AWC ●長編



#524/555 ●長編    *** コメント #523 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:07  (126)
「長野飯山殺人事件」2 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第3版
2
 その晩、一睡も出来なかった。
 夜中じゅう、強迫観念に襲われていた。
やくざに拉致られて廃工場でリンチを受ける。
生爪を剥がされたり、歯をペンチで抜かれたり。
 朝になると、それでも空腹になって、朝マックへ行った。
 ソーセージマフィンを食っていたら、なんと、牛山さんの妹の良美さんが現れた。
彼女は飯山の隣町の中野町の僻地病院で看護師をしていた。
そこで牛山さんも透析をしていたのだが。
 彼女は、片手にショルダーバッグ、片手にトレーを持って、
操り人形の様に座席の間を歩いてくる。
途中で俺に気付き、こっちにくると相席してきた。
「あらー、おはよう、これから出勤?」
「いや、今日は夜からのシフトなんだよ。そっちは?」
「私はこれから」
 言うと、エッグマフィンをつまんでがぶりとかぶり付く。。
 その時、ジャケットの袖から手首が出て、
鱧でも刻んだみたいなリスカの痕が見えた。
 あれは、昔、僻地病院で、新生児の交換輸血に失敗して子供を死なせた
ということがあって、それがトラウマになっていて、リスカをするのだという。
 それからリスカのみならず、瀉血、透析、血液クレンジング療法など、
ほとんど血液マニアになってしまっているという。
 何でそんなことになるのか。
 前にゲイバーに行った時に、オカマのリストカッターが言っていた、
リスカはアナニーに似ていると。
アナルが疼くのは、勃起したペニスが空中に投げ出されたみたいな
寂しい時なのだが、そういう時にアナニーを繰り返すと脳に回路が出来るという。
同時にアナルに限らず、尿道切開、チクニーなど同時多発的に性感帯が発生する。
 それと同じで、良美の場合、交換輸血で空虚な気持ちになって
リスカを初めたのだが、同時に瀉血、透析、血液クレンジング療法などに
連鎖していったのではないか。
 俺は、エッグマフィンを食っている良美を、上目遣いで見た。
「そうそう」と良美がこっちを見た。「兄貴の透析だけど」と又血の話。
「とうとううちの病院に個室用の透析器が入るのよ、今日ね。
あれがあれば兄貴も夜に透析出来るだからいいと思うんだ。
もう兄貴も疲れているだろうから」
 俺もあんたの兄貴のせいですごい疲れてると言おうかと思ったがやめた。
「俺も今病院に通っているんだ。飯山市の市民病院だけれども。胸を患って」
「へー。兄貴もそっちにも通っているのよ」
「どこが悪いの?」
「うん、ちょっと」
 がんかな。あの咳の事を思い出した。
「兄貴に会ったら連絡くれるように言ってよ。
最近シフトの関係で全然会わないから。電話しても寝ていたら悪いし」
「ああ、言っておくよ。遅くとも明日の朝にはマンションで会うから」
「じゃあ、よろしく」
 良美はハッシュドポテトを食ってコーヒーを飲むと行ってしまった。
ゴミをトラッシュボックスに入れて。

 彼女が行ってしまうと、又拷問の続きが脳裏に浮かんだ。
鼻の穴に割り箸を突っ込まれたり眼球をえぐられたり。
でも別に俺には責任はないとも思う。俺はただ単に風俗店で遊んでいて、
アッシー君をやっただけだものなあ。それに誰にも見られていないんだから、
見つかる要素もないし。
 などと思っていたら スマホが振動した。
「斉木か」
「えっ」
「飯山興業のものだけれども。あんただろう、夕べうちのタレント連れ出したの。
四人もパクられちまったぞ」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。もう劇場は穴あいちゃうし、
マネージャーは女を返せって騒いでいるし、どうしてくれるんだよ」
「なんで俺だって分かるんですか。つーかどうやってこの番号知ったんですか」
「一人出てきたんだよ、まだビザがあった女がいて」
 カミールだ。カミールには電話番号を教えていない。牛山に聞いたのか。
「お前、即行で事務所に来い。来ないならこっちから行くぞ。
もうそっちの住所とか特定しているんだから。今から一時間以内に来い」
言うと電話は切れた。

 俺はとにかく、まだ女の匂いがぷんぷんするレガシィに乗ると、飯山に向かった。
 俺の住んでいる所は中野町といって、長野線の信濃竹原駅という寂れも寂れた
駅付近にある。
 飯山に行くには、雪の高社山を右手に北上していく。
 左右にうず高く雪がつまれた県道355を北へ走った。
 時々バスとすれ違うとチェーンの音がじゃらじゃらしてきたが、
それが行ってしまうと、人も車もいなくなった。
 355から414に入ると更に寂れて自分の車以外は何もなかった。
 俺はチェーンを付けておらず、溝の減ったスノータイヤだけだった。
ここで、又事故でも起こしたら、泣きっ面に蜂だ。夕べの定員オーバーで、
せっかくのゴールド免許にも傷もついたし。
 ところが、北陸新幹線の高架の下のところで、ごとっと何かを轢いた。
 なんだッ。猪か何かか。まさか人じゃあるまいな。
 降りてって確かめると熊だった。
体長一メートルに満たない小熊が頭から血を流して倒れている。
 つま先でつついてみたが、もう死んでいた。
 しょうがないな、と呟いて、尻尾を引っ張って、
左手の夜間瀬川の河川敷の方に捨てた。
 バンパーがへこんでべっとり血がついていた。
 ちっ。くそー。まだ、不吉な連鎖が続いているのか。
 突然高架を新幹線が、びーーーーーうーーーーとドップラー効果の
残響を残して走り去っていく。

 やくざの事務所は劇場隣のスナックの二階にあった。
 事務所に入ると、スカーフェイスのやくざが二人が麻雀卓で牌をこねていた。
「一緒にやらない?」と言う。
「いやー、三人麻雀はちょっと」
「まあいいわ。遊びにきたんじゃねーものな」こっちに向き直る。
「兄ちゃんよお。どうしくれるんだよ。今日から劇場開けられねーじゃねーか。
ただでさえニッパチで売上げが上がらねーのに、
タレント四人も連れて行かれたんじゃあ堪ったもんじゃない」
「俺、何か悪い事しました?」
「なにぃ」
「こんなの言うのなんなんですけど、
俺的には、風営法の看板の出ている店で遊んでいて、
アッシー君を頼まれただけなんだけれどもなぁ。事故った訳でもないし」
「なに言ってんだ、おめーは」
「もしタクシーに乗っていて、捕まったりしたら、
タクシー会社にも文句言うんですか?」
「なに、ごちゃごちゃ言ってんだ、おめーは。
そんな言い訳がマネージャーに通用すると思ってんのか」
「マネージャー?」
「劇場が開けられないのは俺らの問題だが、
女はマネージャーから預かったタレントだ。
女には一人当たり三百万の借金が残っている。
カミールは帰って来たからいいとして、三百かける四人で千二百万だ。
それをマネージャーが返せと言ってんぞ。お前払え」
「千二百万もあるわけないですよ」
「だったらホームレスでもぷーたろーでもいいから四人野郎を用意して、
偽装結婚させるしかないな」
「えー、無理だよ。つーかストレスで胸焼けがしてきた。
つーか、俺胸が悪いんですよ。これから病院に行かないとならないんで、
帰ります」俺は勝手に踵を返した。
「ちょっと待て」やくざが立ち上がった。
 脇目も振らず、俺は階段を駆け下りた
「ゴルァ、お前の住所も何もかも分かってんだからな。逃げても無駄だぞ」
背後でやくざが怒鳴っていた。




#525/555 ●長編    *** コメント #524 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:08  ( 69)
「長野飯山殺人事件」3 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
3
 それから俺は、胸の病気の治療の為に、市民病院の呼吸器科に行った。
 待合室の長椅子に座っていたら、「よっこいしょ」と、
トートバッグを持った牛山が腰を下ろした。
「あれー、なにー。つーか昨日はえらい目にあったよ。
今もやくざに絡まれていたんだから」
 牛山は咳き込んでいた。ゲホッゲホッ。
 咳が収まるとじろりと見て、「おまえさん、なんでこんなところに居るの?」
と言う。
「ちょっとここを」俺は胸の当たりを押えて見せた。「でもずーっと
通院でやっているんだよ。シフトに穴あけて迷惑かけても悪いし。
そっちはどうしたの」
「ずーっと咳が止まらなかったやろ。かにてんてんや」
「かにてんてん」
 やっぱりな。糖尿で人工透析までしているのに今度はかにてんてんか。
「妹の病院で診てもらえばいいのに」
「だめだ、あんな研修医しかいない交通事故の専門病院なんて」
そして又ゲホッゲホッ。「こんどはダメかも知れないなぁ」
「なに弱気になってんだよ。大丈夫だよ」
「気休め言うな。俺には分かっている。それに考えている事もあるんよ」
「なに?」
「俺が死んだら保険金が入るんだが。
それをカミールに渡して有効に使って欲しいんだが。
彼女が、借金を返して、国に帰って、両親と使えば有効だろう。
 しかし、日本で渡して、散財されても無駄になってしまう。
 それに、受取人をカミールにしても、
あんなパスポート、偽造かも知れないしなぁ。
 そこで、誰か信用出来る奴に受取人になってもらって、
カミールの故郷に持って行ってもらいたいのだが。
もっともそんな事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが」
「そんなの俺に聞かせてどうするの? 俺にやれって事?」
「そうじゃないけどなぁ、ゲホッゲホッ。
ところで、昨日運転していて捕まったそうだな。
どうする積りだ。一人三百万の借金だからなあ。四人だったら千二百」
「それ、保険金で払っていいって話?」
「全然違うよ。別の話だ。あんた、狙われているよ。
やくざじゃなくて、マネージャーに。
あんた、タイーホされた女のかわりに新しい女を入れろ言われているだろ。
それができないんだったら、これで落とし前つけにゃならんって、
預かってきたんよ」とトートバッグを開いてタオルを広げた。
そこにはハジキが。
 牛山はそれをタオルで包むとこっちに押し付けてきた。
「なんだ、これ。本物か」
「当たり前だ。そんなものおもちゃでどうするぅ、ゲホッゲホッ。
あんた、それを使いたくなかったら、女を入れるしかないで」
「どうやって」
「それは、やなぁ」牛山はめもを渡してきた。
ツイッターのユーザー名らしき名前が四つ。
「あんたがなあ、野郎を探してだなあ、そのツイッターの女と見合いさせるんよ。
そんでそいつらが身元保証人になってだなあ、
成田の入管を通して、入国させるんよ。そんでマネージャーに返すんよ」
「そんな事する男、ここらへんに居る?」
「できなかったらそれで自殺するしかないぞ」
「そんなぁ」
「結婚相手が見付かったら、カミールに報告しておいて。窓口はカミールなので」
 牛山は診察室に消えて行った。
 俺は、タオルに包まれたハジキを抱えたまま途方に暮れる。

 病院で処置を終えて建物の外に出てくると、スマホが鳴った。
 すわやくざ! 良美さんだった。
「今、お兄さんに会ったけど、良美さんの事伝えるの忘れちゃったよ」
「何だ、折角個室用の透析器が入ったのに」
「お兄さん、相当悪そうだったな。かにてんてんの方が」
「ああ、うーん。血液クレンジングみたいなのやればよくなるかなぁ。
つーかキース・リチャーズみたいに血液全取替すればいいのか」
「俺が血液クレンジングしてもらいたいよ」
「えー、なんですって」
「いや。俺がかにてんてんなんてことはないんだけどね。
あまりにもややこしい事になってきたので、自分をリセットしたい気分なんだよ」




#526/555 ●長編    *** コメント #525 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  ( 59)
「長野飯山殺人事件」4 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
4

 俺は午後からの勤務の為にレガシィでマンションに向かった。
このややこしさから逃れるには、
誰かにフィリピーナをおっつけなければならない、と思っていた。
まず、俺の前に勤務していた加藤という男はどうだろう。
 マンションの更衣室で加藤と引き継ぎをする。
「何か変わった事あった?」
「ガンダムのナレーションをやっていた人が死んだ」アニメオタクの加藤が言った。
「そうじゃないよ。業務の事だよ」
「業務では特にないよ。そっちは何か変わった事あった?」
「大ありだよ。まず熊を轢いた」
「どこで?」
「中野町の高架の下だよ。今日は暖かいので冬眠から覚めたのかも知れない」
「冬眠といえば、ガンダムにもコールドスリープというのが出てくるけど、
あれは冬眠とは違って、眠る前に、
血を抜いて不凍液を入れてゆっくりと凍らせて行くんだよ」
「へー。血液交換だな。牛山妹の世界だな。
…まあ、冬眠の話はどうでもいいから。
そんな事よりお前、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか? 
お前、外人は嫌いなの?」
「そんな事ないけど」
 俺はスマホでツイッターを開くとピーナの名前を入力して画像を表示した。
「こんな女どうだ」
「うーん、原住民っぽいね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。おめーにしてみりゃあ、こんな女上玉だろう。
それにフィリピンだったら、常夏だぞ」
「フィリピンに住むの?」
「そうじゃないけど。とにかくお前の顔を写メで撮らせろ。
向こうに送っておくから」
「いいけど」
 そして俺は加藤の写真を相手の女に送った。
 加藤が帰ると、風呂掃除、巡回、蛍光灯交換、フロント業務などをこなす。
 仮眠をとるとすぐに夜中になった。
 夜中の三時、朝日、読売、毎日の新聞屋をオートロックを解錠して入れた。
「お前ら、新聞を配る前にちょっといい話し」と全員をフロントの前に集める。「お前
ら、結婚とか考えていないの?」
「え、なにをやぶから棒に」
「いい女がいるんだよ。ちょっとこれを見てみな」
俺はツイッターの画面にピーナの名前を入れて表示して見せた。
「こういう女と結婚してみたいと思わないか」
「今は新聞配達も外人ばっかりだからインターナショナルなのには
慣れているけれども、ピーナとなんか結婚して笑われないかなあ」
「笑われる訳ないだろう、今や角界にも芸能界にもピーナハーフは多い。
時代はピーナだぞ」
「ビザとか問題ないの?」
「だからお前らが身元保証人になって入国させて、
気に入ったら結婚すればいいんだよ」
「成田に行くのかあ。だったら夕刊の休みの日じゃなあいとダメだな」
「とにかくお前らの顔を写メで撮らせろ。向こうに送っておくから」
「いいけど」

 朝になって牛山が出勤してくると聞いてきた。
「どうだ、進展はあったか」
「俺は仕事が早いぜ。一晩で四人確保したよ」
「誰よ」
「加藤と新聞屋だよ。これからカミールに会いに行く」
「それは期待が持てそうだな」
 それだけ交わすと、俺はそそくさと退社した。




#527/555 ●長編    *** コメント #526 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  (106)
「長野飯山殺人事件」5 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
5

 駐車場に行くとレガシィに乗り込む。
車内でも息が白かった。
 カミールに電話すると英語で話した。
「もしもし、サイキ。分かる?」
「もちろん」
「今日、会いたいのだけれども。偽装結婚のことで。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ十時頃、飯山のファミレスの駐車場で待っている。
俺の車は知っているだろう。白のレガシィ」
「わかった」

 二十分後、ガストの駐車場についた。
 フロントガラスごしに空を見上げると、異様に晴れていた。
今日は何か起こるんじゃないのか。
 拳銃をジャケットのポケットに入れると、車を降りた。
 ガストの軒下に、カミールがPコートに両手を突っ込んで立っていた。
 あのファー襟に厚底ブーツでなくてよかった、と思った。
 雪の照りっ返しで、カミールの顔は白く見える。
 カミールを促して、一緒に店に入ると窓際の席に付いた。
 カミールはハンバーガーにオレンジジュース、
俺は目玉焼き&ベーコン朝定食を注文した。
 料理がくるまえにさっそく俺は切り出した。
「夕べ、俺の知り合いにフィリピンの女の写真を見せたんだけれど。
そしてそいつらの写真をメールで送ったんだけれども。
向こうの女、なにか言っていた?」
「あんなこ汚い新聞配達員じゃあ無理だよ。女の子はみんな若いんだから。
それに、偽装結婚は私の借金を返す為にやる積りだったのに。
あんたがしくじって逮捕された女達の穴埋めをする為じゃない」
「そっちが乗せてくれって言ってきたんだろう」
「とにかく無理、無理。あんなジャパニーズじゃあネバーポッシブル」
 無理無理と繰り返されると無理に思えてくる。
ユーチューバーになろうとか、fxで儲けようとか、
ミステリーの新人賞に応募しようとか、誰かに無理と言われると無理に思えてくる。
 偽装結婚も無理だし、それに面倒くさく思えてきた。
 トンヅラした方が早いんじゃないのか。牛山の保険金をもって。
 料理が運ばれてくると、カミールはさっそくハンバーガーを頬張った。
見ていて、若いな、と思った。
こんな若い女が本当に牛山を愛しているのだろうか。
スマホを渡したり、送金したりしてやっているから、利用されているだけだろう。
俺は聞いた。「カミール。牛山は客か? それとも恋人?」
「恋人だよ」
「うそー。だってあいつは金をはらって個室に並んでいた男だぞ」
「それはあなたも同じ」と言うとジッとこちらを見据える。
 なんでここで俺を攻めてくるんだろうと、一瞬顔が引きつった。
でもまあいいや。俺は声を潜めていった。
「牛山は、タバコが好きでしょう。だから胸が悪い。後で死ぬかも知れない。
そうしたら、保険金が入るでしょう。彼はそれをあなたにプレゼントしたい。
でも、日本人がいないとお金持って帰れないでしょう。どうする?」
「あなた助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」
「友達だからって、助けるとは限らない。
その前に俺には問題があるし。お前のボスに脅かされていて、
女を入れないと死なないとならない。こんなものを押し付けられた」
 テーブルの下で、拳銃をポケットか出して、見せる。
「はーっ」と息を呑む。「ちょっと見せて」
 さっと手を伸ばすとひったくった。
「おいおい」
「これ、カルロが持っていたものだ」
「カルロって?」
「マネージャー。私が持っていてあげる。故郷で撃った事もあるし」
「故郷に帰ろうよ。牛山の金でマネージャーに借金を返して。
俺もカルロに脅かされているから、一緒に逃げたい。どう?」
「うーん」と唸って前かがみになる。胸の谷間が見える。
「この話しの続きはホテルでしようか」
「一発撃たせてくれたら、行ってもいい」
「オッケイ、オッケー」

 ファミレスを出ると、カミールをレガシィに乗っけて、中野町方向に走った。
 新幹線の高架の下で河川敷の方に向かう道に車を入れて止める
 そして、昨日捨てた熊の死骸のところへ行った。
「ここに撃てよ」
 カミールは構えた。
「ちょっと待って。一応、電車が来たら撃て」
 やがて、新幹線が、シューーーーーと擦れる様な音をたてて通過した。
「撃て」と俺は言った。

 船の形をした石庭グループのホテルに入ると、
自動販売機で部屋を選んで鍵を出す。
部屋に入ると「冷えた体を温めたい」とカミーラが言った。
 俺は冷蔵庫の上にあったティーバッグで紅茶を入れてやった。
「はい、tea。でも、アルファベットじゃないけれども、
俺は、T(tea)よりU(you)の方が好きだよ」
「でも、IよりHが先だと順番が逆ね」
 俺は黙って服を脱いだ脱いだ。
 カミールは寄ってくると、下着を下ろしてあそこを見た。
「なに、この絆創膏、血がにじみ出ている」
「それは、伝染る病気じゃないから」
「でも、やる前にシャワー浴びないと」
「オッケーオッケー」
 俺はシャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血した。
 出てくると一発やった。

 事が終わる、そそくさと部屋を後にした。
 二人してエレベーターでフロントに降りてくる。
 そして出口に向かったのだが、突然カミールが消えた。
 あれー、どこに行ったんだ、俺はキョロキョロした。
背後を見ると、カミールが拳銃を構えていた。
「なにしている」
「サエキ、撃つよ」
「やめろぉ」
 しかしそのままズドンと銃声が鳴った。
 身をよじると胸からどくどくと血が流れ出した。
 俺はその場に倒れ込んだ。入り口のドアのガラス越しに妙に晴れた青空が見えた。




#528/555 ●長編    *** コメント #527 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:10  (152)
「長野飯山殺人事件」一 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
一

 私、佐山と中川が同人の斉木に誘われて
このスキーマンション兼ホテルに来て三日が経っていた。
 初日はごたごたがあってろくにスキーも出来ず、
これでは慰安にならないと、慰安の慰安としてストリップ劇場に行った。
二日目は怠惰に温泉に浸かって過ごした。
そして三日目の今日も昼頃に起きると温泉に浸かっていたのだが。
 その帰りにフロントに差し掛かると、管理室の中で、
何やらガヤガヤ騒いでいるのが見えた。
清掃員やら、主任管理員、コンシェルジュやらが
「このままだとシフトが組めなくなる
…加藤ちゃんと牛山さんに連投してもらうにしても限度がある」
などと侃々諤々やってる。
 私はドア付近にいたコンシェルジュに訪ねた。
「ちょっと、何かあったんですか?」
「それが、斉木さんが撃たれたんですよぉ」
「はぁ?」
「ピストルで撃たれたんですよぉ」
「えー」私はほとんどそっくり返りかけた。
 コンシェルジュの高橋明子はネットのニュースを印字したもの広げると
読み上げた。
「今日十一時過ぎ、中野町のホテルで中野市在住の
マンション管理員斉木和夫さんが何者かに拳銃で撃たれました。
斉木さんは市内の病院に搬送されましたが、命に別状はないとの事です。
飯山署によりますと、
防犯カメラには外国人風の女性が銃撃の後走り去る姿が映っており、
同署は事件との関係を調査中…ですって」
「外国人風の女性っていったら、ストリップ劇場と関係あるんじゃないのか?」
中川が言った。「あの晩、一緒に帰ってきた時、牛山さんという人が
何とか言っていたなあ。何とかいう踊り子に入れ込んでいる、と。
彼に聞けば何か分かるんじゃないのか。牛山さんは今日はいないんですか?」
「今、裏のエントランスで雪かきしていますが」
「そこに行ってみよう」と中川。
 猪みたいな主任管理員を先頭に、私、中川、高橋明子は、
裏のエントランスに走って行った。
 裏口のエントランスに到着するとすぐに猪は雪かきをしている牛山さんに
詰め寄った。「牛山さん、斉木が誰に撃たれたのか知っているのかい」
「知らんよ」と背中を向けたまま牛山さんは雪かきに集中。
 しばらく二人は押し問答していたのだが。
 ところが突然牛山さんは、わーっと天を仰いだかと思ったら、
がばっと自分の体を抱くようにして雪の上に倒れてしまった。
咳き込んで吐血している。
 何で斉木、牛山と連続して人が倒れるのか、という疑問が鎌首をもたげたが、
とにかく、みんなで裏口のエントランスに運んだ。
 牛山は、更に咳き込み、吐血する。
「こりゃあもう救急だな」と中川。
 猪みたいな主任管理員が救急車を呼んだ。
 しかし、来るのは早いのだが、ストレッチャーで救急車に格納してから、
出ない出ない。
あちこちの病院に電話しては「今、別の急患を診ているから」
などと断られて手間取っている。
 猪みたいな主任管理員が怒鳴った。「なに時間食ってんだ、こんなの、
心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死んでいるぞ」
 咳き込んでいた牛山がギクッと目を見開いた。
自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して
「ここに連れていってくれ。何時もここに通っているんだ」と言う。
「診察券を持っているならそこに行きましょう」と救急隊員が言った。
 そういう感じで、救急車はやっとこ動き出した。
 猪の主任管理員が同乗して、私と中川は明子さんの車でついていく。

 市民病院のICUの外で待っていると、医師が出てきて、我々に説明した。
「肺胞出血を起こしてまして、今、薬物療法をやっていますが、
場合によっては血漿交換をしなければならない」
「斉木はここには運ばれてきていないんですか?」私は聞いた。
「今朝中野町で撃たれた斉木なんですが、
彼もおんなじマンションで働いているんですよ」
「それは中野町の病院じゃないですかね。向こうで起こった事件なら」
「それじゃあ主任さんはここで牛山さんの様子を見ていて。
俺らは向こうに行ってみるから」と中川が命令口調で言った。

 私と中川は、明子さんの運転で、中野市の僻地病院へ言った。
 そこは、小さくて古い病院。
 明子さんが言った。「ここは元々は産婦人科だったんですが少子化で
人工透析や救急病院も始めたんですよ。
牛山さんの妹が看護師をやっていて、彼女から聞きました」
 受付の小窓に「斉木さんの職場の者ですが」と告げる。
「十三号室ですよ」と簡単に教えてくれた。
 これじゃあ、犯人がとどめを刺しにきたら簡単にやられちゃうな。
 我々が病室の前まで行くとちょうど女医さんが出てきた。
「今、面会謝絶ですよ。立入禁止です」と冷たく言う。
「しかし、私ら知り合いなのだから具合ぐらい聞かせて下さいよ」
と私は下手に出た。
「部外者には言えませんよ」
 ここで中川がT大医学部の威光を放つ。「私はT大法医学教室の
中川といいますが」
 女医の顔色が変わった。
「あなたが診たんですか」
「はい」
「傷口の大きさとか、火薬の付着の有無とか、教えて下さいよ」
 若い女医は従順に答えた。「傷の大きさは五ミリ。
使われた拳銃は38口径の9ミリです。銃弾は肋骨に当たって止まっていました。
火薬の付着はありません。距離は至近距離だと思われます」
「解せないなあ。普通銃の口径以上に射創はでかくなるんだが。
まあ拳銃なら同じぐらいの大きさの場合もあるが」
 女医は逃げる様に行ってしまった。
 次に警察関係者が出てきた。
「あの、斉木くんの友人なんですけれども、
事件の経緯を教えてもらえませんか?」
「マスコミ各社に言った通りですが」
 ここでも中川がT大の威光を放つ。
「私はT大医学部のモノですが」
「あ、そうですか」
「何かストリップ劇場との絡みとかあるんやなかろうか」
 我々は、牛山さんとカミールの関係を知っていたので、そんな事を聞いたのだが。
「実はですね、一昨日の夜なんですが、飲酒検問に
斉木さんが引っかかったんですよ。
その時にストリップ劇場の踊り子五人を捕まえましてねえ。
一人はビザがあったんで帰したんですが…」
「それが今回の事件と関係あるのですか?」
「さあ、今のところはなんとも」
「そうですか」

 三人でマンションに帰ってきたところで、我々はもう一つ情報を得る事が出来た。
 フロントには加藤という管理員が居たのだが。
「主任管理員はどうしました?」と聞くと、
「まだ、帰ってこなーい」と、それを聞いただけで、
こいつ池沼?と思える様な返答をしてきた。
「君ぃ。君が最後に斉木と会ったのは何時? 何か言っていなかった?」
と中川が聞く。
「前回勤務の時に斉木さんに会いました。その時に、
フィリピン人と結婚しないかと言われました」
「なにぃ?」
「フィリピン人の写真を見せられました。
そして僕の写真も撮って向こうにメールしたみたいです」
「それは偽装結婚?」
「詳しい事は知りません。斉木さんに聞いてみないと」


 我々は客室に戻ってこれらの情報を整理しようと思ったのだが、
やっぱりひとっ風呂浴びながら、という事になった。
 我々は湯船に浸かり、濡れたタオルを頭に乗せて、今日得た情報の整理を始めた。
「まず事件のあらましですが、
まず、あの晩、斉木は踊り子五人を乗せていて飲酒検問に引っかかった、
そしてカミールだけが帰ってきた、というのが事件の始まりですね。
それから、斉木は加藤に偽装結婚らしきものを進めていた。
あと、斉木を撃ったのはカミールなんじゃないか、という疑いがある」
「そうやな。そして想像だが、四人もフィリピン芸人をもってかれたんじゃあ、
その筋のひとから脅かされていたかも知れない。
それでまず偽装結婚で穴埋めをしようとした。
だけど上手く行かないから、落とし前をつけるために死ななければならなかった」
「実際に撃ったのはカミールって感じですが」
「それは怪しいと思うで」
「何故ですか?」
「だって傷口は五ミリしかないのに、九ミリの弾が出てきたんやで」
「でも、医者が弾を摘出したんですよ」
「あんな研修医にはなんにもわからないやろう」
「それに撃たれたところは防犯カメラにも写っているし」
「そうだけれども、俺にはまだ疑問だな」
「じゃあ、そこらへんの事、カミール周辺の事を、明日牛山さんに聞いてきますか。
見舞いのついでに」
「そうやな」




#529/555 ●長編    *** コメント #528 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:11  ( 85)
「長野飯山殺人事件」二 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
二

 ところが翌日、またまた明子さんの運転で市民病院に行ってみると、
牛山さんはICUから出てきたのはいいのだが、
夜中にまたまた肺胞出血が進んで、
鎮静をかけられて人工呼吸器をつけられていた。
 もう意識がなく話せない。
「なんだー」我々は頭を抱えた。
 がっかりして、折りたたみ椅子に三人して座っていると、
看護師が来て、牛山さんの人工呼吸器からチューブを入れて、
ずずずずずーっと吸引した。
 牛山さんは体をビクビクーっと痙攣させた。
「なにをやっているんですか? 痰を取り除いているんですか?」と中川に聞く。
「ああやって、分泌物を取り除かないと誤嚥を起こすからね」
 看護師が作業をしながら、言った。
「斉木さんは中野市の僻地病院に行っちゃったんですってねぇ」
「えッ、斉木を知っているんですか?」
「ええ。この前、牛山さんと一緒に来ていましたよ」
「えッ、斉木がこの病院に」
「あら、そうですが」
「何科ですか。呼吸器科ですか?」と中川。
「え、ええ」
「内科ですか外科ですか」
「それは…、あらなんか私、余計な事いっちゃったかしら」
 看護師は牛山の鼻からチューブを抜くと、
適当に人工呼吸器のコントローラをチェックして、そそくさと出ていった。
「こりゃあ、面白い事になってきたで」と中川。「呼吸器科に通っていたって事は、
胸に切開の傷でもあったかも知れない。
そうすれば、銃弾をそこに埋め込んでおいてやな、空砲を撃たせれば、
他の人には、撃ったと思える。そんであんな僻地病院に運ばれて、
素人に毛が生えた程度の研修医に診させたら、わからんかも知れない」
「じゃあ、その情報をもって僻地病院に行ってみましょうか」
「そうやな」
「じゃあ、明子さん、また送っていってもらえますか」
「ええ」

 我々は又、飯山市から中野市の僻地病院に向かった。
 途中車窓から雪山を見て私は呟いた。
「折角気楽にスキーでもする積りだったのに、
やっかいな事件に巻き込まれちゃったなぁ」
「そんなに気楽じゃあないですよ。今年は熊が出ますから。
地震の影響かも知れないけれども」と明子さん。
「実際に出たのか」と中川。
「いや、加藤さんから聞いただけなんですけど。
加藤さんは斉木さんから聞いたと言っていました。
運転していたら山から熊が出てきて轢いてしまったと」
「近いのか」
「ちょうど中野市に向かう途中ですが」
「そこに連れていってくれへんか」
 我々は斉木が熊をはねたという中野市の北陸新幹線の高架下に降り立った。
 あたり一面は雪だった。
「ここらへんに、熊の死体はないかなあ」と私。
「斉木のアパートは中野市やから、中野から飯山方向の車線の向こうやな。
向こう側が河川敷みたいになっているから、どっか、向こう側にないやろか?」
 そして3人で、反対側の河川敷みたいなところを探してみた。
すぐに雪の上に熊の死体を見付けた。
「雪のおかげで保存状態がいいな」中川はしゃがみこんでじーっと見ている。
「これや。ここに銃創があるで。でも回りの雪は全然血で汚れていない。
つまり死んだ後に撃ったんや。そして弾を取り出したんじゃあないやろか」
 そこまで言った時に、高架の上から、
シャーーーーっという新幹線の音が響いてききた。
「このタイミングで撃ったんですかね。ドラマみたいですが」
「多分そうや。そして、その弾を傷口に入れたんや」
「じゃあ、僻地病院に行って、斉木に尋問してみますか」

 ところが僻地病院の斉木の病室に行ってみると、
なんと斉木は今朝方死亡していて、もう葬儀屋が運んで行ったという。
「検死したのかっ」中川が女の研修医を怒鳴った。
「しましたよ。変死だと思ってちゃんと検視官を呼んで。
そうしたら解剖の必要はないというから、死亡診断書を書いたんです。
そうしたら葬儀屋さんが迎えにきたんです。全部決まりの通りにやったんだから」
「まだ生きている可能性があるから、早く葬儀社に電話して」
丸で自分の部下にでも言う様に研修医に言った。
 しばらくして、事務方の男がきて言った。「あのー、葬儀屋に電話したら、
搬送の途中で遺体が消えたっていうんですよね」
「そんな馬鹿な。警察には通報したんですか」
「一応通報したそうですが、もう検死も済んでいるので、
これは逃亡というよりかは、
葬儀屋が死体をなくしたみたいな扱いになるそうです」
「そんな馬鹿な」
 一瞬興奮したがすぐに冷静さを取り戻す。
 中川は部屋を見回した。
「なんかここは寒いなあ」といいつつ窓際に寄る。
 カーテンは閉まっていたが、窓は開けっ放しだった。
室内の温度は零下に近かった。




#530/555 ●長編    *** コメント #529 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 82)
「長野飯山殺人事件」三 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
三

 途方に暮れて、我々は明子さんの運転で帰ってきた。
 フロントにはぼけーっとした加藤がいた。
 彼に言う。「加藤君。君の熊の話ねえ、明子さんから聞いたんだが、
斉木が熊を轢いたという話、あれが事件の一部解明に役立ったよ」
「ああ、コールドスリープでしょう」
「なに?」
「熊の冬眠と人間のコールドスリープは似ているけど違うって言っていたら
反応していたよ」
「斉木がか?」
「斉木さんはコールドスリープなんて牛山さんの妹の世界だって言っていたよ」
「なんだって」そして中川はこっちに言ってきた。「おい、もう一回、
僻地病院に行くぞ。明子さん」
「私、牛山さんの所に行かないといけないんです。
あの人が倒れたのは勤務中だから労災になるので、その書類を届けろと、
派遣元の上司にいわれているんです。もしよかったら社用車、貸しますけど」
「じゃあ貸して下さい」

 我々は自走で、又僻地病院へ行った。
 着くなり受付の小窓に「研修医はいるか」と中川が言った。
「もう今日は帰りましたけど」
「看護師の牛山さんは」
「急用があるといって帰りましたけど」
「じゃあ、院長はいる?」
「はあ。どちら様で」
「私はT大法医学教室出身の中川です」
「少々お待ち下さい」
 数分後、我々は院長室に通された。
 ヒゲを蓄えた初老の院長が我々を迎えた。
「これはこれは、あなたがT大の法医学教室の先生ですか」
「もう辞めましたがね。それで、いきなりですが、
看護師の牛山さんは今日は何で帰ったのですか?」
「なんでも、市民病院でお兄さんが亡くられたとかで早退しましたが」
「そうですか。亡くなったんですが。彼女はどういう人なんですか?」
「何か気になる点でもあるんですか?」
「今回の事件で死んだとされている斉木なんですが、
彼は市民病院で亡くなった牛山さんと同僚なんですが、
その妹が牛山看護師ですから、接点があるんですよ。
 その斉木なんですが、熊を轢いているんですが、
熊の冬眠とコールドスリープは似ている、とか言っているんですよ。
あと、コールドスリープに入る前の瀉血は牛山看護師の世界だ、
とか言っているんですよ。
 あと、斉木の病室が異様に寒かったことも
コールドスリープと関係がある様な気がして。
 そんな事から、彼女は一体何者かというのが気になっているんですが」
「そうですか。ミステリアスですなあ。
彼女は昔からこの病院に居たんですがね。
この病院は元々は産婦人科病院だったんですよ。
それで、新生児に溶血性疾患がある場合には、
当院で交換輸血等もやっていたんですが。
ところが、あるケースで上手くいかなくて、
子供に重度の障害が残ってしまったんですなあ。
彼女はそれを非常に気にしていて、
それ以来それがトラウマになったのか血液マニアの様になってしまって、
瀉血だのリスカだのに興味を持ったりして。
 ちょうどその頃、この病院も少子化のあおりで患者数が減ったんで、
人工透析を初めたんですよ。彼女も血液マニアですから、
喜んでそれに参加したんですがね。
 あと、偶然にもその頃から彼女のお兄さんも
人工透析に通うようになったんですが、
不幸なことに肺がんにもなっていましてねえ。
彼女は、血液交換をすれば治るかも知れない、と言っていましたよ。
 あと、透析の方だけでも楽になるようにと、
彼女は個室タイプの透析器を入れてほしいと言っていましたね。
あれだったら夜間寝ながら出来ますから。
そういうのは当院としてもあってもいいなあというんで、
最近導入したんですがね」
「それは今どこに」
「それがちょうど、斉木さんが亡くなった部屋に置いてあるんですよ」
「見せてもらっていいですか」
「ええご案内します」
 病室に行くと我々はPCラックぐらいの大きさの透析器にへばりついた。
 中川は指差しながら、瀉血のチューブ、血液ポンプ、血液濾過器、
そして返血のチューブ、と血の通り道を追っていった。
「ここにポンプがありますね。これを使って、血液交換は出来ないんですか?」
「さあ。血液交換器とは又別の器械ですからね。
血液交換の場合にはシャント手術なんて前提としていないし。
しかし、そのポンプで瀉血は出来るには出来る。
あと、返血は輸血パックで点滴してやればいいんでしょうから、
入れ替えは可能かも知れませんね。
彼女はこれでお兄さんの血をクレンジングして綺麗にする積りだったんですかね」




#531/555 ●長編    *** コメント #530 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 42)
「長野飯山殺人事件」四 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
四

 我々は、それだけの情報をもってマンションに帰ると
又温泉につかって濡れたタオルを頭に乗せた。
「まず、動機というかホワイダニットについての整理やな」
「それはまず、女四人をもっていかれたので劇場関係者から恨みをかっていた
ということですね。それが証拠に加藤らにも偽装結婚を進めていた。
しかしそれが上手く行かないんでその筋の人から脅かされていたかも知れない。
落とし前をつけろなどと。
 もう一つは、撃ったのかカミールらしいということですね。
しかも牛山さんがカミールに入れ込んでいたという。
 以上の二つがホワイダニットになるんでしょうか。
 それからハウダニットですが、これは医者じゃないと分からないんでしょうか」
「まずは、銃弾の偽装だな。加藤らへの偽装結婚も上手く進まないので、
落とし前をつけなければならないが、勿論死にたくない。
そこで熊の死骸に弾を打ち込んで取り出して、元々あった呼吸器科の傷に入れる」
「どういう病気だったんですか?」
「それは不明だが、カミールに空砲を撃たせて、
弾に当たった様に偽装したんじゃないの?」
「しかしそんな偽装、医師に見抜かれないですかね」
「新米の研修医なら見逃すかも知れへんな。
それに、それが死因な訳ではないんやから、
仮にバレても、トンヅラしちゃえばいい訳だから、
意外と一か八かでやれるかもしれないで」
「次にコールドスリープですが」
「まず、牛山の妹が血液マニアで血液交換などに興味があった、
というのが前提になるな。
そして彼女と斉木が
冬眠から覚めてきた熊の様にコールドスリープ云々話していたという事。
あと、あの寒い病室や」
「でも、仮にコールドスリープ状態になったとしても
心肺停止状態にはならないんですよね。
斉木は検死の結果死亡が確認されているんですよ」
「うーん」
 中川は湯船から出ると、屋外の露天風呂に行った。
 そこには小さい池があって金魚が泳いたのだが、
この零下だから池の水が凍っていて金魚も一緒に凍っていた。
「佐山さん、きてみな」と中川が呼んだ。
 私が行ってみると、中川は露天の湯を手ですくってきて、金魚にかけた。
 すると、金魚はなんと泳ぎだしたのだった。
「これをやったんや」
「そんな事が出来るんですか?」




#532/555 ●長編    *** コメント #531 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:13  (106)
「長野飯山殺人事件」五 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
五

 それからなお二日間、我々は怠惰な湯治を楽しんでいた。
 その二日目の温泉の帰り、フロイトの前を通ると、
主任管理員の猪が声をかけてきた。
「お客さんからもらった饅頭があるんですよ。食べて行きませんか?」
 私と中川は管理室の中に入った。
 部屋は10畳ぐらい。家電量販店並の明るさ。
奥の壁には、防犯カメラのモニタ、防災関係の盤などがずらーっと並んでいる。
真ん中にスチールデスクが2個あって、ノートPCが一個置いてある。
 我々はそのデスクにキャスター付きチェアを寄せ合って座るとお茶をすすった。
 突然PCの右下にウィンドウが開いてスカイプの着信音が鳴った。
 「なんだ?」主任管理員が通話のボタンをクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
「なんだ。斉木さんか?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「アンヘレス」
「アンヘレス?」
「フィリピンのアンヘレスだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があってな」
 画面の中の斉木に誰かが皿を運んで来た。
ノースリーブのワンピースを着た女性だが顔は映っていない。
あれはカミールなんじゃないのか。
 斉木は「サンキュー、サンキュー」と言いながら
皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、
このスカIDがあってんで、掛けてみたんだ。
こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらなんだけれども、
俺って、そっちじゃあ、どうなっているかなーと思って」
言うと斉木はケケケッと猿の様に喜んだ。「つーか、驚いたことに、
そこには中川先生と佐山さんもいるんだ。
ちょうどいいや。今回の俺様殺人事件の答え合わせをしてみようよ。どうだよ」
「それはこっちも望むところやな」PCに向かって中川が言った。
「そうこなくちゃ。じゃあ中川先生、まず、ホワイダニットから言ってみなよ」
「だからそれは、あのストリップ劇場に行った晩、
お前は女のアッシー君をやって、四人も持っていかれて、
その穴埋めに偽装結婚をさせようと思ったが上手く行かず、
落とし前をつける羽目になったが、死にたくない、
そこでカミールと共謀して偽装殺人を思い付いた、ってとこだろう?」
「それじゃあ全然答えになっていないよ。
なんでカミールが偽装殺人に協力するんだよ。おかしいだろう。
実はカミールには俺に協力したい理由があったんだけれども、知りたい?」
「ああ、知りたいな」
「俺は確かにやくざに脅かされていたが、
もう一個カミール絡みで別の話があったんだよ。
実は牛山さんは生命保険に入っていて、
それをカミールに渡したいと思っていたんだよ。
でもカミールもイマイチ信用できない。
そこで俺にカミールの故郷まで金を運べって頼んで来たんだよ。
それでカミールも偽装殺人に協力したって訳さ。
結局はカミールに保険金が入るんだから」
そこまで言うと斉木は天を見上げて何か考えていた。
そして続ける。
「つーか。そもそも俺はあの疑惑の銃弾で死んだ訳じゃないんだけど。
俺はコールドスリープで死んだんだよ。
つまり、トリックは二つあって、
疑惑の銃弾のホワイダニットはやくざへの落とし前だけれども、
コールドスリープの方は保険金目当てって感じだな。
 それをさぁ、やくざへの落とし前を偽装するためにカミールが手伝った、
なんて言うんじゃあ、全然分かっていないな。減点一だな。はははっ」
と笑って乳歯の様な矮小歯を見せた。「だいたい今回の事件はホワイダニットは
どうでもよくてハウダニットが凝っているんだから。
だから、ハウダニットについて言ってみな。まず、疑惑の銃弾についてから」
「ああ、言ってやるよ。お前何か呼吸器の病気があって傷があっただろう。
あと、どっからか回ってきた銃で熊を撃って弾を取り出したのも分かっている。
その弾をその傷口に埋め込んだんじゃないのか?」
「おいおい、呼吸器の病気って何だよ。病名が分からないのかよ、
T大卒のお医者さんが。
それじゃあ裁判で勝てないぞ。今スマホで調べてみろよ。
胸、穴があく病気とかで」
「気胸か」調べるもなく中川はひらめいた様だった。
「そうだよ。気胸だよ。しかも通院で治療出来る方法があるんだよ。
胸に穴を開けて、ドレーンチューブを引っ張ってきて、
腹のあたりにポンプをつけてね。
その胸の穴に弾をめり込ませたって訳さ。
そんでカミールにラブホで空砲を撃たせて、
それから病院に担ぎ込まれた。
でかい病院じゃあバレるかも知れないが
アルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば撃たれたって事になるだろう。
医者に勘付かれたら逃げてくればいいし。それが疑惑の銃弾の真相さ。はははっ。
 でも、別に俺はその偽装殺人で死んだ訳じゃないんだぜ。
コールドスリープで心肺停止状態になったんだ。
そっちの方のハウダニットは分かる?」
「大胆な予想をしてやるよ。
お前はホテルで撃たれて僻地病院に運ばれて寝ていた。
そこに、血液交換マニアの牛山看護師の登場だ。
まず看護師は個室用の透析器でお前の血を全部抜いた。
そして血の換わりに生理食塩水を点滴する。
同時に窓を開け放って部屋を冷たくした。
そうやって体温が十度になれば全ての細胞は活動を停止するからな。
つまり心肺停止状態になるって訳だ。
これは金魚が半冷凍になるのとは違って、完全に心肺停止状態になるものだ。
実際、二〇一四年だかに、血を抜いて生理食塩水を入れて
仮死状態にして手術をする、という症例がピッツバーグだかであったんだよ。
とにかくそうやってお前はまんまと検死を突破した。
その後、血を元に戻して、霊柩車の中で甦った。
ところで、牛山看護師にも動機はあった。
兄の保険金を有効に使いたかったという」
「それは当たりだな。大したものだよ。はははっ」と斉木は力なく笑った。
「しかし全体で見ると、
やくざへの落とし前ということは分かっても保険金の事は分からなかったし、
コールドスリープのこと分かっても、気胸という病名は分からなかったんだから、
二勝二敗だな。
まあ、今回は引き分けって事にしてやるよ。ハハハ歯歯歯はははっ」




#533/555 ●長編    *** コメント #532 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:14  ( 83)
「長野飯山殺人事件」六 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
六

 スカイプだから鮮明ではないのだが、斉木の頬はこけて無精ひげが生えていて、
心なしか頭髪も薄くなっている気もする。
伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
逃避行で疲れたか、糖尿病でも患ったか。
 斉木は机の上の皿からスプーンですくってピラフの様なものを食べ出した。
その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じ。
 そこへ、さっき皿を運んできたノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木が女に向かって、ファックだのビッチだの声を荒げていたが、
その内、プリーズとか言って、拝むように手を合わせていた。
 女が「カモン」とドア方向に向かって言った。
 機敏な動きの男二人が入ってきて、
椅子に座っている斉木の肩を両方からフルネルソンで固めると、
そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」とこっちに言う。
そしてぷちんとスカイプが落ちた。
「なんだ、何か向こうで騒ぎが起こっているようですが」と主任管理員。
「彼女らも売春をさせられていたんだから、
恨んでいて男を呼んできたのかも知れない」と私。
「これから彼がどうなるのか、というのもミステリーやな。
まだまだミステリーは続くってことや」中川は全く他人事の様に言うと、
お茶をすすった。「腹へったなあ。そろそろめしでも食いに行かへんか。
このお菓子が呼び水になって、すごい空腹感やで」
「だったら今日は海鮮丼がおすすめですよ。
新鮮なイクラとかハマチとか乗っていましたから」
「じゃあ、それ、行こう」

 私と中川とでホテル側のレストランに向かって歩いていたら
明子さんに出くわした。
「あら、これからお食事ですか?」
「そうなんですよ。美味しい海鮮丼があると教えてもらって。
…そうだ、明子さんも一緒にどうですか? ご馳走しますよ。
色々ごたごたがあったし」
「そうですか? じゃあお相伴に与ろうかしら」
 我々三人は、レストランで、
日本海の海の幸満載の海鮮丼、お吸い物つき、お酒つきに舌鼓を打った。
「イクラがぷちぷちと口の中で弾けるところにお酒を含むと絶妙やな」
「磯の香りが広がりますね」
「お吸い物もグーですよ」
「魚介類と吸い物は合うよな。味噌汁はそうでもない。
魚には白ワインは合うというのに似ているのかな」
 など、食レポをしながら寿司を食った。
「そういえば、斉木さんってその後どうなったんですか?」
「そうそう、それを報告したかったんですけれども。
さっき斉木から電話がかかってきたんですよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプで」
「あの人、まだ日本に居るんですか? てか、生きているんですか?」
「ええ。なんでもフィリピンに居ると言ってましたよ。
なんか、牛山さんの間男みたいな真似しているみたいですが、
結構揉め事が多いらしいですよ」
「へー、いやらしい。そういえば、私カミールにあったんですよ、
牛山さんに書類を届けに行った日、先生たちに社用車を貸した日ですけれども。
あの晩牛山さんが亡くなって、そうしたらカミールも来たんですよ。
 カミールは、フィリピンに帰るけど、
牛山さんと一緒じゃないのが残念だ、って言ってましたね。
でも、フィリピンはすごい危険だから牛山さんは行けなくてよかった
とも言ってましたね。
なんでも左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐されるとバラバラにされて
臓器売買に使われちゃうんですって。
心臓とか目とか。
もしかしたら斉木さんも危ない目に遭っているかも知れませんね」
「じゃあ、さっきの騒ぎも何かその手のトラブルかなぁ」
「え、何かあったんですか?」
「いやいやいや、想像ですよ。
つーか、斉木は死んでも死なない奴だから何があっても平気でしょう。
ねえ、中川さん」
「さあ、どうだろう。あの常夏のフィリピンと
このスキー場とじゃあ何千キロも離れているからなあ。想像でけへん」
 中川はイクラを口に入れると、お酒を含んだ。窓の外の雪山を遠目に眺める。
 私もつられて窓の外を眺めた。
 ゲレンデにはしんしんと雪が降っていた。
 雪が防音材になって、
人間の起こすもろもろの騒々しさを吸い取るかのように思われた。
 この静かな斑尾とあの騒々しいフィリピンが
海底ケーブルで結ばれていると思うと変な気持ちがする。
しかし数日したら又スカイプで電話をしてみようと私は思った。
斉木和夫が二度死ぬかどうかを確かめる為に。


【完】




#534/555 ●長編
★タイトル (AZA     )  19/02/22  20:17  (485)
私的バレンタイン・サガ (上)   永山
★内容                                         19/02/26 20:45 修正 第2版
『私的バレンタイン・サガ 〜 君のこともっと知りたいんだ 〜』

 子供の頃、好きな子について何でも知りたいと望むのは、いくつぐらいからだろう
か。身長体重に得意科目、好きな食べ物、好きな色、好きなタレント、好きな曲に漫
画、逆に嫌いなのは、趣味や特技は何か、エトセトラエトセトラ。
 河田京平の場合、その意識は小学六年生になる少し前に芽生えた。尤も、そうなるま
で河田は、好きな女子なんてこと自体考えないでいた。だから後に好きになる子と初め
て会ったのは、もうちょっと遡る。四年生から五年生に上がる際のクラス替えである。
 彼女は名前を米崎久海といって、とびきりの美人ではなく、かといってかわいい、愛
らしいというのとも違うけれど、印象に残る容貌をしていた。二重瞼が特徴的なせいか
もしれない。髪は三つ編みで、背中の中程まで垂らし、広めのおでこに狐っぽいイメー
ジの細面。
 身体の方もそれに合わせたみたいに細いが、発育はよく、背も力も結構ある。そこへ
加えて性格は活発で運動が得意と来れば、女子のリーダーの一人みたいな存在で、実
際、五年生になったばかりの時点で、彼女にはもう同性の友達はたくさんいた。
 女子のリーダー格が男子達と対立する構図は、ありがちだ。河田もそれまでの数年
間、何度も目の当たりにしてきたし、当事者になることも多々あった。
 その癖で、という表現もおかしいけれど、始めの内は、何かと口やかましい米崎久海
に対し、他の男子と一緒になって反発していた。特に理由もなく――否、ぼんやりとし
た原因なら男子の側にあった。対女子でやたらと対抗心を燃やすだけならまだしも、い
ちいち「女の癖に」と言うし、ちょっかいを掛ける。口やかましく注意されて当然のこ
とをやっていたのだが、それが分かるのは時間が経って、精神的にちょっと成長した
頃。リアルタイムではなかなか思い至らない。
 そんな状況下で、河田が米崎を気にするようになったのは、バレンタインデーがきっ
かけだった。もちろん、常日頃反目している者同士の間で、バレンタインデーだからチ
ョコのやり取りをしようとなる訳がない。学校が用意したイベントの一つだった。
 思い返してみても、学校が何故こんなことを児童にさせたのか、狙いがよく飲み込め
ないのだが、クラスで女子と男子、チョコレートを贈り合おうというイベントが挙行さ
れたのである。贈る相手は抽選で決められ、予算は税抜き三百円までという、自由度の
なさはかなりのレベルだった。
 問題の抽選は、一週間程前の二月七日の放課後に行われた。男女二十名ずつのクラス
で、1から20までの数字を書いたピンポン球を用意し、抽選箱にそれらを入れ、女子
と男子が引いていく。同じ番号になった者同士が、チョコレートを贈り合う。それだけ
のことだ。愛の告白は無論のこと、メッセージを付けたりきれいに包装したりする義務
すらない。
 さて、ここまで散々男女がいがみ合っている風に書いて来たが、中にはませている者
がいるし、異性に興味ないけどあの子だけは別、という存在もいる。いるのだが、運よ
くその特別な存在と同じ番号を引けたとしたって、喜びは微塵も見せてはならない。
(何に対してか分からないが)強がって、「おまえかよ。おえー」とか「誰と当たって
も十円チョコ一択」とか言わなければならない空気が作られていた。
 その点、河田は無理に虚勢を張らずに済んだ。女子の代表的存在で、男子の誰にとっ
ても“敵”である米崎と同じ番号になったのだから。
 ところがである。
「安いチョコを渡し合ってはいおしまいじゃ、つまんないから、勝負と行こうじゃな
い」
 米崎がそんなことを持ち掛けてきたおかげで、風向きが変わった。
「何だよ、勝負って」
「豪華で美味しそうに見えるチョコを用意した方の勝ち。判定は先生にしてもらいまし
ょ」
「たった三百円で、差が付くかよ」
「おやー、自信ないのかな?」
「そんなことはねーよ」
 挑発に乗ってしまった。本当は自信がない。こういうのって、女子の方が色々と知識
を持っていて有利だろうという頭があった。
「けどな、勝負を受けるには条件がある。そっちの一方的な話を受けてやるんだから、
ハンデをもらわないとな」
「言ってみなさい。あんまり無茶な要求じゃなければ、考えてあげる」
 ハンデをくれと言えば勝負を取り止めるのじゃないかという期待があったが、あえな
く消えた。こうなると河田にできるのは、無茶な要求を提示すること。
「そーだなー。予算に差を付けるってのは? こっちはそっちの倍使えるようにすると
かさ」
「何を言い出すかと思ったら。それは無理。三百円て決められてるのに」
 米崎は腰に両手を当て、ため息を盛大についた。狙いは当たったが、あからさまに呆
れられてしまったことには密かにへこむ河田。
「じゃ、じゃあ、勝負はなしな」
「待って。……これなら行けるかも。私の予算の中から、百円、そっちに渡すっていう
のはどう」
「何?」
 びっくりしながらも、頭の中で計算した。四百円と二百円になる。確かに倍だ。三百
円の予算以内という先生が決めたルールには反するだろうけど、クラス全体で使われる
お金の上限は変わりないのだから、文句ないだろう。そういことにしておく。
「よし、それなら乗った」
「まだよ。勝負と言うからには、何か賭けなくちゃ」
「賭ける? ああそうか」
 河田は、ハンデについてこちらの言い分を聞かせた手前、賭ける物に関しては譲るこ
とにした。
「そっちの自由でいいよ。変なのはだめだけどな」
「変なのって?」
「……言うと採用されそう」
「真似なんてしないわよ。今この場で言ったのは、本番では使わないであげる。似た感
じのも含めて」
「そう言うんなら……たとえば、俺にスカートを穿いて学校に来いとか。給食のおかず
を一週間、全部よこせとか」
「あはは、なるほどね。でもそんなことは言わない。元から言うつもりなかった。そっ
ちがさっき言ったスカートを含めて、エッチなのとか性別に関係するのはなしね。持ち
物を取り上げるのも。あと、犯罪行為」
「あ、当たり前だろ」
(いちいち断らなきゃいけないという考え方をするなんて、やばいやつかもしれない。
いや、俺がそういう風な目で見られてるってことか?)
 河田は内心、大汗を掻く思いを味わっていた。対する米崎は涼しい顔で提案してき
た。
「クラスのみんなの前で、好きな人の名前を発表するとかは?」
「意味ねー。俺、そんなのいないし、米崎さんが誰を好きなのかなんて別に知りたくな
いもんな」
「いないってまじ? 遅れてるというか何というか……。じゃあ、私が勝ったら、河田
君は来年の児童会長選挙に立候補して」
「な? 無茶苦茶――」
「わざと無茶苦茶を言ってんのよ。だから、そっちが勝った場合の罰ゲームは、そっち
で決めていいわ」
「じゃ、じゃあ逆でもいいんだよな。負けた方が児童会会長に立候補」
「あ、乗ってくれるの? よし、いいわよ。受けた」
 これまた相手が引き下がると思って言い出したってのに、あっさりと受けられた。も
う完全に引っ込みが付かない。
(変なやつ……。まあいいや。どうせ出たって落ちるだけだし)
 河田はとりあえず、右手を米崎に出した。
「うん? 何この手?」
「くれ。百円」

 バレンタインデーの二日前。区内で一番大きなスーパーマーケットまで足を延ばした
河田は、チョコレート売り場を巡った。女性が大勢行き交う中で、小学五年生の男子が
一人で動くのには相当勇気が必要だったけれども、その点は頑張った。より大きな問題
が別にある。
「高っ」
 思わず声に出してしまうほど、値札の数字は0の数が一つ二つ多い。店内をぐるぐる
回って、ようやく小学生向きと思われるコーナーを見付けた。が、ほっとしたのも束の
間、ここでもそんなに安くはない。
「見た目がいいのって、最低でも五百円か」
 また思わず呟く。もしかして……河田は邪推を始めた。
(女子は毎年こんなところに来てるから、こういう季節のチョコの値段に詳しいに違い
ない。それで米崎さん、百円を渡しても大丈夫と分かってたんだな。三百円が四百円に
なったぐらいじゃ、大して違わないって)
 ずるいぞと心の中で罵る河田だった。が、それならそれで矛盾に気付く。
(四百円でもどうにもならないのに、二百円でどうするつもりなんだろ? 何か作戦が
あるんなら知りたいな。同じ作戦を使えば、俺は二倍、掛けられるんだから)
 少し考えてみたが、ちっとも妙案は浮かんでこない。
(レシートを持って来ることが条件だから、金をごまかすのは無理。仮に手作りすると
したって、レシートにない材料が使ってあったら、まあばれるよな。箱を包み紙やリボ
ンなんかで豪華っぽく見せるのはありだけど、勝負の決め手はチョコの見た目と味だ
し)
 考えても時間の無駄と判断した。もう一度、隅から隅までコーナーにある台や棚を見
て回る。すると、手作りセットが目に留まった。
 河田は男子だからか、手作りする気は全然なかった。先程、相手が手作りする可能性
を想像したせいで、今注意が向いたのかもしれない。
 その品を手に取った河田は、この日何度目かの「高っ」を吐いた。
(こんなんでも五百円以上するのかよ! ちょっとデコレーションの材料が足してあっ
て、作り方が書いてあるだけなのに)
 よく見ると、セット商品には三個分作れると謳ってある物もあった。
(バレンタインに上げるのは、好きな相手一人に一個じゃねえの? 義理チョコとか父
親用とかを含めてるのか、これ)
 呆れつつ、歯がゆい思いもした。
(これ、一個分だけ売ってくれりゃいいのに。三分の一の値段なら、三百円以内に収ま
る)
 無論、そんな値切り交渉を実行するはずもなく、河田は商品を棚に戻した。
(こうなったら、質より量作戦か)
 ちょっと安めの十円、二十円チョコを大量に購入し、うまく並べればそれなりに豪華
に見えるんじゃあないか。河田はバレンタインチョコのコーナーを離れ、普段買うよう
な菓子を置いてある棚を探した。

 二月十四日を迎えた。
 クラス内でのチョコの贈り合いは、学校が用意した形式的なイベントに過ぎない。し
かしそれでも多少は意識してしまうものらしい。高学年になるほど、そわそわしている
る児童が多かった。そのそわそわ状態は、チョコの交換が行われる昼休み(土曜日なの
で実質的に放課後)まで続いた。
「では本日のメインイベント。米崎さんと河田君、前にどーぞ」
 二人の賭けについては、担任教師を含めて全員が知るところになっていた。だから、
彼らのチョコレートの披露は、クラスで一番最後に賑々しく。
「どっちが先に出す?」
 司会進行を務めるのは、学級委員長の忍川貴将。飛び抜けて賢いとか運動が得意だと
か二枚目だとかではないが、おしなべて良いレベルで、バランスがいい。その感覚は他
の面にも影響を及ぼすのか、人の話を色眼鏡なく聞く公平さがある。だから、こんなイ
ベントでどちらが先にチョコを出すかについてさえも、公平さを求めがちのようだ。
「バレンタインは女から渡す物だから、女子からでいいいんじゃないの」
「いやいや、女子から渡すのが正式だからこそ、最後に取っておくべきでしょ」
 そして外野もつまらないことで揉める。長引きそうなのを面倒に感じた河田は、自ら
言った。
「俺が先な。崩れたら直すの面倒だし、早く渡さねえと」
 謎のフレーズを言い残し、教室後方にある各自の道具入れに向かった。そこから粘土
板の上に作った粘土細工を運ぶときと同じような、いやそれ以上に慎重な手つきと足取
りで、蓋のしてある紙箱を手に戻って来る。コンパクトサイズの将棋盤程度の大きさ
だ。
「ほい、どいて、委員長」
「よしきた」
 教卓に手を突いていた忍川が飛び退き、空いたスペーズに箱をそっと置く河田。
「じゃあ……先生、よく見ててよ。第一印象が全てみたいなもんだから」
 河田の言葉に、担任教師も真剣に応じた。身を乗り出し、箱を上から見下ろせる位置
に立つ。
「では、本人がオープンするってことで?」
 忍川の確認に、河田は強く頷く。
「もち。ずれたら困るから、な!」
 言い終わると同時に、蓋を真上に持ち上げた。河田は蓋を持ったまま、その場を離
れ、「どうだ?」と皆に言った。すぐさま、おおっというざわめきが起きる。
「これは花?」
 先生の台詞は、他の児童らにも共通の質問だった。
 箱の中では、赤、黒、白、緑、ピンク、黄色等々、色とりどりの小さなブロックがモ
ザイク絵を形作っていた。ブロックの一つ一つは十円チョコで、よく見ると、一部は包
装紙が切り取られたり、重ねられたりしている。
「花に見える? なら一応成功した。全額十円チョコに使った甲斐があった」
 6×6の36個を箱の内側に敷き詰め、典型的なチューリップの簡素なイラストに
し、残る四個を細かく切り、角張った文字の“ヨネザキへ”を作っていた。
「あ、呼び捨てになったのはかんべんな。数が足りなかった」
「いいよ、許す。正直言って、こんなにうまくやるとは想像していなかったわ」
 贈られる当人が、心底驚き、感心した様子で述べた。
「食べるのが勿体ない感じだね」
 先生が言うと、「それもそうだ。味は十円チョコそのまんまだし」と茶化す声が飛ん
だ。
 形式的に先生が“へ”のチョコを食べる間に、河田はレシートを米崎に示した。
「問題ないだろ?」
「うん。嬉しいな。有効に使ってくれて」
 満面に笑みを広げ米崎。河田は戸惑いつつも、ここは感謝を示さないと男がすたると
口を開く。
「百円のハンデがなければ、もっとしょぼい絵になってたろうな。こっちこそ助かっ
た。米崎さんのは大丈夫か?」
「それはこのあとを見て」
 図らずもエールを送り合う形になった。
 攻守交代し、今度は米崎がチョコレートを披露する番になる。大ぶりの手提げ袋を自
身の机のフックから外すと、片手ではあるが河田に劣らぬ丁寧な動作で、中から十字に
リボンを掛けた半透明の箱を取り出した。正確には蓋が半透明で、中身が何となく見え
るが赤と金色のリボンが邪魔をしている。
「さぁて、開けてみて。河田君みたいなアイディアはないけど、お菓子としてはいい線
行ってるんじゃないかしら」
 チョコを教卓に置いた米崎が促す。司会役の忍川が言葉を挟む間もなく、河田は即座
に反応した。
「よくこれだけ包装があったな〜」
「それは別のお菓子のを取っておいたやつ。ようく洗って乾かしたから、心配しないで
いいよ」
 そんなこと言われたらかえって気になるじゃん……と声に出す前に、河田は中身のチ
ョコに目を奪われた。
(え、これで二百円?)
 真っ先に感じたのが、その大きさ。円形のそれは直径十センチくらいはある。しかも
立体的で、かさもあると一目で分かる。ココアパウダーと粉砂糖、クリームにゼリー
ビーンズで飾ってあるが、“地肌”はチョコレート色だ。よくよく観察して、やっと分
かった。
「バナナやイチゴをチョコレートでコーティングしている?」
「正解。予算の都合で底が薄い板状のチョコだから、触ると簡単に壊れちゃうけど。注
意して食べてね」
「ちょ、ちょっと。その前にこれ、本当に予算を超えてないのか?」
 疑いたくはないが、疑わざるを得ない。それほどまでに、米崎の手製らしいチョコは
ボリュームがあった。
 するとこの嫌疑に、米崎はにこりと笑みを返した。
「信じられない? それだけで充分、ほめ言葉って感じ。――ほら」
 ワンピースの胸ポケットからレシートを摘まみ出し、米崎は河田の目の前に掲げる。
「……うん? 合計で八百円になってるけど?」
 品名には、半額値引きのカットフルーツの他、河田が見掛けた手作りチョコのセット
も一つあった。あまりに明白な予算オーバーぶりに、河田はかえって困惑した。説明を
求め、相手の顔を見やる。
 米崎は振り返って、「綾木ちゃん、真城ちゃん」と女子の友達二人を呼んだ。米崎の
友達は多く、誰とでも仲がいいが、この二人とは特に親しい。
「私達で相談して、いわゆる共同購入をしたの」
「な何だって」
 思わず叫んでしまった。それを質問と受け取ったのか、綾木美奈子が「三人のお金を
まとめて、一緒に買ったの。それをまた三人で分けた」と詳しく答える。
「こうでもしなきゃ、まともに勝負できないもん。手作りチョコレートセット、三個分
作れるとあったから、あれを買えば基本大丈夫だろうと思って」
「はあ」
 河田は情けない声しか出せなかった。
(俺は三分の一の値段で買えないことに文句を言うだけだった。米崎さんは三人で力を
合わせることを思い付いた。……凄く負けた気がする)
 と、そこへ外野の男子から抗議調の声が飛ぶ。
「それってずるくないか? だって、二百円、三百円、三百円と出したんだろ。三分の
一を使ったんなら、予算オーバーじゃないか」
「そう言われると思って、ちゃんと正確に量りましたっ」
 待ち構えていたかのように反論する米崎。
「家に、作ったときの写真があるから。私と真城ちゃんと綾木ちゃん、それぞれの材料
の重さを量って写真に撮った。疑うんなら見に来てよ」
 自信満々の物言いに気圧されたらしく、抗議の声はあっという間に静かになった。
「ねえ、そんなことよりも、メニューを考えるのが大変だったんだから。三人とも違う
感じのチョコになるようにって」
「そうそう。材料が一番少ない米ちゃんの分を真っ先に考えたあと、私はイチゴを細か
く刻んで、チョコと混ぜて固めて、バナナの薄切りをフライにして挟んで」
「私はイチゴをジャムして、チョコの中に詰めて、バナナと組み合わせてキリン作った
けど、レモンを買えなかったから変色しちゃった」
 最後の綾木の発言に、その綾木からチョコをもらった男子が「え!? 大丈夫なのか
いな」と頓狂な声で反応した。
「賞味期限はギリギリOKだよ」
 米崎が代表する形で答え、それから河田に改めて向き直った。
「こういう訳だから、今日中に食べてよね。あ、先生も早く味見をお願いしまーす」

 勝負の結果は、さほど重要ではない。それでも一応記しておくと、先生が軍配を上げ
たのは米崎久海だった。河田のアイディアを称賛しつつも、彼に比べて少ない予算でや
りくりした米崎の知恵を高く評価したものだった。
 こうして河田は翌年の進級後、児童会選挙の会長職に立候補する訳だが、これにはお
まけが付いた。副会長に米崎が、書記に忍川が立候補することに何故かなってしまった
のだ(五年生から六年生へはクラス替えなしの持ち上がり)。さらに驚くべきことに
は、三人とも当選を果たすという快挙。同じクラスから児童会の三役全員が出るのは、
何十年ぶりだかのことらしい。忍川の人望は以前から高かったが、河田と米崎がトップ
になれたのは、五年生のときのバレンタイン・ギャンブルが他の児童にも噂として広ま
り、いい意味で名前を知られたのが大きかったのだろう。
 河田は児童会長なんて柄じゃないと自分では思っていたが、二人の支えもあって立派
にこなした。その分、米崎とは一緒にいる時間が増えたし、彼女に助けられる場面も多
かった。結果――好きになった訳だ、気が付いてみたら。
 といっても、小学生の時点で思い切って告白するのはなかなかの難業。六年生のとき
のバレンタインデーは日曜と重なったせいもあり、前年のようなイベントが催されるこ
となく、普通に過ぎていった。
 そのまま卒業を迎えた河田だが、落胆や後悔はしていなかった。同じ中学に通うのだ
から、チャンスはいくらでもある。そう考えると、気分が軽くなる。その反面、いつで
もいいやっていう先延ばしの心理も生まれがちなもので。

 河田は自宅でカレンダーを見て、二月だ、と思った。
(中学入学以来、特にこれっていうことが何にもない)
 米崎の顔を思い浮かべつつ、はーっと深い息を吐く。
 中学生になって最初の関門がクラス分けだった。心中、どきどきものでクラス分けの
掲示板を見上げた河田だったが、その表情はじきにほころんだ。幸運にも同じクラスに
なれたのだ。
 これで安心しきったのが失敗で、特段、積極的なアプローチをするでもなく、こと恋
愛に関しては無為に十ヶ月程を過ごしてしまった。友達付き合いは続いており、それは
それでそこそこ満足の行くものだったから、先延ばし心理に拍車が掛かったのかもしれ
ない。
 河田はカレンダーの14を見つめた。
(米崎がサプライズでチョコをくれる、なんてことは期待しない方がいいんだろうな)
 頭の中での独り言ではそう判断するものの、全然期待していない訳でもない。幸いに
も、米崎が誰かと付き合っているという話は全くなく、河田が見ている分にもそんな気
配は皆無だった。
(しかし、米崎さんが俺をどう思ってるかなんて、分かんねえし。先にホワイトデーが
来てくれりゃいいのに。そうしたら、俺が先に告白して……できるんかな、そんなこと
ほんとに)
 自分の臆病な部分を確認できただけで、何の策も浮かばない。
 しかしバレンタインデーを一週間後に控えた放課後、河田は手本を見付ける。
「バレンタイン? チョコぐらいなら多分もらえるよ」
 外掃除で大量に集まった落ち葉を二人して捨てに行く道すがら、そう言ってのけたの
は、同級生の板垣竜馬。全般的にそこそこ優秀な河田と異なり、勉強は英語と数学、運
動は徒競走とバスケットボールが突出している板垣は、部活は手芸部というちょっとひ
ねくれ者だ。そんな彼は、顔は旧い表現をするならバタ臭いってやつだがまあまあ男前
で、喋りは面白く、小六のときから付き合っている相手がいると聞いても納得はでき
た。
「入学してからずっと隠してきたのかよ。全然、一対一で付き合ってるような女子、影
も形もなかったじゃん。あ、もしかして違う中学とか」
 ゴミ捨てが済んでからも、河田の攻勢が続く。板垣も厭わずに応じるくらいだから、
彼女の話をするのはまんざらでもないに違いない。
「いや、ここだけど。十組の志崎さんて知らん?」
「志崎……志崎優美? 名前と顔は知ってる。一年生なのに、休部状態だった手芸部を
復活させたって。ああ、そうか。それで手芸部」
 板垣を指差す河田。相手の方が背が高いため、斜め上向きだ。
「愛の自己犠牲精神か」
「よせよ。志崎さんに頼まれたのは事実だが、別に俺、他の部に入るのをあきらめたっ
て訳じゃない。走るのもバスケも、趣味でやれればいいんだ。その点、手芸部なら靴下
に穴があいても直せる」
 飄々とした答え方で、どこまで本気なのか分からない。でも、楽しそうではある。
「それで話を巻き戻すけど、志崎さんがチョコあげるって言ったんかいな」
「まあな。みんな――他の部員のいるとこで話題がバレンタインになったからさ。こっ
ちが冗談めかして『愛の籠もった塊、くれる?』って水を向けたら、『大義理チョコだ
かんねー』って感じで返された。周りも『大喜利ならぬ大義理かよ』『座布団一枚!』
ってな雰囲気に。で、あとで二人だけのときに、『みんながいるところであんな話を振
るな』って怒られたよ」
 玄関の下駄箱まで来た。ゴミ捨てが終わって、そのまま下校できる。
「……なあ、板垣。最初に志崎さんからもらったバレンタインチョコって、義理チョ
コ? 根掘り葉掘りで悪いと思うけど、差し支えなかったら」
「差し支えはない。幸せのお裾分けの心持ちよ。余は寛大であるぞ」
 冗談を交えながら、校門を出たあとも話は続く。
「最初は五年のとき。どんな事情があったのか分からずじまいだが、バレンタインデー
を前にクラスの女子達が盛り上がって、女子全員で男子全員分のチョコを用意して、配
るってことをやった」
「面白いのかつまらないのか分からないイベントだな」
「まあそれなりに盛り上がった。チョコはどれも同じで売ってる物だけど、渡すのはそ
れぞれ別々だったから。女子の誰が男子の誰に渡すかってのは、向こうが勝手に抽選し
て決めたと言ってたけど。俺、ちょっとかまを掛けてみたんだ。あ、渡してくれたのは
志崎さんだ。『抽選じゃない奴もいるんじゃあ?』って軽い調子で言ったら、志崎さ
ん、耳を赤くして、『そんなことあるはずないでしょ! 義理よ義理!』って」
「それ……ばればれってやつじゃあ」
「多分。でもまあ、相手が義理だと言うんだし、女子全員の企画による物だから、義理
チョコとしてもらった」
「六年生のときは? 付き合い始めたのが六年と言ってたけど」
「『今年も義理チョコもらえるんかな?』って風に声を掛けたら、そのときは何も返事
がなかったし、バレンタイン当日も何もなかった。でも翌日の月曜に登校したら、机の
中に入ってた。名前入りのカード付き。あ、さすがにカードの内容までは勘弁しろ」
「了解。なるほどね」
 うらやましいくらいに理想的だ。見習えるものなら見習いたい。河田はそう考えなが
ら、話してくれた礼を板垣に言った。
「何だよ。このくらいで感謝だなんて。もしかして河田、好きな女子が近くにいるな?
 そいつとは結構親しく、悪くない感じだが付き合ってると言える程ではない。バレン
タインにチョコをもらえるかどうかもはっきりしない」
「超能力者か!」
「んで、何とかしてチョコをもらうために、この板垣様を手本にしようと」
「読心術か! ……当たってるよ。くそっ、そっちだけ恥ずかしい思いをさせて終わる
つもりだったのに」
「誰よ、相手は。まさか教えられないってことはあるまいな?」
「普段の俺を見ていたら想像は簡単だと思うが」
「悪いが、日常的にクラスメートの男を観察する趣味はない」
「……しょうがないな」
 河田は米崎の名前を出した。板垣は「なるほど」と反応した。
「とりあえず、今年は待ちでいいんじゃねえの。ぎりぎりまで待って、気配がなかった
ら、義理チョコでいいからくれよー的なことを言ってみるとか。あ、洒落になってしま
った、ぎりぎりの義理チョコ」
「そんなんでいいのか」
「そもそも、ちゃんとした告白してないんだよな? 何となく仲がいいってだけで」
「そりゃまあ。二人だけで遊びに出掛けたこともないし」
 正確に言えば、駄菓子屋に置いてあるゲームで遊んだりとか、トランプの占い遊びに
付き合ったりとか、児童会の関係で遠出して暇な時間にオセロをしたりとかならある。
デートと呼べる代物ではないため、省いたまで。
「だったら、今度のバレンタインをきっかけにするのも手だし、義理チョコをねだっ
て、ホワイトデーで真面目なお返しをするとか」
「うーん。俺に向いてるやり方なのかな。まあ折角のありがたいアドバイス、考えと
く」
 と、この場では迷う素振りを見せた河田だったが、それは表面だけ。二月十四日まで
あまり時間がないこともあって、機会を作ってでも早々に試してみようと決意してい
た。
 その機会は、作らずとも向こうからやって来た。決意が念になって相手に届いたのか
と思える程のタイミングで。
「ねえ、河田。今度の飛び石連休、暇ある? 真ん中の土曜も含めて」
 午後一の授業が終わっての休み時間、教室移動のときに米崎が聞いてきた。
「あるっちゃある。せいぜい、家族の買い物に付き合うぐらいしか予定ないから」
「だったら急なんだけど」
 手にした教科書やらノートの中から、紙を挟めるタイプの下敷きをちらと見せる米
崎。目がいたずらげに笑っているようだ。
「これ、もらったから行こうよ」
 下敷きに挟んであるのは封筒で、その口から覗くのは映画の招待券らしかった。
「一枚で二人まで観られるんだよー」
「俺と? 女子の友達は?」
 嬉しさを隠しながら聞き返す。
「この券、男女のペアが条件なのよ、けちくさい」
「ああ、そういうことか」
 ちょっとがっかり。
(けど、一人でも行けるところを、敢えて誘ってくれたんだから)
 気を取り直して、OKの返事をする。
「三日間の内、いつがいい?」
「米崎さんの都合に合わせるよ。さっき言った通り、暇してるから」
「買い物の予定があるんでしょ? 私の方はほんとに何にもないの」
「じゃあ……十一日にしようか」
「了解。細かい時間はあとで知らせるわ」
「あ、ちなみに何ていう映画?」
 好みに合うか否かを知りたいのではない。どんな内容の映画だろうと、多少の予習は
しておきたいと思ったから。
「『君のこともっと知りたいんだ』。こてこての恋愛映画だと思う。学園ラブコメと銘
打ってるしね」
「やっぱりそーゆーのかぁ」
「恋愛物、苦手?」
「いや、観るけど。母親が後生大事に持ってる少女漫画、結構面白かったし」
 もうすぐ教室に着く。このままでは肝心なことを聞きそびれてしまうと、河田は焦っ
た。
「考えてみれば、十四日が近いけど、ひょっとして期待していいのかな……」
「うん?」
「その、義理のチョコとか」
「――それはなし」
 ぴしゃりと言われてしまった。一応、ごめんねという風に両手を合わされたから、救
われたものの、こうまではっきり否定されるとは想像の埒外だった。
 割と強めのショックを受けたまま、次の授業を受ける羽目になった。

 これで脈なしかとあきらめかけたが、早合点だった。
 映画鑑賞デートは楽しく過ごせた上に、米崎とはその後も変わらぬ仲のいい友達でい
る。いや、友達以上じゃないかという自負が、河田にはあった。徐々にではあったけれ
ども、二人だけで下校する機会が増えて、その内登校も同様に。春休み中には、宿題を
一緒に片付けた。
 極めつけは、その春休みに米崎の方から告白してきた。ただし、次のようなフレーズ
だったけれども。
「そういえば、今日ってエイプリルフールだったわね。――私、河田のことが好きだ
よ」
「……」
 どういう反応をしようが泥沼にはまりそうだったので、何も言えなかった。聞こえな
かったふりに徹する河田に、米崎は「河田は今日、誰かに嘘を言った?」と試すかのよ
うな、からかうかのような口ぶりで、目をくりくりさせて聞いてきた。
「今日はもう何も言わねー!」
 耳を塞いでそう宣言するのが精一杯だった。
 こんなことがあったにもかかわらず、新学年の一学期初日、通学路で河田と顔を合わ
せた米崎は、屈託なく「おはよ!」と笑顔で声を掛けてきた。
(分っかんないな〜、女子って)
 困惑は募ったものの、米崎に質問してはっきりした答を聞くのも怖い。今の状態を壊
したくない気持ちが、河田の内で勝った。
 六月になると、十五日が河田の誕生日。バレンタインデーに米崎から何にももらえな
かった河田だから、全く期待していなかった。その油断を見透かしたかのように、彼女
は不意を見事に突いてきた。
「はいこれ」
 登校時に会ってすぐ、手から手へと押し当てるように渡された小箱。文字通りの手の
ひらサイズで、幾何学模様柄の包装紙に包まれている。何?と目で問い返す河田に、米
崎は当たり前のように言った。
「あげる。誕生日でしょ」
「え――」
 一瞬絶句した河田だが、どうにかこうにか「サンキュー」と付け加えられた。
「お洒落アイテムだから実利的なことを期待しないように。あと、私の誕生日は分かっ
てる?」
「え、えっと、七月八日」
「よく覚えてくれてたわね。そういうことだからプレゼント、よろしくね」
 唐突な形で誕生日プレゼントを受け取った河田は、米崎からのブレスレット(金属製で
輪っかの一部が最初から開いているタイプ。健康祈願の思いも込められているらしい)
を喜んだのも束の間、じきに悩みで頭を痛めることになる。何故なら一学期の期末考査
が迫る中、彼女への誕生日プレゼントに何がいいのか考えるのにも時間をたっぷり取ら
れてしまったから。加えて、誕生日自体がテスト期間の只中で、プレゼントを渡すどこ
ろではなくなりそう。
 最終的に、プレゼント選びのミッションこそ成し遂げたが、渡すのはテストが終わっ
てからにしてほしいと泣きついた。
「もちろん、かまわないわよ」
 あっさり許しが出て、ほっとするやら気が抜けるやら。
「来年以降もくれるのなら、後日で全然平気だから」
「あのさ、米崎さん。わざとやってる?」
「どういう意味よ」
「俺が困るのを喜んでるような……」
 少し前に浮かんだ疑問を、ストレートにぶつけてみた。対して米崎は、
「そんなことないって。うーん、困ってるとこ見ると可愛いと思うけど、狙ってそうい
う方向に持って行ってるんじゃないって意味だけどね。プレゼントをいつ渡すかだっ
て、すぐに言ってくれればよかったのよ。善処したのに」
 と一気に捲し立てる勢いで答えた。
(まずい。このままでは完全に尻に敷かれてしまう)
 その後、夏休み前に渡せたプレゼント――ブローチは気に入ってくれたようで、学校
生活の外で会うときは頻繁に付けてくれた。河田の方も当然ながら、ブレスレットをし
ていった。

――続く




#535/555 ●長編    *** コメント #534 ***
★タイトル (AZA     )  19/02/23  00:02  (441)
私的バレンタイン・サガ (下)   永山
★内容                                         19/02/26 20:46 修正 第2版
 夏休みは、序盤に林間学校があったが、一泊二日と短く、班も男女別で自由に行き来
できるものではなかったため、ほとんど接触はなし。その後本格的に休みに突入する
も、互いの家族単位の里帰りや旅行などの行事があり、河田と米崎が会うチャンスはそ
んなには多くなかった。二人きりはデートが一回きり、極短いものが二回だけで、あと
は地元の夏祭りや近くの街の花火大会に、友達大勢と繰り出したくらい。もちろん、祭
の途中で二人きりになるシーンはあったけれども、大勢で動いていたときとさして変わ
らぬ内容に終始した。要するに、大勢だろうが二人きりだろうが、出店を回って、特設
舞台のショーを観て、花火を見上げたということ。中学二年生なら、これくらいのもの
だろう、うん。河田は自分を納得させていた。
 二学期になり、水泳の授業と運動会のリハーサルにて、印象的な出来事があったのだ
けれども、それはまた別の機会に回そう。今言えるのは、それらの出来事を経て、河田
は米崎との親密さを増し、結果、告白したも同然で正式に付き合い始めたという事実
だ。元々いい感じでデートを少しずつ重ねていたのだから、デートやその他付き合いの
中身が劇的に変化することはなかったが。気の持ちようが大事なのである。
 そうした心の変化を経て以降、最初の大きなイベントは文化祭である。が、二人で校
内を回るといかにも目立つ。他の生徒から冷やかされたり、教師から余計な注目を浴び
せられたいは避けたい。そこで、板垣・志崎ペアと示し合わせて四人で一グループを形
成する作戦に出る。
 男子二人にとって幸いにも?米崎と志崎は気が合うようだ。少し前の初対面時に、名
字で共通する「崎」の読みが「さき」か「ざき」かでいきなり盛り上がり、打ち解けた
らしい。
「うまくやっているようで何より」
 志崎と米崎の女子勢が連れ立って洗面所に消えたところで、板垣が河田に話し掛けて
きた。ボリュームは出だしから小さく、内緒話の気配が濃厚に漂う。河田も合わせた。
「うむ。板垣のおかげとも言える。さっきカフェでセットをおごったのは、感謝の印の
つもり」
「やっぱりか。遠慮せずに受けとくぜ。で、気になってるのは、バレンタインのことな
んだ」
「気が早い」
「まあ気にするな。バレンタインに念願のチョコ、もらえそうか」
「今の時点では不明としか」
「そうか? 一年近く経てば、何となく分かるものがあるもんだ。バースデープレゼン
トはもらったんだよな」
 河田は黙って首を縦に振る。
「だったらバレンタインも大丈夫だろ」
「その前にクリスマスがあるからなあ」
「はは、そうだった。まあ、クリスマスは万が一何もなかったとしてもだ、自分は宗派
違いだからと思っとけばいいさ」
 およそ一ヶ月半後のクリスマスにおいて、河田はそんな思いを味合わずに済んだ。
 クリスマスプレゼントは前もって相談して、普通のプレゼントとは別に自分が読んだ
ことのある本で相手に読んで欲しい物を贈り合おうと決められた。
「万が一、相手がすでに持っているか読んでいる本を贈った場合は罰ゲーム」
「え、どんな罰?」
 河田からの提案に、米崎は興味津々を絵に描いたように食いついた。
「次にプレゼントを贈り合う機会……バレンタインとホワイトデーでワンセットだけ
ど、そのときに贈るプレゼントを思いっ切り豪華にすること、ていうのはどうかな」
「……だめ。お断りします」
「えええ、何で」
 去年に続いて早々と拒絶されたものの、河田にはまだ余裕が残っていた。罰ゲームで
負けなくても豪華にする予定だから、なんていう答を心のどこかで夢想していたせいか
もしれない。
「どうしても! 他の罰ゲームにして」
「じゃあ」
 密かにしょんぼりしていたが、河田は明るく振る舞った。
「正月に初詣、行くかい?」
「そのつもりでいるわ」
「負けた方が、その日、家まで迎えに来るっていうのはどうかな」
「うーん、それならま、いっか。晴れ着にするつもりだったのに、あきらめなくちゃ
ね。残念」
「う」
 タクシー代を出せるものなら出してあげたいと思った。
 その後の二十四日にあったクリスマスプレゼントの交換は、滞りなく行われた。米崎
からは一から手作りしたミニサイズのクリスマスケーキと、ホラーミステリを謳った少
女小説。河田からは完成すると有名絵画の柄になるパズルに一輪挿し用の花、そしてサ
ンタクロースが登場する大人も楽しめる絵本を。
「罰ゲームにならないよう、絶対に持ってなさそうなのをセレクトしたわね」
「えー、お互い様と思ったけどなあ」

 クリスマス前に一度断られたにもかかわらず、河田は粘りに賭けてみた。バレンタイ
ンデーを四日後に控えた週末、放課後に教室に居残った際に、何気ない風を装って持ち
出す。
「バレンタインのことなんだけど、やっぱクリスマスのときみたいに贈り合わない? 
一ヶ月先のホワイトデー、知恵を絞るからさ」
「だーめ。嫌よ」
 即答。河田の台詞に被せ気味ですらあった。
(どうしてここまで拒むんだろ。チョコレート嫌いな訳じゃないし。アレルギーが出と
かでもないよな。確か素手で触って、食べるのを最近見たっけ)
 彼女の目の前で首を捻った河田。それに対して、米崎は気付いているのかいないの
か、説明をしてくれることはなかった。
「いいじゃない。チョコに拘らなくたって。デートするだけじゃつまらないって言うの
かな、河田クンは?」
 こう言われると、反対のしようがなくなる河田であった。こうしてこの年のバレンタ
インデーでもチョコレートをもらえなかった。
 昨年と違ったのは、あとになって次のような話が耳に入ったこと。
「今年は上々だったんだろ」
 男女別の体育の授業中、体育館の壁際でマット運動の順番を待っていると、忍川が名
前の漢字通りに忍び寄ってきて、河田の脇を肘で突っついた。突然だったのと、自らの
短い叫び声のせいで、河田は何を言われたのか聞き取れないでいた。
「やめろっ。何て言った?」
「そんなにくすぐったがることか。彼女からチョコもらえたのか、確認しておこうと思
ったんだが」
「もらえていない」
「嘘つくなって。スーパーでチョコレートの材料を買い込む米崎さん、見掛けてんだか
ら」
「はあ? そんな馬鹿なことは」
 今年も米崎からチョコをもらっていないと説明する河田。忍川はますます不思議そう
に、首を傾げた。
「邪魔したら悪いから声は掛けなかったが、見間違いなんかじゃない。まさか、米崎さ
んには一卵性双生児の姉か妹が?」
「いや、そんな話は聞いたことない。そっくりな親戚がいれば、話題にするに決まって
る。目撃したのって、何日?」
「確か二月の九日だった」
 その答を聞いて、河田も混乱を深めた。
(今年もチョコあげないと言われたのが十日。その前日に材料を買っていた。どういう
こっちゃ?)
 彼女が自分で食べるために買った……なんておめでたいことは、河田も考えない。※
本作の時代には友チョコやマイチョコの概念はまだなく、言及しません。あしからず。
(もしかして)
 河田が心中に浮かべた想像を、その直後、忍川が声に出した。
「言いたくはないが、米崎さん、他の誰かにチョコをあげてる可能性は?」
「――言いたくないのなら、黙ってて欲しい」
「分かった。いないんならいいんだ」
 忍川が離れていって、独りになった河田は練習の順番が回ってくるのも忘れ、考え続
けた。
(お父さん用とか? だとしたら、聞いて確認すればすっきりするんだけど、もし違っ
ていたらどうしよう)
 本命の男が別にいると想定する方がしっくり来る。毎年バレンタインデーのチョコを
拒まれていたのは、本命にのみ渡していたから。誕生日やクリスマスはどうとでもなる
が、バレンタインだけは特別という考えの持ち主だとしたら、辻褄が合ってしまう。
(でもな。米崎さんにもう一人男がいるとしたら、忙しすぎて身体がもたないんじゃな
いか。そういえば、去年の二月に映画を観たときだって、三日間の内のいつがいいか
を、こっちに選ばせてくれた。普通、本命がいるのなら、まず本命のスケジュールが最
優先だろ。米崎さんがこの日ねって言ってきた訳じゃない)
 希望を見出すために捻り出した、薄いロジックかもしれない。けれども、河田は信じ
ることに決めた。理由は、信じたいから。

 一年生、二年生と同じクラスだったのに、三年生になって初めて別々のクラスになっ
た。
「まあクラスは隣同士だし、学校の外でならこれまで通り会えるし」
 気にしていない風を装って、河田が言うと、米崎も乗っかった。
「そうだね。教室が近いと、何をやっていても目が届く」
「こっちの台詞」
「あはは。だけど、三年生のときに別々ってのは痛いわ。色々とあるのに」
「色々って?」
「修学旅行でしょ、卒業アルバムの写真でしょ、文化祭のクラス単位の出し物も。一緒
にやりたかった」
「……しょうがないよ。こちとら、一番心配なのは、受験なんだけどな」
「あー、それもあったね。一緒に勉強するとしたって、進み具合が違ったら、ちょっと
面倒かしら。最終的には、帳尻を合わせてくれるはずだけど」
 心配していた勉強に関しては、クラスが別になったことがプラスに作用した。河田が
苦手な科目の授業は先に米崎が受け、逆に米崎が不得手な科目の授業は河田のクラスが
先になる。それぞれ内容をしっかりノートし、相手に見せることでこの上ない予習にな
る。
 反対に、マイナスの影響が出たのは、やはり校内で会うこと。機会が減るのは予想で
きていたから、昼ご飯ぐらい一緒に食べようと約束していても、時間が合わないことが
しばしば起きる。約束していて叶わなかったら不安やいらいらが募るだけで、精神衛生
上よろしくない。結局、昼食に関しては、河田の方が余裕があるときのみ誘うことで落
ち着いた。無論、誘った上でだめなケースも結構あるが、互いに独自に動いて互いに気
を揉むよりはずっとましという訳。
 と、そんなルールを決めたあとだったから、六月十五日の昼休みになるや否や、米崎
が河田のクラスに飛んできたのには面食らった。
「今大丈夫だよね?」
 手招きされて廊下に出ると、ひそひそ声で話し掛けられた河田。じきに各教室からぞ
ろぞろと生徒が出て来たので、周囲は騒がしくなる。
「大丈夫だけど、どうしたの米崎さん」
 普通の声量で聞き返すが、相手はひそひそ声のまま。
「分かんない? 六月の十五日よ」
「……分かった。歳は取りたくないものだ」
 冗談を言った河田の鼻先に、紙袋が突きつけられる。正面から見た面積は、十センチ
四方程度か。
「これ何? あ、いや、プレゼントってのは分かってる」
「開けていいわよ」
 まだ周りには人がいるけれども、渡す当人がいいと言うのなら、まあいいだろう。
「――手袋?」
「そう。苦労した手編みだから感謝して」
「ありがとう……でも何でこれから暑くなるのに」
「受験の頃には寒いでしょ」
「ああー」
「クリスマスプレゼントに回してもよかったんだけど、その頃だと私も編んでる余裕な
いかもしれないし、かといってクリスマス用に今編んでおいて、別の何かを誕生日に渡
すってのも懐的に厳しいから」
「分かった。本当にありがとう」
「ところで自分自身の誕生日を忘れるくらいだから、私のことなんて忘れてるわよね」
「いや、そんなことはない」
「嘘」
「ほんとほんと。用意はまだだけど、小遣い節約してる」
 お金の話をするのは嫌だったが、先に米崎が口にしたので、まあよしとしよう。
「ふうん。だったら、リクエストしてもいい?」
「へ? う、うん、まあ、予算内であれば」
 めっちゃ高いアクセサリーか服でもねだられるのか。今から新聞配達のアルバイトを
したとして、二週間でどれほどもらえるんだろう……などと不安を一気に募らせる河
田。
「私、お守り的な物が欲しいな」
「お守り……分かるけど、的ってどういう意味だよ」
 価格の相場が分からないのもあるが、とりあえず“的”が気になった。
「神社で売ってるような物でなくてもいいのよ。持っていて安心できる物なら何でも。
かつ、願いが成就すればもっといいけど」
「漠然としていて、希望の物が分かんねー」
「だから、河田がお守りになると思った物なら、何だっていい。ま、身に付けておける
小さい物が望ましいかな」
「……アクセサリーになるんじゃないか」
「あー言わなくていい! マスコット人形やキーホルダー、何だってあるでしょ!」
 米崎が急に声を大にしたので、びくっとしてしまった。とにもかくにも、アクセサ
リーじゃなくてもいいようだ。彼女の言葉を額面通りに受け取るのであれば。
「例によってテスト期間と重なるから、終業式の日まで待ってあげる。期待しないでい
るから、気楽に選んでね」
「うん」
「で、折角だからこのあと一緒にランチしましょ」
 やりたいことを達成したような、満足感にあふれた笑みで米崎が誘ってきた。河田は
即承知したが、頭の中は別のことが占める。
(リクエストされて、かえって難しくなった気がしないでもない……)

 米崎への誕生日プレゼントを渡すのは、終業式の日にずれこんだ。学校のその日の行
事が何もかも済んだあと、下校前にプレゼント。
 おもちゃとファッションアイテムの中間のような短めのネックレスだったのだが、、
意外と喜んでくれたのでほっと一安心。ロザリオ風(あくまで“風”。人によっては十
字手裏剣が付いているように見えるかもしれない)の代物で、どことなく祈りを連想さ
せたのがこれにした決め手だったが、もしも気に入られなかったときのために、フェル
ト製のマスコットキャラが着いたキーホルダーも買っておいた河田だった。もちろん、
今となってはそのことを打ち明けるつもりはない。別の何でもないときにあげよう。
「何か具体的に願い事、あるのかな」
「こういうのって秘密にしておくもんじゃない? 叶ったときに教えるわ」
「分かりました。いつまでも教えてもらえなかったら、俺の責任みたいになるので嫌だ
なあ」
「大丈夫。ほんとに責任になるから」
「ど、どういうこっちゃ?」
 訳が分からんと頭をかきむしった河田だったが、米崎は最後まで意味を説明してはく
れなかった。
 その後、夏休みは人並みに高校受験に備えた勉強をしつつ、たまに会って息抜きし
て、適度に遊んでの繰り返しで過ごす。希に、米崎さんに会いたいなあという思いが強
まることのあった河田だったが、相手も同じ思いをしているに違いない、あのネックレ
スを握って我慢しているんだろうと想像――妄想とも言う――して、我慢した。一度、
彼女からももらった手袋を握りしめてみたが、暑苦しいのですぐにやめた。
 なお、六月前半に修学旅行、九月終盤に運動会、十一月頭に文化祭があった。それな
りに語るべきエピソードがあるにはあったが、長くなるので泣く泣く割愛しよう。これ
もまたの機会があれば、そちらの方で。
 この間の河田や米崎にとってより重要なことは、上記以外にあった。同じ高校への進
学を目指すことが決まったのだ。
「これでモチベーションが上がる」
 米崎から進路の話を聞いた河田が、素直に喜びを口にしたが、彼女はちょっとひねく
れているのか単にドライなのか、「でも受験まで三ヶ月ちょっとになったから、しばら
く二人で会うのはやめた方がいいわね」とあっさり言い切った。
「一緒に勉強するのは?」
「勉強だけで済むならね」
「済むでしょ。今までだって、何度もあった」
「だったら、一緒に勉強し終わって、家に帰ったあと、どんな気持ちになるのか想像し
てみて」
「……ちょっと寂しいかな。それから、相手が今何をしているのか気にするかもな」
「ほらね。じゃあだめだわ。勉強が手に付かなくなる」
「うう。確かにそうなる恐れは……認めざるを得ない」
 それでも完全になくすのはきつい。二人に共通する認識だった。その対応策として、
他の友達を巻き込む形ならいいだろうとなり、一月一日に初詣を兼ねてみんなで合格祈
願に行くと決まった。
 そんなこんなでクリスマスは跳ばして、年が明け、初詣を迎える。
「現時点でカップルでいるというのが、信じられないな」
 独り身の――独身という意味ではなく、恋人がいない――忍川が、他の四人を評し
て、呆れ顔を作る。
『受験生の自覚はあるのかね、ないのかね、君らは』
 国語教師の声真似をして、笑いを取る忍川。
「忍川君なら大丈夫。少なくとも見栄えはいいんだから、すぐに彼女さんできるわよ」
 志崎が太鼓判を押すが如く、忍川の手を握って、何度も上下に振った。
「少なくとも、か。中学三年間、縁がなかったのはその辺に原因があるのでしょうか」
 俯いて片腕を顔に当て、泣くポーズをする忍川を、板垣が強引に元の姿勢にさせた。
「縁起でもないから、嘘でも泣く真似はよせ」
「うれし泣きとは思ってくれないのか」
「話の流れ的に無理がある主張だぞそれは」
 三人のやり取りは眺めながら、河田は頬を緩め、白い息を吐いた。両手は革ジャンの
ポケットに突っ込んであるが、寒さからではない。填めてきた手編みの手袋を、友達の
目からは隠そうという意識が働いていた。ちなみにこれをくれた米崎には、填めている
ところを真っ先に見せている。
「よく似合ってるね」
 河田は自分の贈ったネックレスをしてきた米崎に、そう囁いた。
「私のコーディネートのおかげかな」
「それも認めるけど」
「このトップの部分、金属が冷たいのよ。冬は肌に当たるとびくってなっちゃう」
 かなわないなと口を閉ざし、苦笑をただただ浮かべた河田であった。
「さて、あまり混み合わない内に、向かうとしようぜ」
 頭一つ分ほど背の高い板垣が、神社への道を見通しながら言った。
 鳥居をくぐるのは正式には左足からとか、山道は左側を通るだとかの豆知識を耳にし
た覚えは朧気にあった。が、実際に近付いていく内に、それらに拘っていられる程は空
いていないと分かり、あれよあれよという間に押し出されるようにして賽銭箱の前まで
到達。そこからは意外と時間が取れて、作法に則ってお参りできた。
 河田ら五人が願ったのは志望校郷学であることは言うまでもない。
(――バレンタインのチョコはいりませんから、どうか合格させてください)
 河田はそんなフレーズを付け足してみた。
「ね、ね。合格の他に何か願った?」
 米崎から問われて、河田は考える素振りをした。たっぷり時間を取って返事する。
「おかしいな。こういうことって、秘密にしておくもんじゃなかったっけ?」

 二月に入った。
 河田らのいる地域の今年の高校入試は、十五と十六の両日に渡って行われる。初日が
学科試験で二日目が面接その他だ。合否発表はこの一週間後である。
(ただの試験だったら、この日程は恨んだだろうけど)
 自宅の部屋で一月のカレンダーを破り取った河田は、サインペンで赤く丸の入った1
5と16の数字を見て、それから14へと目を移した。
(高校入試だからな。バレンタインなんて関係ない。初詣のときにも言ったし。そもそ
も米崎さん、この二年間にくれる気配全然ないし)
 とうにあきらめている。なので入試に集中できるというもの。いや、この地域では入
試が終わったあと学年末試験という日程なので、入試に集中と表現しては語弊がある。
勉強に集中できる、だ。
 学校の昼休みでも、昼飯を食べながら単語帳を食って、もとい、繰っている。
「そんな物ばっか食ってたら、体調崩す恐れが出て来るぞ」
 単語帳を片手にパンをかじっていたら、板垣が上から覗き込んできた。彼と志崎は私
立合格を先んじて決めていた。心理的に余裕があるのが、表情からにじみ出る。
「受験当日に風邪を引くかもとかびびらせるつもりなら、聞かないぜ」
 河田はパンを口から離して、顔は動かさずに答えた。と、頭のてっぺん、つむじの辺
りに違和感が不意に訪れた。
「俺をそんな奴と思ってるなんて心外だな。あったか〜いコーヒーを買ってきてやった
のに」
 その言葉の通り、頭に熱が伝わってくる。あったか〜いどころか、熱いっていうレベ
ルだこれは。
「ごめん、気が立っているもので」
 素直に謝って、コーヒーを受け取る。財布から硬貨を出そうとすると、「いらん。今
日はおごり」と手のひらを立てられた。
「サンキュー。出世払いするよ」
「ははは。待ってると言っておく。そういや忍川から聞いたんだけど、昔、小五のとき
に米崎さんから百円もらっておきながら勝負に負けたんだって?」
「忍川がどういう説明したのか分からんけど、バレンタインのチョコレートで勝負し
た」
 あらましをざっと説明する。説明したあと、「負けたって、こんなときに縁起でもな
い話を振るなよな」と抗議調で付け加えた。
「すまん。でも、嬉しそうな顔してるぜ」
 指摘されて、河田はパンと単語帳を置き、頬に手を当て上向きに引っ張った。確かに
頬が緩んでいたような気がする。
「米崎さんとの馴れ初めか」
「……まあ、そうかな」
 顔から手を離し、また食事と勉強に戻る。板垣から気が抜けたような声があった。
「れ? 逆襲しないのか。俺と志崎さんの馴れ初め、知りたくない? ずっと前に話し
たバレンタインのエピソードよりも濃厚なんだぜ」
「興味なくはない。が、今、頭の中を桃色にする訳にはいかないんだよっ」
 そう言ってから、ちらりと米崎の顔を思い浮かべ、すぐにベールを被せた。

 入試を全て終えてからの帰り道、合否発表の日に一緒に見に行く約束を米崎とした。
正確には、最初に言い出したのは米崎の方からで、河田が約束させられたのだが。
「二人とも合格するとは限らないんだから……」
「何を気弱なこと言ってるの。手応えなかったの?」
「そんなことはないが……周りがみんな満点だったら」
「それこそ、そんなことはない、よ。模試の判定だって余裕で圏内だったでしょ」
「そんな昔のことを持ち出されても」
 正直な気持ちを言うとしたら、万が一にもどちらか片方だけが落ちて、気まずい空気
になるのは嫌だったから。
「米崎さんは自信ありそうだね」
「分かんない」
「え?」
 小さな段差か何かに爪先が引っ掛かって、河田は転びそうになった。米崎に腕を引か
れ、どうにか無事に体勢を立て直した。
「大丈夫?」
「それより、分かんないってどういうことだ?」
「本心ではね、あなたと一緒だよ。周りの全員が百点満点だったらどうしようって。で
も、表向きは自信がある!と言い切るわ」
 パワーというかオーラというか、とにかく目には見えない何かがみなぎってる感じの
米崎。受験から解放されて元気はつらつといったところか。
 と、かような経緯で、発表当日に彼女の家の前まで迎えに行った河田だったが。
「遅い」
 声に出してから、腕時計を見る。時刻確認は、かれこれ四度目だ。前もって約束した
時間から、すでに二十分近くオーバー。
 もう一度呼び鈴を押そうかと思ったそのとき、玄関が開いてやっと米崎本人が転がる
ように出て来た。合否の確認を行くだけにしては、アクセサリーやヘアスタイルで結構
お洒落をしている上に、手提げ鞄を一つ持っている。
「ごめんなさーい。色々と準備に手間取っちゃって。上がって中で待ってもらいたかっ
たんだけど、バタバタしてて内情を見せたくないなって。寒かった?」
 こんなに言い訳する彼女は珍しいと思いつつも、河田はむすっとして頷いた。
「手袋してたから、何とか保った」
「――でしょ」
 不安げだった米崎が、破顔一笑した。
「持とうか、荷物?」
「ううん、いいよー。待たせた上に荷物持ちをさせちゃあ申し訳ないです」
 それから二人だけで合格発表を見に行った。が、途中で何人も知っている顔を見掛け
たりすれ違ったりするものだから、二人きりという気分はどこかに飛んでしまった。友
達やクラスメートだからと言って、声を掛け合うことはなかったが、これなら始めから
学校に集合した後、皆で見に行ってもよかったんじゃないかと感じるほど。
「学校によっては、先生が合否をチェックして、まとめて知らせてくれるとこもあるら
しいわ」
「そっちの方がいいかも」
「そう? 不合格だった人にはどう伝えるのかしら」
「なるほど、その問題があるか」
 ちょっと考えてみたが想像付かなかった。ただ、今はとにかく不合格の憂き目に遭い
たくない、それだけを改めて思う。
 高校の前まで来て、ほんの少し歩みが鈍った河田に対し、米崎はぐんぐん進む。手提
げを揺らして、今にも駆け出しそうである。
「遅いっ。足が竦んだのなら、私が見てきてあげるけど?」
「ご冗談を。ここまで来て、直に確かめないなんてあり得ん」
 追い付いて、並んで行く。すぐに臨時の掲示板が視界に入った。
 二十分遅れの出発になったおかげか、混雑のピークは過ぎたらしく、割とスムーズに
最前列まで行けた。
 ここに来て、さしもの米崎も口数が減る。手にした受験票をじっと見つめてから、面
を起こし、掲示板に張り出されたか身の上の数字をサーチする。
「――あった」
 ほとんど同時に言った。思わず、抱き合う格好になったが、すぐに冷静さが脳裏に降
りてきて、離れる。それから代わりに手を差し出した。
「一緒に合格できてよかったわ」
「うん。これでめでたく春から高校生だね。よろしく」
 握手した手を、大きく上下させた。

 高校の校門から出ると、河田は米崎に聞いた。
「このあとどうする? 学校にはわざわざ言いに行かなくたって、高校の方から連絡が
とうに入っているなんて説もあるが」
「ま、礼儀っていうか慣習っていうか、行くのが筋でしょ。校則がなければ、ちょっと
早めのお昼ご飯をどこかで食べてからにしたいところだけどね」
「さすがに、今になって校則違反してばれて、卒業取り消しなんてなったら洒落になら
ねえ」
 声を立てて笑った河田。米崎も同じように笑っていたが、ふっと止んで、いきなり手
提げをごそごそやり出した。
「あ? 何?」
「遅くなったけど。というか、お待たせしました、かな」
 話しながら、米崎は手提げの中から厚さ五センチほどの正方形の箱を出した。包装紙
は水色のリボンで彩られ、赤いリボンで作られた花のおまけ付き。
「これって、その、もしかして」
 河田が中途半端に曲げた人差し指で、箱を差し示そうとする。と、その手に箱がぐっ
と寄せられた。
「バレンタインチョコレートよ。受け取って」
「……あ、ありがとう」
 驚きのあまり、声が掠れる。
「どう? ご感想は?」
「び、びっくりしてる。君はバレンタインだけは興味ないもんだとばかり。ひょっとし
て合格祝いとか?」
「そんな訳ないでしょ。バレンタインってさっき言った」
「だよな。何で急にくれる気になったのさ」
「急にじゃないわよ。毎年、あげようと思ってた。買うだけ買って、無駄にしたことも
あった」
 しっかりした語調で否定され、河田の困惑は極まった。
「ええ? でも、くれなかったじゃないか」
「あげられないわよ。あんな、『義理チョコでいいから』だの『ホワイトデーにはお返
しするから』だの言われて、はいそうですかとあげるなんて」
「? 意味が……」
「だからっ。私は自分の意思であげたかったの! 言われて渡したんじゃ、そう見えな
いでしょ」
「……はは。そうか。なるほど」
 全身から力が抜ける気分を味わった河田。実際、膝を折ってふにゃっとなる。上体を
折り、空いている手を膝についた。
(忍川が目撃したのは、俺にくれるつもりで買ったのに、俺の不用意な発言のせいで、
気が変わったってことか)
「鈍いんだから。だいたい、バレンタインに興味ないなんてあり得ない。小五のときの
こと、私は凄く大事に思ってる。……」
 続けて「河田のことほんとに好きになるきっかけだったし」と呟いたようだった。よ
く聞き取れなかったけれども。
「同意します。俺もあれで米崎さんのこと好きになり始めたから」
 河田はもらったばかりのチョコの箱を抱え直し、姿勢を戻した。
「さて、受け取ったあとなら言ってもいいんだよな? ホワイトデーのお返し、これか
ら考えなきゃ。そのために、米崎さんの――君のこともっと知りたい」
 米崎は一瞬目を見開き、次にぷ、と噴き出した。
「おかしなこと言ったかな?」
「あははは。言った。映画のタイトル思い出した。あーおかしい」
 言われてみれば被ってしまってたなと、河田も記憶を甦らせる。
「かなわないな。まずは米崎さんの記憶力がいいってことが分かったから、よしとする
か」
 そう言うと河田は頭を掻きながら思った。
(ホワイトデーはとりあえず、今日もらった物より最低でも百円分は値打ちが上のプレ
ゼントにしよう。小五のときの借りを返さないとな)

――終わり




#536/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:31  (225)
眠れ、そして夢見よ 1−1   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:35 修正 第2版
   奇妙な患者


   一

「先生の研究についての噂は、かねがね伺っております」
 高梨と名乗るその変ににやけた男は、真新しい名刺を差し出した。滝
田は男の顔を一瞥し、受け取った。「小暮総合病院 副院長 高梨英一」
とある。
「小暮総合病院。ああ、私もお世話になったことがありますよ。二年前
に右腕を骨折しましてね」
 滝田は職業的な笑顔を浮かべ、Yシャツの胸ポケットから名刺を抜き
出すと、男に渡した。高梨は大仰に両の眉を上げてみせる。
「そうですか、それはそれは。その後ご加減はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり。二年も前のことですから」
「いやあ、それは良かった」
 高梨は相変わらず笑みを浮かべながら、応接室の様子を眺め回してい
る。
「まあ、立ち話もなんですから、おかけ下さい」
 二人はソファに座り、向かい合った。
 滝田が経営する睡眠研究所に、病院の医師、それも副院長と肩書きが
つく人間が訪ねてくるなどということは、初めてのことである。「実は今
日伺ったのは、他でもありません」高梨は急に声をひそめた。「うちの病
院に、非常に、何と言いますか、複雑な症状を持った患者が入院してい
るのです」
「はい」
「先生も睡眠の研究者でいらっしゃるから、睡眠障害についてはご存知
でしょう?」
「ええ、一応は」
「最初この患者は、夜なかなか寝付けず、朝早く目が覚めてしまうので、
なんとかしてくれと言って私どもの病院にやってきました」
「睡眠時間が短いわけですね」滝田はテーブルの上に両肘をつき、口の
前で手を組み合わせた。「鬱病ですか?」
「精神神経科医の判断は、ノーです。患者は精神的にはいたって普通で、
しゃべり方もはきはきとしており、その後何度かのカウンセリングでも
本人の生活上とりたてて重大な悩みがあるわけでもなく、食欲もあり、
勤務上の問題もなかったそうです。煙草、よろしいですか」
「どうぞ」
 滝田は手の平でテーブルの上の、ダイヤモンドのような形にカットさ
れた、ガラス製の灰皿を指し示した。
 銀色の、いかにも高級そうなライターで火をつけ、一服吸うと、高梨
は先を続けた。
「ところがその後、今度は夜容易に寝付くことができないのは同じなの
ですが、朝なかなか起きられなくなったと言い出しました」
「ほう、症状に変化が現れたわけですね」
「最初は午前二時頃に寝て、朝七時に起きると言っていました。ところ
がだんだんと、寝る時間が三時、四時へと遅れていき、朝起きる時間も
八時、九時へと遅くなっていきました」
「勤務の方はどうなったのです? 当然支障が出ると思いますが」
「ええ。患者は遅刻の常習犯となり、周りから白い目で見られるように
なりました。奥さんが起こそうとするのですが、絶対に起きないのだそ
うです」
「失礼します」
 所員の常盤美智子が盆にコーヒーを二つ載せて入ってきた。
「どうぞ」
 彼女がカップを置くと高梨は「有難うございます」と言いながら美智
子の顔を興味深げに見つめた。前時代的な牛乳瓶の底のような眼鏡が珍
しかったのだろう。
 滝田の前にもコーヒーを置くと、美智子は高梨の失礼な態度に怒った
のか憮然とした表情で立ち去った。
「睡眠相後退症候群ですか?」
「私どもの診断も、そうです。その状態は一ヵ月ほど続きました」
 高梨は軽く叩いて灰を灰皿に落とした。
「治療を進めるうちに、徐々に症状は改善していきました。患者の睡眠
時間は正常な時間帯へと戻っていったのです。私達は、治療の効果があ
ったのだと思ったのです」
「そうではなかったと?」
「ええ。今度は昼間眠くてしょうがないと言い出したのです」
「今度は過眠症になったとでも?」
 滝田は少し驚いた。
「ええ。夜十分な睡眠をとっているにもかかわらず、昼間たえまなく強
烈な眠気に襲われ続けると言います。笑ったりびっくりしたりすると全
身の力が抜けてしまうということから、ナルコレプシーと診断しました」
 滝田はようやくどういう話か分かってきたが、唇を少し歪めた。
「その患者、嘘をついてるんじゃないですか?」
「いいえ。MSLT(Multiple Sleep Latency Test)をやってみたのです。平
均入眠潜時は三分です」
 二時間ごとに二十分間横になり、眠りに入るまでの時間を測定するテ
ストだ。三分となると、これはかなり重度だ。
「ふーん」滝田も胸ポケットから煙草を取り出した。「それで?」
 高梨は滝田の煙草に火をつけながら、先を続ける。
「次に起こってきたのはレム睡眠行動障害でした。患者はふらふらと家
の中を歩き回り、家族の者に怒鳴り散らしたり、壁に立小便をしたりし
ました。後で聞いてみるとそういう夢を見ていたと言います」
「ほおう」
「さらに睡眠時無呼吸症候群を併発するに至って、私達は患者を入院さ
せることにしたのです」
「つまり」滝田は眉をひそめた。「いろいろな種類の睡眠障害が、次々と
起こったと、そうおっしゃるわけですね?」
「ええ、そうなんですよ」
「そんな馬鹿なことが」
「しかし、現実に起こっているのです。入院してからがもっとひどくて、
一週間から二週間、眠り続けるのです」
「今度はクライン・レビン症候群ですか」滝田はあきれた。「睡眠時無呼
吸症候群は? あれだと夜中に何度も目を覚ますんじゃないでしょうか」
「目を覚まさない場合もあります。しかし、入院後は起こらなくなりま
した。全く不思議です」
「CTスキャンとか、MRIは撮られたのですか?」
「脳には特にこれといった異常は認められていません」
 高梨は大きくため息をついた。
「眠り続ける期間は次第に伸びていきました。今はずっと眠っています。
こうなるともう、分かりません」
 滝田は笑いを漏らした。
「でもそれは、私の所へ持ってこられても、どうにもなりませんよ。も
っと大きな病院に移すとか」
「いえいえ、こうして先生をお訪ねしたのには理由があるのです。入院
してから、我々には全く理解できないような不思議なことが起こったの
です」
「ほう」
「患者はその後、普通の状態では目覚めなくなりました。起きた状態が、
入院する前のそれとは全く違うのです」
「と言いますと?」
「患者の名前は倉田恭介といいます。しかし彼は、自分は御見葉蔵(ご
み ようぞう)だと言うのです。彼は三十五歳なのですが、その時の彼
の声は老人のようなしわがれた声なのです。全く元の倉田とは違った声
質です。どう思います?」
 滝田は、高梨が患者を“倉田”と呼び捨てにするのを、少し不謹慎に
感じた。
「それもレム睡眠行動障害なのではないですか? まあ、声が変わって
しまうのは説明がつきませんが」
「ええ。私達もそう思いました。そこで精神神経科医は彼に質問を試み
ました」
「寝ている患者と会話ができたんですか?」
「ええ、それも奇妙なことです。横で寝ている妻が寝言を言ったので返
事をしてみたら返答してきたので『なんだ、起きてるの?』と聞くとす
やすやと眠っている。そういう例ならいくつもあるのですが、彼のよう
にはきはきと答える患者は聞いたことがありません」
「目は開いてるんですか?」
「開いてます」
「だったら睡眠時遊行症の方かもしれませんね」
「脳波を測定しました。ノンレム睡眠ではありません」
「そうですか。で、どうだったのです?」
「ただのレム睡眠行動障害だというだけでは説明がつかない、ある事実
が分かったのです」
「どんな?」
「患者の様子は、とにかく異常でした。彼が御見葉蔵として語る事は、
細部にまで渡っていました。彼がイカの塩辛をのせたお茶漬けが好きで
あることや、彼が住んでいる屋敷の部屋の間取り、彼が好きな酒の銘柄
……精神神経科医が次々にする質問に対して、実に自然に答えるのです」
 滝田は短くなった煙草をダイヤモンド型の灰皿に押し付けた。
「倉田さんの演技ではない、という訳ですね。すると彼は多重人格かも
しれませんね。彼はなぜだか知らないが昏睡状態に陥った。時々目覚め
るが、その時には御見葉蔵なるもう一人の人物になっている。レム睡眠
時の脳波と覚醒時の脳波は似ていますからね」
「しかし、事前の兆候が見られません。つまり、頭の中で誰かのしかり
つけるような声がする、といったような類の。全く突然にそうなったの
です。第一、彼の中の御見葉蔵という人格は、あまりにもはっきりとし
すぎているのです。一九六一年生まれ、十九歳で結婚し、二十四の時に
長男をもうけました。子供の名前は弘というそうです。六十六歳にして
やっと初孫が生まれました。名前は晃一だそうです。精神神経科医はそ
の他もろもろのことも聞き出しました。家の周辺のどこに何があったか、
煙草の銘柄、息子の好物と、嫌いなものまで。解離性同一障害は、確か
に自分とは全く別の人格が頭の中に宿るものです。しかしそれはあくま
で人格の話です。記憶まで完璧に全くの他人になれるのでしょうか?
御見葉蔵は青森の生まれだそうで、ずっと東北に住んでいるのだそうで
す。倉田が行ったこともない場所です」
「それでもやはり、全部倉田さんの作り話だという可能性は残るでしょ
う?」
「いいえ。作り話だという可能性は、全くないのです」
 高梨はきっぱりと言いきった。
「ほほう」
「担当した精神神経科医は、このことに個人的な興味を抱きまして。そ
れで、青森まで行ってきたのです」
「つまり、御見葉蔵の家にですか?」
「そうです。倉田から住所を聞いておりましたから、実際に行ってみた
のです。ありましたよ、御見の家が」
「まさか」滝田は新たに一本、煙草をくわえた。今度は自分のライター
で火をつける。「話が出来すぎている」
「その田舎の古い屋敷には、御見晃一という男が住んでいました。五十
三歳です。彼は、確かに父親は弘という名で、七年前に亡くなったと言
っています。そして祖父の名前が葉蔵なのだそうです。あとはもうお分
かりでしょう。全ての事実が、倉田が言ったことと驚くほど一致してい
たのです」
「葉蔵さんももう亡くなっているのですか?」
 生きていれば百歳を超える。
「はい」
「憑き物だな、そりゃ」
 滝田は苦笑した。
「どういうことですか?」
「ええ。大昔は、狐や猫が人に憑きました。しかし現代のように自然と
人間とが離れてしまった時代では、他人が憑いたり、コンピュータが憑
いたり、宇宙人が憑いたりします。御見葉蔵の霊が倉田氏にとり憑いた。
馬鹿げた話だ」
「いいえ。それも違います」
 滝田は顔をしかめた。
「まだ何かあるんですか」
「あります。実は彼が御見葉蔵であったのは、比較的短い期間だったの
です。その後三週間から一ヵ月という長いスパンの睡眠に入りました。
彼は次にインドのアジャンタ……なんとかという人物になりました。そ
れが大変な馬鹿力であるだけでなく、ひどく怒りっぽいのです。一番驚
いたのは、彼が自分のベッドを投げ飛ばした時でした。これは私も見て
います」
「日本語でしゃべったんですか?」
「ええ、日本語です。しかし彼が倉田ではない何者かになっていたこと
は確かです。どう考えても、あんな力が出せる体つきではありません。
そのインドの人物が出現したのはわずかに二度だけです。その次に、こ
れが最後ですが、今度は、自分は古代エジプト人だと言い出しました。
ところが言うことがひどくあいまいとしていまして。自分の職業も、名
前も、年齢も分からないと言います。こうなるともう、彼が一体どうな
ったのか、想像もつきません。彼はそんなにころころと、いろんな霊に
とり憑かれる体質なのでしょうか? 国籍も時代も全く違う。私にはど
うも、彼が憑依されたというだけでは説明がつかないような気がします。
もっとこう、私達の常識をひっくり返してしまうような何かが、彼の体
に起こっているのではないかという気がするのです」
「先程も言いましたが、私に相談されても治療して差し上げることはで
きないと思いますよ」
「いえいえ、治療の方は私達で続行します。私達が興味を持っているの
は、患者に起こった不可思議な現象です。私達はこれを解明する鍵は、
夢だと思っています」
「はい?」
「彼はやはり、レム睡眠行動障害なのだと思っています。つまり、彼が
見ている夢の内容が、そのまま行動に現れているのだろうと」
「そこで、我々の夢見装置に話がつながるわけですね? やっと分かり
ましたよ」
 夢の研究をしている所だったらいくらでもあるが、日本で唯一夢見装
置を持つ滝田研究所を訪ねるとはお目が高い。
「ええ。彼の夢の内容を研究すれば、何かとてつもない事が分かるかも
しれない」
「それが分かったとして、治療に役立ちますか?」
「役には立たないでしょう、たぶん。しかしこれが、医学に、いや医学
だけでなく科学に、一石を投じることになるかもしれない」
 滝田は意地の悪い笑みを浮かべた。
「論文にでもして学会で発表しますか? そうしたらあなたは有名人だ」
 どうやら図星だったらしく、高梨は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「このことはくれぐれも、内密にお願いしますよ」




#537/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:34  (289)
眠れ、そして夢見よ 1−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:37 修正 第2版
   二

 春とはいってもまだ三月なので肌寒い。美智子はジャケットの前を合
わせながら、バス停から三十メートルほど離れた滝田研究所の正面玄関
まで、駆け足に近い速さで歩いてきた。見上げると、まるでイスラム教
の寺院のような、おおげさな造りの建物が、今日も相変わらず鎮座して
いる。前世紀、つまり二十世紀からあるこの建物を買い取って研究所と
したのは、全く滝田の趣味だと言える。エレベーターすらついていない。
入り口から入って右手にある階段の前に立つと、美智子はいつもの習慣
で、「はあっ」とため息をついた。彼女は運動が嫌いだ。三十を少し過ぎ
ただけなのに、もう若くないんだわ、などと思う。
 美智子はしぶしぶ上り始める。三階まで上るのは、結構いい運動にな
る。壁は、昔はもっと鮮やかな色であったに違いないのに、今はすっか
り黄土色に変わってしまっている。
 ロッカーにジャケットをしまいこむと、まずコーヒーメーカーから彼
女専用のカップになみなみと注ぎ込んで飲む。これもまたいつもの習慣
である。彼女の頭はこの一杯でようやく目覚める。それまでは半分寝て
いるのと同じだ。二年前までは七、八杯注ぐたびに豆と水を入れ直さな
ければならない古いタイプだったが、常時一定量が供給されるコーヒー
メーカーに変わった。
 再びロッカールームに戻り、白衣を上から引っ掛ける。着替える意味
はほとんどない。着た方が研究者らしく見える、といった程度だろうか。
実験動物の尿などが服につかないようにするため、ということにはなっ
ているが、実際にはそんなものがつくことはまずない。
 滝田研究室に行ってみると、そこには口髭とほう鬚を生やし、同じよ
うに白衣を着た青年がいた。彼は片手にコーヒーカップを持ち、片手に
リモコンを持ち、それを部屋の中央にある大型モニターに向けて、早送
りと巻き戻しのボタンを交互に押している。
「お早うございます」
 青年は画面を見つめたまま言った。
「あら藤崎君、早いわね」
「徹夜ですよ」
 なるほど確かに、目がやや赤くなっている。
「そう。熱心ね」
 美智子は手近にある椅子を引き寄せて、青年の横に座った。
「で、ハリー君の様子は?」
「なんにも変化なしです。時々小さく光ることはあるんですがね。それ
以外は何も映りません」
 モニターの画面はいくら早送りしても真っ暗なままである。
 隣の部屋は二階と三階が吹き抜けになっている。そこにあるベッドの
上には、哀れにも頭部を器具で固定され、四本の針を突き刺された犬の
ハリーが眠っている。今のところ人間以外で夢を観察することに成功し
たのは、猫と猿だけである。犬はうまくいっていない。猫と猿について
はうまくいったのだとは言っても、それは別にたいした成果ではない。
人間以外でも夢を見ることだったら、とっくの昔にアメリカで実証され
ている。夢見装置があるのは、日本の滝田睡眠研究所だけではないのだ。
「ふぁーあ」
 藤崎青年はあくびをすると、コーヒーを一口すすった。
 日中は分析や文書作成等の仕事をこなし、夜中は実験対象が眠ってい
る間、起きて観察していなければならない。だから睡眠を研究している
くせに、皮肉なことに当の本人は眠ることができない。
 美智子は青年の肩を軽く叩く。
「少し横になったら?」
 立ちあがり、ガラス窓に近寄り、隣室のベッドを見下ろす。動物実験
などというものをする科学者はつくづく残酷だと彼女は思う。犬の頭に
突き刺さった針は、脳の奥深い所にまで達している。そのうちの一本は
夢を見始めた時に活発になる箇所――青斑核と呼ばれる部分に、別の一
本は目で見たものを認識する部分――後頭葉の視覚野に刺さっている。
 人間ではこうはいかない。人に刺すなど言語道断である。脳というの
は例えて言えば、ボウルに入った寒天のようなものだ。そこに針を突き
刺したら、頭部を固定していたとしても、少しの衝撃でも簡単に傷が広
がってしまう。しかしヘルメットを被せて、頭蓋骨と頭皮という分厚い
壁に邪魔されて得られる信号よりも、測定したい部位から直接得られる
情報の方が、はるかに鮮明だ。だから猫や犬が犠牲になる。
 こうして、かわいそうな実験動物を見ながら彼女の朝が始まる。滝田
が来るのは一時間くらい後だ。それまでに昨日の分の報告書をまとめて
おこう、と美智子は思った。

 朝九時半、滝田は車を研究所の裏手の駐車場に止める。ドアを開いて
降り立った彼は、大きく伸びをする。二十一世紀に入ってからもう八十
年がたつ。彼の赤のポルシェは、百パーセント電気で走る超高級車だ。
二十一世紀に入ってから、少なくとも車に関しては格段の進歩があった
と言える。ガソリンから電気への移行は比較的スムーズに行われた。だ
が多くの国産車は、今でも電気八割、ガソリン二割くらいでエネルギー
を消費する。思えば、家庭にあるもの、あるいは外にあるものも、ほと
んど全て電気で動いている。テレビにラジオに冷蔵庫。電気自動車もわ
ずかにあったが、車だけが二十世紀終わり頃までガソリンで動くものが
一般的であったことは、今思えば特殊な例外だったと思う。
「おはよ」
 滝田が研究室に入ると、藤崎青年はモニター画面を見つめたまま、「お
早うございます」というやや不機嫌な返事をした。
「おやおや藤崎君、また徹夜?」
 藤崎青年が徹夜をしたかどうかということは、赤の他人には判別が難
しい。なにしろ普段から髭もじゃなので、不精髭といった要素では判断
することはできない。目のかすかな赤み、顔にうっすらと浮いた脂、「お
早うございます」という短い言葉に含まれる、ほんの少しなげやりな口
調、そういったものは、やはり長い間の付き合いでしか分からないもの
なのだろう。
「今日さあ、高梨っていうお医者さんが来るから」
「はい?」
 青年の目が滝田に向けられる。
「うん。僕達の夢見装置を見たいって言うんだよ」
 滝田はもうすぐ五十代に足を踏み入れようという歳なのに、いまだに
親しい間柄の人間に対しては、自分のことを“僕”と言う。
 滝田は昨日の高梨とのやりとりを、かいつまんで話した。
「本当ですかね、それ」
 青年は半信半疑のようだ。
「常盤君は?」
「自室にこもってますよ。報告書がまだ出来ていないんだとか。だめだ
こりゃ」
 青年はリモコンをテーブルの上に放り投げた。
 滝田は研究室を出た。別に急いでいるわけでもないのに早足で歩く。
滝田の癖だ。
 三人の、それぞれに忙しい一日がスタートした。もっとも、青年に関
しては昨日からぶっ通しだが。滝田研究所には他に十八名のスタッフが
いる。しかし分野ごとに分かれていて、研究所のメインである夢見装置
に直接関わっているのが、この三人である。美智子の報告書のつまらな
い矛盾点を滝田が指摘したことに対して、彼女が猛烈に反論してきたり、
藤崎青年がコンピュータの記憶装置に蓄えられた犬の睡眠に関するデー
タを仔細に検討したりしているうちに、昼がやって来た。


   三

 昼の一時過ぎ、研究室に滝田と、チャコールグレイのスーツを着た長
身の、やや細身の男が入っていった。滝田は白衣も着ず、ポロシャツ姿
だ。藤崎青年がプリンタから印刷されたグラフに落としていた目を上げ
る。
「藤崎君、こちら、小暮病院の高梨先生」
 滝田が手の平を高梨に向けると、高梨は青年の方に歩み寄って名刺を
差し出した。
「はじめまして。小暮総合病院の高梨です」
「あっ」青年は立ちあがって、胸やズボンのポケットを探った。「すみま
せん、持って来てなくて」
「常盤君は?」と滝田が聞くと、青年は「呼んできます」と言って出て
行った。
「いやあ、これはこれは」高梨は手を後ろに組んで、研究室のコンピュ
ータ達をながめ回した。「立派なものですなあ」
「ちょっと待ってて下さい。今コーヒーをお持ちしますんで」
 滝田は部屋を出ていこうとした。
「いやいや、結構です。それより、夢見装置はどこにあるんですか?」
「夢見装置というのはまあ、この部屋にある機械全部のことなんですが、
本体は隣の部屋にあるんですよ」
 滝田と高梨はガラス窓に近づき、下方を見た。そこには黒い、大きな
箱があって、その下から何本ものコードが伸びている。そのうちの、数
本の先端がベッドの上にいる犬の頭に刺さっている。高梨の横顔を見る
と苦々しくゆがんでいる。
「あれはもちろん、犬だからああなっているんですよね」
 表情に笑みを取り戻した高梨が、滝田の方を向く。
「ええ。人間の場合はヘルメットを被せるだけです」
 部屋の扉が開いた。藤崎青年と常盤美智子が戻ってきたのだ。高梨は
慇懃に礼をして、青年にしたのと同じように美智子に名刺を渡した。美
智子は自分も出さなければならない、ということには気がつかなかった
ようだ。もっとも、彼女の名刺は机の引出しの奥にしまったままになっ
ているようだが。
「ええ、さて」滝田は両手を握り合わせた。「何からお見せしましょうか」
 滝田は室内を見まわす。
「犬が寝てくれるといいんですがね。とは言っても、まだ犬の夢を見る
ことには成功してませんが。あ、藤崎君、先生にコーヒーと、あと灰皿
を持って来てくれる?」
 高梨が先を促すように質問する。
「先生はどういった研究をされているのですか?」
「主に人間以外の動物の夢を観察することです。あとは睡眠障害を持つ
人の夢を見ることですね。夢と睡眠障害の因果関係を調べているんです
よ」
「ほう! 動物も夢を見ますか」
「ええ。日本では猫と猿だけ成功していますがね。アメリカやヨーロッ
パではもっといろいろな動物の……犬や、うさぎや、小さいものではモ
ルモットでも成功しています。もっとも、脳が小さいものははっきりと
夢だと確認されたわけじゃありませんがね。ああ、そうだ。それじゃま
ず、猫の夢をご覧にいれましょう。ビデオがあるんですよ」
 滝田は部屋の隅の棚に大量に詰められたディスクの中から一本を抜き
出し、それを大型モニターの下の再生機にセットした。
 リモコンのスイッチを入れると、最初のうち真っ黒だった画面が、ふ
いに明るくなった。
「これが猫の夢ですか」
 そこには赤やら灰色やら緑やらの、大小様々な四角形が入り混じって
うごめいている画面が映し出されていた。
「猫と人間では当然脳の作りが違いますからね。これはまだ人が見て分
かるよう信号を変換しているところですよ」
「人間の場合はどうするのですか?」
「得られる信号が微弱ですから、高度な画像解析処理が必要です」
 そのサイケデリックな模様は、だんだんとボカシを入れたような画面
に変わり、徐々にものの形をとり始めてきた。台所かどこかの床の上す
れすれの様子が、画面に映し出された。テーブルや椅子の脚が立ち並ん
でいる。猫の視点が、滑るように右から左へと動いた。その目の先には
女性の足があって、猫はそこに近づいていく。視点が上に動いて、若い
主婦らしき女性の顔が映し出された。彼女は微笑みながら、キャットフ
ードが盛られた皿を目の前に置く。画面は皿の中のアップになった。猫
が餌を食っているのだ。それが終わると、画面は足元からスカートへ、
そして胸元へ、そして髪を後ろにしばったその女性の顔の前へと上がっ
ていった。女は口を動かしている。「よしよし、良い子ねえ」とでも言っ
ているのだろう。そして画面には女性の後ろの窓ガラスが映し出された。
右横にはポニーテールが見えている。猫が主人に抱っこされているのだ。
画面はそこで急速に暗くなり、元の真っ黒な状態へと戻った。
「ここで猫の夢は終わっています」滝田は言った。「これはその辺にいた
野良猫を拾ってきて見た夢です。きっと飼われていた時の記憶なんでし
ょうね。何度も実験を繰り返して、観測できたのはこの一回だけです。
他は、さっきのごちゃごちゃした四角形だけで終わったり、なんだか意
味がない絵しか出てこなかったりして、これほどまでに鮮明に意味を持
った映像は、これだけです」
「いやいや、たいしたもんだ」高梨は心底感嘆したという顔をした。「こ
れは一体、どういう仕組みになっているんです?」
「ええ、仕組みはですね……常盤君」
「夢というのは日頃見て記憶したもののイメージが、眠っている時に後
頭葉の視覚野に流れ込んで起こるんです。五十年くらい前から明らかに
されてきたことですけど」
 どこの研究所だったかな、と滝田は思う。機能的磁気共鳴画像装置を
使って睡眠中の視覚野の活動を計測し、パターン認識アルゴリズムを使
って夢に現れる物体を高い精度で解読することに成功した。あれからも
う七十年近く経つのか。
「へえ、それは初耳だ。しかしそれをどうやって取り出すのですか?」
「脳の視覚野の情報を、コンピュータで処理して映像にしているのです」
「そんなことができるんですか。それは、なんとも……」
 いんちきくさいですな、という言葉が出そうになるのを押しとどめた
かのような高梨の口元を、滝田は表情を変えずに見つめた。
「二〇五八年にはアメリカが、その翌年にはドイツが、夢見装置を発表
したんですよ。大ニュースになったんですけど、覚えていません?」
「いやはや、私が夢見装置のことを知ったのは、ほんの二ヵ月前なんで
すよ」
 おそらくはあの患者の夢を見たいと考えついたのは、高梨ではなく担
当の精神神経科医だろう。夢見装置に最初に着目したのもその人物に違
いない。
 滝田はうっとりとした口調で言う。
「二十一世紀は科学の世紀だと言われ、科学者や技術者達は猛烈に頑張
りました。自動車は電気で走るようになり、空には宇宙ステーションが
浮かび、他人の夢をのぞき見する装置が誕生しました。素晴らしいこと
です」
「二〇六〇年には動物も夢を見ることが、早くも実証されましたわ。夢
見装置が現れてから、いろいろなことが分かりました。国がまったく違
っても夢には共通の要素があることとか、悪夢の構造、正夢の可能性、
色つきの夢に白黒の夢……、この装置は睡眠研究者にも心理学者にも、
まさに夢の装置ですよ」
 ドアが開いて、藤崎青年が四角い盆に人数分のコーヒーと灰皿をのせ
て入ってきた。
「どこまで進みました?」と青年が聞く。
「まだ猫の夢を見せただけだよ」
 滝田はさっそく胸ポケットから煙草を取り出す。
「人間の夢を見せてあげればいいのに」
「それもそうだな。まずそっちが先か」
「睡眠障害者の夢を見たいですな」
 高梨は青年から受け取ったコーヒーを一口すすった。
「ええ、そうですね。それではレム睡眠行動障害の患者の夢をお見せし
ましょう」
 滝田は棚からさらに一枚のディスクを抜き、セットした。
 真っ黒な画面を早送りすると、ふいに白と黒の点が乱れ飛ぶ砂嵐のよ
うな画面が現れ、徐々にものの形をとり始めた。
 それは、両側を田んぼに囲まれた、一本の道だった。向こう側から一
人の女性が歩いてくる。紺の和服を着たその女は、接近すると微笑んで
軽く会釈をした。しかしそこから妙な具合になる。彼女はしばらくこち
らをじっと見ていたが、その表情は次第に困惑の度合いを増していき、
やがて突然怒り出した。何と言っているのかは分からない。
「音は聞こえないんですか」と高梨が問う。
「はい。今のところ視覚情報だけしか得られないんですよ」滝田はビデ
オを一時停止した。「しかし夢を見ている人がなんと言っているかは分か
ります。『きさま、よくも俺を裏切ったな』と言っているんですよ。患者
はレム睡眠行動障害だから、この場面で実際にそういう寝言を言ってい
るんです」
「なるほど、この女性と口論しているわけですね」
 高梨はうなずく。
「この後すぐに起こし、どんな夢を見ていたか聞きました。道を歩いて
いるとばったり妻と出くわした。彼は奥さんの浮気を責め、けんかにな
ったのだそうです。この男性は離婚しています」
 滝田は一時停止を解除した。
 女性との口論のシーンはほんの五秒ほど続き、画面は急に暗くなった。
「おや?」と高梨がつぶやく。
「夢が終わったんです」
 ビデオには編集をほどこしていて、一瞬ちらついてすぐにまた明るく
なった。
 今度はどこかの家の室内だ。乱雑に散らかった部屋は、書斎か何かの
ようだ。畳の上に本がたくさん散らばっている。画面の両端から患者の
ものであるらしい腕がのびて、一冊一冊を拾い上げて、開いて、また床
に放り出す、ということを繰り返している。不思議なことにどの本のど
のページも真っ白である。
「患者はこの時実際に何かを拾い上げる動作を繰り返しながら、『おかし
いな、ないぞ』というような言葉を発し、隣の部屋を歩き回っていまし
た」
 滝田は窓ガラスを指差す。
 その光景は十秒ほどで終わり、またしても画面は暗くなった。
「浮気の証拠の写真を探したが、見つからなかったのだそうです」
 そしてまた息をふきかえすように明るくなり、今度はどこかのレスト
ランのような風景を映し出した。テーブルをはさんで青のスーツを着た
若い男が座っており、卓の上には二人分のランチとステーキがのってい
る。青年は微笑みながら口を動かしている。
「患者はこの時ベッドに腰掛け、『お前も立派になったなあ』というよう
なことをつぶやいていました。この青年は患者の息子で、二年前に交通
事故で亡くなったそうです。一人暮しをしている息子と久しぶりに会っ
たのでいっしょに食事をしたと言っていました」
 今度もまた、その風景は短い時間で終わった。画面が急速に暗くなる。
「これで終わりです」滝田はビデオを止めた。「この時被験者が見た夢は
この三回です」
 高梨は滝田の言葉を聞きながらも、あまりのことにしばし呆然として
いた。
「実に興味深い。ところで睡眠障害とこの夢との関係は、明らかになっ
たんですか?」
「いいえ、さっぱり。全くどこにでもあるような、普通の夢です。何か
へんてこりんな夢でも見てくれればいいんですがね。なかなか思うよう
になりません。そのかわり、夢の内容とレム睡眠行動障害の行動が、ぴ
たりと一致していることは分かりましたよ」




#538/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:38  (190)
眠れ、そして夢見よ 2−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/03 00:11 修正 第2版
   夢を見る


   一

 三日後、滝田睡眠研究所の玄関の前に救急車が止まった。その中から
救急救命士達が下りてくる。助手席のドアが開いて高梨が姿を現す。
「さあさあ、こちらです」
 待ち受けていた滝田が彼らを誘導する。担架に縛り付けられた痩せこ
けた男が運び込まれる。
「家族には治療方針を決定するために一旦他の病院に移して検査すると
説明してあります」高梨が滝田にささやく。「本当に危険はないのでしょ
うね?」
「夢見装置は被験者の頭から出力される情報を得て、観測するというだ
けのものですよ。何かを脳の中に入力するわけじゃない。いたって安全
ですよ。それに比べれば体の中にX線を入射するレントゲンの方がよっ
ぽど危険ですよ」
 慎重に階段をのぼっていく救急救命士達の表情は、エレベーターもつ
いていないことに辟易しているようだ。
「こっちです」
 藤崎青年が観察室の薄桃色の分厚い扉を開けると、みんなゆっくりと
入っていく。患者を抱え、「せーの」と言ってベッドの上に移した。
 男の様子は異様だった。痩せこけ、髪は八割がた白髪になっている。
目はおちくぼみ、パジャマから出ている手足はまるでミイラのようだ。
「それじゃあ、滝田先生、お願いします」
 高梨は軽く礼をした。
 日に三度、医師が診にくることと、何かあったら小暮総合病院に連絡
するようにということを告げると、彼らはひきあげていった。
 寄付金とひきかえにこの患者の状態を調べること、論文のネタを高梨
に提供することは、もう青年と美智子にも言ってある。汚い仕事だが、
なぜ滝田が引き受けたのかといえば、それは患者の病態に興味をひかれ
たからである。なにしろ夢の中で過去の人物になるのだ。意義あるもの
に違いない。
「さてと、どうしますか」
 滝田は両手を握り合わせた。
「この人……倉田さんでしたっけ? ものすごい怪力で暴れ回ったって
言ってたじゃないですか」美智子は心配そうに眉をひそめる。「ベッドに
しばりつけておいた方がいいんじゃないかしら」
「いや、そう神経質になることもないだろう。もしも何か起こったら、
その時にそういうふうにすればいい」
 滝田はあごをさすりながら答えた。
 患者の顔は、安らかな眠りに落ちているとは言いがたかった。むしろ
苦痛にあえいでいるかのような表情だ。その額にも、ほほにも、深いし
わが刻まれ、くちびるは乾いてひびわれ、とうてい三十代には見えない
のだ。眼球は頭蓋骨の二つの穴に落ちこんでしまっているかのようだっ
た。


   二

 一時間後には患者の頭はそられ、ヘルメットをかぶせられていた。高
梨の話ではレム睡眠行動障害の状態を示すのは一ヵ月に一度程度という
ことだったが、夢自体は毎日見るだろう。ただし信号が微弱すぎる場合
は解読できないため、夢を観測できる機会は毎日というわけにはいかな
い。
 ディスプレイに次々と描き出される脳波を、美智子は見つめている。
こうして何か起こらないかと待ち続けるのは、実に退屈な作業である反
面、ずっと緊張を強いられるものでもある。美智子も青年も、患者のさ
さいな変化も見逃すまいと、ひたすらパソコンのモニターをにらみつけ
ている。そして頻繁に立ち上がっては、窓から患者の様子をうかがうの
だ。美智子が見下ろすその先には、まさにミイラという形容詞が似合い
そうな、倉田恭介が長い眠りについている。その横では点滴が、患者の
生命を維持するために、静かに薬液を送り続けている。患者の様子を見
ていると、かわいそうと思う反面、鳥肌がたってくる。
 そうして二時間ほどたっただろうか。
「疲れたわね。コーヒー飲む?」
 そう言って美智子が立ち上がりかけたその時……。
「あっ!」
 青年が短い声をあげた。
 モニターのうちの一台に変化が起こった。中央に白い十字マークが静
止していたのが、急に左右に動き出したのだ。
「眼球運動だわ」
 アイマスクに仕込まれたセンサーが男の目の動きを感知する。
「常盤さん、脳波はどうです?」
 美智子は慌ててディスプレイに目を落とす。
「レム睡眠よ。夢を見るかも」
 人の眠りには二種類ある。レム睡眠とノンレム睡眠である。レム睡眠
は脳が活性化された状態にあり、ノンレム睡眠は脳が休息した状態にあ
る。レム睡眠ではその名前の由来である急速眼球運動(REM:Rapid Eye
Movement)が起こり、この時に夢を見る。人は眠っている時にレム睡眠
とノンレム睡眠を交互に繰り返す。ノンレム睡眠時にも夢は見るが、あ
いまいでぼんやりしているので夢見装置で捕えられない。
 青年が大型モニターに向かうのに続けて、美智子もその黒い画面の前
に立った。
「あっ、今光ったわ」
 画面の中央にぼうっとした光の点が現れてすぐに消えた。二人が見て
いる前で、ずいぶんと間があって、今度は二度またたいた。
「来ますよ」
 青年の言葉が合図ででもあったかのように、画面が薄っすらと明るく
なってきた。白黒の、何千もの光の点が入り乱れ始めた。美智子はくい
いるように見つめる。
 画像は徐々に、ものの形を現してきた。ぼんやりとした風景、何か、
黄土色の岩のようなものがごろごろしている。大きさはまちまちだが、
どれもきれいな四角形である。あきらかに自然のものではない。その向
こうに、大きな石像らしきものが映っている。なにか、虎のような、ラ
イオンのような像、その左横に、大きくぼやけてはいるが、わずかに三
角形と分かるものがある。
「あっ」
 しかし、その映像は、長い時間待ってやっと現れたのに、あっという
間に消えてしまった。画面は元通りの暗闇に戻った。
「撮れた? どのくらい?」
 美智子は青年に顔を寄せて尋ねる。
「二秒ですね」
「たったそれだけ?」
 美智子は腕組みして考えた。
「どこかで見たことがある風景なんだけど」両手の指を胸の前で組み合
わせる。「どこだったかしら」
「あのライオンのような体は、たしかにどっかで見たような気がします
ね。あまりはっきりと映っていませんでしたけど」
「巻き戻してみてよ」
 青年がリモコンを操作し、映像を少し戻すと、再びあの、うすぼんや
りとした石像が映し出される。もっとはっきりしていれば簡単に思い出
せそうなのだが、なかなか思い出すことができない。それでも美智子は
じっと考え込んだ。
「そうだわ!」
 いきなり大声を出したものだから、青年がびっくりする。
「ちょ、ちょっと、常盤さん」
 青年が止める声も耳に入らず、美智子は部屋を飛び出していった。


   三

「見て下さい」
 翌日、出勤してきた滝田に、いきなり美智子が飛びついてきた。
「ああ?」
 滝田はまだ眠い目をなんとか見開いて、彼女が差し出した「神秘の王
国」という名の、科学雑誌らしきものを見つめた。
「昨日の夢ですよ。やっと見つけたんです」
 滝田は少しばかり思考が混乱したが、すぐに彼女が何のことを言って
いるのか分かった。
「ああ、昨日倉田さんが見た夢のことね。で、何が分かったって?」
「見て下さい。これです」
 ぼんやりとした視点が、彼女が開いたページの上をさまよう。昨日遅
くまで学術誌を読みふけっていたことからくる眠気が、一気にふっとん
だ。
「これは」
 滝田も昨日青年から話を聞いていたし、ビデオも見ていた。しかしそ
のぼやけた映像が何なのか、結局分からなかったのだ。
 そこにあったのはエジプトのギザの、スフィンクスとピラミッドの写
真だった。
「なるほど」滝田はつぶやく。「これか」
「おはようございます」
 室内に元気のいい声が響いた。どうやら藤崎青年は昨夜十分な睡眠が
とれたようだ。
「おや、何です?」
 青年が興味を示して二人が見入っている本をのぞきこむ。
「これは」青年は目を見開いた。「これか」
 何言ってんのよ、というような目で青年を見つめる美智子とは対照的
に、滝田は両手をもみ合わせながら、「さあ、忙しくなるぞ」と言った。
 しかしいったい何が忙しくなるのか、言った本人にも分からなかった。
やることといえば、相変わらず倉田氏が夢を見るのを待ち続けるだけな
のだ。
「これってやっぱり、倉田さんが今古代エジプト人になっているらしい
ことと、関係があるのかしら」
 美智子は小首をかしげた。
「大ありですよ」青年が興奮した声を出す。「これは倉田氏が古代エジプ
ト人になっているという、立派な証拠ですよ。彼は夢の中で、古代エジ
プトをさまよい歩いてるんですよ」
 滝田は口をすぼめた。
「まあ、そんな大げさなもんじゃないけどね。スフィンクスの夢くらい
だったら、誰だって見るだろう? でもまあ、次に倉田さんが起きだし
た時に、はっきりするんじゃないかな。高梨先生の話だけじゃ、分から
ないからね」
 それにしても不思議だと、滝田は思う。夢というのは、その都度ころ
ころと内容が違うものだ。しかし倉田氏が、例えば御見葉蔵氏にある一
定期間変化し続けるためには、その間ずっと御見氏の夢を見続けなけれ
ばならないことになる。そんなことが可能だろうか。
 無論、そういうことができる人々がいることは滝田も知っている。明
晰夢を見る人がそうだ。夢の中で自由自在に行動でき、好きなように夢
の内容をコントロールできるという、そういう人だ。現実の世界ではで
きないあらゆることが、夢の中だったらできるのだ。絶世の美女と食事
をするのも、社長になって人をこき使うのも、思いのままだ。その人に
とっては、夢は抽象的なつかみどころのないものではなく、現実世界と
は独立して、はっきりと存在するもう一つの世界なのである。
 明晰夢が一般的に知られ始めたのは一九六〇年代だが、現在に至るま
で睡眠研究のテーマとしてちょくちょく顔を出してきた。倉田氏もまた、
明晰夢を見る能力を持っているのだろうか? しかも全くの他人の人生
と寸分違わぬ夢を?
「常盤君」
「はい」
 美智子は何かを期待するような、にこやかな顔をした。
「コーヒーくれる?」
 美智子が不機嫌な表情をして向こうへ行くのを、滝田は遠くを見つめ
るような目つきでながめた。
 岩は四角形だった、と滝田は思う。全体的にぼやけた映像だったが、
手前に転がっている岩はかろうじて見えた。きれいな直方体だ。
 もしも、現在のスフィンクスであるならば、その手前に転がっている
岩は、元は四角形だったとしても、風化してもっと崩れているはずだ。
 いずれにせよ、今の段階ではあまりにも情報不足だ。倉田氏が次の夢
を見るまで、忍耐強く待つしかない。




#539/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:40  (266)
眠れ、そして夢見よ 2−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:11 修正 第3版
   四

 土曜日、美智子はバス停に降り立つと、大きく深呼吸した。なんと清々
しい空気だろう。平日は人が大量にいて、どうもいけない。それが、休
日になるとこれほど人がいないものだとは。都会とはいえ、親父達の煙
草の煙や、刺々しい喧騒、舌打ちの音や咳払い、そういったものがある
のとないのとでは、空気のうまさが段違いだ。
 休日、それは美智子のように研究、研究で精神をすり減らす人間には、
とても重要な日である。土曜日にはクラシックを聴きながら読書をする
ことで精神を回復する。日曜日にはスポーツクラブに行ってストレスを
発散する。もっとも、本当はスポーツが苦手なので、エアロバイクしか
やらない。エアロビック・ダンスは嫌いだ。「はい、ワン・ツー、ワン・
ツー」という声に合わせて、脂肪を少しでも排出しようと体をねじるお
ばさん達を見ていると、嫌悪感で胸がむかつく。あの中に混じろうとは
思わない。だからひたすらに、床に固定された自転車をこぐ。ペダルを
がむしゃらに回す。
 別に誰から出てこいと言われたわけでもない。そんな休日を犠牲にし
てまで研究所に来てしまったのは、やはり倉田氏の状態が気になるから
である。
「あれ? 常盤さん?」
 振り向くと、そこに藤崎青年が立っていた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「おはよ」
 青年は笑顔だったが、睡眠不足からくる疲れが、目の下のくまとなっ
て現れているようだ。本当は土日の患者の観察は青年に任せて、美智子
は家で寝ていればよいはずだった。
 休日に出てくるというのは、普段出勤してくるのとは少し違った気分
だ。なんとなく生真面目に研究に没頭する気になれない、きっと何もな
いのに、何かありそうな、少し浮かれた気分だ。
 美智子はこのまま研究所の玄関をくぐるのは、もったいないような気
がしてきた。腕時計を見る。休日出勤の勤務時間帯は決まっていないが、
藤崎青年の業務開始時刻は定められている。まだ少々余裕があるようだ。
「少し、歩かない?」
 青年は、へ? というような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「ええ、いいですよ」
 美智子が歩き出すと、青年が慌てて追いついてきて横に並んだ。
 まだ朝早いせいか空は薄暗く、灰色の雲がおおっている。
 立ち並ぶ高層ビル郡は、いつもの活気をすっかりひそめて、巨大な墓
石のように突っ立っている。通りを行き交う車の数も、歩道の人数も、
平日に比べると格段に少ない。
 美智子が何もしゃべらないので、青年は何と話しかけてよいものかと
気遣っているらしく、時々美智子の方を見る。
「常盤さんって休みの日は何をしてるんですか?」
 歩き出してから一つめの信号が赤に変わった時、青年はようやく口を
開いた。
「あら、お見合い?」
 青年は快活に笑った。そして少しばつが悪そうな顔をする。
「藤崎君、大変ね。ちゃんと寝てる?」
「まあ仕事が仕事ですからね。でも大丈夫ですよ。体力だけが取り柄で
すから」
 美智子も徹夜はするが、青年は人一倍頑張っている。
「そう」
 再び会話がとぎれる。美智子は、珍しいわ、などと考える。つまり、
自分がこんなことをしているのが。
「読書」
「え?」
「読書よ。そこ曲がりましょ」
 通りを右に折れて、細い道に入ると、両側に植込みが並んでいる。し
ばらく歩くと、植込みが切れて、都会の中のほんの憩いの場とでもいう
ような、小さな公園がある。すべり台と、ベンチと、うさぎやライオン
の頭の形をした石の像が、ささやかながら置かれている。美智子はここ
で子供達が遊んでいる姿を見たことがない。
 何も言わずにベンチに腰掛けると、青年は遠慮がちに少しだけ離れて
座った。
「でも休みの日まで本を読んでいたら頭が疲れませんか」
「あら、頭を休めるために読書するのよ」
「はあ、そうですか。でも、体を動かした方がいいですよ。山にでも登
れば、気分がすかっとしますよ」
 スポーツクラブに行っているわよ、と言いたいところだが、秘密にし
ておく。まさか三十分だけエアロバイクをこいで帰っています、とは言
えない。エアロビを踊っているのを想像されるのも不愉快だ。
「どんな本を読むんですか?」
「そうね。遺伝子とか、ブラックホールとか、そういうの」
 青年の笑顔がひん曲がった。
「もっと、普通の本は読まないんですか」
「あら、普通の本だと思うけど」
 青年がようやく明るくなってきた空を見上げる。
「うーん、でもそのくらい勉強しないと、常盤さんみたいな天才にはな
れないんでしょうね」
「あら、藤崎君だって頭いいから、今の研究所にいるんじゃない」
「いえいえ、月とスッポンですよ」
 美智子は天才だと言われても、それを否定しない。それをやるとかえ
って嫌味になる。下を向き、じっと考え込む。そして顔を上げ、遠くを
みつめる。
「天才ってね、あまりいいもんじゃないわよ」
 青年が眉根を寄せる。
「なんだか氷の中にいるみたい。氷の壁に囲まれて、その中から出られ
ないの。そしてその壁は、だんだんと、私に向かって迫ってくるのよ」
「疲れてるんですよ。やっぱり頭を休ませなきゃ」
「知ってる? 論理的な思考ばかりして左脳だけ発達すると、右脳が発
達しなくて、人を愛することができないんだって」
 何かのつまらない本に書いてあった馬鹿げた迷信だ。愛の正体は扁桃
体にあるのではないかとも言われている。それは脳の両側にある。
「常盤さんは人を愛せないんですか?」
 美智子は困った。何でこんなこと言っちゃったんだろう、と後悔する。
「そうね、どうかしら」
 美智子は、自分でもびっくりするくらい乱暴に髪をかきあげた。
「天才っていうのは、何かを創り出すことができる人のことよ。勉強ば
かりできる人間はただの真面目な人だわ」
 自分は夢見装置の主要な開発メンバーとして活躍した滝田にどこか嫉
妬のような念を抱いている、と彼女は感じていた。
 青年はうつむいたまま、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「今度、山に行きませんか」
 青年は照れたのか、慌てて付け足す。
「滝田先生と一緒に」


   五

「何も映りませんねえ」
「同じこと何度も言わないの。はい、コーヒー」
 青年にコーヒーカップを渡すと、美智子は窓に近寄って倉田氏を見下
ろした。もう何度こうして、昏々と眠り続ける倉田氏の様子をながめた
ことだろう。今日も朝十時頃医者が来て、点滴を取り替えていった。そ
れ以来全く何の変化もなく、寝返りさえうたず、苦しげな表情のまま眠
り続けている。
「それじゃ、私また自分の部屋にいるから。もう一時間くらいしたら、
交代しましょ」
 そう言って部屋を出ようとした時、青年が大声を出した。
「常盤さん」
 大型モニターの前に駆け寄ると、そこに例の砂嵐のような画面が現れ
ていた。
 美智子は青年が唾を飲み込む音を聞いた。
 画面は徐々に、青と黄土色の色彩を現してきた。
「これは」
「ピラミッドよ」
 今度は、前のようなぼやけた映像ではなかった。はっきりと、三角形
の王の墓が姿を現していた。それは普通ピラミッドという言葉から連想
するきれいな四角錐とは少し違っていて、一つの段が大きく階段のよう
だ。青色の部分はその背景にある空だった。手前には石垣のようなもの
が左右に広がっている。
 そのピラミッドが、右へ行ったり、左へ行ったりしている。
「辺りをながめ回しているみたいね」
 やがてそれは、画面の中央に来て止まった。倉田氏、あるいは倉田氏
に乗り移っている何者かは、その王の墓に見とれているようだった。
 画面は明るくなったり、暗くなったりを繰り返し始めた。
「消えます」
 青年の言う通り、画面は黒くなっていき、そして消えた。
「何秒?」
「十秒です」
 美智子は腕組みして、仁王立ちになって考え込んだ。そして脱兎のご
とく駆けだした。
「常盤さん?」
 しばらくして部屋に戻ってきた美智子が両手に大量の本を抱えている
のを見て、青年は驚いたようだった。
「何です?」
 美智子は大きな音をたててテーブルの上に本を置いた。それは全部エ
ジプト関係の書籍だった。
「いつの間に、こんなに」
「探して」
 青年はきょとんとした顔をした。
「探すのよ。今の映像が、何なのか」
 美智子が猛烈な勢いでページをめくり始めるのを見て、青年はあっけ
にとられたように立ちすくんでいた。
「さあさあ、藤崎君、頑張りましょ」
 青年も本を手にとってめくりだす。
 黙々と作業を進めるうちに、テーブルの上いっぱいに本が散らばって
きた。
「あったわ」
 青年が身を乗り出して美智子が開いているページをのぞきこむ。
「これよ。ジェセル王のピラミッド」
 それは、段々の部分が崩れかけた、溶けかかったアイスクリームのよ
うな写真だった。
「たしかに、これの大昔の姿を想像すると、さっきの映像と一致しそう
ですね」
 美智子は別の一冊を手にとって開いた。アフリカの北東部、古代エジ
プトの地図である。紅海の横に、ナイル川が走っている。ナイル川に沿
って、テーベやテル・アル=アマルナやメイドゥムといった地名が並ん
でいる。アフリカ大陸がシナイ半島につながる付近で、ナイル川が何本
にも枝分かれして地中海に流れこんでいる。美智子はその分岐が始まる
根元のあたりを指差した。
「この間のスフィンクスがギザ、ジェセル王の階段ピラミッドがサッカ
ラにあるから、彼はこのあたりにいることになるわね」
 それにしても、なぜこんな所にいるのかしら、と美智子は思う。ギザ
とサッカラといえば古代エジプトでは非常に重要な地域である。ギザの
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとスフィンクス
は有名だし、サッカラにも多くのファラオ――つまり古代エジプトの王
のピラミッドや、聖牛アピスの地下墳墓等がある。
 ひょっとすると、彼もまたファラオなのかもしれない。もっとも、た
だの農民なのかもしれないが。
 まだまったく謎のままだが、一歩前進したことは確かだ。


   六

「九時か」滝田は腕時計をのぞきこんで、ため息をついた。「今日も何も
現れそうにないな」
 ジェセル王のピラミッドが現れてから、二日経つ。スフィンクスが現
れてからは五日目だ。だいたい二、三日くらいの間隔で、はっきりとし
た夢を見るらしい。もちろん、その間は全然夢を見ないというわけでは
ない。小さく光ったり、砂嵐のような画面が現れたりすることはある。
ただ、夢見装置で捕えられるほどはっきりとした夢を見ないというだけ
のことだ。
 滝田は美智子と並んで、窓から患者の様子を見守っていた。
「そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」
 美智子は黙ってうなずいた。
 その時青年が、ささやくような、それでいて緊迫感を帯びた声を出し
た。
「先生、眼球運動です」
 滝田は緊張して振り返った。青年の背後に歩み寄り、のぞきこむと、
モニター上で白い十字マークが上下左右に動き回っていた。
「うん。常盤君、脳波は?」
 美智子は慌てて波形を調べる。
「入りました。レム睡眠です」
 青年が椅子を回転させて、その下についているキャスターをころがし
て部屋の中央にあるモニターの前に行くのに続いて、滝田もその前に立
った。美智子も後からついてきた。
 画面は真っ黒なまま何の変化もない。
「十秒経過」
 青年が厳かに告げる。滝田は眉をひそめた。ぬか喜びか。
 しかしその時、画面が静かに明るさを増し、砂嵐が走り始めた。
「夢か」
 滝田は尋ねた。
「夢です」
 青年が答える。
 画面の砂嵐は徐々にものの形をとり始めた。
 滝田は唖然とした。それは、今までのようなエジプトの夢ではなかっ
た。どこかの部屋の中の風景だ。壁に沿って冷蔵庫のようなコンピュー
タの箱とパソコンが並んでいる。だんだんと映像が明瞭になるに従って、
滝田はあほうのように口を開いていった。
 中央には大型モニターがあり、床にはいろいろな機器同士を結ぶ配線
が這い回っている。滝田達もいる。間違いない。それは他でもない、こ
の部屋だった。この室内の風景が映し出されているのだ。
「こんな夢は初めてです」
 背後で美智子が驚きの声を漏らすのが聞こえた。
 ジェセル王のピラミッドの時と同じように、彼は部屋を眺め回してい
た。
 突然、彼は歩き出した。ゆっくりとモニターの右横に近づいていく。
 青年が首を横に向けた。滝田も、おそるおそる、彼が立っているはず
の場所を見た。しかしそこには誰もいない。
「常盤君」
「は、はい」
 美智子は窓に駆け寄った。何も言わずひたすら下方を見つめている様
子から、相変わらず倉田氏は眠り続けているのだと分かった。レム睡眠
行動障害は起こっていないのだろう。
 滝田達が立っている方向に移動してきたので慌てて一歩下がった。倉
田氏、あるいは倉田氏に乗り移っている何者かはモニターの真ん前に来
た。
 滝田は目を真ん丸に見開いた。モニター画面の中にモニターが、その
モニター画面の中にモニターが、延々と続いているのだ。
 なにか金属のようなものが、画面の下から上がってきた。スパナだ!
彼はその血管の浮き出た手に、しっかりとレンチを握り締めているのだ
った。それは、列をなして画面のずっと奥の方まで続いた。
 滝田の頭の中に警報が鳴り響く。やめろ。やめてくれ。
 スパナが上方に振り上げられた。
「わあっ」
 滝田は目をつぶった。ひどい音がした。
 ゆっくりと目を開くと、モニターが割れていた。
 滝田は、呆然として突っ立っていた。一体何が起こったのか、どう解
釈すればよいのか、頭が混乱して整理できない。
 ようやく我に返り、窓に駆け寄る。倉田氏は微動だにせず、眠り続け
ていた。ただ、その口元がかすかに笑っているように見えた。
 美智子がPCに駆け寄る。
「常盤君、脳波は?」
「終わりました。ノンレム睡眠に戻りました」
 長いため息が、自然と口から吐き出される。一気に十年も歳をとった
ようだ。
 青年が見つめているのに気づき、額をぬぐうと、冷や汗で濡れていた。
「こりゃ、いったい」
 喉が乾き、干からびた声が出る。
「倉田さんはエジプトにいるんでしょ? どうしてこんな映像が出る
の?」
 美智子は誰にともなく、怒ったように言った。
「分からん。今までのはまだ、不可思議ながらもつじつまが合っていた。
しかし今度のは、まるでおかしい。今ここに実在していたかのようだっ
た。一体彼は、今度は誰になったというんだ?」




#540/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:44  (326)
眠れ、そして夢見よ 3−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:50 修正 第2版
   手がかり


   一

 空には雲が浮いている。今日もいい天気だ。青年は大きなあくびをし
た。不規則な形をした綿菓子たちが、おとなしく佇んでいる。ふと目に
とめた一つの形が、猫の顔に見えてきた。青年は愉快な気持ちになって
きた。他にも何かに似ているものがないかと探しだす。そんなふうにし
て見ていると、なんということもない雲が、羊の群れに見えてくるから
不思議だ。
 低くて太い音に気づいて、後ろを見ると、屋上に通じる扉が開いて美
智子が出てきた。
「おや、どうしたんですか」
 美智子は靴音を立てながら青年に近づいてきた。
「ズボン、汚れるわよ」
「構やしませんよ」
 美智子はハンカチを敷いて、青年の横に座った。手の平をコンクリー
トに当て、空を見上げる。
「私も空でも眺めようかと思ってね」
「こうしてると気が落ち着きますよ。僕はよく昼休みにここに来るんで
すよ」
「三度も聞いたわ」
 美智子が目を細める。えくぼができる。
 コンタクトにすればいいのに、と青年は思う。一度だけ、眼鏡をはず
したところを見たことがある。まだ二十代だと言っても通じそうな、か
わいらしい顔だった。もっとも、そんなことは本人には言わない。言っ
たら大目玉だ。
「気分、あんまり変わらないわ。どこがいいの?」
「空ってほら、絵みたいじゃないですか」
「そうかしら。そんなふうに考えたことないわ」
「小さい頃、親父と散歩してて、それで河原の土手に二人で寝ころがっ
て空を眺めてたんですよ。僕が、空って絵みたいだねって言ったら、や
っぱり親父も、常盤さんと同じこと言いましたよ。そんなふうに思った
ことないなあって」
「すごい。よくそんなこと覚えてるわね」美智子の顔に意地悪そうな笑
みが浮かぶ。「今作ったんじゃないの?」
「いえいえ、本当ですよ。そうかあ。そんなふうに思うの、僕だけなの
かな」
 美智子は空を見上げたまま、黙っている。青年は言葉が続かず、ひざ
を抱えていた手を、彼女の真似をしてコンクリートに当てた。
「積乱雲だわ。雨が降るかも」
「え、どれですか?」
「あれよ、あれ」
 美智子は、周辺のビルの群れの中でも、ひときわ大きいやつを指差し
た。その上に、なるほどたしかに山のように立ち上がっている雲が見え
る。
「あれ、積乱雲ですか? 違うと思うけどなあ」
「なんで?」
「だって、夏の雲でしょ?」
「そんなことないわ。寒冷前線があると、その近くにできるのよ」
「へえ、雲にも詳しいんですね」
「科学者たるもの、いろんなことに興味を持たなくちゃだめよ。もしも
被験者が雲の夢を見たらどうするの?」
 青年は視線を美智子から空へと移した。
「僕はただ何にも考えないで眺めている方が好きだなあ。積乱雲とか、
そういうのはどうでもいいんですよ。ああ、綿菓子みたいだな、とかね。
きれいだなあ、とか。常盤さんはそういうふうには感じないんですか」
 怒ったかな? と思い、再び視線を美智子に移すと、意外にも彼女は
少し悲しそうな顔をしてうつむいていた。
 青年の心に、なぜだか彼女が言った「氷の中にいるみたい」という言
葉がよみがえった。
 彼女がいきなり立ちあがったので青年は驚いた。
「雨が降るかもしれないわ。藤崎君も早く中に入った方がいいわよ」
 青年は、足早に歩み去っていく彼女の姿を、呆然と見送った。積乱雲
を見ると、わずかにこちらに移動してきたように感じた。


   二

 呼び鈴を押す。応答がない。もう一度押す。滝田は靴のつま先で地面
を叩き始める。
「はーい」
 間延びした女の声が聞こえる。しばらくして、やっとドアが開いた。
髪の乱れたおばさんの顔が、扉の間からのぞいた。
 滝田は慌てて職業的な笑みを浮かべた。
「すみません。私、小暮総合病院の斎藤先生の紹介で来た、滝田という
者ですが」
 倉田恭介の担当医の名を出し、名刺を渡す。その名刺には「滝田国際
睡眠障害専門病院 院長 滝田健三」というでたらめが刷ってある。
「まあ」
 倉田恭介の妻、倉田芳子は甲高い声を出した。
「まあまあ、主人の……。そうですか。よくいらっしゃいました。さあ、
どうぞ」
 靴をぬぐ間も、そうですか、私もう心配で心配で、などと黒板を爪で
ひっかくような声でしゃべり続ける。いらいらする。
 おばちゃんというのは、大別して二種類いるように思う。甲高い声の
おばちゃんと、だみ声のおばちゃんだ。他の種類のおばちゃんはあまり
見たことがない。どうしてだろう。
 彼女は五十代に入っているように見える。歳の離れた女房だろうか。
髪は長く、目は大きく、どちらかというと色白で、昔は美しかったのだ
ろうにと思わせる顔立ちだ。
 彼女の後について歩きながら、奇妙な症状を示し続ける患者の家をつ
ぶさに観察する。歩くときしむような音が鳴る廊下の奥には二階へと続
く階段がある。両側には薄く黄ばんだふすまがある。築年数は十年、い
や、二十年くらいだろうか。なんということはない。普通の家だ。
 倉田の妻はふすまのうちの一枚を開け、さあさあ、どうぞと滝田をい
ざなう。六畳の和室だ。
「汚い所ですが。そうですか、まあ」
 座布団の上にあぐらをかく。
「今お茶をお持ちしますので」
「いや、お構いなく」
 一人になった滝田は、部屋の中を眺め回す。液晶パネルの、ディスク
再生装置と一体型のテレビはほこりも拭かれていない。髪を銀色に染め
たアイドルの女の子が微笑んでいるカレンダーは倉田恭介の趣味だろう
か。エアコンは元々真っ白だっただろうが今は黄味がかっている。そん
なごく平凡な物達に囲まれながら、つまらない一市民としての暮らしを
営んでいたはずの倉田氏が、なぜ突然にあんなふうになったのか。
 家族の話を聞けば何か分かるかもしれないと思うのは、浅はかだろう
か。それでも、何でもいいから手がかりがほしいのだ。
「まあまあ、わざわざご足労頂いて、すみませんねえ」
 耳障りな声を発しながら、おばさんが戻ってきた。
「私、ご主人が入院している病院から依頼されたのですが、やはりご本
人がああいう状態ですから、原因が分かりません。そこで、ご家族の話
をうかがいたいと思いまして。突然訪問して申し訳ありません」
「いえいえ、まあまあ、よく来て下さいました」
 出されたお茶を一口すする。熱いな、と心の中で舌打ちする。
 その時威勢良くふすまが開いて、男の子が駆け込んできた。
「お母さん、おやつ」
「もう、今お客さんが来てるんだから、あっちに行ってなさい。冷蔵庫
にプリンがあるから、それでも食べてなさい」
 子供は来た時と同じ勢いで走っていった。騒々しい家だなあ、と滝田
は思う。
「小暮病院でいいかと思ってたら、検査のために他の病院に移すってい
うでしょ? 私もうびっくりしちゃって。何にも手につかなくて、夜も
眠れないんですよ」
 そうは見えませんが、と言いたいのをこらえる。
「それで、どうなんですか? かなり悪いんですか? あの人が死んじ
ゃったらどうしようと、そればかり気がかりで」
「いえいえ、大丈夫ですよ。死にはしません」
 まさか死ぬことはないだろうと考えていた。だが、彼が重態なのかど
うかも知らない。ただ、痩せさらばえていることは確かだ。このままだ
と栄養失調で亡くなるかもしれない。そうなっては滝田も困る。結局何
も分からないまま調査が終了してしまうのは避けなければ。
「でも院長先生がじきじきに出向いて下さるということは、かなりの重
病じゃないんでしょうか」
 院長はまずかったかな、と滝田は思う。しかし、相手を信用させるに
はそれくらいした方がいいのだ。人間というのは権威に弱いものだ。例
えば同じ発見を有名な学者がしたのと、町にどこにでもいそうな高校教
師がしたのとでは、学者の方が信用されるに決まっている。
「いえいえ、そんなことはありません。脳に異常が見つかっているわけ
でもありません。ただ、眠り続ける原因が分からないんですよ」
「まあ」
 倉田芳子の眉が八の字になった。
「心配することはありませんよ」
「小暮病院でもいろいろ聞かれたんですよ。普段どんな生活をしている
かとか、お酒はどのくらい飲むかとか、寝るのは何時くらいかとか」
「ええ。それはうちの方でも聞いています」寝るのは何時かしか聞いて
いないが、調子を合わせる。「今日うかがったのは、そういった医者が聞
くような通り一遍のことではなくて、もっと突っ込んだことを聞くため
なんですよ」
「と、おっしゃいますと」
 滝田は身を乗り出し、倉田芳子の瞳をみつめる。
「何か、秘密にしていることがあるんじゃないですか? 医者にも言っ
てないような」
 無論、そんなことは分からない。しかしそれで何か情報が引き出せれ
ばもうけものだ。
 倉田芳子は急に下を向いて考え込み始めた。
「大丈夫ですよ。秘密は厳守します」
 だいぶ迷っていたようだが、やがてしおらしく言った。
「実は、主人は新興宗教にかぶれてまして」
「宗教ですって?」
「言ってましたわ。会社がつぶれるかもしれないって」手の甲で目頭を
おさえる。「自分はクビになるかもしれないって、そう言ってました」
 鼻をすすり上げ始めた。近くのティッシュペーパーの箱から一枚引っ
張り出し、鼻をかんだ。
「ずいぶん悩んでたみたいです。それで宗教にすがったんです。私、や
めろやめろって、何度も言ったんですよ。あんなわけの分からないもの
に入れこむから、たたったんだわ」
「で、その新興宗教というのは何て名前ですか。どこにあるんです?」


   三

 高梨の話には嘘があった。たしか、精神的には何の問題もないと言っ
ていたはずだ。そうではなかった。悩みがあったのだ。
 滝田はそこだけ他の建物のようには道に面しておらず、遠慮がちに引
っ込んだ所に建っている小さなビルの正面玄関の前に立っていた。縦に
トーテムポールのように並んでいる看板を見上げる。「二階 和田幸福研
究所」とある。同じ研究所でも滝田のそれとはだいぶ趣が異なる。中に
入り、小さなエレベーターに乗る。四人も乗れば窮屈に感じられるほど
の狭さだ。降りると、廊下をはさんで正面に銀の枠で囲まれたガラス製
の、観音開きのドアがあった。案内は出ていないが、他に扉がないので
それが和田幸福研究所だろう。
 少し躊躇したが、意を決して中に踏み込んだ。左側に、町の小さな病
院のそれに似た受付がある。誰もいなかったが、「すみません」と声をか
けると黄色いセーターを着た目鼻立ちの整った女性が現れた。
「あの、和田先生に面会を申し込みたいんですが」
「会員証をお持ちですか」
「いえ、私、会員ではないんですが、和田先生とちょっとお話ししたい
ことがありまして」
 女性の顔が怪訝そうな表情に変わる。
「先生は会員ではない方とはお会いしません」
「倉田恭介さんのことについてお話を聞かせていただければと思いまし
て」
 女性がパソコンを操作するのをみつめる。
「こちらの加入者の方ですね。しかしプライバシーをお教えすることは
できません」
 困ったな、と思ったが、このまま帰るわけにはいかない。一か八かだ。
「では、御見葉蔵さんについてお話ししたいのですが」
 女性が滝田をにらみつける。ビンゴだ。
「少々お待ち下さい」
 立ち上がって、姿を消した。そのまま戻ってこない。滝田は靴先を鳴
らし始めた。
 五分近く待たされて、ようやく戻ってきた。
「お会いになるそうです。正面のドアからお入り下さい」
 軽く礼をしてこげ茶色の扉を開けると、そこにまた別の女性が立って
いる。他には誰の姿もない。この女が“先生”なのだろうかと思ってい
ると「どうぞこちらへ」と言って滝田を案内する。「第二応接室」という
札がかかった別の部屋のドアを開け、「先生、お客様です」と中の人物に
告げ、滝田に向かって丁寧におじぎをする。
 中から、「どうぞ、入って下さい」という声がした。入っていくと、ゆ
ったりとしたソファに腰掛けていた男が立ち上がった。ポマードで髪を
オールバックにした、初老の男だ。
「あ、どうも今日は。私こういう者なんですが」
 滝田は倉田の妻に渡したのと同じ名刺を男に手渡した。男は目を細め
てしげしげとながめた。
「ほう、病院の院長先生ですか」男はにこやかな笑みを浮かべた。「私は
ここの所長の和田です。で、今日はどんなご用ですか」
 手の平で男の向かい側のソファを指して、ゆっくりと腰掛ける。滝田
も座った。
「実は、うちの患者に倉田恭介さんという方がいるのですが、その人に
ついてお聞きしたいことがありまして」
「ええ、聞きました。こちらに来られていた人ですね」
「そうです。その方が今実に不可解な病気にかかっておりまして。お聞
きになっていませんよねえ」
「いや、奥さんの方からうかがっていますよ。なんでも昏睡状態と夢遊
病がいっしょになった病気だとか」
 夢遊病とレム睡眠行動障害とは別物なのだが。
「奥さんもこちらに来たんですか」
「ええ、すごい剣幕でしたよ。あなた達が主人をおかしくしたんだって、
そんなことを言うんですよ。まったく、困ったことです」
 滝田はいつも話の核心にふれる時にそうするように、相手の瞳をしば
らくみつめた。
「実を言いますとね、私も、こちらの研究所が倉田さんに何かしたんじ
ゃないかと思っているんですよ」
 和田は柔和な表情をくずさず、少し首を横に傾けた。
「おやおや、奥さんはともかく、病院の偉い先生までそんなことをおっ
しゃる。私達が何をしたのでしょうか」
 倉田芳子の話を聞いた時に直感した。新興宗教といえば……
「洗脳ですよ。あなた達は、例えば倉田さんに、誰か別の人間だと思わ
せるように、思想を改造したんじゃないですか」
 和田は狐につままれたような顔をした。
「ああ、奥さんから聞いたんですね。我々が宗教団体だって」
「違うんですか?」
「私達は、人間が幸福になる方法を研究しているんですよ。しかし宗教
団体ではありません。あなたは、私達が倉田さんを別の人間にしたと言
うが、そんなことが簡単にできるんでしょうか? いったいどうやって。
何のために」
 滝田は困った。洗脳の結果、あんなふうになったのだとすれば、無理
にこじつければ何とか説明がつく。倉田氏が詳細を語ったのは御見葉蔵
氏の人生だけだ。あとの二人はあいまいだ。この研究所がなんらかの方
法で御見氏についての情報を得ていて、その人格を倉田氏に植え付けた
のだとすれば、少なくとも御見氏についての謎は解決する。しかし、洗
脳ではないと言い張られては、どうしたらいいのだろう。たしかに、人
間を全くの他人だと思わせるのは、そんなに簡単にできそうもない。一
つのキーワードが浮かんだ。
「催眠はどうです? あなた達は倉田さんに催眠術をかけたのではない
ですか?」
「私達は悩める人を救うために、催眠を使うことはあります。それはそ
の人の悩みを、より良く知るためです。人は心の秘密を、なかなか打ち
明けないものです。その壁を取り払ってあげる必要があるのです」
「倉田さんにもかけたんですね?」
「ええ、かけましたよ。もちろん事前に本人の了解を得ています。何か
問題がありますか?」
「どんな種類の催眠術ですか。使い方を間違えると、非常に危険な行為
だと思いますが」
 和田の顔が、一瞬くもったように思えた。しかしすぐににこやかな顔
に戻る。
「それをあなたに言う義務があるのでしょうか。私達は倉田さんのプラ
イバシーを守る責任があります」
「別に倉田さんがどんなことをしゃべったか教えてくれと言ってるわけ
ではありません。私はあなた達が倉田さんを人形みたいに操ったのでは
ないということが分かればそれでいいんです」
 和田の笑みがくずれた。目は笑みを保っているが、口元がゆがんだま
ま戻らない。
「退行催眠ですよ」
「え?」
「記憶をどんどん過去にさかのぼらせていくのです。人の悩みは幼少期
にどんなふうに育てられたか、どんな大人達と接したかに大きく関わっ
ていることが多い。それを知るためです。倉田さんを操るためではあり
ませんよ」
「どこまで戻らせたんですか? つまり、何歳頃まで戻ったか、という
ことですが」
 その質問はひらめきだった。まだ何かが明瞭に分かったわけではなか
った。しかし、御見葉蔵氏が過去の人物であることと、退行催眠という
言葉が、瞬時に頭の中で結びついたのだ。
「どこまでって、今言いましたように、幼少期ですよ」
「何歳ですか。それとも」自分でも思いがけない言葉が出た。「生まれる
前ですか?」
 和田の表情がさらに険しくなった。
「これ以上は秘密です。倉田さんのプライバシーに関わります。悪いが、
次の方が私を待っています。もうそろそろお引取り願えませんか」
「退行催眠というのは、そんなにほいほいとかけていいものなんです
か? あなた達はそういう資格なり、免許なりを持っているんですか?
それは法的に問題ないんですか?」
 和田が今までの温厚な態度からは想像もできないような、薄気味悪く
不気味な表情を浮かべた。
「いいでしょう、お話ししましょう。秘密は守っていただけますね」
「ええ、誰にも言いません」
「私達も驚きました。退行催眠で前世の記憶がよみがえったというよう
な話は、いくつも聞いたことがありますが、まさか本当に目にする機会
にめぐり会えるとは。倉田さんは突然、今までの様子とは全く違ったふ
うにしゃべりだしたのです。『ここはどこだ。お前らいったい、こんな所
で何をやっとる』とね。後のことはご存知でしょう。彼は御見葉蔵さん
として詳しくお話を聞かせてくれました。しかし、当然それはその場で
終わらせましたよ。後日、私達は御見さんのお墓参りをさせていただき
ました。それで前世の記憶だと確信するに至ったのです。奥さんからご
病気のことをお聞きした時にはびっくりしました。しかし夢遊病と私達
とは何の関係もありません」
「しかしあなたは恐れている。もしかしたら犯罪者にされてしまうかも
しれない。違いますか?」
 催眠をより高めていけば、洗脳やマインドコントロールも可能なので
はないか?
「あなたは大変な誤解をされているようだ。催眠をかけるのに資格や免
許は必要ありません。会話と同じですよ。『私が合図をすると、もう声が
出ません』というのと、『とても美味しいですよ。買いましょう』という
のはあまり差がありません」
 催眠術を使って詐欺まがいの商売をすることも可能だと言っているよ
うにも聞こえる。
「仮に催眠を使って人に罪を犯させたとしても、法的な場で術者の責任
を追及するのは難しいでしょうね」
 そういうことを裏でやっている、とも取れる発言だ。
 その時ドアが静かに開いた。見ると、いかつい警備員が立っていた。
「次の方が私を待っています。お引取り願えますか?」
 和田は繰り返した。




#541/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:46  (151)
眠れ、そして夢見よ 3−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:17 修正 第2版
   四

「つまりだ」
 滝田は手帳を閉じた。
 青年と美智子は、新たに分かった事実に驚いたようだった。美智子な
どは口が半開きになっている。
「こういうふうに考えられないだろうか。倉田氏は和田幸福研究所の催
眠術によって、前世の記憶を取り戻した。倉田氏は御見氏の生まれ変わ
りだったんだ」
「そんな、非科学的な」
 美智子が疑いの眼差しを滝田に向ける。
「倉田氏が御見氏になったことを科学的に説明するのが不可能である以
上、たとえオカルトチックだとしても、そういうふうに結論づけるしか
ない。催眠術でよみがえった前世の記憶は、催眠を解けばまた脳の底へ
封じ込められるはずだった。ところが、倉田氏の場合はそれがきっかけ
となって、夢を見る時に自由自在に現れるようになったんだ」
「私はそうは思いません。倉田さんは何かの機会に、御見氏の生年月日
や生前の様子を知ったのよ」
 美智子がいつもの勢いで反論する。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、倉田氏と御
見氏のつながりは薄いがね」
「先生は都合良く話がつながるように解釈しているんです」
「ああ、そうだよ。御見氏になる能力を獲得した倉田氏は、さらに先祖
帰りを始めたんだ。御見氏の前世であるインド人へ、そしてそのまた前
世のエジプト人へ。そう考えるとつじつまが合う」
「いいえ、全てなんらかの現実的な解釈があるはずです。安易に非科学
的な考えを取り込むのは危険です」
「ではインド人になった時の怪力はどう説明する?」
「それは……」
 美智子はつまった。しかし負けん気の強い美智子が、それくらいで引
き下がるわけがなかった。
「それにしたって、高梨医師がそう言ったのを先生が聞いただけです」
「なるほど。高梨先生の嘘だという可能性もなくはないな。でもそうす
ると他の人達とも口裏をあわせておかなきゃならないね。看護師達も見
たって話だよ。高梨先生はどうしてそんなことをするんだろう」
「こじつけよ。もっと慎重に検討を重ねる必要があるんじゃないです
か? 論理の飛躍です」
 美智子の言うことももっともだ。たしかに、こじつけであって、なん
の確証もない。
「ひとつの考え方を言っているまでだよ。そうでなくとも不思議なこと
だらけなんだ。非科学的な推測であっても、なんらかの論理的な意味付
けをしようと試みるのは、間違った態度ではないと思うんだがね」
「でも、証明のしようがありませんわ」
 そうだ。何かが分かったようでいて、結局何も分かっていないのだ。
しかし、科学というのはえてしてそういうものだろう、と滝田は思う。
さんざん調査をやった上で、こういうふうになっているのではないだろ
うか、というひらめきが浮かぶ。そしてそのひらめきが正しいことを証
明するために、さらに様々な調査や実験を繰り返す。実証さえできれば、
初めて“分かった”といえる。しかしできずにいる間は、全ては単なる
憶測にすぎない。
 黙って二人のやりとりを聞いていた青年が口を開いた。
「次に倉田さんが起き出した時に聞いてみたらいいんじゃないですか?」
 なるほど、それはいい考えだ、と滝田は関心した。だがしかし、すか
さず美智子が反論する。
「どうして? 倉田さんは今古代エジプト人になっているのよ。エジプ
ト人の時にはエジプト人の記憶しか持ってないんじゃないかしら。イン
ド人や御見氏のことを聞いても、分からないんじゃないかしら。それに、
先生の説だと倉田さんがこの部屋に現れたことが、説明がつきませんわ」
「そうだ。そこが一番の難問だよ」
 御見氏からアジャンタなんとかいうインド人へ、そして現在ギザ、サ
ッカラ付近をうろついている古代エジプト人へ、順調に過去へさかのぼ
っていた倉田氏が、なぜ突然現代の、しかもこの場所に現れたのか。そ
こが一番分からないところだ。
 滝田は、これ以上議論しても無駄だと感じた。非難するばかりで自分
のアイデアを出そうとしない美智子にもいらいらしてきた。
「まあいい。倉田さんが起き出した時に、インタビューしてみようじゃ
ないか。彼はいったい何者なのか。どこから来たのか。とにかく、一気
に全てが分かるってことは、あまりないもんさ」


   五

 駅から出た美智子は、疲れを頭の芯に抱きながら歩道橋の階段を下り
る。脇に立って下の方を阿呆のように見続けている浮浪者ふうの男を、
円を描くように避けて通る。
 下りた所で酔っ払いのサラリーマンが四人で馬鹿みたいに騒いで進路
をふさいでいる。どきなさいよと言わんばかりの勢いで真中を割って通
る。おっちゃんの一人がよろけて倒れそうになる。
 歩道橋を下りるとシューズショップや菓子店が並ぶ商店街となる。美
智子が帰る時間帯にはすでにどこの店も閉まっていて、人通りも少ない。
菓子店が閉まるとその前に昼間は見かけない占いの男が陣取っている。
簡素なテーブルの上に「手相」と書かれた行灯が淡く光り、謎めいた雰
囲気を醸し出している。
 美智子がいつも気になっているものがある。男の前の卓にぶら下がっ
ている「八割は当たる」と書いてある紙である。これって、どういう意
味なのかしら。
 美智子が見ていると男が声をかけてきた。
「何か悩みがおありですか」
 思わず背筋が硬くなる。
「いえ、別に」
「そんな事はないでしょう。深い悩みがあるでしょう」
 おかしくなった。きっと眉間にしわを寄せて紙を見つめていたのだろ
う。
「いいわよ。みてもらうわ」
 美智子は粗末なパイプ製の椅子に腰掛けた。
「左手を見せてください」
 右利きなのだが関係ないのだろうか。
 手を出すと、男はその上にレンズをかざした。
「なにか、男の関係ですね」
 まあ、倉田氏のことで悩んでいるのだから、そうだと言えなくはない。
「そうね。確かに男の関係と言われればその通りよ」
 男はしばらく手を見ている。美智子の顔は見ない。よく考えると声を
かける時もずっとうつむいたままだった。
「あまり外には出ないお仕事ですね。しかも非常に頭を使うお仕事のよ
うだ」
「その通り。当たりよ」
「毎日の生活はあまり楽しいものではないでしょう」
「まあ、そうね。でも毎日が楽しくてたまらない人なんて、そんなにい
るかしら。あなただってそうでしょう?」
「いえいえ、私は手相を見て言っているだけです」
 美智子の手を見つめたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「悩みは、仕事上のトラブルですね」
「そうね。手相だけでそこまで分かるの?」
「ええ、八割は当たります」
 なんだか不気味な男だ。美智子の顔をまったく見ようとしない。手を
見ただけで、次々と言い当てていく。
「人付き合いは不得手でしょう」
「そうね。得意な方じゃないわね」
 男はレンズを静かに下げた。相変わらずうつむいたままだ。
「あなたは恋愛が苦手のようだ。付近に若い男性がいるでしょう。近い
うちにその方と仲良くなれますよ。それと、お悩みのことですが、あせ
らず、ゆったりと構えることです」
 男は自動で話す人形がしゃべり終わったかのように、それきり押し黙
ってしまった。美智子は立ち上がり、鑑定料金を置いた。足早に立ち去
る。
 不愉快だった。自分のマイナス面をつかれたことも、藤崎青年と自分
の間に恋が芽生えるような言い方をされたことも。立腹しつつも、不思
議に思うのだった。手相ってそんなに当たるものなのかしら。歩きなが
ら自分の手の平をみつめた。
 彼女は分析する。彼はきっと人間観察の能力が優れているのだ。
 彼は見ていないようで、実は毎日通り過ぎる自分の顔をそれとなく見
ている。いつも気難しい顔をしているから、深い悩みがあり、毎日が楽
しくないだろうと思ったのだ。男の関係かと聞いたのは、女なら男に関
する悩みを一つや二つ持っているだろうから。恋愛のことであれ、それ
以外であれ。結婚指輪をしていないからたぶん独身だろうと考えた。も
っとも、結婚指輪をはずしている人妻も存在するが。男の関係と言われ
ればそういえなくもないというような言い方をしたので、恋愛のことで
はないと分かったのだ。男に関することで、恋愛ではないこと、そこで
仕事のことかと聞いた。違うと言われればまた別の、友人関係かとか親
子関係かとか聞けばいい。
 色白で、度が強い眼鏡をかけているので、デスクワークだと思ったの
だ。そういった仕事である上につんけんしたものの言い方をする。だか
ら人付き合いは不得意だろうと思った。
 コンタクトにもせず分厚い眼鏡をかけ、いつも化粧っけがない。だか
ら恋愛にもあまり縁がないだろうと考えた。
 保育士でもない限り、付近に若い男はいるだろう。その男と仲良くな
るというのは、自分を喜ばせるためのおまけだ。自分には逆効果だが。
 いつも足早に歩く自分を見て、あせらず、ゆったりと構えなさいとア
ドバイスしたのだ。
 もっとも、彼の推論は全てがあてはまるわけではない。だから「八割
は当たる」なのだ。




#542/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:48  (315)
眠れ、そして夢見よ 4−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/06 21:54 修正 第2版
   レム睡眠行動障害


   一

「さあ、旅立ちの時がやってきた」
 犬の顔に人間の体を持つ男が薄気味悪く微笑み、滝田を見下ろしてい
る。どうやらベッドの上にしばりつけられているらしい。身動きできな
い。
「待ってくれ、何のことだ」
「決まっておるだろう。お前はこれから旅立ち、オシリス神の支配する
国、アアルに行くのだ」
 男は長い真新しいナイフを胸の前に掲げた。嫌な光を放つ。
「お前は何者だ。私をどうするつもりだ」
「私の名はアヌビス。喜べ。お前をミイラにしてやる」
 アヌビス? どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出
すことができない。
「ミイラだって! 冗談じゃない。私はまだ生きている!」
「おお、なんという哀れな者だ。自分が死んだことにさえ気づいていな
いとは」
 犬の顔をした男は大きく口を開けて笑った。とがった歯が並んだ間か
ら長い舌が吐き出される。男から顔をそむけると、横に四人の、筋肉隆々
の上半身裸で白っぽい腰布を巻いた男達が、壷を大事そうに抱えて立っ
ていた。それぞれの壷には犬や鳥の顔をしたふたがのっている。
「あれは、何だ」
「あれはカノプス壷だ。お前の肺、肝臓、胃、腸をおさめるのだ」
 滝田はもがいた。だが、太いひもが体にくいこんで逃れられない。
「いやだ! やめてくれ!」
「お前は喜ぶべきなのだぞ。高貴な者でなければ、ミイラになれないの
だぞ」
「なぜ私がミイラになるんだ」
 アヌビスと名乗る男はそれには答えず、意地悪く笑ってみせるだけだ
った。
「お前はお前の生涯において、罪を犯していないという自信があるか」
「な、なんだって? 罪を犯していなければミイラにならなくてすむの
か」
「そうではない。お前の心臓は天秤にかけられ、真実の羽根とつり合い
が取れればアアルへの扉が開かれるであろう。お前の罪が重ければ、お
前の心臓はアメミットに食われるであろう」
 男はナイフを振り上げた。
「さあ!」
「やめてくれ! やめろぉ!」

 滝田はふとんをはねのけ、体を起こした。額に手をあてるといやな汗
で濡れていた。ベッド脇のテーブルの上にあるランプをつける。卓にの
っている数冊のエジプト関係の本を悩ましげにみつめた。これを読みな
さい、と言って美智子からおしつけられたものだ。そのうちの一冊を一
気読みしたから、こんな夢をみてしまったのかもしれない。
 アヌビス神。ミイラ作りの神か。
 立ちあがり、ガウンを羽織り、階下へと下りていく。気分がすっきり
しない。
 台所に立ち、グラスにウイスキーを注ぐ。冷蔵庫から素手でいくつか
の氷をつかみだし、放り込む。和室に入り、妻の仏壇の前にあぐらをか
いた。
 琥珀色の液体を喉にながしこむ。妻が胃癌で亡くなってから、もう二
年にもなる。二人の子供はそれぞれの仕事に忙しいらしくてろくに帰っ
てこない。弟はごくごく平凡なサラリーマンになったが、土曜か日曜の
どちらか休めればいい方のようだ。兄は野心家で、独立して事業を起こ
したが、最近では宇宙開発などというプロジェクトに手を出しているら
しい。こっちの方は正月にすら帰ってこない。
 ついつい感傷的になりそうになるのを、仕事に思考を切り替えて払い
のける。割られたモニター、和田が打ち明けた秘密、そして美智子の反
論。
 ――とにかく、一気に全てが分かるってことは、あまりないもんさ…
…
 自分で言った台詞だ。いくら考えたところで、現時点ではたいして分
からない。もう一口、ウイスキーを飲み込むと、早くも心地よい酔いが
回ってくるのを感じた。
 このごろ悪夢をよく見るようになったな、と滝田は思う。こんなだだ
っ広い家に一人でいることが、精神的によくないのかもしれない。
「心地よい眠りのために」
 一人つぶやいて、グラスの残りを一気に流し込んだ。


   二

 美智子は研究室の椅子に腰かけて、ファイルをめくっていた。背に「明
晰夢関連」と書かれたそのファイルは、美智子が滝田にエジプト関係の
本を渡したのと引き換えに、滝田が彼女に渡したものだった。「明晰夢?」
とつぶやいた時、滝田は生真面目な顔をしてうなずいてみせただけだっ
た。
 滝田という男、なかなか頭がきれるのだが、何を考えているのか分か
らないところがある。たぶん、こんなファイルを渡したのも、今回の件
と明晰夢がなにかしら関係していると考えてのことだろう。理論的に筋
道立ててそう考えたのではなく、たぶん思いつきだろう。そういうこと
が多いのだ。しかしその発想が、案外的を射ていたりする。しかし理論
派の美智子から見ると、滝田のそういう所が受け入れられない。
 ドアが開く音で顔を上げると、藤崎青年がモニターを抱えて入ってき
た。
「大丈夫? 重そうね」
「手伝ってくださいよ」
「あら、男の子でしょ? レディーに重いもの持たせるの?」
「まったく」
 青年はもともと大型モニターが置かれていた箱の上にそのディスプレ
イを降ろした。
「一階の資料室からかっぱらってきました」
「あら、いけないわね」
「いいんですよ。あそこのパソコン、誰も使ってませんもん」
「パソコンのモニターなの? つながるの?」
「ええ、もちろん」
 青年は当然というふうに言った。
 だが、美智子にはPCのモニターが夢見装置につながる仕組みが分か
らない。超新星の爆発や、ブラックホールの近くでの時空の歪みについ
てはよく知っているが、こういうのはまるでだめなのである。
「私、手伝わないわよ。家のディスク再生装置だって、電気屋さんにつ
なげてもらったんだから」
「ええ? 僕だってもう疲れちゃいましたよ。一階からここまでこれ持
ってくるの、大変だったんですから」
 青年はため息をつきながら椅子に腰をおろした。
「ほらほら、こうしてる間にも、倉田さんが夢を見るかもしれないわよ」
「意地悪だなあ」
 青年はしかめっ面をして、面倒くさそうに立ちあがった。モニターの
背面に回り込む。
「常盤さん、そこのHDMIケーブル、取ってくれます?」
「えっ、どれ?」
「足元の、箱から出てるやつですよ」
 床を見ると、箱からこちらに向かって何本かのケーブルが伸びている。
「知らない」
 椅子を回転させて、ファイルをみつめる。
「まったく、もう」
 青年が背後のすぐ近くでかがみこむのを感じた。
「その辺にコンセント余ってません?」
「さあね。探せばあるわよ。頑張って」
 青年はしばらく作業をしていたが、美智子はもう興味を失って資料に
没頭し始めた。
「さあ、やっと終わった。だいぶ小さくなっちゃいましたけど、ちゃん
と映りますから」
 青年がスイッチを押し込む音が聞こえ、続いてディスプレイのかすか
にうなるような音が聞こえた。
「あの……常盤さん?」
「なあに?」
「当たりですよ」
「なにが?」
「さっき言ったじゃないですか。こうしてる間にも倉田さんが夢を見る
かもしれないって」
 美智子は驚いて立ちあがった。青年の後ろからモニターをのぞきこむ。
そこには例によって例のごとく、白と黒の幾千もの点が渦巻いていた。
「グッドタイミングね」
「ええ、間一髪でセーフですよ」
 砂嵐の画面は、ずいぶんと長い間続いた。やがて、点と点同士が集ま
り、像をむすび始めた。
 その時、何か、小さな物音が、背後でしたような気がした。美智子は
振り返ってみたが、しかし何事もなく、機器類が整然と並んでいるだけ
だった。再び、何かを映し出そうとしているモニターを見つめる。
 今度ははっきりと、人間のうめくような声が聞こえ、驚いて後ろを見
た。その声は、隣の部屋の音をひろっているスピーカーから出たように
思えた。
「うーん」
 今度は大きく、人間の低いうめき声がそのスピーカーから聞こえた。
美智子ははじかれるようにして窓辺にかけより、倉田氏を見下ろした。
「藤崎君、大変。すぐに先生を呼んできて」


   三

「どうした」
 滝田は室内に飛び込むなり怒鳴るように言った。時刻は夜の八時を過
ぎ、今日も何の進展もなしかと思いつつ、帰ろうとしていた矢先のこと
であった。
 すっかりかわいらしくなってしまった夢見装置のモニターが目に入り、
その画面をのぞきこもうとした。
「こっちです」
 美智子が青ざめた顔をして窓辺に立ち、手招きするのが目に入った。
滝田は一瞬のうちに、何か今までとは違う現象が起こったのを直感した。
 窓辺に立ち、両の手のひらをガラスにおしつけた。
「あっ」
 今までは、倉田氏が眠っている姿しか見たことがなかった。しかし今
の倉田氏は立ちあがっていた。酔っ払いのように体をゆらめかせながら、
腕から点滴の管をぶらさげたまま、立っているのだった。アイマスクは
自ら取り去ったのか、床に落ちてしまっていた。
 それは予想していたことのはずであった。倉田氏は、現在は一ヵ月に
一度程度の割合でレム睡眠行動障害の状態を示すと、高梨医師から聞い
ていた。そして倉田氏の担当医師が最後にそれを目撃した日からは、と
っくに一ヵ月以上経過していた。
「夢は? 夢はどうなってる?」モニターに駆け寄りのぞきこむ。「人が
映っている」
 ずいぶんと大勢の人間がいる。上半身裸で、下にスカートのような腰
布をつけた、褐色の肌をした男達だ。何か作業をしているようだ。彼ら
は古代エジプト人なのだろうか。何をしているのだろう。
 モニター画面の情景は、右に行ったり、左に行ったりを繰り返してい
る。
「常盤君、倉田さんは何してる?」
「なんだかきょろきょろしています。周りをながめているみたい」
 やはり、倉田氏のレム睡眠行動障害時の挙動と夢の内容とが一致して
いるようだ。
「あ、左の方をじっと見ています」
 モニターの動きが止まった。大きな、四角い石を数人がかりで運んで
いる。石の下に木でできたそりのようなものが敷かれ、それにつないだ
綱を何人もの男達が引っ張っている。その後方にも、別の石を運んでい
る男達が続いている。よく見ると、石の前方で男が水をまいている。巨
石を運ぶ男達の列がはるか彼方まで続いている。
 モニターに映る風景が、わずかに上下しながら移動し始めた。
「倉田さんが歩き出しました」と美智子が言った。「あっ、点滴を抜いた
わ」
 画面の中で、倉田氏はその石を運んでいる男達に近づいていく。滝田
は窓のそばに行き、見下ろした。倉田氏はゆっくりと歩いていき、やが
て部屋の壁につきあたった。
 ヘルメットからは、コードは出ていない。得られた信号は無線で夢見
装置本体へ送られる。レム睡眠行動障害や睡眠時遊行症で動き回ること
を想定してそういう仕様になっているのだ。
 再びモニターの前に戻る。男達と倉田氏の間の距離は、あきらかにベ
ッドと壁の間隔よりも離れていたのに、画面では男達がアップになって
いた。瞬間移動でもしたのだろうか。
 画面の右下から、褐色の肌をした腕が綱をひいている男の一人に向か
ってのびた。
「君達は何をしているんだね」
 隣の部屋の音を伝えるスピーカーから野太い声がした。
「壁に向かって話しかけてます」
「日本語だね」
 滝田は胸の前で両の手の指を組んだ。御見氏の時と同じように、古代
エジプト人の声色に変っているのだろうか。それとも倉田氏自身の声な
のだろうか。本人の声音はまだ聞いていない。
 話しかけられた男は画面に向かって何かわめきちらした。しかし、当
然声は聞こえない。
 映像はその男から離れ、かわりにそりの前に水をまいている男の方に
移動した。
「君達は何をしているのだ」
 男は倉田氏の問いに応じたようで、身振り手振りをまじえて何か説明
している。
「どのファラオだ」スピーカーから倉田氏の言葉が聞こえる。「ヒッドフ
ト王? 知らない名だ」
 男はさらになにか言っている。唇の動きからして早口でまくしたてて
いるらしい。ずいぶんと落ちつきのない男で、さかんに手を動かしてい
る。しかしそのボディーランゲージからも、何と言っているのかは読み
取ることはできない。
「分かった。もういい。邪魔したな」
 男が再び水をまき始めた。その時、画面がふっと暗くなった。
「夢が終わりそうです」
 後ろからのぞきこんでいた青年が言った。
 滝田は慌ててスピーカーの所に行き、その横に立っているマイクのス
イッチをオンにした。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 その音声は隣室のスピーカーユニットから出力される。
 振り向いて画面を見ると、元の明るさを取り戻していた。風景があっ
ちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。倉田氏が驚いて辺りを見回
しているのだろう。
「何者だ。私を呼んでいるようだが、私はクラタという名ではない」
「私達はあなたと話がしたいんです。いいですか?」
「寝言と会話してる」
 藤崎青年が呆然としたように言った。
「お前はどこにいるのだ。姿を現せ」
「僕、行ってきます」
 青年が駆け出した。
「私も。先生はどうします?」
「僕はここに残ってモニターを見張っている。さあ、早く行って」
 美智子は青年を追って、すごい音をさせてドアを叩きつけ、出ていっ
た。その時初めて、滝田はマイクを握りしめる手に汗をかいていること
に気がついた。
「倉田さん、じゃなくて、あなたはなんという名前ですか」
「無礼な奴だな。まず自分から名乗るのが礼儀だろう」
「失礼しました。私は滝田という者です」
「タキタ? 私に何の用だ」
「あなたの名前は何ですか」
「私か。それがな、私にも分からないのだよ。なんとか思い出そうとし
ているのだが、どうしても思い出すことができないのだ。だがクラタな
どという変な名前ではないことは確かだ」
「あなたはさっき、何を聞いていたんですか」
「ああ、彼らが何をしているのかということだよ。なんでも、ヒッドフ
ト王のペルエムウスを作るために、石を運んでいるのだそうだ」
「ヒッドフト王? そりゃ誰です」
「さあな。聞いたこともない名前だ」
「あなたは今どこにいるんですか」
 スピーカーから美智子の声が聞こえた。
「なんだ。すぐそばから女の声がしたぞ」
 美智子は倉田氏の近くにいるらしい。
「それは私の仲間です。これからあなたにいくつか質問をします」
 目は開いていたからうまくすると二人が夢の中に入り込まないかと期
待したが、残念ながら姿は現さなかったようだ。
「どこ、と言われても、私にも自分がどこにいるのか分からないのだよ。
君達はいったい何者だ」
「あなたはこの間までサッカラにいました。その前はギザにいました」
 美智子は無視して話を続ける。
「サッカラ? ギザ? 私には何のことか分からないが」
「あなたはこの間スフィンクスを見ていたわ。その次はジェセル王の墓。
違いますか」
「スフィンクス? なんだね、それは」
 滝田が割り込む。
「顔が人間で体がライオンの像のことです」
「ああ、あれか。確かに私はそこにいた。ジェセル王の墓も見た。だか
らきっと私はまだその辺にいるのだろう」
 画面が一瞬暗くなった。
「自分の意志で移動しているんじゃないんですか」
 美智子がとげとげしい口調で聞く。
「分からない。私は自分が誰なのかも、どうしてこんな所にいるのかも、
さっぱり分からないのだ」
「嘘よ。あなたは何か隠してるのよ。あなたどうして私達の研究室に現
れたの? 夢見装置のモニター壊したの、あなたでしょ」
「おお、これはどうしたことだ。まるで罪人扱いではないか」
 モニター画面が二度瞬いた。慌てて美智子を制する。
「常盤君、やめなさい。すみません。この女性の無礼をお許し下さい」
 滝田は、もうあまり時間がないと感じた。
「あなたは、インドに行かれたことはありませんか? あるいは、日本
に来たことはないですか?」
「インド? ニホン? それはどこにあるのだ。聞いたこともない場所
だ」
 モニターを振り返る。画面が徐々に暗さを増していく。
「私は疲れた。もうそろそろ休ませてくれないか」
「最後にもうひとつだけ。ちょっと自分の足を見てくれませんか」
「自分の足?」
 モニターの風景が、ゆっくりと下がった。そして、倉田氏、というよ
りも夢の中のその人物の、胸から下を映し出した。
 半円形の、青や赤や紫の小さな四角形をたくさん組み合わせて作られ
た首飾りが見える。その下には褐色の筋肉質の胸が、そしてひきしまっ
た腹が、さらに下には白い腰布が、そして砂の上に半ば埋まった裸足の
足が見えている。
「先生、もう夢が終わりそうなんですか?」
 美智子が叫ぶように言った。
「ああ、もう限界だ」
 美智子は奇妙な呪文のような言葉をつぶやき始めた。
「あなたはまた、夢の中で目覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目
覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目覚める」
 何言ってんだあいつ、と、滝田は心の中で舌打ちした。
 モニターの風景が急速に暗くなり、そして消えた。
「あっ、倉田さん」
 声に驚き、窓に駆け寄って下を見ると、倉田氏が倒れていた。




#543/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:51  (239)
眠れ、そして夢見よ 4−2   時 貴斗
★内容
   四

「ペルエムウスって何ですか?」と、青年は聞いた。
「あら、知らないの? 英語のピラミッドはギリシャ語のピラミスから
来てるんだけど、ピラミスの語源については定説がないの。唯一の祖先
と考えられる言葉がペルエムウス」
「最後のあれ、なんだったの?」
 滝田は美智子に聞いた。
「催眠術がきっかけでああなったって、先生言ってましたよね。きっと
倉田さんは暗示にかかりやすい体質なんだろうと思って、暗示をかけた
んですよ。次のレム睡眠行動障害まで一ヵ月も待たされたんでは、たま
りませんからね」
「ふーん。うまくいくといいね」
 滝田は青年が持ってきたコーヒーをすすった。
「ヒッドフト王って、誰ですか」
 青年は、滝田が倉田氏に聞いたのと同じことを聞いた。
「ヒッドフトというファラオは本に載ってないわ」
 美智子もコーヒーに口をつけた。
「すごい。常盤さんは全部の王の名前を暗記してるんですか」
 青年は目を丸くした。
「ええ、本に書いてあったのは全部」
 美智子はなんでもないことのように言う。
「きっと歴史の教科書にも載ってないような、名もない王様だったんだ
ろうよ」
「ええ、残念ですね」
「残念? と言うと?」
「もしも名のある王だったら、どのピラミッドを建造している最中か分
かるから、倉田さんがいるおおよその年代が分かったかもしれません」
「少なくともスフィンクスとジェセル王のピラミッドよりは後だね」
 だが、そう言いながらも滝田は、倉田氏が現在どの時代にいるのかな
ど、些細なことだというような気がしていた。
 倉田氏は一体何者なのか。
 あの偉そうな口調の人物のことではない。今ベッドの上で再び昏睡に
陥った倉田氏は一体何者なのか。その方がずっと重要な問題だという気
がする。あきらかに、奇妙な睡眠障害になる以前の、ごくごく平凡な一
般市民にすぎない人物とは違った存在に変わってしまっている。彼は一
体何者なのか。
「先生が最後にした質問、あれは何です? どうしてあんなことを言っ
たのか、理解できませんでしたわ」
「え? ああ、自分の足を見ろってやつね。倉田さんの体を見たかった
のさ。録画されてるはずだから、後で見てみるといい。腰布しか身につ
けていなかった。肌は褐色だったよ。ああ、首飾りもつけていたけどね」
「するとやっぱり、倉田さんは今古代エジプト人になっているんだわ。
当時の一般的な服装です」
「そうだね。首飾りはつけていなかったけど、他の人達もそんな服装だ
った」
 美智子から借りた本の中にも、同じような格好の人物が描かれた壁画
や像がたくさん出ていた。
「首飾りをしているということは、上流階級の人かもしれませんね」
 インド人については不明だが、これで御見氏とエジプト人については、
確かにその人物になったのだということが、断言できそうだ。
「でも、常盤君が言うところの、現実的な解釈だとどうなるんだろうね。
倉田さんは古代エジプトの関係の本を読んで、それが夢に現れた、とい
うことになるんだろうか」
「それにしては情景が緻密すぎますわ。砂との摩擦を減らすために水を
まくところまで再現されています。どうして倉田さんはそんなに古代エ
ジプトのことに詳しいのかしら。それに本で読んだり、ネットで検索し
たりしたとしても、それだけであんなに鮮やかにイメージできるものか
しら」
「ああ、まるで見てきたような風景だったな」
「見てきたんじゃありません。見ているんです。倉田さんが夢の中で実
際に古代エジプトにいることは、確実です」
 倉田氏が古代エジプトにいることは認めるくせに、どうして前世とか
いう言葉を出すと怒り出すんだろう、と滝田は思う。
 その時ふと、ある可能性に気づいてはっとなった。
「とすると、これは大変だぞ。彼は夢を見るだけで実際のその場に行け
る。彼は歴史を変えることができる」
「なんですって?」
「だってそうじゃないか。彼は夢の中で研究室に現れ、そしてモニター
を壊した。すると実際にモニターが破壊されてしまった。彼がエジプト
で何かしでかしたら、それによって歴史が変わってしまうかもしれない」
 分厚い眼鏡の向こうで美智子の目が大きく見開かれた。


   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。
後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもの
のない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が
目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面
レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智
子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力
してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってな
いから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないで
すかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへと
になって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸
びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中
のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がった
の。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、
塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同
じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。
みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそ
んなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。
そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。
いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで
分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと
愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんで
す。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイ
オリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意
味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのか
とか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩
に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩さ
せて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれも
あるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうな
っただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に
繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどん
どん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得
意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりも
うまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣って
いたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えては
いない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれ
だけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういう
の、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじ
ゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕
がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃ
ならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には
分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。そ
れじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登る
のか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなど
とは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかも
しれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。そ
れは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをし
たり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、
公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、
そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働
くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにで
きているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なの
か。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立て
られるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、
大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身
動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじ
て勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安
定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてる
のよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。
つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本
当にそれでいいのだろうか。


   六

 眠れない。滝田は寝返りをうつ。もう何度こうして、ベッドの上で体
を回転させたことか。
 人はなぜ眠るのか? 決まっている。脳を休ませるためだ。ずっと眠
らずにいるとどうなるか。幻覚を見る。それでも眠らずにいるとどうな
るか。死ぬ。
 滝田は起きてゆっくりと立ちあがる。寝室をさまよい、明かりのスイ
ッチを探す。住みなれた家だ。目をつぶったままでも、スイッチを探り
当てることができる。
 不眠に悩む人がいる。一ヵ月も眠っていないと言う。だが、そういう
人は実はちゃんと眠っているのだ。浅い眠り。立ったまま眠っている。
起きながらにして眠っている。目を開いたまま脳は寝ている。だから死
なない。
 明かりをつけ、部屋を出る。
 滝田は階段を下りる。この先にはキッチンがある。台所は主婦の戦場
だ。だがその主婦殿は、もういない。滝田は自分のほほがひきつるのを
感じた。
 そこには何があるか? ウイスキーだ。若い頃はビール派だったのに、
すっかりウイスキー派に転向してしまった。
 人はなぜ酒を飲むか。大人になるためか。子供時代と決別するためか。
いや、そうではあるまい。男の言い分だ。女はどうなる? 女は、酒も
煙草もやらなくても、立派な大人になっている。
 ダイニングの明かりをつける。蛍光灯がしばらく点滅する。もうそろ
そろ交換しなくてはならない。面倒くさいと滝田は感じる。LED照明が
一般的になった現在でも、滝田の家では蛍光ランプを使っている。あの
中には電気を受けると光る気体が封入されているんだとか。はてそうだ
ったかな。学校で習ったような気がする。記憶があいまいだ。確実に歳
をとってる。いやだ、いやだ。電気の刺激を受けて、それで光っている。
交流電流が、行ったり、来たり。
 食器棚の下から、ウイスキーを取り出す。グラスに注ぐ。
 冷凍庫から氷を取り出して入れる。さっそく一口飲みこむ。のどが熱
くなる。腹が熱くなる。
 酒が眠りを誘発するまでの時間、今日も女房殿と過ごすか。そうしよ
う。和室に行こう。
 明かりをつける。こちらの蛍光灯はまだ大丈夫だ。重々しく仏壇の前
に腰をおろす。
 女房殿に乾杯。左手に持ったボトルを畳の上に置く。右手に持ったグ
ラスを口に運ぶ。
 人はなぜ夢を見るか。これは難しい。滝田がずっと取り組んできたテ
ーマだ。夢を見ないと死ぬか? まさか。
 人はレム睡眠の時に眠りが浅くなる。だからこの時に起きるのが理想
的だ。脳が活発になっているから夢を見る。夢は脳の働きの一つの現象
だ。それだけのことにすぎないはずだ。だが倉田氏は違う。夢が、本来
の意味とは全く違った意味を持ってしまっている。
 あれは一体何だ。
 酒を一気にあおる。おかわりをつぎたす。飲酒するとなぜ眠くなるか?
脳の活動が弱まるためだ。アルコールの効用とはまさに、そこにあるの
だ。
 滝田は、急激に酒が効いてくるのを感じた。さて、もう一杯。いいぞ。
脳の働きが弱まってくる。徐々に、眠気を催す。さらにもう一杯。
 滝田は、立ちあがるのが億劫になってきた。仏壇を見つめたまま、横
になる。今夜はこのまま、女房殿といっしょに寝てしまうことにしよう
か。




#544/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:57  (393)
眠れ、そして夢見よ 5−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/07 21:03 修正 第3版
   古代――現代


   一

 高梨様。これまでに分かったことを報告致します。現在、夢見装置で
確認できた倉田氏の夢は四回です。そのうち一回はレム睡眠行動障害の
状態での観察に成功しています。最初の二回は、スフィンクス、ピラミ
ッドの断片的な映像でした。三度目は驚くべきことに、見たはずがない
我々の研究室の夢を見ました。その映像は実に正確であり、なぜ彼がそ
んな夢路をたどることができたのかは謎のままです。
 四度目がレム睡眠行動障害の状態でのものであり、彼は夢の中で古代
エジプト人達と会話をしております。我々は彼にいくつかの質問をする
ことに成功しており、その結果、御見葉蔵氏の時と同様、彼が現在古代
エジプト人になっていることはほぼ確実と思っています。
 今後の研究はさらに期待の大きいものとなる予定です。

 滝田は電子メールの文章をそこまで打って、しばらく考え込んだ。そ
して、ウィンドウの×マークにカーソルを合わせ、マウスをクリックし
た。
 こんな事を高梨医師に報告していいのだろうか、と滝田は思う。学会
で発表していい内容だろうか。
 おそらく一笑に付されるだろう。だが、証拠のデータが揃っている。
高梨が言った通り、医学の世界だけでなく、科学の世界にも大きな波紋
が生じるかもしれない。
 高梨の名誉などというくだらないもののために、どうしてこんな貴重
なデータを渡さなければならないのだろう。
 研究費の援助など断ってしまおうか。そのかわり、何の情報も渡さな
い。おそらくそうはいかないだろう。倉田氏を夢見装置につないでしま
った時点で、すでに後戻りできない状態になっていたのだ。いろいろな
ことを知りすぎてしまった。
 滝田は伸びをした。疲れた。右手で左肩をたたく。
 壁の時計を見るともう十時を過ぎていた。まだ誰か残っているだろう
か。
 ふいに、寂しさを感じる。この下では今も車や人が行き交っているだ
ろう。都会は眠らない。
 部屋を見まわす。本棚には様々な論文やら、本やらがぎっしりと詰ま
っている。楽しむために読むのではない、無味乾燥な資料達。こんなふ
うにふと、自分がいる環境が寂しいと感じることがある。普段は全く気
にしていないのに、何かのはずみに冷静な感覚がゆるんだ時に、長くつ
きあってきたはずの、学術誌や、パソコンや、カーテンが、ひどくよそ
よそしく感じられ、部屋の空気が急に冷たくなったように感じるのだ。
 滝田は立ち上がった。みんな帰っただろうか。倉田氏はどうしただろ
う。所長室を抜け出し、静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりの右手
に、夢見装置のある滝田研究室がある。入り口のドアをみつめる。この
扉もだいぶ古びてきたなと、滝田は思う。
 ドアをゆっくりと開け、中に入る。誰もいない。美智子も青年も今日
は帰ったらしい。明かりがついたままの、誰もいない部屋は、とても不
気味に感じられる。もう十年以上もここにいるのに、この気味悪さだけ
は決して慣れることがない。
 窓の方に行こうとしてモニターの横を通り過ぎた時、なにか、光がう
ごめいているのが目の隅に入った。振り返ると、モニターは例の白と黒
の点がうずまく砂嵐の画面になっていた。


   二

 ディスプレイが何かの像をむすび始める。滝田の胸に研究者の冷静な
感情が戻ってきた。寂しさや不気味さが、心の中から消え去る。だがそ
の冷静な感覚は、すぐさま驚きへと変わった。
 どこだろう? どこかの家のようだ。幸いにして、というべきか、こ
こではないようだ。あきらかに古代エジプトでもない。明かりが灯って
いる。廊下だ。前に見たような風景だ。どこで見たんだろう。現代だろ
うか。それとももっと前だろうか。日本の家屋のように見える。
 滝田はようやく思い出した。倉田家だ。倉田の妻に会いにいった時に
見た、倉田家の廊下だ。倉田恭介は夢の中で、自分の家に戻ってきたの
だ。古代エジプト人として? それとも倉田恭介自身として?
 慌てて窓から倉田氏を見る。眠ったままだ。急いでモニターの前に戻
る。
 夢の中の倉田氏、あるいは謎のエジプト人は、泥棒が盗みに入ったよ
うな感じで廊下を歩いていく。
 倉田氏は、滝田があの時案内された部屋のふすまを開け、中をのぞい
た。室内は真っ暗だ。するともう家族達は寝てしまったのだろうか。滝
田は腕時計を見る。まだ十時二十一分。もっとも、これは現在の倉田家
とは限らないが。
 開けっぱなしにしたまま、そこから離れる。倉田氏は階段の方へ歩い
ていく。
 家族が寝てしまったとすると、廊下の明かりがつけっぱなしなのはお
かしい。倉田氏は階段にたどりついた。真っ暗だ。壁を見て、その明か
りのスイッチをつけた。
 これで合点がいった。廊下の電灯は、倉田氏がつけたのだ。足元を見
ながらゆっくりとのぼっていく。
「あっ」
 滝田は思わず声をもらした。それは、古代エジプト人の褐色の足では
なく、やせ細った青白い裸足の足だった。あれは倉田氏のものだ。前は
古代エジプト人だったのに、なぜいきなり倉田氏自身になるのだ?
 階段をのぼりきるとまたしても廊下があった。倉田氏はその明かりも
つける。かなり大胆な行動だ。倉田氏の夢の中の行為がそのまま現実に
なるとすると、家中の照明をつけて回っていることになる。家族の誰か
が起き出したらどうするのだ?
 左手にある木製のドアを少しだけ開いた。廊下から差し込む光で中の
様子がうっすらと見える。そして大きく開き、入っていく。布団が二つ
敷いてある。倉田氏は二人の人物を交互に見つめる。一人はこの間見た
子供だ。あとの一人はもう少し大きい子だ。たぶんお兄ちゃんだろう。
 しばらくの間、画面は二人の子供の顔を映していた。倉田氏にとって
は久しぶりの再会だ。
 反転し、部屋から出ていく。木のドアをゆっくりと閉める。今度は通
路をはさんで反対側の扉を開けた。中はやはり真っ暗だ。廊下からの光
でかろうじて様子が分かる。倉田氏は室内に入りこんだ。画面がそこに
寝ている人物のアップになる。倉田の妻、芳子だ。
 滝田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。実行するには少し勇気がいる
が、声を変えれば大丈夫だろう。携帯電話を持ち倉田の家に行った時に
聞いておいた電話番号をタップする。もしもモニターの情景が現在のそ
れであるならば、うまくいくはずだ。
 風景が反転した。足早に部屋を出る。画面がすごいスピードで動いて
いく。階段へ、そして階下へ。
 うまくいった。電話は一階にあるらしい。倉田氏は台所に飛び込んだ。
廊下から漏れる明かりで薄っすらと情景が分かる。入ってすぐの所にあ
る固定電話の前に立った。
 さすがに、倉田氏が受話器をとってくれることは期待できない。かけ
ている相手は倉田の妻だ。倉田氏はどうしてよいのか分からないという
ふうに、そのまま電話を見つめている。画面が回転し、台所の入り口を
映す。倉田の妻が登場した。眠そうに目をこすりながら、明かりをつけ
る。映像が少し横にずれた。倉田恭介がいた場所に立ち、受話器をとっ
た。彼女には倉田氏の姿が見えていないのか?
「はい、もしもし」
 滝田は鼻をつまんで話し出す。
「あ、奥さん? すみませんが、ちょっとそのまま私の話を聞いてくれ
やせんか」
「あの、もしもし? どなたですか?」
「廊下の電気、ついてたでしょ? 階段も」
「まあ」
 倉田の妻は例の耳障りなきんきん声で驚いた。
「あなたがやったのね? 泥棒!」
「いえいえ、あたしゃ奥さんの家に入ってませんけどね。ちょっと、和
室のふすまも見てきてくれやせんかね。開いてるはずなんですけど」
「ふざけないで! この変態」
「大真面目ですよ。あのちょっと、左を見てくれやせんか」
「えっ」
 彼女がこちらを向いた。そして彼女の前には、彼女の旦那が立ってい
るはずなのだ。
「何か、見えやせんかね。誰か立ってません?」
「何言ってるのよ。気色の悪いこと言わないで。この変態」
 おや? と滝田は思った。モニターの風景が、右に、左に回転し始め
たのだ。辺りを警戒しているらしい。感づかれたかな、と滝田はひやり
とする。
「あ、もうそろそろ切りやすんで。お休みなさい」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 携帯を切る。倉田の妻は画面の向こうで何か言っている。だいぶ怒っ
ているらしい。しばらくして、ようやく電話の前から離れた。部屋の電
気が消える。
 一分近くたって、再び台所の明かりがついた。電灯のスイッチが映っ
ている。
 どうする気だろう、と思っていると、電話機の前に戻った。ボタンを
プッシュし始める。しまった。非通知でかけるべきだった。着信音が鳴
る。無視すべきかどうか一瞬迷ったが、ボタンをタップした。背筋の寒
くなるような声がこう言った。
「人の夢をのぞくな」
 モニターが急速に暗くなり、消えた。


   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田
は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつ
くことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかっ
た。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田
の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかける
べきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お
父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父
さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなん
だよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳
を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われて
いないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんど
ん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃう
よ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、
縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形く
らいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏む
たびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路
地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかっ
た。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大き
な音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に
時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなって
いた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。
滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしても
ビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。
こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点にな
ってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆
け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方
だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。そ
の雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろして
いるのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分
かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に
戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこ
んでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言っ
た。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、
大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社
員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であ
ったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して
許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて
死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。
あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意
識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


   四

「つまり、今度は倉田さん自身になったって言うんですか?」
 滝田が昨日の話をした時、美智子は目を丸くした。
「ああ、おかげで悪い夢を見てしまったよ」
「しかも倉田さんの夢がテレビ電話になっただなんて」
 青年も驚きの声をあげる。
「記録は残っている。電話の内容も、ちゃんと録音してある」
「倉田さんの家に連絡して、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」
「何て言うんだい? 倉田さんが夢の中で古代エジプト人になっている
ことさえ、まだ奥さんには教えてないんだよ。ここで何が起こっている
か教えたら、パニックに陥るだろうね」
 聞きたいことは、山ほどある。倉田氏にも、倉田氏の妻にも、和田幸
福研究所の和田氏にも。しかしそれが聞けないから、もどかしいのだ。
「倉田さんは前にも現代に現れていますよね」と美智子は言った。「あの
時も、倉田さん自身として現れたんじゃないかしら」
 それは滝田も考えたことだ。当然、そういうふうに連想が働く。スパ
ナを振り上げた手は細く青白かった。しかし滝田は、彼女の意見が聞き
たくて、言った。
「どういうことだい?」
「倉田さんはずっとエジプト人で、昨日初めて倉田さん自身になったの
ではなくて、ある時はエジプト人、ある時は自分自身になっているんで
す」
「すると、今までの秩序がくずれるわけだ。順々に過去にさかのぼって
いたのに、今は過去に行ったり、現在に来たり、自由自在に行き来でき
るようになったわけだ」
 それは、昨日から今日にかけて滝田がずっと自問自答してきたことだ
った。だが、答が出ない。美智子なら、何か目新しいことを考えついて
くれるかもしれない。
「それは違います。倉田さんがどうして、順々に過去にさかのぼったっ
て言えるんでしょう。エジプト人よりもインド人の方が過去かもしれま
せんよ。そもそも、倉田さんが前世の記憶をたどって過去に行ったって
いう先生の考えにも、私は賛成できません」
「なるほど。前世案ははずれというわけだ。それじゃ常盤君は、どうし
て倉田さんが自由にいろんな時代に行けるようになったと思うんだい?」
「そんなの分かるわけがありません。今回の現象は分からないことだら
けなんです。現代医学では考えられない睡眠障害も、倉田さんが御見葉
蔵氏にとりつかれたようになったのも、古代エジプトもモニターが割ら
れたのも、すべて人間の理解を超えているんです。私達がちょっとやそ
っと考えたくらいで、分かるわけがありません」
 やれやれ、いつものように非難するだけか。滝田はがっかりした。
 保守的だと滝田は思う。神のみぞ知る。全ては人間に分かるわけのな
いこと、では科学など発展するわけがない。不可知な事象を必死に分か
ろうと努力してきたからこそ、今の科学があるのだ。
 意外にも新しい考えを提示したのは藤崎青年だった。
「ひょっとして、古代エジプトにタイムマシンがあったりして」
 青年は照れて笑った。
「どういうこと?」
 滝田は青年に向かって顔を突き出した。
「あ、いえ、先生の前世案が正しいとして、古代エジプト人となった倉
田さんは、古代エジプトでタイムマシンを見つけたんです。あくまで仮
定ですよ。それで現在にも現れるようになった……なんて」
「馬鹿げてるわ」美智子の顔にありありと軽蔑の色が浮かんだ。「そのタ
イムマシンは誰が作ったの? まさか宇宙人が持ってきた、なんて言わ
ないでしょうね」
「いや、すみません。僕は真面目に言ったつもりじゃ……」
「倉田さんはどうしてギザやサッカラなんていう、古代エジプトでは重
要な場所にいるんだろうね」と、滝田は言った。「宇宙人だか未来人だか
知らないが、彼らはタイムマシンで古代エジプトに行った。そして、ギ
ザかサッカラのピラミッドのどれかにタイムマシンを隠した。それを見
つけた古代エジプト人は、自由に時を越えることができるのを知ったん
だ。古代人は恐れおののき、以来ギザ、サッカラの辺りは聖地になった。
倉田氏はたまたまそのタイムマシンを見つけ、現代にも来れるようにな
った。そんな可能性が、百パーセント絶対にないとは、言いきれないと
思うがね」
「よくもまあ次から次へと、変なことを考えつきますね」
 美智子の眉がつり上がる。
「ピラミッドは必ずしも、王のお墓だったとは限らないそうじゃないか。
常盤君から借りた本に書いてあったんだけど」滝田は口をへの字に曲げ
た。「ギザの第一ピラミッドには、他のピラミッドと違って玄室が地下で
はなく、地上五十メートルくらいの所にあるそうじゃないか。案外そこ
が、実はタイムマシンだったりしてね」
「馬鹿馬鹿しい。知りませんわ」
 美智子はそっぽを向いた。
 だが残念ながら、青年のタイムマシン案は却下になりそうだ。それだ
と、現代に現れた時の痩せ細った手が説明できない。その時には倉田氏
自身になっているのだ。謎の古代エジプト人がタイムマシンを見つけた
のなら、夢見装置に映る手も褐色でなければならない。
「僕の考えを言おうか。藤崎君の考えと似たようなもんだから、怒らな
いでくれよ。倉田さんは記憶をたどって前世にさかのぼったが、古代エ
ジプトくらいに昔になると、記憶もかなりあいまいだ。だから完全に古
代エジプト人になりきれずに、時々倉田氏自身に戻ってしまうんだ。こ
れだと謎の古代エジプト人が、自分は誰で、どこの人間かも分からない
ことも説明がつく」
「御見さんは実在の人間なのに、まるでエジプト人は倉田さんの夢が作
り出した架空の人物のような言い方ですね」
 そうかもしれない。エジプト人の方は実際に存在したその人とは違う
偽者なのかもしれない。待てよ? すると倉田氏が死ぬとエジプト人も
消えてなくなるのか?
「あともう二つ、今回の夢には謎があるんだ。一つは、謎の古代エジプ
ト人の時には周りの人間には彼が見えていたのに、倉田氏の時には奥さ
んからは彼が見えていなかったことだ」
「幽霊じゃないんですか? ほら、幽霊だと姿が見えるのと、見えない
のがいるじゃないですか」
 美智子は皮肉で言ったのだろうが、滝田はさも感心したような顔をし
てみせた。
「なるほど。夢の中の倉田氏は、言ってみれば幽霊みたいな存在だ。自
由に姿を現したり、消したりできる能力があるのかもしれないね」
 美智子のかわいらしいくちびるがゆがんだ。
「もう一つは、『人の夢をのぞくな』という文句だよ。倉田さんは、夢見
装置で我々が彼の夢をのぞき見していることを知っている」
「そうよ。倉田さんは怒っているんだわ。だって、これはプライバシー
の侵害ですもの。モニターを壊したのも、そのせいだわ」
「どうしよう。倉田さんを怒らせてしまった」
 滝田は狼狽した。滝田の心中を察したかのように、美智子が言う。
「彼、今度現れたら、夢見装置を壊してしまうかもしれませんよ。モニ
ターだけでなく、全部」
「大変だ。なんとかなだめないと」
「古代エジプト人やインド人はなだめなくていいんですか?」と藤崎青
年が聞く。
「三人は別人だろう。共通の認識を持っているわけじゃない。エジプト
人はモニターが壊されたことを知らなかったようじゃないか」
 青年は腑に落ちない顔をしている。確かに、別の人物とは言っても一
つの脳で起こっていることだ。
「どうやってなだめます? 夢見装置は彼の視覚情報を得る能力しかあ
りませんわ。彼が何て言ってるのか聞くこともできない。こちらの話を
聞いてもらうこともできない」
「できないことはないさ。彼が彼自身としてレム睡眠行動障害の状態に
なった時がチャンスだ」
「今のところ、御見氏や、インド人や、古代エジプト人の時にはあった
けど、彼自身としてレム睡眠行動障害の状態になったことはないんです
よ」
「入院前にはあったよ。しかし、眠ったままでも話せる方法がある。あ
れだよ」
 滝田は研究室の隅の電話を指差した。
「あれに張り紙をしておくのさ。『どうかこの電話をとって下さい』って
ね。で、携帯でかけて話す」
 なかなかいいアイデアだと思ったのだが、美智子は納得していないよ
うだ。
「だったら電話なんかいらないんじゃありません? 電話で彼の声が聞
こえるのなら、この場で倉田さんがしゃべれば、みんなに聞こえるんじ
ゃありません?」
 姿は現さないのに声だけ発するというのはなんだか変だ。
「この場と言っても、夢の中のこの部屋だよ。現実世界とつながってい
ない。倉田さんが夢の中でしゃべっても、それを聞くことができるわけ
がない」
「それじゃあ、電話だとどうして話せるんですか」
「倉田さんが夢の中の現象を、現実の事象として実現できるからさ。彼
が夢の中の電話で話すと、実物の電話機にもその声が伝わると考えられ
ないかね?」
 また、こじつけだわと怒られるかと思ったが、美智子はあきれたのか
反論しなかった。
「あともう一つ、謎がありますわ」
「なんだい?」
「倉田さんが日本語で話すことです。どうして古代エジプト語や、イン
ド語じゃないのかしら」
「夢の中のエジプト人は古代エジプト語でしゃべった。しかし僕達が声
を聞いたのは倉田さんの口からだ。英語は少しくらい習ってるだろうが、
たぶん日本語しか知らないと思うよ」
 美智子はうなずいたが、納得していないことは明らかだ。
「では、こちらの言葉がエジプト人に伝わるのはなぜなんですか?」
「うーん」これは難しい。「倉田さんはイタコのような状態になってるん
じゃないか? 昔ある番組でアメリカの女優さんの口寄せを行った時、
彼女の霊は下北弁で会話に応じたというのを聞いたことがあるよ」
 美智子は苦虫を噛み潰したような顔をした。全て滝田の仮説にすぎな
い。
 滝田は思いついて付け足した。
「張り紙だが、ここの電話番号も書いておいた方がいいな。倉田さんか
らかけてくる場合もあり得る」




#545/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。




#546/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:01  (163)
眠れ、そして夢見よ 5−3   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:58 修正 第2版
   八

「先生、来てください!」
 所長室の扉が勢いよく開き、美智子が真っ青な顔をして飛び込んでき
た。
「ん? どうしたの? まさか倉田さんが夢を見て、研究室に現れたな
んて言わないだろうね」
「その通りなんです!」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子はすでに振り向いて走り出してい
た。
「手は? 足は? どんな色だった?」
 美智子を追いかけて廊下を走りながら尋ねる。
「まだ手も足も映っていませんが、倉田さんに違いありません」
「倉田さんは起きてるの? 寝てるの?」
「寝てます」
 美智子に続いて部屋に飛び込む。彼女が道をあけたので、そのままモ
ニターの前まで走った。
 そして、その映像を見た時、背筋を氷でなでられるような感覚を味わ
った。
「ほら、いるでしょ。私達」
 美智子は凍りついた声で言った。
 倉田氏が室内を見回している。その中に、棒のように突っ立ってモニ
ターを見つめている滝田と美智子の姿があった。ということは、姿は見
えないものの、彼は現在この研究室の中にいるのだ。画面から推測する
と、彼は入り口の近くにいるようだ。
 倉田氏は眼球運動をとらえるモニターの前に移動した。白い十字マー
クが右に行ったり左に行ったりしている。
 滝田は体をねじった。実物の眼球運動監視用モニターの十字も、同じ
ように動いている。
「倉田さん、そこにいるんですか」
 無駄だと知りながら彼が立っているであろう方向に問いかける。彼は
何の反応も示さない。
 滝田はマイクのスイッチをいれた。
「倉田さん、聞こえますか」
 これまた、無駄なことだった。枕元で倉田氏に呼びかけるなんていう
試みは、何度もやってみた。
 倉田氏は十字マークを眼で追うことに飽きたらしい。視線がそのモニ
ターから離れ、再び室内をただよいだす。
 夢見用ディスプレイの側面で止まる。そのまま注視している。この間
のより小さくなったな、とでも思っているのだろうか。映像がゆっくり
と移動していく。モニターの前で立ち止まった。倉田氏と滝田が重なっ
た。恐ろしさのあまり思わず滝田は飛びのいた。
 この間と同じようにモニターの中にモニターが延々と並ぶ異常な画面
が映し出された。だが今度は、そのディスプレイの列が静かに左に動い
た。まるで奥に行くほどすぼまっている四角錐があって、その頂点をつ
まんで動かしているかのようだ。倉田氏が視線を右に動かせば、当然モ
ニター達は左に動いていく。そして今度は右に動いた。さらに上に、下
にと、倉田氏はこの奇妙な映像を楽しんでいるようだ。
 やがてそれにも飽きたらしく、見る方向が変わり始めた。ゆっくりと
回転していく。斜め後ろから画面を見ている美智子の姿を映した。
「やだ、こっちに来るわ」
「落ちついて。下手に彼を刺激しないように」
 美智子の顔がアップになった。目と鼻の先に、倉田氏がいるはずなの
だ。モニターの中の彼女の顔がわずかにふるえだし、額に一滴の冷や汗
が流れた。
 さらに彼女に近づいていく。どうするつもりだろう。キスでもするの
だろうか。
 美智子は毅然として腕を組んだまま立っていたが、ついに耐え切れな
くなったらしく、横に飛びのいた。
「きゃっ」
 配線に足をひっかけて転んだ。床にくずれた彼女を映す映像が小刻み
に、上下にゆれた。倉田氏は彼女をせせら笑っているのだ。
 反転し、画面を見つめる滝田を映した。滝田の体中に緊張が走り、石
のように硬くなった。映像が滝田に近づいてくるにつれて、滝田の額に
も冷や汗が流れた。
 もう滝田のすぐそばだ。滝田は彼の方に向き直った。硬い笑みを浮か
べ、左手で拳を作って耳の下にあてがった。右手の人さし指を空中につ
き出し、いくつかのボタンを押す仕草をした。そして部屋のすみにある
電話を手の平で示した。画面が素直にそっちの方に動いていく。
 ライトグリーンの電話機に、「どうかこの電話をとって下さい」という
間の抜けた文句が書かれた紙が貼ってある。滝田はすかさず携帯を胸ポ
ケットから取り出し、かけた。呼び出し音が鳴る。モニターの中で、倉
田氏の青白い腕が伸びて受話器をとった。実物の電話機の受話器が宙に
浮いているのを見て、滝田の全身に鳥肌が立った。
 おそるおそる、声をかける。
「倉田さん、聞こえますか」
「……」
 返事がない。滝田は自分ののどが鳴るのを聞いた。もう一度呼びかける。
「倉田さん、聞こえたら返事をしてください」
「そんなに私と話したいですか?」
 それは明らかに古代エジプト人の声音とは違う、倉田恭介氏本人の声
だった。そのやや低い音声が耳に入った途端、滝田は背中に何百匹もの
ミミズが這い回るような感触を味わった。
「あまり時間がありません。単刀直入に言います。私達は倉田さんの夢
をのぞき見していました。申し訳ありません」
「知っていましたよ」
 ああ、やはり。気まずい感情が滝田の中に流れた。
「私は頻繁にここに来ています。先生方の会話も聞いています。それで、
私の夢をのぞき見しようとしていることを知りました」
 そうだったのか、と滝田は思う。かなりはっきりとした夢の場合にし
か、夢見装置でとらえることはできない。倉田氏はもっと多く夢を見て
いたのだ。
「すると、自分が古代エジプト人になっていることもご存知ですか」
「ええ。最初、誰の話かと思いましたよ。しかしどうやら私のことを言
っているらしい。私はどうも大変な状態になっているようですね」
「古代エジプト人の時の記憶は残っていませんか」
「はい。私にもそんな自覚はありません。正直言って、自分がエジプト
人になっているなんて、信じられないんですよ」
 倉田氏だ。今話しているのは、古代エジプト人とは完全に切り離され
た、倉田恭介氏本人なのだ。
「モニターを壊したのは、あなたですか」
「ええ。しかし私は、悪いことをしたとは思っていませんよ。これ以上、
私の夢をのぞくのはやめてくれませんか。もうそっとしておいて下さい」
 さて、困った。やはり倉田氏には病院に帰ってもらうのが最良の道な
のだろうか。本人がもう夢をのぞいてくれるなと言っているのだ。高梨
を説得することはできるだろう。しかし、あきらめがつかない。なんと
か調査を続けたい。それには理由が必要だ。
「しかし、病院の方ではあなたの病気はまったく原因不明で、それを解
明する鍵は夢だと言っています。私達もなんとかあなたを救いたいんで
す」
 しばらく、言葉はなかった。倉田氏は次に何を言おうか考えているよ
うだ。
「なぜ私を救うんです。私は夢の中でならなんでもできる。私が人間を
殺せばその人は本当に死ぬ。私は銀行の大金庫に現れることもできる。
私は、核ミサイルの施設に侵入し、核を発射することだってできる。そ
んな私を、どうして生かしておくんですか?」
 滝田は困った。そう言われてしまうと、倉田氏の存在は非常に危険で
あると言わざるを得ない。倉田氏が歴史を変えるととんでもないことに
なると考えたのは、滝田自身ではなかったか?
 一つの言い訳を思いついた。
「それは、あなたが大人だからです。子供は未熟だから、平気で殴り合
いのけんかをします。自分の思い通りにならないからといって泣きわめ
きます。大人は、理性によってそれを抑えています」我ながらくさいな、
と思う。「あなたのような特殊な能力を持っていない人でも、罪を犯すこ
とはできるでしょう。警察に捕まるような犯罪はできないが、石を投げ
て窓ガラスを割って逃げるくらいはできるでしょう。どうして大部分の
人はそれをしないんでしょうか? 人間には理性というものがあるから
です。何をしてはいけないかが、分かっているからです。人の迷惑にな
ることをしてはいけないという、自制心が働くからです。倉田さんは今
までいくらでも時間があったはずなのに、どうしてさっき言ったような
罪を犯さなかったんでしょうか? それは、倉田さんがそれをしてはい
けないと、分かっているからです」
 再び緊張に満ちた沈黙が続いた。倉田氏は、つぶやくような低い声で
言った。
「なるほど、分かりました。私も馬鹿ではないから、もしそんな真似を
して後でどうなるかは分かっています。もしも私の病気が治って、目が
覚めたら、そこには刑事が立っているかもしれませんね。約束しましょ
う。私は罪を犯しません。しかし、私の夢をのぞくのだけはやめてくれ
ませんか」
 どうやら夢見装置を破壊してしまうような事態は避けられそうだ。し
かし滝田は再び困った。なんとか調査が続けられるように持っていかな
ければならない。
「しかし、今のところ私達とあなたとをつなぐものは、この装置――夢
見装置と言うんですが、これしかありません。これをやめたらあなたと
のコンタクトが切れてしまいます。そうするとあなたを治してあげるこ
とができなくなってしまいます」
「いいんです。私はね、半分死んでいるようなもんですよ。私はまるで
幽体離脱したみたいに、自分で自分の痩せ細った体を見るたびに、つら
くてたまらなくなるんですよ。私が理性を保っていられる間はいい。し
かし正気を失った時、私は何をしでかすか分かりませんよ?」
「あなたはやけになっているんです。つらいのは分かります。しかし、
あきらめちゃだめです。病院と私達との必死の努力で、必ず助けてみせ
ます」
「いいでしょう。では勝手に夢をのぞいてください。私はもう、ここへ
は現れませんからね。電話もとりません」
 すごい音をたてて電話が切れた。
「先生、夢が終わりました」と美智子が言った。
 滝田は肩を落とした。意気消沈して美智子の方に歩いていく。
 夢を調べたからといって治療できるわけではないと言ったのは、滝田
ではなかったか? 高梨医師は単に名声を得たいがために、滝田達に調
査を依頼したのではなかったか?
「僕って、ひどいやつかな」
 滝田はつぶやいた。




#547/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:05  (242)
眠れ、そして夢見よ 6−1   時 貴斗
★内容
   ピラミッドとエジプト人


   一

「あら藤崎君、遊んでちゃだめよ」
 美智子は目を三角にして青年をにらみつけた。
「いや、ちょっとした気分転換に」
 青年はパズルの本を読んでいた。勤務中にさぼるなど、美智子にとっ
てはもっての他だ。
「常盤さんも少し休憩した方がいいですよ。ほら、これ分かります?」
 青年は開いたページを突き出した。
「なによ」
 そこにはマッチ棒で「1+1=」という図形が描かれていた。
 美智子は青年から本とボールペンを取り上げた。
「あっ!」
 ページのすみに数式を書きつける。
    1+1=10

「一足す一は十ですか?」
「その読み方は正しくないわね。読むとしたら一足す一はイチゼロかし
ら」
 青年は狐につままれたような顔をした。
「これは数字を二進数で表した場合。じゃあこれは?」
    1+1=1

「一足す一はイチ、でいいんでしょうか」
「この場合のプラスは論理和。読むとしたら一オア一は一かしら」
「あはは。常盤さん、数学の先生になれば良かったのに」
 美智子はちぎれんばかりに首をふった。
「いやよ。絶対にいや。私、子供がうるさいの、大っきらい」
「ああ」
 青年は口だけ半笑いで眉は八の字になっていた。
「要するに一とかプラスというのは数字や記号の定義でしかないのよ。
だから一足す一は三でもかまわないし、百でもいいのよ。プラスという
記号をそういうふうに定義すればいいんだわ」
「そんな。普通は一足す一は二じゃないですか?」
「いいえ。同じことよ。それも定義の一つだわ。数学というのは定義の
上に組み立てられた美しい論理なの」
「あの、それ、あくまでも常盤さんの考えですよね」
「そのパズルだってそうだわ。どうせマッチを二本動かして別の文字を
作るとか、そういうのなんでしょうけど、それだってそういう関数の定
義だわ」
「そうかなあ。普通は一足す一は二っていうのは、一つのりんごと一つ
のりんごを合わせると二つになるっていう、そういうことだと思うんだ
けどなあ。そういうふうに習いませんでした?」
 はたしてそうだろうか。美智子はその教え方には昔から疑問を持って
いた。それは物理現象を数学で記述したということであって、数学その
ものではないような気がする。
「じゃあ、二つのりんごと、三つのみかんを持ってきました。あわせて
いくつ?」
「え、五つじゃないんですか?」
「正解。それじゃあ、二つのりんごと、三本のボールペンを持ってきま
した。あわせていくつ?」
「それは……五個じゃないんですか?」
「それはおかしいわ。りんごとみかんの場合は、まだ同じ果物の範疇に
入るからいいけど、りんごとボールペンの場合は、あくまで二つのりん
ごと三本のボールペンにしかならないんじゃないかしら。やっぱり、数
学というのは関数とかそういうものの定義と、そこから導かれる論理な
のよ。一つのりんごと一つのりんごを合わせると二つになるっていう、
“例え”ではないわ」
「そうかなあ。現象を記述する方法として“一足す一は二”という表現
が生まれたという気もしますけど」
「そう? それじゃあね」
 さらに問題を出そうとする美智子の目のすみに、何かちらつく光が映
った。
 美智子はモニターの方に顔を向けた。
「先生は?」
「えっ? 先生? 先生の定義ですか」
「先生は所長室にいるの? 早く呼んできて!」


   二

 滝田が駆け込んだ時、ちょうど砂嵐がおさまるところだった。ぼんや
りとした映像がだんだんとはっきりとしてくる。一つ一つの物体の輪郭
線が、明瞭になってくる。
「倉田氏かな? それとも古代エジプト人か?」
 青空をバックに、大きな三角形が浮かび上がってきた。いや、上の方
が欠けている。どちらかというと台形に近い。それはピラミッドだった。
上半身裸の男達が、その根元に群がっている。すると、古代エジプト人
の方だ。
「この間の続きだとすると、ヒッドフト王のピラミッドを造っていると
ころだわ」
「倉田さんは起きてる? 寝てる?」
「眠っています」
「起きてる?」というのも変な表現だな、と滝田は思う。レム睡眠行動
障害時も目は覚めていないのだから。
 真っ青な空には雲がわき立っていて、白熱した太陽が砂をこがしてい
る。
「かわいそうだなあ、あの奴隷達」と、青年がつぶやいた。
「あら、奴隷じゃないわ。彼らは庶民よ。報酬としてもらえるビールの
ために、自発的に働いているのよ」
 風景が動き始めた。謎のエジプト人は彼ら労働者達に近づいていく。
 労働者のうちの一人が、こちらに向かって手をふった。ちぢれた髪の、
口ひげをはやした男だ。若いのか、年寄りなのかよく分からない。痩せ
て肋骨が浮き出している。画面はその男に近づいていく。
「おや、顔見知りができたようだな」と滝田は言った。
 男が何か二言三言しゃべると、画面が大きく上下にゆれた。うなずい
たようだ。別の、太った男がロープを指差す。画面の両端から腕がのび
てひもを握る。
「倉田さんは労働者の仲間入りをしたようね」
 いったい何のために、と滝田は思う。ただ単にビールを飲みたいため
だろうか。それだけならいいのだが。
 エジプト人は顔を上げた。巨大な斜路が左の方からのびて、人々が石
をピラミッドの上部に運び上げている。
「このピラミッドは、結局はなくなってしまうんでしょうね」と、青年
が言った。
「そうだな。そうなってくれないと困る。残ると歴史が変わってしまう」
「先生はまだその考え方にこだわっているんですか」美智子が例によっ
てつっかかってきた。「これは単に夢の中の風景にすぎないんじゃないか
しら。実際に倉田さんがここにいるという証拠は、何もないんですよ。
これが実際のその場の景色だという根拠は、何もないんです」
 この間は倉田氏が古代エジプト人になっていることは確実だと言って
いたくせに、と滝田は思う。
「そうだな。倉田さんが何か痕跡でも残してくれればな。何世紀も後に
なって我々が見ても分かるような跡を残してくれれば、確かにここにい
たという証しが残るんだがな」
 だが、それは危険な考え方だった。下手をすると歴史が変わってしま
うかもしれない。しかし科学者の立場としては、ぜひ証拠を残してもら
いたい、という思いもある。
 大変な重労働を何万人もの人が何十年もかけて、一つのピラミッドを
造るのだ。当時のファラオの権力がいかに偉大なものであったかが分か
ろうというものだ。
 ロープを引っ張る腕を映しながら、画面が暗くなっていった。


   三

 所長室の扉がすごい勢いで開いて、美智子が駆け込んできた。
「先生、倉田さんが」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子を追いかけながら尋ねる。
「倉田さんの方か。エジプト人の方か」
「倉田さんです。しかも、研究室にいます」
 倉田氏か。そっちの方がよほど気になる。この間の夢ではやけくそに
なっているみたいだった。しかしどうした風の吹き回しだろう。もう研
究室には現れないと言っていたはずだが。
 部屋に飛び込むと、藤崎青年が青い顔をしてモニターの前に立ちすく
んでいた。
 青年を押しのけるようにして画面の前に割り込んだ。ディスプレイに
は倉田氏が映っていた。今までの夢と違う。これまでは倉田氏の視点で
見ていたはずだ。滝田は隣のベッドルームで眠っている彼の姿しか見た
ことがない。それが今は、百歳の老人のようなあの顔が、しっかりと眼
を開けて薄笑いを浮かべているのだった。彼は細長い紙を手に持って、
こちらに突き出していた。その紙には墨で、「電話しろ」と大きくと書か
れていた。
「人の夢をのぞくな」と言った時に滝田の電話番号を知ったのだから、
彼の方からかけてくることもできるはずだが、覚えていないのだろう。
 携帯で部屋の電話にかける。倉田氏がすかさず夢の中の受話器を取る。
「もしもし」
 受話口の底から、怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「私の夢をのぞくなと言ったはずだ」
「いえ、倉田さん、この間説明したように……」
「あなた達は自分の頭の中をのぞかれて平気なのか!」
「いえ、あの、その」
 言葉がしどろもどろになる。いったい何と言い訳したらいいのだろう。
「倉田さん、これをやめたらあなたとの連絡方法がなくなってしまうん
ですよ」
「結構だ。早く私を病院に戻すべきだ」
 そんなことまで知っていたのか。
「とんでもありません。病院で治せなかったからこそ、ここに来てもら
ったんじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 薄笑いが、ぞっとするような冷たい笑みに変わった。
「あなた達は馬鹿者だ」いつの間に持ったのか、握りしめたとんかちを
滝田に突き出した。「大馬鹿者だ」
 金槌を振り上げた。次の瞬間、目の前が真っ白になった。耳をつんざ
く音が響いた。反射的に顔の前に持ってきた腕に、モニターの破片が襲
いかかってきた。
「先生、大変です。夢見装置が壊れました」
 美智子が金切り声で叫んだ。
 恐る恐る目を開けると、周りがやけに明るかった。なんだか様子が変
だ。
 滝田は呆然として辺りを眺め回した。砂の大地と真っ青な空が広がっ
ている。なんだ、ここは。一体どうしたというのだ。振り向いた滝田は
愕然とした。そこには巨大なピラミッドがそびえ立っていた。
 そんな馬鹿な。研究室はどこに消え失せたのだ。美智子は、青年はど
こに行ったのだ。
「まさか」滝田はつぶやく。「まさかそんなことが」
 ピラミッドに近づいていく。てっぺんの方がまだ完成していないそれ
は、明らかにヒッドフト王のピラミッドだった。
「あなたが声の主か」
 突然聞こえた声に驚いて振り返った。
「とうとうここまでたどり着いたか」
 そこに立っていたのは、褐色の肌に首飾りをつけ、腰布を巻いた男だ
った。
「そんな馬鹿な」
 顔に見覚えはないが、倉田氏の口から聞いたその野太い声から察する
に、謎の古代エジプト人だろう。
 画面に映る風景が割れて、粉々の断片となって飛び散った。そこに一
瞬だけ、真っ黒な空洞が口をあけ、そして真っ白になった。美智子が夢
見装置が壊れたと叫んだ。
 その時の衝撃で滝田が夢の中に引きずり込まれたとでもいうのか。ま
さか。馬鹿げている。
「どうした。顔が真っ青だぞ」
 だが他に考えようがなかった。それ以外にこの状況を説明する方法が
みつからない。絶望が頭の中に広がっていくのを感じた。
 ああ、なんということだ。倉田氏の眠りを観察し続けた結果が、これ
だというのか。この世界に出口はないのか。永遠に囚われ人となってし
まうのか。
 気がつくと、ひざまづき、砂をつかんでいた。
「悲しむことはない。さあ、立ちなさい」
 エジプト人に促されて、ふらふらと立ち上がった。
「こちらへ」
 そう言うと、彼は先に立って歩き始めた。ピラミッドに沿って歩いて
いく。
「どこに行くんですか」
「あなたが本当に見たかったものを見せてあげよう」
 いったい何の事だ? エジプト人は角を曲がった。滝田もついていく。
 地下への入り口にたどり着いた。
「この下だ」
 狭い階段を降りていく。滝田はなんだかひどく、嫌な予感がした。滝
田が本当に見たかったもの? その逆で、滝田が見たくなかったもので
はないか? そんな気がしてきた。
 ついに玄室へとたどりついた。燭台がうっすらと照らすそこは、いか
にも殺風景な場所だった。華やかな壁画や、副葬品といったものがある
わけでもなく、まるで地下牢のようだった。
「あれだ」
 部屋の中央に石棺がある。エジプト人は足早に歩み寄り、いかにも重
そうな石の蓋を、いとも簡単に横にずらした。重い音をたてて、蓋が地
面に落ちた。
「さあ、見なさい」
 のどが鳴った。恐る恐る近寄っていく。
「さあ」
 恐々とのぞきこむ。
 そこには男が横たわっていた。腰布だけを身につけたその人物の肌は
褐色ではなく、青白かった。彼の顔を見た瞬間血の気がひいた。
 それは、滝田の父親だった。父が、そこに納められていたのだ。眠っ
ているのか、死んでいるのか分からない。
「あなたはこれを見たかったのだろう? あなたはこれを、知りたかっ
たのだろう?」
 エジプト人の声が部屋に反響する。
「嫌だ。嫌だ! 私はこんなものを見たくない」
「見るがいい」
 横たわった父の目が、いきなり開いた。
「健三……宿題を……」父の口が震える。「高梨医師に……報告を……」

「嫌だ!」
 滝田はふとんをはねのけた。慌ててあたりを見まわす。外の街灯の明
かりが、カーテンを通してうっすらと差し込んでくる。自分の寝室だ。
胸に手を当てると早鐘をうっていた。
 また悪夢を見てしまった。




#548/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:10  (240)
眠れ、そして夢見よ 6−2   時 貴斗
★内容
   四

 これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催
眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御
見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思わ
れます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全
です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。

 パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィン
ドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだい
たい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書
き足してある。
「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックす
れば、この報告が高梨医師に送付される。
 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿
題だとも言える。
 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせ
たまま、もうかれこれ二十分がたつ。
 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ
合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。
吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線
香のような煙が立ち昇っている。
 突然大きな音をたててドアが開かれた。
「先生、大変です」
「あっ」
 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんというこ
とだろう。本当にこれで良かったのか。
 眉をひそめて青年を見る。
「どうした」
「倉田さんが大変なんです」
 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。
「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」
「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」
 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててつい
ていく。
 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。
倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか?
 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を
見た滝田は口を丸く開いた。
 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土
気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけにな
ってしまった。
「病院に連絡した方がいいでしょうか」
「そうしてくれ」
 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこん
だ。
「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」
 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったよう
に思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分
かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話
すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態に
なっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでい
て、結局何も分かっていないのだ。
 青年が戻ってきた。
「一時間ほどで来るそうです」
 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を
見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際
に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らな
いのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代
エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の
方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているの
ではないだろうか。
 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。
「失礼します」
 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴
診器をあてた。
 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。
「心臓がだいぶ弱っているようです」
 医師はつぶやいた。
「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」
 滝田はかぼそく言った。
「なんとも言えません」
「病院に戻さなくていいんですか」
「患者の夢については、何か分かりましたか?」
 医師は落ち着き払った声で言った。
「なんですって?」
「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですか
ら」
「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しま
した。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」
 怒気を含んだ声で聞く。
「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告
して検討します」


   五

 ひどいと思った。夢の謎が分かるまで、病院に戻さないつもりなのだ
ろうか。滝田は一日中憤りがおさまらなかった。
 その夜、倉田氏がまた夢を見た。
 砂嵐が消えると、またあのピラミッドが映った。太陽が地平線の近く
にある。すると夕方だろうか。その日の作業は終わったのか、人っ子一
人いない。
「先生、レム睡眠行動障害です」
 青年が叫んだ。
「えっ」
 滝田よりも一足早く、美智子が窓辺へ駆け寄った。三人並んで下を見
る。倉田氏が立ち上がっていた。
「僕行ってきます」青年がドアへと走る。「点滴を抜かないと」
「私も行くわ」
 駆け出そうとする美智子の腕を滝田はつかんだ。
「残っててくれ。残って、僕に知恵を貸してくれ」
 滝田はマイクを握り締め、スイッチを入れた。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 振り向いてモニターを見ると、雲が右に行ったり左に行ったりしてい
る。倉田氏が真上を向いて滝田を探しているのだろう。スピーカーが部
屋の上部にあるので、音声が頭上から出ていることは分かったようだ。
「またあなたか。声だけ聞こえて姿は見えない。いったい何者なんだね」
「私は研究者です。信じられないかもしれませんが」滝田は舌で上くち
びるを湿した。「あなたは今私の研究所にいます。あなたは倉田さんとい
う患者の夢の中にいて、今私は倉田さんに向かって話しかけています」
「先生、もっと筋道立てて話さないと分かりませんよ」
 美智子がささやいた。
「何をわけのわからないことを。私はここにこうしている。あなたの言
い方を聞いていると、私がそのクラタという人物の夢の中にいて、実在
している者ではないかのようだ」
「いや、あなたは存在しているのです。今あなたがしゃべっているのと
同じことを、倉田さんもしゃべっているんです。今あなたがしているの
と同じ動作を、倉田さんもしているんです。倉田さんの耳に聞こえてい
ることを、あなたも聞いているんです」
「つまり、そのクラタという人物を介して、あなたは私と話し合ってい
ると、そう言いたいわけだな?」
「そうです。良かった。あなたは頭がいい方のようだ」
「ほめられてもあまりうれしくないぞ。私に何の用だ」
「倉田さん、でいいのかな」
 スピーカーから青年の言葉が伝わってきた。
「またすぐそばから声が聞こえたぞ」
「その男も私の仲間です」
 マイクを握る手に力が入る。
「お前も研究者か」
「え? ええ。よく分かりましたね」
「何の用だ」
「点滴を抜きにきました」
「テンテキ? それは何だ」
「それは、つまり、今あなたが腕からぶら下げている……」
「何もぶら下げていないではないか」
「藤崎君、いいから抜きなさい」と滝田は命令した。
「これが刺さったまま歩き回ると危ないんです。つまり、その、ごめん
なさい!」
 倉田氏の口から「痛いっ」という声が漏れる。
「なにをするのだ。何の魔法をかけたのだ」
「あなたの腕に見えない蛇がかみついていたのです。彼はそれを取り去
ったのです」と滝田は言った。
 美智子が顔をしかめて首をふる。
「テンテキだの蛇だの、何を言っているのだ。言っておくが私は夢の中
にいるということを信じたわけではないぞ」
「いや、夢の中にはいないのです。あなたはそこに実在するのです。つ
まり、何と言ったらいいのかな」
 滝田は困った。本当に何と言っていいのか分からなかった。
「私達は冥府の国、アアルにいるんです」
 美智子が口をはさんだ。
 おいおい、そんなことを言っていいのかと、滝田は思う。蛇がどうし
たなどと言わなければよかった。
「おや、この間の女性だな? するとあなた達はオシリスの使いだとで
も言うのかな?」
「そうじゃないですけど、似たようなものだわ。倉田さんという、夢を
使って遠く離れた場所の人と交信する能力を持った魔法使いを通して、
あなたと話しているのよ」
「研究所というのも、アアルにあるのかな? 何の研究をしているのだ」
 彼は頭がいい。とてもごまかしきれないぞと、滝田は思う。しかし全
てを正直に説明するには、時間がなさすぎる。こうしている間にも夢が
終わってしまうかもしれないのだ。
「まあいい。あなた達が何者であるにしろ、私と話をしたいのだったら、
つき合ってやろう」
 よかった。滝田はほっとした。


   六

「あなたはなぜペルエムウス造りに協力しているんですか」
 滝田はマイクに向かって言った。
「私は自分の名前も知らない。自分が何者かも分からない。どうやらこ
れは治りそうもない。だからせめて、私がここに存在したという痕跡を
残したいのだ」
 みぞおちに冷たいものが流れた。
「いいものを見せてやろう」
 ピラミッドに沿って歩いていく。さっきまで遠くから眺めていたのに、
また瞬間移動したのだろうか。
「おや、こんな所に見えない障壁がある」
「部屋の壁につきあたりました」
 スピーカーから青年の緊張した声が聞こえる。
 しばらく止まっていたが、なぜか景色が再び動き出した。
「倉田さんが足踏みを始めました」
 なるほど。倉田氏は狭い室内で広大な大地を歩く方法を学んだようだ。
 名無しのエジプト人は角を曲がった。そしてまた積まれた石に沿って
歩いていく。
 風景が上を向いた。少し上がったところに、小さな入り口が開いてい
る。彼は自分の身長の半分程もある石をよじのぼっていく。
「この下に玄室がある。案内しよう」
 地下への階段を降りていく。だんだん日の光が差し込まなくなってい
く。
「暗くてよく見えないな」
 彼の腕が前方に伸びた。次の瞬間、その手にはたいまつが握られてい
た。まるで手品のように。
「これでスパナの謎も解明されたな」
 滝田はあごをなでた。
「モニターを壊した時のことですか?」と美智子が問う。
「そうだ。この部屋にスパナなんかない」
 階段を降りきると、平らな通路になっていた。しばらく行くと広めの
部屋に出た。壁に据え付けられた数本のたいまつに火を移していく。
 画面が一瞬暗くなった。いけない。夢が終わる。
「見たまえ、これを」
 石で囲まれた部屋には、王の前で書記が何か記録をとっているといっ
たような、簡単な壁画が描かれている。床には数体の人形のような像が
無造作にころがっている。
「これが王の墓か? なんというみすぼらしさだ。私はここにささやか
な彩りを加えたいのだ」
「どうするつもりです?」
「あなた達がスフィンクスと呼んでいるもの、あれは大変見事だな」
 嫌な予感がする。
「私はあの像から一部を取り、この玄室に添えたいのだ」
「やめて下さい。そんなこと」
 滝田は悲鳴をあげるように言った。
「なぜだ。素晴らしい考えだと思わないかね。あの偉大な巨像の威光を
借り、この粗末な玄室を輝かせるのだ」
「そんなことをして何になるんです。何が輝くんです」
「スフィンクスの頭部の奥、中心部から石の一片をとり、この壁のどこ
かに埋め込むのだ。私にできることといったらその程度のことだ」
「どうやって取り出すんです。スフィンクスの頭を壊すんですか。あな
た一人で」
「石切り場から切り出すのと同じ要領でやればよい。表面に溝をほり、
くさびを何本も打ち込むのだ。できないことはなかろう。労働者仲間に
話したら、賛同してくれる者が五人もいた」
「やめてください。歴史が変わってしまう」
 血の気が引いた。
「なんのことだ。私には分からないが」
 いっそ「私達は未来人です」と言おうかと考えたが、思いとどまった。
「先生、たぶん大丈夫です」美智子がささやく。「あんな大きな頭部の中
心まで掘り進むなんて、できっこありません。せいぜい頭頂部を壊すの
が関の山でしょう。その時点で彼は捕まります。それに、スフィンクス
は何度も修復作業が行われています」
「そのせいで何人もの人間が処刑されてもいいのか」
 画面が二度瞬いた。
「私は自分がどこの誰かも分からない。私は確かにこの世界に存在した
という証しがほしいのだ。私の決心は……変わら……ない……」
 スピーカーから重い音がするのと、画面が消えるのとが、ほぼ同時だ
った。窓に駆け寄り下を見ると、前にレム睡眠行動障害になった時と同
様、倉田氏は倒れていた。
「もしも彼が死んだら」滝田は独り言のようにつぶやいた。「エジプト人
も消えてなくなるかもしれない」




#549/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:16  (237)
眠れ、そして夢見よ 7−1   時 貴斗
★内容
   スフィンクスの頭


   一

 滝田は立ったまま、長い呼吸を繰り返す倉田氏の顔を見つめていた。
どうしていいか迷うばかりで、何もできない自分がはがゆかった。名無
しのエジプト人が歴史を変えようとしていることも、倉田氏の病状が悪
化していくことも、自分にはどうしようもない。
「先生、来て下さい」
 スピーカーユニットから青年の声が伝わってくる。
「どうした」
「倉田さんが夢の中に現れました。先生を呼んでいます」
 倉田氏の顔を見る。心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 階段を駆け上がりながら妙なことに気がついた。「先生を呼んでいます」
だって? 自分のほほをつねってみる。痛みは感じるようだ。また夢だ
ったらたまらない。
「僕を呼んだって? どうやって」
 ドアを開けるなりかみつくように言った。
「電話で話してるんですよ」
 滝田は受話器を握っている青年に足早に歩み寄っていった。振り向い
てモニターを見ると、どこだか分からないが、夕暮れ時の屋外が映って
いた。すべり台がある。すると公園だ。正面にはうさぎの頭の形をした
石像と、ライオンの頭の形をした石像が並んでいる。人が座れそうなく
らいの大きさだ。
 腕時計を見る。五時十七分。するとおそらく過去でも未来でもなく現
在だ。
 映像は下を向いて、パジャマ姿の胸から下を映した。ベンチにこしか
けている。ひざの上の四角く平べったい電話機から、螺旋状のコードが
のび、画面の左端で消えている。
 そうか。あれでこの研究室に電話をかけたのか。
 滝田はおかしな点に気づいた。普通は本体からモジュラーケーブルが
出ているはずだが、それがどこにも見当たらない。
「常盤君は?」
「仮眠室で寝ています。何でも昨日一睡もできなかったんだとか」
 まったく。何をやってるんだ、こんな時に。青年から受話器をひった
くる。
「今晩は、滝田さん」
 やや低い倉田氏の声は、それでも、この間聞いたのと比べていくぶん
穏やかな感じがした。
「倉田さん、どうしたんですか。この間の様子からすると、もうお話し
できないのかと思いましたよ」
「私は、自分の意思で好きなように夢を見られるわけではありません。
今日はたまたま私自身として現れることができただけですよ」
「それでも私はうれしい。倉田さんの方から私に連絡をとってくれるな
んて」
「たぶん、お別れを言いたかったんだと思います」
 倉田氏は意外なことを言った。
「私は、最近は目覚める回数が少なくなっているように感じます。たぶ
んそれ以外の時間は、古代エジプト人になっているんだと思います」
「倉田さんは、自分がエジプト人になっていることを感じるんですか」
 少しの間、沈黙があった。
「いいえ。いや、はいかな。時々ピラミッドの姿が見えることがありま
す」
 実に驚くべき告白だった。倉田氏であるのに古代エジプト人としての
風景が見えるのだろうか。
「どんなふうに見えますか。そのピラミッドは、てっぺんの方が欠けて
いませんか」
「ピラミッドとは何だ」
 急に声質が変わった。滝田は目を、飛び出さんばかりにひんむいた。
 すべり台と動物の頭の像が半透明になって、それと重なって青空とピ
ラミッドが映っていた。
 どういうことだ。倉田氏の意識と古代エジプト人の意識が入り混じっ
ているのか?
「ペルエムウスのことです。というより、あなたは誰です」
「何度も言うようだが私は自分が誰なのかを知らない。あなた達が私を
クラタと呼びたいのならそう呼べばいいだろう」
 頭が混乱する。しかし、いいチャンスだ。この間言いそびれたことを
言うのだ。
「スフィンクスの頭を壊すなんて、そんなことはやめて下さい。あなた
は世界的な遺産を破壊しようとしているんですよ。それであなたは平気
なんですか」
「なるほど、彼はスフィンクスの頭を破壊しようとしているんですね」
 声が元に戻った。画面も公園の風景に戻っていた。
「私はたぶん、どんどん古代エジプト人になっていくんだと思います」
 画面が点滅した。
「もう倉田恭介になることもないでしょう」
 画面がフェード・アウトしていった。最後に小さく、「さようなら」と
言ったように聞こえた。
 滝田は放心していた。青年も、滝田も、何も言わなかった。しばらく
して滝田は口を開く。
「どこだろうね、今の場所」
「さあ、どこかの公園みたいでしたが」
 青年の目と口が、急に丸くなった。
「あ、この場所、僕知ってます」
 青年が駆け出したので、滝田も走った。階段を駆け下りていく。玄関
から飛び出した。太陽は沈みかけ、夜が訪れようとしていた。
「おい、どこに行くんだ」
「こっちです」
 通りをしばらく走った。右に折れて、細い道に入ると、両側に植込み
が並んでいた。少し行くと、植込みが切れて小さな公園があった。
「この間、常盤さんとここに来て話したんです」
「え? 君達そんな関係だったの?」
「違いますよ」
 青年が歩いていく先にベンチがあった。滝田が長椅子の上に手をおく
と、今まで誰かが座っていたかのような温もりがあった。


   二

 倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医
師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。
「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」
 滝田が何度聞いても返事は同じだった。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。
 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。
 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに
座ってふきとっていた。
 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いた
ら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪
に加担しているような気がしていた。
 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋
な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予
想できただろう。
 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝
田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代
エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。
もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その
時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは
絶対にできない。
 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。
きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだ
ろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。
影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だ
と思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。
 その程度で済めばいいが。
 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そ
のせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝
田ではなかったか。
 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あ
るいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれな
い。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕
生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。
そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世
の中になる可能性だってあるのだ。
 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせ
るのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動
障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それ
をただ指をくわえて見ているだけなのだ。
 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、
そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をした
のと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のや
ろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。
もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があ
るだろうが。
 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間
的に隔たってしまっている。
 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はと
ぎれた。
 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。
苦しそうに首を右に、左にねじる。
「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」
 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。
「大変だ。医者達を呼び戻さないと」


   三

 遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。
今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。
それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。
 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。
「先生、来て下さい」
 現れたのは青年だ。
「どうした、まさか」
「倉田さんが夢を見ています」
 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦
皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。
「先生、早く」
 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかけ
る。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。
 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。
「どっちだ」
「エジプト人の方です」
 モニターの前の美智子が返事をした。
 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスが
そびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっき
まで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害
の状態にはなっていない。
「だめだ。歴史が変わるぞ」
 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また
瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口
ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太っ
た男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、
テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされ
ただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆ
れた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の
口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復し
た。
 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向く
と高梨が立っていた。
「いや、お久しぶりです」
 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。
「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」
 怒りをおさえて言う。
「大丈夫です。もうやってます」
 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。
「医者と看護師が来ています」
「今、夢を見ているところですか」
 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。
「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。
「どんな状況ですか」
 いたって明るい調子で聞く。
「私のメールを読んでくれましたか」
 滝田はモニターを見つめたまま言った。
「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」
 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。
「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところで
すよ」
 滝田は怒鳴った。
 高梨は呆気にとられた顔をした。
「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」
 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。
「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。
「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィン
クスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田
は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」
 高梨は少し動揺したようだ。
「なんとか、やめさせることはできないんですか」
「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」
 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククラ
イミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映
した。壁面が下がっていく。
 頼む。やめてくれ。
「あんな大きな像を登れるのか?」
「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を
披露する。
 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。
「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でク
リアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思
っている以上に身体能力が高いのかもしれません」
 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。
「倉田さんの状態はどうですか」
「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。
「藤崎君」
「行ってきます」




#550/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:20  (250)
眠れ、そして夢見よ 7−2   時 貴斗
★内容
   四

 だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろ
うか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首
の後ろに歩いていく。
 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そして
ついに頭頂部にたどり着いた。
 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。
 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。
「大変です。心臓が止まりそうです」
 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を
近づける。
「強心剤を打ってくれ」
「打っちゃだめだ」
 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。
「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」
 美智子は声を荒げた。
「歴史が変わってもいいのか!」
 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに
涙がつたうのを感じた。
 高梨が下の医師に指示する。
「待ってくれ。打たないでくれ」
「そんな。手遅れになってしまいますよ」
 下の医者が困惑した声を出した。
「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」
 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当
てられる。
「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷
ついたくらい、どうだっていうんですか」
 美智子が哀願した。
「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」
 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってく
れるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。
しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。
 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのよう
に、静かだった。
 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。
「どうした」
「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と
藤崎青年が答えた。
 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。
「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」
 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。
 画面に空が映る。
「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」
「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」
「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」
 くそっ。だめか。
「倉田さんが死にそうなんです」
 とにかく思いついたことを言った。
「それが私と何の関係があるのだ」
「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」
「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」
「ではあなたには今までの記憶がありますか?」
「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」
「それが何よりの証拠です」
 エジプト人は黙ったまま返事をしない。
 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえている
のは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。
「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」
「私にはどうでもいい」
「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」
「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」
 だめか。何かやめさせる方法はないのか。
「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。
「その腕を捕まえろ」
 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。
「捕まえました」
 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。
ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。
「ああ!」
 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやっ
て。
「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。
残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも
美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。
彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心
の臓は怪物に食われるでしょう」
「私にどうしろと言うのだ」
 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。も
う時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女
の意図を悟った滝田が代わって話す。
「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが
仕方がない。「アアルで会いましょう」
 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。
 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成
り行きに任せるしかなかった。
 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。
 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。
「うう!」
 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。
 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしてい
る仲間の姿が映っている。
「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」
「倉田さんが倒れました」
 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。
「強心剤を打て」
 高梨医師が怒鳴った。


   五

 滝田は倉田氏の病室に入っていった。前に会った倉田恭介の妻、倉田
芳子とその二人の息子がいた。といっても兄の方は夢の中で見ただけだ
が。
「まあまあ先生、御無沙汰しております」
「どうも、今日は」
「主人の診察ですか?」
「いえ、その後どうしているかと思いまして、ご様子を拝見させていた
だくために来ました」
「お父さん、こちら滝田、ええとなんとか病院の」
「滝田国際睡眠障害専門病院の滝田です」
 滝田は倉田氏を見て驚いた。この中肉中背のおっさんが、あのミイラ
のような倉田氏と同一人物とは思えない。
「倉田さん、今日は」
「ああ、今日は」
 ぼんやりしたやや低い声が発せられる。
「私が誰だか分かりますか?」
「いいえ。でも、滝田先生ですよね」
 その目はまるで滝田の後ろにある何かを見つめているようだった。
「では、私の声を覚えていますか?」
「いいえ」
「私は倉田さんの睡眠障害について検査をしていました。その時に見た
夢は覚えていますか?」
「いいえ」
 だとすると聞くことは何もない。滝田は安心した。
「お父さん、先生のおかげで目が覚めたのよ。体が治ったのよ」
「いえ、治療をしたのはこちらの病院ですから」
 そうだ。滝田は結局何もしていない。
「先生、それでね、主人の会社、なんとか持ち直しそうなんですよ。こ
れでミケにもご飯を食べさせられます。あ、ミケというのは野良猫でし
てね。いやあ医療保険に入っていて良かったですよ。入院とかいろいろ
かかりますでしょ」
 滝田はなんとなく、一刻も早くここを立ち去りたくなった。倉田氏が
恐ろしい事を言い出しそうな不安にかられた。このおばちゃんもやかま
しいし。
「あ、私は高梨先生に呼ばれて来たものですから。ちょっとお顔を拝見
させていただきたくて立ち寄らせてもらいました。今日はこの辺で失礼
します。いやあ、健康そうでなによりです」
 足早に病室を立ち去る。
 高梨医師からの報告では、あの後倉田氏は小暮総合病院で目覚めたと
いう。最初は二十時間程寝ていたが、一回の睡眠時間も徐々に短くなっ
て、消灯、起床時間に合わせて眠れるようになった。起きた直後どんな
夢を見ていたかの聞き取りは欠かさなかった。高校時代の同級生に会っ
ていた、空を飛んでいた、熊に追いかけられていた、等ありふれた内容
だ。
 滝田はエレベーターに乗り、受付で聞いた通り副院長室がある五階の
ボタンを押した。
 古代エジプト人になったり、滝田睡眠研究所に現れたり、小暮総合病
院の中を歩き回ったりといったことはなかったそうだ。
 廊下に出て高梨医師の部屋に向かう。
 その後レム睡眠行動障害も起っていないという。
「副院長室」と書かれたプレートがあるドアをノックする。
「どうぞ」という声が聞こえたので「失礼します」と言いながら入って
いく。
「お待ちしていました。滝田先生」
 高梨医師は快活な笑みを浮かべ、デスクの椅子から立ち上がった。
 彼には今もいい印象を持っていない。
 手で指し示されたソファに座ると、テーブルを挟んだ向かい側に高梨
も腰かけた。
「これから、どうなさるのですか」と滝田は聞いた。
「どうもしやしません。治ったら退院させて、おしまいです」
 この男は何の責任も感じていないのだろうか。滝田は腹がたってきた。
「学会で発表しますか? 研究の成果はお渡ししますか?」
 鞄の中にある三テラバイトのUSBメモリには、倉田氏の夢から抜粋
した映像と、その分析と考察が入っている。倉田氏に関する資料のうち
のかなり重要な部分だ。倉田氏の顔はモザイク処理し、文書にはK氏と
書いてある。音声のうち「倉田」の部分は「ピー」という自主規制音に
変えてある。高梨に預けるかどうかは今日の話し合いで決めるつもりだ
った。
「今日ご足労願ったのは他でありません。その件ですが、私どもの方で
慎重に検討を重ねた結果、公表はしないと結論付けました」
「ほう、そりゃまたどうしてですか?」
「古代エジプト人になってスフィンクスの頭を壊そうとしたなんて、そ
んなのはただの夢かもしれませんよ。実在したという根拠がありません」
「しかし、倉田さん自身として我々の研究室に現れたのはどう説明しま
す? 彼はあの部屋を見たことがないんです。証拠の映像も残っている
んですよ?」
「起こったのはすべてオカルト現象でしょう。合理的に解釈することな
んて所詮無理なんです。しかし、寄付金は約束通り提供させていただき
ますよ」
 最初に訪ねてきた時と、言っていることが違っていた。医学や科学の
世界に一石を投じるかもしれない。そう話していたのではなかったか。
「それは結構です。結局私達は何の役にも立っていませんから」
「とんでもない。先生方が睡眠障害の元凶である古代エジプト人を殺し
てくれたから、倉田は治ったんじゃないですか」
 頭に血が上った。
「いりませんよ、そんなの」滝田は自分の口調がきつくなるのを感じた。
「あなたは倉田さんが重態なのに夢の解明を優先させた。自分が名声を
得たいがために。責任を感じないんですか」
 高梨は急に能面のような顔になった。
「私達はわらにもすがる気持ちだったんです。倉田の夢に、病気の本当
の原因が隠されているかもしれないと考えたんです」
「私は後悔しているんです。倉田さんをまるで、実験動物みたいにして」
「先生に罪はありません。先生は昏睡状態の患者と夢見装置を通してコ
ミュニケーションを取ろうとしたんです。クランケとの会話は重要です。
先生は決して、倉田を実験台にしたのではありません」
 そんな大それたことではない。滝田にしたって、最初は興味本位では
なかったか。
 滝田は踏ん切りをつけられずにいた迷いに対して決断した。
「倉田さんの資料はすべて破棄します」
「そんな、もったいない」
「こんなものが公になったら、倉田さんはどんな目にあうか分かったも
んじゃありません」
 モザイクをかけたところでやっぱり安心はできない。
「先生、余計なお世話かもしれませんが、くれぐれもこの件は口外なさ
らないようお願いします」
 高梨との取引のことだろう。
 高梨は胸元に手を突っ込み、分厚い茶封筒を取り出した。それをうや
うやしく滝田に差し出す。
「では謝礼だけでも」
「いらないと言ってるでしょうが!」
 手を振って払い落とす。高梨は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 滝田は憤って立ち上がった。
「先生、夢と睡眠障害の関係について調査をされているのでしたよね。
その研究は、深めて下さい。睡眠異常に悩む人が減ることを祈っていま
す」
 滝田は返事もせず、副院長室を飛び出した。
 足が勝手に倉田氏の部屋に向かう。何かをしなければいけないような
気がした。全部彼にぶちまけてやろうか。
 すべては終わった。これからは普通の生活に戻るのだ。かわいそうな
犬や猫の頭に針を刺し、モニターの波形に一喜一憂し、美智子とくだら
ないことで口論するのだ。そうだ。それがいい。
 倉田氏の病室の前に戻ると子供が廊下の窓から外をながめていた。弟
の方だ。少年は滝田を見ると不安そうな顔をした。
 滝田はしゃがんで少年に微笑みかけた。
「退屈かい?」
「うん、つまんない」
 滝田は迷った。手に持った黒い鞄を見つめる。資料を取っておくべき
か捨てるべきかについてはずいぶん悩んだ。そして破棄すると決断した。
だが本当にそれでいいのだろうか。バッグを開き、USBメモリを取り出
した。
「これを」言葉がつまる。こんなことをして大丈夫なのだろうか。「これ
を、君にあげよう」
「なあに?」
「これはね、お父さんの病気について記録したものなんだ」
「僕にくれるの?」
「でもね、他の人に言っちゃだめだ。お母さんにも言っちゃだめだ。そ
れくらい重要なものなんだ。約束できるなら、君にあげる」
 少年はほほに人差し指をくっつけて首をかしげた。
「おじさんは、これを君に託したいんだ。託すって、分かるかい? 大
事なものを人に預けることだ」
 そうだ。この少年なら適任のような気がする。彼がこの内容を理解で
きるほどに成長した時、父親に起こった事実を知るだろう。後は、どう
するかは彼次第だ。少年はなおも考え込んでいた。
「うん、いいよ。僕が預かってあげる」
「そうか。誰にも内緒だよ。君とおじさんだけの秘密だよ」
「男の約束だね」
「そうだ。そうだよ。君は良い子だな」
 少年がUSBメモリを受け取るのを、複雑な思いで見ていた。




#551/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:25  (378)
眠れ、そして夢見よ 8−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/15 23:37 修正 第2版
   新たな夢


   一

 太陽の光がカーテンの隙間から漏れている。滝田はゆっくりとまぶた
を開く。何万光年も宇宙を旅してようやく目指す恒星にたどりついた宇
宙船の乗組員が、冷凍睡眠からたった今覚めたかのように。ゆっくりと
体を起こし、ベッドサイドテーブルの上にある目覚まし時計をつかむ。
まだ五時だ。セットしている時間は六時だが、最近ではこの時計が鳴る
のを聞いたことがない。
 歳とともに目覚める時間が早くなっていくのを感じる。大きくあくび
をし、頭をかく。元は真紅に近い色だったのが、すっかり薄桃色に変わ
ってしまったじゅうたんの上に足をおろす。
 カーテンを開くと薄い青色を帯びたような街が、もうすぐ起き出しそ
うな気配を見せていた。
 一段踏むたびに軋んで音を立てる階段を下りていく。だいぶ老朽化し
てきたな、と滝田は思う。滝田が老けていく早さに合わせて、この家も
また老いていく。売ってマンションでも買おうかと考えていた時期もあ
ったが、何を今更と思う。
 台所に立ち、水が入れっぱなしになっているやかんがのったクッキン
グヒーターのスイッチを押す。冷蔵庫を開け、きゅうりの漬物と卵を一
個取り出す。テーブルに置いてお新香のラップをはがすと、途中でちぎ
れて少しだけガラスの器の端に残った。それをはがして、大きい方と小
さい方を合わせて丸めてごみ箱に放った。急須をたぐり寄せ、ふたを開
けて中をのぞくと、湿ったお茶の葉が茶こし網にこびりついている。か
えようか、とも思ったが、昨日一度しか使っていないことを思いだし、
そのままにした。食器棚から小皿と湯のみと茶碗を取り出す。炊飯器を
開け、昨日の残りをよそう。椅子に座り、卵を割り小皿に落とし、醤油
の小瓶を握り、しずくをたらす。二滴、三滴。箸で混ぜると、黄味と白
味と醤油とがだんだんとその境界をなくし、それぞれの意味を失ってい
く。ご飯の真中に穴をあけ、流し込む。
 そうこうしているうちにやかんから湯気が吹き出してきた。滝田は笛
を開けたまま湯を沸かす。あの小うるさい音が嫌なのだ。
 座り込んでしまうともう一度立つのは面倒くさいと感じる。勢いを増
す蒸気に急き立てられて仕方なく立ち上がる。
 熱湯を急須にそそぎ、ケトルをクッキングヒーターの上に戻し、ほっ
として椅子に座る。しばらく待って湯のみにつぐと、ようやく朝飯の準
備が終わる。ご飯と卵をよく混ぜてほおばる。きゅうりをかじり、お茶
をすする。
 二年前までは、炊飯器など使わずコンビニで買ってきたレンジで温め
るだけの米を食べていた。五年前はトーストと目玉焼きだった。
 この国の人間は歳をとるほど日本人に帰るのかもしれない、と滝田は
感じる。どうして欧米化がいくら進んでも白米はなくならないのか。な
ぜレトルトご飯は味気ないと感じるのか。かまどで炊いていた頃の記憶
は、しっかりと遺伝子の中に残っていて、歳をとるに従ってよみがえっ
てくるのかもしれない。蒸らしたお米こそ、日本人の原風景なのかもし
れない。
 今では洋食、和食、中華、様々な料理が、安いものから豪華なものま
で、レンジで温めたりお湯を注いだりするだけでできる。二十一世紀に
入って猛烈に科学技術は発展し、それはこの国の食生活も変化させたよ
うだ。科学が進歩するほど、日本人は原風景から離れていくような気が
する。
 だがその繁栄も、最近になってようやく落ちついてきたようだ。新し
い世紀に入って続いた勢いも、さすがに終わりに近づくと萎えてくるの
かもしれない。
 しかし一旦沈静してしまうと今度は停滞期に入る。睡眠研究の分野に
おいても目新しい話題は出てこず、今までの大発見、大発明をつついた
り、いじくり回したりするばかりだ。
 滝田は自分の身の周りがどんどん老いていくのを感じる。つまらない
事を考えているうちにだんだんとまずくなっていく食事をやっと終え、
顔を洗いに行く。
 洗面台に立ち、鏡に映る髪が真っ白になってしまった自分の顔を、滝
田はぼんやりとながめた。


   二

「おはようございます」
 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面
目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年
目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男
の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信
できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで
観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのは
アメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるの
だ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく
物足りない。
 美智子か。
 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。こ
の十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室
のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリス
に移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田と
いう男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれな
いまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。
変わらないのは滝田だけだ。
「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言って
いました」
 滝田ははっとして宮田を見つめた。
「クラタ? 下の名前は?」
「いえ、苗字しか聞いていません」
 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長
だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はあ
る。
「年齢は? おじさん? おばさん?」
「若い男の方のようでした」
 滝田は目を伏せた。
「あ、そう」
「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うと
いうことでした。お断りしますか?」
「いや、一応会うよ」
 廊下に出てゆっくりと歩く。
 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今に
なって彼らが滝田に何の用があるというのか。
 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはし
ばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと
思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカ
ーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった
机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張り
だし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふ
く。
 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするの
は限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気で
かかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草
を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間
は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんや
りしているのだが。
 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿に
すりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に
着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲
む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。
 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいし
て読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろう
か。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間
は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。
「先生、お客さんっすよ」
「あ、そう」
 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。
頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。
「応接室に待たせてますんで」
「うん。すぐ行く」
 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔
をしかめた。
 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。


   三

 応接室に入っていくと、水色と白のチェック柄のTシャツにジーパン
というラフな格好の若者がソファから立ち上がって会釈をした。
「こんにちは」ととりあえず挨拶する。
 若者は滝田の顔を見ると満面の笑顔になった。
「あ、こんにちは」
「あの、面会の場合はアポを取ってくれないと困るんですけど」
「先生、僕のこと覚えていませんか」
 奇妙なことを言う青年に滝田は不信感を抱いた。見覚えのない顔だ。
「僕、倉田志郎といいます。倉田恭介の息子です」
 あっ、と驚いた。そうだ。倉田という名で若い男といえば、倉田の息
子がいたではないか。突然の再会にびっくりすると同時にうれしくなっ
た。
「弟さん? それともお兄さん?」
「弟の方です」
 すると、USBメモリを渡した子だ。
「いやあ、大きくなったなあ。まあまあ、とにかく座って」
 青年が座るのに続けて滝田も腰掛けた。
「久しぶりだなあ。今、何やってるの?」
「大学生です。先生はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。今日は何の用?」
「まずはお礼を言いたくて。先生から頂いたUSB、もらった当時は何な
のかさえ分かりませんでした。高校生になった時に父がパソコンを買っ
て、中身を見て、難しい用語は分からなかったのですが、父がどういう
状態だったのかなんとなく知ることができました。有難うございます」
「だったら、今はもっとよく分かるだろう?」
「はい、検索して調べましたから」
 記録に余計なことを書かなかっただろうか、と滝田は心配になった。
大丈夫だ。夢の観察はあくまで病気の原因を探るためということになっ
ていたはずだ。
「どうしてここが分かったの?」
「滝田国際睡眠障害専門病院は見つかりませんでした。滝田研究所のホ
ームページを見て来ました」
 サイトには滝田の名前も顔写真も載せているから、渡した名刺がまだ
あれば分かるだろう。
「お父さんは今どうしてる?」
「父は二年前にクモ膜下出血で亡くなりました」
「そうか。お気の毒に……」
「僕は秘密を守りました。だから父は何も知らずに死にました。その方
が幸せだったと思います」
「そうだね。お父さんは自分に起こった事を覚えていないようだったか
らね」
 滝田は倉田氏を見殺しにするつもりだった。だが美智子の機転によっ
て助かった。しかし結局は死去してしまった。まああの悪夢のような状
態で亡くなるよりはマシだろう。
「先生の考えはおもしろいですね。前世の記憶をたどって過去にさかの
ぼったなんて。僕、すごく興味を持ちました」
「ああ、あくまで推測だけどね。しかしあの睡眠障害はなんだったのか、
前世に戻るとしても、どうしてそんなことができたのか、全く分からな
いままなんだ」
「僕も結論を出すまでに時間がかかりました。僕達の症状はいったい何
なのか。最近になってようやく僕なりの考えがまとまってきたんです」
 僕達? 滝田は聞きとがめた。この青年は何を言っているのだ?
「実は僕、毎日の睡眠時間が二時間くらいなんですよ。中学の時からず
っとです」
 あまりにもさらっと言ったものだから、滝田は目をむいた。青年は笑
顔のままだ。日に焼けたその快活な表情は、とても病気には見えない。
「君は、不眠症なのか」
「そうなんです。でも、先生。僕は大丈夫なんです。昼間居眠りをする
わけでもないし、どこか体が悪いわけでもないんです。それでも母は心
配して、あっちこっちの病院に連れていきました。でも、どこでも同じ
です。薬をもらって、それでおしまいです。生活にも支障はありません。
結局母はあきらめました」
 久しぶりの再会の喜びが、早くも不吉な疑念へと変わり始めた。父親
の睡眠障害は複雑怪奇なものだったが、息子の症状も変わっている。睡
眠時間が二時間だって? それでどこにも異常がないって? 中学から、
大学まで。
 もっとも、八時間は寝るべきなどというのは、人が勝手に決めこんだ
ことであって、短い時間の眠りでも平気な人間は存在する。ナポレオン
が毎日三時間しか寝なかったのは有名だし、エジソンも短眠者だった。
もっとも、ナポレオンは居眠りの天才であったとも言われているが。
「記録を読むまで、僕は自分の不思議な病気がなんなのか分からなかっ
たんですよ。この症状が始まってから時々見るようになった夢のことも」
 どうやら不吉な予感が当たりそうだ。この青年も、父親のような夢を
見るというのか。
 彼は少しも不安な様子を見せず、いきいきとした調子で続ける。
「僕は、父とは反対に未来が見えるんです。少し先のことから、遠い将
来のことまで。中学の頃は本当に時々でしたが、今は確実に見ることが
できます。見る、というより、行くといった方がいいかもしれません」
「つまり君は、予知夢を見るというんだね。君はそれが本物だって証明
できるかい?」
「証明、というとちょっと難しいんですけど、よく当たるんですよ。遠
い未来は実証できませんけど、近い将来ならまず当たります。先生は明
日危ない目に会いますよ。先生がびっくりした顔をして急ブレーキを踏
むのを、昨日夢で見ちゃったんですよ。僕は横にいました。もう少しで
大事故ですよ」
 まさか、と滝田は思う。父親が特殊な能力を持っていたからといって
その息子にもそんな力があるなんて。作り話ではないのか?
「で、君の考えはどうなの? お父さんや君の能力は、何だと思うんだ
い?」
「タイムトラベルの一種です」
「超能力っていうこと?」
「そうです。僕は父とは違って、睡眠時間は短いものの普通に生活する
ことができます。僕らの力は夢が大きな役割を果たします。だから、発
現できるようになる時に、代償として眠りに異常が起こるんだと思いま
す」
 それは滝田もこの十年間考えていたことだった。滝田は青年の意見を
もっと聞きたいと思った。
「お父さんの睡眠異常は何だったんだろう?」
「父は無意識に試行錯誤したんだと思います。自分の望む最適な状態は
何なのかを。そしてクライン・レビン症候群にたどりつきました。いつ
でも好きな時に夢の中で出現できますからね」
「じゃあ、レム睡眠行動障害は?」
「眠りっぱなしだと、外界との意思疎通が遮断されてしまいます。夢の
中に閉じ込められてしまうんです。そこでコミュニケーションの手段と
してレム睡眠行動障害という形を取ったんです」
「それはお父さんが意識して望んだものではなく、あくまでも潜在意識
下での願望なんだね?」
「そうです」
 滝田も同じように考えていた。ただし、滝田の見解が仮説であるのに
対し、青年の言い方は確信に満ちている点が違うが。
「じゃあ君の不眠症は?」
「僕は、何をするにも集中力を維持するのが、二時間が限界なんです。
予知夢を見るのも同じです。人は眠ってから一番深いノンレム睡眠に達
して、その後眠りの浅いレム睡眠になるんですよね。かかる時間は九十
分。でも個人差がありますよね。僕の場合は二時間なんです。普通なら
この周期を繰り返すんでしょうけど、僕はそれ以上注力することができ
ませんから、目が覚めてしまうんです」
「夢を見るのに集中力が必要なのか。それは興味深い話だね。しかしそ
んな能力のために君やお父さんが睡眠障害を抱えなければならないなん
て、なんだかかわいそうだなあ」
「とんでもない。これは素晴らしいことなんですよ」
 素晴らしいだと? 歴史を変えてしまうような恐ろしい力が輝かしい
ものであるはずがない。
「私はね、エジプト人はお父さんの夢が作り出した架空の存在であるか
のように思っていた。だがあのエジプト人は実在した本物だったのかも
しれない。だとしたら私は人殺しをしてしまったことになる。それでこ
の十年悩み続けてきたんだよ」
「本人ではないと思いますよ。だって高貴な人物なんでしょう? そん
な人が記憶喪失になったからといって砂漠をさまよっているでしょうか。
僕には不自然に思えます」
 滝田にはなぐさめのようにしか聞こえない。
「じゃあ君は何だと思うんだい?」
「アバターのようなものだと思います。ほら、オンラインゲームで髪型
や顔や服装を自分好みにカスタマイズした分身を作るでしょう? 同じ
ように夢の世界の中で自由に動けるアバターが必要なんです。父はその
分身にまず御見葉蔵の記憶を植え付け、インド人の記憶を植え付け、エ
ジプト人の記憶を植え付けていったんです」
「どうしてそんなに確信を持って言えるんだい?」
「僕がそう感じるからです。夢の中で行動する人物は僕自身だという気
がしません。あくまでも複製なんです」
「本物とは別に偽者がいたっていうこと?」
「そうです。おそらくエジプト人だけでなく、御見葉蔵も、父自身も」
「でもエジプト人もインド人も君のお父さんとは別人だろう?」
「御見葉蔵は前世の自分、インド人も前世の自分、エジプト人も前世の
自分、全部自分であることに変わりはないでしょう?」
 なんだかうまく言いくるめられた気分だ。察しはついたが、一応聞い
てみる。
「なるほど。君の意見は分かった。で、もう一度聞くが、今日は何の用
だい?」
「先生にお願いがあるんです。夢見装置で僕の夢を観察してほしいんで
す」
 冗談じゃない。倉田氏でもうこりごりだ。その息子をまた興味本位に
実験台にするなんて。
「それは困るよ。夢見装置は君の助けにはならないと思うんだ」
「いえ、助けるとか、そういうことではありません。僕は、最近はかな
り先の未来の夢ばかり見ます。それは、人類が月に進出した時代なんで
す。僕はある人物の名前を耳にしました」
 青年の瞳が滝田を直視する。
「本当のことを言うと、僕は先生に会いに来るつもりはなかったんです。
今頃になって来たのは、先生ならその人が誰なのか分かるかもしれない
と思ったからなんです」
「もったいぶらずに言ってくれないか。それはどんな人物なんだい?
私に関係あるのか」
「タキタという人なんです」
 なんだと?
「下の名前は?」
「分かりません。月面の日本人基地で、会話の中にその名が出てきただ
けなんです。詳しいことは分からないんです」
「しかし、タキタという姓は別に珍しくもないだろう」
「そうです。ですからここに来るべきかどうか迷いました。だから、ぜ
ひ先生自身に確かめてほしいんです。そのためには僕を夢見装置につな
ぐしかありません」
 滝田は苦笑した。
「その人物を見られたとしても、未来の話なんだろう? 私の家族か親
戚だとしても、判別できるかどうか……」
「分からないかもしれません。しかし分かるかもしれません。僕は先生
に関係あるという気がしてならないんです。これはもう僕の第六感を信
じてもらうしかありません」
「それも超能力なのかい?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 青年の話を信じるべきかどうか。いずれにせよ装置を使わなければ確
かめられない。
「そうかい。それじゃあとにかく、明日また来てくれ。一度だけなら夢
見装置につないであげてもいい。あれはおもちゃじゃないんだ」


   四

 論文の字面を漫然と追う目を、滝田は壁の時計に向けた。夜の九時を
十分ほど回ったところだ。
 遅い。何をやっている。
 再び視線を紙に戻す。読んでなんかいない。ただながめているだけだ。
滝田は一日中落ち着かなかった。今朝起こった事件のためだ。まさかと
思ったが、倉田志郎の予告が的中したのだ。いきなり横から飛び出して
きた車に、もう少しで衝突するところだった。
 青年と約束していた時間は九時だ。だがまだ来ない。
 ドアをノックする音にはっとして顔を上げた。
「どうぞ」
 しかし現れたのは井上だった。がっくりと肩をおとす。
「先生、昨日の人が来てますよ」
 再び息をのんで身を乗り出す。
「入ってもらって」
 立ち去ろうとする井上に声をかける。
「宮田君は? もう帰ったの?」
「ええ。僕も帰ります。んじゃお先に」
 ひどい音をたててドアを閉めた。
 滝田は胸の前で両手の指を組み合わせる。井上は最初から当てにして
いなかったが、宮田も帰ったとなると他の研究室から応援を呼ぶか、滝
田一人でやるか、どっちかだ。
 再びノックの音がして、穴があくほどドアを見つめた。
「どうぞ」
 倉田志郎がにこやかな表情で現れた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 慌てて職業的な笑顔を作る。
「どうでした? 僕の予知夢は当たりましたか」
「ん? ああ、驚いたよ。まさか本当に起こるとは思っていなかったか
ら」
「そうですか。良かった。少しは信じてくれる気になりましたよね」
 青年はかぶっていた帽子をとった。滝田が指示した通り、丸坊主にな
っていた。
「それじゃあ、行こうか」
 青年の脇をすりぬける時、かすかにいい匂いがした。近頃の若者は男
でも香水をつけるのか。あらためて自分が年寄りになってしまったこと
を感じる。
 滝田が先に立って階段を降りていく。歩きながら考える。自分は単な
る興味から倉田志郎の夢を見ようとしているのだろうか。青年がタキタ
という人物に何かしようとしたら、そのアバターを殺したいのではない
か。
 そんなことを考えているうちに、被験者を寝せるベッドルームに着い
た。分厚い扉を開け、先に入れと手で示す。青年は臆することなく堂々
と入っていった。
「へえ。ここで父の夢を観察したんですか」
 滝田は答えずベッドの脇に立った。
「仰向けになって。服はそのままでいい」
 滝田は言われた通り横になった青年にヘルメットをかぶせた。
「すぐに眠れそうかい?」
「いえ、いつも眠くなるのが三時くらいなんですよ」
 錠剤が入ったシートの銀紙を破る。ポットから水をコップに注ぐ。
「睡眠導入剤だ。飲んで」




#552/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




#555/555 ●長編    *** コメント #520 ***
★タイトル (AZA     )  19/07/31  20:14  (429)
そばにいるだけで 68−1:先行公開版   寺嶋公香
★内容                                         19/08/02 20:24 修正 第2版
 いくら何でも待たせすぎだと反省しまして、続きを書いていることの証明にでもなれ
ばと、1msg分だけUPします。後の68全文UP時には直しが入ることもありま
す。
======================================

 週明けの朝、自宅を出発する時点では、相羽は間違いなく決心していた。
(今日、言おう)
 米国留学することを純子に。
 改めて記すまでもないが、闇雲に打ち明けていいものではない。世間話のように、他
にも人がいるところで「九月には日本にいないから」なんてのは論外だ。最低限のシチ
ュエーション、二人だけで、伝えたあと少しは時間が取れる状況が欲しい。
 その決心に対し、のっけから段取りが狂う出来事があった。
 朝の休み時間に鳥越がクラスの席までやって来て、君の九月の予定はどうなってるん
だろうと聞いてきたのだ。やけに唐突な質問だったの訝しんで理由を聞き返す。
 すると、九月になると流星群があるので、学校で観測をしたいと思っているとのこと
だった。納得しかけたが、学校で催すのであれば予定はあまり関係ないじゃないか、と
不思議に感じた。
「その質問は、涼原さんに真っ先に聞くべきじゃあないか」
 相羽自身が答えづらいこともあって、鳥越にそう水を向けると、何故か相手は動揺を
僅かながら覗かせた。しかもすぐ近くに純子がいるというのに、尋ねようとしない。
「まあ、決まっていないんだったら、後日でいいよ。じゃあ、お昼に」
 そう言い置いて、鳥越は逃げるように去ってしまったのだ。
「何だったんだ、あいつ」
 ちなみに本日は朝から曇天で、午後からは雨の予報が出ていた。

            *             *

 二時間目が始まるまでの休み時間、唐沢は鳥越と二人で、校舎の外れの中庭にいた。
「どうしてこんな役を押し付けたんだい。それも急に。そこを説明してくれないと、僕
も納得できないよ」
 鳥越の失敗に多少の文句を言うつもりであった唐沢だが、反駁を食らって、言い返せ
ないなと気付いた。理由を明かさずに無茶をさせたんだから、失敗するのも無理はな
い。尤も、理由を明かした上で芝居させたとしても、果たして鳥越がうまくやりおおせ
たかは怪しく思う。
「わりぃ、俺の想定外だった。理由は言えないんだ」
「まったく。唐沢君が部員勧誘に協力すると言うから、渋々やっただけなのに、恥を掻
かされた気分だ。涼原さんのためだっていうのは、本当なんだよね?」
「そこは保障する。下手すると、部をやめる恐れがある」
「その危機は解消されたんだね」
「いや、まだ」
「何なんだよ〜」
 察してくれと言うのも無理な話か。唐沢は鳥越に両手を合わせて謝った。
「すまん。合宿に二人が参加したら、問題は解決したと思ってくれ」
「分かんないな。全然、仲が悪そうには見えないけれど」
「いいから。あ、あと、俺が頼んだことは絶対に言ってくれるなよな」
「約束は守るよ。唐沢君こそ、約束、忘れないでもらいたいね。来年の春、新入部員の
勧誘には力を入れてもらう」
「ああ。いざとなったら、女の子を大勢引っ張ってきてやる」
 安請け合いし、どうにかこの場を切り抜けた唐沢だった。
(やれやれ。作戦失敗か。同じ手が使えないわけじゃないが、似たようなやり取りを相
羽と涼原さんの前で二度も三度も繰り広げるのは、やっぱりやめておきたいよな。とな
ると、涼原さんの名前を使って、相羽に危機感を持たせる作戦を採るか……。淡島さん
の占いを通じて知らせる作戦も、悪くはないと思うんだ。でも、相羽の口から打ち明け
る方向に持って行くには……淡島さんが涼原さんにじゃなく、相羽に対して占いで言い
当てたみたいにすればどうかな。いや、相羽のことだから、俺が淡島さんにばらしたん
だって勘付くに違いない。どうすりゃいいんだ)

            *             *

 一時間目。
 相羽は、自分が意外と平静さを保てていないんじゃないかと思わされる。
「……あれ?」
 英語の教科書、忘れた。

            *             *

 「あれ?」という声が聞こえ、純子は隣へ振り向いた。相羽が学生鞄をまさぐってい
る。横顔に焦りの色が浮かぶのを見て取った。
(もしかして忘れ物? 珍しい)
 時計を見る。何を忘れたのか知らないが、これからある英語の授業に関わる物だとし
たら、他のクラスに行って友達から借りてくる時間はなさそう。と思う間もなく、始業
を告げるチャイムが静かに鳴った。
 ほとんど間を置かずに、門脇(かどわき)先生が教室に入って来た。女性にしては大
柄で、学生時代は柔道で鳴らしたとの噂だけど、真偽は不明。年齢を重ねた今、膝を悪
くして足取りが遅い自覚があるせいか、何事も行動を始めるのが早い。
「立ってる者、席に着け〜。始める。はい、号令」
 しゃきしゃきした口調の先生。呼応する形で唐沢が号令を掛け、起立・礼・着席を行
った。
 門脇先生が欠席のないことを確認するために教室内を改めて見渡したあと、教科書を
開き掛けた。
「あの、先生。教科書を忘れてしまいました」
 相羽はすかさず、しかしおずおずといった体で挙手しながら申告した。
「何だ、相羽君。らしくもない。浮ついているのかな。今後、気を付けるように」
「は、はい」
「教科書は隣に見せてもらうように。……涼原さんで大丈夫ね」
 大丈夫の意味するところがいまいちぴんと来なかったが、純子は素早く二度頷いた。
 相羽は机を横に動かし、純子の机とぴたりと合わせた。
「ごめん」
「いいよいいよ。気にしないで。困ったときはお互い様」
 朝からある意味うれしい成り行きに、純子は少々気分が高揚して、口数が多くなっ
た。おかげで先生から「こら、喋り続けるんなら戻してもうらよ」と怒られてしまっ
た。二人が肩を縮こまらせたところで、授業スタート。
「早速だが、相羽君。気合いを入れ直す意味も込めて、読んでもらおう。続けて訳も」
 相羽は席を立ち、二つの机の間に置かれた教科書を見下ろす姿勢で、音読を始めた。
声の通りはいつもに比べてよくないが、発音はいい。
(相変わらず凄い。エリオットさんとの日常会話を楽々こなすほどだし、相当勉強して
るんだろうなあ)
「はい、そこまで。ノートは持って来てるんだね? じゃあ、訳を」
 相羽はノートの該当ページを開き、今度は両手に持って答えた。大半の生徒が英訳で
は堅苦しい日本語になりがちだが、相羽はくだけた表現を織り込むのがうまい。翻訳を
思わせるほどだ。意識してやっているのではなく、自然とそうなるのかもしれない。
「――よろしい。ほぼ完璧で怒るに怒れないじゃありませんか。ただ一点、解説を加え
る必要があるのは、ここ」
 先生は“If it isn't broken, don't fix it.”と板書した。
「直訳すると、『壊れていない物は直せない』。相羽君は砕けた感じで、『そもそも壊
れてないのなら、直しようがない』と言ったけど、大体同じだね。で、実はこれ向こう
のことわざで、『すでにうまくいっているものを改善しようとしてはいけない』って意
味がある。教科書の例文ではことわざって言うより、『余計なことすんな』ってニュア
ンスが一番近い」
「知りませんでした」
「しょうがない。辞書を引かなくても知ってる単語で構成された文章は、いちいち調べ
直したりしないもんだから。文章のつながりから浮いた訳になるならまだしも、これな
んか別に違和感ないからねえ。違和感があるのは、ほら、前にやった遊園地で遊んでる
場面で、鍋の話をするやつだ。あれなんかはおかしいと感じて、調べて欲しいと思う。
で、涼原さん、どんな言い回しだったか覚えてるかな?」
「はい?」
 いきなり指名されて、立ち上がる純子。どうやらさっきのお喋りの代償を、ここで払
わされるようだ。
「相羽君は座って。――涼原さんも浮かれていないか確かめるために、ちょっとしたテ
ストだね。これに答えられなければ、机の間を一センチ離すように」
「そんなあ」
 情けない声を上げつつ、思い出そうと記憶のページを必死に繰る。
(遊園地で遊んでいると時間が経つのが早い。その関連で、時間に関係する、鍋の出て
来る慣用表現があったのよ。確か……)
 思い出せたような気がした。面を起こして、でも自信なげに答える。
「見られている鍋は決して沸かない……“A watched pot never boils.”でしたっけ」
「お、正解。だけど、日本語の方がちょいと怪しい。直訳で覚えずに、『焦りは禁物』
『待つ身は長い』等で覚えること」
「はぁい」
 座ろうとした純子だったが、止められてしまった。
「ついでに続き、少し読んで。訳はいいわ」
 いつもの授業と違い、変則的な当て方をする。生徒達は大げさに言えば戦々恐々とな
った。
 この調子での授業が十五分ほど続き、それからテキストにある設問を答えるくだりに
差し掛かった。適当に時間を区切って、各人が解きに掛かる。教室内は一転して静かに
なった。
(こんなに近いと、変に意識しちゃうよ)
 純子はいつもに比べて、集中力を若干欠いていた。好きな人が隣の席にいるというだ
けでも意識するのに、今はもっと近い。相羽の手元を覗こうと思えば覗けるし、逆もそ
うだろう。開いたページとページの間、谷になって見えづらい字を読もうと、顔を近付
けるとお互い息を感じるくらいに接近してしまう。
(相羽君は何とも思ってないのかな)
 盗み見ると、相羽はペンをさらさらと走らせている。次々に解いているのではなく、
教科書を借りている立場の彼は、設問に関連する箇所を本文から写さねばならないとの
理由もあるのだが、それにしても軽快に書いている。一心不乱というよりも、自動筆記
みたいだ。
(普通の集中とはまた違う……ぽーっとして、感情をシャットダウンしてるみたい。私
のことも見えてないのかしら。だとしたら凄いけど。――はあ、いけない。集中集中)
 緩みそうになる頬を軽くつねって、ノートに答を書き始める純子。問題にしばらく取
り組んでいると、不意に「あ」という相羽の小さな声。次に彼の手が純子のスカートを
かすめる風に伸びて来た。
(あ、相羽君、何を)
 気配を感じた純子は、反射的に「きゃ」と悲鳴を漏らしてしまった。何事かと先生や
クラスメートから注目されるのが空気で分かる。
「ご、ごめん、キャッチするつもりが空振りした」
 そういう相羽の視線は、純子の太ももの間、スカートの布地に。そこには相羽の消し
ゴムが乗っかっていた。
「こら、何を話してるの」
 近くまで来て立ち止まった先生が、プリントの束(と言っても十枚もない)で相羽の
頭をぽんぽんとやった。
「いちゃつくのなら、席を離して、反対側の子に見せてもらいなさい」
「すみません」
 相羽が謝罪するのに続いて、純子は同じように謝ったあとに続けた。
「でも違うんです。消しゴムがスカートの上に落ちてきて、私がびっくりしただけで、
いちゃついてたんじゃない。ほんとです」
 未だにスカートの上にある消しゴムを、ほら見てくださいとばかりに示す。
「……分かった。子犬の瞳で訴えなくても信じます。さあ、続けて。残り時間わずかだ
よ。みんなも集中して解いて」
 教卓の方へ引き返す先生を見て、純子はよかったと安堵した。
 それからまた問題に取り掛かろうとした矢先、相羽が純子の方を向き、左手を左右に
小刻みに振って、何かを擦るようなポーズを取るのに気付く。一秒考え、あっと思い出
す。
 純子は相羽の消しゴムを拾い、彼の机の端っこに置いた。

「ありがと、助かった」
 英語の授業が終わって、門脇先生が去ると、相羽は机を元の位置に戻した。
「それと消しゴムのこと、ごめん。肘が当たったみたいで」
「かまわないんだけど、さっき問題を解いてるとき、何だか変じゃなかった?」
「変? そうだっけ」
「周りに誰も見えてない感じだったわよ。矛盾するけど、ぼんやりしつつ集中してるっ
ていうか」
「それは多分、先生に言われたことを気にしていたからかも」
「先生に言われたことって? 何かあったかしら……」
 尋ねたつもりだったが、男子数名が相羽のところへやって来たせいで、有耶無耶に。
「おい、さっき本当に何でもなかったのか」「教科書見せてもらうために、わざと忘れ
物したんじゃないの」「次の数学は何を忘れるのかな」等と冷やかされる相羽だが、特
に反応せずに涼しい顔をしている。
 当事者の一人である純子としては、おいそれと口出しして藪蛇になっても困る。それ
を思うと、相羽の受け流しは賢明な選択と言えそう。
 純子は素知らぬふりで次の数学の準備をしていると、ふと気が付いた。
(うん? 唐沢君が加わってないなんて珍しい)
 いつもなら真っ先に来そうなのに。委員長の用事があるのでもなし、自身の席に着い
たまま、一人でこちらを――相羽の方を?窺っているように見えた。。
(数学の宿題を忘れて、相羽君を頼ろうとしたけど割り込みにくいなと躊躇っている…
…なんてことじゃないわよね。どうしたんだろ。何か言いたそうな、様子を探っている
ような。男同士の約束でもあるのかな)
 そちらに意識を取られたおかげで、先生に言われたことどうこうはすっかり忘れてし
まった。

            *             *

 神村先生の数学が終わると、次は家庭科の調理実習で、移動や準備に時間を取られ
る。まずい、この調子だと打ち明けるのがずるずると先延ばしになってしまう。相羽は
割烹着風エプロンを身につけながら思った。
(本当はすぐにでも――一時間目が終わったら、話があるから昼休みにでもって純子ち
ゃんに言うつもりだったのに。門脇先生に『浮かれているんじゃないか』って……ショ
ックだ。そんな風に見えてるのか)
 英語の門脇先生は、相羽の留学話を承知している教師の一人だった。学科こそ全く異
なるが留学経験があり、いわゆる生の英語に詳しいとあって、折に触れてアドバイスを
頂戴している。
(浮かれてはいないと断言できる。でもまあ、気が散っているところはあるのかもしれ
ない。英語の教科書を忘れたのだってそう。消しゴムが転がったのに気付いたとき、後
先考えずに手を伸ばしたのも)
 落ち着こう。とりあえず、気が散ったまま火を扱う授業を受けていては、事故の元に
なりかねない。こうして気を引き締め直したおかげか、純子と同じ班で臨んだ調理実習
は、特に失敗することもなく、無事に仕上がった。一時間目の一件のおかげで、周りか
ら冷やかしは飛んだけれども。
 ちなみにメニューはミニ揚げパンに春雨サラダ、杏仁豆腐だった。昼前のコマで調理
実習をやる場合、授業が終わったあとも家庭科教室で昼食と合わせて料理をいただくの
が原則。弁当持参でない者は、早く平らげて食堂なり売店なりに行かねばならない。ほ
ぼ確実に列の後方に並ぶことになるため、不評である。生徒側も対策を講じ、弁当を持
って来る者の割合が飛躍的に高くなる。
 相羽も母に時間的余裕があるときは作ってもらっているけれども、あいにくと日曜か
ら仕事があって、今回は無理だった。代わりに、惣菜パン二つと飲み物を通学途中に購
入していた。
「食べない?」
 登校時に一緒だった純子は当然そのことを知っており、お弁当のおかずを勧めてき
た。
「どれでもいいよー。こっちはダイエットのつもりで」
 つみれや唐揚げ、胡麻豆腐にチーズちくわと文字通りのよりどりみどり。だが、相羽
はすぐには手を伸ばさなかった。
「そう言われて僕が食べたら、君が太ってると言ってるみたいにならない?」
「ならない。ほんとの体重、自分自身がよく分かってるから」
 そのお喋りを聞きつけたか、唐沢が近くに移動して来た。「なら、ありがたくちょう
だいしよう」と、相羽より先に箸を出す。
「だめ。唐沢君はお弁当でしょ。結構大きいのに、余分に食べたらそれこそ太るわよ
〜。女の子が悲しむんじゃないかしら」
「うー、それでも食べてみたい」
「まさか、手作りと勘違いしてないか、唐沢?」
 相羽の指摘に、唐沢はぽかんとなった。本当に純子の手作りだと思い込んでいたよう
だ。
「あ、そうか。じゃあ、さっきの春雨サラダか杏仁豆腐をもらいたかった」
「それならここにある」
「いや、おまえの前にある分じゃだめ」
「元は同じなんだが」
 相羽が唐沢とやり取りする横で、純子がくすくす笑い出した。
「もう、話が迷走してる。はい、相羽君。これ食べて」
 相羽の持つ焼きそばパンの切れ目に、唐揚げ一つが置かれた。
「あ、ありがとう、いただきます」
 相羽はお礼を言いながら、気持ちがだいぶほぐれてきて、いつものようになれたと感
じていた。

 昼休みも食事が済んで、教室に戻ると、相羽は純子に話があることをまず伝えようと
した。
 ところがここでまた予想外の邪魔が入った。野球部のエース・佐野倉が純子の元にや
って来て、前の土曜、試合を観に来てもらいたかったと一言。地方予選の真っ只中にど
こでどう聞きつけたのか、土曜日に純子が遊びに行ったことを掴んだらしい。
「ごめんなさい。勝ったんだってね。おめでとう」
 純子が謝ったあとも、佐野倉が「一、二回戦は楽に勝てると思われるてるんだろう
な」とか「本当に決勝だけ観に来る気なのかな」とか言うものだから、周りにいたクラ
スメイト――主に男子の反発を買った。
「おい、謝ってるじゃねえか」「きちんと約束したわけでもないくせに」「スポーツマ
ンらしくないな」云々かんぬんと声が飛び、対する佐野倉もいちいち反論するものだか
ら、収拾が付かなくなりつつあった。
 しょうがない。一緒に遊びに行った身として相羽は仲裁に入った。
「みんな静かにしてくれよ。佐野倉、ちょっといい?」
「かまわん。何」
「誘いに乗って遊びに行った者として、弁明したいなと」
「やっぱり混じってたか。公認の仲だから、驚きゃしないが」
「悪い。誘われたときに、野球部の試合予定日だってのは頭にあった。でも、雨天順延
で日程がずれたんじゃなかったっけ?」
「その通りだが」
「女子達の話を聞いてみたら、遊びに行く予定を立てたのは、そっちの試合の順延が決
まるよりも先だった。みんな時間を調整して、決めた計画を前日になって変えなきゃな
らないとしたら、酷だと思わん?」
「……まあな。しかし、その話が本当だという証拠がない」
「粘るね、佐野倉も。その調子で勝ち続けてくれたら、絶対に応援に行くぜ」
「ごまかすな」
「証拠なら私が。証言だけれどね」
 外野から応援が入った。白沼が人の輪を割って進み出る。彼女は自身がその遊びには
加わっていないことと、VRのプラネタリウムの割引券をこの前の土曜日に使うと、純
子から知らされていたことを伝えた。
「――さあ、これでも疑う? これ以上、無駄に引っ張るのなら、いくら野球部のエー
ス、大黒柱であっても、徹底的に叩くわよ。何しろ涼原さんは今、うちの仕事を手伝っ
てくれている大事なタレントなんだから。変な言い掛かりを付けて、疲弊させないでも
らいたいのよね」
「……分かった」
 そのまま行こうとする佐野倉に、「涼原さんに謝らないのか」とブーイングが上がり
掛ける。それを制して、相羽が再び声を掛けた。
「佐野倉、余計なお世話だけど、いつもと違うように見える。こんなことを気にするタ
イプじゃないだろ。何かあったんじゃ?」
「別に」
「あ、俺知ってるけど」
 知らんぷりを通そうとした佐野倉だが、クラスにいた同じ野球部の男子によって、わ
けを暴露されることに。
「観に来ないなら来ないで、あとで残念がらせようと思ったのか、ノーヒットノーラン
を狙ってたんだよな」
「……」
 同期の部員に言われても、沈黙を守る佐野倉。
「ノーノーどころか完全試合かってペースだったのが、コールドで参考記録になるのが
ほぼ確定して気が緩んだのか、あれ? 最後のイニングで四球を出して、次にあと一人
ってところでポテンヒットを打たれて、パーになった」
 そこまでばらされて、ようやく口を開くエース。
「細かい解説なんかするな。要するに、記録を狙って変な力が入った。その上記録達成
に失敗して、いらついた。それだけだ」
 佐野倉はきびすを返して純子の机まで戻ると、腰を折って頭を下げた。
「要するに八つ当たりだ。すまなかった」
「……う、うん、私は別にいいけれど。それよりも、ノーノーって何だっけ?」
 この純子の発言には、佐野倉のみならず、話を聞いていた男子のほとんどががくっと
来たらしく、中には派手に笑い出す者までいる。
「す、涼原さん。君って……いや、まあ女子では普通か」
「佐野倉君? 悪いこと言っちゃった?」
「いや、言ってないさ。あーあ、おかげでストレス発散できたわ」
 肩のこりをほぐす仕種をする佐野倉。
「これで次の試合に集中できる。ありがとな」
 もう休み時間は残り少なかった。
 佐野倉が立ち去ったあと、相羽は純子から話し掛けられた。
「ねえねえ。私、おかしなこと言った? 佐野倉君に悪いことしちゃったのかなあ?」
「心配無用」
 相羽は次の授業の教科書などを、机に出しながら答える。
「むしろ、あの場では最高の返事だったと思うよ」

            *             *

 午後からの授業中、窓の外を眺めていた唐沢は、曇り続きの天候に嘆息した。
(この分なら明日も屋上に行かなくて済むかもな。おかげで相羽と涼原さんのために考
える時間だけはあるわけだが……もうしぼりかすしか残っていない気がする)
 ここ試験に出るからという教師の声に、はっとする。ノートを取ろうにも、教科書の
どの辺りをやっているのか、把握できていない。ひとまず、板書だけして、あとで照ら
し合わせるとしよう。
(試験か……期間に入ると、人の世話を焼いている場合じゃなくなっちまうなあ。いつ
も通り、相羽センセーを頼りにすることで、どうにか……あれ? もしかして相羽の
奴、次の定期テストって受けないのでは?)
 がたがたっと椅子で音を立ててしまい、教師からじろっと見られた唐沢。すんません
とジェスチャーで応じて事なきを得た。
(留学するんなら、最早この学校でのテストなんか受けなくていいんじゃないのかね。
もう内申書がどうこうって段階じゃないだろ。仮にそれで当たっているとしたら、俺、
ピンチじゃん)
 思わぬところで、相羽の留学が自身によくない影響をもたらすことに気付いた。たと
え今度の定期テストは受けるんだとしても、二学期以降はいなくなるんだからどうしよ
うもない。何とかせねば。
 授業が終わるなり、相羽にとりあえず泣き言をぶつけてやろうかと一歩を踏み出した
が、思い止まった。
(涼原さんに聞かれたら説明できねー。……けど、留学のことを伝えるんなら、こんな
軽い調子でもいいんじゃないかね。いつまでもぐずぐずしてるよりかは、よっぽどいい
だろうに。相羽の方から話を振ってくれりゃあ、俺は乗るぜ)
 てなことを思いながら相羽の後頭部辺りをじっと見ていると、いきなり振り返られ
た。唐沢は急いで視線を外しつつも、様子を窺う。
(――何だ。俺が見ていたのを察したんじゃなくて、涼原さんとどこかに行くのか)
 相羽に続いて純子が席を立つのを見て、ぴんと来た。
(やっと話す気になったか? なら、俺は見守るのみ)
 世話を焼く必要から解放され、あとは自分の勉強のことだけ。そう思うと、ちょっぴ
り気が楽になった。気が緩みもしたのか、白沼までもが席を立ったのを見逃してしまっ
た。

            *             *

 職員室、校長室の前を通る廊下を抜けて、校舎の外に出る。降り出しそうで降り出さ
ない空の下、相羽は純子を壁際に、自らはその正面に立った。
「それで話って何?」
 人のいないところを求めて、うろうろしたおかげで、三分以上を費やしてしまってい
た。残り七分足らず。相羽は心持ち見上げてくる感じの純子を前に、焦りと躊躇の葛藤
を覚えた。
(今日の授業が全部終わるまで待つべきだったかな?)
 弱気とも思える迷いが生じた。首を左右に小さく振る。ここまで来て、もう引き返せ
まい。
「相羽君?」
「純子ちゃん――落ち着いて聞いて欲しいんだけれど」
 そこまで言って、喉がごくっとなった。口の中が乾いてる気がする。と、この一瞬の
間を置いたことで、邪魔が入る。
「――あ、待って。携帯が」
 純子が言った。振動音が微かに聞こえる。機器を取り出しながら、「白沼さんから」
と囁き調で相羽に教える純子。
『はい?』
『どこに消えてるのよっ。追い掛けたのに、見失ったじゃない!』
 相手の剣幕に思わず耳を離す。おかげで、相羽にもその通話が聞こえた。
『どこって……相羽君と話してるところよ』
『戻って。教室と同じフロアの東端にいるから。学校で携帯使うくらいなんだから、緊
急の連絡だって分かってるわよね。お仕事の話』
『えーと、電話じゃだめ?』
『だめ』
 一方的に告げられ、切られた。純子は携帯を仕舞い、両手のひらを合わせながら相羽
に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、急用みたい。話、あとでも大丈夫?」
「う、うん。またあとで。行ってらっしゃい」
 ぎこちない言葉遣いになるのを自覚した相羽だが、純子はそのことを気にする風でも
なく、再度「ごめんね」と言って、スカートを翻した。
(ほっとしたような、これじゃだめなような)
 急ぐ彼女の背中をぼんやり見つめながら、相羽はため息をついた。

            *             *

 唐沢は廊下に出ていた。純子が結構なスピードで走って行くのを目撃したからだが、
すでに彼女の姿は見えない。
(廊下走ると先生に怒られるぞ。……やっぱり、相羽から打ち明けられて、ショックだ
ったのかねえ? 顔はよく見えなかったけれども)
 どうしようもなくてぽつねんとたたずむ。五分近くそうしていたが、純子は戻って来
ない。もうすぐ授業だぞと思い始めた頃、相羽が横を通り過ぎた。そのまま教室に入る
ようだ。
「よ、相羽。待てよ」
 寸前で呼び止め、右腕を引っ張って教室とは反対側に連れて行く。
「何。今、軽く自己嫌悪してるところなんだけど」
 その台詞の通り、相羽は冴えない目付きをこちらに向けてきた。
「てことは、ついに言ったのか。それで涼原さんが」
「何のこと?」
「こいつ、何でまだとぼけるんだよ、この」
 唐沢は相羽の脇を小突いて、「留学の話だよ」と言ってやった。割と大きなボリュー
ムになった。
 その台詞が終わるか終わらないかのタイミングで、廊下の向こうから早足で歩いてく
る純子の姿が認識できた。続いて白沼も。
 ちょうどいいと感じた唐沢だったが、次いで相羽の反応を目の当たりにして、はっと
なする。
「もしかして、まだ、なのか?」
「ああ。タイミング悪く、白沼さんから呼び出しがあって――」
 答えた相羽も、純子が接近中だと気付いたようだ。唐沢は片手で謝るポーズをしなが
ら、ひそひそ声で言った。
「わ、わりぃ。今の聞こえちまったかも」
「……」
 相羽は唐沢を押しのけるようにして一歩前に出た。すぐ先を純子が通ろうとする。
が、眼前を横切る寸前に、教室後方のドアへと足を向けた。
「相羽君、授業始まるよ。唐沢君も」
 純子が言って、微笑みかけてきた。あとを追うように来た白沼が「早く入って、席に
着いてよね。怒られるのは委員長と副委員長かもしれないんだし」と、特に唐沢に向け
た忠告を発した。
「へいへい」
 唐沢は努めて軽い調子で応じながら、内心では盛大に安堵していた。
(セーフだったか〜)

――つづく




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