AWC ●短編



#470/474 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/05/30  21:27  (197)
その光は残像かもしれない   永山
★内容                                         19/06/02 23:58 修正 第4版
 地方の澄んだ空気の中、満天の星空を観てみたい。プラネタリウムイベントに参加し
てみたい。
 という友達の川田次美に付き合わされて、イベント込みのバス旅行に参加した。星に
ほとんど興味がない私にとって、気乗りしないツアーだったけれども、ここにきて変わ
ったわ。
 たまたま暇潰しに覗いてみた古本屋で、前々から探し求めていた“お宝グッズ”を発
見するなんて。
 最初は、ゴミに出す物をまとめて段ボールに放り込んであるのかと思った。でも、ち
らっと覗いていた紙の端っこにある文字に気付いた。あれは漫画雑誌の付録。しかも、
かなり古い。
 私は店のおじさんに聞いた。
「表にある段ボール箱の中身って、売り物ですか?」
「ああん? 売り物なんかじゃないよ」
 その答を聞いたとき、物凄くがっかりした。けどおじさんの次の言葉で逆転。
「もう捨てようかと思って。いるのがあるのなら、持って行っていいよ」
「え? あの、値段は……」
「ただだよ、ただ。そりゃ払ってくれるんならもらうけどさ」
 そう言って、かかと笑いながら店の奥に戻ったおじさん。その背中が神様に見えた
わ。
 段ボール箱の中身を漁ると、欲しかったシールのセットが見付かった。手付かずのき
れいな状態で。
 売る気はないけど、ネットオークションに出せば、いい値段が付くはず。さすがにこ
れを無料でいただいて、はいさようならでは気が引けちゃう。私は本棚も見て回り、懐
かしい漫画と小説を一冊ずつ選び、レジに持って行った。

 移動するバスの中で、次美が「何だか凄く嬉しそう。いいことあったの?」と聞いて
きた。上機嫌だった私は、古本屋での事の次第を話して聞かせ、彼女にも礼を言った。
「誘ってくれてありがと。ラッキーだったわ」
「どういたしまして。そんな偶然で喜んでくれるのなら、私も嬉しいよ」
 思えば、このときに声高に説明したのがまずかった。
 最初におかしいなと感じたのは、道の駅での休憩中。ハンカチを忘れたと気付いてバ
スに戻ってみると、同じツアーの女性が、私達のいたシートに座っている。
 私が近付いていくと、気が付いた気配はあったんだけど、そのまま動かない。横まで
来て、「すみません、そこ、私の席なんですけど」と注意を喚起して、やっと「ああ、
こちらこそすみません。間違えました」と言い、席を立って、二つ後ろに移動した。
 このときはまだ、ちょっと変だなと感じた程度だった。
 次に、うん?と異常を感じたのが、宿泊先となるペンションに着いたあと。みんなで
バスを降り、荷物を持って歩き出した。その矢先、例の女が近寄ってきて言った。
「先程は大変失礼をしました。お詫びに荷物を運びます」
「いえ、結構です。大した距離じゃなさそうだし、重くないし。気にしてませんから」
 持ち手に指先が触れたけれども、さっと引き離した。そのときの相手の目は、私の荷
物をしっかり記憶しようとするかのように、手元をじっと見つめてきていた。
 私は女の左胸にあるネームプレートで、名前が上島だと知った。実は最初に参加者全
員の簡単な自己紹介があったんだけど、よく覚えていなかった。ただ、この上島は職業
が確か鍵屋といっていたような。花火職人ではなく、キーの方の。
 ぱっと見、若くて細面で、静かにしていれば美人で通りそうだが、二度の少々おかし
な動きのせいで、薄気味悪く映る。鍵の専門家だと思うと、なおさらだ。
 そのことを、次美の部屋に行ってちょっと話したら、「やだ気持ち悪い」と「でも積
極的なアプローチなのかも」という、両極端な反応をしてくれた。
「私にレズの気はない。それに、あれはアプローチじゃないわ。興味があるのは私じゃ
なくって、荷物の方みたいなんだけど」
「じゃ、こそ泥かなあ?」
「まさか。お金目当てなら、もっと持ってそうな人のを狙うでしょ」
 ツアー参加者の中には、いかにも裕福そうな老夫婦がいたし、アクセサリーをたくさ
ん身に着けた中年女性三人組もいた。狙うんだったら、私じゃないだろう。
「ということは、あれかも」
 次美が手を一つ叩いた。そのまま、右手の人差し指で私を指差してくる。
「買ったじゃないの、お宝のシール」
「いや、買ってはいないけど。でもそうか」
 友達の言いたいことはすぐに飲み込めた。上島は二つ後ろの座席で、私と次美の会話
を聞いていたのだ。そして値打ち物のシールの存在を知り、あわよくばそれを手に入れ
ようと……ちょっと変だ。
「あのシール、いくらお宝と言ったって、せいぜい数万円だよ。マニアが競り合って、
それくらい」
「そうなんだ? じゃ、あれだよ」
 また、「あれ」だ。
「上島って人も、シールコレクターなんじゃない? それか、そのシールの漫画のマニ
アとか」
 なるほどね。そちらの方がありそうだわ。
 お金を出しても簡単には入手できない代物が、ひょんなことから目の前の、すぐにで
も手が届きそうなところに現れた。しかも持ち主の女は、古本屋でただでもらったと言
っている。そんな不公平があるか。隙を見て、私がもらっても罰は当たるまい。どうせ
ただだったんだから……と、そんなところかしら。
「どうしよう。これからお風呂よね」
「そうだけど。あっ、入っている間にシールが心配ってこと?」
「うん。ペンションの鍵なんて単純そうだし、貴重品入れはないみたいだし」
 このあとお風呂場の脱衣所を見てみて、そこにも貴重品入れがないことを確かめた。
同性だから、女湯の方に入ってくるのには何の問題もない。
「私が見張っておこうか」
 次美が言ってくれた。
「代わり番こに入ればいいじゃない。お風呂の中でトークできないのは、ちょっぴり残
念だけどさ」
「ありがと。お願いするわ」

 風呂から上がり、部屋に戻って次美と入れ替わり。
 独りになって、扇風機の風を浴びながら考えた。シールをどこかいい場所に隠せない
かと。お宝シールは五センチ四方ぐらいのサイズで、台紙を含めても厚さはミリ単位。
どこへでも隠せそうだけど、万が一ってことがあるし、変に凝って、あとで私自身が取
り出せなくなっちゃった、では目も当てられない。
 ここが普通の宿泊施設なら、フロントで預かってもらうという手があるんだろうけ
ど、生憎と違うのだ。星空観察&プラネタリウムイベントのために開放された、少年自
然の家的な施設だから、宿泊専門の業者ではなく、イベント主宰者や地元の人達が世話
を焼いてくれている。貴重品はご自身でしっかり管理してくださいというスタンスなの
は、やむを得ないんだろうと思う。
 次美に持ってもらう、次美の部屋に置いておくという手もあるけど、万が一を考える
とね。友達に危害が及ぶのは絶対に避けたい。
「あ〜あ。どうしたらいいんだろ」
 扇風機の近くで風を浴びつつ独り言を喋ったら、声がぶわわって感じで震えた。近付
きすぎて、折角まとめた髪の毛もぶわわっと広がる。
「――そうだわ」
 閃きが突然、舞い降りた。

             *           *

「被害者の名前は生谷加代、学生、二十歳。友人で同じ学生の川田次美に誘われ、とも
にツアーに参加していたとのことです」
「ツアーの中に、他に知り合いは? 客でも添乗員でもバス運転手でもいい」
「えっと、見当たりませんけど」
「だったら、その友人が怪しいのか? 普通、見ず知らずの相手を殺して、こんな風に
はしないだろう」
 生谷加代の死因は絞殺だと推測されているが、それ以外にも大きな“傷”を彼女の遺
体は負っていた。
 長い髪の毛をバッサリ切られていたのである。乱雑で、長さは不揃い。切り落とした
髪が、現場である被害者の部屋にたくさん落ちていた。
「いえ、川田次美は風呂に入っていたというアリバイがあります。それに、仲はよく
て、二人はツアー中も楽しげに喋っていたとの証言を参加者達から得ています」
「じゃあ何か。この地元にロングヘアフェチの奴でもいて、そいつがたまたまここに侵
入して、被害者を手に掛けて毛を持って行ったってか? ありそうにないな」
「はい。数は少ないながらも、防犯カメラの映像も、外部の者が侵入したような場面は見
当たらないみたいです。まだ全部は見切っていないようですけど、多分、外部犯ではな
いでしょう」
「内部に怪しい奴はいるのか」
「はい、川田の証言ですが、バス移動の途中で立ち寄った城下町の古本屋で、被害者は
珍しいシールを見付けて入手したそうです」
「シール? そういうもんを集めてる風には見えなかったが。まあいい、それから?」
「ツアー客の一人、上島竜子がそのことを知って、盗もうとしていたんじゃないかと川
田は言っています。そして問題のシールもなくなっているとのことでした」
「だったらそいつの身体検査をすればいい。シールが動機なら、どこか身近にあるに決
まってる」
「言われる前に実行しました。すると、身体検査を受けるまでもなく、自ら提出してき
たんです」
「何だ、解決しとるんじゃあ?」
「いえ、観念したという態度ではなく、『話題にされたシールなら私も持っています。
同じ古本屋で見付けましたから』って」
「物真似はしなくていい、気持ち悪いから。指紋は? シールから被害者の指紋は出て
ないのか」
「きれいに拭き取ってあり、上島の指紋だけが残っていました。拭き取ったんじゃない
かと問い質すと、これまた当たり前のように認めて。手に入れたときに、少しくすんだ
ような汚れ感があったから、丁寧に拭いたということでした。今はDNA鑑定に掛ける
かどうか、判断待ちです」
「したたかな女のようだな。DNA鑑定で被害者の物が出たとしても、『彼女が見せて
と頼んできたので、渡しただけです』とでも言われて、かわされるのが関の山だろう
な。次々とこちらの疑問点を認めた上で、別の答を用意している。神経が図太いに違い
ない」
「そうかもしれませんが、我々が踏み込んだときに、上島は部屋でだらだら汗をかいて
ましてね。最初はびびっているのかと思ったら、単に風呂上がりで暑がっていただけみ
たいです。その割には、扇風機を仕舞い込んでいて、変な感じでしたが」
「女が風呂から上がって、冷房のない部屋で、扇風機を出さずに、汗だく……考えられ
ん。おい、上島の部屋は調べたのか」
「いえ、調べたのはシールですが、あれもすぐに提出されましたので。部屋は実質、手
付かずと言えます」
「それじゃあ、すぐにでも調べた方がよさそうだ。

 警察の鑑識課が入った結果、上島竜子の泊まる部屋からは、生谷の物と思われる短い
毛髪が見付かった。さらに、羽の部分に大量の毛髪が巻き付いた扇風機が、部屋の押し
入れの奥、布団に覆い隠された形で見付かった。
 動かぬ証拠を突きつけられた上島は、取り調べに対して、概ね素直に犯行を認めてい
るという。
 供述によると――上島は生谷がいそいそと部屋に戻る姿を目撃し、あとをつけた。そ
の顔つきを見て、「うまい隠し場所を思い付いたんだわ」とぴんと来たという。そのま
ま生谷の部屋の前で迷っていたが、もうすぐしたら連れ(川田次美)が戻って来るだろ
う、そうしたらチャンスは失われる。そう思い詰めて、ドアのロックをピッキングの技
で解除、これにはものの十数秒で成功したという。ドアの開く音や中に入ったときの気
配は、生谷が作動させた扇風機の近くにいたおかげで、聞かれなかった。
 戸口の陰から窺っていると、生谷は回し扇風機を停めて、外していたカバーを戻すと
ころだった。扇風機の風の音が消えたら気付かれると考え、上島は生谷に突進。振り向
きざまに突き飛ばされた生谷は転倒。持っていた扇風機の羽に髪の毛がしっかり絡まっ
た。一方、顔を見られた上島は最早引き返せないと考え、生谷に馬乗りになると両手で
首を絞めて殺害。それから“護身用”に所持していたカッターナイフを使って、生谷の
髪をざくざく切り落とした。
 この行為は、生谷がお宝シールを扇風機の羽に貼り付け、常に扇風機を使用すること
で容易には見付からぬようにしていためである。上島は部屋に忍び込んで、扇風機のカ
バーが外されているのを見た瞬間に察知したという。なお、シールは羽に直接貼られて
いた訳ではなく、安全ゴム糊を使って接着されていた。
 生谷の髪と扇風機とを切り離した上島は、廊下に人のいないタイミングを見計らっ
て、その扇風機を抱えたまま、自分の部屋にダッシュ。返す刀で、元々自分の部屋にあ
った扇風機を持ち出し、生谷の部屋に運び込んだ。そして自室に戻ると、羽に絡まる髪
の毛をじっくりとかき分け、シールを見付けた。
 これが事の次第の全てである。
 一見、猟奇的な殺人事件に思えたが、解決してみると非常に即物的かつ衝動的な犯行
が、多少奇妙な像を現実に投影しただけのことだった。

             *           *

 グッドアイディアが浮かんでよかったわ。
 扇風機の羽に安全ゴム糊で一時的に貼り付けて、部屋を留守にするときも扇風機を回
しっ放しにしておけば、見付かりっこない。あとで剥がすときも、安全ゴム糊なら問題
なし。
 あとはこの近所に安全ゴム糊が売ってあるかどうかだったけど、さすが地方の町とい
たら失礼かしら。文房具屋で見付けたときは感動したわよ。
 さあ、これでいちいち持ち歩かなくても大丈夫ね。

 生谷は左胸のボタン付きポケットに入れたシールのかすかな感触を、布越しに確かめ
た。
 夜空には数え切れないくらい多くの星々が、きら、きら、きら。

 終わり




#471/474 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/06/28  22:55  (255)
音無荘の殺人   寺嶋公香
★内容                                         19/06/30 14:27 修正 第3版
「なあ、頼むよ」
 細川夏也(ほそかわなつや)は、廊下を行く相手の前に回り込んで手を拝み合わせ
た。
 頼まれた袴田冬樹(はかまだとうじゅ)は立ち止まると、腕組みをして嘆息した。
「とりあえず、部屋に入らせてくれませんか。よその部屋の音が漏れ聞こえないことを
売りにしたアパートなのに、廊下で騒いでちゃ申し訳が立たない」
「ああ、そうだな。分かった」
 袴田の部屋、二〇一号室に入り、ドアをしっかり閉めてから話の続きとなる。
「これは大きなチャンスなんだ。七人衆に採用されれば、自分にも道が開ける」
 推理小説専門誌の最新号を取り出し、絨毯敷きの床に置いた。袴田は今話題にしてい
る七人衆――現代の密室ミステリ短編新作七傑を取り揃える、人気企画のページを押し
開いて、改めて目を通した。六人までは有名作家、人気作家の名がずらりと並び、残る
一枠を広く募るという。
「公募を謳っているが、実際にはあんたに内定しているって?」
「ああ。信じられないか?」
「いや。信じるよ。細川さんは昔、一度は長編デビューしてるんだもんな」
 袴田はセミプロの推理作家として、やや羨む目を細川に向けた。
 デビューした細川自身はそのまま専業作家になる気でいたが、当時はいまいち人気が
出なかったのと、家庭の事情のおかげで、断念せざるを得なかった。十年近く経って幻
の推理作家としてスマッシュヒット的に注目され、短編を二つほど書いたが、爆発的人
気にはつながらず、それっきりになっていた。
「でも、チャンスを活かすには実力で勝負しなきゃ」
「それがだめなんだよ。自信のある密室トリックは先月頭締切の、プレミアムミステリ
大賞に送った作品で使ってしまった。まさか再利用する訳にも行くまい」
「細川さんほどなら、ストックがあるでしょ。密室トリックの一つや二つ」
「そりゃ、あるけどさ。密室テーマの短編にメインで使うには、しょぼくて使い物にな
らない」
「だからって、俺を頼られても。他の二人には聞いてみたんですか?」
 他の二人とは、同じこのアパート――音無荘の住人でやはりセミプロ級の推理作家、
磯部秋人(いそべあきひと)および草津春彦(くさつはるひこ)を指し示す。四人はと
あるミステリ創作教室を通じての昔からの知り合いで、音無荘に揃って入ったのも、お
互いの存在を近くに感じることがよい刺激になると考えたのが大きかった。
「彼らとは、最近あんまり反りが合ってないというか。見ていて分かるだろ? トリッ
クを提供してくれるような関係ではないことくらい」
「ええ。創作姿勢についての意見の相違、ですか」
「袴田君は四人の仲をうまく取り持ってくれるから、感謝しているし、ある意味尊敬し
ている。磯部や草津とは、トリックの話もオープンにやってるんだよね?」
「まるっきりのオープンてことはありませんが。まあ、お蔵入りさせていたサブトリッ
クを三人で交換して、それぞれ習作を書いてみたことはありますよ」
「だよね。そのときの広い気持ちで、僕にも一つ、密室トリックのいいやつをくれない
だろうか。もちろん、借りは将来返す。今言っても絵に描いた餅だが、僕が一本立ちし
た暁には、君を有望なミステリ作家だとして編集者に推薦しまくるつもりだ」
「うーん、でもね。真にオリジナリティのある、優れた密室トリックなんて簡単には浮
かびません。浮かんだとして、それを他人にはいどうぞと渡すはずがないでしょう」
「そこを何とか。この通りだ」
 細川は土下座までした。だが、その態度は、袴田の目には行き過ぎと映ったようだ。
「……細川さん。そんなことして、俺がしょぼい密室トリックを提示したら、どうする
んです?」
「それはないだろ。実は知ってるんだよ。あの根っこの密室トリック」
「は!?」
 顔色が変わる袴田。
「あんた、まさか、俺のノートを覗き見したのか?」
「あ、ああ。だいぶ前、この部屋で飲み会をしただろ。あのとき、最終的に僕と君の二
人だけになってから、君がトイレに席を外した、その隙にちょっとね。あ、いや、誤解
しないでくれ。見ただけで、使ってはいない。いいトリックがたくさんあって、才能あ
るなあって感心しただけだよ。そんな中でも、あの根っこの密室トリックは奇想天外で
ユニークだった」
「……信用できない」
「え?」
「もう話は終わり。あんたには絶対に提供しない。たとえ俺自身が字を書けなくなった
としたって、絶対にだ」
「いやいや、悪かったよ。謝るからさ。なあ、僕は僕なりの誠意を示したつもりだ。黙
って使うことだってできたのに、そうせずに、許可を得ようとしてるんだから」
「黙れ。もう出て行ってください。しばらくは顔を見たくない」
 袴田は床にあった雑誌を押し返すと、座った姿勢のまま、くるりと向きを換えた。
 背中を向けられた細川は、ふう、と大きな息を吐いた。
「そうか。分かったよ。すまないね」
 この「すまないね」に、もしかすると袴田は引っ掛かりを覚えたかもしれない。どう
して現在形なんだ? ここは普通、「すまなかったね」じゃないのか?
 そしてその疑問が彼の脳裏に浮かんでいたとして、答は直後に示された。
(ほんと、すまないね、袴田君)
 細川は隠し持っていた金属製の文鎮を取り出し、袴田の脳天めがけて振り下ろした。
 その後、袴田の絶命を確かめると、細川は冷静に返り血の有無を調べた。
「うまくいったようだ。さて」
 このアパートなら、独り言をいくら言っても大丈夫。聞かれる恐れはない。
 だけど細川は、続きは心の中の言葉にした。
(手に入った密室トリックには、このアパートでも使えるのがあったな。あれで部屋を
密室にしよう。そうすれば僕も安全圏に逃れられる)
 細川はそのための下準備として、まずは袴田のトリックノートを持ち去ることにし
た。

             *           *

 純子が砧緑河(きぬたりょくか)と親しくなったきっかけは、同じ番組に出演したこ
とだった。
 現役大学生にしてロックバンド『伝説未満』のドラマー。
 誰が見ても華奢な身体付きだなあって印象を与えるであろう砧だが、いざドラムを叩
き始めるとパワフルで。夏に薄着してるときなんか、服がまくれ上がっちゃうんじゃな
いかと気が気でないファンも多いと聞く。
 そんな砧緑河が住んでいるのが、音無荘。防音に特化したアパートで、かつて通称が
音無荘だったのに、今では正式名称になってしまった。各部屋でどんなに音を立てよう
と、外に漏れはしないっていうのが謳い文句。
「もちろん、窓を開け放してはだめだけどさ」
 砧は笑いながら純子に説明した。
 風呂もトイレも炊事場も共同で、洗濯は近くのコインランドリーまで出向く必要があ
る。それでも完全防音に惹かれて、空室なしの状態が続いているという。
 居室は一階に三部屋、二階に五部屋あって、今の入居者は一階は三人全員が砧自身を
含めて音楽関係の人。二階の方は、四部屋はセミプロクラスの作家さん、それも推理作
家ばかりが揃っている。残る一部屋は、若手の噺家が入っているとのことだった。
「なかなか楽しそうな顔ぶれというか……」
「実際、楽しいんだから。美羽ちんも暇ができたら、遊びにおいで。生演奏付きで落語
を聴けるかもしれないよ」
 砧は純子のことを“美羽ちん”と呼ぶ。純子が風谷美羽として芸能活動をしているか
らに他ならないのだが、最初は「ちゃん」付けだったのが、じきに変化したのは妹扱い
されているためらしい。

 砧の誘いに対し、行く気満々だった純子だけれども、双方の都合がなかなか付かなく
て行けないまま、半年ほどが過ぎた。砧は新しい曲のレコーディングの目処が立ち、純
子の方は密室殺人を扱ったドラマの収録が終わったことで、ようやく休みがうまく重な
った。
「外で待ち合わせしてから、ご招待でもいいんだけど、古風亭安多(こふうていあん
た)さんが午前中なら、稽古がてらに一席演じられるけどって格好付けて言ってる」
「格好付けて?」
「本心では安多さん、美羽ちんを一目見ておきたいんだよ。面食いな人だからね」
「あはは、まさか。私のことなんか知らないでしょ」
「いやいや、その無自覚が怖いよ。それともまさか、若手噺家は皆ストイックな修行の
身にあるとでも思ってる?」
「それはないけど……。とりあえず、直接そちらに窺ったらいいんだよね? 何時にす
る?」
「朝の十時とか、大丈夫?」
「何とかなる」
 そんな風にして約束の詳細を詰めたけれども。
 当日の朝になって、大変なことが音無荘で起きたと純子はニュースで知る。
 二階に入居する推理作家四人の内、三人が死亡するという大事件だった。
 すぐさま電話を掛けてみた純子だったけれども、いっこうにつながらない。他の知り
合いからも着信が殺到しているに違いないから、無理もない。
 結局連絡が付かないまま、当初の予定通り、十時十分前に着くように自宅を出発し
た。

「美羽ちんてさあ、案外、ばかなところあるんだね」
 マドラーでアイスコーヒーの氷をつつきながら、砧が笑った。
「ばかはないと思う……」
 ミルクセーキのグラスを両手で包み、軽く頬を膨らませたのは純子。
 二人はアパートから百メートルほど離れたところにある、半地下型の喫茶店にいた。
「ごめんごめん。まあ、ばかは言いすぎだけど、考える前に動くっていうか。普通に想
像したら分かるっしょ。事件が起きてマスコミが集まることくらい」
「うん。確かに」
「そんな場所にのこのこやって来たら、事件と関係あるんじゃないかって疑いの眼で見
られるかもしれないんだよ」
「そこまでは考えなかったわ」
「ほら、だから考えなしに行動してるじゃん」
「でも、砧さんが心配で」
「そ、そこはいい子だねって評価してる」
 何故か照れと戸惑いを露わにした砧は、アイスコーヒーにミルクフレッシュを全部入
れて派手にかきまぜた。
「そういえば、古風亭安多さんはどうされたの?」
「あー、あの人は現場と同じ二階の住人てことで、事情聴取が長引いているみたいね。
疑われてるんじゃないといいんだけど」
 亡くなった三人の推理作家は袴田冬樹、磯部秋人、草津春彦と言い、残る一人の細川
夏也も怪我を負っていた。
「四人は元々知り合いで、それぞれ何らかの形で商業デビューしてるの。ペンネームに
春夏秋冬を一文字ずつ入れようって実行するくらい、親しかったみたいだね。ただ、ラ
イバル意識も凄く強くて、時折、派手な口論をしてた……らしいんだけど、アパートで
は防音設備が整っているから、そういう場面にはほとんどお目に掛からなかったな。せ
いぜい、共用スペースのキッチンでぐらいかな」
「創作論を闘わせるという意味でしょう? そんなことで殺意が生まれるの?」
「表面上は論戦でも、裏に回ればどうだったのかな。みんな本格的なプロを目指して、
よく言えば切磋琢磨、悪く言えば足の引っ張り合いをしていたように見えた。たとえ
ば、出版社からの封筒を隠して、見るのを遅らせたりね。ある人の作品の酷評が載った
雑誌を、これ見よがしにテーブルに置いたり。誰がやったか分からないようにする辺
り、陰険よ。それでも表向きは親しく付き合っているんだから、みんな犯人の素質があ
ると思った。っと、これは不謹慎だったね、殺人が起きているのに」
「……知り合いに探偵さんがいるんだけれど、その人に意見を聞いてみようかな。砧さ
んも早く解決した方が、落ち着いてあのアパートで暮らせるでしょ?」
「それはそうだけど。へえ? 探偵って、興信所なんかの調査員じゃなくて、映画やド
ラマで見るような?」
「そう。一部の警察の人にも顔が利くみたい」
「おお、いかにも名探偵って感じ。そういう美羽ちんも、顔が広いんだねえ」
「知り合うきっかけは、ずっと小さな頃の出来事だったんだけどね」
 純子は当時を思い出して回想にふけりそうになったが、かぶりを振った。今は、砧か
ら知っている限りの情報を聞き出すのが最優先だ。

「涼原さん、これは正直言って、難題かもしれない」
 純子がその日の内に知り合いの探偵・地天馬鋭に依頼を出したところ、自宅に帰り着
く頃には返答が電話であった。
「地天馬さんにとって難題なんですか?」
「ああ。警察よりも早く犯人逮捕するのはまず無理だろうね」
「え?」
 事件が難しいというのではないらしい。むしろ簡単すぎるってこと?
「思い込みはよくないと分かっているが、この事件はほぼ決まりだろうね。推理作家で
生き残った細川を犯人だと睨んで、警察は動く。僕も手を着けるのなら、そこからにす
る」
「……どういう理由でそうなるんでしょう? 動機なら、一階の音楽関係者の人にもあ
ったはずですが」
 電話口で首を傾げる純子。砧は別にして、他の二人の音楽関係者――ともにミュージ
シャン――は、入居の際に推理作家の袴田&磯部と部屋を入れ替わってもらっている。
楽器や関連機器の搬入に、一階の方が便利だというのが理由で、最初は一悶着あったと
聞いた。多少の金銭で解決したが、しこりは残ったという。
「関係ないと思うね。音楽関係者と推理作家の間にわだかまりが残っていたって、決着
したことを蒸し返す理由がどちらにもない。推理作家の皆さんが元の一階の部屋に執着
する理由があったとしても、それなら彼らは被害者ではなく加害者になるはずだ」
「そこは分かりましたけど、細川という人を犯人扱いする理由は」
「他の三人が、密室状態の部屋で殺されているからさ。一般の人間はこんなことはしな
い」
「あ、そっか。そうですね」
 ここしばらく、密室殺人を扱うミステリドラマに出演していたせいか、感覚が麻痺し
ていたようだ。
 地天馬に言われるまでもなく、三人の被害者が密室状態の自室内でそれぞれ亡くなっ
たことは、砧から聞いていた。
「部屋の間取りや鍵の構造、窓の有無など詳しくはまだ聞いていないが、防音に優れた
部屋なら、ドアや窓に隙間はなく、鍵も特殊な物である可能性が高い。恐らく、複製も
難しいはず。そういう条件下だとしたら、まず考えるべきは犯人が第一発見者を装って
鍵を室内に持ち込むパターンだ」
「そうですね」
 素直に相槌を打つ純子。ちょうどドラマでも同じようなやり取りがあったから、よく
分かる。
「そして人の動きをチェックすると、袴田、磯部、草津の各部屋に真っ先に出入りした
のは細川氏ただ一人。腕と頭を負傷しているにも関わらず、病院への搬送どころか応急
措置すらも拒んで、他のみんなが危ないかもしれないと管理人を呼ばせた上、一緒に入
っていく。不自然さがあふれ出ているよ」
「言われてみると、仰る通りでした」
「まあ、鍵を部屋に置く方法は工夫したみたいだね。たとえば草津の部屋では絨毯がふ
かふかなのと、一緒に入った管理人が低身長であることを利して、管理人の頭越しに鍵
を放ったんだと思う」
「それって……ステージ上のマジックで、似たような演目を見た覚えがあります」
「そこからの発想かもしれない。袴田の部屋では、被害者のサンダルをさりげなく履い
ていた可能性が高い。細川氏は自室を素足で飛び出しているのに、管理人とともに廊下
を急ぐ姿を他の住民に見られた際は、複数の足音が聞こえたとある。袴田のサンダルに
二〇一号室の鍵を入れた上で、自らが履いたんだろう。現場で脱げば、鍵はサンダルに
最初から入っていたように見えるっていう寸法さ。どさくさ紛れで綱渡りの方法だが、
運がよかったとしか言えない」
「細川という人が怪しいというのは分かりましたが、動機は何なんでしょう? 互いを
ライバルとして高め合っていた、言ってみれば戦友なのに、いきなり殺すなんて」
「そこまでは分からない。想像ならいくらでもできるが、三人をまとめて殺害するとな
ると、何らかの切羽詰まった事情があったんじゃないかな。とまあ、今の僕が言えるの
は、この程度のことだよ。探偵が動かなくても、早晩、警察が犯人を逮捕するに違いな
い。だから涼原さん、君の友人にも近い内に平穏が戻って来るさ。全くの元通りにはな
らないだろうけどね」
「あ、はい。殺人現場になったアパートだなんて、ちょっと怖いですけど、ようやく遊
びに行けます。ありが――」
 純子が礼を言おうとしたときには、相手は多忙を理由にさっさと電話を終えてしまっ
ていた。

             *           *

『念には念を入れないとな』
 胸の内だけの呟きにとどめるつもりが、いつの間にかまた声に出していた。初めての
殺人で、気が多少動転している。それを落ち着けよう、励まそうと、自らの声で試みて
いるのかもしれない。
『袴田と草津、磯部は三人でトリックの交換をしていた。ということは、僕のお目当て
である木の根っこを利した密室トリックについて、袴田が二人に話している可能性があ
る。話していない可能性の方が大きいだろうけれども、万が一に備えなきゃ。口封じの
ために、磯部と草津も始末しよう。それこそが完全犯罪への道だ。幸い、鍵を室内に戻
すタイプの密室トリックなら、袴田のノートに山ほどある。この中から、推理小説とし
ては使いづらい、つまらない物をピックアップして、現実の事件に用いればいい。無駄
遣いはよくないからな』
 ICレコーダーに手が伸びてきて、停止ボタンを押した。
 その手の主である花畑刑事は、容疑者の細川をにらみつけた。
「亡くなった袴田さん、こんな物で録音してたんだな。机の脚の影に貼り付けてあった
よ。あんたのこと、前々から信用していなかったんじゃないか?」
 デスクを挟んで向こう側に座る細川は、ただただ口をあんぐりとさせていた。
 いや、ようやく一言だけ言った。
「音が、あった」

――おわり




#472/474 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/08/31  22:12  (338)
飛鳥部響子の探偵しない事件簿   寺嶋公香
★内容                                         19/09/11 21:10 修正 第2版
 最初にその悲鳴を聞いた瞬間、飛鳥部響子(あすかべきょうこ)は「またやってる」
と思っただけだった。
 悲鳴を上げたのは、瀬野礼音(せのらいね)。劇団の中では年長者の方で、それなり
に演技は達者だけれども、時々、意図の分からないアドリブを放り込んでくる。ついで
に言えば若作りも周りの評判は芳しくないようだ。が、本人は気付いていないのか気付
いていないふりをしているのか、いっこうに改まらない。
 現在、演劇の通し稽古中で、皆で乾杯するシーンに差し掛かったところだった。元々
の台本では、飛鳥部の目の前で、郡戸規人(こおずのりひと)が毒を盛られて倒れ、や
がて絶命する演技に移るはずだった。ところが彼に先んじて、舞台の端にいた乳川阿久
太(ちがわあくた)が仰向けに派手にぶっ倒れ、そばにいた瀬野が駆け寄り、悲鳴を上
げたのだ。
(大方、いたずら好きな乳川さんと組んで、他の皆を驚かせようとして、一芝居打った
んだわ。芝居中に一芝居だなんて、ややこしい)
 飛鳥部はしかし、積極的には事態に対処せず、状況を見守った。セミプロの飛鳥部は
今回、アマチュア劇団「歓呼鳥」に助っ人女優として参加している立場だ。師と仰ぐ桂
川(かつらがわ)に頼まれては断れず、心理ミステリと銘打った台本はシンプルだが結
構見せ所があったので、まあまあ悪くない仕事だと感じていた。だが、稽古二日目から
瀬野の自由な振る舞いが鼻につき始め、幾度もいらいらさせられていた。それでも立場
上、揉め事を起こしたくないと我慢するように心掛けていたので、この場で動かないの
は当然の選択だった。
 今回役のない裏方の二人が、倒れた乳川の上半身右側にしゃがむ瀬野に背後から近寄
り、「大丈夫ですか」と、一応心配するような声を掛ける。「歓呼鳥」では監督や演出
といった制作陣と、俳優陣とのはっきりした区分はなく、本劇では監督と演出と被害者
役を郡戸が務めている。彼が舌打ちをしたことからも、このアドリブが進行を妨げる夾
雑物であるのは明らかだった。即座に注意叱責が行われないのは、劇団内部の格付けが
影響しているらしいのだが、外部の人間である飛鳥部には推測に留まるしかない。
 ところが、稽古の中断によりともすれば弛緩しがちな空気が、瞬く間に一変する。
「郡戸監督! 本当にやばい感じっす!」
 様子を見に行った二人の内の若い方が振り返った勢いのまま、郡戸や飛鳥部のいる方
に駆けてきた。
「おいおい、おまえまで片棒を担ぐってか。勘弁してくれ」
 のろのろとした足取りで、乳川の倒れているところへ向かう郡戸。瀬野はとうに立ち
上がり、距離を取っていた。彼女の足元――というにはやや遠いが――では、乳川が
「はぁ〜、はぁ〜」と苦しげな呼吸を繰り返している。
 演技にしてはどこか変だ。飛鳥部は直感し、郡戸を追い抜いて乳川に駆け寄った。
 最初に駆け付けた裏方二人の内の、年配の方が「これ、本当に刺さってるよ……」
と、どことなく芝居がかった口調で言った。
 桂川が用意してくれたという稽古場は広く、飛鳥部の立っていた位置からは乳川の様
子がよく見えなかったのだが、近付いてみると彼の左胸、鎖骨と心臓の間ぐらいに、小
型の矢が突き立っていた。襟首の大きく開いた衣装を身に着けているため、乳川の肌が
露わになっていて、傷口から血が滲んでいるのが分かる。
「郡戸監督」
 飛鳥部が振り返ると、さすがに郡戸も事態の異常さを察知していた。若干青ざめた顔
を近付け、傷を覗き込んだ。
「何でこんなことに。おい、乳川さん! 大丈夫か?」
「暑い……ライト……気分わりぃ……」
 稽古とは言え、本番になるべく近い状態でやるために、照明をふんだんに使ってい
た。その眩しさと熱が、乳川にとって気分の悪さを増幅させているようだ。
「袖に運んであげて!」
 悲鳴のあとは息を飲んだように黙りこくっていた瀬野が、我に返ったみたいに指示を
出した。舞台袖に控えていたスタッフ四名がやって来て、おろおろしつつも乳川を持ち
上げる。
「そっとよ!」
 郡戸や沼木銀子(ぬまきぎんこ)が手伝おうとすると、「衣装着ている人は、下手に
近付かない方がいいわ。汚れたら落とすのが手間よ!」と瀬野がストップを掛ける。乳
川を心配する反面、劇のことも心配するという、ある意味二重人格めいたところを垣間
見せた。二重人格なんて、役者としてはそれくらいで当たり前なのかもしれない。
「間宮(まみや)さんは、今日は来てたわよね?」
 相変わらず仕切る瀬野は、劇団員の名前を挙げた。飛鳥部は記憶を辿り、間宮久世
(ひさよ)の普段の仕事は看護師だということを思い出した。
「はい、来てます。衣装係で」
「応急手当は彼女に任せましょう。そう伝えておいて!」
 瀬野は指示を終えると、今度は郡戸に向き直った。
「監督。どうするか判断して。救急車を呼ぶのは当然だろうけど、警察を呼ぶのかどう
か」
「け、警察?」
 気圧されたように上体を反らし、どもって答える郡戸。
「事件なんじゃないの? 誰かがどこかから弓矢で乳川さんを狙ったんだから」
「そんなことって……信じられん。この稽古場のどこから狙えば、人に見られずに撃て
るってんだ?」
「そんなのは知らないわよ。現に矢で撃たれてたんだから」
 言い争いが続きそうな気配に、飛鳥部は近くにいた裏方の一人を掴まえて、パイプ椅
子の上にある携帯端末を持って来るように囁いた。そして郡戸と瀬野の些か喧嘩腰の会
話に割って入る。
「ちょっといいですか。二人とも、救急車を呼ぶことでは一致してるんですから、早く
そうしないと。ほら、監督さん」
 さっきの裏方が郡戸の携帯端末を持って、ちょうど戻って来た。

 結局、警察が呼ばれた。
 相談してそう決めたのではなく、否応なしにである。何故ならあのあと、乳川は亡く
なったのだ。
 間宮が施したであろう応急手当も虚しく、救急隊員が到着したときには青息吐息であ
った乳川は、救急車に乗せられた時点でもう息をしなくなっていたという。死亡確認は
病院でなされたが、実際には稽古場で死んだと言えよう。
「さて皆さん」
 稽古場に劇団関係者を集めたところで、初芝(はつしば)と名乗った刑事がそう切り
出すと、不謹慎にも小さく吹き出す者が数名いた。
「やれやれ。前にもありましたよ、こういうことが。さて皆さんと言うのがそんなにお
かしいですか。定番の台詞も困ったものだ。まあ、私はまだ捜査に着手したばかりで、
事件を解いたって訳ではありませんがね」
 初芝は腰の後ろで手を組み、短い距離を左右に行ったり来たりしながら一くさりぶっ
た。警部という身分にしては見た目の若い長髪で、なかなか癖のありそうな男である。
「状況については、先に個別に行われた聴取でだいたい掴んでいます。それらをひとま
とめにして、何らかの矛盾でも浮かび上がれば取っ掛かりになって、私どもとしても助
かったのですが……今のところ特にこれといったものは発見できていない。仕方ないの
で、こうして皆さんにお集まりいただき、再検討を試みようという寸法です。どーかよ
ろしく」
 初芝警部は右手で前髪をかき上げると、「この奥の方をステージに見立てていたんで
したね」と、壁を指差した。
「事件発生時、このステージのスペースに立っていた人達は、前に出て来て、それぞれ
の位置についてください」
 案外柔らかな物腰だが、有無を言わさぬ響きを含んでいる。無論、この状況で反駁の
声を上げてわざわざ警察に睨まれる真似なんて、誰もするはずがない。
 ステージに“上がった”のは、お嬢様役で誕生日パーティの主役という立場の瀬野、
その婚約者役の郡戸、瀬野の友人役の飛鳥部、瀬野の義母役の沼木、さらには沼木の連
れ子役が渡部広司(わたべこうじ)、屋敷に住み込みのメイド役が横山幸穂(よこやま
さちほ)という顔ぶれで、これに沼木の弟役で遊び人設定の乳川を加えると七人にな
る。
 初芝警部は乳川のいた位置を聞いて、そこに立った。代わりを務めるということだ。
「聞いたところでは、本来の筋では、メイドの横山さんがトレイに乗せて飲み物を運
ぶ。各自がグラスを取って、横山さんは下がる。他の六人で乾杯し、その直後、郡戸さ
んが悶え苦しみながら倒れるという流れだったとか」
「はい、間違いありません」
 返事する郡戸と瀬野の声がほとんど被った。
「現実に起こったのは、横山さんが引っ込んで、残る六人が中央付近に集まろうとした
矢先、私というか乳川さんが胸元を押さえて倒れた。そして――瀬野さん、その様が正
面に見えたので、駆け寄ってみたところ、矢が刺さっていた」
「ええ」
 自身を抱えるような格好をし、身震いする瀬野。
「矢が飛んでくるのも目撃していればよかったんですけれど……」
「いや、そいつは無理です」
 簡単に言い切った警部。
「調べたところ、あれはダーツに手を加えた、おもちゃみたいな物でした。長さこそ十
センチほどあったが、重さのバランスに問題があって、常識レベルの弓ではまともに飛
びそうにない。ま、裏を返せば非常識なほど強力なゴムや、空気砲みたいなので飛ばせ
ば、狙い通りに飛んで行くかもしれないが、この稽古場にそんな道具はなかった。凶器
に限らず、犯行後に何かを建物の外に持ち出すチャンスもなかったとの証言を得ていま
す」
 この稽古場はビルの二階にあり、外部とのルートは一階を通るしかない。そして一階
には施設使用の受付などを担当する管理人が常駐している。
「そういう訳で、瀬野さん、とりあえずはあなたを疑うことから始めたいんですが」
「ま。どうして私が」
 驚きの声を上げ、口元を手で隠す瀬野。堂に入っているけれども、この場面でこの型
にはまった反応は、安っぽく見えてしまう。いや、それ以上に疑いを深めることにつな
がるやもしれぬ。
「賢明なあなたならお分かりだと思うのですが、ご説明しましょうか。可能性の問題で
して」
「……そうね。つまり、あの矢が飛んできたのではないとしたら、直に刺したものだ。
乳川さんに真っ先に近付いた私が怪しいという理屈かしら」
「そうです。あ、ついでに付け加えると、あなたと乳川さんは劇団内で1、2を争うア
ドリブ王だとか。あなたは他人の力を試すかのようなアドリブが多いのに対し、乳川さ
んは人を驚かせるいたずらが多かったと聞きました。そこで私は思った。あなたと乳川
さんが予め示し合わせて、芝居を打つ約束をしたのではないいか。そしてさらに、あな
たはその約束を途中で裏切り、演技で倒れた乳川さんに近付くや、隠し持っていた凶器
で刺した」
「そんな恐ろしいこと」
 私はしませんと言ったみたいだが、よく聞き取れなかった。
「刑事さん、本気でそうお考えなのですか」
 郡戸が尋ねた。律儀にも、最初にスタンバイするように言われた位置から、一歩も動
いていない。
「いや、最初に浮かんだ仮説がこれだというだけで、後に出て来た物証を見ると、ちょ
っと否定したくなってきたところです」
 初芝警部は身体の向きを換え、手帳を取り出す。ページをぱらぱらっとやって、一度
行きすぎてから目的の箇所を見付けたようだ。
「多分、皆さんには伝わっていなかったと思います。死因は毒物でした。詳しくは申せ
ませんが、ニコチン系としておきましょう」
 警部の話す途中からざわめきが広がった。
「お静かに。あまり勝手な発言を方々でされては困ります。こういうときこそさて皆さ
んと言うべきでしょうかね」
 警部の人を喰った物言いに、場のざわつきはたちまち収まった。
「無論、凶器の矢にも毒が塗布された痕跡がありましたよ。たっぷりとね。翻ってみる
に、瀬野さん。稽古時の衣装はドレスだったと窺いました。写真でも拝見したのです
が、チャイナドレスをちょっと洋風にした感じでしたね」
「え、ええ。自前ですの」
「なるほど。肌の露出度が意外に高く、矢を隠すスペースは限られそうです。それでも
元はダーツの矢なのだから、テープで貼り付けるなり何なりすれば、隠せないことはな
い。ですが、毒が塗られていたのでは無理だ。下手すると自分に刺さって、命が危な
い。先端部を他の物で覆うとか、身体から外したあとに毒を塗るといった方法も、この
早業殺人には該当しない」
 警部の推理に、瀬野はあからさまにほっとした。それは飛鳥部が目の当たりにした瀬
野の言動の中で、最も自然な動作だった。
 ただ、警部はまだ瀬野を解放した訳じゃなかったようだ。
「唯一、考えられるのは、髪飾りに模して凶器を髪に挿しておく方法ぐらいかな。だけ
どまあ、これもありませんでした。リハーサルの最初に記念の集合写真を撮られていま
したね。あれを見ると、あなたの頭にそんな変な物はなかった」
「……お人が悪い」
 ぶつぶつ言いながらも、瀬野は再びの安堵をした。
 初芝警部は二度ほど首肯し、全員をぐるりと見渡した。
「瀬野さんでなければ誰か。瀬野さんの次に乳川さんに近付いたお二方ではもう遅い。
通常の舞台の上だったなら、こんな壁がなく――」
 稽古場奥の壁をコンコンと叩く警部。
「布で仕切る場合もあるようだから、そこに潜んでいた犯人が、乳川さんの隙を突い
て、凶器を直接振るったという線も考えられるんですがね。この稽古場では、それも無
理。お手上げ状態で、困っているんですよ。こうして発生時の状況を再現すれば、何か
思い出されるのではないかと期待しているのですが、何もありませんか。変な物を見掛
けたとか、普段はこうなのに事件当日は違っていた、みたいなわずかな違いでもいい」
 警部はまたも皆を見渡した。舞台上だけじゃなく、出番じゃなかった役者や裏方にも
等分に視線を配る。
「あの、そういう何かに気付いたとかじゃないですけど」
 声のした方を向くと、横山が小さく右手を挙手していた。高校を卒業したばかりで、
まだまだおぼこいってやつだけど、華はある。本当の端役としてのメイドを演じられる
のは今の内かもしれない。
「何でもかまいません。拝聴します」
「乳川さんは自殺……ってことはないでしょうか」
「ん? どうしてまたそんな意見を持つに至ったのでしょうか。思い悩むタイプじゃな
かったという証言を、複数の関係者から得ていますが」
「私もそう思います。だけど、誰も乳川さん凶器を刺せない、撃てないのなら、あとは
本人しか残らないのではないかなと思って」
「なるほど。理屈ではそうなる。じゃ、折角だから皆さんに問いましょう。乳川さんが
自殺するようなことに心当たりのある方はいらっしゃいませんか」
 警部が見渡す前に、「あの」と声を上げた男性がいた。監督の郡戸だった。
「何でしょう」
「彼は実生活でも今度の役柄に近い、遊び人の面があって、金遣いが荒かったんです。
暇と小金があれば、競馬だのパチンコだのにつぎ込んでいました。そして儲かっても、
すぐに使ってしまう。それでうまく回ってる内はいいが、負けが込むとどうなるやら。
あのときの金を残していたらと悔やんで、急に虚しくなって死を選ぶとか、考えられな
いでしょうか」
「私はあなた方よりも乳川さんを知らないので、分かりません。それよりも郡戸さん。
具体的に乳川さんがギャンブルで大負けした事実があるんですか」
「ちょっと前の話になりますけど、麻雀で負けが込んで、手持ちの現金以上にマイナス
になって、支払いを先延ばしにしてもらおうとしたら、怖い人が出て来たことがあった
とか言ってました。やくざとか暴力団とか、そういった連中だと思います。そのときは
身に着けていた時計やらベルトやら上着やらで、どうにか勘弁してもらったとか言って
笑っていましたけど、また同じことを繰り返して、今度こそだめだってなったら死を選
ぶかも……」
「うーん」
 初芝警部は大げさに首を傾げた。
「どうも分からんのですが、自殺するなら誰も見ていないところで一人ですればいいの
では。何でわざわざ皆さんの前で、しかも他殺っぽく偽装して死ぬ必要があるのでしょ
うかね」
「……生命保険金とか」
「ああ、乳川さんは保険に金を使う人ではなかったようでして。奥さんとお子さんがい
るにもかかわらず、保険には入っていなかったみたいです。尤も、ご遺族の元に借金取
りが押し掛けているというようなことにも、今のところなってませんが」
「そうですか。やっぱり、違うのかなあ」
 宙で片肘を突き、右手に作った拳を口元に宛がう郡戸。黙っていれば名監督という風
情、なきにしもあらずだ。
 と、そんなことを考えるともなしに思っていた飛鳥部だったが、不意に初芝から名を
呼ばれた。
「飛鳥部さん」
「はい、何でしょう?」
「あなたは部外者というか、ゲスト参加の方ですよね」
「そうなります。劇団員同士では動機が見付からないから、外部の者が怪しいと?」
「いえ、とんでもない」
 笑いながら両手を振る警部。その姿を見て飛鳥部は、ここにいる全員の中で二番目に
演技が上手いのはこの刑事さんかもと思った。一番? もちろん飛鳥部自身である。
「部外者だからこそ気付く視点というのを持ち得るのではないか思いまして」
「それは警察の方々も同じです」
「ところが現場に居合わせたのはあなただけですよ。現場に居合わせ、しかも部外者の
視点を持てるのは、飛鳥部さんお一人」
「……そう言われましても……あ、でもひとつだけ」
「何です」
「皆さん周知の事実だろうなと思い、刑事さんの事情聴取でも話さなかったのですが…
…今まで全然話に出て来ないので、言ってみますね」
 飛鳥部はステージのスペースから、スタッフ達の顔を見ていった。目的の人物を見付
けて、失礼にならない程度に腕で示す。
「乳川さんと間宮さんはお付き合いしていたと思います。違っていたらごめんなさい。
裁判は勘弁してくださいね」
 飛鳥部は両手を合わせながら、チャーミングさを匂わせて言った。実際には、腕で示
した瞬間の間宮の表情の変化をしっかり見届けており、確信を得ての発言だったのだ
が。
 しかし劇団のメンバー間では、誰も思っていなかったようで。
「間宮さんと乳川さんが?」
「何の根拠があって」
「タイプが違う気がするけど」
 なんて声が重なるようにして次々上がる。それらに後押しされた訳でもないだろう
が、間宮は飛鳥部に向かって、「私が乳川さんと? あり得ないわ」と断言した。三十
前後の肌の白い、大人しそうな見た目だが、演じるときは様々に変化する。特にあばず
れタイプが得意のようだが、ひょっとすると地?
「ですが、最初の台詞合わせのとき、隣同士に座られて」
「そんなことが理由? それで付き合ってたって疑われるんだったら、手をつなげば妊
娠ね」
「まだ途中です。座られるときに、一度右側に腰を下ろし掛けて、思い出したみたいに
左に移られました。あれは利き手が左と右とで邪魔になることを気にしたのではありま
せんか」
「……そうよ。けど、利き手ぐらいのことで」
「まだありました。これまでの何回かの稽古の休憩時に、コーヒーや紅茶を飲むことが
ありました。その際、角砂糖を入れない人、一つ入れる人、二つ入れる人、色々いまし
たが、皆さん毎回同じでした。入れない人は入れない。一個入れる人は常に一個、二個
なら二個と。でもただ一人、乳川さんだけが毎回異なっているようでした。コーヒーと
紅茶で区別してるのでもなし、お茶請けによって変えているのでもない。何だろうと思
ってふと気が付いたんです。曜日だって。何らかの健康のためなんでしょう、乳川さん
は水曜と土曜は角砂糖を一個だけ入れて、あとは無糖でした。そしてこのことを正確に
把握しているのは、劇団の中では間宮さんお一人だったようにお見受けしました」
「それは……私が看護師だから、アドバイスしたのよ。彼の身体を気遣って」
「なるほど。そう来ましたか。でも、彼なんて言うと怪しまれますよ。――ねえ、初芝
警部。どう思われます?」
 最前とは逆に、警部の名を不意に呼んでやった飛鳥部。
 初芝はさすがに慌て得る気配は微塵もなく、「調べる値打ちはありますねえ」と答え
た。そして部下に目配せし、間宮の回りを囲ませてから、話を続ける。
「ただ、間宮さんと被害者が密かに付き合っていて殺害動機があったとしても、彼女が
乳川さんを殺せるのかどうか。方法が分からない」
「それは刑事さん達が今、可能性を検討し始めたばかりだからだと思います。じっくり
考えれば、少なくとも一つ、方法があると分かるはず」
「悪いんですが、それを教えてくれますか。事件解決が早ければ早いほど、我々もあな
た方も助かるでしょう。つまり、今度の劇を中止にせずに済ませられますよ」
「それはよいお話です。不幸中の幸いと述べるのはあれですが、間宮さんには今回、何
の役も割り振られていませんし。――監督、かまいませんよね?」
「あ、ああ。警察に協力して……ください」
 郡戸は外見とは正反対の落ち着きのなさで、了解した。
 飛鳥部は軽く咳払いをして、間宮の方をちらと見てから、警部に対して説明を始め
た。
「私が想像したのは、乳川さんのいたずらは、頻繁にありすぎて、ちょっとやそっとの
ことでは最早誰も引っ掛からなくなっていたんじゃないかという状況です。知恵を絞っ
て作ったどっきりをああまたかで済ませられては、乳川さんも面白くない。そこで一段
階エスカレートしたいたずらを考えた。それが、凶器を使って本当に自らの身体を傷付
けるという荒技です」
「え?」
 何人かが、やや間の抜けた反応を漏らした。「それって自殺説に近いような」という
声も聞こえた。
「無論、凶器に毒は塗りません。ダーツに手を加えて弓矢の矢のようにしたのにも理由
があったんでしょう。あまりに鋭い凶器だと、深く突き刺さって危ないので、市販の
ダーツを軽く尖らせて使った。矢にしたのは、どこかから飛んできたように思わせる余
地を残すため。いきなり自作自演だと見破られては、元も子もないですから」
「なるほど。筋道は通っているようだ。では毒は?」
「警部さんならもうお分かりだと思います。お譲りしますわ」
「そ、そうですか。では……」
 警部もまた咳払いをした。さすがにここでは「さて皆さん」とは言わない。
「いたずらとしてのアドリブで、ダーツの矢を胸に自ら刺すという計画を、間宮さんは
事前に聞かされていた。乳川さんにしてみれば、すぐにでも的確な治療をしてもらっ
て、救急や警察を呼ばれない内に『はいこの通り元気ですよ。みんな騙されてくれてど
うも〜』ってな具合に姿を現すつもりだったに違いない。
 だが、計画を聞かされた間宮さんは、かねてから抱いていた殺意を実行に移すチャン
スだと捉えた。治療のために運ばれてきた乳川さんと二人きりになるタイミングは絶対
にあったと思う。なければ看護師の専門職ぶりをかさに着て、人払いすることも可能で
しょうな。そして二人だけになったとき、凶器のダーツを抜き取り、毒を塗布してから
改めて同じ傷口に押し込んだ。あとは毒が回って、被害者の死を待つのみ――こんな感
じですか」
 喋り終えた初芝は、どことなく気分よさげだった。髪をかき上げ、間宮の反応を窺う
素振りを見せる。
「……そんな朗々と演説しなくても、調べられたらまずい物がたくさん見付かったの
に」
 悔しさを紛らわせる風に、間宮久世は言い捨てた。

 ちなみに。
 劇の方は結局中止になった。飛鳥部はやる気満々だったけれども、劇団員の内、出演
の決まっていた数名が降りてしまい、代役も揃わなかったためだ。一応、無期限延期と
発表されたが、恐らく中止だろう。
 事態がこんな顛末を迎えたせいで、飛鳥部は桂川からちくりと嫌味を言われた。
「プロの集まりじゃない、アマチュア劇団なんだから、彼らの心情を慮って、公演が終
わるまで解決を先延ばしにはできなかったのかい?」
 当然、冗談だったのだが、師匠のこの言葉は飛鳥部に心のライバルの存在を改めて意
識させた。
(一緒の舞台を踏んだとき、私がアマチュアで、彼女がセミプロ、プロだった。少しで
も早く彼女とまた共演したい。ううん、しなくては)
 飛鳥部響子はそうして、涼原純子の顔を思い浮かべた。

 おわり




#473/474 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/09/27  21:14  (104)
誤配が運んでくれたもの   永山
★内容                                         19/10/10 19:50 修正 第3版
 今日も郵便受けを覗く。何通か入っている。単なる投げ込みチラシも一枚あった。
 私は一通の茶封筒に目を留めた。宛名書きがないことから封筒に入ったチラシの類だ
と思ったが、それにしては封がしっかりされているし、茶封筒とは味も素っ気もない。
 玄関から家に戻って、リビングに向かいながら封を切る。中からは白地の紙が出て来
た。A4のプリント用紙のようだ。六つ折りぐらいに畳まれて、入っていた。
 プリント用意だけど、ここもやはり手書きだった。定規を当てて鉛筆で書いたと思し
き、かくかくした大きめの文字が並ぶ。全て片仮名のようだ。
<サトウカツヒトサン、サトウマナミサンヘ。オフタリノダイジナヒトリムスコ、タツ
ヒコクンヲユウカイシタノハ、ワタシデス>
 読み始めてすぐに、え?っとなった。
 まず、私はサトウではなく鈴木だ。隣の家が佐藤だから、誤配に違いない。いや、そ
もそもこれには宛名がないのだから、郵便局や宅配業者の手を経た配達物ではない。何
者かが直接、郵便受けに入れたのだ。隣と間違えるという大ぽかをやらかして。
 そしてこの文面によると、お隣では子供がさらわれ、誘拐事件が起きているらしい。
 知らなかった。それもそうか。誘拐事件は人質の命を最優先とすることから、報道管
制が敷かれて、原則、事件が決着するか、犯人側からのコンタクトが長期に渡って途絶
えるかすれば、公になる。
 隣の佐藤タツヒコ――竜彦――誘拐事件は、まだその段階には至ってないということ
になる。
 そういう意識を持って、昨日今日の隣家の様子を思い浮かべてみると、確かにそれら
しき動きがあった気がしてきた。真っ当なサラリーマンである旦那の佐藤勝人が今日は
出社していない。今日はゴミの収集日で、いつもなら、他人のゴミ袋のチェックに余念
のない佐藤愛美は、今朝に限って姿を見なかった。そしてシロアリの駆除業者らしきミ
ニトラックが佐藤家の玄関前に横付けされ、大荷物を持ち込んで何かごとごとやったあ
と、二時間ほどで出ていった。あの荷物の中に捜査員が隠れていたのかもしれない。佐
藤家は大きな家で、覗こうとしても簡単には見えないからさっぱり分からなかった。
 手紙の続きに目を通すと、営利目的の誘拐犯の決まり文句が並ぶ。警察など外部に連
絡しないこと、すれば人質の身の安全を保障できないこと、身代金として五千万円を使
用済みかつバラの一万円札で用意しておくこと、次の指示は二日後になることが記して
あった。全文ほぼ片仮名でとにかく読みづらく、“バラノ一マンエンサツ”なんて、薔
薇・ノーマンと読めてしまって、文意を汲み取るのに多少の時間を要したほど。

 さて。
 こんな恐ろしくて禍々しい手紙を受け取ってしまった私は、どうすればいいのだろ
う。
 誤配がありましたよって隣に持って行く? それとも警察に届ける?
 なるほど、そういった常識的な判断はもちろんありだろう。
 だけど私は別の選択肢を思い浮かべている。
 先程、ちらと触れたように、お隣は家が広く、金持ちだ。多分、五千万円なら払える
額に違いない。佐藤愛美は、そうした裕福な家の妻にしては、ちょっと変なところがあ
る。これも先述した通り、近隣の家のゴミを覗く癖があるようなのだ。裕福なのに、他
人の生活水準が気になるのか、あるいは嘘や秘密を暴こうという魂胆なのか、はたまた
ゴミの分別にうるさいだけなのか。
 どうもそれら三つが絡み合っているようだ。要するに、この一帯のママ友でのマウン
トを完全に取りたいのかもしれない。その証拠と言えるかどうか分からないが、一度、
人のゴミ袋の覗かないでとやんわりと抗議したことがあるのだが、分別間違いがあるよ
うに見えたのでチェックしてあげていただけ、と全然改める気配がない。それ以降、我
が家に対して小さな嫌がらせをするようになったようだ。
 抗議の翌日の晩から無言電話が夜中に掛かるようになったし、隣との境目、私の家の
側にやたらと落ち葉が溜まるようになった。町内会の回覧板を、留守だったという理由
で二度ほどとばされたこともある。
 旦那の勝人は一流企業勤めとあってまあまあ常識人のようだが、妻に甘く何にも注意
しない。一度、妻の口車に乗せられたか、テレビの音量を下げてもらえないかと、夜言
いに来たことがあった。こっちは長いことボリュームなんていじってないのに。
 一人息子の竜彦が問題児だ。母親の性格を受け継ぎ、育てられ方もよくなかったと見
え、学校の行き帰りで、近所の人とぶつかりそうになってもそのまま行ってしまうし、
注意しても聞かない、謝らない。もれなく母親からの抗議が返ってくるおまけ付きだ。
ほとんどは家の中でゲームをしているくせに、あるとき突然、往来で泥団子の投げ合い
を悪ガキ仲間と共に始めて、うちの塀にいくつも痕跡を残してくれた。また、カエルの
死骸や犬の糞が家の前にあることがたまにあるが、どうも佐藤竜彦の仕業のようなの
だ。
 こういったいたずらの一部は、我が家が防犯カメラを設置すると、ぴたっと止まっ
た。見た目だけの“なんちゃってカメラ”なのだが効果はあった。
 このように、佐藤家と我が家と軽い戦闘状態にあると言える。ご近所トラブルなんて
これが初めてだけど、実に嫌なものだ。同じ区画の隣同士、完全に無視する訳にもいか
ず、嫌でも視界に入る。おいそれと引っ越しできるもんでもない(佐藤家は引っ越しす
るだけの金銭的余裕はあるはずだが、する気はさらさらないようだ)。終わりが見えな
いのが、特に苛立たしかった。
 ここまで書けばお分かりだろう。私の言う別の選択肢が何かって。
 言ってみれば、生殺与奪の権利を与えられたようなもの。誘拐された竜彦だけでな
く、佐藤家全体の命運を握っているのだ。
 常識ある人間を自負するのなら、警察か隣家に届けるのが人として当然の行動だ。そ
れは重々承知している。
 だけど、そんなことを帳消しにするほど、隣の佐藤愛美や竜彦らのやってきたことに
は迷惑をしている。もしこの脅迫文を渡して、結果、子供が無事に帰ってきたらどうな
る? あのケチな性格から言って、引き続きここに住み続ける可能性が高い、一方、子
供が無事に帰らなければ、事件が解決しようが未解決のままだろうが、佐藤家は居づら
くなるのではないか。好奇の目に耐えられず、引っ越す可能性がぐんと上がる。たとえ
そうならなくとも、あの性根の曲がった子供を屠り、さらには佐藤愛美を絶望にたたき
込めるのなら、充分だ。
 私は封筒とプリント用紙を持ったまま、席を離れて台所に立った。流しに、鍋焼きう
どん用の簡易鍋を置き、中に封筒と脅迫文を入れる。着火道具がないことに気付き、少
し考え、茶封筒を固く捻った。このあとコンロに火を着け、その炎をたいまつみたいに
なった茶封筒に移し、さらに脅迫文の書かれた用紙へと燃え移らせる、ただそれだけで
いい。
 私は何度も何度も茶封筒を捻り、固くした。そしてコンロのスイッチに手を掛ける。
ボッ、という音に続いて青い炎が円を描く。
 さあ、着けようかしら。













                                  なんてね。

 おしまい




#474/474 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/10/04  22:30  (479)
驚きのバースデー   寺嶋公香
★内容                                         19/10/10 19:54 修正 第5版
 純子は映画の撮影スタジオから引き上げる間際になって、鷲宇憲親から声を掛けられ
た。
「今度の誕生日、サプライズパーティをしてあげるから楽しみにしといて」
 それだけ言い置いて、すたすたと立ち去る鷲宇の背中を、純子はしばらくぼうっと見
送る。
 この直前まで、純子は控室にいて、帰り支度に務めていた。その途中、鏡をしばらく
見つめてしまい、ふっとため息が。やおら立ち上がり、帰り支度最後のアイテムである
小さなバッグを持つと、部屋を出た。
 廊下を行こうとしたところで、「あっと、ちょうどよかった」と声を掛けられたので
ある。
「あの。サプライズになってないと思うんですけど」
 一見、いや、一聞しただけではスルーしてしまいそうな、でもちょっと考えたら矛盾
しているとすぐに分かる。声を張ってそのことを告げると、鷲宇は立ち止まって振り返
り、
「いいからいいから。追って連絡するから、少なくとも当日は空けておいて欲しいん
だ。
天候もあるから、できたら一週間ぐらい余裕を見ておいてもらいたいぐらいなんだけ
ど。OK?」
 と、大きな身振りをまじえて確認を求めててきた。
「しようがないですね。ええ、かまいません、一週間でも十日でも」
 鷲宇との付き合いも結構長い。だから、この手の無茶振りに近い誘いを断っても、別
のアプローチをしてくるのは分かり切っていた。承知するまで離さない、そんな強引さ
を鷲宇はときに発揮する。
(誘い文句の矛盾に気付いていながら、結局乗ってしまう私も私だけれどもね)
 このところまた忙しくなって、疲れる暇さえなかったから、気晴らしをしたかったと
いうのはある。そして何より大きいのは、相羽信一の長期の不在である。
(船の上で一年間のお仕事だなんて)
 約十ヶ月経った今でも、まだちょっぴり恨めしい。元々この仕事を引き受けるはずだ
ったピアニストがダウンしてしまい、そのピアニスト自身の推薦で知り合いあり友人で
もある相羽に打診が来た。このシチュエーションで断れるはずがない。
(きっと、断れないと分かっていて、頼んできたんだわ)
 あきらめにも似た気分で彼を送り出してから、今日これまでのおよそ十ヶ月。会えた
のはただの一回きりだ。相羽の乗る豪華客船が日本の港に立ち寄るのと、純子の休みの
取れる日とがたまたま重なった。
(そういえばあのときも名目上は、誕生祝いだったわ。一ヶ月ぐらい前倒しで、彼の節
目の誕生日をお祝いした。乗ったことのない船だったし、どんな仕事場なのか見てみた
かったんだけど、急なことで見学予約を入れられなかったっけ。――いくら鷲宇さんで
も、船まで飛んで連れてってくれるはずはないわよね)
 サプライズの中身を早くも過大に期待する自分に、純子は自嘲の笑みをこぼした。最
前、鷲宇が天気について心配する台詞を口にしたいせいかもしれない。
 かぶりを振って、それからスケジュール帳を開く。忙しい身と言っても、現在の純子
は自分の意見で仕事を選べるくらいにはなっていた。誕生日以降のスケジュールは空っ
ぽにしておこう。

 誕生日の前々日、予報では好天に恵まれそうだから当初の予定通りに、という主旨の
連絡が鷲宇から入った。ちょうど冬物の撮影に立ち会っていたため、メッセージが届い
たことに気付くのが少し遅れた。
 今日中なら電話してくれても大丈夫とあったので、詳しいことを聞こうと携帯端末を
耳に当てる。三回ほどコールしてつながった。
「読んだ?」
 いきなり聞かれた上に、その声がいつもの鷲宇に比べて若干嗄れていたので、少しび
っくりした。
「だ、大丈夫ですか」
「これくらい何でもないさ。それよりも読んだから電話くれたんでしょう? 何かご質
問でも?」
「とりあえず、時刻が。何時にどうすればいいのか、おおよその目安でもいいので、知
っておきたいなと」
「あれ。送り忘れたか。しょうがねえなー。当日の午後二時に迎えに行かせるので、待
機しといてもらえる?」
 承服しかけたが、ちょっと前にもらった友達からの電話を思い出した。
「待機ですか。お昼からになるんでしたら、午前中に友達に会いたいんですが」
「友達って、誰。仕事仲間なら呼んじゃうってのも手だ」
「元クラスメートです。鷲宇さん、覚えていないかもしれませんが、唐沢さんご夫婦」
 二人の顔を思い浮かべつつ、名前を出してみた純子。鷲宇はいかにも心外そうな口調
で答える。
「年寄り扱いしなさんな。覚えてるよ。あの二人とどこで何するつもり?」
「連絡はこれからですけど、会って話をして、ランチと買い物ぐらいかしら」
「具体的に店の名前が分かるんなら、そっちに迎えに行かせよう」
「そんな、いいですよ。何から何までしてもらわなくたって。さっき年寄り扱いしなさ
んなって言われましたけれど、逆に私をいつまでも子供扱いしてません?」
「うーん、ずっと一人前に扱ってきたつもりだけどな。それに前にも言ったサプライズ
のためには、君に直接会場に来させるのは避けたいんだ」
「あの、ますますサプライズ感が失われていませんか」
「気にしない気にしない。それじゃあ三時だ。昼の三時で友達との用事は切り上げて、
連絡を寄越してくれないか。指定した場所に行くよ。東京のどこかなんだろ」
「……だったら、唐沢君達を送ってあげて欲しいな」
「無茶を言いなさんな」
 呆れ混じりの笑い声を立てる鷲宇。
「昔からの友達が大切なのは理解できる。でも、僕らも友達だろ? 元クラスメートの
子達に比べたら、キャリアの長さでは負けるだろうけどさ」
「分かりました。ちょっと意地悪を言ってみたくなっただけです。鷲宇さん、相変わら
ず強引だから」
「ほんと、言うようになったねえ」
「それより、当日はどんな恰好をしていけば……」
 まさかとは思うが、フォーマルな衣装を求められるとなると、唐沢達と会ったあと、
また着替えなければならないだろう。
「えーと、考えてなかった。けど、気持ちお洒落するぐらいでいいんじゃないか。一応
言っておくと、和服は避けた方が無難」
「はい」
「あと、足元だけは言っておかなくちゃな。なるべく安定して動ける靴にしておいで。
ヒールの高いのや厚底は以ての外」
「大丈夫です。撮影でも滅多に履きませんよ」
「よし。こっちからはこれくらいだけど、まだ他に何かある?」
「当日のことはともかくとして、私の方から鷲宇さんに誕生日のお祝いをしたことがな
いのが、とても気になってるんですが」
「プレゼントならくれたことあるじゃないか。あれで充分です」
「鷲宇さんのしてくださるお祝いが、豪勢すぎるんですよっ」
 おかげでこちらは見劣りすると表現するのすら恥ずかしいぐらいです云々かんぬんと
言い立てたけれども、鷲宇にはのれんに腕押しだった。
「ま、いいじゃない。それだけ僕は君のことを今でも応援してるし、感謝もしてる」
「大げさですってば〜」
「前にも言ったかもしれないけれども、僕は生き甲斐、と言ったらさすがに大げさだ
な、やり甲斐を失っていた時期があって、明らかに停滞していた。仕事も趣味も惰性で
やっていて、それでも何か知らないけど周りが評価してくれる。そんな状況に飽いてい
たときに、涼原純子という少女が現れた。本心を言えば、才能は認めつつも最初は興味
半分でサポートしたんだ。が、打てば響く、磨けば輝く君がすっかり気に入ってしまっ
た。これは僕も負けていられないぞと思えたのは、君のおかげ」
 純子は苦笑いを浮かべていた。もう耳にたこができるんじゃないかってほど、何度も
聞いた話だ。くすぐったいこの感触は、何年経っても変わりがない。
「あー、もう分かりましたから。喉の方、お大事にしてくださいね」

 十月三日になった。
 予定していた通り、そして希望していた通り、午前中は九時半頃から唐沢夫婦と会っ
て、旧交を温めるのに時間を費やした。
「相も変わらず、魔女ですなあ」
 唐沢の挨拶は、ここ数年、ずっとこれである。そして続けて愛妻との比較を始めて、
当人から肘鉄を食らわされるのがひとつながりになっていた。
「まったく、いくつになっても、変わらないんだから」
「ふふふ、大変そうだね」
 服をメインに、ファッション関係のショップを見て回りつつ、お喋りに花を咲かせ
る。
「大変そうなのは、純、そっちじゃないの。旦那ってば、まだ船の上のピアニストなん
でしょ?」
「うん」
「会えてるの?」
「だめだめ。それなりの頻度で日本に帰っては来てるんだけど、タイミングが合わなく
て。私が見境なしにドラマの仕事を入れてしまったから」
「寂しさを紛らわせるために、でしょ」
「そ、そうでもないのよ」
「そういや、お子さん達は? 今日の誕生日――」
「おーい。いい加減にしてくれ」
 唐沢の声が話を中断させる。振り向くと、荷物を両手に提げた彼が、ややわざとらし
く肩で息をしていた。
「よくそんだけ喋りながら、買い物ができるもんだ」
「男性は二つ以上のことを同時にするのが苦手っていう説があるからねえ」
 お昼になって、百貨店最上階の展望レストランというベタなシチュエーションで、食
事を摂る。三時のお茶を飲む時間が取れるかどうか怪しいため、デザートもここで。
「ということで、誕生日おめでとう」
 デザートが運ばれてきたあと、唐沢夫婦からプレゼントをもらった。ルービックキ
ューブ大の箱で、持った感じは重くもなく軽くもない。
「開けていいよ」
「それじゃあ」
 爪を使ってきれいに包装紙を取り、順次開けていくと、現れたのはオルゴールだっ
た。それもからくり人形付き。音を鳴らす間、ピアノの上で人形が踊る。
「うわぁ。ありがとう。『トロイメライ』ね」
「曲目は純子が好きな曲と知っていたからよかったんだけど、ピアノの蓋が閉じたまま
というデザインが、中途半端だと思ったのよね。でも喜んでくれてよかった」
「ううん、そこまでこだわらないわよ。あ、でも、ピアノを見ていると、彼を思い出し
て涙に暮れるかも」
「あ、ごめん。思い至らなかったわ」
「冗談だってば」
 他の友達や家族の近況などを話していると、時間はあっという間に過ぎて、三時を迎
えた。きりのいいところまで話すと、多少オーバーした。
「また何か出るんだったら、教えて。ずっと応援してるから」
「ありがと。次は私の方から誘うね」
「無理しなくていいよ。暇で暇で退屈に飲み込まれそうなときに誘ってちょうだい。相
手をしてあげよー」
 名残惜しかったが唐沢達と笑顔で別れると、純子は一呼吸を入れてから鷲宇に連絡を
取った。

 二十分足らず後に、長い長いリムジンが現れたので何事かと思った。次に嫌な予感が
して、素知らぬふりをしていたが、案の定、純子の目の前でその車は止まった。
「待たせてすまない。ちょっと混み始めてた」
「何ですかこれは」
 リアウィンドウを下げて声を掛けてきた鷲宇。純子は被せ気味に聞いた。
「何って。この方がゆったりのんびり行けるから、いいだろうと思って」
「っ〜」
 唖然としたが、何とも言えず、ここは冷静さを保とうと努力した。結果、どうせ状況
は変わりないのだから、さっさと乗り込んで出発してもらった方がいいと判断。
「早く出ましょう。注目され続けると、鷲宇憲親が来てるとばれるかもしれませんよ」
「それもそうだ」
 後部座席は窓に濃い色のフィルムが貼られたり、カーテンが引かれたりで、外を見ら
れないようになっていた。天井はスクリーンのようになっていて、プロジェクター装置
で星空を投影できるという。試しにやってもらったところ、実際の星空を映すのとプラ
ネタリウムの二種類があって、プラネタリウムの方は省略がなされており、若干物足り
なかった。
「見ただけで分かるとは、凄いな」
「逆です。見たから分かる、見なければ分からない。こう見えても眼はいいんですよ」
「……なるほど。真理だ」
 やがて車は何かの区画に入ったのか、段差を乗り越える感覚があった。
「鷲宇さん、今さらですが、外を見てはだめなんでしょうね?」
「ええ。行き先が分かったらつまらない。でももうすぐ到着だ」
 鷲宇は時計を見て言った。同時に、ゴム製のクリップみたいな物を取り出す。
「悪いんだけど、少しの間だけ、これを着けてもらいますよ」
「これって何ですか」
「シンクロナイズドスイミングで使う物」
「ああ、鼻栓……じゃなくって、あれって何て言うんですか?」
「僕も今回初めて知った。ノーズクリップ。まあ、日本語では鼻栓でいいみたいだけ
ど、鼻栓と言われると、鼻の穴に直接詰めるみたいなイメージがあるなあ」
「それで何のために装着? まさか、世界一臭いのきつい缶詰を食べるのがサプライズ
とか……」
 不安になってきた。鷲宇の顔をじっと見ると、相手は笑い出した。
「はは、そういう想像するか。誕生日のパーティにそれじゃ、まるで罰ゲームになって
しまうよ。シュールストレミングではないことだけは請け負うから安心して」
「安心できませんよ。世界で二番目に臭う食べ物かも」
「はいはい。これに目隠しもしてもらうと言ったら、どんな想像をする?」
「目隠し? あの、目隠しをするんだったら、お願いがあるんですが」
「何でしょう」
「よくバラエティ番組で見掛けた、眼や眉が面白おかしく描かれたアイマスク、あれは
勘弁してください」
 真顔で訴えた純子に対し、鷲宇は本日二度目の笑い声。
「あははは。何の心配をしてるの」
「自分では見えないだけに、とても恥ずかしい気がします、多分」
「厚手の手ぬぐいでぎゅっとやるから、その心配も無用だ」
「……もしかして、強盗か誘拐犯に襲われた設定ですか?」
「うーん、教えてあげてもいいんだけど、イエスとノーどちらの答でも、この先がつま
んなくなるだろうから教えない」
「じゃ、違うんだ。鼻栓の説明も付かないし」
「どうかな。さあて、そろそろ装着してもらいましょうか。もう一つ、ヘッドホンを耳
に当ててもらうよ」
「えー! やっぱり、どっきり番組の空気が」
 話している途中で鼻をつままれた。

 長いスロープを何度か折れ、階段を慎重に歩かされ、建物の中に入った感じがしたと
思ったら、今度はエレベーターに乗った。
 と、ノーズクリップが外された。
「鼻に跡が残ってないですか」
 続けてヘッドホンと目隠しも取ってもらえると思って、そう質問した純子だったが、
予想は外れた。目と耳はもうしばらく不自由な状態に置かれるらしい。
 程なくしてエレベーターが止まり、何階だか分からないがそのフロアで降りた。そこ
から少し歩いて、どこかの部屋に入ったようだ。閉まる扉の起こした風を、背中に感じ
る。ここで、ずっと付き添っていた鷲宇――のはずだ――が離れる気配があった。
「鷲宇さん? ――ひゃっ」
 気配の遠ざかる方向へ声を掛けた途端に、反対側から肩を触られ、びくっとなった。
直後、ヘッドホンと目隠しが外される。
「失礼をしました。驚かせて申し訳ありません」
 若い女性が一人、正面に立っていた。
「あなたは」
 目をしばたたかせ、鼻を触りつつ、純子は聞いた。
「お席まで案内します。多少暗くなっておりますので、足元をどうぞお気をつけくださ
い」
 彼女が手をかざした方を見やると、座席がずらっと半円を描く形に備え付けられてい
る。プラネタリウムの観覧席を連想したが、その半円の中心に実際にあるのは、ステー
ジだ。各座席には開閉可能なミニテーブルが備わっている。
 純子が中央の特等席と言える椅子に着くと、案内の女性が何か言った。さっきまでし
ていたヘッドホンからは大音量の音楽が流れていた。そのため、今は少し聞こえづら
い。
「え? もう一度お願いします」
「そちらにあるメニューから、お好きなドリンクを」
 にっこりとした表情で言われ、純子は急いでそのメニューとやらを探す。立てたミニ
テーブルの隙間に挟んであった。
「それでは……レモンスカッシュをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 お辞儀をして去って行く女性。そちらの方向をしばらく見ていたら、じきに引き返し
て来たので、慌てて前を向いた。
「どうぞ」
 ミニテーブルを開き、そこにコースター、ドリンクのグラスと置く。
「ありがとう。あの、このままにしていればいいんですよね」
「はい。どうぞごゆっくり」
 案内の女性が再び立ち去ると、室内――ホール内をかすかに照らしていた光も徐々に
絞られ、暗くなった。足元と非常口だけは灯りがあるが、他は輪郭がぼんやりと分かる
程度だ。
「今回も贅沢なことをされていそう……」
 思わず呟いたのを待っていたみたいに、突然、大音量が鳴り響いた。
 ステージに照明が向き、そこに立つ細身の人物がギターをかき鳴らしている。その背
後にはいつの間にスタンバイしたのか、ドラムセットがあり、別の人が警戒に叩き始め
る。
 手前のステージはもう一人、ギターの人よりはがっちりした体格の人が、マイクスタ
ンドに片手を掛けて立っていた。片方の爪先でリズムを取っていたかと思うと、歌い出
した。
(これって)
 聞き覚えのある歌と声。それにビジュアル。
(この三人組のバンドって、“ショートリリーフ”?)
 一時期、所属事務所の異なる男性ミュージシャン三名が組んで結成されたユニット
だ。元はチャリティ目的だったので、当初から期間限定のバンドだった。ショートリ
リーフの名にふさわしいかどうか分からないが、三年間の活動期間を終えて解散。でも
再結成を望む声は多かった。
 ドラムが鹿野沢怜治(かのさわれいじ)、今ギターを持っているのが飯前薫(いいさ
きかおる)、そしてボーカルが鷲宇憲親だ。
「す、ごい」
 勝手に感嘆の言葉が出た。
 何が凄いかって、まず最早見られないと思われていた三人組の復活が凄いし、当時と
ほとんど変わらぬであろうキレや力強さを有していることも驚異。特に、ボーカルを務
めている鷲宇は、最盛期を取り戻したかのような声の張りを見せていた。
(鷲宇さんて、私のいくつ上よ? 信じられない。二日前に電話したとき、声の調子が
ちょっぴりおかしかったのは、このためだったのかなぁ……)
 申し訳なさで、身が縮む思いだ。
 ボーカルとギターが交代して、二曲目を演奏。どちらも激しいロック調だった。三曲
目はまた鷲宇がボーカルに戻って、バラードを披露。どうやら代わり番こで唄うらし
い。
 立て続けに三曲、いずれもバンドのオリジナル曲を披露したところで、コメント休憩
に入る。
「えー、どちらで呼ぼうかな。とりあえずいるのは芸能人ばかりってことから、芸名
で。風谷美羽さん、誕生日おめでとうございます」
 純子は立ち上がって拍手しつつ、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「二人とは面識は?」
 鷲宇がギターとドラムを指し示しながら、誰ともなしに聞いた。
「あるにはあるけど、挨拶を交わした程度だったんじゃないかな」
 鹿野沢が短く剃った顎髭に手をやり、記憶を確認したかのようにうなずく。
「僕も同じだな。それじゃ改めて挨拶しますか。飯前です、よろしく」
 飯前がギターを持ったまま、細い身体を折り曲げる風にしてお辞儀した。続いて鹿野
沢も、腰を上げて一礼する。
「風谷美羽です。十年ぶりぐらいいなります?」
 純子は前に行った方がいいのかなと、席の通路を横に移動し掛けた。が、鷲宇からス
トップが掛かる。
「まあまあ、今日の主役は動かずに、どんと構えていればいい。話す時間はあとで取れ
ると思うしね。さて、喋る内に回復してきたので、また始めようかな。今日、十月三日
は君の誕生日ということで、とりあえずこれを贈らなければいけないな」
 鷲宇が目で二人に合図し、四曲目は静かにスタート。話の流れでもう明らかだった
が、曲は『ハッピーバースデートゥユー』。必要以上に情感を込めるでなく、楽しく弾
むように歌い上げ、最後のくりかえしのときだけちょっとアレンジしていた。なお、歌
詞で名前に置き換えるところは、“純子”になっていた。風谷美羽は芸名だから、芸能
人としてデビューした日こそが誕生日になる、と鷲宇達が考えていたかどうかは分から
ない。
「ケーキは用意してあるから、あとのお楽しみで」
 こう付け足されて、純子はホールケーキのキャンドルを消す仕種をして見せた。
 これ以降、和洋のロックやバラードの古典的名曲を中心に、何度か休憩を挟みながら
も二時間たっぷり、歌と演奏で楽しませてもらった。
 ラストの曲が終わるや、辛抱溜まらず、純子は席を離れてステージそばへ走った。
「おっと、危ないですよ。急がなくても逃げやしないから」
 そう言われたからというわけではないが、確かに足元がふらついた。いきなり立ち上
がったせいかもしれないと、そろりそろりとした歩みになる。
「鷲宇さん、鹿野沢さん、飯前さん、どうもありがとうごっざいました。ほんっとうに
感激です」
「んな、大げさな」
「いえ。こんな素敵な時間を独り占めだめなんて、ファンの方に申し訳ないです。鷲宇
さんもまだまだできるんだと分かって、安心しましたよー」
「そんなに衰えたと思われてたわけ?」
「だってこの間の電話、声が」
「あれはちょっと張り切りすぎただけ。無茶な練習したって意味なら、こいつら二人の
方がよっぽど」
 鹿野沢と飯前に顎を振る鷲宇。そんなことはないぞとすぐさま反論が返っていた。ま
ったくもって、いつまでも若い人達だ。

 シークレットかつパーソナルなライブが終わると、夜八時近くになっていた。
 食事はこちらでと、最初の女性の案内で通されたのは、ホールのすぐ向かいのレスト
ラン。お客は一人もおらず、貸し切り状態のようだ。
(変わった構造の建物……。シネマコンプレックスを映画以外で色んなお店を集めたみ
たいになってる?)
 天井が何となく低い。さっきまでいたホールと、これから行くレストランだけでな
く、他のお店にもお客は皆無。それどころか、通路を歩く人さえいない。各店舗に店員
さんの姿が見えるだけだ。
(まさか鷲宇さん、施設全体を貸し切りに)
 くらくらしてきた。歩くのに支障が出そうなほどだ。
(お祝いしてもらっている間は考えないようにしよう。精神衛生上、それが一番ましだ
わ、きっと)
 レストランでは店用のピアノの前を通って、窓際の席に案内された。出入り口を背に
した向きに座る。外はとっぷりと暮れて、ほぼ暗闇。
(……暗すぎない? 灯りはぽつんぽつんとあるけれども、動いているから車か飛行機
か)
 窓ガラスに顔を近付け、よく覗こうとした矢先、鷲宇の声がした。
「やあ、お待たせ。飲み物は頼みました?」
 シャワーを浴びでもしてきたか、さっぱりした様子の鷲宇。
 純子は前に向き直って、いえまだですと答えた。
「そうか、じゃ」
 と鷲宇が片手を挙げるまでもなく、制服姿のスタッフがすっと駆け付けた。
「お酒は?」
「相変わらずです。とても弱くって。もちろん最初の乾杯には付き合います」
「いや、いいよ。無駄なことだ。そっちはソフトドリンクからどうぞ」
「じゃあ……リンゴジュースを」
 鷲宇はビールを頼んだ。
 オーダーからほとんど待たされることなく、飲み物が届き、続いてコースメニューの
内メインディッシュとデザートがそれぞれセレクトできるからと、希望の品を聞かれ
た。
 メインディッシュは牛、鶏、魚の中から二人とも牛を選び、デザートは鷲宇がアイス
クリームを、純子は和菓子をチョイスした。
 スタッフが去り、乾杯すると、すぐに純子はお礼を言った。
「今回もよくしてもらって、ありがとうございます。飯前さんと鹿野沢さんは?」
「彼らは別のところで飲み食いを始めてる。久々の三人組んでの演奏で、疲れ切ったか
らリラックスしてのんびりしたいようだ」
「だったら鷲宇さんも」
「僕は君をもてなす役目がある。もうちょっとがんばりますよ」
「無理しないでくださいよー。何かあったら、本当にファンの方達にも鷲宇さんご自身
にも申し訳が立ちません」
「今は厚意を素直に受け取って。その方がよほど僕の心身は回復するよ」
「そ、そうですか」
 そうこうする内に前菜と食前酒が運ばれてきた。いただきますと手を合わせたが、す
ぐには手を伸ばさない。
「やっと意味が分かりました」
「ん? 何が」
「誘ってくださった時点で、いきなりサプライズパーティをするからって言うから、お
かしなことをと思ってたんです。サプライズを予告しておいてなおかつ驚かす自信があ
るなんて、一体何だろうって不思議でした。ショートリリーフの再結成だったんです
ね。そりゃあびっくりしますって」
「そうか。あれで充分驚いてくれたか」
「ええ。芸能界的にはビッグニュースだから、場所を突き止められないようにって、私
に目隠しなんかをした。言ってくれていたら、私、口外無用は守るのに」
「そうだと信じてるよ。だから、君に目隠しやヘッドホン、鼻栓までしたのは別の理由
があるんだ」
「あれ? そうなんですか」
 見破られて悔しいからごまかそうとしている……わけではないようだ。
「場所を秘密にするのに、鼻栓はさすがに意味がないだろう?」
「それはまあ確かにそうなんですけど、私を混乱させるために、嘘の手掛かりを入れた
とかでは」
「違います」
 楽しげに微笑んで、鷲はおちょこサイズの食前酒を一気に開けると、時計を見た。そ
れからおもむろに手を合わせた。
「よし、じゃあ、タイミングもちょうどいい頃だから、プレゼントを取りに行ってく
る」
「今ですか?」
「ああ。戻って来たら、種明かしをしてあげましょう。お楽しみに」
 席を立つと、鷲宇は店のスタッフの誰に断るでもなく、外に出て行った。どうやらス
タッフ達とも話が付いているようだ。
(何だろう、とっても違和感があるのは確かなのよね。鼻栓だけじゃなくって、さっき
お店に入る前に、壁の一部に無駄にスペースが開いてるなって思った。あれって、ポ
スターか何か張ってあったものを、剥がしたばかりといった様子だった。他にも、お酒
を飲んでいないのに最初っから足元が不安な感じがするし、それに今この窓の外の景色
だって、よく見えないけれども――)
 再度、暗闇に目を凝らそうとしたときだった。
 音楽が流れてきた。店のほぼ中央に置いてあるピアノからだ。いつの間に人が座った
んだろうと純子が振り向くよりも早く、その曲に気付いて、どぎまぎする
「『そして星に舞い降りる』だわ」
 純子が歌手デビューした際の曲。芸名はまた別だったけど。
 懐かしくはあるが、元は鷲宇憲親が作ってくれた物だから、この場にいてこのタイミ
ングで弾いてもらうというのは、特段不思議ではない。鷲宇らしいとも言える。
 だから、純子をどぎまぎさせたのには別の理由があった。
(弾いているの、信一さんだわ!)
 音しか聞かなくても絶対の自信があった。それは作り物の星空と本物の星空を見さえ
すれば一瞬で見分けられるのと同じ。聞けば分かる。
 状況はわけが分からないが、相羽信一がここのピアノの前に座って、今弾いているの
は間違いない。演奏を邪魔しないように、そっと席を立った。
 その刹那、床が多少傾いて――。
「え?」
 テーブルに手を突いて、どうにか倒れずにすんだ。スタッフが二人駆け寄ってきて、
大丈夫でしたかと心配してくれた。
「え、ええ」
 元の椅子に座り直し、首を傾げた純子。
(今のは立ちくらみとか、酔いとかじゃなく、ましてや不注意で転びそうになったんで
もなく……そっか)
 純子は鼻をひと撫でし、今一度窓の外の景色に意識を集中してみた。
(やっと理解できた。私ったら気付くの遅すぎだわ)
 苦笑いを抑えながら、改めてピアノの方を注視した。
 もうじき曲が終わる。

 一曲弾き終えると、相羽は当たり前のような顔で純子のいるテーブルへと来た。
「純子、久しぶり。それから誕生日――」
「待って。これはあなたの発案?」
 テーブルの上にあった皿を脇にのけて、にじり寄るように純子は問い掛けた。
「違う。鷲宇さんだよ。ただ、君に会えないことを愚痴ったら、自業自得だねと言われ
つつ、いい方法があるというものだから、つい乗ってしまったのは認める」
「こんな面倒でややこしいことしなくても、普通に会わせてくれたら充分なのに」
「ということは本当に実行したんだ? 船を船と思わせずに、君を乗船させる作戦」
 思い返してみれば納得が行く。車の外を見せないようにしたのは、港に向かっている
ことを悟られないようにするため。車から降りたあと、目と耳だけでなく、鼻まで覆っ
たのは、海特有の匂いを嗅がれたくなかったから。
 事前に鷲宇が履き物に関して注意を促してきたことや、歩く度にふわふわふらふらす
る感覚が時折あったことは、船が港を出てたあと多少波の影響が出ると分かっていた
し、事実揺れたってことに他ならない。ショートリリーフの三人が年齢以上にがんばっ
て(失礼!)、激しいロックを多めに演奏したのは、船のエンジンなどの駆動音をごま
かすためだろう。
「あと、壁の所々に不自然な空白みたいなのがあったけれども、あれってもしかする
と、船の案内図があったのを外したんじゃない?」
「多分、当たってる。僕もこの店に来るときに見掛けて、えっ?て思ったもの」
 相羽が苦笑いした。そんな会話の切れ目を待っていたみたいに、スタッフが来て、
「お取り替えいたします」と言い、前菜と食前酒を新たな物に交換した。
「このまま一緒に食事できるのね?」
 弾んだ声になった純子に、相羽は「当然」とうなずいた。

「それにつけても、鷲宇さんたらやることのスケールが無茶苦茶よ」
 感謝はしてるけれどもと前置きして、純子は言った。
「施設の貸し切りまでは考えたわ。でもまさか、豪華客船を丸々借りるだなんて……ど
うあっても気にしてしまうじゃないの!」
「あー、あんまり費用の話はするなと言われてるだけどね。現在のこの船の移動自体
は、元々の予定通りなんだ」
「え? 回送ってこと? そもそも、どこに向かっているの」
「横浜を発って、名古屋に向かっている。次のクルーズが名古屋発なんだ。こういうと
き、横浜から名古屋行きのワンナイトクルーズを組み込むこともあれば、スケジュール
の都合などで、お客を乗せずに移動するケースもあるんだって。僕もこの船で仕事をさ
せてもらうようになって、初めて知った」
「ふうん。で、でも、イレギュラーなことしてるのには変わりないんでしょ?」
「イレギュラーには違いないが、制度としてあるにはあるんだって。たとえばだけど、
北海道から横浜までのクルーズを楽しんだお客さんが、直後に予定されている名古屋か
ら高知を巡って神戸に向かうクルーズにも続けて乗る場合、横浜から名古屋までをその
船に乗って行けるというね。全部が全部にある制度じゃないから特例には違いないけ
ど」
「へー、知らなかったわ。勉強になる」
 それでも乗員の手間賃を考えたら……とまで考えるのはやめた純子。およそ五ヶ月ぶ
りの相羽との再会なのだ。無粋はやめて、目一杯楽しもう。話を聞く限り、明日もまた
仕事があるのは間違いないんだし。
「メインディッシュが終わったことだし、ぼちぼちもう一曲、プレゼントしよう」
 背もたれに手をついて、慎重に腰を上げる相羽。船上生活で培われたようだ。
「何かリクエストはある? あんまり年齢は言いたくないけど、お互い、五十になった
記念に」
「そうねぇ。あなたの今の気持ちを表すような曲なら何でも」
 純子はとびきりの微笑みで彼を見送った。

 やがて流れ聞こえて来たのは――サティの『きみがほしい』。

――『そばにいるだけで番外編 驚きのバースデー』おわり




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