AWC ●長編



#507/554 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/554 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




#509/554 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/10/31  22:09  (389)
ほしの名は(前)  永山
★内容                                         17/11/03 17:56 修正 第2版
「全天で一番明るい天体がシリウスで、全天で一番遠い天体がさんかく座銀河で、全天
で一番好きな天体が地球で、そして、世界で一番好きな人が君」
 それは夜、皆から離れ、ペンションの広いベランダに出て、彼の好きな星の話を聞い
ているとき、突然起きた出来事だった。
 突然だったので、もちろんびっくりしたけれども、それ以上に笑ってしまいそうにな
った。笑いと涙を堪えながら、聞き返す。
「何それやだ。ただでさえ涼しくて肌寒いくらいなのに、寒い冗談やめてよね」
「ほんとに嫌か? それならやめるけど……こっちは本気で付き合って欲しいと思って
るから」
「――か。考えさせて」
 言ってしまった。即OKでもよかったんだ。ただ、軽いと見られたくなかったから、
少し引っ張ることにした。
「どのぐらい?」
 そう質問してくる方に顔を向けると、彼――君津誉士夫(きみづほしお)は、斜め上
を見たままだった。こっちが黙っていたせいか、彼はまた言った。
「どのぐらい考えるんだ? 何光年とかじゃないことを願う」
「光年は距離の単位でしょうが」
「そこはニュアンスで。それで、どのぐらい?」
「うーん、三日ぐらい」
「それでも長い。実は自分、この間、他の人から告白されてさ」
 えっ、と思うより、ぎょっとした。あっさり言うようなことかしら。
「好きな人がいるからって断ったんだけど、まだ告白してないのを知ると、さっさと告
白しろと言うんだ。ふられたら、またアタックしてくるつもりだってさ」
「誰から?」
「それはルール違反だろっ」
「クラスにいるかどうかぐらいなら、言えるんじゃない?」
 室内の方を肩越しにちらっと見て、すぐに視線を戻す。夏休みに入って、私達は林間
学校に来ている。ほぼ全員が参加しているけれども、その中に、君津へ告白した子がい
るんだろうか。
「だめだ」
 君津は案外、頑なだった。
「それより、林間学校が終わるまでに返事、くれないか」
「……いいよ。すぐ返事するから。OKだよ」
 私は気持ちに勢いを付けてそう言った。相手の顔を見る余裕はなかったけれども、も
し見ていたら、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を観察できたかもしれない。
「え……っと、急展開過ぎるんだけど」
 急な告白をしてきたくせに、どの口が言うか。
「君津に告白してきた相手に、結果を早く知らせといてよ。変に隠しておいて、恨まれ
ちゃかなわないわ」
 明るい調子で要求して、その場を離れた。みんなのいるところに戻っても普段通りで
いられる自信は、ある。

           *            *

 告白から十年近くが過ぎた。時代は平成になっていた。
 君津はヨーロッパにいた。高校二年時に交換留学の形で渡ったのが、きっかけになっ
た。グループ単位の自由研究の授業で、太陽光電池のアイディアを発表すると、その効
率性が高く評価された。担任教師がその手の企業に伝があり、地元企業と協力してのプ
ロジェクトがあれよあれよとまとまった。君津も参加を条件に飛び級での大学進学も可
能だと言われて、迷った末にやってみることに決めた。その時点で両親とも天に召され
ていたのも大きかった。恋人のことを除けば、迷う要素は、天文学の道を断念するのが
惜しいと感じたくらいだった。
 遠距離恋愛を強いられた君津誉士夫だったが、連絡は定期的にしていたし、回数こそ
少ないが日本に帰れるときには必ず帰った。付き合いは順調で、お互いの家族にも、そ
の存在を仄めかす程度にまで進んでいた。
 だから、彼女と急に連絡が取れなくなったときは、ほんの短い間だというのに焦りに
さいなまれた。折悪しく、プロジェクトが山場に差し掛かって多忙を極めたため、帰国
はおろか、知り合いに彼女のことを尋ねる暇すらなかった。
 そして八日後。どうにか時間を見付け、電話や電子メールで知り合いに聞いてみた
が、まともな情報は返って来なかった。電話の相手は素っ気なく、電子メールの文面は
意図的に話題をそらしている節があった。そして返ってくる答は最終的にいつも「分か
らない」「知らない」だった。
 輪を掛けておかしいのは、実家暮らしの彼女の自宅固定電話に掛けても、常に話し中
なのだ。送受器を外しているとしか思えない。
 不可解さが解消されぬまま、再び仕事に戻らなければならない、その直前のタイミン
グで、電話が掛かってきた。小学校のときから付き合いのある、荒田勇人からだった。
「まだ何も聞かされていないんだな?」
 お互いの近況を報告する間もなく、本題から入った。
「ああ。何が起きてるんだ?」
「それは……直に教えるのは、俺もきつい」
「どうしてだよ。わざわざ電話をくれたのは、教えるためじゃないのか」
「……そっちに、日本のニュースは伝わってないのか」
「全然ない訳じゃないけれど、大きなニュースじゃないと。おい、何だよ。新聞種にな
るようなことに巻き込まれたとでも言うのか」
「……しょうがないか。誰でも嫌がるよな、こんな役目。俺が言わなきゃ、いつまでも
このまんまだ」
「そうだ、言ってくれよ!」
「今、一人だな? 周りに人がいないなって意味だ」
 君津は思わず無言で頷いた。五秒ほどして気が付いて、「誰もいない」と答えた。
「そうか。――最悪を想像して、心構えをしろ。それと、俺は事実を伝えたあと、すぐ
に電話を切るからな。細かいことを聞かれても、俺もほとんど知らないし」
「分かった。電話代も掛かるだろう」
 早くなる心臓の鼓動。緊張感で汗ばむ手のひら。せめてジョークの一つでも言って、
僅かでも落ち着こうとしたが、全く変わらなかった。
「一回しか言わない。録音できるならした方がいい。できないなら、メモを取ってく
れ」
「待ってくれ――準備できた」
 極力、平静さを保とうと努める君津に、荒田はニュースキャスターみたいな抑揚で、
早口に言った。
「――え?」
 聞き直した君津。荒田は一回きりのはずが、もう一度だけ繰り返して話してくれた。

 きっかけになったのは、小学校の同窓会だった。
 六年三組の一クラスだけの集まりだから、さほど大規模ではなかった。ただ、開催前
からかなりの盛り上がりを見せ、参加OKは九割超え。当初は適当な居酒屋で行うつも
りだったのが、あれよあれよと話がまとまり、ホテルの宴会場を借りるまでになった。
さらに、泊まりたい者はそのまま宿泊できるオプション付き。
 そして、事件は泊まりになったクラスメートの間で起きた。殺人だった。
 死んだのは村木多栄。小学生時は小柄だが活発で、勢いに任せて好きなことなら何で
もチャレンジしてみたがるタイプだったが、大学生になった今は、正反対なまでに大人
しくなったように、かつてのクラスメートらの眼には映った。昔が活発に過ぎたせい
で、極当たり前の分別を身に付けただけなのが、殊更おしとやかに見えたのかもしれな
い。
 だからという訳でもないが、村木多栄を殺すような者が元同級生の間にいるなんて、
俄には信じられない。それが素直な感想……になるはずだった。
 実際は違った。何故なら、村木多栄はダイイングメッセージを遺したのだ。
 いや、正確に言い直そう。村木多栄がメッセージを残すところを、大勢が目撃したの
である。
 夜の十一時を回った頃、ホテルの裏庭に当たるスペースで、村木多栄は倒れていた。
仰向けだが、やや身体の右側を下にする格好で、弱い外灯に照らされていた。
 第一発見者は、酔いさましに出て来たという財前雅実と、財前と交際中だと宣言・報
告した綿部阿矢彦。大学が異なる二人が再会し、付き合いだしたきっかけは、大道芸の
サークルに入った綿部が、往来でセミプロ級の技を披露しているところへ、財前が通り
掛かったという偶然だった。
 そんないきさつはさておき……倒れている村木を見た財前が、盛大に悲鳴を上げたた
めに人が一挙に増えた。その衆目のただ中、綿部が村木を抱え起こそうとした。が、一
瞬、彼の動きが止まる。村木多栄の口から下が赤く染まっていた。それでも綿部の躊躇
はすぐに消え、片腕を村木の背中側に回し、上体を起こしてやった。そうする間にも、
財前が村木に声を掛け続ける。
 やがて話し疲れたのか、財前が静かになると、今度は綿部が村木の名前を呼ぶ。この
頃になると、半径二メートル以内に、元クラスメートが十人前後集まっていた。綿部が
「誰か救急車を!」と叫ぶ。
 そのとき、村木多栄の口が動いた。そして彼女が喋り出す。
「刺さ、れた」
「え、刺された? 誰に?」
 思わず聞き返した様子の綿部。本来なら、意識があると確認できた時点で、無駄に体
力を使わせるべきではない状況と言えそうだが、かまっていられなかったようだ。
 村木の生気の乏しい眼を見返しながら、身体を少し揺さぶる綿部。
「しっかりしろ、村木さん!」
「きみにやられた」
「君?」
 ぎょっとした風にしかめ面をなす綿部。周りにも聞き取れた者がいたらしく、多少ざ
わついた。
「星川希美子が、刺した」
 最後の力を振り絞るような響きで、その声が告げた。
 星川希美子。小学六年生のときに副委員長を務めた彼女は、同窓会には間違いなく出
席していたが、今この周辺に姿は見当たらなかった。
「――村木さん? おい、しっかり」
 先程よりも激しく村木を揺さぶる綿部。その行為の原因は明らかで、村木多栄の頭が
ぐにゃりと力なく下を向いたのだ。
「安静にした方が」
 そんな声が周りから飛んだ。手を貸そうとする男も現れた。その内の一人、戸倉憲吾
と綿部、そして財前雅実の三人でゆっくりと村木を横たえていく。
「うん?」
 途中で綿部が、続いて戸倉がやや驚いたような声を発した。
「首の後ろに、何かある」
 男二人は言った。
 横たえる動作を中断し、村木の身体の左側を下にする形でキープし、彼女のうなじを
確認した。
「これは」
 戸倉はそれきり絶句し、綿部も息を飲んでいた。財前が悲鳴を上げ、それはほとんど
時差なく、周囲の者達にも伝播した。
 村木多栄のうなじからは、二本の細い串のような物が突き出ていた。照明を浴びて、
銀色に照り返していた。

 同窓会が開かれた頃、日本では、無差別と思われる連続殺人事件が世間を騒がせ、話
題になっていた。
 殺人鬼のニックネームは牙。バーベキューで肉を刺して焼くのに使うような鉄串を二
本、被害者の身体のどこかに突き刺すのがトレードマークで、その対の鉄串を蛇や猛獣
の牙に見立てたのが由来とされる。くだんの鉄串は大量生産の流通品で、誰にでも買え
る代物。持ち手の部分が何度か捻ってあり、持ちやすいとはいえ、凶器としては扱いに
くい。実際、牙の殺害方法は絞殺がほとんどで、串を刺すのは犠牲者が死んだあとだっ
た。半年ほどの間に五人の被害者が出ていたが、犯人の逮捕には至っていなかった。
 そんな折に、同窓会で発生した村木多栄殺しは、牙の犯行のように見えた。死因は絞
殺ではなく腰部を背後から刺されたことによる失血死だったが、これまでの牙の犯行に
も刺殺はあったので、それほどおかしくはない。絶命前に串を刺している点が、大きく
異なるが、ホテルという限られた敷地を現場に選び、しかも同窓会開催で人の行き来も
そこそこあったのだから、さしもの牙も死亡を確認する余裕がなかったと捉えれば合点
がいく。
 問題は、村木多栄が死の間際、「星川希美子にやられた」という意味の言葉を言い遺
したと、大勢が証言したことである。
 部屋で休んでいた星川希美子は、通報により駆け付けた捜査官により、程なくして身
柄を確保された。事情聴取において、彼女は当然のことながら犯行を否認した。無論、
殺人鬼の牙ではないかという疑いについても、完全に否定した。
 凶器は未発見かつ不明。鉄串から不審人物の指紋は検出されず、また、足跡や毛髪と
いった、具体的に星川を示す物証が現場にあった訳でもない。警察にとって、攻め手は
ダイイングメッセージだけだった。
 ただ漫然と星川希美子を取り調べるだけでは、進展が望めない。捜査陣はまず、今ま
でに起きた牙の仕業とされる殺人事件について、星川希美子が本当に犯行可能だったの
かを検証した。犯行推定時刻が割り出されているので、それらの時間帯のアリバイの有
無を調査するのだ。
 その結果、五件の内の三件において、アリバイが成立。加えて、残る二件の内の一件
は、体格的にも体力的にも星川希美子を大きく上回る男性が被害者で、星川に限らず、
並みの女性に絞殺できるとは考えにくかった。
 そうなると浮上したのが、模倣説。星川が行ったのは村木多栄殺しの一件のみである
が、牙の犯行に見せ掛ける目的で、鉄串二本を突き刺したのだろうという見方だ。
 この説を星川にぶつけると、これまた当然であるが、否定が返ってきた。当初に比べ
て冷静さを取り戻した彼女は、「無差別殺人鬼の真似をするのであれば、今度の同窓会
のような限られた場所で行うなんて馬鹿げている。誰もが出入りできる、開けた空間で
やらないと意味がない」とまで言い切った。
 星川の反論には首肯できる部分もあったが、容疑者当人が言い出したせいで、一部の
捜査員にはかえって疑惑を強める逆効果となった。
 村木多栄殺しに関して、白黒を見極められぬまま、警察は捜査を進めざるを得なかっ
た。

            *             *

「早速で悪いんだけど」
 電話口でそう切り出した君津。続きを口にする前に、相手が言った。
「全然、悪くないわよ。多栄の事件のことでしょう? 遠慮なしに聞いて頂戴。知って
ることは何でも答える」
 相手は財前雅実である。電話では顔が見えないし、想像しようにも小学生時代の容貌
しか浮かばない。君津はイメージをなるべく膨らませて、脳裏に今の財前の顔を思い浮
かべた。
 だが、時間は余り掛けられない。恋人のためとは言え、国際電話に費やせる金には限
度がある。他にも何人かに電話することになるのは確実だ。
「まず、財前さんに言う筋合いではないかもしれないけど、みんなはどうして事件のこ
とを知らせてくれなかったんだろう?」
「それは……」
 言い淀む財前。君津は五秒だけ待つと決めた。五秒経過する寸前に、相手からの声が
届いた。
「やっぱり、いい知らせじゃないし、知らせたってあなたを動揺させるだけで、どうし
ようもない。みんなそう思ったんじゃないの」
「そういうものか。全てを投げ出して、飛んで帰るかもしれないのに」
「実際問題、まだ日本に帰ってきてないんでしょう?」
「それはまあそうだけれど」
「あなたがそっちで成功してるっていう彼女の自慢話、結構広まっててね。その邪魔を
したくないっていう気持ちもあったのよ、きっと」
「ふうん。まあ、分からないでもない。でも、僕が電子メールで問い合わせたなら、真
実を話してくれていいんじゃないか」
「……言えないわよ。他の誰かが言うだろうって、逃げたくなる役目だわ」
「なるほどね。荒田の奴も、似たようなことを言っていた。よし、じゃあ次。事件のと
きのことをなるべく詳しく教えて欲しい」
 気持ちを切り替え、いよいよ本題に入る。
「詳しくと言われても、私はそばでおろおろしていただけよ。多栄が倒れているのを見
付ける前に、何か目撃した訳でもないし」
「目撃してないっていうのは、怪しい人物とか妙な出来事とかはなかったっていう意
味?」
「そうなるわね」
「じゃあ……串は何センチぐらい突き出ていた?」
「えっと、五センチぐらい? ど、どうしてそんなことを知りたがるのよ」
「突き刺さっていた部分は、何センチぐらいなんだろう?」
「分かんないわよ、そんなことまで。全体の三分の二程じゃないの」
「そうだとしたら十センチか。なあ。うなじから五センチ、異物が飛び出ている人を仰
向けの状態から抱き起こそうとしたら、その異物に手が触れるのが普通と思わないか
?」
「――何それ? まさか、綿部を疑ってるの?」
 声が甲高くなる財前。付き合っている相手を悪く言われそうなのだから、当たり前だ
ろう。この質問はまだ早かったかと悔やんだ君津だが、もう後戻りはできない。
「疑ってるんじゃないよ。不自然さを少し感じただけ。綿部は首の後ろ側に腕を回さな
かったのかな」
「……回さなかったんでしょうね、鉄串に気付かなかったんだから」
 そう返事してから数拍間を取り、財前はさらに言葉を重ねた。
「多栄の顔面は、口の辺りから下、ずっと血塗れだったのよ。その血が首の側に流れて
きていた。首に腕を回すと、血で汚れてしまうとほとんど無意識で判断して、別のとこ
ろに腕を入れたのよ、多分」
「そうか。あり得るね。全然、不自然じゃない」
 一旦、相手の言葉を認め、穏やかな口調に努める。財前の安堵の息を聞いてから、別
の質問をぶつける。
「財前さんは、この殺人事件が牙の犯行だと思ってる? それとも、模倣だと?」
「そりゃあもちろん、模倣よ。希美――星川さんが無差別に人を殺してるなんて、さす
がに信じられないし、以前の事件ではアリバイもあるっていうし」
「模倣だとしたら、村木さんを殺す個人的動機があったことになる。それについて、何
か思い当たる節はある?」
「思い当たる節、ねえ……。二人は確か中学まで一緒だったけど、仲が悪いようなこと
はなくて、どちらかと言えば仲良しに見えた。私は村木さん、苦手だったけど、星川さ
んは誰とでも仲よくなれる、一種の才能みたいなものがあった。だから人気もあって…
…」
 答が脱線していることに気付いたか、財前はぴたりと黙った。が、じきに再開する。
「そうね。妬まれて殺されるとしたら、星川さんの方ね。だめだわ、何にも思い付かな
い」
「そうか。君でも分からないか」
 君津は応じながら、先程浮かんだ疑問を持ち出すことにした。
「さっき、口から首の方へ血が流れていたと言ったよね」
「ええ、そういう意味のことをね」
「仰向けだったんだから、出血は口からあった。刺されたのは腰の辺りだから、関係な
い。ということは、鉄の串はうなじを通って、口の内側にまで突き抜けていたんだろう
か」
「確かそうなっていたと聞いたわ。さ、参考になるかどうか知らないけれど、うなじの
方の傷はきゅって閉まっていて、血はほとんど流れ出ていなかったって」
 刺さったままの串が栓の役割を果たしたに違いない。口腔内は外の皮膚に比べれば柔
らかいだろうから、出血を止めるほどには収縮しなかったのだろう。
「うなじから口に串が突き抜けたなら、即死するんじゃないだろうか? 延髄って、そ
の辺りにあるんじゃなかったっけ? 確か、延髄に強い衝撃を受けると、死亡すると聞
いた記憶があるんだけど」
 プロレス技の一つ、延髄斬りに纏わるこぼれ話を、君津は思い浮かべていた。プロレ
スのテレビ中継で散々聞かされたものだ。延髄を蹴られたら普通の人間は死ぬ、とかど
うとか。
「延髄は滅茶苦茶太いもんじゃないし、うなじだって延髄と重なっていない部分は結構
あるわ。串が延髄を傷付けずに口の方へ貫通することは、充分にあり得るんじゃないか
しら」
「……財前さん、医大とか看護学校に入ったんじゃないよね」
「え、ええ。あ、今さっき喋ったのは受け売り。私達の小学生の頃ってプロレスが流行
ってたでしょ。特に男子の間で。そのせいで、延髄を蹴られたら死ぬっていう話を、事
件のときも誰かがその場で言い出したのよ。それを聞いた刑事さんだったかお医者さん
だったかが、今みたいな説明をしてくれたの」
 納得しかけた君津だったが、あることに気付いて、電話口にもかかわらず首を傾げ
た。自らのうなじを触りながら、その気付きについて言ってみる。
「一般論として、犯人が相手を殺すつもりなら、うなじに串を二本刺すつもりでも、一
本目はど真ん中を狙うんじゃないかな? わざわざ延髄を避けるような位置に刺すのは
おかしい気がする。だいたい、牙の仕業なら、あるいは牙の仕業に見せ掛けたいのな
ら、被害者が絶命後に刺すものだろう。それができない状況だったら、串を刺す行為自
体で絶命させようとするのが殺人犯の心理だと思うが」
「ああ、もう、知らないわよ。犯人じゃあるまいし、そんなことまで分かるはずないじ
ゃない。模倣犯なんだから、まだ殺せていないのに殺したと信じちゃったんじゃない
の?」
「……そうかもしれないね」
「君津君、やっぱり悪いけど、もういいかしら。思い出す内に、気分が悪くなって来ち
ゃって」
 そう言ってすぐにでも電話を切りそうな口調に、君津は慌てて反応した。
「あと一つだけ。事件そのもののことじゃないから」
「事件じゃないなら、何?」
「君が付き合ってる相手のこと。僕が君からの告白を断ったあと、君が選ぶくらいだか
ら、綿部の奴、よほどいい男になったんだろうなって思ってね」
「ま、まあね」
「確か、綿部の一つ上のお姉さんと仲よかったんだっけ? それがきっかけ?」
「全然。きっかけはもっとあと。大学に入ってから、彼の路上パフォーマンスを見たか
らだけれど、今は内面で通じ合ってるっていうか」
 財前は照れたのか、早口になった。
「そう言えば、その路上パフォーマンスっていうか大道芸って、どんなの?」
「それは……」
 答えそうになりながら、何故かしらやめた財前。
「彼から直に聞くといいわ。どうせ、綿部にも電話をするんでしょう?」

 財前雅実に続いて、綿部阿矢彦にも電話した。間を空けなかったのは、財前から綿部
に前もって通話内容が伝わるのを防ぐため。君津の腹づもりとしては、先入観の排除が
目的なのだが、こうして嗅ぎ回るのは犯人捜しと受け取られる面もあると、財前への電
話で自覚した。
「連絡しなくて、済まなかった」
 簡単な挨拶のあと、綿部が開口一番に言ったのがこれだった。財前から話が伝わって
いたのかと疑った君津だったが、すぐに払拭した。
「別に気にしちゃいない。だいいち、連絡方法がなかったろう、そっちからは」
「それもそうだ。だけど、そっちこそ俺が自宅暮らしじゃなかったら、この電話、どう
するつもりだった?」
「親御さんにお願いして、新しい番号を教えてもらうつもりだった。それでもだめな
ら、他の友達を当たる」
「すまん。俺はそこまで必死になれないだろうな。事件は悪いニュースだから、わざわ
ざしなくてもって思ったろう」
「気にすんな。それよりも、早いとこ用件に取り掛かりたい」
「分かった。何が聞きたい?」
「最初に断っておくと、これは疑ってるんじゃなく、確認のために聞くんだ。村木さん
を抱え起こしたとき、首の後ろの串には気が付かなかったのかどうか」
「うむ……うーん」
 しばらく黙る綿部。いや、唸り声だけは小さく続いていた。
「気付かなかったとしか言いようがない。ひょっとしたら、ちょっとくらい触ったかも
しれないが、だとしても、アクセサリーか何かだと判断したろうな。それくらい緊迫し
た状況だった」
「うん、そういうこともあるかもしれないな。言われて初めて思い当たった」
 君津は一応、疑問を引っ込めた。完全に合点が行ったのではないが、一つの捉え方と
して受け入れた。
 このあとも基本的な質問をした。怪しい人物は見掛けなかったか、何かおかしなこと
は起きていなかったか。いずれも、綿部の返答はノーだった。
「ところで綿部はこの事件、模倣説を支持している?」
「殺人鬼・牙の真似をしたっていう? ああ、まあそう解釈するのが妥当じゃないか」
「だったら、村木さんが殺された動機は何だと思う。聞かせてくれ」
「うーん。映画やドラマなんかだと、子供のときに友達同士で、二人だけの秘密を持っ
ていて、大人になった今ではその秘密が公になると非常にまずい、だから口封じのため
に殺す、なんてのがあるけれど」
「そんな検証のしようがないことを言われても、だな」
「そうだよな。うーん」
 唸ったきり、綿部の口から次の仮説は出て来なかった。君津は動機に関しては切り上
げることにした。
「何にも浮かばないってことは、財前さんとうまくやってるんだろうな。はは」
「そ、それとこれとは話が別だ」
「うまく行ってないのか?」
「そんなことはない。だから、話の次元が違うってんだよ」
「大道芸の技を見せてやったり、教えてやったりしているんだろ?」
「……のろけてもいいのか? 君津の方は恋人がこんなことになってるっていうのに」
「少しぐらいなら。あ、いや、その前に、どんなパフォーマンスができるんだよ? ブ
レイクダンスとかか」
「違う違う、ほんとにいかにもな大道芸ばっかりさ。ジャグリングとか物真似とか、あ
と筒乗りとか」
「筒乗りって?」
 一瞬だが、焼き海苔の入った筒を想像してしまった君津。
「玉乗りの変形バージョンって言うのが分かりやすいかな。金属製の筒状の物体を寝か
して、上に板を載せて、その板の上に俺が立ってバランスを取るんだ」
「あ、分かった。テレビで見たことある」
 しばらく事件とは無関係な話題を選び、相手の気持ちと口がまたほぐれるのを待つ。
頃合いを見て、改めて事件の話に戻った。と言っても、残る質問は少ない。
「もう少し発見が早かったら、助けられたと思うか?」
「……いや。難しかったと思う。現実には助けられなかったから、俺がそう信じたいと
いうのもあるかもしれないが、実際問題、村木さんの身体はかなり冷たく感じたんだ。
あれは恐らく、少々発見が早かったくらいじゃ、助からない」
「ということは、犯行からはだいぶ時間が経っていたと」
「い、いや、そこまでは分からねえよ。そんな気がしただけだ」
「時間がだいぶ経っていたと仮定して、どうして星川さんは逃げなかったんだろう?」
「それは……逃げたら怪しまれるからじゃないか」
「動機が見当たらないのに、か」
「だったら……ああ、星川さん、ホテルに宿泊をすることにしていたから。宿泊をキャ
ンセルして逃げ出したら、怪しまれて当然だ」
「いや、根本的な疑問として、何故、宿泊を決めてたんだろう? 鉄串を用意していた
ってことは、計画的な殺人だ。殺したあと、のうのうと犯行現場のホテルに泊まるだな
んて、普通じゃない。最初から日帰りにすればいいんだ」
「……俺にはもう分からん。頭が痛くなってきたよ」
 急に弛緩したような軽い口調で言い、綿部は笑い声を立てた。頭痛というのは事実な
のか、どことなく疲れた笑いに聞こえる。
 潮時と判断した君津は、相手に礼を述べて通話を終えた。

――続く




#510/554 ●長編    *** コメント #509 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/01  00:08  (395)
ほしの名は(後)  永山
★内容                                         18/06/24 03:53 修正 第3版
 死に瀕した村木多栄に触れた最後の一人、戸倉憲吾にも電話をした。
 君津と戸倉は小学生時代はさほど親しくなかったが、中学に入ってから変化が生じ
た。ともに頭はよい方だが、君津が閃きを重視するタイプであるのに対し、戸倉は論理
を一から積み上げるという違いがあった。そこが互いに魅力に映ったのだろうか、何か
と馬が合い、以後、付き合いは長く続いた。君津の海外留学を機に、さすがにやや疎遠
になったが、それでも電子メールでのやり取りぐらいはたまにあった。現在、戸倉はコ
ンピューターで様々な音を合成することを研究テーマにしているらしい。
「伝える役をしなければならないとしたら、自分だったんだろうな」
 戸倉は些か自嘲気味に、そして後悔を滲ませた口ぶりで始めた。君津は本題と余り関
係のない話が長引くのを嫌って、「それはもういいから」と言った。
 しかし、戸倉は意外な頑なさを見せた。
「躊躇したのには理由があるんだ」
「理由って、どうせあれだろ。知らせてもどうしようもないし、日本にすぐさま帰って
来られる訳じゃないしっていう。聞き飽きたよ」
「違うんだ。言いたいのはそんなことじゃなくて、もっとちゃんとした理由さ。事件が
起きた、村木さんが殺されたと知ったとき、僕はすぐに思ったんだよ。もしかしたら財
前さんが殺したんじゃないかって」
「え? 何でまた?」
「知らないみたいだな、やっぱり。財前さんから告白されたことがあるって聞いてたか
ら、ひょっとしたら君津も知ってるのかなとも思ってたんだが」
「おい、分かるように話してくれよ」
 送受器を持ち替え、握る手にも声にも力が入る。君津は手のひらに多めの汗を感じ
た。
「ちょっと頭の中で整理するから、待ってくれ。――よし。今から話すのは、僕が中一
のときに、女子の会話を立ち聞きして知ったことだ。噂話みたいなもんだったし、わざ
わざ言いふらすようなものじゃなかったので、誰にも言ったことはない。それから、財
前さんの立場からの話だということに、注意して欲しい」
 承知したという意味で、君津は「ああ」と短く言った。
「財前さんが小学生のとき、君津に告白したのって、何だか急じゃなかったか?」
「ううん、急かどうか分からないけれど、バレンタインとか卒業とかのイベントにかこ
つけた告白ではなかったな。急な告白に意味があったっていうのか?」
「意味というか、理由だな。財前さん、他の人から告白されて、それを断るために急い
でおまえに告白したらしいんだ」
「それって僕自身と同じ……」
「状況は同じようなもんだったろうな。違うのは、財前さんが告白された相手っていう
のが、同性だったってことだ」
「はあ、女子から告白されたってか?」
 さすがに驚いた。小学生で同性から告白されるってのは、どんな気持ちになるものな
んだろうか。
「そう聞いた。その相手が、村木さんなんだ」
 村木多栄が財前雅実に告白を。
 それは確かに隠された事実かもしれない。が、だからといって、財前が村木を殺害す
る動機はどこから生じるのだろう。逆なら、つまり告白してふられた村木が、財前を憎
んで殺すのなら――どうして今さらという疑問は残るが――まだ理解できなくもない
が。
「何で、財前さんが殺したと思った?」
「おまえにふられた財前さんは、村木さんの告白を断れなかった。好奇心もあって付き
合ってみたらしい。だが、一年ほど経って後悔した。村木さんの方が飽きて、関係は自
然消滅したんだ。財前さんにとったら、いい面の皮だよな。これは僕の勝手な想像だ
が、文句を言うなり、秘密を暴露してやるなりしたくても、彼女自身にとっても相手に
秘密を知られている状況だし、言えなかったんじゃないか。唯一人、愚痴をこぼした相
手が綿部千代、綿部のお姉さん」
「え」
「その二人の会話を、僕が偶然、立ち聞きしたって訳。これなら、財前さんが根に持っ
ていてもおかしくはないだろ」
「分かるけど、今になって、わざわざ殺す程には思えないな」
「そこは同感。だからこそ、僕も警察には何も言わなかった。ただ、同窓会に出たなら
分かると思うんだが、財前さんは綿部と交際中の割には、幸せオーラがたいして感じら
れなかった。どちらかというと緊張していてさ。まあ、冷やかされるのを覚悟していた
せいかもしれないが」
「同窓会で、自分達よりも幸せそうな村木さんを見て、昔の恨みが殺意までに強まった
と?」
「そこまでは言ってない。村木さんの方も特に幸せそうに見えた訳じゃないし。犯人は
鉄串を用意していた、つまり犯行は計画的。動機は、同窓会当日に作られた殺意じゃな
いはず」
「だよな」
「このことを警察に言っていれば、星川さんがあんなあっさり逮捕されることはなかっ
たなじゃないか。そう思うと、おまえに連絡する勇気が出なかった」
 やっと理屈がつながって、君津は納得できた。
(星川さん――僕の彼女が警察に拘束されたのは、村木さんが名前を言い遺したのが大
きな理由だろ。それなのに、細かいことを気にするなんて。戸倉らしいっちゃらしいけ
ど)
 ちょっぴり感動しつつ、それ以上に厄介な性格だなと笑い飛ばしたくなった君津。だ
が、恋人が逮捕されたままという現実の前に、笑っている暇はない。
「計画犯罪なら、動機も以前からあったに違いない。その条件に、星川さんが当てはま
るとは思えないんだ」
「知る限りじゃ、動機がありそうなのは、さっき言った財前さんだけだぜ。しかし、財
前さん以外に動機のある人物がいようがいまいが、ダイイングメッセージが全てを否定
してしまう」
 そうなのだ。いくら他の容疑者を挙げようとも、星川希美子の名を言い遺した事実が
立ちはだかる。君津と星川を苦しめる。
「君津、こっちはとことんまで付き合えるが、そっちは大丈夫か」
「ああ。仕事、いや、明日は大学の方だっけ。それが始まるまでは、徹夜も厭わない
よ」
「じゃあ、まず……星川さんは犯人ではないと決め付ける。そこから出発だ」
「言われなくても、そうしてる」
「もっと積極的に、かつ、論理的に活用するんだ。閃き型のおまえには難しいかもしれ
んが」
「論理派を自認するのなら、分かり易く言ってくれよ」
「つまりだな。星川さんが犯人でないなら、何で村木さんは、犯人は星川さんだと告発
したのか。この謎を解き明かす必要があるってことさ」
「そういう意味か。確かにな。――見間違えた、とか」
 早速、閃いた仮説を、大した自己検討もせずに口に出す。
「犯人は星川さんとそっくりの格好・変装をして、村木さんを襲った。村木さんは当
然、星川さんに刺されたと思い込む」
「うーむ。理屈だけなら成り立つだろうが、実際のところはどうなんだろうな。この場
合、本当にそっくりに化けなければ、星川さんの名前を出すまでには至らないはず。と
なると、何はともあれ、顔を似せねばならない」
「よくできたゴム製の被り物なら、かなり本物っぽく見えるんじゃないか。前に、映画
で見たんだ。犯行はあっという間に終わるし」
「いや、難しい気がする。まず、犯行はあっという間と言うが、刺すのは一瞬で済んで
も、鉄串が残っている。二本続けて刺すのは、結構時間を要するんじゃないか。見ただ
けで被り物に気付かれるか否かは五分五分ぐらいとしても、村木さんの反撃に遭って被
り物に触られる可能性が高い」
「戸倉の言いたいことは分かるけれど、それだけでは否定の根拠として認められない」
「まだある。当日、村木さんと星川さんは顔を合わせている点だ。長い間会っていなく
て、いきなり犯行に及ぶのであれば、変装は適当なレベルで大丈夫だろう。しかし、当
日会ったとなると、話は違う。顔だけでなく、化粧の具合や背格好、全体から受ける印
象、髪型や服装、靴まで揃えないと、村木さんに違和感を与える恐れがある」
「……化粧に髪型、服装は、当日にならないと分からない、か。泊まるつもりで来てい
るのなら、着替えて別の服になっていてもおかしくはないが、化粧と髪型をその日の内
に変えるのは相当不自然。よって、見間違い説、いや、変装説は除外される」
「ちなみに、単なる見間違いも起こらなかったと思う。当日の星川さんとそっくりの姿
形をした出席者は、女性にせよ男性にせよいなかったと僕が保証しよう」
 こんな場合に男まで含めて論じるのも、戸倉らしいと、君津は思った。
「論理展開は頼もしいが、謎の解明には近付いていない。まあ、変装説等が間違ってい
たと分かったのは、前進と言えるけれども」
「もう仮説はないか?」
「ない。時間が経てば閃くかもしれないし、閃かないかもしれないが、現時点では手持
ちはゼロだ」
「こっちも大した説はないんだが、気になることが一つできた。村木さんがはっきりと
星川さんの名前を出したということは、真犯人は星川さんに濡れ衣を着せる意図が明確
にあったと言えるんじゃないか?」
「それは要するに……犯人は他の誰でもなく、星川さんに罪を被せたかったという意味
だな。言い換えると、犯人は村木さんだけでなく、星川さんにも恨みを抱いていた」
「その通り。そして星川さんに恨みを抱くという条件にも、財前さんは当てはまる」
「そうなるのか」
 ぴんと来なくて、君津は問い返した。
「自覚がないのか。おまえは財前さんを振ったんだろう。彼女にしてみれば、君津誉士
夫を手に入れた女、星川希美子に対して敗北感を感じたかもしれない。憎く思ったとし
ても、不思議ではあるまい」
「恨むなら、僕自身を恨むものだと思ってた」
 率直な感想を述べた君津に、戸倉は少しだけ笑い声を漏らした。
「そう思ってるのなら、一応、注意しとけよ。このあと、財前さんがおまえも刺しに行
くかもしれないぞ」
「まさか」
「言ってる自分も、どこまで冗談のつもりなのか、測れてないんだぜ。今の時点で、星
川さんを除いた犯人の最有力候補は財前さんなんだからな」
「僕の記憶にある財前さんは、そんなことする人には全然見えないな」
「当たり前だ。僕だって、信じられん。第一、君津が今思い浮かべてる財前さんての
は、大方、告白してきた小学生の頃の姿なんだろう」
「当たらずとも遠からず、とだけ言っておく。けど、仮に財前さんが犯人だとして、こ
んな大胆な犯行ってやれるもんかな?」
「大胆とは、同窓会で殺すっていう点か」
「それもあるが、襲ってから間もない段階で、彼氏と一緒に発見役を演じるなんて。他
に適当なアリバイ証人が見付からなかったのかもしれないが、だからといって、好きな
男を巻き込むかね」
「そりゃあ、ばれない気でいるからだろう」
「あるいは、端からアリバイ証人にするために付き合い始めた、なんて……」
 他愛もない思い付きを言葉にしただけのつもりだった。だが、何かが君津の脳裏によ
ぎり、引っ掛かった。
「君津?」
 押し黙った君津の耳に、戸倉の声が届く。
「――最初っから、綿部も承知の上だった、共犯だったと考えれば」
「え? 何だって」
 一段と大きな声量になった戸倉。君津は興奮気味に、負けないくらいの大きな声で返
事した。
「そうだ、そうなんだ。綿部が技を彼女に教えたとしたら、謎は解ける!」

            *             *

 空港に降り立ったときは、あいにくの雨だった。折角の連休も予定が多少狂う人が大
勢いるに違いない。
 手続きを済ませ、多くない荷物を受け取ると、都心まで直行する。小さな子供の頃に
はまずくてとても飲めなかったブラックの缶コーヒーで、眠気を少しでも飛ばしてお
く。
 駅の改札を出たところで、三人の姿が視界に入った。
「やあ。久しぶり」
 軽く手を挙げてから、平常心に努めつつ言った。
 三人の中から真っ先に駆け寄ってきたのは、財前雅実だった。
「久しぶり! だけど、感動の反応が薄いわね」
「少し疲れてるし、帰ってきた理由が理由だから」
「そうね。……まあ、思っていた通りのいい男に育ってるわね。見た目だけでも元気そ
うで、安心したわ」
 財前は後ろを振り返り、綿部を手招きした。
「今の彼氏の方がもっと上だけど」
「そりゃそうじゃないと困る」
 応えてから、君津は目線を綿部に合わせた。髪を伸ばしてパーマを掛けているのは、
大道芸人として目立つためだろうか。そして、思い描いていたよりも大きい印象を受け
る。鳩胸のせいかもしれない。
「よおっ。路上パフォーマンス、頑張ってるんだって?」
「まあな。おまえには全然負けてるけど」
「比べるもんじゃなし。将来はプロでやっていくの?」
「分かんねえ。でも、日本じゃ無理かな」
 二人の会話が一段落すると、三人目――戸倉が声を掛けてくる。ここしばらくよく連
絡を取り合ったので、挨拶抜きだ。
「君津、どうする? どこか落ち着いて話せる場所……喫茶店かファミリーレストラン
か」
「ファミレスは騒がしいイメージがあるけど、腹も空いている」
 時間は午後三時。迎えの三人は、とうに昼食を終わらせていることだろう。
「機内食はどうした」
「食べた。でも、足りないし、日本食が食べたいんだ」
「だったら、ちゃんとした店に入ろう。ファミリーレストランの日本食なんて、メニ
ューが少ないだろ」
 そう言ってくれたものの、近くに適当な店がなかったので、蕎麦屋に入った。甘い物
も少し置いてあるらしい。
「寝泊まりするとこはあるの?」
 四人掛けのテーブルに案内され、注文を済ませるや、財前が聞いてきた。僕が急遽帰
国した理由が殺人事件にあることは承知しているはずだが、とりあえずは当たり障りの
ないところから話題にしたいようだ。
「うん。今日と明日はホテル泊まりだけど、明後日からは親戚の家に泊めてもらう。墓
参りするから、方角的にもちょうどいいんだ」
「ああ、そうだったな」
 綿部が気まずそうに反応した。両親がいないことは、このテーブルに着いた全員が知
っている。
「てことは、明日は弁護士さんのところか」
 隣に座る戸倉が話題を換える。と言っても、人の生き死に関係している点は同じだ
が。
「会う約束はできたんだが、長い時間は無理だと言われてるんだ。いくら依頼人の彼氏
でも、真相解明に役立つ何かを持ってる訳じゃないし、しょうがない」
「真相解明って……星川さんが犯人ではないとまだ思ってるの?」
 財前が言った。辺りを気にする風に、声のボリュームを落としている。
「そうだよ。そのために無理に調整して、帰って来たんだ」
「やっぱり。戸倉君を通じて呼び出されたときから、そういう予感はしてたんだ」
 早々にざる蕎麦が来た。穴子天ぷらのミニ丼も付けた。他の三人は、そば粉を使った
和菓子とお茶のセットだ。
「とりあえず、食べながらでいいかな」
 承諾を求めると、曖昧な答が返って来た。
「食べるのはもちろんかまわないけど、何が『いいかな』なのよ」
「事件のことで、新たに確かめたいことができてさ。戸倉にはざっと伝えたんだけれど
も、二人にも聞いてもらいたい」
 手を合わせてから割り箸を割って、まず蕎麦のつゆにわさびを溶く。薬味を散らした
ところで、前に座る二人にも食べるよう促した。
「楽しくないことを思い出しながらだと、まずく感じるかもしれないけど」
「どうせ食べ始めたらすぐに終わっちまう。そっちがあらかた片付くまでは、このまま
待機してるさ」
 綿部が笑いながら言って、腕組みをする。木の椅子の背もたれに身体を預け、聞く体
勢になった。財前の方はお茶ではなく、お冷やを一口飲んで、テーブルの上で両手を組
んだ。
「大前提として、僕は彼女が――星川さんが犯人ではないと決めている」
「……当然よね。あなたの立場なら」
「星川さんが犯人じゃないなら、村木さんはどうして星川さんを犯人だと言い遺したの
か。最初に考えたのは、犯人を何らかの理由で星川さんと誤認した可能性なんだけど」
 以下、犯行が計画的であることを軸に、この説は成り立たないことを説明し終えた。
 黙って聞いていた綿部が、湯飲みを手にしてから、ゆっくりと口を開く。
「何だ、結局、証明ならずか。俺達に聞いてもらいたいことって、これか?」
「まだ続きがある。次に僕が閃いたのは、音による欺瞞だ」
「ぎまん?」
 どういう意味の単語で、どんな字を書くのか分からないと言わんばかりに、横目を見
合わせた様子の二人。僕は「トリックと言い換えても通じるかな」と付け足した。
「同窓会に出た大勢が、村木さんが星川さんの名前を言うのを聞いている。特に近くで
聞いたのが、君達と戸倉だ。三人には、検証してもらいたい、僕がこれから話すトリッ
クが成り立つかどうかを」
「……分かった」
 綿部と財前は、今度ははっきりと互いに目を見合わせてから頷いた。
「村木さんが犯人ではない星川さんの名前を言うとしたら、どんな場合があるか。シン
プルに考えることにした。言ってない、と」
「言って……ない?」
「意味が分からないわ。私達は確かに聞いた」
 きょとんとする綿部に、捲し立てる財前。戸倉が止め役に入ってくれた。
「まあまあ、検証はあと。最後まで聞こう」
「……」
 不満そうだが、財前は黙った。僕は結局、食事には箸を付けずに話を続けていた。
「村木さんは星川さんの名前を言っていない。これも決定事項とする。では、何故、周
りのみんなには声が聞こえたのか。声は作り物だったんじゃないか。僕はそう考えて、
入手できた事件の状況を再検討してみた。最初は録音しておいた音声を流せば何とかな
るだろうって思っていたが、そう簡単じゃないと分かった」
「そうよ。あのとき、村木さんの口は動いてたんですからね」
 思わずという風に、財前が身を乗り出して反証を挙げる。僕は一つ首肯した。
「そう、それがネックだった。他の方法を考えなきゃならない。たまたま村木さんが声
を出せずに、口を動かしただけのタイミングに、犯人が幸運にも音声を合わせられたの
か。そんな偶然は認められない。僕は発想を少し変えてみた。村木さんの口を動かした
のも、犯人の仕業だったとしたら?」
「ば、馬鹿な」
 今度は綿部が“思わず”反応したようだ。
「死んでる人の口を動かすなんて、リモコンでも仕掛けたって言うのか?」
「ん? 変なことを言うね。君らが見付けたとき、村木さんはまだ息があったんじゃな
かったか?」
 僕は綿部、財前の順番に顔を凝視し、それから戸倉を見た。戸倉は「うむ。息があっ
たように思えた。あのときは」と答えた。彼だけが、注文した品を消費している。
「言い間違えただけだ。結果的に死んでしまったのだから」
 取り繕うことなく、ストレートに訂正する綿部。その隣では、財前が居心地悪そうに
もぞもぞ動いて、座り直した。彼ら二人が何も言わなくなったので、戸倉が口を挟んで
くれた。
「でもよ、君津。生きてる人間の口を、他人が自由に操るのは、死人の口を操るよりも
難しいんじゃないか? 死んでるなら、さっき綿部が言ったみたいにリモコンを取り付
けたら、曲がりなりにも動かせるだろうけどさ」
「同感だ。その人が生きていたら、偽の音声に、本物の音声が重なる可能性もある。犯
人にとって、絶対に避けたい状態だろう。そこで僕は考えを推し進めた。発見されたと
き、既に村木さんは亡くなっており、犯人は外的な力で村木さんの口を動かすととも
に、偽の音声を周りに聞かせることで、まだ村木さんが生きていると思わせようとし
た。これなら、全ての説明が付く」
 言い切った僕は、前の二人を見やった。しばらくの沈黙のあと、財前が切り出した。
「どうやって? 具体的にどうすれば、村木さんの口を動かし、声を出せるのよ」
「そこを説明できなければ、絵に描いた餅だな」
 財前の台詞を引き継ぎ、綿部も言った。
「だから、先に君達の話が聞きたいんじゃないか。村木さんの口を動かすような仕掛
け、村木さんの声を流すような仕掛け、そういったものが彼女の身体のどこか、あるい
は近くになかったのかなってね」
「そんな物、ある訳ないじゃない。あったら警察が気付いてるだろうし、私達は間違い
なく、村木さんの口から声を聞いてるのよ」
「――戸倉は、そこまで断言できる?」
「無理無理。声がどこから聞こえたなんて、判断のしようがない。極端な話、村木さん
の口の中に、スピーカーを仕込まれていたら、どこから聞こえようが関係ないってこと
になるしな」
「だから! そんなスピーカーなんて、見付かってないでしょ!」
 当初の囁き声はどこへ行ったのか、財前は大声で主張した。さすがにまずいとすぐに
気が付いたらしく、息を整えつつも肩を窄ませる。
 落ち着くのを待ってから、僕は推理の続きを話し始めた。
「スピーカーなんてなくても声は流せるし、リモコンを仕掛けなくても口は動かせる。
僕はそう思うんだ」
「どうやって」
 穏やかな口調で、綿部。額に汗の縦筋ができていた。どこかしら緊張しているよう
だ。
「もう一つ、僕が着目したのは、犯人が牙なる殺人鬼の手口を模倣しようとしたこと。
無差別殺人として牙に罪をなすりつけるにしては、同窓会の場はふさわしくない。だっ
たら、何故? 犯人にとっていかなるメリットがあるのか。牙の犯行で特徴と言えば?
 そう、二本の鉄の串だ。犯人は村木さんの遺体に鉄串を刺す必要があったんじゃない
か。このように考えることで、見えてきた。犯人は、うなじから刺した二本の鉄串を持
って、遺体の口を動かした――」
「そんな、あり得ない……」
 財前は両手で口を覆っていた。対照的に、綿部は鼻息を荒くした。
「その説だと、俺が一番怪しいことになりそうなんだが?」
「もちろん、鉄串をリモコンで動かしたのでなければ、最も怪しいのは、村木さんを抱
え起こしていた綿部、君になる」
「は! 馬鹿らしい。冗談も休み休み言え」
「冗談のつもりはないよ。こうして披露するからには、本気だ」
「そうかい。だったら、声は? 俺が裏声を使って女の声を出したってか? いくらパ
フォーマーでも、そんな芸当は身に付けてないぜ。第一、俺はずっと村木さんに呼び掛
けていたんだ。同時に女声を出せるはずがないだろ。声はカセットテープとでも言う
か?」
「いや」
 長い反論に対し、僕は短い返事でまず応じた。
「先に聞いておく。綿部は声に関するパフォーマンスで、何かできることがあるよな
?」
「……ああ。腹話術だ。簡単なやつで、男の声しかできないぞ。それにさっきも言った
ように、俺は村木に声を掛け続けていた」
「その腹話術のこつを、彼女に教えたんじゃないのか」
 僕は綿部の隣に目を移した。口を覆ったままの財前が、こちらを見る。
「偽の声で、星川さんの名前を言ったのは、財前さん、君だろう?」

 〜 〜 〜

「証拠はない」
 しばらくしてから、どちらかが言った。僕は戸倉に目配せしてから、“犯人”達の説
得を試みた。
「鉄串に、綿部の指紋が付いている」
「付いていて当然だ。助け起こしたときに、触ってしまうことはあるだろう」
「だけど、口を操るために触ったのだとしたら、指紋の付き方が随分違ってくるはずだ
よ。元々、刑事達は何か変だなと感じているかもしれない。僕の推理を警察に伝えた
ら、どうなるだろうね? 君か財前さんの同窓会前の買い物を警察が調べれば、鉄串を
買ったことが明らかになるんじゃないか」
「……いや、証拠にはならない。絶対的なものじゃない」
 自らに言い聞かせるような口ぶりの綿部。僕はわざと哀れむようなため息を吐いた。
「仕方がないね。戸倉、あれを出して、説明してあげよう」
「うむ。了解した」
 戸倉がジャケットの内ポケットをまさぐり始めると、綿部と財前は表情に怪訝さを浮
かべた。程なくして、戸倉はその物――小型のテープレコーダーを引っ張り出した。
「同窓会の席で、僕の現在の研究テーマは音の合成だと話したよな。研究材料を集める
ために、テープレコーダーを持ち歩いて適宜、録音しているんだ。今も録ってたんだ
が、証拠云々はそれじゃなく」
 と、録音をストップし、中のカセットを別の物と入れ替える戸倉。
「こっちのテープは、同窓会のときに使ったやつだ」
「まさか……」
「うむ。村木さんを助けようとしていた場面で、録音していたんだよ。これにはあのと
きの声もばっちり入っている。聞いてみるか? 警察に声紋を調べてもらう前に」

 自首の形を取りたいという二人のために、弁護士に事情を話して来てもらい、後は全
て任せることになった。恋人と対面できるのは、もう少しだけ先になる。
「本当のところはどうなんだ、戸倉?」
 駅のプラットフォームの中ほど、横並びに立っているときに、聞いてみた。
「うん、何がだ」
 煙草を吹かしながら、戸倉は聞き返してきた。喫煙するとは意外だ。蕎麦屋では我慢
していたらしい。
「本当に録音できていたのかってことさ」
 風向きを気にしつつ、僕は質問の意図を明確にした。隣を見ると、特段、表情に変化
はない。
「無論だ。僕はこれでも研究熱心だからね。ま、多少は聞き取りにくい部分はあるかも
しれないが、いざとなったら合成してやるよ」
「それはだめだろう」
 苦笑いが出てしまった。
「いつまでいられるんだ?」
 吸い殻入れに一歩近づき、煙草の火をもみ消す戸倉。
「日本に? うーん、実を言うと、真犯人が捕まったら、すぐに戻ってこいと言われて
るんだけれどな」
「馬鹿正直にその約束を守ってたら、彼女と会う時間がないな」
「だな」
「そもそも、窮地を救いに万難を排して帰国したってことを、星川さんはまだ知らない
んじゃないか」
「多分ね。弁護士先生も伝えてないだろうな」
「じゃ、やっぱり、会っていかねばなるまい。ついでに、向こうの家族にも」
 家族と言われ、あることにふっと合点がいった。星川さんと連絡が取れなくなったあ
と、自宅に電話してもつながらなかったのは、マスコミの電話攻勢に悩まされていたの
が原因なんだろうな。
「そうするよ。それに、できるだけ日本の星空を見ておきたい」
「星か。昔から好きだったんだよな」
 ライターを弄んでいた戸倉は、急に「あ」と叫んだかと思うと、こちらに勢いよく振
り向いた。
「な、何だ、どうした」
「重大なことに気が付いた。おまえと星川さんが結婚したら、どちらの姓を名乗るつも
りか知らないが――」
「ああ、そのこと。ずっと前から、とっくに気付いているよ」
 君津希美子であろうと、星川誉士夫であろうと、その程度のこと、気にならない。

――終




#511/554 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/11/28  22:59  (499)
カグライダンス(前)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:41 修正 第3版
 それは成人式を迎えたことを祝して行われたインタビューだった。もちろん、出演し
た新作映画の宣伝も兼ねていたけれども、名目は飽くまでも二十歳になったこと。ス
ポーツ新聞の芸能面におけるシリーズ企画で、加倉井舞美は三人目に選ばれた。前の二
人はアイドル歌手とバラエティアイドルで、女性が続いている。加倉井は女優代表の形
だ。ちなみに四人目以降は、グラビアアイドル、お笑い芸人、声優、作家……と予定さ
れている。
「子役でデビューして人気が出たあと、大人になってからも大成した人は少ないとされ
ているけれども、舞美ちゃんはその少ない方に入れそう?」
「え、本人に答えさせますか、その質問?」
 加倉井は困った表情を作って見せた。場所は新聞社の地下にある喫茶店の一角。白く
て正方形をしたテーブルの向こうにいるのは、カメラマンと女性記者。幸いと言ってい
いのか、記者の浦川(うらかわ)とは顔なじみで、関係は良好だ。
「自信があると答えたら生意気に映るし、ないと答えたらかわい子ぶってるとか軽く見
られる。どちらにしたって評価が下がりそう」
 マネージャー抜きのインタビューなので、余計な口出しが入らない分、自分の言葉の
みが反映される。普段以上によく考えて受け答えをしなければ。
「確かに。でもこちらとしては、難しい質問にも率直な答が欲しいわけ」
「じゃあ、評価は周りの人に委ねますってのもだめ?」
「だめではないけど、面白くない感じ」
「だったら……周りの皆さんの支えでここまで来られたのだから、今後も信じて進むだ
けです、ぐらいかな」
「おお、大人な回答ですなー」
 それ採用とばかりに、メモ書きに丸印を入れる浦川記者。インタビューの受け答え自
体は録音されているのだが、文章に起こすときの道標としてメモを取るのだという。
(ほんとにこんなインタビュー、面白くなるのかしら。そもそも、アイドル系の人達の
間に挟まれているのが、若干、不本意だし)
 内心では多少の不平を浮かべつつ、これもお仕事、そして宣伝のためと割り切って笑
顔で応じてきた加倉井。が、次の質問には、笑みがちょっと固まった。
「大人と言えば、大人になったのを記念して、こういう質問も解禁と聞いたから」
「何です?」
「ずばり、恋愛関係。好きな人はいるのか、これまで付き合った人はいるか等々」
「――子役からやっていると、付き合う暇なんて。芸能人の友達ばかり増えただけ」
「やっぱり。昔の雑誌のインタビューを見返したら、クラスの同級生と話が合わなくて
困る、みたいな受け答えしてたんですよね。あれって、噂では、同級生の男子がガキ過
ぎて話にならない、みたいな過激な答だったのを、マネージャーさんの要請で直したと
か」
「……小学生の頃の話ですから」
 思い出すと、小学生だったとは言え我ながら考えなしに喋っていたものだと、冷や汗
ものの反省しきりだ。
(あのときはマネージャーじゃなく、確かお母さんが言ったような記憶が。二人ともだ
ったかな?)
 妙に細かいことまで思い出してしまい、苦笑いを浮かべた加倉井。
「それじゃ質問を変えて、好きな男性のタイプは?」
「え?」
「聞いてなかった? 好きな男性のタイプ。具体的な名前は出さなくていいから。これ
くらいなら大丈夫でしょ」
「ああ、好きな男性のタイプ……。そんなこと考えて生活してないもんね。うーん、そ
う、細かいことに口うるさい人は嫌い。だからその逆。大雑把じゃなくて。器の大きな
人になるのかしら?」
「なるほどなるほど。舞美ちゃん自身は、仕事――ドラマや映画の撮影では細かいこと
に拘るみたいだけど」
「仕事では、ね。仕事だったら、細かいことを言うし、言われても全く平気。ただ、言
われるときは納得させて欲しいとは思います」
「昔、二時間サスペンスに出たとき、犯人ばればれの脚本にけち付けたんだって?」
「いやだ、十歳の頃の話ですよ。みんな正解が分かってるのに、そこを避けるようなス
トーリーに感じたから。真面目な話、小学四年にばればれって、問題あるでしょう」
「結局、どうなったの?」
「事務所の力もあって、穏便に済みました。あ、台本は少し直しが入ったかな」
 加倉井は話しながら、現在の事務所の状況に思いを馳せた。彼女の所属する事務所“
グローセベーア”は、分裂したばかりだった。企業組織として大きくなりすぎた影響が
出たのか、先代の社長が亡くなるや、その片腕として働いていた人の何名かが、方針に
異を唱え、所属タレントを引き連れて飛び出してしまった。契約上の問題は(お金のや
り取りもあって)クリアされている。問題なのは、飛び出した側の方が質量ともに上と
見られている点。人数面ではほぼ二分する形なのだが、会社に不満を抱いていた人の割
合はキャリアを重ねた人達に多かった。つまり、タレントならベテランで確実に仕事の
ある人、事務方なら仕事に慣れてしかも業界にコネのある人が大勢、出て行ってしまっ
た。無論、残った側が若手や無能ばかりということはないが、先代社長に気に入られて
いたおかげで、仕事がよりスムーズに回っていた者が多いのは事実だ。
(人気のある人はこちらにもいるから、勢力は五分五分。ただ、無用の争いが起きて、
仕事がやりにくくなる恐れはあり、か)
 マネージャーの言葉を思い出す加倉井。これまではテレビ番組やドラマ等で当たり前
のように共演していたのが、こうして事務所が別々になった結果、一緒に出られなくな
ることもあり得る。言い換えれば、起用に制約が掛かるわけだ。共演者のどちらを残す
かは、番組のプロデューサー次第。あるいはスポンサーの意向が働く場合もあろう。
(“ノットオンリー”……だったかしら、向こうの事務所名。元々は、能登(のと)さ
んと織部(おりべ)さんの二人だけで始めるつもりだったそうだけど、反主流派が尻馬
に乗った感じね)
 能登恭二(きょうじ)と織部鷹斗(たかと)はともに三十過ぎ。出て行ったタレント
の中では若い方だが、人気は絶頂と言ってもいい程に高い。アイドル歌手としてデビ
ューし、俳優として地位を固めた。人気のある分、仕事が先々まで決まっており、グ
ローセベーアをやめるに当たって一番揉めた二人と言える。そのあおりで、今期は露出
が減って、連続ドラマの出演記録も途切れていた。四月から巻き返すのは間違いない。
(能登さんとは共演せずじまい。織部さんとも、同じシーンに出たことはなかった)
 個人的には親しくもらっていたし、青臭い演技論を戦わせた末に、将来の共演を約束
したことすらあった。当分、もしかすると永遠に果たせないかもしれないが。
「じゃあ、共演したい人は誰? テレビ番組でもドラマ・映画でもいいけど」
 インタビューは続いていた。頭の中で考えていたこととシンクロしたせいで、つい、
能登と織部の名を挙げそうになったが、踏み止まる。
「外国の人でも?」
「それは……つまらない気がするから、NGにしましょう。ハリウッドスターの名前を
出されてもねえ」
「日本に限るなら、憧れ込みで、崎村智恵子(さきむらちえこ)さんと大庭樹一(おお
ばじゅいち)さん。同年代でキャリアも近い人なら、ナイジェル真貴田(まきた)君と
一緒にやってみたい。あとは……風谷美羽」
 大御所女優に渋いベテラン、売り出し中の日仏混血、そして。
「最後の人って、あんまり聞かないけれども……」
 浦川の顔には戸惑いが出ている。芸能畑ばかり歩んできた記者なら、知らなくても無
理はないかもしれない。名前を売るのに協力する義理はないので、四人目の名はカット
してもらっても結構ですと告げる。その上で説明する。
「ファッションモデルをメインに活動している子。演技はまだまだ下手。でも多分、何
でもできる子だから、早い内に私達のフィールドに引っ張り込みたい。他人にかまって
られる身分じゃないけれど、あの子に関しては別。引っ張り上げれば、面白くなりそう
な予感が凄くする。以上、オフレコでお願いします」
「えー?」
「私がちょっとでも誉めたと知ったら、彼女に悪い影響を与えると思ってるので。ごめ
んなさい」
「さっきのは誉めたというか、期待してるってニュアンスだったけど……ま、いいわ。
オフレコ、了解しました。引き続いて、出演してみたい監督を」
 来た来た。新作映画の監督名を真っ先に言わねばなるまい。

 インタビューを受けてから約二週間後。スポーツ紙に掲載されたのは、映画の公開前
日に合わせた形になっていた。しかも、事前に聞かされていたのと違って、一面の見出
しにまで使われるというおまけ付き。一面にあるとは思っていなかったので、他の芸能
面から読んでしまった。おかげで、多少縁のある俳優、パット・リーの軽いスキャンダ
ル記事が目にとまり、わずかに苦笑してしまった。
 ついでに、小学生時代の頃まで思い出して――。

            *             *


 小さな子供の頃から、自分は他の子とは違うという意識があった。
 早くから個人というものを意識していただけのことなのだが、周囲にはそれが傲慢に
映ったらしい。拍車を掛けたのは、彼女――加倉井舞美は勝ち気でこましゃくれてて、
そして美少女だった。何より、彼女が芸能人であることが大きな要因かもしれない。
「あら珍しい」
 六年五組の教室に前の戸口から入るなり、すぐ近くの席に座る木原優奈(きはらゆ
な)が呟いた。いや、聞こえよがしに言った、とする方が適切であろう。
「二日続けて、朝から登校なんて」
「そうね」
 聞き咎めた加倉井は、ついつい反応した。でも、冷静さはちゃんと残している。
「前に二日以上続けて来たのは、二週間前だから、珍しいと言えば珍しいわ」
 嫌味を含んだその言い種に対し、座ったまま、じろっと見上げてくる木原。加倉井は
一瞬だけ目を合わせたが、すぐに外し、自分の席に向かった。廊下側から数えて一列
目、最後尾が加倉井の席だ。後ろから入ってもいいのだが、木原を避けているように思
われたくないので、こうして前からに拘っている。
「ねえ、宿題見せて」
 自分の席に着くなり、加倉井は隣の男子に声を掛けた。
「分かった」
 田辺竜馬(たなべりょうま)はすんなり承知した。国語のプリントと算数のドリルを
出し、該当するページを開くと、重ねて加倉井の机の上に置いた。
「字がきれいで助かるわ」
 田辺の宿題を手に取った加倉井は、自らの宿題を出すことなく、まずは算数ドリルの
該当するページに目を通す。宿題を見せてもらうのは、自分がやっていないから書き写
そうという魂胆からではない。芸能活動をやっているとは言え、加倉井は学校の宿題は
きちんとやる質だ(時間の都合でどうしても無理なもの、たとえば植物の生長観察日記
なんかは除く)。少ない時間をやりくりして急ぎ気味にこなした宿題。その答が合って
いるかどうか、確かめておきたいのだ。
「言っとくけど、間違ってるかもしれないからな」
 田辺は横目で加倉井を見ながら言った。彼は副委員長で、小学六年生男子にしては身
体は大きい方である。勉強、体育ともにできる。図画工作や家庭科もまあまあだが、音
楽だけは今ひとつ。真面目な方で、クラス担任からの信頼は厚い。だからこそ、加倉井
のような芸能人の隣の席を宛がわれた。宿題を見せてと初めて頼んだときは、有無を言
わさず拒まれた。でも、理由を話すと、半信半疑ながら見せてくれるようになった。こ
のクラスになっておよそ三ヶ月になるが、現在では疑っていないようだ。
「はいはい」
 いつもの台詞を聞き流し、加倉井は記憶にある自分の出した答と照らし合わせてい
く。
 田辺も加倉井の答合わせにまで付き合う理由はないので、残り少ない朝の休み時間、
他の男子達とのお喋りに戻った。
「――うん?」
 自分の答と違うのを見付けてしまった。算数だから、正解は基本的に一つと言える。
少なくともどちらかが誤りだ。加倉井は計算過程を追い、さらに二度見三度見と確認を
重ねた。そうして結論に達する。
(計算ミスだ。私ではなく、彼の)
 計算の最後のところで、6×8が48ではなしに、46としてあった。
 実際のところ、再三の確認を経ずとも、途中でおかしいと気付いていた。これまで田
辺が算数でミスをすることはなかったため、念を入れたまで。
「た――」
 田辺君、ここ間違えていない?
 そう聞くつもりだったが、ふっと違和感を覚えて、口を閉ざした加倉井。再びドリル
に視線を落とし、むずむずと居心地の悪い、妙な感覚の正体を探る。
 やがて思い当たった。46の箇所だが、一度、消しゴムを掛けて改めて書いてあるよ
うなのだ。6の下、最初に書かれていた数字は、8と読めた。加倉井は口の中でぶつぶ
つ言いながら考えた。それからやおら国語のプリントに移った。
 ざっと見ただけでは分からなかったが、じきに気付いた。欄外に、不自然な落書きが
あった。文章題の本文のところどころに、鉛筆で薄く丸が付けてある。順に拾っていく
と、「貯 召 閉 照 五面」という並びだった。
(「ちょ しょう へい しょう ごめん」……じゃなくて、本文で使われている通り
の読みを当てはめると、貯めた、お召し、閉める、照り返し。五面はごめんのままで、
「ためしてごめん」か)
 おおよそのところを把握できた加倉井は、そのまま宿題のチェックを続けた。
 休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴ると同時にチェックも終了。ドリルとプリントを
返す段になって、田辺に言葉を掛けた。
「毎回、ありがと。あとで顔を貸してよね」
「え、な、何?」
「それと、算数の授業が始まるまでに、戻すのを忘れないように」

 二時間目は理科の実験があるため教室移動、三時間目は二コマ続けて隣の組との合同
体育で、休み時間は着替えに当てられた。だから田辺と話をするには、合同体育の合間
に設けられる休憩まで待たねばならない。と腹を据えた加倉井だったが、体育の授業
中、隙を見て?田辺の方から話し掛けてきた。授業内容は五十メートル走などの記録測
定で、暇ができたのだ。
「さっきのことだけど」
 体育座りをしてぽつんと一人いた加倉井の左横、一メートル弱の間隔を取って田辺が
座った。二人とも、前を向いたまま会話に入る。
「今やる? 事の次第によっちゃあ、ただで済まさないつもりなんだけど」
 周りに人がいたらやりにくいじゃないの、という意味で言った加倉井。
「てことは、やっぱり、ばれたか」
「私を相当なアホだと思ってる? げーのーじんだから」
 つい、田辺の方を振り向いた。田辺も気配を感じ取ったか、振り向いた上で、首を横
に素早く振った。
「いやいや、思ってないよ、全然。頭いいのはよく知ってる」
「だったら、何でわざと誤答を書いてたのよ、算数の七問目」
 前に向き直る。6×8を計算ミスすることはあり得ても、一旦、48と正解を出して
おきながら、それを46に書き直すなんてことはあり得ない。少なくとも、田辺くらい
普段から成績のいい者が。だからあの46はわざとである。加倉井はそう結論づけてい
た。
「そんなことを聞くからには、国語の方には気付いてないのかな」
 田辺の方はまだ加倉井を見たまま、呟くように言った。
「気付いたわよ。あんな分かり易い印に、分かり易い暗号」
 本文の読み通りに、続けて読むと「ためしてごめん」となる。
「何で試すような真似をしたのかってことが、聞きたいわけ。分かる?」
「それは……」
 途端に言いづらそうになる田辺の声。いらいらした加倉井は、先に予想を述べた。
「大方、私が本当に丸写ししていないか、確認したかったんでしょ? 間違いに気付か
ずに写して、恥をかけばいいと思った」
「ち、違う。疑ってなんかない」
 よっぽど焦ったか、田辺は体育座りの姿勢を崩し、右手を地面について、少しにじり
寄ってきた。
「じゃあ、どうして」
「うーん、誰にも言わないと約束してくれるなら」
「約束なんて無理。それでも、君には答える義務があるわよ、田辺クン」
 口ごもった田辺に、加倉井は追い打ちを掛ける。
「そもそも、条件を出せる立場じゃないわよね。わざと間違えた答を見せるなんて、普
通に考えて悪気があるとしか」
「……ある人から頼まれた。加倉井さんが宿題をちゃんとやって来ているかどうか、分
かるように嘘の答を混ぜろって」
「ある人って、誰よ」
「それは勘弁してよ」
「まったく。まさか、先生じゃないわよね。宿題を見せてもらっていること、知らない
はずだし。そうなると、クラスの誰か」
 言葉を切り、田辺の表情を見て反応を伺う。相手は何も言うまいと誓うかのように、
口をすぼめていた。
「さっき、田辺君は『ある人』って言った。対象が男子なら、そんな言い方はしないん
じゃない? そう考えると女子。君に指図してくるぐらいだから、結構親しい。なおか
つ、私にいい感情は持っていない……」
 すぐに浮かんだ名前が三つくらいある。ただ、今朝、いきなり突っかかってきた印象
が強いため、一人の名前がクロースアップされた。
「木原優奈でしょ?」
 大した理由なしにかまを掛けただけなのに、田辺の顔には動揺の色が意外とはっきり
浮かんだ。肯定のサインだ。
「返事はしない。読み取ってくれ」
 それだけ言うと、真っ直ぐ前を向く田辺。
「まるで脅されてるみたいよ」
「そんなことない。僕がいくら言っても聞き入れないから、証明のつもりで引き受け
た」
「? 何を」
「そ、それは」
 またたじろぐ田辺だったが、言い渋る内に走る順番が回ってきた。名前を呼ばれて、
急ぎ足で立ち去る彼を、加倉井はしばらく目で追った。
(これは逃げられたかな。でも気になるから、逃がさない。あとで聞こう。と言って
も、今日はこのあと、給食食べずに午後から早退なのよね。忘れないようにしなきゃ)

 子供の立場で言うのもおかしいかもしれないが、今、加倉井のメインの仕事は、子供
向けのドラマである。ゆる〜い探偵物で、タイトルは「ゲンのエビデンス」という。頼
りない大人の探偵ゲンを、助手の小学生二人が助けるのが基本パターン。加倉井はその
助手の一人だ。もう一人は男子で、香村綸という子が受け持っている。
「ねね、聞いたかい?」
 風が止むのを待つため撮影が中断したとき、香村が近寄ってきたかと思うと、唐突に
切り出した。
「何て?」
 風による葉擦れの音のせいで、加倉井は耳に片手を当てながら聞き返した。
「この番組、もうすぐ抜けるから、僕」
「ふうん。人気急上昇で仕事殺到、忙しいアピール?」
「そうそう」
 答えながら、へし口を作る香村綸。加倉井の反応の薄さが気に入らない様子だ。察し
た加倉井は、どうせ暇があるんだしと、しばらく付き合ってやることに。
「香村君が抜けると、大きな穴があくわね。誰か新しく入るのかしら」
「僕の抜けた穴を埋められる奴なんて、そういない……って言いたいけれど、もう決ま
ってるんだってさ。知らない名前だった」
「もう聞いてるんだ? 誰よ」
「だから、知らない名前だったから、印象に残ってなくってさ。えーと、確か……服部
みたいな名前」
「何なの、それ。服部みたいなってことは、服部ではないという意味?」
「うん。そうそう、外国人の血が混じってるんだっけ。だから片仮名」
「それを早く言いなさいよ」
 ため息をつきつつ考えてみると、じきに一人の名前が浮かんだ。
「まさか、パット・リーかしら」
 日英混血で、日本名は圭。加倉井達より一つか二つ年上で、英米及び香港での映画や
ドラマ出演多数。見た目はかわいらしい子役なのに、アクションをこなせるのと日本語
と英語、そして中国語(の一部)を話せるのが強みとなっているようだ。今年度下半期
辺りから活動の主軸を日本に移すとの芸能ニュースが、少し前に報じられた。
「そうだ、確かにパット・リーだった」
「香村君は知らないの、パット・リーを?」
「外国で何か出てるってのは知ってたけれども、大して意識してなかったから。日本に
来てライバルになるんだったら、これからはちゃんと覚えるさ」
 口ではそう説明するも、わざと知らなかったふりをしていた節が、どことなく感じら
れた。
「香村君の退場は、どんな脚本になるのかしらね。爆死か何かで壮絶に散るとか」
「子供番組なのに。まあ、そんな筋書きにしてくれたら、伝説になる可能性ありだか
ら、僕はかまわないけど。あ、でも、再登場がなくなるのは惜しい」
「あ、いい案を思い付いたわ。パットが演じる新入り助手に、こてんぱんにやっつけら
れるの。心も体も傷ついたあなたは、海外修行に旅立つ」
「踏み台かい。優秀さを認められて、海外支部に派遣の方がいい」
「そんな設定ないじゃない。探偵事務所の海外支部って、後付けしようにも無理ね」
 想像を膨らませて雑談を続けていると、撮影再開の声が掛かった。いつの間にか風が
収まっていた。

 川沿いの坂を香村がスケートボードで下るシーンの撮影中に、“お客”がやって来
た。黒縁眼鏡に帽子、白マスクと完全防備の訪問者は、パット・リーその人(とマネー
ジャーに、日本での所属先となる事務所の人)だった。予定にない参上に、撮影スタッ
フらの動きが慌ただしくなる。
 幸い、香村のシーンはちょうどOKが出たところだったので、撮影の邪魔にはならな
かったが、ぎりぎりのタイミングとも言える。香村がふくれ面になるのを、加倉井は見
逃さなかった。
「香村君、冷静に。抑えてちょうだい」
 本来、香村のマネージャー辺りがすべき役割だろうが、パット・リー登場に浮き足立
ったのか、姿が見当たらない。
「分かってるって」
「嫌味な口の利き方もなしよ。彼と一緒に仕事する私達のことも考えてね」
「分かった分かった。僕だって、一話か二話、共演する可能性残してるし」
 主役クラスの二人が離れたところでごにょごにょやってる内に、パットはマスクだけ
取った。この現場の責任者に挨拶を済ませる。
「見学に来ました」
 パットはイントネーションに若干の怪しさを残すも、流暢な日本語を使えるようだ。
にこやかな表情で、主なスタッフ数名と握手をしていく。
「主役の一人で探偵役は郷野寛之(ごうのひろゆき)さんなんですが、今日は来られて
ないので、助手役の二人を紹介します」
 監督自らの案内で、パットは加倉井達の前に来た。
「はじめまして。パット・リーです。見学に来ました。よろしくお願いします」
 予め決めてあったような口ぶりだったが、気持ちはこもっていた。さすが俳優と言う
べきなのかもしれない。
 近くまで来ると、パットの背の高さが分かった。二つほど年上なのだから、パット自
身が際立って高身長というわけでもないが、香村は小柄な方なので比較すれば差があ
る。一方、加倉井とは同じくらい。それでもパットの方がやや上か。
「舞美ちゃんにはまだ言ってなかったけど、十月から彼、パット・リーが出演者に加わ
るんだ」
 監督が簡単に説明する。加倉井は初耳のふりをして聞いておいた。最初に驚いてみ
せ、次に関心ありげにタイミングよくうなずく。
 実際、関心はある。眼前の混血俳優が、一体どういうつもりで、外国でのスターダム
路線を(一時的なのかずっとなのかは知らないが)外れ、日本の子供向けドラマに出て
みる気になったのか。
 と言っても、初対面かつ撮影中の現場では、突っ込んだ話はできまい。ここは大人し
くしておく。香村が暴走しそうだったら、手綱を引き締めなければいけないし。
 ところがパット・リーは西洋育ちのせいか、女性である加倉井に対してより関心と気
遣いを見せた。
「加倉井さん、あなたが出ている作品、これともう一つ『キッドナップキッド』を観ま
した。同じ人とは思えない、演じ分けていましたね」
「どうもありがとう。ほめ言葉として受け取ってもいい?」
「もちろんです。これなら自分もよい芝居ができると思いました」
「私も楽しみです」
 それからパット・リーの出演作で視聴済みの物を挙げようとしたのだが、香村が会話
に割って入ってきた。
「ねえねえ、リーさん。僕は?」
「香村君の出ている作品ももちろん観ました。勘のいい演技だと思いましたね。よくも
悪くも、香村綸という個性が際立っていますし」
 これもほめ言葉なのだろうか。微妙な言い回しだと受け取った加倉井だが、当の香村
は好意的に解釈したらしい。ふくれ面はどこへやら、にこにこしている。
(香村君は台詞覚えは早くて、言葉だけは知っていても、言葉の意味までは大して知ら
ないものねえ。もうちょっと勉強にも力を入れた方が)
 心中でアドバイスを送る加倉井。声に出して言ったことも何度となくあるのだが、改
まった様子はない。
「短い期間だけど、僕とも共演することになるだろうから、仲よくやろうよ」
 香村は右手を出し、握手を求めた。相手は年上だが、このドラマでは先輩だし、日本
国内でもしかり。そんな意識の表れなのか、香村の言動はフレンドリーを些か超えて、
上から目線の気が漂う。
 パット・リーは(まだ子供だけど)大人の対応を見せる。眼を細めて微笑を浮かべる
と、右手で握り返した。
「よろしくお願いします。センパイ」

 思わぬ見物人が来た撮影の翌日は、金曜日だった。今日は学校でフルに授業を受け、
土日はまた撮影に当てられる予定である。
 そして加倉井は、朝から少々憂鬱だった。また木原につっかかられるんだろうなとい
う覚悟に加え、前日の撮影の醜態に頭が痛い。撮り直しの連続で疲れた。と言っても、
撮影でミスをしたのは加倉井自身ではない。
(香村君、パットを知らないと言ってた癖に、意識しちゃって)
 思い出すだけでも、疲労感を覚える。
 パット・リーが見ていると力が入ったのか、香村は動作の一つ一つに文字通り力みが
出て、固くなっていた。台詞はやたらとアドリブを入れるし、声が必要以上に大きくな
る場面もしばしばあった。使えないレベルではないものの、これまで撮ってきた分との
差が明らかにあるため、リテイクせざるを得ない。
(番組を出て行くあなたが、意識過剰になってどうするのよ)
 心の中での言葉ではあるが、つい、香村と呼び捨てしたり、あんたと言いそうになっ
たりするのを堪える加倉井。心中の喋りは、実際のお喋りでも、ふっと出てしまいが
ち。そこを分かっているから、少なくとも同業者やスタッフの名前は、声にしないとき
でも丁寧さを心掛ける。そのせいでストレスが溜まるのかもしれないが。
「あ、来た」
 気が付くと、教室のドアのところまで来ていた。声の主は、木原優奈。加倉井がおか
しいわねと首を傾げたのは、その声がいつもと違っていたから。
(何だか弾んでいるように聞こえたけれど……さては、新しい悪口でも思い付いたのか
しら)
 警戒を強めた加倉井が立ち止まると、木原は席を離れ、近寄ってきた。これまたいつ
もと異なり、邪気に乏しい笑顔である。
「どうしたの? 入りなよ」
「……何か企んでいる眼だわ」
 隠してもしょうがない。感じたままをはっきり言った。
 指摘に対し、木原はより一層笑みを増した。
「やーね、企んでなんかいないって。ただ、お願いがあるんだけれどね」
 と言いながら、早くも手を拝み合わせるポーズの木原。加倉井は別の意味で、警戒し
た。相手のペースから脱するために、さっさと自分の席に向かう。
 木原は早足で着いてきた。
「聞くだけでもいいから、聞いてよ〜」
「はいはい聞いてます。早く座りたいだけよ」
 付け足した台詞が効いたのか、木原はしばし静かになった。席に収まり、机の上に一
時間目の準備を出し終えるまで、それは続いた。
「で? 何?」
「昨日までのことは忘れて、聞いて欲しいのだけれど」
「忘れるのは難しいけれども、聞く耳は持っているわ。とにかく言ってくれなきゃ、話
は進まないわよ」
「そ、それじゃ言うけど、加倉井さんは今度、あのパット・リーと共演するって本当
?」
 この質問だけで充分だった。
(情報解禁したのね。というか、私の耳に入るの遅すぎ。きっと、情報漏れを恐れてぎ
りぎりまで伏せておきたかったんでしょうから、別にかまわないけれど。それはさてお
き、この子ってば、パット・リーのファンだったのね。それも相当な)
 ぴんと来た加倉井は、どう対処するかを素早く計算した。「内定の段階ね。まだ本決
まりじゃないってこと」と答えた上で、相手の次の言葉を待つ。
「それじゃ、正式決定になった場合でいいから、パット・リーのサインをもらってきて
欲しいのですが」
 木原はその場でしゃがみ込み、手を小さく拝み合わせて言った。
 後半、急に丁寧語になったのがおかしくて、無表情を崩しそうになった。だが、そこ
は人気子役の意地で踏み止まる。
「私も一度会ったきりだから、何とも言えない」
 若干、冷たい口調で応じた。サインをもらってきて欲しいとお願いされるのは予想し
た通りだったが、これを安請け合いするのは避ける。今後、木原との関係を優位に運ぶ
には、ここは色よい返事をすべきかもしれないが、万が一、もらえなかったら元の木阿
弥。それどころかかえって悪化しかねない。
 しかし、そういった加倉井の思惑なんて関係なしに、木原は違う方向からの反応を示
す。
「え、もう、会ったことあるの?」
「それはまあ」
 向こうが勝手に見学に来ただけだが。
「いつ? どんな感じだった、彼?」
 加倉井の机の縁に両手を掛け、にじり寄る木原。このまま加倉井の手を取るか、さも
なくば二の腕を掴んで揺さぶってきそうな勢いだ。
「話すようなことはほとんどないけど」
「それでもいいから、聞かせて! ねえ」
 おいおいいつからこんなに親しくなったんだ、私達は。そう突っ込みを入れたくなる
ほど、木原はなれなれしく接してくる。
「分かったわ。話す。でも、その前に」
 両手のひらで壁を作り、距離を取るようにジェスチャーで示す。木原は一拍遅れて、
素直に従った。
「さっき言ってた忘れるどうこうだけど、やっぱり無理だから。けじめを付けたいの」
「わ、分かった。悪かったわ」
「ちょっと、ほんとにそれでいいの? 目先の利益に囚われてるんじゃないの」
 謝ろうとする木原をストップさせ、加倉井は問い質した。そのまま受け入れておけば
すんなり収まるのは分かっていても、性格上、難しい。
「じゃあ、どうしろって……」
「言いたいことがあるんじゃないの? もしそれが文句ならば、はっきり声に出して言
って」
 加倉井の圧を帯びた物言いに、木原の目が泳ぐ。明らかに戸惑っていた。どう反応す
るのがいいのか分からなくて、困っている。
「私は好き好んで喧嘩したいわけじゃないし、そっちも同じじゃないの? だったら―
―」
 チャイムが鳴って、加倉井の言葉は中断された。このまま続けても、相手の答まで聞
いている時間はないに違いない。一旦切り上げる。
「またあとでね」

 一時間目の授業で、先生から当てられた木原が答を間違えたのは、休み時間における
加倉井とのやり取りのせいかもしれない。二時間目以降もこんな調子ではたまらないと
考えたのかどうか、授業が終わるや、木原は加倉井の席までダッシュで来た。
「答をずっと考えてた」
 前置きなしに始めた木原。対する加倉井は、次の授業の準備を淡々と進める。
「悪口を言ってたのは、うらやましかったから。別に、加倉井さんが悪いっていうんじ
ゃないわ」
 木原は普段よりも小さめの声で言った。こんなことを認めるだけでも、一大決心だっ
たのだろう。加倉井はノートと教科書を立てて、机の上でとんとんと揃えた。そして聞
き返す。
「――それだけ?」
「……悪くはないけど、いらいらする。あんた、何を言っても、落ち着いてるから」
「それが嫌味で上から目線に見えたとでも?」
「そ、そうよ」
「分かったわ。できる限り、改める。できる限り、だけね。それと言っておくけど、私
だって悪く言われたら泣きたくなることあるし、わめき散らして怒りたいことだってあ
るわよ」
「……全然、見えない」
 それは私が演技指導を受けているから。言葉にして答えるつもりだった加倉井だが、
すんでのところでやめた。
 代わりに、それまでと打って変わっての笑顔をなしてみせる。勝ち誇るでも見下すで
もなく、嘲りやお追従とももちろん違う。心からの笑み――という演技。
「木原さんも知っての通り、パット・リーは日本語が上手よね」
「う、うん」
 急激な話題の転換に、ついて行けていない様子の木原。だが、パット・リーの名前を
認識して、じきに追い付いたようだ。その証拠に「決まってるじゃない。ハーフなんだ
し、日本で過ごしたこともあるんだから」と応じる。
(これで戻ったわね)
 加倉井は心中、満足感を得た。
「私が会ったときの彼、思ってた以上に日本語がうまかった。ニュアンスまで完璧に使
いこなしてたわ」

 日々過ぎること半月足らず、金曜の下校時間を迎えていた。
 加倉井が校門を出てしばらく行ったところで、斜め後ろからした「へー」という男子
の声に、ちょっとだけ意識が向いた。聞き覚えのある声だったが、呼び止められたわけ
ではないし、自分と関係のあることなのかも定かでない。結局、ペースを落とさずに、
さっさと進む。
「待って」
 さっきの声がまた聞こえた。加倉井を呼び止めようとしている可能性が出て来たけれ
ども、名前が入っていない。だから、相変わらず歩き続けた。すると、ランドセルのか
ちゃかちゃという音とともに、声の主が駆け足で迫ってくる気配が。
「待ってって言ってるのに」
 そう言う相手――田辺と、振り向きざまに目が合う。不意のことに急ブレーキを掛け
る田辺に対し、加倉井は前に向き直ると、そのまますたすた。
「私に用があるのなら、名前を呼びなさいよ」
 一応、そう付け加える。と、田辺が再度、駆け足で短い距離をダッシュ、横に並ん
だ。
「言っていいの?」
「……何で、だめだと思ってるわけ?」

――続




#512/554 ●長編    *** コメント #511 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/29  01:15  (500)
カグライダンス(後)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:56 修正 第4版
「外で名前を叫んだら、みんな気付いて、集まってくるんじゃあ……」
 なるほど。納得した。そこまでの人気や知名度はないと自覚している加倉井だが、田
辺の小学生なりの気遣いには感心したし、多少嬉しくもあった。
 しかし、感情の変化をおいそれと表に出しはしない。
「ばかなこと言わないで。私なんか、まだまだ」
「そうかぁ?」
「そうよ。名前で呼べるのは今の内だから、どんどん呼んで。人気が出たらやめてね」
 返事した加倉井は、田辺が目を丸くするのを視界に捉えた。
「何その反応は」
「びっくりした。そういう冗談、言うんだね」
「結構本気で言いました。さっき、『へー』っていうのが聞こえた気がするんだけど、
あれはどういう意味?」
「何だ、ちゃんと聞こえてるじゃん」
「だから、そっちが名前を呼ばないからだと」
「へーって言ったのは、歩いて帰るのが珍しいと思ったからで」
「私が? そんなに珍しがられるほど、久しぶりだったかしら」
「前がいつだったかなんて覚えてないけど、とにかく久しぶりだ」
「覚えていられたら、気色悪いわね」
「……加倉井さんのファンが聞いたら泣きそうなことを」
「そういう田辺君は、いつまで着いてくるつもりなのかしらね」
「えっ。ちょっと。忘れてるみたいだから言うけどさ、登校は同じ班だったろ」
 朝、登校時には地区ごとの子供らで列になって学校へ行く。正確を期すなら、同じ班
と言っても男女は別だが。
「通学路は同じ。つまり、ご近所」
「そうだったっけ……だったわね」
 さすがにこれは恥ずかしいと感じた。表情のコントロールができているのか自信がな
くなり、さっと背けた。頬に片手を宛がうと、熱を少し感じたので赤くなっているのか
もしれない。加倉井は思った。
「朝、登校するときはほとんど車だもんね。忘れられてもしょうがないか」
 田辺の方は、さして気にしていない風である。変わらぬ口調で、話を続けた。
「少し前にさ、加倉井さんと木原さんが長いこと話していたのを見たけれど、あれは何
だったの? 僕が木原さんの言うことを聞いて宿題に間違いを混ぜていたせいで、もっ
と仲が悪くなったんじゃないかって心配してたんだけど、そうでもなさそうだから、不
思議なんだよなー」
「あれは田辺君のしたことと、直接の関係はないわ。だから心配する必要なし。木原さ
んとの関係は……冷戦状態だったのが、お互い、物言えるようになった感じかしら。あ
る俳優さんのおかげだから、今後どうなるか知れたものじゃないけれど」
 パット・リーが参加しての撮影はすでに何度か経験していた。漠然と想像していたよ
りは、ずっと自己主張が少なく、与えられた役を与えられた通りにそつなくこなす、そ
んな印象を受けた。加倉井ともすぐに打ち解け、スタッフ間の評判もよい。加倉井は折
を見てサインを色紙にしてもらった。まだ木原に渡すつもりはない。当分の間、引っ張
ろう。
「それならいいんだけど」
「もしかして、木原さんから頼み事をされなくなって不満なの?」
「そ、それだけは絶対にない!」
 声だけでなく全身に力を込めて否定する田辺。加倉井はちょっとした思い付きを言っ
ただけなのに、ここまで大げさに反応されると、逆に勘繰りたくなる。ただ、他人の好
みを詮索する趣味は持ち合わせていないので、これ以上は聞かない。
 しかし、田辺にしてみれば、逆襲しないと気が済まない様子。
「そういう加倉井さんは、学校の友達付き合いあんまりないし、誰某が嫌いっていうの
はあっても、好きっていうのはないんじゃないのか。仕事場に行けば、年上の二枚目が
いくらでもいるんだろうしさ」
「うーん、確かにそうだけどさ。芸能界にも好きな人はいないかな。憧れるっていう
か、尊敬する人なら一杯いても、田辺君が言うような意味での好きな人はいないな、う
ん」
 一応、本心を答えている加倉井だが、恥ずかしい思いがわき上がってくるので、喋り
は若干、芝居がかっていた。

 そのシーンに関して言えば、加倉井は台本に目を通した時点で、少しだけ消極的な気
持ちになった。
 加倉井が演じる笹木咲良(ささきさら)は、パット・リー演じる新加入の探偵助手、
服部忍(はっとりしのぶ)といまいち反りが合わず、ぎくしゃくが続いていたところ
へ、服部のふと漏らしたジョークにより、咲良が彼を平手打ちする――という、いかに
もありそうな場面展開なのだが。
(叩くのは気にならない。でも、これがオンエアされたあとの木原さんの反応を想像す
ると、ちょっと嫌な感じがするわ)
 幸か不幸か、パットは本気で平手打ちされても一向にかまわない、むしろ手加減せず
に来いというスタンス。もちろん、彼自らも頭を逆方向に振って、ダメージを逃がす
し、叩く音はあとで別に入れるのだが。
「でも、手首の硬いところはくらくらするから、ちゃんと手のひらでお願いします」
 笑いながら言う。リハーサルを繰り返す内に、加倉井も芝居に入り込む。一発、ひっ
ぱたいてやりたいという気分になってきた。そして本番。
『取り消して!』
 叫ぶと同時に右手を振りかぶり、水平方向にスイング。ほぼ同じ背の高さだから、姿
勢に無理は生じない。だけど、パットが首を動かすのが若干、早かった。相手の頬を、
指先が触れるか触れないかぐらいのところで、加倉井の右手は空を切った。
 派手に空振りして、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 よろめいた加倉井を、パットが両腕で受け止める。そしてしっかり立たせてから、
「大丈夫でした? ごめんなさい。早すぎました」と軽く頭を垂れる。その低姿勢ぶり
に、加倉井もつい、「私も遅かったかもしれません」と応じてしまった。両者がそれぞ
れミスの原因は自分にあると思ったままでは、次の成功もおぼつかない。
「いや、やはり、僕が早かった。大変な迫力で迫ってきたので、身体が勝手に逃げてし
まったんですよ」
 パットは冗談めかして言いながら、首を振るさまを再現してみせた。結局、パットの
動き出しが早かったということになり、再トライ。
『取り消して!』
 ――ぱしっ。
 今度はうまく行った。それどころか、加倉井には手応えさえあった。事実、音もかな
りきれいに出たように思う。もちろん、そんな心の動きを表に出すことはしない。即座
に監督からOKをもらえた。
 演技を止め、表情を緩める。そして目の前のパットに聞く加倉井。
「痛くなかったですか」
「平気。痛かったけど」
 オーバーアクションなのかどうか知らないが、彼の手は左頬をさすっている。その指
の間から覗き見える肌の色は、確かに赤っぽいようだ。
「今後、気を付けますね」
「それはありがたくも助かります。ついでに、このドラマで二度も三度も叩かれるの
は、勘弁して欲しいです」
 台詞の後半に差し掛かる頃には、彼の目は監督ら撮影スタッフに向いていた。

 明けて日曜。早朝からの撮影では、仲直りのシーンが収録されることになっていた。
 事件解決を通じて格闘術の技量不足を痛感した笹木咲良(加倉井)が、服部に教えを
請い、実際に指導を受けるという流れである。
 朝日を正面に、河川敷のコンクリで座禅する服部。衣装は香港アクションスターを連
想させる黄色と黒のつなぎ。その背後から近付く咲良。こちらは小学校の体操服姿。足
音を立てぬよう、静かに近付いたまではよかったが、声を掛けるタイミングが見付から
ない。と、そのとき、服部が声を発する。まるで背後にも眼があるかの如く、『何の用
ですか、咲良?』と。
 これをきっかけに、咲良は服部に頭を下げて、格闘術を教わる。そこから徐々にフ
ェードアウトする、というのが今回のエピソードのラスト。
 殺陣というほどではないが、格闘技の動きは前日とつい先程、簡単に指導を受けてい
る。リハーサルも問題なく済んだ。あとは、日の出に合わせての一発勝負だ。
『何の用ですか、咲良?』
 名を呼ばれたことにしばし驚くも、気を取り直した風に首を横に小さく振り、咲良は
会話に応じる。そして本心を伝えると、服部は迷う素振りを見せるも、あっさり快諾。
『実力を測るから掛かってきなさい』という台詞とともに、咲良に向けて右腕を伸ば
し、手のひらを上に。親指を除く四本の指をくいくいと曲げ、挑発のポーズ。
 咲良を演じる加倉井は、飽くまで礼儀正しく、一礼した後に攻撃開始。突きや蹴りを
連続して繰り出すも、ことごとくかわされ、二度ほど手首を掴まれ投げられる。最後
に、左腕の手首と肘を決められ、組み伏せられそうなところへさらに膝蹴りをもらうと
いう段取りに差し掛かる。当然、型なのだからほとんど痛みはないはずだったが、組み
伏せられる直前に、パットの右肘が胸に当たってしまった。
「うっ」
 ただ単に胸に当たっただけなら、気にしない。強さも大してなかった。だが、このと
きのパットの肘は、加倉井のみぞおちにヒットしたからたまらない。暫時、息ができな
い状態に陥り、演技を続けられそうになくなる。パットは気付いていないらしく、その
まま続ける。台本通り、組み伏せられた。元々、あとはされるがままなのだから、一
見、無事にやり通したように見えただろう。しかし、カットの声が掛かっても、加倉井
は起き上がれなかった。声が出ない。代わりに、涙がにじんできた。
 女性スタッフの一人がやっと異変に気付いて、駆け寄ってきた。場を離れてタオルを
受け取ろうとしていたパット・リーも、すぐさま引き返してきた。
「大丈夫ですか? どこかみぞおちに入りましたか?」
 答えようにも、まだ声が出せない。頷くことで返事とする。そこへ、遅ればせながら
マネージャーが飛んできて、事態を把握するや、加倉井を横にして休ませるよう、そし
てそのために広くて平らかで柔らかい場所に移動するよう、周りの者にお願いをした―
―否、指示を出した。大げさに騒ぎ立てるなんて真似は、決してしない。
「アクシデントでみぞおちに入ってしまったみたいですが、後々揉めることのないよ
う、診察を受けてもらった方がいいかと」
「そうさせていただきます」
 仰向けに横たえられ、普段通りの呼吸を取り戻しつつある加倉井の頭上で、そんなや
り取りが交わされていた。
(当人が具体的に何も言ってないのに、どんどん進めるのはどうかと思う。けど、妥当
な判断だし、ここは大人しくしておくとするわ。第一――)
 加倉井は自分の傍らにしゃがみ込むパット・リーを見上げた。左手を両手で取り、ず
っと握っている。表情はさも心配げに目尻が下がり、眉間には皺が寄る。
(こうも親切さを見せられたら、受け入れとくしかないじゃない)

 幸い、診察結果は何ともなかった。薄い痣すらできていなかった。
 くだんの「ゲンのエビデンス」がオンエアされたのは、それからさらにひと月あまり
が経った頃。前回で香村綸は去り、パットが物語に本格的に関わり始め、加倉井と衝突
するエピソードである。
 その放送が終わって最初の学校。加倉井は午前中最後の授業からの出席になった。昼
休みに待ち構えているであろう、木原優奈らからの質問攻め――恐らくは非難を含んだ
――を思うと、授業にあまり集中できなかった。
 ちょうど給食当番だった加倉井は、おかずの配膳係をしているときも、何か言われる
んじゃないかしら、面倒臭いわねと、いささか憂鬱になっていた。ところが、木原にお
かずの器を渡したとき、相手からは特に怒ってる気配は感じられなかった。どちらかと
言えば、にこにこしている。
「あとでパットのこと、聞かせてちょうだいね」
 木原からそう言われ、マスクを付けた加倉井は黙って頷いた。
 給食が始まると、加倉井がまだ半分も食べない内に、木原はいつもより明らかに早食
いで済ませると、席の隣までやって来た。そして開口一番、言うことが奮っている。
「もう洗っちゃったわよね、右手」
「は?」
 いきなり、意味不明の質問をされて、さしもの加倉井も素で聞き返した。
「パットの頬に触れたあと、右手を全然洗っていないなんてことは、ないわよね」
 理解した。
「残念ながら、洗ったわ」
 どういった機会に洗ったかまでは言わなくていいだろう。木原はさほどがっかりした
様子は見せなかったが、視線が加倉井の右手の動きをずっと追っているようで、何とは
なしにコワい。
 その後も食べながら、問われるがままに答えられる範囲で答える加倉井。木原の質問
のペースが速いため、加倉井の食べるペースは反比例して遅くなる。その内、他のクラ
スメートもぽつぽつと集まってきた。もちろん、女子がほとんど。やがて彼女らの間で
論争が勃発した。
「香村綸もよかったけど、パット・リーも案外、早く馴染みそう」
「私はカムリンの方がいいと思うんだけど」
「断然、パット! カムリンは小さい」
「これから伸びるって!」
 おかげでようやく給食を終えることができた。加倉井は食器とお盆を返し、ついでに
給食室までおかずの胴鍋を運んだ。教室に戻って来ると、論争は終わりかけていたよう
だ。香村派らしき女子が、加倉井に聞いてくる。
「カムリンが降板したのって、何か理由があるの?」
「具体的には聞いていないわ。人気が出て他の仕事が忙しくなったみたいよ」
「ほら、やっぱり。カムリンは“卒業”。下手だから降ろされたんじゃないわ」
「途中で抜けるのは無責任だわ」
 終わりそうだった論争に、また火を着けてしまったらしい。加倉井はため息を密かに
つき、机の中を探った。次の準備をしようとするところへ、男子の声が。田辺だ。
「僕からも聞いていい?」
「遠慮なくどうぞ」
 何でわざわざ確認をするのと訝しがりつつ、加倉井は相手に目を合わせた。
「最後のシーン、遠くからで分かりにくかったけど、ほんとに倒れてなかった?」
「――ええ、まあ」
 「ほんと」のニュアンスを掴みかねたが、とりあえずそう答えておく。
 普段、自分の出演した作品のオンエアを見ることはほとんどしない加倉井だが、この
回の「ゲンのエビデンス」は別だった。ラストの乱取りが、どんな風に編集されたの
か、多少気になったから。
 田辺の言ったように、そして当初の台本通り、加倉井が組み伏せられた遠くからの
シーンでエンドマークを打たれていた。大画面のテレビならば、加倉井がみぞおちへの
ダメージで、膝蹴りを食らう前にがくっと崩れ落ちる様子が分かるだろう。
「じゃあ、ミスったんだね、どちらかが」
 田辺の使った「ほんと」が、「本当に強く攻撃が入った」という意味だとはっきりし
た。加倉井は頭の中で返事を瞬時に検討した。
(肘は予定になかった。だから、ミスは私じゃない。でも今この雰囲気の中、真実を話
すのは、恐らくマイナス。かといって、私一人が責任を被るのも納得いかない)
「ミスがあったのは当たりだけれども、どちらかがじゃなくて、二人ともよ。何パター
ンか撮ったのだけれど、あまりにバリエーションが豊富で、私もパット・リーも段取り
がごちゃごちゃになってしまった。だからあのラストシーンは、厳密にはNGなの。で
も、見てみると使えると判断したんでしょうね、監督さん達が」
 と、こういうことにしておく。すると、女子同士で言い争いが再び始まった。
「カムリンが相手だったら、そんなミスはしなかったのに」
「それ以前の問題よ。香村綸に、パットのような動きは絶対無理!」
「そうよね。身長が違うし」
「関係ないでしょ!」
 耳を塞ぎたくなった加倉井だが、我慢してそのまま聞き流す。平常心に努める。
「それで加倉井さん、大丈夫だったのかい?」
 田辺が聞いてきた。心配してくれたのは、彼一人のようだ。加倉井はまた返事をしば
し考えた。あのときを思い起こすかのように一旦天井を見上げ、次いで胸元を押さえな
がら、俯いた。そうしてゆっくり口を開く。
「物凄く痛かった。息が詰まって涙が出るくらい」
「え、それは」
 おろおろする気配が田辺の声に滲んだところで、加倉井は芝居をやめた。満面の笑み
を田辺に向ける。
「心配した? ほんの一時だけよ。念のため、病院に行って、ちゃんとお墨付きをもら
ったから」
「何だ。脅かしっこなし」
「だいたい、撮影はだいぶ前よ。一ヶ月あれば、少々の怪我なら治るわ」
「ふん、そんなこと知らねーもん」
 小馬鹿にされたとでも思ったのか、田辺は踵を返して、彼の席に戻ってしまった。
(あらら。心配してくれてありがとうの一言を付け足すつもりだったのに、タイミング
を逃しちゃったじゃないの)

 次の日の学校で、加倉井はある噂話を耳にした。
 パット・リーはアクション、特に武術の動きが得意とされている割に、撮影中の軽い
アクシデントが結構ある、というものだ。話をしていたのは当然、香村綸ファンの女子
達である。昨日、下校してからパットの粗探しに時間を費やしたと見られる。
「アクシデントと言ったって、たいしたことないじゃない」
 パット派の女子も負けていない。攻撃材料がないため、否定に徹する格好だが、勢い
がある。
「今よりも子供の頃の話だし、ある程度はしょうがないわよ」
「付け焼き刃の腕前でやるから、こんなに事故が多いんじゃないの」
「大げさなんだから。怪我をしたりさせたりってわけじゃないし、ニュースにだってな
ってない」
「それはプロダクションの力で、押さえ込んでるとか。ねえ、加倉井さん?」
 予想通り、飛び火してきた。加倉井は間を置くことなしに、正確なところを答える。
「少なくとも、前の撮影で、パット・リーの側から圧力や口止めはなかったわよ。みん
な、妄想しすぎ」
「ほら見なさい」
 パット派がカムリン派を押し戻す。休み時間よ早く終われと、加倉井は祈った。
「でもでも、パット・リーのキャリアで、三回もあるのは異常よ、やっぱり」
 作品名や制作年、アクシデント内容の載った一覧を示しながら、カムリン派の一人が
疑問を呈する。
(なるほどね。小さい頃から始めたとしたって、アクション専門じゃないんだし、周り
も無理はさせないだろうから、三回は多い。ううん、私の分も含めれば、四回)
 少し、引っ掛かりを覚えた。加倉井は、パット派の代表的存在である木原が反駁する
のを制しつつ、最前のリストを見せてもらった。
(全部じゃないけど、二つは観ている。……ううん、似たような内容が他にも多いから
ごちゃ混ぜになって、はっきり覚えてないわ。でも、この二作品て確かどちらも)
 記憶を手繰ると、徐々に思い出してきた。一方はカンフーマスターを目指す少年の役
で、劇中、しごかれまくっていた。もう一方では、学園ラブコメで、二枚目だが女子の
扱いが下手でやたらと平手打ちされたり、教師から怒られる役。
(もしかすると)
 加倉井はあることを想像し、打ち消した。パット・リーはまだ若いとは言え、国際的
に活躍しようかという人気俳優だ。いくら何でも想像したようなことがあるはずない。
(……と思いたいんだけど、私より年上でも、子供には違いない)
 完全には払拭できなかった。加倉井はリストを返して礼を言うと、どうすれば確かめ
られるかを考え始めた。が、程なくして木原の声に邪魔された。
「ねえ、加倉井さんはどっちが相手役としてやりやすいのよ?」
 まだ火の粉は飛んでいるようだ。

「見学に来ているあの人は、何者ですか」
 休憩に入るや、パットが聞いてきた。加倉井の肩をかすめるようにして投げ掛ける視
線の先には、その見学者が立っている。やや細身の中背で、歳は四十代半ば辺りに見え
よう。本日はスタジオ撮影なのだが、この中にいる誰とも異質な空気を放っている。
「加倉井さんと親しく話していたようですから、お知り合いなんでしょう?」
「親しいとまでは言えませんが、知り合いです。私のプロダクションの先輩が、コマー
シャルで共演したことがあるんです」
 答えながら、振り返って見学者の方を向いた加倉井。
「役者やタレントではなくて、格闘技の指導者なの」
「道理で。よい体付きをしていると思っていました」
 格闘技と聞き、パットの目が輝いたよう。加倉井は気付かぬふりをして続けた。
「私は全然詳しくないけれども、空手とキックボクシングの経歴があって、ストライク
という大会でチャンピオンになったこともあるって」
「凄い。その大会、知っています。名前も知っているかもしれない。映像や写真がほと
んどなく、あまり自信ありませんが……藤村忠雄(ふじむらただお)選手では?」
「あら、本当に知ってるなんて。だいぶ前に引退されたから、選手と呼ぶのは間違いか
もしれないですけど」
「武道、武術をやる人間に、引退はありませんよ。生涯現役に違いありません」
「パット、とっても嬉しそう。紹介しましょうか」
「ぜひ」
 休憩の残り時間が気になったが、加倉井はパットを藤村の前に連れて行った。紹介を
するまでもなく、藤村はパットについて既に聞いていた。
「突然、お邪魔して申し訳ない。気になるようなら、姿を消します」
「いえいえ、とんでもない」
 パットは即座に否定した。そして自分が格闘技をやっていること、それを演技に活か
していることなどを盛んにアピール?する。藤村の方も承知のことだったらしく、「今
日はアクションシーンがないとのことで、残念だな」なんて応じていた。
「藤村さんは、どうして見学に? コマーシャルの続編が決まったとしても、ここへ来
るのはおかしい気がするんですけど」
 加倉井が問うと、藤村は首を曖昧に振った。
「いや、コマーシャルじゃないよ。敵役で出てみないかって、お誘いを受けてね。子供
向け番組と聞いたけど、チャレンジすることは好きだから、前向きに考えてるんだ」
「じゃあ、決定したら、私達と藤村さんが戦うんですね?」
「多分ね。ああ、喋る芝居は苦手だから、台詞のない役柄にしてもらわないといけな
い。コマーシャルで懲りたよ」
 藤村出演の精肉メーカーのテレビCMは、素人丸出しの棒読みで一時有名になった。
思い出して苦笑いする藤村の横に、監督と番組プロデューサーらが立った。
「藤村さん、もしよろしかったら、パット君と軽く手合わせしてみるのはどうです? 
無論、型だけですが」
 プロデューサーが唐突に提案した。いや、藤村忠雄のドラマ出演が頭にあるのだった
ら、当然の提案なのかもしれないが。
「僕はかまいません」
「僕もです」
 藤村が受ける返事に、食い込み気味に答を被せるパット。
「ただ、スペースが見当たらないようですが」
「そんなに派手に動き回らなくても、その場でか〜るく。段取りを詳細に決める暇はさ
すがにありませんから、際限のない場所でやると、危険度が高くなるのでは」
「それもそうです。パット君はそれでもかまわないかな」
「もちろんですとも。型で手合わせ願えるだけで、充分すぎるほど幸福なくらいですか
ら」
 パットの日本語は表現が過剰になって、少々おかしくなったようだ。結局、スタジオ
の隅っこに約四メートル四方の空きスペースを見付け、そこで試し合うことになった。
 身長もリーチも藤村が上回るが、大差はない。演舞なら、二人の体格が近ければ美し
いものに、体格差が大きければ派手なものに仕上がりやすいだろう。しかし今からやる
のは、ほぼぶっつけ本番のアクション。どうなるかは、事前の簡単で短い打ち合わせ
を、どれだけ忠実に実行できるかに掛かってくる。
「トレーニングは欠かしていないが、寄る年波で動き自体は鈍くなってると思うので、
スピードは君から合わせてくれるとありがたい」
「了解しました。あ、それと、もしドラマ出演が決まったら、最終的には僕らが勝つ台
本でしょうから、今日は藤村さんが勝つパターンでいかがでしょう」
「花を持たせてくれるということかい」
 往年の大選手を相手に、舐めた発言をしたとも受け取れる。藤村はしかし、パットの
提案を笑って受け入れた。
 他にも色々と取り決めたあと、互いの突きや蹴りのスピード及び間合いを予習してお
く目的で、それぞれが数回ずつ、パンチとキックを繰り出し、空を切った。
 そして二人は無言のまま、合図を待つことなく、急に始まった。
 仕掛けたのはパット。カンフーの使い手、それもムービースターのカンフーをイメー
ジしているらしく、大げさな動作と奇声から助走を付けての跳び蹴りで先制攻撃。かわ
す藤村は、キックボクサーのステップだったが、距離を取ってからは空手家のようにど
っしり構える。パットが向き直ったところへ一気に距離を詰め、胴体目掛けて突きを四
連続で放つ。もちろん、実際にはごく軽く当てているだけのはずだが、迫力があった。
よろめきながら離れたパットは、口元を拭う動作を入れ、態勢を整えると、身体を沈め
片足を伸ばした。かと思うと相手の下に潜り込むスライディング。一度、二度とかわす
も、三度目で足払いを受け、今度は藤村がよろめく。姿勢を戻せない内に、パットが突
きの連打。藤村のそれよりは軽いが、その分、数が多い。バランスを一層崩した藤村
は、倒れそうな仕種に紛れて前蹴り一閃。パットは寸前で避け、バク転を披露。再び立
ったところへ、藤村がバックスピンキック。
 と、ここでパットが一歩踏み出したせいで、藤村との間合いが詰まった。藤村の蹴り
足をパットが抱え込むような形になり、もつれて二人とも倒れてしまった。上になった
パットが突きを落とすポーズを一度して、離れる。
 改めて距離を作った二人は、アイコンタクトと手の指を使って、もう一回同じことを
するか?という確認を取った。再開後、藤村のバックスピンを、今度はパットも巧く当
たりに行き、派手に倒れてみせた。素早く起き上がった藤村が、先程のパットのよう
に、振り下ろす突きを喉元に当てて――実際は素早く触れるだけ――、アクション終了
となった。
 周りで見ていた者は皆一斉に拍手した。感嘆の声もこぼれている。
「パット君、やるねえ。演技だけに使うのは惜しいくらいだ」
「いえいえ。藤村さんに引っ張っていただいたからこそ、動けたんです」
「こちらこそ、久々だったから疲れたよ」
「まさかそんな。現役を離れているとは信じられないくらい、きれがあって、驚きまし
た。当たり前ですが、プロは違いますね」
 パットは爽やかに笑いながら、藤村の両手を取って、深々と頭を下げていた。

 藤村忠雄が去ったあと、撮影は再スタートした。パットは興奮が残っていたか、しば
らくは何度か撮り直しになったが、しばらくするとそれもなくなった。
 結果的に、予定されていたスケジュール通りに撮影を消化し、この日は終わった。
「パット。お話しする時間ある? 少しでいいんだけど」
 加倉井は控室に戻る前にパットに声を掛け、約束を取り付けた。着替えが終わってか
ら、スタジオの待合室で話す時間を作ってもらった。
「お待たせしました。すみません」
 撮影を通じて仲がよくなり、フランクに話せる間柄にはなっていた。とは言え、キャ
リアが上の相手を、こちらの用事で足止めしておいて、あとから来たのでは申し訳な
い。加倉井は頭を下げた。
「いいよ、気にしなくて。女性の方が身だしなみに時間が掛かるのは、当然だからね」
 パットは近くの椅子に座るよう、加倉井を促した。それに従い、すぐ隣の椅子に腰を
据える加倉井。
「それで話は何かな」
「率直に物申しますけど、怒らないでくださいね」
「うん? 断る必要なんてない。仕事に関することで正当な指摘や要望なら、僕は受け
入れる度量を持っているよ」
 若干の緊張を顔に浮かべながらも、微笑するパット。加倉井は彼の目を見つめた。
「それじゃ言います。パットって、負けず嫌いなところ、あるよね」
「まあ、程度の差はあっても、男なら負けず嫌いな面は持ってるんじゃないかな」
「男に限らないわ。私も負けず嫌いですから」
「ふうん?」
「前から、ちょっと引っ掛かってたことがあって。今日、藤村さんから意見を伺って、
確信に近いものを得たわ。パット、この前の肘がみぞおちに入ったのって、わざとでし
ょ?」
「……どうしてそう思うんだい」
 ほんの一瞬、面食らった風に目を見開いたパット。すぐ笑顔に戻り、聞き返す。
「あなたほどできる人なら、肘が相手に当たったなら、分かるはずよ。なのに、問題の
撮影の際、あなたは倒れた私に『どこかみぞおちに入りましたか』と言った。肘と分か
っていないなんておかしいと思ったのは、あとになってからだけれどね」
「確かに、当たったのが肘だったのは分かっていたよ。でも、わざとじゃない。あのと
き気が動転して、肘と膝、どっちがエルボーだったかを度忘れしちゃって、それで『ど
こか』なんて言っちゃったんだよ」
「動転した? その割には、同じことを繰り返しやっているみたいだけれども」
 加倉井は胸元のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。長机の上に広げて
みせる。そこには、パット・リーがアクションシーンの撮影で起こしたアクシデント三
件について、その詳細が書かれていた。
「これは……」
「日本語、どこまで読めるのか知らないから、こっちでざっと説明すると……まず、こ
の作品では師匠役の男優のお腹に肘を入れてるわね。次は作中でも芸能界でもライバル
である男優に、台本にない中段蹴りと肘を入れている。三つ目は、鬼教師役の男優に、
また肘」
「……こんな細かいことは表に出ないよう、伏せさせたはずなんだけどな」
「パットは日本の事情に詳しくないでしょうけど、私の所属するところは大手の一つ
で、それなりに力があるのよ。調べれば、ある程度のことは分かる」
「それは知らなかった。油断してたよ」
 力が抜けたように口元で笑うと、パットは座ったまま、大きく伸びをした。
「認めるのね?」
「うん、まあ、証拠はないけど、認めざるを得ない。今後、撮影を続けるにはそうしな
いと無理だろうし」
「どうしてこんなことをしてきたのか、聞かせてもらえる?」
「……あの、答える前に、他言無用を約束して欲しいんだけど、無理かな」
 パットは両手を組み合わせ、拝むように懇願してきた。加倉井は考えるふりをして、
焦らしてから承知の意を示した。
「私だって、このドラマの撮影は最後まできちんとやりたいもの。それで、理由は?」
「実は僕は元々、プロ格闘家志望でさ。そのためにトレーニングしていたのを、親が何
を勘違いしたのか、芸能のオーディションに応募しちゃって、とんとん拍子に合格しち
ゃって、芸能界に入っちゃった。名前を売ってからプロ格闘家デビューすれば格好いい
とか言われてね。でも、自分で言うのもあれだけど、顔がいいのとアクションができる
だけで、演技は平凡でも人気が出てさ。いつのまにかプロ格闘家の道はなかったことに
されてた」
「自慢はたくさん。早く続きを」
「それで……撮影でアクションシーン、特に格闘技を交えたアクションがある度に、本
当だったらこんな奴らには負けないのに、とか、この中で一番強いのは自分なんだぞっ
ていう気持ちが膨らんでね。時々、実力を示したくて溜まらなくなるんだ。あ、今日の
藤村さんは強いね。ちょっと仕掛けてみたけれど、簡単に流された。そのあとで、しっ
かり喉にぎゅっと力を入れられたし」
 パットの答を聞きながら、加倉井は、ああ最後のやり取りって二人の間ではそういう
ことが行われていたんだ、と理解した。
「実力を示すと言ったわね。女の私にまで? 以前の三回にしても、相手は演技のみで
実際は素人同然でしょうに」
「そこは自尊心の沸点に触れるようなことがあったから、と言えばいいのかなあ」
 パットが自尊心なんて言葉を使うものだから、どんなことがあったかしらと自分のパ
ットに対する言動を顧みる加倉井。が、特に思い当たる節はない。
「激しく投げられたり、平手打ちされたりしたら、抑えがたまに効かなくなるんだ。だ
から、加倉井さんの場合は、平手打ちが痛かったから、よしここで知らしめねばと考え
てしまったんだよ」
「……それだけ?」
「うん、他には何もない」
 当たり前のように答えるパット。理解してもらえて当然といった体だ。
(ちっちゃ! 呆れた。年上なのに、なんで子供なの)
 非難する言葉を一度に大量に思い付いた加倉井。引きつりそうな笑顔の下で、どうに
かこうにか飲み込んでおく。
(これから芸能活動を続けるのに、そんな性格だといずれ絶対に衝突が起きて、うまく
行かなくなるわ。分かって言ってるのかしら? もっと精神的にも成長して、器の大き
な人にならないと。――私の知ったことではないけれども)
 加倉井は若いアクションスターに何とも言えない視線を向けるのだった。

            *             *

 思い出にまた微苦笑を浮かべていた自分に気付き、加倉井舞美は我に返った。
(器の大きな人になれてないのね、パットは)
 パット・リーに関する記事は読まずに、自分の記事を探す。そして一面にやっと辿り
着いた次第。
「えっ」
 一面とはその新聞の顔。トップの扱いを受けたとなると、普通なら喜びそうなものだ
が、今回は事情が全く異なったのである。
「何よこれはっ」
 だから、加倉井は問題の新聞を左右に引っ張った。破ける寸前で、マネージャーが止
めに入る。マネージャーは一足先に、一面に目を通したようだ。
「だめよ。抑えて抑えて」
「……新聞紙が案外丈夫なことを確かめられたわ」
 皺のよった新聞を近くのテーブルに放り出し、マネージャーに向き直る。事務所の一
室だから、人目を気にする必要はない。それ以前に、ビルのワンフロア全てがグローセ
ベーアなので、部外者は基本的にはいない。
「でも、これは怒って当然よね?」
「気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 ネット上のサイト閲覧で済まさず、わざわざ紙媒体を購入してきたのには理由があ
る。スポーツ紙の見出しは、スタンドに挿した状態では、次のような言葉が目立つよう
に文字が配されていた。
『加倉井舞美 好き 男性器 大きい』
 こういう手法が古くからあることは充分に認識済み。だが、まさか自分が餌食になる
とは、心構えができていなかった。向こうは、こちらが成人するのを待っていたのだろ
うか。
「マネージャー、前もってチェックしたんでしょうね?」
「したのは本文とそのページのレイアウトだけ。まさか一面見出しに使われるなんて、
考えもしなかったから」
「まったく。してやられたってわけね。抗議は?」
「当然、電話を入れたけれども、浦川さんがつかまらなくて。代わりの人が言うには、
大きなスポーツイベントが中止で紙面が空いたから、ネームバリューを考慮して使わせ
ていただいた、だそうよ」
「取って付けたような……」
 最後まで言う気力が失せて、加倉井は鼻で息をついた。
「どうせ、他にも早々と広まってるんでしょうね」
「他のサイトの芸能ニュースに、ネタとして取り上げられている」
「腹立たしいけれども、我慢するほかなさそうね。一日も経てば、目立たなくなるでし
ょ」
「今後を考えると、浦川さんとの付き合い方を、見直さないといけないかもね」
 マネージャーの言に首肯した加倉井はことの発端となった質問を思い起こした。
(好きな異性のタイプ、か。次に似た質問をされたときは、はっきり明確に答えられる
ようにしておくべきかしら)
 そんなことを考えた加倉井の脳裏に、小学生時代の同級生の名前が浮かんだ。少し前
まで思い出していたせいに違いない。頭を振って追い払った。その名前が誰なのかは、
彼女だけの秘密。

――『カグライダンス』終




#513/554 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/06/27  22:49  (325)
愛しかけるマネ <前>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:14 修正 第2版
 事務所での打ち合わせの最後に、初めての経験となる仕事を持ち掛けられた。
「どっきり番組?」
 マネージャーを務める杉本からの話に、純子はおうむ返しをした。声には、訝かる気
持ちがそのまま乗っている。
 すると杉本は、「え、知らない? 仕掛け人がいて、有名人を驚かせる」と当たり前
の説明を始めた。純子はすぐさま、顔の前で片手を振った。
「いえ、そうじゃなくって、どっきり番組の出演話を、私に全て明かしてしまって大丈
夫なのでしょうか」
「……」
「ひょっとして、仕掛け人の役ですか」
「……今の、忘れてもらえない?」
 忘れろということは、仕掛け人ではなく仕掛けられる方らしい。純子は即答した。
「無理です」
「だよねー。じゃあ、だまされるふり、できないかな」
「そういうのはあんまり得意じゃありませんが……」
 演技の一環と思えばできないことはない、かもしれない。
「杉本さん。このお話、だめになるとして――」
「どうしてだめになると仮定するの」
「えっと、多分、そうなるんじゃないかなと」
 ちょっとくらい怒った方がいいかしらと思った純子だが、ここはやめておいた。第一
に、怒るのは苦手だ。相手のためとしても、うまく言う自信がない。第二に、杉本の掴
み所のなさがある。打たれ強いのか弱いのか。仕事上の些細なミスをやらかしても半日
と経たない内にけろっとしてるかと思ったら、長々と引き摺って気にしてる場合もあ
る。
「どんなどっきりで、他に芸能人の方が絡んでくるのか、気になったんです。だめにな
るならないとは別に、ここまでばらしちゃったんだから、いいですよね?」
「う……内容は言えない。関係してる人については、共演NGじゃないかどうか、遠回
しに聞くように言われていたんだった」
「遠回し」
「共演NGなんて君にはほぼゼロだから、忘れてたんだよぉ」
「もういいですから。どなたなんです?」
「厳密を期すと、芸能人じゃない。古生物学者の天野佳林(あまのかりん)氏。知って
ると思うけど、男性」
「知ってるも何も、有名人じゃないですか」
 二年ほど前からテレビ番組に出だした大学教授。髪はロマンスグレーだが若い顔立ち
で、えらがやや張っているせいでシャープな印象を与える。二枚目と言えば二枚目。喋
りの方は、古生物のことを分かり易く説明する、そのソフトな語り口が受けた。当初は
動物番組にたまにゲストに出たり、化石発掘のニュースで解説をしたりといった程度だ
ったのが、アノマロカリスとシーラカンスをデフォルメキャラクターにしたアニメが子
供を中心にヒットしたのがきっかけで、一時期は引っ張りだこの人気に。今は落ち着い
てきたが、それでもしばしば出演しているのを見掛ける。
「面識はないよね?」
「ありません。前からお目にかかりたいなと思ってましたけど。というか、何故、共演
NGを心配されなくちゃいけないのか理解できませんよ〜」
「そりゃあ、君の化石好きは、僕らは知っていても、プロフィールに書いてるわけじゃ
ないから。企画を持って来た人だって、生き物全般だめっていう女の子がいることを念
頭に、聞いてきたんだと思うよ」
「そういうものなんですね」
「それで……僕としては、受けて欲しい。失敗を隠すためにも」
「自覚はあるんですね、失敗した自覚は」
「きついお言葉だなぁ。涙がちょちょぎれる」
 聞いたことのない表現が少し気になった純子だったが、聞き返すほどでもない。
「途中でぎくしゃくした空気になって、どっきり不発。挙げ句に、お蔵入りになっても
知りませんよ〜」
「そうなったとしても、君の責任じゃないし、させない」
 表情を急に引き締める杉本。黙っていれば割と整った顔立ちだし二枚目で通りそう、
などと関係のない感想を抱きながら、純子は答える。
「分かりました。何事も経験と思って、やります。台本が手に入ったとしても、私には
見せないでくださいね」
「そりゃ当然。最後の一線は越えさせないぞ」
 独り相撲という言葉が、純子の脳裏に浮かんだ。
(どっきり番組だけ、他の人が担当してくれた方がいいんじゃあ……)

 元々そういう線で行くつもりだったのか、それとも杉本がうまく言って変更がなった
のかは分からない。天野佳林との共演――つまりはどっきり番組の収録は、いつ行われ
るか未定とされた。
「なるほど」
 純子は低い声で合点した。本日の仕事で久住淳の格好をしていたせいで、男っぽく振
る舞おうという意識が抜けきっていなかったようだ。声の調子を改めて応える。
「いつになるか分からないということは、本当にだまされて、驚けるかもしれないです
ね」
「でも」
 隣に座る相羽が口を開いた。今、二人は普通乗用車の後部座席に並んで腰掛けてい
る。運転は杉本、助手席には相羽の母がいた。
「元々、その天野教授と会うのが初めてになるんだったら、意味がない気がしますが」
「それもそっか」
 純子は今気付いたような応答をしつつ、相槌を打った。杉本に気を遣って、そこは言
わないであげようと思っていたのに。
「はい、それは少し考えたら分かったんだけどね」
 少し考えなければ気付けなかったの? 杉本の言葉に心の中で突っ込みを入れた。
「もし可能であれば、他にも仕掛け人を用意していただけないでしょうかとお願いした
のだけれど、色よい返事はまだ」
「杉本さん。それ、言って大丈夫なの?」
 相羽母がびっくりしたように目を丸くして横を向き、指摘した。
「あ」
 杉本はブレーキを踏んだ。ショックで動揺し思わず踏んだ、のではない。黄色信号を
見て、安全に停まっただけのこと。
「万が一、僕の要望が通ったら、このこと自体、伏せておかなきゃいけないんだ!」
 叫ぶように自分のミスを確認すると、ハンドルに額を着けて深く大きな息を吐いた。
「いや、要望、通らないから大丈夫だ、うん」
 早々と立ち直った。要望は通らないと決めてかかるのもどうかと思うが。
「杉本さんはもしかすると、自分が口を滑らせたのが原因とは言ってないんじゃありま
せんか?」
 突然そんなことを言い出した相羽に、純子は「さすがにそれは」と止めに入った。
が、杉本は動揺を露わにし、あっさり認めた。
「どうして分かったのさ、信一君? 風谷美羽の勘が鋭くて、どっきりの企画だってば
れてしまったということにしといたけど」
「ひどいなあ」
「うちは人材不足だから、僕が抜けるわけに行かないのだ」
「人材不足以前に人数不足ってだけです」
「それで、何で分かった?」
「杉本さんが自分の失敗ですと認めていたなら、とても次善の策の要望なんて出せる雰
囲気じゃないだろうと考えただけですよ」
「はあ。そうか。言われてみれば確かに」
「杉本さん、ほんとに変よ。私生活で何か抱えてるんじゃないでしょうね?」
 と、息子に負けず劣らず、唐突な発言をした相羽の母。
(いつもよりも失敗の度が過ぎてる気がするけれど、プライベートがどうこうっていう
風でもないような。それとも、大人なら感じるものがあるのかな)
 純子はそんなことを思いつつ、杉本の返事を待つ。長い赤信号が終わり、運転手は
「うーん、特には」と答えて、車を発進させた。
「あ、でも、一つあると言えばあるかもしれません」
「何?」
「付き合っている彼女から、結婚してちょうだいサインを受け取った気がするんです」
「ええーっ?」
 一瞬にして騒がしくなる車内。蜂の巣をつついたまでは行かないにしても、皆の言葉
が重なって、ほとんど聞き取れない状態が二十秒くらい続いた。
「そんなにおかしいですか」
 次の赤信号で停まったタイミングで、車の中はようやく静かになった。
「おかしくはなくても、杉本さんに今までそんな素振り、全くなかったものだから、驚
いてしまって」
 相羽の母が言い、後部座席で子供二人がうんうんと首を縦に振る。
「まあ、隠すつもりはあったんですよね〜」
 後ろから横顔を見やると、何だか嬉しそう。目を細め、口元を緩ませ、その内鼻歌で
も唄い始めそうだ。
「あの、お相手の方はどんな人なんですか」
 純子は思わず聞いた。声が普段のものになっている。
「言ってもいいけれど、内緒にしてね。ここだけの秘密」
「はい、それはもちろん」
 今この車に乗っている面々の中で、一番口が軽いのは杉本だろう。飛び抜けて軽い。
その当人が口外無用というのは、どことなく変な感じだった。
 それはともかく、相羽母子も口外しないと約束すると、杉本は口を割った。
「ほんとにお願いしますよ。彼女って一応、芸能人なもので」
「――!」
 最前、結婚話をするほどの彼女がいると杉本が言ったときと同様かそれ以上の騒がし
さになった。漫画で描くとしたら、道路の上で車が跳ねている。
「だ、誰ですか」
 相羽の母は子供達よりも慌てた反応を示していた。
「やだなあ、相羽さん。そんな飛び付きそうな顔をしなくても」
「いえ、緊急事態だわ。話を聞かない内から言いたくないけれど、何かスキャンダルに
発展したら、お相手の所属事務所に迷惑が掛かるかもしれないし、こちらにだって」
「そうですかー? 客観的に見ればそういう恐れを感じるのは無理ないかもしれません
けども」
「いいから早く、名前を教えて」
「はいはい。松川世里香(まつかわせりか)さんです」
「……心の準備をしていたから、もう驚かないと思っていたけど、驚いた」
 後部座席の二人も驚いていた。
(松川世里香……さんて、あの?)
 純子より一回りは上の世代で、今となっては元アイドルとすべきだろう。現在はバラ
エティがメインのタレント。一時、下の名前を片仮名のセリカにして、“なんちゃって
ハーフ”のキャラクターを演じていた(ハーフを演じたのではなく、飽くまで“なんち
ゃってハーフ”だ)。純子も面識があるにはある。某ファッションブランドのライト層
向けイベントのゲストとして松川が来たときに、挨拶した程度だが。
「お付き合いはいつから?」
「尋問みたいだなあ。えっと、三年目に入ったとこだと思います」
「先方の事務所は、このことをご存知?」
「多分、知らないのじゃないかと。本人が言ってれば別ですが。――あ、行き過ぎてし
まいました」
 突然何のことかと思いきや、左折すべき道を通り過ぎてしまったらしい。杉本の今日
の役目は、純子と相羽母とを撮影スタジオに迎えに行き、その後、柔斗の道場で相羽信
一をピックアップ(社内規定ではだめだが、事前に承諾を取ってある)し、それぞれ自
宅まで送り届けるというもの。
「Uターンできそうにないな。遠回りになるかもですが、この先で左折しますねー」
 今、話せる時間が増えるのは、相羽母にとっては歓迎だろう。
「逆に、こっちは知ってるのかしら?」
「こっち、とは」
「市川さんよ。あなたのボスは知っているの?」
「言ってないです」
「そう。困ったことにならなきゃいいんだけど」
 ふぅ、と憂鬱げに息を吐く相羽母。
「できることなら、すぐにでも話をしておきたいところなのに」
 子供のことを思うと、そうは言ってられない。そんなニュアンスが感じられた。
「杉本さん。とりあえず、返事は待ってください」
「返事? ああ、彼女への。了解しました。というか、どう返事するかを決めかねてい
るので」
「市川さんに報告するつもりだけれど、よろしいですね」
「仕方ないです。隠し続けるのも潮時だと感じていましたし、覚悟して打ち明けたんで
すから」
 何故かしら爽やかな調子で杉本が言う。
(恋愛を語るとイメージが変わる人だったんだ、杉本さん)
 純子は妙に感心した。
 隣の相羽をふと見ると、いつの間にか興味が萎んだのか、窓の外を眺めていた。

 そんな一騒動があって以来、杉本に再び会えたのは三日後だった。
「どうでした?」
「所属タレントに自分の恋バナをする趣味は、持ち合わせてないんだけどなあ」
 恋バナのニュアンスがちょっとおかしい気がしたが、純子は敢えて言わずに、話を前
進させる。これから仕事場へ送ってもらうのだが、当然のことながら、行きは帰りより
も時間的余裕がない。
「そうじゃなくてですね。市川さんから叱られませんでした?」
「叱られる? うーん、叱られたというか呆れられたというか。自社の商品に手を着け
るのがだめだからって、よそ様に手を出すとは!って」
「はあ」
「そういうつもりじゃないんだけどな。接近してきたのは、松川世里香さんの方なんだ
から」
「本当ですか、それ」
「嘘じゃないって。信じてよ」
 ルームミラーを通して、杉本の困ったような苦笑顔が捉えられた。
「きっかけはやっぱり、あのときですか。松川さんがイベントにゲストで来られた」
 そう質問してから、計算が合わないと気付いた純子。お付き合いして三年目と杉本は
言っていたが、くだんのファッションイベントは、一年ほど前の出来事だった。
「いつだったかなあ。正直言って、僕の方は最初の出会いを覚えてなくってさ。彼女が
僕を見掛けて、何か気になったみたいで」
「ふうん?」
 では他に松川世里香と同じ場所にいるような機会があったか、思い返してみた純子だ
が、特に記憶していない。
(二、三年前と言ったら、ファッション関連よりも映像作品に関わることが比較的多か
った気がする。あの頃、松川世里香さんと同じ仕事場になること……分かんないなあ。
まあ、テレビ局でならあり得るのかな。遠目にすれ違ったら、気付かずに挨拶なしって
場合もなくはないし)
 そう解釈することで納得し、気持ちを切り替える。今日の仕事は、関連するアニメの
番宣を兼ねた、テレビ番組のクイズコーナー出演だ。生放送で行われるケースが多い
が、今回は純子が学生であることが考慮され、収録。だから比較的気楽と言える。ライ
ブだと失敗の取り返しが付かないのに対し、収録なら最悪でも撮り直せる。さらに、挨
拶するべき関係者が別撮りだと少ないのは、精神的に非常に助かる。
 その関門たる挨拶をこなしたあと、早速スタジオ入りだ。
「もし答が分かっても、全問正解すると嫌味になるかもだから、ほどほどにね。局だっ
て自分のところの番組の宣伝、もし全問不正解でも時間はくれるに決まってる。適当に
ぼけて」
「はいはい」
 杉本のアドバイスを話半分に聞き流しつつ、送り出される。クイズは五問出題され、
一問正解につき十五秒のコマーシャルタイムをもらえる。全問正解すれば、七十五秒に
プラスして十五秒のボーナスが加算され、九十秒もらえる仕組みだ。
(九十秒をもらったとしても、間が持たないな)
 元々、そのアニメのスポットとして、十五秒バージョンと三十秒バージョンの二通り
が作られたが、もちろん純子は出演していない。アニメのキャラが登場し、アニメの見
せ場でこしらえられたCMだ。ドラマや映画だと出演者がコメントを喋るCMが多いの
に対し、アニメではまずない。事前特番でも制作されるのなら、レギュラー役の声優達
に主題歌を担当する歌手、監督、(いるのであれば)原作者が揃って出演となるだろう
けれど。
「おはようございます。よろしくお願いします……?」
 撮影の行われるスタジオに入るや、雰囲気の違いを感じ取った純子。もちろん、この
番組に出るのは初めてで、普段を承知している訳ではないけれども、何やらぴりぴりし
た緊張感のある肌触りが場の空気にはあった。仮にこれがいつもの空気なら、撮影収録
の度にくたくたに疲れるに違いない。
 緊張感の中心は、探すまでもなく、じきに知れた。
 女性が二人、対峙している一角がある。若い人と、もっと若い人。二人とも面識があ
った。
「――どういうつもりでいるのかと聞いているのですが」
 丁寧語でもややぞんざいな口ぶりで言っているのは、より若い方。加倉井舞美だ。加
倉井と純子は現在、あるチョコレート製品のCMに揃って起用されて、“三姉妹”設定
の内の二人である。一緒に撮影したばかりと言っていい。一つ年上ということにされた
加倉井は、少々不満そうではあったが、仲よくやっている。
「そう言われても、私にも都合がありましたから」
 加倉井の詰問調に怯むことなく応じたのは、松川世里香。そう、杉本の言っていたお
相手だ。テレビを通して見るよりも大人びて感じるのは、普段の松川世里香に近いとい
うことだろうか。あるいは、離れたところからでも、その化粧の濃さが分かるせいかも
しれない。
「何か問題でも?」
「問題? あるわ」
 我慢できなくなった、というよりも我慢するのをやめた風に、加倉井が言葉遣いを変
化させた。
「三度誘って、三度ともドタキャンされちゃ、こちらの予定が狂う」
「あら。困るほどお忙しいんでしたか? それはそれは失礼をしました」
 松川は相変わらずのペースである。足先が出入り口の方を向いているのだから、もう
用事はないはずだが、何故かスタジオを出て行こうとしない。無論、彼女の前に加倉井
が立っているのだが、ちょっと避ければ済む話。なのにそうはせずに、どっしり構えて
いた。やり取りを楽しむかのように。
 周りには男女合わせて十名ほどの人数がいるのだが、止めかねているのは雰囲気で分
かった。加倉井舞美は若手ながら安定した実力を誇る女優だし、松川世里香だって浮き
沈みこそ経てきたが今また何度目かのブレイクを果たした人気タレントだ。二人とも
に、マネージャーと思しき存在がいないことも、状況に拍車を掛けている。
「あの。何があったんですか」
 純子は一番近くにいたスタッフに小声で聞いた。小柄だががっしりした体付きの男性
スタッフは、その場を飛び退くように振り返った。そして口を開いたのだが、彼の声が
発せられるよりも早く、加倉井が反応した。
「ちょうどよかった。あなたに聞いてもらって、判断してもらいましょう」
 いきなりそんなことを言って、純子を手招きする。戸惑いと焦りと不安を覚えた純子
だったが、断りづらい空気に流されてしまった。仕方なく、歩を進める。加倉井と松川
の周りを囲んでいた人垣が崩れ、その間を気持ちゆっくり歩く。
(うわ〜、何か知らないけれども巻き込まれた? 事の次第が分からないまま行くの
は、凄く嫌な予感が)
 対策の立てようがないまま、加倉井の右隣に立つ純子。ここは少しでも自分のペース
を保とうと、加倉井と松川に「おはようございます」で始まる芸能界流の挨拶をした。
それから目で加倉井に尋ねる。
 加倉井は純子の挨拶に些か呆れたようだったが、怒りが収まった様子は微塵もない。
「あなた、松川世里香さんはご存知?」
「も、もちろん。お会いするのはまだ二度目で、最初のときも挨拶を交わしたくらいだ
けど」
 改めて松川に向き直り、目で礼をする。松川は同じ仕種で返してきた。
「そうなの。よかったわね」
 加倉井の言わんとする意味が掴めずに、純子は「よかった?」とおうむ返しした。
「今後、親しくなるつもりだったなら、ようく考えてからにしなさい。不愉快な目に遭
いたくないでしょ」
「不愉快って、加倉井さん、大げさね」
 松川が言葉を差し挟んだ。
「食事の誘いをキャンセルしたくらいで。よくあることでしょうに」
「三度、立て続けに土壇場になってキャンセルされたのは、初めてですけれども」
「それはあなたのキャリアじゃ仕方のないことかもしれない。私は経験あるわよ、三連
続ドタキャン」
「自分がされて不愉快なことを、他人にして平気だと?」
「その言い方だと、私がわざとあなたの誘いをドタキャンしたみたいに聞こえるわね」
「そうじゃないと誓って言えます?」
「証拠はあるの?」
 充分な説明がないまま、純子を挟んで、二人の応酬が再開されてしまった。どうやら
加倉井が松川を食事に誘い、松川も受けたものの、ぎりぎりになって断った。それが三
回連続で起きたらしい。
(あ、確かだいぶ前、同じ映画に出ていたんだわ、加倉井さんと松川さん。コメディ映
画のオールスターキャストで、どちらも脇役だったけど印象に残ってる。そのときの縁
で、加倉井さんが食事に誘ったのかな? だとしたら最初は仲よくやっていたはずなの
に、どうしてこんなことに。――え)
 推測を巡らせる純子の腕を、加倉井が引いた。不意のことだったので、バランスを崩
しそうになる。
「ねえ、風谷さん。察しのいいあなたのことだから、今ので飲み込めたと思うけれど、
どちらが悪い?」
「え? えーっと。まだ飲み込めてません」
「ほんとに? 掻い摘まんで言うと、私があの人を――」
 と、松川を遠慮ない手つきで指差した加倉井。
「――食事にお誘いしたのに、三度も振られてしまった。それも当日ぎりぎりになっ
て」
「ちょっと。自分の都合のいいことだけ言わないで」
 松川が再び割って入る。今度は明白に怒りを響かせた口ぶりだ。
「ドタキャンしたの、最初はあなたでしょ」
 えっ、という口元を覆いつつ、純子は加倉井を見やった。
「その点については、きちんと謝罪したつもりです。あなたも受け入れてくださったと
解釈しましたが」
 その後しばらく繰り広げられた話から推し量るに……一番初めに食事に誘ったのは、
松川。応じる返事をした加倉井だったが、前日になってドラマの撮り直しが決まり、や
むなく約束をキャンセルした。後日、お詫びの挨拶に行き、今度は加倉井の方から食事
に誘った。そこから三度、ドタキャンが繰り返されたという経緯のようだ。
「あなたの意見では、どちらが悪いと思う?」
 加倉井が改めて聞いてきた。
 事情は理解できた純子だったが、心境は全く改善しなかった。こんな状況でどう答え
ろと。

――つづく




#514/554 ●長編    *** コメント #513 ***
★タイトル (AZA     )  18/06/28  01:03  (332)
愛しかけるマネ <後>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:15 修正 第2版
「……」
 口を開き掛けて、何も言い出せないまま、また閉じる。
「どうしたの? 簡単でしょ、率直な意見を言えばいいだけ」
 加倉井の視線から逃げるように顔を逸らすと、今度は松川と目が合った。
「こんなこと聞かれても、困るだけよね。まだ若いんだし、マネージャーさんもいない
みたいだし。そう言えば杉本さんはお元気?」
「え――っと、はい、元気です」
 松川の台詞にも、どう対処すればいいのやら。取って付けたような杉本への言及が、
かえって松川と杉本の付き合いを真実らしく感じさせる。
(うー、どちらにも肩入れしにくいよ〜。直感だと、加倉井さんが筋を通してるのに、
松川さんがわざとキャンセルを重ねてるように思えるけれど、ほんとに急用が入ったの
かもしれないし。だいたい、ここで加倉井さんの味方をして、杉本さんの恋愛に悪い影
響を及ぼしちゃあ、申し訳が立たない……。かといって、松川さんの味方をすれば、加
倉井さん怒るだろうなあ。一緒に仕事する機会も増えてるし、今後のことを思うと、隙
間風が吹くような事態は避けなくちゃ)
 心の中で懸命に考えている間にも、加倉井は「どうなのよ」とせっついてくるわ、松
川は意味ありげににこにこ微笑みかけてくるわで、追い込まれる。
 このあとの宣伝の仕事も頭にあり、急がねばならない。と言って、吹っ切って場を離
れるだけの度胸は、まだ持ち合わせていない純子であった。こういうとき、マネージ
ャーがそばにいれば、多少強引にでも引っ張ってくれるものかもしれないが、現状では
期待できない。そもそも、杉本のがここにいたらいたで、話がややこしくなる恐れも僅
かながらありそう。
 こうして切羽詰まった挙げ句、純子はふとした閃きを咄嗟に口走った。
「じゃあ、私がお二人を食事に誘います!」
「は?」
 怪訝な反応をしたのは加倉井も松川も同じ。声を出したのは、加倉井だけだったが。
「関係ない私が言うのは差し出がましいから、とやかく言いません。二人に仲直りして
もらう場を、私が作ります! どうでしょうか」
 言い出したからには止められない。純子は加倉井の手をぎゅっと握りながら、目は松
川の方へ向けた。最低限、この場はこれで収めてください!と念じる。
 すると松川の視線が動くのが分かった。どうやら加倉井と目を合わせたようだ。もち
ろん、言葉を交わしてはいない。ただ、予想外の提案に困惑しつつも、加倉井の意向を
探る気にはなったのかもしれない。
「……風谷さん、あなたって」
 加倉井の声は、最前までの熱が引いて、冷めていた。
「その食事の席が、今以上の修羅場になったらどうするつもり?」
「そのときはそのとき。思い切りやりあって、すっきりさせてもらえたらいいなあ……
って。おかしいでしょうか?」
「……おかしい。あなたの発想が面白いって意味で」
 誉められているのだろうか。細かいことは気にせず、押し切ろう。
「さあ、のんびりしてないで決めませんか。皆さんには及ばないですけれども、私だっ
ていいお店、ちょっとは知ってるんですよ」
「あなたの場合、ほとんどが鷲宇憲親経由の情報でしょ」
「そ、それは当たってますけど」
「ま、私はいいわ。“姉”のよしみであなたの提案に乗ってあげる。あとは相手次第」
 加倉井は松川に最終判断という名のボールを投げた。芸能界の先輩を立てたとも言え
るし、器が試される面倒な決定権でもある。
「……私も、そちらのかわいいモデルさんに免じて、応じてもいいけれども」
 この返答に一瞬、喜色を浮かべた純子だったが、含みを持たせた語尾に不安が残る。
「果たして日があるのかしら。曲がりなりにも、今人気のある三人の休暇が重なるよう
な都合のいい日が」
「あ」
 そうですねと言いそうになったが、踏み止まる。ここでそうですねと答えては、自分
は二人と肩を並べる程の芸能人だと言ってるようなもの。
「私はどうとでもなりますから、皆さんの都合のいい日を教えてください。すぐには難
しいでしょうから、あとで連絡をくだされば合わせます」
「了解したわ」
 即答した松川。そのまま行こうとして、二、三歩歩いたところで立ち止まる。
「そうそう、連絡先を教えてもらわなくちゃね」
 杉本との親しいつながりを隠す意図があるんだろうなと察した純子。少し考え、杉本
の携帯番号を伝えた。互いに携帯端末の類を持ち込んでいないため、手書きのメモの形
で渡す。
 受け取った松川は特に何も言うことなく、スタジオを退出。ドアを開けるときに、マ
ネージャーらしき人が待ち構えていたのが見えた。
(ドアのすぐ前で待っているくらいなら、入って来てもいいんじゃないの? あの人が
いてくれたら、このもめごとももうちょっと早く解決したかもしれないのに〜)
 純子がそんな不満を抱いていると、加倉井のため息が聞こえた。
「加倉井さん?」
「どう転ぶか分からないし、お礼はまだ言わないけれども。あなたって、ほんっとうに
お人好しなところあるわね」
「そ、そう?」
「この業界、続けるのなら、取って喰われないようにせいぜい気を付けて。喰われると
きは、一人で喰われてね。巻き添えは御免だわ」
「そんなあ。でも、アドバイス、ありがとう」
 改めて加倉井の手を取って握った。加倉井はもう一度ため息をつくと、引きつり気味
の苦笑を浮かべた。

「会わなかったんですか?」
 帰りの車中、純子は意外さを込めてそう言った。
「うん。知らなかったし」
 運転席の杉本が淡々と答える。
「第一、知っていても会うわけにいかないんじゃないかなあ。他人の目が多すぎるっ
て」
 尤もな話だ。
 松川世里香と同じ仕事場に居合わせたのだから、事前に連絡を取り合ってちょっとで
も会う時間を作ったのではと考えた純子だったが、それは浅薄だったようだ。
(それを思うと、私の場合はまだ幸せなのかな……)
「ところで、松川さんと加倉井さんが揉めたって言ってたけれども、どのくらい? 険
悪ムード?」
 そう聞いてくる杉本の横顔は、いつもに比べるとずっと真剣な面持ちに見えた。
「どうなんだろ……。見た感じ、険悪でしたけど。がんばって取りなしたつもりなんで
すが、まだ結果は出てないわけですし」
「しょうがないよ。加倉井さんの性格は前から分かっていたとは言え、松川さんとぶつ
かるなんて想像できないもんな。びっくりしてベストの反応ができなかったとしたっ
て、誰も文句言わないよ」
「――どうするのがベストだったって言うんですかあ」
 少しむっときた純子は、対応に苦慮するそもそも原因の片棒を担いでいる杉本に聞き
返した。
「うーん、そう言われると困る。確かに難しい」
 杉本は簡単に引き下がる。こういう場合、責め立てて追い込んだつもりでも、杉本の
ように変わり身が早く、あっさり引ける人間相手には効果が薄い。
「仮に僕を呼んでもらっても、他の人がいる場で、何か松川さんに言える自信はないか
らなあ。はははは」
「じゃ、次にお二人だけで話すチャンスがあったら、ぜひ言ってくださいね。加倉井さ
んとも仲よくしてくださいって」
「がんばって言うよ。うちのタレントが板挟みで困ってるんだって言えば、効果抜群」
「何言ってるんですか。彼氏としての言葉の方が絶対に効き目ありますって」
「そうなるのかなあ。あ、でも、二人で話すより前に、松川さんが空いている日を連絡
してきたらどうしよう」
「ちょうどいいんじゃありませんか。三人で食事をする前に、杉本さんから念押しして
くれれば、松川さんも仲直りする気持ちを固めて来てくれるに違いない、うん、決まり
っ」
 事態収拾の目処が立った。そんな気がして、上機嫌になって言った純子だった。

 そしてその翌日の日曜日。雑誌のインタビューのお仕事だと聞かされて、純子はテレ
ビ局まで連れて来られた。運転手兼マネージャーの杉本は、所用があると言って、局を
離れてしまった。
(松川世里香さんに会いに行った、とか。まさかね)
 控室で一人座って待つ。インタビューの開始予定まで、小一時間はあった。時間を持
て余して考える内に、もやもやしたものが頭に浮かんできた。
(テーマが漠然としているのよね。最近の仕事とこれからの自分について、だなんて。
そんな語れるほどの人生経験ないし、こんな漠然としたインタビューを受けるほど、大
きな作品に関わっていない気がするんだけど。……そうだわ。何でテレビ局? 今ま
で、テレビ局で仕事があるときの待ち時間を利用して、雑誌などのインタビューを受け
てきたわ。雑誌単独のインタビューは、ホテルのロビーもしく部屋か、喫茶店。宣伝の
ために出版社を訪ねてそこで受ける形が多かった。わざわざ雑誌インタビューのためだ
けに、テレビ局に来るのは珍しい。というよりも、おかしい)
 純子は違和感の正体を突き詰めて考えてみた。対する答は程なくして降りてきた。
(もしかして――前に聞いてたどっきり番組? 前もって知らせることなしにやるって
言われたけれども、きょ、今日なのかしら? 天野佳林先生とどういった形で共演する
のか知らないけれども、対談形式だとしたら、インタビューに近いと言えなくもない…
…。どっきり番組だからこそ、テレビ局まで出向いた。ええ、筋は通る)
 と、そこまで推測を積み重ね、状況把握に努めた途端に、悲鳴を上げそうになった純
子。実際には黙っていたが、思わず空唾を飲み込んだ。
(どっきり番組ということは――この部屋に隠しカメラがあるかも?)
 途端に緊張が全身に回った。探してみたくなる。が、一方でうまくだまされなきゃい
けないんだから、隠しカメラ探しなんて言語道断、やっちゃだめと己に命じる。だけれ
ども、ゆったりできるはずの控室に、もしもカメラがセットされて撮影されているとし
たら、気が抜けない。
(まずいわ。私、スカートで来たのよ。低い位置にカメラがあったら、動きによっては
中が映っちゃう恐れが)
 頭に両手をやって、抱えるポーズをした。この姿も撮られているかもと思うと、何か
理由を付けなくてはという心理が生まれ、「ああ、覚えられない、台詞!」と口走って
みせた。
(だ、だめだわ。この短い間に、物凄い疲労感が)
 両肘をテーブルに着き、顔を手のひらで覆う。本当に隠しカメラがあるかまだ分から
ないというのに、意識過剰で動けなくなりそう。
(元々は、杉本さんのミスから始まってるんですからね! それなのにこんな、見え見
えの舞台を用意して……恨みます)
 部屋で待っているように言われていたが、息が詰まる。ちょっとくらいならいいだろ
うと、腰を上げた。ドアを少し開け、廊下を覗く。カメラを持った人物はいないよう
だ。
(もし行き違いになっても、ちょっと新鮮な空気を吸いに出てたって言えばいいわよ
ね。時間までには戻るつもりだし)
 そうやって自分を納得させて、外に踏み出そうとした刹那。
「やあやあ、お待たせしました」
 陽気な声が掛かった。純子が廊下へ出るのを待ち構えていたかのようなタイミング。
 声のした方向を振り返ると、知らない男性と女性のコンビ、さらに天野佳林その人が
いた。テレビ出演を終えたばかりといった体で、スーツ姿が決まっている。
 天野先生との初対面に少なからず感動を覚えた純子だったが、それと同等以上に気に
なるのはテレビカメラ。やはり見当たらないものの、女性の手にはデジタルカメラが握
られていた。
「事前にお知らせしていなかったと思いますが、本日のインタビューは天野佳林先生と
の対談形式でお願いしたいと考えています。風谷さんは、化石に興味をお持ちだと聞い
たものですから」
 男女二人はそんな前置きで始めて、それぞれ名刺を取り出し、自己紹介をした。続け
て、天野佳林との引き合わせ。ネクタイを少々緩めてから、当人が言った。
「天野佳林です。初めまして。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
「初めまして、風谷美羽と言います。天野先生のご活躍、テレビで常日頃から拝見して
います。難しいことを小さな子にも分かるくらいに、楽しく面白く話されるから、私も
大好きで、だから急なことに驚いてるんですが、とてもわくわくもしてるんです」
 とりあえず、正直な気持ちを一気に喋ることで、最初の不自然さは乗り切れた?

 純子の懸念、いや、確信に近い想像に反して、対談形式のインタビューは特段、テレ
ビ番組らしい仕掛けなしに終わりを迎えた。
(あれ? 杉本さんから聞いていた話と違うんですけど……いいのかな? ある意味、
びっくりはしてるけれども)
 何が何だか分からない。内心、混乱の嵐が吹いていた純子だった、表面上はきっちり
笑顔を作れている。天野佳林との対談が考えていた以上に楽しいものに終始したのが大
きい。
「それじゃあ、若干時間オーバーしてるところをすみませんが、最後にツーショットの
写真を何枚か、いただきたいと思います」
 男性スタッフの声に応じて、女性がカメラの準備を。純子は天野佳林と仲よく?収ま
った。
 これで終了と伝えられ、純子は心中、ほっとすると同時に疑問符もいっぱい浮かべて
いた。終わりと見せ掛けて最後にどっきりがあるのだろうか。警戒を完全には解かずに
いると、天野が脱いでいたジャケットに腕を通しながら話し掛けてきた。
「そうだ、風谷さん。サインをもらえないだろうか」
「え、サインですか」
 来たわ、と感じた純子。
(こんな学者先生が私なんかのサインを欲しがるはずがない)
 意識して身構えてしまう。いやいや、あくまで自然に振る舞わなくては。見事にだま
されることこそが目的。
「はい。実は、うちの子達があなたのファンだと、今朝になって聞かされましてね。男
と女一人ずつおりますが、二人揃ってあなたについて詳しいのなんの。私、出掛ける前
に色々教えられましたよ」
「はあ。ありがとうございます」
(なるほどね。お子さんがファンだということにすれば、不自然じゃないわ)
 芸の細かさに密かに感心している純子に、先程の男性スタッフからサインペンと色紙
が差し出される。
「先生に言われて、急いで用意したんですよ」
 と、天野へ笑いかける男性。
「すまなかったね。買っておく暇がなかったんだ。――それで、先走ってしまったよう
だが、サイン、いいだろうか?」
「え、はい、かまいません」
 そう答えてペンと色紙を受け取ろうとしたが、またも想像をしてしまった。
(これって強めに握ったら、電気が流れるやつ?)
 雷が大の苦手な純子だけに、電気も苦手な方である。だが待てと冷静になる。
(確か、電気が流れるのはボタンを押すタイプのボールペンとかシャープペンじゃなか
ったかしら? サインペンは押すところがない。スタッフさんだって、普通に持って
た。サイン色紙の方も電気的な機械仕掛けをするには、薄すぎるような)
 自然な動作でサインペンを右手、色紙二枚を左手で受け取った。電気ショックは無論
のこと、何の変哲もない。
「何てお書きしましょう?」
 天野に尋ねつつ、ペンのキャップを取る段になって、またもや嫌な想像が鎌首をもた
げる。
(キャップを外そうと強く捻ったら電気が来るとか?)
 もうこれくらいしかどっきりの仕掛けようがないでしょ!という意識が強くなった。
その余りに、逃げを打ってしまった
「あの、色紙を持ったままだとキャップが取れないので、開けてもらえますか」
 誰ともなしに言ったのだが、男性スタッフが開けてくれた。そしてやっぱり、何とも
ない。平気で開けた。ペンを返され、受け取っても感触はさっきと変わらなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 ペンをしげしげと見つめる純子に、天野が問われていた事柄を返す。
「ごく普通にお名前を。それから、みのるとさき、子供の名前なんですが、共に平仮名
で頼みますよ」
 純子は色紙を重ねて構え、一枚ずつ、サインペンを走らせた。現在の心理状態を考え
ると、上出来のサインが書けた。
「これでいいでしょうか」
「ええ、大丈夫。二人の大喜びする顔が目に浮かびます。本当にありがとう」
 終わった。どっきりではなかった?
 純子は何かに化かされたような心地でいた。が、天野が「それではお先に失礼を」と
部屋を出ようと横を通ったとき、はっと気付いて、切り替えた。
「あ、あの、すみません!」
 天野と男女二人が足を止めて振り返る。純子は対談相手に駆け寄って、お辞儀をしな
がらお願いした。
「私も、天野先生のサインをいただけませんか?」

 インタビューだか対談だか、あるいは不発のどっきり番組だか分からない仕事が終わ
って、しばらく経ってから杉本が控室に姿を見せた。
「遅いです、杉本さん」
「そう? 十分と遅れていないはずだけれど」
 十分近い遅刻でも大概だと思うが、そういったずれを見越して、余裕を持ってスケジ
ュールは組まれているので、大きな問題ではない。純子は音を立てて椅子から立ち上が
ると、その背もたれの縁に両手をついた。
「聞きたいことがあって待ちかねてたんです。だから、いつもよりもじれったく感じち
ゃって」
「何かあった?」
「終わったんだから、もうとぼけないでほしいな、杉本さん。お仕事ってインタビュー
と言うよりも、対談でしたよ。それも、天野佳林先生との」
「うん。そうだよね」
「……」
 捉えどころのないふにゃっとした返事に、純子は一瞬、二の句を継げなくなった。が
どうにか修正し、言葉を重ねる。
「どっきり番組だったんですよね? 私、ちゃんと覚えていたんですよ。雑誌インタビ
ューなのにテレビ局に来るから、おかしいと感じてたんです」
「うん、君の記憶力は僕よりずっと上だから、覚えてると思ってたよ。その上で、がっ
くりくるようなことを言うけれども、いいかい?」
「……何だか怖いですが、いいですよ」
 背もたれから手を離すと、握りこぶしを作って覚悟を決めるポーズを取る。
「実は、天野佳林先生とのどっきり番組、取りやめになったんだよねー」
「ええ? 意味が分からない。だって今日、さっき、天野先生が来られて……あ、ひょ
っとしてそっくりさん? 偽者の天野先生にサインをもらっちゃったんですか、私?」
 大騒ぎして、自らを指差す純子。その目の前で、過杉本はおなかを押さえる格好にな
って盛大に笑った。
「ち、違うって。どっきりじゃないって言ったのに。正真正銘、本物の天野佳林先生で
すよ、あの人は」
「わ、分かるように言ってください。大人しく聞きますから」
「だから、対談の仕事も正真正銘の本物で。テレビ局に来たのは、天野先生のご都合な
んだよね。出演番組の収録があって。それでも天野先生が君との対談を結構楽しみにさ
れていたみたいで、どっきり番組が取りやめになったのなら別口で何か仕事を一緒にで
きないかと言われたそうなんだよね。じゃあってことで、当初の予定をそのままスライ
ドさせて、風谷美羽と天野佳林の対談と相成ったわけ」
「……どっきりは完全になくなったんですか?」
 天野からそんな風に言われていたとはちょっとした感激ものだったが、今はそれに浸
っている場合でない。
「あー、どっきりはねえ、完全になくなったかと言われると、そうでもなくて」
「えっと、もしかすると、まずいことを質問しちゃいました? 近い将来、何もかも改
めて私をどっきりに引っ掛けるつもりでいるとか。だったら、もう聞きません」
 耳を塞ぐ格好をしてみせた純子。だが、案に相違して、杉本は首を横に振った。
「なくなったんじゃなくて、どう言えばいいのか……まあ、支度をして、出て来てよ。
外で待ってるから」
 奥歯に物が挟まった言い種になり、そそくさと廊下に出て行ってしまった。
 純子は急いで追い掛けた。支度なんて、とうにすんでいる。
「杉本さん!」
「ロビーで待ってるから、そんなに全力疾走しなくていいよ。むしろ、ゆっくり現れた
方がいいかなあ」
「ちょっと、どういう」
 意味なんですかという質問は途中で溶けて消えた。何度か角を折れ、ロビーへと通じ
る廊下に出たとき、その突き当たりの景色を見覚えのある人の影が横切った気がしたか
ら。
 とにかく、急ぎ足でテレビ局の広いロビーへと向かう。正面玄関を入ったところにあ
るホールまで戻って来ると、テレビカメラを担いだ人が二名ほどいるのが分かった。
「これって……まさか」
 ホールの一角を占めるロビーのソファ群に足を向ける純子。その正面に、二人の女性
が手を取り合ってひょいと現れた。さっき、純子が見た人影だ。
「このあと、食事に行く時間はあるかしら?」
「この通り、仲直りはもうしているから、安心して」
 加倉井舞美、松川世里香の順にそう言った。二人とも、意地悪げな満面の笑みを浮か
べていた。

「つまり……」
 完全にオフレコになったのを見計らい、純子は杉本に詰め寄った。詰め寄ったと言っ
ても、既に精神的に相当消耗しているため、迫力はなかったけれども。
「杉本さんが言っていた、別の人を仕掛け人にして私を引っ掛けるっていう要望は通っ
ていた。そうなんですね?」
「正解〜」
 ホールドアップの手つきをした杉本は、情けない声で認めた。加倉井・松川の両名と
は少し話ができたものの、とりあえず急ぎの仕事を片付けるからと、今はここにいな
い。
「だめ元で出した代替案が採用されたから、驚くのなんのって。まるで、僕自身がどっ
きりに掛けられた気分だったよ」
「それはそれとして」純子の華麗なるスルー。
「加倉井さんと松川さんは、ほんとに何にもなかったんですよね? 口喧嘩は全部お芝
居だったと」
「うんうん。さっき、カメラの回ってるときに言った通りですよ、はい」
「よかった」
 胸のつかえが取れた心地。気分がいくらかよくなった。
 腕を下ろした杉本は、「これで許してくれる?」と笑いかけてきた。純子は間を取っ
て考える振りをして、
「ううん、だめ。まだ聞きたいことがあるわ」
 と強い調子で言った。
「な何でしょう」
「あれも嘘なんですね? 加倉井さんと松川さんが仕掛け人だったということは、松川
さんが杉本さんと恋人関係っていう話。松川さんが仕掛け役を引き受けてくれたから、
急遽思い付いて恋人ってことにして、私がどちらの味方にもなれないようにした……」
 答は聞くまでもない。そう信じて疑わないまま質問した純子だった。しかし。
「さあ? どうなのかあ」
 杉本が答えるその表情はとぼけつつも、普段に比べると数段真面目なように見えなく
もなかった。

――『愛しかけるマネ』おわり




#515/554 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:11  (411)
そばにいるだけで 67−1   寺嶋公香
★内容
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」
 相羽の突然の“報告”に、唐沢は一瞬、我が耳を疑った。
「――はあ?」
 頓狂な声で反応して、次に「留学?」という単語を発声する前に、相羽の説明がどん
どん進む。
「唐沢に任せたい、というか頼みたいのは」
「ちょちょっと待て。ストップ! 留学だって? おまえが? それってやっぱあれ
か。J音楽院だな?」
「そう」
「今さら、何で蒸し返すんだよ」
「蒸し返すの使い方がおかしい」
「うるさい、知るか。おまえ、じゃあ、さっきの俺の見立ては間違いだったってか。ピ
アノを選ぶのかよ」
「……エリオット先生には前々から誘っていただいていた。お断りしていたのは、いく
つか理由があるけれども、日本にいてもエリオット先生に個人レッスンをつけていただ
けるという特別扱いに甘えていたからかもしれない。それがこの春、先生が国に戻られ
ると決まった時点で、気持ちが揺らいだ」
「……もしかして……クイズ番組の観覧に行ったとき、頻繁に電話が掛かってきていた
が、あれも留学の話だったのか」
「当たり。よく覚えてるな」
「おかしな感じは受けてたんだ。席を外してばかりだったから、何のために涼原さん達
の応援に来たんだよ!って」
「一応、肝心な場面には居合わせて、役に立ったろ」
「ふん。過去のことはもうどうでもいいさ。揺らいだだけだったのが、どうして決定に
至ったんだよっ」
「その辺は長くなるし、ややこしいし、話したくない。ただ、昨日のコンサートは直接
には関係ない。最終チェックみたいな位置づけだった。もっと前、先生の帰国には僕に
も責任の一端があると分かったのが大きいけれども、それだけでもないし」
「……」
 尋ねたいことはいっぱいあったが、唐沢は我慢した。本音を言えば、唐沢も少し以前
から、予感していた。違和感に近い勘に過ぎなかったが、相羽の身に何か大きな変化が
起きるんじゃないかと。その予感があったからこそ、今、留学話を打ち明けられても、
“この程度”で済んでいるんだと思う。もし予感していなければ、相羽とまた喧嘩にな
っていた。
 よく喋って渇いてきた口中を、空唾を二度飲み込むことで湿らせると、唐沢は相羽に
続きを促した。
「率直に言って、いない間、涼原さんが心配なんだ。僕はどちらも選ぶ」
「ここに来てのろけるたあ、面倒くせーな。心配って、粘着質なファンもどきみたいな
奴とかか。なら、涼原さんにさっさと留学のこと言って、連れてけよ」
 投げ遣りな口調になった唐沢。無論、唐沢本人も、その最善の策が実現困難であろう
ことは、充分に承知している。
「できるのならそうしたい。できそうにないから……心配してるんだ」
「……まったく。それで? 俺に何をしろってんだ」
「涼原さんのボディガードになって守る。学校の行き帰りが心配なんだ。他は事務所の
人が付いてくれる。だから、学校にも迎えが来るときなんかは、問題ないが」
「あのな。何度か言ったよな。俺、体力はそこそこ自信あるが、喧嘩はほとんどしたこ
とないぜ。一番最近でも……おまえとしたやつが最後だ」
 心身ともに痛さを思い出して、少し笑ってしまった。が、すぐに戻る。
「いいんだ。じゅ――涼原さんを一人にしないことが大事なんだ。前にも言ったよう
に、男が一人でもついていれば、だいぶ変わってくるはず」
「変だな。具体的に危険が迫ってる口ぶりに聞こえたぞ。……勘違いで終わったけれ
ど、パン屋でのことも、実際には予兆があったのか? バイトを始めたのが噂になって
変な輩が寄ってくるのを心配しただけと思ってたが」
「微妙なんだが……ファンレターに混じって、変なのが稀に届くらしいんだ。今のとこ
ろ、実害は出ていない」
「そうか、ファンレターね。今後も何もないとは限らないってわけだ。しかし、ボディ
ガードってんなら、他にふさわしいのがいるだろうに。ほれ、道場仲間が」
「考えなかったわけじゃない。でも、同じ学校じゃないと厳しい。さすがに、こっちの
学校まで遠回りしてくれとは言えないし、仮にOKだったとしても時間がうまく合うと
は思えない」
「時間なら俺だって、委員長やっているから、遅くなることがあるかもしれないぜ。涼
原さんと合うかどうか分からん」
「そのときはしょうがない。涼原さんが待てるようなら、待ってもらう」
 話す内に、唐沢は想像が付いた。
(留学を勝手に決めて、涼原さんに対して後ろめたい気持ちがある。だから、せめて護
衛役を選んでおこうってことかいな)
 唐沢は少し間を取り、考えた。そしてやおら、座っている姿勢を崩して足を投げ出す
ような格好を取った。
「ご指名は光栄なんだけどさ……ボディガードがVIPを狙うのは簡単だぜ」
「うん? 何の話?」
「おまえが涼原さんを残していくのなら、俺、アプローチするかもしれねえぞってこ
と」
「……」
 まじまじと見返してくる相羽。唐沢は敢えて挑発目的で、口元に笑みを浮かべて横顔
を見せた。
(試すような真似をして悪いな、相羽。俺はこの話、涼原さんのためになることを一番
に考える。俺にはっきり言うぐらいだから、今さら留学を翻意させるのは難しいんだろ
うけど、揺さぶりは掛けさせてもらう)
 さあどうする?と、横目で相羽の反応を窺う。
 相羽は、さっき見開いていた目をもう落ち着かせ、左手の人差し指で前髪の辺り、左
頬と順に掻く仕種をした。
「それでも唐沢にしか頼めないな。信じてるから、唐沢のことも、涼原さんのことも」
 唐沢にとって、予想の範囲内の返事だった。ただ、実際にそう答を返され、考える内
に腹が立ってきた。
「ああ、そうかい」
 また姿勢を改め、相羽の方に身体ごと向く。
「そこまで信じてるなら、まず、涼原さんに言えよ、留学の話を。言ってないんだろ
?」
「ああ、まだ」
「何で、俺が先になったんだ。俺がボディガードを断れば、留学をやめるのか?」
「……悪かった。ごめん」
 相羽は頭を下げた。
「あ、謝られても、だな。第一、謝るとしたら、涼原さんに言ってからじゃないか」
 急に素直になられて、攻め手を失った唐沢が戸惑い混じりに応じる。相羽は即座に返
事をよこした。弱気が顔を覗かせたような、細い声だった。
「とてもじゃないけど言えないよ」
 黙って聞いていた唐沢だったが、内心では「だろうなぁ」と相槌を打った。もう責め
る気は完全に失せた。
「仮の話だが、今突然涼原さんが抜けたら、仕事関係の方はどうなる?」
「替えが効かないっていうほどの立場じゃないし、ほとんどは別の人が代役に入るだろ
うね。だから、ビジネスそのものがストップすることはないと思う。問題はルーク、事
務所の方。確実に迷惑を掛けることになるから、事務所に違約金支払いの責任が課せら
れて、最悪、潰れるかもしれない」
「なら、どうしたって無理、無謀か。やる値打ちがあるんなら、俺も協力して、涼原さ
んや周りを説得してやろうと思ったんだけど」
「残念だけど、そうみたいだ。……唐沢って、そこまで人がよかったとは知らなかっ
た」
「おまえのためじゃねーから」
 あーあ、と唐沢が両腕を突き上げてのびをしたところで、下校を促す校内放送が流れ
始めた。打ち切らざるを得ない。
「聞くまでもないが、留学話は他言無用なんだな?」
 音楽室を出る前に最後の確認と思い、唐沢は聞いた。
「頼む。学校で知っているのは、神村先生を含む何人かの先生と、おまえだけ」
「え。何か急に肩が重くなったぜ」
 廊下に出て、扉の鍵を掛ける頃には、この話題はきれいさっぱり消し去った。他の人
に聞かれてはいけないという意識が、暗黙の内に働いたのだ。
「あ、そうだ。天文部の合宿はどうすんだよ、相羽」
「七月下旬なら行けると思う」
「何やかんやで忙しいだろうに」
 でもまあ恋人と一緒にいられる時間を確保するには当然参加するよな。問題は、その
ときまでに留学のことを言えているかどうか……。唐沢は直感で決めた。
「やっぱ、俺も天文部入って、着いて行くわ。間に合うよな。ぎりぎりか?」
「ええ? どうしてまた」
「何かあったとき、事情を知る者が近くにいた方が便利だと思わん?」
「……うーん」
 相羽の歩みが遅くなる。このままだと、腕組みをして考え出しそうな雰囲気だ。
「おいおい、相羽がそこまで考え込むことじゃないだろ。ほら、早く鍵を戻して帰ろう
ぜ」
「うーん……。合宿までには、彼女に打ち明けてるつもりなんだけどな」

            *             *

 ベーカリー・うぃっしゅ亭でのアルバイト(一応の)最終日、純子は大いに営業に精
を出した。前日には急遽作ったビラ配りをして、風谷美羽の姿を往来にさらした。最後
の一日ぐらいなら、もし仮にお客がどっと押し寄せても大丈夫と踏んでの、うぃっしゅ
亭店長の了解も得た上での決断。
「いつもに比べて、小さな子が物凄く多い。もう、うるさいし大変!」
 そうこぼした寺東は、珍しく玉の汗を額に浮かばせていた。ハンドタオルを宛がい、
スマイルを絶やさぬように奮闘している。
(『ファイナルステージ』のおかげかなあ。高校ではさして話題にならないけれども、
小学生には受けてるみたいだから)
 アニメ番組を思い浮かべつつ、純子も笑みを崩すことなく、接客や陳列などに忙し
い。
 先程から、胡桃クリームパンの消費が激しい。文字通り、飛ぶような売れ行きだ。少
し前、子供の一人から「美羽が好きなパンは何ですか」と問われ、純子が正直に答えた
せいである。小学生のお小遣いで菓子パンをいくつも買うのは厳しいだろうけど、一個
ならほぼ躊躇せずに買える。手頃な価格かつ、風谷美羽の好物となれば、そこに集中す
るのは当然と言えた。
 おかげで店長は店の奥でフル回転だ。今日は他にも店員――パートタイムの主婦が二
人出て来ており、内一人が店長の奥さんだと聞いた。ただ、純子はどちらが奥さんなの
かは把握していない。店員として入ったのと同時に、忙殺されっ放しなのだ。
「整理を兼ねて、一旦、外でまたビラ配りしてみる? このままだと店がパンクしそう
だよ」
 パートタイマーの一人が言った。その視線は最初に純子、次に店の奥へと向けられ
た。
 パンクは大げさだが、大混雑しているのは間違いのない事実。通路の幅が狭くなって
いる箇所では、すれ違うのにも一苦労。トレイの端同士がぶつかる恐れが高まってい
た。
「そうだね。涼原さん一人でビラ配り、頼めるかな」
 店長の指示が届いた。
「あ、はい! 手すきになったら行きまーす」
 返事をする間にも、胡桃クリームパン待ちの小学生らが暇に任せて、純子の着るエプ
ロン型ユニフォームを、あっちやこっちから引っ張る。パンにじかに触っちゃだめと注
意したのは効果があったが、今度は自分が触られそうだ。
「ごめんね、ちょっと通してね。あ、ほどいちゃだめ」
 ようやく子供の輪を抜け、外に出る準備をしながら、純子は思い付きで新情報を流し
てみることにした。
「そうそう、発表します。風谷美羽が好きなパンの二つ目は――」
 桃ピザにしようか。

 午前中は体育やら教室移動やらで、いい機会がなかった。だから、聞けたのは昼休み
に入ってからになった。
 明日の土曜――五月二十八日――、学校が終わったら行っていい?と尋ねた純子に、
相羽は「かまわないなら、僕が君の家に行くよ」と提案してきた。
(相羽君、自分の誕生日だって分かってるのかなあ?)
 純子は座ったまま、隣の彼の表情を探り見たが、簡単には判断が付かなかった。
 まあ、特に支障はないし、もしかすると母子水入らずでお祝いするのかもしれないし
と考え、「かまわないわ」と答えた。
(中間テストが近くなかったら、デートに誘いたいのに。考えてみると来年もこんな感
じになっちゃう? 来年は、テストの後回しにしてみようかな)
 両手を頬に当て、肘を突いた格好で一年後の計画を立て始める。静かになった純子
に、相羽は不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの? 急に黙りこくっちゃって」
「――あ、うん、歓迎するからね。何時頃までいられるかしら?」
「その前に、お昼をどうするか決めておきたいな」
「そっか。お昼御飯は……相羽君がいいのなら、うちで用意するわ。正しくは、しても
らっておく、だけど」
「……純子ちゃんの手作りなら食べたい、とか言ってみたり」
「少し遅くなってもいいのなら」
「物凄い即答だね」
 顔を少しそらし気味にし、目をしばたたかせる相羽。純子は嬉しさを隠さずに答え
た。
「冗談半分に言ったのをまともに受け取られて驚いた、でしょう? いつもいつも、や
られっ放しじゃないんだから」
 誕生日のプレゼントとして、食事を作ってあげるという選択肢が元からあったので、
素早く返せたまでなのだが。
「それで、どうするの?」
「やっとバイトが終わった人に、料理作ってなんて頼めないでしょ」
「大丈夫よ。そんなに難しい物作らないから。焼き飯になるかな? そうだわ、もらっ
たパンがまだ余ってるから、一緒に食べて」
「米とパンを一緒に……」
「育ち盛りなんだから。なんちゃって」
 笑顔がひとりでにはじける純子に対し、相羽はやれやれとばかり、頭を掻いた。
「ところで、何の用事か聞いていいかな」
「それは――」
 ここまで来て黙っておくのも変だし、気が付いている可能性だって充分にある。純子
はそう判断して答えようとした。が、第三者に先を越された。
「誕生日の何かに決まってるじゃない。自分自身のことには、意外と無関心なのね、相
羽君たら」
 白沼だった。いつの間にやらすぐ近くまで来て、聞き耳を立てていたらしい。
「白沼さん、ひどいよー」
 腰を浮かせ、少々むくれ気味に純子が抗議すると、白沼は「どっちがひどいんだか」
と受けた。
「長々といちゃいちゃ話をされるこちらの身にもなって欲しいわ」
「い、いちゃいちゃはしていない、と思うけど……ごめんなさいっ」
 いちゃいちゃしてたことになるのか自信がなかった。悪いと思ったら謝る。
「相羽君に用事なんでしょ。どうぞ、私の話は一応、終わったから」
「違う、はずれ。あなたに用事。お仕事ですわよ」
 白沼はメモを渡してきた。これまでよくあったのと違って、ノート半ページ分ぐらい
はありそうな大きさだ。
「前に会議で出た検討事項の内、結論が出たのがこれだけ。無論、関係者には全員伝わ
ってるんだけど、早めに目を通しておいてほしいという理由から、直接渡すように言わ
れたわけよ」
「どうもありがとう……これ、決定?」
「全部が全部じゃなく、意見を聞くのもあったはずよ。確か、二重丸が付けてある分。
注釈、書いてない?」
「……ごめん、あった。最後の方、自分の指で隠れてた」
 照れ笑いをする純子に、白沼はしっかりしてよねと声を掛けた。
「言うまでもないけど、テストが終わったら再開だから。各種PRの撮影とか」
「それまでには気合いを入れ直しておきまーす」
「……今日明日は浮かれていても、しょうがないわね」
 白沼も最後は咎めることなく、立ち去った。純子はメモを折りたたみ、鞄にしまうた
めに座り直した。終わってから、片肘を突いて相羽に聞く。
「あーあ。怒られちゃった。そんなにいちゃいちゃして浮かれて見えるのかな?」
「分かんないけど……それ以前に、誕生日のこと、忘れてた」
「え?」
 頭を支えていた腕が、コントみたいに、かくんとなった。
「本当に? その、おばさまが何かしら言ってなかったの?」
「言ってたけど、明日だということを忘れてた」
「……凄い、ような気がするわ。誕生日も忘れるなんて、ある意味、充実してる証拠じ
ゃない?」
「だったらいいんだけどね」
 相羽は微かに笑うと、次に、はっと何かに気付いたように唇を噛んだ。
「純子ちゃん、もしかして……アルバイトしたのって……」
「――えへへ。ばれたか」
 もう隠していても意味がない。聞かれれば素直に認めようと決めていた。
「プレゼントのためよ。だってほら、モデルとか芸能とかって、相羽君のおかげで始め
たようなものだから、今回ぐらいは自力でプレゼントを買ったと胸を張りたいなって」
「そうだったの……。あれ? バイトの理由、母さんからも『経験を積むためよ』って
聞かされてたんだけど」
「あ、それは私が頼んだの。嘘の理由を通すためには、どうしても協力が必要だから、
信一君には秘密にしておいてくださいねって」
「やられたよ、まったく」
 そう答えた相羽は、急に上を向いた。速い動作で右手を頬骨の辺りに宛がう。
「あれ、何だこれ。だめみたいだ」
「相羽君?」
 鼻声になった相羽が気になり、名前を呼んだが、すぐには返事がない。
「――ごめん。ちょっと。顔、洗ってくる」
 そのまま表情を見せることなく、席を立つと、足早に廊下へ出てしまった。
 純子が追い掛けようかどうしようか、迷っていると、唐沢が口を開く。
「放っておきなよ、すっずはっらさん」
「でも」
「感激して涙が出た、ってところじゃないの」
「嘘! そんなまさか、大げさな」
「大げさなんかじゃないさ。それに、今のあいつには、泣く理由があるもんな」
「ええ? 唐沢君、私の知らない事情を何か知ってるの?」
「いやいや。好きな相手が忙しいにもかかわらず、自分のためにわざわざアルバイトし
てくれたら、そりゃあ感激するでしょって話」
 世間の常識だぜと言いたげに、肩をすくめる唐沢。純子は完全には納得しかねたが、
感激するのは理解できるし、贈る側として掛け値なしに嬉しい。それ以上の追及はやめ
にした。

            *             *

(あー、情けない)
 目にごみが入ったことにして、校舎を出た相羽、屋外設置の洗い場まで来ると、形ば
かり顔を洗った。
 ハンカチを持っていたが、自然に乾くままにする。鏡の方は持ってないが、いちいち
確認しなくても大丈夫だろうと踏んだ。
(純子ちゃんがそんなこと考えていたなんて。それに全く気付かないなんて。いくら他
のことに気を取られていたとは言え……俺ってだめな奴)
 頭をがりがり掻き、太陽をちらと見上げる。どこかで冷静な部分が残っており、昼休
みが終わるまであと何分あるなという意識があった。
(あのとき、キスする資格なんて自分にはなかった)
 唐沢の自転車を借り、うぃっしゅ亭から純子と一緒に帰った帰り道。そもそも、何で
咄嗟にしたくなったのかを自分でも分からないでいるのだが……多分、留学に伴うしば
しのお別れを意識して、甘えたくなった・思い出を作りたかった・確かめたかったのか
もしれない。
(明日の誕生日。プレゼントを受け取っていいのか?)
 自己嫌悪が続いており、今の自分にはやはり資格がないと思ってしまう。反面、ああ
までしてプレゼントを用意してくれた純子に対し、受け取らないなんてできそうにな
い。
(渡される前に、留学のことを言う? それでも純子ちゃんがプレゼントしてくれるの
なら――いや、こんな試すような真似はしちゃだめだ。それに……中間テストに悪い影
響が出るかもしれないじゃないか)
 留学のことを話さずにいられる理由を探し、見付ける。純子の勉強や成績、ひいては
先生への受け及び学校側のモデル仕事への理解を考えれば、正しい判断であったが、別
の意味では間違っている。
(僕が独断で遠くへ行くと決めておいて、相手には待っていてもらおうなんて、身勝手
極まりないよな。僕が純子ちゃんを信じていても、純子ちゃんは僕を信じられなくなる
かも。ああっ、何もかも分かった上で決断したつもりだったのに! 誕生日プレゼント
のためにバイトを始めたことにすら思い至らない。全然、分かっていなかったんだ)
 留学の件は、もう後戻りできない。よほどのアクシデントがない限り、このまま進む
段階にまで来ている。だったらあとは。
(純子ちゃんの気持ちに任せるしかない)
 あるいは当たり前の結論に、時間を要して達した。少しだけど、すっきりした。

            *             *

 五月二十八日。半ドンが終わった。
 結局、純子の昼食作りはなくなった。相羽に予定があったのだ。誕生日をきれいさっ
ぱり忘れていた当人が言うには、母親が昼間、どこかに食べに行きましょうと決めてい
たのを思い出したらしい。
「案外、おっちょこちょいなんだねえ」
 下校の道すがら、駅まで一緒に行く結城が呆れ気味に評した。なお、淡島は試験を控
え、先日休んだ分を取り戻すべく、補習を自主的に受けている。よってこの場にはいな
い。
「おっちょこちょいっていうか、えっと、視野狭窄? 一つのことに意識が向くと、周
囲がほとんど見えなくなる」
「一言もありません」
 相羽は自嘲の笑みを覗かせ、認めた。
「てゆうことは、このあとどうするんだ?」
 唐沢が聞いた。最後尾をぷらぷらと着いてくる。
「もしかして、俺、というか俺達、お邪魔虫?」
「……僕からは何とも」
 相羽は純子に顔を向けた。
「今は、そうでもないけど」
 純子の返事は、妙な言い回しになった。ぴんと来たのは結城。
「どこだか知らないけど、家の最寄り駅で降りてから、二人きりになれればいいってわ
けね」
「だったら、邪魔してることになるの、俺だけじゃん」
 唐沢がぼやくと、結城が「こっそり見物していったら? 様子をあとで聞かせてよ」
なんて冗談を言った。
 そんな唐沢の心配は、すぐあとになくなった。駅に着く前に、鳥越が追い掛けてきた
からだ。
「唐沢クン、ひどいよ。掃除当番だから、待っててくれって言ってたのに」
 怒りつつも疲れからか、妙なアクセントかつ情けない顔で話す鳥越。それを見て、唐
沢は即座に思い出したらしい。
「わ、わりい。入部の話だったよな。今から戻るか?」
「入部って、唐沢君が天文部に? 今から?」
 聞いていなかった純子は、唐沢に尋ねるつもりで言った。だが、唐沢は鳥越とのやり
取りに忙しいと見て取ったか、相羽がごく簡単に説明する。
「最近、勉強に余裕ができて、何にもしていないのが退屈になったとかで、どこかに入
りたがってたんだ。ほぼ幽霊部員とは言え、僕らがいるところが馴染みやすいだろうっ
て理由で、天文部を選んだみたいだよ」
 純子が頷く間にも、鳥越と唐沢の会話は続いている。純子達とは反対方向の電車に乗
る結城は、「長引きそうだし、電車来るし、ここでバイバイするね。お疲れ〜」と言い
残し、とことこと足早に行ってしまった。
「学校でなくても、届けを書いてもらうことはできる。あと、どれだけ本気なのか質問
していいか」
「何、そんな面接みたいなことするのか」
 驚いたのは唐沢だけじゃない。純子も驚いたし、顔を見合わせた相羽も同様だ。
(私には面接なんてなかったのに)
 そのことを口に出そうか迷っていると、相羽が先に動いた。
「次期副部長。唐沢の知識はともかく、熱意は保証するよ。だから――」
「いくら君の頼みでも、簡単に承知できないな。だいたい、今日の約束を忘れてすっぽ
かすこと自体、本気度が欠けてる証拠だ」
「それは僕らにも責任があるかも……」
 相羽は純子に目配せした。
「今日、誕生日でさ。純子ちゃんがプレゼントをくれるっていう話で盛り上がって、唐
沢も興味を持ったみたいで、着いてきたんだ」
「……確かに気になる。でも」
 鳥越は改めて唐沢に言った。
「男と男の約束なんだから、忘れないでくれよ〜」
 しなだれかかって泣きつかんばかりの勢いに、唐沢は大きく深く息を吐いた。
「男の約束って言われてもな。そういう性格の約束じゃないと思うんだが。すっぽかし
たのはほんと、謝る。面接は勘弁してくれ、してください。今の俺は情熱だけだから、
クリアできる気がしない」
「鳥越、僕からも頼む。星や夜空のことをこれから勉強しようっていう新人を、ここで
門前払いにするのはよくないと思う」
「うう〜ん」
「入部させて、唐沢が他の部員に悪い影響を与えるようだったら、僕が責任を持つ」
「責任……具体的には? 一緒に辞めるとか言われても、部としては嬉しくない。相
羽、君が辞めたら、涼原さんにまで辞められそうだし」
「や、辞めないわ。少なくとも、そういう理由では」
 純子が慌てて言うと、鳥越は、不意に何かを思い付いたらしく、口元で笑った。
「三人とも、中間考査明けから一学期いっぱい、活動日にずっと顔を出すとかはどう
?」
「――鳥越君、ごめん。凄く難しいです」
 純子はスケジュールの書かれたカレンダーを脳裏に描き、ほぼ即答した。
「ほんとに文字通り、顔を出すだけなら何とかなるかもしれないけれど、最後までいる
のは恐らく無理だわ」
「うんうん、そうだろうな。他の二人はともかく」
 分かっていた様子の鳥越。
「だったら、昼の太陽観測はどうだろう? ほぼ毎日、当番制でやってるんだけど、当
番とは関係なしに、涼原さん達は昼休み、屋上まで来て顔を出す」
「それなら……学校を休まない限り、大丈夫かな」
「学期終わりまでに、三人とも来ない日が一度でもあったら、唐沢、君の入部は認める
が」
「へ? 認める?」
 唐沢の顔にクエスチョンマークが描かれたようだ。鳥越は愉快そうに続ける。
「うん。認めるが、合宿には参加禁止。これでどう?」
「ええー、意味ないじゃん! いや、天文に興味はあるが、合宿はまた別の楽しみって
ことで」
 ごにょごにょと語尾を濁す唐沢。その肩をぽんと叩いて、相羽が意見を述べる。
「いいんじゃないかな? 心配なら、唐沢一人でも連日、太陽観測に足を運べば、条件
達成だ」
「むー。俺、女子に声を掛けられると、そっちを優先しちゃう癖があるからなあ。それ
に真面目な話、委員長やってるからその役目で昼の時間、潰れる可能性なきにしもあら
ずだし、自信持って返事できねー」
「そんなときは私か相羽君が行けると思うから、ね?」
 時間が気になり始めたこともあって、純子は鳥越の提案を受け入れる方に回った。実
際、悪くない話だと思う。
(唐沢君がどれだけ本気なのか、私も分からないけれど、入口にはちょうどいいんじゃ
ないかしら。って、私だって部活動に参加していない点では偉そうなこと言えない)
「涼原さんがそう言ってくれるなら。その条件で頼むよ、えーと、副部長だっけ?」
「次期、ね」
 鳥越と唐沢はそのまま入部の手続きに関する諸々を済ませるために、道端で書き物を
始めた。

――つづく




#516/554 ●長編    *** コメント #515 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:12  (331)
そばにいるだけで 67−2   寺嶋公香
★内容
 自宅までの道を心持ち早足で歩いて行く。唐沢の入部騒動で、余計な時間を食ってし
まった。誕生日プレゼントを持って来ていれば、学校でも渡せていたはずだが、包装に
皺が寄るのを嫌ったのと、周りから冷やかされるのを避けたかったのとで、家に置いて
きたのだ。
「お待たせ!」
 家まで来てもらって、上がる時間がない相羽を待たせる形になった。気が急いた分、
短い距離をほぼ全力疾走で往復してしまった。さすがに息は切れないが、足音で気付か
れたようだ。相羽は苦笑する口元を手で隠しつつ、「そこまで急がなくても、大丈夫だ
ったのに」と言った。
「この場で感想を聞きたいんだもの。誕生日、おめでとうっ」
 相羽に紙袋を手渡しながら、純子。
「開けていいんだね。――スコアのノートと、これは……」
 縦長の箱を取り出す。紙ではなく、立派なケース入り。
「万年筆だ。あ、音楽用の?」
 万年筆のケース脇に音楽用を意味するMSと記してあるのに気付いた相羽は、少し意
外そうな反応を示した。小説を書くこともある彼のことだから、そちらの用途でプレゼ
ントされたと思ったのかもしれない。
「そ、そう。前、作曲もするっていうのを聞いたから。手に馴染むかどうか分からない
けれど、もし使いにくくても、お守りか何かみたいに思ってくれたら」
「――ありがとう」
  相羽はプレゼントを持ったまま、純子をしっかり抱き寄せた。紙袋のかさかさという
音が聞こえたかと思うと、すぐにまた元の距離に戻ったけれど、純子をドキドキ支える
には充分な時間だった。
「大切に使う」
「え、ええ。もう、逆に、壊れるくらいに一生懸命使ってもらってもいいわ。すぐにま
た新しいのをプレゼントするから、なんてね、あははは……」
「うん。がんばるよ」
「……相羽君。やだなあ、目がうるうるしてる。これくらいのことでそこまで感激され
ると、困っちゃうじゃない」
 相手の顔に感情を見て取って、純子はわざと茶化すように言った。喜んでもらえるの
は贈った方としても大変嬉しいのだが、普段にない反応をされると戸惑いが勝りそうに
なる。
「嬉しいんだから、仕方ないだろ」
 相羽も恐らくわざとだろう、ぶっきらぼうに返すと、受け取ったばかりのプレゼント
を丁寧に元の状態にする。そして学生鞄の中にスペースを作り、これまた丁寧に仕舞っ
た。
「さて。名残惜しいけど、もう帰らないと」
「おばさまにもよろしく言っておいてね。それに、えっと、親子で仲よくお祝いしてく
ださいって」
「分かった。誕生日の当事者がそれを伝えるのは、何となくおかしな気もするけど」
「そうなのかな? とにかく、おめでとうございますってことよ」
「はは、了解」
 別れ際には、いつもの相羽に戻っていた。

 中間考査は、始まるまでに二度ほど友達同士で集まって勉強会をした成果か、無事に
乗り切れた。純子に限って言えば、一年時最後の成績と比べて点数の上下こそあれ、少
なくとも補習や追試を受けねばならない科目は、一つもなかった。
 特に、大きかったのが白沼のサポート。そう、勉強会には白沼も参加したのだ。
「意外だったって? 今回は特別よ」
 全部のテストの返却が終わったあと、感謝の意を告げた純子に対し、白沼は当然のよ
うに答えた。
「もしも追試なんてことになったら、スケジュールが狂うでしょ、仕事の」
「あ、そういう……」
「もちろん、私が手助けしなくても、大丈夫だったとは思うけど。あなた、多忙な身の
割に、勉強もできるんだから」
「ううん、今回はいつも以上にピンチだった。白沼さんがポイントを教えてくれたか
ら、凄く凄く助かった。あれがなかったら、睡眠時間削らなきゃいけなかったわ」
「それは何よりですこと。寝不足はお肌の大敵と言うし、たっぷりと寝て、鋭気を養っ
てちょうだいね」
「……怒ってる?」
「いいえ。怒ってるように見える? だとしたら、あなたが何度もお礼を言ってくるか
らね。無駄は省きましょ。それよりも――また、唐沢君が見当たらない」
 クラス委員として何かあるのだろう、白沼は腕時計で時間を気にする仕種を見せた。
「知らないわよね」
「ええ。昼休みなら、屋上に行ってる可能性が高いんだけど」
 伝わっているのかどうか心配になったので、天文部のことを白沼に話しておく。
「そうなの。……その合宿、あなた達も参加するのね?」
「達って?」
「決まってるでしょ、相羽君よ」
「う、うん。参加するつもり」
「スキャンダルはごめんだから、監視役で着いて行こうかしら」
 視線を巡らせ唐沢を探すそぶりをしながら、白沼はさらりと言った。
(まさか、白沼さんまでここに来て入部?)
「し、白沼さん! そんなスキャンダルなんてないから!」
「着いて行ったって、ずっと貼り付けるわけないんだし」
「だから、何にもしないってば〜」
「あなたにその気がなくたって、健全な高校生男子が抑えきれるかどうか。夏だから、
涼原さんも薄着になるでしょうしね」
「――」
 赤らんだであろう頬を、両手で隠す純子。白沼はまた腕時計を見やった。
「冗談よ。――もう、仕方がないわね。唐沢君の苦手な子って、やっぱり町田さんにな
るのかしら」
「はい?」
 急に友達の名前を出されて、戸惑った。おかげで気恥ずかしさは吹き飛んだけれど
も、話の脈絡が掴めない。
「あなたからでもいいわ。町田さんに頼んで、唐沢君にきつく言ってもらえないかし
ら。休み時間になっても教室を飛び出さず、少し待機しなさいって。それとも、学校が
違ったら、友達付き合いも疎遠になってる?」
「ううん。大丈夫だけど……芙美が言っても、効果があるかどうか」
「そうなの? じゃあ、あなたと町田さんとで、飴と鞭作戦」
 絵を想像してしまった。唐沢がサーカスのライオンで、純子が給餌係。町田は猛獣使
いだ。思わず、笑った。
「ふふっ。それでもうまく行くか、分かんないけど、今言われたことは伝えておくわ」
「頼むわね。あ、そうだわ。唐沢君の弱みを知りたい」
「え?」
「弱みを握れば、私の言うことも多少は聞くようになるでしょう。町田さんなら、小さ
い頃から唐沢君を知ってるみたいだし、何か恥ずかしいエピソードも知ってるんじゃな
いかしら」
「あんまり気が進まないけど……一応、聞いてみる」
 悪魔っぽい笑みを浮かべた白沼に、純子は不承不承、頷いた。

「――ていうわけなんだけど」
 純子が話し終わると、町田は歯を覗かせ、呆れたように苦笑した。
「久方ぶりのお招きに、何事かと思って来てみたら、あいつの話とはねえ」
 電話口で、ともに中間テストが終わって、時間に余裕がある内に会いたいねという風
な話の振り方をした結果、町田が純子の家に来ることになった。
「ほんとに会いたかったのよ。たまたま、白沼さんに言われたのが重なって」
 ケーキと紅茶を勧めながら、純子は必死に訴えた。
「はいはい。でもって、純子、あなたは私とあいつとの仲がどうなってるか、気にして
ると」
「ま、まあね。芙美だって、学校での唐沢君のこと、気に掛けてるんだし」
 時折、電話したときに、学校での唐沢の様子を伝えてはいた。包み隠さずを心掛けて
いるので、この間のパン屋での一件も知らせてある。
「知っての通り、近所だから、顔はよく合わせるわけよ。デートしてるところを見掛け
る頻度が、めっきり減ったわ。ゼロと言ってもいいんじゃないかな。単に、行動範囲を
変えただけかもしれないけれど」
「見てる限り、校内では女子と親しく話してても、校外のデートはしてないと思う」
「心を入れ替えたとでも?」
「……分かんない。ただ、勉強の時間を確保するのには、苦労してるみたい」
「まったく、無理してレベルの高いところに入るから」
「でもね、最近はコツを掴んだみたいなこと、言ってたような」
「純、それは何のフォローなんだね? 唐沢の立場からすれば、逆効果になってる気が
するんだけど」
「えっと。フォローというか、現状報告の最新版」
「ふうん。それで、あいつは白沼さんとはうまくやってるの? 委員長として」
「うまく……立ち回ってる感じ?」
「あははは。その表現で、様子が目に浮かぶわ。白沼さんの苦労ぶりまで。だからっ
て、弱みを握りたがるのはねえ。気持ちは理解できても、やり過ぎ」
「やっぱり、そうだよね」
「だいたい、そんな弱みになるようなネタがあったら、私が使ってる」
「え」
「実はネタがないわけじゃないんだけど、私にとっても地雷だから。一緒になっていた
ずらしたりね。にゃはは」
「本当に、昔から仲がよかったのね」
「昔は、よ。こーんぐらいの頃だけ」
 町田は手のひらを使って背の高さを表す仕種をする。座っているから今ひとつぴんと
来ないけれども、幼稚園児ぐらいだろう。
「あいつがもて自慢するようになってからね、おかしくなったのは。あ、一個思い出し
た。これなら私は関係ないから、言えるわ」
「うん? 唐沢君の弱みの話?」
「まあ、小っ恥ずかしい話。あれは小学……四年生のときだった。知っての通り、小学
校は別々だったけど、お祭りなんかでばったり出くわすこともあるわけよ。あの年も同
級生の女子を大勢引き連れていた。私の方は友達、女友達二、三人と一緒で、穏やかに
すれ違うつもりだったのに、向こうが『女子ばっかで楽しいか』みたいな挑発をしてき
たから、こっちもつい」
 芙美と関係のない話じゃないのかしら?と疑問に感じないでもなかった純子だった
が、スルーして聞き役に徹した。
「『そっちこそ、毎度毎度同じ顔ぶれを引き連れて、よく飽きないわね』的なことを言
い返してやったの。そうしたら、『じゃあ、おまえらこっちに入れよ』って」
「それが恥ずかしい話?」
(単なる唐沢君の照れ隠しなんじゃあ……)
 純子のさらなる疑問を吹き消すかのように、町田がすかさず言った。
「まだ続きがあるのよ。上からの物言いがしゃくに障ったんで、私らも応じないで、適
当に辺りを見渡しながら、『その辺の女の子をつかまえれば』って言ってやった。それ
を唐沢の奴、真に受けてさ。私が顎を振った方向の先にいた、女の人に声を掛けに走っ
たのよ」
「女の人って、まさか、大人の?」
「そうよ。自信があったんだか知らないけど、当然、相手にされるはずもなく、当たっ
て砕けていたわ」
「唐沢君、無茶するなぁ」
 それだけ芙美を気にしているから――そう解釈できると思った純子だが、敢えて言葉
にはしまい。
(芙美も分かってる。第三者があれこれ口出しするときは過ぎてる。あとは二人のどち
らかが行動するだけ。芙美には唐沢君の普段の様子を伝えているけれど、特に気持ちを
動かされた感じはないのよね。そうなると、唐沢君が行動を起こすしかないんだろうけ
れど)
 かつての自分の鈍さ加減を思うと、無闇に焚きつける気になれない。相羽との件で
は、周りに気を遣わせていた意識は充分すぎるほど自覚している純子なので、今さら自
分が気を遣ったり気を揉んだりする分は厭わない。
(芙美も唐沢君も多分、お互いの気持ちを分かってて、意地を張ってる。どちらか一方
じゃなく、二人が揃って素直になれるタイミングじゃないと難しいかなあ)
 知らず、芙美の顔をじっと見ていた。視線に気付いた相手から、「唐沢のことなんか
より」と話題を転じられた。
「相羽君との仲を聞かせてほしいな。おのろけでも何でもいいから」
「誕生日プレゼントを贈ったわ」
「ほう。何を」
「万年筆と五線譜ノートを。ただね、相羽君てば、自分の誕生日を忘れていたいみたい
で」
「ふうん? よっぽど忙しいのかねー。忙しさなら、純子の方が上だと思ってたけど」
「分かんないけど、私だけ忙しいのよりはずっといい。だって、会えなくなって、私だ
けの責任じゃないもんね。あは」
「ジョークでも悲しいわ。その分じゃ、まともなデート、ほとんどしてないんだ?」
「うん。少ないからこそ、一回が濃くなるようにがんばってるから」
「……濃いって、まさか……」
「ん?」
「……あんた達二人に限って、あるわけないか」
「何が」
「デートの回数が少ない分、一回を濃くしようとして一気に進展するようなこと、ある
わけないわよねって言ったの」
「――な、ないけど」
 キスをしたことが頭を何度もよぎる。一気に進展とまでは言えないだろうけど、純子
達にとっては大きな進展に違いない。
「どうしたん? 顔が赤いよ」
 顎を振って指摘する町田。純子が「何でもない」と急ぎ気味に答える。
「さっきも言ったように、今日の私はのろけも大歓迎よ。自慢でも何でも来い」
「自慢するようなエピソードは、まだ……」
「あらら、残念。うらやましがらせるような話を聞かせてくれたら、私も早く彼氏を作
りたいなーって思ったかもしれないのに」
「ほんと? ようし、それなら楽しい話ができるよう、デートに精を出すわ」
 お互い、どこまで本気で言っているのか、当人達さえも分からないやり取りで終わっ
た。

 町田と久しぶりに顔を合わせて話をした翌日、純子は学校に着くなり、白沼の姿を探
した。唐沢の弱みについて、成果は大してなかったが、一応、伝えておこうと思ったか
ら。
(唐沢君は教室に来るのが遅い方だから、いない内にすませちゃお)
 そんな考えを抱いて教室に入った。途端に、当の白沼が気付いて、駆け寄ってきた。
(えっ、白沼さん、そこまで知りたがっていたなんて。すぐに教えたいけれども、で
も、唐沢君がいないことを確かめてからにしないと)
 慌てて教室を見渡すが、確認し終えるよりも早く、白沼が目の前に立った。
「あ、あの」
「ちょっと」
 袖を引っ張られ、そのまま二人して廊下に出る。鞄を机に置く暇すらもらえない。
「唐沢君、教室にいるの?」
 廊下に連れ出されたことをそう解釈した純子。だが、白沼はあからさまにきょとんと
した。
「何の話? 私はあなたに仕事の話をしたいの。さあ、もっと隅っこに行かなきゃ聞か
れるかもしれないでしょうが」
 校舎の端っこ、壁際まで来た。人がいないわけではないが、通り過ぎるばかりで、誰
も気に留めまい。
「仕事って」
「加倉井舞美の事務所から、直接うちの方に打診があったのよ。夏休みの期間中、テラ
=スクエアのキャンペーンのお手伝いをさせてもらえませんかって」
 話が見えない。とっても意外な名前が出て来た気がする。
「加倉井舞美って、あの加倉井さん?」
「どの加倉井さんか知らないけれども、加倉井舞美はあなたと面識があるのよね? 一
緒にやりたいと言ってきたのが昨日の夜だそうよ。今頃、正式な連絡があなたの事務所
にも入ってるはず。そっちは何か事前に聞いていた?」
「何にもないわ。うーん」
 思わず腕組みをしてしまった。
(加倉井さんがまた一緒に仕事をしたがっていたのは、私――風谷美羽ではなく、久住
とよね。それがまた、どうして私と)
「涼原さんにもわけが分からないのね? 加倉井舞美ほどのタレントが、向こうから使
って欲しいと言ってくれるなんて、ありがたい話だと思うわ。でも、異例でしょう、こ
ういうの。何か裏があるのじゃないかって気になったから、とにもかくにもあなたに事
情を聞こうと考えたわけ。それなのに、その様子じゃねえ」
 がっかりしたのとあきれたのが綯い交ぜになったような、徒労感漂う笑い声が、白沼
の口から漏れ聞こえた。
「白沼さんのところは、この話を受けるつもりは?」
「基本的にはあるみたいね」
「だったら、私、じかに聞いてみようかな」
「個人的に連絡取れるの?」
「え、ええまあ。電話番号やメールアドレス、教えてもらったから。ただ、メモリに入
れてないし、覚えてないから、一旦帰らなくちゃいけないんだけど」
「え、メモリに入れてないって、どうしてよ?」
「万が一、私が携帯電話をなくしたら、迷惑掛かるかもしれないから、芸能人の分は入
れないようにしてる」
「ロックしておけばいいんじゃないの。あー、はいはい、解除されるかもしれないと。
そうよね」
 一人で勝手に納得した白沼は、少し考える時間を取った。
「……今すぐ聞けないのなら、あんまり意味ないわね。あなたのとこのルークにも直接
話が行くのは間違いないから、その返事として問い合わせる方が礼儀にも叶うでしょ
う」
「そうかもしれない。白沼さん、凄い。業界にすっかり慣れた感じ」
「そう見えるのなら、少し分かってきただけよ。全体を大まかに見て意見を述べるの
と、連絡係をやってるだけなのに、やたらと調整に手間が掛かって面倒なのはよく飲み
込めたわ」
 白沼は大きく嘆息すると、視線を純子に向け、じっと見てきた。
「よくやってるわね、こんな仕事」
「わ、私は担がれてる方だから、手間とか面倒とかはあんまり。端で見ていて、大変だ
なあって思うし、スタッフさん達に支えてもらっているというのは、凄く感じてるけど
ね」
「じゃあ楽なの? 楽なら私もチャンスがあればやってみようかしら」
 本気とも冗談ともつかぬ白沼の意思表明に、純子は一瞬戸惑った。
「楽とは言えないけど、白沼さんがやる気なら応援するっ」
「ばかね、冗談よ」
「あ。そうなの。もったいない……」
 純子は本心から言った。少なくとも、美人度という尺度で測れば、白沼の方がずっと
美人だろう。
「ありがと。でもね、私、何がだめって、あの撮影関係の待ち時間の長さがだめ。まっ
たくの無駄ではないんでしょうけど、無駄に過ごしてる感じが耐えられないわ」
 白沼はふと思い出したように時計を見た。そして素早く行動を起こす。
「急いで戻らなきゃ。無駄話のせいで」

 一時間目のあとの休み時間に、加倉井から打診があった件について、相羽にも聞いて
みた。だが、意外と言っていいのか当然とすべきか、彼はこの話に関して何も知らなか
った。
「えらく急な話だね。夏休みと言ったら、あと一ヶ月くらいしかない。もうほとんどキ
ャンペーンの中身は決まってるだろうに」
 話を聞いたばかりでも、分析力に長けた相羽。すぐに不自然なところを洗い出してく
れた。
「あ、そっか。性急さがおかしかったんだわ。それもあって、何となく裏がありそうな
印象を受けたんだ」
「ねえ、純子ちゃん。加倉井さんの話は事務所に正式な形で届くだろうから、そのあと
でいいんじゃない?」
「う、うん。昼休みにでも電話して、聞いてみようかな」
「よし、決まり。実は、こっちも話があってさ。今朝、鳥越に会ったときに言われたん
だ。天文部の集まりに顔を出してくれって。合宿の説明がある」
「あっ、忘れかけてた。だめだ、私」
「そう自分を責めなくても」
「違うのよ。それだけじゃないの。昼休みの定点観測。電話を掛けることばかり考え
て、すっぽかすところだった」
 反省しきりの純子は、昼は屋上、放課後は天文部部室に行くことを頭の中にしっかり
刻んだ。
 ……刻んだのだが、合宿の話は思い掛けず、鳥越の方から足を運んでくれた。二時間
目の終わったあと、わざわざ教室までやって来た次期副部長は、「待っているだけだ
と、本当に来るか不安だから」とやや嫌味な、しかし当然とも言える前置きをした。
 聞き手は純子と相羽と唐沢の三人だ。と言っても、長くはない休み時間故、鳥越は必
要事項を記したプリントを用意しており、手早く配った。
「日程はそこにある通りで決まり。絶対に動かせないから。他に分からないことや、こ
うして欲しいという希望があれば、なるべく早めに言ってくれ。できれば今の役員に」
「はーい」
「費用のことも書いてあるけど、割り当ての活動費でまかなえる範囲に収まったから。
ただし、二日目のバーベキューを豪華にしたいなら、カンパ随時受け付け中」
「つまり、不良部員の俺達に多めに出してくれと」
 唐沢が緊張の色濃く出た笑みを浮かべて尋ねる。鳥越は対照的に、邪気のない笑みで
応じた。
「いやだなあ。そんなつもりは全然。ただ、合宿を楽しく過ごすには、まずは食事の充
実からかなと思ったまでのこと」
「食事の話はおくとして、一つ聞きたいことが。いい?」
 純子はプリントを持っていない方の手を挙げた。鳥越は相好を一層崩した。
「答えられるかどうか分かんないが、受け付ける」
「今回は皆既日食がメインなんでしょう? でも、夜は夜で観測するの? 流星群の時
期に重なるはずだし」
「もちろん、するよ〜。機材の運搬が大変だけど、副顧問の作花(さっか)先生がマイ
クロバスを出すと」
「そうなんだ? それで、細かいスケジュールや観測対象は、またあとで決めるのね」
「そうだね。まあ、夜の観測対象は、やぎ座流星群及びみずがめ座流星群が本命で決ま
りだよ」
「月齢の条件も、まあまあいいんだっけ。楽しみ」
 眼を細める純子の横では、唐沢が相羽の肩をつついていた。
「話が半分ぐらいしか分からないんだが」
「僕はだいたい理解してる」
「うーむ、こんなんで参加していいのか、不安になってきたわ、俺」
 唐沢のぼやきは、鳥越の耳にも届いていた。
「不安なら、テストしてあげようか」
「いやいや、遠慮しとく! 部活の中で教えてくれ」
 唐沢が椅子から立って逃げ出す格好をしたところで、タイムアップとなった。


――つづく




#517/554 ●長編    *** コメント #516 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:13  (384)
そばにいるだけで 67−3   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:12 修正 第2版
「それなんだけどねえ」
 昼休みに三度電話を掛けたがつながらず、太陽の観測に顔を出す必要もあったため、
連絡が取れなかった。なので放課後、純子は相羽とともに事務所に寄って聞いてみた。
部屋に入るや開口一番、「加倉井さんのところから話があったと聞きましたが」と切り
出すと、市川は明らかに困り顔で反応した。
「アルファグループのプロジェクト的には、細かい部分は進めながら決めていく方針だ
から、よそ様のタレントが絡んできても、よい使い方を考えるだけなんでしょうけれ
ど、うちにとってはあんまり美味しくない話」
「あ、いや、そういう部分の問題じゃなくて、そもそも何で加倉井さんがテラ=スクエ
アのキャンペーンに協力したいと言い出してきたのか、理由があるのなら知りたいなと
思ったんです」
「うん、その辺のことならさっき、と言っても一時間以上前だが、連絡をもらった。テ
ラ=スクエアの仕事で協力する代わりに、久住淳との将来の共演を確約して欲しいとい
うご要望だったよ」
「うわ」
 そういう狙いだったのね。一応、納得するとともに、冷や汗をかく思いもする。
(もし朝の段階で加倉井さんとホットラインが通じていて、迂闊にOKの返事をしてい
たら、大変だったかも)
 好ましく思っていないのは、市川も同様だった。回転椅子を軋ませ、事務机越しに身
振りで、高校生二人にソファに座るよう促す。純子と相羽はテーブルを挟み、向き合う
形で座った。
「そんなこと言われたってねえ、先方やアルファさんにはメリットがあっても、うちに
はほとんどないから。そりゃあ、加倉井舞美との共演は魅力的な話ではあるけれども、
その加倉井舞美とあなたが夏休みの間中、しょっちゅう顔を合わせていたら、さすがに
ばれる恐れが高まる。リスクが大きい」
 市川の深い深いため息を引き継いで、杉本がデスクから顔を起こして言った。市川の
デスクとは直角をなす位置におり、純子からは斜め後ろを振り返らないと杉本の姿が見
えない。
「せめて、テラ=スクエアでの仕事そのものが、加倉井舞美ちゃんと久住淳との共演な
んていう要望だったならよかったかもしれませんね。だめ元で、こっちから提案してみ
ます?」
「いや、それはそれで不自然になるだろうね。その共演が行われている間、キャンペー
ンガールの風谷美羽がどこかに消えちゃう形になるんだから。どこをつつかれてもおか
しくない理由を用意できるなら、考えてみる余地はあるが」
「だめですよ、断るべきです」
 相羽が不意に発言した。言葉は柔かだが、口調に断固としたものが感じられる。皆が
注目する中、彼は続けた。
「加倉井舞美さんは、久住淳との共演話は遠い将来という形で希望していたと聞いてい
ますが、間違いないでしょうか」
 大人達へ尋ねる口ぶりだったが、これには純子が答える。
「ええ。あの時点で、加倉井さんはスケジュールが決まってる風だったし」
「それなのに、今回の件は若干、話を急いでる気配がある。もしかしたら、別の都合が
新たに加わったのかも。完全に想像だけで話すと、たとえば、加倉井と久住でカップル
として売りたい、とか」
「え! カップル?」
 相羽の隣で叫んでしまった純子。意味がすぐには飲み込めなかった。
「なるほどね。今はあんまり流行らないけれど、昔は結構あった売り出し手法だね。こ
の男優にはこの女優、みたいなイメージを世間に植え付けるわけだ。ゴールデンコンビ
として認識されれば、しばらくはその組み合わせだけで結構売れる」
「中には、本当にカップルになって、結婚するのもいましたねえ」
 芸能の歴史や事情をよく知る市川と杉本は、説明がてらそんなことを言った。
「け、結婚て……絶対に無理じゃないですか。断らないと」
「いや、あの、決定したわけじゃないんだし」
 焦りが露わな純子を、相羽が落ち着かせる。
「でも、当たっているかどうかは別にして、また、加倉井さんからの要望を聞くか否か
とも関係なく、この話自体、僕は拒むべきだと思いますよ」
「理由を聞こうじゃないか、信一君」
 純子に代わって、市川が聞き返した。
「今の加倉井さんと一緒にやったら、純子ちゃんは食われてしまいます」
「そりゃまあ、理屈だね。相手の方がキャリアは上で、トーク力もある。食われて当
然。だが、私の見立てでは、個性は五分と踏んでいる。キャンペーンの内容によって
は、純子ちゃんが勝つことも可能じゃないのかな?」
「加倉井さんの個性を殺すような勝ち方では、だめなんじゃないですか。恐らく、互い
にマイナスになります。キャンペーン自体の勢いを削ぐかもしれない。ですから、どう
してもこの話を受けるのなら、相手を立て、持ち上げることに専念するのがましじゃな
いかって気がします。そういうのって、圧倒的に差がある人と共演するよりも、力が近
い相手と共演するときの方がずっと難しいでしょうけど」
「なるほど。案外、的を射ているかも」
 市川は目を丸くし、感心した風に息を吐いた。
「さすがね、風谷美羽の一番のファンだけはある」
「べ、別にそんなつもりでなくたって、おおよそのところまでは想像が付きますよ」
 市川にからかわれた相羽は、目元が赤みがかった。純子の方をちらっと見て、「1フ
ァンとしては、彼女の気持ちを最優先にしてもらいたいなって思ってます」と、捲し立
てるように市川に進言した。
「分かった。では聞こう。どう?」
 市川は座ったまま、椅子ごと身体の向きを換えると、純子の顔をじっと見てきた。
「私は……加倉井さんと一緒に仕事をしたくないわけじゃないんですけど、テラ=スク
エアとは切り離した方がいいと思うんです。白沼さんが関係していますから」
「ほう?」
「加倉井さんが来ると多分、芸能界の話題が出るし、久住淳についても色々発言するは
ず。中には外に漏れたらまずい話が出るかも。それが万が一、白沼さんの耳に入った
ら、ややこしくなりそう」
「あの子は口が堅そうだし、仕事とプライベートをきちんと分けられるように見えたけ
ど」
 これは杉本の感想。ほぼ印象のみで語っているはずだが、当たっている。
「ゴシップ程度なら問題ないです、多分。心配なのは、久住淳に関すること。下手をし
たら、一人二役、白沼さんに勘付かれるかもしれません」
「彼女、そんなに勘がいいのかい?」
 市川の質問に、純子は軽く首を傾げ、
「分かりませんけど……久住淳として会ったことがあるので、記憶を刺激するような話
題は避けたいんです」
 と答えた。
「ああ、そういえばそうだった。よろしい、決めた。今回は断る。と言っても、うちが
できるのは、共演を断る意思表明くらいで、企業が別口で加倉井舞美と契約する分には
口を出せないけれどもね」
「充分です。よかった」
 純子が笑み交じりに反応すると、市川の行動は早かった。すぐさま電話をかけ始めた
かと思うと、今決定したばかりの判断を先方に伝え、さらに今後もこのプロジェクトに
関しては共演なしでお願いしたいと強く要望を出し、会話を終えた。
「これでよし、と。――ついでに聞いておきたいんだが、純子ちゃん」
「はい?」
「本音のところでは、どうなの。テラ=スクエア関係は脇に置くとして、加倉井舞美と
張り合って――たとえば、同じ映像作品でダブル主演みたいな形で共演して、負けない
自信はあるのかな? 久住へのお誘いはあったわけだし」
「あのー、全然ありません。こと演技に関しては、加倉井さんは尊敬の対象というか」
 あんまり自信のない物言いをすると怒られるかなと懸念しつつ、正直な気持ちを答え
た。さっき相羽が示した見方の通りねと、純子も自覚している。
 果たして市川は、怒りはしなかった。
「だろうね。この場にいない加倉井舞美に気を遣って、『一緒に仕事をしたくないわけ
じゃない』と前置きするくらいだし」
「え、あ、それは」
 口ごもる純子に、市川は意地悪く追い打ちを掛ける。
「けど、それってつまり、演技以外なら勝負になると思ってるんだ、うん」
「ま、まあ、演技に比べたらまだましかなー。あはは」
「そういえば、歌は勝ってたよ」
 市川が言ったのは、五月の頭に催されたライブのこと。思いがけないハプニングを経
て、星崎とともに急遽出てくれた加倉井は、単独でも一曲披露した。
「冗談きついです。リハーサルやウォームアップなしに、あれだけ唄える加倉井さんが
凄い」
「じゃ、今いきなり唄ってみる? あのときの加倉井さんと比べて進ぜよう」
「もう〜、市川さん、やめましょうよ〜。私、これでも学校生活で忙しいんですっ」
「学校生活で“も”、でしょうが。いいわ、相羽君と仲よくお帰りなさいな。しっかり
休んでね」
 急に物分かりよく言ったのは、市川も仕事を思い出したためかもしれない。気が変わ
らぬ内にと、相羽を促し、急いで腰を上げる純子。
「それじゃあ、失礼します」
「――あ。大事なことを伝え忘れてたわ」
 背中を向けたところで、そんな言葉を投げ掛けられた。純子は嘆息し、相羽と顔を見
合わせた。苦笑を浮かべ、二人して振り返る。
「何でしょうか」
「昼過ぎに鷲宇さんから連絡があったわよ。連絡と言うより、報告ね」
 据え置き型のメモ台紙を見下ろしながら、市川は言った。心持ち、穏やかな表情にな
ったような。
「美咲ちゃんの手術が行われて、成功したって」
「えっ――やった! よかった」
 喜びを露わにする純子。隣の相羽は対照的に、「本当によかった」と静かに呟いた。
「帰国はもう少し先になるそうだけれど、順調に回復を見せているとのことよ」
「音沙汰がないから、海外に渡ってもドナーがなかなか見付からないんだと思っていま
した。いきなり聞かされて、びっくり」
「実を言えば、ドナーが見付かったという話もちょっと前にあったんだけれど、あなた
達には伝えずにおこうと決めてたの。気になって、仕事が手に着かなくなる恐れありと
見てね」
 臓器提供が決定したら、ほとんど間を置かずに手術が行われる。仕事が手に着かなく
なるほど、気にしている暇はないだろう。だから、市川のこの台詞の背景にあるのは多
分、手術の結果も併せて伝えたかったのと、万が一にも悪い結果に終わった場合を見越
してのもの……だったのかもしれない。
 ドアからまた引き返してきて、市川のデスクに両手をついた純子。熱っぽく要望を口
にする。
「帰ってくる日が分かったら、すぐさま知らせてくださいね。そして美咲ちゃんに会え
るように、スケジュールを」
「分かった分かった。今日のところは早く帰って、学校の宿題でも片付けなさいな」
 呆れ口調で応じた市川は、まるで追い払うように手を振った。
 純子と相羽は、事務所のある建物を出てだいぶ歩いてから、自分達もあることを知ら
せるのを忘れていたと気が付いた。
「あ――合宿の日程!」
 美咲の手術成功のニュースが、あまりにも吉報に過ぎた。

「そうですか。やはり、遊びに行くのは無理と」
「ごめん!」
 両手のひらを合わせる純子。頭を下げた相手は、淡島と結城だ。
「いいって、気にしなくても。だいたいは予想してた」
 結城が寛容に笑いつつ、言う。昼食後の休み時間、廊下に出てのお喋りは、今の気候
と相俟って、ついつい長くなりがち。
「天文部の合宿参加を純子、あなたが決めた時点で、他の諸々に影響が及ぶのは目に見
えてたわ」
「うー、面目もありません。当の私が、予想できていなかった。罪滅ぼしと言っちゃお
かしいんだけど、今度の土曜の午後、二人に付き合う」
「暇があるの? なら、その時間、私達に使わずに休養に充てなよ」
 結城の言葉に、純子は内心、頭を抱えたい気分になった。次の土曜日を仕事なしにで
きたのは、他の日にちょっとずつ無理をした積み重ねであって、もちろん淡島と結城の
ためにやったことなのだ。
(忙しいことを先に話したのがいけなかったかな。最初に土曜日の件を言って、約束し
ちゃうべきだった)
 後悔しても遅い。ちょっとだけ考え、再チャレンジ。
「私、遊びに行きたい。だから、マコも淡島さんも付き合って。だめ?」
「――まぁったく。あんたって子は」
 結城が両手を純子の頭に乗せ、軽くだがくしゃくしゃとなで回す。
「そういうことなら、付き合うわ。ね、淡島さんも?」
 純子の頭に手を置いたまま、淡島へ振り向いた結城。淡島は、最前の純子よりは長く
考えて、おもむろに口を開いた。
「基本的に賛成、同意しますが……一つ、いえ、二つ、よろしいでしょうか」
「え、何?」
 頭から手をのけてもらい、純子は面を起こしながら応じた。
「まず、一つ目は、涼原さんは補習の方は大丈夫なのでしょうか」
 心配げな淡島に対し、純子は微笑を返しつつ、また少し考える。テストの点数に関し
てなら、赤点にはなっていない。今、心配されるとしたら、出席日数の方だ。同じ科目
の授業を三度四度と続けて欠席するようなことがあれば、必要に応じて補習を受ける。
もちろん、純子だけが特別扱いという訳ではなく、他の人と一緒に受けるので、タイミ
ングもある。
「心配掛けてごめんね。今のところ、大丈夫だよ」
「そうでしたか。今後を見通して、余裕ができたときに補習を先取り、なんてことはで
きないでしょうし」
「あはは、無理無理」
 それこそ、頭がパンクしちゃうんじゃないだろうか。苦笑する純子。
 淡島もつられたように笑みを浮かべ、それから二つ目の件に移った。
「二つ目は、遊びに行くと仮定して、リクエストなんですが。もう一人、連れて行くの
はいかがでしょう」
「うん、いいかも。それで誰を誘う?」
「相羽君ですわ」
 にこにこと笑顔の淡島。純子は対照的に、表情を強ばらせた。
「あのー、淡島さん。相羽君を選ぶのはどういう理由から……」
「もちろん、二人のためを思ってのこと。付け加えるなら、その様子を端から見守りた
いという気持ちもあります」
「うう。それはさすがに嫌かも」
 冗談で言っていると信じたい純子だが、淡島の顔つきからはどちらとも受け取れて、
判断不可能。とりあえず、拒否の方向で。
「相羽君と一緒に行くのが嫌なのですか?」
「そ、そうじゃなくって、相羽君とはまた別の機会に……二人で……」
 純子は結城に視線を送って、助けを求めた。察しよく声が返ってくる。
「ほらほら、その辺にしておきなさいって。純が困ってる」
「そうですか。少しでも一緒にいられる時間を増やして差し上げようという、いいアイ
ディアだと思ったのですが」
 本気だったんかどうか、まだ分からない言い回しをする淡島。
「あ、ありがとう。気持ちだけで充分、嬉しい。でも、相羽君も最近、何だか忙しいみ
たいだし」
「言われてみれば」
 首を傾げ、教室内に注意をやる結城。
「今もいないみたいね。ま、休憩時間にいないからって、単なるトイレってこともある
だろうけど。純、本人に何か聞いた?」
「ううん。前に忙しそうなときは聞いたけど、大げさに騒ぐようなことじゃなかったか
ら、今後は聞かないでおこうって」
「あれま。気にならないの?」
「気にならない、ことはないけど。気にしないようにしてるの。でも三年になってから
も同じ調子だったら、気になるかなあ。だって、進路に関係してそう」
「なるほど。同じ大学に進みたいと」
「そ、そこまではまだ分かんない」
「てことは、芸能界に専念したい気もあるの?」
 結城は意外そうに目をしばたたかせ、声のボリュームを落とした。純子の方はまた慌
てさせられた。
「違うのよ。そんな意味じゃなくてね。進学したい気持ちの方が圧倒的に強いのだけれ
ど、相羽君は多分、目標が明確になってるのに、自分は全然定まってないなってこと。
こう言うと事務所の人から怒られるかもしれないんだけど、学校の勉強以外でも地球や
宇宙について知りたい。仕事を減らして、勉強してみたい。化石を発掘してみたいし、
オーロラや流星雨を観察したい。知りたいこと、体験しておきたいことはいっぱいあ
る。ただ……研究者を目指すのかと問われたら、強くはうなずけない」
「――ほへー。純て、星だけでなく、足元の方にもそこまで興味あるんだねえ。純の星
好きって、相羽君に合わせてるんだと思ってた」
 結城が感心する横で、淡島は「私は分かっていました」とぼそりと呟いた。と、強い
風が吹いて、開け放たれた窓から砂粒が少々飛び込んできた。ちょうどいい折と見て、
窓を閉めてから三人揃って教室に入る。場所を変えても、話題は変わらない。
「化石には、相羽君、関心ないのかな?」
「ううん、相羽君も好きみたい。でも、私が化石に興味持ったのは、相羽君に会う前だ
から、これも合わせたんじゃないのよ」
「そんなに強弁しなくても信じるって。進路の話からずれてきてるし」
「あ。それで……相羽君の一番したいことは音楽だと思う」
「だろうね」
「対して、私の目標がこんな宙ぶらりんな状態だと、相羽君に相談することもできない
し、一緒の大学に行こうだなんて、それこそ言えないわ」
「進路、迷ってるんなら、迷っていること自体を話すのは、ありなんじゃない?」
「うーん。相談したら、回り回って、相羽君と相羽君のお母さんが喧嘩になるんじゃな
いかと想像してしまって」
「い? 何ですかそれは」
 さっきと違い、今度は予想外だったのか、妙な驚き声を上げた淡島。
「私が相談を持ち掛けると、相羽君は、私が仕事を辞めたがってると受け取るかもしれ
ない。そうしたら、相羽君はお母さんに言うと思う。辞めるのは無理でもせめて仕事を
減らしてとか。でも、おばさまは反対するでしょ。契約あるし」
「考えすぎだと思うなあ。相羽君、それくらい承知でしょ。親子喧嘩なんかしない方向
で、純の相談に乗ってくれるんじゃない?」
 笑い飛ばす風に始められた結城の言葉だったが、急にボリュームが下げられた。彼女
の目線の動きを追って、純子と淡島が振り向く。廊下を通り掛かる相羽の姿が、窓越し
に見えた。
「帰って来たと思ったら、またどっか行っちゃった。何を駆けずり回ってるんだろ」
「職員室での用事が済んで、トイレに行っただけでは」
 結城はやたらとトイレ推しだ。それはともかく、確かに方向は合っているが。
(職員室に用事なら、ここに戻って来る途中にトイレあるのよね)
 純子は内心、ちょっとだけ不安を感じた。気にしないように努めても、やはり気にな
る。
「とりあえずさあ、遊びの方の話を決めておきたいな。純は相羽君を誘う、決まりね」
「え?」
 結城の強引さに、呆気に取られてしまった。
「誘っても来られるかどうか……ほんとに忙しいみたい」
「忙しいあんたが言うなって話だけど。相羽君が来られなくても、別にかまわないか
ら、私らは。誘うことが大事」
「うー。分かった」
「成功確率を少しでも高めるには、遊びの内容を相羽君の好みに寄せるのと、それ以上
に、誘うときの純の格好が重大要素になるね」
「格好って……」
 苦笑いを浮かべた純子だったが、次いでおかしな想像をしてしまい、顔が火照るのを
感じた。友達二人に気取られぬよう、手のひらで頬をさする。
「そ、それで、どんなことして遊ぶ? 二人のやりたいこと言ってよ。私が付き合うっ
て言い出したんだからね」
「ぱっと浮かんだことが一つあります」
 淡島が言った。水晶玉にかざしているかのように、宙を動く手つき。
「流行り物ですが、VRの技術を取り入れたプラネタリウムが先頃、オープンしたはず
です」
「あ、それ、知ってる。イタリア発のプラネタリウムのショーに対抗して、作られたや
つだね。文字通り、星に手が届く感覚が味わえるとかどうとかって。私も興味あるな。
星なら純も相羽君にもいいし。ただ、料金が結構高いのと、場所が遠くなかった?」
 結城の反応が早かったので、黙っていたが、純子ももちろん知っていた。天文好き
云々以前に、とある伝があった。そのことを言い出せない内に、淡島が答えている。
「料金は忘れましたが、距離は確か……一時間半ほど掛かると記憶しています。電車だ
けで一時間でしたか。あ、でも土日にはホリデー快速みたいなのがあったかもしれませ
ん」
「何にしても電車で一時間は、ちょっと時間がもったいない気がするねえ。あー、で
も、純にはちょうどいいか」
 にまっ、と笑い掛けられ、純子はきょとんとなった。
「何で?」
「移動中、睡眠に充てられる」
「そこまで寝不足に悩まされてないよー」
「休み時間、スイッチ切ったみたいにぱたっと寝てること、しょっちゅうあるくせに」
「あれは時間の有効活用と言ってほしい……」
 実際、寝ているところへ話し掛けられたら起きるのだから、という補足反論は心に仕
舞っておく。
「ま、移動時間はいいとしても、入場料が」
「あ、チケットの方は、私に任せて」
「だめだよ、純」
「まだ言ってないけど」
「私達の分を出すとか言うつもりじゃないの。いくら普通のバイト以上に稼いでいて
も、それはだめだよ」
「違うって。実はそのプラネタリウムの運営会社と、お仕事でちょっとつながりがあっ
て。割引券をいただいたの」
 ぼかして言った純子だが、その運営会社とはテラ=スクエアの関連グループだ。割引
チケットは白沼から直に渡された物で、「くれぐれも相羽君と二人きりで行くことのな
いようにっ」と、釘を刺されてもいた。尤も、今の白沼は二人の仲を一応、曲がりなり
にも認めてる訳だし、二人きりで行くな云々は、万が一にも芸能ネタになるのを避ける
ようにしてよねって意味らしい。
(マコと淡島さんが一緒なら、相羽君を誘って行っても問題なし、だよね)
 渡りに船という言葉を思い浮かべつつ、純子は結城らの反応を待った。
「……お金は自分で出す物と言った手前、非常に言いにくいわけですが。その割引券は
何枚あるの?」
「五枚。あ、でも、そもそも一枚で五名まで適用可よ」
「割引って何パーセントです?」
「えっと、七十パーセント引き。有効期限はオープンから一年。ただし、オープンから
半年間は、日曜を含めた休日のみ適用除外で使えない。混雑が予想されるからかな」
「おー、土曜ならセーフ。素晴らしい」
 結城は純子の両手を取り、「お世話になります」と頭を下げた。無論、わざとしゃち
ほこばって見せているのは純子にも分かってるのだが、元々もらい物なのだから、感謝
の意を表されても居心地がよくない。だから、言うことにした。
「白沼さんからもらったんだから、お礼なら白沼さんに言って」
「へえー」
「そういうことでしたの」
 結城と淡島は順に反応を示し、続いて白沼の席に目をやった。が、不在。純子はそれ
を承知の上で言ったのだけれど。

            *             *

 この場にいない白沼に代わってというわけでもないが、純子と結城と淡島の会話に、
じっと耳をそばだてていたクラスメートが一人いた。
(あの様子だと、相羽の奴、まだ言ってないな)
 自分の椅子に収まる唐沢は頬杖をつき、顔を廊下とは反対の方に向けた姿勢でいた。
聞き耳を立てていることに、勘付かれてはいないはず。
(ちょうどいいタイミングを計ってるに違いないけど。俺が口を挟むことじゃないかも
しれないけど)
 すぼめたままの口から、ため息を細く長く吐き出す。
(ああやって、相羽を誘って遊びに行く相談をしているのを聞くと、少し心が痛むぞ。
本人に聞かせてやりたい)
 相羽自身が純子達の先の会話を聞いたとして、その場で留学のことを打ち明けること
は、まずないだろう。それでも聞かせてやりたい。
(合宿までに伝えるつもりとか言ってたが、ほんとにできるのかね? ぎりぎりまで引
き延ばすつもりだとしたら、それはちょっとずるいぞ、相羽。相手にも考える時間てい
うか、気持ちを整理する時間をやれって)
 今度相羽と二人で話せるチャンスがあれば言ってやろうかと心のメモに書き留める。
ただ……それくらいのことを分からない相羽だとは考えにくいのもまた事実。
(早く決着してくれないと、俺まで気になるんじゃんか。おかげで、勉強も何も手に付
かねーよ)
 いざとなれば、俺の口から――と思わないでもない唐沢だが、実行に移すにはハード
ルが高い。高すぎる。
(そういえば)
 会話している三人の内、淡島に目を留めた。
(淡島さんは占いが得意なんだっけ。あの子に相羽の留学話を打ち明けて、占いの形で
涼原さんに伝えてもらう――)
 一瞬、悪くはないアイディアだと思えた。
(淡島さんがそんな芝居、できるかどうかは知らないが、涼原さんの受けるショックを
和らげる効果はあるんじゃないか。それに、相羽だって、直に打ち明けるよりは、気が
楽になるんじゃあ……)
 ただ、懸念がなくはない。
(涼原さんにしてみれば、相羽から自主的に話してほしいだろうなあ、きっと。女子の
気持ち、何でもかんでも分かるとは思っちゃいないが、これくらいは想像できる。占い
で示唆されて、相羽に確かめるなんて真似はしたくないに違いない)
 やっぱり、あんまりいいアイディアじゃないな。唐沢はこの案は捨てることにした。
(相羽から打ち明けるのを早めさせられたらいいんだが。あいつ、誰に背中を押された
ら、そうなるんだろう? 一番は母親だろうけど、でも、方法が思い付かん。俺が関与
できるのはクラスメート……白沼さんとか。確か今、彼女の親父さんだかの会社のキャ
ンペーンの仕事を、涼原さんがしているんだっけ。その線を突っつけばどうかな。涼原
さんがショックを引き摺って、仕事に影響が出たら迷惑だから、少しでも早く打ち明け
て!とか。……待てよ。それ以前に白沼さんて、相羽のことを完全にはあきらめていな
い雰囲気なんだよな。相羽の留学話を教えたら、彼女自身が動揺するかもしれん)
 状況を徒にややこしくするのは避けべき。賢い方法を見付けたい。
(あと頼れそうなのは、うーん、うーん……あ)
 不意に、一人の顔が浮かんだ。女子、でもクラスメートではなく、ここ緑星の生徒で
すらない。唐沢の幼馴染みで、ご近所さんだ。
(芙美。あいつにこのことを話したら、何かいい案を出すかな?)

――つづく




#518/554 ●長編    *** コメント #517 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:11  (449)
そばにいるだけで 67−4   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:13 修正 第2版
            *             *

「何、その紙袋は」
 町田に指差された唐沢は、右手をくるっと返して、紙袋表面のロゴが見えるようにし
た。
「鈴華堂の新作で、クロワッサン風どら焼き。芙美が好きそうだなと思って」
「……微妙」
 町田の視線が手元から上へと昇ってきた。唐沢の目にぴたりと照準、否、焦点を合わ
せる。
「クロワッサンと言えばバターたっぷりで、カロリー高そう。そもそも気味悪い。何の
狙いがあって、あんたが私に和菓子を買ってくるのよ」
「そりゃあ、久々の訪問になるから、手土産があった方がいいだろうなと思って」
「嘘。来るときに手土産を携えていたことなんか一度もなかったのが、急にこんな風に
するなんて、絶対に怪しい。何かあるわね。私の直感がそう告げている」
「とにかく入れてくれよ。玄関先で押し問答するほど、嫌われてるわけ、俺って?」
「……どうぞ。誰もいないから」
 言うだけ言って、先に入る町田。唐沢はそそくさと続いた。
「制服のまま来たってことは、学校帰り?」
「うん、まあ。家に、顔は出したけどな」
「それだけ急いで、ここに来るなんて、一体どんな用事よ」
「あー、話の前にお茶、入れてくんない? 俺もこの菓子、味見しておきたい。よさげ
だったら、他の女子に勧める」
「〜っ」
 文句を言いたげな町田だったが、黙ったまま唐沢をダイニングに通すと、自らはキッ
チンに立った。
「日本茶? コーヒー?」
「改めて問われると迷うな。洋菓子なのか和菓子なのか、はっきりしない物を買ってし
まった」
「コーヒーね。インスタントだと後片付けが楽だから」
 勝手に決めて進める町田。背を向けたまま、唐沢に問うてきた。が、その声とやかん
に水を満たす音が被さり、唐沢は聞き取れなかった。
「何て言った?」
「用事ってもしかして純子のこと?って聞いた」
「どうしてそう思うんだ」
「そりゃあ、今現在、あんたから私に直接関係のある個人的な用事があるとは考えにく
い上に、このお菓子」
 と、町田は紙袋から取り出した個包装のどら焼きを、皿にそのまま載せ、唐沢の前の
テーブルに置いた。
「鈴華堂の『すず』から、『涼原』を連想した。それだけ」
 そう説明されて唐沢も、無意識の内に鈴華堂へと足を運んでいたのかもしれないなと
感じた。
「で、当たってるのかしら」
 聞きながらコーヒーカップにお湯を注ぎ終えた町田は、テーブルまで慎重に運んで来
た。唐沢が目の前に置かれたカップに目をやると、お湯の量が若干、多かったようだ。
揺らすとこぼれかねない。
「当たってるよ。おかげで段取りが狂っちまった」
「段取り?」
 唐沢の正面に座り、自身の分の菓子を空けた町田は、手つきを止めて聞き返した。
「こっちの話」
 コーヒーを前に、“お茶を濁した”唐沢は、その段取りを練り直しに掛かった。元
は、以前に相羽の留学話が出た頃のことを話題にして、当時の相羽が純子に前もって打
ち明けるべきだったかとか、女子の気持ちとしてはどうされるのが最善なのかとか、そ
ういった話をしつつ、流れを見て、現在の留学について口外してみるつもりでいた。
(それなのに、涼原さんに関係することだと先に看破されちゃあ、やりにくいじゃない
か。かといって、他にきっかけはありそうになし。ここは一つ、正面突破で)
 心を決めた唐沢は、気持ち、背筋を伸ばした。相手を見据える視線も真っ直ぐにな
る。
「何よ」
 変に映ったのか、町田が速攻で聞いてきた。
「芙美は今でも口が堅いよな」
「うん? そりゃまああんたと比べたら」
「客観的にでも堅いだろう。そうと見込んで打ち明けるんだからな」
「――分かった。他言無用ね」
 唐沢の真っ直ぐさが伝わったか、町田も居住まいを正した。
「昔、相羽が外国の学校に行くかもって話があったのは覚えてるか」
「もちろん。居合わせたわけじゃないけれども、かなり驚かされたし、記憶に残って
る」
「そのときの縁が、今でも続いているらしいってのも分かってるよな。エリオット先生
のこととか」
「うん」
「どうやらその縁がまた強まったみたいなんだ。はっきり言えば、相羽の奴、J音楽院
への留学を決めたって、俺に伝えてきた」
「えええ? まじ? 担いでんじゃないでしょうね」
 途端に疑いの眼をなす町田。唐沢は肩をすくめ、大げさに嘆息した。
「驚きよりも疑いの方が大きいとは、よっぽど信用されてないのね、俺」
「だって、あまりにも突飛だから……」
「悪ふざけでこんなこと言わねえって。で、問題は、相羽はまだ言ってないんだわ、涼
原さんに」
「……おかしい。普通、恋人が一番でしょうに。何でまたあんたに」
「知らんと言いたいところだが、理由は一応ある。あいつが留守の間、涼原さんの護衛
役を頼まれた」
「え? できるの? 見かけ倒しのくせして」
「ひどいなあ。小学校のときの体育で相撲をやったとき、俺、いい線行ったんだぞ。ク
ラスで二番ぐらい」
「どういうアピールよ。あんたは小さな頃からテニスやってて、腕だけは筋肉ついてた
から、そのアドバンテージで勝てただけじゃあないの?」
「そういう説もある」
「まったく。護衛云々は分かったわ。相羽君が純子に言ってないのは確かなのかしら」
「俺に護衛を頼んできた時点で、まだ言ってなかったのは間違いない。その後は分から
ないが、打ち明けたなら涼原さんの態度に出ると思うし、相羽だって俺にそのことを知
らせてくると思う」
「……」
 カップに視線を落とし、沈黙した町田。その様子を前にして、唐沢も黙る。
(事情を把握したところで静かになるってことは、やっぱ、難しい問題なんだな。悪い
な、巻き込んでしまって)
 今からでも「嘘でしたー」とか言って、なかったことにしてやろうかという考えがよ
ぎる。もしそんな行動に出たら、ぶっ飛ばされそうだが。
「日にちは?」
 目線を起こした町田の質問を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「うん? ああ、相羽が行く日ね。八月の早い段階のはずだ」
「あんまり時間ないわね。送別会すら開く暇がないかも」
「おいおい、心配するとこ、そこか?」
「うるさい。考えてるのよ。あんたとしては、どうしたいのよ」
「当然、相羽の口から早く伝えさせて、涼原さんに心の準備をしてもらいたい」
「基本的には賛成だけど……今、純はどのくらい仕事やってるんだろ?」
「俺に分かるわけが。てか、そんなこと気にする?」
「当然でしょ。ショックを受けた純が、仕事も何も手に付かなくなることだってあり得
る。そう危惧してるの」
 言われてみて、自分も多少は考えていたんだっけと内心で首肯する唐沢。表には出さ
ず、「その辺は、相羽のお袋さんがうまくやるに決まってる」と適当に答えた。
「それもそっか。相羽君の留学を認めた段階で、純子の仕事のことにも考えが及んでい
るはず。……でも、最終的には純子の気持ちの問題だわ。フォローが必要になるかも」
「あー、そんときは芙美ちゃん、頼む。他の二人――富井さんと井口さんも呼んで」
「気軽に言ってくれる。あーあ」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の甲側に顎を乗せた町田。
「そんなことよりも、相羽君に、純子へ打ち明けるよう促す方法よね。……純子の方に
それとなく仕向けて、純子から尋ねるように持っていく?」
「うーん、涼原さんから直接問われたら相羽も正直に言うだろうけど。それって事が済
んだあと、俺達涼原さんから恨まれないか? 知っていて隠していたのねって」
「恨みはしないでしょうけど、気持ちはよくないかも」
「そういうのは避けたいよな。……食わないのかな?」
 ほぼ忘れかけられていたクロワッサン風どら焼きを、真上から指差した唐沢。町田は
黙って、一口分をちぎり取った。
「……悪くはない。けど、やっぱりカロリーが気になる風味だわ」
「次はフルーツを使ったやつにでもするか」
「果物の糖分も、ばかにはできないのよ」
 唐沢もそのぐらい知っている。言い返そうと思ったが、またまた脱線が長くなるのは
考え物なので踏み止まる。
「さっき話に出た、相羽君のお母さんに促してもらうのが、一番安心できる線だと思
う。ただ、端から見て相羽君とこって、自主性を重んじる感じが強い気がしない?」
「まあ同意する。少なくとも俺のとこよりは」
「だから母親として、ぎりぎりまで待つんじゃないかな。いつがタイムリミットのライ
ンなのかは分からないけど」
「下手すると、相羽が涼原さんに打ち明けなくてもよし、旅立ってから伝えるとか考え
ていたりして。自主性を尊重するってのは、そういうことだろ」
「間接的に仕事への影響が予想されるんだから、さすがにそれはないと思う。……人の
心情を推測してばかりじゃ始まらないわね。いっそ、私達で相羽君のお母さんにお願い
してみる?」
「……そこまでやるのって、相羽を直にせっつくのと変わらない気がするぞ」
「じゃあ、そうしようじゃないの」
「ん?」
「あんた、純子から恨まれるのは嫌でも、相羽君からならちょっとくらい恨まれたって
平気でしょ?」
「平気じゃないが、『これまでいい目を見てるんだから、ちったぁ悩んで苦しめ!』く
らいは思ってる」
 割と本心に近いところを吐露した唐沢。町田は口元で意地悪く笑ったようだ。
「それなら、こういうのはどう? 相羽君を早く知らせざるを得ない状況に持ってい
く。例えば、『純子が、相羽君のお母さんが海外留学の本を持っているのを見て、気に
なっているみたいなの。何かあるんだったら、早くきちんと言った方がいいんじゃな
い?』とか」
「うむ。効果はありそうだが、直球勝負だな」
「今のは即興だから。もっと遠回しに、純子の目の前で、誰か男子が相羽君に九月以降
の予定を聞く場面を作るってのもいいんじゃない? 曖昧に返事するだけの相羽君を目
の当たりにして、純子は妙に思って聞く」
「うーん、そっちの方がましかな」
 チャンスがあれば試してみよう。でも、留学話を知っている自分が相羽の前で知らん
ぷりして予定を聞くわけにはいかないので、誰かに頼む形になる。
「実行に移すのなら、早めにね」
 唐沢の頭の中を覗き見たかのように、町田が言った。
「早くしてくれないと、私、言ってしまいそうだわ」
「おい、他言無用だからな」
「分かってるわよ。正直言って、久仁香達でさえ、相羽君が海外留学するって知ったら
泣くかもって思う」
「――それなんだけど、白沼さんはどうなんだろ」
「うん? 泣くかどうか? 知らない。ただ、人づてに知った場合、真っ先に相羽君の
ところに飛んで行って、確認しそうだわ。それか、純子に詰め寄る。『何でしっかり引
き留めておかないの』とか何とか言って」
 容易にその場面が想像できて、ちょっと笑った。
「ありがとな。相談に乗ってくれて。参考にさせてもらう」
「どうぞどうぞ。私だって、今まであの二人には何かと気を遣わされて、その挙げ句に
幸せにならないってんじゃ許さない。そういう気持ちあるからね」
 意見の完全な一致をみた。唐沢は言葉にこそしなかったが、思わず微笑んでいた。

            *             *

 VRのプラネタリウム体験は、想像していたのとは違ったところもあったが、充分に
楽しめた。宇宙旅行をしているような気分を満喫できて、でも映像酔いを起こすような
ことはなく、これならしばらくはお客さんが途切れることはなさそう。
「それで……」
 相羽は懐中時計を仕舞いつつ、面を起こした。エントランスホールは人の入れ替わり
の波が起きていて、下手に動くと離ればなれになりそうだし、突っ立っていては邪魔に
なる。だから、純子達四人は壁に半ばもたれかかるようにして横並びに立っていた。
「このあとはどうする予定なの?」
 前々日、女子から急に誘われた相羽は、今日の行程について何も聞かされていない。
「帰りの時間を計算に入れると、たっぷり余裕があるわけじゃないけど、折角だから話
題のスイーツでも」
 隣に立つ純子を二つ飛び越え、結城が答える。
「厳密には、みつき前まで話題になっていた、今は流行遅れのスイーツです」
 間にいる淡島が付け足す。それにしても、身も蓋もない。
「でも、二人きりになりたいと言うんだったら、私達だけで行ってくるわ。帰りはまた
合流になるけどね」
 結城がからかい混じりの口ぶりで水を向ける。純子は思わず、「マコ!」と声を上げ
た。
 一方、相羽の方は案外冷静なままで、「いや、それはまずいでしょ」と第一声。
「今日は元々、純子ちゃんが先延ばしになっていた遊びの約束を果たすため、結城さん
と淡島さんを誘ったと聞いたよ。だったら――」
「純子ってば、そんな誘い方をしたの。ばか正直に言う必要なんてないのに」
 今度は呆れ口調になる結城。淡島も追随する。
「そうですわ。こちらとしては、二人きりになったところをこっそり追跡して、覗き見
するつもりでしたのに」
「嘘!?」
「半分ぐらい嘘です」
 残り半分は本気だったのねと、苦笑顔になる純子。
「あのー、そろそろ人も減ってきて、動きやすいタイミングなんだけどな」
 相羽は結城とは別の意味で呆れ口調になりつつ、促した。そして再び時計を見やる。
「さっきから時間を気にしてるみたいだけど、早く帰りたいとか?」
 目聡く言ったのは結城。純子が気付けなかったのは、今ちょうど相羽が斜め後ろにい
る形だから。
「いやいや、そんな失礼なことは。もしも行くところが決まってないのなら、行きたい
場所がなきにしもあらずだったから。問題は、一定時間を取られるのと、必ずカレーラ
イスが出される」
「カレー?」
 今日は土曜で、プラネタリウムに来る前、もっと言えば電車に乗る前に昼食は済ませ
ている。そこそこ時間が経っているものの、カレーライスが入るかどうかは微妙なお腹
の空き具合だ。
「いいじゃない。スイーツはパスして、そっちに興味ある。もしかして、相羽君の定番
デートコースだったり?」
「残念ながら外れ。何たって、忙しい純子ちゃんと来るにはちょっと遠いから」
「それよりも、そのお店だか施設だか、お高くはありません? 開始時間が定められて
いるとはつまり、何らかの催し物があると想像できるのですが」
 淡島が恐る恐るといった体で尋ねる。
「そもそも、何のお店なのかを聞いていませんし」
「あ、マジックカフェだよ。学生千円」
 千円ならどうにかなる。それよりも、マジックカフェというあまり聞き慣れない名称
の方が気になったようだ。純子が聞く。
「多分だけど、マジックを見せてくれるカフェ?」
「うん。マジックバーのカフェ版。ほんとに行く気になってるんなら、動こうか」
 異論なしだったため、壁際から離れて外に向かう。
「予約とかチケットとかは?」
 先頭を行く相羽に着いていきながら、結城が尋ねた。
「必要なし。必要なタイプの店もあるみたいだけれども、これから行くところは大丈夫
だよ。満席だったら、少し待たされるかもしれないけれどね」
「相羽君は行ったことがあるの、そのお店に」
 今度は純子がちょっぴり尖った調子で聞く。連れて行ってもらったことがないのが不
満なのではなく、他の誰かと一緒に行ったなんてことになると、少しジェラシーを感じ
てしまうかも。
「ある、だいぶ昔に母さんと」
 地下鉄駅への階段が見えてきた。そこを下り始める。
「え。それって何年前?」
「だいたい五年前。大きな買い物のついでに寄ってもらったんだ」
「待って、ちょっと心配になってきた。五年前に行ったきり?」
 先を行く相羽のつむじを見つめる純子の目が、不安の色を帯びる。が、明るい返答に
その色はすぐに消えた。
「今も店があるかどうかって? 一応調べておいた。値段も変わらず、営業中だった
よ」
 相羽の言う駅までの乗車券を買って、程なくしてホームに入って来た車輌に乗る。三
駅先で実際の距離も大したものではないようだから、時間に余裕があれば歩きを選ぶだ
ろう。灰色の壁面を持つ、飾り気のないビルが見えたところで相羽が言った。
「あのビルの三階に入ってる店なんだけど、そういえば昨日調べたときに、隣は占いの
店になってたっけ。淡島さん、興味あるならあとで寄る?」
「お心遣いをどうもすみません」
 歩きながらぺこりとお辞儀する淡島。
「時間があるようでしたら、寄りたいと思います。でも本日はお二人のことが最優先で
すから」
 これには純子が反応する。
「いいよいいよ。こっちはマコと淡島さんのために今日を使おうと思ってるんだから」
「先程のプラネタリウムまでで充分です」
「私の気が済まない」
 歩みを止めそうになる二人を、相羽と結城が後ろに回って押した。
「はいはい、時間が勿体ない。ていうか、相羽君、間に合いそう?」
「うん、余裕。お客さんも少なそうだし」
 確かに、土曜の午後、往来を行き交う人の混み具合に比べ、ビルを出入りする者は皆
無と言っていい。
 重たいガラスの扉をして中に入ると、意外にも?空調がちゃんと効いていた。左手に
あるフロア毎の図で念のため確認してから、エレベーターに。三階に着いて降りると、
そこそこ人がいた。それまでは幽霊ビルなんじゃないかと感じさせるくらい静かだった
め、ちょっと安堵。尤も、人々のお目手当はマジックカフェ『白昼の魔法』でもなけれ
ば、占いの店『クロス』でもないようだ。フロアの大半を占めるゲームコーナーと、奥
まった場所にある市民講座か何かの教室に人が集まっている。
「何時に入ってもいいんだけど、九十分の時間制……でいいのかな」
 小さな頃の記憶だけでは不安に感じたか、相羽は店先まで小走り。壁に掲げてある板
書の説明に目を通す。
 その間、純子達は隣の占いショップに目を向けた。
「占い師がいて占うだけでなく、関連グッズもあるみたいだね」
「占い師は日替わり……今日は違うみたいですが、一人、かなり有名な方がいます。
マーベラス圭子師は著書が多く、テレビ出演も何度かあるはずです」
 さすがに詳しい淡島。ただし、その有名占い師が今日の当番ではないことを、さほど
残念がってはいないようだ。
 と、そこへ相羽が戻ってきた。
「今なら貸し切り状態。入店すれば、すぐにでも始めてくれるって」
「いいんじゃない?」
 純子が女子二人に振り返る。すると、淡島が急にきょどきょどし出した。
「うん? どうかした?」
「あ、あのう。お客さんに手伝わせるマジックは苦手です。それはなしということで…
…」
 貸し切り状態と聞いて不安を覚えたようだ。
「絶対にないとは言い切れないけれども、あったら僕が引き受ける。アシスタントは女
性がいいと言われたら、純子ちゃんか結城さんに頼む」
「もちろんかまわないわよ」
 ようやく入店。中は昼間だというのに、カーテンをほぼ閉め切っている。照明も豊富
とは言えない。その雰囲気のせいで、若い女性店員のいらっしゃいませの声までも明る
い調子なのに、獲物を待ち構える獣の冷笑を伴っているかのように届く。
「何名様ですか」
 手振りを交えて四名であると伝えると、先払いでお会計。次にテーブル席がいいかカ
ウンター席がいいかを問われた。カウンター席は、バーなどでもよく見られるタイプ
で、細くて高いストールが並んでいる。テーブル席は、通常のファミリーレストランや
喫茶店などで見られる物よりは低く、椅子もソファだ。
「カウンターの方がステージに近い反面、お客様同士が重なって並ぶため、手前の席の
方ほど見えにくくなるかもしれません」
 店員のそんな説明を受け、純子らは眼で短く相談し、「じゃあテーブルでお願いしま
す」と答えた。その頃には、フロア全体を照明が行き渡り、最初より随分明るくなって
いた。
 着座するとおしぼりを出されると同時に、カレー及びドリンク二杯分の注文を求めら
れた。それぞれ数種がラインナップされている。カレーはルーの違いだけで、トッピン
グの類はない。ドリンクは昼専用のメニューなのか、アルコール飲料はなかった(あっ
ても純子達は注文できないけど)。
「どうしよう、ココナツミルク入りカレーに惹かれる」
「いいんじゃないの。言っておくけど、胡桃みたいなナッツが入ってるわけではない
よ」
「分かってるって。胡桃好きだからって選んだんじゃないんだから」
 純子と相羽のそんなやり取りを見せられ、結城と淡島は顔を手のひらで扇ぐ仕種に忙
しい。
 注文が決まったところで女性店員がカウンターの向こうに引っ込み、代わって薄手の
眼鏡を掛けた男性店員が出て来た。年齢は、大学生かもうちょっと上くらい。顔立ちは
優しげだが後ろに撫で付けた髪が多少はワイルドな雰囲気を加味している。お客に舐め
られないようにするためかもしれない。ところが口を開くと、その声は顔立ちにも増し
て優しげかつ頼りなげだった。
「はい、では、お食事を出せるまでの合間に、まずはご挨拶代わりに始めさせていただ
きたいのですが、あ、私、卓村欽一(たくむらきんいち)と申します。覚えなくてもい
いですよ、名刺をお渡ししますので」
 愛想のよい笑みを浮かべた卓村は、カードを配るときみたいに名刺大の紙を四枚、
テーブルに置いた。それはしかし名刺にしては変だった。名前が印刷されてしかるべき
箇所に、一文字しかない。しかも四枚とも異なる漢字だ。それぞれに「卓」「村」「
欽」「一」と書いてある。
「おっと、失礼をしました。慌てて、試し刷りの分を出してしまったようで。すみませ
ん」
 卓村は四枚の紙を集めて回収。手のひらで包み込むように持つと、トランプのように
扇形に広げた。すると最前までの漢字が消え、卓村欽一と記された名刺になっていた。
 純子達は拍手を送った。
「これでよしと。では改めまして、お受け取りください」
 卓村にそう言われても、しばらく手を叩き続ける。挨拶代わりでこの鮮やかさ。続く
演目にも期待が高まる。
 もらった名刺をためつすがめつしてみるも、種は分からない。
「あー、あんまり見ないで。種がばれたら恥ずかしい。皆さんは高校生ですか?」
「はい」
 純子と結城の返事がハモった。
「今まで、マジックを生で観たことはあります?」
 卓村の目線が結城に向く。結城はちょっと小首を傾げて間を取り、「プロはないで
す」と答えた。
「えっ、ということはアマチュアならあると。もしかして、皆さん奇術クラブか何か
で、やる立場だったりするなんて」
「いえいえ。やるのは一人だけ」
 結城が相羽を指差し、純子と淡島も目を向ける。
「あ、そうなんだ。じゃあ、詳しいんだろうなー。種が分かっても、女子三人には教え
ないでね」
「もちろん。それ以前に見破れないと思いますけど」
「うわ、ハードル上げられたなあ。それじゃあ予定していたのと違うのを……」
 その言葉が真実なのかは分からない。卓村は紙のケースに入ったトランプカード一組
をポケットから取り出し、皆に示した。次いで中から本体を出し、表面を見せる。新品
ではないからか、順番はばらばらだ。
「ヒンズーシャッフルをするから、好きなタイミングでストップを掛けてください」
 言われた相羽が頷くと、シャッフルが始まる。五度ほど切ったところで、相羽が「ス
トップ」と声を発した。卓村はその状態で手の動きを止め、左手にあるカードの山を
テーブルに置き、次にそこに十字になるよう、右手に残るカードの山を重ねる。
「さて、ちょっとした個人情報を伺いたいのだけれど、だめだったらはっきり断ってく
れてかまいません。彼女達三人の中で、一番親しい人は?」
「それは」
 多少の躊躇のあと、隣に座る純子に顔を向けた相羽。純子はそれなりに手品慣れして
いるため、何か来るかと身構える。が、卓村は穏やかな調子のまま話し続けた。
「そうですか。正式にカップルかどうかまでは聞きません。では、さっきストップと言
って分けてもらったここ――」
 と、十字になったトランプの上の部分を持ち上げる。全体をひっくり返し、その底に
あるカードを全員に見せた。スペードの6だった。卓村は空いている手でポケットから
黒のサインペンを出し、相羽に渡す。それから「このカードにささっとサインしてもら
えますか」と、右手のカードを山ごと持ったまま、相羽の前にかざした。
「名前でなくても、目印になる物なら何でもかまいません。このカードを特別なスペー
ドの6にするためですから」
 相羽が記したのは馬の簡単な絵だった。
(……愛馬の洒落?)
 相羽の横顔を見ながらそんなことを感じた純子だったが、もちろん声には出さない。
「はい、どうもありがとうございます。このカードはこうして裏向きにして、よそに分
けておきましょう」
 カードを手の中で裏返した卓村は、言葉の通り、テーブルの端にそれを置いた。
「今度はあなたの番ですよ」
 純子に話し掛けた卓村は、最前と同じようにシャッフルをし、止めさせた。先程と違
って、十字に置くことはせず、ストップした時点で右手のカードの山を表向きにする。
現れたのは、ハートの8。これまた同じく、純子がサインをする。ここは流麗なタッチ
でさらさらと。
「お、芸能人みたい」
 おどけた口ぶりを挟む卓村。純子が本当にタレント活動をしていることは知らないら
しい。結城が忍び笑いを浮かべるのが純子から見えた。思わず、しーっの仕種。
 そんなやり取りを知ってか知らずか、卓村のマジックは続く。右手にあった表向きの
カードの山に、名前の入ったハートの8をそのまま見える形で適当に押し込む。さっき
取り分けた相羽のカードは、裏向きのまま、もう一つの山に差し込まれた。さらに二つ
の山を、全体で裏向きになるように重ね、軽くシャッフル。
「これでお二人のカードはどちらも、どこにあるか分からなくなった」
 純子達が首を縦に振ると、それを待っていたみたいに「――と思うでしょ。実は違う
んだな」とマジシャン。カードの山をテーブルに置き、まじないを掛けるポーズを取
る。
「まずは君から」
 相羽に視線をやったあと、「来い! 姿を現せ!」と叫んだ。その拍子にカードが飛
び出す……なんてことはなく、卓村はカードの山に手をあてがい、横に開いていった。
当然、裏向きの柄が続く。が、その中に一枚だけ白が見えた。指先で前に押し出すと、
スペードの6と分かる。相羽による馬の絵もある。
 女子三人から「うわ」「凄い」「こんなのあり得ないわ」と驚きの声が上がる中、卓
村は表向きにカードの山を揃えた。テーブルに残ったスペードの6を指差し、純子に
「じゃあ、あなたの番です。そのカードを好きなところに押し込んでください」と指
示。純子は右手人差し指と親指とで端を摘まみ、スペードの6を山の中程に差し入れ
た。
 卓村はずれを修正しつつカードの山を裏向きにしてテーブルに置く。
「さあ、ハートの8も、恥ずかしがらずに顔を見せて。来い!」
 まじないポーズとかけ声を経て、再び、カードの山を横へと扇に広げていくと……
ハートの8だけが表向きになって現れた。言うまでもなく、純子のサイン入り。
「嘘でしょ」「分かんなーい」「だからあり得ないって」
 女子三人が騒ぐ横合いで、例によって相羽は驚いているんだかどうだかはっきりしな
い。が、目を見れば感心しているのは分かる。
 驚きの反応が収まったところで、卓村が告げる。
「ここまで、マジックだと思って観てこられたでしょうが、実は占いでもあるんです
よ」
 占いと聞いて、ぴくりと身体が動いた淡島。さっきよりも身を乗り出している。
「占いの結果を示すために、あなた、手のひらを上向きにして、右手を出してくださ
い」
 言われた純子がその通りにすると、卓村は相羽にも同じ指示をした。厳密には右と
左、手のひらの上下は違っていたが。
「これからこのハートの8を彼女の手のひらに置きます。君はカードを挟むようにし
て、彼女の手を優しく握ってください」
「はあ」
 表向きに置かれるハートの8。そのサイン入りカードを相羽の左手が覆い隠す。
「もう少し強く握って。そう、バルスと呪文を唱えるアニメ映画ぐらいには強く」
 マジシャンのジョークに苦笑しつつ、純子は相羽の手から伝わる力が強まったのを感
じた。
「そのままの姿勢をキープして。そちらのお二人も冷やかしの目で見ないようにね。よ
い目が出るかどうか、大事な分かれ道だから」
 淡島と結城にも注意を促すと、卓村は残りのカードの山を左手に持ち、その縁に右手
指先を掛けた。そしてカードをぐっと反らせる。狙いは相羽と純子の重ねた手。
「この中にある彼のカード、スペードの6を飛ばします。ようく見ていて……」
 一瞬静寂が訪れ、コンマ数秒後にマジシャンが右手をカードから離す。ばさばさっと
短い音がして、カードの反りが戻った。
「……何にも飛んでないような」
 結城が最初に口を開く。淡島はうんうんと頷いた。
「あれ? 見えませんでした?」
 卓村は相羽と純子の方を見た。
「お二人も? たとえ目で捉えられなくても、感触に変化があるはずなんだけど」
「いえ、特に何も……」
 純子は答えて、ねえ?と相羽に同意を求める。相羽も「感触は同じままですね」と微
笑交じりに卓村に答えた。
「さてさて、困ったな。まあいいや。手のひらを開けてみれば、結果は明らか。まさか
失敗ってことはないと思うけど、万が一失敗だったら、より仲よくするようにご自身で
努力してね」
 身振りで促され、相羽は左手をのける。四人の観客の視線が、カードに注がれた。純
子の右手にあるのは相変わらず、ハートの8だけ。四人の視線は卓村へ移った。
「おっかしいな。よく見てみて。一枚に見えるけれど、二枚がぴったり重なっているの
かも」
「そんなことは」
 純子は左手でカードを持ってみた。指を擦り合わせるようにして確かめるも、やはり
一枚しかない。と、その目が見開かれる。
「――わ!」

――つづく




#519/554 ●長編    *** コメント #518 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:12  (363)
そばにいるだけで 67−5   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:29 修正 第3版
 純子が放り出したハートの8はひらりと舞って、テーブルに裏向きに着地。そこには
裏の模様ではなく、スペードの6が。相羽の手書きの馬もしっかりと描かれてある。
「これは」
 相羽がカードを拾い上げ、改めて一枚であることを確かめた。片面がハートの8、片
面がスペードの6でできた一枚のトランプカード。
「これは素晴らしいですね」
 結城と淡島にカードを回してから、相羽は感想を述べた。
「ありがとうございます。結果も気に入ったでしょうか? それぞれ選んだカードが一
枚になって、お二人は離ればなれになることはない、と」
(あ、そういう意味だったのね。驚くのに忙しくて、気付かなかった)
 頬を両手で押さえる純子。赤くなっているであろう肌を隠す。
 右隣の相羽も占いのニュアンスにまでは思い至っていなかったのか、遅れて「……そ
うですね」と答えた。
「――分かりましたわ」
 と、不意に手を打ったのは淡島。
「え? 種が分かったの?」
「いえいえ。そんな眼力、私にはございません。占いというのはジョークだったんです
ね」
 彼女の受け答えに、マジシャン以外がきょとんとなる。逆に、卓村はほっとしたよう
だ。
 淡島は両表になったカードをちょんちょんとつついて言った。
「ハートの8とスペードの6、どちらも表で裏がなくなった。つまり、うらない、で
す」
「ああ、オチを言われてしまった」
 卓村が片手で目元を覆い、天井を仰いだところで、挨拶代わりのマジックは終了。卓
村は下がり、最初に応対してくれた女性店員が四人の前にドリンクとカレーを運んでき
た。
「ご注文は以上で間違いないでしょうか」
 にっこりと微笑みかける女性店員。結城一人が異を唱えた。
「あのー。メニューは間違ってないですけど、私のスプーン……」
 見れば、彼女の握るスプーンはくにゃくにゃに曲がっていた。
「あ、これは失礼をいたしました。超能力マジックで使用した物が、紛れ込んでしまっ
たようです」
 女性店員は曲がったスプーンを結城から返してもらうと、奥に交換に行く――と見せ
掛けて、再度向き直る。
「お一人だけ食べ始めるのが遅くなるのもよくないですよね。こうする方が早いかと」
 店員が左手に持ったスプーンを何度か振って、右手で撫でるような動作をした。右手
が退けられると、曲がっていたスプーンが真っ直ぐに。
「おー」
 結城も他の三人も拍手を贈る。一礼した女性店員から、スプーンを受け取ろうとする
結城の前で、今度はスプーンがぐーんと長く伸びた。いちいち驚かされてしまって、目
を離せず、なかなか食べ始められない。
「すみません。余計な魔法まで掛けてしまいました。これでも使えなくはないですが、
あちこち触ってしまったので、取り替えますね」
 前掛けのポケットから先端を紙で包んだスプーンが登場。女性店員から「はい」と渡
される結城だったが、警戒してすぐには手を出さなかった。
「このスプーンには、何もございません。しばらくの間、お食事をお楽しみください。
あちらの店内モニターにはマジックショーの映像が流れますので、よろしければどう
ぞ」
 ほぼ正面に位置するモニターは、プロジェクター用のスクリーン大ぐらいあり、やや
粗い画像だったが、マジックの模様が映し出されていた。
「翻弄されっぱなしで、もう疲れてきたわ」
 結城がため息を吐き、カレーを一口食す。
「あら、意外と行ける」
「基本レトルトで、メニュー毎に様々なエキスを足すんだって、前に来たとき聞いた
な」
「キッチン事情の種明かしはしなくていいよ」
 純子が笑い交じりにたしなめると、「じゃあ、マジックの種明かしをしろって?」と
相羽に返された。
「そんな無粋は言いませんよー。でもまあ、分かったのかどうかだけは聞きたいかな。
特にカードが一枚にくっつくやつ」
「私も知りたいです。種が分かったとしたら、再現できます?」
「淡島さん、それって暗に、再現してくれと言ってる?」
「はい、遠回しに」
 遠回しと明言すると、遠回しではなくなる気がするが。
「うーん……ちょっと待ってて」
 相羽は食べる手を止め、しばし考えていた。なかなか答を言い出さないところを見る
と、やっぱり難しいのだろう。
「相羽君がマジックを嗜むって言ったおかげで、さっきの人、難しい演目に変更したみ
たいだけど、元々は何をするつもりだったのかな」
「スプーンを使うのがあるくらいだから、ドリンクのストローとかグラスを使った何か
かも」
「もっと簡単そうな……指が切れたり伸びたりするのとか、首が三百六十度回ったりす
るのとか?」
 純子達女子三人で勝手なことを言っていると、それがおかしかったのか相羽が考える
のを止めて話に加わる。
「僕が小さな頃に来たときは、輪ゴムのマジックだった」
「輪ゴムでマジックって何かあったっけ」
「えっと。簡単なのでよければ、こういうやつ」
 相羽はポケットをまさぐって、茶色の輪ゴム二本を取り出した。一本を左手の人差し
指と親指に掛け、もう一本をそれと交差させてから、右手の人差し指と親指で保持す
る。
「ほんとは色違いの輪ゴムを使うべきなんだけど、持ち合わせがないから勘弁。二本の
輪ゴム、間違いなく交差して、引っ張っても抜けることはない、よね」
 口上に合わせ、両手を左右に引く相羽。輪ゴムは伸びるだけで、交差が解かれること
はない。
「ところがこうして何度か同じことをやっていると」
 手を動かし、輪ゴムを伸ばしたり戻したりする相羽。と、急に動きを止め、輪ゴムの
交差部分に注目するよう、皆に言った。注目を得たところで、ゆっくりと手を動かす。
また伸びると思われた輪ゴムだが、そうはならず、一本ずつに分かれてしまった。何と
いうか“ぬるん”と擬態表現したくなるような現象だ。
「お、やるじゃない」
 結城が小さく手を叩いた。淡島は目をぱちくりさせている。
 純子はすでに見せてもらったことのある演目であったのだが、何度演じられても不思
議に見える。
「自分ができるのはこれだけなんだけど、店の人がやったのはもっと複雑なのが含まれ
ていた。もちろん当時とは違う人だからね、今日も輪ゴムマジックをやる予定でいたの
かどうかは分からない」
「私にとっちゃ輪ゴムのマジックでも充分に驚けるわ。その輪ゴム、特殊な物じゃない
のよね?」
 結城が不審の目つきをするので、相羽は輪ゴムを二本とも渡した。結城はその内の一
本を、目の前で引っ張ったりすかし見たりして調べる。と、強く引っ張ったせいなの
か、輪ゴムが切れてしまった。「あ! わ、ごめん」と慌てる結城に、相羽は首を横に
振った。
「いいよ。正真正銘、どこにでもある普通の輪ゴムなんだから」
「むぅ……それなら安心。だけど、それってつまり種がないってことかぁ。テクニック
だけでできるんだ?」
「まあ、そういうこと。ネット検索をしたら多分、分かるよ」
 カレーを食べ始めてからおよそ十五分が経ち、あらかた済んだところへ店員が来て、
食器を下げた。ドリンクも二杯目の物が新たに置かれる。さすがにこんなときまでマジ
ック的な仕掛けはなかった。食器が割れたら困るからかもしれない。
 そのあと、卓村が再登場。「またマジックでご機嫌伺いをしたいと思います」と寄席
芸人めいた入りから、ペットボトルを使ったマジックを披露。四人全員がサインしたト
ランプカードが、未開封のペットボトルの中に入ってしまうというポピュラーな演目だ
が、テレビ番組などと違い、この至近距離で観てもさっぱり分からないため、驚きが減
じられない。むしろより大きくなったかも。
 続いて、自分も超能力マジックが使えるんです、スプーンは曲げられないけれど云々
と前置きして、フォークをくにゃくにゃと曲げた。四つに分かれたフォークの先を、そ
れぞれ別の方向に曲げて、しかも捻るという一見すると本物の超常現象かと思える。
 最後にはフォークを元の形にして、次のマジックにつなげる。観客の一人から大事な
物を借りて、四つの紙袋の内の一つにマジシャンには分からぬよう隠してもらい、大事
な物が入った袋以外を次々にフォークで突き刺すという演目。なお、“大事な物”とし
て供されたのは相羽の懐中時計だったが、傷一つ付けられることなく無事戻って来たこ
とは言うまでもない。
 卓村最後の出し物は、トランプを使った定番のカードマジックだった。一枚のカード
を選ばせて、クラブのキングと言い当てた後、そのクラブのキングを観客に目で追わせ
る演目のオンパレード。山の一番上に置いたと思ったら二枚目になっていたり、逆に山
の中程に入れたはずなのにトップに上がってきたりと、これもテレビ等でお馴染みのマ
ジックだが、間近で見せられると凄さや巧みさがより一層伝わってくる。
 クラブのキングの彷徨いっぷりはエスカレートし、テーブルの端に一枚だけ別個に置
かれていたり、卓村のネクタイに貼り付けてあったり、同じく卓村の眼鏡に差してあっ
たりと、手を変え品を変えしてきたが、いずれも純子達は気付けなかった。最終的に、
淡島の座るソファの隙間から出て来た。さすがにこれは前もって仕込まれていたと想像
できるのだが、それを認めると、じゃあどうやって最初にクラブのキングを引かせるこ
とができたのかが分からない。
 純子らが手が痛くなるくらいに拍手して興奮冷めやらぬ内に、卓村は「このあと、真
打ち登場です。約三十分のステージマジックをご堪能ください」と言い残して引き下が
った。
 感想を述べるほどの間はなく、正面のスクリーン型モニターが機械音と共に引き上げ
られ、ステージが見通せるようになった。舞台袖から登場したのは、相羽らが入店して
からまだ一度も姿を見せていなかった、お洒落な顎髭のマジシャン。彫りの深い顔立ち
に加え、大げさな黒の燕尾服とシルクハットのせいで、魔術師と呼ぶ方がふさわしそう
だ。
 演者は自己紹介の前に手から次々とトランプを出してみせた。この辺で終わりだろ
う、もう出ないだろうというタイミングで一度手を止め、また次々にカードを出して宙
を舞わせる。左右どちらの手からも出現するし、両手を組んだ状態でもカードは現れ
た。しまいには脱いで逆さにしたシルクハットから、大量のカードが滝のように流れ落
ちる。
 ステージ上は当然、カードが散乱して足の踏み場がないほどに。卓村ら店員達が出て
来て、モップで片付けていく。
「えー、この間を利用して、挨拶をさせてもらいます。初めまして、ダンテ伊達(だ
て)と申します。濃いめの顔なのでたまに誤解される方もいらっしゃいますが、もちろ
ん芸名で、西洋の血が混じってることもありません。あしからず」
 散らばったカードが片付けられ、ステージの片隅には一本足の台が置かれた。卓上に
は直方体の箱や透明なグラス、花瓶など小道具がいくつか。伊達は空いたスペースにシ
ルクハットを載せると、次の演目に取り掛かる。
「先程お見せしたのは、マニピュレーションと言って基本的に、指先のテクニックだけ
で行う奇術です。あ、基本的にと言ったのは色々組み合わせたり、カードの補充にあれ
したりと事情があるので。嘘をつけない性格なもので、白状しておきます。それで、店
の者から聞いたところだと、皆さんはそこそこマジックに詳しいとか」
 四人まとめて言われるとどう返事していいのか困る呼び掛けだが、ここは結城が率先
して「私達は観る専門で、やるのは彼だけ」と相羽を指し示しておいた。
 伊達は承知しているという風に頷き、「何かに気付いたり変な物がちらりと見えたり
しても、やってる間は言わないで。これ、マジシャンとお客との大事な約束」と指切り
のポーズをした。
「さて、そういったマジック慣れした人達に、同じようなネタを見せてもつまらないで
しょう。折角準備したのだけれど、取り外します」
 そう言って伊達が宙を掴むと、右手の指先には金色に光るコインが一枚現れた。台を
引き寄せそこにある花瓶の中に入れると、ちゃりんと音が響く。と、次に左手で宙を掴
むとまたコインが。花瓶に入れるとちゃりん。これを繰り返して、何枚もコインが出現
する。途中、ステージを降りてテーブル席まで来た伊達は、淡島の肩口、結城の耳元、
純子のつむじ、そして相羽の飲み物のグラスの底からコインを出してみせた。
「コインはこれで多分片付いたと思うんですが、まだ他にも仕込んでまして」
 テーブルに右手のひらを押し当てる伊達。そのまま前後に擦る動作をすると、赤い球
が現れた。布か何かでできているようだが、手の中に簡単に隠せるとは思えない大きさ
になる。左手でも同じことをすると、今度も赤い球が出て来たが、右とは異なり、小さ
い。ただし数がやたらと多かった。三十個ぐらいあるだろうか、あっという間にテーブ
ル上に溢れ、転がった。
「それから、これも出しておかないと」
 ステージに戻った伊達は、今度はCDかDVDのディスクと思しき銀色の円盤を手か
ら出した。あんな固そうな物を次々に出現させ、マジシャンの手は赤、青、黄、緑……
とカラフルなディスクで一杯になる。それらを台に置くと、またディスクを出し、今度
は手の中で色がチェンジするおまけ付き。八枚出したところで一揃えにしたかと思う
と、自身がくるりと一回転。観客の方を向いたときにはディスクは巨大な一枚になって
いた。
「これで全部出し切ったかな。――あ、いや、もう一つだけ、最初のトランプで忘れて
おりました」
 口からトランプを出す一般にも有名なネタで、一連の演目を締める。
「ふう。やっと身軽になった。これでやりやすい。ところで皆さんは、お花と蛇、どち
らが好きですか」
 唐突な質問に戸惑う一行。一拍遅れて、「そりゃまあ、花になるでしょう」と相羽が
答える。
 伊達はふむと首肯し、花瓶を手に取った。逆さに振ってコインを取り出すのかと思っ
たら、花が五、六本ととぐろを巻いた蛇のおもちゃが出て来た。さっき入れたはずのコ
インは? 疑問を見て取ったらしい伊達は、蛇のおもちゃの首根っこを押さえて言っ
た。
「ああ、さっきのコインならこの蛇が飲み込んでしまったようだ。ほら」
 空のグラスに蛇を傾けると、その口からコインがあふれ出た。グラスを五割方埋めて
止まる。
「蛇はお嫌いとのことなので、使わないと」
 そう言うなり、蛇のおもちゃを観客席に向けてアンダースローのように投げる格好を
した伊達。次の瞬間、蛇のおもちゃはつーっと空中を泳ぐように伝った。勢いがあっ
て、まるで生きているかのよう。テーブルの端まで来て止まった。前触れなしに目と鼻
の先に蛇が来て、さしもの相羽もソファごと数ミリ後ずさり。
「び、びっくりした」
 この日初めて驚きを露わにした相羽に、伊達は満足げな笑みを浮かべ、髭をひとなで
した。
「その蛇は差し上げます。嫌いなら置いていってもかまいません」
「いただきますよ。面白い」
 相羽が手を伸ばすと、蛇のおもちゃはことっと音を立てて、横倒し?になった。今際
の際に最後の反応を示したみたいで、何だか薄気味悪い。それでも相羽は手に取ると、
もう一度「面白い」と呟いた。
「こちらの花はどうするかというと」
 伊達は台の上にてんでばらばらに置かれた花を見下ろし、両手をかざした。
「生きているようで死んでいた蛇とは逆に、死んでいるようで生きているのがこの花た
ちなのです」
 そう説明するや、顎の近くで揃えていた両手を、急に左右に開いた。そうすると目に
見えない力でも働いたみたいに、花が動いた。ある物は立ち、ある物ははじけ飛び、ま
たある物は浮かび上がる。伊達は浮かび上がった一輪をキャッチし、「この子が最も活
きがいい」なんて宣った。
「うまくすれば、お客さんの目の前でも飛び上がるかもしれない」
 またもステージを降り、テーブルまでやって来た。純子、結城、淡島の三人からほぼ
等距離になるテーブル上の一点に花を置く。
「もしうまく行ったら、キャッチしてください。棘はありませんから、思い切り掴んで
も平気です」
 そう言って皆を花に注目させてから、最前と同じように両腕をかざす。あたかも念じ
ているかのようなポーズがしばらく続き、だめかなと思わせるぐらいまで引っ張って―
―一気に動かした。花はマジシャンから見て左側に跳ね、純子の目の前に落ちた。
「あらら、思ったほど飛ばなかったな。惜しい。でも、その花も差し上げます。取り合
いにならないよう、ここにもう二本持って来ましょう」
 伊達の言葉に合わせて、空っぽだった彼の両手にそれぞれ一輪ずつ、花が現れる。結
城と淡島は呆気に取られながら、その花をもらった。
「少し疲れたので、一休み。皆さん、ドリンクをどうぞ。私もいただきますから」
 ステージに再び立った伊達は、グラスを手に取ると、女性店員からコップ一杯の水を
もらった。コインの詰まったグラスにその水を注ぐ。次の刹那、コインは泡を立てて溶
け出した。金属製のコインに見えていたが、実際は発泡性の溶剤か何かだったのか。
 黄色いオレンジジュースみたいになったグラスの中身を、伊達はうまそうに飲む。半
分くらいになったところで止めて、女性店員からストローをもらった。そのストローを
グラスに挿して吸い始める。と、伊達が両手を離しても、グラスは浮いたままになっ
た。
「おおー、芸が細かい」
 ぱちぱちと手を叩く。それに応えて、伊達が手を振り、「どうもありがとう」と喋っ
た。当然、口からストローが離れ、グラスが数センチ落下した。が、どんな仕組みなの
か、宙で止まってぶらぶら揺れる。
「おおっと危ない危ない。あんまり喜ばせないでくださいよ。油断して落とすところだ
った」
 液体を干してグラスを台に置くと、伊達は直方体の箱を取った。
「休憩、終わり。ああ、皆さんは飲んでいて問題ありません。マジックを観てください
とだけ言っておきましょう。さて、この箱、そうは見えないでしょうが、パン製造機で
す。信じられない? でもこれを見れば納得するのでは」
 今、直方体の上になっている面にはつまみがある。スライド式の蓋になっているよう
だ。そこを持って伊達が開けると、中は空洞。そのことをよく示してから、伊達は蓋を
閉じ、軽く振って呪文を短く唱える。また振ると、今度は何か音がする。聞こえにくい
が、直方体が音の源なのは確かだ。
 伊達はオーバージェスチャーで蓋を開けると、これまた大げさに驚いた顔つきにな
り、直方体からロールパン一個を摘まみ出した。
「ね? これ本物ですよ。食べてみせましょう」
 宣言通り、ひと齧りしてパンの欠片を飲み込む伊達。
「うん、うまい。え? 食べて確かめたい? そうしてもらいたいのはやまやまなんで
すが、残念。このパン、賞味期限が切れてるんですよ。コンプライアンス的にお客様に
提供できません」
 その賞味期限切れを食べた口で言うのがおかしい。逃げるための冗談なのだろう。
「このパン製造機のいいところは、材料を入れなくても新しく一個出て来る点でして、
ほら、この通り」
 口上に合わせて直方体を振り、蓋をスライドさせると中には新たに一個、ロールパン
があった。
「パンが出て来るってだけでも結構なマジックだと思うんですが、これで終わりじゃな
い。ここにサインペンとメモ用紙があります。どなたかお一人、紙に何か書いてもらえ
ますか」
 伊達の手には、すでに何度か登場したサインペンと、付箋のような小さめのメモパッ
ドがあった。用紙一枚を取り、テーブル席の方に来る。
「何でもいいんだけど、時間の関係もあるから、簡単な絵か短い文でお願いします。
あ、私には見えないように。書けたら四つ折りにでもして」
 受け取った淡島が成り行きで書くことに。嫌々という様子はなく、マジックの手伝い
を恐れていたのが嘘みたいだ。
「何て書くのがいいでしょう……」
「今日の感想でいいんじゃない?」
 時間を掛けずに、ぱぱっと『楽しんでます! 緑』と書いた。緑は自分達の学校を表
したつもり。指示の通り、紙を折り畳み、「できました」と伊達に声を掛ける。
「はい、どうも。ペンと用紙は他の人が回収しますので、そのままで。折り畳んだメモ
を、この箱の中に入れてください」
 伊達が両手で持つ直方体の箱は、蓋が開けられている。そこから中に紙を放り込ん
だ。
「はい、確かに」
 伊達は蓋を閉めて。小さく振った。かさっと乾いた音がした。
「えー、さっきは言いませんでしたが、この箱――パン製造機にはもう一つ、優れた点
があります。それはプレーンなパンを作ったあとから、そのパンに具を放り込めるんで
す」
「え、まさか」
「嘘や冗談ではありません。これから実証してみせましょう。実験には、このさっき出
したばかりのパンを使います」
 台に置かれた二個目のロールパンを指差す伊達。
「私が触ると怪しいと思う向きもあるでしょうから、どなたか取りに来てくれますか」
 目を見合わせてから、それじゃあ私がと純子が席を立つ。ステージに足を踏み入れる
と、照明がちょっと眩しかった。パンを両手で包み持って、すぐに引き返す。
「大事なパンです、しっかりと大切に保管してくださいね」
「は、はい」
「繰り返し注意しておきますが、そのパンも賞味期限切れなので、食べちゃいけません
よ」
「はい、食べません」
「結構。では、こういう具合にパンを額の高さに持ち上げて」
 伊達の動きに合わせ、純子は両手を額の位置まで持っていった。舞台を見通せるよう
に腕は若干開き気味。
「その格好……ビームフラッシュとかウルトラセブンて分かる?」
 伊達が言ったが、何を意味しているのか分かる者はおらず、全員きょとんとするばか
りだった。時代を感じると口の中でもごもご言いつつ、伊達は本題に戻った。
「そのまま掲げていて。先程入れてもらった紙を、こちらから飛ばして、パンの中に入
れるからね。下手に動くと、パンじゃなくてあなたの中に入るかも」
「あはは。そのときはさっとよけます」
 ジョークにジョークで切り返す純子。伊達は「これは頼もしい」と笑みを浮かべた。
「では、そろそろ行きましょう。一瞬のことだから、お見逃しなきよう――はっ!」
 直方体が上下に一度、激しく振られた。紙が飛んで行く気配は全く感じられなかった
が、僅かながら風は起きた気がする。
「……成功したと思います。パンをこちらに持って来てもらえますか」
 純子は再び席を立った。離れる際、パンを調べたそうな相羽の視線を感じ取ったが、
勝手な真似はできない。
「台の上に置いてください。はい、どうも。戻らないで、ちょっと待っていて。さて、
このパン製造機の箱には、ナイフが付属しています。パンを切るためと、バターを切り
取るための二種類が」
 講釈を垂れながら、くだんの二本のナイフを側面から取り外す。伊達は純子が持って
来たパンを左手に、パン切りナイフを右手に、純子の顔の高さに合わせて持った。他の
三人からもよく見える。
「今からこうしてナイフでパンを切りますから」
 伊達はナイフの切っ先をロールパンの横っ腹に差し込んだ。ゆっくりと押し込みなが
ら、台詞をつなぐ。
「よく見ておいて。メモ用紙の白い色が見えてくるはず……」
 程なくして白い紙が見えた。観客は口々に「あっ」「何かある」等と声を上げる。
 伊達はナイフを引き抜き、できたばかりの切り口を純子に向ける。
「最後はあなたの手で引っ張り出してください」
 無言で頷き、紙片の角を摘まむ。さほど力を入れずに抜き取れた。
「開いて、みんなに見せてあげて」
「はい……」
 実際には開く前から、全く同じ畳み方だわと気付いていた。焦って落としたり破いた
りしないよう、慎重に開いていく。そして『楽しんでます! 緑』の文字を見付けた。
 純子は用紙を目一杯に開き、テーブル席の方に向けた。が、この小さな紙の小さな字
では読めまいと気付く。伊達に目で許可を取って、ステージを降りた。
「凄い。ほんとにさっき書いた物だね」
「おみくじのフォーチュンクッキーみたい」
「いいバリエーションだなぁ」
 メモ用紙を囲んで、三者三様の感想をこぼす。
 このあとラストとして、人体切断マジックの大ネタを観ることができた。女性店員が
ロングスカートのドレスに着替えて登場。伊達の助手(要するに切られる役)になり、
人の形を簡素化した絵の描かれた箱に入って、上半身と下半身の間辺りに鉄板二枚を差
し込み、上半身を横にずらすという演目。ずらしたあとも、箱から出た手や足の先は動
いており、表情も笑顔のまま。箱のずれを戻して鉄板を抜き取ると、無事に助手が生還
する。箱から出て来た女性店員の衣装がドレスからバニーガールに変化していた。
 見事なフィナーレに拍手喝采し、ショーは幕を下ろす。店を出るときに、簡単なマジ
ックができるカードまでもらった。
「予想以上に面白かったわ」
 店を出てすぐに結城が振り返り、言った。少々興奮気味だ。
「いい趣味してるんだね、相羽君て」
「僕とかマジックがとかじゃなくて、演じた人達のセンスがいいんだよ」
「いやいや、輪ゴムのマジックだけでも分かる。純はいいわね。彼におねだりすれば、
種を教えてもらえるんでしょ」
「そ、そんなことないって!」
 ふるふると首を横に振った純子。
「厳しいんだから。こちらが考えに考えた末に、やっと教えてくれるかどうか」
「そんな、人を鬼教官みたいに」
 そのままエレベーターを目指す三人に、背後から若干恨めしげな声が掛かる。
「お待ちください。時間はまだあると思うのですが」
 淡島だ。純子は振り返って瞬時に思い出した。

――つづく




#520/554 ●長編    *** コメント #519 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:13  (283)
そばにいるだけで 67−6   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:39 修正 第2版
「占い!」
「あっ、ごめん」
 相羽と結城も急いで反転。占いショップの前でたたずむ淡島の元へ駆け付けた。
「せーっかく、お二人の仲を占ってもらう分、おごろうと考えていましたのに」
 淡島がどよんとした目で見上げてくる。
「えっと、このタイミングでそう言われても」
 相羽と純子は共に戸惑いを表情に出した。淡島の機嫌を直してもらうには、おごって
くださいと言うべきなのだろうか。何か変だ。
 相羽は両手を拝み合わせ、淡島に頭を下げた。
「淡島さん、本当にごめん。マジックのライブが久しぶりで、僕もつい夢中になってし
まって。次からは気を付けて、こんなことないようにする。だめかな?」
「……よろしいです。ちょっと意地悪を言いたくなっただけですから、ご安心を」
 淡島が笑顔を見せたので、相羽も純子も結城もほっとした。
「ただ、お二人が占ってもらうところを、同席してみたい。私独自のやり方の参考にな
るかもしれません」
「え。そういうのは、占い師さんに頼んでみないと分からないんじゃあ……」
 店の前で揉めていてもしょうがない。思い切って入ってみることに。店内は占いグッ
ズが所狭しとディスプレイされていた。が、淡島は目もくれない。
「時間がどのくらい掛かるか分からないから、すぐさま観てもらいましょう」
 淡島に手を引かれ、奥の占いスペースらしきコーナーへと連れて行かれる純子。相羽
も仕方なしに着いていき、その後ろを結城が面白がって押す。
 ゲルを思わせるそのコーナーの出入り口には、占い師の名札『小早川和水』が掛かっ
ており、天幕からの布が目隠しになっている。先客はいないようなので、布を持ち上げ
て中の人に声を掛けてみることにした。淡島と純子で声を揃える。
「すみません、占ってほしいのですが……」
「どうぞ、お待ちしておりました」
 存外、軽い調子の返事があった。幾分緊張していたのが和らいで、入りやすくなる。
 壁際の椅子に腰掛けていたのは、浅黒い肌の女性で、太い眉毛が印象的な人だった。
どことなく南国かインド辺りを連想させる。髪はショートカット、衣服は水色のワン
ピースで、いかにも占い師といった風ではない。客の椅子との間には白いテーブルがあ
り、紫のクッションの上にやや大きめの水晶玉が一つ鎮座している。他にも何やら標本
サイズの鉱物がたくさんある。
 椅子を勧められたが、先に伝えねばならないことがある。淡島が暗いジャングルを手
探りで行くような口ぶりで聞いた。
「変なことを言うかもしれないですが、あのう、一度に四人が入っても、大丈夫でしょ
うか……」
「他の人に占いを聞かれてもいいの? だったらかまわない」
 これまた思いのほかフレンドリーだ。虚仮威しタイプよりはずっといいが、こうも親
しげだと占いの重みやありがたみが薄れそうな気もする。
「初めての方ね? 初回特別割引で、学生さんならこういう具合になってるけれども、
いいかしら」
 料金表を示し、ビジネスライクなことまで言ってきた。とにもかくにも、普通の高校
生でも楽に手が届く設定はありがたい。
「お願いします。ただ、とりあえず、観ていただきたいのは二人なんです」
 ここからは純子が話す。相羽との仲を観て欲しいと伝えた。淡島に半ば強制されたこ
とは言わないでおく。
「珍しい。普通は隠したがるものでしょうに。いけない、関係のない詮索はやめないと
ね。れじゃ、二人に前に座ってもらって、付き添いの友達は後ろで……そこのパイプ椅
子を出して置けるようなら、座って」
 相羽が率先して椅子を置いていく。幸い、椅子を二列ならべてもまだ余裕はあった。
「それでは改めて……私の名前は小早川和水(こばやかわなごみ)と言います。ご覧の
通り、水晶占いにジュエリー占いを組み合わせて観させていただきます。他にも姓名判
断とタロットが使えますが、水晶でかまわないかしら」
「は、はあ。お任せします」
 純子が受け答えする横で、相羽は口をつぐみ、占いの道具の数々をぼんやり眼で見て
いる。興味がない訳ではなく、平静を装っているようだった。
「じゃあ、最初にイメージを掴むためにお名前を教えて欲しいの。姓名判断ではなく、
飽くまでイメージを把握するため。それから誕生石を知る必要があるので、誕生月もお
願いね」
 便箋と鉛筆を滑らせるようにして、純子と相羽それぞれの前に置く。相羽がここで初
めて口を開いた。
「名前にふりがなは?」
「何て読むのかを知った方が、よりイメージしやすいわ」
「じゃあ書きます」
 流れに素直に従う。書き終えた便箋を向きを換えて渡すと、小早川は何も言わずに石
を選んだ。五月の代表的な誕生石エメラルドと十月の代表的な誕生石オパール。どちら
も極小さな物で、シートに固定されている。他に参考ということだろうか、翡翠、トル
マリン、ローズクォーツとメモ書きするのが見て取れた。
「最初に言っておくと、このあとの占いで示される見立ては、今の時点でのものだか
ら。どんなにいい結果が出ようと心掛けや行い次第で、悪い方に変化し得るし、逆もし
かり。そのことを忘れないでね」
 二人がはいと答えると、小早川は便箋を返した。個人情報の処理はお客に任せる方針
らしい。
「それではお聞きしますが、お二人の何を観てみましょうか?」
「えっと」
 改まって尋ねられると、具体的には決めていなかったと気付く。かといって、淡島に
判断を仰ぐのもおかしな話だし。
「見たところ――これは占いではなく、私の直感だけれど――見たところ、現状で充分
幸せそうよ。120パーセント満足とまでは行かないにしても、大きな不安や悩みなん
てあるようには思えないわ」
「……小さな不満なら」
 純子が小さな声で言った。占い師の「聞かせて」という促しに応じて続ける。
「会える時間が少ないんです。一緒の学校、一緒のクラスなのに。でもこれは原因がは
っきりしてるからいいんです。一時的なことのはずだし」
「少し、はっきりさせてみましょうか。悩みは過去にあるのか未来にあるのか、それと
も現在なのか」
「未来、かな……この先ずっと、こんな調子だと嬉しくないなって」
 相羽の様子を横目で窺った。相羽の口が、そうかと声のない呟きの形に動いたように
見えた。
「彼氏さん、えっと相羽君の方は何かある?」
「悩み相談室みたいですね。ええ、今の状況に幸せを感じてはいます。だからこそと言
うべきなのか分かりませんが、将来に対する不安はあります」
 ほぼ同じことを言ってるようでいて、ニュアンスの微妙な違いがあるようなないよう
な。その空気を感じ取れたのか、小早川は具体的な提案をした。
「とりあえずというのもおかしいけれど、二人の将来を観てみよう。ね? 今の状態が
いつまで続くのかとか、よい方に向いているのかとか。結ばれるかどうかまでは言えな
いけれど、相性診断も併せて」
 その線でお願いすることに決めた。
 小早川和水は集中するためにと前置きして、占いコーナー内の明かりを若干落とし
た。ほの暗くなった空間で、水晶玉に手をかざす。その手には、エメラルドかオパー
ル、どちらかの誕生石が握り込まれているようだった。
「――今現在の姿から、将来への像を辿って描きます――今現在の涼原さんは全力疾走
しているイメージ。それも多方面に。水晶玉にあなたの誕生石をかざすと、色々な方向
に電気のようなものが走るから。そのことがさっき言っていた原因? あ、答えなくて
いい。……うん。ときが来れば止まる。そのとき、一緒にいてくれる人が」
 小早川は石を取り替えたようだ。ほとんど間を置かずに、首を縦に小さく振る仕種を
した。そして次に、首を傾げる動作もあった。
「そのとき一緒にいてくれる人が、相羽君なのは間違いない。ただ、それまでに……」
 言い掛けてやめる占い師。純子は何があるのかと反射的に聞き返そうとした。が、そ
のタイミングで相羽が手を握ってきた。おかげで口出しはせずに、占いは続くことに。
「もう少し待っててね。ここは慎重に、段取りを踏んで、彼氏さんの今現在の姿も思い
描くから」
 小早川がそう言って、石――多分エメラルドの方を水晶玉にかざす。その様を見てい
る内に、水晶玉の内部を本当に電光が走ったように思えた。
「うん。ちょっと不思議かな」
 どういう意味ですかと聞き返してしまいそうなのを堪え、続きの言葉を待つ純子。相
羽の手を握り返す手に力が入った。
「相羽君の方は今、岐路に立っているか、通り過ぎたばかり。本人が自覚しているして
いないにかかわらず、そういう地点にいるっていう意味」
「あの、よろしいでしょうか」
 意外なことに、相羽が口を挟んだ。隣の純子も、後ろの二人も少なからず驚いて、は
っとする気配が伝染する。小早川も一瞬むっとしたようだが、すぐに如才ない笑みを浮
かべた。
「何か?」
「高校生はそろそろ進路を決める時期だからってことで、当て推量で言ってるのではあ
りませんか?」
「うーん、私がそういう計算を無意識の内にしているのかもしれないけれども、その辺
りも全てひっくるめての占いよ。これでいい?」
「分かりました。失礼をしました」
「じゃあ、続きを――相羽君が行くであろう道は、彼女さんの道とは交わらないか、大
きくぐるっと回ってきてようやくつながる、みたいなイメージを持った。つながったと
きというかつながったあとは涼原さんとずっと一緒になる、そんな感じよ。今ね、二人
の石を同時にかざしているのだけれど、別ちがたい結び付きがあるのが伝わってくる。
それを思うと、道が交わらない時期があるのが逆に不思議。一時的な物とは言え、これ
だけ相反するものが見えたということは、心掛け次第では大きく変化してしまうことも
ないとは言い切れない……」
 明かるさが徐々に戻っていく。どうやら占いは済んだようだ。
「あのー、結局どういう……」
 終わったのなら聞いてもいいだろうと、純子は尋ねた。
「今のあんまり会えない原因が、まだしばらく続くか、拡大するという解釈になるんで
しょうか」
「少し違うと思う。見た目の原因は変わりがないとしても、間接的に相羽君の選択が関
係してるんじゃないかっていう見立てよ」
「そうですか」
 多少の不安を抱えて、相羽の顔を見る純子。相羽も見つめ返していた。
「まあ、驚かせるようなことを最後に付け加えたのは、二人に緊張感を保って欲しいか
らよ。何があってもどうせ一緒になれるんだからと思い込んで、いい加減な行動を取っ
て、それが原因で不仲になったりしたら、私が恨まれてしまう。実際、似たようなこと
で怒鳴り込まれた先輩を知っているし」
 占い師としての実情をぶっちゃける小早川。神秘性はあまりないけれども、親しみを
覚える人柄に、純子は少なからず好感を持った。
「さあて、知りたいことは他にない? あっと申し訳ない、先にお代をいただいておか
なくては」
 そう言われて、相羽が真っ先に動いた。
「ここは僕が」
 皆まで言わない内に支払いを済ませる。それどころか、ずっと見物していた結城と淡
島に向き直り、「何かあるのなら、僕が出すから観てもらいなよ」と誘った。
「ありがたい話だけれども、私は相談を友達に聞かれたくないわ〜」
 結城が冗談交じりに言うのへ、被せるようにして「僕らは出ているから」と後押しの
言葉をつなぐ。
(相羽君が占いのことでこんないい風に言うなんて珍しい。小早川和水さんを相羽君も
気に入ったのかしら)
 結局、淡島も結城も相羽のおごりで観てもらうことになった。先に座った結城は、外
に聞こえるほどの音量で「彼氏がいつになったらできるのか、知りたいです!」と言っ
ていた。

 帰りは当初の予定よりは遅くなったものの、ちょっとしたずれの範囲内で、明るい内
に最寄り駅まで戻れた。
 結城や淡島とはすでに駅で分かれており、ここから自転車に乗っての帰路は相羽と二
人きり。
「あーあ、楽しかった。ちょっぴり無理をした甲斐があったわ」
「やっぱり、無理をしてたんだ?」
 結城達がいなくなったところで気抜けしたのだろう、つい実情を漏らしてしまった。
相羽にはしっかり聞き咎められたが、もしかすると純子自身も心の奥底では誰かにねぎ
らって欲しいと願っていたのかも。
「そんなに、無理って言うほどの無理じゃないわ」
「隠さなくても。実は、おおよそのところは、母さんから聞いて知ってるんだけど」
「そ、そうだったの。だから誘ったときに、簡単にOKしてくれたのね」
「心配して欲しかった? 仕事がないときは休めって」
「うう。かもしれない。でもいいんだ」
 自転車ではなく徒歩だったら、相羽の方を振り返ってほころぶような笑顔を見せてい
ただろう。
「今日は休んだ以上に充実してたもん。寄ったところは三つとも好みに合って。プラネ
タリウムは内容が入れ替わるまではいいけど、マジックはどうなのかしら? ショーの
内容は同じ?」
「基本となる部分は同じで、あとは客に合わせて変えてくると思うよ。僕らのこと覚え
てくれただろうから、なるべく違う演目になるはず」
「じゃあ、近い内にまた行ってみない? 今度はその、二人で」
「……」
「な、何で黙るの!」
 恥ずかしさから声が大きくなる。相羽が急いで返事を寄越した。
「随分、積極的だなと思って、びっくりした」
「それだけよかったってこと! ……それに、占い師さんにああいう風に言われて、少
し気になったから」
 駅から自宅まである程度行くと、あまり信号がなく、あっても青だったため停まらず
に来られた。が、ここで十字路に差し掛かり、一旦停止した。
「相羽君も気になったでしょ?」
「そう、だね」
 相羽の区切った言い方に引っ掛かりを覚えた純子だが、疑問を言葉にする前に、自転
車を漕ぎ出す。比較的狭い路地に入るため、一列になった。純子は後ろに着いた。
「小早川さんの言っていた岐路って、当たってたんじゃあ?」
 思い切って聞いてみた。相羽の背中から反応が来るまで、ちょっと長く感じた。
「どうしてそう思うの?」
「学校で先生のところによく行ってるでしょ、相羽君。面談の話だけにしてはいつまで
も掛かっているし。やっぱり進路の相談なのかなあと思って」
「なるほど。……純子ちゃん、次に時間が取れる日っていつになる?」
「え? それは分からないけれども、当分無理かなぁ。今日の休みを確保するために、
あとのスケジュールにもしわ寄せが行ったみたいだから」
「そっか、そりゃそうだよね」
 相羽が額に手を当てて、考える姿勢になるのが分かった。そのポーズがしばらく続く
ものだから、「前、ちゃんと見てる? 危ない」と声を張る。
 実際には周囲がまだ明るさを残しているおかげもあって、危ない目に遭うことも遭わ
せることもなく、純子の自宅前まで着いた。
「結局、何だったの? 時間が取れる日って……」
 自転車を降りて門扉の手前まで押して立ち止まり、振り返って尋ねた純子。
「気にしないで。僕の方で何とかする。じゃあ急ぐからこれで」
「? う、うん。分かった。気を付けてね」
 違和感を払拭するためにも、手を強く振って彼を見送った純子。だが、何となく居心
地の悪いものが残った。

            *             *

「母さん、純子ちゃんのスケジュールで一日だけでも完全な休みを作れない?」
 マンションの自宅に帰り着くなり、相羽は母に言った。
 キッチンに立っていた相羽の母は、短い戸惑いのあと、眉根を微かに寄せた。難しそ
うだと見て取った相羽は、答を聞く前に言葉を重ねる。
「無理なら、一番仕事に余裕がある日を知りたい。三日間ぐらいのスパンで見た場合
に」
「……もうすぐ夕飯が完成するから、その話は食べながらにして、今は着替えてきなさ
い。うがいと手洗いもね」
 分かったと素直に動く相羽。
 今日午後から遊んだ中で、二度も暗示的な出来事があった。自分と純子との近い将来
を考えさせる出来事が。表裏一体になったカードと占い、どちらも純子に何かを勘付か
せるきっかけになっているような気がする。
(はっきり聞かれる前に、僕から言わなくちゃ)
 しかしそれにはタイミングを見定める必要がある。当初は、彼女にじっくり落ち着い
て聞いてもらえる時間と場所があれば、何とかなると思っていた。だけれども、少し考
えてみて、純子が関わっている仕事への影響も考慮せねばならないと思い直した。その
目的のために、まずは母に聞いてみたのだが。
「――それを教えても、大して差はないと思うわ」
 母の返答に、相羽は何でだよと口走った。似つかわしくない荒っぽい言葉に、母が苦
笑を浮かべる。
「信一がどんな理想的な状況を描いているのか知らないけれど、ショックを与えずに知
らせるなんて、絶対に無理だから。仕事への悪影響って言うのなら、ショックを二日も
三日も引き摺るかもしれないわ」
「それは……」
 続きが出て来ない相羽。母が意見を述べた。
「とは言ってもね。私から見た印象になるのだけど、純子ちゃんはあなたの留学を知っ
ても、多分仕事はきちんとこなすわ。最高の状態ではない、悪いなりにではあるかもし
れないけれど、責任感のある強い子だから、それくらいはやり遂げる。純子ちゃんにと
って一番影響を受けるのは、あなたがいなくなったあとの日常の方」
「そうなのかな……」
「決まっているわ。好きなんでしょう、お互いに。あなたが考えるべきは、一番ましな
伝え方をしようとか、ベストのタイミングを計ろうとかじゃなくて、離ればなれになっ
たあとの彼女のことを想って、今できる行動を起こす。これじゃないのかしらね」
「……分かるけど。難しい」
 食事の手が止まりがちになるのは、カレーライスのせいだけではない。母に促され
て、何とか再開する。
「私が純子ちゃんなら」
 その前置きに相羽が顔を起こすと、母がいたずらげな笑みを浮かべていた。
「こんな大事なこと、一刻も早く知らせてよ!ってなるかな。次は、ひょっとしたら翻
意を期待するかもしれない。そこは信一が誠意を持って受け入れてもらうしかない。そ
れから――一緒にいられる間にできる目一杯のことをしたくなるわね。信一は求められ
る以上に応えてあげて。そうして彼女に安心してもらう」
「安心」
「そう。たとえ遠くに離れていても、これからの将来ずっと一緒に歩んでいけるってい
う安心」
 おしまいという風に、箸でご飯を口に運ぶ相羽母。
「いいアドバイスをもらえた気がする」
 相羽は無意識の内に頭を掻いた。
「けどさ、純子ちゃん忙しいんでしょ? 出発する日までに、どれだけ時間を取れるの
か……」
「そこはまあ、信一が工夫して。学校にいる間を最大限活用するとか。たとえば、思い
っきりべたべたしてみるとか?」
「母さん!」
 怒ってみせた相羽だったが、次の瞬間には学校で純子とべたべたする場面を想像し
て、赤面と共に沈黙した。

――『そばにいるだけで 67』おわり
※作中に出て来た、皆既日食の起こるとされる月日は、架空のものです。過去及び未来
を通して、同じ七月下旬に皆既日食が日本で観られるケースはあるはずですし、なおか
つ本作のカレンダーと合致する年があるとしても、それは偶然であり、本作の年代を特
定する材料とはなりません。念のため。




#521/554 ●長編    *** コメント #501 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/30  22:43  (471)
絡繰り士・冥 3−1   永山
★内容                                         19/02/01 01:30 修正 第2版
「これをどう思うね?」
 十文字先輩が白い封筒とその中身の便箋を示しながら云った。
「この住所のところに行ける? ちょっと季節外れでも、南のリゾート地に行けるなん
てうらやましいにゃ」
 一ノ瀬和葉が答えて、ホットミルクの入ったグラスを両手で引き寄せた。穴の開いた
棒状のお菓子をストロー代わりにして、ぼそぼそと吸っている。
「――百田君、君は?」
 先輩の目が僕に向いた。先輩の注文したコーヒーと焼き菓子がちょうど届いた。
「招待状を受け取る心当たりはあるのですか」
 僕は冷めつつある残り少ないパスタをフォークで弄びながら尋ねる。
 ここは七日市学園のカフェだ。今は放課後の四時。他の利用者はほとんどいない。冷
たい雨が降っているせいか、早々と帰路に就いた者が多いのだろう。唯一、遠く離れた
席で、女子の二人組がお喋りに花を咲かせている。――いや、何やら深刻そうに話し込
んでいる。
「ないさ」
 きっぱりとした返答の十文字先輩。名探偵を志し、実際にいくつかの凶悪犯罪を解き
明かしてきたこの人にとっても、見知らぬ人物から招待状を送られるなんて経験は、珍
しいらしい。それで先輩が困惑したのかどうかは分からないが、意見を聞きたいという
ことで、僕らはカフェに呼び出され――来たのは先輩の方が遅かったけれども――、今
に至る。
「字は毛筆体だが、プリンターで出力したものだね。差出人の名は小曾金四郎と書い
て、こそ・きんしろうと読むと判断した。初めて見る名だ。住所の記載はなく、消印す
らない。直に郵便受けに放り込んだと思われる。中身は便箋と飛行機のチケット。文面
は多少凝っているが、内容は至ってシンプル。『貴殿の探偵業における日頃の活躍を賞
し、また慰労のため、保養の地にご招待する所存』云々かんぬん。要するに、探偵とし
てよくやったから骨休めに来いという訳だ。どこで活躍を見てくれていたのか知らない
が、これを直に郵便受けに投じていることや、スマホや携帯電話その他モバイル機器の
類は持参するなと書いてあること等からして、怪しさ満点だよ」
「小曾金四郎ってのも本名じゃないんでしょうね」
「恐らく、いや間違いなく偽名だろうな。振り仮名がなかったんだが、こそきんしろう
と読める名を名乗ったのは、別の意図があるんだと思う」
「と云いますと?」
 僕が莫迦みたいにおうむ返しした横で、一ノ瀬が「あ」と叫んだ。ストローは消え、
ミルクも飲み干していた。
「もしかして、アナグラム? えっと、ローマ字なら、KOSOKINSHIROUだ
から……」
「KURONOSOSHIKI――『黒の組織』になる」
 すかさず答えた十文字先輩。著名なアニメでもお馴染み、悪者グループの俗称、代名
詞みたいなものと云えよう。
「これが偶然でないとしたら、ますます警戒する必要があるのだが、こういった招待状
に対して、怖じ気づいて応じないというのも名探偵像にはない」
「じゃあ、乗り込むんですか」
「それは君の返事次第だよ、百田君」
 想像の斜め上から来た文言に、僕は口をぽかんと開けた。頭の方も一瞬、ぽかんとな
ったかもしれない。
「ど、どういう意味ですか」
「お誘いの文句には、集合する日時と場所の指定に続けてこうある。『同封したもう一
枚は、お連れの方の分としてご自由にお使いください。ただ、一つだけ当方の我が儘を
述べさせていただきますれば、十文字探偵の名パートーナーでワトソン役である方をご
同伴願えたらと、切に願う所存です。』とね」
「僕のこと、ですか」
「そうなるね。ワトソン役を連れてこいということは、向こうで事件が起きる、少なく
とも準備がなされている可能性が高い。モバイル禁止は、外部の助けを借りるなという
示唆じゃないかな。向こうがここまでして待ち構えているのに、行かずにいられようか
という気分の高鳴りを覚えるんだよ。無論、君の意思は尊重したい」
「待ってください。僕が行かないとしたって、他に誰か頼めばいいのでは? たとえば
……五代先輩を通じて、警察の人に同行してもらうとか」
 五代春季先輩は十文字先輩の幼馴染みで、警察一家に生まれた。柔道の腕前は強化選
手クラスだ。
「この段階で、警察が動くとは考えづらい。仮に動いてもらったとして、何も起きない
内から、探偵が警察を連れて来るというのもまた前代未聞じゃないかな」
「だったら、せめてボディガード的な……それこそ五代先輩や音無さんがいれば、心強
いじゃないですか」
 音無亜有香は僕や一ノ瀬と同級で、剣道に打ち込んで強さを磨いている。こと暴力沙
汰になれば、僕なんかよりずっと役に立つ。
「ご指名は――名指しじゃないが――君なんだよ。特別な理由なしに、君以外の者を同
行させたら、僕が臆病風に吹かれたみたいに映るじゃないか。そうなるくらいなら、最
初から招待を断る」
 何となく格好いいこと云ってるみたいに聞こえるけれども、矛盾してる。そこまでメ
ンツを気にするなら、行かないというのはあり得ないはず。一人でも行くというのが最
後の選択肢なのではないのかしらん……なんてことを先輩相手に指摘できるはずもな
く。多分、十文字先輩は僕に着いてきて欲しいのだと思う。理由は不明だけれど。
「いつなんですか。都合がつけば行きますよ」
 僕の返事に、高校生名探偵は破顔一笑した。

 いくら南国のリゾート地といえども、連休を丸々潰して出向くには、不気味で不確定
な要素が多すぎる。一ノ瀬が云ったように時季外れだし……と、旅立つ前はそう思って
いたのだけれど。
「ようこそ、ワールドサザンクロスへ」
 空港のすぐ外、送迎車らしきワゴンカーの前で待機していた女性二人は朗らかに云っ
た。僕の方に付いた女性は、どことはなしに全体的な雰囲気が音無さんに似ていて、そ
れだけでこの旅がいいもののように思えてきた。あ、毎度のことだから記すのが遅くな
ったけど、僕の理想の女性像は音無さんなのだ。
 尤も、年齢は僕ら高校生より上であるのは確実で、四年生大学卒業前後といった辺り
に見えた。彼女はミーナと名乗り、十文字先輩に付いたもう一人はシーナと名乗った。
もちろん本名ではなく、当人らの説明によると、小曾氏の自宅に隣接する形で氏がオー
ナーを務めるリゾート施設があり、そこのショーに出演するプロのパフォーマーだとい
う。
「そんな方々が迎えに、わざわざ車を運転してくるなんて。まさか、自動運転じゃない
でしょう?」
 先輩が真顔でジョークを飛ばすと、ミーナとシーナはより一層の笑顔を見せた。
「ご安心ください。運転手は別にいます。名を東郷佐八(とうごうさはち)といいま
す」
 スライド式のドアを開け、中へと導かれる。運転席の中年男性に挨拶をすると、振り
向いて強面を目一杯柔和にして挨拶を返してくれた。
「このまま我が主の邸宅へ向かいますが、寄りたい場所があれば云ってください。道す
がら、目にとまった場所でもかまいません」
「とりあえず落ち着きたいので、目的地に直行でお願いします」
 実際問題、下調べをするゆとりがなかったため、どこに何があるのかさっぱりだ。結
局、コンビニエンスストアに立ち寄って、ご当地仕様のお菓子や飲み物なんかを多少買
い込んだぐらいで、他に寄り道はせず小曾邸に着いた。最終的に車は五十分ほど走った
ようだ。
 門をくぐって、噴水を中心にロータリーみたいになっているところで降ろされた。
ミーナが荷物を持ちましょうと云ってくれたが、断った。つい浮かれ気分になりそうな
陽気だが、この旅行は正体不明の差出人からの怪しい招待を受けてのもの。警戒するに
越したことはない。それを云い出したら、迎えの車に乗るのはどうなんだとなるが、だ
ったらそもそも招待に応じなければいいとなるので、虎穴に入る覚悟をある程度してい
る。
「こいつは……想像していたのとは若干違うが、豪邸だな」
 先輩の言葉に、僕も同感だった。ちょっとしたお城のような洋館を思い描いていたの
に対し、目の前に現れたのは、平屋造りの日本家屋。ただ、敷地面積がやたらと広い。
多分、余裕で野球ができる。
 隣接されているレジャー施設も背の高い建物はなく、黄色と青色を配したかまぼこ型
の屋根が長く伸びているのが確認できたのが精一杯だった。
 背の高い扉の玄関の前まで来て、ふと気付くとミーナもシーナもいない。東郷は元か
ら車を離れていない。
 どうしたものかと迷う間もなく、観音開きのドアが内側から押し開けられた。スムー
ズな動きで、音はほとんどしない。
 執事か何かが登場すると思っていたら、筋肉質な身体の持ち主がいた。若い男――と
いっても三十前ぐらいか――で、黄色のシャツに赤いジャケット、膝下でカットしたブ
ルージーンズという信号機みたいななりをしている。男前なのに残念なセンスの持ち主
なのかなと思った。
「よく来てくれたね。僕が小曾金四郎だ。よろしく」
 いきなりの招待主登場に、僕は面食らった。対照的に先輩は、小曾が満面の笑みで差
し出した右手を自然に握り返し、握手に応じている。ああ、何はともあれ、名前の読み
は“こそきんしろう”で当たっていたんだ。
「探偵の十文字です。お招き、ありがとうございます。こちらはワトソン、百田充君で
す」
 先輩の紹介に続いて、僕も小曾と握手。とりあえず名前だけ云って、あとは黙ってお
いた。
「早速ですが、僕らを招いた真の目的は何です? 本当に称えるためだけなら、失礼で
すがこのような僻地まで呼び付けずとも、僕らの地元で祝ってくれればいいのにと感じ
たんですがね」
「話が早いのは助かる。依頼がしたい」
 小曾は最初の笑顔を消して云った。
「依頼なら他に簡単な方法が――」
「ただの依頼じゃない。訳あってこのような迂遠な方法を採ったんだ。否、採らされ
た」
「採らされたとは?」
「言葉通りの意味だ。強制されたのだ」
 つい先程から、低い振動音が微かに聞こえている。スマートフォンか携帯電話のマ
ナーモードによる音らしく、どうやらそれは小曾の方から聞こえる。
「やっと許可が出た。僕は小曾金四郎ではない。俳優だ」
「はあ?」
「名前は岸上健二(きしがみけんじ)、あんまり売れていないが、ネットで調べればい
くつかの舞台劇や映画に出ていると分かるだろう。そんなことは重要じゃない。僕は今
の今まで、小曾金四郎役を強制されていた。さっき、スマホに着信があったんだが、そ
れが合図でこうして事情を君達に喋っている」
「きょ、強制されているって、何が原因なんです?」
 思わず、僕は口を挟んだ。横手から軽く舌打ちする音がして、十文字先輩が僕の肩に
手を掛けた。
「百田君。今は岸上さんの話を聞くのが先決だ。何者か知らないが、彼を操っている人
物から話すチャンスを与えられたようなのだからね」
 なるほど、喋れることを全て喋ってもらおうということか。質問するだけ時間の無駄
という訳だ。岸上も意図を汲み取り、一気に話す。
「僕には妻と子供がいて、三日前から人質に取られている。相手は小曾金四郎と名乗
り、妻達の身の安全と引き換えに、僕に指示をしてきた。警察には届けていない。君ら
には申し訳ないが、この条件なら達成できると思った。云うことを素直に聞いて、妻と
子供を無事に返してもらうつもりだ。条件というのは、さっきの着信まで小曾金四郎の
ふりをして、云われた通りの役回りを務めることと、もう一つ。君達というか十文字君
に、簡単な問題を解いてもらうことだと聞かされている。問題が何かは聞かされていな
い。このあと、指示が来るはずだ。それから、小曾がどこかから見張っていると思うん
だが、詮索するなと厳命されている。そのことは君達も守ってくれ。お願いだ」
 岸上が明確な返事を求める目を向けてきたので、先輩も僕も首肯した。
「もちろん、守ります。話したいこと、話せることは以上ですか」
 先輩の問い掛けに、岸上は一瞬考える仕種を覗かせ、次に早口で云った。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。次の指示があるまでは、自由に答えられる」
「とりあえず三つまとめて聞きます。いつどのようにしてここに来たのか。小曾からの
接触はどんな方法だったか。奥さんとお子さんが無事である証拠は示されたのか」
「着いたのは昨日だ。正午過ぎだった。多分、君らと同じ車で運ばれた。犯人の小曾か
らは三日前の夜、家の固定電話に電話があった。妻が自転車で保育園に飛翔(かける)
を迎えに行った帰り道、妻と飛翔を誘拐したと云っていた。ここへ来る交通費やルート
は、郵便受けに入っていた。無事である証拠は声を聞けた。最初の電話のときから一日
に一度ずつ、一分あるかないかの短い時間だったが」
「次の三問です。昨日着いてから今まで、何をして過ごしましたか。この家や隣の施設
に実際に使われてきた形跡はありましたか。あなたの他に、誰がいますか」
「到着したその日はずっと監禁されていた。奥の方の土蔵のような部屋だった。見張り
の有無は不明だが、外から鍵を掛けられた。食事は小型冷蔵庫があって、その中から適
当に食えと云われていた。トイレも簡易式の物があった。こう説明していると牢屋だ
な、まるで。今朝になって部屋を出された。身なりを整え、こんな格好に着替えさせら
れ、君らの到着を待った。二問目については、よく分からん。この家の方は使っていた
形跡はあるが、住人がいたのかどうかは知らない。隣の施設となるとさっぱりだ。サザ
ンクロス何とかだっけ? サーカスか何かみたいなものだと思っていたが、人の気配や
歓声はなかったな。それから他に誰がいるかは、答えることを禁じられている。云える
のは、犯人側ではない者が何人かいるとだけ」
「――他に禁じられていることは何? 電話をしてきた小曾の声の調子はどんな感じだ
った? それから」
「すまない。着信があった。時間切れらしい」
 岸上は俯き気味に首を振った。ポケットの中で、機械を操作するのが分かる。
「このあと、僕はまた小曾金四郎として振る舞わねばならない。君らもそのつもりで対
応してくれ。他の連中は何が起きているのかをまだ知らない。抽選に当たってただで旅
行に来られてラッキーと思っているようだ」
 言葉を句切ると、岸上は「入ってくれたまえ」と語調を改めて云った。
「案内は彼女達がやってくれる」
 ドアが閉じられてから、岸上が手で示した先には、ミーナとシーナの二人がいた。初
対面時のラフな格好と異なり、ホテルマンのような制服を身につけている。
 岸上の方には東郷佐八が着き、先を歩かされるようにしてどこかへと消えていった。
「ミーナとシーナ。君達には質問してかまわないかい?」
 先輩は物怖じする様子もなく、むしろ気さくな感じで尋ねた。女性二人は顔を見合わ
せたかと思うと、ミーナが口を開いた。
「こちらは将来、宿泊施設に改装もしくは増改築することを念頭に、今回テストとし
て、お客様にはお泊まりいただくことになっております。お二方もモニターという訳で
す。ご質問にはできる限りの範囲でお答えしますが、かような事情ですから、確定的な
返答ができかねる場合もありますことをご了承ください」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 表情に戸惑いが微かに滲む十文字先輩。その間に部屋への移動が始まる。
 やがて、まずは手探りとばかりに、当たり障りのない質問を探偵は発した。
「あなた方はパフォーマーなのに、従業員のような役割を受け持っている? おかしく
ない?」
「現在、私達は故障を抱え、パフォーマンスの方はお休みをいただいています。その
間、別の業務を、という判断がなされました」
「あなた達を雇っているのは小曾金四郎? いや、名前ではなく、さっきいたあの男
性?」
「違います。オーナーの姿を見掛けたことはあまりありませんが、先程の方でないこと
は確かです。あの、質問を返すのは申し訳ないのですが、先程の男性はあなた方に小曾
と名乗られたのでしょうか」
「――ええ、まあ」
「では、オーナーがお客様の皆さんのためにご用意した趣向だと思います。詳しいこと
は一切聞かされていないのですが、誰もが驚くイベントがあるとか。そのおつもりで、
お過ごしください」
「ええ、楽しみに……。東郷さんとは、以前からのお知り合いなんですか」
「はい。東郷は送迎バスの運転手の他、雑用をこなします。ワールドサザンクロスの設
備に不具合が見付かれば、あの人が修繕することがほとんどです」
「なるほど。他にも宿泊客がいるはずだけど、彼らもモニター役とは知らずに来たのか
な」
「知っている方もいれば、ここへ来て初めてお知りになった方もいました。現時点では
皆さん把握されていますから、気兼ねなく交流をお楽しみください」
「……」
 先輩が黙り込む。と同時に、部屋に着いた。扉には味も素っ気もない漢数字「一」の
プレートが掛かっていた。
「こちらになります」
 二人部屋で、扉を開けてみると、玄関の土間に当たるスペースが設けられており、部
屋へはもう一つ内扉があった。再び扉を開け、ようやく十畳程の和室と分かる。内扉は
ふすま風で、外扉は洋風のドア。上がり框が設けられていることからも、すでに宿泊利
用のため、この和風建築のそこかしこに手を入れてあると窺い知れる。
「ご宿泊中は、そちらにありますスリッパをお使いになれます。室内の小さな冷蔵庫は
ご自由にお使いください。中の物もご自由にどうぞ。夕食は――」
 ざっと説明を済ませたあと、シーナとミーナは部屋のカードキーを置いて去って行っ
た。
「さて、できることならワールドサザンクロスに関して、もっと調べておきたいところ
だが」
 荷物を部屋の片隅に放りつつ、先輩が云った。
「素直にルールを守ったおかげで、ネットが使えない。近所に聞き込みに行くのも簡単
ではなさそうだ」
「近くに民家は見当たりませんでしたからね。それよりも、案内してくれた人やその他
と、どう接するのがいいんでしょう? 犯人の小曾と通じている者だっているかもしれ
ませんよ」
「今は、相手のやり方に乗っかるしかあるまい。人質を取られていることを忘れないよ
うに」
「ですが……問題発言かもしれませんけど、あの岸上さんの話を信じられるかどうかも
分からない訳で」
「無論、それを含めて、敵の策略かもしれない。しかしこれは相手が仕掛けてきたゲー
ムだ。最初っからレールを踏み外すような真似はしまい。僕に害を加えることが目的な
ら、歓待の席で毒を盛るなり、行きの飛行機を落とすなり、簡単な方法や派手な方法は
いくらでもあるだろう。わざわざ舞台を用意するからには、意図があるに違いない。恐
らく、この十文字龍太郎の探偵力を試す」
 語る先輩の顔は、微笑しているようにも見えた。

 小曾金四郎が何を解かせようとしているのか提示されない内は、こちらか動く必要は
ないとの判断で、夕食のある午後六時半までは自由に振る舞うこととなった。
 とはいえ、矢張り気になる。何しろ、誘拐事件が起きているのだから。岸上の近くに
いて、一刻も早く次の小曾からの指示なり何なりを掴むのが最善の策ではないのか。そ
のような意見を先輩にしてみた。
「云いたいことは分かる。だが、そんな風に待ち構えるのは、詮索の一種になるんじゃ
ないか」
「それは……微妙な線だと思いますが」
「今現在、岸上氏は小曾金四郎として振る舞っている。その前提を無視するのは、避け
た方がよい気がするんだよ」
「確かに先手の打ちようはないですし、外部に援軍を求められる状況でもないでしょ
う。しかし、何かできることはあるんじゃあ……たとえば、隣の施設に行って、下調べ
をしておくとか。わざわざこの場所を指定したからには、きっと何らかの関連があるん
ですよ」
「僕もそれは考えた。考えた上で、二番目の優先事項だ。ここにいなければ、犯人から
の指示を報せてもらうのが遅れる可能性があるからね」
 そうか。携帯電話やスマホがない影響がここに出る訳か。
「携帯端末を誰かから借りるのはどうです? 従業員は信用できるかどうか半々でしょ
うけど、宿泊客なら」
「宿泊客なら信用できるという理論は怪しいが、借りるのは考え方として悪くない。問
題は、他の人達が持って来ているかどうかだ」
「え? そりゃ持ってるでしょう」
「どうかな」
 十文字先輩は後ろを向いた。
「館内専用のようだが、電話がある。あれでフロントに問い合わせてみないか? スマ
ホなどの持ち込み禁止ルールは徹底されているのか、といった具合に。他の宿泊客にそ
んなルールがないとしたら、電話に出た従業員は怪訝な反応を示すだろうさ」
 僕はすぐにやってみた。すると電話に出た女性従業員――多分シーナ――は、「は
い、厳密に守られています」との返事をくれた。それとなく理由を尋ねると、「皆様は
モニターとしてお試しで当施設をご利用になられています。云うなれば、企業秘密に関
わる事柄ですので、ここでの体験や情報をリアルタイムかそれに近い形で外部に流され
るのは禁止させていただいております」との答を得た。
「――だめでした。矢っ張り、全員が禁止です」
「そうだろう。理由付けがし易い状況だしな」
 満足げに頷く先輩。モニター云々という理由を見越していたらしい。
「まあ、落ち着かないのは分かるが、落ち着こうじゃないか。買ってきた菓子でも食べ
て、栄養補給しておくといい」
「そうですね。夕飯にはまだありますし」
 木製の四つ脚テーブルの上には、電気式の小振りなポットが一つと、湯飲みが二つ、
ティーバッグがいくつかまとめて置いてあった。茶菓子もあるにはある。
「お茶、入れます? それとも冷蔵庫の中から……」
「実は迷っている。いや、何を飲むかじゃない。もし僕を試すつもりなら、飲み物類に
は全て眠り薬が仕込んであって、迂闊に飲んだらぐっすりと眠りこけてしまうんじゃな
いか、とね」
「そういうテストまでされるんだとしたら、気力が保ちませんよ。風呂にいるときだっ
て、布団で寝ているときだって、襲われる可能性を念頭に置かなきゃならなくなる。今
だって、いきなり何者かが乱入してきたら」
「僕が云っているのは、ちょっとニュアンスが違うんだが、まあいい」
 十文字先輩がそう云ったとき、部屋の戸が激しくノックされた。ついさっき、乱入な
んて想像していただけに、余計にどきりとした。僕達は二人して応対に出る。鍵を掛け
たまま、まず僕がドア越しに「どなた? 何ですか?」と誰何する。
「東郷です。十三号室の小曾金四郎様から言伝があります」
 ノックの激しさとは裏腹に、落ち着いた調子のダミ声が響いた。僕の隣で先輩が「十
三号室? オーナーではなく、岸上氏のことか」と呟く。それから外に向けて、「この
まま読み聞かせてください」と云ったのだが、反応は歯切れが悪かった。
「それが、読み上げるにはいささか不適切な内容なので……」
「分かった」
 先輩はドアを開け、東郷佐八を中に入れた。彼の手を見てさらに云った。
「メモがあるのなら、直に見たい」
 この申し出に東郷は考える様子もなしに、すっと渡してくれた。この施設専用のメモ
用紙らしく、ロゴが入っている。
<犯人からの指示があった。君達への出題だ。直に奥の部屋に来てもらいたい。13号
室 岸上>
 なるほど、ドア越しに声を張り上げるには、「犯人」とは云いにくいだろう。
「奥の部屋とは十三号室のことなんですか」
 靴を履きながら問う十文字先輩。東郷は「恐らく。前の廊下の突き当たりが十三号室
なので」と答えた。
「その部屋は土蔵や牢屋のようになっている?」
「まさか。こちらの部屋と同じですよ」
 苦笑交じりに返答された。岸上が監禁されていた部屋は、別にあるらしい。
「急ごう」
 足早に行動を開始した先輩に、僕だけでなく東郷も着いて行く。
「東郷さんに聞きたい。これはイベントの一環?」
「分からんのですが、多分そうなのでしょう。実を云うと、三日前からオーナーは姿を
くらましていて、こちらにはおりません。秘密主義のところがある男で、またいつもの
癖が出たなと」
「あなたはオーナーの小曾金四郎氏とはどのくらい親しいんですか」
「親しいも何も、オーナーとは親戚でして。私の妻の兄が、オーナーの義理の母と姉弟
の関係になる」
「……小曾金四郎というのは本名なのですか」
「いえ。オーナーはかつて芸人をやっており、そのとき名乗っていた芸名をそのまま使
っている次第で。本名は那知元影(なちがんえい)と云います」
 東郷が矢継ぎ早の質問に淀みなく答え切ったところで、十三号室の前に辿り着いた。
「それでは自分はここで」
 帰ろうとする東郷。オーナーの部屋に案内してもらうような錯覚をしていたので、こ
の人に取り次いでもらうのは当然だと思っていたが、考えてみれば関係ない。仮にイベ
ントだとしても、従業員が特定の客に肩入れする形になるのはまずかろう。
「――待ってください。返事がない」
 早々にノックしていた十文字先輩が、東郷を呼び止めた。扉の取っ手をがたがた揺さ
ぶりつつ、「鍵も掛かっている。どうすれば?」と続ける。
「おかしいですな」
 素が出たような困惑の呟きをした東郷。扉にロックがされていること及び中に呼び掛
けても反応がないことを確認し、首を捻る。
「伝言を預かったのは、ついさっきなんだが。十分も経っていない」
 来いと呼び付けておいて、十分足らずで部屋を離れるのはおかしい。意図的に身を潜
めたか、あるいは。
「開けることは?」
「マスターキーを取ってくれば、開けられますが」
「……オーナーの指示で禁じられているとかでないのなら、開けてください」
 十文字先輩の要請に、東郷は黙って応じた。きびすを返し、今来た長い廊下を急ぎ足
で戻る。
「悪い予感しかしないな」
 先輩の言葉に、僕は「え?」と目で聞き返す。
「岸上氏は命じられて強制的に操られているだけで、直に害を蒙ることはない。そう思
い込んでいた。だが、今の状況は……」
 そこから先は口をつぐむ名探偵。もしや十三号室の中には、襲撃されて声も出せない
岸上がいるのだろうか。それこそ最悪の事態を想像したそのとき。
「あ? 開いている」
 何の気なしに触れたドアが、すっと開いた。
「何かしたのか、百田君?」
「いえ、何も。触れただけです」
 冷静さを失って、どもりそうになるのを堪えながら、僕はドアが動くことを示した。
「よし、入るとしよう。ただし、二人一辺に入るのはよそう。閉じ込められでもしたら
間抜けだ」
「でも、中に犯人がまだいるとしたら、一人は危険なんじゃあ」
「現段階では、誘拐が起きたと岸上氏が云っているだけだ。殺人や傷害事件が発生した
とは限らない。そこら辺を確かめないと、話が進まないんだよ。心配しなくても部屋に
入るのは僕で、君は見張りを頼む。充分に注意して、何かあったら大声で知らせてく
れ」
「先輩も気を付けて。中で何かあったら知らせてくださいよ」
「五代君に鍛えてもらったから、多少の心得はあるつもりだ」
 云い置くと、十文字先輩は扉を全開にした。僕は廊下全体に意を注ぎながらも、入っ
て行く先輩の背中を見送った。

 意識を取り戻すと、状況が激変していた。
 時刻は夕方。ブラインドの降りた窓からそれらしき光が差し込んでいる。場所は……
宛がわれた部屋ではない。荷物がないし、布団を敷いた覚えはないのに、今の僕は布団
の上に腰を落としている。そして寝床の横には人の刺殺体がある。
 驚きのあまり声を失うという経験が今までにもないではなかった僕だけれども、この
ときばかりは悲鳴を上げたつもりが出せなかった。物理的にシャットアウトされてい
る。緩くではあるが猿ぐつわをされていた。両足首には手錠のような物がはめられ、両
手首も後ろ手に結束バンド(直に見えてないので恐らく)で自由を奪われている。身体
が固いつもりはないが、この状態で腕を前に持って来るのは無理。肩が抜けそう。縄抜
けの術があれば習っておけばよかった。探偵助手としてのたしなみというもの――いや
いやいや、僕は探偵になりたい訳じゃないし、ましてやワトソン役に好んでなった訳で
もない。
 とにもかくにも、現状の理解だ。
 廊下を見張っていたら、突然、首筋に電撃みたいな一撃を食らって、意識を失った…
…んだと思う。薄れる意識の中、背後は壁なんだ、襲われるなんてあり得ないと疑問に
感じて振り返ったのを覚えている。そのとき視界に端っこに、壁が開いて中から腕が出
て来ていたような。恐らく、壁には仕掛けがあって、普段は単なる壁にしか見えないの
が、機械的な操作で口が開き、そこから腕を伸ばして僕の首筋を殴ったか、電気ショッ
クを与えたかしたのではないか。だとしたら、位置関係から類推するに、僕を襲った腕
の主は十三号室の中にいたことになる。つまり、十文字先輩も襲われて、僕と同じよう
に拘束されているのか?
 ……まさか、死んでいるのが先輩?
 僕は確かめるために、身をくねって遺体ににじり寄った。
 遺体は俯せで、あちらに顔を向けている。そもそも僕がこの人物を見て死んでいると
判断したのは、背中に深々と突き刺さった刃物状の凶器と、床に広がる大きな血溜まり
が理由だが、絶対確実に死んでいるとは言い切れない。といって、声を出せない今、ち
ょんちょんと爪先でつつくぐらいしか反応を見ることはかなわないのだが、もちろん実
際にはしない。
 やや近くで見る内に、この人物が東郷佐八その人だと分かった。後ろ姿が、記憶と重
なる。十文字先輩とは全く異なるシルエットなのに、一瞬でも勘違いしそうになった自
分が情けない。メンタルの疲弊を覚える。自覚したならしたで、意識して己を奮い立た
せる。
 何故、僕がこんな目に遭うのか。もっと云えば、何故、十文字先輩ではなく、僕なの
か? 招待状は高校生探偵である十文字龍太郎宛だった。こうして死体を見せつけるの
なら、名探偵相手に展開するのが常道ってやつじゃないのか。しかし、現実にはそうな
っていない。理由は何だろう?
 まず考えられるのは、僕だけじゃないってケース。さっき思い浮かんだように、先輩
も同じ状況下に置かれているのかもしれない。その場合、先輩が監禁されているのは、
十三号室か?
 次に、何かの手違いや思い違いで、僕が十文字龍太郎だと見なされているケース。可
能性は低いだろうけど、ないとは言い切れない。敵が深読みをする奴で、“名探偵たる
者、こんな怪しげな招きに乗ってくるからには、最初からワトソン役と入れ替わってい
るに違いない”なんて誤解した恐れ、なきにしもあらず。
 三番目は、想像したくないけれども、十文字先輩が既に亡くなっているケース。死者
を相手に死体を見せつけてもしょうがない。犯人だってわざわざ呼び寄せた名探偵をい
きなり殺すつもりはないだろうから、あるとしたら十三号室で乱闘になり、先輩の方が
制圧されて命を落とした可能性ぐらいか。犯人は計画を放り出せずに、僕を代役にして
続行している。もしこれが当たりなら、僕にとって最悪だ。
 四番目は……だめだ、思い付かない。意識を失っていた影響もあるのかもしれない。
 とにかく助けを呼ばなくては。窓ガラスを割るのが最も手っ取り早いだろうが、手足
を拘束された状態で、怪我をせずに割れるかどうか。窓の高さは、一般的な成人男性の
腰の辺り。普通よりは低いかもしれないが、それでも割るのは大変に違いない。道具も
使えそうになく、そもそも窓の下まで五メートルはある。あそこまで這っていくのと、
ぴょんぴょん飛び跳ねていくのとどちらがいいだろう。後者の方が楽だろうけど、もし
転倒すると血溜まりに身体を突っ込む恐れがある。
 まあそれらは些細な点だ。もう一つの脱出経路を検討してみる。ドアだ。窓と反対側
でやや暗く、すぐには気付かなかったが、ドアがある。学校の体育倉庫によくあるタイ
プ。横にスライドする大きな金属製の扉らしい。外から施錠されているのかどうか、こ
こからは分からない。危険防止のため、外からのロックを内側からも開錠できる仕組み
になっているのか否かも不明。距離は窓までよりも若干遠く、七メートルくらい? こ
うして観察していくと、意外に広い。本当に倉庫なのかもしれない。影になって見えづ
らいが、部屋の隅には大ぶりな物体がいくつか置いてあるようにも見える。
 と、ここで別の不安が沸き起こった。おいそれと助けを求めて大丈夫なのか。犯人に
見付かるのは避けねばならない状況なのだろうか。――これにはすぐに判断を下せた。
こうして人を拘束した上で死体を見せつけているのだから、犯人はとっくに立ち去って
いるだろう。次はおまえがこうなるという警告ではなく、飽くまでも高校生探偵への挑
戦と見なすのが妥当。こうとでも信じなければやっていられない、というのも無論あ
る。
 他に出入りできそうな場所を求めて、再三再四、視線を走らせる。するとまた新たな
発見があった。体育倉庫みたいだという連想が効いたのか、壁際の下部、踝ぐらいの高
さに、いくつかの小窓があると分かった。窓と云ってもガラスはなく、板状の蓋を横滑
りさせて開閉できる仕組みのようだ。体育館や体育倉庫にあった、空気の入れ換えのた
めの吐き出し口みたいなものか。施錠の有無は不明だが、どちらにせよ、大の大人が通
り抜けられる程のサイズはないと見えた。目算で、たてよこ三十センチメートルより大
きくはあるまい。二枚の蓋の間に柱がなければ、その二枚とも外に蹴り飛ばすことで、
穴が大きくなるのだが、現実には頑丈そうな金属の棒が通っている。
 検討結果が出た。窓ガラスを割るのが最も手早くできるはず。うまく割れずに脱出し
損なっても、音で気付いてもらえる可能性がある。
 僕は意を決し、身体を起こそうと試みた。やや遠回りになってもいいから血溜まりを
避け、なるべく窓に近付く。もし転倒したらそこからは芋虫のように這うか、横方向に
転がるか。
 ある程度状況を想定した上で、実行に移す。が、その努力は意外な形で幕が下ろされ
た。
「百田君、いるか?」
 足元の小さな扉がスライドし、その軋むような音に混じって十文字先輩の声が聞こえ
た。
 僕は猿ぐつわの存在を忘れ、「います!」と叫んだつもりだった。

――続く




#522/554 ●長編    *** コメント #521 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/31  00:25  (432)
絡繰り士・冥 3−2   永山
★内容                                         19/02/01 01:31 修正 第2版

 拍子抜けする程唐突に窮地を脱し得た。僕はそう思っていた。
「客観的に云って、君の立場は厳しい」
 地元警察の栄(さかえ)刑事は、四十代半ばと思しき男性で、これまで知り合ってき
た警察関係者の中では穏やかな方だろう。太い眉毛を除けば柔和な顔立ちだし、声も威
圧的ではない。ただ、上にも横に大きい巨漢なので、空間的には圧迫感を感じる。太っ
ているというのではなく、大昔の武将みたいなイメージだ。狭い取調室だったら、それ
だけでギブアップする犯人もいるかもしれない。幸い、ここは取調室ではなく、僕(と
十文字先輩)に宛がわれた部屋だし、そもそも僕は犯人じゃない。
「ワールドサザンクロスの西側にある倉庫は、俗に云うところの密室状態にあり、その
中で東郷氏の刺殺体と一緒にいたのは君一人だ。一つしかない扉と六つある窓はいずれ
も施錠され、扉の鍵はスペアも含めて東郷氏自身が身に付けていた。あの場所はそこそ
こ広いし、何だかんだ物が置いてあったので、人が隠れるスペースはあっただろうが、
君を見付けて皆で救出した際、こっそり出ていく者ようなはいなかったと証言を得てい
る」
 窓ガラスを割ることで十文字先輩や施設の人が中に入り、僕を助けてくれたという。
 なお、僕の手足を縛っていた結束バンドや手錠は、自分自身で付けられる物だから、
犯人ではない証拠にならないとされた。
「証言をしたのは君の知り合いで先輩の十文字君だ。彼が嘘を吐く理由はないようだ
し、君との関係も良好のようだ。しかも彼は、君に対する救出は他人に任せ、彼自身は
東郷氏の遺体をそばから観察していたという。これがどういうことか分かるかい?」
「……犯人が僕以外なら、扉の鍵を密かに被害者の懐に戻すという方法は採れなかった
ということでしょうか」
 答えると、栄刑事は意外そうに口をすぼめた。
「ほお、本当に分かるんだな。十文字君が云っていた。名探偵の助手として経験を積ん
だのだから、これくらいは察するに違いないと」
「はあ」
 現状で、そんなことで誉められても嬉しくはない。
「足元にある換気のための小窓は、外側からでも自由に開閉できるが、そこを利用して
鍵を東郷氏の懐に戻すというやり方も、どうやら無理のようだ。何せ、鍵は胸ポケット
にあったのに対し、遺体は俯せの姿勢だったからねえ」
「何か絡繰りめいた仕掛けがあるのかも」
「秘密の隠し扉とか? そういうのは見付かってない。君が証言した、最初に襲われて
意識を失ったという話も、信じがたい。壁から腕が出て来たように感じたと云うが、十
三号室に隠し扉はなかった」
「そんな」
「設計図と実際とを比べ、念入りに調べたから間違いない。建てたのも外部の人間だ。
何か隠し事をしているとは考えられない」
「じゃあ、僕を後ろから襲ったのは……」
「君の言葉を信じるなら、一つだけ可能性がある。襲ったのは十文字君だ」
「え?」
「十文字君は、百田君が襲われる直前に、十三号室に入ったんだろ? 廊下に意識を集
中していた君は、密かに引き返してきた十文字君に気付かなかったという訳だ」
「そんな莫迦な! それだけはあり得ませんよっ」
 強く主張すると、相手は分かっているとばかりに鷹揚に頷いた。
「だとしたら、話は元に戻る。君の立場は厳しい。極めて」

「無事に戻れたら、真っ先に五代君に感謝しておくんだ」
 栄刑事が立ち去ったあと、夕飯と共に先輩が入って来た。どこで時間を潰していたの
か知らないけれども、目が若干落ちくぼんだような印象で、憔悴の痕跡が見て取れた。
そのことを告げると、君はもっと酷い顔になっていると指摘された。
「ということは、身柄を拘束されずに、こうして部屋にいられるのは、五代先輩のご家
族が……」
「手を回してくれたらしい。尤も、基本的に管轄違いだから、いつまで神通力があるか
分からん。今の内に目処を付けたいものだ」
「部屋の外には、見張りの人がいるんでしょうね?」
「いる。百田君はここから出るなと云われなかったのかい?」
「はっきりとは。『出掛けるのなら我々警察に知らせてからにしてくれ』と」
「じゃあ、敷地内なら何とか認めてもらえるかな。いや、容疑者扱いの君を犯行と関係
ありそうな場所に立ち入らせるはずもないな」
「先輩だけでも動けそうですか」
「さて、どうかな。さっきは大丈夫だったが。これも五代君のおかげに違いない」
「……連れて来るの、僕じゃなくて五代先輩がよかったんじゃあ」
 自嘲めかしてこぼす僕に、十文字先輩は叱りつけるような口調で応じた。
「今さら何を云うんだ。これは僕の希望したこと。招待主から逃げたと見なされたくな
いがためにね。それを含めて、君をまた事件の渦中に放り込む格好になってしまって申
し訳ないと思う」
「もう慣れましたよ。先輩のワトソン役を務めるようになって、どれだけ経ったと思っ
てるんです? 今回だって、怪我をしたとか、精神的に酷いショックを受けたとかじゃ
ないですし」
「そう云ってもらえると救われるが、犯人を見付けないことには収まらない」
 先輩はテーブルに置いた大きめのプレートに顎を振った。バイキング料理を適当に見
繕い、盛り付けてきたのが丸分かりだったが、これはこれでうまそうではある。
「とにかく食べようじゃないか。腹ごしらえは大事だろう」
 お茶を入れ、食べ始める。死体を見たあとにしては、食欲は大丈夫だった。
「僕が役立つかどうか分かりませんけど、結局、どういう状況なんでしょうか。イベン
トは本当に用意されていたのかとか、施設の従業員はどこまで把握していたのかとか、
小曾金四郎はどこにいるのかとか。ああっ、岸上さんの誘拐事件も」
 浮かんでくるままに質問を発した。先輩は箸を進めながら、順に答え始めた。
「分かった範囲で云うと、まず、宿泊者を対象とした宿泊モニターは皆が承知だった
が、イベントに関しては小曾金四郎の独断だ。前に聞いた話と変わりない。ただし、パ
フォーマーの何名かは、イベント関連でパフォーマンスを行うように指示を受けてい
た。ミーナとシーナの二人も、空中ブランコを披露する予定だったと聞いた」
「え、ていうことは、怪我は嘘?」
「そうみたいだな。怪我で休んでいると見せ掛けて、じつはっていうどっきりの一環ら
しい。彼女らの他には、ピエロの西條逸太(さいじょうはやた)とマジシャンの安南羅
刹(あんなみらせつ)が組んで、ピエロが空中に浮かんでばらばらになってまた復活す
るという演目を披露する予定だった」
「羅刹って本名じゃないですよね」
「本名は小西久満(こにしひさみつ)といって、西條と組むときは裏ではダブルウェス
トと呼ばれるとか。まあ、これは関係あるまい。演じる予定があったパフォーマーはも
う一人いて、トランポリン芸の北見未来(きたみみく)。普通にトランポリンで跳ねる
だけでなく、壁を徐々に登っていったり、高所から飛び降りてまた戻るという演目だそ
うだ。あ、それからこの北見は元男性」
「へえ。新たに分かった三人には直に会えたんですか?」
「いや。遠目からちらっと見ただけだ。警察以外で情報をくれたのはシーナとミーナだ
よ。話を総合すると、事件発生時に敷地内にいたのは、被害者を除けば、五人のパフ
ォーマーとそのサポート役の二人、そして六人の宿泊客の合計十二人に絞られる。小曾
金四郎が隠れているのなら十三になるけどね。サポート役についてはまだ名前は知らさ
れていないが、文字通りパフォーマンスの手伝いで裏方に当たるようだ」
「ええっと、ちょっと待ってくださいよ。敷地内にいた人ってそれだけなんですか? 
宿泊施設の側の従業員がいるんじゃあ?」
「そこなんだが」
 僕の疑問に、十文字先輩は何とも云えない苦笑顔を見せた。
「ここに来てから、従業員に会った覚えはあるかい?」
「うん? それはありますよ。東郷さんにミーナさん、シーナさん……」
「ミーナとシーナはパフォーマーだ。東郷氏は雑務全般を受け持っているから、まあ宿
泊施設の従業員と云ってもいいかもしれないが、正確には違う」
「もしかして、いないんですか、従業員?」
 ピラフの米粒が飛ばないよう、口元を手で覆いながら云った。十文字先輩は種明かし
を楽しむかのように、目で笑った。
「うむ。人間の従業員はいなくて、ロボットが対応するシステムだ。これもサプライズ
の一つだったというんだ。チェックインや客室への案内は、ロボット従業員が行うはず
だったのが、トラブルでシステムダウンした。結果、急遽パフォーマー達が奮闘したと
いういきさつみたいだ」
「……平屋だったり、通路に曲がり角や段差が少なかったりするのは、そのため? 
え、でも、料理は」
 目の前の料理に視線を落とした。
「料理は将来的にはロボットによる調理も考えているが、宿泊モニター期間は元々、ケ
イタリングで済ませる計画だったから問題ないと聞いた。百田君、そういった細かなと
ころを気にしていたら、事件解決からどんどん遠ざかる」
 あの、ロボットを利した密室トリックや殺人の可能性を思い浮かべていたのですが。
でもまあ、システムダウンしているのであれば、関係ないと言い切れるのか。と、そこ
まで考えてから、ぱっと閃いた。
「――ロボットを使うくらいなら、秘密の扉もあるんじゃあ?」
「ああ、壁から腕が突き出て来たんじゃないという話だな。残念だがそれはない。廊下
を囲う壁は明らかに古い日本家屋の壁で、修繕とその痕跡を覆い隠すための塗装はして
あるが、内部は至って普通だということだよ」
「そうですか……」
 壁の一部が突然開いて、機械の腕が僕の首筋に電流を、なんて場面を想像してしまっ
た。濃いめに入れたお茶を飲み干し、心残りなこの私案を吹っ切る。
「先輩は十三号室に入ったあと、どうなったんですか?」
「入ってすぐ、靴がないと知れたから、岸上氏は留守なんじゃないかと察した。その反
面、人を呼び付けておいて部屋を空けているのはおかしい。とにかく室内を覗いて確認
しようと、靴を脱いで上がり込んだ。念のため声を掛けつつ内扉を開けて、中を見たん
だが、矢張り岸上氏は不在だった。いつ帰ってくるか分からないし、部屋の中で待つの
も問題がある。東郷氏に再確認もしたかったから、部屋を出た。すると君がいないじゃ
ないか。しばらく一人で探したが見付からないのでフロントに出向いたら、今度は東郷
氏が見当たらない。鍵を取りに行ったはずなのに何故? 行き違いになったかと、また
十三号室に引き返したが、誰もいない。何らかのおかしなことが起こっている。施設の
人間を信用できるのかどうか分からない。よほど警察に行こうかと考えたが、ちょうど
このタイミングで東郷氏が現れた」
「ええ? まだ、そのときは生きていたと」
「そうなる。時刻は四時になっていたかな。彼が云うには、十三号室に鍵を開けに戻っ
たが、すでに開いていたから、どういうことなのかと僕を探していたそうだ。僕は鍵が
開いたことと、百田君の姿が見えないことを話し、探すのを手伝ってもらった。といっ
てもすぐ二手に分かれ、別々に行動した。僕はこの宿泊施設の方を探し、東郷氏はワー
ルドサザンクロスに向かったはずだが、この目で見届けた訳ではない。途中、他の宿泊
客に遭遇したので聞いてみたが、知らないという答が返って来ただけ。じきに探す場所
もなくなり、フロントに電話してみた。シーナかミーナかどちらかが出たんで、事情を
伝えるとすぐに行きますと云って――実際は五分以上経過していたと思うが、来てくれ
た。今度は三人で建物周りを三人揃って捜索したんだが成果が上がらず、とりあえず東
郷氏に首尾を伝えようとなって、今度は東郷氏が行方知れずだと判明した。それが確か
五時前だった」
 その後は、僕と東郷氏の両名を探す態勢になり、五時半を少し過ぎたところで、倉庫
部屋に辿り着き、僕は救出。東郷氏は死亡しているところを発見されたという流れだっ
たようだ。
「死亡推定時刻は四時半から五時半の一時間。だが、血の凝固具合から云って五時より
も前の可能性が非常に高いそうだ。百田君、この時間帯にアリバイは?」
 聞くまでもない質問だろうに。僕は首を横に振った。名探偵は軽い調子で頷いた。
「だろうね。さて、僕達以外の宿泊客については、岸上氏を除くと親子連れの三名。親
子連れとは直接会えた。五十代男性と三十代女性の夫婦に、小学校中学年の女の子が一
人。アリバイは証明されていないが、外見だけで判断すればとても事件に関係している
ようには見えない。男性は足が悪くて車椅子生活、女性は男性と子供の面倒をみなけれ
ばならない上に、外国と日本とのハーフで言葉がやや不自由。子供は親にぴったり着い
て離れないという状態だったからね」
「確かに、関係なさそうです」
「アリバイの話が出たついでに、他の面々のアリバイに関して、判明していることを云
っておくとしよう。パフォーマーの五人とサポートの二人は、リハーサル中でお互いの
アリバイはある。ミーナとシーナの二人は時折、宿泊客からの電話などに応対する必要
があったが、事件発生時は僕と一緒に捜索活動していたからね。結局、五人ともアリバ
イ成立だ」
「そんな」
「残る岸上氏だが、僕から云わせれば彼こそが怪しくなってきた。誘拐事件があったと
いうのは芝居だと云い出したんだ」
「ええ? さっきの刑事、そんなことはおくびにも出しませんでしたよ!」
 自宅だったら、机をどんと叩いてていたかもしれない。怒ってみたものの、警察の捜
査では極当たり前にある手法だと知っている。
「自分は小曾金四郎から送られてきた台本に沿って、役柄を演じただけだとさ。多少変
な役だと思ったが、高額報酬につられて引き受けたんだと。小曾とは会ったこともなけ
れば、声を聞いてすらいない。それはともかく、彼が役柄として指示されていたのは、
東郷氏を通じて僕らにメモを見せ、十三号室に呼び付けるまでだった。その後は別の部
屋に閉じ籠もって身を潜め、明日の昼間に種明かしという段取りを聞かされていたらし
い。それらのことは東郷氏もパフォーマー達も承知の上だったと云っている」
「うーん、何が嘘で何が本当なのか、こんがらがりそうです。要するに、岸上氏が小曾
金四郎に化けるのもイベントの一部であり、そのことは岸上氏本人だけでなく、パフ
ォーマー達も認めている。だから事実だと見なせる……」
「それが妥当な見方というものさ。思わぬ多人数が共犯の可能性を除けば、だがね」
「誘拐がなかったのはいいことですけど、岸上氏が犯人あるいは犯行の片棒を分かって
いて担いだんだとしたら、どうして妻子を誘拐されたなんていう設定を選んだんでしょ
うか。殺人事件が起きて警察に乗り込まれたら、その嘘を必要以上に疑われるのは目に
見えてると思いますが」
「僕もそう考えた。それ故に、岸上氏が怪しいとする線で押し切れないのだ。小曾金四
郎の存在も気に掛かるしね」
「オーナーの動向に関しては、パフォーマー達も岸上氏も、全く把握していないんです
かね」
「そのようだとしか云えないな。嘘を吐いている者がいても不思議じゃない。だが、何
にしても動機が不明だ。遊戯的殺人者の線を除外すればの話だが」
 遊戯的殺人者。その言葉が出て来て、僕は内心、矢っ張りかと感じた。大げさな招待
状に軽いアナグラム、そして意味があるとは思えない密室殺人。これだけ“状況証拠”
があれば、今度の事件は冥かその一味の仕業と考えてかまわないのではないだろうか。
 冥――冥府魔道の絡繰り士を自称するという、遊戯的殺人者。殺人のための殺人、ト
リックのためのトリックを厭わない、むしろそのために人を殺す。現在、職業的殺人者
つまりは殺し屋のグループと揉めている節が窺える(らしい)。その一方で名探偵を挑
発し、試すような行動を起こすこともしばしば(らしい)。いずれも一ノ瀬和葉のお
ば・一ノ瀬メイさん――旅人であり探偵でもある――が主たる情報源だ。冥とメイさん
とで紛らわしいが、事実この通りの名前なのだから仕方がない。
「冥の仕業だと思いますか」
「大いに可能性はある。最近、一ノ瀬メイさんも冥から試されるような事件を仕掛けら
れたことがあると云っていた。だから動機は斟酌しないでいいのかもしれない。真っ当
な動機があるとしたら、殺し屋グループにダメージを与えるためとか冥の身辺に肉薄し
た探偵を始末するためとか、そういったところだろうさ」
 穏やかでない仮説だが、少なくとも僕らは冥の正体に迫ってはいないだろう。第一、
冥自身が僕らを招いておいて、招待を掴まれそうになったら殺すなんて理不尽は、激し
く拒否する。絶対に願い下げだ。
「対策を立てるなら、メイさんに改めて連絡を入れて、最新の情報を仕入れておくのが
よくありません?」
「うん、一理ある。あの人は掴まえるのに苦労させられるが、電話なら何とかなるかも
しれない。ああ、しまったな。今の僕らは携帯電話が使えない。フロントの近くに公衆
電話があるが、人の行き交う場所で話すのは躊躇われる……」
「そんなことを云ってる場合じゃないと思うんですが」
「確かに。賢明な人だから、こちらが事件のあらましを伝えたら、察して一方的に喋っ
てくれるんじゃないかな」
 十文字先輩は腰を上げると、部屋を急ぎ足で出て行った。テーブルにはほぼ空になっ
たプレート二枚が残された。

 電話をしてきたにしては、いやに早いな。五分程で戻って来た先輩を迎えた僕は、内
心ちょっと変に感じた。
「どうでしたか」
「電話はしていない。フロントにいた、ええとあれはシーナが、伝言をくれたんだ。彼
女が云うには、『一ノ瀬メイ様から先程お電話があり、十文字様に伝えて欲しい、でき
ればメールをそちらに送りたいとのことでしたので、お部屋におつなぎしましょうかと
お伺いしたのですが、時間がないからとおっしゃって。それでメールアドレスをお伝え
したところ、ほとんど間を置かずにメールを受信しましたので、プリントアウトした次
第です。つい先程のことで、お知らせするのが遅れて、申し訳――』ああ、僕は何を動
転してるんだ。ここまで忠実に再現する必要はないな。要するに、五代君経由で事件の
概要を知った一ノ瀬メイさんが、気を利かせて情報を送ってくれたんだ。敵か味方か分
からないシーナにメールを見られたのは、今後どう転ぶか分からないが、とにかく読も
う」
「はあ」
 高校生探偵の一人芝居に、しばし呆気に取られていた僕は、つい間抜けな返事をして
しまった。それはともかく、メイさんからだというのメールには、次のような話が簡潔
にまとめられていた。

・冥の仕業である可能性が高い。
・その傍証として冥が起こしたと考えられる殺しで、私は似たような謎を解いた。
・その謎とは湖での墜落+溺死で、詳細は省くが、湖内に高さのある直方体の風船を設
置し、てっぺんに犠牲となる人物を横たわらせる。それから風船を破裂させれば以下
略。
・ここまで書けば、このトリックにはさらなる前例があることに気付くと思う。繰り返
し同じ原理を用いたトリックを行使することは、冥にとって当たり前の日常的な行為と
推察される。
・それから十文字龍太郎君。名探偵であろうとして完璧さに固執せずに、弱さを認める
べきときは認めるのが肝心。

 以上だった。
 メイさんが示唆しているトリックについては、理解できた。だが、そのトリックが今
度の事件とどう結び付くのかがぴんと来ない。
「先輩、このトリックが倉庫部屋の密室に応用できるんでしょうか」
「……できる。そうか、分かったぞ」
「本当ですか?」
「うむ。君はよく見ていないから知らなくて当然だが、ワールドサザンクロスではエア
遊具的な物を多用しているんだ。ほら、商業施設のイベント用やスポーツセンターの子
供向け広場なんかに設置されることがあるだろう、空気で膨らませた強度の高いビニー
ル製の滑り台が」
「分かりますよ、見たことあるし」
「ワールドサザンクロスには、エア遊具ならぬいわばエアセットとでも呼べそうな代物
が多い。空気で膨らませたビニール製の建物や壁だね。トランポリン芸を披露するの
に、ちょうどいいんだろう。恐らく、あの倉庫部屋にも仕舞われてると思うが、空気を
抜いて小さく畳まれていれば気付かなくても無理はない」
「つまりは、メイさんが示唆したトリックを実行するための道具には事欠かないって訳
ですね」
「その通り。あの倉庫部屋に合った適切なサイズのエア遊具を使えば、密室殺人は可能
だ。想像するに……東郷氏は犯人が云うドッキリを演出する助手で、こう命じられたん
じゃないかな。百田君を意識を失わせた後に拘束して倉庫部屋に運び込み、布団に寝か
せる。東郷氏自身はその横で死んだふりをする。目覚めた君を驚かせる算段だ。ところ
が犯人の真の狙いは、東郷氏の殺害にあった。東郷氏は直前に、眠り薬の類やアルコー
ルを混ぜた飲み物を飲むよう仕向けられた。東郷氏自身は秘密の行動中だから当然、部
屋に入ったあと内側から錠を下ろす。横たわった彼はじきに前後不覚となり、意識をな
くす。頃合いを見計らって犯人はエアを注入」
「え? どこにエア遊具があるんですか」
「横たわった下だよ。これも想像だが、東郷氏が横たわる下には、床によく似せた迷彩
を施したエア遊具が設置されていたんじゃないか。そこに空気を送り込むホースは、倉
庫部屋にある足元の小さな窓を通せばよい。コンプレッサーを始動して風船を静かに膨
らませると、東郷氏は持ち上げられる。同時に、遊具の内部中央には一本の刃物が備え
付けられており、膨らみきったところで垂直に立つような仕組みになっていたんだと思
う。その状態で風船が破裂すると、どうなるか。東郷氏の肉体はすとんと落下し、真上
を向いた刃先に突き刺さる。割れた風船の破片は、小窓から回収できるだけ回収する。
残りが現場にまだあるかもしれないな。ホースももちろん片付けて、小窓を閉めれば密
室の完成だ」
「……凄い」
 僕は一応、感心してみせた。
 一応というのは、納得できない点があるにはあるから。そこまで大きな風船がすぐ隣
で割れたのに、僕は気付かなかったのだろうか。仮にじんわりゆっくり空気を抜いてい
ったとしたら、音で気付くことはないだろうけど、凶器の刃物がしっかり刺さるのかと
いう疑問が生じる。まだ他にも引っ掛かることがあるような気がするのだけれど、はっ
きりしない。霞の向こうの景色を見ようと、曇りガラス越しに目を凝らしている気分。
「無論、今云ったトリックが使われたとは限らない。だが少なくとも、密室内に他殺体
と一緒にいたから君が犯人だというロジック派は崩す余地が出てきた。そのためには物
証が欲しい。早速、警察に一説として知らせたいな」
 少し興奮した様子の十文字先輩。僕は同意しつつも、「それじゃ僕を背後から襲っ
た、壁からの手は何だったんでしょう?」と疑問を口にした。
「百田君の勘違いではないんだな?」
「壁から腕が突き出たという点は断言しかねますけど、壁を背にしていたつもりなおに
後ろからやられたのは間違いないです」
「ふむ……」
 顎に手をやり、いかにもな考えるポーズを取る先輩。その視線が、メイさんからの
メールの写しに向けられる。最初から順に読んでいるように見えた。
 そして最後まで来て、やおら口を開く。
「実は、一つだけ可能性があると思い付いてはいる」
「だったら、それを聞かせてください。決めかねる部分があるんでしたら、僕が推理を
聞くことで記憶が鮮明になって、何か新たな発見があるかも」
「うん。いや、決めかねているとか曖昧な点があるとかじゃないんだ。ほぼこれしかあ
るまいという仮説が浮かんだ。ただね、それを認めるには僕自身の問題が」
 そこまで云って、先輩はメイさんのメールの一点を指さした。
「思い切りが悪いな、僕も。こうして一ノ瀬メイさんが先読みしたように警句を発して
くれたのだから、ありがたく受け入れるべきだな」
「先輩、一体何を」
「この最後の一文さ。自分のプライドに関わるからといって、認めるべきものを認めな
いでいると、真実ををねじ曲げてしまう」
 先輩はそうして深呼吸を一つすると、まさに思い切ったように云った。
「僕は十三号室に入るとき、気が急いていた。内扉の向こうにばかり注意が行っていた
んだと思う。逆に云えば、それ以外への注意が散漫になっていた。入った直後、左右を
よく見なかったんだ。部屋の構造はどこも同じだという油断もあったと思う。下足入れ
にライトと鏡があるくらいで、その暗がりに何があるかなんて、全く想像しなかった」
「もしかして、その暗がりに人が潜んでいた?」
「恐らく、じゃないな。確実にと云っていいと思う。最初、東郷氏を含めた三人でいた
ときは鍵が掛かっていたのに、しばらくすると解錠されただろ。中に人が潜んでいた証
拠だよ。素直に考えればよかったんだ」
 こちらの方は納得できた。では、隠れ潜んでいた人物は誰?
「隠れていたのは岸上氏なんですかね。十三号室の宿泊客で、イベントに関して主催者
側だったのだから、ギャラと引き換えに命じられたら、ある程度までひどいことでも引
き受けそうですよ」
「普通の俳優がいくら仕事でも、他人を気絶させるような真似をするかね。尋常じゃな
い。まあ、だからといって隠れていた人物が岸上氏ではないと断定する材料にはならな
いが」
「他に候補はいます?」
「誰でもあり得るんじゃないか? 全く姿を見せていない者は、特徴で絞りようがな
い。小曾金四郎だってあり得る」
 十文字先輩の云う通りだ。極論するなら、影に潜んでいた人物と殺人犯とが同一とさ
え限らない。現実的には同一人物か、少なくとも共犯関係にある二人である可能性が高
いんだろうけど。
「各人の詳細なアリバイをリストアップして検討すれば、あの時刻――三時から三時半
ぐらいだったと思うが――十三号室内にいることが不可能な者はそこそこいるんじゃな
いかな。家族連れ三人組は除外できるだろうし、シーナとミーナ以外のパフォーマー達
も外せそうだ。云わずもがなだが、東郷氏も外せる」
 ここまで検討して来て、誰が有力な容疑者かを考えてみる。当然、小曾金四郎が最も
怪しいが実態がはっきりしない上、警察の捜査が入っていつまでも逃げ隠れしていられ
る秘密の場所が、この敷地内にあるとは考えにくい。一方で十文字先輩の推理したトリ
ックが殺人に使われたとすれば、その後片付けまで含めると少なくとも五時十五分、機
械の大きさによっては二十分頃までは現場周辺にいなければならないだろうから、その
後の逃走は難しそうだ。もし小曾金四郎が犯人なら、実行犯ではなく計画を立てた首謀
者なのではないか。
 岸上氏にも嫌疑を掛けざるを得ない。小曾金四郎と通じて、舞台裏をある程度把握し
ていたのは当人も認めており、平気な顔で嘘を吐き通せる。実行犯の可能性があると云
えよう。引っ掛かりを覚えるとすれば、誘拐云々という嘘。その話を聞いた僕らが強引
に警察に通報していたら、計画は失敗に終わったはず。わざわざ警察の介入を招きかね
ない誘拐を嘘のネタに選ぶ理由が分からない。
 他にはシーナとミーナも多少怪しい。十文字先輩と一緒になって僕を捜してくれてい
たというが、アリバイ工作の匂いを感じる。空中ブランコをこなすくらいなら、細身の
女性でも身体能力・運動能力は高いに違いない。
「さっきの殺人トリックって、結局、空気を送り込むコンプレッサーを駆動しておけ
ば、自動的に殺せますかね?」
「殺せるだろうね。無論、そのままにしておけないし、痕跡を消すためには色々と手間
が掛かる。目撃される恐れもある。幸運の女神ってのが犯人に味方したのかもしれない
な」
 うーん。それだと矢っ張り、シーナやミーナには難しいのか。
「さあ、いつまでも推測を重ねて、ぐずぐずしていても始まらない。警察に進言しに行
こうじゃないか」
「あ、僕も一緒にですか」
「決まってる。説得するには百田君自身の証言も重要になってくる」
 慌てて立ち上がる僕とは対照的に、先輩は落ち着き払った態度で、しかしきびきびと
次の行動に移った。

             *           *

「君にはがっかりだよ」
 一号室の会話を、車中で一人、盗聴器を通じて聞いていた冥は深く息を吐いた。警察
の人間の目に止まると厄介だからと、建物には近付けないでいたが、音はクリアに聞こ
えている。
(高校生名探偵の誉れ高い十文字龍太郎だったが、期待外れのようだね。元々、私自身
はその高い評判に疑問を抱いていたが)
 耳に装着したヘッドセットをひとまず外すと、念のため大元の機器のボリュームも落
とした。
 冥が今回の犯罪を計画した端緒は、十文字龍太郎の探偵としての能力に今ひとつ確信
が持てなかったことにある。ライバル――遊び相手にふさわしいのか見定めるために、
罠のあるテストを仕掛けた。
(こうも易々と引っ掛かるようでは、本来の探偵能力も怪しいものだ。知識ばかり先行
して、オリジナルの問題は解けないタイプじゃないかな。今回も、一ノ瀬メイからの
メールを偽物と気付かない上に、誘導に簡単に引っ掛かって、同工異曲のトリックが使
われたと信じてしまった。風船のトリックでは、死体の向きがおかしい。東郷の死体は
背中を刺され、俯せだった。風船が破裂してその下の凶器に突き刺さるのであれば、な
かなかそんな状態にはならない。破裂の弾みでそうなる可能性はあるが、仰向けのまま
である可能性の方が圧倒的に高い。もしも仰向けになったら、小窓から糸を介して鍵を
死体の懐に入れるやり口が容易になり、密室の強固さが失われるじゃないか。密室殺人
のためのトリックなのに、そんな不確定要素の大きな手段を執るはずがないと気付かね
ばいけないレベルだよ。暗示に掛かりやすい訳でもなさそうなのに……周りの人間に頼
りがちなところがあるということか。本人に自覚はなさそうなのが痛い。少女探偵団の
子達みたいに、最初からグループでやってますって看板を掲げているのなら、まだかわ
いげがあるのに、しょうがないやつだ。あの年頃にありがちな、実像以上に己を強く大
きく見せたい願望かな。調べたところでは、この四月の“辻斬り殺人”で、校内で襲わ
れた件はその後、犯人探しに力を入れていないようじゃないか。名探偵ともあろう者
が、そんな逃げ腰、弱腰でいいのかねえ)
 十文字探偵に対する感想を心の中で積もらせた冥は、しかし何故だか微笑を浮かべ
た。
(名探偵と呼ばれるが実際はたいしたことない、という存在には利用価値がある。色々
と想定できるが、実際に使えるのは恐らく一度きり。勿体ないな。まあ、別の楽しみも
あるしね。十文字に力を貸してきた周囲の連中が、なかなか優秀なんじゃないか?)
 と、そこまで近い将来図を描いていたところへ、電話が鳴った。複数所有している中
のどれだったかを瞬時に判断し、取り出す。
「小曾です」
 小曾金四郎からだった。普段の声とは息づかいが違うが、冥の耳は小曾本人だと正し
く認識した。
「私だ。定時連絡の時間には約一分早いが、ハプニングかな?」
「いいえ、順調そのものです。ただ、時計が。携帯電話の液晶がおかしいのか、読み取
れなくなりまして、それがハプニングといえばハプニング」
「腹時計で掛けてきたのかね? それはちょっと愉快だな」
「このような状況ですので、予定を切り上げて早めに脱出をしたいのですが」
「かまわない。自力で行けるかね?」
「大丈夫、何ら問題ありません」
 答えると同時に通話は切られた。冥は、使える部下の無事の帰還を待つことにした。
(そう、迂闊な見落としといえば、この点もそうだぞ、十文字探偵。小曾金四郎の本名
を気に掛けたまではよかったが、あとの詰めが甘い。小曾金四郎が芸名だったと知った
時点で、何の芸なのかを気にすべきだったのだ。那知元影という名前の方が、よほど芸
名らしく響きやしないか? これは偶然の産物ではあるが、那知元影は文字通り、名は
体を表すの好例と呼べるのだから、気付く余地はあったのだ。お得意のアナグラム……
ローマ字にしてから並び替えれば、それが浮かび上がる)
 冥は宙に指で文字を描いてみせた。

 nantaigei

――終わり




#523/554 ●長編
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:06  (229)
「長野飯山殺人事件」1 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:18 修正 第3版
1

 飯山ミュージック劇場は、こんな場末にあって、しかも雪で足元が悪いのに、
盛り上がっていた。
 天井にぶら下がったスピーカーから、音割れしたハウスミュージックが
ガンガン響いてきていた。
 お色気むんむんのピーナがステージ狭しと踊り狂っていた。
 肌の上を、赤、緑、青のスポットライトがくるくるとまわる。
 客のオヤジどもは、手の平も裂けんばかりに手拍子を送っていた。
 踊り子はステージの前面にせり出してくると、激しく身をくねらせた。
「燃えよいい女、燃えよギャラリーッ」という訳の分からないアナウンス。
 踊り子は前後左右に移動しながら、陶酔した様に踊り狂う。
 オヤジどもは狂喜乱舞の大はしゃぎ…。
 突然音楽が止まった。
 スポットライトも消えた。
「ありがとう、ございました」踊り子はちょこっと頭を下げると
楽屋に消えていった。
「続きましてはタッチショー。なお只今おっぱいの化粧中ですからね、
しばらくお待ちを」
 場内にピンクの明かりが点灯した。
マドンナの『クレイジー・フォー・ユー』が流れる。
 ステージの袖から、上半身裸で皮の腰巻だけ付けた女が再登場する。
「はい、拍手よろしくー」
 ぱらぱらぱらー、とやる気のない拍手があちこちで鳴った。
 ステージのすぐ横に居たおっさんが立ち上がって、
でれーんと両手を差し出した。
 女はそこへ行ってあぐらをかくとウェットティッシュで客の手を拭いた。
それから両手をとっておっぱいを揉ませる。
 おっさんはグィッと鷲掴みにすると、グイーっと揉みあげた。
「アーイ、ノー、優しくお願いしまーす」と女が嫌がっても、
ニンマリとスケベそうに笑っている。
 あれは中川といって、俺の電脳同人誌の仲間だった。
T大法医学教室出身の医者で、今は勤務医をやっていると言っていた。
 その隣に座っているのが佐山で、メーカー勤務で、
叙述ミステリーを書くとか言っていた。
 中川と佐山は俺がこの飯山に招いたのだった。
俺がマンション管理員をやっているスキーマンション兼ホテルが
長野県北部地震のせいか暇なので遊びにこないか、と誘ったら、
向こうも暇だから遊びに来るという話になったのだった。
そして泊まりにきたついでに劇場にも招待したのだった。
 中川はピーナの背中に手を回して片乳を揉みながら覗き込むようにして
話しかけていた。
 すけべ野郎。あいつは女好きで、看護師を愛人にしていると言っていた。
「やり過ぎてちんぽから血が出たで」とか言っていた。
「赤玉ってやつじゃないの?」と俺は言ってやったが。
 精液に血が混じるのは睾丸に病気があるからだと俺でも知っているのに、
元法医学者がそんな事も知らないのか。
法医学の知識を元にミステリーを書くとか言っていたが。
 俺は密かにあいつをライバル視していた。
あいつには解けないトリックを考え出して見せつけてやりたい。
いや、俺だったら社会派かな。ストリップ劇場の裏事情でも書くかな。
 劇場の裏事情なら隣に座っている同僚の牛山さんが詳しい。
見ると酔っ払って眠り込んでいる。
インスリンを打っている上に人工透析もしているのに、
こんなに飲んで死なないのだろうか。
時々咳をしている。ゲホッゲホッっと。痰の絡まるようなヤバそうな咳だ。
ヤバイんじゃないのか。
或いは今俺も胸を患っているので、咳に敏感になっているだけかも。

 パタンと入り口のドアが開くと店員が顔を突っ込んできた。
「はい、カミールの個室サービス、42番のお客さん、ステージ横の個室ね」
 この劇場には個室サービスというのがあって
三千円でユニットバスぐらいの個室で一発やらせてくれる。
 店員の後ろからカミールが入ってきた。パンティーにタンクトップという姿で、
手にはコンドームなどの入ったポシェットをぶら下げている。
「俺や」突然酔いがさめたように牛山が立ち上がった。
 なんだ、個室チケット買っていたのか。
 牛山はよろよろと椅子の間をすり抜けていくと、
カミールの後ろにくっついて行って個室の中に消えていった。
 ユニットバスのドアをすかして、抱き合っている影が見える。
 それを見ながら俺は牛山の話しを思い出した。
 カミールと店外デートした話。

【先週の給料日の話なんだけど。焼き鳥屋とかスナックで飲んでから、
十時頃、劇場に行ったんよ。
 最終回の3人目にニューフェイスの娘が出ていて、
久々にアイドル系の娘で、つい年甲斐もなく買っしまったんよ。
本当は俺みたいなジジイは年季系のサービスのいい女に入ればいいのだが。
 個室に入ったらいきなりコンドームか被せようとするんで、
ああ、まだ素人だな、と思った。
 彼女は眉をしかめてオンリーフィフティーミニッツと言っていた。
 英語だったら多少は分かるんで教えてやった。
 そんなんやって早く終わらせようとするから、消耗するんよ。
ぎりぎりまでしごいておいてから入れれば三こすり半で行ってしまう。
そうすれば疲れないだろ。つーか、こんな個室はアンテナショップにして、
店外デートで稼ぐ方が消耗しないだろ、などと教えているうちに、
自分が常連中の常連になった気がして、白けてしまった、萎んだまんまよ。
 もういいと言って、パンツを上げようとすると、
 まだ時間がある、まだ時間があると、引き止める。
 俺は思わず座り込むと、「どこからきたの?」と聞いた。
 フィリピン。
 幾つ?
 十八。
 子供が居ないのは体で分かった。
 借金はいくらあるの?
 それは私の問題。
 まあいいから。
 彼女は指三本立てた。
 三百万かあ。個室で客をとっても一人千円だから大変だなあ。
 しょうがない。
 そんな話しをして、十五分が経ったら、背中を丸めて個室から出てきた。
 それから自販機で缶ビーをル買って、おまんこを肴に、ビールをなめなめ、
結局閉店まで粘った。
 外に出たら雪だ。
 酔いを覚まそうと、コンビニで缶コーヒー買って出てきたら、
さっきの女の子が軒下に立っている。白い薄いパーカー一枚で。
 何やってるの?
 友達を待っている。レストランに行くから。
言うと、パーカーに両手突っ込んで膝をがたがたさせている。
 自分風邪ひくよ。そうしたらこれ飲んで待ってな。今車を回して来てやるから。
 そうして車を回して来ると、彼女を乗せて、
エンジン三千回転ぐらいにしてエアコンで暖めた。
 暖まってくると体も柔らかくした。
 ルームミラーでちらっと劇場の方を見ると店員がシャッターを下ろしていた。
 友達くるのか? 電話掛けてみる? 言ってスマホを渡すと、
掛けて、ぺらぺらぺらーっとタガログ語で何か言っていた。
 携帯を切ると、シーズライヤー、ライヤーと言う。
 なに? なに?
 彼女、うそつきー、と日本語で言った。
 ライアーか。あんた、もう帰った方がいいんじゃないの?
 劇場は二時まで開いているからファミレスへ連れいってくれ、と言う。
 そうしたらデニーズだ。あそこはメニューが写真だから日本語が読めなくても
大丈夫だから。
 デニーズではピザだのハンバーガーだのをぺろーっと食べてた。
俺だったらこんな夜中にあんなもの食ったら胸焼けがしてたまらんが。
 それから劇場に帰るともう閉まっていた。
 結局ホテルに行った。
部屋毎に建物が別になっている昔ながらもモーテルだった。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミールはうずくまるようにして腹を押さえるんで、
何しているんだと思ったが、Gパンのボタンを外してたんよ。
ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽんになった。
 俺もぎんぎんになる。
 それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来る。
 何をする気だと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんよ。
 体が熱かった。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音だろう。
 俺は、関係を続けたいと思った。でも客になるのは嫌だ。
でも彼女に必要なものは金だろ。どうしたらいい?
 スマホを買ってやろう。劇場の個室は三千円だから、
三千円使う毎に一回やらせてもらえばいい。
それから兎に角冬服を買ってやらないと。
 朝、デニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、スマホの件を提案した。
 そうしたら私、どんどん使う。
 三千円で一回だぞ。
 何回でもやる、と無邪気に彼女は言った。
 そんな話をしていて思ったのは、劇場で一人やっても千円、
あと何人とやらないといけないのかということ。
 突然、俺は、俺が死んで保険金をやれば、と思った。
俺の保険金で借金を返して帰ればいいんだ、と考えた。
 俺は透析にもうんざりしていた。週に三回も四時間も五時間もやるのがだるい。
もうすぐ個室型の透析器が入って寝ている間にできる、と妹が言っていたが、
それでも面倒くさい。
金があれば自分の家に透析器をおけるだろうが、銭が入るのは死んでからだ。
 カミールもうつむいて、うーんとうなっていた。
「どうした?」
「変な事を考えていた。フィリピンから女の子を入れて百万ぐらい抜けば自分は仕事を
辞められる…、だめだめ、それは悪い考え」と頭を振る。
 そんなやばい橋渡れるのか。
 とにかく劇場に彼女を送り届けると、俺はスマホと冬服を買いに走った】

 牛山の話を脳内再生をしていたら、リアル牛山が個室から出てきた。
 チャックのあたりを直しながら長椅子に腰掛ける。
「思った通り、たたなかったよ。ところで、頼みがあるんだが。
今晩、カミールをアパートまで送っていってくれない?」
「えっ、だって俺、東京から来たあの二人とあんたを送っていかないと」
「いいよ、俺らタクシーで帰るから」

 十二時過ぎ、牛山ら三人はタクシーで帰っていった。
 俺はコンビニの前にレガシィをまわすと暖機運転をして待っていた。
 ルームミラーで、百メートルぐらい後方の劇場を見る。
店員が酔っぱらいの客を追い出して、
あたりを見回した後、シャッターを半分閉めた。
 やがて、厚底ブーツにファー襟ジャケットのカミールが現れた。
と思いきや、後ろから四人も付いてくる。
 なんだよ、なんだよ。
 ここで、速攻でトンヅラすればよかったのだが、迷っているうちに、
女たちは小走りに迫ってきて、後部座席に乗り込んできた。
「あーい、あなた怖がっているでしょう。どうしてあなた怖い? 
もし逮捕される、それ私達でしょ。あなた問題ない、だいじょうぶ」
年季系の女が日本語で言った。
 後ろに四人乗ってカミールが助手席に乗った。
「デニーズお願いしまーす」タクシーの運ちゃんにでも言うみたいに言う。
 俺は諦めて車を出した。
 カミールは身をくねらせると、
後ろに向かって英語混じりのタガログ語で話していた。
「ウシヤマは勘違いしている。個室の客はこうやれば早くイク、だの、
デートならおまんこを消耗しない、だの。その積りで彼を誘ったのに、
一発やらせてくれたら三千円分スマホを使っていいとか、ケチな事を言う。
あれは、自分は客じゃない、マネージャーだ、みたいに思っているのか」
 けっ、牛山も気の毒な男だなぁ、と思いつつ、俺は飲み屋街から国道に出る
路地を慎重に走っていた。
 ところが、なんと、その路地の出口のところで、検問をやっていた。
 合図灯に止められた。
 窓を三センチぐらい開けた。「なんの検問ですか?」
「バレンタインデーの飲酒検問でーす。お酒のチェックさせて下さい」と、
マイクみたいな形の検知器を突っ込んできた。
 はーっと息を吹きかける。俺は店では飲まなかったからそれはよかったんだが。
「一応、免許証拝見できますかね」と言ってきた。
 こういう時に限って、ポンタカードだのキャッシュカードだのに挟まって
免許証が出て来ない。心臓がばくばくしてきた。
「手元、暗いですかね」とお巡りが懐中電灯を向けてきた。ついでに隣の女、
そして後部座席の女も照らす。
「あれあれ、後ろに4人乗っているんですか。定員オーバーですね。
つーか外国の方?」
 離れたところにいたお巡り2人も寄ってきた。
「ちょっとパスポート拝見出来ます? パスポート、プリーズ」
「あーい、ノー」女たちは渋りながらもパスポートを出した。
 お巡りたちがパスポートに懐中電灯を当てる。
「あらららオーバーステイだ。こりゃあダメだ。
ちょっと署までご同行願いますかね。ポリスステーション、プリーズ」
「あーい、ノー」
 女たちは車から降ろされると、パトカーに収容されてしまった。
「ご主人の分は、定員オーバーの違反切符を切りますので」言うと、
画板に免許証を挟んで違反切符に記入しだす。
「彼女らはどうなるんですか?」
「さあ。何日か勾留されて、入管に行って、強制送還になるのか、
ちょっとその先は分かりませんねぇ」
 女を乗せたパトカーはパトライトを点灯して行ってしまった。
 ヤバイ。俺はどうなるんだ。
 俺はあたりをキョロキョロ見回した。
 持って行かれたのは今更しょうがない、が、
劇場の客にでも見られていたら「あいつがお巡りに捕まったんだ」と言われる。
 回りに人影はなかった。
 このまま誰にも言わなければバレないだろうか。
牛山には、昨夜誰も出てこなかったと言えばいいか。





#524/554 ●長編    *** コメント #523 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:07  (126)
「長野飯山殺人事件」2 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第3版
2
 その晩、一睡も出来なかった。
 夜中じゅう、強迫観念に襲われていた。
やくざに拉致られて廃工場でリンチを受ける。
生爪を剥がされたり、歯をペンチで抜かれたり。
 朝になると、それでも空腹になって、朝マックへ行った。
 ソーセージマフィンを食っていたら、なんと、牛山さんの妹の良美さんが現れた。
彼女は飯山の隣町の中野町の僻地病院で看護師をしていた。
そこで牛山さんも透析をしていたのだが。
 彼女は、片手にショルダーバッグ、片手にトレーを持って、
操り人形の様に座席の間を歩いてくる。
途中で俺に気付き、こっちにくると相席してきた。
「あらー、おはよう、これから出勤?」
「いや、今日は夜からのシフトなんだよ。そっちは?」
「私はこれから」
 言うと、エッグマフィンをつまんでがぶりとかぶり付く。。
 その時、ジャケットの袖から手首が出て、
鱧でも刻んだみたいなリスカの痕が見えた。
 あれは、昔、僻地病院で、新生児の交換輸血に失敗して子供を死なせた
ということがあって、それがトラウマになっていて、リスカをするのだという。
 それからリスカのみならず、瀉血、透析、血液クレンジング療法など、
ほとんど血液マニアになってしまっているという。
 何でそんなことになるのか。
 前にゲイバーに行った時に、オカマのリストカッターが言っていた、
リスカはアナニーに似ていると。
アナルが疼くのは、勃起したペニスが空中に投げ出されたみたいな
寂しい時なのだが、そういう時にアナニーを繰り返すと脳に回路が出来るという。
同時にアナルに限らず、尿道切開、チクニーなど同時多発的に性感帯が発生する。
 それと同じで、良美の場合、交換輸血で空虚な気持ちになって
リスカを初めたのだが、同時に瀉血、透析、血液クレンジング療法などに
連鎖していったのではないか。
 俺は、エッグマフィンを食っている良美を、上目遣いで見た。
「そうそう」と良美がこっちを見た。「兄貴の透析だけど」と又血の話。
「とうとううちの病院に個室用の透析器が入るのよ、今日ね。
あれがあれば兄貴も夜に透析出来るだからいいと思うんだ。
もう兄貴も疲れているだろうから」
 俺もあんたの兄貴のせいですごい疲れてると言おうかと思ったがやめた。
「俺も今病院に通っているんだ。飯山市の市民病院だけれども。胸を患って」
「へー。兄貴もそっちにも通っているのよ」
「どこが悪いの?」
「うん、ちょっと」
 がんかな。あの咳の事を思い出した。
「兄貴に会ったら連絡くれるように言ってよ。
最近シフトの関係で全然会わないから。電話しても寝ていたら悪いし」
「ああ、言っておくよ。遅くとも明日の朝にはマンションで会うから」
「じゃあ、よろしく」
 良美はハッシュドポテトを食ってコーヒーを飲むと行ってしまった。
ゴミをトラッシュボックスに入れて。

 彼女が行ってしまうと、又拷問の続きが脳裏に浮かんだ。
鼻の穴に割り箸を突っ込まれたり眼球をえぐられたり。
でも別に俺には責任はないとも思う。俺はただ単に風俗店で遊んでいて、
アッシー君をやっただけだものなあ。それに誰にも見られていないんだから、
見つかる要素もないし。
 などと思っていたら スマホが振動した。
「斉木か」
「えっ」
「飯山興業のものだけれども。あんただろう、夕べうちのタレント連れ出したの。
四人もパクられちまったぞ」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。もう劇場は穴あいちゃうし、
マネージャーは女を返せって騒いでいるし、どうしてくれるんだよ」
「なんで俺だって分かるんですか。つーかどうやってこの番号知ったんですか」
「一人出てきたんだよ、まだビザがあった女がいて」
 カミールだ。カミールには電話番号を教えていない。牛山に聞いたのか。
「お前、即行で事務所に来い。来ないならこっちから行くぞ。
もうそっちの住所とか特定しているんだから。今から一時間以内に来い」
言うと電話は切れた。

 俺はとにかく、まだ女の匂いがぷんぷんするレガシィに乗ると、飯山に向かった。
 俺の住んでいる所は中野町といって、長野線の信濃竹原駅という寂れも寂れた
駅付近にある。
 飯山に行くには、雪の高社山を右手に北上していく。
 左右にうず高く雪がつまれた県道355を北へ走った。
 時々バスとすれ違うとチェーンの音がじゃらじゃらしてきたが、
それが行ってしまうと、人も車もいなくなった。
 355から414に入ると更に寂れて自分の車以外は何もなかった。
 俺はチェーンを付けておらず、溝の減ったスノータイヤだけだった。
ここで、又事故でも起こしたら、泣きっ面に蜂だ。夕べの定員オーバーで、
せっかくのゴールド免許にも傷もついたし。
 ところが、北陸新幹線の高架の下のところで、ごとっと何かを轢いた。
 なんだッ。猪か何かか。まさか人じゃあるまいな。
 降りてって確かめると熊だった。
体長一メートルに満たない小熊が頭から血を流して倒れている。
 つま先でつついてみたが、もう死んでいた。
 しょうがないな、と呟いて、尻尾を引っ張って、
左手の夜間瀬川の河川敷の方に捨てた。
 バンパーがへこんでべっとり血がついていた。
 ちっ。くそー。まだ、不吉な連鎖が続いているのか。
 突然高架を新幹線が、びーーーーーうーーーーとドップラー効果の
残響を残して走り去っていく。

 やくざの事務所は劇場隣のスナックの二階にあった。
 事務所に入ると、スカーフェイスのやくざが二人が麻雀卓で牌をこねていた。
「一緒にやらない?」と言う。
「いやー、三人麻雀はちょっと」
「まあいいわ。遊びにきたんじゃねーものな」こっちに向き直る。
「兄ちゃんよお。どうしくれるんだよ。今日から劇場開けられねーじゃねーか。
ただでさえニッパチで売上げが上がらねーのに、
タレント四人も連れて行かれたんじゃあ堪ったもんじゃない」
「俺、何か悪い事しました?」
「なにぃ」
「こんなの言うのなんなんですけど、
俺的には、風営法の看板の出ている店で遊んでいて、
アッシー君を頼まれただけなんだけれどもなぁ。事故った訳でもないし」
「なに言ってんだ、おめーは」
「もしタクシーに乗っていて、捕まったりしたら、
タクシー会社にも文句言うんですか?」
「なに、ごちゃごちゃ言ってんだ、おめーは。
そんな言い訳がマネージャーに通用すると思ってんのか」
「マネージャー?」
「劇場が開けられないのは俺らの問題だが、
女はマネージャーから預かったタレントだ。
女には一人当たり三百万の借金が残っている。
カミールは帰って来たからいいとして、三百かける四人で千二百万だ。
それをマネージャーが返せと言ってんぞ。お前払え」
「千二百万もあるわけないですよ」
「だったらホームレスでもぷーたろーでもいいから四人野郎を用意して、
偽装結婚させるしかないな」
「えー、無理だよ。つーかストレスで胸焼けがしてきた。
つーか、俺胸が悪いんですよ。これから病院に行かないとならないんで、
帰ります」俺は勝手に踵を返した。
「ちょっと待て」やくざが立ち上がった。
 脇目も振らず、俺は階段を駆け下りた
「ゴルァ、お前の住所も何もかも分かってんだからな。逃げても無駄だぞ」
背後でやくざが怒鳴っていた。




#525/554 ●長編    *** コメント #524 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:08  ( 69)
「長野飯山殺人事件」3 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
3
 それから俺は、胸の病気の治療の為に、市民病院の呼吸器科に行った。
 待合室の長椅子に座っていたら、「よっこいしょ」と、
トートバッグを持った牛山が腰を下ろした。
「あれー、なにー。つーか昨日はえらい目にあったよ。
今もやくざに絡まれていたんだから」
 牛山は咳き込んでいた。ゲホッゲホッ。
 咳が収まるとじろりと見て、「おまえさん、なんでこんなところに居るの?」
と言う。
「ちょっとここを」俺は胸の当たりを押えて見せた。「でもずーっと
通院でやっているんだよ。シフトに穴あけて迷惑かけても悪いし。
そっちはどうしたの」
「ずーっと咳が止まらなかったやろ。かにてんてんや」
「かにてんてん」
 やっぱりな。糖尿で人工透析までしているのに今度はかにてんてんか。
「妹の病院で診てもらえばいいのに」
「だめだ、あんな研修医しかいない交通事故の専門病院なんて」
そして又ゲホッゲホッ。「こんどはダメかも知れないなぁ」
「なに弱気になってんだよ。大丈夫だよ」
「気休め言うな。俺には分かっている。それに考えている事もあるんよ」
「なに?」
「俺が死んだら保険金が入るんだが。
それをカミールに渡して有効に使って欲しいんだが。
彼女が、借金を返して、国に帰って、両親と使えば有効だろう。
 しかし、日本で渡して、散財されても無駄になってしまう。
 それに、受取人をカミールにしても、
あんなパスポート、偽造かも知れないしなぁ。
 そこで、誰か信用出来る奴に受取人になってもらって、
カミールの故郷に持って行ってもらいたいのだが。
もっともそんな事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが」
「そんなの俺に聞かせてどうするの? 俺にやれって事?」
「そうじゃないけどなぁ、ゲホッゲホッ。
ところで、昨日運転していて捕まったそうだな。
どうする積りだ。一人三百万の借金だからなあ。四人だったら千二百」
「それ、保険金で払っていいって話?」
「全然違うよ。別の話だ。あんた、狙われているよ。
やくざじゃなくて、マネージャーに。
あんた、タイーホされた女のかわりに新しい女を入れろ言われているだろ。
それができないんだったら、これで落とし前つけにゃならんって、
預かってきたんよ」とトートバッグを開いてタオルを広げた。
そこにはハジキが。
 牛山はそれをタオルで包むとこっちに押し付けてきた。
「なんだ、これ。本物か」
「当たり前だ。そんなものおもちゃでどうするぅ、ゲホッゲホッ。
あんた、それを使いたくなかったら、女を入れるしかないで」
「どうやって」
「それは、やなぁ」牛山はめもを渡してきた。
ツイッターのユーザー名らしき名前が四つ。
「あんたがなあ、野郎を探してだなあ、そのツイッターの女と見合いさせるんよ。
そんでそいつらが身元保証人になってだなあ、
成田の入管を通して、入国させるんよ。そんでマネージャーに返すんよ」
「そんな事する男、ここらへんに居る?」
「できなかったらそれで自殺するしかないぞ」
「そんなぁ」
「結婚相手が見付かったら、カミールに報告しておいて。窓口はカミールなので」
 牛山は診察室に消えて行った。
 俺は、タオルに包まれたハジキを抱えたまま途方に暮れる。

 病院で処置を終えて建物の外に出てくると、スマホが鳴った。
 すわやくざ! 良美さんだった。
「今、お兄さんに会ったけど、良美さんの事伝えるの忘れちゃったよ」
「何だ、折角個室用の透析器が入ったのに」
「お兄さん、相当悪そうだったな。かにてんてんの方が」
「ああ、うーん。血液クレンジングみたいなのやればよくなるかなぁ。
つーかキース・リチャーズみたいに血液全取替すればいいのか」
「俺が血液クレンジングしてもらいたいよ」
「えー、なんですって」
「いや。俺がかにてんてんなんてことはないんだけどね。
あまりにもややこしい事になってきたので、自分をリセットしたい気分なんだよ」




#526/554 ●長編    *** コメント #525 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  ( 59)
「長野飯山殺人事件」4 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
4

 俺は午後からの勤務の為にレガシィでマンションに向かった。
このややこしさから逃れるには、
誰かにフィリピーナをおっつけなければならない、と思っていた。
まず、俺の前に勤務していた加藤という男はどうだろう。
 マンションの更衣室で加藤と引き継ぎをする。
「何か変わった事あった?」
「ガンダムのナレーションをやっていた人が死んだ」アニメオタクの加藤が言った。
「そうじゃないよ。業務の事だよ」
「業務では特にないよ。そっちは何か変わった事あった?」
「大ありだよ。まず熊を轢いた」
「どこで?」
「中野町の高架の下だよ。今日は暖かいので冬眠から覚めたのかも知れない」
「冬眠といえば、ガンダムにもコールドスリープというのが出てくるけど、
あれは冬眠とは違って、眠る前に、
血を抜いて不凍液を入れてゆっくりと凍らせて行くんだよ」
「へー。血液交換だな。牛山妹の世界だな。
…まあ、冬眠の話はどうでもいいから。
そんな事よりお前、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか? 
お前、外人は嫌いなの?」
「そんな事ないけど」
 俺はスマホでツイッターを開くとピーナの名前を入力して画像を表示した。
「こんな女どうだ」
「うーん、原住民っぽいね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。おめーにしてみりゃあ、こんな女上玉だろう。
それにフィリピンだったら、常夏だぞ」
「フィリピンに住むの?」
「そうじゃないけど。とにかくお前の顔を写メで撮らせろ。
向こうに送っておくから」
「いいけど」
 そして俺は加藤の写真を相手の女に送った。
 加藤が帰ると、風呂掃除、巡回、蛍光灯交換、フロント業務などをこなす。
 仮眠をとるとすぐに夜中になった。
 夜中の三時、朝日、読売、毎日の新聞屋をオートロックを解錠して入れた。
「お前ら、新聞を配る前にちょっといい話し」と全員をフロントの前に集める。「お前
ら、結婚とか考えていないの?」
「え、なにをやぶから棒に」
「いい女がいるんだよ。ちょっとこれを見てみな」
俺はツイッターの画面にピーナの名前を入れて表示して見せた。
「こういう女と結婚してみたいと思わないか」
「今は新聞配達も外人ばっかりだからインターナショナルなのには
慣れているけれども、ピーナとなんか結婚して笑われないかなあ」
「笑われる訳ないだろう、今や角界にも芸能界にもピーナハーフは多い。
時代はピーナだぞ」
「ビザとか問題ないの?」
「だからお前らが身元保証人になって入国させて、
気に入ったら結婚すればいいんだよ」
「成田に行くのかあ。だったら夕刊の休みの日じゃなあいとダメだな」
「とにかくお前らの顔を写メで撮らせろ。向こうに送っておくから」
「いいけど」

 朝になって牛山が出勤してくると聞いてきた。
「どうだ、進展はあったか」
「俺は仕事が早いぜ。一晩で四人確保したよ」
「誰よ」
「加藤と新聞屋だよ。これからカミールに会いに行く」
「それは期待が持てそうだな」
 それだけ交わすと、俺はそそくさと退社した。




#527/554 ●長編    *** コメント #526 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  (106)
「長野飯山殺人事件」5 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
5

 駐車場に行くとレガシィに乗り込む。
車内でも息が白かった。
 カミールに電話すると英語で話した。
「もしもし、サイキ。分かる?」
「もちろん」
「今日、会いたいのだけれども。偽装結婚のことで。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ十時頃、飯山のファミレスの駐車場で待っている。
俺の車は知っているだろう。白のレガシィ」
「わかった」

 二十分後、ガストの駐車場についた。
 フロントガラスごしに空を見上げると、異様に晴れていた。
今日は何か起こるんじゃないのか。
 拳銃をジャケットのポケットに入れると、車を降りた。
 ガストの軒下に、カミールがPコートに両手を突っ込んで立っていた。
 あのファー襟に厚底ブーツでなくてよかった、と思った。
 雪の照りっ返しで、カミールの顔は白く見える。
 カミールを促して、一緒に店に入ると窓際の席に付いた。
 カミールはハンバーガーにオレンジジュース、
俺は目玉焼き&ベーコン朝定食を注文した。
 料理がくるまえにさっそく俺は切り出した。
「夕べ、俺の知り合いにフィリピンの女の写真を見せたんだけれど。
そしてそいつらの写真をメールで送ったんだけれども。
向こうの女、なにか言っていた?」
「あんなこ汚い新聞配達員じゃあ無理だよ。女の子はみんな若いんだから。
それに、偽装結婚は私の借金を返す為にやる積りだったのに。
あんたがしくじって逮捕された女達の穴埋めをする為じゃない」
「そっちが乗せてくれって言ってきたんだろう」
「とにかく無理、無理。あんなジャパニーズじゃあネバーポッシブル」
 無理無理と繰り返されると無理に思えてくる。
ユーチューバーになろうとか、fxで儲けようとか、
ミステリーの新人賞に応募しようとか、誰かに無理と言われると無理に思えてくる。
 偽装結婚も無理だし、それに面倒くさく思えてきた。
 トンヅラした方が早いんじゃないのか。牛山の保険金をもって。
 料理が運ばれてくると、カミールはさっそくハンバーガーを頬張った。
見ていて、若いな、と思った。
こんな若い女が本当に牛山を愛しているのだろうか。
スマホを渡したり、送金したりしてやっているから、利用されているだけだろう。
俺は聞いた。「カミール。牛山は客か? それとも恋人?」
「恋人だよ」
「うそー。だってあいつは金をはらって個室に並んでいた男だぞ」
「それはあなたも同じ」と言うとジッとこちらを見据える。
 なんでここで俺を攻めてくるんだろうと、一瞬顔が引きつった。
でもまあいいや。俺は声を潜めていった。
「牛山は、タバコが好きでしょう。だから胸が悪い。後で死ぬかも知れない。
そうしたら、保険金が入るでしょう。彼はそれをあなたにプレゼントしたい。
でも、日本人がいないとお金持って帰れないでしょう。どうする?」
「あなた助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」
「友達だからって、助けるとは限らない。
その前に俺には問題があるし。お前のボスに脅かされていて、
女を入れないと死なないとならない。こんなものを押し付けられた」
 テーブルの下で、拳銃をポケットか出して、見せる。
「はーっ」と息を呑む。「ちょっと見せて」
 さっと手を伸ばすとひったくった。
「おいおい」
「これ、カルロが持っていたものだ」
「カルロって?」
「マネージャー。私が持っていてあげる。故郷で撃った事もあるし」
「故郷に帰ろうよ。牛山の金でマネージャーに借金を返して。
俺もカルロに脅かされているから、一緒に逃げたい。どう?」
「うーん」と唸って前かがみになる。胸の谷間が見える。
「この話しの続きはホテルでしようか」
「一発撃たせてくれたら、行ってもいい」
「オッケイ、オッケー」

 ファミレスを出ると、カミールをレガシィに乗っけて、中野町方向に走った。
 新幹線の高架の下で河川敷の方に向かう道に車を入れて止める
 そして、昨日捨てた熊の死骸のところへ行った。
「ここに撃てよ」
 カミールは構えた。
「ちょっと待って。一応、電車が来たら撃て」
 やがて、新幹線が、シューーーーーと擦れる様な音をたてて通過した。
「撃て」と俺は言った。

 船の形をした石庭グループのホテルに入ると、
自動販売機で部屋を選んで鍵を出す。
部屋に入ると「冷えた体を温めたい」とカミーラが言った。
 俺は冷蔵庫の上にあったティーバッグで紅茶を入れてやった。
「はい、tea。でも、アルファベットじゃないけれども、
俺は、T(tea)よりU(you)の方が好きだよ」
「でも、IよりHが先だと順番が逆ね」
 俺は黙って服を脱いだ脱いだ。
 カミールは寄ってくると、下着を下ろしてあそこを見た。
「なに、この絆創膏、血がにじみ出ている」
「それは、伝染る病気じゃないから」
「でも、やる前にシャワー浴びないと」
「オッケーオッケー」
 俺はシャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血した。
 出てくると一発やった。

 事が終わる、そそくさと部屋を後にした。
 二人してエレベーターでフロントに降りてくる。
 そして出口に向かったのだが、突然カミールが消えた。
 あれー、どこに行ったんだ、俺はキョロキョロした。
背後を見ると、カミールが拳銃を構えていた。
「なにしている」
「サエキ、撃つよ」
「やめろぉ」
 しかしそのままズドンと銃声が鳴った。
 身をよじると胸からどくどくと血が流れ出した。
 俺はその場に倒れ込んだ。入り口のドアのガラス越しに妙に晴れた青空が見えた。




#528/554 ●長編    *** コメント #527 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:10  (152)
「長野飯山殺人事件」一 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
一

 私、佐山と中川が同人の斉木に誘われて
このスキーマンション兼ホテルに来て三日が経っていた。
 初日はごたごたがあってろくにスキーも出来ず、
これでは慰安にならないと、慰安の慰安としてストリップ劇場に行った。
二日目は怠惰に温泉に浸かって過ごした。
そして三日目の今日も昼頃に起きると温泉に浸かっていたのだが。
 その帰りにフロントに差し掛かると、管理室の中で、
何やらガヤガヤ騒いでいるのが見えた。
清掃員やら、主任管理員、コンシェルジュやらが
「このままだとシフトが組めなくなる
…加藤ちゃんと牛山さんに連投してもらうにしても限度がある」
などと侃々諤々やってる。
 私はドア付近にいたコンシェルジュに訪ねた。
「ちょっと、何かあったんですか?」
「それが、斉木さんが撃たれたんですよぉ」
「はぁ?」
「ピストルで撃たれたんですよぉ」
「えー」私はほとんどそっくり返りかけた。
 コンシェルジュの高橋明子はネットのニュースを印字したもの広げると
読み上げた。
「今日十一時過ぎ、中野町のホテルで中野市在住の
マンション管理員斉木和夫さんが何者かに拳銃で撃たれました。
斉木さんは市内の病院に搬送されましたが、命に別状はないとの事です。
飯山署によりますと、
防犯カメラには外国人風の女性が銃撃の後走り去る姿が映っており、
同署は事件との関係を調査中…ですって」
「外国人風の女性っていったら、ストリップ劇場と関係あるんじゃないのか?」
中川が言った。「あの晩、一緒に帰ってきた時、牛山さんという人が
何とか言っていたなあ。何とかいう踊り子に入れ込んでいる、と。
彼に聞けば何か分かるんじゃないのか。牛山さんは今日はいないんですか?」
「今、裏のエントランスで雪かきしていますが」
「そこに行ってみよう」と中川。
 猪みたいな主任管理員を先頭に、私、中川、高橋明子は、
裏のエントランスに走って行った。
 裏口のエントランスに到着するとすぐに猪は雪かきをしている牛山さんに
詰め寄った。「牛山さん、斉木が誰に撃たれたのか知っているのかい」
「知らんよ」と背中を向けたまま牛山さんは雪かきに集中。
 しばらく二人は押し問答していたのだが。
 ところが突然牛山さんは、わーっと天を仰いだかと思ったら、
がばっと自分の体を抱くようにして雪の上に倒れてしまった。
咳き込んで吐血している。
 何で斉木、牛山と連続して人が倒れるのか、という疑問が鎌首をもたげたが、
とにかく、みんなで裏口のエントランスに運んだ。
 牛山は、更に咳き込み、吐血する。
「こりゃあもう救急だな」と中川。
 猪みたいな主任管理員が救急車を呼んだ。
 しかし、来るのは早いのだが、ストレッチャーで救急車に格納してから、
出ない出ない。
あちこちの病院に電話しては「今、別の急患を診ているから」
などと断られて手間取っている。
 猪みたいな主任管理員が怒鳴った。「なに時間食ってんだ、こんなの、
心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死んでいるぞ」
 咳き込んでいた牛山がギクッと目を見開いた。
自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して
「ここに連れていってくれ。何時もここに通っているんだ」と言う。
「診察券を持っているならそこに行きましょう」と救急隊員が言った。
 そういう感じで、救急車はやっとこ動き出した。
 猪の主任管理員が同乗して、私と中川は明子さんの車でついていく。

 市民病院のICUの外で待っていると、医師が出てきて、我々に説明した。
「肺胞出血を起こしてまして、今、薬物療法をやっていますが、
場合によっては血漿交換をしなければならない」
「斉木はここには運ばれてきていないんですか?」私は聞いた。
「今朝中野町で撃たれた斉木なんですが、
彼もおんなじマンションで働いているんですよ」
「それは中野町の病院じゃないですかね。向こうで起こった事件なら」
「それじゃあ主任さんはここで牛山さんの様子を見ていて。
俺らは向こうに行ってみるから」と中川が命令口調で言った。

 私と中川は、明子さんの運転で、中野市の僻地病院へ言った。
 そこは、小さくて古い病院。
 明子さんが言った。「ここは元々は産婦人科だったんですが少子化で
人工透析や救急病院も始めたんですよ。
牛山さんの妹が看護師をやっていて、彼女から聞きました」
 受付の小窓に「斉木さんの職場の者ですが」と告げる。
「十三号室ですよ」と簡単に教えてくれた。
 これじゃあ、犯人がとどめを刺しにきたら簡単にやられちゃうな。
 我々が病室の前まで行くとちょうど女医さんが出てきた。
「今、面会謝絶ですよ。立入禁止です」と冷たく言う。
「しかし、私ら知り合いなのだから具合ぐらい聞かせて下さいよ」
と私は下手に出た。
「部外者には言えませんよ」
 ここで中川がT大医学部の威光を放つ。「私はT大法医学教室の
中川といいますが」
 女医の顔色が変わった。
「あなたが診たんですか」
「はい」
「傷口の大きさとか、火薬の付着の有無とか、教えて下さいよ」
 若い女医は従順に答えた。「傷の大きさは五ミリ。
使われた拳銃は38口径の9ミリです。銃弾は肋骨に当たって止まっていました。
火薬の付着はありません。距離は至近距離だと思われます」
「解せないなあ。普通銃の口径以上に射創はでかくなるんだが。
まあ拳銃なら同じぐらいの大きさの場合もあるが」
 女医は逃げる様に行ってしまった。
 次に警察関係者が出てきた。
「あの、斉木くんの友人なんですけれども、
事件の経緯を教えてもらえませんか?」
「マスコミ各社に言った通りですが」
 ここでも中川がT大の威光を放つ。
「私はT大医学部のモノですが」
「あ、そうですか」
「何かストリップ劇場との絡みとかあるんやなかろうか」
 我々は、牛山さんとカミールの関係を知っていたので、そんな事を聞いたのだが。
「実はですね、一昨日の夜なんですが、飲酒検問に
斉木さんが引っかかったんですよ。
その時にストリップ劇場の踊り子五人を捕まえましてねえ。
一人はビザがあったんで帰したんですが…」
「それが今回の事件と関係あるのですか?」
「さあ、今のところはなんとも」
「そうですか」

 三人でマンションに帰ってきたところで、我々はもう一つ情報を得る事が出来た。
 フロントには加藤という管理員が居たのだが。
「主任管理員はどうしました?」と聞くと、
「まだ、帰ってこなーい」と、それを聞いただけで、
こいつ池沼?と思える様な返答をしてきた。
「君ぃ。君が最後に斉木と会ったのは何時? 何か言っていなかった?」
と中川が聞く。
「前回勤務の時に斉木さんに会いました。その時に、
フィリピン人と結婚しないかと言われました」
「なにぃ?」
「フィリピン人の写真を見せられました。
そして僕の写真も撮って向こうにメールしたみたいです」
「それは偽装結婚?」
「詳しい事は知りません。斉木さんに聞いてみないと」


 我々は客室に戻ってこれらの情報を整理しようと思ったのだが、
やっぱりひとっ風呂浴びながら、という事になった。
 我々は湯船に浸かり、濡れたタオルを頭に乗せて、今日得た情報の整理を始めた。
「まず事件のあらましですが、
まず、あの晩、斉木は踊り子五人を乗せていて飲酒検問に引っかかった、
そしてカミールだけが帰ってきた、というのが事件の始まりですね。
それから、斉木は加藤に偽装結婚らしきものを進めていた。
あと、斉木を撃ったのはカミールなんじゃないか、という疑いがある」
「そうやな。そして想像だが、四人もフィリピン芸人をもってかれたんじゃあ、
その筋のひとから脅かされていたかも知れない。
それでまず偽装結婚で穴埋めをしようとした。
だけど上手く行かないから、落とし前をつけるために死ななければならなかった」
「実際に撃ったのはカミールって感じですが」
「それは怪しいと思うで」
「何故ですか?」
「だって傷口は五ミリしかないのに、九ミリの弾が出てきたんやで」
「でも、医者が弾を摘出したんですよ」
「あんな研修医にはなんにもわからないやろう」
「それに撃たれたところは防犯カメラにも写っているし」
「そうだけれども、俺にはまだ疑問だな」
「じゃあ、そこらへんの事、カミール周辺の事を、明日牛山さんに聞いてきますか。
見舞いのついでに」
「そうやな」




#529/554 ●長編    *** コメント #528 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:11  ( 85)
「長野飯山殺人事件」二 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
二

 ところが翌日、またまた明子さんの運転で市民病院に行ってみると、
牛山さんはICUから出てきたのはいいのだが、
夜中にまたまた肺胞出血が進んで、
鎮静をかけられて人工呼吸器をつけられていた。
 もう意識がなく話せない。
「なんだー」我々は頭を抱えた。
 がっかりして、折りたたみ椅子に三人して座っていると、
看護師が来て、牛山さんの人工呼吸器からチューブを入れて、
ずずずずずーっと吸引した。
 牛山さんは体をビクビクーっと痙攣させた。
「なにをやっているんですか? 痰を取り除いているんですか?」と中川に聞く。
「ああやって、分泌物を取り除かないと誤嚥を起こすからね」
 看護師が作業をしながら、言った。
「斉木さんは中野市の僻地病院に行っちゃったんですってねぇ」
「えッ、斉木を知っているんですか?」
「ええ。この前、牛山さんと一緒に来ていましたよ」
「えッ、斉木がこの病院に」
「あら、そうですが」
「何科ですか。呼吸器科ですか?」と中川。
「え、ええ」
「内科ですか外科ですか」
「それは…、あらなんか私、余計な事いっちゃったかしら」
 看護師は牛山の鼻からチューブを抜くと、
適当に人工呼吸器のコントローラをチェックして、そそくさと出ていった。
「こりゃあ、面白い事になってきたで」と中川。「呼吸器科に通っていたって事は、
胸に切開の傷でもあったかも知れない。
そうすれば、銃弾をそこに埋め込んでおいてやな、空砲を撃たせれば、
他の人には、撃ったと思える。そんであんな僻地病院に運ばれて、
素人に毛が生えた程度の研修医に診させたら、わからんかも知れない」
「じゃあ、その情報をもって僻地病院に行ってみましょうか」
「そうやな」
「じゃあ、明子さん、また送っていってもらえますか」
「ええ」

 我々は又、飯山市から中野市の僻地病院に向かった。
 途中車窓から雪山を見て私は呟いた。
「折角気楽にスキーでもする積りだったのに、
やっかいな事件に巻き込まれちゃったなぁ」
「そんなに気楽じゃあないですよ。今年は熊が出ますから。
地震の影響かも知れないけれども」と明子さん。
「実際に出たのか」と中川。
「いや、加藤さんから聞いただけなんですけど。
加藤さんは斉木さんから聞いたと言っていました。
運転していたら山から熊が出てきて轢いてしまったと」
「近いのか」
「ちょうど中野市に向かう途中ですが」
「そこに連れていってくれへんか」
 我々は斉木が熊をはねたという中野市の北陸新幹線の高架下に降り立った。
 あたり一面は雪だった。
「ここらへんに、熊の死体はないかなあ」と私。
「斉木のアパートは中野市やから、中野から飯山方向の車線の向こうやな。
向こう側が河川敷みたいになっているから、どっか、向こう側にないやろか?」
 そして3人で、反対側の河川敷みたいなところを探してみた。
すぐに雪の上に熊の死体を見付けた。
「雪のおかげで保存状態がいいな」中川はしゃがみこんでじーっと見ている。
「これや。ここに銃創があるで。でも回りの雪は全然血で汚れていない。
つまり死んだ後に撃ったんや。そして弾を取り出したんじゃあないやろか」
 そこまで言った時に、高架の上から、
シャーーーーっという新幹線の音が響いてききた。
「このタイミングで撃ったんですかね。ドラマみたいですが」
「多分そうや。そして、その弾を傷口に入れたんや」
「じゃあ、僻地病院に行って、斉木に尋問してみますか」

 ところが僻地病院の斉木の病室に行ってみると、
なんと斉木は今朝方死亡していて、もう葬儀屋が運んで行ったという。
「検死したのかっ」中川が女の研修医を怒鳴った。
「しましたよ。変死だと思ってちゃんと検視官を呼んで。
そうしたら解剖の必要はないというから、死亡診断書を書いたんです。
そうしたら葬儀屋さんが迎えにきたんです。全部決まりの通りにやったんだから」
「まだ生きている可能性があるから、早く葬儀社に電話して」
丸で自分の部下にでも言う様に研修医に言った。
 しばらくして、事務方の男がきて言った。「あのー、葬儀屋に電話したら、
搬送の途中で遺体が消えたっていうんですよね」
「そんな馬鹿な。警察には通報したんですか」
「一応通報したそうですが、もう検死も済んでいるので、
これは逃亡というよりかは、
葬儀屋が死体をなくしたみたいな扱いになるそうです」
「そんな馬鹿な」
 一瞬興奮したがすぐに冷静さを取り戻す。
 中川は部屋を見回した。
「なんかここは寒いなあ」といいつつ窓際に寄る。
 カーテンは閉まっていたが、窓は開けっ放しだった。
室内の温度は零下に近かった。




#530/554 ●長編    *** コメント #529 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 82)
「長野飯山殺人事件」三 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
三

 途方に暮れて、我々は明子さんの運転で帰ってきた。
 フロントにはぼけーっとした加藤がいた。
 彼に言う。「加藤君。君の熊の話ねえ、明子さんから聞いたんだが、
斉木が熊を轢いたという話、あれが事件の一部解明に役立ったよ」
「ああ、コールドスリープでしょう」
「なに?」
「熊の冬眠と人間のコールドスリープは似ているけど違うって言っていたら
反応していたよ」
「斉木がか?」
「斉木さんはコールドスリープなんて牛山さんの妹の世界だって言っていたよ」
「なんだって」そして中川はこっちに言ってきた。「おい、もう一回、
僻地病院に行くぞ。明子さん」
「私、牛山さんの所に行かないといけないんです。
あの人が倒れたのは勤務中だから労災になるので、その書類を届けろと、
派遣元の上司にいわれているんです。もしよかったら社用車、貸しますけど」
「じゃあ貸して下さい」

 我々は自走で、又僻地病院へ行った。
 着くなり受付の小窓に「研修医はいるか」と中川が言った。
「もう今日は帰りましたけど」
「看護師の牛山さんは」
「急用があるといって帰りましたけど」
「じゃあ、院長はいる?」
「はあ。どちら様で」
「私はT大法医学教室出身の中川です」
「少々お待ち下さい」
 数分後、我々は院長室に通された。
 ヒゲを蓄えた初老の院長が我々を迎えた。
「これはこれは、あなたがT大の法医学教室の先生ですか」
「もう辞めましたがね。それで、いきなりですが、
看護師の牛山さんは今日は何で帰ったのですか?」
「なんでも、市民病院でお兄さんが亡くられたとかで早退しましたが」
「そうですか。亡くなったんですが。彼女はどういう人なんですか?」
「何か気になる点でもあるんですか?」
「今回の事件で死んだとされている斉木なんですが、
彼は市民病院で亡くなった牛山さんと同僚なんですが、
その妹が牛山看護師ですから、接点があるんですよ。
 その斉木なんですが、熊を轢いているんですが、
熊の冬眠とコールドスリープは似ている、とか言っているんですよ。
あと、コールドスリープに入る前の瀉血は牛山看護師の世界だ、
とか言っているんですよ。
 あと、斉木の病室が異様に寒かったことも
コールドスリープと関係がある様な気がして。
 そんな事から、彼女は一体何者かというのが気になっているんですが」
「そうですか。ミステリアスですなあ。
彼女は昔からこの病院に居たんですがね。
この病院は元々は産婦人科病院だったんですよ。
それで、新生児に溶血性疾患がある場合には、
当院で交換輸血等もやっていたんですが。
ところが、あるケースで上手くいかなくて、
子供に重度の障害が残ってしまったんですなあ。
彼女はそれを非常に気にしていて、
それ以来それがトラウマになったのか血液マニアの様になってしまって、
瀉血だのリスカだのに興味を持ったりして。
 ちょうどその頃、この病院も少子化のあおりで患者数が減ったんで、
人工透析を初めたんですよ。彼女も血液マニアですから、
喜んでそれに参加したんですがね。
 あと、偶然にもその頃から彼女のお兄さんも
人工透析に通うようになったんですが、
不幸なことに肺がんにもなっていましてねえ。
彼女は、血液交換をすれば治るかも知れない、と言っていましたよ。
 あと、透析の方だけでも楽になるようにと、
彼女は個室タイプの透析器を入れてほしいと言っていましたね。
あれだったら夜間寝ながら出来ますから。
そういうのは当院としてもあってもいいなあというんで、
最近導入したんですがね」
「それは今どこに」
「それがちょうど、斉木さんが亡くなった部屋に置いてあるんですよ」
「見せてもらっていいですか」
「ええご案内します」
 病室に行くと我々はPCラックぐらいの大きさの透析器にへばりついた。
 中川は指差しながら、瀉血のチューブ、血液ポンプ、血液濾過器、
そして返血のチューブ、と血の通り道を追っていった。
「ここにポンプがありますね。これを使って、血液交換は出来ないんですか?」
「さあ。血液交換器とは又別の器械ですからね。
血液交換の場合にはシャント手術なんて前提としていないし。
しかし、そのポンプで瀉血は出来るには出来る。
あと、返血は輸血パックで点滴してやればいいんでしょうから、
入れ替えは可能かも知れませんね。
彼女はこれでお兄さんの血をクレンジングして綺麗にする積りだったんですかね」




#531/554 ●長編    *** コメント #530 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 42)
「長野飯山殺人事件」四 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
四

 我々は、それだけの情報をもってマンションに帰ると
又温泉につかって濡れたタオルを頭に乗せた。
「まず、動機というかホワイダニットについての整理やな」
「それはまず、女四人をもっていかれたので劇場関係者から恨みをかっていた
ということですね。それが証拠に加藤らにも偽装結婚を進めていた。
しかしそれが上手く行かないんでその筋の人から脅かされていたかも知れない。
落とし前をつけろなどと。
 もう一つは、撃ったのかカミールらしいということですね。
しかも牛山さんがカミールに入れ込んでいたという。
 以上の二つがホワイダニットになるんでしょうか。
 それからハウダニットですが、これは医者じゃないと分からないんでしょうか」
「まずは、銃弾の偽装だな。加藤らへの偽装結婚も上手く進まないので、
落とし前をつけなければならないが、勿論死にたくない。
そこで熊の死骸に弾を打ち込んで取り出して、元々あった呼吸器科の傷に入れる」
「どういう病気だったんですか?」
「それは不明だが、カミールに空砲を撃たせて、
弾に当たった様に偽装したんじゃないの?」
「しかしそんな偽装、医師に見抜かれないですかね」
「新米の研修医なら見逃すかも知れへんな。
それに、それが死因な訳ではないんやから、
仮にバレても、トンヅラしちゃえばいい訳だから、
意外と一か八かでやれるかもしれないで」
「次にコールドスリープですが」
「まず、牛山の妹が血液マニアで血液交換などに興味があった、
というのが前提になるな。
そして彼女と斉木が
冬眠から覚めてきた熊の様にコールドスリープ云々話していたという事。
あと、あの寒い病室や」
「でも、仮にコールドスリープ状態になったとしても
心肺停止状態にはならないんですよね。
斉木は検死の結果死亡が確認されているんですよ」
「うーん」
 中川は湯船から出ると、屋外の露天風呂に行った。
 そこには小さい池があって金魚が泳いたのだが、
この零下だから池の水が凍っていて金魚も一緒に凍っていた。
「佐山さん、きてみな」と中川が呼んだ。
 私が行ってみると、中川は露天の湯を手ですくってきて、金魚にかけた。
 すると、金魚はなんと泳ぎだしたのだった。
「これをやったんや」
「そんな事が出来るんですか?」




#532/554 ●長編    *** コメント #531 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:13  (106)
「長野飯山殺人事件」五 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
五

 それからなお二日間、我々は怠惰な湯治を楽しんでいた。
 その二日目の温泉の帰り、フロイトの前を通ると、
主任管理員の猪が声をかけてきた。
「お客さんからもらった饅頭があるんですよ。食べて行きませんか?」
 私と中川は管理室の中に入った。
 部屋は10畳ぐらい。家電量販店並の明るさ。
奥の壁には、防犯カメラのモニタ、防災関係の盤などがずらーっと並んでいる。
真ん中にスチールデスクが2個あって、ノートPCが一個置いてある。
 我々はそのデスクにキャスター付きチェアを寄せ合って座るとお茶をすすった。
 突然PCの右下にウィンドウが開いてスカイプの着信音が鳴った。
 「なんだ?」主任管理員が通話のボタンをクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
「なんだ。斉木さんか?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「アンヘレス」
「アンヘレス?」
「フィリピンのアンヘレスだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があってな」
 画面の中の斉木に誰かが皿を運んで来た。
ノースリーブのワンピースを着た女性だが顔は映っていない。
あれはカミールなんじゃないのか。
 斉木は「サンキュー、サンキュー」と言いながら
皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、
このスカIDがあってんで、掛けてみたんだ。
こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらなんだけれども、
俺って、そっちじゃあ、どうなっているかなーと思って」
言うと斉木はケケケッと猿の様に喜んだ。「つーか、驚いたことに、
そこには中川先生と佐山さんもいるんだ。
ちょうどいいや。今回の俺様殺人事件の答え合わせをしてみようよ。どうだよ」
「それはこっちも望むところやな」PCに向かって中川が言った。
「そうこなくちゃ。じゃあ中川先生、まず、ホワイダニットから言ってみなよ」
「だからそれは、あのストリップ劇場に行った晩、
お前は女のアッシー君をやって、四人も持っていかれて、
その穴埋めに偽装結婚をさせようと思ったが上手く行かず、
落とし前をつける羽目になったが、死にたくない、
そこでカミールと共謀して偽装殺人を思い付いた、ってとこだろう?」
「それじゃあ全然答えになっていないよ。
なんでカミールが偽装殺人に協力するんだよ。おかしいだろう。
実はカミールには俺に協力したい理由があったんだけれども、知りたい?」
「ああ、知りたいな」
「俺は確かにやくざに脅かされていたが、
もう一個カミール絡みで別の話があったんだよ。
実は牛山さんは生命保険に入っていて、
それをカミールに渡したいと思っていたんだよ。
でもカミールもイマイチ信用できない。
そこで俺にカミールの故郷まで金を運べって頼んで来たんだよ。
それでカミールも偽装殺人に協力したって訳さ。
結局はカミールに保険金が入るんだから」
そこまで言うと斉木は天を見上げて何か考えていた。
そして続ける。
「つーか。そもそも俺はあの疑惑の銃弾で死んだ訳じゃないんだけど。
俺はコールドスリープで死んだんだよ。
つまり、トリックは二つあって、
疑惑の銃弾のホワイダニットはやくざへの落とし前だけれども、
コールドスリープの方は保険金目当てって感じだな。
 それをさぁ、やくざへの落とし前を偽装するためにカミールが手伝った、
なんて言うんじゃあ、全然分かっていないな。減点一だな。はははっ」
と笑って乳歯の様な矮小歯を見せた。「だいたい今回の事件はホワイダニットは
どうでもよくてハウダニットが凝っているんだから。
だから、ハウダニットについて言ってみな。まず、疑惑の銃弾についてから」
「ああ、言ってやるよ。お前何か呼吸器の病気があって傷があっただろう。
あと、どっからか回ってきた銃で熊を撃って弾を取り出したのも分かっている。
その弾をその傷口に埋め込んだんじゃないのか?」
「おいおい、呼吸器の病気って何だよ。病名が分からないのかよ、
T大卒のお医者さんが。
それじゃあ裁判で勝てないぞ。今スマホで調べてみろよ。
胸、穴があく病気とかで」
「気胸か」調べるもなく中川はひらめいた様だった。
「そうだよ。気胸だよ。しかも通院で治療出来る方法があるんだよ。
胸に穴を開けて、ドレーンチューブを引っ張ってきて、
腹のあたりにポンプをつけてね。
その胸の穴に弾をめり込ませたって訳さ。
そんでカミールにラブホで空砲を撃たせて、
それから病院に担ぎ込まれた。
でかい病院じゃあバレるかも知れないが
アルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば撃たれたって事になるだろう。
医者に勘付かれたら逃げてくればいいし。それが疑惑の銃弾の真相さ。はははっ。
 でも、別に俺はその偽装殺人で死んだ訳じゃないんだぜ。
コールドスリープで心肺停止状態になったんだ。
そっちの方のハウダニットは分かる?」
「大胆な予想をしてやるよ。
お前はホテルで撃たれて僻地病院に運ばれて寝ていた。
そこに、血液交換マニアの牛山看護師の登場だ。
まず看護師は個室用の透析器でお前の血を全部抜いた。
そして血の換わりに生理食塩水を点滴する。
同時に窓を開け放って部屋を冷たくした。
そうやって体温が十度になれば全ての細胞は活動を停止するからな。
つまり心肺停止状態になるって訳だ。
これは金魚が半冷凍になるのとは違って、完全に心肺停止状態になるものだ。
実際、二〇一四年だかに、血を抜いて生理食塩水を入れて
仮死状態にして手術をする、という症例がピッツバーグだかであったんだよ。
とにかくそうやってお前はまんまと検死を突破した。
その後、血を元に戻して、霊柩車の中で甦った。
ところで、牛山看護師にも動機はあった。
兄の保険金を有効に使いたかったという」
「それは当たりだな。大したものだよ。はははっ」と斉木は力なく笑った。
「しかし全体で見ると、
やくざへの落とし前ということは分かっても保険金の事は分からなかったし、
コールドスリープのこと分かっても、気胸という病名は分からなかったんだから、
二勝二敗だな。
まあ、今回は引き分けって事にしてやるよ。ハハハ歯歯歯はははっ」




#533/554 ●長編    *** コメント #532 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:14  ( 83)
「長野飯山殺人事件」六 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
六

 スカイプだから鮮明ではないのだが、斉木の頬はこけて無精ひげが生えていて、
心なしか頭髪も薄くなっている気もする。
伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
逃避行で疲れたか、糖尿病でも患ったか。
 斉木は机の上の皿からスプーンですくってピラフの様なものを食べ出した。
その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じ。
 そこへ、さっき皿を運んできたノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木が女に向かって、ファックだのビッチだの声を荒げていたが、
その内、プリーズとか言って、拝むように手を合わせていた。
 女が「カモン」とドア方向に向かって言った。
 機敏な動きの男二人が入ってきて、
椅子に座っている斉木の肩を両方からフルネルソンで固めると、
そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」とこっちに言う。
そしてぷちんとスカイプが落ちた。
「なんだ、何か向こうで騒ぎが起こっているようですが」と主任管理員。
「彼女らも売春をさせられていたんだから、
恨んでいて男を呼んできたのかも知れない」と私。
「これから彼がどうなるのか、というのもミステリーやな。
まだまだミステリーは続くってことや」中川は全く他人事の様に言うと、
お茶をすすった。「腹へったなあ。そろそろめしでも食いに行かへんか。
このお菓子が呼び水になって、すごい空腹感やで」
「だったら今日は海鮮丼がおすすめですよ。
新鮮なイクラとかハマチとか乗っていましたから」
「じゃあ、それ、行こう」

 私と中川とでホテル側のレストランに向かって歩いていたら
明子さんに出くわした。
「あら、これからお食事ですか?」
「そうなんですよ。美味しい海鮮丼があると教えてもらって。
…そうだ、明子さんも一緒にどうですか? ご馳走しますよ。
色々ごたごたがあったし」
「そうですか? じゃあお相伴に与ろうかしら」
 我々三人は、レストランで、
日本海の海の幸満載の海鮮丼、お吸い物つき、お酒つきに舌鼓を打った。
「イクラがぷちぷちと口の中で弾けるところにお酒を含むと絶妙やな」
「磯の香りが広がりますね」
「お吸い物もグーですよ」
「魚介類と吸い物は合うよな。味噌汁はそうでもない。
魚には白ワインは合うというのに似ているのかな」
 など、食レポをしながら寿司を食った。
「そういえば、斉木さんってその後どうなったんですか?」
「そうそう、それを報告したかったんですけれども。
さっき斉木から電話がかかってきたんですよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプで」
「あの人、まだ日本に居るんですか? てか、生きているんですか?」
「ええ。なんでもフィリピンに居ると言ってましたよ。
なんか、牛山さんの間男みたいな真似しているみたいですが、
結構揉め事が多いらしいですよ」
「へー、いやらしい。そういえば、私カミールにあったんですよ、
牛山さんに書類を届けに行った日、先生たちに社用車を貸した日ですけれども。
あの晩牛山さんが亡くなって、そうしたらカミールも来たんですよ。
 カミールは、フィリピンに帰るけど、
牛山さんと一緒じゃないのが残念だ、って言ってましたね。
でも、フィリピンはすごい危険だから牛山さんは行けなくてよかった
とも言ってましたね。
なんでも左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐されるとバラバラにされて
臓器売買に使われちゃうんですって。
心臓とか目とか。
もしかしたら斉木さんも危ない目に遭っているかも知れませんね」
「じゃあ、さっきの騒ぎも何かその手のトラブルかなぁ」
「え、何かあったんですか?」
「いやいやいや、想像ですよ。
つーか、斉木は死んでも死なない奴だから何があっても平気でしょう。
ねえ、中川さん」
「さあ、どうだろう。あの常夏のフィリピンと
このスキー場とじゃあ何千キロも離れているからなあ。想像でけへん」
 中川はイクラを口に入れると、お酒を含んだ。窓の外の雪山を遠目に眺める。
 私もつられて窓の外を眺めた。
 ゲレンデにはしんしんと雪が降っていた。
 雪が防音材になって、
人間の起こすもろもろの騒々しさを吸い取るかのように思われた。
 この静かな斑尾とあの騒々しいフィリピンが
海底ケーブルで結ばれていると思うと変な気持ちがする。
しかし数日したら又スカイプで電話をしてみようと私は思った。
斉木和夫が二度死ぬかどうかを確かめる為に。


【完】




#534/554 ●長編
★タイトル (AZA     )  19/02/22  20:17  (485)
私的バレンタイン・サガ (上)   永山
★内容                                         19/02/26 20:45 修正 第2版
『私的バレンタイン・サガ 〜 君のこともっと知りたいんだ 〜』

 子供の頃、好きな子について何でも知りたいと望むのは、いくつぐらいからだろう
か。身長体重に得意科目、好きな食べ物、好きな色、好きなタレント、好きな曲に漫
画、逆に嫌いなのは、趣味や特技は何か、エトセトラエトセトラ。
 河田京平の場合、その意識は小学六年生になる少し前に芽生えた。尤も、そうなるま
で河田は、好きな女子なんてこと自体考えないでいた。だから後に好きになる子と初め
て会ったのは、もうちょっと遡る。四年生から五年生に上がる際のクラス替えである。
 彼女は名前を米崎久海といって、とびきりの美人ではなく、かといってかわいい、愛
らしいというのとも違うけれど、印象に残る容貌をしていた。二重瞼が特徴的なせいか
もしれない。髪は三つ編みで、背中の中程まで垂らし、広めのおでこに狐っぽいイメー
ジの細面。
 身体の方もそれに合わせたみたいに細いが、発育はよく、背も力も結構ある。そこへ
加えて性格は活発で運動が得意と来れば、女子のリーダーの一人みたいな存在で、実
際、五年生になったばかりの時点で、彼女にはもう同性の友達はたくさんいた。
 女子のリーダー格が男子達と対立する構図は、ありがちだ。河田もそれまでの数年
間、何度も目の当たりにしてきたし、当事者になることも多々あった。
 その癖で、という表現もおかしいけれど、始めの内は、何かと口やかましい米崎久海
に対し、他の男子と一緒になって反発していた。特に理由もなく――否、ぼんやりとし
た原因なら男子の側にあった。対女子でやたらと対抗心を燃やすだけならまだしも、い
ちいち「女の癖に」と言うし、ちょっかいを掛ける。口やかましく注意されて当然のこ
とをやっていたのだが、それが分かるのは時間が経って、精神的にちょっと成長した
頃。リアルタイムではなかなか思い至らない。
 そんな状況下で、河田が米崎を気にするようになったのは、バレンタインデーがきっ
かけだった。もちろん、常日頃反目している者同士の間で、バレンタインデーだからチ
ョコのやり取りをしようとなる訳がない。学校が用意したイベントの一つだった。
 思い返してみても、学校が何故こんなことを児童にさせたのか、狙いがよく飲み込め
ないのだが、クラスで女子と男子、チョコレートを贈り合おうというイベントが挙行さ
れたのである。贈る相手は抽選で決められ、予算は税抜き三百円までという、自由度の
なさはかなりのレベルだった。
 問題の抽選は、一週間程前の二月七日の放課後に行われた。男女二十名ずつのクラス
で、1から20までの数字を書いたピンポン球を用意し、抽選箱にそれらを入れ、女子
と男子が引いていく。同じ番号になった者同士が、チョコレートを贈り合う。それだけ
のことだ。愛の告白は無論のこと、メッセージを付けたりきれいに包装したりする義務
すらない。
 さて、ここまで散々男女がいがみ合っている風に書いて来たが、中にはませている者
がいるし、異性に興味ないけどあの子だけは別、という存在もいる。いるのだが、運よ
くその特別な存在と同じ番号を引けたとしたって、喜びは微塵も見せてはならない。
(何に対してか分からないが)強がって、「おまえかよ。おえー」とか「誰と当たって
も十円チョコ一択」とか言わなければならない空気が作られていた。
 その点、河田は無理に虚勢を張らずに済んだ。女子の代表的存在で、男子の誰にとっ
ても“敵”である米崎と同じ番号になったのだから。
 ところがである。
「安いチョコを渡し合ってはいおしまいじゃ、つまんないから、勝負と行こうじゃな
い」
 米崎がそんなことを持ち掛けてきたおかげで、風向きが変わった。
「何だよ、勝負って」
「豪華で美味しそうに見えるチョコを用意した方の勝ち。判定は先生にしてもらいまし
ょ」
「たった三百円で、差が付くかよ」
「おやー、自信ないのかな?」
「そんなことはねーよ」
 挑発に乗ってしまった。本当は自信がない。こういうのって、女子の方が色々と知識
を持っていて有利だろうという頭があった。
「けどな、勝負を受けるには条件がある。そっちの一方的な話を受けてやるんだから、
ハンデをもらわないとな」
「言ってみなさい。あんまり無茶な要求じゃなければ、考えてあげる」
 ハンデをくれと言えば勝負を取り止めるのじゃないかという期待があったが、あえな
く消えた。こうなると河田にできるのは、無茶な要求を提示すること。
「そーだなー。予算に差を付けるってのは? こっちはそっちの倍使えるようにすると
かさ」
「何を言い出すかと思ったら。それは無理。三百円て決められてるのに」
 米崎は腰に両手を当て、ため息を盛大についた。狙いは当たったが、あからさまに呆
れられてしまったことには密かにへこむ河田。
「じゃ、じゃあ、勝負はなしな」
「待って。……これなら行けるかも。私の予算の中から、百円、そっちに渡すっていう
のはどう」
「何?」
 びっくりしながらも、頭の中で計算した。四百円と二百円になる。確かに倍だ。三百
円の予算以内という先生が決めたルールには反するだろうけど、クラス全体で使われる
お金の上限は変わりないのだから、文句ないだろう。そういことにしておく。
「よし、それなら乗った」
「まだよ。勝負と言うからには、何か賭けなくちゃ」
「賭ける? ああそうか」
 河田は、ハンデについてこちらの言い分を聞かせた手前、賭ける物に関しては譲るこ
とにした。
「そっちの自由でいいよ。変なのはだめだけどな」
「変なのって?」
「……言うと採用されそう」
「真似なんてしないわよ。今この場で言ったのは、本番では使わないであげる。似た感
じのも含めて」
「そう言うんなら……たとえば、俺にスカートを穿いて学校に来いとか。給食のおかず
を一週間、全部よこせとか」
「あはは、なるほどね。でもそんなことは言わない。元から言うつもりなかった。そっ
ちがさっき言ったスカートを含めて、エッチなのとか性別に関係するのはなしね。持ち
物を取り上げるのも。あと、犯罪行為」
「あ、当たり前だろ」
(いちいち断らなきゃいけないという考え方をするなんて、やばいやつかもしれない。
いや、俺がそういう風な目で見られてるってことか?)
 河田は内心、大汗を掻く思いを味わっていた。対する米崎は涼しい顔で提案してき
た。
「クラスのみんなの前で、好きな人の名前を発表するとかは?」
「意味ねー。俺、そんなのいないし、米崎さんが誰を好きなのかなんて別に知りたくな
いもんな」
「いないってまじ? 遅れてるというか何というか……。じゃあ、私が勝ったら、河田
君は来年の児童会長選挙に立候補して」
「な? 無茶苦茶――」
「わざと無茶苦茶を言ってんのよ。だから、そっちが勝った場合の罰ゲームは、そっち
で決めていいわ」
「じゃ、じゃあ逆でもいいんだよな。負けた方が児童会会長に立候補」
「あ、乗ってくれるの? よし、いいわよ。受けた」
 これまた相手が引き下がると思って言い出したってのに、あっさりと受けられた。も
う完全に引っ込みが付かない。
(変なやつ……。まあいいや。どうせ出たって落ちるだけだし)
 河田はとりあえず、右手を米崎に出した。
「うん? 何この手?」
「くれ。百円」

 バレンタインデーの二日前。区内で一番大きなスーパーマーケットまで足を延ばした
河田は、チョコレート売り場を巡った。女性が大勢行き交う中で、小学五年生の男子が
一人で動くのには相当勇気が必要だったけれども、その点は頑張った。より大きな問題
が別にある。
「高っ」
 思わず声に出してしまうほど、値札の数字は0の数が一つ二つ多い。店内をぐるぐる
回って、ようやく小学生向きと思われるコーナーを見付けた。が、ほっとしたのも束の
間、ここでもそんなに安くはない。
「見た目がいいのって、最低でも五百円か」
 また思わず呟く。もしかして……河田は邪推を始めた。
(女子は毎年こんなところに来てるから、こういう季節のチョコの値段に詳しいに違い
ない。それで米崎さん、百円を渡しても大丈夫と分かってたんだな。三百円が四百円に
なったぐらいじゃ、大して違わないって)
 ずるいぞと心の中で罵る河田だった。が、それならそれで矛盾に気付く。
(四百円でもどうにもならないのに、二百円でどうするつもりなんだろ? 何か作戦が
あるんなら知りたいな。同じ作戦を使えば、俺は二倍、掛けられるんだから)
 少し考えてみたが、ちっとも妙案は浮かんでこない。
(レシートを持って来ることが条件だから、金をごまかすのは無理。仮に手作りすると
したって、レシートにない材料が使ってあったら、まあばれるよな。箱を包み紙やリボ
ンなんかで豪華っぽく見せるのはありだけど、勝負の決め手はチョコの見た目と味だ
し)
 考えても時間の無駄と判断した。もう一度、隅から隅までコーナーにある台や棚を見
て回る。すると、手作りセットが目に留まった。
 河田は男子だからか、手作りする気は全然なかった。先程、相手が手作りする可能性
を想像したせいで、今注意が向いたのかもしれない。
 その品を手に取った河田は、この日何度目かの「高っ」を吐いた。
(こんなんでも五百円以上するのかよ! ちょっとデコレーションの材料が足してあっ
て、作り方が書いてあるだけなのに)
 よく見ると、セット商品には三個分作れると謳ってある物もあった。
(バレンタインに上げるのは、好きな相手一人に一個じゃねえの? 義理チョコとか父
親用とかを含めてるのか、これ)
 呆れつつ、歯がゆい思いもした。
(これ、一個分だけ売ってくれりゃいいのに。三分の一の値段なら、三百円以内に収ま
る)
 無論、そんな値切り交渉を実行するはずもなく、河田は商品を棚に戻した。
(こうなったら、質より量作戦か)
 ちょっと安めの十円、二十円チョコを大量に購入し、うまく並べればそれなりに豪華
に見えるんじゃあないか。河田はバレンタインチョコのコーナーを離れ、普段買うよう
な菓子を置いてある棚を探した。

 二月十四日を迎えた。
 クラス内でのチョコの贈り合いは、学校が用意した形式的なイベントに過ぎない。し
かしそれでも多少は意識してしまうものらしい。高学年になるほど、そわそわしている
る児童が多かった。そのそわそわ状態は、チョコの交換が行われる昼休み(土曜日なの
で実質的に放課後)まで続いた。
「では本日のメインイベント。米崎さんと河田君、前にどーぞ」
 二人の賭けについては、担任教師を含めて全員が知るところになっていた。だから、
彼らのチョコレートの披露は、クラスで一番最後に賑々しく。
「どっちが先に出す?」
 司会進行を務めるのは、学級委員長の忍川貴将。飛び抜けて賢いとか運動が得意だと
か二枚目だとかではないが、おしなべて良いレベルで、バランスがいい。その感覚は他
の面にも影響を及ぼすのか、人の話を色眼鏡なく聞く公平さがある。だから、こんなイ
ベントでどちらが先にチョコを出すかについてさえも、公平さを求めがちのようだ。
「バレンタインは女から渡す物だから、女子からでいいいんじゃないの」
「いやいや、女子から渡すのが正式だからこそ、最後に取っておくべきでしょ」
 そして外野もつまらないことで揉める。長引きそうなのを面倒に感じた河田は、自ら
言った。
「俺が先な。崩れたら直すの面倒だし、早く渡さねえと」
 謎のフレーズを言い残し、教室後方にある各自の道具入れに向かった。そこから粘土
板の上に作った粘土細工を運ぶときと同じような、いやそれ以上に慎重な手つきと足取
りで、蓋のしてある紙箱を手に戻って来る。コンパクトサイズの将棋盤程度の大きさ
だ。
「ほい、どいて、委員長」
「よしきた」
 教卓に手を突いていた忍川が飛び退き、空いたスペーズに箱をそっと置く河田。
「じゃあ……先生、よく見ててよ。第一印象が全てみたいなもんだから」
 河田の言葉に、担任教師も真剣に応じた。身を乗り出し、箱を上から見下ろせる位置
に立つ。
「では、本人がオープンするってことで?」
 忍川の確認に、河田は強く頷く。
「もち。ずれたら困るから、な!」
 言い終わると同時に、蓋を真上に持ち上げた。河田は蓋を持ったまま、その場を離
れ、「どうだ?」と皆に言った。すぐさま、おおっというざわめきが起きる。
「これは花?」
 先生の台詞は、他の児童らにも共通の質問だった。
 箱の中では、赤、黒、白、緑、ピンク、黄色等々、色とりどりの小さなブロックがモ
ザイク絵を形作っていた。ブロックの一つ一つは十円チョコで、よく見ると、一部は包
装紙が切り取られたり、重ねられたりしている。
「花に見える? なら一応成功した。全額十円チョコに使った甲斐があった」
 6×6の36個を箱の内側に敷き詰め、典型的なチューリップの簡素なイラストに
し、残る四個を細かく切り、角張った文字の“ヨネザキへ”を作っていた。
「あ、呼び捨てになったのはかんべんな。数が足りなかった」
「いいよ、許す。正直言って、こんなにうまくやるとは想像していなかったわ」
 贈られる当人が、心底驚き、感心した様子で述べた。
「食べるのが勿体ない感じだね」
 先生が言うと、「それもそうだ。味は十円チョコそのまんまだし」と茶化す声が飛ん
だ。
 形式的に先生が“へ”のチョコを食べる間に、河田はレシートを米崎に示した。
「問題ないだろ?」
「うん。嬉しいな。有効に使ってくれて」
 満面に笑みを広げ米崎。河田は戸惑いつつも、ここは感謝を示さないと男がすたると
口を開く。
「百円のハンデがなければ、もっとしょぼい絵になってたろうな。こっちこそ助かっ
た。米崎さんのは大丈夫か?」
「それはこのあとを見て」
 図らずもエールを送り合う形になった。
 攻守交代し、今度は米崎がチョコレートを披露する番になる。大ぶりの手提げ袋を自
身の机のフックから外すと、片手ではあるが河田に劣らぬ丁寧な動作で、中から十字に
リボンを掛けた半透明の箱を取り出した。正確には蓋が半透明で、中身が何となく見え
るが赤と金色のリボンが邪魔をしている。
「さぁて、開けてみて。河田君みたいなアイディアはないけど、お菓子としてはいい線
行ってるんじゃないかしら」
 チョコを教卓に置いた米崎が促す。司会役の忍川が言葉を挟む間もなく、河田は即座
に反応した。
「よくこれだけ包装があったな〜」
「それは別のお菓子のを取っておいたやつ。ようく洗って乾かしたから、心配しないで
いいよ」
 そんなこと言われたらかえって気になるじゃん……と声に出す前に、河田は中身のチ
ョコに目を奪われた。
(え、これで二百円?)
 真っ先に感じたのが、その大きさ。円形のそれは直径十センチくらいはある。しかも
立体的で、かさもあると一目で分かる。ココアパウダーと粉砂糖、クリームにゼリー
ビーンズで飾ってあるが、“地肌”はチョコレート色だ。よくよく観察して、やっと分
かった。
「バナナやイチゴをチョコレートでコーティングしている?」
「正解。予算の都合で底が薄い板状のチョコだから、触ると簡単に壊れちゃうけど。注
意して食べてね」
「ちょ、ちょっと。その前にこれ、本当に予算を超えてないのか?」
 疑いたくはないが、疑わざるを得ない。それほどまでに、米崎の手製らしいチョコは
ボリュームがあった。
 するとこの嫌疑に、米崎はにこりと笑みを返した。
「信じられない? それだけで充分、ほめ言葉って感じ。――ほら」
 ワンピースの胸ポケットからレシートを摘まみ出し、米崎は河田の目の前に掲げる。
「……うん? 合計で八百円になってるけど?」
 品名には、半額値引きのカットフルーツの他、河田が見掛けた手作りチョコのセット
も一つあった。あまりに明白な予算オーバーぶりに、河田はかえって困惑した。説明を
求め、相手の顔を見やる。
 米崎は振り返って、「綾木ちゃん、真城ちゃん」と女子の友達二人を呼んだ。米崎の
友達は多く、誰とでも仲がいいが、この二人とは特に親しい。
「私達で相談して、いわゆる共同購入をしたの」
「な何だって」
 思わず叫んでしまった。それを質問と受け取ったのか、綾木美奈子が「三人のお金を
まとめて、一緒に買ったの。それをまた三人で分けた」と詳しく答える。
「こうでもしなきゃ、まともに勝負できないもん。手作りチョコレートセット、三個分
作れるとあったから、あれを買えば基本大丈夫だろうと思って」
「はあ」
 河田は情けない声しか出せなかった。
(俺は三分の一の値段で買えないことに文句を言うだけだった。米崎さんは三人で力を
合わせることを思い付いた。……凄く負けた気がする)
 と、そこへ外野の男子から抗議調の声が飛ぶ。
「それってずるくないか? だって、二百円、三百円、三百円と出したんだろ。三分の
一を使ったんなら、予算オーバーじゃないか」
「そう言われると思って、ちゃんと正確に量りましたっ」
 待ち構えていたかのように反論する米崎。
「家に、作ったときの写真があるから。私と真城ちゃんと綾木ちゃん、それぞれの材料
の重さを量って写真に撮った。疑うんなら見に来てよ」
 自信満々の物言いに気圧されたらしく、抗議の声はあっという間に静かになった。
「ねえ、そんなことよりも、メニューを考えるのが大変だったんだから。三人とも違う
感じのチョコになるようにって」
「そうそう。材料が一番少ない米ちゃんの分を真っ先に考えたあと、私はイチゴを細か
く刻んで、チョコと混ぜて固めて、バナナの薄切りをフライにして挟んで」
「私はイチゴをジャムして、チョコの中に詰めて、バナナと組み合わせてキリン作った
けど、レモンを買えなかったから変色しちゃった」
 最後の綾木の発言に、その綾木からチョコをもらった男子が「え!? 大丈夫なのか
いな」と頓狂な声で反応した。
「賞味期限はギリギリOKだよ」
 米崎が代表する形で答え、それから河田に改めて向き直った。
「こういう訳だから、今日中に食べてよね。あ、先生も早く味見をお願いしまーす」

 勝負の結果は、さほど重要ではない。それでも一応記しておくと、先生が軍配を上げ
たのは米崎久海だった。河田のアイディアを称賛しつつも、彼に比べて少ない予算でや
りくりした米崎の知恵を高く評価したものだった。
 こうして河田は翌年の進級後、児童会選挙の会長職に立候補する訳だが、これにはお
まけが付いた。副会長に米崎が、書記に忍川が立候補することに何故かなってしまった
のだ(五年生から六年生へはクラス替えなしの持ち上がり)。さらに驚くべきことに
は、三人とも当選を果たすという快挙。同じクラスから児童会の三役全員が出るのは、
何十年ぶりだかのことらしい。忍川の人望は以前から高かったが、河田と米崎がトップ
になれたのは、五年生のときのバレンタイン・ギャンブルが他の児童にも噂として広ま
り、いい意味で名前を知られたのが大きかったのだろう。
 河田は児童会長なんて柄じゃないと自分では思っていたが、二人の支えもあって立派
にこなした。その分、米崎とは一緒にいる時間が増えたし、彼女に助けられる場面も多
かった。結果――好きになった訳だ、気が付いてみたら。
 といっても、小学生の時点で思い切って告白するのはなかなかの難業。六年生のとき
のバレンタインデーは日曜と重なったせいもあり、前年のようなイベントが催されるこ
となく、普通に過ぎていった。
 そのまま卒業を迎えた河田だが、落胆や後悔はしていなかった。同じ中学に通うのだ
から、チャンスはいくらでもある。そう考えると、気分が軽くなる。その反面、いつで
もいいやっていう先延ばしの心理も生まれがちなもので。

 河田は自宅でカレンダーを見て、二月だ、と思った。
(中学入学以来、特にこれっていうことが何にもない)
 米崎の顔を思い浮かべつつ、はーっと深い息を吐く。
 中学生になって最初の関門がクラス分けだった。心中、どきどきものでクラス分けの
掲示板を見上げた河田だったが、その表情はじきにほころんだ。幸運にも同じクラスに
なれたのだ。
 これで安心しきったのが失敗で、特段、積極的なアプローチをするでもなく、こと恋
愛に関しては無為に十ヶ月程を過ごしてしまった。友達付き合いは続いており、それは
それでそこそこ満足の行くものだったから、先延ばし心理に拍車が掛かったのかもしれ
ない。
 河田はカレンダーの14を見つめた。
(米崎がサプライズでチョコをくれる、なんてことは期待しない方がいいんだろうな)
 頭の中での独り言ではそう判断するものの、全然期待していない訳でもない。幸いに
も、米崎が誰かと付き合っているという話は全くなく、河田が見ている分にもそんな気
配は皆無だった。
(しかし、米崎さんが俺をどう思ってるかなんて、分かんねえし。先にホワイトデーが
来てくれりゃいいのに。そうしたら、俺が先に告白して……できるんかな、そんなこと
ほんとに)
 自分の臆病な部分を確認できただけで、何の策も浮かばない。
 しかしバレンタインデーを一週間後に控えた放課後、河田は手本を見付ける。
「バレンタイン? チョコぐらいなら多分もらえるよ」
 外掃除で大量に集まった落ち葉を二人して捨てに行く道すがら、そう言ってのけたの
は、同級生の板垣竜馬。全般的にそこそこ優秀な河田と異なり、勉強は英語と数学、運
動は徒競走とバスケットボールが突出している板垣は、部活は手芸部というちょっとひ
ねくれ者だ。そんな彼は、顔は旧い表現をするならバタ臭いってやつだがまあまあ男前
で、喋りは面白く、小六のときから付き合っている相手がいると聞いても納得はでき
た。
「入学してからずっと隠してきたのかよ。全然、一対一で付き合ってるような女子、影
も形もなかったじゃん。あ、もしかして違う中学とか」
 ゴミ捨てが済んでからも、河田の攻勢が続く。板垣も厭わずに応じるくらいだから、
彼女の話をするのはまんざらでもないに違いない。
「いや、ここだけど。十組の志崎さんて知らん?」
「志崎……志崎優美? 名前と顔は知ってる。一年生なのに、休部状態だった手芸部を
復活させたって。ああ、そうか。それで手芸部」
 板垣を指差す河田。相手の方が背が高いため、斜め上向きだ。
「愛の自己犠牲精神か」
「よせよ。志崎さんに頼まれたのは事実だが、別に俺、他の部に入るのをあきらめたっ
て訳じゃない。走るのもバスケも、趣味でやれればいいんだ。その点、手芸部なら靴下
に穴があいても直せる」
 飄々とした答え方で、どこまで本気なのか分からない。でも、楽しそうではある。
「それで話を巻き戻すけど、志崎さんがチョコあげるって言ったんかいな」
「まあな。みんな――他の部員のいるとこで話題がバレンタインになったからさ。こっ
ちが冗談めかして『愛の籠もった塊、くれる?』って水を向けたら、『大義理チョコだ
かんねー』って感じで返された。周りも『大喜利ならぬ大義理かよ』『座布団一枚!』
ってな雰囲気に。で、あとで二人だけのときに、『みんながいるところであんな話を振
るな』って怒られたよ」
 玄関の下駄箱まで来た。ゴミ捨てが終わって、そのまま下校できる。
「……なあ、板垣。最初に志崎さんからもらったバレンタインチョコって、義理チョ
コ? 根掘り葉掘りで悪いと思うけど、差し支えなかったら」
「差し支えはない。幸せのお裾分けの心持ちよ。余は寛大であるぞ」
 冗談を交えながら、校門を出たあとも話は続く。
「最初は五年のとき。どんな事情があったのか分からずじまいだが、バレンタインデー
を前にクラスの女子達が盛り上がって、女子全員で男子全員分のチョコを用意して、配
るってことをやった」
「面白いのかつまらないのか分からないイベントだな」
「まあそれなりに盛り上がった。チョコはどれも同じで売ってる物だけど、渡すのはそ
れぞれ別々だったから。女子の誰が男子の誰に渡すかってのは、向こうが勝手に抽選し
て決めたと言ってたけど。俺、ちょっとかまを掛けてみたんだ。あ、渡してくれたのは
志崎さんだ。『抽選じゃない奴もいるんじゃあ?』って軽い調子で言ったら、志崎さ
ん、耳を赤くして、『そんなことあるはずないでしょ! 義理よ義理!』って」
「それ……ばればれってやつじゃあ」
「多分。でもまあ、相手が義理だと言うんだし、女子全員の企画による物だから、義理
チョコとしてもらった」
「六年生のときは? 付き合い始めたのが六年と言ってたけど」
「『今年も義理チョコもらえるんかな?』って風に声を掛けたら、そのときは何も返事
がなかったし、バレンタイン当日も何もなかった。でも翌日の月曜に登校したら、机の
中に入ってた。名前入りのカード付き。あ、さすがにカードの内容までは勘弁しろ」
「了解。なるほどね」
 うらやましいくらいに理想的だ。見習えるものなら見習いたい。河田はそう考えなが
ら、話してくれた礼を板垣に言った。
「何だよ。このくらいで感謝だなんて。もしかして河田、好きな女子が近くにいるな?
 そいつとは結構親しく、悪くない感じだが付き合ってると言える程ではない。バレン
タインにチョコをもらえるかどうかもはっきりしない」
「超能力者か!」
「んで、何とかしてチョコをもらうために、この板垣様を手本にしようと」
「読心術か! ……当たってるよ。くそっ、そっちだけ恥ずかしい思いをさせて終わる
つもりだったのに」
「誰よ、相手は。まさか教えられないってことはあるまいな?」
「普段の俺を見ていたら想像は簡単だと思うが」
「悪いが、日常的にクラスメートの男を観察する趣味はない」
「……しょうがないな」
 河田は米崎の名前を出した。板垣は「なるほど」と反応した。
「とりあえず、今年は待ちでいいんじゃねえの。ぎりぎりまで待って、気配がなかった
ら、義理チョコでいいからくれよー的なことを言ってみるとか。あ、洒落になってしま
った、ぎりぎりの義理チョコ」
「そんなんでいいのか」
「そもそも、ちゃんとした告白してないんだよな? 何となく仲がいいってだけで」
「そりゃまあ。二人だけで遊びに出掛けたこともないし」
 正確に言えば、駄菓子屋に置いてあるゲームで遊んだりとか、トランプの占い遊びに
付き合ったりとか、児童会の関係で遠出して暇な時間にオセロをしたりとかならある。
デートと呼べる代物ではないため、省いたまで。
「だったら、今度のバレンタインをきっかけにするのも手だし、義理チョコをねだっ
て、ホワイトデーで真面目なお返しをするとか」
「うーん。俺に向いてるやり方なのかな。まあ折角のありがたいアドバイス、考えと
く」
 と、この場では迷う素振りを見せた河田だったが、それは表面だけ。二月十四日まで
あまり時間がないこともあって、機会を作ってでも早々に試してみようと決意してい
た。
 その機会は、作らずとも向こうからやって来た。決意が念になって相手に届いたのか
と思える程のタイミングで。
「ねえ、河田。今度の飛び石連休、暇ある? 真ん中の土曜も含めて」
 午後一の授業が終わっての休み時間、教室移動のときに米崎が聞いてきた。
「あるっちゃある。せいぜい、家族の買い物に付き合うぐらいしか予定ないから」
「だったら急なんだけど」
 手にした教科書やらノートの中から、紙を挟めるタイプの下敷きをちらと見せる米
崎。目がいたずらげに笑っているようだ。
「これ、もらったから行こうよ」
 下敷きに挟んであるのは封筒で、その口から覗くのは映画の招待券らしかった。
「一枚で二人まで観られるんだよー」
「俺と? 女子の友達は?」
 嬉しさを隠しながら聞き返す。
「この券、男女のペアが条件なのよ、けちくさい」
「ああ、そういうことか」
 ちょっとがっかり。
(けど、一人でも行けるところを、敢えて誘ってくれたんだから)
 気を取り直して、OKの返事をする。
「三日間の内、いつがいい?」
「米崎さんの都合に合わせるよ。さっき言った通り、暇してるから」
「買い物の予定があるんでしょ? 私の方はほんとに何にもないの」
「じゃあ……十一日にしようか」
「了解。細かい時間はあとで知らせるわ」
「あ、ちなみに何ていう映画?」
 好みに合うか否かを知りたいのではない。どんな内容の映画だろうと、多少の予習は
しておきたいと思ったから。
「『君のこともっと知りたいんだ』。こてこての恋愛映画だと思う。学園ラブコメと銘
打ってるしね」
「やっぱりそーゆーのかぁ」
「恋愛物、苦手?」
「いや、観るけど。母親が後生大事に持ってる少女漫画、結構面白かったし」
 もうすぐ教室に着く。このままでは肝心なことを聞きそびれてしまうと、河田は焦っ
た。
「考えてみれば、十四日が近いけど、ひょっとして期待していいのかな……」
「うん?」
「その、義理のチョコとか」
「――それはなし」
 ぴしゃりと言われてしまった。一応、ごめんねという風に両手を合わされたから、救
われたものの、こうまではっきり否定されるとは想像の埒外だった。
 割と強めのショックを受けたまま、次の授業を受ける羽目になった。

 これで脈なしかとあきらめかけたが、早合点だった。
 映画鑑賞デートは楽しく過ごせた上に、米崎とはその後も変わらぬ仲のいい友達でい
る。いや、友達以上じゃないかという自負が、河田にはあった。徐々にではあったけれ
ども、二人だけで下校する機会が増えて、その内登校も同様に。春休み中には、宿題を
一緒に片付けた。
 極めつけは、その春休みに米崎の方から告白してきた。ただし、次のようなフレーズ
だったけれども。
「そういえば、今日ってエイプリルフールだったわね。――私、河田のことが好きだ
よ」
「……」
 どういう反応をしようが泥沼にはまりそうだったので、何も言えなかった。聞こえな
かったふりに徹する河田に、米崎は「河田は今日、誰かに嘘を言った?」と試すかのよ
うな、からかうかのような口ぶりで、目をくりくりさせて聞いてきた。
「今日はもう何も言わねー!」
 耳を塞いでそう宣言するのが精一杯だった。
 こんなことがあったにもかかわらず、新学年の一学期初日、通学路で河田と顔を合わ
せた米崎は、屈託なく「おはよ!」と笑顔で声を掛けてきた。
(分っかんないな〜、女子って)
 困惑は募ったものの、米崎に質問してはっきりした答を聞くのも怖い。今の状態を壊
したくない気持ちが、河田の内で勝った。
 六月になると、十五日が河田の誕生日。バレンタインデーに米崎から何にももらえな
かった河田だから、全く期待していなかった。その油断を見透かしたかのように、彼女
は不意を見事に突いてきた。
「はいこれ」
 登校時に会ってすぐ、手から手へと押し当てるように渡された小箱。文字通りの手の
ひらサイズで、幾何学模様柄の包装紙に包まれている。何?と目で問い返す河田に、米
崎は当たり前のように言った。
「あげる。誕生日でしょ」
「え――」
 一瞬絶句した河田だが、どうにかこうにか「サンキュー」と付け加えられた。
「お洒落アイテムだから実利的なことを期待しないように。あと、私の誕生日は分かっ
てる?」
「え、えっと、七月八日」
「よく覚えてくれてたわね。そういうことだからプレゼント、よろしくね」
 唐突な形で誕生日プレゼントを受け取った河田は、米崎からのブレスレット(金属製で
輪っかの一部が最初から開いているタイプ。健康祈願の思いも込められているらしい)
を喜んだのも束の間、じきに悩みで頭を痛めることになる。何故なら一学期の期末考査
が迫る中、彼女への誕生日プレゼントに何がいいのか考えるのにも時間をたっぷり取ら
れてしまったから。加えて、誕生日自体がテスト期間の只中で、プレゼントを渡すどこ
ろではなくなりそう。
 最終的に、プレゼント選びのミッションこそ成し遂げたが、渡すのはテストが終わっ
てからにしてほしいと泣きついた。
「もちろん、かまわないわよ」
 あっさり許しが出て、ほっとするやら気が抜けるやら。
「来年以降もくれるのなら、後日で全然平気だから」
「あのさ、米崎さん。わざとやってる?」
「どういう意味よ」
「俺が困るのを喜んでるような……」
 少し前に浮かんだ疑問を、ストレートにぶつけてみた。対して米崎は、
「そんなことないって。うーん、困ってるとこ見ると可愛いと思うけど、狙ってそうい
う方向に持って行ってるんじゃないって意味だけどね。プレゼントをいつ渡すかだっ
て、すぐに言ってくれればよかったのよ。善処したのに」
 と一気に捲し立てる勢いで答えた。
(まずい。このままでは完全に尻に敷かれてしまう)
 その後、夏休み前に渡せたプレゼント――ブローチは気に入ってくれたようで、学校
生活の外で会うときは頻繁に付けてくれた。河田の方も当然ながら、ブレスレットをし
ていった。

――続く




#535/554 ●長編    *** コメント #534 ***
★タイトル (AZA     )  19/02/23  00:02  (441)
私的バレンタイン・サガ (下)   永山
★内容                                         19/02/26 20:46 修正 第2版
 夏休みは、序盤に林間学校があったが、一泊二日と短く、班も男女別で自由に行き来
できるものではなかったため、ほとんど接触はなし。その後本格的に休みに突入する
も、互いの家族単位の里帰りや旅行などの行事があり、河田と米崎が会うチャンスはそ
んなには多くなかった。二人きりはデートが一回きり、極短いものが二回だけで、あと
は地元の夏祭りや近くの街の花火大会に、友達大勢と繰り出したくらい。もちろん、祭
の途中で二人きりになるシーンはあったけれども、大勢で動いていたときとさして変わ
らぬ内容に終始した。要するに、大勢だろうが二人きりだろうが、出店を回って、特設
舞台のショーを観て、花火を見上げたということ。中学二年生なら、これくらいのもの
だろう、うん。河田は自分を納得させていた。
 二学期になり、水泳の授業と運動会のリハーサルにて、印象的な出来事があったのだ
けれども、それはまた別の機会に回そう。今言えるのは、それらの出来事を経て、河田
は米崎との親密さを増し、結果、告白したも同然で正式に付き合い始めたという事実
だ。元々いい感じでデートを少しずつ重ねていたのだから、デートやその他付き合いの
中身が劇的に変化することはなかったが。気の持ちようが大事なのである。
 そうした心の変化を経て以降、最初の大きなイベントは文化祭である。が、二人で校
内を回るといかにも目立つ。他の生徒から冷やかされたり、教師から余計な注目を浴び
せられたいは避けたい。そこで、板垣・志崎ペアと示し合わせて四人で一グループを形
成する作戦に出る。
 男子二人にとって幸いにも?米崎と志崎は気が合うようだ。少し前の初対面時に、名
字で共通する「崎」の読みが「さき」か「ざき」かでいきなり盛り上がり、打ち解けた
らしい。
「うまくやっているようで何より」
 志崎と米崎の女子勢が連れ立って洗面所に消えたところで、板垣が河田に話し掛けて
きた。ボリュームは出だしから小さく、内緒話の気配が濃厚に漂う。河田も合わせた。
「うむ。板垣のおかげとも言える。さっきカフェでセットをおごったのは、感謝の印の
つもり」
「やっぱりか。遠慮せずに受けとくぜ。で、気になってるのは、バレンタインのことな
んだ」
「気が早い」
「まあ気にするな。バレンタインに念願のチョコ、もらえそうか」
「今の時点では不明としか」
「そうか? 一年近く経てば、何となく分かるものがあるもんだ。バースデープレゼン
トはもらったんだよな」
 河田は黙って首を縦に振る。
「だったらバレンタインも大丈夫だろ」
「その前にクリスマスがあるからなあ」
「はは、そうだった。まあ、クリスマスは万が一何もなかったとしてもだ、自分は宗派
違いだからと思っとけばいいさ」
 およそ一ヶ月半後のクリスマスにおいて、河田はそんな思いを味合わずに済んだ。
 クリスマスプレゼントは前もって相談して、普通のプレゼントとは別に自分が読んだ
ことのある本で相手に読んで欲しい物を贈り合おうと決められた。
「万が一、相手がすでに持っているか読んでいる本を贈った場合は罰ゲーム」
「え、どんな罰?」
 河田からの提案に、米崎は興味津々を絵に描いたように食いついた。
「次にプレゼントを贈り合う機会……バレンタインとホワイトデーでワンセットだけ
ど、そのときに贈るプレゼントを思いっ切り豪華にすること、ていうのはどうかな」
「……だめ。お断りします」
「えええ、何で」
 去年に続いて早々と拒絶されたものの、河田にはまだ余裕が残っていた。罰ゲームで
負けなくても豪華にする予定だから、なんていう答を心のどこかで夢想していたせいか
もしれない。
「どうしても! 他の罰ゲームにして」
「じゃあ」
 密かにしょんぼりしていたが、河田は明るく振る舞った。
「正月に初詣、行くかい?」
「そのつもりでいるわ」
「負けた方が、その日、家まで迎えに来るっていうのはどうかな」
「うーん、それならま、いっか。晴れ着にするつもりだったのに、あきらめなくちゃ
ね。残念」
「う」
 タクシー代を出せるものなら出してあげたいと思った。
 その後の二十四日にあったクリスマスプレゼントの交換は、滞りなく行われた。米崎
からは一から手作りしたミニサイズのクリスマスケーキと、ホラーミステリを謳った少
女小説。河田からは完成すると有名絵画の柄になるパズルに一輪挿し用の花、そしてサ
ンタクロースが登場する大人も楽しめる絵本を。
「罰ゲームにならないよう、絶対に持ってなさそうなのをセレクトしたわね」
「えー、お互い様と思ったけどなあ」

 クリスマス前に一度断られたにもかかわらず、河田は粘りに賭けてみた。バレンタイ
ンデーを四日後に控えた週末、放課後に教室に居残った際に、何気ない風を装って持ち
出す。
「バレンタインのことなんだけど、やっぱクリスマスのときみたいに贈り合わない? 
一ヶ月先のホワイトデー、知恵を絞るからさ」
「だーめ。嫌よ」
 即答。河田の台詞に被せ気味ですらあった。
(どうしてここまで拒むんだろ。チョコレート嫌いな訳じゃないし。アレルギーが出と
かでもないよな。確か素手で触って、食べるのを最近見たっけ)
 彼女の目の前で首を捻った河田。それに対して、米崎は気付いているのかいないの
か、説明をしてくれることはなかった。
「いいじゃない。チョコに拘らなくたって。デートするだけじゃつまらないって言うの
かな、河田クンは?」
 こう言われると、反対のしようがなくなる河田であった。こうしてこの年のバレンタ
インデーでもチョコレートをもらえなかった。
 昨年と違ったのは、あとになって次のような話が耳に入ったこと。
「今年は上々だったんだろ」
 男女別の体育の授業中、体育館の壁際でマット運動の順番を待っていると、忍川が名
前の漢字通りに忍び寄ってきて、河田の脇を肘で突っついた。突然だったのと、自らの
短い叫び声のせいで、河田は何を言われたのか聞き取れないでいた。
「やめろっ。何て言った?」
「そんなにくすぐったがることか。彼女からチョコもらえたのか、確認しておこうと思
ったんだが」
「もらえていない」
「嘘つくなって。スーパーでチョコレートの材料を買い込む米崎さん、見掛けてんだか
ら」
「はあ? そんな馬鹿なことは」
 今年も米崎からチョコをもらっていないと説明する河田。忍川はますます不思議そう
に、首を傾げた。
「邪魔したら悪いから声は掛けなかったが、見間違いなんかじゃない。まさか、米崎さ
んには一卵性双生児の姉か妹が?」
「いや、そんな話は聞いたことない。そっくりな親戚がいれば、話題にするに決まって
る。目撃したのって、何日?」
「確か二月の九日だった」
 その答を聞いて、河田も混乱を深めた。
(今年もチョコあげないと言われたのが十日。その前日に材料を買っていた。どういう
こっちゃ?)
 彼女が自分で食べるために買った……なんておめでたいことは、河田も考えない。※
本作の時代には友チョコやマイチョコの概念はまだなく、言及しません。あしからず。
(もしかして)
 河田が心中に浮かべた想像を、その直後、忍川が声に出した。
「言いたくはないが、米崎さん、他の誰かにチョコをあげてる可能性は?」
「――言いたくないのなら、黙ってて欲しい」
「分かった。いないんならいいんだ」
 忍川が離れていって、独りになった河田は練習の順番が回ってくるのも忘れ、考え続
けた。
(お父さん用とか? だとしたら、聞いて確認すればすっきりするんだけど、もし違っ
ていたらどうしよう)
 本命の男が別にいると想定する方がしっくり来る。毎年バレンタインデーのチョコを
拒まれていたのは、本命にのみ渡していたから。誕生日やクリスマスはどうとでもなる
が、バレンタインだけは特別という考えの持ち主だとしたら、辻褄が合ってしまう。
(でもな。米崎さんにもう一人男がいるとしたら、忙しすぎて身体がもたないんじゃな
いか。そういえば、去年の二月に映画を観たときだって、三日間の内のいつがいいか
を、こっちに選ばせてくれた。普通、本命がいるのなら、まず本命のスケジュールが最
優先だろ。米崎さんがこの日ねって言ってきた訳じゃない)
 希望を見出すために捻り出した、薄いロジックかもしれない。けれども、河田は信じ
ることに決めた。理由は、信じたいから。

 一年生、二年生と同じクラスだったのに、三年生になって初めて別々のクラスになっ
た。
「まあクラスは隣同士だし、学校の外でならこれまで通り会えるし」
 気にしていない風を装って、河田が言うと、米崎も乗っかった。
「そうだね。教室が近いと、何をやっていても目が届く」
「こっちの台詞」
「あはは。だけど、三年生のときに別々ってのは痛いわ。色々とあるのに」
「色々って?」
「修学旅行でしょ、卒業アルバムの写真でしょ、文化祭のクラス単位の出し物も。一緒
にやりたかった」
「……しょうがないよ。こちとら、一番心配なのは、受験なんだけどな」
「あー、それもあったね。一緒に勉強するとしたって、進み具合が違ったら、ちょっと
面倒かしら。最終的には、帳尻を合わせてくれるはずだけど」
 心配していた勉強に関しては、クラスが別になったことがプラスに作用した。河田が
苦手な科目の授業は先に米崎が受け、逆に米崎が不得手な科目の授業は河田のクラスが
先になる。それぞれ内容をしっかりノートし、相手に見せることでこの上ない予習にな
る。
 反対に、マイナスの影響が出たのは、やはり校内で会うこと。機会が減るのは予想で
きていたから、昼ご飯ぐらい一緒に食べようと約束していても、時間が合わないことが
しばしば起きる。約束していて叶わなかったら不安やいらいらが募るだけで、精神衛生
上よろしくない。結局、昼食に関しては、河田の方が余裕があるときのみ誘うことで落
ち着いた。無論、誘った上でだめなケースも結構あるが、互いに独自に動いて互いに気
を揉むよりはずっとましという訳。
 と、そんなルールを決めたあとだったから、六月十五日の昼休みになるや否や、米崎
が河田のクラスに飛んできたのには面食らった。
「今大丈夫だよね?」
 手招きされて廊下に出ると、ひそひそ声で話し掛けられた河田。じきに各教室からぞ
ろぞろと生徒が出て来たので、周囲は騒がしくなる。
「大丈夫だけど、どうしたの米崎さん」
 普通の声量で聞き返すが、相手はひそひそ声のまま。
「分かんない? 六月の十五日よ」
「……分かった。歳は取りたくないものだ」
 冗談を言った河田の鼻先に、紙袋が突きつけられる。正面から見た面積は、十センチ
四方程度か。
「これ何? あ、いや、プレゼントってのは分かってる」
「開けていいわよ」
 まだ周りには人がいるけれども、渡す当人がいいと言うのなら、まあいいだろう。
「――手袋?」
「そう。苦労した手編みだから感謝して」
「ありがとう……でも何でこれから暑くなるのに」
「受験の頃には寒いでしょ」
「ああー」
「クリスマスプレゼントに回してもよかったんだけど、その頃だと私も編んでる余裕な
いかもしれないし、かといってクリスマス用に今編んでおいて、別の何かを誕生日に渡
すってのも懐的に厳しいから」
「分かった。本当にありがとう」
「ところで自分自身の誕生日を忘れるくらいだから、私のことなんて忘れてるわよね」
「いや、そんなことはない」
「嘘」
「ほんとほんと。用意はまだだけど、小遣い節約してる」
 お金の話をするのは嫌だったが、先に米崎が口にしたので、まあよしとしよう。
「ふうん。だったら、リクエストしてもいい?」
「へ? う、うん、まあ、予算内であれば」
 めっちゃ高いアクセサリーか服でもねだられるのか。今から新聞配達のアルバイトを
したとして、二週間でどれほどもらえるんだろう……などと不安を一気に募らせる河
田。
「私、お守り的な物が欲しいな」
「お守り……分かるけど、的ってどういう意味だよ」
 価格の相場が分からないのもあるが、とりあえず“的”が気になった。
「神社で売ってるような物でなくてもいいのよ。持っていて安心できる物なら何でも。
かつ、願いが成就すればもっといいけど」
「漠然としていて、希望の物が分かんねー」
「だから、河田がお守りになると思った物なら、何だっていい。ま、身に付けておける
小さい物が望ましいかな」
「……アクセサリーになるんじゃないか」
「あー言わなくていい! マスコット人形やキーホルダー、何だってあるでしょ!」
 米崎が急に声を大にしたので、びくっとしてしまった。とにもかくにも、アクセサ
リーじゃなくてもいいようだ。彼女の言葉を額面通りに受け取るのであれば。
「例によってテスト期間と重なるから、終業式の日まで待ってあげる。期待しないでい
るから、気楽に選んでね」
「うん」
「で、折角だからこのあと一緒にランチしましょ」
 やりたいことを達成したような、満足感にあふれた笑みで米崎が誘ってきた。河田は
即承知したが、頭の中は別のことが占める。
(リクエストされて、かえって難しくなった気がしないでもない……)

 米崎への誕生日プレゼントを渡すのは、終業式の日にずれこんだ。学校のその日の行
事が何もかも済んだあと、下校前にプレゼント。
 おもちゃとファッションアイテムの中間のような短めのネックレスだったのだが、、
意外と喜んでくれたのでほっと一安心。ロザリオ風(あくまで“風”。人によっては十
字手裏剣が付いているように見えるかもしれない)の代物で、どことなく祈りを連想さ
せたのがこれにした決め手だったが、もしも気に入られなかったときのために、フェル
ト製のマスコットキャラが着いたキーホルダーも買っておいた河田だった。もちろん、
今となってはそのことを打ち明けるつもりはない。別の何でもないときにあげよう。
「何か具体的に願い事、あるのかな」
「こういうのって秘密にしておくもんじゃない? 叶ったときに教えるわ」
「分かりました。いつまでも教えてもらえなかったら、俺の責任みたいになるので嫌だ
なあ」
「大丈夫。ほんとに責任になるから」
「ど、どういうこっちゃ?」
 訳が分からんと頭をかきむしった河田だったが、米崎は最後まで意味を説明してはく
れなかった。
 その後、夏休みは人並みに高校受験に備えた勉強をしつつ、たまに会って息抜きし
て、適度に遊んでの繰り返しで過ごす。希に、米崎さんに会いたいなあという思いが強
まることのあった河田だったが、相手も同じ思いをしているに違いない、あのネックレ
スを握って我慢しているんだろうと想像――妄想とも言う――して、我慢した。一度、
彼女からももらった手袋を握りしめてみたが、暑苦しいのですぐにやめた。
 なお、六月前半に修学旅行、九月終盤に運動会、十一月頭に文化祭があった。それな
りに語るべきエピソードがあるにはあったが、長くなるので泣く泣く割愛しよう。これ
もまたの機会があれば、そちらの方で。
 この間の河田や米崎にとってより重要なことは、上記以外にあった。同じ高校への進
学を目指すことが決まったのだ。
「これでモチベーションが上がる」
 米崎から進路の話を聞いた河田が、素直に喜びを口にしたが、彼女はちょっとひねく
れているのか単にドライなのか、「でも受験まで三ヶ月ちょっとになったから、しばら
く二人で会うのはやめた方がいいわね」とあっさり言い切った。
「一緒に勉強するのは?」
「勉強だけで済むならね」
「済むでしょ。今までだって、何度もあった」
「だったら、一緒に勉強し終わって、家に帰ったあと、どんな気持ちになるのか想像し
てみて」
「……ちょっと寂しいかな。それから、相手が今何をしているのか気にするかもな」
「ほらね。じゃあだめだわ。勉強が手に付かなくなる」
「うう。確かにそうなる恐れは……認めざるを得ない」
 それでも完全になくすのはきつい。二人に共通する認識だった。その対応策として、
他の友達を巻き込む形ならいいだろうとなり、一月一日に初詣を兼ねてみんなで合格祈
願に行くと決まった。
 そんなこんなでクリスマスは跳ばして、年が明け、初詣を迎える。
「現時点でカップルでいるというのが、信じられないな」
 独り身の――独身という意味ではなく、恋人がいない――忍川が、他の四人を評し
て、呆れ顔を作る。
『受験生の自覚はあるのかね、ないのかね、君らは』
 国語教師の声真似をして、笑いを取る忍川。
「忍川君なら大丈夫。少なくとも見栄えはいいんだから、すぐに彼女さんできるわよ」
 志崎が太鼓判を押すが如く、忍川の手を握って、何度も上下に振った。
「少なくとも、か。中学三年間、縁がなかったのはその辺に原因があるのでしょうか」
 俯いて片腕を顔に当て、泣くポーズをする忍川を、板垣が強引に元の姿勢にさせた。
「縁起でもないから、嘘でも泣く真似はよせ」
「うれし泣きとは思ってくれないのか」
「話の流れ的に無理がある主張だぞそれは」
 三人のやり取りは眺めながら、河田は頬を緩め、白い息を吐いた。両手は革ジャンの
ポケットに突っ込んであるが、寒さからではない。填めてきた手編みの手袋を、友達の
目からは隠そうという意識が働いていた。ちなみにこれをくれた米崎には、填めている
ところを真っ先に見せている。
「よく似合ってるね」
 河田は自分の贈ったネックレスをしてきた米崎に、そう囁いた。
「私のコーディネートのおかげかな」
「それも認めるけど」
「このトップの部分、金属が冷たいのよ。冬は肌に当たるとびくってなっちゃう」
 かなわないなと口を閉ざし、苦笑をただただ浮かべた河田であった。
「さて、あまり混み合わない内に、向かうとしようぜ」
 頭一つ分ほど背の高い板垣が、神社への道を見通しながら言った。
 鳥居をくぐるのは正式には左足からとか、山道は左側を通るだとかの豆知識を耳にし
た覚えは朧気にあった。が、実際に近付いていく内に、それらに拘っていられる程は空
いていないと分かり、あれよあれよという間に押し出されるようにして賽銭箱の前まで
到達。そこからは意外と時間が取れて、作法に則ってお参りできた。
 河田ら五人が願ったのは志望校郷学であることは言うまでもない。
(――バレンタインのチョコはいりませんから、どうか合格させてください)
 河田はそんなフレーズを付け足してみた。
「ね、ね。合格の他に何か願った?」
 米崎から問われて、河田は考える素振りをした。たっぷり時間を取って返事する。
「おかしいな。こういうことって、秘密にしておくもんじゃなかったっけ?」

 二月に入った。
 河田らのいる地域の今年の高校入試は、十五と十六の両日に渡って行われる。初日が
学科試験で二日目が面接その他だ。合否発表はこの一週間後である。
(ただの試験だったら、この日程は恨んだだろうけど)
 自宅の部屋で一月のカレンダーを破り取った河田は、サインペンで赤く丸の入った1
5と16の数字を見て、それから14へと目を移した。
(高校入試だからな。バレンタインなんて関係ない。初詣のときにも言ったし。そもそ
も米崎さん、この二年間にくれる気配全然ないし)
 とうにあきらめている。なので入試に集中できるというもの。いや、この地域では入
試が終わったあと学年末試験という日程なので、入試に集中と表現しては語弊がある。
勉強に集中できる、だ。
 学校の昼休みでも、昼飯を食べながら単語帳を食って、もとい、繰っている。
「そんな物ばっか食ってたら、体調崩す恐れが出て来るぞ」
 単語帳を片手にパンをかじっていたら、板垣が上から覗き込んできた。彼と志崎は私
立合格を先んじて決めていた。心理的に余裕があるのが、表情からにじみ出る。
「受験当日に風邪を引くかもとかびびらせるつもりなら、聞かないぜ」
 河田はパンを口から離して、顔は動かさずに答えた。と、頭のてっぺん、つむじの辺
りに違和感が不意に訪れた。
「俺をそんな奴と思ってるなんて心外だな。あったか〜いコーヒーを買ってきてやった
のに」
 その言葉の通り、頭に熱が伝わってくる。あったか〜いどころか、熱いっていうレベ
ルだこれは。
「ごめん、気が立っているもので」
 素直に謝って、コーヒーを受け取る。財布から硬貨を出そうとすると、「いらん。今
日はおごり」と手のひらを立てられた。
「サンキュー。出世払いするよ」
「ははは。待ってると言っておく。そういや忍川から聞いたんだけど、昔、小五のとき
に米崎さんから百円もらっておきながら勝負に負けたんだって?」
「忍川がどういう説明したのか分からんけど、バレンタインのチョコレートで勝負し
た」
 あらましをざっと説明する。説明したあと、「負けたって、こんなときに縁起でもな
い話を振るなよな」と抗議調で付け加えた。
「すまん。でも、嬉しそうな顔してるぜ」
 指摘されて、河田はパンと単語帳を置き、頬に手を当て上向きに引っ張った。確かに
頬が緩んでいたような気がする。
「米崎さんとの馴れ初めか」
「……まあ、そうかな」
 顔から手を離し、また食事と勉強に戻る。板垣から気が抜けたような声があった。
「れ? 逆襲しないのか。俺と志崎さんの馴れ初め、知りたくない? ずっと前に話し
たバレンタインのエピソードよりも濃厚なんだぜ」
「興味なくはない。が、今、頭の中を桃色にする訳にはいかないんだよっ」
 そう言ってから、ちらりと米崎の顔を思い浮かべ、すぐにベールを被せた。

 入試を全て終えてからの帰り道、合否発表の日に一緒に見に行く約束を米崎とした。
正確には、最初に言い出したのは米崎の方からで、河田が約束させられたのだが。
「二人とも合格するとは限らないんだから……」
「何を気弱なこと言ってるの。手応えなかったの?」
「そんなことはないが……周りがみんな満点だったら」
「それこそ、そんなことはない、よ。模試の判定だって余裕で圏内だったでしょ」
「そんな昔のことを持ち出されても」
 正直な気持ちを言うとしたら、万が一にもどちらか片方だけが落ちて、気まずい空気
になるのは嫌だったから。
「米崎さんは自信ありそうだね」
「分かんない」
「え?」
 小さな段差か何かに爪先が引っ掛かって、河田は転びそうになった。米崎に腕を引か
れ、どうにか無事に体勢を立て直した。
「大丈夫?」
「それより、分かんないってどういうことだ?」
「本心ではね、あなたと一緒だよ。周りの全員が百点満点だったらどうしようって。で
も、表向きは自信がある!と言い切るわ」
 パワーというかオーラというか、とにかく目には見えない何かがみなぎってる感じの
米崎。受験から解放されて元気はつらつといったところか。
 と、かような経緯で、発表当日に彼女の家の前まで迎えに行った河田だったが。
「遅い」
 声に出してから、腕時計を見る。時刻確認は、かれこれ四度目だ。前もって約束した
時間から、すでに二十分近くオーバー。
 もう一度呼び鈴を押そうかと思ったそのとき、玄関が開いてやっと米崎本人が転がる
ように出て来た。合否の確認を行くだけにしては、アクセサリーやヘアスタイルで結構
お洒落をしている上に、手提げ鞄を一つ持っている。
「ごめんなさーい。色々と準備に手間取っちゃって。上がって中で待ってもらいたかっ
たんだけど、バタバタしてて内情を見せたくないなって。寒かった?」
 こんなに言い訳する彼女は珍しいと思いつつも、河田はむすっとして頷いた。
「手袋してたから、何とか保った」
「――でしょ」
 不安げだった米崎が、破顔一笑した。
「持とうか、荷物?」
「ううん、いいよー。待たせた上に荷物持ちをさせちゃあ申し訳ないです」
 それから二人だけで合格発表を見に行った。が、途中で何人も知っている顔を見掛け
たりすれ違ったりするものだから、二人きりという気分はどこかに飛んでしまった。友
達やクラスメートだからと言って、声を掛け合うことはなかったが、これなら始めから
学校に集合した後、皆で見に行ってもよかったんじゃないかと感じるほど。
「学校によっては、先生が合否をチェックして、まとめて知らせてくれるとこもあるら
しいわ」
「そっちの方がいいかも」
「そう? 不合格だった人にはどう伝えるのかしら」
「なるほど、その問題があるか」
 ちょっと考えてみたが想像付かなかった。ただ、今はとにかく不合格の憂き目に遭い
たくない、それだけを改めて思う。
 高校の前まで来て、ほんの少し歩みが鈍った河田に対し、米崎はぐんぐん進む。手提
げを揺らして、今にも駆け出しそうである。
「遅いっ。足が竦んだのなら、私が見てきてあげるけど?」
「ご冗談を。ここまで来て、直に確かめないなんてあり得ん」
 追い付いて、並んで行く。すぐに臨時の掲示板が視界に入った。
 二十分遅れの出発になったおかげか、混雑のピークは過ぎたらしく、割とスムーズに
最前列まで行けた。
 ここに来て、さしもの米崎も口数が減る。手にした受験票をじっと見つめてから、面
を起こし、掲示板に張り出されたか身の上の数字をサーチする。
「――あった」
 ほとんど同時に言った。思わず、抱き合う格好になったが、すぐに冷静さが脳裏に降
りてきて、離れる。それから代わりに手を差し出した。
「一緒に合格できてよかったわ」
「うん。これでめでたく春から高校生だね。よろしく」
 握手した手を、大きく上下させた。

 高校の校門から出ると、河田は米崎に聞いた。
「このあとどうする? 学校にはわざわざ言いに行かなくたって、高校の方から連絡が
とうに入っているなんて説もあるが」
「ま、礼儀っていうか慣習っていうか、行くのが筋でしょ。校則がなければ、ちょっと
早めのお昼ご飯をどこかで食べてからにしたいところだけどね」
「さすがに、今になって校則違反してばれて、卒業取り消しなんてなったら洒落になら
ねえ」
 声を立てて笑った河田。米崎も同じように笑っていたが、ふっと止んで、いきなり手
提げをごそごそやり出した。
「あ? 何?」
「遅くなったけど。というか、お待たせしました、かな」
 話しながら、米崎は手提げの中から厚さ五センチほどの正方形の箱を出した。包装紙
は水色のリボンで彩られ、赤いリボンで作られた花のおまけ付き。
「これって、その、もしかして」
 河田が中途半端に曲げた人差し指で、箱を差し示そうとする。と、その手に箱がぐっ
と寄せられた。
「バレンタインチョコレートよ。受け取って」
「……あ、ありがとう」
 驚きのあまり、声が掠れる。
「どう? ご感想は?」
「び、びっくりしてる。君はバレンタインだけは興味ないもんだとばかり。ひょっとし
て合格祝いとか?」
「そんな訳ないでしょ。バレンタインってさっき言った」
「だよな。何で急にくれる気になったのさ」
「急にじゃないわよ。毎年、あげようと思ってた。買うだけ買って、無駄にしたことも
あった」
 しっかりした語調で否定され、河田の困惑は極まった。
「ええ? でも、くれなかったじゃないか」
「あげられないわよ。あんな、『義理チョコでいいから』だの『ホワイトデーにはお返
しするから』だの言われて、はいそうですかとあげるなんて」
「? 意味が……」
「だからっ。私は自分の意思であげたかったの! 言われて渡したんじゃ、そう見えな
いでしょ」
「……はは。そうか。なるほど」
 全身から力が抜ける気分を味わった河田。実際、膝を折ってふにゃっとなる。上体を
折り、空いている手を膝についた。
(忍川が目撃したのは、俺にくれるつもりで買ったのに、俺の不用意な発言のせいで、
気が変わったってことか)
「鈍いんだから。だいたい、バレンタインに興味ないなんてあり得ない。小五のときの
こと、私は凄く大事に思ってる。……」
 続けて「河田のことほんとに好きになるきっかけだったし」と呟いたようだった。よ
く聞き取れなかったけれども。
「同意します。俺もあれで米崎さんのこと好きになり始めたから」
 河田はもらったばかりのチョコの箱を抱え直し、姿勢を戻した。
「さて、受け取ったあとなら言ってもいいんだよな? ホワイトデーのお返し、これか
ら考えなきゃ。そのために、米崎さんの――君のこともっと知りたい」
 米崎は一瞬目を見開き、次にぷ、と噴き出した。
「おかしなこと言ったかな?」
「あははは。言った。映画のタイトル思い出した。あーおかしい」
 言われてみれば被ってしまってたなと、河田も記憶を甦らせる。
「かなわないな。まずは米崎さんの記憶力がいいってことが分かったから、よしとする
か」
 そう言うと河田は頭を掻きながら思った。
(ホワイトデーはとりあえず、今日もらった物より最低でも百円分は値打ちが上のプレ
ゼントにしよう。小五のときの借りを返さないとな)

――終わり




#536/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:31  (225)
眠れ、そして夢見よ 1−1   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:35 修正 第2版
   奇妙な患者


   一

「先生の研究についての噂は、かねがね伺っております」
 高梨と名乗るその変ににやけた男は、真新しい名刺を差し出した。滝
田は男の顔を一瞥し、受け取った。「小暮総合病院 副院長 高梨英一」
とある。
「小暮総合病院。ああ、私もお世話になったことがありますよ。二年前
に右腕を骨折しましてね」
 滝田は職業的な笑顔を浮かべ、Yシャツの胸ポケットから名刺を抜き
出すと、男に渡した。高梨は大仰に両の眉を上げてみせる。
「そうですか、それはそれは。その後ご加減はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり。二年も前のことですから」
「いやあ、それは良かった」
 高梨は相変わらず笑みを浮かべながら、応接室の様子を眺め回してい
る。
「まあ、立ち話もなんですから、おかけ下さい」
 二人はソファに座り、向かい合った。
 滝田が経営する睡眠研究所に、病院の医師、それも副院長と肩書きが
つく人間が訪ねてくるなどということは、初めてのことである。「実は今
日伺ったのは、他でもありません」高梨は急に声をひそめた。「うちの病
院に、非常に、何と言いますか、複雑な症状を持った患者が入院してい
るのです」
「はい」
「先生も睡眠の研究者でいらっしゃるから、睡眠障害についてはご存知
でしょう?」
「ええ、一応は」
「最初この患者は、夜なかなか寝付けず、朝早く目が覚めてしまうので、
なんとかしてくれと言って私どもの病院にやってきました」
「睡眠時間が短いわけですね」滝田はテーブルの上に両肘をつき、口の
前で手を組み合わせた。「鬱病ですか?」
「精神神経科医の判断は、ノーです。患者は精神的にはいたって普通で、
しゃべり方もはきはきとしており、その後何度かのカウンセリングでも
本人の生活上とりたてて重大な悩みがあるわけでもなく、食欲もあり、
勤務上の問題もなかったそうです。煙草、よろしいですか」
「どうぞ」
 滝田は手の平でテーブルの上の、ダイヤモンドのような形にカットさ
れた、ガラス製の灰皿を指し示した。
 銀色の、いかにも高級そうなライターで火をつけ、一服吸うと、高梨
は先を続けた。
「ところがその後、今度は夜容易に寝付くことができないのは同じなの
ですが、朝なかなか起きられなくなったと言い出しました」
「ほう、症状に変化が現れたわけですね」
「最初は午前二時頃に寝て、朝七時に起きると言っていました。ところ
がだんだんと、寝る時間が三時、四時へと遅れていき、朝起きる時間も
八時、九時へと遅くなっていきました」
「勤務の方はどうなったのです? 当然支障が出ると思いますが」
「ええ。患者は遅刻の常習犯となり、周りから白い目で見られるように
なりました。奥さんが起こそうとするのですが、絶対に起きないのだそ
うです」
「失礼します」
 所員の常盤美智子が盆にコーヒーを二つ載せて入ってきた。
「どうぞ」
 彼女がカップを置くと高梨は「有難うございます」と言いながら美智
子の顔を興味深げに見つめた。前時代的な牛乳瓶の底のような眼鏡が珍
しかったのだろう。
 滝田の前にもコーヒーを置くと、美智子は高梨の失礼な態度に怒った
のか憮然とした表情で立ち去った。
「睡眠相後退症候群ですか?」
「私どもの診断も、そうです。その状態は一ヵ月ほど続きました」
 高梨は軽く叩いて灰を灰皿に落とした。
「治療を進めるうちに、徐々に症状は改善していきました。患者の睡眠
時間は正常な時間帯へと戻っていったのです。私達は、治療の効果があ
ったのだと思ったのです」
「そうではなかったと?」
「ええ。今度は昼間眠くてしょうがないと言い出したのです」
「今度は過眠症になったとでも?」
 滝田は少し驚いた。
「ええ。夜十分な睡眠をとっているにもかかわらず、昼間たえまなく強
烈な眠気に襲われ続けると言います。笑ったりびっくりしたりすると全
身の力が抜けてしまうということから、ナルコレプシーと診断しました」
 滝田はようやくどういう話か分かってきたが、唇を少し歪めた。
「その患者、嘘をついてるんじゃないですか?」
「いいえ。MSLT(Multiple Sleep Latency Test)をやってみたのです。平
均入眠潜時は三分です」
 二時間ごとに二十分間横になり、眠りに入るまでの時間を測定するテ
ストだ。三分となると、これはかなり重度だ。
「ふーん」滝田も胸ポケットから煙草を取り出した。「それで?」
 高梨は滝田の煙草に火をつけながら、先を続ける。
「次に起こってきたのはレム睡眠行動障害でした。患者はふらふらと家
の中を歩き回り、家族の者に怒鳴り散らしたり、壁に立小便をしたりし
ました。後で聞いてみるとそういう夢を見ていたと言います」
「ほおう」
「さらに睡眠時無呼吸症候群を併発するに至って、私達は患者を入院さ
せることにしたのです」
「つまり」滝田は眉をひそめた。「いろいろな種類の睡眠障害が、次々と
起こったと、そうおっしゃるわけですね?」
「ええ、そうなんですよ」
「そんな馬鹿なことが」
「しかし、現実に起こっているのです。入院してからがもっとひどくて、
一週間から二週間、眠り続けるのです」
「今度はクライン・レビン症候群ですか」滝田はあきれた。「睡眠時無呼
吸症候群は? あれだと夜中に何度も目を覚ますんじゃないでしょうか」
「目を覚まさない場合もあります。しかし、入院後は起こらなくなりま
した。全く不思議です」
「CTスキャンとか、MRIは撮られたのですか?」
「脳には特にこれといった異常は認められていません」
 高梨は大きくため息をついた。
「眠り続ける期間は次第に伸びていきました。今はずっと眠っています。
こうなるともう、分かりません」
 滝田は笑いを漏らした。
「でもそれは、私の所へ持ってこられても、どうにもなりませんよ。も
っと大きな病院に移すとか」
「いえいえ、こうして先生をお訪ねしたのには理由があるのです。入院
してから、我々には全く理解できないような不思議なことが起こったの
です」
「ほう」
「患者はその後、普通の状態では目覚めなくなりました。起きた状態が、
入院する前のそれとは全く違うのです」
「と言いますと?」
「患者の名前は倉田恭介といいます。しかし彼は、自分は御見葉蔵(ご
み ようぞう)だと言うのです。彼は三十五歳なのですが、その時の彼
の声は老人のようなしわがれた声なのです。全く元の倉田とは違った声
質です。どう思います?」
 滝田は、高梨が患者を“倉田”と呼び捨てにするのを、少し不謹慎に
感じた。
「それもレム睡眠行動障害なのではないですか? まあ、声が変わって
しまうのは説明がつきませんが」
「ええ。私達もそう思いました。そこで精神神経科医は彼に質問を試み
ました」
「寝ている患者と会話ができたんですか?」
「ええ、それも奇妙なことです。横で寝ている妻が寝言を言ったので返
事をしてみたら返答してきたので『なんだ、起きてるの?』と聞くとす
やすやと眠っている。そういう例ならいくつもあるのですが、彼のよう
にはきはきと答える患者は聞いたことがありません」
「目は開いてるんですか?」
「開いてます」
「だったら睡眠時遊行症の方かもしれませんね」
「脳波を測定しました。ノンレム睡眠ではありません」
「そうですか。で、どうだったのです?」
「ただのレム睡眠行動障害だというだけでは説明がつかない、ある事実
が分かったのです」
「どんな?」
「患者の様子は、とにかく異常でした。彼が御見葉蔵として語る事は、
細部にまで渡っていました。彼がイカの塩辛をのせたお茶漬けが好きで
あることや、彼が住んでいる屋敷の部屋の間取り、彼が好きな酒の銘柄
……精神神経科医が次々にする質問に対して、実に自然に答えるのです」
 滝田は短くなった煙草をダイヤモンド型の灰皿に押し付けた。
「倉田さんの演技ではない、という訳ですね。すると彼は多重人格かも
しれませんね。彼はなぜだか知らないが昏睡状態に陥った。時々目覚め
るが、その時には御見葉蔵なるもう一人の人物になっている。レム睡眠
時の脳波と覚醒時の脳波は似ていますからね」
「しかし、事前の兆候が見られません。つまり、頭の中で誰かのしかり
つけるような声がする、といったような類の。全く突然にそうなったの
です。第一、彼の中の御見葉蔵という人格は、あまりにもはっきりとし
すぎているのです。一九六一年生まれ、十九歳で結婚し、二十四の時に
長男をもうけました。子供の名前は弘というそうです。六十六歳にして
やっと初孫が生まれました。名前は晃一だそうです。精神神経科医はそ
の他もろもろのことも聞き出しました。家の周辺のどこに何があったか、
煙草の銘柄、息子の好物と、嫌いなものまで。解離性同一障害は、確か
に自分とは全く別の人格が頭の中に宿るものです。しかしそれはあくま
で人格の話です。記憶まで完璧に全くの他人になれるのでしょうか?
御見葉蔵は青森の生まれだそうで、ずっと東北に住んでいるのだそうで
す。倉田が行ったこともない場所です」
「それでもやはり、全部倉田さんの作り話だという可能性は残るでしょ
う?」
「いいえ。作り話だという可能性は、全くないのです」
 高梨はきっぱりと言いきった。
「ほほう」
「担当した精神神経科医は、このことに個人的な興味を抱きまして。そ
れで、青森まで行ってきたのです」
「つまり、御見葉蔵の家にですか?」
「そうです。倉田から住所を聞いておりましたから、実際に行ってみた
のです。ありましたよ、御見の家が」
「まさか」滝田は新たに一本、煙草をくわえた。今度は自分のライター
で火をつける。「話が出来すぎている」
「その田舎の古い屋敷には、御見晃一という男が住んでいました。五十
三歳です。彼は、確かに父親は弘という名で、七年前に亡くなったと言
っています。そして祖父の名前が葉蔵なのだそうです。あとはもうお分
かりでしょう。全ての事実が、倉田が言ったことと驚くほど一致してい
たのです」
「葉蔵さんももう亡くなっているのですか?」
 生きていれば百歳を超える。
「はい」
「憑き物だな、そりゃ」
 滝田は苦笑した。
「どういうことですか?」
「ええ。大昔は、狐や猫が人に憑きました。しかし現代のように自然と
人間とが離れてしまった時代では、他人が憑いたり、コンピュータが憑
いたり、宇宙人が憑いたりします。御見葉蔵の霊が倉田氏にとり憑いた。
馬鹿げた話だ」
「いいえ。それも違います」
 滝田は顔をしかめた。
「まだ何かあるんですか」
「あります。実は彼が御見葉蔵であったのは、比較的短い期間だったの
です。その後三週間から一ヵ月という長いスパンの睡眠に入りました。
彼は次にインドのアジャンタ……なんとかという人物になりました。そ
れが大変な馬鹿力であるだけでなく、ひどく怒りっぽいのです。一番驚
いたのは、彼が自分のベッドを投げ飛ばした時でした。これは私も見て
います」
「日本語でしゃべったんですか?」
「ええ、日本語です。しかし彼が倉田ではない何者かになっていたこと
は確かです。どう考えても、あんな力が出せる体つきではありません。
そのインドの人物が出現したのはわずかに二度だけです。その次に、こ
れが最後ですが、今度は、自分は古代エジプト人だと言い出しました。
ところが言うことがひどくあいまいとしていまして。自分の職業も、名
前も、年齢も分からないと言います。こうなるともう、彼が一体どうな
ったのか、想像もつきません。彼はそんなにころころと、いろんな霊に
とり憑かれる体質なのでしょうか? 国籍も時代も全く違う。私にはど
うも、彼が憑依されたというだけでは説明がつかないような気がします。
もっとこう、私達の常識をひっくり返してしまうような何かが、彼の体
に起こっているのではないかという気がするのです」
「先程も言いましたが、私に相談されても治療して差し上げることはで
きないと思いますよ」
「いえいえ、治療の方は私達で続行します。私達が興味を持っているの
は、患者に起こった不可思議な現象です。私達はこれを解明する鍵は、
夢だと思っています」
「はい?」
「彼はやはり、レム睡眠行動障害なのだと思っています。つまり、彼が
見ている夢の内容が、そのまま行動に現れているのだろうと」
「そこで、我々の夢見装置に話がつながるわけですね? やっと分かり
ましたよ」
 夢の研究をしている所だったらいくらでもあるが、日本で唯一夢見装
置を持つ滝田研究所を訪ねるとはお目が高い。
「ええ。彼の夢の内容を研究すれば、何かとてつもない事が分かるかも
しれない」
「それが分かったとして、治療に役立ちますか?」
「役には立たないでしょう、たぶん。しかしこれが、医学に、いや医学
だけでなく科学に、一石を投じることになるかもしれない」
 滝田は意地の悪い笑みを浮かべた。
「論文にでもして学会で発表しますか? そうしたらあなたは有名人だ」
 どうやら図星だったらしく、高梨は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「このことはくれぐれも、内密にお願いしますよ」




#537/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:34  (289)
眠れ、そして夢見よ 1−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:37 修正 第2版
   二

 春とはいってもまだ三月なので肌寒い。美智子はジャケットの前を合
わせながら、バス停から三十メートルほど離れた滝田研究所の正面玄関
まで、駆け足に近い速さで歩いてきた。見上げると、まるでイスラム教
の寺院のような、おおげさな造りの建物が、今日も相変わらず鎮座して
いる。前世紀、つまり二十世紀からあるこの建物を買い取って研究所と
したのは、全く滝田の趣味だと言える。エレベーターすらついていない。
入り口から入って右手にある階段の前に立つと、美智子はいつもの習慣
で、「はあっ」とため息をついた。彼女は運動が嫌いだ。三十を少し過ぎ
ただけなのに、もう若くないんだわ、などと思う。
 美智子はしぶしぶ上り始める。三階まで上るのは、結構いい運動にな
る。壁は、昔はもっと鮮やかな色であったに違いないのに、今はすっか
り黄土色に変わってしまっている。
 ロッカーにジャケットをしまいこむと、まずコーヒーメーカーから彼
女専用のカップになみなみと注ぎ込んで飲む。これもまたいつもの習慣
である。彼女の頭はこの一杯でようやく目覚める。それまでは半分寝て
いるのと同じだ。二年前までは七、八杯注ぐたびに豆と水を入れ直さな
ければならない古いタイプだったが、常時一定量が供給されるコーヒー
メーカーに変わった。
 再びロッカールームに戻り、白衣を上から引っ掛ける。着替える意味
はほとんどない。着た方が研究者らしく見える、といった程度だろうか。
実験動物の尿などが服につかないようにするため、ということにはなっ
ているが、実際にはそんなものがつくことはまずない。
 滝田研究室に行ってみると、そこには口髭とほう鬚を生やし、同じよ
うに白衣を着た青年がいた。彼は片手にコーヒーカップを持ち、片手に
リモコンを持ち、それを部屋の中央にある大型モニターに向けて、早送
りと巻き戻しのボタンを交互に押している。
「お早うございます」
 青年は画面を見つめたまま言った。
「あら藤崎君、早いわね」
「徹夜ですよ」
 なるほど確かに、目がやや赤くなっている。
「そう。熱心ね」
 美智子は手近にある椅子を引き寄せて、青年の横に座った。
「で、ハリー君の様子は?」
「なんにも変化なしです。時々小さく光ることはあるんですがね。それ
以外は何も映りません」
 モニターの画面はいくら早送りしても真っ暗なままである。
 隣の部屋は二階と三階が吹き抜けになっている。そこにあるベッドの
上には、哀れにも頭部を器具で固定され、四本の針を突き刺された犬の
ハリーが眠っている。今のところ人間以外で夢を観察することに成功し
たのは、猫と猿だけである。犬はうまくいっていない。猫と猿について
はうまくいったのだとは言っても、それは別にたいした成果ではない。
人間以外でも夢を見ることだったら、とっくの昔にアメリカで実証され
ている。夢見装置があるのは、日本の滝田睡眠研究所だけではないのだ。
「ふぁーあ」
 藤崎青年はあくびをすると、コーヒーを一口すすった。
 日中は分析や文書作成等の仕事をこなし、夜中は実験対象が眠ってい
る間、起きて観察していなければならない。だから睡眠を研究している
くせに、皮肉なことに当の本人は眠ることができない。
 美智子は青年の肩を軽く叩く。
「少し横になったら?」
 立ちあがり、ガラス窓に近寄り、隣室のベッドを見下ろす。動物実験
などというものをする科学者はつくづく残酷だと彼女は思う。犬の頭に
突き刺さった針は、脳の奥深い所にまで達している。そのうちの一本は
夢を見始めた時に活発になる箇所――青斑核と呼ばれる部分に、別の一
本は目で見たものを認識する部分――後頭葉の視覚野に刺さっている。
 人間ではこうはいかない。人に刺すなど言語道断である。脳というの
は例えて言えば、ボウルに入った寒天のようなものだ。そこに針を突き
刺したら、頭部を固定していたとしても、少しの衝撃でも簡単に傷が広
がってしまう。しかしヘルメットを被せて、頭蓋骨と頭皮という分厚い
壁に邪魔されて得られる信号よりも、測定したい部位から直接得られる
情報の方が、はるかに鮮明だ。だから猫や犬が犠牲になる。
 こうして、かわいそうな実験動物を見ながら彼女の朝が始まる。滝田
が来るのは一時間くらい後だ。それまでに昨日の分の報告書をまとめて
おこう、と美智子は思った。

 朝九時半、滝田は車を研究所の裏手の駐車場に止める。ドアを開いて
降り立った彼は、大きく伸びをする。二十一世紀に入ってからもう八十
年がたつ。彼の赤のポルシェは、百パーセント電気で走る超高級車だ。
二十一世紀に入ってから、少なくとも車に関しては格段の進歩があった
と言える。ガソリンから電気への移行は比較的スムーズに行われた。だ
が多くの国産車は、今でも電気八割、ガソリン二割くらいでエネルギー
を消費する。思えば、家庭にあるもの、あるいは外にあるものも、ほと
んど全て電気で動いている。テレビにラジオに冷蔵庫。電気自動車もわ
ずかにあったが、車だけが二十世紀終わり頃までガソリンで動くものが
一般的であったことは、今思えば特殊な例外だったと思う。
「おはよ」
 滝田が研究室に入ると、藤崎青年はモニター画面を見つめたまま、「お
早うございます」というやや不機嫌な返事をした。
「おやおや藤崎君、また徹夜?」
 藤崎青年が徹夜をしたかどうかということは、赤の他人には判別が難
しい。なにしろ普段から髭もじゃなので、不精髭といった要素では判断
することはできない。目のかすかな赤み、顔にうっすらと浮いた脂、「お
早うございます」という短い言葉に含まれる、ほんの少しなげやりな口
調、そういったものは、やはり長い間の付き合いでしか分からないもの
なのだろう。
「今日さあ、高梨っていうお医者さんが来るから」
「はい?」
 青年の目が滝田に向けられる。
「うん。僕達の夢見装置を見たいって言うんだよ」
 滝田はもうすぐ五十代に足を踏み入れようという歳なのに、いまだに
親しい間柄の人間に対しては、自分のことを“僕”と言う。
 滝田は昨日の高梨とのやりとりを、かいつまんで話した。
「本当ですかね、それ」
 青年は半信半疑のようだ。
「常盤君は?」
「自室にこもってますよ。報告書がまだ出来ていないんだとか。だめだ
こりゃ」
 青年はリモコンをテーブルの上に放り投げた。
 滝田は研究室を出た。別に急いでいるわけでもないのに早足で歩く。
滝田の癖だ。
 三人の、それぞれに忙しい一日がスタートした。もっとも、青年に関
しては昨日からぶっ通しだが。滝田研究所には他に十八名のスタッフが
いる。しかし分野ごとに分かれていて、研究所のメインである夢見装置
に直接関わっているのが、この三人である。美智子の報告書のつまらな
い矛盾点を滝田が指摘したことに対して、彼女が猛烈に反論してきたり、
藤崎青年がコンピュータの記憶装置に蓄えられた犬の睡眠に関するデー
タを仔細に検討したりしているうちに、昼がやって来た。


   三

 昼の一時過ぎ、研究室に滝田と、チャコールグレイのスーツを着た長
身の、やや細身の男が入っていった。滝田は白衣も着ず、ポロシャツ姿
だ。藤崎青年がプリンタから印刷されたグラフに落としていた目を上げ
る。
「藤崎君、こちら、小暮病院の高梨先生」
 滝田が手の平を高梨に向けると、高梨は青年の方に歩み寄って名刺を
差し出した。
「はじめまして。小暮総合病院の高梨です」
「あっ」青年は立ちあがって、胸やズボンのポケットを探った。「すみま
せん、持って来てなくて」
「常盤君は?」と滝田が聞くと、青年は「呼んできます」と言って出て
行った。
「いやあ、これはこれは」高梨は手を後ろに組んで、研究室のコンピュ
ータ達をながめ回した。「立派なものですなあ」
「ちょっと待ってて下さい。今コーヒーをお持ちしますんで」
 滝田は部屋を出ていこうとした。
「いやいや、結構です。それより、夢見装置はどこにあるんですか?」
「夢見装置というのはまあ、この部屋にある機械全部のことなんですが、
本体は隣の部屋にあるんですよ」
 滝田と高梨はガラス窓に近づき、下方を見た。そこには黒い、大きな
箱があって、その下から何本ものコードが伸びている。そのうちの、数
本の先端がベッドの上にいる犬の頭に刺さっている。高梨の横顔を見る
と苦々しくゆがんでいる。
「あれはもちろん、犬だからああなっているんですよね」
 表情に笑みを取り戻した高梨が、滝田の方を向く。
「ええ。人間の場合はヘルメットを被せるだけです」
 部屋の扉が開いた。藤崎青年と常盤美智子が戻ってきたのだ。高梨は
慇懃に礼をして、青年にしたのと同じように美智子に名刺を渡した。美
智子は自分も出さなければならない、ということには気がつかなかった
ようだ。もっとも、彼女の名刺は机の引出しの奥にしまったままになっ
ているようだが。
「ええ、さて」滝田は両手を握り合わせた。「何からお見せしましょうか」
 滝田は室内を見まわす。
「犬が寝てくれるといいんですがね。とは言っても、まだ犬の夢を見る
ことには成功してませんが。あ、藤崎君、先生にコーヒーと、あと灰皿
を持って来てくれる?」
 高梨が先を促すように質問する。
「先生はどういった研究をされているのですか?」
「主に人間以外の動物の夢を観察することです。あとは睡眠障害を持つ
人の夢を見ることですね。夢と睡眠障害の因果関係を調べているんです
よ」
「ほう! 動物も夢を見ますか」
「ええ。日本では猫と猿だけ成功していますがね。アメリカやヨーロッ
パではもっといろいろな動物の……犬や、うさぎや、小さいものではモ
ルモットでも成功しています。もっとも、脳が小さいものははっきりと
夢だと確認されたわけじゃありませんがね。ああ、そうだ。それじゃま
ず、猫の夢をご覧にいれましょう。ビデオがあるんですよ」
 滝田は部屋の隅の棚に大量に詰められたディスクの中から一本を抜き
出し、それを大型モニターの下の再生機にセットした。
 リモコンのスイッチを入れると、最初のうち真っ黒だった画面が、ふ
いに明るくなった。
「これが猫の夢ですか」
 そこには赤やら灰色やら緑やらの、大小様々な四角形が入り混じって
うごめいている画面が映し出されていた。
「猫と人間では当然脳の作りが違いますからね。これはまだ人が見て分
かるよう信号を変換しているところですよ」
「人間の場合はどうするのですか?」
「得られる信号が微弱ですから、高度な画像解析処理が必要です」
 そのサイケデリックな模様は、だんだんとボカシを入れたような画面
に変わり、徐々にものの形をとり始めてきた。台所かどこかの床の上す
れすれの様子が、画面に映し出された。テーブルや椅子の脚が立ち並ん
でいる。猫の視点が、滑るように右から左へと動いた。その目の先には
女性の足があって、猫はそこに近づいていく。視点が上に動いて、若い
主婦らしき女性の顔が映し出された。彼女は微笑みながら、キャットフ
ードが盛られた皿を目の前に置く。画面は皿の中のアップになった。猫
が餌を食っているのだ。それが終わると、画面は足元からスカートへ、
そして胸元へ、そして髪を後ろにしばったその女性の顔の前へと上がっ
ていった。女は口を動かしている。「よしよし、良い子ねえ」とでも言っ
ているのだろう。そして画面には女性の後ろの窓ガラスが映し出された。
右横にはポニーテールが見えている。猫が主人に抱っこされているのだ。
画面はそこで急速に暗くなり、元の真っ黒な状態へと戻った。
「ここで猫の夢は終わっています」滝田は言った。「これはその辺にいた
野良猫を拾ってきて見た夢です。きっと飼われていた時の記憶なんでし
ょうね。何度も実験を繰り返して、観測できたのはこの一回だけです。
他は、さっきのごちゃごちゃした四角形だけで終わったり、なんだか意
味がない絵しか出てこなかったりして、これほどまでに鮮明に意味を持
った映像は、これだけです」
「いやいや、たいしたもんだ」高梨は心底感嘆したという顔をした。「こ
れは一体、どういう仕組みになっているんです?」
「ええ、仕組みはですね……常盤君」
「夢というのは日頃見て記憶したもののイメージが、眠っている時に後
頭葉の視覚野に流れ込んで起こるんです。五十年くらい前から明らかに
されてきたことですけど」
 どこの研究所だったかな、と滝田は思う。機能的磁気共鳴画像装置を
使って睡眠中の視覚野の活動を計測し、パターン認識アルゴリズムを使
って夢に現れる物体を高い精度で解読することに成功した。あれからも
う七十年近く経つのか。
「へえ、それは初耳だ。しかしそれをどうやって取り出すのですか?」
「脳の視覚野の情報を、コンピュータで処理して映像にしているのです」
「そんなことができるんですか。それは、なんとも……」
 いんちきくさいですな、という言葉が出そうになるのを押しとどめた
かのような高梨の口元を、滝田は表情を変えずに見つめた。
「二〇五八年にはアメリカが、その翌年にはドイツが、夢見装置を発表
したんですよ。大ニュースになったんですけど、覚えていません?」
「いやはや、私が夢見装置のことを知ったのは、ほんの二ヵ月前なんで
すよ」
 おそらくはあの患者の夢を見たいと考えついたのは、高梨ではなく担
当の精神神経科医だろう。夢見装置に最初に着目したのもその人物に違
いない。
 滝田はうっとりとした口調で言う。
「二十一世紀は科学の世紀だと言われ、科学者や技術者達は猛烈に頑張
りました。自動車は電気で走るようになり、空には宇宙ステーションが
浮かび、他人の夢をのぞき見する装置が誕生しました。素晴らしいこと
です」
「二〇六〇年には動物も夢を見ることが、早くも実証されましたわ。夢
見装置が現れてから、いろいろなことが分かりました。国がまったく違
っても夢には共通の要素があることとか、悪夢の構造、正夢の可能性、
色つきの夢に白黒の夢……、この装置は睡眠研究者にも心理学者にも、
まさに夢の装置ですよ」
 ドアが開いて、藤崎青年が四角い盆に人数分のコーヒーと灰皿をのせ
て入ってきた。
「どこまで進みました?」と青年が聞く。
「まだ猫の夢を見せただけだよ」
 滝田はさっそく胸ポケットから煙草を取り出す。
「人間の夢を見せてあげればいいのに」
「それもそうだな。まずそっちが先か」
「睡眠障害者の夢を見たいですな」
 高梨は青年から受け取ったコーヒーを一口すすった。
「ええ、そうですね。それではレム睡眠行動障害の患者の夢をお見せし
ましょう」
 滝田は棚からさらに一枚のディスクを抜き、セットした。
 真っ黒な画面を早送りすると、ふいに白と黒の点が乱れ飛ぶ砂嵐のよ
うな画面が現れ、徐々にものの形をとり始めた。
 それは、両側を田んぼに囲まれた、一本の道だった。向こう側から一
人の女性が歩いてくる。紺の和服を着たその女は、接近すると微笑んで
軽く会釈をした。しかしそこから妙な具合になる。彼女はしばらくこち
らをじっと見ていたが、その表情は次第に困惑の度合いを増していき、
やがて突然怒り出した。何と言っているのかは分からない。
「音は聞こえないんですか」と高梨が問う。
「はい。今のところ視覚情報だけしか得られないんですよ」滝田はビデ
オを一時停止した。「しかし夢を見ている人がなんと言っているかは分か
ります。『きさま、よくも俺を裏切ったな』と言っているんですよ。患者
はレム睡眠行動障害だから、この場面で実際にそういう寝言を言ってい
るんです」
「なるほど、この女性と口論しているわけですね」
 高梨はうなずく。
「この後すぐに起こし、どんな夢を見ていたか聞きました。道を歩いて
いるとばったり妻と出くわした。彼は奥さんの浮気を責め、けんかにな
ったのだそうです。この男性は離婚しています」
 滝田は一時停止を解除した。
 女性との口論のシーンはほんの五秒ほど続き、画面は急に暗くなった。
「おや?」と高梨がつぶやく。
「夢が終わったんです」
 ビデオには編集をほどこしていて、一瞬ちらついてすぐにまた明るく
なった。
 今度はどこかの家の室内だ。乱雑に散らかった部屋は、書斎か何かの
ようだ。畳の上に本がたくさん散らばっている。画面の両端から患者の
ものであるらしい腕がのびて、一冊一冊を拾い上げて、開いて、また床
に放り出す、ということを繰り返している。不思議なことにどの本のど
のページも真っ白である。
「患者はこの時実際に何かを拾い上げる動作を繰り返しながら、『おかし
いな、ないぞ』というような言葉を発し、隣の部屋を歩き回っていまし
た」
 滝田は窓ガラスを指差す。
 その光景は十秒ほどで終わり、またしても画面は暗くなった。
「浮気の証拠の写真を探したが、見つからなかったのだそうです」
 そしてまた息をふきかえすように明るくなり、今度はどこかのレスト
ランのような風景を映し出した。テーブルをはさんで青のスーツを着た
若い男が座っており、卓の上には二人分のランチとステーキがのってい
る。青年は微笑みながら口を動かしている。
「患者はこの時ベッドに腰掛け、『お前も立派になったなあ』というよう
なことをつぶやいていました。この青年は患者の息子で、二年前に交通
事故で亡くなったそうです。一人暮しをしている息子と久しぶりに会っ
たのでいっしょに食事をしたと言っていました」
 今度もまた、その風景は短い時間で終わった。画面が急速に暗くなる。
「これで終わりです」滝田はビデオを止めた。「この時被験者が見た夢は
この三回です」
 高梨は滝田の言葉を聞きながらも、あまりのことにしばし呆然として
いた。
「実に興味深い。ところで睡眠障害とこの夢との関係は、明らかになっ
たんですか?」
「いいえ、さっぱり。全くどこにでもあるような、普通の夢です。何か
へんてこりんな夢でも見てくれればいいんですがね。なかなか思うよう
になりません。そのかわり、夢の内容とレム睡眠行動障害の行動が、ぴ
たりと一致していることは分かりましたよ」




#538/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:38  (190)
眠れ、そして夢見よ 2−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/03 00:11 修正 第2版
   夢を見る


   一

 三日後、滝田睡眠研究所の玄関の前に救急車が止まった。その中から
救急救命士達が下りてくる。助手席のドアが開いて高梨が姿を現す。
「さあさあ、こちらです」
 待ち受けていた滝田が彼らを誘導する。担架に縛り付けられた痩せこ
けた男が運び込まれる。
「家族には治療方針を決定するために一旦他の病院に移して検査すると
説明してあります」高梨が滝田にささやく。「本当に危険はないのでしょ
うね?」
「夢見装置は被験者の頭から出力される情報を得て、観測するというだ
けのものですよ。何かを脳の中に入力するわけじゃない。いたって安全
ですよ。それに比べれば体の中にX線を入射するレントゲンの方がよっ
ぽど危険ですよ」
 慎重に階段をのぼっていく救急救命士達の表情は、エレベーターもつ
いていないことに辟易しているようだ。
「こっちです」
 藤崎青年が観察室の薄桃色の分厚い扉を開けると、みんなゆっくりと
入っていく。患者を抱え、「せーの」と言ってベッドの上に移した。
 男の様子は異様だった。痩せこけ、髪は八割がた白髪になっている。
目はおちくぼみ、パジャマから出ている手足はまるでミイラのようだ。
「それじゃあ、滝田先生、お願いします」
 高梨は軽く礼をした。
 日に三度、医師が診にくることと、何かあったら小暮総合病院に連絡
するようにということを告げると、彼らはひきあげていった。
 寄付金とひきかえにこの患者の状態を調べること、論文のネタを高梨
に提供することは、もう青年と美智子にも言ってある。汚い仕事だが、
なぜ滝田が引き受けたのかといえば、それは患者の病態に興味をひかれ
たからである。なにしろ夢の中で過去の人物になるのだ。意義あるもの
に違いない。
「さてと、どうしますか」
 滝田は両手を握り合わせた。
「この人……倉田さんでしたっけ? ものすごい怪力で暴れ回ったって
言ってたじゃないですか」美智子は心配そうに眉をひそめる。「ベッドに
しばりつけておいた方がいいんじゃないかしら」
「いや、そう神経質になることもないだろう。もしも何か起こったら、
その時にそういうふうにすればいい」
 滝田はあごをさすりながら答えた。
 患者の顔は、安らかな眠りに落ちているとは言いがたかった。むしろ
苦痛にあえいでいるかのような表情だ。その額にも、ほほにも、深いし
わが刻まれ、くちびるは乾いてひびわれ、とうてい三十代には見えない
のだ。眼球は頭蓋骨の二つの穴に落ちこんでしまっているかのようだっ
た。


   二

 一時間後には患者の頭はそられ、ヘルメットをかぶせられていた。高
梨の話ではレム睡眠行動障害の状態を示すのは一ヵ月に一度程度という
ことだったが、夢自体は毎日見るだろう。ただし信号が微弱すぎる場合
は解読できないため、夢を観測できる機会は毎日というわけにはいかな
い。
 ディスプレイに次々と描き出される脳波を、美智子は見つめている。
こうして何か起こらないかと待ち続けるのは、実に退屈な作業である反
面、ずっと緊張を強いられるものでもある。美智子も青年も、患者のさ
さいな変化も見逃すまいと、ひたすらパソコンのモニターをにらみつけ
ている。そして頻繁に立ち上がっては、窓から患者の様子をうかがうの
だ。美智子が見下ろすその先には、まさにミイラという形容詞が似合い
そうな、倉田恭介が長い眠りについている。その横では点滴が、患者の
生命を維持するために、静かに薬液を送り続けている。患者の様子を見
ていると、かわいそうと思う反面、鳥肌がたってくる。
 そうして二時間ほどたっただろうか。
「疲れたわね。コーヒー飲む?」
 そう言って美智子が立ち上がりかけたその時……。
「あっ!」
 青年が短い声をあげた。
 モニターのうちの一台に変化が起こった。中央に白い十字マークが静
止していたのが、急に左右に動き出したのだ。
「眼球運動だわ」
 アイマスクに仕込まれたセンサーが男の目の動きを感知する。
「常盤さん、脳波はどうです?」
 美智子は慌ててディスプレイに目を落とす。
「レム睡眠よ。夢を見るかも」
 人の眠りには二種類ある。レム睡眠とノンレム睡眠である。レム睡眠
は脳が活性化された状態にあり、ノンレム睡眠は脳が休息した状態にあ
る。レム睡眠ではその名前の由来である急速眼球運動(REM:Rapid Eye
Movement)が起こり、この時に夢を見る。人は眠っている時にレム睡眠
とノンレム睡眠を交互に繰り返す。ノンレム睡眠時にも夢は見るが、あ
いまいでぼんやりしているので夢見装置で捕えられない。
 青年が大型モニターに向かうのに続けて、美智子もその黒い画面の前
に立った。
「あっ、今光ったわ」
 画面の中央にぼうっとした光の点が現れてすぐに消えた。二人が見て
いる前で、ずいぶんと間があって、今度は二度またたいた。
「来ますよ」
 青年の言葉が合図ででもあったかのように、画面が薄っすらと明るく
なってきた。白黒の、何千もの光の点が入り乱れ始めた。美智子はくい
いるように見つめる。
 画像は徐々に、ものの形を現してきた。ぼんやりとした風景、何か、
黄土色の岩のようなものがごろごろしている。大きさはまちまちだが、
どれもきれいな四角形である。あきらかに自然のものではない。その向
こうに、大きな石像らしきものが映っている。なにか、虎のような、ラ
イオンのような像、その左横に、大きくぼやけてはいるが、わずかに三
角形と分かるものがある。
「あっ」
 しかし、その映像は、長い時間待ってやっと現れたのに、あっという
間に消えてしまった。画面は元通りの暗闇に戻った。
「撮れた? どのくらい?」
 美智子は青年に顔を寄せて尋ねる。
「二秒ですね」
「たったそれだけ?」
 美智子は腕組みして考えた。
「どこかで見たことがある風景なんだけど」両手の指を胸の前で組み合
わせる。「どこだったかしら」
「あのライオンのような体は、たしかにどっかで見たような気がします
ね。あまりはっきりと映っていませんでしたけど」
「巻き戻してみてよ」
 青年がリモコンを操作し、映像を少し戻すと、再びあの、うすぼんや
りとした石像が映し出される。もっとはっきりしていれば簡単に思い出
せそうなのだが、なかなか思い出すことができない。それでも美智子は
じっと考え込んだ。
「そうだわ!」
 いきなり大声を出したものだから、青年がびっくりする。
「ちょ、ちょっと、常盤さん」
 青年が止める声も耳に入らず、美智子は部屋を飛び出していった。


   三

「見て下さい」
 翌日、出勤してきた滝田に、いきなり美智子が飛びついてきた。
「ああ?」
 滝田はまだ眠い目をなんとか見開いて、彼女が差し出した「神秘の王
国」という名の、科学雑誌らしきものを見つめた。
「昨日の夢ですよ。やっと見つけたんです」
 滝田は少しばかり思考が混乱したが、すぐに彼女が何のことを言って
いるのか分かった。
「ああ、昨日倉田さんが見た夢のことね。で、何が分かったって?」
「見て下さい。これです」
 ぼんやりとした視点が、彼女が開いたページの上をさまよう。昨日遅
くまで学術誌を読みふけっていたことからくる眠気が、一気にふっとん
だ。
「これは」
 滝田も昨日青年から話を聞いていたし、ビデオも見ていた。しかしそ
のぼやけた映像が何なのか、結局分からなかったのだ。
 そこにあったのはエジプトのギザの、スフィンクスとピラミッドの写
真だった。
「なるほど」滝田はつぶやく。「これか」
「おはようございます」
 室内に元気のいい声が響いた。どうやら藤崎青年は昨夜十分な睡眠が
とれたようだ。
「おや、何です?」
 青年が興味を示して二人が見入っている本をのぞきこむ。
「これは」青年は目を見開いた。「これか」
 何言ってんのよ、というような目で青年を見つめる美智子とは対照的
に、滝田は両手をもみ合わせながら、「さあ、忙しくなるぞ」と言った。
 しかしいったい何が忙しくなるのか、言った本人にも分からなかった。
やることといえば、相変わらず倉田氏が夢を見るのを待ち続けるだけな
のだ。
「これってやっぱり、倉田さんが今古代エジプト人になっているらしい
ことと、関係があるのかしら」
 美智子は小首をかしげた。
「大ありですよ」青年が興奮した声を出す。「これは倉田氏が古代エジプ
ト人になっているという、立派な証拠ですよ。彼は夢の中で、古代エジ
プトをさまよい歩いてるんですよ」
 滝田は口をすぼめた。
「まあ、そんな大げさなもんじゃないけどね。スフィンクスの夢くらい
だったら、誰だって見るだろう? でもまあ、次に倉田さんが起きだし
た時に、はっきりするんじゃないかな。高梨先生の話だけじゃ、分から
ないからね」
 それにしても不思議だと、滝田は思う。夢というのは、その都度ころ
ころと内容が違うものだ。しかし倉田氏が、例えば御見葉蔵氏にある一
定期間変化し続けるためには、その間ずっと御見氏の夢を見続けなけれ
ばならないことになる。そんなことが可能だろうか。
 無論、そういうことができる人々がいることは滝田も知っている。明
晰夢を見る人がそうだ。夢の中で自由自在に行動でき、好きなように夢
の内容をコントロールできるという、そういう人だ。現実の世界ではで
きないあらゆることが、夢の中だったらできるのだ。絶世の美女と食事
をするのも、社長になって人をこき使うのも、思いのままだ。その人に
とっては、夢は抽象的なつかみどころのないものではなく、現実世界と
は独立して、はっきりと存在するもう一つの世界なのである。
 明晰夢が一般的に知られ始めたのは一九六〇年代だが、現在に至るま
で睡眠研究のテーマとしてちょくちょく顔を出してきた。倉田氏もまた、
明晰夢を見る能力を持っているのだろうか? しかも全くの他人の人生
と寸分違わぬ夢を?
「常盤君」
「はい」
 美智子は何かを期待するような、にこやかな顔をした。
「コーヒーくれる?」
 美智子が不機嫌な表情をして向こうへ行くのを、滝田は遠くを見つめ
るような目つきでながめた。
 岩は四角形だった、と滝田は思う。全体的にぼやけた映像だったが、
手前に転がっている岩はかろうじて見えた。きれいな直方体だ。
 もしも、現在のスフィンクスであるならば、その手前に転がっている
岩は、元は四角形だったとしても、風化してもっと崩れているはずだ。
 いずれにせよ、今の段階ではあまりにも情報不足だ。倉田氏が次の夢
を見るまで、忍耐強く待つしかない。




#539/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:40  (266)
眠れ、そして夢見よ 2−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:11 修正 第3版
   四

 土曜日、美智子はバス停に降り立つと、大きく深呼吸した。なんと清々
しい空気だろう。平日は人が大量にいて、どうもいけない。それが、休
日になるとこれほど人がいないものだとは。都会とはいえ、親父達の煙
草の煙や、刺々しい喧騒、舌打ちの音や咳払い、そういったものがある
のとないのとでは、空気のうまさが段違いだ。
 休日、それは美智子のように研究、研究で精神をすり減らす人間には、
とても重要な日である。土曜日にはクラシックを聴きながら読書をする
ことで精神を回復する。日曜日にはスポーツクラブに行ってストレスを
発散する。もっとも、本当はスポーツが苦手なので、エアロバイクしか
やらない。エアロビック・ダンスは嫌いだ。「はい、ワン・ツー、ワン・
ツー」という声に合わせて、脂肪を少しでも排出しようと体をねじるお
ばさん達を見ていると、嫌悪感で胸がむかつく。あの中に混じろうとは
思わない。だからひたすらに、床に固定された自転車をこぐ。ペダルを
がむしゃらに回す。
 別に誰から出てこいと言われたわけでもない。そんな休日を犠牲にし
てまで研究所に来てしまったのは、やはり倉田氏の状態が気になるから
である。
「あれ? 常盤さん?」
 振り向くと、そこに藤崎青年が立っていた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「おはよ」
 青年は笑顔だったが、睡眠不足からくる疲れが、目の下のくまとなっ
て現れているようだ。本当は土日の患者の観察は青年に任せて、美智子
は家で寝ていればよいはずだった。
 休日に出てくるというのは、普段出勤してくるのとは少し違った気分
だ。なんとなく生真面目に研究に没頭する気になれない、きっと何もな
いのに、何かありそうな、少し浮かれた気分だ。
 美智子はこのまま研究所の玄関をくぐるのは、もったいないような気
がしてきた。腕時計を見る。休日出勤の勤務時間帯は決まっていないが、
藤崎青年の業務開始時刻は定められている。まだ少々余裕があるようだ。
「少し、歩かない?」
 青年は、へ? というような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「ええ、いいですよ」
 美智子が歩き出すと、青年が慌てて追いついてきて横に並んだ。
 まだ朝早いせいか空は薄暗く、灰色の雲がおおっている。
 立ち並ぶ高層ビル郡は、いつもの活気をすっかりひそめて、巨大な墓
石のように突っ立っている。通りを行き交う車の数も、歩道の人数も、
平日に比べると格段に少ない。
 美智子が何もしゃべらないので、青年は何と話しかけてよいものかと
気遣っているらしく、時々美智子の方を見る。
「常盤さんって休みの日は何をしてるんですか?」
 歩き出してから一つめの信号が赤に変わった時、青年はようやく口を
開いた。
「あら、お見合い?」
 青年は快活に笑った。そして少しばつが悪そうな顔をする。
「藤崎君、大変ね。ちゃんと寝てる?」
「まあ仕事が仕事ですからね。でも大丈夫ですよ。体力だけが取り柄で
すから」
 美智子も徹夜はするが、青年は人一倍頑張っている。
「そう」
 再び会話がとぎれる。美智子は、珍しいわ、などと考える。つまり、
自分がこんなことをしているのが。
「読書」
「え?」
「読書よ。そこ曲がりましょ」
 通りを右に折れて、細い道に入ると、両側に植込みが並んでいる。し
ばらく歩くと、植込みが切れて、都会の中のほんの憩いの場とでもいう
ような、小さな公園がある。すべり台と、ベンチと、うさぎやライオン
の頭の形をした石の像が、ささやかながら置かれている。美智子はここ
で子供達が遊んでいる姿を見たことがない。
 何も言わずにベンチに腰掛けると、青年は遠慮がちに少しだけ離れて
座った。
「でも休みの日まで本を読んでいたら頭が疲れませんか」
「あら、頭を休めるために読書するのよ」
「はあ、そうですか。でも、体を動かした方がいいですよ。山にでも登
れば、気分がすかっとしますよ」
 スポーツクラブに行っているわよ、と言いたいところだが、秘密にし
ておく。まさか三十分だけエアロバイクをこいで帰っています、とは言
えない。エアロビを踊っているのを想像されるのも不愉快だ。
「どんな本を読むんですか?」
「そうね。遺伝子とか、ブラックホールとか、そういうの」
 青年の笑顔がひん曲がった。
「もっと、普通の本は読まないんですか」
「あら、普通の本だと思うけど」
 青年がようやく明るくなってきた空を見上げる。
「うーん、でもそのくらい勉強しないと、常盤さんみたいな天才にはな
れないんでしょうね」
「あら、藤崎君だって頭いいから、今の研究所にいるんじゃない」
「いえいえ、月とスッポンですよ」
 美智子は天才だと言われても、それを否定しない。それをやるとかえ
って嫌味になる。下を向き、じっと考え込む。そして顔を上げ、遠くを
みつめる。
「天才ってね、あまりいいもんじゃないわよ」
 青年が眉根を寄せる。
「なんだか氷の中にいるみたい。氷の壁に囲まれて、その中から出られ
ないの。そしてその壁は、だんだんと、私に向かって迫ってくるのよ」
「疲れてるんですよ。やっぱり頭を休ませなきゃ」
「知ってる? 論理的な思考ばかりして左脳だけ発達すると、右脳が発
達しなくて、人を愛することができないんだって」
 何かのつまらない本に書いてあった馬鹿げた迷信だ。愛の正体は扁桃
体にあるのではないかとも言われている。それは脳の両側にある。
「常盤さんは人を愛せないんですか?」
 美智子は困った。何でこんなこと言っちゃったんだろう、と後悔する。
「そうね、どうかしら」
 美智子は、自分でもびっくりするくらい乱暴に髪をかきあげた。
「天才っていうのは、何かを創り出すことができる人のことよ。勉強ば
かりできる人間はただの真面目な人だわ」
 自分は夢見装置の主要な開発メンバーとして活躍した滝田にどこか嫉
妬のような念を抱いている、と彼女は感じていた。
 青年はうつむいたまま、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「今度、山に行きませんか」
 青年は照れたのか、慌てて付け足す。
「滝田先生と一緒に」


   五

「何も映りませんねえ」
「同じこと何度も言わないの。はい、コーヒー」
 青年にコーヒーカップを渡すと、美智子は窓に近寄って倉田氏を見下
ろした。もう何度こうして、昏々と眠り続ける倉田氏の様子をながめた
ことだろう。今日も朝十時頃医者が来て、点滴を取り替えていった。そ
れ以来全く何の変化もなく、寝返りさえうたず、苦しげな表情のまま眠
り続けている。
「それじゃ、私また自分の部屋にいるから。もう一時間くらいしたら、
交代しましょ」
 そう言って部屋を出ようとした時、青年が大声を出した。
「常盤さん」
 大型モニターの前に駆け寄ると、そこに例の砂嵐のような画面が現れ
ていた。
 美智子は青年が唾を飲み込む音を聞いた。
 画面は徐々に、青と黄土色の色彩を現してきた。
「これは」
「ピラミッドよ」
 今度は、前のようなぼやけた映像ではなかった。はっきりと、三角形
の王の墓が姿を現していた。それは普通ピラミッドという言葉から連想
するきれいな四角錐とは少し違っていて、一つの段が大きく階段のよう
だ。青色の部分はその背景にある空だった。手前には石垣のようなもの
が左右に広がっている。
 そのピラミッドが、右へ行ったり、左へ行ったりしている。
「辺りをながめ回しているみたいね」
 やがてそれは、画面の中央に来て止まった。倉田氏、あるいは倉田氏
に乗り移っている何者かは、その王の墓に見とれているようだった。
 画面は明るくなったり、暗くなったりを繰り返し始めた。
「消えます」
 青年の言う通り、画面は黒くなっていき、そして消えた。
「何秒?」
「十秒です」
 美智子は腕組みして、仁王立ちになって考え込んだ。そして脱兎のご
とく駆けだした。
「常盤さん?」
 しばらくして部屋に戻ってきた美智子が両手に大量の本を抱えている
のを見て、青年は驚いたようだった。
「何です?」
 美智子は大きな音をたててテーブルの上に本を置いた。それは全部エ
ジプト関係の書籍だった。
「いつの間に、こんなに」
「探して」
 青年はきょとんとした顔をした。
「探すのよ。今の映像が、何なのか」
 美智子が猛烈な勢いでページをめくり始めるのを見て、青年はあっけ
にとられたように立ちすくんでいた。
「さあさあ、藤崎君、頑張りましょ」
 青年も本を手にとってめくりだす。
 黙々と作業を進めるうちに、テーブルの上いっぱいに本が散らばって
きた。
「あったわ」
 青年が身を乗り出して美智子が開いているページをのぞきこむ。
「これよ。ジェセル王のピラミッド」
 それは、段々の部分が崩れかけた、溶けかかったアイスクリームのよ
うな写真だった。
「たしかに、これの大昔の姿を想像すると、さっきの映像と一致しそう
ですね」
 美智子は別の一冊を手にとって開いた。アフリカの北東部、古代エジ
プトの地図である。紅海の横に、ナイル川が走っている。ナイル川に沿
って、テーベやテル・アル=アマルナやメイドゥムといった地名が並ん
でいる。アフリカ大陸がシナイ半島につながる付近で、ナイル川が何本
にも枝分かれして地中海に流れこんでいる。美智子はその分岐が始まる
根元のあたりを指差した。
「この間のスフィンクスがギザ、ジェセル王の階段ピラミッドがサッカ
ラにあるから、彼はこのあたりにいることになるわね」
 それにしても、なぜこんな所にいるのかしら、と美智子は思う。ギザ
とサッカラといえば古代エジプトでは非常に重要な地域である。ギザの
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとスフィンクス
は有名だし、サッカラにも多くのファラオ――つまり古代エジプトの王
のピラミッドや、聖牛アピスの地下墳墓等がある。
 ひょっとすると、彼もまたファラオなのかもしれない。もっとも、た
だの農民なのかもしれないが。
 まだまったく謎のままだが、一歩前進したことは確かだ。


   六

「九時か」滝田は腕時計をのぞきこんで、ため息をついた。「今日も何も
現れそうにないな」
 ジェセル王のピラミッドが現れてから、二日経つ。スフィンクスが現
れてからは五日目だ。だいたい二、三日くらいの間隔で、はっきりとし
た夢を見るらしい。もちろん、その間は全然夢を見ないというわけでは
ない。小さく光ったり、砂嵐のような画面が現れたりすることはある。
ただ、夢見装置で捕えられるほどはっきりとした夢を見ないというだけ
のことだ。
 滝田は美智子と並んで、窓から患者の様子を見守っていた。
「そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」
 美智子は黙ってうなずいた。
 その時青年が、ささやくような、それでいて緊迫感を帯びた声を出し
た。
「先生、眼球運動です」
 滝田は緊張して振り返った。青年の背後に歩み寄り、のぞきこむと、
モニター上で白い十字マークが上下左右に動き回っていた。
「うん。常盤君、脳波は?」
 美智子は慌てて波形を調べる。
「入りました。レム睡眠です」
 青年が椅子を回転させて、その下についているキャスターをころがし
て部屋の中央にあるモニターの前に行くのに続いて、滝田もその前に立
った。美智子も後からついてきた。
 画面は真っ黒なまま何の変化もない。
「十秒経過」
 青年が厳かに告げる。滝田は眉をひそめた。ぬか喜びか。
 しかしその時、画面が静かに明るさを増し、砂嵐が走り始めた。
「夢か」
 滝田は尋ねた。
「夢です」
 青年が答える。
 画面の砂嵐は徐々にものの形をとり始めた。
 滝田は唖然とした。それは、今までのようなエジプトの夢ではなかっ
た。どこかの部屋の中の風景だ。壁に沿って冷蔵庫のようなコンピュー
タの箱とパソコンが並んでいる。だんだんと映像が明瞭になるに従って、
滝田はあほうのように口を開いていった。
 中央には大型モニターがあり、床にはいろいろな機器同士を結ぶ配線
が這い回っている。滝田達もいる。間違いない。それは他でもない、こ
の部屋だった。この室内の風景が映し出されているのだ。
「こんな夢は初めてです」
 背後で美智子が驚きの声を漏らすのが聞こえた。
 ジェセル王のピラミッドの時と同じように、彼は部屋を眺め回してい
た。
 突然、彼は歩き出した。ゆっくりとモニターの右横に近づいていく。
 青年が首を横に向けた。滝田も、おそるおそる、彼が立っているはず
の場所を見た。しかしそこには誰もいない。
「常盤君」
「は、はい」
 美智子は窓に駆け寄った。何も言わずひたすら下方を見つめている様
子から、相変わらず倉田氏は眠り続けているのだと分かった。レム睡眠
行動障害は起こっていないのだろう。
 滝田達が立っている方向に移動してきたので慌てて一歩下がった。倉
田氏、あるいは倉田氏に乗り移っている何者かはモニターの真ん前に来
た。
 滝田は目を真ん丸に見開いた。モニター画面の中にモニターが、その
モニター画面の中にモニターが、延々と続いているのだ。
 なにか金属のようなものが、画面の下から上がってきた。スパナだ!
彼はその血管の浮き出た手に、しっかりとレンチを握り締めているのだ
った。それは、列をなして画面のずっと奥の方まで続いた。
 滝田の頭の中に警報が鳴り響く。やめろ。やめてくれ。
 スパナが上方に振り上げられた。
「わあっ」
 滝田は目をつぶった。ひどい音がした。
 ゆっくりと目を開くと、モニターが割れていた。
 滝田は、呆然として突っ立っていた。一体何が起こったのか、どう解
釈すればよいのか、頭が混乱して整理できない。
 ようやく我に返り、窓に駆け寄る。倉田氏は微動だにせず、眠り続け
ていた。ただ、その口元がかすかに笑っているように見えた。
 美智子がPCに駆け寄る。
「常盤君、脳波は?」
「終わりました。ノンレム睡眠に戻りました」
 長いため息が、自然と口から吐き出される。一気に十年も歳をとった
ようだ。
 青年が見つめているのに気づき、額をぬぐうと、冷や汗で濡れていた。
「こりゃ、いったい」
 喉が乾き、干からびた声が出る。
「倉田さんはエジプトにいるんでしょ? どうしてこんな映像が出る
の?」
 美智子は誰にともなく、怒ったように言った。
「分からん。今までのはまだ、不可思議ながらもつじつまが合っていた。
しかし今度のは、まるでおかしい。今ここに実在していたかのようだっ
た。一体彼は、今度は誰になったというんだ?」




#540/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:44  (326)
眠れ、そして夢見よ 3−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:50 修正 第2版
   手がかり


   一

 空には雲が浮いている。今日もいい天気だ。青年は大きなあくびをし
た。不規則な形をした綿菓子たちが、おとなしく佇んでいる。ふと目に
とめた一つの形が、猫の顔に見えてきた。青年は愉快な気持ちになって
きた。他にも何かに似ているものがないかと探しだす。そんなふうにし
て見ていると、なんということもない雲が、羊の群れに見えてくるから
不思議だ。
 低くて太い音に気づいて、後ろを見ると、屋上に通じる扉が開いて美
智子が出てきた。
「おや、どうしたんですか」
 美智子は靴音を立てながら青年に近づいてきた。
「ズボン、汚れるわよ」
「構やしませんよ」
 美智子はハンカチを敷いて、青年の横に座った。手の平をコンクリー
トに当て、空を見上げる。
「私も空でも眺めようかと思ってね」
「こうしてると気が落ち着きますよ。僕はよく昼休みにここに来るんで
すよ」
「三度も聞いたわ」
 美智子が目を細める。えくぼができる。
 コンタクトにすればいいのに、と青年は思う。一度だけ、眼鏡をはず
したところを見たことがある。まだ二十代だと言っても通じそうな、か
わいらしい顔だった。もっとも、そんなことは本人には言わない。言っ
たら大目玉だ。
「気分、あんまり変わらないわ。どこがいいの?」
「空ってほら、絵みたいじゃないですか」
「そうかしら。そんなふうに考えたことないわ」
「小さい頃、親父と散歩してて、それで河原の土手に二人で寝ころがっ
て空を眺めてたんですよ。僕が、空って絵みたいだねって言ったら、や
っぱり親父も、常盤さんと同じこと言いましたよ。そんなふうに思った
ことないなあって」
「すごい。よくそんなこと覚えてるわね」美智子の顔に意地悪そうな笑
みが浮かぶ。「今作ったんじゃないの?」
「いえいえ、本当ですよ。そうかあ。そんなふうに思うの、僕だけなの
かな」
 美智子は空を見上げたまま、黙っている。青年は言葉が続かず、ひざ
を抱えていた手を、彼女の真似をしてコンクリートに当てた。
「積乱雲だわ。雨が降るかも」
「え、どれですか?」
「あれよ、あれ」
 美智子は、周辺のビルの群れの中でも、ひときわ大きいやつを指差し
た。その上に、なるほどたしかに山のように立ち上がっている雲が見え
る。
「あれ、積乱雲ですか? 違うと思うけどなあ」
「なんで?」
「だって、夏の雲でしょ?」
「そんなことないわ。寒冷前線があると、その近くにできるのよ」
「へえ、雲にも詳しいんですね」
「科学者たるもの、いろんなことに興味を持たなくちゃだめよ。もしも
被験者が雲の夢を見たらどうするの?」
 青年は視線を美智子から空へと移した。
「僕はただ何にも考えないで眺めている方が好きだなあ。積乱雲とか、
そういうのはどうでもいいんですよ。ああ、綿菓子みたいだな、とかね。
きれいだなあ、とか。常盤さんはそういうふうには感じないんですか」
 怒ったかな? と思い、再び視線を美智子に移すと、意外にも彼女は
少し悲しそうな顔をしてうつむいていた。
 青年の心に、なぜだか彼女が言った「氷の中にいるみたい」という言
葉がよみがえった。
 彼女がいきなり立ちあがったので青年は驚いた。
「雨が降るかもしれないわ。藤崎君も早く中に入った方がいいわよ」
 青年は、足早に歩み去っていく彼女の姿を、呆然と見送った。積乱雲
を見ると、わずかにこちらに移動してきたように感じた。


   二

 呼び鈴を押す。応答がない。もう一度押す。滝田は靴のつま先で地面
を叩き始める。
「はーい」
 間延びした女の声が聞こえる。しばらくして、やっとドアが開いた。
髪の乱れたおばさんの顔が、扉の間からのぞいた。
 滝田は慌てて職業的な笑みを浮かべた。
「すみません。私、小暮総合病院の斎藤先生の紹介で来た、滝田という
者ですが」
 倉田恭介の担当医の名を出し、名刺を渡す。その名刺には「滝田国際
睡眠障害専門病院 院長 滝田健三」というでたらめが刷ってある。
「まあ」
 倉田恭介の妻、倉田芳子は甲高い声を出した。
「まあまあ、主人の……。そうですか。よくいらっしゃいました。さあ、
どうぞ」
 靴をぬぐ間も、そうですか、私もう心配で心配で、などと黒板を爪で
ひっかくような声でしゃべり続ける。いらいらする。
 おばちゃんというのは、大別して二種類いるように思う。甲高い声の
おばちゃんと、だみ声のおばちゃんだ。他の種類のおばちゃんはあまり
見たことがない。どうしてだろう。
 彼女は五十代に入っているように見える。歳の離れた女房だろうか。
髪は長く、目は大きく、どちらかというと色白で、昔は美しかったのだ
ろうにと思わせる顔立ちだ。
 彼女の後について歩きながら、奇妙な症状を示し続ける患者の家をつ
ぶさに観察する。歩くときしむような音が鳴る廊下の奥には二階へと続
く階段がある。両側には薄く黄ばんだふすまがある。築年数は十年、い
や、二十年くらいだろうか。なんということはない。普通の家だ。
 倉田の妻はふすまのうちの一枚を開け、さあさあ、どうぞと滝田をい
ざなう。六畳の和室だ。
「汚い所ですが。そうですか、まあ」
 座布団の上にあぐらをかく。
「今お茶をお持ちしますので」
「いや、お構いなく」
 一人になった滝田は、部屋の中を眺め回す。液晶パネルの、ディスク
再生装置と一体型のテレビはほこりも拭かれていない。髪を銀色に染め
たアイドルの女の子が微笑んでいるカレンダーは倉田恭介の趣味だろう
か。エアコンは元々真っ白だっただろうが今は黄味がかっている。そん
なごく平凡な物達に囲まれながら、つまらない一市民としての暮らしを
営んでいたはずの倉田氏が、なぜ突然にあんなふうになったのか。
 家族の話を聞けば何か分かるかもしれないと思うのは、浅はかだろう
か。それでも、何でもいいから手がかりがほしいのだ。
「まあまあ、わざわざご足労頂いて、すみませんねえ」
 耳障りな声を発しながら、おばさんが戻ってきた。
「私、ご主人が入院している病院から依頼されたのですが、やはりご本
人がああいう状態ですから、原因が分かりません。そこで、ご家族の話
をうかがいたいと思いまして。突然訪問して申し訳ありません」
「いえいえ、まあまあ、よく来て下さいました」
 出されたお茶を一口すする。熱いな、と心の中で舌打ちする。
 その時威勢良くふすまが開いて、男の子が駆け込んできた。
「お母さん、おやつ」
「もう、今お客さんが来てるんだから、あっちに行ってなさい。冷蔵庫
にプリンがあるから、それでも食べてなさい」
 子供は来た時と同じ勢いで走っていった。騒々しい家だなあ、と滝田
は思う。
「小暮病院でいいかと思ってたら、検査のために他の病院に移すってい
うでしょ? 私もうびっくりしちゃって。何にも手につかなくて、夜も
眠れないんですよ」
 そうは見えませんが、と言いたいのをこらえる。
「それで、どうなんですか? かなり悪いんですか? あの人が死んじ
ゃったらどうしようと、そればかり気がかりで」
「いえいえ、大丈夫ですよ。死にはしません」
 まさか死ぬことはないだろうと考えていた。だが、彼が重態なのかど
うかも知らない。ただ、痩せさらばえていることは確かだ。このままだ
と栄養失調で亡くなるかもしれない。そうなっては滝田も困る。結局何
も分からないまま調査が終了してしまうのは避けなければ。
「でも院長先生がじきじきに出向いて下さるということは、かなりの重
病じゃないんでしょうか」
 院長はまずかったかな、と滝田は思う。しかし、相手を信用させるに
はそれくらいした方がいいのだ。人間というのは権威に弱いものだ。例
えば同じ発見を有名な学者がしたのと、町にどこにでもいそうな高校教
師がしたのとでは、学者の方が信用されるに決まっている。
「いえいえ、そんなことはありません。脳に異常が見つかっているわけ
でもありません。ただ、眠り続ける原因が分からないんですよ」
「まあ」
 倉田芳子の眉が八の字になった。
「心配することはありませんよ」
「小暮病院でもいろいろ聞かれたんですよ。普段どんな生活をしている
かとか、お酒はどのくらい飲むかとか、寝るのは何時くらいかとか」
「ええ。それはうちの方でも聞いています」寝るのは何時かしか聞いて
いないが、調子を合わせる。「今日うかがったのは、そういった医者が聞
くような通り一遍のことではなくて、もっと突っ込んだことを聞くため
なんですよ」
「と、おっしゃいますと」
 滝田は身を乗り出し、倉田芳子の瞳をみつめる。
「何か、秘密にしていることがあるんじゃないですか? 医者にも言っ
てないような」
 無論、そんなことは分からない。しかしそれで何か情報が引き出せれ
ばもうけものだ。
 倉田芳子は急に下を向いて考え込み始めた。
「大丈夫ですよ。秘密は厳守します」
 だいぶ迷っていたようだが、やがてしおらしく言った。
「実は、主人は新興宗教にかぶれてまして」
「宗教ですって?」
「言ってましたわ。会社がつぶれるかもしれないって」手の甲で目頭を
おさえる。「自分はクビになるかもしれないって、そう言ってました」
 鼻をすすり上げ始めた。近くのティッシュペーパーの箱から一枚引っ
張り出し、鼻をかんだ。
「ずいぶん悩んでたみたいです。それで宗教にすがったんです。私、や
めろやめろって、何度も言ったんですよ。あんなわけの分からないもの
に入れこむから、たたったんだわ」
「で、その新興宗教というのは何て名前ですか。どこにあるんです?」


   三

 高梨の話には嘘があった。たしか、精神的には何の問題もないと言っ
ていたはずだ。そうではなかった。悩みがあったのだ。
 滝田はそこだけ他の建物のようには道に面しておらず、遠慮がちに引
っ込んだ所に建っている小さなビルの正面玄関の前に立っていた。縦に
トーテムポールのように並んでいる看板を見上げる。「二階 和田幸福研
究所」とある。同じ研究所でも滝田のそれとはだいぶ趣が異なる。中に
入り、小さなエレベーターに乗る。四人も乗れば窮屈に感じられるほど
の狭さだ。降りると、廊下をはさんで正面に銀の枠で囲まれたガラス製
の、観音開きのドアがあった。案内は出ていないが、他に扉がないので
それが和田幸福研究所だろう。
 少し躊躇したが、意を決して中に踏み込んだ。左側に、町の小さな病
院のそれに似た受付がある。誰もいなかったが、「すみません」と声をか
けると黄色いセーターを着た目鼻立ちの整った女性が現れた。
「あの、和田先生に面会を申し込みたいんですが」
「会員証をお持ちですか」
「いえ、私、会員ではないんですが、和田先生とちょっとお話ししたい
ことがありまして」
 女性の顔が怪訝そうな表情に変わる。
「先生は会員ではない方とはお会いしません」
「倉田恭介さんのことについてお話を聞かせていただければと思いまし
て」
 女性がパソコンを操作するのをみつめる。
「こちらの加入者の方ですね。しかしプライバシーをお教えすることは
できません」
 困ったな、と思ったが、このまま帰るわけにはいかない。一か八かだ。
「では、御見葉蔵さんについてお話ししたいのですが」
 女性が滝田をにらみつける。ビンゴだ。
「少々お待ち下さい」
 立ち上がって、姿を消した。そのまま戻ってこない。滝田は靴先を鳴
らし始めた。
 五分近く待たされて、ようやく戻ってきた。
「お会いになるそうです。正面のドアからお入り下さい」
 軽く礼をしてこげ茶色の扉を開けると、そこにまた別の女性が立って
いる。他には誰の姿もない。この女が“先生”なのだろうかと思ってい
ると「どうぞこちらへ」と言って滝田を案内する。「第二応接室」という
札がかかった別の部屋のドアを開け、「先生、お客様です」と中の人物に
告げ、滝田に向かって丁寧におじぎをする。
 中から、「どうぞ、入って下さい」という声がした。入っていくと、ゆ
ったりとしたソファに腰掛けていた男が立ち上がった。ポマードで髪を
オールバックにした、初老の男だ。
「あ、どうも今日は。私こういう者なんですが」
 滝田は倉田の妻に渡したのと同じ名刺を男に手渡した。男は目を細め
てしげしげとながめた。
「ほう、病院の院長先生ですか」男はにこやかな笑みを浮かべた。「私は
ここの所長の和田です。で、今日はどんなご用ですか」
 手の平で男の向かい側のソファを指して、ゆっくりと腰掛ける。滝田
も座った。
「実は、うちの患者に倉田恭介さんという方がいるのですが、その人に
ついてお聞きしたいことがありまして」
「ええ、聞きました。こちらに来られていた人ですね」
「そうです。その方が今実に不可解な病気にかかっておりまして。お聞
きになっていませんよねえ」
「いや、奥さんの方からうかがっていますよ。なんでも昏睡状態と夢遊
病がいっしょになった病気だとか」
 夢遊病とレム睡眠行動障害とは別物なのだが。
「奥さんもこちらに来たんですか」
「ええ、すごい剣幕でしたよ。あなた達が主人をおかしくしたんだって、
そんなことを言うんですよ。まったく、困ったことです」
 滝田はいつも話の核心にふれる時にそうするように、相手の瞳をしば
らくみつめた。
「実を言いますとね、私も、こちらの研究所が倉田さんに何かしたんじ
ゃないかと思っているんですよ」
 和田は柔和な表情をくずさず、少し首を横に傾けた。
「おやおや、奥さんはともかく、病院の偉い先生までそんなことをおっ
しゃる。私達が何をしたのでしょうか」
 倉田芳子の話を聞いた時に直感した。新興宗教といえば……
「洗脳ですよ。あなた達は、例えば倉田さんに、誰か別の人間だと思わ
せるように、思想を改造したんじゃないですか」
 和田は狐につままれたような顔をした。
「ああ、奥さんから聞いたんですね。我々が宗教団体だって」
「違うんですか?」
「私達は、人間が幸福になる方法を研究しているんですよ。しかし宗教
団体ではありません。あなたは、私達が倉田さんを別の人間にしたと言
うが、そんなことが簡単にできるんでしょうか? いったいどうやって。
何のために」
 滝田は困った。洗脳の結果、あんなふうになったのだとすれば、無理
にこじつければ何とか説明がつく。倉田氏が詳細を語ったのは御見葉蔵
氏の人生だけだ。あとの二人はあいまいだ。この研究所がなんらかの方
法で御見氏についての情報を得ていて、その人格を倉田氏に植え付けた
のだとすれば、少なくとも御見氏についての謎は解決する。しかし、洗
脳ではないと言い張られては、どうしたらいいのだろう。たしかに、人
間を全くの他人だと思わせるのは、そんなに簡単にできそうもない。一
つのキーワードが浮かんだ。
「催眠はどうです? あなた達は倉田さんに催眠術をかけたのではない
ですか?」
「私達は悩める人を救うために、催眠を使うことはあります。それはそ
の人の悩みを、より良く知るためです。人は心の秘密を、なかなか打ち
明けないものです。その壁を取り払ってあげる必要があるのです」
「倉田さんにもかけたんですね?」
「ええ、かけましたよ。もちろん事前に本人の了解を得ています。何か
問題がありますか?」
「どんな種類の催眠術ですか。使い方を間違えると、非常に危険な行為
だと思いますが」
 和田の顔が、一瞬くもったように思えた。しかしすぐににこやかな顔
に戻る。
「それをあなたに言う義務があるのでしょうか。私達は倉田さんのプラ
イバシーを守る責任があります」
「別に倉田さんがどんなことをしゃべったか教えてくれと言ってるわけ
ではありません。私はあなた達が倉田さんを人形みたいに操ったのでは
ないということが分かればそれでいいんです」
 和田の笑みがくずれた。目は笑みを保っているが、口元がゆがんだま
ま戻らない。
「退行催眠ですよ」
「え?」
「記憶をどんどん過去にさかのぼらせていくのです。人の悩みは幼少期
にどんなふうに育てられたか、どんな大人達と接したかに大きく関わっ
ていることが多い。それを知るためです。倉田さんを操るためではあり
ませんよ」
「どこまで戻らせたんですか? つまり、何歳頃まで戻ったか、という
ことですが」
 その質問はひらめきだった。まだ何かが明瞭に分かったわけではなか
った。しかし、御見葉蔵氏が過去の人物であることと、退行催眠という
言葉が、瞬時に頭の中で結びついたのだ。
「どこまでって、今言いましたように、幼少期ですよ」
「何歳ですか。それとも」自分でも思いがけない言葉が出た。「生まれる
前ですか?」
 和田の表情がさらに険しくなった。
「これ以上は秘密です。倉田さんのプライバシーに関わります。悪いが、
次の方が私を待っています。もうそろそろお引取り願えませんか」
「退行催眠というのは、そんなにほいほいとかけていいものなんです
か? あなた達はそういう資格なり、免許なりを持っているんですか?
それは法的に問題ないんですか?」
 和田が今までの温厚な態度からは想像もできないような、薄気味悪く
不気味な表情を浮かべた。
「いいでしょう、お話ししましょう。秘密は守っていただけますね」
「ええ、誰にも言いません」
「私達も驚きました。退行催眠で前世の記憶がよみがえったというよう
な話は、いくつも聞いたことがありますが、まさか本当に目にする機会
にめぐり会えるとは。倉田さんは突然、今までの様子とは全く違ったふ
うにしゃべりだしたのです。『ここはどこだ。お前らいったい、こんな所
で何をやっとる』とね。後のことはご存知でしょう。彼は御見葉蔵さん
として詳しくお話を聞かせてくれました。しかし、当然それはその場で
終わらせましたよ。後日、私達は御見さんのお墓参りをさせていただき
ました。それで前世の記憶だと確信するに至ったのです。奥さんからご
病気のことをお聞きした時にはびっくりしました。しかし夢遊病と私達
とは何の関係もありません」
「しかしあなたは恐れている。もしかしたら犯罪者にされてしまうかも
しれない。違いますか?」
 催眠をより高めていけば、洗脳やマインドコントロールも可能なので
はないか?
「あなたは大変な誤解をされているようだ。催眠をかけるのに資格や免
許は必要ありません。会話と同じですよ。『私が合図をすると、もう声が
出ません』というのと、『とても美味しいですよ。買いましょう』という
のはあまり差がありません」
 催眠術を使って詐欺まがいの商売をすることも可能だと言っているよ
うにも聞こえる。
「仮に催眠を使って人に罪を犯させたとしても、法的な場で術者の責任
を追及するのは難しいでしょうね」
 そういうことを裏でやっている、とも取れる発言だ。
 その時ドアが静かに開いた。見ると、いかつい警備員が立っていた。
「次の方が私を待っています。お引取り願えますか?」
 和田は繰り返した。




#541/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:46  (151)
眠れ、そして夢見よ 3−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:17 修正 第2版
   四

「つまりだ」
 滝田は手帳を閉じた。
 青年と美智子は、新たに分かった事実に驚いたようだった。美智子な
どは口が半開きになっている。
「こういうふうに考えられないだろうか。倉田氏は和田幸福研究所の催
眠術によって、前世の記憶を取り戻した。倉田氏は御見氏の生まれ変わ
りだったんだ」
「そんな、非科学的な」
 美智子が疑いの眼差しを滝田に向ける。
「倉田氏が御見氏になったことを科学的に説明するのが不可能である以
上、たとえオカルトチックだとしても、そういうふうに結論づけるしか
ない。催眠術でよみがえった前世の記憶は、催眠を解けばまた脳の底へ
封じ込められるはずだった。ところが、倉田氏の場合はそれがきっかけ
となって、夢を見る時に自由自在に現れるようになったんだ」
「私はそうは思いません。倉田さんは何かの機会に、御見氏の生年月日
や生前の様子を知ったのよ」
 美智子がいつもの勢いで反論する。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、倉田氏と御
見氏のつながりは薄いがね」
「先生は都合良く話がつながるように解釈しているんです」
「ああ、そうだよ。御見氏になる能力を獲得した倉田氏は、さらに先祖
帰りを始めたんだ。御見氏の前世であるインド人へ、そしてそのまた前
世のエジプト人へ。そう考えるとつじつまが合う」
「いいえ、全てなんらかの現実的な解釈があるはずです。安易に非科学
的な考えを取り込むのは危険です」
「ではインド人になった時の怪力はどう説明する?」
「それは……」
 美智子はつまった。しかし負けん気の強い美智子が、それくらいで引
き下がるわけがなかった。
「それにしたって、高梨医師がそう言ったのを先生が聞いただけです」
「なるほど。高梨先生の嘘だという可能性もなくはないな。でもそうす
ると他の人達とも口裏をあわせておかなきゃならないね。看護師達も見
たって話だよ。高梨先生はどうしてそんなことをするんだろう」
「こじつけよ。もっと慎重に検討を重ねる必要があるんじゃないです
か? 論理の飛躍です」
 美智子の言うことももっともだ。たしかに、こじつけであって、なん
の確証もない。
「ひとつの考え方を言っているまでだよ。そうでなくとも不思議なこと
だらけなんだ。非科学的な推測であっても、なんらかの論理的な意味付
けをしようと試みるのは、間違った態度ではないと思うんだがね」
「でも、証明のしようがありませんわ」
 そうだ。何かが分かったようでいて、結局何も分かっていないのだ。
しかし、科学というのはえてしてそういうものだろう、と滝田は思う。
さんざん調査をやった上で、こういうふうになっているのではないだろ
うか、というひらめきが浮かぶ。そしてそのひらめきが正しいことを証
明するために、さらに様々な調査や実験を繰り返す。実証さえできれば、
初めて“分かった”といえる。しかしできずにいる間は、全ては単なる
憶測にすぎない。
 黙って二人のやりとりを聞いていた青年が口を開いた。
「次に倉田さんが起き出した時に聞いてみたらいいんじゃないですか?」
 なるほど、それはいい考えだ、と滝田は関心した。だがしかし、すか
さず美智子が反論する。
「どうして? 倉田さんは今古代エジプト人になっているのよ。エジプ
ト人の時にはエジプト人の記憶しか持ってないんじゃないかしら。イン
ド人や御見氏のことを聞いても、分からないんじゃないかしら。それに、
先生の説だと倉田さんがこの部屋に現れたことが、説明がつきませんわ」
「そうだ。そこが一番の難問だよ」
 御見氏からアジャンタなんとかいうインド人へ、そして現在ギザ、サ
ッカラ付近をうろついている古代エジプト人へ、順調に過去へさかのぼ
っていた倉田氏が、なぜ突然現代の、しかもこの場所に現れたのか。そ
こが一番分からないところだ。
 滝田は、これ以上議論しても無駄だと感じた。非難するばかりで自分
のアイデアを出そうとしない美智子にもいらいらしてきた。
「まあいい。倉田さんが起き出した時に、インタビューしてみようじゃ
ないか。彼はいったい何者なのか。どこから来たのか。とにかく、一気
に全てが分かるってことは、あまりないもんさ」


   五

 駅から出た美智子は、疲れを頭の芯に抱きながら歩道橋の階段を下り
る。脇に立って下の方を阿呆のように見続けている浮浪者ふうの男を、
円を描くように避けて通る。
 下りた所で酔っ払いのサラリーマンが四人で馬鹿みたいに騒いで進路
をふさいでいる。どきなさいよと言わんばかりの勢いで真中を割って通
る。おっちゃんの一人がよろけて倒れそうになる。
 歩道橋を下りるとシューズショップや菓子店が並ぶ商店街となる。美
智子が帰る時間帯にはすでにどこの店も閉まっていて、人通りも少ない。
菓子店が閉まるとその前に昼間は見かけない占いの男が陣取っている。
簡素なテーブルの上に「手相」と書かれた行灯が淡く光り、謎めいた雰
囲気を醸し出している。
 美智子がいつも気になっているものがある。男の前の卓にぶら下がっ
ている「八割は当たる」と書いてある紙である。これって、どういう意
味なのかしら。
 美智子が見ていると男が声をかけてきた。
「何か悩みがおありですか」
 思わず背筋が硬くなる。
「いえ、別に」
「そんな事はないでしょう。深い悩みがあるでしょう」
 おかしくなった。きっと眉間にしわを寄せて紙を見つめていたのだろ
う。
「いいわよ。みてもらうわ」
 美智子は粗末なパイプ製の椅子に腰掛けた。
「左手を見せてください」
 右利きなのだが関係ないのだろうか。
 手を出すと、男はその上にレンズをかざした。
「なにか、男の関係ですね」
 まあ、倉田氏のことで悩んでいるのだから、そうだと言えなくはない。
「そうね。確かに男の関係と言われればその通りよ」
 男はしばらく手を見ている。美智子の顔は見ない。よく考えると声を
かける時もずっとうつむいたままだった。
「あまり外には出ないお仕事ですね。しかも非常に頭を使うお仕事のよ
うだ」
「その通り。当たりよ」
「毎日の生活はあまり楽しいものではないでしょう」
「まあ、そうね。でも毎日が楽しくてたまらない人なんて、そんなにい
るかしら。あなただってそうでしょう?」
「いえいえ、私は手相を見て言っているだけです」
 美智子の手を見つめたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「悩みは、仕事上のトラブルですね」
「そうね。手相だけでそこまで分かるの?」
「ええ、八割は当たります」
 なんだか不気味な男だ。美智子の顔をまったく見ようとしない。手を
見ただけで、次々と言い当てていく。
「人付き合いは不得手でしょう」
「そうね。得意な方じゃないわね」
 男はレンズを静かに下げた。相変わらずうつむいたままだ。
「あなたは恋愛が苦手のようだ。付近に若い男性がいるでしょう。近い
うちにその方と仲良くなれますよ。それと、お悩みのことですが、あせ
らず、ゆったりと構えることです」
 男は自動で話す人形がしゃべり終わったかのように、それきり押し黙
ってしまった。美智子は立ち上がり、鑑定料金を置いた。足早に立ち去
る。
 不愉快だった。自分のマイナス面をつかれたことも、藤崎青年と自分
の間に恋が芽生えるような言い方をされたことも。立腹しつつも、不思
議に思うのだった。手相ってそんなに当たるものなのかしら。歩きなが
ら自分の手の平をみつめた。
 彼女は分析する。彼はきっと人間観察の能力が優れているのだ。
 彼は見ていないようで、実は毎日通り過ぎる自分の顔をそれとなく見
ている。いつも気難しい顔をしているから、深い悩みがあり、毎日が楽
しくないだろうと思ったのだ。男の関係かと聞いたのは、女なら男に関
する悩みを一つや二つ持っているだろうから。恋愛のことであれ、それ
以外であれ。結婚指輪をしていないからたぶん独身だろうと考えた。も
っとも、結婚指輪をはずしている人妻も存在するが。男の関係と言われ
ればそういえなくもないというような言い方をしたので、恋愛のことで
はないと分かったのだ。男に関することで、恋愛ではないこと、そこで
仕事のことかと聞いた。違うと言われればまた別の、友人関係かとか親
子関係かとか聞けばいい。
 色白で、度が強い眼鏡をかけているので、デスクワークだと思ったの
だ。そういった仕事である上につんけんしたものの言い方をする。だか
ら人付き合いは不得意だろうと思った。
 コンタクトにもせず分厚い眼鏡をかけ、いつも化粧っけがない。だか
ら恋愛にもあまり縁がないだろうと考えた。
 保育士でもない限り、付近に若い男はいるだろう。その男と仲良くな
るというのは、自分を喜ばせるためのおまけだ。自分には逆効果だが。
 いつも足早に歩く自分を見て、あせらず、ゆったりと構えなさいとア
ドバイスしたのだ。
 もっとも、彼の推論は全てがあてはまるわけではない。だから「八割
は当たる」なのだ。




#542/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:48  (315)
眠れ、そして夢見よ 4−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/06 21:54 修正 第2版
   レム睡眠行動障害


   一

「さあ、旅立ちの時がやってきた」
 犬の顔に人間の体を持つ男が薄気味悪く微笑み、滝田を見下ろしてい
る。どうやらベッドの上にしばりつけられているらしい。身動きできな
い。
「待ってくれ、何のことだ」
「決まっておるだろう。お前はこれから旅立ち、オシリス神の支配する
国、アアルに行くのだ」
 男は長い真新しいナイフを胸の前に掲げた。嫌な光を放つ。
「お前は何者だ。私をどうするつもりだ」
「私の名はアヌビス。喜べ。お前をミイラにしてやる」
 アヌビス? どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出
すことができない。
「ミイラだって! 冗談じゃない。私はまだ生きている!」
「おお、なんという哀れな者だ。自分が死んだことにさえ気づいていな
いとは」
 犬の顔をした男は大きく口を開けて笑った。とがった歯が並んだ間か
ら長い舌が吐き出される。男から顔をそむけると、横に四人の、筋肉隆々
の上半身裸で白っぽい腰布を巻いた男達が、壷を大事そうに抱えて立っ
ていた。それぞれの壷には犬や鳥の顔をしたふたがのっている。
「あれは、何だ」
「あれはカノプス壷だ。お前の肺、肝臓、胃、腸をおさめるのだ」
 滝田はもがいた。だが、太いひもが体にくいこんで逃れられない。
「いやだ! やめてくれ!」
「お前は喜ぶべきなのだぞ。高貴な者でなければ、ミイラになれないの
だぞ」
「なぜ私がミイラになるんだ」
 アヌビスと名乗る男はそれには答えず、意地悪く笑ってみせるだけだ
った。
「お前はお前の生涯において、罪を犯していないという自信があるか」
「な、なんだって? 罪を犯していなければミイラにならなくてすむの
か」
「そうではない。お前の心臓は天秤にかけられ、真実の羽根とつり合い
が取れればアアルへの扉が開かれるであろう。お前の罪が重ければ、お
前の心臓はアメミットに食われるであろう」
 男はナイフを振り上げた。
「さあ!」
「やめてくれ! やめろぉ!」

 滝田はふとんをはねのけ、体を起こした。額に手をあてるといやな汗
で濡れていた。ベッド脇のテーブルの上にあるランプをつける。卓にの
っている数冊のエジプト関係の本を悩ましげにみつめた。これを読みな
さい、と言って美智子からおしつけられたものだ。そのうちの一冊を一
気読みしたから、こんな夢をみてしまったのかもしれない。
 アヌビス神。ミイラ作りの神か。
 立ちあがり、ガウンを羽織り、階下へと下りていく。気分がすっきり
しない。
 台所に立ち、グラスにウイスキーを注ぐ。冷蔵庫から素手でいくつか
の氷をつかみだし、放り込む。和室に入り、妻の仏壇の前にあぐらをか
いた。
 琥珀色の液体を喉にながしこむ。妻が胃癌で亡くなってから、もう二
年にもなる。二人の子供はそれぞれの仕事に忙しいらしくてろくに帰っ
てこない。弟はごくごく平凡なサラリーマンになったが、土曜か日曜の
どちらか休めればいい方のようだ。兄は野心家で、独立して事業を起こ
したが、最近では宇宙開発などというプロジェクトに手を出しているら
しい。こっちの方は正月にすら帰ってこない。
 ついつい感傷的になりそうになるのを、仕事に思考を切り替えて払い
のける。割られたモニター、和田が打ち明けた秘密、そして美智子の反
論。
 ――とにかく、一気に全てが分かるってことは、あまりないもんさ…
…
 自分で言った台詞だ。いくら考えたところで、現時点ではたいして分
からない。もう一口、ウイスキーを飲み込むと、早くも心地よい酔いが
回ってくるのを感じた。
 このごろ悪夢をよく見るようになったな、と滝田は思う。こんなだだ
っ広い家に一人でいることが、精神的によくないのかもしれない。
「心地よい眠りのために」
 一人つぶやいて、グラスの残りを一気に流し込んだ。


   二

 美智子は研究室の椅子に腰かけて、ファイルをめくっていた。背に「明
晰夢関連」と書かれたそのファイルは、美智子が滝田にエジプト関係の
本を渡したのと引き換えに、滝田が彼女に渡したものだった。「明晰夢?」
とつぶやいた時、滝田は生真面目な顔をしてうなずいてみせただけだっ
た。
 滝田という男、なかなか頭がきれるのだが、何を考えているのか分か
らないところがある。たぶん、こんなファイルを渡したのも、今回の件
と明晰夢がなにかしら関係していると考えてのことだろう。理論的に筋
道立ててそう考えたのではなく、たぶん思いつきだろう。そういうこと
が多いのだ。しかしその発想が、案外的を射ていたりする。しかし理論
派の美智子から見ると、滝田のそういう所が受け入れられない。
 ドアが開く音で顔を上げると、藤崎青年がモニターを抱えて入ってき
た。
「大丈夫? 重そうね」
「手伝ってくださいよ」
「あら、男の子でしょ? レディーに重いもの持たせるの?」
「まったく」
 青年はもともと大型モニターが置かれていた箱の上にそのディスプレ
イを降ろした。
「一階の資料室からかっぱらってきました」
「あら、いけないわね」
「いいんですよ。あそこのパソコン、誰も使ってませんもん」
「パソコンのモニターなの? つながるの?」
「ええ、もちろん」
 青年は当然というふうに言った。
 だが、美智子にはPCのモニターが夢見装置につながる仕組みが分か
らない。超新星の爆発や、ブラックホールの近くでの時空の歪みについ
てはよく知っているが、こういうのはまるでだめなのである。
「私、手伝わないわよ。家のディスク再生装置だって、電気屋さんにつ
なげてもらったんだから」
「ええ? 僕だってもう疲れちゃいましたよ。一階からここまでこれ持
ってくるの、大変だったんですから」
 青年はため息をつきながら椅子に腰をおろした。
「ほらほら、こうしてる間にも、倉田さんが夢を見るかもしれないわよ」
「意地悪だなあ」
 青年はしかめっ面をして、面倒くさそうに立ちあがった。モニターの
背面に回り込む。
「常盤さん、そこのHDMIケーブル、取ってくれます?」
「えっ、どれ?」
「足元の、箱から出てるやつですよ」
 床を見ると、箱からこちらに向かって何本かのケーブルが伸びている。
「知らない」
 椅子を回転させて、ファイルをみつめる。
「まったく、もう」
 青年が背後のすぐ近くでかがみこむのを感じた。
「その辺にコンセント余ってません?」
「さあね。探せばあるわよ。頑張って」
 青年はしばらく作業をしていたが、美智子はもう興味を失って資料に
没頭し始めた。
「さあ、やっと終わった。だいぶ小さくなっちゃいましたけど、ちゃん
と映りますから」
 青年がスイッチを押し込む音が聞こえ、続いてディスプレイのかすか
にうなるような音が聞こえた。
「あの……常盤さん?」
「なあに?」
「当たりですよ」
「なにが?」
「さっき言ったじゃないですか。こうしてる間にも倉田さんが夢を見る
かもしれないって」
 美智子は驚いて立ちあがった。青年の後ろからモニターをのぞきこむ。
そこには例によって例のごとく、白と黒の幾千もの点が渦巻いていた。
「グッドタイミングね」
「ええ、間一髪でセーフですよ」
 砂嵐の画面は、ずいぶんと長い間続いた。やがて、点と点同士が集ま
り、像をむすび始めた。
 その時、何か、小さな物音が、背後でしたような気がした。美智子は
振り返ってみたが、しかし何事もなく、機器類が整然と並んでいるだけ
だった。再び、何かを映し出そうとしているモニターを見つめる。
 今度ははっきりと、人間のうめくような声が聞こえ、驚いて後ろを見
た。その声は、隣の部屋の音をひろっているスピーカーから出たように
思えた。
「うーん」
 今度は大きく、人間の低いうめき声がそのスピーカーから聞こえた。
美智子ははじかれるようにして窓辺にかけより、倉田氏を見下ろした。
「藤崎君、大変。すぐに先生を呼んできて」


   三

「どうした」
 滝田は室内に飛び込むなり怒鳴るように言った。時刻は夜の八時を過
ぎ、今日も何の進展もなしかと思いつつ、帰ろうとしていた矢先のこと
であった。
 すっかりかわいらしくなってしまった夢見装置のモニターが目に入り、
その画面をのぞきこもうとした。
「こっちです」
 美智子が青ざめた顔をして窓辺に立ち、手招きするのが目に入った。
滝田は一瞬のうちに、何か今までとは違う現象が起こったのを直感した。
 窓辺に立ち、両の手のひらをガラスにおしつけた。
「あっ」
 今までは、倉田氏が眠っている姿しか見たことがなかった。しかし今
の倉田氏は立ちあがっていた。酔っ払いのように体をゆらめかせながら、
腕から点滴の管をぶらさげたまま、立っているのだった。アイマスクは
自ら取り去ったのか、床に落ちてしまっていた。
 それは予想していたことのはずであった。倉田氏は、現在は一ヵ月に
一度程度の割合でレム睡眠行動障害の状態を示すと、高梨医師から聞い
ていた。そして倉田氏の担当医師が最後にそれを目撃した日からは、と
っくに一ヵ月以上経過していた。
「夢は? 夢はどうなってる?」モニターに駆け寄りのぞきこむ。「人が
映っている」
 ずいぶんと大勢の人間がいる。上半身裸で、下にスカートのような腰
布をつけた、褐色の肌をした男達だ。何か作業をしているようだ。彼ら
は古代エジプト人なのだろうか。何をしているのだろう。
 モニター画面の情景は、右に行ったり、左に行ったりを繰り返してい
る。
「常盤君、倉田さんは何してる?」
「なんだかきょろきょろしています。周りをながめているみたい」
 やはり、倉田氏のレム睡眠行動障害時の挙動と夢の内容とが一致して
いるようだ。
「あ、左の方をじっと見ています」
 モニターの動きが止まった。大きな、四角い石を数人がかりで運んで
いる。石の下に木でできたそりのようなものが敷かれ、それにつないだ
綱を何人もの男達が引っ張っている。その後方にも、別の石を運んでい
る男達が続いている。よく見ると、石の前方で男が水をまいている。巨
石を運ぶ男達の列がはるか彼方まで続いている。
 モニターに映る風景が、わずかに上下しながら移動し始めた。
「倉田さんが歩き出しました」と美智子が言った。「あっ、点滴を抜いた
わ」
 画面の中で、倉田氏はその石を運んでいる男達に近づいていく。滝田
は窓のそばに行き、見下ろした。倉田氏はゆっくりと歩いていき、やが
て部屋の壁につきあたった。
 ヘルメットからは、コードは出ていない。得られた信号は無線で夢見
装置本体へ送られる。レム睡眠行動障害や睡眠時遊行症で動き回ること
を想定してそういう仕様になっているのだ。
 再びモニターの前に戻る。男達と倉田氏の間の距離は、あきらかにベ
ッドと壁の間隔よりも離れていたのに、画面では男達がアップになって
いた。瞬間移動でもしたのだろうか。
 画面の右下から、褐色の肌をした腕が綱をひいている男の一人に向か
ってのびた。
「君達は何をしているんだね」
 隣の部屋の音を伝えるスピーカーから野太い声がした。
「壁に向かって話しかけてます」
「日本語だね」
 滝田は胸の前で両の手の指を組んだ。御見氏の時と同じように、古代
エジプト人の声色に変っているのだろうか。それとも倉田氏自身の声な
のだろうか。本人の声音はまだ聞いていない。
 話しかけられた男は画面に向かって何かわめきちらした。しかし、当
然声は聞こえない。
 映像はその男から離れ、かわりにそりの前に水をまいている男の方に
移動した。
「君達は何をしているのだ」
 男は倉田氏の問いに応じたようで、身振り手振りをまじえて何か説明
している。
「どのファラオだ」スピーカーから倉田氏の言葉が聞こえる。「ヒッドフ
ト王? 知らない名だ」
 男はさらになにか言っている。唇の動きからして早口でまくしたてて
いるらしい。ずいぶんと落ちつきのない男で、さかんに手を動かしてい
る。しかしそのボディーランゲージからも、何と言っているのかは読み
取ることはできない。
「分かった。もういい。邪魔したな」
 男が再び水をまき始めた。その時、画面がふっと暗くなった。
「夢が終わりそうです」
 後ろからのぞきこんでいた青年が言った。
 滝田は慌ててスピーカーの所に行き、その横に立っているマイクのス
イッチをオンにした。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 その音声は隣室のスピーカーユニットから出力される。
 振り向いて画面を見ると、元の明るさを取り戻していた。風景があっ
ちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。倉田氏が驚いて辺りを見回
しているのだろう。
「何者だ。私を呼んでいるようだが、私はクラタという名ではない」
「私達はあなたと話がしたいんです。いいですか?」
「寝言と会話してる」
 藤崎青年が呆然としたように言った。
「お前はどこにいるのだ。姿を現せ」
「僕、行ってきます」
 青年が駆け出した。
「私も。先生はどうします?」
「僕はここに残ってモニターを見張っている。さあ、早く行って」
 美智子は青年を追って、すごい音をさせてドアを叩きつけ、出ていっ
た。その時初めて、滝田はマイクを握りしめる手に汗をかいていること
に気がついた。
「倉田さん、じゃなくて、あなたはなんという名前ですか」
「無礼な奴だな。まず自分から名乗るのが礼儀だろう」
「失礼しました。私は滝田という者です」
「タキタ? 私に何の用だ」
「あなたの名前は何ですか」
「私か。それがな、私にも分からないのだよ。なんとか思い出そうとし
ているのだが、どうしても思い出すことができないのだ。だがクラタな
どという変な名前ではないことは確かだ」
「あなたはさっき、何を聞いていたんですか」
「ああ、彼らが何をしているのかということだよ。なんでも、ヒッドフ
ト王のペルエムウスを作るために、石を運んでいるのだそうだ」
「ヒッドフト王? そりゃ誰です」
「さあな。聞いたこともない名前だ」
「あなたは今どこにいるんですか」
 スピーカーから美智子の声が聞こえた。
「なんだ。すぐそばから女の声がしたぞ」
 美智子は倉田氏の近くにいるらしい。
「それは私の仲間です。これからあなたにいくつか質問をします」
 目は開いていたからうまくすると二人が夢の中に入り込まないかと期
待したが、残念ながら姿は現さなかったようだ。
「どこ、と言われても、私にも自分がどこにいるのか分からないのだよ。
君達はいったい何者だ」
「あなたはこの間までサッカラにいました。その前はギザにいました」
 美智子は無視して話を続ける。
「サッカラ? ギザ? 私には何のことか分からないが」
「あなたはこの間スフィンクスを見ていたわ。その次はジェセル王の墓。
違いますか」
「スフィンクス? なんだね、それは」
 滝田が割り込む。
「顔が人間で体がライオンの像のことです」
「ああ、あれか。確かに私はそこにいた。ジェセル王の墓も見た。だか
らきっと私はまだその辺にいるのだろう」
 画面が一瞬暗くなった。
「自分の意志で移動しているんじゃないんですか」
 美智子がとげとげしい口調で聞く。
「分からない。私は自分が誰なのかも、どうしてこんな所にいるのかも、
さっぱり分からないのだ」
「嘘よ。あなたは何か隠してるのよ。あなたどうして私達の研究室に現
れたの? 夢見装置のモニター壊したの、あなたでしょ」
「おお、これはどうしたことだ。まるで罪人扱いではないか」
 モニター画面が二度瞬いた。慌てて美智子を制する。
「常盤君、やめなさい。すみません。この女性の無礼をお許し下さい」
 滝田は、もうあまり時間がないと感じた。
「あなたは、インドに行かれたことはありませんか? あるいは、日本
に来たことはないですか?」
「インド? ニホン? それはどこにあるのだ。聞いたこともない場所
だ」
 モニターを振り返る。画面が徐々に暗さを増していく。
「私は疲れた。もうそろそろ休ませてくれないか」
「最後にもうひとつだけ。ちょっと自分の足を見てくれませんか」
「自分の足?」
 モニターの風景が、ゆっくりと下がった。そして、倉田氏、というよ
りも夢の中のその人物の、胸から下を映し出した。
 半円形の、青や赤や紫の小さな四角形をたくさん組み合わせて作られ
た首飾りが見える。その下には褐色の筋肉質の胸が、そしてひきしまっ
た腹が、さらに下には白い腰布が、そして砂の上に半ば埋まった裸足の
足が見えている。
「先生、もう夢が終わりそうなんですか?」
 美智子が叫ぶように言った。
「ああ、もう限界だ」
 美智子は奇妙な呪文のような言葉をつぶやき始めた。
「あなたはまた、夢の中で目覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目
覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目覚める」
 何言ってんだあいつ、と、滝田は心の中で舌打ちした。
 モニターの風景が急速に暗くなり、そして消えた。
「あっ、倉田さん」
 声に驚き、窓に駆け寄って下を見ると、倉田氏が倒れていた。




#543/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:51  (239)
眠れ、そして夢見よ 4−2   時 貴斗
★内容
   四

「ペルエムウスって何ですか?」と、青年は聞いた。
「あら、知らないの? 英語のピラミッドはギリシャ語のピラミスから
来てるんだけど、ピラミスの語源については定説がないの。唯一の祖先
と考えられる言葉がペルエムウス」
「最後のあれ、なんだったの?」
 滝田は美智子に聞いた。
「催眠術がきっかけでああなったって、先生言ってましたよね。きっと
倉田さんは暗示にかかりやすい体質なんだろうと思って、暗示をかけた
んですよ。次のレム睡眠行動障害まで一ヵ月も待たされたんでは、たま
りませんからね」
「ふーん。うまくいくといいね」
 滝田は青年が持ってきたコーヒーをすすった。
「ヒッドフト王って、誰ですか」
 青年は、滝田が倉田氏に聞いたのと同じことを聞いた。
「ヒッドフトというファラオは本に載ってないわ」
 美智子もコーヒーに口をつけた。
「すごい。常盤さんは全部の王の名前を暗記してるんですか」
 青年は目を丸くした。
「ええ、本に書いてあったのは全部」
 美智子はなんでもないことのように言う。
「きっと歴史の教科書にも載ってないような、名もない王様だったんだ
ろうよ」
「ええ、残念ですね」
「残念? と言うと?」
「もしも名のある王だったら、どのピラミッドを建造している最中か分
かるから、倉田さんがいるおおよその年代が分かったかもしれません」
「少なくともスフィンクスとジェセル王のピラミッドよりは後だね」
 だが、そう言いながらも滝田は、倉田氏が現在どの時代にいるのかな
ど、些細なことだというような気がしていた。
 倉田氏は一体何者なのか。
 あの偉そうな口調の人物のことではない。今ベッドの上で再び昏睡に
陥った倉田氏は一体何者なのか。その方がずっと重要な問題だという気
がする。あきらかに、奇妙な睡眠障害になる以前の、ごくごく平凡な一
般市民にすぎない人物とは違った存在に変わってしまっている。彼は一
体何者なのか。
「先生が最後にした質問、あれは何です? どうしてあんなことを言っ
たのか、理解できませんでしたわ」
「え? ああ、自分の足を見ろってやつね。倉田さんの体を見たかった
のさ。録画されてるはずだから、後で見てみるといい。腰布しか身につ
けていなかった。肌は褐色だったよ。ああ、首飾りもつけていたけどね」
「するとやっぱり、倉田さんは今古代エジプト人になっているんだわ。
当時の一般的な服装です」
「そうだね。首飾りはつけていなかったけど、他の人達もそんな服装だ
った」
 美智子から借りた本の中にも、同じような格好の人物が描かれた壁画
や像がたくさん出ていた。
「首飾りをしているということは、上流階級の人かもしれませんね」
 インド人については不明だが、これで御見氏とエジプト人については、
確かにその人物になったのだということが、断言できそうだ。
「でも、常盤君が言うところの、現実的な解釈だとどうなるんだろうね。
倉田さんは古代エジプトの関係の本を読んで、それが夢に現れた、とい
うことになるんだろうか」
「それにしては情景が緻密すぎますわ。砂との摩擦を減らすために水を
まくところまで再現されています。どうして倉田さんはそんなに古代エ
ジプトのことに詳しいのかしら。それに本で読んだり、ネットで検索し
たりしたとしても、それだけであんなに鮮やかにイメージできるものか
しら」
「ああ、まるで見てきたような風景だったな」
「見てきたんじゃありません。見ているんです。倉田さんが夢の中で実
際に古代エジプトにいることは、確実です」
 倉田氏が古代エジプトにいることは認めるくせに、どうして前世とか
いう言葉を出すと怒り出すんだろう、と滝田は思う。
 その時ふと、ある可能性に気づいてはっとなった。
「とすると、これは大変だぞ。彼は夢を見るだけで実際のその場に行け
る。彼は歴史を変えることができる」
「なんですって?」
「だってそうじゃないか。彼は夢の中で研究室に現れ、そしてモニター
を壊した。すると実際にモニターが破壊されてしまった。彼がエジプト
で何かしでかしたら、それによって歴史が変わってしまうかもしれない」
 分厚い眼鏡の向こうで美智子の目が大きく見開かれた。


   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。
後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもの
のない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が
目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面
レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智
子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力
してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってな
いから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないで
すかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへと
になって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸
びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中
のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がった
の。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、
塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同
じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。
みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそ
んなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。
そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。
いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで
分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと
愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんで
す。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイ
オリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意
味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのか
とか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩
に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩さ
せて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれも
あるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうな
っただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に
繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどん
どん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得
意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりも
うまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣って
いたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えては
いない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれ
だけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういう
の、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじ
ゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕
がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃ
ならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には
分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。そ
れじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登る
のか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなど
とは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかも
しれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。そ
れは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをし
たり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、
公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、
そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働
くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにで
きているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なの
か。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立て
られるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、
大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身
動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじ
て勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安
定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてる
のよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。
つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本
当にそれでいいのだろうか。


   六

 眠れない。滝田は寝返りをうつ。もう何度こうして、ベッドの上で体
を回転させたことか。
 人はなぜ眠るのか? 決まっている。脳を休ませるためだ。ずっと眠
らずにいるとどうなるか。幻覚を見る。それでも眠らずにいるとどうな
るか。死ぬ。
 滝田は起きてゆっくりと立ちあがる。寝室をさまよい、明かりのスイ
ッチを探す。住みなれた家だ。目をつぶったままでも、スイッチを探り
当てることができる。
 不眠に悩む人がいる。一ヵ月も眠っていないと言う。だが、そういう
人は実はちゃんと眠っているのだ。浅い眠り。立ったまま眠っている。
起きながらにして眠っている。目を開いたまま脳は寝ている。だから死
なない。
 明かりをつけ、部屋を出る。
 滝田は階段を下りる。この先にはキッチンがある。台所は主婦の戦場
だ。だがその主婦殿は、もういない。滝田は自分のほほがひきつるのを
感じた。
 そこには何があるか? ウイスキーだ。若い頃はビール派だったのに、
すっかりウイスキー派に転向してしまった。
 人はなぜ酒を飲むか。大人になるためか。子供時代と決別するためか。
いや、そうではあるまい。男の言い分だ。女はどうなる? 女は、酒も
煙草もやらなくても、立派な大人になっている。
 ダイニングの明かりをつける。蛍光灯がしばらく点滅する。もうそろ
そろ交換しなくてはならない。面倒くさいと滝田は感じる。LED照明が
一般的になった現在でも、滝田の家では蛍光ランプを使っている。あの
中には電気を受けると光る気体が封入されているんだとか。はてそうだ
ったかな。学校で習ったような気がする。記憶があいまいだ。確実に歳
をとってる。いやだ、いやだ。電気の刺激を受けて、それで光っている。
交流電流が、行ったり、来たり。
 食器棚の下から、ウイスキーを取り出す。グラスに注ぐ。
 冷凍庫から氷を取り出して入れる。さっそく一口飲みこむ。のどが熱
くなる。腹が熱くなる。
 酒が眠りを誘発するまでの時間、今日も女房殿と過ごすか。そうしよ
う。和室に行こう。
 明かりをつける。こちらの蛍光灯はまだ大丈夫だ。重々しく仏壇の前
に腰をおろす。
 女房殿に乾杯。左手に持ったボトルを畳の上に置く。右手に持ったグ
ラスを口に運ぶ。
 人はなぜ夢を見るか。これは難しい。滝田がずっと取り組んできたテ
ーマだ。夢を見ないと死ぬか? まさか。
 人はレム睡眠の時に眠りが浅くなる。だからこの時に起きるのが理想
的だ。脳が活発になっているから夢を見る。夢は脳の働きの一つの現象
だ。それだけのことにすぎないはずだ。だが倉田氏は違う。夢が、本来
の意味とは全く違った意味を持ってしまっている。
 あれは一体何だ。
 酒を一気にあおる。おかわりをつぎたす。飲酒するとなぜ眠くなるか?
脳の活動が弱まるためだ。アルコールの効用とはまさに、そこにあるの
だ。
 滝田は、急激に酒が効いてくるのを感じた。さて、もう一杯。いいぞ。
脳の働きが弱まってくる。徐々に、眠気を催す。さらにもう一杯。
 滝田は、立ちあがるのが億劫になってきた。仏壇を見つめたまま、横
になる。今夜はこのまま、女房殿といっしょに寝てしまうことにしよう
か。




#544/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:57  (393)
眠れ、そして夢見よ 5−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/07 21:03 修正 第3版
   古代――現代


   一

 高梨様。これまでに分かったことを報告致します。現在、夢見装置で
確認できた倉田氏の夢は四回です。そのうち一回はレム睡眠行動障害の
状態での観察に成功しています。最初の二回は、スフィンクス、ピラミ
ッドの断片的な映像でした。三度目は驚くべきことに、見たはずがない
我々の研究室の夢を見ました。その映像は実に正確であり、なぜ彼がそ
んな夢路をたどることができたのかは謎のままです。
 四度目がレム睡眠行動障害の状態でのものであり、彼は夢の中で古代
エジプト人達と会話をしております。我々は彼にいくつかの質問をする
ことに成功しており、その結果、御見葉蔵氏の時と同様、彼が現在古代
エジプト人になっていることはほぼ確実と思っています。
 今後の研究はさらに期待の大きいものとなる予定です。

 滝田は電子メールの文章をそこまで打って、しばらく考え込んだ。そ
して、ウィンドウの×マークにカーソルを合わせ、マウスをクリックし
た。
 こんな事を高梨医師に報告していいのだろうか、と滝田は思う。学会
で発表していい内容だろうか。
 おそらく一笑に付されるだろう。だが、証拠のデータが揃っている。
高梨が言った通り、医学の世界だけでなく、科学の世界にも大きな波紋
が生じるかもしれない。
 高梨の名誉などというくだらないもののために、どうしてこんな貴重
なデータを渡さなければならないのだろう。
 研究費の援助など断ってしまおうか。そのかわり、何の情報も渡さな
い。おそらくそうはいかないだろう。倉田氏を夢見装置につないでしま
った時点で、すでに後戻りできない状態になっていたのだ。いろいろな
ことを知りすぎてしまった。
 滝田は伸びをした。疲れた。右手で左肩をたたく。
 壁の時計を見るともう十時を過ぎていた。まだ誰か残っているだろう
か。
 ふいに、寂しさを感じる。この下では今も車や人が行き交っているだ
ろう。都会は眠らない。
 部屋を見まわす。本棚には様々な論文やら、本やらがぎっしりと詰ま
っている。楽しむために読むのではない、無味乾燥な資料達。こんなふ
うにふと、自分がいる環境が寂しいと感じることがある。普段は全く気
にしていないのに、何かのはずみに冷静な感覚がゆるんだ時に、長くつ
きあってきたはずの、学術誌や、パソコンや、カーテンが、ひどくよそ
よそしく感じられ、部屋の空気が急に冷たくなったように感じるのだ。
 滝田は立ち上がった。みんな帰っただろうか。倉田氏はどうしただろ
う。所長室を抜け出し、静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりの右手
に、夢見装置のある滝田研究室がある。入り口のドアをみつめる。この
扉もだいぶ古びてきたなと、滝田は思う。
 ドアをゆっくりと開け、中に入る。誰もいない。美智子も青年も今日
は帰ったらしい。明かりがついたままの、誰もいない部屋は、とても不
気味に感じられる。もう十年以上もここにいるのに、この気味悪さだけ
は決して慣れることがない。
 窓の方に行こうとしてモニターの横を通り過ぎた時、なにか、光がう
ごめいているのが目の隅に入った。振り返ると、モニターは例の白と黒
の点がうずまく砂嵐の画面になっていた。


   二

 ディスプレイが何かの像をむすび始める。滝田の胸に研究者の冷静な
感情が戻ってきた。寂しさや不気味さが、心の中から消え去る。だがそ
の冷静な感覚は、すぐさま驚きへと変わった。
 どこだろう? どこかの家のようだ。幸いにして、というべきか、こ
こではないようだ。あきらかに古代エジプトでもない。明かりが灯って
いる。廊下だ。前に見たような風景だ。どこで見たんだろう。現代だろ
うか。それとももっと前だろうか。日本の家屋のように見える。
 滝田はようやく思い出した。倉田家だ。倉田の妻に会いにいった時に
見た、倉田家の廊下だ。倉田恭介は夢の中で、自分の家に戻ってきたの
だ。古代エジプト人として? それとも倉田恭介自身として?
 慌てて窓から倉田氏を見る。眠ったままだ。急いでモニターの前に戻
る。
 夢の中の倉田氏、あるいは謎のエジプト人は、泥棒が盗みに入ったよ
うな感じで廊下を歩いていく。
 倉田氏は、滝田があの時案内された部屋のふすまを開け、中をのぞい
た。室内は真っ暗だ。するともう家族達は寝てしまったのだろうか。滝
田は腕時計を見る。まだ十時二十一分。もっとも、これは現在の倉田家
とは限らないが。
 開けっぱなしにしたまま、そこから離れる。倉田氏は階段の方へ歩い
ていく。
 家族が寝てしまったとすると、廊下の明かりがつけっぱなしなのはお
かしい。倉田氏は階段にたどりついた。真っ暗だ。壁を見て、その明か
りのスイッチをつけた。
 これで合点がいった。廊下の電灯は、倉田氏がつけたのだ。足元を見
ながらゆっくりとのぼっていく。
「あっ」
 滝田は思わず声をもらした。それは、古代エジプト人の褐色の足では
なく、やせ細った青白い裸足の足だった。あれは倉田氏のものだ。前は
古代エジプト人だったのに、なぜいきなり倉田氏自身になるのだ?
 階段をのぼりきるとまたしても廊下があった。倉田氏はその明かりも
つける。かなり大胆な行動だ。倉田氏の夢の中の行為がそのまま現実に
なるとすると、家中の照明をつけて回っていることになる。家族の誰か
が起き出したらどうするのだ?
 左手にある木製のドアを少しだけ開いた。廊下から差し込む光で中の
様子がうっすらと見える。そして大きく開き、入っていく。布団が二つ
敷いてある。倉田氏は二人の人物を交互に見つめる。一人はこの間見た
子供だ。あとの一人はもう少し大きい子だ。たぶんお兄ちゃんだろう。
 しばらくの間、画面は二人の子供の顔を映していた。倉田氏にとって
は久しぶりの再会だ。
 反転し、部屋から出ていく。木のドアをゆっくりと閉める。今度は通
路をはさんで反対側の扉を開けた。中はやはり真っ暗だ。廊下からの光
でかろうじて様子が分かる。倉田氏は室内に入りこんだ。画面がそこに
寝ている人物のアップになる。倉田の妻、芳子だ。
 滝田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。実行するには少し勇気がいる
が、声を変えれば大丈夫だろう。携帯電話を持ち倉田の家に行った時に
聞いておいた電話番号をタップする。もしもモニターの情景が現在のそ
れであるならば、うまくいくはずだ。
 風景が反転した。足早に部屋を出る。画面がすごいスピードで動いて
いく。階段へ、そして階下へ。
 うまくいった。電話は一階にあるらしい。倉田氏は台所に飛び込んだ。
廊下から漏れる明かりで薄っすらと情景が分かる。入ってすぐの所にあ
る固定電話の前に立った。
 さすがに、倉田氏が受話器をとってくれることは期待できない。かけ
ている相手は倉田の妻だ。倉田氏はどうしてよいのか分からないという
ふうに、そのまま電話を見つめている。画面が回転し、台所の入り口を
映す。倉田の妻が登場した。眠そうに目をこすりながら、明かりをつけ
る。映像が少し横にずれた。倉田恭介がいた場所に立ち、受話器をとっ
た。彼女には倉田氏の姿が見えていないのか?
「はい、もしもし」
 滝田は鼻をつまんで話し出す。
「あ、奥さん? すみませんが、ちょっとそのまま私の話を聞いてくれ
やせんか」
「あの、もしもし? どなたですか?」
「廊下の電気、ついてたでしょ? 階段も」
「まあ」
 倉田の妻は例の耳障りなきんきん声で驚いた。
「あなたがやったのね? 泥棒!」
「いえいえ、あたしゃ奥さんの家に入ってませんけどね。ちょっと、和
室のふすまも見てきてくれやせんかね。開いてるはずなんですけど」
「ふざけないで! この変態」
「大真面目ですよ。あのちょっと、左を見てくれやせんか」
「えっ」
 彼女がこちらを向いた。そして彼女の前には、彼女の旦那が立ってい
るはずなのだ。
「何か、見えやせんかね。誰か立ってません?」
「何言ってるのよ。気色の悪いこと言わないで。この変態」
 おや? と滝田は思った。モニターの風景が、右に、左に回転し始め
たのだ。辺りを警戒しているらしい。感づかれたかな、と滝田はひやり
とする。
「あ、もうそろそろ切りやすんで。お休みなさい」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 携帯を切る。倉田の妻は画面の向こうで何か言っている。だいぶ怒っ
ているらしい。しばらくして、ようやく電話の前から離れた。部屋の電
気が消える。
 一分近くたって、再び台所の明かりがついた。電灯のスイッチが映っ
ている。
 どうする気だろう、と思っていると、電話機の前に戻った。ボタンを
プッシュし始める。しまった。非通知でかけるべきだった。着信音が鳴
る。無視すべきかどうか一瞬迷ったが、ボタンをタップした。背筋の寒
くなるような声がこう言った。
「人の夢をのぞくな」
 モニターが急速に暗くなり、消えた。


   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田
は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつ
くことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかっ
た。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田
の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかける
べきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お
父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父
さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなん
だよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳
を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われて
いないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんど
ん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃう
よ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、
縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形く
らいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏む
たびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路
地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかっ
た。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大き
な音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に
時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなって
いた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。
滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしても
ビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。
こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点にな
ってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆
け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方
だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。そ
の雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろして
いるのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分
かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に
戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこ
んでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言っ
た。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、
大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社
員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であ
ったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して
許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて
死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。
あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意
識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


   四

「つまり、今度は倉田さん自身になったって言うんですか?」
 滝田が昨日の話をした時、美智子は目を丸くした。
「ああ、おかげで悪い夢を見てしまったよ」
「しかも倉田さんの夢がテレビ電話になっただなんて」
 青年も驚きの声をあげる。
「記録は残っている。電話の内容も、ちゃんと録音してある」
「倉田さんの家に連絡して、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」
「何て言うんだい? 倉田さんが夢の中で古代エジプト人になっている
ことさえ、まだ奥さんには教えてないんだよ。ここで何が起こっている
か教えたら、パニックに陥るだろうね」
 聞きたいことは、山ほどある。倉田氏にも、倉田氏の妻にも、和田幸
福研究所の和田氏にも。しかしそれが聞けないから、もどかしいのだ。
「倉田さんは前にも現代に現れていますよね」と美智子は言った。「あの
時も、倉田さん自身として現れたんじゃないかしら」
 それは滝田も考えたことだ。当然、そういうふうに連想が働く。スパ
ナを振り上げた手は細く青白かった。しかし滝田は、彼女の意見が聞き
たくて、言った。
「どういうことだい?」
「倉田さんはずっとエジプト人で、昨日初めて倉田さん自身になったの
ではなくて、ある時はエジプト人、ある時は自分自身になっているんで
す」
「すると、今までの秩序がくずれるわけだ。順々に過去にさかのぼって
いたのに、今は過去に行ったり、現在に来たり、自由自在に行き来でき
るようになったわけだ」
 それは、昨日から今日にかけて滝田がずっと自問自答してきたことだ
った。だが、答が出ない。美智子なら、何か目新しいことを考えついて
くれるかもしれない。
「それは違います。倉田さんがどうして、順々に過去にさかのぼったっ
て言えるんでしょう。エジプト人よりもインド人の方が過去かもしれま
せんよ。そもそも、倉田さんが前世の記憶をたどって過去に行ったって
いう先生の考えにも、私は賛成できません」
「なるほど。前世案ははずれというわけだ。それじゃ常盤君は、どうし
て倉田さんが自由にいろんな時代に行けるようになったと思うんだい?」
「そんなの分かるわけがありません。今回の現象は分からないことだら
けなんです。現代医学では考えられない睡眠障害も、倉田さんが御見葉
蔵氏にとりつかれたようになったのも、古代エジプトもモニターが割ら
れたのも、すべて人間の理解を超えているんです。私達がちょっとやそ
っと考えたくらいで、分かるわけがありません」
 やれやれ、いつものように非難するだけか。滝田はがっかりした。
 保守的だと滝田は思う。神のみぞ知る。全ては人間に分かるわけのな
いこと、では科学など発展するわけがない。不可知な事象を必死に分か
ろうと努力してきたからこそ、今の科学があるのだ。
 意外にも新しい考えを提示したのは藤崎青年だった。
「ひょっとして、古代エジプトにタイムマシンがあったりして」
 青年は照れて笑った。
「どういうこと?」
 滝田は青年に向かって顔を突き出した。
「あ、いえ、先生の前世案が正しいとして、古代エジプト人となった倉
田さんは、古代エジプトでタイムマシンを見つけたんです。あくまで仮
定ですよ。それで現在にも現れるようになった……なんて」
「馬鹿げてるわ」美智子の顔にありありと軽蔑の色が浮かんだ。「そのタ
イムマシンは誰が作ったの? まさか宇宙人が持ってきた、なんて言わ
ないでしょうね」
「いや、すみません。僕は真面目に言ったつもりじゃ……」
「倉田さんはどうしてギザやサッカラなんていう、古代エジプトでは重
要な場所にいるんだろうね」と、滝田は言った。「宇宙人だか未来人だか
知らないが、彼らはタイムマシンで古代エジプトに行った。そして、ギ
ザかサッカラのピラミッドのどれかにタイムマシンを隠した。それを見
つけた古代エジプト人は、自由に時を越えることができるのを知ったん
だ。古代人は恐れおののき、以来ギザ、サッカラの辺りは聖地になった。
倉田氏はたまたまそのタイムマシンを見つけ、現代にも来れるようにな
った。そんな可能性が、百パーセント絶対にないとは、言いきれないと
思うがね」
「よくもまあ次から次へと、変なことを考えつきますね」
 美智子の眉がつり上がる。
「ピラミッドは必ずしも、王のお墓だったとは限らないそうじゃないか。
常盤君から借りた本に書いてあったんだけど」滝田は口をへの字に曲げ
た。「ギザの第一ピラミッドには、他のピラミッドと違って玄室が地下で
はなく、地上五十メートルくらいの所にあるそうじゃないか。案外そこ
が、実はタイムマシンだったりしてね」
「馬鹿馬鹿しい。知りませんわ」
 美智子はそっぽを向いた。
 だが残念ながら、青年のタイムマシン案は却下になりそうだ。それだ
と、現代に現れた時の痩せ細った手が説明できない。その時には倉田氏
自身になっているのだ。謎の古代エジプト人がタイムマシンを見つけた
のなら、夢見装置に映る手も褐色でなければならない。
「僕の考えを言おうか。藤崎君の考えと似たようなもんだから、怒らな
いでくれよ。倉田さんは記憶をたどって前世にさかのぼったが、古代エ
ジプトくらいに昔になると、記憶もかなりあいまいだ。だから完全に古
代エジプト人になりきれずに、時々倉田氏自身に戻ってしまうんだ。こ
れだと謎の古代エジプト人が、自分は誰で、どこの人間かも分からない
ことも説明がつく」
「御見さんは実在の人間なのに、まるでエジプト人は倉田さんの夢が作
り出した架空の人物のような言い方ですね」
 そうかもしれない。エジプト人の方は実際に存在したその人とは違う
偽者なのかもしれない。待てよ? すると倉田氏が死ぬとエジプト人も
消えてなくなるのか?
「あともう二つ、今回の夢には謎があるんだ。一つは、謎の古代エジプ
ト人の時には周りの人間には彼が見えていたのに、倉田氏の時には奥さ
んからは彼が見えていなかったことだ」
「幽霊じゃないんですか? ほら、幽霊だと姿が見えるのと、見えない
のがいるじゃないですか」
 美智子は皮肉で言ったのだろうが、滝田はさも感心したような顔をし
てみせた。
「なるほど。夢の中の倉田氏は、言ってみれば幽霊みたいな存在だ。自
由に姿を現したり、消したりできる能力があるのかもしれないね」
 美智子のかわいらしいくちびるがゆがんだ。
「もう一つは、『人の夢をのぞくな』という文句だよ。倉田さんは、夢見
装置で我々が彼の夢をのぞき見していることを知っている」
「そうよ。倉田さんは怒っているんだわ。だって、これはプライバシー
の侵害ですもの。モニターを壊したのも、そのせいだわ」
「どうしよう。倉田さんを怒らせてしまった」
 滝田は狼狽した。滝田の心中を察したかのように、美智子が言う。
「彼、今度現れたら、夢見装置を壊してしまうかもしれませんよ。モニ
ターだけでなく、全部」
「大変だ。なんとかなだめないと」
「古代エジプト人やインド人はなだめなくていいんですか?」と藤崎青
年が聞く。
「三人は別人だろう。共通の認識を持っているわけじゃない。エジプト
人はモニターが壊されたことを知らなかったようじゃないか」
 青年は腑に落ちない顔をしている。確かに、別の人物とは言っても一
つの脳で起こっていることだ。
「どうやってなだめます? 夢見装置は彼の視覚情報を得る能力しかあ
りませんわ。彼が何て言ってるのか聞くこともできない。こちらの話を
聞いてもらうこともできない」
「できないことはないさ。彼が彼自身としてレム睡眠行動障害の状態に
なった時がチャンスだ」
「今のところ、御見氏や、インド人や、古代エジプト人の時にはあった
けど、彼自身としてレム睡眠行動障害の状態になったことはないんです
よ」
「入院前にはあったよ。しかし、眠ったままでも話せる方法がある。あ
れだよ」
 滝田は研究室の隅の電話を指差した。
「あれに張り紙をしておくのさ。『どうかこの電話をとって下さい』って
ね。で、携帯でかけて話す」
 なかなかいいアイデアだと思ったのだが、美智子は納得していないよ
うだ。
「だったら電話なんかいらないんじゃありません? 電話で彼の声が聞
こえるのなら、この場で倉田さんがしゃべれば、みんなに聞こえるんじ
ゃありません?」
 姿は現さないのに声だけ発するというのはなんだか変だ。
「この場と言っても、夢の中のこの部屋だよ。現実世界とつながってい
ない。倉田さんが夢の中でしゃべっても、それを聞くことができるわけ
がない」
「それじゃあ、電話だとどうして話せるんですか」
「倉田さんが夢の中の現象を、現実の事象として実現できるからさ。彼
が夢の中の電話で話すと、実物の電話機にもその声が伝わると考えられ
ないかね?」
 また、こじつけだわと怒られるかと思ったが、美智子はあきれたのか
反論しなかった。
「あともう一つ、謎がありますわ」
「なんだい?」
「倉田さんが日本語で話すことです。どうして古代エジプト語や、イン
ド語じゃないのかしら」
「夢の中のエジプト人は古代エジプト語でしゃべった。しかし僕達が声
を聞いたのは倉田さんの口からだ。英語は少しくらい習ってるだろうが、
たぶん日本語しか知らないと思うよ」
 美智子はうなずいたが、納得していないことは明らかだ。
「では、こちらの言葉がエジプト人に伝わるのはなぜなんですか?」
「うーん」これは難しい。「倉田さんはイタコのような状態になってるん
じゃないか? 昔ある番組でアメリカの女優さんの口寄せを行った時、
彼女の霊は下北弁で会話に応じたというのを聞いたことがあるよ」
 美智子は苦虫を噛み潰したような顔をした。全て滝田の仮説にすぎな
い。
 滝田は思いついて付け足した。
「張り紙だが、ここの電話番号も書いておいた方がいいな。倉田さんか
らかけてくる場合もあり得る」




#545/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。




#546/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:01  (163)
眠れ、そして夢見よ 5−3   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:58 修正 第2版
   八

「先生、来てください!」
 所長室の扉が勢いよく開き、美智子が真っ青な顔をして飛び込んでき
た。
「ん? どうしたの? まさか倉田さんが夢を見て、研究室に現れたな
んて言わないだろうね」
「その通りなんです!」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子はすでに振り向いて走り出してい
た。
「手は? 足は? どんな色だった?」
 美智子を追いかけて廊下を走りながら尋ねる。
「まだ手も足も映っていませんが、倉田さんに違いありません」
「倉田さんは起きてるの? 寝てるの?」
「寝てます」
 美智子に続いて部屋に飛び込む。彼女が道をあけたので、そのままモ
ニターの前まで走った。
 そして、その映像を見た時、背筋を氷でなでられるような感覚を味わ
った。
「ほら、いるでしょ。私達」
 美智子は凍りついた声で言った。
 倉田氏が室内を見回している。その中に、棒のように突っ立ってモニ
ターを見つめている滝田と美智子の姿があった。ということは、姿は見
えないものの、彼は現在この研究室の中にいるのだ。画面から推測する
と、彼は入り口の近くにいるようだ。
 倉田氏は眼球運動をとらえるモニターの前に移動した。白い十字マー
クが右に行ったり左に行ったりしている。
 滝田は体をねじった。実物の眼球運動監視用モニターの十字も、同じ
ように動いている。
「倉田さん、そこにいるんですか」
 無駄だと知りながら彼が立っているであろう方向に問いかける。彼は
何の反応も示さない。
 滝田はマイクのスイッチをいれた。
「倉田さん、聞こえますか」
 これまた、無駄なことだった。枕元で倉田氏に呼びかけるなんていう
試みは、何度もやってみた。
 倉田氏は十字マークを眼で追うことに飽きたらしい。視線がそのモニ
ターから離れ、再び室内をただよいだす。
 夢見用ディスプレイの側面で止まる。そのまま注視している。この間
のより小さくなったな、とでも思っているのだろうか。映像がゆっくり
と移動していく。モニターの前で立ち止まった。倉田氏と滝田が重なっ
た。恐ろしさのあまり思わず滝田は飛びのいた。
 この間と同じようにモニターの中にモニターが延々と並ぶ異常な画面
が映し出された。だが今度は、そのディスプレイの列が静かに左に動い
た。まるで奥に行くほどすぼまっている四角錐があって、その頂点をつ
まんで動かしているかのようだ。倉田氏が視線を右に動かせば、当然モ
ニター達は左に動いていく。そして今度は右に動いた。さらに上に、下
にと、倉田氏はこの奇妙な映像を楽しんでいるようだ。
 やがてそれにも飽きたらしく、見る方向が変わり始めた。ゆっくりと
回転していく。斜め後ろから画面を見ている美智子の姿を映した。
「やだ、こっちに来るわ」
「落ちついて。下手に彼を刺激しないように」
 美智子の顔がアップになった。目と鼻の先に、倉田氏がいるはずなの
だ。モニターの中の彼女の顔がわずかにふるえだし、額に一滴の冷や汗
が流れた。
 さらに彼女に近づいていく。どうするつもりだろう。キスでもするの
だろうか。
 美智子は毅然として腕を組んだまま立っていたが、ついに耐え切れな
くなったらしく、横に飛びのいた。
「きゃっ」
 配線に足をひっかけて転んだ。床にくずれた彼女を映す映像が小刻み
に、上下にゆれた。倉田氏は彼女をせせら笑っているのだ。
 反転し、画面を見つめる滝田を映した。滝田の体中に緊張が走り、石
のように硬くなった。映像が滝田に近づいてくるにつれて、滝田の額に
も冷や汗が流れた。
 もう滝田のすぐそばだ。滝田は彼の方に向き直った。硬い笑みを浮か
べ、左手で拳を作って耳の下にあてがった。右手の人さし指を空中につ
き出し、いくつかのボタンを押す仕草をした。そして部屋のすみにある
電話を手の平で示した。画面が素直にそっちの方に動いていく。
 ライトグリーンの電話機に、「どうかこの電話をとって下さい」という
間の抜けた文句が書かれた紙が貼ってある。滝田はすかさず携帯を胸ポ
ケットから取り出し、かけた。呼び出し音が鳴る。モニターの中で、倉
田氏の青白い腕が伸びて受話器をとった。実物の電話機の受話器が宙に
浮いているのを見て、滝田の全身に鳥肌が立った。
 おそるおそる、声をかける。
「倉田さん、聞こえますか」
「……」
 返事がない。滝田は自分ののどが鳴るのを聞いた。もう一度呼びかける。
「倉田さん、聞こえたら返事をしてください」
「そんなに私と話したいですか?」
 それは明らかに古代エジプト人の声音とは違う、倉田恭介氏本人の声
だった。そのやや低い音声が耳に入った途端、滝田は背中に何百匹もの
ミミズが這い回るような感触を味わった。
「あまり時間がありません。単刀直入に言います。私達は倉田さんの夢
をのぞき見していました。申し訳ありません」
「知っていましたよ」
 ああ、やはり。気まずい感情が滝田の中に流れた。
「私は頻繁にここに来ています。先生方の会話も聞いています。それで、
私の夢をのぞき見しようとしていることを知りました」
 そうだったのか、と滝田は思う。かなりはっきりとした夢の場合にし
か、夢見装置でとらえることはできない。倉田氏はもっと多く夢を見て
いたのだ。
「すると、自分が古代エジプト人になっていることもご存知ですか」
「ええ。最初、誰の話かと思いましたよ。しかしどうやら私のことを言
っているらしい。私はどうも大変な状態になっているようですね」
「古代エジプト人の時の記憶は残っていませんか」
「はい。私にもそんな自覚はありません。正直言って、自分がエジプト
人になっているなんて、信じられないんですよ」
 倉田氏だ。今話しているのは、古代エジプト人とは完全に切り離され
た、倉田恭介氏本人なのだ。
「モニターを壊したのは、あなたですか」
「ええ。しかし私は、悪いことをしたとは思っていませんよ。これ以上、
私の夢をのぞくのはやめてくれませんか。もうそっとしておいて下さい」
 さて、困った。やはり倉田氏には病院に帰ってもらうのが最良の道な
のだろうか。本人がもう夢をのぞいてくれるなと言っているのだ。高梨
を説得することはできるだろう。しかし、あきらめがつかない。なんと
か調査を続けたい。それには理由が必要だ。
「しかし、病院の方ではあなたの病気はまったく原因不明で、それを解
明する鍵は夢だと言っています。私達もなんとかあなたを救いたいんで
す」
 しばらく、言葉はなかった。倉田氏は次に何を言おうか考えているよ
うだ。
「なぜ私を救うんです。私は夢の中でならなんでもできる。私が人間を
殺せばその人は本当に死ぬ。私は銀行の大金庫に現れることもできる。
私は、核ミサイルの施設に侵入し、核を発射することだってできる。そ
んな私を、どうして生かしておくんですか?」
 滝田は困った。そう言われてしまうと、倉田氏の存在は非常に危険で
あると言わざるを得ない。倉田氏が歴史を変えるととんでもないことに
なると考えたのは、滝田自身ではなかったか?
 一つの言い訳を思いついた。
「それは、あなたが大人だからです。子供は未熟だから、平気で殴り合
いのけんかをします。自分の思い通りにならないからといって泣きわめ
きます。大人は、理性によってそれを抑えています」我ながらくさいな、
と思う。「あなたのような特殊な能力を持っていない人でも、罪を犯すこ
とはできるでしょう。警察に捕まるような犯罪はできないが、石を投げ
て窓ガラスを割って逃げるくらいはできるでしょう。どうして大部分の
人はそれをしないんでしょうか? 人間には理性というものがあるから
です。何をしてはいけないかが、分かっているからです。人の迷惑にな
ることをしてはいけないという、自制心が働くからです。倉田さんは今
までいくらでも時間があったはずなのに、どうしてさっき言ったような
罪を犯さなかったんでしょうか? それは、倉田さんがそれをしてはい
けないと、分かっているからです」
 再び緊張に満ちた沈黙が続いた。倉田氏は、つぶやくような低い声で
言った。
「なるほど、分かりました。私も馬鹿ではないから、もしそんな真似を
して後でどうなるかは分かっています。もしも私の病気が治って、目が
覚めたら、そこには刑事が立っているかもしれませんね。約束しましょ
う。私は罪を犯しません。しかし、私の夢をのぞくのだけはやめてくれ
ませんか」
 どうやら夢見装置を破壊してしまうような事態は避けられそうだ。し
かし滝田は再び困った。なんとか調査が続けられるように持っていかな
ければならない。
「しかし、今のところ私達とあなたとをつなぐものは、この装置――夢
見装置と言うんですが、これしかありません。これをやめたらあなたと
のコンタクトが切れてしまいます。そうするとあなたを治してあげるこ
とができなくなってしまいます」
「いいんです。私はね、半分死んでいるようなもんですよ。私はまるで
幽体離脱したみたいに、自分で自分の痩せ細った体を見るたびに、つら
くてたまらなくなるんですよ。私が理性を保っていられる間はいい。し
かし正気を失った時、私は何をしでかすか分かりませんよ?」
「あなたはやけになっているんです。つらいのは分かります。しかし、
あきらめちゃだめです。病院と私達との必死の努力で、必ず助けてみせ
ます」
「いいでしょう。では勝手に夢をのぞいてください。私はもう、ここへ
は現れませんからね。電話もとりません」
 すごい音をたてて電話が切れた。
「先生、夢が終わりました」と美智子が言った。
 滝田は肩を落とした。意気消沈して美智子の方に歩いていく。
 夢を調べたからといって治療できるわけではないと言ったのは、滝田
ではなかったか? 高梨医師は単に名声を得たいがために、滝田達に調
査を依頼したのではなかったか?
「僕って、ひどいやつかな」
 滝田はつぶやいた。




#547/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:05  (242)
眠れ、そして夢見よ 6−1   時 貴斗
★内容
   ピラミッドとエジプト人


   一

「あら藤崎君、遊んでちゃだめよ」
 美智子は目を三角にして青年をにらみつけた。
「いや、ちょっとした気分転換に」
 青年はパズルの本を読んでいた。勤務中にさぼるなど、美智子にとっ
てはもっての他だ。
「常盤さんも少し休憩した方がいいですよ。ほら、これ分かります?」
 青年は開いたページを突き出した。
「なによ」
 そこにはマッチ棒で「1+1=」という図形が描かれていた。
 美智子は青年から本とボールペンを取り上げた。
「あっ!」
 ページのすみに数式を書きつける。
    1+1=10

「一足す一は十ですか?」
「その読み方は正しくないわね。読むとしたら一足す一はイチゼロかし
ら」
 青年は狐につままれたような顔をした。
「これは数字を二進数で表した場合。じゃあこれは?」
    1+1=1

「一足す一はイチ、でいいんでしょうか」
「この場合のプラスは論理和。読むとしたら一オア一は一かしら」
「あはは。常盤さん、数学の先生になれば良かったのに」
 美智子はちぎれんばかりに首をふった。
「いやよ。絶対にいや。私、子供がうるさいの、大っきらい」
「ああ」
 青年は口だけ半笑いで眉は八の字になっていた。
「要するに一とかプラスというのは数字や記号の定義でしかないのよ。
だから一足す一は三でもかまわないし、百でもいいのよ。プラスという
記号をそういうふうに定義すればいいんだわ」
「そんな。普通は一足す一は二じゃないですか?」
「いいえ。同じことよ。それも定義の一つだわ。数学というのは定義の
上に組み立てられた美しい論理なの」
「あの、それ、あくまでも常盤さんの考えですよね」
「そのパズルだってそうだわ。どうせマッチを二本動かして別の文字を
作るとか、そういうのなんでしょうけど、それだってそういう関数の定
義だわ」
「そうかなあ。普通は一足す一は二っていうのは、一つのりんごと一つ
のりんごを合わせると二つになるっていう、そういうことだと思うんだ
けどなあ。そういうふうに習いませんでした?」
 はたしてそうだろうか。美智子はその教え方には昔から疑問を持って
いた。それは物理現象を数学で記述したということであって、数学その
ものではないような気がする。
「じゃあ、二つのりんごと、三つのみかんを持ってきました。あわせて
いくつ?」
「え、五つじゃないんですか?」
「正解。それじゃあ、二つのりんごと、三本のボールペンを持ってきま
した。あわせていくつ?」
「それは……五個じゃないんですか?」
「それはおかしいわ。りんごとみかんの場合は、まだ同じ果物の範疇に
入るからいいけど、りんごとボールペンの場合は、あくまで二つのりん
ごと三本のボールペンにしかならないんじゃないかしら。やっぱり、数
学というのは関数とかそういうものの定義と、そこから導かれる論理な
のよ。一つのりんごと一つのりんごを合わせると二つになるっていう、
“例え”ではないわ」
「そうかなあ。現象を記述する方法として“一足す一は二”という表現
が生まれたという気もしますけど」
「そう? それじゃあね」
 さらに問題を出そうとする美智子の目のすみに、何かちらつく光が映
った。
 美智子はモニターの方に顔を向けた。
「先生は?」
「えっ? 先生? 先生の定義ですか」
「先生は所長室にいるの? 早く呼んできて!」


   二

 滝田が駆け込んだ時、ちょうど砂嵐がおさまるところだった。ぼんや
りとした映像がだんだんとはっきりとしてくる。一つ一つの物体の輪郭
線が、明瞭になってくる。
「倉田氏かな? それとも古代エジプト人か?」
 青空をバックに、大きな三角形が浮かび上がってきた。いや、上の方
が欠けている。どちらかというと台形に近い。それはピラミッドだった。
上半身裸の男達が、その根元に群がっている。すると、古代エジプト人
の方だ。
「この間の続きだとすると、ヒッドフト王のピラミッドを造っていると
ころだわ」
「倉田さんは起きてる? 寝てる?」
「眠っています」
「起きてる?」というのも変な表現だな、と滝田は思う。レム睡眠行動
障害時も目は覚めていないのだから。
 真っ青な空には雲がわき立っていて、白熱した太陽が砂をこがしてい
る。
「かわいそうだなあ、あの奴隷達」と、青年がつぶやいた。
「あら、奴隷じゃないわ。彼らは庶民よ。報酬としてもらえるビールの
ために、自発的に働いているのよ」
 風景が動き始めた。謎のエジプト人は彼ら労働者達に近づいていく。
 労働者のうちの一人が、こちらに向かって手をふった。ちぢれた髪の、
口ひげをはやした男だ。若いのか、年寄りなのかよく分からない。痩せ
て肋骨が浮き出している。画面はその男に近づいていく。
「おや、顔見知りができたようだな」と滝田は言った。
 男が何か二言三言しゃべると、画面が大きく上下にゆれた。うなずい
たようだ。別の、太った男がロープを指差す。画面の両端から腕がのび
てひもを握る。
「倉田さんは労働者の仲間入りをしたようね」
 いったい何のために、と滝田は思う。ただ単にビールを飲みたいため
だろうか。それだけならいいのだが。
 エジプト人は顔を上げた。巨大な斜路が左の方からのびて、人々が石
をピラミッドの上部に運び上げている。
「このピラミッドは、結局はなくなってしまうんでしょうね」と、青年
が言った。
「そうだな。そうなってくれないと困る。残ると歴史が変わってしまう」
「先生はまだその考え方にこだわっているんですか」美智子が例によっ
てつっかかってきた。「これは単に夢の中の風景にすぎないんじゃないか
しら。実際に倉田さんがここにいるという証拠は、何もないんですよ。
これが実際のその場の景色だという根拠は、何もないんです」
 この間は倉田氏が古代エジプト人になっていることは確実だと言って
いたくせに、と滝田は思う。
「そうだな。倉田さんが何か痕跡でも残してくれればな。何世紀も後に
なって我々が見ても分かるような跡を残してくれれば、確かにここにい
たという証しが残るんだがな」
 だが、それは危険な考え方だった。下手をすると歴史が変わってしま
うかもしれない。しかし科学者の立場としては、ぜひ証拠を残してもら
いたい、という思いもある。
 大変な重労働を何万人もの人が何十年もかけて、一つのピラミッドを
造るのだ。当時のファラオの権力がいかに偉大なものであったかが分か
ろうというものだ。
 ロープを引っ張る腕を映しながら、画面が暗くなっていった。


   三

 所長室の扉がすごい勢いで開いて、美智子が駆け込んできた。
「先生、倉田さんが」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子を追いかけながら尋ねる。
「倉田さんの方か。エジプト人の方か」
「倉田さんです。しかも、研究室にいます」
 倉田氏か。そっちの方がよほど気になる。この間の夢ではやけくそに
なっているみたいだった。しかしどうした風の吹き回しだろう。もう研
究室には現れないと言っていたはずだが。
 部屋に飛び込むと、藤崎青年が青い顔をしてモニターの前に立ちすく
んでいた。
 青年を押しのけるようにして画面の前に割り込んだ。ディスプレイに
は倉田氏が映っていた。今までの夢と違う。これまでは倉田氏の視点で
見ていたはずだ。滝田は隣のベッドルームで眠っている彼の姿しか見た
ことがない。それが今は、百歳の老人のようなあの顔が、しっかりと眼
を開けて薄笑いを浮かべているのだった。彼は細長い紙を手に持って、
こちらに突き出していた。その紙には墨で、「電話しろ」と大きくと書か
れていた。
「人の夢をのぞくな」と言った時に滝田の電話番号を知ったのだから、
彼の方からかけてくることもできるはずだが、覚えていないのだろう。
 携帯で部屋の電話にかける。倉田氏がすかさず夢の中の受話器を取る。
「もしもし」
 受話口の底から、怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「私の夢をのぞくなと言ったはずだ」
「いえ、倉田さん、この間説明したように……」
「あなた達は自分の頭の中をのぞかれて平気なのか!」
「いえ、あの、その」
 言葉がしどろもどろになる。いったい何と言い訳したらいいのだろう。
「倉田さん、これをやめたらあなたとの連絡方法がなくなってしまうん
ですよ」
「結構だ。早く私を病院に戻すべきだ」
 そんなことまで知っていたのか。
「とんでもありません。病院で治せなかったからこそ、ここに来てもら
ったんじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 薄笑いが、ぞっとするような冷たい笑みに変わった。
「あなた達は馬鹿者だ」いつの間に持ったのか、握りしめたとんかちを
滝田に突き出した。「大馬鹿者だ」
 金槌を振り上げた。次の瞬間、目の前が真っ白になった。耳をつんざ
く音が響いた。反射的に顔の前に持ってきた腕に、モニターの破片が襲
いかかってきた。
「先生、大変です。夢見装置が壊れました」
 美智子が金切り声で叫んだ。
 恐る恐る目を開けると、周りがやけに明るかった。なんだか様子が変
だ。
 滝田は呆然として辺りを眺め回した。砂の大地と真っ青な空が広がっ
ている。なんだ、ここは。一体どうしたというのだ。振り向いた滝田は
愕然とした。そこには巨大なピラミッドがそびえ立っていた。
 そんな馬鹿な。研究室はどこに消え失せたのだ。美智子は、青年はど
こに行ったのだ。
「まさか」滝田はつぶやく。「まさかそんなことが」
 ピラミッドに近づいていく。てっぺんの方がまだ完成していないそれ
は、明らかにヒッドフト王のピラミッドだった。
「あなたが声の主か」
 突然聞こえた声に驚いて振り返った。
「とうとうここまでたどり着いたか」
 そこに立っていたのは、褐色の肌に首飾りをつけ、腰布を巻いた男だ
った。
「そんな馬鹿な」
 顔に見覚えはないが、倉田氏の口から聞いたその野太い声から察する
に、謎の古代エジプト人だろう。
 画面に映る風景が割れて、粉々の断片となって飛び散った。そこに一
瞬だけ、真っ黒な空洞が口をあけ、そして真っ白になった。美智子が夢
見装置が壊れたと叫んだ。
 その時の衝撃で滝田が夢の中に引きずり込まれたとでもいうのか。ま
さか。馬鹿げている。
「どうした。顔が真っ青だぞ」
 だが他に考えようがなかった。それ以外にこの状況を説明する方法が
みつからない。絶望が頭の中に広がっていくのを感じた。
 ああ、なんということだ。倉田氏の眠りを観察し続けた結果が、これ
だというのか。この世界に出口はないのか。永遠に囚われ人となってし
まうのか。
 気がつくと、ひざまづき、砂をつかんでいた。
「悲しむことはない。さあ、立ちなさい」
 エジプト人に促されて、ふらふらと立ち上がった。
「こちらへ」
 そう言うと、彼は先に立って歩き始めた。ピラミッドに沿って歩いて
いく。
「どこに行くんですか」
「あなたが本当に見たかったものを見せてあげよう」
 いったい何の事だ? エジプト人は角を曲がった。滝田もついていく。
 地下への入り口にたどり着いた。
「この下だ」
 狭い階段を降りていく。滝田はなんだかひどく、嫌な予感がした。滝
田が本当に見たかったもの? その逆で、滝田が見たくなかったもので
はないか? そんな気がしてきた。
 ついに玄室へとたどりついた。燭台がうっすらと照らすそこは、いか
にも殺風景な場所だった。華やかな壁画や、副葬品といったものがある
わけでもなく、まるで地下牢のようだった。
「あれだ」
 部屋の中央に石棺がある。エジプト人は足早に歩み寄り、いかにも重
そうな石の蓋を、いとも簡単に横にずらした。重い音をたてて、蓋が地
面に落ちた。
「さあ、見なさい」
 のどが鳴った。恐る恐る近寄っていく。
「さあ」
 恐々とのぞきこむ。
 そこには男が横たわっていた。腰布だけを身につけたその人物の肌は
褐色ではなく、青白かった。彼の顔を見た瞬間血の気がひいた。
 それは、滝田の父親だった。父が、そこに納められていたのだ。眠っ
ているのか、死んでいるのか分からない。
「あなたはこれを見たかったのだろう? あなたはこれを、知りたかっ
たのだろう?」
 エジプト人の声が部屋に反響する。
「嫌だ。嫌だ! 私はこんなものを見たくない」
「見るがいい」
 横たわった父の目が、いきなり開いた。
「健三……宿題を……」父の口が震える。「高梨医師に……報告を……」

「嫌だ!」
 滝田はふとんをはねのけた。慌ててあたりを見まわす。外の街灯の明
かりが、カーテンを通してうっすらと差し込んでくる。自分の寝室だ。
胸に手を当てると早鐘をうっていた。
 また悪夢を見てしまった。




#548/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:10  (240)
眠れ、そして夢見よ 6−2   時 貴斗
★内容
   四

 これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催
眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御
見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思わ
れます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全
です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。

 パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィン
ドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだい
たい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書
き足してある。
「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックす
れば、この報告が高梨医師に送付される。
 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿
題だとも言える。
 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせ
たまま、もうかれこれ二十分がたつ。
 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ
合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。
吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線
香のような煙が立ち昇っている。
 突然大きな音をたててドアが開かれた。
「先生、大変です」
「あっ」
 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんというこ
とだろう。本当にこれで良かったのか。
 眉をひそめて青年を見る。
「どうした」
「倉田さんが大変なんです」
 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。
「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」
「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」
 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててつい
ていく。
 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。
倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか?
 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を
見た滝田は口を丸く開いた。
 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土
気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけにな
ってしまった。
「病院に連絡した方がいいでしょうか」
「そうしてくれ」
 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこん
だ。
「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」
 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったよう
に思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分
かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話
すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態に
なっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでい
て、結局何も分かっていないのだ。
 青年が戻ってきた。
「一時間ほどで来るそうです」
 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を
見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際
に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らな
いのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代
エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の
方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているの
ではないだろうか。
 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。
「失礼します」
 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴
診器をあてた。
 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。
「心臓がだいぶ弱っているようです」
 医師はつぶやいた。
「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」
 滝田はかぼそく言った。
「なんとも言えません」
「病院に戻さなくていいんですか」
「患者の夢については、何か分かりましたか?」
 医師は落ち着き払った声で言った。
「なんですって?」
「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですか
ら」
「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しま
した。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」
 怒気を含んだ声で聞く。
「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告
して検討します」


   五

 ひどいと思った。夢の謎が分かるまで、病院に戻さないつもりなのだ
ろうか。滝田は一日中憤りがおさまらなかった。
 その夜、倉田氏がまた夢を見た。
 砂嵐が消えると、またあのピラミッドが映った。太陽が地平線の近く
にある。すると夕方だろうか。その日の作業は終わったのか、人っ子一
人いない。
「先生、レム睡眠行動障害です」
 青年が叫んだ。
「えっ」
 滝田よりも一足早く、美智子が窓辺へ駆け寄った。三人並んで下を見
る。倉田氏が立ち上がっていた。
「僕行ってきます」青年がドアへと走る。「点滴を抜かないと」
「私も行くわ」
 駆け出そうとする美智子の腕を滝田はつかんだ。
「残っててくれ。残って、僕に知恵を貸してくれ」
 滝田はマイクを握り締め、スイッチを入れた。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 振り向いてモニターを見ると、雲が右に行ったり左に行ったりしてい
る。倉田氏が真上を向いて滝田を探しているのだろう。スピーカーが部
屋の上部にあるので、音声が頭上から出ていることは分かったようだ。
「またあなたか。声だけ聞こえて姿は見えない。いったい何者なんだね」
「私は研究者です。信じられないかもしれませんが」滝田は舌で上くち
びるを湿した。「あなたは今私の研究所にいます。あなたは倉田さんとい
う患者の夢の中にいて、今私は倉田さんに向かって話しかけています」
「先生、もっと筋道立てて話さないと分かりませんよ」
 美智子がささやいた。
「何をわけのわからないことを。私はここにこうしている。あなたの言
い方を聞いていると、私がそのクラタという人物の夢の中にいて、実在
している者ではないかのようだ」
「いや、あなたは存在しているのです。今あなたがしゃべっているのと
同じことを、倉田さんもしゃべっているんです。今あなたがしているの
と同じ動作を、倉田さんもしているんです。倉田さんの耳に聞こえてい
ることを、あなたも聞いているんです」
「つまり、そのクラタという人物を介して、あなたは私と話し合ってい
ると、そう言いたいわけだな?」
「そうです。良かった。あなたは頭がいい方のようだ」
「ほめられてもあまりうれしくないぞ。私に何の用だ」
「倉田さん、でいいのかな」
 スピーカーから青年の言葉が伝わってきた。
「またすぐそばから声が聞こえたぞ」
「その男も私の仲間です」
 マイクを握る手に力が入る。
「お前も研究者か」
「え? ええ。よく分かりましたね」
「何の用だ」
「点滴を抜きにきました」
「テンテキ? それは何だ」
「それは、つまり、今あなたが腕からぶら下げている……」
「何もぶら下げていないではないか」
「藤崎君、いいから抜きなさい」と滝田は命令した。
「これが刺さったまま歩き回ると危ないんです。つまり、その、ごめん
なさい!」
 倉田氏の口から「痛いっ」という声が漏れる。
「なにをするのだ。何の魔法をかけたのだ」
「あなたの腕に見えない蛇がかみついていたのです。彼はそれを取り去
ったのです」と滝田は言った。
 美智子が顔をしかめて首をふる。
「テンテキだの蛇だの、何を言っているのだ。言っておくが私は夢の中
にいるということを信じたわけではないぞ」
「いや、夢の中にはいないのです。あなたはそこに実在するのです。つ
まり、何と言ったらいいのかな」
 滝田は困った。本当に何と言っていいのか分からなかった。
「私達は冥府の国、アアルにいるんです」
 美智子が口をはさんだ。
 おいおい、そんなことを言っていいのかと、滝田は思う。蛇がどうし
たなどと言わなければよかった。
「おや、この間の女性だな? するとあなた達はオシリスの使いだとで
も言うのかな?」
「そうじゃないですけど、似たようなものだわ。倉田さんという、夢を
使って遠く離れた場所の人と交信する能力を持った魔法使いを通して、
あなたと話しているのよ」
「研究所というのも、アアルにあるのかな? 何の研究をしているのだ」
 彼は頭がいい。とてもごまかしきれないぞと、滝田は思う。しかし全
てを正直に説明するには、時間がなさすぎる。こうしている間にも夢が
終わってしまうかもしれないのだ。
「まあいい。あなた達が何者であるにしろ、私と話をしたいのだったら、
つき合ってやろう」
 よかった。滝田はほっとした。


   六

「あなたはなぜペルエムウス造りに協力しているんですか」
 滝田はマイクに向かって言った。
「私は自分の名前も知らない。自分が何者かも分からない。どうやらこ
れは治りそうもない。だからせめて、私がここに存在したという痕跡を
残したいのだ」
 みぞおちに冷たいものが流れた。
「いいものを見せてやろう」
 ピラミッドに沿って歩いていく。さっきまで遠くから眺めていたのに、
また瞬間移動したのだろうか。
「おや、こんな所に見えない障壁がある」
「部屋の壁につきあたりました」
 スピーカーから青年の緊張した声が聞こえる。
 しばらく止まっていたが、なぜか景色が再び動き出した。
「倉田さんが足踏みを始めました」
 なるほど。倉田氏は狭い室内で広大な大地を歩く方法を学んだようだ。
 名無しのエジプト人は角を曲がった。そしてまた積まれた石に沿って
歩いていく。
 風景が上を向いた。少し上がったところに、小さな入り口が開いてい
る。彼は自分の身長の半分程もある石をよじのぼっていく。
「この下に玄室がある。案内しよう」
 地下への階段を降りていく。だんだん日の光が差し込まなくなってい
く。
「暗くてよく見えないな」
 彼の腕が前方に伸びた。次の瞬間、その手にはたいまつが握られてい
た。まるで手品のように。
「これでスパナの謎も解明されたな」
 滝田はあごをなでた。
「モニターを壊した時のことですか?」と美智子が問う。
「そうだ。この部屋にスパナなんかない」
 階段を降りきると、平らな通路になっていた。しばらく行くと広めの
部屋に出た。壁に据え付けられた数本のたいまつに火を移していく。
 画面が一瞬暗くなった。いけない。夢が終わる。
「見たまえ、これを」
 石で囲まれた部屋には、王の前で書記が何か記録をとっているといっ
たような、簡単な壁画が描かれている。床には数体の人形のような像が
無造作にころがっている。
「これが王の墓か? なんというみすぼらしさだ。私はここにささやか
な彩りを加えたいのだ」
「どうするつもりです?」
「あなた達がスフィンクスと呼んでいるもの、あれは大変見事だな」
 嫌な予感がする。
「私はあの像から一部を取り、この玄室に添えたいのだ」
「やめて下さい。そんなこと」
 滝田は悲鳴をあげるように言った。
「なぜだ。素晴らしい考えだと思わないかね。あの偉大な巨像の威光を
借り、この粗末な玄室を輝かせるのだ」
「そんなことをして何になるんです。何が輝くんです」
「スフィンクスの頭部の奥、中心部から石の一片をとり、この壁のどこ
かに埋め込むのだ。私にできることといったらその程度のことだ」
「どうやって取り出すんです。スフィンクスの頭を壊すんですか。あな
た一人で」
「石切り場から切り出すのと同じ要領でやればよい。表面に溝をほり、
くさびを何本も打ち込むのだ。できないことはなかろう。労働者仲間に
話したら、賛同してくれる者が五人もいた」
「やめてください。歴史が変わってしまう」
 血の気が引いた。
「なんのことだ。私には分からないが」
 いっそ「私達は未来人です」と言おうかと考えたが、思いとどまった。
「先生、たぶん大丈夫です」美智子がささやく。「あんな大きな頭部の中
心まで掘り進むなんて、できっこありません。せいぜい頭頂部を壊すの
が関の山でしょう。その時点で彼は捕まります。それに、スフィンクス
は何度も修復作業が行われています」
「そのせいで何人もの人間が処刑されてもいいのか」
 画面が二度瞬いた。
「私は自分がどこの誰かも分からない。私は確かにこの世界に存在した
という証しがほしいのだ。私の決心は……変わら……ない……」
 スピーカーから重い音がするのと、画面が消えるのとが、ほぼ同時だ
った。窓に駆け寄り下を見ると、前にレム睡眠行動障害になった時と同
様、倉田氏は倒れていた。
「もしも彼が死んだら」滝田は独り言のようにつぶやいた。「エジプト人
も消えてなくなるかもしれない」




#549/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:16  (237)
眠れ、そして夢見よ 7−1   時 貴斗
★内容
   スフィンクスの頭


   一

 滝田は立ったまま、長い呼吸を繰り返す倉田氏の顔を見つめていた。
どうしていいか迷うばかりで、何もできない自分がはがゆかった。名無
しのエジプト人が歴史を変えようとしていることも、倉田氏の病状が悪
化していくことも、自分にはどうしようもない。
「先生、来て下さい」
 スピーカーユニットから青年の声が伝わってくる。
「どうした」
「倉田さんが夢の中に現れました。先生を呼んでいます」
 倉田氏の顔を見る。心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 階段を駆け上がりながら妙なことに気がついた。「先生を呼んでいます」
だって? 自分のほほをつねってみる。痛みは感じるようだ。また夢だ
ったらたまらない。
「僕を呼んだって? どうやって」
 ドアを開けるなりかみつくように言った。
「電話で話してるんですよ」
 滝田は受話器を握っている青年に足早に歩み寄っていった。振り向い
てモニターを見ると、どこだか分からないが、夕暮れ時の屋外が映って
いた。すべり台がある。すると公園だ。正面にはうさぎの頭の形をした
石像と、ライオンの頭の形をした石像が並んでいる。人が座れそうなく
らいの大きさだ。
 腕時計を見る。五時十七分。するとおそらく過去でも未来でもなく現
在だ。
 映像は下を向いて、パジャマ姿の胸から下を映した。ベンチにこしか
けている。ひざの上の四角く平べったい電話機から、螺旋状のコードが
のび、画面の左端で消えている。
 そうか。あれでこの研究室に電話をかけたのか。
 滝田はおかしな点に気づいた。普通は本体からモジュラーケーブルが
出ているはずだが、それがどこにも見当たらない。
「常盤君は?」
「仮眠室で寝ています。何でも昨日一睡もできなかったんだとか」
 まったく。何をやってるんだ、こんな時に。青年から受話器をひった
くる。
「今晩は、滝田さん」
 やや低い倉田氏の声は、それでも、この間聞いたのと比べていくぶん
穏やかな感じがした。
「倉田さん、どうしたんですか。この間の様子からすると、もうお話し
できないのかと思いましたよ」
「私は、自分の意思で好きなように夢を見られるわけではありません。
今日はたまたま私自身として現れることができただけですよ」
「それでも私はうれしい。倉田さんの方から私に連絡をとってくれるな
んて」
「たぶん、お別れを言いたかったんだと思います」
 倉田氏は意外なことを言った。
「私は、最近は目覚める回数が少なくなっているように感じます。たぶ
んそれ以外の時間は、古代エジプト人になっているんだと思います」
「倉田さんは、自分がエジプト人になっていることを感じるんですか」
 少しの間、沈黙があった。
「いいえ。いや、はいかな。時々ピラミッドの姿が見えることがありま
す」
 実に驚くべき告白だった。倉田氏であるのに古代エジプト人としての
風景が見えるのだろうか。
「どんなふうに見えますか。そのピラミッドは、てっぺんの方が欠けて
いませんか」
「ピラミッドとは何だ」
 急に声質が変わった。滝田は目を、飛び出さんばかりにひんむいた。
 すべり台と動物の頭の像が半透明になって、それと重なって青空とピ
ラミッドが映っていた。
 どういうことだ。倉田氏の意識と古代エジプト人の意識が入り混じっ
ているのか?
「ペルエムウスのことです。というより、あなたは誰です」
「何度も言うようだが私は自分が誰なのかを知らない。あなた達が私を
クラタと呼びたいのならそう呼べばいいだろう」
 頭が混乱する。しかし、いいチャンスだ。この間言いそびれたことを
言うのだ。
「スフィンクスの頭を壊すなんて、そんなことはやめて下さい。あなた
は世界的な遺産を破壊しようとしているんですよ。それであなたは平気
なんですか」
「なるほど、彼はスフィンクスの頭を破壊しようとしているんですね」
 声が元に戻った。画面も公園の風景に戻っていた。
「私はたぶん、どんどん古代エジプト人になっていくんだと思います」
 画面が点滅した。
「もう倉田恭介になることもないでしょう」
 画面がフェード・アウトしていった。最後に小さく、「さようなら」と
言ったように聞こえた。
 滝田は放心していた。青年も、滝田も、何も言わなかった。しばらく
して滝田は口を開く。
「どこだろうね、今の場所」
「さあ、どこかの公園みたいでしたが」
 青年の目と口が、急に丸くなった。
「あ、この場所、僕知ってます」
 青年が駆け出したので、滝田も走った。階段を駆け下りていく。玄関
から飛び出した。太陽は沈みかけ、夜が訪れようとしていた。
「おい、どこに行くんだ」
「こっちです」
 通りをしばらく走った。右に折れて、細い道に入ると、両側に植込み
が並んでいた。少し行くと、植込みが切れて小さな公園があった。
「この間、常盤さんとここに来て話したんです」
「え? 君達そんな関係だったの?」
「違いますよ」
 青年が歩いていく先にベンチがあった。滝田が長椅子の上に手をおく
と、今まで誰かが座っていたかのような温もりがあった。


   二

 倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医
師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。
「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」
 滝田が何度聞いても返事は同じだった。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。
 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。
 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに
座ってふきとっていた。
 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いた
ら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪
に加担しているような気がしていた。
 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋
な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予
想できただろう。
 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝
田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代
エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。
もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その
時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは
絶対にできない。
 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。
きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだ
ろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。
影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だ
と思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。
 その程度で済めばいいが。
 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そ
のせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝
田ではなかったか。
 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あ
るいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれな
い。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕
生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。
そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世
の中になる可能性だってあるのだ。
 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせ
るのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動
障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それ
をただ指をくわえて見ているだけなのだ。
 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、
そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をした
のと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のや
ろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。
もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があ
るだろうが。
 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間
的に隔たってしまっている。
 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はと
ぎれた。
 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。
苦しそうに首を右に、左にねじる。
「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」
 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。
「大変だ。医者達を呼び戻さないと」


   三

 遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。
今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。
それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。
 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。
「先生、来て下さい」
 現れたのは青年だ。
「どうした、まさか」
「倉田さんが夢を見ています」
 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦
皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。
「先生、早く」
 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかけ
る。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。
 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。
「どっちだ」
「エジプト人の方です」
 モニターの前の美智子が返事をした。
 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスが
そびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっき
まで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害
の状態にはなっていない。
「だめだ。歴史が変わるぞ」
 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また
瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口
ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太っ
た男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、
テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされ
ただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆ
れた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の
口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復し
た。
 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向く
と高梨が立っていた。
「いや、お久しぶりです」
 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。
「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」
 怒りをおさえて言う。
「大丈夫です。もうやってます」
 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。
「医者と看護師が来ています」
「今、夢を見ているところですか」
 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。
「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。
「どんな状況ですか」
 いたって明るい調子で聞く。
「私のメールを読んでくれましたか」
 滝田はモニターを見つめたまま言った。
「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」
 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。
「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところで
すよ」
 滝田は怒鳴った。
 高梨は呆気にとられた顔をした。
「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」
 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。
「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。
「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィン
クスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田
は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」
 高梨は少し動揺したようだ。
「なんとか、やめさせることはできないんですか」
「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」
 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククラ
イミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映
した。壁面が下がっていく。
 頼む。やめてくれ。
「あんな大きな像を登れるのか?」
「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を
披露する。
 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。
「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でク
リアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思
っている以上に身体能力が高いのかもしれません」
 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。
「倉田さんの状態はどうですか」
「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。
「藤崎君」
「行ってきます」




#550/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:20  (250)
眠れ、そして夢見よ 7−2   時 貴斗
★内容
   四

 だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろ
うか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首
の後ろに歩いていく。
 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そして
ついに頭頂部にたどり着いた。
 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。
 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。
「大変です。心臓が止まりそうです」
 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を
近づける。
「強心剤を打ってくれ」
「打っちゃだめだ」
 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。
「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」
 美智子は声を荒げた。
「歴史が変わってもいいのか!」
 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに
涙がつたうのを感じた。
 高梨が下の医師に指示する。
「待ってくれ。打たないでくれ」
「そんな。手遅れになってしまいますよ」
 下の医者が困惑した声を出した。
「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」
 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当
てられる。
「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷
ついたくらい、どうだっていうんですか」
 美智子が哀願した。
「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」
 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってく
れるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。
しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。
 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのよう
に、静かだった。
 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。
「どうした」
「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と
藤崎青年が答えた。
 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。
「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」
 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。
 画面に空が映る。
「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」
「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」
「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」
 くそっ。だめか。
「倉田さんが死にそうなんです」
 とにかく思いついたことを言った。
「それが私と何の関係があるのだ」
「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」
「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」
「ではあなたには今までの記憶がありますか?」
「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」
「それが何よりの証拠です」
 エジプト人は黙ったまま返事をしない。
 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえている
のは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。
「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」
「私にはどうでもいい」
「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」
「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」
 だめか。何かやめさせる方法はないのか。
「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。
「その腕を捕まえろ」
 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。
「捕まえました」
 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。
ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。
「ああ!」
 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやっ
て。
「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。
残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも
美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。
彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心
の臓は怪物に食われるでしょう」
「私にどうしろと言うのだ」
 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。も
う時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女
の意図を悟った滝田が代わって話す。
「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが
仕方がない。「アアルで会いましょう」
 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。
 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成
り行きに任せるしかなかった。
 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。
 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。
「うう!」
 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。
 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしてい
る仲間の姿が映っている。
「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」
「倉田さんが倒れました」
 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。
「強心剤を打て」
 高梨医師が怒鳴った。


   五

 滝田は倉田氏の病室に入っていった。前に会った倉田恭介の妻、倉田
芳子とその二人の息子がいた。といっても兄の方は夢の中で見ただけだ
が。
「まあまあ先生、御無沙汰しております」
「どうも、今日は」
「主人の診察ですか?」
「いえ、その後どうしているかと思いまして、ご様子を拝見させていた
だくために来ました」
「お父さん、こちら滝田、ええとなんとか病院の」
「滝田国際睡眠障害専門病院の滝田です」
 滝田は倉田氏を見て驚いた。この中肉中背のおっさんが、あのミイラ
のような倉田氏と同一人物とは思えない。
「倉田さん、今日は」
「ああ、今日は」
 ぼんやりしたやや低い声が発せられる。
「私が誰だか分かりますか?」
「いいえ。でも、滝田先生ですよね」
 その目はまるで滝田の後ろにある何かを見つめているようだった。
「では、私の声を覚えていますか?」
「いいえ」
「私は倉田さんの睡眠障害について検査をしていました。その時に見た
夢は覚えていますか?」
「いいえ」
 だとすると聞くことは何もない。滝田は安心した。
「お父さん、先生のおかげで目が覚めたのよ。体が治ったのよ」
「いえ、治療をしたのはこちらの病院ですから」
 そうだ。滝田は結局何もしていない。
「先生、それでね、主人の会社、なんとか持ち直しそうなんですよ。こ
れでミケにもご飯を食べさせられます。あ、ミケというのは野良猫でし
てね。いやあ医療保険に入っていて良かったですよ。入院とかいろいろ
かかりますでしょ」
 滝田はなんとなく、一刻も早くここを立ち去りたくなった。倉田氏が
恐ろしい事を言い出しそうな不安にかられた。このおばちゃんもやかま
しいし。
「あ、私は高梨先生に呼ばれて来たものですから。ちょっとお顔を拝見
させていただきたくて立ち寄らせてもらいました。今日はこの辺で失礼
します。いやあ、健康そうでなによりです」
 足早に病室を立ち去る。
 高梨医師からの報告では、あの後倉田氏は小暮総合病院で目覚めたと
いう。最初は二十時間程寝ていたが、一回の睡眠時間も徐々に短くなっ
て、消灯、起床時間に合わせて眠れるようになった。起きた直後どんな
夢を見ていたかの聞き取りは欠かさなかった。高校時代の同級生に会っ
ていた、空を飛んでいた、熊に追いかけられていた、等ありふれた内容
だ。
 滝田はエレベーターに乗り、受付で聞いた通り副院長室がある五階の
ボタンを押した。
 古代エジプト人になったり、滝田睡眠研究所に現れたり、小暮総合病
院の中を歩き回ったりといったことはなかったそうだ。
 廊下に出て高梨医師の部屋に向かう。
 その後レム睡眠行動障害も起っていないという。
「副院長室」と書かれたプレートがあるドアをノックする。
「どうぞ」という声が聞こえたので「失礼します」と言いながら入って
いく。
「お待ちしていました。滝田先生」
 高梨医師は快活な笑みを浮かべ、デスクの椅子から立ち上がった。
 彼には今もいい印象を持っていない。
 手で指し示されたソファに座ると、テーブルを挟んだ向かい側に高梨
も腰かけた。
「これから、どうなさるのですか」と滝田は聞いた。
「どうもしやしません。治ったら退院させて、おしまいです」
 この男は何の責任も感じていないのだろうか。滝田は腹がたってきた。
「学会で発表しますか? 研究の成果はお渡ししますか?」
 鞄の中にある三テラバイトのUSBメモリには、倉田氏の夢から抜粋
した映像と、その分析と考察が入っている。倉田氏に関する資料のうち
のかなり重要な部分だ。倉田氏の顔はモザイク処理し、文書にはK氏と
書いてある。音声のうち「倉田」の部分は「ピー」という自主規制音に
変えてある。高梨に預けるかどうかは今日の話し合いで決めるつもりだ
った。
「今日ご足労願ったのは他でありません。その件ですが、私どもの方で
慎重に検討を重ねた結果、公表はしないと結論付けました」
「ほう、そりゃまたどうしてですか?」
「古代エジプト人になってスフィンクスの頭を壊そうとしたなんて、そ
んなのはただの夢かもしれませんよ。実在したという根拠がありません」
「しかし、倉田さん自身として我々の研究室に現れたのはどう説明しま
す? 彼はあの部屋を見たことがないんです。証拠の映像も残っている
んですよ?」
「起こったのはすべてオカルト現象でしょう。合理的に解釈することな
んて所詮無理なんです。しかし、寄付金は約束通り提供させていただき
ますよ」
 最初に訪ねてきた時と、言っていることが違っていた。医学や科学の
世界に一石を投じるかもしれない。そう話していたのではなかったか。
「それは結構です。結局私達は何の役にも立っていませんから」
「とんでもない。先生方が睡眠障害の元凶である古代エジプト人を殺し
てくれたから、倉田は治ったんじゃないですか」
 頭に血が上った。
「いりませんよ、そんなの」滝田は自分の口調がきつくなるのを感じた。
「あなたは倉田さんが重態なのに夢の解明を優先させた。自分が名声を
得たいがために。責任を感じないんですか」
 高梨は急に能面のような顔になった。
「私達はわらにもすがる気持ちだったんです。倉田の夢に、病気の本当
の原因が隠されているかもしれないと考えたんです」
「私は後悔しているんです。倉田さんをまるで、実験動物みたいにして」
「先生に罪はありません。先生は昏睡状態の患者と夢見装置を通してコ
ミュニケーションを取ろうとしたんです。クランケとの会話は重要です。
先生は決して、倉田を実験台にしたのではありません」
 そんな大それたことではない。滝田にしたって、最初は興味本位では
なかったか。
 滝田は踏ん切りをつけられずにいた迷いに対して決断した。
「倉田さんの資料はすべて破棄します」
「そんな、もったいない」
「こんなものが公になったら、倉田さんはどんな目にあうか分かったも
んじゃありません」
 モザイクをかけたところでやっぱり安心はできない。
「先生、余計なお世話かもしれませんが、くれぐれもこの件は口外なさ
らないようお願いします」
 高梨との取引のことだろう。
 高梨は胸元に手を突っ込み、分厚い茶封筒を取り出した。それをうや
うやしく滝田に差し出す。
「では謝礼だけでも」
「いらないと言ってるでしょうが!」
 手を振って払い落とす。高梨は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 滝田は憤って立ち上がった。
「先生、夢と睡眠障害の関係について調査をされているのでしたよね。
その研究は、深めて下さい。睡眠異常に悩む人が減ることを祈っていま
す」
 滝田は返事もせず、副院長室を飛び出した。
 足が勝手に倉田氏の部屋に向かう。何かをしなければいけないような
気がした。全部彼にぶちまけてやろうか。
 すべては終わった。これからは普通の生活に戻るのだ。かわいそうな
犬や猫の頭に針を刺し、モニターの波形に一喜一憂し、美智子とくだら
ないことで口論するのだ。そうだ。それがいい。
 倉田氏の病室の前に戻ると子供が廊下の窓から外をながめていた。弟
の方だ。少年は滝田を見ると不安そうな顔をした。
 滝田はしゃがんで少年に微笑みかけた。
「退屈かい?」
「うん、つまんない」
 滝田は迷った。手に持った黒い鞄を見つめる。資料を取っておくべき
か捨てるべきかについてはずいぶん悩んだ。そして破棄すると決断した。
だが本当にそれでいいのだろうか。バッグを開き、USBメモリを取り出
した。
「これを」言葉がつまる。こんなことをして大丈夫なのだろうか。「これ
を、君にあげよう」
「なあに?」
「これはね、お父さんの病気について記録したものなんだ」
「僕にくれるの?」
「でもね、他の人に言っちゃだめだ。お母さんにも言っちゃだめだ。そ
れくらい重要なものなんだ。約束できるなら、君にあげる」
 少年はほほに人差し指をくっつけて首をかしげた。
「おじさんは、これを君に託したいんだ。託すって、分かるかい? 大
事なものを人に預けることだ」
 そうだ。この少年なら適任のような気がする。彼がこの内容を理解で
きるほどに成長した時、父親に起こった事実を知るだろう。後は、どう
するかは彼次第だ。少年はなおも考え込んでいた。
「うん、いいよ。僕が預かってあげる」
「そうか。誰にも内緒だよ。君とおじさんだけの秘密だよ」
「男の約束だね」
「そうだ。そうだよ。君は良い子だな」
 少年がUSBメモリを受け取るのを、複雑な思いで見ていた。




#551/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:25  (378)
眠れ、そして夢見よ 8−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/15 23:37 修正 第2版
   新たな夢


   一

 太陽の光がカーテンの隙間から漏れている。滝田はゆっくりとまぶた
を開く。何万光年も宇宙を旅してようやく目指す恒星にたどりついた宇
宙船の乗組員が、冷凍睡眠からたった今覚めたかのように。ゆっくりと
体を起こし、ベッドサイドテーブルの上にある目覚まし時計をつかむ。
まだ五時だ。セットしている時間は六時だが、最近ではこの時計が鳴る
のを聞いたことがない。
 歳とともに目覚める時間が早くなっていくのを感じる。大きくあくび
をし、頭をかく。元は真紅に近い色だったのが、すっかり薄桃色に変わ
ってしまったじゅうたんの上に足をおろす。
 カーテンを開くと薄い青色を帯びたような街が、もうすぐ起き出しそ
うな気配を見せていた。
 一段踏むたびに軋んで音を立てる階段を下りていく。だいぶ老朽化し
てきたな、と滝田は思う。滝田が老けていく早さに合わせて、この家も
また老いていく。売ってマンションでも買おうかと考えていた時期もあ
ったが、何を今更と思う。
 台所に立ち、水が入れっぱなしになっているやかんがのったクッキン
グヒーターのスイッチを押す。冷蔵庫を開け、きゅうりの漬物と卵を一
個取り出す。テーブルに置いてお新香のラップをはがすと、途中でちぎ
れて少しだけガラスの器の端に残った。それをはがして、大きい方と小
さい方を合わせて丸めてごみ箱に放った。急須をたぐり寄せ、ふたを開
けて中をのぞくと、湿ったお茶の葉が茶こし網にこびりついている。か
えようか、とも思ったが、昨日一度しか使っていないことを思いだし、
そのままにした。食器棚から小皿と湯のみと茶碗を取り出す。炊飯器を
開け、昨日の残りをよそう。椅子に座り、卵を割り小皿に落とし、醤油
の小瓶を握り、しずくをたらす。二滴、三滴。箸で混ぜると、黄味と白
味と醤油とがだんだんとその境界をなくし、それぞれの意味を失ってい
く。ご飯の真中に穴をあけ、流し込む。
 そうこうしているうちにやかんから湯気が吹き出してきた。滝田は笛
を開けたまま湯を沸かす。あの小うるさい音が嫌なのだ。
 座り込んでしまうともう一度立つのは面倒くさいと感じる。勢いを増
す蒸気に急き立てられて仕方なく立ち上がる。
 熱湯を急須にそそぎ、ケトルをクッキングヒーターの上に戻し、ほっ
として椅子に座る。しばらく待って湯のみにつぐと、ようやく朝飯の準
備が終わる。ご飯と卵をよく混ぜてほおばる。きゅうりをかじり、お茶
をすする。
 二年前までは、炊飯器など使わずコンビニで買ってきたレンジで温め
るだけの米を食べていた。五年前はトーストと目玉焼きだった。
 この国の人間は歳をとるほど日本人に帰るのかもしれない、と滝田は
感じる。どうして欧米化がいくら進んでも白米はなくならないのか。な
ぜレトルトご飯は味気ないと感じるのか。かまどで炊いていた頃の記憶
は、しっかりと遺伝子の中に残っていて、歳をとるに従ってよみがえっ
てくるのかもしれない。蒸らしたお米こそ、日本人の原風景なのかもし
れない。
 今では洋食、和食、中華、様々な料理が、安いものから豪華なものま
で、レンジで温めたりお湯を注いだりするだけでできる。二十一世紀に
入って猛烈に科学技術は発展し、それはこの国の食生活も変化させたよ
うだ。科学が進歩するほど、日本人は原風景から離れていくような気が
する。
 だがその繁栄も、最近になってようやく落ちついてきたようだ。新し
い世紀に入って続いた勢いも、さすがに終わりに近づくと萎えてくるの
かもしれない。
 しかし一旦沈静してしまうと今度は停滞期に入る。睡眠研究の分野に
おいても目新しい話題は出てこず、今までの大発見、大発明をつついた
り、いじくり回したりするばかりだ。
 滝田は自分の身の周りがどんどん老いていくのを感じる。つまらない
事を考えているうちにだんだんとまずくなっていく食事をやっと終え、
顔を洗いに行く。
 洗面台に立ち、鏡に映る髪が真っ白になってしまった自分の顔を、滝
田はぼんやりとながめた。


   二

「おはようございます」
 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面
目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年
目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男
の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信
できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで
観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのは
アメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるの
だ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく
物足りない。
 美智子か。
 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。こ
の十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室
のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリス
に移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田と
いう男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれな
いまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。
変わらないのは滝田だけだ。
「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言って
いました」
 滝田ははっとして宮田を見つめた。
「クラタ? 下の名前は?」
「いえ、苗字しか聞いていません」
 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長
だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はあ
る。
「年齢は? おじさん? おばさん?」
「若い男の方のようでした」
 滝田は目を伏せた。
「あ、そう」
「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うと
いうことでした。お断りしますか?」
「いや、一応会うよ」
 廊下に出てゆっくりと歩く。
 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今に
なって彼らが滝田に何の用があるというのか。
 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはし
ばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと
思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカ
ーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった
机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張り
だし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふ
く。
 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするの
は限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気で
かかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草
を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間
は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんや
りしているのだが。
 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿に
すりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に
着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲
む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。
 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいし
て読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろう
か。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間
は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。
「先生、お客さんっすよ」
「あ、そう」
 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。
頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。
「応接室に待たせてますんで」
「うん。すぐ行く」
 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔
をしかめた。
 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。


   三

 応接室に入っていくと、水色と白のチェック柄のTシャツにジーパン
というラフな格好の若者がソファから立ち上がって会釈をした。
「こんにちは」ととりあえず挨拶する。
 若者は滝田の顔を見ると満面の笑顔になった。
「あ、こんにちは」
「あの、面会の場合はアポを取ってくれないと困るんですけど」
「先生、僕のこと覚えていませんか」
 奇妙なことを言う青年に滝田は不信感を抱いた。見覚えのない顔だ。
「僕、倉田志郎といいます。倉田恭介の息子です」
 あっ、と驚いた。そうだ。倉田という名で若い男といえば、倉田の息
子がいたではないか。突然の再会にびっくりすると同時にうれしくなっ
た。
「弟さん? それともお兄さん?」
「弟の方です」
 すると、USBメモリを渡した子だ。
「いやあ、大きくなったなあ。まあまあ、とにかく座って」
 青年が座るのに続けて滝田も腰掛けた。
「久しぶりだなあ。今、何やってるの?」
「大学生です。先生はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。今日は何の用?」
「まずはお礼を言いたくて。先生から頂いたUSB、もらった当時は何な
のかさえ分かりませんでした。高校生になった時に父がパソコンを買っ
て、中身を見て、難しい用語は分からなかったのですが、父がどういう
状態だったのかなんとなく知ることができました。有難うございます」
「だったら、今はもっとよく分かるだろう?」
「はい、検索して調べましたから」
 記録に余計なことを書かなかっただろうか、と滝田は心配になった。
大丈夫だ。夢の観察はあくまで病気の原因を探るためということになっ
ていたはずだ。
「どうしてここが分かったの?」
「滝田国際睡眠障害専門病院は見つかりませんでした。滝田研究所のホ
ームページを見て来ました」
 サイトには滝田の名前も顔写真も載せているから、渡した名刺がまだ
あれば分かるだろう。
「お父さんは今どうしてる?」
「父は二年前にクモ膜下出血で亡くなりました」
「そうか。お気の毒に……」
「僕は秘密を守りました。だから父は何も知らずに死にました。その方
が幸せだったと思います」
「そうだね。お父さんは自分に起こった事を覚えていないようだったか
らね」
 滝田は倉田氏を見殺しにするつもりだった。だが美智子の機転によっ
て助かった。しかし結局は死去してしまった。まああの悪夢のような状
態で亡くなるよりはマシだろう。
「先生の考えはおもしろいですね。前世の記憶をたどって過去にさかの
ぼったなんて。僕、すごく興味を持ちました」
「ああ、あくまで推測だけどね。しかしあの睡眠障害はなんだったのか、
前世に戻るとしても、どうしてそんなことができたのか、全く分からな
いままなんだ」
「僕も結論を出すまでに時間がかかりました。僕達の症状はいったい何
なのか。最近になってようやく僕なりの考えがまとまってきたんです」
 僕達? 滝田は聞きとがめた。この青年は何を言っているのだ?
「実は僕、毎日の睡眠時間が二時間くらいなんですよ。中学の時からず
っとです」
 あまりにもさらっと言ったものだから、滝田は目をむいた。青年は笑
顔のままだ。日に焼けたその快活な表情は、とても病気には見えない。
「君は、不眠症なのか」
「そうなんです。でも、先生。僕は大丈夫なんです。昼間居眠りをする
わけでもないし、どこか体が悪いわけでもないんです。それでも母は心
配して、あっちこっちの病院に連れていきました。でも、どこでも同じ
です。薬をもらって、それでおしまいです。生活にも支障はありません。
結局母はあきらめました」
 久しぶりの再会の喜びが、早くも不吉な疑念へと変わり始めた。父親
の睡眠障害は複雑怪奇なものだったが、息子の症状も変わっている。睡
眠時間が二時間だって? それでどこにも異常がないって? 中学から、
大学まで。
 もっとも、八時間は寝るべきなどというのは、人が勝手に決めこんだ
ことであって、短い時間の眠りでも平気な人間は存在する。ナポレオン
が毎日三時間しか寝なかったのは有名だし、エジソンも短眠者だった。
もっとも、ナポレオンは居眠りの天才であったとも言われているが。
「記録を読むまで、僕は自分の不思議な病気がなんなのか分からなかっ
たんですよ。この症状が始まってから時々見るようになった夢のことも」
 どうやら不吉な予感が当たりそうだ。この青年も、父親のような夢を
見るというのか。
 彼は少しも不安な様子を見せず、いきいきとした調子で続ける。
「僕は、父とは反対に未来が見えるんです。少し先のことから、遠い将
来のことまで。中学の頃は本当に時々でしたが、今は確実に見ることが
できます。見る、というより、行くといった方がいいかもしれません」
「つまり君は、予知夢を見るというんだね。君はそれが本物だって証明
できるかい?」
「証明、というとちょっと難しいんですけど、よく当たるんですよ。遠
い未来は実証できませんけど、近い将来ならまず当たります。先生は明
日危ない目に会いますよ。先生がびっくりした顔をして急ブレーキを踏
むのを、昨日夢で見ちゃったんですよ。僕は横にいました。もう少しで
大事故ですよ」
 まさか、と滝田は思う。父親が特殊な能力を持っていたからといって
その息子にもそんな力があるなんて。作り話ではないのか?
「で、君の考えはどうなの? お父さんや君の能力は、何だと思うんだ
い?」
「タイムトラベルの一種です」
「超能力っていうこと?」
「そうです。僕は父とは違って、睡眠時間は短いものの普通に生活する
ことができます。僕らの力は夢が大きな役割を果たします。だから、発
現できるようになる時に、代償として眠りに異常が起こるんだと思いま
す」
 それは滝田もこの十年間考えていたことだった。滝田は青年の意見を
もっと聞きたいと思った。
「お父さんの睡眠異常は何だったんだろう?」
「父は無意識に試行錯誤したんだと思います。自分の望む最適な状態は
何なのかを。そしてクライン・レビン症候群にたどりつきました。いつ
でも好きな時に夢の中で出現できますからね」
「じゃあ、レム睡眠行動障害は?」
「眠りっぱなしだと、外界との意思疎通が遮断されてしまいます。夢の
中に閉じ込められてしまうんです。そこでコミュニケーションの手段と
してレム睡眠行動障害という形を取ったんです」
「それはお父さんが意識して望んだものではなく、あくまでも潜在意識
下での願望なんだね?」
「そうです」
 滝田も同じように考えていた。ただし、滝田の見解が仮説であるのに
対し、青年の言い方は確信に満ちている点が違うが。
「じゃあ君の不眠症は?」
「僕は、何をするにも集中力を維持するのが、二時間が限界なんです。
予知夢を見るのも同じです。人は眠ってから一番深いノンレム睡眠に達
して、その後眠りの浅いレム睡眠になるんですよね。かかる時間は九十
分。でも個人差がありますよね。僕の場合は二時間なんです。普通なら
この周期を繰り返すんでしょうけど、僕はそれ以上注力することができ
ませんから、目が覚めてしまうんです」
「夢を見るのに集中力が必要なのか。それは興味深い話だね。しかしそ
んな能力のために君やお父さんが睡眠障害を抱えなければならないなん
て、なんだかかわいそうだなあ」
「とんでもない。これは素晴らしいことなんですよ」
 素晴らしいだと? 歴史を変えてしまうような恐ろしい力が輝かしい
ものであるはずがない。
「私はね、エジプト人はお父さんの夢が作り出した架空の存在であるか
のように思っていた。だがあのエジプト人は実在した本物だったのかも
しれない。だとしたら私は人殺しをしてしまったことになる。それでこ
の十年悩み続けてきたんだよ」
「本人ではないと思いますよ。だって高貴な人物なんでしょう? そん
な人が記憶喪失になったからといって砂漠をさまよっているでしょうか。
僕には不自然に思えます」
 滝田にはなぐさめのようにしか聞こえない。
「じゃあ君は何だと思うんだい?」
「アバターのようなものだと思います。ほら、オンラインゲームで髪型
や顔や服装を自分好みにカスタマイズした分身を作るでしょう? 同じ
ように夢の世界の中で自由に動けるアバターが必要なんです。父はその
分身にまず御見葉蔵の記憶を植え付け、インド人の記憶を植え付け、エ
ジプト人の記憶を植え付けていったんです」
「どうしてそんなに確信を持って言えるんだい?」
「僕がそう感じるからです。夢の中で行動する人物は僕自身だという気
がしません。あくまでも複製なんです」
「本物とは別に偽者がいたっていうこと?」
「そうです。おそらくエジプト人だけでなく、御見葉蔵も、父自身も」
「でもエジプト人もインド人も君のお父さんとは別人だろう?」
「御見葉蔵は前世の自分、インド人も前世の自分、エジプト人も前世の
自分、全部自分であることに変わりはないでしょう?」
 なんだかうまく言いくるめられた気分だ。察しはついたが、一応聞い
てみる。
「なるほど。君の意見は分かった。で、もう一度聞くが、今日は何の用
だい?」
「先生にお願いがあるんです。夢見装置で僕の夢を観察してほしいんで
す」
 冗談じゃない。倉田氏でもうこりごりだ。その息子をまた興味本位に
実験台にするなんて。
「それは困るよ。夢見装置は君の助けにはならないと思うんだ」
「いえ、助けるとか、そういうことではありません。僕は、最近はかな
り先の未来の夢ばかり見ます。それは、人類が月に進出した時代なんで
す。僕はある人物の名前を耳にしました」
 青年の瞳が滝田を直視する。
「本当のことを言うと、僕は先生に会いに来るつもりはなかったんです。
今頃になって来たのは、先生ならその人が誰なのか分かるかもしれない
と思ったからなんです」
「もったいぶらずに言ってくれないか。それはどんな人物なんだい?
私に関係あるのか」
「タキタという人なんです」
 なんだと?
「下の名前は?」
「分かりません。月面の日本人基地で、会話の中にその名が出てきただ
けなんです。詳しいことは分からないんです」
「しかし、タキタという姓は別に珍しくもないだろう」
「そうです。ですからここに来るべきかどうか迷いました。だから、ぜ
ひ先生自身に確かめてほしいんです。そのためには僕を夢見装置につな
ぐしかありません」
 滝田は苦笑した。
「その人物を見られたとしても、未来の話なんだろう? 私の家族か親
戚だとしても、判別できるかどうか……」
「分からないかもしれません。しかし分かるかもしれません。僕は先生
に関係あるという気がしてならないんです。これはもう僕の第六感を信
じてもらうしかありません」
「それも超能力なのかい?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 青年の話を信じるべきかどうか。いずれにせよ装置を使わなければ確
かめられない。
「そうかい。それじゃあとにかく、明日また来てくれ。一度だけなら夢
見装置につないであげてもいい。あれはおもちゃじゃないんだ」


   四

 論文の字面を漫然と追う目を、滝田は壁の時計に向けた。夜の九時を
十分ほど回ったところだ。
 遅い。何をやっている。
 再び視線を紙に戻す。読んでなんかいない。ただながめているだけだ。
滝田は一日中落ち着かなかった。今朝起こった事件のためだ。まさかと
思ったが、倉田志郎の予告が的中したのだ。いきなり横から飛び出して
きた車に、もう少しで衝突するところだった。
 青年と約束していた時間は九時だ。だがまだ来ない。
 ドアをノックする音にはっとして顔を上げた。
「どうぞ」
 しかし現れたのは井上だった。がっくりと肩をおとす。
「先生、昨日の人が来てますよ」
 再び息をのんで身を乗り出す。
「入ってもらって」
 立ち去ろうとする井上に声をかける。
「宮田君は? もう帰ったの?」
「ええ。僕も帰ります。んじゃお先に」
 ひどい音をたててドアを閉めた。
 滝田は胸の前で両手の指を組み合わせる。井上は最初から当てにして
いなかったが、宮田も帰ったとなると他の研究室から応援を呼ぶか、滝
田一人でやるか、どっちかだ。
 再びノックの音がして、穴があくほどドアを見つめた。
「どうぞ」
 倉田志郎がにこやかな表情で現れた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 慌てて職業的な笑顔を作る。
「どうでした? 僕の予知夢は当たりましたか」
「ん? ああ、驚いたよ。まさか本当に起こるとは思っていなかったか
ら」
「そうですか。良かった。少しは信じてくれる気になりましたよね」
 青年はかぶっていた帽子をとった。滝田が指示した通り、丸坊主にな
っていた。
「それじゃあ、行こうか」
 青年の脇をすりぬける時、かすかにいい匂いがした。近頃の若者は男
でも香水をつけるのか。あらためて自分が年寄りになってしまったこと
を感じる。
 滝田が先に立って階段を降りていく。歩きながら考える。自分は単な
る興味から倉田志郎の夢を見ようとしているのだろうか。青年がタキタ
という人物に何かしようとしたら、そのアバターを殺したいのではない
か。
 そんなことを考えているうちに、被験者を寝せるベッドルームに着い
た。分厚い扉を開け、先に入れと手で示す。青年は臆することなく堂々
と入っていった。
「へえ。ここで父の夢を観察したんですか」
 滝田は答えずベッドの脇に立った。
「仰向けになって。服はそのままでいい」
 滝田は言われた通り横になった青年にヘルメットをかぶせた。
「すぐに眠れそうかい?」
「いえ、いつも眠くなるのが三時くらいなんですよ」
 錠剤が入ったシートの銀紙を破る。ポットから水をコップに注ぐ。
「睡眠導入剤だ。飲んで」




#552/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/554 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




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