AWC ●短編



#403/549 ●短編
★タイトル (GSC     )  11/11/20  14:16  (214)
 同級生と東北旅行      [OAK]
★内容

   前書き

 この旅行記は、三泊四日の出来事を、時間を追って順番に述べるのでなく、
関連性のある事柄を内容別にまとめて記るす。
 なお、筆者を含む何人かは視覚障害者である。



   日程および乗車券の控え = 平成23年(2011年) 10月

3日(月):
 名古屋空港発13時45分 FDA(フジ ドリーム エアライン)363便
青森空港着15時0分。
 バスで青森駅。
 青い森鉄道で浅虫温泉駅下車。
 ホテル『帰帆荘』にて宿泊(O夫妻・M・OAK)。

4日(火):
 タクシーでO宅へ = 休憩と団欒。
 青森市内見物(まちてく)。
 青森発15時29分 『青い森鉄道』普通列車。
 新青森発15時42分 『はやて32号』4号車9番DE 盛岡着16時35分。
 タクシーで繋温泉。
 ホテル『花の湯』にて宿泊(O・M・OAK・S・T)。

5日(水):
 タクシーでW宅へ。
 先月新たに移転・開館した〈手でみる博物館〉見学。
 タクシーで〈東園〉、夕食はソバ会席。
 盛岡発18時41分 『はやて38号』6号車5番DE 東京着21時08分。
 山手線で大塚駅下車。
 ビジネスホテル『大塚サンファースト』にて宿泊(M・OAK)。

6日(木):
 Cさん一家と喫茶店で朝食。
 大塚駅からガイドヘルパー同伴にて、山手線で新橋駅。
 『ゆりかもめ』に乗り、新橋〜国際展示場駅。
 機器展示会の見学。
 M氏と別れて、国際展示場→新橋→東京。
 東京発17時33分 『ひかり523号』12号車9番E 名古屋着19時21分。
 名古屋発19時34分 多治見行き普通列車 大曽根着19時45分。



   3人の同級生 = 昔と変わらず

 今から50年も前、東京の大学で学び、寮生活を送っていた2年間において、
誰よりも親しかったのはMM君である。彼は理療科でなく音楽家在学だから、
本来の同級生とは言えないが、専門教科以外の授業は総て同じ教室だったし、
寄宿舎は別室でも、しょっちゅう行き来していたから、当時の出来事を語れば
果てしがない。特に、彼の郷里である松山へ、私は三日係りで遊びに行ったこ
とがあり、一方、M君は就職口が無くて、名古屋盲学校の二部専攻科を受験に
来て、北区大曽根のI鍼院で泊まっていったこともある。
 SS氏とは1年間寄宿舎の同室で、机が隣同士だったから、これまた思い出
は多い。当時私はバイオリンの練習に夢中だったが、彼も小さい頃バイオリン
を習いに通っていたので、よく二人で交代して弾いたものだ。
 OO氏は付属盲学校の高校時代から、M・S両氏と同級生だったが、1年間
浪人したため、大学では同級にならなかったものの、当然寄宿舎の仲間内であ
る。私とはお互いのテープレコーダーを自慢し合ったり、将棋のほら話や、お
でん屋での一件など、話題は色々ある。
 大学2年生の夏休みに、M氏と私が、栃木のS氏、そしてO氏の家を訪ね、
泊まり掛けで遊ばせてもらったのは、懐かしくもあり、貴重な経験となった。
 三人それぞれの性格は基本的に変わっていないし、会話の内容や雰囲気も昔
のままだ。M氏は人当たりが良くて穏やか、S氏は学問好きの努力家、O氏は
主張が明確で計画をきちんと立てる人。
 現在、3人とも公の仕事に骨折っているが、私は専ら自分の趣味だけに生き
ている。
 パソコンの話題で、M氏とO氏は、ブレイルスターを推賞し、キー入力は六
点方式だそうで、私のBASE使用とフルキー入力は不便だと言い、S氏は、片手
入力をマスターしており、点訳にはこれが一番好都合だと言う。



   O邸とW邸 = のどかで優雅な佇まい

 4日の朝は、まずタクシーでO宅へ行った。300メートルほど手前に青森
盲学校があり、こんなに近ければ、始まりのチャイムが鳴ってからでも間に合
うくらいだ。彼はここで37年勤めたし、学生時代に私がよく知っているQ氏
やR氏も、この学校の理療科教員だったのだ。
 O邸の玄関前は広いカーポートになっていて、屋根を支える4本の丸い鉄柱
が直径20センチもあるのは、雪でつぶされないためと言う。その鉄柱に針金
で空き缶が釣り下げてあり、O氏が煙草を吸う時の灰皿にしている。大きな植
木鉢は、紫陽花やくちなしの花・イチイやコーヒーの木だそうだ。
 玄関左の居間に上がり、ソファーに腰掛けてコーヒーをいただくうち、道路
を隔てた向かい側に住むBさんが来て、盲導犬のことなど話が弾む。
 家の中を案内してもらったが、一階に台所と居間、治療室、寝室のほか、パ
ソコンルームには点字プリンターもある。
 二階も大層広くて、八畳二間続きの部屋が二組もあった。

 盛岡のW邸は、敷地600坪というから正に豪邸だ。
 一階が住居で、二階が博物館。玄関に荷物を置いて二階に上がったが、確か
に広いけれども、展示物が多いため、それほどの余裕はない。
 博物を見学した後の帰り際に、O氏が、青森放送のラジオ番組『耳の新聞』
の取材インタビューをしたいと言い、その時間私は一足早く外に出て、Wさん
の案内と説明で、庭園と樹木を観察させてもらった。
 まずは塀の外側に沿って道路を少し歩き、建物からかなり離れた裏門の所ま
で来たが、門扉に閂が掛かっていて開けられないので、Wさんが大回りして中
から閂を外してくれる間、私は道ばたに立って待っていると、落ち葉を掃除し
ていた年輩の婦人が、
「こんな所に葉っぱを集めてしまい、扉が開かなくてごめんなさい」
 と丁寧に詫びながら、門の前に山積みされた落ち葉を箒で片寄せてくれた。
 庭には樹齢二百年余という桜や榎木、桧・松ノ木など大小の樹木が生い茂り、
瓢箪型の池には二カ所に小さな石橋が掛かっていて、それを這って渡ったりし
た。

 広い庭と樹木に囲まれた閑静な家、それは私の遠い夢である。



   青森市内見物 = まちテク

 10月4日の青森見物の模様は、ICレコーダーをリュックに入れてコイン
ロッカーに預けてしまったため、録音が取れず、記憶に頼るしかない。
 O氏の計画通り、『まちてく』ボランティアの男性3人が、歩行ガイドと案
内説明をしてくれて、私はYさんという中年の男性とペアを組んだ。
 レストラン『津軽路』で軽く昼食を住ませてから、市内散策と見物に出かけ
た。
 歩道と車道の間に自転車専用道路があったり、車道の中央に、雪を溶かすた
めの流水路(海水を流す設備)があったりと、街作りは進んでいる。道路脇の
所々に、腰の高さほどのモニュメントがあり、縄文遺跡から発掘された〈板状
土偶〉や〈射光器土偶)を型どってある。ポストの上に、ねぶたの銅像があり、
「見栄を切っている姿」を触察した。
 和菓子の老舗『おきな屋』で名物のお菓子を試食し、私は〈薄紅〉1780
円を買ったが、これはリンゴを輪切りにして蜜に浸した甘いお茶菓子で、値段
が高いのは、一つのリンゴから3枚しか取れないからだそうだ。
 『村田工芸』では、津軽塗りを見せてもらったが、購入するのは諦めた。
 観光物産館『アスパム』で、リンゴジュースをわが家へ郵送した後、ちょう
ど2時から津軽三味線の実演があり、M氏と並んでパイプ椅子に座って『津軽
じょんがら節』など3曲を聴いた。大きな音で迫力はあったが、音程がいまい
ちだ。
 ねぶた資料館『わらっせ』には、様々な写真や実物、作り方の模型や構造の
解説、歴代名人絵師の業績などが展示してあり、本物のねぶたを分割して、手・
脚・顔がそれぞれ床に置いてあるのを、ゆっくり観察できたのは良かった。
 青森のこの辺りは海に近く、青函連絡船の『八甲田丸』が稽留され、記念館
になっているそうだから、今度来たときは是非見学したい。
 思えば、私は若い頃札幌に11年間住んでいたので、青函連絡船で津軽海峡
を何回も往復したものだ。その時その時で色々な出来事があった筈だが、今や
具体的な場面を回想するというのではなく、ただ漠然とした哀愁が、鳩尾(み
ぞおち)の奥深くにジイーンと痛みを呼び起こした。



   博物館 = 私好み

 盛岡にS氏が創立し、35年間経営・拡充してきた博物館は、今年の7月か
ら、Wさんが館長を引き継いだ。正式な名称は、『S記念 視覚障害者のため
の手でみる博物館』といい、私が訪れるのは4回目だ。
 テーブルを囲んで、互いの紹介と挨拶を交わした後、S氏の説明が始まった。
 最初に、カタツムリが角や眼を出している模型を見せてもらったが、私はで
んでん虫が殻の中に引っ込んでいる状態しか触ったことがなく、当てることが
できなかった。
 次は3人に模型が一つずつ配られ、
「これは何でしょう?」
 と訊かれたが、どれもわからない。蠍とテントウ虫とカマキリである。
 という調子で、館長のWさんも説明に加わり、午後4時すぎまで見学が続い
た。
 S氏一家が手間を掛けて完成させた〈マッコウ鯨の頚椎〉は、既に何回も観
て知っていた筈なのに、私はうっかり忘れていたし、太陽系の比較模型は、何
度触っても驚きである。
 鮫と鯨、あざらしとおっとせいの相違点を、Wさんが解りやすく説明してく
れ、最近新しく登場したライオンや狼の剥製は、毛並みに触れた感じがむしろ
かわいらしかった。
 『大きさが世界一』の陳列室には、お馴染みの実物が所狭しと並べてあり、
ヘラ鹿の角・オサ亀・セイウチの牙・鯨のペニス・駝鳥の卵・大シャコ貝・高
脚ガニ……。
 そして、今回最も驚嘆したのは、陸上競技のハンマー投げ・やり投げ・円盤
投げで使う本物の道具である。テレビを見ていれば、子供でも知っているこれ
らの器具類は、私が想像していた物と全く違っていた。
 S氏は世界史にも詳しく、様々な世界遺産関連の模型を集めており、幸いな
ことに、教え子のT氏は海外旅行が趣味なので、色々な国の珍しい品々を物色
してきては、博物館に寄贈してくれている。モアイ象・アンコールワット・ク
フ王の石棺・ツタンカーメンのマスク・スフィンクス……。
 私の好きな日本史関連では、法隆寺の西院、平等院の鳳凰堂、金閣寺と銀閣
寺、そして姫路城の縮尺模型は、正に圧巻だ。
 鎌倉の大仏と奈良の大仏・仁王の阿像と吽像・阿修羅象の模型、さらには、
秋田県で発掘された縄文時代の日時計や、沖の島に保存されていた大和朝廷の
駅鈴まで復元してあり、一日や二日の見学ではとても観切れない。



   機器展示会 = 下肢障害者中心

 ゆりかもめには初めて乗ったが、どうやら東京湾の海沿いを走っているらし
い。
 国際展示場があんなにも広いとは知らなかったし、来場者がこれほど多いと
は思いもしなかった。
 だが、視覚障害者用の展示品はごく少数で、振動式白杖・点字プリンター・
点字ディスプレイ・点字ラベル印刷機・ナビゲーションシステムなどが1台ず
つあったが、操作体験やシミュレーションはあまり出来ず、説明も不十分だっ
た。
 それに引き替え、肢体不自由者のベッドや車椅子、ADL補助具は多数展示
されていて、カタログやパンフレットも多い。私は竹の車椅子と空気浮上車椅
子を体験し、上肢障害者用の各種生活用具を観察した。義足のコーナーでは、
大腿切断義足を見たが、私がPTを勉強していた頃に最新型と言われた〈クワ
ドリ式〉ではなく、円筒形のソケットになっていた。



   ホテルと食事 = 値打ちぞろい

 浅虫温泉の帰帆荘は、昨年O氏達が専攻科時代の同級会を行った所で、評判
通りの豪華な夕食だった。料理の中身をあまり覚えていないが、毛ガニが丸々
一匹・キンキという大きな魚・焼き肉・握り鮨・うにや帆立の入った刺身……。
 花の湯ホテルの夕食も品数が多く、あんなに大きなお盆は初めてだ。
 ついでながら、繋温泉はアルカリ精泉で、皮膚がぬるぬるになるほど濃い。
露天風呂は汚れている感じで、水垢と精分の区別が付かないほどだった。
 盛岡駅前の東屋は以前に碗こそばを食べた店だが、そば会席はユニークで、
特にそばの実が香ばしかった。いつの日かもう一度食べてみたい。



  [以上 書式の乱れをお詫びします。       竹木貝石]





#404/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  11/12/24  21:26  (352)
あやまちプレゼント   寺嶋公香
★内容
 昨日の雨は夕方までにはぴたりとやみ、イブは星空がきれいだった。今日も
朝から晴れ渡っている。ホワイトクリスマスはお預けとなりそうだ。
 暦や碧達が通う小学校は、今年の二学期が十二月二十五日まである。
 というのも、九月の頭に極端な豪雨が続き、数日間、臨時休校になった。授
業の足りないコマ数を消化すべく、時間割の調整が行われたものの、結局、足
りず。おかげで二十四日の終業式が今日に押し出されることになった次第。
「まったく。本当なら昨日出せていたのに」
 クラス委員を務める相羽碧は、双子の弟の暦とともに、早々と登校した。卒
業アルバムに載せるため、クラスメイト各人の一言を寄せ書き風に記したもの
を、忘れない内に提出しておく、ただそれだけのために。岩瀬という男子が、
あとであとでと言っている内に期限を迎え、それでも思い浮かばないからと家
に持って帰って考えると言い出した。万が一なくされると困る、それならうち
に来てさっさと書きなさいと命じ、昨日の夕方、書かせたのだ。
「おっ?」
 朝一番に提出を済ませた碧達は、教室前に来ると、職員室から持ち出した鍵
でドアを開けた。中に一歩踏み入れ、自分の机を見た途端に碧の口をついて出
たのが「おっ?」だった。
「何?」
 気のない風に聞いた暦も、姉の席に視線を向けて理解した。窓際の列、前か
ら五番目のその机の上には、筆箱大の直方体の包みが置いてあったのだ。赤と
緑が目立つ、明らかにクリスマスカラーの包装紙をしている。
「サンタクロースが現れたみたいね」
 すぐさま“プレゼント”に触るような真似はせず、着席した碧。暦は手提げ
鞄を置くと、姉の席の横に立った。
「開けたら」
「うーん、もらう心当たりがない」
「……」
 暦は口ごもった。弟の口から言うのもなんだが、姉は美人だ。表立って意思
表示しないまでも、碧に好意を寄せる男子は多い。そして、姉は自身が美人で
もてると自覚しているはずなのだが、それなのにプレゼントをもらう心当たり
がないとは、理解できない。
「それに、気味悪くない?」
「黙って置いていくことが? そりゃあ顔を合わせて渡すのは恥ずかしいとか
何とかだろ」
「じゃなくてさ。教室、鍵が掛かってたのよ。言ってみれば、密室にいきなり
物体が出現したように見える状況」
 いきなりではないぞ、と心の中で突っ込みを入れる暦。まあ、言いたいこと
は分かる。昨日の放課後、岩瀬のことで最後まで教室に残っており、鍵を閉め
たのは暦達だった。帰り際、姉の机には何もなかったし、教室内に残る者はい
なかった。
 それが、今朝来てみたらこうなっていたのだから、閉ざされた教室に物体が
現れたように見えると表現しても、間違いではない。
「そんなの、昨日、僕らが帰ったあと、誰かが鍵を借りて入って、置いていっ
たんだ。それしかない」
「確かにね。私達が帰ったかどうかは、ずっと見張っていなくても、下足箱を
見れば分かるし。――ようし、気になるから先生に聞いてこよっと」
 がたんと音をさせて席を立った碧は、暦を置いて廊下へと消えた。
 姉のいない間にプレゼントの中身を見ることもできたが、やめておく。代わ
りに暦がしたのは、そのプレゼントを姉の机の中に押し込むこと。同級生達が
登校してきて、この包みを見られると、何やかや言われるに決まっている。そ
れを避けるには、ひとまず隠すのがいい。
(これを置いた奴だけ、反応が違うだろうから、やってくる男子達を観察して
いたら、正体が分かるかもしれないな)
 そんなことを考えながら戸口の方を見ていると、三人目のクラスメイトが登
校するよりも先に、姉が戻ってきた。
「どうだった?」
「おかしいの。『教室の鍵を昨日、私が返したあと、クラスの誰かが来て持ち
出しました?』って先生に聞いたら、思い返す仕種をしてから『いや、そんな
人は見ていない。鍵を取りに来た人はいなかったわ』だって」
 各教室の鍵は、職員室奥の壁に設置された、鍵掛けボードにずらっと提げて
ある。誰にも見とがめられず、こっそりと鍵を持ち去り、また戻すなんて不可
能だろう。職員室が無人であれば可能だが、そんなタイミングが二度連続する
なんて、まずあり得ない。
「それに、先生は職員室を閉めるまで、ずっといたと言ってる」
「じゃあ、窓か後ろの戸が開いていたことに……」
 姉妹二人は、暦の言葉の確認をした。結果、どちらも内側から施錠されてい
たことが分かった。
「本当に密室? あり得ないわ」
「……プレゼントを置いた誰かは、元々教室の中のどこかに隠れていた。僕ら
が帰ったあと、その隠れ場所から出て来て、プレゼントを置き、また隠れる。
そして今も」
「まさか」
 一笑に付そうとしたができない。そんな風情で、教室後方の掃除道具入れに
目をやる碧。
「ないない」
 暦が笑いながら言った。
「昨日、掃除のとき、最後に箒を仕舞ったけど、いつも通りだった」
 そして掃除道具入れに近寄ると、扉をごんと叩いてから一気に開けた。中に
は箒やちりとり、モップなどが雑然と並んでいるだけで、異常はない。
「どうしても気になるのなら、それ、開けて誰からの物か確かめたらいいじゃ
んか」
「そうね。当人に聞くのが手っ取り早い。……どこへやったの?」
「机の中」
 碧はプレゼント――らしき物――を両手で引っ張り出して机の上に置くと、
人差し指の爪を使い、包装紙を留めるテープをきれいに剥がした。続いて包装
紙自体も取り去り、これまたきれいに折り畳むと手提げの横ポケットに滑り込
ませる。メッセージカードの類は、今のところ見当たらない。
「これ何?」
 現れたのは、茶色の直方体の箱。その表面には特に意味のある文字はなく、
黒い線による円やら三角やら星といったマークが描いてあるくらい。次いで、
ふたを開ける。中身は白い固形物が十二個。2×6の升目に収まっている。一
個の大きさは、人差し指と親指とで形作ったコインほどだろう。それぞれ白い
粉をふいたようになっていた。
「……石鹸?」
 真上から見ていた暦がそう漏らすと、碧が目を見張って首を横に振った。
「やだ。石鹸の贈り物って確か、『おまえ、におうぞ』というメッセージを込
めるものじゃなかった?」
「知らん。でもまあ、石鹸じゃないな、この匂い。甘い感じがする」
 机に手をつき、白い固形物に顔を近付けた暦は鼻を一度、くんとさせた。同
じようにした碧は、「きっとチョコレートよ」と結論づけた。
「お手製みたいだけど、男から手作りチョコをもらう心当たりは?」
「ないわ。そりゃあね、うちのお父さんは小さな頃からお菓子作りをしていた
というから、男子でもお菓子を手作りして不思議じゃない。けれど、もらう心
当たりはゼロ」
「箱の中にも、メッセージ的な物は……ないみたいだね」
「プレゼントを置いていくなら、普通、メッセージカードの一枚でもつけるも
のなのに。気の利かない」
 恥ずかしくて名前を書けなかったという可能性には思い当たらないのだろう
か。そう思った暦だったが、言葉にはしない。それよりもっと面白い可能性が
浮かんだ。
「考えてみれば、男子とは限らないな。女子の誰かかもしれない」
「クリスマスのプレゼントを贈るのに、女子同士でこんなこそこそやる必要が
ないわよ。普通に手渡ししてくれれば、喜んで受け取る」
「……」
 この前テレビで見た同性愛の話を持ち出そうとしたが、これもすんでの所で
やめた暦。いたずらに話をややこしくしてもしょうがない。
「私、考えてみたんだけれど――」
 碧は他のクラスメートが来ない内にと、謎の贈り物を手提げに仕舞い込んだ。
「――名前も書かず、こんな物を置いていくということは、ひょっとしたら最
初は手渡しするつもりだったのかもしれない。それが直前で予定をどうしても
変更しなくちゃならなくなって、こうして黙って置いて行った。どう?」
「急な予定変更があったって、メモをさっと書いて挟むぐらいはできそうな気
がするけれど、そこは人によって違うか……。単に気付かなかっただけとか、
メモを書く時間さえなかったとか。でもさ、姉さん。その考え方で当たってい
たとして、教室の鍵はどうなるの」
「その問題があるのよねー」
 首を捻る碧。
「あとでまた先生に聞いてみるつもり。もっと詳しく、突っ込んで」
 廊下が不意に賑やかになった。クラスメートらの第一陣が到着したようだ。

 暦は放課後を迎えるまで――といっても午前中の早い時点で終わるが――ク
ラスの男子の様子に注意を配った。姉を思ってのことではあるが、それと同時
に、姉にクリスマスプレゼントをするような男子が誰なのか、姉より先に突き
止めたかった。姉の女としてのよさが今ひとつ分からない弟にとって、ぜひと
も聞いてみたいことなのである。
 あっという間に放課後になり、結局、当たりを付けることができなかった暦
は、帰る前に、少しだけ直接行動に出てみた。以前、姉のことをよいと言って
いた友達三名を掴まえると、他言無用と前置きした上で「今朝プレゼントを置
いたのはおまえらじゃないか」と問い質す。
「クリスマスにプレゼントって、そんなことをした奴が!」
 声を大きくしかけた勝浦を、暦はひとにらみして静かにさせた。
 姉の碧はもうすでに職員室に向かっている。担任教師にもう一度、鍵の件に
ついて尋ねるためだ。
 姉が不在のところでも、クリスマスプレゼントをもらったらしいという噂が
広まるのは、なるべく避けたかった。いや、避けねばならない。でないとあと
が恐い……。
「碧さんをいいと思ってる連中、いっぱいいるけどな。抜け駆けをした奴はい
ないはずだぜ」
 茂野が言った。クラスで一番スポーツが得意な彼は、そのためか友達関係が
広く、他の男子の動向をよく掴んでいる。尤も、その網をかいくぐってやるか
らこそ抜け駆けなのだが。
「大勢いるのか」
 そっちに引っかかりを覚える暦。
「そいつらみんな、おまえらみたいに姉さんの見た目に惹かれてるのかな?」
 特に親しいこの三人からは、相羽碧のどこがよいのかを聞いたことがあった。
その際には間違いなく、「顔やスタイル」と言った返事をもらったはずなのだ
が。
「見た目だけじゃねーって」
 三人は声を揃えて否定したきた。続けて性格だの何だのと挙げる友達の言を、
暦は受け流した。
「見た目に惹かれたとしたって、男子のほとんど全員が好きになるってのはお
かしいだろ。うちの姉さんなんかよりも他の女子がいいと、はっきり言ってる
奴はいねえの?」
 話がずれていると感じつつ、ついでに聞いた。所が眼鏡の位置を直しながら
答える。
「そりゃあ、そんな奴もいるよ。少なくとも一人、僕の目の前に」
「……弟の俺を数に入れるなっ」
 指差してきた所の手をはたこうとするが、かわされた。所は笑い声を立てつ
つ、「ごめんごめん。でも、他に確実な奴となると、過去形になっちゃうな」
と気になる言い回しをした。
「過去形? 死んだ奴、いたっけ」
「違う違う。中村君だよ。転校した」
「ああ」
 思い出した。今年の夏休み前に、家の都合で北海道の方に引っ越したクラス
メートがいた。
「あれ、でも中村は、姉さんともよく喋ってたし、他に好きな女子がいるよう
には見えなかったな」
「それは暦の目には、小倉さんしか映っていないせいだろうな」
「――関係ない」
 好きな女子の名を出され、一瞬口ごもる暦。横目で教室内の様子を探る。ど
うやら彼女も退出済みのようだ。
 すると、茂野がやはり教室全体に視線をやってから、声を潜めて言った。
「中村は多分、船谷さんのことを好きだったと思う」
「船谷さんか」
 言われてみれば……。この手の話題に比較的疎い暦でも、この組み合わせに
はまあまあ合点が行った。最初は一方的に話し掛けられて、迷惑がる素振りを
見せていた中村が、いつの間にか親しく会話するようになっていたのを思い出
せる。
「五年のときは、中村も碧さん一本槍だったと思うけど、船谷さんが積極的に
迫ったって感じ」
「バレンタインに何か上げたって噂だけど、ほんとかな」
「本当らしい。なのに転校。笑い話にもなんねえ」
 と言いつつ笑う三人。彼らを横に、暦はふっと思い当たったことがあった。
(船谷さんの前の席って、確か……)

 相羽碧と暦は姉妹であり、当然、同じ家に住んでいる。だから下校は、タイ
ミングさえあえば、最終的には必ず二人きりになる。
「朝の謎のプレゼントのことだけど」
 二人だけになった時点で、暦が切り出した。
「先生に改めて聞いて、何か分かった?」
「まあね」
 そう答える碧は、含みを持たせたような笑い声を付け加えた。
「去年の今頃、クラスでクリスマスのお楽しみ会をやったじゃない。あのとき、
暦達が手品の見破り合戦をやったのがきっかけで、先生ったら、言葉の理屈に
拘るようになったみたいなの。特に私や暦を相手にするときは」
「確かに、そんな感じはあるね」
「そこを踏まえて、今朝、最初に先生に鍵について聞いたときのやり取りを思
い出すと、『クラスの誰かが持ち出したか』って尋ねたのよね、私。それを恐
らくわざと四角四面に受け取った先生は、『クラスの誰も鍵を持ち出していな
い』という意味で答えた。でも実際には、クラスの人じゃない誰かがやって来
て、鍵を借りていったのよ」
「それ、確かめたの?」
「もちろん。そうしたら、先生、口元に笑みを浮かべながら、『いいえ。学校
の人は誰も鍵を持ち出さなかったわ』って。一瞬、混乱しちゃったけど、すぐ
に閃いた。それで、『もしかして、学校の人じゃない誰かが、うちのクラスの
鍵を持っていたんですか』って聞いたわけ」
「やっぱり」
 暦の反応に、先を歩いていた碧が眉を寄せる。びっくりしたような見開いた
目で振り返って、「何が、やっぱりって?」と聞いてきた。
「たいしたことじゃない。姉さんの席って、一学期までは船谷さんの席だった
と気付いて。それでひょっとしたら、二学期になって席替えがあったのに、気
付かずにプレゼントを置いたという可能性が、頭に浮かんだんだ」
 たいしたことじゃないと言った割に、自慢めいた口ぶりになるのを自覚した
暦。手の甲でごしごしと口元を拭う振りをし、姉の様子を窺う。
「なるほどね」
 二度三度と頷くと、碧はまた前を向いて先を歩き始めた。
「当たりよ。中村君がやって来て、鍵を借りて行ったんだってさ。一足早く冬
休みに入ったから、遊びに来たのね。でもこっちは終業式すら終わってなかっ
たから、少なくとも昨日は、直接顔を合わすことができずじまい。持って来た
プレゼントだけでも渡したくて、教室の鍵を借りたと」
「なら、間違いないか。中村の仕業かどうか、迷ってたんだ。わざわざ鍵を借
りて開けて、教室の机に置くものかな。下足箱に入れれば、それで充分だと思
う」
「サイズは……多分、下足箱にも入るわね」
 手提げの口を両手で開き、見下ろしてから答えた碧。
「きっと、食べ物を靴と一緒に置くのが嫌だったのよ。暦だって、女の子に食
べ物のプレゼントをするのなら、下足箱には入れないでしょ」
「そりゃそうだけど」
 暦は今年のバレンタインデー、下足箱にチョコを入れた女子がいたことを思
い浮かべ、打ち消した。
「鍵を持ち出したのが中村君と聞いて、一瞬、あのチョコは正真正銘、私宛の
プレゼントかなとも思ったんだけどな」
 碧が言った。
「何で。好かれていると意識してたのか」
「違うわよ。五年の外掃除で、中村君が掃除道具で手に怪我をしたことがあっ
たでしょ。あのとき、ハンカチを貸してあげたのよ。中村君てば、血が付いた
のを気にして、代わりの物を渡そうかみたいなこと言ってさ。私がいいよいい
よと何度も断ったから、納得した様子だったの。それを今になって……と思っ
たわけ」
 一気に喋った碧は、空を見上げるように大きく伸びをすると、話を続けた。
「さあて、意見の一致を見たことだし、これから方向転換しようかしら」
「……?」
 自宅を目前にして、姉が妙なことを言い出したぞと暦は首を傾げた。碧はそ
んな弟に微笑を返し、自らの手提げを指差した。
「船谷さんの家に行こうと思うの。これを正しい相手に渡さなくちゃ」
「そりゃそうだ。でも、姉さん一人で事足りる」
「私一人で行くよりも、二人で行く方がいいに決まってる」
「何で」
 二人は足を止め、話を始めた。
「考えてもみてよ。自分を好きな異性が、相手を間違えてプレゼントを置いて
いったのよ。理由はどうあれ、いい気はしない。その上、間違われて受け取っ
た人が一人でそのプレゼントを届けに来たら、拍車が掛かる。間違えた人にも
恥を掻かせることになるし。二人で届ければ、また受け止め方も変わってくる」
「そんなものですかねえ」
 百パーセントの納得はしていない。ただ、クラスの男子達に人気があって、
モデルをやるほどの姉が一人で行くよりは、弟である自分が同行した方が印象
が和らぐかもしれないとは思った。
「行くの? 行かないの?」
 答を待ちつつ、きびすを返した碧。今にも、来たばかりの道を戻りそうだ。
 暦は足先の向きを換えずに、「付き合うさ」と答えた。
「ただし、歩きじゃなく、自転車で」

 船谷家まで出向いた相羽姉弟だったが、先客がいた。玄関前で鉢合わせをし
たその先客とは。
「――やあ。久しぶり」
 唐突な再会に、中村は片手を軽く挙げ、型通りの挨拶をするのが精一杯とい
う体であった。この年齢にしては整った顔立ちに、狼狽が浮かぶ。
 面食らったのは暦達も同様で、「久しぶり」と行ったきり、次の言葉がすぐ
には出ない。
「な、何なに? 碧さんに……暦君まで」
 上がり框に立つ船谷が、靴を引っ掛けて慌てたように出て来る。元クラスメ
ート同士の男女が、片方の自宅で二人きりで(実際には船谷の家族が在宅して
いるだろうけど)会っているところを目撃され、恥ずかしがっているのがあり
ありと窺えた。
「えーと、配達間違いがあったみたいだから、来てみたんだけど」
 碧が四人の中で一番早く冷静さを取り戻した。用件を伝えると、プレゼント
の入った手提げを軽く持ち上げてみせた。
「間違い? それってもしかして」
 中村が指差してくるのへ、手提げを開いて中を見せる。覗き込んだ中村は、
「あ、これ、確かに僕が置いた物だけど」
 と、あっさり認めた。碧は満足げに頷く。次に、中村の胸元辺りを指差した。
「やっぱり。何で、宛名と自分の名前ぐらい書かないのよ。おかげで悩まされ
た」
「え……名前、書いてなかった? 忘れてた」
 後頭部に手をやり、照れ笑いを浮かべた中村。赤みがかった顔のまま、弁解
するように続ける。
「でも、宛名は書かなくても、碧さん宛だと分かるからいいと思うんだけどな」
「え?」
 碧は叫び気味に反応し、暦と目を見合わせた。暦の方もしばし、ぽかんとし
てしまった。
「待った。このチョコ、船谷さんにあげるつもりで、一学期の船谷さんの机に
置いたんじゃないのか?」
 一歩前に出て尋ねる暦に対し、中村は中村で、「ええっ?」と声を上げた。
暦の質問を無視し、船谷へ振り返ると、「ごめん、さっき渡したやつ、間違え
たかも」と言い出した。船谷は意をくんだのか、靴を脱ぎ散らかして家の中に
戻って行った。
「どういうこと?」
 改めて聞いた碧に、中村が頭を下げる。
「本当にごめん。渡す物を取り違えちゃったようで……。ホワイトチョコは船
谷さんに渡して、碧さんにはハンカチを」
「何だってー?」
 その直後、船谷が持って来たプレゼントの箱――外観は碧の机にあった物と
そっくり――の中身を四人で確かめてみると、刺繍模様の入った白いハンカチ
だった。
 おかえしのハンカチである旨を伝えるメッセージカードも、名前入りでちゃ
んと付いていた。

「ほんっとに、人騒がせな」
 帰り道、姉と弟は脱力の余り、自転車を押して歩いていた。
「姉さんがもう少し、先生に突っ込んで聞いていれば、こんなに疲れることも
なかったように思うぞ」
 暦の指摘に、碧は無言で応じた。
 中村がどうやって碧の席を認識できたのか。答は簡単。鍵を借りる際に、先
生に聞いていた、ただそれだけだった。
 では、どうして下足箱ではなく、鍵の掛かった教室内の机の上にわざわざ置
いたのか。食べ物ならともかく、ハンカチなのだから気にしなくてもかまわな
いだろうに……。
「僕が来たとき、下足箱は乾いた土が結構付いてたんだ。ああ、碧さんだけじ
ゃなく、どの人のもだけど。昼過ぎまで雨だったから、当たり前だよね」
 台詞の通り、当然という顔で答えた中村に、碧と暦は苦笑いを返すしかなか
った。
 最前のそのやり取りを思い出したのか、碧は悔し紛れに言った。
「昨日は岩瀬君のことで、慌ただしかった。普段なら、もうちょっと下足箱を
きれいにして帰るわ。うん」
「そんな自己弁護しなくたって、プレゼントを置き間違えた中村が一番の原因、
一番悪い。それでいいじゃん。ぎりぎり、船谷さんに嫌な思いをさせずに済ん
だんだし」
「でも、推理が間違っていたのが納得行かないのよねー」
「……」
 そうだった。暦は内心、呟いた。
(姉さんは、名探偵が好きなんだった)
 昔、姉弟間でした会話が思い起こされた。
 自転車を押して歩道を進み、生活道路に入り、角を折れて歩き馴染んだ小路
に。本日二度目の帰宅まであと数分。そんな頃合いに、横の道路をグリーンの
乗用車がゆっくり通り過ぎ、一メートルほど手前で停まった。
「あ、地天馬さんっ」
 気が付いた碧は、スタンドを立てて自転車を置くと、車のそばに駆け寄った。
 その後ろ姿を追いつつ、暦は思った。
(探偵にあこがれるのはいいとしても、これじゃあ同級生の男共は絶対に報わ
れないな)

――おわり




#405/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  12/01/26  21:47  (486)
お題>羊飼い   永山
★内容                                         12/10/18 10:28 修正 第2版
 風に勢いはなく、生暖かいばかりであった。とはいえ、例年ならまだ寒さを
覚える季節だけに、不快感は少ない。
 犬塚千央が仕事場を出たのは、夜九時近かった。彼女の仕事場は、地域では
随一の賑わいを誇るアミューズメントビルの三階。様々な占い師が店を構える
ことから、“占いゾーン”とあだ名されるフロアだ。商売道具の水晶玉は、以
前は持ち歩いていたが、齢五十を超えた今では店の奥で保管してある。
 電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りると、いつものように徒歩で帰途に就く。
所要時間は、普段通りなら十分ほど。
 だが、今夜は違った。呼び止められた犬塚千央は、外灯の列が途切れて暗く
なった一角だったが、聞き覚えのある声に自然と足を止めた。
「あら、あなたは以前いらした――」
 顔にも見覚えがあった。気を許す。笑みを浮かべた。途端に衝撃を食らった。
「羊の声を聞け」
 そんなささやきと共に、腹に痛みが走る。殴られたのか刺されたのかすら判
断できなかったが、ひどい激痛だ。息を詰まらせ、転がった。助けを呼ぼうに
も声が出せない。
 息を整える努力をする犬塚へ、襲撃者は素早く駆け寄り、喉元に銀色にきら
めく刃物を当てた。一気に引くと、血が噴き出した。
 襲撃者は返り血を気にする様子もなく、落ち着いている。手のひらサイズの
紙切れを懐から取り出すと、被害者の身体の上に放った。白地に黒で何か書か
れていたが、暗がりで読み取れない。その内、血が滲んで行った。
 数秒後、ハッチバックタイプの乗用車が滑るようにやって来た。グレーがか
った車体が、襲撃者のすぐ横で停まる。どこかの商用車なのか、両サイドには
戯画化した羊の顔が大きめに描いてあった。その助手席のドアが開くと、襲撃
者は当たり前のように乗り込んだ。
 現れたときと同様、静かに発進した乗用車は、襲撃者を乗せたまま、夜に消
えた。
 同時に、女占い師も消えて行く……。

           *           *

「吉野さん。襲われた女性、亡くなったそうです。病院に着く前に」
 部下の大越がもたらした凶報に、吉野刑事は「そうか」とうなずき、口元を
引き締めた。現場を検証する彼の指先は、アスファルト道に記された血文字に
向けられている。
「これ、どう読める?」
 意見を求められた大越は、くだんの一画を手持のライトで照らしてから、
「ひつじ、ですか。漢字の羊」
「おまえにもそう読めるか。位置から見て、被害者が書き残したらしいんだが」
「そういや、さっきの死亡報告と一緒に伝えられたんですが、被害女性は搬送
される際に、一言だけ言い残したんだそうですよ。『ひつじ』か『しつじ』か
聞き分けられなかったとのことでしたが、これは『ひつじ』で決まりでしょう」
 そういう重要な情報を一瞬でも言い忘れるなと注意してから、吉野はもう一
つの明白な遺留品を、改めて調べた。被害者の傍らに落ちていたという紙片で
ある。
「『羊の声を聞け』か」
「恨み節、ってニュアンスですね」
「決めつけるのは早い。たとえば、神を気取った無差別殺人かもしれん。が、
怨恨の線を優先して進めることになるだろうな」

 現場検証の折に吉野が予感した通り、捜査は怨恨の線を最優先にしつつ、他
の可能性も残す形で進められる方針が立てられた。
 犯行時刻は、現場に遺された被害者の出血具合から、発見・通報される三十
分以内と割り出されていたが、有力な目撃証言はなく、非常線が即座に張られ
た訳でもないため、捜査はまだとっかかりを求めて動き出した段階と言えた。
「こりゃ、思った以上に根が深いかもしれんぞ」
 被害者宅であるマンションの一室を訪れていた吉野は、思わず声に漏らして
いた。
 机上にあった故人の日記を、ひとまず新しい方からざっと遡っていく内に、
気になる記述を見つけたのだ。
<あのお客さんがまた現れるなんて。おかげで思い出させられた。二十年ほど
前になるか。仕舞い込んでおきたいが、もしかすると正直に打ち明けろという
暗示? 羊を生贄にしろと言ったばかりに、大勢死んだ。法的に罪に問われな
いなら、白状してもいい頃かもしれない>
 犬塚千央は几帳面な性格だったと聞くが、日記の日付は飛び飛びになってい
た。問題の記述は彼女が殺される三日前、三月十八日の日付になされていたが、
三月十八日当日の出来事なのか、過去を思い起こして書いたのかは分からない。
あのお客さんとやらの正体もさっぱりだ。
 吉野はさらに数ページを遡ったが、関連ありそうな記述を見つけられなかっ
た。持ち帰り、詳しく検討することになるのだから、現時点で日記にかかり切
りになる必要はない。ただ、もっと古い日記が存在するのか否かは、早く確認
せねばならない。今、吉野が持っている物は、約二年半前の日付が最初になっ
ていた。
「独り暮らしで、日記を特に隠す気はなかったようだから、過去の日記帳があ
るのなら、そんな凝った場所に仕舞ってはいまい。物置小屋がある訳でなし、
そこらの抽斗か棚、押し入れの中辺りにあるはず」
 推測を声に出し、心当たりを探した結果、四冊の日記帳が新たに出て来た。
表紙の書き込みから、十四年前の元日から付け始めたと知れた。
「これ全部を読むのは、骨が折れそうだ」
 嘆息したところへ、大越が部屋に入ってきた。五百メートルばかり離れた一
戸建てに住む、マンション管理人のところへ話を聞きに行かせていたのだ。
「管理人は女性で犬塚千央と同世代でした。そんなに頻繁にではないが、顔を
合わせれば立ち話をよくしたそうです。十年ほど前に入居してきたが、支払い
が滞ったことはないとか」
「それよりも、占いの客について、何か話していなかったか?」
 促すと、大越は小さな手帳のページを繰ってから、ゆっくりと読み上げた。
「若い頃のいい思い出という感じで、お客の若い男性に家までついてこられた
ことがあったと語っていたそうです。多分、二十年以上前の話だろうと言って
いました」
「……関係なさそうだ。他には? 客かどうか分からないが、不審者につけら
れている気がするとか、見張られている気がするとか」
「ありませんでしたね。ただ、一つだけ、ある事件のことを話題にしたら、あ
まり触れたがらないというか、早々に切り上げたがったのが見え見えだったと」
「何の事件だ」
 日記から部下へと視線を移した吉野。大越はまた手帳のページを繰った。
「三年前の初夏、小学校に男が乱入して、児童十数人を斬りつけた事件ですよ。
犠牲者が何人か出た上に、犯人は逃走中に橋から川に飛び降り、溺死したあれ」
「ああ……てことは」
 吉野は再び日記に目をやった。二番目に新しい日記帳を選び取り、三年前の
六月の日付を探す。事件は確か十日だった。話題にするのなら、その翌日か翌
翌日だろうか。
 吉野の読みは当たっていた。六月十二日の記載に意を留める。
<子供が死ぬ事件は、いつも気分が悪くなる。二十四のとき以来、特にその傾
向が強くなった気がする。あれが私のせいでなければ。>
 その日の記述はこれだけだった。さらに、このあと七月二十一日まで、日記
は書かれていない。犬塚の日記がいくら飛び飛びとはいえ、こんなに間隔が開
くのは、他にまだ見掛けていない。五週間以上の空白の後、再開した日記は、
その日の日常的な出来事が書かれたのみだった。
「おい。二十六年前に小さな子供が犠牲になるような事件、覚えがあるか?」
 被害者の現在の年齢が五十だから、二十四のときとは二十六年前。
「二十六年前ですか。私は記憶力に自信ある方じゃないですが、たとえあった
としてもその当時は私自身が子供でしたから……」
 それでも記憶をたぐる風に、斜め上を見つめる仕種をする大越。
「すまん、それもそうだったな。覚えているとしたら、俺の方だ」
 そう言って思い出そうとする吉野だが、該当しそうな事件がいくつも浮かん
で定まらない。殺人事件や誘拐事件だけでもかなりの数にのぼる。
 五分近く考えた末、吉野は気付いた。二十六年前、犬塚千央がどこに住んで
いたかを知る必要がある。

 犬塚千央が間接的であろうと何らかの事件に関与したのなら、事件そのもの
は犬塚の近辺で起きた可能性が高い。二十六年前に彼女がどこで何をしていた
か。辿ってみると、幸いにも犬塚千央は明白な痕跡を残していた。
 短大を出てしばらく商社勤めをするも、二年余で退職。辞めた理由ははっき
りしないが、当人は寿退社のつもりが、結婚詐欺に遭っていたと噂が流れたと
いう。故郷のNに引っ込んだ彼女は、その心の痛手がきっかけなのか、占いに
傾倒し出した。若い時分の彼女はなかなかの愛らしさで知られたらしく、堀崎
ほまれという女占い師に付いて修行を重ね、堀崎の店に占い師として立ち始め
ると、人気を博したようだ。一年で独立し、好調の波に乗った時期――N市で
多数の子供を巻き込む大事件が起こっている。市内の別々の小学校に通う小学
六年生の男児四人が、次から次へと絞殺されたのだ。
 地域一帯の警戒が高まる中、四名の犠牲を出した時点で犯行はぴたりと止み、
犯人は見つからないままでいる。
「当てはまりそうな事件は、これしかない」
 全ての記録を当たった吉野は、大越相手にそう言った。
「他に火事が一件、交通事故が一件あるが、どちらも亡くなった子供は二人。
軽視してよい訳では決してないが、“大勢の子供が死んだ”という条件からは
外れるだろう。案件としても決着しとるしな」
「でも、この小学生連続殺害事件のどこが、羊と関連してるんでしょうか」
 大越の疑問に、吉野もまだ答を持ち合わせていない。
「とりあえず、事件の流れを想像してみるぞ。占い師の犬塚千央を、何らかの
相談で犯人が訪ねる。犬塚は占いの結果を、『羊を犠牲にしなさい』ってな形
で伝えたんだろう。多分、象徴的な意味を込めていったんだろうが、犯人はま
ともに受け取り――」
「それはおかしいですよ。まともに、つまり額面通りに受け取ったんでしたら、
本物の羊を殺す事件が起きていなくちゃ」
「そうだな。では……生贄にする羊イコール弱い者、というイメージで、犯人
は子供を犠牲者に選んだ」
「いい線行ってる気はします。でも、ですね。弱い者として、六年生の男子を
わざわざ選ぶでしょうか。同じ小学生からなら、もっと低学年を選ぶ方が、犯
行は楽なはずです」
「うむ、確かに。おまえも否定ばかりしてないで、考えてくれ」
「占いに羊と来れば、決まってませんか?」
 間髪入れぬ、文字通りの即答に、吉野は一瞬たじろいだ。大越の年代にとっ
ては当たり前だが、年寄りには解せない何かがあるのかと内心、焦りを覚える。
だが、じきに閃いた。
「ああ、こりゃあ迂闊だった。星占いか」
「それとまだ一つ、干支があります」
「干支か。干支なら、特定の年齢の者を狙うのも不思議じゃなくなるな。で、
二十六年前、小学六年生は未年なのか?」
 指折り数えようとした吉野だったが、大越がそれを止めた。
「待っててください。今、ネットで調べてますから」
 何やら携帯端末をいじる大越。やがて「四月から十二月生まれだと、該当し
ません。一月から三月生まれなら未年なんですが」との返事があった。
「被害児童の生まれ月が分かるか?」
「データベース化されていればすぐですけど、どうだか……あ、未解決事件だ
から当然、優先的に処理されているか」
 それでも回答を得るまでに意外と時間を要したが、結論から言うと、殺され
た男子児童は四人全員、未年の牡羊座だったと判明した。
「完全に決まりだな」
「やりましたね、吉野さん」
「どこがだ」
 犬塚千央が殺される前にこの事実を突き止めていたのならまだしも、今とな
っては殺人鬼に転じた占い客を追跡するのは、困難を極めそうだった。

 停滞しつつあった捜査に進展をもたらしたのは、大越刑事の一つの発見であ
った。犬塚千央が殺害されてから、ちょうど一週間が経過していた。
「N市では十四年前にも小学六年生男児が二人、相次いで死亡していますね。
一人は塾帰りに川に架かる橋から転落、もう一人は友達の住むマンションに遊
びに行った帰り、そのマンション六階から転落。いずれも小六の春休みの出来
事で、二人とも未年生まれの牡羊座ですよ」
 偶然にしてはできすぎている。関連事件とする見方に同意する声が上がる一
方、「同一犯なら何故、絞殺じゃないんだ?」という疑問も出た。加えて、被
害者を二人出した時点で、犯行が止んだらしい点も不可解とされた。十四年前
の二件はともに、事件事故の両面で捜査され、はっきりした結論が出ないまま
今日に至っている。殺人鬼なら犯行が連続殺人と世間に認知され、捜査や警戒
が厳しくなるまでは続けるものではないのか。
「それを言うなら、二十六年前に四件で止めたのも妙ですよ。快楽目当てや信
念に従った殺しなら、警戒が厳しくなろうが、心にブレーキが効くとは思えな
い。だからたいていの連続殺人鬼は捕まる」
 犯行がぴたりと止んだり、十二年後に再開したりしたのは、犯人が別の犯罪
で服役していたためではないかとの見方も出た。
「十四年前の二人が死んだ件も含めて、犯人は被害者が条件に合うことを、ど
うやって知ったんですかね」
 会議の場で、吉野が投げ掛けた。根本的な問題が、まだ手付かずであったこ
とに気付かされる。大越があとを引き取り、続ける。
「二十六年前の犠牲者四名に関して調べたんですけど、それぞれの通っていた
小学校では、卒業アルバムを作るに当たって、各児童の個人情報――住所や電
話番号、それに生年月日をリストにし、実際にアルバムに載せているんですよ。
当時は一般的だったようです」
「では、そのリストを手に入れられる立場の者が、容疑者候補になるんだね。
特定のアルバム制作業者が一括して請け負っていたとしたら、絞り込みやすい」
 陣頭指揮を執る警部が、“朗報”に目を細めた。
「はあ。そこなんですが、すでに卒業アルバムが配られたあとに事件が起きて
ますから、学校関係者の目もないとは言い切れない訳で」
「しかし、学校関係者、たとえば保護者の一人だとしても、手に入れられる名
簿のリストは自分の子供が通う学校の分だけだろう」
「仰る通りです」
 引き下がる大越。代わって、再び吉野が口を開く。
「何にせよ、N市の事件を管轄したところに協力を仰ぐべきと思いますがね。
あちらさんは時効を迎えた事件をほじくり返されて、いい気はしないだろうが、
そのときの犯人が犬塚千央を殺した奴かもしれないとなれば、動いてくれるん
じゃないですか」
「私も当然、考えていたよ。手柄の争いになるのが目に見えてるから、協力が
必要ないならうちだけで解決したいんだが……あなたが言うのであれば、仕方
がないか」
 揉め事は御免、もしものときは自分に責任はないよとアピールしたげな言い
種だ。吉野はかみ潰した苦虫を隠し、「よろしく頼みますよ」と言っておいた。

「二十六年前に会ったきりの客が、今になって突然現れて、見分けが付くもの
ですかね」
 県外からの刑事の来訪を受け、説明を聞いた早矢仕刑事は、確認を取る風に
始めた。吉野より年下であるが、大越よりはキャリアを積んでいる。柔和な顔
立ちをしており、よその捜査機関から来た者への応対役をしょっちゅう任され
るというのも頷ける。
「容貌は相当変わっていると思いますし、占い師と客という関係から言って、
顔を合わせたのは恐らく一度、多くても二度がいいところじゃないでしょうか」
「占い師という職業柄、客の特徴を覚えるのが得意なのかもしれない。実際、
日記には過去の客が現れたことを示唆する記述があったんですし」
 吉野は穏やかに否定した。早矢仕刑事もまた穏やかに質問を重ねた。
「仮に覚えていたとしましょう。吉野さん達の見解を全面的に採用すると、占
い師の犬塚千央からすれば、その客は殺人鬼かもしれないと思ってる訳ですよ
ね。それにしては、日記の反応は薄すぎやしませんか」
「……仰る通り、確かに」
 今度は認めざるを得ない。連続児童殺害犯かもしれない人物が、再び目の前
に現れたら、できる限り早く警察に知らせるのが常識だ。犬塚千央に心理的な
負い目があったとしても、日記にはもっと慌てふためいた様が綴られていてし
かるべきだろう。
「思うに、殺人犯自身が現れたんではなく、事件の関係者が姿を見せたんじゃ
ないかと」
「事件の関係者というと、たとえば遺族ですか」
「あるいは、被害者を出した学校の当時の教師なんかも考えられます。あり得
ると思うんですよ。二十六年前の事件の前に犯人が客として現れ、事件後、関
係者が救いを求めて占いに頼ろうと、やはり客として犬塚千央の前に現れてい
た」
「なるほど。関係者は大勢いる。その中の一人でも、犬塚の店を訪れていたな
ら、成り立つ訳だ」
 犬塚と犯人、そして事件関係者の生活圏も重なっていよう。
「でも、事件関係者が今になって、どうして犬塚千央の店を訪ねる必要があっ
たんでしょうか」
 大越が言った。
「犯人なら口封じか、新たな“お告げ”を求めて来ることも考えられます。事
件関係者には、どんな理由が……事件が解決していないのだから、懐かしさと
かではしっくり来ません」
「その通りです。でも、他の理由が考えられないこともありませんよ。根拠は
現在のところ見当たらないが、想像をたくましくするなら……占い師が犯人に
『羊を生贄に』どうこうと告げたことを、事件関係者が知ったとしたらどうで
しょうか」
「子供が殺された責任の一端は占い師にある、と思い込んでも不思議じゃあり
ませんな。それが殺意にまで発展するかどうかは、個人差が大きいが……」
「事件の関係者達の最近の動向を当たれば、怪しい人物が浮かび上がるかもし
れません。犬塚千央という占い師の店に行ったのなら、一時的にでも地元を離
れているでしょうしね」
 そのためのリストを作成し、手分けして調べることになった。

 二十六年前の四つの殺人及び十四年前の二つの不審死、それぞれの関係者の
内、Nを離れ、関東圏で暮らす者が二十五名。犬塚千央が殺害される前の時点
から一時的にNを不在にしていた者が二名。これに、元々関東圏に住居を構え
る、Nでの事件の被害者と血のつながりがある者を加えると、合計でちょうど
三十名になった。
 この内の大半がアリバイを認められたのは、捜査員達にとって幸運であった。
ある者は職場の花見に出ていた。ある者は独りで仕事をしていたが、犯行時刻
まで現場に到着できない地点に職場があった。またある者は、子供を託児所に
迎えに行く途中で、やはり犯行時刻に間に合わないと証明された。
 篩に掛けられ、残ったのが九名。うち四人は、アリバイ証人が家族ではあっ
たが、年老いており、とても単独で殺人を行うことはできまいと見なして問題
なかった。
 こうして五名までに絞り込めた。簡単なプロフィールは、次の通り。※便宜
上、二十六年前の殺人を一括して第一事件、十四年前の不審死を一括して第二
事件と呼ぶ
 
・甲斐紗由美(かいさゆみ)三十歳。東京で専業主婦。第一事件被害者の妹
・新庄督子(しんじょうとくこ)四十六歳。東京で保険勧誘員。第二事件被害
者の母
・鼓昌一郎(つづみしょういちろう)五十八歳。地元で商店経営。第一事件被
害者の父。犬塚の事件の五日前から見本市見学
・中井戸貴也(なかいどたかなり)三十八歳。地元で農家手伝い。第一事件被
害者の親友。犬塚の事件の前日から研修旅行
・八木仲将(やぎなかまさ)四十三歳。神奈川で塾講師。第二事件被害者の担
任教師

「中井戸は除外してかまわないんじゃないですか」
 提案したのは大越。日記のあるページを指で押さえつつ、
「犬塚千央が襲われる三日前に、彼女の店に現れることはできないんですから」
 と続けて言った。吉野は説明をしてやった。
「まあ、念のためだ。下見をした者と実行犯とが別である可能性を考慮したま
で。研修とは名ばかりで、ほとんど慰安旅行みたいなものだそうだからな。自
由に動き回る余裕がたっぷりある」
「ここまで絞れたなら、ある程度の目星は付きますかね」
 口を挟むタイミングを待っていたのか、早矢仕刑事が言った。
「犬塚千央の店があったビルには、当然、防犯カメラが設置されているでしょ
う。犯行三日前の映像を調べれば、五人の、いや、中井戸を省いた四人の中の
誰かに似通った人物が映っているかもしれない」
「防犯カメラはビルの出入り口と各フロアの全景、及びエレベーター内を映す
のみで、店舗毎に向けてる訳ではないから、しらばっくれられると厳しいでし
ょうけどね」
 大越は出鼻をくじくようなことを平気で言う。吉野にたしなめられると、不
思議そうな顔をした。
「鼓と中井戸を調べる際に、直接本人に会って、それとはなしに尋ねたんです
よ」
 再び早矢仕刑事が口を開く。
「過去に事件が起きたあと、ショックを和らげるために、何かに頼ったり相談
したりしませんでしたかという意味のことを。残念ながら、占い師に見てもら
ったなんて返事はありませんでしたが、もし犬塚千央を襲った犯人なら正直に
話すとも思えないし、判断が難しい」
「こちらでも同じことを聞いてみました。尤も、こいつが口を滑らしたおかげ
で、よりストレートな聞き方になったが」
 若い部下を一瞥してから、吉野は続ける。
「三人の内、女性二人が占い師に見てもらったことがあると答えました。ただ
し、事件とは無関係に、興味があるとか、占いが好きだからという理由だと言
っていた。占い師の名前やどこに店を出していたかなんかについては、記憶に
ないという有様」
「微妙な答といったところですか。正直に話してるのか、嘘をついているのか。
誰が犯人にせよ、犬塚の“羊発言”をいかにして知ったのか。そこのからくり
を突き止めることが、解決の糸口になる気がします」
 早矢仕刑事が持ち出した疑問への答は、翌日、告白の形でもたらされた。

 防犯カメラの映像を丁寧に追ったところ、五人の内の一人、鼓昌一郎らしき
男の姿が散見できた。その事実を武器に、本人に早矢仕刑事が事情聴取すると、
しばらく沈黙を守っていた鼓だったが、三時間も経過した頃に突然喋り出した。
「電話が、掛かってきたんです」
 思い切るためか、言葉を区切って話す鼓。早矢仕刑事は何についての返答な
のか判断できなかったこともあり、「電話?」とおうむ返しした。
「順を追って聞かせてくれないか。誰からだったね」
「誰かは分からん。多分、女の声だと思って聞いてたんだが、今思い出してみ
たら、変声機を使った男かもしれねえし。ただ、妙なことを名乗った。『自分
は羊飼い』だと」
「羊飼いか」
 何やら暗示的だなと感じ、その単語を噛み締める早矢仕刑事。
「聞き間違いと思って聞き返したら、やっぱり羊飼いだって言うんだ」
「分かった。じゃあ、その電話はいつ掛かってきた?」
「二月の半ば頃だったと思う。近所の子供が、バレンタインバレンタインて騒
いでた記憶があるから」
「なるほど、そりゃ間違いなさそうだ。いいよ。それで、何の電話だった?」
「『二十六年前、あんたの息子が死んだことに大きな責任を負っている女を知
っている。知りたくないか?』と言ってた。俺は半信半疑だったが、とにかく
聞いてみようと思ったんだ」
「犯人を知っている、ではなく、責任を負っている女を知っている、だったん
だね? うむ、続けて」
「電話の相手が言うには、その女は犬塚千央という占い師で、俺の息子らを殺
した犯人に、『羊を生贄にしろ』とアドバイスした。それを真に受けた犯人が、
羊とは未年で牡羊座の小さな子供だと解釈し、殺人を引き起こしたんだと」
「……あなたはそれを信じたんだろうか?」
「だから、最初は半信半疑だったさ。でも、日を経ても全然忘れられない。逆
に気になって気になって、仕方がなかった。どうしょうもなかったから、見本
市に行くついでに見てやろうと思った。事件に直接関係ないにしても、知らん
ぷりを決め込んでるとは、どんな無責任女なのか、見てやるつもりだった」
「つもりとはどういう意味だね」
「実際には行けなかった。客として占い師の前に座って、詰問していいものや
ら分からなかったし、もし相手が認めたとしたら、後先考えずに殴ってしまう
かもしれないと思った。だから、すんでのところで自制したんだ」
「……鼓さん、羊飼いと名乗る人物は何故、あなたのところに電話してきたと
思う? 心当たりはないかな」
「さっぱり。けどな、電話があってしばらくあとに、当時の担任だった先生と
道でばったり会ったから、それとなく聞いてみたんだ。事件について何か変わ
ったことが最近なかったかって。そうしたら先生は最初、一瞬だけだけどよ、
うろたえたみたいだった。それで重ねて聞いたら、変な電話が掛かってきたと
認めたよ。薄気味悪かったし、できれば忘れたい事件だったから早々に切った
そうだ。だから、話の中身はほとんど聞いてないらしい。ただ、電話の相手が
羊飼いと名乗ったのと、占い師の話をしようとしていたのは確かだと」
「そのとき、鼓さんは同じ電話が掛かってきたこと、打ち明けたのかね?」
「いや。そのときは俺、占い師になんか思い知らせてやらねばって気持ちがあ
ったし、黙っていた。なあ、刑事さん。俺の言いたいこと分かるだろ?」
「ああ、何となくな」
 早矢仕刑事はそれだけ言って、可能性を考え始めていた。
 犬塚千央の情報を掴んだ何者かが、自らは女占い師を罰することが適わない、
あるいは自らの手は汚したくないためか、事件関係者多数に情報を知らせ、代
わりに罰を与えてもらおうと画策していたのではないかと。

 とりあえず、十四年前の不審死は確証がないため切り離し、二十六年前の連
続殺人について、被害者遺族を中心に関係者への事情聴取が行われた。その結
果、半数以上の者が、二月半ばから下旬にかけて、妙な電話を受けていたこと
を認めた。電話の相手が羊飼いと名乗ったか否かは、覚えていない者もいたが、
記憶していた者は全員、羊飼いだったと答えた。犬塚千央に事件の責任の一端
があるのではないかという趣旨は、一貫していた。
「面倒な事態になってきましたな」
 報告を受け、Nにまた出向いてきた吉野は、聴取書類の山を前に、頭を掻い
た。
「殺人の実行犯の他に、犬塚千央に関する話を撒き散らした犯人も捕まえる必
要が出て来るとは、こりゃあ骨が折れそうだ」
「そこなんですがね、吉野さん。あ、これをどうぞ」
 早矢仕刑事は、吉野と大越の二人に茶を勧めながら言った。
「プロファイルってほどのものじゃありませんが、一応、身体的もしくは時間
的に自由が利かなくて、占い師殺害時のアリバイがはっきりしている者をリス
トアップしてしておきました。が、別の見方もあると思うんですよ。これは私
の意見ではなく、他の人から示唆されたんですが。関係者を扇動した人物と実
行犯、別々にいると決め付けるのはよくないんじゃないかというね」
「――なるほど、それはそうだ。電話の件を我々警察に掴まれるのを見越し、
殺害動機のある者が大勢いると示しておくことは、真犯人にとっていい煙幕に
なる訳だ」
「当たっているとして、そこまで周到にやるなんて、積年の恨みは恐いですね」
 そう言った大越は、身震いのポーズをした。
「まあ、犬塚千央に責任はあるかもしれませんけど、ほんのちょっぴりでしょ。
なのに命まで奪われるなんて。普通の神経なら、占い師の羊発言を知ったあと、
関係者全員に大っぴらに教えて、裁判でいくらかでも責任を問えないかってい
う方向に持って行くものでしょうに。それがこんな陰湿な形で電話を掛けまく
って、殺しも辞さないというのは……二十六年前の犯人を捕まえられなかった
自分達警察にも責任があることになってしまいそうで、本当に恐い」
「犬塚千央に殺人犯の姿を投影したのかもしれない。が、それにしても殺すの
はやり過ぎな気がするな。襲撃して痛い目に遭わせる段階で、歯止めが利きそ
うなもんだ」
 そのとき、大越と吉野のやり取りを聞いていた早矢仕刑事が、黙ったまま片
手を挙げた。視線は斜め下を向き、しばし考える様子を見せる。
「どうかしましたか」
「……お二人の言う通り、殺意が強すぎる。もしかすると、全く別物なのかも」
「別物、とは?」
 解しかねて、首を捻った吉野。大越とも顔を見合わせたが、部下もやはり理
解できていないようだ。
 早矢仕刑事が言った。
「念のため、筆跡を調べましょう。犬塚千央の昔の筆跡を詳しく」

           *           *

「やっぱり来たね。分かっていたよ。そりゃそうさ。嘘じゃない証拠に、ほら、
ちゃんと化粧をして、一張羅で着飾っているだろう? 昨日になってやっと見
えたんだ、あんたらが来るのが。抗っても無駄と知っているから、あとはきち
んとした身なりで出迎えるだけ。
 実行犯はどこの誰かって? 何で私一人じゃないって分かったのさ? ああ、
身長差。私じゃ低すぎるか。確かに私は電話を掛け、運転をしただけ。彼は運
転できないし、私もあの女が死んでいく姿を目に焼き付けておきたかったもん
だからね。
 いいことを教えてあげるよ。私の共犯者こそ、あんたらが長年追い掛けてき
た小学六年生連続殺害犯。私はこの目で見た訳じゃないが、本人がそう言って
いた。初めて私のところに来て、小さな子供が難病で助かりそうにない、占っ
てどうにかしてくれないかって頼んできた。私はその頃、自暴自棄になってい
たから適当に答えた。羊を生贄にしてみたらいいってね。そう、私自身の体験
を、犬塚千央に押し付けたのさ。もうとっくに分かってるんだろ? あの日記
は、私がすり替えたんだ。手首が痛くなったが、ある程度はごまかせたみたい
だね。尤も、あの女が一時、私の字を真似ていた頃があって、その癖が抜けて
いなかったのも幸いしたみたいだけれども。でなきゃ、日記以外に残っている
短い文章でも、筆跡の違いですぐにばれていたはず。
 どういうことかって? あんたら警察はどこまで掴めているんだい? ああ、
その通り。犬塚千央は私の弟子だった。店に立たせた当時は、まだ私が“主役”
だったから、お客に書いて渡す“ご託宣”も、私自身の手書きだった。忙しく
なると、間に合わなくなるから、弟子に手伝わせてたのさ。私の字と犬塚千央
の字がそっくりなのは、そのときの名残だろうね。
 そう、動機もこれさ。ちょっと人気が出たと思ったら、あの女は恩知らずに
もとっとと独立して、その上、うちのお得意さんを大量にかっさらっていった。
だからって食えなくなるほどじゃなかったが、恨んださ。落ちぶれた心地を味
わわされた。プライドを傷付けられたっていうかね。
 今になって殺そうと思った理由かい。さっき言いかけたろ。二年ぐらい前に、
共犯になる男がふらりと現れたんだ。で、『占いの通り、未年生まれで牡羊座
の子供を四人殺した。その効果が現れて、うちの子は回復した。今では立派に
成長している』と言うから驚いたよ。忘れかけていた記憶が甦って、次に、何
で羊を生贄にしなさいっていう占いが、そうなるんだと思った。聞いてみたら、
あの男、色々な占い師の所に行って、干支やら十二星座やら、不吉な数字だと
かが脳細胞にこびりついてたらしいんだ。そしてその最後の一押ししたのが、
私の羊を生贄にって占いだった訳。
 驚いたのは二十六年前の四人だけじゃなく、ええっと十四年前だったね、確
か。その頃にも二人、未年で牡羊座の男児を事故死に見せ掛けて生贄にしたと
言っていた。ちょうど、自分の子供の体調が悪くなり、心配の余りまたやった
んだと。
 でも、そんな連続殺人犯を前にして、恐ろしいとは感じなかった。だって、
見た目は普通、喋ることもだいたい理屈が通っていた。そんな男が、お礼に何
でもすると言うから、まあ考えとくわって答えて、そのときは帰ってもらった。
それが昨年末になってまた姿を見せてね。子供が死んだって。病気じゃなく、
交通事故で。これはやばい気がしたが、相手は案外普通だった。無常を感じて
る、早くこの世とお別れしたいが、その前にあなたにお返しをしておかなきゃ、
気が済まないんだと言い出したのさ。
 鬼気迫る調子で言われて、私にも心の奥に押し込んでいた恨みが甦っちまっ
たよ。この男の協力があれば、犬塚千央を簡単に葬れるって信じた。それまで
に空想で計画を立てたことはあったから、あとは細かいところを詰めて、実行
に移すだけだった。
 鍵? あ、犬塚千央の家の鍵か。“偶然、懐かしい顔に会った”ってふりを
して、あの女に接近しただけのこと。表面上、詫びを入れてきたけれど、こっ
ちはもう決心してるから揺らぐことはなかった。そのときに鍵を拝借して、共
犯者に鍵屋に走らせ、合鍵ができたあと、元の鍵は戻した。ね、簡単だろう? 
 共犯の男の名前? さあ、知らないね。とぼけてるんじゃなく、聞いてない
から。自殺を確かめた訳でもない。報道されていないみたいだから、どこかで
人知れずあの世に旅立ったんじゃないかねえ。まあ、三十前の息子か娘を交通
事故で亡くしている男を当たっていけば、突き止められるんじゃないかい? 
せいぜい、頑張りなさいな。
 ――そうだ。男に犬塚千央の顔を確認させるため、一度、店に行かせたんだ
ったわ。防犯カメラに映ってるかもしれないね。役に立ちそうかい?」
 堀崎ほまれはそう言うと、額や眉間に深しわを寄せ、嬉しげに笑った。

 終




#406/549 ●短編
★タイトル (sab     )  12/02/08  19:28  ( 45)
方向音痴と二重人格
★内容
私には景色に対する印象が2つある。
それはどういう感じかというと
強いて言うなら鏡のこっちと向こうみたいな感じか。
子供の頃からそうだった。
子供の頃家の前に三角形の公園があり、そこを一周まわってくると
印象が変わり、もう一周まわると又元に戻りと。

子供の頃から家の近所、親戚の家の近所
などなどには2つの印象をもっていたので、途中でスイッチしても
迷う事はなかったが
新宿とか澁谷など、片方の印象しか持っていない場所で
突然スイッチすると右も左も分からなくなった。
こういう場合には家から頭の中で今いる位置までたどりなおせば元に戻るのだが。

これを私はただの方向音痴だと思っていたのだが。
最近になり、ミクシィの方向音痴やら脳科学のコミュに書き込んで
「私と同じ症状の人いませんか?」とか聞いてもいない。(脳科学のコミュには
一人いたか)。

で、最近になってどうもこれは脳が普通の人と違うんじゃないかという事を
ネットでぐぐって知った。
人間には海馬経由で入る記憶と、尾状核経由で入る記憶があり
(後者は、繰り返し学習などに使う大脳基底核?の部位で、
繰り返し=強迫観念などはここ経由で起こるらしい)
ネズミを使った実験によると、海馬経由で入る記憶は
どこか上空から餌の位置を把握した様な感じになり
ネズミを迷路のどこに放しても餌にたどり着くが
海馬に損傷を与えたネズミの場合には、
例えば「コーナーを3つ曲がった所に餌がある」
みたいな記憶しかなく、スタート位置を変えられると
餌にたどり着けないという。

だから私の方向音痴は、尾状核経由で脳に入ってきた記憶なのかとか。

疑問もある。
もしそうであるなら、風景に対する印象が2つではなくて
3つ、4つとあってもよさそうなもの。
あと、例えば小学校の失業アルバムを見ていると、
「このスナップは印象A」とか「これは印象B」とか
何故かエピソードと結びついている。

あと、最近になって、自分の卒業した高校の付近で
印象が普段のとは違う方にスイッチして
同時に当時の思い出がだーっと蘇るという経験をした。
ここらへんが多重人格と関係あるんじゃないか。とか。




#407/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  12/03/28  15:41  (  1)
冷めた和   永山
★内容                                         23/03/31 19:52 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしております。




#408/549 ●短編
★タイトル (GVB     )  12/10/07  20:57  ( 29)
大型バドミントン小説  「宇宙のシャトル」  佐野祭
★内容
 宇宙船ではちょっとしたことで喧嘩になる。
「てめえ」キサブローが叫んだ。「バドミントンで勝負だ」
 てなわけでキサブローとヤサブローは宇宙空間でラケットを構えて向き合って
いる。
 宇宙バドミントンはかつては宇宙船の船内で行われていた。だが、エキサイト
して計器を壊す事故が多発した。そのため今は船外でプレーすることになってい
る。もちろん宇宙服着用だ。
 ヤサブローのサービスが飛ぶ。
 地球上であればシャトルの空気抵抗で減速するが、ここは宇宙空間、シャトル
には空気抵抗は働かず、シャトルは初速のままで、その速度に対抗するにはどう
するか。
 自らも飛んでゆくしかない。
 キサブローは宇宙服の小型ロケットに点火し、加速し、シャトルに追いつき打
ち返し、ヤサブローのレシーブはキサブローの逆をつく。
 地球上であればフットワークで切り返すことになるが、ここは宇宙空間、足元
は宙に浮いていて、フットワークは使えず、逆をつかれたシャトルを打つにはど
うするか。
 自らも飛んでゆくしかない。
 キサブローは宇宙服の小型ロケットに点火し、逆進し、シャトルに追いつき打
ち返し、ヤサブローのレシーブは少し高く上がった。
 地球上のバドミントンであればシャトルが落ちてくるところを打つが、ここは
宇宙空間、シャトルに重力は働かず、そのまま登り続け、帰ってこないシャトル
を打つにはどうするか。
 自らも飛んでゆくしかない。
 キサブローは宇宙服の小型ロケットに点火し、加速し、シャトルに追いつき打
ち返した。
 このラリーはいつまで続くのか。もちろんシャトルが地面に落ちるまでだ。

                                [完]




#409/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  12/12/23  20:07  (  1)
お題>白い恋文   永山
★内容                                         21/12/24 09:58 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#410/549 ●短編
★タイトル (GVB     )  12/12/24  22:40  ( 88)
大型交通小説  「右折の原理」  佐野祭
★内容
 つい最近まで馬車が走っていた道も、自動車が増えてきている。
 キサブローがスコットランドヤード(ロンドン警視庁)のスギノモリ警部に呼
ばれたのはそんなある日だった。
 なぜイングランドにあるのにスコットランドヤードなのかは深く気にするべき
ではない。東京にあるのに信濃町のようなものである。
「キサブローくん。困ったことが起きてな」
「どうしました、警部」
「右に曲がろうとするとまっすぐ来る車がじゃまになって、非常に危ないんだな」
 キサブローは警部に落ち着いて最初から話してくれるように頼んだ。
「最近自動車が増えているだろう」
「増えてますね」
「道の左側を走っていて、左に曲がる。これは別にじゃまするやつはいないから、
何の問題もないな」
「ないですね」
「ところが道の左側を走っているのに、右に曲がろうとする」
「曲がりますね」
「そうすると、右側の道を乗り越えなければならないだろう。前から来る車がじゃ
まになって危ないじゃないか」
「右側を走ればよいのでは」
 スギノモリ警部は考え込んだ。
「それやってみよう。乗りたまえキサブローくん。まず左側を走る、もうすぐ交
差点だから、右側を走る、」
「前から車が来ます」
 ドンガラガッシャングワァ。

「と、いうふうに、この方法は大変危険だということがわかったわけだ」
「危なかったですね」
「このままでは右折による事故が後を立たない。何かいい方法はないか」
「右に曲がらなければよいのでは」
「そうはいかんだろう。曲がるよそりゃ」
「右に曲がる代わりに、左に曲がるのはどうでしょう」
「代わりになるかそんなもん」
「いや、左に曲がってから後ろに下がれば同じです」
「なるほど」
 スギノモリ警部は考え込んだ。
「それやってみよう。乗りたまえキサブローくん。まず左側を走る、左に曲がる、
後ろに下がる、」
「後ろから車が来ます」
 ドンガラガッシャングワァ。

「と、いうふうに、この方法は大変危険だということがわかったわけだ」
「危なかったですね」
「右に曲がるのも左に曲がるのもだめだとなれば、どうすればいいんだ」
「まっすぐ進むのはどうでしょう」
「そりゃだめだろう。曲がりたいんだから。まっすぐは、だめだと思うよそりゃ」
「いや、大丈夫ですよ。まっすぐいったところで、車の向きを変えればいいんで
す」
「なるほど」
 スギノモリ警部は考え込んだ。
「それやってみよう。乗りたまえキサブローくん。まず左側を走る、まっすぐ進
む、ここでいったん降りて、車の向きを変える、キサブローくん後ろを持ってく
れ、ん、これはさすがに重いな、ちょっと待て、ひと休み」
「車が来ます」
 ドンガラガッシャングワァ。

「と、いうふうに、この方法は大変危険だということがわかったわけだ」
「危なかったですね」
「右に曲がるのも左に曲がるのまっすぐ進むもだめだとなれば、どうすればいい
んだ」
「右に曲がる代わりに、左に曲がるのはどうでしょう」
「それはさっきやったじゃないか」
「いえ、さっきは左に曲がってから後ろに進んだからおかしくなったんですよ。
無理して後ろに下がらなくても、左に三回曲がれば」
 キサブローは紙に図を書いた。
「なるほど」
 スギノモリ警部は考え込んだ。
「それやってみよう。乗りたまえキサブローくん。まず左側を走る、右に曲がり
たいところだが左に曲がる、と。なるほど、これでもう二回左に曲がればよいわ
けだな」
「そうです」
「やっぱり君に相談してよかったよ。なんかこの問題百年たっても解決しないん
じゃないかという気がしてたんでな」
「そんな大げさな」
「いやでもほんと参っててさあ」
「そんな百年後でも右に曲がるときは周りの車が通らない隙に曲がるしか手がな
いなんて、そんなことはないですよ」
「だよなあ。ところで、左に曲がる道がないな」
「ないですね」
「我々はどこに行くのかな」
「右でしょう」
「いや右なんだが、右はもう右じゃないんだな。君が言う右は後ろのことだろう。
後ろに行くにはどうしたらいいのかな。いや、そりゃ左に二回曲がればいいのは
わかってるんだがな」

 日本じゃないんだから危ないのは左折のほうだろうと思ったかも知れないが、
イギリスは左側通行である。

                               [完]




#411/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/01/30  21:09  (  1)
ビブリアを見た男たち   永山
★内容                                         22/12/29 03:00 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#412/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  13/02/11  07:43  ( 37)
500円玉  $フィン
★内容
まあちゃんは七歳、えっちゃんは四歳、きょうもおかあさんといっしょにお買い物で
す。おかあさんが押すカートの横にはまあちゃんがそばについています。えっちゃん
は、カートに乗ってねずみのぬいぐるみを持ってごきげんです。
「おかあさんアイスクリームが欲しいの」まあちゃんは言いました。
「今日は寒いからだめよ。そのかわり今日はあったかくて美味しいおでんを作ってあげ
るね」おかあさんはそう言いました。でも、まあちゃんはおでんよりも、寒くてもいい
から美味しいアイスクリームが欲しいのでした。
 お買い物が終わり、お店のおばさんの計算も終わり、レジ袋の中に品物を入れている
間に、まあちゃんは、きらりとひかるものを見つけました。何だろうとかがんで拾って
みると500円玉でした。まあちゃんは、一瞬どうしようかと考えました。そしておか
あさんを見ました。おかあさんは忙しそうにレジ袋に品物をいれています。まあちゃん
はこれだけあればアイスクリームがたくさん買えるのだと思い、500円玉をポケット
にいれました。
 帰り道まあちゃんは握りしめている500円でおかあさんに買って貰えなかったもの
をいっぱい買えるとわくわくしていました。アイスクリームでもいいし、まあちゃんも
欲しいとおかあさんにねだったのだけども、妹のえっちゃんがのどにいれてつまらせち
ゃうからと買ってもらえなかったおもちゃのおまけつきのキャラメルでもいいな。あれ
を買ったらおかあさんにもえっちゃんにも見せずにヒミツの宝箱入れにいれて、大切に
するの。それよりも、お人形のお洋服でもいいな。まあちゃんのお人形はいつも同じ服
で隣の女の子の人形のようにたくさんのお洋服が欲しいとも思いました。
 だけども……、まあちゃんがおかあさんの顔を見ながら思いました。もしも、500
円玉を落とした人が、まあちゃんのような子供だったらどうしよう。その子供は落とし
たのにも気づかずに家に帰っていたのならどうしよう。その子には病気のおかあさんが
いたらどうしよう。病気のおかあさんしかいなかったらどうしよう。その子はおかあさ
んのために貯金箱をあけていたらどうしよう。その貯金箱に入っていたのが、その子の
全財産だったらどうしよう。
 どうしよう。どうしよう。どうしようまあちゃんは頭の中がどうしようでいっぱいに
なってしまいました。
「どうしたの?」おかあさんは優しく言いました。
「まあちゃん、お店で拾った。これ返しにいく!」まあちゃんは握っていたお金をおか
あさんに見せました。
 おかあさんはまあちゃんからぐっしょりと汗でぬれた500円玉を受け取って、お金
とまあちゃんの顔を交互に見て、しばらくの間考えていましたが、まあちゃんが目に涙
をためているのをみて、うなずいて、「まあちゃんは良い子だね」と頭をなぜてくれま
した。そしておかあさんとまあちゃんとえっちゃんはまたお店に引き返しました。
 お店から出たとき、まあちゃんの手にはもう500円玉はありませんでしたが、どこ
からか子供の笑い声が聞こえたような気がしました。




#413/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/02/27  22:10  (  1)
ガイナス王のゲーム   永山
★内容                                         21/01/13 22:53 修正 第5版
※都合により一時非公開風状態にします。




#414/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  13/03/07  21:41  ( 29)
童話>坂道  $フィン
★内容
梅雨の間ずっと家の中にいたのでまーちゃんとえっちゃんは退屈です。そこでおかあさ
んにねだって、丘の上公園まであじさいの花を見に自転車に乗って連れていってもらい
ました。丘の上ではたこやき屋のおじさんがいてたこ焼き3個買って、べんちで3人で
食べました。たこは小さかったけど、焼きたてで口の中でじわりととろけるようでとて
も美味しいものでした。おかあさんとまーちゃんはさっさと食べましたが、小さなえっ
ちゃんはなかなか上手に早く食べることができません。そのうち雲行きが怪しくなって
きました。朝方はあんなに晴れていたのに黒い雲がもくもく出て大粒の雨が降ってきま
した。
「まーちゃん、えっちゃん、そろそろ帰ろうよ」おかあさんは言いました。
たこやき屋のおじさんはかさを貸してあげるといいましたが、丘の上公園は、比較的高
いところにあるので坂道が延々とつづいています。だから坂道で傘を差すのは危ないの
で断りました。
そうしている間に雨はばけつがひっくり返したように降っています。おかあさんは、二
人の子供を自転車に乗せて坂道をくだりはじめました。
ちょっといってからおかあさんの顔色がかわりました。自転車が古いのと大雨のせい
で、自転車のブレーキが効かなくなっていたのです。ものすごく早いスピードで坂道を
下っていきます。雨はますます激しくなります。少しでも早さを落とそうとおかあさん
は、くつを地面にこすりつけて止めようとしました。だけどもブレーキが大雨のため馬
鹿になったのと急な坂道のため、自転車の早さは遅くなるどころかますます早くなりま
す。あっ、危ない対向車線の車とぶつかりそうになりました。けたたましいクラクショ
ンの音、まーちゃんもえっちゃんも怖がって泣いています。泣き声を聞きながら、おか
あさんは自転車から放り出されて3人が病院の集中治療室に入れられている映像が浮か
びました。時間にして3分でしょうか。やっと平地になって、ブレーキをかけると止ま
りました。
「まーちゃん、えっちゃん、助かったよ」おかあさんは姉妹をぎゅっと抱きました。
「おかあさん、怖かった」二人は涙を浮かべています。
「お母さんも怖かった」涙でぐちゃぐちゃになった姉妹をおかあさんはもっと強く抱き
しめていました。
親子3人の一番怖かった思い出になりそうです。




#415/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  13/03/23  01:40  ( 47)
童話>痛くないきず  $フィン
★内容
まあちゃんは七つ、えっちゃんは四つ、とっても仲のいい姉妹です。今日はおばあちゃ
んとお風呂にはいっています。まあちゃんは一人で頭も身体も洗えるけど、えっちゃん
は小さいので、おばあちゃんに洗ってもらっています。
そしてざぶーん、3人は湯船にはいりました。3人もいっぺんに入ったものだからお湯
がざざざざざとあふれ出ました。
まあちゃんはおばあちゃんの足に残っているきずあとに気がつきました。10cmはある
大きなきずあとです。
「おばあちゃん、このきずどうしたの」まあちゃんが聞きました。
「このきずは痛くないきずだよ」おばあちゃんはまあちゃんのあたまを軽くなぜながら
答えました。
「話を聞きたいかい?」
「うん、聞きたい」まあちゃんもえっちゃんもおばあちゃんの話に耳を傾けました。
「まあちゃんが3歳ぐらいのときだったかねぇ。おばあちゃんはひいおばあちゃんに玄
関で電話をかけていたのだよ。知らない怖い人がはいってくるといけないから玄関にか
ぎをかけてね。電話をかけている最中、スーパーから自転車に乗ったおかあさんとまあ
ちゃんが帰ってきたのだよ。おかあさんは玄関がしまっているのを見るとまあちゃんを
先に自転車から降ろして、裏側から家の中に入るようにいったのだよ。」おばあちゃん
はあひるのおもちゃをぽいっとまあちゃんに投げました。
「それからどうしたの?」
「うん、それからおかあさんは、まあちゃんを降ろして後からたくさんの買い物したも
のを持って家の中にはいったのだよ、裏口からはいって、まあちゃんを呼ぶとまあちゃ
んの声が聞こえないのだよ。変だなと思って、二階にあがってもいない。トイレかなと
思って探してみるけどいない。おかあさんはけっそうかえてまあちゃんがいなくなった
といっておばあちゃんにいってきたよ」
まあちゃんもえっちゃんも興味津々といった顔で見ています。
「おばあちゃんはひいばあちゃんとの電話をきって、まあちゃんを通りにでてさがした
さ。大事な大事なまあちゃんがいなくなったら大変だものね。道を歩いていた、おばあ
さんと女の子に聞いてみたよ。黄色い服と赤いスカートをはいた3歳ぐらいの女の子み
かけませんでしたか? って、おばあさんと女の子はみかけなかったというじゃない
か。それで電車の踏みきりにでもはいっているのじゃないかと、踏みきり工事の警備員
のおじさんにも3歳ぐらいの女の子がはいってこなかったと聞いたけどみかけないとい
ったよ。
それで、おじいちゃんとよくボール投げにいった公園にも自転車でいった。でもいなか
った。おばあちゃんは気が動転して、段差のある歩道に自転車を乗り越えてこけてしま
ったよ。すりむいて血が出たのがわかったよ。痛かったはずだけど、まあちゃんのこと
が心配でそれどころじゃなかった。自転車は前の輪が曲がってキイキイいう。それでも
おばあちゃんは必死で探した」おばあちゃんは一息ついて顔をお湯でぴしょんと洗っ
た。
「お母さんもよくさがして、まあちゃんは3軒隣の家で干していたお花の土で泥遊びを
しているのを見つけたらしい。おばあちゃんもきっと一生懸命探しているだろうからと
思って、まあちゃんを前の座席に乗せて、おばあちゃんを迎えにきたよ。まあちゃんが
泥だらけの顔でおばあちゃんと手を振ったとき、嬉しさで涙がでたよ」
「まあちゃん触ってごらん」おばあちゃんは、まあちゃんに傷あとを指でさわらせまし
た。
まあちゃんはそうっと触りました。
「痛くないきずだよ」おばあちゃんはぎゅうっとまあちゃんを優しく抱きしめました。





#416/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  13/04/23  20:28  ( 81)
童話>まあちゃんのお誕生日会   $フィン
★内容
今日はまあちゃんが7つになった誕生日です。妹のえっちゃんは1ヶ月前に4つになり
ました。ときどき叩いたり叩かれたり、はちゃめちゃな喧嘩もしますが、普段は仲のい
い姉妹です。
「まあちゃん、えっちゃん、でかけるぞ〜」おじいちゃんの明るい声がします。なぜな
ら前日新装開店のパチンコ屋でおじいちゃんは大勝利したのです。おじいちゃんの財布
の中は1万円札がごろごろしています。こんなときのおじいちゃんは気が大きくなって
なんでもしてくれます。その代わり、大負けしたときは、布団にうつぶせになって、手
をばんざいして死人のポースをとり情けないのです。
「どこでかけるの?」まあちゃんは聞きます。
「いいところだよ」おじいちゃんは片目をつぶってウインクします。
おばあちゃんとおかあさんは一生懸命鏡台の前でお化粧しています。どうやらおばあち
ゃんとおかあさんも一緒におでかけするみたいです。でもこの中にはおとうさんがいま
せん。おとうさんは島根で単身赴任中なのです。
「まあちゃん、えっちゃん、おばあちゃん、二人の髪結んであげて」おかあさんは先に
化粧が終わったおばあちゃんに言いました。
おばあちゃんは二人の髪を結びます。おばあちゃんに髪をいじられるのが嬉しいのか二
人はくすくす笑っています。
「おばあちゃん。へたくそ〜おかあさんの方が上手に結ぶよ」7つにもなったら一人前
に文句を言えるようになったまあちゃんです。
みんなよそいきの服をきて、おじいちゃんの運転する車で出発です。ぶっぶーくるまが
しゅっぱつします。窓から見える町並みをみながらまあちゃんとえっちゃんはどこにつ
れていかれるのか、わからずどきどきです。車で20分も走ったでしょうか。白い建物
の赤い屋根のついたしゃれたお店に到着です。
「さあついたよ」おじいちゃんが笑顔で二人にいいます。
「わぁい、ここ何の店?」まあちゃんが聞きます。
「ステーキハウスだよ。なんでも食べてもいいよ。ばあさん割引券ちゃんと持ってきて
くれたのだろうね」おじいちゃんはふとっぱらなわりには、事前にフリーペーパ調べて
割引券を持っているところがおちゃめです。
おじいちゃん、おばあちゃん、おかあさん、まあちゃん、えっちゃん5人がはいると、
事前に電話をかけて予約していた席に案内されました。店内はお肉の焼ける香ばしい匂
いでいっぱいです。静かなクラシックの音楽が店内に流れています。
店員がやってきてお水とメニューを差し出します。おじいちゃんはメニューをもらう
と、どのお肉がいいか考え始めました。割引券があるとはいえ、おじいちゃんが思って
いたよりも全体的に値段が高かったのです。
「ううむ、どれにしようかのぉ……」みんなにもメニューを見せながら相談することに
しました。5分ぐらいして、下から3番目、上から5番目の値段のお肉を4人前頼みま
した。
「まあちゃん1人前食べたい」「えっちゃんも」二人は少しふくれつらです。まあちゃ
んとえっちゃんはまだ小さいから半分づつ食べることになったのです。
「そのかわりとってもうれしいサプライズがあるから楽しみにしておくのじゃよ」おじ
いちゃんは英語を使いました。
さあ、食事です。湯気がたちながらスープがやってきました。お腹もすいているしまあ
ちゃんもえっちゃんもスープは大好物なので、おじいちゃんが食べるものをぶんどって
それぞれ1人前食べました。
次々に料理がでます。5人は美味しいスープとサラダとごはんとお肉を食べてご満悦で
す。
最後にサプライズがありました。ケーキです。大きなケーキがやってきました。店員が
ケーキの上にたててあるろうそくの火をつけました。そして店内に流れていたクラシッ
ク音楽がとまり、誕生日を祝う音楽が流れました。
音楽がとまると店内放送でまあちゃんの名前が呼ばれ、店内のみんながぱちぱちはくし
ゅを送ってくれます。まあちゃんの7つになるお祝いの言葉がおじいちゃん、おばあち
ゃん、おかあさんの口から出ます。まあちゃんはもう目をしろくろさせています。
えっちゃんは羨ましそうに見ています。
店員がカメラを持ってきました。この様子を写真にするつもりでしょうか。まあちゃん
は、笑いながらピンク色の服をきてVサインをして写真を撮ってもらいました。
えっちゃんもみどり色の服でVサインしています。
さあさ、ケーキのろうそくを消してとみんなから促されるとまあちゃんは口を大きくし
て一気にとはいかなかったけど、2回3回にわけてろうそくの火を消しました。
みんなろうそくを消すまあちゃんを見ながらうれしそうです。
ケーキをみんなでわけてみんな食べました。ステーキの上にケーキまで食べたので腹が
はちきれそうです。でもみんな笑っています。
ケーキを食べた後、しばらくみんなで色々なことを言いました。まあちゃんが赤ちゃん
の頃、おしめを替えようとして処理が終わった後噴水のようにおしっこがでたことな
ど、まあちゃんはやめてよ〜と恥ずかしがったけど、目は笑っています。
さて食事が終わり、おじいちゃんが割引券と現金を会計に渡している間に、さっきとっ
た写真が現像されて店員がフレームにいれてもってきました。みんな笑っているいい写
真になっています。
 それから誕生日にもらえる子供用のおえかきセットをまあちゃんはもらいました。
えっちゃんも欲しいと言いましたが、おねちゃんと仲良く使うのですよとおかあさんに
言われ納得しました。
店の外にでると、11月の風は少し肌寒く感じました。でも上を見ると満天の夜空で、
星がきらきら光っています。
「今日はいい日だったのぉ。明日もこんないい日が続けばいいのお」おじいちゃんはつ
ぶやきました。

翌日、「なんじゃぁこりゃあ」おじいちゃんの悲鳴が聞こえます。大人が目をはなした
すきに、まあちゃんとえっちゃんが協力して、昨日ステーキハウスで誕生日のお祝いで
もらった子供用のおえかきセットを使って、真っ白だったふすまに、けばけばしい芸術
的ともとれる巨大ならくがきをしていました。
おじいちゃんのどなり声が家中響きわたります。サプライズの魔法はまだまだ続きそう
です。




#417/549 ●短編
★タイトル (dan     )  13/05/01  06:27  ( 21)
母の死  談知
★内容
 二千十二年十一月二十一日の朝三時頃だった。病院から緊急の電話がかかってきた。
母が意識不明の危篤状態ですとのことだった。すぐ来てくださいと言われた。慌ててタ
クシーに乗って病院にいった。しかし、病院のドアは閉じていて入れない。どうしよう
かと思ったが、電話してみることを思いついて、電話して開けてもらった。二階の母の
部屋へ行くと、ベッドは空だった。看護師さんに聞くと、個室に入っているとのこと
で、そこへいった。母は酸素マスクを当てていた。意識不明状態。「一昭が来たぞ、一
昭が来たぞ」と言うと、二度ほどこくりとうなずいたようだった。分かったのだろう
か。医者が来て、死が近いという。母はただじっとしていた。それから十分くらいした
ろうか。突然看護師が入ってきて、母の目をみて、呼吸を確かめた。そして医師を呼ん
だ。医師が来て、母の状態を確かめて、死亡されていますといった。「四時十七分で
す」と言った。苦しむこともなく、さっと死んでいった。よく生きたひとはよく死ぬこ
とができるのだ。
 私は部屋からだされ、看護師さんたちが、母に死に化粧をした。そして、私はあちこ
ちの葬儀屋に電話して、葬儀の段取りをした。一番安いところにした。
 九時頃葬儀屋が来て、車で母を家まで運んでいった。倒れて以来ずっと病院で、一度
も家に帰してあげられなかったが、死んで家に帰ることができた。夜近所の人が来てく
れた。自治会関係のひとも来た。翌朝九州の親戚がふたり来た。母の妹と弟だ。
朝、葬儀屋の車で、火葬場にいく。私の行っている作業所から職員の女性が来てくれ
た。ありがたかった。私ひとりの見送りという可能性があったわけだし。とにかく、母
の火葬のとき、私親戚二人職員の女性の四人で見送ることができた。火葬されて母は骨
になった。家に帰り、その骨を仏壇に置いた。これからずっと母はそこにいる。




#418/549 ●短編
★タイトル (dan     )  13/05/01  06:32  (  2)
礼文島の夏その後  談知
★内容
それからずいぶん時が過ぎ、ユキも私もすっかり年老いてしまったが、今も元気で暮ら
している。




#419/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/05/29  21:50  (336)
ゲームをしましょう   永山
★内容
 平日の昼下がり、その男は現れた。郵便配達人を装っていたが、そうではな
かった。米田と名乗った彼は、玄関ドアを閉めると、やおら切り出した。
「一切騒がないで聞いていただきたいのですが、心の準備はよろしいでしょう
か。正君を誘拐しました。無事に帰してほしければ、次の二つの要求を飲んで
ください」
「……え?」
 式神佐和子は、思わず聞き返した。男の話はちゃんと聞こえていたのだが、
意味をすぐには理解できなかった。
「式神正君、こちらのお子さんですよね? **小学校の二年生。クラスは四
組。正君を預かりましたので、私の要求を飲んでさえくだされば、すぐにお帰
ししますという話です。お分かりいただけましたか?」
「え、でも、誘拐って、普通は……」
 そうするつもりはなかったのに、つい、米田を指さしてしまった。米田は気
を悪くした風もなく、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。きっちり整えた
髪に、銀縁の小ぶりな眼鏡が、真面目な印象を与えるが、笑うと意外に愛嬌が
ある。
「ええ、普通は姿を現しませんね。誘拐と聞けば、電話で何度もやり取りをし
て、現金を受け渡すという流れを想像されたでしょう。ですが、今の警察相手
に、そんなやり方を取っていては、ほぼ確実に失敗します。私どもは安全な方
法を模索し、一つの結論に辿り着きました。リスクを最小限に抑えるには、ど
うすればよいか。答は、一度で済ます、です。
 あ、おしゃべりしていると、リスクが拡大するので、説明はここまでとしま
す。式神佐和子さん、あなたは要求を飲むしかない。いや、飲まなくてもかま
わないが、その場合、正君の身の安全は保証しません。端的に言えば、彼は命
を落とすことになるでしょう」
「――」
 室内着のポケットを探り、携帯電話に触れようとした佐和子。だが、すぐさ
ま男の注意が飛んだ。
「だめですよ。誰かに連絡すると、その時点でこの話はなかったことになり、
正君はいずれ死ぬでしょうね」
「……」
 手を戻す佐和子に、米田は「念のため、携帯電話の類は出しておいてもらい
ます」と言った。従うしかない。
 佐和子はふと、相手のペースに巻き込まれていることに気付いた。気を強く
持とう。こちらから要求をしてみる。
「あの子が、正が本当にさらわれたのか、私はまだ信じてない。証拠を見せて
ください」
「物の道理ですね。いいでしょう」
 米田は懐をまさぐり、ビニール袋を取り出した。中には水色の布がある。
「正君のハンカチです。あなたの入れた刺繍があるの、分かるでしょ?」
「……手に取らせて」
「かまいませんよ」
 ハンカチを確認した佐和子。我が子が誘拐されたことを実感し、涙ぐみそう
になる。ハンカチを握る手が震えた。布地を凝視する内に、血のような赤い染
みを見付け、さらに感情が高ぶる。
「これはっ?」
「大丈夫。正君は無事です。私どもには最早必要ないので、そのハンカチはお
返しします」
「そんなことより、これは正の血じゃないの?」
「話を急ぎましょう。私どもにも時間の都合がある。聞いてもらえないなら、
話はこれまでだ」
 佐和子は力一杯歯がみした。それこそ、血が出んばかりに。どうにかして自
分の中で折り合いを付け、承知する。その意思を無言の首肯で示した。
「ああ、話がご破算にならなくてよかった。要求を述べるので、よく聞いてく
ださい。一つ目。十万円を払っていただきたい」
「十万円?」
 問い返したのは、聞き間違えたかと思ったから。今時の誘拐身代金の相場が
いくらかなんて知らないが、十万は一人の命に対して安すぎやしないか。
「この額なら、金融機関に行かなくても、出せるでしょう? 調査済みですよ」
「いえ、そんな意味じゃなく……」
 桁を間違えていないか、尋ねようとしたが、すんでのところでやめた。安い
からもっと値上げしてもいいなんていうお人好しの親が、いてたまるものか。
「分かりました。正を帰してくれるのなら、払います」
 へそくりのある部屋に向かおうとするのを、米田は呼び止めた。
「支払いは二つ目の要求が済んだあとで。第一、今、私の前から消えられては、
何をされるか分からないじゃないですか。こっそり、通報されでもしては、た
まらない」
「そ、そうね」
 身体の向きを戻し、改めて男と相対する。上がり框に立っている分、佐和子
の方が頭一つか二つぐらい高い。手頃の武器さえあれば、男の脳天に一撃を食
らわせることも可能な気がするが……恐らく、米田には共犯がいる。安直な行
動は慎むべき。
「要求の二つ目は、あるゲームをこれからしていただきたいのです。誰にでも
できる、簡単なゲームです」
「わ、私が負けたら、正はどうなるのよ?」
「運不運も多少はあるゲームですから、負けたからと言って命まではいただき
ません。まあ、身体の一部をほんの少し、失うことになるかもしれないと心に
留め置いてください」
「な何よ、はっきり言いなさい」
「言えません。言うと、精神状態に悪影響を及ぼし、ひいてはこのあとのゲー
ムに響く恐れがありますからね。それでは面白くないし、真の実力が測れない」
 佐和子は奥歯を強く噛み締めた。いやあっと短い叫び声を上げそうなのを、
必死で我慢する。
「――分かった。分かったから、早くしましょう。嫌な想像をして、気分が悪
くなってきたから」
「それはいけませんね。では、ゲームの説明をさせていただきます」
 米田が語ったゲームとは、次のようなものだった。

・1〜13の数から特定の一つを当てるゲーム
・二名で対戦。参加者には1〜13に該当するトランプカードが配られる
・七回ヒントが出される。参加者は、ヒントの度にカードを一枚、場に捨てる
・七回のヒントの内、嘘が一回だけ含まれる
・最終的に手元に残ったカードから、答を選ぶ。答える権利は一度きり
・より早い段階で正解を言い当てた者の勝利
・正解を得るためのアイテムカードが二種各一枚ある。使用回数は一度きり
 復活:捨てたカードを一枚だけ指定し、手に戻せる。その場合、手札から別
   の一枚を捨てる
 審判:その回までのヒントに、嘘があったか否かを知ることができる

「――以上ですが、何か質問はございますか? 今思い付かなくても、ゲーム
中でもその都度、お答えしますが」
「こんなゲーム、信じられない。あなたは答を最初から知っているのかもしれ
ないじゃないの」
「ああ、対戦相手に関する説明をしていませんでしたね。私ではありません。
佐和子さんの相手は、今井奈緒さんと言って、隣町の主婦の方です」
「主婦って……そう言われても、あなた達の仲間かもしれない。だいたい、そ
の人はどこにいるのよ。ここに来るの? 私が行くの?」
「いいえ。このゲームをするのに、顔を直接合わせる必要はありません。とは
言え、相手の存在を実感してもらうことも大事でしょう。そこで」
 米田は、また懐をまさぐった。最前のハンカチのときとは逆サイドから、モ
バイル端末を出してきた。両手のひらを並べたよりも二回りほどはみ出すサイ
ズだ。厚みは二センチ足らずか。起動させ、何やら確かめてから、画面をおも
むろに佐和子へ向ける。
「分かり易い表現をするなら、テレビ電話ですかね。彼女が、対戦相手の今井
奈緒さんです」
 端末の画面には、佐和子と同年代と思しき、若い女性の上半身が映っていた。
多分、佐和子の映像も向こうに送られているのだろう。
 何となく目礼をしてから、米田に聞く。
「声は通じていないみたいだけれど……」
「はい。音声のやり取りは、私どもだけでやります。あなたと今井奈緒さんは、
場に置かれるカードを見るだけです」
「……もしかするとだけれど、この女性も、子供を……」
「察しがいいですね。その通りです。今、彼女も一人娘を誘拐されて、不安と
戦っている最中なんですよ。同じ立場だから精神面の条件も同じ。健闘を祈り
ますよ」
「え。ちょっと」
 カードが配られた。有無を言わさず、ゲーム開始。

 式神佐和子に渡されたカード十三枚は、ハートだった。相手のカードのマー
クが何なのかは、まだ分からない。
 最初のヒントを米田が告げる。
「『絵札ではない』」
 絵札ではないということは、11、12、13は候補から外れる。無論、こ
のヒントが嘘ではないとして、だが。
(もし嘘だったら、11、12、13のどれかが正解。それに対してあと六つ
もヒントを出す必要はないはず。つまり、このヒントは事実を言ってる……と
考えていいの?)
 とりあえず、13を捨てる。端末画面を見ると、今井奈緒は12を捨ててい
た。マークは同じハートだと知れる。
「お二人とも、アイテムは使いませんね。では、次のヒント。『4で割り切れ
ない』」
 残る数の内、4で割り切れる数は、4、8、12。佐和子は、両方のヒント
に当てはまらない12を捨てた。今井奈緒は8を捨てていた。
「おっと、今井さんから質問が出たようです。『メモを取ってはいけないのか』
ということですが、私どもの答はメモ禁止、です。全て記憶してください」
 そうして三番目のヒントが告げられる。
「『奇数である』」
 これは大きなヒントだ。候補が一気に減る。佐和子は8を、今井奈緒は4を
捨てた。
 それよりも――と、佐和子は熟慮する。
(そろそろ、審判のアイテムの使いどころ? ヒントが七回出るのなら、その
真ん中辺りで使うのが、最善の選択だと思うんだけれど。だって、真ん中で使
えば、それまでに嘘が含まれていてもいなくても、判断の対象になるヒントの
数はほぼ同じ、三つと四つに分かれるんだから)
 七つのヒントの真ん中は四つ目だが、『奇数である』という大きなヒントに、
方針が少し揺らいだ。
 しかし、佐和子はやめた。最初の方針に従いたい気持ちが一つ。もう一つは、
画面の向こうで今井奈緒が、審判のアイテムカードを行使したから。
 もちろん、審判の結果は、今井のみに知らされ、佐和子には伝わらない。そ
れでも、今井のこのあとのカードの出し方を見れば、何かつかめるかも。そう
期待してのことだった。
(ただ、出し抜かれる危険性も高まったわ)
 気を引き締めた佐和子。対戦相手を見据えるメガ、自然と鋭くなる。
「四つ目のヒントは、『2以上である』です」
 これが正しいヒントなら、1が外れる。候補はだいぶ絞られた。3、5、7、
9のいずれかだ。佐和子は4を捨て、今井奈緒は11を捨てた。
 ここで佐和子は挙手をし、審判アイテムの使用を宣言した。
 米田は大きく頷き、メモ用紙に手書きで何文字か書き付けた。その紙を、佐
和子にだけ見えるように差し出す。
(『これまでのヒントに、嘘が含まれています』)
 来た。いいタイミングだったんじゃないかと内心、喜ぶ。佐和子は可能な限
り素早く、頭の中で仮定を組み立てた。
 二番目のヒントが嘘だとすると、4で割り切れるはず。が、三番目の『奇数
である』と矛盾するので、二番目は真実。
 四番目が嘘だとすると、答が2未満、つまり1に確定する。これは他のヒン
トとも矛盾しない。
 一番目が嘘なら、他の条件を満たすのは、11と13。13を既に捨ててし
まったのは、ミスなのかどうか。
 三番目が嘘なら、答は偶数だから、他のヒントも考え合わせると、候補は2
か6か10。
 そこまで考えをどうにかまとめたところで、米田が口を開いた。
「ヒント、五つ目は『素数である』」
 素数……佐和子は小学校時代を思い起こした。
(まず、これ以降のヒントは全て真実。素数は1、3、5、7、11、13だ
から、正解はこのいずれか。……ううん、ちょっと待って。よく思い出さない
と。1は確か素数じゃなかった気がする。ええ、間違いないわ。候補は3、5、
7、11、13。さっきした仮説検討と組み合わせたら、あり得るのは、11
または13。一番目のヒントが嘘だったんだわ)
 もし13が正解なら、復活のアイテムを使えばいい。佐和子は少し安心でき
た。あとは相手次第。先んじなければならない。といっても、一か八かの賭け
に出て、11を答として宣言するのは早いし、危険すぎるだろう。
(けれど……)
 佐和子の内に、悩みと迷いが浮かぶ。最前より分かっていたが、考えまいと
していたことを、今考えてしまう。
(私が勝てたとして、この女性の子供はどうなる?)
 葛藤混じりの思考は、米田の声で中断した。
「六番目のヒントを言いましょう。『6以下である』」
「ええ? そんな?」
 佐和子は思わず、声に出していた。すぐさま口をつぐみ、脳裏で必死に再検
証する。
(11か13が答のはず。なのに、『6以下』? そんなばかなことって。ヒ
ントに嘘が混じるのって、二度? いや、そういう条件じゃなかった。
 落ち着くのよ。それこそ、素数でもカウントして冷静にならないと。
 『6以下』が真実なのだから、『絵札ではない』も真実。『素数』『4で割
り切れない』も真実と分かってる。つまり嘘は、『奇数』か『2以上』。『素
数』であるなら、『奇数』なんだから、『2以上』が嘘になって、答は1? 
おかしい。1は素数じゃないのに)
「式神佐和子さん。捨てるカードを早く決めてもらえますか」
 米田が急かし始めた。
 この段階で、佐和子が冷静であれば、確実に捨ててよいカードが何枚かある
のだから、すぐにでも応じられた。だが、軽いパニックを起こしている今の彼
女は、機転が利かない。
 時間稼ぎのつもりで、質問をひねり出した。
「捨てる前に質問します。えっと、二人とも同じ段階で当てるか、ともに間違
えたときはどうなるの?」
 米田は間髪入れずに返答した。
「決着してほしいのは山々ですが、私どもも時間に限りのある立場ですからね。
両者とも同時に正解した場合は、お二人のお子さんとも無傷でお帰しします。
両者とも不正解の場合は、お帰しはしますが、無傷かどうかは」
 肩をすくめ、両腕を開いてみせた米田。笑顔でいる分、怖さが募る。
 このやり取りは、当然、端末を通して今井奈緒側にも伝わっている。だから
なのか、待っていた様子の今井は、何かを思い付いたように挙手をした。
「私、答が分かった気がするのですけれど」
 一旦、言葉を切り、今井は佐和子をじっと見つめてきた。しかも、何らかの
意図を込めたらしき、目配せをする。
 佐和子は相手が先に正解に辿り着いた様子を前にし、震えと焦りに襲われて
いた。が、今井のウィンクにはじきに気がついた。ただ、意味するところはま
だ分からない。
「回答前に、一つだけ、質問を」
「何でしょう?」
 向こうサイドの男の声が受け答えする。
「2は素数に含まれますか?」
「そのようなゲームの根幹に関わる質問には、お答えできないことになってお
ります。あしからず」
「そう、ですか。2は素数だと習った気がするんですけれどね。まあ、いいで
す」
 つれない返答にがっかりした様子はない。今井はまたも、画面を通して目配
せをしてきた。
 佐和子はそれを受け取りつつ、今の質問文をよく咀嚼した。
(あ……2も素数だ。記憶が朧気だけれど、その数自身と1以外に約数を持た
ない、1以外の自然数が素数。2も当てはまる)
 脳細胞をフル回転させ、ヒントの再々検証に取り掛かる。すぐに分かった。
 三番目の『奇数である』が嘘なのだ。
 絵札にあらず、4で割り切れず、偶数で、2以上で、素数。
 答は2。
 6以下の条件にも当てはまる。
 佐和子は喜色を露わにした。が、まだ考えるべき事柄は残っている。
(彼女は何故、2は素数に含まれるかなんて質問を、この段階でしたのか。そ
して目配せの意味は……。私と彼女にとって、このゲームで最高の結末は)
 佐和子は瞬く間に理解した。答を確定するよりも、さらにずっと早く。
 深呼吸をし、佐和子は画面越しにウィンクを返した。そして口を開く。
「私も分かった気がする。ううん、分かったわ」

 回答が出揃ったところで、米田は告げた。
「正解は――その通り、2でした」

           *           *

 ゲームが終了し、米田は十万円を手に立ち去った。
 少なくとも正君が帰宅するまで、第三者に連絡してはならない。激しくそう
念押しして行った。
 それから小一時間と経たない内に、玄関のドアがかちゃかちゃと音を立てた。
鍵を開ける音だ。
 テーブルに肘をつき、頭を抱え、一点を見つめて待っていた佐和子は、その
物音を聞くや、椅子から跳ねるように立ち上がった。
 玄関を見通せる廊下に息せき切って駆けつけると、正の姿が確かにそこにあ
った。よかった、助かったんだと思った途端、涙に映像がにじんだ。
 合い鍵で入ってきた息子の方は、そんな母親の様子にびっくりして、目を丸
くしている。強く抱きしめられ、「お母さん、痛い」と言った。
「正、どこも怪我をしてない?」
「してないよ。痛いっていうのは、今、お母さんが――」
「本当に? でもこれ、このハンカチ」
 米田から返された水色のハンカチ。くしゃくしゃに丸めて、ポケットに突っ
込んでいたのを、引っ張り出した。赤い染みの部分を息子に見せる。
「これ、あんたのよね。血が付いてるみたいなんだけれど、何かあって怪我を
してない?」
「あれ、ハンカチ、何でお母さんが持ってるのさ?」
「何でって……まず正、あんたはハンカチをどうしたの」
「僕……あ、汚したけれど、怒らないでね」
「怒らないから、早く話して」
 息子の両肩に手を載せ、顔をのぞき込む佐和子。正は少し上目遣いになって、
ゆっくり話し出した。
「下校の途中、公園で遊んでたら、知らないおじさんがうめいててさ。しゃが
んでたし、かわいそうだったから、近寄って聞いたの。どうかしたのって。そ
うしたら、肘をすりむいてしまって、血が止まらないんだって言うんだよ。だ
から僕、ハンカチを貸してあげたの。汚れるのは分かってたけれど、お母さん
にはなくしたって言えばいいと思ったから、そのままハンカチはおじさんにあ
げることにして」
「そ、そう、あげたのね」
 佐和子は困惑の笑みを浮かべた。今ひとつ、状況が飲み込めない。話がかみ
合っていない気さえする。
「ねえ、正。今まで――公園でおじさんにハンカチをあげてから今まで、どこ
で何してた?」
「公園で、遊んでた」
「ええ? おじさんと一緒に、どこかに行ったんじゃないの?」
「ううん。おじさんは一緒に遊んでくれたけれども、どこにも行ってない。ず
ーっと、公園にいた。本当だよ、怒らないで」
「怒ってないから。でも……おじさん以外の誰かと、一緒にいたってこともな
いのね」
「うん」
 困惑は解けない。この子は本当に誘拐されていたのだろうか?
「ハンカチ、戻ってきてよかったね。おじさんが返しに来てくれたのかな」
「そうね」
 息子の言う通りだ。男はハンカチを返しに来た。もちろん、公園で怪我のふ
りをした男と、米田と名乗った男は別人だろうが、共犯には違いあるまい。二
人、いや、今井奈緒とその娘に接触したであろう二人を加えると合計四人の犯
行グループが、ハンカチなど子供が身につける小物を一つ十万円で売りつけに
来た、とも言える……のだろうか?
(警察に届けても、すぐには信じてもらえないかもしれない。かといって、放
置することもできないし。他に被害者が出ない内に)
 通報の決断をした佐和子が腰を上げると同時に、息子が叫ぶように言った。
「あ、思い出した。おじさんが言ってたんだ」
「何なに?」
 誘拐犯に関する手掛かりかもしれない。意識を集中する佐和子。
「帰ったら、すぐに郵便受けを見るようにお母さんに言ってごらん、だって。
どういう意味なんだろう? ハンカチは返してあるのに」
「……お母さんにも分からないわ。とにかく、郵便受けを見てくるから、正は
ここで待ってて」
 佐和子は勝手口に向かった。そこの戸を開けると、右側に設置してある郵便
受けに手が届く。
 つまみを引いてふたを開けると、茶封筒があった。震え気味の両手で取り出
し、急いで中を見ようとする。なかなか開けられず、ふーっと息を吹き込んで、
やっと中身を取り出せた。
「……どういうこと?」
 封筒には十万円と、ことの顛末を簡単に説明した短い文が入っていた。

『この度はかようなひどいゲームにお付き合いくださり、感謝しております。
お母さんお二人が同時に正解という選択をするかどうか、試させていただきま
した。見事に最高の選択をされたので何ら問題はありませんでしたが、もしも
そうでなかった場合は、お子さんの前髪をほんの少しだけ切らせてもらい、お
帰しするつもりであったことを付記しておきます。
 なお、私どもは警察その他に捕まることのないよう、手はずを整え、万全を
期しておりますが、できうることなら、通報や追跡などなさらぬよう希望しま
す』

――おしまい




#420/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/07/15  22:15  (440)
お題>警報   寺嶋公香
★内容                                         13/07/31 20:09 修正 第2版
 机の上に資料を広げ、講義の進め方を固めていたとき、携帯電話が音を鳴ら
した。いつもの呼び出し音でなく、特別に設定しているブザーだ。
 勝原隆一は息を飲み、仕事の手を止めた。念のため、携帯電話を開いてディ
スプレイを確認する。
(……間違いないな。ここしばらくは治まっていたのに)
 隆一は嘆息し、部屋を出る準備を手早く済ませた。鞄を肩から提げ、廊下に
出ると小走りになる。玄関の手前にある窓口で立ち止まり、女性の事務員に告
げる。
「すみません。例のあれが……」
「分かりました。久々ですね。気を付けてください。もし、帰りが時間に遅れ
るようでしたら、連絡を」
 文字通り、事務的な口調だが、端々に気持ちが感じられる。隆一は「お願い
します」と言って、外に出た。
 白地に青と赤で描かれたロゴを目の当たりにしつつ、塾をあとにする。自宅
まで約五百メートル。歩きでもたいした距離じゃないが、少しでも早く移動で
きるよう、隆一は自転車を使っていた。
 予報では曇り時々晴れという天気の下、自転車で疾走すること二分足らず。
自宅に到着した。“勝原”の表札を横目に、家の周囲をぐるりと見て回る。祖
母のあの足腰で、ほんの数分で遠くに行けるはずがない。だから、視界にすぐ
に入るはず。
 が、見当たらなかった。
(ということは……一旦出たが、すぐに引っ込んだか。庭かな)
 そう考え、門扉の間を通る。玄関ドアが開け放してあった。足下を見ると、
土の部分に足跡が微かに確認できた。それを追って庭に回る。
 いた。
「ばあちゃん」
 背中に声を掛ける。祖母は庭の中程でしゃがみ込み、ミニトマトの鉢植えを
なでるような仕種をしていた。
「何か見付けたか? カタツムリでも付いてたか」
「いいや」
 肩越しに振り返った祖母は、思いの外、しっかりとした声で返事した。顔を
見ると、笑みを浮かべている。
「凄く赤くなって、きれいで、おいしそうに見えた。手に取ってみたくなった
んだよ」
 そこまで答えてから、隆一の顔をじっと見つめ、「隆一、今日は早かったん
だな」と言った。
「仕事で近くまで来たから、立ち寄った。顔を見られてよかったよ。でも、あ
んまり長く外に出てると、身体に触るから。そろそろ入ろうか」
「分かった。その前に、いいやつ、摘んどきたいんだけどな。何か、指先に力、
入らなくなっちまって」
「手伝うよ。俺が摘むから、ばあちゃん、手で受けて」
 祖母が顔の前に両手のひらで作った受け皿。しわは増えたが、血色はよくな
った気がした。

(考えてみれば、本当にトマトが気になって外に出たのなら、庭にまっすぐ向
かうはずだ。警報は鳴らない。実際には鳴った。恐らく、徘徊しそうになって、
すんでのところで踏みとどまったんだな。トマトは多分、後付けの理由。これ
からも気を付けないと)
 全ては交通事故のせいだった。隆一はそう思っている。
 隆一の両親が亡くなったのが事故のせいなのは、明白な事実だ。その十ヶ月
後、祖母に徘徊癖が出始めたのも、事故とは無関係ではないんじゃないかと想
像している。いや、徘徊は違うかもしれないが、足腰が弱り、手に力が入りに
くくなった点は、交通事故に起因しているに違いない。
 祖父はもうずいぶん昔からおらず、祖母の面倒を看られる者は、身内には他
にいなかった。教鞭を執っていた隆一は、しばらくは無理を言って教職と祖母
の世話とを両立していたが、徘徊の気が出るようになってからは限界に達した。
 教職を辞し、自宅近くにある進学塾に籍を得た。近いと言っても五百メート
ルほど離れているし、そもそも、ずっと自宅を監視できるはずもない。かとい
って、家中の鍵を内から開けられないようにして、祖母を閉じ込める訳にも行
かない。体裁がよくないし、万が一の災害時に危険すぎる。やむを得ず、監視
システムを導入したのが、二年と一ヶ月前だった。
 監視という名称だが、カメラで家の中のあちこちを見張る訳ではない。祖母
が敷地の外に出たときだけ、携帯電話を通じて連絡が入るシステムだ。祖母常
用のネックレスにそのための装置が取り付けてある。何らかのタイミングで、
遠方まで出て行ってしまったとしても、GPS機能を利した追跡オプションも
あるが、今のところ利用していない。
 このように、監視と言うよりも、見守り機能なのだが、それでも近所にはシ
ステムを導入したことについて何も話していない。ただ、祖母に徘徊の気味が
出だしたことだけは、それとなしに伝えている。伝えておけば、多少なりとも
普段から注意して見てくれるのでは、という期待を込めて。
「間に合いましたね」
 塾に戻った隆一に、女性事務員が微笑みかけてきた。
「何ごともなかったですか?」
「おかげさまで」
「それはよかった」
 女性事務員も、隆一の家庭の事情をある程度知る一人だ。でなければ、勤務
中に自由に出入りすることは難しい。
「ありがとう」
 息を整えつつ、礼を述べると、隆一は与えられた部屋に向かった。

 塾は日曜日も休みではない。子供にとっては学校がない分、押さえておきた
い分野を集中的に学習できる日と言える。塾の先生は、その指導やサポートに
努める。
 そんなある日曜の午後二時半。仕事を終えた勝原隆一が、じりじりと照り焼
きにされるような暑さの中、自転車での帰途でのことだった。
 自宅を目前にした地点でパトカーが停まっていた。何かあったらしい。我が
家から二軒隣の家とその周辺に、立ち入りを制限するテープが貼られている。
 暑さのためか、人だかりはさほどではないが、野次馬はぽつぽついる。
「何かあったのですか」
 顔見知りの主婦に、斜め後ろから声を掛けた。主婦は驚いたように振り向く
と、「勝原さん、今お帰り?」と日常的な挨拶で始めた。
「ええ。でも、直進は出来そうにないなあ」
「言えば通してくれるかも。ほら、あそこに立ってる警察官に」
 彼女がそっと指さした先には、なるほど、制服姿の警官がいる。若くて生真
面目そうな外見だ。
「それで、何があったか分かってるんですか」
「よく分からないんだけれども、石井さんとこで人が死んだみたいなの」
「え?」
 一気に非日常に引きずり込まれた感を覚える。
「殺人かもしれないんだって。青いシートで見えなかったんだけど、多分、圭
さんがお亡くなりになったみたいよ」
 石井圭。今、テープを貼られている家の主だ。息子一人孫一人と同居の女性
で、歳は確か七十八か九だった。
「お元気そうだったのに。トラブルを抱えているようにも見えなかった。強盗
か何かでしょうか」
 現実感が希薄なためか、とにかく喋っていようという意識が勝手に働く。こ
んな詮索するような真似、普段の隆一ならしない。
 相手の返事を聞く内に、ふっと、祖母のことを思い出した。もしかしたら、
近所で事件が起き、一人で不安を感じているかもしれない。こんな立ち話をし
ている場合ではなかった。
「祖母が心配なので、帰ってみます」
 会話を打ち切ると、隆一は見張りの警察官の方に足を向けた。自転車を降り
て押しながら、ゆっくりと近付く。自転車のスタンドを立てると、身分を証明
する物を探しつつ、話し掛けた。
「この二軒隣が、私の家なのですが、通れますか?」
 運転免許証を手に取った警察官は、顔写真と隆一とを見比べ、さらに記載の
住所を確かめる素振りをした。
「申し訳ない、まだちょっと。できれば、遠回りできませんかね」
「奥が行き止まりですから、無理かと」
「ではしばらく待っていてくだ――」
 語尾をはっきり言わず、何やら連絡を取り始める警察官。いくばくかの時間
を要したが、許可を得たようだ。
「余計な物を落とさないよう、自転車を押してゆっくり行ってください。それ
と、石井さん宅とは反対側の端を通るように」
「分かりました」
 ようやく入れた。ほんの数メートルのことなのに緊張した。反対側の規制線
をくぐるときには、余計な汗を掻いていた。
 ともかく、家に入る。祖母に声を掛けると、返事がない。いつもいるリビン
グに向かう。祖母は、教育テレビを付けたまま眠ってしまっていた。
「平和なもんだ。しょうがないな。まあ、出歩いて恐ろしい目に遭うことも、
騒ぎを聞きつけることもなく、よかったとすべきか」
 独りごちてから、窓際の揺り椅子で眠る祖母を起こそうと肩に触れた隆一。
その瞬間、異変に気が付いた。寝息を立ている祖母の衣服の内、夏用の薄手の
カーディガンに、見慣れない赤い染みを見付けたのだ。
(……血?)
 殺人事件が近所で起きたと聞いたせいもあり、連想が直結する。
 祖母自身がどこかに怪我をしているかもしれない。染みは胸元にあり、その
上から滴り落ちたのだとすれば、頭部か顎か、あるいは鼻血か。
 ざっと見たが、特に異常はなかった。ほっとしてから、次に染みに鼻を寄せ、
匂いを嗅いでみた。
(……分からん。鉄臭い気がしないでもない。ケチャップじゃないことだけは
確かだ)
 鼻の効きがよくないと自覚している隆一は、後ろを向いた。庭に面した大き
な窓がある。今の時期、格子戸にして風通しをよくしている。祖母がエアコン
の類を嫌う質で、夏の盛りを迎えるまでは、これで過ごすことになろう。
 格子それぞれの間隔は、およそ二センチ。祖母が何ら問題を抱えていない内
は、網戸でよかったのだが、現状では防犯を考慮し、特別な格子を取り付けた。
デザインに工夫が施され、牢屋のイメージを抱かれぬようになっている。
(窓を閉めれば、匂いが拡散しなくなって、分かるかも)
 そんなことを考えた隆一だが、実行する前に、玄関のチャイムに呼ばれた。
 祖母を起こし損なったまま、玄関に向かう。ドアチェーンを掛け、細く開け
たドアの隙間から誰何すると、相手は警察の者だと言った。手帳で確認も取れ
た。
「石井さん宅の件で、少しお話を伺いたいと思いまして」
 神口という中年の男性刑事は穏やかに始めた。人手が足りないのか、二人一
組ではなく、彼一人だけだ。
「と言われましても、私はつい先ほど、帰ったばかりでして」
「存じておりますよ。見てましたから。仕事帰りだとも聞きました。で、あな
たの他に在宅の方がいらっしゃれば、話を聞きたいと」
「いるにはいますが、どうなんだろう。ばあちゃん――祖母と二人暮らしなん
ですが、祖母は何と言いますか、多少、老化が進んでまして、参考になる話が
出来るかどうか。そもそも、家に籠もりきりの生活ですし」
「はい、近所の方から伺いました。それでも、窓から何かを見たり、あるいは
音を聞いたかもしれない」
「どうでしょう。私が帰宅した時点で、祖母は眠ってましたから」
 隆一としては、協力できることがあるのならしたいと思う一方、祖母に煩わ
しい思いをさせたくないという気持ちも強い。寝ていた祖母が何かを見聞きし
ている可能性は極めて低いだろうから、このままお帰り願いたいところ。
 だが、神口刑事は粘る。
「じゃあ、直に聞きはしませんから、代わりに、おばあさんのいる部屋を見せ
てもらえますか。外での出来事を目撃する余地があるかどうかだけ、確認させ
てください。そうでもしないと、私も帰るに帰れんのですわ。上司にどやされ
ちまう」
「……少しの間なら」
 あまり強くはねつけると悪印象を与えてしまう。そう考えて、許可した。
「祖母はまだ眠ってると思うので、できれば起こさないように頼みます」
「配慮します」
 小声で請け合った刑事を、隆一は部屋に案内した。見ると、祖母はまだ寝息
を立てている。隆一はリモコンを取り、テレビをオフにした。
「失礼をします――」
 やはり小さな声で祖母に断ってから、刑事は窓際に立った。格子戸とは反対
側、通常の窓ガラスを通じて外を見渡す。
 塀代わりの生け垣は、高さはそこそこあって目隠しになっている。ただ、数
箇所ある大きめの隙間からなら、意識して覗けば向こう側が見えるだろう。
「分かりました。念のために伺いますが、おばあさんの目、視力はどれくらい
で」
「具体的な数値は覚えていません。が、よくはないですよ。コンマ一以下なの
は間違いない」
「耳はどうです?」
「年齢相応に、悪くなってますね」
「となると、やっぱり期待しない方がよさそうですな。ところで――」
 刑事は向き直ると、不意に祖母を指さした。
「この赤い染みは何です?」
 忘れていた。隆一は後悔したが、もう遅い。お引き取り願いたいのに、長居
の口実を与えてしまった。いや、もしかすると、もっと悪いかもしれない。
「――分かりません」
 一瞬、気付いていなかったふりをしようかとも考えたが、やめた。やましい
ところはないのだ、嘘をついても仕方がない。
「帰ってきて、祖母を見たら、そうなってました。もちろん、私が朝、出掛け
るまで、そんな染みはなかった」
「どこにも傷はないようですが……」
「えっと、それ以前に血なんですか、それ?」
「私の経験に照らすと、血である可能性が高いですな。ところで、これもご近
所さんから聞いたんですが、あなたのおばあさんと石井さんとは昔、一悶着起
こしたことがあるそうで」
「一悶着? 何のことか……ああ、ごみ出しの? 二年ぐらい前のことですよ。
祖母が曜日をちょっと勘違いしただけで、その場で解決した」
「他にもあるでしょう。あなたが小さな子供のときに、騒音問題で揉めたとか」
「バイオリンですか。あれは私が元々熱心じゃなかったから、やめられてあり
がたかったぐらいだ。そんな大昔の話を持ち出して、何が言いたいんです?」
「おばあさんは、ひどくご立腹されたんでしょう? かわいいお孫さんの教育
に口出しされて」
 その敬語の使い方は間違いだ。隆一は気付いたが、無論、声に出しての指摘
はしなかった。
「ほんの一時のことです。解決済みだ。刑事さん、そんなことで祖母を疑うな
んて、本気じゃないでしょうね」
「ここに上がるまでは、本気じゃありませんでした。でも、血の染みを見たか
らには、考え方を変えざるを得ない。調べさせてもらいますよ」
 刑事は、表情は初対面のときのまま、有無を言わさぬ口調になっていた。
「――刑事さん、染みを調べる前に、聞いてもらいたい話があります。祖母が
一歩でもこの敷地を出ると、私に知らせが届くようになってるんです。その動
きは、メーカーのサーバーにも記録されているはず」
「……よく分からん。詳しく聞かせてもらいましょうか」
 眉間にしわを作り、刑事は腕組みをした。その衣擦れの音が聞こえたのか、
隆一の祖母が「ううーん」と声を漏らし、目をゆるゆると覚ました。

 おかしな事態に陥っていた。隆一も捜査陣も頭を抱えていた。
 隆一の祖母、勝原常子のカーディガンに付着していた赤い染みは、血痕であ
った。間違いなく人間の血液であるどころか、殺人事件の被害者たる石井圭の
血液と一致したとの鑑定結果が出ていた。
 凶器は料理包丁と推測されたが、現場にはなかった。被害者宅の台所から、
包丁が一本消えているため、それが用いられたと考えられた。その後、勝原家
を捜索した結果、庭の隅の土に深く突き刺す形で置いてあったのが発見された。
犯人によって拭われたのか、指紋などは全くなかったが、血液は被害者の物が
検出された。
 加えて、常子のいた部屋の床からもほんの三滴、同じ血液が少量ながら出て
いた。常子の右側、窓との境目の絨毯に、小さいがはっきりとした跡を残して
いた。常子が右利きだったことから、右手に着いた血が、帰宅後に落ちたので
はないかとの見方が有力視された。
 これらの証拠から、勝原常子に容疑が向けられたのは、当然の成り行きと言
えた。
 一方で、勝原常子が事件当日、自宅から一歩たりとも出ていないことも、綜
合警備会社のコンピュータサーバーにて照会、確認がなされた。故障や改竄の
形跡はなく、常子がネックレスを外した事実もない(外すとその行為自体がサ
ーバーに記録される仕組みになっている)。
 他にも、常子の関与を否定する材料はあった。彼女の現在の足腰では、石井
家まで往復するだけでも大変で、ましてや石井圭を刺殺するなど不可能に近い
と考えられた。被害者が動けないようにした上で、体重を乗せて倒れ込むよう
に刺せば可能と推定されたが、これとて体力の消耗が激しく、起き上がること
さえ一苦労だろうと見なされる始末。返り血も大量に浴びるため、とても染み
程度では済まないという。
 様々な要素を勘案し、現時点では勝原常子の身柄は自由なままだ。尤も、警
察の監視は付いているだろうし、彼女自身、自由に動ける身体でもないが。
「またですか」
 すっかり顔なじみになってしまった神口刑事の来訪に、隆一はつい皮肉っぽ
い笑みを浮かべて応じた。
「悪く取らんでもらいたいですな」
 神口刑事は玄関に立ったまま、真顔で答えた。
「どういう意味ですか。疑いを解いていないのは知っていますが……」
「あなたのおばあさんが犯人じゃないにしても、無関係とは思えんので。犯人
じゃないのなら、真犯人に濡れ衣を着せられそうになってるということでしょ
うが。そいつはおばあさんに何らかの恨みを抱いてる奴かもしれない」
「祖母に聞いても、有益な返事は得られないと思いますよ。ご存知でしょうが、
記憶があやふやなことが多くて。証言としては、心許ないんじゃないですか」
「そこなんだが……犯人は、おばあさんについて、よく知らなかったとう場合
も考えてみたいと思いましてね。協力をお願いしますよ」
「ん?」
 今までとはいささか異なる見方を持ち出してきた刑事。隆一も気になった。
しばし逡巡し、上がってもらうことにする。
「よかった。こういう場合、近くの喫茶店にでも出向いてもらうことが多いん
だが、今の勝原さんの立場だと、おばあさんを一人にしておけないでしょうか
らな」
「短時間なら、大丈夫ですよ。近所の人も、何人かは察しているはずですし。
それはそうと……インスタントのアイスコーヒーを出すのはオーケーなんです
かね」
「賄賂になるかどうか? 茶菓子や飲み物程度なら問題ありません。まあ、建
前上、お構いなくと言っときましょう」
 隆一は自分の分と合わせ、アイスコーヒーを注いだグラス二脚を用意した。
 刑事は少しだけ口を付けると、早速本題に入った。
「最前、言いましたな、勝原さん。おばあさんの状態について、近所で知って
いる人が一部いるというようなことを」
「は? ええ、まあそうですね」
「石井圭さんを殺害した犯人が、他人に罪を擦り付けようと考えた場合、おば
あさんのような方を選ぶものだろうか。それが目下の私の疑問です」
「つまり、祖母のような高齢者を犯人に仕立てるのは、無理のある計画だと?」
「その通り。いや、少しニュアンスが違うか。足腰が悪く、徘徊の気味がある
高齢女性に濡れ衣を着せようなんて、普通なら考えない」
「ですが、この事件の犯人は、そうしたに違いないんです。祖母を犯人に仕立
てようとしている」
「個人的には、私もその線に傾いている。だから、そんなに興奮しなくても大
丈夫ですよ」
 言われるほど興奮が現れていたのか、と顔を手の平で拭う隆一。アイスコー
ヒーでクールダウンをはかってから、刑事の話に耳を傾けた。
「犯人が濡れ衣を着せる相手におばあさんを選んだのは、石井圭さんとおばあ
さんとの間でのもめ事を知っていたからかもしれない。だが、それ以前に、お
ばあさんの健康状態について、よく知らなかったためとも考えられる」
「……なるほど。知っていたら、わざわざ祖母を殺人犯に仕立てようとは思わ
ないでしょう。土台、無理があるのだから。ということは、この近隣で祖母の
状態について知らない人が容疑者に……?」
「加えて、被害者とのもめ事は把握していた人物になりますかな。あなたにお
願いしたいのは、条件に当てはまる人物のリストアップです。ああ、その中に、
石井さんと揉めていた人物がいれば、なおいいが、そこまでは求めません。凶
器を準備していなかった点から、計画的ではなく、衝動的な犯行だった可能性
も大いにあるので」
 神口刑事の方針に納得した上で、隆一はリストの作成を始めた。

 隆一の作ったリストと、捜査員らによるアリバイ確認などを照らし合わせ、
可能性のある人物は二人に絞られた。
 園山梨奈は一家三人の主婦で、この区画に越して来て間がない。少なくとも、
隆一の祖母の具合を察しているとは考えにくかった。反面、被害者と勝原常子
との間に起きた何年も前のトラブルを知っているかどうか、いささか怪しかっ
た。人の口に戸は立てられないので、噂が伝わる可能性はある。それを言い出
すと、きりがない。
 角川陽平は定年退職間近の、夫婦二人暮らし。事件当日は、元々は息子達の
誘いで夫婦共々出掛ける予定だったのが、前日になって急に体調が優れないと
言い出し、家に独り残ったという。区内では古株で、当然、過去のトラブルに
ついて知っている。一方で、勝原常子の身体の具合を全く知らないというのは、
仕事一筋で生きてきた男らしいと言えばらしい。
「リストに挙げておいてなんですけど」
 神口刑事の経過報告に感謝の意を示したあと、隆一は眉根を下げた。
「私にはどうにも信じがたいです。お二人のどちらかが殺人犯だなんて。そり
ゃあ、親しくお付き合いをしている訳じゃありませんが、園山さんのところの
奥さんはおとなしめで、人と喧嘩するタイプには見えません。角川さんにして
も、冷静沈着を絵に描いたような人ですよ」
「確かにね。我々の調べでも、石井圭さんとの接点が、いまいち判然としませ
ん。被害者との間にトラブルがあったという話も、皆目なし」
「間違えていたんでしょうか……」
 ため息交じりに肩を落とす隆一。刑事は意外そうに片目をつり上げた。
「あれあれ。あなたがそんなこと言ってどうするんです? おばあさんを犯人
と認めるんじゃあないでしょうな?」
「とんでもない!」
 隆一は首を激しく横に降った。
「私が間違えたかもと言ったのは、リストですよ。リストに漏れがあったのか
もしれない」
「ふむ。実は、それくらいは想定の内でしてね」
 隆一は、刑事が前提を覆すようなことを言い出したので、目を見開いた。
「どういう意味ですか、刑事さん」
「最初からご近所さんに限定したでしょう? あれがよくなかったのかもしれ
ない。石井さん宅に出入りする人物についても、もっと詳しく調べる必要があ
る」
「そうか……」
「が、今現在、私が気にしているのはその点ではなく……血痕の謎が問題なん
です」
「ああ、それがありましたっけ。犯人はどうやって、うちの祖母の服に血を付
着させたのか」
「包丁の方は、家の門から忍び込み、そっと置けば気付かれない可能性は充分
あります。だが、服に血液となると、勝手が異なる」
 事件当日の勝原家は、玄関や勝手口は言うに及ばず、窓も全て、内側からし
か開け閉めできないようになっていた。犯人がどうにかして入り込み、眠って
いる常子に血を付着させた後、何らかの方法で施錠した上で逃走したというの
は、まず成り立たない。
「いわゆる密室状態の家に入れないとなれば、方法は一つだけ。おばあさんを
呼び出し、隙を見て噴き掛けたとしか――」
 刑事の台詞を、隆一が強引に引き取る。
「それは絶対にあり得ません。祖母が呼び鈴を聞きつけ、応対に出られるとし
たら、正常なときです。もし正常なら、血のような物を掛けられて気付かない
はずがない。それだけしっかりしてるんです」
 力説に、神口刑事は「分かってます」と、隆一の勢いを制するように手のひ
らで押さえるポーズをした。
「何度かお話をさせてもらって、その点はようく理解できました。しゃきっと
しているときは、この上なくしゃきっとしている」
「すみません。分かっていただけているのなら、いいんです。祖母はほんと、
何ともないときは、起きてさえいれば……」
「うん? どうかしましたか」
 明らかに台詞の途中で黙り込んだ隆一に、刑事は怪訝そうに首を傾げた。
 隆一の方は、たった今思い付いた仮説を砂上の楼閣に終わらさぬよう、きっ
ちり組み立てようと、脳細胞をフル回転していた。
「――神口さん、こんなことまで教えてもらえるかどうか不安なんですが」
「何を今更。遠慮なく言ってもらいましょう。言うだけならタダ。答えられな
いようなら、はっきり断りますよ」
「被害者宅から、何かなくなった物はありませんでしたか。包丁以外で。スト
ローみたいな物かもしれない」
「えっと、確か、金目の物は手つかずで置いてあって、唯一つ……」
 メモを繰る神口刑事。じきに目当てのページを見付けた。
「あった、これだ。孫がいい歳して科学の実験好きで、大人の科学実験セット
みたいな物を、ずっと買い続けているんだそうです。その中の一点が消えてい
たとの報告が上がってますな」
 刑事の答は、隆一の顔に喜色を一挙に広げた。
「ありがとう、神口刑事。正解とは限らないけれど、思い付いた方法がありま
す。ぜひ、検証してほしい」
「伺いましょう」
 居住まいを正す刑事に、隆一は慌てて肝心の質問を発した。
「大前提として、その実験セットには、スポイトか注射器の類が入っていたと
思うのですが、いかがですか」
 この問いに、刑事はすぐに返答した。
「分かりましたよ、勝原さん。あなたが何を考えているのか」

 容疑者逮捕が報じられたのは、隆一と神口刑事がこんな会話を交わした二日
後だった。
 保田光太郎というセールスマンで、石井家には幾度も足を運び、被害者とも
親しかったという。その親しさは個人的なそれになり、保田は石井圭から投資
名目で大金を引き出していた。実際に運用していたようだが、最初に口約束し
たような利益は出せず、それどころか赤字を増やしていた。しばらくはごまか
していた保田だったが、当日、事実を突き止めた石井圭に詰問され、とっさの
犯行に及んだらしい。
 保田は被害者と親しくなる過程で、愚痴も聞かされていた。その中に、二軒
隣の勝原常子に関する話も含まれていたのだ。そいつに濡れ衣を着せられるか
もしれないと考えた保田は、石井家から凶器の包丁とともに、ちょっとした下
準備をした科学実験セットを持ち出し、目撃されぬよう、勝原家に向かった。
門から忍び込み、観察し、常子が庭に面した窓際で居眠りしていると知る。そ
っと近付くと、保田は格子の間から実験器具の注射器を使い、被害者の血液を
室内に向けて噴出させた。血は、保田の思惑通りにカーディガンに染みを作っ
たが、床にも落ちた。
 包丁も格子の隙間から投げ入れようとした保田だったが、包丁の持ち手が僅
かにサイズが大きく、通らなかった。仕方がないので、庭の隅に突き立てるこ
とにした。
 このようにして犯行を遂げた保田だったが、最後の詰めを誤った。注射器は
科学実験セットとともに、近くを流れる川に捨てたのだが、そのとき指紋の拭
き忘れがあった。
 注射器の内側に付いた指紋を、すっかり失念していたのだ。

「おかげで助かりましたよ。あのとき、勝原さんが思い付いてくれなかったら、
こんなに早く、解決していなかったかもしれない」
「それは謙遜が過ぎるってもんですよ、神口さん」
 保田が犯行を認め、起訴が固まったとの知らせを持って、神口刑事は隆一の
家を訪れていた。
「いや、本気で言ってませんね? 本気なら、感謝状と金一封を持って来てい
たっていいのに、見当たらない」
「さすがに、そこまでは」
「こちらこそ感謝しています。神口さんが、こちらの話を信じてくれて、お願
いも聞いてくれたから、祖母の無実を証明できた」
 晴れ晴れとした表情で言い、隆一はそっと後ろを見やった。目線の方角には、
壁を隔てて祖母がいる。テレビで懐メロ番組を見ていたが、また眠ってしまう
かもしれない。
「お礼と言っちゃなんですが、神口さんを一度、食事に招待したいと思ってま
す。もちろん、我が家の手料理なんてたいした物はないから、どこかのお店で」
「そりゃいけませんや」
 顔の前で手を振る刑事。
「私も含めて、警察は警察の仕事をしただけなんで。逆に、私は個人的にあな
た達にごちそうしたいくらいだ。おばあさんには、一時でも疑ったお詫びも兼
ねて」
「嬉しい話ですが、祖母が外出できるのは、タイミングが難しいんですよねえ」
 困り顔になった隆一に、神口刑事も似た表情になる。
「そうか。私もいつ休みが取れると、確約できる訳じゃないですしなあ」
 ぼやき気味に言ってから、ふっと、笑みを戻した。
「まあいいじゃありませんか。いずれ都合のいいときにということで」
「神口さんがそうおっしゃるのでしたら……」
「出掛けるときは、見守り装置の解除を忘れずに」

――おわり




#421/549 ●短編
★タイトル (GSC     )  13/08/28  07:50  ( 53)
フリー日記: ポケモン スタンプラリー    / 竹木 貝石
★内容

   8月21日(水)

 ポケモンスタンプラリー『2013トライアングル』に行ってきた。
 おじいちゃん(私)・おばあちゃん(妻)・R子(三女)・その子ども達
(孫3人)、合計6人で出かけ、疲れは残ったが楽しかった。
 まずJR中央線で金山駅へ。一日乗車券を買い、スタンプ帳を追加で3枚
もらって(元々2枚は持っていたので合計5枚になった)、下記の順序で名鉄
電車を乗り継いだ。
 金山(スタンプ) → 上小田井(スタンプ) → 岩倉(スタンプ) → 犬山
 (スタンプ) → 新可児(スタンプ) → 犬山 → 岐阜(スタンプ) → 
 笠松 → 羽島市役所前(スタンプ) → 笠松 → 一宮(スタンプ) → 森上
 (スタンプ) → 津島(スタンプ) → 須ケ口(スタンプ) → 名古屋
 (名鉄バスセンターまで行ってスタンプ)。
 スタンプ台のテーブルは概ね改札口の外にあり、M子とH男がスタンプ帳を
2枚と3枚に分け合って押し、たまには私が手を添えて押したりした。
 パネルをバックに孫達の写真を撮り、乗り換えの電車が来るまでに時間が
あれば、駅舎の外に出て案内地図を見たり、周囲の様子を眺めたりする。
 電車の中では、私がH男やM子を膝の上に抱き、B子とR子が交代でK男を
抱いたり負ぶったりして、電車が空いているときには、子供達が車内を
歩き回って喜んでいた。



   8月26日(月)

 ポケモンスタンプラリーに参加してきた。
 金山 → 鳴海(スタンプ) → 中京競馬場前(スタンプ) → 知立
(スタンプ) → 豊田市(スタンプ) → 西尾(スタンプ) → 新安城 → 
美合(スタンプ) → 本宿(スタンプ) → 豊橋(スタンプ) → 神宮前 → 
河和(スタンプ) → 太田川(スタンプ) → 中部国際空港(スタンプ) → 
金山。
 前回(先日)の残り分をほぼ回り終えて、大いに満足出来た。



   8月27日(火)

 ポケモンスタンプラリーの最終仕上げに行ってきた。
 巡回コースの中には、名古屋空港内のスーパーと映画館でスタンプを押す
箇所があり、私は疲れていて行かなかったが、他の5人は車で午前中に出かけ
て行き、スタンプ帳(台紙)を埋めてきて、午後からは私も一緒に、残りの
コースを制覇・終了した。
 JRで大曽根。名鉄瀬戸線に乗り換えて、大曽根(スタンプ) → 瀬戸
(スタンプ) → 栄町、そこから歩いて松坂屋のポケモンセンターで最後の
スタンプを押した。
 ポケモンセンターの受け付けで、完成した5枚のスタンプ帳(スタンプ印が
28箇所)を見せ、ポストカード・ステッカー・缶バッヂなど6個の景品を
5人分もらった後、館内を見物した。
 そもそも〈ポケモン〉が何者であるかも知らない私だが、ぬいぐるみで
色々なキャラクターを観察してみると、なるほど子供達が夢中になるのも解る
ような気がする。…などと言いつつ、喜寿に近い私が結構楽しんでいるので
あった。




#422/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/08/29  20:35  (  1)
ダブル・トラブル   寺嶋公香
★内容                                         20/11/11 01:32 修正 第3版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#423/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/10/29  23:15  (264)
お題>宿敵   永山
★内容                                         13/10/30 20:27 修正 第2版
 指定されたのは、とある廃ビルの二階、一番手前の部屋。中には、事務机と
イス、そして机の上にモニターが一つ。モニターは、最初から電源が入ってお
り、暗い室内で唯一、光を発していた。
 名探偵・天田才蔵(あまださいぞう)が、長年の宿敵である“殺人怪盗”サ
ウの呼び出しに応じたのは、今回が四度目だった。
 過去の三度はいずれも、相手の罠を予測し、サウを捕らえることこそならな
かったものの、見事に処理した。
 一方、今回は事情が異なる。予測も対策もない。取るものも取りあえず、応
じざるを得なかったのだ。
「素晴らしい。時間厳守だな、天田才蔵」
 ボイスチェンジャーを通したらしい声がした。モニターには、仮面の男の上
半身が大きく映っていた。左右が白と黒に塗り分けられた、能面のようなマス
ク。目も口も、小さく細い穴しかあいていないため、表情は窺えない。こいつ
がサウだろうか。
「標(しるべ)君はどこだ」
 天田は単刀直入に聞いた。怒気を抑え込んだ、静かな口調で。
 標とは、標準一郎(じゅんいいちろう)のことだ。私の兄である。
「安心したまえ。君の大事なワトソンなら、すぐにでも帰す。こちらの提案を
受け入れればの話だがね」
「……聞こう」
「我々の敵対関係も、三年を超えた。そろそろ決着をと思わないかね?」
「言われるまでもない。常に、おまえの逮捕を考えている。今も、標君を人質
に取られていなければ、おまえを捕らえる絶好の機会なのに、歯噛みする思い
だ」
「結構。思いは同じと確認できて、嬉しい限りだ。私もけりを着けたいのは山
山なんだが、これまでの繰り返しでは、永遠に終わるまい。君の名探偵として
の能力は認めるが、少々偏っているというのが私の評価だ。私の犯罪を解体す
るのは得意だが、私の逃走を妨げるのにはいつも失敗している」
「……」
 いつも、というのは言い過ぎだ。天田才蔵は、サウとされる人物の逮捕に、
二度も成功している。後に、逃走されたり、裁判で無罪判決を勝ち取られたり
しているが、その責任まで名探偵が被るいわれはないだろう。
「私を捕らえられず、君はいつも切歯扼腕しているかもしれんが、私も同じだ
よ。苦心して生み出した芸術的な犯罪が、簡単に解体され、失敗に終わるとい
うのは、非常に遺憾で、心が痛い。そこで考え、結論を得た。必ず白黒はっき
りする方法を用意し、勝負すればよい」
 白黒の仮面を着けた男は、かすかに顎をそらした。笑ったのかもしれない。
「戦いの場とルールを決めて、雌雄を決しようじゃないか」
「その呼び掛けは、こちらにも選択権があるというのかな?」
「あるといえばある。標君の身の安全は保証しないが」
「やはり、そう来たか。どうせ、勝負の方法もおまえ一人で決めるんだろう」
「それくらいしないと、悪役らしくないだろう? ふふ。ま、あとで意見は聞
いてやろう。聞くだけになる可能性が非常に高いがな」
「早く言え。犯罪者の提案する勝負方法、聞いてやろうじゃないか」
「その前に……男と男の勝負は、一対一が原則だと考えているのだが、もしワ
トソン役が必要というのなら、そこにいる若い男に役目を託すこと、特別に認
めてもよい」
 サウの視線が、こちらを見据えた気がして、私はびくっとした。余計な反応
は見せてはならない。恐ろしい結末が待っているかもしれないのだから。
 私は、振り返った天田と顔を見合わせた。緊張の面持ちで、無言のまま頷き
合う。
「勝負の内容次第だ。危険を伴うのであれば、同行はさせない」
「なるほど。探偵らしい、常識的な判断だ。では、勝負方法を提案させてもら
う」
 そう言ったサウは画面から姿を消し、代わって、予め用意していたと思しき
フリップが大写しになる。テレビのクイズ番組等でよく見る、長方形のボード
だ。青地に黒い文字で、何やら箇条書きされている。近付いて、読み取った。

・本日、十月一日から一週間以内に、サウは殺人を決行する。
・その殺人を、天田才蔵の仕業に偽装する。
・殺人発覚から一週間以内に、天田は濡れ衣を晴らすために尽力する。
・期限内に濡れ衣を晴らせなかった場合、勝負はサウの勝利とし、以後、天田
はサウの行動に一切関与しないものとする。
・期限内に濡れ衣を晴らせた場合、勝負は天田の勝利とし、以後、サウは殺人
や盗みをはじめとする犯罪行為から足を洗うものとする。

「いくつか尋ねたいことがある」
 私より先に読み終えた天田は、画面に対して早口で言った。
「聞いてやろう」
「殺人の被害者は、まさか標準一郎君ではないだろうな」
「さあ、どうだろうね」
「標君の解放について言及がないのも、どういうことだ? 馬鹿にしているの
か?」
「この勝負を受けて立つのであれば、すぐにでも帰すと言っただろう。勝負の
勝敗とは関係ないのだよ」
「死体になって、じゃあるまいな?」
「ふん、自分の目で確かめることだな」
 天田の口ぶりが乱暴になったのを不快に感じたか、サウの口調も粗っぽくな
った。
「サウよ。明言しておく。おまえが標君の身の安全を保証しない限り、勝負は
受けない」
「……面倒臭い奴だな」
 吐き捨てると、サウはボードを放り出した。ため息をこぼし、不承不承とい
った体で認めた。
「おまえが勝負を受ければ、標準一郎を無事に帰す。これでよかろう?」
「だめだ。時間を明示しろ。十年後に帰すなどと言われては、お話にならない」
「……一両日中に。さあ、譲歩したのだから、受けるんだろうな?」
「まだ質問がある。おまえが引き起こすという殺人を、私が食い止めた場合、
勝負はどうなる?」
「――ふはははは。そんなことはあり得ないが、答えなければ、どうせ食い下
がるつもりだろう。事前に防げたら、私は負けを認めた上で、これまでの罪を
全て白状し自首してやろうじゃないか」
「よかろう。この勝負、受けた」
 名探偵は力強く言い切り、頷いた。

 私の兄が解放されたのは、翌日の夕刻だった。薬か何かで眠らされ、大きな
公園のベンチに横たわっていたところへ、制服警官が通り掛かり、身元確認と
相成った。
 実際には、もっと早い時間、恐らく昼前後には公園のベンチに連れてこられ
ていたようだが、サウから解放してやったなどという連絡があるはずもなく、
いくらか遅れてしまった。今、病院で検査を受けている。健康状態に問題がな
いと分かれば、帰宅できることになっているが、その前に警察で事情聴取があ
るかもしれないという。兄の体調次第らしい。
「仕方がないさ」
 天田が言った。大学があった私に代わり、病院に行き、兄と短い時間だが会
ってきてくれたのだ。その様子が気になる。努めて気安さを装っている感じが
しないでもないのだ。
「どうかしたんですか」
「色々と懸念があってね」
 名探偵らしくもない、弱々しい息をついた。
「まず、標準一郎君の体調だが、多少の衰弱はみられるものの、肉体的には直
に回復するだろうとの見立てだった。ただ……サウに関する有力な証言を期待
するのは、望み薄かもしれないな。サウが何らかの心理的なショックを与えた
ようなんだ」
「え? じゃあ、兄さんはもしかして、喋れないとか」
「いや、それはない。実際に会話してきた。言い方がまずかったな。さっき言
った心理的なショックというのは、恐怖などではなく、催眠のテクニックによ
るコントロールじゃないかと想像している。何しろ、サウについてはおろか、
さらわれていた間の出来事を、ほとんど話さないらしいんだ。記憶が抜け落ち
ているのかもしれない」
「……」
 体験した記憶を意図的に消し去るのは、許しがたいことだ。しかし一方で、
それが覚えていたくない出来事だったとしたら、永遠に封印される方がましか
もしれない。
「もう一つの懸念、というよりも迷いは、今度のサウの殺人宣言についてだ」
 天田は話を次に進めた。
「全てを警察に話すか否か、まだ迷っているのだよ」
「そうなんですか? とうに全てを打ち明け、警察に協力を仰いだんだとばか
り。兄さんが戻ってきたんだから、心配はないでしょう?」
「サウの言葉が気になる。あいつは、一対一の勝負を求めていた。警察に話す
のは、ルールを破ることになる」
「そんなに大事なんですか、殺人犯との約束が」
「残念ながら、最優先で重視すべき事柄なのだよ。名誉に関わるから言ってる
んじゃない。サウに、過去の罪を含めて全てを認めさせる絶好のチャンスなん
だ。それを棒に振るような真似はできない」
「ですが、ぐずぐずしていると人一人の命が、失われるんですよ。警察に話し
て、マスコミでも何でも利用して、世間に注意を喚起すれば」
「そうすることで、絶対確実にサウの殺人を防げるのであれば、そうするさ。
しかし、現実にはそうは行くまい。昨日は奴を揺さぶるために、強気に出た面
もあった。だが、サウの殺人を食い止める手立てはないというのが、正直なと
ころなんだ」
「……」
 最早、非難する気にはなれなかった。兄を助けるために奮闘してくれた名探
偵を、兄が助かった今、非難してどうなろう。それに、この人の間近にいて、
苦悩する様が手に取るように分かった。今までに、兄の準一郎も、事件捜査に
携わる中で、同様の経験をしてきたはずだ。私が口出しできる領域ではない。
 心にそう誓った、まさにその瞬間――天田の携帯電話が鳴った。
「警部からだ。――もしもし?」
 このとき、私には何故か分かった。悪い報せなんだと。単なる直感で、外れ
ていればすぐに忘れていたであろう、些細な予感。だが……的中してしまった。
「分かりました。すぐに向かいます。ちょうど、準二(じゅんじ)君とも一緒
ですから、連れて行きますよ」
 切迫した口調の天田。通話を終えて、こちらを振り返った顔は、蒼白と言っ
てよかった。
「気を確かにして、聞いてほしい」
 彼は殻からに乾いた声で切り出した。悪い予感を抱いていたこちらとしては、
よほど、耳をふさぐか、大声を上げようかと考えたが、やめた。おとなしく聞
く。
「標君が。標準一郎君が、亡くなったそうだ」
「……どうして。死因は」
「ま、まだ不明だ」
 私の冷静な反応に驚いたのだろう、天田は少し言葉につっかえた。
「警部の話だと、毒物の可能性が高いようだが。とにかく、病院に行ってみよ
う。ああ、田舎のご両親への連絡を先にするかい?」
「いえ、詳しいことが分からない内は」
 悲しみを拡散させるのは、なるべく遅らせることにした。

 兄・標準一郎は、青酸系毒物で殺された。
 犯人は、兄の奥歯の一つに小さな穴をあけて、そこに毒を仕込んでいた。時
間の経過とともに溶け出す物質で穴にふたをした上で、解放したのだ。
 何が、身の安全を保証して解放する、だ。時限爆弾のように毒を仕掛けて、
ほぼ命を握ったまま、解放のふりをしただけじゃないか!
 サウが約束を違えたのだから、天田も守る必要はない。警察の力でも何でも、
利用できるものは全て使って、あいつを引きずり出して、捕らえるべきだ。私
は強く主張した。
 だけど、名探偵はいい顔をしなかった。
「確かに、君の言い分は分かるが、少し考えてみてほしい」
「何をですか。今更、躊躇する理由なんて、ないでしょう?」
「サウは、人質に取った準一郎君を、無事には帰さなかった。それは間違いの
ない事実だ。だが、これを奴の約束違反だとしていいのかどうか」
「天田さん、意味が分からない。どう見たって」
「待ちなさい。聞くんだ。君のお兄さんが殺された件が、サウの言っていた殺
人なんだろうか。もしそうだとして、サウの宣言を額面通りに受け取れば、私
に容疑が向いていなければならない。あいつは私に濡れ衣を着せるつもりなの
だからね。だが、実際にはそうなっていない」
「言われてみればそうですが……それが何か? これもまたサウの約束違反じ
ゃないんですか」
「勝負の根幹たる部分まで違えては、意味が全くなくなる。サウの目的は、標
準一郎君の殺害だけだったことになる。仮にそうだとしたら、矛盾が生じるん
だよ。わざわざ人質に取り、私達を呼び出して、妙な取引を持ち掛ける必要が
ない。捕まる危険を冒してまでね。それに、君の前では言いにくいが、サウが
その気になれば、準一郎君と会ってすぐに殺害し、素早く立ち去ることぐらい、
簡単にできるはずなんだ」
「……そうしなかったからには、サウには別の目的、あなたとの決着かどうか
は分からないけれども、他の目的があると?」
「その通りだよ」
 ほんの微かに、天田探偵は笑った。
「さすが、準一郎君の弟だ。飲み込みが早い」
「それで、サウの目的とは何だと考えてるんですか?」
「私としては、言葉の通り、受け取りたいんだがね。あいつとの戦いに早くけ
りを着けたい。しかし、そうだとすると、サウはこれからもう一件、殺人を犯
すことになる。私に濡れ衣を着せる形でね」
「その線で行くなら、サウに狙われるのは、天田さんの身近にいるか、関係の
深い人物になるんじゃあ……」
「恐らく。私には家族は少ないが、警察や検察、マスコミに知り合いが多い。
弁護士も幾人かいる。彼らに知らせて、警戒してもらえれば、殺人を防ぐ可能
性をある程度は高められるだろう。ただ、そうすると別の心配が浮上する。標
的選びに難儀したサウが、より狙いやすい人物にターゲットを移すことだ。狙
いやすい人物の筆頭が――」
 天田は私の顔をまっすぐに見つめてきた。
「君だ」
「私、ですか」
「君とは知り合って間がないが、お兄さんを通じて、その存在はお互いに知っ
ていた。だね?」
「はい」
「サウにとって、君もれっきとしたターゲットになる。くれぐれも注意してほ
しい――と、言うだけなら簡単だが、あまりに無責任だ。私のせいで君を巻き
込んだのだし、お兄さんのこともある」
「……」
「君さえかまわなければ、しばらく――そうだな、短くとも十月八日までは、
一緒に暮らすというのはどうだろう? 暮らすのが無理なら、私が君のボディ
ガードに付きたいと思っている」
「全然、無理じゃないです」
 こうして、私と天田名探偵は、期間限定で同居することになった。
 私はその後、兄に代わって、天田才蔵のワトソン役のように行動した。大学
の授業は適度に間引きしつつ、可能な限り、天田と行動を共にした。サウの次
なる犯行を食い止め、できれば奴を捕らえるために。

 ところが……十月八日を過ぎても、何事も起こらなかった。天田の身内や知
り合いに、誰一人として犠牲者は出なかったし、天田自身に嫌疑が掛かる殺人
も発生しなかった。サウは結局、約束を守る気などなかったのだ。そうに決ま
っている。
 サウからは音沙汰なしで、このまま頬被りを決め込むつもりのようだ。
 あるいは、と考えないでもない。やはり兄の殺人こそが、サウの言っていた
殺人そのものであったのではないかと。サウの腹づもりでは、兄は天田探偵の
目のまで、二人きりのときに毒死するシーンを描いていたのではないか。もし
そうなっていたならば、警察は容疑を一時的にせよ、天田探偵に向けていただ
ろう。だが、そうはならなかったことで、サウは全てを無視することに決めた
のではないかと思う。
 この思い付きを、天田探偵に伝えたところ、「準二君、君はユニークかつ客
観的な発想ができるんだね」と言われた。なるほど、サウの振る舞いの理由付
けのために、兄が殺されたことをあれこれ解釈するのは、名探偵の指摘する通
りかもしれない。
「私は、君のような優秀な人物を欲している。何故なら、この間までいた標準
一郎という優秀な人物を失ってしまったからね……。どうだろう、準二君。君
さえよければ、将来、私のワトソンになってくれないかな」
「……考えておきます」
 正直な気持ちを返事に乗せた。兄の後を継ぎ、兄を殺害した犯人を追うとい
う行為には、使命を感じる。今まで私が抱いていた将来の夢と、天秤に掛けて、
どちらが重いか。よく考えなければいけない。

           *           *

「――ああ、しばらく。ようやく、ほとぼりが冷めたようだからな。連絡をし
てもいい頃合いだろう。あ? うまく行ったかだって? 首尾は上々と言える
んじゃないか。そりゃあ、優秀なワトソン役を失うのは惜しかったが……彼は
知り過ぎたんだ。探偵稼業の裏をね。最早、口先では裁ききれなくなったので、
ご退場願ったまで。
 うん? ワトソン役がいなくなって、支障? もちろん、いないままだと支
障を来すだろうが、そこはぬかりないさ。ちょうどよい人材が、すぐ近くにい
てね。どうにか自然な形で、ワトソン役に収まりそうだ。未知数の部分はある
が、得がたい人材だと見ている。血は争えないな」

――終




#424/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/11/29  22:24  (360)
腹に一物あるいは片手パズル   永宮淳司
★内容                                         14/11/25 17:23 修正 第2版
「皆さんの話を聞き終わった訳ですが、つまるところ、焦点はドアノブの手型
に集約されるようですね」
 私の椅子の背もたれに手を掛けながら、傍らに立った地天馬(ちてんま)は、
静かな口調で始めた。
 ここは宿泊施設の中央センターにある会議室。周辺にはロッジを模した棟が
三十ほどあり、それぞれ二〜四名まで泊まれるという。棟にはいくつかのラン
ク付けがなされていて、学生らは一番安い、風呂・トイレなしのタイプを選ぶ
場合が多いとのことだ。
 今、会議室に集まっているのは、私と地天馬以外に五名。この五人は、同じ
大学に通う学生男一人に女四人からなる。彼らも一番安いタイプのコテージに
泊まっているが、一棟に一人ずつというから、便利さよりもプライベート空間
を重視したようだ。四年前にここを利用したことのある金山令一(かなやまれ
いいち)という男子学生が、全てとりまとめて予約を入れたそうだ。
 昨晩から今日に掛けて、施設に泊まったのはここにいる七名だけと聞いた。
 昨晩、彼らの仲間の一人・城田善治(しろたよしはる)が、コテージ内で刺
殺された。腹部を鋭利な刃物で刺されたのだが、凶器は未発見である。
 もちろん通報は速やかになされたのだが、警察の到着は遅れる見込みだった。
折悪しく、土砂災害が発生し、道路が一部通行止めになっていたのだ。どうす
べきか考えあぐねた被害者の友人達や施設の支配人は、地天馬が殺人事件を解
決した実績のある探偵だと知り、事態の一時的な収拾を頼んできた次第である。
 そして、ここが要なのだが、コテージの配されたテリトリーへの通路には、
防犯カメラが設置されており、その映像を確認したところ、昨晩遅くから今朝
に掛けて、コテージのある区画を出入りした人物は皆無。また、その通路を使
わずに、施設の敷地を出入りすことはかなわない(空を飛ぶか、地中に潜るか
でもしない限り)。つまり、殺人犯はコテージに泊まった五人、いや、厳密を
期して私達も含めると七人の中にいることとなる。
「手型って、私も見ましたが――」
 一番近くに座る都出門美(といでかどみ)が、どこか疑るような口ぶりで言
い始めた。短めのおさげ髪が第一印象を幼いものにしているが、話してみると
五人の内で最も大人びているかもしれない。
「血がべったりと付いたもので、指紋はおろか、掌紋も期待できそうにありま
せんでした。あれでも重要な証拠になるんでしょうか」
 先生に質問をぶつけるときもこんな感じなんだろうなと想像できる。私は苦
笑を忍ばせつつ、地天馬の方を見た。
「なるかならないかと問うのなら、なると断言できる。子細に観察すれば分か
るように、あの手型を着けた主――殺人犯は、手袋をしていたに違いない。そ
れもラテックス製のね。その上、ノブを捻る動作により擦れているし、指紋や
掌紋が採れないのは当然。せいぜい、手のサイズがおおよそ推測できる程度か
な」
「手の大きさが重要な手掛かりになるんでしょうか? 私達の手って、そんな
に差がないように見えます」
 都出の台詞をきっかけに、他の四人が自らの手のひらに視線を落とす。次い
で、仲間達の手元を見やった。
「注目すべきは、手のサイズではありません」
 地天馬が断言した。
「皆さんは、手型が左右どちらの手によるものか、認識していますか?」
「えっと」
 返答に窮した都出。代わって、私達からは一番遠く、出入り口のドアそばに
座る金山が答えた。
「確か、右手でした」
 背が高く、顔も整っているが、髪型と眼鏡が生真面目な雰囲気を醸し出して
いる。他のことならいざ知らず、異性にもてるかどうかという点では、損をし
ているんじゃないだろうか。
「あ、つまり、犯人は右利きだと示してるから、重要ってこと?」
 分かったとばかりに両手を合わせ、高い声を上げたのは、島谷君子(しまた
にきみこ)。仲間が殺されたというのに、しっかり化粧している。尤も、他の
女子学生も、程度の差こそあれ、お手入れは忘れていないようだ。そんな島谷
も、普段は入念に仕上げるであろうボリュームのある髪を、今朝は単に引っ詰
めにしている辺りは、落ち着かない心情が表れているようだ。
「そう言い切れるかどうか。島谷さんは左利き?」
 地天馬の質問に、彼女は首を縦に振った。
「では、ドアを開けるとき、常に左手を使うかな?」
「それは……」
 ドアを開ける仕種を、右手と左手でやってみる島本。ふと周りを見ると、金
山を除く三人の女性は、同じことをやっていた。
「分からないわ。そのときどきによるというか……ただ、今度泊まったコテー
ジから出るときは、左手を使う。それは確かよ」
 その返事に続き、「私も」「僕もです」と、金山や都出らも口々に言った。
「それが自然です。コテージ内から外に出るとき、右手で開けようとすると、
自分自身の身体が邪魔になるのだから」
 コテージのドアは、全て同じ立て付けになっている。室内でドアの真正面に
立ったとき、向かって右側にノブがあり、そこを捻って引くことで、ドアは内
側左に開く。やってみるとよく分かるが、このドアを右手で開けると、自らの
手が邪魔になり、出にくいことこの上ない。
「犯人は何故、左手ではなく右手でドアを開けたか。これは大きな手掛かりと
言える。理由が判明すれば、きっと犯人に近付ける」
「私達の誰も、そんな開け方、しないわ」
「だよねー」
 今まで黙っていた女性二人――遠藤加奈(えんどうかな)と堀幸代(ほりさ
ちよ)が、調子を揃えて言った。仲間内でも二人は特に仲がよいらしく、シャ
ツやスカート、カーディガンの柄などもとても似通っている。大きな違いは、
遠藤の方は目鼻立ちのはっきりとした、いわゆる美人の部類であるのに対し、
堀はいささかふくよかに過ぎるところが見受けられた。
「そういう開け方をする人が犯人だって言うのなら、私達の中にはそんな人い
ないと思いまーす」
「お二人さん、話をよく聞いて」
 地天馬は何か我慢したような、抑え気味の口調で応じた。
「普段の生活で、あのタイプのドアを右手で開けるかどうかが問題ではなく、
肝心なのは犯行直後、右手で開けた理由。分かった?」
「つまり、犯人にはそのとき、右手で開けねばならない理由があったというこ
とですね」
 金山が整理する風に言った。きっと彼は最初から理解していたに違いないが、
遠藤と堀にも分かるよう、敢えて口を開いたんだろう。
 その様子に、地天馬も満足げに頷く。
「もう少し、論を進めると、右手でドアを開けねばならない理由と考えると難
しい。ここは、犯人は何故、左手でドアを開けなかったか?という命題に置き
換えてよいと思う。恐らく犯人は左手を使えない状態だったとね」
「なるほど」
 いつもなら私の役目である相槌を、金山にやられてしまった。今回は楽でい
いかもしれない。反面、ワトソン役としての私の存在感が……まあ、些末なこ
とだ。今はどうでもよい。
 地天馬は改めて五人を見渡し、一際大きな声で言った。
「これから、左手を使えない理由を検討していくつもりだけれど、とりあえず、
私が思い付いた仮説を列挙していく。皆さんは、仮説に異論があるのなら、潰
すよう反論してほしい」
「分かりました」
 そう答えた都出は、居住まいを正した。彼女が一番真剣で、力が入っている
ようだ。もしかすると、被害者に好意を抱いていたのかもと想像させる。が、
予断は禁物だ。
「その前に、大前提として――ラテックスの手袋は、誰にでも入手可能だった
と見なす。実際、この施設にはそこら中にある」
 ここは、敷地内の農園で農業体験ができるのが売りの一つで、ラテックス手
袋は、農作業時に希望者が着用する。これをはめた上に軍手を重ねると、手、
特に爪の汚れ方が格段に違う。消耗品であるため、大量にストックしてあるし、
保管体制も割といい加減なようだ。
「それでは、左手が使えなかった理由の一つ目。最もオーソドックスな仮説に
なるが、犯人には左手がなかった」
「な、なかった? そ、それが最もオーソドックスですか」
 都出がどもりながらも聞き返す。金山達は唖然としていた。
「違うかな? 左手がなければ使いようがない」
「それはそうですけど」
「念のため言い添えておくと、この仮説には、片腕の人物という場合の他、両
手はあるが、どちらも形が右手であるという場合も含む」
「……」
 探偵の口から発せられた仮説の中身が、あまりに奇抜だったためか、学生五
人は少しの間、沈黙した。
「とにかく、左手のない人や両手とも右なんて人は、私達の中にはいません」
 都出が答えて、ようやく話が進む。地天馬は満足げに頷くと、論理展開を続
けた。
「次の仮説は、犯人は左手に右手よりも遙かに目立つ特徴を有していた。その
ため、痕跡を残すのなら、どうしても左手を避ける必要があった」
「目立つ特徴っていうのは、個人が特定できるほどなんですよね。何があるで
しょうか」
 金山がオーバーなジェスチャーで首を捻った。都出が呼応する。
「サイズが極端に大きいか小さい、とか……」
「悪くない。でも、仮説を構築する段階では、もっと大胆になっていいと思う」
 地天馬が言った。
「例えば、指の本数が左手だけ六本以上あるか、あるいは四本以下である、な
んて。もしも指が六本あれば手袋をはめにくくて、恐らくは使えない」
「……地天馬さんがどういう探偵なのか、分かってきた気がする」
 ぼそりとつぶやいたのは島谷。金山は早く済ませようとばかり、文字通り早
口で言った。
「左手のサイズが普通と極端に違ったり、指が通常より多かったり少なかった
りする人も、僕達の中にはいません」
「結構。第三の仮説は、左手に怪我を負っていた。これには、左手が使えない
ほどではなくても、出血量が多めで、ノブに触れると犯行現場に自らがいた証
拠を残しかねないケースも含める」
「そういう怪我をした人は……いません」
 どことなく、遠慮がちに言った金山。彼以外の女性の内、三人も何だかおか
しな雰囲気だ。言いたいことがあるが、言っていいものか、迷っている。そん
な印象を受けた。
 すると、地天馬は残る一人の女性――堀に声を掛けた。
「堀さん。あなたは左の手のひらに、絆創膏を貼っているようですね、見せて
もらえますか」
「もう治ってるわ」
 嫌そうな顔こそしていたが、特段隠す様子がなく、彼女は左の手を広げて我
我に示した。ちょうど真ん中辺りに横一線、通常サイズの絆創膏が二枚並べて
貼ってある。
「これは?」
「リンゴをむくときに、手の上でやろうとして、ちょっと失敗しただけよ」
「僕らも証言しますよ」
 金山が口を挟んだ。
「昨日、夕食のあと、持ってきたリンゴをデザートにってことで、彼女が切っ
たんです。その最中に、城田の奴が声を掛けたのがよくなかったみたいで」
「手元がおろそかになっちゃったんだよね?」
 遠藤が声を掛け、堀は黙って頷いた。
 地天馬は再度、堀の左手を子細に観察し、結論を下した。
「ふむ。血は完全に止まっている。それに、傷も極浅い。早い段階で、止血で
きていたことでしょう。よって、これは犯人が左手を使わなかった理由には当
たらない」
 探偵の言葉に、堀だけでなく、遠藤も安堵の息を漏らした。
「ついでと言っては何ですが、皆さん、左手を挙げて、開け閉めをしてもらえ
ますか」
 地天馬は例を示すかのように、左手を掲げ、グーパーグーパーを繰り返した。
「見た目は何ともなくても、動かせなくなっている可能性を排除したいので」
 そう言われて拒む者はいない。私も含めた全員が、左手を動かせた。
「皆さん、ご協力をありがとう。四つ目の仮説に移ります。左手がふさがって
いた、換言すると、手放してはならない物を持っていた」
「怪我とかなら調べようがあるけれど、物を持っていたかどうかなんて、検討
のしようがありません」
 堅い口ぶりで都出が即座に応じるが、地天馬の言葉も早かった。
「一般論で考えて、一向にかまわないんですよ。自分で出した仮説を自分で否
定することになりますが、推理に厳密さを求めるため、通らねばならない過程
ですので」
「じゃあ、もう第四の仮説はあり得ないと?」
「多分。特殊なロジックを持ち出す訳じゃない。左手で何か持っていたのなら、
どうして右手に持ち替えなかったのか。持ち替えられないような物が、存在す
るだろうか。この問い掛けに、イエスという向きは、是非とも答を教えてくだ
さい」
 会議室がしばし、静かになる。皆、一通り考えているようだ。だが、いつま
で経っても、声を上げる者はいない。
「絶対にこぼしてはいけない液体を、底が丸くて床に置けない容器一杯に満た
して運んでいた、なんてことはありませんね?」
 地天馬が極端な例を出して、念を押す。
「そんな液体、私達には無縁です。仮に犯人がそういう危険な液体を現場から
持ち出したなら、元々は城田君が所有していたことになるでしょうけれど……
やっぱり、あり得ない」
「そうだよ。彼はそんな危険な液体を持っていたはずないし、だいたいここに
来るまでに、液体がこぼれてるはずだ」
 都出の見解に金山が同意、補強した。そしてさらに、彼は別の可能性まで考
えていた。
「地天馬さん、こういうのはどうでしょう? 左手で持っていた物を手放そう
にもできなかった」
 対する地天馬はすでに考慮の範囲内の様子だったので、代わりに私が金山に
意図を問うた。
「どういうことかな」
「文字通りですよ。何らかの物体が手に張り付いて、離れなくなったのかも。
瞬間接着剤とかのせいで」
 金山が答え終わると、地天馬は即座に見解を示す。
「その可能性も検討してみた。結論としては、可能性は極めて低い」
「え、どうして」
「犯人は犯行時、手袋をしていたはず。右手だけでなく、左手にもね。左手に
何かが張り付いたのなら、手袋を脱ぎ捨てれば済む。代わりの手袋は、いくら
でもあるんだし」
「ああ、なるほどです」
「ちなみに、君達の内、瞬間接着剤の類を持ってきた者はいる?」
「いえ、いないと思います」
「じゃあ、この仮説も却下。次の仮説は……何番目の仮説と言えばよいのか分
からなくなったな。まあいい。一応、ラストの仮説――犯人自身の体液が左手
いっぱいに付着していたため、ノブに触れなかった。でも、これもさっきと同
じ理屈で却下。自分の体液をあちこちに残す行為を避けたいのなら、すぐに手
袋を換えるはずだからね」
「あれ? 全部の仮説が、却下されてしまうんですか?」
 都出が意外そうに声を上げた。そりゃそうだろう。名探偵が説得力のある仮
説を出してくると信じていたに違いない。
「だから、言ったでしょう。一応、と」
「本命を隠しているんですね」
「ノーコメント。現時点では、君達に考えてほしいな、他に仮説が立てられる
かどうか」
 地天馬は椅子に収まると、テーブルに両肘を付いた。関係者である五人の学
生達を、等分に眺めている。
「他にはありそうもないわ」
 遠藤が早々と白旗を掲揚した。仲間の死にショックを受けて考えるのがつら
い、と言うよりも、面倒がっているのが見て取れた。本心は分からないが。
「例えばですけれど」
 しばらくの沈黙のあと、そう前置きして始めたのは都出。やはり、彼女は議
論に積極的だ。
「犯人は、城田君に逆襲されて、慌てて逃げ出したのではないでしょうか。刺
した直後に左腕を掴まれ、危ないと思ってすぐに現場を出た。そのとき、右手
しか自由が利かなかったなら、当然、ドアも右手で開ける……」
「ユニークな説だと思う。でも、それだと被害者は必死になって掴みかかった
ことになるね。すると、掴みかかられた方の腕には、多数の傷が付くものじゃ
ないかな。爪が食い込んだり、あるいは噛みつかれたりすることもあり得る」
「……ですよね」
 左腕に爪痕を残された人物はいない。
「それに、私の見立てでは、城田さんは刺されたあと、短時間で亡くなったと
思う。残念ながら、反撃の力はなかった」
「それでしたら、僕の思い付きもあり得ないことになるか……」
 金山が独り言のように言った。地天馬は聞き逃さず、「いや、気にしないで、
言ってみて」と促す。
「犯人は何らかの理由で、ドアに背を向けて、後ろ手で開けたんじゃないかと。
これなら、右手で開ける方が、左よりもスムースに出られるでしょ?」
「ふむ……どうなんだろう? その場合だと、左右で大差ない気がする。大差
がないということは、右手で開けるかもしれない。ノブに残る手形も、普通に
握るときに比べると、だいぶ異なるはず。いずれにせよ、後ろ手でドアを開け
る理由自体が見当たらない」
「はい。城田の反撃に遭ったなら、起こり得なくはないと思ったのですが」
 肩をすぼめ、意気消沈する金山。その空気が広がったかのように、最早誰か
らも意見は出なかった。
「地天馬、そろそろ、最後の仮説を披露していい頃じゃないかな」
「それじゃ、リクエストにお応えして。これまでに挙げた説のいくつかを、組
み合わせたようなものなんだけれどね。犯人は犯行後、尿意を我慢するために
左手を使った。しかも手を離すと漏らしてしまう状況に陥った。故に、ドアを
開けるには右手を使うしかなかった」
「――えっと、尿意ってつまり、小、のことですよね?」
 またもや静かになった室内で、最初に声を発したのは都出だった。
「その通り」
「漏らすと証拠になるから、我慢するのは分かります。殺人を犯したショック
で、急にしたくなるのも何となくありそうだと想像できます。でも、左手から
右手に変えられないとは思えないんですが」
「女性ならね。押さえている手をずらして、左から右にバトンタッチすること
は可能でしょう。しかし、男性はいささか状況を異にする」
「いやいや、男性も同じですよ」
 関係者の中で唯一の男性、金山がすぐさま反論した。
「ええっと、こんなことをみんなの前で言うのはあれですけど、男が尿意をこ
らえるとき、最終的には、その……一物を掴むことになるのが普通だと思う。
あれを左手から右手に持ち替えるのは、充分に可能ですよ」
「金山君、嘘はいけない。最終的とは嘘だね」
「な、何故ですか」
「いよいよ漏れるというとき、男性には尿を貯める容積を広げる手段がある。
オブラートに包んだ表現をするなら、“皮膜”を使えばいい。テレビ番組でお
笑い芸人が語っていたし、実行可能なのは間違いない――とは言い切れないか」
 控えめに自嘲をしつつ、それでも自信を覗かせる地天馬。いったい、いかな
る過程を経てこんな奇想天外な説に行き着いたのやら。
「し、しかし」
 犯人と名指しされたも同然の金山は、意外にも、汗を額に浮かべている。否
定の材料を必死になって考えているようだ。
「――そうだっ。右手が血で汚れていたから、そのまま左手で行こうと思った
だけかもしれないじゃないですかっ? 身体や服が汚れるのを嫌って」
「手袋を用意して、凶器を持ち込んでいるからには、この殺人は計画的なもの。
返り血対策も万全だったはず。なのに、今更身体や服が血で汚れることを厭う
なんて、考えられない」
「しょ、証拠はない」
 地天馬の余裕のある口ぶりとは対照的に、金山はどもりが酷くなっている。
「確かに、ロジックは筋道が通っていても、物的証拠はない。だが、いずれ到
着する警察に、私がこの推理を伝えればどうなると思う? 多少なりとも興味
を持ち、君を第一容疑者と見て積極的に調べてくれるに違いない」
「……」
「現場のコテージを飛び出したあとの犯人の行動を想像すれば、トイレかシャ
ワーに直行しただろうね。犯人はそこに一切の痕跡を残さなかったと、確信を
持っているのかな。被害者の血液にまみれた、自身の髪の毛や皮膚片が見つか
れば、立派な物証になる」
 地天馬は顎のすぐ下で両手を組み合わせ、金山をじっと見つめた。
 ものの三秒としない内に、相手は陥落した。
「参りましたよ、探偵さん。あんなに考えて立てた計画なのに、不運が三つも
重なって……」
 金山の言う三つの不運とは何だろう? 推測するに……四年前には恐らくな
かった防犯カメラが設置されていたこと、犯行時に尿意を催したこと、そして
名探偵と居合わせたこと、か。
「地天馬さん、僕があいつを殺した理由、教えましょうか」
「別にいい」
 地天馬は挑発を手で梳くと、席を立った。そして脱力したかのように座り込
んだ金山のそばまで来て、続きの答を口にした。
「興味がないとは言わない。でも、必要ない。警察に、じっくり聞いてもらい
なさい」
 背を向け、会議室を出ようとする。
 その刹那、室内の空気に緊張が走った。畳み掛ける推理に、唖然としていた
女子大生四人が息を飲むのが分かった。
 金山が不意に生気を取り戻し、床を蹴るようにして立ち上がったのだ。逃げ
るつもりだ! 察した私は「地天馬!」と叫んだ。
 が、声が届くよりも早く、地天馬は反応した。
 金山は探偵をよほど甘く見たのか、脇をすり抜けるか、あるいは人質に取ろ
うとしたようだったが――地天馬に左腕を取られ、あっさり、ひっくり返され
た。床にねじ伏せられた金山を見下ろしながら、「逃げる気なら、拘束する」
と事務的に告げた。
 それから私に拘束のための道具をもらってくるよう頼んだ。と、次の瞬間、
地天馬が急に表情をゆがめた。
 “彼女”は金山を改めて上から睨め付け、きつい調子で聞いた。
「あんた、手は入念に洗ったんでしょうね?」

           *           *

「うーん、ぱっとしないというか、カラーが違うというか」
 私の記した事件記録を読み返した地天馬は、天井を仰いだ。
 先代から引き継いだ探偵事務所に、今は私と彼女の二人きりだ。
「そう?」
「ああ〜、何て言えば分かってもらえるのかな」
 パソコンの画面から地天馬に視線を移した私。相手は髪をかきむしった。
「第一に、私みたいな女探偵が活躍するエピソードにしては、下ネタ過ぎる!」
「しょうがないよ。事実、起きたことなんだから」
「今度からこういう解決だった場合は、推理を教えるから、そっちが探偵をや
って。うん、それがいい」
「また無茶ぶりを……」
 額に手を当て、ため息をついてやった。彼女のような探偵のワトソン役にな
って、一緒に活動するとはどんな因縁があるというのだろう。
 私はふと思い付いて、地天馬に尋ねた。
「そういえば、何で男性特有の事柄について、詳しかったのさ?」
 意地悪の意図が少々あったのは、無論である。
「男性特有って、尿意の我慢云々?」
「そう、それ」
「何にやついてるの。男から聞いたに決まってるじゃない」
「え、でも、そんなことを聞ける仲の男友達、いたっけ?」
「父のワトソン役をやっていた人から聞いたのよ」
「……え? それって!」
「そう。あなたのお父さん」
 やられた。私は両手で頭を抱えた。最早、事件簿の小説化どころではない。
 そんな哀れなワトソン役の斜め前で、地天馬は微かな笑みを浮かべている、
きっと。

――終わり




#425/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/01/31  20:39  (380)
お題>未解決   永山
★内容                                         15/01/11 10:12 修正 第2版
 名探偵・天田才蔵(あまださいぞう)の推理は、佳境に入っていた。
 会議室に関係者を集めておき、彼らをいつものようにざっと見渡したあと、
おもむろに「さて」と言う、この古来から連綿と続く伝統の型から入った彼の
推理は、今日も絶好調のようだ。僕・標準一郎が天田のワトソン役に収まり、
事件を記録するようになってから、不調な彼を見た覚えはないのだが。
 今、アリバイ検証により、四方快人(よもかいと)と五島志甫(ごとうしほ)
を殺害した容疑者は、三人にまで絞り込まれた。一場建太(いちばけんた)、
二谷芽衣子(にたにめいこ)、三山光郎(みやまこうろう)の三人には、現時
点で判明している分には、一昨日の夜九時からの二時間及び、昨日の未明から
明け方五時までの二時間について、アリバイがない。
「一見すると、三人の中で最も怪しいのは三山さんだと思われるかもしれない。
何せ、彼は偽証を頼み、アリバイ工作をしていたのだから」
 名指しされた三山という学生は、表情を隠すように左手を頭に宛がい、目線
をそらした。貧乏揺すりが出ていて、椅子の脚が床をかたかた叩いていた。実
際には当人も親も金銭的に裕福で、身なりもきちんとしている。生真面目そう
な二枚目で、その外見が女性の警戒心を解かせるのか、何股も掛けていること
が明らかになっていた。アリバイ作りもそのためで、事件とは無関係だと主張
している。
「では、その後彼が主張した、恋人の一人と一緒だったとのアリバイは、どう
か。恋人の証言は、身内のそれに準じる程度の信憑性しか有さないと、私は判
断します。複数の女性と付き合っている場合でも、大差ないでしょう」
 天田が、アリバイを疑うような口ぶりで始めたので、三山は何か反論しよう
とした。だがそれを制し、天田は続ける。
「しかし、私は別方向から、三山さんを容疑の枠から外すか否かを決める材料
を得ました。三山さん、あなたは高所恐怖症の気がありますね?」
「え、何故それを――」
 探偵を指さしたまま、絶句する三山。他の面々――三山の友人達も把握して
いなかったらしく、一様に驚きの表情を浮かべている。
「一昨日の昼間、湖にボートで漕ぎ出した際、たいして揺れてもいないのに、
あなたは酔ったみたいだとか何とか言って、早々に引き返すように主張した。
あれ、湖底を覗き込んだためじゃないかと睨んだんですが、どうやら当たって
いたようで」
 得意げに語る天田。まだ理解できない人のためにと、補足する。
「透明度の高い湖だと、水に浮かんでいるのにまるで宙に浮いているような感
覚になることがありますからね。仮に底まで見通せたとしたら、水深イコール
高さという訳です」
「つまり、こういうことか」
 口を挟んだのは、地元警察の刑事。確か有本(ありもと)という名前だ。髭
剃り痕の青さが印象に残る、厳つい顔。背が高くがっしりした体格で、叩き上
げのベテラン――と見た目で判断していたのだが、実年齢を聞いてびっくりし
た。
「二番目の殺しは、この先の吊り橋を渡ったところにある別荘で起きた。高所
恐怖症の三山には、橋は渡れないと?」
「そういうことです。意識のない状態で車か何かで運べば、向こう側に行ける
でしょうが、それだと当然、共犯者が必要だし、そもそもあの橋は車は通れな
い。足で歩くしかないのです」
「なるほど。だが、三山は高所恐怖症であることをどうして黙っていたんだ? 
はっきり言って、最有力容疑者だった。疑われていることを、当人も自覚して
いただろう?」
「それは恐らく、格好を付けたかったのではないかと思いますね。どうかな、
三山さん?」
 探偵に問われ、三山は不承々々といった体で、首を縦に振った。
「高いところがからきしだめだなんて知られたら、女にもてなくなる。それど
ころか、馬鹿にされると思ったんだよ」
 吐き捨てるように言って認めた。とにかく、これにより容疑者は三人から二
人になった。
「次は二谷さん、あなたについて検討してみたい」
 天田が名指しすると、二谷芽衣子は明らかにほっとした。名前を最後に言わ
れなかったということは、自分が犯人ではないと判定されたものと受け取った
のだろう。
 天田のワトソン役を務める私の知る限り、天田はときに、変ないたずらを仕
掛ける。容疑者を絞り込む途中で、いきなり犯人を名指ししたことも一度あっ
た。今回は果たしてどうだろう?
「私には動機がないと何度も申し上げたのに、信じてもらえず、アリバイもな
し。もちろん、高所恐怖症でもないわ。どんな手で救ってくださるのかしら」
 社会学の教授という二谷は、時代の流行に合わせて何らかの専門家を名乗り、
各地で講演会を行っていた。今回の事件に巻き込まれた(?)のも、元々はこ
ちらの保養施設のイベントとして、講演会を依頼されたためだ。重要なのは彼
女が、一本橋を渡った先の別荘の主、四方と旧知の間柄である点だろう。彼女
自身は動機がないと言っても、昔付き合っていたと聞けば無視できまい。
「二谷さんがこちらに来られて以降の行動を、子細に調べてみました。そうし
たところ、一つ気付いたことがあります。あなたは最初の被害者である五島さ
んと、面識がありませんね。講演会で顔を合わせる可能性があったが、五島さ
んは体調を崩し、部屋で休んでいた。知りもしない相手を、殺すなんておかし
な話です。殺人の順序が逆なら、分からなくもない。たとえば、四方さんを殺
害したところを目撃されたから、五島さんも口封じに殺した、という風に想像
できる」
「動機が明らかになっていないことを、今更挙げられてもだな」
 刑事が口を挟んだ。
「何の意味もない。現に、天田さんが残したもう一人の容疑者にも、二人を殺
す明確な動機があるかどうか、まだ判然としていない」
「ええ、承知しています。でも、私が指摘したいのは、二谷さんが五島さんの
顔すら知らなかったであろう点です」
「うん?」
「五島さんが泊まったのは、相部屋でした。彼女の部屋について、宿泊者の情
報を施設に問い合わせた記録はないそうです。顔も名も知らない人物を殺しに、
何者かが何名泊まっているのか分からない部屋に出向くなんて、ばかげている」
「ううむ……。しかし、無差別殺人、殺人狂の線は否定できますまい」
「やれやれ、刑事さんもなかなか頑固だ。では決定打を提示するとしましょう。
犯行現場となった五島さんの部屋には、どういう訳かブタクサが飾ってあった
ことに、刑事さん達はお気付きでした?」
「あん? ブタクサ? どんな物か知らんが、花瓶に挿してあったあれか」
「そうです。ほとんど緑色の、あまり見栄えのしない植物で、そこいら中に生
えています。宿泊施設側の話では、花瓶には何も挿していなかったとのことで
したし、同室の女性も関知していない。五島さんがいつの間にか挿したらしい。
重要なのは、このブタクサが花粉症の原因の一つであり、さらに、二谷さんは
ブタクサに弱く、ちょっと吸い込んだだけでも激しい鼻水とくしゃみに見舞わ
れるという事実です。つまり、もしも二谷さんが五島さんの部屋に入っていた
なら、今、その症状が出ていなければならない。しかし実際には違う」
「仰りたいことは理解しました。だが、本当にブタクサの花粉症なんですか、
二谷さんは」
 探偵と容疑者双方に、刑事は疑わしげな視線を投げ掛けた。二谷芽衣子は即
座に首肯した。
「ブタクサの話を聞いただけで、鼻がむずむずしてくるぐらいですわ。お疑い
でしたら、薬を処方してもらっていますから、照会でも何でもしてください。
でも、天田さんはどうしてそのことを……ここにいる誰にも話した覚えはあり
ません」
「簡単です。ブタクサのあるところを避けていたように見えたので、もしかし
たらと常備薬を調べてみたところ、分かったんです」
「調べたって……あ、もしや」
 二谷は口元を手で押さえ、僕の方を振り向いた。僕は照れ笑いを浮かべて応
じた。昨日の朝、廊下ですれ違いざまに軽くぶつかって、半開きのハンドバッ
グの中身をぶちまけさせたのだ。そのとき、薬をほんの少し失敬し、あとで天
田が調べた。それだけのことである。元に返す隙がなかったので、今も持って
いるのだが、まさかこれが彼女の無実の証拠とは知らなかった。
 有本刑事の指示で、照会作業が進められる間、二谷は再び天田に疑問をぶつ
けた。
「私の花粉症を把握していたのに、すぐにそのことを持ち出さなかったのには、
何か理由が?」
「プライバシーに関わることですし、情報の入手方法も、いささかイレギュラ
ーなものでしたからね。できれば、行使せずに済ませたかったんですよ」
 またも得意げに答えた天田。そこへ、ごほんごほんとわざとらしい咳払いの
音がした。容疑の枠内にいる最後の一人、一場がその源だった。スーツをきっ
ちり着こなした彼は、ネクタイを緩めていた。どこの会社員かという出で立ち
だが、これでイラストレーターを生業としている。右手に指先のない革手袋を
はめているのが、唯一それらしいといったところか。
「おかしな流れになっているようですが、自分は犯人ではありません」
 皆の注目を浴びた一場は、きっぱりと言い切った。無論、真犯人であろうと
なかろうと、犯行を否定するのが普通であるが。
「残った一人だからと言って、犯人と決め付けはしない。検討してみよう」
 天田は笑みを短く浮かべ、口元をまた引き締めてから続けた。
「一場さんが犯人ではない、あるいは犯人だと断定できるロジックがあるか、
探してみた。すると、案外間近である発見をした。皆さんに見てもらいたい」
「見て、だって?」
 刑事のオウム返しはこれで何度目になるだろう。
 天田は黙って一場のそばまで歩み寄ると、相手の足下を指さした。
「立派な革靴を履いておられる。それを脱いでみてくれませんか」
「意図が分からないが……お安いご用だ」
 靴を脱ぐと、当然、靴下が露わになった。それを見て、僕やその他何人かが
あっと声を上げた。一場の穿く靴下は、彼の右手袋と同じく、指先がないタイ
プだったのだ。
「ご覧のように、一場さんは指先を出したソックスを着用されている。これは
普段からですか」
「ええ。脳に刺激を与えてくれる気がしてね。常用している。ソックスはこの
タイプしか持っていない」
「結構。――刑事さん、これが何を意味するか、お分かりですか」
「……ぼんやりとだが、浮かんできたぞ。ええっと、五島志甫の部屋は靴を履
いたまま出入りできたはずだから関係ないが、四方の別荘は、玄関で靴を脱ぐ
スタイルだった。スリッパも、男所帯故か、用意されてなかったように記憶し
ている」
「私もそう記憶しています」
「ということは、だ。四方の家の床には、一場さんの足の指紋がいくつか付着
しているはず。だが、そんな物が検出されたという報告はない!」
 有本刑事は、髪を激しくかきむしった。容疑の枠内に、誰もいなくなってし
まったのだ、無理もない。
 ざわめく場の空気を察し、僕は天田に問い掛けた。
「犯人がいなくなってしまいましたが、推理が間違っていたのでしょうか」
「そう言えるかもしれないが、厳密には、前提が間違っていたのだと思う」
「前提というのは」
「推理を重ね、数を絞り込んでいく母体そのものに、穴があったんじゃないか
って意味だ。君は気付いていただろうか? 事件関係者の中で、初めから無条
件に除外された人物が一人だけいると」
 僕は「何の、いや、誰のことです?」と応じた。天田から詳細は聞かされて
いないが、彼の推理がいよいよ追い込みに入ったんだと感じる。
「四方快人だよ」
 この発言には、部屋にいた誰もが衝撃を受けたようだった。「えっ?」だの
「四方は二番目に殺された被害者だぞ」だのの声を上げる者がほとんどだが、
すぐには理解できずに頭を振る者や、隣同士でひそひそと囁き合う者達もいた。
「あー、つまり天田さん。こういうことですかな」
 有本刑事が頭を掻きながら言った。
「四方が五島を殺害し、後に自殺したと?」
「飲み込みが早くて助かります」
 にやりと笑う天田に対し、刑事は信じられないという表情を崩さない。
「飛躍が過ぎるんじゃないですか。そもそも、何の証拠もない」
「物的証拠と言うには弱いかもしれませんが、一応の根拠はあります。是非と
も、調べていただきたいのですが」
「そりゃあ、話を聞いてからだ。納得が行けば、調べる」
 確約を取ると、天田は「結構ですね」と手を打った。大きな音に、室内の騒
ぎが収まる。
「まず、四方の遺体発見後に、皆で現場である別荘に行きましたが、その際、
二谷さんの鼻の調子が悪くなった」
 言われてみれば、あのとき、彼女は盛大にくしゃみをした。回数こそ少なか
ったが、かなり酷い症状だったように思う。
「それまで何ともなかった二谷さんに、どうして症状が出たのか。別荘内にブ
タクサの花粉が漂っていたためと想像できる。そしてそれは、四方が五島志甫
さんの部屋を訪れた折、言い換えれば殺害時に、花瓶に挿してあったブタクサ
から衣服等に移り、別荘に持ち込まれたと仮定すれば、筋が通る」
「理屈ではあるが……他の可能性だって充分にあるでしょう。ブタクサはそこ
いらに生えてると言ったじゃないですか。いつどんな形で持ち込まれるか、分
かったものじゃない」
「確かに。では二つ目。四方は五島志甫さんが殺されたと思しき時間帯のアリ
バイを問われ、こう答えている。“別荘のテレビで映画を観ていた。『ゲーム』
というタイトルで、知っている俳優は出ていなかったが、いかにもいわくあり
げな古めかしい屋敷を舞台に、特定の状況から抜け出せないスリラーで、そこ
そこ楽しめた”と」
「その点なら、我々も確認済みだ。当日の午後九時からの枠で、『ゲーム』と
いう洋画をオンエアした局があった」
「主演は誰でした?」
「関係あるのか?」
 訝しがりつつ、手帳を取り出し、確認をする刑事。
「マイケル・ダグラスとショーン・ペンという役者だな」
「かなりのビッグネームですよね。この二人を知らないなんて、あるでしょう
か?」
「私もマイケル・ダグラスなら顔も知っているし、もう一人の方も名前ぐらい
は聞いたことあるが。四方は映画マニアという訳じゃないし、知らなくてもお
かしくはない。少なくとも、知っていなければならないという理論は成り立ち
ませんぞ」
「マイケル・ダグラスらが出ている『ゲーム』の粗筋を、ご存知ですか?」
「いや、知らないし、そこまでは調べていない」
「やはりですか。四方の証言は、ちょっと変なんですよ。特定の状況から抜け
出せないスリラーというのは、当たらずとも多少はかすっていなくもない。し
かし、古めかしい屋敷を舞台にというところは、全くおかしい。豪邸こそ出て
来るが、古びた屋敷ではありません。そこで調べてみると、四方の証言にぴっ
たり合う映画が見つかるんですよ。もちろん、タイトルは同じ『ゲーム』で、
トビン・ベル主演のシチュエーションスリラーが。ひょっとすると、四方はこ
ちらの『ゲーム』だけをかつて観ており、当日放送の『ゲーム』については全
く知らなかったのかもしれません」
「何? てことは……四方は五島を殺害後、テレビ欄に『ゲーム』とあるのを
見て、アリバイ工作のためにとっさに嘘を吐いたってか?」
「私はそう推理します。疑いもされぬ内から自殺を選んだのも、このアリバイ
工作が簡単に見破られると覚悟したからではないでしょうか」
「うーむ。可能性が出てきたことは認めてもよい。だが、自殺にしては、あの
死に様は変じゃありませんかね?」
 有本刑事の言葉に、頷く者多数。当然だ。四方は、腹部からの失血で死亡し
たと見られている。傷は刃物、恐らくは四方の別荘にあった包丁によると推測
されたものの、その凶器が現場では発見されていない。
「氷やドライアイスで作った刃物だなんて、言わんでくださいよ」
「彼が死んだ部屋の窓は開いていたはず。そこから外へ投げ捨てれば、川に落
ちる」
「舐めてもらっちゃ困る。窓の下なら、真っ先に浚った。包丁どころか、剃刀
一つ落ちちゃなかったよ」
「川の上流や下流は、まだ捜索していませんよね?」
 何やら念押しするような口調で、天田は聞いた。憤慨が収まりきっていない
様子の刑事は、乱暴に「ああ、時間が足りない。だがいずれやる」と答えた。
「だったら、望みはある。水の勢いで押し流されたかもしれない。あるいは、
流されるよう、四方が包丁に細工をした可能性もある」
「細工?」
「水の抵抗を受けやすくする細工です。たとえば、包丁の柄の部分に、傘状の
物を手作りして取り付けるとか。そうすることで、自らへの返り血も抑えられ、
自殺したようには思えなくなる効果も期待できる」
「うぬぬ……」
 名探偵と評判の男から、自信溢れる口調で断言され、刑事も考え直したよう
だ。十秒ほどの間をおいて、部下達に命じた。川の下流を重点的に浚え、と。

 冬にしてはうららかな陽光が、窓ガラスを通して室内に降り注いでいた。休
日のそんな昼下がり。
 自分がこれまでに記した事件簿を読み返す内に、あることに気付いた。いや、
むしろ先に気付きがあり、確認するために事件簿を読み返したと言うべきかも
しれない。
 そしてその気付きが当たっていたと確かめられた頃合いに、天田才蔵が事務
所に帰ってきた。たまには一人で昼食を摂りたいと、どこかに出掛けていたの
だ。
「お帰りなさい、天田さん」
「うむ。留守中、何もなかったかね」
「特にありません。ねえ、天田さん。現在のところ、依頼を抱えていないこと
ですし、僕の話をちょっと聞いてくれませんか」
「何だい、改まって。断りを入れなくても、暇なときであればいつでも聞くが」
 天田の返事には、若干の嘘がある。この名探偵、依頼がないときでも、一人
の世界に没頭することがたまにあるのだ。そんなときの天田に、おいそれと声
を掛けても、無視されるだけならまだいい方で、怒鳴りつけられる場合だって
ある。
「それじゃ……あ、最初に言っておくと、気を悪くしないでくださいね」
「どういう意味だい。――うん? 旧い記録を引っ張り出したようだが、それ
と関係ありそうだな」
「はい。この間の『保養地殺人事件』――仮題ですが――の解決後に、ふっと
感じたんです。天田さんの解決した殺人事件て、犯人が死亡しているケースの
割合が高いんじゃないかなって」
「へえ、そうかい?」
「まず、『保養地殺人事件』でしょ。犯人が実は二番目の犠牲者を装って、自
殺していた」
 僕は指折り数え始めた。ついこの間の事件だから、記憶が鮮明だ。包丁は吊
り橋の真下付近で見つかったのだが、その柄には天田の想像した通り、紙皿を
利用した傘状の物が取り付けてあった。
「次に、殺しを扱った依頼としては一つ前の『虫眼鏡殺人事件』。逃亡を企て
た犯人だが、崖から誤って転落し、事故死」
「ああ、そうだった。思い出してきたよ。さらに遡ると、『ブルーベリーとラ
イラック、あるいは入浴剤殺人事件』では、犯人が謎解きの場に姿を見せず、
部屋を訪ねると自殺していた。その前は……『家庭菜園殺人事件』で」
「正式なタイトルは、『洋風庭園殺人事件』と付けましたが」
「うむ。あの事件では、事件に先立って病死した老人が、あれこれ仕掛けをし
ていたおかげで連続殺人が起きた。『日曜大工殺人事件』は、計画殺人を完遂
した犯人が、よほど浮かれたのか屋根から落ちて死んでしまった」
「『剥製殺人事件』を飛ばしましたよ、天田さん」
「あれもそうか。犯人は巧妙に隠れたつもりだったろうが、アクシデントによ
り、窒息死してしまったやつだ」
「数えてみると、僕が記録役に就いて以後、天田さんが引き受けた殺人事件解
決依頼八件の内、六件で犯人が死亡しています。七十五パーセントというのは、
多いんじゃないかと」
「多いかどうかは、私にも判断できないな」
 分析を始めることもなく、案外あっさりと結論を下す天田。
「標君が記録役になる前にも、何件か殺人事件を解決に導いたが、同じような
ペースで犯人の死による結末を迎えたと記憶している。これが異常と呼べるレ
ベルか否かは、全ての殺人事件に関して追跡調査する必要が出て来る。あるい
は、名探偵に依頼したくなるようなタイプの殺人に限ると、犯人の自殺が多い
のかもしれないよ。目的を遂げた犯人が油断したり、死んでもよいと考えたり
することで、犯人の死という結末を迎える場合が増えるのかも」
「そんなものでしょうか」
「我々が携わった殺人事件で、犯人が逮捕されるまでに死亡していないのは?」
「えっと、『自転車通勤殺人事件』と『歩く雪だるまの殺人』ですね」
 念のため、リストを見てから答えた。前者は、いわゆるプロバビリティの犯
罪で、犯人は目的を達成している。後者は、雪の密室が最大の謎として立ち塞
がった。犯人は予定していた四人の内、最後の一人を殺し損なっている。
「計画した殺人の達成具合は、関係あるとは言い切れないな。犯人が死んだ六
件も、全てが計画を完遂した訳じゃあない」
 僕の手からリストを取り上げ、しばらく眺めていた天田は、やおら資料を机
に放った。
「結局は、偶然さ。全て、偶然に過ぎない」
 さっきと同様、あっさり断定すると、興味を失ったらしく、天田は本棚から
一冊の実用書を手に取った。

           *           *

 U駅近くの喫茶店、その地下階の隅にあるテーブルにて、男が二人、顔を突
き合わせていた。
「約束した通りの額が入っています。確認したければご自由にどうぞ」
「信用しますよ。見返りは、金銭だけではありませんしね」
 若い方の男からテーブルを滑らされてきた封筒。その中ををちらと覗いただ
けで、もう一方の男――天田才蔵は懐に仕舞った。
「そちらの方もお約束通り、手配しておきます」
 それじゃこれでと立ち上がり掛けた相手を、天田は呼び止めた。
「もう少しだけ付き合ってください」
「何ですか? これでもう縁切りのはずでしょう。なるべく接触しない方がお
互いのためだって言ったのは、あなただ」
 座り直した若者は、声を低く、潜めつつも、強い抗議調で言った。
「ええ、覚えています。それとは別口で、状況に少し変化がありましたので、
お伝えしておきたくて」
「わざわざ言うからには、悪いことなんでしょうね」
「まあ、そうです。実は、あの保養地での事件で、我々が密かにしたことに、
気付きつつある人物が現れたんです」
「え? それは困る。あなたが保証するというから、話に乗っただけで……」
「まあ、最後まで聞いてください。現時点でその人物は、全てに気付いた訳で
はなく、ほんのちょっぴり、疑問の萌芽が顔を覗かせた程度ですから。ただ、
今後もしも、より真実に近付かれた場合の対処法を、決めておかねばなりませ
ん」
「と、言いますと?」
「疑惑を向けられたら、素直に認める、なんて選択肢は論外でしょうね」
「も、もちろん」
「ならば、三つの手段が残っています。穏便にその人物を遠ざけるか、実力行
使でその人物を口封じするか、別の人物を新たな犯人として仕立て上げるか。
一つ目は、完全な対処法ではなく、いずれぶり返す恐れがあるので勧められな
い。二つ目は逆に完璧だが、最終手段。なるべく使いたくない。私と親しい間
柄でもあるし」
「じゃあ、三つ目しかないじゃありませんか」
「決めるのはあなたです。ただし、手段に応じてそれなりの報酬をいただきま
す。元々、あなたが四方と五島を殺害しなければ、起こらなかった事態なんで
すからね」
「……金で解決するのであれば……」
「二つ目を選択しますか? これまでの説明で分かると思いますが、二つ目が
最もお高くつきますよ」
「もう少し、考える時間をもらえませんか」
「連絡を取る回数は、少ないに越したことはないんですがね」
「う、うん、それは理解してる、充分に。……そうだ、一週間。一週間の猶予
をください。一週間後に大手新聞に広告を出します。僕達だけに分かる合図を
決めて。それでいいでしょう?」
「ん、ま、かまいません。では、合図を手っ取り早く決めてください。私の方
は料金を提示させていただきます」
 天田は小型のスーツケースから一枚の紙を取り出した。きちんとした書類で
はなく、簡潔なメモ書きで、三つの手段それぞれに対応する必要な額が記され
ていた。

 〜 〜 〜

 三通りの合図を取り決めると、天田はそれをしっかり記憶した。
「では、一週間後の新聞で」
 相手の若者はそそくさと立ち上がり、足早に階段に向かった。彼――三山光
郎の背中を見送り、天田は伝票を手に取った。もうしばらく待ってから、店を
出るつもりだ。
 高所恐怖症の三山が、いかにすれば高い吊り橋を行き来し、四方を殺害でき
るのか。この設問に対する答を見付けたことが、天田に今回の行動を起こさせ
た。関わった殺人事件において、裕福な者や権力者が犯人であると推定でき、
かつ、解決を捏造できる見込みがあり、さらには犯人からしっぺ返しを食らう
可能性が低い場合、天田は名探偵らしからぬ行動を取る。真相とは異なる解決
を作り出し、犯人を救ってやるのだ。それ相応の見返りと引き替えに。
(あのお坊ちゃん、高所恐怖症でも、下が見えなければほぼ平気なんだよな)
 天田は気象台に問い合わせたことを思い出していた。
 四方が殺された時間帯、あの保養地の一帯には濃い霧が立ちこめていた。そ
の高さは、吊り橋の高さとちょうど同じぐらいだったと推測された。濃霧のお
かげで、三山は高さを意識せずに、橋を往復できたのである。

――終




#426/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  14/02/19  04:04  ( 12)
詩>邪悪な太郎君
★内容
 
しんしんと雪が降り
太郎を眠らせ
次郎を眠らせた

だけど今では太郎も次郎も老い
屋根の雪かきもするものがなく

みしみしみし
雪が家屋になだれ込んできて

太郎と次郎は永遠の眠りにつきました。 




#427/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/02/23  21:18  (  1)
過誤無きトリュフ   永山
★内容                                         20/11/03 18:38 修正 第2版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#428/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/03/29  23:26  ( 82)
お題>見本>五十音プラス   永山
★内容
「あ、本だ」
「お、それに目を付けたか。いい本なんだ」
「う、ほんと? かわいらしい絵柄だから言ってみただけなんだけど」
「本当さ。絵本だから、みきちゃんくらいでも読めるかな」
「絵本ぐらい当然、読めるわ。でも、ねえ、本田にいちゃん。お願いだからぁ」
「何でまた……しょうがないな。では読んでやるから、心して聞くように」
「うん」
「それでは……おほん。『うそかほんとうか』。昔々、あるところに――」
「その出だし、昔話の基本だね」
「茶々を入れない」
「だって、まんまなんだもん。言いたくもなるよ」
「賢く本音を隠すことを学ばないと、友達なくすぞ」
「――けほっ。けほけほん。ねえ、何だか煙たいよ」
「話をそらすな――こほ、こほんこほん。本当だ、煙が出てる」
「あのさ、本田にいちゃんケーキ焼いてるんじゃなかった?」
「そうだった!」

 〜 〜 〜

「シホンケーキ、こへてるのにいはいとおいひい(焦げてるのに意外とおいしい)」
「ほおばりながら喋らないこと。だいたい、シホンではなく、シフォンケーキだ」
「スホン?」
「違うっ。セホンでもソホンでもなく、シフォンだ!」
「あー、分かった。本当はチホンでもツホンでもなく、セシボンなんだよね」
「……フランス語で誉められたことになるのか、今のは?」
「これぞお世辞のお手本」
「何だ、お世辞か」
「いや、ほんとほんと。本当に美味でした」
「そんな『ほんと』を連発されると、かえって信じられなくなる」
「本心から言ってるのに〜。日本語って難しい」
「みきちゃんが使ってるのは、差し詰め、“ぬほんご”だな」
「ひどい〜。そこまで言われる筋合いない」
「どうかね。――本題にそろそろ戻ろうか。この本、まだ読み終わってなかった」
「今日は本読みで終わるのね」
「ああ。このあと七時から、『マル秘!本当にあった宇宙人の痕跡!』を観た
いんだ」
「少し前に、似たようなタイトルの、やってなかった? 『恐怖!本当にあっ
た吸血鬼の痕跡!』ってな感じの」
「それは前の前だ。前回は、『未来へ!本当に的中した予言の数々』だ」
「のほほんとしているのに、こんなことだけは記憶力抜群なんだね。ま、本田
にいちゃんの一番の取り柄だし」
「おまえ、さっきのリベンジのつもりか。ならば、こっちがリベンジの見本を
見せてやろう」
「ご、ご冗談を。尊敬する本田にいちゃんに謀反を起こすなんてつもりは、さ
らさらありませんです」
「こいつめ、ほんと、調子いいな」
「それもこれも本田にいちゃんの人徳のなせる技」
「意味が分からん。もういいや。本に戻るぞ」

 〜 〜 〜

「本田にいちゃん、『はこねゆほん』て、どこにあるの?」
「やけに唐突だな。はこねゆほんて、もしかすると、はこねゆもとのことか?」
「ああ、これ、ゆもとって読むの」
「そうだよ。さっきの物語に温泉が出てきたから、思い出したって訳か」
「うん。温泉で有名でしょ? 昔、行ったことあるし」
「だったら、箱根湯本は駅名で、地名としては箱根町の湯本らしいぞ」
「えー、嘘だよ。本田にいちゃん、私が物を知らないからって馬鹿にして」
「嘘じゃないよ。――ほら、本に出てる」
「……うー。そんなことより、本田にいちゃん」
「また話をそらして逃げたな」
「元々の用事を伝えに来たの、思い出したのよっ。古本屋に売る本、早く決め
なさいって、おばさんが言ってた」
「あ、その話か。前から言われてんだよな〜。テレホンでも手紙でも言われた。
でも、催促されても、全然決められなくってさ」
「悩む必要なんてないじゃん。ベッドの下にある、エロ本とかさ」
「ばっ――何で」
「知ってるよ〜、とっくの昔から」
「あ、あんなもの、売れないの。ていうか、買い取らないの、古本屋の方も」
「ふうん。高く売れそうなのに」
「ないない。高く売れるのは……手漉きの和紙で作られた古い和本なんかかな。
いや、その前に、みきちゃん。ベッドの下のこと、秘密にしておいてくれない
かな?」
「口止め料をくれたら、いいよ」
「……仕方ない。今、金欠だが、そのための金を、本を売って作るか。いくら
ほしいんだ? 一応、聞いておく」
「最低でもこれくらい」
「……何だ、その四本指は? 四千円?」
「ううん。ほんの四万円」
「高いよ!」

――終わり




#429/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/05/24  22:14  (266)
お題>【台詞回数限定】>最後の一言   永山
★内容                                         14/07/26 14:59 修正 第2版
 島の名は、仮に辺島(へしま)としておく。その辺にある島といったニュア
ンスだ。
 無論、現実にごろごろあるような島ではない。メタテキスト的な表現をすれ
ば、推理小説の世界にごろごろあるような島である。絶海の孤島で適度な規模、
船など本土との往復手段がなくなれば、たちまち閉鎖環境ができあがる。当然、
携帯電話の類は使えない。
 私、標準一郎(しるべじゅんいちろう)と私の友人で名探偵の天田才蔵(あ
まだざいぞう)が辺島に渡ったのは、天田が風変わりな依頼を受けたためだっ
た。およそ名探偵の役目とは思えない依頼、それは、島を所有する乾家の長男・
乾香甫(いぬいこうすけ)に相応しい女性を見定める、というもの。
 乾家では代々、長子が十八歳を迎える日にその相手を父親が決める習わしに
なっている。しかし、香甫の父は早くに亡くなり、遺言の類も書き記していな
かった。このようなケースにおいて、乾家では祖父が、次いで祖母が代わりを
務める。しかし祖父も祖母もすでに逝去しており、母親に役目が回ってきた。
香甫の母・久美(ひさみ)は、自分には決めかねるとして、かつて事件解決の
お世話になったからという理由だけで、天田に判断を委ねてきたのだ。まった
くもって信じられない決断だが、見方を変えれば、結婚相手の身上調査と重な
らなくもない。天田自身もやる気を見せ、こうして辺島にある乾家別荘へ足を
運ぶことになった次第。決して、リゾート気分に浸ろうと考えた訳ではない。
季節は冬で、辺島は凍えそうな寒さに包まれるのだし。
 ここで、島に滞在する人達を紹介しておこう。

乾香甫(いぬいこうすけ)高校三年。乾家次期当主
乾久美(いぬいひさみ)香甫の母
六田千里子(ろくたちりこ)香甫の恋人候補。二十歳、タレント。有名俳優の娘
蜂須賀陽菜(はちすがひな)同上。大学一年、生物学専攻。元水泳選手
西野河原有子(にしのがわらゆうこ)同上。高校三年。資産家の娘で香甫と同級
堀之内浩美(ほりのうちひろみ)同上。二十三歳。経営アドバイザー
近山翔(ちかやまかける)乾家の使用人。別荘全般の管理や雑務をこなす
天田才蔵(あまださいぞう)探偵
標準一郎(しるべじゅんいちろう)その助手で記述者。「私」

 いくつか付記しておくとすれば、六田はタレントと言ってもあまり売れてい
ないこと、蜂須賀は水泳選手時代にかなり有望視されていたこと、西野河原は
香甫の希望で候補に入ったこと、堀之内の肩書きは就業規則の作成がメインで
学生時代から実績を積んでいることといった辺りだろうか。
 別荘に滞在中の家事については、共用スペースの清掃は近山が受け持つが、
あとは恋人候補達の役目とされていた。恋人選びと言っても実際は花嫁選びに
等しいようだし、つまるところ、どの程度家事ができるのかを見極めるためだ
ろう。それは候補者達もよく理解しており、私の感想を述べるなら、料理は西
野河原が一歩リード。そうそう、蜂須賀は冗談めかし、夏だったら海に潜って
色々採ってきてみせるのにと言っていた。新鮮な魚介類を自力で調達できるこ
とが、花嫁選びにどのくらいプラスに作用するのか、分からないが。掃除は、
その蜂須賀が体力と持久力に物を言わせているが、丁寧さと効率で堀之内にも
目を見張るものがある。六田は努力は伝わってくるものの、あまり活躍できて
いない。
 話は前後するが、香甫の相手に関する最終決定権は、乾久美が握っている。
天田はそのための助言をするだけ。ただし、候補者達には天田及び私の役割は
伏せられており、久美の知り合いとして招かれたことになっていた。要は、母
親のいない場面で、彼女らがどう振る舞うかを観察する訳である。
 観察のポイントは、家事だけにとどまらない。女性らしさを基準とした口の
利き方や動作・仕種、喫煙や飲酒の有無までチェックする。香甫との相性、彼
に対する愛情も一応、勘案される。相性だけなら、香甫が希望して入れた西野
河原が一番に決まっているだろう。
 女性らしさに関して、私の感想をまた述べるとするなら、以前から香甫と面
識のある西野河原が、良くも悪くもフレンドリーと言えそうだ。時折、口調が
砕けすぎるきらいがある。蜂須賀は体つきから来るイメージで損をしているか
もしれない。が、その分を差し引いたとしても、女性らしい振る舞いをしよう
と努力する様が見て取れ、些か不自然になっている。堀之内は四人の中で最年
長だけあって、板に付いている。実は、私が用を足そうとトイレの戸を開けた
ら、ちょうど彼女がいて(といっても用足しの最中ではなく、流し終わって手
を洗い始めたところだ)、一瞬、緊張と怒りの混ざった表情でにらまれたのだ
が、すぐに笑みに変わり、どうぞとそつのない仕種で中へと促され、すれ違っ
た。こっちの気まずさは消え、そのまま気分よく用を足せたものだ。残る六田
は、さすがタレントと言うべきか、演技が巧みなようだ。少なくとも、乾久美
の眼があるところでは淑女になりきっていた。家事ができない分を挽回するか
のように、聞き上手な面も見せている。ただ、久美がいなくなるときが抜ける
ようで、手にした小さなゴミをそこらにぽいと捨てたり、ソファにあぐらを掻
いて座ったりするのを見掛けた。
 私には判定の権限はないが、私だけが目撃・体験した事柄も、天田に伝える
約束だから、多少の影響はあるだろう。
 判定の参考とするために、各候補者と香甫が二人きりになれる時間もそれぞ
れ設けられた。三泊四日の滞在スケジュールの中で、二日目の午後のことだ。
先に記したように季節は真冬、実際の気温も低かったので、別荘の外には出な
かった。我々にとってはその方が好都合な訳だが。
 とはいえ、デート中の男女に、ぴたりと張り付くなんて真似はできない。存
在を意識されては、正しい観察も無理というもの。そこで、館内に設置された
全ての防犯カメラを、直に見られるように準備を整えてもらっていた。当然な
がら、各個室やトイレ、風呂場にカメラはない。皆が集まる食堂にリビング、
玄関ホール、遊興部屋やちょっとした図書室を兼ねた共用の書斎等々に、一見
カメラと分からぬ形で配されている。さらには香甫と四人の候補者に宛がわれ
た部屋のドアにも、出入りを記録するためそれぞれカメラが向けられた。なお、
香甫と候補者達には、カメラの存在は知らされていない。
 こうした状況下で、事件が起きた。発覚したのは、三日目の朝だった。乾香
甫が自室で死んでいたのだ。
 定時になっても朝食の席に姿を現さないことを訝しみ、私と天田とで香甫の
部屋に様子を見に行った。候補者達に行かせなかったのは、逆に、行くのなら
四人全員でという流れになりかけたので、それでは騒々しいだろうと、天田が
代わりを買って出たのだ。
 二階の角にある香甫の部屋の前に着いた我々は、ドアをノックし、呼び掛け
たが、返事がない。施錠はされておらず、ドアを押すと簡単に中を覗けた。そ
うして、ベッドの上で動かなくなっている半裸の香甫を発見したのである。
 首に絞め跡がくっきりと残った絞殺で、死後六時間から八時間は経過してい
ると、天田は見立てた。発見時刻が朝の九時前だったので、深夜一時頃が犯行
時刻と推測された。また、被害者の格好やベッド周辺の状況より、性交渉の最
中もしくは直後に襲われた可能性が極めて高いとも考えられた。何しろ、ぱっ
と見ただけで精液と分かる代物が、シーツに点在していたのだ。
 ともかく、食堂に引き返し、全員が食べ終えているのを確かめてから、香甫
の死を伝えた。すると、真っ先に動いたのは母親の久美で、現場まで飛ぶよう
に駆け付けたかと思うと、冷たくなった愛息を見て、声もなく卒倒してしまっ
た。我々が追い掛けていなければ、後頭部を床に打ち付けていたであろう。
 彼女の世話を近山に任せ、天田は四人の候補者――今や、元候補者とすべき
か――に事実を告げ、続いて探偵の身分を明かし、捜査を開始すると宣言した。
この時点で、警察への通報が試みられたのだが、元々この別荘は企業の社長が
仕事を忘れ、休暇を満喫するために建てられたもの。外部への連絡手段は一切
ない。当初のスケジュールに従い、翌四日目の昼過ぎにならないと、迎えは来
ないことが確定した。
 科学的捜査にほとんど期待できない現状で、天田がまず着手したのは、各人
のアリバイ調べだ。午前一時を中心とした二時間、どこで何をしていたかを問
う。すると恋人候補四名からは、口を揃えたように同じ答が返ってきた。自分
の部屋に一人でいたと。思い返せばそれは当たり前で、昨日は午後十一時に解
散し、めいめいは宛がわれた部屋に入ったのだ。私や天田も、一つの部屋で小
一時間ほどおしゃべりをしたあとは、自室で一人きりになっていた。意識を取
り戻した乾久美及び近山にも同じ質問を発したが、久美もやはり同じ答。近山
は、一時過ぎまで雑用をこなしていたようだが、彼一人で行動していたのだか
らアリバイ証人はいない。
 しかし、部屋に閉じ込められた訳ではない。出歩くのは自由だ。それぞれの
主張を検証するのに、防犯カメラが役立つことになった。
 まず、私や天田が香甫の部屋に行っていないことを確認してもらった。探偵
役が疑惑を持たれたままだと、今後の捜査に支障を来しかねない。
 次に、近山の証言の正しさが裏付けられた。彼は申告通り、一時過ぎまで屋
内を動き回り、まめまめしく働いていた。香甫の部屋に近付いてもいない。続
いて乾久美の証言にも、ほぼ嘘はなかった。ほぼというのは、二十三時十分頃、
息子の部屋を訪ね、五分間ほど戸口で立ち話をしていたのだ。カメラは映像の
みなので、会話の内容を問い質すと、香甫があの時点で誰を気に入ったのか本
心を知りたかったとの返答。
「でも、まだ決められないでいるよとはぐらかされ、早々に追い返されました。
……まさかあれが最後の会話になるなんて」
「奥様、お気を確かに」
 泣き崩れそうな気配を察し、近山が彼女を落ち着かせた。
 続いて、恋人候補達の証言の検証に入る。すると、大小様々な嘘が発覚した。
小さな嘘は、夜中にトイレに行ったり、水を飲みに行ったりというもので、事
件に無関係なのは明白だった。
 だが、大きな嘘は簡単には見過ごせない。四人中三人が部屋を抜け出し、香
甫の部屋を訪れ、しばらくとどまっていたのである。順に記すと、次のように
なる。
・0時から0時四十五分まで:西野河原有子
・一時から一時四十五分まで:堀之内浩美
・二時から二時十分まで:六田千里子

 三人がそれぞれ言うには、昼間のデートタイムに、香甫から持ち掛けられた
のだという。時刻も含めて、香甫主導で決めたらしい。しかも、西野河原、堀
之内、六田の三人は互いの動きを承知していた。これらのことは、深夜の密会
に応じなかった蜂須賀の証言からも裏付けられた。
 ではどうして嘘をついたのか。それも、三人が揃いも揃って。これに対する
返事は、疑われると思ったからというお決まりの文句だった。死亡推定時刻に
ずばり重なる西野河原や堀之内は無論のこと、六田にしても、その訪問時間帯
は殺人が不可能と断言できるものではない。
「他の人はどうだか知らないけれども、私は容疑者の枠から外してもらえる訳
ね」
 蜂須賀陽菜は安堵したように言い、スプリングのほどよく効いたソファに身
を埋めた。だが、これには西野河原が異議を唱えた。
「冗談はよして。水泳が得意なあなたなら、自分の部屋の窓から海に飛び込ん
で、浩介君の部屋の真下まで泳ぎ、そこから岩肌を登って彼の部屋まで行ける
んじゃないの?」
 意外な指摘に、場がざわついた。しかし、当の蜂須賀は一笑に付すのみ。馬
鹿らしくて話にならないといった風だ。
 あとで確認したが、なるほど、蜂須賀の部屋の窓からは海が見下ろせ、飛び
込めなくはないかもしれない。だが、じっくり考えるまでもなく、真冬の海に
飛び込み、往復数十メートルを泳ぐなんて無茶だ。しかも途中で岩肌を何メー
トルもよじ登る必要もある。これらの関門を、ウェットスーツやロープ等を用
意し、クリアできたとしても、ずぶ濡れの身体で香甫の部屋に侵入することに
なる。現場にそのような形跡はなかった。冬なのに窓の錠が開いていた点は不
可解だが、少なくとも侵入時には施錠されていた可能性が高く、窓をどうやっ
て開けさせるかが問題になる。夜中に、窓の外に濡れ鼠の女が立ったとして、
それを迎え入れるとは考えにくかった。だいたい、防犯カメラの存在を知らな
かったのに、何でわざわざ海から香甫の部屋に行かねばならないのか、理由が
ない。
 以上の検討により、蜂須賀は容疑者の範囲から外されることが認められた。
 捜査の対象は、三人の候補者に戻される。とりあえず、深夜の密会で何をし
ていたのかが問われた。西野河原と堀之内は当初、昼間の続きでおしゃべりを
しただけと主張するも、あまりにも無理があった。追及すると、どちらからと
もなく、キスをしたことは認めた。しかし、性交渉はもちろん、触る触らせる
の類もしていないと頑なに言い張った。
 残る一人、六田は密会の時間そのものが特徴的だ。他の二人と異なり、十分
で部屋を出ている。犯行を済ませて、さっさと脱出したのかもしれない。ある
いは、入ってみると香甫の遺体に出くわし、逃げ帰った線もないとは言えない。
「言われた通りの時間に行って、ノックしても返事がなかったから、勝手に開
けて入ったのよ。部屋は真っ暗でほとんど何も見えなかったけれど、これも彼
の演出かなと思って、そのまま、歩を進めたわ。ええ、香甫がいるつもりで、
何度か短く呼び掛けてみた。無反応だったけど、これも何か意図があってのこ
とだと思って。少し目が慣れてきて、部屋の構造が同じと分かったから、ベッ
ドの縁に座ったわ。そうしたら、不意に手を触られる感覚があって……それが
香甫と思ってたんだけれど……どこか違っていた。腕の太さなんかから男性に
は違いないと思ったけれども、おかしな感じがしたのよ。全然口を聞かないし。
それで私、やっぱりやめておくと言い残して、部屋を出たの。香甫が死んだと
聞いて、ぞっとしたわ。じゃあ、あのとき部屋にいたのは誰?」
 六田の証言を信じるとすると、その人物こそが殺人犯の本命となる。だが、
六田、堀之内、西野河原の他に、被害者の部屋を出入りした人物はいないのだ。
六田よりも前に部屋を訪れた堀之内もしくは西野河原が居残った可能性もゼロ。
彼女らは間違いなく部屋を出ている。
 六田の話が真実と仮定した上で、襲われた香甫が瀕死の状態になりながら、
やってきた六田に助けを求めたのではないかという意見が出た。だが、呻き声
の一つも出せないのはおかしいとされ、瞬く間に却下となった。
 その後、天田は私を伴って、現場とその周辺、そして被害者の遺体を改めて
調べた。天田には何らかの確信があるらしく、ある方針に従って調べているこ
とは明白だった。私にはそれがどんな推理なのか、ほとんど分からなかったが。

 天田は咳払いのポーズからわざとらしい咳をすると、おもむろに口を開いた。
「皆さん、昼食の前に集まっていただき、ありがとうございます。どのタイミ
ングで話すか、非常に迷ったのですが、やはり一刻も早くお伝えしようと判断
しました。
 ええ、犯人が誰なのか、分かりました。少なくとも私はそのつもりでいます。
推理をお話しする前に、お願いがあります。私が推理を話し終わるまで、質問
や疑問を差し挟まないでいただきたい。一切の質問は、あとでまとめて引き受
けます。よろしいですか? よろしいですね。
 まずは、最前、乾香甫君のご遺体と部屋等の再調査結果を、お伝えします。
えー、久美さんには非常にお伝えしづらいのですが――ああ、近山さん、そば
にいて差し上げてください――心して、お聞きください。
 私は人体や法医学に関して専門家ではないが、長年に渡る探偵活動により培
った経験と、普段の勉強により、ある程度の知識はあります。その私から見て、
香甫君は強姦されています。はい、男に、です。シーツに付着した精液も、こ
の強姦男の物である可能性が高い。ああっと、ショックは分かりますが、ご静
聴を願います。
 さて……この事実と、実際に起きたこととを考え合わせれば、強姦男イコー
ル殺人犯である可能性が非常に高い。蓋然性から言って、間違いないでしょう。
ならば、この男とは誰か。島に男性は、私と標君と近山さんがいるだけのよう
だ。狭くはない島ですから、山狩りでもすれば四人目の男が見つかるかもしれ
ませんが、あまりに空想的です。殺人犯が男であるなら、容疑者は私達三人と
なる。
 ところが一方で、防犯カメラの眼があります。犯行時刻に私や標君、近山さ
んの誰一人として、香甫君の部屋に出入りしていない。そこで私は考えました。
我々がまだ関知していない、別のルートがあるのではないかと。そして真っ先
に思い付いたのが、隣の部屋のベランダから、香甫君の部屋に行けないかとい
う考えです。果たして、くだんの部屋は空室で、しかもドアは無施錠。窓を開
けてちょっと勇気を出せば、隣の香甫君の部屋のベランダに飛び移れる。こう
なると、私や標君、近山さんの誰もが現場に出入り可能、つまりは犯行可能に
なった――かのように見える。
 よく考えてください。季節は冬、部屋には暖房が効いている。窓を開け放つ
道理はない。施錠もする。それを、ガラスを割ることなく外から開けるのは、
無理です。可能たらしめるのは、香甫君の部屋に一度入り、密かにドアのロッ
クを開けることができた者しかいません。この条件から、またも話は逆戻りし、
死亡推定時刻の近辺に部屋を出入りした六田さん、西野河原さん、堀之内さん、
あなた達が怪しいとなる。
 犯人は男。なのに、部屋を出入りしたのは女性ばかり三人。この矛盾はどう
したことか。どうすれば快勝できるのか。――答は一つです。あなた達三名の
内、誰かが男なのですよ。
 お静かに! 約束を守って、最後までご静聴願いますっ。なに、長くは掛か
りません。三人の誰が男なのか、すぐに判明します。いえいえ、身体検査をす
るまでもありません。
 私はこの問題を考えるに当たり、あることを思い出した。標君が聞かせてく
れた話です。標君はここに滞在中、うっかり、ノックをせずにトイレの扉を開
けてしまったんですね。そうしたら、中には一人の“女性”がいた。その人物
は、標君を中に通して出て行ったそうだが、肝心なのは標君がこのあと、“そ
のまま”用を足せたという点。標君、君は便座に触れなかったんだよな? 男
である標君が便座に触れずに、違和感なく小用を足せたということは、最初か
ら便座が全て上がっていたに違いない。女性なら、便座を上げる必要はない。
にもかかわらず、便座が上がっていたのは、標君の前に入っていた人物が、一
見女性であるが実は男性だという証拠。
 つまり、その人物――堀之内浩美さんは女性ではなく男性なのだ。そして、
島にいる人物の中で、香甫君殺害犯の条件を全て満たす、唯一人の者でもある。
よって、犯人はあなただ、堀之内浩美さん! いや、浩美君と呼ぶべきかな?」
 天田はいかにも名探偵らしく、堀之内を指さし、きっぱりと断定した。
 堀之内に、他のみんなの視線が集まった。あたかも、水の流れができ、波が
起こるかのように。
 ざわつきが収まるのを待って、犯人と指摘された堀之内は口を開いた。皆の
注目が高まる。
「違います。私は女です。トイレの件は、酷い誤解だわ。汚れに気付いたから、
便座を上げて掃除していただけなのに。点数稼ぎと思われたくなかったので、
ドアがいきなり開けられたときはつい睨んでしまいましたが」
「そ、そうだったのですか」
 思わず呟いた私は天田を見た。
 ……
 しかし、もはや名探偵は何も言えないのだった。

――終わり




#430/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/07/27  21:48  (417)
お題>スコール   永山
★内容
 世良浩美には、気になる女がいた。
 市立図書館でよく見掛ける、ショートヘアの女性がそれ。外見は男っぽく、
いつもジーンズ履きの印象がある。背は一七〇半ばで、世良よりも随分高い。
自分との共通点を探すと、とりあえず、年齢は近いはず。平日の昼間でも自由
に動けることから推して、多分、大学生。
 そしてもう一つ、共通点が。
(彼女も、推理小説が好きに違いない)
 そんな風に思うのには、理由がある。理由ではなく、目撃した事実と言うべ
きか。この図書館で見掛ける度に、ほぼ百パーセントの確率で、彼女は手にミ
ステリを何冊か持っていた。
 ミステリ好きの女性は少ない。テレビの二時間サスペンスならまだしも、推
理小説となると、愛好家の女性と出会うことなんてなかなかない。実態がどう
あれ、世良はそう認識していた。
(ああいう人がうちの大学にもいれば、連れだってミス研に入ろうってことに
もなるかもしれないのに)
 世良の通う大学にも、ミス研すなわちミステリ研究会が存在する。興味があ
るのだが、現在の部員構成が男子学生ばかり五人と聞いて、尻込みしてしまっ
た。入学から三ヶ月近く経った今でも、よその部に入らないでいるのは、ミス
研に未練があるからにほかならない。
(まあ、同じ大学とまでは期待しないにしても、話をしてみたい。声を掛けた
い)
 そんな風に願う世良であったが、元来、人見知りする質で、積極的な方では
ない。きっかけさえあれば乗り越えられるのだが、そのチャンスが皆無で、実
現しないままでいる。
(ミス研の人の説明を直接聞くこともできなかったもんね)
 推理小説二冊を借りて図書館の建物を出、自嘲気味に口元を緩めた世良。小
脇に抱えた大きめの手提げ袋を、改めて持ち直し、歩き始めた。自宅まで、ゆ
っくり歩いて二十分。健康のためと歩いて往復しているが、七月に入れば、さ
すがに徒歩はやめるかもしれない。
(今日は曇天だからいいけれど。そういえば、あの女性は自転車だったっけ)
 思い起こしたちょうどそのとき、世良の行く歩道の右、側道を一台の自転車
が走り抜けていった。
(あ、噂をすれば。って、私一人が頭の中で思ってただけだけど)
 自転車を漕ぐ様を見るのは、これがまだ二度目。だから、普段からそうなの
か今日に限ってなのかの判断は不可能だが、今日の彼女はやけに前傾姿勢で、
急ぎ気味に映った。知らない人が見たら、男だと思うんじゃないか。じきに点
のようにしか見えなくなった女性の姿をそれでも目で追いつつ、世良は感想を
抱く。
 と、不意に冷たい風を感じた。見上げると、空で灰色の雲がうねっていた。
 これは一雨来る――と思う間もなく、ぽつぽつぽつと滴が落ち始める。雨は
すぐに勢いを増し、土砂降りに転じる。世良は鞄を頭のすぐ上に掲げながら、
走った。
(まるっきり、テレビで見た南国のスコールだわ。天気予報じゃ降水確率、十
パーセントだったのに。この辺で雨宿りできるのは……)
 脳裏に思い描いた地図をサーチするよりも、二十五メートルほど先の店が目
に入る。店先にオーニングが広く張り出してあって、しかも透明なビニールで
ぐるりと囲まれている。あそこなら雨を避けられそう。
 白く煙る視界を突き進み、世良は“避難スペース”に駆け込んだ。鞄を探り、
汗拭き用にと入れておいたハンドタオルを取り出す。ビニール越しに空模様を
見守りつつ、濡れた頭や腕などをぬぐっていく。タオルはたちまち重くなり、
絞れば水が出そうなほどになった。
「タオル、お貸ししましょうか」
 店の奥から、年齢を見当しづらい男性の声がした。他に客の姿は見えないの
で、自分に向けられたものと分かる。
 慌てて振り返り、問い掛けに答えるよりも、「あの、すみません。急に降っ
てきたから……」と言い訳っぽく反応してしまった。
「かまいません。ついさっきオープンしたばかりで、お客さんはまだ誰も。そ
んなことよりも、どうぞタオルを」
 サンダル履きの音を立てながら姿を現した店主――多分、店主だろう――は、
外見も声と同じく年齢の見当を付けにくい風貌をしていた。まず長髪に顎髭が
インパクト大。それに青シャツに縞柄のチョッキという出で立ちが続く。鼻眼
鏡の奥の目は、人生経験を感じさせるしわに縁取られているけれど、輝きは若
若しいような。猫背だから小さく見えるが、体格はよい。中肉だったのが少し
お腹が出始めたところ。和装の方が似合いそうだと世良は思った。
 人間観察をしている間に、手はタオルを受け取っていた。足も自然と店の中
へ。
「ど、どうも、ありがとう……ございます」
「どういたしまして。ほんとは傘を貸してあげられたらいいんでしょうけど、
生憎と余裕がなくって」
「そんな。充分です」
 店内を急いで見渡す。学生の自分に買えるような物があれば、お礼のつもり
で、売り上げに貢献しよう。
「――古本屋さんなんですね」
 両サイドの壁に一面ずつ、真ん中に背中合わせに二面の、併せて四つの書架
が配されていた。中には、様々な本が並べてある。新刊ではなく古本だと分か
ったのは、何となく。
「はい。親戚がやっていたのですが、だいぶ前にやめてしまいまして。僕が引
き継いで、この度復活――新装開店というのかな――することになりました。
至らぬ点が出てくるかもしれませんが、ご愛顧よろしくお願いします」
「た、確かに本は好きですが」
 正確には、推理小説の本、だけれども。
 心中で付け足しながら、改めて店内の手近なところを見回す。あったあった、
ノベルスや文庫本のコーナーにミステリが列んでいる。ハードカバーの方は見
えないが、きっと変わりあるまい。これなら何か一冊でもお礼がてらに購入し
ていけそう。そんなことを世良が考えていると、店主の目線が動いた。
「――また雨宿りのお客さんのようです」
 振り返ると、さっきまで自分がいた辺りに、背の高いシルエットが。すぐに
分かる。あの女性だと。
「雨宿りさせてください!」
 世良と違って、すぐさまそう言った。かなり大きな声で、近くにいたせいか、
世良が思わず身震いしたほど。
「どうぞどうぞ。タオルが入り用でしたら、今持って来ますが」
「お願いします!」
 受け答えをしながら、頭やら腕やらをハンカチで拭う様が見て取れた。中へ
入ってこないのは、水滴が商品を濡らさぬようにという配慮かもしれない。
 店主が一旦奥へ消えて、静かになった。そこで初めて、くだんの女性は世良
の存在に気が付いたらしい。目が合う。世良は無言のまま、小さく会釈した。
「あなたは確か、図書館でよく見掛ける……」
 ハンカチを持った手で、世良を指さしてきた。その手から水が滴るのに気づ
き、急いで戻す。
「え、ええ。私もよくお見掛けするなぁって、思ってました」
 いきなり話し掛けられて面食らったが、同じだったんだと小さな感動を味わ
いもした。きっかけさえあれば、話すのにためらいはない。
「今日も見掛けました」
「あなたも雨宿り? それともここの常連ですか? 私はこの店に気付いたの、
今日なんだけれど」
「私も同じ、雨宿りで。お店が開いたのは、ついさっきだそうです」
 店主が戻ってきた。タオルだけでなく、何やら湯気の立つカップを二つ、お
盆に載せて。
「よろしかったら、これもどうぞ。土産にもらった紅茶です。ああ、砂糖もミ
ルクもありませんが」
 確かに雨のせいで肌寒さを覚える。雨が上がると、また蒸し暑くなりそうだ
が、今は温かい飲み物の方がよいかもしれない。いや、そんなことよりも、い
ただいていいのだろうか。出されたからには、いただくべきなのか。
「ありがたいですけど」
 声に出して反応したのは、世良ではなく、もう一人の方。
「今、私は見事に無一文で、売り上げに貢献できませんよ?」
「かまいません」
「それなら遠慮なく」
 タオルに続いて、カップも手に取る。息を数度吹きかけてから、口に運んだ。
「――本当にノンシュガー? 甘く感じる」
「そういう紅茶だそうです。決められた手順通りに入れると、仄かな甘みが出
るんだとか」
 砂糖なしなのに甘みがあると聞いて、世良も興味がわいた。「いただいてい
いですか」と尋ねてから、カップを受け取った。
「……ほんとだ。甘い」
「よかった。僕の気のせいじゃなかった」
 冗談めかして笑みを浮かべる店主。二人が飲み終わるのを待って、カップと
それにタオルを回収する。
「雨、意外と長引きそうだし、よければ本を眺めていってください」
 と、再び奥に退いた。他に店員がいる訳でもなし、店内をぐるりと見渡して
も、防犯カメラの類はないようだが、客を信用し切っているのだろうか。
「帰りしな、目についたから引き返してきたけれど、なかなかよさげな店」
 独り言をこぼした女性に、世良は思い切って聞いてみた。
「自転車で急いでいたみたいですけど、いいんですか」
「うん?」
 本棚から世良へと向いた目は、意外そうに丸くなっている。世良は「詮索し
てすみません」と頭を下げ、名乗った。世良浩美、**大学の学生です、と。
「かまわないよ。友達に頼まれて、転居届を取りに行っただけ。雨が降り出し
たときには、マンションまでは距離があったし、それなら途中で見掛けたここ
を覗いてみようと思って、引き返した。それよりか、ちょっぴり驚いた。私も
同じ大学なの」
「へえー」
 話してみると、学部は違うが、同じ一年生と分かった。
「牧野晴菜、よろしく」
 そう自己紹介した相手は、手を差し出してきた。握手する。女性にしては大
きめの手だと感じた。
「部、部活は何ですか?」
 この機会を逃すまいと、世良は重ねて聞いた。仮にどこか違うクラブに入っ
ていたとしても、ミス研に一緒に入ってくれないか、希望は伝えるつもり。
「早く決めたいのだけれども、まだ迷ってるんだよね〜。文芸部かミステリ研
究会か。世良さんは何部?」
「私も迷ってて、いや、違う。入りたい部があるのだけれど、踏ん切りが付か
なくて、今は帰宅部で」
 自分が思い描いていた通りの展開に、気が急いてしまう。口の中は乾いてく
るし、言葉は早口になるし。さっきの紅茶、少し残しておけばよかった。
「踏ん切りが付かないってことは……世良さんもミステリ好きみたいだから、
ひょっとして、ミステリ研究会に?」
「そう、当たりです」
 こくこくと頷く世良。牧野も図書館で、こちらが手に取る本に注目していた
らしい。そう知って、今自分の顔に喜色が広がってると自覚した。
「やっぱりねえ。男の人ばかりだもんね、あそこ。じゃ、一緒に入る?」
「ぜひ!」
 即答っぷりがおかしかったのか、牧野は口に右拳を宛がい、笑いを堪える仕
種をした。それも我慢できなくなり、やがて声を立てて笑った。世良の方はあ
れよあれよと念願叶って、こちらも満面の笑みに。
 それから世良が、次の質問をしようとしたところへ、店主が戻ってきた。
「あの、失礼ですが、立ち聞きしてしまいました。今、**大学とかミステリ
研究会とか聞こえましたが、あなた方はそちらの学生さんですか。差し支えな
ければ――」
「私も彼女も学生です。部員にはまだなってませんが、入るつもりになってい
ます」
 牧野が素早く、しゃきしゃきと答える。
「それはそれは。OBとして嬉しい限り」
 意外な言葉に、世良と牧野は「えっ」と声を上げた。
「僕が在籍していた頃は、人数こそそこそこ集まっていたものの、メンバーに
女性は一人もいませんでしたよ」
「現時点では、今でもゼロです」
「はは、そうなりますね。僕の知っている雰囲気のままなら、女性でもミステ
リ好きなら、そんなに居心地は悪くないでしょう。できれば、入部してほしい
ですね」
「だったら、今ここで、ミステリ研究会の雰囲気を再現してもらえませんか?」
 牧野が言い出した。すぐには飲み込めず、世良は傍らできょとんとしていた。
「学園祭での活動なんかは再現無理でしょうけど、普段の部活でどんなことを
話題にしていたのかぐらいなら、できるんじゃないかと。世良さんも私も、ビ
ギナーながら少しはお相手できると思いますし」
「なるほど。分かりました」
 唇の前に、右の人差し指を縦に持って来て、少し考える素振りの店主。空模
様を窺い、次に壁の時計を見た。
「座った方がいいでしょう。パイプ椅子になりますが」
 レジカウンターの裏手に一度引っ込み、すぐに折り畳まれたパイプ椅子二脚
を持ち出してきた。世良と牧野はなるべくレジの近くで、かつ、なるべく広い
スペースを見付けて、椅子を開き、陣取る。
「最初に、名前を把握しないとね。えっと、先に来られたのが世良さんで、あ
とが牧野さん?」
「はい」
「僕は、東野久作といいます。東野圭吾と夢野久作を足して二で割ったような
名前とからかわれたものです。ミステリ全般が好きですが、強いて順位を付け
るなら、本格が一番に来ますね。お二人は?」
 話を振られ、世良と牧野は顔を見合わせた。世良から答える。
「私も本格推理が一番好きです。読むのももっぱらその系統で、他のジャンル
は、よほど話題にならない限り、手を出さないかも。嫌ってるんじゃなくて、
他のジャンルにまで手が回らないというか」
「自分は、満遍なく読む方だと思ってます。だから一番は決めにくいな。三つ
に絞るなら、感動系と……最後に来てどんでん返しがあるもの、それから本格
を愛読しています」
「よかった。本格という共通項が見つかった」
 髭面に笑みを浮かべる東野。
「一言に本格と言っても、特色でいくつかに分類できると思いますが、特に好
きな本格はありますか」
「私はトリック重視です。文章が下手でも、キャラクターが類型的でも、トリ
ックが秀でていれば許せます」
 世良の答を聞いて、牧野が少し考えてから口を開く。
「自分はちょっと違うかな。トリックもいいけれど、というより、トリックも
含めて、驚かせてほしい。驚けるなら、ロジックや意外な犯人でもよし」
「あ、びっくりするっていう尺度なら、叙述トリック。私、大好きです」
 両手を握って力強く主張する世良。店主の東野は、悩ましげに口を挟んだ。
「叙述トリックは論じるには面白いけど、具体例を挙げづらい題材ですね。作
品名を出しただけで、ネタバレになりかねない」
「はあ、確かに」
「知り合ったばかりですし、今日は、各自が考える本格推理の定義を披露して、
あれこれけちを付け合ってみるとしますか」
「けち?」
「面白おかしく、揚げ足取りしようってことだよ。本格推理に関して、万人に
通じる完璧な定義なんてないからね」
 東野の口調が砕けてきた。
 彼の見解に、牧野が早速、異を唱えた。
「そうですか? 自分は自分の定義、漠然とだけど持ってますが、割と完璧に
近いんじゃないかなと自信ある」
「それなら、牧野さんから行ってみよう。あっと、口で説明できるくらいにま
とまってる?」
「だいたいは。でも、書き出した方が安心できますね」
「それなら」
 店主は紙と鉛筆を用意してくれた。牧野にだけでなく、世良にも渡す。
「早く書けた方から、発表してもらおうかな。僕はとりを飾るとしよう」
 世良も推理小説ファンだけあって、本格の定義とは何かについて多少考えた
ことはある。が、具体的な文章にするのは初めての経験だ。端緒を掴もうと、
東野に話し掛けることにした。
「あのー、東野さん。学生のとき、こういうテーマでおしゃべりされたんでし
たら、いくつもの定義を聞いてきたってことですよね」
「そうなりますね」
「紹介できそうなものがあれば、言ってみてくれませんか。勝手が分からなく
て」
「ふむ。じゃあ、僕が個人的に、最も幼い、だがある意味で最も汚れていない
読者による定義だなと感じたものを、紹介しよう。確か、こうだった。『本格
とは、トリックを用いた小説である』」
「えっと……あながち間違いじゃないみたいですけど、言葉足らずっていうか」
「そう。本格のほんの一部を表現したに過ぎない。本格推理とは呼べない推理
小説にも、トリックが使われていることはいくらでもある。もう一つ、例を出
すと、こういうのもあったっけ。『本格とは、作中で提示された謎に対し、読
者が論理的に思考すればその謎を解明し得る小説である』。とても極端な意見
で、本格推理を定義したというより、犯人当てや謎解き小説について言ってる
だけな気がする」
「オーソドックスな本格推理、つまり事件が起きて探偵が推理して謎が解かれ
る形式の本格推理は、全てそうあってほしいと思わなくはないですけど」
 これは牧野の見解。東野も大きく頷いた。
「気持ちは分かる。論理的に、フェアにと声高に謳うイメージが、本格にはあ
る。しかしこの定義から外れてしまう作品にも、本格と呼びたい物がたくさん
ある。たとえばさっき出た、叙述トリックを駆使した作品。大雑把に言って叙
述トリックは、Aと思わせておいてBだったという趣向で読者を驚かせる物だ
と思うが、その解決の大半は意外とロジカルではない。Aだと思うとちょっと
不自然だったのが、Bと解釈すればまあまあすっきりする、程度じゃないかな。
あるいは、倒叙推理。ドラマになるが『刑事コロンボ』シリーズに代表される
倒叙物にも、本格推理と呼びたい作品はいくつもあるけれど、最前の定義では
除外されてしまう」
「自分は、倒叙物を本格に入れるのには反対です。別個の物として楽しめば済
む話ですから」
 牧野からの反論に、東野店主は面白げに顎を撫でた。ひげのざりざりという
音が聞こえてきそうだ。牧野が続ける。
「本格の範疇に倒叙を含めようとするのは、面白いミステリ、優れたミステリ
の全てを本格として一括りにしたいという、行き過ぎた希望の一つだと思いま
すね」
「いいね。確かに、その傾向がなくはない。希に見掛ける本格の定義に、『意
外な犯人や驚天動地のトリック等が用意されていること』なんてのがあるが、
意外な犯人や驚天動地のトリックは本格推理の出来映えの評価であって、本格
推理を定義する文言ではないのは、明らかだ」
 話に耳を傾けていた世良は、背筋が伸びる思いを味わった。自らの定義を考
える最中に、メモのつもりで“意外な犯人”とか“密室”と記していたのだ。
内心慌てつつ、手でさりげなく隠す。
 少し、沈黙ができた。世良が牧野を見やると、軽く目をつむり、腕組みをし
て斜め上を向いている。と、じきに目を開け、天井から視線を戻す。
「自分が考える本格推理とは、まず、読者に驚きを与えることを最大の目的と
する。というか、してほしい」
 独り言とともに、紙に書き付けた。
「ただし、驚きは怖がらせるとか、後ろからわっと言ってびっくりさせるとか
ではなく、『そうだったのか!』みたいな驚き。そのために大事なのは伏線、
かな? だから……『本格推理とは、謎と解と伏線のある物語』、これだけで
もいいかもしれない」
「殺人事件じゃなくてもいいってこと?」
 すぐさま聞き返した世良。彼女自身は、本格推理で扱う事件は殺人に限る、
みたいなイメージを持っていた。
「ええ。謎があればいい。できれば魅力的な謎としたいところだけれど、そう
しちゃうと、定義ではなく、作品の優劣になるから」
「なるほど。明快だ」
 東野がそう評価する。が、続けて疑問も呈した。
「だが、解は必要かな?」
「え? だって、解がないと、尻切れトンボというか、どんな絵空事でも書き
っ放しにして、それで本格推理でございという顔をされても、認められません」
「そうですよ。答のない謎々みたいなものになります」
 牧野の応援に回った世良。自然と身体の向きも、店長に相対する格好になる。
 東野は髭をひとなでしてから口を開いた。
「いや、解く過程は必要だとは、僕も思う。でも、答はなくてもいいんじゃな
いか。いくつかの謎を残すことで、余韻を醸し出す手法があるし」
「それくらいは認めてもいいですが、謎の本質、主軸に当たる謎に関しては、
余韻のためでは済まされませんよ」
「解決が明示されないミステリというのもある。読んでいないかな、『どちら
かが彼女を殺した』や『私が彼を殺した』」
「あぁ、噂は耳にしてたことありますけど、まだ読んでません」
「私は『どちらかが・』の方だけ」
 世良は片手を挙げて答えた。東野店主は「どうでした? 本格ではありませ
んでしたか?」と聞いてくる。
「派手なトリックはないけれど、あれも立派な本格だと思います」
 この返事に、東野は「でしょう」と満足げに反応した。
 一方、牧野は質問を発した。
「リドルストーリーとは違うんですか」
「似て非なるものと言えるかな。リドルストーリーは、複数通りの解釈ができ
ることが根底にあると言える。さっき挙げた二作品は、推理を組み立てれば一
つの結論に辿り着く――少なくとも作者はそういう意味の発言をしている――
のだから、リドルストーリーとは異なる」
「それでは、リドルストーリーは本格推理と言えるでしょうか?」
 牧野の次なる質問に、東野も少したじろいだようだ。見ると、牧野の目に悪
戯げな光が宿ったような。分かっていて、わざとやっている、多分。
「うーん、答に迷うね。リドルストーリーは……本格推理における謎の提示の
部分に該当する、そんなイメージがある。謎を解こうとする過程がない、とい
うかその前段階って感じだなあ。だから、そもそも推理小説ではないと言える
かもしれない」
「それはずるいですよ。推理小説の定義、いえ、小説の定義から始めなくちゃ
いけなくなる」
「だよね。それにリドルストーリーの中には、謎を解こうとする過程がある物
も皆無ではないし」
「何か、スピリットが本格と通じる物があるんですよ、いくつかのリドルスト
ーリーには」
「そうそう。誤解を恐れずに言えば、知的遊戯の発露、みたいな」
 店主と牧野の話に、世良も割って入る。
「同感です。けれど、そこを言い出すと、一部の落語も検討しなきゃいけなく
なりそう」
「おお、なかなかユニークな。――そうか、あれですね、考え落ちとか」
「落語といえば、『時うどん』や『壺算』もミステリ的だしなあ」
「『猫の皿』なんかもありますよ」
 推理小説好き三人が偶然集まったと思っていたら、落語も意外と分かる口が
揃っていたようだ。ひとしきり盛り上がる。
「ジョークにも、考え落ちの物がいくつかあるけれど、ああいうのでよくでき
たジョークに出会うと、ああ本格の枠に入れたいなと思ってしまう」
「だめですよ、店長さん。さっき、自分でおっしゃったじゃないですか。その
考え方は、“優れた作品を本格に入れたがる症候群”です」
「果たしてそうかな。ジョークの中で、本格推理の骨組みを持った作品ばかり
抜き出して、全てが優れた物だったなら確かに言う通りだけど、必ずしもそう
なるとは限らないような。――やっと上がりそうですよ」
 ふと、視線を外に移した店主。世良達も振り返る。空模様こそまだ曇りだが、
店の前の道を叩いていた雨は、非常に弱くなっていた。
「話に夢中になって、気付かなかった」
「夢中もいいが、途中でもあります。牧野さんの定義は一部聞けましたが、世
良さんのを聞いていない」
「あ、えっと、あのー、自己分析してみたんですけど、私は雰囲気を重視する
タイプらしくて……大げさなくらいの物理的トリック、名探偵にお屋敷、絶海
の孤島、密室、そっくりな双子、もちろん意表を突くロジックや叙述トリック
も好きです。そういうのをひっくるめて、言葉で短く表したいんですが……」
「そういう方向から攻めると、定義にならない」
 牧野が後を引き継いで言う。実体験があるのか、うんうんと頷きながら。
「ならないこともないですよ」
 東野があっさりした口調で穏やかに否定した。これには女性客二人が「え?」
と声を揃えた。
「どういう風に定義するんですか。そもそも、東野さんの定義、まだ聞いてま
せんけど」
「独自の定義を模索してもしっくり来ないし、先人の有名な定義に被ることが
ほとんどでね。ならばいっそ開き直ろうと。ある評論家が書いていたのとよく
似てるんだけど、僕が気に入っているのは、『本格とは、私が読んで本格と感
じた作品である』だね」
「――はあ」
 気が抜けたような反応をしてしまった世良。牧野に至っては、椅子からずり
落ちそうになっていた。案外、関西風ののりなのかもしれない。
「な、何ですか、それ。凄く都合がいいじゃないですか」
「そうだよ。これなら恣意的に用いられる。下手に定義して、もしも定義に当
てはまらないが本格と呼びたくなる作品が現れたら、悔しいじゃないか。その
点、僕が今言った定義なら、何でもござれだ。ははは」
「……参りました」
 苦笑いをその顔に浮かべ、牧野がぽつりと言った。それから座ったまま、世
良の方に身体を向ける。
「世良さんの定義は、次の機会に取っておきたいな。こんな楽しいこと、一回
きりじゃ勿体ない」
「え、ええ。皆さんがいいのなら、私も」
「僕はとりあえず、お二人に入部してくれることを期待しています」
 東野店主の言葉が、ミステリ研究会のことを思い出させてくれた。
「何だったら、僕の方からつなぎを取ってみましょうか」
「いえ、そこまでは。それよりも、会の普段の雰囲気は何となく理解できまし
たけど、創作の方は行っているんでしょうか?」
 尋ねる牧野の語調は、彼女自身が推理小説を書いている、もしくは書きたい
と願っていることを窺わせた。
(だから、本格の定義なんてことにも、普段から考えを巡らせていて、言葉に
できるのかな)
 世良がそんな想像をしている前で、東野が答える。
「もちろん、やっています。多分、今もやっているはず。学園祭に合わせて、
開始を発行して、一般向けの犯人当てを載せるのが恒例でした」
 一般向けと表現する辺りが、何だかおかしい。
「分かりました。自分は入るつもりになりましたが――世良さん、どうする?」
「私も入りたい。牧野さんが入るのなら、心強いし」
「今日会ったばかりで、そんなに信頼されても弱るなあ。――あ、完全にやみ
ましたね、雨」
 牧野の言った通り、雨は収まり、少しだが日が差してきた。
「視界が白くなって、まさしくスコールって感じだった」
「――普段はこんなこと言わないんだけど、牧野さんは小説を書く心積もりの
ようだから、敢えて」
 突然、東野店主が言い出した。持って回った前置きだが、それにしては表情
がにやにやしている。
「何でしょう?」
「そんなに身構えることじゃないんだが。スコールという言葉には本来、急に
降り出した激しい雨、みたいな意味はない」
「本当ですか?」
 牧野が目を丸くする横で、世良は「まさか、ジュースの名称だって言うんじ
ゃあ……」と小声で突っ込んでみた。
「違うよ。正確な表現は僕も記憶していないし、自分で調べた方が身に付くか
ら、ここでは言わない。まあ、まったくの間違いという訳でもないし、日本語
として定着しているのならそれでよしとする考え方もありだろうけどね」
 東野の話に耳を傾けた牧野は、ふと思い立ったように聞き返した。
「この店に国語辞典はありませんか?」

――終




#431/549 ●短編
★タイトル (dan     )  14/11/02  07:32  ( 13)
彼女との旅  談知
★内容                                         14/11/24 06:17 修正 第2版
 温水シャワーという触れ込みだったが、実際は水シャワーを浴びて、震えながらシャ
ワー室を出てくると彼女がいた。長い髪で、相変わらずに皮肉っぽい目をして私をみ
た。
「久し振りだね」
「礼文島いらいね」
あれから二年ほどたっていた。
「君がこんな安宿にいるとは思わなかった」
ここはカトマンズでも最下級の安宿だった。
「どうしてたの」
「旅の費用をかせぐためにせっせとバイトさ。君みたいに金持ちじゃないんでね」
「そう」
私の今回の旅は始まったばかりだった。これでちょっとは面白くなりそうだなと思っ
た。




#432/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  14/12/26  23:02  (  1)
閉ざされたキョウキ   永宮淳司
★内容                                         22/09/30 09:59 修正 第4版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#433/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/01/28  22:41  (177)
落下する死   永山
★内容                                         15/02/03 20:28 修正 第4版
「まただ」
 わずかな後悔とともに呟いていた。その声の響き具合に驚いてしまい、私は
慌てて口をつぐんだ。
 今、私は自分の住まいにいる。雑居ビルの三階にある小さな部屋が、仕事場
を兼ねたねぐらだ。親父から受け継いだ興信所だが、それなりに繁盛している。
午後十一時を過ぎ、他に人の気配はない。
 正確には、つい今し方まで、人の気配はあった。その気配が消えたのは、私
が命を奪ったせいだ。
 人を殺したのは、これで二度目になる。十五、六年前の話だ。場所は、同じ
くこの部屋だった。ただし、そのときは二人でやった。私と私の親父とで。
 ある若い男性が、妹が自殺したのは調査結果のせいだと言い掛かりを付けて
きたのを思い出す。理屈を説いたり宥めたりしても、引き下がらない。それど
ころか、元から興奮していたのがさらに感情を高ぶらせ、とうとう親父に掴み
掛かってきた。私は彼の背後に組み付いて、親父から引き剥がそうとしたが、
弾き飛ばされてしまった。三度試みていずれも失敗に終わったため、私は最終
手段に打って出た。後頭部を思い切り殴りつけたのだ。あとで、警察に通報す
る手があったと気付いたが、もう遅かった。男性は支えを外された棒きれのよ
うにばたんと倒れると、打ち所が悪かったか意識を失っていた。ぴくりとも動
かない男を見て、さすがに慌てた。呼び掛けても反応はなく、頬を軽く叩いて
も同じだった。脈を診てみたが、よく分からなかった。結局、五分ほどして絶
命したのを確認するに至った。
 私と親父は顔を見合わせたまま、しばらく沈黙を作った。先に声を発したの
は、私の方だったと思う。隠蔽しようと。
 事件、否、事故を隠すには、遺体がここにあっては話にならない。遠くに運
ぶことに決めた。と言っても、二人してえっちらおっちら搬出し、車のトラン
クに押し込んで、どこかの山奥に埋めようという訳ではない。
 私達のオフィスが入るビルは、ある鉄道路線のすぐそばに建っている。窓を
開けると、眼下に線路がある。線路と言っても、よくある二本のレールと枕木
と砂利からなる物ではなく、コンクリートに一本線が通っている奴だ。新交通
システムとかいう、モノレールみたいな代物で、架線もなければ運転士もいら
ない。この線路上を車両が行き交う折は、その屋根の部分がすぐそこに見える。
遺体を車両の屋根に置くことができれば、あとは列車が遺体を遠くへ運び去っ
てくれる寸法だ。
 路線図を調べると、ほぼ直線がしばらく続くようなので、簡単には落下しま
い。大きく右にカーブするのが、およそ二十キロ先と分かった。その辺りで遺
体が振り落とされる可能性が高そうだが、地図を見る限り、落下予測地点の周
囲には人家も大きな道もない。第三者に目撃されて、即座に通報されるような
ことはまずないだろう。
 普段の時刻表通りなら、この深夜の時間帯でも三十分おきに列車が走ってい
る。懸案事項は、列車のスピードだ。駅に近いので、さほど速度は出ていない
はずだが、動く列車の屋根に物を載せようなんて想像したことすらなかったの
で、首尾よく行くかどうか? だが、ピンチを切り抜けるにはやらねばならな
い。私と親父は意を決し、急ごしらえの計画を実行に移した。
 ――その結果、遺体は我々の思惑通りに運ばれ、我々の予想通りの地点で落
下したようだった。現場に足を運んで視認した訳ではなく、報道で知った。
 あの若い男が自宅等に、私や親父につながる記録を残していないかどうかが
心配の種であったが、それもなかったようだ。捜査員が我々を訪ねてくること
はなく、十五年ほどの歳月が過ぎた。その間、親父は天寿を全うし、オフィス
は私が継いだ。新交通システムは、名前ばかり“新しい”ままで、何ら変わる
ことなく走り続けていた。交通インフラは立派だが、どこかで目算違いがあっ
たのだろう、周囲の開発は進んでいるようには見えない。今もあちこちに、手
つかずの土地が残っている。一番大きな変化は、当時はTシャツにジーパンと
いう出で立ちが常だった私が、スーツに袖を通すようになったことか。
 そんな変化に乏しい状況下、私の暮らしをかき乱す存在として現れた男。そ
いつは十数年前の若者と同様、今、私のオフィスに倒れている。床の冷たさを
感じる暇もなく、死んでしまっただろう。今回、私は最初から殺すつもりでい
たのだから。
 この男――中肉中背だが腹の辺りを触るとだらしがない。髭面で年齢の想像
がしにくかった――は今頃になって、どこからかぎつけたのか、私と親父の過
去の犯罪をネタに、脅しを掛けてきた。よほど金が入り用だったのか、性急な
交渉っぷりで、私の言い分に耳を貸す気配は微塵もなかった。こんな私でも、
守るべきものはある。かつて一度殺人を経験していることも大きかったのだろ
う。殺意を固めるのに時間は掛からなかったのだ。
 そんなことよりも、現時点で最優先事項は、この遺体をどうするかだ。
 当然の如く、かつてと同じ処理が頭に浮かぶ。私は窓をそっと開け、線路を
見下ろしてみた。
 変わりない光景があった。時刻や天候まで同じと言っていい。これはもう、
やるしかあるまい。天が私の背中を押してくれている。
 私はスーツを脱ぐと、シャツのボタンを外して腕まくりをやりかけた。が、
途中でやめて、元に戻す。素肌が遺体の衣服にこすれると、皮膚片だの細胞だ
のを残す恐れがあるのではないか。最前、殺害した際には指一本触れていない
ことであるし、このまま直に触らずに済ませるのがよかろう。そう判断し、私
はラテックスの手袋を用意すると、慎重に填めた。探偵の七つ道具という訳で
はないが、何かと役立つので常備している。
 念のため、マスクとキャップもした。
 この男と私とをつなぐ物はないと思うが、男が自宅に何か残している可能性
はある。ならば、男の身元が容易に分からぬよう、運転免許証や携帯電話、名
刺の類は奪い取って処分するとしよう。
 窓を開け放してから、遺体の両脇に腕を入れ、立たせる。外からは見えない
位置にと考えつつ、ぎりぎりのところで“待機”させる。あとは時刻が来るの
を待つだけだ。列車が通りかかるタイミングを見計らい、遺体を落とす。この
男の体格は、かつて殺した男と似たり寄ったりであるから、変にバウンドして
屋根から落ちることはなかろう。全ては、およそ十五年前と同じ行動を取れば
よい。
 私は壁の時計を見た。そろそろだ。耳に馴染みの駆動音が聞こえてきた。

 一仕事を終え、マスクにキャップ、手袋を取り、汗を拭ってから、スーツを
着ようとした。左、右と腕を通したところで、ちょっとした異変に気が付く。
 シャツの右袖がまくれて、スーツの袖の中でアコーディオン状になっている。
直そうと、指先を袖口から入れてシャツを引っ張ってみると……ボタンが一つ、
なくなっていた。
 最初は、ああ、糸がちぎれたんだなぐらいにしか感じなかった。ほつれた糸
を見つめる内に、しかし、重大なミスを犯した可能性に気付かされた。
 ひょっとして、さっき殺した男がボタンを握りしめたのではないか?
 だが、すぐにその恐れはかき消せた。私は殺害に当たって男に接近してはい
ない。ボタンを引きちぎられることはあり得ない。
 あるとしたら、別のケースだ。動かなくなった男を列車の屋根に落とすとき、
シャツのボタンが男の身体のどこか――ベルトのバックルとか腕時計といった
固い部分だろうか?――に引っ掛かり、落下の勢いで持って行かれてしまうと
いう状況である。これだとしたら、男の身体とボタンが今も一緒なのか、それ
ともボタンはどこか遠くへ飛んでいったか、可能性は五分五分くらいか。握り
しめられているよりはずっといいが、私の心理的不安に差はない。
 確かめねば。
 私は車のキーを手に取ると、このビルから落下予測地点までの道順を脳裏に
思い浮かべた。最新の地図で、現在でも周囲に建物などがないことを確かめ、
出発する。
 現地まで車でおよそ三十分。
 時刻表から概算して、遺体を乗せた列車が、落下地点のカーブを通過するの
は、二十分後ぐらいだろう。私が着く頃には、すでに遺体が落下したあとにな
る。人気がない場所とは言え、急ぎたい。
 深夜故、飛ばせばもっと早く着くに違いないが、万が一にも交通違反で警察
に見咎められるのは避けねばならない。私ははやる気持ちを抑え、慎重な運転
に努めた。
 そして車を走らせること三十分。予想とほとんどずれることなく、私は目的
地に到着した。
 しかし、カーブした高架の脚がでんと構えている周囲に、遺体らしき物は見
当たらなかった。捜索範囲を広げてみたが、やはり見付からない。
 何があったのだ? 私より先に、誰かが遺体を見付け、速やかに搬送したと
でもいうのか?
 狼狽えるのを自覚し、落ち着こうと努める私だが、身体に震えが来た。必死
になって、同じところを何度も探した。恐らく、血なまこになっていただろう。
 と、そのとき、頭部に強烈な衝撃を受けた。

           *           *

「なかなかに不思議な死に様だ」
 名探偵氏は顎を撫でつつ、独り言のように述べた。
「あなたが出馬してくるだろうと思って、いつものように一切、手を触れてな
いんですがね」
 馴染みの警部が、あらぬ疑いを掛けられぬようにとばかり、予防線を張った。
 名探偵氏は振り返ると、喜びと困惑を綯い交ぜにした表情を見せた。
「結構なことですな。それで、死因は?」
「まだちゃんと調べてないんで、状態のみになりますがね」
「かまわない」
「上等なスーツを着た方は、頭の骨が陥没しており、強い衝撃を受けたのは間
違いない。加えて、血溜まりができている。他に目立った外傷はなく、それが
死因に結び付いている可能性が高いと。その上に乗っかってる方は、はっきり
しない。頭に傷があるのは同じだが、他の箇所にもいくつかあるし、骨も折れ
ているようだし。注目は、出血量の少なさですかね」
 折り重なったままの男性二人の遺体を前に、警部は分かっていることを伝え
た。
「身元はどうです?」
「下になってる方は、名刺を信じるなら、興信所の所長。住所は、ここから車
で三十分ほどのところになってる。上の髭面の方は、身元を示すような物はま
だ見当たりませんね」
「もし仮に、彼ら二人が無関係であるなら――」
 話の途中で、名探偵氏は空を見上げた。正確には、空ではなく、高架を。
「興信所所長は、不幸にも事故の巻き添えを食らったのかもしれない」
「不幸な事故?」
「あの上には線路があって、電車が走ってるんでしょう? 髭の男はそこから
飛び降りて、たまたま下にいた興信所所長に激突し、死に至らしめたとは考え
られませんかね」
「うーむ。このけったいな状況を説明する原因と結果として、まあまあ説得力
があるとは思いますがねえ。たまたまいたとするには、時間帯が変な気もする。
死亡推定時刻はまだ大まかな見立てですが、夜の十時半からの二時間と出てい
るので」
「……なるほど、確かに。では、一刻も早く、興信所に向かうべきでしょう。
依頼を受けて調査のために、夜遅くだというのにこんな場所へ来たのかもしれ
ない」
 名探偵氏は自己の論理展開に満足したかのように、にやりと笑った。

           *           *

(……な、何だったんだ、一体……)
 意識が遠のく。私は事態を把握しようと、まだ活動可能な脳細胞をフル回転
させた。させようと努力した。だが、ぼーっと霞が掛かったような感覚がどん
どん広がっている。頭の中にスクリーンがあるとしたら、そいつが灰色に塗り
たくられたかのようだ。その上、尋常でない痛みが絶え間なく走る。我慢でき
ない。
 それでもどうにか理解した。自分の上に落ちてきたのは、さっき、私が殺し
た男だということは。
 だが、この“現場”に着くのは、私の方が遅くなるはず。
 にもかかわらず、男の死体が私の上に降ってきたのは――。
(何かの理由で電車が遅れた、それしかない)
 あまりのばかばかしさに、ボタンのことなぞどうでもよくなった。

――終わり




#434/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/02/26  21:55  (374)
3,2,1で解ける魔術   永山
★内容                                         16/04/06 09:40 修正 第2版
           *           *

                 3

「何が何だか、さっぱり……突然だったもので、顔も見ていません。薄暗かっ
たですし」
 頬に氷嚢を当てたまま、テンドー・ケシンは応答した。
「失礼ですが、心当たりは?」
 ホテルの医務室、ベッドの縁に腰掛けたケシンの前には、男が一人立ってい
る。刑事ではない。開幕したばかりのマジックフェスティバルに水を差すよう
な事態は避けたいと、ケシンが主催者サイドに伝えたところ、警察への通報は
ひとまず見送られた。代わりに呼ばれたのが、今、ケシンに質問をしている男。
見たところ三十歳前後で、落ち着いた声が与える印象は、それよりも若干年上
の雰囲気を感じさせた。身なりは、ややくたびれた感のあるスーツ一式で、た
いていの場には溶け込めそうだ。
「ないな。もちろん、マジック嫌いの方は世の中にいますが、それだけの理由
で襲ったりしないでしょう」
「同意します。でも、もう少し、突っ込んで聞かせてください。テンドー・ケ
シンというマジシャンを嫌っている方は、いませんか」
「皆無じゃないでしょうね。テレビによく出ていた頃、色々と陰口を叩かれた
みたいです。面と向かって言って来る人も少数ながらいました。けど、和解し
ています。陰口の人達だって、もう何年も前のことで、どうして今なのか、疑
問です。そもそも、暴力に訴える動機にしては弱いんじゃありませんか」
「仰る通りです。今のケシンさんに、こんな事件を起こすような敵がいないこ
とを確認したかったまで」
「え?」
「ということはつまり、極々最近、もしかすると今日のマジックフェスティバ
ルにおいて、犯人があなたを襲撃する理由が生じた可能性が強い。とりあえず、
前夜祭をどのように過ごされ、何があったのか。一から事細かに話していただ
けませんか」
「覚えている範囲でよいのなら……受付及び開場が夜の八時半からで、九時ス
タートなんだが、招待されたマジシャンや関係者は、先に会場入りして、受付
も済ませた。それが八時頃だったかな。親しい人達と会話して時間を潰し、前
夜祭の始まりを待った」
「その前に、夕食はどうなさいました?」
「前夜祭で軽めの物が提供されるので、夕食も軽めにしておいた。近くの和食
レストランで、天ぷら蕎麦を。ああ、六時過ぎに一人で。かつての超多忙だっ
た時期には、スケジュールを管理する人が付いていたんだが、今は自分一人で
やってるもので。無論、店で知っている人とは会わなかったし、お客から声を
掛けられることもなかったですね」
「分かりました。レストランを出て以降を、お願いします」
「六時四十分ぐらいに出て、斜向かいの書店やその隣の玩具店に入って、少し
時間を潰し、七時半にホテルに入った。おもちゃ屋の手品コーナーにいたとき、
私がテレビに出ていたマジシャンだと気付いた人がいたようだが、直接話し掛
けては来なかった。他には……店員にマジックで使ういくつかの素材を置いて
いないか尋ねたが、ないとの返事だったな。東急ハンズを勧められましたよ」
 苦笑を浮かべて見せたケシンだが、相手は意味を掴めなかったのか、首を傾
げた。東急ハンズがマジシャン御用達と言っていいほど、マジックに使える素
材を取り揃えていることを説明してやると、合点したように頷いた。
「東急ハンズに行かれたので?」
「いや、時間がなかったし、いつでも行けるから、先程述べたようにホテルに
戻った。部屋に入って、すぐにまた出て、受付の手続きを済ませて、会場に入
らせてもらった。役立つかどうか分からないが、マジックの種を会場の備品に
少し仕込んでおきたかったもので」
「役立つかどうか分からない、とは?」
「私自らマジックをやると言い出すのではなく、周りから請われたときに、い
かにも即興で演じたかのように見せるためです。実際、折角仕込んでも、使わ
ないことが多々あるんですよ」
「私はマジックに詳しいとまでは言えないので、おかしな質問かもしれません
が……」
「なんなりと」
「ライトなマジックファンが、あなたが仕掛けを施している場面を目撃して、
幻滅したというか、あなたに裏切られたと受け取り、腕力に訴えたという可能
性はないでしょうか」
「さあ……」
 痛みが治まってきたこともあり、ケシンは頬から氷嚢を離し、手をタオルで
拭ってから腕組みした。
「初心者の方に目撃されるようなことがもしあれば、あり得るかもしれません。
けれど、今回、あの時点で前夜祭の会場に、そんな初心者の方はいなかったは
ず。私が何かしているところを目撃しても、ちゃんと大人の対応を心得た人達
ばかりでしたが」
「会場、つまりホテル側のスタッフもいたと思うのですが、その人達も?」
「はい」
「納得しました。続けてください」
「それからは……」
 手を頬に宛がい、思い起こす。
「程なくして、前夜祭が始まり、私はしばらくの間、親しい方と話し込んでい
たな。一時間ほど経ったあと、一般参加者の間を回り始めた。ご挨拶と、軽め
のマジックを披露し、コミュニケーションを取る。主催者からの希望通りに振
る舞ったんです」
「一般参加者とは?」
「うーん、文字通りの意味なんですが、考えてみると、プロとアマと単純に線
引きできるものじゃありませんね。大雑把に言えば、マジックをやらずに観る
専門の人、あるいはやるとしてもほんの少しという人、といった感じになるで
しょう。ただ、中には大学の奇術研究会等に所属し、腕前も結構なレベルだが、
この業界との付き合いが浅いため、一般参加に分類される人もいるでしょうが」
「具体的な線引きがある訳じゃないと」
「まあ、そうなります」
「そのコミュニケーションの際、何か特記するような出来事はありませんでし
たか。酔客に絡まれるとか、種明かしを執拗に迫られるとか」
「幸い、今夜はそのようなことはなかった。あったとしても、割と慣れていま
すから、対応も心得ているつもりです。相手を不快にさせるような言動は、決
してしません」
「マジシャンとしての矜持ですね、テクニックの先にある」
「うん、まあそうなのかな」
 不意にそんな感想をもたらされ、ケシンは頭をかいた。
 一方、質問者は首を捻った。
「そうなってくると、ますます分かりません。ケシンさんが恨みを買うとは思
えない」
「ええ、ですから、心当たりがないとさっきから」
「すみません、もうしばらく、聞かせてください。覚えている範囲でかまいま
せんので、お客さんとのやり取りを。どんなマジックを披露し、相手はどのよ
うな反応をしたのか」
「マジックは五つの演目を、適宜、やっていっただけだから思い出せるし、お
客の反応と言われても、驚いてくださった、感心してもらえた、ぐらいしか」
「それ以外の反応はなかった?」
「そりゃあ、中にはお仲間同士で耳打ちしている方もいましたよ。恐らく、種
を囁いたんでしょうね。でも、そのことで怒るとしたら、私の側でしょう」
「確かに。念のためにお伺いしますが、種を直接、ケシンさんに話し掛けて、
正解か否か確かめようとした人なんて、いませんでしたよね」
「いたら、真っ先に挙げてますよ」
「でしょうね……」
 それからケシンは、前夜祭で披露した軽めの演目五つについて、説明した。
お札が増えたり変化したりするマジック。外国製のコインが左手から右手に瞬
間移動するマジック。空っぽの手からボールや作り物の鳩を出現させるマジッ
ク。お札や指輪の空中浮揚。トランプを消したり出現させたりするマジック。
「当然ですが、会場内に前もって仕掛けた種を使う機会には恵まれず。最終日
までにはチャンスがあるでしょうから、そのままにしています」
「……突飛もない発想と思われるでしょうが、仕込みをしたときに、何かを発
見しませんでしたか? 白い粉の入った袋とか」
「ははっ。麻薬の隠し場所を偶然、探り当ててしまった。そのことに気付いた
犯人が、私に警告を与えた、と?」
「ええ。どうでしょうか」
「ないない」
 笑いを堪えながら、顔の前で片手を振るケシン。
「そんな物は見なかった。仮にそんな状況があるとして、私は物を見付けてい
ないが、犯人が見られたと勘違いした可能性はゼロじゃないだろうけど、現実
問題として、大勢が出入りするカフェに、危険な物を隠します?」
「それはまあ、ありそうにない」
「いやあ、あなたの仮説で、痛みが吹き飛びましたよ。気に入りました。とこ
とん、付き合うとしましょう。ただ、えっと、明朝まで三時間は眠りたいので、
午前三時半をタイムリミットに」
「お疲れのところを、本当に申し訳ないです。助かります。私も一気に解決と
までは行かずとも、上司に報告しないといけないので、どうにかして目鼻をつ
ける必要がありまして」
 ケシンは場所を移し、お茶でも飲みながらの続行を提案した。相手にも異存
はなかったので、ホテルの最上階にあるカフェバーに足を運んだ。

「――これで全てです。記憶にある分は」
 ケシンは話し終えると、紅茶の残りを飲み干した。渋みを感じ、お冷やを続
けて煽る。
「ありがとうございます。いくつか、気になった点があります」
「どこでしょう?」
「時折、ケシンさんは違う演出をなさっていますよね。同じマジックでも、異
なる見せ方をしている」
「特別なことじゃありません。お客を見て、あるいは時と場合をはかって、見
せ方を変えるなんて、しょっちゅうです。演じる側も、同じマジックの繰り返
しでは飽きてきますしね」
「そうでしたか。でも、一応、伺うとしましょう。まず、三番目のグループで、
手の中で消したトランプのカードを、女性客のグラスの下から出現させている。
通常は、再び手の中に出現させるようですが」
「そのときは、条件が揃ったので。まず、それまでに演じた一番目、二番目の
グループはお客も立ったままだった。三番目は皆さん着席されていたので、グ
ラスを使いやすかった。さらに、私の手の届く範囲にあったグラスに、お客の
誰も注意していない隙を見付けた。正確には、隙を作ったのですが、まあそれ
はいいでしょう。成功する確信を得たので、グラスの下にカードを忍ばせたの
です」
「なるほど。現れたチャンスを活かしたと。……では、この六番目は? えっ
と、左手から右手にコインが瞬間移動するやつ。お客のコップを使ったようで
すが、皆さん立っていたんですよね?」
「それも好機を捕らえたとしか。普通はお客の手に落とすのを、そのときは視
覚効果を狙って、コップに落とすことにした。コインが水に落ちると音がする
し、コップは透明なプラスチック製だから、沈むときの泡や、飛び散る水しぶ
きも演出になる」
「なるほどなるほど。ちょっと待ってくださいよ……コインを落としたら当然、
飲み物はだめになる。そのことで、お客が立腹したというようなことは?」
「それはないと思うなあ。彼が持っていたコップの中身は水だったので、いく
らでもお代わりできるだろうという判断から、その人を選んだんです。そうそ
う、コップを二つ重ねて使っていたから、あるいは潔癖症なのかなとも推察し
ましたが、それは杞憂だったようです。拒絶されませんでしたから。加えて、
マジックにあまり詳しくなさそうに見えたというのもあります。マジックのあ
と、お代わりはご自身でお願いしますというようなエクスキューズを伝えまし
たが、その人は怒ってなんかいませんでしたよ」
「ふむ、そうですか。次は……十番目ですね。お札が増えたり変化したりする
マジックに、アレンジを加えていらっしゃる。千円札を一枚抜き出し、ペンを
突き刺してまた引っこ抜くも、お札に穴はあいていないという」
「これは、お客の中に見知った顔がいて、その人のお気に入りが、お札にペン
を刺すマジックなんです」
「顧客の好みに沿ったサービスという訳ですか。あ、一応、聞いておきましょ
う。お金に手を加えるマジックを嫌う人もいると思いますが、今夜はどうで
した?」
「日本で流通する硬貨を加工したグッズが、かつて問題になりましたが、ああ
いうのは一掃されていますから。お札にペンを刺すマジックにしても、実際に
傷つけている訳ではありません。何なら、種明かし込みでご覧に入れましょう」
「あ、いえ、結構。私は警察ではないので。次の機会、存分に楽しめる機会に
取っておいてもらえるとありがたいです。今、想定しているのは、そういった
種を知らない人が、お金を使ったマジックを観て、気を悪くしたなんてことが
考えられないかどうか」
「今夜のお客さんは、そこまで堅物ではないと思いますが。そんなことまで心
配していたら、人体切断はけしからん、空中浮揚なんて怪しげな術を使うのは
人心を惑わす、なんて理屈が通りかねない」
「これは私の考えすぎでした。――えー、マジックの演出を変えたのは、これ
くらいですね。で、あと一つ気になるのは、こういった特別な演出を観られな
かった人達が、不公平だと感じ、あなたに過激な抗議をしたとは考えられませ
んか」
「そりゃまた極端だなあ。この程度ではないでしょう。はっきり言って、アレ
ンジした分は、技術的にはハイレベルなマジックではありません。第一、それ
が動機なら、私を襲った際に、某かの主義主張を捨て台詞にでもするんじゃあ
りませんか」
 ケシンの指摘を、相手の男は予想していたらしく、「そうですよね、やっぱ
り」と応じた。それからメモ帳を音を立てて閉じると、内ポケットに押し込ん
だ。
「終わりですか」
「ううん、どうしようかと迷っています。引っ掛かった点はあるのですが、根
拠が薄弱で、突き進んでいいものやら。ケシンさん、襲われたときを思い起こ
すのはおつらいでしょうが、犯人の特徴について何かありませんか」
「最初に言いましたように、顔も見えなかった。男か女かすら、断言はできな
い有様ですよ」
「感覚では、男でしたか」
「ぶん殴られて、その力強さは男だと思った」
「背格好は? ケシンさんの目線で、高く見えたか低く見えたか」
「始めの一撃で、がくんと膝を折ってしまったからなあ。はっきりしないが、
私よりは少し小柄だった印象がある。あと、言葉では説明できないが、若い気
がする。緊張からか呼吸する音が激しく、慣れていない様子だった」
「最後の理由付けは、どうでしょう? 年を食った人でも、喧嘩慣れしていな
ければ、息が荒くなるのでは」
「言われてみれば、そうか。でも何となく、若さを感じた。加齢臭をかがなか
った、ということかもしれない。無論、意識していた訳じゃないですけどね」
「そういう感覚は、大事にすべきかもしれません」
 独り言のように呟き、男は天井を見上げた。
「事件がこれで終わったかどうか、犯人以外には分かりやしませんからね。大
事になる前に、ケシンさんをこんな目に遭わせた人物を見つけ、問い質したい
んです」

           *           *

                 2

 ホテルの二階に入るカフェレストランを借り切り、マジックフェスティバル
の前夜祭は、盛況の内に進んでいた。堅苦しい挨拶で幕を切って落とすと、す
ぐにざっくばらんな空気になった。雰囲気は、中規模な結婚式の二次会といっ
た感じか。会場のあちらこちらで、マジック談義に花が咲く。自己紹介が済め
ば、腕前を披露し合うアマチュアやアイディアの片鱗を熱く語る愛好家、有名
マジシャンの人となりを話して聞かす事情通など、色々な輪ができた。
 フェスティバル参加者にはプロも当然おり、前夜祭に顔を出して、マジック
を披露するマジシャンも数名いる。
(俺が論評するのはおこがましいが、みんな凄い腕だな。テレビに出てないか
らと言って、決して下手じゃない。――おっ、あれはもしかすると、ケシンか)
 学生の梶田は、同級生でマジックマニアの浦和に誘われ、今回の催しに参加
した。彼に誘われなければ、いや、彼と知り合わなければ、縁のない場だろう。
マジックには人並み程度の関心しかない。
 そんな彼でも、テンドー・ケシンの名や姿はテレビを通じて何度も見聞きし
た覚えがあった。今でこそ人気は落ち着いた感があるが、十年ほど前にマジッ
クがブームになった頃、その中心にいたマジシャンの一人が、テンドー・ケシ
ンだ。人体切断や浮揚、消失といった派手で見栄えのする大掛かりなマジック
で注目され、人気を博したが、その本領はトランプやコインを用いた技にある
らしい。マジックに詳しい浦和が以前、嬉々として語っていた。
 その浦和が席を外した今このタイミングで、自分たちの座るテーブルにケシ
ンが来るとは。
(うろ覚えだが、十年ぐらい前とちっとも変わってないような、見た目が若い)
 襟足を隠す程度の髪に白い物はなく、肌の色つやもよい。鼻の下の髭――コ
ールマンとカイゼルの中間のような――は、きれいに整えられている。何より
も手が若々しい。特に爪の手入れが行き届いており、一瞬、女性のそれと見紛
うほどだ。
(さすがにオーラみたいなものを感じるな。身体が大きく見える)
 柄にもなく緊張した。
 尤も、ケシンが話し掛けている相手は、ご婦人方だ。お年寄り、マダム、レ
ディ、少女と各年代を取り揃えたかのような一団のすぐ近くに、梶田は偶然い
ただけで、マジックに対する熱は女性陣とはかなり温度差がある。ケシンにし
ても、最初、「楽しんでおられますか」と、場にいる面々に笑みを向けた際、
視界の片隅で梶田を捉えた程度で、あとは見えていないのかもしれない。
 ケシンは軽めのマジックを演じだした。梶田が横手から眺めていても、ケシ
ンに嫌がる素振りはない。種を見破られない自信があるということだろう。
 手先の器用さをアピールするテクニックを披露し、お札を使ったマジックの
あと、今度はコインのマジックが始まった。流れるような演技に見とれている
と、不意にケシンから声を掛けられた。
「そのコップ、中身はミネラルウォーターですか?」
「え、あ、はい」
 自分の手の中にあるコップを一瞥してから、見えるように差し出す梶田。透
明なプラスチック製で、無色透明な液体が七割以上残っている。
「このパーティ、お代わりは自由ですので、使ってもかまいませんよね?」
「は、はあ」
 生返事したときには、コップはケシンの手に移っていた。あっという間もな
かった。ケシンに見据えられると、言われるがままに応じてしまった。ひょっ
として、テンドー・ケシンは本物の魔法を使えるでは? そんな馬鹿げた空想
が浮かぶほど。
 右の手のひらで蓋をするかのような仕種で、コップを上から持ったケシン。
左手は今し方、一枚のコインを握り込んだ。女性客の一人がペンで表にサイン
をした代物だ。ケシンは目を閉じ、少し俯くと、「それでは、行きます」と呟
く。続いて、左、右の順で手首のスナップを利かせた風な動きをした。その途
端、右手に持つコップの液体の中に、一枚のコインが落ちてきた。
 左手を開くと、そこにコインはない。コップに指を入れ、コインをつまみ出
すと、皆に示すケシン。コインには、女性客のサインが確かにあった。
「普段なら、このコインは協力してくださったお客様に、記念にお渡しするの
ですが、今回は三日もありますからね。最終日に再会を果たし、そのときにプ
レゼントしましょう。そちらの男性も、覚えておきますから。お名前は?」
「あ、梶田、です」
 催眠術に掛けられでもしたみたいに、コップを貸した上に、今度は名前まで
答えてしまった。ケシンは梶田にコップを返すと、「協力をありがとうござい
ました。すみませんが、飲み物の交換はご自身でお願いします」と言い置き、
別のグループのところへと足を向けた。
 梶田がいささか呆然としてマジシャンの後ろ姿を見送っていると、浦和が戻
ってきた。
「もしかして、さっきまでケシン師が来てた? うわー、ミスった」
 息を切らしながら、自分の運の悪さを呪う言葉を吐く浦和。
 梶田は苦笑いを浮かべた。
「どんなマジックをやってくれた?」
 興味津々、かぶりつくように聞いてくる浦和に、梶田は覚えている範囲で教
える。見たばかりなので、すらすらと答えられる。話し終わると、浦和の目の
色が変わるのが分かった。
「そーかー、それじゃあ、最終日、ケシン師から何かもらえるかもしれないっ
てか?」
「あ、その可能性はあるか」
「コインもらえたらいいよなあ。最終日までに何かやるだろうからさ。ケシン
師の最近の得意演目の一つに、コインを噛みちぎって、細い瓶の口から中に入
れて、元通りに再生するというのがあって――」
「コインを噛みちぎる、だって?」
「あ、もちろん、本当に噛みちぎるんじゃないけどな。詳しくは話せない。梶
田、おまえがこっちの世界にもっとどっぷり浸かったら、教えてやってもいい
けどな」
 優越感を含んだ口ぶりで、にやにやと笑みをなす浦和。
 だが、梶田の心中は、マジックの種どころではなかった。

           *           *

                 1

 高校時代、梶田は己の不器用さを呪った。細かい作業のできない手先を取り
替えたいと思った。そして何より、繰り返し練習をすることにすぐ飽きる自分
の性格を情けなく思った。
 原因は、浦和の奴にあった。
 友人の浦和に、彼女――八下真優を取られてしまったのだ。
 恐らく、浦和にも最初はそんな気持ち、微塵もなかったのだろう。マジック
好きの浦和は、覚え立てのネタを人に見せたくて、梶田や八下の前で披露する
のが常となっていた。
 梶田はさして感心しなかったのだが、八下の方が好感を持ってしまった。マ
ジックと、マジックをやる浦和に。
 そのことに気付いた梶田は、浦和に対抗すべく、マジックの本を買ってきて
身に付けようとしたが、うまく行かなかった。簡単なものならできるが、とて
も浦和にかないそうもない。
 その後、大学進学を機に、八下真優と浦和の仲も自然消滅。梶田と浦和の関
係も、何となく元の形に収まったようになっていた。
 だが、二年生になるかならないかの頃、八下と浦和の関係が復活したと、噂
で聞いた。梶田が内心腹を立てたのは、関係復活について浦和がおくびにも出
さなかったことだ。素知らぬ顔をして友達関係を続ける浦和に、それでも梶田
は笑顔で接した。頼み事も聞いてやったし、誘われれば一緒に行動するよう努
めた。そうした小さな無理を重ねたのがよくなかったのだろう、積もり積もっ
たちりのような恨みや妬みの欠片は、梶田の中で巨大な塊になり――あるとき、
彼の背中を押した。ウラワヲコロセ、と。
 梶田は殺意を自覚して以来、機会を窺っていたが、なかなかチャンスは訪れ
ない。日常生活の中で浦和が殺されれば、自分が真っ先に疑われる――と、梶
田本人は考えていた。実際にはそうならない可能性が高かったのだが。
 そんなとき、浦和から持ち掛けられたのが、マジックイベントへの参加であ
る。相変わらず、マジックには並以上の感心がなかった梶田だったが、このと
きは違った。二つ返事で参加の意思表明をした。マジックのイベントには、愛
好家が集う。当然、浦和の知り合いもそれなりの人数が来るだろう。そんなイ
ベント中に浦和が死ねば、疑われるのは梶田よりも、マジックを通じての知り
合いが先行するはず。これが梶田の理屈だった。
 調べてみると、イベントは三日間に渡り、立食パーティのような席が幾度か
設けられると分かった。昨年までのイベントをレポートするサイトを参考資料
にして、殺人計画を練った。
 同時並行的に、梶田は苦心して液体の毒を入手した。結果、殺害方法は、浦
和の飲み物に毒を投じる、毒殺に決まった。だが、注射器やスポイトを用意す
るのは避ける必要があろう。会場はホテル内だ。恐らく、防犯カメラが何台か
設置されているに違いない。そんな監視の目がある空間で、凶器の後始末をう
まく遂行できるか、自信を持てなかった。
 頭を悩ませた梶田が、やっと捻り出した解決策。それは自分自身の飲み物に
毒を仕込むという手口だった。自分のコップに何か入れようと、他人から咎め
られることはあるまい。ペットボトルを持参し、中身をコップに注いでも問題
ないはずだ。
 そして、自分のコップから毒入りの飲み物を、浦和の隙を見てあいつのコッ
プに移す。少量でいい。最悪、死に至らない可能性はあるが、それでもかまわ
ない。苦しみを与えてやりたかった。
 ただし、毒の入ったコップを、梶田自身がいつまでも持っているのはよくな
い。毒投入に成功後は、速やかに始末したい。指紋一つ付かぬように、素早く、
ぽいと捨てるには、コップを二つ重ねて使うのがよいとの計画を立てると、梶
田は自宅で部屋に籠もり、練習を重ねた。第三者がもしも目撃したなら、これ
だけの努力をマジック習得につぎ込めばきっとうまくなったろうにと感じたに
違いない。
 とにかく、イベント当日までに、努力の成果を実感し、ぜったにうまくやり
遂げる自信を付けた。
 残るは、浦和の隙を見付ける、ただそれだけだった。

――終わり




#435/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/03/28  19:32  (  1)
トラブル・ロック   永山
★内容                                         21/01/13 21:55 修正 第2版
※都合により一時非公開風状態にします。




#436/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/04/30  22:17  (348)
IT&R   永山
★内容
 我が友にして名探偵の天田才蔵(あまださいぞう)が、ある人物からの挑戦
を受け、対決することになった。
 きっかけは、天田がテレビのワイドショーにゲスト出演したとき、久方ぶり
に大口を叩いたせいだった。解けない謎はないと公言するのは、まあ、名探偵
の矜持として許容範囲内だろうが、不可思議な事件なんて所詮紛いもので、私
のような名探偵になると、不思議さを感じるいとまもなしに解決してしまうと
いうのは、言いすぎだったように思う。
 当然のように、批判や抗議が殺到した。が、ほとんどテレビ局が引き受けて
くれたので、天田の事務所がパンクすることはなかった。問題は、対決を迫る
コンタクトだ。挑戦状は三つ来た。自称・超能力者と自称・犯罪王と自称・魔
法使いから。この内、犯罪王はこちらからの返事に何ら音沙汰なしで、悪戯だ
ったようだ。超能力者は、対決の話を進める内に、何やかやと条件を付け始め
た。それらを飲むと伝えると、さらに難題を提示してきた。これは対決の意志
なしと見なし、交渉を打ち切った。
 残ったのは、魔法使いだ。彼――黒田暗護(くろだあんご)と名乗っている
のでとりあえず男性としよう――が提示した条件は以下の通り。対決の舞台と
対決方法はは彼が指定する。期間は二日。テレビ局の介入なし(ただしテレビ
局の人間二名を立会人とし、勝負結果の公表はテレビ局が行う)。
「名を売りたい似非魔術師が挑んできたのかと思っていたのに、テレビ局をこ
こまで排除するというのは意外だ」
 天田はそう述べた。
「しかし、テレビなしはこちらも歓迎するところだ。演出を排除し、純粋な勝
負ができる」
「では、受けるんですね?」
 私――標準一郎(しるべじゅんいちろう)が問うと、天田は曖昧に頷いた。
「受けるつもりではいる。だが、魔法使いの手の内をなるべく知っておきたい。
返答する前に、舞台と日時と勝負方法を聞き出せれば、それに越したことはな
い」
 黒田暗護とのやり取りは、電子メールで行っている。天田が上記のことを尋
ねる旨をメールで送ると、返事は翌日早朝に届いた。
 黒田からの回答は、「舞台と日時は前もって伝えられるが、勝負方法は明か
せない。不可思議な謎を存分に味わってもらうには、勝負方法を前もってする
ことは、マイナスになる故」というものだった。その言葉通り、舞台と日時に
関しては、明記してあった。日時はちょうど一ヶ月後に設定してあったが、天
田の都合が悪いのであれば変更可能とまで付記してあった。
 これで受けねば、天田が逃げたと思われるだろう。もちろん、この一連の交
渉は公にされておらず、対決を拒んでも直ちに名折れとなる訳ではないが、テ
レビ局の関係者らには伝わるに違いないし、そうなったらあとはどこからどう
噂が広がるか分かったものではない。
 天田がそこまで計算を働かせたかは知らないが、彼は勝負を受けて立つと明
言した。

 昼の三時。天気は下り坂で、予報によれば日付が変わる頃には雨がぽつぽつ
と来て、明け方までに相当降るという。
「初めまして、天田さん、挑戦を受けてくださり、とても光栄に思います」
 待ち合わせ場所のホテル前に現れた対戦相手は、優しい口調で挨拶をくれた。
 対決当日、我々の前に姿を現した黒田暗護は、若くて細くてともすれば頼り
なげな男性だった。さわやかな好青年を具現化した一例、といったイメージだ。
季節はそろそろ初夏を迎えるが、黒田は長袖のシャツに淡い青系統のカーディ
ガンを羽織り、下はこれも淡い黄色のスラックスに毛糸のソックスというなり。
魔法使いからはかけ離れている。顔や手といった露出している部分は、浅黒く
日焼けしており、また身長一八五はあろうかというサイズ故、ひ弱さとまでは
行かないが……闘争心の欠片も感じない。
「あ、いや、こちらこそ。挑戦してきてくれて、嬉しく思ってるよ」
 戸惑いを覚えつつ、応じた天田。私達は自己紹介のあと、さらに立会人とな
るテレビ局の人間二人を紹介した。
「まず、彼女は見たことがあると思うが、局アナの四方花江(しかたはなえ)
さん。報道畑出身で信頼は厚いし、今ではバラエティーにかり出されている程、
世間の人気も高い。適役だと、お願いしたところ、引き受けてくださった」
「四方です。よろしくお願いします」
 ショートヘアで清潔感のある女性が頭を下げる。年齢は確か四十近いはずだ
が、下手すると二十代と行っても通りそうだ。笑うとできる片えくぼが人気ら
しい。
 そんな女子アナを見下ろす格好の黒田は、へどもどした様子を垣間見せた。
「こちらこそ。いやー、緊張するなあ。まさか、こんな大物アナウンサーが出
て来てくれるなんて、予想していなかったですから。あ、もしかして、これも
天田探偵の作戦ですか? 緊張して僕を失敗させようという」
「そんなことはないよ」
 調子が狂うのか、苦笑いを浮かべた天田。事実、この場の空気は弛緩してい
た。対決を控えているとは思えないほど、リラックスしたムードになっている。
「もう一人は、君も見たというワイドショーのプロデューサーを連れて来たか
ったんだが、調整が付かなくてね。ディレクターをやってる、渡井正二(わた
らいしょうじ)さんだ」
「どうも」
 口髭とちょび髭を生やした渡井は、ぴょこんと短い動作で頭を下げた。彼が
立会人に選ばれたのは、立会人そのものの役目よりも、看板女子アナを守るボ
ディガードとして期待されたためだ。さほど大きな体格ではないが、がっしり
しており、柔道、合気道、空手を一通り嗜んでいるという。万が一、黒田暗護
が有名人相手の狂的な振る舞いに出る輩であった場合を想定し、こういった対
策は必要に違いない。
「さて、黒田暗護さん。僕や標君はたっぷりと時間を取ってきたが、テレビ局
の人間、特にアナウンサーは多忙な身だとは分かると思う。早速だが、勝負を
始めてもらいたいのだが、いいかな?」
 天田が促すと、黒田は「いいですよ」と軽い調子で承知した。
「ホテルに部屋を取っていますので、まずはそちらへ」
 すぐ横手に建つホテルは、名を紅夢といった。お世辞にも高級ではなく、ビ
ジネスホテルと民宿を足して二で割ったような、三階建ての少々古いビルであ
る。黒田は、その二階に五部屋を確保していた。四方アナウンサーが二〇九号
室、渡井が二〇八号室とそれぞれ一人部屋に、私と天田が二人部屋の二一〇号
室に入る。ということは、黒田は一人で二部屋――二〇一と二〇二号室を使う
のか。その二〇一号室前で、魔法使いを自称する青年は語り始めた。
「このホテル紅夢を舞台に、僕は不可思議な殺人劇を演出するつもりでいます。
観客は、天田さん達四人だけの贅沢な劇です」
「殺人劇とは?」
 笑みを交えて自信たっぷりに宣言した黒田に対し、天田がすかさず尋ねる。
「まさか、本当に人を殺すというのではあるまいね?」
「不可思議な謎をご覧に入れるのに、死体は必要条件ではありません。推理小
説などでは、より強烈なインパクトを与えるためとか、重大な出来事であるこ
とを示すために、死体が出て来ますけれど。僕がこれから行うのは、言ってみ
ればぬいぐるみ殺しです」
 そう言うと、彼は二〇一号室のドアを開けた。中はベッドとバスルーム、ラ
イティングデスク、テレビに小さめの冷蔵庫といった、ビジネスホテルには極
極当たり前の設備がある。私達が宛がわれた部屋と同じだ。
 唯一、ベッドの上にいくつかの物が置かれているのが違う。擬人化された猫
(もしくは虎だろうか?)のぬいぐるみが一体と、籐製っぽいバスケットに、
ホルダー付きの鍵らしき金属物がこんもりと盛られている。
 黒田はつかつかと中に入っていくと、ぬいぐるみを取り上げた。
「まず、犠牲者役がこのぬいぐるみ。僕が明朝九時までに、このぬいぐるみを
“殺害”してみせます。凶器はナイフの一本も用意してよかったんですが、物
騒だし、所持しているところを警察に見咎められたら面倒になるかもしれませ
んので……」
 と、黒田はとぼけた口ぶりになりつつ、スラックスの脇ポケットを探った。
程なくして、おもちゃのナイフが現れる。刃も鍔も柄も赤色をしたプラスチッ
ク製で、本物ではないと一目で分かる。
「これを凶器に見立てて、ぬいぐるみの胸板に突き刺すとしましょう。が、今
まで話した通りのことが起きても、何の不思議もなく、魅力的な謎にはなり得
ません。部屋に鍵を掛けた状況下で、つまり密室内でのぬいぐるみ殺しをやり
おおせてみせます」
「ふむ」
 天田は鼻を一つ鳴らした。続いてため息を挟み、感想を述べる。
「不可思議な謎というから、一体どんな魅力的な物を見せてくれるかと期待し
ていたのに、密室とはね。私は実際の事件で、密室殺人には、飽きるほど遭遇
してきた。そのどれもが、さほど不思議には感じなかったんだな。何故って、
一見、人の出入りが不可能と思われる空間で、人が死んでいること自体は不思
議だが、その一方で、人が殺されているからには真の意味での密室殺人なんて
あり得ないと分かりきっている。難しい数学の問題と似たような物だよ。まあ、
そのトリックに美しさを感じることは、希にあったけれどね。基本的に、密室
というだけでは不可思議さはもう感じないレベルだよ」
「そんなこと言わずに、騙されたと思って、体験してみてほしいですね。まあ、
僕的にも騙す気でいるのですが」
 あははと乾いた声で笑う黒田。まったくもって、魔法使いらしさがない。
「そりゃあ、ここまできて拒否する訳には行くまい。約束は守る。それで? 
勝敗はどうやって決める?」
「天田探偵、急かさないでください。まだ、密室の説明が。密室を構成する要
素の一つに鍵がありますよね。ここに鍵を山盛りにしたバスケットがあるでし
ょう?」
 ベッドの上のバスケットを指差す黒田。我々は首肯した。
「あの中に、“殺人現場”となる二〇二号室の鍵を混ぜます。その上で、この
二〇一号室の鍵も掛けます。二〇一号室の鍵は、天田探偵が預かってください。
僕は魔法を用いて、この部屋の外から二〇二号室の鍵を触り、形を読み取り、
二〇二号室のドアを解錠し、ぬいぐるみを“殺害”します。その後、余裕があ
れば二〇二号室にまた鍵を掛けた上で、このバスケットに戻します」
「魔法と言うよりも、超能力だな」
 渡井が独り言のように呟くのへ、黒田は「そうなんですよ」と両手を打った。
「先に超能力者と称する人が、天田探偵に挑戦状を叩き付けたという噂を耳に
したものですから、同じように名乗るのはよくないなと思い、魔法使いにして
みたんです」
「じゃあ君は、超能力者だというのか?」
「さあ? 魔法と超能力の明確な分類なんてできます? 無理だと思いますよ。
超能力っぽい、魔法っぽいというニュアンスでしかない。そのニュアンスに照
らせば、今僕が語った手口は、どちらかというと超能力に傾いているかな」
 話が脱線している。少し盛り返した緊張感が、また緩んでいった。
「口上はいいから」
 天田が肩をすくめながら言った。
「要するに、密室状態にした二〇二号室の鍵を、二〇一号室で保管し、二〇一
号室の鍵は私が保管する。そのような状況で、君は二〇二号室内でぬいぐるみ
におもちゃのナイフを突き刺してみせる、という訳だ?」
「うーん、基本的にはそうなりますが、うまくすれば、もうちょっと不可思議
なことをご覧に入れることが可能かもしれません」
「その不可思議なこととは何だね」
「それは……たとえば、鍵が戻っていくところをお目に掛けられるかも」
「さっきの説明を聞く限り、君は鍵を室外に持ち出す訳ではないんだろ?」
「いえ、ですから、そういうことではなく……まあ、起きたときのお楽しみと
いうことで、お許しください」
 ふっと、黒田の表情が急に真剣味を帯びる。口元には微かな笑みが残ってい
るものの、目はまっすぐで真剣そのものだ。
「――分かった。話を進めようじゃないか。そろそろ、勝敗の判定に関して、
聞いてもいいだろう?」
 とことん付き合ってやる、そう決めた風に腕組みをした天田。黒田は元の雰
囲気に戻って、「ええ」と軽い調子で答えた。
「僕の用意した不可思議な謎を、今日から四週間以内に、天田探偵が解体する
ことがで来たら、あなたの勝ちです。そうならなかった場合は、僕の勝ち」
「解体するとは、解明すると同義と取っていいのかな? やり口を指摘し、不
可思議でも何でもないことを示すという……」
「まあ、そうなるでしょうね。他に確認したいことがあれば、伺いますが」
 これに対し、四方アナが小さく挙手した。
「私でもかまいません?」
「もちろんです。どうぞどうぞ」
「黒田さんは、どの部屋にお泊まりになるんですか? 今伺った限りだと、二
〇一号室は鍵の保管のための部屋、二〇二号室はぬいぐるみのための部屋です
わよね?」
「あ、それなら、僕は泊まりません」
 この返答には、質問をした四方のみならず、皆が「え?」と声を上げた。
「僕の住んでるとこ、この近所なんですよ。泊まってもいいんですけど、でき
るだけ出費は抑えないといけません」
「ふうん……それじゃあ、ホテルの外から魔法を使うっていうのね?」
「はい」
 事も無げに言う黒田。俄然、魔法使いらしく見えてきたから、不思議なもの
だ。
「そうだ、思い出した。一つ、言い忘れていました」
 ところが次の瞬間には、もう謎めいた雰囲気は霧散する。
「二〇一号室の鍵は天田探偵に預けますけど、明日の朝九時より早く、二〇一
号室を開けないでください。二〇二号室も、フロントに頼めば開けてもらえる
かもしれませんが、決してそんなことはしないでくださいね」
「……了解した。しかし、ちょっと文句を言ってもいいかい?」
 天田もまた笑みを浮かべつつ、対戦相手に許可を求めた。黒田はこくりと頷
いた。
「魔法使いだか超能力者だか知らないが、そんな遠隔操作の力を本当に有して
いるのだとしたら、私の見ているところで、リアルタイムに実行してもらいた
いものだね。いや、君らの言い訳は想像が付くから、言わなくていい。大方、
能力を発揮するには集中を必要とするが、見られていると集中できないとか言
うんだろう。そういうのは聞き飽きた。まあ、君のような連中の立場も、分か
ってはいるが」
「……そこまで仰るのでしたら」
 黒田は顎に片手を当て、首を傾げながら、ゆっくりと喋った。
「難しいですけど、努力してみますよ。全てではないが、最後の瞬間に僕の力
を目の当たりにできるように。確約はできませんので、もしもそうならなかっ
たときは、ご容赦ください。勝敗にも無関係と言うことでお願いします」
 自称・魔法使いは、ぼんやりとした約束を土壇場になって持ち出してきた。
単なる見栄なのか、それともある程度の勝算があっての発言だろうか。
 とにもかくにも、勝負が始まる。
「最初に、そうですね、ぬいぐるみと鍵を調べてくださいますか。気の済むよ
うに」
 鍵の入ったバスケットとぬいぐるみを、左右の手で我々に渡してくる。私と
天田がそれらを受け取ると、黒田はさらに二本の鍵を渡してきた。二〇一号室
と二〇二号室の鍵だ。
「バスケットの鍵は、どれも別の鍵のようだな。キーホルダーも違う」
 天田が言った通り、形状は全てばらばらだった。長さからして異なる。似て
いる物もあるが、仮に二〇二号室と同じ鍵があったとしても、それ自体、この
二〇一号室に保管されるのだから、役立てようがあるまい。
「ぬいぐるみは、お手製のようね」
 女性らしい感想と言っていいのか、四方アナがぽつりと言った。私もぬいぐ
るみを手にとって、頭部や胴体をぎゅっぎゅっと押してみた。ウレタンか何か
が入っているのが分かる。他に固い物が仕込まれているような気配は全くない。
「終わりました? 終わったら、ぬいぐるみと二〇二号室の鍵を持って、隣に
移りましょう」
 黒田を先頭に、隣の二〇二号室に移動する。同じ間取り、同じ家具の部屋で
あるのは言うまでもない。
「ぬいぐるみは、ベッドの中央に置くとします。返してくれます?」
 甲を下にして右手を出してきた黒田に、私は持っていたぬいぐるみを渡そう
とした。ところが、天田から声が飛んだ。
「いや、置くのは標君がやるんだ。それでも問題ないだろう?」
 私は視線を天田から黒田に移した。黒田は目をしばたたかせたものの、ふっ
と表情を緩め、「いいですよ」と承諾した。
 私は黒田の前を通り過ぎ、ベッドの中央辺りにぬいぐるみを置いた。
「仰向けでいいかい?」
 黒田に確認を取ると、「どちら向きでもかまいません。でも、仰向けが絵に
なりますよね」と答えた。ナイフが刺さった状態を想像すると、確かにそうか
もしれない。
「では、皆さん、出てください。ああ、僕が最後だと怪しいですね。最初に出
ましょう」
 黒田はその言葉の通り、真っ先に二〇二号室をあとにした。渡井、私、四方
アナ、最後に天田の順で続く。
「鍵をする役も、僕はふさわしくないですね。天田探偵が決めてください」
 天田はほとんど間を置かず、自分の手で二〇二号室の鍵を掛けた。ドアノブ
をカチャカチャ言わせ、間違いなく施錠されたことを確かめる。
 それから再び二〇一号室に入る。黒田がバスケットを手に持ち、天田に二〇
二号室の鍵を置くように頼んだ。
「これでいいかな」
「ええ、充分です」
 黒田は左手の指先で、キーホルダーをちょんとつついて鍵の位置を少しだけ
直すと、バスケットをベッドの中央付近に、慎重な手つきで置いた。
「あとは部屋を出て、ここの鍵を掛けてください」
 私達は廊下に出た。天田が鍵を使って二〇一号室をロックする。最前と同様、
確実に施錠されたことを立会人を含めた全員でチェックした。
「さあ、これで完了です。僕は家に帰りますが、皆さんはどうぞこのホテルで
おくつろぎください。ありきたりですが、温泉やゲームの施設は整っています
し、近所にパワースポットの類や小さな博物館がありますし。ああ、食事は朝
夕ともバイキング方式で、お口に合うかどうか分かりませんが、ご容赦を」
 魔法使いの黒田は、旅行会社の引率かホテル関係者のような台詞を残し、紅
夢ホテルを立ち去った。

 このあと翌朝までの間に、特記するような物事はなかった。私と天田と四方
アナと渡井、四人で小旅行に来たような体で、のんびりくつろいだ。他にする
ことがなかったとも言える。
 もちろん、対決を忘れてはいない。気になって、時折、二〇一号室や二〇二
号室まで足を運び、ドアの前から様子を窺ったり、中の気配に聞き耳を立てて
みたりしたが、何ら変化はない模様だった。
「もし、黒田暗護が本物だとして、いかに成し遂げるつもりなんだろう……」
 眠る前に、私がそんな疑問を呟くと、同室の天田がいくらか呆れた口調で応
じた。
「標君、その言い方は矛盾を孕んでいるぞ。彼が本物の魔法使いなら、魔法を
使って不可思議な出来事を成し遂げるに決まっている」
「あ、ああ。そうでしたね」
「まあ、どうせ何らかのトリックだよ。手品的、詐術的な方法を用いるに違い
ない。ホテルを離れると聞いたときは、多少驚いたが、それとて、こっそり戻
ってまた出て行くことは、不可能ではあるまい」
 二〇一号室と二〇二号室を常時監視していない限り、その可能性はある。
「現時点で思い悩んでも仕方がない。明日の朝九時を楽しみに待とうじゃない
か。結果が出てから対策を立てよう」
 天田はそう言うと、部屋の明かりを消した。

 黒田暗護が次に我々の前に現れたのは、朝八時半だった。朝食のバイキング
を終えて、部屋に戻ろうかという頃合いだった。
「皆さん、快適に過ごされましたか?」
 昨日の続きをやっているかのような台詞で始める黒田。テレビ局の不介入を
条件に入れたのは、黒田当人が己の魔法使いらしくなさを認識しているからで
はないかと、妙に納得する。テレビ映えしないのは確実だ。
「ちょっと早いじゃないか、黒田さん。我々がチェックアウトの準備をしてい
る間に、何かするのではないかと勘繰りたくなってしまう」
 天田が嫌味混じりに告げる。すると黒田は、「いらぬ疑いを招くということ
ですか」と答える。
「お疑いでしたら、今すぐ、結果を見てもよいですよ」
「何だって?」
 また驚かされた。時々、この魔法使いらしくない自称・魔法使いには驚かさ
れる。
「二〇二号室に行き、鍵を開けてもらって、中から二〇一号室の鍵を取る。そ
れから二〇二号室に行って、ぬいぐるみがどうなったのか、見てみるとしまし
ょうか」
「……分かった。多忙だから早くしてくれといった手前もあるし、そうすると
しよう」
 天田は同意し、立会人らにも異存はなかった。早速、食堂から二階に向かう。
 二〇一号室の前に辿り着くと、黒田はドアのすぐ横に立ち、天田に鍵を使っ
て開けるよう、促した。
 天田はジャケットの懐から、ゆっくりと鍵を取り出した。意識してスローモ
ーな動作に努めたのが分かるくらい、ゆっくりと。
 鍵穴に鍵を差し込む前に、施錠状態を改めて確認する。変わらず、鍵は掛か
っていた。
「では、開けます」
 天田は立会人らに向けて言った。渡井は鷹揚に無言で首を縦に振り、四方ア
ナは「どうぞ」と小声で応じた。
 かちゃりと音がして、解錠された。ノブを回し、天田がドアを開ける。ドア
とドア枠とが作る隙間が、段々と広がっていく。
 ――その瞬間、私は、私達は目撃した。
「か、鍵が」
 鍵が宙に浮いていた。
 それは一瞬で、次の刹那にはバスケットの中へと落下。ちりんという金属音
が短く響いた。
 天田がダッシュで室内に飛び込んだ。バスケットに手を伸ばし、たくさんの
鍵の中から、目的の物を見付ける。ホルダーに刻まれた数字は、202。
「くそ」
 吐き捨て、とって返す天田。目指す先は、隣室だ。
 私達が驚愕している間、黒田はずっと廊下から中を覗くのみだった。部屋を
飛び出す天田を、身体を開いて通してやる余裕さえある。
 天田は黙したまま、新たに手にした鍵を、二〇二号室のドアの鍵穴に入れた。
回す前に、施錠の確認は怠らない。黒田はさっきと同じように、ドアのすぐ横、
壁に身を預けるようにして立った。
 ドアが開かれる。黒田を除く四人が、雪崩れ込んだ。ベッドの中央、ぬいぐ
るみに視線が集中する。
「――ナイフだ」
 赤いおもちゃのナイフは、擬人化した猫のぬいぐるみの上にあった。刺さっ
てはいなかった。
「すみません」
 後ろから、黒田の謝る声が届く。振り返った私達に、彼は続けてこう言った。
「情が湧いて、刺すことはできませんでした。そのぬいぐるみに、僕は何の恨
みもありませんので」

 一ヶ月後、天田才蔵は敗北を認めた。名探偵が白旗を掲げたのである。


 さらに三ヶ月後のことだった。
 一人の若いマジシャンが、テレビのショーで華麗に初お目見えした。
 名前はANGOとなっていたが、黒田暗護に違いなかった。そのキャッチフ
レーズには、「かの名探偵・天田才蔵すら騙された」という文言が含まれてい
た。

――終わり
※種はタイトルを検索すれば分かるかも




#437/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/05/31  22:29  (  1)
堀馬頭写楽の選択   永山
★内容                                         20/12/31 14:48 修正 第4版
※都合により一時非公開風状態にします。




#438/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/08/29  21:51  (  1)
観察者たち   平野年男
★内容                                         23/10/07 21:29 修正 第5版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#439/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/09/30  22:07  (  1)
ゲームの凡人   永山
★内容                                         23/11/20 02:26 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#440/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  15/10/30  21:44  (426)
横浜志摩殺人事件もしくは肩こりには湿布   永山
★内容                                         15/11/09 02:27 修正 第2版
 風が強い。頭に手をやり帽子を押さえ、僅かに前屈みにながら進む。
 三人ほど前を行く女性は、そのロングヘアを左から右へと流されている。冬でないの
が幸いだ。陽もまだ高く、寒さは感じない。ここ横浜の天気は、今日から下り坂と予報
されている。
 波立つ水面を眼下に認めながら、橋を渡ると、ようやく風から逃れられた。壁の内側
に入ったのだ。人心地つき、顔を上げると、視線に圧倒される。出迎えの従業員が、両
サイドに大勢並んでいた。すでに手荷物は部屋に運ばれており、特に持ってもらう物な
どないのだが、満面の笑みで迎えられると、それだけでチップをはずんだ方がいいのか
なという思いが頭をかすめた。いや、ここはチップの類は一切不要と聞かされている。
この手の旅やホテルに慣れていない私は、友人の言葉を信じるほかない。
 その頼みの友人は、先へ先へと行ってしまったらしい。すぐ前を歩いていたはずなの
に、今や髪の長い女性を追い抜き、早足で進んでいるのが見えた。私は慌て気味にネッ
クストラップに手をやり、そこに付けられたカードを従業員の一人に示した。ルーム
キーを兼ねるというこのカード、前もって渡された物だ。これを機械にかざすことで、
チェックインの手続きが完了するのだという。無論、外出するときやチェックアウトの
際も同様、らしい。
 小走りになって、友人に追いつく。隣に並ぶと、やっと気付いてくれた。
「話し掛けても返事がないと思ったら、遅れていたのか」
「返事がない時点で、振り向いてくれよ」
「すまない。しかし、時間が勿体ないからね」
「部屋まで案内をしてもらわなくていいのか? 他の客は半分ぐらいは案内してもらっ
てるみたいだけど」
 きょろきょろと周囲に目をやり、見たままの感想を伝える。
「勝手知ったるというやつで、リピーターは案内なしで行くのが多い。かくいう僕は、
まだ三度目だが、聞くところによると年間を通して最上級の部屋を予約している人物も
いるそうだよ。好きなときに、いつでも泊まれるようにね」
 どんな金持ちだよと呟きそうになったが、飲み込んだ。ハイソな向きが大勢いる(か
もしれない)場なのだと自覚し、ぞんざいな言葉遣いは慎むべきだと意に留める。
「とにかく、今は君に着いて行けばいいんだな?」
「ああ」
「少し、ペースを落としてくれないか。初めての僕は、どうしても周りに目が行くよ」
 豪華絢爛を絵にすればこうなるという一つの見本が、そこにはあった。入ってすぐの
ホールには、きらびやかな装飾がそこかしこに施されている。吹き抜けの天井を見上げ
ると、ステンドグラスをイメージした丸い天蓋があり、下からは大理石の柱が支えてい
る。さらにブロンズ製と思しき人物の像が、ダンスを踊るかのように配され、何脚もあ
るゆったりとしたソファには、宿泊客が寛いでいる。
 ホールを抜け、エレベーター前に向かうに従い、装飾は同じ豪華さでも抑制の効いた
上品さを感じさせるものに転じた。両サイドの壁は木目調になり、イルカや人魚、カモ
メ等を模したオーナメントが掛かってる。かと思えば、絵画や写真、何やらアルファベ
ットの踊るカードといった代物も飾ってあった。エレベーターで目的の階に着き、出て
みると、今度は長い廊下が続いていた。角に飾られた花瓶やぬいぐるみを眺めつつ進む
と、客室のゾーンに入った。
 この階担当らしい女性従業員が微笑みかけてくるが、私の友人はまた案内を断った。
「前に泊まった部屋と同じフロアだから」
 と言うが、長い長い廊下を前にすると、本当に大丈夫かなと少々心配になる。迷路と
までは行かずとも、とにかく広い。少なくとも自分は、一旦部屋から出ると戻るのに苦
労しそうな予感がした。
「ここだ」
 立ち止まったすぐ横のドアを見ると、7012とプレートにあった。念のため、キー
カードの番号と照らし合わせる。同じだ。
 部屋に入ると、話に聞いていた通り、荷物が届けてあった。早速荷解きし、中見を確
認する。とりあえず、夕食の席はそこそこお洒落しなければいけないらしいから、服の
準備を優先しよう。

 小一時間ほど掛け、やるべきことを済ませると、やっと一息つけた。額に汗が浮いて
いる。ちょこまかと動き回ったせいもあるだろうが、高揚感が大きいようだ。ベッドの
縁に腰掛けている私に、相方はジャケットを羽織るやこう言った。
「さて、パーティに行くぞ」
「パーティ?」
 腕時計を見た。まだ夕餉には早い。そのことを言うと、「食事はまた別さ」と苦笑交
じりに答えられた。
「我々のマークすべき人物が参加するんだから、こちらも出向かねば」
「あ、高藤佐武郎(たかふじさぶろう)が、そのパーティに出るのかい?」
「うむ。まあ、宿泊客のほとんど全員が、足を運ぶのが通例なんだけどね」
 事前に聞かされていた話にようやくつながり、私は気を引き締めた。
 ここらで自己紹介しておくと、我々は探偵である。一応、私・日野森順彦(ひのもり
のりひこ)が助手で、主導的に探偵するのは土屋幹敏(つちやみきとし)の方だ。無
論、依頼を聞いて引き受けるかどうかを決めるのも彼。
 土屋の話によれば、我々が今回引き受けた仕事は、高藤佐武郎の犯行を食い止めるこ
とである。高藤は、裏社会ではそこそこ名の通った“犯罪マニア”で、様々な犯罪を経
験したいがためにやってみる、という非常に困った輩だ。泥棒や詐欺で逮捕歴がある
他、放火やスリの容疑を掛けられたことがある。犯罪を体験したくて仕方がない性癖が
事実なら、これ以外にも罪を犯しているかもしれないが、現時点では明るみに出ていな
い。そんな高藤に関するある情報が、知り合いの刑事からもたらされた。
 いよいよ――と表現してよいものかどうか分からないが、高藤が殺人に手を染めよう
としている、というのだ。
 折角の情報だが、あまりに曖昧だった。警察としては何も起こらない内は動きようが
ない。せめて、誰を殺そうとしているのかが分かれば、警護名目で手を打てる可能性も
あるのだが。
 かように扱いづらいネタ故、私立探偵のところに話が回ってきた次第らしい。
 土屋は、知り合いの刑事からの依頼という形で、高藤が本当に殺人を犯そうとしてる
のならそれを食い止めるか、最悪でもその現場を押さえることを請け負った。警察とし
ても、高藤のような犯罪マニアを野放しにしておくのは危険であり、たとえ殺人未遂で
も逮捕できれば、長く閉じ込めておけるとの算段があったのかもしれない。
 土屋は独自のルート(私にも秘密の)を使い、高藤が月末の金曜から二泊三日の予定
で、この宿泊施設に逗留することを突き止めた。それは、高藤にとって今までにない行
動パターンであり、遠出する理由がない。単なる観光旅行にしては、高藤の稼ぎからし
て、ランクが高すぎる。しかも、通常は二人で泊まる部屋を一人で使用するため、割高
な料金を払っていた。
 だが、殺人をやろうと画策しているのなら、出費は関係ない。殺人のついでに財産を
奪おう、逮捕されればそれまでだ。そんな考えで殺人計画を立てたとすると、辻褄が合
う。
 実際にこの場に来てみて、私も感じた。もし宿泊客の中から殺す人間を選ぶとすれ
ば、誰もがそこそこの金を所持しているだろうな、と。
「大げさなパーティではなく、歓迎式典みたいなものだから、そこで殺人をやらかすと
は考えにくいが、敵さんの現状を観察する意味でも、顔を見ておこうじゃないか」
「了解した」
 身だしなみを整えると、私は土屋に着いて、十一階まで上がった。このフロアでパー
ティが行われるらしい……と考える暇もなく、エレベーターを降りると女性従業員が笑
顔で我々を迎え、お盆をこちらに差し出してくる。二種類のグラスが載っているが、ど
ちらか選べということか。形状から判断すると、カクテルとスパークリングワインだろ
う。アルコールは苦手だが、カクテルグラスの方を取った。女性向けなのかもしれない
と直後に思ったが、他の客の動向を見ると、性別は特に関係ないらしいと分かり、ほっ
とする。
 と、些末なことでまごつく間に、土屋は先に行ってしまっていた。液体をこぼさぬよ
う、慎重な足取りで追う。
「――彼だ」
 私が追いつくと同時に、土屋は囁いた。顔の近くに持って来た指で示す方向に、私も
視線を向ける。
 いた。高藤佐武郎だ。
 事前に写真で見ていたが、それに比べると若々しい。写真では険しい表情と鋭い目つ
きばかりが印象に残ったが、今目の当たりにしている男はまるで違う。立派なスーツを
着ているのに加え、表情が明るいせいだろうか。隣の夫婦らしき老齢の男女と、笑顔で
言葉を交わしている。身長や体格も平均的で、威圧感はない。
「あのお年寄り達は、高藤の知り合いだろうか?」
 私が小声で疑問を呟くと、土屋はかぶりを振った。
「データにはなかった。宿泊者の中に、奴の知り合いはいない。ただし、データが古い
とも考えられる。あの二人の顔写真を撮ったから、送って、念のため調べてもらうこと
にした」
 やることが早い。
 ただ、その調査は空振りに終わりそうに感じた。というのも、高藤の観察を続けてる
と、彼は次から次へと宿泊客に話し掛けるのが見て取れたからだ。いくら何でも、全員
が知り合いなんて、あり得ない。話す時間の長短はあれど、旅先でたまたま会った相手
と、どうということのない会話を楽しんでいる、それだけのように思える。
 私と同じことを考えたのか、土屋が独り言のように言った。
「……ターゲットを物色しているのかもしれないな」
 なるほど、そう見なすのが自然か。推測が当たっているのなら、このパーティは思っ
ていた以上に重要な場面と言える。高藤が狙いを定めた人物を、我々も察することがで
きれば、犯行を未然に防げる可能性が一挙に高まる。
「どうする? 顔を見られるのを覚悟で接近し、会話の内容を掴むかい?」
「ふむ……もしくは、僕か君のどちらかが、あいつのターゲットに選んでもらえるよ
う、仕向けるか、だな」
「何?」
 思わず声が大きくなった。土屋が目で私を非難する。
「高藤が殺す相手をまだ決めていないとすれば、そういう手もありだろってことさ」
「それくらい、ちゃんと理解している。実行するのかどうかが問題だ」
「……選ばれずとも、高藤と知り合いになり、あいつに何だかんだとつきまとうのも、
抑止力にはなるだろう。試す価値はありそうだ」
「それなら決まりだ。どっちが行く?」
 視界の隅に高藤を置きながら、話を詰める私と土屋。高藤は、飲み物のお代わりを受
け取っていた。
「そうだな……ここへ泊まる者は、基本的に二人一組なんだ」
「それは承知しているが、高藤は単身なんだろ?」
「ああ。それだけ珍しいし、目立つ。僕か君のどちらかが単独であいつに接触しても、
恐らく、連れの存在を確かめられてしまうだろうな。」
「そうか。変に隠すよりは、最初から明かしておいた方が、怪しまれないという理屈だ
な。あっ、高藤がどこかへ行くぞ」
「パーティを抜けるつもりのようだ」
 高藤は一人で、エレベーターに向かっている。乗り合わせれば、声を掛けやすいのだ
が、生憎と、エレベーターは三基あり、その内の二基が今、このフロアに停まっている
ようだ。追い掛けて、高藤と同じ箱に飛び乗るなんて行動は、避けた方が賢明だろう。
「部屋番号をまだ把握できていないんだ」
 土屋は、先を行く高藤との距離を測りながら言った。
「予約時の情報は入手できたから、その段階での部屋は分かっている。ただ、手配を請
け負った会社の都合による部屋のグレードアップが、希にあるからね。あいつが何階で
降りるかを見ておきたい。八階なら、変更なしの可能性が高い」
 エレベーターの電光表示を目視できる位置まで来て、我々は高藤を密かに見送った。
扉が閉じる間際、外を向く高藤と目が合いそうになったが、避けた(と思う)。程なく
してエレベーターは動き始めた。そして十数秒後に停まる。
「――八階だな」
 満足げに頷いた土屋。
「8044にほぼ間違いない。あとは、タイミングを見計らって、あいつとすれ違うよ
うにすればいい」
「廊下で見張るのかい?」
「まさか」
 苦笑交じりに即答された。
「そんな怪しい真似はできないし、する必要はない。ここでの夕食は、原則として時間
が定められており、共同のレストランに出て来なければいけない。だから、我々もその
時刻に合わせて、レストラン前で待てばいい」
「そうか。えっと、夕食は確か……」
「今回は、午後六時からだ。一時間足らずだが、時間がある。折角の機会、君はここの
で優雅なひとときを味わっているといいよ」
「そんな悠長なことは。だいたい、土屋、君はどうするつもりなんだ」
「腹ごしらえをしておこうと思う」
「うん? 食事前に?」
「軽食を出してくれるところが、レストランとは別にあるんだ。ここはディナーだけで
なく、ジャンクフードも結構行ける」
「だったら、自分も付き合うよ。こんな広い場所で、一人になるのは正直言って不安
だ」
「それなら急ごう。ハンバーガーは人気があるからな」
 フロアを移るものと思い込んでいたので、エレベーターに向かった私だったが、土屋
に呼び止められて、ブレーキを掛けた。
「ちょうどこの反対側にあるんだ」

 土屋はジャンクフードと表現したが、どうしてどうして、人気のハンバーガーはちゃ
んとした料理になっていた。味も、ファーストフード店で食べるようなソースだけで決
まってしまうような代物ではなく、肉の旨味を感じられた。あとで、使っている肉は和
牛だと聞き、納得した。
 ともかく、腹ごしらえにちょうどよい量を胃袋に収めた我々は、レストラン前で待機
することにした。事前に土屋から計画を聞かされたときは、レストランの前で待ち伏せ
するのは目立つのではないかと危惧したが、全くの杞憂だった。レストラン出入り口の
手前はちょっとしたホールのようになっていて、中央に置かれたピアノでは常に演奏が
行われている。それを聴くために、宿泊客が何人もいる。ある者は備え付けのソファに
腰を据え、またある者は足を止めて聞き入っていた。私と土屋も彼ら聴衆に紛れ、高藤
が姿を見せるのを待ち構えた。
 やがて時刻は六時を迎え、ちょうどその頃、エレベーターで高藤が現れた。
 作戦では、チャンスがあればいつでも声を掛けるが、なければ無理をせず、食事中の
接近を試みることにしていた。レストランでの席は決められておらず、ウェイターに言
えばある程度は希望の席に着けるという。我々は、高藤の座った席を見極めてから、ウ
ェイターに案内を請う気でいた。
「――ちょっと状況が変わったようだ」
 エレベーターから出て来た高藤を横目で見やりながら、土屋が言った。その意味する
ところは、私にも理解できた。
 高藤に続いて、若い女性が出て来たのだが、彼女は高藤のすぐ斜め後ろを着いて歩い
ているではないか。腕を組めそうな距離だ。ハイヒール履きとは言え、かなり背が高
い。明るい青のワンピースが、よく似合っていると思った。――おっと、高藤が振り返
って、何か女性に言葉を掛けた。我々が腹ごしらえをする感に、高藤はこの若き女性と
知り合いになったらしい。もしや、彼女こそが、高藤が宿泊者の中から選んだターゲッ
トなのかもしれない……。
「どうする?」
「慌てることはない。若い女性が一人というのも珍しい。彼女を見たまえ、ひょっとす
ると、まだ十代かもしれない。スカートの裾を翻すような歩き方は、高校生ぐらいじゃ
ないか。これは……家族揃っての旅行だが、彼女だけはぐれたのを、高藤がレストラン
まで連れて来てやっただけ、と見た」
 早口で言いつつ、土屋は観察を続けた。
 すると、その推理の正しさを証明するかのように、ドアのところで高藤がウェイター
の一人に事情を説明する風な手振りをした。女性の方は、俯き気味になって、恥ずかし
そうにしている。言われてみれば、十代に見える。ドレスアップしているせいで見違え
たが、顔は少女のそれだ。
 やがて、若い女性は高藤にお辞儀をすると、先に一人だけ案内されて行った。
「ほら、やっぱり」
「なるほど。しかし、あいつがターゲットを定めた可能性は残るんじゃないか」
「ああ。だが、今はあいつに接近することを考えよう」
 我々は短い列に並び、高藤がどのテーブルに案内されるのかを見守った。店内には、
二人用の席の他、家族向けらしき四人席、丸テーブルを囲む八〜十名程度の席もあっ
た。高藤は単身の客だから、二人用のテーブルに通されるだろうと予想したのが、外れ
た。何故か彼は、八人掛けの丸テーブルの一角に陣取った。ウェイターの反応から推測
するに、高藤当人の希望らしい。
「見知らぬ人と相席して、知り合いになりたいというタイプもいるにはいるが……高藤
の場合、額面通りには受け取れないな」
 微苦笑を浮かべた土屋。
「しかし、これは好都合だ。自然な形で相席できそうだぞ」
 ウェイターに土屋が希望を伝えると、思惑通りになった。さすがに隣に座ることは適
わなかったが、一つ空けて同じテーブルに着けた。
 最終的に、我々と高藤の他、七十前後の姉妹が相席になった。着席時に簡単な挨拶を
した以外は、特に会話がないまま、夕食が始まった。コース料理で、前菜だのスープだ
のメインディッシュだのデザートだのの区分けそれぞれに複数――だいたい三種類――
のメニューから選べる方式になっていた。ウェイターが各人のセレクトを聞いて回る。
私と土屋、それに高藤はすぐに決めたが、姉妹はやはりと言うべきか、迷っている。そ
こへ、高藤が「迷われたなら、シェフのおすすめを選ぶのが無難とされているようです
よ」と、如才ない笑みとともに話し掛けた。
「ええ、そうしたいんですけれど、二人同じ物を頼むのもつまらないかしらと」
「分け合うのはマナーに反すると言いますけど、見るだけでも楽しそうなお料理だか
ら、写真に収めておきたいし」
 姉妹が姉、妹の順で答える。どちらも着飾ってこのような場に慣れているように見え
たが、実際はほとんど経験がないという。
「それなら、私やあちらの方達が選んだ料理以外を選べばよいのでは。ですよね?」
 高藤は不意に我々に話し掛けてきた。びくりとしたが、平静を装って、とりあえず頷
く。応対は、土屋に任せよう。
「料理を撮影したいと言うことでしたら、僕はかまいません」
 土屋もまた笑顔を作って、姉妹に言った。
「ただし、早めに言ってください。饗された途端に、手と付けたくなるかもしれません
から」
 ジョークは幸い、受けた。急速に、リラックスした空気になった。
「いいんですの? 実はブログをやっていまして、旅行記に写真を載せるつもりなんで
すけれど」
「どうぞ。個人の特定につながらなければ、全然気にしません。なあ?」
 土屋に同意を求められた。私は食い気味に、「ああ、いいですよ」と答えた。高藤も
異存ないようだった。
 このあと、食事は和やかに進んだ。お互いに簡単な自己紹介をし、打ち解けた雰囲気
になったが、必要以上にパーソナルテリトリーを侵さぬよう、ちゃんと気遣う。途中、
ウェイターのパフォーマンスや、バンドマンによる演奏があって、レストラン内は大い
に盛り上がった。
 私と土屋はお酒に弱いからと嘘を言って、最初の一杯にとどめたが、高藤は様々なア
ルコール類を何杯も飲んでいた。そのせいか、徐々に饒舌になり、我々や峰山(みねや
ま)姉妹に、より積極的に話し掛けてくるようになった。相手のことを根掘り葉掘り聞
き出そうとするのではなく、料理の感想に始まり、世間的な話題、高藤自身のこれまで
の旅行歴と話題を転じる。酔っ払っている訳ではなく、ちゃんと理性を保っているのは
見て取れた。しかし、彼に詐欺の犯歴があると知っている我々からすれば、話半分で聞
くべきだろうという思いが強かった。殺す相手を探すため、旅慣れた人間を装い、獲物
候補と接触しやすくなるという狙いかもしれない。
「それだけ旅をされているのでしたら、お知り合いも多いんでしょうね」
 土屋が尋ねると、高藤は曖昧に頷いた。続けて質問する。
「ひょっとすると、ここにも顔見知りの方がいるのでは? お客だけでなく、従業員の
方にも……」
「いや、残念ながら。しかし、他のところで、以前知り合った人と偶然再会した経験は
ありますよ。一度きりですが」
「そんなものですか。実は、最前、あなたをお見掛けしていましてね。周りの方達に話
し掛けておられたから、この人ならあいせきすればたのしいは話が聞けると思ったんで
すよ。それはともかく、さぞかし旅先での知り合いが多いだろうと感じたのですが、偶
然の再会は一度だけとは、寂しい」
「その分、再会したときの感動はひとしおです。体験したければ、あなた方も旅を続け
ることです」
 高藤は答えると、笑みを満面に広げていた。恐らく、嘘をついているのだが、うまく
切り抜けたことを内心、自画自賛しているのだろう。
 デザートとしめのコーヒーが終わると、峰山姉妹は「お先に失礼をします」と席を立
った。このあとの予定が詰まっているそうだ。
「あなた方はどうされます?」
 そう言う高藤も席を立ちそうな雰囲気だった。どうやら、我々は殺人のターゲットに
は不向きだと判断されたらしい。男性二人組の片割れを狙うのは、確かに楽ではあるま
い。
「できれば、もう少しだけあなたのお話を伺いたいのですが。どうです、クラブでもう
一
杯?」
 他のフロアに、お酒を飲める店があるのだ。高藤は少し考える素振りを見せた。
「魅力的なお申し出だ。しかし、お酒に弱いお二人に、そんなことをさせるのは気が引
けますね」
 これは痛いところを突かれた。酔ってしまわぬためについた嘘が、ここへきてしっぺ
返しの材料になるとは。
「うーん、自分達の部屋で飲めれば、深酔いしても大丈夫なんですがね。お招きするの
は失礼に当たるだろうから」
「私はかまいません」
 土屋が粘ると、高藤は意外にも乗ってきた。
「ルームサービスを頼むとしましょう。割高になるが、あなた方と話せることに比べれ
ば、安い物だ」

             *            *

 時計を見ると、ちょうど午前三時だった。
 高藤佐武郎は、土屋と日野森の両名が、すっかり眠りに就いたことを確認した。
 今回調達できた睡眠薬は初めて使う品だったが、よほど強力だったようだ。二人は、
まさに落ちるように眠った。アルコールと一緒に摂取したことにより、相乗効果も現れ
たのかもしれない。
 高藤は、土屋、日野森の順に懐を探った。名刺が数種類出て来たが、一種類を除けば
作り物だろうと想像が付いた。
「やっぱり。探偵だったのか」
 独りごちると、高藤は二人が録音機の類を持っていないか、手早く探し始める。
(誰の情報網か知らないが、私の次なる犯罪計画を嗅ぎ取った点は、驚かされた。だ
が、こちらにも情報網があることを、この二人はお忘れだったようだな)
 二人が身に付けた物に、怪しいところはなかった。続いて、室内を調べる。
(まあ、録音や録画をされていようが、かまいやしない。殺人の邪魔さえしないのな
ら、犯行を後に知られてもかまわないんだ。ただ、あなた達は邪魔になりそうだったの
で、一時的に排除させてもらうことにした。私の殺しが発覚後、あなた方が通報しても
何ら問題ない。私にとって、殺人を体験することが第一義なのだから)
 高藤は部屋を見渡すと、何かに納得した風に頷いた。
「今ここで、あなた方のどちらか、あるいは両者とも殺害するのも、目的達成のための
手ではあるが……安心していい。折角決めておいた“被害者”を、みすみす放置しては
心残りだ。予定通り、計画通りに事を進める」
 意識を失い、ソファにぐったりと身体を埋めたままの両探偵に向け、犯罪マニアは静
かに宣言した。

 土屋らを眠らせてからおよそ五時間後、高藤佐武郎は、三重県は鳥羽にいた。
 そして鳥羽水族館へ足を延ばすと、待ち合わせをしていた“被害者”神田聖人(かん
だきよひと)と合流した。この時点で、午前九時。高藤は神田としばらく館内を見物し
ながら、チャンスを待った。
 機会はトイレに入ったとき、訪れた。男子トイレ内には二人しかおらず、目撃される
心配はない。高藤は神田を個室トイレに押し込み、(練習した通りに手際よく)絞殺す
る。ドアが簡単には開いてしまわぬよう、遺体そのものをつっかえ棒のようにして細工
すると、トイレをあとにした。水族館からも退出すると、土屋達を閉じ込めた部屋のこ
とが気になり始めた。
 廊下側のドアノブに、清掃不用の札を提げて来たが、土屋と日野森がいつ目覚めて、
部屋を出て、自分の不在を察知するかしれたものでない。できれば、犯行中に逃げられ
ていたなどという、間抜けな構図は避けたいものだ。逮捕を恐れぬ犯罪マニアの高藤だ
が、彼なりの美学があった。
 急ごう。
 彼は念じながら走った。

 約一時間後、高藤は土屋達の部屋である7012号室に辿り着いた。
 幸い、探偵達は、高藤の犯行にまだ気付いていないようだった。

             *            *

「――何ですかぁこれは?」
 “手記”を読み終えると、一尺二寸光人(かまえみつと)はつい、素っ頓狂な声を上
げてしまった。首を傾げるあまりか、肩が凝ってきた。
「だから最初に言った。謎解き小説だと。あ、いや、体裁は手記だけどさ」
 作者である飛土屋薙(ひつちやなぎ)が、頭を片手で掻きながら答える。
「手記と言っても、途中から視点が変わって、犯人だけが知る行動を追ってるじゃない
ですか」
「そこは、そうしないとつながらないからね。仕方がなかったんよ」
「ふうん。それはいいとしても、これ、問題編にしては中途半端じゃありません?」
「あ、ああ。それも思い付かなかった。要するに、何かいいアイディアはないかと、君
の意見を聞きたいのが本音なんですがっ。その前に一応、謎解きをやってみてほしい」
 私と飛土屋は、大学進学を控えた高校生だ。今、文芸部の部室にいる。二人きりなの
で、気兼ねする必要はない。その代わり、暖房器具の類を使っていない(経費節約のた
め、三人以上が集まらないと、冷暖房できないルールがあるのだ)から、寒さが段々、
身にしみるようだ。ああ、私の肩こりは、この寒さも一因かもしれない。
「えっと、謎というのは、犯人が誰かではなく、犯人高藤の行動のことですね?」
「そうそう」
 横浜に午前三時にいた高藤が、朝の八時から九時にかけて、鳥羽で殺人を決行し、さ
らにその一時間後、横浜のホテルの一室に戻ってきた……。まともに考えると、あり得
ない。鳥羽ってことは、三重県。朝一の新幹線に新横浜から乗ったとして、八時頃まで
に鳥羽に行けるのだろうか。
 私は起ち上げていたパソコンで時刻表検索ソフトを開き、ざっと調べてみた。
 ――無理だった。
 鉄道では、うまく乗り継いでも九時四十分に鳥羽駅に着くのが限界のようだ。高速バ
スを用いても無理。飛行機を使えばどうにかなるのだろうか?
 そもそも、仮に往路をクリアできたとしても、復路はどうにもならないのではない
か。何せ、たったの一時間で、元いた部屋に戻っているのだ。調べもしないで言うのも
なんだが、絶対に不可能では? まさか、超高性能なプライベートジェットとか空飛ぶ
自動車とかを持ち出してくるんじゃないだろうし。
 というか、一時間で帰って来られるのなら、行きも一時間で行けばいいのに、この犯
人は訳の分からない交通手段を執ってるし。
「降参? ねえ、降参する?」
 嬉々として聞いてくる飛土屋に対し、無反応を決め込む。自分の手で後頭部から肩に
掛けて揉みほぐしつつ、とりあえず、飛行機の線を、本腰を入れて調べてみようか。
と、その矢先――。
「付け足すと、高藤は朝七時頃に、宿泊施設の従業員達に姿を見られているってことに
してもいいよ」
「ええ?」
 つまり、片道一時間で往復したってこと? ほんとに訳が分からなくなってきた。肩
こりどころか、頭痛の種が生まれそうだ。
「念のために聞きますけど、今言った宿泊施設っていうのは、最初に出て来た横浜にあ
る施設と同じなんですよね?」
「うーんと、それはね。ええっと、最初に出て来た施設と同じで、間違いない」
「……?」
 何だかおかしな返事を寄越してくれた。頭の中で、飛土屋の台詞を素早く検討する。
すぐに気が付いたのは、「横浜」の部分を認めなかったこと。
「――横浜から鳥羽の辺りまで、巨大キャンピングカーか何かで夜通し移動した、とか
じゃないでしょうね?」
「おっ」
 飛土屋はびっくり眼を作って、口をOの字に開いた。解かれて嬉しいのか悔しいの
か、よく分からない人である。
「惜しい! もうちょっと現実的になろう」
「現実的って……ホテルが移動したことは認めるのですか。そんな発想をする人に、現
実的になろうとか言われたくないなあ」
「あ、だからさ、ホテルだなんて一言も書いてないし、言ってないでしょ」
「え? いや、確かはじめの方に……」
 探してみたが、一箇所しか見付からなかった。その唯一の箇所も「この手の旅やホテ
ルに慣れていない私」という形で、いわば記述者の日野村次第。現に泊まっている施設
が、ホテルだと断定できる言い回しじゃない。
「でもまあ、ホテルと言えなくもないと思うよ」
「どっちですか」
「もう答になっちゃうんだけど、いいのかな?」
「……かまいませんよ。これ以上引っ張られると、肩のこりが取れなくなってしまう」
 私が白旗を掲げてみせると、飛土屋は嬉々としての自乗ぐらいの笑顔になって、得意
げに言った。
「高藤や探偵達が泊まったのは、ホテルはホテルでも、洋上のホテル。言い換えると、
豪華客船に乗っていたのでしたー」
「……」
 “手記”を握る力がアップするのが分かった。皺がよるのは、プリントアウトした紙
だけでなく、私の額もだろう、きっと。

 私は部室を出ると、保健室にシップをもらいに行った。

――終わり




#441/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  16/02/14  21:31  (  1)
バレンタインは中止です   永山
★内容                                         23/07/24 20:00 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#442/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  16/05/26  19:22  (  1)
世界で二番目に大事   永山
★内容                                         22/01/09 22:31 修正 第4版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#443/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  16/06/29  20:16  (496)
そばにいるだけで・ホイッ! 26−2〜3   寺嶋公香
★内容
※9.ライブラリィの9.3長編ボード#4557〜#4558辺りに位置するエピソードです。

 涼原純子はイラスト付きの小ぶりな卓上カレンダーを見つめ、小さな吐息とともに小
首を傾げた。
(今年は何を贈ろうかしら)
 父の日まであと一週間を切っていた。
 中学生になって迎える二度目の父の日だが、一年前に比べると決めるのが遅くなって
いる。
 去年は、アルバイト初体験のあとで懐が温かいせいもあって、帽子とシャツのよい物
を奮発した。主にゴルフ用だが、大事に使ってくれている。
 では一年経った今、懐具合が寂しいかというとそうではない。むしろ、入りは増えて
いる。純粋に、何を贈ればいいのかを悩んでいるのだ。
(去年、二品にしたのが失敗だったかも。去年と今年に分ければよかった)
 普段から父のほしがっていた物を選んだのだが、今年は見当が付かない。しかし、直
接尋ねるのは避けたいところ。
(あと、お母さんとのバランスも考えなくちゃ)
 およそひと月前の母の日、純子はお手伝いに精を出した。懐が豊かだからといって、
それに頼ってばかりいてはいけない。多忙さに加え、そんな理由付けもあって、物を贈
ることはしなかった。
(だからといって、お父さんには肩たたきというわけにもいかないのよね)
 今度の六月第三日曜日、純子はモデル仕事の打ち合わせが入っていた。長くはなるま
いが、いつ家に帰れるかはっきりした見通しは立っていない。
 一方の父も、当日は会社の友達数名とゴルフに出掛ける予定がある。もちろん天候次
第だが、今のところ予報は晴れ。その前後が雨模様なだけに、どう転ぶか分からない
が、たとえ雨でも出掛けるのは間違いないだろう。
(私も打ち合わせだけと言ったって、どれくらい疲れるのか分からない。今から肩たた
きやお手伝いを約束して、いざそのときになって動けなかったら、格好付かないわ)
 何か妙案ないかしらと、小首を傾げていると、母の声がした。友達から電話だとい
う。部屋を出て、固定電話のある下まで降りていく。
「――あ、芙美。何かあった?」
 町田からの電話に声が弾む。相手は「特に重要な用事ってわけじゃないんだけれど」
と前置きし、話し始めた。
「明日の放課後、暇?」
 明日は月に一度設けられている平日の半ドンだ。昼から何かしようというお誘いらし
いと当たりを付ける。
「うん。別にこれといって予定はなし。宿題次第かな」
「だったら、買い物に出掛けない? みんなと一緒に」
 みんなというのは、いつも行動を共にすることが多い富井と井口の二人だろう。
「いいわよ。ていうか、ちょうどよかった。実は、父の日のプレゼントに何がいいの
か、悩んでいたところ」
「およ、純もか。私も何かないかと考えててさ。結局浮かばないから、みんなで出掛け
たら、その内思い付くんじゃないかと」
「じゃ、決まりね。何時にどこに集まるの?」
 待ち合わせの約束をしてから、電話を切る。すぐさま、明日出掛けることを母に伝え
ておく。すると、ついでに買ってきて欲しい物を頼まれた。漂白剤と調味料の塩こしょ
う。そのメモと代金を受け取って、財布に仕舞う。
「お釣り分は、適当におやつを買っていいから」
「あ、うん。――お母さんは、お父さんに何か上げないの?」
 部屋に戻る前に聞いてみた。母はこめかみの辺りに片手人差し指を当て、少し考えた
ような仕種を見せた。
「私から見るとお父さんは旦那様。父の日に贈り物をするのはふさわしくない」
「そんなことないよー。家族から見ての父親、なんだから」
「分かってます。そうね。当日はいつも以上に優しくしようかしら」
「――長年の夫婦だと、それで充分?」
「ふふふ。まあ、それはおいといて。父の日のプレゼント選びね。そんなに難しく考え
なくても、お父さん、何でも喜ぶと思うけれど」
「うーん、でもやっぱり、父の日という名目で何かするからには、心から喜んで欲し
い」
「そういえば、お弁当を作るっていう案は、どうなったの?」
「あ、あれは無理かなあ。ゴルフ場って、お昼を食べるところがあるって聞いたわ。そ
こで他の人が料理を注文してるのに、お父さんだけお弁当を広げるのはちょっと……」
 つい最近まで、ゴルフ場は広々としているからどこにでもブルーシートを敷いて弁当
を食べるのに向いているイメージを持っていたのだ。
「そうかもしれないわね。でも、当日は父の日なのだから、ひょっとしたら、他の人達
はみんな娘の手作り弁当持参だったりして」
「まさか」
 母の珍しい冗談に、ひとしきり笑った。

「去年はどうしたのさ?」
「帽子とシャツを贈ったよ。いい物を奮発したつもり。そのせいか、大事に使ってくれ
てるみたい」
「なるほど。うちは定番のネクタイ。さすがに二年連続というわけにいかないもんね
え」
 待ち合わせ場所である駅の南口に早めに着いた純子は、同じく早めに現れた町田と、
去年の父の日の話をして参考にならないか考えていた。
 ちなみに、学校から直接来たのではなく、一旦帰宅してそれぞれお昼を食べてからま
た集まったのだ。予定を立てたのが直前になったのだから、仕方がない。
「できることなら、たくさんあって困らない物よりも、お父さんが今、ほしがっている
物を贈りたいよね」
「うん。それでいて手頃な値段で。欲しい物……テレビで見た、工具セットをいいなあ
って言ってたな」
「工具セット?」
 道具箱を思い浮かべる純子。町田は両手を使ってサイズを示した。せいぜい新書を開
いたくらいの大きさらしい。
「小さめのドライバーやスパナやレンチ、メジャーなんかがコンパクトに詰め込んであ
るの。サイズが小さいから安いのかと思いきや」
 町田は肩をすくめ、首を左右に振った。苦笑を浮かべた純子は、ふと視線の先に富井
と井口の姿を捉え、手を挙げた。
「郁、久仁! こっち!」
「あ、いた」
 お互いに小走り気味になって合流を果たす。挨拶もそこそこに、富井が切り出した。
「この間、だいぶ散財しちゃったじゃない。ほら、相羽君達と一緒に遊園地に行ったり
して。それでお父さんのための予算が……。だから、あたしは今日、ついて回るだけ
!」
「何と。父の日はどうするの?」
「困ったときの肩たたき券。ただ、うちのお父さんは体質なのか、あんまり肩が凝らな
いタイプみたいなんだよ、酷いでしょ」
 酷いことはない。思わず笑ってしまった。駅前のアーケード街を目指しつつ、おしゃ
べりが続く。今度は井口が口を開いた。
「私のところは一応、ハクの散歩当番を三回分、お父さんの分もやることにした」
 ハクというのは、井口家で飼っている犬の名だ。白くて大きな玉のような犬で、ハク
という名前が似合っている。
「これだけじゃあんまりだから、プラス簡単な物がほしいなって」
「ネクタイかソックス?」
「できれば、それ以外かなあ」
 アーケードの下に入った。左右に様々な業種の店が並ぶ。数が多いのは、やはりと言
っていいのか喫茶店とファッション関係だ。今は、左手に若い人向けの洋服屋、右手に
女性向けの古着屋が見えていた。
「細くて見た目が若い感じなら、Tシャツなんてのもありかもしれないけれど」
 左の店先にぶら下げてあるTシャツに触れつつ、純子が意見を言ってみた。
「無理無理。うちのお父さんは、すでにそういう体型じゃない」
「私のところも、顔はともかく、お腹周りの方が心配」
 町田、井口の順に返答があった。仮にTシャツにするとしても、よい物はそれなりに
値が張るようだ。
「あれ? お腹周りが心配なら、犬の散歩を代わりにやるっていうのと矛盾してるね」
 純子はTシャツの値札から手を離すと、ふと感じたことを言ってみた。
「言われてみれば確かに」
 井口は認めたが、「困るなあ。今さら他のことも思い付かないもん。これで押し通す
しか」と付け加えた。
「懐が温かければ、あたし、財布を考えてた」
 これは最後尾を行く富井の意見。即座に町田が反応する。
「財布は案外、ハードルが高いイメージあるわ。渋くて格好いい物は、私らのお小遣い
をちょっと貯めたぐらいじゃ、手が出ない」
「そうそう。それに、カードを入れるスペースとか、小銭入れのサイズとかも、使う人
には拘りがあるもんだし」
 続いて井口も言った。二人とも、財布は既に考え済みだったようだ。
 一方、純子は財布を対象に入れていなかったので、改めて考えてみた。声に出すと、
他の友達に対して小金持ちアピールをしているみたいになるから、心の中で。
(……確か、お父さんの財布って、少し前に新品を買ったはず。使い勝手がよくないと
感じてるのなら、新しく財布を贈るのもいいかもしれない。けれど、別に使いにくそう
にしているところ、見た覚えがないわ)
 これまた採用ならず。
「万年筆なんかは?」
 そう言った富井は、文房具店を斜め前方に見付けていた。
「そういうのも手が届かないような。ピンからキリまでだろうけど」
 町田は否定的だったが、とりあえず店に入ってみることにした。入ってすぐの右手
に、父の日特集のコーナーがあるにはあったが、やはり予想通りの価格設定。普通の中
学生ならば、足が遠のく。それでも純子は一応、覗いてみた。
(凄く凝ったデザインに彫り物。石が埋め込まれてる物まである。こうなってくると、
筆記用具自体が芸術品に近付いてる感じ。書きやすいのかな?)
 そこまで想像し、ふと思った。最近、父親が何か書く姿を見掛けた覚えがないこと
に。
(この頃は、ワープロの方が多いもんね。使ってもらう物をプレゼントするなら、万年
筆はパスかなあ)
 かぶりを振って、コーナーを離れる。先を行く町田達を追って奥に向かった。三人
は、別の一角で足を止めていた。カートに背の高いフックを組み合わせたワゴン売りの
コーナーで、目をやると赤や白やピンクの色が飛び込んでくる。挙げ句、猫のキャラク
ターグッズ付きの物まであった。
「――お父さん向けって感じじゃないなと思ったら」
 どうやら女子中高生向けのワゴンらしい。普段は外に置いているのが、父の日が近い
ので奥に引っ込めたというところか。
「かわいい。自分が欲しくなっちゃう」
 井口が苦笑交じりに言った。
「だね。値段も安い」
 町田が消しゴム一個を取り上げつつ応じる。ワゴンは、消しゴムの他に三角定規やミ
ニコンパス、手動の小型鉛筆削り等で埋め尽くされていた。さすがに万年筆はない。
「これはこれでいい物だけど、今は目的と違うでしょ」
「うむ。さすがに父親にこれはない」
 そう結論づけて、純子と町田は立ち去ろうとするが、井口と富井は残ったまま。
「私はもう少し見てる」
 井口が言った隣では、富井が前のめりになってあれこれ物色している。父の日のプレ
ゼントを今年は買わないと決めた彼女は、自分のために何か購入するつもりかもしれな
い。
「じゃあ、あっちの方に行ってるね」
 店内をぐるっと見回し、万年筆以外の文房具が置いてありそうな方を指差した。
 そちらに行ってみると、定規やコンパスに加え、メジャースケールやノギス、写真立
てまであった。文房具の枠をちょっとはみ出しているようだ。
「フォトスタンドなんか、悪くないんじゃない?」
 純子は一つ手に取って言ってみたが、その横手で町田は首を捻った。
「娘の写真を入れて飾ってもらうってか。うーん、すでにあるんだよねえ。プレゼント
した物じゃないけれど」
「そっか。言われ見てれば、うちにもある。家族写真だけど」
 写真立てを戻し、今度はコンパスを取ってみた。よくある実務一辺倒なそれとは違
い、黒光りした重厚感のあるデザインで、まるで武器のようだ。持ってみると、予想以
上に重みを感じた。手にしっくり来る。
「こういうのって男の人、というか男の子が好きそう」
「分かる。必要ないのに、何となく格好いいからって理由で」
 笑いが声になってこぼれる。純子は、コンパスを開いてみた。今度は意外とスムーズ
に動いた。使い勝手もよいかもしれない。
「コンパスとか定規とか、設計する人なんかだったら、喜ばれるかも」
「今はコンピュータ使う人も多そうだけどね」
「あとは洋裁かな」
「要塞? ああ、服の方の洋裁ね。純のお母さんがやってるんじゃなかったっけ」
「うん。来年の母の日は、コンパスにしよっかな。こんな無骨なのはだめだけど」
 なかなか父の日の話にならない。
「あ、これよさそう」
 町田がワゴンを離れ、壁の棚の方に手を伸ばした。彼女が持って来たのは、スーツ
ケースを手のひらサイズにしたような代物だった。最初から開けてあって、中には小さ
めのメジャーやカッターナイフ、ハサミ、ステープル等がコンパクトに詰め込んであ
る。ミニ工具セットの文房具版といった趣だ。
「仕事とか家の中でもだけど、あれないかこれないかって、こういった小物をよく探し
てるんだよね、お父さん。これ一つあれば、事足りる」
「なるほど」
「ただ、これを買ってあげたら、これ自体を紛失しそうな予感がしないでもない」
「あはは」
 町田はもう少し検討してみると、類似品と見比べながら熟慮に入った。
 純子はその場を離れ、他に何かないかと見て回る。
(こういうお店に入ってから考え直すのも何だけど……仕事を連想させる品物は、あん
まり選びたくない気がしてきた。父の日にそういう物をもらったら、もっと頑張れって
言われてる気分になるんじゃないかなあ)
 シンプルに、もらって嬉しい物を選びたい。
(そういう意味じゃ、去年のシャツと帽子は、好きなゴルフのときに使えるんだから、
結構いい線行ってたよね?)
 仕事の延長線上にゴルフをプレーする場合があるということに、このときの純子はま
だ意識が及ばない。それはさておき。
(文房具はどう転んでも、仕事のイメージが強いなあ。ここはパスしよっと)
 そう決めると純子はくるりと踵を返し、富井や井口がまだいるワゴンへ再び向かっ
た。

 ミニ文房具セットで手を打った町田は、富井と並んで歩いている。
 まだ決められない純子と井口は、二人の先を行きながら、相談を重ねていた。
「仕事と関係なしに喜ばれる物ねえ」
 首を捻る井口。しばし黙考の後、「そんな物があったら、私もそれにするだろうけ
ど、なかなか難しいよ」と答えた。
「だよね。人それぞれだし」
 肯定した純子は、歩きながら腕組みをした。若干上目遣いになって、父の趣味や父が
喜んでいる場面を思い起こしてみる。
(ゴルフの他は……何だろ? 子供の頃、模型作りに凝っていたって話を聞いた覚えが
ある。でも今は時間がないからやらないって。プラモデルとかじゃなくて、木片を自分
で削って、一から作るのが醍醐味とか言ってたっけ)
 プラモデルからの連想で、玩具屋を覗くことにした。デパートに入っている店でもか
まわないのだが、道すがら、個人商店の一つにあったので、そこに入ってみる。
「急に思い出したんだけど」
 入るなり、左斜め上を見ていた井口が、叫び気味に言った。
「何なに?」
「うちのお父さん、科学の実験が大好きだったって言ってた。でも、中学だったか高校
だったか忘れたけど、通っていた学校の方針で、実験が極端に少なくてがっかりしたっ
て。今、その穴埋めをするのってどうかな?」
 井口が指差した先には、大人向けの科学実験セットがシリーズ揃って掛けてあった。
「いいんじゃない? それで久仁が一緒になって実験をやったら、もっと喜ぶかも」
「も、もう、やだなあ」
 照れ笑いを浮かべ、井口は純子の肩口をぺしっと叩いた。これで決まりそうだ。念の
ため、他を見て回る井口と離れ、純子は改めて町田と富井に意見を求めた。まず、父が
少年時代、模型作り好きだったことを伝える。
「――けど、プラモデルをそのままって言うのは、やめた方がいいかしら?」
「うーん、どうなんだろー? 木の模型がもしあれば、いいかもしれないし」
「それ以前に、作る時間が取れないんじゃあ、贈り甲斐がないでしょ、純も」
 富井も町田も、プラモデルの案には否定的のようだ。まあ、純子自身もそちらに傾い
ていたのだから、問題はない。
「他に玩具でよさそうなのは……」
「煙草吸うんだっけ、純ちゃんのお父さん?」
「ええ。できればやめて欲しいんだけどね」
「じゃあだめかあ。ライターの機能が付いた玩具ってあったなって思ったんだけど。モ
デルガンみたいな」
 意見を聞いて考慮しかけた純子だったが、町田が早々に「却下だね」と言った。
「そういう芙美ちゃんは、何かアイディア持ってるの−?」
「いや。玩具屋ではありそうにない」
 台詞としては緩やかな否定に留まっているが、口調は断定している。
「純子なら、お父さん一人のために、個人的に何かして上げるのが一番だと思うんだけ
どな。時間の関係でそれが無理なら、ほんと何でもいいからちょっと気の利いたプレゼ
ントに、音声かビデオでメッセージを添える」
「メッセージってたとえば? 仕事お疲れ様です、感謝していますとか?」
「じゃなくて。純の場合、モデルをさせてもらってるっていう側面があるでしょうが」
「ああ、そういう……」
 見方もあるんだと気付かされる。客観的になって見えてくることなのかもしれない。
「純ちゃんのモデルで思い出したんだけどぉ」
 富井が、閃いた!みたいな雰囲気で、右手の人差し指をぴんと立てる。
「男の人がどんな物をほしがるかの参考に、相羽君に聞いてみたら? 電話でもして
さ」
「えー、何で相羽君限定なのよ」
 訝る純子に、富井は「他の男子より大人びてるもん」と即答する。
「大人びた男子なら、他にも大勢いるわ。立島君とか」
「立島君は、前田さんとのデートで忙しいかも。そこに電話したら、迷惑になっちゃ
う」
「そんな仮定の話を持ち出すのなら、相羽君だって忙しいかもしれない」
「はいはい、そこまで」
 話が終わりそうにないと見たか、町田が割って入る。そしてレジの方へ、顎を振っ
た。
「久仁香が買ったみたいだから、ここはもうよしとしますか」

 玩具屋のあと、デパートの玩具屋にも足を運び、さらに船舶物を中心に面白グッズを
取り扱うショップにも入ってみたが、純子にとってぴんと来る物は見付からなかった。
 いい加減、歩き疲れてきたので、ファーストフードの店に入り、お茶をすることに。
「あー、疲れたー」
 言いながら座った富井に、純子は両手を合わせた。
「なかなか決められなくて、みんな、ごめんね。特に郁江は、無理に付き合わせちゃっ
た形になって」
「いいよ、別に。いつもお世話になってるんだし、何たって一緒にいて楽しいもん」
「あら、郁江ったら」
 町田が妙に取り澄ました調子で口を挟んだ。
「ここで交換条件を示して、おごってもらえばよかったのに」
「あ、その手があったか。惜しいことしちゃったな」
 冗談ぽく応じた富井だが、純子は真に受けて、「い、いいよ。おごる」と富井のトレ
イに載っているレシートを覗き込もうとした。
「いいっていいって。今日はお買い物に来たのに、余計なことに使ったら、いざという
ときに足りなくなるよ。そうなっても知らないから」
「は、はあ。そっか」
 ようやく落ち着き、皆でいただきますをしてから食べ始める。
「話を蒸し返すけれど、結局、電話しないの?」
 井口が純子に尋ねた。一つ目の玩具屋でのやり取りに加わっていなかった井口だが、
あとで聞いたのだ。
「うん。少なくとも相羽君には」
「何でー?」
 今度は富井。さっきから、相羽を巻き込もうと熱心だ。
 純子は少し間を取り、静かに答えた。
「父の日のことで、相羽君に聞けないよ。もしも聞くとしても、電話なんかじゃとても
できない」
「……そうだよね」
 相羽は数年前に父親を亡くしている。当人が普段、そんな気配を微塵も見せないもの
だから、周囲の友達もつい忘れがちになるが。
 しんみりした場の空気を元通りにするためか、町田が音を立ててジュースをすすっ
た。
「さて。相羽君を頼れないのなら、他の男子に聞く? それとも私らだけで考えるか」
 答は後者になった。
「来年からは、こうも悩まなくて済むように、普段からリサーチしなくちゃ」
「身近に、お父さんと年齢が近い男の人がいればね、聞いてみることもできるのにね」
「先生とか?」
「うーん、ちょっと違うような」
 お喋りを続ける最中、純子は自分の周りに父と同年代の男性がいなくはないことに気
付いた。
(仕事関係なら、何人かいるんだったわ。よく話をする人は杉本さんくらいで、若すぎ
るけれど。AR**所属の人の中には、いっぱいいる。今から聞くのは遅いとして、来
年、何も思い付かなかったら聞いてみたい)
 心の中でメモを付ける。
(……来年の今頃まで、モデルさせてもらってるのかなー、私? 高校受験あるし)

 四時を少し過ぎるまで、あちこち見て回ったけれども、とうとう決められなかった。
「しょーがないわ。決められないものは決められない」
 友達三人をずるずる付き合わせてしまったことに対して頭を下げる純子に、町田が慰
めるように言った。それから純子の肩に手をやって続ける。
「ま、娘が半日、足を棒にして探してくれたっていうエピソードだけで、お父さんは泣
いて喜んでくれるよ、きっと」
「あはは。だったらいいんだけど。そうだとしても、実際問題、何かないと」
「何にするかのヒントにはならないけど、こう切羽詰まってきたなら、サプライズ重視
で通販を利用するのは?」
 自分達の家の最寄り駅で降り、別れ際に井口が言った。
「通販?」
「うん。父の日のプレゼントなんて用意してませんよーってふりをしておいて、当日、
お父さん宛に荷物が届くの。開けてみたら、娘からのプレゼント。これなら、何だって
喜ぶんじゃないかしら」
 人間、追い詰められると、面白いアイディアが出て来るようだ。
「狙いは分かる。通販に限定しなくても、届けてくれる店はあるだろうし」
 考えてみようかなという気になった純子。問題があるとすれば、やはり何を贈るか
と、もう一つ、父の在宅しているタイミングがはっきりしないことか。
「みんな、考えてくれてありがとう。あとは自分で知恵を絞ってみる」
 じゃあまた明日。
 一人になってから、純子はまだ考えを巡らせていたが、はたと思い出した。
「頼まれてたんだった!」
 財布を取り出し、中にあるメモ用紙を確認する。幸い、また電車で出なくても、ここ
からほど近いスーパーマーケットで事足りる。
 純子は角を折れ、店に続く道に入った。すぐに店舗が見えてきた。三分と歩くことな
く到着。
「あれ?」
 出入り口の大きなドアの脇には、自転車置き場がある。その一番手近に停めてある自
転車に、見覚えがあった。前輪のフレームにある名前を確かめると、思った通り。
(相羽君が来てる?)
 生活圏なのだから、来ていても全くおかしくない。ただ、純子の頭には、さっき友達
とした会話が残っていた。
(思わず聞いてしまわないよう、気を付けよう。できれば、顔を合わせないのが一番)
 意を強くしてから、店内に足を踏み入れる。脇目も振らず、掃除洗濯関係のコーナー
に直行した。動きながら、財布のメモで、メーカーと商品名を再確認。
(えっと――)
 棚を見上げ、徐々に視線を下げていく。すぐには見付からず、同じ動作を繰り返しな
がら歩を進めていった。
「あった」
 手を伸ばして、白っぽい容器の柔軟剤を取ってみた。メーカーと商品名は一致した
が、サイズが違うようだ。元に戻し、近くにより大きな物があるはずと探す。五秒後、
今度こそ見付けた。
「――結構重い」
 持ってから、買い物籠を取ってくるのを忘れていたと気付いた。このまま手で持ち歩
けなくもないけれど……少々迷って店内を見回すと、出入り口まで引き返さずとも、近
くの通路に籠とカートが並べてあった。カートはいらないにしても、籠は欲しい。一つ
取ってこようと、そちらに向かう。
「――涼原さんだ」
 手を伸ばして籠を持った瞬間、馴染みのある声が耳に届く。あ、やっぱり会ってしま
ったと感じつつ、純子は声のした方を振り返った。
「こんなタイミングで会うなんて、偶然だね」
「そ、そうね。買い物?」
 聞いてから、スーパーマーケットにいる相手に対してする質問にしては間抜けだった
と後悔した。
 でも、相羽は頷いてから「僕は一人で来たけど、涼原さんも?」尋ね返してきた。
「うん、私も一人。お母さんに頼まれたの」
 答えてから、思い出したように柔軟剤を籠に入れる。見れば、相羽の方は籠は持って
いない。手にあるのは、整髪剤か何かのスプレー缶のようだ。
「まだ他にも買う物ある? 持つよ」
 純子が最初の質問に「ええ」と答えた時点で、相羽はひょいと籠を持った。そのつも
りのなかった純子は慌てたが、相羽はスプレー缶を一緒に入れてしまった。
「いいでしょ? レジでは分けるから」
「え、ま、まあ、しょうがないわね。ありがと」
 近くに来た缶の表面をよく見ると、イラストで男性の顔がアップになっている。整髪
剤ではなく、シェービングクリームだった。
「そっちこそ、他に買う物は?」
「あるにはある。けど、まだ決めてないんだ」
「何よそれ」
 先に立って調味料の棚を目指しつつ、純子は苦笑交じりに尋ねた。すると後方から
は、多少間を置いて返事があった。
「父の日のプレゼント」
「――えっと」
 足を止め、くるりと振り返る。相羽はびっくりしたみたいに急ブレーキを掛けた。
「お父さんにプレゼントって、相羽君……?」
「ごめんごめん。驚かせる気は全然なかった。次の日曜、お墓参りに行くんだ。そのと
きのね」
 そう言う相羽の表情は、普段と変わらない。むしろ、普段以上に朗らかかもしれな
い。
(何だか……安心した)
 相手をまじまじと見返していた純子は、唇の両端をきゅっと上げた。
(この分なら、聞いてもいいよね)
 並ぶようにして再び歩き出してから、純子は尋ねた。
「どんな物を買うつもり?」
「ピアノに関係する何かかなと思ってたけれど……スーパーにはなさそう」
「そりゃそうよ。せめて駅前のデパートとかに行かなくちゃ」
「あとは、お墓参りなんだから、お供え。食べ物もいいなと思う。ただ、今日買うと早
すぎるかもな」
「……食べ物」
 そうだわ、食べ物でもいいんだ――。自分の父親へのプレゼントに考えが及ぶ純子。
 形に残る物をと、無意識の内に境界線を引いていた気がする。でも、実際は食べ物や
飲み物であっても、何も問題ない。
「うん? どうかした?」
 某かの変化が表情に表れていたのだろう、相羽が純子に聞いてくる。
 純子は最前と同様の笑みを浮かべ、答える。
「私もお父さんへのプレゼント、迷ってたんだ。今の会話で、ヒントをもらっちゃっ
た」
「ほんとに? 今のやり取りで、そんなヒントになるようなことなんか、あったっけ」
 怪訝そうに目を細めた相羽。籠を持ち替え、真剣に考えているようだ。
 純子は調味料の棚から、塩こしょうを選び取ると、籠に入れた。

 夕暮れ時の家路を、相羽と一緒に歩きながら、純子はいきさつを手短に伝えた。
「別にもう気にしなくていいって」
 自転車を押して歩く相羽は、父の日の話題に触れないようにする皆の気遣いに感謝し
つつも、そう言った。前籠には、彼の買ったシェービングクリームの他、純子の買い物
分も入っている。
「それはいいことだと思うんだけど、だったら、あなたもみんなの前で、もっと普通に
話してほしい。お父さんからピアノを習っていたこととか」
「まあ、その内に」
 角を曲がる。籠の中の缶が買い物袋毎転がって、音を立てた。
「そういえば」
 純子は自転車の前籠を指差した。
「こんな物もお供えするの?」
「え?」
「だから、シェービングクリーム。これって、お父さん用でしょ? ひげそりのときに
使う……」
 当たり前のつもりで尋ねた純子だったが、相羽は慌てたように首を横に振った。
「ち違うよ。いくら何でも、シェービングクリームのお供えはないっ」
「じゃあ、何で」
「……涼原さん。僕も男なんですが」
「……え。まさか、相羽君、ひげが」
「うん。少し前から、生え始めた」
 その返事を聞いて、純子は目をそらし、前を向いた。
(うわー!)
 顔が赤くなるのを自覚する。あっという間に火照ってきた。両手を当てて、冷やそ
う。
「どうかした?」
 尋ねる相羽の声は聞こえたが、ただただ黙って首を左右に振った。
(相羽君、男の子なんだ。当然なんだけど。ひげが生えるようになって、大人の男の人
になっていくんだ)
 意識していなかったことを、今初めて明確に意識した。
 大人になっている。そう思って目を向けると、夕日を浴びて歩く相羽の姿は、何とな
く前よりも頼もしく見える。背も伸びた。
(私も成長してるのかしら)
 純子は思い巡らせ、やがてため息を密かについた。
(とりあえず、胸がもう少し……)

 六月の第三日曜日、父の日当日。
 純子は母と一緒に、夕餉の準備に取り掛かっていた。
「あなたの仕事でもらった分だから、どう使っても基本的にかまわないけれども、随分
奮発したのねえ」
「えへへ。私やお母さんも食べるんだし」
 母娘は、届けられたばかりの食材を金属製のタッパーに広げ、まるで観察するように
見ていた。
「AR**の佐山さんの紹介。いいお肉を売ってるお店を教えてくださいって頼んだ
ら」
 前もって予算を伝えた上で、一番よい牛肉を三人前、用意してもらった。無論、肉は
三枚あってそれぞれサイズが異なる。父親用が一番大きい。
「お酒も考えたんだけれど、やっぱり飲まないでいてくれる方がいいし。その点、ス
テーキなら、たまに食べる分にはいいでしょって思って」
「お酒は、純子が飲めるようになってからがいいかもね。それで、誰が焼く?」
「私、と言いたいところだけれど」
 改めて肉を見下ろす。きれいに差しの入った見栄えのするステーキ肉。
「実際に目にすると、失敗できないと思って緊張しちゃうかも」
 本気と冗談半分ずつの答を言ったところで、玄関のチャイムが鳴った。続いて声が聞
こえる。父帰る、だ。
「お帰りなさい!」
 大きめに返事して、玄関に向かう純子。その途中、テーブルにメッセージカードを出
したことを再確認した。月並みだが、感謝の言葉を書いてある。
「おっと、靴があると思ったら、純子ももう帰っていたか」
「うん。早く終わったわ。今日の晩御飯は、父の日のごちそうを作るからね」
「ああ、そうか父の日か。それは楽しみだ」
 玄関脇のウォークインクローゼットを開け、その一角にゴルフバッグを仕舞う父。手
にはまだ荷物が残っている。
「そうそう、ごちそうと言えば、これがあるんだった」
 と、その紙袋を、純子の目の高さに掲げた。
「何?」
「今日のコンペで、二位になった。その賞品が――」
 紙袋の口を開くと、そこには“霜降り”が。
「えー!?」
 高級和牛、と続けた父の台詞は、純子の声にかき消された。

            *             *

「――相羽さんのお宅でしょうか? あ、何だ、相羽君だったの。――うん。その父の
日のことで……お肉、もらってくれないかしらと思って電話したんだけれど。――それ
がね、お肉がだぶついちゃって。って、太ったとかそういう意味じゃないから! お父
さんがゴルフで二位を獲ったその賞品が、似た感じの牛肉だったのよね。え? あ、そ
の日食べたのは私が用意した方よ」

――『そばいる・ホイッ! 26−2〜3』おわり




#444/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  16/09/27  21:06  (358)
宵の妙案   永山
★内容                                         18/04/07 22:06 修正 第4版
 昔から、顔に出ない奴と言われてきた。
 怒って当然の状況でも表情に出ない、驚かされても全く慌てない、酒を飲んでも赤く
ならない。
 当人から言わせてもらうなら、怒っていない訳じゃないし、驚いていない訳でもな
い。酒をある程度飲めば、酔っ払いもする。とにかく、顔に出ていないだけなのだ。
 その特技?が、昨晩も発揮されてしまったようだ。
 七月下旬の休日の朝、目覚めた直後にスーツのジャケットだけ脱いで寝てしまったこ
とに気付きつつ、上半身を起こす。次に尻を押す異物感から、尻ポケットに手をやっ
た。財布を引っ張り出すと、いつもよりは膨らみが大きい気がした。二つ折りの財布を
開き、札入れスペースに数枚のメモ書きを見つけたとき、私は思わずつぶやいていた。
「何なんだ、これは」
 もし周囲に誰かいれば、私でも表情がこれほど変わるのかと感心してくれたかもしれ
ない。それほど、私はメモに不気味さを感じたのだった。何せ、そこにはこう書いてあ
ったのだから。
<我々は互いのターゲットを交換・殺害することをここに誓う>
 サイズは大きめの手帳の一ページといった感じか。ちまちまと詰めず、どんと真ん中
に大書してある。私の字によく似ていた。
 昨日のことを思い出そうと努める。
 昨晩は、職場で面白くないことが二つ続けてあり、さらに退社してすぐに彼女から掛
かってきた電話は、別れ話だった。そのまま気晴らしに行こうと、街のステーキハウス
で高いやつを食べて、ビールを一杯だけ飲んだ。それからバーに入った。初めて入る店
だったが、静かで雰囲気はよかった。そこで誰かから話し掛けられた、と思う。見知ら
ぬ男で、年齢は私より一回り上に感じられた。短めに刈り込んだ頭には白髪が混じり、
しかし肌の張りはさほど老いておらず、白かった。確か、私立の大学で先生をやってい
ると言っていた。私は教師という人種があまり好きでないので、最初は敬遠したが、相
手のしゃべりはなかなかうまく、人好きのする空気をまとってもいた。名前は……とも
に名乗らなかった。
 交換殺人の話をしたとすれば、この初老の男性だろう。私が何やかやと愚痴っている
のを耳にして、話し相手になってくれたのだ。――少し思い出してきた。手柄を持って
行く上司、ごまをする同僚、しゃあしゃあと新しい男ができたと宣言する彼女。一人を
この世から消すとしたら、誰を選びます? そんな風に質問を振られた気がする。そこ
から交換殺人の話になるまで、さして時間を要さなかった。
 二枚目のメモに移る。三人の名前が書いてあった。手柄を独り占めしたり横取りした
りを繰り返す上司、その上司らにごまをすり、ときには平気で仲間を陥れる同僚、そし
て私の彼女――元彼女。それぞれの名前が記されているのだが、その全てにバッテンが
ついていた。どうやら、私はこの三人の中から殺したい一人を選びはしなかったよう
だ。
 当然だろう。私にとって、一番この世から消したい人物は、この三人の中にはいな
い。
 三枚目のメモに、そいつの名前が書かれてあり、その周りをぐるぐると何度も楕円で
囲っていた。
<道塚京一郎>
 こいつは高校時代の同級生で、私の一つ下の妹と付き合っていた。親が医者で病院を
やっているせいか、羽振りがよく、私もたまに恩恵にあずかった。加えて、学業の面で
も生活の面でも頭がよく、話も面白い。要するに、頭の回転が速いタイプだった。道塚
は卒業してすぐに運転免許を取得し、親に買い与えられた新車に乗って現れると、妹を
ドライブに誘った。当時の記憶はごちゃごちゃしていて曖昧な部分も多いのだが、おそ
らくは二度目のドライブデートのときだったと思う。道塚は単独事故を起こした。ス
ピードの出し過ぎが原因とされている。同乗していた妹は車外に放り出されて、ほぼ即
死だったという。道塚もそこそこ大きな怪我を負って入院し、私は一度だけ見舞いに行
った。大して話すことはなかったが、すまないという謝罪を聞いた気がする。だからこ
そ、その段階では道塚を責める気持ちこそあれ、憎む感情はなかったと思う。だが、や
がて回復した奴が主張したのは、事故のそもそもの原因は私の妹にあるというものだっ
た。助手席にいた妹はシートベルトを外してしなだれかかってきて、運転の邪魔になっ
た。払いのけようとした弾みで、ハンドルを切り損ない、車体がぶれた。立て直そうと
した刹那に強くしがみつかれ、アクセルを踏み込んでしまった。その結果、事故になっ
たと。
 後日、証拠が出てきた。遺体を視た医者が、妹の身体にはシートベルトをしていたな
らできるはずの痣がなかったと報告した。また、妹の髪の毛が運転席側に多く抜け落ち
ていた。さらに、口紅の着いたペットボトルが運転席側の足下に転がっており、それが
ブレーキペダルの下に挟まって、ブレーキの効果を弱めたともされた。
 道塚は妹やその遺族である私達を訴えることはせず、丸く収まったが、付き合いはそ
れきり途絶えた。
 信じられない噂を耳にしたのは、それから四年ほど経った頃だった。妹の遺体の痣に
ついて報告した医者は、道塚家とつながりがあった。本当は妹の身体には痣があった
が、道塚の父の意を受け、彼の息子に責任が及ぶことのないよう嘘の報告をしたという
のだ。これがもし事実だとしたら、髪の毛やペットボトルの件も怪しくなる。頭の回転
の速い道塚なら、事故を起こして数秒で冷静に判断し、自分に有利になるよう、事故車
内に偽装を施すことを思いつくのではないか。
 私は噂の真偽を確かめようと思い、道塚京一郎とコンタクトを取ろうとしたが、多忙
を理由に会えなかった。ならばと、くだんの男性医師に接触を図った。男性医師は当時
道塚家と行き違いがあり、関係にひびが入っていたらしい。噂の出所はその医者当人だ
ということも考えられた。
 無論、さほど期待していなかったが、彼の居場所を突き止め、会いたい旨を伝える
と、意想外に二つ返事で応じてくれた。一気に緊迫感と期待感が高まった。
 だが、その男性医と直接会って話を聞くことはかなわなかった。約束の日の前日に不
審死を遂げたのだ。勤務していた病院の最寄り駅で、プラットフォームから線路へ転落
し、入ってきた列車にはねられたという。目撃者は多くなかったが、点字ブロックのす
ぐ後ろに立っていた医師は、不意に力が抜けたかのようにぐにゃりと崩れ落ちたとの証
言が上がった。結局、疲労によってふらついた身体を制御できず、線路側へ踏み出して
しまった事故として片付けられた。
 偶然? できすぎている。証拠はなくても、この出来事こそが証拠だ。疑いを確信に
変えるには充分な隠蔽工作。そうとしか考えられなかった。
 だが、私は道塚京一郎への復讐を果たせずに来ていた。道塚の居所が不明になったと
思ったら、いつの間にか研修名目で米国に拠点を移していた。わざわざ外国にまで追い
掛けて奴を死に至らしめても、怪しまれる可能性が高い。殺人事件発生時に限って私が
アメリカに入国していたと判明したら、第一容疑者になるのは明白だろう。
 帰国を待つしかない。長期戦を覚悟した。しかし、私にも日常の生活がある。平静を
装って日々の暮らしを送りながら、奴の動向を注意し続けるのには限界があった。いっ
そ、奴の父親を殺せばどうだろうと考えたこともある。父親にも責任の一端はあるし、
院長である父親が死ねば、道塚京一郎が後継者として戻ってくるはず。
 よい計画に思えなくもなかったが、それでも私は実行をためらった。道塚の父にも恨
みはあるが、殺せば一時的にしろ、道塚本人に利することになってしまうのではない
か。それだけは嫌だった。
 だから私は、道塚の父の訃報だけを待ち焦がれながら、日常生活を送ると決めた。
 以来十五年――。道塚院長は癌に冒され、発覚から数ヶ月で逝った。天誅が下ったと
は思わない。ただただ、来たるべき時が来た。それだけの感慨でしかない。そして私は
この三月半ばに、道塚京一郎が帰国したと知った。
 あとは、よい殺害方法を計画するだけだった。そのためには、奴の普段のスケジュー
ルを把握する必要があると考え、仕事の合間を縫って調査した。興信所の類に依頼すれ
ば手間は省けるのだが、私が奴の身辺を調べていたと他人に知られることはなるべく避
けたい。殺したあとは、私が強力な殺害動機を持っている事実はじきに明るみに出るだ
ろう。そこへ加えて被害者について嗅ぎ回っていたとなれば、どんなに優れた殺害計画
を遂行したとしても、警察に注目されるに違いない。強引かつ苛烈な取り調べで、意に
沿わぬ自白をしてしまうかもしれない。そんな醜態は御免だ。
 四ヶ月近くかけて、道塚京一郎の基本行動パターンが分かった。狙い目は、隔週日曜
に行うゴルフ練習の行き帰りか、毎水曜の午後に通っている恋人宅への行き帰りだろ
う。
 と、ここまで算段をつけておいたからか、私は財布から出てきた交換殺人メモの三枚
目には、道塚の名前の他、パーソナルデータを細かく記し、さらに次のように書き足し
ていた。<八月三日の午後一時から三時までの間に決行してもらう。アリバイ作り 普
通に出社>――八月三日と言えば、次の次の水曜日だ。初めて会った男とたった一度の
話し合いで、ここまで具体的に決めたのだろうか。もちろん、交換殺人は共犯者間の関
係性の薄さが肝心なのだから、一度で決められるのが理想的ではあるが。
 そうなると、私はいつ誰を殺すと決まったのだろう? メモの四枚目以降を探る前
に、私はコーヒーとトーストの簡単な朝食を摂った。

 やはりと言うべきか何故かと言うべきか分からないが、メモは四枚目以降も私の字で
書かれていた。恐らく、互いに接触した痕跡を可能な限り残さないでおこうという約束
の下、自分が身に付ける殺人計画メモは全て自分で書くようにしたんだと思われた。
<井原仁美>
 これが私の任されたターゲットらしい。都内の大学に通う三年生で、高校生時にファ
ッション誌の読者モデルをやった経験があるとのこと。顔写真がないが、調べれば簡単
に分かりそうだ。
 五枚目には、彼女の詳しい行動パターンが書かれており、その中の一項目が、ぐるぐ
ると楕円で囲まれてあった。アンダーラインまで引いてある。
 六枚目には決行日であろう、七月三十一日の午前九時以降、午後九時までとあった。
次の次の日曜……一週間とちょっとしかないじゃないか!? こんなタイトなスケジ
ュールで、こんな恐ろしげな役割を引き受けたのか、私は。
 もしこの計画から勝手に降りたら、どうなるのだろう? 殺されることはないにして
も、何かまずい事態になりそうな気はする。ただ、先に実行するのが私なら、私が実行
しない限り、相手も殺しに着手しようとは思わないんじゃないか?
 あるいは断りを入れてもいいんだが、互いの連絡先を交換した痕跡は見当たらなかっ
た。探ろうと思えば、この井原仁美から手繰ることができるかもしれない。想像する
に、私と共犯関係を結んだ男は、この大学に勤めている可能性が高い。恐らく、先生と
学生との間で起きたもめ事が動機になっているのではないか。その点を衝けば、こちら
が約束を違えたとしても大人しく引き下がるのでは。私を口封じに殺すくらいなら、井
原仁美を殺した方が早いはず。
 ただ……私にとっても、これは千載一遇の好機なのだ。交換殺人のパートナーなん
て、笛や太鼓で募集を掛ける訳に行かず、ネット上で怪しげな犯罪関連サイトを見付け
ては、そこから信頼に足る者を探し出し、共犯関係を築くなんて、迂遠で時間を要して
しまう。
 それに比べれば、バーで会ったこの男は、よほど信用できると言える。本気なのは間
違いないし、実際に会った印象では知的で冷徹な行動を取れる人物に見えた(記憶が些
か朧気であるとは言え)。
 私は少し考え、決行日までの時間を、共犯者の身辺調査に充てようと決めた。いざと
いうとき、有利な立場に立てるかもしれない。
 そして――予想していたよりもずっと楽に、共犯者の身元を割り出せた。大学のホー
ムページに、教員として顔写真と名前が載っていたのだ。
 野代幸大という文学部の准教授で、四十九歳。思っていたよりは若かった。顔写真も
明るいせいか、若く見える。連絡手段は、大学に電話をして呼び出してもらうか、メー
ルを送れるかもしれない。他と比べて大学の先生は職業柄、アドレスを公にしている
ケースが多いようだから、探し当てることは可能と見込んでいる。
 井原仁美との間にどんな因縁があるのかまでは調べなかった。交換殺人遂行のために
は、私と野代とのつながりを可能な限り希薄にしておかねばならない。当然、私は大学
周辺で目撃されてはならない。野代の生活圏にも近付かないのが賢明だろう。
 これで基盤固めはできた。あとは、私が先に決行する勇気を持てるかどうかだ。憎い
相手を始末するのに躊躇はないが、見ず知らずの、どんな理由で殺されるのかも知らな
い女性を、果たしてやれるだろうかという不安はある。頭の中ででも、シミュレーショ
ンを繰り返し行うとしよう。

 指定されていたのは七月末日の午前九時からの十二時間だったが、井原仁美のスケジ
ュールに重ねると、チャンスは自ずと絞られた。野代がいかにしてこの情報を入手した
のかは知らないが、井原仁美は翌八月一日に実家のある東北に向かうらしい。その前日
は、荷物をまとめたり、バイト先のショッピングモールへ最後の顔出しをしたり、夜に
なれば親しい友達と女子会めいた食事をすることになっているようだ。就職活動の気配
がないところを見ると、何か伝やコネがあるのか、家業でも継げるのか、もしくは卒業
即結婚するような相手がいるのか。まあ、どうでもよいのだが。
 狙うなら、バイト先への行き帰りだろう。彼女一人で動くようだし、時間やルートが
読めるのは大きい。難点は、まだ日が高い時間帯である点だが、店の裏口から大きな道
路へ出るまでの間に、いくつか裏道的な箇所があることが確かめられた。昼なお薄暗
く、人通りもまばらという理想的な場所だ。私は二度下見をして、適した場所を見付け
ておいた。防犯カメラに映らずに逃げ果せるルートも把握した。といっても、端から見
てカメラと分からないタイプの防犯カメラもあると聞くから、実行時も含めて常に違う
変装をする。
 指定された日まで、あと二日。ここに来て私は殺人の実行に意を固めつつあった。や
はり絶好のチャンスだと思えるし、もし仮に野代に裏切られたとしても、殺人の経験を
積めるのはよいことだと考えるようになった。経験を活かして、自らの手で道塚京一郎
を葬ればよいだけだ。加えて、この交換殺人計画は、私に刺激を与えてくれた。計画を
持ち掛けられる前はともすれば日々の生活にかまけて、復讐心がわずかながら薄れる瞬
間がなかったとは言い切れない。その緩みを引き締めてくれたのだ。
 すでに凶器は準備した。使い易いよう適切な長さ・細さにカットした革紐。これをメ
インに、ナイフも一本。鍔広なタイプで携帯には最適でないかもしれないが、手が滑っ
て自ら怪我を負う危険を思うと、これしかない。あと、考えたくはないが万が一にもし
くじったときに逃亡するため、刺激の強いスプレーも用意した。本来の使用目的は防犯
とされているが、真逆の使い方になる。
 脱脂綿に染みこませて対象者の口を覆い、極短時間で意識を失わせるような睡眠薬の
類もほしかったのだが、どうやらそんな物は存在しないようだ。あったとしても、素人
がちょっとやそっとで手に入れられる物ではあるまい。
 代わりに、現場を下見したときに、殴打に適した一升瓶や木ぎれ、鉄パイプの切れ端
いくつかに目星をつけておいた。当日、その全てが片付けられていたらそれまでだが。
 そうそう、クリアせねばならない重要な問題があった。指紋だ。夏の盛りに手袋をは
める訳に行かず、考えあぐねている。泥棒などはセロテープを指先に巻く方法を採るこ
とがあるらしいが、殺しには向いているのかどうか……。調べてみたところ、透明なマ
ニキュアを塗るという方法が見つかった。マニキュアなんて扱った経験はないが、当日
までに試して、行けそうなら採用したい。もっとも、その前に購入するときに怪しまれ
そうだ。恋人へのプレゼントっぽくすれば大丈夫だろうか。

 〜 〜 〜

 ――想像していたよりも、ずっときつかった。息は上がるし、精神的にも追い詰めら
れた心地になった。その反面、人を死に至らしめる行為だけを取り上げるなら、ずっと
簡単だった。呆気なかったと表現すればいいだろうか。
 井原仁美の死は呆気ないほど簡単に訪れた。私の主観では、一瞬で絞め殺せたように
感じたが、実際には恐らく一分か二分は締め続けていたのかもしれない。殺人行為の間
だけ、時間の感覚が薄い。逆に、その前後の時間の流れは遅かった。たっぷり待ったつ
もりなのにターゲットが出て来ないとか、これだけ早足で歩いているのにまだ現場から
遠ざかれないとか、とにかくじりじりさせられた。思い描いていた段取りを忘れ、殴っ
て気絶させることは飛ばして、いきなり背後から締め上げてしまった。物音は大きく聞
こえたし、口の中はからからに乾いた。
 今、そんな非日常で異常な状態から抜け出すために落ち着こうと、寂れた本屋に入っ
たところだった。この店もあらかじめピックアップしておいた。今時珍しい、防犯カメ
ラがない書店なのだ。その分、目立つかもしれないが、店主は年老いた男性で、半分居
眠りしているかのような眼で、レジの向こうに座っている。現場からは一駅分以上離れ
ており、あとから怪しまれることはあるまい。
 立ち読みをするふりをしながら、トイレを借りられるか聞いてみようか考えた。変装
を早く解きたかった。だが、こんな狭い店でトイレを借り、別人のようになって出て来
たら、さすがに印象に残るに違いない。やめた。
 変装ばかり気になり始めたせいか、徐々に平静になった。これならもっと大勢がいる
場所に出ても大丈夫だろう。この辺の地図を思い浮かべ、一番近いデパートか百貨店を
探した。そこのトイレに入り、変装を解くことにする。

 当日の夜遅いニュースで、井原仁美が殺された事件は報道された。まだ起こった事実
を伝えるだけの内容で、どういう捜査が行われてどんな進展を見せているのかまでは不
明だった。
 翌朝、ネットで新聞系のサイトをチェックすると、少し詳しい状況が分かってきた。
死亡推定時刻は午後五時から六時頃となっていた。殺害したのが午後五時半ぐらいだっ
たから、かなり正確だ。尤も、井原仁美がバイト先を出てから発見されるまでの時間帯
とほぼ重なっているから、これは当たり前と言える。人通りが少ないとは言え、ショッ
ピングモールの関係者が使ってもおかしくない道なので、じきに発見されるだろうとは
思っていた。むしろ、適当な頃合いに発見してもらわないと、私の共犯者のアリバイが
成り立たなくなる。
 凶器は不明。そりゃそうだろう。私が持ち去り、デパートのゴミ入れに捨てたのだか
ら。多分、あのままゴミ集積場へ直行だ。
 第一発見者に関する情報は出ていなかった。元々大きく報道するものではないのかも
しれない。犯人の恨みを買って、襲われる可能性なきにしもあらずと考えれば、頷け
る。――なんてことを犯人である私が言うのはおかしいが。
 テレビの朝のニュースでもチェックしてみたが、意外と扱いは小さかった。マスコミ
は連日の猛暑や水害、海外での銃乱射などの報道に忙しいようだ。
 これが朝のワイドショーとなると、また違ってくるのかもしれないが、見ている余裕
はない。今日は月曜だ。会社に行かねばならない。

 八月三日を迎えた。
 今日、道塚京一郎がこの世からいなくなるのだと思うと、妙な興奮が襲ってきて、ほ
とんど寝付けなかった。だが、朝にはいつものように起き出し、いつものように出社の
準備をした。そうでなければならない。アリバイ確保のためにも、今日は会社に行き、
会議に出るのだ。
 これまたいつも通りの朝食、トーストとコーヒーを用意して、テレビをつけたとこ
ろ、ニュースが映った。ローカルニュースだ。
 最初の何やら政治的な話題が終わると、次いで交通死亡事故のニュースになった。画
面下方に示された白い文字のテロップに目を凝らす。「私立○○大学文学部准教授 野
代幸大さん(49歳)」と読めた。
「……何だって?
 野代って、あの野代か? 私の共犯の野代幸大なのか?
 顔写真は出なかったが、肩書きや年齢まで合致していることから、間違いないと思え
た。
 茫然自失とはこのときの私のような状態を言うのだろうか、あまりに驚いて、事故の
詳細をよく聞いていなかった。確か、横断歩道のない道路を横切ろうとしていたとかど
うとか……。まさか、交換殺人を行うことに怖じ気づいたか、井原仁美を依頼殺人で始
末したことに良心の呵責を覚え、自殺したのではないだろうな。全てを自白したような
手紙でも遺されていては、こちらは身の破滅。――いかん、身体が震えてきた。
 手に持ったコーヒーカップをテーブルに戻し、しばし考えた。
 このままでは落ち着かぬ。
 残念ながら、道塚京一郎が本日、始末されることはなくなった。
 ならば、私はアリバイ作りの必要がない。欠勤してもかまわないことになる。今の精
神状態では、いくら顔に出ないと言われる私だって、周囲の目には奇異に映る恐れがあ
る。普段が冷静であればあるほど、わずかな異変が目立つのではないだろうか。
 それならいっそ今日は会社を休み、我が身を人目にさらすことを避け、家の中で事件
の情報を集める方がよい。会社には、急な腹痛に見舞われて動けないと伝えておこう。
落ち着いたら病院で診察してもらうと付け加えておけば、万が一にも誰かが様子を見に
来ることもあるまい。
 私は携帯電話を持ち、会社の番号を表示しておいてから、腹痛の演技のシミュレーシ
ョンをやってみた。

 何が何だか分からない。
 私が調べた限りではあるが、野代幸大の死は紛うことなき事故であり、特段、警察が
事件性ありとみて動いている気配はない。行き付けのスナックでいつもより多めに飲ん
で酔っ払って、千鳥足のまま帰路についた結果、道路に飛び出てしまったようだ。
 また、野代は交換殺人のパートナーとしての義務を果たしていたらしく、私に関する
個人情報は一切残していなかったようだ。その証拠に、井原仁美殺しや野代の事故死の
件で、警察が私を訪ねてくることは一切なかった。
 それだけで済んだのなら、問題はなかったのだ。道塚京一郎を殺害するチャンスを逃
したのは惜しいが、事故死なら仕方がない。想像するに、野代は恐らく、殺人の決行を
翌日に控え、気持ちを落ち着けるためか、あるいは度胸をつけるためか、はたまた不安
を打ち消すためだったのか、いつもより多く酒を飲んでしまったのだろう。その挙げ句
がこれでは、彼も私もいいところなしだが、少なくとも私の身は安全だと思っていた。
 しかし、現実はそう簡単ではなかった。
 まず最初に私が驚愕し、肝を冷やしたのは、八月四日の朝だ。前日、結局のところ病
院へは行かずに済ませてしまったが、その分、野代の件であれこれ調べることができた
私は、それなりによい目覚めをしていた。ところが、例によって朝のニュースでとある
事件を知り、まだ夢の中なのかと思ってしまった。
 道塚京一郎が殺されていた。
 八月三日の午後二時前後に、恋人宅の近くで射殺されたという。
 私はこのとき、私自身がどんな表情をしていたのか知らない。内面ではパニック状態
に近かった。野代が死んだのに道塚が計画通りに殺されたことはもちろん驚きだが、凶
器が拳銃らしいというのも意外だ。野代が自動発射装置のような物を考案して、前もっ
て現場にセットしておいたのだろうか? 通り掛かった道塚京一郎は自動発射の餌食に
なった? まさか! そんな装置があったなら、報道されるに決まっている。大学の先
生が拳銃をわざわざ入手するのも奇妙だ。
 そんなことよりも、私は急速に焦りを覚えていた。八月三日の午後二時前後、私はど
こにいた? 会社を休んで、家にいた。病院には行っていない。そして、私は一人暮ら
しなのだ。
 つまり、アリバイがない。
 交換殺人が成功したというのに、なんて間抜けな!
 第一、道塚京一郎を誰が殺したというのだ? 野代が死してなお執念を見せ、幽霊に
でもなってあの世から舞い戻り、計画を実行した? 拳銃を使って? あり得ない。
 疑問だらけの事態だったが、時間が経つにつれ、別の心配事が浮上した。より本質的
な問題、そう、警察は私に容疑を掛けているのではないか? 私が道塚に復讐心を抱い
ているのは、いずれ分かるはず。いや、捜査員はもうとっくに掴んでいるかもしれな
い。今にもこの家の玄関前に到着し、呼び出しのブザーを押して、現れるのではない
か。そして私に尋ねるだろう、昨日の午後、どこで何をされていましたか?と。

             *           *

「なるほどなるほど。そのバーで、共犯者と初めて会ったんだな」
 刑事の確認の言葉に、男は力なく頷いた。俯いていて顔はよく見えないが、警察へ連
れて来られた当初の険しくも平静に努めようとする表情は、だいぶ崩れている。
「それにしても驚きだね。会ってすぐに交換殺人の話がまとまるなんて。私には信じら
れんよ。どうしてそうなった?」
「さ、酒のせいとしか……」
 迫力の欠片もない返事に、刑事は軽いため息をした。
「まあそりゃあ、酒の力を借りたってのはあるだろう。だが、それだけなら、こうも雪
崩を打ったように進むものかい? 酔っ払って決めたとんでもない約束なら、酔いが覚
めりゃあ多少考え直すのが道理ってもの。違うか」
「……分かりません。何でか知らないけど、歯止めが効かなかったんだ。――いや、強
いて言うなら、全然酔ったように見えない男がいて、そいつが全てを取りまとめる感じ
だったかも。ああ、最初に言い出したのは違うんだ。野代っていう大学の先生」
「事故死した野代幸大だな」
「ああ。あの先生も運がないよ。言い出しっぺだからってことで、俺の殺してほしい奴
を真っ先に殺してくれて、次にあの先生が殺したがっていた井原仁美がいなくなって
さ。これですべきことはして、目的も達成だったのに、事故で逝ってしまうなんて」
「馬鹿を言うな。殺しに手を染めておいて、運のいいも悪いもあるものか。生きていた
って、絶対に捕まえてやったよ。こうしておまえをお縄にしたようにな」
「そういや、何で俺に目をつけたんです? 何も落としてないはずだし、拳銃は他人の
だし」
 不思議そうに首を傾げる男へ、刑事は上からあきれ口調で告げた。
「おまえ、スリの腕は上級なのに、脳みその方は今ひとつ頼りないようだな。スリ取っ
た拳銃を殺人に使うなんて、一見妙案に思えたのかもしれんが、あれは元々、暴力団員
の持ち物でな。まだ試し撃ちにしか使っていない代物で、もしそんな銃で事件を起こさ
れたら、組全体に迷惑が及ぶってことで、すられた組員本人が責任を取りがてら、律儀
にも警察へ届け出たんだよ。で、試し撃ちに使った弾まで持ってきたから、すぐに照合
して分かった。あとは、おまえがスリ取った場所には防犯カメラが向けられていたか
ら、簡単に判明したって訳。分かったか?」
「そ、そうだったんだ。いやあ、あの厳つい面相だから、ただ者じゃないと睨んで、警
察に頼ることもないだろうと安心して狙ったのに」
 思惑外れを悔いるスリ男に、刑事は肝心の質問をぶつけた。
「そろそろ白状してくれよ。交換殺人をやった相棒の名前を」
 紙と鉛筆を出す。すでに、野代弘幸の名前がそこに記してあった。
「“三人で交換殺人”をやろうなんていう、奇想天外なことを思い付く割に、記憶力は
からっきしか」
「さっきから思い出そうとしてるんですが、脳に蜘蛛の巣と霞が掛かったみたいに、も
やもやっとしていて、思い出せんのです。顔の方は、しっかり覚えてるんだがなあ。酒
を飲んでも飲んでも、ほとんど赤くならない、冷静沈着を絵に描いたような顔でさあ」
「そいつの顔、この中にあるか?」
 刑事は五人の上半身を捉えた写真一枚ずつ、スリ男の前に並べた。道塚京一郎に何ら
かの恨みを持つ人間としてリストアップした五名だった。

――終わり




#445/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  16/10/28  01:33  ( 16)
随筆>蜘蛛
★内容
芥川先生の御本に悪人が生前助けた蜘蛛がいました。蜘蛛の糸でおしゃかさまが地獄か
ら助け出してあげる(結局は失敗した)話があるのですぅ。私はそれを見習って蜘蛛は
大事にしています。

ある夏の日でした。一匹の蜘蛛が家の中に入ってきました。家の中にいれておくと噛み
つかれるかもしれないし、殺すには可哀想だし、外に出してあげることにしました。
嫌がる蜘蛛を捕まえて、屋根の瓦の上にそうっと起きました。夏の暑い日だったので、
瓦も焼けていたのでしょう蜘蛛はぴくぴくぴくと痙攣を起こして動かなくなりました。
気がついたら逃げ出すだろうと思って、窓を閉めて冷房と扇風機がかかった涼しい部屋
で蜘蛛のことを忘れてパソコンで遊び始めました。
そして次の日見ると蜘蛛は同じところにいました。その次の日も・・・その次の日も
・・・
一週間がたちました。窓をあけると蜘蛛は同じところにいました。風が吹き、逝って身
体の水分が抜けた蜘蛛は凧のようにふわりと飛んで行ってしまいました。
教訓
地獄に行っても蜘蛛の糸で助けてもらうことはできないようです。




#446/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  16/11/06  22:32  ( 21)
随筆>2匹のやもり  $フィン
★内容
私の家では防犯のため一晩中玄関先に灯りをつけています。そこに羽虫やその他の昆虫
が集います。その虫たちを食べにわりと大きなやもりと中ぐらいのやもりがやってきま
す。
2匹を観測していたら羽虫が油断をしている間にさっと動いてぱくりと食べます。ぱく
りぱくりぱくり何度も同じことをしていて見ていてなかなか飽きません。
深夜人は寝てやもりは羽虫を食べる。
日が昇ると同時に羽虫は消え、やもりもどこかの影に隠れるはずなのですが、家の構造
のせいとやもりが太りすぎて、玄関のガラスとサッシの間に挟みこまれて、逃げ出すこ
とができません。逃がしてやろうと無理して出そうとするとしっぽがちぎれて、しっぽ
のないやもりになると可哀想だからそのままにしておきます。そうやって何もせずに見
守っているといつの間にか抜けだしています。
私も家族もやもりのことは気にかけていて、今夜はもうやもりでてきたよとか言って玄
関のガラスに貼りついたやもりを優しく見ています。
だけどここ2.3日気になることがあります。中ぐらいのやもりだけが姿を見せて、大きな
やもりの姿が見えません。大きなやもりは食物連鎖の中に取り込まれて、より大きな動
物に食べられたのかなと心配しています。できれば11月にはいってから寒くなったの
で冬眠したと考えたいです。中ぐらいのやもりも玄関の羽虫をいっぱい食べて、そろそ
ろ冬眠すればいいのにと思っています。
そして来年の春、大きなやもりも中ぐらいのやもりも冬眠から目覚めて、また玄関に現
れてくれるのを祈っています。こうして人にもやもりにも平等に季節は巡るのですね。
来年の春に元気に現れてください>二匹のやもりくん




#447/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  16/11/14  02:02  ( 44)
随筆>涼しい布団 暖かい毛布  $フィン
★内容


最初に別にそこの業者を誹謗中傷するつもりはなく、私が思ったありのままの感想を書
いているつもりです。読む側も買う時に少しでも参考になればいいと思っています。

今年の夏も例年どおり暑かった。少しでも身のまわりを涼しくしようと、外出した後に
は水のシャワー、お風呂に入ってからは男性用のすかっとするミントの匂いたっぷりは
いっているリンスインシャンプー、男性用のボデイソープ(ミント風)、お風呂に出る
ときは水のシャワーで女なのに、夏になると男性化しています。

そんなおり、CMで●●は辛いが布団は涼しいとかなんとかいうのがありました。お金
をできるだけかけずに涼しくなる方法を考えていた私は興味を持ちました。そしていつ
も衣料を注文している通販サイトで同じようなものが売られていたので、寝るときに本
当に涼しくなればいいなと言うことで注文しました。下が2500円、上が2000円弱でし
た。

注文して2.3日後無事届いてさっそく布団にとりつけてみました。・・・・ぜんぜん涼し
くならない。それが最初の感想でした。値段のわりには布団がしょぼい。特に上がタオ
ルケットに近いようなものなのに、2000円とはちと高いのではないのかい?1000円以内
で収まるものでないかい?という感想でした。それでも肌触りはつるつるしてたしかに
いいし、今流行りなのだから今のうちにぼっているものを買ったと思えばいいかと思っ
て諦めました。

季節は夏は終わり、秋になって11月そろそろファンヒーターや毛布の暖かいのを欲し
くなる時期です。

妹がホームセンターのチラシを持ってきてなんでもいいから3000円以上のものを買って
欲しい。たぬきの置物を見学するバス旅行に当たりたいからと、友達も同じことを考え
ていて二人でただのバス旅行に行くつもりです。3000円以上の買い物をしないとバス旅
行の応募券をもらえないのです。

そこで私は去年3000円ぐらいで上用の毛布を別のホームセンターで買っていました。裏
表二重の茶色の無地の色こそ悪いが肌触りもよく軽くてとても暖かい毛布を買っていま
した。妹が持ってきたチラシにも3000円で同じ茶色の暖かい毛布と書かれていました。3
000円の買い物をしたら妹もバス旅行に行ける確率があがって喜ぶだろうと暖かかったら
いいなと妹に頼みました。

そして数日後その毛布を持ってきました。手触りこそいいものの、●●は辛いが布団は
涼しいの暖かい版でした。薄っぺらいぺらぺらの毛布でした。3000円払ったらもっと暖
かい二重の毛布が届くと思っていた私はがっかりしました。これだと1500円ぐらいの品
だなと思いました。

これを読んだみなさんも自分の目でちゃんと確認して、実際にその金額にあうものか見
て購入してくださいね。通販や妹の目を信じた私が馬鹿でした。




#448/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  16/11/23  12:15  ( 23)
随筆>楽しい歯ブラシ、楽しくない歯ブラシ $フィン
★内容


半年に一度定期健診で歯医者に行っています。行く前に歯磨き粉なしで一度歯を磨き、
糸ようじを使って歯と歯の間にある磨き残しをとって、その後歯磨き粉をつけて歯を磨
き、最後にマウスウオッシュで歯を磨いています。それでも看護師さんに歯を染色して
もらうと磨き残しがあります。いままで何回もそうやってきたのですが、毎度指摘され
てしまいます。看護師さんに一本一本歯を磨いてもらって、その後超音波で歯を磨いて
終わりです。虫歯ができて治療してもらうときは痛いのはわかるのですが、歯の定期健
診のときは気持ちいいのか、痛いのかわからない何度やっても微妙な感じがします。

さて今回の題材になった楽しい歯ブラシ、楽しくない歯ブラシですが、今まで1本150円
以上の歯ブラシで歯を磨いて(一度目は歯磨き粉なしで歯を磨き、糸ようじで歯と歯の
間をとり、二度目は歯磨き粉で歯磨いて終わりです)いるのですが、歯を磨いていてわ
りと楽しくてやっていました。

でもその歯ブラシも横に広がってきて、1週間前ドラックストアによったさいに、1本78
円で売っていたドラックストアのプライベートブランドの歯ブラシを買ってきて、さっ
そく以前と同じ方法で磨いたのですが、あれ?磨いていて楽しくない。歯ブラシは同じ
普通の硬さなのに微妙に違う。慣れていないせいかなと思っても歯磨きが楽しくない。
同じことをやっているのに楽しくない。

やっぱり78円の歯ブラシは駄目なのかな値段どおりの効果しかないのかなと思った。次
は150円の歯ブラシ買おうと思いました。




#449/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  17/02/25  21:15  (413)
呪術王の転落   永宮淳司
★内容                                         22/01/09 14:16 修正 第2版
 遠くに赤い砂肌をした山々が見える。どれも三角形より四角形に近いシルエットを持
っていた。
 周辺にはサボテンを始めとする棘の多い植物が点在する他は、特に生き物の気配の感
じられない、荒涼とした地面が延々と続く。無論、我々人間が簡単には見付けられない
場所に、小さな生き物たちは潜んでいるのだろうが、一見するとこの一帯は“死の土地
”そのものだった。
 こんな場所に何を思ったのか、宗教団体がかつて巨大な塔を建てた。高さ二十四メー
トルの五階建て、ドーナツ型をした円筒の石造り。かつてはそれなりにきらびやかさを
有していたそうだが、生憎と資料が残っておらず、具体的には分からない。現存する塔
は、内壁も外壁も黒く磨き上げられた石が鈍い光をまだ宿しており、往時を偲ばせた。
 一階部分には窓もドアもなく、地上からは二階へと通じる階段を登ってから、改めて
降りることになる。他の階には全て窓が四つずつがある。いずれもはめ殺しで、分厚い
ステンドグラスが今も無傷で残っているようだった。
 ようだったと曖昧な表現にしたのは、近くまで行って直接確かめることが困難だから
だ。内部にあった螺旋階段は錆び朽ちて、ほぼ全て崩壊していた。僅かに残った数段の
ステップや手すりなぞ、最早何の役にも立つまい。触れただけで崩れかねないように見
える。
 塔の内部は屋上まで吹き抜けで、エントランスホールに該当する中心区画から見上げ
れば青空が望める。元々、屋根はなかったらしい。
 何のために作ったのか? 宗教団体の説明によれば、各階にある四部屋が修養の場と
して機能していたとのこと。どのような修養が行われていたのかの記録はあるのだが、
詳細は省く。部屋の構造自体は同じだが、上階ほど上級の修養がなされていたという。
「宗教団体の解散後、所有権を持つ人物とその血縁者が皆、お亡くなりになってね。よ
うやく、こうして利用できることになった」
 鼻髭の印象的な中年男が言った。“呪術王”と呼ばれる割に、柔和な表情をしている
し、声の調子は穏やかで優しく、身体も平均的だった。
 彼の名は、ロドニー・カーチス。占いを生業とする。ここ数年で、急に知名度が上が
り、人気を得ていた。きっかけは、芸能人やスポーツ選手など著名人の将来に関する
諸々を、いくつも言い当てたためだ。
 当初、彼自身は、必要以上に自らを売り込もうとはしなかったが、人気者になるとマ
ネージャーがいる方が便利だ。という訳で雇われたのが私、メクロ・カンタベルであ
る。元は男性歌手のマネージングをやっていたが、タレントの不祥事により喉が干上が
りかけていたところを、拾ってもらったのがより正確な表現になろうか。
 もちろん、腕には自信がある。カーチスを最初は占い一本で売り込み、次いで予言や
心霊現象関連に首を突っ込ませ、徐々にクイズ番組などにも進出。今ではスポーツ選手
の運動会や、芸能人の水泳大会にまで顔出しさせている。呪術王は年齢の割に運動がで
きるのだ。
 そんな風に仕事をするようになってからしばらくすると、カーチスにも商売っ気が出
て来た。私は彼のためを思って、仕事を取捨選択し、呪術王ロドニー・カーチスにとっ
て最善のイメージ作りを心掛け、機を見てイメージチェンジをはかり、そして成し遂げ
た自負がある。
「それで……一体、何を確かめたいと言うんです?」
 私はカーチスに尋ねた。荷物を満載したワゴンカーを用意させられ、目的を告げられ
ぬまま、ここまでお供させられたのだ。いい加減、打ち明けてくれてもよかろう。
「メクロ・カンタベル。君はここでかつて起きた不可思議な出来事について、知ってい
ますかな?」
「いえ……特に何も知りません」
 大きな事件と言えば、くだんの宗教団体の教祖が、塔の天辺にある自身の部屋で死亡
したことくらいだろう。ただ、あれは報道によると病死で、別段、不思議な事件ではな
かったはず。
「勉強不足です。ここへ来ると伝えた時点で、下調べくらいしておいてもらいたいも
の」
「すみません。他の諸々に忙殺され、そこには意が回りませんでした」
 やや不機嫌な口調になった呪術王に、私は急いで頭を垂れた。
「それなら仕方がない。まあ、私でも知っている常識だと思っていたが、昔のこと故、
世間から徐々に忘れられているのかもしれない」
 そう言うと、カーチスは塔によってできた日陰に入り、話し始めた。
「長くなる話じゃあない。語ろうにも、情報が少ないのでね。事件の主役は、バーバ
ラ・チェイス。宗教団体の信者で、齢は十五ほど。見事な金髪だけが自慢の、他は地味
な印象の少女だったとか。そして彼女は足が不自由だった」
 教祖が奇跡を起こして、その子を歩けるようにしたとでも言うのだろうか。
「バーバラは教団の末期に入った信者で、程なくして教祖が死亡、教団の解散となる。
それでも彼女は信仰を捨てず、ここへ来ることを願った。多分、教祖の魂がまたいると
でも思ったのでしょう。解散から一年後、その願いは叶い、友達数名の助けを借りてこ
こへやって来たバーバラは、一人で一晩明かしたいと告げる。友達は聞き入れ、場を離
れた。バーバラが夜をどのように過ごしたかは定かじゃないが、この塔の一階で寝袋に
入って就寝したことだけはほぼ間違いない。というのも……いや、この点は後回しにし
よう。翌日の昼前、友達がバーバラを迎えに行くと、彼女の姿はなく、荷物の一部が一
階の壁際に置いてあるだけだった。ああ、言い忘れていたが、当時の段階で既に建物は
今のように朽ちかけていた。時間による劣化のみならず、教祖死亡を受けて混乱を来し
た教団内で、大小様々な暴力・暴動沙汰があったせいらしいね」
 何故かにこりと笑うカーチス。呪術王は新興宗教団体を見下しているようだ。
「友達はバーバラ・チェイスを探したが見付からない。遠くまで移動できるはずがない
彼女を探すのに、捜索範囲はさほど広くない。一時間ほどで行き詰まった友達連中が途
方に暮れていると、突然、空から声が聞こえたそうです。叫び声と呻き声が混ざった、
形容のしがたい声がね」
 私が知らず、固唾を呑むのへ、カーチスはいよいよ講釈師めいた口ぶりと表情をなし
た。案外、楽しんでいるようだ。そして案外、愛嬌のある顔になると気付いた。
「それはバーバラの声だった。友人らが見上げた先は、塔の天辺付近。具体的にそちら
から聞こえたとの確信があった訳ではないらしく、他に見上げるべき物がなかったとい
うのが正しい。とまれ、声の源としてそこは間違っていなかった。塔の最上階、少しば
かり残った床の上に、バーバラ・チェイスは横たわっていた。寝袋に入ったままの状態
で、仰向けに」
「どうやって助けたんですか? いや、そもそもどうやってバーバラはそんな場所へ行
けたのか」
「焦るもんじゃないですよ。無論、友人達はすぐさま助けに行くことはかなわず、本職
の救援隊を呼んだ。詳しい段取りは省くが、かなり手こずったという。それよりもバー
バラが登れた方が不思議であろう。彼女が後に語ったところによると、意識を失ってい
たらしく、気が付いたときにはそこにいたと言うんですな。日差しのきつさに覚醒し、
周囲を見回して悲鳴を上げてしまったと」
「夜は下で寝ていたんでしょう? 何者かが彼女を寝袋ごと担いで上がるとしても、塔
の様子からして非常に難しい……と言うよりも、無理だと思えますが」
 私は聳え立つ塔を改めて見上げ、言った。バーバラ・チェイスの一件が何年前の出来
事か知らないが、塔の状態が現在よりも劇的によかったとは考えにくい。長梯子や滑車
があったとしても、不可能ではないか。
「ああ、バーバラが睡眠薬でも飲んでいたなら、あるいは可能かもしれませんね?」
「いや、仮にそうだったとしても、難業ですよ。人ひとりを担ぐにしろ、道具を使うに
しろ、目を覚まされないようにするのは。まあ、実際には睡眠薬を始めとする薬物の類
は、全く検出されなかったんですがねえ」
「そうだったんですか」
 当事者が生きて助かった場合でも、健康診断名目であれやこれやと調べるものらし
い。
「この謎は、結局解かれないまま、現在に至っているのだが……私はどうやって起きた
のかを突き止めた。正確には、突き止めた気がするという段階だがね」
「つまり、筋道だった推理を組み立てたってことですね? 聞かせてください」
 私の言い方がよほど物欲しげだったのか、カーチスは嬉しそうに笑みを作り、そして
勿体ぶった。
「今は話すつもりはない。推理が当たっているのかどうか、確かめてからになります」
「確かめる?」
「そのために、現場まで足を運んだんですからな」
「ははあ。てっきり、暇潰しの物見遊山かと」
「とんでもない。もし当たっていたときには、世間に大々的に公表するつもりだ。その
前に、君には真っ先に教えてあげましょう」
「それはありがたいですが……当然、今は他言無用ですね」
「ああ。公表前に外部に漏れたときは、君はくびだ。はははは」
「冗談でもそんなこと言わないでください」
 私は身震いして見せた。事実、呪術王はこのところ、以前のように単独で仕事をやり
たがっている風に見受けられる。私の仕事のやり方を会得し、一人でできると踏んだの
だとしたら、それは大きな間違いというものだ。
「それよりも、早く実証実験に入らないんですか」
「君がいる前ではやらん。一人で始めて、結果を待つことにしてる」
「どうしてです?」
「間違っていたら、気まずいじゃあありませんか。加えて、この実験は時間が掛かる。
しかも、いつ、私の想定した条件が揃うのか、分からないと来た」
「えっと。それって」
 私は近くまで運んで来て荷物を思い浮かべた。
「ここでお一人でキャンプでもすると……?」
「そうなる。なあに、安全は確保してある。水や食糧は充分に用意したし、電話が通じ
なくなるような万々が一の緊急時に備えて、信号弾もある。ああ、結果が出たら知らせ
ますから、すぐに来てくれたまえ」
「結果が出なかった場合はどうしましょう?」
「そうですな、そのときは……まあ、五週間と期限を区切りましょうかね。連絡がなく
ても、五週間後には迎えに来るように。いいですね」

 現在、きっかり三十五日後の昼間。
 私はカーチスのいるはずの塔の足元に立っていた。
 外から呼び掛けても返事はない。しかも、彼の持ち物のいくらかは、周辺に散乱して
いる有様だ。何らかの異変があったに違いない。それは端から分かっていた。
 即座に浮かぶとすれば、大型肉食獣による襲撃だろうか。この辺がいくら死の土地だ
と言っても、獣が全くいない訳ではあるまい。熊のような大型で凶暴な獣が出現したの
ではないか。そんな想像を脳裏に描いてみた。食い散らかされた人体……。
 が、思い付きは簡単に粉砕されることになる。
 塔の内部に、恐る恐る足を踏み入れた私は、一階エントランスの部分に呪術王を見付
けた。彼は俯せに横たわっており、一見、寝ているようだった。だがしかし、異変が起
きたのは確かなのだ。
 その名を何度呼ぼうとも、応答はなく、代わりのように嫌な臭いが私の鼻を衝いた。
背中や額を汗が伝う。
 近付いて、いよいよはっきりした。カーチスの後頭部には、赤黒い物があった。何者
かに殴られでもしたかのように、少々へこんでいる。
 呪術王は息絶えていた。

 後日明らかにされたところによれば、カーチスの死因は、転落死とのことだった。
 あんな場所で転落とは。それなら彼はあの塔に本当に登ったか、登る途中のいずれか
で、何らかのミスを犯して落ちてしまったのか。だとすると、彼の言っていた実験は、
ほぼ成功しかけていたことになる? 当人が死んでしまった今となっては、彼の推理し
た方法がどんなものだったのか、知る術は失われた。
 ただ、彼の残していたメモ書きにより、仮説が的中していた場合には自身の新たな売
りにするつもりだったことが分かった。“呪術王”ロドニー・カーチスが起こす不可思
議な現象として、大々的に披露する算段でいたのだ。そのためなのだろう、例の塔のあ
る一帯の土地を購入する手筈も、あとはサインをするだけと言っていいほどの段階まで
済ませていた。密かに計画を進めていたと知った私は驚きもしたが、今となってはどう
でもよい。
 それよりも、後処理だ。そこまで費用を掛けて、見返りが充分にあると踏んでいたの
だろうか? 私のようなマネージャーがいないとだめな人だったから、その辺の商売感
覚は怪しいが、そこはそれとして、俄然、興味が湧いた。もしも実際に見世物として成
り立つ現象が起こせるのであれば、カーチスの解き明かした方法を知りたいものだ。何
せ私は、彼の死によって、失業状態になった。見世物で稼げるのなら、私も当面の間、
糊口をしのげるであろう。マネージャーとして、カーチスのサインを真似るぐらい訳な
いから、いざとなれば土地購入の契約を正式に結んでいたことにできよう。
 そのためには、一にも二にも、謎の解明だ。
 とは言え、独力で解き明かせるかと問われると、全く自信がない。私は現実主義の方
に傾いた一般人だ。想像を際限なく膨らませるのも、無から突拍子もないものを創造す
ることも苦手だと自覚している。となれば、得意な者に頼むしかない。できる限り、費
用を掛けずに。
「そんな奇特な奴、いる訳ないだろ」
 昔からの悪友で、物書きをやっているテムズ・タルベルが言った。作家先生というよ
うなご立派なものではなく、記者崩れの男。そのくせ、金回りはいい。この居酒屋での
払いも、今夜は彼持ちだ。どこぞの富豪から、小金を引き出す種を握っているらしいの
だが、教えてくれる気配はない。
「正解があるかどうかも分からん謎に、無給で取り組むような輩。いたらそいつはよほ
どの暇人か、阿呆だ」
「ただ働きとは言わんさ。儲けの一部を回してやっていい。心当たりはないか」
「だから、見世物として成り立つのかどうかがはっきりしない段階で、協力する奴がい
るとはとても思えん」
「いくらか前払いできる。今なら、呪術王死す!と散々やってくれたおかげで、多少は
懐が潤ったんだ」
「金の問題というより、謎に取り組む熱意の問題だぜ、こいつは。おまえさんも夢みた
いな話を追い掛けてないで、新たなマネージャーの口を探した方がいいんじゃないか。
三月ぐらい前から、カーチス以外のマネージメントも考えたいと言い出していたが、あ
れ、どうなったんだ?」
「呪術王と仕事をしていたという評判が、なかなかね。芸能人の秘密を掴んでいるんじ
ゃないかと噂されて、いい印象をもたれていないみたいなんだな。それに……曲がりな
りにも、カーチスの世話をした身としては、情が移ったのかもしれない。解き明かして
やりたいという熱意は、確かにあるんだ」
 割と本音に近いところを吐露し、私は残っていた酒を呷った。
「頼むとして、どんな職業の奴を想定してるんだ?」
「それはやっぱり、宗教家とか占い師? インチキな御業に詳しい人物ならなおのこと
いい」
「そんな連中が都合よく見付かったとして、素直に協力してくれるかね?」
「……難しそうだ。となれば……手品師の類だな。あとで見世物にするとき、手品師が
いれば都合がよいかもしれないし」
「おまえに利益が回らなくなる可能性が高そうだ」
 解明してもそれを私には教えず、手品師が独自に見世物に仕立てるっていう意味か。
そんな狡賢い奴ばかりではないと思うが、きちんと契約を結んだら結んだで、儲けのほ
とんどを持って行かれそうなのも、容易に想定できる。
「じゃあ、あと考えられるのは……探偵かな」
「探偵?」
 全く予想していなかった言葉を聞いたとばかり、目を丸くしたタルベル。だが、こち
らとしては意表を突いたつもりなぞ毛頭ない。
「おかしくはあるまい。すっかり忘れているようだけれど、ことは殺人事件なんだ。地
元の警察は、まだ何の手掛かりも掴めていない。ひと月近く経つのにまともな発表が全
くないんだから、少なくとも難航しているのは間違いないだろう。そこでマネージャー
だった私が、探偵を雇うというのはさほど変な成り行きではないはずだ」
「なるほどな。しかし、刑事事件を依頼するとなると、相当な金が……。実費だけでも
かなりになるだろう」
「タルベル、君の広い顔でもって、誰かいないもんかね。依頼料なんて二の次、謎解き
こそ喜び、みたいな探偵の心当たりは」
「うーん。実は、いないことはない」
「そうなのか? 是非、すぐにでも紹介してくれ」
「簡単には掴まえられんのだ。その男、世界を旅しているからな」
「旅? もしかすると、異人なのか」
「異人だが、言葉は問題なく通じる。少し、気難しいところがあるがな。エイチという
名の、黒髪の男だ」
 結局、私の懇願に折れ、タルベルはエイチへ接触を図ってくれることになった。期待
するなよと何度も言って。

「その件なら、発生当時に滞在先で聞き及んで、ある程度の興味を抱いたよ。が、検討
の結果、事件性はないと判断できた。だから、あなたの地元での出来事だと分かってい
ても、特に知らせようとは考えなかったな」
「うむ」
 エイチの言葉に、警察署長のライリー・カミングスは、重々しく頷いてみせた。威厳
を保とうという意識が、強く出てしまっていた。童顔のため若く見られがちなカミング
スは、半ばそれが癖になっていた。
「私もそう思っていたのだが、関係者からせっつかれて、のんびりと構えていられなく
なった。さりとて、事件性がないことの証明は、意外に難しいものでね。管轄内では他
に大きな事件が複数、起きていることもあり、ここは君の助けを借りるべきだと判断す
るに至ったのだ」
「以前は僕の方もお世話になりましたから、協力は喜んでしますが――こちらの推測を
話す前に、カミングス署長ご自身の考えを聞きたいものです」
 そう言って微笑するエイチに、カミングスは眉根を寄せた。
「私の考え?」
 応じる声が、多少の動揺を帯びていた。“呪術王転落死”の件の顛末について、彼が
思っていることはただ一つ。呪術王カーチスは崩れかけの塔をどうにかして登ったが、
誤って足を踏み外し、地面に激突、そのまま死に至った。それだけである。無味乾燥で
つまらないが、そうとしか考えられない。
 カミングスはしばしの逡巡のあと、エイチにこの感想を正直に伝えた。
「――こう言うと、君はすぐに指摘するだろう。分かっている。どうにかして登ったと
言うが、その方法を解き明かさねば真の解決とは言えない、とでも言うつもりだろ?」
「まあ、半分は」
 エイチは、今度ははっきりと笑いながら言った。
「半分? 何が半分だ。その言い種だと、どうにかして登ったということ自体、半分し
か当たってないみたいじゃないか」
「半分というのは言葉のあや。思うに、カーチス氏は自らの力で登ったのではないと考
えています」
「……分からんなあ。自力じゃないのなら、誰かに引っ張ってもらったとでも? あ
あ、そうか。先立つ事件では、足の不自由な女性が塔を登った訳だから」
「ええ、関係あり、です。カーチス氏とバーバラ・チェイス嬢は、同じ過程を辿って、
塔の上まで運ばれたんでしょう」
「何と。二つとも解決したというのか」
 つい、解決という表現を使ってしまったカミングス。これでは、警察は皆目見当が付
いていなかったと白状するも同じである。
 そのことに気付いたカミングスだったが、素知らぬ態度で続ける。
「ならば、答合わせといこう。エイチ、君が真相に至ったのは、何がきっかけだった
?」
「過去の新聞記事」
 短く答えるエイチ。ある意味、意地悪な返事とも言えた。
「そうであろう。かつての事件にヒントがあったと」
「ええ。あの一帯で、何らかの特徴的な出来事が起きていないかどうか、遡って調べて
みた。すると、数年に一度、奇妙な変死事件が発生していると分かった」
「変死か」
「問題の地域は、砂漠に近い、乾燥した大地です。にもかかわらず、溺死者が出ている
んですね。とても特徴的でしょう」
「ああ、死の土地での溺死か。それなら分かるぞ」
 さすがに警察署長として把握している。
「十五年くらい前までは、完全に謎だったな。何しろ、周囲には川や沼といった水辺は
全くないのに、人が溺れ死んでいるのだから。どこかよそで溺れさせたのを運んだとし
ても、わざわざそんなことをする理由が犯人にあるのだろうかと、不思議だった。ま、
分かってみれば単純なことで、山側で突発的に大雨が降ると、その雨水が一本の濁流と
なって、短時間で一気に押し寄せる区域がある。運悪く、そこにいた人物が犠牲になっ
たという仕組みだった」
「それと同じですよ。カーチス氏のときもバーバラ嬢のときも、直前に同じ気象条件に
なっていたと分かった」
「むう。しかし、ロドニー・カーチスは溺死ではなく、転落死。バーバラにしても、溺
れてはいない。どういう訳で、そんな違いが?」
「多分、彼らは水に浮かんだんです。その結果、カーチス氏は命を落とし、バーバラ嬢
は助かったという風に、道ははっきり別れましたが」
「ますます分からん。焦らさずに、噛み砕いて教えてくれ」
 カミングスはすっかり、教師に教えを請う生徒と化していた。
「溺れずに浮かんだの何故か。鍵となったのは、まず、あの塔の内部にいたという事
実。現地に行って調べてはいませんが、塔の壁は、床や天井に比べると相当に頑丈なの
ではないかと想像できた。中が朽ちても、壁は殻のように残り、塔として聳え立ってい
るのだから」
「まあ、そう言えるだろうな」
「次に、二人とも寝袋を使った。正確には、カーチス氏が寝袋を使ったかどうかは定か
でないが、キャンプ道具を運び込んでいる。一人で野営するのなら、テントよりも寝袋
の方が簡便と言える。第一、氏はバーバラ嬢の身に起きた現象を再現することを期し
て、現地入りしているのだから、同じ格好をした可能性が高い」
「何となく見えてきたぞ。寝袋は撥水性、いや、もっと言えば防水加工が施された代物
だったとすると、水に浮かぶ。少なくとも、身一つでいるところを水に襲われた場合、
浮かびやすくなる、だろ?」
「ご名答。短期間に山に降った豪雨が、強くて速い流れになって、塔のふもとを襲っ
た。所々に開いた穴から、水は塔内部に入り込む。塔を大きくて細長い器に見立てる
と、分かり易いかもしれません。中で横たわっていた人間は、嵩を増す水に一気に持ち
上げられ、塔の天辺近くまで行き着く。バーバラ嬢は、幸か不幸か気付かぬまま天井上
に到着。カーチス氏は最上階の床に乗り上げた」
「ふむ、なるほどな。バーバラ・チェイスの方は、おおよそ分かったぞ。彼女を持ち上
げた大量の水はじきに引く。そして目覚めたときには、照りつける太陽や乾燥した空気
のおかげで、地面や衣服などにあった濡れた痕跡もすっかり乾き、分からなくなったと
いう訳だな」
「恐らく。早めに気付いてもらえて、彼女は幸運だったのかもしれない」
「気付かれなかったら、やがて干からびて死を迎えた……」
「あるいは、どうにしかして降りようともがき、転落した可能性もあったでしょう」
「本当に転落死したロドニー・カーチスは、もがいたということになる」
「うーん、少し違うかもしれませんよ。彼は連絡手段があったはずですから」
「そうか。落ち着いてマネージャーに知らせれば、助けを待つぐらいの辛抱はできただ
ろうなあ」
「カーチス氏が転落したのは、中途半端な位置に引っ掛かったからではないかと、推測
しました」
「そういや、君は最前、バーバラは天井の上に辿り着いたが、呪術王はそうではない、
みたいな言い方をしたっけな」
 思い出したという風に、カミングスは左の手のひらを右の拳で打つ。
「具体的にどこと特定することはできませんが、最上階の不安定な場所だったと見なす
のが妥当でしょう。もしかすると、引っ掛かり損ね、慌てて手で床の端を掴んだかもし
れない。そこからよじ登れたならば、きっと助かっただろうに、握力の限界が先に来
て、転落してしまった――という推測ができる」
「連絡できなかったという点を考慮すると、それが一番ありそうだなあ。両手がふさが
っていたら、緊急の連絡もしようがない」
 カミングス署長は合点して大きく頷くと、手元の紙にメモ書きを始めた。宙ぶらりん
になっていた呪術王転落死事件に、はっきりとした結論を下すために、改めて調べるべ
き事柄を思い浮かべ、箇条書きにしていく。
「どうしてまた、ふた月近く経ってから、協力要請をしてきたんです? 言っちゃあ何
ですが、カミングスさんが事故だと思っていたのなら、もっと長く放置しそうなもの
だ」
 その様子を横目に見ながら、エイチが尋ねた。
「うむ。まあ、面倒くさい奴からつつかれたもんでね。裏も表も知ってるような自称・
記者から」
「その記者は、何でこの件に興味を持ったのでしょう? 元の宗教団体を追い掛けてい
るとか」
「いやいや。カーチスのマネージャーだった男が、その記者と旧知の仲だっただけさ
ね。カーチスの不審死の謎を解き明かしたい一心、てことだったが、金儲けも企んでい
るようだ」
「金儲けというと……ああ、カーチス氏に死なれたあとはマネージャーも何もないって
訳か。次の職を得るまでのつなぎに、呪術王を利用しようという策は感心しないが、や
むを得ないと」
「そこなんだが」
 カミングスはあまり進まない筆を止め、エイチの顔を見た。
「思い出した。一応、人が死んでるってことで、メクロ・カンタベルの身辺も調査した
んだ。カンタベルってのはマネージャーのことだが」
「不審な点が?」
「はっきりと怪しいことが出て来てたら、事件性を疑ってもっと調べたよ。まあ、引っ
掛かった程度だな。カンタベルは、ロドニー・カーチスが亡くなる前から、次の職探し
をしていたようなんだ」
「気になりますね」
「お? どう気になるって言うんだ?」
 エイチの即答に、カミングスはペンを手放した。机の上で両手を組み、身を乗り出す
姿勢を取る。
「最初に、報道された記事だけで事件性はないと判断したと言いましたが、それは条件
付きでした。確実に殺せる方法じゃないからです。犯罪者にとって不確実な方法でもよ
いのであれば、事件性がないと現段階では言い切れない」
「え。そんな方法がありますか?」
 急に丁寧な言い回しになったカミングス。すぐに気付いて、口元を手のひらでひと拭
いした。
「転落死させる方法があるとは、思えないんだが。知らないのかもしれないが、カーチ
スの死亡推定時期の間、カンタベルにはちゃんとしたアリバイがあるんだ」
「一日中、監視が張り付いていた訳ではありますまい? 遠隔地にいても、ちょっと操
作するだけで、人と人はつながれますよ」
「電話か。そりゃあ、電話があれば話ぐらいはできるが。実際には、電話はなかったと
カンタベルは言っている」
「待ってください。危機に瀕したカーチス氏にとって、電話は単なる会話道具ではな
く、命綱にも相当したんじゃないかな。無論、危機というのは、水の急増によって、塔
の上方に運ばれたことです。多分、カーチス氏は水によって塔の上まで行けるとは予想
していたが、あまりにも急だったんでしょう。食糧などを上に持って行けていたら、し
ばらくは耐えられたはずなのに、そうはならなかったようですから。だが、いつでも緊
急の連絡を入れられる準備ぐらいはしていたと思う。寝袋の中に電話を常備しておくと
かね。だから、その場合、氏はすぐにマネージャー宛に電話を掛けたに違いない。で
も、その電話に反応がなかったとしたら」
「反応がないとは、つまり……電話に出ないということで?」
「それもあります。あるいは、電話で救援を要請され、応じる返事をしておきながら、
実際には行動を起こさなかったか。そもそも、バッテリーをまともに整備しておかない
という方法もあり得る」
「バッテリー……」
「手動の充電器を用意していたかどうかは知らないが、それとは別に、予備のバッテ
リーも用意していくでしょう。充電器自体が壊れることだって考えられるのだから。そ
してバッテリーのいくつかを不良品にしておけば、カーチス氏の連絡手段は断たれる」
「うーむ。確かに、どの場合も死に至りかねないな。救助の声が伝えられないにして
も、待てど暮らせど救援が来ないにしても、絶望につながる」
「僕の想像では、電話はつながったと思います。カーチス氏の立場に置かれたとして、
助かるとしたら、水の勢いが収まった時点で思い切って飛び込むぐらいでしょう。それ
ぐらいのことをいい大人が気付かないとは思えない。あ、呪術王は泳げますよね?」
「ああっと、多分。運動は得意だそうだから」
 記憶を手繰りながら答えたカミングスに、エイチは「あとで確認を」と指示し、話を
続けた。
「泳げるとして――泳げなくても命に関わるとなれば飛び込むという選択をする可能性
が高いでしょうが――、それにも関わらず機会を逸したのは、救援が来ると確信してい
たからではないか。電話を受けたカンタベルが、すぐにでも来てくれると疑いもしなか
ったからこそ待ち続けた挙げ句、水が引いてしまった」
 エイチの推理に、カミングスは唸った。だが一方で、首を捻りもした。
「興味深い仮説だが、証拠がない。何せ、カーチスの電話は完全に壊れた状態で見付か
ったんだ。高いところから落ちたせいだと思っていた。今の話を聞くと、ひょっとした
ら第一発見者であるカンタベルが破壊したのかもしれないし、そうじゃないのかもしれ
ん」
「通話記録の照会ができない?」
「荒涼とした土地に行くからと、常用していた物を持っていかずに、前払い形式の奴を
新たに購入したらしい」
「いや、僕が言ったのは、マネージャーの電話です」
「……ああ、そうか」
「まさか、マネージャーの方も電話を新しくしてはいないでしょう? 使えるのに変更
したら、カーチス氏から疑われかねない」
「なるほど。細い糸のような頼りなさだが、調べる値打ちはありそうだ」
 カミングスは署長の椅子から腰を上げた。電話に手を伸ばすと、係の者につなぐよう
に伝えた。

――終




#450/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  17/06/28  21:05  (499)
そばに来るまでに   寺嶋公香
★内容
「相羽君は、芸能関係には興味がないのかね」
 英文学の宇那木(うなき)助教授から意外な話題を振られ、相羽は目をぱちくりとさ
せた。もちろん、無意識から出た仕種だが、妙にかわいらしくなってしまった。その
上、返事が出て来ない。
「芸術ではなく、芸能ですか」
 やっとそれだけ応じた。
 黒板を消し終わった助教授は、手に着いたチョークの粉をぱんぱんと払ってから続け
て言った。
「うむ。学生の多くは、トレンディドラマだのカラオケだのを話題にしているのに、君
の口からそんな単語が出たのを聞いた覚えがない」
 相羽は口元に微苦笑を浮かべた。先生の「トレンディドラマ」という言い回しが、ど
ことなくおかしかった。
 笑いを我慢しつつ、目の前の黒板を引っ張る。二枚の板が上下移動できて、入れ替え
られるタイプなのだ。少しだが、気になる消し残しがあったので、消しておく。
「全くないわけではありませんが、重きを置いてないというか、今は学生生活自体が楽
しい感じです」
「なるほど、結構結構」
 宇那木助教授は窓の戸締まりを確認してから、黒板の端に立て掛けた図面資料を肩に
もたせかけ、教卓にあったテキスト等を小脇に抱えた。百八十センチほどの背があっ
て、さらにぼさぼさ頭はアフロヘアに近いため、なおのこと高身長に見える。
「少し心配していたのだよ。艶っぽい話が口に上らないのはまあ人それぞれだとして
も、世俗的な楽しみすらシャットアウトしてるのではないかとね」
「朴念仁みたいに思われていたのですか」
「朴念仁は言いすぎだが、真面目で頭が固いというイメージだね。同じ頭でも中身――
頭脳の方は柔軟なのに」
 うまい言い方ができたとご満悦なのか、宇那木はにこにこしている。太陽がパーマを
掛けたみたいだ。
「お持ちしましょうか」
「お餅? ああ、いいよいいよ。この年齢で、君のような学生に荷物を運ばせたとあっ
ては、格好が付かない」
「でも、資料の端がぶつかりそうです」
 先を行く相羽は後ろを見ながら、出入り口の上部を指差した。図面を巻いた芯がドア
のレールをかすめそうだった。
「では、テキストの方を持ってもらえるかな」
「はい」
 相羽は肩から提げた自分の鞄を背負い直し、テキストを受け取った。厚さも判型も異
なる三冊と受講者名簿が、手の中で意外と落ち着かない。
「次のコマは、何もないのかね?」
「心理学ですが、休講と出ていました」
「ああ、種市(たねいち)先生か」
 呟くのを聞いて、相羽はちょっとしたいたずら心を起こした。先程、固いと言われた
ことを払拭しておこう。小耳に挟んだ噂話を持ち出してみた。
「宇那木先生は、種市先生と仲がよいと聞いていますが……」
「学生の頃、同じ学校だったことがあるからね。お互い、いい歳だし、一緒になっても
いいかなぐらいの話はしてる。何だ、ちゃんと興味あるんだ?」
「興味というか、疑問というか。聞いた限りでは、種市先生は女子大で、宇那木先生と
同じ学校というのは解せません。つまり、高校や中学で同じ学校だったんでしょうか」
「そうだよ。もっと前、小学校のときから一緒だった」
 エレベーターがあったが、素通りして階段に向かう。上がるのは一階分だけだ。
「同じ大学に着任するとは、腐れ縁的なものを感じる」
「どちらかが追い掛けてきたわけではないんですか」
「ないない。偶然」
 教官室まで来た。相羽が鍵を借り、ドアを開ける。押さえてなくてもドアは止まるは
ずだが、念のため手を添えておく。宇那木は資料がぶつからぬよう、斜めにしてから入
る。
「助かったよ。お礼ってほどじゃないが、コーヒー、飲む?」
 問い掛けながら、既に準備を始めている。自身が飲むのは確定ということだろう。
「いただきます。あの、テキストと名簿は」
 紅茶の方が好きですがとはもちろん言わず、相羽は辺りを見回した。
 室内はそこそこ散らかっている。特に、本棚はまともな隙間がほとんどない。本来、
本を置くスペースじゃないところにまで、色々と横積みにしてあった。
「こっちにもらおう。おっと、ドアは閉めない。何かとうるさいご時世になったから」
「あ、そうでした」
 性別に関係なく、先生と学生が教官室に二人きりの状況で、指導上の必要性がない限
り、ドアを少し開けて廊下側から覗けるようにしておくのが、この大学のルールだ。
 レギュラーコーヒー二杯を机に置いた宇那木は、一旦座ってすぐにまた立った。
「確か、もらい物の菓子が。食べるでしょ」
「え。いえ」
「遠慮は無用。忘れない内に出していかないと、賞味期限が切れてしまう」
「来客用に置いておけばいいのでは」
「だから、そんなに来客はいない――あった」
 本棚に縦向きに差し込まれていた菓子箱を引っ張り出すと、元来の横向きにして蓋を
開ける。包装された和菓子らしき物が、偏りを見せていた。助教授は二個、取り出し
た。小皿にのせることなく――という以前に、小皿がこの部屋にあるのかどうか?―
―、個包装の物をそのまま差し出してきた。
「大きな栗が丸々入った、多分、高いやつだ。栗、嫌いかい?」
「栗は好きです」
「なら、食べなさい」
「廊下から誰か学生が目撃すれば、『僕も私も』と雪崩を打ってきませんか?」
 我ながら変な心配をすると、相羽は思った。性分なんだから、仕方がない。
「来たら別の菓子を出すとしよう。それで、何やら相談があるとのことだが」
「話す前に、宇那木先生はお忙しいのでは……休み時間内に済まないかもしれません」
「やることリストは決めてあるが、今、急を要するものはないさね」
 デスク向こうの椅子に腰掛けた助教授は、カップに手を伸ばし、途中でやめた。
「もしや、他人に聞かれるとまずい話? そちらの判断でドアを閉めなさい」
「……確かに、まずいかもしれません」
 相羽はコンマ数秒だけ逡巡し、ドアを閉めることにした。
「では、伺うとしましょうか」
 宇那木は言ってから、改めてコーヒーに口を付けた。相羽はすぐに始めた。
「先生は、ボードゲーム研究会の顧問をされていますよね」
「ああ。名前だけのつもりが、自分も結構好きな方だから、たまに指導している」
「そこの部員の一人からアプローチを受けていまして、非常に困惑してるというか」
「アプローチって、恋愛的な意味の?」
「はい」
「相手の名前は出せる?」
「西郷穂積(さいごうほづみ)という、二年生の人です」
「西郷君か。ゲームに関してはかなり優秀だ。学問の方はまだ分からないが。西郷君
が、君にしつこくアプローチしてきて甚だ迷惑だと、こういうことかい」
「そこまでは言いません。お断りしても、あきらめる様子がなくって」
「軽いのりで、一緒に何度か遊べたらいいって感じじゃないのかなあ」
「そんな風には受け取れませんでした。一対一になれる状況を狙ってるみたいなんで
す。言葉で説明するのは難しいけれども、本気というか決然としているというか」
「うーん」
「西郷さんがゼミに所属していたら、そちらの指導教官にお願いしようと思いました
が、まだ二年生ですし。いきなり向こうの家族に言うのもおかしい気がしたので、宇那
木先生のところへ……ご迷惑に違いないと分かっていますが、他に何も思い付かず…
…」
「かまわんよ。ま、西郷君の友達に頼んで、遠回しにでも伝えてもらうという手立ても
あるかもしれないが」
「アドバイス、ありがとうございます。実は、一度だけですがそれも試しました。で
も、うまく伝わらなかったみたいで」
「ふむ。立ち入った質問を二、三していいだろうか?」
「はい。相談を聞いてくださっているのですから」
 居住まいを正し、両膝にそれぞれの手を置いた相羽。
「まず確認だが、今、お付き合いしている人は? 程度の深い浅いは関係なしにだ」
「いません」
「そうか」
 軽く首を傾げた宇那木は、包装されたままの栗の菓子を指先で前後に転がした。
「西郷君のアプローチにOKしないのは、タイプが合わないからとか?」
「はあ。失礼になるかもしれませんが、西郷さんのようなかしましい、騒がしいタイプ
の人は苦手です。強引なところも。マイペースに巻き込もうとする感じが、だめなんで
す」
「分かる分かる」
 笑い声を立てた宇那木。相羽はにこりともせずに続けた。
「そんな風に合わないことも感じていますけど、同時に、今は誰ともお付き合いしたく
ない気持ちが強くって」
「自由に遊びたいから――というわけではないだろうね、君のことだから」
「高校のとき、付き合っていた人と、最近になって別れたんです」
 若干、無理して作った笑顔で答えた相羽。
「……だから、しばらくはそういった付き合いはいい、ということかい」
「ええ、まあ」
「そのことは、西郷君には伝えていない?」
「はい。これが断る唯一の理由と解釈されて、時間が経過すれば受け入れる余地がある
と思われては、困ります。先程言いましたように、タイプが……」
「なるほどねえ」
 宇那木は右手の甲を口元に宛がい、思わずといった風に苦笑を浮かべた。
「では逆に、今、付き合っている人がいることにしてはどう? 実はって感じで打ち明
ければ、信じると思うが」
「嘘を吐くのは……」
「正直さは美徳だが、時と場合によっては嘘も必要だよ。考えてもみなさい。相羽君が
現在は誰とも付き合う気がないことが、何らかの経緯で西郷君の耳に入ったとしよう。
その直後、君にたまたま新たな恋人ができて付き合うようになったとしたら、西郷君は
どう感じるだろう?」
「……そういう偶然はなかなか起きないと思いますが、もし起きたら、西郷さんは立腹
する可能性が高いかもしれません」
 答え終わってから、相羽は、ふう、と息をついた。
「生きていれば、どんな出会いがあるか分からないものだ。絶対に一目惚れをしない自
信があるの?」
「いえ。全くありません。一目惚れをした経験、ありますし」
「では、未来の恋人のためにも、変に恨まれないよう、今現在、付き合っている相手が
いることにしておきなさい」
「うーん」
「相羽君はハンサムなのだから、明日にでも、いや今日、大学からの帰り道にでも、運
命の人と巡り会うかもしれない」
「ハンサムって……運命の人と巡り会うかどうかと、外見は関係ない気がしますが」
「君が告白すれば、即座にOKされる確率が高いって意味。嘘が気にくわないのなら、
いっそ、本当に恋人を見付けるのもありじゃないかな」
 その意見に、相羽は曖昧に笑った。まだ短い期間しか接していないが、宇那木先生の
ことをある程度は理解しているつもり。なので、真面目に考えてくれているのは分か
る。だが、さすがに、アプローチされるのが面倒だから付き合う相手を見付けるという
のはない。本末転倒とまでは言わないが、自分が別れて間もないことを忘れられては困
る。
 相羽が反応を迷う内に、先生は口を開いた。
「とにかく試してみて。それでも西郷君があきらめないようであれば、教えて。そのと
きは僕から西郷君に言うとしよう」
「分かりました。次にアプローチされたら、言ってみます」
 相羽は内心、折れた。こんなことで先生に時間を割いてもらうのは、ほどほどにして
おこうという気持ちも働いていた。
「お忙しいところを、私事で煩わせて申し訳ありませんでした」
「時間があったから引き受けたんだし、気にすることない。よほど忙しくない限り、ウ
ェルカムだ」
「ありがとうございます」
 席を立ち、頭を下げた相羽。踵を返し掛けたところで、呼び止められた。
「あ、菓子、今食べないなら、持って行ってほしいな」
「――分かりました、いただきます」
 手を伸ばし、栗の菓子を持ったところで、質問が来た。
「ついでに聞くけど、どうして一般教養で、僕の英文学を選んだの?」
「――単純です、がっかりしないでくださいね。取り上げる予定の作品の中に、推理小
説があったので。原文のまま読めたら新たな発見があるかなって」
「相羽君はミステリが好きなのか」
「人並みだと思います。テレビの二時間サスペンスはほとんど観ませんが、犯人当てな
ら観たくなるんですよね」
「僕は論理立てたミステリは、ゲームに通じるところがあるから、割と好んで読むん
だ。だからこそテキストに選んだとも言えるが。テレビドラマの方は生憎と知らない
が、映画には本格的な物があってよく観る。わざわざ映画館まで足を運ぶことは滅多に
ないが」
「映像化されたミステリは、犯人が最初から明かされている物に面白い作品が多い気が
します。多分、犯人の心理状態を観ている人達に示せるのが理由の一つだと」
 つい、返事してしまった。このままミステリ談義に花を咲かせるのは魅力的であるけ
れども、時間を費やすのは申し訳ない。改めて礼を述べたあと、ドアを開ける。
「お邪魔をしました。失礼します」

 翌週の月曜。二コマ目の講義を受けたあと、いつものように昼休みが訪れた。空模様
は快晴とは言い難くとも、雲の割合が日差しを弱めるのにちょうどよく、またほとんど
無風。外で食べるのが気持ちよさそうだ。
 相羽は薄緑色をしたトレイを持ったまま、学生食堂の外に出た。オーダーしたメニ
ューは、カツサンドと野菜サラダ、そこにお冷や。あとで飲みたくなったら、コーヒー
かジュースを追加するかもしれない。
「いない」
 学食周辺のテラス席や芝生の上をぐるっと眺め渡したが、友達の姿を見付けられなか
った。普段なら月曜日の二時間目、友達の方が早く出て来るはずなのに。小テストでも
やっているのだろうか。
 そんな想像をした矢先、肩をぽんと叩かれた。
 少しばかり、びくっとしてしまった。トレイの上のコップに注意が向く。液面が揺れ
ていたが、どうにかこぼれずに済んだ。
「――仁志(にし)さん」
 振り向いたそこにいた友人に、頬を膨らませる相羽。仁志はすぐに察したらしく、
「ごめんごめん」と軽い調子ではあるが謝った。彼女の後ろには、さらに友人二名がい
る。
「健康志向なのかそうでないのか、どっちつかずの選択をしてるネ」
 その内の一人、ロジャー・シムソンが相羽のトレイを覗き込んだ。金髪碧眼の白人
で、そばかすが目立つ。米国生まれの米国育ちだが、親戚筋に日本人がいて教わったと
かで、日本語は結構達者だ。本人の希望で、周りの者はロジャーと呼ぶ。
「バランスがよいと言ってほしいネ」
 語尾のアクセントを真似て返す相羽。ロジャーの手にトレイはなく、代わりにハン
バーガーを二つと炭酸の缶飲料を一本持っている。
「今日は小食?」
「いや、それがさ」
 ロジャーの隣に立つもう一人の男子学生、吉良(きら)が顎を振った。吉良の持つト
レイには海老フライカレー大盛りの他、三角サンドイッチが一個、角っこに置いてあっ
た。
「これ、ロジャーの分なんだ。無理して持つと、ソフトな食パンが潰れてしまうとか」
「パンへの拘りはいいけれど、年上の吉良さんに運ばせるなんて、恐れ多いよねえ」
 吉良の説明に続き、仁志が苦笑顔で感想付け加える。学年は同じだが、高校のときに
海外留学していた関係で、吉良は相羽達より一個上である。
「気にしない気にしない。レディには敬意を払い、同級生にはフレンドリーでいたい」
 それが僕の主義だとばかり言い放ったロジャーが、ひょいひょいと歩を進め、皆で食
べる場所を決めた。学食の庭に当たるスペース、その隅っこだが、木々による日陰がで
きて悪くはないテーブル。ごく稀に、小さな虫に“急襲”される恐れがあるが。
 右回りにロジャー、吉良、相羽、仁志と着席してから、食べ始める。すぐに口に運ぼ
うとした三人に対して、相羽は両手の平を合わせた。
「いただきます」
「あ、忘れてたヨ」
 ロジャーが真っ先に反応し、開けかけのハンバーガーを放り出して、合掌する。慌て
たように、吉良と仁志も真似た。
「付き合わなくていいのに」
 相羽が微笑みながら言うのへ、仁志が言葉を被せてくる。
「いいえ、やる。私だって、最低限のマナーは身に付けたい。女らしさとか男らしさと
かの前に、これこそ必要って感じたから」
「影響を受けやすいねえ」
 吉良が、サンドイッチをロジャーの方へ押しやりながら、からかい調で言った。
「いいじゃないですか。悪いことでなく、いいことなんだから」
「本気で思ってるのなら、まず、箸先をこっちに向けるなって話だ」
 無意識で向けていたのだろう、仁志は左手で箸の先端を隠すようにして引っ込めた。
「すみません、改めます。さっき、ロジャーを恐れ多いなんて言ったそばから……」
「いいって。今は楽しく昼飯をいただく、これに尽きる」
 吉良はそう言って、大きめのスプーンいっぱいにすくったルーと御飯を一口。継い
で、海老フライをスプーンで適当に刻んで、また一口。その様に仁志も安心できたらし
く、食事に取り掛かった。
「あ、そうだ――この前の祝日に学校に出て来たって聞いたけれど、ほんと?」
 相羽が正面のロジャーに問うた。途端に、赤面するロジャー。夕日を浴びたみたい
だ。
「外国の祝日が覚えきれない。間違って休まないようにするので精一杯でさ」
 自国の定めた祝日に沿って休んでしまいそうになる、という意味だろう。
「うん、それはいいんだけど、休みの前の日に、ちゃんと念押ししたでしょ? どうし
てかなあって思って」
「……一晩寝たら忘れちゃったヨ」
「次からは、『本日休み!』とでも書いた紙を、玄関ドアに張っておくか」
 吉良に言われて、ますます顔を赤くしたロジャーは、話題を換えた。
「そういえば相羽の懸案事項は、かたが着いたのかい?」
「何、懸案事項って」
「西郷穂積のアプローチ問題だよ」
 ロジャーは数学か何かの証明問題みたいに言った。吉良が追従する。
「確かに気になる、しつこい難問だ」
「もう済んだ、と思う」
 相羽はあっさり答えた。あまり触れられたくはないが、前に協力したもらったことも
あり、話しておく。
「先生のアドバイスを受けて、遠距離恋愛していることに。西郷さんからまたアプロー
チされたときに、そのことを伝えたら、意外とすんなり聞き入れてくれたみたい」
「遠距離恋愛か。じゃあ、時折、その相手が現れないとおかしくないか?」
「無茶苦茶忙しいとか、めっちゃ遠い外国にいるとか?」
 吉良、仁志の順番に尋ねてきた。相羽は野菜サラダの葉物を、フォークで幾重にも刺
しつつ、思い起こす風に首を傾げた。
「基本的に、こちらから相手に会いに行くっていう設定にした。場所は出さなかったけ
れども、相手が忙しいことは伝えた」
「曖昧にしたのは、本当に恋人ができたときの対策だね」
 察しがいい発言は吉良。相羽はこくりと頷いた。
「すぐには無理でも、いずれはね」
「あなたなら文字通り、付き合う人ぐらい、すぐにでも見付けられそうなのに」
 仁志が言った。ちゃんと恋人がいるのに、どこかうらやましげだ。
「逸見(いつみ)君、だっけか。彼とはうまく行っていないのか」
 吉良が率直に尋ねると、仁志は首を横に振った。
「うまく行ってないなんてことはないですよ。ただ、将来を考えると……名前が」
「名前?」
「私の下の名前、平仮名でひとみなんですよ。結婚したら、逸見ひとみになっちゃうじ
ゃないですか。何だか言いにくい」
「そんな気にすることないと思う」
 相羽が言った。
「そんな考え方をするのなら、お婿さんに迎える方が難しいんじゃないかな。逸見君の
名前って、確か同じ仁志と書いて、ひとしだよね」
「そうそう。仁志仁志になるの」
「仁志仁志の字面を強く意識した結果、逸見ひとみまでおかしな響きに聞こえてしまっ
た、それだけだよ、多分」
「うん、そうかも」
 納得かつ安心したように首肯した仁志は、再び食事に集中した。
 それぞれがほぼ食べ終わる頃合いに、相羽は学食内の壁時計を覗き込んでから言っ
た。
「ちょっと早いけれど、これで。ちょっと電話してくる。アルバイト先に、次週の都合
を聞いておかなきゃ」
「バイトって家庭教師の?」
「うん。――ごちそうさま」
 ロジャーの問いに答えてから、手を合わせて唱える。席を立ち、背もたれを持って椅
子をテーブルの下に押し込んだところで、ショルダーバッグを担いだ。トレイを手にし
て、「終わってるのなら、みんなのも運んでおくよ」と場を見渡した。
「気遣いはありがたいが、早く電話に行くべき。空いているとは限らない」
「だね。逆に、片付けは私らに任せて、さっさと動いた方がいいよ」
 吉良、仁志と続けて言われ、相羽はそれもそうかと思い直した。トレイを手放し、
「じゃ、お言葉に甘えて」と言い残して席を離れた。
 それから足早に公衆電話を目指したが、吉良達の心配した通り、学生食堂の正面に設
置されている分は、使われていた。そこから最寄りの電話がある、部室棟へと急いだ。

 思っていたより時間を掛けることなく電話を終えて、午後最初の授業がある大教室に
向かっていると、相羽の名を呼ぶ者がいた。同じ授業を取っているのだから、顔を合わ
せるのは仕方がない。
「――西郷さん」
 声で分かっていたが、振り返ってから改めて言った。
 西郷穂積はその瞬間、些か不安げだった表情から笑顔に転じた。小走りで追い付い
て、横に並ぶ。
「教室まで一緒に……いい?」
「かまいませんよ」
「あの、お願いがあるんだけれど」
「何でしょう?」
「やっぱり、まだ完全にはあきらめきれなくって……。君の相手がどんな人なのかを知
ったら、踏ん切りが付くと思うのだけれど」
「……どうしろと言うんですか」
 すれ違う人や、そこいらでたむろする人は大勢いるのに、あまり気にならない。意識
が西郷に向いているのは、相羽自身、嘘を吐いている負い目があるせいかもしれなかっ
た。
「プロフィールとかは、無理なんだよねっ? じゃあ、写真でいいから見てみたいな」
「……少し、考えさせてください」
 相羽は恋人の写真がそこにあるかの如く、定期入れの入った胸ポケットに触れた。
「いいけど、どうして?」
「それは当然、相手のあることですから。プライバシーにうるさい人なんです」
 咄嗟の思い付きだが、悪くないキャラクター設定だと内心で自画自賛した。こう答え
ておけば、顔写真を見せないまま、押し切れるかもしれない。
「ふーん、分かった。しばらくは待つ。でも、一週間以内に決めてよ」
「え、ええ。努力します」
「もしかしたら、付き合っている人って外国人? 欧米系の」
「何でそう思うんですか?」
「だって、プライバシーにうるさいって。欧米の人が拘るイメージ持ってる」
「まあ、プライベート空間をより重視しているのは、洋風建築でしょうけど」
 ちょうど教室に着いた。出入り口の近くに馴染みの顔を見付けてほっとする。
「じゃあ、これで失礼します」
 相羽は西郷から離れると、知り合いが取ってくれていた席に座った。
「何なに? 西郷先輩と一緒に来るなんて。まだあの話、けりが付いてないんだ?」
 肘で突かれ&小声で話し掛けられ、相羽は嘆息した。西郷は遠ざかりつつも、まだこ
ちらを見ている。気付かれぬよう、同じく小さな声で、隣に答えた。
「きっぱり断った。ただ……付き合ってる相手がいるのなら、写真が見たいって」
「証拠を出せってか」
 友人のからかい口調に、相羽は再度、大きくため息を吐いた。

 明後日で一週間になる。そう、西郷から付き合っている人の写真を見せてくれるよう
頼まれた、その期限だ。
 きっと、西郷穂積は相羽を見付けるなり、写真を見せてと求めてくるに違いない。
(相手が嫌がったことにして、断ることはできるけれど、西郷さんも結構しつこいから
なぁ。いずれ押し切られるかも)
 そうならないよう、ここは飛びきりの美形で優しそうでスポーツ万能そうで賢そう
な、ついでに言えば写真写りのよい人に、恋人の代役を頼んでおきたいところだが。
(学校の人に頼んでも、じきにばれる。こんなことを頼めそうな異性の知り合いなん
て、学校を除いたら、まずいないし)
 別れた相手の写真なら用意できるが、もちろんそんなことはしたくない。
「ああ、どうしよう」
 無意識の内に呟いていた。次の瞬間はっとして口を片手で覆う。何故って、ここは市
立の図書館の中だから。
 だけど、今日は普段と違って、館内はざわざわしている。相羽もこの日用意されたイ
ベントを思い出し、安堵した。
 図書スペースそのものではないが、そこに隣接するホールを舞台に、アマチュア音楽
家達によるミニコンサートが催されるのだ。開催中も図書の貸出業務は行われるが、自
習室等は閉じられるらしい。
(ホールにピアノが置いてあって手入れもされているみたいだから、使うことはあるは
ずと思っていたけれども、案外早くその機会が訪れた感じ)
 自宅もしくは大学からの最寄りの図書館ではなかったが、本にも音楽にも人並み以上
の興味関心を持つ相羽は、日時の都合もちょうどいいことだし、足を延ばした次第であ
る。
 チラシで見掛けたのと同じポスターが、館内にもいくつか貼り出されていた。出演者
の個人名はなく、グループ名が三つ載っていた。一つは近くの高校のコーラス部。家庭
教師をしている子の通う中学と同系列だと気付いた。一つは路上で三味線とハーモニカ
によるパフォーマンスをやっている二人組。シャモニカズというべたなネーミングに笑
ってしまった。そしてもう一つは、近隣の都市名を冠した大学のバンド四人組となって
いた。相羽の大学にも音楽関係のクラブは複数あるが、どれにも所属しておらず、今日
出演するバンドと交流があるのか否かも知らなかった。
「あれれ? 相羽先生じゃないですか」
 ポスターの前から離れるのを待っていたかのように、高い声に名前を呼ばれた。相羽
自身、ついさっき思い起こしたバイト先の子、神井清子(かみいさやこ)だ。
「こんにちは、先生。こんなところで会うなんて、奇遇ですねっ」
「こんにちは。確かに奇遇と言いたいところだけど、神井さんは今日出演する人に知り
合いがいるんじゃないの?」
「凄い、当たりです」
 別に凄くないよと、内心で苦笑する相羽。
「高等部の人に何人か知り合いがいるんです。正確には、私の兄の、ですけどね」
 神井清子の兄は大学生で、地方に一人で下宿していると聞いた。大方、その兄が高校
時代、音楽の部活動をやっていたのだろう。
「他に来る人がいなくて、私一人なんですが、先生は? もしかしてデート?」
「違います。一人」
 デートと聞かれて、頭痛の種を思い出してしまった。
「前から聞こう聞こう、聞きたい聞きたいと思ってたんですけど」
「答えるつもりはないよ」
「相羽先生には恋人、いないんですか?」
「だから、答えないって」
「そんなに冷たくしなくてもいいじゃないですか。いないならいないで、いい人を紹介
して差し上げようかと」
「……」
 ほんのちょっぴり、心が動く。いや、もちろん、代役として。だから紹介されてお付
き合いを始めても、本当の恋人になる可能性は高くないだろう。そんな失礼な話、でき
るはずがない。
「遠慮しとく。教え子から紹介されると、しがらみができそう」
 そこまで答えたところで、催し物の開始が迫っていることを告げるアナウンスがあっ
た。アナウンスと言っても機材を通しての声ではなく、図書館職員の地声だ。
 最前までかしましくしていた神井も、すぐに静かになった。知り合いが一番手に登場
するというのもあるだろうが、最低限のマナーは心得ていて微笑ましい。
「椅子、まだ余るみたいだから、座る?」
 声量を落として神井に尋ねる。神井は首を縦に振った。お年寄りや身体の不自由な人
が訪れた場合を考え、ぎりぎりまで様子を見ていたのだ。ホールに用意された六十脚ほ
どのパイプ椅子は、そこそこ埋まっていたが、相羽らが座れないことはない。
 真ん中、やや右寄りの二つに腰を下ろした相羽と神井は、職員の説明に耳を傾け、や
がて始まる音楽会に心弾ませた。

 事前に予想していたのと違って、堅苦しさのない、どちらかと言えば面白おかしい方
向にシフトしたイベントだった。
 高校のコーラス部は、有名な歌謡曲やアニメソングを選択して披露したが、全てアカ
ペラ。ただ、伴奏のパートまで口でやるものだから、ついつい笑いを誘われた。魚をく
わえたどら猫を追い掛ける歌が一番の傑作だった。
 続いて登場したシャモニカズは、二人とも黒サングラスをした、二枚目だがちょっと
強面のコンビだったが、口を開けば関西弁丸出しで、漫才師のよう。喋る内容も右にな
らえで、体感的には演奏よりも話の方が長かった気がする。無論、演奏はきっちり魅せ
てくれて、アマチュアでいるのが勿体ないと思えるほど。
 とりを飾るバンドの登場前に、短い休憩時間が設けられた。これは、観客のためだけ
でなく、各種楽器の調整のためでもある。
「トイレ行っておきませんか」
 石井に言われて、相羽は腰を上げた。行きたくないと断っても、無理矢理引っ張って
行かれるのは経験上、分かっていた。
 手洗いまで来ると、相羽は中に入らず、壁際に立った。「この辺で待ってるから」と
言って、石井を送り出す。
 出入りする利用者と視線が合うと、お互い気まずい思いをするかもしれない。少しだ
け移動して、大きな鉢植えの傍らに立った。男子トイレに近くなったが、まあいいだろ
う。
 ちょうどそのとき、背の高い男の人が、手洗いから出て来た。ハンカチを折り畳み、
尻ポケットに仕舞う。その拍子に、胸のポケットに差していた何かが飛び出て、床で跳
ねた。さらに二度、意外と弾んで、それは相羽のいる方に転がってきた。
 男の人と自分とが、ほぼ同時に「あっ」と声に出していた。相羽は反射的にしゃがん
で拾い上げた。サングラスだった。シャモニカズがしていたのは真っ黒だったが、今拾
ったサングラスのレンズは、薄い茶色である。
「すみません、ありがとうございます」
 男性の声に、若干見上げる形になる相羽。サングラスを渡そうとしながら、
「どういたしまして。それよりも、傷が入ったかもしれません」
 と応じた。受け取った相手は、サングラスを光にかざしてためつすがめつしたあと、
軽く息をついた。
「確かに、傷が少しできたみたいだ。……これは、外しなさいというお告げかな」
「え?」
「ああ、意味深な言い方をしてしまい、ごめんなさい。あなたの姿はホールで見掛けま
したが、このあとも聴いていくんでしょうね。実は僕、次の演奏に出る一人なんです。
サングラスを掛けるつもりだったんだが、前に出たお二人がしていたし」
 相羽はその男性の顔をじっと見た。
「掛ける必要があるようには思えません。その、整った顔立ちをしているという意味
で」
「あはは、ありがとう。でも、サングラスを掛けようと考えたのは、別の理由。久しぶ
りに演奏するからなんだ」
 男性は快活だが、ほんのちょっとさみしげに笑った。
 年齢はいくつぐらいだろう。相羽より年上に見えるが、そんなに離れてもいまい。近
くでよくよく見ると、顎の下に髭の剃り残しがあった。
「久しぶりだと緊張するからですか?」
「うーん、恐らく。うまく動くかどうか」
 両手の指を宙で動かす男性。ピアノを弾く手つきだ。
「関係ありませんよ、きっと。手元が見えた方が、いざというときは安心でしょ。それ
に、普段通りにやる方が絶対に落ち着きます」
「――なるほど。いい考え方だね」
 男性の笑みは、今度こそ本当に心からのもののように、相羽の目には映った。
「では、サングラスなしでやってみましょう。これを持っていると、直前で気が変わる
かもしれないから」
 その人はそう言いつつ、サングラスを再び相羽に手渡した。
「預かっていてくれますか」
「はい」
 自分自身、びっくりするくらいの即答だった。
「もう行かないと。それじゃ、あとでまた会いましょう」
 男性が踵を返し、立ち去ろうとするのを、相羽は呼び止めた。
「あのっ、すみません! 万が一にもあとで会えなかったら困るので、名前だけでもお
互いに知らせておきませんか」
「――了解です」
 男性はもう一度向きを換えて、相羽の前に立った。
「僕は酒匂川と言います。酒の匂いの川と書いて、酒匂川。あんまり、好きな名前じゃ
ないんですが。酒飲みでもないし」
「分かりました、酒匂川さん。私の名前は――」
 相羽は答える寸前に、少しだけ迷った。苗字だけか、それともフルネームにするか。
「――相羽詩津玖と言います。どんな字を書くのかは、次にお会いしたときに」
 酒匂川は教わったばかりの名前を口の中で繰り返すと、軽く会釈し、演奏へ向かっ
た。
「先生!」
 ぽーっとしていた相羽を、教え子の甲高い声が引き戻した。
「騒がしくしない。もうじき、演奏が始まるみたいだから」
「あっ、ごまかそうとしてる? 見てましたよ、途中からですけど」
「……そうなんだ……まあ、見たままの解釈で当たっているかもしれない、とだけ」
 まだあれこれ聞きたがっているに違いない神井清子を置いて、相羽はホールへ急い
だ。

            *             *

「――こんな話をおばあちゃんがしていたんだ。暦や碧は信じる?」

――そばいる番外編『そばに来るまでに』おわり




#451/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  17/09/22  22:06  (203)
楽屋トークをするだけで   寺嶋公香
★内容
「相羽君て、どうして最初の頃、あんなにエッチな感じだったの?」
「え?」
「だって、そうじゃない? 小学六年生のとき、ぞうきん掛けしていたらお尻見てる
し、いきなりキスしてくるし、着替え覗くし」
「ちょ、ちょっと待って」
「最初の頃じゃないけど、スケートのときは胸を触ったし、あ、廊下でぶつかって、押
し倒してきたこともあった」
「待って。ストップストップ」
「中学の林間学校では、私の裸見たし。ああっ! スカートが風でまくれたところを、
写真に撮ったのも」
「……」
「もうなかったかしら」
「ない、と思う。ねえ、わざと言ってる?」
「うん」
「よかった。ほっとしたよ」
「でも、一つだけ、あなたが自分の意志でやったことがあるでしょ。それについてわけ
を聞きたいの」
「それって、ぞうきん掛けだね」
「ええ。あのときは、何ていやらしい、また悪ガキが一人増えたわって思ったくらいだ
った」
「これまたひどいな。じゃあ、全くの逆効果だったわけか」
「逆効果って、まさか、相羽君、あれで私の気を引こうとしてたの?」
「気を引こうというのは言いすぎになるかもしれない。僕のこと、完全に忘れてたでし
ょ、あの頃の純子ちゃん」
「そ、それはまあ、しょうがないじゃない」
「もちろん僕だって、確信はなかった。だからこそ、直接言って確かめるなんてできな
くて。とにかく君の意識を僕に向けさせたくて、色々やったんだ。何度も顔を見れば、
何か思い出すんじゃないかと期待して」
「色々? 他にも何かあった?」
「それは純子ちゃんが気が付いてないだけで」
「何があったかしら……」
「まあいいじゃない。今はもう関係ないこと」
「気になる」
「じゃあ、今度は僕が聞くよ。今では関係ないことだけどね」
「何? 私にはやましいところはありませんから」
「やましいって……ま、いいや。思い出したくないかもしれないけど、これは舞台裏、
楽屋の話ってことで敢えて。香村のこと、どこまで信じてたの?」
「え? 香村……カムリンのこと?」
「うん。他に誰がいるのって話になる」
「若手の中では一番の人気を誇ったアイドルで、今は海外修行中の香村倫?」
「だいたいその通りだけど、下の名前は確か綸のはず。ていうか、どうしてそんな説明
的な台詞なのさ」
「長い間登場していないから、知らない読者や忘れた読者も大勢いるだろうと思って」
「まるで再登場して欲しいかのような言い種だね」
「悪い冗談! もう会いたくない!」
「そういえば、カムリンの話題すら作中に全く出ないのは、ちょっと不自然な気がしな
いでもないな。不祥事そのものは伏せられたままなんだから、世間的な人気はほぼ保っ
たまま、海外に渡ったことになる。修行のニュースが時折、日本に届くもんだよね」
「そこはやっぱり、情報として入って来てるけど、わざわざ書くほどでもないってこと
でしょ」
「それにしたって、いつまでも海外にいること自体、おかしくなってくるかも」
「香村君の話は、あんまりしたくないな」
「やっぱり、信じていたのを裏切られて、嫌な印象が強い?」
「だって、証拠まで用意されてたんだもの。それに、最初は、あのときの男の子が有名
芸能人だったなんて、夢みたいな成り行きだったから、ちょっとはその、ときめくって
いうか……そうなっていた自分を思い出すのが嫌」
「ふうん」
「で、でも、ほんとに最初の最初だけよ。親しくなるにつれて、何か違うっていう思い
が段々強くなって。その辺りのことは、あなたにも言った記憶があるけれども?」
「うん、聞きました。あいつが芸能人で、母さん達とも仕事のつながりがあったから、
僕もどうにか我慢していたけれども、そうじゃなかったら何をしていたか分からないか
も」
「怖いこと言わないで」
「もちろん、冗談だよ」
「もう、意地が悪い……」
「意地悪ついでにもう一つ、仮の質問を。香村が正攻法でアプローチしてきたとした
ら、君はどう反応するつもりだったんだろう?」
「全然、意地悪な質問じゃないわ。問題にならない」
「ほー、何だか自信ありげというか、堂々としているというか」
「私は一時的に、香村君が琥珀の男の子だと思っていた。けれども、香村君を好きには
ならなかった。これで充分じゃない?」
「……充分。ただ、新しく質問を思い付いた。僕が琥珀の男の子ではなかったら?」
「相羽君、あなたねえ、今までの『そばいる』シリーズの紆余曲折を読んできたなら―
―」
「読んではいない、読んでは」
「あ、そっか。でも――分かってるはず。私はあなたを琥珀の男の子だから好きになっ
たんじゃないって」
「もちろん、分かってるよ」
「じゃ、じゃあ、何よ、さっきの質問は? 私に恥ずかしい台詞を言わせたかったの
?」
「違う違う。質問の意図を全部言う前に、君が答え始めちゃったからさ」
「意図? どんな」
「僕が琥珀の男の子ではなく、あとになって格好よく成長した琥珀の男の子が目の前に
現れたとしたら、っていう仮定の質問をしたかったんだ」
「ああ、そういう……。それでも、ほとんど意味がないと思う」
「どうして?」
「琥珀の男の子は、相羽君だもの。大きくなった姿を想像しても、やっぱり相羽君。あ
なた二人を比べるようなものよ」
「それもそうだね。ううん、どう聞けばいいのかな。具体的に別人を思い描いてもらう
には、……純子ちゃんが格好いいと思う周りの男性、たとえば、鷲宇さんとか星崎さ
ん?」
「あは、格好いいと思うけれど、それ以上に頼りにしている存在ね。あと、私の周りの
格好いい男性に、唐沢君は入らないのね? うふふ」
「唐沢だと生々しくなるから、嫌だ。とにかく、仮に星崎さんが琥珀の男の子だったと
したら? もっと言うと、星崎さんのような同級生がいて、しかも琥珀の男の子だった
ら」
「うん、ひょっとしたら、ぐらつくかも」
「え、ほんとに」
「相羽君がいない世界で、その星崎さんのそっくりさんが、私の前で相羽君と同じふる
まいをしたら、ね」
「それってつまり」
「どう転んでも、私が好きなのは相羽君、あなたですってこと。もう、全部言わせない
でよねっ」
「いたた。ごめんごめん。でも、よかった。嬉しい」
「いちゃいちゃしているところ、お邪魔するわよ、悪いけど」
「白沼さん!? どうしてここに」
白沼「面白そうなことをしているのが聞こえてきたから、私も混ぜてもらおうと思っ
て。問題ないでしょ?」
純子「かまわないけれど……面白そうというからには、白沼さんも何か仮定の質問が」
白沼「当然。後ろ向きな意味で過去を振り返るのは好きじゃないけれども、こういう思
考実験的な遊びは嫌いじゃないわ」
相羽「思考実験は大げさだよ」
白沼「いいから。聞きたいのは、相羽君、あなたによ。涼原さんは言いたいことがあっ
ても、しばらく口を挟まないでちょうだいね」
純子「そんなあ」
相羽「まあ、しょうがないよ。僕らだって、この場にいない人達を話題にしていたんだ
し。それで、白沼さんの質問て?」
白沼「仮に涼原さんがいなかったとしたら、相羽君は私を選んでいた?」
相羽「……凄くストレートな設定だね。答えないとだめかな」
白沼「できれば答えてほしいわ。私、打たれ強いから、つれなくされても平気よ。色ん
な架空の設定を、今も考え付いているところだから、その内、色よい返事をしてくれる
と思ってる」
純子「まさか白沼さん、相羽君がイエスって答えるまで、質問するつもり?」
白沼「何その、げんなりした顔」
純子「だって……時間がかかりそう……」
白沼「何だかとっても失礼なことを、上から目線で言われた気がしたわ」
純子「そんなつもりは全然ない。ただ、白沼さんがさっきまで見てたのなら、その、相
羽君の気持ちが改めて固まったというか、そういう雰囲気を目の当たりにしたんじゃな
いかと思って」
白沼「愛の絆の強さを確かめ合ったと、自分で言うのは恥ずかしいわけね」
純子「わー!!」
相羽「白沼さん、もうその辺で……。昔の君に比べたら、今の君の方がずっといいと感
じている、これじゃだめかな」
白沼「だーめ、全然。……けれど、ここで昔の超意地悪な白沼絵里佳に戻っても仕方が
ないし。そうね、質問は一つだけにしてあげる。ただし、縁起でもない設定になるわ
よ。相羽君のためを思ってのことだから、勘弁してね」
相羽「ぼんやりと想像が付いた気がする」
白沼「さあ、どうかしら。あ、いっそ、二人に聞くわ。もし仮に、相手に先立たれたと
して、あなたは他の人を好きになれる? どう?」
純子「……」
相羽「……」
白沼「あら? 答は聞かせてくれないの?」
相羽「その設定は、さすがに重たすぎるよ。第一、付き合い始めてまだそれほど時間が
経っていないのに、そんな相手がいなくなる状況なんて……」
白沼「考えられない? 相羽君が言える立場なのかしら。生き死にではないけれど、い
ずれりゅ――」
相羽「待った! そ、そのことはまだ本編でも触れたばかりで、登場人物のほとんどに
行き渡っていない! ていうか、白沼さんだって知らないはずだろ!」
純子「何の話?」
白沼「あなたは知らなくていいのよ。今後のお楽しみ。――相羽君、本編の私は知らな
いけれども、今ここにいる私は、ちらっと原稿を見てしまったということになってる
の」
相羽「ややこしい。設定がメタレベルになるだけでもややこしいのに、本編と楽屋を一
緒くたにすると、収拾が付かなくなるぞ」
白沼「じゃあ、やめておきましょう」
相羽「随分あっさりしてる。その方が助かるけど」
白沼「一回貸しということにしてね」
相羽「うう、本編では無理だから、楽屋トークの機会が将来またあれば、そのときに借
りを返すよ」
白沼「それでかまわない。じゃ、短い間だったけれども、これでお暇するわ。次の人が
待っているし」
相羽「次の人って」
白沼「さっき言ったように、原稿をちらっと見たついでに、アイディアのメモ書きも見
たのよ。その中に、使えなかった分が少しあって、それをこの場を借りて実行しようと
いう流れにあるみたいよ」
相羽「いまいち、飲み込めなんだけど」
白沼「あ、ほら、涼原さんの方に」
相羽「――清水?」
清水「よう、久しぶり。でも悪いな、今俺が用事があるのは、涼原だけだから」
純子「野球、がんばってるんでしょうね? こんなところにのこのこ登場するくらいな
ら」
清水「まあな。で、没ネタというか、タイミングが悪くて使えなかったエピソードを、
今やるぞ」
純子「待って。あなたが関係するエピソードということは、中学生か小学生のときにな
るわよね」
清水「小学生だってさ」
純子「嫌な予感しかしない……」
清水「番外編で使われるよりはましだと思って、覚悟を決めろ。――涼原〜、もうス
カートめくりとか意地悪しないって誓うから、一個だけ俺の言うこと聞いて」
相羽「清水。確認だが、今の台詞は、小学生のおまえが言ってるんだよな?」
清水「お、おう」
相羽「自らのリスクの高い没ネタの蔵出しだな」
清水「いいんだよっ。さあ、涼原はうんと言っとけ」
純子「だから、嫌な予感しかしないんですけど!」
清水「大丈夫だって。スケベなことではないのは保障する」
純子「……分かった。早く終わらせたいから、OKってことにする」
清水「よし。じゃあ、こうやって両手の人差し指を、自分の口のそれぞれ端に入れて、
横に引っ張れ」
純子「ええ? 何で?」
清水「えっと、顔面の美容体操ってことで。嘘だけど」
純子「嘘と分かってて、こんな……相羽君、見ないでよ」
相羽「了解しました」
清水「俺も別に見る必要はないんだが、一応、当事者ってことで」
純子「(指を一旦離して)早くして!」
清水「ああ。指を入れて引っ張ったまま、自己紹介をしてくれ。フルネームで」
純子「名前を言えば終わるのね? (再び指を入れ、口を横に引っ張る)わらしのなま
えは、すずはらうん――」
清水「最後の『こ』まで言えよ〜。――痛っ! わ、やめろ。暴力反対! ええ、白沼
さんまで何で加勢するのさ?」
相羽「滅茶苦茶古典的ないたずらだな。すっかり、記憶の彼方になってたよ。とにもか
くにも、オチは付いたかな」

――おわり(つづく?)




#452/549 ●短編
★タイトル (sab     )  18/07/13  17:59  ( 58)
「催眠」(という短編の目論見書) 朝霧
★内容
【登場人物一覧&キャラクター設定】
相田洋子(入院患者)。20歳。見た感じは美少女。性格は大らか。
加藤綾子(入院患者)。25歳。見た感じは頬骨が出ていて口がでかい。
性格はヒステリー。
小原琴子(入院患者)。20歳。見た感じはモンチッチ。性格は大人しい。
佐伯(精神科医)。38歳。独身。見た感じは丹精なしょうゆ顔。性格は
理性的。
福田(心理療法士)。40歳。見た感じは色白で浮腫んでいる。性格は陰
険。いじけ虫。
住田麗華(院長の娘)。24歳。研修医。見た感じはお嬢さん。性格はお
高くとまっている感じ。

【舞台&状況設定】
 琴子らが入院しているのは、鎌倉の丘の上にある「丘の上病院」という
精神病院。
 ここでは森田精神療法(頭にある不安はそのまま受け入れて、身体で行
動をするという精神療法)の考えを元にしたリクレーション療法(サイク
リングや薪割りなど)が行われいる。
 リクレーション療法の担当は心理療法士の福田。
 医師は院長(出てこない)と佐伯医師がいる。
 病院の隣には山小屋風の院長宅がある。ここのベランダで院長の娘が大
学の友達を呼んでBBQをやる。

【おおまかなストーリー】
 洋子は綾子、琴子らと病院のリクレーション療法でサイクリングをして
いた。自転車を漕ぐ反復運動により心頭を滅却して対人恐怖症やらの不安
を頭から霧散させるのだった。
 しかし自転車を漕ぐとサドルに股間がギュッ、ギュッとこすれて、その
感覚も反復される。それが前を走る心理療法士の方から漂ってくるコロン
の香りと結びついた。
 病院に帰って更衣室で着替えていると心理療法士が現れた。さっきのコ
ロンの香りがした。洋子は突然股間が疼きだし、思わず脱いでしまった。
そして心理療法士にやられてしまう。
 綾子は、これは催眠に引っかかったのだ、と言う。しかし、そんな催眠
(リクレーション療法)を受け入れてしまったのは、その前段として精神
科医への転移(洗脳)があるからだ、と言う。
 綾子も精神科医の佐伯へ転移を起こしていた。佐伯と一緒に居る時に神
経症の発作を起こし、脳内がぐるぐるぐるーっとして佐伯に転移を起こし
た。(サイクリングの反復運動とコロンの香りの様に)。
 あと、知的な会話をしたり、身体的な接触もあって、佐伯に恋愛感情を
抱いたのだった。
 ところがここに院長の娘が割り込んでくる。院長の娘は私立大学の研修
医だが、その大学に入学するには寄付金2000万円が要るという。又病
院の待合室にはその娘の読んだらしき『モノ・マガジン』やらカー雑誌な
どがあり、自分らの入院で儲けた金で放蕩しているのだ、と感じる。
 殺さなければならない、と綾子は思う。
 綾子は、洋子と琴子を使って院長の娘の殺害を計画する。
 リクレーション療法には薪割りもあった。薪割りという反復運動を琴子
がやっている時に、キンモクセイの香りが鼻に付く様にしておく。それか
ら洋子を使って、院長の娘にキンモクセイの花束をプレゼントしておく。
そして、琴子に「院長宅のベランダで行われるBBQの為に薪を運んでお
け」と命じる。
 琴子が院長宅に薪を運んでいくと、院長の娘がキンモクセイの花束を持っ
て現れた。琴子はその香りに反応して、自動的に鉈を振り上げると、院長
娘の眉間に数回振り下ろした。
 病院が用意した催眠で院長の娘を殺してやった、と、綾子は、きゃはは
ははとヒステリックに高笑いする。





#453/549 ●短編    *** コメント #452 ***
★タイトル (sab     )  18/07/21  13:52  ( 96)
「催眠」(という短編の目論見書)改 朝霧
★内容
【登場人物一覧&キャラクター設定】
萩原茉宙(まひろ)。17歳。仏教系高校2年生。見た感じは清楚。性格は真面目。
萩原銀雅(祖父)。85歳。
萩原志穂(祖母)。82歳。
萩原星矢(父)。54歳。性格は権威に弱い。
萩原八重(母)。50歳。性格は権威に弱い。
萩原宇海(うみ)(兄)。18歳。工業高校3年生。
萩原恒(ちか)(妹)。15歳。中学3年生。見た感じは可愛い。性格は大人しい。
飯田春彦。18歳。仏教系高校3年。家は真言宗のお寺。見た感じは端正。性格は知
性的。
塚本啓子。17歳。仏教系高校2年。
苫小牧光。40歳。謎のカルト集団X総裁。
林秀樹。50歳。カルト集団Xの入門者。

【舞台&状況設定】
 萩原茉宙(まひろ)は東京都下の仏教系高校に通う女子高生。家も東京都下にある。
 兄が交通事故にあうが、搬送先の病院も東京都下にあった。
 その後、萩原一家は謎のカルト集団Xと関わることになるが、その集団の道場、本
部も東京都下にある。

【おおまかなストーリー】
@私(萩原茉宙)の父母は権威に弱く、きらびやかなものが好き。父は芥川賞全集が
好き。母は華道茶道が好き。
 私は仏教系の高校に通っているが、先輩の飯田春彦(家が真言宗のお寺)は「そう
いう人は洗脳、催眠にかかりやすい」と言った。
A兄(宇海)が交通事故で脳死状態になった。
 病院で移植コーディネーターに「息子さんの臓器は灰になるかレシピエントの体の
中で生き残るか二つに一つですよ」と言われる。父母はドナーになることを選んだ。
 兄が亡くなったショックで祖母も倒れる。末期がんだった。医者は「死ぬか高度先
進医療をやるかのどちらかですよ」と言う。父母は後者を選択した。その甲斐もなく
祖母は他界する。
 葬式の後、墓石屋に「墓を建てて納骨しなければ魂は安らかではありませんよ」と
言われて、父母はその通りにする。
 こうやって人の言いなりになるのも催眠ではないかと私は思う。
 その後、この墓石屋の紹介でXという集団のメンバーが家にやってきた。「家相が
悪いから改築しないとダメだ」、「父母には悪い霊がついている」だの言う。そして
父母はXの運営する道場に通う様になった。
Bここで私はこのXをカルト集団とみなし対決しようと決意する。
 まず敵陣視察をする。Xの道場はプレハブの建屋、メンバーは派手な色の衣服を着
ていては怪しい雰囲気が漂っていた。
C又、父母は何故騙されやるいのだろうか、とも考える。どうも母はドロドロしたも
の(祖父母の介護など)に疲れてキラキラしたものを求めたのではないか。それでX
に絡め取られたのではないか。
 しかし、実際にはどうやってXが父母を絡め取ったのかは分からなかった。
D同級生塚本啓子に言われて、先輩の飯田春彦に相談することにした。
 飯田は洗脳、催眠に詳しかった。お寺の檀家獲得の為に洗脳、催眠を使っていると
いう。
 飯田は、Xは催眠を仕掛けてきている、という。
 催眠とは簡単に言うと、新しい脳を眠らせておいて、古い脳(潜在意識)に働きか
けて言ったとおりにさせる術である。これをやれば、身体を硬直させて動きを奪う事
も出来るし、レモンを食べさせて甘いと感じさせる事も出来る。
 又、これらの催眠の組み合わせて、もっと自発的な行動を誘発させる事も出来る。
例えば、サイクリングという反復運動で古い脳を活性化させ、同時に漕ぐ運動で股間
を刺激し、同時にコロンの香りで潜在意識を刺激しておく。すると次にコロンを嗅が
せた時に欲情させることが出来るという。
 そして私は先輩に催眠の実際を習った。
E私はクラスメートを実験台にして催眠の練習をした。又、出会い系で誘い出した男
を練習台に練習した。やがて完全に催眠術をマスターした。
Fそして私はXの道場に乗り込んでいった。
 父母は太極拳、気功、薪割りなどをやらされていた。
 私は、あの薪割りの反復運動で古い脳を活性化させ、傍に植わっているキンモクセ
イの香りで潜在意識を刺激しておく、という催眠を父にかけた。そしてXのメンバー
にキンモクセイの花束をプレゼントしておく。父は、メンバーのところに薪を運んで
いくとキンモクセイの香りに反応していきなり鉈を振り上げた。とっさに私は催眠を
解く。これを見たXのメンバーは、私の催眠の腕前に怯える。
 そんなことから、私は父母を連れ戻す事に成功する。又、飯田先輩にお願いして、
父母の脱洗脳もしてもらう。これで平和が戻ったと安堵したのだった。
Gところが、父母、妹と飯田先輩が歩いていたら、黒いワンボックスカーが迫ってき
て、Xのメンバー数名が下りてきて、その場で催眠をかけて、拉致していってしまう。
 実はこの拉致を手引きしたのは塚本啓子だった。彼女もXのメンバーだったのだ。
 啓子が連絡をしてきた。「Xでやっているのは、肛門の括約筋や前立腺を弛緩させ
て、そこから古い脳にアクセスして色々な回路を作るという催眠だ。男には催眠をか
け、女は施術者になる。一人前の催眠術師になると、アナル系風俗の援交をしてXの
活動資金を稼ぐ」。
Hあの可愛い妹がそんな事をさせられるなんて信じられない。又、家の扉に「スカト
ロ一家、肛門性愛家族」などと落書きされたり、学校でもバラされて、私は居場所を
失う。
Iここに至り、私は対決するしかないと考えた。塚本啓子が「今だったらお前もXに
入れる。今を逃すと永久に家族にも会えない」と言ってきた。
 私は、Xの本部に乗り込んでいった。
 そこで会ったXの総裁苫小牧は、ニューハーフの様な人だった。
 彼女は言う。「アナルから古い脳(潜在意識)にアクセスして、新しい脳にあるき
らびやかなものを求める野心を沈静化しているのだ。これは救済だ」。
 本部内の獄につながれている先輩にも会った。「苫小牧の言っていることは嘘だ。
真言密教では、新しい脳も、そして古い脳も滅却するのだ」という。
 私はとにかく父母、妹と先輩を助けないとと思う。
J私も、催眠術師になるべく、Xの訓練を受けだした。
 私が練習用にあてがわれた男(林秀樹)も、きらびやかなものを求める様な男だっ
た。
 私は、林のアナルへの出し入れという反復運動により古い脳を活性化させておいて、
同時に私の首を締めさせ、同時にお香のニオイで潜在意識を刺激する、という催眠を
かけておいた。
Kいよいよ対決の時。私は苫小牧の見ている前で林に施術する。苫小牧は「そんな催
眠ではダメだ」と言い、自分が催眠を開始する。だんだん林が興奮してきた時に、私
は香を焚いた。林はその香りに反応して苫小牧の首を締めるのであった。
L苫小牧の死後、警察も駆けつけて、一件落着する。




#454/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/07/28  21:51  (  1)
ペストールを拾ったら   永山
★内容                                         23/07/24 21:31 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#455/549 ●短編    *** コメント #453 ***
★タイトル (sab     )  18/08/01  16:11  (135)
「催眠」(という短編の目論見書)改2 朝霧
★内容                                         18/08/01 21:03 修正 第2版
仮題『催眠家族』改

【登場人物一覧&キャラクター設定】
 ()内はイメージキャスト。思い付かない場合は?印。
橋本舞美。(?)。17歳。法正高校(都内の仏教系高校)2年生。
橋本信夫。(渡部篤郎)。42歳。舞美の父。
橋本京子。(篠原涼子)。39歳。舞美の母。
橋本保聡(やすとし)。(?)。舞美の二卵性双生児の兄。17歳。都立高校3年生。
橋本愛。(?)。15歳。舞美の妹。中学校3年生。
鈴木真貴。(?)。17歳。法正高校2年。
鈴木文勝(ぶんしょう)。(高橋克実)。50歳。竜泉寺住職。
苫小牧。(村本大輔(吉本興業))。30歳。竜泉寺の僧侶。
蟹沢賢磨(けんま)。27歳。竜泉寺の寺男。
大谷智雪(大野智(嵐のリーダー))。18歳。法正高校3年生。

【舞台&状況設定】
 舞台は法正高校(都内の仏教系高校)と竜泉寺(浄土宗)。
 主人公舞美は法正高校の2年生。同級生に真貴(竜泉寺の娘)、先輩に大谷(真言宗
のお寺の息子)がいる。
 竜泉寺には苫小牧という男が入り込んでいる。真貴と結婚してお寺の相続をしようと
目論んでいる。
 寺男に蟹沢(元真言宗信徒)という男がいる。
 舞美は蟹沢に恋心を抱いている。
 真貴は保聡(舞美の兄)が好き。
 信夫(父)、京子(母)は竜泉寺で苫小牧が催す行事にはまっていた。

【おおまかなストーリー】
@橋本家は竜泉寺の檀家である。信夫(父)、京子(母)、保聡(兄)は、寺の行事
(写経、禅、お茶会など)に熱心に参加していた。行事には瞑想や催眠もあった。
 寺の行事を仕切っているのは苫小牧という男。苫小牧は元々は竜泉寺の人間ではな
かったが入り込んできている。寺の娘・真貴と結婚して寺の相続を目論んでいる。
 寺には寺男の蟹沢(真言宗出身)もいた。蟹沢は現世利益には興味がなく、「個人
の仏性と宇宙の根本原理の合一だけが目的」と言って、黙々と塔婆に字を書いていた。
 高校に行くと大谷(先輩)は「舞美の父母と兄は洗脳、催眠に引っかかりやすい性
格だ」と言う。
大谷は言う。「催眠とは簡単に言うと、新しい脳を眠らせておいて、古い脳(潜在意
識)に働きかけて言ったとおりにさせる術である。これをやれば、身体を硬直させて
動きを奪う事も出来るし、レモンを食べさせて甘いと感じさせる事も出来る。
 又、これらの催眠を組み合わせて、もっと自発的な行動を誘発させる事も出来る。
例えば、サイクリングという反復運動で古い脳を活性化させておいて、同時に漕ぐ運
動で股間を刺激して、同時にコロンの香りで潜在意識を刺激しておく。すると次にコ
ロンを嗅がせた時に欲情させることが出来る」などと。

A或る朝のこと、保聡はコロンのニオイをさせていた。真貴にプレゼントされたとい
う。
 その朝、保聡は駅のホームで後ろの人間に突き飛ばされて死んでしまう。
 舞美は、先輩から聞いたサイクリングの話と、兄がコロンをつけていたことを考え
合わせて、「これは催眠で突き飛ばされたのではないか。その催眠をかけたのは苫小
牧ではないのか。苫小牧は真貴と結婚して寺を継ごうとしていた。それを兄に横恋慕
されたと思ったのではないか」と想像する。
 兄が轢かれる瞬間を妹の愛も見ていた。
B父母はカーテンを閉めてふさぎ込んでいた。
 苫小牧が訪ねてきて、「お寺に来て少しでも心を慰めたらいかがですか」と言って、
父母と妹まで連れて行った。
 舞美は、「苫小牧は、もしかして現場を見ていた妹を始末する積りなのではないか」
と心配する。
 又、舞美は、苫小牧の浄土宗的な家族愛的なものをウザいとも感じていた。舞美は
例えば学業でもAO入試や面接など人間のやることは信用できなくて、全てマークシ
ート方式にするべきだ、などと思っていた。だから、蟹沢の真言宗的なもの、自力本
願の原理主義的なものの方が好きだった。そんなことから蟹沢に惹かれ出す。
C舞美は、苫小牧の催眠に対抗する為に、自らも独学で催眠を学びだす。
 舞美の学んだ催眠は、施術者個人がクライアント個人にかけるという、人が人に施
すものだったが、上手く行かなかった。
D舞美は大谷に催眠について尋ねた。大谷によれば、催眠は施術者個人がクライアン
トにかけるものではなく、宇宙のエネルギーをクライアントの古い脳に作用させるも
のだ、とのことだった。
 舞美は竜泉寺の様子を見るために寺の裏山に登った。そこで寺男・蟹沢に遭遇する。
そして仏教の話を聞く。蟹沢は言う「宇宙の根本原理にも汚れ、”なまぐさ”がある
が、これが人に宿ると悪人になる。そのように宇宙と人間はつながっている」と。
舞美は、大谷の話と似ていると感じる。そしてますます蟹沢に惹かれる。
E舞美は、クラスの女子に催眠をかけてみた。レズビアン的な接触で「性的興奮に達
したら相手の首を締めろ」と念じた。後日、その女子の彼氏が「首を締められた」と
騒いでいた。舞美は催眠は成功したと自信を得る。
F竜泉寺では護摩に使う薪を割っていた。
舞美は、薪割りの反復運動で古い脳が活性化している状態の父に、キンモクセイの香
りで潜在意識を刺激しておく、という催眠をかけた。そして寺男(蟹沢以外)にキン
モクセイの花束をプレゼントしておく。父は、寺男のところに薪を運んでいくとキン
モクセイの香りに反応していきなり鉈を振り上げた。とっさに舞美は催眠を解く。
これを見た苫小牧は舞美の催眠の腕前に怯える。
 そんなことから、舞美は父母と妹を連れ戻すことに成功した。これで平和が戻った
と安堵したのだった。
Gしかしそれも束の間、またまた父母と妹はお寺の寺男に連れ去られてしまう。
 ところが舞美は内心、家族的な浄土宗はウザいが家族自体もウザい、と感じ出して
いた。
 方や、霊験あらたかな真言宗を唱える蟹沢には魅力を感じていた。蟹沢は「心頭滅
却して仏性を開放すれば、兄の霊とも接触できる」と言ってきた。そしてそういうセッ
ションをやる。
 大谷は、「洗脳されているんじゃないのか」と心配してきた。
H兄の初七日法要の日、竜泉寺の本堂で、父があろうことか、妹に襲いかかってきた。
しかし、金縛りにあって未遂に終わる。
 舞美は、苫小牧が父に催眠をかけて妹を襲わせたのだ、と思う。妹は兄の事故現場
を見ていたから、何かを思い出す前に始末されそうになったのでは、と。
I蟹沢が、舞美にも寺に来ないかと言ってきた。そうすれば家族を見守っていられる
し、亡き兄に接するセッションも又できるから、と。そして舞美は寺に行く。
J竜泉寺で護摩行の時に、なんと父が今度は舞美を襲ってきた。そしてこの時も父は
金縛りにあってことなきを得た。
 この災難の後、別室で休んでいると、母のスマホに長文のメールが届いた。それは
舞美が生まれた時に同じ病室だったHさんからの暑中見舞いだった。
その手紙にはこうあった。「出産の時にあの病室に居たのは、京子と保聡、舞美、H
さんとその子、蟹沢さんとその子。でも最初に蟹沢さんの子が亡くなって、続いて私
の子も亡くなった。そして保聡君まで亡くなった。残る舞美ちゃんは大切にして下さ
い」と。
 舞美は「その蟹沢とは誰だろう。寺男の蟹沢と関係があるのではないか。亡くなっ
た子供とは蟹沢の弟ではないのか」と推測する。
 舞美は、母からHの連絡先を聞いて電話する。すると、蟹沢さんの亡くなった子に
は歳の離れた兄がいるとのことだった。
 大谷は、こう推理をした。「保聡、舞美、Hさんの子、蟹沢の弟は同じ日に生まれ
た。ということは宇宙から同じ仏性がそれぞれの体に分割して宿ったのではないか。
そして17年後、蟹沢の弟が亡くなった。
しかし本来一つであった仏性の内4分の3は保聡、舞美、Hさんの子の中に残ってい
る。それで蟹沢の弟は成仏出来ないでいる。
だから、蟹沢の兄つまり寺男は、Hさんの子、保聡と殺して仏性を開放したのではな
いか。そして最後の一つ、舞美の仏性も開放する為に殺そうとしているのではないか」
と。
 ここで妹を脱催眠して「あの日、ホームにいたのは誰なのか」を言わせたら、苫小
牧ではなく寺男の蟹沢だと答えた。
K舞美は寺の裏山に蟹沢に会いに行った。そして「私を殺すために父に催眠をかけて
襲わせたのか」と問いただす。
 蟹沢は悪びれる様子もなく、そうだという。「ただ宇宙の根本原理に帰るだけだよ。
なんだったらぼくも一緒に死んでもいい」と。
 ここで、舞美も、それもそうだと思う。そして二人で死のうか、という運びになっ
た。
 ここで、先輩と苫小牧が現れて「舞美、君は洗脳されている」と言ってくる。
 舞美は驚くが、蟹沢は小刀を出すと舞美の首筋にあてた。
 ここで蟹沢は何故か金縛りに合い、舞美は救出された。
 舞美は、父や蟹沢の度重なる金縛りを、何か宇宙の根本原理からの仕業のようにも
感じたのであった。
L家に帰ってから数日たった或る日。舞美が風呂に入っていたら、突然金縛りにあっ
た。腕が勝手に上がって指が曇った鏡をなぞる。「天寿まっとうせよ」と描かれた。
兄の霊が自分に乗り移って書いたのだ、と舞美は思った。

【疑問点】
 設定をお寺に絞って、人物も全て僧侶にした方が座りがいい気もする。
『ファンシィダンス』か和製『薔薇の名前』みたいになって。
 でもそうすると恋愛関係が同性愛になってしまうが。




#456/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/11/14  22:22  (  1)
SS>密室   永山
★内容                                         20/12/01 13:04 修正 第4版
※都合により一時、非公開風状態にします




#457/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/11/15  21:28  (  1)
SS>倒叙   永山
★内容                                         20/11/01 18:26 修正 第3版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#458/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/11/19  22:26  (200)
カグライダンス・ミニ   寺嶋公香
★内容                                         19/01/02 16:34 修正 第2版
 芸能週刊誌をぱらぱらと読んでいた加倉井舞美が、ふっと顔を起こして唐突に言っ
た。
「『好感度がいい』って、変じゃない?」
「え?」
 純子は加倉井のいる方を振り返り、目で問い返した。唐突だったから聞き漏らしたの
だ。
 ちなみに、純子の今の格好は銀色を多用した衣服に、表が黒、裏が橙地の短めのマン
トを羽織っている。横のテーブルには、鍔広の黒い三角帽が置いてあった。要するに魔
女のなりだ。加倉井の方も同じ格好だが、彼女はマントも外している。
「『好感度がいい』という表現が、ここに使われているのよ。何だがむずむずする」
 加倉井はパイプ椅子から腰を上げると、日よけの天幕の下、慎重な足取りで近付いて
きた。靴の爪先がタンポポの綿帽子みたいなデザインで上向きに伸びているため、気に
なるのだ。
 彼女が両手で開いてみせたページには、タレントの好感度ランキングが載っていた。
「ほら、ここ」
 指差す先には、言った通りの『好感度のいい』という文字が躍る。あるお笑い芸人に
ついての記述のようだ。
「好感度の好って、良いという意味でしょ。好感度が悪いなんて言わないし。『好感度
のいい』には二重表現という以上に、据わりの悪いものを感じるわ。あなた、どう思
う?」
 問われた純子はつい思い出し笑いをしてしまった。加倉井の垣間見せた理屈っぽさ
が、相羽を思い起こさせたせい。
「何かおかしいこと言ったかしら」
 密かに笑ったつもりだったが、加倉井は目聡かった。純子は急いで首を横に振る。
「ううん。友達の理屈っぽさを思い出しちゃったから。理屈っぽいは、悪い意味じゃな
くて、私も影響を受ける場合が結構あって」
「分かった分かった。別に怒ってるんじゃないわよ。それで、感想は?」
「えっと、確かにおかしいと思うけれど、じゃあ好感度の尺度を表すのって、どうすれ
ばいいのかなって……」
 小首を傾げる純子。対する加倉井は、当たり前のように即答した。
「好感度が高い、じゃないの」
「私も最初に思い浮かんだ。でも逆の、好感度が低いという言い回しには、凄く違和感
を覚えるような。だから高い低いでいいのか自信が持てない」
「……なるほどね」
 納得したようにうなずいた加倉井。
「好感度の低いという言い方はよく見掛けるから、何となく受け入れていた。よくよく
考えてみれば、これもむずむずする表現だわ」
「意味は伝わるから間違いじゃないのかもしれないけれど、何となく変。あ、でも、好
感度アップとか好感度が下がったとかには、違和感ない」
「ほんと。上がり下がりはするのに、低いだと何故か据わりが悪い……」
 加倉井は週刊誌を持ったまま、腕組みをした。考え込む様子で眉間に皺を作ったが、
はたと我に返ったのか、表情を和らげる。
「ちょっと、あんまり考え込ませるようなことを言わないで。皺ができちゃうじゃない
の」「そ、そう言われても」
 話題を持ち出したのは加倉井さんの方……とは言い返せない純子である。代わりに、
疑問解消の解決策を絞り出してみた。
「好感度って言うからおかしいのかな。好の字の印象が強くて、いいことにしか使えな
い雰囲気がある。だから、好を外して感度にすれば……」
「……やめて。とても卑猥に聞こえる」
 ぴしゃりと言われてしまった。だがすぐには理解できなかったため、さっきとは反対
側へ首を傾げる純子。
「感度がいいって、受信状況なんかに使うのならいいのよ。人に対して使うと、途端に
おかしくなるでしょうが」
「……あぁ」
 遅ればせながら、加倉井の想像していることが飲み込めた。ちょっと顔が赤くなるの
を意識し、心持ち俯く。加倉井さんてそんなこと考えるんだ、とも思った。
 元いた椅子に座り直した加倉井は、週刊誌を閉じた状態で手放さず、団扇のように
二、三度扇いだがすぐにやめた。
「おっそい。もう充分に晴れているように見えるのに」
「あ、休憩に入る前に、飛行機の通過時刻と被りそうだとか何とか言ってました」
「じゃあ今は飛行機待ちってわけね。五分か十分といったところかしら。――以前、イ
ンタビュー記事で、くすぐったがりだと言っていたみたいだけど、あれ本当? 記者の
創作?」
「どの記事か分かりませんが、くすぐったがりなのは本当です」
 再びの唐突な切り出し方だが、純子は慣れもあって平静に答えた。
「ふうん。ということは、感度も高いのかな」
「――」
 飲み物を口に含んでいたら噴き出しそうなことを、加倉井はさらっと言ってくれた。
ついさっき、感度の使い方にだめ出しをしてきたのに、それに反することを自らやるな
んて。まじまじと見つめる純子に対し、加倉井は笑みを返す。
「カメラの回っているところで言わないよう、おまじないを掛けてあげたのよ。当分、
意識して『感度』を使う気になれないはず」
「うーん、他の人が言ったら変な反応をしてしまいそう」
「それは自分で何とかして」
 頭上高く、飛行機が飛んでいく。
 コマーシャルの撮影再開までもう間もなく。

 撮影が完了したあと、様子見に来ていたクライアントの人と言葉を交わした。第一弾
コマーシャルのときとは別の女性で、まだ不慣れなのか言動がどことなくたどたどし
い。初対面の挨拶時には名前すら早口で聞き取れなかったほどだが、大手おもちゃメー
カー・ハルミのれっきとした社員だ。
 宣伝する商品は、『ウィウィルウィッチ』という人気の魔女アニメ(魔女っ子も登場
するが魔女っ子アニメではない)とコラボレートした玩具。第一弾、第二弾と何種類か
撮影したのだが、さっきまで青空待ちをしたのは、大雨を魔法で抜けるような青空に変
える、というシーンを実写で撮りたいという監督の謎の拘りのせい。
 撮影が終わったと言ってもコマーシャルの完成はまだ先になる。純子も加倉井もあと
のスケジュールは空いているとは言え、普通は長々と話す場面でもない。だが、そのお
もちゃメーカーから来た女性がお話がありますというので、ロケバスの中をしばし三人
で占める。
「以前にも数字で示したと思いますが、お二人のおかげで売り上げは好調です。特に社
長が大変気に入ったご様子で、これからもよいつながりを持ちたいと。端的に言います
と、他のお仕事もお願いしたいと申しておりました。つきましては先程、撮影の最中に
事務所の方にはすでに打診したのですが」
 持ち掛けられた新たな仕事とは、二人で――純子と加倉井――海外の名所を紹介する
テレビ特番の話だった。何でも、ハルミ一社提供の二時間枠で、マジックをキーワード
に二つの面から、つまり魔女や呪術といった神秘的な事柄と、奇術・手品の範疇にある
事柄にスポットを当てる云々かんぬん。
「言うまでもありませんが、アニメ『ウィウィルウィッチ』とも関連しています」
「面白そう。マジック――奇術、好きなんです」
 第一印象を素直に口にした純子。一方、加倉井は特に何も言わない。慎重な姿勢を
キープしている。
「とても光栄です。が、『ウィウィルウィッチ』と関係するのなら、私達よりもふさわ
しい方がいる。違います?」
 遠慮のない調子で質問する加倉井。相手の女性はほんの一瞬、目を見張った。すぐに
平静に戻る。申し訳なげに眉を下げ、笑みを絶やさずに答えた。
「その、いずれ耳に入ることかもしれませんので、先に打ち明けておきますと、アニメ
製作側の周辺からは、主要キャラクターを演じる声優の皆さんを採用するよう、推薦し
てきました。これに社長が難色を示しまして、スポンサー特権でお二人を推すと」
「……」
 加倉井と純子は目を見合わせた。そして加倉井が答える。
「後押ししてくださるのは大変感謝します。ただ、失礼な物言いをお許しください。他
にも候補者がいる中、力で押し切るのは本意ではありません」
「それは……オーディションか何かを催して、競った結果、選ばれるのであればよいと
解釈してかまわないのでしょうか」
 事務所を通さず、マネージャー不在の場で、タレント相手に直接的な提案をするのは
珍しい。正面に立つ女性は若くて頼りなげな外見と違い、意外とそこそこの決定権を与
えられている人物のようだ。
 しかし、加倉井は首を左右に振ってみせた。
「私達も人気商売、好感度が大事ですから。アニメ制作側や作品のファンと揉めそうな
種を蒔くのは避けたい、それだけです。御社も本音では同じじゃありません?」
 ビジネスっ気をちらと見せてから、相手に同意を求める。加倉井なりの交渉術かもし
れない。
「確かに。アニメの人気があってこそ、弊社の関連商品が売れた面は否定できません」
「でしょう? だったら、無碍にシャットアウトするのではなく、受け入れた方が絶対
にプラスになると思いますよ。ね?」
 加倉井はいきなり純子に振り向いて、相槌を求めてきた。調子を合わせるわけではな
いけれども、即座に首肯した純子。
 加倉井は軽く頷き返すと、クライアントの女性に向き直る。
「出してもらう立場で厚かましいんですけど、どうせなら四人にできません?」
「四人というと……あっ、加倉井さんと風谷さんに加えて、声優の方もお二人と」
「そう、さすが、飲み込みが早くて嬉しい。元々、マジックを二つの面から捉えるのだ
から、レポートも二組に分かれてやることはむしろ自然」
「え、二組に分かれるのなら、私、奇術の方がいいです」
 場の空気がよくなったのを感じ取って、純子はすかさず言った。
 二人の“連携プレー”に、相手の女性は口をかすかに開けたままにして、唖然とした
風だったが、そこからのリカバリーは早かった。
「分かりました。こちらから声優の皆さんへ打診してみます。加倉井さんと風谷さん
は、原則、了承してくださったと解釈してよろしいですね。細かい条件面はまた別とし
て」
「もちろん。この子がこんなにやる気になっていますし」
 純子を指差す加倉井。慌てて両手を振り、異を唱える。
「そんな、私のわがままみたいに。加倉井さんがやりたくないのなら、私もやめておく
から」
「それは困ります」
 相手女性の被せ気味の反応に、加倉井は苦笑をかみ殺しつつ、純子に対し返答する。
「大丈夫、私もやってみたいと感じてるんだから。オファーの条件が余程悪くない限
り、承ることになるんじゃない?」
 強気のなせるフレーズを含んでいて、聞いている方はハラハラする。同世代の中では
加倉井はトップクラスに位置しているから、多少の希望(要求、我が儘)は言えるみた
いだけれども。
 純子のそんな内心の動きを知ってか知らずか、相手女性は間髪入れずに言葉をねじ込
んだ。翻意されてはたまらないとばかりに。
「声優さん達へのオファーも含めて、持ち帰って、検討させてもらいます。なるべくよ
い方向に持っていきますので、よろしくお願いしますね」
 頭を深々と下げると、引き留めて長話になったことを詫び、彼女は辞去していった。
「――ちょっと汗かいた」
 その後ろ姿が遠くに見えなくなってから、純子はため息とともに言った。
「あ、好感度って言葉を使ったの、やはりまずかったのね」
「違います。使ったのには気付きましたけど」
 否定してから、加倉井の強気な物言いが原因だとはっきり言った。当人は、まるで気
にしていない。
「いいじゃないの。望んでいた形になったでしょう? あの人、なんて名前だったかし
ら。最初は慣れていない感じが丸出しで不安だったけれども、案外、話の分かる人みた
いで嫌いじゃないわ」
 撮影前に名刺を受け取っていたが、マネージャーにも渡っているということだった
し、しかと見ていなかった。純子は名刺を改めて見直す。
「ましこはるみさん、と読むのかな」
 益子春見と縦に書いてあった。なかなか意匠を凝らしたデザインになっている。透か
し彫り風の字体で、各文字が左右対称になるよう、手を加えてあった。益・春・見は左
右対称にし易いからいいとして、子は若干だが無理をした感があった。
「――おかしい」
 純子は名刺を見つめる内に、何となく違和感を覚えた。名前にかなもしくはローマ字
が振られているのが普通だと思うのだが、これにはない。肩書きも、会社名と部署だけ
が印刷されている。
「もしかして」
 裏返す。裏側からも益子春見の文字が確認できた。ただし、その脇に矢印があった。
姓と名を入れ替えてくださいというサインのように。
(益子春見を入れ替えると、春見益子。益子はますこやみつことも読めるんだっけ。う
ん? 春見?)
 メーカー名に思い当たる。ハルミ。
「か、加倉井さん!」
「な、何、大声出して。落ち着きなさいよ」
 純子が大きな声を出すのが珍しければ、加倉井が明らかに驚いた顔をするのも珍し
い。そのためか、純子と加倉井はしばらく黙ってお見合い状態になった。
「――名刺の裏、見て」
 先に口を開いたのは純子。加倉井は「今、持っていない」と言い、純子の手元を覗き
込む。隣同士で額を寄せ合う格好になった。
「完全に想像に過ぎないんですけど、さっきの人、社長さんの血縁なのかも」
 続く純子の説明を聞き、加倉井はふんふんと軽く頷いた。
「もしそれが当たっているとしたら、ますます面白い人だわ。身分を隠して現れるなん
て。ひょっとしたら、社長の命を受けて私やあなたを直接品定めすることが、真の目的
だったのかもね」
「うわ〜」
 自らの二の腕をさする純子。加倉井は呆れ気味に言った。
「自分で気付いておいて、今さら緊張しないでよ」
「はい……次の機会があれば、意識しちゃうだろうなあ」
「まるで気付かない方がよかったみたいね。まったく、感度がいいのも考え物だわ」
「か、感度じゃなくて! せめて勘と言ってください!」

――『カグライダンス・ミニ』おわり




#459/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/11/20  02:11  (  1)
SS>ダイイングメッセージ   永山
★内容                                         20/10/28 21:15 修正 第2版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#460/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  18/11/24  21:26  (  1)
SS>アリバイ   永山
★内容                                         20/10/30 21:54 修正 第4版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#461/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  19/02/18  22:07  ( 37)
日常SS・SF>隣の芝は青い $フィン
★内容
「隣の芝は青い」

 若い男の人と恋に落ち、結婚して、男の赤ちゃんが生まれました。

 手狭になったアパートから引っ越して、一家三人が住める犬が飼えるだけの小さな庭
に青い芝生が敷きつめる程度の一軒家を買いました。当然年相当の係長の夫の給料で一
気に返済するのは無理でした。夫と話し合い30年ローンの手続きをして少しずつ返済す
る方法を取りました。
夫の収入はそこそこあったものの毎月住宅ローンの返済で家計は苦しく、新聞のスー
パーの広告を見ながら特売品に赤いマジックで丸く印をつけ、玉子1パック98円の日は
必ず行って長い行列の中の一人となり、苦しいながらも家計をやりくりしていました。

夫の間に生まれた男の子は少しやんちゃだけど聞き分けの良い子供に育ちました。平凡
だけど夫と男の子の三人の暮らしぶりは幸せそのもので、もし幸せのパンフレットがあ
れば一番最初に載ってもおかしくないものでした。

 ある朝のことです。どこにでもある市販の食パンをトースターで焼き、インスタント
コーヒーを作り、夫はそれらを食べ終わった後、新聞を読みながらたばこに火をつけま
した。家の中でもしないでと言ってきつく夫を睨みつけました。すると新聞はめらめら
と燃え上がりました。夫は燃え上がる新聞から手を放し、誰も見ていないからそれぐら
いいいじゃないかと謝りました。

 手に少しやけどをして夫が逃げるようにあたふたと会社に出かけました。

しばらくして男の子が目を覚まし、目やにを手でこすりながら夫婦喧嘩またやったのと
聞きました。

 ううんちょっとねと言って食器を洗いながら軽く笑いました。

 男の子が小学校に出かける前に誰かと喧嘩しても燃やしたら駄目よと少し注意しまし
た。

 うんわかっていると男の子はうなづいて黒いランドセルを背負っていつものように小
学校に行きました。

 男の子を小学校に送りだした後、青い空の下白い洗濯物を干しながら今日も平凡でい
い日になりそうだと思いました。




#462/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  19/03/24  21:17  (160)
SF>二つの世界
★内容
 ここはこの世の楽園の世界、暖かい太陽の日差し、緑は繁り、小鳥は歌い、人々は笑
顔を浮かべて暮らしている。
 突然、ある物体が何もない場所に出現した。中からは頭全体をおおったマスク、全身
にも防護服をまとった奇妙な二つの人型のものがある物体から出てきた。
「ここが、私たちを救う世界なのか」頭全体におおったマスクに内蔵された通信機から
男の声で相手に声をかけた。
「本当よ。私の計算は完璧にあっているはずよ。そのために私たちは選ばれて生まれた
ときから特殊教育を受けて、この機械に乗り込めるように訓練されたのだから。それに
しても放射能で汚染された私たちの世界とはえらい違いだわ。それにここでは汚染値の
数値が0になっているの。見てあの緑を、博物館で永遠に冷凍保管されて、よほどの許可
申請をしないと見れないはずの植物が本来の姿を取り戻しているわ。ところで息はでき
るのかしら」男の声に反応して、頭全体におおったマスクに内臓された通信機から女の
声で答えが返ってきた。
「おまえたちが来るのを長い間わしは待っていた」二つの人型の前に一人の老人が、こ
こにある物体が現れるのを知っていたかのように立っていた。
 二つの人型のものは突然現れた老人に狼狽したような様子を見せた。
 「怖がらなくてよい。おまえたちがここに来るのは以前から予言されておった。そん
な邪魔なものは取り去ったほうがいいぞ。ここは健康にはまったく害のない安全な世界
だ」
 二つの人型のものはお互い内臓された通信機で盛んに話しあい、やがて恐る恐る頭全
体をおおったマスクと、全身に防護服をまとったものを脱ぎ捨てた。
 中からはあらゆる装飾品を排除されて非常にシンプルな人工的なものを着た二人の男
女が現れた。
 身体を守るすべてのものを取り去った二人は生まれて始めて自然の息吹に感動した。
日頃している性行為など問題にならないものだった。今まで感じたことのない充実感を
得た。はじめて嗅いだ自然本来の甘い空気に酔いしれた。激しい快感に酔いしれ、心は
激しく乱れたままこのままじゃ狂うのじゃないかと思いにとらわれた。しかし表面上は
二人は長い間立ったままだった。長い間老人は文句を言わず待っていた。
 だけど二人は特殊教育を受けた効果の一つ感情の乱れも落ち着かす方法も学んでい
た。その能力を使ってなんとか感情の乱れも治まった。二人は落ち着いて改めて老人を
見た。老人は威厳を持って立っていた。だけども老人は二人の様子を見て、微笑みを浮
かべていた。
「あなたは誰ですか」男は目の前の老人に不安そうに聞いた。
「わしはこの世界の代理人じゃ。ここの世界は始めてだろう。案内人がいなければおま
えたち二人が困るだろう。私が案内人になってやろう」代理人の老人は威厳を持たせつ
つ二人に不安を持たせないように優しく笑って答えていた。
 その後二人はそこで働いている人々に出会った。人々は汗を流し、汗は太陽の光を浴
びてきらきら光っていた。人々は代理人の老人とこの世界の人とはまったく違う衣装を
まとった二人の姿に関係なく、みんな同じような反応をした。人々は忙しそうに枯れた
茶色の植物らしい何かを刃物らしいもので根元から切っていた手を休め、かがめていた
姿勢から立ち上がった。そして以前から決められていたようにみんな笑顔で出迎えた。
 人々はみんな競いあうように自分たちの家に招き入れようとした。老人は一組の夫婦
を指差した。一組の夫婦は神から選ばれた者のようにあふれんばかりの笑顔を作った。
夫婦は、自分たちの家に丁重に二人をもてなした。
 代理人の老人と夫婦が家屋の奥に引っ込んでから二人はお互いにこの世界の感想を言
い合った。
 「ここはいいところだわ。放射能に包まれた地獄のような世界とは大違いだし、それ
に人々の態度も素朴で優しそうだわ。ここにずっと住みたい気持ちになってきたわ」
 「おいおい忘れてもらっては困る。私たちがここに来た本来の目的は死にかけている
地球のために、この世界をたずね、地球を救う方法を教わるためにきたのだぞ」
「しかしこの世界があってよかったわ。私たちの世界がこのまま続くと草木も生えない
放射能で汚染された地獄のような死んだ星になっているかと思ったの」
「この世界があるということは私たちの世界も助かるということだな」
 奥から代理人の老人と夫婦が出てきた。二人は会話をやめた。
 夫婦はなにやら得体の知れないものを二人の前にいくつか運び込んで出してきた。
 最初に何かを加工されたらしい白い無数の汚らしいつぶつぶが白い容器に入って出て
きた。それには熱でも加えられたのか少しそれから白い煙が出ていた。それが何かわか
らなかった。次に加工された薄茶色のどろどろになった汚らしい液体が茶色い容器に入
って出てきた。それにも熱が加えられたのか少し煙が出ていた。それも何かわからなか
った。最後になんとか植物とわかるが、深い緑色の汚らしいものが白い容器に入って出
てきた。それには熱が加えられていないらしく白い煙はまったく出ていなかった。それ
が何もわからなかった。黒い液体に透明の容器に入った汚らしいものが出てきた。その
液体の出入り口は非常に小さいもので白い煙がでいているのかさえわからなかった。そ
れも何かわからなかった。そして最後に更にわからないものが出てきた。なんと小さな
白い容器に何も入っていないものまで出てきた。二人の世界では何かを入れるのに容器
は必要だから、何も入れていない容器を出すには無駄としか思えない非常識そのものだ
った。出てきたものすべてが二人にはそれがなにかまったくわからなった。
 しばらくの間二人はそれらを前にして黙って眺めていた。
 「大丈夫だ。そのまま食べても何も起こらん」二人の様子を見ていた代理人の老人は
笑顔で戸惑う二人に保障した。
 「これは食べられるものなのですか」二人はびっくりし、汚物を見るようにそれらを
見た。
 二人は今まで人工的に作られたタブレットしか栄養を取ったことがなかったので、こ
の世界でこれが食べ物とは思いもつかなかった。それにこれらをどんな食べ方をしたら
いいのかすらわからなかった。
 二人は目の前に博物館でしか見たことのない貴重品の木材らしいものを見た。それも
細くて長い二本の木材が置かれていた。どうやらこれを使って食べるのだろうと二人は
思った。
 だが二人は二本の木材を見たものの手にとったもののどう扱えばいいかまったくわか
らなかった。
 それを見た代理人の老人は夫婦に二人に食べる方法を教えろと威厳を持って命令し
た。
 夫婦は労を惜しまず一生懸命二人に二本の木材で食物を食べる方法を教えた。
 二人は夫婦に教えられたとおりに貴重品を壊さないように注意深く手に握った。二人
はぎこちない持ち方で二本の木材を手で目の前の食べ物を長い間掴もうと苦労したあげ
く、ようやく白いつぶつぶの一つ取り出すことに成功した。
 男は二つの木材を使って取り出すことに成功した食べ物と言われる物を、目的の物を
受け取るとるために糞便を食べるつもりで我慢して精一杯の勇気をふりしぼって口に入
れた。
 そのとたん、今まで食べたことのない自然のありのままの食べ物の味に全身が金縛り
になるほど驚いた。
 その後二人は二本の木材を使い苦労しながらも自然のありのままの食物を長い時間を
かけて全身が幸福に酔いしれ感動して食べ続けた。最後には二人は何も入っていない小
さな白い容器のわけを理解した。なんと黒い液体が入った透明の容器から白い容器に注
ぎ込み、それを深い緑色の植物らしいものにつけるのだ。何も入っていない小さな容器
も非常識だったが、その容器から食べる深い緑色の植物の食べ方も、二つの食べ物を組
み合わせるなど贅沢極まりない。二人の世界には非常識そのものだった。
 夫婦は神託を待つ信者のように長い時間何もせず二人を見つ続けた。
 「どれもこれも私の世界では非常識な食べ物ばかりだ。こんな食べ物は今まで食べた
経験がない。それこそ神しか食べられないほど素晴らしいものばかりだった」この世界
でいう食べ物を食べ終えた男は感情を抑えきれず大きな声で叫んだ。
 夫婦はその言葉を聞いて栄光に包まれたかのように笑みを浮かべて喜んだ。
 二人は代理人の老人に連れられて夫婦の家を後にした。二人は立ち去る前に今まで食
べたことのない素晴らしい食べ物を与えてくれた夫婦に非常に丁寧にお礼を言った。夫
婦は戸惑ったような笑顔で二人の言葉を受け入れた。代理人の老人と二人の姿が見えな
くなるまで夫婦は玄関の前で動くこともせず立ちすんで見ていた。
 代理人と二人は長い道を歩き始めた。代理人の老人と二人の姿を見ると人々は枯れた
ような茶色い植物の刃物らしいもので根元を切る作業をやめて、かがみ込んだ体勢から
立ち上がり、人々は笑顔を向けた。そして代理人の老人と二人の姿が見えなくまで人々
は動くこともせず立ちすんで見ていた。
 やがて、灰色の四角い巨大な建物が二人の前に見えてきた。
 二人は代理人の老人の後について歩いてきていた。それは長い回廊で奇妙に入り乱
れ、さながら永遠に続く迷宮のように二人は思えた。この目の前の代理人の老人が案内
がなければ死ぬまでこの迷宮から出られないような気がした。だけど、代理人の老人は
生まれたときなら訓練されたかのように迷うことなく迷宮の道を抜けていく。
 やがて、一つの部屋に代理人の老人と二人は辿りついた。
 そこの部屋の中央に黄金に輝く巨大なコンピューターが置かれていた。
 「これは、おまえたちにもわかるだろう。コンピューターというものじゃ。おまえた
ちをここに呼び寄せたのもコンピュータの力だ」代理人の老人は言った。
 「わしらの今はおまえたち二人にかかっておる。この設計図通りに作れば、放射能の
除去方法や、滅びかけている植物や動物の再生の仕方も、おまえたちの世界で作られた
このコンピュータがすべて教えてくれるじゃろう」代理人の老人は言った。
 そして帰りも代理人の老人の案内でこの灰色の四角い巨大な建物から出た。そしてま
た代理人の老人の案内で二人は元の道を同じ経路で帰って行った。男はある物質に乗り
込む直前、老人から一本の容器を渡された。二人はそれより遙か昔のことは知らなかっ
たが、21世紀の人がもしいれば蚊取りスプレーと間違えたに違いない。 
 二人は設計図と動植物の種や細胞を持って、自分たちが乗ってきたある物体の中に入
っていった。男は老人から渡された容器から上のぼたんを押すと一斉に空気が圧縮され
て、容器の成分がすべて出た。その後女は計器を見て、放射能の汚染値の数値が0と言っ
た。そうして二人は自分たちの住む世界に帰って行った。
 ある物体がこの世界から消えたのを見届けた後、代理人の老人はすべての役目が終わ
ったように長いため息をついた。
 
 「どうしてあの世界では代理人をのぞいて子供と老人の姿を見かねなかったのでしょ
う?」時間旅行中、ある物体の中で行きかけと違って帰りは身軽になった女が、手を盛
んに動かして機械を操作中に、不思議そうに聞いた。
 「なあにそりゃあれだけ、幸せな世界だ。きっと子供や老人は更に快適な場所で暮ら
しているのだろう」男も女と同じように手を盛んに機械を操作しながら答えた。
 その後二人は互い無邪気に笑いあった。
 
 しばらくして老人は黄金に輝く巨大なコンピュータの前に立っていた。二人の男女に
みせた威厳の仮面をはぎとり、無力そのものの老人の姿になっていた。そしてうやうや
しく足を折り敬虔な信者のように祈るようにひざまついた。
「先ほどは貴方様のことをコンピュータと蔑んだ言葉を使い、私は永遠の罪人になる覚
悟はできております」老人はすべての罪を償う罪人のようにコンピューターの前で謝罪
した。
「気にすることはない。私のしもべよ。あれは一種の俗語にすぎん……それより過去の
世界では老人が尊敬されていたらしい。そこでそなたの存在が必要だった。あの二人が
帰った後はそなたの務めはもはやすんだ。これからそなたは安らかな長い眠りに落ち、
また私のしもべとなり復活の時を待て」
 「ああ、偉大なる神よ。罪深い私のすべてを許してくれるのですね」老人は大粒の涙
を大量に流して、神からすべての罪が許されたことを知った。
 老人はこの世界の決まりどおり、迷宮の回廊を抜けて、ある部屋に入り自ら進んでガ
ラスの容器に入っていった。
「ああ、ようやくわたしも・・・」老人は恍惚におびた表情でそうつぶやくと全身にま
ぶしい光におおわれ身体中の細胞が分解されていった。かつて老人だったものはすべて
あるチューブの中に流れ込まれていった。そのチューブの先には巨大な培養液があり、
培養液の中から無数のチューブがはりめぐされて、その先には無数のガラスの容器があ
り、その中で羊水に似た液体の中で無数の子供たちが神に包まれたような安らかで幸福
に満ちた顔で大人になって目覚めるまで眠り続けていた。




#463/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  19/03/27  14:28  (232)
仮面をかぶった少年 $フィン
★内容
 色の白い端整な顔だちの少年と大振りの少しにきびのできた少年がふざけあって部屋
の中で遊んでいた。部屋の中に置かれていたクローゼットの隙間から新しい学生服が見
える。どうやら二人の少年の身体たちと新しい学生服から高校に入ったばかりのよう
だ。二人とも長い間部屋の中で笑い、馬鹿話をしてはしゃぎまわる。ためぐちを叩きあ
い、仲のいいところを見ると二人の少年たちは親友らしい。大振りの少年はベットの下
に隠していた裸体の女の写真集をもう一人の少年にどうだ凄いだろといって自慢げに見
せる。二人の少年はそれをじっと見ていいなと言って笑う。


 時間が過ぎてすぎ、色の白い少年は部屋に置かれていた目覚まし時計を見て家に帰ら
なきゃと言う。おい待てよと大振りの少年は言う。大降りの少年は、あそこじゃ美味し
い飯を食えなかっただろと言う。自分の母親が少年たち二人のために腕によりをかけて
美味しいものを作ったのだ。食べていけよと言う。色の白い寂しい顔をして首を振って
少年は断り、大振りの少年は勧める。なんどか同じやりとりが続き、やがて色の白い少
年が部屋を出るためにドアのノブに手をかける。


 そのとき、大振りの少年が怒ったようにある一つ単語を言った。ある単語を聞いて、
色の白い少年は能面のように凍りついた。そして色の白い少年は振り向き、大振りの少
年の方に顔を向ける。大振りの少年は、色の白い少年の顔を見た。色の白い少年はさっ
きまであった笑顔や寂しい仮面のような顔はすべて消え去り、なんとも言えないような
悲痛に満ちた仮面のような顔になっていた。君は酷いこというね。ぼくはこの言葉が一
番傷つくよと言った。確かに君の言うとおりなのかもしれないね。でも、心はまだ人間
なのだよ。


 君の知っているとおりぼくは事故にあった。学校の部活で帰るのが遅くなり辺りは暗
くなっていた。帰るのが遅くなってかあさんが心配しているからと思って急いで横断歩
道のない道を通ったよ。あれがぼくの最大の過ちだったと思っている。悔やんでも悔や
みきれない。あれさえなければこんなことにはならなかったはずだからね。ぼくはそれ
からの記憶はまったくなくなっている。


 どうやらぼくは車に轢かれたらしい。ぼくを轢いた車の持ち主は急いで救急車を呼ん
だのだけど、しばらくして救急車が到着したらしい。ぼくは全身血まみれでずたずただ
ったらしい。救急隊員はぼくを担架で運びながら可哀そうにもうこの少年はもう助から
ないなと思ったらしい。ぼくはその時本当にに死にかけていた。それでも少しの望みが
あればぼくを生き返らそうと、ぼくの心臓に何度も電気ショックを与えた結果、なんと
か心臓は動きだした。一緒にかすかだけど息もしたらしい。だけども油断はならない出
血はまずまず激しくなる。ぼくは救急車の中でいつ心臓がとまっても同じくない状態だ
った。緊急隊員は善意のある人で慌てた。まだ若い将来性のある少年を助けようと思っ
たのだろうね。いろんな病院に掛けても次から次に病院に断られた。最後の病院である
特殊な施設に行けば、もしかしたら助かるかも知れないと言われたらしい。そこで緊急
隊員は指定された場所に行き、ぼくは救急車から降ろされた。ぼくはヘリコプターの中
に入れられて、息もたえだえのぼくをなんとか死なさないために一気に冷却保存され
て、運ばれた上にぼくは特殊な施設に入れられたらしい。


 特殊な施設の研究員がぼくの家に来て、家族にぼくが助けられるすべが見つかるかも
しれないといろいろ説明されて、いきなり何枚かの用紙が渡させたらしい。ぼくの家族
は内容もほとんど確認せず、ぼくを助けたい一心ですべてのものにレを入れ、印鑑を押
して、用紙を研究員に渡したらしい。

 家族は小さな字で書かれた条件までもよく見ておくべきだった。ぼくが自ら死を選ん
だら、ぼくを助けた費用が全額家族に払わせる仕組みになっていた。研究員は悪魔同様
の巧妙な手口で家族を騙し、ぼくが死なせないように追い込んだ。これでとりあえず悪
魔のような研究員とぼくの家族との間は契約成立した。


 その後、特殊な施設の中で冷却保存されて死体同然になったぼくを、悪魔が喜ぶよう
な人体実験は始められた。ぼくは研究員があらゆる装置を使ってくまなく冷淡に判断し
て条件にあうものか徹底的に調べ上げたらしい。

 ぼくは、最初にある中に入れる条件にあうか身長や体重や体型を調査させられた。そ
れはすぐ適応することができた。その後も徐々に深く調査させられた。身体の表面から
見える身体の損傷具合など調査させられた。それに髪の色とか太さまでも調査させられ
た。目の網膜の色や大きさなども調査させられた。

 

 それらの条件に完全にあったぼくなのさ。条件にあわなかったぼくの他のたくさんの
見殺しにされた少年たちの遺族は可哀想だな。自分たちの息子の顔に白い布をかぶせら
れて見せられた後、研究員から最善の対策をうちましたが、駄目でしたまことにすみま
せんでしたと言われたら悲しみの涙を大量に流すだろうね。それでもぼくにはちょっと
うらやましいかな。ぼくは変に悩まず死んだほうがましだったし、少年たちの遺族には
ぼくには持っていないものがあるからね。

 

 すべての条件にあったぼくは研究員から特殊な処置をさせられた。ぼくの身体から脳
だけが取り出され、ある中に入れられた。

 その後ぼくは起きたとき覚えているのは灰色の部屋にぽつんとともった蛍光灯だけだ
った。鏡も洗面台もなかったね。その時にはぼくには必要のないものだったのだろう
ね。ぼくは鉄のベットに布団も何もかけてられていない状態だった。そしてなにげなく
自分の手を見たよ。ぼくの手は信じられないような異様なものに変貌していた。ぼくは
おののき狼狽したよ。しばらくして身体中を観察したよ。手だけではなく全身が異様な
ものに変貌していたのだよ。そのときのぼくの恐怖が君にはわかるのかな?おそらくわ
からないだろうね。

 しばらくして、研究員は入ってきて、恐怖で戸惑うぼくに笑顔で実験は成功としたよ
と神の祝福のような言葉を投げかけてくれた。


 その後ぼくは生かされるために研究員の指導の元毎日規則正しい栄養を摂取させられ
た。その後ぼくは、研究員はぼくの恐怖に満ちた心の状態を知らないまま、冷静にぼく
の脳の状態と身体が不適合を起こさないかをいろいろ調査して、今後の参考のために念
入りにデーター入力をして、その後の経過を観察され続けた。

 幾日がたちぼくは表面だけは人間らしい姿になった。何せ脳は計画的にできてすぐに
取り出せたもの、脳がなくなりぼくの死んだ身体から表面の皮を剥ぎとり、有機物の人
間の皮と無機物のものと接続可能なのかいろいろな特殊加工をするのにも時間がかかる
からね。

 その後、ぼくはみんなの前に晒されて、人類の希望とたたえられ発表された。世界中
の人は感動してぼくを見てくれた。ぼくは研究員から指示されたように最大の笑顔の仮
面をかぶり、手を盛んに振ったよ。でもぼくは笑顔とは反対にいつも心は泣いていた。

 そして君の知っている結果がこれなのさ。

 

 でもね。世間では公にされていないことがあるのだよ。

 ぼくの身体にはいろいろな秘密がある。それからぼくの顔すべすべして綺麗だろう。
それにうぶ毛もちゃんとついている。これも偶然に顔に一つも損傷部分がなかったから
なんだよ。もし一番目立つ顔に損傷部分があれば、ぼくの身体から取った細胞の培養に
時間がかかりすぎるし、同じ条件下で同じ皮膚の状態が作れることは滅多にないからな
んだよ。もし君が望むのなら服を脱いで裸になってあげようか。そしたら身体についた
損傷箇所が色や感触が微妙に違っているはずだからわかると思うよ。


 基本的には脳は人間のものだし、人間だった頃の皮は一応特殊加工されたもののまだ
人間らしいものを残している。それ以外はすべて人工のものなんだ。髪や眼球や歯や爪
の先まですべて完璧に人間に似せた人工の物なんだよ。

 ぼくは視覚、聴覚はかなり感度が高い。視覚は昼も夜も見えることはできるし、細胞
の一つ一つのものまで見えることもできるし、遠くは人間では見えない月のクレータま
で見分けることができる。研究者たち最高の傑作品を作るために全人類の技術を使いす
ぎて、やりすぎたのだろうね。でもぼくは人間の脳だから休めなきゃならないし、夜は
見えるが眠ることがなんどか努力してできるよ。

 それも聴覚も異常だな。ぼくのこの話を聞いている研究員関係の人は今のところ10k
m市内いないから大丈夫だ。

 だけど反対に嗅覚や味覚や触覚はまったく消去されている。そういうものは必要ない
と判断したらしい。

 脳だけは人間だから栄養を摂取しなければいけないから、人とは違って特殊な流動食
とペースト状の間の状態のものを食べないといけないし、まったく味を感じないし、食
べている気がまったく起こらないし、生きるために仕方がないから食べている。契約書
にしばられたぼくは家族のために死ねないから生き続けないといけない。 それにどこ
からでも栄養を摂取できるはずだけど脳に一番近い開閉口がたまたま口だからそこから
脳に与える栄養を効率よく短いチューブを通して送り込めるように設計したらしい。ぼ
くは人間が食べるようなものができないから、ぼくが食事を断ったわけがわかっただろ
う。

 ぼくが家で女の裸の写真を見て脳が興奮して、ある部分をこすっても何も感じない
し、ただ物理的に伸びるだけさ。微妙な人間らしい膨張などもいっさいないし、それに
胸や腹とかも同じことを規則的に膨らんだり凹んだりしているだけなのさ。でも外見は
普通の少年の日常の一定の生活のものだからさほど異常な事をしない限り、わからない
と思うよ。


 だけど表面から見える部分はすべて人間らしいものになっている。顔の表情も旨くで
きているだろう。頭の神経組織とある物と連動されて特殊加工された皮膚が微妙な表情
を作らせることができるらしい。ぼくは喜怒哀楽すべてが人間らしい表情ができる。だ
けど一点だけ欠点がある。一番人間らしい感情ができないのさ。こんな顔をしているの
に疑問に思ったことがあるだろう。

 ぼくが身体から脳が取り出されるときに一緒に脳の内部もほんの少しだけ変貌させら
れた。いや感情とかはごく普通のものだよ。

 その結果をぼくは試された。知能をあげる箇所を研究されて変貌させられたらしい。
知能テストでぼくの年代の少年の平均よりも化け物じみた高い数値を出したらしい。予
想以上の結果に研究員は満足したらしいな。今のぼくの頭の中は超天才だよ。 だから
いろいろなことが読めるのだよ。ぼくが事故を起こしてから目覚めるまで一切の記憶も
ないのに、論理的に分析にして今までのことを言ったのだよ。

 大丈夫、ぼくはこの後も普通の少年の仮面をかぶる。一応学校に復学したら一生懸命
勉強しているふりをする。そしてテストも最初はまごついて少しは高い数値を出すかも
しれないが、そのうち慣れてテスト配分の点数を読んで試行錯誤で何枚も仮面を剥ぎ変
えて最後は普通の少年の仮面をかぶれるようになれると思う。


 それからぼくは少しの先の未来が読める。ぼくはそのうち人類の種が衰えて、やがて
培養液のタンクから配給されて、ガラスの容器の中で羊水みたいな液体に包まれた胎児
がやがて大きくなり人間の赤ん坊の姿となったときガラスの容器から自動的に排出され
てくる日もあるだろう。物心がついた子供たちは自分が人間の腹の中で育てられた子か
ガラスの容器の中で人工的に作られた子か悩むだろう。

 さらにぼくみたいに事故にあったものは脳を取りだされて移植されるのは日常的にな
ってくるだろう。いや、自分からこの機能的な身体を望んで自らなろうとするものも現
れるだろう。やがて脳もすべて人工のものになる日もくるだろう。すべてのものは改良
に改良を加えて、視覚、聴覚、臭覚、味覚はもちろん触覚までも人間になる。例えば手
を切れば血が出て、普通に痛みを感じるようになる。


 子供の頃から自分が誰かと疑って大人になっても自分が誰かと疑って、疑い続ける存
在になる。やがてすべてのものが自分を何者かと疑問に思う日常に苦しみ続ける日も遠
からずくるだろう。

 最終的には一つのことに問題を集約させることになる。すべての意識を持ったものは
たった一つのことに悩みこむことになる。それは自分が何であるか。どういう道に進め
ばいいか。つまり、アイデンティティの問題さ。そしてぼくはその解決法も知ってい
る。現在自分は考えている。つまり意識を持っている存在であると開き直ればすむこと
さ。

 

 ぼくは以前は小さな存在だった。だけど今はあらゆる技術を応用してぼくの身体は複
雑なものに作りかえられた。君が言うようにぼくは人類の最新の技術で作られた最高傑
作品のロボットの最上部に脳だけを組み込まれて大きすぎる存在に成り果てた。 こん
なぼくを怖いと思うかい? いいよそう思われてもぼくにはまだ理解することができ
る。少し変貌させられたけど基本的には脳は人間のもの、皮は特殊加工させられた元は
ぼくの物だった。それ以外の身体は全部異様なものに変貌されている。どれもこれも中
途半端な能力があるけど、基本的には人間の脳だけは持ってから人間らしい感情はまだ
残っている。

 だけどぼくは中途半端な存在であるが故に、自分の眠り続けていた過去のことだけじ
ゃなく、遠い昔の人間の過去の深刻な悩みもわかるし、遠い未来の人間の深刻な悩み
も、その解決法もごくに簡単にわかってしまう。君から見れば人間の理解を超えた神か
悪魔のような両面をそなえた仮面を持っているわけのわからない存在になってしまった
からね。


 ぼくを恐れて君が離れていっても決して文句は言わない。でもね。ぼくは君と親友で
あり続けたいのだよ。ぼくはすべての仮面を剥ぎ取って君だけに心の叫びを言ったつも
りなのだけどね。とにかく君がどう答えるかぼくは返事を待ち続けることにするよ。


 じゃあね。ぼくは帰るよ。

 色の白い端整な顔たちをした少年はそう言うと帰って行った。少年は泣き出しそうな
表情を話し続けていても、人工の眼球からは一滴の涙を流せなかった。

 

 しかし人間の理解を存在になっても少年は知らないことが一つだけ残されていた。そ
れは少年はまだ仮面をかぶったままだったのだ。

 仮面をかぶっているものは決して涙を流すことができない。




#464/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  19/03/30  21:53  (149)
チート転生>1000年同じ姿でいる黒髪と黒瞳の美青年の話
★内容                                         19/04/02 12:30 修正 第3版
俺は新幹線のトイレから出て手を洗っていると、今の俺の顔に似た黒髪、黒瞳の美しい
顔の少年が見つめていた。
 「おとうさん」少年は俺に向けて言った。こいつは俺の息子だ。こんな風にさせて可
哀想なことしたなと俺は思った。
 
 俺は本当は別次元の頭脳明晰、銀髪、凄まじいまでの美貌を持っている上に更にオプ
ションがついてエルフ族最大呪術力まで持っているいわゆるなんでもできる万能のエリ
フ族、最大の王族の王子様だったんだ。
 
 俺は20歳になったばかりの年に、無邪気に遊びに行きたくて、呪術をつかって、別の
次元に行ってしまった。
 そこについたら、俺は驚いたよ。俺のまわりには汚らしいものがいっぱいあったのだ
な。見るものすべてが汚らしい。それに汚らしいものたちは俺を化け物を見るような目
で見やがる。俺は顔面蒼白、パニック状態だぜ。頭の中真っ白でいろんなところを逃げ
回ったよ。すべてが汚らしい。汚らしい。汚らしい。どこ行っても汚らしいものばかり
なのだな。それでなんとか考えて呪法を使って元の次元に戻ろうとしたらできない。何
度やってもできない。どうも俺の持っている呪力のほとんどを使って、ここに来てしま
ったらしい。
 それで俺はなんとか妥協策を考えた。少しの間だけこいつらの中に溶け込もうって、
それで少しでもましな奴を探そうとした。この次元では、箱の中で写真が動いていた。
後できくとテレビというものらしい。その中では黒髪、黒瞳の20歳前後の汚らしい男が
写っていた。あんまり趣味じゃないが、なんとか我慢して、俺自身をそいつとうり二つ
の顔に変貌させようとした。それぐらいの呪力は残っていたらしい。一発で変貌でき
た。それが今の俺の顔だ。今で言うと俺は美青年と言うものらしい。
 
 その後、腹が減ったので、汚らしいものの中に入った。後で教えてもらったが屋台と
いうものだったのだな。宝石とか金目のものは一切持っていなかったが、なんとか持っ
ている紙幣を数枚見せて、そいつらの餌を買おうとした。ところが、屋台の爺ぃは俺の
持っているものを見ながら馬鹿にした顔でおにいちゃん玩具のお札を出したら駄目だよ
ってにっと笑いやがる。そうだ俺の元の次元とここの次元は紙幣がまったく違ってやが
ったんだ。俺はエルフ族、最大の王族の王子様から一文無しのおにいちゃんに超格下げ
になっちまったのだよ。
 
 呪力を使って、何かそいつらの餌を出そうとしても出てこない。どうやら別次元の移
動と顔の変貌ですべての呪力を使い切ってしまったらしい。それから丸一週間、そこら
の水だけ飲んで、何も食べるものがなかった。俺はふらふらでどこをどう歩いたかまっ
たく覚えていない。さ迷える生きたゾンビ状態だった。倒れてのたれ死んでもおかしく
なかった。俺は気が遠くなり眠りについた。
 
 俺は次に気がつくと汚らしい布の中で寝ていた。汚らしい若い女が俺の顔をじっと見
ていた。あ、俺を見て、気がついたのねと笑いやがった。それで俺は起き上がって女が
得体の知れない汚らしいものが2種類出してきたので、こいつらの餌だと思って、味もわ
からずがつがつ夢中になって食った。それでも腹はすいている。女はそれを見てもう一
杯出した。それもがつがつ夢中で食った。何度も食った。後で女が言うところによれ
ば、俺は白ご飯を五杯、味噌汁を五杯食っては飲んでまた寝たらしい。その後、一週間
同じような状態が続いたらしい。俺はそこまで体力&呪力が落ちてのだろうね。
 
 その後、なんとか体力は復活したが、まだ呪力は復活できてなかった。それで俺は頼
るところがないと言うと、汚らしい女は考えた風に少し首をかしげて、私のところにし
ばらく泊まりなさいと言いやがった。他に考えがなかったので、妥協することにした。
そのうち、汚らしい女は女のもっとも汚らしいものの中に俺のもっとも大事なものをは
めやがったのだよ。俺は聖なる液体を女の汚らしい場所に放出するしかなかった。つま
り女は俺の童貞を奪ったということだ。その女が後で言うには俺のことを童貞とは思わ
なかったらしい。俺は物凄いテクニックの持ち主で翻弄されて狂いかかったと笑ってい
たよ。その時俺は女の奴隷となって飼われることがきまった。つまり俺は女のヒモにな
ってしまったということだ。毎夜女の求めに応じて、俺は聖なる液体を女の中に放出す
るしかなかった。
 
 後で女が言うところによれば、俺が生き倒れているのを見たとき、神様が赤い糸で結
んでいるような運命的な出会いを感じたらしい。それでほっとけなくて俺を自分の家に
連れて行ったらしい。女は可哀想に両親ともなくして一人暮らしだったから、誰か話し
相手が欲しかったのもあったらしい。やがて女は俺の妻になった。
 
 その後女は腹が少しふくらみをおびてきた。つまり俺の聖なる液と女の中のものとが
あわさって、胎児ができたらしい。人間の女ってそんなに子供ができやすい身体になっ
ているのか。エルフ族の俺には理解できないことだし、それを聞いて慌てた。女の腹か
らどんな赤子が出てくるかわからない。俺は医者に無理言って妻の出産に立ち合わせて
もらうことにした。俺の読みは当たっていた。そこで女から出たものはエルフ族の特徴
をほとんどそなえていた。俺は誰にもばれないよう急いで変貌の呪力をかけた。その頃
はなんとか変貌の呪力ぐらいは使えるようになっていたからな。それでなんとか人間の
赤子に見えるようになった。
 
 その赤子は生まれてまもなく俺と妻が育てることになった。俺は最初何をやったらい
いのか戸惑っていたら、なんとかできるようになった。それがなんと楽しくなってきた
のだな。赤子が大きくなると楽しくて楽しくてたまらなくなってきたのだな。後でそれ
が子育てというものだとわかった。
 
 それと同時にこの次元を見る目が変わっていった。俺は変わったのじゃない。赤子を
愛することで、赤子自身が呪力を使わずに俺の次元を見る目を汚らしいものから素晴ら
しいものに変えていったのだった。
 
 赤子はすくすくと大きくなり、今は10歳の黒髪、黒目の美しい少年になった。変貌の
呪いを使わなかったら銀髪、凄まじいまでの美貌を持っているエルフ族の俺に似ている
と思う。事実こいつはすべての全教科最高の評価を受けている。頭は俺に似たのだろう
と思った。

 「おとうさん、ネズミ王国楽しみだね」と息子は言った。俺は寂しく「ああ、そうだ
ね」と笑いかけた。
 
 実はな、これ最後の家族サービスで俺が計画したんだ。俺エルフ族だろ。エルフ族は2
0歳から普通に成長して、そのままほとんど成長が止まって後1000年ぐらい「しか」生き
られないのだ。俺の姿は20歳から変わっていない。妻は何かおかしいと思っているらし
い。俺はここから去らないといけないのだ。
 
 そして俺は最大の王族の王子様だろ。王位を継がないといけない使命まで持ってい
る。もう次元への移動もできるだけの呪力も数年前に戻っている。
 
 でも、戻らなかった。こいつが10歳まで俺の言うことがわかる年まで待っていたん
だ。それにこいつ、呪法が使える年齢になっている。ねずみ王国に帰ってから、俺のこ
とや呪法の使い方、特にこの次元の人間に悟られないように注意することを一番先に言
うことを決めている。ただ呪法はただ一つを除いて徹底的に教え込むつもりだ。俺がこ
いつに考えている未来の計画まで打ちあけるつもりなんだ。こいつはその話を聞いてか
なり動揺するだろうが、俺もそろそろ限界だし、こいつも理解できる年齢になっている
し頭もいいからたぶん大丈夫と踏んだんだ。
 
 未来の計画はできるかわからないが、やってみようと思っている。こいつもエルフ族
の血を引いているだろ。たぶん20歳ぐらいで成長がとまるははずだ。この次元でいい女
捕まえて、夫婦にさせて、子供は一人限定で子育ての楽しさを教えさせてやりたいと思
っている。一人以上増えたら俺の計画が頓挫してしまう。それでこいつの子が生まれた
ら俺がやってきて、またこいつの子に変貌の呪いを変える。こいつにも変貌の呪いぐら
いの呪力を持てると思うがわざと教えない。実のところ、こいつにも会いたいし、孫に
も会いたいのさ。俺の妻にはあえないのは少し残念だな。それに妻やこいつに俺がいな
くなる償いをしようかと思っている。俺は王族の王子様だよ。妻と息子が一生働かなく
ても遊べるだけの貴重なものをこの次元で選んで持ってこれるし、こいつが30歳になっ
たら俺みたいに家族サービスさせて、出ていかないといけないことを教える。それに呪
力も寿命も俺の半分しかないから、次元を移動する呪法も使えない。だからこの次元限
定で放浪の旅をしないといけない。そのためには一生遊べるだけのものも持ってこない
といけない。
 
 それに孫が成長して子供を産んだら俺がまたやってきて、変貌の呪いをかける。そし
て俺はしばらく次元を超える呪力はなくなるから復活できるまで目の前の息子と一緒に
この次元で放浪の旅にでる。そして永遠に、子孫たちには同じことをさせる。次第に俺
の血は薄くなり、おそらく五代目以降は、この次元の普通の子供と同じ姿で生まれてく
ると思う。そうしたら、俺の役目は終りを迎える。 
 それと俺もう一つ悪いことをしている。俺実は妻に内緒で浮気をしているのだ。転生
の女神と夢の中であれをやったことがあるんだ。そのときは俺は精神的なものになって
姿形はエルフ族のままなんだ。つまり、銀髪、凄まじいまでの美貌を持っている上に、
あっちも俺は物凄いテクニックの持ち主だとわかったから、その力を全力で使って、転
生の女神も翻弄されたあげく狂わす寸前まで追いつめた。転生の女神に命じて、強制的
にこの次元の俺の直系の子孫をみな男にさせた。彼らが死を迎えたら、転生の女神が一
時的に魂を保存させて、俺の子孫の男たちをランダムにエルフ族の王族の俺の息子や娘
にさせてチート転生させることになった。ただその度に転生の女神はあれをやらないと
駄目だからとごねたのだから仕方がないやるよ。
 
 チート転生の一つで妻の美しい魂をもち美貌のエルフ族の別の王族になった娘を俺の
后に選ぼうと思っている。長寿のエルフ族同士だからなかなか子供はできないけど、俺
の聖なる液体を后の一番美しい場所に毎夜送りこむよ。そしたら50年か100年に一度ぐら
いまぐれで体内で受胎する。そのとき転生の女神が俺の子孫の一時的に保存しておいた
魂をすかさず、胎児の形になる前に放り込む。今の俺の妻は理解できないだろうからこ
の計画は内緒にしておくよ。
 
 まあ、これは俺が生きている限り今考えたことを続けるつもりなんだけどね。
 
 「あ、おとうさん、次の駅で降りることになるよ」エルフ族の最大の王族の王子の壮
大な1000年計画を知らないまま、黒髪、黒瞳の10歳の美少年は、黒髪、黒瞳の20歳から
同じ姿のままでいる美青年に無邪気に笑いながら声をかけた。
 
 美青年と美青年の妻は美少年の声を聞いて旅行かばんを手に持って、座席から席を立
ち、新幹線に出入り口に向かっていった。




#465/549 ●短編
★タイトル (XVB     )  19/03/31  09:02  (157)
ディック世界>ゼンマイ仕掛け $フィン
★内容
その一

 少女は中学校に行くために家から扉を開けるとちょうど隣人が何かを持って捨てに行
くところに出くわした。
「おはようございます」少女は隣人に挨拶した。
隣人はゼンマイ仕掛けだった。ただ個性があるらしく全身黄色い色をしていた。
少女は気にすることもなく制服のリボンが少しずれていることに気づいて、少し触って
普通に学校に出かけて行った。
中学校に行く途中でいろいろな人にあった。全身ピンク色のゼンマイ仕掛けは白いエプ
ロンをしていた。全身緑色のゼンマイ仕掛けはスーツケースを持って忙しそうに歩いて
いた。全身茶色のゼンマイ仕掛けのよたよたと歩いていた。
それぞれ多種のゼンマイ仕掛けたちは、少女にはみんな知り合いでごく普通に笑顔で挨
拶していた。
中学校の生徒でも同じようにいろいろなものがいた。彼らはみんな同級生であり、授業
中に騒ぎ少し先生を困らすために全身若緑色のゼンマイ仕掛けはどこからか水を持って
きて先生にかけたりしていた。全身真っ赤のゼンマイ仕掛けは口から赤い燃えるような
言葉をはいて、気に入らない子を苛め抜くものもいたが、少女は気にすることもなく、
授業を受け、全身真っ赤なゼンマイ仕掛けから燃えるような言葉を聞くのが嫌いだった
のであえて避けていた。
 少女はどんな姿であるにもかかわらず比較的大人しい優しいゼンマイ仕掛けの女の子
たちの仲間に入り、一緒におしゃべりをし、机を並べては楽しんでいた。
 そして午後の授業がはじまり、授業を受け、授業が終わり、学生かばんを持って家に
帰るのが少女にとってごく平凡な日常を送ってごく普通の幸せを毎日感じていた。
 そんなある日、少女のごく普通の日常が一変した。きっかけは差出人不明の家のポス
トに入っていたものだった。ポストから出して、中身を開けると記録媒体がが入ってい
た。少女は好奇心でその記録媒体を見た。それは白黒に写り、かなり古いもののよう
で、画像も荒く、非常に見にくいものだったが、男の人が扉を開けるのがなんとなくわ
かる映像だった。
 その後すぐ少女の住む家の玄関の扉に大きな音でどんどんと叩く音が聞こえ、少女は
父親は会社に行って、母親も買い物に出かけていて、少女一人しかいなかった。少女は
誰も頼るものもなく恐怖で震えた。少女は玄関の扉を開けることがないようにすべての
あるだけの鍵をかけたが、外には大勢の人がいたようで扉はあっけなく破壊された。
 そこで少女が見たものは二、三人の男たちと一人の女の人だけだった。
 少女を怖がらせないために女の人は「あなたにして欲しいことがあるの」と優しく言
った。
 ところがその言葉を聞いたとたん少女は今までにない恐怖を感じた。
 恐怖に震えながらも、少女は「どんなことをしたらいいの」とそれだけ聞くのが精一
杯だった。
「それは今はまだ教えられない」更に優しい声で女の人は言った。
「それをしてくれたら、私が一番大切にしていたものをあげる」女の人は豪華な金や銀
で飾られた紫色のランプを少女に見せた。
 少女はそれを見ても欲しがろうとせず、三人の男と特に中心にいる女の人から遠ざか
ろうとして、逃げようとした。
 逃げようとした少女に三人の男がいっせいに掴みかかる。少女は必死で抵抗して、男
たちの手や足を?み、彼らの一瞬の隙をついて逃げ出した。
 その後少女は彼らに捕まらないためにいろいろなところに逃げた。近所から離れて今
まで行ったことのない酒場や教会、浜辺や小高い丘や氷河か残っている山脈まで逃げ
た。
 少女は思いつく限りの至るところに逃げ、逃げて、逃げて必死だった。それでも彼ら
は執拗にやってきて、少女の近くにやってくるような気がした。もう少女は頭をかきむ
しりパニック状態になりながらも逃げた。
 そして最後に少女が到着したところはいたって平凡な短い草しか生えていない空き地
だった。そこに一枚の鉄の頑丈そうな白い扉がぽっかり宙に浮かんでいた。
 そして少女はこの扉を開ければ彼らから完全に逃げられる唯一の方法だと知った。
 少女は扉ののぶに手をかけた。鉄の頑丈そうな扉は見掛けとは違って簡単に力を入れ
るとあっさりと扉が開いた。
 そのとたん、世界は急に姿を変えた。彼女は強烈な何か見えないものの力で押された
ように、少女は押し戻された。
 今まで行ったところすべてが目に見えないぐらいの速さでひきもどされ同時に少女の
時間も逆流された。少女はその間恐怖で声に出すことすらできずにいた。
 少女の時間がとまり、気がつくと少女は家の玄関の前に立っていた。少女は玄関の扉
を開けた。
 そこにはちょうど隣人が生ごみを持って捨てに行くところだった。
 「おはようございます」少女は隣人に挨拶した。
 隣人は少し頭の剥げたごく平凡な中年男だった。
 少女は制服のリボンが少しずれていることに気づいて、少し触りながら、少女の部屋
にある豪華な金や銀で飾られた紫色のランプがあるのを不思議に思った。昨日までなか
ったはずなのに、家族の誰かが少女を驚かそうとちゃっめけを起こして置いたものだろ
うと思うとくすりと笑った。
 少女はリボンをなおし終わるといつものように普通に学校に出かけて行った。

その二

ぼくは黄昏島にある全寮制の私立黄昏中学の2年生。
 それは最初はどこでもある昼下がり給食後の女子トイレの中で起こったらしい。ぼく
は男子だから入れないが、その場所がすべての始りであったという噂だ。
「きゃあ」ポニーテールが似合う今日子ちゃんが濡れたハンカチを握りしめながらトイ
レの洗面台の中を呆然と見つめている。
「今日子どうしたの?」近くにいた女の子たちが悲鳴を聞いて近づいてきた。
「ううん、なんでもないの」今日子ちゃんは蒼白の顔をして、洗面台に落ちていたもの
をみんなから隠すようにしながら拾った。だけどもそれは運悪く女の子たちに目撃され
てしまった。それは血が一滴も出ていない小指だったのだ。
 噂はぱっと広がり今日子ちゃんはまわりのものから気味悪がられ、仲のよかった友人
たちまで遠巻きに見るようになった。それから後も今日子ちゃんの異変は続き、不意に
指をぽろりと床に落としたり、さらには席を立った後机の上に腕がまるごと残っていた
りした。けれどその学期が終わる頃には今日子ちゃんはもうクラスメートたちから仲間
外れにされることはなかった。なぜなら今日子ちゃん以外にも、ちょっとした拍子に手
足などの身体の一部分を落としてしまう女の子たちがではじめたのだった。そしてそれ
はやがて男の子、教師……それからこの島の人間すべてに伝染していった。
 最初はこの無気味で奇怪な伝染病の発生に学校関係者や島民たちはほとんどパニック
を起こしそうになった。しかし日毎に感染者が増え、ほとんどの者がその異変を体験し
てしまうと恐慌は不思議なことに急速におさまっていった。人々は身体の一部が離れて
しまうことに無頓着になり、しまいには乳児の歯が抜けおちるぐらいの日常茶飯事とな
った。そしてむしろその異変を便利に思うようにさえなっていった。例えば身体の悪い
部分だけを病院にあずけて残りは普通の暮らしすることができたりするのだから。
 しかしそんな奇妙で平穏な島の日常も、他ならぬこのぼくが図工の授業中ふとしたは
ずみで自分の手を切ったことから破られた。ぼくの指からぽたぽたと赤い血が工作キッ
トの上に落ちたのだった。
「きゃ! 血よ。気持ち悪……」「汚ねえ!」「なんだこいつ?」
 たちまち教室中が騒然となり、ぼくはその場から走って逃げ自分の部屋にかけこんで
隠れた。そう、いつの間にか人間たちは内面まですっかりゼンマイ仕掛けの人形のよう
な存在に変わっていたのだった。身体がすべて秩序正しく区分された部品から成りたっ
ている彼らから見ればぼくは薄気味の悪い血肉を詰め込んだ得体の知れない皮袋のよう
に見えたに違いない。そして、そんな気持ちはぼくにもとてもよくわかる。だからこ
そ、ぼくもみんなと同じように早く自分の指が落ちないかと願っていたのだ。でも残念
ながらぼくは今だに血肉の溜まった皮袋のままだ。
 ああ、清潔な白い洗面台の中に転がっている今日子ちゃんのピンクががった可愛いら
しい小指! ……それにひきかえぼくの指はごりごりとした骨と血肉を包み込んだうぶ
毛の生えた腸詰めじゃないか!
 ドンドンドンバリバリバリ、ゼンマイ人間たちが部屋の扉を蹴破って汚物処理をはじ
めようとしている。耐え切れない不潔さは憎悪の対象になるようだ。
 ぼくは窓から海にこの手紙が入ったボトルを投げるつもりだ。拾ったあなたのまわり
の人間が指を落しはじめたらゼンマイ仕掛けの世界が近づいている証拠だから気をつけ
なさい。さっさと逃げるか、それともひたすら自分もゼンマイ人形になることを願うか
…いずれにしても早めに決めたほうがいい。
 部屋の扉が壊されていく。もう最後だ。たぶんぼくは糞便が入っている汚物タンクに
沈められてしまうだろう。さようなら…

その三

男は変な思いにとりつかれていた。
 世の中すべてがゼンマイ仕掛けで動いているように思えて仕方がないのである。男自
身でさえも、ゼンマイ仕掛けでできているのではないかと毎日思い悩んでいた。
 男の住んでいる所は白い建物の中、何人かの人間と一緒に仕事をしている。まわりの
者に不安な心の内を話をしていても、気のせいだと言って、適当に相槌を打つだけで相
手にしてくれない。仕方がないので、毎日医者から薬を貰っている。人の話を聞いた
り、薬を飲んでも、男は体がゼンマイでできているという思いは深まっていくばかりだ
った。
 一年、二年と白い建物の中での平穏な生活は続いていく。そして血色のよい皮膚の下
には血液を流すプラスチックの管が縦横に通っている。有機質の代わりに無機質のゼン
マイが大量に積め込まれているとまわりの人間に話すのである。まわりの人間は話しを
聞くことを嫌がった。男は1度話しだすと、相手が何を言おうと疲れて寝てしまうま
で、延々と何時間でも続けるのである。そのため男は白い建物の中では浮いた存在にな
ってしまっていた。
 あるとき、男は人を殺すことを決心した。殺すことで、男の体はゼンマイ仕掛けでで
きているのか、血のかよった人間かの問いに何らかの答えが出ると思ったのだ。それに
今のままでは男は狂いそうだったのである。
 まず、男は作業所においてあるナイフを手に入れた。それを大事に自室に隠した。
 男は若い人間はまだ将来があるから止めにした。それから同年輩の人間も力で負ける
かもしれないから止めにした。そして男は昔からいる老人を標的に決めた。老人はいつ
も古めかしい本を小わきに抱えている。中には何が書かれているのかわからない。若く
ても同年輩の人間でもよかったのだ。老人が白い建物にいたからこそ人間を殺す計画を
立てたのである。男女の間柄に恋わずらいという言葉があるが、男は老人に殺人わずら
いしていたのだった。
 老人は人間の代表であると男は感じていた。こいつを殺してしまえば今人間の格好を
している者すべてはゼンマイ仕掛けか本当の人間か知ることができると夢想するように
なっていた。
 こうして、男は手に入れたナイフで老人を殺し、老人は動かなくなった。老人は最後
に安堵の笑みを浮べたように男には見えた。それも確認する暇はなく、ピーピーとカン
高い笛の音で男はまわりの人に取り押さえられて独房に入れられてしまった。
 男は満ち足りた気分だった。老人は人間だった。つまり男もゼンマイ仕掛けではない
とわかったのである。老人を殺してようやく安堵の微笑みを浮べることができた。
 しかし、その微笑みも長くは続かなかった。男は独房の中で、老人が持っていた古ぼ
けた本を見たのである。それは老人の日記だった。それには「私は最後の人間である。
どうしても寂しくて仕方がないので、ゼンマイ仕掛けの人間を作り、感情を持たせ、白
い建物の中で一緒に働いている」と書かれていた。





#466/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/04/11  19:59  (197)
お題>僕は君だけは許せない   寺嶋公香
★内容
 地天馬鋭は額に片手を宛がい、ため息を一つついた。
「相羽君が困って持ち込むほどだから、一体どんな難事件の依頼かと思いきや」
 机越しに向けた視線の先、少し離れた位置で相羽信一が応接用のソファにちょんと引
っ掛かるように浅く腰掛け、背を丸め気味にしている。
 ここは地天馬の探偵事務所。あいにくと“私”が留守の時ときの出来事なので、又聞
きになるが、土曜の午後に知り合いで学生の相羽君がやって来た。
「僕はあるときから事件の選り好みをしないように心掛けているが、この件は受けられ
ないな」
「でも」
 相羽が背筋を伸ばし、手に握りしめた携帯端末を指先で軽く叩く。
「これを読んだ僕が、動揺するのは道理だと思いませんか」
 相羽宛てに届いた電子メールのことだ。ほんの三分ほど前に地天馬も見た。
 そこにはこうあった。

<“ぼくはきみだけはゆるせない”

  時は濁りを取り、三毛は分を弁えて小さくなる

35 10 26 41 3 59 0 42 34 45 2 27 22>

 これだけなら絶縁宣言か脅迫かいたずらかと、あれこれ選択肢が考えられそうだが、
そういう想定は必要ないと地天馬は判断を下していた。
 決め手となるポイントは差出人である。
「分かるよ。恋人からそんな文面を送り付けられたのなら、動揺してもおかしくない」
 相羽にこのメールを送ってきたのは恋人で、同じく学生の涼原純子。
「でしたら――」
 気持ちが分かるのであれば依頼を引き受けてください、と言わんばかりに勢いよく腰
を上げた相羽。その動作を手で制する地天馬。
「いや、だからこそ、だよ。僕は会った回数こそ多くはないが、君と涼原さんがどれほ
ど信頼し合っているかを充分に把握している。そこから導き出される結論は単純明快
だ。つまり――ありえない」
 地天馬はスケジュール帳を確認した。他に依頼の予約はなかったかと念のために見て
みたのだが、記憶していた通り、何もなかった。話を続ける。
「あの涼原さんは、相羽君にこんなメールを送らない。いたずら・ジョークめかしたク
イズの類か、そうでないなら間違いだよ。それでおしまい」
「も、もちろん、僕もそう考えました。いかにもな注釈と数字が続いて書いてあります
から。でも、まず、間違いとは考えにくいんです。今のじゅ、涼原さんは名簿にほとん
どデータを入れていない。落としたりなくしたりして、拾った誰かに悪用されたときに
迷惑が掛かるのを最小限にするためだって。家族と極々近しい人物しか登録していな
い。だから、間違えたという可能性は除外」
 それだけの根拠で間違いの可能性を除外というのは些か乱暴だと思った地天馬だが、
敢えてスルーした。
「ジョークならそれと分かるように送るものでしょう? 注釈と数字があるとは言え、
これじゃあセンスの悪い単なる嘘ですよ」
「いやいや、少なくとも本気でないのは明白じゃないかな。『ぼく』と使っている」
 地天馬の指摘に相羽は曖昧に頷いた。
「それはそうなんですが……涼原さんは男役もやるので、その癖が出たのかも」
「は! そんな低い、それこそ絶対になさそうなわずかな可能性を心配しているのか
い。恋は盲目とはよく言ったものだね。ああ、このケースは逆になるのかな。色々と見
えすぎて、余計な幻まで生み出してしまっている」
「真剣に悩んでいます」
 故意にテンションを上げた喋りをしてみせた地天馬に対し、相羽は静かに反応した。
「言い方を変えます。改めて断るまでもなく、僕は涼原さんを信じています。それ故
に、こんなメールが送られてきたことは、不可解でなりません。別の言い方をするな
ら、途轍もなく強力な謎です。この謎を解き明かしてもらえませんか?」
「――分かった。相羽君にとっては大きな謎なのだ。うん、理解した。引き受けるとし
よう」
 地天馬が請け負うと、相羽の表情は見る間に落ち着き、明るくなった。
「ありがとうございます」
 頭を下げる相羽の前まで出て行くと、地天馬は質問した。
「取り掛かる前に疑問がある。彼女に直接聞くというのではだめなのかい?」
「それが昨日の夕方から涼原さん、撮影とレポートの仕事で船の上の人なんです。大型
クルーズ客船の」
 涼原純子はモデルなど芸能関係の仕事をこなす、れっきとしたプロでもある。
「もしかすると、ネット環境にないのか」
「はい。正確には、船側からなら、別料金を払って船の設備を使うことで、ネットにア
クセスできるようです。こちらからはどうしようもありません」
「問題のメールが送られてきたのはいつになってる?」
「午後五時二十九分。船の出港予定時刻の三十分後ぐらいです。岸を離れてしばらくす
ると、つながらなくなるみたいなんですよね。だから、このメール変だぞと思って聞き
返そうとしたときには、もう遅かったという」
「なるほど。次にネットがつながりそうな時刻は分かっているのかな」
「明日の朝九時に着岸予定ですから、その前後になると思います。二泊三日の無寄港ク
ルーズで、今日は丸一日つながらない」
「……五時二十九分何秒に着信したか、秒単位まで分かるかい?」
「ええ。五十五秒になっていますが」
「なるほど。涼原さんは焦っていたのかもしれない。五時半までに、いや、五時二十九
分台に送る必要があったが、ウェルカムパーティやら出港イベントやらで、思わぬ時間
を取った。それでぎりぎりになってしまい、もしかするとこのメール、最後の一文が抜
けた可能性がある」
「え? どんな一文なんでしょう?」
「正確な文言は分からないが、意味は一択だ。この暗号を解いて、だろうね」
「暗号なのは大体想像が付きますよ。最初に言いましたように、ジョークの一種みたい
なもので」
 不満げに唇を尖らせる相羽。地天馬はたしなめた。
「着目するポイントはそこじゃない。さっき言った二十九分に送る必要があったという
推測だ。言い換えるなら、メールの着信時刻こそ、暗号解読の鍵となる」
「……あ。僕も分かった来たかもしれません」
「そりゃいい。ぜひとも、解いてみてくれるかな」
「はい……濁りは濁音、三毛は『み』と『け』の文字をそれぞれ指し示していると仮定
します」
 相羽の手が物を書くときの仕種をしたので、地天馬は紙とペンを用意して渡した。渡
した方、受け取った方、ともにローテーブルを挟んでソファに座る。
「すみません。――“ぼくはきみだけはゆるせない”は十三文字。羅列された数も十三
個書いてあるので、文字に数を前から順番に対応させる。
 濁音は『ぼ』と『だ』。時は……メールの着信時刻の時間の方だろうから5。いや、
違うな。多分、二十四時間表記だ。つまり17。この値を『ぼ』と『だ』に対応する
数、35と59に……『取り』という言葉を使っているくらいだから、マイナスするで
しょうか。そう仮定するなら、『ぼ』18、『だ』42。
 もう一方のグループである『み』と『け』に対応するのは、当然、メール着信時刻の
分、29になる。『分を弁え』とあるのは、29を弁える……弁えるの意味は、区別す
ることと解釈すれば、マイナスか」
「分けることは必ずしもマイナスではないんじゃないかな。強いて加減乗除で言うな
ら、除算、割る行為だと思うね」
 地天馬の意見を入れて、相羽はさらに推測を重ねる。
「だったら他の意味……数に絡めて解釈できそうなのは、つぐなう、調達する、辺りで
しょうか。これなら29を加えることに通じる。よって『み』の3は32になり、『
け』の0は29に。――あ。純子ちゃんが二十九分に送信したかったのは、それを過ぎ
ると『け』に最初対応させる数が0ではなく、マイナスになってしまうから?」
「同感だ。僕はそこから逆に考えて、弁えるは加算だと推定した」
 地天馬が喋る間に相羽はペンを走らせ、濁点を取った十三の文字と、新たに浮かび上
がった値に直した数字の列を書いた。

 ほ  く  は  き  み  た  け  は  ゆ  る  せ  な  い
18 10 26 41 32 42 29 42 34 45  1 27 22

「素直にシンプルに想像すると、対応する数の分だけ、文字をずらすんだと思います。
濁音のある字をなくしたことから、五十音表を用いるのかな。実際は『ん』を含めた四
十六文字の」
「いろはにほへとではだめかい」
 少々意地悪げな笑みを作った地天馬。相羽は小さく肩をすくめた。
「分かりません。ここまで来たら、試行錯誤あるのみですよ。とりあえず、数の分だ
け、前方向にずらしてみます。18だったら18文字先の文字にスライドさせる。『
ほ』を起点に18文字先は……最後まで来たら、頭に戻って『い』だ」
 同じ要領で、順次、文字を置き換えていく。そうして最後までやり通したとき、相羽
は微かに頬を赤くした。
「おや、これはこれは。いたずらどころか、ラブレターだったとはね」
 わざとらしく驚いてみせた地天馬。最初から分かっていた答を前に、芝居がかるのは
仕方がない。

 ぼ  く  は  き  み  だ  け  は  ゆ  る  せ  な  い
18 10 26 41 32 42 29 42 34 45  2 27 22
 い  つ  か  い  つ  し  よ  に  の  り  た  い  ね

「えーっと! 『み』『け』それぞれに対応する『つ』と『よ』は『分を弁えて小さく
なる』のだから、促音、拗音に変換しなくちゃいけませんね。よし、これで完成。『い
つか一緒に乗りたいね』だったんだ」
 大人からの冷やかしをシャットアウトしたいのか、相羽は声を大きくし、手も大げさ
に叩く。しかし地天馬は、違うところから一つの指摘をした。
「解けてすっきりしたのは結構なことだが、まだ残っているだろう、謎は」
「え?」
「この方式の暗号なら、数さえ変えれば、元の言葉は何にでもできる」
「確かにそうですね。あ、そうか。だったらどうして純子ちゃんは元の文章を、“ぼく
はきみだけはゆるせない”にしたんだろう……」

             *           *

 これといった解答を決められなかったため、相羽は本人に直接聞くことにした。
 日曜の朝、Y港に戻って来るのを迎えに行ってもよかったのだけれども、純子の方が
下船後も仕事の関係で多少時間を取られるであろうことは、最初から分かっていた。そ
れなら自宅にいて(いなくても大丈夫だけど)電話を待つ方が多分確実。
 いよいよとなったら、時間を見計らってこちらから掛けてみればいいんだし……と思
った矢先、お目当ての電話が掛かってきた。八時半、入港予定の三十分ほど前だ。
「――おはよう。無事に到着と思っていいのかな」
 自分達の推理が当たっているとしたら、向こうはきっと大慌ての焦った調子で第一声
を上げるはず。そんな考えから機先を制し、落ち着いてもらおうとした。
「あ、おはようっ。相羽君ごめんなさい!」
 たいして効果があったとは言えないようだ。
「何、いきなり謝るなんて」
「メールよ、メール。二日前、おかしなのが行ってるでしょ?」
「うん、来た来た。びっくりした」
「ほんとにごめん! あれは最後にこの文章を解読してねっていう言葉を付けるつもり
が、忘れてしまって。乗ってすぐに、予想以上に楽しかったものだから、ついぎりぎり
になって」
「楽しんで仕事ができたのなら、何よりです」
「うう、怒ってない?」
「全然。ただただ驚いたけど、ある人のところに相談に行って、解決してたから。安心
していいよ」
「ある人? 解決って、もう解いてるのね?」
「うん。いつか一緒に行こう」
「――よかった」
 安堵感が電話越しでもようく伝わってきた。相羽は笑いをこらえつつ、自分にとって
の本題に入ることにした。
「でも、一つだけ、分からないことがあるんだ」
「ええ? 何?」
 純子の声が再び不安を帯びる。相羽は急いで続けた。
「その、元の文が、どうしてあんなどっきりさせるようなものなのかなって。『ぼくは
きみだけはゆるせない』にしなくても、穏便に『おみやげたのしみにまってて』とか、
びっくりさせたいなら『ながすくじらとぶつかったわ』とか、十三文字なら何でもいい
でしょ」
「あ、そこ? 相羽君の気持ちを想像して、あれこれ考えていたら、あんな言葉になっ
ちゃった」
 純子の口調から緊張が緩み、代わりにいたずらげな響きが滲む。
「僕の気持ちって……分かんないな。君だけは許せないだなんて、全く思ってない」
「だいぶ省略してるから」
「うーん……」
「この仕事の話が来たって相羽君に言ったとき、『僕も行ってみたいな』って呟いてた
じゃない?」
「それは覚えてる」
 覚えているが、何の関係があるのやら。
「だからね、『相羽君は私一人だけがクルーズ船に乗るのを許したくない』んじゃない
かしらと思って。そこから十三文字にするために色々削って、置き換えて、『ぼくはき
みだけはゆるせない』になったの」
「……」
 省略しすぎだ。

――『そばいる番外編 僕は君だけは許せない』おわり




#467/549 ●短編
★タイトル (sab     )  19/04/19  20:26  (190)
お題>僕は君だけは許せない     HBJ
★内容
荻野「お前、理香子だけは許せないんだろう?」
小林「許せないというか、どうしてあんな間違いを犯したかって感じなんだけど」
荻野「一体誰と浮気したんだ?」
小林「そんなの分かってりゃあ、自分で相手の男に文句を言いに行くよ」
荻野「じゃあなんで浮気したって分かった?」
小林「クラスの女子が話しているのを聞いちゃったんだよ。ラブホから出てくるのを
見た、って」
荻野「ふーん。で、どうしたいわけ?」
小林「つーか、お前、いやに心配してくれるんだな。何でだ?」
荻野「そりゃあ、君も理香子も俺んちの産婦人科で産まれたからな」
小林「ああ、そっかー。そういえば、お前、教壇に立って「このクラスの女子の半分は
俺んちで生まれた」とかとんでもないセクハラをやってのけたよな」
荻野「特に君と理香子は産まれる時おんなじ病室だったしなぁ。俺も誕生日が
近かったんだけれども。とにかくそんな感じで、産婦人科医といえば親も同然だから
親身になる訳だよ。で、理香子をどうしたいんだ?」
小林「まぁ俺は、分かってもらいたい、っていうか、反省してもらいたい、っていう
か、
自分から気が付いてもらいたいって感じなんだが」
荻野「って事は理香子が自分から恥じ入る様になればいいってこと?」
小林「まあ、そうだな」
荻野「だったら、理香子がお前に誓った愛の言葉をsnsに晒しちゃうとか。
そうすりゃあ恥ずかしくなって自殺するんじゃないの?」
小林「そんなのリベンジポルノじゃないか。そういうミステリーがあった気もするけ
ど、
そんな卑劣な真似はしたくないよ。っていうか、向こうから気が付いてくれれば
いいんだけど」
荻野「自分の手は汚したくない、って感じか」
小林「そういう訳じゃあないけど」
荻野「でもそういう方法もあるんだぜ。自分は全く手を汚さないで相手を始末する方法
が」
小林「そんなの望んでいないけれど…、参考までに聞いてみたい」
荻野「誰かが見た瞬間に死ぬ、っていうのがあるんだよ。
お前、シュレディンガーって知っている?」
小林「シュレディンガー?」
荻野「ああ。有名な量子力学の物理学者なんだが。「シュレディンガーの猫」
という実験があって、箱の中に猫がいて誰かが見た瞬間に50%の確率で死ぬ
というのがあるんだよ。つまり理香子が誰かに見られた瞬間に50%の確率で死ぬ」
小林「死なんて望んでいないけれども、そんな事がどうして可能なんだ?」
荻野「それはなあ…。その前に、お前はどういう感じで憎んでいるの? 
愛や憎しみにも色々あるあろう。直接相手と向き合っていて相手が気に入らない、
というのもあれば、天の摂理を実現しようとしているのに相手がそれに背いているから
気に入らないというのもあるし」
小林「まさにそうなんだよ。理香子が浮気したのが俺への裏切りだから気に入らない
っていうんじゃないんだよ。仏教的に言えばそんなのは”なまぐさ”同士が
向き合っていての愛憎であって…。
俺はこう思う。宇宙には原理があってこれを梵という。
そして私の中にも原理があってこれを我=仏性という。
これらは同一で、これを梵我一如という。
で、身体なんていうのは、仏性の先っぽにぶら下がっている腐った”なまぐさ”
みたいなものだろう。
だから、そんな”なまぐさ”同士の愛憎なんてどうでもいいんだよ。
俺はあくまでも梵我一如的な仏性同士の愛を裏切った、という事で怒っているんだよ
ね」
荻野「それだったら、まさに、シュレディンガー的だよ。「シュレディンガーの猫」の
量子力学的解釈は割愛するけれども、シュレディンガーも梵我一如とかの仏教思想に
影響を受けていて、
見た瞬間に死ぬっていうのは、梵我一如的に猫の仏性と観察者の仏性が天の摂理を介し
て
つながっているから可能なんだよね。
まあ実際に死ぬのは仏性じゃなくて身体の方なんだけれども、
仏教的に言えば、身体なんて仏性の先っぽにくっついている”なまぐさ”
みたいなものなんだろ? 
物理学的にもE=MC2乗、つまりエネルギー=マティリアル×光の2乗だから、
原子爆弾一発分のエネルギーをぎゅーっと圧縮すると1円玉ぐらいになる感じだから、
仏性をぎゅーっと圧縮したものが身体なんだろう? 
だから、仏性が通じ合っていれば、そこから身体に作用する事は可能だから、
見た瞬間に死ぬ、という事が可能なんだよね」
小林「死ぬって事にはならないんじゃないの? 理香子の仏性にアクセス出来たとし
て、
それで彼女が死ぬってことにはならないんじゃないの?」
荻野「いや、仏性同士が合一である事を彼女が認識すれば、
”なまぐさ”を捨てるだろう。つまり身体を捨てる、つまり死ぬだろう」
小林「そうかなあ」
荻野「死なないまでも、”なまぐさ”的な浮気よりかは、君というソウルメイト
との仏性的な愛を大切に思うだろう?」
小林「そっかー。だったら彼女の仏性と合一したいなぁ」
荻野「そうだろうそうだろう」
小林「じゃあ、どうすればいいの?」
荻野「それにはまずお前の”なまぐさ”を無くして仏性を活性化させないと。
つまり心頭滅却」
小林「具体的には?」
荻野「なんでもいいから荒行、苦行の類で身体をいじめれば仏性が活性化するよ」
小林「そっかー」

 そして彼はありとあらゆる苦行を行った。
まず断食と写経。そして冷水シャワーで滝行、バスタブで水中クンバカ。
それ以外の時間は全て座禅。
そして彼はやせ細り、即身仏寸前になり、倒れてしまった。

 さて、小林は梵我一如の理屈を信じて苦行に邁進していったのだけれども、
そんな事をしたって理香子と再会出来るとは限らない。
だって、梵我一如の理屈で言えば、理香子とは、
理香子の”なまぐさ”+理香子の仏性からなるんだろうが、
理香子を目指して自分の”なまぐさ”を殺したところで、
その場合残るのは小林の仏性なのだろうが、
それが理香子の仏性と巡り会える訳ではなく、
どこか北海道から沖縄のどこかに漂っているソウルメイトと巡り会えるだけだろう。
だいたい理香子と巡り合うとは、理香子の”なまぐさ”と小林の”なまぐさ”が
この娑婆で直に触れ合う事なんだから。

ところで、ここまで俺は梵我一如が真理であるかの様に語ってきたが、
俺は梵我一如とか仏性とか全く信じていない。
俺は”なまぐさ”しか信じていない。
人間が関わるとは、娑婆で”なまぐさ”同士が知り合うことでしかない。
産婦人科医の息子である俺に言わせれば、人間同士のまぐわいなんて
”なまぐさ”的なものでしかなく、それは犬畜生の交尾にも似ている。
 小林によれば、”なまぐさ”同士のいちゃつきなんて下劣なものであって、
人間の愛が素晴らしいのは天の梵を共有するからだ、
梵我一如があるから人間の愛は高級なのだ、との事だったが。
しかし、俺に言わせりゃ、人間のまぐわいを犬の交尾よりかちっとは
高級にしているものがあるとすれば、
それはあの理香子の姿形が…ここで初めて告白するが、
理香子の”なまぐさ”的浮気相手というのは勿論この俺なんだが
…あの理香子の姿形は丸で如来の様で、あれに精液をぶっかけるというのは
何気タブーがあるのだが、そういう後ろめたさがあるからこそ萌えるのだ。
あと、理香子は小林のソウルメイトなのにやっちゃう、
というやましさがあるから萌えるのだ。
つまりは射精したらプロラクチンが出て賢者モードになる、という事を知っているか
ら、
射精する事にわくわくする訳だな。
そうすると、小林と俺の世界観は全く逆だな。
小林は宇宙に梵という原理があるとか言っているが、
俺は全くそんな事は思わず、
宇宙の梵も理香子の如来的美しさもプロラクチンの化身、
人間のプロラクチン的不安が投影されたものに過ぎないって感じだな。
つまり、人間の不安が神を作ったって訳だ。

さあ、小林が正しいか俺が正しいか、
じっくりと理香子ちゃんとまぐわって検証してみよう。
今や小林の”なまぐさ”は風前の灯火なので、俺は自由にいくらでも楽しめるって訳
だ。
俺は青磁でできた如来像のような理香子ちゃんを近くに抱き寄せた。
荻野「さあ、理香子ちゃん、もう邪魔者はいない。たっぷりといちゃつきましょう」
理香子「止めて。もうそういう気持ちじゃないの」
荻野「何で? もしかして不貞という禁止がなくなったから
萌えなくなっちゃったのかな?」
元々色白だったけれども、文字通り透き通るような理香子を見詰めて俺は言った。
しかし理香子は宙を見上げているのみ。
荻野「ねえどうしたの? どうしてそんなに淡白なの?」
理香子「今や、私の”なまぐさ”は全部消えて、
全く仏性的な存在になってしまったのよ」
荻野「そんな馬鹿な。俺は元々”なまぐさ”しか存在しないという立場だが、
しかし仮に小林が言うみたいに”なまぐさ”と仏性があるとしたって、
小林が滅私して君の仏性にたどり着くことなんて出来ないだろう? 
君という人間にたどり着くには娑婆で”なまぐさ”同士を
こすり合わせるしかないんだから」
理香子「ところが、小林君の仏性が私の仏性に巡り会えたのよ。
何でだかわかる? あなたは忘れているの? 私と小林君は、あの日あの時、
同じ荻野産婦人科のあの分娩室で生まれたのよ。
私と小林君は生まれた時に同じ仏性が宿ったの。つまり私達はソウルメイトだったの
よ」
荻野「ええ、まさか」
俺は顔色が変わるのが分かった。青ざめていく。
理香子「あなた顔色が悪いわ。ていうか顔の肉が透き通っていって丸で
陶器で出来た像の様になっていく。
もしかしたら、これはきっとあなたの”なまぐさ”が
蒸発していっているんじゃないかしら」
俺は両手を見た。丸でガラスの様に透き通っている。
荻野「なんで俺の”なまぐさ”が蒸発しないとならないんだ。
仮に梵我一如が真理だとしても俺が蒸発するにはソウルメイトの仏性に
出会わないとならないだろう。俺はまだどの仏性とも会っていないぞ」
理香子「私がその仏性です」
荻野「どういう事だ」
理香子「あなたも私と小林君のソウルメイトなのよ。知らなかったの? 
あなたが生まれた日も私達が産まれた日と同じ日だって事」
荻野「まさか」
理香子「あなたも”なまぐさ”を失って娑婆とお別れするのよ」
俺の”なまぐさ”はどんどんと気化していった。
ドライアイスが二酸化炭素になる様に。
荻野「死にたくない」
理香子「死ぬんじゃないのよ。”なまぐさ”を捨てるだけ。
さあ、涅槃で小林君も待っているわ」

俺は更に気化していった。
意識も、ぼーっとしてきた。
如来に射精してタブーを破る様な、そういう”なまぐさ”的欲望が
消えていくのが分かる。
しかし気持ちよくもあった。
射精が溜まりに溜まった水が滝の様に噴射する快楽なら、
もっと下流のなだらかな流れが海に広がっていく様な、ゆったりとした快楽を感じる。
宇宙の周期と自分が合一する感覚だ。
そもそも宇宙と個体は一緒だった。
呼吸は打ち寄せる波の数と同じだし、
産婦人科の病室は満月の晩には満杯になるではないか…最後に俺の意識は
そんな事を思い出していた。
そして個体としての感覚は薄れていき、全体に溶け出していくのだった。
やがて俺は宇宙の一部となるのだった。

【了】





#468/549 ●短編
★タイトル (sab     )  19/05/05  20:10  (233)
オートマチック        HBJ
★内容

 ミステリー本を借りに推理研顧問の鬼塚先生のマンションに行った。
「僕にぴったりの本ってなにかなあ」廊下を歩きながら小林君。
「物理トリックもの」
「じゃあ恵さんのは心理トリックかな」
「さあ」

 チャイムを押すと出てきたのは家庭科の佐倉先生。
「いらっしゃい」
 二人は結婚したばかり。
 奥から赤ちゃんの泣き声が。でもあれは二人の子供ではなく、
元夫との間に6ケ月の子供が居るのだった。
 案内されてリビング・ダイニングに入っていくと鬼塚先生がベビーベッドに
かがみ込んでいた。
「おっ、来たな」
 私達もベビーベッドを覗き込んだ。ぷにゅぷにゅの赤ちゃん。わー可愛い。
頬でもつつきたい衝動にかられるが手洗いもしていないので自粛。
 それから先生に促されてリビング中央のソファに身を沈めた。
 あたりを見回す。
 50インチぐらいの液晶テレビにモーニングワイドが映っている。
 本棚には漫画やノベルスがずらーっと。
 FAXの複合機が床に直置きされている。その周りにはダンボール箱が。
まだ引っ越してきたばかりなのか。
 キッチンで佐倉先生がドリンクの用意をしていた。
「今どきFAXなんて使うんですか?」と小林君。
「PTAの中にはメールを使えない家庭もあるんだよ」鬼塚先生が座りながら。
「まだ買ったばっかで使っていないけど。つーか通信テストシートを
送ったんだけれども返送されてこないなあ」

 佐倉先生がレモネードを持ってきた。
「暑いでしょう、この部屋。備付けのエアコンが故障しているのよ。
これでも飲んで涼んでね」
「へー」小林君は壁際を見渡した。窓際に並んでいるペットボトルを見て
「あれはなんなんですか」
「猫がいるのよ。窓を開けたいんだけれども赤ちゃんがミルクの匂いがするから。
夜は氷やドライアイスを洗面器に入れて寝るのよ」
 ベビーベッドの周りには洗面器が転がっていた。
「色々大変ですね」
「そう。だからこれからは炊事洗濯も男女共同参画で」
「でも今は結構楽なんだよ。掃除だってあのルンバが」
言うと壁際に設置されているロボット掃除機を指した。
「あれが、時間がくれば勝手に掃除をしてくれるんだよ。
今の主婦は昔に比べれば相当楽だよ」
「あらそう?」佐倉先生は小指を立ててレモネードを飲んだ。
真っ赤なマニキュアが目立つ。
 テレビのモーニングワイドでは幼児虐待のニュースをやっていた。
全身アザだらけで栄養失調、汚れた服で保育園にきては異常な食欲を見せていた、
などと司会者が伝えていた。
「なんて可哀想な事を」と佐倉先生。
「僕はこういうニュースを見ると、もう子供はあの子だけでいいって思っちゃうよ」
「そんな事、生徒の前で言わなくても」
「そういえばクリスティも子連れで再婚したんだよな。
後夫に娘を取られるんじゃないかと気にしていたかも。
『検察側の証人』などは自伝を読んでからを読むと面白いよ。
そうだ、恵さんにはクリスティの自伝を貸してあげよう」
 鬼塚は立ち上がると本棚のところに行った。
 そして私にはクリスティ、小林君には『乱れからくり』を持ってきた。
「これはほとんどオートマチックにトリックが進むんだよ。
うちの奥さんも気に入っているんだ」どうたら言っている。
「あ、もう学校に行く時間だ」と佐倉先生。「君達も登校しなさい」
「えー、1時間目休講なんですけど」
「とにかく出掛けて出掛けて」
 そして先生は冷蔵庫からドライアイスを出してくると、
ベビーベッドの奥の洗面器に入れた。
「じゃあねえ。1時間したら子守りがくるからねぇ」と赤ちゃんに話しかける。
「大丈夫なんですかぁ」
「うーん、一応、赤ちゃん見守りカメラもあるし。でも首振り機能がないのよね。
あれだと赤ちゃんの顔しか見えない」



 マンション近くの喫茶店で私達は時間を潰した。
「あの二人は上手く行くのかなぁ」
「さぁ。鬼塚先生は、自分にはなんの取り柄もない、しかし女がある、
とか言っていたらしいよ」
「えー、どういうこと?」
「女を利用して出世する、みたいな」
「えー」
 それから元いた女教頭との噂やら何やらを話していたらすぐに1時間経過した。
 スマホが鳴った。
 噂をすれば影、佐倉先生からだった。
「あなた達、今どこにいる?」
「マンション近くの喫茶店です」
「すぐに私の部屋に行ってみて。赤ちゃんが大変なの」
「えっ、何があったんですか」
「とにかく早く行ってみて」
 ブツッと通話が切れた。
「小林君、大変。マンションで何か事件があったみたい。
それで赤ちゃんに何か起こったみたい」
「えーッ。じゃあ、僕が先に行っているから、恵さん、会計してきて」
 言うと脱兎の如く出て行ってしまった。
 会計をするのに、お釣りがないから細かいお金でとかで、かなり時間を食った。



 マンションに着いた時には15分が経過していた。
 部屋に入っていくと刑事らしき背広の男、制服警官、ナルソックの隊員が居た。
「赤ちゃんはどうなったんですか」
「うーん」と刑事が唸った。
「まさか」
 すぐに佐倉先生と鬼塚先生も着いた。
「赤ちゃんは?」
「さっき病院に搬送されたんですが、残念なお話しをしなければ」
 ここまで聞いただけで佐倉先生は泣き崩れた。
「わぁぁぁ、うわぁー」
「それで、こんな時になんなんですが、先生方は今までどちらに」
「え、何か事件性でもあるんですか」
「そうではないが、事故なので事情聴取をしないと」
「私達は学校で授業をしていましたけど、その前にココの経緯を説明するのが筋でし
ょ」
「20分程前に、あの天井の煙感知器が反応したんですよ」
「煙なんて出たんですか?」
 全員で犬の様に鼻をくんくんと鳴らした。
「煙のニオイなんてしませんね。どこにも焦げた跡とかないし」
「煙じゃなくても、湯気、埃、虫などでも反応するんですけど」とナルソック。
「ガスではどうですか」と小林君が言った。
「ガスでも多分」
「二酸化炭素でも?」
「多分」
「ドライアイスの二酸化炭素で鳴ったのかなぁ。…いや、空気より重いから、
床を漂って行って、あそこの換気扇から排出されちゃうかな」
と動きっぱなしの換気扇を指した。「煙もあそこから出ていっちゃったんじゃ
なかろうか」
 今や、泣き叫ぶのをやめて佐倉先生らが睨んでいた。
「ドライアイスが乳児突然死の原因になる事、知ってました?」いきなり
小林君が言った。
「何言ってんのかしら、この子は」佐倉先生は目を丸くした。
「もし仮に、ドライアイスの二酸化炭素が赤ちゃんを殺して、
それが漂っていって警報を鳴らしたんなら、みんなが居ない間にナルソックが来るか
ら、
先生達には完全なアリバイが出来る訳か」
「何を言っているんだ。君は」鬼塚が怒鳴った。「君は今、炭酸ガスは重いから
警報機に触れないと言ったじゃないか」
「ああ、まぶしい」突然小林君は手の平で目を覆うと窓方向を見た。「なんだって
あんなにペットボトルを並べたんだろう。これじゃあ目が焼けてしまう」
そして指をパッチンと鳴らす。
「あれを見て下さい」小林君はFAX横の床を指差した。
 そこにはペットボトルが作った日だまりがあった。
 小林君はそこまで行って片膝を付くと日だまりに触れた。
「熱い。今ここにあるってことは、20分前にはちょうどここらへんにあった筈」
とFAXの排出口を指差した。
「つまりこういう事が起こった。20分前、気化した二酸化炭素が
赤ちゃんの鼻の下をかすめていく。それを吸った赤ちゃんは酸欠状態になる。
ちょうど同じ時刻、何もんかが外部からFAXを送信してくる。
それは真っ黒に塗られていた。そうすると、ペットボトルの日だまりが、
ちょうど虫眼鏡の様な働きをして、そう、収れん火災が発生する。
その煙でナルソックの警報が鳴る」
「何を言っているんだ。どこにも燃えカスなど無いじゃないか」と鬼塚。
「それはですね、更に芸の細かい事をしたんですよ。黒いFAX用紙が燃えきって
適当に冷めた頃、そこにあるルンバが作動して、綺麗に掃除してくれたんですよ。
そして赤ちゃんが息を引き取ってガスも煙も換気扇から排出されて全てが終わった頃に
ナルソックの隊員が駆けつけて第一発見者になる。全くオートマチックだ」
「そんな事が出来る訳ないじゃない」ほとんどヒステリックに佐倉が
叫んだ。「赤ちゃんが死んだかなんて分からないじゃないの。
どういうタイミングでFAXするのよ」
「それは、見守りカメラで見ていたんじゃないんですか」
「なーにを言っているのかしら、このクソガキは。だいたいペットの
日だまりぐらいで燃える訳ないじゃない」
「それはそうですね。いくらこれだけペットボトルを並べても、煙ぐらいは出しても
完全に灰にするのは難しいと思われます。だから犯人はFAX用紙に何か引火性のある
液体を染み込ませていたんじゃなかろうか」
 小林君はFAX排出口のあたりの床を指先でなぜるとニオイをかいだ。
「かすかに除光液のニオイがする」
「除光液?」
「先生、べっとりマニキュア塗っていますよね」
「そんなッ、私はなにも…。というかそもそもペットボトルを並べたのは旦那なのよ」
「なにっ。なんでこっちに転嫁してくる」
「並べたのは鬼塚先生かも知れない。でも、流石に普通に並べているだけでは
収れん火災は起きない。先生がペットボトルに角度をつけて一箇所に収れんする様に
したんじゃないんですか」
「そんな事したのか」ギョッとして鬼塚が言った。
「そんなの想像だわ」
「指紋が出てくるかも知れませんよ」
「そんなのみんな情況証拠だわ」
 小林君はその場に立ち尽くしてため息をつくと、ポケットから一枚の紙を出した。
「これは通信テストシートです。FAXのメモリに残っていたものを
印字したものです。鬼塚先生が夕べメーカーに送信したものが今日になって
返送されてきたんです。その時間が今から40分前。
…何が起こったか分かりますか? 
メーカーがこのFAXを送りつけてくる。除光液の染み込んだ紙にこのシートが
印字されて排出口から出てくる。ペットボトルの光で収れん火災を起こす。
そしてナルソックのセンサーが反応する。そしてナルソックの隊員が駆けつける。
その時刻が今から20分前です。ナルソック隊員は窓を開けて換気をする。
そしてその後で佐倉先生の送信した真っ黒い紙が間抜けに排出されてきた
という訳です。それが…」
 言うと小林君は刑事にに合図した。
「それが、この紙です」刑事はビニール袋に入った黒い紙を翳した。
「うッ」佐倉は微かに呻いた。「騙したのね。私がここに到着する前に
ネタバレしていたのね。警察やナルソックは勿論、小林まで演技していたのね。
ははは、ははははは。でも、それでもまだ想像だわ。情況証拠だわ」
「いやあ、この黒いFAXを誰がどこから送ってきたのか分かるのは時間の問題です
よ。
たとえsnsで知り合ったどこか遠くの誰かに頼んでいたとしても、
それは突き止められますよ。そうなる前に、言ってしまえば、先生、
情状酌量の余地が出てくるんじゃないでしょうか」
「私を装った誰かが送信したのかも知れないじゃない。旦那の元カノとかが
嫉妬してやったのかも知れないし」
「そうそう。そうですね。鬼塚先生はお盛んですからね。
あの女教頭とも出来ていたんですよ? 知ってました?」
「えぇー、あのババアと? 本当なの?」
「いや、それは」
「この先生は採用される為にあの女教頭と出来ていたんですよ。
それだけじゃない。先生と結婚したのも、親が教育委員会のお偉いさんだから
じゃないんですか」
「本当なの?」
「そんな事ないよぉ」
「信じられない。いっぺんに冷めた、このスケコマシ。
…赤ちゃんは、私の赤ちゃんはどうなったの?」
突然、子殺しをした雌ライオンが雄ライオンにふられて母性を回復した様な
展開になった。「赤ちゃんはどうなったの?」
「赤ちゃんは無事ですよ。ナルソックの駆けつけが早かったから」
「あぁ、よかったー」そして先生は再び泣き崩れた。「本当によかったー」
「じゃあ続きは署で伺いますか」
 そして、両先生は刑事と制服警官にしょっぴかれて行ったのだった。

 私と小林君が部屋に残された。
「小林君、私も騙したのよね」
「しょうがないだろう」
「あの二人はどうなるのかしら」
「さぁ」
「これからどうする?」
「とりあえず僕は『乱れからくり』を読んでみるけど」
「じゃあ私は『検察側の証人』を読んでみるわ」
 部屋を見渡すと、太陽は更に移動して空のベビーベッドに
日だまりを作っているのであった。












#469/549 ●短編
★タイトル (sab     )  19/05/07  09:28  (213)
オートマチック【改】
★内容                                         19/05/07 09:48 修正 第2版
ミステリー本を借りに推理研顧問の鬼塚先生のマンションに行った。
「僕にぴったりの本ってなにかなあ」廊下を歩きながら小林君。
「物理トリックもの」
「じゃあ恵さんのは心理トリックかな」
「さあ」

チャイムを押すと出てきたのは家庭科の佐倉先生。
「いらっしゃい」
二人は結婚したばかり。
奥から赤ちゃんの泣き声が。でもあれは二人の子供ではなく、元夫との間に
6ケ月の子供が居るのだった。
案内されてリビングダイニングに入っていくと鬼塚先生がベビーベッドの脇に
かがみ込んでいた。
「おっ、来たな」
私達もベビーベッドを覗き込んだ。ぷにゅぷにゅの赤ちゃん。わー可愛い。
頬でもつつきたい衝動にかられるが手洗いもしていないので自粛。
それから先生に促されてリビング中央のソファに身を沈めた。
あたりを見回す。
50インチぐらいの液晶テレビにモーニングワイドが映っている。
本棚には漫画やノベルスがずらーっと。
FAXの複合機が床に直置きされている。
キッチンで佐倉先生がドリンクの用意をしていた。
「今どきFAXなんて使うんですか?」と小林君。
「PTAの中にはメールを使えない家庭もあるんだよ」鬼塚先生が座りながら。
「まだ買ったばっかで使っていないけど。
つーか通信テストシートを送ったんだけれども返送されてこないなあ」

佐倉先生がレモネードを持ってきた。
「暑いでしょう、この部屋。備付けのエアコンが故障しているのよ。
これでも飲んで涼んでね」
「へー」小林君は壁際を見渡した。出窓に並んでいるペットボトルを見て
「あれはなんなんですか」
「猫がいるのよ。窓を開けたいんだけれども赤ちゃんがミルクの匂いがするから。
夜は氷やドライアイスを洗面器に入れて寝るのよ」
ベビーベッドの周りには洗面器が転がっていた。
「色々大変ですね」
「そう。だからこれからは炊事洗濯も男女共同参画で」
「でも今は結構楽なんだよ。掃除だってあのルンバが」言うと壁際に設置されている
ロボット掃除機を指した。「あれが、時間がくれば勝手に掃除をしてくれるんだよ。
今の主婦は昔に比べれば相当楽だよ」
「あらそう?」佐倉先生は小指を立ててレモネードを飲んだ。
真っ赤なマニキュアが目立つ。
テレビのモーニングワイドでは幼児虐待のニュースをやっていた。
全身アザだらけで栄養失調、保育園では通常の数倍の食欲を見せていた、
などと司会者が伝えていた。
「なんて可哀想な事を」と佐倉先生。
「僕はこういうニュースを見ると、もう子供はあの子だけでいいって思っちゃうよ」
「そんな事、生徒の前で言わなくても」
「そういえばクリスティも子連れで再婚したんだよな。
後夫に娘を取られるんじゃないかと気にしていたかも。
『検察側の証人』などは自伝を読んでからを読むと面白いよ。
そうだ、恵さんにはクリスティの自伝を貸してあげよう」
鬼塚先生は立ち上がると本棚のところに行った。
そして私にはクリスティ、小林君には『乱れからくり』を持ってきた。
「これはほとんどオートマチックにトリックが進むんだよ。
うちの奥さんも気に入っているんだ」どうたら言っている。
「あ、もう学校に行く時間だ」と佐倉先生。「君達も登校しなさい」
「えー、1時間目休講なんですけど」
「とにかく出掛けて」
そして先生は冷蔵庫からドライアイスを出してくると、
ベビーベッドの奥の洗面器に入れた。
「じゃあねえ。1時間したら子守りがくるからねぇ」と赤ちゃんに話しかける。
「大丈夫なんですかぁ」
「うーん、一応、赤ちゃん見守りカメラもあるし。でも首振り機能がないのよね。
あれだと赤ちゃんの顔しか見えない」
※
マンション近くの喫茶店で時間を潰した。
「あの二人は上手く行くのかなぁ」と私。
「さぁ。鬼塚先生は、自分にはなんの取り柄もない、しかし女がある、
とか言っていたらしいよ」
「えー、どういうこと?」
「女を利用して出世する、みたいな」
「えー」
それから元いた女教頭との噂やら何やらを話していたらすぐに1時間経過した。
スマホが鳴った。
噂をすれば影、佐倉先生からだった。
「あなた達、今どこにいる?」
「マンション近くの喫茶店です」
「すぐに私の部屋に行ってみて。赤ちゃんが大変なの」
「えっ、何があったんですか」
「とにかく早く行ってみて」
ブツッと通話が切れた。
「小林君、大変。マンションで何かあったみたい。それで赤ちゃんに何か
起こったみたい」
「えーッ。じゃあ、僕が先に行っているから、恵さん、会計してきて」
言うと脱兎の如く出て行ってしまった。
会計をするのに、お釣りがないから細かいお金でとか言われて、かなり時間を食った。
※
小林君に15分遅れてマンションに着いた。
部屋に入っていくと刑事らしき背広の男、制服警官、ナルソックの隊員が居た。
「赤ちゃんはどうなったんですか」
「うーん」と刑事が唸った。
「まさか」
すぐに佐倉先生と鬼塚先生も着いた。
「赤ちゃんは?」
「さっき病院に搬送されたんですが、残念なお話しをしなければ」
ここまで聞いただけで佐倉先生は泣き崩れた。
「わぁぁぁ、うわぁー」
「それで、こんな時になんなんですが、先生方は今までどちらに」
「え、何か事件性でもあるんですか」
「そうではないが、事故なので事情聴取をしないと」
「私達は学校で授業をしていましたけど、
その前にココの経緯を説明するのが筋でしょ」
「20分程前に、あの天井の煙感知器が反応したんですよ」
「煙なんて出たんですか?」
「煙じゃなくても、湯気、埃、虫などでも反応するんですけど」とナルソック。
「ガスではどうですか」と小林君が言った。
「ガスでも多分」
「二酸化炭素でも?」
「多分」
「ドライアイスの二酸化炭素で鳴ったのかなぁ。…いや、空気より重いから、
床を漂って行って、あのキッチンの換気扇から排出されちゃうかな」と
動きっぱなしの換気扇を指した。「煙もあそこから出ていったのかも」
今や泣き叫ぶのをやめて佐倉先生らが睨んでいた。
「ドライアイスが乳児突然死の原因になる事、知ってました?」
いきなり小林君が言った。
「何言ってんのかしら、この子は」佐倉先生は目を丸くした。
「もし仮に、ドライアイスの二酸化炭素が赤ちゃんを殺して、
それが漂っていって警報を鳴らしたんなら、
みんなが居ない間にナルソックが来るから、先生達には完全なアリバイが出来る訳か」
「何を言っているんだ。君は」鬼塚が怒鳴った。
「君は今、炭酸ガスは重いから警報機に触れないと言ったじゃないか」
突然小林君はしゃがみ込むと出窓に並んでいるペットボトルを睨んだ。
「まぶしい。なんだってあんなにペットボトルを並べたんだろう」
そして指をパッチンと鳴らす。
「あれを見て下さい」小林君はFAXの排出口の横を指差した。
そこにはペットボトルが作った日だまりがあった。
小林君はそこまで行って片膝を付くと日だまりに触れた。
「熱い。今ここにあるってことは20分前にはちょうどここらへんにあった筈」
とFAXの排出口を指差した。
「つまりこういう事が起こった。20分前、気化した二酸化炭素が
赤ちゃんの鼻の下をかすめていく。それを吸った赤ちゃんは酸欠状態になる。
ちょうど同じ時刻、何者かが外部からFAXを送信してくる。
それは真っ黒に塗られていた。そうすると、ペットボトルの日だまりがちょうど
虫眼鏡の様な働きをして、そう、収れん火災が発生する。
その煙でナルソックの警報が鳴る」
「何を言っているんだ。どこにも燃えカスなど無いじゃないか」と鬼塚。
「それはですね、更に芸の細かい事をしたんですよ。
黒いFAX用紙が燃えきって冷めた頃、そこにあるルンバが作動して
綺麗に掃除してくれたんですよ。そして赤ちゃんが息を引き取って
ガスも煙も換気扇から排出されて全てが終わった頃にナルソックの隊員が駆けつけて
第一発見者になる。全くオートマチックだ」
「そんな事が出来る訳ないじゃない」ほとんどヒステリックに佐倉が叫んだ。
「赤ちゃんが死んだかなんて分からないじゃないの。どういうタイミングで
FAXするのよ」
「それは見守りカメラで見ていたんじゃないんですか」
「カメラは突然故障して見られなくなったわよ。それに紙だって
ペットの日だまりぐらいで燃える訳ないじゃない」
「それはそうですね。いくらこれだけペットボトルを並べても煙ぐらいは出ても
完全に灰にするのは難しいかも知れませんね。だから犯人はFAX用紙に何か
引火性のある液体を染み込ませていたんじゃなかろうか」
小林君はFAX排出口のあたりの床を指先でなぜるとニオイをかいだ。
「かすかに除光液のニオイがする」
「除光液?」
「先生、べっとりマニキュア塗っていますよね」
「そんなッ、私はなにも…。というかそもそもペットボトルを並べたのは旦那なのよ」
「なにっ。なんでこっちに転嫁してくる」
「並べたのは鬼塚先生かも知れない。でも流石に普通に並べているだけでは
収れん火災は起きない。先生がペットボトルに角度をつけて一箇所に収れんする様に
したんじゃないんですか」
「そんな事したのか」ギョッとして鬼塚が言った。
「そんなの想像だわ」
「指紋が出てくるかも知れませんよ」
「そんなのみんな情況証拠だわ」
小林君はその場に立ち尽くしてため息をつくと、ポケットから一枚の紙を出した。
「これは通信テストシートです。FAXのメモリに残っていたものを
印字したものです。鬼塚先生がメーカーに送信したものが今朝になって
返送されてきたんです。その時間が今から40分前。…何が起こったか分かりますか?
 メーカーがこのFAXを送りつけてくる。除光液の染み込んだ紙にこのシートが
印字されて排出口から出てくる。ペットボトルの光で収れん火災が起きる。
そしてナルソックのセンサーが反応する。そしてナルソックの隊員が駆けつける。
その時刻が今から20分前です。その時ナルソックは何かの拍子でカメラを
転倒させたんですよ。にも関わらず先生は一か八か黒いFAXを送ってきた。
それが…」
言うと小林君は刑事に合図した。
「それが、この紙です」刑事はビニール袋に入った黒い紙を翳した。
「うッ」佐倉は微かに呻いた。「騙したのね。私がここに到着する前に
ネタバレしていたのね。警察やナルソックは勿論、小林まで演技していたのね。
ははは、ははははは。でも、それでもまだ想像だわ。情況証拠だわ」
「いやあ、この黒いFAXをどこから誰が送ってきたのかを特定するのは
時間の問題ですよ。たとえsnsで知り合ったどこかの誰かに頼んでいたとしても、
それは突き止められますよ。そうなる前に、言ってしまえば、
先生、情状酌量の余地が出てくるんじゃないでしょうか」
「私を装った誰かが送信したのかも知れないじゃない。旦那の元カノとかが
嫉妬してやったのかも知れないし」
「そうそう。そうですね。鬼塚先生はお盛んですからね。
あの女教頭とも出来ていたんですよ? 知ってました?」
「えぇー、あのババアと? 本当なの?」
「いや、それは」
「この先生は採用される為にあの女教頭と出来ていたんですよ。
それだけじゃない。先生と結婚したのも、
親が教育委員会のお偉いさんだからじゃないんですか」
「本当なの?」
「そんな事ないよぉ」
「信じられない。いっぺんに冷めた、このスケコマシ。…赤ちゃんは、
私の赤ちゃんはどうなったの?」突然、子殺しをした雌ライオンが
雄ライオンにふられて母性を回復した様な展開になった。
「赤ちゃんはどうなったの?」
「赤ちゃんは無事ですよ。ナルソックの駆けつけが早かったから」
「あぁ、よかったー」そして先生は再び泣き崩れた。「本当によかったー」
「じゃあ続きは署で伺いますか」
そして、両先生は刑事と制服警官にしょっぴかれて行ったのだった。

私と小林君が部屋に残された。
「小林君、私も騙したのよね」
「しょうがないだろう」
「あの二人はどうなるのかしら」
「さぁ」
「これからどうする?」
「とりあえず僕は『乱れからくり』を読んでみるけど」
「じゃあ私は『検察側の証人』を読んでみるわ」

部屋を見渡すと、太陽が更に移動し日だまりは空のベビーベッドに向かっていた。




#470/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/05/30  21:27  (197)
その光は残像かもしれない   永山
★内容                                         19/06/02 23:58 修正 第4版
 地方の澄んだ空気の中、満天の星空を観てみたい。プラネタリウムイベントに参加し
てみたい。
 という友達の川田次美に付き合わされて、イベント込みのバス旅行に参加した。星に
ほとんど興味がない私にとって、気乗りしないツアーだったけれども、ここにきて変わ
ったわ。
 たまたま暇潰しに覗いてみた古本屋で、前々から探し求めていた“お宝グッズ”を発
見するなんて。
 最初は、ゴミに出す物をまとめて段ボールに放り込んであるのかと思った。でも、ち
らっと覗いていた紙の端っこにある文字に気付いた。あれは漫画雑誌の付録。しかも、
かなり古い。
 私は店のおじさんに聞いた。
「表にある段ボール箱の中身って、売り物ですか?」
「ああん? 売り物なんかじゃないよ」
 その答を聞いたとき、物凄くがっかりした。けどおじさんの次の言葉で逆転。
「もう捨てようかと思って。いるのがあるのなら、持って行っていいよ」
「え? あの、値段は……」
「ただだよ、ただ。そりゃ払ってくれるんならもらうけどさ」
 そう言って、かかと笑いながら店の奥に戻ったおじさん。その背中が神様に見えた
わ。
 段ボール箱の中身を漁ると、欲しかったシールのセットが見付かった。手付かずのき
れいな状態で。
 売る気はないけど、ネットオークションに出せば、いい値段が付くはず。さすがにこ
れを無料でいただいて、はいさようならでは気が引けちゃう。私は本棚も見て回り、懐
かしい漫画と小説を一冊ずつ選び、レジに持って行った。

 移動するバスの中で、次美が「何だか凄く嬉しそう。いいことあったの?」と聞いて
きた。上機嫌だった私は、古本屋での事の次第を話して聞かせ、彼女にも礼を言った。
「誘ってくれてありがと。ラッキーだったわ」
「どういたしまして。そんな偶然で喜んでくれるのなら、私も嬉しいよ」
 思えば、このときに声高に説明したのがまずかった。
 最初におかしいなと感じたのは、道の駅での休憩中。ハンカチを忘れたと気付いてバ
スに戻ってみると、同じツアーの女性が、私達のいたシートに座っている。
 私が近付いていくと、気が付いた気配はあったんだけど、そのまま動かない。横まで
来て、「すみません、そこ、私の席なんですけど」と注意を喚起して、やっと「ああ、
こちらこそすみません。間違えました」と言い、席を立って、二つ後ろに移動した。
 このときはまだ、ちょっと変だなと感じた程度だった。
 次に、うん?と異常を感じたのが、宿泊先となるペンションに着いたあと。みんなで
バスを降り、荷物を持って歩き出した。その矢先、例の女が近寄ってきて言った。
「先程は大変失礼をしました。お詫びに荷物を運びます」
「いえ、結構です。大した距離じゃなさそうだし、重くないし。気にしてませんから」
 持ち手に指先が触れたけれども、さっと引き離した。そのときの相手の目は、私の荷
物をしっかり記憶しようとするかのように、手元をじっと見つめてきていた。
 私は女の左胸にあるネームプレートで、名前が上島だと知った。実は最初に参加者全
員の簡単な自己紹介があったんだけど、よく覚えていなかった。ただ、この上島は職業
が確か鍵屋といっていたような。花火職人ではなく、キーの方の。
 ぱっと見、若くて細面で、静かにしていれば美人で通りそうだが、二度の少々おかし
な動きのせいで、薄気味悪く映る。鍵の専門家だと思うと、なおさらだ。
 そのことを、次美の部屋に行ってちょっと話したら、「やだ気持ち悪い」と「でも積
極的なアプローチなのかも」という、両極端な反応をしてくれた。
「私にレズの気はない。それに、あれはアプローチじゃないわ。興味があるのは私じゃ
なくって、荷物の方みたいなんだけど」
「じゃ、こそ泥かなあ?」
「まさか。お金目当てなら、もっと持ってそうな人のを狙うでしょ」
 ツアー参加者の中には、いかにも裕福そうな老夫婦がいたし、アクセサリーをたくさ
ん身に着けた中年女性三人組もいた。狙うんだったら、私じゃないだろう。
「ということは、あれかも」
 次美が手を一つ叩いた。そのまま、右手の人差し指で私を指差してくる。
「買ったじゃないの、お宝のシール」
「いや、買ってはいないけど。でもそうか」
 友達の言いたいことはすぐに飲み込めた。上島は二つ後ろの座席で、私と次美の会話
を聞いていたのだ。そして値打ち物のシールの存在を知り、あわよくばそれを手に入れ
ようと……ちょっと変だ。
「あのシール、いくらお宝と言ったって、せいぜい数万円だよ。マニアが競り合って、
それくらい」
「そうなんだ? じゃ、あれだよ」
 また、「あれ」だ。
「上島って人も、シールコレクターなんじゃない? それか、そのシールの漫画のマニ
アとか」
 なるほどね。そちらの方がありそうだわ。
 お金を出しても簡単には入手できない代物が、ひょんなことから目の前の、すぐにで
も手が届きそうなところに現れた。しかも持ち主の女は、古本屋でただでもらったと言
っている。そんな不公平があるか。隙を見て、私がもらっても罰は当たるまい。どうせ
ただだったんだから……と、そんなところかしら。
「どうしよう。これからお風呂よね」
「そうだけど。あっ、入っている間にシールが心配ってこと?」
「うん。ペンションの鍵なんて単純そうだし、貴重品入れはないみたいだし」
 このあとお風呂場の脱衣所を見てみて、そこにも貴重品入れがないことを確かめた。
同性だから、女湯の方に入ってくるのには何の問題もない。
「私が見張っておこうか」
 次美が言ってくれた。
「代わり番こに入ればいいじゃない。お風呂の中でトークできないのは、ちょっぴり残
念だけどさ」
「ありがと。お願いするわ」

 風呂から上がり、部屋に戻って次美と入れ替わり。
 独りになって、扇風機の風を浴びながら考えた。シールをどこかいい場所に隠せない
かと。お宝シールは五センチ四方ぐらいのサイズで、台紙を含めても厚さはミリ単位。
どこへでも隠せそうだけど、万が一ってことがあるし、変に凝って、あとで私自身が取
り出せなくなっちゃった、では目も当てられない。
 ここが普通の宿泊施設なら、フロントで預かってもらうという手があるんだろうけ
ど、生憎と違うのだ。星空観察&プラネタリウムイベントのために開放された、少年自
然の家的な施設だから、宿泊専門の業者ではなく、イベント主宰者や地元の人達が世話
を焼いてくれている。貴重品はご自身でしっかり管理してくださいというスタンスなの
は、やむを得ないんだろうと思う。
 次美に持ってもらう、次美の部屋に置いておくという手もあるけど、万が一を考える
とね。友達に危害が及ぶのは絶対に避けたい。
「あ〜あ。どうしたらいいんだろ」
 扇風機の近くで風を浴びつつ独り言を喋ったら、声がぶわわって感じで震えた。近付
きすぎて、折角まとめた髪の毛もぶわわっと広がる。
「――そうだわ」
 閃きが突然、舞い降りた。

             *           *

「被害者の名前は生谷加代、学生、二十歳。友人で同じ学生の川田次美に誘われ、とも
にツアーに参加していたとのことです」
「ツアーの中に、他に知り合いは? 客でも添乗員でもバス運転手でもいい」
「えっと、見当たりませんけど」
「だったら、その友人が怪しいのか? 普通、見ず知らずの相手を殺して、こんな風に
はしないだろう」
 生谷加代の死因は絞殺だと推測されているが、それ以外にも大きな“傷”を彼女の遺
体は負っていた。
 長い髪の毛をバッサリ切られていたのである。乱雑で、長さは不揃い。切り落とした
髪が、現場である被害者の部屋にたくさん落ちていた。
「いえ、川田次美は風呂に入っていたというアリバイがあります。それに、仲はよく
て、二人はツアー中も楽しげに喋っていたとの証言を参加者達から得ています」
「じゃあ何か。この地元にロングヘアフェチの奴でもいて、そいつがたまたまここに侵
入して、被害者を手に掛けて毛を持って行ったってか? ありそうにないな」
「はい。数は少ないながらも、防犯カメラの映像も、外部の者が侵入したような場面は見
当たらないみたいです。まだ全部は見切っていないようですけど、多分、外部犯ではな
いでしょう」
「内部に怪しい奴はいるのか」
「はい、川田の証言ですが、バス移動の途中で立ち寄った城下町の古本屋で、被害者は
珍しいシールを見付けて入手したそうです」
「シール? そういうもんを集めてる風には見えなかったが。まあいい、それから?」
「ツアー客の一人、上島竜子がそのことを知って、盗もうとしていたんじゃないかと川
田は言っています。そして問題のシールもなくなっているとのことでした」
「だったらそいつの身体検査をすればいい。シールが動機なら、どこか身近にあるに決
まってる」
「言われる前に実行しました。すると、身体検査を受けるまでもなく、自ら提出してき
たんです」
「何だ、解決しとるんじゃあ?」
「いえ、観念したという態度ではなく、『話題にされたシールなら私も持っています。
同じ古本屋で見付けましたから』って」
「物真似はしなくていい、気持ち悪いから。指紋は? シールから被害者の指紋は出て
ないのか」
「きれいに拭き取ってあり、上島の指紋だけが残っていました。拭き取ったんじゃない
かと問い質すと、これまた当たり前のように認めて。手に入れたときに、少しくすんだ
ような汚れ感があったから、丁寧に拭いたということでした。今はDNA鑑定に掛ける
かどうか、判断待ちです」
「したたかな女のようだな。DNA鑑定で被害者の物が出たとしても、『彼女が見せて
と頼んできたので、渡しただけです』とでも言われて、かわされるのが関の山だろう
な。次々とこちらの疑問点を認めた上で、別の答を用意している。神経が図太いに違い
ない」
「そうかもしれませんが、我々が踏み込んだときに、上島は部屋でだらだら汗をかいて
ましてね。最初はびびっているのかと思ったら、単に風呂上がりで暑がっていただけみ
たいです。その割には、扇風機を仕舞い込んでいて、変な感じでしたが」
「女が風呂から上がって、冷房のない部屋で、扇風機を出さずに、汗だく……考えられ
ん。おい、上島の部屋は調べたのか」
「いえ、調べたのはシールですが、あれもすぐに提出されましたので。部屋は実質、手
付かずと言えます」
「それじゃあ、すぐにでも調べた方がよさそうだ。

 警察の鑑識課が入った結果、上島竜子の泊まる部屋からは、生谷の物と思われる短い
毛髪が見付かった。さらに、羽の部分に大量の毛髪が巻き付いた扇風機が、部屋の押し
入れの奥、布団に覆い隠された形で見付かった。
 動かぬ証拠を突きつけられた上島は、取り調べに対して、概ね素直に犯行を認めてい
るという。
 供述によると――上島は生谷がいそいそと部屋に戻る姿を目撃し、あとをつけた。そ
の顔つきを見て、「うまい隠し場所を思い付いたんだわ」とぴんと来たという。そのま
ま生谷の部屋の前で迷っていたが、もうすぐしたら連れ(川田次美)が戻って来るだろ
う、そうしたらチャンスは失われる。そう思い詰めて、ドアのロックをピッキングの技
で解除、これにはものの十数秒で成功したという。ドアの開く音や中に入ったときの気
配は、生谷が作動させた扇風機の近くにいたおかげで、聞かれなかった。
 戸口の陰から窺っていると、生谷は回し扇風機を停めて、外していたカバーを戻すと
ころだった。扇風機の風の音が消えたら気付かれると考え、上島は生谷に突進。振り向
きざまに突き飛ばされた生谷は転倒。持っていた扇風機の羽に髪の毛がしっかり絡まっ
た。一方、顔を見られた上島は最早引き返せないと考え、生谷に馬乗りになると両手で
首を絞めて殺害。それから“護身用”に所持していたカッターナイフを使って、生谷の
髪をざくざく切り落とした。
 この行為は、生谷がお宝シールを扇風機の羽に貼り付け、常に扇風機を使用すること
で容易には見付からぬようにしていためである。上島は部屋に忍び込んで、扇風機のカ
バーが外されているのを見た瞬間に察知したという。なお、シールは羽に直接貼られて
いた訳ではなく、安全ゴム糊を使って接着されていた。
 生谷の髪と扇風機とを切り離した上島は、廊下に人のいないタイミングを見計らっ
て、その扇風機を抱えたまま、自分の部屋にダッシュ。返す刀で、元々自分の部屋にあ
った扇風機を持ち出し、生谷の部屋に運び込んだ。そして自室に戻ると、羽に絡まる髪
の毛をじっくりとかき分け、シールを見付けた。
 これが事の次第の全てである。
 一見、猟奇的な殺人事件に思えたが、解決してみると非常に即物的かつ衝動的な犯行
が、多少奇妙な像を現実に投影しただけのことだった。

             *           *

 グッドアイディアが浮かんでよかったわ。
 扇風機の羽に安全ゴム糊で一時的に貼り付けて、部屋を留守にするときも扇風機を回
しっ放しにしておけば、見付かりっこない。あとで剥がすときも、安全ゴム糊なら問題
なし。
 あとはこの近所に安全ゴム糊が売ってあるかどうかだったけど、さすが地方の町とい
たら失礼かしら。文房具屋で見付けたときは感動したわよ。
 さあ、これでいちいち持ち歩かなくても大丈夫ね。

 生谷は左胸のボタン付きポケットに入れたシールのかすかな感触を、布越しに確かめ
た。
 夜空には数え切れないくらい多くの星々が、きら、きら、きら。

 終わり




#471/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/06/28  22:55  (255)
音無荘の殺人   寺嶋公香
★内容                                         19/06/30 14:27 修正 第3版
「なあ、頼むよ」
 細川夏也(ほそかわなつや)は、廊下を行く相手の前に回り込んで手を拝み合わせ
た。
 頼まれた袴田冬樹(はかまだとうじゅ)は立ち止まると、腕組みをして嘆息した。
「とりあえず、部屋に入らせてくれませんか。よその部屋の音が漏れ聞こえないことを
売りにしたアパートなのに、廊下で騒いでちゃ申し訳が立たない」
「ああ、そうだな。分かった」
 袴田の部屋、二〇一号室に入り、ドアをしっかり閉めてから話の続きとなる。
「これは大きなチャンスなんだ。七人衆に採用されれば、自分にも道が開ける」
 推理小説専門誌の最新号を取り出し、絨毯敷きの床に置いた。袴田は今話題にしてい
る七人衆――現代の密室ミステリ短編新作七傑を取り揃える、人気企画のページを押し
開いて、改めて目を通した。六人までは有名作家、人気作家の名がずらりと並び、残る
一枠を広く募るという。
「公募を謳っているが、実際にはあんたに内定しているって?」
「ああ。信じられないか?」
「いや。信じるよ。細川さんは昔、一度は長編デビューしてるんだもんな」
 袴田はセミプロの推理作家として、やや羨む目を細川に向けた。
 デビューした細川自身はそのまま専業作家になる気でいたが、当時はいまいち人気が
出なかったのと、家庭の事情のおかげで、断念せざるを得なかった。十年近く経って幻
の推理作家としてスマッシュヒット的に注目され、短編を二つほど書いたが、爆発的人
気にはつながらず、それっきりになっていた。
「でも、チャンスを活かすには実力で勝負しなきゃ」
「それがだめなんだよ。自信のある密室トリックは先月頭締切の、プレミアムミステリ
大賞に送った作品で使ってしまった。まさか再利用する訳にも行くまい」
「細川さんほどなら、ストックがあるでしょ。密室トリックの一つや二つ」
「そりゃ、あるけどさ。密室テーマの短編にメインで使うには、しょぼくて使い物にな
らない」
「だからって、俺を頼られても。他の二人には聞いてみたんですか?」
 他の二人とは、同じこのアパート――音無荘の住人でやはりセミプロ級の推理作家、
磯部秋人(いそべあきひと)および草津春彦(くさつはるひこ)を指し示す。四人はと
あるミステリ創作教室を通じての昔からの知り合いで、音無荘に揃って入ったのも、お
互いの存在を近くに感じることがよい刺激になると考えたのが大きかった。
「彼らとは、最近あんまり反りが合ってないというか。見ていて分かるだろ? トリッ
クを提供してくれるような関係ではないことくらい」
「ええ。創作姿勢についての意見の相違、ですか」
「袴田君は四人の仲をうまく取り持ってくれるから、感謝しているし、ある意味尊敬し
ている。磯部や草津とは、トリックの話もオープンにやってるんだよね?」
「まるっきりのオープンてことはありませんが。まあ、お蔵入りさせていたサブトリッ
クを三人で交換して、それぞれ習作を書いてみたことはありますよ」
「だよね。そのときの広い気持ちで、僕にも一つ、密室トリックのいいやつをくれない
だろうか。もちろん、借りは将来返す。今言っても絵に描いた餅だが、僕が一本立ちし
た暁には、君を有望なミステリ作家だとして編集者に推薦しまくるつもりだ」
「うーん、でもね。真にオリジナリティのある、優れた密室トリックなんて簡単には浮
かびません。浮かんだとして、それを他人にはいどうぞと渡すはずがないでしょう」
「そこを何とか。この通りだ」
 細川は土下座までした。だが、その態度は、袴田の目には行き過ぎと映ったようだ。
「……細川さん。そんなことして、俺がしょぼい密室トリックを提示したら、どうする
んです?」
「それはないだろ。実は知ってるんだよ。あの根っこの密室トリック」
「は!?」
 顔色が変わる袴田。
「あんた、まさか、俺のノートを覗き見したのか?」
「あ、ああ。だいぶ前、この部屋で飲み会をしただろ。あのとき、最終的に僕と君の二
人だけになってから、君がトイレに席を外した、その隙にちょっとね。あ、いや、誤解
しないでくれ。見ただけで、使ってはいない。いいトリックがたくさんあって、才能あ
るなあって感心しただけだよ。そんな中でも、あの根っこの密室トリックは奇想天外で
ユニークだった」
「……信用できない」
「え?」
「もう話は終わり。あんたには絶対に提供しない。たとえ俺自身が字を書けなくなった
としたって、絶対にだ」
「いやいや、悪かったよ。謝るからさ。なあ、僕は僕なりの誠意を示したつもりだ。黙
って使うことだってできたのに、そうせずに、許可を得ようとしてるんだから」
「黙れ。もう出て行ってください。しばらくは顔を見たくない」
 袴田は床にあった雑誌を押し返すと、座った姿勢のまま、くるりと向きを換えた。
 背中を向けられた細川は、ふう、と大きな息を吐いた。
「そうか。分かったよ。すまないね」
 この「すまないね」に、もしかすると袴田は引っ掛かりを覚えたかもしれない。どう
して現在形なんだ? ここは普通、「すまなかったね」じゃないのか?
 そしてその疑問が彼の脳裏に浮かんでいたとして、答は直後に示された。
(ほんと、すまないね、袴田君)
 細川は隠し持っていた金属製の文鎮を取り出し、袴田の脳天めがけて振り下ろした。
 その後、袴田の絶命を確かめると、細川は冷静に返り血の有無を調べた。
「うまくいったようだ。さて」
 このアパートなら、独り言をいくら言っても大丈夫。聞かれる恐れはない。
 だけど細川は、続きは心の中の言葉にした。
(手に入った密室トリックには、このアパートでも使えるのがあったな。あれで部屋を
密室にしよう。そうすれば僕も安全圏に逃れられる)
 細川はそのための下準備として、まずは袴田のトリックノートを持ち去ることにし
た。

             *           *

 純子が砧緑河(きぬたりょくか)と親しくなったきっかけは、同じ番組に出演したこ
とだった。
 現役大学生にしてロックバンド『伝説未満』のドラマー。
 誰が見ても華奢な身体付きだなあって印象を与えるであろう砧だが、いざドラムを叩
き始めるとパワフルで。夏に薄着してるときなんか、服がまくれ上がっちゃうんじゃな
いかと気が気でないファンも多いと聞く。
 そんな砧緑河が住んでいるのが、音無荘。防音に特化したアパートで、かつて通称が
音無荘だったのに、今では正式名称になってしまった。各部屋でどんなに音を立てよう
と、外に漏れはしないっていうのが謳い文句。
「もちろん、窓を開け放してはだめだけどさ」
 砧は笑いながら純子に説明した。
 風呂もトイレも炊事場も共同で、洗濯は近くのコインランドリーまで出向く必要があ
る。それでも完全防音に惹かれて、空室なしの状態が続いているという。
 居室は一階に三部屋、二階に五部屋あって、今の入居者は一階は三人全員が砧自身を
含めて音楽関係の人。二階の方は、四部屋はセミプロクラスの作家さん、それも推理作
家ばかりが揃っている。残る一部屋は、若手の噺家が入っているとのことだった。
「なかなか楽しそうな顔ぶれというか……」
「実際、楽しいんだから。美羽ちんも暇ができたら、遊びにおいで。生演奏付きで落語
を聴けるかもしれないよ」
 砧は純子のことを“美羽ちん”と呼ぶ。純子が風谷美羽として芸能活動をしているか
らに他ならないのだが、最初は「ちゃん」付けだったのが、じきに変化したのは妹扱い
されているためらしい。

 砧の誘いに対し、行く気満々だった純子だけれども、双方の都合がなかなか付かなく
て行けないまま、半年ほどが過ぎた。砧は新しい曲のレコーディングの目処が立ち、純
子の方は密室殺人を扱ったドラマの収録が終わったことで、ようやく休みがうまく重な
った。
「外で待ち合わせしてから、ご招待でもいいんだけど、古風亭安多(こふうていあん
た)さんが午前中なら、稽古がてらに一席演じられるけどって格好付けて言ってる」
「格好付けて?」
「本心では安多さん、美羽ちんを一目見ておきたいんだよ。面食いな人だからね」
「あはは、まさか。私のことなんか知らないでしょ」
「いやいや、その無自覚が怖いよ。それともまさか、若手噺家は皆ストイックな修行の
身にあるとでも思ってる?」
「それはないけど……。とりあえず、直接そちらに窺ったらいいんだよね? 何時にす
る?」
「朝の十時とか、大丈夫?」
「何とかなる」
 そんな風にして約束の詳細を詰めたけれども。
 当日の朝になって、大変なことが音無荘で起きたと純子はニュースで知る。
 二階に入居する推理作家四人の内、三人が死亡するという大事件だった。
 すぐさま電話を掛けてみた純子だったけれども、いっこうにつながらない。他の知り
合いからも着信が殺到しているに違いないから、無理もない。
 結局連絡が付かないまま、当初の予定通り、十時十分前に着くように自宅を出発し
た。

「美羽ちんてさあ、案外、ばかなところあるんだね」
 マドラーでアイスコーヒーの氷をつつきながら、砧が笑った。
「ばかはないと思う……」
 ミルクセーキのグラスを両手で包み、軽く頬を膨らませたのは純子。
 二人はアパートから百メートルほど離れたところにある、半地下型の喫茶店にいた。
「ごめんごめん。まあ、ばかは言いすぎだけど、考える前に動くっていうか。普通に想
像したら分かるっしょ。事件が起きてマスコミが集まることくらい」
「うん。確かに」
「そんな場所にのこのこやって来たら、事件と関係あるんじゃないかって疑いの眼で見
られるかもしれないんだよ」
「そこまでは考えなかったわ」
「ほら、だから考えなしに行動してるじゃん」
「でも、砧さんが心配で」
「そ、そこはいい子だねって評価してる」
 何故か照れと戸惑いを露わにした砧は、アイスコーヒーにミルクフレッシュを全部入
れて派手にかきまぜた。
「そういえば、古風亭安多さんはどうされたの?」
「あー、あの人は現場と同じ二階の住人てことで、事情聴取が長引いているみたいね。
疑われてるんじゃないといいんだけど」
 亡くなった三人の推理作家は袴田冬樹、磯部秋人、草津春彦と言い、残る一人の細川
夏也も怪我を負っていた。
「四人は元々知り合いで、それぞれ何らかの形で商業デビューしてるの。ペンネームに
春夏秋冬を一文字ずつ入れようって実行するくらい、親しかったみたいだね。ただ、ラ
イバル意識も凄く強くて、時折、派手な口論をしてた……らしいんだけど、アパートで
は防音設備が整っているから、そういう場面にはほとんどお目に掛からなかったな。せ
いぜい、共用スペースのキッチンでぐらいかな」
「創作論を闘わせるという意味でしょう? そんなことで殺意が生まれるの?」
「表面上は論戦でも、裏に回ればどうだったのかな。みんな本格的なプロを目指して、
よく言えば切磋琢磨、悪く言えば足の引っ張り合いをしていたように見えた。たとえ
ば、出版社からの封筒を隠して、見るのを遅らせたりね。ある人の作品の酷評が載った
雑誌を、これ見よがしにテーブルに置いたり。誰がやったか分からないようにする辺
り、陰険よ。それでも表向きは親しく付き合っているんだから、みんな犯人の素質があ
ると思った。っと、これは不謹慎だったね、殺人が起きているのに」
「……知り合いに探偵さんがいるんだけれど、その人に意見を聞いてみようかな。砧さ
んも早く解決した方が、落ち着いてあのアパートで暮らせるでしょ?」
「それはそうだけど。へえ? 探偵って、興信所なんかの調査員じゃなくて、映画やド
ラマで見るような?」
「そう。一部の警察の人にも顔が利くみたい」
「おお、いかにも名探偵って感じ。そういう美羽ちんも、顔が広いんだねえ」
「知り合うきっかけは、ずっと小さな頃の出来事だったんだけどね」
 純子は当時を思い出して回想にふけりそうになったが、かぶりを振った。今は、砧か
ら知っている限りの情報を聞き出すのが最優先だ。

「涼原さん、これは正直言って、難題かもしれない」
 純子がその日の内に知り合いの探偵・地天馬鋭に依頼を出したところ、自宅に帰り着
く頃には返答が電話であった。
「地天馬さんにとって難題なんですか?」
「ああ。警察よりも早く犯人逮捕するのはまず無理だろうね」
「え?」
 事件が難しいというのではないらしい。むしろ簡単すぎるってこと?
「思い込みはよくないと分かっているが、この事件はほぼ決まりだろうね。推理作家で
生き残った細川を犯人だと睨んで、警察は動く。僕も手を着けるのなら、そこからにす
る」
「……どういう理由でそうなるんでしょう? 動機なら、一階の音楽関係者の人にもあ
ったはずですが」
 電話口で首を傾げる純子。砧は別にして、他の二人の音楽関係者――ともにミュージ
シャン――は、入居の際に推理作家の袴田&磯部と部屋を入れ替わってもらっている。
楽器や関連機器の搬入に、一階の方が便利だというのが理由で、最初は一悶着あったと
聞いた。多少の金銭で解決したが、しこりは残ったという。
「関係ないと思うね。音楽関係者と推理作家の間にわだかまりが残っていたって、決着
したことを蒸し返す理由がどちらにもない。推理作家の皆さんが元の一階の部屋に執着
する理由があったとしても、それなら彼らは被害者ではなく加害者になるはずだ」
「そこは分かりましたけど、細川という人を犯人扱いする理由は」
「他の三人が、密室状態の部屋で殺されているからさ。一般の人間はこんなことはしな
い」
「あ、そっか。そうですね」
 ここしばらく、密室殺人を扱うミステリドラマに出演していたせいか、感覚が麻痺し
ていたようだ。
 地天馬に言われるまでもなく、三人の被害者が密室状態の自室内でそれぞれ亡くなっ
たことは、砧から聞いていた。
「部屋の間取りや鍵の構造、窓の有無など詳しくはまだ聞いていないが、防音に優れた
部屋なら、ドアや窓に隙間はなく、鍵も特殊な物である可能性が高い。恐らく、複製も
難しいはず。そういう条件下だとしたら、まず考えるべきは犯人が第一発見者を装って
鍵を室内に持ち込むパターンだ」
「そうですね」
 素直に相槌を打つ純子。ちょうどドラマでも同じようなやり取りがあったから、よく
分かる。
「そして人の動きをチェックすると、袴田、磯部、草津の各部屋に真っ先に出入りした
のは細川氏ただ一人。腕と頭を負傷しているにも関わらず、病院への搬送どころか応急
措置すらも拒んで、他のみんなが危ないかもしれないと管理人を呼ばせた上、一緒に入
っていく。不自然さがあふれ出ているよ」
「言われてみると、仰る通りでした」
「まあ、鍵を部屋に置く方法は工夫したみたいだね。たとえば草津の部屋では絨毯がふ
かふかなのと、一緒に入った管理人が低身長であることを利して、管理人の頭越しに鍵
を放ったんだと思う」
「それって……ステージ上のマジックで、似たような演目を見た覚えがあります」
「そこからの発想かもしれない。袴田の部屋では、被害者のサンダルをさりげなく履い
ていた可能性が高い。細川氏は自室を素足で飛び出しているのに、管理人とともに廊下
を急ぐ姿を他の住民に見られた際は、複数の足音が聞こえたとある。袴田のサンダルに
二〇一号室の鍵を入れた上で、自らが履いたんだろう。現場で脱げば、鍵はサンダルに
最初から入っていたように見えるっていう寸法さ。どさくさ紛れで綱渡りの方法だが、
運がよかったとしか言えない」
「細川という人が怪しいというのは分かりましたが、動機は何なんでしょう? 互いを
ライバルとして高め合っていた、言ってみれば戦友なのに、いきなり殺すなんて」
「そこまでは分からない。想像ならいくらでもできるが、三人をまとめて殺害するとな
ると、何らかの切羽詰まった事情があったんじゃないかな。とまあ、今の僕が言えるの
は、この程度のことだよ。探偵が動かなくても、早晩、警察が犯人を逮捕するに違いな
い。だから涼原さん、君の友人にも近い内に平穏が戻って来るさ。全くの元通りにはな
らないだろうけどね」
「あ、はい。殺人現場になったアパートだなんて、ちょっと怖いですけど、ようやく遊
びに行けます。ありが――」
 純子が礼を言おうとしたときには、相手は多忙を理由にさっさと電話を終えてしまっ
ていた。

             *           *

『念には念を入れないとな』
 胸の内だけの呟きにとどめるつもりが、いつの間にかまた声に出していた。初めての
殺人で、気が多少動転している。それを落ち着けよう、励まそうと、自らの声で試みて
いるのかもしれない。
『袴田と草津、磯部は三人でトリックの交換をしていた。ということは、僕のお目当て
である木の根っこを利した密室トリックについて、袴田が二人に話している可能性があ
る。話していない可能性の方が大きいだろうけれども、万が一に備えなきゃ。口封じの
ために、磯部と草津も始末しよう。それこそが完全犯罪への道だ。幸い、鍵を室内に戻
すタイプの密室トリックなら、袴田のノートに山ほどある。この中から、推理小説とし
ては使いづらい、つまらない物をピックアップして、現実の事件に用いればいい。無駄
遣いはよくないからな』
 ICレコーダーに手が伸びてきて、停止ボタンを押した。
 その手の主である花畑刑事は、容疑者の細川をにらみつけた。
「亡くなった袴田さん、こんな物で録音してたんだな。机の脚の影に貼り付けてあった
よ。あんたのこと、前々から信用していなかったんじゃないか?」
 デスクを挟んで向こう側に座る細川は、ただただ口をあんぐりとさせていた。
 いや、ようやく一言だけ言った。
「音が、あった」

――おわり




#472/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/08/31  22:12  (338)
飛鳥部響子の探偵しない事件簿   寺嶋公香
★内容                                         19/09/11 21:10 修正 第2版
 最初にその悲鳴を聞いた瞬間、飛鳥部響子(あすかべきょうこ)は「またやってる」
と思っただけだった。
 悲鳴を上げたのは、瀬野礼音(せのらいね)。劇団の中では年長者の方で、それなり
に演技は達者だけれども、時々、意図の分からないアドリブを放り込んでくる。ついで
に言えば若作りも周りの評判は芳しくないようだ。が、本人は気付いていないのか気付
いていないふりをしているのか、いっこうに改まらない。
 現在、演劇の通し稽古中で、皆で乾杯するシーンに差し掛かったところだった。元々
の台本では、飛鳥部の目の前で、郡戸規人(こおずのりひと)が毒を盛られて倒れ、や
がて絶命する演技に移るはずだった。ところが彼に先んじて、舞台の端にいた乳川阿久
太(ちがわあくた)が仰向けに派手にぶっ倒れ、そばにいた瀬野が駆け寄り、悲鳴を上
げたのだ。
(大方、いたずら好きな乳川さんと組んで、他の皆を驚かせようとして、一芝居打った
んだわ。芝居中に一芝居だなんて、ややこしい)
 飛鳥部はしかし、積極的には事態に対処せず、状況を見守った。セミプロの飛鳥部は
今回、アマチュア劇団「歓呼鳥」に助っ人女優として参加している立場だ。師と仰ぐ桂
川(かつらがわ)に頼まれては断れず、心理ミステリと銘打った台本はシンプルだが結
構見せ所があったので、まあまあ悪くない仕事だと感じていた。だが、稽古二日目から
瀬野の自由な振る舞いが鼻につき始め、幾度もいらいらさせられていた。それでも立場
上、揉め事を起こしたくないと我慢するように心掛けていたので、この場で動かないの
は当然の選択だった。
 今回役のない裏方の二人が、倒れた乳川の上半身右側にしゃがむ瀬野に背後から近寄
り、「大丈夫ですか」と、一応心配するような声を掛ける。「歓呼鳥」では監督や演出
といった制作陣と、俳優陣とのはっきりした区分はなく、本劇では監督と演出と被害者
役を郡戸が務めている。彼が舌打ちをしたことからも、このアドリブが進行を妨げる夾
雑物であるのは明らかだった。即座に注意叱責が行われないのは、劇団内部の格付けが
影響しているらしいのだが、外部の人間である飛鳥部には推測に留まるしかない。
 ところが、稽古の中断によりともすれば弛緩しがちな空気が、瞬く間に一変する。
「郡戸監督! 本当にやばい感じっす!」
 様子を見に行った二人の内の若い方が振り返った勢いのまま、郡戸や飛鳥部のいる方
に駆けてきた。
「おいおい、おまえまで片棒を担ぐってか。勘弁してくれ」
 のろのろとした足取りで、乳川の倒れているところへ向かう郡戸。瀬野はとうに立ち
上がり、距離を取っていた。彼女の足元――というにはやや遠いが――では、乳川が
「はぁ〜、はぁ〜」と苦しげな呼吸を繰り返している。
 演技にしてはどこか変だ。飛鳥部は直感し、郡戸を追い抜いて乳川に駆け寄った。
 最初に駆け付けた裏方二人の内の、年配の方が「これ、本当に刺さってるよ……」
と、どことなく芝居がかった口調で言った。
 桂川が用意してくれたという稽古場は広く、飛鳥部の立っていた位置からは乳川の様
子がよく見えなかったのだが、近付いてみると彼の左胸、鎖骨と心臓の間ぐらいに、小
型の矢が突き立っていた。襟首の大きく開いた衣装を身に着けているため、乳川の肌が
露わになっていて、傷口から血が滲んでいるのが分かる。
「郡戸監督」
 飛鳥部が振り返ると、さすがに郡戸も事態の異常さを察知していた。若干青ざめた顔
を近付け、傷を覗き込んだ。
「何でこんなことに。おい、乳川さん! 大丈夫か?」
「暑い……ライト……気分わりぃ……」
 稽古とは言え、本番になるべく近い状態でやるために、照明をふんだんに使ってい
た。その眩しさと熱が、乳川にとって気分の悪さを増幅させているようだ。
「袖に運んであげて!」
 悲鳴のあとは息を飲んだように黙りこくっていた瀬野が、我に返ったみたいに指示を
出した。舞台袖に控えていたスタッフ四名がやって来て、おろおろしつつも乳川を持ち
上げる。
「そっとよ!」
 郡戸や沼木銀子(ぬまきぎんこ)が手伝おうとすると、「衣装着ている人は、下手に
近付かない方がいいわ。汚れたら落とすのが手間よ!」と瀬野がストップを掛ける。乳
川を心配する反面、劇のことも心配するという、ある意味二重人格めいたところを垣間
見せた。二重人格なんて、役者としてはそれくらいで当たり前なのかもしれない。
「間宮(まみや)さんは、今日は来てたわよね?」
 相変わらず仕切る瀬野は、劇団員の名前を挙げた。飛鳥部は記憶を辿り、間宮久世
(ひさよ)の普段の仕事は看護師だということを思い出した。
「はい、来てます。衣装係で」
「応急手当は彼女に任せましょう。そう伝えておいて!」
 瀬野は指示を終えると、今度は郡戸に向き直った。
「監督。どうするか判断して。救急車を呼ぶのは当然だろうけど、警察を呼ぶのかどう
か」
「け、警察?」
 気圧されたように上体を反らし、どもって答える郡戸。
「事件なんじゃないの? 誰かがどこかから弓矢で乳川さんを狙ったんだから」
「そんなことって……信じられん。この稽古場のどこから狙えば、人に見られずに撃て
るってんだ?」
「そんなのは知らないわよ。現に矢で撃たれてたんだから」
 言い争いが続きそうな気配に、飛鳥部は近くにいた裏方の一人を掴まえて、パイプ椅
子の上にある携帯端末を持って来るように囁いた。そして郡戸と瀬野の些か喧嘩腰の会
話に割って入る。
「ちょっといいですか。二人とも、救急車を呼ぶことでは一致してるんですから、早く
そうしないと。ほら、監督さん」
 さっきの裏方が郡戸の携帯端末を持って、ちょうど戻って来た。

 結局、警察が呼ばれた。
 相談してそう決めたのではなく、否応なしにである。何故ならあのあと、乳川は亡く
なったのだ。
 間宮が施したであろう応急手当も虚しく、救急隊員が到着したときには青息吐息であ
った乳川は、救急車に乗せられた時点でもう息をしなくなっていたという。死亡確認は
病院でなされたが、実際には稽古場で死んだと言えよう。
「さて皆さん」
 稽古場に劇団関係者を集めたところで、初芝(はつしば)と名乗った刑事がそう切り
出すと、不謹慎にも小さく吹き出す者が数名いた。
「やれやれ。前にもありましたよ、こういうことが。さて皆さんと言うのがそんなにお
かしいですか。定番の台詞も困ったものだ。まあ、私はまだ捜査に着手したばかりで、
事件を解いたって訳ではありませんがね」
 初芝は腰の後ろで手を組み、短い距離を左右に行ったり来たりしながら一くさりぶっ
た。警部という身分にしては見た目の若い長髪で、なかなか癖のありそうな男である。
「状況については、先に個別に行われた聴取でだいたい掴んでいます。それらをひとま
とめにして、何らかの矛盾でも浮かび上がれば取っ掛かりになって、私どもとしても助
かったのですが……今のところ特にこれといったものは発見できていない。仕方ないの
で、こうして皆さんにお集まりいただき、再検討を試みようという寸法です。どーかよ
ろしく」
 初芝警部は右手で前髪をかき上げると、「この奥の方をステージに見立てていたんで
したね」と、壁を指差した。
「事件発生時、このステージのスペースに立っていた人達は、前に出て来て、それぞれ
の位置についてください」
 案外柔らかな物腰だが、有無を言わさぬ響きを含んでいる。無論、この状況で反駁の
声を上げてわざわざ警察に睨まれる真似なんて、誰もするはずがない。
 ステージに“上がった”のは、お嬢様役で誕生日パーティの主役という立場の瀬野、
その婚約者役の郡戸、瀬野の友人役の飛鳥部、瀬野の義母役の沼木、さらには沼木の連
れ子役が渡部広司(わたべこうじ)、屋敷に住み込みのメイド役が横山幸穂(よこやま
さちほ)という顔ぶれで、これに沼木の弟役で遊び人設定の乳川を加えると七人にな
る。
 初芝警部は乳川のいた位置を聞いて、そこに立った。代わりを務めるということだ。
「聞いたところでは、本来の筋では、メイドの横山さんがトレイに乗せて飲み物を運
ぶ。各自がグラスを取って、横山さんは下がる。他の六人で乾杯し、その直後、郡戸さ
んが悶え苦しみながら倒れるという流れだったとか」
「はい、間違いありません」
 返事する郡戸と瀬野の声がほとんど被った。
「現実に起こったのは、横山さんが引っ込んで、残る六人が中央付近に集まろうとした
矢先、私というか乳川さんが胸元を押さえて倒れた。そして――瀬野さん、その様が正
面に見えたので、駆け寄ってみたところ、矢が刺さっていた」
「ええ」
 自身を抱えるような格好をし、身震いする瀬野。
「矢が飛んでくるのも目撃していればよかったんですけれど……」
「いや、そいつは無理です」
 簡単に言い切った警部。
「調べたところ、あれはダーツに手を加えた、おもちゃみたいな物でした。長さこそ十
センチほどあったが、重さのバランスに問題があって、常識レベルの弓ではまともに飛
びそうにない。ま、裏を返せば非常識なほど強力なゴムや、空気砲みたいなので飛ばせ
ば、狙い通りに飛んで行くかもしれないが、この稽古場にそんな道具はなかった。凶器
に限らず、犯行後に何かを建物の外に持ち出すチャンスもなかったとの証言を得ていま
す」
 この稽古場はビルの二階にあり、外部とのルートは一階を通るしかない。そして一階
には施設使用の受付などを担当する管理人が常駐している。
「そういう訳で、瀬野さん、とりあえずはあなたを疑うことから始めたいんですが」
「ま。どうして私が」
 驚きの声を上げ、口元を手で隠す瀬野。堂に入っているけれども、この場面でこの型
にはまった反応は、安っぽく見えてしまう。いや、それ以上に疑いを深めることにつな
がるやもしれぬ。
「賢明なあなたならお分かりだと思うのですが、ご説明しましょうか。可能性の問題で
して」
「……そうね。つまり、あの矢が飛んできたのではないとしたら、直に刺したものだ。
乳川さんに真っ先に近付いた私が怪しいという理屈かしら」
「そうです。あ、ついでに付け加えると、あなたと乳川さんは劇団内で1、2を争うア
ドリブ王だとか。あなたは他人の力を試すかのようなアドリブが多いのに対し、乳川さ
んは人を驚かせるいたずらが多かったと聞きました。そこで私は思った。あなたと乳川
さんが予め示し合わせて、芝居を打つ約束をしたのではないいか。そしてさらに、あな
たはその約束を途中で裏切り、演技で倒れた乳川さんに近付くや、隠し持っていた凶器
で刺した」
「そんな恐ろしいこと」
 私はしませんと言ったみたいだが、よく聞き取れなかった。
「刑事さん、本気でそうお考えなのですか」
 郡戸が尋ねた。律儀にも、最初にスタンバイするように言われた位置から、一歩も動
いていない。
「いや、最初に浮かんだ仮説がこれだというだけで、後に出て来た物証を見ると、ちょ
っと否定したくなってきたところです」
 初芝警部は身体の向きを換え、手帳を取り出す。ページをぱらぱらっとやって、一度
行きすぎてから目的の箇所を見付けたようだ。
「多分、皆さんには伝わっていなかったと思います。死因は毒物でした。詳しくは申せ
ませんが、ニコチン系としておきましょう」
 警部の話す途中からざわめきが広がった。
「お静かに。あまり勝手な発言を方々でされては困ります。こういうときこそさて皆さ
んと言うべきでしょうかね」
 警部の人を喰った物言いに、場のざわつきはたちまち収まった。
「無論、凶器の矢にも毒が塗布された痕跡がありましたよ。たっぷりとね。翻ってみる
に、瀬野さん。稽古時の衣装はドレスだったと窺いました。写真でも拝見したのです
が、チャイナドレスをちょっと洋風にした感じでしたね」
「え、ええ。自前ですの」
「なるほど。肌の露出度が意外に高く、矢を隠すスペースは限られそうです。それでも
元はダーツの矢なのだから、テープで貼り付けるなり何なりすれば、隠せないことはな
い。ですが、毒が塗られていたのでは無理だ。下手すると自分に刺さって、命が危な
い。先端部を他の物で覆うとか、身体から外したあとに毒を塗るといった方法も、この
早業殺人には該当しない」
 警部の推理に、瀬野はあからさまにほっとした。それは飛鳥部が目の当たりにした瀬
野の言動の中で、最も自然な動作だった。
 ただ、警部はまだ瀬野を解放した訳じゃなかったようだ。
「唯一、考えられるのは、髪飾りに模して凶器を髪に挿しておく方法ぐらいかな。だけ
どまあ、これもありませんでした。リハーサルの最初に記念の集合写真を撮られていま
したね。あれを見ると、あなたの頭にそんな変な物はなかった」
「……お人が悪い」
 ぶつぶつ言いながらも、瀬野は再びの安堵をした。
 初芝警部は二度ほど首肯し、全員をぐるりと見渡した。
「瀬野さんでなければ誰か。瀬野さんの次に乳川さんに近付いたお二方ではもう遅い。
通常の舞台の上だったなら、こんな壁がなく――」
 稽古場奥の壁をコンコンと叩く警部。
「布で仕切る場合もあるようだから、そこに潜んでいた犯人が、乳川さんの隙を突い
て、凶器を直接振るったという線も考えられるんですがね。この稽古場では、それも無
理。お手上げ状態で、困っているんですよ。こうして発生時の状況を再現すれば、何か
思い出されるのではないかと期待しているのですが、何もありませんか。変な物を見掛
けたとか、普段はこうなのに事件当日は違っていた、みたいなわずかな違いでもいい」
 警部はまたも皆を見渡した。舞台上だけじゃなく、出番じゃなかった役者や裏方にも
等分に視線を配る。
「あの、そういう何かに気付いたとかじゃないですけど」
 声のした方を向くと、横山が小さく右手を挙手していた。高校を卒業したばかりで、
まだまだおぼこいってやつだけど、華はある。本当の端役としてのメイドを演じられる
のは今の内かもしれない。
「何でもかまいません。拝聴します」
「乳川さんは自殺……ってことはないでしょうか」
「ん? どうしてまたそんな意見を持つに至ったのでしょうか。思い悩むタイプじゃな
かったという証言を、複数の関係者から得ていますが」
「私もそう思います。だけど、誰も乳川さん凶器を刺せない、撃てないのなら、あとは
本人しか残らないのではないかなと思って」
「なるほど。理屈ではそうなる。じゃ、折角だから皆さんに問いましょう。乳川さんが
自殺するようなことに心当たりのある方はいらっしゃいませんか」
 警部が見渡す前に、「あの」と声を上げた男性がいた。監督の郡戸だった。
「何でしょう」
「彼は実生活でも今度の役柄に近い、遊び人の面があって、金遣いが荒かったんです。
暇と小金があれば、競馬だのパチンコだのにつぎ込んでいました。そして儲かっても、
すぐに使ってしまう。それでうまく回ってる内はいいが、負けが込むとどうなるやら。
あのときの金を残していたらと悔やんで、急に虚しくなって死を選ぶとか、考えられな
いでしょうか」
「私はあなた方よりも乳川さんを知らないので、分かりません。それよりも郡戸さん。
具体的に乳川さんがギャンブルで大負けした事実があるんですか」
「ちょっと前の話になりますけど、麻雀で負けが込んで、手持ちの現金以上にマイナス
になって、支払いを先延ばしにしてもらおうとしたら、怖い人が出て来たことがあった
とか言ってました。やくざとか暴力団とか、そういった連中だと思います。そのときは
身に着けていた時計やらベルトやら上着やらで、どうにか勘弁してもらったとか言って
笑っていましたけど、また同じことを繰り返して、今度こそだめだってなったら死を選
ぶかも……」
「うーん」
 初芝警部は大げさに首を傾げた。
「どうも分からんのですが、自殺するなら誰も見ていないところで一人ですればいいの
では。何でわざわざ皆さんの前で、しかも他殺っぽく偽装して死ぬ必要があるのでしょ
うかね」
「……生命保険金とか」
「ああ、乳川さんは保険に金を使う人ではなかったようでして。奥さんとお子さんがい
るにもかかわらず、保険には入っていなかったみたいです。尤も、ご遺族の元に借金取
りが押し掛けているというようなことにも、今のところなってませんが」
「そうですか。やっぱり、違うのかなあ」
 宙で片肘を突き、右手に作った拳を口元に宛がう郡戸。黙っていれば名監督という風
情、なきにしもあらずだ。
 と、そんなことを考えるともなしに思っていた飛鳥部だったが、不意に初芝から名を
呼ばれた。
「飛鳥部さん」
「はい、何でしょう?」
「あなたは部外者というか、ゲスト参加の方ですよね」
「そうなります。劇団員同士では動機が見付からないから、外部の者が怪しいと?」
「いえ、とんでもない」
 笑いながら両手を振る警部。その姿を見て飛鳥部は、ここにいる全員の中で二番目に
演技が上手いのはこの刑事さんかもと思った。一番? もちろん飛鳥部自身である。
「部外者だからこそ気付く視点というのを持ち得るのではないか思いまして」
「それは警察の方々も同じです」
「ところが現場に居合わせたのはあなただけですよ。現場に居合わせ、しかも部外者の
視点を持てるのは、飛鳥部さんお一人」
「……そう言われましても……あ、でもひとつだけ」
「何です」
「皆さん周知の事実だろうなと思い、刑事さんの事情聴取でも話さなかったのですが…
…今まで全然話に出て来ないので、言ってみますね」
 飛鳥部はステージのスペースから、スタッフ達の顔を見ていった。目的の人物を見付
けて、失礼にならない程度に腕で示す。
「乳川さんと間宮さんはお付き合いしていたと思います。違っていたらごめんなさい。
裁判は勘弁してくださいね」
 飛鳥部は両手を合わせながら、チャーミングさを匂わせて言った。実際には、腕で示
した瞬間の間宮の表情の変化をしっかり見届けており、確信を得ての発言だったのだ
が。
 しかし劇団のメンバー間では、誰も思っていなかったようで。
「間宮さんと乳川さんが?」
「何の根拠があって」
「タイプが違う気がするけど」
 なんて声が重なるようにして次々上がる。それらに後押しされた訳でもないだろう
が、間宮は飛鳥部に向かって、「私が乳川さんと? あり得ないわ」と断言した。三十
前後の肌の白い、大人しそうな見た目だが、演じるときは様々に変化する。特にあばず
れタイプが得意のようだが、ひょっとすると地?
「ですが、最初の台詞合わせのとき、隣同士に座られて」
「そんなことが理由? それで付き合ってたって疑われるんだったら、手をつなげば妊
娠ね」
「まだ途中です。座られるときに、一度右側に腰を下ろし掛けて、思い出したみたいに
左に移られました。あれは利き手が左と右とで邪魔になることを気にしたのではありま
せんか」
「……そうよ。けど、利き手ぐらいのことで」
「まだありました。これまでの何回かの稽古の休憩時に、コーヒーや紅茶を飲むことが
ありました。その際、角砂糖を入れない人、一つ入れる人、二つ入れる人、色々いまし
たが、皆さん毎回同じでした。入れない人は入れない。一個入れる人は常に一個、二個
なら二個と。でもただ一人、乳川さんだけが毎回異なっているようでした。コーヒーと
紅茶で区別してるのでもなし、お茶請けによって変えているのでもない。何だろうと思
ってふと気が付いたんです。曜日だって。何らかの健康のためなんでしょう、乳川さん
は水曜と土曜は角砂糖を一個だけ入れて、あとは無糖でした。そしてこのことを正確に
把握しているのは、劇団の中では間宮さんお一人だったようにお見受けしました」
「それは……私が看護師だから、アドバイスしたのよ。彼の身体を気遣って」
「なるほど。そう来ましたか。でも、彼なんて言うと怪しまれますよ。――ねえ、初芝
警部。どう思われます?」
 最前とは逆に、警部の名を不意に呼んでやった飛鳥部。
 初芝はさすがに慌て得る気配は微塵もなく、「調べる値打ちはありますねえ」と答え
た。そして部下に目配せし、間宮の回りを囲ませてから、話を続ける。
「ただ、間宮さんと被害者が密かに付き合っていて殺害動機があったとしても、彼女が
乳川さんを殺せるのかどうか。方法が分からない」
「それは刑事さん達が今、可能性を検討し始めたばかりだからだと思います。じっくり
考えれば、少なくとも一つ、方法があると分かるはず」
「悪いんですが、それを教えてくれますか。事件解決が早ければ早いほど、我々もあな
た方も助かるでしょう。つまり、今度の劇を中止にせずに済ませられますよ」
「それはよいお話です。不幸中の幸いと述べるのはあれですが、間宮さんには今回、何
の役も割り振られていませんし。――監督、かまいませんよね?」
「あ、ああ。警察に協力して……ください」
 郡戸は外見とは正反対の落ち着きのなさで、了解した。
 飛鳥部は軽く咳払いをして、間宮の方をちらと見てから、警部に対して説明を始め
た。
「私が想像したのは、乳川さんのいたずらは、頻繁にありすぎて、ちょっとやそっとの
ことでは最早誰も引っ掛からなくなっていたんじゃないかという状況です。知恵を絞っ
て作ったどっきりをああまたかで済ませられては、乳川さんも面白くない。そこで一段
階エスカレートしたいたずらを考えた。それが、凶器を使って本当に自らの身体を傷付
けるという荒技です」
「え?」
 何人かが、やや間の抜けた反応を漏らした。「それって自殺説に近いような」という
声も聞こえた。
「無論、凶器に毒は塗りません。ダーツに手を加えて弓矢の矢のようにしたのにも理由
があったんでしょう。あまりに鋭い凶器だと、深く突き刺さって危ないので、市販の
ダーツを軽く尖らせて使った。矢にしたのは、どこかから飛んできたように思わせる余
地を残すため。いきなり自作自演だと見破られては、元も子もないですから」
「なるほど。筋道は通っているようだ。では毒は?」
「警部さんならもうお分かりだと思います。お譲りしますわ」
「そ、そうですか。では……」
 警部もまた咳払いをした。さすがにここでは「さて皆さん」とは言わない。
「いたずらとしてのアドリブで、ダーツの矢を胸に自ら刺すという計画を、間宮さんは
事前に聞かされていた。乳川さんにしてみれば、すぐにでも的確な治療をしてもらっ
て、救急や警察を呼ばれない内に『はいこの通り元気ですよ。みんな騙されてくれてど
うも〜』ってな具合に姿を現すつもりだったに違いない。
 だが、計画を聞かされた間宮さんは、かねてから抱いていた殺意を実行に移すチャン
スだと捉えた。治療のために運ばれてきた乳川さんと二人きりになるタイミングは絶対
にあったと思う。なければ看護師の専門職ぶりをかさに着て、人払いすることも可能で
しょうな。そして二人だけになったとき、凶器のダーツを抜き取り、毒を塗布してから
改めて同じ傷口に押し込んだ。あとは毒が回って、被害者の死を待つのみ――こんな感
じですか」
 喋り終えた初芝は、どことなく気分よさげだった。髪をかき上げ、間宮の反応を窺う
素振りを見せる。
「……そんな朗々と演説しなくても、調べられたらまずい物がたくさん見付かったの
に」
 悔しさを紛らわせる風に、間宮久世は言い捨てた。

 ちなみに。
 劇の方は結局中止になった。飛鳥部はやる気満々だったけれども、劇団員の内、出演
の決まっていた数名が降りてしまい、代役も揃わなかったためだ。一応、無期限延期と
発表されたが、恐らく中止だろう。
 事態がこんな顛末を迎えたせいで、飛鳥部は桂川からちくりと嫌味を言われた。
「プロの集まりじゃない、アマチュア劇団なんだから、彼らの心情を慮って、公演が終
わるまで解決を先延ばしにはできなかったのかい?」
 当然、冗談だったのだが、師匠のこの言葉は飛鳥部に心のライバルの存在を改めて意
識させた。
(一緒の舞台を踏んだとき、私がアマチュアで、彼女がセミプロ、プロだった。少しで
も早く彼女とまた共演したい。ううん、しなくては)
 飛鳥部響子はそうして、涼原純子の顔を思い浮かべた。

 おわり




#473/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/09/27  21:14  (104)
誤配が運んでくれたもの   永山
★内容                                         19/10/10 19:50 修正 第3版
 今日も郵便受けを覗く。何通か入っている。単なる投げ込みチラシも一枚あった。
 私は一通の茶封筒に目を留めた。宛名書きがないことから封筒に入ったチラシの類だ
と思ったが、それにしては封がしっかりされているし、茶封筒とは味も素っ気もない。
 玄関から家に戻って、リビングに向かいながら封を切る。中からは白地の紙が出て来
た。A4のプリント用紙のようだ。六つ折りぐらいに畳まれて、入っていた。
 プリント用意だけど、ここもやはり手書きだった。定規を当てて鉛筆で書いたと思し
き、かくかくした大きめの文字が並ぶ。全て片仮名のようだ。
<サトウカツヒトサン、サトウマナミサンヘ。オフタリノダイジナヒトリムスコ、タツ
ヒコクンヲユウカイシタノハ、ワタシデス>
 読み始めてすぐに、え?っとなった。
 まず、私はサトウではなく鈴木だ。隣の家が佐藤だから、誤配に違いない。いや、そ
もそもこれには宛名がないのだから、郵便局や宅配業者の手を経た配達物ではない。何
者かが直接、郵便受けに入れたのだ。隣と間違えるという大ぽかをやらかして。
 そしてこの文面によると、お隣では子供がさらわれ、誘拐事件が起きているらしい。
 知らなかった。それもそうか。誘拐事件は人質の命を最優先とすることから、報道管
制が敷かれて、原則、事件が決着するか、犯人側からのコンタクトが長期に渡って途絶
えるかすれば、公になる。
 隣の佐藤タツヒコ――竜彦――誘拐事件は、まだその段階には至ってないということ
になる。
 そういう意識を持って、昨日今日の隣家の様子を思い浮かべてみると、確かにそれら
しき動きがあった気がしてきた。真っ当なサラリーマンである旦那の佐藤勝人が今日は
出社していない。今日はゴミの収集日で、いつもなら、他人のゴミ袋のチェックに余念
のない佐藤愛美は、今朝に限って姿を見なかった。そしてシロアリの駆除業者らしきミ
ニトラックが佐藤家の玄関前に横付けされ、大荷物を持ち込んで何かごとごとやったあ
と、二時間ほどで出ていった。あの荷物の中に捜査員が隠れていたのかもしれない。佐
藤家は大きな家で、覗こうとしても簡単には見えないからさっぱり分からなかった。
 手紙の続きに目を通すと、営利目的の誘拐犯の決まり文句が並ぶ。警察など外部に連
絡しないこと、すれば人質の身の安全を保障できないこと、身代金として五千万円を使
用済みかつバラの一万円札で用意しておくこと、次の指示は二日後になることが記して
あった。全文ほぼ片仮名でとにかく読みづらく、“バラノ一マンエンサツ”なんて、薔
薇・ノーマンと読めてしまって、文意を汲み取るのに多少の時間を要したほど。

 さて。
 こんな恐ろしくて禍々しい手紙を受け取ってしまった私は、どうすればいいのだろ
う。
 誤配がありましたよって隣に持って行く? それとも警察に届ける?
 なるほど、そういった常識的な判断はもちろんありだろう。
 だけど私は別の選択肢を思い浮かべている。
 先程、ちらと触れたように、お隣は家が広く、金持ちだ。多分、五千万円なら払える
額に違いない。佐藤愛美は、そうした裕福な家の妻にしては、ちょっと変なところがあ
る。これも先述した通り、近隣の家のゴミを覗く癖があるようなのだ。裕福なのに、他
人の生活水準が気になるのか、あるいは嘘や秘密を暴こうという魂胆なのか、はたまた
ゴミの分別にうるさいだけなのか。
 どうもそれら三つが絡み合っているようだ。要するに、この一帯のママ友でのマウン
トを完全に取りたいのかもしれない。その証拠と言えるかどうか分からないが、一度、
人のゴミ袋の覗かないでとやんわりと抗議したことがあるのだが、分別間違いがあるよ
うに見えたのでチェックしてあげていただけ、と全然改める気配がない。それ以降、我
が家に対して小さな嫌がらせをするようになったようだ。
 抗議の翌日の晩から無言電話が夜中に掛かるようになったし、隣との境目、私の家の
側にやたらと落ち葉が溜まるようになった。町内会の回覧板を、留守だったという理由
で二度ほどとばされたこともある。
 旦那の勝人は一流企業勤めとあってまあまあ常識人のようだが、妻に甘く何にも注意
しない。一度、妻の口車に乗せられたか、テレビの音量を下げてもらえないかと、夜言
いに来たことがあった。こっちは長いことボリュームなんていじってないのに。
 一人息子の竜彦が問題児だ。母親の性格を受け継ぎ、育てられ方もよくなかったと見
え、学校の行き帰りで、近所の人とぶつかりそうになってもそのまま行ってしまうし、
注意しても聞かない、謝らない。もれなく母親からの抗議が返ってくるおまけ付きだ。
ほとんどは家の中でゲームをしているくせに、あるとき突然、往来で泥団子の投げ合い
を悪ガキ仲間と共に始めて、うちの塀にいくつも痕跡を残してくれた。また、カエルの
死骸や犬の糞が家の前にあることがたまにあるが、どうも佐藤竜彦の仕業のようなの
だ。
 こういったいたずらの一部は、我が家が防犯カメラを設置すると、ぴたっと止まっ
た。見た目だけの“なんちゃってカメラ”なのだが効果はあった。
 このように、佐藤家と我が家と軽い戦闘状態にあると言える。ご近所トラブルなんて
これが初めてだけど、実に嫌なものだ。同じ区画の隣同士、完全に無視する訳にもいか
ず、嫌でも視界に入る。おいそれと引っ越しできるもんでもない(佐藤家は引っ越しす
るだけの金銭的余裕はあるはずだが、する気はさらさらないようだ)。終わりが見えな
いのが、特に苛立たしかった。
 ここまで書けばお分かりだろう。私の言う別の選択肢が何かって。
 言ってみれば、生殺与奪の権利を与えられたようなもの。誘拐された竜彦だけでな
く、佐藤家全体の命運を握っているのだ。
 常識ある人間を自負するのなら、警察か隣家に届けるのが人として当然の行動だ。そ
れは重々承知している。
 だけど、そんなことを帳消しにするほど、隣の佐藤愛美や竜彦らのやってきたことに
は迷惑をしている。もしこの脅迫文を渡して、結果、子供が無事に帰ってきたらどうな
る? あのケチな性格から言って、引き続きここに住み続ける可能性が高い、一方、子
供が無事に帰らなければ、事件が解決しようが未解決のままだろうが、佐藤家は居づら
くなるのではないか。好奇の目に耐えられず、引っ越す可能性がぐんと上がる。たとえ
そうならなくとも、あの性根の曲がった子供を屠り、さらには佐藤愛美を絶望にたたき
込めるのなら、充分だ。
 私は封筒とプリント用紙を持ったまま、席を離れて台所に立った。流しに、鍋焼きう
どん用の簡易鍋を置き、中に封筒と脅迫文を入れる。着火道具がないことに気付き、少
し考え、茶封筒を固く捻った。このあとコンロに火を着け、その炎をたいまつみたいに
なった茶封筒に移し、さらに脅迫文の書かれた用紙へと燃え移らせる、ただそれだけで
いい。
 私は何度も何度も茶封筒を捻り、固くした。そしてコンロのスイッチに手を掛ける。
ボッ、という音に続いて青い炎が円を描く。
 さあ、着けようかしら。













                                  なんてね。

 おしまい




#474/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/10/04  22:30  (478)
驚きのバースデー   寺嶋公香
★内容                                         22/09/25 03:31 修正 第7版
 純子は映画の撮影スタジオから引き上げる間際になって、鷲宇憲親から声を掛けられ
た。
「今度の誕生日、サプライズパーティをしてあげるから楽しみにしといて」
 それだけ言い置いて、すたすたと立ち去る鷲宇の背中を、純子はしばらくぼうっと見
送る。
 この直前まで、純子は控室にいて、帰り支度に務めていた。その途中、鏡をしばらく
見つめてしまい、ふっとため息が。やおら立ち上がり、帰り支度最後のアイテムである
小さなバッグを持つと、部屋を出た。
 廊下を行こうとしたところで、「あっと、ちょうどよかった」と声を掛けられたので
ある。
「あの。サプライズになってないと思うんですけど」
 一見、いや、一聞しただけではスルーしてしまいそうな、でもちょっと考えたら矛盾
しているとすぐに分かる。声を張ってそのことを告げると、鷲宇は立ち止まって振り返
り、
「いいからいいから。追って連絡するから、少なくとも当日は空けておいて欲しいん
だ。天候もあるから、できたら一週間ぐらい余裕を見ておいてもらいたいぐらいなんだ
けど。OK?」
 と、大きな身振りをまじえて確認を求めててきた。
「しようがないですね。ええ、かまいません、一週間でも十日でも」
 鷲宇との付き合いも結構長い。だから、この手の無茶振りに近い誘いを断っても、別
のアプローチをしてくるのは分かり切っていた。承知するまで離さない、そんな強引さ
を鷲宇はときに発揮する。
(誘い文句の矛盾に気付いていながら、結局乗ってしまう私も私だけれどもね)
 このところまた忙しくなって、疲れる暇さえなかったから、気晴らしをしたかったと
いうのはある。そして何より大きいのは、相羽信一の長期の不在である。
(船の上で一年間のお仕事だなんて)
 約十ヶ月経った今でも、まだちょっぴり恨めしい。元々この仕事を引き受けるはずだ
ったピアニストがダウンしてしまい、そのピアニスト自身の推薦で知り合いであり友人
でもある相羽に打診が来た。このシチュエーションで断れるはずがない。
(きっと、断れないと分かっていて、頼んできたんだわ)
 あきらめにも似た気分で彼を送り出してから、今日これまでのおよそ十ヶ月。会えた
のはただの一回きりだ。相羽の乗る豪華客船が日本の港に立ち寄るのと、純子の休みの
取れる日とがたまたま重なった。
(そういえばあのときも名目上は、誕生祝いだったわ。一ヶ月ぐらい前倒しで、彼の節
目の誕生日をお祝いした。乗ったことのない船だったし、どんな仕事場なのか見てみた
かったんだけど、急なことで見学予約を入れられなかったっけ。――いくら鷲宇さんで
も、船まで飛んで連れてってくれるはずはないわよね)
 サプライズの中身を早くも過大に期待する自分に、純子は自嘲の笑みをこぼした。最
前、鷲宇が天気について心配する台詞を口にしたいせいかもしれない。
 かぶりを振って、それからスケジュール帳を開く。忙しい身と言っても、現在の純子
は自分の意見で仕事を選べるくらいにはなっていた。誕生日以降のスケジュールは空っ
ぽにしておこう。

 誕生日の前々日、予報では好天に恵まれそうだから当初の予定通りに、という主旨の
連絡が鷲宇から入った。ちょうど冬物の撮影に立ち会っていたため、メッセージが届い
たことに気付くのが少し遅れた。
 今日中なら電話してくれても大丈夫とあったので、詳しいことを聞こうと携帯端末を
耳に当てる。三回ほどコールしてつながった。
「読んだ?」
 いきなり聞かれた上に、その声がいつもの鷲宇に比べて若干嗄れていたので、少しび
っくりした。
「だ、大丈夫ですか」
「これくらい何でもないさ。それよりも読んだから電話くれたんでしょう? 何かご質
問でも?」
「とりあえず、時刻が。何時にどうすればいいのか、おおよその目安でもいいので、知
っておきたいなと」
「あれ。送り忘れたか。しょうがねえなー。当日の午後二時に迎えに行かせるので、待
機しといてもらえる?」
 承服しかけたが、ちょっと前にもらった友達からの電話を思い出した。
「待機ですか。お昼からになるんでしたら、午前中に友達に会いたいんですが」
「友達って、誰。仕事仲間なら呼んじゃうってのも手だ」
「元クラスメートです。鷲宇さん、覚えていないかもしれませんが、唐沢さんご夫婦」
 二人の顔を思い浮かべつつ、名前を出してみた純子。鷲宇はいかにも心外そうな口調
で答える。
「年寄り扱いしなさんな。覚えてるよ。あの二人とどこで何するつもり?」
「連絡はこれからですけど、会って話をして、ランチと買い物ぐらいかしら」
「具体的に店の名前が分かるんなら、そっちに迎えに行かせよう」
「そんな、いいですよ。何から何までしてもらわなくたって。さっき年寄り扱いしなさ
んなって言われましたけれど、逆に私をいつまでも子供扱いしてません?」
「うーん、ずっと一人前に扱ってきたつもりだけどな。それに前にも言ったサプライズ
のためには、君に直接会場に来させるのは避けたいんだ」
「あの、ますますサプライズ感が失われていませんか」
「気にしない気にしない。それじゃあ三時だ。昼の三時で友達との用事は切り上げて、
連絡を寄越してくれないか。指定した場所に行くよ。東京のどこかなんだろ」
「……だったら、唐沢君達を送ってあげて欲しいな」
「無茶を言いなさんな」
 呆れ混じりの笑い声を立てる鷲宇。
「昔からの友達が大切なのは理解できる。でも、僕らも友達だろ? 元クラスメートの
子達に比べたら、キャリアの長さでは負けるだろうけどさ」
「分かりました。ちょっと意地悪を言ってみたくなっただけです。鷲宇さん、相変わら
ず強引だから」
「ほんと、言うようになったねえ」
「それより、当日はどんな恰好をしていけば……」
 まさかとは思うが、フォーマルな衣装を求められるとなると、唐沢達と会ったあと、
また着替えなければならないだろう。
「えーと、考えてなかった。けど、気持ちお洒落するぐらいでいいんじゃないか。一応
言っておくと、和服は避けた方が無難」
「はい」
「あと、足元だけは言っておかなくちゃな。なるべく安定して動ける靴にしておいで。
ヒールの高いのや厚底は以ての外」
「大丈夫です。撮影でも滅多に履きませんよ」
「よし。こっちからはこれくらいだけど、まだ他に何かある?」
「当日のことはともかくとして、私の方から鷲宇さんに誕生日のお祝いをしたことがな
いのが、とても気になってるんですが」
「プレゼントならくれたことあるじゃないか。あれで充分です」
「鷲宇さんのしてくださるお祝いが、豪勢すぎるんですよっ」
 おかげでこちらは見劣りすると表現するのすら恥ずかしいぐらいです云々かんぬんと
言い立てたけれども、鷲宇にはのれんに腕押しだった。
「ま、いいじゃない。それだけ僕は君のことを今でも応援してるし、感謝もしてる」
「大げさですってば〜」
「前にも言ったかもしれないけれども、僕は生き甲斐、と言ったらさすがに大げさだ
な、やり甲斐を失っていた時期があって、明らかに停滞していた。仕事も趣味も惰性で
やっていて、それでも何か知らないけど周りが評価してくれる。そんな状況に飽いてい
たときに、涼原純子という少女が現れた。本心を言えば、才能は認めつつも最初は興味
半分でサポートしたんだ。が、打てば響く、磨けば輝く君がすっかり気に入ってしまっ
た。これは僕も負けていられないぞと思えたのは、君のおかげ」
 純子は苦笑いを浮かべていた。もう耳にたこができるんじゃないかってほど、何度も
聞いた話だ。くすぐったいこの感触は、何年経っても変わりがない。
「あー、もう分かりましたから。喉の方、お大事にしてくださいね」

 十月三日になった。
 予定していた通り、そして希望していた通り、午前中は九時半頃から唐沢夫婦と会っ
て、旧交を温めるのに時間を費やした。
「相も変わらず、魔女ですなあ」
 唐沢の挨拶は、ここ数年、ずっとこれである。そして続けて愛妻との比較を始めて、
当人から肘鉄を食らわされるのがひとつながりになっていた。
「まったく、いくつになっても、変わらないんだから」
「ふふふ、大変そうだね」
 服をメインに、ファッション関係のショップを見て回りつつ、お喋りに花を咲かせ
る。
「大変そうなのは、純、そっちじゃないの。旦那ってば、まだ船の上のピアニストなん
でしょ?」
「うん」
「会えてるの?」
「だめだめ。それなりの頻度で日本に帰っては来てるんだけど、タイミングが合わなく
て。私が見境なしにドラマの仕事を入れてしまったから」
「寂しさを紛らわせるために、でしょ」
「そ、そうでもないのよ」
「そういや、お子さん達は? 今日の誕生日――」
「おーい。いい加減にしてくれ」
 唐沢の声が話を中断させる。振り向くと、荷物を両手に提げた彼が、ややわざとらし
く肩で息をしていた。
「よくそんだけ喋りながら、買い物ができるもんだ」
「男性は二つ以上のことを同時にするのが苦手っていう説があるからねえ」
 お昼になって、百貨店最上階の展望レストランというベタなシチュエーションで、食
事を摂る。三時のお茶を飲む時間が取れるかどうか怪しいため、デザートもここで。
「ということで、誕生日おめでとう」
 デザートが運ばれてきたあと、唐沢夫婦からプレゼントをもらった。ルービックキ
ューブ大の箱で、持った感じは重くもなく軽くもない。
「開けていいよ」
「それじゃあ」
 爪を使ってきれいに包装紙を取り、順次開けていくと、現れたのはオルゴールだっ
た。それもからくり人形付き。音を鳴らす間、ピアノの上で人形が踊る。
「うわぁ。ありがとう。『トロイメライ』ね」
「曲目は純子が好きな曲と知っていたからよかったんだけど、ピアノの蓋が閉じたまま
というデザインが、中途半端だと思ったのよね。でも喜んでくれてよかった」
「ううん、そこまでこだわらないわよ。あ、でも、ピアノを見ていると、彼を思い出し
て涙に暮れるかも」
「あ、ごめん。思い至らなかったわ」
「冗談だってば」
 他の友達や家族の近況などを話していると、時間はあっという間に過ぎて、三時を迎
えた。きりのいいところまで話すと、多少オーバーした。
「また何か出るんだったら、教えて。ずっと応援してるから」
「ありがと。次は私の方から誘うね」
「無理しなくていいよ。暇で暇で退屈に飲み込まれそうなときに誘ってちょうだい。相
手をしてあげよー」
 名残惜しかったが唐沢達と笑顔で別れると、純子は一呼吸を入れてから鷲宇に連絡を
取った。

 二十分足らず後に、長い長いリムジンが現れたので何事かと思った。次に嫌な予感が
して、素知らぬふりをしていたが、案の定、純子の目の前でその車は止まった。
「待たせてすまない。ちょっと混み始めてた」
「何ですかこれは」
 リアウィンドウを下げて声を掛けてきた鷲宇。純子は被せ気味に聞いた。
「何って。この方がゆったりのんびり行けるから、いいだろうと思って」
「っ〜」
 唖然としたが、何とも言えず、ここは冷静さを保とうと努力した。結果、どうせ状況
は変わりないのだから、さっさと乗り込んで出発してもらった方がいいと判断。
「早く出ましょう。注目され続けると、鷲宇憲親が来てるとばれるかもしれませんよ」
「それもそうだ」
 後部座席は窓に濃い色のフィルムが貼られたり、カーテンが引かれたりで、外を見ら
れないようになっていた。天井はスクリーンのようになっていて、プロジェクター装置
で星空を投影できるという。試しにやってもらったところ、実際の星空を映すのとプラ
ネタリウムの二種類があって、プラネタリウムの方は省略がなされており、若干物足り
なかった。
「見ただけで分かるとは、凄いな」
「逆です。見たから分かる、見なければ分からない。こう見えても眼はいいんですよ」
「……なるほど。真理だ」
 やがて車は何かの区画に入ったのか、段差を乗り越える感覚があった。
「鷲宇さん、今さらですが、外を見てはだめなんでしょうね?」
「ええ。行き先が分かったらつまらない。でももうすぐ到着だ」
 鷲宇は時計を見て言った。同時に、ゴム製のクリップみたいな物を取り出す。
「悪いんだけど、少しの間だけ、これを着けてもらいますよ」
「これって何ですか」
「シンクロナイズドスイミングで使う物」
「ああ、鼻栓……じゃなくって、あれって何て言うんですか?」
「僕も今回初めて知った。ノーズクリップ。まあ、日本語では鼻栓でいいみたいだけ
ど、鼻栓と言われると、鼻の穴に直接詰めるみたいなイメージがあるなあ」
「それで何のために装着? まさか、世界一臭いのきつい缶詰を食べるのがサプライズ
とか……」
 不安になってきた。鷲宇の顔をじっと見ると、相手は笑い出した。
「はは、そういう想像するか。誕生日のパーティにそれじゃ、まるで罰ゲームになって
しまうよ。シュールストレミングではないことだけは請け負うから安心して」
「安心できませんよ。世界で二番目に臭う食べ物かも」
「はいはい。これに目隠しもしてもらうと言ったら、どんな想像をする?」
「目隠し? あの、目隠しをするんだったら、お願いがあるんですが」
「何でしょう」
「よくバラエティ番組で見掛けた、眼や眉が面白おかしく描かれたアイマスク、あれは
勘弁してください」
 真顔で訴えた純子に対し、鷲宇は本日二度目の笑い声。
「あははは。何の心配をしてるの」
「自分では見えないだけに、とても恥ずかしい気がします、多分」
「厚手の手ぬぐいでぎゅっとやるから、その心配も無用だ」
「……もしかして、強盗か誘拐犯に襲われた設定ですか?」
「うーん、教えてあげてもいいんだけど、イエスとノーどちらの答でも、この先がつま
んなくなるだろうから教えない」
「じゃ、違うんだ。鼻栓の説明も付かないし」
「どうかな。さあて、そろそろ装着してもらいましょうか。もう一つ、ヘッドホンを耳
に当ててもらうよ」
「えー! やっぱり、どっきり番組の空気が」
 話している途中で鼻をつままれた。

 長いスロープを何度か折れ、階段を慎重に歩かされ、建物の中に入った感じがしたと
思ったら、今度はエレベーターに乗った。
 と、ノーズクリップが外された。
「鼻に跡が残ってないですか」
 続けてヘッドホンと目隠しも取ってもらえると思って、そう質問した純子だったが、
予想は外れた。目と耳はもうしばらく不自由な状態に置かれるらしい。
 程なくしてエレベーターが止まり、何階だか分からないがそのフロアで降りた。そこ
から少し歩いて、どこかの部屋に入ったようだ。閉まる扉の起こした風を、背中に感じ
る。ここで、ずっと付き添っていた鷲宇――のはずだ――が離れる気配があった。
「鷲宇さん? ――ひゃっ」
 気配の遠ざかる方向へ声を掛けた途端に、反対側から肩を触られ、びくっとなった。
直後、ヘッドホンと目隠しが外される。
「失礼をしました。驚かせて申し訳ありません」
 若い女性が一人、正面に立っていた。
「あなたは」
 目をしばたたかせ、鼻を触りつつ、純子は聞いた。
「お席まで案内します。多少暗くなっておりますので、足元をどうぞお気をつけくださ
い」
 彼女が手をかざした方を見やると、座席がずらっと半円を描く形に備え付けられてい
る。プラネタリウムの観覧席を連想したが、その半円の中心に実際にあるのは、ステー
ジだ。各座席には開閉可能なミニテーブルが備わっている。
 純子が中央の特等席と言える椅子に着くと、案内の女性が何か言った。さっきまでし
ていたヘッドホンからは大音量の音楽が流れていた。そのため、今は少し聞こえづら
い。
「え? もう一度お願いします」
「そちらにあるメニューから、お好きなドリンクを」
 にっこりとした表情で言われ、純子は急いでそのメニューとやらを探す。立てたミニ
テーブルの隙間に挟んであった。
「それでは……レモンスカッシュをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 お辞儀をして去って行く女性。そちらの方向をしばらく見ていたら、じきに引き返し
て来たので、慌てて前を向いた。
「どうぞ」
 ミニテーブルを開き、そこにコースター、ドリンクのグラスと置く。
「ありがとう。あの、このままにしていればいいんですよね」
「はい。どうぞごゆっくり」
 案内の女性が再び立ち去ると、室内――ホール内をかすかに照らしていた光も徐々に
絞られ、暗くなった。足元と非常口だけは灯りがあるが、他は輪郭がぼんやりと分かる
程度だ。
「今回も贅沢なことをされていそう……」
 思わず呟いたのを待っていたみたいに、突然、大音量が鳴り響いた。
 ステージに照明が向き、そこに立つ細身の人物がギターをかき鳴らしている。その背
後にはいつの間にスタンバイしたのか、ドラムセットがあり、別の人が警戒に叩き始め
る。
 手前のステージはもう一人、ギターの人よりはがっちりした体格の人が、マイクスタ
ンドに片手を掛けて立っていた。片方の爪先でリズムを取っていたかと思うと、歌い出
した。
(これって)
 聞き覚えのある歌と声。それにビジュアル。
(この三人組のバンドって、“ショートリリーフ”?)
 一時期、所属事務所の異なる男性ミュージシャン三名が組んで結成されたユニット
だ。元はチャリティ目的だったので、当初から期間限定のバンドだった。ショートリ
リーフの名にふさわしいかどうか分からないが、三年間の活動期間を終えて解散。でも
再結成を望む声は多かった。
 ドラムが鹿野沢怜治(かのさわれいじ)、今ギターを持っているのが飯前薫(いいさ
きかおる)、そしてボーカルが鷲宇憲親だ。
「す、ごい」
 勝手に感嘆の言葉が出た。
 何が凄いかって、まず最早見られないと思われていた三人組の復活が凄いし、当時と
ほとんど変わらぬであろうキレや力強さを有していることも驚異。特に、ボーカルを務
めている鷲宇は、最盛期を取り戻したかのような声の張りを見せていた。
(鷲宇さんて、私のいくつ上よ? 信じられない。二日前に電話したとき、声の調子が
ちょっぴりおかしかったのは、このためだったのかなぁ……)
 申し訳なさで、身が縮む思いだ。
 ボーカルとギターが交代して、二曲目を演奏。どちらも激しいロック調だった。三曲
目はまた鷲宇がボーカルに戻って、バラードを披露。どうやら代わり番こで唄うらし
い。
 立て続けに三曲、いずれもバンドのオリジナル曲を披露したところで、コメント休憩
に入る。
「えー、どちらで呼ぼうかな。とりあえずいるのは芸能人ばかりってことから、芸名
で。風谷美羽さん、誕生日おめでとうございます」
 純子は立ち上がって拍手しつつ、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「二人とは面識は?」
 鷲宇がギターとドラムを指し示しながら、誰ともなしに聞いた。
「あるにはあるけど、挨拶を交わした程度だったんじゃないかな」
 鹿野沢が短く剃った顎髭に手をやり、記憶を確認したかのようにうなずく。
「僕も同じだな。それじゃ改めて挨拶しますか。飯前です、よろしく」
 飯前がギターを持ったまま、細い身体を折り曲げる風にしてお辞儀した。続いて鹿野
沢も、腰を上げて一礼する。
「風谷美羽です。十年ぶりぐらいいなります?」
 純子は前に行った方がいいのかなと、席の通路を横に移動し掛けた。が、鷲宇からス
トップが掛かる。
「まあまあ、今日の主役は動かずに、どんと構えていればいい。話す時間はあとで取れ
ると思うしね。さて、喋る内に回復してきたので、また始めようかな。今日、十月三日
は君の誕生日ということで、とりあえずこれを贈らなければいけないな」
 鷲宇が目で二人に合図し、四曲目は静かにスタート。話の流れでもう明らかだった
が、曲は『ハッピーバースデートゥユー』。必要以上に情感を込めるでなく、楽しく弾
むように歌い上げ、最後のくりかえしのときだけちょっとアレンジしていた。なお、歌
詞で名前に置き換えるところは、“純子”になっていた。風谷美羽は芸名だから、芸能
人としてデビューした日こそが誕生日になる、と鷲宇達が考えていたかどうかは分から
ない。
「ケーキは用意してあるから、あとのお楽しみで」
 こう付け足されて、純子はホールケーキのキャンドルを消す仕種をして見せた。
 これ以降、和洋のロックやバラードの古典的名曲を中心に、何度か休憩を挟みながら
も二時間たっぷり、歌と演奏で楽しませてもらった。
 ラストの曲が終わるや、辛抱溜まらず、純子は席を離れてステージそばへ走った。
「おっと、危ないですよ。急がなくても逃げやしないから」
 そう言われたからというわけではないが、確かに足元がふらついた。いきなり立ち上
がったせいかもしれないと、そろりそろりとした歩みになる。
「鷲宇さん、鹿野沢さん、飯前さん、どうもありがとうごっざいました。ほんっとうに
感激です」
「んな、大げさな」
「いえ。こんな素敵な時間を独り占めだめなんて、ファンの方に申し訳ないです。鷲宇
さんもまだまだできるんだと分かって、安心しましたよー」
「そんなに衰えたと思われてたわけ?」
「だってこの間の電話、声が」
「あれはちょっと張り切りすぎただけ。無茶な練習したって意味なら、こいつら二人の
方がよっぽど」
 鹿野沢と飯前に顎を振る鷲宇。そんなことはないぞとすぐさま反論が返っていた。ま
ったくもって、いつまでも若い人達だ。

 シークレットかつパーソナルなライブが終わると、夜八時近くになっていた。
 食事はこちらでと、最初の女性の案内で通されたのは、ホールのすぐ向かいのレスト
ラン。お客は一人もおらず、貸し切り状態のようだ。
(変わった構造の建物……。シネマコンプレックスを映画以外で色んなお店を集めたみ
たいになってる?)
 天井が何となく低い。さっきまでいたホールと、これから行くレストランだけでな
く、他のお店にもお客は皆無。それどころか、通路を歩く人さえいない。各店舗に店員
さんの姿が見えるだけだ。
(まさか鷲宇さん、施設全体を貸し切りに)
 くらくらしてきた。歩くのに支障が出そうなほどだ。
(お祝いしてもらっている間は考えないようにしよう。精神衛生上、それが一番ましだ
わ、きっと)
 レストランでは店用のピアノの前を通って、窓際の席に案内された。出入り口を背に
した向きに座る。外はとっぷりと暮れて、ほぼ暗闇。
(……暗すぎない? 灯りはぽつんぽつんとあるけれども、動いているから車か飛行機
か)
 窓ガラスに顔を近付け、よく覗こうとした矢先、鷲宇の声がした。
「やあ、お待たせ。飲み物は頼みました?」
 シャワーを浴びでもしてきたか、さっぱりした様子の鷲宇。
 純子は前に向き直って、いえまだですと答えた。
「そうか、じゃ」
 と鷲宇が片手を挙げるまでもなく、制服姿のスタッフがすっと駆け付けた。
「お酒は?」
「相変わらずです。とても弱くって。もちろん最初の乾杯には付き合います」
「いや、いいよ。無駄なことだ。そっちはソフトドリンクからどうぞ」
「じゃあ……リンゴジュースを」
 鷲宇はビールを頼んだ。
 オーダーからほとんど待たされることなく、飲み物が届き、続いてコースメニューの
内メインディッシュとデザートがそれぞれセレクトできるからと、希望の品を聞かれ
た。
 メインディッシュは牛、鶏、魚の中から二人とも牛を選び、デザートは鷲宇がアイス
クリームを、純子は和菓子をチョイスした。
 スタッフが去り、乾杯すると、すぐに純子はお礼を言った。
「今回もよくしてもらって、ありがとうございます。飯前さんと鹿野沢さんは?」
「彼らは別のところで飲み食いを始めてる。久々の三人組んでの演奏で、疲れ切ったか
らリラックスしてのんびりしたいようだ」
「だったら鷲宇さんも」
「僕は君をもてなす役目がある。もうちょっとがんばりますよ」
「無理しないでくださいよー。何かあったら、本当にファンの方達にも鷲宇さんご自身
にも申し訳が立ちません」
「今は厚意を素直に受け取って。その方がよほど僕の心身は回復するよ」
「そ、そうですか」
 そうこうする内に前菜と食前酒が運ばれてきた。いただきますと手を合わせたが、す
ぐには手を伸ばさない。
「やっと意味が分かりました」
「ん? 何が」
「誘ってくださった時点で、いきなりサプライズパーティをするからって言うから、お
かしなことをと思ってたんです。サプライズを予告しておいてなおかつ驚かす自信があ
るなんて、一体何だろうって不思議でした。ショートリリーフの再結成だったんです
ね。そりゃあびっくりしますって」
「そうか。あれで充分驚いてくれたか」
「ええ。芸能界的にはビッグニュースだから、場所を突き止められないようにって、私
に目隠しなんかをした。言ってくれていたら、私、口外無用は守るのに」
「そうだと信じてるよ。だから、君に目隠しやヘッドホン、鼻栓までしたのは別の理由
があるんだ」
「あれ? そうなんですか」
 見破られて悔しいからごまかそうとしている……わけではないようだ。
「場所を秘密にするのに、鼻栓はさすがに意味がないだろう?」
「それはまあ確かにそうなんですけど、私を混乱させるために、嘘の手掛かりを入れた
とかでは」
「違います」
 楽しげに微笑んで、鷲宇はおちょこサイズの食前酒を一気に開けると、時計を見た。
それからおもむろに手を合わせた。
「よし、じゃあ、タイミングもちょうどいい頃だから、プレゼントを取りに行ってく
る」
「今ですか?」
「ああ。戻って来たら、種明かしをしてあげましょう。お楽しみに」
 席を立つと、鷲宇は店のスタッフの誰に断るでもなく、外に出て行った。どうやらス
タッフ達とも話が付いているようだ。
(何だろう、とっても違和感があるのは確かなのよね。鼻栓だけじゃなくって、さっき
お店に入る前に、壁の一部に無駄にスペースが開いてるなって思った。あれって、ポ
スターか何か張ってあったものを、剥がしたばかりといった様子だった。他にも、お酒
を飲んでいないのに最初っから足元が不安な感じがするし、それに今この窓の外の景色
だって、よく見えないけれども――)
 再度、暗闇に目を凝らそうとしたときだった。
 音楽が流れてきた。店のほぼ中央に置いてあるピアノからだ。いつの間に人が座った
んだろうと純子が振り向くよりも早く、その曲に気付いて、どぎまぎする
「『そして星に舞い降りる』だわ」
 純子が歌手デビューした際の曲。芸名はまた別だったけど。
 懐かしくはあるが、元は鷲宇憲親が作ってくれた物だから、この場にいてこのタイミ
ングで弾いてもらうというのは、特段不思議ではない。鷲宇らしいとも言える。
 だから、純子をどぎまぎさせたのには別の理由があった。
(弾いているの、信一さんだわ!)
 音しか聞かなくても絶対の自信があった。それは作り物の星空と本物の星空を見さえ
すれば一瞬で見分けられるのと同じ。聞けば分かる。
 状況はわけが分からないが、相羽信一がここのピアノの前に座って、今弾いているの
は間違いない。演奏を邪魔しないように、そっと席を立った。
 その刹那、床が多少傾いて――。
「え?」
 テーブルに手を突いて、どうにか倒れずにすんだ。スタッフが二人駆け寄ってきて、
大丈夫でしたかと心配してくれた。
「え、ええ」
 元の椅子に座り直し、首を傾げた純子。
(今のは立ちくらみとか、酔いとかじゃなく、ましてや不注意で転びそうになったんで
もなく……そっか)
 純子は鼻をひと撫でし、今一度窓の外の景色に意識を集中してみた。
(やっと理解できた。私ったら気付くの遅すぎだわ)
 苦笑いを抑えながら、改めてピアノの方を注視した。
 もうじき曲が終わる。

 一曲弾き終えると、相羽は当たり前のような顔で純子のいるテーブルへと来た。
「純子、久しぶり。それから誕生日――」
「待って。これはあなたの発案?」
 テーブルの上にあった皿を脇にのけて、にじり寄るように純子は問い掛けた。
「違う。鷲宇さんだよ。ただ、君に会えないことを愚痴ったら、自業自得だねと言われ
つつ、いい方法があるというものだから、つい乗ってしまったのは認める」
「こんな面倒でややこしいことしなくても、普通に会わせてくれたら充分なのに」
「ということは本当に実行したんだ? 船を船と思わせずに、君を乗船させる作戦」
 思い返してみれば納得が行く。車の外を見せないようにしたのは、港に向かっている
ことを悟られないようにするため。車から降りたあと、目と耳だけでなく、鼻まで覆っ
たのは、海特有の匂いを嗅がれたくなかったから。
 事前に鷲宇が履き物に関して注意を促してきたことや、歩く度にふわふわふらふらす
る感覚が時折あったことは、船が港を出てたあと多少波の影響が出ると分かっていた
し、事実揺れたってことに他ならない。ショートリリーフの三人が年齢以上にがんばっ
て(失礼!)、激しいロックを多めに演奏したのは、船のエンジンなどの駆動音をごま
かすためだろう。
「あと、壁の所々に不自然な空白みたいなのがあったけれども、あれってもしかする
と、船の案内図があったのを外したんじゃない?」
「多分、当たってる。僕もこの店に来るときに見掛けて、えっ?て思ったもの」
 相羽が苦笑いした。そんな会話の切れ目を待っていたみたいに、スタッフが来て、
「お取り替えいたします」と言い、前菜と食前酒を新たな物に交換した。
「このまま一緒に食事できるのね?」
 弾んだ声になった純子に、相羽は「当然」とうなずいた。

「それにつけても、鷲宇さんたらやることのスケールが無茶苦茶よ」
 感謝はしてるけれどもと前置きして、純子は言った。
「施設の貸し切りまでは考えたわ。でもまさか、豪華客船を丸々借りるだなんて……ど
うあっても気にしてしまうじゃないの!」
「あー、あんまり費用の話はするなと言われてるだけどね。現在のこの船の移動自体
は、元々の予定通りなんだ」
「え? 回送ってこと? そもそも、どこに向かっているの」
「横浜を発って、名古屋に向かっている。次のクルーズが名古屋発なんだ。こういうと
き、横浜から名古屋行きのワンナイトクルーズを組み込むこともあれば、スケジュール
の都合などで、お客を乗せずに移動するケースもあるんだって。僕もこの船で仕事をさ
せてもらうようになって、初めて知った」
「ふうん。で、でも、イレギュラーなことしてるのには変わりないんでしょ?」
「イレギュラーには違いないが、制度としてあるにはあるんだって。たとえばだけど、
北海道から横浜までのクルーズを楽しんだお客さんが、直後に予定されている名古屋か
ら高知を巡って神戸に向かうクルーズにも続けて乗る場合、横浜から名古屋までをその
船に乗って行けるというね。全部が全部にある制度じゃないから特例には違いないけ
ど」
「へー、知らなかったわ。勉強になる」
 それでも乗員の手間賃を考えたら……とまで考えるのはやめた純子。およそ五ヶ月ぶ
りの相羽との再会なのだ。無粋はやめて、目一杯楽しもう。話を聞く限り、明日もまた
仕事があるのは間違いないんだし。
「メインディッシュが終わったことだし、ぼちぼちもう一曲、プレゼントしよう」
 背もたれに手をついて、慎重に腰を上げる相羽。船上生活で培われたようだ。
「何かリクエストはある? あんまり年齢は言いたくないけど、お互い、五十になった
記念に」
「そうねぇ。あなたの今の気持ちを表すような曲なら何でも」
 純子はとびきりの微笑みで彼を見送った。

 やがて流れ聞こえて来たのは――サティの『きみがほしい』。

――『そばにいるだけで番外編 驚きのバースデー』おわり




#475/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  19/12/30  21:09  (104)
平成最後もしくは令和最初かもしれない殺人  永山
★内容                                         19/12/30 21:10 修正 第2版
「こりゃ豪華にしなきゃならん訳だ。周りが貸し別荘だらけだから、単なるホテルじゃ
客が寄り付かない」
「警部、何のんきなことを言ってるんですか。この島にわざわざ渡ったのは、殺しの捜
査のためなのを忘れないでください」
「忘れちゃいねえよ。リゾート気分で臨んだら、迷宮入りしたなんて御免だ。分かって
ることを言ってみろや」
「えー、被害者の名前は、チェックイン時のサインによると、大平昭治(おおひらしょ
うじ)。運転免許証の顔写真及び記載事項とも一致しています。年齢は三十一。職業は
カメラマンを自称していますが、実際は恐喝に手を染めていたようです」
「そんな奴が、時代の移り目を祝おうと、こんなおしゃれなホテルの十階、眺めのいい
最上階の部屋に泊まるってか。価格も特別設定で馬鹿高くなってるだろうに」
「一緒にチェックインした女性がいたそうですが、今は行方知れずで」
「そいつが犯人てことで決まりか?」
「分かりませんけど、間違いなく第一容疑者ですね。派手な赤のドレスを着ていたとの
ことで、その格好のままなら、じきに見付かると思いますが……」
「死亡推定時刻は? 大まかな数字はそろそろ出ただろ」
「午前0時を挟んで前後一時間ずつ、です。大きく外れることはないだろうと」
「近所でカウントダウンイベントが催され、花火を打ち上げたんだっけか? 花火の音
に紛れて撃ったとしたら、誰も気付かねえかもしれんな」
「可能性は高そうです。午後十一時から午前一時の間に目撃というか、異変に気付いた
者はまだ見付かっていませんから」
「撃たれそうになって、どうにか逃げられなかったのか。大の男が女を前に」
「手足は強力なダクトテープで拘束され、口にもダクトテープ。とても逃げたり助けを
求めたりできる状態ではなかったでしょう」
「感覚的な発言に、理路整然と答えるなよ。――おっ、指紋が出たらしい。うん? 被
害者の指紋じゃねえか」
「え、被害者の指紋が検出されたってわざわざ知らせに? どういうことだろ……」
「何だ、分かったぞ。ガラス窓に被害者の指紋がべたべたあって、それが字を書いたよ
うに見えたから、いち早く知らせてくれたようだ」
「なるほど。つまるところ、ダイイングメッセージってやつですか」
「そのようだ……が、何だこりゃ。『018』だとよ」
「数字と来ましたか。うーん、部屋番号? いや、このホテルは各フロアの階数プラス
二桁番号だから、018はありませんね」
「語呂合わせじゃねえか? マルイ・ヤエとかいう女の名前とか」
「そんなことを言い出したら、きりがなくなると思いますが」
「何だと。じゃあ、例を挙げてみな。きりがないくらいにな」
「お、怒らないでくださいよ。こんなことで」
「俺は口から出任せ言う奴が大嫌いなんでな」
「しょうがないなあ。女の名前じゃなくてもいいですね? マルイ・エイト、マル・カ
ズヤ、マルイワ、マイヤ、マイワ、マトヤ、マトバ、えーっと……ワイヤー? レイ
ヤ、レイワ、レイ・イバ。うーん、オカズヤ?」
「待て。それくらいで勘弁してやる。二つか三つ前になんか言ったな。レイワって」
「ああ、言いましたね。奇しくもって言っていいのか、『令和』だ。そういえばテレビ
のワイドショーか何かで前にやってました。西暦の年を令和の年に変換する方法。令和
を数字に置き換えると018。これを西暦の下三桁から引くんです。今年だったら、2
019の019から018を引いて1。令和一年、令和元年てことです。うまくできて
ますよねえ」
「豆知識は今んとこどうでもいい。被害者が書き残した018が令和だとしたら、どん
な意図が考えられる?」
「うーん……自分が撃たれたのは、令和になってからだと伝えたかった?」
「はあ? そんなことに何の意味があるってんだよ。発生から何年も経って遺体が見つ
かり、詳細な死亡日時が特定できない事件なら役立つに違いないが。今回は死亡推定時
刻は明らかになってんだ」
「そんな大声で文句を僕に言われても。被害者に言ってください」
「被害者にも言ってやったよ。まったく、でかい図体をして後ろ手に縛られた不自由な
態勢で、ちまちまと指紋を付けて苦労したろうに。何でこんな訳の分からんメッセージ
を」
「――そうか。後ろ手だったんですよね」
「ん? どうかしたかそれが」
「だって、考えてもみてください。後ろ手に縛られてたのなら、字もそのままの姿勢で
書いたはずですよ。普段書いているのと同じつもりで書いたら、字は逆さまになるんで
す」
「逆さまに……なるな、確かに。それで? 018が逆さだとすると、元は何だ」
「810になります。これなら真っ先に調べるところがありますよ。部屋番号、八階の
十号室に行ってみましょう」

 〜 〜 〜

「まさか、こっちにも死体があるとはな」
「えー、男の名前は成正明(なるまさあきら)。チェックインのサイン及び運転免許証
で確認済みです。職業はまだ照会中。チェックイン時刻は、大平より二時間半ほど早い
ですね」
「で、こいつが赤いドレスの女に化けていたのか」
「多分。こうしてドレスとウィッグとヒールがあるので、間違いないでしょう」
「なのに、何でこいつまで殺されてる? しかも同じように後ろ手に拘束されて、足も
縛られ、口にはダクトテープと来た」
「確かに変です。状況から推すと、先にチェックインした成正が女性に化け、ホテルを
一旦出てから大平と合流し、今度は男女カップルとしてチェックイン。隙を見て大平を
拘束する。成正は正体を明かして部屋のキーも見せた上で、計画を得意げに語ったんで
しょうかね。で、大平を殺害後、810号室に戻って扮装を解き、知らん顔をしてい
た。こう考えるのが理にかなっています」
「成正を操っていた誰か第三者がいるってことだな。それを解き明かすヒントになれば
いいんだが、このダイイングメッセージが」
「またですね。血文字で、床に書かれているのはさっきと違いますけど。今度のは“h
EISEI”。筆記体っぽいですが、平成と読めます」
「令和に平成。出来過ぎだ。どうせまた逆さ文字だろ。何て読める?」
「そうですね……これも数字だとしたら、135134、かな」
「……なるほど、4は上の頂点が開いた形か。よし、じゃあすぐに行こう。この部屋番
号のところに」
「それが……このホテルは十階までなので、そんな部屋はありません」

 〜 〜 〜

「結局、あれは逆さ文字じゃなかったんですね。床に書いてあったから、被害者が死ぬ
間際に藻掻いて身体の位置が変わったとしたら、字のどちらが上かなんて分からなくな
って当然です」
「だからってなあ……英語で書くことはねえじゃねえか。いや、黒幕だった犯人はアル
ファベットを知らねえガキだったから、意味を理解されないように英語にしたのはまだ
分かる。だが、文の頭を小文字にするとは」
「被害者は最高にテンパってたんですよ。“He is E・I”で犯人のイニシャルを
表そうと思い付くくらいなら、ローマ字で名前をずばり書けばいいのにしないくらいな
んだから」

 終




#476/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/05/31  16:55  (  1)
十二の恋はうつろわない   寺嶋公香
★内容                                         22/06/09 18:08 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#477/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/06/30  21:51  (170)
ひっかけ問題   永山
★内容                                         20/07/01 10:39 修正 第2版
 不知火さんと出会ったのは、小学校五年に上がったときだった。
 それまで自分はクラスのクイズ王として名を馳せていた。クイズ王と言っても答える
方ではなく、出題する方だ。問題のタイプも知識を問うクイズは少なめで、とんちの効
いたなぞなぞやパズルがほとんどだった。実際そういう、人をだまして引っ掛ける要素
のある問題の方が受けがよかったのだ。クラスメートや先生に問題を出しては困らせ、
面白がらせていた。
 たとえば。

<問題。テーブルの上に紅茶がいっぱいに入った器があります。近くでおやつの用意を
していたお母さんが突然叫びました。
『あっ、あなたにもらった指輪、紅茶の中に落っことしちゃった』
 それはトルコ石の指輪で、トルコ石は水に濡らすと染みになります。
 お父さんは慌てず騒がず言いました。
『大丈夫だ。こうすれば何の問題もない』
 お父さんはスプーンを使って指輪を紅茶の中からすくい上げました。トルコ石を調べ
てみるとどこも濡れていません。何故でしょう?>

 この問題は担任の益子先生以外は誰も正解しなかった。
 答を教えて欲しい? そう言わずにちょっとは考えてみてよ。考えてもらっている間
に、不知火さんとの馴れ初めを書いてみるから。

 不知火さんは五年生のときに転校してきたので、当初、どういう子なのかは誰も知ら
なかった。口数が少なく、本をよく読んでおり、勉強もできるらしいのはすぐに分かっ
たけれど。
 真面目そうで本を読んでるからって、勉強ができるかどうかは分からないだろうっ
て? そりゃそうだ。言葉が足りなかったね。不知火さんとは教室で席が隣同士になっ
たんだ。四月の下旬に小テストが何科目かであってさ。小テストの採点は、隣同士で答
案用紙を交換して、先生の説明を聞きながらするんだ。彼女の点数はどの科目も九十五
点を切ることはなく、というか国語を除いて全部百点だった。
 国語のマイナス五点も、漢字を書く問題で一問、迷っている内にタイムアップになっ
ただけ。その迷った理由が面白い。何でこんな簡単な漢字を書けなかったの的なことを
言うと、
「だって前の出題文に、その漢字がずばり使われているから。他の漢字があるのかなと
思って」
 との返事。言われてみればなるほどその通りだった。
 このときの不知火さんみたいに考えすぎるほど考える人、自分は嫌いじゃない。パズ
ルを出す相手としてやりがいがあるから。ということでそれまでにため込んできたパズ
ルやなぞなぞを、彼女にどんどん出してみた。
 さっきの紅茶の問題も出したよ。
 不知火さんはあっという間に正解した。
「紅茶は紅茶でも、茶葉だったんではないでしょうか」
「せ、正解。凄いね」
 初めて同級生に正解された動揺を押し隠し、賛辞と拍手を送った。
 不知火さんは謙遜する風に「いえそんな」と応じ、続けて「それにしてもトルコ石の
性質なんてよく知っていますね。水に弱いという点は扱いづらいですが、ユニークだ
わ」と褒めてくれた。と同時に、彼女自身はそのことをメモに取った。
「そんなことメモって、何にするの?」
「特に決めてはいませんが、何かに使えると思ったので」
 知識欲の強さの表れだった。
 紅茶の問題を解かれたあとは、躍起になって出題するようになった。不知火さんには
いつも正解され、彼女にも答えられない問題を出して参ったと言わせたいから――では
ない。彼女だって連戦連勝ではなく、答えに窮することは幾度かあった。ただし、誤答
は一度もない。徹底的に考えて、自分自身納得のいく答を見付けるまでは答えようとし
ないのだ。
 もっといえば、不知火さんはつまらない答の問題ほどよく間違えた。
 例を挙げると、これはオリジナルではなく、出典が分からないくらいに有名な問題な
んだけど。

<問題。二十回連続でじゃんけんであいこになるにはどうすればいいか>

<答。鏡に映った自分自身とじゃんけんすればよい>

 この問題には不知火さん、不機嫌になってしまった。だよねー、自分も何てできの悪
い問題なんだと思いつつ、こういうのはどうかなと思って出したから。
 別の日に、ロジカルでパラドキシカルなのを出してみた。あ、小学生のときにロジカ
ルとかパラドキシカルなんて言葉知らなかったし、意識してなかったよ、念のため。

<問題。おとぎ話の世界でのこと。母と子、二匹のウサギが散歩をしていました。突然
現れたライオンが子ウサギを捕らえ、人質ならぬうさぎ質にして母ウサギに言いまし
た。『これから俺がこの子をどうするつもりなのか言ってみろ。もし言い当てることが
できたなら、おまえも子供も見逃してやる。もし不正解だったら親子揃って食ってしま
うぞ』
 母ウサギはどう答えれば、子ウサギともども助かるでしょうか>

<答。『ライオンさんはうちの子を食べるつもりでしょう』と答える。ライオンが子ウ
サギを食べようとしたら、母ウサギはライオンの行動を言い当てたことになり、ライオ
ンは子ウサギを食べられない。ではライオンが子ウサギを食べようとしなかったら? 
母ウサギはライオンの行動を言い当てられなかったことになり、ライオンには子ウサギ
を食べる権利が生じる。でもいざ食べようとすると、母ウサギはライオンの行動を言い
当てたことになり、やはり食べるのは中止にせざるを得ない>

 この問題に対する不知火さんの感想がふるっていた。
「矛盾をはらんでいて面白いです。けれども、それ以前に問題が不自然ではありません
か。いくらおとぎ話の世界とは言え、どうしてライオンは条件なんて付けたんでしょ
う? 肉体では相手を圧倒するでしょうから、四の五の言わせずに母子いっぺんにウサ
ギを食べてしまえばいいんです」
「えっと、そ、それは。二匹同時に追うのは難しいから、一匹ずつ仕留めようと考えた
んじゃないかな。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うし」
「なるほど。そういえばあなたはウサギを一匹二匹と数えるんですね」
「あ、ああ」
「慌てないで。一羽二羽じゃなきゃいけないと言ってるんじゃありませんから。一兎二
兎というのも数える単位なんでしょうか」
 そんなの知らないよ。首を横に振るしかなかった。
 その翌日、初めて不知火さんの方から出題してきた。
「パズルと言っても、昨日出してくれたあの問題をこねくりまわしただけなんですけど
ね。あの問題の状況で、ライオンはどうすればウサギの母子をおなかに収めることがで
きたか、というだけ」
「えっと、子ウサギを一撃で気絶させ、素早く母ウサギに飛びかかる?」
「違います。もっと文章の意味の解釈にこだわってください」
 休み時間に出されたんだけど、時間内に答えられなかった。しょうがないので、次の
体育の授業中に考え、さらに教室に戻ってきて着替えている間も考えていた。でも結局
分からず、白旗を掲げる羽目に。
「だめだ、分かんない。降参だ〜。答、教えてください」
 クラスメートから逆に出題されることは今までにあったけれども、そのすべてに正解
してきた。答えられないのは初めての屈辱だ。でもまあ不知火さんが相手なら仕方がな
いかなとあきらめもつく。
「あら。私の考え付いた答にきっと辿り着くと思ってたのですが……かなりブラック
よ」
 前置きして彼女が説明したライオンの取るべき行動とは。
「ライオンは母ウサギの答を聞くと、にやりと笑って子ウサギをジューサーに放り入れ
ました。ジョッキを用意し、スイッチを入れると――」
「うわー、やめてくれよー」
「ね、ブラックと言ったでしょう」
「ブラックって言うより、スプラッタかホラー」
 ライオンは子ウサギを食べてはいない、飲んだのだと強弁されても困るなあ。

 こんな感じで、不知火さんが出題し、こっちが答えるという攻守交代パターンはその
後段々増えてきた。最初の頃は、不知火さんがこれから問題を出しますよと警戒を喚起
してくれることもあって、クイズ王の面目を保てていたんだけれども、徐々に不正解で
終わるケースが多くなっていった。
 中でも一番やられた!と感じたのが次のパズル。
「こういう問題はどうでしょう」
 そう切り出してから不知火さんはノートに図形を描き始めた。
 まずコンパスを使って円を描き、続いて中心Oを通る線を二本、直角に交わるように
引く。それぞれの線が円周上に達する点をABCDとした。こちらから見てAが一番上
の点になる。要するに中心をOとする円に直線ABとCDによる十字が内接した図形
だ。
 Aから三センチ下ということを表す書き込みをして線上に点Eを取り、線分AOに対
して直角をなす線を右方向へ円周まで引く。その点をFとし、今度はFから直線を真下
にODと交わるまで垂らし、そこをGとする。正方形EFGOが描かれた訳だ。
 不知火さんは最後にEとGを直線で結び、EGが七センチであることを示す書き込み
を加えた。換言すると正方形EFGOに対角線EGを引き、EG=7cmってことにな
る。
「ふう、やっと描けました。さあ、問題です。この円の直径はいくらになるでしょう
か? この図は実際の長さは反映していないことを念のためにお断りしておきます」
 一生懸命描いてくれた不知火さんには悪いけれども、内心、苦笑してしまっていた。
 だって、この問題知ってる、と思ったから。それも彼女が図を描き始めてすぐの頃
に。
 ややこしい計算が必要っぽく思えるけれども、さにあらず。正方形EFGOの対角線
の内、OFは円Oの半径と等しい。そして正方形の対角線二本は等しい長さを持つ。つ
まりOFイコールEGだ。EGは七センチなのだから円の半径も七センチ。問われてい
るの直径なので、半径を倍にすればいい。
「ごめん、インチキはよくないから、最初に言っとく。この問題、知ってる」
「え、そうでしたか。でも一応、答を聞かせてください」
「いいよ。十四センチでしょ」
「残念」
 え?
 声も出ず、目を見開き、口をぽかんとさせていた。
「図形をよく見てくださいね」
 不知火さんは目の前にノートの図形を持って来た。紙に穴よあけとばかりに凝視する
と、やがて気付けた。
「……! これ、7cmって書いてあると思ったのに、7mになってる!」
「はい。ですから答は十四メートルになります」
 物凄く疲れた。
 実際に長さの比率が3対700になるように描いたら、どんな図形になるんだろう?

 問題を出し合う内にどんどん親しく、仲よくなって。
 不知火さんのことを好きになっていた。恋愛という意味で。
 早いとは思ったけれども、彼女を誰にも取られない内にと焦る気持ちにブレーキは掛
けられなかった。だから卒業式のあと、彼女に告白した……んだけど。
「ごめんなさい。未来のことは分かりませんが、今の私はまだまだ色んな人を知りたい
気持ちで一杯ですから、応えられません」
 あっさり断れた。
 それでも将来受け入れてくれる可能性を否定されたんじゃなかったので、ほっとし
た。
 二人の友達関係はずっと続いた。
 中学、高校と同じデザインのセーラー服に袖を通してからも、問題を出したり解いた
り降参したり。

 おわり




#478/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/07/31  21:55  (  1)
バレンタインチョコの賞味期限   永山
★内容                                         20/10/13 19:06 修正 第2版
※都合により一時的に非公開風状態にします




#479/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/08/31  19:57  (  1)
どうだっていいよね、メダルの色なんて   永山
★内容                                         20/11/14 21:21 修正 第2版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#480/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/01  19:59  (  1)
札束風呂には入れない   永山
★内容                                         21/10/15 14:45 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開状態風にします。




#481/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/02  02:20  (  1)
永遠の目覚めと眠り   永山
★内容                                         20/10/21 21:19 修正 第3版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#482/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/12  17:42  (  1)
きづきのつき   永山
★内容                                         22/07/02 21:49 修正 第3版
※都合により、非公開風状態にしています。




#483/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/09/25  19:29  (  1)
花言葉が多すぎる   永山
★内容                                         21/04/24 21:04 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#484/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/10/02  22:14  (  1)
レットスノームからのお知らせ   永山
★内容                                         22/01/17 14:09 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#485/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/11/20  20:26  (  1)
零になるレイナ   永山
★内容                                         21/05/18 03:33 修正 第5版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#486/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/12/24  22:58  (  1)
へんなつくりばなし   永山
★内容                                         23/10/31 19:30 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#487/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  20/12/27  21:07  (  1)
ファー!   永山
★内容                                         21/03/17 00:55 修正 第2版
※都合により一時、非公開風状態にします。




#488/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/01/06  20:08  ( 73)
かんせんぼうし   永山
★内容
 FS大学のサークルの一つ、万武闘鑑賞《よろずぶとうかんしょう》研究会――通称
ヨブカン――はクラブへの昇格申請を伺うところまで来ていた。会員が七名以上になれ
ば予算のもらえる部活動として認めてくれるよう、申請する条件を満たす。現在の会員
数は総勢五名。この春の新入生勧誘で二人増員を目指す所存であり、本日の活動は、確
実に新入生を入れるにはどう据えればよいかを考える作戦会議の位置づけであった。
 もちろん、申請したからと言って認可されるとは限らない。有象無象の怪しげなグ
ループが増えてきて、各クラブに割り当てる部室の確保もままならない状況下、審査を
厳しくしようとする動きがある。
 万武闘鑑賞研究会は、どちらかと言えばその怪しげな方に分類されてしまうだろう。
活動コンセプトは“リングなどで行われる、基本的に一対一の、肉体を駆使した武闘
(舞踏を含む)を鑑賞することで満喫し、議論する”というもの。要するに格闘技や武
道の試合を見て楽しもうってだけなのだから、世間一般にはなかなか届きそうにない。
 なので、せめて大学側や学生会によい印象を持たれるよう、色々とルールを定めてき
た。講義中は勉学に集中し成績も少なくとも赤点だけは取らないレベルを維持する。年
に四度はサークルの会報として季刊紙・誌を出す。学生会を通じての活動には積極的に
参加。特にボランティア活動には進んで手を挙げる。政治的な活動とはもちろん無縁
で、サークル室内では政治の話をしないことまで決めてあった。

「まったく、大言壮語しておいてこれはないよな」
「そうそう。何でマスク二枚になるんだよ」
「色々と言い訳してたけれども、要するに、元々金がなかっただけなんじゃね?」
「じゃあ、あの説明は嘘だと?」
 大部屋をパーティションで分けただけの狭いサークル室、そのドア越しに漏れ聞こえ
て来た雑談に、会長の竹内《たけうち》はしかめ面になった。軽く息を吸い込んでか
ら、ドアを開ける。
「おぃーす」
「あ、竹内さん。お疲れです」
「お疲れ。おまえらそういう話は感心しないな」
「そういう話って?」
「今までしてただろ。マスク二枚云々て」
「はあ、していましたけど」
 何がいけないんだと言わんばかりの顔つきになり、互いを見合わせる会員達。
 竹内は空いていたスペースにパイプ椅子を持って行き、開いてどっかと腰掛ける。腕
組みをしてから続けた。
「まさかおまえ達、知らないのか? いや、新二年生はともかく、清水《しみず》は知
っているはずだよな」
「ああ。うちの大学の大先輩だ」
 清水は申し訳なさげに片手を後頭部にやった。
「だったら言うなよ。そしてみんなにも分かるように説明しなきゃ」
「そうだな。ただ、今度の仕打ちがあまりにもしょぼかったからつい」
「どういうことですか、大先輩って?」
 後輩達の声に、竹内は清水にさせるつもりだった説明を、自らがやると決めた。
「プロレス雑誌『Rの闘魂』の名物編集長である本山武尊《もとやまたける》は、FS
大学OBなんだよ」
「へー! 知りませんでした」
 竹内や清水の世代からすれば考えられない反応である。一年違うだけでどうしてこん
なギャップが生まれるのやら。
「それはちょっと申し訳ないことをしたかも」
「うちら総合格闘技の方から入ったので、プロレス関連はあんまり詳しくなくって」
「我がサークルに入っておいてその言い分はないぞ」
 後輩をたしなめると、竹内は本棚の一角に目をやった。『Rの闘魂』最新号が置いて
ある。その中程のページに、本山編集長のお詫びがでかでかと載っていた。

 ふた月ほど前、プロレスの取材でメキシコへと発つことになった本山は、誌面にて
大々的な予告をしていた。現地でプロレス関連グッズを大量に購入してきて、読者に
どーんとプレゼントするというものだ。現地でしか流通していない裏ビデオ的プロレス
映像も入手する算段があると豪語していたため、読者からの期待は高まった。
 ところが取材を終えて帰国した本山は、読者プレゼント用の品々を持ち帰ってはいな
かった。現地のホテルで盗難に遭い、取り戻すために色々手を打っていたが、仕事の都
合でタイムアップ。日本に戻らざるを得なくなったという。
 そんな本山がどうにか持ち帰れたプロレスグッズが、覆面レスラーの試合用マスク二
枚のみだった。とりあえず愛読者プレゼントの第一弾に充てるというが、当初の発表か
ら随分とスケールダウンした企画に不満の声が上がっていた。

(大先輩を敬えないようなメンバーがいると知られたら、心証を悪くする。審査で不利
だ)
 竹内は狭いサークル室を見渡しながら思った。
(肩を寄せ合うような距離で座るのがやっとだ。クラブになれた暁には、格闘技の技を
掛けられる程度のスペースはほしいな)
 そのとき、竹内はくしゃみが出そうな感覚を覚えた。むずむずする鼻を指でつまむ。
しばらくすると、くしゃみは消えていった。

 終




#489/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/01/07  20:07  (  1)
取り合い 〜 建築王死して揉め事残す   永山
★内容                                         23/09/09 18:23 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#490/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/02/16  20:01  (  1)
襟巻蜥蜴:マフラー&シャドウ   永山
★内容                                         22/05/01 20:30 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#491/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/02/23  21:14  (  1)
最後は星か金星か   永山
★内容                                         22/01/17 14:36 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#492/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/03/04  20:03  (  1)
遅延 〜 早く故郷に帰りたい   永山
★内容                                         21/12/31 21:18 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#493/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/03/14  22:21  (  1)
百回目のダイイングメッセージ   永山
★内容                                         23/07/27 10:19 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#494/549 ●短編    *** コメント #303 ***
★タイトル (AZA     )  21/03/21  20:21  (  1)
赤洗面器男の冒険   永山
★内容                                         23/10/31 19:34 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#495/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/04/10  19:49  (  1)
未読に戻しますか?   永山
★内容                                         23/08/03 02:43 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#496/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/04/25  22:04  ( 90)
勝負に絶対はないというお話   永山
★内容
 これはある年の夏、ある高校における、一人の女性とお付き合いすることを賭けた、
男と男の戦いの記録である。

 女性の名は白島麗子《しらしまれいこ》。学業優秀でクラス委員長を何度も務め、期
待以上に役割をこなしてきた。長い黒髪が印象的な、令嬢である。

 一人目の男の名は、大上新太郎《おおがみしんたろう》。野球部のエースで、全国大
会の出場経験もある。まだ二年生だが面倒見がよく、何ごとにも率先して取り組む。

 二人目の男の名は、高橋輝也《たかはしてるや》。膨大な知識量と高いIQを誇り、
大人も含めた大型クイズ大会で優勝。問題にぶつかるや解決策をたちどころに産み出
す。

 かように突出した三人による鞘当てが、たった一つの勝負で決せられようはずはな
く、有志による実行委員会が十三番勝負を企画した。引き分けはなし。これに勝ち越し
た者が、晴れて白鳥麗子と付き合うことになるのだ。

 勝負をなるべく不公平なものとするために、実行委員会の判断で、両者がそれぞれ得
意とするであろう対決種目を六つずつ用意し、争った。順不同で、バッティング、ス
ピードボール、水泳、百メートル走、相撲、スキー、知能テスト、国旗当て、難読漢
字、チェス、トランプの神経衰弱、円周率の暗記とやって来て、六勝六敗の五分。
 最終戦までもつれ込んだことにより、俄然、最後になる十三番目の種目をどうするの
かが注目された。完全に運任せになるじゃんけんかくじ引きじゃないかという予想が出
たが、その一方で、ここに来て単なる運任せでは、あまりにも呆気ない。両者が力を発
揮できるようミックストルールになるのでは、たとえば寿司二貫を食べる毎に解答権が
得られるクイズ対決とか。
 ところが、実行委員会が提示した最後の勝負は、ちょっと意外なものだった。
 らくだに乗って炎天下の町内を一周するのだ。
 これは一見すると体力に勝る大上に有利なようだが、高橋は実は鳥取出身で、砂丘に
遊びに行っては何度もらくだに乗った経験があった。こういった観点から、公平な種目
になるであろうと認識されたようだ。

 ちょうどそのらくだレースが行われた日に、一人の転校生が手続きをしに高校へ足を
運んだ。
 皆が盛り上がっているので興味を引かれ、生徒の一人に思い切って聞いてみた。
「何をしているんですか。この暑いのに、らくだに乗ってゆっくり動いているみたいで
すが」
 モニターが用意され、その画面には最後の対決に力を注ぐ男子生徒二人とらくだ二
頭。
「君は転校生かい? じゃあ知らなくても無理はない。ある女子生徒のお相手の座を争
って、二人の男子生徒が戦っているのさ。このらくだレースで決着する」
「らくだレース? レースという割には、遅いですね」
 転校生はしばらくモニターを見つめて、はたと気付く。いや、思い出したと言った方
が正確かもしれない。
「ああ、これ、僕も知っています。遅く着いた方が勝ちになるレースなんでしょう? 
だからのろのろしているんだ。でも、もし勝利の条件が、自分のらくだがより遅くゴー
ルした方を勝ちにする、とかだったら、わざわざゆっくり進まなくても、いい手がある
んですよね。それは戦っている二人が、お互いのらくだを交換すること。そうすれば、
たちまち普通の競争と同じになる。相手のらくだに鞭を入れ、少しでも早く相手をゴー
ルさせればいいのだから」
「うーん? ちょっと何言ってるか分からない。このレースは早くゴールした方が普通
に勝ちだよ」
「あれ? そうなんですか……」
 おっかしいなあと独りごちながら、照れ隠しに頭をかく転校生。
 モニターをもう一度見て、「勝つ気がないとしか思えないんだけど」と思った。
「不思議そうな顔をしてるな。これまでの経過を知らないところを見ると、転校生か」
 さっき話し相手をしてくれたのとは別の男子生徒が近寄ってきた。転校生が認める
と、相手はこれまでの対決について語った。
「大まかに言うと、大上という男は体力系、高橋という男は頭脳系が得意だ。そんな二
人がこれまでに十二の種目で対戦して、五分と五分。さて、たとえば神経衰弱。どっち
が勝ったと思う?」
「そりゃあ、普通に考えれば高橋って人の方でしょ」
「ところがそうじゃないんだ。実際は大上が勝った。それも獲得したペアが大上が一
組、高橋はゼロ組」
「神経衰弱でそんなことって、あり得るんですか?」
「たまたま大上が先に一組ペアができて、あとは、お互いが外しまくって、時間切れ裁
定さ」
「どうしてまたそんな……」
「相撲は高橋が勝っている。最初から圧倒して土俵際に押し込んだ大上が、勇み足をや
らかしてな」
「……」
「全ての種目で逆の目が出たって訳でもないんだぜ。バッティングやスピードボールで
は大上が勝ったし、知能テストや難読漢字では高橋が勝利を収めた。さすがにこの種目
で負けるのはプライドが許さなかったのか、それとも負けたくても負けようがなかった
のか」
「一体全体、何があってそんなおかしなことに」
「なーに、種を明かせば簡単さ」
 相手はいたずらげに目配せをした。
「付き合うその相手なんだが、白島麗子と言って、字面はなかなかきれいな感じだよ
な。だが、顔は平均的、性格最悪で支配欲が強いと来ては、いくらご令嬢で勉強ができ
ても、遠慮したくなるよなあ」
「えっと、じゃあ、やっぱり二人ともわざと負けようとしている?」
「多分な。これは言うなれば、負けられない戦い、負けようと思ってもなかなか負ける
ことができない戦いなんだ」
 転校生は、男子二人にそこまで勝ちたくないと思わせる白島麗子がどんな人なのか、
詳しく知りたくなった。
 それともう一つ、男子二人は何でそんな女子生徒を巡って、戦う羽目になったんだろ
う?と疑問を覚えるのであった。

 終わり




#497/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/04/30  22:15  (  1)
随分な水分   永山
★内容                                         23/10/31 19:49 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#498/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/05/07  21:41  (  1)
掴み損ねた夢をもう一度   永山
★内容                                         22/01/22 20:01 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開状態風にします。




#499/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/05/13  22:20  (  1)
NOU書き   永山
★内容                                         23/09/13 18:14 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#500/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/05/15  20:32  (  1)
彼女はラッキー過ぎるラッキーガール   寺嶋公香
★内容                                         22/01/06 16:46 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#501/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/05/22  19:55  (  1)
出会い過多   永山
★内容                                         23/07/02 23:43 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開状態風にします。




#502/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  21/05/29  20:10  (  1)
被害者はDM作成中   永山
★内容                                         23/07/28 17:30 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




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