AWC ●短編



#476/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/05/31  16:55  (203)
十二の恋はうつろわない   寺嶋公香
★内容                                         20/06/03 13:07 修正 第2版
「何で?」
 柏原須美子《かしわばらすみこ》は激怒した。
 ――激怒と言っても小学六年生なので、字面が醸し出す雰囲気ほど物凄くはない。ニ
ュアンスは異なるが、激怒と書いて「げきおこ」と読むぐらいのレベルと捉えてくれれ
ば大丈夫だ、多分。
「何でって、しょうがないでしょうが」
 台所にいた須美子の母が手を止め、振り返る。普段なら須美子が少々大きな声を出し
ても、調理の手を休めることなんて滅多にない。よっぽど、娘の反応が意外だったのだ
ろう。
「今、こういう状況なんだから」
「だからって、どうして早川君の家に行ったらいけないのよ?」
「こら、唇を尖らせないの。折角美人に生まれたんだから、しわを作らないように気を
付けなさい」
「〜っ。び、美人じゃなくていいもん。私は早川君の家に行きたいのっ」
 目の下から頬にかけて赤くしながら、須美子は主張した。唇をきゅっと噛み締める辺
り、やはり意識はしている。
「だから外には怖いウイルスが」
「知ってる。だけど、お家の中にはいないはずよ」
「え、どうしてそんなこと言えるの?」
 話が長引くと感じたか、母親はコンロの火を止め、包丁とまな板、さらに自身の手も
洗ってタオルで拭いてから、須美子の近くまでやって来た。
「お家の中にウイルスがいたら、もう早川君にだって移ってるわ。けど、現実にはそん
なこと起きていないし」
「でも、須美子が早川君の家に行くまでの間に、ウイルスをどこかでもらっちゃうかも
しれないでしょ」
「それは私が注意していれば防げるわ」
「あら。注意して防げるんだったら、今、こんな風に世界中に広まっていないと思うけ
どなあ」
「ニュースでやっているのは、長い距離を移動したり、大勢が集まったりするからでし
ょ。短い距離ならきっと平気よ。うちから早川君の家までは、自転車で五分ちょっとし
か掛からない」
「五分は飛ばしすぎ。もっと交通安全、心掛けてよ」
「分かってるってば。ねえ、いいでしょう?」
「いけません。どうしてもと言うのなら、まず早川君のご家族の了解を得て。それから
行きも帰りもタクシー。これなら私もオーケーを出すけれどどう?」
「タクシーって、そんなにお金持ってない……」
 自転車で五分以上掛かる道のりを、タクシーで行けばいくら掛かるか知らない須美子
だが、とにかくタクシーは高いということは理解している。
「愛があれば乗り越えられるんじゃなくって?」
 ややからかい気味に母に言われ、須美子は頬を膨らませた。
「いいもん。レインコートを着て自転車に乗っていく。医療従事者の人達が着ているの
と似たようなものでしょ」
「だいぶ違うと思うけど。それにみっともないからやめて」
 予想外に長くなった春休み。本日の天気は快晴そのものだ。
「みっともなくてもいいから、会いたいよ」
 卒業式その他諸々の学校行事が吹っ飛んでしまって、クラスメートや先生とも長らく
会えていない。
「あなた達はまだ小学生なんだから、言うことを聞いてちょうだい。中学が始まった
ら、また会えるようになるんだから今は我慢」
「中学だっていつ始まるか怪しい……」
 ふてくされる須美子を見て、母親はしょうがないわねというため息をつくとともに、
何やら考え始める表情を見せた。
「とにかくお昼ご飯にしましょう。あなたのデートのことは私も考えておくから」
 須美子は須美子で考え、思い付いたことが一つあった。

 数日後。朝早く、それこそまだ両親ともに寝入っている時刻に起き出した須美子は、
静かに準備を始めた。
 クローゼットをそっと開け、取り出したのはまだ一度、試着の際に袖を通したきりの
新しい服。次に早川と会うときはこれを着ていくと決めていた。でもまだ着ない。起き
出してきた父もしくは母とたままた鉢合わせになったら、出掛ける格好をしていること
を訝しがられるに決まっている。着替えるのは出て行く直前にしよう。
 常夜灯レベルの明かりの中、自分の部屋で鏡に向かって髪をとかしつつ、須美子はカ
レンダーをちらっと見た。
(昨日までは小学生だったけれども、今日から私は中学生)
 今日は四月一日。規則上、卒業したあとも三月三十一日までは小学生なんだよって、
担任の先生に教わった。
(お母さんは、私が小学生だから駄目だと言ったんだからね。中学生になったから、少
しは自由にさせてもらうからね)
 こじつけの理屈であることは須美子本人もようく分かっている。元来、優等生でルー
ルをはみ出すような行動はできないタイプなのだ。だけれども、こんなにも長く彼と会
えないのは、前もって想像していた以上に堪えた。
 加えて、他の家の子達がまだそれなりに行き来できているのに対し、柏原家では外出
は生活に必要でない限り避けるようにと若干厳しめに言い付けられた。というのも須美
子の父親は歯科医師で、万が一にも感染すると治療継続中の患者に大きな迷惑を掛けて
しまうからという背景があった。現在、完全予約制とし、しかも患者ごとの診療時間の
間隔を広く取った体制で開院を続けている。
(お父さんの事情は分かるけど……私の事情も考えて欲しいよ)
 思っていたよりも早く準備は進む。家を出るのは、両親が起きて朝食を始める寸前ぐ
らいを考えていた。何気ない調子で今起きてきた風を装い、食堂横の廊下を通るときに
「おはようございます」ぐらい言って、そのまま玄関に直行、出発。これしかない。ち
なみに自転車は昨日の夕方の内にこっそり移動させ、玄関を出たすぐ脇のところに置い
てある。鍵を解除するのはさすがに怖かったので、ロックしたままだから、出てすぐに
乗れるわけじゃないけれど、だいぶ時間短縮できるだろうし、音もほとんど気付かれな
いはず。
(……顔を洗おう。寝てしまっては元も子もないし)
 忍び足で廊下を進み、洗面所に立つ。春先の冷たい水で意識はこれ以上ないほどしゃ
きっとした。
(あと問題があるとしたら、早川君の方に具体的な時刻を伝えていないことかしら)
 目処が立っていなかったため、今日四月一日に遊びに行くということしか先方には伝
えられていない。
(さすがに朝の七時や八時にお邪魔するわけにいかないし。どこかで時間を潰さなくち
ゃ。でも、あんまり近所だと、気が付いたお父さんお母さんに見付かるかもしれない)
 気付かれた段階で、遅かれ早かれ早川家に問い合わせの電話が掛かってくるのは間違
いない。その点に気が付いている須美子だが、そこは早川がうまくごまかしてくれるこ
とに賭けている。
(一時間でもいいのよ。早川君と会って、会えなかった間何があったかおしゃべりしな
がら一緒に遊んで、中学でも同じクラスになれたらいいねって――)
 思い描く内に気分が沈んできた。何故か悪い方へ悪い方へと想像が向かう。
(本当に中学校、始まるのかなあ)
 バスタオルに埋めるようにして顔を拭きながら、密かに呟いた。

 緊張と決意のためかもしれない。眠くなることなく朝を迎えた。まず母親が起き出
し、二十分ぐらいあとに父親が起き出すのが気配で分かった。
(いよいよだ)
 空唾を飲み込んだ。
(私が起き出してきても不自然に思われない、いつもよりちょっと早い時間がちょうど
いい。お父さんは新聞を読んでいるし、お母さんは料理の準備に忙しい。私が玄関に向
かったって、気に留めないに決まっている)
 頭の中では算段を立て、時計を見て、いい頃合いが来たと判断した。着替えをそっと
済ませる。しわができてないかのチェックも完璧。
 だけど、最初の一歩が踏み出せない。悪いこと、大人から駄目だと言われていること
をやりなれていないせいか、踏ん切りを付けるのに苦労する。
 呼吸する音が大きくなった気がして、両親に聞こえるはずないのに思わず口を手で覆
った。
(大丈夫)
 小さめの深呼吸を幾度かして落ち着くと、ドアをゆるゆると開けて、ようやく自分の
部屋を出た。
 この段階でそんな必要はないのだけれども、抜き足差し足になってしまっていた。
 するとダイニングキッチンに近付いたところで、それまで聞こえてこなかった父と母
の会話が耳に届いた。
「今日は待機の日でしたよね?」
「ああ。休みみたいなもんだと思いたいが、どうなるやら」
「家にいるのなら、一つ相談というか、お願いがあります」
「家事の手伝いなら、やれる範囲でやりますよ」
「そうじゃないの。昨日のうちにお願いしようかと思ったのだけれど、お疲れみたいだ
ったから」
「分かった。聞きましょう」
 新聞を折り畳む音がカサカサとする。水道の水を止める様子も伝わってきた。
(あれ? まずいなぁ。動けなくなった)
 両親が共に気を取られる要素がなくなってしまった。仕方がない。壁に身を隠すよう
にして立ち尽くし、機会を窺う。
「須美ちゃんのことなんです」
 名前を出され、自分の耳がぴくっと反応するのを自覚した。
「ふむ。須美子がどうかしたか。学校の始まる見通しが立たなくて、ストレス溜まって
いるようで心配は心配なんだが、勉強は自主的にしてるみたいだし」
「そこまで見ているのなら、須美ちゃんがデートしたがっていることも当然、把握済み
ね?」
「……そのことに関しては、私はノータッチだ。口を挟むと疎ましく思われるに決まっ
ている。だから相手の子の名前も知ろうとしてないだろ」
「我が娘がかわいいのは分かりますけど、気を遣いすぎですよ。そこで提案というわけ
でもないんだけど、須美ちゃんの彼氏の顔を見に行くつもり、ない?」
「はあ?」
 父親の反応に足並みを揃えて、須美子自身も似たような声を上げるところだった。ぎ
りぎり我慢したが、今や両親のやり取りが気になってたまらない。
「あの子、ほとんど家に籠もりきりにさせているでしょ。前にお買い物に連れて行って
から二週間以上経ったわ。あとは近所の散歩、ジョギングぐらい。ちょっと厳しすぎや
しませんか」
「そりゃ思うよ。市内は感染者が出ていないし、全体でもゼロがずっと続いている。だ
からといって気晴らしに遠出したり、映画観に連れて行ったりできる状況じゃなし」
「それならせめて、早川さんのところに遊びに行かせるくらいは」
「早川さんていうのが、ボーフレンドの名前か」
「下の名前は和する泉の和泉《いずみ》君よ。先日、電話で親御さんとお話ししたんで
すけれどね、和泉君も滅多に出掛けないでいるんですって。須美子から連絡があったと
きいつでも出られるように、急に訪ねてきても大丈夫なように」
 今度は須美子一人が声を上げそうになった。
(う、嬉しい)
「あー、私は考えが古いと自覚している。その上で敢えて言うが、なよっとした男はだ
めだぞ。名前が女性にも使える名前なのは仕方がないとして、話を聞いていると軟弱な
イメージが先に立つ」
「和泉君はそういうタイプではありませんよ。護身術を習っているくらいだから、あな
たより強いかも。尤も今、道場は休みだそうですけどね」
「まさか、十二歳にして背が高い、巨漢なのか」
「サイズは普通です。それに辛抱強くて、気が利いて。須美ちゃんのことを尊重しつ
つ、リードすべきところはリードする男の子。これが私の評価。運動会や音楽会で見た
だけですけれどね」
「そこまで言われると、私も見たくなってきた。あら探ししてやりたい」
「そんな大人げない」
「冗談だ。で? お願いとは何だい。本気で娘の彼氏を見に行くだけってことはあるま
い」
「実はさっき言った電話で話がついているんですけれども、今日このあと十時を目処
に、須美ちゃんを送ってやってほしいの」
「早川さん宅にか」
「そうですよ」
 須美子はうれしさのあまり、転がり出そうになった。もし外出着に着替えていなかっ
たら、本当にそうしていただろう。
「いいよ。帰りもだな」
「はい。本当にいいんですね? 須美ちゃんと和泉君、二人で遊ぶんですよ?」
「ふん。大勢集まるよりましだ。マスクをして、できれば窓を開け放ってもらいたいが
ね」
「もちろん、早川さんもその辺は徹底しています」
「それと、しばらくあとでいいから、次は逆に和泉君に来てもらえ。私の身体が空いて
いるときにだぞ」
「はいはい。じゃあ決まりでいいですね。朝ご飯の支度ができたら、須美ちゃんを起こ
してきますから、そのあとあなたの口から言ってあげてください」
 須美子の背筋がぴんと伸びた。こうしてはいられない。できる限り速やかかつ静か
に、部屋に戻ってベッドに潜り込まなくちゃ。服? 服は布団で見えないだろうけれど
も、そのあと起き出したときの姿を考えると、寝間着に戻した方がいいような。
 須美子がきびすを返してそろりそろりと歩き始めたあとも、両親の会話は続いてい
た。
「いいとも。というか、おまえが言わなくていいのか? ずっと二人で家にいて、小さ
な言い合いぐらいしてるだろ。その挽回に……」
「いいんですよ。車を運転するのはあなたなんですし、私はいつでもチャンスが転がっ
ていますから」

             *           *

「柏原さん、久しぶり! ――って、どうしたの、目、赤いけど」
 玄関の外に立って出迎えてくれた彼の第一声に、須美子はどう応じようか迷った。
 花粉症の症状が出たみたいと嘘をつくか、うれし泣きだよと本心を言おうか。
 今日は四月一日。

 おわり





#477/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/06/30  21:51  (170)
ひっかけ問題   永山
★内容                                         20/07/01 10:39 修正 第2版
 不知火さんと出会ったのは、小学校五年に上がったときだった。
 それまで自分はクラスのクイズ王として名を馳せていた。クイズ王と言っても答える
方ではなく、出題する方だ。問題のタイプも知識を問うクイズは少なめで、とんちの効
いたなぞなぞやパズルがほとんどだった。実際そういう、人をだまして引っ掛ける要素
のある問題の方が受けがよかったのだ。クラスメートや先生に問題を出しては困らせ、
面白がらせていた。
 たとえば。

<問題。テーブルの上に紅茶がいっぱいに入った器があります。近くでおやつの用意を
していたお母さんが突然叫びました。
『あっ、あなたにもらった指輪、紅茶の中に落っことしちゃった』
 それはトルコ石の指輪で、トルコ石は水に濡らすと染みになります。
 お父さんは慌てず騒がず言いました。
『大丈夫だ。こうすれば何の問題もない』
 お父さんはスプーンを使って指輪を紅茶の中からすくい上げました。トルコ石を調べ
てみるとどこも濡れていません。何故でしょう?>

 この問題は担任の益子先生以外は誰も正解しなかった。
 答を教えて欲しい? そう言わずにちょっとは考えてみてよ。考えてもらっている間
に、不知火さんとの馴れ初めを書いてみるから。

 不知火さんは五年生のときに転校してきたので、当初、どういう子なのかは誰も知ら
なかった。口数が少なく、本をよく読んでおり、勉強もできるらしいのはすぐに分かっ
たけれど。
 真面目そうで本を読んでるからって、勉強ができるかどうかは分からないだろうっ
て? そりゃそうだ。言葉が足りなかったね。不知火さんとは教室で席が隣同士になっ
たんだ。四月の下旬に小テストが何科目かであってさ。小テストの採点は、隣同士で答
案用紙を交換して、先生の説明を聞きながらするんだ。彼女の点数はどの科目も九十五
点を切ることはなく、というか国語を除いて全部百点だった。
 国語のマイナス五点も、漢字を書く問題で一問、迷っている内にタイムアップになっ
ただけ。その迷った理由が面白い。何でこんな簡単な漢字を書けなかったの的なことを
言うと、
「だって前の出題文に、その漢字がずばり使われているから。他の漢字があるのかなと
思って」
 との返事。言われてみればなるほどその通りだった。
 このときの不知火さんみたいに考えすぎるほど考える人、自分は嫌いじゃない。パズ
ルを出す相手としてやりがいがあるから。ということでそれまでにため込んできたパズ
ルやなぞなぞを、彼女にどんどん出してみた。
 さっきの紅茶の問題も出したよ。
 不知火さんはあっという間に正解した。
「紅茶は紅茶でも、茶葉だったんではないでしょうか」
「せ、正解。凄いね」
 初めて同級生に正解された動揺を押し隠し、賛辞と拍手を送った。
 不知火さんは謙遜する風に「いえそんな」と応じ、続けて「それにしてもトルコ石の
性質なんてよく知っていますね。水に弱いという点は扱いづらいですが、ユニークだ
わ」と褒めてくれた。と同時に、彼女自身はそのことをメモに取った。
「そんなことメモって、何にするの?」
「特に決めてはいませんが、何かに使えると思ったので」
 知識欲の強さの表れだった。
 紅茶の問題を解かれたあとは、躍起になって出題するようになった。不知火さんには
いつも正解され、彼女にも答えられない問題を出して参ったと言わせたいから――では
ない。彼女だって連戦連勝ではなく、答えに窮することは幾度かあった。ただし、誤答
は一度もない。徹底的に考えて、自分自身納得のいく答を見付けるまでは答えようとし
ないのだ。
 もっといえば、不知火さんはつまらない答の問題ほどよく間違えた。
 例を挙げると、これはオリジナルではなく、出典が分からないくらいに有名な問題な
んだけど。

<問題。二十回連続でじゃんけんであいこになるにはどうすればいいか>

<答。鏡に映った自分自身とじゃんけんすればよい>

 この問題には不知火さん、不機嫌になってしまった。だよねー、自分も何てできの悪
い問題なんだと思いつつ、こういうのはどうかなと思って出したから。
 別の日に、ロジカルでパラドキシカルなのを出してみた。あ、小学生のときにロジカ
ルとかパラドキシカルなんて言葉知らなかったし、意識してなかったよ、念のため。

<問題。おとぎ話の世界でのこと。母と子、二匹のウサギが散歩をしていました。突然
現れたライオンが子ウサギを捕らえ、人質ならぬうさぎ質にして母ウサギに言いまし
た。『これから俺がこの子をどうするつもりなのか言ってみろ。もし言い当てることが
できたなら、おまえも子供も見逃してやる。もし不正解だったら親子揃って食ってしま
うぞ』
 母ウサギはどう答えれば、子ウサギともども助かるでしょうか>

<答。『ライオンさんはうちの子を食べるつもりでしょう』と答える。ライオンが子ウ
サギを食べようとしたら、母ウサギはライオンの行動を言い当てたことになり、ライオ
ンは子ウサギを食べられない。ではライオンが子ウサギを食べようとしなかったら? 
母ウサギはライオンの行動を言い当てられなかったことになり、ライオンには子ウサギ
を食べる権利が生じる。でもいざ食べようとすると、母ウサギはライオンの行動を言い
当てたことになり、やはり食べるのは中止にせざるを得ない>

 この問題に対する不知火さんの感想がふるっていた。
「矛盾をはらんでいて面白いです。けれども、それ以前に問題が不自然ではありません
か。いくらおとぎ話の世界とは言え、どうしてライオンは条件なんて付けたんでしょ
う? 肉体では相手を圧倒するでしょうから、四の五の言わせずに母子いっぺんにウサ
ギを食べてしまえばいいんです」
「えっと、そ、それは。二匹同時に追うのは難しいから、一匹ずつ仕留めようと考えた
んじゃないかな。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うし」
「なるほど。そういえばあなたはウサギを一匹二匹と数えるんですね」
「あ、ああ」
「慌てないで。一羽二羽じゃなきゃいけないと言ってるんじゃありませんから。一兎二
兎というのも数える単位なんでしょうか」
 そんなの知らないよ。首を横に振るしかなかった。
 その翌日、初めて不知火さんの方から出題してきた。
「パズルと言っても、昨日出してくれたあの問題をこねくりまわしただけなんですけど
ね。あの問題の状況で、ライオンはどうすればウサギの母子をおなかに収めることがで
きたか、というだけ」
「えっと、子ウサギを一撃で気絶させ、素早く母ウサギに飛びかかる?」
「違います。もっと文章の意味の解釈にこだわってください」
 休み時間に出されたんだけど、時間内に答えられなかった。しょうがないので、次の
体育の授業中に考え、さらに教室に戻ってきて着替えている間も考えていた。でも結局
分からず、白旗を掲げる羽目に。
「だめだ、分かんない。降参だ〜。答、教えてください」
 クラスメートから逆に出題されることは今までにあったけれども、そのすべてに正解
してきた。答えられないのは初めての屈辱だ。でもまあ不知火さんが相手なら仕方がな
いかなとあきらめもつく。
「あら。私の考え付いた答にきっと辿り着くと思ってたのですが……かなりブラック
よ」
 前置きして彼女が説明したライオンの取るべき行動とは。
「ライオンは母ウサギの答を聞くと、にやりと笑って子ウサギをジューサーに放り入れ
ました。ジョッキを用意し、スイッチを入れると――」
「うわー、やめてくれよー」
「ね、ブラックと言ったでしょう」
「ブラックって言うより、スプラッタかホラー」
 ライオンは子ウサギを食べてはいない、飲んだのだと強弁されても困るなあ。

 こんな感じで、不知火さんが出題し、こっちが答えるという攻守交代パターンはその
後段々増えてきた。最初の頃は、不知火さんがこれから問題を出しますよと警戒を喚起
してくれることもあって、クイズ王の面目を保てていたんだけれども、徐々に不正解で
終わるケースが多くなっていった。
 中でも一番やられた!と感じたのが次のパズル。
「こういう問題はどうでしょう」
 そう切り出してから不知火さんはノートに図形を描き始めた。
 まずコンパスを使って円を描き、続いて中心Oを通る線を二本、直角に交わるように
引く。それぞれの線が円周上に達する点をABCDとした。こちらから見てAが一番上
の点になる。要するに中心をOとする円に直線ABとCDによる十字が内接した図形
だ。
 Aから三センチ下ということを表す書き込みをして線上に点Eを取り、線分AOに対
して直角をなす線を右方向へ円周まで引く。その点をFとし、今度はFから直線を真下
にODと交わるまで垂らし、そこをGとする。正方形EFGOが描かれた訳だ。
 不知火さんは最後にEとGを直線で結び、EGが七センチであることを示す書き込み
を加えた。換言すると正方形EFGOに対角線EGを引き、EG=7cmってことにな
る。
「ふう、やっと描けました。さあ、問題です。この円の直径はいくらになるでしょう
か? この図は実際の長さは反映していないことを念のためにお断りしておきます」
 一生懸命描いてくれた不知火さんには悪いけれども、内心、苦笑してしまっていた。
 だって、この問題知ってる、と思ったから。それも彼女が図を描き始めてすぐの頃
に。
 ややこしい計算が必要っぽく思えるけれども、さにあらず。正方形EFGOの対角線
の内、OFは円Oの半径と等しい。そして正方形の対角線二本は等しい長さを持つ。つ
まりOFイコールEGだ。EGは七センチなのだから円の半径も七センチ。問われてい
るの直径なので、半径を倍にすればいい。
「ごめん、インチキはよくないから、最初に言っとく。この問題、知ってる」
「え、そうでしたか。でも一応、答を聞かせてください」
「いいよ。十四センチでしょ」
「残念」
 え?
 声も出ず、目を見開き、口をぽかんとさせていた。
「図形をよく見てくださいね」
 不知火さんは目の前にノートの図形を持って来た。紙に穴よあけとばかりに凝視する
と、やがて気付けた。
「……! これ、7cmって書いてあると思ったのに、7mになってる!」
「はい。ですから答は十四メートルになります」
 物凄く疲れた。
 実際に長さの比率が3対700になるように描いたら、どんな図形になるんだろう?

 問題を出し合う内にどんどん親しく、仲よくなって。
 不知火さんのことを好きになっていた。恋愛という意味で。
 早いとは思ったけれども、彼女を誰にも取られない内にと焦る気持ちにブレーキは掛
けられなかった。だから卒業式のあと、彼女に告白した……んだけど。
「ごめんなさい。未来のことは分かりませんが、今の私はまだまだ色んな人を知りたい
気持ちで一杯ですから、応えられません」
 あっさり断れた。
 それでも将来受け入れてくれる可能性を否定されたんじゃなかったので、ほっとし
た。
 二人の友達関係はずっと続いた。
 中学、高校と同じデザインのセーラー服に袖を通してからも、問題を出したり解いた
り降参したり。

 おわり




#478/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/07/31  21:55  (  1)
バレンタインチョコの賞味期限   永山
★内容                                         20/10/13 19:06 修正 第2版
※都合により一時的に非公開風状態にします




#479/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/08/31  19:57  (  1)
どうだっていいよね、メダルの色なんて   永山
★内容                                         20/11/14 21:21 修正 第2版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#480/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/01  19:59  ( 87)
札束風呂には入れない   永山
★内容
 結婚してもうすぐ一年になる。だから会社からの帰り道では、紙婚式の祝いをどうし
ようか考えていた。
 中古マンションの自宅に帰り着き、妻の名を呼んだが返事がない。室内は暗くて、で
も履き物は残っている。家中あちこち探す。嫌な予感が大きくなる。防犯カメラはない
し、エントランスの自動ドアにロック機能はない。高くてももっとましなマンションを
探すべきだった。
 後悔の渦に巻き込まれながら、探しに探して、最後に行き着いた。風呂場の浴槽の中
に妻を見付けた。
 妻は死んでいた。頭の後ろ辺りから血が流れていた。
 そして何故か、浴槽は万札で一杯だった。

 紙幣だからって紙婚式の祝いじゃあるまい。

 警察を呼んでから、色々と気が付いた。
 うちにどうしてこんな大金があるんだ。そもそも本物の一万円札なのか? 全部真
札? だとしら数枚くすねても分からないんじゃないか……とまでは思わなかったが。

 浴槽から出された妻は、さすがに裸ではなく、仕事に出るときによく身につけるスー
ツ姿だった。ただ、わざわざ袖をまくり上げ、スカートの裾も大きくまくれ上がってい
た。
 札束風呂にリアルに入るなら、服の着用は必須だろう。肌にお札が触れたって気持ち
よくはないし、むしろ不快なはず。下手すると、お札の縁で肌を切って出血を見るかも
しれない。それなのに何故、腕や足を露わにしていたのか。事実、外から見える肌には
傷がたくさん見られた。

 奥さんにはこういう趣味があったんですかと、無神経な刑事に無神経な質問をされ
た。無論、否定した。金の出所についても知らないと答えるほかなかった。刑事の話し
ぶりでは、どうやら全て本物の一万円札のようだった。

 しばらくして別の刑事が報告に来た。洗面台のネジが複数緩んでおり、外して調べて
みたところ、壁に穴があいていた。穴は入口こそ狭いものの奥行きがあり、横にも広が
っていたので、金が隠してあったと考えれば辻褄が合うという。
 入れ違いにまた別の刑事が来て、一万円札は全部で二十二万九千四百三十七枚あった
と告げた。あの札束風呂に、二十三億近い金が使われたのか……。

 刑事達がごにょごにょと話をし出したので、聞き耳を立てていると、三十億円横領殺
人事件という言葉が漏れ聞こえた。
 十年ぐらい経つだろうか。某仮想通貨を運営する社長が行方をくらました。仮想通貨
を約三十億円とも言われる現金に換え、自らは死んだように装ってとんずらを決め込む
計画だったが、側近の一人と仲間割れして、本当に命を落とした。その殺害犯は逮捕さ
れたが、金は行方不明になっていた。
 有名な未解決事件の一つだが、まさかあの事件の金が、うちの壁に隠されていた?
 前の入居者について問われたが、何も知らなかった。刑事達はマンションの管理会社
に問い合わせるようだった。

 あとは刑事から聞いた事後報告のようなものである。
 前の入居者である男性は、交通事故死していた。両親が地方から出て来て、遺品を整
理し、そのまま引き払った。両親は息子が犯罪に手を染めていることも、大金が隠され
ていることも知らなかったに違いない。
 大いに慌てたのが、犯罪仲間の連中。事の次第を知るや、すぐさま次の住人として入
居を試みたはずだが、一歩遅かった。そう、我々夫婦が先に契約したのだ。
 全く運が悪い。犯罪者連中の運ではない。我々夫婦の方だ。こんな部屋を借りられる
ことになったばかりに、妻は犯罪に巻き込まれ、命を落とす羽目になったのだ。せめて
あの日、妻が仕事を早めに切り上げることなく、定時に帰ったのなら、侵入していた犯
人と鉢合わせすることはなかったろうに。

 疑問がまだ残っていた。
 犯人達は、どうして金を持ち出さなかったのか。それどころか、札束をわざわざ浴槽
にぶちまけた理由は?
 刑事が説明する。
「犯人の一人が白状した話から想像を交えて状況を再構築すると、次のようになる」
 早めに帰宅した妻は、室内から聞こえる物音で異常を察知し、咄嗟にスマホを構え
た。動画なり写真なりで犯人とその行為を撮影し、即座にネットに上げられるようにし
た。これを材料に犯人らを追い出そうと試みた。
 が、犯人グループの一人が動揺のあまり暴走。妻は後ろから殴りつけられ、命を落と
す。その際の衝撃でスマホは落下し、壊れたが、もしかすると画像(動画)ファイルは
送信されたかもしれない。
 そして何よりも犯人達を不安に陥れたのは、撮影された画像の正確なところを掴めな
いことである。紙幣番号が映っていたら、そのお札は使えない。だがどの番号が映った
のか? これではマンションの外へ運び出せたとしても、危なくて使えない。確実に映
ってない札のみを持ち出し、あとは置いていくしかなかった。
 元の場所に隠す時間はなく、燃やすことも考えたが、あまりに大量なのと、スプリン
クラーの作動を恐れて断念したらしい。
 また、一味の何名かは、札の縁で頬などを切っていた。血の付いた札を現場に残した
ままにすることはすなわち、DNAという証拠を残すことである。回収するにも数が多
すぎるし、うっすらと付いた血はもはや見分けるのも至難の業。窮余の一策として、被
害者の血で札を汚してしまえば見分けが付かなくなり、検査が甘くなるのではないかと
いうアイディアを絞り出す。そして洗面台のすぐ隣には、浴室があった。追い込まれた
犯人らが札束風呂という珍妙な発想をしたのは、自然な成り行きだったのかもしれな
い。

 事件で妻を亡くして以来、風呂に入るのを躊躇うようになった。心理的なものに違い
ないのだが、妻の死に様を思い起こして、申し訳ない気持ちに支配されてしまう。
 一度、償いのつもりで札束風呂に入ってみようと考えたことがあった。でも、仮に一
万円札を千円札に置き換えても無理だと分かり、あきらめた。

 終




#481/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/02  02:20  (  1)
永遠の目覚めと眠り   永山
★内容                                         20/10/21 21:19 修正 第3版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#482/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/12  17:42  (156)
きづきのつき   永山
★内容                                         20/09/12 22:25 修正 第2版
 大学生になって、初めて彼氏ができた。
 こう書くと、高校のときにも中学のときにもずっと彼氏がいたが、大学になってから
は初めてなのか、ふうんおモテになるのねという風に受け取る人もいるかもしれない。
 だから念のために注釈を入れておくと、私の人生初の彼氏だ。

 知り合ったきっかけは、日焼けサロンでアルバイトをしていたときのこと。冬の日の
夜、ひと目見ただけでもぞくっとするような、青白い肌の男性が一人でお客としてやっ
て来た。
 背が高くて細身で、でもスーツ越しにも筋肉質なのが想像できる身体付き。少し日本
人離れした顔立ちは私の理想に近かった。頬がこけ気味なのがちょっと残念。もう少し
健康的に見えれば最高だわ、などと考えながら受け付ける。
 私はこのときが初見だったけれども、男性はお店の会員だった。会員カードによる
と、由良雲英人《ゆらきらと》というお名前で、ご利用は六回目とのこと。それにして
は全然焼けてないなぁ、遅くても五回目ぐらいから黒くなると聞いたのに。日焼けすれ
ば健康的に見えていい感じになるだろうな、本人も気にして焼きに来てるのかも、なん
て勝手なことを思いつつ、更衣室に案内した。あとは男性スタッフに引き継ぐ。
 およそ四十五分後、来店時と違いノーネクタイで再びカウンターに現れた彼は、全く
と言っていいほど変わりがなく、日焼けしていなかった。外目から見える箇所、顔や手
が青白いままなのだ。お客様にこんなことを言うのは異例というかマナー違反なんだろ
うけど、思わず、「あれ? 全然焼けて……」とまで口走ってしまった。
 小声のつもりだったけれども、相手の耳にはしっかり届いたらしく、「焼けてないよ
うに見えます?」と反応された。
 内心焦った私は、「も、もしかしたらマシンの不調かもしれません! 調べますので
少々お待ちください!」と言って、カウンターを飛び出そうとした。
「いや、いいですよ」
 彼の声に足を止める。
「それでも念のため、調べませんと。使用状況を把握したいので、お手数ですが付いて
きてくだ――」
「大丈夫です。えっと、実は僕、あるテストのためにここを利用させてもらっていま
す。商品化前なので詳しくは申し上げられないのですが、オリジナルの日焼け止めみた
いな物を……」
「ああ」
 意外な話に、つい、馴れ馴れしい返事をしてしまったが、納得はできた。でもその日
焼け止め、効きすぎじゃないかしらとも思ったけれども。
 その後、由良さんの来店時に私がバイトに入ることなく、ふた月ほどが経った。新歓
コンパが終わって、一人で駅までの道を歩いていると、たまたま由良さんと再会した。
 空には、ほぼ満ち足りた月が浮かんでいた。礼儀ではないだろうけれど、お茶に誘っ
てくれたので、ありがたく受けた。というのも、新歓コンパでは店の手違いでデザート
の数が足りず、私を含む二年生数名が我慢した。そのせいで、ちょうど甘い物が欲しか
ったのだ。
 由良さんは某研究所に勤めていて、時折、開発した試作品のテストのため、日焼けサ
ロンを利用していたが、違う部署に異動になったので、足が遠のいたという。
「日焼けするつもりはあったんですか」
「あんまり。似合わないし、元々、明るいのは苦手で」
「そうだったんですか。由良さんが来ないから、私、あそこのアルバイトをやめてしま
いましたよ」
 ジョークと分かるように軽く目配せ。すると由良さんは大真面目に「それは大変だ。
次のバイトは見付かりましたか」と言い、そこから表情を一変させて笑った。

 こんな感じで、何となくフィーリングが合って、何となくお付き合いを始めた。
 付き合い出してみると、由良さんは年上の割には、一般常識レベルの知識がぽこっと
抜け落ちてるようなところがあって、そのときの反応がかわいらしかった。
 たとえば……男の人ならしょうがないのかもしれないけれども、ゆず胡椒には胡椒は
入っていないんだってことを知らなかった。唐辛子よと教えてあげたら、「ゆず胡椒が
少し嫌いになったかも。でも赤い色の食べ物は好きなんだ。赤唐辛子を混ぜたゆず胡椒
ってある?」なんて聞き返してきた。子供みたいと思いつつ、検索するとあるみたいだ
ったからまた教えてあげた。
 銀玉鉄砲は銀の玉が出ると思い込んでいたし、現代のオリンピックでは金メダルはほ
ぼメッキというのも知らなかった。
 ゲームはほとんどやらない人らしいのは分かっていたけれども、将棋を知らないのに
はびっくりした。ルールを知らないとかではなく、将棋そのものを知らなかったよう
で、新聞だったか雑誌だったかに載っていた将棋の棋譜の記事を見て、「これはひどい
誤植だなあ。字が逆さまだよ」と真顔で私に見せてきた。
 「河童の川流れ」ということわざの意味を、「絶対にあり得ないこと」だと思ってい
た。「トンビがタカを産む」や「豚もおだてりゃ木に登る」も同様。でも、フランケン
シュタインが怪物の名前ではなく、怪物を生み出した人間の名前だということは知って
いた。コウモリにマスクをすると夜まともに飛べなくなることを知っていた。血液型に
基づく占いは、一つの部族が全員同じ血液型という事例があるから成立しないなんてこ
とも知っていた。偏り方がよく分からない。
 まあ、彼が知らないことって生きていくのに絶対知っていなければならない訳でもな
いし、その分、専門知識は豊富だった。例の日焼け止めのクリームはパッチテストの必
要があり、効果の出る人と出ない人、さらには悪い影響の出る人がほぼ三分の一ずつに
なるから、発売は当分ないのだが、私には特別だよと言ってパッチテストを経て、使わ
せてくれた。おかげで日差しが怖くなくなり、感謝している。
 由良さんは休みの日でも、昼間のデートを応じてくれない。たっぷり休憩を取って、
鋭気を養わないとだめなんだと言う。あまりにも頑なだから、休日の昼は別の女の人と
会っているのではと疑って、暇ができたときに彼の住むマンション前に張り込んだこと
がある。結果、日が暮れるまで、由良さんは一歩たりとも出て来なかったし、誰かが訪
ねてくることもなかった。次に会ったときに、心の中で、疑ってごめんなさいと謝って
おいた。

 そして夏の終わり頃、私が二十歳の誕生日を迎えて以降、初めて彼と会う。
 その日もまた夜のデートを楽しんで、ディナーではお酒を飲んだ。正真正銘、初めて
のアルコール飲料だったせいか、足元がふらつくほどになり、海に近い公園で酔い覚ま
しを兼ねて涼んでいくことになった。
「お。満月、かな?」
 ベンチに腰掛けると、ちょうど正面の空に月が浮かんでいた。満月かどうか知らない
けれども、まん丸で、堂々としているように見えた。
「買って来たよ」
 由良さんは自動販売機で冷たい飲み物を買ってきてくれた。私には頼んだ通り、甘さ
濃いめの紅茶。由良さんは、何やら赤いパッケージのペットボトルを手にしている。
 彼が隣に座ったところで、私は満月に視線を振った。
「ねえ、由良さん。こんな話を知ってる? 夏目漱石だか誰だか、とにかく文豪と呼ば
れる小説家が、英語の『アイラブユー』を『月がきれい』と訳したって話」
「はは、僕でもそれは聞いたことある」
 ペットボトルを両手の内で転がしながら、彼は笑った。覗いた八重歯が、きら、と光
を反射する。
「なーんだ。珍しいこともあるものね」
 キャップを開けて、紅茶を口に含んだ。甘みよりも冷たい喉越しが心地いい。その間
に由良さんは付け加えた。
「ただ、覚えてたのとはちょっと違うな。『月がとっても青いから』だと聞いたか読ん
だかした気がする」
「へえ、知らない。青い月っていう方がより間接的で、いい感じかも」
「ということは、この知識勝負は僕の勝ち?」
 いつもの青白い肌が、ちょっぴり上気した風に見えた。夜空と満月による錯覚かもし
れない。
「それとこれとは別だよ〜。じゃ、月に関する知識その2。月が何で光っているか、知
っている?」
「うん? えっと、月自体が光ってるというか、燃えてるんじゃないのは知ってるけ
ど、何で明るく光っているのかは分かんないな」
「やった、これは私の勝ちね」
「参った。答、教えて」
 彼もようやくペットボトルの蓋に手を掛けた。私はお月様を小さく指差しながら説明
を始めた。
「あれはね、太陽の光を反射してるのよ」
「……太陽?」
 信じられないとばかり、目を大きく見開く由良さん。満月を凝視して固まったかに見
える。
「由良さんは月食の原理も知らない? 太陽、地球、月の順番に並んだとき、地球の影
が月に映ったのが月食。月と地球との水平方向の位置関係って言っていいのかな、建物
の一階と二階それぞれにいるみたいな感じで、高さに差があると、太陽の光が月の表全
面に当たって光るの」
「太陽……」
 由良さんは話を聞いているのか心配になるほど、うわごとみたいに繰り返した。ベン
チの肘掛けに半ば身体を預ける様にもたれかかって左肘を突き、右手は顔を覆う。
「どうしたの、そんなにショックだった? 大げさじゃない?」
 酔いが覚めてきた私は、彼の肩に触れようとした。が、由良さんは私の手を振り払
い、ベンチから離れた。
「知らなければよかった」
 ううう、と唸りながら、苦しげに言う。明らかに変だ。
「由良さん? 気分悪い? 座って落ち着いた方が……」
 声を掛けても、彼はどんどん離れていく。海辺に近付き、そこにある黒い柵に寄り掛
かった。
「おかしいよな。今まで平気だったのに、正体を知った途端、こんな影響が及ぶなん
て」
 絞り出すような口ぶりで言うと、由良さんは私に背を向けた。こちらは何も言えず、
その後ろ姿を見ていた。実際、言っている意味が分からなかった。
 やがて彼からは唸り声すら聞こえなくなった。項垂れた姿勢で、柵に寄り掛かったま
までいる。
 そして、赤いペットボトルが落ち、地面を転がった。
「あの、由良さん……?」
 私は立ち上がって、駆け寄った。まだ少し酔いが残っていたけれども、足元はしっか
りしている。
「具合が悪いのなら、病院に行くことも考えた方が」
 なるべく優しい口調で話し掛けつつ、彼の背中にそっと手を触れた。
 その刹那。
 私は息を飲んだ。
 彼は灰になっていた。背に触れたのがきっかけになったのか、さらさらと音を立て始
め、塵のような粒がぽろぽろと落ちていく。
 崩壊は加速度的に勢いを増し、数秒と経たずに、完全に崩れ落ちた。
 彼の立っていた場所には、灰の山と衣服、靴だけが残った。

 由良雲英人は吸血鬼だった。多分。
 血を吸わせてあげていれば、助かったんだろうか。

 幕




#483/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/25  19:29  (142)
花言葉が多すぎる   永山
★内容                                         20/09/26 13:37 修正 第2版
 休暇を利して一人旅。そのついでに立ち寄った。
 天候は晴れに違いないが、風が強くなってきた。木々が徐々に大きく揺れ始めてい
る。
 山奥の大きな一軒家。古びた洋館だが、外装は丁寧に塗り直され、ミニサイズの城の
ような雰囲気がある。
 その家の広い庭と大きな池を見渡せる二階の書斎。
 そこに死体がある。名前を木佐貫杏里《きさぬきあんり》という。ショートヘアで活
発そうな外見をしているが、運動音痴の部類だった。
 俯せに倒れており、その利き手の指は文字を書き遺していた。
“はなことば”と読めた。他に読みようがない。
(知らなかったわ。私の名前って“はなことば”になるんだ。気付かせてくれてありが
とう)
 死体を見下ろしていた鳥羽花子《とばはなこ》は「ふっ」と鼻で笑った。
(木佐貫さん、米国暮らしが長かったからって、死に際に書く犯人の名前まで姓と名を
逆にするなんて、律儀ですこと。身体に染みついていたのね。それにしても)
 頭に被ったビニールキャップの縁を、鳥羽は指先で直した。髪の毛を現場に落とさな
いようにするため、ずれは許されない。
(そんな直接的に過ぎるメッセージで犯人を指し示そうとして何になるの? 私が気付
かないともで思ったのかしら。馬鹿にしているわね。そんなもの、読めなくするだけ
よ)
 風がいよいよ強まる。網戸を通して入ってくるので多少は勢いを削がれていそうなも
のだが、最早そんなこと関係ないレベルになってきた。
(現場は変にいじらない方がいいと思っていたけれども、さすがに窓は閉めようか)
 そんな考えがよぎったが、鳥羽はとりあえず、ダイイングメッセージを読めなくする
ことを優先した。
 血文字を拭うつもりで、ティッシュペーパーの箱を隣の部屋から持って来た。拭くの
に邪魔になる遺体の右腕を少しだけ動かそうとしたそのとき、鳥羽は気付いた。
 右手のすぐ下にボールペンが転がっていた。芯の部分を短く切った物だったため今の
今まで発見できなかった。
(何でこんな変な)
 心の中で呟く鳥羽はさらなる発見をする。木佐貫の右肘の下に小さな紙切れがあっ
た。そこにはボールペンの文字で“はなことば”と書かれている。
(いつの間に!? 血文字に私の注意を惹きつけておいて、本命のメッセージを気付か
せないようにするつもりだった? 危なかった、正直なめていたわ。マジックの道具作
りを仕事にするようになったと聞いたけれども、そのおかげで目端が利くようになった
のかしら?)
 何はともあれ気が付いてよかったとその紙切れに手を伸ばした刹那、一陣の風が吹き
抜け、鳥羽の手の指の間からするりと逃げる。枯れ葉のような紙片はくるくると舞っ
て、一度高く上ったかと思うと壁に当たり、そのまますとんと真下に落ちた。
 鳥羽にとって不運なことに、落ちたところの真横に通気目的らしき金属製の小さな格
子窓があり、木佐貫のダイイングメッセージが書かれた紙は、その中へと吸い込まれて
いった。
「えっ」
 思わず声が出た。急いで通気口まで駆け寄り、頬を床にくっつけんばかりの態勢にな
って覗き込む。
(あった。でも……届かない。指が入らない)
 掃除をしていないらしく、通気口の内部は埃っぽかったが、さっき飛び込んだ紙片ら
しき物は目で確認できた。もう一つ向こうにある壁に張り付く形で全体は見えない。
(あのままにしていたら、警察が見付けるかもしれない。この格子は、がっちりはめ込
んであって外せない。細い何か……箸か針金か)
 だが目の前の格子の間隔はそれらよりも細い気がする。針ぐらいの細さでないと通ら
ないだろう。ただ、今度は普通の針程度の長さでは、紙片まで届きそうにない。
(読めなくすればいいのだから、あの紙に墨汁でもぶっかける? いや、それだとかえ
って発見されやすくなるし、墨汁を掛けたぐらいではボールペンの字はあとからでも読
み取れるはず。そうすると……燃やす? この細い隙間を通してうまく火を着けられ
る?)
 自信がなかった。下手をすると、家を燃やしてしまいそうだ。鳥羽にとってそれは本
意ではない。遺体の発見が早まるだろうし、この家を木佐貫から奪い取り、自分の物に
したいのだ。
 まったく、面倒なことになった。一刻も早く殺人現場を離れたいのに。髪は落ちない
ようにしているし、手にはラテックス製の手袋をはめているから、彼女がここにいた痕
跡を消す作業は大幅に省けるのだが、それでも一時間が限度だろう。一人旅とは言え旅
程との関連もある。
(あれが見付かったときに備えて、何らかの対策をしなくては)
 鳥羽は考えた。そして一つの閃きを得ると、慌て気味に外へと飛び出し、近くの野山
に足を踏み入れた。

             *           *

「亡くなったのは木佐貫杏里、三十六歳。六年前に離婚を経験してそのときに得た慰謝
料で、ここを買ったとか」
 部下の報告に吉野《よしの》刑事は眉根を寄せた。
「元旦那は社長か何かか? いくら山奥ったってここを買って、改装するのは結構費用
が掛かりそうだ」
「ネット関係の会社をやっているとしか。必要であればあとで調べます」
「うむ。それでいい。被害者について他に分かってることは?」
「被害者の職業はちょっと珍しくて、離婚後しばらくは趣味と実益を兼ねたアクセサ
リー作りをやっていたのが、社長夫人時代に知り合ったマジシャンからの注文を受けた
のがきっかけで、奇術道具作りに転身しています。それなりに稼いでいたみたいです」
「奇術道具作りねえ。あ、ボールペンの芯の先っぽだけがそばに転がっていたが、あれ
もひょっとすると奇術道具か」
「のようです。親指の爪にテープで貼り付けて、密かに文字を書き込むために使えると
か。ほら予言マジックにあるでしょ。答を客に言わせてから素早く紙に書き込んで、さ
も前もって予言してましたよって装うんです」
「なるほど。見かけによらんな。花を集めるのも道具作りに関係あるのか?」
 吉野は遺体の状況を思い起こしながら聞いた。木佐貫の遺体の手元には、血文字によ
る“はなことば”というメッセージと、花が十五輪ほどあった。血文字の方は、木佐貫
自身の血で書かれており、指先に残る痕跡との矛盾もなく、被害者が書いたと見て間違
いない。
 花の方は小さな物ばかりで、家屋敷の周辺にある野っ原にいくらでも生えているレン
ゲがほとんどだった。総じて荒っぽく引きちぎっており、適当に引っこ抜いてかき集め
た感じがあった。
「いえ、奇術に生の花を使うことはあっても、あくまで添え物。奇術道具として販売す
るには日持ちの関係で無理があるかと」
「だよなあ。ということは被害者が花を摘んで、家の中に持ち込む行為そのものが不自
然と言えるかな」
「まあ、飾るにしてもここに散らばっていた花は見栄えがせず、小さすぎるように感じ
ます。活ける容器も見当たらなかったし」
「つまり、花を置いたのは被害者ではない。恐らく犯人の仕業である可能性が高いと言
えるな」
「言えますね。第三者が入り込んで遺体を見て、『うわ人が死んでいる。かわいそうだ
から花を摘んできてあげよう』なんてことにはならないと思います」
「シュールな想像図だな」
 吉野は苦笑を堪え、念のためにと尋ねた。
「レンゲの花言葉は分かったか」
「『心が和らぐ』だそうです」
「うーん、特に意味があるようには思えない。少なくとも、犯人を差し示す花言葉とい
うイメージではないな」
 心が和らぐのであれば、犯人に殺されて本望というニュアンスが感じられてしまう。
さすがに声に出して言うのは遠慮した。
「他にも混じっていた草花について調べましたが、スミレは白色だと『純潔』『あどけ
ない恋』が花言葉だそうです。菜の花は『快活』、ワスレナグサは『私を忘れないで』
『真実の愛』だとか」
「ちょいと意味深なのもあるが、いかんせん数種類の花をまとめて置いてあり、その中
に一輪か二輪あっただけでは説得力を欠く。これはもう当初の見立て通りでいいんじゃ
ないか」
「同意します。犯人は鳥羽花子で決まりかと」

 遺体を見付けたのは、中堅マジシャンの男性だった。注文した商売道具に関する相談
で、日曜の昼間に訪ねる予定だったのが、突然の豪雨の煽りを食らって大幅に遅れた。
折を見て遅れる旨を伝えようと電話を掛けたりメッセージを送ったりしたのだが先方か
らは反応がなく、不安が募ったが渋滞はどうしようもない。到着したのは夜暗くなって
から。
 彼は二階の書斎のドアを開けたとき、知人が死んでいるという事実と同じくらいに驚
いたという。
 書斎の床には“とば はなこ に殺された”という大きな文字が発光していたのだ。
 後に調べた結果分かったのは、犯人を告発した特殊なインクは木佐貫杏里の開発した
物らしく、暗がりでないと読めないのは当たり前だが、特殊な液体を垂らすことで一瞬
にして色が変わる特性を持ち合わせているという。
 被害者にとって自慢の新開発品だったらしく、いつでも披露できるよう小瓶に詰めて
服のポケットに常備していたらしい。それがまさか襲われて瀕死の目に遭った瞬間、役
に立つなんて。

             *           *

 どうしてこうも簡単に犯人と断定され、捕まったのか、鳥羽には理解できなかった。
(花を遺体に添えるというのはよい考えだと思ったんだけど。風に飛ばされた紙切れが
警察に見付からなかった場合も想定し、血文字の方を敢えて残したのに。あ、まさか、
適当に摘んできた花の中に、私が怪しいと示すような花言葉があったのかしら? だと
したらこんな不運、ないわ〜)

 終わり




#484/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/10/02  22:14  (248)
レットスノームからのお知らせ   永山
★内容
<レットスノームからのお知らせとお願いだよ。

 今から七年後に君は死ぬ。化け物に蹂躙されて君は死ぬ。
 他人に話しちゃいけないよ。守らなかったときは、今から三年後に君は死ぬ。
 人から話をされても知らんぷりをしなくちゃいけないよ。守らなかったときは、今か
ら三年後に君は死ぬ。
 誰か仲間が死んでも話しちゃいけないよ。守らなかったときは、即座に君は死ぬ。

 レットスノームからは逃れられないよ、誰も。>

 中学一年生、十三歳の誕生日に届いたメッセージに、ずっとおびえて生きてきた。
 その当時のクラスメートが高校一年のときに二人、相次いで亡くなった。一人は周り
に何もない、だだっ広い河原で墜落死。一人はストーブに当たりながら凍死。いずれも
普通じゃない死に様に、レットスノームの仕業だと思った。
 僕は少しでも長生きしたくてレットスノームからのメッセージをひた隠しにしてきた
けれども、それも明日で終わりだ。
 僕は二十歳の誕生日を迎える。大学生にもなって、こんなことを信じているなんて馬
鹿げている。そう感じる人も多いと思う。
 だけど、そいつは確実に存在する。そうとしか考えられない。
 僕は小学五年生の頃からの幼馴染みで、今も同じ大学に通う恋人の葉山《はやま》ひ
ろみにことの全てを打ち明けた。葉山は小学生の頃から評判の美人で、にもかかわら
ず、高校二年の頃から、僕みたいな不細工な造りの顔、勉強も運動も平凡な出来、金は
親がちょっと稼いでいる程度、おしゃべりも面白くない男の恋人になってくれた。だか
らこそ、彼女を信頼できた。
 話を聞いた彼女はびっくりし、そして笑い出した。けど僕が本気だと知ると、それじ
ゃあ誕生日の間、ずっと同じ部屋にいてあげると言ってくれた。
 巻き添えを食って君まで死ぬかもしれないと心配する僕を、彼女は両頬にそっと触れ
て、優しく抱きしめてくれた。大丈夫、そんなことは起きやしないからと言って。
 僕と葉山ひろみは、僕が暮らす川縁のマンション十三階の部屋に入り、鍵を掛けた。

「で、何で死んだんだその学生は」
 刑事の武藤《むとう》は今まさに搬出されていく被害者の方へ、あごを振った。
「立田悟郎《たつだごろう》の死因はまだ不明です。頭部を切断されたのが死後なのは
間違いないそうですが」
 部下の言葉に反応して、ぎろっと眼を動かす。
「じゃあ、その頭は? 頭部があれば死因の特定がしやすくなると聞いた覚えがある
が。見付かってないのか」
「鋭意捜索中です。手始めに、川に沈めたんじゃないかという線で」
「結構荒れてるが、大丈夫か」
 今日の天候は夜明け前から豪雨と呼ぶべきレベルで、風も強い。川は増水し、激しく
波立っている。
「やるしかないので……。自分も手空きになれば捜索に加わろうかと」
「いい心掛けだが、まだ手空きにはならんぞ。一緒にいた女は、話を聞ける状態か?」
「医者じゃないので判断できませんが、葉山さんには今、管理人室で休んでもらってい
ます。暴風雨のせいで、救急車の到着が遅れているみたいなので。無論、婦警が付いて
います」
「念のため、男の警官も付けとけよ。最有力容疑者には違いないんだから」
「ええ。密室状態の部屋に、被害者とともにいたんですからね」
 事件が発覚したのは、この日の朝六時過ぎ。管理人室の内線電話のベルが鳴ったこと
が端緒となった。管理人によると、電話は立田悟郎の入る1307号室からだったが、
声は女性のものだった。通話内容はいささか要領を得ないもので、「助けて」「彼が死
んだと思う」「化け物に襲われた」「私も殺されるかもしれない」という話を、時折さ
さやく口調になって伝えてきた。と思ったら通話はいきなり途絶える。管理人は予備の
キーを持って、1307号室に急いだ。
 管理人がドアをノックしたり、インターホン越しに呼び掛けたりしても応答はなかっ
た。案の定、玄関ドアは施錠されていたので、予備キーを使って中に入る。するとま
ず、玄関から奥へと通じる廊下に、女性が倒れていた。川に面した側の大きな窓は開け
放たれており、ごうごうという音が風とともに吹き流れてくる。窓も気になったが、今
は女性が先だと駆け寄ると、彼女は後ろ手に手錠で拘束されており、ふくらはぎからは
血を流していた。顔や腕などにもあざがあり、発見時は意識朦朧としていた様子だった
が、繰り返し呼び掛けることで反応がはっきりしてきた。そして救急車を呼ぼうとする
管理人を声で制し、先に警察をと頼んできた。
 立田悟郎が死んだという意味のことを彼女が口走ったので、管理人は恐る恐る奥へ進
み、リビングの真ん中に仰向けに横たわる、頭部のない遺体を発見。腰を抜かしそうに
なりながらも各所へ通報をしたという。
「現段階で聞けた分では――立田悟郎は化け物に襲われて死んだ。化け物は窓から入っ
て来た巨大な腕だった。頭部を鷲掴みにされ、引きちぎられた――と言っています。さ
らに驚くべきは、被害者は中一のときに化け物からおまえは七年後に死ぬとの予告を受
け取り、以来、そのことを隠して生きてきたが、とうとう七年が経過したと」
「女は何でそのことを知ってんだ?」
「追い詰められ、最期を覚悟した立田が打ち明けてくれたと。高一のときに同級生が不
審死を遂げていて、それらも同じ化け物の仕業だと言っていたとか」
 照会すると「何もない原っぱでの墜落死」「ストーブに当たりながらの凍死」という
“事故”が起きた記録はあったらしい。
「何だそりゃ。化け物云々はあり得んし、被害者の秘密を知っていた。もうその女が犯
人でいい」
「自分も怪しいと思います。マンション内の防犯カメラの録画映像をざっと見た限り、
昨日から今朝にかけて1307号室に入ったのは、被害者を除けば葉山一人のようでし
たし。ただ、彼女を犯人とするには障害がありまして」
「ん? そいつは初耳だ。言ってくれ」
「はい。1307号室のどこにも、遺体を切断した痕跡が見当たらないんです」
「風呂場じゃねえの?」
「浴槽は空で、洗い場のタイルや壁も含めて、乾いた状態だったとのことです。ルミ
ノール検査も速やかに行われましたが、空振りでした」
「ならちょいとやりにくいだろうがキッチンか」
「そちらも否定されています。ルミノールの反応がなかったんです」
「むむ。では、大きくて広いビニールを床に敷いて、その上で……死後の切断なら、出
血量は比較的少なくて済むだろう」
「それでも程度問題で、相当量の血が出ただろうとの見立てです。大きなたらいのよう
な器で受け止めなければいけないくらいには。ビニールシートと血、それに器が使われ
たんだとしたらそれも含めて、どう処分したのやら」
「そりゃあ、川めがけて投げたんだろうよ」
「うまく行きますかね? 女性だから無理なんてことは言いませんが、ビニールシート
をくしゃくしゃに丸めてガムテープか何かで留めたとしても、うまく投げられない気が
します。たらいとなると問題外でしょう。ましてやこの強風。気象庁に問い合わせしな
いと断言はできませんが、風向きはちょうど逆みたいですよ」
「うーむ」
「せめて、重みのあるボール状の物体でなければ、川まで届かせるのは無理だと感じる
のですが、武藤さんはどう思われます?」
 問われた武藤は今は閉ざされている窓を少し開け、風の向きと強さを肌で感じてみ
た。再び閉じてから、「頭部や血を重しにすれば何とかなるんじゃないかとも思った
が、こりゃ無理だな。やはり球の形で、重みがいる」と認めた。
「ではまさか、他に犯人がいると?」
「いいや。さっき聞いたとんちんかんな証言がある限り、葉山ひろみを犯人と見なさざ
るを得ない。管理人とのやり取りもそれなりにまともだしな。事件に巻き込まれておか
しくなり、奇妙な証言をしたってことではあるまい。
 てことはだ、被害者の頭部や大量の血を処分する何らかの方法を用意していたに違い
ない。この部屋から何か見付かってないか。大学生が持つには多少不自然な物とか、使
い道がなさそうな物とか」
「でしたら幼児用のプールが。ほら、空気を入れて膨らませるタイプの。あれを見たと
きは、血を受け止める器にしたんじゃないかと興奮しましたが、外れでした。ルミノー
ルの反応、皆無だったので」
「そういうのではなくってだな。例えば、ドローンはどうだ? 宙を移動して、頭部や
ビニールシートを川に落としたのかもしれないぞ」
「それならさっき詳しい同僚に聞いたんですが、この暴風雨ではまともに操縦するのは
非常に困難で、大きなスイカほどの重さがある人の頭部を運ぶとなると、機械もそれな
りに大型である必要が出て来るし、実質不可能だろうと言われました」
「何だ、もう思い付いていたのか。早く言ってくれよ」
「すみません」
「それにしても人の頭ってのは、そんなに重量があるんだっけな。葉山ひろみが砲丸投
げか何かの経験者でもない限り、頭を川まで放るのは厳しい気がしてきたぞ」
「そういうパーソナルデータは、確認できていませんね」
 武藤達がそんなやり取りをした直後、部屋の外が騒がしくなった。警官の止める声を
かき消す大音量で「いいからいいから! 話は通じてるんだ」と言う声が近付いてく
る。
「あの声、房橋《ぼうのはし》さんですね」
「誰かあいつに知らせたのか?」
「まさか。いくら奇妙な状況の殺しだからって、こんなにも早く助言を求めやしませ
ん」
「じゃあ、一体……無線を勝手に傍受してんのかな」
 ドアの開け放たれたままの玄関の方をにらむ武藤。そこへ、落ちぶれて腐った二枚目
俳優のような顔の房橋カケルが姿を現した。
「聞いたよ、武藤ちゃん。こんなに面白げな事件を知らせてくれないなんて、ひどいな
あ。推理小説っぽいトリックでも、つまらないダイイングメッセージ辺りは君達に任せ
てもかまわないんだけど、化け物が殺しただの密室状態だのとなると、捨ててはおけな
い」
「……」
 武藤はどやしつけるつもりでいたが、気持ちを切り替え、無駄なことはしないとあき
らめた。こいつにさっさと解かせて帰らせ、事件は早期解決、一見落着となるのであれ
ば、名探偵を利用するのも悪くはない
「よかろう。話してやるから静かに聞いてくれ。近所迷惑にならんようにな」

 概要を聞き終わった房橋は開口一番、「相変わらず、頭が固いな」と言い放った。以
前、まだ付き合いが浅い頃なら、「何だと?」と色めき立つに違いない場面だが、もう
慣れっこになった今、聞き流すだけの余裕が刑事側にはある。
「君達は『頭は硬い物だ』という固定観念に囚われているんだ」
「……何を言ってるんだ?」
 この台詞にはさすがに引っ掛かりを感じ、訝る目つきで探偵に問う。
「頭を柔らかくして、『頭は柔らかい物だ』と見なしてみるんだ。還元するなら、困難
は分割せよっていうことさ」
「何を言ってるのか、まだ分からん」
 首を傾げる武藤の隣で、部下の若い刑事が手を小さく挙げた。
「あのー、つまり、被害者の頭部をそのまま放り投げるのは大変だけれども、分割すれ
ば行けるじゃないか、という意味でしょうか」
「お、ご名答。さすが、ちょっとは若いだけのことはあるね」
 音を立てない、形だけの拍手をする房橋。そんな探偵を目の当たりにしながら、武藤
はまたも首を傾げた。
「まだ飲み込めないんだが」
「武藤さん。房橋さんの説明は、我々の頭の固さと、被害者の頭部というか頭蓋骨の一
般的な硬さについて一度に語ろうとしてたため、ややこしく聞こえたんですよ」
 部下の補足で、やっと分かってきた。
「つまり何だ。スイカを丸ごと一個投げるのが難しいのなら、切り分ければいいじゃな
いかっていう理屈か」
「そのようです」
「――房橋探偵。実際問題、人間の頭をスイカみたいに切り分けることはできんだろ。
少なくとも、家庭にあるような包丁やのこぎりでは、簡単ではない」
「別にきれいに切る必要はないでしょう。投げられるだけのサイズにすればいいんだか
ら、金槌か何かで骨を砕いた上で、細分化すれば事足りる」
 想像してみるとおぞましい絵面だが、殺人犯の世界に禁止コードなんて存在するはず
もない。
「しかし、頭を分割しただけでは問題の解決にはならないぞ。頭部切断時に出たであろ
う血液と、ビニールシートなり受け皿なりも処分しなくてはならん」
「血液はいざとなったら、犯人自身が飲み干せば済む」
「げっ」
 こともなげに言い放つ房橋。対照的に若い刑事はらしからぬ叫びを上げた。
「まあ、そんなことしなくても、血液を処分する方法はある。外に立つお巡りさんに現
場へ持ち込むなと言われたので、廊下に置いたままなんだが、管理人室脇の壁に立て掛
けてあった機械を持って来た。無論、断りを入れてだ」
 誇らしげに胸を張る房橋だが、社会人として常識だ。
「現場に持ち込めないのは納得できているから、君達が行って見てきてくれないか」
「言葉で説明できない物なのか?」
「いや、できる。ブロワーってやつさ。強風を吹き出して枯れ葉やごみを吹き飛ばす清
掃道具の一種だな。ここにあるのはバッテリーでもコンセントでも稼働するタイプだ」
 それなら武藤達刑事にも容易に理解できる。
「現物がこのマンションにあった、そして誰もが自由に持ち出せたというのが大事なの
だ」
「要は犯行に使われた可能性があると踏んでいるんだな。まさか強風に打ち勝つ逆風を
起こすために、なんて馬鹿げた説じゃあるまい」
 半ば茶化すように武藤が言うと、房橋はがははと楽しげに笑った。
「それはそれでユニークだ。いいよいいよ。だが私が考え付いたのはそんなんじゃな
い」
「ちょい待て。ここで俺の話を聞く前に、ブロワーが犯行に使えそうだと思って持って
来た? おまえほんとに警察無線を勝手に聴くのはやめろ」
「細かいことにこだわるな。他にも話を知るために色々やってる。それが公になった
ら、警察関係者何名かの立場が危うくなる」
「……この事件の犯人よりも、おまえの方が化け物に見えてくらぁ」
「一応、褒め言葉として受け取っておく。さて、ブロワーの他にもう一点、犯行に使っ
た物がある。ビニールシート代わりになるし、血の受け皿にもなる優れものだ」
「そっちの現物は用意できてないのか」
「ああ。用意できていたら探偵イコール犯人になるじゃないか」
「やれやれ。安心したよ。続けてくれ」
「――それは巨大なゴム風船さ犯人は巨大風船にブロワーで風を送り込み、常に膨らま
せた状態を保ちつつ、その中で遺体の首を切断した。頭部を適度な大きさに分解したの
も同様だろう。ブロワーの音は荒天にかき消されて、住人に気付かれることもない」
「……風船芸人が使うような、でかくすれば雪だるまみたいになるあれか?」
 遅ればせながら確認を取る武藤。探偵は大きく首肯した。
「そうだ。あの中で解体作業をすれば、血は中に溜まる一方で、他を汚す心配がない。
使用後は適切なサイズになるまで空気を抜いて、口を縛れば血を入れた水風船、血風船
になる。ボール状で投げやすい。いいこと尽くめだ」
「返り血は? いくら死後の切断とは言え皆無って訳にゃいかんだろ」
「ごまかしようはいくらでもあるが、推薦したいのは犯人自身も別のゴム風船に入って
首だけ出して作業したって方法だな。作業終了後に風船を脱いでより巨大な風船の中に
捨てればいい」
 荒唐無稽、大胆に過ぎるトリックの推定ではあるが、一応、筋が通ってしまってい
る。
「川を浚えば血の風船が見付かると思うか」
「確信しているよ」
「犯人はやはり葉山ひろみだと?」
「恐らく。その女性は被害者の幼馴染みなんだろ? 多分、高一で死んだ二人にも同じ
予告状を送ってたんじゃないか。当初は笑い話にするつもりだったのかもしれないが、
思い掛けず、誰も他人に話そうとしない。それどころか、二人が相次いで亡くなってし
まった」
「うん? 過去の二件の死は他殺じゃないと?」
「知らんよ。想像を逞しくしているだけさ。原っぱの墜落死体なんて、よそで飛び降り
た奴を移動させただけでできあがる。大方、高校の校舎から飛び降り自殺をしたが、見
付けた教師が面倒くさがったか、世間から叩かれるのを恐れたかして、学校の外で死ん
だことにしようと思ったんじゃないか。墜死できるだけの高さの物がない場所に置けば
他殺と判断され、生徒が死を選ぶような学校という目で見られることはなくなる」
「ではストーブに当たりながらの凍死は?」
「不思議なことかね。凍えそうな寒い目に遭ってストーブに当たる、当然じゃないか」
「あ、そうか。しかし、暖まっているのに凍死はやはり変だぜ」
「薬物をやっていて感覚が麻痺していたとかじゃないか。その高校生の親か何かがお偉
いさんで、子供の薬物使用を隠蔽させた、なんて話かも」
「……嘘もでたらめもおまえが喋ると、ちと真実っぽく聞こえるな。ならば仮にそうだ
ったとして、葉山は何で立田を殺す必要がある? 化け物にやられたかのような細工ま
でして」
「恐ろしくなったんじゃないかね。遊びで出した死の予告状が続けざまに現実になり、
これはもう三人目も死んでもらわねばという観念に取り憑かれた。成就しないときは自
らが命を落とす、という考えに陥っていたかもな」
「ここまで来ると妄想推理だな」
 武藤がからかうと、房橋は真顔にちょっぴりシニカルな笑みを貼り付けて、推理に補
足した。
「さしていい男でもない立田の恋人に、美人の葉山。不釣り合いだよな。葉山は立田を
いつでも殺せるよう、なるべく近くにいることを心掛けていたのさ」
 さも真相らしく得意げに語る房橋。武藤は渇いた唇をひとなめし、思った。
(やっぱり化け物だ。早く化け物の殺人犯と直接対決させてえな。こりゃ見物だぜ)

 終




#485/485 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/11/20  20:26  (279)
零になるレイナ   永山
★内容                                         20/11/21 20:49 修正 第4版
 今日のイースターで春休みも終わりだと、少し沈みがちだったところへ、いいことが
あった。
 うちの正面の大きな空き家に、母娘二人が引っ越してきた。娘の方は僕と同じぐらい
の歳で、同じ小学校に通うのかも。引っ越しの挨拶に来たときに、思い切って聞いてみ
た。すると予想通りで、しかも同じ学年だと分かった。
 何がいいことかって、その女の子、レイナ・ソントンはとてもかわいい子だったん
だ。赤縁の眼鏡とちょっと変わった色艶の栗毛のせいで損をしてるが、美人なのは間違
いない。
 週明けの月曜、学校に行ってみると、一時間目の前に転校生の紹介があって、レイナ
が入って来た。七クラスあるのに一緒になるなんて、ラッキーだ。エイプリルフールな
のに、これは嘘じゃなかったよ。
 さすがに席は離れたが、僕はご近所さんの強みを活かして、男子の中では一番積極的
にレイナに話し掛けた。
「てことは、ジョエル・ホプキンスの向かいに越してきたのか」
 話を聞いていたホス・ハワードが言った。
「あの家結構でかかったけど、二人で暮らすには広すぎないか?」
 ハワードは言動が直感的で、人の気持ちをあまり考えない。今の発言にしてもレイナ
が母子家庭になった事情なんて、全然頭になかったろう。
「ばか。ちょっとは気を遣いなさいな」
 女子の一人、ケイト・モルスが肘鉄で注意を促すと、遅ればせながらハワードも己の
無遠慮さに思い当たり、「あ、ごめん」と口走った。
「ううんいいよ。それに私、寝相が悪いからあれくらい広くないと」
 レイナの返事がジョークだと分かるのにゆうに一秒は掛かったけれども、その後笑い
に包まれて空気は和んだ。

 少し経って、一部の女子が、レイナのことをよく思っていないとの噂を聞いた。放っ
ておけず、レイナのいないところで女子の一人、イーデン・バーグにわけを尋ねた。
「感じ悪いんだもん、あの子」
「そうか? どういう風に」
「声を掛けてもすぐには返事しなかったり、振り向かなかったり」
 それなら僕にも経験があるにはあった。学校ではなく、家の近所でのことだ。遊んで
来た帰りに後ろ姿のレイナを見掛けたから名前を呼んだのに、すぐには振り向いてくれ
なかった。そのとき僕は自転車だったから急いで前に回り込み、やっと気付いてもらえ
た。何かあったのか尋ねると、「ぼーっとしてただけ」という答。
「多分だけど、ソントンさん家は耳が悪い家系なのかも」
 そのときの体験も含めて、僕はイーデンに言った。
「耳が悪いとしたら呼んでも振り向かなかったのは分かるけれど、家系って?」
 イーデンは戸惑ったような反応を見せていた。
「内緒の話だぞ。同じく近所でのことなんだけど、レイナの家に宅配屋が来て、庭にい
たレイナのお母さんを配達員が見掛けた。それで塀越しに『ソントンさん、お荷物で
す』と控え目に呼び掛けるも、全然気付いていない様子だった。そのときやっぱり、後
ろ向きで」
「母娘揃って反応が遅いのなら、家系ってことなのかしら」
 イーデンは一応、納得したようにうなずいた。
「そんな訳だと思うから、女子のみんなにもそれとなく言っといて」
「分かったわ」
「あと、できれば耳のことは、レイナ本人には伝わらないように」
「それくらい言われなくても」
 僕はレイナの悪い噂を拭い去る手伝いができたと思うと、嬉しかった。ただ、その一
方で、イーデンには言わなかったこともある。話がややこしくなるかもと判断したか
ら。
 これまた近所での目撃談になるんだけれども、セールスマンか何かがやって来て、庭
にいるレイナのお母さんに「奥さん、ちょっとお時間よろしいでしょうか」なんて声を
掛けたことがあった。それとなく見ていた僕は、前のことがあるから、その程度の声で
は聞こえてないよおじさん、なんて思っていた。ところが、レイナのお母さんは即座に
振り向いて、応対を始めたのだ。たまたま耳の調子がよくて聞こえたのかなと思った。

 またしばらくすると、レイナの悪い噂は消えた。イーデンの協力が効果を発揮したの
もあろうが、それ以上にレイナにも変化があった。
 背後からでも名前を呼べば振り返るようになったし、ちゃんと返事をするようにもな
った。耳が悪かったんだとすれば、手術をして完治したんだろうなって思えるくらい
に、普通の人と変わりなくなっていた。
 そうして彼女が転校してきてから一年近くが経った頃。日曜日の昼下がりだった。
 僕の一家は前日の土曜の朝から旅行に出掛ける計画を立てていたのだけれども、僕は
その数日前より風邪でも引いてしまったらしく、体調がすぐれない。いつもなら中止す
るところだが、今回は特別で、両親の結婚記念日だった。僕は別に行けなくてもかまわ
ないから、お父さんお母さんには楽しんできて欲しい。
 そんな思いを伝えたけど、うちの両親は「それじゃ行ってくる」と受け入れるタイプ
では全然なかった。体調不良の一人息子を置いて行けますかってことらしい。
 ならばと僕は友達の家に厄介になれないか、男友達に電話を掛けまくった(学校は休
んでいたので、電話かメールしかない。即座の返事が欲しかったから電話にした)。で
もただでさえ難しいお願いである上に、数日後の週末からっていうのはかなり急な頼み
だ。どこからもOKはもらえなかった。
 するとその翌日、レイナがそのお母さんと一緒に訪ねてきた。よろしかったら旅行の
間、お子さん(僕のことだ)の面倒をみますよ。使っていない部屋がたくさんあります
からって。それまでにもうちとソントンさんとはご近所付き合いが結構あって、物の貸
し借りは無論のこと、夏から秋にかけてはバーベキューパーティを開いて、行き来し
た。そのよしみで、申し出てくれたみたい。ちなみに、僕のせいで旅行が中止になりそ
うだって話は、レイナが学校で耳にしたとのこと。
 僕の両親は頭が割と固い方なのか、それとも礼儀なのだろうか、「とんでもない、よ
そ様にそんな迷惑を掛けてまで」と断ろうとした。しかし最終的には折れてくれて、僕
は土日をレイナの家のお世話になることに決まった。正直、嬉しい。
 と、こういう訳で、日曜日の昼間、僕はレイナの家にいた。
 レイナのお母さんは図書館司書で、日曜も近くの公立図書館に勤務しに行くことが多
いそうなんだけど、この日は休みだった。
 昼ご飯のあと、夕食の材料などを買いに行く必要があるからと、ソントンさんは車で
出掛けた。四十分ぐらいで戻るから、その間はレイナと僕とで留守番だ。
「口に合った?」
「うまかった。タコがあんなにうまいなんて、知らなかったな」
「本当はタコ、嫌いなんでしょ」
「うまければ食べる」
「ふふふ。好物をママに伝えておいたから、夜は期待して。お父さんとお母さんが帰っ
てくるのって、九時の予定だよね?」
「うん」
 そう答えたときだった。玄関の呼び鈴が鳴ったのは。
「誰か来た」
 レイナが立ち上がって、部屋のドアを開けた。
「お客さん? 一応、気を付けて」
 僕が体調万全なら一緒に出向くんだけどな。
「分かってるわ。カメラ付きのインターフォンがあるし。待っててね」
 レイナが言って、部屋を出て行った。玄関まではちょっと離れており、しかも廊下を
二度か三度、曲がらねばならない。故に僕のいる部屋からは、仮にドアを開けて頭を出
しても玄関は見えない。もちろん声だって聞こえない。
 代わりに僕は窓際へ寄ってみた。ガラスに顔を押し付けるようにして左を向くと、ぎ
りぎり見えるのが門から玄関へと続く小径の様子。草花のせいで一部遮られてしまう
が、玄関を出入りする人物を目撃できると思った。
 その玄関先の道路には、車が停めてある。青みがかったグレーのステーションワゴン
だ。訪問者は、あれに乗って来たのは間違いない。
 息を飲んで見ていると、三分ぐらい経ったろうか、ソフト帽を被った中年男性が、キ
ャスター付きの大きな鞄を大事そうに押して現れ、玄関から道路へと出て行った。どこ
かで見たことのある顔だと思ったら、だいぶ前に目撃していた。レイナのお母さんに声
を掛けていたセールスマンだ。そのまま車のそばまで来ると、バックドアを開け、旅行
ケース並に大きな鞄を載せた。バックドアを閉めるとしっかりロックして運転席に向か
う。横顔がちらと見えたが、やけに緊張している風だった。
 改めて物を売りにやってきたが肝心の奥さんが留守で、仕方なく引き返した……とい
う情景に感じられた。車は静かに発進し、遠ざかっていった。
 それから二分近くが経過しても、レイナが戻って来ない。
 おかしいな?
 僕は微熱の残る額に手をやってから、頭を振ると、意を決して部屋を出た。
「レイナ?」
 滅多に呼び捨てにはしないのだが、このときはすぐにそう呼んだ。だが、それでもレ
イナは姿を現さない。いやそれどころか、声や物音一つ聞こえやしない。
「レイナ! どこだ!」
 玄関口まで来た。誰もいなかった。玄関ドアはぴたっと閉じてある。念のため、手で
ノブをがたがた言わせると、鍵が掛かっているとしれた。靴だってきちんと揃えてそこ
にある。
「レイナ! レイナ・ソントン! どこにいる? 隠れてるのか?」
 一瞬、あのセールスマン風の男の他にもう一人いて、そいつが強盗として入り込んだ
可能性が思い浮かんだ。そいつから逃げるために、レイナは家の中のどこかに身を隠し
た? だけどそれも変だ。人に押し入られたら、レイナの靴が乱れていると思う。加え
て、その強盗の気配を全く感じないのもおかしな話だ。
 インターフォンの使い方が分かれば、ひょっとしたら訪問者の映像が録画されてい
て、再生できるのかもしれない。だが、残念ながら僕には操作方法が分からなかった。
 これは異常かつ緊急事態ではないか。警察への通報が頭をよぎるが、まだソフト帽の
男が去ってから五分も経っていない。通報はいくら何でも早すぎるか? だけどその一
方で、男が押していた大型鞄がまぶたの裏に焼き付いてる感じで、嫌な想像をしてしま
う。
 そうだ。レイナのお母さんに連絡を取れないだろうか? 僕はレイナのお母さんの携
帯端末番号を知らないし、レイナの携帯端末は見当たらない。だが、この家には固定電
話があったはず。そこの短縮ボタンにレイナのお母さんの番号が登録されていないだろ
うか。
 そんな風に考え、固定電話を探していると、急に呼び鈴が聞こえてドキッとした。
 鼓動の高鳴りがある程度落ち着くのを待ってから、玄関に行く。何故だか、忍び足を
心掛けた。
 さっきのセールスマン風の男が戻ってきた、なんてことはあり得ないと思いつつ、僕
はインターフォンの画像を見た。
「……あれ?」
 副担任のリチャード先生が映っていた。
 この先生はレイナが転校してきた二週間後ぐらいにやって来た人で、そもそも僕らの
小学校には副担任なんていないのが普通だったから、何事だろうとちょっぴり話題にな
った。ふたを開けてみれば答は単純。校長先生の遠い親戚で、仕事にあぶれたため、臨
時教員としての採用とのことだった。教え方は喋りが固いけど、親切丁寧で分かり易
い。
「リチャード先生がどうして」
 ドアを開けると、先生は機敏な動作ですっと近寄ってきて「事情は聞いている。ま
ず、君の体調だが、大丈夫かい?」と尋ねてきた。
「僕のことは大丈夫だから、レイナを。レイナ・ソントンがいなくなっちゃった! 探
して見付けて!」
「分かっているよ」
 そのあとのことは、正直、あんまりよく覚えていない。
 僕は「レイナを、レイナが」と連呼して、叫び疲れて眠ってしまったのだ。風邪がぶ
り返したのもあると思う。
 目覚めて回復した僕に、先生と警察の人がざっと説明してくれた。
 レイナ・ソントンとその母親は、どうしても避けられない急な用事ができたため、こ
の町を離れなければならなくなった。それは真に急なことで、誰にも挨拶する余裕がな
く、また可能な限り人目に付かないようにしなければならなかったという。学校で先生
がみんなの前で改めてした説明でも、都合で急に引っ越さなければならなくなったと言
っていた。
 僕は彼女がいなくなる現場に居合わせたせいか、より詳しい事情は僕が大人になった
ら話そうと、約束してもらった。それまでは詮索するなとも言われた。でも、どうして
も考えてしまう。
 いくら無事だと言われても、あのあと彼女の姿を見ていないのだから、気になって当
然だと思う。しばらくは、テレビのニュース番組やネットのニュースサイトに、“鞄詰
めの子供の遺体発見さる”なんて見出しが躍らないか、注意深く探していたくらいだ。
 旅行から戻った僕の父と母は、警察から説明を受け、ソントンさんを全く悪く言わな
かった。普通に考えたら、病気の子供を預かっておいて勝手な理由で姿をくらますなん
て無責任に過ぎる!くらいは言いそうなものなのに。ということは、僕の両親は、母娘
が姿を消した背景に納得しているに違いない。
 それから何年か経って、僕は、一定レベル以上の暴力的なシーンのある映像作品を観
てもよい年齢に達した。つまり、人殺しや死体なんかの出てくる作品を観られるように
なった僕は、割とはまった捜査物のシリーズがあって、その中のエピソードである制度
のことを初めて知った。
 あ、レイナが消えたのは、こういうことなのかと思った。

 某政府機関の地下にある、完全な個室に通された。
 今日が、かつて僕とレイナが学校で初めて顔合わせした日と同じになったのは、偶然
だろう。
 彼女が消えた詳しい事情を教えてもらえるのは、成人したらすぐだと思っていたが、
実際にはもっと後になった。関係する裁判の判決確定を待たねばならないとか、犯罪者
の仲間を完全に一掃する必要があるとか、色々と難しいらしい。
「先生、お久しぶりです」
 僕は、かつて副担任だった男性に手を差し出し、握手をした。小振りな四角いテーブ
ルを間にして、お互い着席する。
「先生の本名も、きっとリチャードではないんでしょうね?」
「そんなことを言い出すからには、もう察しは付いているという訳か。だが、あくまで
他言無用に願う。君の行状を徹底的に調査した上で、こうして打ち明けることに最終的
なゴーサインが出たのだから。裏切らないでもらいたい」
「分かっていますよ。ただ、一度でいいから、レイナ・ソントンと会いたいな」
「まあ、そう先走ることもなかろう。それよりも君がいつ気付いたのかが気になる。今
後の参考のためにも、聞かせてもらえないか」
 ジャケットのポケットに手を入れ、何やら操作する様子を見せた元リチャード先生。
大方、録音かメモを取るつもりだろう。
「本当の意味で気付いたというか、そうじゃないかなと思ったのは、証人保護プログラ
ムという制度があると知ったときだから、だいぶあとになってからですよ。ただ、思い
返してみれば、それ以前、レイナと話をしているときに違和感あったなって」
「続けて」
「名前を呼んだとき、振り向かなかったり反応が遅かったり。あれ、本名とは違う名前
をもらって暮らしていたからですよね、きっと。慣れない内は、どうしてもタイムラグ
が生じる」
「そうだな。ファーストネームをそのまま使ったり、響きの似た名にしたりと工夫を施
すんだが、限界はある」
「あのソフト帽のセールスマン風の男性は、連絡係か巡回警備係といったところです
か? 彼はレイナのお母さんを名前で呼ばずに、奥さんと呼んだ。慣れない偽名と違
い、『奥さん』なら、結婚経験のある人は大抵は振り返る」
「そのつもりがあったかどうかは、本人に聞かねば分からない。残念ながら彼はもう亡
くなっていてね」
「そうでしたか……。僕が気付いたこと、思い当たったことなんて、この程度のもので
す。要する、全てが終わったあとでないと気付けなかった」
「なるほど。よく分かった。我々のやり方で、基本的には間違いないと思える」
「それで……他に教えてもらえる事柄ってあります? レイナの本名や、どんな事件の
証人になったのか、なんてのは無理なんでしょうね」
「分かっていてくれてありがたい。その辺の情報は明かせない」
「今、レイナやそのお母さんが何と名乗って、どこに暮らしているかもですか」
「……手続き上は全て終了している。偶然再会した折に思い出話に花を咲かせるくらい
なら関与しない。ただ、こちらが手引きして会わせるということはできない」
「制約が多いんですね。予想はしていたけれども」
「前もって断っておくと、レイナ・ソントンなる女性を探して欲しいと探偵に調査依頼
を出しても無駄だ。書類上、死亡扱いになっているのだから」
「それじゃあせめて、彼女を連れ出したときの状況を。セールスマンは当日、レイナの
家に僕がいたことを知らなかったんですか」
「その点は、記録がないな」
「実は、おかしいと思った点がもう一つあるんです。あのセールスマン風の男が、レイ
ナの家を担当する連絡係や監視役だとしたら、僕があの日の前日から来ていることくら
い、掴んでいるはず。なのに、レイナを連れ出すのに随分とせっかちな方法を用いてい
る。何て言うでしたっけ……神隠し? 一歩間違えれば神隠し騒ぎになっていました
よ、あれ」
「そうか。そこまで気が付いていたのかい」
 リチャードの喋りは一段低い音量、しかもかすれた声になった。咳払いを挟んで、喉
の調子を整えると、続けて言った。
「ならば、やはり真実を伝えるべきだな」
 真実? そんな台詞を吐くってことは、今までの話は嘘が混じっているのだろうか?
「セールスマン風の男は、確かに君の見込んだ通り、我々の側の連絡役だった。しか
し、あの問題の日の昼間、ソントン家の玄関前に現れた男は違う。別人だったのだ」
「え? で、でも、顔は同じでした」
「整形だ。元々、ベースの似ていた男にさらに整形手術を施して、そっくりにしたん
だ。それくらい、ウォーラン・シンジケートにとって容易いことだったらしい」
「シンジケートって、あのとき姿を見せたセールスマン風の男は、犯罪組織の人間だっ
たの?」
「そうなのだ。我々は奴らから母娘の存在を完全に隠したつもりでいたが、組織の人数
を甘く見積もってしまっていた。そして、組織とつながりのある者が母娘を目撃すると
いう不幸な偶然が起きた。連中はそれ以降、時間を掛けて連絡係の偽者を仕立て上げ、
決行日に供えた。真向かいの家、つまり君の一家が旅行に出掛けるのを絶好のチャンス
と捉えていたんだ」
「何てこと……」
 うちの両親が旅行を計画したせいで、いや、僕が病気になりながら、二人を行かせよ
うとしたせいで、犯罪組織が行動を起こした? そんな。
「奴らの計画は、娘が一人になるのを待って偽の連絡係が訪問、『君のお母さんが襲わ
れた。ここも危ない、一刻も早い退去の指令が出た』とレイナに伝え、大きな鞄の中に
隠して連れ出すというもの。レイナは連中の嘘に気付かず、大人しく従っただろう。
我々は感知したが一歩遅かった」
「じゃあ、レイナはどうなった?」
「電話があった。母親に裁判で証言させないなら解放すると。だが、その判断を下す前
に、事件は動いた、不慣れな土地に出張ってきた連中は、地元の小悪党と諍いを起こ
し、アジトに放火された。拘束されていたレイナは放置され、そのまま……」
 ――僕は意味不明な叫び声を発して、喚いていた。


 どのくらい喚いて泣き叫んだか分からない。三十分程度?
 ふと気付くと、僕の肩にリチャード先生が手を置いていた。
「ジョエル・ホプキンス。そんなにも彼女のことを思っていたとは知らなかった。もっ
とオブラートに包んで話すか、いっそ話すべきでなかったかもしれない」
「いえ、いいんです。真実を知らないと意味がない」
「そうか。真実は大事だな。――ところでジョエル。今日は何月何日だ?」
「……四月一日……」
 日付の意味することを理解し、僕がリチャード先生の顔を見上げた。
 そのとき、背中を向けた方角にある部屋のドアが、かちゃっと音を立てて開く気配が
した。

 終




「●短編」一覧



オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE