AWC ●短編



#478/482 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/07/31  21:55  (121)
バレンタインチョコの賞味期限   永山
★内容
 弟が遺した物を整理していると、手のひらサイズの四角い箱が出て来た。青みがかっ
た白い用紙できれいに包装されている。
 右肩部分に赤いリボンが掛かり、そこに挟み込まれた学習帳の切れ端には、鉛筆で大
きく殴り書きが。
“絶対! 食べるな!”
 智雄《ともお》の字だ。
 バレンタインデーにもらったチョコレートか。
 よく見ると包装紙は一度開けた気配があった。智雄のやつ、開封して誰がくれたのか
を確認したあと、また丁寧に包み直したようだ。意中の女の子だったんだね。
 そんな大切なチョコを味わうことなく、逝ってしまった。こんな物があると分かって
いたなら、棺に一緒に入れてやったのに。

 ……この年頃の男子が本当にひとかけらも口にせずに、我慢できたのかしら? ちょ
っとずつ食べるっていうのが一番ありそうな気がする。
 開けてみよう。
 合掌して、智雄に心の中で一言断ってから、箱のリボンに手を掛ける。が、リボンは
ただの飾りで、するりと外れた。改めて包装紙の端を見つけ、慎重に開いていく。
 中身は既製品のチョコと手作りチョコを組み合わせた、一枚物だった。大雑把ではあ
るけれど、ゲーム画面と思しきデザインになっている。
 その端っこが欠けて、歯形が残っているのを見て、ほっとした。ちょっとだけ笑え
た。

 このチョコレートをどうするかはあとで考えることにして、とりあえず仕舞おうとし
た。が、ある文字に気付いて、蓋をする動作が止まる。
 蓋の裏側に張り付くようにして、二つ折りにされた蝶々型のメモがあった。その開い
た羽の間に見えたのは木藤美香子《きふじみかこ》という名前。手書きで、「|矢代《
やしろ》君このゲーム好きだよね。食べて。ひとつき後に返事ください」って。
 バレンタインデーに受け渡しをしたのなら、返事はホワイトデーに期待するのが当然
というもの。
 でも、弟が事故で死んだのは三月三日。恐らく、返事していない。
 五年生の子に、いや、もう四月だから六年生だね。とにかく小学生の子に、智雄が喜
んでいたことを伝えるべきだろうか。
 身内としては、智雄の気持ちを伝えてやりたいし、正直言って、智雄が好きになった
女の子を見てみたい、会いたい気持ちもある。
 当の木藤さんはどうなのだろう。多感とされる小学校高学年の時期に、死んだ告白相
手から今さら色よい返事をもらっても迷惑かも。あるいは、返事そのものは嬉しくて
も、想いをいつまでも引きずって次に進めなくなるのでは。
 あれこれ想像してしまうが、もし私だったらと考えると、やはり相手の気持ちは知っ
ておきたい。そのあとどうするかは、当人の判断すること。
 それでもなお迷ったのは、今の私が大学生で、木藤さんは小学生。そのギャップが心
配。だけれども最終的には、機会を見て伝えようと決めた。

 春休み中にと最初は思った。けど、智雄の死からまだ一ヶ月ちょっと。早すぎる気が
してきたので、延期する。
 次は、ゴールデンウィークになる前にと考えたが、休みの前に伝えられても困るので
はとか、五月病だの、最近では四月病だの言うらしいから、ここは慎重にならなくて
は。
 結局、六月にずれ込んだ。その月最初の日曜日、私は木藤美香子さんと、小学校近く
の公園で会う約束をした。
 事前に彼女の顔写真を観ることができたので思い出した。弟の葬儀に同級生の子らは
担任教師の引率で全員一緒に来てくれたのだが、木藤さんは女子の先頭にいて、多分ク
ラス委員長か副委員長だと思われた。年齢の割に背があって、凜とした美人さんで、全
然泣いてなくて、話もしなかった、いや、クラス代表みたいな形で少し挨拶したかな。

「矢代君のお姉さん?」
 公園の出入り口の一つで待っていると、背後から声を掛けられた。
 振り返ると、木藤美香子さんがいた。よく知らない人と会うのが心配なら家族の付き
添いOKだよと伝えていたのだけれど、一人で来ることを選択したみたい。
「こんにちは、木藤美香子です」
 やや緊張気味の声で言い、頭を下げる。こちらも急いでお辞儀した。
 私をびっくりさせたのは、その格好。もう蒸し暑い時期なのに、黒を基調としたワン
ピースを身につけている。喪服を連想する。
「矢代智雄の姉で、矢代|一美《かずみ》よ。よろしくね。六年生にもなると忙しいで
しょう? そんなときに呼び出して、ごめん。迷惑じゃなかった?」
 つい口数が多くなる。相手は「いいえ、全然」とだけ答えた。
 簡単に済ませるルートも想定していたが、彼女を前にしてしっかり伝えようと切り替
えた。少し歩いて、喫茶店に入る。きれいな店構えだが、流行ってはいないみたいだ。
 好きな物を頼んでいいよと言ったのに、木藤さんはドリンクの中から、一番安いコー
ヒーを選んだ。この暑さだし、せめてアイスコーヒーにしない?と水を向けて、やっと
アイスティーを選んでくれた。
 グラスが二つ来て、ウェイターが下がったところで、話を切り出す――つもりが、先
に彼女が口を開いた。

「あの、こうして呼ばれたということは、おねえさんはご存知なんでしょうか。ご存知
なんですよね」
「……智雄にチョコあげたことなら、この前知りました」
 二ヶ月ほど経過してるけれども、まあいいだろう。
「やっぱり」
 それだけ言うと、俯いた木藤さん。耳が多少赤らんだよう。
「今日会ってもらったのは、返事を知りたいんじゃないかなあと思って。正確には返事
じゃなくて、智雄の気持ちだけどね。知りたくなかったら、このままお茶飲んで帰ろう
か。あの子の思い出話、ちょっと聞かせてくれたら嬉しいな」
「知りたいです」
 私の声に被せるようにして、木藤さんは言った。見ると、身を乗り出し気味にしてい
る。
 唇をぐっと噛み、目を大きく開けて、覚悟と期待が入り混じって全身を巡っている。
そんな雰囲気。
「そうだね。よかった」
 私は持ってきていた紙袋から、例の箱を取り出した。テーブルに置いて、彼女にメモ
が読めるように向きを調節する。
「あの子の持ち物を整理してたらこれが」
 言いながら相手を見やる。口元を両手で覆う木藤さん。
「ちなみに、他にチョコやバレンタインのプレゼントらしき物は全然出て来なかった
わ」
「……あの、矢代君は全然食べてくれなかったのでしょうか……」
「あ、それは大丈夫」
 蓋を開けてみるように仕種で示した。三十秒後、木藤さんはくすっと笑いながら、人
差し指で目元をぬぐった。

 さて、ここで終わりにしてもいいと思ってた私だけど。
 弟の気持ちを隠すことなく伝えるには、もう少し時間が必要だ。
「あとね、智雄はホワイトデーであなたへのお返しを考えてたみたいなんだけど、亡く
なった時期が時期だから、まだ何も用意していなかったらしいのよ」
「そうですか……考えてくれてただけで嬉しい」
 軽く目をつむり、感慨に浸る木藤さん。智雄のやつ、凄く理想的な子を見つけていた
んだなあと感心する。
 まだまだ長い人生のあるこの子にとって、矢代智雄を好きになったことはいずれ小さ
な記憶に過ぎなくなり、ほとんど思い出されなくなるんだろう。けど、そうなるまでは
何度も思い出してやってほしい。一時的なものであっていいから。
 と、彼女の目がぱっちり開いた。
「あれ? で、でも、どうして分かったんですか。お返しを考えていたみたいだなん
て」
「うん。実は、抽斗からこういうのも出て来て」
 私は紙袋の底の方をさらって、その水色をしたポチ袋を取り出した。そう、お年玉袋
だ。
「そこに書いてあるでしょう」
 お年玉袋を裏返してから、テーブルの上を滑らせ、彼女に見せた。

“木藤さんに使う分!”

 終わり




#479/482 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/08/31  19:57  ( 98)
どうだっていいよね、メダルの色なんて   永山
★内容
 僕、片柳憲吾《かたやなぎけんご》。アマチュアレスリングの選手を引退したばか
り。五輪で二大会連続金メダルを取っての引退だから、まだ記憶してくれてる人も多い
と思う。

「犯人が分かったと聞いて来たんですが」
 その金メダル、二つ並べて自宅のステレオの上に飾っていたのだが、うち一つが昨日
の月曜、消えた。盗まれた可能性が高い。オリンピックのメダルを盗まれたなんて公に
なると、管理がなってないとかどうとか叩かれそうな予感がしたけれども、仕方がな
い。警察に届けた。
「現時点では犯人ではなく、飽くまで容疑者です」
 それが報道に乗らない内に、容疑者が見付かったという連絡を警察からもらった。昨
日の今日のことだ。
 担当の刑事さんは柔道の猛者とかで、僕と同じように耳がカリフラワーみたいになっ
ている。階級が違うのもあるけれど、身体が大きく、もし戦ったら負けるかも。こうし
て小部屋に二人だけになると、圧迫感が否応なしに伝わってくる。
「が、恐らく間違いないでしょう。片柳さんの留守中、お宅に出入りする様子が防犯カ
メラに映っていましたから」
 刑事さんは机の向こうにどっしり構えて座り、ゴツゴツした手を組んでいる。外見か
ら来るイメージとは対照的に、喋りは軽い調子だ。
 それにしても防犯カメラのことを念頭に置かず、盗みに入るなんて。よく分からない
が、よほどの間抜けか、金に困っていたのか。でもお金目当てなら二つとも持って行く
んじゃないか。
「それで、メダルは無事なんでしょうか」
「うーん、無事ではないですな。修復は可能でしょうが」
 換金済みではないらしい。傷を付けられたということか。
「それよりも、事件として扱えるかどうか、微妙になるかもしれんのです」
「え? どういう意味でしょう」
「説明します。難しい話は抜きに、ざっくりと。親族相盗例といって、身内の者が盗ん
だ場合、罪には問われんのですわ」
「身内って……誰ですか」
 ショックで声が掠れた。もう一度同じ問い掛けを発した僕に、刑事さんは「明臣《あ
けおみ》君です」と答えた。
「明臣が? 何でまた」
 現在中学一年生の明臣は息子だが、養子だ。子供がほしいができない僕ら夫婦が、姉
夫婦の子供三人兄弟の内の一人を引き取った。
「片柳さんのお姉さんも、同じ大会のオリンピックメダリストですよね。銀の」
「え、はい。その通りですが、それが何か関係が」
「前の日曜に、明臣君を姉夫婦のところに遊びに行かせましたよね」
「はあ。割と早い内から、彼には本当の両親は僕らじゃなくて、姉さん夫婦なんだよと
打ち明けてますので」
 答えながら、嫌な想像をしてしまった。銀メダルに終わった実母を想い、金メダルを
あげようとして持ち出したのか? あるいは姉が明臣に命じて――いや、まさか。

 そんなことを考えていると顔に出たのだろうか。刑事さんはこちらを見て、微苦笑ら
しきものを表情に浮かべた。
「明臣君から直に聞きます? 泣き止んだばかりでまだ落ち着きを取り戻していないか
ら、時間が掛かるでしょうけど」
「うう」
 直に聞こうかと思ったが、何だか僕まで泣いてしまいそうな予感がしたので、やめて
おく。
「刑事さんから聞きたいです。お願いします」
「分かりました。彼の話によると、最初、銀メダルを持ち出したんですな」
「うん? 姉の?」
「そうです。友達に見せて自慢するために。ところが、見せた場所がよくなかった。河
川敷で友達数人に見せて、ちょっと悪ふざけをする内に、ポチャンと。川に落ちて、ど
こに行ったか分からなくなってしまった」
「ええ? そんな流されるようなもんじゃないでしょうに」
「川底の丸っこい石の間に入り込んだようで、探したが見付けられなかったと。焦った
のは明臣君です。勝手に持ち出しただけでもまずいのに、なくしたとなれば大目玉を食
らうかもしれない。彼にとっては、あなた方夫婦もお姉さん夫婦もどちらも怖い親です
から」
 姉や僕は、姉の息子らにアマレスをさせようと躍起になった頃がある。体験させるだ
けでその後続けるかどうかは子供達次第、という意識はあるのだが、ついつい強要しが
ちになる。結局、三人ともレスリングをやらなくなってしまった。その際のイメージか
らすれば、僕らは怖い大人だろう。反省しきりである。
「で、今どきはネットで調べれば、銀メダルの入手方法も分かる。明臣君が見付けたの
は、金メダルを利用すること」
 刑事さんの言葉でぴんと来た。
「もしかして、銀メダルを金メッキした物が金メダルだという話を」
「ええ。幸いにもあなたとお姉さんは同じ大会で金と銀。デザインは同じだから、メッ
キを溶かすなり剥がすなりすれば、外見は同じになると考えたようです。あなたの金メ
ダルが消えることについては、もう一つあるのだから怒りの度合いが比較的小さくて済
むのではないかという期待から」
「はあ……でも、それじゃあ当てが外れた訳だ、明臣は」
 僕はこんな事態の只中なのに、思わず笑ってしまった。
「ええ。明臣君世代にとっちゃ昔話になるから知らなくても無理はないが、当時は凄く
話題になりましたな」
 僕と姉がメダルを獲得したのは、アラブ某国で開催された大会。原油に金に宝石にと
えらく豊かな国だったからか、1912年のストックホルム大会以来の純金製の金メダ
ルが用意された。
 以前のオリンピック憲章では、“金メダルは、純度何パーセント以上の銀メダルに金
メッキを何グラム以上施したものとすること”といった規定があったが、2004年に
この文言が削除された後は、IOCに事前に提出して承認が得られればOKとなってい
る。
「持てば重さの違いで分かりそうなものなのに」
 思わず僕が呟くと、刑事さんは「そりゃ無理ってもんでしょ」と笑った。
「それでですね、証拠探しってことで、手の空いている者全員で川をさらったら、首尾
よく銀メダル、見付かりまして。幸い無傷らしい」
 よかった。オーバーでも何でもなく、胸を撫で下ろした。
「あとはあなた次第ってことです。さっき言ったように刑事事件にはまずできないでし
ょうし、したくないでしょ?」
 メダルには傷が付いたが、それだけで済むのなら安いもの。許すの一択だ。
「こんなことなら、銀メダルでもよかった。いや、銀があったら結局持ち出されるか
ら、銅メダルがよかったかな」
 僕が冗談交じりに言うと、刑事さんも呼応した。
「そりゃいいですな。銅という字は金に同じと書きますしね」

 終




#480/482 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/01  19:59  ( 87)
札束風呂には入れない   永山
★内容
 結婚してもうすぐ一年になる。だから会社からの帰り道では、紙婚式の祝いをどうし
ようか考えていた。
 中古マンションの自宅に帰り着き、妻の名を呼んだが返事がない。室内は暗くて、で
も履き物は残っている。家中あちこち探す。嫌な予感が大きくなる。防犯カメラはない
し、エントランスの自動ドアにロック機能はない。高くてももっとましなマンションを
探すべきだった。
 後悔の渦に巻き込まれながら、探しに探して、最後に行き着いた。風呂場の浴槽の中
に妻を見付けた。
 妻は死んでいた。頭の後ろ辺りから血が流れていた。
 そして何故か、浴槽は万札で一杯だった。

 紙幣だからって紙婚式の祝いじゃあるまい。

 警察を呼んでから、色々と気が付いた。
 うちにどうしてこんな大金があるんだ。そもそも本物の一万円札なのか? 全部真
札? だとしら数枚くすねても分からないんじゃないか……とまでは思わなかったが。

 浴槽から出された妻は、さすがに裸ではなく、仕事に出るときによく身につけるスー
ツ姿だった。ただ、わざわざ袖をまくり上げ、スカートの裾も大きくまくれ上がってい
た。
 札束風呂にリアルに入るなら、服の着用は必須だろう。肌にお札が触れたって気持ち
よくはないし、むしろ不快なはず。下手すると、お札の縁で肌を切って出血を見るかも
しれない。それなのに何故、腕や足を露わにしていたのか。事実、外から見える肌には
傷がたくさん見られた。

 奥さんにはこういう趣味があったんですかと、無神経な刑事に無神経な質問をされ
た。無論、否定した。金の出所についても知らないと答えるほかなかった。刑事の話し
ぶりでは、どうやら全て本物の一万円札のようだった。

 しばらくして別の刑事が報告に来た。洗面台のネジが複数緩んでおり、外して調べて
みたところ、壁に穴があいていた。穴は入口こそ狭いものの奥行きがあり、横にも広が
っていたので、金が隠してあったと考えれば辻褄が合うという。
 入れ違いにまた別の刑事が来て、一万円札は全部で二十二万九千四百三十七枚あった
と告げた。あの札束風呂に、二十三億近い金が使われたのか……。

 刑事達がごにょごにょと話をし出したので、聞き耳を立てていると、三十億円横領殺
人事件という言葉が漏れ聞こえた。
 十年ぐらい経つだろうか。某仮想通貨を運営する社長が行方をくらました。仮想通貨
を約三十億円とも言われる現金に換え、自らは死んだように装ってとんずらを決め込む
計画だったが、側近の一人と仲間割れして、本当に命を落とした。その殺害犯は逮捕さ
れたが、金は行方不明になっていた。
 有名な未解決事件の一つだが、まさかあの事件の金が、うちの壁に隠されていた?
 前の入居者について問われたが、何も知らなかった。刑事達はマンションの管理会社
に問い合わせるようだった。

 あとは刑事から聞いた事後報告のようなものである。
 前の入居者である男性は、交通事故死していた。両親が地方から出て来て、遺品を整
理し、そのまま引き払った。両親は息子が犯罪に手を染めていることも、大金が隠され
ていることも知らなかったに違いない。
 大いに慌てたのが、犯罪仲間の連中。事の次第を知るや、すぐさま次の住人として入
居を試みたはずだが、一歩遅かった。そう、我々夫婦が先に契約したのだ。
 全く運が悪い。犯罪者連中の運ではない。我々夫婦の方だ。こんな部屋を借りられる
ことになったばかりに、妻は犯罪に巻き込まれ、命を落とす羽目になったのだ。せめて
あの日、妻が仕事を早めに切り上げることなく、定時に帰ったのなら、侵入していた犯
人と鉢合わせすることはなかったろうに。

 疑問がまだ残っていた。
 犯人達は、どうして金を持ち出さなかったのか。それどころか、札束をわざわざ浴槽
にぶちまけた理由は?
 刑事が説明する。
「犯人の一人が白状した話から想像を交えて状況を再構築すると、次のようになる」
 早めに帰宅した妻は、室内から聞こえる物音で異常を察知し、咄嗟にスマホを構え
た。動画なり写真なりで犯人とその行為を撮影し、即座にネットに上げられるようにし
た。これを材料に犯人らを追い出そうと試みた。
 が、犯人グループの一人が動揺のあまり暴走。妻は後ろから殴りつけられ、命を落と
す。その際の衝撃でスマホは落下し、壊れたが、もしかすると画像(動画)ファイルは
送信されたかもしれない。
 そして何よりも犯人達を不安に陥れたのは、撮影された画像の正確なところを掴めな
いことである。紙幣番号が映っていたら、そのお札は使えない。だがどの番号が映った
のか? これではマンションの外へ運び出せたとしても、危なくて使えない。確実に映
ってない札のみを持ち出し、あとは置いていくしかなかった。
 元の場所に隠す時間はなく、燃やすことも考えたが、あまりに大量なのと、スプリン
クラーの作動を恐れて断念したらしい。
 また、一味の何名かは、札の縁で頬などを切っていた。血の付いた札を現場に残した
ままにすることはすなわち、DNAという証拠を残すことである。回収するにも数が多
すぎるし、うっすらと付いた血はもはや見分けるのも至難の業。窮余の一策として、被
害者の血で札を汚してしまえば見分けが付かなくなり、検査が甘くなるのではないかと
いうアイディアを絞り出す。そして洗面台のすぐ隣には、浴室があった。追い込まれた
犯人らが札束風呂という珍妙な発想をしたのは、自然な成り行きだったのかもしれな
い。

 事件で妻を亡くして以来、風呂に入るのを躊躇うようになった。心理的なものに違い
ないのだが、妻の死に様を思い起こして、申し訳ない気持ちに支配されてしまう。
 一度、償いのつもりで札束風呂に入ってみようと考えたことがあった。でも、仮に一
万円札を千円札に置き換えても無理だと分かり、あきらめた。

 終




#481/482 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/02  02:20  (173)
永遠の目覚めと眠り   永山
★内容                                         20/09/03 16:37 修正 第2版
 今テレビから流れてるアニメの再放送、見るのはこれで三度目だ。体感的に三日連続
で同じアニメの同じエピソードを見ている。
 どうしてこんなことになったのか分からないけれども、四月二十六日が繰り返されて
いる。
 そしてそれに気付いているのは、私達一家四人だけらしい。

 遡ること三日、もとい、体感的に三日前。私はうきうきする気持ちを抑えるのに大変
だった。
 明日はゴールデンウィーク初日。例年なら大した予定なんてないのだけれども、今年
は違う。旅行、それも初めての豪華客船のクルーズ。国内を三泊四日で回るショートク
ルーズだけれども、楽しみでたまらない。
 何しろ、申し込んだ日から対策を練り始めたくらい。持って行くべき物や持って行っ
た方が便利な物、ドレスコード、食事でのマナー等々、クルーズ船での生活ってある意
味面倒なんだなと理解した。まあ、日本船だから言葉やチップについては悩まずに済む
し、ドレスコードにフォーマルデーはなかったので助かった。
 ともかく、そんな風にして準備万端とまでは行かなくても、できる限りの下調べを済
ませ、安心して港に向かえる。明日は朝早いから早く寝ようと床に就いた。
 ところが、起きてみると朝の七時。いつもの時間だったものだから、びっくりして叫
んでしまった。寝過ごした!と大慌てで布団から飛び出し、両親をたたき起こすと同時
に文句を言ってやろうと寝室に直行。が、いない。
 まさか私だけ置いて行かれた? 妹の部屋に向かうが、途中で食堂の隣を通ると、そ
こに両親がいた。食事の準備が進んでいて、焦った様子は全くない。ただ、表情に釈然
としないものが張り付いているような。
「ど、どうしたのよ、二人とも。何してるの。急がなきゃ、船に間に合わない!」
「やっぱりそうだよな」
 父の反応が変だ。私が何も言い返せずにいると、父は続けてキッチンの母に声を掛け
た。
「理恵も言ってる。間違いなく、今日は出発する日だったんだ」
「ですよね。でも、テレビや新聞が……。どう説明するんです?」
 テレビのチャンネルは、民放のワイドショーに合わされている。普段はNHKのニ
ュースを見るのに、珍しい。
 と、そこで私は気付いた。そのワイドショーは画面の右上日付がテロップされてるの
だけれども、4/26となっていた。おかしい。
「あれ? 誤字というかミス? 今日は二十七日なのに」
 画面を指し示した私の目の前に、父の手が新聞を差し出してきた。
「これ、今朝配られたやつなんだが……日付が二十六なんだよ」
 私は視力はいい方だけれども、目を思い切り近付けて新聞の日付を読み取った。間違
いなく、四月二十六日。テレビと新聞が同時に間違えるなんて、まずあり得ない。これ
は……タイムスリップとかループとかいうやつ?
 わけが分からないまま、しばし呆然としていた。けど、父が出勤の支度を始めたのを
見て、あっと叫んだ。私達――私と妹――も、学校に行かなくちゃ?
「今日が二十六日だとしたら、そうなるな、うん」
 父は思い切り釈然としない風ではあったが、そう言って出て行った。自分自身に言い
聞かせたのかもしれない。

 高校で友達にそれとなく聞いてみた。今日って何日?とか、二十七日じゃなかったっ
け?とか、あるいは、何だか同じ日を二度体験してるみたいな気がしない?なんて。し
まいにはそれとなく感がなくなっていたのだろう、変な目で見返された。ゴールデンウ
ィークが待ち遠しくて変な夢を見ちゃったせいかな、ってごまかしておいたから、多分
大丈夫。
 帰って来て、妹にも聞いたみたところ、周りの友達や先生らは今日が四月二十六日で
当たり前って顔をしていたという。母もご近所さんとの世間話の合間に、何気ない風を
装って探りを入れてみたが、同じだったらしい。恐らく父もそうだろう。
 四月二十六日が二度目だと気付いているのは、私達四人だけ。テレビのニュースを見
ても、ネットでトピックスや書き込みを当たってみても、タイムスリップだのループだ
のの話は出ていなかった。
 それでも、私達家族にできることはなかった。この現象は一時的なもの、もしくは集
団催眠やヒステリー的なやつで、今夜一晩をやり過ごせば、明日こそ四月二十七日にな
るんだと楽観視していた。いや、希望的観測だったかも。
 念のため、スマホのアラームの他、目覚まし時計も二つセットして眠りに就いた。

 起きたらまた二十六日が来ていた。しかも、“昨日の二十六日”のことも、“本来の
二十六日”のこともしっかり記憶に残っている。
 どうしよう?と不安は募るばかりだったけれども、とにもかくにも私と妹は登校し、
父は出社しなくちゃならない。
「くれぐれも妙な気を起こさないように」
 朝の食卓で、父は真剣に話し出した。
「妙な気って?」
「この四月二十六日が繰り返され、我々以外は誰も記憶に残らないとしてもだ。憎たら
しい奴をぶん殴ったり、お金を盗んだり、片想いの相手に試しに告白してみたり、高層
ビルの最上階から飛び降りたり、とにかく普段の生活じゃやらないようなことを、いい
機会だとやらかさないようにするんだ」
 全然思いも付かなかった。そういえば父はSF好きで、小説でも漫画でも映画でもよ
くみている。まあ、ここは忠告に素直に従おう。
 ただ、ちょっとぐらいは有効利用しなくちゃもったいない。小テストで満点を取った
し、親しいクラスメートに、数学の授業であなたが当てられるのはここだよって教えて
あげて感謝された。この程度なら問題ないでしょ。
 そんなことより、私は早くクルーズ旅行を楽しみたいの! 何とかしてこの繰り返し
の日々から抜け出さないと。

「眠らないってのはどうかな」
 妹の加奈が言い出した。小学生らしい素直な発想だと、変に感心してしまった。私も
両親も、もっと科学的、論理的な解決策を模索していたんだと思う。とりあえず試して
みる分には、妹の案がうってつけだ。
 ということで早速実行に移すことに決めた。ただ、心配もある。仮にこれで正解だと
して、四人とも朝まで起きていられたら問題ない。が、もしも脱落者が、つまり途中で
寝てしまった者がいたら、どうなるんだろう。たとえば私だけ寝てしまった場合、私は
二十六日に取り残されて、両親と妹は二十七日に? その二十七日には別の私がいるの
かしら? そもそも、二十七日に私達家族以外の人々はいるのかどうか。
 そんな心配を抱えたまま、見切り発車で寝ないぞ作戦は始められた。当初は強烈な眠
気との闘いを想像していたのだけれど、意外と早く答えは出た。
 午前0時を迎える瞬間、世界が全体的に白くなったのだ。

「割と早かったね。三回目で気付くとは」
 脳天気な声が頭上から降ってきた。何だか知らないけれどすっごくむかつく。
「誰?」
 と声に出すよりも先に、「僕、デヒ。時の糸車管理人だよ」と同じ声が言った。実際
に音として聞こえているのではなくて、頭の中に直接届いているような気がした。
「時の糸車? デヒさん、何ですかそれは」
 父が尋ねる。見えない相手に、言葉遣いも丁寧になる。
「詳しくは話せないんだけれどね。今の状況についてと合わせて、簡単に説明するよ。
時間の流れって、僕みたいな管理人が糸車を回すことで、一定方向に進むんだけど、希
に糸がほつれて、修繕する必要が生じるんだ。その際、さらに希なことなんだけど、今
回のあなた達四人みたいな目に遭う人が出て来る。修繕の糊に引っ付いちゃった、とで
もイメージしてくれたらいいよ」
「はあ。それってデヒさんが剥がしてくれるのではないんですか」
「残念ながらできないんだ。無理に引っ張ると、糸のほつれが拡大して、最悪切れちゃ
う。そうなったら、最初っからやり直しだから。そんな危険はおかせないんだなあ」
「じゃあ、解決策は……」
「本人達が自力で気付くのを待つ、これしかない。大して難しい解決策じゃないでし
ょ? 起きてればいいだけなんだから」
「まあ、確かに」
 口ではそう認めたものの、父は不満そうだった。私も同感。それならそうと、眠るな
ってメッセージを出して、知らせてくれればいいのに。でもまあ、文句は言わないでお
こう。元に戻れるんなら、早くしてもらおうじゃないの。そして少しでも眠っておきた
い。
「ところで、迷惑を掛けたお詫びに、一つ大事なお知らせがあります」
「え?」
 デヒがいきなり言い出したので、こっちは慌てた。お構いなしに続ける時の糸車管理
人。
「ひょっとしたら、このことがあるからこそ、糸車はあなた達を絡め取ったのかもしれ
ないよ。実はね、あなた達が乗ることになっているクルーズ船、遭難するんだ」
「ええ? 嘘でしょ!?」
「ほんとほんと。信じられなくても無理ないけど、巨大な海洋生物と接触して、低層階
の横っ腹に穴があくんだ。そこから海水が入って、何名かがお亡くなりになる」
「ちょ。その死者って、まさか」
「さあ、話せるのはこの辺りまで。あ、言っておくけど、このこと口外したら、船の運
命がどうなるか分からないよ。悪い方に転がるのは間違いない」
「で、ではどうしろと」
「頬被りしてなさいってこと。心が痛むだろうけどね。あなた達の少なくとも一人は犠
牲になるんだから、それと引き換えにしたと思えば」
「私達の中の一人が死ぬですって?」
 母がいつもと違って、しわがれた声で言った。口の中がからからに乾いて、張り付い
た感じだ。
「おっと、口が滑りました。何てね。今のはサービスだよ、決断を促すための。このま
まクルーズ旅行をキャンセルして、誰にも言わずに連休を過ごせばいいじゃない」
「……」
「良心の呵責? そんなもの無視するに限るよ。実際問題、あなた方の誰かが口外した
からって、船が遭難するのは止められないし、犠牲者はかえって増えるんだから」
「うーん、私、豪華客船に乗るんだって、ネットに書いちゃったんだけどな」
 加奈があどけない調子で言った。
「でも仕方ない。そういう事情だったら、嘘つきって言われても我慢する」
 加奈は敢えてあきらめる言葉を口にしたのかも。私や両親の背中を押すために。程な
くして、父が言った。
「分かりました。デヒさんの言う通りにしましょう」

 時の糸車管理人の話した通り、次に目覚めたときには二十六日が終わっていて、二十
七日がやって来た。ニュースやワイドショーは内容が変わったし、新聞は二十七日付け
になり、再放送のアニメは一話進んだ。
「キャンセル料金、百パーセント取られてしまうんですね」
 母がしかめっ面をして言った。一人頭十万超えで、惜しいのは当然。キャンセルした
直後にその船が遭難しても、キャンセル料は全然戻ってこないのかしら。
 ああ、いや、遭難のことは考えないでおこう。考えると、頭がパンクしそうな追い詰
められた心地になる。
「ご近所に旅行に行きますって挨拶してなくてよかったよ」
 それもそうだ。もしクルーズ旅行に行くんだって自慢げに話していたら、四日間は家
に閉じ籠もり、息を潜めて暮らす羽目になっていたかも。
「いずれ行けるさ。同じ船は無理だろうけど、日本船はいくつかあるんだし」
 父はそこまで語って、空虚な笑いで語尾を濁した。家族で改めてクルーズ旅行をする
つもりはあるんだろう。ただ、これから起きる遭難事故のことを思い描いてしまい、気
分が沈んだんだわ。

 二十七日の夜。布団を被って天井を見つめていると、変な気持ちになってくる。次に
目覚めたらちゃんと二十八日になってるんでしょうねって。

 二十八日の夕刊の一面を、大きな事件二つの記事が飾った。
 一つは、豪華客船の遭難事故。
 もう一つは、一家四人殺害事件。
 後者については、下の子がネットに書いたGW中は旅行に出るという話を信じた窃盗
グループが、留守だと思って忍び込んだところ、家族と鉢合わせし、殺害に至ったとみ
られる。

 終




#482/482 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/12  17:42  (156)
きづきのつき   永山
★内容                                         20/09/12 22:25 修正 第2版
 大学生になって、初めて彼氏ができた。
 こう書くと、高校のときにも中学のときにもずっと彼氏がいたが、大学になってから
は初めてなのか、ふうんおモテになるのねという風に受け取る人もいるかもしれない。
 だから念のために注釈を入れておくと、私の人生初の彼氏だ。

 知り合ったきっかけは、日焼けサロンでアルバイトをしていたときのこと。冬の日の
夜、ひと目見ただけでもぞくっとするような、青白い肌の男性が一人でお客としてやっ
て来た。
 背が高くて細身で、でもスーツ越しにも筋肉質なのが想像できる身体付き。少し日本
人離れした顔立ちは私の理想に近かった。頬がこけ気味なのがちょっと残念。もう少し
健康的に見えれば最高だわ、などと考えながら受け付ける。
 私はこのときが初見だったけれども、男性はお店の会員だった。会員カードによる
と、由良雲英人《ゆらきらと》というお名前で、ご利用は六回目とのこと。それにして
は全然焼けてないなぁ、遅くても五回目ぐらいから黒くなると聞いたのに。日焼けすれ
ば健康的に見えていい感じになるだろうな、本人も気にして焼きに来てるのかも、なん
て勝手なことを思いつつ、更衣室に案内した。あとは男性スタッフに引き継ぐ。
 およそ四十五分後、来店時と違いノーネクタイで再びカウンターに現れた彼は、全く
と言っていいほど変わりがなく、日焼けしていなかった。外目から見える箇所、顔や手
が青白いままなのだ。お客様にこんなことを言うのは異例というかマナー違反なんだろ
うけど、思わず、「あれ? 全然焼けて……」とまで口走ってしまった。
 小声のつもりだったけれども、相手の耳にはしっかり届いたらしく、「焼けてないよ
うに見えます?」と反応された。
 内心焦った私は、「も、もしかしたらマシンの不調かもしれません! 調べますので
少々お待ちください!」と言って、カウンターを飛び出そうとした。
「いや、いいですよ」
 彼の声に足を止める。
「それでも念のため、調べませんと。使用状況を把握したいので、お手数ですが付いて
きてくだ――」
「大丈夫です。えっと、実は僕、あるテストのためにここを利用させてもらっていま
す。商品化前なので詳しくは申し上げられないのですが、オリジナルの日焼け止めみた
いな物を……」
「ああ」
 意外な話に、つい、馴れ馴れしい返事をしてしまったが、納得はできた。でもその日
焼け止め、効きすぎじゃないかしらとも思ったけれども。
 その後、由良さんの来店時に私がバイトに入ることなく、ふた月ほどが経った。新歓
コンパが終わって、一人で駅までの道を歩いていると、たまたま由良さんと再会した。
 空には、ほぼ満ち足りた月が浮かんでいた。礼儀ではないだろうけれど、お茶に誘っ
てくれたので、ありがたく受けた。というのも、新歓コンパでは店の手違いでデザート
の数が足りず、私を含む二年生数名が我慢した。そのせいで、ちょうど甘い物が欲しか
ったのだ。
 由良さんは某研究所に勤めていて、時折、開発した試作品のテストのため、日焼けサ
ロンを利用していたが、違う部署に異動になったので、足が遠のいたという。
「日焼けするつもりはあったんですか」
「あんまり。似合わないし、元々、明るいのは苦手で」
「そうだったんですか。由良さんが来ないから、私、あそこのアルバイトをやめてしま
いましたよ」
 ジョークと分かるように軽く目配せ。すると由良さんは大真面目に「それは大変だ。
次のバイトは見付かりましたか」と言い、そこから表情を一変させて笑った。

 こんな感じで、何となくフィーリングが合って、何となくお付き合いを始めた。
 付き合い出してみると、由良さんは年上の割には、一般常識レベルの知識がぽこっと
抜け落ちてるようなところがあって、そのときの反応がかわいらしかった。
 たとえば……男の人ならしょうがないのかもしれないけれども、ゆず胡椒には胡椒は
入っていないんだってことを知らなかった。唐辛子よと教えてあげたら、「ゆず胡椒が
少し嫌いになったかも。でも赤い色の食べ物は好きなんだ。赤唐辛子を混ぜたゆず胡椒
ってある?」なんて聞き返してきた。子供みたいと思いつつ、検索するとあるみたいだ
ったからまた教えてあげた。
 銀玉鉄砲は銀の玉が出ると思い込んでいたし、現代のオリンピックでは金メダルはほ
ぼメッキというのも知らなかった。
 ゲームはほとんどやらない人らしいのは分かっていたけれども、将棋を知らないのに
はびっくりした。ルールを知らないとかではなく、将棋そのものを知らなかったよう
で、新聞だったか雑誌だったかに載っていた将棋の棋譜の記事を見て、「これはひどい
誤植だなあ。字が逆さまだよ」と真顔で私に見せてきた。
 「河童の川流れ」ということわざの意味を、「絶対にあり得ないこと」だと思ってい
た。「トンビがタカを産む」や「豚もおだてりゃ木に登る」も同様。でも、フランケン
シュタインが怪物の名前ではなく、怪物を生み出した人間の名前だということは知って
いた。コウモリにマスクをすると夜まともに飛べなくなることを知っていた。血液型に
基づく占いは、一つの部族が全員同じ血液型という事例があるから成立しないなんてこ
とも知っていた。偏り方がよく分からない。
 まあ、彼が知らないことって生きていくのに絶対知っていなければならない訳でもな
いし、その分、専門知識は豊富だった。例の日焼け止めのクリームはパッチテストの必
要があり、効果の出る人と出ない人、さらには悪い影響の出る人がほぼ三分の一ずつに
なるから、発売は当分ないのだが、私には特別だよと言ってパッチテストを経て、使わ
せてくれた。おかげで日差しが怖くなくなり、感謝している。
 由良さんは休みの日でも、昼間のデートを応じてくれない。たっぷり休憩を取って、
鋭気を養わないとだめなんだと言う。あまりにも頑なだから、休日の昼は別の女の人と
会っているのではと疑って、暇ができたときに彼の住むマンション前に張り込んだこと
がある。結果、日が暮れるまで、由良さんは一歩たりとも出て来なかったし、誰かが訪
ねてくることもなかった。次に会ったときに、心の中で、疑ってごめんなさいと謝って
おいた。

 そして夏の終わり頃、私が二十歳の誕生日を迎えて以降、初めて彼と会う。
 その日もまた夜のデートを楽しんで、ディナーではお酒を飲んだ。正真正銘、初めて
のアルコール飲料だったせいか、足元がふらつくほどになり、海に近い公園で酔い覚ま
しを兼ねて涼んでいくことになった。
「お。満月、かな?」
 ベンチに腰掛けると、ちょうど正面の空に月が浮かんでいた。満月かどうか知らない
けれども、まん丸で、堂々としているように見えた。
「買って来たよ」
 由良さんは自動販売機で冷たい飲み物を買ってきてくれた。私には頼んだ通り、甘さ
濃いめの紅茶。由良さんは、何やら赤いパッケージのペットボトルを手にしている。
 彼が隣に座ったところで、私は満月に視線を振った。
「ねえ、由良さん。こんな話を知ってる? 夏目漱石だか誰だか、とにかく文豪と呼ば
れる小説家が、英語の『アイラブユー』を『月がきれい』と訳したって話」
「はは、僕でもそれは聞いたことある」
 ペットボトルを両手の内で転がしながら、彼は笑った。覗いた八重歯が、きら、と光
を反射する。
「なーんだ。珍しいこともあるものね」
 キャップを開けて、紅茶を口に含んだ。甘みよりも冷たい喉越しが心地いい。その間
に由良さんは付け加えた。
「ただ、覚えてたのとはちょっと違うな。『月がとっても青いから』だと聞いたか読ん
だかした気がする」
「へえ、知らない。青い月っていう方がより間接的で、いい感じかも」
「ということは、この知識勝負は僕の勝ち?」
 いつもの青白い肌が、ちょっぴり上気した風に見えた。夜空と満月による錯覚かもし
れない。
「それとこれとは別だよ〜。じゃ、月に関する知識その2。月が何で光っているか、知
っている?」
「うん? えっと、月自体が光ってるというか、燃えてるんじゃないのは知ってるけ
ど、何で明るく光っているのかは分かんないな」
「やった、これは私の勝ちね」
「参った。答、教えて」
 彼もようやくペットボトルの蓋に手を掛けた。私はお月様を小さく指差しながら説明
を始めた。
「あれはね、太陽の光を反射してるのよ」
「……太陽?」
 信じられないとばかり、目を大きく見開く由良さん。満月を凝視して固まったかに見
える。
「由良さんは月食の原理も知らない? 太陽、地球、月の順番に並んだとき、地球の影
が月に映ったのが月食。月と地球との水平方向の位置関係って言っていいのかな、建物
の一階と二階それぞれにいるみたいな感じで、高さに差があると、太陽の光が月の表全
面に当たって光るの」
「太陽……」
 由良さんは話を聞いているのか心配になるほど、うわごとみたいに繰り返した。ベン
チの肘掛けに半ば身体を預ける様にもたれかかって左肘を突き、右手は顔を覆う。
「どうしたの、そんなにショックだった? 大げさじゃない?」
 酔いが覚めてきた私は、彼の肩に触れようとした。が、由良さんは私の手を振り払
い、ベンチから離れた。
「知らなければよかった」
 ううう、と唸りながら、苦しげに言う。明らかに変だ。
「由良さん? 気分悪い? 座って落ち着いた方が……」
 声を掛けても、彼はどんどん離れていく。海辺に近付き、そこにある黒い柵に寄り掛
かった。
「おかしいよな。今まで平気だったのに、正体を知った途端、こんな影響が及ぶなん
て」
 絞り出すような口ぶりで言うと、由良さんは私に背を向けた。こちらは何も言えず、
その後ろ姿を見ていた。実際、言っている意味が分からなかった。
 やがて彼からは唸り声すら聞こえなくなった。項垂れた姿勢で、柵に寄り掛かったま
までいる。
 そして、赤いペットボトルが落ち、地面を転がった。
「あの、由良さん……?」
 私は立ち上がって、駆け寄った。まだ少し酔いが残っていたけれども、足元はしっか
りしている。
「具合が悪いのなら、病院に行くことも考えた方が」
 なるべく優しい口調で話し掛けつつ、彼の背中にそっと手を触れた。
 その刹那。
 私は息を飲んだ。
 彼は灰になっていた。背に触れたのがきっかけになったのか、さらさらと音を立て始
め、塵のような粒がぽろぽろと落ちていく。
 崩壊は加速度的に勢いを増し、数秒と経たずに、完全に崩れ落ちた。
 彼の立っていた場所には、灰の山と衣服、靴だけが残った。

 由良雲英人は吸血鬼だった。多分。
 血を吸わせてあげていれば、助かったんだろうか。

 幕




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