを被せて保存に努めている。
「俺が言いたいのはそこではなくて、小津部長の右足が埋められていた場所。雨で分か
らなくなるんじゃないかって」
 真瀬の懸念も尤もであるが、完全に消えてなくなることはあり得ないだろう。キャン
プ場全体が土砂崩れを起こしでもしない限り。
「体力の温存を考慮して、そちらの捜索はしないでいたんだけれども、体力に自信があ
るのなら、やってみる?」
「どっちでもいいです。正直言って、疑心暗鬼に陥ってますから、俺」
 意外な台詞に、他の者の目が一斉に真瀬へと注がれる。
「捜索して埋めた場所が見付かったとしたって、俺自身が見付けたのでなければ、発見
者に疑いを掛けそうです。分かってるんだ。何かもう、信じられるものがなくて、耐え
るのがしんどくなってる」
 真瀬は机に投げ出していた手を組むと、右の親指で左の手の内を掻くような仕種をし
た。
「あの、真瀬君。気になってたんだけど」
 どう対処していのか戸惑う空気が漂う中、柿原が声を掛けた。
「左の手の平を掻く回数が増えてるみたいだ。ウルシのかぶれが今頃になって酷くなっ
たんじゃあ?」
「あ? ああ、こいつか」
 自身の左手を見下ろす真瀬。自嘲の笑みを浮かべながら続けて言った。
「ウルシに触ったのは一日目か。凄く前みたいな気がする。しばらくしてから症状が出
て、ちょっと鬱陶しいなと思っていたら、関さんがかゆみ止めの塗り薬をくれた。何回
かもらってた間は収まってたんだが、今日は薬、もらってないから、かゆみがぶり返し
てきやがった」
「そういうことなら、早く言えばいいのよ」
 村上が反応し、動こうとする。2番コテージに行って、関の持ち物から塗り薬を探し
て持って来ようというのだろう。
 そんな村上を橋部が止めた。「行くのなら少なくとも二人一組で頼む」と言われ、村
上は湯沢を誘って、出発した。
 橋部はそれから真瀬に向き直り、「俺に言われるのは気に食わないかもしれないが、
手を見せてくれ」と求めた。
「別に今は、気に食わなくはないですよ。疲労困憊って感じで」
「いいから、早く」
 中途半端な開き方だった真瀬の左手を、多少強引に、きっちり見えるようにする橋
部。真瀬の左手のひらには、手相の一本が腫れ上がったような痕跡が認められた。細長
い形が、ウルシの形を想像させる。所々に、赤く小さな点がポツポツと見受けられた。
「俺の朧気な記憶だが、ウルシの症状が出るのは、触ってから八時間後ぐらいから、二
日後っていう場合もあるそうだ。薬を塗ってたとしても、よく我慢したなあ」
「関さんの薬だから、より効果があった気になったんですよ、多分。薬の効能じゃな
く、プラシーボかもしれませんね。――柿原だって、湯沢さんに手当てしてもらった方
が、治りが早い気がしたんじゃないか?」
「僕を巻き込まないでよ」
 抗議する柿原だが、刺々しかった空気が和らいできたことには安堵していた。ふと気
付くと、戸井田と犬養の二人も緊張が少し薄らいだ表情で、言葉を交わしている。沼田
はまだ浮かない顔だが、それでも最悪は脱したように思えた。
 しばらくすると村上達が戻って来た。彼女からチューブタイプの塗り薬を渡された真
瀬は、自分で左手に塗った。
「もらっておいていいと思います?」
 誰とはなしに問う口調の真瀬。まだ中身のある塗り薬を、ペンの如く右手親指の上で
回していた。村上が答えた。
「借りておくのなら、いいんじゃないの」
「なら、遠慮なく」
 胸ポケットに薬を仕舞うと、真瀬は俯いた。たまたま、左胸に右手を当てるポーズに
なったが、そのことが新たに感情を揺さぶったのかもしれない。
 そこへ、ぱんという乾いた音が立てられた。村上が手を打ち、皆を注目させる。
「どうするかだけど、四時までに雨が上がれば、そのあとの雲行きとは関わりなく、四
の五の言わずに出発しましょう。上がらなかったら、そのときの雨の勢いを見てから決
める」
「それでいいと思います」
 いち早く賛同したのは湯沢。話ができあがっていたようだ。柿原も続く。流れが作ら
れ、村上の方針がそのまま通った。
「それまでの間は、自由行動という訳にはいかない。なるべく、ここにとどまって欲し
いのだけれど、強制はできない。だから」
 村上は橋部の方を一瞥した。
「さっき、橋部さんが言ったように、動くときは少なくとも二人一組で。お願いできる
かしら」
 異議は出なかった。
(二人一組の行動を認めるということは、犯人と二人きりになるケースもある。でも、
その状況で相手を襲って殺したら、自分が犯人ですと言うようなもの。だから犯人は凶
行に走れない、という理屈なんだろうな。犯人が自棄になるとか、最後のターゲットだ
からばれてもいいとかだったら、組んだ相手はやられちゃうけど。現状、仕方がない)
 柿原は自分を納得させると、早速席を立った。
「あのー、僕、借りていたDVDのことで橋部先輩と話したいんで、ちょっといいです
か」
「内容まで断らなくていいのよ」
 村上は平板な調子で応じた。多分、柿原が橋部と何を話したいのか、本当のところは
察しているはずだ。
「橋部さんは?」
「問題ない。どこで話す?」
「物が手元にないので、僕のコテージの方にしましょう」
「分かった」
 7番コテージに向かって歩き出し、メインハウスから見えなくなる位置まで離れる
と、橋部の方から口を開いた。傘は二人で一本なので、殊更に耳打ちしなくても、小声
で充分聞こえる。
「まさかまじにDVDの話じゃないよな。携帯の履歴のことか」
「ええ。ご意見を聞かないと、村上先輩に怒られるかもしれません」
「何だそりゃ。まあいい。意見は着いてから述べるとしてだ。ぶっちゃけて聞くが、柿
原は俺を犯人だとは思ってないのか? DVDのことは解決済みとは言え」
「断定はしていませんが、フラットな状態よりは、犯人ではない方に傾いています」
「何を根拠に?」
「必要と思われるマッチ棒の数、ですかね。小津部長の右足切断は、僕の計算では誰も
当てはまらないことになってしまいますし、関さんが殺された事件で橋部さんは、10
−5で五本使える計算になりますが、僕は右足が見付かったあとの経緯を見ていました
から。懐中電灯を併用したとは言え、あのときの橋部さんは、マッチを五本近く使って
いた気がします。仮に四本しか使っていなかったとしても、一本ぐらいでは関さん殺害
とたき火の細工は無理です」
「完全客観という訳ではなく、主観混じりってことか」
「現実にはそういうものでしょう」
 7番コテージに着いた。泥跳ねを気にしながらのせいで、いつもよりは時間が掛かっ
た。ドアの施錠をしてから、早速本題に入る。
「さて、俺の意見だが。小津の死因が何であるかとは関係なく、関さんはアナフィラキ
シーショックによるものだと考えたんだと思う」
「……でしょうね」
「アナフィラキシーを思い付くには、何らかのきっかけがあったんじゃないか。たとえ
ば、アナフィラキシーショックを起こした人を見た経験があるとか。だが、それなら思
い付いてすぐにでも周囲の者に言えばいい。現実には、関さんは誰にも話していないよ
うだ。何故か」
「待って、ちょっと考えさせてください。……アナフィラキシーによる死であっても、
事故じゃなく、他殺だと考えたんじゃないですか?」
「同感だ。彼女は部員の誰かが、故意にアナフィラキシーショックを起こす狙いで、小
津の長靴にハチらしき虫を入れるのを目撃したんじゃなかろうか」
「でも部員の誰かを疑うには確証がなかったでしょうから、とりあえず調べようとし
た。ハチが飛んでいないか、アブでも同じようにショックが起きないかを」
「うむ。ここからが難関だ。ハチがいないのに、アナフィラキシーショックは起きるの
か? 蕎麦などの食べ物によるアレルギーでも起きるが、状況にそぐわないだろう」
「現状の僕らでは、知識や情報が足りないのかもしれません」
「……思い出した。仮にアブでアナフィラキシーショックが起き得るとしてもだ、小津
部長はそういう体質じゃあないはずなんだ」
「え、どうして言えるんです?」
 怪訝がる柿原に対し、橋部は明快に答えた。
「あいつがアブに刺されたのを、複数回目撃しているから。春の合宿や大学で」
「そうだったんですか。だったら、アブじゃなかったことになる……」
 二人とも黙ってしまった。別角度からの意見を聞くために橋部に話したが、彼もまた
迷宮に入り込んでしまったかもしれない。しかし、柿原は刺激も受け取っていた。
「そもそも、関さんはハチを気にしていましたが、目撃したのがハチに似た何かを長靴
に入れるところとは限らないんじゃないでしょうか」
「というと?」
「関さんが目撃したのは、誰か犯人が小津さんの長靴に虫のような物を入れる場面だっ
た。その後、小津さんが亡くなり、関さんはひょっとしたらアナフィラキシーのせいで
は?と考えた。アナフィラキシーと言えばハチ毒が真っ先に思い浮かびます。だからハ
チを気にしたのかも」
「ふむ……そういう考え方もできるな。彼女の行動はどうにか説明がつきそうだが、犯
人の方の行動は理解しがたい部分が残るぞ」
「右足切断ですね。事故に見せ掛けたいなら、そのままにしておくべきなのに、切断し
た上に刃物で傷つけるなんて」
「俺が考えたのは、犯人は小津部長の右足に、何らかの決定的な証拠を残した場合なん
だが。証拠を処分するために、切断して持ち去った。刃物で傷を付けたのは、証拠隠し
の目的を隠すため」
「おかしいです。橋部さんの言う通りだったなら、長靴ごと右足を埋めた理由が分かり
ません。埋めたことは未確認ですが、ほぼ間違いないでしょう」
「そうなんだよ。それに、犯人によって長靴に入れられた虫が死因なら、その虫は長靴
の中にいると思うんだが。犯人は虫を取り除きたくて、足を切断した、なんてこともあ
るまい。9番コテージに忍び込んだとき、長靴を脱がせるだけでいいんだから」
「虫がいなかったのは、シンプルに捉えていいと思います。刺された瞬間に察した小津
さんが、急いで長靴を脱いで虫を追い出し、また履き直したところで身体に異常を来し
たと」
「うむ、筋は通る。考えてみれば、部長は不運過ぎる。いつものように厚手の靴下を穿
いていれば、刺される可能性はずっと低かった。右足は通常の靴下でも、もし犯人が左
の長靴に虫を入れていたなら、左足は厚手の靴下だったから、やはり刺される恐れはぐ
っと減るだろうに」
「いけない、すっかり失念していました。靴下のことがあったんだ」
 顔の下半分に片手を当て、考え込む柿原。その間に、橋部が口を開く。
「小津が普通の靴下を右足だけに穿くよう、犯人が仕向けるなんてできそうにない。靴
下は、小津自身の選択だと考えるべきだろう。一方で、長靴を履いた状態では、他人が
見ても靴下が厚手の物か普通の物か、判別できない。となると、犯人が虫を右の長靴に
入れたのは多分、偶然だろう」
「……でしょうね」
 相槌を打つと同時に、柿原は小津の様子を思い起こそうと努めていた。二日目の午前
中、小津はどうしていたか。
「橋部さん。アナフィラキシーショックって、二度刺されることが必要なんでしたっ
け?」
「うん? いや、一度でも起きることがあると聞いた覚えがある。稀だとは思うが」
「そうなんですか。じゃあ、厳密さを求めるなら、だめかぁ」
「何だ、言ってみろよ」
「いえ、時間差で複数回刺されたパターンを想定していたんですけれど、考えてみれ
ば、長靴の中の虫に続けざまに二度刺された可能性だってありますし、これでは推理を
うまく展開できません」
「――柿原の言いたいことが、想像できた気がする。犯人が、アナフィラキシーショッ
クは二度以上刺されない限り起こらない、と思い込んでいたとしたら? 換言すると、
犯人は小津を殺害するつもりなんてさらさらなかった、ただ虫に刺されてちょっと痛い
目に遭えばよかった。なのに死んでしまったとすれば……」
 橋部の台詞を柿原は受け取り、継ぎ足した。
「犯人は大慌てでしょうね。事故死に見せ掛ける意図もなかったのだから、パニックに
なって、本当に死因が虫に刺されたことなのか知ろうとする。右足を切断して持ち去っ
たのは、その恐慌状態故の行動。そして確認の結果、虫に刺された痕を見付けてしまっ
た。ごまかしたい一心で、刃物を使って右足に多数の傷を付けた」
「おお、筋道は通るじゃないか」
 感嘆の響きを含む橋部の声。しかし柿原は首を左右に振った。
「確証がありません。加えて、関さんが殺されているという事実は大きいです。小津さ
んが実は過失致死で、関さんが他殺というのはバランスが変ですよ」
「いや、それだけを理由に捨てるには惜しい仮説だ。そうだな……関さんが殺されたの
も、パニックの延長と考えるのはどうだ」
「……考える値打ち、ありそうですね」
 他にも、左右で異なる靴下を穿く状況、火あぶり人形という過剰演出等、気に掛かる
点はまだ残っているものの、基本的にこの線で進めるのは悪くないと思えた。少なくと
も、小津の死に関して、犯人が事故に見せ掛けたかったのか否か、矛盾する行動を取っ
たことの説明になっている。
「ぼちぼち戻らんか? 二人だけで長々と話していると、他の連中からよからぬ相談を
していると誤解される恐れ、なきにしもあらずだろう」
 冗談とも本気ともつかない口ぶりで、橋部が言った。

 メインハウスに戻ってみると、六人の間でも議論が起きてた。口論と呼ぶ方が近いの
かもしれない。中心となっているのは、真瀬と湯沢らしい。ぱっと見たところでは、腰
を浮かせた真瀬が一方的に湯沢を責めているようだが、詳細は分からない。とにかく真
瀬が憤慨し、湯沢は項垂れ気味で、涙目になっている。
 橋部が村上に聞いた。
「何があった?」
 村上は湯沢を支えるかのように背に手を当てていたが、その役目を沼田に任せた。そ
れから真瀬に向かって、「今、二人に説明するから、その間は黙って聞いていてよ」と
鋭い調子で言い付けた。
 真瀬は不承々々といった体で頷くと、元いた椅子に座った。
 その様にため息を吐いた村上だが、気を取り直したように面を上げ、橋部と柿原にこ
との経緯を話し始めた。
「最初、湯沢さんがね、『私の言った防御方法を関さんがやっていたら、助かったかも
しれないのに』と呟いたの。あ、独り言って意味じゃなく、私が聞き手。ぽつりって感
じで話したのよ。詳しい説明を求めると、コテージの外側のノブにウルシの蔦を巻き付
けておけば、何かあっても犯人の手はかぶれるだろうから、防御になるかなって考えた
と。そしてそのことを冗談半分に、関さんにも言っていたらしいわ」
 柿原は内心、ああ、あのことかと得心していた。
(実行していたからと言って、関さんが助かったかどうかは分からない。彼女は犯人を
招き入れた節があるのだから。でも、湯沢さんが気にするのも理解できる。理解できな
いのは、これを何故、真瀬君が激怒してるんだろう?)
 柿原は不思議に感じつつ、真瀬をちらっと見た。そしてすぐに思い当たった。真瀬の
左手のことに。
(そうか。真瀬君は左手にかぶれの症状が出ている。そのことを言われたと早合点し
て、つまり犯人扱いされたと解釈して、あんなに怒っているのか)
 柿原が瞬時に想像したのと同じことが、村上の口から話された。
「本当にごめんなさい。誰かを疑うという気持ちなんて全然なくて、ただ、あのときこ
うしていればって、後悔した。それだけ」
 消え入りそうな声で、どうにか言葉を紡いだ湯沢。真瀬の方は無反応を決め込んだ様
子だ。既に落ち着きはだいぶ取り戻しているようにも見える。怒りの持って行き場がな
のと、振り上げた拳の下ろしどころを測っている。そんな風に見受けられた。
「真瀬君、気持ちは分かるけれど、僕から言わせてもらう」
 柿原は頃合いと見て、声を掛けた。もちろん、湯沢をこの状況から脱出させたい気持
ちも強くある。
「現実にウルシがノブに巻き付けてあったならまだしも、何にもなかったのにそんなに
怒るなんて、行き過ぎだよ」
「……そんなもの、犯人があとでウルシを取り去ったとしたら、関係なくなるじゃない
か」
「そもそも、関さんがわざわざ山まで入って行って、ウルシを採ってきたと思う? そ
んな手間を掛けるかどうか疑問だし、もし採取したなら、関さんの手か腕にも、かぶれ
た痕ができるんじゃないかなあ」
 軍手を填めて実行した可能性があるのは百も承知。ここは敢えて単純化し、議論のス
ピードアップに努め、畳み掛ける。
「まして、湯沢さんを責めるのはお門違いだ。彼女は関さんのためを思って言ったこと
なのだから」
「……」
「これ以上、湯沢さんを責めるのなら、代わりに僕が話の相手になる」
 決めに行くつもりで放った台詞。これで決められなかったらどうしようと、冷や汗も
のの柿原だったが、幸い、真瀬は退いてくれた。
「いや、相手にならなくていい。俺も悪かった。感情的になった。すまん、湯沢さん」
 両手を拝み合わせ、頭を下げる真瀬。左手の痛がゆさは、薬の効果が出てるらしく、
気にする仕種は見当たらなかった。
 湯沢の方も誤解を招きやすい発言を改めて謝罪したことで、この一件は収束した。

「橋のところまで歩いて行く前に、全部吐き出しておいた方が、お互いのためになるん
じゃないか」
 真瀬の興奮が静まった直後、橋部がそんなことを言い出した。村上がびっくりしたよ
うな見開いた目付きで橋部を見返し、遅れて聞き返した。
「何故です」
「現状、俺達は豪雨の被災者だということを念頭に置いて、考えてほしい。わだかまり
を抱えたまま集団で避難を始めても、些細なことで亀裂が入りかねない。出発前に、事
件に関連する気になっていることや疑いなんかがあるのなら、全て話して、すっきりさ
せた方が、集団行動によいと思うんだが、どうだろう」
「理屈は分かりました。けれども、わだかまりを言い合った挙げ句に、疑心をお互いに
持ったままスタートするのも御免です」
「だからさ、互いに言い合った結果、どうしても解消できないような物事があれば、そ
のときは全員一致の行動を見直さないか?」
 ここに来て、時計の針を戻すような提案。村上を含む何人かが、ええ?と拒絶の色を
示した。
「全員で行動しない方針を採るんでしたら、今ぐずぐずしてないで、体力のある数名で
行けばいいことになってしまいます」
「あー、違う違う。ばらばらに動くってんじゃない、二班ぐらいに分けようっていう案
さ。二つのグループとも、下を目指して移動する。時間差を付けるだけだよ」
「……そういうことでしたら」
 検討の価値ありと見たか、村上は静かになって考え始めた。しばらくして、村上は柿
原を見、また橋部を見た。その視線のまま、新たに問う。
「橋部さん。そう言われるからには、何か目算がおありなんですね?」
「どうかな。まあ、ゼロってことはないと思ってくれていい」
 村上はまた一つ、深く息を吐くと、「仕方ありません」と呟いた。
「司会進行は、橋部さんにお任せした方がよろしいのかしら」
「うーん、主導権は村上さん、君にある。進行役を誰にするかも、君が決めてくれりゃ
いい」
「その言い方だと、時間も限られていることですし、私がするしかないみたいですけれ
ど、いいんですね」
 現実的に考えて、一年生では荷が重い。三年生の橋部は辞退したも同然。二年の中か
ら選ぶことになるが、沼田は依然として調子が万全とは言い難く、残る村上と戸井田を
比べれば、より明確なアリバイのある村上が適任となろう。
「それじゃあ早速ですが、橋部さんから」
 と言い掛けた村上を、戸井田が制した。
「悪い。先に明らかにしておいた方がよさそうなこと、あるんだけど」
「何よ」
 出鼻をくじかれた村上は、少々不機嫌な口調で戸井田を促した。
「実は少し前に、真瀬から疑問が出されてたんだ。充電器を持ってきた奴がいるんじゃ
ないかって」
 戸井田の発言で、真瀬に注目が行く。村上は「充電器……」と呟く口の動きを見せて
から、「災害時用の手回し充電器?」と聞き返した。応じたのは真瀬。
「手回しタイプとは限らないけど、そういうことです。犯人が当初から犯行の計画を立
てていたなら、いや、計画を立てていなくても、携帯の充電をしたいから持って来たと
いうことは充分に考えられる。ですよね?」
「携帯端末を充電して、明かり代わりにした人がいるんじゃないかと疑っている訳ね」
 村上が合点してそう言うと、今度は再び戸井田が口を開いた。
「機械に詳しいってことで、俺が真っ先に疑われたみたい。その潔白を証明すると共
に、みんなについても調べようって訳」
「持ち物検査をするとでも? 時間を取りそうなのは、あまり好ましくないのだけれ
ど」
「かまわないだろ」
 渋る村上に対し、橋部が反対意見を述べる。
「時間がない訳じゃないし、時間が余ったらあとで調べようってほど軽く見なしていい
事柄でもあるまい。俺も充電器は気になる」
「それでは……男女別にコテージの近い者同士で二人一組になり、互いの持ち物とコ
テージをチェックするものとします」
 村上と沼田、犬養と湯沢、橋部と真瀬、戸井田と柿原という組み合わせで、すぐさま
調べが行われた。探すべき物のサイズが分からないだけに、簡単ではなかったが、三十
分強で終了した。そうして、充電器が使い物にならなくなるような隠し方(ばらばらに
壊して隠す、水没させる、埋める等)を除けば、誰もそんな器具を所持していないと言
えそうだった。
「充電器を持ってきた奴がいたなら、初日の時点で皆に言うだろう。誰も持って来てい
ないと見なしてかまわないと思う」
「しかし橋部さん、計画的犯行だとしたら、隠しておくはずですよ」
 戸井田が言った。真瀬からの疑いを完全に晴らしたいという気持ちが、表情に出てい
る。
「いや、ある理由から突発的な犯行である可能性が、非常に高いと考えてる。さっき、
柿原とそんな話になってな。ちょうどいい、柿原から説明してやってくれ」
 話を振られた柿原は、まとめる時間をちょっとだけもらって、小津の死が計画的な犯
行ではないとする推理を披露した。まずアナフィラキシーショックから始まって、犯人
が小津の右長靴に何らかの刺す虫を入れたこと、犯人に殺意がなかったと思しきことな
どをつなげ、過不足なく説明した。柿原が反応を窺うと、犯人の一見矛盾する行動をき
ちんと解釈できるせいもあってか、全員にすんなりと受け入れられたようだ。
「同じ理由で、懐中電灯などの明かりを持参しておきながら隠しているというケース
も、想定から除外できる」
 橋部はそう付け足すと、真瀬に目を向けた。
「納得行ったか?」
「あ、ええ、まあ」
 どこか上の空になっていた真瀬は、慌てたような返事をした。柿原の話の途中で充電
器や懐中電灯の可能性はとっくに捨てて、別のことを考え付いた風に見受けられた。
が、今ここで何か言い出す気配はない。
「じゃあ、次。戸井田君みたいに、どうしても先に言っておきたいことがある人、い
る? いたら優先して話してもらうわ」
 時計を見ながら言った村上としては、形式的な文句のつもりだったかもしれない。だ
が、すっと手が挙がった。
「沼田さん、何?」

――続く(問題篇.終わり)




#1107/1112 ●連載    *** コメント #1106 ***
★タイトル (AZA     )  18/03/23  22:27  (262)
百の凶器 11   永山
★内容                                         18/04/10 19:48 修正 第2版
 村上に言われてからも、沼田はしばらく口を開かないでいた。改めて、「言いにくい
ことでも、かまわないのよ。今は吐き出すための時間だから」と村上がフォローしたと
ころ、沼田は面を意識的に起こした。意を決した風に見えた。
「昨日辺りから気になっていた。戸井田君と犬養さんて、意外なくらいに親しいんだな
って」
 彼女の視線の先では、戸井田と犬養が並んで座っていた。
 急に名指しで話題に上げられた二人は、傍目にも分かるくらいきょとんとしている。
演技だとしたら、やり過ぎなほど。次の瞬間には、言われたことを理解したのか、椅子
を動かして少し距離を取る。
「それが何か」
 戸井田が固い声で聞き返す。沼田はすぐに答えなかった。決意の表情とは裏腹に、ま
だ言い淀んでいるようだ。その合間を埋めるように、真瀬が口を挟んだ。
「そう言や、蝋の痕が点々と続いていたっけ。1番と6番コテージ」
「どういうこと?」
 聞き咎めたのは村上。返答の前に続ける。
「夜、どちらかがどちらかを訪ねたのね」
「――はあ。自分の方が」
 真瀬の方をじろっと見てから、戸井田は認めた。
「いつからなの」
「は?」
「いつから親しい関係になったのかと聞いているの」
「そ、それ、今、言わなきゃいけないこと?」
 質問攻勢に、戸井田は必死に防御する。犬養は好対照なまでに静かなままだ。身体の
向きを斜めにし、話題を避けようとしているのは明白だが、澄ました顔つきが度胸の据
わり具合を示していた。
「普通なら聞かないわ。今だからこそよ。あなた達が付き合っているのなら、ちょっと
考え直さなきゃいけないことが出て来そうだから」
 村上のこの言葉で、沼田も最後の踏ん切りが付いたようだった。犬養に向けて、やや
刺々しい口吻で尋ねる。
「この合宿に来て、事件が起きたあとに仲がよくなったんじゃないよね? 前からじゃ
ないの?」
「――だったら何だと言うんですか」
 犬養は案外、落ち着いた返事をした。ただそれは冷静であると言うよりも、疲労から
来るもののように映った。
「あなたと戸井田君が以前からそういう仲だったのなら、アリバイを崩せる余地が出て
来るわ」
 言いたいことのポイントが明らかになった。橋部がすかさず口を挟む。
「アリバイって、二日目午後のか。共犯だとしたら、何ができる?」
 その問い掛けに被せるようにして、戸井田が「共犯なんて冗談じゃない!」と叫ぶ。
犬養の方も、短く歯軋りの音がしたようだが、喚くのはみっともないと心得ているの
か、まだ反論や否定の狼煙は上げない。
「まあまあ、戸井田君も落ち着いて。今は思っていることを吐き出して、言い合う場
よ。言ってみれば、仮説なんだから。沼田さんの話を最後まで聞いて、それから。ね
?」
 村上が宥め役に回ると戸井田は一応、矛を収めた。発言者の沼田は、戸井田から柿原
へと視線を移動させた。その目付きに冷たいものを感じた気がして、柿原はわずかに身
震いした。
「犬養さんのアリバイを証言しているのは、君」
「ええ。村上さんに言われて呼びに行って、コテージの外から声を掛けたら、返事があ
りました」
「姿は見ていない?」
「もちろんです。ドアは開けてないし、窓の側にも回りませんでしたし」
 明朗に答える柿原を前に、沼田は得心した風に首を縦に振った。
「そうよね。姿を見ていないのがポイントだと思う」
「もしかして」
 橋部が口を挟む。皆まで言わぬ内に、沼田はまた首を縦に振る。
「そうです、声だけ出せればいいんです。スピーカーになる物を用意して、1番コテー
ジのドアに向けて設置。離れた場所から、例えば9番コテージから本人が喋って音声を
飛ばす。もちろん、訪ねてきた相手の声を拾わねばならないので、マイクも必要」
「そんな仕掛けというか機械なんて、私には知識がないし、物理的にも持ち運べません
でしたわ。とても用意できませんけれども?」
 犬養が初めて反論した。だが、彼女自身、沼田の言いたいことは分かっている様子
だ。戸井田の方を一瞥し、また沼田を見た。
「代わりに戸井田さんが仕掛けを用意してくれた、と先輩は言うんですわね?」
「そうよ。戸井田君なら機械に強いし、車で来たから、機械類を運び込むことも可能」
 戸井田が口を開き掛けたが、橋部が手で制した。
「言いたいことは分かった。客観的な疑問だが、実際にそんな細工をしたなら、機械が
どこかに残っているはずだが、見当たらないな。そんな機械が持ち込まれたんなら、つ
いさっき、コテージを調べたときに、何か見付かっていていいはずだ」
「大きさは分かりません。紙みたいに薄いスピーカーもあるくらいだから、どうとでも
なるのでは」
 沼田の受け答えを聞く限り、冷静さを失ってはいないらしい。
「なるほど。では、別の角度から聞くとしよう。仮に沼田さんの言うようなトリックを
用意していたとして、犯人はどんなタイミングで使うんだろう?」
「使うタイミング、ですか?」
 質問の意図が飲み込めない。そんな風に首を傾げ、口元を歪めた沼田。
「柿原が呼びに行くことを、犬養さんが前もって想定できていたかって意味さ」
「それは、誰が来るかは分からないでしょうけど、誰かが呼びに来るのを待ち構えて…
…」
「呼びに来るかどうかすら、確定事項じゃあない」
 鋭い口調の否定に沼田は明らかに怯んだ。だが、自説を簡単には引っ込めない。
「いえ、100パーセントでなくてもいいんです。可能性はそれなりに高いはず」
「呼びに来た奴が、コテージの中を覗いたら? 無人だとばれてしまわないか」
「覗けないように窓を閉めて、カーテンを引いておけばいいんです。実際、どうなって
いたかの確認はもう無理でしょうけど」
「じゃあ、呼びに来た奴がドアの前にずっと張り付いていたら? 一緒に行きましょう
って」
「そんなことはあり得ません。小津君も呼びに行かなきゃいけないんだから」
 この応答に対し、橋部は頬を緩めて首を振った。
「いやいや。そいつは結果論だ。あのとき、もしも村上さんが、柿原に犬養さんを呼び
に行かせ、別のもう一人に小津を呼びに行かせたとしたら?」
「っ……」
 言葉に詰まった沼田。確かに、1番と9番別々に人が呼びに行き、なおかつ、その人
物がずっと待ったとしたら、彼女の推理は成り立たない。犬養が1番コテージ内にいな
いことがばれてしまうだろう。
「他にも欠点はある。君の説だと、犯人は9番コテージからメインハウスに向かう訳だ
が、呼びに来るタイミングによっては、そいつと犯人とが鉢合わせだ。そうなっちまっ
たら、犯人に言い逃れはできない」
「……分かりました。納得しました」
 いつの間にか俯いていた沼田は面を起こし、絞り出すような声で言った。それから戸
井田と犬養のそばまで行き、「ごめんなさい。私が間違っていた」と頭を下げた。その
まま膝を折って、土下座までしようとすると、犬養が急いで手を差し伸べた。
「もういいですわ。先輩が躍起になっていたのは、端から見ていても分かりましたか
ら。小津部長が亡くなって、一番悲しんでる」
 犬養は戸井田へと振り向き、「かまいませんわね、戸井田さん?」と、この場にはふ
さわしくない、でも犬養のようなキャラクターでこそ許されるであろう笑顔で聞いた。
「あ、ああ。自分は実行犯と言われた訳じゃなし」
 戸井田は妙な空気に耐えられないとばかり、妙な理屈を付加しつつ、沼田の謝罪を受
け入れた。

「こう重苦しいと、次の奴が声を上げにくいだろうから」
 前置きをしつつ、肩の高さで挙手したのは橋部。
「村上さん、次は俺で」
「目算ありと先程言われた話ですか? それはそれで重苦しくなるのでは」
 警戒する村上に対し、橋部は首を左右に振った。
「いや、それじゃない。関係ないかもしれないが、とにかく軽めの疑問。だから、安心
してくれ」
「……分かりました。どうぞ」
 進行役に承知させると、橋部は真瀬をちょんと指差し、「左の手のひらをよく見せて
くれないか」と求めた。
「またウルシかぶれですか。もう無関係だと分かったでしょう」
 嫌がる口ぶりの真瀬ではあったが、席を立つと、左手を前に出してきた。テーブルに
手の甲を着ける形で腕を寝かせ、手を開く。そこにはまだ例の腫れが残っていた。
「参考になる資料がないので断定はしないが、これはウルシじゃなくて、虫刺されじゃ
ないか?」
 橋部の問い掛けに、真瀬は若干、顔を前に突き出した。
「え? 虫に刺されたなんて、記憶にない。というか、こんなに細長い痕になる虫刺さ
れって、その昆虫はどんな口をしてるんですか?」
「虫刺されってのは言葉の綾で、これ、ムカデの類と思うぞ。前に見たとき、気になっ
たことがあってな――ほら、二つの赤い点になっているとこがあるだろ、これ、噛まれ
た痕じゃないかな」
 橋部が爪先で示した先には、小さな赤い点が二つ、並んでいた。あれがムカデの口だ
としたら、そこそこ大きなサイズだろう。
「ええ? それこそ全く覚えがない。手にムカデだなんて、絶対に気付くって」
「確かに、ムカデに刺されると激痛が走るから普通は気付くとされる。が、寝ていたな
ら分からんぞ。特に、手や足がしばくら身体の下になって痺れた状態のときなら」
 橋部の強い口調に、真瀬は「まあ、それならそうだったんでしょう」と認めた。
「でも、だからって何だと言うんです?」
「大した意味はない。関さんのコテージに、ウルシによるトラップが仕掛けられていた
なら、逆に無実の証明になったのに、惜しいことをしたなと思っただけだ」
 橋部のその話を聞いて、柿原は黙っていられなくなり、つい口を挟んだ。
「その理屈はおかしいですよ。ウルシに触れても、かぶれない体質っていうだけで、無
実の証明にはなりません」
「――そうだな。間違えた」
 柿原と橋部のやり取りを聞いていた真瀬は、気疲れを起こしたか、背もたれに思い切
り体重を預けるような座り方をした。どす、と重たい音がした。
「他には?」
 村上の声にも、どことなく脱力したものがある。このまま終わってもおかしくない雰
囲気だが、橋部に本命の仮説が残っているようだから、そうも行かない。
 空気を打破するように手を挙げたのは、犬養だった。
「真っ先にお断りしておきますと、意趣返しをするつもりはありません」
 沼田を一瞥してから、彼女は気怠そうに続けた。実際、疲れているのは傍目にも明ら
かである。いつも入念に行う肌の手入れが今日は不充分なのか、角度によっては目の下
に黒っぽい影が認められた。
「これまでの事件でアリバイがある人を数えてみました。細かな再検証は煩雑になるの
でよしておきますが、時間的なアリバイは村上先輩に湯沢さん。空間的なアリバイは
私。使ったマッチ棒の数という、いわば物理的なアリバイは真瀬君。他に、戸井田先輩
も写真を撮っていたアリバイが認められる余地があると信じますが、私が言うのも何で
すし、機械に細工をすればごまかせるのかもしれませんので、ここでは認定しないもの
とします」
 そう言われた戸井田は、複雑な表情をなした。素直に喜んでいないことだけは確か
だ。
 犬養はそんな戸井田の様子に気付いているのかいないのか、先を続ける。やや芝居っ
気のある動作で、左手を開いて五本指を立てると、順に折り曲げていった。
「亡くなったのが二人で、アリバイ成立が四人。残りは四人――橋部さん、沼田さん、
戸井田さん、柿原君。この中のどなたかが犯人である可能性が高いと思われます」
「犯人がいる、と断定しないのかい?」
 橋部が興味深げに聞いた。犬養は充分意識的に言葉を選んでいたと見え、すぐに答を
返した。
「しませんわ。容疑者を取り除く条件がほんとに正しいのか、絶対の自信はありません
もの。思いも寄らないアリバイトリックや殺害方法があるのかもしれません。それに、
ここからさらに絞り込もうとしても、私には無理でした。関さんが亡くなったあとの、
皆さんのマッチ棒の数を頼りに考えるなら、一、二本しか使っていない沼田・戸井田の
両先輩には難しく、五本減っている橋部先輩が一番怪しい。でも、部長の右足を見付け
た過程を聞くと、五本くらい使うのも当然のように思えてきます。一応の注釈付きです
けれど一緒にいた方々の証言もありますし。それならば、残る一人、三本使用の柿原君
を俎上に載せてみましたが……真瀬君と一緒に火を起こしているのですから、火起こし
に使った分は誤魔化しが利かないでしょう。実質、私的に使えたのは二本。これでは二
本減っていた戸井田先輩と同じ条件です。犯行は難しいとせざるを得ません」
「――要するに?」
 言葉が途切れるのを待って、村上が確認する風に聞いた。
「要するに……マッチ棒の数からの犯人特定は無理です」
 犬養は、今度は言い切った。長口上に疲れたのか、ふーっと強めに息を吐いて、締め
括りに掛かる。
「別にぐだぐだな推理を披露したかったのではありません。マッチ棒を根拠にした絞り
込みは無駄だということを、共通認識として皆さん持っていらっしゃるのか、明白にし
ておきたいと思ったまでですの」
「まあ、はっきりとは認識していなかったとしても、ぼんやりと勘付いていたと思う
ぞ」
 橋部が言った。どことなく、苦笑いを浮かべているようだ。
「俺達は推理研だ。推理物が好きな人種のさがとして、程度の差はあっても、犯人を特
定しようと考えを巡らせたはず。で、当然、マッチの数に着目しただろう。そして、ど
うやっても特定できないと感じたんじゃないか」
 その言葉に、柿原は内心で何度も頷いていた。恐らく他の人も同じ気持ちに違いな
い、犯人を除いて――と思った。

「私も、一つ気になっていることがあります」
 湯沢から声が上がったことに、柿原は驚いた。思わず、椅子から腰を浮かせたくらい
だ。不用意な呟きで真瀬を怒らせてしまってまだ間がないのに、ここで新たに意見を述
べる勇気?を彼女が持っているとは、想像していなかった。
「事件に関係あるかどうか分かりませんが、いいですか」
「あなたが関係あるかもしれないと考えるなら、全くかまわない」
 村上に促され、湯沢は一層、意を強くしたようだ。
「ずっと不思議に感じていたんです。先輩方は皆さん、このキャンプ場は初めてじゃな
いんですよね?」
「まあ、そうなるな」
 橋部が言った。
「二年生全員を対象とするなら、前の春、参加できなかった奴もいるが、そういった二
年の部員で、今回初参加って奴はいない。俺も無論、複数回来ている」
「でしたら、明かりの不便さは充分に承知していたはずです。全く対策を立てずに、ま
たここに来られたんでしょうか?」
「なるほどな。尤もな疑問だ」
 橋部はそう言うと、二年生をざっと見渡してから、また口を開いた。
「湯沢さんが言いたいのは、明かりがなくて不便だと経験済みなら、二回目からは、何
らかの明かりを持参するものじゃないかってことだよな」
「はい、そうなります」
「俺に限って言えば、何にも準備してこなかった。基本、こういう場所に来るときは、
不便さを楽しむもんだと思ってる」
 彼の返事のあとを次ぎ、今度は村上が答える。
「私もほぼ同じ考えだけれど、加えて、懐中電灯用に乾電池を買ってくると聞いていた
ので、いざというときもそれがあるなら大丈夫と思っていたわ。それよりも湯沢さん。
あなたは、二年生以上が怪しいと言いたいの?」
「いえっ、違います」
 そう受け取られるとは想像していなかったとでも言いたげに、右の手のひらと首を左
右に強く振る。
「どなたか一人くらい、明かりを自前で用意されたのなら、早い時点で話してると思う
んです。それを言わないのは、どなたも用意していないか、最初から犯行を計画してい
たか。発端となった小津さんの件は、偶発的な色彩がとても濃いと感じます。ですか
ら、前もって計画して密かに明かりを持って来るというのはないはずです」
「そうね。充電器のときの理屈と同じになる。なのに、敢えて今、こんなことを言い出
した理由は何かしら」
「村上先輩の考え方に、私も同じだったんですが、少し前に、柿原君がDVDを借りて
いたと言ったのを聞いて、本当にこの理屈を信じていいのだろうかとちょっと確かめた
くなったんです」
「え?」
 全く予想していないところで名前を出され、焦りの声をこぼした柿原。
「僕が橋部先輩からDVDを借りてたことが、何かおかしいかな」
「おかしいっていうほどじゃないかもしれない。でも、気になったから。どうしてこの
場で返すんだろうって」
「観終わったのを返すのは、早い方がいいと思って」
「いつ観たの?」
 その質問を受けた瞬間、柿原は湯沢の疑問の根っこが何なのか、理解した。恐らく―
―今、キャンプ場でDVDソフトを再生できる機械を持っているのは、柿原だけ。で
も、バッテリーの残量から考えて、DVDをここで視聴したとは考えにくい。そうなる
と、合宿前から視聴済みだったことになる。ならばわざわざ持って来なくても、もっと
前の段階で返却できるはず。実際はそうなっていないのだから、何らかの裏事情がある
のでは。たとえば、密かに電源を確保できるような何かが――湯沢はそこまで考えたに
違いない。
「凄いよ、湯沢さん。まさかそういう推理をされるとは全然、想像すらできなかった」
「じゃあ、やっぱり、橋部さんが持って来た明かりの電源を借りて、DVDを観た?」
 少し悲しそうな目で問われ、柿原は急いで否定に走る。深刻にならないよう、努めて
軽い調子で。
「違う違う。推理の着眼点は凄くても、残念ながら外れ。橋部さん、DVDのことを言
ってもいいですよね?」
「しょうがない。DVDのことだけじゃなく、俺と柿原が二人で何を話していたかも全
部言わないと、説明が付かんな、これは」
 年長者の橋部は、威厳がなくなることを心配してか、情けない微苦笑と大げさなため
息をダブルでやってから、事の次第を話し始めた。

――続く

※行数の上限にまだ余裕があることもあり、追記するかもしれません。あしからず。




#1108/1112 ●連載    *** コメント #1107 ***
★タイトル (AZA     )  18/04/15  20:53  (189)
百の凶器 12   永山
★内容                                         18/06/05 12:46 修正 第2版
 柿原が所々で補足しつつ、橋部が説明をし終えると、真っ先に反応をしたのは湯沢だ
った。
「あ、あのことで橋部さんの意見を聞いていたのね。私ったら、知っていたのに、全然
忘れてしまってた」
 肩を小さく狭め、申し訳なさげに項垂れる。髪で表情が隠れる彼女へ、柿原が「大丈
夫、紛らわしいことを言った僕が悪いんだから」と慰めた。
「DVDのことはともかく、アナフィラキシーショックの話は、早く言ってほしかった
です」
 唇を尖らせたのは真瀬。村上がすかさずフォローに回る。
「あくまでも推測だからね。関さんが検索しようとしていたらしいってだけよ」
「しかし……確度は高いんじゃないですか、これって」
「ええ。関さんが何かを目撃して、そのことに気付いた犯人に口封じされたというの
は、ほぼ決まりじゃないかしら。小津君の死亡が、犯人にとって意図的な犯行だったの
か、不幸な偶然だったのかは、意見が分かれるでしょうけれど。私は、後者だと思う」
 村上の見解を聞きながら、湯沢の様子を窺う柿原。彼女は他殺説を採っていると思わ
れるけれども、現状はそれを言い出す雰囲気でないと推し量ったのだろうか、特に発言
はしないようだ。
 発言を続けたのは、真瀬だった。
「まあ、部長の死亡状況が想定できたことで、ようやく見えてきた気がしましたよ。ま
だまとまってないが、俺が考えた推理、聞いてもらえます?」
「拒む理由はないわね。でも、ちゃんとまとめてからの方がいいんじゃないかしら」
 村上が半ば諭す風に言った。それは、真瀬が些か暴走気味であることを鑑み、冷却期
間を取らせようという配慮だったのかもしれない。
 真瀬は改めて他の者を見渡した。村上の忠告を受け入れるかどうか、迷っている様子
がありありと窺える。
 そこへ、橋部が口を開く。
「時間の空白ができることを懸念してるんなら、無用だぞ。おまえが考えている間、俺
が推理を話すとしよう。もし万が一にも、それぞれの推理が被っていたら、笑い話にも
ならないが」
「そう……ですね。橋部先輩、お先にどうぞ。俺は考えてるんで、あんまり熱心に聞け
ないかもしれませんが」
「かまわん。――それでいいか?」
 村上に最終確認を取る橋部。
 二度目の意見開陳を求められた村上は、「今度こそ、本命の推理ですか?」と聞き返
した。時間の消費は予定していたよりもオーバーペースである。
「ああ」
「それじゃ、なるべく手短に、ポイントを絞ってお願いしますね」
 念押しした村上だが、彼女自身、効果を期待していない言い種だった。
 そんな副部長の気持ちを知ってか知らずか、橋部はわざとらしい咳払いをし、「さ
て」と言った。有名な言い回し――名探偵みなを集めて「さて」と言い――に倣った訳
でもあるまいが、どうも芝居がかっている。
「他のみんなはどうだか知らないが、正直言って、俺は暗中模索の五里霧中がずっと続
いていて、手掛かりはたくさんありそうなのに、ほとんど前進していない焦燥感ばかり
あった」
 語り掛けるような口ぶりにつられて、何人かがうんうんと頷く。話し手の橋部もま
た、その反応に満足げに首肯した。
「が、今朝だったか寝てる間だったが、ふと閃いた。ぴかっと光ったというよりも、そ
もそも論だな。問題のタイプが違うんじゃないかって」
「勿体ぶらずにお願いします」
 村上が嘆息混じりにスピードアップを求めた。橋部は、「真瀬に推理をまとめる時間
をどのぐらいやればいいのかと思ってな」と、言い訳がましく答えた。
「ま、ずばり言うと、犯人は何故、便利な明かりを作ろうとしなかったのか?ってこと
さ」
「便利な明かり?」
 一年生女子らの反応は、揃って怪訝がっている。
「下手な表現ですまん。そうだな、犯行に当たって使い勝手のよい明かりって意味だ。
作ろうと思えば、できたはずなんだ。そりゃあ、ロウソクを使う方法だとばればれだ
が、柿原が言ってたように割り箸ならどうだ。割り箸を大量に持ち出し、適当に折った
物を空き缶に入れて、火を着ける。紙を先に燃やし始めれば、箸にも簡単に火が回るだ
ろう」
「確かに。でも、実際にはそんなことをした証拠は出て来ていません。割り箸だって、
二膳しか減っていない」
 村上が指摘するが、橋部は力強く首を横に振った。
「悪いが、ピントがずれてる。俺が言いたいのは、どうして犯人はたくさんの割り箸で
安定的な明かりを作らなかったのか、という疑問さ。マッチをいちいち擦るよりずっと
効率的だろ。遠慮する必要はない。仮に割り箸を使い切ったって、マイ箸があるんだか
ら、食事には困らん。方法を思い付かなかったとも考えにくい。空き缶を燭台代わりに
する方法は、皆が真似した。そこから割り箸を燃やすことを発想するのに、ハードルは
高くないだろ」
「確かに……」
 戸井田が呟く。他の面々――犯人はどうだか知らないが――も、多分、同じ気持ちだ
ろう。
「便利な手段を採用しない理由は何だ? 頑なにマッチ棒を使ったのは、マッチ棒の数
で容疑者を絞り込めるようにという、俺達ミステリマニアへのサービスか? 普通に考
えて、そんな馬鹿な訳ないよな」
 指摘されてみれば、なるほどおかしい。盲点だった。長年の慣習のようなもので、こ
れこそミステリという底なし沼にどっぷり浸かりすぎたマニア故と言えるかもしれな
い。
「……作りたくても作れないとか? たとえば、手が不自由で」
 またも戸井田の呟き。疑惑を向けられたと意識した柿原は、間髪入れずに反論した。
「僕のことを言ってるんでしたら、的外れです。作れますよ。仮に血が付着したって、
燃やすんだから関係ない。気にせずに作れます」
「俺もそう思う」
 橋部からの応援に、内心ほっとする柿原。
「片手が使えれば充分だ。さあ、いい加減、俺の推理を話すとするかな。前提として、
犯人は他人に濡れ衣を着せようと計画したんじゃないかと考えた。まずは、柿原が外に
干していたハンカチに血が着いていた件。あれは柿原の思い違いではなく、犯人が小津
の右足を切断したあと、自分のコテージに戻る途中で、手に少し血が着いてしまってい
るのを見て、ふと閃いたんだと思う。この血を、干しているハンカチに擦り付けてやれ
ば、柿原に疑いを向けられるぞ、と」
 柿原にとって気分のよい話ではないが、一方でうなずけるものがあった。湯沢から借
りたハンカチに改めて血が付着した経緯を説明するのに、今の仮説は充分ありそうだ。
「この一連の事件に、計画性はあまりないだろう。ハプニングに対処するために、その
場で急いで組み立てた計画だから、多少の穴や矛盾がある。だからといって、さっき俺
が述べたマッチ棒のみに拘った明かりは、どう考えても不自然だ。犯人はマッチの明か
りに拘泥することで、己にとって有利な状況を作り出す狙いがあったんじゃないか? 
俺はその考えの下、メンバー各人に当てはめて検討してみた。すると、マッチの数によ
ってアリバイを確保できた者が一人いると気付いた」
 橋部は一気に喋って、容疑者の名を挙げた。
「真瀬、おまえだよ」
 挙げられた方の真瀬は、一瞬遅れて面を起こした。元々、橋部が話し始めた時点で、
俯きがちになって考えをまとめに掛かっていた様子だった。
 そこへ突然名前を呼ばれたのだ。暫時、意味が分からないとばかりに表情を歪めてい
る。そもそも、橋部の推理をちゃんと聞いていたのかどうか。
 その確認はせず、とにかく村上と柿原が、橋部の推理のポイントを伝える。すると、
真瀬はますますしかめ面になり、どういうことですかと地の底から絞り出したような声
で聞き返す。
「関さんが死亡した件で、真瀬にはアリバイありと認められた。犯行に必要とされる分
量のマッチ棒を都合のしようがないという理由だったよな」
「事実、足りなかった。仮に関さんのコテージまで、往復できたとしても、メインハウ
スでの家捜しや9番コテージ近くでのたき火の用意が無理だって、橋部さん、あなたが
言ったんじゃないですか?」
 目の色を変えての反論とは、このことを言うに違いない。食って掛かる真瀬に対し、
橋部は暖簾に腕押し、あっさりと前言を翻しに来た。
「あのときは言った。でも、考え直したってことだ。探偵が間違える場合もある」
「いやいや、あなたは探偵じゃない。だいたい、そんな屁理屈で俺を追い詰めたって、
すぐに行き止まりでしょうが! 何故なら、マッチ棒を使わないでどうやって明かりを
用意できたんだっていう疑問が解消されていない!」
「確かに。未使用の割り箸は減っていないし、使用済みの割り箸をちょろまかすのも難
しい。他に燃やす物と言ったって、密かに薪割りをして薪を増やしてもすぐにばれるだ
ろうし、湿気った木の枝や草じゃ無理だし、紙や布なんかがこのキャンプ場に充分な量
があるとは思えない。計画的犯行ではないのだから、身の回りにある処分可能な紙や布
の量だってたかがしれているだろう」
「ほら見ろ」
 言い負かせたという思いからか、言葉遣いが一層荒くなる真瀬。鼻息も荒い。
「どうしたって明かりは確保できないんだ。あとは何かあります? 俺が村上先輩と密
かに通じていて、懐中電灯を使わせてもらったとか言うんじゃないでしょうね?」
「私を巻き込まないで」
 呆れた口ぶりながら、努めて冷静に釘を刺す村上。橋部は苦笑いを浮かべて、「そん
なことは微塵も思ってない」と確言した。それから真瀬に改めて言う。
「明かりを用意する手段について、今はまだ確証がない。それよりも、真瀬も推理を話
してみるってのはどうだ? 俺が話したのとは違うかもしれないしな」
「あ、当たり前だ、自分自身が犯人だなんて推理、どこの誰がするか」
 真瀬は馬鹿負けしたように首を横に振った。
(これは……推理の出来はともかく、橋部先輩の誘導がうまい?)
 二人のやり取りを聞いていた柿原は、ふとそんな感想を抱いた。
(さっきまでの流れなら、真瀬君は当然、明かりを用意する方法を示せと、橋部さんに
続けて詰め寄るところだ。示せないのなら推理は間違いだと結論づけられる。なのに、
そうならなかったのは、橋部さんの推理がポイントポイントではいい線を行ってるのも
あるけれど、真瀬君にも推理を話せと水を向けたのが大きい。しかも、『俺が話したの
とは違うかもしれない』と付け足したせいで、真瀬君の方は勢いを削がれた感じだ)
 柿原の気取った通り、場は真瀬の推理を待つ雰囲気になった。
「じゃあ、誰が犯人だと考えた? 今の俺の推理を聞いて結論を変えるのに時間がいる
か? 犯人は橋部秀一郎だという推理に組み立て直すのに、どれくらい掛かる?」
「犯人だと疑われたから、やり返すために推理を変えるなんて、馬鹿げてる」
 真瀬は真っ当に反論し、橋部からの挑発的な言葉を封じた。橋部が何を意図して真瀬
を煽るのか、柿原には想像も付かなかった。多分、他のみんなも同じだと思う。
 ここで村上が二度手を打ち、注意を向けさせた。
「橋部さん、先輩らしくもうちょっと大人の振る舞いをしてください。収拾が付かなく
なりかねませんよ、まったく」
「自重するよ。今言いたいことは言ったしな」
 この受け答えに村上はまた一つため息を吐いて、そして真瀬に向き直った。
「それで真瀬君。たいして時間は取れなかったと思うけれど、推理を話せる?」
「話しますよ。こうまで言われたら、俺は俺の推理を話して、疑惑を払拭するのが一番
でしょう」
 真瀬も深呼吸をした。ため息ではなく、頭を冷やすための行為のようだ。
「なるべく冷静に話す努力はしますが、つい感情的になるかもしれないと、予め言って
おきます。もしそうなったら、ブレーキを掛けてくださって結構ですから」
 彼の前置きは、些か大げさだと思われたかもしれない。が、一方で、真瀬がこれから
犯人を名指しするつもりなんだという“本気度”を感じ取った者もいよう。一瞬、静寂
に包まれた場の空気は、真瀬が喋り出してからも変わらなかった。
「俺が着目したのは、例の呪いの人形でした」
 真瀬は、火あぶりに処されたような演出を施された人形のことを持ち出した。呪いの
人形という表現で、全員に通じる。
「あれを見て、何となくもやっとしたんだ。隔靴掻痒っていうか、中途半端っていう
か。あの人形、割り箸や枝、手ぬぐいと材料集めにはそれなりに手間を掛けた様子なの
に、作り自体は荒い、雑だなって」
「そう言われると……奇妙な印象受けるわね」
 村上が呼応した。真瀬の固かった口調は、この合いの手で若干、滑らかになった。
「でしょう? 特に、割り箸と枝を組んで大の字を作りたいのなら、何故、結ばなかっ
たんだろう?って思います。あれは布を巻き付けただけでしたから、ちょっと乱暴に扱
えば、崩れかねない」
「結びたくても、結べなかったのではありませんか。紐状の物が手近には見当たらなく
て。結ぶ物がなければ、結びようがありません」
 犬養が反論を述べたが、その見方は真瀬にとって織り込み済みだったようだ。間を置
かずに否定に掛かる。
「辺りには蔓草が生えているし、手ぬぐいの端をほぐせば、糸ぐらいできる。あるい
は、番線の切れ端だって落ちてる」
「ああ、そうか。だったら、犯人がそうしなかった理由は……」
 戸井田の呟きに頷いた真瀬が、言葉を継ぐ。
「ある意味、犬養さんの反論は当たっている。犯人は結びたくても結べなかった。紐状
の物はあっても、結べない。だから紐状の物を最初から用意しなかった」
「えっ、それってまさか」
 聞き手の何人かが、柿原を見やった。真瀬が仕上げとばかりに言い足した。
「その通り。犯人は柿原、おまえなんじゃないか」
 そして柿原の片手を差し示した。怪我を負った右手ではなく、左手の方を。
「おまえの左手は、今も動かないんだろう?」

――続く




#1109/1112 ●連載    *** コメント #1108 ***
★タイトル (AZA     )  18/04/27  21:52  (256)
百の凶器 13   永山
★内容                                         18/06/05 12:55 修正 第2版
「ああ」
 元々隠していないし、部内では周知の事実。特に力むこともなく、淡々と肯定する柿
原。彼の左手には神経の障害があり、自由に動かせないし、力もまともには入らない。
そのため、右手のひらに怪我を負っても右手を使い続けなければならない。バーベキ
ューのような立食の席では、補助具があると非常に便利だ。マッチを擦るぐらいなら右
手だけで充分だし、パソコンのキーボード入力は右手一本でも達者だが、手のひらサイ
ズを超えて複数の箇所を同時に押さねば作動しないような道具は、さすがに使えない。
「僕の手の状態が、犯人である証拠? どうして?」
 友人からの疑惑を受け止めた柿原は、まず当然の質問を返した。
「そりゃあ、決まってる。皆まで言わせるのか」
「遠慮なく、はっきり言ってもらいたいよ」
「……人形についての考察から、明白だろ。片手しか使えないからこそ、雑な造りにな
った」
「それだけ?」
「怪しむ根拠なら、他にもあるさ。まず、斧の柄に着いていた血。あれはやっぱり、お
まえの右手の傷から染み出たものじゃないのか。外に干していた借り物のハンカチに血
が付着していたというのだって、怪しいもんだぜ。血塗れになった手でついうっかり触
ってしまったのを言い繕って、いつの間にか血が着いたことにしただけなんじゃない
か、と思うね」
「……」
「まだある。小津部長の右足があとになって出て来たが、そのとき履いていた長靴の紐
はほどけたままだったんだろう? 犯人が一旦脱がせてから、また履かせるに当たっ
て、紐は元のように縛った方が本来の目的をカムフラージュできたはず。だが、実際に
は違った。犯人は結びたくても結べなかったんだ。それから、俺としては次の条件が一
番の決定打と考えている。関さんの遺体に見られる痕跡だ」
 真瀬の語調はいよいよ熱を帯びる。
「彼女の首には絞められた痕があったが、完全ではなかった。犯人が絞殺にしなかった
のは、片手しか利かないからじゃないか? 首に掛かったタオルをいくら引っ張って
も、片手では絞め殺すのは無理だろう。そして、その中途半端な絞めた痕跡を残したま
まだと、有力な手掛かりになってしまう。それを防ぐため、犯人はわざわざメインハウ
スに行き、持ち出した刃物によって関さんの首に傷を付けた。あれは切断を躊躇したの
ではなく、絞めた痕をごまかすためだったんだろう。片側だけに強く痕が残っていた
ら、犯人は片手にしか力が入らないことがばれてしまうからな」
「明かりの問題はどうなるの」
 ブレーキを掛ける意図があったのかどうか、村上が質問を差し挟んだ。真瀬の勢いは
衰えない。
「柿原、予備のバッテリーを持って来てたよな、パソコンの方」
「うん」
「パソコンのバッテリーをチェックするとき、予備のことをすっかり失念していた。予
備の方を使って、パソコンのバックライトを頼りにすれば、マッチやロウソクの数とは
関係なく、夜の犯行は可能になる」
「予備も調べてくれれば、使われていないと分かるよ、多分」
 柿原の受け答えに自信がなかったのには、理由がある。使い始めてかなりの年月を経
ているバッテリーなので、本体から外していてもそこそこ放電する。その減り具合によ
っては、使ったと疑われても仕方がない恐れがある。
「多分とは?」
 橋部から問われ、柿原は正直に答えた。話し終えるや、真瀬が怒気を含んだ声で言っ
た。
「何だよ、その言い分は。使っていなくても減ってるかもしれない? 証拠から排除し
てくれと言いたいのか。汚いぞ」
「何と言われようとも、事実を伝えたまでだよ」
「話にならねえ」
 声を荒げた真瀬だが、柿原に詰め寄るような真似はせず、何か堪えるかのように両拳
を強く握りしめた。彼が口を閉じた隙を狙う形で、橋部が村上に聞く。
「どう思う?」
「真瀬君の推理ですか。説明の付いていない点は残っていますし――」
「どこがですかっ? 言ってくれたら説明しますよ」
 村上の台詞に被せて来た真瀬。その興奮ぶりに、村上は「じゃあ、言うけれど」と応
じた。
「とりあえず、動機の有無を言及するのはありかしら」
 これには真瀬の機先を制する効果があったようだ。やや口ごもってから、答える。
「それは……説明つきませんけど、アナフィラキシーショックが小津さんの死因なら、
単なるいたずらのつもりだったのが、思いがけず大ごとになってしまった可能性が大き
いんじゃないですか。関さんは、その巻き添えを食らってしまった」
「柿原君が部長にいたずらを仕掛ける動機は」
「は? そんなことまで分かりっこないじゃないですか。いたずらに理由なんて」
「じゃ、いいわ。動機以外で言うと……柿原君には窓の格子を外したり取り付けたりす
るのって、結構大変だと思うんだけど」
「不可能じゃないでしょ。そうすることが絶対に必要となれば、できると思いますが。
それに、最悪、9番コテージの中に入れさえすればいいんであって、格子を外す行為は
絶対に必要。格子を填め直したのは発覚を遅らせるために、余裕があったから――」
「そこなんだけど、斧の柄に血が付着していた事実から、一足飛びに、安置している小
津君の遺体を調べましょうと言い出したのは誰?」
「……柿原、です」
 目を大きく開き、空唾を飲み、継いで俯く。虚を突かれた、想像していなかったのが
ありありと分かる反応を示した真瀬。村上はかまわずに疑問をぶつけた。
「柿原君が犯人で、発覚を遅らせる目的で格子を取り付け直したのなら、矛盾している
んじゃない?」
「確かに矛盾です。だが、疑われることを見越して、敢えて相反する行動を取ったのか
も」
「そんなことを言い出したら、理屈や蓋然性に因った推理はできなくなるわよね」
「……今のはなし、取り消す。でも、柿原を怪しむだけの理由はあるでしょうが」
「君が言っているのは、人形の造りのことね。そこなんだけど」
 村上はここで柿原に視線を当て、「言ってないの?」と尋ねた。
「え、あ、はい。わざわざ言ってませんでしたし、目の前でやる機会も、確かなかった
かもしれません」
 話しながら、キャンプ場に着いたその日も、長靴の紐は結ばずにただ履いただけだっ
たことを思い出した柿原。
「何の話をしてる?」
 真瀬が気短に割って入った。柿原は村上の様子を見て取り、自ら答えることにした。
「真瀬君は知らなかったみたいだけれども、僕は紐を結ぶことができるんだ。だから、
人形の作り方を根拠に、犯人は僕という説は成り立たない」
「何?」
 信じられない話を耳にした。そう言わんばかりに、口をぽかんと半開きにする真瀬。
「実際にやるのが早いだろ」
 橋部が言い、辺りを見渡す。察した湯沢がポケットから赤と白からなるカラフルなリ
ボン状の物を一本取り出し、柿原へ手渡す。長さは三十センチ余り、髪を結ぶのに使っ
ているようだ。
「ちょっと平べったいかもしれないけれど」
「ありがとう。問題ない、これくらいが一番やりやすいな」
 右手で紐の位置を整えてから握ると、柿原は片手で器用に結んだ。そして黙って真瀬
に示す。
 真瀬にとって想定外だったのだろう、しばらく言葉が出て来ないでいた。
「……木の棒と棒を結んで、固定することもできるのか?」
「できると思うよ。きつく結ぶために、足で踏んづけるかもしれないけれど。やってみ
ようか?」
「いや、いい」
 黙りこくって、また考える様子の真瀬。橋部が聞いた。
「結べない者がいないのなら、推理を根本的に見直す必要があるよな?」
「……いえ。柿原が実は結べたからって、あいつが犯人ではないことを証明するもので
はない。ですよね?」
「そりゃ、理屈の上ではそうなるが」
「だったら、最有力容疑者はまだ柿原だ。明かりの一点だけでも怪しいし、血痕のこと
も作為的に見える」
 頑なに唱える後輩に対し、橋部は次のことを聞いた。
「人形が紐状の物で結ばれていなかったことは?」
「それは……俺を含めたみんなが推理を間違えるよう、誤誘導するために敢えて結ばな
かった」
「その仮説はいくら何でも無茶だ」
 即座に否定され、真瀬は目を剥いた。
「どうして? 自分なら引っ掛からないとでも言いたいんですか?」
「そうだな……ある意味、そうとも言えるが、引っ掛からないんじゃなく、引っ掛かり
ようがない」
「え? ああ、橋部先輩は知ってたという訳だ。柿原が紐を結べることを」
 察しが付いたぞとばかり、ほくそ笑む真瀬。対する橋部は二、三度小さく頷いて、
「うむ、俺は知っていた。戸井田もだ。そして、村上さんも犬養さんも湯沢さんも知っ
ていた」
 と、事実を伝えた。
「……知らなかったのは俺だけってことですか?」
「ここに来ているメンバーの中ではな。あ、関さんも知らなかったはず」
 しばし唖然とする真瀬に、何故知っている者と知らない者とができたのか、事情を説
明してやる。
「――つまりだ、真瀬一人をターゲットにした偽装工作なんて、現実味に乏しいって思
うんだが。それとも何か? 真瀬は柿原から要注意人物と目されるほど、突出した探偵
能力を自負しているとでも言うか」
「そんな自負、あったとしても、自分から言いやしませんよ」
 苦笑と失笑と自嘲とが入り交じったような表情をなす真瀬。それは、動揺を覆い隠そ
うとするかの如く、徐々に広がる。
「柿原が怪しいとする理由は、まだ残ってる。関さんの首を絞めた痕に関する考察は、
充分に説得力があると信じる」
 改めてそう言われた柿原は、頭の中で、場にふさわしくないことをふと思い付いてい
た。
(首を絞めて殺す――絞殺――絞殺に関する考察。あ、おまけに『“関”さんに“関”
する』と来た)
 柿原はかぶりを強く振ってから、真瀬を見つめ返した。
「その理屈が通るなら、真瀬君だって怪しくなるよ」
「何?」
「左手の腫れだよ。それをウルシかぶれだと思っていたなら、そして凶器のタオルにウ
ルシが移ることを警戒したのなら、君だって片手で絞めようとするはずじゃないかな」
「馬鹿を言うな! ウルシを触ってからどれだけ時間が経ってるんだ!」
 真瀬が大声で否定したが、柿原にも言いたいことは残っている。
「もしくは、単にかぶれが気になり、力が入らない、入れづらかったということも想定
できるよね。かぶれは今も残ってるくらいだし」
 柿原の仮説に、真瀬はやや怯んだように見えた。自分の武器だと信じていた理屈を逆
手に取られたのだから、それも道理だろう。だが、真瀬は武器に固執する道を選んだ。
「俺が言い分を認めたとする。その場合、犯人はおまえか俺に絞られたと見ていいの
か?」
「僕はそんなつもりは……。素直な気持ちを言うと、親しい仲間を犯人だと指摘する覚
悟は、今の僕にはない」
「スイリストではあっても、名探偵にはなれないってか」
「いや、推理でも、まともな筋道は付けられていない。途切れ途切れのルートが散在し
ている状態とでも言えばいいかな」
「そのルートの一つでも、俺を犯人と示していないのか? 無論、絞めた痕跡以外で、
だ」
 真瀬と柿原のやり取りに、他の者は静かになっていた。二人の対決姿勢が、短い間に
作り上げられた感があった。
「ルートというか、まだ不可解な疑問点の段階だけど、一つある」
 柿原は考えながら答えた。
 真瀬は「言ってみろ」と荒い語勢で促した。
「じゃあ……真瀬君、借りた本にレシートが挟まっていたんだけど、覚えある?」
「ん? ある。というか、不思議でも何でもないだろう。買ったときのレシートを、し
おり代わりに挟むとか」
「うん。買った日付からして、レシートはその本の分と言えた。問題は、そのレシート
に、黒い痕があったこと。楕円形のね」
「何だって、黒い楕円? そっちは記憶にないな」
「これなんだけど」
 現物のレシートを取り出し、指先で摘まんで、見せる。微かな空気の動きで揺らめい
て、印刷された字は読み取りづらいだろうが、黒い楕円ははっきり見える。
「見せられても、変わらないな。記憶にない」
 真瀬は思案下に首を傾げ、慎重に言葉を選んだようだった。
「だいたい、挟んでいたことさえ当たり前すぎて、言われるまで忘れていた」
「じゃあ、無意識の内に下敷きにしたんだろうね。このレシート、よくある感熱紙だ
よ」
 柿原の指摘に、真瀬よりも早く、外野から声が上がる。
「あ、その楕円は、何か熱い物が当たった痕跡か」
「恐らくそうです。初めて気付いたときは薄暗い部屋だったのでぴんと来なかったんで
すが、明るいところで見直してやっと分かりました。そして、この楕円……形、大きさ
とも、缶詰とぴったり一致するんじゃないかな」
「――どういう意味だ? 何が言いたい?」
 真瀬が聞く。声の響きには、警戒が露わだ。
「レシートの挟まった本を借りたのは、三日目の夕食後だったよね」
「ああ」
「一方、僕ら推理研の面々が共通して、空き缶にロウソクを立てて使い始めたのは、同
じ三日目でも夕食よりもあと、だいぶ暗くなってから。それまでは使っていなかった。
これっておかしくない?」
「……」
 口元をいくらか動かしたが、最終的には固く唇を結んだ真瀬。代わるかのように、橋
部がずばり言う。
「俺達がロウソク立てとして空き缶の利用を始めるよりも早く、真瀬はそうしていたと
考えられるな。レシートは分かっていてか、たまたまかは知らんが、熱を持った缶の下
敷きになっていた。だから黒い楕円の痕跡が残った訳だ」
「それが何か?」
 口の中が乾いたのか、真瀬の声はかすれて聞こえた。咳払いをして、言い直す。
「それが何か問題ありますか?」
「問題あるわ」
 村上が言った。場の空気の調整役を担っていた彼女も、ここは疑惑の追及に出る。
「今、大変な状況になっているわよね。一人だけ蝋を地面に落とすことなく、ロウソク
を安定して持ち運べる方法を早々に思い付いて使っていたなら、どうして他のみんなに
教えてくれなかったの? 疑われるとでも考えたのかしら。そんなはずないわよね。み
んな異常事態に多少パニックになっていたから思い付かなかっただけで、普段なら簡単
に思い付く類の方法だもの」
「……蝋が落ちない方法をみんなに知らせたら、蝋を手掛かりにできなくなるから…
…」
「その言い分もおかしい。犯人は9番コテージ侵入事件の時点で、すでにロウソク立て
に空き缶を使っていたことは、ほぼ間違いないでしょ。今さら蝋が落ちる落ちないを気
にしたって、犯人特定にはつながらないと思うけど?」
 村上の舌鋒に、真瀬が一瞬、口ごもった。しかし、十秒足らずの思考時間を経て、再
度反論する。
「そ――そんなことが言いたいんじゃあないっ。俺は認めていないですから」
「?」
 主旨が飲み込めないと疑問符を浮かべたのは、村上一人ではなく、他の全員がそうだ
った。
「俺が柿原に本を貸す前は、レシートは真っ白だった。空き缶の痕がレシートに付いた
のは、柿原に本を貸したあとなんだ」
「ええ?」
 柿原は真瀬の台詞を思い返した。なるほど、追い込まれた感はあったものの、空き缶
を早くからロウソク立てとして使用したかどうかは、明言しなかったように思う。
「じゃあ、僕がわざと付けたと言うんだね?」
「ああ、俺を陥れるためにな。本を貸す前の時点で、犯人が空き缶をロウソク立てに使
っていたのは確定事項と見なしていたよな。濡れ衣を着せる策として、うってつけって
訳だ」
「……」
 これも決め手にはならないか、と内心で嘆息する柿原。尤も、落胆してはいない。決
定打になると考えていたのなら、自信を持って言い切る。最初から、疑問点を挙げるだ
けのつもりだったのが、真瀬の反論が過剰だったせいで、おかしな方向に行ってしまっ
た。
(でも、今の真瀬君の興奮ぶりや言い訳を素直に受け取るなら、犯人は彼ということ
に)
 柿原の感想は、真瀬以外のメンバーも同じ考えらしい。不意に降りた静寂の中、あか
らさまな疑惑の目が、真瀬に集中していた。当然、本人も察している。
「俺が犯人だと疑うのなら、さっきの問題を解決してからにしてもらいましょうか」
「さっきのって」
 村上が困惑げに言葉を途切れさせた。様々な証拠らしき物、ロジックらしきことが扱
われてきたおかげで、真瀬の言葉が何を指し示しているのか即座には理解できない。
「俺には明かりがなかったってやつですよ。関さんが亡くなった事件で、犯人はメイン
ハウスの家捜しをしたり、人形の火あぶりの儀式を用意した。いずれも明かりがないと
こなせない」
 確かに、この点に関して言えば、真瀬は犯人ではあり得ない。柿原の方が、パソコン
の予備バッテリーの件がある分、不利と言える。
 勝ち誇った真瀬に対し、その理屈を壊す声は上がらなかった――しばらくの間だけ
は。
「あの」
 湯沢の声は遠慮がちで大きくはなかったが、静かな場には充分に浸透した。
「そのことで、私、考えがあります」

――続く




#1110/1112 ●連載    *** コメント #1109 ***
★タイトル (AZA     )  18/05/05  23:31  (208)
百の凶器 14   永山
★内容
「やれやれ。こんなにも君と相性が悪いとは、ここに来るまで思いもしなかったよ、湯
沢さん」
 真瀬が肩をすくめ、音を立てて椅子に座り直した。
「聞いてやる。言ってみろ」
 が、すぐには始まらない。始められないようだ。そこで柿原は湯沢の隣まで移動し
た。彼女が多少怖がっていると見て取ったから。
「大丈夫?」
「う、うん。どうにか」
「本当に何か考えがあって? まさかと思うけど、僕を助けようとして無理に……」
「そんなことない。さっき、閃いたの」
 湯沢が微笑むのを見て、柿原は驚くと同時に心配にもなった。そんな都合よく閃くも
のか? 柿原の不安をよそに、湯沢は背筋を伸ばして立った。勇気を振り絞った証のよ
う。
「きっかけは、橋部さんと沼田さんのやり取りと、犬養さんと柿原君のやり取りを思い
出したことです」
 名前を挙げられた内の一人、柿原はすぐ前で発言する湯沢を見上げた。何のことを言
っているのか、咄嗟には掴めない。他の三人も、思い当たる節がないと見える。互いに
ちらと顔を見合わせた程度で、特に発言は出ない。
「正確な言葉ではなく、ニュアンスになりますけど……沼田さんが濡らしたマッチ棒を
処分したと言って、橋部先輩は乾かせば使えたかもしれないのにと応じていました。そ
れから、犬養さんが折れたマッチ棒を処分したことを、柿原君が処分せずに残していた
ら無実の証明になったかもしれないのにと応じた」
「あれか。思い出した」
 いの一番に橋部が言った。柿原も記憶が甦った。
(だけど、この二つのやり取りで、何が……あ)
 脳の奥で、光が瞬いた気がした。湯沢の話の続きに耳を傾ける。
「もう一つ、ずっと引っ掛かっていたことがあります。犯人は何故、9番コテージの近
く、小津部長が亡くなっていた辺りで、人形の火あぶりの細工をしたのか。人形の火あ
ぶりから余計な事柄を削ぎ落とせば、何故、小さなたき火をしたのかという設問になり
ますよね」
「そうなるな。呪術めいた儀式だなんて、誰も信じない」
 橋部の相槌代わりの台詞を受け、湯沢も勇気の波に乗れたらしい。
「シンプルに考えてみたんです。犯人は何かを燃やして処分したかった。そうする意図
を知られたくない何かを」
 本当に燃やしたかった物をカムフラージュするため、呪いの儀式めいた工作をする。
ミステリマニアらしい発想で、いかにもありそうだ。柿原はそこを認めた上で、ではあ
そこには何があったのかを思い返してみた。
(部長が亡くなった辺り……。犯人が自らの血や汗なんかの証拠を落としてしまったと
は考えられない。部長の死因は、恐らくアナフィラキシーショックで決まりだ。犯人が
犯行現場に立ち会う必要はない。その他の物品を落としたとしても、いくらでも理由付
けができる。遺体発見の時点で、みんなで集まったんだから。そうなると、証拠隠滅な
どではなく、他の理由……たき火の前後で消えている物……あ)
 分かった気がした。柿原は黙って、湯沢の話の続きに集中した。
「亡くなっている小津さんを見付けたときのことを思い浮かべてみてください。あの辺
りにはマッチ棒が散らばっていましたよね」
「そうだ。確かに、小津部長自身のマッチ棒が散乱していた」
 戸井田が強い確信ありげに言った。他の者が信じないなら、写真で見せてやろうとい
う気概が感じられる。無論、実際にはそんな必要はなかった。皆が覚えていた。
「現場をなるべくいじらないでおこうってことで、マッチ棒もそのままにしていた。他
にマッチ箱もあったっけな。それら全て、犯人のたき火のせいで燃えてしまったようだ
が」
 橋部が記憶を手繰りつつ言った。
「はい。犯人の狙いはそこにあったんじゃないか。そんな気がするんです」
「分からんな。マッチ棒を無駄に燃やして、何になる?」
「無駄にしていないと思います」
「え?」
「犯人は、使えるマッチを密かに確保するため、マッチ棒を燃やしたかのように装った
んじゃないでしょうか」
「ん? ――あ」
 首を捻った橋部だが、すぐに何やら察した顔つきになった。湯沢が前振りとして挙げ
た話が、ここに来て生きてくるんだ――と、柿原は内心で理解した。
(遺体の周りに散乱していたマッチ棒が、まじないめかしたたき火のせいで全て燃えて
しまったと思わせて、実は犯人が回収していた。燃えかすなんて、誰も調べない……あ
れ? でも、時間の前後関係が合わないぞ)
 柿原は気付いた。湯沢の顔を見つめつつ、大丈夫かなと心配が膨らむ。
「マッチを拾って再利用したという発想は分かった。それをごまかすためのたき火だと
いう理屈も。しかし、たき火の直前にマッチ棒を回収したのなら、おかしくないか? 
たき火や人形の準備をしたり、刃物を手に入れたりするために、犯人はメインハウスを
家捜ししたはず。だったら、家捜しの前の時点で、マッチを余分に入手しておかなけれ
ばならない」
「もちろん、回収そのものはずっと早めにしていたんだと思います。小津部長の足を見
て確認しようと考えた段階で、火種はなるべくたくさんあった方がいいと判断するのは
自然ですよね」
 湯沢の語りっぷりに、揺らぎは見られない。指摘も織り込み済みということらしい。
質問者が橋部から戸井田に移っても、その自信に変化はなかった。
「確かにそうだけれども、あんまり早くマッチを拾ってしまうと、気付かれる恐れが出
て来るんじゃないかな」
「それもカムフラージュできます」
「どうやって」
「マッチの燃えさしを、代わりに置くんです。ただし、頭の部分はちょっと土に埋める
具合に」
 シンプルな解答に、戸井田は「あ、そうか」と応じたきり、口を半開きにしていた。
 そこへ、村上が確認する口ぶりで聞く。
「燃えさしのマッチ棒を集め、カムフラージュ用に回したって訳ね。数は足りるのかし
ら。通常、火を着けるのに使ったマッチは、そのままくべてしまうけれど」
「問題ないと思います。自分自身が私的に使ったマッチを、捨てずにそのままストック
しておけば」
「なるほどね。燃えさしのマッチをたき火で燃やすことで、マッチの軸が部分的に消し
炭みたいに燃え残れば、まさかマッチ棒のすり替えが行われていたなんて、思い付かな
い。実際、そんな風になってたみたいだし」
「拾い集めたマッチは、しばらく乾かすだけで使えるようになったでしょう。そして―
―真瀬君が早い内から缶詰の空き缶をロウソク立て代わりにすることを実行していたの
と考え合わせれば、真瀬君のアリバイはなくなったと見なすのが妥当だと思う」
 最後は、真瀬を見てきっぱりと言った湯沢。もしも真瀬が顔を起こして、彼女をにら
みつけでもしていたなら、こうは行かなかったかもしれない。しかし今の彼は、最前ま
での威勢のよさや威圧的な態度は影を潜めていた。机に左右の腕をぺたりと付け、やや
俯いた姿勢で聞き続けていた。
  と、そんな真瀬が面を上げた。
「終わったか?」
「え、ええ」
「やっとか。話しやすいように気を遣ったつもりだが、首が痛くなった。筋を違える前
に終わってくれて、助かった」
 真瀬の態度は落ち着いていた。柿原が右手だけで紐を結べることを知らされたとき
や、先んじて空き缶をロウソク立て代わりにしていた疑いを掛けられたときは、明らか
に動揺していたのに、もう収まっている。真瀬にとって、湯沢の推理披露は、彼自身が
落ち着くための貴重な時間稼ぎになった恐れがあった。
「アリバイが崩れたのは認めてもいい。論理的、客観的に考えて、それが当然。しか
し、アリバイのない人間が即犯人とはならないのも、また当然の理屈、ですよね皆さ
ん?」
「答えるまでもない」
 橋部が代表して応じた。
「だが、おまえの場合、アリバイが崩れると同時に、犯行が可能であることも示されて
しまったんだぞ。加えて、犯人の細工によって成り立っていたアリバイは、おまえだけ
だ。犯人は柿原に濡れ衣を着せようとした形跡があるが、それは柿原が右手だけでは紐
を結べないという間違った理屈に立脚していた。ここにいるメンバーの中で、そんな誤
解をしていたのは、おまえ唯一人だ」
 橋部は一気に喋った。言いにくいこと全て引き受けた、そんな覚悟が感じられる。
 対する真瀬は、橋部をじっと見返し、また一つ、長い息を静かに吐いた。それから一
転して、大きな声で捲し立てる。
「だから! ロジックだけで殺人犯を決め付けるなんて、できやしませんよ! いくら
理屈を積み上げても、俺は認めない。何故なら、今列挙した理屈やその元となった事実
が、真犯人の罠である可能性は否定できない。でしょう? クイーン問題ですよ」
 推理小説好きの間で通じる語句を持ち出し、唇の端で笑う真瀬。橋部ら他の部員から
の反論がないのを見て取ったか、さらに語る。
「小説に関しては、あれやこれやと解釈をこねくり回して、クイーン問題は回避できる
的な評論があるのは知っている。だがしかし、現実の事件の前では無意味なんだ。物的
証拠が出ない限り、いや、そんな証拠が出たとしても、それすら真犯人の仕掛けた罠で
あるかもしれないんだ」
「……そう言う真瀬君は、誰を犯人だと思ってるのかしら?」
 犬養が些か唐突なタイミングで聞いた。場の流れを変えよう、そんな意図があったか
どうかは分からない。ただ、彼女が時折見せる、空気を読まない言動が、ここではプラ
スに働いた。少なくとも、柿原らにとって。
「さあ? これだけ疑われたら、どうでもよくなってきた。俺以外なら、誰だっていい
さ」
「誰だっていい? そんなことあるはずないわ」
「何? 分かった風な口を」
「分かっていないのは、そちらでしょう。あなた、誰が殺されたの、お忘れ?」
「それは……」
 勢いが止まった。絶句した真瀬に、今度は沼田が言葉で詰め寄る。
「関さんのこと、好きだったのよね? なのに、どうでもいいだなんて、言える訳がな
いわ!」
「ち、違う」
 目を赤くした沼田の迫力に押された風に、真瀬は首をぶるぶると横に振った。
「俺が言ったのは、そういう意味の『どうでもいい』じゃあない。俺は、君らみたいに
仲間を疑うのが嫌になったんだ。だから、思うことはあっても、もう言わないと決め
た。そういうつもりで、どうでもいいと言ったんだよ」
 この答に、真瀬自身は満足したらしく、自信ありげに頷いた。
 不意に静寂が降りてきた。誰も発言しない、物音すらほぼしない時間が一分ほど続い
た。その時間を使い、橋部は柿原を一度見た。アイコンタクトのようにも感じられた
が、柿原には何のことだか分からなかった。
「真瀬。俺達は気にしないから、言ってみてくれ」
 静寂を破って、橋部が問う。真瀬は被せ気味に答えた。
「何をですか」
「犯人、誰だと思ってるんだ?」
「今さら……」
 横を向く真瀬に、橋部は辛抱強く語り掛けた。
「まあ、改めて言わなくても、だいたい想像は付く。少し前まで、おまえは柿原犯人説
を唱えていた。それは変わっていないんじゃないか?」
「……」
「俺もおまえのさっきの考えを聞いて、検討し直してみたよ。ほら、真犯人の罠じゃな
いかっていう」
「……それで?」
 改めて振り向いた真瀬。細められた目で見つめる様は、相手の真意を測ろうとしてい
るかのようだ。
「こう考えてみた。真瀬に掛けられた疑いが罠だとしたら、それができるのは誰か、っ
てな。まず……柿原の手について真瀬だけが誤解していることを確実に知っているのは
誰か」
 場に問い掛けてから、橋部は柿原へ向き直った。
「それは柿原本人だ」
 その台詞の効果を試すかのように、しばし口をつぐむ橋部。
 一方、柿原は心穏やかならず。
(橋部さん、一体どういう……?)
 疑問が頭を埋め尽くしたが、声にはならない。強いて出さなかったのかもしれない
が、本人にもそれは分からない。
「柿原以外は、たとえ日頃の態度で真瀬が誤解していることを把握できても、柿原が真
瀬に直接訂正した可能性を排除できないからな。無論、柿原の立場からすれば、部員の
誰かが真瀬に誤解を教えてやる可能性を考慮しなければいけないが、誤解が解かれたか
否かを確認できるのも柿原だけだろ」
「……そうなりますね」
 柿原は素直に認めた。理由は二つある。第一に、橋部の話の論理展開そのものは、さ
ほどおかしなものではない。強行に反発するのは、スイリストとしての名折れになる。
そして第二に、橋部は何らかの思惑があって、こんな方向に話を持って行ったのだと直
感したからだった。
(多分、橋部さんは二択に持ち込もうとしている……)
 そう信じて、敢えて乗る。
(そこからの決め手は、きっとアレだ)
「要するに、僕に濡れ衣を着せる筋書きの犯行が、真犯人の罠だとしたら、そんなこと
ができるのは、僕一人だってことですね?」
 時間を省くつもりで、柿原は論をまとめてみせた。果たして橋部はいかにも満足そう
に、大きく首肯した。
「話が早くていい。ハンカチの血だって、自分でやるなら目撃される危険はゼロに等し
い。レシートの黒い楕円にしても、柿原が第一発見者であるということは、裏を返す
と、柿原自身がきれいなレシートに故意に付けた可能性が残る。9番コテージの格子を
外したあと、戻したのは、片手の自分には大変な作業ですよというアピール。ああ、斧
の柄に血痕があっただけで、いきなり部長の遺体を調べようと言い出したのは、やり過
ぎ感があるな」
 橋部は目線を柿原から真瀬に移動させた。
「こんなところじゃないか、おまえの気持ちは」
「まあ……そうですね」
 真瀬は口元から顎にかけてひとなでし、考え考え、言葉をつないだ。
「他にも、たき火のトリックを使わなかったとしても、柿原には明かりを用意できた可
能性がありますし」
 予備のバッテリーの件を蒸し返す真瀬。橋部は「分かった分かった」と、首を何度も
振った。それから今度は、真瀬と柿原を除く、他の面々に向けて話し掛けた。
「どうだろう? 犯人が誰かっていう謎は、彼ら二人に絞られたんじゃないかと思うん
だが。機会や手段、それに今まで散々述べてきたロジックから、総合的に判断してな」

――続く




#1111/1112 ●連載
★タイトル (AZA     )  18/07/13  22:55  (496)
魔法医ウィングル:密室が多すぎる 1   永山
★内容                                         18/07/18 02:46 修正 第4版
 僕は、そのときばかりは店主がうらやましかった。
 採用面接の折、コールさんは僕の魔法を高く評価してくれて、それが採用の決め手に
なったと僕自身感じている。今や、ダビド・コール古物商の社員寮に入っているのは、
僕一人だけ。つまり、大勢の働きを一人でこなせると認めてもらえたことになる。
 魔法ならコールさんも別のを使えるが、あまり役立たないものだと本人が自嘲してい
た。僕だって口には出さないが、僕の魔法の方が使えると自負してる。少なくとも、
コールさんのやっている骨董店では。
 それでもなお、僕がコールさんの魔法をうらやましいと感じた。今日みたいに、厳し
い暑さの日に限っては。
 コールさんの魔法は、氷を作り出せる。大人の男の親指くらいのサイズが一つだけだ
が、溶けきることはない。空気中の水分を固めて氷にしているからだそうだ。その氷を
身に付けて作業をすれば、かなりの暑さをしのげるに違いない。
 いい歳した大人が小さな氷一つ出せるだけなんて自慢にならないとか言って、コール
さんは他人に積極的には見せたがらない。髭を生やした六十絡みの強面男性が、ちっぽ
けな氷をちまちまと操る様は確かに格好よくないかもしれない。そんなコールさんで
も、酔うと希に披露してくれる。あれは確か、女性従業員の退職が決まって、送別会を
開いたときだ。些か酔っ払ったコールさんは、空中、目の高さ辺りに細長い氷を作る
と、ゆっくり回転させ始めた。氷が時計の針みたいに、ぐるりと円を描く。作った氷を
自在に操れるのではなく、空中にある水分を巧みに入れ替えることで、凝結と気化を繰
り返すとかどうとか。氷結だったかもしれない。自分も多少酔っていたため、しかとは
記憶していないが、とにかく見事な魔法さばきだった。
 そんな店主を、僕も嫌いではない。経歴に傷のある僕を雇ってくれて、感謝している
し、何より差別しない。時々、「おい、フィンシャー君。刑務所で知り合った中に泥棒
はいないか? 盗品でも値打ち物なら考えるぞ。わはは」なんていう風な直球の冗談を
投げてくるが、それこそ僕を特別扱いしていないことの証拠だと分かるのに、時間は掛
からなかった。
 短気な質だと自覚のある僕も、この店では迷惑を掛けないよう、精一杯努力してみよ
うと心に誓っている。それだけ、長くいたいと思わせる場所なのだから。

            *            *

 夏も佳境に入り、きつい日差しが当たり前のように続いていた。たまに雨が降って
も、地面はじきに乾いて白くなるほどだった。場所によって、土埃が激しく舞う。だか
らといって目医者が儲かることにはつながるまいが。
「先生、約束よりちょいと早いですが、よろしいかな?」
 診察時間が終わるや否や、刑事のセオドア・スペンサーが診療室に駆け込んできたの
で、ウォーレン・ウィングルは些か面食らった。
「かまいませんが、どうしたんです? 飲みに行くには早いでしょう」
 本日夜、居酒屋に繰り出す約束をしたのが三日前。言い出したのはスペンサー刑事だ
った。ウォーレン・ウィングルは一介の町医者であるが、時折スペンサーに助言する形
で、事件の捜査に関与した経験がある。
 本業は飽くまで医者、魔法医だ。病巣の位置さえ正確に把握できれば、その病巣を滅
することができる。ある程度の制限があるのだが、他の医師にとって商売あがったりに
なるほどの強力な魔法が使えるとあって、業界内での人間関係はあまりよくない。親交
のある医者仲間は大勢いるが、反主流派が大半を占める。現在、ウィングルがその能力
の割に田舎町の小さな医院に収まっているのは、主流派とのつまらぬ衝突に端を発して
いた。
「自分の担当じゃあないんですが、ある事件が拡大の一途を辿っておりましてな。応援
に駆り出される公算が強まってきた。そこで、前もって先生の意見を聞いておくのも悪
くないと考え、早めに来たんでさ」
 それでもウィングルは町を気に入っていたし、こうして刑事に頼られるのも悪くはな
いと感じていた。何より、自分は謎解きが好きらしいと気付かされたのは、ここに来て
からだ。
「店で飲み食いしながらできるような話ではないんですね?」
 すぐに察したウィングルは切り替えも早かった。刑事の肩越しに、看護婦のニッキ
ー・フェイドへと視線を寄越す。
「彼女にも聞かせない方がよい?」
「ご遠慮願いたい。公にされていない事柄が多くてね。先生は別ですよ」
「この手の特別扱いは居心地がよくありませんが……フェイド君、都合が悪ければ言っ
てくれたまえ」
「いいえ。早く帰れるのでしたら、むしろ大歓迎ですわ」
 暇なときは事件の話に首を突っ込んでくることもままある彼女だが、今日は予定があ
るようだ。
「何でしたら、今すぐにでも消えましょう。お茶をお出しできませんし、今日の片付け
を先生にお願いしますけれど」
「それでは――」
 ウィングルは刑事の顔色を見た。目で頷くスペンサー。事件についてとにかく早く話
したい様子が見て取れた。

 念のため医院の戸締まりを全て済ませ、不意の来訪者があっても問題ないようにし
た。スペンサー刑事はメモの類はしてもかまわないが、すぐに処分するか、他人の目に
付かないように厳重に仕舞い込んでほしいと前置きし、事件の話に入った。
「先生にお話しするのは、何度か検死の手伝いを頼んだからというのもある。ここ最
近、その頻度が高かったと感じませんでしたかね?」
「言われてみれば、女性二人が立て続けにありましたね。紐のような物で首を絞められ
た痕がある以外、外傷はほぼなくて、同じような亡くなり方でした。互いに関連がある
かどうかは、何も聞いていませんが」
 医者と患者のように、診察にて向き合って話す二人。フェイドがいれば飲み物がテー
ブルに並ぶところだが、今はない。無論、このあと予定通りに居酒屋に行くつもりとい
うのもあるが。
「実を言うと、他に五人、同じ死に方をした被害者がいましてね。いや、全員がこの町
で死んだんじゃなく、近隣周辺の三つの自治体で起きた合計が七人なんですが。それで
も、広大とまでは言えない範囲内で七人が短い期間に死んだとなると、ちょっと異常
だ」
「確かに。騒ぎになるかもしれないので、関連性についての言及を控えていると?」
「ええ。警察としての方針が決まれば、一連の事件であるとの見解を発表するのはかま
わんのでしょうが、現段階では時期尚早ってやつです。七人の被害者の内、一部は事故
の可能性も匂わせたから、どうにかこうにか連続殺人の噂が立つのを押さえられている
ようですな」
「事故? 私が検死した中には、そのような症状は見られなかったと思いますが」
「遺体の状況ではなく、発見された状況にちょっとした関門があるんですよ。実は、あ
あ、また『実は』だ」
 苦笑を浮かべ、刑事は唇をひとなめした。
「実は、七件の女性絞殺事件は、全て密室状況下で起きた。その作り方が不明であるが
故に、事故死という見方をしても一応、通っちまう」
「密室について詳しく教えてください。どれも同じような状況だったんですか」
 時計を一瞥してから質問したウィングル。長引きそうな予感があった。
「同じと言っていいでしょう。ついでに言えば、被害者が独り暮らしの女性というのも
共通している。一軒家か下宿等の一室かの違いはある。被害者は全員、紐状の物で絞め
殺されており、首には凶器が巻き付いたままだった。凶器は荷造り用の細めのロープ
で、長さは一定ではなく、およそ六〇〜八〇センチ。同じメーカーの物かどうかは未確
定で、鋭意調査中。こんなところです」
「現場の状況は? 鍵のこととか」
「一軒家に関しては、玄関と勝手口と窓があって、そのいずれにも魔法錠がしつらえて
ありました」
 魔法が一種の特殊能力として一般的に認知されているこの社会において、魔法錠は家
屋における必須アイテムと言える。そうでない鍵だと、たとえば遠隔操作の魔法を使え
る者によって、易々と開錠されてしまうからだ。魔法錠ならそれを防げる。ただ、魔法
錠という特別な錠前が存在するのではなく、通常の錠に政府による公的な魔法を施すこ
とで、他の魔法による外部からの開錠を不可能にした物、それが魔法錠である。
「ドアは鍵を差し込んで回す単純なタイプ、いわゆるシリンダー錠でした。窓の方は、
やはりよくある三日月型の金属を動かすことでロックするクレセント錠ってやつです。
これが五件。残り二件がアパート及びマンションの一室で、出入り口は玄関と庭に面し
た窓」
「すみません、その部屋は一階?」
 念のためにと発したウィングルの質問に、刑事は肯定の返事をした。そのまま続け
る。
「アパートとマンションの区別する基準を知らないが、アパートの方の玄関はシリン
ダー錠で、マンションの方の玄関は単純な回転錠に加えて、暗証番号が必要な閂が付い
ていました。四角い箱型にボタンが八つあって、定められたボタンを押し込んでからで
ないと、閂を動かせない仕組みになっている。もちろん、室内側からは簡単に閂を動か
せる。そして窓は、同じ型のクレッセント錠でした。そこにあるような」
 スペンサーの指差した方をちらと見やるウィングル。この小さな医院の窓には二種類
の錠があって、一部はクレッセント錠、一部はねじ込み式錠が設置されている。
「ここの窓の錠は固くてきついんですが、現場の物はどうなんでしょう?」
「さて、そこまでは聞き及んでませんな。先生は何ですか、他の魔法ではなく、物理的
な、いわゆる糸や針なんかを使ったようなトリックが用いられたと?」
「決め付けているんじゃありません。基本的なことを押さえておきたいだけで。警察が
魔法による密室殺人だと考えるからには、何らかの魔法痕が見付かっていると?」
「ええ。ずばり、凶器の紐から検出されてまして」
 魔法を行使された対象物を、警察が開発・導入した特殊機器で検査すると、魔法を使
った痕跡が検出される。それは波紋のようなもので、魔法痕と呼ぶ。魔法が使われてか
ら検査までの時間経過が短ければ短いほど詳細に分かり、一般的に、三ヶ月以内であれ
ば魔法の種類は特定可能とされる。行使から間もなくなら、誰がどんな魔法を使ったか
さえ判明する場合がある。
「凶器から検出されたのは、遠隔操作の魔法痕でした。言い換えるなら念動力」
「犯人は、被害者が自宅内で施錠したのを見計らって、紐を遠隔操作し、首を絞めて殺
した?」
「恐らくそうでしょうな」
「……殺害された現場は、家の外からも見通せる状況でした?」
 首を傾げつつ、ウィングルは聞いた。
「いやあ、そこまでは把握しとらんですわ。何か問題でも?」
「一人につき一つの魔法しか使えない原則がある。遠隔操作魔法を使う犯人は、部屋の
中の様子や被害者の位置、動きなどが分からないと、正確に首を絞めるのは無理なんじ
ゃないかと思いましてね」
「なるほど。機会があれば、確認しときます。でももし、現場が外から見通せないとし
たら、犯人は複数かもしれませんな」
「何故そう思うんです?」
「透視能力のある奴が共犯で、そいつから室内の様子を伝えてもらうことで、念動力の
ある奴が正確に首を絞めた――」
「確か、透視魔法を使うと、透視された物体に魔法痕が残るんじゃあ……」
「ああ、そうか。そういう記録はありませんな。殺害現場の魔法痕の有無は念入りに調
査済みで、まだ調べてないとは考えられないから、この推理は破棄ということで」
 些か考えなしに先走ったのを恥じたのか、スペンサー刑事は表情を隠すかのように顔
を手のひらで何度か擦った。
「遠隔操作の魔法のみで、紐を見えない位置から操り、中にいる人を絞殺するなんて芸
当、できるものでしょうか」
 しきりに首を捻るウィングル。その動作をやめ、思い付きを口にした。
「紐に、二重に魔法を掛けた痕跡はないんでしょうね?」
「ないですな。ああ、分かりましたよ、ウィングル先生の考え。魔法によって紐を他の
物体に見せ掛けるとかでしょう?」
「え、ええ、まあ。首飾りや襟巻きに擬することができれば、首に掛けるでしょうか
ら。尤も、帰宅すればすぐに外しそうな気もします。まあ、そのような魔法痕はなかっ
たという事実の前に、この推理も的外れ」
 両手の平を上向きにし、肩をすくめたウィングル。
「寄り道をしないで済むよう、はっきりさせておきましょう、スペンサー刑事。各現場
では、凶器と見られる紐に遠隔操作の魔法痕があった以外、何の魔法痕もなかったとい
う認識でいいですか?」
「ええっと、単純に断言はできませんが、犯行に関連している魔法は他にはなさそうで
すな」
 奥歯に物が挟まったような言い種をする刑事。ウィングルは続きを待った。
「というのも、被害者の内二人がそれぞれ魔法を使えたようなので。手のひらで布や紙
なんかをさすると、皺がきれいになくなり新品のようになる能力と、利き手で持った物
の重さを正確に感じ取れる能力。日常的に使っていたみたいです」
 前者は洗濯物を畳むとき、後者は料理のときに便利と言えるかな。ウィングルは漠然
と想像した。
「何にしても、この二つの魔法は、全ての犯行現場に共通する要素にはなり得ない。つ
まり、密室殺人とは無関係と見なしてかまわんでしょう」
「同意です。が、その条件下で、警察は犯人がいかにして正確に首を絞めることができ
たのか、見当は付いているのでしょうか」
「付いていないと思う。いや、捜査に関わっていない部外者の立場では、何とも断言は
できないが、そういった言及があったら確実に耳に入ってくるものだから」
「勘に頼って、手当たり次第に絞める動作をした、ということは考えられます? もし
当たっているとしたら、絞殺未遂事件が山ほど起きていそうなもんですが」
「絞殺未遂事件が頻発してるなんて話は、聞き及んでませんな。犯人は正確に凶器を操
作して、殺害を成し遂げていることになりそうだ」
 スペンサー刑事は頭をかきむしった。こんなことが問題になるとは、想像していなか
ったのだろう。無論、現時点で捜査に関わっていない彼を責めるのはお門違いと言うべ
きで、捜査班は現状を把握して動いているに違いない。
「スペンサー刑事。密室殺人の方法に疑問を持っていなかったのなら、何を相談しよう
と思って来たんです?」
「ああ、そりゃ決まってます。理由ですよ、理由。密室を作って殺す理由がぴんと来な
い」
 そこまで一気呵成に答えたスペンサーに対し、ウィングルが応じるために口を開こう
とした。が、刑事が言葉を継ぐ方が早かった。
「言っときますが、自殺に見せ掛けるためとか、鍵を所有する人物に濡れ衣を着せるた
めとかいうありきたりなものは承知してますんで、説明は結構。今回の事件の犯人は、
明らかに他殺と分かる手口で殺しておいて、密室を演出している。そこが不可解なんで
す。無差別殺人だろうが何だろうが、殺したいだけなら、わざわざ現場を密室にする必
要はない、でしょ? むしろ、密室に拘るのは、無差別殺人らしくない気さえする」
「他のよくある理由はどうでしょう? 殺害のためには密室にする必要がある、偶然密
室になった、といった」
「そうですなあ。偶然密室になったという考え方は、理屈の上ではあるでしょうが、実
際問題、七件も偶然が働いたとは思えんですよ。一方、密室にしなければ殺害できな
い、もしくは密室の方が殺し易いというのはなさそうだ。さっき検討したように、魔法
で絞め殺すには密室は障害にこそなれ、プラスに作用するとは考えづらいでしょう」
 刑事の意見に、ウィングルは満足げに頷いた。蛇足になるが、この世界では、超常現
象に見せ掛けるために密室殺人を行うという説は、議論に与せられる余地はほぼない。
魔法が当たり前に存在するのだから。しかしながら、皆無という訳でもなく、魔法を超
えた超魔法(に擬せられた不可思議犯罪)であれば、あるいは人々を驚かせ、恐怖せし
めるかもしれない。
「もう一つだけ。遺体の発見を遅らせたかったという理由は考えられない?」
「うーん、そこまで詳しい情報は得ちゃいませんが……被害者達は学生や社会人のよう
だから、姿を現さないことに周りの者はすぐに気が付くでしょう。その上、被害者宅に
遺体を放置と来た。事件発覚を遅らせる意図が感じられないような」
「なるほど、納得しました」
「先生、聞いているのはこちらなんですよ。あなたが納得していてどうするんですか」
 笑顔の医師とは対照的に、刑事は渋面をこしらえ、距離を椅子ごと若干詰めた。
 真顔に戻ったウィングルは、書き損じの問診票の裏にいくつかメモ書きをしつつ、
「今すぐの結論は無理ですよ。新しい仮説すら、簡単には捻り出せそうにありません」
とやんわりと言った。
「それならせめて、どうやって正確に絞殺できたかについて、お知恵拝借といきません
かね」
「そっちの方は、思い付きがないでもありませんが、多分、現捜査陣の方々も想定して
いるに違いないので……」
「何と。思い付かない自分は鈍いことになりますか」
「決してそういう意味で言ったのではないです。実際にうまく行くかどうか不確実なこ
とから、最初から排除すべき仮説かもしれませんし」
 ウィングルがメモを書く手を止めると、刑事は「とにかくその思い付き、聞かせてく
ださいよ」と求めた。別段、伏せておく理由なんてないので、話そうとしたウィングル
だったが、ちょうど電話が鳴った。スペンサー刑事に断って電話に出ると、ウィングル
宛てではなかった。
「――スペンサー刑事、あなたに」
「あ、ああ。すみません、ここに足を運ぶと同僚に伝えていたもんで」
 送受器を受け取りながら、頭を下げるスペンサー。ウィングルは全然かまわないと、
手振りで応じた。ウィングルが心配するとしたら、自分のような素人が捜査へ口出しす
る行為が、他の刑事達にはどう思われているのかであり、その橋渡し役になっているス
ペンサーの立場は大丈夫なのかということだった。
 スペンサー刑事の電話は、意外と長い時間を要した。スペンサーは刑事として訓練を
受けているのかどうか分からないが、会話の内容が推測できるような言葉は漏れ聞こえ
てこなかった。五分近く経って、ようやく通話が済んだ。
「何でした?」
 送受器を返してもらい、電話機に戻しながら聞く。
「安心して飯に行きましょう。応援に呼ばれることはなくなったようだから」
「へえ? 一体何が」
 内心、捜査への応援に駆り出されることが決まり、その件をいち早く知らせる電話で
はないかと想像していただけに、ウィングルの声には訝る響きが混じった。
「会見はまだだが、一部の記者連中に漏れ伝わっているだろうから言っちまいます。容
疑者が特定されたという情報でした」
「それはよかった。でも、何が決め手になったんだろう……。聞いた限りでは、まだ先
は長そうに思えましたが」
「好ましからざる展開だが、新たに八人目の犠牲者が出たらしいです。その発見が早か
ったので、魔法痕を調べることにより容疑者個人を特定できたというのが、まあ、せめ
てもの慰めで」
「そうでしたか。犯人、慎重に振る舞っていたように感じましたが、そうでもなかった
のかな。まだ日も落ちない時刻に事件を起こし、しかも発覚するなんて」
「殺人を重ねる内に感覚が麻痺して、慣れてくる。それが油断につながるというのは、
よくあることでさあ。ま、今回は、その容疑者が過去にも犯歴があって、警察で保管し
ている資料とすぐに照合できたのが大きいようでしたがね」
「そういえば、容疑者の名前までは教えてもらえませんか」
「ん、ま、かまわんでしょう。ポップ・フィンシャーという男です。詳しいことは知ら
されてないが、今し方聞いた話では、若い頃は大道芸をしていたと。ナイフを遠隔操作
して、ジャグリングをしていたんですな」
「魔法でジャグリングですか」
 ウィングルは若干、理解に苦しんだ。
 ジャグリングは人間が素の技術を使って行うからこそ見事な技になるのであって、魔
法を使って見せられても大して感心しない気がするが、よほど複雑な動きをやってのけ
たのだろうか。もしくは、大量のナイフ、それこそ百本くらいのナイフをお手玉したの
なら、魔法であっても見ものなのかもしれない。
「で、約五年前、客とトラブルになって、ナイフで斬り付け、軽くではあるが傷を負わ
せた。執行猶予なしの懲役を食らっています」
 魔法の悪用に関して、きつめの判決が下ることが圧倒的に多い。ポップ・フィンシ
ャーなる男の傷害罪も、高く付いたようだ。
「それでも魔法縛の罰は解かれていたんですね?」
 魔法の悪用により懲役刑を下された場合、その犯罪者は魔法を使えない環境下で収監
される。その手段は地方によって様々だが、基本的には期間限定で魔法を使えなくする
魔法を掛けるか、刑務所全体に魔法を掛けてそのテリトリーでは他の魔法が働かなくす
るかのいずれかだ。どちらの方法も、強力な魔法を使える者が定期的に管理の手を入れ
る必要があるため、僻地では採用できないことも起こり得る。
 そういった収監中のこととは別に、出所後にも一定期間魔法を使えなくする罰が付加
される場合が多い。
「ええ。きっちり務め上げて出所してから二年間、何事もなく過ごしたので、魔法縛は
解かれたとのことでした。それがまた悪用され、殺人に使われるとは、法曹界も頭が痛
い話でしょうな」
 苦い表情をなしたスペンサーだったが、再び鳴った電話にウィングルと目を合わせ
る。
「またかも。端からスペンサー刑事が出ます?」
「いや、そりゃまずいでしょう」
 ウィングルが送受器を持ち上げて出てみると、想像した通り、警察からスペンサーへ
の電話だった。「やっぱり、またですよ」と言いつつ、送受器を渡した。
「代わった。スペンサーだ。何か言い忘れたことでも?」
 それだけはっきり言って、あとは再びもごもごぼそぼそした物言いになったスペン
サーだったが、不意に明瞭に言い切った。
「何だって? 嘘だろ、フィンシャーが死んでいたなんて!」
 意外な成り行きに、さすがの刑事も思わず口走ってしまったようだ。

 居酒屋に行くという話がだめになってからちょうど一週間後。ウィングルは、スペン
サー刑事と再び会った。今度は最初から居酒屋を待ち合わせ場所にして。
「個室を予約していたということは、事件の話もあるんですか」
 注文を済ませ、手を拭きながらウィングルが尋ねる。テーブル越しに飲み物を注そう
とする手つきのまま、スペンサーは答えた。
「もちろん。例の事件ですよ、八連続密室殺人」
 有力容疑者フィンシャーの死を機に、密室絞殺事件は止まったようだった。よってス
ペンサーが応援に加わる必要はなくなり、しばらく暇である……というものではない。
被疑者死亡を受けて、警察は別の捜査班を起ち上げねばならない。それは、ポップ・フ
ィンシャーの死亡案件を色眼鏡なしに調べる名目がある故、密室での連続絞殺事件に携
わっていた捜査官以外の者によって構成される。スペンサーはその筆頭格に据えられ
た。
「こうしてお誘いが来るからには、フィンシャーの件は一週間で目処が付いたんです
か」
「うーん、まあ、建前もありましてね。現在進行形の事件ではないし、密室絞殺事件を
捜査していた連中の顔を立てねばならん。勢い、フィンシャーが犯人で自殺したという
線で進めざるを得ない。それをひっくり返すには、それなりの証拠や理屈がないとだ
め」
 互いのグラスを酒で満たし、軽めの乾杯。アルコール度数もごく低いやつだ。
「何かはっきりしないなあ。既定路線で片を付け、こうして飲みに来たんじゃないみた
いですねえ」
「ええ、当たりです」
 そう言うとスペンサーは半分ほどグラスを空け、一気に喋った。
「今日はこの間の埋め合わせではなく、ウィングル先生の意見が聞きたくて、来てもら
ったんです。具体的にどこがどうおかしいってのはないんですがね。どうも釈然としな
いっていうか、もやもやの正体を突き止めてくれるんじゃないかなと、期待しておる次
第です」
 料理が運ばれて来た。魚を中心とした皿がいくつか並ぶ。店員が下がったあと、ウィ
ングルは聞いた。
「じゃあ、私が何ら有効な反証を挙げられなかったら、あなたは納得して調査を終える
と」
「うむ。そのつもりですが、その場合でもできることなら納得できるだけの理屈を示し
てもらいたいもんです」
 スペンサーの言葉に同じ言い回しが重なる。早くも酔いが回ったのかと心配になる。
あるいは、彼の迷いの発露かもしれない。
 ウィングルはグラスを置き、メモ書きを用意した。
「分かりました。フィンシャーの死んだ件について、判明していることを教えてくださ
い」
「よし来た。ご存知の通り一週間前のこと、フィンシャーは住居である中古の一軒家で
死亡しているところを、訪ねてきた捜査員によって発見された。この一軒家というのは
フィンシャーの今の勤め先である古物商が、社員寮として所有・提供する二階建ての物
件で、多いときは五、六人が共同生活を送っていたが、現在はフィンシャー一人だっ
た。発見時、一軒家は密室状態で、フィンシャーは台所にて、首を絞められたことによ
る窒息死を遂げていた。凶器は荷造り用の紐で、フィンシャーの首に絡んだまま。魔法
痕も本人のものだけがばっちり残っていましたよ、死後三時間といったところだったん
で。家の構造は、それまでの連続絞殺事件と似たり寄ったりで、玄関と勝手口はシリン
ダー錠でそれぞれの鍵は、家の内部から見付かった。窓はどれもクレッセント錠で、全
てロックされた状態だった。あと、何がありますかね」
「遺書の類は?」
「ああ、なかったです。見付かっていないと表現すべきかもしれんが。その代わりって
訳でもなかろうに、密室殺人の方法を示唆したような絵が描き残されていたんだった。
そういや、前に先生は密室殺人の方法なら仮説があると言ってましたな。話してみてく
れます? 答合わせといきましょうや」
「ああ、あれね。自信のある答ではないが……。犯人は狙った相手をその家の近くで待
ち伏せし、家に入る直前に、被害者の肩に凶器とする紐をそっと掛ける。あ、いや、背
中にぴたりと貼り付ける形の方が、より気付かれにくいか。どちらにせよ、遠隔操作の
魔法が使える者であれば、気付かれずにやりおおせる。まあ、紐の端がうなじのすぐ近
くにあるのが、犯行にとって理想的です。その後、被害者は玄関の鍵を始め、戸締まり
をしてから床に就く。寝入った頃合いを見計らって、フィンシャーは紐を操作し、被害
者の首に回したところで一気に締め上げる……いかがです? 紐と首との位置関係を把
握できているのだから、容易に絞められるでしょう」
「こりゃ驚いた。見事に一致しております」
 殺人方法の発想が犯人と同じだったと言われても、大して嬉しくない。ウィングルは
次の質問に移った。
「社員寮というからには、合鍵が存在し、会社――古物商の方で保管しているのでしょ
うか」
「ああ、合鍵はある。けれども、保管が厳重で、勝手にというか個人が密かに使用する
ことは不可能なんですよ。古物商らしく古い金庫を使っているんですが、出し入れが記
録される仕組みになっており、フィンシャーの死の前後に使われた記録はないと確認済
みです。無論、魔法によって記録が改竄されてもいない」
「そうですか。なら、信用してよさそうです」
「先生は、他の方法で密室が作れないかと考えている?」
「ええ。だって、フィンシャーの犯行じゃないと仮定すると、密室の作り方が不明にな
る。そこから考えるべきでは」
「理屈は分からんでもないですが、魔法による密室作りを検討しなくていいのか、疑問
に思いまして」
「え? だって、他に魔法痕は検出されていないのでしょう? 検出されていれば、ス
ペンサー刑事、あなたが言ってくれるはず」
「確かにその通りで、現場の中古住宅から、事件と関係ありそうな魔法痕は、フィンシ
ャー自身の物しか見つかっていませんが」
「ということは、関係なさそうな魔法痕も検出されてるんですか」
「古くて話にならないようなものばかりですよ。フィンシャーの死亡は一週間前だとい
うのをお忘れなく」
 稀にではあるが、いわゆるタイマー式の魔法を使える者もいるにはいる。たとえば翌
日の朝六時になると枕が膨らむようにする魔法とか(目覚まし代わりである)。ただし、
この手の時間指定魔法にしても、発動したときを基準に魔法痕は検出できるので、古い
魔法痕は、発動したのも古いと見なせる。
「じゃあ、やっぱり魔法なしでの密室トリックを解き明かす必要が」
「いや、自分は、密室自体はフィンシャーの魔法によるものと考えておるんです。これ
までの八つの密室絞殺事件も、フィンシャーが死んだ密室も奴自身の力のせいだと」
「つまり、一連の事件は複数名による犯行で、フィンシャーが死んだのは仲間割れか、
あるいは全く別の殺しかもしれないといった感じですか」
「仲間割れ説を取りたいな。全く別というのは考えにくい」
「被害者遺族が犯人を自力で見つけ出して、復讐を果たしたという線は、警察としては
考えたくないでしょうね」
「もちろんですとも。遠隔操作魔法を使えるフィンシャーが、面識がないであろう遺族
に易々とやられるのも変だし。フィンシャーを殺した奴とフィンシャーは、何らかの交
友関係があったんだと思いますよ。フィンシャーを言いくるめ、奴自身の能力で密室内
で死に至らしめたんではと睨んでるんですが」
 自説を披露するも、明らかに自信なさげな刑事。目線は斜め下に向かい、手の甲で口
元を拭う仕種を何度かした。
「なるほど、一つの考え方ではありますね。では、違和感というのは、フィンシャーの
死が自殺らしくない、という直感ですか」
 ウィングルが肯定的に評価した上で、先を促す。スペンサーは腕組みをし、首を傾げ
た。
「うーん、直感とも言えるんですが、もうちょっと理屈があるようなないような。長年
の経験に裏打ちされた刑事の勘と呼ぶのが一番近くて」
「ひょっとすると、私の抱いた疑問と同じかもしれない」
「え? 何かあるんですか。なら、早く言ってくださいよ」
 分かり易く、表情を明るくしたスペンサー刑事。
「基本中の基本と言えそうな事柄なので、そちらから言い出すのを待っていたいんです
が、なかなかそうならないものだから……。それに、私はフィンシャーの犯行であるこ
とも疑ってるんですよ」
「自分も、全ての密室絞殺事件をフィンシャーの仕業と考えるには、ちょっと変な印象
を受けてはいますが」
「それは、殺し方ではありませんか? 何故絞殺なんだろう?という疑問」
「……そうですな。絞殺に違和感がないと言えば嘘になる。何ででしょう?」
「決まってます。フィンシャーがナイフ使いだからですよ。大道芸でナイフのジャグリ
ングをやっていた人物が、殺害方法に紐による絞殺を選ぶのは、不自然で違和感が大き
い」「ああ、そうか」
 スペンサーが左の手のひらを右の拳でぽんと叩く。最早彼も飲み食いを忘れているよ
うだ。
「大道芸で慣れているはずなのに、刃物を使わず、紐を凶器にしたのは変だ。刃物な
ら、わざわざ犯人が用意しなくても、各家庭にまずあるだろうし置き場所も大体予測で
きる。遠隔操作魔法で刃物を使っての殺害は、紐で絞殺するよりもずっと楽なはず。寝
室で被害者が寝ているところを、刃物で何度も突き刺せばまず助からない」
「まあ、言うほど簡単ではないでしょうが、紐を遠隔操作して首を絞めるよりは、ずっ
と容易にできると思います。にもかかわらず、絞殺を選んだのは何故か。そこを解き明
かさない限り、フィンシャー犯人説の一択というのは視野狭窄な気がします」
「ですな。いや、お恥ずかしい限り。あまりにも密室絞殺事件が続いたものだから、感
覚が麻痺していたのかな。こうなってくると、さっき言った複数犯説も怪しくなる。共
犯がいたとして、フィンシャーに不慣れで面倒な絞殺をさせるのは、理に合わない」
 ちなみに、この世界での魔法は生物に対して何かを強制することはできないのが大原
則である。たとえば、人間相手に○○しろ!と命じて従わせる魔法は、存在しない。例
外的に、当人が望んでいる場合、それを後押しする魔法がいくつか確認されているだけ
である。
「それでも、フィンシャーが魔法を使ったのは間違いのない事実です」
「ということは、我々が考えるべきは、共犯者がいるのならどうやって絞殺を選ばせた
か……いや、共犯の有無に関係なく、絞殺を選ぶメリットは何だったのかを突き止める
必要がある訳だ」
「そうなりますね」
 方向性をうちだせたところで、ようやく食事にありつく。多少冷めてしまったが、暑
い季節だからか、さほどマイナスにはならない。
「こういうのはどうでしょう。フィンシャーは、自殺請負業を始めるつもりだった」
「自殺請負業? あ、自殺に見せ掛けて殺すという意味ですか」
「そうですそうです。自殺請負業って表現だと、伝わらんですな。自殺を手助けする仕
事になっちまう」
 自嘲の苦笑いを浮かべたスペンサーは、揚げ物をよく噛んで飲み込んだ。
「自殺に見せ掛けて殺してくれる殺し屋なら、依頼者にとって大助かり。我ら警察にと
っては厄介な相手になる」
「うーん。実際は、自殺とするにはちょっと厳しい死に方でしたが」
「それは……もしかすると、デモンストレーションだったのかもしれない。俺は密室内
での絞殺を行えるぞ、お望みなら自殺に見せ掛けて殺すこともできるぞという宣伝」
「殺し屋が顧客を見付けるためにアピールするのはあり得るとして、七件も八件もやる
というのは、多すぎませんか」
「確かに。じゃあ、やっぱり無差別の快楽殺人か……」
「そう言えば、被害者達に関して詳しいことを聞いていませんが、共通点は女性という
以外にないんですか」
「フィンシャーがやったとされる事件に関して、自分はオブザーバー的な立場でしか関
与してないんですよ。だから大まかなことしか分かりませんが、六名はフィンシャーと
接点があったと突き止められています」
「どのような?」
「最初の被害者、デリーヌ・シオンはフィンシャーと同じ時期に同じ大学に通っていま
した。面識があったか否かは不明、というか恐らくちゃんとした顔見知りではなく、フ
ィンシャーが一方的に知っていたのではないかというのが捜査本部の見解。二番目から
五番目及び七番目の被害者達は――名前はいちいち挙げませんが――、全員がフィンシ
ャーの勤めていた店を利用した経験あり」
「店というと、古物商?」
「はい。出所後、店員として働いていた。実は、凶器の荷造り用の紐ってのも、そこの
店の物を拝借したようです。量産されている紐なので、完全な同定は無理ですが、同じ
代物なのは間違いない」
「裏方ではなく、接客をしていたんですね、フィンシャーは?」
「店の主によれば、どちらもこなしていたとのことです。外見はハンサム、言葉遣いは
丁寧で、とても殺人を起こすような人間には見えなかったとの証言が上がってました
ね」
「その証言は店の主のもの?」
「ええ。ダビド・コール、六十前後の髭面で強面ですが、話してみると気さくで感じの
いいじいさんでしたよ」
「その人物は、フィンシャーを前科ありと承知で採用したのかな」
「百も承知。一定数以上受け入れれば出る補助金が目当てなんでしょうが、前から積極
的に雇っていた記録があった。魔法を使える者を相場より安く雇えますし」
「なるほど……」
 ウィングルは幾ばくか思考の時間を持ち、それから飲み物を呷った。空いたグラスに
スペンサーからおかわりが注がれる。さし返そうとすると、意外にも待ったをされた。
「まだ下手に酔う訳にいかん。話の内容が内容だし、曲がりなりにも調査中、決着して
いないのだから」
 スペンサーはアルコールの入っていない飲み物を店員に頼んでから、改めてウィング
ルに聞いてきた。
「残る二人について、お話しします。フィンシャーと接点がないのに犠牲になった二人
の。案外、そっちの方が重要かもしれない」
 フィンシャーとのつながりが見られない一人目、全体で言うと六番目の被害者はケイ
トリン・カダマス。隣町の理髪店の古株店員。魔法の類は使えないが、腕は確か。理髪
店主の内妻のような立場で、二人暮らし。評判はよかった。殺害された日、店主は商店
組合の旅行に出て留守だった。
 もう一人、ロッシー・ドロールは八番目、最後の被害者。彼女もまた使える魔法はな
い、ごく普通の主婦。結婚して五年目だが子供はなく、会社勤めの夫と二人暮らし。住
居は町内にあるが、フィンシャーとのつながりは見られない。彼女も殺害された日は旦
那が出張中で、一人きりだった。

――続く




#1112/1112 ●連載    *** コメント #1111 ***
★タイトル (AZA     )  18/07/14  23:07  (284)
魔法医ウィングル:密室が多すぎる 2   永山
★内容                                         18/07/18 02:48 修正 第2版
「――こんなところですな。一部には、他の六人はフィンシャーのデモンストレーショ
ンもしくは趣味の快楽殺人で、この二人は殺し屋として請け負って殺害したのではない
かという見方も出たんですが、金の動きは見られないし、夫婦仲は順風満帆だったとの
ことで動機もなし。あり得ない説として捨てられた次第です」
 スペンサーの説明を聞いている間も、ウィングルはあれこれ想像を巡らせてみたが、
特段浮かぶものはなかった。ただ一点を除いて。
「殺害された当日、彼女らがそれぞれ家で一人になるという話は、どこまで知られてい
たんでしょうね」
「さあ……。わざわざ吹聴するようなことではないから、言うとしても近しい者だけじ
ゃないかな?」
「何にしても、フィンシャーが知っているというのはおかしい。最後の事件は“自殺”
直前だから自棄になっての犯行、適当に選んだ被害者がたまたま一人だったという可能
性が残りますが、ケイトリン・カダマスの方は偶然性が強過ぎる。これはやはり、八件
の絞殺もそれぞれを精査すべきかもしれませんよ」
「うーん、そこに異存はないが、捜査班の面々とぶつかると思うと頭が痛い」
 自裁に頭を抱える格好をした刑事に対し、ウィングルは問いを発す。
「そもそも、古物商の利用経験という共通項は、当初は分からなかったんですか。分か
っていたら、その時点で店を訪れ、フィンシャーの身元や経歴を調べて、遠隔操作魔法
の使えるこいつは怪しいぞと事情聴取に引っ張るのが、基本的な流れだという気がする
のですが、そういう経緯はなかったんですよね?」
「はい、そのようで。まあ、被害者全員の共通点ではなかったというのが大きいんでし
ょうな。加えて、被害者側をいくら調べても、コールの古物商を利用していたかどうか
なんて、簡単には判明せんでしょう。家計簿を付けていたとしても、そこそこ昔の話で
すよ」
「フィンシャーが殺害したとして、その動機がデモンストレーションだろうと快楽殺人
だろうと、古物商の客を選ぶという積極的な理由にはならないように思いますね」
「確かに。でも、フィンシャー犯人説がぐらついている今、改めてそんな指摘をされて
も、現状は変わらないというか」
「いえ、そうではなく。真犯人がいるとしたら、何で古物商の客を被害者として選んだ
んでしょう?」
「――つまり」
 酔いが覚めたとばかりに目を見開くスペンサー。元々ほとんど酔っていなかったかも
しれないが。
「ダビド・コールを調べろと」
 ウィングルはこくりと頷いた。
「そうすべきだと思います。被害者の内の五人と関わりがあって、フィンシャーともつ
ながっている」

 四日が過ぎて、スペンサー刑事がまた医院にやって来た。ウィングルはその表情を一
目見るや、目処が立ったからではなく、依然として解決に至っていないからだと理解し
た。だいたい、解決が見通せているのなら、病院の昼休みに押し掛けてきたりはしない
だろう。
「あまり時間がないと思いますが、聞いてもらいたく」
「かまいません。基本的に今日は半ドンですから、午後からは急患のみですし。でもま
あ、前置き抜きで、話してください」
 昼食を摂りながら、相手を促した。なお、ニッキー・フェイドはとうに外食に出掛け
ている。
「遅々として進まず、とまでは行かないまでも、なかなか頑固でして」
「うん? 古物商のコールを調べに行ったのでは? それはまあ、いきなり真正面から
切り込むのは難しいでしょうが、そこはスペンサー刑事の長年の――」
「そうではなくてですね。フィンシャーの犯行と自殺で片を付けたがっている連中が、
思った以上に頑ななんで、難儀しとるんです」
 スペンサーは大きなため息をついた。時間がない割に、愚痴から入ったようだ。
「どうやら隣町の一つで捜査を指揮したのが、上級官僚の次男だか三男だかで、失敗は
しないということになってるみたいでね。官僚の名前が特定されないよう、一応、町名
は伏せますがね。あんまりにも頑固で馬鹿げているから、最初はうちの捜査陣もフィン
シャー単独犯及び自殺説が優勢だったのが、今や自分に味方してくれる連中が増えまし
たよ」
「じゃあ、いいじゃないですか。皆さんで力を合わせて」
「それがそうもいかんのです。上からちょっとした圧力が来た。表立って面倒を起こし
てくれるなと。だから、動くとしたら検証捜査班のみでやらねばならない」
「おかしいな。今度の事件の成り行きから言って、二つの隣町それぞれの警察署でも検
証の捜査班が設けられるはずでは」
「形ばかりのね。お膝元は無論のこと、もう一つも追随したようですな。それで……最
初に思い付いたのが、フィンシャーには密室内での絞殺が不可能だったことを示そうと
したんですが、うまく行かない」
 スペンサーは椅子を動かし、膝を詰めた。
「トリックを思い付いた当人にこう言うのも何なんですが、その方法に無理はありませ
んかね? フィンシャー単独犯説を覆せるように」
「うーん。ないと言えばないし、あると言えばある、かなあ」
「何ですそりゃ?」
「この方法なら、フィンシャーに密室絞殺事件ができるのは確かでしょう。でも、成功
率100パーセントじゃないと思うんです。手当たり次第に絞めるよりはずっと可能性
が高いが、それでも少しの失敗はあっておかしくない。けれども、絞殺未遂事件は起き
てないんでしょう?」
「そのような事件は一件も起きちゃいません。しかし、ということはですよ、フィンシ
ャーの犯行にしてはうまく行きすぎている、だからおかしいという理屈になりゃしませ
んか?」
「そこが苦しいんですよ。絶対にミスが起きるかと問われると、八回程度なら全て成功
しても不思議じゃない」
「うむむ。それもそうか」
「もう一つ、状況証拠にもならない違和感になりますけど。事件が起きたのは今の季節
でしょ?」
「はあ」
「夏の盛りだ、寝苦しい晩もあったに違いない。なのに、八人の被害者が揃って、完全
に戸締まりをしてから就寝するのは、全員が一軒家か、マンションの一階に暮らしてい
たからでしょう。一軒家はともかく、マンションの被害者に二階以上の者がいないの
は、ちょっと変な気がしますよ」
「面白い見方だとは思いますが、今し方言われた密室殺害方法だと、室内の被害者の動
向を見ている必要があるから、一階の住人を選んだとも言えるのでは」
「一階に拘泥しなくても、フィンシャーは己自身を浮かせることだってできるんじゃあ
りませんか?」
「ああ、なるほどね。やろうと思えば、二階以上だって覗けるかもしれませんな。フィ
ンシャーが古物商に採用されたのは、かなり重たい物でも自在に運べる点を評価された
みたいだし、仮に魔法を使える時間に制限があるにしても、自分自身をマンションのベ
ランダに持っていくことくらいはできるはず」
 と、ここまで評価しつつも、スペンサー刑事は首を左右に振った。
「繰り返しになりますが、面白い発見だとは思います。しかし、フィンシャー単独犯説
を覆すだけの論拠にはならない」
「ええ、残念ながら」
 弱いことを承知の上で意見を述べたのだから、素直に認める。
「結局、鍵になるのはコール氏です。あれから会いに行きました?」
「無論ですとも。フィンシャーの人となりをより詳しく聞きたいという名目で、店を訪
れましたよ。ああ、前は向こうから足を運んでもらったんで、店に行ったのはこのとき
が初めてでしたが、ちょっと想像と違っていたな。古物商と聞いていたから、骨董店み
たいな古めかしくも威厳のある店構えを思い描いていたのに、実際はリサイクルショッ
プでした。無論、骨董品もあったけれども、主力は中古品でしたな、あれは。あとで近
所の家々にも聞き込んでみたら、バーゲンセールやくじ引きなんかもやっていて、敷居
は低くて、割と人気のある店のようでした」
「買い取りもしてるんでしょうね」
 メモを取りながら、合いの手のように質問を挟むウィングル。スペンサーは首を縦に
大きく振った。
「そりゃそうです。自分がいる間にも売りに来た客がいて、ちょっと待たされたぐら
い」
「高額査定でしたか?」
 今度の質問には、さすがの刑事も虚を突かれたらしく、ぽかんとなった。
「えっ? いや〜、全く把握してないな。何でそんなことを気にするんで?」
「近所で人気なら、買い取りの査定額も高いのかと思いまして」
「遠方からも客が来る程だから、高値で買い取ってるんじゃないですかね」
 推測込みのスペンサーの見解に、ウィングルは一応、納得した。
「だったら、お客との間にトラブルはなさそうということになりますか……」
「あぁ、そういう狙いの質問でしたか。先程述べた通り、近所の評判はすこぶるいい。
一回、くじ引きか何かの客寄せイベントで、大きな損失を出したことがあるらしいんだ
が、それに懲りずに今でもイベントをやってくれるとか」
「損失? 少し引っ掛かりますね」
 動機につながるかもしれない。そんな思いから呟いた。スペンサーも掴んでいる限り
のことを、すらすらと答える。
「何て言ってたかな。まず出ないような確率設定だったのに、高額の景品があっさり出
ちゃったとか何とか。気になるのであれば、コールをまた訪ねて直接聞いておきましょ
うか」
「そうですね……直に尋ねるのが正解かどうか分からないな……」
「何をどう考えておられるんで?」
「考えたって程熟慮はしていません。思い付きですが、その景品が出たのって、魔法に
よる不正が行われたからではないかと想像してみたんです。でも、被害者の中で魔法を
使える人は二人で、皺を伸ばすのと、手に持った物の重さが分かるという能力。くじ引
きの不正に使えるのかどうか」
 意図を伝えられたスペンサーは、幾度か小刻みに頷いた。
「どんなくじだったか、詳しく分かればはっきりするということですな。了解しまし
た。ついでに小さなトラブルでもなかったかも、探りを入れるとします。可能であれば
近所から。難しければ当人に聞くしかないが、飽くまでフィンシャーに纏わることのよ
うに聞いてみる。この線で」
「スペンサー刑事の手練手管なら、安心してお任せできます」
 にこりとするウィングル。
「動機についての調査はこれでいいとして、方法が問題です。コール氏は何か魔法を使
えるんでしょうか」
「え、いや、その前に。忘れてませんよね? 現場に魔法痕は他になかったんですが」
「覚えています。しかし、念のため。たとえばですが、真犯人がフィンシャーと同じよ
うに遠隔操作の魔法が使えたとしたら、同じ方法で密室殺人ができる。そして、密室が
開けられて発見者達が大騒ぎをしている隙に、凶器を現場の外へとそっと移動させ、回
収する。これなら真犯人自身の魔法を行使した痕跡は、現場には残らない」
「ははあ……確かにその通りかもしれんが、それだと現場の近くでずっと見張ってる必
要がありますな。コールに関してなら、少なくともフィンシャーの遺体発見時に、別の
刑事が話を聞きに行っていた。よって、今言われた方法は不可能」
 今度の否定には、ウィングルも反論する。
「今のは飽くまでも一例。真犯人が遠隔操作魔法を使えたとしたらの話です。焦らさな
いで教えてくれますか、コール氏が魔法を使えるのか否か、使えるのならどんな魔法か
を」
 スペンサーが議論に乗ってきたということは、ダビド・コールが何らかの魔法を使え
るのは間違いない。ウィングルは確信した。
「使えます。空気中の水分をぎゅっと固めて親指大の氷を作れるんです。無限に作れる
訳ではなく、一度に一つだけ。形状もまさしく大人の男の親指みたいな形にしかならな
い。使い道の狭い、不便な魔法ですよ。まあ、夏の夜にはいいかもしれませんがね」
「……」
 答を聞いたウィングルは、脳裏に絵を描いていた。氷の指が人間を絞め殺す絵……で
はなく、密室を作る絵を。
「スペンサー刑事。先に聞いておきますが、今回の殺人事件のどれか一つでも、コール
氏のアリバイは成立していますか?」
「いや、していません。死亡推定時刻が比較的幅が広いせいもあって、アリバイの判定
に有効に使えそうなのは、八件目とフィンシャーの件ぐらいですが、いずれもコールに
アリバイはない。だからこそ、彼を調べるべきだというあなたの意見に乗っかって動い
てるんですよ」
「よかった。無駄にならなくて済んだかもしれない」
 ほっと息を吐いたウィングル。その魔法医の言葉に、スペンサーは色めきだった。
「と、ということは?」
「ダビド・コールにも密室殺人は可能ですよ。その魔法――水分凝結魔法とでも言うの
かな?――が使えるのなら」
「そうでしょうか? 親指大の氷一つでは、絞殺には適さないし、そもそも氷の指を遠
隔操作できる訳でもない」
「そこに思い込みがあるのでは? 凍らせる水分を少しずつ変えることで、氷の指は空
間を移動できると私は思う」
「……理屈の上では、そうなるか」
 頭の中で想像したらしいスペンサーは、またも何度か頷いた。
「だが、それができたからと言って、絞殺には役立たない。まさか、紐の一端だけを一
緒に凍らせて、徐々に引っ張ったとか言わんでくださいよ」
 一転して不安げな顔になる刑事に対し、ウィングルは声を立てて短く笑った。
「ははは。いや、これは失礼。そんなやり方は、遠隔操作魔法による絞殺以上に、超絶
に難しいでしょうね。私が考えていたのは、絞殺の方法ではなく、密室の作り方です」
「え? ――あ、親指一つあれば、窓のクレセント錠を押せるのか!」
「と思います。実際に氷の指を作って窓の錠を押しても、強度が足りるかどうかきわど
い線かもしれないが、空気中の水分を凝固できる魔法なら事情は違ってくる。水分を固
める過程で方向性を持たせ、じんわりとクレセント錠を押してやればいい。氷河が何も
かも押し出すような力――というのは大げさでしょうが、確実に力を伝えられるはず。
ダビド・コールが、被害者を直接絞殺した後に、魔法を使ったこの方法で密室を作った
と考えても、筋は通ります」
 密室トリックが解けた、一段落したという気持ちから、長く留守になっていた昼食に
取り掛かろうとしたウィングル。だが、刑事の疑問が引き留める。
「ですが、ウィングル先生。そのやり方だと、魔法痕が残る。氷が溶けたにせよ、元の
ように空気の中に戻したにせよ、何らかの反応が出るもんです」
「空気も調べられるんですか?」
 軽く驚きつつ、聞き返すウィングル。対するスペンサーは、曖昧ながらも首を左右に
振った。
「いや、空気を調べるのは、端からそのつもりで空気を集めて、大掛かりな装置に掛け
ないとできませんから、通常の捜査では項目にありません。だが、空気中の水分はどこ
かに染み込むものでしょう。クレセント錠を押したあと、氷の指を元の空気に戻して
も、その水分は近くの木枠や壁に多かれ少なかれ染み込むと思う。密室に関連がありそ
うなクレセント錠とその周辺は念入りに魔法痕を調べる段取りになってるから、見落と
しは考えられない」
「コールが万全を期して、氷の指を現場から脱出させたとしたら?」
「脱出とは?」
「先程、氷の指の遠隔操作は無理という話でしたが、一度形作った氷を少しずつ戻しつ
つ、新たに氷にしていくことは多分、可能でしょう。つまり、氷の指は空中を移動でき
る。直線で行けるのか放物線を描く必要があるかは分からないけれども、空中を移動し
て、洗面台に辿り着ければいい。あとは指の形をした氷を排水溝へと落とし込めば、魔
法痕を残すことなく、現場の外へ持ち出せたとなるのでは」
「……そこまでは調べていない、と思います。染み込みにくい材質だろうし」
「ただし、犯人がそこから氷を回収できたとは思えません。長く対流していたとした
ら、魔法痕が比較的強めに残るんじゃないでしょうか」
 ウィングルが示唆すると、スペンサーもすぐさまそれを感じ取ったようだ。派手な音
を立てて椅子から腰を上げる。
「フィンシャーの死んだ社員寮に行って、排水溝を奥の奥まで検査させなければ。何を
置いても、真っ先に」

「それで、結局のところ、動機は何でしたの?」
 後日、捜査決着の報告に来たスペンサー刑事に、フェイドが率直に尋ねた。刑事の手
には、彼女の入れた紅茶がある。
「全員に対する動機はまだ白状していないが、一部は喋った。ダビド・コールとして
は、不正な連中を成敗したつもりだったようです」
「不正? 殺された女性達は、みんな不正を働いていたの?」
「ですから、全員かどうかはまだ不明ですがね。はっきりしているのは二人。まず、三
番目の被害者であるラニエ・デネブ。紙などの皺をきれいに取る魔法を使えたんだが、
これを悪用して、古い紙幣や雑誌なんかを新品同様にした上で、コールの店に持ち込ん
でいた」
「きれいにした方が、高く買い取られる……?」
「単にきれいにしただけなら、不正とまでは言えない。だが、保存状態によって価値が
大きく変わってくる、古いお札や雑誌にそんな魔法を掛けたとなると、だめだ。あとで
ばれたら、価値は下がる。そんな物を店頭に並べたとあっては、コールも恥を掻くだけ
じゃ済まない」
「それにしても、殺し殺されするようなことなのかしら」
「まあまあ、それは人それぞれの価値観や倫理観があるということでね」
 ウィングルはフェイドの疑問を緩やかに宥めると、スペンサーに先を促した。
「もう一人は、五番目に殺されたキャット・ゴールドマン。片手で持った物の重さが分
かる魔法が使える。で、この女性がやったのは、ダビド・コールの店で行われたイベン
トの一つで、高価な景品を不正に獲得した。というのも、コールが企画したのが珍しい
石を箱一杯に詰めて、その重さを正確に言い当てれば全て差し上げますっていうものだ
ったんだ。正解に一番近い人に手頃な宝石一つを進呈する予定でいたのが、キャット・
ゴールドマンがやって来て、ピタリと当ててしまったという訳」
「何という……それは殺されても仕方がないかもしれませんわ」
 フェイドが呟くように言った。彼女の基準がどこにあるのかよく分からない。ウィン
グルは口元を隠しつつ、苦笑を浮かべる。
「そんな具合に、客の不正を嗅ぎつけたコールは、復讐を果たすために着々と準備を重
ねていたんですな。デネブやゴールドマンら不正をした客に対して、気付いていること
はおくびにも出さず、またのご利用をとか何とか名目を付けて、彼女らの住まいに上が
り込みやすい環境を作っておいた。一方で、フィンシャーを雇い、他の従業員に辞めて
もらったのも同様。フィンシャーに全てを擦り付け、自殺という形でけりを付ける計画
だったんですよ。考えてみりゃあ、補助金が出なくなるのに、前科のある他の従業員を
退職させていた時点で、何か変だなと察するのは……無理ですかね」
 スペンサーはウィングルに向き直り、そんなことを聞いた。
「そりゃ難しいでしょう。ダビド・コールに金の亡者という評判でも立っていればまだ
しも、そうではなかったみたいですし。不正が許せない性格だったからこそ、こんな極
端な犯行に走ったんでしょうが、その計画性ややり口だけを取り上げると、相当悪質で
巧妙だと思いますよ。前もって気付くのは無理と言っていいかもしれない」
「フィンシャーに濡れ衣を着せたまま終わらせ掛けていた警察としては、どこう言える
立場じゃないのだけは確かだ」
 自棄になったような口ぶりで笑ったスペンサーは、不意にウィングルへ非難がましい
言葉をぶつけてきた。
「あっ、そう言えば、ウィングル先生。あれは酷いですなあ」
 えっ何がどうしました?と身構えるウィングルに、刑事は微苦笑をなして冗談である
ことを示すと、言葉を重ねる。
「全てを解き明かしてもらってない段階で、自分、飛び出しちまったでしょ。あとでち
ょっと焦りましたよ」
「全て、とは何です?」
「とぼけんでください。密室内にあった凶器についてですよ」
 憤慨したふりを続け、足で床を踏みならすスペンサー。ウィングルも、たった今気付
いたふりをした。
「あ、そうでしたね。フィンシャーの魔法痕の残った紐が、どうして密室内にあったの
か、説明していませんでした」
「もう解決済みですから、かまいやしませんけどね」
 スペンサーはそれ以上は言わなかった。
 もちろん、ウィングルにはとうに推測できている。
 ダビド・コールはフィンシャーに、普段の仕事で荷造りをさせていたのだ。魔法を使
って、適当な長さに切っておいてくれとでも命じておけば、余分な紐が凶器として残る
のは確実だった。

――終わり




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