AWC ●長編



#543/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:51  (239)
眠れ、そして夢見よ 4−2   時 貴斗
★内容
   四

「ペルエムウスって何ですか?」と、青年は聞いた。
「あら、知らないの? 英語のピラミッドはギリシャ語のピラミスから
来てるんだけど、ピラミスの語源については定説がないの。唯一の祖先
と考えられる言葉がペルエムウス」
「最後のあれ、なんだったの?」
 滝田は美智子に聞いた。
「催眠術がきっかけでああなったって、先生言ってましたよね。きっと
倉田さんは暗示にかかりやすい体質なんだろうと思って、暗示をかけた
んですよ。次のレム睡眠行動障害まで一ヵ月も待たされたんでは、たま
りませんからね」
「ふーん。うまくいくといいね」
 滝田は青年が持ってきたコーヒーをすすった。
「ヒッドフト王って、誰ですか」
 青年は、滝田が倉田氏に聞いたのと同じことを聞いた。
「ヒッドフトというファラオは本に載ってないわ」
 美智子もコーヒーに口をつけた。
「すごい。常盤さんは全部の王の名前を暗記してるんですか」
 青年は目を丸くした。
「ええ、本に書いてあったのは全部」
 美智子はなんでもないことのように言う。
「きっと歴史の教科書にも載ってないような、名もない王様だったんだ
ろうよ」
「ええ、残念ですね」
「残念? と言うと?」
「もしも名のある王だったら、どのピラミッドを建造している最中か分
かるから、倉田さんがいるおおよその年代が分かったかもしれません」
「少なくともスフィンクスとジェセル王のピラミッドよりは後だね」
 だが、そう言いながらも滝田は、倉田氏が現在どの時代にいるのかな
ど、些細なことだというような気がしていた。
 倉田氏は一体何者なのか。
 あの偉そうな口調の人物のことではない。今ベッドの上で再び昏睡に
陥った倉田氏は一体何者なのか。その方がずっと重要な問題だという気
がする。あきらかに、奇妙な睡眠障害になる以前の、ごくごく平凡な一
般市民にすぎない人物とは違った存在に変わってしまっている。彼は一
体何者なのか。
「先生が最後にした質問、あれは何です? どうしてあんなことを言っ
たのか、理解できませんでしたわ」
「え? ああ、自分の足を見ろってやつね。倉田さんの体を見たかった
のさ。録画されてるはずだから、後で見てみるといい。腰布しか身につ
けていなかった。肌は褐色だったよ。ああ、首飾りもつけていたけどね」
「するとやっぱり、倉田さんは今古代エジプト人になっているんだわ。
当時の一般的な服装です」
「そうだね。首飾りはつけていなかったけど、他の人達もそんな服装だ
った」
 美智子から借りた本の中にも、同じような格好の人物が描かれた壁画
や像がたくさん出ていた。
「首飾りをしているということは、上流階級の人かもしれませんね」
 インド人については不明だが、これで御見氏とエジプト人については、
確かにその人物になったのだということが、断言できそうだ。
「でも、常盤君が言うところの、現実的な解釈だとどうなるんだろうね。
倉田さんは古代エジプトの関係の本を読んで、それが夢に現れた、とい
うことになるんだろうか」
「それにしては情景が緻密すぎますわ。砂との摩擦を減らすために水を
まくところまで再現されています。どうして倉田さんはそんなに古代エ
ジプトのことに詳しいのかしら。それに本で読んだり、ネットで検索し
たりしたとしても、それだけであんなに鮮やかにイメージできるものか
しら」
「ああ、まるで見てきたような風景だったな」
「見てきたんじゃありません。見ているんです。倉田さんが夢の中で実
際に古代エジプトにいることは、確実です」
 倉田氏が古代エジプトにいることは認めるくせに、どうして前世とか
いう言葉を出すと怒り出すんだろう、と滝田は思う。
 その時ふと、ある可能性に気づいてはっとなった。
「とすると、これは大変だぞ。彼は夢を見るだけで実際のその場に行け
る。彼は歴史を変えることができる」
「なんですって?」
「だってそうじゃないか。彼は夢の中で研究室に現れ、そしてモニター
を壊した。すると実際にモニターが破壊されてしまった。彼がエジプト
で何かしでかしたら、それによって歴史が変わってしまうかもしれない」
 分厚い眼鏡の向こうで美智子の目が大きく見開かれた。


   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。
後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもの
のない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が
目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面
レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智
子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力
してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってな
いから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないで
すかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへと
になって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸
びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中
のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がった
の。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、
塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同
じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。
みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそ
んなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。
そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。
いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで
分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと
愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんで
す。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイ
オリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意
味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのか
とか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩
に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩さ
せて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれも
あるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうな
っただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に
繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどん
どん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得
意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりも
うまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣って
いたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えては
いない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれ
だけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういう
の、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじ
ゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕
がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃ
ならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には
分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。そ
れじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登る
のか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなど
とは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかも
しれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。そ
れは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをし
たり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、
公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、
そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働
くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにで
きているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なの
か。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立て
られるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、
大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身
動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじ
て勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安
定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてる
のよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。
つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本
当にそれでいいのだろうか。


   六

 眠れない。滝田は寝返りをうつ。もう何度こうして、ベッドの上で体
を回転させたことか。
 人はなぜ眠るのか? 決まっている。脳を休ませるためだ。ずっと眠
らずにいるとどうなるか。幻覚を見る。それでも眠らずにいるとどうな
るか。死ぬ。
 滝田は起きてゆっくりと立ちあがる。寝室をさまよい、明かりのスイ
ッチを探す。住みなれた家だ。目をつぶったままでも、スイッチを探り
当てることができる。
 不眠に悩む人がいる。一ヵ月も眠っていないと言う。だが、そういう
人は実はちゃんと眠っているのだ。浅い眠り。立ったまま眠っている。
起きながらにして眠っている。目を開いたまま脳は寝ている。だから死
なない。
 明かりをつけ、部屋を出る。
 滝田は階段を下りる。この先にはキッチンがある。台所は主婦の戦場
だ。だがその主婦殿は、もういない。滝田は自分のほほがひきつるのを
感じた。
 そこには何があるか? ウイスキーだ。若い頃はビール派だったのに、
すっかりウイスキー派に転向してしまった。
 人はなぜ酒を飲むか。大人になるためか。子供時代と決別するためか。
いや、そうではあるまい。男の言い分だ。女はどうなる? 女は、酒も
煙草もやらなくても、立派な大人になっている。
 ダイニングの明かりをつける。蛍光灯がしばらく点滅する。もうそろ
そろ交換しなくてはならない。面倒くさいと滝田は感じる。LED照明が
一般的になった現在でも、滝田の家では蛍光ランプを使っている。あの
中には電気を受けると光る気体が封入されているんだとか。はてそうだ
ったかな。学校で習ったような気がする。記憶があいまいだ。確実に歳
をとってる。いやだ、いやだ。電気の刺激を受けて、それで光っている。
交流電流が、行ったり、来たり。
 食器棚の下から、ウイスキーを取り出す。グラスに注ぐ。
 冷凍庫から氷を取り出して入れる。さっそく一口飲みこむ。のどが熱
くなる。腹が熱くなる。
 酒が眠りを誘発するまでの時間、今日も女房殿と過ごすか。そうしよ
う。和室に行こう。
 明かりをつける。こちらの蛍光灯はまだ大丈夫だ。重々しく仏壇の前
に腰をおろす。
 女房殿に乾杯。左手に持ったボトルを畳の上に置く。右手に持ったグ
ラスを口に運ぶ。
 人はなぜ夢を見るか。これは難しい。滝田がずっと取り組んできたテ
ーマだ。夢を見ないと死ぬか? まさか。
 人はレム睡眠の時に眠りが浅くなる。だからこの時に起きるのが理想
的だ。脳が活発になっているから夢を見る。夢は脳の働きの一つの現象
だ。それだけのことにすぎないはずだ。だが倉田氏は違う。夢が、本来
の意味とは全く違った意味を持ってしまっている。
 あれは一体何だ。
 酒を一気にあおる。おかわりをつぎたす。飲酒するとなぜ眠くなるか?
脳の活動が弱まるためだ。アルコールの効用とはまさに、そこにあるの
だ。
 滝田は、急激に酒が効いてくるのを感じた。さて、もう一杯。いいぞ。
脳の働きが弱まってくる。徐々に、眠気を催す。さらにもう一杯。
 滝田は、立ちあがるのが億劫になってきた。仏壇を見つめたまま、横
になる。今夜はこのまま、女房殿といっしょに寝てしまうことにしよう
か。




#544/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:57  (393)
眠れ、そして夢見よ 5−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/07 21:03 修正 第3版
   古代――現代


   一

 高梨様。これまでに分かったことを報告致します。現在、夢見装置で
確認できた倉田氏の夢は四回です。そのうち一回はレム睡眠行動障害の
状態での観察に成功しています。最初の二回は、スフィンクス、ピラミ
ッドの断片的な映像でした。三度目は驚くべきことに、見たはずがない
我々の研究室の夢を見ました。その映像は実に正確であり、なぜ彼がそ
んな夢路をたどることができたのかは謎のままです。
 四度目がレム睡眠行動障害の状態でのものであり、彼は夢の中で古代
エジプト人達と会話をしております。我々は彼にいくつかの質問をする
ことに成功しており、その結果、御見葉蔵氏の時と同様、彼が現在古代
エジプト人になっていることはほぼ確実と思っています。
 今後の研究はさらに期待の大きいものとなる予定です。

 滝田は電子メールの文章をそこまで打って、しばらく考え込んだ。そ
して、ウィンドウの×マークにカーソルを合わせ、マウスをクリックし
た。
 こんな事を高梨医師に報告していいのだろうか、と滝田は思う。学会
で発表していい内容だろうか。
 おそらく一笑に付されるだろう。だが、証拠のデータが揃っている。
高梨が言った通り、医学の世界だけでなく、科学の世界にも大きな波紋
が生じるかもしれない。
 高梨の名誉などというくだらないもののために、どうしてこんな貴重
なデータを渡さなければならないのだろう。
 研究費の援助など断ってしまおうか。そのかわり、何の情報も渡さな
い。おそらくそうはいかないだろう。倉田氏を夢見装置につないでしま
った時点で、すでに後戻りできない状態になっていたのだ。いろいろな
ことを知りすぎてしまった。
 滝田は伸びをした。疲れた。右手で左肩をたたく。
 壁の時計を見るともう十時を過ぎていた。まだ誰か残っているだろう
か。
 ふいに、寂しさを感じる。この下では今も車や人が行き交っているだ
ろう。都会は眠らない。
 部屋を見まわす。本棚には様々な論文やら、本やらがぎっしりと詰ま
っている。楽しむために読むのではない、無味乾燥な資料達。こんなふ
うにふと、自分がいる環境が寂しいと感じることがある。普段は全く気
にしていないのに、何かのはずみに冷静な感覚がゆるんだ時に、長くつ
きあってきたはずの、学術誌や、パソコンや、カーテンが、ひどくよそ
よそしく感じられ、部屋の空気が急に冷たくなったように感じるのだ。
 滝田は立ち上がった。みんな帰っただろうか。倉田氏はどうしただろ
う。所長室を抜け出し、静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりの右手
に、夢見装置のある滝田研究室がある。入り口のドアをみつめる。この
扉もだいぶ古びてきたなと、滝田は思う。
 ドアをゆっくりと開け、中に入る。誰もいない。美智子も青年も今日
は帰ったらしい。明かりがついたままの、誰もいない部屋は、とても不
気味に感じられる。もう十年以上もここにいるのに、この気味悪さだけ
は決して慣れることがない。
 窓の方に行こうとしてモニターの横を通り過ぎた時、なにか、光がう
ごめいているのが目の隅に入った。振り返ると、モニターは例の白と黒
の点がうずまく砂嵐の画面になっていた。


   二

 ディスプレイが何かの像をむすび始める。滝田の胸に研究者の冷静な
感情が戻ってきた。寂しさや不気味さが、心の中から消え去る。だがそ
の冷静な感覚は、すぐさま驚きへと変わった。
 どこだろう? どこかの家のようだ。幸いにして、というべきか、こ
こではないようだ。あきらかに古代エジプトでもない。明かりが灯って
いる。廊下だ。前に見たような風景だ。どこで見たんだろう。現代だろ
うか。それとももっと前だろうか。日本の家屋のように見える。
 滝田はようやく思い出した。倉田家だ。倉田の妻に会いにいった時に
見た、倉田家の廊下だ。倉田恭介は夢の中で、自分の家に戻ってきたの
だ。古代エジプト人として? それとも倉田恭介自身として?
 慌てて窓から倉田氏を見る。眠ったままだ。急いでモニターの前に戻
る。
 夢の中の倉田氏、あるいは謎のエジプト人は、泥棒が盗みに入ったよ
うな感じで廊下を歩いていく。
 倉田氏は、滝田があの時案内された部屋のふすまを開け、中をのぞい
た。室内は真っ暗だ。するともう家族達は寝てしまったのだろうか。滝
田は腕時計を見る。まだ十時二十一分。もっとも、これは現在の倉田家
とは限らないが。
 開けっぱなしにしたまま、そこから離れる。倉田氏は階段の方へ歩い
ていく。
 家族が寝てしまったとすると、廊下の明かりがつけっぱなしなのはお
かしい。倉田氏は階段にたどりついた。真っ暗だ。壁を見て、その明か
りのスイッチをつけた。
 これで合点がいった。廊下の電灯は、倉田氏がつけたのだ。足元を見
ながらゆっくりとのぼっていく。
「あっ」
 滝田は思わず声をもらした。それは、古代エジプト人の褐色の足では
なく、やせ細った青白い裸足の足だった。あれは倉田氏のものだ。前は
古代エジプト人だったのに、なぜいきなり倉田氏自身になるのだ?
 階段をのぼりきるとまたしても廊下があった。倉田氏はその明かりも
つける。かなり大胆な行動だ。倉田氏の夢の中の行為がそのまま現実に
なるとすると、家中の照明をつけて回っていることになる。家族の誰か
が起き出したらどうするのだ?
 左手にある木製のドアを少しだけ開いた。廊下から差し込む光で中の
様子がうっすらと見える。そして大きく開き、入っていく。布団が二つ
敷いてある。倉田氏は二人の人物を交互に見つめる。一人はこの間見た
子供だ。あとの一人はもう少し大きい子だ。たぶんお兄ちゃんだろう。
 しばらくの間、画面は二人の子供の顔を映していた。倉田氏にとって
は久しぶりの再会だ。
 反転し、部屋から出ていく。木のドアをゆっくりと閉める。今度は通
路をはさんで反対側の扉を開けた。中はやはり真っ暗だ。廊下からの光
でかろうじて様子が分かる。倉田氏は室内に入りこんだ。画面がそこに
寝ている人物のアップになる。倉田の妻、芳子だ。
 滝田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。実行するには少し勇気がいる
が、声を変えれば大丈夫だろう。携帯電話を持ち倉田の家に行った時に
聞いておいた電話番号をタップする。もしもモニターの情景が現在のそ
れであるならば、うまくいくはずだ。
 風景が反転した。足早に部屋を出る。画面がすごいスピードで動いて
いく。階段へ、そして階下へ。
 うまくいった。電話は一階にあるらしい。倉田氏は台所に飛び込んだ。
廊下から漏れる明かりで薄っすらと情景が分かる。入ってすぐの所にあ
る固定電話の前に立った。
 さすがに、倉田氏が受話器をとってくれることは期待できない。かけ
ている相手は倉田の妻だ。倉田氏はどうしてよいのか分からないという
ふうに、そのまま電話を見つめている。画面が回転し、台所の入り口を
映す。倉田の妻が登場した。眠そうに目をこすりながら、明かりをつけ
る。映像が少し横にずれた。倉田恭介がいた場所に立ち、受話器をとっ
た。彼女には倉田氏の姿が見えていないのか?
「はい、もしもし」
 滝田は鼻をつまんで話し出す。
「あ、奥さん? すみませんが、ちょっとそのまま私の話を聞いてくれ
やせんか」
「あの、もしもし? どなたですか?」
「廊下の電気、ついてたでしょ? 階段も」
「まあ」
 倉田の妻は例の耳障りなきんきん声で驚いた。
「あなたがやったのね? 泥棒!」
「いえいえ、あたしゃ奥さんの家に入ってませんけどね。ちょっと、和
室のふすまも見てきてくれやせんかね。開いてるはずなんですけど」
「ふざけないで! この変態」
「大真面目ですよ。あのちょっと、左を見てくれやせんか」
「えっ」
 彼女がこちらを向いた。そして彼女の前には、彼女の旦那が立ってい
るはずなのだ。
「何か、見えやせんかね。誰か立ってません?」
「何言ってるのよ。気色の悪いこと言わないで。この変態」
 おや? と滝田は思った。モニターの風景が、右に、左に回転し始め
たのだ。辺りを警戒しているらしい。感づかれたかな、と滝田はひやり
とする。
「あ、もうそろそろ切りやすんで。お休みなさい」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 携帯を切る。倉田の妻は画面の向こうで何か言っている。だいぶ怒っ
ているらしい。しばらくして、ようやく電話の前から離れた。部屋の電
気が消える。
 一分近くたって、再び台所の明かりがついた。電灯のスイッチが映っ
ている。
 どうする気だろう、と思っていると、電話機の前に戻った。ボタンを
プッシュし始める。しまった。非通知でかけるべきだった。着信音が鳴
る。無視すべきかどうか一瞬迷ったが、ボタンをタップした。背筋の寒
くなるような声がこう言った。
「人の夢をのぞくな」
 モニターが急速に暗くなり、消えた。


   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田
は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつ
くことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかっ
た。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田
の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかける
べきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お
父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父
さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなん
だよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳
を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われて
いないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんど
ん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃう
よ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、
縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形く
らいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏む
たびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路
地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかっ
た。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大き
な音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に
時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなって
いた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。
滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしても
ビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。
こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点にな
ってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆
け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方
だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。そ
の雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろして
いるのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分
かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に
戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこ
んでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言っ
た。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、
大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社
員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であ
ったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して
許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて
死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。
あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意
識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


   四

「つまり、今度は倉田さん自身になったって言うんですか?」
 滝田が昨日の話をした時、美智子は目を丸くした。
「ああ、おかげで悪い夢を見てしまったよ」
「しかも倉田さんの夢がテレビ電話になっただなんて」
 青年も驚きの声をあげる。
「記録は残っている。電話の内容も、ちゃんと録音してある」
「倉田さんの家に連絡して、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」
「何て言うんだい? 倉田さんが夢の中で古代エジプト人になっている
ことさえ、まだ奥さんには教えてないんだよ。ここで何が起こっている
か教えたら、パニックに陥るだろうね」
 聞きたいことは、山ほどある。倉田氏にも、倉田氏の妻にも、和田幸
福研究所の和田氏にも。しかしそれが聞けないから、もどかしいのだ。
「倉田さんは前にも現代に現れていますよね」と美智子は言った。「あの
時も、倉田さん自身として現れたんじゃないかしら」
 それは滝田も考えたことだ。当然、そういうふうに連想が働く。スパ
ナを振り上げた手は細く青白かった。しかし滝田は、彼女の意見が聞き
たくて、言った。
「どういうことだい?」
「倉田さんはずっとエジプト人で、昨日初めて倉田さん自身になったの
ではなくて、ある時はエジプト人、ある時は自分自身になっているんで
す」
「すると、今までの秩序がくずれるわけだ。順々に過去にさかのぼって
いたのに、今は過去に行ったり、現在に来たり、自由自在に行き来でき
るようになったわけだ」
 それは、昨日から今日にかけて滝田がずっと自問自答してきたことだ
った。だが、答が出ない。美智子なら、何か目新しいことを考えついて
くれるかもしれない。
「それは違います。倉田さんがどうして、順々に過去にさかのぼったっ
て言えるんでしょう。エジプト人よりもインド人の方が過去かもしれま
せんよ。そもそも、倉田さんが前世の記憶をたどって過去に行ったって
いう先生の考えにも、私は賛成できません」
「なるほど。前世案ははずれというわけだ。それじゃ常盤君は、どうし
て倉田さんが自由にいろんな時代に行けるようになったと思うんだい?」
「そんなの分かるわけがありません。今回の現象は分からないことだら
けなんです。現代医学では考えられない睡眠障害も、倉田さんが御見葉
蔵氏にとりつかれたようになったのも、古代エジプトもモニターが割ら
れたのも、すべて人間の理解を超えているんです。私達がちょっとやそ
っと考えたくらいで、分かるわけがありません」
 やれやれ、いつものように非難するだけか。滝田はがっかりした。
 保守的だと滝田は思う。神のみぞ知る。全ては人間に分かるわけのな
いこと、では科学など発展するわけがない。不可知な事象を必死に分か
ろうと努力してきたからこそ、今の科学があるのだ。
 意外にも新しい考えを提示したのは藤崎青年だった。
「ひょっとして、古代エジプトにタイムマシンがあったりして」
 青年は照れて笑った。
「どういうこと?」
 滝田は青年に向かって顔を突き出した。
「あ、いえ、先生の前世案が正しいとして、古代エジプト人となった倉
田さんは、古代エジプトでタイムマシンを見つけたんです。あくまで仮
定ですよ。それで現在にも現れるようになった……なんて」
「馬鹿げてるわ」美智子の顔にありありと軽蔑の色が浮かんだ。「そのタ
イムマシンは誰が作ったの? まさか宇宙人が持ってきた、なんて言わ
ないでしょうね」
「いや、すみません。僕は真面目に言ったつもりじゃ……」
「倉田さんはどうしてギザやサッカラなんていう、古代エジプトでは重
要な場所にいるんだろうね」と、滝田は言った。「宇宙人だか未来人だか
知らないが、彼らはタイムマシンで古代エジプトに行った。そして、ギ
ザかサッカラのピラミッドのどれかにタイムマシンを隠した。それを見
つけた古代エジプト人は、自由に時を越えることができるのを知ったん
だ。古代人は恐れおののき、以来ギザ、サッカラの辺りは聖地になった。
倉田氏はたまたまそのタイムマシンを見つけ、現代にも来れるようにな
った。そんな可能性が、百パーセント絶対にないとは、言いきれないと
思うがね」
「よくもまあ次から次へと、変なことを考えつきますね」
 美智子の眉がつり上がる。
「ピラミッドは必ずしも、王のお墓だったとは限らないそうじゃないか。
常盤君から借りた本に書いてあったんだけど」滝田は口をへの字に曲げ
た。「ギザの第一ピラミッドには、他のピラミッドと違って玄室が地下で
はなく、地上五十メートルくらいの所にあるそうじゃないか。案外そこ
が、実はタイムマシンだったりしてね」
「馬鹿馬鹿しい。知りませんわ」
 美智子はそっぽを向いた。
 だが残念ながら、青年のタイムマシン案は却下になりそうだ。それだ
と、現代に現れた時の痩せ細った手が説明できない。その時には倉田氏
自身になっているのだ。謎の古代エジプト人がタイムマシンを見つけた
のなら、夢見装置に映る手も褐色でなければならない。
「僕の考えを言おうか。藤崎君の考えと似たようなもんだから、怒らな
いでくれよ。倉田さんは記憶をたどって前世にさかのぼったが、古代エ
ジプトくらいに昔になると、記憶もかなりあいまいだ。だから完全に古
代エジプト人になりきれずに、時々倉田氏自身に戻ってしまうんだ。こ
れだと謎の古代エジプト人が、自分は誰で、どこの人間かも分からない
ことも説明がつく」
「御見さんは実在の人間なのに、まるでエジプト人は倉田さんの夢が作
り出した架空の人物のような言い方ですね」
 そうかもしれない。エジプト人の方は実際に存在したその人とは違う
偽者なのかもしれない。待てよ? すると倉田氏が死ぬとエジプト人も
消えてなくなるのか?
「あともう二つ、今回の夢には謎があるんだ。一つは、謎の古代エジプ
ト人の時には周りの人間には彼が見えていたのに、倉田氏の時には奥さ
んからは彼が見えていなかったことだ」
「幽霊じゃないんですか? ほら、幽霊だと姿が見えるのと、見えない
のがいるじゃないですか」
 美智子は皮肉で言ったのだろうが、滝田はさも感心したような顔をし
てみせた。
「なるほど。夢の中の倉田氏は、言ってみれば幽霊みたいな存在だ。自
由に姿を現したり、消したりできる能力があるのかもしれないね」
 美智子のかわいらしいくちびるがゆがんだ。
「もう一つは、『人の夢をのぞくな』という文句だよ。倉田さんは、夢見
装置で我々が彼の夢をのぞき見していることを知っている」
「そうよ。倉田さんは怒っているんだわ。だって、これはプライバシー
の侵害ですもの。モニターを壊したのも、そのせいだわ」
「どうしよう。倉田さんを怒らせてしまった」
 滝田は狼狽した。滝田の心中を察したかのように、美智子が言う。
「彼、今度現れたら、夢見装置を壊してしまうかもしれませんよ。モニ
ターだけでなく、全部」
「大変だ。なんとかなだめないと」
「古代エジプト人やインド人はなだめなくていいんですか?」と藤崎青
年が聞く。
「三人は別人だろう。共通の認識を持っているわけじゃない。エジプト
人はモニターが壊されたことを知らなかったようじゃないか」
 青年は腑に落ちない顔をしている。確かに、別の人物とは言っても一
つの脳で起こっていることだ。
「どうやってなだめます? 夢見装置は彼の視覚情報を得る能力しかあ
りませんわ。彼が何て言ってるのか聞くこともできない。こちらの話を
聞いてもらうこともできない」
「できないことはないさ。彼が彼自身としてレム睡眠行動障害の状態に
なった時がチャンスだ」
「今のところ、御見氏や、インド人や、古代エジプト人の時にはあった
けど、彼自身としてレム睡眠行動障害の状態になったことはないんです
よ」
「入院前にはあったよ。しかし、眠ったままでも話せる方法がある。あ
れだよ」
 滝田は研究室の隅の電話を指差した。
「あれに張り紙をしておくのさ。『どうかこの電話をとって下さい』って
ね。で、携帯でかけて話す」
 なかなかいいアイデアだと思ったのだが、美智子は納得していないよ
うだ。
「だったら電話なんかいらないんじゃありません? 電話で彼の声が聞
こえるのなら、この場で倉田さんがしゃべれば、みんなに聞こえるんじ
ゃありません?」
 姿は現さないのに声だけ発するというのはなんだか変だ。
「この場と言っても、夢の中のこの部屋だよ。現実世界とつながってい
ない。倉田さんが夢の中でしゃべっても、それを聞くことができるわけ
がない」
「それじゃあ、電話だとどうして話せるんですか」
「倉田さんが夢の中の現象を、現実の事象として実現できるからさ。彼
が夢の中の電話で話すと、実物の電話機にもその声が伝わると考えられ
ないかね?」
 また、こじつけだわと怒られるかと思ったが、美智子はあきれたのか
反論しなかった。
「あともう一つ、謎がありますわ」
「なんだい?」
「倉田さんが日本語で話すことです。どうして古代エジプト語や、イン
ド語じゃないのかしら」
「夢の中のエジプト人は古代エジプト語でしゃべった。しかし僕達が声
を聞いたのは倉田さんの口からだ。英語は少しくらい習ってるだろうが、
たぶん日本語しか知らないと思うよ」
 美智子はうなずいたが、納得していないことは明らかだ。
「では、こちらの言葉がエジプト人に伝わるのはなぜなんですか?」
「うーん」これは難しい。「倉田さんはイタコのような状態になってるん
じゃないか? 昔ある番組でアメリカの女優さんの口寄せを行った時、
彼女の霊は下北弁で会話に応じたというのを聞いたことがあるよ」
 美智子は苦虫を噛み潰したような顔をした。全て滝田の仮説にすぎな
い。
 滝田は思いついて付け足した。
「張り紙だが、ここの電話番号も書いておいた方がいいな。倉田さんか
らかけてくる場合もあり得る」




#545/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。




#546/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:01  (163)
眠れ、そして夢見よ 5−3   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:58 修正 第2版
   八

「先生、来てください!」
 所長室の扉が勢いよく開き、美智子が真っ青な顔をして飛び込んでき
た。
「ん? どうしたの? まさか倉田さんが夢を見て、研究室に現れたな
んて言わないだろうね」
「その通りなんです!」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子はすでに振り向いて走り出してい
た。
「手は? 足は? どんな色だった?」
 美智子を追いかけて廊下を走りながら尋ねる。
「まだ手も足も映っていませんが、倉田さんに違いありません」
「倉田さんは起きてるの? 寝てるの?」
「寝てます」
 美智子に続いて部屋に飛び込む。彼女が道をあけたので、そのままモ
ニターの前まで走った。
 そして、その映像を見た時、背筋を氷でなでられるような感覚を味わ
った。
「ほら、いるでしょ。私達」
 美智子は凍りついた声で言った。
 倉田氏が室内を見回している。その中に、棒のように突っ立ってモニ
ターを見つめている滝田と美智子の姿があった。ということは、姿は見
えないものの、彼は現在この研究室の中にいるのだ。画面から推測する
と、彼は入り口の近くにいるようだ。
 倉田氏は眼球運動をとらえるモニターの前に移動した。白い十字マー
クが右に行ったり左に行ったりしている。
 滝田は体をねじった。実物の眼球運動監視用モニターの十字も、同じ
ように動いている。
「倉田さん、そこにいるんですか」
 無駄だと知りながら彼が立っているであろう方向に問いかける。彼は
何の反応も示さない。
 滝田はマイクのスイッチをいれた。
「倉田さん、聞こえますか」
 これまた、無駄なことだった。枕元で倉田氏に呼びかけるなんていう
試みは、何度もやってみた。
 倉田氏は十字マークを眼で追うことに飽きたらしい。視線がそのモニ
ターから離れ、再び室内をただよいだす。
 夢見用ディスプレイの側面で止まる。そのまま注視している。この間
のより小さくなったな、とでも思っているのだろうか。映像がゆっくり
と移動していく。モニターの前で立ち止まった。倉田氏と滝田が重なっ
た。恐ろしさのあまり思わず滝田は飛びのいた。
 この間と同じようにモニターの中にモニターが延々と並ぶ異常な画面
が映し出された。だが今度は、そのディスプレイの列が静かに左に動い
た。まるで奥に行くほどすぼまっている四角錐があって、その頂点をつ
まんで動かしているかのようだ。倉田氏が視線を右に動かせば、当然モ
ニター達は左に動いていく。そして今度は右に動いた。さらに上に、下
にと、倉田氏はこの奇妙な映像を楽しんでいるようだ。
 やがてそれにも飽きたらしく、見る方向が変わり始めた。ゆっくりと
回転していく。斜め後ろから画面を見ている美智子の姿を映した。
「やだ、こっちに来るわ」
「落ちついて。下手に彼を刺激しないように」
 美智子の顔がアップになった。目と鼻の先に、倉田氏がいるはずなの
だ。モニターの中の彼女の顔がわずかにふるえだし、額に一滴の冷や汗
が流れた。
 さらに彼女に近づいていく。どうするつもりだろう。キスでもするの
だろうか。
 美智子は毅然として腕を組んだまま立っていたが、ついに耐え切れな
くなったらしく、横に飛びのいた。
「きゃっ」
 配線に足をひっかけて転んだ。床にくずれた彼女を映す映像が小刻み
に、上下にゆれた。倉田氏は彼女をせせら笑っているのだ。
 反転し、画面を見つめる滝田を映した。滝田の体中に緊張が走り、石
のように硬くなった。映像が滝田に近づいてくるにつれて、滝田の額に
も冷や汗が流れた。
 もう滝田のすぐそばだ。滝田は彼の方に向き直った。硬い笑みを浮か
べ、左手で拳を作って耳の下にあてがった。右手の人さし指を空中につ
き出し、いくつかのボタンを押す仕草をした。そして部屋のすみにある
電話を手の平で示した。画面が素直にそっちの方に動いていく。
 ライトグリーンの電話機に、「どうかこの電話をとって下さい」という
間の抜けた文句が書かれた紙が貼ってある。滝田はすかさず携帯を胸ポ
ケットから取り出し、かけた。呼び出し音が鳴る。モニターの中で、倉
田氏の青白い腕が伸びて受話器をとった。実物の電話機の受話器が宙に
浮いているのを見て、滝田の全身に鳥肌が立った。
 おそるおそる、声をかける。
「倉田さん、聞こえますか」
「……」
 返事がない。滝田は自分ののどが鳴るのを聞いた。もう一度呼びかける。
「倉田さん、聞こえたら返事をしてください」
「そんなに私と話したいですか?」
 それは明らかに古代エジプト人の声音とは違う、倉田恭介氏本人の声
だった。そのやや低い音声が耳に入った途端、滝田は背中に何百匹もの
ミミズが這い回るような感触を味わった。
「あまり時間がありません。単刀直入に言います。私達は倉田さんの夢
をのぞき見していました。申し訳ありません」
「知っていましたよ」
 ああ、やはり。気まずい感情が滝田の中に流れた。
「私は頻繁にここに来ています。先生方の会話も聞いています。それで、
私の夢をのぞき見しようとしていることを知りました」
 そうだったのか、と滝田は思う。かなりはっきりとした夢の場合にし
か、夢見装置でとらえることはできない。倉田氏はもっと多く夢を見て
いたのだ。
「すると、自分が古代エジプト人になっていることもご存知ですか」
「ええ。最初、誰の話かと思いましたよ。しかしどうやら私のことを言
っているらしい。私はどうも大変な状態になっているようですね」
「古代エジプト人の時の記憶は残っていませんか」
「はい。私にもそんな自覚はありません。正直言って、自分がエジプト
人になっているなんて、信じられないんですよ」
 倉田氏だ。今話しているのは、古代エジプト人とは完全に切り離され
た、倉田恭介氏本人なのだ。
「モニターを壊したのは、あなたですか」
「ええ。しかし私は、悪いことをしたとは思っていませんよ。これ以上、
私の夢をのぞくのはやめてくれませんか。もうそっとしておいて下さい」
 さて、困った。やはり倉田氏には病院に帰ってもらうのが最良の道な
のだろうか。本人がもう夢をのぞいてくれるなと言っているのだ。高梨
を説得することはできるだろう。しかし、あきらめがつかない。なんと
か調査を続けたい。それには理由が必要だ。
「しかし、病院の方ではあなたの病気はまったく原因不明で、それを解
明する鍵は夢だと言っています。私達もなんとかあなたを救いたいんで
す」
 しばらく、言葉はなかった。倉田氏は次に何を言おうか考えているよ
うだ。
「なぜ私を救うんです。私は夢の中でならなんでもできる。私が人間を
殺せばその人は本当に死ぬ。私は銀行の大金庫に現れることもできる。
私は、核ミサイルの施設に侵入し、核を発射することだってできる。そ
んな私を、どうして生かしておくんですか?」
 滝田は困った。そう言われてしまうと、倉田氏の存在は非常に危険で
あると言わざるを得ない。倉田氏が歴史を変えるととんでもないことに
なると考えたのは、滝田自身ではなかったか?
 一つの言い訳を思いついた。
「それは、あなたが大人だからです。子供は未熟だから、平気で殴り合
いのけんかをします。自分の思い通りにならないからといって泣きわめ
きます。大人は、理性によってそれを抑えています」我ながらくさいな、
と思う。「あなたのような特殊な能力を持っていない人でも、罪を犯すこ
とはできるでしょう。警察に捕まるような犯罪はできないが、石を投げ
て窓ガラスを割って逃げるくらいはできるでしょう。どうして大部分の
人はそれをしないんでしょうか? 人間には理性というものがあるから
です。何をしてはいけないかが、分かっているからです。人の迷惑にな
ることをしてはいけないという、自制心が働くからです。倉田さんは今
までいくらでも時間があったはずなのに、どうしてさっき言ったような
罪を犯さなかったんでしょうか? それは、倉田さんがそれをしてはい
けないと、分かっているからです」
 再び緊張に満ちた沈黙が続いた。倉田氏は、つぶやくような低い声で
言った。
「なるほど、分かりました。私も馬鹿ではないから、もしそんな真似を
して後でどうなるかは分かっています。もしも私の病気が治って、目が
覚めたら、そこには刑事が立っているかもしれませんね。約束しましょ
う。私は罪を犯しません。しかし、私の夢をのぞくのだけはやめてくれ
ませんか」
 どうやら夢見装置を破壊してしまうような事態は避けられそうだ。し
かし滝田は再び困った。なんとか調査が続けられるように持っていかな
ければならない。
「しかし、今のところ私達とあなたとをつなぐものは、この装置――夢
見装置と言うんですが、これしかありません。これをやめたらあなたと
のコンタクトが切れてしまいます。そうするとあなたを治してあげるこ
とができなくなってしまいます」
「いいんです。私はね、半分死んでいるようなもんですよ。私はまるで
幽体離脱したみたいに、自分で自分の痩せ細った体を見るたびに、つら
くてたまらなくなるんですよ。私が理性を保っていられる間はいい。し
かし正気を失った時、私は何をしでかすか分かりませんよ?」
「あなたはやけになっているんです。つらいのは分かります。しかし、
あきらめちゃだめです。病院と私達との必死の努力で、必ず助けてみせ
ます」
「いいでしょう。では勝手に夢をのぞいてください。私はもう、ここへ
は現れませんからね。電話もとりません」
 すごい音をたてて電話が切れた。
「先生、夢が終わりました」と美智子が言った。
 滝田は肩を落とした。意気消沈して美智子の方に歩いていく。
 夢を調べたからといって治療できるわけではないと言ったのは、滝田
ではなかったか? 高梨医師は単に名声を得たいがために、滝田達に調
査を依頼したのではなかったか?
「僕って、ひどいやつかな」
 滝田はつぶやいた。




#547/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:05  (242)
眠れ、そして夢見よ 6−1   時 貴斗
★内容
   ピラミッドとエジプト人


   一

「あら藤崎君、遊んでちゃだめよ」
 美智子は目を三角にして青年をにらみつけた。
「いや、ちょっとした気分転換に」
 青年はパズルの本を読んでいた。勤務中にさぼるなど、美智子にとっ
てはもっての他だ。
「常盤さんも少し休憩した方がいいですよ。ほら、これ分かります?」
 青年は開いたページを突き出した。
「なによ」
 そこにはマッチ棒で「1+1=」という図形が描かれていた。
 美智子は青年から本とボールペンを取り上げた。
「あっ!」
 ページのすみに数式を書きつける。
    1+1=10

「一足す一は十ですか?」
「その読み方は正しくないわね。読むとしたら一足す一はイチゼロかし
ら」
 青年は狐につままれたような顔をした。
「これは数字を二進数で表した場合。じゃあこれは?」
    1+1=1

「一足す一はイチ、でいいんでしょうか」
「この場合のプラスは論理和。読むとしたら一オア一は一かしら」
「あはは。常盤さん、数学の先生になれば良かったのに」
 美智子はちぎれんばかりに首をふった。
「いやよ。絶対にいや。私、子供がうるさいの、大っきらい」
「ああ」
 青年は口だけ半笑いで眉は八の字になっていた。
「要するに一とかプラスというのは数字や記号の定義でしかないのよ。
だから一足す一は三でもかまわないし、百でもいいのよ。プラスという
記号をそういうふうに定義すればいいんだわ」
「そんな。普通は一足す一は二じゃないですか?」
「いいえ。同じことよ。それも定義の一つだわ。数学というのは定義の
上に組み立てられた美しい論理なの」
「あの、それ、あくまでも常盤さんの考えですよね」
「そのパズルだってそうだわ。どうせマッチを二本動かして別の文字を
作るとか、そういうのなんでしょうけど、それだってそういう関数の定
義だわ」
「そうかなあ。普通は一足す一は二っていうのは、一つのりんごと一つ
のりんごを合わせると二つになるっていう、そういうことだと思うんだ
けどなあ。そういうふうに習いませんでした?」
 はたしてそうだろうか。美智子はその教え方には昔から疑問を持って
いた。それは物理現象を数学で記述したということであって、数学その
ものではないような気がする。
「じゃあ、二つのりんごと、三つのみかんを持ってきました。あわせて
いくつ?」
「え、五つじゃないんですか?」
「正解。それじゃあ、二つのりんごと、三本のボールペンを持ってきま
した。あわせていくつ?」
「それは……五個じゃないんですか?」
「それはおかしいわ。りんごとみかんの場合は、まだ同じ果物の範疇に
入るからいいけど、りんごとボールペンの場合は、あくまで二つのりん
ごと三本のボールペンにしかならないんじゃないかしら。やっぱり、数
学というのは関数とかそういうものの定義と、そこから導かれる論理な
のよ。一つのりんごと一つのりんごを合わせると二つになるっていう、
“例え”ではないわ」
「そうかなあ。現象を記述する方法として“一足す一は二”という表現
が生まれたという気もしますけど」
「そう? それじゃあね」
 さらに問題を出そうとする美智子の目のすみに、何かちらつく光が映
った。
 美智子はモニターの方に顔を向けた。
「先生は?」
「えっ? 先生? 先生の定義ですか」
「先生は所長室にいるの? 早く呼んできて!」


   二

 滝田が駆け込んだ時、ちょうど砂嵐がおさまるところだった。ぼんや
りとした映像がだんだんとはっきりとしてくる。一つ一つの物体の輪郭
線が、明瞭になってくる。
「倉田氏かな? それとも古代エジプト人か?」
 青空をバックに、大きな三角形が浮かび上がってきた。いや、上の方
が欠けている。どちらかというと台形に近い。それはピラミッドだった。
上半身裸の男達が、その根元に群がっている。すると、古代エジプト人
の方だ。
「この間の続きだとすると、ヒッドフト王のピラミッドを造っていると
ころだわ」
「倉田さんは起きてる? 寝てる?」
「眠っています」
「起きてる?」というのも変な表現だな、と滝田は思う。レム睡眠行動
障害時も目は覚めていないのだから。
 真っ青な空には雲がわき立っていて、白熱した太陽が砂をこがしてい
る。
「かわいそうだなあ、あの奴隷達」と、青年がつぶやいた。
「あら、奴隷じゃないわ。彼らは庶民よ。報酬としてもらえるビールの
ために、自発的に働いているのよ」
 風景が動き始めた。謎のエジプト人は彼ら労働者達に近づいていく。
 労働者のうちの一人が、こちらに向かって手をふった。ちぢれた髪の、
口ひげをはやした男だ。若いのか、年寄りなのかよく分からない。痩せ
て肋骨が浮き出している。画面はその男に近づいていく。
「おや、顔見知りができたようだな」と滝田は言った。
 男が何か二言三言しゃべると、画面が大きく上下にゆれた。うなずい
たようだ。別の、太った男がロープを指差す。画面の両端から腕がのび
てひもを握る。
「倉田さんは労働者の仲間入りをしたようね」
 いったい何のために、と滝田は思う。ただ単にビールを飲みたいため
だろうか。それだけならいいのだが。
 エジプト人は顔を上げた。巨大な斜路が左の方からのびて、人々が石
をピラミッドの上部に運び上げている。
「このピラミッドは、結局はなくなってしまうんでしょうね」と、青年
が言った。
「そうだな。そうなってくれないと困る。残ると歴史が変わってしまう」
「先生はまだその考え方にこだわっているんですか」美智子が例によっ
てつっかかってきた。「これは単に夢の中の風景にすぎないんじゃないか
しら。実際に倉田さんがここにいるという証拠は、何もないんですよ。
これが実際のその場の景色だという根拠は、何もないんです」
 この間は倉田氏が古代エジプト人になっていることは確実だと言って
いたくせに、と滝田は思う。
「そうだな。倉田さんが何か痕跡でも残してくれればな。何世紀も後に
なって我々が見ても分かるような跡を残してくれれば、確かにここにい
たという証しが残るんだがな」
 だが、それは危険な考え方だった。下手をすると歴史が変わってしま
うかもしれない。しかし科学者の立場としては、ぜひ証拠を残してもら
いたい、という思いもある。
 大変な重労働を何万人もの人が何十年もかけて、一つのピラミッドを
造るのだ。当時のファラオの権力がいかに偉大なものであったかが分か
ろうというものだ。
 ロープを引っ張る腕を映しながら、画面が暗くなっていった。


   三

 所長室の扉がすごい勢いで開いて、美智子が駆け込んできた。
「先生、倉田さんが」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子を追いかけながら尋ねる。
「倉田さんの方か。エジプト人の方か」
「倉田さんです。しかも、研究室にいます」
 倉田氏か。そっちの方がよほど気になる。この間の夢ではやけくそに
なっているみたいだった。しかしどうした風の吹き回しだろう。もう研
究室には現れないと言っていたはずだが。
 部屋に飛び込むと、藤崎青年が青い顔をしてモニターの前に立ちすく
んでいた。
 青年を押しのけるようにして画面の前に割り込んだ。ディスプレイに
は倉田氏が映っていた。今までの夢と違う。これまでは倉田氏の視点で
見ていたはずだ。滝田は隣のベッドルームで眠っている彼の姿しか見た
ことがない。それが今は、百歳の老人のようなあの顔が、しっかりと眼
を開けて薄笑いを浮かべているのだった。彼は細長い紙を手に持って、
こちらに突き出していた。その紙には墨で、「電話しろ」と大きくと書か
れていた。
「人の夢をのぞくな」と言った時に滝田の電話番号を知ったのだから、
彼の方からかけてくることもできるはずだが、覚えていないのだろう。
 携帯で部屋の電話にかける。倉田氏がすかさず夢の中の受話器を取る。
「もしもし」
 受話口の底から、怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「私の夢をのぞくなと言ったはずだ」
「いえ、倉田さん、この間説明したように……」
「あなた達は自分の頭の中をのぞかれて平気なのか!」
「いえ、あの、その」
 言葉がしどろもどろになる。いったい何と言い訳したらいいのだろう。
「倉田さん、これをやめたらあなたとの連絡方法がなくなってしまうん
ですよ」
「結構だ。早く私を病院に戻すべきだ」
 そんなことまで知っていたのか。
「とんでもありません。病院で治せなかったからこそ、ここに来てもら
ったんじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 薄笑いが、ぞっとするような冷たい笑みに変わった。
「あなた達は馬鹿者だ」いつの間に持ったのか、握りしめたとんかちを
滝田に突き出した。「大馬鹿者だ」
 金槌を振り上げた。次の瞬間、目の前が真っ白になった。耳をつんざ
く音が響いた。反射的に顔の前に持ってきた腕に、モニターの破片が襲
いかかってきた。
「先生、大変です。夢見装置が壊れました」
 美智子が金切り声で叫んだ。
 恐る恐る目を開けると、周りがやけに明るかった。なんだか様子が変
だ。
 滝田は呆然として辺りを眺め回した。砂の大地と真っ青な空が広がっ
ている。なんだ、ここは。一体どうしたというのだ。振り向いた滝田は
愕然とした。そこには巨大なピラミッドがそびえ立っていた。
 そんな馬鹿な。研究室はどこに消え失せたのだ。美智子は、青年はど
こに行ったのだ。
「まさか」滝田はつぶやく。「まさかそんなことが」
 ピラミッドに近づいていく。てっぺんの方がまだ完成していないそれ
は、明らかにヒッドフト王のピラミッドだった。
「あなたが声の主か」
 突然聞こえた声に驚いて振り返った。
「とうとうここまでたどり着いたか」
 そこに立っていたのは、褐色の肌に首飾りをつけ、腰布を巻いた男だ
った。
「そんな馬鹿な」
 顔に見覚えはないが、倉田氏の口から聞いたその野太い声から察する
に、謎の古代エジプト人だろう。
 画面に映る風景が割れて、粉々の断片となって飛び散った。そこに一
瞬だけ、真っ黒な空洞が口をあけ、そして真っ白になった。美智子が夢
見装置が壊れたと叫んだ。
 その時の衝撃で滝田が夢の中に引きずり込まれたとでもいうのか。ま
さか。馬鹿げている。
「どうした。顔が真っ青だぞ」
 だが他に考えようがなかった。それ以外にこの状況を説明する方法が
みつからない。絶望が頭の中に広がっていくのを感じた。
 ああ、なんということだ。倉田氏の眠りを観察し続けた結果が、これ
だというのか。この世界に出口はないのか。永遠に囚われ人となってし
まうのか。
 気がつくと、ひざまづき、砂をつかんでいた。
「悲しむことはない。さあ、立ちなさい」
 エジプト人に促されて、ふらふらと立ち上がった。
「こちらへ」
 そう言うと、彼は先に立って歩き始めた。ピラミッドに沿って歩いて
いく。
「どこに行くんですか」
「あなたが本当に見たかったものを見せてあげよう」
 いったい何の事だ? エジプト人は角を曲がった。滝田もついていく。
 地下への入り口にたどり着いた。
「この下だ」
 狭い階段を降りていく。滝田はなんだかひどく、嫌な予感がした。滝
田が本当に見たかったもの? その逆で、滝田が見たくなかったもので
はないか? そんな気がしてきた。
 ついに玄室へとたどりついた。燭台がうっすらと照らすそこは、いか
にも殺風景な場所だった。華やかな壁画や、副葬品といったものがある
わけでもなく、まるで地下牢のようだった。
「あれだ」
 部屋の中央に石棺がある。エジプト人は足早に歩み寄り、いかにも重
そうな石の蓋を、いとも簡単に横にずらした。重い音をたてて、蓋が地
面に落ちた。
「さあ、見なさい」
 のどが鳴った。恐る恐る近寄っていく。
「さあ」
 恐々とのぞきこむ。
 そこには男が横たわっていた。腰布だけを身につけたその人物の肌は
褐色ではなく、青白かった。彼の顔を見た瞬間血の気がひいた。
 それは、滝田の父親だった。父が、そこに納められていたのだ。眠っ
ているのか、死んでいるのか分からない。
「あなたはこれを見たかったのだろう? あなたはこれを、知りたかっ
たのだろう?」
 エジプト人の声が部屋に反響する。
「嫌だ。嫌だ! 私はこんなものを見たくない」
「見るがいい」
 横たわった父の目が、いきなり開いた。
「健三……宿題を……」父の口が震える。「高梨医師に……報告を……」

「嫌だ!」
 滝田はふとんをはねのけた。慌ててあたりを見まわす。外の街灯の明
かりが、カーテンを通してうっすらと差し込んでくる。自分の寝室だ。
胸に手を当てると早鐘をうっていた。
 また悪夢を見てしまった。




#548/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:10  (240)
眠れ、そして夢見よ 6−2   時 貴斗
★内容
   四

 これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催
眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御
見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思わ
れます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全
です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。

 パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィン
ドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだい
たい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書
き足してある。
「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックす
れば、この報告が高梨医師に送付される。
 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿
題だとも言える。
 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせ
たまま、もうかれこれ二十分がたつ。
 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ
合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。
吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線
香のような煙が立ち昇っている。
 突然大きな音をたててドアが開かれた。
「先生、大変です」
「あっ」
 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんというこ
とだろう。本当にこれで良かったのか。
 眉をひそめて青年を見る。
「どうした」
「倉田さんが大変なんです」
 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。
「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」
「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」
 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててつい
ていく。
 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。
倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか?
 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を
見た滝田は口を丸く開いた。
 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土
気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけにな
ってしまった。
「病院に連絡した方がいいでしょうか」
「そうしてくれ」
 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこん
だ。
「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」
 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったよう
に思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分
かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話
すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態に
なっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでい
て、結局何も分かっていないのだ。
 青年が戻ってきた。
「一時間ほどで来るそうです」
 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を
見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際
に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らな
いのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代
エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の
方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているの
ではないだろうか。
 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。
「失礼します」
 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴
診器をあてた。
 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。
「心臓がだいぶ弱っているようです」
 医師はつぶやいた。
「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」
 滝田はかぼそく言った。
「なんとも言えません」
「病院に戻さなくていいんですか」
「患者の夢については、何か分かりましたか?」
 医師は落ち着き払った声で言った。
「なんですって?」
「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですか
ら」
「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しま
した。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」
 怒気を含んだ声で聞く。
「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告
して検討します」


   五

 ひどいと思った。夢の謎が分かるまで、病院に戻さないつもりなのだ
ろうか。滝田は一日中憤りがおさまらなかった。
 その夜、倉田氏がまた夢を見た。
 砂嵐が消えると、またあのピラミッドが映った。太陽が地平線の近く
にある。すると夕方だろうか。その日の作業は終わったのか、人っ子一
人いない。
「先生、レム睡眠行動障害です」
 青年が叫んだ。
「えっ」
 滝田よりも一足早く、美智子が窓辺へ駆け寄った。三人並んで下を見
る。倉田氏が立ち上がっていた。
「僕行ってきます」青年がドアへと走る。「点滴を抜かないと」
「私も行くわ」
 駆け出そうとする美智子の腕を滝田はつかんだ。
「残っててくれ。残って、僕に知恵を貸してくれ」
 滝田はマイクを握り締め、スイッチを入れた。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 振り向いてモニターを見ると、雲が右に行ったり左に行ったりしてい
る。倉田氏が真上を向いて滝田を探しているのだろう。スピーカーが部
屋の上部にあるので、音声が頭上から出ていることは分かったようだ。
「またあなたか。声だけ聞こえて姿は見えない。いったい何者なんだね」
「私は研究者です。信じられないかもしれませんが」滝田は舌で上くち
びるを湿した。「あなたは今私の研究所にいます。あなたは倉田さんとい
う患者の夢の中にいて、今私は倉田さんに向かって話しかけています」
「先生、もっと筋道立てて話さないと分かりませんよ」
 美智子がささやいた。
「何をわけのわからないことを。私はここにこうしている。あなたの言
い方を聞いていると、私がそのクラタという人物の夢の中にいて、実在
している者ではないかのようだ」
「いや、あなたは存在しているのです。今あなたがしゃべっているのと
同じことを、倉田さんもしゃべっているんです。今あなたがしているの
と同じ動作を、倉田さんもしているんです。倉田さんの耳に聞こえてい
ることを、あなたも聞いているんです」
「つまり、そのクラタという人物を介して、あなたは私と話し合ってい
ると、そう言いたいわけだな?」
「そうです。良かった。あなたは頭がいい方のようだ」
「ほめられてもあまりうれしくないぞ。私に何の用だ」
「倉田さん、でいいのかな」
 スピーカーから青年の言葉が伝わってきた。
「またすぐそばから声が聞こえたぞ」
「その男も私の仲間です」
 マイクを握る手に力が入る。
「お前も研究者か」
「え? ええ。よく分かりましたね」
「何の用だ」
「点滴を抜きにきました」
「テンテキ? それは何だ」
「それは、つまり、今あなたが腕からぶら下げている……」
「何もぶら下げていないではないか」
「藤崎君、いいから抜きなさい」と滝田は命令した。
「これが刺さったまま歩き回ると危ないんです。つまり、その、ごめん
なさい!」
 倉田氏の口から「痛いっ」という声が漏れる。
「なにをするのだ。何の魔法をかけたのだ」
「あなたの腕に見えない蛇がかみついていたのです。彼はそれを取り去
ったのです」と滝田は言った。
 美智子が顔をしかめて首をふる。
「テンテキだの蛇だの、何を言っているのだ。言っておくが私は夢の中
にいるということを信じたわけではないぞ」
「いや、夢の中にはいないのです。あなたはそこに実在するのです。つ
まり、何と言ったらいいのかな」
 滝田は困った。本当に何と言っていいのか分からなかった。
「私達は冥府の国、アアルにいるんです」
 美智子が口をはさんだ。
 おいおい、そんなことを言っていいのかと、滝田は思う。蛇がどうし
たなどと言わなければよかった。
「おや、この間の女性だな? するとあなた達はオシリスの使いだとで
も言うのかな?」
「そうじゃないですけど、似たようなものだわ。倉田さんという、夢を
使って遠く離れた場所の人と交信する能力を持った魔法使いを通して、
あなたと話しているのよ」
「研究所というのも、アアルにあるのかな? 何の研究をしているのだ」
 彼は頭がいい。とてもごまかしきれないぞと、滝田は思う。しかし全
てを正直に説明するには、時間がなさすぎる。こうしている間にも夢が
終わってしまうかもしれないのだ。
「まあいい。あなた達が何者であるにしろ、私と話をしたいのだったら、
つき合ってやろう」
 よかった。滝田はほっとした。


   六

「あなたはなぜペルエムウス造りに協力しているんですか」
 滝田はマイクに向かって言った。
「私は自分の名前も知らない。自分が何者かも分からない。どうやらこ
れは治りそうもない。だからせめて、私がここに存在したという痕跡を
残したいのだ」
 みぞおちに冷たいものが流れた。
「いいものを見せてやろう」
 ピラミッドに沿って歩いていく。さっきまで遠くから眺めていたのに、
また瞬間移動したのだろうか。
「おや、こんな所に見えない障壁がある」
「部屋の壁につきあたりました」
 スピーカーから青年の緊張した声が聞こえる。
 しばらく止まっていたが、なぜか景色が再び動き出した。
「倉田さんが足踏みを始めました」
 なるほど。倉田氏は狭い室内で広大な大地を歩く方法を学んだようだ。
 名無しのエジプト人は角を曲がった。そしてまた積まれた石に沿って
歩いていく。
 風景が上を向いた。少し上がったところに、小さな入り口が開いてい
る。彼は自分の身長の半分程もある石をよじのぼっていく。
「この下に玄室がある。案内しよう」
 地下への階段を降りていく。だんだん日の光が差し込まなくなってい
く。
「暗くてよく見えないな」
 彼の腕が前方に伸びた。次の瞬間、その手にはたいまつが握られてい
た。まるで手品のように。
「これでスパナの謎も解明されたな」
 滝田はあごをなでた。
「モニターを壊した時のことですか?」と美智子が問う。
「そうだ。この部屋にスパナなんかない」
 階段を降りきると、平らな通路になっていた。しばらく行くと広めの
部屋に出た。壁に据え付けられた数本のたいまつに火を移していく。
 画面が一瞬暗くなった。いけない。夢が終わる。
「見たまえ、これを」
 石で囲まれた部屋には、王の前で書記が何か記録をとっているといっ
たような、簡単な壁画が描かれている。床には数体の人形のような像が
無造作にころがっている。
「これが王の墓か? なんというみすぼらしさだ。私はここにささやか
な彩りを加えたいのだ」
「どうするつもりです?」
「あなた達がスフィンクスと呼んでいるもの、あれは大変見事だな」
 嫌な予感がする。
「私はあの像から一部を取り、この玄室に添えたいのだ」
「やめて下さい。そんなこと」
 滝田は悲鳴をあげるように言った。
「なぜだ。素晴らしい考えだと思わないかね。あの偉大な巨像の威光を
借り、この粗末な玄室を輝かせるのだ」
「そんなことをして何になるんです。何が輝くんです」
「スフィンクスの頭部の奥、中心部から石の一片をとり、この壁のどこ
かに埋め込むのだ。私にできることといったらその程度のことだ」
「どうやって取り出すんです。スフィンクスの頭を壊すんですか。あな
た一人で」
「石切り場から切り出すのと同じ要領でやればよい。表面に溝をほり、
くさびを何本も打ち込むのだ。できないことはなかろう。労働者仲間に
話したら、賛同してくれる者が五人もいた」
「やめてください。歴史が変わってしまう」
 血の気が引いた。
「なんのことだ。私には分からないが」
 いっそ「私達は未来人です」と言おうかと考えたが、思いとどまった。
「先生、たぶん大丈夫です」美智子がささやく。「あんな大きな頭部の中
心まで掘り進むなんて、できっこありません。せいぜい頭頂部を壊すの
が関の山でしょう。その時点で彼は捕まります。それに、スフィンクス
は何度も修復作業が行われています」
「そのせいで何人もの人間が処刑されてもいいのか」
 画面が二度瞬いた。
「私は自分がどこの誰かも分からない。私は確かにこの世界に存在した
という証しがほしいのだ。私の決心は……変わら……ない……」
 スピーカーから重い音がするのと、画面が消えるのとが、ほぼ同時だ
った。窓に駆け寄り下を見ると、前にレム睡眠行動障害になった時と同
様、倉田氏は倒れていた。
「もしも彼が死んだら」滝田は独り言のようにつぶやいた。「エジプト人
も消えてなくなるかもしれない」




#549/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:16  (237)
眠れ、そして夢見よ 7−1   時 貴斗
★内容
   スフィンクスの頭


   一

 滝田は立ったまま、長い呼吸を繰り返す倉田氏の顔を見つめていた。
どうしていいか迷うばかりで、何もできない自分がはがゆかった。名無
しのエジプト人が歴史を変えようとしていることも、倉田氏の病状が悪
化していくことも、自分にはどうしようもない。
「先生、来て下さい」
 スピーカーユニットから青年の声が伝わってくる。
「どうした」
「倉田さんが夢の中に現れました。先生を呼んでいます」
 倉田氏の顔を見る。心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 階段を駆け上がりながら妙なことに気がついた。「先生を呼んでいます」
だって? 自分のほほをつねってみる。痛みは感じるようだ。また夢だ
ったらたまらない。
「僕を呼んだって? どうやって」
 ドアを開けるなりかみつくように言った。
「電話で話してるんですよ」
 滝田は受話器を握っている青年に足早に歩み寄っていった。振り向い
てモニターを見ると、どこだか分からないが、夕暮れ時の屋外が映って
いた。すべり台がある。すると公園だ。正面にはうさぎの頭の形をした
石像と、ライオンの頭の形をした石像が並んでいる。人が座れそうなく
らいの大きさだ。
 腕時計を見る。五時十七分。するとおそらく過去でも未来でもなく現
在だ。
 映像は下を向いて、パジャマ姿の胸から下を映した。ベンチにこしか
けている。ひざの上の四角く平べったい電話機から、螺旋状のコードが
のび、画面の左端で消えている。
 そうか。あれでこの研究室に電話をかけたのか。
 滝田はおかしな点に気づいた。普通は本体からモジュラーケーブルが
出ているはずだが、それがどこにも見当たらない。
「常盤君は?」
「仮眠室で寝ています。何でも昨日一睡もできなかったんだとか」
 まったく。何をやってるんだ、こんな時に。青年から受話器をひった
くる。
「今晩は、滝田さん」
 やや低い倉田氏の声は、それでも、この間聞いたのと比べていくぶん
穏やかな感じがした。
「倉田さん、どうしたんですか。この間の様子からすると、もうお話し
できないのかと思いましたよ」
「私は、自分の意思で好きなように夢を見られるわけではありません。
今日はたまたま私自身として現れることができただけですよ」
「それでも私はうれしい。倉田さんの方から私に連絡をとってくれるな
んて」
「たぶん、お別れを言いたかったんだと思います」
 倉田氏は意外なことを言った。
「私は、最近は目覚める回数が少なくなっているように感じます。たぶ
んそれ以外の時間は、古代エジプト人になっているんだと思います」
「倉田さんは、自分がエジプト人になっていることを感じるんですか」
 少しの間、沈黙があった。
「いいえ。いや、はいかな。時々ピラミッドの姿が見えることがありま
す」
 実に驚くべき告白だった。倉田氏であるのに古代エジプト人としての
風景が見えるのだろうか。
「どんなふうに見えますか。そのピラミッドは、てっぺんの方が欠けて
いませんか」
「ピラミッドとは何だ」
 急に声質が変わった。滝田は目を、飛び出さんばかりにひんむいた。
 すべり台と動物の頭の像が半透明になって、それと重なって青空とピ
ラミッドが映っていた。
 どういうことだ。倉田氏の意識と古代エジプト人の意識が入り混じっ
ているのか?
「ペルエムウスのことです。というより、あなたは誰です」
「何度も言うようだが私は自分が誰なのかを知らない。あなた達が私を
クラタと呼びたいのならそう呼べばいいだろう」
 頭が混乱する。しかし、いいチャンスだ。この間言いそびれたことを
言うのだ。
「スフィンクスの頭を壊すなんて、そんなことはやめて下さい。あなた
は世界的な遺産を破壊しようとしているんですよ。それであなたは平気
なんですか」
「なるほど、彼はスフィンクスの頭を破壊しようとしているんですね」
 声が元に戻った。画面も公園の風景に戻っていた。
「私はたぶん、どんどん古代エジプト人になっていくんだと思います」
 画面が点滅した。
「もう倉田恭介になることもないでしょう」
 画面がフェード・アウトしていった。最後に小さく、「さようなら」と
言ったように聞こえた。
 滝田は放心していた。青年も、滝田も、何も言わなかった。しばらく
して滝田は口を開く。
「どこだろうね、今の場所」
「さあ、どこかの公園みたいでしたが」
 青年の目と口が、急に丸くなった。
「あ、この場所、僕知ってます」
 青年が駆け出したので、滝田も走った。階段を駆け下りていく。玄関
から飛び出した。太陽は沈みかけ、夜が訪れようとしていた。
「おい、どこに行くんだ」
「こっちです」
 通りをしばらく走った。右に折れて、細い道に入ると、両側に植込み
が並んでいた。少し行くと、植込みが切れて小さな公園があった。
「この間、常盤さんとここに来て話したんです」
「え? 君達そんな関係だったの?」
「違いますよ」
 青年が歩いていく先にベンチがあった。滝田が長椅子の上に手をおく
と、今まで誰かが座っていたかのような温もりがあった。


   二

 倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医
師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。
「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」
 滝田が何度聞いても返事は同じだった。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。
 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。
 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに
座ってふきとっていた。
 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いた
ら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪
に加担しているような気がしていた。
 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋
な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予
想できただろう。
 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝
田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代
エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。
もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その
時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは
絶対にできない。
 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。
きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだ
ろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。
影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だ
と思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。
 その程度で済めばいいが。
 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そ
のせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝
田ではなかったか。
 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あ
るいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれな
い。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕
生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。
そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世
の中になる可能性だってあるのだ。
 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせ
るのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動
障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それ
をただ指をくわえて見ているだけなのだ。
 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、
そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をした
のと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のや
ろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。
もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があ
るだろうが。
 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間
的に隔たってしまっている。
 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はと
ぎれた。
 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。
苦しそうに首を右に、左にねじる。
「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」
 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。
「大変だ。医者達を呼び戻さないと」


   三

 遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。
今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。
それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。
 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。
「先生、来て下さい」
 現れたのは青年だ。
「どうした、まさか」
「倉田さんが夢を見ています」
 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦
皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。
「先生、早く」
 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかけ
る。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。
 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。
「どっちだ」
「エジプト人の方です」
 モニターの前の美智子が返事をした。
 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスが
そびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっき
まで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害
の状態にはなっていない。
「だめだ。歴史が変わるぞ」
 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また
瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口
ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太っ
た男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、
テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされ
ただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆ
れた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の
口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復し
た。
 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向く
と高梨が立っていた。
「いや、お久しぶりです」
 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。
「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」
 怒りをおさえて言う。
「大丈夫です。もうやってます」
 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。
「医者と看護師が来ています」
「今、夢を見ているところですか」
 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。
「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。
「どんな状況ですか」
 いたって明るい調子で聞く。
「私のメールを読んでくれましたか」
 滝田はモニターを見つめたまま言った。
「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」
 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。
「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところで
すよ」
 滝田は怒鳴った。
 高梨は呆気にとられた顔をした。
「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」
 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。
「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。
「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィン
クスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田
は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」
 高梨は少し動揺したようだ。
「なんとか、やめさせることはできないんですか」
「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」
 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククラ
イミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映
した。壁面が下がっていく。
 頼む。やめてくれ。
「あんな大きな像を登れるのか?」
「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を
披露する。
 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。
「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でク
リアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思
っている以上に身体能力が高いのかもしれません」
 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。
「倉田さんの状態はどうですか」
「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。
「藤崎君」
「行ってきます」




#550/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:20  (250)
眠れ、そして夢見よ 7−2   時 貴斗
★内容
   四

 だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろ
うか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首
の後ろに歩いていく。
 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そして
ついに頭頂部にたどり着いた。
 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。
 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。
「大変です。心臓が止まりそうです」
 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を
近づける。
「強心剤を打ってくれ」
「打っちゃだめだ」
 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。
「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」
 美智子は声を荒げた。
「歴史が変わってもいいのか!」
 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに
涙がつたうのを感じた。
 高梨が下の医師に指示する。
「待ってくれ。打たないでくれ」
「そんな。手遅れになってしまいますよ」
 下の医者が困惑した声を出した。
「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」
 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当
てられる。
「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷
ついたくらい、どうだっていうんですか」
 美智子が哀願した。
「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」
 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってく
れるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。
しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。
 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのよう
に、静かだった。
 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。
「どうした」
「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と
藤崎青年が答えた。
 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。
「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」
 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。
 画面に空が映る。
「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」
「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」
「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」
 くそっ。だめか。
「倉田さんが死にそうなんです」
 とにかく思いついたことを言った。
「それが私と何の関係があるのだ」
「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」
「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」
「ではあなたには今までの記憶がありますか?」
「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」
「それが何よりの証拠です」
 エジプト人は黙ったまま返事をしない。
 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえている
のは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。
「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」
「私にはどうでもいい」
「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」
「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」
 だめか。何かやめさせる方法はないのか。
「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。
「その腕を捕まえろ」
 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。
「捕まえました」
 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。
ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。
「ああ!」
 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやっ
て。
「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。
残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも
美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。
彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心
の臓は怪物に食われるでしょう」
「私にどうしろと言うのだ」
 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。も
う時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女
の意図を悟った滝田が代わって話す。
「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが
仕方がない。「アアルで会いましょう」
 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。
 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成
り行きに任せるしかなかった。
 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。
 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。
「うう!」
 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。
 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしてい
る仲間の姿が映っている。
「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」
「倉田さんが倒れました」
 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。
「強心剤を打て」
 高梨医師が怒鳴った。


   五

 滝田は倉田氏の病室に入っていった。前に会った倉田恭介の妻、倉田
芳子とその二人の息子がいた。といっても兄の方は夢の中で見ただけだ
が。
「まあまあ先生、御無沙汰しております」
「どうも、今日は」
「主人の診察ですか?」
「いえ、その後どうしているかと思いまして、ご様子を拝見させていた
だくために来ました」
「お父さん、こちら滝田、ええとなんとか病院の」
「滝田国際睡眠障害専門病院の滝田です」
 滝田は倉田氏を見て驚いた。この中肉中背のおっさんが、あのミイラ
のような倉田氏と同一人物とは思えない。
「倉田さん、今日は」
「ああ、今日は」
 ぼんやりしたやや低い声が発せられる。
「私が誰だか分かりますか?」
「いいえ。でも、滝田先生ですよね」
 その目はまるで滝田の後ろにある何かを見つめているようだった。
「では、私の声を覚えていますか?」
「いいえ」
「私は倉田さんの睡眠障害について検査をしていました。その時に見た
夢は覚えていますか?」
「いいえ」
 だとすると聞くことは何もない。滝田は安心した。
「お父さん、先生のおかげで目が覚めたのよ。体が治ったのよ」
「いえ、治療をしたのはこちらの病院ですから」
 そうだ。滝田は結局何もしていない。
「先生、それでね、主人の会社、なんとか持ち直しそうなんですよ。こ
れでミケにもご飯を食べさせられます。あ、ミケというのは野良猫でし
てね。いやあ医療保険に入っていて良かったですよ。入院とかいろいろ
かかりますでしょ」
 滝田はなんとなく、一刻も早くここを立ち去りたくなった。倉田氏が
恐ろしい事を言い出しそうな不安にかられた。このおばちゃんもやかま
しいし。
「あ、私は高梨先生に呼ばれて来たものですから。ちょっとお顔を拝見
させていただきたくて立ち寄らせてもらいました。今日はこの辺で失礼
します。いやあ、健康そうでなによりです」
 足早に病室を立ち去る。
 高梨医師からの報告では、あの後倉田氏は小暮総合病院で目覚めたと
いう。最初は二十時間程寝ていたが、一回の睡眠時間も徐々に短くなっ
て、消灯、起床時間に合わせて眠れるようになった。起きた直後どんな
夢を見ていたかの聞き取りは欠かさなかった。高校時代の同級生に会っ
ていた、空を飛んでいた、熊に追いかけられていた、等ありふれた内容
だ。
 滝田はエレベーターに乗り、受付で聞いた通り副院長室がある五階の
ボタンを押した。
 古代エジプト人になったり、滝田睡眠研究所に現れたり、小暮総合病
院の中を歩き回ったりといったことはなかったそうだ。
 廊下に出て高梨医師の部屋に向かう。
 その後レム睡眠行動障害も起っていないという。
「副院長室」と書かれたプレートがあるドアをノックする。
「どうぞ」という声が聞こえたので「失礼します」と言いながら入って
いく。
「お待ちしていました。滝田先生」
 高梨医師は快活な笑みを浮かべ、デスクの椅子から立ち上がった。
 彼には今もいい印象を持っていない。
 手で指し示されたソファに座ると、テーブルを挟んだ向かい側に高梨
も腰かけた。
「これから、どうなさるのですか」と滝田は聞いた。
「どうもしやしません。治ったら退院させて、おしまいです」
 この男は何の責任も感じていないのだろうか。滝田は腹がたってきた。
「学会で発表しますか? 研究の成果はお渡ししますか?」
 鞄の中にある三テラバイトのUSBメモリには、倉田氏の夢から抜粋
した映像と、その分析と考察が入っている。倉田氏に関する資料のうち
のかなり重要な部分だ。倉田氏の顔はモザイク処理し、文書にはK氏と
書いてある。音声のうち「倉田」の部分は「ピー」という自主規制音に
変えてある。高梨に預けるかどうかは今日の話し合いで決めるつもりだ
った。
「今日ご足労願ったのは他でありません。その件ですが、私どもの方で
慎重に検討を重ねた結果、公表はしないと結論付けました」
「ほう、そりゃまたどうしてですか?」
「古代エジプト人になってスフィンクスの頭を壊そうとしたなんて、そ
んなのはただの夢かもしれませんよ。実在したという根拠がありません」
「しかし、倉田さん自身として我々の研究室に現れたのはどう説明しま
す? 彼はあの部屋を見たことがないんです。証拠の映像も残っている
んですよ?」
「起こったのはすべてオカルト現象でしょう。合理的に解釈することな
んて所詮無理なんです。しかし、寄付金は約束通り提供させていただき
ますよ」
 最初に訪ねてきた時と、言っていることが違っていた。医学や科学の
世界に一石を投じるかもしれない。そう話していたのではなかったか。
「それは結構です。結局私達は何の役にも立っていませんから」
「とんでもない。先生方が睡眠障害の元凶である古代エジプト人を殺し
てくれたから、倉田は治ったんじゃないですか」
 頭に血が上った。
「いりませんよ、そんなの」滝田は自分の口調がきつくなるのを感じた。
「あなたは倉田さんが重態なのに夢の解明を優先させた。自分が名声を
得たいがために。責任を感じないんですか」
 高梨は急に能面のような顔になった。
「私達はわらにもすがる気持ちだったんです。倉田の夢に、病気の本当
の原因が隠されているかもしれないと考えたんです」
「私は後悔しているんです。倉田さんをまるで、実験動物みたいにして」
「先生に罪はありません。先生は昏睡状態の患者と夢見装置を通してコ
ミュニケーションを取ろうとしたんです。クランケとの会話は重要です。
先生は決して、倉田を実験台にしたのではありません」
 そんな大それたことではない。滝田にしたって、最初は興味本位では
なかったか。
 滝田は踏ん切りをつけられずにいた迷いに対して決断した。
「倉田さんの資料はすべて破棄します」
「そんな、もったいない」
「こんなものが公になったら、倉田さんはどんな目にあうか分かったも
んじゃありません」
 モザイクをかけたところでやっぱり安心はできない。
「先生、余計なお世話かもしれませんが、くれぐれもこの件は口外なさ
らないようお願いします」
 高梨との取引のことだろう。
 高梨は胸元に手を突っ込み、分厚い茶封筒を取り出した。それをうや
うやしく滝田に差し出す。
「では謝礼だけでも」
「いらないと言ってるでしょうが!」
 手を振って払い落とす。高梨は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 滝田は憤って立ち上がった。
「先生、夢と睡眠障害の関係について調査をされているのでしたよね。
その研究は、深めて下さい。睡眠異常に悩む人が減ることを祈っていま
す」
 滝田は返事もせず、副院長室を飛び出した。
 足が勝手に倉田氏の部屋に向かう。何かをしなければいけないような
気がした。全部彼にぶちまけてやろうか。
 すべては終わった。これからは普通の生活に戻るのだ。かわいそうな
犬や猫の頭に針を刺し、モニターの波形に一喜一憂し、美智子とくだら
ないことで口論するのだ。そうだ。それがいい。
 倉田氏の病室の前に戻ると子供が廊下の窓から外をながめていた。弟
の方だ。少年は滝田を見ると不安そうな顔をした。
 滝田はしゃがんで少年に微笑みかけた。
「退屈かい?」
「うん、つまんない」
 滝田は迷った。手に持った黒い鞄を見つめる。資料を取っておくべき
か捨てるべきかについてはずいぶん悩んだ。そして破棄すると決断した。
だが本当にそれでいいのだろうか。バッグを開き、USBメモリを取り出
した。
「これを」言葉がつまる。こんなことをして大丈夫なのだろうか。「これ
を、君にあげよう」
「なあに?」
「これはね、お父さんの病気について記録したものなんだ」
「僕にくれるの?」
「でもね、他の人に言っちゃだめだ。お母さんにも言っちゃだめだ。そ
れくらい重要なものなんだ。約束できるなら、君にあげる」
 少年はほほに人差し指をくっつけて首をかしげた。
「おじさんは、これを君に託したいんだ。託すって、分かるかい? 大
事なものを人に預けることだ」
 そうだ。この少年なら適任のような気がする。彼がこの内容を理解で
きるほどに成長した時、父親に起こった事実を知るだろう。後は、どう
するかは彼次第だ。少年はなおも考え込んでいた。
「うん、いいよ。僕が預かってあげる」
「そうか。誰にも内緒だよ。君とおじさんだけの秘密だよ」
「男の約束だね」
「そうだ。そうだよ。君は良い子だな」
 少年がUSBメモリを受け取るのを、複雑な思いで見ていた。




#551/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:25  (378)
眠れ、そして夢見よ 8−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/15 23:37 修正 第2版
   新たな夢


   一

 太陽の光がカーテンの隙間から漏れている。滝田はゆっくりとまぶた
を開く。何万光年も宇宙を旅してようやく目指す恒星にたどりついた宇
宙船の乗組員が、冷凍睡眠からたった今覚めたかのように。ゆっくりと
体を起こし、ベッドサイドテーブルの上にある目覚まし時計をつかむ。
まだ五時だ。セットしている時間は六時だが、最近ではこの時計が鳴る
のを聞いたことがない。
 歳とともに目覚める時間が早くなっていくのを感じる。大きくあくび
をし、頭をかく。元は真紅に近い色だったのが、すっかり薄桃色に変わ
ってしまったじゅうたんの上に足をおろす。
 カーテンを開くと薄い青色を帯びたような街が、もうすぐ起き出しそ
うな気配を見せていた。
 一段踏むたびに軋んで音を立てる階段を下りていく。だいぶ老朽化し
てきたな、と滝田は思う。滝田が老けていく早さに合わせて、この家も
また老いていく。売ってマンションでも買おうかと考えていた時期もあ
ったが、何を今更と思う。
 台所に立ち、水が入れっぱなしになっているやかんがのったクッキン
グヒーターのスイッチを押す。冷蔵庫を開け、きゅうりの漬物と卵を一
個取り出す。テーブルに置いてお新香のラップをはがすと、途中でちぎ
れて少しだけガラスの器の端に残った。それをはがして、大きい方と小
さい方を合わせて丸めてごみ箱に放った。急須をたぐり寄せ、ふたを開
けて中をのぞくと、湿ったお茶の葉が茶こし網にこびりついている。か
えようか、とも思ったが、昨日一度しか使っていないことを思いだし、
そのままにした。食器棚から小皿と湯のみと茶碗を取り出す。炊飯器を
開け、昨日の残りをよそう。椅子に座り、卵を割り小皿に落とし、醤油
の小瓶を握り、しずくをたらす。二滴、三滴。箸で混ぜると、黄味と白
味と醤油とがだんだんとその境界をなくし、それぞれの意味を失ってい
く。ご飯の真中に穴をあけ、流し込む。
 そうこうしているうちにやかんから湯気が吹き出してきた。滝田は笛
を開けたまま湯を沸かす。あの小うるさい音が嫌なのだ。
 座り込んでしまうともう一度立つのは面倒くさいと感じる。勢いを増
す蒸気に急き立てられて仕方なく立ち上がる。
 熱湯を急須にそそぎ、ケトルをクッキングヒーターの上に戻し、ほっ
として椅子に座る。しばらく待って湯のみにつぐと、ようやく朝飯の準
備が終わる。ご飯と卵をよく混ぜてほおばる。きゅうりをかじり、お茶
をすする。
 二年前までは、炊飯器など使わずコンビニで買ってきたレンジで温め
るだけの米を食べていた。五年前はトーストと目玉焼きだった。
 この国の人間は歳をとるほど日本人に帰るのかもしれない、と滝田は
感じる。どうして欧米化がいくら進んでも白米はなくならないのか。な
ぜレトルトご飯は味気ないと感じるのか。かまどで炊いていた頃の記憶
は、しっかりと遺伝子の中に残っていて、歳をとるに従ってよみがえっ
てくるのかもしれない。蒸らしたお米こそ、日本人の原風景なのかもし
れない。
 今では洋食、和食、中華、様々な料理が、安いものから豪華なものま
で、レンジで温めたりお湯を注いだりするだけでできる。二十一世紀に
入って猛烈に科学技術は発展し、それはこの国の食生活も変化させたよ
うだ。科学が進歩するほど、日本人は原風景から離れていくような気が
する。
 だがその繁栄も、最近になってようやく落ちついてきたようだ。新し
い世紀に入って続いた勢いも、さすがに終わりに近づくと萎えてくるの
かもしれない。
 しかし一旦沈静してしまうと今度は停滞期に入る。睡眠研究の分野に
おいても目新しい話題は出てこず、今までの大発見、大発明をつついた
り、いじくり回したりするばかりだ。
 滝田は自分の身の周りがどんどん老いていくのを感じる。つまらない
事を考えているうちにだんだんとまずくなっていく食事をやっと終え、
顔を洗いに行く。
 洗面台に立ち、鏡に映る髪が真っ白になってしまった自分の顔を、滝
田はぼんやりとながめた。


   二

「おはようございます」
 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面
目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年
目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男
の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信
できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで
観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのは
アメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるの
だ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく
物足りない。
 美智子か。
 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。こ
の十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室
のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリス
に移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田と
いう男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれな
いまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。
変わらないのは滝田だけだ。
「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言って
いました」
 滝田ははっとして宮田を見つめた。
「クラタ? 下の名前は?」
「いえ、苗字しか聞いていません」
 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長
だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はあ
る。
「年齢は? おじさん? おばさん?」
「若い男の方のようでした」
 滝田は目を伏せた。
「あ、そう」
「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うと
いうことでした。お断りしますか?」
「いや、一応会うよ」
 廊下に出てゆっくりと歩く。
 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今に
なって彼らが滝田に何の用があるというのか。
 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはし
ばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと
思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカ
ーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった
机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張り
だし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふ
く。
 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするの
は限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気で
かかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草
を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間
は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんや
りしているのだが。
 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿に
すりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に
着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲
む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。
 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいし
て読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろう
か。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間
は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。
「先生、お客さんっすよ」
「あ、そう」
 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。
頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。
「応接室に待たせてますんで」
「うん。すぐ行く」
 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔
をしかめた。
 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。


   三

 応接室に入っていくと、水色と白のチェック柄のTシャツにジーパン
というラフな格好の若者がソファから立ち上がって会釈をした。
「こんにちは」ととりあえず挨拶する。
 若者は滝田の顔を見ると満面の笑顔になった。
「あ、こんにちは」
「あの、面会の場合はアポを取ってくれないと困るんですけど」
「先生、僕のこと覚えていませんか」
 奇妙なことを言う青年に滝田は不信感を抱いた。見覚えのない顔だ。
「僕、倉田志郎といいます。倉田恭介の息子です」
 あっ、と驚いた。そうだ。倉田という名で若い男といえば、倉田の息
子がいたではないか。突然の再会にびっくりすると同時にうれしくなっ
た。
「弟さん? それともお兄さん?」
「弟の方です」
 すると、USBメモリを渡した子だ。
「いやあ、大きくなったなあ。まあまあ、とにかく座って」
 青年が座るのに続けて滝田も腰掛けた。
「久しぶりだなあ。今、何やってるの?」
「大学生です。先生はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。今日は何の用?」
「まずはお礼を言いたくて。先生から頂いたUSB、もらった当時は何な
のかさえ分かりませんでした。高校生になった時に父がパソコンを買っ
て、中身を見て、難しい用語は分からなかったのですが、父がどういう
状態だったのかなんとなく知ることができました。有難うございます」
「だったら、今はもっとよく分かるだろう?」
「はい、検索して調べましたから」
 記録に余計なことを書かなかっただろうか、と滝田は心配になった。
大丈夫だ。夢の観察はあくまで病気の原因を探るためということになっ
ていたはずだ。
「どうしてここが分かったの?」
「滝田国際睡眠障害専門病院は見つかりませんでした。滝田研究所のホ
ームページを見て来ました」
 サイトには滝田の名前も顔写真も載せているから、渡した名刺がまだ
あれば分かるだろう。
「お父さんは今どうしてる?」
「父は二年前にクモ膜下出血で亡くなりました」
「そうか。お気の毒に……」
「僕は秘密を守りました。だから父は何も知らずに死にました。その方
が幸せだったと思います」
「そうだね。お父さんは自分に起こった事を覚えていないようだったか
らね」
 滝田は倉田氏を見殺しにするつもりだった。だが美智子の機転によっ
て助かった。しかし結局は死去してしまった。まああの悪夢のような状
態で亡くなるよりはマシだろう。
「先生の考えはおもしろいですね。前世の記憶をたどって過去にさかの
ぼったなんて。僕、すごく興味を持ちました」
「ああ、あくまで推測だけどね。しかしあの睡眠障害はなんだったのか、
前世に戻るとしても、どうしてそんなことができたのか、全く分からな
いままなんだ」
「僕も結論を出すまでに時間がかかりました。僕達の症状はいったい何
なのか。最近になってようやく僕なりの考えがまとまってきたんです」
 僕達? 滝田は聞きとがめた。この青年は何を言っているのだ?
「実は僕、毎日の睡眠時間が二時間くらいなんですよ。中学の時からず
っとです」
 あまりにもさらっと言ったものだから、滝田は目をむいた。青年は笑
顔のままだ。日に焼けたその快活な表情は、とても病気には見えない。
「君は、不眠症なのか」
「そうなんです。でも、先生。僕は大丈夫なんです。昼間居眠りをする
わけでもないし、どこか体が悪いわけでもないんです。それでも母は心
配して、あっちこっちの病院に連れていきました。でも、どこでも同じ
です。薬をもらって、それでおしまいです。生活にも支障はありません。
結局母はあきらめました」
 久しぶりの再会の喜びが、早くも不吉な疑念へと変わり始めた。父親
の睡眠障害は複雑怪奇なものだったが、息子の症状も変わっている。睡
眠時間が二時間だって? それでどこにも異常がないって? 中学から、
大学まで。
 もっとも、八時間は寝るべきなどというのは、人が勝手に決めこんだ
ことであって、短い時間の眠りでも平気な人間は存在する。ナポレオン
が毎日三時間しか寝なかったのは有名だし、エジソンも短眠者だった。
もっとも、ナポレオンは居眠りの天才であったとも言われているが。
「記録を読むまで、僕は自分の不思議な病気がなんなのか分からなかっ
たんですよ。この症状が始まってから時々見るようになった夢のことも」
 どうやら不吉な予感が当たりそうだ。この青年も、父親のような夢を
見るというのか。
 彼は少しも不安な様子を見せず、いきいきとした調子で続ける。
「僕は、父とは反対に未来が見えるんです。少し先のことから、遠い将
来のことまで。中学の頃は本当に時々でしたが、今は確実に見ることが
できます。見る、というより、行くといった方がいいかもしれません」
「つまり君は、予知夢を見るというんだね。君はそれが本物だって証明
できるかい?」
「証明、というとちょっと難しいんですけど、よく当たるんですよ。遠
い未来は実証できませんけど、近い将来ならまず当たります。先生は明
日危ない目に会いますよ。先生がびっくりした顔をして急ブレーキを踏
むのを、昨日夢で見ちゃったんですよ。僕は横にいました。もう少しで
大事故ですよ」
 まさか、と滝田は思う。父親が特殊な能力を持っていたからといって
その息子にもそんな力があるなんて。作り話ではないのか?
「で、君の考えはどうなの? お父さんや君の能力は、何だと思うんだ
い?」
「タイムトラベルの一種です」
「超能力っていうこと?」
「そうです。僕は父とは違って、睡眠時間は短いものの普通に生活する
ことができます。僕らの力は夢が大きな役割を果たします。だから、発
現できるようになる時に、代償として眠りに異常が起こるんだと思いま
す」
 それは滝田もこの十年間考えていたことだった。滝田は青年の意見を
もっと聞きたいと思った。
「お父さんの睡眠異常は何だったんだろう?」
「父は無意識に試行錯誤したんだと思います。自分の望む最適な状態は
何なのかを。そしてクライン・レビン症候群にたどりつきました。いつ
でも好きな時に夢の中で出現できますからね」
「じゃあ、レム睡眠行動障害は?」
「眠りっぱなしだと、外界との意思疎通が遮断されてしまいます。夢の
中に閉じ込められてしまうんです。そこでコミュニケーションの手段と
してレム睡眠行動障害という形を取ったんです」
「それはお父さんが意識して望んだものではなく、あくまでも潜在意識
下での願望なんだね?」
「そうです」
 滝田も同じように考えていた。ただし、滝田の見解が仮説であるのに
対し、青年の言い方は確信に満ちている点が違うが。
「じゃあ君の不眠症は?」
「僕は、何をするにも集中力を維持するのが、二時間が限界なんです。
予知夢を見るのも同じです。人は眠ってから一番深いノンレム睡眠に達
して、その後眠りの浅いレム睡眠になるんですよね。かかる時間は九十
分。でも個人差がありますよね。僕の場合は二時間なんです。普通なら
この周期を繰り返すんでしょうけど、僕はそれ以上注力することができ
ませんから、目が覚めてしまうんです」
「夢を見るのに集中力が必要なのか。それは興味深い話だね。しかしそ
んな能力のために君やお父さんが睡眠障害を抱えなければならないなん
て、なんだかかわいそうだなあ」
「とんでもない。これは素晴らしいことなんですよ」
 素晴らしいだと? 歴史を変えてしまうような恐ろしい力が輝かしい
ものであるはずがない。
「私はね、エジプト人はお父さんの夢が作り出した架空の存在であるか
のように思っていた。だがあのエジプト人は実在した本物だったのかも
しれない。だとしたら私は人殺しをしてしまったことになる。それでこ
の十年悩み続けてきたんだよ」
「本人ではないと思いますよ。だって高貴な人物なんでしょう? そん
な人が記憶喪失になったからといって砂漠をさまよっているでしょうか。
僕には不自然に思えます」
 滝田にはなぐさめのようにしか聞こえない。
「じゃあ君は何だと思うんだい?」
「アバターのようなものだと思います。ほら、オンラインゲームで髪型
や顔や服装を自分好みにカスタマイズした分身を作るでしょう? 同じ
ように夢の世界の中で自由に動けるアバターが必要なんです。父はその
分身にまず御見葉蔵の記憶を植え付け、インド人の記憶を植え付け、エ
ジプト人の記憶を植え付けていったんです」
「どうしてそんなに確信を持って言えるんだい?」
「僕がそう感じるからです。夢の中で行動する人物は僕自身だという気
がしません。あくまでも複製なんです」
「本物とは別に偽者がいたっていうこと?」
「そうです。おそらくエジプト人だけでなく、御見葉蔵も、父自身も」
「でもエジプト人もインド人も君のお父さんとは別人だろう?」
「御見葉蔵は前世の自分、インド人も前世の自分、エジプト人も前世の
自分、全部自分であることに変わりはないでしょう?」
 なんだかうまく言いくるめられた気分だ。察しはついたが、一応聞い
てみる。
「なるほど。君の意見は分かった。で、もう一度聞くが、今日は何の用
だい?」
「先生にお願いがあるんです。夢見装置で僕の夢を観察してほしいんで
す」
 冗談じゃない。倉田氏でもうこりごりだ。その息子をまた興味本位に
実験台にするなんて。
「それは困るよ。夢見装置は君の助けにはならないと思うんだ」
「いえ、助けるとか、そういうことではありません。僕は、最近はかな
り先の未来の夢ばかり見ます。それは、人類が月に進出した時代なんで
す。僕はある人物の名前を耳にしました」
 青年の瞳が滝田を直視する。
「本当のことを言うと、僕は先生に会いに来るつもりはなかったんです。
今頃になって来たのは、先生ならその人が誰なのか分かるかもしれない
と思ったからなんです」
「もったいぶらずに言ってくれないか。それはどんな人物なんだい?
私に関係あるのか」
「タキタという人なんです」
 なんだと?
「下の名前は?」
「分かりません。月面の日本人基地で、会話の中にその名が出てきただ
けなんです。詳しいことは分からないんです」
「しかし、タキタという姓は別に珍しくもないだろう」
「そうです。ですからここに来るべきかどうか迷いました。だから、ぜ
ひ先生自身に確かめてほしいんです。そのためには僕を夢見装置につな
ぐしかありません」
 滝田は苦笑した。
「その人物を見られたとしても、未来の話なんだろう? 私の家族か親
戚だとしても、判別できるかどうか……」
「分からないかもしれません。しかし分かるかもしれません。僕は先生
に関係あるという気がしてならないんです。これはもう僕の第六感を信
じてもらうしかありません」
「それも超能力なのかい?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 青年の話を信じるべきかどうか。いずれにせよ装置を使わなければ確
かめられない。
「そうかい。それじゃあとにかく、明日また来てくれ。一度だけなら夢
見装置につないであげてもいい。あれはおもちゃじゃないんだ」


   四

 論文の字面を漫然と追う目を、滝田は壁の時計に向けた。夜の九時を
十分ほど回ったところだ。
 遅い。何をやっている。
 再び視線を紙に戻す。読んでなんかいない。ただながめているだけだ。
滝田は一日中落ち着かなかった。今朝起こった事件のためだ。まさかと
思ったが、倉田志郎の予告が的中したのだ。いきなり横から飛び出して
きた車に、もう少しで衝突するところだった。
 青年と約束していた時間は九時だ。だがまだ来ない。
 ドアをノックする音にはっとして顔を上げた。
「どうぞ」
 しかし現れたのは井上だった。がっくりと肩をおとす。
「先生、昨日の人が来てますよ」
 再び息をのんで身を乗り出す。
「入ってもらって」
 立ち去ろうとする井上に声をかける。
「宮田君は? もう帰ったの?」
「ええ。僕も帰ります。んじゃお先に」
 ひどい音をたててドアを閉めた。
 滝田は胸の前で両手の指を組み合わせる。井上は最初から当てにして
いなかったが、宮田も帰ったとなると他の研究室から応援を呼ぶか、滝
田一人でやるか、どっちかだ。
 再びノックの音がして、穴があくほどドアを見つめた。
「どうぞ」
 倉田志郎がにこやかな表情で現れた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 慌てて職業的な笑顔を作る。
「どうでした? 僕の予知夢は当たりましたか」
「ん? ああ、驚いたよ。まさか本当に起こるとは思っていなかったか
ら」
「そうですか。良かった。少しは信じてくれる気になりましたよね」
 青年はかぶっていた帽子をとった。滝田が指示した通り、丸坊主にな
っていた。
「それじゃあ、行こうか」
 青年の脇をすりぬける時、かすかにいい匂いがした。近頃の若者は男
でも香水をつけるのか。あらためて自分が年寄りになってしまったこと
を感じる。
 滝田が先に立って階段を降りていく。歩きながら考える。自分は単な
る興味から倉田志郎の夢を見ようとしているのだろうか。青年がタキタ
という人物に何かしようとしたら、そのアバターを殺したいのではない
か。
 そんなことを考えているうちに、被験者を寝せるベッドルームに着い
た。分厚い扉を開け、先に入れと手で示す。青年は臆することなく堂々
と入っていった。
「へえ。ここで父の夢を観察したんですか」
 滝田は答えずベッドの脇に立った。
「仰向けになって。服はそのままでいい」
 滝田は言われた通り横になった青年にヘルメットをかぶせた。
「すぐに眠れそうかい?」
「いえ、いつも眠くなるのが三時くらいなんですよ」
 錠剤が入ったシートの銀紙を破る。ポットから水をコップに注ぐ。
「睡眠導入剤だ。飲んで」




#552/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/573 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




#555/573 ●長編    *** コメント #520 ***
★タイトル (AZA     )  19/07/31  20:14  (429)
そばにいるだけで 68−1:先行公開版   寺嶋公香
★内容                                         19/08/02 20:24 修正 第2版
 いくら何でも待たせすぎだと反省しまして、続きを書いていることの証明にでもなれ
ばと、1msg分だけUPします。後の68全文UP時には直しが入ることもありま
す。
======================================

 週明けの朝、自宅を出発する時点では、相羽は間違いなく決心していた。
(今日、言おう)
 米国留学することを純子に。
 改めて記すまでもないが、闇雲に打ち明けていいものではない。世間話のように、他
にも人がいるところで「九月には日本にいないから」なんてのは論外だ。最低限のシチ
ュエーション、二人だけで、伝えたあと少しは時間が取れる状況が欲しい。
 その決心に対し、のっけから段取りが狂う出来事があった。
 朝の休み時間に鳥越がクラスの席までやって来て、君の九月の予定はどうなってるん
だろうと聞いてきたのだ。やけに唐突な質問だったの訝しんで理由を聞き返す。
 すると、九月になると流星群があるので、学校で観測をしたいと思っているとのこと
だった。納得しかけたが、学校で催すのであれば予定はあまり関係ないじゃないか、と
不思議に感じた。
「その質問は、涼原さんに真っ先に聞くべきじゃあないか」
 相羽自身が答えづらいこともあって、鳥越にそう水を向けると、何故か相手は動揺を
僅かながら覗かせた。しかもすぐ近くに純子がいるというのに、尋ねようとしない。
「まあ、決まっていないんだったら、後日でいいよ。じゃあ、お昼に」
 そう言い置いて、鳥越は逃げるように去ってしまったのだ。
「何だったんだ、あいつ」
 ちなみに本日は朝から曇天で、午後からは雨の予報が出ていた。

            *             *

 二時間目が始まるまでの休み時間、唐沢は鳥越と二人で、校舎の外れの中庭にいた。
「どうしてこんな役を押し付けたんだい。それも急に。そこを説明してくれないと、僕
も納得できないよ」
 鳥越の失敗に多少の文句を言うつもりであった唐沢だが、反駁を食らって、言い返せ
ないなと気付いた。理由を明かさずに無茶をさせたんだから、失敗するのも無理はな
い。尤も、理由を明かした上で芝居させたとしても、果たして鳥越がうまくやりおおせ
たかは怪しく思う。
「わりぃ、俺の想定外だった。理由は言えないんだ」
「まったく。唐沢君が部員勧誘に協力すると言うから、渋々やっただけなのに、恥を掻
かされた気分だ。涼原さんのためだっていうのは、本当なんだよね?」
「そこは保障する。下手すると、部をやめる恐れがある」
「その危機は解消されたんだね」
「いや、まだ」
「何なんだよ〜」
 察してくれと言うのも無理な話か。唐沢は鳥越に両手を合わせて謝った。
「すまん。合宿に二人が参加したら、問題は解決したと思ってくれ」
「分かんないな。全然、仲が悪そうには見えないけれど」
「いいから。あ、あと、俺が頼んだことは絶対に言ってくれるなよな」
「約束は守るよ。唐沢君こそ、約束、忘れないでもらいたいね。来年の春、新入部員の
勧誘には力を入れてもらう」
「ああ。いざとなったら、女の子を大勢引っ張ってきてやる」
 安請け合いし、どうにかこの場を切り抜けた唐沢だった。
(やれやれ。作戦失敗か。同じ手が使えないわけじゃないが、似たようなやり取りを相
羽と涼原さんの前で二度も三度も繰り広げるのは、やっぱりやめておきたいよな。とな
ると、涼原さんの名前を使って、相羽に危機感を持たせる作戦を採るか……。淡島さん
の占いを通じて知らせる作戦も、悪くはないと思うんだ。でも、相羽の口から打ち明け
る方向に持って行くには……淡島さんが涼原さんにじゃなく、相羽に対して占いで言い
当てたみたいにすればどうかな。いや、相羽のことだから、俺が淡島さんにばらしたん
だって勘付くに違いない。どうすりゃいいんだ)

            *             *

 一時間目。
 相羽は、自分が意外と平静さを保てていないんじゃないかと思わされる。
「……あれ?」
 英語の教科書、忘れた。

            *             *

 「あれ?」という声が聞こえ、純子は隣へ振り向いた。相羽が学生鞄をまさぐってい
る。横顔に焦りの色が浮かぶのを見て取った。
(もしかして忘れ物? 珍しい)
 時計を見る。何を忘れたのか知らないが、これからある英語の授業に関わる物だとし
たら、他のクラスに行って友達から借りてくる時間はなさそう。と思う間もなく、始業
を告げるチャイムが静かに鳴った。
 ほとんど間を置かずに、門脇(かどわき)先生が教室に入って来た。女性にしては大
柄で、学生時代は柔道で鳴らしたとの噂だけど、真偽は不明。年齢を重ねた今、膝を悪
くして足取りが遅い自覚があるせいか、何事も行動を始めるのが早い。
「立ってる者、席に着け〜。始める。はい、号令」
 しゃきしゃきした口調の先生。呼応する形で唐沢が号令を掛け、起立・礼・着席を行
った。
 門脇先生が欠席のないことを確認するために教室内を改めて見渡したあと、教科書を
開き掛けた。
「あの、先生。教科書を忘れてしまいました」
 相羽はすかさず、しかしおずおずといった体で挙手しながら申告した。
「何だ、相羽君。らしくもない。浮ついているのかな。今後、気を付けるように」
「は、はい」
「教科書は隣に見せてもらうように。……涼原さんで大丈夫ね」
 大丈夫の意味するところがいまいちぴんと来なかったが、純子は素早く二度頷いた。
 相羽は机を横に動かし、純子の机とぴたりと合わせた。
「ごめん」
「いいよいいよ。気にしないで。困ったときはお互い様」
 朝からある意味うれしい成り行きに、純子は少々気分が高揚して、口数が多くなっ
た。おかげで先生から「こら、喋り続けるんなら戻してもうらよ」と怒られてしまっ
た。二人が肩を縮こまらせたところで、授業スタート。
「早速だが、相羽君。気合いを入れ直す意味も込めて、読んでもらおう。続けて訳も」
 相羽は席を立ち、二つの机の間に置かれた教科書を見下ろす姿勢で、音読を始めた。
声の通りはいつもに比べてよくないが、発音はいい。
(相変わらず凄い。エリオットさんとの日常会話を楽々こなすほどだし、相当勉強して
るんだろうなあ)
「はい、そこまで。ノートは持って来てるんだね? じゃあ、訳を」
 相羽はノートの該当ページを開き、今度は両手に持って答えた。大半の生徒が英訳で
は堅苦しい日本語になりがちだが、相羽はくだけた表現を織り込むのがうまい。翻訳を
思わせるほどだ。意識してやっているのではなく、自然とそうなるのかもしれない。
「――よろしい。ほぼ完璧で怒るに怒れないじゃありませんか。ただ一点、解説を加え
る必要があるのは、ここ」
 先生は“If it isn't broken, don't fix it.”と板書した。
「直訳すると、『壊れていない物は直せない』。相羽君は砕けた感じで、『そもそも壊
れてないのなら、直しようがない』と言ったけど、大体同じだね。で、実はこれ向こう
のことわざで、『すでにうまくいっているものを改善しようとしてはいけない』って意
味がある。教科書の例文ではことわざって言うより、『余計なことすんな』ってニュア
ンスが一番近い」
「知りませんでした」
「しょうがない。辞書を引かなくても知ってる単語で構成された文章は、いちいち調べ
直したりしないもんだから。文章のつながりから浮いた訳になるならまだしも、これな
んか別に違和感ないからねえ。違和感があるのは、ほら、前にやった遊園地で遊んでる
場面で、鍋の話をするやつだ。あれなんかはおかしいと感じて、調べて欲しいと思う。
で、涼原さん、どんな言い回しだったか覚えてるかな?」
「はい?」
 いきなり指名されて、立ち上がる純子。どうやらさっきのお喋りの代償を、ここで払
わされるようだ。
「相羽君は座って。――涼原さんも浮かれていないか確かめるために、ちょっとしたテ
ストだね。これに答えられなければ、机の間を一センチ離すように」
「そんなあ」
 情けない声を上げつつ、思い出そうと記憶のページを必死に繰る。
(遊園地で遊んでいると時間が経つのが早い。その関連で、時間に関係する、鍋の出て
来る慣用表現があったのよ。確か……)
 思い出せたような気がした。面を起こして、でも自信なげに答える。
「見られている鍋は決して沸かない……“A watched pot never boils.”でしたっけ」
「お、正解。だけど、日本語の方がちょいと怪しい。直訳で覚えずに、『焦りは禁物』
『待つ身は長い』等で覚えること」
「はぁい」
 座ろうとした純子だったが、止められてしまった。
「ついでに続き、少し読んで。訳はいいわ」
 いつもの授業と違い、変則的な当て方をする。生徒達は大げさに言えば戦々恐々とな
った。
 この調子での授業が十五分ほど続き、それからテキストにある設問を答えるくだりに
差し掛かった。適当に時間を区切って、各人が解きに掛かる。教室内は一転して静かに
なった。
(こんなに近いと、変に意識しちゃうよ)
 純子はいつもに比べて、集中力を若干欠いていた。好きな人が隣の席にいるというだ
けでも意識するのに、今はもっと近い。相羽の手元を覗こうと思えば覗けるし、逆もそ
うだろう。開いたページとページの間、谷になって見えづらい字を読もうと、顔を近付
けるとお互い息を感じるくらいに接近してしまう。
(相羽君は何とも思ってないのかな)
 盗み見ると、相羽はペンをさらさらと走らせている。次々に解いているのではなく、
教科書を借りている立場の彼は、設問に関連する箇所を本文から写さねばならないとの
理由もあるのだが、それにしても軽快に書いている。一心不乱というよりも、自動筆記
みたいだ。
(普通の集中とはまた違う……ぽーっとして、感情をシャットダウンしてるみたい。私
のことも見えてないのかしら。だとしたら凄いけど。――はあ、いけない。集中集中)
 緩みそうになる頬を軽くつねって、ノートに答を書き始める純子。問題にしばらく取
り組んでいると、不意に「あ」という相羽の小さな声。次に彼の手が純子のスカートを
かすめる風に伸びて来た。
(あ、相羽君、何を)
 気配を感じた純子は、反射的に「きゃ」と悲鳴を漏らしてしまった。何事かと先生や
クラスメートから注目されるのが空気で分かる。
「ご、ごめん、キャッチするつもりが空振りした」
 そういう相羽の視線は、純子の太ももの間、スカートの布地に。そこには相羽の消し
ゴムが乗っかっていた。
「こら、何を話してるの」
 近くまで来て立ち止まった先生が、プリントの束(と言っても十枚もない)で相羽の
頭をぽんぽんとやった。
「いちゃつくのなら、席を離して、反対側の子に見せてもらいなさい」
「すみません」
 相羽が謝罪するのに続いて、純子は同じように謝ったあとに続けた。
「でも違うんです。消しゴムがスカートの上に落ちてきて、私がびっくりしただけで、
いちゃついてたんじゃない。ほんとです」
 未だにスカートの上にある消しゴムを、ほら見てくださいとばかりに示す。
「……分かった。子犬の瞳で訴えなくても信じます。さあ、続けて。残り時間わずかだ
よ。みんなも集中して解いて」
 教卓の方へ引き返す先生を見て、純子はよかったと安堵した。
 それからまた問題に取り掛かろうとした矢先、相羽が純子の方を向き、左手を左右に
小刻みに振って、何かを擦るようなポーズを取るのに気付く。一秒考え、あっと思い出
す。
 純子は相羽の消しゴムを拾い、彼の机の端っこに置いた。

「ありがと、助かった」
 英語の授業が終わって、門脇先生が去ると、相羽は机を元の位置に戻した。
「それと消しゴムのこと、ごめん。肘が当たったみたいで」
「かまわないんだけど、さっき問題を解いてるとき、何だか変じゃなかった?」
「変? そうだっけ」
「周りに誰も見えてない感じだったわよ。矛盾するけど、ぼんやりしつつ集中してるっ
ていうか」
「それは多分、先生に言われたことを気にしていたからかも」
「先生に言われたことって? 何かあったかしら……」
 尋ねたつもりだったが、男子数名が相羽のところへやって来たせいで、有耶無耶に。
「おい、さっき本当に何でもなかったのか」「教科書見せてもらうために、わざと忘れ
物したんじゃないの」「次の数学は何を忘れるのかな」等と冷やかされる相羽だが、特
に反応せずに涼しい顔をしている。
 当事者の一人である純子としては、おいそれと口出しして藪蛇になっても困る。それ
を思うと、相羽の受け流しは賢明な選択と言えそう。
 純子は素知らぬふりで次の数学の準備をしていると、ふと気が付いた。
(うん? 唐沢君が加わってないなんて珍しい)
 いつもなら真っ先に来そうなのに。委員長の用事があるのでもなし、自身の席に着い
たまま、一人でこちらを――相羽の方を?窺っているように見えた。。
(数学の宿題を忘れて、相羽君を頼ろうとしたけど割り込みにくいなと躊躇っている…
…なんてことじゃないわよね。どうしたんだろ。何か言いたそうな、様子を探っている
ような。男同士の約束でもあるのかな)
 そちらに意識を取られたおかげで、先生に言われたことどうこうはすっかり忘れてし
まった。

            *             *

 神村先生の数学が終わると、次は家庭科の調理実習で、移動や準備に時間を取られ
る。まずい、この調子だと打ち明けるのがずるずると先延ばしになってしまう。相羽は
割烹着風エプロンを身につけながら思った。
(本当はすぐにでも――一時間目が終わったら、話があるから昼休みにでもって純子ち
ゃんに言うつもりだったのに。門脇先生に『浮かれているんじゃないか』って……ショ
ックだ。そんな風に見えてるのか)
 英語の門脇先生は、相羽の留学話を承知している教師の一人だった。学科こそ全く異
なるが留学経験があり、いわゆる生の英語に詳しいとあって、折に触れてアドバイスを
頂戴している。
(浮かれてはいないと断言できる。でもまあ、気が散っているところはあるのかもしれ
ない。英語の教科書を忘れたのだってそう。消しゴムが転がったのに気付いたとき、後
先考えずに手を伸ばしたのも)
 落ち着こう。とりあえず、気が散ったまま火を扱う授業を受けていては、事故の元に
なりかねない。こうして気を引き締め直したおかげか、純子と同じ班で臨んだ調理実習
は、特に失敗することもなく、無事に仕上がった。一時間目の一件のおかげで、周りか
ら冷やかしは飛んだけれども。
 ちなみにメニューはミニ揚げパンに春雨サラダ、杏仁豆腐だった。昼前のコマで調理
実習をやる場合、授業が終わったあとも家庭科教室で昼食と合わせて料理をいただくの
が原則。弁当持参でない者は、早く平らげて食堂なり売店なりに行かねばならない。ほ
ぼ確実に列の後方に並ぶことになるため、不評である。生徒側も対策を講じ、弁当を持
って来る者の割合が飛躍的に高くなる。
 相羽も母に時間的余裕があるときは作ってもらっているけれども、あいにくと日曜か
ら仕事があって、今回は無理だった。代わりに、惣菜パン二つと飲み物を通学途中に購
入していた。
「食べない?」
 登校時に一緒だった純子は当然そのことを知っており、お弁当のおかずを勧めてき
た。
「どれでもいいよー。こっちはダイエットのつもりで」
 つみれや唐揚げ、胡麻豆腐にチーズちくわと文字通りのよりどりみどり。だが、相羽
はすぐには手を伸ばさなかった。
「そう言われて僕が食べたら、君が太ってると言ってるみたいにならない?」
「ならない。ほんとの体重、自分自身がよく分かってるから」
 そのお喋りを聞きつけたか、唐沢が近くに移動して来た。「なら、ありがたくちょう
だいしよう」と、相羽より先に箸を出す。
「だめ。唐沢君はお弁当でしょ。結構大きいのに、余分に食べたらそれこそ太るわよ
〜。女の子が悲しむんじゃないかしら」
「うー、それでも食べてみたい」
「まさか、手作りと勘違いしてないか、唐沢?」
 相羽の指摘に、唐沢はぽかんとなった。本当に純子の手作りだと思い込んでいたよう
だ。
「あ、そうか。じゃあ、さっきの春雨サラダか杏仁豆腐をもらいたかった」
「それならここにある」
「いや、おまえの前にある分じゃだめ」
「元は同じなんだが」
 相羽が唐沢とやり取りする横で、純子がくすくす笑い出した。
「もう、話が迷走してる。はい、相羽君。これ食べて」
 相羽の持つ焼きそばパンの切れ目に、唐揚げ一つが置かれた。
「あ、ありがとう、いただきます」
 相羽はお礼を言いながら、気持ちがだいぶほぐれてきて、いつものようになれたと感
じていた。

 昼休みも食事が済んで、教室に戻ると、相羽は純子に話があることをまず伝えようと
した。
 ところがここでまた予想外の邪魔が入った。野球部のエース・佐野倉が純子の元にや
って来て、前の土曜、試合を観に来てもらいたかったと一言。地方予選の真っ只中にど
こでどう聞きつけたのか、土曜日に純子が遊びに行ったことを掴んだらしい。
「ごめんなさい。勝ったんだってね。おめでとう」
 純子が謝ったあとも、佐野倉が「一、二回戦は楽に勝てると思われるてるんだろう
な」とか「本当に決勝だけ観に来る気なのかな」とか言うものだから、周りにいたクラ
スメイト――主に男子の反発を買った。
「おい、謝ってるじゃねえか」「きちんと約束したわけでもないくせに」「スポーツマ
ンらしくないな」云々かんぬんと声が飛び、対する佐野倉もいちいち反論するものだか
ら、収拾が付かなくなりつつあった。
 しょうがない。一緒に遊びに行った身として相羽は仲裁に入った。
「みんな静かにしてくれよ。佐野倉、ちょっといい?」
「かまわん。何」
「誘いに乗って遊びに行った者として、弁明したいなと」
「やっぱり混じってたか。公認の仲だから、驚きゃしないが」
「悪い。誘われたときに、野球部の試合予定日だってのは頭にあった。でも、雨天順延
で日程がずれたんじゃなかったっけ?」
「その通りだが」
「女子達の話を聞いてみたら、遊びに行く予定を立てたのは、そっちの試合の順延が決
まるよりも先だった。みんな時間を調整して、決めた計画を前日になって変えなきゃな
らないとしたら、酷だと思わん?」
「……まあな。しかし、その話が本当だという証拠がない」
「粘るね、佐野倉も。その調子で勝ち続けてくれたら、絶対に応援に行くぜ」
「ごまかすな」
「証拠なら私が。証言だけれどね」
 外野から応援が入った。白沼が人の輪を割って進み出る。彼女は自身がその遊びには
加わっていないことと、VRのプラネタリウムの割引券をこの前の土曜日に使うと、純
子から知らされていたことを伝えた。
「――さあ、これでも疑う? これ以上、無駄に引っ張るのなら、いくら野球部のエー
ス、大黒柱であっても、徹底的に叩くわよ。何しろ涼原さんは今、うちの仕事を手伝っ
てくれている大事なタレントなんだから。変な言い掛かりを付けて、疲弊させないでも
らいたいのよね」
「……分かった」
 そのまま行こうとする佐野倉に、「涼原さんに謝らないのか」とブーイングが上がり
掛ける。それを制して、相羽が再び声を掛けた。
「佐野倉、余計なお世話だけど、いつもと違うように見える。こんなことを気にするタ
イプじゃないだろ。何かあったんじゃ?」
「別に」
「あ、俺知ってるけど」
 知らんぷりを通そうとした佐野倉だが、クラスにいた同じ野球部の男子によって、わ
けを暴露されることに。
「観に来ないなら来ないで、あとで残念がらせようと思ったのか、ノーヒットノーラン
を狙ってたんだよな」
「……」
 同期の部員に言われても、沈黙を守る佐野倉。
「ノーノーどころか完全試合かってペースだったのが、コールドで参考記録になるのが
ほぼ確定して気が緩んだのか、あれ? 最後のイニングで四球を出して、次にあと一人
ってところでポテンヒットを打たれて、パーになった」
 そこまでばらされて、ようやく口を開くエース。
「細かい解説なんかするな。要するに、記録を狙って変な力が入った。その上記録達成
に失敗して、いらついた。それだけだ」
 佐野倉はきびすを返して純子の机まで戻ると、腰を折って頭を下げた。
「要するに八つ当たりだ。すまなかった」
「……う、うん、私は別にいいけれど。それよりも、ノーノーって何だっけ?」
 この純子の発言には、佐野倉のみならず、話を聞いていた男子のほとんどががくっと
来たらしく、中には派手に笑い出す者までいる。
「す、涼原さん。君って……いや、まあ女子では普通か」
「佐野倉君? 悪いこと言っちゃった?」
「いや、言ってないさ。あーあ、おかげでストレス発散できたわ」
 肩のこりをほぐす仕種をする佐野倉。
「これで次の試合に集中できる。ありがとな」
 もう休み時間は残り少なかった。
 佐野倉が立ち去ったあと、相羽は純子から話し掛けられた。
「ねえねえ。私、おかしなこと言った? 佐野倉君に悪いことしちゃったのかなあ?」
「心配無用」
 相羽は次の授業の教科書などを、机に出しながら答える。
「むしろ、あの場では最高の返事だったと思うよ」

            *             *

 午後からの授業中、窓の外を眺めていた唐沢は、曇り続きの天候に嘆息した。
(この分なら明日も屋上に行かなくて済むかもな。おかげで相羽と涼原さんのために考
える時間だけはあるわけだが……もうしぼりかすしか残っていない気がする)
 ここ試験に出るからという教師の声に、はっとする。ノートを取ろうにも、教科書の
どの辺りをやっているのか、把握できていない。ひとまず、板書だけして、あとで照ら
し合わせるとしよう。
(試験か……期間に入ると、人の世話を焼いている場合じゃなくなっちまうなあ。いつ
も通り、相羽センセーを頼りにすることで、どうにか……あれ? もしかして相羽の
奴、次の定期テストって受けないのでは?)
 がたがたっと椅子で音を立ててしまい、教師からじろっと見られた唐沢。すんません
とジェスチャーで応じて事なきを得た。
(留学するんなら、最早この学校でのテストなんか受けなくていいんじゃないのかね。
もう内申書がどうこうって段階じゃないだろ。仮にそれで当たっているとしたら、俺、
ピンチじゃん)
 思わぬところで、相羽の留学が自身によくない影響をもたらすことに気付いた。たと
え今度の定期テストは受けるんだとしても、二学期以降はいなくなるんだからどうしよ
うもない。何とかせねば。
 授業が終わるなり、相羽にとりあえず泣き言をぶつけてやろうかと一歩を踏み出した
が、思い止まった。
(涼原さんに聞かれたら説明できねー。……けど、留学のことを伝えるんなら、こんな
軽い調子でもいいんじゃないかね。いつまでもぐずぐずしてるよりかは、よっぽどいい
だろうに。相羽の方から話を振ってくれりゃあ、俺は乗るぜ)
 てなことを思いながら相羽の後頭部辺りをじっと見ていると、いきなり振り返られ
た。唐沢は急いで視線を外しつつも、様子を窺う。
(――何だ。俺が見ていたのを察したんじゃなくて、涼原さんとどこかに行くのか)
 相羽に続いて純子が席を立つのを見て、ぴんと来た。
(やっと話す気になったか? なら、俺は見守るのみ)
 世話を焼く必要から解放され、あとは自分の勉強のことだけ。そう思うと、ちょっぴ
り気が楽になった。気が緩みもしたのか、白沼までもが席を立ったのを見逃してしまっ
た。

            *             *

 職員室、校長室の前を通る廊下を抜けて、校舎の外に出る。降り出しそうで降り出さ
ない空の下、相羽は純子を壁際に、自らはその正面に立った。
「それで話って何?」
 人のいないところを求めて、うろうろしたおかげで、三分以上を費やしてしまってい
た。残り七分足らず。相羽は心持ち見上げてくる感じの純子を前に、焦りと躊躇の葛藤
を覚えた。
(今日の授業が全部終わるまで待つべきだったかな?)
 弱気とも思える迷いが生じた。首を左右に小さく振る。ここまで来て、もう引き返せ
まい。
「相羽君?」
「純子ちゃん――落ち着いて聞いて欲しいんだけれど」
 そこまで言って、喉がごくっとなった。口の中が乾いてる気がする。と、この一瞬の
間を置いたことで、邪魔が入る。
「――あ、待って。携帯が」
 純子が言った。振動音が微かに聞こえる。機器を取り出しながら、「白沼さんから」
と囁き調で相羽に教える純子。
『はい?』
『どこに消えてるのよっ。追い掛けたのに、見失ったじゃない!』
 相手の剣幕に思わず耳を離す。おかげで、相羽にもその通話が聞こえた。
『どこって……相羽君と話してるところよ』
『戻って。教室と同じフロアの東端にいるから。学校で携帯使うくらいなんだから、緊
急の連絡だって分かってるわよね。お仕事の話』
『えーと、電話じゃだめ?』
『だめ』
 一方的に告げられ、切られた。純子は携帯を仕舞い、両手のひらを合わせながら相羽
に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、急用みたい。話、あとでも大丈夫?」
「う、うん。またあとで。行ってらっしゃい」
 ぎこちない言葉遣いになるのを自覚した相羽だが、純子はそのことを気にする風でも
なく、再度「ごめんね」と言って、スカートを翻した。
(ほっとしたような、これじゃだめなような)
 急ぐ彼女の背中をぼんやり見つめながら、相羽はため息をついた。

            *             *

 唐沢は廊下に出ていた。純子が結構なスピードで走って行くのを目撃したからだが、
すでに彼女の姿は見えない。
(廊下走ると先生に怒られるぞ。……やっぱり、相羽から打ち明けられて、ショックだ
ったのかねえ? 顔はよく見えなかったけれども)
 どうしようもなくてぽつねんとたたずむ。五分近くそうしていたが、純子は戻って来
ない。もうすぐ授業だぞと思い始めた頃、相羽が横を通り過ぎた。そのまま教室に入る
ようだ。
「よ、相羽。待てよ」
 寸前で呼び止め、右腕を引っ張って教室とは反対側に連れて行く。
「何。今、軽く自己嫌悪してるところなんだけど」
 その台詞の通り、相羽は冴えない目付きをこちらに向けてきた。
「てことは、ついに言ったのか。それで涼原さんが」
「何のこと?」
「こいつ、何でまだとぼけるんだよ、この」
 唐沢は相羽の脇を小突いて、「留学の話だよ」と言ってやった。割と大きなボリュー
ムになった。
 その台詞が終わるか終わらないかのタイミングで、廊下の向こうから早足で歩いてく
る純子の姿が認識できた。続いて白沼も。
 ちょうどいいと感じた唐沢だったが、次いで相羽の反応を目の当たりにして、はっと
なする。
「もしかして、まだ、なのか?」
「ああ。タイミング悪く、白沼さんから呼び出しがあって――」
 答えた相羽も、純子が接近中だと気付いたようだ。唐沢は片手で謝るポーズをしなが
ら、ひそひそ声で言った。
「わ、わりぃ。今の聞こえちまったかも」
「……」
 相羽は唐沢を押しのけるようにして一歩前に出た。すぐ先を純子が通ろうとする。
が、眼前を横切る寸前に、教室後方のドアへと足を向けた。
「相羽君、授業始まるよ。唐沢君も」
 純子が言って、微笑みかけてきた。あとを追うように来た白沼が「早く入って、席に
着いてよね。怒られるのは委員長と副委員長かもしれないんだし」と、特に唐沢に向け
た忠告を発した。
「へいへい」
 唐沢は努めて軽い調子で応じながら、内心では盛大に安堵していた。
(セーフだったか〜)

――つづく




#556/573 ●長編    *** コメント #555 ***
★タイトル (AZA     )  19/10/31  20:40  (390)
そばにいるだけで 68−2:先行公開版   寺嶋公香
★内容
 またもや先行公開版のみです。(^^;
 本来なら連載ボードに移行すべきところですが、とりあえずこの『そばにいるだけで
 68』は長編ボードで完結させようと思います。ご了承くださいませ。

======================================

            *             *

 純子は手のひらの中のメモを丸く握りつぶした。
 メモには白沼からの緊急の用件が書いてある。夏の音楽フェスティバル用のテレビ特
番がいくつかあるが、その一つから打診があったという。テラ=スクエアの会場から生
中継で久住淳に唄ってもらうのはどうかと。この件をメールで知らされた白沼は最初、
理解に苦しんだようだが、久住が風谷美羽(純子)と同じ事務所だと思い出して、純子
に伝えるに至ったらしい。純子はその話を聞かされた際に、白沼から「顔を売るチャン
スだから、あなたも何か唄わせてもらえば」と言われ、苦笑いを堪えるのに苦労した。
と同時に、変な勘ぐりもした。もしかして、加倉井さんのところが手を回して、久住を
引っ張り出そうとしてるんじゃあ……と。
 しかし、今の純子は数分前のやり取りを思い返している場合ではなかった。
(留学……って言ってた)
 相羽に話し掛ける唐沢の台詞は、間違いなくそう聞こえた。前後はほとんど聞き取れ
なかったけれども、留学の話をしていたのは確かだ。
 先生が入って来た。唐沢が号令を掛け、起立礼着席。一連の動作に、純子も遅れずに
着いていった。
「試験がそろそろあるのに、遅れ気味だったから、ちょっとスピードアップするよ。緩
急に注意していれば、ここは試験には出ないなと分かるかもしれないよ」
 軽く笑いを取ってから、本日最後の授業、日本史が始められた。純子も表情だけ笑っ
て、板書のための鉛筆を構えた。
(留学って、当然、相羽君のことよね)
 相羽の方をちらっと一瞬だけ窺い、考え込む。
(前に言っていた、エリオットさんがいる学校。J学院のこと? 断ったのに、また持
ち上がった? どうして話してくれないの?)
 そこまで思考が進んで、あっとなった。声に出さなかったのが奇跡的なくらいに、ぴ
んと来た。
(さっきの休み時間のあれが……)
 もう一度、相羽の方を見た。今度は様子を窺うだけでなく、問い掛けたくてたまらな
かった。努力して我慢する。
(あなたは何て言うつもりだったの? 留学するかしないか迷ってる? それともまさ
か、もう決めたとか? だとしたらいつから? 緑星を卒業したあとの進路?)
 色んなことが浮かんできたが、純子自身にとって最悪のケースだけは、心の内でも言
葉にはならないでいる。
(それをどんな風に私に言うの? 明るく、軽くか、反対に深刻な調子? 言われた私
はどうすれば)
 仮定の積み重ねに、答の出しようがない。改めて言ってくれるのを待つのが、今は一
番いいのかもしれない。だけど全く考えずにいようとするのは難しく。
(聞き違いだったらいいのに)
 そう願ってもみたが、自分自身で信じられない仮説だ。残念ながらというのはおかし
いが、鷲宇憲親のレッスンを通じて音楽に携わるようになって以来、耳はよくなった。
音感だけでなく、聞こえも聞き分けも。
(唐沢君と、どんな話をしてたんだろう)
 留学と発言した主を思い浮かべる。
(だいたい、唐沢君が知っているのはどうしてなの。私、まだ知らないのに)
 少し腹が立ってきた。理不尽とまでは言わないが、順番が違うんじゃないのと抗議を
したくなる。
(唐沢君にも黙っていたけれども、ばれたのかしら。だったら、私に言おうとしたのだ
って、他人に知られたから仕方がなく……?)
 純子はかぶりを大きく振った。全くの想像だけでここまで悪く見るなんて、してはい
けない。
「涼原さん、どうかしましたか」
 先生に名を呼ばれ、反射的に立ち上がる。さっきの続きみたいに頭を振りながら、
「いえ、何でもないです」
 と笑み交じりに答えた。
「眠いのでしたら、顔を洗って来てもかまいません」
「大丈夫です、先生」
 ようやく座らせてもらえた。というよりも、元々立つように言われていないのだけれ
ども。
 着席するとき、相羽が振り向いて目が合った。ここでも純子は笑みで返した。

 日本史の授業が終了すると、純子は手早く片付けた。  教科書やノートだけでなく筆
記具も何もかも。そのまま学生鞄を持って、席を離れる。
 机の間を縫って、唐沢の方に向かう。背中に相羽の視線を感じる。そんな気がした。
「あれれ、帰るの? ホームルームは?」
「ごめん。ちょっとだけ早引け。白沼さんを通じて仕事の話が来て、急いで知らせない
といけないから」
 だいぶ嘘が混じっている。恐らく純子が知らせなくても、市川達は把握済みだろう。
対応をみんなで急ぎ考える必要があるのは事実だが、そのために早引けするのではな
い。
(やっぱり、今は聞きたくない。相羽君の話を聞かないで済むようにするには)
 そう考えた結果、導き出した逃げ道だ。
「一応、神村先生にも言いに行くけれども、すれ違いになるかもしれないから、委員長
に言っておこうと思って」
「承知した。――で、その」
 すぐに廊下へ向かおうとした純子は、唐沢の声に立ち止まった。
「うん?」
「いや、なんだ、普通に元気だなあと思って」
「そ、そう?」
 もし元気そうに見えるのなら、精一杯の空元気よと心中で付け加える。
「じゃ、よろしくね」
 唐沢に手を振り、相羽の隣も通った。黙って通り過ぎるのは不自然で失礼だ、さっき
の休み時間にできなかった話について、何か言わなければ、
(『話は、明日また時間があるときにね』)
 というフレーズが喉から出掛かった。だけど、言えなかった。
「相羽君。ばいばい」
 手を振って、今日は別れた。

 仕事の話をするには不安定な心境だったし、行かねばならない理由もない。にもかか
わらず、とりあえず事務所に寄ってみたのは、やはり久住淳としての仕事をどうするの
かが気になるから。
(それに……仕事に集中すれば、ちょっとは気が紛れるかも)
「あのー」
 ドアをこっそり開けると、一人、市川だけがいた。大きなデスクの上に腰掛け、壁掛
けタイプの紙製カレンダーとにらめっこしていた。教師が使うような指し棒を操り、七
月と八月を行ったり来たりしている。
「お。ちょうどよかった。来てくれたんだ」
「はい。久住に来た仕事は特に判断が難しいですから」
「しーっ。ドアを閉め切らない内に、微妙な言い回しをしないように」
 注意を受けドアをきちっと閉めてから、純子は適当な椅子に腰を下ろした。
 市川は腰を軸にくるっと向きを換え、床に立つと、純子の近くの椅子に座った。
「どう聞いてる? その前に、聞いたのは同じクラスの白沼さんからかな」
「仰る通りです。白沼さんがメールを受け取って、教えてくれました。事務所にもテレ
ビ局からの話は届いていたんですか」
「テラ=スクエアさんへ中継を申し入れた件も含めてね。ご挨拶に出向きますってなニ
ュアンスで言われたから、ここに来られるよりはと思って機会があれば局の方でと返し
ておいたわ。当人が行くとの約束はしてないから、どうにでもなる」
 普段に比べると、市川が慎重な態度を取っているようだ。純子はストレートに疑問を
ぶつけた。
「どうしたんですか。いっつも、大きなお仕事は前のめり気味に決めようとするのに」
「うーん。予感がした」
「予感?」
「加倉井舞美の影を感じたんだよねえ。おいしい話にほいほいと乗ったら、彼女のとこ
ろが出て来そうで。加倉井さんと絡むこと自体は注目度が上がるから悪くはないけれど
も、あちらさんの方が事務所の力は圧倒的に大きい。だからといって意のままに操られ
るのは願い下げってこと。その辺を調べるために、杉本君達を動かしてはみたものの、
首尾よく探り出せるかしら」
 話を聞く内に、「私の知っている探偵さんに頼んでみましょうか」などと言いそうに
なった純子だったが、思い止まった。こんなことで手を煩わせるのは申し訳ないし、
(仮に想像が当たっているとして)加倉井にも悪い気がする。
「そもそも加倉井さんのところは関係していないと思うんですが。鷲宇さんが用意した
んじゃあ?」
 白沼から話を聞かされた際、真っ先に思い浮かべた線を聞いてみた。音楽関係の大き
な仕事となると、鷲宇憲親が一枚噛んでいると見なす方が自然だ。
「そう思って問い合わせてみたけれども、相変わらずのご多忙で掴まえられなくてさ。
それに噂で聞くところによると、鷲宇さんは国外での活動が長かったせいもあって、テ
レビ局の知り合いって、想像するほど多くはないみたい。私らを、というかあなたを驚
かせるためだけに、事前の予告なしにテレビ局を動かしてどうこうするっていうのもあ
の人らしくない。外野から見れば、露骨なえこひいきになる」
「言われてみれば確かに、そうですね……」
 鷲宇を疑って申し訳ない気持ちが、純子の声を小さくさせる。両手を握って、気を取
り直す。
「思い切って、ずばり聞いてみるのはどうでしょう?」
「何て」
「たとえば、音楽フェスにうちの久住が出るとしたら、加倉井さんも出ますか?とか」
「どこがずばりなのやら。どちらかと言えば、持って回った感が恋のさや当てに聞こえ
るわよ」
 呆れ顔でそう評されてしまった。
「まあ、ほんとに認められてご指名が来た可能性も当然ある。そのときは受けるつもり
なんだけれども、スケジュールがね」
 カレンダーに顎を振る市川。
「八月中旬なんだけど、すでに決めたスケジュールが立て込んでいて、かなりタイトな
んだ。って言わなくても分かってるでしょうけど」
「はあ」
 天文部の合宿に行く時間を作るために、あれやこれやと調整をした結果である。
「今から合宿なしにしてというのは、無理よね?」
「も、もちろんです。当たり前です」
 即座に答えたものの、内心ではふっと別の感情がよぎった。
(相羽君はどうするんだろう……)

 電話なりメールなり、何らかの形で相羽が連絡を取ろうとしてくるんじゃないだろう
か……という純子の半分希望込みの予想は外れた。疲れているのにしばらく寝付けなか
ったせいで、今朝起きたときは目が腫れぼったい感じがした。鏡の前に立ってみると、
さほどでもなく、少しほっとできた。
(きっと、直接会って言ってくれるんだよね。電話やメールで済ませることじゃないっ
て。それが今日の学校で)
 考える内に、心の中に重石を入れられたみたいに落ち込んでくる。一晩明けて、聞き
たくないという気持ちの方が強くなっていた。できれば会いたくない。今日はまだ知ら
せたくない。休みたい。
 一瞬、仮病を使おうかという思いがよぎった。だが、首を左右に振って吹っ切る。髪
と髪留めのゴムに手をやり、朝の支度に取り掛かる。
(こんな嘘はよくない。それに、相羽君を試してるみたいになる)
 しっかりしなくては。弱気を追い出そう。昨日は一刻でも早く事情を知りたがってい
たのに、今は怖がっている。
 気持ちの上ではそう努力しているのだが、実際には簡単にはいかない。何かにつけて
足取りが重くなり、全体の動作ももたもたとスローに。結果、いつもの電車を逃したせ
いで、学校に着いたのは始業ぎりぎりになってしまった。
(――いる)
 教室の戸口のところで、隣の席に相羽が来ていることを視認し、すっと目線を逸らす
純子。自分の席に向かう途中、結城らから「おはよ。遅かったね。何かあった?」等と
声を掛けられたが、曖昧に「うんちょっと寝坊」と返すにとどまる。
「おはよう。大丈夫?」
 着席するタイミングで、相羽から言われた。
(大丈夫じゃないように見えるとしたら、あなたのせいよ)
 純子が涙ぐみそうになるのを堪え、軽く頭を振った。悪意に取り過ぎたと反省する。
(今の言葉は、遅刻しそうになったのを心配してくれただけのこと。相羽君は私が留学
話に勘付いたって知らないんだから)
「おはよう。寝坊しちゃった」
 今できる精一杯の笑顔で返事しておく。一コマ目の授業の準備をしているとベルが鳴
って、じきに先生がやって来た。授業がこれほどありがたく思えるのは滅多にない。

            *             *

 二時間目が終わって、この日二度目の休み時間を迎える。その頃には、相羽も「おか
しいな?」と思い始めた。
 一時間目が終わってすぐ、純子に話し掛けようと名前を呼んたのだが、返事をくれる
ことなしにすーっと席を離れ、廊下に出てしまった。トイレか何かかなとしばらく待っ
たが、結局次の授業が始まるぎりぎりまで帰って来なかった。
 そして今し方話し掛けようとすると、手のひらでやんわりと壁を作られてしまった。
「あとでね。――マコ!」
 声を結構大きめに張り上げ、結城の方へ行く。何か話しているが、内容までは分から
ない。
 その後も、昼休みを含めた全ての休み時間で、まともに話す機会は訪れなかった。都
度、純子は淡島と話をしたり、白沼と話をしたり、あるいは一年生の教室に遠征してみ
たり(多分)と、相羽を遠ざける。
 唯一、天文部の太陽観測に顔を出す際にチャンスがありそうだった(唐沢も含めた三
人による移動になるが)。が、これもまた、純子が突然、お腹の具合がよくないみたい
と言い出して、離れてしまう。
「……」
 何とも言えぬまま見送った相羽が嘆息し、前を向くと唐沢と目が合った。
「涼原さんと何かあったのか」
「いや、別にない」
「今日は朝から避けられてるみたいに見えるんだが」
「やっぱり、そう見えるんだ?」
「涼原さんの態度、露骨だぜ。ていうか、普段一緒にいるのが当たり前の二人が、こん
なんだったら逆に目立つ」
「……心当たりがないんだけど、そっちは?」
「待て。心当たりがない? つーことは例の話、まだ言ってないんだな?」
「言ってない。昨日は色々邪魔が入ったし、今日はタイミングが合わない」
「……まずいな」
 唐沢が顎を片手で覆い、呟いた。何がと相羽が聞き返す前に、二人は屋上に到着。そ
のまま観測の手伝いに入ったため、話の続きはできずじまいに。純子はだいぶ遅れてや
って来たが、もちろん私語を交わす暇はなかった。

 完全に避けられているなと自覚したのは、放課後だった。ホームルームが終わるや否
や、相羽が何も言い出さない内に純子が独り言めかして、「もう少ししたら期末試験が
あるから、早めに勉強しておかなくちゃ。あぁ忙しい」と言い置き、さっと教室を出て
行ったのだ。
 またもや見送るしかできないでいた相羽は、肩を叩かれて振り返った。真顔の唐沢
が、ちょいちょいと右手人差し指で手招きならぬ指招きをし、内緒話を求めて来る。
「何?」
 顔を寄せた相羽に、唐沢は耳打ちに近い格好を取る。
「今日一日、様子を見ていて悪い直感が働いた。もしかしたらだが、例の話、涼原さん
にばれたのかもしれない」
「言ってる意味が分からない」
 相羽が重ねて聞くと、唐沢はこのままでは喋りにくいと判断したのか、「時間ある
か? あるんなら場所、移そうぜ」と確認してきた。相羽は黙って頷き、鞄を小脇に抱
えた。
「天文部の誰かに見付かると気まずいから、学校の外がいいな。どっか、ファースト
フードとか」
「あの話をするんだったら、緑星の生徒が来そうにない場所の方が」
「それもそうか」
 唐沢は歩みを一瞬止めたが、場所の選定をすると再び歩き出した。
「芙美の家に行こう。あいつ、帰ってりゃいいんだけどな」
「な? 町田さんのところ? 何で? いや、それよりもまさか」
 これから町田さんに留学話を伝えるのかと聞こうとした相羽。急な展開に困惑気味だ
ったが、唐沢からの答は想像を上回っていた。
「先に謝っておく。すまん、例の話、実はもう芙美に言ってるんだわ」
 それを聞いた相羽は、先を行く唐沢の後頭部に鞄をぶつけたくなった。衝動を我慢す
る代わりに、声をやや荒げる。
「一体何を考えてるんだよっ」
「女子の立場からの意見を聞きたくてな」
「っ〜。唐沢が考えているのは、町田さんが純子ちゃんに教えたっていう線なのか?」
「全然違う。大外れだ」
 唐沢がいきなり立ち止まり、振り返った。勢いづいていた相羽の急ブレーキは間に合
わず、肩と肩がぶつかる。
「相羽。この件で俺を悪く言うのはかまわない。けど、あいつは違うからな。芙美は俺
なんかよりずっと口が堅い」
「……ごめん。ひどいこと言ってしまったな。謝る」
 距離を取り直して頭を下げた相羽に、唐沢は「今の段階なら謝らなくていいって」と
応じた。横並びになってまた歩き出してから、付け加える。
「さっきも言ったが、謝るべきは多分俺の方だし」
「分からん」
 首を傾げる相羽。
「今すぐに推測を話してやってもいいんだが、説明を繰り返すのが面倒だからな。芙美
の家に着くまで待て」
 唐沢に言われて素直に付き従い、町田の家の前まで来た。駅に降り立った段階で電話
を入れ、彼女が帰宅していることは確認済みで、かつ、これからの訪問の了承ももらっ
ていた。ただし、唐沢だけが来ると思われていたようで。
「お――珍しい。おひさ」
 びっくりしたのか、言葉の軽さとは対照的に、町田の表情はちょっと硬くなったよう
だった。

 〜 〜 〜

「――というわけで、廊下で俺が不用意に掛けた言葉が、涼原さんの耳に届いていたと
したら、ばれただろうなって」
 極力、明るく軽い口調で自らの想像を説明し終えた唐沢。喉が乾いたか、町田の出し
たジュースを呷る。
「これやたらと甘いな。毎日がぶ飲みすると、ぶくぶく太り――」
「甘いのは、あんたの脇でしょうが。男がどうこう女がどうこうとか言いたくないけ
ど、敢えて言うわ。男の喋りは格好よくない」
 町田がずばり指摘すると、唐沢は力なく項垂れ、「その通りです、面目ない」と甘ん
じて受け止める。
 町田はしばし唖然としたようだったが、面を起こした唐沢が片目でちらと様子を窺う
素振りを示すと、大半が演技だと気付いた。これ見よがしにため息をつき、今度は相羽
の方に顔を向けた。
「えーっと。まずは、何を言うべきかしら。留学おめでとう? 違うか」
「あ、いや。ありがとう」
 相羽は浮かんだ戸惑いをすぐに消すと、微笑しながら礼を返した。町田も少し笑った
が、すぐにまた表情を引き締めた。
「で、敢えて聞くわよ。何で純にすぐ言わないで、ずるずる引き摺っていたのかな」
「一番いいタイミングを探して、見付からなかった。それと……僕自身、伝えるのが怖
いと思っていたのが大きい」
「――素直でよろしい。でも、純の立場からしたら、ちょっとでも早めに知らせてくれ
るのがどんなにいいことか」
「うん。それに気付かされて、早く知らせようとした途端、こんな事態に陥ったという
か」
 相羽が答えると、町田はむーと唸って、少しだけ考えてから、今度は唐沢に対して言
った。
「公平に判断して、あんたの方により責任があるわ、やっぱ」
「そうかなあ。五分五分だと思うが。って、そんなことを聞きたくて来たんじゃねえ」
 三人が囲むテーブルを唐沢が手で叩こうとすると、町田は飲み物の残るグラスを持ち
上げた。
「分かってる。だいたい察しは付いたわ。大方、私に探りを入れさせようっという魂胆
ね」
「鋭い」
 握った拳を解除して、町田を指差す唐沢。町田はその指を払う仕種をした。
(なるほど。そういう意図があったのか)
 二人のやり取りを目の当たりにして、相羽は遅ればせながら飲み込めた。遅れたの
は、唐沢が町田に留学話を教えていたことを知らされたばかりというハンデがあったせ
い。だが、たとえハンデがなくても、町田にスパイじみた真似をしてもらうのは、相羽
一人では気兼ねしてできなかったかもしれない。
「引き受けてくれるのか?」
 唐沢が手を拝み合わせながら尋ねるのへ、町田は「しょうがないじゃない」首肯す
る。
「引き受けるけれども。もし仮にここで私が、私にはメリットがないとか言って断った
らどうするつもりなのよ、キミ達?」
 “キミ達”と複数形を用いていながら、彼女の両目は相羽に向けられている。相羽は
ほぼ即答を返した。
「町田さんはそんなこと言わない。この話を拒否する理由がメリットがないだなんて」
「――なるほどね。リアリティのない仮定になっちゃったか」
 一本取られたわと続けた町田は、質問をぶつけてきた。
「他人の色恋沙汰にはなるべくノータッチで行きたいところだけど、関わるからには私
にとって望ましい結果になるように、純のためになるように行動するからね。私が探り
を入れた結果、純子が相羽君の留学をすでに知っているとなったら、どうしたいわけ
?」
「……僕の選択肢は元から一つしかないよ。心の準備が違ってくるだけ。あ、純子ちゃ
んがいつまで経っても話を聞いてくれなかったら困るけど」
「そりゃそうよね。じゃ、うまく行く保証は無理だけど、あの子の気持ちが話を聞く方
に向くよう、がんばるわ」
 町田は若干、緊張した面持ちになって請け負うと、学生手帳を開いた。
「それで? 今の純にとって暇な日っていつ?」

            *             *

「芙美!」
 水曜の学校帰り、純子はターミナル駅前のロータリーで町田と待ち合わせをした。運
行の都合で、純子の方が三分あとになるのは分かっていたこと。けれども、なるべく待
たせたくない、ちょっとでも早く会いたい気持ちから駆け足になっていた。
「純!」
 呼応する町田の声や表情が以前と全く変わらないことに、何だかほっとする。
「待った?」
「待った待った。思ってたより早く学校が終わったから、早く来ちゃってさ」
「え、どのくらい?」
「安心して。五分」
 ひとしきり笑って、どちらからともなく出た「会えて嬉しい」「私も」という一連の
言葉が重なった。
「とりあえず、どこかに入って落ち着こうか」
 適当に移動し、近く――といっても裏通りに喫茶店を見付けた。“金糸雀”という名
前のその店は、駅周辺のカフェにしては古びた外見で、窓からちらっと窺える様子も落
ち着いた雰囲気、客層からして大人向けに思えた。
「騒ぐつもりじゃないし、私らだけならここで大丈夫でしょ」
「騒ぐって、もしかしたら唐沢君を想定してる?」
「純、私が常にあいつのことを思い浮かべてるみたいに言わないで。今思い浮かべてい
たのは、久仁香と要よ」
「だよね。わざと言いました」
 店前でお喋りしていると、ちょうど中から三人組のお客が出て来た。入れ替わるよう
にして、純子達二人はドアをくぐった。店員らしき人物は、左手にあるカウンター内に
長めの髭を生やした男性が一人。見た目のイメージよりずっと若い声で「いらっしゃい
ませ」と迎えられ、お好きな席にどうぞと促される。中程の窓際にある二人席に向かい
合って収まった。長めの髭を生やした男性店員、多分マスターがカウンターから出て来
て、純子達のテーブルにお冷やとおしぼりを置いてから注文を取る。長時間の滞在はで
きないこともあって、ともにアメリカンを選んだ。
 マスターがカウンターの向こうに戻ってから、町田が純子に耳打ち。
「冷たい物じゃなくてよかったの?」
「冷たいのって最初から甘い物が多いから。レッスンがない時期は、ちょっとずつ節制
しないと」
「ああ、期末考査があるもんね」
「芙美こそ、遠慮しないでケーキの一つでも頼めばいいのに。よかったらおごる」
「遠慮してるわけでは。それより、おごるって何で」
「だって、誘ってくれて嬉しかったんだもん」
「普通、おごるとしたら誘った側でしょうが。まあ、どっちにしても今日はいらない。
最近、結構食べてるからねえ甘い物」
「じゃあ、次の機会は絶対に」
 話す内に、早々とアメリカンコーヒー二つが届く。単なる薄めのコーヒーにあらず、
香りだけで満足できそう。
「うん、いける」
 一口飲んだところで、町田が言った。コーヒーの味の善し悪しにはたいして拘りのな
い純子も、これは美味しいと感じる。同意を示そうとした矢先、町田が尋ねてきた。
「そういえばさ。純がコーヒー頼むのって珍しくない?」
「えっ、そうかな。そうかも」
 家ではそれなりにインスタントを飲むが、外でわざわざ注文するのは、ほとんどなか
ったかもしれない。この店はコーヒー専門店ではない。紅茶もジュースもある。
「たいてい紅茶だったよね。好みが変わった?」
「変わってはないけど、今日は何となく」
「ま、考えてみれば、紅茶はもういいってくらい普段飲んでるんでしょ? 自宅だけじ
ゃなく、相羽君に入れてもらうとか」
「あ」
 純子は反応できなかった。遅れをごまかすために、スプーンを持ってコーヒーをかき
混ぜる。
(ひょっとして私……相羽君のことを避けようとして、紅茶まで避けた?)

――つづく




#557/573 ●長編
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:20  (177)
クリスマスツリーは四月に解ける 上   永山
★内容                                         20/03/09 19:43 修正 第3版
 小学校では二年ごとにクラス替えが行われた。だから、高校生になった今、希にあの
出来事は小三のときだったかな、それとも四年生のときだったかなと迷うことがある。
けれども、あの出来事はいつだったか、絶対に間違えない。六年生の十二月だ。
 当時、小学校ではふた月に一度ぐらいのペースで、お楽しみ会なる催し物が各クラス
単位で行われていた。外でひたすらドッジボールをやることもあれば、クイズ大会(単
に出題するのではなく、知力体力時の運てやつ)もあった。班単位に分かれてレクリ
エーションの進行を受け持つイベントでは、よくあるハンカチ落としや“箱の中身は何
だろな?”、笑い話を一斉に聞かせて笑った者から脱落なんてのもあった。
 そして十二月はクリスマスが定番。もちろん二十四日には学校は冬休みに突入済みの
ため、上旬に行うのだけれど、なかなか雰囲気があってよかったと記憶している。
 最終学年である六年生ともなると、力の入れ方が違ってくる。でもはっきり覚えてい
るのはそれだけが理由じゃない。
 その年の四月、一人の転校生がクラスに来た。北浦拓人《きたうらたくと》という男
子で、見た目も中身もおとなしい子だった。背はクラスで真ん中ぐらい、色白で運動は
苦手みたいだったけど、かけっこと水泳だけは早かった。顔は……頼りない感じの二枚
目、かな。
 特に目立つタイプではないけれども、大勢に埋没するでもなし。さっき言ったおとな
しいというのは、私達女子から見てのことだったらしく、男子同士では普通に話してい
たみたい。で、いつの間にかクラスに溶け込んでいた。
 北浦君を初めて意識したのは家庭科。同じ班になっていたからあれは二学期。エプロ
ンを縫う課題を、手早くかつ丁寧にやり遂げた。私は裁縫が苦手で、うらやましく思う
気持ちが表に出たのか、北浦君に「分からないところがあったら言って。できる限り教
える」と言われてしまった。ありがたいんだけど恥ずかしいって感じがして、私の方が
ちょっと素っ気ない態度を取っていたかもしれない。それでも、彼が縫うのを見てい
て、その細くて長い指が器用に動くのが印象に残っている。

 十二月のお楽しみ会は、プレゼント交換やキャンドルサービスの他、クラスのみんな
がそれぞれ五分から十分程度の持ち時間で、出し物をやることになった。要は隠し芸大
会みたいなもの。
「えっ。手品、できるの?」
 事前に全員が自己申告した上で作られたプログラムを見て、私は北浦君に思わず聞い
た。
「うん」
 彼は照れたみたいにほんのり頬を赤くして答えた。その頃にはかなり仲よくなってい
た。
「お、自信あるんだ? 『一応……』とか言わないくらいだから」
 私が笑いながら指摘すると、彼は慌てて「あ。一応」と付け足した。そんな風だった
から、あんまり期待しないでいたんだけど、本番で私は、ううん、私達クラス全員はび
っくりすることになる。
 当日、会場の理科室にはクリスマスらしい装飾が施された。黒板にサンタクロースや
トナカイのそり、クリスマスツリーに雪だるまといった絵が描かれ、窓はスプレーの雪
が吹き付けられ、折り紙でできたリングチェーンが彩る。本物ではないけれどもクリス
マスツリーも用意して、教室の上座の隅を飾る。実際の天気は晴れで、雪が降らないど
ころか、この季節にしては暖かいほどだったが、ムード作りはばっちりだ。
 出し物は歌が一番多く、半数を超えるくらいいたからちょっとしたカラオケ大会にな
った。ちなみに参加は単独でもペアでもグループでもいい。歌そのものよりも振り付け
を頑張った口も結構いた。歌とは別に、ダンスを披露したグループがいれば、ものまね
を披露した男子もいた。そんな中でも漫才をやった二人組は素人離れしていて、大いに
受けて大いに盛り上がった。
 この流れを受けてとりを務めたのが北浦君の手品。こういう順番になったのは期待値
の大きさではなく、単に手品は色々散らかるから、最後にするのがいいという判断。当
然、私は内心、大丈夫かなと心配していたわけ。この日までに北浦君の手品を見た人が
クラスにいたのかどうか、定かでない。でも先生はチェックしたと思う。会場がいつも
なら自分達の教室なのに、今回に限って理科室になったのは、北浦君の手品に関係して
いるらしいから。
 廊下で準備を終えて入って来た北浦君は、普段と違って芯が通ったように見えた。典
型的な手品師のイメージである燕尾服にシルクハットではなく、ジャケットを羽織っ
て、いつもの半ズボンがジーパンになっただけなのに、ちゃんとマジシャンらしく見え
る。ただ、プロマジシャンと違って、色んな道具をデパートの大きな紙袋に入れて自分
で運んで来たのが、そこはかとなくおかしい。
 それでも、わずかの緊張と自信が表れていて、何て言うか凄くいい顔をしている……
と見とれてしまった。それは一瞬だけで、我に返って赤面を自覚しつつも、成り行きを
見守った。これでこけたら承知しないからって気持ちになってた。
 北浦君は荷物を教卓の陰に置いてから一礼すると、背中側からステッキを取り出し、
いきなり始めた。バトントワリングのような手さばきを短く見せたかと思うと、ステッ
キをふいっと宙に浮かせる。「おお」って声が上がる。最初は両手のひらで包む格好
で、いかにも見えない糸で吊っていますって感じだったのが、段々と手を離れていき、
上下左右に大きく動くように。驚きの声が大きくなったところで、北浦君はぴたりと動
作をやめる。と、左手からステッキがぶら下がるみたいに浮かんでいる。それから左手
のステッキの間の空中に、右手をチョキの形にして持って行き、はさみで切る仕種をす
る。同時に、ステッキが床に落ちて、からんからんと乾いた音を立てた。
 何だやっぱり糸かという声が聞こえたけれども、北浦君、意に介した様子はない。逆
にその声に応えるみたいに両手を動かすと、再びステッキが宙を飛ぶように浮いて、右
手でキャッチした。観ているこっちがまた「おおーっ」となっている目の前で、ステッ
キを四、五本の花に変えてしまった。矢継ぎ早の技に驚きの歓声が止まらない。
 皆が落ち着いたところで、改めて北浦君が口を開く。「受けてよかった」とほっとし
た顔つきで言って、笑いを誘う。
「続いては……その前に、この花、造花で再利用するから仕舞っておかないと」
 持参した袋に造花を戻す北浦君。次に振り返ったとき、突然、何かが飛んできた。み
んながびっくりしてその物体をよける。びっくり箱に入っているような下半身が蛇腹の
ピエロの人形だった。
「あ、ごめん」
 とぼけた口調になるマジシャン北浦。
「びっくりした? こういうことも入れておかないと、すぐにネタが尽きて間が持たな
いので。次に進む前に、身体の緊張をほぐしましょう。簡単なストレッチを一緒にどう
ぞ。これから僕のする通りにやってください。やりにくかったら立ってもいいよ」
 手のひらを開き、両腕をまっすぐ上に挙げる。次に両手を頭上で交差させ、手のひら
を握り合わせる。そのまま胸の高さまで下ろす。
「ここまではいい? 分からない人、自信のない人はいない?」
 さすがにこれくらいは誰にでもできる。でも北浦君は「そこ、加治木《かじき》とか
坂口《さかぐち》とか大丈夫?」と仲のいい男子を名指し・指差しして、確認を取る。
ようやく安心できたのか、続きに戻った。
「みんな準備できたところで、最後にこうしてください」
 言いながら、ねじれた状態で組んでいた両手を離すことなくねじれを解消し、手のひ
らを私達観客側に向けた。
「え?」
 そこかしこで、戸惑いの反応が出る。誰も北浦君と同じようにできていないようだっ
た。ざわつく私達に向けて、「時間が余ったら種明かししまーす。てことで次行くよ」
と告げた。満足げで調子が乗ってきた様子。
 もうあとは彼の独壇場。取り出したスカーフを両手でぴんと張り、その縁を小さな
ボールが左右に移動し、二つになり、最後には重なって雪だるまになる。
 先生が鉛筆や物差し入れにしていた空き缶を受け皿に、お金(おもちゃのコインだけ
ど)を次から次へと生み出して投じていくが、最後に缶を見ていると空っぽのまま。が
っかり――と思ったら、両手でも余るような特大の硬貨が教卓の上にどんと置かれる。
 三つの金属のわっかが、つながったりまた離れたりを繰り返す。私達もわっかを触ら
せてもらったけど、切れ目が見つからない。
 そのわっかのチェックをした流れで、トランプのカード当ての相手に選ばれた。自分
がサインしたハートの四が、トランプの山のどこに入れても一番上から出てくるという
のはテレビなんかで見たことあったけど、目の前でやられるとまた格別で魅了される。
最後にはサインしたカードは自分の両手の間でしっかり持っていたはずなのに、やっぱ
り山の一番上になっていて、じゃあ持っていたカードは何?と確かめてみるとスペード
の八で、そこには北浦君のサインまであった。スマイルマークと「みまちがえたでし
ょ?」という台詞付きで。
「見間違えてなんかないわよ。でも……」
 カードを見つめながら考え込んでしまう。
「考えたいならそのカードとハートの四はあげるよ」
「あ、ありがと。だけど、二枚のカードをにらんで考えて、種が分かるもの?」
「うーん、無理」
 なんだと肩すかしをされた気分だけど、まあ記念にもらっておこう。お楽しみ会の間
は、他の子から見せて見せてと言われたので貸したけれども、終わったら大事に仕舞う
んだ。
「名前を書いたカード同士、ひっつけておくのは占い的に何かあるかもしれないんで、
ようく剥がしておいてね」
 手元に戻って来たとき、北浦君から謎の念押しをされた。

 北浦君がフィナーレを飾るマジックの前に、カーテンを閉めてと言い出した。皆率先
して、校庭側、廊下側の両方ともカーテンをきっちり閉める。普通教室と違って黒くて
分厚い布地のおかげで、部屋はほぼ真っ暗になった。
 北浦君は一旦教室の電気を点けると、「暗いと見えなくなるだろうから、今の内に僕
が何も持ってないことを確認しといて」と両手の裏表をゆっくりと見せた。先生が電灯
を消す。
 やがて始まったマジックは、それまでとひと味違う、幻想的な物だった。昔の、小さ
な宇宙生物が主役の映画についてちょっと語ったかと思うと、その映画の象徴的なシー
ンを再現するかのように、彼の人差し指の先端が光を放つ。まぶしくはない。豆電球レ
ベルの光だけど、そのオレンジ色は温かく映る。マジシャンが右人差し指を左手に向け
て振る、と、光が左手の人差し指に移動した。そこからは自在に光は指先を移動を始
め、ややくどくなりかけたところで、色が変化した。緑になったり黄色になったり赤く
なったりする。しかも、一つの指が一色ではないのも驚きだ。
「そういえばこの部屋にクリスマスツリーがあったけど」
 指先の光を教卓の端っこに移して、北浦君が口上を述べる。
「一目見て、がっかりしたことがあったんだ。ツリーのてっぺんに星がない」
 言われてみれば……そんな囁きがいくつか上がった。
「ツリーのてっぺんの星、ベツレヘムの星って言うらしいんだけど、イエス・キリスト
ととても深い関係のある星なんだって。だから思った。クリスマス会なのにあのままじ
ゃ寂しいので、この光を星の代わりにしてみようかなと」
 なるほど。指を離れて机の端っこに点せるくらいなら、ツリーのてっぺんも光らせら
れる?
 北浦君は机から光を拾うと、ツリーに向けて指を弾く動作をした。けど、光は移らな
い。
「あれ?」
 何度か同じ仕種で試すがうまくいかない。最後に来て失敗? 勘弁してよ〜。と、心
中で祈る気持ちだったけど、当人は平気な様子で、すたすたとツリーまで近づいてい
き、そのてっぺんを光で照らした。何と、指先全てが光っている。それくらい明るい
と、彼の手元もそれなりに見えるのだけど、細工は分からない。たとえば豆電球を貼り
付けてはいないようだ。
「うーん。クリスマスツリーらしくなったけど、僕だっていつまでもここで照らす訳に
いかないので」
 マジシャンは一瞬だけ十指の光を消した。次に点ったときには、ツリーには星が付い
ていた。
「星に来てもらうことにしたけど、いいよね?」
 おお、とも、うわーともつかない驚きの声がみんなの口からこぼれ出る中、彼はさら
っと言って一礼した。
「これにておしまいです。ありがとうございました」
 先生がカーテンを開け始めるよりも早く、私達は立ち上がって北浦君に大きな拍手を
送った。
「種明かしはー?」
 誰か男子のその声で思い出した。手を組むマジックの種、教えてくれる約束だった
わ。
 北浦君は早々に道具を片付けつつ、「ごめん。時間オーバーしちゃったから、切り上
げたんだけど」とぺこぺこした。
「いいよ。今言ってよ」
 当然、そういうお願いが出る。それは先生にも向けられ、
「はいはい、分かりましたから、早く済ませてね」
 と許可を引き出すのに時間は掛からなかった。きっと先生も種を知りたかったに違い
ない。

 つづく




#558/573 ●長編    *** コメント #557 ***
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:22  ( 90)
クリスマスツリーは四月に解ける 下   永山
★内容

 二学期終業式の日。学校が終わって帰る間際、私は児童昇降口を見通せる位置で一人
待ち構え、北浦君が通りかかるのを待った。他の男子と一緒に下校することもそれなり
にある彼だけど、今日は幸い、職員室で先生と長話をしている。ということは一人で帰
る可能性が高い。ただ、余り長話されると、私が寒くてたまらないんだけどね。
 と、それから五分しない内に北浦君が現れた。思惑通り一人だ。今日これからしたい
話は、どうしても二人きりでなければいけない。
「北浦君!」
 私の隠れていた柱の前を通り過ぎた彼を、小さな声だが元気よく鋭い調子で呼ぶ。相
手はびくりとして振り返った。
「な」
「長話し、やっと終わった?」
「お終わったよ。な何、待ってたの? 何か用?」
「うん。手品の話をしたくて」
「……種明かしはもうしないよ」
 外靴に履き替えながら返事してきた。私も少し離れた位置で履き替えつつ、「そうい
えばあの手を組む手品の種って、あんな単純だったのね」と思い出しながら応じる。
「がっかりした?」
「ううん。簡単にだまされて悔しいけど、凄く楽しい」
「そう」
 頬が緩み、彼の横顔がうれしげになる。私達は並んで校舎を出た。
「話というのはそれじゃなくって。私、気付いちゃったんだけど」
「え。お楽しみ会でやった手品の種が分かったと?」
 焦った様子になる北浦君。表情がくるくる変化して、こっちはおかしくなってきた。
「ふふ。違うって。あなたがくれたカード」
「――まじか」
 北浦君がこんな言葉遣いをするのは初めて聞いたかもしれない。それだけ、今の彼は
慌てているはず。
「種を見破るのは無理と言われたけれども、ヒントにはなるんじゃないかと思って、
ハートの四のカード、念入りに調べたの。それに北浦君、ようく剥がしてとかどうと
か、変なこと言ってたのも思い出したし。そうしたら表の絵柄が薄く剥がれてきてびっ
くりしたわ」
「……」
 そっぽを向いた北浦君。色白さはどこへやら、耳が真っ赤になっている。それはそう
よね。私だってカードの秘密を見付けたときは驚いたし、赤くなっただろうし、こうし
て話している今でも恥ずかしさは多少ある。
「大事なカードだから持って来なかったけど。あの剥がれたシールの下に書かれていた
ことは本気?」
「……」
 聞こえないふりなのか、さっさと行こうとする彼を、校門を出てすぐの辺りで掴まえ
た。腕を引いて、こっちを向かせる。
 そしてしばらく逡巡した後、思い切って言った。
「先に言っておくけど、私の返事は『はい』だよ」

 何で直接じゃなく、手紙でもなく、気付かれない可能性大である手品用トランプの内
側を使って告白してきたのか。
 あの日、私は北浦君に続けて聞いた。
 三学期になるといなくなるから、と彼は答えた。四月の転校も親の都合で急だったそ
うだけど、今度はもっと急に決まったらしい。その分、先行きは逆にほぼ確定してお
り、四年後には戻って来るという。
 こんな事情があったから、たとえ相手がOKしてくれても、すぐに離ればなれになっ
てしまう。それなら別に気付かれなくたっていいからカードに託そうと思った、とい
う。
「……それって……気付かれた場合はどうなるの?」
「……考えてなかった」
 おーい。何だか知らないけどちょっぴり感動していたのに、力の抜けることを言って
くれるわ。私は決めた。こちらも一瞬ではあっても心を奪われた弱みがある。
「よし、運命ってことにするわ」
「はい?」
「遠距離恋愛になっても、私は我慢する。離れていることを楽しむくらいに」
「それは……凄く、嬉しい」
「四年後というと、高校一年、二年?」
「多分、高二の春」
「じゃ、そのときは絶対に会う約束をしましょうよ。そうね、忘れないように何か強い
理由付けを……」
 少し考え、すぐに思い付いた。
「四年後に会ったとき、クリスマス会でやった手品の種、全部教えてね」

 そして今日が、その四年後、再会の日。
 私は駅まで出てきて、プラットフォームで待っていた。
 実を言うと、小学校を卒業してから今日までの間に、北浦君とは年に一度か二度くら
いのペースで会うことができた。会う度に私はねだったものだ。手品の種明かししてよ
って。
 彼は――拓人は首を横に振るばかりだった。
「だって、高校二年生の春に教えるって、約束しちゃったもんな」
 当時、約束したことは守ってよと念押しした私は、そう言われるともう黙るしかな
い。
 けど、それも今日で終わり。
 北浦拓人の名は高校生マジシャンとして業界内ではそれなりに知られているそうだ。
けど、種明かしは滅多なことではしない。私だけの特別だと思うと嬉しくなる。指先が
光るなんてほんとの魔術師みたいに見えたけど、その種を知ったら魔法は解けてしまう
んだろうか――なんて愚問。解けようが解けまいが、気持ちは変わらない。
 私は時計を見て、次にフォームの電光掲示を見上げた。家族分の指定席券の都合で、
遅めの号に乗ることになったと聞いている。家族とは別行動になってでも、一刻も早く
私に会いたいとは思ってくれないのね。不満じゃないけど、恨めしい。
 彼が乗るのは、十三時四十分着ひかり464号。もうすぐだ。
 あ――光のマジックの種明かしをする人が乗って来るにはお似合いよね、と気付い
た。

 おわり




#559/573 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:19  (127)
条件反射殺人事件【1】
★内容
林田式という神経症の精神療法を知っている人はどれぐらい居るだろうか。
林田式といったらまず“ありのまま”だ。
“ありのまま”というのは、「だるいからやらない」というのはダメで、
「だるいなら、だるいなりに今を受け入れて、やるべき事をやる」
という姿勢である。
これを“恐怖突撃”という。
この“ありのまま”と“恐怖突撃”で病気を陶冶していくのである。
もっともこんなに厳しいのは入院林田式なのだが。
入院はちょっと、という人の為に、生活の創造会という全国組織の
自助グループがあるのだが、そこは、“ありのまま”やら“恐怖突撃”
などはなされず、林田式がむしろ禁止している、
愚痴と慰め合いの場に成り果てているのであった。

時任正則の住んでいる八王子地区では毎週土曜日に労政会館で
創造会の集まりがあった。
時任は何時もは立川の創造会に参加していたのだが、
今週は八王子のに参加していて、今まさに、みんなの前で
愚痴を披露しているところだった。

「僕は本当に、IT長者みたいなのが嫌いで…」
□型に配置されているテーブルには一辺に五人ぐらい座っていた。
つまり二十人ぐらいの前で時任は話していた。
まだ三十に充たない、TOKIO松岡似の男。
「ホリエモンとかひろゆきとか、楽天の社長とかアメブロの社長とかが
嫌いで嫌いで、見た途端に、ばりばりばりーっと心にヒビが入るんです。
自分はアパートに住んでいて派遣社員なのに、
なんであいつら楽して金儲けしているんだろう、と。
でも、それは、自己受容が出来ないからだと最近気づきました。
なんでか、自分は、この自分の体と心でいいや、と思えなくて…。
そうすると比較しだすんですよねぇ。
例えば、クラブでナンパする時だって、自分は自分だと思えないから、
ありのままの自分をさらけ出す事が出来なくて、
ちょっと見劣りのする友人に行かせて、
あいつでも相手にされるんだったら俺だって、と比較する。
それと同じで、テレビやスマホでIT長者を見ると比較するから、
殺したくなるんですよね。殺しちゃまずいけど、ははは。
という訳で、僕の当面の目標は、
“ありのまま”に自分を受け入れて、“恐怖突撃”する事だと思います」
オーディエンスの内、比較的若い層は、そうかもしれない、
リア充って難しいものねぇ、などと頷いていた。
中高年は、自分と他人の区別がつかないとはどういう事か、
みたいな視線を送っていたが。
とにかく、時任正則としては他言無用を条件にありのままを語る場と
なっているので、本当の事を告白したのだった。来週の目標も付け添えて。
「それでは次の方」と司会役のおっさんが言って、ノートに何やら書いたが、
書痙で激しく鉛筆を震わせていた。
その隣には、創造会に協力している病院から、臨床心理士が来ていた。
佐伯海里(さいき かいり)とネームプレートに書かれている。
喜多嶋舞似の、ちょっと顎がしゃくれた花王ちゃん。
「萬田郁恵といいます」まだ二十歳そこそこの、
若い頃の榊原郁恵と安室奈美恵を足して2で割った様な
可愛らしい感じの女の子が言った。
「不潔恐怖症で悩んでいます。
ばい菌とか大腸菌なんですけど。
別に、自分だけが綺麗という訳じゃないんですけれど。
外から帰ってきて、とりあえずスマホとか全部消毒するんですけれども、
手を洗う時に蛇口をひねると蛇口にばい菌がつくし、
蛇口をスポンジで洗うとスポンジにうつるし、
そのスポンジから皿に伝染するからそのスポンジは捨てないと、って。
ウェットティッシュで拭いてもゴミ箱に伝染するから
ゴミ箱も使い捨てのにしないと、とか。
そうやってキチガイみたいに、あっちに伝染した、こっちに伝染した、
と騒いでいます。
むしろ、指で舐めちゃえば平気なんです。
汚れ自体よりも、伝染していくのが嫌なんです。
という訳で、私の目標は、一通り手洗いをしたら、そこで気持ちを切り替えて、
“ありのまま”に“恐怖突撃”をする事だと思います」
「はい、どうもありがとう。それでは、今の萬田さんで自己紹介は終了なんで、
ここで少し休憩にしたいと思います」と書痙オヤジが言った。

みんな、椅子をギーギー鳴らして立ち上がった。
一部のおばさん達は、部屋の後部に行って、お茶とお茶菓子の用意を始めた。
他は廊下に出て行く者、トイレに行く人もいる。

時任が廊下に出ると、窓のところで萬田郁恵が外の空気を吸っていた。
ニヤッと笑みを浮かべて歩み寄った。
「君、えーと名前は」と話しかける。
「萬田郁恵」
「ああ、萬田さんかぁ。さっきの話だけれども、萬田さんの不潔恐怖って、
自分は自分と思えないからなんじゃない?」
「はぁ?」
「僕は、自己受容が出来ないから、だから自分は自分と思えなくて、
それで、人から人へと転々と比較しちゃうけれども。
汚れも同じで、その汚れはそれだけなんだ、と思えないから、
手から蛇口へ、蛇口からスポンジへ、と伝染していく感じなんじゃない?」
「えー、私は別にホリエモンとか羨ましいとは思わないもの。
関係ないと思える。ばい菌は関係あっても」
「同じだよ。対象をありのままに受け入れないから比較しだすんだよ」
「えー、違うよ」
その時、風に乗ってユーミンの『守ってあげたい』が流れてきた。
これは、市の防災無線放送で 毎日午後2時になると市内四百十八箇所の
スピーカーから木琴で演奏された『守ってあげたい』が流れてくるのだった。
「あー、これ、嫌いなんだ」と萬田郁恵は顔をゆがめた。
「なんで?」
「ユーミンのミンが嫌いで…。ミンミン蝉みのミンみたいで。
セミってゴキブリみたいだから、それを潰したら手もゴミ箱も汚れるから、
という感じで伝染していく」
「僕もユーミンは好きじゃないけど。
何しろホリエモン的成功者が嫌いなんだから、ユーミンとか嫌いだよ」
「元気そうじゃない。久しぶりー、と言っても一週間ぶりか」
と言って別の女性が割り込んできた。
「ああ、亜希子さん」
亜希子さんは、歳は萬田郁恵と同年代だが、吉行和子似で、老けてみえる。
「初めまして。時任さんだっけ。安芸亜希子といいます。
症状は、摂食障害で、『人体の不思議展』を見てから肉が
食べられなくなったの。だって同じ哺乳類でしょう」
と聞いてもないのに、自分の症状を語りだした。
「いやー、聞きたくない。伝染るから」と萬田郁恵は耳を塞いだ。
「時任さんって、あんまり見ない顔じゃない?」
「何時もは、立川とかに行っているから。知っている人に会うと嫌だから。
今日は何気、地元の会に来たけれども」
「本当? ナンパできたんじゃないの?」
「え」
「あんたは、自分がいじけ虫だから、メンヘラ狙いなんでしょう」
(ずけずけ言う女だなあ。アスペルガー入っているんじゃないのか。
そういうの林田式の適応外だけれども)と時任は思った。

休憩後は、4つのグループに分かれて、おやつ(ブルボンのアルフォート)
を食べながら、どうやって、自分の“ありのまま”を実践に移すかなどの
話し合いが行われた。
時任は萬田さんと一緒のグループになりたかったのだが、残念、
おじさんおばさんの神経症の愚痴を聞かされる事になり、
あっという間に五時になった。
「それでは二次会に行きましょうか。今日は中町の焼肉屋に予約してあるから」
書痙オヤジが元気に言った。
「わー、焼肉ひさびさ」などの声があちこちから上がる。





#560/573 ●長編    *** コメント #559 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:20  (161)
条件反射殺人事件【2】
★内容
会に参加した内、二次会にまで行ったのは十名程度だろうか。
彼ら彼女らは、京王八王子からJR八王子方面の繁華街に向かって歩いた。
JR八王子駅から放射線状に伸びている、西放射線通りに入ると、
ドンキ、マック、ベローチェ、BIGECHOなど、若者仕様の街並みが続く。
やっぱり学生が多い感じ。あちこちに男女が屯っていて、
どこの居酒屋に入ろうか相談している。
ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。
カラカラカラーっというローラーの音が通りに響いた。
傍から見れば自分らもメンヘラ御一行とは分らないんだろう、と時任は思った。

焼肉屋の座敷で、時任はすかさず萬田さんの隣をキープ。
トイメンに安芸亜希子が座った。
「あれ、安芸さん、肉、食べられないんじゃないの?」
「野菜を食べるから」
(嫌に、絡んでくる感じがする。なんで邪魔したいんだろう。
レズで萬田さんを狙っているのかなあ)と時任は思う。
しかし、真ん中に置かれているコンロに火が入って肉を焼き出すと、
ジューっと煙が出て、なんとなく前後は分断されて、
左右と語る感じになって、萬田さんと多いに語れた。
「萬田さんは、肉は平気なんだよね」とカルビやロースを網に乗せながら
時任が言った。
「もちろん平気だよ」
「でも、胃の中に入ったり、大腸から出ると、うん○だから、
汚いものになるのか」といいつつ。カルビやロースをジュージューいわす。
「養老孟司が、脳は自己中だからペッと唾を吐いた瞬間に汚いと思うのだ、
と言っていたわ。口の中に入っている間は綺麗なのに」
「養老孟司は甘いね。脳の構造で言うなら尾状核的という事だよ」
「は?」
「脳の構造しりたい?」
「は?」
「脳の構造が分かれば、何で、強迫神経症になるのかも分かるんだけれども」
「ふーん」
「脳には、つーか大脳辺縁系と大脳基底核には海馬と尾状核というところが
あるんだけれども、海馬は空間把握をするところで、
尾状核は反復記憶みたいな場所なんだけれども…、
これ、もう焼けているよ、食べたら」
「あ、いただきまーす」と萬田郁恵は肉を取り皿にとるとタレに浸して
口に運んだ。「むしゃむしゃ。柔らかくて美味しい」
「それで、海馬と尾状核の話だけれども、
海馬は空間認識だから、海馬がでかいと空間認識に優れるんだ。
だから、ロンドンのタクシードライバーは海馬がでかいんだけれども
…そのロースも、もういいんじゃあない」
「いただきまーす。むしゃむしゃ」
「タクシーの運ちゃんに限らず、ネズミでも、
迷路の真ん中に餌をおいておいてネズミを放すと、
海馬があれば、餌の位置を俯瞰的に一発で当てるんだよね」
「ふむふむ、もぐもぐ」
「ところが実験で、ネズミの海馬を損傷させると、尾状核を使う様になる。
そうすると、迷路の角から入っていって、たどり着けないと戻ってきて、
又次の角、というように、トライ&エラーを繰り返す。そのカルビも行けるよ」
「えー。時任さんも食べたら」
「じゃあ、いただきまーす」言うと、時任は、タレに浸して、食う。
「むしゃむしゃ。美味しいね。こんな旨いもの食わないなんて、
亜希子さんてかわいそうだね。
ところで、その実験で海馬を損傷したネズミと同じで、
僕も海馬が小さくて尾状核で生きているから」
「えーー」
「海馬があれば、瞬間的に、自分は自分人は人、と認識出来るのだけれども、
尾状核を使っているからそれが出来ないから、
反復的に比較するんだと思うんだよね」言うと焦げた肉を口に運ぶ。
「もぐもぐもぐ。君だって、あの汚れはあの汚れ、
とは思えないのは海馬が萎縮しちえるからで、
転々と伝染していく感じなのは尾状核を使っているからじゃない? 
その肉、焦げてきているよ」
「あ、じゃあいただきまーす。もぐもぐ。でも、なんでそんな事知っているの?」
「SNSに知り合いがいるんだよ。脳科学に詳しい。リアルじゃないけれども」
「へー、色々勉強しているんだね。もぐもぐ」
「結構、知りたくなるからね。ただ症状を言うだけじゃなくて、
病理を知らないとね」
「考えるのが好きなんだね。もぐもぐ」
上座の方で、書痙オヤジが立ち上がった。「えーー、それではみなさま、
宴たけなわではございますが、そろそろ時間の方も迫ってまいりましたので、
ここらへんで、おひらきにしたいと思いますが」
「えー、もう?」
「飲み足りない方はこれからカラオケに行きますんで、そちらでどうぞ」
「カラオケ、行く店決まってんの? ビックエコーなら+一五〇〇円で、
アルコール飲みほだよぉ」
「カラオケ館の方が設備も料理もいいし、あたし、VIP会員だから」
など、中高年が盛り上がっていた。

焼肉屋からビッグエコーに移動したのは中高年6、7名だった。
「私、JRだから」と焼肉屋の店先で安芸亜希子は言った。
「じゃあ、私、京八だから」と萬田郁恵。
「僕も京八の方の駐輪場に原チャリを止めているから」
「じゃあねえ」名残惜しそうに安芸さんが去って行った。

そして時任は萬田郁恵と来た道を労政会館の方に戻りだしたのだが。
時任は(どうやって誘おうかなあ)と思っていた。
「さっきの尾状核の話、興味あった?」ととりあえず言ってみる。
「もっと話したいなあ」
「えー」
「あそこのベローチェでお茶していかない?」
「いいけど…」
萬田郁恵はあっさり応じた。
二人はまたまた折り返して来た。
ベローチェはやりすごしてドン・キホーテもこえて、
放射線通りをどんどん奥に行って、裏道に入ろうとする。
「えー、どこ行くの?」
「あそこ」と時任は顎でラブホをさした。
「えぇー、だって」その後萬田郁恵が言った台詞は意外だった。
「焼肉を食べたばっかりだし」
「そんな事だったら無問題だよ。平気だよ、こっちも食べているし」
「嫌だぁ」
「じゃあ、ドンキに戻って、チョコミントのピノでも買ってくれればどうかなあ」
「それだったらいいかも」
二人でドンキに戻ると、ピノとついでにメントスも購入した。
歩きながらピノを食べ終えると、メントスをなめなめラブホに入った。

『ジェリーフィッシュ』という、紫の照明、アクリルの椅子とテーブル、
壁紙も紫、という、確かにクラゲの中にいるような部屋に入る。
お茶を飲む間もなく、紫のシーツに倒れこむと、
Gパン、パンティーを脱がすが早いか、重なり合った。
「今日会った時からいいなぁと思っていたんだ。
セックスは反復運動だから尾状核的なんだよ」
前戯もそこそこに、さっさと挿入するとピストン運動を開始する。
やっていて、時任は、
(いやにぬるぬるするな。もしかして生理中じゃあ)と思った。
果てた後に体を離してみると、シーツに直径1メートルぐらいのシミがあった。
「なんじゃこれは」
「私、すっごい濡れやすいの」
「水浸しだなあ」
「ちょっと待ってよぉ。私のGパン、濡れているじゃん」
脱ぎっぱなしのGパンにまで郁恵の膣液は到達していた。
「これで電車で帰るの平気かなあ」
「じゃあ、バイクで送って行ってあげようか」
「えぇ?」
「どこに住んでいるの?」
「大塚」
「もしかして大学生?」
「そうだけど」
「帝京とか中央とか」
「帝京だよ」
「それで下宿しているのか」
「そうじゃないよ。学生は学生だけれども、
父親があそこらへんの田んぼ屋なんだよ。アパート経営もしているけれども」
「へー。多摩モノレールの下あたりかあ」
「そうそうそこらへん」
「じゃあ、送ってってやるよ」

京八の駐輪場に戻ると、時任はアドレス110のメットケースから
フルフェイスを取り出して被った。
トップケースからドカヘルを出すと萬田郁恵にも被せてやる。
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
北野方面に向い、16号バイパスに出て、野猿街道で峠越えをした。
片側三車線中央分離帯付きの幅広の道に出ると更に加速する。
しかし、堀之内を超えたあたりで、メットをごんごん叩いてきた。
「止めてー」と言ってくる。
路肩に寄せてサイドスタンドを出すが早いか、郁恵は飛び降りて行って、
歩道を横切って、雑草の生えた空き地に向かってかがみ込む。
げぼげぼげぼーーーと嘔吐した。
(あれー、運転が荒かったかなあ)と時任は思った。
しかし見ているうちに、自分もこみ上げてきて、空き地に走ると嘔吐した。
げぼげぼげぼー、げぼげぼげぼーーー。
「焼肉とメントスのゲロだ」一通り吐き終わって時任が言った。
「おかしいなあ。お酒なんて飲んでいないのに」と郁恵。
「コーラを飲んだから、メントスコーラみたいになったのかも。
まあ、でもスッキリしただろう」
「うん」
二人はバイクに跨ると再スタート。
多摩モノレール下の萬田郁恵の家の田んぼ屋まではすぐだった。




#561/573 ●長編    *** コメント #560 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:21  ( 70)
条件反射殺人事件【3】
★内容                                         20/11/07 17:42 修正 第2版
次の一週間は、時任は夜勤があった為に、萬田郁恵に会う事は叶わなかった。

待ちに待った土曜日、時任は、労政会館の創造会に行った。
前半は何時もの様に、自分の症状を自己紹介風に語り、来週の目標を語る、
というコーナー。
休憩時間になると、萬田郁恵がおやつの準備を手伝っていたので、
時任もいそいそと手伝った。
萬田郁恵と臨床心理士の佐伯海里が、紙の皿に、ブルボンホワイトロリータ、
ハッピーターンを盛り付ける。
時任は、ドリンクの三ツ矢サイダーを紙コップに注いでいった。
「うえー」と郁恵がえずく。「このニオイ大嫌い。時任君平気? 
私、このニオイ大っ嫌いになったのよ」
「え、何で?」
「ほら、このラムネのニオイがメントスみたいな感じがしない? 
先週焼肉屋の帰りに焼肉とメントスを吐いたんです。そうしたら
ミント系のニオイが大嫌いになりました。歯磨き粉もダメになったんです」と、
佐伯海里に言った。
「それはガルシア効果だわね」
「はぁ?」
「ガルシア効果といって、カレーを食べて乗り物酔いをすると
カレーのニオイをかいだだけで吐き気がするようになっちゃう
という様な条件付けね。パブロフの犬みたいな」
「へー」
「普通の条件付けは一回では出来ないんだけれども。
パブロフの犬だって何回も肉とブザーで条件付けをして、
条件反射が出来たんだけれども。
でも、ガルシア効果だけは一発で条件付けられるのよ。
あと、音や光だとトリガーにはならなくて、味覚情報じゃないとダメなの」
「でも、僕はサイダーを飲んでもなんともないけど」と時任は一口飲んだ。
「人によりけりなんじゃないかしら。
不潔恐怖症の人は連鎖しやすいのかも知れない」

窓の外からユーミンの「守ってあげたい」が流れてきた。
「二時かあ」
「来週は、みんなで高尾山だよ」と書痙オヤジが言ってきた。
「毎年晩秋になると、八王子の創造会では、リクレーションで
高尾山に行くんだよ。
行きはケーブルカーで行って、山頂で昼ご飯。帰りは4号路を下ってくるから、
ちょうどこの放送が聞こえるのは吊り橋を渡っている頃かなあ」
「萬田さんも行くの?」と時任。
「みんな行くのよ。海里先生も」
「僕も行こうかなあ」
「当たり前じゃない。これも“ありのまま”の“恐怖突撃”の一種なんだから」

休憩時間の後は四つのグループに分かれての話し合いが行われた。
今日は時任は萬田郁恵と一緒のグループになれた。
ブルボンのお菓子を三ツ矢サイダーで流し込みながら萬田郁恵の悩みを聞く。
「私の父は大塚の田んぼ屋なんですけれども。
多摩モノレールが通った時に、地上げにあって、すごい大金を得たんです。
それはいいんですけれども。
多摩モノレールの下に通りが出来て、
その左右にアパートを建てて大家になっているんですけれども、
アパートの管理なんて不動産屋に任せればいいのに、
草刈りとかゴミ出しの後の掃除とか、父がやっていて。
それで、ゴミ捨て場に指定の袋に入っていないゴミがあると、
市の収集車は持って行ってくれないんですけれども、
それをカラスが荒らすといって、父が家に持ってくるんですね。
それで、ハエやゴキブリが出て。
それが不潔恐怖症の私の悩みなんです」
時任は、聞いていて、ばりばりばりーっと心にヒビが入るのが分かった。
殺意さえ感じる。
スマホニュースのガジェット通信やzakzakで
IT長者の話題を目にした時に感じる殺意だった。

会が終わって、労政会館から出てきたところで、時任は
「今日は帰る」と宣言した。
「えー、今日はお好み焼き屋に行くんだよ」と萬田郁恵。
「昨日まで夜勤で昼夜逆転しているから眠いんだ。帰るよ」
言うとそそくさと一人で駐輪場に向かった。
アドレス110に跨ると一人で寺田町のアパートに向かった。




#562/573 ●長編    *** コメント #561 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:22  (101)
条件反射殺人事件【4】
★内容
その日の晩、時任はスマホで某snsを開けた。
友達一覧の中から『浦野作治』にタッチする。
スケキヨマスクのプロフィール画像の下に自己紹介が表示される。
「心理学マスターがメンヘラちゃんにアドバイスします。
神経症というのは、梅干しを想像すれば唾液が出てきてしまう、
という条件反射にほかなりません。
電車に乗ると吐き気がする、というのも条件反射。
それを“乗り鉄”の様に、電車に乗れば幸福に感じる様に
条件付けしなおすのです。
古典的条件付けで神経症を克服しよう。
メンヘラちゃんは気軽にメッセージ下さい」
メッセージのアイコンに触れるとメッセンジャーが起動した。

時任:今、います?
浦野:いるよ。
時任:いやー、今日は滅入った。つーか腹がたった。
僕の愚痴、聞いてくれます?
浦野:聞いてあげるよ。
時任:創造会の女に、親が土地持ちでアパート経営している、
というのが居るのだが、
その親父が、居住者のゴミを家に持ってきて、
それで、ハエやゴキブリがわく、とか言ってその女が嘆いている。
ふざけやがって。百姓の癖に。
こっちは派遣社員で賃貸アパートに住んでいるというのに、
貧乏人をハエやゴキブリの様に思っているんだ。
しかし、前から田んぼ屋というのは知っていたのだが、
何故か今日突然吹き上がった。
こんなに簡単に殺意を抱く僕って変ですか?
浦野:他人は他人、自分は自分と思えなかったんだよね。君は。
時任:つーか、同じ人間なのに、制度に守られていて、
それで威張っている感じ。IT長者も百姓も。
浦野:制度に守られている、とは?
時任:典型的な例が医者ですかね。
林田式の総本山は慈敬医大だけれども、
あそこの医者なんて威張りまくっているが、
あれは制度に守られているからでしょう。
制度に守られているから、人と人とも思わない事をやってくるでしょう。
昔、慈敬医大病院医師不同意堕胎事件、とかあったけれども。
妊娠した彼女の同意なしに中絶しちゃうなんて、
人と人とも思っていない感じで。
それは、医療という制度がバックにあるからそういう事が出来るんだ。
そういう感じで、アパートの大家も俺様だし。あの女は俺様大家の娘って感じ。
浦野:それはお仕置きをしなくちゃいけないかもね。
その大家の娘というのはどんな性質の女なんだい?
時任:強迫神経症の女でなんでも結びつく女ですね。
八王子市では、ユーミンの曲が防災放送のチャイムで流れるんですが、
ユーミンのミンからミンミン蝉を連想して、
蝉はゴキブリに似ているから、だからユーミンは嫌いだ、とか。
あと、バイクで2ケツで酔って吐いたんだけれども、
その前にメントスを舐めていて、メントス味のゲロを吐いた。
そうしたら、サイダーを飲めなくなったとか。
浦野:ガルシア効果だね。
時任:そうそう、ガルシア効果っていうって聞きました。
浦野:誰に?
時任:創造会の臨床心理士の女に。
浦野:へー、そんな女がいるんだ。他には何か特徴は?
時任:すごい潮吹きですね。一回セックスしたが
1メートルぐらいの染みをベッドに作りました。
浦野:そうすると、なんでもつながる、という事と、ユーミンと潮吹き、
というのが、その女に関する情報かな。
時任:そんな感じ。
浦野:だったら、ユーミンの放送と潮吹きを条件付けしてやれば面白いよ。
時任:そんな事、出来るんですか?
浦野:だって、メントスのニオイで胃粘膜が刺激されるってあるんだろう。
だったら、ユーミンのメロで膣壁が刺激されてもいいだろう。
時任:でも、ガルシア効果なんていうのは、味覚情報のみで、
音や光をトリガーにするのは無理と創造会の臨床心理士が言っていたけれども。
浦野:君は『時計じかけのオレンジ』を見なかったのかい? 
あの映画でアレックスは『第九』を聞くと吐き気がするという条件付けを
されたじゃないか。
だから、メロで膣壁が刺激されるという条件付けも出来るんだよ。
時任:ユーミンを聴く度に潮吹きかあ。
そんな事が出来るんだったら毎日2時には潮吹き、
いや、もっと面白いお仕置きが出来るかも。
浦野:ユーミンと潮吹きの条件付けは教えてあげるから、
どんなお仕置きをするかは自分で考えなさい。
時任:で、どうすればユーミンをトリガーにして潮吹きをするという
条件反射を植え付けられるの?
浦野:セックスをしながらユーミンを聞かせれば、
潮吹きとユーミンが条件付けされるかも知れないが、より効果的なのは…。
例えば、自転車。
初めて自転車に乗った時には全神経を集中させて漕いでいるだろう。
でも慣れてしまえばスマホをいじりながらでも運転出来る。
そういうのは、無意識が自転車を漕いでいる状態だが。
そういう状態の時には、トランスのチャンネルが一個開いているから、
そこから無意識につけ込むことが出来る。
そういう状態の時にはトリガーを埋め込みやすい。
ところで、セックスも自転車漕ぎみたいな反復運動だろう。
だから、女性上位で女に反復運動をさせれば、
自転車を漕いでいる時と同じ脳の状態になる。
しかもその時ちょうど女は潮を吹いているんだろう。
その状態でユーミンを聞かせれば、
ユーミンのメロと潮吹きが条件付けされる可能性は上がるかもね。
時任:さっそくやってみます。
浦野:鋭意邁進したまえ。しかし、そのガルシア効果を指摘した
臨床心理士というのは気になるな。
時任:でも、1週間は会わないから。
それまでに条件付けしちゃえばいいんでしょう。
浦野:1週間後に会うのかい?
時任:そうだけど。それまでに条件付けは可能かな。
浦野:まあ、君の熱心さによるだろうね。成功を祈るよ。




#563/573 ●長編    *** コメント #562 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:24  (232)
条件反射殺人事件【5】
★内容
翌日、時任は、夜勤明けで眠たかったが、萬田郁恵を誘い出すと、
前回と同じラブホにしけこんだ。
『ピカソ』という名前の部屋。
「新宿の目」の様なアメーバーの様なオブジェが壁にあって
そこが間接照明になっている。
時任は萬田郁恵とベッドに寝そべると、いきなり脱がせたりしないで、
スマホを取り出した。
「君は、ユーミンを好きになるべきだよ」と時任は言った。
「ユーミンが嫌いなんてひねくれているよ。
僕もそうだけれども。
ユーミンとかサザンなんて恋愛資本主義には付き物なんだし、
それに毎日放送で流れてくるんだから好きになるしかないよ」
言いながらスマホをいじくって、LINEを開くと萬田郁恵の名前にタッチした。
「『守ってあげたい』をプレゼントするよ。今送るから。はい、送信」
「私、誕生日が近いんだよ」
「じゃあ誕生日プレゼントも用意しておくよ。もう曲、行ったんじゃない?」
ぽろりんと、萬田郁恵のスマホが鳴った。
「あー、来た来た」スマホをいじくりながら郁恵が言った。
「聞いてみな。案外いいものだよ」
郁恵はポーチからコードレスイヤフォンを取り出すと耳に突っ込んで再生する。
曲に合わせて首を振っている。
「じゃあ、そろそろ行きますか」言うと、ズボンやシャツを脱がせだした。
「今日は腰が痛いから女性上位でやってくれない? 聞こえている? 女性上位でー」
郁恵は曲をききながら、ふがふがと頷いた。
素っ裸になると、前戯もそこそこにいきなり騎乗位にまたがってきて挿入する。
こっちの臍のあたりに、心臓マッサージでもするみたいに手をつくと、
♪you don't have to worryのメロディに合わせて腰を動かす。
1曲終わらない内に果ててしまった。
それでも膣液でビシャビシャである。
郁恵はバスルームに行くと股間を中心にザーッとシャワーを浴びた。
戻ってくるとバスタオルを巻いただけの格好でベッドに腰掛けて、
セブン限定タピオカミルクティーを飲みながらリラックスした。
ベッドに寝ていた時任は、スマホを出すと、『守ってあげたい』を再生した。
果たして今のセックスで条件付けは出来たであろうか。
じーっと郁恵の背中を見つめる。
しかし、ピクリとも反応しなかった。
これは、スマホのスピーカーだと音質が悪くてダメなのか。
それとも、やっぱり一回セックスしたぐらいじゃあ条件付け出来ないのか…。

時任は寺田町のアパートに帰ってくると、さっそく、スマホで、
浦野作治に報告した。
時任:上手くいかなかったよ。全然効果がなかった。
浦野:ただ、こすっただけじゃあ、条件付けなんて出来ないよ。
時任:そうなの?
浦野:そうだよ。
パブロフの犬だって、ベルが鳴ってから肉が出るというのを繰り返すと
ベルが鳴っただけでヨダレが出る、という訳でもないんだよ。
ベルがなって肉が出るというのにビックリして、
ビックリするとシナプスの形状が変わるから、それで記憶になるんだよ。
これをシナプスの可塑性というが。
シナプスの形状が変わって、それで流れる脳内化学物質の質と量が変わる、
それが記憶の正体だよ。
だから、シナプスの形状を変化させないと。
それにはビックリする事が大切だから、ビックリしやすい状態、
つまりシナプスが変形しやすい状態にしておかないと。
それは、脳内化学物質が潤沢に分泌されている様な状態だから、
何かドーパミンの出るものを与えておくと条件付けしやすいんだがなあ。
ニコチンとかカフェインとか。
ニコチンとカフェインを大量に与えて、シナプスの先っぽに
脳内化学物質が大量に分泌されている状態で条件付けをすれば、
ユーミンと潮吹きは結びつくかも知れないのだがねえ。
時任:じゃあやってみる。

翌日の午後、時任は又郁恵を誘い出した。
何時ものホテルの『レッドサン』という部屋。
1メートルぐらいの日の丸の様な赤い間接照明の下に、
これまた赤い丸いベッドが置いてある。
いきなり脱がせないで、ベッドに寝転ぶと、
時任はレジ袋の中からパッケージを取り出した。
それを開けると、アイコスのポケットチャージャーが出てくる。
「なに、それ」と郁恵。
「電子タバコ。高かったんだから」
「いくら?」
「5000円」
時任は、ポケットチャージャーからホルダーを取り出すと、
そこにアイコス専用タバコステックを差し込んだ。
「吸ってみる?」
「えー」
「これだったらそんなに害はないしし、すっごく感度がよくなるから」
「本当に?」
ホルダーが振動すると、ライトが点滅するまで長押しした。
ライトが2回点灯したので、もう吸える状態。
「ほら、吸ってみな」と郁恵の方に差し出す。
郁恵は受け取ると両手で持って、口にくわえると、
シンナーでも吸う様に吸った。
「すーーーはーーーー。キター、クラクラするわ」
「あとこれも」とレジ袋からモンスターエナジーを取り出すと
リングプルを開けた。
「それも飲むの?」
「カフェインも感度がよくなるんだよ」言うと
口元に持っていってごくごくと飲ませる。
「あー、オレンジ味かあ。いやー、いきなりドキドキしてきた」
今や郁恵は、左手にモンスターオレンジ、右手にアイコスを持ちながら、
交互に飲んでいる。
「ああ、目が回って気持ちいいわあ」
「どんな感じ?」
「低気圧が迫っていて自律神経失調症になって、
動悸息切れがする様な気持ちよさ」
「それじゃあその状態で、ユーミンを聞いてみな」
言われるばままにイヤフォンを装着すると、ユーミンを聞き出す。
そしてベッドに横になると、白目をむいて 上目遣いで目を潤ませた。
時任は郁恵を脱がせる。
約5分のセックス。
セックスの後、郁恵は何時もの様にシャワーで膣液を洗い流して、
戻ってくるとバスタオルを巻いた状態でベッドでごろごろした。
「今日は体力消耗したわ」
「ほんま?」
横目で郁恵の様子を見ながら時任はスマホのスピーカーでユーミンを再生してみた。
「♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜」と
チープのスピーカーのせいか、ユーミンの声質なのか、乾いた音が響いてくる。
「ん?」と郁恵は眉間にシワを寄せる。「あ、バスタオルが濡れるかも」
「え、本当?」
「なんか、まだ感じているのかなあ」
「本当かよ」

寺田町のアパートに帰ると、さっそく、浦野作治に報告した。
時任:今日は効果があった。ユーミンの曲で、湿らせる事に成功しました。
浦野:本当か。それは大躍進だな。
時任:なにしろ、アイコスとモンスターエナジーでバッチリ刺激しましたからね。
浦野:ニコチンとカフェインで、
相当、シナプスの間に脳内化学物質が出ていると思われる。
ここで止めをさすには、シナプスのつなぎめに持続的に大量の
脳内化学物質が漂う様にする為に、
セロトニン再取り込みを阻害する薬品=向精神薬を飲ませるという事だが。
時任:林田式では向精神薬とか使わないからなあ。
浦野:だったら、君、バイクで彼女が吐いたと言っていたなあ。
だったら、バイクに乗る為に酔い止めだといって、
アネロンとかトラベルミンとかの市販薬を飲ませてみろ。
それらには、ジフェンヒドラミンを含むので、
セロトニンの再取り込みを阻害するから。

翌日、又又誘い出すと例のラブホに行った。
『ネスト』という名前の部屋で、
壁全体にビーバーの巣の様に木が積んであって、ベッドも木目調だった。
ベッドにごろりとなって肩など抱きながら時任は言った。
「今日、バイクでツーリングしようか」
「嫌だぁ。又酔っちゃうから」
「だから今の内に酔い止めを飲んでおけよ」
アネロンを取り出すと通常1回1カプセルのところを3カプセルも飲ませる。
「じゃあ、折角、ビデオもある事だから映画でも見てみるか」と時任。
壁面には50インチ程度の大画面テレビが備え付けられていた。
リモコンでVODを選択して映画を選ぶ。
「何を見るかなぁ。ユーミンづくしで『守ってあげたい』を見るか。
薬師丸ひろ子の」
「何時の映画?」
「わからん」
「そんなに古いのあるの?」
「『守ってあげたい』はないなあ。
原田知世の『時をかける少女』ならあるけど。
まあ似た様なものだからこっちでもいいか。
『守ってあげたい』はツタヤで借りてきて君んちのでっかい液晶画面で見よう」
二人は『時をかける少女』をしばし観賞。
「なんでこの映画、さっきから同じシーンが繰り返し流れるの?」と郁恵。
「何をボケた事言っているんだよ。時をかけているんじゃないか」
「あー、そうなの。あー、なんか退屈。ふあぁ〜〜」と大きなあくびをした。
そろそろ薬が効いてきたか。
それに退屈だったらそろそろいいか、と思って、時任は脱がせにかかった。
そしてセックスに移行する。
が、その前に、
「そうだ、ユーミンを聞かないと。
イヤフォンを出して『守ってあげたい』を再生して」
「なんで何時もあの曲を再生しないといけない訳?」
「そりゃあ、好きにならなくちゃ。八王子市民なんだから」
「私なんて大塚だからほとんど日野市民なんだけれどもなぁ。まあいいけど」
郁恵はイヤフォンを出すと耳に突っ込んで再生した。
そして約5分のセックス。
コイタスの後、例によってシャワーを浴びると、
バスタオルを巻いてベッドに戻ってくる。
まだあくびを噛み殺していた。
時任は、じろりと横目で観察しながら、スマホでユーミンを再生した。
♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜
「う、やばい、何故か漏れてくる」と郁恵が尻を浮かせた。
「本当かよ」
「やばい、やばい、まだ感じているのかなあ」
時任は内心ガッツポーズで、スマホを掴んだ。

ホテルから出てくると時任は言った。
「じゃあ、折角酔い止めも飲んだことだし、天気もいいので、
ひとっぱしりしてくるか」
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
ホテルのある中町から16号線に出る。万町のマックの角を右折して、
八王子実践高校を通り過ぎるとすぐに富士森公園が見えてきた。
「あそこで一休みしよう」
富士森公園の駐輪場に止めると、二人は陸上競技場に入っていった。
芝生の観客席に座り込むと、後ろ手に手をついた。
都立高校の生徒が陸上競技をやっている。
屋外用ポール式太陽電池時計を見ると、1時59分。十数秒後、2時になった。
例の放送が、マイクが近いせいで、大音響で響いてくる。
♪you don't have to worry worryのメロディが木琴で流れる。
「あれ? 芝生が湿っていない?」言うと郁恵は尻をうかして
芝生と自分の尻を触る。「違う。自分が湿ってきたんだー。なんで〜?」
(キターーーーーー!!)時任は心の中で正拳三段突きをする。

翌日、金曜日、親が居ないというんで、大塚の萬田郁恵の家に行った。
ツタヤで『ねらわれた学園』を借りて持っていく。
郁恵の家は、如何にも田舎の豪邸といった感じのお寺の様な家だった。
二階の彼女の部屋は、欄間に龍の彫刻がある十畳の和室で、
ピアノ、オーディオセット、ベッド、ソファ、50インチの液晶テレビ、
壁一面に漫画とノベルスが並んでいた。
(こういうのもみんな店子から巻き上げた銭で買ったんだろう)と時任は思う。
「じゃあ、DVDを借りてきたから見ようか」
言うと時任はソファにふんぞり返った。
郁恵がDVDをセットするとすぐに再生が開始される。
まずは、写真とアニメの合成の、宇宙のビッグバンの様な映像が流れる。
続いて、スタッフクレジットが流れるオープニングでいきなり
『守ってあげたい』が流れた。
♪you don't have to worry worry…
「うっ」と小さく唸ると、郁恵はぎゅーっと股を締めた。
「うっ。ちょっとトイレ行ってくる」言うと、障子を開けて出て行ってしまった。
(もう完璧だ)と時任は思う。(完成したよ)。

しばらくすると、なんと郁恵は安芸亜希子と一緒に戻ってきた。
「あれ、亜希子さん、家に来たりする間柄なの?」
「そうよ」
「ちょっとちょっと」と郁恵に引っ張られて、
二人は部屋の隅の勉強机の所に行くと、何やらひそひそ話しを始めた。
「実はね、ヒソヒソ、ヒソヒソ…」
(何を話しているんだろう。
まさか、セックスの時にユーミンを聞かされていたら、
♪you don't have to worry と聞くだけで潮を吹くようになった、
とでも言っているのでは。
しかし、既に条件付けは完了しているので、今更何を言おうと。無問題)。

その日の晩、浦野作治はチャットには居らず、時任は一方的に報告をタイプした。
時任:条件付けはバッチリですね。
何時でも、ユーミンの曲が流れてくれば濡れる様になりましたよ。
富士森公園の放送であろうと、映画の挿入歌であろうとね。
あとは場所を危険なところに移してあのメロディーを聴かせるだけ。
そうすると何が起こるか。
潮吹きだけじゃあ滑落しないと思ったから、僕は特別な仕掛けを考えましたよ。
へへへ。どんなお仕置きをするかは乞うご期待ですね。
又リポートしますよ。へへへ。




#564/573 ●長編    *** コメント #563 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 46)
条件反射殺人事件【6】
★内容
高尾山ハイキングの当日、集合時間の1時間も前に高尾山口駅で待ち合わせをした。
ロータリーを出てきたところに知る人ぞ知る『ホテルバニラスィート』があった。
巨大なチョコレートケーキの様な建物を見上げて、
「ここを通る度に、あそこで楽しい思いをしている人もいるんだろうなぁ、
って思っていたんだ。入ってみようか。まだ1時間もあるし」と時任は言った。
「えー、又ラブホ?」
「今日はすっごくセクシィーな気分なんだよ」

部屋に入ると一応あたりを見回す。
でっかりWベッドの上に浴衣が2枚。
テーブルの上にはお茶菓子と缶のお茶。
風呂場を覗くと、ジャグジー風呂になっていた。
全体として、田舎のモーテルみたいな風情。
そんなのには大して興味をしめさず、「さぁさぁ」と言うと、
さっそくベッドに倒れ込んだ。
「今日はとにかくセクシィーな気分で我慢出来ないんだよ」
パンティーを脱がすのももどかしくセックスに移行する。
セックスの間、パンティーはベッドの上に丸まっていた。
約5分で終了。
案の定、膣液が1メートル程度のシミを作っていた。
その上にパンティーが丸まっていた。
「ちょっとぉ、濡れちゃったじゃない。これからハイキングだっていうのに」
と郁恵。
「ちょうどよかった。つーか、今日誕生日だろう? 
プレゼントを用意してきたんだよ」
言うと、ナップサックから包を出して、渡す。
郁恵が包を開けると中からパンティーが出てきた。
ランジェリーショップで売っている様なセクシィーなパンティーが。
「なぁにぃ、これ」パンティーを広げてひらひらさせながら言った。
「誕生日のプレゼント…。嘘嘘、本当のプレゼントはこっちだよ」
言うと、スウォッチを渡した。メルカリで落札した二千円の
キティーちゃんのスウォッチ
「あ、これ、いいじゃない」と郁恵は喜ぶ。
「こうやって、パンティーの後の時計を渡すのは『アニー・ホール』
みたいでやりたかったんだ」
「え、なに? 『アニー・ホール』?」
「まあ、そういう映画があったんだよ。とにかく、その時計でも、
もう十一時近いだろう。そろそろ集合時間だから行かないと。
さあ、早くそれを履いて」
郁恵はセクシーパンティーに脚を通した。
「お弁当どうしよう。高尾山口に売っているのかなあ、
それとも山頂に蕎麦屋とかがあるのかなあ」
「弁当はもう買ってきたよ。君の分も。今日から物産展だったんだなあ。
セレオ八王子で」
「へー。なんのお弁当?」
「それは山頂でのお楽しみだよ」




#565/573 ●長編    *** コメント #564 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 91)
条件反射殺人事件【7】
★内容
やたら蕎麦屋と饅頭屋のある参道がケーブルカーの始発駅、
清滝駅につながっているた。

清滝駅の前には、書痙オヤジ、安芸亜希子、佐伯海里先生、
その他おじさん、おばさんが集合していた。
それに合流する。
「それじゃあみなさん集まった様なので出発しまーす」
ツアー客でも案内するように、海里先生がみんなを引き連れて行く。
片道四八〇円の切符を買うとカチャカチャ切符きりで切られて改札を通過する。

ケーブルカーに乗り込むと、安芸と郁恵は先頭でキャッキャしている。
時任はニヤリとほくそ笑んだ。
「高尾山行きケーブルカー、これより発車です」というアナウンスと共に、
車体が引っ張られて上がり出した。
「このケーブルカーは標高四七二メートル地点にございます
高尾山駅までご案内致します」というアナウンス。
(人が転落死するには十分な高さだな。ちょっと足を滑らせれば一巻の終わり)。
「高尾山薬王院は山頂高尾山駅より歩いて15分程のところにございます。
薬王院は今から約一三〇〇年以上前、行基菩薩により開山されたと伝えられ、
川崎大師、成田山とともに関東の三大本山の一つとなっております。」
(そんな由緒あるところでやったらバチが当たるかな。
あのメロディーを聴いて潮を吹くのは向こうの勝手だとしても、
潮吹きだけじゃあ滑落しないので、
確実に滑落する様な仕掛けを仕組んだのは僕だしなぁ)。

ケーブルカーを降りて、ぞろぞろ歩いていくと、
新宿副都心が見える展望台、サル園、樹齢四百五十年のたこ杉、と続き、
浄心門という山門をくぐるといよいよ境内に入る。

書痙オヤジやおじさん、おばさん連中が先頭と行き、萬田郁恵と安芸亜希子、
そして臨床心理士の佐伯海里先生が続く。
時任はほとんどしんがりを歩いて行った。

左右に灯篭のある参道を更に進んでいくと、
男坂と女坂というコースにY字型に分岐している。
男坂に進んで、煩悩の数だけの石段を上ったが、これにはばてた。
茶屋があって、ごまだんごと天狗ラーメンのいい香りが漂ってきた。
「お弁当買ってきた?」と佐伯海里先生が振り返った。
「うん、駅ビルで買ってきた」。
「何を?」
「牛タン弁当」
「ふーん」言うと尻をぷりぷりさせて参道を進んで行った。
参道を更に進むと四天王門という山門があって、又石段があった。
その先に、薬王院の本堂があって、そこを裏に回ると又石段。
権現堂というお堂があって、裏に回って、更にきつい石段。
奥の院というお堂があって、裏に回って、木のだんだんを上って行く。
くねくねと舗装された道を行くと、軽自動車が2台止まっていた。
(なんだよ、車で来れるのかよ)と時任は思った。
しかし、もうちょっと行ったら山頂に着いたのであった。
展望台から「富士山、丹沢が見えるー」と、書痙オヤジ、
おじさん、おばさん連中は喜びのため息をもらしていた。
「じゃあ、みなさん、ここでお昼の休憩にします。出発は一時四十五分です」
と佐伯海里先生。
おじさん、おばさん連中は、ベンチに陣取ると弁当を広げだした。
「丹沢や富士山を眺めながら食べると旨いぞー」などと言っている。
「僕らもどっかで食べる?」と時任。
「ばてすぎちゃって食べたくない」と郁恵。
「じゃあ、俺もいいや」
安芸と海里先生は「私たち、そばを食べてくる」と言って茶屋に入っていった。
何気、時任と郁恵は展望台の先っぽに移動する。
ベンチに腰掛けると、富士山を見る。
時任は、横目で、萬田郁恵のシャツの上からでもむちむちしているのがわかる
腕をガン見した。
(さっきやってきたばっかりなのに、まだ未練がある。
これを崖下に放り捨ててしまうなんておしい。
しかし、貧乏人をハエだゴキブリだと言った女だ、お仕置きしなくっちゃ。
つーか、何時も中田氏しているから妊娠しているかも。
そうしたら自分の子供もろとも崖下にって事か? 
それでもいいや。中絶の手間が省けて。
慈敬医大病院の医師みたいに同意なしに中絶しちゃうなんていう手間が省けて)。
「前に、会で、ホリエモンやひろゆきがムカつくのは
自己受容が出来ていないからだって言ったでしょう」
時任は富士山を見ながら語りだした。
「だから、尾状核的になっていて、比較するんだって。
でも、やっぱり、ホリエモン的な奴らがおかしいと思う時もある。
ずーっと前、慈敬医大の医者が看護師を愛人にして、
妊娠したからビタミン剤と偽って子宮収縮剤を飲ませて中絶させた、
という事件があったけれども、そんな酷い事が出来るのは、
制度に守られていいるからだと思うんだよね。
人間なんてでかい車に乗っているだけで威張るし、
体がでかいだけで威張るし、
制度にのっかっていれば威張るものだと思うけれども。
IT長者がツイッターで威張っているのも、同じだと思うんだよね。
だから、カーっとしてお仕置きしてしまうかも知れない」
「何をするの?」
「さぁ。今に分かるさ」

しばしベンチで堕落していたら、すぐに時間は経過した。
「それではそろそろ出発しまーす」という佐伯海里先生の声。
時計を見るともう一時四十五分。
よーし、いよいよだ。




#566/573 ●長編    *** コメント #565 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:26  ( 75)
条件反射殺人事件【8】
★内容
生活の創造会八王子支部御一行は、
おじさん、おばさん連中、書痙オヤジ、佐伯海里、時任、
しんがりに萬田郁恵と安芸亜希子という順番で来た道を引き返した。
浄心門まで戻ってくると左側の4号路に入り、高尾山の北斜面を下る。
鬱蒼としたブナなどが左右から道を覆って筒状になっている。
しばらくは丸太と盛る土の階段を下っていた。比較的幅広で手摺もあった。
しかし、すぐに道は 上りの人とすれ違えない程の、かなり細い下り坂に変わった。
右手からは樹木の根が迫っていて、老婆の手の静脈の様に見える。
左側は切れ落ちている。
「これ落ちたら死ぬで」
樹木の生い茂った崖下を見下しながら書痙オヤジが言った。
「こんなところ死体が上がらないぞ」
後ろでは、安芸亜希子と萬田郁恵がよろよろしている。
「スニーカーじゃあ危なかったかも」
「季節的に道がぬかるんでいるのかな」
(ちょっとつついてやれば崖下に転落するかな)と時任は思う。
時計を見ると、まだ一時五〇分。

しかし、丸太の階段と下り坂が交互に続いた後、道幅は急に広くなってしまった。
4号路と、いろはの森コースという別ルートの交差点の先には、
丸太のベンチまで設置してあって、休憩出来る様になっている。
(こんな幅広の道じゃあ、安全すぎる)と思う。
「休憩します?」と書痙オヤジと佐伯海里が言い合っている。
時計を見ると一時五三分。
こんなところで休まれたら予定が狂う。
「行こう、行こう、一気に行った方が楽だから」
時任は前のみんなを押し出す様に圧をかける。

しかし、丸太の長い階段を下ると、急に道幅が狭まったかと思うと、
左手は切れ落ちの崖の斜面に出た。
ここでもいいが、時計を見ると、まだ放送までには時間がある。

少しして、左手の崖下はブナなどの木で見えなくなってしまったが、
しかし川のせせらぎがきこえてくる。
あれは「行の沢」のせせらぎだ。
樹木が生い茂っていて見えないのだが、崖下には「行の沢」が流れている筈。
吊り橋も近い。
(ここだ)と思った。
時計を見ると、一時五八分。
(あと二分か)。
時任は、歩調を弱めると、立ち止まり、そしてしゃがみこんで、
靴ひもを結ぶふりをした。
「早く行ってよ」後ろで安芸亜希子が言った。
「お前ら、先に行けよ」と、亜希子と郁恵を先にやる。
紐を結びながら時計を見る。一時五九分五九秒、二時!
吊り橋の向こうから、
♪you don't have to worry worry『守ってあげたい』の
木琴Verの防災放送が流れてきた。キター。
時任はしゃがんだまま(どうなるか)と三白眼で前を行く女を睨む。
萬田郁恵がもじもじしだした。
そしてすぐに、蛙の様に飛び跳ねだした。
かと思うと、安芸亜希子にしがみついた。
二人共バランスを崩した。
(あのまま二人共落ちてしまえ!)。
しかし、郁恵だけが崖から転落していった。
ああぁぁぁぁぁー、と、悲鳴ごと吸い込まれていく。
ボキボキボキと枝の折れる音。
かすかに水の音が。
「郁恵ぇーーーー」と叫ぶ安芸亜希子。
「どうしたぁー」と書痙オヤジが振り返った。
「萬田さんが落ちました」と安芸亜希子。
「えーーーー」とか言って、佐伯海里先生だの、おじさん、おばさん連中が
崖下を見下ろす。
「郁恵ぇーーーー」と崖下に叫ぶ。
しかし、沢のせせらぎが聞こえてくるだけだった。
「降りて行ってみよう」と書痙オヤジ。
「危ないですよ。警察を呼びましょう」と海里先生。
スマホを出すと110番通報した。
「4号路の吊り橋の手前です。はい、そうです。はいはい。そうです」
他のメンツは、心配そうに崖下を覗いていた。
「一体何が」と書痙オヤジ。
「突然もじもじしだしたと思ったら、飛び跳ねて、
そして、私にも抱きついてきたんですけれども、
一人で、一人で、崖下に…。私が突き飛ばしたんじゃありませんから」と亜希子。
「それはもちろんだよ」




#567/573 ●長編    *** コメント #566 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  ( 52)
条件反射殺人事件【9】
★内容
たった15分で、赤いジャージに青ヘルの屈強そうな
一五、六名の救助隊が到着した。
背中に黄色い文字で『高尾山岳救助隊』と刺繍されている。
「山岳救助隊、隊長の新井です」日焼けした馬面の中年が言った。
「どうされましたか」
「突然メンバーの一人が暴れだして、ここから沢に落下したんです」
見ていたかの様に書痙オヤジが。
隊長は、しばし、崖下を見下ろす。
すぐに背後の隊員のところへ戻ると、円陣を組んで、隊員達に言う。
「これより。滑落遭難者の救助を行う。
それでは任務分担。
メインロープ担当、山田隊員、
メインの補助、今村隊員、
バックアップロープ担当、江藤隊員
バックアップの補助、池田隊員、
メインの降下要員、椎名隊員、
補助要因、豊田隊員。
以上任務分担終わり。
準備が出来次第、降下を開始する」
「はーい」と隊員らは声を上げる。
隊員らは、太い木を探して、ロープを巻き付ける。
ロープに、カラビナや滑車などを取り付けると、降下用のロープを通す。
それを降下する隊員のカラビナに縛り付ける。
降下要員にメインとバックアップの2本のロープがつながれた。
「メインロープ、よーし」
「バックアップよーし」
「降下開始ーッ」
「緩めー、緩めー、緩めー」の掛け声で、降下要員が後ろ向きに、
崖下に消えて行った。
「到ちゃーく」と茂みで見えない崖下から隊員の声がする。
続いて、補助隊員も降下していった。
既に垂らされたロープをつたって、するするすると崖下に消えていく。
「隊長ーー」崖下から声がした。「要救助者、心肺停止の状態。
これより、心臓マッサージと人工呼吸による心肺蘇生を行います」
数分経過。
「隊長ーー。心肺蘇生を行いましたが、効果ありません。
斜面急にて担架は使用不可能。よって背負って搬送したいと思います」
しばしの静寂。
「隊長ーー。ただいま、要救助者、背負いました。引き上げて下さい」
「よーし。これより、降下要員引き上げを行う。メインロープを引っ張って」
「メインロープ、引っ張りました」
「ひけー、ひけー、ひけー」
の掛け声で、降下要員が、崖下から姿を現す。
背中にはぐったりとした萬田郁恵を背負っていた。
引き上げられた萬田郁恵は、担架に移されると、
ベルトで固定されて毛布をかけられる。
4人の隊員が担架を持ち上げる。
「これより、要救助者、下山させる。いっせいのせい」で持ち上げた。
先頭に4人、担架の4人、後ろに4人の体制で、
それこそ天狗の様な速さで下山していった。
それを見ていた時任は心の中で
(ミッションコンプリート)と思う。




#568/573 ●長編    *** コメント #567 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  (225)
条件反射殺人事件【10】
★内容                                         20/11/04 13:27 修正 第2版
残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」
じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
「この牛タン弁当は、この下の紐をひっぱると、温まるんです」
言うと海里先生は紐をひっぱった。
「この弁当は、電車の中で旅行者が食べる時に温める為に、
底に生石灰だかが入っていて、この紐を引っ張ると水が出てきて、
それが生石灰と反応して熱が出るのね。
それで温まるのね。5分ぐらいで」
海里先生は弁当を手の平に乗せてみんなに見せた。
「さあ、もう温まった」
海里先生は、温まった弁当を開くと、箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「ふん」羽交い締めされたまま時任はそっぽを向いた。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
時任は。なんで攻撃を無視して黙り込んでいた。

「言いたくないみたいね」と海里先生。「だったら私の想像を話すわ」
海里先生は腕組みを解くと、吊り橋の方を指差した。
「さっき、ユーミンの放送が聞こえてきた時、
急に萬田郁恵さんがあばれだして、そして滑落した。
それは、ユーミンの曲を聞くと膣液が分泌される
という条件付けがなされていたから。
でも、膣液が出たぐらいじゃあ、足を踏み外すとは思えない。
それだけじゃない何かの仕掛けを仕込んでおいたのね。
それはどんな仕込みなのか。
それは、非常に非常に児戯的な感じはするんですが、
それは、この牛タン弁当の底にあった生石灰、
それは水分を吸収すると熱を発するのですが、
それを、郁恵さんのパンティーに仕込んでおいたんじゃない? 
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「じゃあ、警部に調べてもらいましょう。
警部、連絡して調べてみてもらって下さい。郁恵さんのパンティーを」
「了解」警部は携帯を出すと電話した。
「こちら、新井です。要救助者の下着になんかの細工がしていないか
調べてもらいたいんだが。そう、そうです。はい。それではお願いします」
電話をしまうと警部はこっちに言ってきた。
「今調べてもらっていますから」
今や時任は2人の巡査に押さえ込まれて、膝を付いた状態になっている。
書痙オヤジ、安芸亜希子、海里先生、おじさん、おばさん連中全員が
取り囲んでいた。
警部の携帯が鳴った。
「はい。はい。なにぃ。そうかあ。出てきたかあ。了解」
携帯をしまうと語気を強くして、警部は時任に言った。
「お兄さん、ふもとの交番に来て、話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう。
証人が言っている事だって嘘かも知れないし」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「じゃあー、そうだなあ、保護だ」と警部が言った。
「吐いたし、この人はふらふらしているから、滑落する危険がある。
これよりマルタイを保護する。ほごーー」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、強引に、巡査二人に引き上げられる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、下山していった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。
これにて事件はあっけなく一件落着。

「それではですねえ」と警部が言った。
「代表者の方のお名前と連絡先を教えていただきたいんですが」
「はあ」と書痙オヤジが前に出る。「私ら、生活の創造会、八王子支部の者で、
私は代表世話人の佐藤と申します。連絡先は090********です」
警部は手帳にめもっていた。
「分かりました。又、後ほど事情にお伺いするかも知れませんがその時は
よろしくお願いします」
「はあ」
「それではご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは私はこれで失礼します」
敬礼をすると警部は天狗の様なスピードで下山していった。

「あー、よかった。名前を書いてくれって言われるんじゃないかと
ヒヤヒヤしたよ」と書痙オヤジ。「まさか、参考人の調書なんて
とられるのはいいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、最愛の人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているんじゃあないかしら。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
『夕焼け小焼け』を聞きつつ、
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんてアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なもので。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れない。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思いつつ、海里は吊り橋を渡った。
吊り橋の底を覗くと、海里はぶるっと震えるのであった。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【了】




#569/573 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/07  17:44  (378)
条件反射殺人事件【10】別ver
★内容                                         20/11/07 17:51 修正 第2版
【10】

残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」

じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
佐伯海里は、牛タン弁当を乱暴に開封すると、
箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
しかし時任は、羽交い締めを振りほどくと立ち上がり、
地面からリュックを拾うと担いだ。
「バカバカしい。俺は帰らせてもらうぜ」言うと一人で山頂の方へ逆戻りしだした。
「ケーブルカーで帰る積りかぁ」と書痙オヤジ。
「捕まえないんですか」と海里は警部に言った。
「さあ、牛タン弁当を持っていたというだけでは、どうにもねぇ」
腕組みをして時任の背中を見ている。
その背中はどんどんと小さくなり、やがてブナなどの茂みの中に消えていった。
「ふー」と警部はため息をつく。「それじゃあ、我々もこれで下山しますが。
ご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは我々ははこれで失礼します」
敬礼をすると馬面警部と狐顔巡査、狸顔巡査は天狗の様なスピードで
下山していった。
「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
吊り橋の底を覗いて、海里はぶるっと震えた。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【11】
翌日の日曜日、一日中、佐伯海里は考えていた。
(あの時ユーミンのメロがトリガーになって郁恵は暴れだした。
ユーミンと潮吹きの条件付けしたのは時任に間違いない。
でも、股が湿ったぐらいじゃあ滑落しないだろう。
そこで出てきたのが牛タン弁当だ。
なんでガルシア効果で食べられない牛タン弁当なんて持っていたんだろう)。
考えても考えても、これらの点が線になる事はなかった。

夕方になって、書痙オヤジから電話がかかってきた。
「実は、萬田郁恵さんの葬式の事なんだが、今日通夜で明日告別式なんだよ」
「えー、検死とか解剖とかはしないんですか?」
「それが、事件性がないというんで事故として扱われたらしんだよ。
それで、お寺さんやら斎場の都合もあって明日が告別式になっちゃったんだよ。
で、海里先生にも来てもらいたいんだがねえ」
「それはいいですけど」

翌日の昼頃、海里は告別式の行われる市の斎場に着いた。
火葬場併設の式場で、四十五名収容と狭い為、
入りきれない弔問客はロビーで待っていた。
手首に包帯を巻いた書痙オヤジがいた。それ以外に安芸亜希子や
何時も見るおじさん、おばさん連中もいる。
なんと時任がきていやがった。犯人が犯行現場に戻るというのはこの事か。
相当飲んでいるらしくふらついている。
あんな事件をやってしまった後ではシラフではいられないのだろう。
それ以外に、新井警部と狐顔巡査、狸顔巡査の姿も見える。
やっぱり事件性があるのだろうか。

親類縁者などの焼香が終わると、弔問客が4人ひと組でお焼香をする。
お焼香の時に郁恵の遺影を見たが、まだ高校生の面影を残している。
さぞかし無念だったろう。この無念を晴らしてやりたい、と海里は思った。

焼香が終わると、又ホールに出てくる。
暖房のないホールはひどく寒かった。
十一月中旬は、晩秋ではなく完全に冬だ。
葬儀社の人が「これをどうぞ」とホッカイロを配っていた。
海里も一個もらって拝む様にもんで手を温めた。
となりにいたオバタリアン二人組が、
「この前、寒くてさあ、ホッカイロを下っ腹に入れて寝ていたのよ。
そうしたら下の方にずれて、お股が低温火傷しちゃった」
「あらあら、当分おあずけね」
などと、下卑た笑いをあげていた。
お弔いの席で不謹慎なおばさんたちだ、とは思ったが。
(何かひっかかるものを感じる)と海里は思ったのだった。

又反対側には地方から来たらしいおっさんが二人いて、
ホッカイロだけでは足りないらしく、
「お清めだから酒を飲もうか。体も温まるしさ」などといって、
缶入りの酒を取り出していた。
「これ、面白いんだぜ。この底のボタンを押すと酒があったまるんだよ」
「へー、底にヒーターでもついているの?」
「違うよ。ここに、生石灰と水が入っていて、
この缶底のボタンを押すと中で生石灰と水が混ざって、
それで熱が出るんだよ」
「へー」
「酒だけじゃないんだぜ。今日、八王子の駅ビルで物産展をやっていて、
そこで牛タン弁当を買ったんだが、それも底に生石灰が仕込んであって、
紐を引っ張ると温まる仕掛けになっているんだよ。見せてやるよ」
言うとおっさんはカバンから牛タン弁当を取り出した。
「この紐を引っ張ると中で生石灰と水が反応して熱を出すんだよ。
ここにそう書いてあるだろう」
あれは、時任が高尾山にもってきたのと同じものだ。
あの時はあわてて乱暴に開封したので、あんな温め装置には気付かなかったが…。(何
かひっかかるものを感じる)と海里は思った。

ロビーに、葬儀社の人間が出てくると「それではお別れの時間です」と告げた。
遺影や位牌をもった親類縁者がぞろぞろと出てくる。
親族の最後尾に続いて、火葬場に向かった。
別棟の火葬場に行くと、既に、火葬炉の扉の前に萬田郁恵の棺は置かれてあった。
「それでは最後のお別れでございます」
棺の小窓が開けられる。父母や兄弟が覗き込み、そして嗚咽して泣くのであった。

火葬炉の扉が開けられた。
中を覗き込んで、(あそこに入ると、火にくるまれて燃えてしまうんだわ)
と思ったその刹那、海里は思い付いた。
生石灰で牛タン弁当を温めるイメージと、ホッカイロで股間を温めるイメージから
ひらめいたのである。
キターーーー!!
「ちょっと待って」海里は声を上げるた。
弔問客を押しのけて、棺のそばまで行く。
「ちょっと待ってください。郁恵さんの無念を晴らす為に、
ちょっとみなさんに言いたい事があります」
「な、なにかね」と親族の一人が言った
「もう一回、高尾山での滑落の事件について考えてみたいんです。
あれは事故なんかじゃない。事件なんです」
「なにを?」と親族。
後ろの方では、新井警部らも見ていたが何も言わない。
「ここで言わないと、本当に郁恵さんの無念が晴れません。
だから、言わせて下さい」
「何をだね」
「じゃあ言います。
一昨日、高尾山の4号路の下りの、吊り橋手前で、郁恵さんは滑落しました。
その時にはユーミンのメロ、八王子の防災放送のメロが流れていた。
そのメロで突然暴れだしたんですが、
時任に、あの後ろにいる、あの男です、あの酔っ払っている男に、
ユーミンのメロを聞くと股間が濡れるという条件付けをされていたんです」
「何を言っているんだ、君は」
「でも、これは本当なんです。そしてこれを言わないと、
真相が明らかにならないし、郁恵さんの無念は晴れないんです。
だから言わせてください。
郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと股間が濡れる様に条件付けされていた。
パブロフの犬の様に、ブザーを聞けばヨダレが出る様に、
ユーミンのメロを聞けば股間が濡れるという条件付けを」
「何を言っているんだ、不謹慎な」
「不謹慎でも何でも本当の事を言わない方が郁恵さんは無念だと思います」
「だいたいどうやってそんな条件付けっていうのか、それをしたというんだ」
「それは、セックスの時に繰り返しユーミンを聞かせたりして」
「不謹慎な事を言うなッ」
「でも、真相を言わない方が郁恵さんは無念だと思います。
とにかく、郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと膣液を吹く、
という条件付けをされていた。
そして山中でユーミンのメロが流れてきた。それで潮を吹いたんです。
でも、それだけでは、滑落しない。股間が湿っただけでは足を滑らせたりはしない。
そこで出てきたのが時任の持っていた牛タン弁当です」
「一体、なんの話をしているんだね」
「時任が牛タン弁当を持っていたんです」
「それが何の関係が」
「関係あるんです。時任が牛タン弁当をもっていた、という事が。
しかも、彼は、先々週、焼肉を食べてバイクで酔って吐いてから、
もう焼肉系は食べられなくなっていた。だのにそんなものを持っていた。
それが謎でした」
「…」もはや親族は何も言わなかった。
「ここまでを整理すると、あの時、ユーミンのメロで股間が濡れた、
その条件付けをしたのは時任、でもそれだけじゃあ滑落しない、
そして時任は食べられもしない牛タン弁当をもっていた、という事です。
そして、今日、ここに来て、私は二つの事からひらめいたんです。
一つは、ホッカイロを股間にあてておくと低温火傷をするという事。
これがひっかかりました」
「き、君は、郁恵の最後を侮辱する積りか」
「そうじゃないんです。とにかく、ホッカイロを股間にあてるという事と、
それから、もう一つは、あれです」
言うと海里は、田舎からきた風のおっさんのところに行くと、
さっきの牛タン弁当を奪ってきた。
「これです。この牛タン弁当。今日ここで、偶然にも、
時任があの日もっていた牛タン弁当に出くわしたんです。
それがこれ。
そうでしょう。時任さん」と後部にいる時任に言うが、時任は返事はしない。
「まあ、いいわ。…それで、この牛タン弁当の底には生石灰があって、
この紐を引くと水と反応して熱が出るんです。
同じものを時任は事件の日に持っていた。
以上の2点から、私はひらめいたんです。
もしかしたら、時任は、生石灰を郁恵さんのパンティーに
仕込んでおいたんじゃないか、と。
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「き、きみ」とは言ったものの、親族一同は、今度は時任の方を見た。
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「それじゃあ、新井警部」
「はいよ」
「調べてみて下さい。この棺の中の郁恵さんのパンティーを。
これは不謹慎でもなんでもないんです。
火葬にしてしまったら証拠は消えてしまうんです。
もしパンティーから、この牛タン弁当の生石灰と同じものが出てきたら
ビンゴじゃないですか。ねえ、警部」
「分かった」言うと、警部が親族の方に進み出てきた。
「それじゃあ、親族のどなたか、郁恵さんの下着を
取り出してもらえないでしょうか。それとも湯灌でもしちゃいました?」
「いえ、傷がひどいのでそのままでと」
「じゃあ、ご親族の方、ご遺体からパンティーを」
父親らしき男がため息をつくと、隣にいた若い娘、郁恵の姉妹であろうか、
に目で合図した。
そして娘が棺の蓋をずらすと、しばらくごそごそやって、そして、
ハンケチにブツを包んできて警部に渡す。
「江藤、山田、その牛タン弁当の底から生石灰を出してみろ」
それから3人は唸りながら、牛タン弁当の生石灰とパンティーのを比較する。
待つこと数分、新井警部が顔を上げた。「こりゃあ、調べてみる価値ありだな」
そして時任の方を向いて言う。
「時任さん、署に来て話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「何を言っているんだ、お前は、協力しろ」
「いやだね」
「協力しろよ」
「いやだね」
「なんでだよ」
「協力する義務がないから」
こういう言い合いがしばらく続く。
最後に時任が「俺は帰るぜ」と宣言すると踵を返そうとする。
が、酔っているせいでよろけた。
「危ないっ」と警部が叫んだ。「危ない、危ない。転ぶかも知れない。
保護だ。保護ーッ!」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、二人の巡査に完全に脇を固められる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、火葬場から連れ去られていった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。

ここより事件は警察が捜査する事となった。
火葬は中止になり、郁恵の遺体は警察がもっていく事となった。
近親者は複雑な思いでロビーに佇んでいた。
佐伯海里、書痙オヤジ、安芸亜希子、その他の生活の創造会メンバーは
とぼとぼと斎場から出て行った。
「参考人の調書なんてとられるのかなぁ」と書痙オヤジ。「とられるのは
いいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ。手が震えちゃうよ。
今日は包帯をして誤魔化したけれども、何時も包帯をしていたらバレるしな」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、愛する人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているのね。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

斎場から通りに出たところで、ちょうど二時になり、
例のユーミンの曲が流れてきた。
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんていうのもアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なものだから。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れないな。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思った。

とにかく海里は、自分は郁恵の無念を晴らしてやったのだ、とは思っていた。
そして空を見上げると初冬の空も晴れていた。

【了】









#570/573 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:23  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:47 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#571/573 ●長編    *** コメント #570 ***
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:24  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ【承前】   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:48 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#572/573 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/06/19  21:22  (170)
計算すると不利かな<前>   永山
★内容
 君は力コンなるものを知っているかい?
 小説投稿サイト大手の一つで“読むは力、書くも力”をキャッチフレーズにする力ワ
ヨムは毎年秋口から年末にかけて、登録ユーザーを対象にしたコンテストを催す。その
名も力ワヨム・コンクール、略して力《りき》コン。

 いくつかの部門に分かれていて、登録ユーザーは自分に参加資格のある部門の中か
ら、自分に合ったものへ作品を投じることになるんだ。
 まず力コン大賞と力コン短編賞とがある。大賞の方は長編で、締め切りの時点で字数
は十万字以上が必要、かつ、嘘でもはったりでもいいから完結済みにしなければならな
い。
 純粋な意味での長編でなくとも、一つのシリーズとして連作短編形式で十万字以上に
達していれば、長編と見なされる。ただし、最後に各短編がつながるような芯が通って
いることが望ましいとされ、実際単なる短編集形式が受賞に至ったことはない。
 一方の力コン短編賞は文字通り短編を対象としたもので、字数は五千字から二万字ま
で、完結済みが必須条件となっている。

 力コンにはもう一つ大きな区分けがあって、それは自費出版を除いて一度でも単著出
版(媒体は問わない)の経験がある者はプロと見なし、長編・短編ともに別枠で募ると
いう線引きさ。
 尤もこのプロ部門、大いに賑わっているとは言い難い。受賞の際の賞金額や出版条件
はアマチュアと変わらない上、結果に“プロ”同士の実力・人気の差が如実に表れるた
めか、わざわざ挑んでくる本当の意味でのプロはごくわずか。一、二作出して長らく音
沙汰なしのクリエイター達が参加者の大半を占めてる。

 僕? 僕はもちろんアマチュアの方に参加している。大昔、まだ小説投稿サイトなん
て存在しない頃、素人作品ばかりで編む推理小説のアンソロジーに拙作を拾ってもらっ
たことがあるから、そこそこ行けるんじゃないかと思ってたんだけど、前回初めて出し
てみて、全然だめだった。
 念のため聞いとくけど、君も出すならアマチュア? ああ、そうだよね。いや、ライ
バルが増えるなあと思って。あっ、でもジャンルが被るかどうかは分からないか。

 それぞれの区分けの下には、より細かなジャンル分けが設けられてる。
 第一回はファンタジー、恋愛・ラブコメ、ミステリ、SF・ホラー、その他エンタ
メ、純文学という六つに分けていたが、各部門間で応募数の差が著しくあり、またそう
いった過疎部門にカテゴリーエラーと承知の上で敢えて自作を投じる者が幾人か出て、
いささか混乱した状況を呈していたそうだよ。え? ああ、僕はその頃はまだ参加して
ない。それどころかそういうサイトがあることすら知らなかった。で、第二回から、コ
ンクール期間中に一旦エントリーしたあとは、カテゴリ変更や部門変更は一切禁じられ
ることになる。
 翌年の第二回から毎回、ジャンルによる部門分けは変わり、今でも迷走と揶揄される
ことしばしばだ。そもそも部門が互いに重なっている感があって、部門変更禁止のルー
ルが厳し過ぎるとの声もある。
 運営サイドのガイドラインによれば、複数の部門に跨がりそうな作品――たとえば異
世界で名探偵が幽霊殺しを調査する――は、作者自身の判断で一つの部門のみに投じな
くてはいけない、となっている。作者自身の判断が間違っていたら、部門違いで遠慮な
く落とすんだってさ。なお、同一あるいは極めてよく似た作品を複数の部門に投じるの
は御法度だから。
 その辺りはさておき第七回目の今年は、別世界ファンタジー、日常ファンタジー、学
園・ラブコメ、恋愛・現代ドラマ、SF・ホラー・幻想、ミステリ・知略バトルとなっ
ている。他にも細かな但し書きがあり、応募に際してよく読まなくちゃいけないよ。
 たとえば恋愛・現代ドラマ部門には異世界要素のある作品はNG。架空の国を設定す
る場合も、現実離れしたものは一律アウトに処するとのこと。
 また、学園・ラブコメ及び恋愛・現代ドラマの各部門では、過度な性描写や残酷な描
写をしてはならない等々。

 参加する作家にとって重要な項目の一つは、選考方法だろうね。
 これがつまびらかにされていない。募集要項には大まかに記されているのみ。
 予選として、読者選考がある。その上位作品が本選に進み、ここで初めてプロの編集
者が目を通して受賞に値する作品の有無をジャッジする、らしい。
 では読者選考とはいかなる方法で行われるのか。僕が初めてこの項目を読んだとき、
投票ボタンはどこにあって、一人何票分の権利があるんだろうって探したんだけど、思
ったのとちょっと違ってた。
 調べてみると、部門分けほどではないが、マイナーチェンジを繰り返している。
 第一回コンクールでは“星”と呼ばれる読者による評価がそのまま反映された。一人
につき一作品に三つまで星を付けられ、コンクールの開催期間中は一度付けた星を増減
させてはならない。期間中に得た星を集計し、上位から一割足らずを本選に上げる。一
見、うまく機能したようだったが、応募総数が膨大故、ネット上で有名な作者が多少有
利な形式であることは否めなかったようだよ。加えて、後に公募の伝統ある賞で大賞を
獲る作品が読者選考の段階で落ちていたことが判明し、内外から問題視されてる。力コ
ンのカラーが定まっていなかった頃の話なので、「そういう作品は最初から公募に出せ
よ」的な論調はほぼなかった。

 第二回では読者選考のシステムは同じだが、コンクール期間中、星の数及びランキン
グを非表示としたそうなんだ。が、顕著な改善は見られず。それどころか、主催社によ
る不正(出来レース)が行いやすくなったといらぬ誤解を招き、不評を買っているね。

 第三回でも読者選考の方式は基本的に変えず、星の数は非表示のまま、ランキングは
出すようにした。
 そして大きな変更として、マイナスの星を投じることが可能になった。単純にプラス
の星数からマイナスの星数を引くのではなく、ある程度の傾斜――パーセンテージは非
公表――を付けてマイナスし、順位付けした。
 が、これはコンクール史上に残る混乱をもたらしたんだ。星を計算するとマイナスに
なる作品が続出したんだってさ。贔屓の作家を勝たせようと、固定読者がライバル作品
に、いや贔屓作家以外の作品全てにマイナスの星を目一杯付けたようなんだちょっと考
えればこういう事態も起こり得ると、予測ができそうな気がするんだけど、何故かゴー
サインが出たんだろうね。無論、マイナスになろうとランキングは作成可能だけど、い
びつな結果になったのは火を見るよりも明らかだった。

 第四回ではマイナスの星は取りやめた一方、一人の読者がコンクール期間中に投じら
れる星は各部門三十個までとされた(一つの作品には三つまで)。この回は第三回がひ
どかったせいもあって、比較的穏便に終わったと言えるかもしれない。ただ、証拠は全
くないが、投じない、つまり余った星の“取り引き”が裏で行われたのではないかとい
う噂が立ったらしい。

 第五回。一読者がコンクール中に投じられる星の数は、各部門十個までと大幅に減ら
された。ここまで手持ちの星が少ないと、なかなか余りは生じないらしく、最も妥当な
結果になった回と評されている。たまたまかどうか分からないが、後年大ヒット作にな
るあの『殲怪《せんかい》の忍び』を輩出したのはこの第五回だよ。

 第六回は、前回の選考方法を踏襲しつつ、さらなる改善が行われた。作品に星を付け
たのがどのユーザーなのか、期間中は分からない仕組みになった。本選の結果が出たあ
とには、投票者もオープンになる。
 このやり方は、一部の作家とその固定読者との間に緊張関係をもたらしたってさ。こ
れもちょっと考えれば分かる。読者からすれば推しの作家や作品が一つとは限らないの
に、作家側は「当然、私を推してくれるよね?」となってもおかしくない。本当に星を
投じたのかどうか判明するまでタイムラグがあるため、疑心暗鬼が強まったのんじゃな
いかな。
 尤も、そのような作家はほんの少数で、大勢に影響はなかった、とされてる。これを
機会にその手の作家と縁を切った読者も多数いたとかいないとか。

 そして今度迎えるのが第七回。前回、前々回となかなかうまく機能したのに、何故か
またもや追加の変更があった。さっき言ったように前回までは一度投じた星は変更不可
だったのが、今回はいくらでも付け替えられるとなってるんだよね。さらに、完結状態
にならないと星を付けられないとも決まった。代わりに、作者にのみ見える応援メッ
セージなら完結前でも送れる仕様になった。
 どうやらスタートダッシュによるアドバンテージを軽減したい狙いがあるようだ。悪
くない改訂だと思う反面、想像も付かない事態が起きるかもしれない。根拠がないであ
ろう噂によれば、応援メッセージの多寡も読者選考に少なからず影響を及ぼすのではな
いかと、もっともらしく囁かれている。
 作者だろうと読者だろうとユーザーとしては、「余計なことをして……」とならない
のを祈るばかりだよ。

 〜 〜 〜

 実を言うと、僕が今回力ワヨムに誘った子が主にミステリを書くのは知っていた。力
コンについて説明したとき、知らんぷりしたのはあとで嫉妬したくなかったから。それ
だけ、彼はいいミステリを書く、と僕の鑑識眼は判断してるんだけど。

 ウェブ小説、特に小説投稿サイトではミステリは不人気部門の一つに数えるのが定
説。ネット上だと特に、話の序盤から読者を引き込む必要がある。その点、ミステリは
死体を転がして密室か不可能犯罪か不可思議な状況を描けばいいような気もするのだ
が、なぜか読まれない。魅力的な謎を掲げても、その直後から地道な捜査や関係者の紹
介などに入らざるを得ず、失速してしまうからか? よほどキャラクターが立っていな
い限り、とにかく続けて読まれることは希のようだ。
 そうしたネット小説としての勢いのなさ故か、ミステリが関連する部門は、SFが関
連する部門と並んで、僻地・番外地扱いされるのが当たり前になっている。その評判が
外部にまで伝わっているせいなのかどうか、参加作品数は多いと言えず、勢い、優れた
作品も集まりにくいようだ。結果、受賞作なしで終わることが多い部門と言える。
 僕はミステリ書きとして残念に思う一方で、そんな現状をわずかでも変えたいと常々
考えていた。その作の一つとして、若くて実力のある彼を引き入れることにしたんだ。
 彼の書くミステリなら、あるいは状況を好転させられるかもしれない。何年かぶりの
ミステリ作品受賞作が生まれておかしくないと信じている。
 もちろん不安もある。玄人はだしの傑作ミステリではあっても、ネット小説向きの作
風とは言えないからだ。第一回力コンで埋もれた後のプロ作品、あれのジャンルは推理
小説だった。あれから選考方法などに手を加えて、良作を逃すことのないよう網の目を
小さくして来たとはいえ、一抹の不安は残る。
 ――何にせよ、他力本願なことばかり考えるのは、後ろ向きでしかない。僕は僕で、
今回も作品を出すつもりだ。彼は文字通りライバルなんだが、彼が受賞するならあきら
めが付く。

 コンクールの開催期間に入ったが、例の彼は作品を出さないでいた。
「基本、読者からの星で予選は決まるから、早めに出した方がいいんだって分かってる
よね」
 確認のために聞いてみると、分かっているとの返事。じゃあどうして。すでに書きた
めた作品の中から合う物を出してくればいいじゃないかと、僕は思っていた。
 でも彼は、「挑戦するのなら新作で」と、こだわりがあると分かった。僕はその意志
を尊重しつつ、「どうしたって出遅れた分は損だから、とりあえず一本は旧作から出し
ておきなよ」とアドバイス。それでもなかなか聞き入れてくれないのを、どうにかこう
にか説得して、ようやく一本、旧作『ホック城の怪事件 〜 アレッシャンドリ見聞録』
で参加してくれた。中世ヨーロッパの架空の国アレッシャンドリを舞台とする、古典的
な本格ミステリで、凝った作品であるのは間違いない。日本人のササキ・ミヤモトがア
レッシャンドリを旅したときの記録、との体を取っているが実はそれ自体が真っ赤な嘘
で……という重構造で、ウェブ小説っぽいかと問われればうーんとなる。
 字数を見ると、十万八百。どこかの国の消費税みたいだった。
「十万文字以上あって、一番短いのを選んだんだ。短い方が最後まで読んでもらえる確
率、高いかと思って」
 彼の思惑通りに多数に読了してもらえることはないだろうが、ちょっとでも彼の名前
を露出させておくためには、まあよかろう。

 <後>につづく




#573/573 ●長編    *** コメント #572 ***
★タイトル (AZA     )  21/06/20  14:56  (187)
計算すると不利かな<後>   永山
★内容                                         21/06/20 14:57 修正 第2版
 その後、僕は『ホック城の怪事件』がどのくらい読まれているかを気にして、ちらち
らと様子見に行った。
 少しだけ読まれているようだったが、出足は案の定にぶい。それ以上にまずいなと思
ったことが。彼は力ワヨムを事前に使っていなかったのか、それとも彼なりの信念があ
ってのことか、十万字超の作品を分割せずに掲載していたのだ。読んでもらうには、な
るべく三千〜五千字程度に分けて少しずつ更新していくのが吉だとされているけれど
も、彼にそれを言うのを忘れていたのだ。かといって、今さら一旦削除して改めて分
割・公開するのはコンクールの規定違反になる。
 別の作品を分割して、連日上げていかないかと水を向けたが、彼は新作の執筆に集中
しているからと取り合わない。
 僕は僕で忙しく、それ以上彼に無理強いはできなかった。そもそも、僕も自作を完成
させる必要があった。完成させた作品を期間中、連日更新していくつもりだったのが、
先月、体調を崩しがちになってまだ仕上がっていないのだ。
 もちろん、作品の公開はコンクール初日から始めて、更新も進めている。何としてで
も完結させないと。

 と思っていたのだが、だめだった。身体が着いてこず、入院の憂き目に遭った。
 毎夜遅い時間帯を執筆に当てていたのだけれども、体調悪化に拍車を掛けてしまった
ようだ。冬の寒さも堪えたのかもしれない。
 異変を感じた時点で自主的に診察を受けていればまた違ったんだろう。仮に入院した
としても病床で執筆を続けられたはず。
 ところが現実の僕は無理を重ねた挙げ句、自宅の二階から降りるときにふらつき、階
段を転げ落ちた。身体のあちこちをぶつけ、脳しんとうを起こし、何箇所か骨を折っ
た。内臓疾患と合わせて、しばらく完全看護の下に置かれるほどだった。痛みがピーク
を過ぎて下り坂に入ったのを機に執筆再開しようとしたが、両手の骨に異常を抱えてい
ては、難しい。音声入力で執筆するのは他の人に聞かれるのが何となく嫌だし、不慣れ
でもあったので……あきらめた。
 今回は若い彼に望みを託そう。見舞いに来てくれたときに、新作を公開してコンクー
ルに応募したことは明言していったのだ。タイトルは『三千人の容疑者』で、総文字数
は十万五千ちょっとになったという。
「舞台は現代の日本で、三千を超えるキャラクターを用意し、その内の四分の三、つま
り少なくとも七百五十人ほどを濃淡の差こそあれ書き分けて登場させた上で、ロジック
によって殺人事件の犯人を絞り込んでいくんだ。初っ端に死体を出して、すぐさま探偵
が推理に入る」
「えっと。その内容で十万と五千字ちょいで収まったのかい?」
「うん。序盤で利き手を理由に約三分の一になるからね。ははは。そこから怒濤のロジ
ック連打で、どうにか読者の興味をつなぎ止めようという作戦」
「出足は? 狙い通りに行った?」
「いや〜、なかなか厳しいものがありますね。けれども先にアップした『ホック城の怪
事件』に比べたら、段違い。読み始めた人はほぼ全員、ちゃんとついて来てくれている
らしいっていうのも分かるし。ああ、分割してちょっとずつ更新しなさいっていうアド
バイスの意味、分かってきた」
 彼は屈託のない笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べてくれた。ほんとに小説投稿サイト
ビギナーなんだな。他のユーザー(作家)の動向もまるで参考にしていないってことだ
ろう。そういえば知り合って間もない頃、買ってきた炊飯器を説明書をまったく読まず
に使おうとして、悪戦苦闘してたっけ。その性質は今も変わっていないに違いない。
「退院したら読めると思う。問題は開催期間中に退院できるかどうかだけど」
「いいですよ。あなたからの星があるかないかで当落が決まるくらい際どい位置に付け
ていたら早く読んでくれと懇願するかもしれませんが、今のところそこまでのレベルに
は届かないような気がしています」
 僕と彼はお互いに、読んだ上で面白いと感じなければ星を投じることは断じてない
と、固く誓い合っている。第三者から見れば「そんなもん口先だけだろ!」で片付けら
れるレベルだろうけど、本当なのだ。現に、僕は彼の完結済み作品『ホック城の怪事
件』をサイトに上がる前から読んで知っており、高めの評価をしているけれども、まだ
星は付けていないし、彼もまた僕の連載途中の作品に応援メッセージ一つ寄越してくれ
ない。それもこれも、他によい作品があればそちらに星を入れるのがしかるべき投票行
動というものだと信じているので。……ただ今回は自由に星の付け剥がしができるよう
になったのだから、ひとまず付けてもいい(その方が人目に付く可能性がわずかでも高
まるはず)んだけど、最終的にやむなく剥がすことになったとしたら、気まずくなるか
もしれないので後回しにしている。
「現段階でどのくらいの星? あ、星はまだか。最後まで更新してないだろうから」
「うん。応援メッセージなら今朝までに十七件あった。好意的なものばかりだったけ
ど、大半は連載開始してすぐに来たからなあ。これって多分、あなたの言っていた見返
りを求めてのあれじゃないのかな」
「そうかも。三千人の容疑者って題名なら、本編を読まなくても応援メッセージを書き
やすそうだ」
「そんな嫌なことをあっさり言わなくても」
「はは、ごめんごめん。入院生活が長引いて、ちっとばかし苛々してる。許してくれ」
「ああ、作品、まだ書き上げてないんだっけ。……あなたさえよければ、僕が代筆と代
理更新しますけど」
「……うーん……ありがたい申し出だけど、厳密に言えば規約に抵触する行為だろうか
ら」
 自己のIDを他者に貸与してはならない的な文言があったと記憶している。複数名で
小説をこしらえる共作行為も原則的に禁じられていて、やるのならサイト側に申請して
認めてもらった上で、IDを取得しなければいけない。ただしこれは新規の場合で、す
でにユーザーである者同士が組みたいときはどうすればいいのか、あいにくと知らな
い。
「ま、やめといた方が無難かな。あきらめた訳じゃないしさ。あと一万字くらいだか
ら、退院が予定通りなら間に合う計算なんだ」
「そうですか。希望的観測込みのようにも聞こえますが、何かあったら言ってくださ
い。お手伝いできるところはします」
「ありがとう。気持ちだけで充分だ」
 隊員を前にそういう大見得を切った僕は、絶対に間に合わせてみせようと基本的なリ
ハビリを頑張り、予定よりも二日早く、出られることになった。コンクールの読者選考
期間終了までちょうど一週間あることになる。この分ならどうにかなる、してみせる。
 さて、退院が急に早まったため、出迎えは誰もなしとなり寂しくないと言えば嘘にな
るかもしれない。だけど身軽に動けるのはいい。昼過ぎに自宅アパートに戻るなり、僕
は昼食もそこそこにネットを始めた。真っ先にアクセスするのはもちろん力ワヨムだ。
自作にちょこちょこと応援が付いていることに感謝しつつ、そちらへの返事は後回しに
させてもらって、彼の『三千人の容疑者』のページに行ってみた。この作品に少し目を
通して、あとは自分の応募作品を完成させることに全力を注ぐ。
 『三千人の容疑者』は、本格ミステリとして定番の型で幕開けしていた。山中の一軒
家に作家を訪ねた知り合い達が、返事がないのを訝しんで庭に回る。すると広い庭に面
したダイニングキッチンで家の主が赤く染まって倒れているのが、大きな窓ガラス越し
に見えた。この段階で家の鍵は全て施錠され、密室状態にあることは推測済みであるた
め、来訪者の一人が大慌てでガラスをぶち破り、怪我をしながらも中に入った。しかし
時すでに遅く、主は死亡していた。密室殺人の謎に加え、現場には何かの会員証らしき
カードが一枚あり、また、196と読める血文字が床に書かれていた。
 あまりに型通りで適当に飛ばし読みしたくなるが、私は彼の伏線や暗示の配置の仕方
を知っているので、丹念に読んだ。
 読んでいて、段々と違和感に囚われる。読み易い文体なのに、どことなく引っ掛かる
というか、目障りな物があるというか。やがて気付いた。
 一ノ瀬昭彦(いちのせあきひこ)、二階堂可菜(にかいどうかな)、三鷹佐由美(み
たかさゆみ)、四谷民恵(よつやたみえ)、五代尚子(ごだいなおこ)、六本木春也
(ろっぽんぎはるや)、七尾誠(ななおまこと)、八神保仁(やがみやすひと)、九条
蘭丸(くじょうらんまる)……古典的な某有名漫画に合わせたのか、途中まではこの調
子で付けられた名前が続くのだが、そんなことよりも違和感の正体はここにある。
 振り仮名だ。彼は丸かっこで表す方式を採っているのか。でもこのサイトには、振り
仮名をするための記法があって、仮名を振りたい一連の漢字の直後に《》で括って読み
を記すのが基本である。これに慣れている僕は、丸かっこが久しぶりだったため、妙な
印象を受けたのだった。
 彼はこのサイトも説明を読まずに、ほとんど感覚だけで使っているらしい。しょうが
ない奴だ。あとで連絡して仮名の振り方を教えてあげようと心に留め、もう少しだけ読
んでおくかと目を走らせていると、五分ほどしてはたと大事な点に思いが至った。
 ちょっと恐ろしいその思い付きを、僕は否定したくて、でも確かめずにはおられな
い。
登場人物の名前の読み方、平均の文字数はどのくらいだろう? ざっと数えて、六文字
くらい? 丸かっこを含めれば八文字か。
 彼は、この作品は日本を舞台にしたと言っていた。登場人物はほぼ日本人で占められ
ているに違いない。そして登場人物の数が三千。名前が付けてあるキャラクターが、彼
の言っていた七百五十名だとして、丸かっこを含めた振り仮名の総数は750×8=6
000ほどと推計される。
「やばい」
 思わず呟いた。
 『三千人の容疑者』は今はまだ完結していないので、総文字数は分からないが、作者
の彼は十万五千字ちょっとだと言っていた。そこからさっきの振り仮名分を差し引く
と、九万九千、規定の十万字に届かなくなる!?
 えらいこっちゃ。たとえどんなに傑作で面白かろうと、規定を満たしていないのはだ
め。即失格だ。読み仮名の振り方を知らないことにどうして気付かなかったのか、思い
返してみると、彼が先にアップした『ホック城の怪事件』には日本人というか漢字表記
の名前を持つキャラクターが一人も出て来なかったんだ。失敗したな〜。
 彼の力なら、千字程度の穴埋め、楽にこなすと思うんだが……。
 ところが連絡が付かない。そういえば元々の退院予定日を伝えたとき、「あっ、ちょ
うどいいですね。その前日に帰ってきますんで」と反応していたな。学者のフィールド
ワークに同行して、旅に出ると言っていた。行き先は聞いた気もするが、忘れてしまっ
た。電話でもネットでも連絡が付かないということは、外国の僻地? まあそれでもか
まわない。彼は明日には帰国予定なんだ。それから伝えても遅くはあるまい。
 と、悠長に構えていたら、翌日になっても彼から連絡はない。他人事だというのに焦
りを覚え始めた。SNSで連絡を取ろうとあれこれやってみても、無反応が続く一方、
力ワヨムの小説の更新は毎日正午(日本時間)に行われているから、自動更新設定をし
ているようだ。そこだけはちゃんと説明を読んだのね。
 やきもきして、彼の作品の続きを読むどころか、自作まで危うくなりつつある。僕は
外部情報をシャットアウトして、隙間時間の全てを執筆に当てた。そしてコンクール最
終日、どうにか十万文字オーバーを達成し、一挙に公開。当初の目算とは違う更新頻度
になったが仕方がない。
 自分の事が片付いてやっと余裕が生じた。彼への連絡を試みると――電話に出た、あ
っさりと。
「すみません、退院祝いに行けなくて」
 存外元気そうな声が聞けて、ひとまず安堵した。
「どうしてたんだ。今、どこ?」
「今、関空からのバスを降りたところです。ニュースで流れてませんでした? サンド
リテ国の国際空港が、一万年に一度レベルの大雨に見舞われて、使用できなくなったっ
て。復旧して、やっと戻って来ました」
 サンドリテ? どこだそれは。まあいい、とにかく帰って来られたのならいい。安心
した。
 安心すると今度は少々腹が立ってくる。僕は不機嫌な口調になって、おまえの『三千
人の容疑者』、振り仮名を丸かっこで表しているが、ちゃんと振り仮名に直すと文字数
が足りなくなるぞと指摘した。
「へえ、そんな便利な書式があるんですか」
「いや、落ち着いている場合じゃない。コンクールのために書いた作品、無駄になって
もいいのか? 表面上は十万五千字あっても、事実上、約九千文字となったら、たとえ
星をたくさんもらえていても、予選通過することなく落とされる可能性大だぞ」
「あのー、申し訳ない、言いそびれてしまって」
「あん? 落ち着いてないで、今からでも千字、いや余裕を見て二千字ほど書き足せ。
描写を詳しくすればそれくらい稼げるんじゃないか?」
「いえ、それは大丈夫なんです。実はお見舞いに寄せてもらったあと、帰ってから間違
いに気付いたんです。でわざわざ電話なんかで知らせるほどでもないかなと、放置して
いました。すみません」
 神妙な声になり、謝ってくる。彼が電話の向こうで、実際に頭を下げる様子が目に浮
かんだ。
「どういうこと? 大丈夫っての書き足さなくても大丈夫って? 何で? あきらめる
んじゃないよね?」
「ほんと、そこまで心配していただいて、非常に心苦しく、言いにくくもなっているの
ですが……あれ、十万五千字は僕の見間違いで、実際は一千五万字ありました」
「……え?」

 考えてみれば、三千人の容疑者がいて、少なくとも七百五十名を書き分けるとなる
と、結構な分量が必要になるに決まっている。十万五千字だと七百五十人を描写するの
に、一人当たり百四十文字しか使えない。それで本格推理小説の体をなすなんて、ほぼ
不可能だと気付くべきだったのだ。
 その約百倍となる一千五万文字が七百五十人を描くのに多すぎるのか少ないのか、は
たまた妥当なのかは凡人たる僕には判断が付かなかったが……とりあえず、最後まで読
んでくれる人は少なそうだなぁ。

 あ、更新頻度、物凄いことになってる。

 おしまい




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