AWC ●長編



#518/535 ●長編    *** コメント #517 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:11  (449)
そばにいるだけで 67−4   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:13 修正 第2版
            *             *

「何、その紙袋は」
 町田に指差された唐沢は、右手をくるっと返して、紙袋表面のロゴが見えるようにし
た。
「鈴華堂の新作で、クロワッサン風どら焼き。芙美が好きそうだなと思って」
「……微妙」
 町田の視線が手元から上へと昇ってきた。唐沢の目にぴたりと照準、否、焦点を合わ
せる。
「クロワッサンと言えばバターたっぷりで、カロリー高そう。そもそも気味悪い。何の
狙いがあって、あんたが私に和菓子を買ってくるのよ」
「そりゃあ、久々の訪問になるから、手土産があった方がいいだろうなと思って」
「嘘。来るときに手土産を携えていたことなんか一度もなかったのが、急にこんな風に
するなんて、絶対に怪しい。何かあるわね。私の直感がそう告げている」
「とにかく入れてくれよ。玄関先で押し問答するほど、嫌われてるわけ、俺って?」
「……どうぞ。誰もいないから」
 言うだけ言って、先に入る町田。唐沢はそそくさと続いた。
「制服のまま来たってことは、学校帰り?」
「うん、まあ。家に、顔は出したけどな」
「それだけ急いで、ここに来るなんて、一体どんな用事よ」
「あー、話の前にお茶、入れてくんない? 俺もこの菓子、味見しておきたい。よさげ
だったら、他の女子に勧める」
「〜っ」
 文句を言いたげな町田だったが、黙ったまま唐沢をダイニングに通すと、自らはキッ
チンに立った。
「日本茶? コーヒー?」
「改めて問われると迷うな。洋菓子なのか和菓子なのか、はっきりしない物を買ってし
まった」
「コーヒーね。インスタントだと後片付けが楽だから」
 勝手に決めて進める町田。背を向けたまま、唐沢に問うてきた。が、その声とやかん
に水を満たす音が被さり、唐沢は聞き取れなかった。
「何て言った?」
「用事ってもしかして純子のこと?って聞いた」
「どうしてそう思うんだ」
「そりゃあ、今現在、あんたから私に直接関係のある個人的な用事があるとは考えにく
い上に、このお菓子」
 と、町田は紙袋から取り出した個包装のどら焼きを、皿にそのまま載せ、唐沢の前の
テーブルに置いた。
「鈴華堂の『すず』から、『涼原』を連想した。それだけ」
 そう説明されて唐沢も、無意識の内に鈴華堂へと足を運んでいたのかもしれないなと
感じた。
「で、当たってるのかしら」
 聞きながらコーヒーカップにお湯を注ぎ終えた町田は、テーブルまで慎重に運んで来
た。唐沢が目の前に置かれたカップに目をやると、お湯の量が若干、多かったようだ。
揺らすとこぼれかねない。
「当たってるよ。おかげで段取りが狂っちまった」
「段取り?」
 唐沢の正面に座り、自身の分の菓子を空けた町田は、手つきを止めて聞き返した。
「こっちの話」
 コーヒーを前に、“お茶を濁した”唐沢は、その段取りを練り直しに掛かった。元
は、以前に相羽の留学話が出た頃のことを話題にして、当時の相羽が純子に前もって打
ち明けるべきだったかとか、女子の気持ちとしてはどうされるのが最善なのかとか、そ
ういった話をしつつ、流れを見て、現在の留学について口外してみるつもりでいた。
(それなのに、涼原さんに関係することだと先に看破されちゃあ、やりにくいじゃない
か。かといって、他にきっかけはありそうになし。ここは一つ、正面突破で)
 心を決めた唐沢は、気持ち、背筋を伸ばした。相手を見据える視線も真っ直ぐにな
る。
「何よ」
 変に映ったのか、町田が速攻で聞いてきた。
「芙美は今でも口が堅いよな」
「うん? そりゃまああんたと比べたら」
「客観的にでも堅いだろう。そうと見込んで打ち明けるんだからな」
「――分かった。他言無用ね」
 唐沢の真っ直ぐさが伝わったか、町田も居住まいを正した。
「昔、相羽が外国の学校に行くかもって話があったのは覚えてるか」
「もちろん。居合わせたわけじゃないけれども、かなり驚かされたし、記憶に残って
る」
「そのときの縁が、今でも続いているらしいってのも分かってるよな。エリオット先生
のこととか」
「うん」
「どうやらその縁がまた強まったみたいなんだ。はっきり言えば、相羽の奴、J音楽院
への留学を決めたって、俺に伝えてきた」
「えええ? まじ? 担いでんじゃないでしょうね」
 途端に疑いの眼をなす町田。唐沢は肩をすくめ、大げさに嘆息した。
「驚きよりも疑いの方が大きいとは、よっぽど信用されてないのね、俺」
「だって、あまりにも突飛だから……」
「悪ふざけでこんなこと言わねえって。で、問題は、相羽はまだ言ってないんだわ、涼
原さんに」
「……おかしい。普通、恋人が一番でしょうに。何でまたあんたに」
「知らんと言いたいところだが、理由は一応ある。あいつが留守の間、涼原さんの護衛
役を頼まれた」
「え? できるの? 見かけ倒しのくせして」
「ひどいなあ。小学校のときの体育で相撲をやったとき、俺、いい線行ったんだぞ。ク
ラスで二番ぐらい」
「どういうアピールよ。あんたは小さな頃からテニスやってて、腕だけは筋肉ついてた
から、そのアドバンテージで勝てただけじゃあないの?」
「そういう説もある」
「まったく。護衛云々は分かったわ。相羽君が純子に言ってないのは確かなのかしら」
「俺に護衛を頼んできた時点で、まだ言ってなかったのは間違いない。その後は分から
ないが、打ち明けたなら涼原さんの態度に出ると思うし、相羽だって俺にそのことを知
らせてくると思う」
「……」
 カップに視線を落とし、沈黙した町田。その様子を前にして、唐沢も黙る。
(事情を把握したところで静かになるってことは、やっぱ、難しい問題なんだな。悪い
な、巻き込んでしまって)
 今からでも「嘘でしたー」とか言って、なかったことにしてやろうかという考えがよ
ぎる。もしそんな行動に出たら、ぶっ飛ばされそうだが。
「日にちは?」
 目線を起こした町田の質問を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「うん? ああ、相羽が行く日ね。八月の早い段階のはずだ」
「あんまり時間ないわね。送別会すら開く暇がないかも」
「おいおい、心配するとこ、そこか?」
「うるさい。考えてるのよ。あんたとしては、どうしたいのよ」
「当然、相羽の口から早く伝えさせて、涼原さんに心の準備をしてもらいたい」
「基本的には賛成だけど……今、純はどのくらい仕事やってるんだろ?」
「俺に分かるわけが。てか、そんなこと気にする?」
「当然でしょ。ショックを受けた純が、仕事も何も手に付かなくなることだってあり得
る。そう危惧してるの」
 言われてみて、自分も多少は考えていたんだっけと内心で首肯する唐沢。表には出さ
ず、「その辺は、相羽のお袋さんがうまくやるに決まってる」と適当に答えた。
「それもそっか。相羽君の留学を認めた段階で、純子の仕事のことにも考えが及んでい
るはず。……でも、最終的には純子の気持ちの問題だわ。フォローが必要になるかも」
「あー、そんときは芙美ちゃん、頼む。他の二人――富井さんと井口さんも呼んで」
「気軽に言ってくれる。あーあ」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の甲側に顎を乗せた町田。
「そんなことよりも、相羽君に、純子へ打ち明けるよう促す方法よね。……純子の方に
それとなく仕向けて、純子から尋ねるように持っていく?」
「うーん、涼原さんから直接問われたら相羽も正直に言うだろうけど。それって事が済
んだあと、俺達涼原さんから恨まれないか? 知っていて隠していたのねって」
「恨みはしないでしょうけど、気持ちはよくないかも」
「そういうのは避けたいよな。……食わないのかな?」
 ほぼ忘れかけられていたクロワッサン風どら焼きを、真上から指差した唐沢。町田は
黙って、一口分をちぎり取った。
「……悪くはない。けど、やっぱりカロリーが気になる風味だわ」
「次はフルーツを使ったやつにでもするか」
「果物の糖分も、ばかにはできないのよ」
 唐沢もそのぐらい知っている。言い返そうと思ったが、またまた脱線が長くなるのは
考え物なので踏み止まる。
「さっき話に出た、相羽君のお母さんに促してもらうのが、一番安心できる線だと思
う。ただ、端から見て相羽君とこって、自主性を重んじる感じが強い気がしない?」
「まあ同意する。少なくとも俺のとこよりは」
「だから母親として、ぎりぎりまで待つんじゃないかな。いつがタイムリミットのライ
ンなのかは分からないけど」
「下手すると、相羽が涼原さんに打ち明けなくてもよし、旅立ってから伝えるとか考え
ていたりして。自主性を尊重するってのは、そういうことだろ」
「間接的に仕事への影響が予想されるんだから、さすがにそれはないと思う。……人の
心情を推測してばかりじゃ始まらないわね。いっそ、私達で相羽君のお母さんにお願い
してみる?」
「……そこまでやるのって、相羽を直にせっつくのと変わらない気がするぞ」
「じゃあ、そうしようじゃないの」
「ん?」
「あんた、純子から恨まれるのは嫌でも、相羽君からならちょっとくらい恨まれたって
平気でしょ?」
「平気じゃないが、『これまでいい目を見てるんだから、ちったぁ悩んで苦しめ!』く
らいは思ってる」
 割と本心に近いところを吐露した唐沢。町田は口元で意地悪く笑ったようだ。
「それなら、こういうのはどう? 相羽君を早く知らせざるを得ない状況に持ってい
く。例えば、『純子が、相羽君のお母さんが海外留学の本を持っているのを見て、気に
なっているみたいなの。何かあるんだったら、早くきちんと言った方がいいんじゃな
い?』とか」
「うむ。効果はありそうだが、直球勝負だな」
「今のは即興だから。もっと遠回しに、純子の目の前で、誰か男子が相羽君に九月以降
の予定を聞く場面を作るってのもいいんじゃない? 曖昧に返事するだけの相羽君を目
の当たりにして、純子は妙に思って聞く」
「うーん、そっちの方がましかな」
 チャンスがあれば試してみよう。でも、留学話を知っている自分が相羽の前で知らん
ぷりして予定を聞くわけにはいかないので、誰かに頼む形になる。
「実行に移すのなら、早めにね」
 唐沢の頭の中を覗き見たかのように、町田が言った。
「早くしてくれないと、私、言ってしまいそうだわ」
「おい、他言無用だからな」
「分かってるわよ。正直言って、久仁香達でさえ、相羽君が海外留学するって知ったら
泣くかもって思う」
「――それなんだけど、白沼さんはどうなんだろ」
「うん? 泣くかどうか? 知らない。ただ、人づてに知った場合、真っ先に相羽君の
ところに飛んで行って、確認しそうだわ。それか、純子に詰め寄る。『何でしっかり引
き留めておかないの』とか何とか言って」
 容易にその場面が想像できて、ちょっと笑った。
「ありがとな。相談に乗ってくれて。参考にさせてもらう」
「どうぞどうぞ。私だって、今まであの二人には何かと気を遣わされて、その挙げ句に
幸せにならないってんじゃ許さない。そういう気持ちあるからね」
 意見の完全な一致をみた。唐沢は言葉にこそしなかったが、思わず微笑んでいた。

            *             *

 VRのプラネタリウム体験は、想像していたのとは違ったところもあったが、充分に
楽しめた。宇宙旅行をしているような気分を満喫できて、でも映像酔いを起こすような
ことはなく、これならしばらくはお客さんが途切れることはなさそう。
「それで……」
 相羽は懐中時計を仕舞いつつ、面を起こした。エントランスホールは人の入れ替わり
の波が起きていて、下手に動くと離ればなれになりそうだし、突っ立っていては邪魔に
なる。だから、純子達四人は壁に半ばもたれかかるようにして横並びに立っていた。
「このあとはどうする予定なの?」
 前々日、女子から急に誘われた相羽は、今日の行程について何も聞かされていない。
「帰りの時間を計算に入れると、たっぷり余裕があるわけじゃないけど、折角だから話
題のスイーツでも」
 隣に立つ純子を二つ飛び越え、結城が答える。
「厳密には、みつき前まで話題になっていた、今は流行遅れのスイーツです」
 間にいる淡島が付け足す。それにしても、身も蓋もない。
「でも、二人きりになりたいと言うんだったら、私達だけで行ってくるわ。帰りはまた
合流になるけどね」
 結城がからかい混じりの口ぶりで水を向ける。純子は思わず、「マコ!」と声を上げ
た。
 一方、相羽の方は案外冷静なままで、「いや、それはまずいでしょ」と第一声。
「今日は元々、純子ちゃんが先延ばしになっていた遊びの約束を果たすため、結城さん
と淡島さんを誘ったと聞いたよ。だったら――」
「純子ってば、そんな誘い方をしたの。ばか正直に言う必要なんてないのに」
 今度は呆れ口調になる結城。淡島も追随する。
「そうですわ。こちらとしては、二人きりになったところをこっそり追跡して、覗き見
するつもりでしたのに」
「嘘!?」
「半分ぐらい嘘です」
 残り半分は本気だったのねと、苦笑顔になる純子。
「あのー、そろそろ人も減ってきて、動きやすいタイミングなんだけどな」
 相羽は結城とは別の意味で呆れ口調になりつつ、促した。そして再び時計を見やる。
「さっきから時間を気にしてるみたいだけど、早く帰りたいとか?」
 目聡く言ったのは結城。純子が気付けなかったのは、今ちょうど相羽が斜め後ろにい
る形だから。
「いやいや、そんな失礼なことは。もしも行くところが決まってないのなら、行きたい
場所がなきにしもあらずだったから。問題は、一定時間を取られるのと、必ずカレーラ
イスが出される」
「カレー?」
 今日は土曜で、プラネタリウムに来る前、もっと言えば電車に乗る前に昼食は済ませ
ている。そこそこ時間が経っているものの、カレーライスが入るかどうかは微妙なお腹
の空き具合だ。
「いいじゃない。スイーツはパスして、そっちに興味ある。もしかして、相羽君の定番
デートコースだったり?」
「残念ながら外れ。何たって、忙しい純子ちゃんと来るにはちょっと遠いから」
「それよりも、そのお店だか施設だか、お高くはありません? 開始時間が定められて
いるとはつまり、何らかの催し物があると想像できるのですが」
 淡島が恐る恐るといった体で尋ねる。
「そもそも、何のお店なのかを聞いていませんし」
「あ、マジックカフェだよ。学生千円」
 千円ならどうにかなる。それよりも、マジックカフェというあまり聞き慣れない名称
の方が気になったようだ。純子が聞く。
「多分だけど、マジックを見せてくれるカフェ?」
「うん。マジックバーのカフェ版。ほんとに行く気になってるんなら、動こうか」
 異論なしだったため、壁際から離れて外に向かう。
「予約とかチケットとかは?」
 先頭を行く相羽に着いていきながら、結城が尋ねた。
「必要なし。必要なタイプの店もあるみたいだけれども、これから行くところは大丈夫
だよ。満席だったら、少し待たされるかもしれないけれどね」
「相羽君は行ったことがあるの、そのお店に」
 今度は純子がちょっぴり尖った調子で聞く。連れて行ってもらったことがないのが不
満なのではなく、他の誰かと一緒に行ったなんてことになると、少しジェラシーを感じ
てしまうかも。
「ある、だいぶ昔に母さんと」
 地下鉄駅への階段が見えてきた。そこを下り始める。
「え。それって何年前?」
「だいたい五年前。大きな買い物のついでに寄ってもらったんだ」
「待って、ちょっと心配になってきた。五年前に行ったきり?」
 先を行く相羽のつむじを見つめる純子の目が、不安の色を帯びる。が、明るい返答に
その色はすぐに消えた。
「今も店があるかどうかって? 一応調べておいた。値段も変わらず、営業中だった
よ」
 相羽の言う駅までの乗車券を買って、程なくしてホームに入って来た車輌に乗る。三
駅先で実際の距離も大したものではないようだから、時間に余裕があれば歩きを選ぶだ
ろう。灰色の壁面を持つ、飾り気のないビルが見えたところで相羽が言った。
「あのビルの三階に入ってる店なんだけど、そういえば昨日調べたときに、隣は占いの
店になってたっけ。淡島さん、興味あるならあとで寄る?」
「お心遣いをどうもすみません」
 歩きながらぺこりとお辞儀する淡島。
「時間があるようでしたら、寄りたいと思います。でも本日はお二人のことが最優先で
すから」
 これには純子が反応する。
「いいよいいよ。こっちはマコと淡島さんのために今日を使おうと思ってるんだから」
「先程のプラネタリウムまでで充分です」
「私の気が済まない」
 歩みを止めそうになる二人を、相羽と結城が後ろに回って押した。
「はいはい、時間が勿体ない。ていうか、相羽君、間に合いそう?」
「うん、余裕。お客さんも少なそうだし」
 確かに、土曜の午後、往来を行き交う人の混み具合に比べ、ビルを出入りする者は皆
無と言っていい。
 重たいガラスの扉をして中に入ると、意外にも?空調がちゃんと効いていた。左手に
あるフロア毎の図で念のため確認してから、エレベーターに。三階に着いて降りると、
そこそこ人がいた。それまでは幽霊ビルなんじゃないかと感じさせるくらい静かだった
め、ちょっと安堵。尤も、人々のお目手当はマジックカフェ『白昼の魔法』でもなけれ
ば、占いの店『クロス』でもないようだ。フロアの大半を占めるゲームコーナーと、奥
まった場所にある市民講座か何かの教室に人が集まっている。
「何時に入ってもいいんだけど、九十分の時間制……でいいのかな」
 小さな頃の記憶だけでは不安に感じたか、相羽は店先まで小走り。壁に掲げてある板
書の説明に目を通す。
 その間、純子達は隣の占いショップに目を向けた。
「占い師がいて占うだけでなく、関連グッズもあるみたいだね」
「占い師は日替わり……今日は違うみたいですが、一人、かなり有名な方がいます。
マーベラス圭子師は著書が多く、テレビ出演も何度かあるはずです」
 さすがに詳しい淡島。ただし、その有名占い師が今日の当番ではないことを、さほど
残念がってはいないようだ。
 と、そこへ相羽が戻ってきた。
「今なら貸し切り状態。入店すれば、すぐにでも始めてくれるって」
「いいんじゃない?」
 純子が女子二人に振り返る。すると、淡島が急にきょどきょどし出した。
「うん? どうかした?」
「あ、あのう。お客さんに手伝わせるマジックは苦手です。それはなしということで…
…」
 貸し切り状態と聞いて不安を覚えたようだ。
「絶対にないとは言い切れないけれども、あったら僕が引き受ける。アシスタントは女
性がいいと言われたら、純子ちゃんか結城さんに頼む」
「もちろんかまわないわよ」
 ようやく入店。中は昼間だというのに、カーテンをほぼ閉め切っている。照明も豊富
とは言えない。その雰囲気のせいで、若い女性店員のいらっしゃいませの声までも明る
い調子なのに、獲物を待ち構える獣の冷笑を伴っているかのように届く。
「何名様ですか」
 手振りを交えて四名であると伝えると、先払いでお会計。次にテーブル席がいいかカ
ウンター席がいいかを問われた。カウンター席は、バーなどでもよく見られるタイプ
で、細くて高いストールが並んでいる。テーブル席は、通常のファミリーレストランや
喫茶店などで見られる物よりは低く、椅子もソファだ。
「カウンターの方がステージに近い反面、お客様同士が重なって並ぶため、手前の席の
方ほど見えにくくなるかもしれません」
 店員のそんな説明を受け、純子らは眼で短く相談し、「じゃあテーブルでお願いしま
す」と答えた。その頃には、フロア全体を照明が行き渡り、最初より随分明るくなって
いた。
 着座するとおしぼりを出されると同時に、カレー及びドリンク二杯分の注文を求めら
れた。それぞれ数種がラインナップされている。カレーはルーの違いだけで、トッピン
グの類はない。ドリンクは昼専用のメニューなのか、アルコール飲料はなかった(あっ
ても純子達は注文できないけど)。
「どうしよう、ココナツミルク入りカレーに惹かれる」
「いいんじゃないの。言っておくけど、胡桃みたいなナッツが入ってるわけではない
よ」
「分かってるって。胡桃好きだからって選んだんじゃないんだから」
 純子と相羽のそんなやり取りを見せられ、結城と淡島は顔を手のひらで扇ぐ仕種に忙
しい。
 注文が決まったところで女性店員がカウンターの向こうに引っ込み、代わって薄手の
眼鏡を掛けた男性店員が出て来た。年齢は、大学生かもうちょっと上くらい。顔立ちは
優しげだが後ろに撫で付けた髪が多少はワイルドな雰囲気を加味している。お客に舐め
られないようにするためかもしれない。ところが口を開くと、その声は顔立ちにも増し
て優しげかつ頼りなげだった。
「はい、では、お食事を出せるまでの合間に、まずはご挨拶代わりに始めさせていただ
きたいのですが、あ、私、卓村欽一(たくむらきんいち)と申します。覚えなくてもい
いですよ、名刺をお渡ししますので」
 愛想のよい笑みを浮かべた卓村は、カードを配るときみたいに名刺大の紙を四枚、
テーブルに置いた。それはしかし名刺にしては変だった。名前が印刷されてしかるべき
箇所に、一文字しかない。しかも四枚とも異なる漢字だ。それぞれに「卓」「村」「
欽」「一」と書いてある。
「おっと、失礼をしました。慌てて、試し刷りの分を出してしまったようで。すみませ
ん」
 卓村は四枚の紙を集めて回収。手のひらで包み込むように持つと、トランプのように
扇形に広げた。すると最前までの漢字が消え、卓村欽一と記された名刺になっていた。
 純子達は拍手を送った。
「これでよしと。では改めまして、お受け取りください」
 卓村にそう言われても、しばらく手を叩き続ける。挨拶代わりでこの鮮やかさ。続く
演目にも期待が高まる。
 もらった名刺をためつすがめつしてみるも、種は分からない。
「あー、あんまり見ないで。種がばれたら恥ずかしい。皆さんは高校生ですか?」
「はい」
 純子と結城の返事がハモった。
「今まで、マジックを生で観たことはあります?」
 卓村の目線が結城に向く。結城はちょっと小首を傾げて間を取り、「プロはないで
す」と答えた。
「えっ、ということはアマチュアならあると。もしかして、皆さん奇術クラブか何か
で、やる立場だったりするなんて」
「いえいえ。やるのは一人だけ」
 結城が相羽を指差し、純子と淡島も目を向ける。
「あ、そうなんだ。じゃあ、詳しいんだろうなー。種が分かっても、女子三人には教え
ないでね」
「もちろん。それ以前に見破れないと思いますけど」
「うわ、ハードル上げられたなあ。それじゃあ予定していたのと違うのを……」
 その言葉が真実なのかは分からない。卓村は紙のケースに入ったトランプカード一組
をポケットから取り出し、皆に示した。次いで中から本体を出し、表面を見せる。新品
ではないからか、順番はばらばらだ。
「ヒンズーシャッフルをするから、好きなタイミングでストップを掛けてください」
 言われた相羽が頷くと、シャッフルが始まる。五度ほど切ったところで、相羽が「ス
トップ」と声を発した。卓村はその状態で手の動きを止め、左手にあるカードの山を
テーブルに置き、次にそこに十字になるよう、右手に残るカードの山を重ねる。
「さて、ちょっとした個人情報を伺いたいのだけれど、だめだったらはっきり断ってく
れてかまいません。彼女達三人の中で、一番親しい人は?」
「それは」
 多少の躊躇のあと、隣に座る純子に顔を向けた相羽。純子はそれなりに手品慣れして
いるため、何か来るかと身構える。が、卓村は穏やかな調子のまま話し続けた。
「そうですか。正式にカップルかどうかまでは聞きません。では、さっきストップと言
って分けてもらったここ――」
 と、十字になったトランプの上の部分を持ち上げる。全体をひっくり返し、その底に
あるカードを全員に見せた。スペードの6だった。卓村は空いている手でポケットから
黒のサインペンを出し、相羽に渡す。それから「このカードにささっとサインしてもら
えますか」と、右手のカードを山ごと持ったまま、相羽の前にかざした。
「名前でなくても、目印になる物なら何でもかまいません。このカードを特別なスペー
ドの6にするためですから」
 相羽が記したのは馬の簡単な絵だった。
(……愛馬の洒落?)
 相羽の横顔を見ながらそんなことを感じた純子だったが、もちろん声には出さない。
「はい、どうもありがとうございます。このカードはこうして裏向きにして、よそに分
けておきましょう」
 カードを手の中で裏返した卓村は、言葉の通り、テーブルの端にそれを置いた。
「今度はあなたの番ですよ」
 純子に話し掛けた卓村は、最前と同じようにシャッフルをし、止めさせた。先程と違
って、十字に置くことはせず、ストップした時点で右手のカードの山を表向きにする。
現れたのは、ハートの8。これまた同じく、純子がサインをする。ここは流麗なタッチ
でさらさらと。
「お、芸能人みたい」
 おどけた口ぶりを挟む卓村。純子が本当にタレント活動をしていることは知らないら
しい。結城が忍び笑いを浮かべるのが純子から見えた。思わず、しーっの仕種。
 そんなやり取りを知ってか知らずか、卓村のマジックは続く。右手にあった表向きの
カードの山に、名前の入ったハートの8をそのまま見える形で適当に押し込む。さっき
取り分けた相羽のカードは、裏向きのまま、もう一つの山に差し込まれた。さらに二つ
の山を、全体で裏向きになるように重ね、軽くシャッフル。
「これでお二人のカードはどちらも、どこにあるか分からなくなった」
 純子達が首を縦に振ると、それを待っていたみたいに「――と思うでしょ。実は違う
んだな」とマジシャン。カードの山をテーブルに置き、まじないを掛けるポーズを取
る。
「まずは君から」
 相羽に視線をやったあと、「来い! 姿を現せ!」と叫んだ。その拍子にカードが飛
び出す……なんてことはなく、卓村はカードの山に手をあてがい、横に開いていった。
当然、裏向きの柄が続く。が、その中に一枚だけ白が見えた。指先で前に押し出すと、
スペードの6と分かる。相羽による馬の絵もある。
 女子三人から「うわ」「凄い」「こんなのあり得ないわ」と驚きの声が上がる中、卓
村は表向きにカードの山を揃えた。テーブルに残ったスペードの6を指差し、純子に
「じゃあ、あなたの番です。そのカードを好きなところに押し込んでください」と指
示。純子は右手人差し指と親指とで端を摘まみ、スペードの6を山の中程に差し入れ
た。
 卓村はずれを修正しつつカードの山を裏向きにしてテーブルに置く。
「さあ、ハートの8も、恥ずかしがらずに顔を見せて。来い!」
 まじないポーズとかけ声を経て、再び、カードの山を横へと扇に広げていくと……
ハートの8だけが表向きになって現れた。言うまでもなく、純子のサイン入り。
「嘘でしょ」「分かんなーい」「だからあり得ないって」
 女子三人が騒ぐ横合いで、例によって相羽は驚いているんだかどうだかはっきりしな
い。が、目を見れば感心しているのは分かる。
 驚きの反応が収まったところで、卓村が告げる。
「ここまで、マジックだと思って観てこられたでしょうが、実は占いでもあるんです
よ」
 占いと聞いて、ぴくりと身体が動いた淡島。さっきよりも身を乗り出している。
「占いの結果を示すために、あなた、手のひらを上向きにして、右手を出してくださ
い」
 言われた純子がその通りにすると、卓村は相羽にも同じ指示をした。厳密には右と
左、手のひらの上下は違っていたが。
「これからこのハートの8を彼女の手のひらに置きます。君はカードを挟むようにし
て、彼女の手を優しく握ってください」
「はあ」
 表向きに置かれるハートの8。そのサイン入りカードを相羽の左手が覆い隠す。
「もう少し強く握って。そう、バルスと呪文を唱えるアニメ映画ぐらいには強く」
 マジシャンのジョークに苦笑しつつ、純子は相羽の手から伝わる力が強まったのを感
じた。
「そのままの姿勢をキープして。そちらのお二人も冷やかしの目で見ないようにね。よ
い目が出るかどうか、大事な分かれ道だから」
 淡島と結城にも注意を促すと、卓村は残りのカードの山を左手に持ち、その縁に右手
指先を掛けた。そしてカードをぐっと反らせる。狙いは相羽と純子の重ねた手。
「この中にある彼のカード、スペードの6を飛ばします。ようく見ていて……」
 一瞬静寂が訪れ、コンマ数秒後にマジシャンが右手をカードから離す。ばさばさっと
短い音がして、カードの反りが戻った。
「……何にも飛んでないような」
 結城が最初に口を開く。淡島はうんうんと頷いた。
「あれ? 見えませんでした?」
 卓村は相羽と純子の方を見た。
「お二人も? たとえ目で捉えられなくても、感触に変化があるはずなんだけど」
「いえ、特に何も……」
 純子は答えて、ねえ?と相羽に同意を求める。相羽も「感触は同じままですね」と微
笑交じりに卓村に答えた。
「さてさて、困ったな。まあいいや。手のひらを開けてみれば、結果は明らか。まさか
失敗ってことはないと思うけど、万が一失敗だったら、より仲よくするようにご自身で
努力してね」
 身振りで促され、相羽は左手をのける。四人の観客の視線が、カードに注がれた。純
子の右手にあるのは相変わらず、ハートの8だけ。四人の視線は卓村へ移った。
「おっかしいな。よく見てみて。一枚に見えるけれど、二枚がぴったり重なっているの
かも」
「そんなことは」
 純子は左手でカードを持ってみた。指を擦り合わせるようにして確かめるも、やはり
一枚しかない。と、その目が見開かれる。
「――わ!」

――つづく




#519/535 ●長編    *** コメント #518 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:12  (363)
そばにいるだけで 67−5   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:29 修正 第3版
 純子が放り出したハートの8はひらりと舞って、テーブルに裏向きに着地。そこには
裏の模様ではなく、スペードの6が。相羽の手書きの馬もしっかりと描かれてある。
「これは」
 相羽がカードを拾い上げ、改めて一枚であることを確かめた。片面がハートの8、片
面がスペードの6でできた一枚のトランプカード。
「これは素晴らしいですね」
 結城と淡島にカードを回してから、相羽は感想を述べた。
「ありがとうございます。結果も気に入ったでしょうか? それぞれ選んだカードが一
枚になって、お二人は離ればなれになることはない、と」
(あ、そういう意味だったのね。驚くのに忙しくて、気付かなかった)
 頬を両手で押さえる純子。赤くなっているであろう肌を隠す。
 右隣の相羽も占いのニュアンスにまでは思い至っていなかったのか、遅れて「……そ
うですね」と答えた。
「――分かりましたわ」
 と、不意に手を打ったのは淡島。
「え? 種が分かったの?」
「いえいえ。そんな眼力、私にはございません。占いというのはジョークだったんです
ね」
 彼女の受け答えに、マジシャン以外がきょとんとなる。逆に、卓村はほっとしたよう
だ。
 淡島は両表になったカードをちょんちょんとつついて言った。
「ハートの8とスペードの6、どちらも表で裏がなくなった。つまり、うらない、で
す」
「ああ、オチを言われてしまった」
 卓村が片手で目元を覆い、天井を仰いだところで、挨拶代わりのマジックは終了。卓
村は下がり、最初に応対してくれた女性店員が四人の前にドリンクとカレーを運んでき
た。
「ご注文は以上で間違いないでしょうか」
 にっこりと微笑みかける女性店員。結城一人が異を唱えた。
「あのー。メニューは間違ってないですけど、私のスプーン……」
 見れば、彼女の握るスプーンはくにゃくにゃに曲がっていた。
「あ、これは失礼をいたしました。超能力マジックで使用した物が、紛れ込んでしまっ
たようです」
 女性店員は曲がったスプーンを結城から返してもらうと、奥に交換に行く――と見せ
掛けて、再度向き直る。
「お一人だけ食べ始めるのが遅くなるのもよくないですよね。こうする方が早いかと」
 店員が左手に持ったスプーンを何度か振って、右手で撫でるような動作をした。右手
が退けられると、曲がっていたスプーンが真っ直ぐに。
「おー」
 結城も他の三人も拍手を贈る。一礼した女性店員から、スプーンを受け取ろうとする
結城の前で、今度はスプーンがぐーんと長く伸びた。いちいち驚かされてしまって、目
を離せず、なかなか食べ始められない。
「すみません。余計な魔法まで掛けてしまいました。これでも使えなくはないですが、
あちこち触ってしまったので、取り替えますね」
 前掛けのポケットから先端を紙で包んだスプーンが登場。女性店員から「はい」と渡
される結城だったが、警戒してすぐには手を出さなかった。
「このスプーンには、何もございません。しばらくの間、お食事をお楽しみください。
あちらの店内モニターにはマジックショーの映像が流れますので、よろしければどう
ぞ」
 ほぼ正面に位置するモニターは、プロジェクター用のスクリーン大ぐらいあり、やや
粗い画像だったが、マジックの模様が映し出されていた。
「翻弄されっぱなしで、もう疲れてきたわ」
 結城がため息を吐き、カレーを一口食す。
「あら、意外と行ける」
「基本レトルトで、メニュー毎に様々なエキスを足すんだって、前に来たとき聞いた
な」
「キッチン事情の種明かしはしなくていいよ」
 純子が笑い交じりにたしなめると、「じゃあ、マジックの種明かしをしろって?」と
相羽に返された。
「そんな無粋は言いませんよー。でもまあ、分かったのかどうかだけは聞きたいかな。
特にカードが一枚にくっつくやつ」
「私も知りたいです。種が分かったとしたら、再現できます?」
「淡島さん、それって暗に、再現してくれと言ってる?」
「はい、遠回しに」
 遠回しと明言すると、遠回しではなくなる気がするが。
「うーん……ちょっと待ってて」
 相羽は食べる手を止め、しばし考えていた。なかなか答を言い出さないところを見る
と、やっぱり難しいのだろう。
「相羽君がマジックを嗜むって言ったおかげで、さっきの人、難しい演目に変更したみ
たいだけど、元々は何をするつもりだったのかな」
「スプーンを使うのがあるくらいだから、ドリンクのストローとかグラスを使った何か
かも」
「もっと簡単そうな……指が切れたり伸びたりするのとか、首が三百六十度回ったりす
るのとか?」
 純子達女子三人で勝手なことを言っていると、それがおかしかったのか相羽が考える
のを止めて話に加わる。
「僕が小さな頃に来たときは、輪ゴムのマジックだった」
「輪ゴムでマジックって何かあったっけ」
「えっと。簡単なのでよければ、こういうやつ」
 相羽はポケットをまさぐって、茶色の輪ゴム二本を取り出した。一本を左手の人差し
指と親指に掛け、もう一本をそれと交差させてから、右手の人差し指と親指で保持す
る。
「ほんとは色違いの輪ゴムを使うべきなんだけど、持ち合わせがないから勘弁。二本の
輪ゴム、間違いなく交差して、引っ張っても抜けることはない、よね」
 口上に合わせ、両手を左右に引く相羽。輪ゴムは伸びるだけで、交差が解かれること
はない。
「ところがこうして何度か同じことをやっていると」
 手を動かし、輪ゴムを伸ばしたり戻したりする相羽。と、急に動きを止め、輪ゴムの
交差部分に注目するよう、皆に言った。注目を得たところで、ゆっくりと手を動かす。
また伸びると思われた輪ゴムだが、そうはならず、一本ずつに分かれてしまった。何と
いうか“ぬるん”と擬態表現したくなるような現象だ。
「お、やるじゃない」
 結城が小さく手を叩いた。淡島は目をぱちくりさせている。
 純子はすでに見せてもらったことのある演目であったのだが、何度演じられても不思
議に見える。
「自分ができるのはこれだけなんだけど、店の人がやったのはもっと複雑なのが含まれ
ていた。もちろん当時とは違う人だからね、今日も輪ゴムマジックをやる予定でいたの
かどうかは分からない」
「私にとっちゃ輪ゴムのマジックでも充分に驚けるわ。その輪ゴム、特殊な物じゃない
のよね?」
 結城が不審の目つきをするので、相羽は輪ゴムを二本とも渡した。結城はその内の一
本を、目の前で引っ張ったりすかし見たりして調べる。と、強く引っ張ったせいなの
か、輪ゴムが切れてしまった。「あ! わ、ごめん」と慌てる結城に、相羽は首を横に
振った。
「いいよ。正真正銘、どこにでもある普通の輪ゴムなんだから」
「むぅ……それなら安心。だけど、それってつまり種がないってことかぁ。テクニック
だけでできるんだ?」
「まあ、そういうこと。ネット検索をしたら多分、分かるよ」
 カレーを食べ始めてからおよそ十五分が経ち、あらかた済んだところへ店員が来て、
食器を下げた。ドリンクも二杯目の物が新たに置かれる。さすがにこんなときまでマジ
ック的な仕掛けはなかった。食器が割れたら困るからかもしれない。
 そのあと、卓村が再登場。「またマジックでご機嫌伺いをしたいと思います」と寄席
芸人めいた入りから、ペットボトルを使ったマジックを披露。四人全員がサインしたト
ランプカードが、未開封のペットボトルの中に入ってしまうというポピュラーな演目だ
が、テレビ番組などと違い、この至近距離で観てもさっぱり分からないため、驚きが減
じられない。むしろより大きくなったかも。
 続いて、自分も超能力マジックが使えるんです、スプーンは曲げられないけれど云々
と前置きして、フォークをくにゃくにゃと曲げた。四つに分かれたフォークの先を、そ
れぞれ別の方向に曲げて、しかも捻るという一見すると本物の超常現象かと思える。
 最後にはフォークを元の形にして、次のマジックにつなげる。観客の一人から大事な
物を借りて、四つの紙袋の内の一つにマジシャンには分からぬよう隠してもらい、大事
な物が入った袋以外を次々にフォークで突き刺すという演目。なお、“大事な物”とし
て供されたのは相羽の懐中時計だったが、傷一つ付けられることなく無事戻って来たこ
とは言うまでもない。
 卓村最後の出し物は、トランプを使った定番のカードマジックだった。一枚のカード
を選ばせて、クラブのキングと言い当てた後、そのクラブのキングを観客に目で追わせ
る演目のオンパレード。山の一番上に置いたと思ったら二枚目になっていたり、逆に山
の中程に入れたはずなのにトップに上がってきたりと、これもテレビ等でお馴染みのマ
ジックだが、間近で見せられると凄さや巧みさがより一層伝わってくる。
 クラブのキングの彷徨いっぷりはエスカレートし、テーブルの端に一枚だけ別個に置
かれていたり、卓村のネクタイに貼り付けてあったり、同じく卓村の眼鏡に差してあっ
たりと、手を変え品を変えしてきたが、いずれも純子達は気付けなかった。最終的に、
淡島の座るソファの隙間から出て来た。さすがにこれは前もって仕込まれていたと想像
できるのだが、それを認めると、じゃあどうやって最初にクラブのキングを引かせるこ
とができたのかが分からない。
 純子らが手が痛くなるくらいに拍手して興奮冷めやらぬ内に、卓村は「このあと、真
打ち登場です。約三十分のステージマジックをご堪能ください」と言い残して引き下が
った。
 感想を述べるほどの間はなく、正面のスクリーン型モニターが機械音と共に引き上げ
られ、ステージが見通せるようになった。舞台袖から登場したのは、相羽らが入店して
からまだ一度も姿を見せていなかった、お洒落な顎髭のマジシャン。彫りの深い顔立ち
に加え、大げさな黒の燕尾服とシルクハットのせいで、魔術師と呼ぶ方がふさわしそう
だ。
 演者は自己紹介の前に手から次々とトランプを出してみせた。この辺で終わりだろ
う、もう出ないだろうというタイミングで一度手を止め、また次々にカードを出して宙
を舞わせる。左右どちらの手からも出現するし、両手を組んだ状態でもカードは現れ
た。しまいには脱いで逆さにしたシルクハットから、大量のカードが滝のように流れ落
ちる。
 ステージ上は当然、カードが散乱して足の踏み場がないほどに。卓村ら店員達が出て
来て、モップで片付けていく。
「えー、この間を利用して、挨拶をさせてもらいます。初めまして、ダンテ伊達(だ
て)と申します。濃いめの顔なのでたまに誤解される方もいらっしゃいますが、もちろ
ん芸名で、西洋の血が混じってることもありません。あしからず」
 散らばったカードが片付けられ、ステージの片隅には一本足の台が置かれた。卓上に
は直方体の箱や透明なグラス、花瓶など小道具がいくつか。伊達は空いたスペースにシ
ルクハットを載せると、次の演目に取り掛かる。
「先程お見せしたのは、マニピュレーションと言って基本的に、指先のテクニックだけ
で行う奇術です。あ、基本的にと言ったのは色々組み合わせたり、カードの補充にあれ
したりと事情があるので。嘘をつけない性格なもので、白状しておきます。それで、店
の者から聞いたところだと、皆さんはそこそこマジックに詳しいとか」
 四人まとめて言われるとどう返事していいのか困る呼び掛けだが、ここは結城が率先
して「私達は観る専門で、やるのは彼だけ」と相羽を指し示しておいた。
 伊達は承知しているという風に頷き、「何かに気付いたり変な物がちらりと見えたり
しても、やってる間は言わないで。これ、マジシャンとお客との大事な約束」と指切り
のポーズをした。
「さて、そういったマジック慣れした人達に、同じようなネタを見せてもつまらないで
しょう。折角準備したのだけれど、取り外します」
 そう言って伊達が宙を掴むと、右手の指先には金色に光るコインが一枚現れた。台を
引き寄せそこにある花瓶の中に入れると、ちゃりんと音が響く。と、次に左手で宙を掴
むとまたコインが。花瓶に入れるとちゃりん。これを繰り返して、何枚もコインが出現
する。途中、ステージを降りてテーブル席まで来た伊達は、淡島の肩口、結城の耳元、
純子のつむじ、そして相羽の飲み物のグラスの底からコインを出してみせた。
「コインはこれで多分片付いたと思うんですが、まだ他にも仕込んでまして」
 テーブルに右手のひらを押し当てる伊達。そのまま前後に擦る動作をすると、赤い球
が現れた。布か何かでできているようだが、手の中に簡単に隠せるとは思えない大きさ
になる。左手でも同じことをすると、今度も赤い球が出て来たが、右とは異なり、小さ
い。ただし数がやたらと多かった。三十個ぐらいあるだろうか、あっという間にテーブ
ル上に溢れ、転がった。
「それから、これも出しておかないと」
 ステージに戻った伊達は、今度はCDかDVDのディスクと思しき銀色の円盤を手か
ら出した。あんな固そうな物を次々に出現させ、マジシャンの手は赤、青、黄、緑……
とカラフルなディスクで一杯になる。それらを台に置くと、またディスクを出し、今度
は手の中で色がチェンジするおまけ付き。八枚出したところで一揃えにしたかと思う
と、自身がくるりと一回転。観客の方を向いたときにはディスクは巨大な一枚になって
いた。
「これで全部出し切ったかな。――あ、いや、もう一つだけ、最初のトランプで忘れて
おりました」
 口からトランプを出す一般にも有名なネタで、一連の演目を締める。
「ふう。やっと身軽になった。これでやりやすい。ところで皆さんは、お花と蛇、どち
らが好きですか」
 唐突な質問に戸惑う一行。一拍遅れて、「そりゃまあ、花になるでしょう」と相羽が
答える。
 伊達はふむと首肯し、花瓶を手に取った。逆さに振ってコインを取り出すのかと思っ
たら、花が五、六本ととぐろを巻いた蛇のおもちゃが出て来た。さっき入れたはずのコ
インは? 疑問を見て取ったらしい伊達は、蛇のおもちゃの首根っこを押さえて言っ
た。
「ああ、さっきのコインならこの蛇が飲み込んでしまったようだ。ほら」
 空のグラスに蛇を傾けると、その口からコインがあふれ出た。グラスを五割方埋めて
止まる。
「蛇はお嫌いとのことなので、使わないと」
 そう言うなり、蛇のおもちゃを観客席に向けてアンダースローのように投げる格好を
した伊達。次の瞬間、蛇のおもちゃはつーっと空中を泳ぐように伝った。勢いがあっ
て、まるで生きているかのよう。テーブルの端まで来て止まった。前触れなしに目と鼻
の先に蛇が来て、さしもの相羽もソファごと数ミリ後ずさり。
「び、びっくりした」
 この日初めて驚きを露わにした相羽に、伊達は満足げな笑みを浮かべ、髭をひとなで
した。
「その蛇は差し上げます。嫌いなら置いていってもかまいません」
「いただきますよ。面白い」
 相羽が手を伸ばすと、蛇のおもちゃはことっと音を立てて、横倒し?になった。今際
の際に最後の反応を示したみたいで、何だか薄気味悪い。それでも相羽は手に取ると、
もう一度「面白い」と呟いた。
「こちらの花はどうするかというと」
 伊達は台の上にてんでばらばらに置かれた花を見下ろし、両手をかざした。
「生きているようで死んでいた蛇とは逆に、死んでいるようで生きているのがこの花た
ちなのです」
 そう説明するや、顎の近くで揃えていた両手を、急に左右に開いた。そうすると目に
見えない力でも働いたみたいに、花が動いた。ある物は立ち、ある物ははじけ飛び、ま
たある物は浮かび上がる。伊達は浮かび上がった一輪をキャッチし、「この子が最も活
きがいい」なんて宣った。
「うまくすれば、お客さんの目の前でも飛び上がるかもしれない」
 またもステージを降り、テーブルまでやって来た。純子、結城、淡島の三人からほぼ
等距離になるテーブル上の一点に花を置く。
「もしうまく行ったら、キャッチしてください。棘はありませんから、思い切り掴んで
も平気です」
 そう言って皆を花に注目させてから、最前と同じように両腕をかざす。あたかも念じ
ているかのようなポーズがしばらく続き、だめかなと思わせるぐらいまで引っ張って―
―一気に動かした。花はマジシャンから見て左側に跳ね、純子の目の前に落ちた。
「あらら、思ったほど飛ばなかったな。惜しい。でも、その花も差し上げます。取り合
いにならないよう、ここにもう二本持って来ましょう」
 伊達の言葉に合わせて、空っぽだった彼の両手にそれぞれ一輪ずつ、花が現れる。結
城と淡島は呆気に取られながら、その花をもらった。
「少し疲れたので、一休み。皆さん、ドリンクをどうぞ。私もいただきますから」
 ステージに再び立った伊達は、グラスを手に取ると、女性店員からコップ一杯の水を
もらった。コインの詰まったグラスにその水を注ぐ。次の刹那、コインは泡を立てて溶
け出した。金属製のコインに見えていたが、実際は発泡性の溶剤か何かだったのか。
 黄色いオレンジジュースみたいになったグラスの中身を、伊達はうまそうに飲む。半
分くらいになったところで止めて、女性店員からストローをもらった。そのストローを
グラスに挿して吸い始める。と、伊達が両手を離しても、グラスは浮いたままになっ
た。
「おおー、芸が細かい」
 ぱちぱちと手を叩く。それに応えて、伊達が手を振り、「どうもありがとう」と喋っ
た。当然、口からストローが離れ、グラスが数センチ落下した。が、どんな仕組みなの
か、宙で止まってぶらぶら揺れる。
「おおっと危ない危ない。あんまり喜ばせないでくださいよ。油断して落とすところだ
った」
 液体を干してグラスを台に置くと、伊達は直方体の箱を取った。
「休憩、終わり。ああ、皆さんは飲んでいて問題ありません。マジックを観てください
とだけ言っておきましょう。さて、この箱、そうは見えないでしょうが、パン製造機で
す。信じられない? でもこれを見れば納得するのでは」
 今、直方体の上になっている面にはつまみがある。スライド式の蓋になっているよう
だ。そこを持って伊達が開けると、中は空洞。そのことをよく示してから、伊達は蓋を
閉じ、軽く振って呪文を短く唱える。また振ると、今度は何か音がする。聞こえにくい
が、直方体が音の源なのは確かだ。
 伊達はオーバージェスチャーで蓋を開けると、これまた大げさに驚いた顔つきにな
り、直方体からロールパン一個を摘まみ出した。
「ね? これ本物ですよ。食べてみせましょう」
 宣言通り、ひと齧りしてパンの欠片を飲み込む伊達。
「うん、うまい。え? 食べて確かめたい? そうしてもらいたいのはやまやまなんで
すが、残念。このパン、賞味期限が切れてるんですよ。コンプライアンス的にお客様に
提供できません」
 その賞味期限切れを食べた口で言うのがおかしい。逃げるための冗談なのだろう。
「このパン製造機のいいところは、材料を入れなくても新しく一個出て来る点でして、
ほら、この通り」
 口上に合わせて直方体を振り、蓋をスライドさせると中には新たに一個、ロールパン
があった。
「パンが出て来るってだけでも結構なマジックだと思うんですが、これで終わりじゃな
い。ここにサインペンとメモ用紙があります。どなたかお一人、紙に何か書いてもらえ
ますか」
 伊達の手には、すでに何度か登場したサインペンと、付箋のような小さめのメモパッ
ドがあった。用紙一枚を取り、テーブル席の方に来る。
「何でもいいんだけど、時間の関係もあるから、簡単な絵か短い文でお願いします。
あ、私には見えないように。書けたら四つ折りにでもして」
 受け取った淡島が成り行きで書くことに。嫌々という様子はなく、マジックの手伝い
を恐れていたのが嘘みたいだ。
「何て書くのがいいでしょう……」
「今日の感想でいいんじゃない?」
 時間を掛けずに、ぱぱっと『楽しんでます! 緑』と書いた。緑は自分達の学校を表
したつもり。指示の通り、紙を折り畳み、「できました」と伊達に声を掛ける。
「はい、どうも。ペンと用紙は他の人が回収しますので、そのままで。折り畳んだメモ
を、この箱の中に入れてください」
 伊達が両手で持つ直方体の箱は、蓋が開けられている。そこから中に紙を放り込ん
だ。
「はい、確かに」
 伊達は蓋を閉めて。小さく振った。かさっと乾いた音がした。
「えー、さっきは言いませんでしたが、この箱――パン製造機にはもう一つ、優れた点
があります。それはプレーンなパンを作ったあとから、そのパンに具を放り込めるんで
す」
「え、まさか」
「嘘や冗談ではありません。これから実証してみせましょう。実験には、このさっき出
したばかりのパンを使います」
 台に置かれた二個目のロールパンを指差す伊達。
「私が触ると怪しいと思う向きもあるでしょうから、どなたか取りに来てくれますか」
 目を見合わせてから、それじゃあ私がと純子が席を立つ。ステージに足を踏み入れる
と、照明がちょっと眩しかった。パンを両手で包み持って、すぐに引き返す。
「大事なパンです、しっかりと大切に保管してくださいね」
「は、はい」
「繰り返し注意しておきますが、そのパンも賞味期限切れなので、食べちゃいけません
よ」
「はい、食べません」
「結構。では、こういう具合にパンを額の高さに持ち上げて」
 伊達の動きに合わせ、純子は両手を額の位置まで持っていった。舞台を見通せるよう
に腕は若干開き気味。
「その格好……ビームフラッシュとかウルトラセブンて分かる?」
 伊達が言ったが、何を意味しているのか分かる者はおらず、全員きょとんとするばか
りだった。時代を感じると口の中でもごもご言いつつ、伊達は本題に戻った。
「そのまま掲げていて。先程入れてもらった紙を、こちらから飛ばして、パンの中に入
れるからね。下手に動くと、パンじゃなくてあなたの中に入るかも」
「あはは。そのときはさっとよけます」
 ジョークにジョークで切り返す純子。伊達は「これは頼もしい」と笑みを浮かべた。
「では、そろそろ行きましょう。一瞬のことだから、お見逃しなきよう――はっ!」
 直方体が上下に一度、激しく振られた。紙が飛んで行く気配は全く感じられなかった
が、僅かながら風は起きた気がする。
「……成功したと思います。パンをこちらに持って来てもらえますか」
 純子は再び席を立った。離れる際、パンを調べたそうな相羽の視線を感じ取ったが、
勝手な真似はできない。
「台の上に置いてください。はい、どうも。戻らないで、ちょっと待っていて。さて、
このパン製造機の箱には、ナイフが付属しています。パンを切るためと、バターを切り
取るための二種類が」
 講釈を垂れながら、くだんの二本のナイフを側面から取り外す。伊達は純子が持って
来たパンを左手に、パン切りナイフを右手に、純子の顔の高さに合わせて持った。他の
三人からもよく見える。
「今からこうしてナイフでパンを切りますから」
 伊達はナイフの切っ先をロールパンの横っ腹に差し込んだ。ゆっくりと押し込みなが
ら、台詞をつなぐ。
「よく見ておいて。メモ用紙の白い色が見えてくるはず……」
 程なくして白い紙が見えた。観客は口々に「あっ」「何かある」等と声を上げる。
 伊達はナイフを引き抜き、できたばかりの切り口を純子に向ける。
「最後はあなたの手で引っ張り出してください」
 無言で頷き、紙片の角を摘まむ。さほど力を入れずに抜き取れた。
「開いて、みんなに見せてあげて」
「はい……」
 実際には開く前から、全く同じ畳み方だわと気付いていた。焦って落としたり破いた
りしないよう、慎重に開いていく。そして『楽しんでます! 緑』の文字を見付けた。
 純子は用紙を目一杯に開き、テーブル席の方に向けた。が、この小さな紙の小さな字
では読めまいと気付く。伊達に目で許可を取って、ステージを降りた。
「凄い。ほんとにさっき書いた物だね」
「おみくじのフォーチュンクッキーみたい」
「いいバリエーションだなぁ」
 メモ用紙を囲んで、三者三様の感想をこぼす。
 このあとラストとして、人体切断マジックの大ネタを観ることができた。女性店員が
ロングスカートのドレスに着替えて登場。伊達の助手(要するに切られる役)になり、
人の形を簡素化した絵の描かれた箱に入って、上半身と下半身の間辺りに鉄板二枚を差
し込み、上半身を横にずらすという演目。ずらしたあとも、箱から出た手や足の先は動
いており、表情も笑顔のまま。箱のずれを戻して鉄板を抜き取ると、無事に助手が生還
する。箱から出て来た女性店員の衣装がドレスからバニーガールに変化していた。
 見事なフィナーレに拍手喝采し、ショーは幕を下ろす。店を出るときに、簡単なマジ
ックができるカードまでもらった。
「予想以上に面白かったわ」
 店を出てすぐに結城が振り返り、言った。少々興奮気味だ。
「いい趣味してるんだね、相羽君て」
「僕とかマジックがとかじゃなくて、演じた人達のセンスがいいんだよ」
「いやいや、輪ゴムのマジックだけでも分かる。純はいいわね。彼におねだりすれば、
種を教えてもらえるんでしょ」
「そ、そんなことないって!」
 ふるふると首を横に振った純子。
「厳しいんだから。こちらが考えに考えた末に、やっと教えてくれるかどうか」
「そんな、人を鬼教官みたいに」
 そのままエレベーターを目指す三人に、背後から若干恨めしげな声が掛かる。
「お待ちください。時間はまだあると思うのですが」
 淡島だ。純子は振り返って瞬時に思い出した。

――つづく




#520/535 ●長編    *** コメント #519 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:13  (283)
そばにいるだけで 67−6   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:39 修正 第2版
「占い!」
「あっ、ごめん」
 相羽と結城も急いで反転。占いショップの前でたたずむ淡島の元へ駆け付けた。
「せーっかく、お二人の仲を占ってもらう分、おごろうと考えていましたのに」
 淡島がどよんとした目で見上げてくる。
「えっと、このタイミングでそう言われても」
 相羽と純子は共に戸惑いを表情に出した。淡島の機嫌を直してもらうには、おごって
くださいと言うべきなのだろうか。何か変だ。
 相羽は両手を拝み合わせ、淡島に頭を下げた。
「淡島さん、本当にごめん。マジックのライブが久しぶりで、僕もつい夢中になってし
まって。次からは気を付けて、こんなことないようにする。だめかな?」
「……よろしいです。ちょっと意地悪を言いたくなっただけですから、ご安心を」
 淡島が笑顔を見せたので、相羽も純子も結城もほっとした。
「ただ、お二人が占ってもらうところを、同席してみたい。私独自のやり方の参考にな
るかもしれません」
「え。そういうのは、占い師さんに頼んでみないと分からないんじゃあ……」
 店の前で揉めていてもしょうがない。思い切って入ってみることに。店内は占いグッ
ズが所狭しとディスプレイされていた。が、淡島は目もくれない。
「時間がどのくらい掛かるか分からないから、すぐさま観てもらいましょう」
 淡島に手を引かれ、奥の占いスペースらしきコーナーへと連れて行かれる純子。相羽
も仕方なしに着いていき、その後ろを結城が面白がって押す。
 ゲルを思わせるそのコーナーの出入り口には、占い師の名札『小早川和水』が掛かっ
ており、天幕からの布が目隠しになっている。先客はいないようなので、布を持ち上げ
て中の人に声を掛けてみることにした。淡島と純子で声を揃える。
「すみません、占ってほしいのですが……」
「どうぞ、お待ちしておりました」
 存外、軽い調子の返事があった。幾分緊張していたのが和らいで、入りやすくなる。
 壁際の椅子に腰掛けていたのは、浅黒い肌の女性で、太い眉毛が印象的な人だった。
どことなく南国かインド辺りを連想させる。髪はショートカット、衣服は水色のワン
ピースで、いかにも占い師といった風ではない。客の椅子との間には白いテーブルがあ
り、紫のクッションの上にやや大きめの水晶玉が一つ鎮座している。他にも何やら標本
サイズの鉱物がたくさんある。
 椅子を勧められたが、先に伝えねばならないことがある。淡島が暗いジャングルを手
探りで行くような口ぶりで聞いた。
「変なことを言うかもしれないですが、あのう、一度に四人が入っても、大丈夫でしょ
うか……」
「他の人に占いを聞かれてもいいの? だったらかまわない」
 これまた思いのほかフレンドリーだ。虚仮威しタイプよりはずっといいが、こうも親
しげだと占いの重みやありがたみが薄れそうな気もする。
「初めての方ね? 初回特別割引で、学生さんならこういう具合になってるけれども、
いいかしら」
 料金表を示し、ビジネスライクなことまで言ってきた。とにもかくにも、普通の高校
生でも楽に手が届く設定はありがたい。
「お願いします。ただ、とりあえず、観ていただきたいのは二人なんです」
 ここからは純子が話す。相羽との仲を観て欲しいと伝えた。淡島に半ば強制されたこ
とは言わないでおく。
「珍しい。普通は隠したがるものでしょうに。いけない、関係のない詮索はやめないと
ね。れじゃ、二人に前に座ってもらって、付き添いの友達は後ろで……そこのパイプ椅
子を出して置けるようなら、座って」
 相羽が率先して椅子を置いていく。幸い、椅子を二列ならべてもまだ余裕はあった。
「それでは改めて……私の名前は小早川和水(こばやかわなごみ)と言います。ご覧の
通り、水晶占いにジュエリー占いを組み合わせて観させていただきます。他にも姓名判
断とタロットが使えますが、水晶でかまわないかしら」
「は、はあ。お任せします」
 純子が受け答えする横で、相羽は口をつぐみ、占いの道具の数々をぼんやり眼で見て
いる。興味がない訳ではなく、平静を装っているようだった。
「じゃあ、最初にイメージを掴むためにお名前を教えて欲しいの。姓名判断ではなく、
飽くまでイメージを把握するため。それから誕生石を知る必要があるので、誕生月もお
願いね」
 便箋と鉛筆を滑らせるようにして、純子と相羽それぞれの前に置く。相羽がここで初
めて口を開いた。
「名前にふりがなは?」
「何て読むのかを知った方が、よりイメージしやすいわ」
「じゃあ書きます」
 流れに素直に従う。書き終えた便箋を向きを換えて渡すと、小早川は何も言わずに石
を選んだ。五月の代表的な誕生石エメラルドと十月の代表的な誕生石オパール。どちら
も極小さな物で、シートに固定されている。他に参考ということだろうか、翡翠、トル
マリン、ローズクォーツとメモ書きするのが見て取れた。
「最初に言っておくと、このあとの占いで示される見立ては、今の時点でのものだか
ら。どんなにいい結果が出ようと心掛けや行い次第で、悪い方に変化し得るし、逆もし
かり。そのことを忘れないでね」
 二人がはいと答えると、小早川は便箋を返した。個人情報の処理はお客に任せる方針
らしい。
「それではお聞きしますが、お二人の何を観てみましょうか?」
「えっと」
 改まって尋ねられると、具体的には決めていなかったと気付く。かといって、淡島に
判断を仰ぐのもおかしな話だし。
「見たところ――これは占いではなく、私の直感だけれど――見たところ、現状で充分
幸せそうよ。120パーセント満足とまでは行かないにしても、大きな不安や悩みなん
てあるようには思えないわ」
「……小さな不満なら」
 純子が小さな声で言った。占い師の「聞かせて」という促しに応じて続ける。
「会える時間が少ないんです。一緒の学校、一緒のクラスなのに。でもこれは原因がは
っきりしてるからいいんです。一時的なことのはずだし」
「少し、はっきりさせてみましょうか。悩みは過去にあるのか未来にあるのか、それと
も現在なのか」
「未来、かな……この先ずっと、こんな調子だと嬉しくないなって」
 相羽の様子を横目で窺った。相羽の口が、そうかと声のない呟きの形に動いたように
見えた。
「彼氏さん、えっと相羽君の方は何かある?」
「悩み相談室みたいですね。ええ、今の状況に幸せを感じてはいます。だからこそと言
うべきなのか分かりませんが、将来に対する不安はあります」
 ほぼ同じことを言ってるようでいて、ニュアンスの微妙な違いがあるようなないよう
な。その空気を感じ取れたのか、小早川は具体的な提案をした。
「とりあえずというのもおかしいけれど、二人の将来を観てみよう。ね? 今の状態が
いつまで続くのかとか、よい方に向いているのかとか。結ばれるかどうかまでは言えな
いけれど、相性診断も併せて」
 その線でお願いすることに決めた。
 小早川和水は集中するためにと前置きして、占いコーナー内の明かりを若干落とし
た。ほの暗くなった空間で、水晶玉に手をかざす。その手には、エメラルドかオパー
ル、どちらかの誕生石が握り込まれているようだった。
「――今現在の姿から、将来への像を辿って描きます――今現在の涼原さんは全力疾走
しているイメージ。それも多方面に。水晶玉にあなたの誕生石をかざすと、色々な方向
に電気のようなものが走るから。そのことがさっき言っていた原因? あ、答えなくて
いい。……うん。ときが来れば止まる。そのとき、一緒にいてくれる人が」
 小早川は石を取り替えたようだ。ほとんど間を置かずに、首を縦に小さく振る仕種を
した。そして次に、首を傾げる動作もあった。
「そのとき一緒にいてくれる人が、相羽君なのは間違いない。ただ、それまでに……」
 言い掛けてやめる占い師。純子は何があるのかと反射的に聞き返そうとした。が、そ
のタイミングで相羽が手を握ってきた。おかげで口出しはせずに、占いは続くことに。
「もう少し待っててね。ここは慎重に、段取りを踏んで、彼氏さんの今現在の姿も思い
描くから」
 小早川がそう言って、石――多分エメラルドの方を水晶玉にかざす。その様を見てい
る内に、水晶玉の内部を本当に電光が走ったように思えた。
「うん。ちょっと不思議かな」
 どういう意味ですかと聞き返してしまいそうなのを堪え、続きの言葉を待つ純子。相
羽の手を握り返す手に力が入った。
「相羽君の方は今、岐路に立っているか、通り過ぎたばかり。本人が自覚しているして
いないにかかわらず、そういう地点にいるっていう意味」
「あの、よろしいでしょうか」
 意外なことに、相羽が口を挟んだ。隣の純子も、後ろの二人も少なからず驚いて、は
っとする気配が伝染する。小早川も一瞬むっとしたようだが、すぐに如才ない笑みを浮
かべた。
「何か?」
「高校生はそろそろ進路を決める時期だからってことで、当て推量で言ってるのではあ
りませんか?」
「うーん、私がそういう計算を無意識の内にしているのかもしれないけれども、その辺
りも全てひっくるめての占いよ。これでいい?」
「分かりました。失礼をしました」
「じゃあ、続きを――相羽君が行くであろう道は、彼女さんの道とは交わらないか、大
きくぐるっと回ってきてようやくつながる、みたいなイメージを持った。つながったと
きというかつながったあとは涼原さんとずっと一緒になる、そんな感じよ。今ね、二人
の石を同時にかざしているのだけれど、別ちがたい結び付きがあるのが伝わってくる。
それを思うと、道が交わらない時期があるのが逆に不思議。一時的な物とは言え、これ
だけ相反するものが見えたということは、心掛け次第では大きく変化してしまうことも
ないとは言い切れない……」
 明かるさが徐々に戻っていく。どうやら占いは済んだようだ。
「あのー、結局どういう……」
 終わったのなら聞いてもいいだろうと、純子は尋ねた。
「今のあんまり会えない原因が、まだしばらく続くか、拡大するという解釈になるんで
しょうか」
「少し違うと思う。見た目の原因は変わりがないとしても、間接的に相羽君の選択が関
係してるんじゃないかっていう見立てよ」
「そうですか」
 多少の不安を抱えて、相羽の顔を見る純子。相羽も見つめ返していた。
「まあ、驚かせるようなことを最後に付け加えたのは、二人に緊張感を保って欲しいか
らよ。何があってもどうせ一緒になれるんだからと思い込んで、いい加減な行動を取っ
て、それが原因で不仲になったりしたら、私が恨まれてしまう。実際、似たようなこと
で怒鳴り込まれた先輩を知っているし」
 占い師としての実情をぶっちゃける小早川。神秘性はあまりないけれども、親しみを
覚える人柄に、純子は少なからず好感を持った。
「さあて、知りたいことは他にない? あっと申し訳ない、先にお代をいただいておか
なくては」
 そう言われて、相羽が真っ先に動いた。
「ここは僕が」
 皆まで言わない内に支払いを済ませる。それどころか、ずっと見物していた結城と淡
島に向き直り、「何かあるのなら、僕が出すから観てもらいなよ」と誘った。
「ありがたい話だけれども、私は相談を友達に聞かれたくないわ〜」
 結城が冗談交じりに言うのへ、被せるようにして「僕らは出ているから」と後押しの
言葉をつなぐ。
(相羽君が占いのことでこんないい風に言うなんて珍しい。小早川和水さんを相羽君も
気に入ったのかしら)
 結局、淡島も結城も相羽のおごりで観てもらうことになった。先に座った結城は、外
に聞こえるほどの音量で「彼氏がいつになったらできるのか、知りたいです!」と言っ
ていた。

 帰りは当初の予定よりは遅くなったものの、ちょっとしたずれの範囲内で、明るい内
に最寄り駅まで戻れた。
 結城や淡島とはすでに駅で分かれており、ここから自転車に乗っての帰路は相羽と二
人きり。
「あーあ、楽しかった。ちょっぴり無理をした甲斐があったわ」
「やっぱり、無理をしてたんだ?」
 結城達がいなくなったところで気抜けしたのだろう、つい実情を漏らしてしまった。
相羽にはしっかり聞き咎められたが、もしかすると純子自身も心の奥底では誰かにねぎ
らって欲しいと願っていたのかも。
「そんなに、無理って言うほどの無理じゃないわ」
「隠さなくても。実は、おおよそのところは、母さんから聞いて知ってるんだけど」
「そ、そうだったの。だから誘ったときに、簡単にOKしてくれたのね」
「心配して欲しかった? 仕事がないときは休めって」
「うう。かもしれない。でもいいんだ」
 自転車ではなく徒歩だったら、相羽の方を振り返ってほころぶような笑顔を見せてい
ただろう。
「今日は休んだ以上に充実してたもん。寄ったところは三つとも好みに合って。プラネ
タリウムは内容が入れ替わるまではいいけど、マジックはどうなのかしら? ショーの
内容は同じ?」
「基本となる部分は同じで、あとは客に合わせて変えてくると思うよ。僕らのこと覚え
てくれただろうから、なるべく違う演目になるはず」
「じゃあ、近い内にまた行ってみない? 今度はその、二人で」
「……」
「な、何で黙るの!」
 恥ずかしさから声が大きくなる。相羽が急いで返事を寄越した。
「随分、積極的だなと思って、びっくりした」
「それだけよかったってこと! ……それに、占い師さんにああいう風に言われて、少
し気になったから」
 駅から自宅まである程度行くと、あまり信号がなく、あっても青だったため停まらず
に来られた。が、ここで十字路に差し掛かり、一旦停止した。
「相羽君も気になったでしょ?」
「そう、だね」
 相羽の区切った言い方に引っ掛かりを覚えた純子だが、疑問を言葉にする前に、自転
車を漕ぎ出す。比較的狭い路地に入るため、一列になった。純子は後ろに着いた。
「小早川さんの言っていた岐路って、当たってたんじゃあ?」
 思い切って聞いてみた。相羽の背中から反応が来るまで、ちょっと長く感じた。
「どうしてそう思うの?」
「学校で先生のところによく行ってるでしょ、相羽君。面談の話だけにしてはいつまで
も掛かっているし。やっぱり進路の相談なのかなあと思って」
「なるほど。……純子ちゃん、次に時間が取れる日っていつになる?」
「え? それは分からないけれども、当分無理かなぁ。今日の休みを確保するために、
あとのスケジュールにもしわ寄せが行ったみたいだから」
「そっか、そりゃそうだよね」
 相羽が額に手を当てて、考える姿勢になるのが分かった。そのポーズがしばらく続く
ものだから、「前、ちゃんと見てる? 危ない」と声を張る。
 実際には周囲がまだ明るさを残しているおかげもあって、危ない目に遭うことも遭わ
せることもなく、純子の自宅前まで着いた。
「結局、何だったの? 時間が取れる日って……」
 自転車を降りて門扉の手前まで押して立ち止まり、振り返って尋ねた純子。
「気にしないで。僕の方で何とかする。じゃあ急ぐからこれで」
「? う、うん。分かった。気を付けてね」
 違和感を払拭するためにも、手を強く振って彼を見送った純子。だが、何となく居心
地の悪いものが残った。

            *             *

「母さん、純子ちゃんのスケジュールで一日だけでも完全な休みを作れない?」
 マンションの自宅に帰り着くなり、相羽は母に言った。
 キッチンに立っていた相羽の母は、短い戸惑いのあと、眉根を微かに寄せた。難しそ
うだと見て取った相羽は、答を聞く前に言葉を重ねる。
「無理なら、一番仕事に余裕がある日を知りたい。三日間ぐらいのスパンで見た場合
に」
「……もうすぐ夕飯が完成するから、その話は食べながらにして、今は着替えてきなさ
い。うがいと手洗いもね」
 分かったと素直に動く相羽。
 今日午後から遊んだ中で、二度も暗示的な出来事があった。自分と純子との近い将来
を考えさせる出来事が。表裏一体になったカードと占い、どちらも純子に何かを勘付か
せるきっかけになっているような気がする。
(はっきり聞かれる前に、僕から言わなくちゃ)
 しかしそれにはタイミングを見定める必要がある。当初は、彼女にじっくり落ち着い
て聞いてもらえる時間と場所があれば、何とかなると思っていた。だけれども、少し考
えてみて、純子が関わっている仕事への影響も考慮せねばならないと思い直した。その
目的のために、まずは母に聞いてみたのだが。
「――それを教えても、大して差はないと思うわ」
 母の返答に、相羽は何でだよと口走った。似つかわしくない荒っぽい言葉に、母が苦
笑を浮かべる。
「信一がどんな理想的な状況を描いているのか知らないけれど、ショックを与えずに知
らせるなんて、絶対に無理だから。仕事への悪影響って言うのなら、ショックを二日も
三日も引き摺るかもしれないわ」
「それは……」
 続きが出て来ない相羽。母が意見を述べた。
「とは言ってもね。私から見た印象になるのだけど、純子ちゃんはあなたの留学を知っ
ても、多分仕事はきちんとこなすわ。最高の状態ではない、悪いなりにではあるかもし
れないけれど、責任感のある強い子だから、それくらいはやり遂げる。純子ちゃんにと
って一番影響を受けるのは、あなたがいなくなったあとの日常の方」
「そうなのかな……」
「決まっているわ。好きなんでしょう、お互いに。あなたが考えるべきは、一番ましな
伝え方をしようとか、ベストのタイミングを計ろうとかじゃなくて、離ればなれになっ
たあとの彼女のことを想って、今できる行動を起こす。これじゃないのかしらね」
「……分かるけど。難しい」
 食事の手が止まりがちになるのは、カレーライスのせいだけではない。母に促され
て、何とか再開する。
「私が純子ちゃんなら」
 その前置きに相羽が顔を起こすと、母がいたずらげな笑みを浮かべていた。
「こんな大事なこと、一刻も早く知らせてよ!ってなるかな。次は、ひょっとしたら翻
意を期待するかもしれない。そこは信一が誠意を持って受け入れてもらうしかない。そ
れから――一緒にいられる間にできる目一杯のことをしたくなるわね。信一は求められ
る以上に応えてあげて。そうして彼女に安心してもらう」
「安心」
「そう。たとえ遠くに離れていても、これからの将来ずっと一緒に歩んでいけるってい
う安心」
 おしまいという風に、箸でご飯を口に運ぶ相羽母。
「いいアドバイスをもらえた気がする」
 相羽は無意識の内に頭を掻いた。
「けどさ、純子ちゃん忙しいんでしょ? 出発する日までに、どれだけ時間を取れるの
か……」
「そこはまあ、信一が工夫して。学校にいる間を最大限活用するとか。たとえば、思い
っきりべたべたしてみるとか?」
「母さん!」
 怒ってみせた相羽だったが、次の瞬間には学校で純子とべたべたする場面を想像し
て、赤面と共に沈黙した。

――『そばにいるだけで 67』おわり
※作中に出て来た、皆既日食の起こるとされる月日は、架空のものです。過去及び未来
を通して、同じ七月下旬に皆既日食が日本で観られるケースはあるはずですし、なおか
つ本作のカレンダーと合致する年があるとしても、それは偶然であり、本作の年代を特
定する材料とはなりません。念のため。




#521/535 ●長編    *** コメント #501 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/30  22:43  (471)
絡繰り士・冥 3−1   永山
★内容                                         19/02/01 01:30 修正 第2版
「これをどう思うね?」
 十文字先輩が白い封筒とその中身の便箋を示しながら云った。
「この住所のところに行ける? ちょっと季節外れでも、南のリゾート地に行けるなん
てうらやましいにゃ」
 一ノ瀬和葉が答えて、ホットミルクの入ったグラスを両手で引き寄せた。穴の開いた
棒状のお菓子をストロー代わりにして、ぼそぼそと吸っている。
「――百田君、君は?」
 先輩の目が僕に向いた。先輩の注文したコーヒーと焼き菓子がちょうど届いた。
「招待状を受け取る心当たりはあるのですか」
 僕は冷めつつある残り少ないパスタをフォークで弄びながら尋ねる。
 ここは七日市学園のカフェだ。今は放課後の四時。他の利用者はほとんどいない。冷
たい雨が降っているせいか、早々と帰路に就いた者が多いのだろう。唯一、遠く離れた
席で、女子の二人組がお喋りに花を咲かせている。――いや、何やら深刻そうに話し込
んでいる。
「ないさ」
 きっぱりとした返答の十文字先輩。名探偵を志し、実際にいくつかの凶悪犯罪を解き
明かしてきたこの人にとっても、見知らぬ人物から招待状を送られるなんて経験は、珍
しいらしい。それで先輩が困惑したのかどうかは分からないが、意見を聞きたいという
ことで、僕らはカフェに呼び出され――来たのは先輩の方が遅かったけれども――、今
に至る。
「字は毛筆体だが、プリンターで出力したものだね。差出人の名は小曾金四郎と書い
て、こそ・きんしろうと読むと判断した。初めて見る名だ。住所の記載はなく、消印す
らない。直に郵便受けに放り込んだと思われる。中身は便箋と飛行機のチケット。文面
は多少凝っているが、内容は至ってシンプル。『貴殿の探偵業における日頃の活躍を賞
し、また慰労のため、保養の地にご招待する所存』云々かんぬん。要するに、探偵とし
てよくやったから骨休めに来いという訳だ。どこで活躍を見てくれていたのか知らない
が、これを直に郵便受けに投じていることや、スマホや携帯電話その他モバイル機器の
類は持参するなと書いてあること等からして、怪しさ満点だよ」
「小曾金四郎ってのも本名じゃないんでしょうね」
「恐らく、いや間違いなく偽名だろうな。振り仮名がなかったんだが、こそきんしろう
と読める名を名乗ったのは、別の意図があるんだと思う」
「と云いますと?」
 僕が莫迦みたいにおうむ返しした横で、一ノ瀬が「あ」と叫んだ。ストローは消え、
ミルクも飲み干していた。
「もしかして、アナグラム? えっと、ローマ字なら、KOSOKINSHIROUだ
から……」
「KURONOSOSHIKI――『黒の組織』になる」
 すかさず答えた十文字先輩。著名なアニメでもお馴染み、悪者グループの俗称、代名
詞みたいなものと云えよう。
「これが偶然でないとしたら、ますます警戒する必要があるのだが、こういった招待状
に対して、怖じ気づいて応じないというのも名探偵像にはない」
「じゃあ、乗り込むんですか」
「それは君の返事次第だよ、百田君」
 想像の斜め上から来た文言に、僕は口をぽかんと開けた。頭の方も一瞬、ぽかんとな
ったかもしれない。
「ど、どういう意味ですか」
「お誘いの文句には、集合する日時と場所の指定に続けてこうある。『同封したもう一
枚は、お連れの方の分としてご自由にお使いください。ただ、一つだけ当方の我が儘を
述べさせていただきますれば、十文字探偵の名パートーナーでワトソン役である方をご
同伴願えたらと、切に願う所存です。』とね」
「僕のこと、ですか」
「そうなるね。ワトソン役を連れてこいということは、向こうで事件が起きる、少なく
とも準備がなされている可能性が高い。モバイル禁止は、外部の助けを借りるなという
示唆じゃないかな。向こうがここまでして待ち構えているのに、行かずにいられようか
という気分の高鳴りを覚えるんだよ。無論、君の意思は尊重したい」
「待ってください。僕が行かないとしたって、他に誰か頼めばいいのでは? たとえば
……五代先輩を通じて、警察の人に同行してもらうとか」
 五代春季先輩は十文字先輩の幼馴染みで、警察一家に生まれた。柔道の腕前は強化選
手クラスだ。
「この段階で、警察が動くとは考えづらい。仮に動いてもらったとして、何も起きない
内から、探偵が警察を連れて来るというのもまた前代未聞じゃないかな」
「だったら、せめてボディガード的な……それこそ五代先輩や音無さんがいれば、心強
いじゃないですか」
 音無亜有香は僕や一ノ瀬と同級で、剣道に打ち込んで強さを磨いている。こと暴力沙
汰になれば、僕なんかよりずっと役に立つ。
「ご指名は――名指しじゃないが――君なんだよ。特別な理由なしに、君以外の者を同
行させたら、僕が臆病風に吹かれたみたいに映るじゃないか。そうなるくらいなら、最
初から招待を断る」
 何となく格好いいこと云ってるみたいに聞こえるけれども、矛盾してる。そこまでメ
ンツを気にするなら、行かないというのはあり得ないはず。一人でも行くというのが最
後の選択肢なのではないのかしらん……なんてことを先輩相手に指摘できるはずもな
く。多分、十文字先輩は僕に着いてきて欲しいのだと思う。理由は不明だけれど。
「いつなんですか。都合がつけば行きますよ」
 僕の返事に、高校生名探偵は破顔一笑した。

 いくら南国のリゾート地といえども、連休を丸々潰して出向くには、不気味で不確定
な要素が多すぎる。一ノ瀬が云ったように時季外れだし……と、旅立つ前はそう思って
いたのだけれど。
「ようこそ、ワールドサザンクロスへ」
 空港のすぐ外、送迎車らしきワゴンカーの前で待機していた女性二人は朗らかに云っ
た。僕の方に付いた女性は、どことはなしに全体的な雰囲気が音無さんに似ていて、そ
れだけでこの旅がいいもののように思えてきた。あ、毎度のことだから記すのが遅くな
ったけど、僕の理想の女性像は音無さんなのだ。
 尤も、年齢は僕ら高校生より上であるのは確実で、四年生大学卒業前後といった辺り
に見えた。彼女はミーナと名乗り、十文字先輩に付いたもう一人はシーナと名乗った。
もちろん本名ではなく、当人らの説明によると、小曾氏の自宅に隣接する形で氏がオー
ナーを務めるリゾート施設があり、そこのショーに出演するプロのパフォーマーだとい
う。
「そんな方々が迎えに、わざわざ車を運転してくるなんて。まさか、自動運転じゃない
でしょう?」
 先輩が真顔でジョークを飛ばすと、ミーナとシーナはより一層の笑顔を見せた。
「ご安心ください。運転手は別にいます。名を東郷佐八(とうごうさはち)といいま
す」
 スライド式のドアを開け、中へと導かれる。運転席の中年男性に挨拶をすると、振り
向いて強面を目一杯柔和にして挨拶を返してくれた。
「このまま我が主の邸宅へ向かいますが、寄りたい場所があれば云ってください。道す
がら、目にとまった場所でもかまいません」
「とりあえず落ち着きたいので、目的地に直行でお願いします」
 実際問題、下調べをするゆとりがなかったため、どこに何があるのかさっぱりだ。結
局、コンビニエンスストアに立ち寄って、ご当地仕様のお菓子や飲み物なんかを多少買
い込んだぐらいで、他に寄り道はせず小曾邸に着いた。最終的に車は五十分ほど走った
ようだ。
 門をくぐって、噴水を中心にロータリーみたいになっているところで降ろされた。
ミーナが荷物を持ちましょうと云ってくれたが、断った。つい浮かれ気分になりそうな
陽気だが、この旅行は正体不明の差出人からの怪しい招待を受けてのもの。警戒するに
越したことはない。それを云い出したら、迎えの車に乗るのはどうなんだとなるが、だ
ったらそもそも招待に応じなければいいとなるので、虎穴に入る覚悟をある程度してい
る。
「こいつは……想像していたのとは若干違うが、豪邸だな」
 先輩の言葉に、僕も同感だった。ちょっとしたお城のような洋館を思い描いていたの
に対し、目の前に現れたのは、平屋造りの日本家屋。ただ、敷地面積がやたらと広い。
多分、余裕で野球ができる。
 隣接されているレジャー施設も背の高い建物はなく、黄色と青色を配したかまぼこ型
の屋根が長く伸びているのが確認できたのが精一杯だった。
 背の高い扉の玄関の前まで来て、ふと気付くとミーナもシーナもいない。東郷は元か
ら車を離れていない。
 どうしたものかと迷う間もなく、観音開きのドアが内側から押し開けられた。スムー
ズな動きで、音はほとんどしない。
 執事か何かが登場すると思っていたら、筋肉質な身体の持ち主がいた。若い男――と
いっても三十前ぐらいか――で、黄色のシャツに赤いジャケット、膝下でカットしたブ
ルージーンズという信号機みたいななりをしている。男前なのに残念なセンスの持ち主
なのかなと思った。
「よく来てくれたね。僕が小曾金四郎だ。よろしく」
 いきなりの招待主登場に、僕は面食らった。対照的に先輩は、小曾が満面の笑みで差
し出した右手を自然に握り返し、握手に応じている。ああ、何はともあれ、名前の読み
は“こそきんしろう”で当たっていたんだ。
「探偵の十文字です。お招き、ありがとうございます。こちらはワトソン、百田充君で
す」
 先輩の紹介に続いて、僕も小曾と握手。とりあえず名前だけ云って、あとは黙ってお
いた。
「早速ですが、僕らを招いた真の目的は何です? 本当に称えるためだけなら、失礼で
すがこのような僻地まで呼び付けずとも、僕らの地元で祝ってくれればいいのにと感じ
たんですがね」
「話が早いのは助かる。依頼がしたい」
 小曾は最初の笑顔を消して云った。
「依頼なら他に簡単な方法が――」
「ただの依頼じゃない。訳あってこのような迂遠な方法を採ったんだ。否、採らされ
た」
「採らされたとは?」
「言葉通りの意味だ。強制されたのだ」
 つい先程から、低い振動音が微かに聞こえている。スマートフォンか携帯電話のマ
ナーモードによる音らしく、どうやらそれは小曾の方から聞こえる。
「やっと許可が出た。僕は小曾金四郎ではない。俳優だ」
「はあ?」
「名前は岸上健二(きしがみけんじ)、あんまり売れていないが、ネットで調べればい
くつかの舞台劇や映画に出ていると分かるだろう。そんなことは重要じゃない。僕は今
の今まで、小曾金四郎役を強制されていた。さっき、スマホに着信があったんだが、そ
れが合図でこうして事情を君達に喋っている」
「きょ、強制されているって、何が原因なんです?」
 思わず、僕は口を挟んだ。横手から軽く舌打ちする音がして、十文字先輩が僕の肩に
手を掛けた。
「百田君。今は岸上さんの話を聞くのが先決だ。何者か知らないが、彼を操っている人
物から話すチャンスを与えられたようなのだからね」
 なるほど、喋れることを全て喋ってもらおうということか。質問するだけ時間の無駄
という訳だ。岸上も意図を汲み取り、一気に話す。
「僕には妻と子供がいて、三日前から人質に取られている。相手は小曾金四郎と名乗
り、妻達の身の安全と引き換えに、僕に指示をしてきた。警察には届けていない。君ら
には申し訳ないが、この条件なら達成できると思った。云うことを素直に聞いて、妻と
子供を無事に返してもらうつもりだ。条件というのは、さっきの着信まで小曾金四郎の
ふりをして、云われた通りの役回りを務めることと、もう一つ。君達というか十文字君
に、簡単な問題を解いてもらうことだと聞かされている。問題が何かは聞かされていな
い。このあと、指示が来るはずだ。それから、小曾がどこかから見張っていると思うん
だが、詮索するなと厳命されている。そのことは君達も守ってくれ。お願いだ」
 岸上が明確な返事を求める目を向けてきたので、先輩も僕も首肯した。
「もちろん、守ります。話したいこと、話せることは以上ですか」
 先輩の問い掛けに、岸上は一瞬考える仕種を覗かせ、次に早口で云った。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。次の指示があるまでは、自由に答えられる」
「とりあえず三つまとめて聞きます。いつどのようにしてここに来たのか。小曾からの
接触はどんな方法だったか。奥さんとお子さんが無事である証拠は示されたのか」
「着いたのは昨日だ。正午過ぎだった。多分、君らと同じ車で運ばれた。犯人の小曾か
らは三日前の夜、家の固定電話に電話があった。妻が自転車で保育園に飛翔(かける)
を迎えに行った帰り道、妻と飛翔を誘拐したと云っていた。ここへ来る交通費やルート
は、郵便受けに入っていた。無事である証拠は声を聞けた。最初の電話のときから一日
に一度ずつ、一分あるかないかの短い時間だったが」
「次の三問です。昨日着いてから今まで、何をして過ごしましたか。この家や隣の施設
に実際に使われてきた形跡はありましたか。あなたの他に、誰がいますか」
「到着したその日はずっと監禁されていた。奥の方の土蔵のような部屋だった。見張り
の有無は不明だが、外から鍵を掛けられた。食事は小型冷蔵庫があって、その中から適
当に食えと云われていた。トイレも簡易式の物があった。こう説明していると牢屋だ
な、まるで。今朝になって部屋を出された。身なりを整え、こんな格好に着替えさせら
れ、君らの到着を待った。二問目については、よく分からん。この家の方は使っていた
形跡はあるが、住人がいたのかどうかは知らない。隣の施設となるとさっぱりだ。サザ
ンクロス何とかだっけ? サーカスか何かみたいなものだと思っていたが、人の気配や
歓声はなかったな。それから他に誰がいるかは、答えることを禁じられている。云える
のは、犯人側ではない者が何人かいるとだけ」
「――他に禁じられていることは何? 電話をしてきた小曾の声の調子はどんな感じだ
った? それから」
「すまない。着信があった。時間切れらしい」
 岸上は俯き気味に首を振った。ポケットの中で、機械を操作するのが分かる。
「このあと、僕はまた小曾金四郎として振る舞わねばならない。君らもそのつもりで対
応してくれ。他の連中は何が起きているのかをまだ知らない。抽選に当たってただで旅
行に来られてラッキーと思っているようだ」
 言葉を句切ると、岸上は「入ってくれたまえ」と語調を改めて云った。
「案内は彼女達がやってくれる」
 ドアが閉じられてから、岸上が手で示した先には、ミーナとシーナの二人がいた。初
対面時のラフな格好と異なり、ホテルマンのような制服を身につけている。
 岸上の方には東郷佐八が着き、先を歩かされるようにしてどこかへと消えていった。
「ミーナとシーナ。君達には質問してかまわないかい?」
 先輩は物怖じする様子もなく、むしろ気さくな感じで尋ねた。女性二人は顔を見合わ
せたかと思うと、ミーナが口を開いた。
「こちらは将来、宿泊施設に改装もしくは増改築することを念頭に、今回テストとし
て、お客様にはお泊まりいただくことになっております。お二方もモニターという訳で
す。ご質問にはできる限りの範囲でお答えしますが、かような事情ですから、確定的な
返答ができかねる場合もありますことをご了承ください」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 表情に戸惑いが微かに滲む十文字先輩。その間に部屋への移動が始まる。
 やがて、まずは手探りとばかりに、当たり障りのない質問を探偵は発した。
「あなた方はパフォーマーなのに、従業員のような役割を受け持っている? おかしく
ない?」
「現在、私達は故障を抱え、パフォーマンスの方はお休みをいただいています。その
間、別の業務を、という判断がなされました」
「あなた達を雇っているのは小曾金四郎? いや、名前ではなく、さっきいたあの男
性?」
「違います。オーナーの姿を見掛けたことはあまりありませんが、先程の方でないこと
は確かです。あの、質問を返すのは申し訳ないのですが、先程の男性はあなた方に小曾
と名乗られたのでしょうか」
「――ええ、まあ」
「では、オーナーがお客様の皆さんのためにご用意した趣向だと思います。詳しいこと
は一切聞かされていないのですが、誰もが驚くイベントがあるとか。そのおつもりで、
お過ごしください」
「ええ、楽しみに……。東郷さんとは、以前からのお知り合いなんですか」
「はい。東郷は送迎バスの運転手の他、雑用をこなします。ワールドサザンクロスの設
備に不具合が見付かれば、あの人が修繕することがほとんどです」
「なるほど。他にも宿泊客がいるはずだけど、彼らもモニター役とは知らずに来たのか
な」
「知っている方もいれば、ここへ来て初めてお知りになった方もいました。現時点では
皆さん把握されていますから、気兼ねなく交流をお楽しみください」
「……」
 先輩が黙り込む。と同時に、部屋に着いた。扉には味も素っ気もない漢数字「一」の
プレートが掛かっていた。
「こちらになります」
 二人部屋で、扉を開けてみると、玄関の土間に当たるスペースが設けられており、部
屋へはもう一つ内扉があった。再び扉を開け、ようやく十畳程の和室と分かる。内扉は
ふすま風で、外扉は洋風のドア。上がり框が設けられていることからも、すでに宿泊利
用のため、この和風建築のそこかしこに手を入れてあると窺い知れる。
「ご宿泊中は、そちらにありますスリッパをお使いになれます。室内の小さな冷蔵庫は
ご自由にお使いください。中の物もご自由にどうぞ。夕食は――」
 ざっと説明を済ませたあと、シーナとミーナは部屋のカードキーを置いて去って行っ
た。
「さて、できることならワールドサザンクロスに関して、もっと調べておきたいところ
だが」
 荷物を部屋の片隅に放りつつ、先輩が云った。
「素直にルールを守ったおかげで、ネットが使えない。近所に聞き込みに行くのも簡単
ではなさそうだ」
「近くに民家は見当たりませんでしたからね。それよりも、案内してくれた人やその他
と、どう接するのがいいんでしょう? 犯人の小曾と通じている者だっているかもしれ
ませんよ」
「今は、相手のやり方に乗っかるしかあるまい。人質を取られていることを忘れないよ
うに」
「ですが……問題発言かもしれませんけど、あの岸上さんの話を信じられるかどうかも
分からない訳で」
「無論、それを含めて、敵の策略かもしれない。しかしこれは相手が仕掛けてきたゲー
ムだ。最初っからレールを踏み外すような真似はしまい。僕に害を加えることが目的な
ら、歓待の席で毒を盛るなり、行きの飛行機を落とすなり、簡単な方法や派手な方法は
いくらでもあるだろう。わざわざ舞台を用意するからには、意図があるに違いない。恐
らく、この十文字龍太郎の探偵力を試す」
 語る先輩の顔は、微笑しているようにも見えた。

 小曾金四郎が何を解かせようとしているのか提示されない内は、こちらか動く必要は
ないとの判断で、夕食のある午後六時半までは自由に振る舞うこととなった。
 とはいえ、矢張り気になる。何しろ、誘拐事件が起きているのだから。岸上の近くに
いて、一刻も早く次の小曾からの指示なり何なりを掴むのが最善の策ではないのか。そ
のような意見を先輩にしてみた。
「云いたいことは分かる。だが、そんな風に待ち構えるのは、詮索の一種になるんじゃ
ないか」
「それは……微妙な線だと思いますが」
「今現在、岸上氏は小曾金四郎として振る舞っている。その前提を無視するのは、避け
た方がよい気がするんだよ」
「確かに先手の打ちようはないですし、外部に援軍を求められる状況でもないでしょ
う。しかし、何かできることはあるんじゃあ……たとえば、隣の施設に行って、下調べ
をしておくとか。わざわざこの場所を指定したからには、きっと何らかの関連があるん
ですよ」
「僕もそれは考えた。考えた上で、二番目の優先事項だ。ここにいなければ、犯人から
の指示を報せてもらうのが遅れる可能性があるからね」
 そうか。携帯電話やスマホがない影響がここに出る訳か。
「携帯端末を誰かから借りるのはどうです? 従業員は信用できるかどうか半々でしょ
うけど、宿泊客なら」
「宿泊客なら信用できるという理論は怪しいが、借りるのは考え方として悪くない。問
題は、他の人達が持って来ているかどうかだ」
「え? そりゃ持ってるでしょう」
「どうかな」
 十文字先輩は後ろを向いた。
「館内専用のようだが、電話がある。あれでフロントに問い合わせてみないか? スマ
ホなどの持ち込み禁止ルールは徹底されているのか、といった具合に。他の宿泊客にそ
んなルールがないとしたら、電話に出た従業員は怪訝な反応を示すだろうさ」
 僕はすぐにやってみた。すると電話に出た女性従業員――多分シーナ――は、「は
い、厳密に守られています」との返事をくれた。それとなく理由を尋ねると、「皆様は
モニターとしてお試しで当施設をご利用になられています。云うなれば、企業秘密に関
わる事柄ですので、ここでの体験や情報をリアルタイムかそれに近い形で外部に流され
るのは禁止させていただいております」との答を得た。
「――だめでした。矢っ張り、全員が禁止です」
「そうだろう。理由付けがし易い状況だしな」
 満足げに頷く先輩。モニター云々という理由を見越していたらしい。
「まあ、落ち着かないのは分かるが、落ち着こうじゃないか。買ってきた菓子でも食べ
て、栄養補給しておくといい」
「そうですね。夕飯にはまだありますし」
 木製の四つ脚テーブルの上には、電気式の小振りなポットが一つと、湯飲みが二つ、
ティーバッグがいくつかまとめて置いてあった。茶菓子もあるにはある。
「お茶、入れます? それとも冷蔵庫の中から……」
「実は迷っている。いや、何を飲むかじゃない。もし僕を試すつもりなら、飲み物類に
は全て眠り薬が仕込んであって、迂闊に飲んだらぐっすりと眠りこけてしまうんじゃな
いか、とね」
「そういうテストまでされるんだとしたら、気力が保ちませんよ。風呂にいるときだっ
て、布団で寝ているときだって、襲われる可能性を念頭に置かなきゃならなくなる。今
だって、いきなり何者かが乱入してきたら」
「僕が云っているのは、ちょっとニュアンスが違うんだが、まあいい」
 十文字先輩がそう云ったとき、部屋の戸が激しくノックされた。ついさっき、乱入な
んて想像していただけに、余計にどきりとした。僕達は二人して応対に出る。鍵を掛け
たまま、まず僕がドア越しに「どなた? 何ですか?」と誰何する。
「東郷です。十三号室の小曾金四郎様から言伝があります」
 ノックの激しさとは裏腹に、落ち着いた調子のダミ声が響いた。僕の隣で先輩が「十
三号室? オーナーではなく、岸上氏のことか」と呟く。それから外に向けて、「この
まま読み聞かせてください」と云ったのだが、反応は歯切れが悪かった。
「それが、読み上げるにはいささか不適切な内容なので……」
「分かった」
 先輩はドアを開け、東郷佐八を中に入れた。彼の手を見てさらに云った。
「メモがあるのなら、直に見たい」
 この申し出に東郷は考える様子もなしに、すっと渡してくれた。この施設専用のメモ
用紙らしく、ロゴが入っている。
<犯人からの指示があった。君達への出題だ。直に奥の部屋に来てもらいたい。13号
室 岸上>
 なるほど、ドア越しに声を張り上げるには、「犯人」とは云いにくいだろう。
「奥の部屋とは十三号室のことなんですか」
 靴を履きながら問う十文字先輩。東郷は「恐らく。前の廊下の突き当たりが十三号室
なので」と答えた。
「その部屋は土蔵や牢屋のようになっている?」
「まさか。こちらの部屋と同じですよ」
 苦笑交じりに返答された。岸上が監禁されていた部屋は、別にあるらしい。
「急ごう」
 足早に行動を開始した先輩に、僕だけでなく東郷も着いて行く。
「東郷さんに聞きたい。これはイベントの一環?」
「分からんのですが、多分そうなのでしょう。実を云うと、三日前からオーナーは姿を
くらましていて、こちらにはおりません。秘密主義のところがある男で、またいつもの
癖が出たなと」
「あなたはオーナーの小曾金四郎氏とはどのくらい親しいんですか」
「親しいも何も、オーナーとは親戚でして。私の妻の兄が、オーナーの義理の母と姉弟
の関係になる」
「……小曾金四郎というのは本名なのですか」
「いえ。オーナーはかつて芸人をやっており、そのとき名乗っていた芸名をそのまま使
っている次第で。本名は那知元影(なちがんえい)と云います」
 東郷が矢継ぎ早の質問に淀みなく答え切ったところで、十三号室の前に辿り着いた。
「それでは自分はここで」
 帰ろうとする東郷。オーナーの部屋に案内してもらうような錯覚をしていたので、こ
の人に取り次いでもらうのは当然だと思っていたが、考えてみれば関係ない。仮にイベ
ントだとしても、従業員が特定の客に肩入れする形になるのはまずかろう。
「――待ってください。返事がない」
 早々にノックしていた十文字先輩が、東郷を呼び止めた。扉の取っ手をがたがた揺さ
ぶりつつ、「鍵も掛かっている。どうすれば?」と続ける。
「おかしいですな」
 素が出たような困惑の呟きをした東郷。扉にロックがされていること及び中に呼び掛
けても反応がないことを確認し、首を捻る。
「伝言を預かったのは、ついさっきなんだが。十分も経っていない」
 来いと呼び付けておいて、十分足らずで部屋を離れるのはおかしい。意図的に身を潜
めたか、あるいは。
「開けることは?」
「マスターキーを取ってくれば、開けられますが」
「……オーナーの指示で禁じられているとかでないのなら、開けてください」
 十文字先輩の要請に、東郷は黙って応じた。きびすを返し、今来た長い廊下を急ぎ足
で戻る。
「悪い予感しかしないな」
 先輩の言葉に、僕は「え?」と目で聞き返す。
「岸上氏は命じられて強制的に操られているだけで、直に害を蒙ることはない。そう思
い込んでいた。だが、今の状況は……」
 そこから先は口をつぐむ名探偵。もしや十三号室の中には、襲撃されて声も出せない
岸上がいるのだろうか。それこそ最悪の事態を想像したそのとき。
「あ? 開いている」
 何の気なしに触れたドアが、すっと開いた。
「何かしたのか、百田君?」
「いえ、何も。触れただけです」
 冷静さを失って、どもりそうになるのを堪えながら、僕はドアが動くことを示した。
「よし、入るとしよう。ただし、二人一辺に入るのはよそう。閉じ込められでもしたら
間抜けだ」
「でも、中に犯人がまだいるとしたら、一人は危険なんじゃあ」
「現段階では、誘拐が起きたと岸上氏が云っているだけだ。殺人や傷害事件が発生した
とは限らない。そこら辺を確かめないと、話が進まないんだよ。心配しなくても部屋に
入るのは僕で、君は見張りを頼む。充分に注意して、何かあったら大声で知らせてく
れ」
「先輩も気を付けて。中で何かあったら知らせてくださいよ」
「五代君に鍛えてもらったから、多少の心得はあるつもりだ」
 云い置くと、十文字先輩は扉を全開にした。僕は廊下全体に意を注ぎながらも、入っ
て行く先輩の背中を見送った。

 意識を取り戻すと、状況が激変していた。
 時刻は夕方。ブラインドの降りた窓からそれらしき光が差し込んでいる。場所は……
宛がわれた部屋ではない。荷物がないし、布団を敷いた覚えはないのに、今の僕は布団
の上に腰を落としている。そして寝床の横には人の刺殺体がある。
 驚きのあまり声を失うという経験が今までにもないではなかった僕だけれども、この
ときばかりは悲鳴を上げたつもりが出せなかった。物理的にシャットアウトされてい
る。緩くではあるが猿ぐつわをされていた。両足首には手錠のような物がはめられ、両
手首も後ろ手に結束バンド(直に見えてないので恐らく)で自由を奪われている。身体
が固いつもりはないが、この状態で腕を前に持って来るのは無理。肩が抜けそう。縄抜
けの術があれば習っておけばよかった。探偵助手としてのたしなみというもの――いや
いやいや、僕は探偵になりたい訳じゃないし、ましてやワトソン役に好んでなった訳で
もない。
 とにもかくにも、現状の理解だ。
 廊下を見張っていたら、突然、首筋に電撃みたいな一撃を食らって、意識を失った…
…んだと思う。薄れる意識の中、背後は壁なんだ、襲われるなんてあり得ないと疑問に
感じて振り返ったのを覚えている。そのとき視界に端っこに、壁が開いて中から腕が出
て来ていたような。恐らく、壁には仕掛けがあって、普段は単なる壁にしか見えないの
が、機械的な操作で口が開き、そこから腕を伸ばして僕の首筋を殴ったか、電気ショッ
クを与えたかしたのではないか。だとしたら、位置関係から類推するに、僕を襲った腕
の主は十三号室の中にいたことになる。つまり、十文字先輩も襲われて、僕と同じよう
に拘束されているのか?
 ……まさか、死んでいるのが先輩?
 僕は確かめるために、身をくねって遺体ににじり寄った。
 遺体は俯せで、あちらに顔を向けている。そもそも僕がこの人物を見て死んでいると
判断したのは、背中に深々と突き刺さった刃物状の凶器と、床に広がる大きな血溜まり
が理由だが、絶対確実に死んでいるとは言い切れない。といって、声を出せない今、ち
ょんちょんと爪先でつつくぐらいしか反応を見ることはかなわないのだが、もちろん実
際にはしない。
 やや近くで見る内に、この人物が東郷佐八その人だと分かった。後ろ姿が、記憶と重
なる。十文字先輩とは全く異なるシルエットなのに、一瞬でも勘違いしそうになった自
分が情けない。メンタルの疲弊を覚える。自覚したならしたで、意識して己を奮い立た
せる。
 何故、僕がこんな目に遭うのか。もっと云えば、何故、十文字先輩ではなく、僕なの
か? 招待状は高校生探偵である十文字龍太郎宛だった。こうして死体を見せつけるの
なら、名探偵相手に展開するのが常道ってやつじゃないのか。しかし、現実にはそうな
っていない。理由は何だろう?
 まず考えられるのは、僕だけじゃないってケース。さっき思い浮かんだように、先輩
も同じ状況下に置かれているのかもしれない。その場合、先輩が監禁されているのは、
十三号室か?
 次に、何かの手違いや思い違いで、僕が十文字龍太郎だと見なされているケース。可
能性は低いだろうけど、ないとは言い切れない。敵が深読みをする奴で、“名探偵たる
者、こんな怪しげな招きに乗ってくるからには、最初からワトソン役と入れ替わってい
るに違いない”なんて誤解した恐れ、なきにしもあらず。
 三番目は、想像したくないけれども、十文字先輩が既に亡くなっているケース。死者
を相手に死体を見せつけてもしょうがない。犯人だってわざわざ呼び寄せた名探偵をい
きなり殺すつもりはないだろうから、あるとしたら十三号室で乱闘になり、先輩の方が
制圧されて命を落とした可能性ぐらいか。犯人は計画を放り出せずに、僕を代役にして
続行している。もしこれが当たりなら、僕にとって最悪だ。
 四番目は……だめだ、思い付かない。意識を失っていた影響もあるのかもしれない。
 とにかく助けを呼ばなくては。窓ガラスを割るのが最も手っ取り早いだろうが、手足
を拘束された状態で、怪我をせずに割れるかどうか。窓の高さは、一般的な成人男性の
腰の辺り。普通よりは低いかもしれないが、それでも割るのは大変に違いない。道具も
使えそうになく、そもそも窓の下まで五メートルはある。あそこまで這っていくのと、
ぴょんぴょん飛び跳ねていくのとどちらがいいだろう。後者の方が楽だろうけど、もし
転倒すると血溜まりに身体を突っ込む恐れがある。
 まあそれらは些細な点だ。もう一つの脱出経路を検討してみる。ドアだ。窓と反対側
でやや暗く、すぐには気付かなかったが、ドアがある。学校の体育倉庫によくあるタイ
プ。横にスライドする大きな金属製の扉らしい。外から施錠されているのかどうか、こ
こからは分からない。危険防止のため、外からのロックを内側からも開錠できる仕組み
になっているのか否かも不明。距離は窓までよりも若干遠く、七メートルくらい? こ
うして観察していくと、意外に広い。本当に倉庫なのかもしれない。影になって見えづ
らいが、部屋の隅には大ぶりな物体がいくつか置いてあるようにも見える。
 と、ここで別の不安が沸き起こった。おいそれと助けを求めて大丈夫なのか。犯人に
見付かるのは避けねばならない状況なのだろうか。――これにはすぐに判断を下せた。
こうして人を拘束した上で死体を見せつけているのだから、犯人はとっくに立ち去って
いるだろう。次はおまえがこうなるという警告ではなく、飽くまでも高校生探偵への挑
戦と見なすのが妥当。こうとでも信じなければやっていられない、というのも無論あ
る。
 他に出入りできそうな場所を求めて、再三再四、視線を走らせる。するとまた新たな
発見があった。体育倉庫みたいだという連想が効いたのか、壁際の下部、踝ぐらいの高
さに、いくつかの小窓があると分かった。窓と云ってもガラスはなく、板状の蓋を横滑
りさせて開閉できる仕組みのようだ。体育館や体育倉庫にあった、空気の入れ換えのた
めの吐き出し口みたいなものか。施錠の有無は不明だが、どちらにせよ、大の大人が通
り抜けられる程のサイズはないと見えた。目算で、たてよこ三十センチメートルより大
きくはあるまい。二枚の蓋の間に柱がなければ、その二枚とも外に蹴り飛ばすことで、
穴が大きくなるのだが、現実には頑丈そうな金属の棒が通っている。
 検討結果が出た。窓ガラスを割るのが最も手早くできるはず。うまく割れずに脱出し
損なっても、音で気付いてもらえる可能性がある。
 僕は意を決し、身体を起こそうと試みた。やや遠回りになってもいいから血溜まりを
避け、なるべく窓に近付く。もし転倒したらそこからは芋虫のように這うか、横方向に
転がるか。
 ある程度状況を想定した上で、実行に移す。が、その努力は意外な形で幕が下ろされ
た。
「百田君、いるか?」
 足元の小さな扉がスライドし、その軋むような音に混じって十文字先輩の声が聞こえ
た。
 僕は猿ぐつわの存在を忘れ、「います!」と叫んだつもりだった。

――続く




#522/535 ●長編    *** コメント #521 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/31  00:25  (432)
絡繰り士・冥 3−2   永山
★内容                                         19/02/01 01:31 修正 第2版

 拍子抜けする程唐突に窮地を脱し得た。僕はそう思っていた。
「客観的に云って、君の立場は厳しい」
 地元警察の栄(さかえ)刑事は、四十代半ばと思しき男性で、これまで知り合ってき
た警察関係者の中では穏やかな方だろう。太い眉毛を除けば柔和な顔立ちだし、声も威
圧的ではない。ただ、上にも横に大きい巨漢なので、空間的には圧迫感を感じる。太っ
ているというのではなく、大昔の武将みたいなイメージだ。狭い取調室だったら、それ
だけでギブアップする犯人もいるかもしれない。幸い、ここは取調室ではなく、僕(と
十文字先輩)に宛がわれた部屋だし、そもそも僕は犯人じゃない。
「ワールドサザンクロスの西側にある倉庫は、俗に云うところの密室状態にあり、その
中で東郷氏の刺殺体と一緒にいたのは君一人だ。一つしかない扉と六つある窓はいずれ
も施錠され、扉の鍵はスペアも含めて東郷氏自身が身に付けていた。あの場所はそこそ
こ広いし、何だかんだ物が置いてあったので、人が隠れるスペースはあっただろうが、
君を見付けて皆で救出した際、こっそり出ていく者ようなはいなかったと証言を得てい
る」
 窓ガラスを割ることで十文字先輩や施設の人が中に入り、僕を助けてくれたという。
 なお、僕の手足を縛っていた結束バンドや手錠は、自分自身で付けられる物だから、
犯人ではない証拠にならないとされた。
「証言をしたのは君の知り合いで先輩の十文字君だ。彼が嘘を吐く理由はないようだ
し、君との関係も良好のようだ。しかも彼は、君に対する救出は他人に任せ、彼自身は
東郷氏の遺体をそばから観察していたという。これがどういうことか分かるかい?」
「……犯人が僕以外なら、扉の鍵を密かに被害者の懐に戻すという方法は採れなかった
ということでしょうか」
 答えると、栄刑事は意外そうに口をすぼめた。
「ほお、本当に分かるんだな。十文字君が云っていた。名探偵の助手として経験を積ん
だのだから、これくらいは察するに違いないと」
「はあ」
 現状で、そんなことで誉められても嬉しくはない。
「足元にある換気のための小窓は、外側からでも自由に開閉できるが、そこを利用して
鍵を東郷氏の懐に戻すというやり方も、どうやら無理のようだ。何せ、鍵は胸ポケット
にあったのに対し、遺体は俯せの姿勢だったからねえ」
「何か絡繰りめいた仕掛けがあるのかも」
「秘密の隠し扉とか? そういうのは見付かってない。君が証言した、最初に襲われて
意識を失ったという話も、信じがたい。壁から腕が出て来たように感じたと云うが、十
三号室に隠し扉はなかった」
「そんな」
「設計図と実際とを比べ、念入りに調べたから間違いない。建てたのも外部の人間だ。
何か隠し事をしているとは考えられない」
「じゃあ、僕を後ろから襲ったのは……」
「君の言葉を信じるなら、一つだけ可能性がある。襲ったのは十文字君だ」
「え?」
「十文字君は、百田君が襲われる直前に、十三号室に入ったんだろ? 廊下に意識を集
中していた君は、密かに引き返してきた十文字君に気付かなかったという訳だ」
「そんな莫迦な! それだけはあり得ませんよっ」
 強く主張すると、相手は分かっているとばかりに鷹揚に頷いた。
「だとしたら、話は元に戻る。君の立場は厳しい。極めて」

「無事に戻れたら、真っ先に五代君に感謝しておくんだ」
 栄刑事が立ち去ったあと、夕飯と共に先輩が入って来た。どこで時間を潰していたの
か知らないけれども、目が若干落ちくぼんだような印象で、憔悴の痕跡が見て取れた。
そのことを告げると、君はもっと酷い顔になっていると指摘された。
「ということは、身柄を拘束されずに、こうして部屋にいられるのは、五代先輩のご家
族が……」
「手を回してくれたらしい。尤も、基本的に管轄違いだから、いつまで神通力があるか
分からん。今の内に目処を付けたいものだ」
「部屋の外には、見張りの人がいるんでしょうね?」
「いる。百田君はここから出るなと云われなかったのかい?」
「はっきりとは。『出掛けるのなら我々警察に知らせてからにしてくれ』と」
「じゃあ、敷地内なら何とか認めてもらえるかな。いや、容疑者扱いの君を犯行と関係
ありそうな場所に立ち入らせるはずもないな」
「先輩だけでも動けそうですか」
「さて、どうかな。さっきは大丈夫だったが。これも五代君のおかげに違いない」
「……連れて来るの、僕じゃなくて五代先輩がよかったんじゃあ」
 自嘲めかしてこぼす僕に、十文字先輩は叱りつけるような口調で応じた。
「今さら何を云うんだ。これは僕の希望したこと。招待主から逃げたと見なされたくな
いがためにね。それを含めて、君をまた事件の渦中に放り込む格好になってしまって申
し訳ないと思う」
「もう慣れましたよ。先輩のワトソン役を務めるようになって、どれだけ経ったと思っ
てるんです? 今回だって、怪我をしたとか、精神的に酷いショックを受けたとかじゃ
ないですし」
「そう云ってもらえると救われるが、犯人を見付けないことには収まらない」
 先輩はテーブルに置いた大きめのプレートに顎を振った。バイキング料理を適当に見
繕い、盛り付けてきたのが丸分かりだったが、これはこれでうまそうではある。
「とにかく食べようじゃないか。腹ごしらえは大事だろう」
 お茶を入れ、食べ始める。死体を見たあとにしては、食欲は大丈夫だった。
「僕が役立つかどうか分かりませんけど、結局、どういう状況なんでしょうか。イベン
トは本当に用意されていたのかとか、施設の従業員はどこまで把握していたのかとか、
小曾金四郎はどこにいるのかとか。ああっ、岸上さんの誘拐事件も」
 浮かんでくるままに質問を発した。先輩は箸を進めながら、順に答え始めた。
「分かった範囲で云うと、まず、宿泊者を対象とした宿泊モニターは皆が承知だった
が、イベントに関しては小曾金四郎の独断だ。前に聞いた話と変わりない。ただし、パ
フォーマーの何名かは、イベント関連でパフォーマンスを行うように指示を受けてい
た。ミーナとシーナの二人も、空中ブランコを披露する予定だったと聞いた」
「え、ていうことは、怪我は嘘?」
「そうみたいだな。怪我で休んでいると見せ掛けて、じつはっていうどっきりの一環ら
しい。彼女らの他には、ピエロの西條逸太(さいじょうはやた)とマジシャンの安南羅
刹(あんなみらせつ)が組んで、ピエロが空中に浮かんでばらばらになってまた復活す
るという演目を披露する予定だった」
「羅刹って本名じゃないですよね」
「本名は小西久満(こにしひさみつ)といって、西條と組むときは裏ではダブルウェス
トと呼ばれるとか。まあ、これは関係あるまい。演じる予定があったパフォーマーはも
う一人いて、トランポリン芸の北見未来(きたみみく)。普通にトランポリンで跳ねる
だけでなく、壁を徐々に登っていったり、高所から飛び降りてまた戻るという演目だそ
うだ。あ、それからこの北見は元男性」
「へえ。新たに分かった三人には直に会えたんですか?」
「いや。遠目からちらっと見ただけだ。警察以外で情報をくれたのはシーナとミーナだ
よ。話を総合すると、事件発生時に敷地内にいたのは、被害者を除けば、五人のパフ
ォーマーとそのサポート役の二人、そして六人の宿泊客の合計十二人に絞られる。小曾
金四郎が隠れているのなら十三になるけどね。サポート役についてはまだ名前は知らさ
れていないが、文字通りパフォーマンスの手伝いで裏方に当たるようだ」
「ええっと、ちょっと待ってくださいよ。敷地内にいた人ってそれだけなんですか? 
宿泊施設の側の従業員がいるんじゃあ?」
「そこなんだが」
 僕の疑問に、十文字先輩は何とも云えない苦笑顔を見せた。
「ここに来てから、従業員に会った覚えはあるかい?」
「うん? それはありますよ。東郷さんにミーナさん、シーナさん……」
「ミーナとシーナはパフォーマーだ。東郷氏は雑務全般を受け持っているから、まあ宿
泊施設の従業員と云ってもいいかもしれないが、正確には違う」
「もしかして、いないんですか、従業員?」
 ピラフの米粒が飛ばないよう、口元を手で覆いながら云った。十文字先輩は種明かし
を楽しむかのように、目で笑った。
「うむ。人間の従業員はいなくて、ロボットが対応するシステムだ。これもサプライズ
の一つだったというんだ。チェックインや客室への案内は、ロボット従業員が行うはず
だったのが、トラブルでシステムダウンした。結果、急遽パフォーマー達が奮闘したと
いういきさつみたいだ」
「……平屋だったり、通路に曲がり角や段差が少なかったりするのは、そのため? 
え、でも、料理は」
 目の前の料理に視線を落とした。
「料理は将来的にはロボットによる調理も考えているが、宿泊モニター期間は元々、ケ
イタリングで済ませる計画だったから問題ないと聞いた。百田君、そういった細かなと
ころを気にしていたら、事件解決からどんどん遠ざかる」
 あの、ロボットを利した密室トリックや殺人の可能性を思い浮かべていたのですが。
でもまあ、システムダウンしているのであれば、関係ないと言い切れるのか。と、そこ
まで考えてから、ぱっと閃いた。
「――ロボットを使うくらいなら、秘密の扉もあるんじゃあ?」
「ああ、壁から腕が突き出て来たんじゃないという話だな。残念だがそれはない。廊下
を囲う壁は明らかに古い日本家屋の壁で、修繕とその痕跡を覆い隠すための塗装はして
あるが、内部は至って普通だということだよ」
「そうですか……」
 壁の一部が突然開いて、機械の腕が僕の首筋に電流を、なんて場面を想像してしまっ
た。濃いめに入れたお茶を飲み干し、心残りなこの私案を吹っ切る。
「先輩は十三号室に入ったあと、どうなったんですか?」
「入ってすぐ、靴がないと知れたから、岸上氏は留守なんじゃないかと察した。その反
面、人を呼び付けておいて部屋を空けているのはおかしい。とにかく室内を覗いて確認
しようと、靴を脱いで上がり込んだ。念のため声を掛けつつ内扉を開けて、中を見たん
だが、矢張り岸上氏は不在だった。いつ帰ってくるか分からないし、部屋の中で待つの
も問題がある。東郷氏に再確認もしたかったから、部屋を出た。すると君がいないじゃ
ないか。しばらく一人で探したが見付からないのでフロントに出向いたら、今度は東郷
氏が見当たらない。鍵を取りに行ったはずなのに何故? 行き違いになったかと、また
十三号室に引き返したが、誰もいない。何らかのおかしなことが起こっている。施設の
人間を信用できるのかどうか分からない。よほど警察に行こうかと考えたが、ちょうど
このタイミングで東郷氏が現れた」
「ええ? まだ、そのときは生きていたと」
「そうなる。時刻は四時になっていたかな。彼が云うには、十三号室に鍵を開けに戻っ
たが、すでに開いていたから、どういうことなのかと僕を探していたそうだ。僕は鍵が
開いたことと、百田君の姿が見えないことを話し、探すのを手伝ってもらった。といっ
てもすぐ二手に分かれ、別々に行動した。僕はこの宿泊施設の方を探し、東郷氏はワー
ルドサザンクロスに向かったはずだが、この目で見届けた訳ではない。途中、他の宿泊
客に遭遇したので聞いてみたが、知らないという答が返って来ただけ。じきに探す場所
もなくなり、フロントに電話してみた。シーナかミーナかどちらかが出たんで、事情を
伝えるとすぐに行きますと云って――実際は五分以上経過していたと思うが、来てくれ
た。今度は三人で建物周りを三人揃って捜索したんだが成果が上がらず、とりあえず東
郷氏に首尾を伝えようとなって、今度は東郷氏が行方知れずだと判明した。それが確か
五時前だった」
 その後は、僕と東郷氏の両名を探す態勢になり、五時半を少し過ぎたところで、倉庫
部屋に辿り着き、僕は救出。東郷氏は死亡しているところを発見されたという流れだっ
たようだ。
「死亡推定時刻は四時半から五時半の一時間。だが、血の凝固具合から云って五時より
も前の可能性が非常に高いそうだ。百田君、この時間帯にアリバイは?」
 聞くまでもない質問だろうに。僕は首を横に振った。名探偵は軽い調子で頷いた。
「だろうね。さて、僕達以外の宿泊客については、岸上氏を除くと親子連れの三名。親
子連れとは直接会えた。五十代男性と三十代女性の夫婦に、小学校中学年の女の子が一
人。アリバイは証明されていないが、外見だけで判断すればとても事件に関係している
ようには見えない。男性は足が悪くて車椅子生活、女性は男性と子供の面倒をみなけれ
ばならない上に、外国と日本とのハーフで言葉がやや不自由。子供は親にぴったり着い
て離れないという状態だったからね」
「確かに、関係なさそうです」
「アリバイの話が出たついでに、他の面々のアリバイに関して、判明していることを云
っておくとしよう。パフォーマーの五人とサポートの二人は、リハーサル中でお互いの
アリバイはある。ミーナとシーナの二人は時折、宿泊客からの電話などに応対する必要
があったが、事件発生時は僕と一緒に捜索活動していたからね。結局、五人ともアリバ
イ成立だ」
「そんな」
「残る岸上氏だが、僕から云わせれば彼こそが怪しくなってきた。誘拐事件があったと
いうのは芝居だと云い出したんだ」
「ええ? さっきの刑事、そんなことはおくびにも出しませんでしたよ!」
 自宅だったら、机をどんと叩いてていたかもしれない。怒ってみたものの、警察の捜
査では極当たり前にある手法だと知っている。
「自分は小曾金四郎から送られてきた台本に沿って、役柄を演じただけだとさ。多少変
な役だと思ったが、高額報酬につられて引き受けたんだと。小曾とは会ったこともなけ
れば、声を聞いてすらいない。それはともかく、彼が役柄として指示されていたのは、
東郷氏を通じて僕らにメモを見せ、十三号室に呼び付けるまでだった。その後は別の部
屋に閉じ籠もって身を潜め、明日の昼間に種明かしという段取りを聞かされていたらし
い。それらのことは東郷氏もパフォーマー達も承知の上だったと云っている」
「うーん、何が嘘で何が本当なのか、こんがらがりそうです。要するに、岸上氏が小曾
金四郎に化けるのもイベントの一部であり、そのことは岸上氏本人だけでなく、パフ
ォーマー達も認めている。だから事実だと見なせる……」
「それが妥当な見方というものさ。思わぬ多人数が共犯の可能性を除けば、だがね」
「誘拐がなかったのはいいことですけど、岸上氏が犯人あるいは犯行の片棒を分かって
いて担いだんだとしたら、どうして妻子を誘拐されたなんていう設定を選んだんでしょ
うか。殺人事件が起きて警察に乗り込まれたら、その嘘を必要以上に疑われるのは目に
見えてると思いますが」
「僕もそう考えた。それ故に、岸上氏が怪しいとする線で押し切れないのだ。小曾金四
郎の存在も気に掛かるしね」
「オーナーの動向に関しては、パフォーマー達も岸上氏も、全く把握していないんです
かね」
「そのようだとしか云えないな。嘘を吐いている者がいても不思議じゃない。だが、何
にしても動機が不明だ。遊戯的殺人者の線を除外すればの話だが」
 遊戯的殺人者。その言葉が出て来て、僕は内心、矢っ張りかと感じた。大げさな招待
状に軽いアナグラム、そして意味があるとは思えない密室殺人。これだけ“状況証拠”
があれば、今度の事件は冥かその一味の仕業と考えてかまわないのではないだろうか。
 冥――冥府魔道の絡繰り士を自称するという、遊戯的殺人者。殺人のための殺人、ト
リックのためのトリックを厭わない、むしろそのために人を殺す。現在、職業的殺人者
つまりは殺し屋のグループと揉めている節が窺える(らしい)。その一方で名探偵を挑
発し、試すような行動を起こすこともしばしば(らしい)。いずれも一ノ瀬和葉のお
ば・一ノ瀬メイさん――旅人であり探偵でもある――が主たる情報源だ。冥とメイさん
とで紛らわしいが、事実この通りの名前なのだから仕方がない。
「冥の仕業だと思いますか」
「大いに可能性はある。最近、一ノ瀬メイさんも冥から試されるような事件を仕掛けら
れたことがあると云っていた。だから動機は斟酌しないでいいのかもしれない。真っ当
な動機があるとしたら、殺し屋グループにダメージを与えるためとか冥の身辺に肉薄し
た探偵を始末するためとか、そういったところだろうさ」
 穏やかでない仮説だが、少なくとも僕らは冥の正体に迫ってはいないだろう。第一、
冥自身が僕らを招いておいて、招待を掴まれそうになったら殺すなんて理不尽は、激し
く拒否する。絶対に願い下げだ。
「対策を立てるなら、メイさんに改めて連絡を入れて、最新の情報を仕入れておくのが
よくありません?」
「うん、一理ある。あの人は掴まえるのに苦労させられるが、電話なら何とかなるかも
しれない。ああ、しまったな。今の僕らは携帯電話が使えない。フロントの近くに公衆
電話があるが、人の行き交う場所で話すのは躊躇われる……」
「そんなことを云ってる場合じゃないと思うんですが」
「確かに。賢明な人だから、こちらが事件のあらましを伝えたら、察して一方的に喋っ
てくれるんじゃないかな」
 十文字先輩は腰を上げると、部屋を急ぎ足で出て行った。テーブルにはほぼ空になっ
たプレート二枚が残された。

 電話をしてきたにしては、いやに早いな。五分程で戻って来た先輩を迎えた僕は、内
心ちょっと変に感じた。
「どうでしたか」
「電話はしていない。フロントにいた、ええとあれはシーナが、伝言をくれたんだ。彼
女が云うには、『一ノ瀬メイ様から先程お電話があり、十文字様に伝えて欲しい、でき
ればメールをそちらに送りたいとのことでしたので、お部屋におつなぎしましょうかと
お伺いしたのですが、時間がないからとおっしゃって。それでメールアドレスをお伝え
したところ、ほとんど間を置かずにメールを受信しましたので、プリントアウトした次
第です。つい先程のことで、お知らせするのが遅れて、申し訳――』ああ、僕は何を動
転してるんだ。ここまで忠実に再現する必要はないな。要するに、五代君経由で事件の
概要を知った一ノ瀬メイさんが、気を利かせて情報を送ってくれたんだ。敵か味方か分
からないシーナにメールを見られたのは、今後どう転ぶか分からないが、とにかく読も
う」
「はあ」
 高校生探偵の一人芝居に、しばし呆気に取られていた僕は、つい間抜けな返事をして
しまった。それはともかく、メイさんからだというのメールには、次のような話が簡潔
にまとめられていた。

・冥の仕業である可能性が高い。
・その傍証として冥が起こしたと考えられる殺しで、私は似たような謎を解いた。
・その謎とは湖での墜落+溺死で、詳細は省くが、湖内に高さのある直方体の風船を設
置し、てっぺんに犠牲となる人物を横たわらせる。それから風船を破裂させれば以下
略。
・ここまで書けば、このトリックにはさらなる前例があることに気付くと思う。繰り返
し同じ原理を用いたトリックを行使することは、冥にとって当たり前の日常的な行為と
推察される。
・それから十文字龍太郎君。名探偵であろうとして完璧さに固執せずに、弱さを認める
べきときは認めるのが肝心。

 以上だった。
 メイさんが示唆しているトリックについては、理解できた。だが、そのトリックが今
度の事件とどう結び付くのかがぴんと来ない。
「先輩、このトリックが倉庫部屋の密室に応用できるんでしょうか」
「……できる。そうか、分かったぞ」
「本当ですか?」
「うむ。君はよく見ていないから知らなくて当然だが、ワールドサザンクロスではエア
遊具的な物を多用しているんだ。ほら、商業施設のイベント用やスポーツセンターの子
供向け広場なんかに設置されることがあるだろう、空気で膨らませた強度の高いビニー
ル製の滑り台が」
「分かりますよ、見たことあるし」
「ワールドサザンクロスには、エア遊具ならぬいわばエアセットとでも呼べそうな代物
が多い。空気で膨らませたビニール製の建物や壁だね。トランポリン芸を披露するの
に、ちょうどいいんだろう。恐らく、あの倉庫部屋にも仕舞われてると思うが、空気を
抜いて小さく畳まれていれば気付かなくても無理はない」
「つまりは、メイさんが示唆したトリックを実行するための道具には事欠かないって訳
ですね」
「その通り。あの倉庫部屋に合った適切なサイズのエア遊具を使えば、密室殺人は可能
だ。想像するに……東郷氏は犯人が云うドッキリを演出する助手で、こう命じられたん
じゃないかな。百田君を意識を失わせた後に拘束して倉庫部屋に運び込み、布団に寝か
せる。東郷氏自身はその横で死んだふりをする。目覚めた君を驚かせる算段だ。ところ
が犯人の真の狙いは、東郷氏の殺害にあった。東郷氏は直前に、眠り薬の類やアルコー
ルを混ぜた飲み物を飲むよう仕向けられた。東郷氏自身は秘密の行動中だから当然、部
屋に入ったあと内側から錠を下ろす。横たわった彼はじきに前後不覚となり、意識をな
くす。頃合いを見計らって犯人はエアを注入」
「え? どこにエア遊具があるんですか」
「横たわった下だよ。これも想像だが、東郷氏が横たわる下には、床によく似せた迷彩
を施したエア遊具が設置されていたんじゃないか。そこに空気を送り込むホースは、倉
庫部屋にある足元の小さな窓を通せばよい。コンプレッサーを始動して風船を静かに膨
らませると、東郷氏は持ち上げられる。同時に、遊具の内部中央には一本の刃物が備え
付けられており、膨らみきったところで垂直に立つような仕組みになっていたんだと思
う。その状態で風船が破裂すると、どうなるか。東郷氏の肉体はすとんと落下し、真上
を向いた刃先に突き刺さる。割れた風船の破片は、小窓から回収できるだけ回収する。
残りが現場にまだあるかもしれないな。ホースももちろん片付けて、小窓を閉めれば密
室の完成だ」
「……凄い」
 僕は一応、感心してみせた。
 一応というのは、納得できない点があるにはあるから。そこまで大きな風船がすぐ隣
で割れたのに、僕は気付かなかったのだろうか。仮にじんわりゆっくり空気を抜いてい
ったとしたら、音で気付くことはないだろうけど、凶器の刃物がしっかり刺さるのかと
いう疑問が生じる。まだ他にも引っ掛かることがあるような気がするのだけれど、はっ
きりしない。霞の向こうの景色を見ようと、曇りガラス越しに目を凝らしている気分。
「無論、今云ったトリックが使われたとは限らない。だが少なくとも、密室内に他殺体
と一緒にいたから君が犯人だというロジック派は崩す余地が出てきた。そのためには物
証が欲しい。早速、警察に一説として知らせたいな」
 少し興奮した様子の十文字先輩。僕は同意しつつも、「それじゃ僕を背後から襲っ
た、壁からの手は何だったんでしょう?」と疑問を口にした。
「百田君の勘違いではないんだな?」
「壁から腕が突き出たという点は断言しかねますけど、壁を背にしていたつもりなおに
後ろからやられたのは間違いないです」
「ふむ……」
 顎に手をやり、いかにもな考えるポーズを取る先輩。その視線が、メイさんからの
メールの写しに向けられる。最初から順に読んでいるように見えた。
 そして最後まで来て、やおら口を開く。
「実は、一つだけ可能性があると思い付いてはいる」
「だったら、それを聞かせてください。決めかねる部分があるんでしたら、僕が推理を
聞くことで記憶が鮮明になって、何か新たな発見があるかも」
「うん。いや、決めかねているとか曖昧な点があるとかじゃないんだ。ほぼこれしかあ
るまいという仮説が浮かんだ。ただね、それを認めるには僕自身の問題が」
 そこまで云って、先輩はメイさんのメールの一点を指さした。
「思い切りが悪いな、僕も。こうして一ノ瀬メイさんが先読みしたように警句を発して
くれたのだから、ありがたく受け入れるべきだな」
「先輩、一体何を」
「この最後の一文さ。自分のプライドに関わるからといって、認めるべきものを認めな
いでいると、真実ををねじ曲げてしまう」
 先輩はそうして深呼吸を一つすると、まさに思い切ったように云った。
「僕は十三号室に入るとき、気が急いていた。内扉の向こうにばかり注意が行っていた
んだと思う。逆に云えば、それ以外への注意が散漫になっていた。入った直後、左右を
よく見なかったんだ。部屋の構造はどこも同じだという油断もあったと思う。下足入れ
にライトと鏡があるくらいで、その暗がりに何があるかなんて、全く想像しなかった」
「もしかして、その暗がりに人が潜んでいた?」
「恐らく、じゃないな。確実にと云っていいと思う。最初、東郷氏を含めた三人でいた
ときは鍵が掛かっていたのに、しばらくすると解錠されただろ。中に人が潜んでいた証
拠だよ。素直に考えればよかったんだ」
 こちらの方は納得できた。では、隠れ潜んでいた人物は誰?
「隠れていたのは岸上氏なんですかね。十三号室の宿泊客で、イベントに関して主催者
側だったのだから、ギャラと引き換えに命じられたら、ある程度までひどいことでも引
き受けそうですよ」
「普通の俳優がいくら仕事でも、他人を気絶させるような真似をするかね。尋常じゃな
い。まあ、だからといって隠れていた人物が岸上氏ではないと断定する材料にはならな
いが」
「他に候補はいます?」
「誰でもあり得るんじゃないか? 全く姿を見せていない者は、特徴で絞りようがな
い。小曾金四郎だってあり得る」
 十文字先輩の云う通りだ。極論するなら、影に潜んでいた人物と殺人犯とが同一とさ
え限らない。現実的には同一人物か、少なくとも共犯関係にある二人である可能性が高
いんだろうけど。
「各人の詳細なアリバイをリストアップして検討すれば、あの時刻――三時から三時半
ぐらいだったと思うが――十三号室内にいることが不可能な者はそこそこいるんじゃな
いかな。家族連れ三人組は除外できるだろうし、シーナとミーナ以外のパフォーマー達
も外せそうだ。云わずもがなだが、東郷氏も外せる」
 ここまで検討して来て、誰が有力な容疑者かを考えてみる。当然、小曾金四郎が最も
怪しいが実態がはっきりしない上、警察の捜査が入っていつまでも逃げ隠れしていられ
る秘密の場所が、この敷地内にあるとは考えにくい。一方で十文字先輩の推理したトリ
ックが殺人に使われたとすれば、その後片付けまで含めると少なくとも五時十五分、機
械の大きさによっては二十分頃までは現場周辺にいなければならないだろうから、その
後の逃走は難しそうだ。もし小曾金四郎が犯人なら、実行犯ではなく計画を立てた首謀
者なのではないか。
 岸上氏にも嫌疑を掛けざるを得ない。小曾金四郎と通じて、舞台裏をある程度把握し
ていたのは当人も認めており、平気な顔で嘘を吐き通せる。実行犯の可能性があると云
えよう。引っ掛かりを覚えるとすれば、誘拐云々という嘘。その話を聞いた僕らが強引
に警察に通報していたら、計画は失敗に終わったはず。わざわざ警察の介入を招きかね
ない誘拐を嘘のネタに選ぶ理由が分からない。
 他にはシーナとミーナも多少怪しい。十文字先輩と一緒になって僕を捜してくれてい
たというが、アリバイ工作の匂いを感じる。空中ブランコをこなすくらいなら、細身の
女性でも身体能力・運動能力は高いに違いない。
「さっきの殺人トリックって、結局、空気を送り込むコンプレッサーを駆動しておけ
ば、自動的に殺せますかね?」
「殺せるだろうね。無論、そのままにしておけないし、痕跡を消すためには色々と手間
が掛かる。目撃される恐れもある。幸運の女神ってのが犯人に味方したのかもしれない
な」
 うーん。それだと矢っ張り、シーナやミーナには難しいのか。
「さあ、いつまでも推測を重ねて、ぐずぐずしていても始まらない。警察に進言しに行
こうじゃないか」
「あ、僕も一緒にですか」
「決まってる。説得するには百田君自身の証言も重要になってくる」
 慌てて立ち上がる僕とは対照的に、先輩は落ち着き払った態度で、しかしきびきびと
次の行動に移った。

             *           *

「君にはがっかりだよ」
 一号室の会話を、車中で一人、盗聴器を通じて聞いていた冥は深く息を吐いた。警察
の人間の目に止まると厄介だからと、建物には近付けないでいたが、音はクリアに聞こ
えている。
(高校生名探偵の誉れ高い十文字龍太郎だったが、期待外れのようだね。元々、私自身
はその高い評判に疑問を抱いていたが)
 耳に装着したヘッドセットをひとまず外すと、念のため大元の機器のボリュームも落
とした。
 冥が今回の犯罪を計画した端緒は、十文字龍太郎の探偵としての能力に今ひとつ確信
が持てなかったことにある。ライバル――遊び相手にふさわしいのか見定めるために、
罠のあるテストを仕掛けた。
(こうも易々と引っ掛かるようでは、本来の探偵能力も怪しいものだ。知識ばかり先行
して、オリジナルの問題は解けないタイプじゃないかな。今回も、一ノ瀬メイからの
メールを偽物と気付かない上に、誘導に簡単に引っ掛かって、同工異曲のトリックが使
われたと信じてしまった。風船のトリックでは、死体の向きがおかしい。東郷の死体は
背中を刺され、俯せだった。風船が破裂してその下の凶器に突き刺さるのであれば、な
かなかそんな状態にはならない。破裂の弾みでそうなる可能性はあるが、仰向けのまま
である可能性の方が圧倒的に高い。もしも仰向けになったら、小窓から糸を介して鍵を
死体の懐に入れるやり口が容易になり、密室の強固さが失われるじゃないか。密室殺人
のためのトリックなのに、そんな不確定要素の大きな手段を執るはずがないと気付かね
ばいけないレベルだよ。暗示に掛かりやすい訳でもなさそうなのに……周りの人間に頼
りがちなところがあるということか。本人に自覚はなさそうなのが痛い。少女探偵団の
子達みたいに、最初からグループでやってますって看板を掲げているのなら、まだかわ
いげがあるのに、しょうがないやつだ。あの年頃にありがちな、実像以上に己を強く大
きく見せたい願望かな。調べたところでは、この四月の“辻斬り殺人”で、校内で襲わ
れた件はその後、犯人探しに力を入れていないようじゃないか。名探偵ともあろう者
が、そんな逃げ腰、弱腰でいいのかねえ)
 十文字探偵に対する感想を心の中で積もらせた冥は、しかし何故だか微笑を浮かべ
た。
(名探偵と呼ばれるが実際はたいしたことない、という存在には利用価値がある。色々
と想定できるが、実際に使えるのは恐らく一度きり。勿体ないな。まあ、別の楽しみも
あるしね。十文字に力を貸してきた周囲の連中が、なかなか優秀なんじゃないか?)
 と、そこまで近い将来図を描いていたところへ、電話が鳴った。複数所有している中
のどれだったかを瞬時に判断し、取り出す。
「小曾です」
 小曾金四郎からだった。普段の声とは息づかいが違うが、冥の耳は小曾本人だと正し
く認識した。
「私だ。定時連絡の時間には約一分早いが、ハプニングかな?」
「いいえ、順調そのものです。ただ、時計が。携帯電話の液晶がおかしいのか、読み取
れなくなりまして、それがハプニングといえばハプニング」
「腹時計で掛けてきたのかね? それはちょっと愉快だな」
「このような状況ですので、予定を切り上げて早めに脱出をしたいのですが」
「かまわない。自力で行けるかね?」
「大丈夫、何ら問題ありません」
 答えると同時に通話は切られた。冥は、使える部下の無事の帰還を待つことにした。
(そう、迂闊な見落としといえば、この点もそうだぞ、十文字探偵。小曾金四郎の本名
を気に掛けたまではよかったが、あとの詰めが甘い。小曾金四郎が芸名だったと知った
時点で、何の芸なのかを気にすべきだったのだ。那知元影という名前の方が、よほど芸
名らしく響きやしないか? これは偶然の産物ではあるが、那知元影は文字通り、名は
体を表すの好例と呼べるのだから、気付く余地はあったのだ。お得意のアナグラム……
ローマ字にしてから並び替えれば、それが浮かび上がる)
 冥は宙に指で文字を描いてみせた。

 nantaigei

――終わり




#523/535 ●長編
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:06  (229)
「長野飯山殺人事件」1 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:18 修正 第3版
1

 飯山ミュージック劇場は、こんな場末にあって、しかも雪で足元が悪いのに、
盛り上がっていた。
 天井にぶら下がったスピーカーから、音割れしたハウスミュージックが
ガンガン響いてきていた。
 お色気むんむんのピーナがステージ狭しと踊り狂っていた。
 肌の上を、赤、緑、青のスポットライトがくるくるとまわる。
 客のオヤジどもは、手の平も裂けんばかりに手拍子を送っていた。
 踊り子はステージの前面にせり出してくると、激しく身をくねらせた。
「燃えよいい女、燃えよギャラリーッ」という訳の分からないアナウンス。
 踊り子は前後左右に移動しながら、陶酔した様に踊り狂う。
 オヤジどもは狂喜乱舞の大はしゃぎ…。
 突然音楽が止まった。
 スポットライトも消えた。
「ありがとう、ございました」踊り子はちょこっと頭を下げると
楽屋に消えていった。
「続きましてはタッチショー。なお只今おっぱいの化粧中ですからね、
しばらくお待ちを」
 場内にピンクの明かりが点灯した。
マドンナの『クレイジー・フォー・ユー』が流れる。
 ステージの袖から、上半身裸で皮の腰巻だけ付けた女が再登場する。
「はい、拍手よろしくー」
 ぱらぱらぱらー、とやる気のない拍手があちこちで鳴った。
 ステージのすぐ横に居たおっさんが立ち上がって、
でれーんと両手を差し出した。
 女はそこへ行ってあぐらをかくとウェットティッシュで客の手を拭いた。
それから両手をとっておっぱいを揉ませる。
 おっさんはグィッと鷲掴みにすると、グイーっと揉みあげた。
「アーイ、ノー、優しくお願いしまーす」と女が嫌がっても、
ニンマリとスケベそうに笑っている。
 あれは中川といって、俺の電脳同人誌の仲間だった。
T大法医学教室出身の医者で、今は勤務医をやっていると言っていた。
 その隣に座っているのが佐山で、メーカー勤務で、
叙述ミステリーを書くとか言っていた。
 中川と佐山は俺がこの飯山に招いたのだった。
俺がマンション管理員をやっているスキーマンション兼ホテルが
長野県北部地震のせいか暇なので遊びにこないか、と誘ったら、
向こうも暇だから遊びに来るという話になったのだった。
そして泊まりにきたついでに劇場にも招待したのだった。
 中川はピーナの背中に手を回して片乳を揉みながら覗き込むようにして
話しかけていた。
 すけべ野郎。あいつは女好きで、看護師を愛人にしていると言っていた。
「やり過ぎてちんぽから血が出たで」とか言っていた。
「赤玉ってやつじゃないの?」と俺は言ってやったが。
 精液に血が混じるのは睾丸に病気があるからだと俺でも知っているのに、
元法医学者がそんな事も知らないのか。
法医学の知識を元にミステリーを書くとか言っていたが。
 俺は密かにあいつをライバル視していた。
あいつには解けないトリックを考え出して見せつけてやりたい。
いや、俺だったら社会派かな。ストリップ劇場の裏事情でも書くかな。
 劇場の裏事情なら隣に座っている同僚の牛山さんが詳しい。
見ると酔っ払って眠り込んでいる。
インスリンを打っている上に人工透析もしているのに、
こんなに飲んで死なないのだろうか。
時々咳をしている。ゲホッゲホッっと。痰の絡まるようなヤバそうな咳だ。
ヤバイんじゃないのか。
或いは今俺も胸を患っているので、咳に敏感になっているだけかも。

 パタンと入り口のドアが開くと店員が顔を突っ込んできた。
「はい、カミールの個室サービス、42番のお客さん、ステージ横の個室ね」
 この劇場には個室サービスというのがあって
三千円でユニットバスぐらいの個室で一発やらせてくれる。
 店員の後ろからカミールが入ってきた。パンティーにタンクトップという姿で、
手にはコンドームなどの入ったポシェットをぶら下げている。
「俺や」突然酔いがさめたように牛山が立ち上がった。
 なんだ、個室チケット買っていたのか。
 牛山はよろよろと椅子の間をすり抜けていくと、
カミールの後ろにくっついて行って個室の中に消えていった。
 ユニットバスのドアをすかして、抱き合っている影が見える。
 それを見ながら俺は牛山の話しを思い出した。
 カミールと店外デートした話。

【先週の給料日の話なんだけど。焼き鳥屋とかスナックで飲んでから、
十時頃、劇場に行ったんよ。
 最終回の3人目にニューフェイスの娘が出ていて、
久々にアイドル系の娘で、つい年甲斐もなく買っしまったんよ。
本当は俺みたいなジジイは年季系のサービスのいい女に入ればいいのだが。
 個室に入ったらいきなりコンドームか被せようとするんで、
ああ、まだ素人だな、と思った。
 彼女は眉をしかめてオンリーフィフティーミニッツと言っていた。
 英語だったら多少は分かるんで教えてやった。
 そんなんやって早く終わらせようとするから、消耗するんよ。
ぎりぎりまでしごいておいてから入れれば三こすり半で行ってしまう。
そうすれば疲れないだろ。つーか、こんな個室はアンテナショップにして、
店外デートで稼ぐ方が消耗しないだろ、などと教えているうちに、
自分が常連中の常連になった気がして、白けてしまった、萎んだまんまよ。
 もういいと言って、パンツを上げようとすると、
 まだ時間がある、まだ時間があると、引き止める。
 俺は思わず座り込むと、「どこからきたの?」と聞いた。
 フィリピン。
 幾つ?
 十八。
 子供が居ないのは体で分かった。
 借金はいくらあるの?
 それは私の問題。
 まあいいから。
 彼女は指三本立てた。
 三百万かあ。個室で客をとっても一人千円だから大変だなあ。
 しょうがない。
 そんな話しをして、十五分が経ったら、背中を丸めて個室から出てきた。
 それから自販機で缶ビーをル買って、おまんこを肴に、ビールをなめなめ、
結局閉店まで粘った。
 外に出たら雪だ。
 酔いを覚まそうと、コンビニで缶コーヒー買って出てきたら、
さっきの女の子が軒下に立っている。白い薄いパーカー一枚で。
 何やってるの?
 友達を待っている。レストランに行くから。
言うと、パーカーに両手突っ込んで膝をがたがたさせている。
 自分風邪ひくよ。そうしたらこれ飲んで待ってな。今車を回して来てやるから。
 そうして車を回して来ると、彼女を乗せて、
エンジン三千回転ぐらいにしてエアコンで暖めた。
 暖まってくると体も柔らかくした。
 ルームミラーでちらっと劇場の方を見ると店員がシャッターを下ろしていた。
 友達くるのか? 電話掛けてみる? 言ってスマホを渡すと、
掛けて、ぺらぺらぺらーっとタガログ語で何か言っていた。
 携帯を切ると、シーズライヤー、ライヤーと言う。
 なに? なに?
 彼女、うそつきー、と日本語で言った。
 ライアーか。あんた、もう帰った方がいいんじゃないの?
 劇場は二時まで開いているからファミレスへ連れいってくれ、と言う。
 そうしたらデニーズだ。あそこはメニューが写真だから日本語が読めなくても
大丈夫だから。
 デニーズではピザだのハンバーガーだのをぺろーっと食べてた。
俺だったらこんな夜中にあんなもの食ったら胸焼けがしてたまらんが。
 それから劇場に帰るともう閉まっていた。
 結局ホテルに行った。
部屋毎に建物が別になっている昔ながらもモーテルだった。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミールはうずくまるようにして腹を押さえるんで、
何しているんだと思ったが、Gパンのボタンを外してたんよ。
ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽんになった。
 俺もぎんぎんになる。
 それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来る。
 何をする気だと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんよ。
 体が熱かった。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音だろう。
 俺は、関係を続けたいと思った。でも客になるのは嫌だ。
でも彼女に必要なものは金だろ。どうしたらいい?
 スマホを買ってやろう。劇場の個室は三千円だから、
三千円使う毎に一回やらせてもらえばいい。
それから兎に角冬服を買ってやらないと。
 朝、デニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、スマホの件を提案した。
 そうしたら私、どんどん使う。
 三千円で一回だぞ。
 何回でもやる、と無邪気に彼女は言った。
 そんな話をしていて思ったのは、劇場で一人やっても千円、
あと何人とやらないといけないのかということ。
 突然、俺は、俺が死んで保険金をやれば、と思った。
俺の保険金で借金を返して帰ればいいんだ、と考えた。
 俺は透析にもうんざりしていた。週に三回も四時間も五時間もやるのがだるい。
もうすぐ個室型の透析器が入って寝ている間にできる、と妹が言っていたが、
それでも面倒くさい。
金があれば自分の家に透析器をおけるだろうが、銭が入るのは死んでからだ。
 カミールもうつむいて、うーんとうなっていた。
「どうした?」
「変な事を考えていた。フィリピンから女の子を入れて百万ぐらい抜けば自分は仕事を
辞められる…、だめだめ、それは悪い考え」と頭を振る。
 そんなやばい橋渡れるのか。
 とにかく劇場に彼女を送り届けると、俺はスマホと冬服を買いに走った】

 牛山の話を脳内再生をしていたら、リアル牛山が個室から出てきた。
 チャックのあたりを直しながら長椅子に腰掛ける。
「思った通り、たたなかったよ。ところで、頼みがあるんだが。
今晩、カミールをアパートまで送っていってくれない?」
「えっ、だって俺、東京から来たあの二人とあんたを送っていかないと」
「いいよ、俺らタクシーで帰るから」

 十二時過ぎ、牛山ら三人はタクシーで帰っていった。
 俺はコンビニの前にレガシィをまわすと暖機運転をして待っていた。
 ルームミラーで、百メートルぐらい後方の劇場を見る。
店員が酔っぱらいの客を追い出して、
あたりを見回した後、シャッターを半分閉めた。
 やがて、厚底ブーツにファー襟ジャケットのカミールが現れた。
と思いきや、後ろから四人も付いてくる。
 なんだよ、なんだよ。
 ここで、速攻でトンヅラすればよかったのだが、迷っているうちに、
女たちは小走りに迫ってきて、後部座席に乗り込んできた。
「あーい、あなた怖がっているでしょう。どうしてあなた怖い? 
もし逮捕される、それ私達でしょ。あなた問題ない、だいじょうぶ」
年季系の女が日本語で言った。
 後ろに四人乗ってカミールが助手席に乗った。
「デニーズお願いしまーす」タクシーの運ちゃんにでも言うみたいに言う。
 俺は諦めて車を出した。
 カミールは身をくねらせると、
後ろに向かって英語混じりのタガログ語で話していた。
「ウシヤマは勘違いしている。個室の客はこうやれば早くイク、だの、
デートならおまんこを消耗しない、だの。その積りで彼を誘ったのに、
一発やらせてくれたら三千円分スマホを使っていいとか、ケチな事を言う。
あれは、自分は客じゃない、マネージャーだ、みたいに思っているのか」
 けっ、牛山も気の毒な男だなぁ、と思いつつ、俺は飲み屋街から国道に出る
路地を慎重に走っていた。
 ところが、なんと、その路地の出口のところで、検問をやっていた。
 合図灯に止められた。
 窓を三センチぐらい開けた。「なんの検問ですか?」
「バレンタインデーの飲酒検問でーす。お酒のチェックさせて下さい」と、
マイクみたいな形の検知器を突っ込んできた。
 はーっと息を吹きかける。俺は店では飲まなかったからそれはよかったんだが。
「一応、免許証拝見できますかね」と言ってきた。
 こういう時に限って、ポンタカードだのキャッシュカードだのに挟まって
免許証が出て来ない。心臓がばくばくしてきた。
「手元、暗いですかね」とお巡りが懐中電灯を向けてきた。ついでに隣の女、
そして後部座席の女も照らす。
「あれあれ、後ろに4人乗っているんですか。定員オーバーですね。
つーか外国の方?」
 離れたところにいたお巡り2人も寄ってきた。
「ちょっとパスポート拝見出来ます? パスポート、プリーズ」
「あーい、ノー」女たちは渋りながらもパスポートを出した。
 お巡りたちがパスポートに懐中電灯を当てる。
「あらららオーバーステイだ。こりゃあダメだ。
ちょっと署までご同行願いますかね。ポリスステーション、プリーズ」
「あーい、ノー」
 女たちは車から降ろされると、パトカーに収容されてしまった。
「ご主人の分は、定員オーバーの違反切符を切りますので」言うと、
画板に免許証を挟んで違反切符に記入しだす。
「彼女らはどうなるんですか?」
「さあ。何日か勾留されて、入管に行って、強制送還になるのか、
ちょっとその先は分かりませんねぇ」
 女を乗せたパトカーはパトライトを点灯して行ってしまった。
 ヤバイ。俺はどうなるんだ。
 俺はあたりをキョロキョロ見回した。
 持って行かれたのは今更しょうがない、が、
劇場の客にでも見られていたら「あいつがお巡りに捕まったんだ」と言われる。
 回りに人影はなかった。
 このまま誰にも言わなければバレないだろうか。
牛山には、昨夜誰も出てこなかったと言えばいいか。





#524/535 ●長編    *** コメント #523 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:07  (126)
「長野飯山殺人事件」2 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第3版
2
 その晩、一睡も出来なかった。
 夜中じゅう、強迫観念に襲われていた。
やくざに拉致られて廃工場でリンチを受ける。
生爪を剥がされたり、歯をペンチで抜かれたり。
 朝になると、それでも空腹になって、朝マックへ行った。
 ソーセージマフィンを食っていたら、なんと、牛山さんの妹の良美さんが現れた。
彼女は飯山の隣町の中野町の僻地病院で看護師をしていた。
そこで牛山さんも透析をしていたのだが。
 彼女は、片手にショルダーバッグ、片手にトレーを持って、
操り人形の様に座席の間を歩いてくる。
途中で俺に気付き、こっちにくると相席してきた。
「あらー、おはよう、これから出勤?」
「いや、今日は夜からのシフトなんだよ。そっちは?」
「私はこれから」
 言うと、エッグマフィンをつまんでがぶりとかぶり付く。。
 その時、ジャケットの袖から手首が出て、
鱧でも刻んだみたいなリスカの痕が見えた。
 あれは、昔、僻地病院で、新生児の交換輸血に失敗して子供を死なせた
ということがあって、それがトラウマになっていて、リスカをするのだという。
 それからリスカのみならず、瀉血、透析、血液クレンジング療法など、
ほとんど血液マニアになってしまっているという。
 何でそんなことになるのか。
 前にゲイバーに行った時に、オカマのリストカッターが言っていた、
リスカはアナニーに似ていると。
アナルが疼くのは、勃起したペニスが空中に投げ出されたみたいな
寂しい時なのだが、そういう時にアナニーを繰り返すと脳に回路が出来るという。
同時にアナルに限らず、尿道切開、チクニーなど同時多発的に性感帯が発生する。
 それと同じで、良美の場合、交換輸血で空虚な気持ちになって
リスカを初めたのだが、同時に瀉血、透析、血液クレンジング療法などに
連鎖していったのではないか。
 俺は、エッグマフィンを食っている良美を、上目遣いで見た。
「そうそう」と良美がこっちを見た。「兄貴の透析だけど」と又血の話。
「とうとううちの病院に個室用の透析器が入るのよ、今日ね。
あれがあれば兄貴も夜に透析出来るだからいいと思うんだ。
もう兄貴も疲れているだろうから」
 俺もあんたの兄貴のせいですごい疲れてると言おうかと思ったがやめた。
「俺も今病院に通っているんだ。飯山市の市民病院だけれども。胸を患って」
「へー。兄貴もそっちにも通っているのよ」
「どこが悪いの?」
「うん、ちょっと」
 がんかな。あの咳の事を思い出した。
「兄貴に会ったら連絡くれるように言ってよ。
最近シフトの関係で全然会わないから。電話しても寝ていたら悪いし」
「ああ、言っておくよ。遅くとも明日の朝にはマンションで会うから」
「じゃあ、よろしく」
 良美はハッシュドポテトを食ってコーヒーを飲むと行ってしまった。
ゴミをトラッシュボックスに入れて。

 彼女が行ってしまうと、又拷問の続きが脳裏に浮かんだ。
鼻の穴に割り箸を突っ込まれたり眼球をえぐられたり。
でも別に俺には責任はないとも思う。俺はただ単に風俗店で遊んでいて、
アッシー君をやっただけだものなあ。それに誰にも見られていないんだから、
見つかる要素もないし。
 などと思っていたら スマホが振動した。
「斉木か」
「えっ」
「飯山興業のものだけれども。あんただろう、夕べうちのタレント連れ出したの。
四人もパクられちまったぞ」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。もう劇場は穴あいちゃうし、
マネージャーは女を返せって騒いでいるし、どうしてくれるんだよ」
「なんで俺だって分かるんですか。つーかどうやってこの番号知ったんですか」
「一人出てきたんだよ、まだビザがあった女がいて」
 カミールだ。カミールには電話番号を教えていない。牛山に聞いたのか。
「お前、即行で事務所に来い。来ないならこっちから行くぞ。
もうそっちの住所とか特定しているんだから。今から一時間以内に来い」
言うと電話は切れた。

 俺はとにかく、まだ女の匂いがぷんぷんするレガシィに乗ると、飯山に向かった。
 俺の住んでいる所は中野町といって、長野線の信濃竹原駅という寂れも寂れた
駅付近にある。
 飯山に行くには、雪の高社山を右手に北上していく。
 左右にうず高く雪がつまれた県道355を北へ走った。
 時々バスとすれ違うとチェーンの音がじゃらじゃらしてきたが、
それが行ってしまうと、人も車もいなくなった。
 355から414に入ると更に寂れて自分の車以外は何もなかった。
 俺はチェーンを付けておらず、溝の減ったスノータイヤだけだった。
ここで、又事故でも起こしたら、泣きっ面に蜂だ。夕べの定員オーバーで、
せっかくのゴールド免許にも傷もついたし。
 ところが、北陸新幹線の高架の下のところで、ごとっと何かを轢いた。
 なんだッ。猪か何かか。まさか人じゃあるまいな。
 降りてって確かめると熊だった。
体長一メートルに満たない小熊が頭から血を流して倒れている。
 つま先でつついてみたが、もう死んでいた。
 しょうがないな、と呟いて、尻尾を引っ張って、
左手の夜間瀬川の河川敷の方に捨てた。
 バンパーがへこんでべっとり血がついていた。
 ちっ。くそー。まだ、不吉な連鎖が続いているのか。
 突然高架を新幹線が、びーーーーーうーーーーとドップラー効果の
残響を残して走り去っていく。

 やくざの事務所は劇場隣のスナックの二階にあった。
 事務所に入ると、スカーフェイスのやくざが二人が麻雀卓で牌をこねていた。
「一緒にやらない?」と言う。
「いやー、三人麻雀はちょっと」
「まあいいわ。遊びにきたんじゃねーものな」こっちに向き直る。
「兄ちゃんよお。どうしくれるんだよ。今日から劇場開けられねーじゃねーか。
ただでさえニッパチで売上げが上がらねーのに、
タレント四人も連れて行かれたんじゃあ堪ったもんじゃない」
「俺、何か悪い事しました?」
「なにぃ」
「こんなの言うのなんなんですけど、
俺的には、風営法の看板の出ている店で遊んでいて、
アッシー君を頼まれただけなんだけれどもなぁ。事故った訳でもないし」
「なに言ってんだ、おめーは」
「もしタクシーに乗っていて、捕まったりしたら、
タクシー会社にも文句言うんですか?」
「なに、ごちゃごちゃ言ってんだ、おめーは。
そんな言い訳がマネージャーに通用すると思ってんのか」
「マネージャー?」
「劇場が開けられないのは俺らの問題だが、
女はマネージャーから預かったタレントだ。
女には一人当たり三百万の借金が残っている。
カミールは帰って来たからいいとして、三百かける四人で千二百万だ。
それをマネージャーが返せと言ってんぞ。お前払え」
「千二百万もあるわけないですよ」
「だったらホームレスでもぷーたろーでもいいから四人野郎を用意して、
偽装結婚させるしかないな」
「えー、無理だよ。つーかストレスで胸焼けがしてきた。
つーか、俺胸が悪いんですよ。これから病院に行かないとならないんで、
帰ります」俺は勝手に踵を返した。
「ちょっと待て」やくざが立ち上がった。
 脇目も振らず、俺は階段を駆け下りた
「ゴルァ、お前の住所も何もかも分かってんだからな。逃げても無駄だぞ」
背後でやくざが怒鳴っていた。




#525/535 ●長編    *** コメント #524 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:08  ( 69)
「長野飯山殺人事件」3 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
3
 それから俺は、胸の病気の治療の為に、市民病院の呼吸器科に行った。
 待合室の長椅子に座っていたら、「よっこいしょ」と、
トートバッグを持った牛山が腰を下ろした。
「あれー、なにー。つーか昨日はえらい目にあったよ。
今もやくざに絡まれていたんだから」
 牛山は咳き込んでいた。ゲホッゲホッ。
 咳が収まるとじろりと見て、「おまえさん、なんでこんなところに居るの?」
と言う。
「ちょっとここを」俺は胸の当たりを押えて見せた。「でもずーっと
通院でやっているんだよ。シフトに穴あけて迷惑かけても悪いし。
そっちはどうしたの」
「ずーっと咳が止まらなかったやろ。かにてんてんや」
「かにてんてん」
 やっぱりな。糖尿で人工透析までしているのに今度はかにてんてんか。
「妹の病院で診てもらえばいいのに」
「だめだ、あんな研修医しかいない交通事故の専門病院なんて」
そして又ゲホッゲホッ。「こんどはダメかも知れないなぁ」
「なに弱気になってんだよ。大丈夫だよ」
「気休め言うな。俺には分かっている。それに考えている事もあるんよ」
「なに?」
「俺が死んだら保険金が入るんだが。
それをカミールに渡して有効に使って欲しいんだが。
彼女が、借金を返して、国に帰って、両親と使えば有効だろう。
 しかし、日本で渡して、散財されても無駄になってしまう。
 それに、受取人をカミールにしても、
あんなパスポート、偽造かも知れないしなぁ。
 そこで、誰か信用出来る奴に受取人になってもらって、
カミールの故郷に持って行ってもらいたいのだが。
もっともそんな事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが」
「そんなの俺に聞かせてどうするの? 俺にやれって事?」
「そうじゃないけどなぁ、ゲホッゲホッ。
ところで、昨日運転していて捕まったそうだな。
どうする積りだ。一人三百万の借金だからなあ。四人だったら千二百」
「それ、保険金で払っていいって話?」
「全然違うよ。別の話だ。あんた、狙われているよ。
やくざじゃなくて、マネージャーに。
あんた、タイーホされた女のかわりに新しい女を入れろ言われているだろ。
それができないんだったら、これで落とし前つけにゃならんって、
預かってきたんよ」とトートバッグを開いてタオルを広げた。
そこにはハジキが。
 牛山はそれをタオルで包むとこっちに押し付けてきた。
「なんだ、これ。本物か」
「当たり前だ。そんなものおもちゃでどうするぅ、ゲホッゲホッ。
あんた、それを使いたくなかったら、女を入れるしかないで」
「どうやって」
「それは、やなぁ」牛山はめもを渡してきた。
ツイッターのユーザー名らしき名前が四つ。
「あんたがなあ、野郎を探してだなあ、そのツイッターの女と見合いさせるんよ。
そんでそいつらが身元保証人になってだなあ、
成田の入管を通して、入国させるんよ。そんでマネージャーに返すんよ」
「そんな事する男、ここらへんに居る?」
「できなかったらそれで自殺するしかないぞ」
「そんなぁ」
「結婚相手が見付かったら、カミールに報告しておいて。窓口はカミールなので」
 牛山は診察室に消えて行った。
 俺は、タオルに包まれたハジキを抱えたまま途方に暮れる。

 病院で処置を終えて建物の外に出てくると、スマホが鳴った。
 すわやくざ! 良美さんだった。
「今、お兄さんに会ったけど、良美さんの事伝えるの忘れちゃったよ」
「何だ、折角個室用の透析器が入ったのに」
「お兄さん、相当悪そうだったな。かにてんてんの方が」
「ああ、うーん。血液クレンジングみたいなのやればよくなるかなぁ。
つーかキース・リチャーズみたいに血液全取替すればいいのか」
「俺が血液クレンジングしてもらいたいよ」
「えー、なんですって」
「いや。俺がかにてんてんなんてことはないんだけどね。
あまりにもややこしい事になってきたので、自分をリセットしたい気分なんだよ」




#526/535 ●長編    *** コメント #525 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  ( 59)
「長野飯山殺人事件」4 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
4

 俺は午後からの勤務の為にレガシィでマンションに向かった。
このややこしさから逃れるには、
誰かにフィリピーナをおっつけなければならない、と思っていた。
まず、俺の前に勤務していた加藤という男はどうだろう。
 マンションの更衣室で加藤と引き継ぎをする。
「何か変わった事あった?」
「ガンダムのナレーションをやっていた人が死んだ」アニメオタクの加藤が言った。
「そうじゃないよ。業務の事だよ」
「業務では特にないよ。そっちは何か変わった事あった?」
「大ありだよ。まず熊を轢いた」
「どこで?」
「中野町の高架の下だよ。今日は暖かいので冬眠から覚めたのかも知れない」
「冬眠といえば、ガンダムにもコールドスリープというのが出てくるけど、
あれは冬眠とは違って、眠る前に、
血を抜いて不凍液を入れてゆっくりと凍らせて行くんだよ」
「へー。血液交換だな。牛山妹の世界だな。
…まあ、冬眠の話はどうでもいいから。
そんな事よりお前、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか? 
お前、外人は嫌いなの?」
「そんな事ないけど」
 俺はスマホでツイッターを開くとピーナの名前を入力して画像を表示した。
「こんな女どうだ」
「うーん、原住民っぽいね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。おめーにしてみりゃあ、こんな女上玉だろう。
それにフィリピンだったら、常夏だぞ」
「フィリピンに住むの?」
「そうじゃないけど。とにかくお前の顔を写メで撮らせろ。
向こうに送っておくから」
「いいけど」
 そして俺は加藤の写真を相手の女に送った。
 加藤が帰ると、風呂掃除、巡回、蛍光灯交換、フロント業務などをこなす。
 仮眠をとるとすぐに夜中になった。
 夜中の三時、朝日、読売、毎日の新聞屋をオートロックを解錠して入れた。
「お前ら、新聞を配る前にちょっといい話し」と全員をフロントの前に集める。「お前
ら、結婚とか考えていないの?」
「え、なにをやぶから棒に」
「いい女がいるんだよ。ちょっとこれを見てみな」
俺はツイッターの画面にピーナの名前を入れて表示して見せた。
「こういう女と結婚してみたいと思わないか」
「今は新聞配達も外人ばっかりだからインターナショナルなのには
慣れているけれども、ピーナとなんか結婚して笑われないかなあ」
「笑われる訳ないだろう、今や角界にも芸能界にもピーナハーフは多い。
時代はピーナだぞ」
「ビザとか問題ないの?」
「だからお前らが身元保証人になって入国させて、
気に入ったら結婚すればいいんだよ」
「成田に行くのかあ。だったら夕刊の休みの日じゃなあいとダメだな」
「とにかくお前らの顔を写メで撮らせろ。向こうに送っておくから」
「いいけど」

 朝になって牛山が出勤してくると聞いてきた。
「どうだ、進展はあったか」
「俺は仕事が早いぜ。一晩で四人確保したよ」
「誰よ」
「加藤と新聞屋だよ。これからカミールに会いに行く」
「それは期待が持てそうだな」
 それだけ交わすと、俺はそそくさと退社した。




#527/535 ●長編    *** コメント #526 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  (106)
「長野飯山殺人事件」5 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
5

 駐車場に行くとレガシィに乗り込む。
車内でも息が白かった。
 カミールに電話すると英語で話した。
「もしもし、サイキ。分かる?」
「もちろん」
「今日、会いたいのだけれども。偽装結婚のことで。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ十時頃、飯山のファミレスの駐車場で待っている。
俺の車は知っているだろう。白のレガシィ」
「わかった」

 二十分後、ガストの駐車場についた。
 フロントガラスごしに空を見上げると、異様に晴れていた。
今日は何か起こるんじゃないのか。
 拳銃をジャケットのポケットに入れると、車を降りた。
 ガストの軒下に、カミールがPコートに両手を突っ込んで立っていた。
 あのファー襟に厚底ブーツでなくてよかった、と思った。
 雪の照りっ返しで、カミールの顔は白く見える。
 カミールを促して、一緒に店に入ると窓際の席に付いた。
 カミールはハンバーガーにオレンジジュース、
俺は目玉焼き&ベーコン朝定食を注文した。
 料理がくるまえにさっそく俺は切り出した。
「夕べ、俺の知り合いにフィリピンの女の写真を見せたんだけれど。
そしてそいつらの写真をメールで送ったんだけれども。
向こうの女、なにか言っていた?」
「あんなこ汚い新聞配達員じゃあ無理だよ。女の子はみんな若いんだから。
それに、偽装結婚は私の借金を返す為にやる積りだったのに。
あんたがしくじって逮捕された女達の穴埋めをする為じゃない」
「そっちが乗せてくれって言ってきたんだろう」
「とにかく無理、無理。あんなジャパニーズじゃあネバーポッシブル」
 無理無理と繰り返されると無理に思えてくる。
ユーチューバーになろうとか、fxで儲けようとか、
ミステリーの新人賞に応募しようとか、誰かに無理と言われると無理に思えてくる。
 偽装結婚も無理だし、それに面倒くさく思えてきた。
 トンヅラした方が早いんじゃないのか。牛山の保険金をもって。
 料理が運ばれてくると、カミールはさっそくハンバーガーを頬張った。
見ていて、若いな、と思った。
こんな若い女が本当に牛山を愛しているのだろうか。
スマホを渡したり、送金したりしてやっているから、利用されているだけだろう。
俺は聞いた。「カミール。牛山は客か? それとも恋人?」
「恋人だよ」
「うそー。だってあいつは金をはらって個室に並んでいた男だぞ」
「それはあなたも同じ」と言うとジッとこちらを見据える。
 なんでここで俺を攻めてくるんだろうと、一瞬顔が引きつった。
でもまあいいや。俺は声を潜めていった。
「牛山は、タバコが好きでしょう。だから胸が悪い。後で死ぬかも知れない。
そうしたら、保険金が入るでしょう。彼はそれをあなたにプレゼントしたい。
でも、日本人がいないとお金持って帰れないでしょう。どうする?」
「あなた助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」
「友達だからって、助けるとは限らない。
その前に俺には問題があるし。お前のボスに脅かされていて、
女を入れないと死なないとならない。こんなものを押し付けられた」
 テーブルの下で、拳銃をポケットか出して、見せる。
「はーっ」と息を呑む。「ちょっと見せて」
 さっと手を伸ばすとひったくった。
「おいおい」
「これ、カルロが持っていたものだ」
「カルロって?」
「マネージャー。私が持っていてあげる。故郷で撃った事もあるし」
「故郷に帰ろうよ。牛山の金でマネージャーに借金を返して。
俺もカルロに脅かされているから、一緒に逃げたい。どう?」
「うーん」と唸って前かがみになる。胸の谷間が見える。
「この話しの続きはホテルでしようか」
「一発撃たせてくれたら、行ってもいい」
「オッケイ、オッケー」

 ファミレスを出ると、カミールをレガシィに乗っけて、中野町方向に走った。
 新幹線の高架の下で河川敷の方に向かう道に車を入れて止める
 そして、昨日捨てた熊の死骸のところへ行った。
「ここに撃てよ」
 カミールは構えた。
「ちょっと待って。一応、電車が来たら撃て」
 やがて、新幹線が、シューーーーーと擦れる様な音をたてて通過した。
「撃て」と俺は言った。

 船の形をした石庭グループのホテルに入ると、
自動販売機で部屋を選んで鍵を出す。
部屋に入ると「冷えた体を温めたい」とカミーラが言った。
 俺は冷蔵庫の上にあったティーバッグで紅茶を入れてやった。
「はい、tea。でも、アルファベットじゃないけれども、
俺は、T(tea)よりU(you)の方が好きだよ」
「でも、IよりHが先だと順番が逆ね」
 俺は黙って服を脱いだ脱いだ。
 カミールは寄ってくると、下着を下ろしてあそこを見た。
「なに、この絆創膏、血がにじみ出ている」
「それは、伝染る病気じゃないから」
「でも、やる前にシャワー浴びないと」
「オッケーオッケー」
 俺はシャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血した。
 出てくると一発やった。

 事が終わる、そそくさと部屋を後にした。
 二人してエレベーターでフロントに降りてくる。
 そして出口に向かったのだが、突然カミールが消えた。
 あれー、どこに行ったんだ、俺はキョロキョロした。
背後を見ると、カミールが拳銃を構えていた。
「なにしている」
「サエキ、撃つよ」
「やめろぉ」
 しかしそのままズドンと銃声が鳴った。
 身をよじると胸からどくどくと血が流れ出した。
 俺はその場に倒れ込んだ。入り口のドアのガラス越しに妙に晴れた青空が見えた。




#528/535 ●長編    *** コメント #527 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:10  (152)
「長野飯山殺人事件」一 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
一

 私、佐山と中川が同人の斉木に誘われて
このスキーマンション兼ホテルに来て三日が経っていた。
 初日はごたごたがあってろくにスキーも出来ず、
これでは慰安にならないと、慰安の慰安としてストリップ劇場に行った。
二日目は怠惰に温泉に浸かって過ごした。
そして三日目の今日も昼頃に起きると温泉に浸かっていたのだが。
 その帰りにフロントに差し掛かると、管理室の中で、
何やらガヤガヤ騒いでいるのが見えた。
清掃員やら、主任管理員、コンシェルジュやらが
「このままだとシフトが組めなくなる
…加藤ちゃんと牛山さんに連投してもらうにしても限度がある」
などと侃々諤々やってる。
 私はドア付近にいたコンシェルジュに訪ねた。
「ちょっと、何かあったんですか?」
「それが、斉木さんが撃たれたんですよぉ」
「はぁ?」
「ピストルで撃たれたんですよぉ」
「えー」私はほとんどそっくり返りかけた。
 コンシェルジュの高橋明子はネットのニュースを印字したもの広げると
読み上げた。
「今日十一時過ぎ、中野町のホテルで中野市在住の
マンション管理員斉木和夫さんが何者かに拳銃で撃たれました。
斉木さんは市内の病院に搬送されましたが、命に別状はないとの事です。
飯山署によりますと、
防犯カメラには外国人風の女性が銃撃の後走り去る姿が映っており、
同署は事件との関係を調査中…ですって」
「外国人風の女性っていったら、ストリップ劇場と関係あるんじゃないのか?」
中川が言った。「あの晩、一緒に帰ってきた時、牛山さんという人が
何とか言っていたなあ。何とかいう踊り子に入れ込んでいる、と。
彼に聞けば何か分かるんじゃないのか。牛山さんは今日はいないんですか?」
「今、裏のエントランスで雪かきしていますが」
「そこに行ってみよう」と中川。
 猪みたいな主任管理員を先頭に、私、中川、高橋明子は、
裏のエントランスに走って行った。
 裏口のエントランスに到着するとすぐに猪は雪かきをしている牛山さんに
詰め寄った。「牛山さん、斉木が誰に撃たれたのか知っているのかい」
「知らんよ」と背中を向けたまま牛山さんは雪かきに集中。
 しばらく二人は押し問答していたのだが。
 ところが突然牛山さんは、わーっと天を仰いだかと思ったら、
がばっと自分の体を抱くようにして雪の上に倒れてしまった。
咳き込んで吐血している。
 何で斉木、牛山と連続して人が倒れるのか、という疑問が鎌首をもたげたが、
とにかく、みんなで裏口のエントランスに運んだ。
 牛山は、更に咳き込み、吐血する。
「こりゃあもう救急だな」と中川。
 猪みたいな主任管理員が救急車を呼んだ。
 しかし、来るのは早いのだが、ストレッチャーで救急車に格納してから、
出ない出ない。
あちこちの病院に電話しては「今、別の急患を診ているから」
などと断られて手間取っている。
 猪みたいな主任管理員が怒鳴った。「なに時間食ってんだ、こんなの、
心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死んでいるぞ」
 咳き込んでいた牛山がギクッと目を見開いた。
自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して
「ここに連れていってくれ。何時もここに通っているんだ」と言う。
「診察券を持っているならそこに行きましょう」と救急隊員が言った。
 そういう感じで、救急車はやっとこ動き出した。
 猪の主任管理員が同乗して、私と中川は明子さんの車でついていく。

 市民病院のICUの外で待っていると、医師が出てきて、我々に説明した。
「肺胞出血を起こしてまして、今、薬物療法をやっていますが、
場合によっては血漿交換をしなければならない」
「斉木はここには運ばれてきていないんですか?」私は聞いた。
「今朝中野町で撃たれた斉木なんですが、
彼もおんなじマンションで働いているんですよ」
「それは中野町の病院じゃないですかね。向こうで起こった事件なら」
「それじゃあ主任さんはここで牛山さんの様子を見ていて。
俺らは向こうに行ってみるから」と中川が命令口調で言った。

 私と中川は、明子さんの運転で、中野市の僻地病院へ言った。
 そこは、小さくて古い病院。
 明子さんが言った。「ここは元々は産婦人科だったんですが少子化で
人工透析や救急病院も始めたんですよ。
牛山さんの妹が看護師をやっていて、彼女から聞きました」
 受付の小窓に「斉木さんの職場の者ですが」と告げる。
「十三号室ですよ」と簡単に教えてくれた。
 これじゃあ、犯人がとどめを刺しにきたら簡単にやられちゃうな。
 我々が病室の前まで行くとちょうど女医さんが出てきた。
「今、面会謝絶ですよ。立入禁止です」と冷たく言う。
「しかし、私ら知り合いなのだから具合ぐらい聞かせて下さいよ」
と私は下手に出た。
「部外者には言えませんよ」
 ここで中川がT大医学部の威光を放つ。「私はT大法医学教室の
中川といいますが」
 女医の顔色が変わった。
「あなたが診たんですか」
「はい」
「傷口の大きさとか、火薬の付着の有無とか、教えて下さいよ」
 若い女医は従順に答えた。「傷の大きさは五ミリ。
使われた拳銃は38口径の9ミリです。銃弾は肋骨に当たって止まっていました。
火薬の付着はありません。距離は至近距離だと思われます」
「解せないなあ。普通銃の口径以上に射創はでかくなるんだが。
まあ拳銃なら同じぐらいの大きさの場合もあるが」
 女医は逃げる様に行ってしまった。
 次に警察関係者が出てきた。
「あの、斉木くんの友人なんですけれども、
事件の経緯を教えてもらえませんか?」
「マスコミ各社に言った通りですが」
 ここでも中川がT大の威光を放つ。
「私はT大医学部のモノですが」
「あ、そうですか」
「何かストリップ劇場との絡みとかあるんやなかろうか」
 我々は、牛山さんとカミールの関係を知っていたので、そんな事を聞いたのだが。
「実はですね、一昨日の夜なんですが、飲酒検問に
斉木さんが引っかかったんですよ。
その時にストリップ劇場の踊り子五人を捕まえましてねえ。
一人はビザがあったんで帰したんですが…」
「それが今回の事件と関係あるのですか?」
「さあ、今のところはなんとも」
「そうですか」

 三人でマンションに帰ってきたところで、我々はもう一つ情報を得る事が出来た。
 フロントには加藤という管理員が居たのだが。
「主任管理員はどうしました?」と聞くと、
「まだ、帰ってこなーい」と、それを聞いただけで、
こいつ池沼?と思える様な返答をしてきた。
「君ぃ。君が最後に斉木と会ったのは何時? 何か言っていなかった?」
と中川が聞く。
「前回勤務の時に斉木さんに会いました。その時に、
フィリピン人と結婚しないかと言われました」
「なにぃ?」
「フィリピン人の写真を見せられました。
そして僕の写真も撮って向こうにメールしたみたいです」
「それは偽装結婚?」
「詳しい事は知りません。斉木さんに聞いてみないと」


 我々は客室に戻ってこれらの情報を整理しようと思ったのだが、
やっぱりひとっ風呂浴びながら、という事になった。
 我々は湯船に浸かり、濡れたタオルを頭に乗せて、今日得た情報の整理を始めた。
「まず事件のあらましですが、
まず、あの晩、斉木は踊り子五人を乗せていて飲酒検問に引っかかった、
そしてカミールだけが帰ってきた、というのが事件の始まりですね。
それから、斉木は加藤に偽装結婚らしきものを進めていた。
あと、斉木を撃ったのはカミールなんじゃないか、という疑いがある」
「そうやな。そして想像だが、四人もフィリピン芸人をもってかれたんじゃあ、
その筋のひとから脅かされていたかも知れない。
それでまず偽装結婚で穴埋めをしようとした。
だけど上手く行かないから、落とし前をつけるために死ななければならなかった」
「実際に撃ったのはカミールって感じですが」
「それは怪しいと思うで」
「何故ですか?」
「だって傷口は五ミリしかないのに、九ミリの弾が出てきたんやで」
「でも、医者が弾を摘出したんですよ」
「あんな研修医にはなんにもわからないやろう」
「それに撃たれたところは防犯カメラにも写っているし」
「そうだけれども、俺にはまだ疑問だな」
「じゃあ、そこらへんの事、カミール周辺の事を、明日牛山さんに聞いてきますか。
見舞いのついでに」
「そうやな」




#529/535 ●長編    *** コメント #528 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:11  ( 85)
「長野飯山殺人事件」二 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
二

 ところが翌日、またまた明子さんの運転で市民病院に行ってみると、
牛山さんはICUから出てきたのはいいのだが、
夜中にまたまた肺胞出血が進んで、
鎮静をかけられて人工呼吸器をつけられていた。
 もう意識がなく話せない。
「なんだー」我々は頭を抱えた。
 がっかりして、折りたたみ椅子に三人して座っていると、
看護師が来て、牛山さんの人工呼吸器からチューブを入れて、
ずずずずずーっと吸引した。
 牛山さんは体をビクビクーっと痙攣させた。
「なにをやっているんですか? 痰を取り除いているんですか?」と中川に聞く。
「ああやって、分泌物を取り除かないと誤嚥を起こすからね」
 看護師が作業をしながら、言った。
「斉木さんは中野市の僻地病院に行っちゃったんですってねぇ」
「えッ、斉木を知っているんですか?」
「ええ。この前、牛山さんと一緒に来ていましたよ」
「えッ、斉木がこの病院に」
「あら、そうですが」
「何科ですか。呼吸器科ですか?」と中川。
「え、ええ」
「内科ですか外科ですか」
「それは…、あらなんか私、余計な事いっちゃったかしら」
 看護師は牛山の鼻からチューブを抜くと、
適当に人工呼吸器のコントローラをチェックして、そそくさと出ていった。
「こりゃあ、面白い事になってきたで」と中川。「呼吸器科に通っていたって事は、
胸に切開の傷でもあったかも知れない。
そうすれば、銃弾をそこに埋め込んでおいてやな、空砲を撃たせれば、
他の人には、撃ったと思える。そんであんな僻地病院に運ばれて、
素人に毛が生えた程度の研修医に診させたら、わからんかも知れない」
「じゃあ、その情報をもって僻地病院に行ってみましょうか」
「そうやな」
「じゃあ、明子さん、また送っていってもらえますか」
「ええ」

 我々は又、飯山市から中野市の僻地病院に向かった。
 途中車窓から雪山を見て私は呟いた。
「折角気楽にスキーでもする積りだったのに、
やっかいな事件に巻き込まれちゃったなぁ」
「そんなに気楽じゃあないですよ。今年は熊が出ますから。
地震の影響かも知れないけれども」と明子さん。
「実際に出たのか」と中川。
「いや、加藤さんから聞いただけなんですけど。
加藤さんは斉木さんから聞いたと言っていました。
運転していたら山から熊が出てきて轢いてしまったと」
「近いのか」
「ちょうど中野市に向かう途中ですが」
「そこに連れていってくれへんか」
 我々は斉木が熊をはねたという中野市の北陸新幹線の高架下に降り立った。
 あたり一面は雪だった。
「ここらへんに、熊の死体はないかなあ」と私。
「斉木のアパートは中野市やから、中野から飯山方向の車線の向こうやな。
向こう側が河川敷みたいになっているから、どっか、向こう側にないやろか?」
 そして3人で、反対側の河川敷みたいなところを探してみた。
すぐに雪の上に熊の死体を見付けた。
「雪のおかげで保存状態がいいな」中川はしゃがみこんでじーっと見ている。
「これや。ここに銃創があるで。でも回りの雪は全然血で汚れていない。
つまり死んだ後に撃ったんや。そして弾を取り出したんじゃあないやろか」
 そこまで言った時に、高架の上から、
シャーーーーっという新幹線の音が響いてききた。
「このタイミングで撃ったんですかね。ドラマみたいですが」
「多分そうや。そして、その弾を傷口に入れたんや」
「じゃあ、僻地病院に行って、斉木に尋問してみますか」

 ところが僻地病院の斉木の病室に行ってみると、
なんと斉木は今朝方死亡していて、もう葬儀屋が運んで行ったという。
「検死したのかっ」中川が女の研修医を怒鳴った。
「しましたよ。変死だと思ってちゃんと検視官を呼んで。
そうしたら解剖の必要はないというから、死亡診断書を書いたんです。
そうしたら葬儀屋さんが迎えにきたんです。全部決まりの通りにやったんだから」
「まだ生きている可能性があるから、早く葬儀社に電話して」
丸で自分の部下にでも言う様に研修医に言った。
 しばらくして、事務方の男がきて言った。「あのー、葬儀屋に電話したら、
搬送の途中で遺体が消えたっていうんですよね」
「そんな馬鹿な。警察には通報したんですか」
「一応通報したそうですが、もう検死も済んでいるので、
これは逃亡というよりかは、
葬儀屋が死体をなくしたみたいな扱いになるそうです」
「そんな馬鹿な」
 一瞬興奮したがすぐに冷静さを取り戻す。
 中川は部屋を見回した。
「なんかここは寒いなあ」といいつつ窓際に寄る。
 カーテンは閉まっていたが、窓は開けっ放しだった。
室内の温度は零下に近かった。




#530/535 ●長編    *** コメント #529 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 82)
「長野飯山殺人事件」三 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
三

 途方に暮れて、我々は明子さんの運転で帰ってきた。
 フロントにはぼけーっとした加藤がいた。
 彼に言う。「加藤君。君の熊の話ねえ、明子さんから聞いたんだが、
斉木が熊を轢いたという話、あれが事件の一部解明に役立ったよ」
「ああ、コールドスリープでしょう」
「なに?」
「熊の冬眠と人間のコールドスリープは似ているけど違うって言っていたら
反応していたよ」
「斉木がか?」
「斉木さんはコールドスリープなんて牛山さんの妹の世界だって言っていたよ」
「なんだって」そして中川はこっちに言ってきた。「おい、もう一回、
僻地病院に行くぞ。明子さん」
「私、牛山さんの所に行かないといけないんです。
あの人が倒れたのは勤務中だから労災になるので、その書類を届けろと、
派遣元の上司にいわれているんです。もしよかったら社用車、貸しますけど」
「じゃあ貸して下さい」

 我々は自走で、又僻地病院へ行った。
 着くなり受付の小窓に「研修医はいるか」と中川が言った。
「もう今日は帰りましたけど」
「看護師の牛山さんは」
「急用があるといって帰りましたけど」
「じゃあ、院長はいる?」
「はあ。どちら様で」
「私はT大法医学教室出身の中川です」
「少々お待ち下さい」
 数分後、我々は院長室に通された。
 ヒゲを蓄えた初老の院長が我々を迎えた。
「これはこれは、あなたがT大の法医学教室の先生ですか」
「もう辞めましたがね。それで、いきなりですが、
看護師の牛山さんは今日は何で帰ったのですか?」
「なんでも、市民病院でお兄さんが亡くられたとかで早退しましたが」
「そうですか。亡くなったんですが。彼女はどういう人なんですか?」
「何か気になる点でもあるんですか?」
「今回の事件で死んだとされている斉木なんですが、
彼は市民病院で亡くなった牛山さんと同僚なんですが、
その妹が牛山看護師ですから、接点があるんですよ。
 その斉木なんですが、熊を轢いているんですが、
熊の冬眠とコールドスリープは似ている、とか言っているんですよ。
あと、コールドスリープに入る前の瀉血は牛山看護師の世界だ、
とか言っているんですよ。
 あと、斉木の病室が異様に寒かったことも
コールドスリープと関係がある様な気がして。
 そんな事から、彼女は一体何者かというのが気になっているんですが」
「そうですか。ミステリアスですなあ。
彼女は昔からこの病院に居たんですがね。
この病院は元々は産婦人科病院だったんですよ。
それで、新生児に溶血性疾患がある場合には、
当院で交換輸血等もやっていたんですが。
ところが、あるケースで上手くいかなくて、
子供に重度の障害が残ってしまったんですなあ。
彼女はそれを非常に気にしていて、
それ以来それがトラウマになったのか血液マニアの様になってしまって、
瀉血だのリスカだのに興味を持ったりして。
 ちょうどその頃、この病院も少子化のあおりで患者数が減ったんで、
人工透析を初めたんですよ。彼女も血液マニアですから、
喜んでそれに参加したんですがね。
 あと、偶然にもその頃から彼女のお兄さんも
人工透析に通うようになったんですが、
不幸なことに肺がんにもなっていましてねえ。
彼女は、血液交換をすれば治るかも知れない、と言っていましたよ。
 あと、透析の方だけでも楽になるようにと、
彼女は個室タイプの透析器を入れてほしいと言っていましたね。
あれだったら夜間寝ながら出来ますから。
そういうのは当院としてもあってもいいなあというんで、
最近導入したんですがね」
「それは今どこに」
「それがちょうど、斉木さんが亡くなった部屋に置いてあるんですよ」
「見せてもらっていいですか」
「ええご案内します」
 病室に行くと我々はPCラックぐらいの大きさの透析器にへばりついた。
 中川は指差しながら、瀉血のチューブ、血液ポンプ、血液濾過器、
そして返血のチューブ、と血の通り道を追っていった。
「ここにポンプがありますね。これを使って、血液交換は出来ないんですか?」
「さあ。血液交換器とは又別の器械ですからね。
血液交換の場合にはシャント手術なんて前提としていないし。
しかし、そのポンプで瀉血は出来るには出来る。
あと、返血は輸血パックで点滴してやればいいんでしょうから、
入れ替えは可能かも知れませんね。
彼女はこれでお兄さんの血をクレンジングして綺麗にする積りだったんですかね」




#531/535 ●長編    *** コメント #530 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 42)
「長野飯山殺人事件」四 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
四

 我々は、それだけの情報をもってマンションに帰ると
又温泉につかって濡れたタオルを頭に乗せた。
「まず、動機というかホワイダニットについての整理やな」
「それはまず、女四人をもっていかれたので劇場関係者から恨みをかっていた
ということですね。それが証拠に加藤らにも偽装結婚を進めていた。
しかしそれが上手く行かないんでその筋の人から脅かされていたかも知れない。
落とし前をつけろなどと。
 もう一つは、撃ったのかカミールらしいということですね。
しかも牛山さんがカミールに入れ込んでいたという。
 以上の二つがホワイダニットになるんでしょうか。
 それからハウダニットですが、これは医者じゃないと分からないんでしょうか」
「まずは、銃弾の偽装だな。加藤らへの偽装結婚も上手く進まないので、
落とし前をつけなければならないが、勿論死にたくない。
そこで熊の死骸に弾を打ち込んで取り出して、元々あった呼吸器科の傷に入れる」
「どういう病気だったんですか?」
「それは不明だが、カミールに空砲を撃たせて、
弾に当たった様に偽装したんじゃないの?」
「しかしそんな偽装、医師に見抜かれないですかね」
「新米の研修医なら見逃すかも知れへんな。
それに、それが死因な訳ではないんやから、
仮にバレても、トンヅラしちゃえばいい訳だから、
意外と一か八かでやれるかもしれないで」
「次にコールドスリープですが」
「まず、牛山の妹が血液マニアで血液交換などに興味があった、
というのが前提になるな。
そして彼女と斉木が
冬眠から覚めてきた熊の様にコールドスリープ云々話していたという事。
あと、あの寒い病室や」
「でも、仮にコールドスリープ状態になったとしても
心肺停止状態にはならないんですよね。
斉木は検死の結果死亡が確認されているんですよ」
「うーん」
 中川は湯船から出ると、屋外の露天風呂に行った。
 そこには小さい池があって金魚が泳いたのだが、
この零下だから池の水が凍っていて金魚も一緒に凍っていた。
「佐山さん、きてみな」と中川が呼んだ。
 私が行ってみると、中川は露天の湯を手ですくってきて、金魚にかけた。
 すると、金魚はなんと泳ぎだしたのだった。
「これをやったんや」
「そんな事が出来るんですか?」




#532/535 ●長編    *** コメント #531 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:13  (106)
「長野飯山殺人事件」五 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
五

 それからなお二日間、我々は怠惰な湯治を楽しんでいた。
 その二日目の温泉の帰り、フロイトの前を通ると、
主任管理員の猪が声をかけてきた。
「お客さんからもらった饅頭があるんですよ。食べて行きませんか?」
 私と中川は管理室の中に入った。
 部屋は10畳ぐらい。家電量販店並の明るさ。
奥の壁には、防犯カメラのモニタ、防災関係の盤などがずらーっと並んでいる。
真ん中にスチールデスクが2個あって、ノートPCが一個置いてある。
 我々はそのデスクにキャスター付きチェアを寄せ合って座るとお茶をすすった。
 突然PCの右下にウィンドウが開いてスカイプの着信音が鳴った。
 「なんだ?」主任管理員が通話のボタンをクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
「なんだ。斉木さんか?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「アンヘレス」
「アンヘレス?」
「フィリピンのアンヘレスだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があってな」
 画面の中の斉木に誰かが皿を運んで来た。
ノースリーブのワンピースを着た女性だが顔は映っていない。
あれはカミールなんじゃないのか。
 斉木は「サンキュー、サンキュー」と言いながら
皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、
このスカIDがあってんで、掛けてみたんだ。
こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらなんだけれども、
俺って、そっちじゃあ、どうなっているかなーと思って」
言うと斉木はケケケッと猿の様に喜んだ。「つーか、驚いたことに、
そこには中川先生と佐山さんもいるんだ。
ちょうどいいや。今回の俺様殺人事件の答え合わせをしてみようよ。どうだよ」
「それはこっちも望むところやな」PCに向かって中川が言った。
「そうこなくちゃ。じゃあ中川先生、まず、ホワイダニットから言ってみなよ」
「だからそれは、あのストリップ劇場に行った晩、
お前は女のアッシー君をやって、四人も持っていかれて、
その穴埋めに偽装結婚をさせようと思ったが上手く行かず、
落とし前をつける羽目になったが、死にたくない、
そこでカミールと共謀して偽装殺人を思い付いた、ってとこだろう?」
「それじゃあ全然答えになっていないよ。
なんでカミールが偽装殺人に協力するんだよ。おかしいだろう。
実はカミールには俺に協力したい理由があったんだけれども、知りたい?」
「ああ、知りたいな」
「俺は確かにやくざに脅かされていたが、
もう一個カミール絡みで別の話があったんだよ。
実は牛山さんは生命保険に入っていて、
それをカミールに渡したいと思っていたんだよ。
でもカミールもイマイチ信用できない。
そこで俺にカミールの故郷まで金を運べって頼んで来たんだよ。
それでカミールも偽装殺人に協力したって訳さ。
結局はカミールに保険金が入るんだから」
そこまで言うと斉木は天を見上げて何か考えていた。
そして続ける。
「つーか。そもそも俺はあの疑惑の銃弾で死んだ訳じゃないんだけど。
俺はコールドスリープで死んだんだよ。
つまり、トリックは二つあって、
疑惑の銃弾のホワイダニットはやくざへの落とし前だけれども、
コールドスリープの方は保険金目当てって感じだな。
 それをさぁ、やくざへの落とし前を偽装するためにカミールが手伝った、
なんて言うんじゃあ、全然分かっていないな。減点一だな。はははっ」
と笑って乳歯の様な矮小歯を見せた。「だいたい今回の事件はホワイダニットは
どうでもよくてハウダニットが凝っているんだから。
だから、ハウダニットについて言ってみな。まず、疑惑の銃弾についてから」
「ああ、言ってやるよ。お前何か呼吸器の病気があって傷があっただろう。
あと、どっからか回ってきた銃で熊を撃って弾を取り出したのも分かっている。
その弾をその傷口に埋め込んだんじゃないのか?」
「おいおい、呼吸器の病気って何だよ。病名が分からないのかよ、
T大卒のお医者さんが。
それじゃあ裁判で勝てないぞ。今スマホで調べてみろよ。
胸、穴があく病気とかで」
「気胸か」調べるもなく中川はひらめいた様だった。
「そうだよ。気胸だよ。しかも通院で治療出来る方法があるんだよ。
胸に穴を開けて、ドレーンチューブを引っ張ってきて、
腹のあたりにポンプをつけてね。
その胸の穴に弾をめり込ませたって訳さ。
そんでカミールにラブホで空砲を撃たせて、
それから病院に担ぎ込まれた。
でかい病院じゃあバレるかも知れないが
アルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば撃たれたって事になるだろう。
医者に勘付かれたら逃げてくればいいし。それが疑惑の銃弾の真相さ。はははっ。
 でも、別に俺はその偽装殺人で死んだ訳じゃないんだぜ。
コールドスリープで心肺停止状態になったんだ。
そっちの方のハウダニットは分かる?」
「大胆な予想をしてやるよ。
お前はホテルで撃たれて僻地病院に運ばれて寝ていた。
そこに、血液交換マニアの牛山看護師の登場だ。
まず看護師は個室用の透析器でお前の血を全部抜いた。
そして血の換わりに生理食塩水を点滴する。
同時に窓を開け放って部屋を冷たくした。
そうやって体温が十度になれば全ての細胞は活動を停止するからな。
つまり心肺停止状態になるって訳だ。
これは金魚が半冷凍になるのとは違って、完全に心肺停止状態になるものだ。
実際、二〇一四年だかに、血を抜いて生理食塩水を入れて
仮死状態にして手術をする、という症例がピッツバーグだかであったんだよ。
とにかくそうやってお前はまんまと検死を突破した。
その後、血を元に戻して、霊柩車の中で甦った。
ところで、牛山看護師にも動機はあった。
兄の保険金を有効に使いたかったという」
「それは当たりだな。大したものだよ。はははっ」と斉木は力なく笑った。
「しかし全体で見ると、
やくざへの落とし前ということは分かっても保険金の事は分からなかったし、
コールドスリープのこと分かっても、気胸という病名は分からなかったんだから、
二勝二敗だな。
まあ、今回は引き分けって事にしてやるよ。ハハハ歯歯歯はははっ」




#533/535 ●長編    *** コメント #532 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:14  ( 83)
「長野飯山殺人事件」六 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
六

 スカイプだから鮮明ではないのだが、斉木の頬はこけて無精ひげが生えていて、
心なしか頭髪も薄くなっている気もする。
伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
逃避行で疲れたか、糖尿病でも患ったか。
 斉木は机の上の皿からスプーンですくってピラフの様なものを食べ出した。
その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じ。
 そこへ、さっき皿を運んできたノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木が女に向かって、ファックだのビッチだの声を荒げていたが、
その内、プリーズとか言って、拝むように手を合わせていた。
 女が「カモン」とドア方向に向かって言った。
 機敏な動きの男二人が入ってきて、
椅子に座っている斉木の肩を両方からフルネルソンで固めると、
そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」とこっちに言う。
そしてぷちんとスカイプが落ちた。
「なんだ、何か向こうで騒ぎが起こっているようですが」と主任管理員。
「彼女らも売春をさせられていたんだから、
恨んでいて男を呼んできたのかも知れない」と私。
「これから彼がどうなるのか、というのもミステリーやな。
まだまだミステリーは続くってことや」中川は全く他人事の様に言うと、
お茶をすすった。「腹へったなあ。そろそろめしでも食いに行かへんか。
このお菓子が呼び水になって、すごい空腹感やで」
「だったら今日は海鮮丼がおすすめですよ。
新鮮なイクラとかハマチとか乗っていましたから」
「じゃあ、それ、行こう」

 私と中川とでホテル側のレストランに向かって歩いていたら
明子さんに出くわした。
「あら、これからお食事ですか?」
「そうなんですよ。美味しい海鮮丼があると教えてもらって。
…そうだ、明子さんも一緒にどうですか? ご馳走しますよ。
色々ごたごたがあったし」
「そうですか? じゃあお相伴に与ろうかしら」
 我々三人は、レストランで、
日本海の海の幸満載の海鮮丼、お吸い物つき、お酒つきに舌鼓を打った。
「イクラがぷちぷちと口の中で弾けるところにお酒を含むと絶妙やな」
「磯の香りが広がりますね」
「お吸い物もグーですよ」
「魚介類と吸い物は合うよな。味噌汁はそうでもない。
魚には白ワインは合うというのに似ているのかな」
 など、食レポをしながら寿司を食った。
「そういえば、斉木さんってその後どうなったんですか?」
「そうそう、それを報告したかったんですけれども。
さっき斉木から電話がかかってきたんですよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプで」
「あの人、まだ日本に居るんですか? てか、生きているんですか?」
「ええ。なんでもフィリピンに居ると言ってましたよ。
なんか、牛山さんの間男みたいな真似しているみたいですが、
結構揉め事が多いらしいですよ」
「へー、いやらしい。そういえば、私カミールにあったんですよ、
牛山さんに書類を届けに行った日、先生たちに社用車を貸した日ですけれども。
あの晩牛山さんが亡くなって、そうしたらカミールも来たんですよ。
 カミールは、フィリピンに帰るけど、
牛山さんと一緒じゃないのが残念だ、って言ってましたね。
でも、フィリピンはすごい危険だから牛山さんは行けなくてよかった
とも言ってましたね。
なんでも左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐されるとバラバラにされて
臓器売買に使われちゃうんですって。
心臓とか目とか。
もしかしたら斉木さんも危ない目に遭っているかも知れませんね」
「じゃあ、さっきの騒ぎも何かその手のトラブルかなぁ」
「え、何かあったんですか?」
「いやいやいや、想像ですよ。
つーか、斉木は死んでも死なない奴だから何があっても平気でしょう。
ねえ、中川さん」
「さあ、どうだろう。あの常夏のフィリピンと
このスキー場とじゃあ何千キロも離れているからなあ。想像でけへん」
 中川はイクラを口に入れると、お酒を含んだ。窓の外の雪山を遠目に眺める。
 私もつられて窓の外を眺めた。
 ゲレンデにはしんしんと雪が降っていた。
 雪が防音材になって、
人間の起こすもろもろの騒々しさを吸い取るかのように思われた。
 この静かな斑尾とあの騒々しいフィリピンが
海底ケーブルで結ばれていると思うと変な気持ちがする。
しかし数日したら又スカイプで電話をしてみようと私は思った。
斉木和夫が二度死ぬかどうかを確かめる為に。


【完】




#534/535 ●長編
★タイトル (AZA     )  19/02/22  20:17  (485)
私的バレンタイン・サガ (上)   永山
★内容                                         19/02/26 20:45 修正 第2版
『私的バレンタイン・サガ 〜 君のこともっと知りたいんだ 〜』

 子供の頃、好きな子について何でも知りたいと望むのは、いくつぐらいからだろう
か。身長体重に得意科目、好きな食べ物、好きな色、好きなタレント、好きな曲に漫
画、逆に嫌いなのは、趣味や特技は何か、エトセトラエトセトラ。
 河田京平の場合、その意識は小学六年生になる少し前に芽生えた。尤も、そうなるま
で河田は、好きな女子なんてこと自体考えないでいた。だから後に好きになる子と初め
て会ったのは、もうちょっと遡る。四年生から五年生に上がる際のクラス替えである。
 彼女は名前を米崎久海といって、とびきりの美人ではなく、かといってかわいい、愛
らしいというのとも違うけれど、印象に残る容貌をしていた。二重瞼が特徴的なせいか
もしれない。髪は三つ編みで、背中の中程まで垂らし、広めのおでこに狐っぽいイメー
ジの細面。
 身体の方もそれに合わせたみたいに細いが、発育はよく、背も力も結構ある。そこへ
加えて性格は活発で運動が得意と来れば、女子のリーダーの一人みたいな存在で、実
際、五年生になったばかりの時点で、彼女にはもう同性の友達はたくさんいた。
 女子のリーダー格が男子達と対立する構図は、ありがちだ。河田もそれまでの数年
間、何度も目の当たりにしてきたし、当事者になることも多々あった。
 その癖で、という表現もおかしいけれど、始めの内は、何かと口やかましい米崎久海
に対し、他の男子と一緒になって反発していた。特に理由もなく――否、ぼんやりとし
た原因なら男子の側にあった。対女子でやたらと対抗心を燃やすだけならまだしも、い
ちいち「女の癖に」と言うし、ちょっかいを掛ける。口やかましく注意されて当然のこ
とをやっていたのだが、それが分かるのは時間が経って、精神的にちょっと成長した
頃。リアルタイムではなかなか思い至らない。
 そんな状況下で、河田が米崎を気にするようになったのは、バレンタインデーがきっ
かけだった。もちろん、常日頃反目している者同士の間で、バレンタインデーだからチ
ョコのやり取りをしようとなる訳がない。学校が用意したイベントの一つだった。
 思い返してみても、学校が何故こんなことを児童にさせたのか、狙いがよく飲み込め
ないのだが、クラスで女子と男子、チョコレートを贈り合おうというイベントが挙行さ
れたのである。贈る相手は抽選で決められ、予算は税抜き三百円までという、自由度の
なさはかなりのレベルだった。
 問題の抽選は、一週間程前の二月七日の放課後に行われた。男女二十名ずつのクラス
で、1から20までの数字を書いたピンポン球を用意し、抽選箱にそれらを入れ、女子
と男子が引いていく。同じ番号になった者同士が、チョコレートを贈り合う。それだけ
のことだ。愛の告白は無論のこと、メッセージを付けたりきれいに包装したりする義務
すらない。
 さて、ここまで散々男女がいがみ合っている風に書いて来たが、中にはませている者
がいるし、異性に興味ないけどあの子だけは別、という存在もいる。いるのだが、運よ
くその特別な存在と同じ番号を引けたとしたって、喜びは微塵も見せてはならない。
(何に対してか分からないが)強がって、「おまえかよ。おえー」とか「誰と当たって
も十円チョコ一択」とか言わなければならない空気が作られていた。
 その点、河田は無理に虚勢を張らずに済んだ。女子の代表的存在で、男子の誰にとっ
ても“敵”である米崎と同じ番号になったのだから。
 ところがである。
「安いチョコを渡し合ってはいおしまいじゃ、つまんないから、勝負と行こうじゃな
い」
 米崎がそんなことを持ち掛けてきたおかげで、風向きが変わった。
「何だよ、勝負って」
「豪華で美味しそうに見えるチョコを用意した方の勝ち。判定は先生にしてもらいまし
ょ」
「たった三百円で、差が付くかよ」
「おやー、自信ないのかな?」
「そんなことはねーよ」
 挑発に乗ってしまった。本当は自信がない。こういうのって、女子の方が色々と知識
を持っていて有利だろうという頭があった。
「けどな、勝負を受けるには条件がある。そっちの一方的な話を受けてやるんだから、
ハンデをもらわないとな」
「言ってみなさい。あんまり無茶な要求じゃなければ、考えてあげる」
 ハンデをくれと言えば勝負を取り止めるのじゃないかという期待があったが、あえな
く消えた。こうなると河田にできるのは、無茶な要求を提示すること。
「そーだなー。予算に差を付けるってのは? こっちはそっちの倍使えるようにすると
かさ」
「何を言い出すかと思ったら。それは無理。三百円て決められてるのに」
 米崎は腰に両手を当て、ため息を盛大についた。狙いは当たったが、あからさまに呆
れられてしまったことには密かにへこむ河田。
「じゃ、じゃあ、勝負はなしな」
「待って。……これなら行けるかも。私の予算の中から、百円、そっちに渡すっていう
のはどう」
「何?」
 びっくりしながらも、頭の中で計算した。四百円と二百円になる。確かに倍だ。三百
円の予算以内という先生が決めたルールには反するだろうけど、クラス全体で使われる
お金の上限は変わりないのだから、文句ないだろう。そういことにしておく。
「よし、それなら乗った」
「まだよ。勝負と言うからには、何か賭けなくちゃ」
「賭ける? ああそうか」
 河田は、ハンデについてこちらの言い分を聞かせた手前、賭ける物に関しては譲るこ
とにした。
「そっちの自由でいいよ。変なのはだめだけどな」
「変なのって?」
「……言うと採用されそう」
「真似なんてしないわよ。今この場で言ったのは、本番では使わないであげる。似た感
じのも含めて」
「そう言うんなら……たとえば、俺にスカートを穿いて学校に来いとか。給食のおかず
を一週間、全部よこせとか」
「あはは、なるほどね。でもそんなことは言わない。元から言うつもりなかった。そっ
ちがさっき言ったスカートを含めて、エッチなのとか性別に関係するのはなしね。持ち
物を取り上げるのも。あと、犯罪行為」
「あ、当たり前だろ」
(いちいち断らなきゃいけないという考え方をするなんて、やばいやつかもしれない。
いや、俺がそういう風な目で見られてるってことか?)
 河田は内心、大汗を掻く思いを味わっていた。対する米崎は涼しい顔で提案してき
た。
「クラスのみんなの前で、好きな人の名前を発表するとかは?」
「意味ねー。俺、そんなのいないし、米崎さんが誰を好きなのかなんて別に知りたくな
いもんな」
「いないってまじ? 遅れてるというか何というか……。じゃあ、私が勝ったら、河田
君は来年の児童会長選挙に立候補して」
「な? 無茶苦茶――」
「わざと無茶苦茶を言ってんのよ。だから、そっちが勝った場合の罰ゲームは、そっち
で決めていいわ」
「じゃ、じゃあ逆でもいいんだよな。負けた方が児童会会長に立候補」
「あ、乗ってくれるの? よし、いいわよ。受けた」
 これまた相手が引き下がると思って言い出したってのに、あっさりと受けられた。も
う完全に引っ込みが付かない。
(変なやつ……。まあいいや。どうせ出たって落ちるだけだし)
 河田はとりあえず、右手を米崎に出した。
「うん? 何この手?」
「くれ。百円」

 バレンタインデーの二日前。区内で一番大きなスーパーマーケットまで足を延ばした
河田は、チョコレート売り場を巡った。女性が大勢行き交う中で、小学五年生の男子が
一人で動くのには相当勇気が必要だったけれども、その点は頑張った。より大きな問題
が別にある。
「高っ」
 思わず声に出してしまうほど、値札の数字は0の数が一つ二つ多い。店内をぐるぐる
回って、ようやく小学生向きと思われるコーナーを見付けた。が、ほっとしたのも束の
間、ここでもそんなに安くはない。
「見た目がいいのって、最低でも五百円か」
 また思わず呟く。もしかして……河田は邪推を始めた。
(女子は毎年こんなところに来てるから、こういう季節のチョコの値段に詳しいに違い
ない。それで米崎さん、百円を渡しても大丈夫と分かってたんだな。三百円が四百円に
なったぐらいじゃ、大して違わないって)
 ずるいぞと心の中で罵る河田だった。が、それならそれで矛盾に気付く。
(四百円でもどうにもならないのに、二百円でどうするつもりなんだろ? 何か作戦が
あるんなら知りたいな。同じ作戦を使えば、俺は二倍、掛けられるんだから)
 少し考えてみたが、ちっとも妙案は浮かんでこない。
(レシートを持って来ることが条件だから、金をごまかすのは無理。仮に手作りすると
したって、レシートにない材料が使ってあったら、まあばれるよな。箱を包み紙やリボ
ンなんかで豪華っぽく見せるのはありだけど、勝負の決め手はチョコの見た目と味だ
し)
 考えても時間の無駄と判断した。もう一度、隅から隅までコーナーにある台や棚を見
て回る。すると、手作りセットが目に留まった。
 河田は男子だからか、手作りする気は全然なかった。先程、相手が手作りする可能性
を想像したせいで、今注意が向いたのかもしれない。
 その品を手に取った河田は、この日何度目かの「高っ」を吐いた。
(こんなんでも五百円以上するのかよ! ちょっとデコレーションの材料が足してあっ
て、作り方が書いてあるだけなのに)
 よく見ると、セット商品には三個分作れると謳ってある物もあった。
(バレンタインに上げるのは、好きな相手一人に一個じゃねえの? 義理チョコとか父
親用とかを含めてるのか、これ)
 呆れつつ、歯がゆい思いもした。
(これ、一個分だけ売ってくれりゃいいのに。三分の一の値段なら、三百円以内に収ま
る)
 無論、そんな値切り交渉を実行するはずもなく、河田は商品を棚に戻した。
(こうなったら、質より量作戦か)
 ちょっと安めの十円、二十円チョコを大量に購入し、うまく並べればそれなりに豪華
に見えるんじゃあないか。河田はバレンタインチョコのコーナーを離れ、普段買うよう
な菓子を置いてある棚を探した。

 二月十四日を迎えた。
 クラス内でのチョコの贈り合いは、学校が用意した形式的なイベントに過ぎない。し
かしそれでも多少は意識してしまうものらしい。高学年になるほど、そわそわしている
る児童が多かった。そのそわそわ状態は、チョコの交換が行われる昼休み(土曜日なの
で実質的に放課後)まで続いた。
「では本日のメインイベント。米崎さんと河田君、前にどーぞ」
 二人の賭けについては、担任教師を含めて全員が知るところになっていた。だから、
彼らのチョコレートの披露は、クラスで一番最後に賑々しく。
「どっちが先に出す?」
 司会進行を務めるのは、学級委員長の忍川貴将。飛び抜けて賢いとか運動が得意だと
か二枚目だとかではないが、おしなべて良いレベルで、バランスがいい。その感覚は他
の面にも影響を及ぼすのか、人の話を色眼鏡なく聞く公平さがある。だから、こんなイ
ベントでどちらが先にチョコを出すかについてさえも、公平さを求めがちのようだ。
「バレンタインは女から渡す物だから、女子からでいいいんじゃないの」
「いやいや、女子から渡すのが正式だからこそ、最後に取っておくべきでしょ」
 そして外野もつまらないことで揉める。長引きそうなのを面倒に感じた河田は、自ら
言った。
「俺が先な。崩れたら直すの面倒だし、早く渡さねえと」
 謎のフレーズを言い残し、教室後方にある各自の道具入れに向かった。そこから粘土
板の上に作った粘土細工を運ぶときと同じような、いやそれ以上に慎重な手つきと足取
りで、蓋のしてある紙箱を手に戻って来る。コンパクトサイズの将棋盤程度の大きさ
だ。
「ほい、どいて、委員長」
「よしきた」
 教卓に手を突いていた忍川が飛び退き、空いたスペーズに箱をそっと置く河田。
「じゃあ……先生、よく見ててよ。第一印象が全てみたいなもんだから」
 河田の言葉に、担任教師も真剣に応じた。身を乗り出し、箱を上から見下ろせる位置
に立つ。
「では、本人がオープンするってことで?」
 忍川の確認に、河田は強く頷く。
「もち。ずれたら困るから、な!」
 言い終わると同時に、蓋を真上に持ち上げた。河田は蓋を持ったまま、その場を離
れ、「どうだ?」と皆に言った。すぐさま、おおっというざわめきが起きる。
「これは花?」
 先生の台詞は、他の児童らにも共通の質問だった。
 箱の中では、赤、黒、白、緑、ピンク、黄色等々、色とりどりの小さなブロックがモ
ザイク絵を形作っていた。ブロックの一つ一つは十円チョコで、よく見ると、一部は包
装紙が切り取られたり、重ねられたりしている。
「花に見える? なら一応成功した。全額十円チョコに使った甲斐があった」
 6×6の36個を箱の内側に敷き詰め、典型的なチューリップの簡素なイラストに
し、残る四個を細かく切り、角張った文字の“ヨネザキへ”を作っていた。
「あ、呼び捨てになったのはかんべんな。数が足りなかった」
「いいよ、許す。正直言って、こんなにうまくやるとは想像していなかったわ」
 贈られる当人が、心底驚き、感心した様子で述べた。
「食べるのが勿体ない感じだね」
 先生が言うと、「それもそうだ。味は十円チョコそのまんまだし」と茶化す声が飛ん
だ。
 形式的に先生が“へ”のチョコを食べる間に、河田はレシートを米崎に示した。
「問題ないだろ?」
「うん。嬉しいな。有効に使ってくれて」
 満面に笑みを広げ米崎。河田は戸惑いつつも、ここは感謝を示さないと男がすたると
口を開く。
「百円のハンデがなければ、もっとしょぼい絵になってたろうな。こっちこそ助かっ
た。米崎さんのは大丈夫か?」
「それはこのあとを見て」
 図らずもエールを送り合う形になった。
 攻守交代し、今度は米崎がチョコレートを披露する番になる。大ぶりの手提げ袋を自
身の机のフックから外すと、片手ではあるが河田に劣らぬ丁寧な動作で、中から十字に
リボンを掛けた半透明の箱を取り出した。正確には蓋が半透明で、中身が何となく見え
るが赤と金色のリボンが邪魔をしている。
「さぁて、開けてみて。河田君みたいなアイディアはないけど、お菓子としてはいい線
行ってるんじゃないかしら」
 チョコを教卓に置いた米崎が促す。司会役の忍川が言葉を挟む間もなく、河田は即座
に反応した。
「よくこれだけ包装があったな〜」
「それは別のお菓子のを取っておいたやつ。ようく洗って乾かしたから、心配しないで
いいよ」
 そんなこと言われたらかえって気になるじゃん……と声に出す前に、河田は中身のチ
ョコに目を奪われた。
(え、これで二百円?)
 真っ先に感じたのが、その大きさ。円形のそれは直径十センチくらいはある。しかも
立体的で、かさもあると一目で分かる。ココアパウダーと粉砂糖、クリームにゼリー
ビーンズで飾ってあるが、“地肌”はチョコレート色だ。よくよく観察して、やっと分
かった。
「バナナやイチゴをチョコレートでコーティングしている?」
「正解。予算の都合で底が薄い板状のチョコだから、触ると簡単に壊れちゃうけど。注
意して食べてね」
「ちょ、ちょっと。その前にこれ、本当に予算を超えてないのか?」
 疑いたくはないが、疑わざるを得ない。それほどまでに、米崎の手製らしいチョコは
ボリュームがあった。
 するとこの嫌疑に、米崎はにこりと笑みを返した。
「信じられない? それだけで充分、ほめ言葉って感じ。――ほら」
 ワンピースの胸ポケットからレシートを摘まみ出し、米崎は河田の目の前に掲げる。
「……うん? 合計で八百円になってるけど?」
 品名には、半額値引きのカットフルーツの他、河田が見掛けた手作りチョコのセット
も一つあった。あまりに明白な予算オーバーぶりに、河田はかえって困惑した。説明を
求め、相手の顔を見やる。
 米崎は振り返って、「綾木ちゃん、真城ちゃん」と女子の友達二人を呼んだ。米崎の
友達は多く、誰とでも仲がいいが、この二人とは特に親しい。
「私達で相談して、いわゆる共同購入をしたの」
「な何だって」
 思わず叫んでしまった。それを質問と受け取ったのか、綾木美奈子が「三人のお金を
まとめて、一緒に買ったの。それをまた三人で分けた」と詳しく答える。
「こうでもしなきゃ、まともに勝負できないもん。手作りチョコレートセット、三個分
作れるとあったから、あれを買えば基本大丈夫だろうと思って」
「はあ」
 河田は情けない声しか出せなかった。
(俺は三分の一の値段で買えないことに文句を言うだけだった。米崎さんは三人で力を
合わせることを思い付いた。……凄く負けた気がする)
 と、そこへ外野の男子から抗議調の声が飛ぶ。
「それってずるくないか? だって、二百円、三百円、三百円と出したんだろ。三分の
一を使ったんなら、予算オーバーじゃないか」
「そう言われると思って、ちゃんと正確に量りましたっ」
 待ち構えていたかのように反論する米崎。
「家に、作ったときの写真があるから。私と真城ちゃんと綾木ちゃん、それぞれの材料
の重さを量って写真に撮った。疑うんなら見に来てよ」
 自信満々の物言いに気圧されたらしく、抗議の声はあっという間に静かになった。
「ねえ、そんなことよりも、メニューを考えるのが大変だったんだから。三人とも違う
感じのチョコになるようにって」
「そうそう。材料が一番少ない米ちゃんの分を真っ先に考えたあと、私はイチゴを細か
く刻んで、チョコと混ぜて固めて、バナナの薄切りをフライにして挟んで」
「私はイチゴをジャムして、チョコの中に詰めて、バナナと組み合わせてキリン作った
けど、レモンを買えなかったから変色しちゃった」
 最後の綾木の発言に、その綾木からチョコをもらった男子が「え!? 大丈夫なのか
いな」と頓狂な声で反応した。
「賞味期限はギリギリOKだよ」
 米崎が代表する形で答え、それから河田に改めて向き直った。
「こういう訳だから、今日中に食べてよね。あ、先生も早く味見をお願いしまーす」

 勝負の結果は、さほど重要ではない。それでも一応記しておくと、先生が軍配を上げ
たのは米崎久海だった。河田のアイディアを称賛しつつも、彼に比べて少ない予算でや
りくりした米崎の知恵を高く評価したものだった。
 こうして河田は翌年の進級後、児童会選挙の会長職に立候補する訳だが、これにはお
まけが付いた。副会長に米崎が、書記に忍川が立候補することに何故かなってしまった
のだ(五年生から六年生へはクラス替えなしの持ち上がり)。さらに驚くべきことに
は、三人とも当選を果たすという快挙。同じクラスから児童会の三役全員が出るのは、
何十年ぶりだかのことらしい。忍川の人望は以前から高かったが、河田と米崎がトップ
になれたのは、五年生のときのバレンタイン・ギャンブルが他の児童にも噂として広ま
り、いい意味で名前を知られたのが大きかったのだろう。
 河田は児童会長なんて柄じゃないと自分では思っていたが、二人の支えもあって立派
にこなした。その分、米崎とは一緒にいる時間が増えたし、彼女に助けられる場面も多
かった。結果――好きになった訳だ、気が付いてみたら。
 といっても、小学生の時点で思い切って告白するのはなかなかの難業。六年生のとき
のバレンタインデーは日曜と重なったせいもあり、前年のようなイベントが催されるこ
となく、普通に過ぎていった。
 そのまま卒業を迎えた河田だが、落胆や後悔はしていなかった。同じ中学に通うのだ
から、チャンスはいくらでもある。そう考えると、気分が軽くなる。その反面、いつで
もいいやっていう先延ばしの心理も生まれがちなもので。

 河田は自宅でカレンダーを見て、二月だ、と思った。
(中学入学以来、特にこれっていうことが何にもない)
 米崎の顔を思い浮かべつつ、はーっと深い息を吐く。
 中学生になって最初の関門がクラス分けだった。心中、どきどきものでクラス分けの
掲示板を見上げた河田だったが、その表情はじきにほころんだ。幸運にも同じクラスに
なれたのだ。
 これで安心しきったのが失敗で、特段、積極的なアプローチをするでもなく、こと恋
愛に関しては無為に十ヶ月程を過ごしてしまった。友達付き合いは続いており、それは
それでそこそこ満足の行くものだったから、先延ばし心理に拍車が掛かったのかもしれ
ない。
 河田はカレンダーの14を見つめた。
(米崎がサプライズでチョコをくれる、なんてことは期待しない方がいいんだろうな)
 頭の中での独り言ではそう判断するものの、全然期待していない訳でもない。幸いに
も、米崎が誰かと付き合っているという話は全くなく、河田が見ている分にもそんな気
配は皆無だった。
(しかし、米崎さんが俺をどう思ってるかなんて、分かんねえし。先にホワイトデーが
来てくれりゃいいのに。そうしたら、俺が先に告白して……できるんかな、そんなこと
ほんとに)
 自分の臆病な部分を確認できただけで、何の策も浮かばない。
 しかしバレンタインデーを一週間後に控えた放課後、河田は手本を見付ける。
「バレンタイン? チョコぐらいなら多分もらえるよ」
 外掃除で大量に集まった落ち葉を二人して捨てに行く道すがら、そう言ってのけたの
は、同級生の板垣竜馬。全般的にそこそこ優秀な河田と異なり、勉強は英語と数学、運
動は徒競走とバスケットボールが突出している板垣は、部活は手芸部というちょっとひ
ねくれ者だ。そんな彼は、顔は旧い表現をするならバタ臭いってやつだがまあまあ男前
で、喋りは面白く、小六のときから付き合っている相手がいると聞いても納得はでき
た。
「入学してからずっと隠してきたのかよ。全然、一対一で付き合ってるような女子、影
も形もなかったじゃん。あ、もしかして違う中学とか」
 ゴミ捨てが済んでからも、河田の攻勢が続く。板垣も厭わずに応じるくらいだから、
彼女の話をするのはまんざらでもないに違いない。
「いや、ここだけど。十組の志崎さんて知らん?」
「志崎……志崎優美? 名前と顔は知ってる。一年生なのに、休部状態だった手芸部を
復活させたって。ああ、そうか。それで手芸部」
 板垣を指差す河田。相手の方が背が高いため、斜め上向きだ。
「愛の自己犠牲精神か」
「よせよ。志崎さんに頼まれたのは事実だが、別に俺、他の部に入るのをあきらめたっ
て訳じゃない。走るのもバスケも、趣味でやれればいいんだ。その点、手芸部なら靴下
に穴があいても直せる」
 飄々とした答え方で、どこまで本気なのか分からない。でも、楽しそうではある。
「それで話を巻き戻すけど、志崎さんがチョコあげるって言ったんかいな」
「まあな。みんな――他の部員のいるとこで話題がバレンタインになったからさ。こっ
ちが冗談めかして『愛の籠もった塊、くれる?』って水を向けたら、『大義理チョコだ
かんねー』って感じで返された。周りも『大喜利ならぬ大義理かよ』『座布団一枚!』
ってな雰囲気に。で、あとで二人だけのときに、『みんながいるところであんな話を振
るな』って怒られたよ」
 玄関の下駄箱まで来た。ゴミ捨てが終わって、そのまま下校できる。
「……なあ、板垣。最初に志崎さんからもらったバレンタインチョコって、義理チョ
コ? 根掘り葉掘りで悪いと思うけど、差し支えなかったら」
「差し支えはない。幸せのお裾分けの心持ちよ。余は寛大であるぞ」
 冗談を交えながら、校門を出たあとも話は続く。
「最初は五年のとき。どんな事情があったのか分からずじまいだが、バレンタインデー
を前にクラスの女子達が盛り上がって、女子全員で男子全員分のチョコを用意して、配
るってことをやった」
「面白いのかつまらないのか分からないイベントだな」
「まあそれなりに盛り上がった。チョコはどれも同じで売ってる物だけど、渡すのはそ
れぞれ別々だったから。女子の誰が男子の誰に渡すかってのは、向こうが勝手に抽選し
て決めたと言ってたけど。俺、ちょっとかまを掛けてみたんだ。あ、渡してくれたのは
志崎さんだ。『抽選じゃない奴もいるんじゃあ?』って軽い調子で言ったら、志崎さ
ん、耳を赤くして、『そんなことあるはずないでしょ! 義理よ義理!』って」
「それ……ばればれってやつじゃあ」
「多分。でもまあ、相手が義理だと言うんだし、女子全員の企画による物だから、義理
チョコとしてもらった」
「六年生のときは? 付き合い始めたのが六年と言ってたけど」
「『今年も義理チョコもらえるんかな?』って風に声を掛けたら、そのときは何も返事
がなかったし、バレンタイン当日も何もなかった。でも翌日の月曜に登校したら、机の
中に入ってた。名前入りのカード付き。あ、さすがにカードの内容までは勘弁しろ」
「了解。なるほどね」
 うらやましいくらいに理想的だ。見習えるものなら見習いたい。河田はそう考えなが
ら、話してくれた礼を板垣に言った。
「何だよ。このくらいで感謝だなんて。もしかして河田、好きな女子が近くにいるな?
 そいつとは結構親しく、悪くない感じだが付き合ってると言える程ではない。バレン
タインにチョコをもらえるかどうかもはっきりしない」
「超能力者か!」
「んで、何とかしてチョコをもらうために、この板垣様を手本にしようと」
「読心術か! ……当たってるよ。くそっ、そっちだけ恥ずかしい思いをさせて終わる
つもりだったのに」
「誰よ、相手は。まさか教えられないってことはあるまいな?」
「普段の俺を見ていたら想像は簡単だと思うが」
「悪いが、日常的にクラスメートの男を観察する趣味はない」
「……しょうがないな」
 河田は米崎の名前を出した。板垣は「なるほど」と反応した。
「とりあえず、今年は待ちでいいんじゃねえの。ぎりぎりまで待って、気配がなかった
ら、義理チョコでいいからくれよー的なことを言ってみるとか。あ、洒落になってしま
った、ぎりぎりの義理チョコ」
「そんなんでいいのか」
「そもそも、ちゃんとした告白してないんだよな? 何となく仲がいいってだけで」
「そりゃまあ。二人だけで遊びに出掛けたこともないし」
 正確に言えば、駄菓子屋に置いてあるゲームで遊んだりとか、トランプの占い遊びに
付き合ったりとか、児童会の関係で遠出して暇な時間にオセロをしたりとかならある。
デートと呼べる代物ではないため、省いたまで。
「だったら、今度のバレンタインをきっかけにするのも手だし、義理チョコをねだっ
て、ホワイトデーで真面目なお返しをするとか」
「うーん。俺に向いてるやり方なのかな。まあ折角のありがたいアドバイス、考えと
く」
 と、この場では迷う素振りを見せた河田だったが、それは表面だけ。二月十四日まで
あまり時間がないこともあって、機会を作ってでも早々に試してみようと決意してい
た。
 その機会は、作らずとも向こうからやって来た。決意が念になって相手に届いたのか
と思える程のタイミングで。
「ねえ、河田。今度の飛び石連休、暇ある? 真ん中の土曜も含めて」
 午後一の授業が終わっての休み時間、教室移動のときに米崎が聞いてきた。
「あるっちゃある。せいぜい、家族の買い物に付き合うぐらいしか予定ないから」
「だったら急なんだけど」
 手にした教科書やらノートの中から、紙を挟めるタイプの下敷きをちらと見せる米
崎。目がいたずらげに笑っているようだ。
「これ、もらったから行こうよ」
 下敷きに挟んであるのは封筒で、その口から覗くのは映画の招待券らしかった。
「一枚で二人まで観られるんだよー」
「俺と? 女子の友達は?」
 嬉しさを隠しながら聞き返す。
「この券、男女のペアが条件なのよ、けちくさい」
「ああ、そういうことか」
 ちょっとがっかり。
(けど、一人でも行けるところを、敢えて誘ってくれたんだから)
 気を取り直して、OKの返事をする。
「三日間の内、いつがいい?」
「米崎さんの都合に合わせるよ。さっき言った通り、暇してるから」
「買い物の予定があるんでしょ? 私の方はほんとに何にもないの」
「じゃあ……十一日にしようか」
「了解。細かい時間はあとで知らせるわ」
「あ、ちなみに何ていう映画?」
 好みに合うか否かを知りたいのではない。どんな内容の映画だろうと、多少の予習は
しておきたいと思ったから。
「『君のこともっと知りたいんだ』。こてこての恋愛映画だと思う。学園ラブコメと銘
打ってるしね」
「やっぱりそーゆーのかぁ」
「恋愛物、苦手?」
「いや、観るけど。母親が後生大事に持ってる少女漫画、結構面白かったし」
 もうすぐ教室に着く。このままでは肝心なことを聞きそびれてしまうと、河田は焦っ
た。
「考えてみれば、十四日が近いけど、ひょっとして期待していいのかな……」
「うん?」
「その、義理のチョコとか」
「――それはなし」
 ぴしゃりと言われてしまった。一応、ごめんねという風に両手を合わされたから、救
われたものの、こうまではっきり否定されるとは想像の埒外だった。
 割と強めのショックを受けたまま、次の授業を受ける羽目になった。

 これで脈なしかとあきらめかけたが、早合点だった。
 映画鑑賞デートは楽しく過ごせた上に、米崎とはその後も変わらぬ仲のいい友達でい
る。いや、友達以上じゃないかという自負が、河田にはあった。徐々にではあったけれ
ども、二人だけで下校する機会が増えて、その内登校も同様に。春休み中には、宿題を
一緒に片付けた。
 極めつけは、その春休みに米崎の方から告白してきた。ただし、次のようなフレーズ
だったけれども。
「そういえば、今日ってエイプリルフールだったわね。――私、河田のことが好きだ
よ」
「……」
 どういう反応をしようが泥沼にはまりそうだったので、何も言えなかった。聞こえな
かったふりに徹する河田に、米崎は「河田は今日、誰かに嘘を言った?」と試すかのよ
うな、からかうかのような口ぶりで、目をくりくりさせて聞いてきた。
「今日はもう何も言わねー!」
 耳を塞いでそう宣言するのが精一杯だった。
 こんなことがあったにもかかわらず、新学年の一学期初日、通学路で河田と顔を合わ
せた米崎は、屈託なく「おはよ!」と笑顔で声を掛けてきた。
(分っかんないな〜、女子って)
 困惑は募ったものの、米崎に質問してはっきりした答を聞くのも怖い。今の状態を壊
したくない気持ちが、河田の内で勝った。
 六月になると、十五日が河田の誕生日。バレンタインデーに米崎から何にももらえな
かった河田だから、全く期待していなかった。その油断を見透かしたかのように、彼女
は不意を見事に突いてきた。
「はいこれ」
 登校時に会ってすぐ、手から手へと押し当てるように渡された小箱。文字通りの手の
ひらサイズで、幾何学模様柄の包装紙に包まれている。何?と目で問い返す河田に、米
崎は当たり前のように言った。
「あげる。誕生日でしょ」
「え――」
 一瞬絶句した河田だが、どうにかこうにか「サンキュー」と付け加えられた。
「お洒落アイテムだから実利的なことを期待しないように。あと、私の誕生日は分かっ
てる?」
「え、えっと、七月八日」
「よく覚えてくれてたわね。そういうことだからプレゼント、よろしくね」
 唐突な形で誕生日プレゼントを受け取った河田は、米崎からのブレスレット(金属製で
輪っかの一部が最初から開いているタイプ。健康祈願の思いも込められているらしい)
を喜んだのも束の間、じきに悩みで頭を痛めることになる。何故なら一学期の期末考査
が迫る中、彼女への誕生日プレゼントに何がいいのか考えるのにも時間をたっぷり取ら
れてしまったから。加えて、誕生日自体がテスト期間の只中で、プレゼントを渡すどこ
ろではなくなりそう。
 最終的に、プレゼント選びのミッションこそ成し遂げたが、渡すのはテストが終わっ
てからにしてほしいと泣きついた。
「もちろん、かまわないわよ」
 あっさり許しが出て、ほっとするやら気が抜けるやら。
「来年以降もくれるのなら、後日で全然平気だから」
「あのさ、米崎さん。わざとやってる?」
「どういう意味よ」
「俺が困るのを喜んでるような……」
 少し前に浮かんだ疑問を、ストレートにぶつけてみた。対して米崎は、
「そんなことないって。うーん、困ってるとこ見ると可愛いと思うけど、狙ってそうい
う方向に持って行ってるんじゃないって意味だけどね。プレゼントをいつ渡すかだっ
て、すぐに言ってくれればよかったのよ。善処したのに」
 と一気に捲し立てる勢いで答えた。
(まずい。このままでは完全に尻に敷かれてしまう)
 その後、夏休み前に渡せたプレゼント――ブローチは気に入ってくれたようで、学校
生活の外で会うときは頻繁に付けてくれた。河田の方も当然ながら、ブレスレットをし
ていった。

――続く




#535/535 ●長編    *** コメント #534 ***
★タイトル (AZA     )  19/02/23  00:02  (441)
私的バレンタイン・サガ (下)   永山
★内容                                         19/02/26 20:46 修正 第2版
 夏休みは、序盤に林間学校があったが、一泊二日と短く、班も男女別で自由に行き来
できるものではなかったため、ほとんど接触はなし。その後本格的に休みに突入する
も、互いの家族単位の里帰りや旅行などの行事があり、河田と米崎が会うチャンスはそ
んなには多くなかった。二人きりはデートが一回きり、極短いものが二回だけで、あと
は地元の夏祭りや近くの街の花火大会に、友達大勢と繰り出したくらい。もちろん、祭
の途中で二人きりになるシーンはあったけれども、大勢で動いていたときとさして変わ
らぬ内容に終始した。要するに、大勢だろうが二人きりだろうが、出店を回って、特設
舞台のショーを観て、花火を見上げたということ。中学二年生なら、これくらいのもの
だろう、うん。河田は自分を納得させていた。
 二学期になり、水泳の授業と運動会のリハーサルにて、印象的な出来事があったのだ
けれども、それはまた別の機会に回そう。今言えるのは、それらの出来事を経て、河田
は米崎との親密さを増し、結果、告白したも同然で正式に付き合い始めたという事実
だ。元々いい感じでデートを少しずつ重ねていたのだから、デートやその他付き合いの
中身が劇的に変化することはなかったが。気の持ちようが大事なのである。
 そうした心の変化を経て以降、最初の大きなイベントは文化祭である。が、二人で校
内を回るといかにも目立つ。他の生徒から冷やかされたり、教師から余計な注目を浴び
せられたいは避けたい。そこで、板垣・志崎ペアと示し合わせて四人で一グループを形
成する作戦に出る。
 男子二人にとって幸いにも?米崎と志崎は気が合うようだ。少し前の初対面時に、名
字で共通する「崎」の読みが「さき」か「ざき」かでいきなり盛り上がり、打ち解けた
らしい。
「うまくやっているようで何より」
 志崎と米崎の女子勢が連れ立って洗面所に消えたところで、板垣が河田に話し掛けて
きた。ボリュームは出だしから小さく、内緒話の気配が濃厚に漂う。河田も合わせた。
「うむ。板垣のおかげとも言える。さっきカフェでセットをおごったのは、感謝の印の
つもり」
「やっぱりか。遠慮せずに受けとくぜ。で、気になってるのは、バレンタインのことな
んだ」
「気が早い」
「まあ気にするな。バレンタインに念願のチョコ、もらえそうか」
「今の時点では不明としか」
「そうか? 一年近く経てば、何となく分かるものがあるもんだ。バースデープレゼン
トはもらったんだよな」
 河田は黙って首を縦に振る。
「だったらバレンタインも大丈夫だろ」
「その前にクリスマスがあるからなあ」
「はは、そうだった。まあ、クリスマスは万が一何もなかったとしてもだ、自分は宗派
違いだからと思っとけばいいさ」
 およそ一ヶ月半後のクリスマスにおいて、河田はそんな思いを味合わずに済んだ。
 クリスマスプレゼントは前もって相談して、普通のプレゼントとは別に自分が読んだ
ことのある本で相手に読んで欲しい物を贈り合おうと決められた。
「万が一、相手がすでに持っているか読んでいる本を贈った場合は罰ゲーム」
「え、どんな罰?」
 河田からの提案に、米崎は興味津々を絵に描いたように食いついた。
「次にプレゼントを贈り合う機会……バレンタインとホワイトデーでワンセットだけ
ど、そのときに贈るプレゼントを思いっ切り豪華にすること、ていうのはどうかな」
「……だめ。お断りします」
「えええ、何で」
 去年に続いて早々と拒絶されたものの、河田にはまだ余裕が残っていた。罰ゲームで
負けなくても豪華にする予定だから、なんていう答を心のどこかで夢想していたせいか
もしれない。
「どうしても! 他の罰ゲームにして」
「じゃあ」
 密かにしょんぼりしていたが、河田は明るく振る舞った。
「正月に初詣、行くかい?」
「そのつもりでいるわ」
「負けた方が、その日、家まで迎えに来るっていうのはどうかな」
「うーん、それならま、いっか。晴れ着にするつもりだったのに、あきらめなくちゃ
ね。残念」
「う」
 タクシー代を出せるものなら出してあげたいと思った。
 その後の二十四日にあったクリスマスプレゼントの交換は、滞りなく行われた。米崎
からは一から手作りしたミニサイズのクリスマスケーキと、ホラーミステリを謳った少
女小説。河田からは完成すると有名絵画の柄になるパズルに一輪挿し用の花、そしてサ
ンタクロースが登場する大人も楽しめる絵本を。
「罰ゲームにならないよう、絶対に持ってなさそうなのをセレクトしたわね」
「えー、お互い様と思ったけどなあ」

 クリスマス前に一度断られたにもかかわらず、河田は粘りに賭けてみた。バレンタイ
ンデーを四日後に控えた週末、放課後に教室に居残った際に、何気ない風を装って持ち
出す。
「バレンタインのことなんだけど、やっぱクリスマスのときみたいに贈り合わない? 
一ヶ月先のホワイトデー、知恵を絞るからさ」
「だーめ。嫌よ」
 即答。河田の台詞に被せ気味ですらあった。
(どうしてここまで拒むんだろ。チョコレート嫌いな訳じゃないし。アレルギーが出と
かでもないよな。確か素手で触って、食べるのを最近見たっけ)
 彼女の目の前で首を捻った河田。それに対して、米崎は気付いているのかいないの
か、説明をしてくれることはなかった。
「いいじゃない。チョコに拘らなくたって。デートするだけじゃつまらないって言うの
かな、河田クンは?」
 こう言われると、反対のしようがなくなる河田であった。こうしてこの年のバレンタ
インデーでもチョコレートをもらえなかった。
 昨年と違ったのは、あとになって次のような話が耳に入ったこと。
「今年は上々だったんだろ」
 男女別の体育の授業中、体育館の壁際でマット運動の順番を待っていると、忍川が名
前の漢字通りに忍び寄ってきて、河田の脇を肘で突っついた。突然だったのと、自らの
短い叫び声のせいで、河田は何を言われたのか聞き取れないでいた。
「やめろっ。何て言った?」
「そんなにくすぐったがることか。彼女からチョコもらえたのか、確認しておこうと思
ったんだが」
「もらえていない」
「嘘つくなって。スーパーでチョコレートの材料を買い込む米崎さん、見掛けてんだか
ら」
「はあ? そんな馬鹿なことは」
 今年も米崎からチョコをもらっていないと説明する河田。忍川はますます不思議そう
に、首を傾げた。
「邪魔したら悪いから声は掛けなかったが、見間違いなんかじゃない。まさか、米崎さ
んには一卵性双生児の姉か妹が?」
「いや、そんな話は聞いたことない。そっくりな親戚がいれば、話題にするに決まって
る。目撃したのって、何日?」
「確か二月の九日だった」
 その答を聞いて、河田も混乱を深めた。
(今年もチョコあげないと言われたのが十日。その前日に材料を買っていた。どういう
こっちゃ?)
 彼女が自分で食べるために買った……なんておめでたいことは、河田も考えない。※
本作の時代には友チョコやマイチョコの概念はまだなく、言及しません。あしからず。
(もしかして)
 河田が心中に浮かべた想像を、その直後、忍川が声に出した。
「言いたくはないが、米崎さん、他の誰かにチョコをあげてる可能性は?」
「――言いたくないのなら、黙ってて欲しい」
「分かった。いないんならいいんだ」
 忍川が離れていって、独りになった河田は練習の順番が回ってくるのも忘れ、考え続
けた。
(お父さん用とか? だとしたら、聞いて確認すればすっきりするんだけど、もし違っ
ていたらどうしよう)
 本命の男が別にいると想定する方がしっくり来る。毎年バレンタインデーのチョコを
拒まれていたのは、本命にのみ渡していたから。誕生日やクリスマスはどうとでもなる
が、バレンタインだけは特別という考えの持ち主だとしたら、辻褄が合ってしまう。
(でもな。米崎さんにもう一人男がいるとしたら、忙しすぎて身体がもたないんじゃな
いか。そういえば、去年の二月に映画を観たときだって、三日間の内のいつがいいか
を、こっちに選ばせてくれた。普通、本命がいるのなら、まず本命のスケジュールが最
優先だろ。米崎さんがこの日ねって言ってきた訳じゃない)
 希望を見出すために捻り出した、薄いロジックかもしれない。けれども、河田は信じ
ることに決めた。理由は、信じたいから。

 一年生、二年生と同じクラスだったのに、三年生になって初めて別々のクラスになっ
た。
「まあクラスは隣同士だし、学校の外でならこれまで通り会えるし」
 気にしていない風を装って、河田が言うと、米崎も乗っかった。
「そうだね。教室が近いと、何をやっていても目が届く」
「こっちの台詞」
「あはは。だけど、三年生のときに別々ってのは痛いわ。色々とあるのに」
「色々って?」
「修学旅行でしょ、卒業アルバムの写真でしょ、文化祭のクラス単位の出し物も。一緒
にやりたかった」
「……しょうがないよ。こちとら、一番心配なのは、受験なんだけどな」
「あー、それもあったね。一緒に勉強するとしたって、進み具合が違ったら、ちょっと
面倒かしら。最終的には、帳尻を合わせてくれるはずだけど」
 心配していた勉強に関しては、クラスが別になったことがプラスに作用した。河田が
苦手な科目の授業は先に米崎が受け、逆に米崎が不得手な科目の授業は河田のクラスが
先になる。それぞれ内容をしっかりノートし、相手に見せることでこの上ない予習にな
る。
 反対に、マイナスの影響が出たのは、やはり校内で会うこと。機会が減るのは予想で
きていたから、昼ご飯ぐらい一緒に食べようと約束していても、時間が合わないことが
しばしば起きる。約束していて叶わなかったら不安やいらいらが募るだけで、精神衛生
上よろしくない。結局、昼食に関しては、河田の方が余裕があるときのみ誘うことで落
ち着いた。無論、誘った上でだめなケースも結構あるが、互いに独自に動いて互いに気
を揉むよりはずっとましという訳。
 と、そんなルールを決めたあとだったから、六月十五日の昼休みになるや否や、米崎
が河田のクラスに飛んできたのには面食らった。
「今大丈夫だよね?」
 手招きされて廊下に出ると、ひそひそ声で話し掛けられた河田。じきに各教室からぞ
ろぞろと生徒が出て来たので、周囲は騒がしくなる。
「大丈夫だけど、どうしたの米崎さん」
 普通の声量で聞き返すが、相手はひそひそ声のまま。
「分かんない? 六月の十五日よ」
「……分かった。歳は取りたくないものだ」
 冗談を言った河田の鼻先に、紙袋が突きつけられる。正面から見た面積は、十センチ
四方程度か。
「これ何? あ、いや、プレゼントってのは分かってる」
「開けていいわよ」
 まだ周りには人がいるけれども、渡す当人がいいと言うのなら、まあいいだろう。
「――手袋?」
「そう。苦労した手編みだから感謝して」
「ありがとう……でも何でこれから暑くなるのに」
「受験の頃には寒いでしょ」
「ああー」
「クリスマスプレゼントに回してもよかったんだけど、その頃だと私も編んでる余裕な
いかもしれないし、かといってクリスマス用に今編んでおいて、別の何かを誕生日に渡
すってのも懐的に厳しいから」
「分かった。本当にありがとう」
「ところで自分自身の誕生日を忘れるくらいだから、私のことなんて忘れてるわよね」
「いや、そんなことはない」
「嘘」
「ほんとほんと。用意はまだだけど、小遣い節約してる」
 お金の話をするのは嫌だったが、先に米崎が口にしたので、まあよしとしよう。
「ふうん。だったら、リクエストしてもいい?」
「へ? う、うん、まあ、予算内であれば」
 めっちゃ高いアクセサリーか服でもねだられるのか。今から新聞配達のアルバイトを
したとして、二週間でどれほどもらえるんだろう……などと不安を一気に募らせる河
田。
「私、お守り的な物が欲しいな」
「お守り……分かるけど、的ってどういう意味だよ」
 価格の相場が分からないのもあるが、とりあえず“的”が気になった。
「神社で売ってるような物でなくてもいいのよ。持っていて安心できる物なら何でも。
かつ、願いが成就すればもっといいけど」
「漠然としていて、希望の物が分かんねー」
「だから、河田がお守りになると思った物なら、何だっていい。ま、身に付けておける
小さい物が望ましいかな」
「……アクセサリーになるんじゃないか」
「あー言わなくていい! マスコット人形やキーホルダー、何だってあるでしょ!」
 米崎が急に声を大にしたので、びくっとしてしまった。とにもかくにも、アクセサ
リーじゃなくてもいいようだ。彼女の言葉を額面通りに受け取るのであれば。
「例によってテスト期間と重なるから、終業式の日まで待ってあげる。期待しないでい
るから、気楽に選んでね」
「うん」
「で、折角だからこのあと一緒にランチしましょ」
 やりたいことを達成したような、満足感にあふれた笑みで米崎が誘ってきた。河田は
即承知したが、頭の中は別のことが占める。
(リクエストされて、かえって難しくなった気がしないでもない……)

 米崎への誕生日プレゼントを渡すのは、終業式の日にずれこんだ。学校のその日の行
事が何もかも済んだあと、下校前にプレゼント。
 おもちゃとファッションアイテムの中間のような短めのネックレスだったのだが、、
意外と喜んでくれたのでほっと一安心。ロザリオ風(あくまで“風”。人によっては十
字手裏剣が付いているように見えるかもしれない)の代物で、どことなく祈りを連想さ
せたのがこれにした決め手だったが、もしも気に入られなかったときのために、フェル
ト製のマスコットキャラが着いたキーホルダーも買っておいた河田だった。もちろん、
今となってはそのことを打ち明けるつもりはない。別の何でもないときにあげよう。
「何か具体的に願い事、あるのかな」
「こういうのって秘密にしておくもんじゃない? 叶ったときに教えるわ」
「分かりました。いつまでも教えてもらえなかったら、俺の責任みたいになるので嫌だ
なあ」
「大丈夫。ほんとに責任になるから」
「ど、どういうこっちゃ?」
 訳が分からんと頭をかきむしった河田だったが、米崎は最後まで意味を説明してはく
れなかった。
 その後、夏休みは人並みに高校受験に備えた勉強をしつつ、たまに会って息抜きし
て、適度に遊んでの繰り返しで過ごす。希に、米崎さんに会いたいなあという思いが強
まることのあった河田だったが、相手も同じ思いをしているに違いない、あのネックレ
スを握って我慢しているんだろうと想像――妄想とも言う――して、我慢した。一度、
彼女からももらった手袋を握りしめてみたが、暑苦しいのですぐにやめた。
 なお、六月前半に修学旅行、九月終盤に運動会、十一月頭に文化祭があった。それな
りに語るべきエピソードがあるにはあったが、長くなるので泣く泣く割愛しよう。これ
もまたの機会があれば、そちらの方で。
 この間の河田や米崎にとってより重要なことは、上記以外にあった。同じ高校への進
学を目指すことが決まったのだ。
「これでモチベーションが上がる」
 米崎から進路の話を聞いた河田が、素直に喜びを口にしたが、彼女はちょっとひねく
れているのか単にドライなのか、「でも受験まで三ヶ月ちょっとになったから、しばら
く二人で会うのはやめた方がいいわね」とあっさり言い切った。
「一緒に勉強するのは?」
「勉強だけで済むならね」
「済むでしょ。今までだって、何度もあった」
「だったら、一緒に勉強し終わって、家に帰ったあと、どんな気持ちになるのか想像し
てみて」
「……ちょっと寂しいかな。それから、相手が今何をしているのか気にするかもな」
「ほらね。じゃあだめだわ。勉強が手に付かなくなる」
「うう。確かにそうなる恐れは……認めざるを得ない」
 それでも完全になくすのはきつい。二人に共通する認識だった。その対応策として、
他の友達を巻き込む形ならいいだろうとなり、一月一日に初詣を兼ねてみんなで合格祈
願に行くと決まった。
 そんなこんなでクリスマスは跳ばして、年が明け、初詣を迎える。
「現時点でカップルでいるというのが、信じられないな」
 独り身の――独身という意味ではなく、恋人がいない――忍川が、他の四人を評し
て、呆れ顔を作る。
『受験生の自覚はあるのかね、ないのかね、君らは』
 国語教師の声真似をして、笑いを取る忍川。
「忍川君なら大丈夫。少なくとも見栄えはいいんだから、すぐに彼女さんできるわよ」
 志崎が太鼓判を押すが如く、忍川の手を握って、何度も上下に振った。
「少なくとも、か。中学三年間、縁がなかったのはその辺に原因があるのでしょうか」
 俯いて片腕を顔に当て、泣くポーズをする忍川を、板垣が強引に元の姿勢にさせた。
「縁起でもないから、嘘でも泣く真似はよせ」
「うれし泣きとは思ってくれないのか」
「話の流れ的に無理がある主張だぞそれは」
 三人のやり取りは眺めながら、河田は頬を緩め、白い息を吐いた。両手は革ジャンの
ポケットに突っ込んであるが、寒さからではない。填めてきた手編みの手袋を、友達の
目からは隠そうという意識が働いていた。ちなみにこれをくれた米崎には、填めている
ところを真っ先に見せている。
「よく似合ってるね」
 河田は自分の贈ったネックレスをしてきた米崎に、そう囁いた。
「私のコーディネートのおかげかな」
「それも認めるけど」
「このトップの部分、金属が冷たいのよ。冬は肌に当たるとびくってなっちゃう」
 かなわないなと口を閉ざし、苦笑をただただ浮かべた河田であった。
「さて、あまり混み合わない内に、向かうとしようぜ」
 頭一つ分ほど背の高い板垣が、神社への道を見通しながら言った。
 鳥居をくぐるのは正式には左足からとか、山道は左側を通るだとかの豆知識を耳にし
た覚えは朧気にあった。が、実際に近付いていく内に、それらに拘っていられる程は空
いていないと分かり、あれよあれよという間に押し出されるようにして賽銭箱の前まで
到達。そこからは意外と時間が取れて、作法に則ってお参りできた。
 河田ら五人が願ったのは志望校郷学であることは言うまでもない。
(――バレンタインのチョコはいりませんから、どうか合格させてください)
 河田はそんなフレーズを付け足してみた。
「ね、ね。合格の他に何か願った?」
 米崎から問われて、河田は考える素振りをした。たっぷり時間を取って返事する。
「おかしいな。こういうことって、秘密にしておくもんじゃなかったっけ?」

 二月に入った。
 河田らのいる地域の今年の高校入試は、十五と十六の両日に渡って行われる。初日が
学科試験で二日目が面接その他だ。合否発表はこの一週間後である。
(ただの試験だったら、この日程は恨んだだろうけど)
 自宅の部屋で一月のカレンダーを破り取った河田は、サインペンで赤く丸の入った1
5と16の数字を見て、それから14へと目を移した。
(高校入試だからな。バレンタインなんて関係ない。初詣のときにも言ったし。そもそ
も米崎さん、この二年間にくれる気配全然ないし)
 とうにあきらめている。なので入試に集中できるというもの。いや、この地域では入
試が終わったあと学年末試験という日程なので、入試に集中と表現しては語弊がある。
勉強に集中できる、だ。
 学校の昼休みでも、昼飯を食べながら単語帳を食って、もとい、繰っている。
「そんな物ばっか食ってたら、体調崩す恐れが出て来るぞ」
 単語帳を片手にパンをかじっていたら、板垣が上から覗き込んできた。彼と志崎は私
立合格を先んじて決めていた。心理的に余裕があるのが、表情からにじみ出る。
「受験当日に風邪を引くかもとかびびらせるつもりなら、聞かないぜ」
 河田はパンを口から離して、顔は動かさずに答えた。と、頭のてっぺん、つむじの辺
りに違和感が不意に訪れた。
「俺をそんな奴と思ってるなんて心外だな。あったか〜いコーヒーを買ってきてやった
のに」
 その言葉の通り、頭に熱が伝わってくる。あったか〜いどころか、熱いっていうレベ
ルだこれは。
「ごめん、気が立っているもので」
 素直に謝って、コーヒーを受け取る。財布から硬貨を出そうとすると、「いらん。今
日はおごり」と手のひらを立てられた。
「サンキュー。出世払いするよ」
「ははは。待ってると言っておく。そういや忍川から聞いたんだけど、昔、小五のとき
に米崎さんから百円もらっておきながら勝負に負けたんだって?」
「忍川がどういう説明したのか分からんけど、バレンタインのチョコレートで勝負し
た」
 あらましをざっと説明する。説明したあと、「負けたって、こんなときに縁起でもな
い話を振るなよな」と抗議調で付け加えた。
「すまん。でも、嬉しそうな顔してるぜ」
 指摘されて、河田はパンと単語帳を置き、頬に手を当て上向きに引っ張った。確かに
頬が緩んでいたような気がする。
「米崎さんとの馴れ初めか」
「……まあ、そうかな」
 顔から手を離し、また食事と勉強に戻る。板垣から気が抜けたような声があった。
「れ? 逆襲しないのか。俺と志崎さんの馴れ初め、知りたくない? ずっと前に話し
たバレンタインのエピソードよりも濃厚なんだぜ」
「興味なくはない。が、今、頭の中を桃色にする訳にはいかないんだよっ」
 そう言ってから、ちらりと米崎の顔を思い浮かべ、すぐにベールを被せた。

 入試を全て終えてからの帰り道、合否発表の日に一緒に見に行く約束を米崎とした。
正確には、最初に言い出したのは米崎の方からで、河田が約束させられたのだが。
「二人とも合格するとは限らないんだから……」
「何を気弱なこと言ってるの。手応えなかったの?」
「そんなことはないが……周りがみんな満点だったら」
「それこそ、そんなことはない、よ。模試の判定だって余裕で圏内だったでしょ」
「そんな昔のことを持ち出されても」
 正直な気持ちを言うとしたら、万が一にもどちらか片方だけが落ちて、気まずい空気
になるのは嫌だったから。
「米崎さんは自信ありそうだね」
「分かんない」
「え?」
 小さな段差か何かに爪先が引っ掛かって、河田は転びそうになった。米崎に腕を引か
れ、どうにか無事に体勢を立て直した。
「大丈夫?」
「それより、分かんないってどういうことだ?」
「本心ではね、あなたと一緒だよ。周りの全員が百点満点だったらどうしようって。で
も、表向きは自信がある!と言い切るわ」
 パワーというかオーラというか、とにかく目には見えない何かがみなぎってる感じの
米崎。受験から解放されて元気はつらつといったところか。
 と、かような経緯で、発表当日に彼女の家の前まで迎えに行った河田だったが。
「遅い」
 声に出してから、腕時計を見る。時刻確認は、かれこれ四度目だ。前もって約束した
時間から、すでに二十分近くオーバー。
 もう一度呼び鈴を押そうかと思ったそのとき、玄関が開いてやっと米崎本人が転がる
ように出て来た。合否の確認を行くだけにしては、アクセサリーやヘアスタイルで結構
お洒落をしている上に、手提げ鞄を一つ持っている。
「ごめんなさーい。色々と準備に手間取っちゃって。上がって中で待ってもらいたかっ
たんだけど、バタバタしてて内情を見せたくないなって。寒かった?」
 こんなに言い訳する彼女は珍しいと思いつつも、河田はむすっとして頷いた。
「手袋してたから、何とか保った」
「――でしょ」
 不安げだった米崎が、破顔一笑した。
「持とうか、荷物?」
「ううん、いいよー。待たせた上に荷物持ちをさせちゃあ申し訳ないです」
 それから二人だけで合格発表を見に行った。が、途中で何人も知っている顔を見掛け
たりすれ違ったりするものだから、二人きりという気分はどこかに飛んでしまった。友
達やクラスメートだからと言って、声を掛け合うことはなかったが、これなら始めから
学校に集合した後、皆で見に行ってもよかったんじゃないかと感じるほど。
「学校によっては、先生が合否をチェックして、まとめて知らせてくれるとこもあるら
しいわ」
「そっちの方がいいかも」
「そう? 不合格だった人にはどう伝えるのかしら」
「なるほど、その問題があるか」
 ちょっと考えてみたが想像付かなかった。ただ、今はとにかく不合格の憂き目に遭い
たくない、それだけを改めて思う。
 高校の前まで来て、ほんの少し歩みが鈍った河田に対し、米崎はぐんぐん進む。手提
げを揺らして、今にも駆け出しそうである。
「遅いっ。足が竦んだのなら、私が見てきてあげるけど?」
「ご冗談を。ここまで来て、直に確かめないなんてあり得ん」
 追い付いて、並んで行く。すぐに臨時の掲示板が視界に入った。
 二十分遅れの出発になったおかげか、混雑のピークは過ぎたらしく、割とスムーズに
最前列まで行けた。
 ここに来て、さしもの米崎も口数が減る。手にした受験票をじっと見つめてから、面
を起こし、掲示板に張り出されたか身の上の数字をサーチする。
「――あった」
 ほとんど同時に言った。思わず、抱き合う格好になったが、すぐに冷静さが脳裏に降
りてきて、離れる。それから代わりに手を差し出した。
「一緒に合格できてよかったわ」
「うん。これでめでたく春から高校生だね。よろしく」
 握手した手を、大きく上下させた。

 高校の校門から出ると、河田は米崎に聞いた。
「このあとどうする? 学校にはわざわざ言いに行かなくたって、高校の方から連絡が
とうに入っているなんて説もあるが」
「ま、礼儀っていうか慣習っていうか、行くのが筋でしょ。校則がなければ、ちょっと
早めのお昼ご飯をどこかで食べてからにしたいところだけどね」
「さすがに、今になって校則違反してばれて、卒業取り消しなんてなったら洒落になら
ねえ」
 声を立てて笑った河田。米崎も同じように笑っていたが、ふっと止んで、いきなり手
提げをごそごそやり出した。
「あ? 何?」
「遅くなったけど。というか、お待たせしました、かな」
 話しながら、米崎は手提げの中から厚さ五センチほどの正方形の箱を出した。包装紙
は水色のリボンで彩られ、赤いリボンで作られた花のおまけ付き。
「これって、その、もしかして」
 河田が中途半端に曲げた人差し指で、箱を差し示そうとする。と、その手に箱がぐっ
と寄せられた。
「バレンタインチョコレートよ。受け取って」
「……あ、ありがとう」
 驚きのあまり、声が掠れる。
「どう? ご感想は?」
「び、びっくりしてる。君はバレンタインだけは興味ないもんだとばかり。ひょっとし
て合格祝いとか?」
「そんな訳ないでしょ。バレンタインってさっき言った」
「だよな。何で急にくれる気になったのさ」
「急にじゃないわよ。毎年、あげようと思ってた。買うだけ買って、無駄にしたことも
あった」
 しっかりした語調で否定され、河田の困惑は極まった。
「ええ? でも、くれなかったじゃないか」
「あげられないわよ。あんな、『義理チョコでいいから』だの『ホワイトデーにはお返
しするから』だの言われて、はいそうですかとあげるなんて」
「? 意味が……」
「だからっ。私は自分の意思であげたかったの! 言われて渡したんじゃ、そう見えな
いでしょ」
「……はは。そうか。なるほど」
 全身から力が抜ける気分を味わった河田。実際、膝を折ってふにゃっとなる。上体を
折り、空いている手を膝についた。
(忍川が目撃したのは、俺にくれるつもりで買ったのに、俺の不用意な発言のせいで、
気が変わったってことか)
「鈍いんだから。だいたい、バレンタインに興味ないなんてあり得ない。小五のときの
こと、私は凄く大事に思ってる。……」
 続けて「河田のことほんとに好きになるきっかけだったし」と呟いたようだった。よ
く聞き取れなかったけれども。
「同意します。俺もあれで米崎さんのこと好きになり始めたから」
 河田はもらったばかりのチョコの箱を抱え直し、姿勢を戻した。
「さて、受け取ったあとなら言ってもいいんだよな? ホワイトデーのお返し、これか
ら考えなきゃ。そのために、米崎さんの――君のこともっと知りたい」
 米崎は一瞬目を見開き、次にぷ、と噴き出した。
「おかしなこと言ったかな?」
「あははは。言った。映画のタイトル思い出した。あーおかしい」
 言われてみれば被ってしまってたなと、河田も記憶を甦らせる。
「かなわないな。まずは米崎さんの記憶力がいいってことが分かったから、よしとする
か」
 そう言うと河田は頭を掻きながら思った。
(ホワイトデーはとりあえず、今日もらった物より最低でも百円分は値打ちが上のプレ
ゼントにしよう。小五のときの借りを返さないとな)

――終わり




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