AWC ●長編



#552/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




#555/555 ●長編    *** コメント #520 ***
★タイトル (AZA     )  19/07/31  20:14  (429)
そばにいるだけで 68−1:先行公開版   寺嶋公香
★内容                                         19/08/02 20:24 修正 第2版
 いくら何でも待たせすぎだと反省しまして、続きを書いていることの証明にでもなれ
ばと、1msg分だけUPします。後の68全文UP時には直しが入ることもありま
す。
======================================

 週明けの朝、自宅を出発する時点では、相羽は間違いなく決心していた。
(今日、言おう)
 米国留学することを純子に。
 改めて記すまでもないが、闇雲に打ち明けていいものではない。世間話のように、他
にも人がいるところで「九月には日本にいないから」なんてのは論外だ。最低限のシチ
ュエーション、二人だけで、伝えたあと少しは時間が取れる状況が欲しい。
 その決心に対し、のっけから段取りが狂う出来事があった。
 朝の休み時間に鳥越がクラスの席までやって来て、君の九月の予定はどうなってるん
だろうと聞いてきたのだ。やけに唐突な質問だったの訝しんで理由を聞き返す。
 すると、九月になると流星群があるので、学校で観測をしたいと思っているとのこと
だった。納得しかけたが、学校で催すのであれば予定はあまり関係ないじゃないか、と
不思議に感じた。
「その質問は、涼原さんに真っ先に聞くべきじゃあないか」
 相羽自身が答えづらいこともあって、鳥越にそう水を向けると、何故か相手は動揺を
僅かながら覗かせた。しかもすぐ近くに純子がいるというのに、尋ねようとしない。
「まあ、決まっていないんだったら、後日でいいよ。じゃあ、お昼に」
 そう言い置いて、鳥越は逃げるように去ってしまったのだ。
「何だったんだ、あいつ」
 ちなみに本日は朝から曇天で、午後からは雨の予報が出ていた。

            *             *

 二時間目が始まるまでの休み時間、唐沢は鳥越と二人で、校舎の外れの中庭にいた。
「どうしてこんな役を押し付けたんだい。それも急に。そこを説明してくれないと、僕
も納得できないよ」
 鳥越の失敗に多少の文句を言うつもりであった唐沢だが、反駁を食らって、言い返せ
ないなと気付いた。理由を明かさずに無茶をさせたんだから、失敗するのも無理はな
い。尤も、理由を明かした上で芝居させたとしても、果たして鳥越がうまくやりおおせ
たかは怪しく思う。
「わりぃ、俺の想定外だった。理由は言えないんだ」
「まったく。唐沢君が部員勧誘に協力すると言うから、渋々やっただけなのに、恥を掻
かされた気分だ。涼原さんのためだっていうのは、本当なんだよね?」
「そこは保障する。下手すると、部をやめる恐れがある」
「その危機は解消されたんだね」
「いや、まだ」
「何なんだよ〜」
 察してくれと言うのも無理な話か。唐沢は鳥越に両手を合わせて謝った。
「すまん。合宿に二人が参加したら、問題は解決したと思ってくれ」
「分かんないな。全然、仲が悪そうには見えないけれど」
「いいから。あ、あと、俺が頼んだことは絶対に言ってくれるなよな」
「約束は守るよ。唐沢君こそ、約束、忘れないでもらいたいね。来年の春、新入部員の
勧誘には力を入れてもらう」
「ああ。いざとなったら、女の子を大勢引っ張ってきてやる」
 安請け合いし、どうにかこの場を切り抜けた唐沢だった。
(やれやれ。作戦失敗か。同じ手が使えないわけじゃないが、似たようなやり取りを相
羽と涼原さんの前で二度も三度も繰り広げるのは、やっぱりやめておきたいよな。とな
ると、涼原さんの名前を使って、相羽に危機感を持たせる作戦を採るか……。淡島さん
の占いを通じて知らせる作戦も、悪くはないと思うんだ。でも、相羽の口から打ち明け
る方向に持って行くには……淡島さんが涼原さんにじゃなく、相羽に対して占いで言い
当てたみたいにすればどうかな。いや、相羽のことだから、俺が淡島さんにばらしたん
だって勘付くに違いない。どうすりゃいいんだ)

            *             *

 一時間目。
 相羽は、自分が意外と平静さを保てていないんじゃないかと思わされる。
「……あれ?」
 英語の教科書、忘れた。

            *             *

 「あれ?」という声が聞こえ、純子は隣へ振り向いた。相羽が学生鞄をまさぐってい
る。横顔に焦りの色が浮かぶのを見て取った。
(もしかして忘れ物? 珍しい)
 時計を見る。何を忘れたのか知らないが、これからある英語の授業に関わる物だとし
たら、他のクラスに行って友達から借りてくる時間はなさそう。と思う間もなく、始業
を告げるチャイムが静かに鳴った。
 ほとんど間を置かずに、門脇(かどわき)先生が教室に入って来た。女性にしては大
柄で、学生時代は柔道で鳴らしたとの噂だけど、真偽は不明。年齢を重ねた今、膝を悪
くして足取りが遅い自覚があるせいか、何事も行動を始めるのが早い。
「立ってる者、席に着け〜。始める。はい、号令」
 しゃきしゃきした口調の先生。呼応する形で唐沢が号令を掛け、起立・礼・着席を行
った。
 門脇先生が欠席のないことを確認するために教室内を改めて見渡したあと、教科書を
開き掛けた。
「あの、先生。教科書を忘れてしまいました」
 相羽はすかさず、しかしおずおずといった体で挙手しながら申告した。
「何だ、相羽君。らしくもない。浮ついているのかな。今後、気を付けるように」
「は、はい」
「教科書は隣に見せてもらうように。……涼原さんで大丈夫ね」
 大丈夫の意味するところがいまいちぴんと来なかったが、純子は素早く二度頷いた。
 相羽は机を横に動かし、純子の机とぴたりと合わせた。
「ごめん」
「いいよいいよ。気にしないで。困ったときはお互い様」
 朝からある意味うれしい成り行きに、純子は少々気分が高揚して、口数が多くなっ
た。おかげで先生から「こら、喋り続けるんなら戻してもうらよ」と怒られてしまっ
た。二人が肩を縮こまらせたところで、授業スタート。
「早速だが、相羽君。気合いを入れ直す意味も込めて、読んでもらおう。続けて訳も」
 相羽は席を立ち、二つの机の間に置かれた教科書を見下ろす姿勢で、音読を始めた。
声の通りはいつもに比べてよくないが、発音はいい。
(相変わらず凄い。エリオットさんとの日常会話を楽々こなすほどだし、相当勉強して
るんだろうなあ)
「はい、そこまで。ノートは持って来てるんだね? じゃあ、訳を」
 相羽はノートの該当ページを開き、今度は両手に持って答えた。大半の生徒が英訳で
は堅苦しい日本語になりがちだが、相羽はくだけた表現を織り込むのがうまい。翻訳を
思わせるほどだ。意識してやっているのではなく、自然とそうなるのかもしれない。
「――よろしい。ほぼ完璧で怒るに怒れないじゃありませんか。ただ一点、解説を加え
る必要があるのは、ここ」
 先生は“If it isn't broken, don't fix it.”と板書した。
「直訳すると、『壊れていない物は直せない』。相羽君は砕けた感じで、『そもそも壊
れてないのなら、直しようがない』と言ったけど、大体同じだね。で、実はこれ向こう
のことわざで、『すでにうまくいっているものを改善しようとしてはいけない』って意
味がある。教科書の例文ではことわざって言うより、『余計なことすんな』ってニュア
ンスが一番近い」
「知りませんでした」
「しょうがない。辞書を引かなくても知ってる単語で構成された文章は、いちいち調べ
直したりしないもんだから。文章のつながりから浮いた訳になるならまだしも、これな
んか別に違和感ないからねえ。違和感があるのは、ほら、前にやった遊園地で遊んでる
場面で、鍋の話をするやつだ。あれなんかはおかしいと感じて、調べて欲しいと思う。
で、涼原さん、どんな言い回しだったか覚えてるかな?」
「はい?」
 いきなり指名されて、立ち上がる純子。どうやらさっきのお喋りの代償を、ここで払
わされるようだ。
「相羽君は座って。――涼原さんも浮かれていないか確かめるために、ちょっとしたテ
ストだね。これに答えられなければ、机の間を一センチ離すように」
「そんなあ」
 情けない声を上げつつ、思い出そうと記憶のページを必死に繰る。
(遊園地で遊んでいると時間が経つのが早い。その関連で、時間に関係する、鍋の出て
来る慣用表現があったのよ。確か……)
 思い出せたような気がした。面を起こして、でも自信なげに答える。
「見られている鍋は決して沸かない……“A watched pot never boils.”でしたっけ」
「お、正解。だけど、日本語の方がちょいと怪しい。直訳で覚えずに、『焦りは禁物』
『待つ身は長い』等で覚えること」
「はぁい」
 座ろうとした純子だったが、止められてしまった。
「ついでに続き、少し読んで。訳はいいわ」
 いつもの授業と違い、変則的な当て方をする。生徒達は大げさに言えば戦々恐々とな
った。
 この調子での授業が十五分ほど続き、それからテキストにある設問を答えるくだりに
差し掛かった。適当に時間を区切って、各人が解きに掛かる。教室内は一転して静かに
なった。
(こんなに近いと、変に意識しちゃうよ)
 純子はいつもに比べて、集中力を若干欠いていた。好きな人が隣の席にいるというだ
けでも意識するのに、今はもっと近い。相羽の手元を覗こうと思えば覗けるし、逆もそ
うだろう。開いたページとページの間、谷になって見えづらい字を読もうと、顔を近付
けるとお互い息を感じるくらいに接近してしまう。
(相羽君は何とも思ってないのかな)
 盗み見ると、相羽はペンをさらさらと走らせている。次々に解いているのではなく、
教科書を借りている立場の彼は、設問に関連する箇所を本文から写さねばならないとの
理由もあるのだが、それにしても軽快に書いている。一心不乱というよりも、自動筆記
みたいだ。
(普通の集中とはまた違う……ぽーっとして、感情をシャットダウンしてるみたい。私
のことも見えてないのかしら。だとしたら凄いけど。――はあ、いけない。集中集中)
 緩みそうになる頬を軽くつねって、ノートに答を書き始める純子。問題にしばらく取
り組んでいると、不意に「あ」という相羽の小さな声。次に彼の手が純子のスカートを
かすめる風に伸びて来た。
(あ、相羽君、何を)
 気配を感じた純子は、反射的に「きゃ」と悲鳴を漏らしてしまった。何事かと先生や
クラスメートから注目されるのが空気で分かる。
「ご、ごめん、キャッチするつもりが空振りした」
 そういう相羽の視線は、純子の太ももの間、スカートの布地に。そこには相羽の消し
ゴムが乗っかっていた。
「こら、何を話してるの」
 近くまで来て立ち止まった先生が、プリントの束(と言っても十枚もない)で相羽の
頭をぽんぽんとやった。
「いちゃつくのなら、席を離して、反対側の子に見せてもらいなさい」
「すみません」
 相羽が謝罪するのに続いて、純子は同じように謝ったあとに続けた。
「でも違うんです。消しゴムがスカートの上に落ちてきて、私がびっくりしただけで、
いちゃついてたんじゃない。ほんとです」
 未だにスカートの上にある消しゴムを、ほら見てくださいとばかりに示す。
「……分かった。子犬の瞳で訴えなくても信じます。さあ、続けて。残り時間わずかだ
よ。みんなも集中して解いて」
 教卓の方へ引き返す先生を見て、純子はよかったと安堵した。
 それからまた問題に取り掛かろうとした矢先、相羽が純子の方を向き、左手を左右に
小刻みに振って、何かを擦るようなポーズを取るのに気付く。一秒考え、あっと思い出
す。
 純子は相羽の消しゴムを拾い、彼の机の端っこに置いた。

「ありがと、助かった」
 英語の授業が終わって、門脇先生が去ると、相羽は机を元の位置に戻した。
「それと消しゴムのこと、ごめん。肘が当たったみたいで」
「かまわないんだけど、さっき問題を解いてるとき、何だか変じゃなかった?」
「変? そうだっけ」
「周りに誰も見えてない感じだったわよ。矛盾するけど、ぼんやりしつつ集中してるっ
ていうか」
「それは多分、先生に言われたことを気にしていたからかも」
「先生に言われたことって? 何かあったかしら……」
 尋ねたつもりだったが、男子数名が相羽のところへやって来たせいで、有耶無耶に。
「おい、さっき本当に何でもなかったのか」「教科書見せてもらうために、わざと忘れ
物したんじゃないの」「次の数学は何を忘れるのかな」等と冷やかされる相羽だが、特
に反応せずに涼しい顔をしている。
 当事者の一人である純子としては、おいそれと口出しして藪蛇になっても困る。それ
を思うと、相羽の受け流しは賢明な選択と言えそう。
 純子は素知らぬふりで次の数学の準備をしていると、ふと気が付いた。
(うん? 唐沢君が加わってないなんて珍しい)
 いつもなら真っ先に来そうなのに。委員長の用事があるのでもなし、自身の席に着い
たまま、一人でこちらを――相羽の方を?窺っているように見えた。。
(数学の宿題を忘れて、相羽君を頼ろうとしたけど割り込みにくいなと躊躇っている…
…なんてことじゃないわよね。どうしたんだろ。何か言いたそうな、様子を探っている
ような。男同士の約束でもあるのかな)
 そちらに意識を取られたおかげで、先生に言われたことどうこうはすっかり忘れてし
まった。

            *             *

 神村先生の数学が終わると、次は家庭科の調理実習で、移動や準備に時間を取られ
る。まずい、この調子だと打ち明けるのがずるずると先延ばしになってしまう。相羽は
割烹着風エプロンを身につけながら思った。
(本当はすぐにでも――一時間目が終わったら、話があるから昼休みにでもって純子ち
ゃんに言うつもりだったのに。門脇先生に『浮かれているんじゃないか』って……ショ
ックだ。そんな風に見えてるのか)
 英語の門脇先生は、相羽の留学話を承知している教師の一人だった。学科こそ全く異
なるが留学経験があり、いわゆる生の英語に詳しいとあって、折に触れてアドバイスを
頂戴している。
(浮かれてはいないと断言できる。でもまあ、気が散っているところはあるのかもしれ
ない。英語の教科書を忘れたのだってそう。消しゴムが転がったのに気付いたとき、後
先考えずに手を伸ばしたのも)
 落ち着こう。とりあえず、気が散ったまま火を扱う授業を受けていては、事故の元に
なりかねない。こうして気を引き締め直したおかげか、純子と同じ班で臨んだ調理実習
は、特に失敗することもなく、無事に仕上がった。一時間目の一件のおかげで、周りか
ら冷やかしは飛んだけれども。
 ちなみにメニューはミニ揚げパンに春雨サラダ、杏仁豆腐だった。昼前のコマで調理
実習をやる場合、授業が終わったあとも家庭科教室で昼食と合わせて料理をいただくの
が原則。弁当持参でない者は、早く平らげて食堂なり売店なりに行かねばならない。ほ
ぼ確実に列の後方に並ぶことになるため、不評である。生徒側も対策を講じ、弁当を持
って来る者の割合が飛躍的に高くなる。
 相羽も母に時間的余裕があるときは作ってもらっているけれども、あいにくと日曜か
ら仕事があって、今回は無理だった。代わりに、惣菜パン二つと飲み物を通学途中に購
入していた。
「食べない?」
 登校時に一緒だった純子は当然そのことを知っており、お弁当のおかずを勧めてき
た。
「どれでもいいよー。こっちはダイエットのつもりで」
 つみれや唐揚げ、胡麻豆腐にチーズちくわと文字通りのよりどりみどり。だが、相羽
はすぐには手を伸ばさなかった。
「そう言われて僕が食べたら、君が太ってると言ってるみたいにならない?」
「ならない。ほんとの体重、自分自身がよく分かってるから」
 そのお喋りを聞きつけたか、唐沢が近くに移動して来た。「なら、ありがたくちょう
だいしよう」と、相羽より先に箸を出す。
「だめ。唐沢君はお弁当でしょ。結構大きいのに、余分に食べたらそれこそ太るわよ
〜。女の子が悲しむんじゃないかしら」
「うー、それでも食べてみたい」
「まさか、手作りと勘違いしてないか、唐沢?」
 相羽の指摘に、唐沢はぽかんとなった。本当に純子の手作りだと思い込んでいたよう
だ。
「あ、そうか。じゃあ、さっきの春雨サラダか杏仁豆腐をもらいたかった」
「それならここにある」
「いや、おまえの前にある分じゃだめ」
「元は同じなんだが」
 相羽が唐沢とやり取りする横で、純子がくすくす笑い出した。
「もう、話が迷走してる。はい、相羽君。これ食べて」
 相羽の持つ焼きそばパンの切れ目に、唐揚げ一つが置かれた。
「あ、ありがとう、いただきます」
 相羽はお礼を言いながら、気持ちがだいぶほぐれてきて、いつものようになれたと感
じていた。

 昼休みも食事が済んで、教室に戻ると、相羽は純子に話があることをまず伝えようと
した。
 ところがここでまた予想外の邪魔が入った。野球部のエース・佐野倉が純子の元にや
って来て、前の土曜、試合を観に来てもらいたかったと一言。地方予選の真っ只中にど
こでどう聞きつけたのか、土曜日に純子が遊びに行ったことを掴んだらしい。
「ごめんなさい。勝ったんだってね。おめでとう」
 純子が謝ったあとも、佐野倉が「一、二回戦は楽に勝てると思われるてるんだろう
な」とか「本当に決勝だけ観に来る気なのかな」とか言うものだから、周りにいたクラ
スメイト――主に男子の反発を買った。
「おい、謝ってるじゃねえか」「きちんと約束したわけでもないくせに」「スポーツマ
ンらしくないな」云々かんぬんと声が飛び、対する佐野倉もいちいち反論するものだか
ら、収拾が付かなくなりつつあった。
 しょうがない。一緒に遊びに行った身として相羽は仲裁に入った。
「みんな静かにしてくれよ。佐野倉、ちょっといい?」
「かまわん。何」
「誘いに乗って遊びに行った者として、弁明したいなと」
「やっぱり混じってたか。公認の仲だから、驚きゃしないが」
「悪い。誘われたときに、野球部の試合予定日だってのは頭にあった。でも、雨天順延
で日程がずれたんじゃなかったっけ?」
「その通りだが」
「女子達の話を聞いてみたら、遊びに行く予定を立てたのは、そっちの試合の順延が決
まるよりも先だった。みんな時間を調整して、決めた計画を前日になって変えなきゃな
らないとしたら、酷だと思わん?」
「……まあな。しかし、その話が本当だという証拠がない」
「粘るね、佐野倉も。その調子で勝ち続けてくれたら、絶対に応援に行くぜ」
「ごまかすな」
「証拠なら私が。証言だけれどね」
 外野から応援が入った。白沼が人の輪を割って進み出る。彼女は自身がその遊びには
加わっていないことと、VRのプラネタリウムの割引券をこの前の土曜日に使うと、純
子から知らされていたことを伝えた。
「――さあ、これでも疑う? これ以上、無駄に引っ張るのなら、いくら野球部のエー
ス、大黒柱であっても、徹底的に叩くわよ。何しろ涼原さんは今、うちの仕事を手伝っ
てくれている大事なタレントなんだから。変な言い掛かりを付けて、疲弊させないでも
らいたいのよね」
「……分かった」
 そのまま行こうとする佐野倉に、「涼原さんに謝らないのか」とブーイングが上がり
掛ける。それを制して、相羽が再び声を掛けた。
「佐野倉、余計なお世話だけど、いつもと違うように見える。こんなことを気にするタ
イプじゃないだろ。何かあったんじゃ?」
「別に」
「あ、俺知ってるけど」
 知らんぷりを通そうとした佐野倉だが、クラスにいた同じ野球部の男子によって、わ
けを暴露されることに。
「観に来ないなら来ないで、あとで残念がらせようと思ったのか、ノーヒットノーラン
を狙ってたんだよな」
「……」
 同期の部員に言われても、沈黙を守る佐野倉。
「ノーノーどころか完全試合かってペースだったのが、コールドで参考記録になるのが
ほぼ確定して気が緩んだのか、あれ? 最後のイニングで四球を出して、次にあと一人
ってところでポテンヒットを打たれて、パーになった」
 そこまでばらされて、ようやく口を開くエース。
「細かい解説なんかするな。要するに、記録を狙って変な力が入った。その上記録達成
に失敗して、いらついた。それだけだ」
 佐野倉はきびすを返して純子の机まで戻ると、腰を折って頭を下げた。
「要するに八つ当たりだ。すまなかった」
「……う、うん、私は別にいいけれど。それよりも、ノーノーって何だっけ?」
 この純子の発言には、佐野倉のみならず、話を聞いていた男子のほとんどががくっと
来たらしく、中には派手に笑い出す者までいる。
「す、涼原さん。君って……いや、まあ女子では普通か」
「佐野倉君? 悪いこと言っちゃった?」
「いや、言ってないさ。あーあ、おかげでストレス発散できたわ」
 肩のこりをほぐす仕種をする佐野倉。
「これで次の試合に集中できる。ありがとな」
 もう休み時間は残り少なかった。
 佐野倉が立ち去ったあと、相羽は純子から話し掛けられた。
「ねえねえ。私、おかしなこと言った? 佐野倉君に悪いことしちゃったのかなあ?」
「心配無用」
 相羽は次の授業の教科書などを、机に出しながら答える。
「むしろ、あの場では最高の返事だったと思うよ」

            *             *

 午後からの授業中、窓の外を眺めていた唐沢は、曇り続きの天候に嘆息した。
(この分なら明日も屋上に行かなくて済むかもな。おかげで相羽と涼原さんのために考
える時間だけはあるわけだが……もうしぼりかすしか残っていない気がする)
 ここ試験に出るからという教師の声に、はっとする。ノートを取ろうにも、教科書の
どの辺りをやっているのか、把握できていない。ひとまず、板書だけして、あとで照ら
し合わせるとしよう。
(試験か……期間に入ると、人の世話を焼いている場合じゃなくなっちまうなあ。いつ
も通り、相羽センセーを頼りにすることで、どうにか……あれ? もしかして相羽の
奴、次の定期テストって受けないのでは?)
 がたがたっと椅子で音を立ててしまい、教師からじろっと見られた唐沢。すんません
とジェスチャーで応じて事なきを得た。
(留学するんなら、最早この学校でのテストなんか受けなくていいんじゃないのかね。
もう内申書がどうこうって段階じゃないだろ。仮にそれで当たっているとしたら、俺、
ピンチじゃん)
 思わぬところで、相羽の留学が自身によくない影響をもたらすことに気付いた。たと
え今度の定期テストは受けるんだとしても、二学期以降はいなくなるんだからどうしよ
うもない。何とかせねば。
 授業が終わるなり、相羽にとりあえず泣き言をぶつけてやろうかと一歩を踏み出した
が、思い止まった。
(涼原さんに聞かれたら説明できねー。……けど、留学のことを伝えるんなら、こんな
軽い調子でもいいんじゃないかね。いつまでもぐずぐずしてるよりかは、よっぽどいい
だろうに。相羽の方から話を振ってくれりゃあ、俺は乗るぜ)
 てなことを思いながら相羽の後頭部辺りをじっと見ていると、いきなり振り返られ
た。唐沢は急いで視線を外しつつも、様子を窺う。
(――何だ。俺が見ていたのを察したんじゃなくて、涼原さんとどこかに行くのか)
 相羽に続いて純子が席を立つのを見て、ぴんと来た。
(やっと話す気になったか? なら、俺は見守るのみ)
 世話を焼く必要から解放され、あとは自分の勉強のことだけ。そう思うと、ちょっぴ
り気が楽になった。気が緩みもしたのか、白沼までもが席を立ったのを見逃してしまっ
た。

            *             *

 職員室、校長室の前を通る廊下を抜けて、校舎の外に出る。降り出しそうで降り出さ
ない空の下、相羽は純子を壁際に、自らはその正面に立った。
「それで話って何?」
 人のいないところを求めて、うろうろしたおかげで、三分以上を費やしてしまってい
た。残り七分足らず。相羽は心持ち見上げてくる感じの純子を前に、焦りと躊躇の葛藤
を覚えた。
(今日の授業が全部終わるまで待つべきだったかな?)
 弱気とも思える迷いが生じた。首を左右に小さく振る。ここまで来て、もう引き返せ
まい。
「相羽君?」
「純子ちゃん――落ち着いて聞いて欲しいんだけれど」
 そこまで言って、喉がごくっとなった。口の中が乾いてる気がする。と、この一瞬の
間を置いたことで、邪魔が入る。
「――あ、待って。携帯が」
 純子が言った。振動音が微かに聞こえる。機器を取り出しながら、「白沼さんから」
と囁き調で相羽に教える純子。
『はい?』
『どこに消えてるのよっ。追い掛けたのに、見失ったじゃない!』
 相手の剣幕に思わず耳を離す。おかげで、相羽にもその通話が聞こえた。
『どこって……相羽君と話してるところよ』
『戻って。教室と同じフロアの東端にいるから。学校で携帯使うくらいなんだから、緊
急の連絡だって分かってるわよね。お仕事の話』
『えーと、電話じゃだめ?』
『だめ』
 一方的に告げられ、切られた。純子は携帯を仕舞い、両手のひらを合わせながら相羽
に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、急用みたい。話、あとでも大丈夫?」
「う、うん。またあとで。行ってらっしゃい」
 ぎこちない言葉遣いになるのを自覚した相羽だが、純子はそのことを気にする風でも
なく、再度「ごめんね」と言って、スカートを翻した。
(ほっとしたような、これじゃだめなような)
 急ぐ彼女の背中をぼんやり見つめながら、相羽はため息をついた。

            *             *

 唐沢は廊下に出ていた。純子が結構なスピードで走って行くのを目撃したからだが、
すでに彼女の姿は見えない。
(廊下走ると先生に怒られるぞ。……やっぱり、相羽から打ち明けられて、ショックだ
ったのかねえ? 顔はよく見えなかったけれども)
 どうしようもなくてぽつねんとたたずむ。五分近くそうしていたが、純子は戻って来
ない。もうすぐ授業だぞと思い始めた頃、相羽が横を通り過ぎた。そのまま教室に入る
ようだ。
「よ、相羽。待てよ」
 寸前で呼び止め、右腕を引っ張って教室とは反対側に連れて行く。
「何。今、軽く自己嫌悪してるところなんだけど」
 その台詞の通り、相羽は冴えない目付きをこちらに向けてきた。
「てことは、ついに言ったのか。それで涼原さんが」
「何のこと?」
「こいつ、何でまだとぼけるんだよ、この」
 唐沢は相羽の脇を小突いて、「留学の話だよ」と言ってやった。割と大きなボリュー
ムになった。
 その台詞が終わるか終わらないかのタイミングで、廊下の向こうから早足で歩いてく
る純子の姿が認識できた。続いて白沼も。
 ちょうどいいと感じた唐沢だったが、次いで相羽の反応を目の当たりにして、はっと
なする。
「もしかして、まだ、なのか?」
「ああ。タイミング悪く、白沼さんから呼び出しがあって――」
 答えた相羽も、純子が接近中だと気付いたようだ。唐沢は片手で謝るポーズをしなが
ら、ひそひそ声で言った。
「わ、わりぃ。今の聞こえちまったかも」
「……」
 相羽は唐沢を押しのけるようにして一歩前に出た。すぐ先を純子が通ろうとする。
が、眼前を横切る寸前に、教室後方のドアへと足を向けた。
「相羽君、授業始まるよ。唐沢君も」
 純子が言って、微笑みかけてきた。あとを追うように来た白沼が「早く入って、席に
着いてよね。怒られるのは委員長と副委員長かもしれないんだし」と、特に唐沢に向け
た忠告を発した。
「へいへい」
 唐沢は努めて軽い調子で応じながら、内心では盛大に安堵していた。
(セーフだったか〜)

――つづく




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