AWC ●長編



#496/514 ●長編    *** コメント #495 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:14  (477)
そばにいるだけで 65−3   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:53 修正 第4版
 どきっとした。久しぶりにずばりと言われ、自分がそれなりに有名になっているのだ
と、今さらながら実感する。
「あ、あの。ありません。ほ、本人です」
「へ? って、へー! 信じられない。何してるの、こんなところで!」
 遠く地方で別れた旧友に会ったかのごとく、寺東は反応した。手にバッグを持ってい
なかったら、そのまま抱きついてきて、肩の辺りをばんばんと叩きそうな勢いだ。言葉
遣いも元に戻ってしまっている。
「アルバイトをここでしたくて」
「へー? バイトって、何で? いや、まあ何でもいいわ。今は聞かなくてもいいや。
店長、もっちろんOKしたんでしょうね!」
「あ、いや、まだだが。話の途中だったし」
 戸惑いの色が明らかな店長は、帽子のずれを直しながら、寺東に尋ねた。
「君はこの子と知り合いなのかい?」
「違いますよ。知り合いじゃなく、一方的に知ってるだけ。結構知ってますよ〜。私、
彼女がCMをしてるのをみて、飲み物や化粧品なんかは美生堂を贔屓にしてるんだか
ら」
「よく分からないが、こちらのお嬢さんは広告に出ているのかね」
「出てます出てます。ファッションモデルもしてるし、ドラマにも出たし、他にも色々
と。まあ、全体に露出は抑えめだから、店長みたいな男の人が知らなくても無理はない
ですけどね」
「ふ、ふーん」
 店長もまた、純子をまじまじと見つめてきた。さすがに視線に耐えきれず、下を向い
た。
「言われてみれば、きれいな顔立ちをしてるし、すっとしたスタイルだな。あんまり言
うと、ハラスメントと取られるか」
「い、いえ」
 純子は素早くかぶりを振った。横に立った寺東が、とうとう純子の手を取った。
「ほらほら、店長もそう思うでしょ。だったら雇いましょう。看板娘かマスコットガー
ルってことで、風谷美羽を目当てに来るお客が増えますよ、きっと」
 ええ? そういうのはちょっと……。
 寺東の盛り上がりに、すぐには言い出せなかった純子であった。

「あはは、そいつは傑作」
 鷲宇憲親は、純子からアルバイトを頼みに行ったときのエピソードを聞き、快活に笑
った。
「笑いごとじゃなかったんですよ、そのときは」
 マイクスタンドを握りしめ、力説する純子。姿はひらひらが多く付いているとは言
え、男物のズボンにシャツにジャケット、そしてウィグと、久住淳仕様。今いるのは、
ミニライブで使う会場のステージ上だ。開催まで日にちはもう少しあるが、本番と同じ
場所で雰囲気・空気感を掴んでおこうというわけ。鷲宇のスケジュールの都合で、今
日、土曜しかできないので集中的に取り組んでいる。
 三時間ほどレッスンを兼ねたリハーサルを重ねたあと、休憩中の息抜きに、アルバイ
トの話をしたところだった。
「結局、採用された?」
「めでたく採用していただきました。短期間で時間も不確定っていう悪い条件なのに、
寺東さんの猛プッシュがあったおかげです。だから、その意味では感謝なんですが、客
寄せパンダになるのだけはお断りしました」
「そりゃあ、ルークさんとことしても事務所の断りなしに、そんな営業めいたことをさ
れちゃあ面目丸つぶれだ」
「はい。それに、私がアルバイトをする目的って、さっき言いましたように、相羽君の
誕生日プレゼントのためなんです。だったら、風谷美羽の名前を利用するのは、避けた
いなあって」
「確かに。風谷美羽、来たる!というようなやり方なら、普段と仕事と大きな違いはな
い。わざわざアルバイトをする意味が薄まるね。相羽さんところの影響力がない、自分
自身で勝負してみたいと」
「そうなんです。でも、会って間もない人達に、そこまでの事情を話すのは躊躇われち
ゃって。寺東さん、ミーハーなところあるみたいでしたしね。一応、事務所の意向って
ことで押し切りました」
「納得してもらったの?」
「あー、それがですね。風谷美羽の名前で人を集めるような行為はしないけれども、噂
に立つくらいならいいんじゃないかっていうのが妥協点でした。気付いた人が広める分
には、かまわないという」
「凄く、玉虫色ですな」
 また笑う鷲宇。純子は急いで、「事務所の許可はちゃんともらったんですよ」と言い
添えた。
「分かったよ。それにしてもよくアルバイトまでしようっていう気になれるね。相羽さ
んと市川さんから君のスケジュールを教えてもらったけれど、かなり詰まってるじゃな
いか。明日もどこだっけかイベント広場で、握手会とか」
「あ、それ、握手はなくなりました。サインだけです。限定で先着百名、整理券配布方
式で。あとは歌」
「どっちで唄うのかな?」
「え? ああ、明日は久住淳ではなく、風谷美羽としてです。アニメ『ファイナルス
テージ』のエンディング曲だから。放送開始して間もないし、百人も来てくれるのかし
らって心配で心配で」
「甘く見ない方がいいよ。僕も昔――っといかん。こんなに時間が経ってる」
 鷲宇はお喋りをすっと切り上げ、リハーサルに戻ることを宣言した。
「次はいよいよ、お待ちかねの曲、いや、リレーメドレーを行ってみよう」
「鷲宇さんの持ち歌ですね……ほんとに鷲宇さん、一緒に出るんですか」
「何ですか、その嫌そうな言い種は」
 からかうような口ぶりになる鷲宇。純子は少しだけ迷って、正直に答えることにし
た。
「嫌ですよ。気が重い。鷲宇さんの持ち歌を、鷲宇さんと一緒に唄うなんて」
「しょうがないでしょう。ミニライブとは言え、ショーとして成立させるには曲が少な
く、話術も心許ない。そこで応援出演どうでしょうっていう市川さんからの依頼があっ
たんだ。僕は快く引き受けた。感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「サプライズとして出てくださるのには、光栄すぎていくら感謝してもしきれないって
思っています。でも、それとこれとは別です。普通に鷲宇さんお一人で唄ってくださる
のが、ファンの人達にとってもいいんじゃないですか」
 本気でそうしてもらいたい。けど、言って、聞いてもらえるとは期待していないか
ら、一生懸命練習するほかなかった。
「ばかなこと言わない。当日は久住ファンが集まるんだよ。この会場いっぱいに。大き
くはない箱だけど、一人一人の熱狂が近くに感じられるはず。それに対して全力で応え
ることに集中しなさいな、久住君」
「それはもう覚悟できています」
 力強く言い切る。
 純子のそんな様子を見て、満足かつ安心したのか、微笑を浮かべて軽く頷いた鷲宇。
「その意気込みついでに、一曲まるまる、僕の歌を唄ってみないかな」
「拷問に等しいですよ、それ」

「また寝てる」
 頭上からの声に目を開けると、白沼の手が見えた。ふと、「手だけで白沼さんだと分
かるなんて、親しくなれた証拠かな」と思った。
 それとも、声で察したのかしら等と考えながら、「何、白沼さん?」と応じる。机の
上には、携帯できるミニ枕。
「それだけ眠りたいくせに、よく授業中、起きていられるわね」
 しゃがみ込んだ白沼が、机の縁に両腕をのせて話し始める。
「授業で眠らないように、休み時間に休んでるんだよぁ」
 あくびをかみ殺しながら、身体を起こす。ミニ枕を机の中に仕舞い込んだ。
「疲れが溜まってるんじゃないの。確か、昨日の日曜はスケジュールが入っていたけれ
ど、土曜は何もなかったんでしょ」
「え、そんなこ……」
 そんなことないわ、土曜もリハーサルがあったと答え掛けて、慌てて口をつぐむ。
(危ない危ない。白沼さんには、久住淳としての活動は秘密なんだったわ。でも、レッ
スンて言うだけなら、まあいっか)
 覚醒したばかりの頭をフル回転して、それだけのことを考えた。
「何? 言い掛けてやめるなんて気持ち悪い」
「ううん、くしゃみが出そうになっただけ。で、そんなことないのよ。白沼さんの方に
渡しているスケジュールは仕事絡みだけで、レッスンなんかはほとんど省いているか
ら」
「そうなの? じゃあ、空いていると思ったら実際は埋まっている場合もあるのね」
「うん、まあ、時々は。だいたいは空いてる」
 あまり歓迎できない方向に話が進むので、純子は切り替えに掛かった。
「心配してくれてありがとう! 凄く嬉しい」
「ば、ばか。心配するわよ。パパの評価にも関係があるんだから」
「それでも嬉しい」
 純子がにこにこして見せると、白沼の方は耐えきれないという風に、横を向いた。
「変なこと言い出すから、本題を忘れそうになったじゃない」
「ということは、また仕事関係の連絡が?」
「そうじゃないわ。完全にプライベートなことよ。あなた、相羽君から何か聞いてな
い?」
「うん? 何のことやら……」
 答えながら、白沼の肩を視線でかすめて、相羽の席を見る。今は空っぽ。教室内にも
いないらしい。
「いないわよ。まだ職員室にいるんじゃないかしら」
 探す仕種に勘付いた白沼が言った。
「職員室って、神村先生のところ?」
「ええ。クラス委員の用事で職員室に先生を訪ねたら、相羽君が先にいて。何か相談事
をしていたみたいなんだけど、私が近付いたらぴたっとやめちゃって。先生が手にして
いた資料、ぱたんて閉じるくらいだから、結構個人的な話なんでしょうけど」
「成績かなあ。でも、相羽君、下がってはないはず」
「でしょ。第一、普通とちょっと違う感じなのよね。ぴりぴりしてるというか、緊張感
が高いというか」
「ふうん」
「だから、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけれど……そ
の様子だと特に何もないみたいね」
「うん……」
 ここ数日のことを思い出してみるが、これといって思い当たる節はない。もちろん、
純子が忙しいということもあるけれど、少しの時間でもあれば相羽は一緒にいてくれる
し、楽しい会話も普段と変わりない。
「そういえば、始業式の頃、相羽君が先生に三者面談の日について、お願いしたみた
い。お母さんの都合がどうなるか分からないので、この日にしてほしい、という風な感
じで」
「その話だったのかしら。あんまり詮索することじゃないから、直に聞くのもしにくい
し。涼原さん、恋人として、うまく聞き出しておいてよ。気になるわ」
「や、やってみる」
 恋人という言い方に赤面するのを自覚した。

 駅近くのファーストフード店はほどよく混んでおり、騒がしい。内緒話をするのには
うってつけと言えるかもしれない。
 相羽も純子も飲み物だけ注文して、奥の二人掛けのテーブルに着いた。
「――それじゃあ、当日の格好について。一番上に着るのは、伸びたり穴が空いたりし
てもかまわない服にすること。上下ともにね。あと、靴も」
「靴まで? 畳の上でやるんじゃないの?」
 この日の下校は、結城達や唐沢には悪いが、仕事関係の話があるからと言って、二人
きりにしてもらった。実際には、護身術を教えてもらう日を決めるのとその段取り、そ
して純子からすれば白沼から言われて気に掛けていたことを確かめるためであった。
「護身術を実際に使わざるを得ない状況になったとして、その状況になるべく近い形で
練習するのがいいんだってさ」
「なるほど。って、畳に靴で上がっていいの?」
「専用のマットを用意して、その上でやるみたいだよ。女性の指導員が付いてくれるか
ら、ちゃんと系統立って教えてもらえると思う」
「え、相羽君は?」
「補助が必要なときは協力することになってる。最初からいた方がいいのなら、そうす
るけど」
「もちろん、いてほしい」
 こんな具合にして、護身術を習う日は決まった。連休の最後の日だ。一日で完璧に身
に付けるのはどだい無理があるだろうけど、とりあえず第一歩。仕事だってその日まで
にとりあえず片付いているはず。身体の方は悲鳴を上げているかもしれないが。
「これでよし、と」
「よろしくお願いします」
 お互いにメモ帳を閉じ、飲み物のストローに口を付ける。先に飲むのをやめた純子
は、次の話題に移ろうと、軽く息を吸った。
「このあと、まだ大丈夫よね?」
「うん。何かあるの?」
「特別に何ってわけじゃなくて、もっと話していたいなあって」
「どうぞどうぞ。愚痴でも悪口でも夢でも、何でも聞きましょー」
 おどけた口調になる相羽。純子はつられて笑ってから、切り出した。
「ちょっと前から気になってたの。二年になって、相羽君、神村先生のところに行く機
会が増えてない? 今日も行ってたみたいだし」
「増えたかも」
「数学の質問、とか?」
「いや、質問に行くことはほとんどない。前に言ったと思うけど、三者面談をね。早め
にしてもらうことになりそうなんだ。こちらの都合でわがままを聞いてもらって、特別
扱いは気が引けるんだけど、凄く助かる」
「……」
 純子は短い間だが、相羽の様子を観察した。嘘を言っている風には見えない。
「へえー。普通は中間考査のあとでしょ。それを前にやるなんて、よっぽど成績がいい
人じゃないと、認められないんじゃない?」
「そんなことないって。成績とは関係なしに、先にしてくれたんだと思うよ」
「またご謙遜を」
「いや、ほんとに」
「それじゃあ、先生のところに何回も通ったのは、お願いを聞いてもらうためってわけ
ね」
「うん。こちらも事情を説明するために、証明書って言ったら大げさになるけれど、
色々と出す必要があったしね」
「わぁ〜。お母さんが忙しいと、大変だ」
「忙しいのは純子ちゃんもでしょ。休み時間になると、たいていは机にもたれかかって
寝ちゃう。みんな気を遣って、話し掛けられないみたいだよ」
「そうなんだ?」
 白沼さんは平気で話し掛けてきたけれど、と思った。でも、結城や淡島といった女子
に、唐沢までも話し掛けてこないということは、相当気遣われている。
「起こしてもらったら、いくらでも付き合うのに」
「君のやっていることを知っていたら、無理に起こそうなんて考えもしないよ」
「白沼さんは起こすわ」
「仕事関係でしょ、それも」
「そっか」
 答えてから、心の中でそっと付け加える。
(今日は違ったけれどね。相羽君も心配されているのよ、気付いていないみたいだけ
ど)
 純子はいつの間にかにんまりしていた。
「相羽君。私ね、とっても幸せな気分よ、今」
「え?」
「友達がいて、みんなそんなにも私のことを心配してくれてる。友達だけじゃないわ。
周りの人達大勢に支えられてるんだなって、改めて実感した。感激して泣けて来ちゃ
う」
「――そうだね」
 戸惑い気味だった相羽の表情がほころんだ。
「僕もその輪の中に入ってる?」
「何を言うの。相羽君が一番よ。あ、順番は付けにくいけど、でも相羽君は特別なの
っ」
「よかった。同じだ」
 顔を赤らめながら言った純子の前で、相羽がまた微笑む。
「僕も色んな人に支えられているけれども、君が一番」
 純子は相羽をまともに見つめ直し、そして安心した。相羽も、目元付近に朱が差して
いたから。

 ゴールデンウィークを目前にした、最後の学校の日。校舎内でも各教室でも、それこ
そあちらこちらで、生徒は遊びに行く話題で盛り上がっている。
「分かっていたことですけど」
 昼食の時間、集まって食べ始めるや、淡島が言い始めた。
「やはり、さみしいものです。お休みなのに、自宅に留まるというのは」
「みんなで遊びに行けないこと?」
「ああ、結城さん。折角ぼかして言っておりましたのに」
 この場にいる誰もが、ぼかしていないのでは……と心の中で突っ込んだかもしれな
い。
「ごめんね」
 いただきますのために手を合わせていた純子は、そのままのポーズで頭を下げた。
「私抜きで計画を立ててくれて、全然平気だったのに」
「そんなつもりは毛頭ございません。――ほら、結城さん。こういうことになりますか
ら」
「分かった分かった、分かりました」
 結城は面倒くさいとばかりに肩をすくめた。
「それじゃ、この話題は打ち切り?」
「いえ。一度、話題に出たからには、続けましょう。涼原さんは、いつなら暇になるの
でしょう?」
「遊びに出掛けるとなると……中間試験が終わってからかな」
「一ヶ月以上先の話!」
 結城は心底驚いたらしく、食べている物が口から飛び出さないようにと、急いで手で
覆った。もぐもぐと咀嚼してから、「やっぱり、忙しいんじゃないの」と呆れた風に付
け足す。
「一応説明しとくと、仕事の休みが全くないわけじゃないんだよ。ただ、中間考査前ま
では連続で休める日はなかなかなくて、あっても宿題や完全休養に充てたいなって」
「一つ、抜けています」
 淡島は箸を置いて、右手の人差し指を上向きにぴんと伸ばした。
「な、何が」
「デートをする日も必要なはずです」
 さらっと言ってくれる。当事者の立場からすれば、前置きなしにいきなり冷やかされ
ると、顔が熱くなる。
「い、いえそれは、まあ、ゼロってことはないけれども、相羽君の方も忙しいし。ほ
ら、ピアノのレッスンとかで。だからお互いに無理をしないで、行けるときに行こうね
って合意ができてるの」
「先は長いですから、それでも充分なんでしょう。これからの人生、思う存分に楽しむ
といいですわ」
 淡島は占いを趣味としているせいか、この手の言い種をよくする。純子はお茶を飲み
かけていたが、吹きそうになって、すぐさまコップから口を離した。それでもけほけほ
と咳き込んでしまう。
「もう、淡島さん、今日は飛ばしすぎ!」
「そのような意識は全くないのですが……自重します」
 箸を構え直し、小さな煮豆を器用に一粒ずつつまみ上げてはぱくつく淡島。
「デートって、どんなところ行くの?」
 今度は結城が聞いてきた。純子が答を渋ると、補足を入れてくる。
「根掘り葉掘りはしないからさ。今後の参考までに」
「月並みだよ。映画館とか遊園地とか。最近では、お花見」
「月並みでも幸せなんだから、いいよね。極端な話、二人でいられればどこだっていい
んじゃない?」
「それはまあ……って、そっちから聞いておいて、ひどい言われようだわ」
 純子が怒った素振りを見せると、結城はまあまあとなだめてきた。ひとしきり笑って
いるところへ、淡島がぽつりと。
「噂をすれば、です」
 廊下側に顎を振るので、つられて振り向くと、相羽と唐沢、鳥越の男子三人がこっち
に来るのが分かった。今日は学食に行っていたようだ。
「鳥越が、そろそろ顔を出してくれないと、新入部員にしめしがつかないって」
 前置きなしに、相羽が純子に言った。鳥越は天文部で、夏以降は副部長に収まる予定
だとか。相羽と純子も籍を置いているが、幽霊部員度は似たり寄ったりだ。強いて言う
なら、相羽の方が参加している。
「忙しいのは分かってるけど、そこを何とか。三十分でもいいからさ」
 鳥越は、何故か両手を拝み合わせて下手に出た。
「そんな。悪いのは私の方なのに」
 残りわずかになったお弁当を前に箸を置き、純子は両手を振った。
「気にすることはないぜ、涼原さん」
 唐沢が口を挟む。彼は天文部とは関係ないが、稀に昼の太陽観測に付き合っているら
しい。
「こいつ、今年の新入部員を勧誘するときに、モデルをやってる風谷美羽も在籍してる
よってのを売り文句に、何人か獲得したみたいだから」
「えー、まじ? 星好きにあるまじき行為」
 純子より早く、結城が反応した。続いて淡島も、彼女は無言だったが、じとっとした
“軽蔑の眼”を鳥越に向けた。
「ほ、ほんの少しだよ。入るかどうか揺れ動いてる人を、こっちに傾いてくれるよう、
ちょっと押しただけ」
 言い訳がましく、汗をかきかき説明する次期天文部副部長。
「でもその少しの人数から、風谷美羽さんはどこにいるんですかって突き上げを食らっ
たんだろ」
「ま、まあ、それに近いものはある。――こんなわけで、偉そうに頼めた義理じゃない
んだけど、近い内に一度、部室に来てよ、涼原さん」
 また拝まれた。純子は十秒ぐらい間を取って考え、そして答えた。
「行くのは全然かまわないけど。万が一、その一年生が私を見るだけが目当てだった
ら、すぐにやめちゃうかもしれないよ? 私が言うのもおかしいけれど、その子は真面
目に参加してる?」
「それは……」
 言い淀んだ鳥越。
「……凄く熱心とまでは言えないけれど、たまにさぼるのは、こっちが嘘ついたみたい
になってるせいかもしれないし……ああ、ごめん!」
 大声を出したかと思うと、鳥越は深々と頭を下げた。
「この言い方だと、涼原さんのせいみたいにも聞こえるよね。本当にごめんなさい。そ
んなつもりはないんだ」
「いいの。行かないのは、私が絶対悪いんだし。参加できないくらい忙しいのなら、最
初から入るなってことよね」
「いやそれは、誘ったのは僕らの方だし。それに、だからといって、今さら退部されて
も困るんだ」
「許されるのなら、籍は置いておきたいの。今年はちょうど夏に皆既日食があるでし
ょ? 観られる地域は限られるけれども、それに合わせて合宿をするんだったら、行き
たいなあって思うし」
「分かった。その線で合宿をするように持って行くよ」
 だから部室に顔を出して、と言いたげな鳥越だったが、言葉をぐっと飲み込んだ様子
だ。
「私、まだ先のスケジュール分からないよ? だから参加するって約束もできない…
…」
「いい、いい。たとえ不参加になっても、涼原さんの魂は現地に持って行く」
 魂って何だそれはと、相羽と唐沢、左右両サイドから鳥越に突っ込み。
 鳥越は頭を掻きながら、気持ちだけでも来て欲しいってことさと答える。そうして、
改めて純子の方を向いた。
「とにかく、さっきまで僕が言ったことは忘れて。暇なとき、活動に来て欲しいんだ。
説明するまでもないだろうけど、とっても面白くて楽しいから」
「うん。行く」
 笑顔で返事した純子。
「いついつになるって約束できないのが申し訳ないけれど、絶対に行くから」

 明日からはきゅうきゅうのスケジュールで、ミニライブに撮影にインタビュー、歌や
振り付けのレッスンと目白押しだ。休みも二日あるにはあるが、撮影の予備日に充てら
れているため、天候や進行具合に左右される。
 そういう状況なので、純子にとって今日は学校があるとは言っても、貴重な休みとも
言える。
 明日以降のために早く帰って休息を取りたい反面、友達付き合いも大事にしたいと思
う。だからというわけではないが、下校途中、みんな――相羽、唐沢、結城、淡島、そ
して白沼――と一緒にちょっと寄り道をすることに。
 元からそう決めていたのではなく、相羽が買いたい本があるのだけれど、近くの書店
にはないので、駅ビルの大型書店に寄ってみたいと言い出したのが始まり。六人で列車
に乗り、ターミナル駅までやって来た。
 書店までの道すがら、白沼に問われて相羽が買いたい本のタイトルを口にすると、唐
沢が反応をした。
「なぬ? 『トラ・慰安婦』と『ちん○は、ちん○』だって?」
 相羽はぴたりと足を止めると、唐沢の方を向いた。他の者が引き気味になる中、思わ
ず立ち止まった唐沢の真ん前で、右の握り拳に息を吐きかける相羽。
「いー加減にしろっ。わざと聞き違えるにしても、ひどい。ひどすぎる」
「わ、分かった。悪かった。茶化すつもりはないんだが、もう条件反射みたいに」
「なお悪い」
「いや、だから、今後は気を付けるって。で、もういっぺん言ってくれよ、本のタイト
ル」
 唐沢の懇願に、相羽はため息をついてから、ゆっくりはっきりと答えた。
「『マジック:応用とギミック トライアンフとチンク・ア・チンク』だ」
 純子は歩き出しながら、そのフレーズを頭の中で繰り返し唱えてみた。
(確かにひどかったけれど、唐沢君が下ネタに走るのも、分からないでもないかも)
 そう考える自分が恥ずかしくて、頬が赤くなるのを感じた。両手で覆って隠す。
「トライアンフやチンク・ア・チンクというのは、マジックの演目の名前だよ」
「どんな現象なのかしら」
 白沼が聞いた。彼女はさっきの下ネタの後遺症は浅かったらしい。
「トライアンフはカードマジックで、様々なバリエーションが考案されてるけれども、
基本は、順番も表裏もばらばらになった一組のトランプが、マジシャンの手に掛かると
あっという間に順番も向きも揃うという現象。チンク・ア・チンクはコインを使ったマ
ジックで、基本は……四枚のコインを四つの角において、手のひらをかざしていくと、
コインが一瞬にして別の角に移動し、最終的には一つの角に全部が集まるという現象、
と言えばいいかな」
「相羽君はできる、その二つ?」
「うーん、どちらも簡単なものならいくつか」
「今度見せて」
「いいよ。マットがなくても、何とかできるかな」
 相羽と白沼が話し込むのを目の当たりにした結城が、純子の脇をつついた。
「いいの? 喋らせておいて」
「え? 私、そこまで嫉妬深くないよ〜」
「それじゃあ相羽君の今言ったマジック、観たことあるの?」
「多分ね。名前だけじゃ分からなかったけれど、説明を聞いたら、観たことあると気が
付いたわ」
「そう、それならいいのかしら。随分、絆がお強いようで、うらやましい」
「うふふ」
 素直に受け取って、にやけておこう。
 と、そんな会話が聞こえていたのか、相羽が隣に着いた。
「それじゃあ純子ちゃんにも興味を持ってもらえるよう、新しいのを覚えてから、みん
なの前で披露するよ」
 目当ての書店は、意外と混雑していた。会社の終業時刻にはまだ早いだろうに、乗降
客がよく立ち寄るのか、場所によっては身体の向きを横にしなければ通れないくらい。
この光景だけを見ると、本が売れないなんてどこ吹く風だ。
「どうせ他の本にも目移りするんだろ? 俺、コミックのところにいるわ」
 唐沢はいち早く輪を離れた。結城と淡島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは淡
島。
「では、私は占いのコーナーにでも」
 皆にそう告げると、淡島はすたすたと足音を立て、でも何故かゆっくりしたスピード
で進んだ。結城は少し迷った表情を浮かべたが、同じ方向に歩き出した。
「淡島さんとはぐれたら、見付けづらそうな気がする。引っ付いといた方がいいかも」
 何となく納得する理由だったので、その役目を彼女にお願いすることに。
 残った白沼は、純子と同じように相羽に着いて行くつもりなのだ――と、純子自身は
思っていた。しかし、白沼は意外なことを言い出した。
「私は、週刊誌と写真集のところに行くわ。確か、あなたに出てもらった広告の一つ
が、週刊誌に載っている頃のはず」
「き、聞いてない」
 焦りと冷や汗を同時に覚えた。純子は、まさかと思って、続けて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、写真集というのは? 私、それこそ全然知らないんですけど!」
「写真集は写真集よ。あなた、前に撮ったんでしょ。それが今も残っていないか、チェ
ックしてあげる」
「えー、入れ替わりが激しいから、きっともうないって」
 今度はほっとすると同時に、白沼の感覚が理解できなくて戸惑った。
「本人が通う学校や自宅に近い書店なら、大量に仕入れて在庫が残ってるんじゃないの
かしら。リサーチよ」
「そんなことないって。返本するって」
 ねえ相羽君も説明してあげてよと、振り返ったが、そこにはもう相羽の姿はなかっ
た。少し先の通路にて、向こうもこっちを振り返っていた。
「多分あっちの方だから、探してるよ。どうぞごゆっくり」
 行ってしまった。人目がなければ、がっくりと膝と手を床につきそうだ。
「さあ行くわよ」
 そして何故か一緒に行くことになっているらしい。白沼に引っ張られ、まずは雑誌
コーナーに来た。
「えーと。白沼さん、何の広告だっけ?」
「『スマイティR』よ」
「ああ、美容健康食品……」
(コマーシャルだけでなく、静止画媒体向けにも撮ったんだっけ。『毎日食べてます』
っていうフレーズがなくなって、肩の荷が軽くなった気がする)
 そんな感想を抱く純子の前で、白沼は女性週刊誌を何冊か選び取り、次から次へ、ぱ
らぱらとめくっていく。手にした内の二誌で純子の出ているチラシを見付けたようだ。
一誌を純子に渡し、もう一誌は自らが見る。
「同じ物だけど、色ののりが違う感じ」
 純子の手元も覗いてから、白沼が言った。商品の魅力が上手に表現されているか、モ
デルがどう映っているかよりも、まず先に色調の差が気になるとは。広告のデザインを
決めた段階で分かりきっていることには興味ない、実際に紙面に載った広告の状態が肝
心だというわけなのだろう。
 映っている当人としては、そう割り切れるものではなく、純子は恥ずかしさを我慢
し、自らの映り具合を確かめた。
(あっ。ちょっと大人っぽく見えるかも? って、私が言うのもおかしいかな。でも、
『ハート』のときに比べたら、落ち着いている感じが出てるような。服かメイクの違い
かしら)
 ロングスカートのワンピースは、紫と群青の間のような色合いで、今までに自分がや
って来たはつらつとしたイメージに比べると、かなり大人びて見える。製品を持って微
笑んでいるだけ。言ってしまえばそれまでの広告なのに、無言の説得力が備わっている
ような気がしないでもなし。
(自分で自分の仕事を、ここまで肯定的に感じられるのって、珍しい)
 意外さから、舞い上がっているのかなと我が身を省みる心持ちになる。
「期待に応えてくれた、いい仕事をしてると思うわよ」
 心中を読み取ったかのように、白沼の声がそう話し掛けてきた。思わず目を見張った
まま、相手の顔を見返した。
「同級生の意見じゃ心許ない? 違うわよ。私だけじゃなく、会社のみんながいい出来
映えだって誉めてたんだから」
「本当に? う、うれしいよー」
 少なからず感動して、涙がにじみそうになる。ごまかすために、ちょっとおどけた声
を出した。
「あとは『スマイティR』が売れてくれればいいだけ」
 現実的な話をされて、涙は引っ込んだみたい。
「さあて、時間を取ってる暇はないわ。次、写真集よ。早く調べて、相羽君のところに
行かなくちゃね」
「見なくていいよ〜」
 置いているはずないと信じているが、もしあったらやっぱり赤面してしまうだろう
し、なかったなかったでちょっと寂しい。
 渋る純子だったが、またも引っ張られてしまった。抵抗むなしく、写真集の置いてあ
る一角に差し掛かる。
「今日は男性アイドルはお呼びじゃない、と――あら」
 横を向いていた純子の耳に、白沼の訝るような響きの声が届いた。何事かとそちらの
方を見ると、顔見知りの男子生徒が立っていた。
(稲岡君?)

――つづく




#497/514 ●長編    *** コメント #496 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:15  (494)
そばにいるだけで 65−4   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:54 修正 第4版
 意外なところで意外な顔を見た。白沼が怪訝がったのも頷ける。稲岡のイメージは、
勉強一筋でお堅くて、芸能界や女性に興味関心全くなし、だったのだ。それが今、写真
集のコーナー前に立っている。その位置から推して、女性写真集が並べてあるのは確か
だ。
 稲岡に、純子や白沼がいることを気付いた様子は全くない。と言って、写真集に見入
っているのでもない。何せ、全ての写真集は透明なビニールでパッケージされて、開く
ことができないのだから。品定めしているのか、表紙と裏表紙、そして背表紙をためつ
すがめつしている模様だ。あるいは、視力がよい方ではなさそうな稲岡だから、ビニー
ルに蛍光灯の明かりが反射して、文字がよく見えないのかもしれない。
「い――」
 名前を呼ぼうとした純子を、白沼が手で遮った。
「なに?」
「察しなさいな。あの稲岡君がこんな意外なとこにいるのだから、声を掛けたら逃げ出
しかねないわ」
「まさか」
「とにかく、両サイドから挟み撃ちの態勢を取る。声を掛けるのはそれから」
「えー」
 ひそひそ声で話したので勘付かれた気配はまだない。しかし気乗りしない純子は、改
めて名前を呼ぼうとした。
「待って。じゃあ、彼が何を手にとっているのか、それだけ確認させてよ」
 意地悪げな笑みを浮かべた白沼は、返事を聞かずに行動を開始した。白沼も成績優秀
な方だから、稲岡をライバル視していて、その相手の弱点を見付けた気になっているの
かもしれない。忍び足で稲岡の背後へ近付くと、そっと首を伸ばして、彼の手元を覗い
た。
「あっ」
 声を発するつもりはなかったのだろう、白沼はしまったという風に口元を手で覆っ
た。が、もう遅い。稲岡が振り返る。
「あ」
 稲岡も似たような反応を示して、しばらく動きが止まった。けれど、次の行動に出た
のは稲岡が早い。持っていた写真集一冊を書棚にぐいと押し込んで戻すと、俯き加減に
なって立ち去ってしまった。呼び止めるいとまのない、あっという間のことだった。
「ほらあ、白沼さんがびっくりさせるから」
 純子がしょうがないなあと苦笑いを我慢しながら近寄る。立ち尽くしていた白沼は、
その声にくるっと力強く向き直った。真正面から両肩に手を置き、言い聞かせるような
口ぶりで始める。
「涼原さん」
「な、なに」
「稲岡君が成績を落としたとしたら、その原因はやはりあなたにあるみたいよ」
「はい? どうしてそんなことが今、言えるの?」
 うるさくしたことを悪いとは思っている。しかし、そのことだけで小テストの赤点の
原因とされては、理不尽だ。
「素早く棚に戻されたけれども、私しかと見たわ。そこにあるのはあなたの写真集でし
ょ?」
「え、まだあるの?」
 白沼が指差した先に目を凝らす。何段かある本棚の中程、若干左上の隅に収まった書
籍の背表紙に、風谷美羽写真集という文字が読み取れた。
「ほ、ほんとだ。びっくり」
「私がびっくりしたのは、稲岡君がそれを手に取っていたことよ」

 相羽が目的の本を見付けて購入したのを機に、純子達六人は書店を離れた。そして白
沼の提案で、隣接するカフェに入る。普通、喫茶店に入るのは保護者同伴でなければい
けない校則があるが、そこはブックカフェという名目故。校則の適用外とされていた。
本を購入した客がすぐに読めるよう、場所を提供するのが主目的で、飲食物は極簡単な
物のみ用意されている。
「偶然じゃねえの?」
 丸テーブルに全員がついたところで、稲岡の一件を白沼が話す。すぐに反応したの
は、唐沢だった。
「あいつがアイドル写真集に興味を持つところが、想像できん」
「アイドルじゃなくて、クラスメート」
「それにしたって、なあ」
 相羽に同意を求める唐沢。だけど、そのクラスメートと付き合う相羽は、どう答えて
いいのやら、困り顔を露わにした。
「偶然なわけないわ。あの稲岡君が女性アイドルの写真集を置いているコーナーにい
て、この子の写真集を手に取っていた。私はこの目で見たのだから」
 白沼は純子の方を示しながら力説した。これを受けて、淡島が分析的に答える。
「事実として受け止めるとしましょう。つまりは、稲岡君は涼原さんに好意を抱いてし
まい、それが成績低下につながったと」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとする純子だが、あんまりうまく行かなかった。周りの賛同も得られて
いないらしい。
「おかしいわ。仮に、淡島さんの言ったことが当たってるとして、どうしてそれが成績
低下につながるのか」
「気になる異性ができて、勉強に身が入らないというのは、ありがちではありません
か。もしや、涼原さんはそのようなタイプではないのでしょうか」
「……うん、そうなのかな。えっとね、好きな相手とうまく行っていたのに、何かのき
っかけで仲が悪くなった、とかなら、何も手に付かなくなるかもしれない。でも、気に
なる人ができただけなら、それは幸せなこと、嬉しいことだわ」
「なるほどね」
 結城が腕組みをして頷いた。それから腕を解き、純子を軽く指差した。
「けれども、今の場合は、純の状況を当てはめなきゃいけない。稲岡君からすれば、彼
氏持ちの女子を好きになりかけてるんだよ。声を掛けたくてもできない。悶々としたと
しても当然よ」
「少し、分かった気がする」
 そう返事したものの、まだ不明点が残っている。つい、首を傾げた。
「私、どう考えても稲岡君からは嫌われてると思ったんだけど。嫌うって言うのが強す
ぎるのなら、避けられてる、疎まれている感じ。こんなので、実は好意を持ってますな
んて、あり得ないわ」
「小学生ぐらいなら、好きだからこそちょっかいを出すというのがあるかもしれないけ
ど、さすがにねえ。いくら勉強の虫でも」
「好意を少しでも持ってくれてるなら、席替えの希望を出すとも思えない」
 稲岡の親から席替え希望が出された経緯は、皆に打ち明けてある。
「実際に成績が下がり始めたのは、いつ頃なんだろうな」
 唐沢が問い掛けを出すが、誰もすぐには答えられない。
「はっきりと表面化したのは、この間の数学の小テストね。二十六点」
 白沼の声は、何とはなしに弾んで聞こえる。と言っても、ライバルの失敗を喜んでい
るんじゃあなく、こうして大勢で分析して原因を探るのが面白いようだ。
「あの日、起きたこと。きっかけになるような、何か特別な……」
 相羽が口元にぴんと伸ばした右手人差し指を当て、心持ち瞼を下げ、宙を見つめるか
のようにじっとした。他の者が見守る中、十秒ほどしてからつぶやく。
「あ――あった」

 学校が始まるまで待てない。それに、学校では話しにくいかもしれない。そんな考え
から、純子は白沼と連れだって、稲岡の家を訪れた。
 当初、白沼には「何で私まで」と拒まれ掛けたが、書店での目撃者として相手に知ら
れているのだからと、連れて来た。
(相羽君に来てもらうわけにいかないしね)
 稲岡宅の住所等を調べる必要があったので、出直しの形になった。そのため、書店で
稲岡を見掛けてから約一時間半が経っていた。
「案外近くで助かったね」
「近いと言っても、電車で反対方向に十分。そこから歩いて五分強。楽じゃないわ」
 角を曲がると、目的の家が見えた。
「大きいわね。私の家ほどじゃないけれど」
 付き合わされている意識がまだ残っているせいか、白沼はそんな憎まれ口を叩いた。
 家の門のところまで来ると、見上げながらまた白沼が口を開いた。
「さあて、まともに呼び出しても、出て来てくれるかしら」
「任せておいて」
 純子はインターフォンを見付けると、レンズに顔を通常よりもかなり近付け、躊躇す
ることなしにボタンを押した。
「どちらさまでしょう?」
 すぐに声がした。女の人の声だ。両親とも仕事を持っている――それぞれ病院と化粧
品メーカー勤務――ことを、事前に把握しておいたので、母親ではないだろう。稲岡は
一人っ子だし、お手伝いさんかもしれない。
「初めまして、稲岡時雄君のクラスメートです。忘れ物を届けに来ました。直に渡した
いのですが、時雄君はいますでしょうか」
「はい。わざわざすみません。しばらくお待ちください」
 お手伝いさんと思しき女性の声は、すんなりと受け入れてくれた。
 が、純子の隣では、白沼が目を白黒させている。それもそのはず、純子は今し方、男
子の声色でインターフォンのやり取りを行ったのだ。
「す、涼原さん。あなた、そんな声、出せたの?」
「うん。ボイストレーニングをやっている内に身に付けた特技」
 しれっとして答えた。本当のところは、久住淳として活動するために、低い調子で喋
る練習を重ね、その結果、今では何種類か男性の声を操れるようになった。もちろん、
喉を傷めてはいけないので、大絶叫するなど出せないトーンはあるが。
「将来、文化祭や何かの打ち上げをやるときは、それ、披露しなさいな。大受け間違い
なしだわ」
 唖然とした状態から立ち直った白沼は、どうやら本気で感心してくれたようだ。
「いざというときに取っておきたいんだけど――あ、来たみたい」
 一応、門扉の影に隠れる二人。姿を見た途端、稲岡が中に引っ込んでしまう可能性、
なきにしもあらずだ。
 門とは反対側の塀越しに、植え込みの隙間から見ていると、稲岡が靴を片足ずつとん
とんとさせてから進み出てきた。校則をきっちり守りたい質なのだろう、制服姿だ。ブ
レザーの上着こそ着ていないが、普段学校で見るのとあまり変わらない。
 門の格子を通して、その向こう側に誰もいないのを、稲岡は怪訝に感じているよう
だ。それでもやがて門を開け、外に出て来た。
「稲岡君。こっちよ」
 純子と白沼は期せずして声を揃えた。お互い、予想外のことについ噴き出してしま
う。
 一方、稲岡は口を半開きにして、呆気に取られている。これは学校ではなかなか見ら
れない、赤面した上に間の抜けた表情だ。男子が来たと思っていたのが、女子だったと
いうだけでも充分に戸惑いの原因になるに違いないが、さらに書店で見られたくないと
ころを見られた白沼と、純子が来たとなると、頭の中が真っ白になったとしてもおかし
くない。
 が、それでも中に戻らなかったのは、今、純子と白沼の二人が噴き出したおかげかも
しれない。場の空気が緩んだ。
「な、何だよ、君達。男子は?」
「ごめんね、私達だけなの。直接会って、話がしたかったから、ちょっと声色を」
 稲岡は疲れた風に片手を門柱につき、もう片方の手を自らの額に当てた。
「忘れ物というのも嘘なんだ?」
「ごめん」
 純子は再び謝罪したが、白沼は首を傾げて見せた。
「一つ忘れていたんじゃあない? 書店に、買うつもりだった写真集を置いてきたのか
と思ったのだけれど」
「……やっぱり、見られていたか」
 一瞬にして赤面の度合いが上がる。が、すぐにあきらめがついたのか、嘆息した。
「どこまで見えた? いや、それよりも、涼原さんもあの場にいたの?」
「うん」
 稲岡は額の手をずらし、顔全体を隠すようにした。それだけでは足りないと、もう片
方の手も門柱から離して、顔を覆う。眼鏡に指紋が付くだろうに、お構いなしだ。
「だめだ。物凄く恥ずかしい」
「いいじゃないの。勉強にしか興味のないガリ勉かと思ってたのが、普通の男子と変わ
りないと分かって、安心したわよ」
 白沼が気軽い調子で言った。彼女なりのエールなのかは分からないが、気まずくなる
のを避ける効果はあったようだ。
「わ、私も恥ずかしさはちょっぴりある。けれど、手に取ってくれたのは、嬉しい。フ
ァンが増えるんだもの」
 純子も調子を合わせる。ちょっぴりどころか、かなり恥ずかしい。
「だから、稲岡君からうるさいとか静かにしてくれって言われると、落ち込んじゃう。
席替えまで言われた、なおさらよ」
「ああ、いや、あれは、僕の言葉をお母さんが極端に受け取ったせいで、僕はそこまで
思ってない」
「そうなの? それなら少し救われた気分」
 手を合わせ、顔をほころばせる純子。後を引き継いで、白沼が指摘する。
「でも、邪魔になっているのは事実よね? 成績、下がったんだから」
「うぅ、あれは……」
 口をもごもごさせ、続きの出て来ない稲岡に対し、純子は「やっぱり私のせいなの
?」と尋ねる。
「君のせいというか、違うというか」
「折角聞きに来たんだから、はっきり言っておけば?」
 白沼は悪役を引き受けるつもりになっているようだ。本心を引き出すために、きつい
言葉を投げ掛けつつ、稲岡を促す。
「涼原さんを間近で見て、一目惚れみたいになったんでしょう? おかげで勉強に身が
入らなくなった」
「……いや、我慢していたんだ」
「そうみたいね。でも、小テストで悪い点を取った日は、我慢できなくなった」
「あれは別の原因が」
「隠さないでいいのに」
 白沼のこの台詞には先走りを感じた純子。急いで割って入る。
「稲岡君。突き詰めれば、私のせいなんだよね? あの日、私が遅刻してきたせい」
「え。分かってたの、か」
「ううん、分かってなかった。相羽君に言われて、気が付いたの」
「相羽が。そうか。相羽なら気付くな、うん」
 どこかほっとした様子になる稲岡。そこへ、白沼が改めて尋ねた。
「一応、確認させてもらうわよ、稲岡君。あの日、遅刻してきた涼原さんがブレザーを
脱いだことで、ブラジャーのバンドが透けて見えた。そのことが気になって、テストに
集中できなかったのね?」
「そ、そうだよ」
 また顔を赤くする稲岡の前で、純子も少し頬を染めた。
 あの日は朝から走り通しだったから、汗をかいた。結果、透けて見えやすくなってい
ただろう。加えて、撮影のときはシンプルなスポーツブラ着用だったが、終了後に着替
えて、若干華美なデザインの物に変えたことも影響したかもしれない。
(気を付けなくちゃいけないなぁ。相羽君も気付いていたわけだし)
 胸中で反省する純子。
 白沼は白沼で、双方に呆れた視線をくれてやっていた。
「去年も周りの女子には、何人か無防備なのがいたでしょうに、気にならなかったのか
しら?」
「全然。変な風に受け取らないで欲しいんだけど、涼原さんだからこそ、意識してしま
ったというか。だから、克服しようと思って、写真集を探したんだ。水着の写真があれ
ば、それを見て慣れるかもしれないだろ」
「はあ、まったく、おかしなこと思い付くものね。それで、今後どうする気よ、稲岡君
は」
「どうするって」
「これから暑くなるのよ。夏服になるのよ。ブレザーを着なくなるの。毎日、目の前で
見えるのよ」
 畳み掛ける白沼に、たじたじとなる稲岡。純子は二人のやり取りを前に、「な、なる
べく見えないように気を付けるから」と小声で訴えた。
「完全に見えなくするのは無理でしょうが。付けないわけにいかないでしょうし」
「そ、そりゃあ、私だって昔と違って」
 ブラジャーの初使用が周りの友達よりも遅かったのを思い出し、内心、汗をかく心持
ちになる。
「やっぱり、席替えしてもらいなさい」
 白沼が断定的に言った。
「クラス全員がやらなくても、あなた達二人が入れ替われば済む話よ。理由はまあ、稲
岡君、あなたの視力がちょっと落ちたってことにすればいいんじゃない?」
「……そうだね。席替えしたって言えば、お母さんも納得する」
「なぁに、そんなに厳しいの?」
「いや、厳しくはない。心配性なんだ。学校側に希望を伝えたのに、通らないでいる
と、ずっとやきもきしている」
「それなら、席替えがあったことのみ伝えれば、解決ね」
 白沼と稲岡の間で、どんどん話が進む。最初はそれを聞き流していた純子だったが、
はたと気付いた。
「ま、待って!」
「何?」
 白沼が振り向いたが、純子は稲岡の方に言った。
「席替えしてもらうんだったら、隣の平井君も説得してくれないかなあ」
 このお願いに、いち早くぴんと来たのは当然、白沼。
「ははあ。あなたが一つ下がったら、隣が相羽君じゃなくなると。それが嫌なのね」
「あ、当たり、です」
 しゅんとなった純子の背後に回った白沼は、相手の肩を上からぎゅっと押し込んだ。
「また仲よくお昼寝するつもりね」

 大型連休中、最大の仕事であるミニライブの現場は、恐らく最大となるであろうトラ
ブルの発生に、幕開け前から混乱を来していた。
「え? 来ない?」
「正確には、来られないかもしれない、だけど、見通しが立たないのなら同じことだ
ね」
 シークレットゲストとしてスタンバイしてもらう予定の鷲宇憲親が、開演の三十分前
になっても、まだ会場入りできていないのだ。飛行機の遅れだという。
「車の流れは順調みたいだから、本来の出演時刻には間に合いそうなんだけれど、最終
チェックなしにやるのは、結構リスキーだよね」
 鷲宇サイドから派遣されたスタッフの一人・牟禮沢(むれさわ)が、平静さを保ちな
がらも緊張感のある声で述べる。
「一応、間に合う前提で諸々準備を進めますが、気持ち、遅らせ気味に願えます?」
「遅らせると言われても、うちの久住はトークは無理なんですよ」
 市川が懸念を表する。その隣やや後方で、純子――久住淳も黙ってうなずいた。ハプ
ニングに、ともすれば震えが来そうになるが、どうにか堪えている。
「司会役を用意していればよかったんですがね」
 別のスタッフが言った。この度のミニライブ、もちろん歌だけでは数が足りず、つま
りは時間がもたないので、喋りも予定されてはいる。でもそれは鷲宇が舞台登場後のこ
とで、要は全て鷲宇頼みなのだ。他には短い挨拶くらいしか考えていなかった。
「演奏のテンポを1.1倍ぐらいまで延ばす、なんて荒技もありますが、余計に無理で
すよねえ」
 恐らく冗談なのだろう、牟禮沢が言ったのだが、誰も笑わない。
「それよりはましな、でもやっぱり無茶な提案が一つあるのですけど」
 市川が反応を伺いながら、小出しに喋る。牟禮沢が伺いましょうと、身を乗り出す。
可能であれば、この打開策を話し合う現状を、鷲宇本人にも携帯電話を通じて聞いても
らいたいところだが、バッテリー切れが恐いので、必要なタイミングになるまで取って
おく。
「牟禮沢さんもご存知だと思いますが、芸能人の方を何名か、お招きしたじゃありませ
んか」
「ええ。彼――久住と同世代で、多少なりとも親交のある人数名に」
(え。そうなの?)
 後方で聞いていた純子は、小さく飛び跳ねるぐらいびっくりした。聞かされていなか
った。思わず、女の子の声で叫びそうになったけれども、これも何とか我慢。
「実際に来られた方がいるはずです。その方に助っ人をお願いするというのは、どうで
しょうか」
「どうなんでしょう……たとえ親友同士でも、事務所を通すのが常識です。今から言っ
て受けてもらえるかどうか。ギャラの問題も発生する。でもまあ、だめ元で頼んでみま
しょうか。マネージャー同伴で来てる人がいれば、比較的話が早いんだが」
 打診する前に鷲宇と相談する必要があるとのことで、席を外す牟禮沢。内緒話がした
いのではなく、使っている大部屋がざわついているため、静かな場所に移動するのだ。
 三分足らずで戻って来た牟禮沢は、落ち着く前に「ゴーサイン出ましたよ」と告げ
た。
「手配は任されたが、どちら様が来てくれているかを把握しないといけませんね。さっ
き、確認に行かせたんですが、まだ戻ってこないな」
 呟いてドアの方を振り返ろうとした矢先、ノックの乾いた音が。この緊急事態に呑気
にノックするとは、スタッフではなく、訪問者だろう。
「どうぞ!」
「お忙しそうなところをすみません。控室を訪ねたら、今、こちらだと聞いたもので」
 腰の低い、柔らかい口ぶりで入って来たのは、招待した一人だった。
「あ、星崎さん」
 純子は久住として声を上げた。パイプ椅子の背もたれを持って回り込むのももどかし
く、駆け寄る。
「やあ。お招きを受けて、来てみたんだけどね。空気がざわざわしていて、知っている
顔のスタッフさんが何人も走り回っているから、どうなってるのかと心配になってさ」
「それが」
 事情を話そうとして、シークレットゲストの存在を言っていいのか、迷ってしまっ
た。星崎は芸能友達とは言え、お客さんだ。
 そこへ市川と牟禮沢が加わり、代わって説明を始めた。事態を飲み込んだ星崎は、と
りあえずは勧められた椅子に腰を下ろした。そして「鷲宇さんに貸しを作るのは悪くな
い話ですね」と、苦笑交じりに始めた。
「二人でユニットの曲も唄えるかもしれないね。ただ、事務所の許可がいるので、ちょ
っと時間をください。マネージャーに言えば、多分OKが出ると思います」
 早い方がいいので、また席を立って出て行こうとする星崎。が、「あ、そうだ!」と
足を止めて、牟禮沢に言った。
「加倉井舞美ちゃんも来てましたよ」
「ほんとですか!?」
「ええ。彼女、マネージャーさんと一緒だったから、出てくれるかどうかは別として、
判断は早いと思います。ええと、席は」
 壁に掛かる会場全体の座席表を見て、加倉井のいる位置を指し示した星崎。そのま
ま、携帯電話を取り出しながら退室して行った。
「よし、すぐにコンタクトを」
「でも、女性ってどうなんでしょう? 久住のファンが集まってるところへ同世代の女
の子が登場して、受け入れられるかどうか」
 声を小さく、低くして思案がなされる。
「そうだな。星崎さんに出てもらえると決まったら、一緒に登場することで、変な目で
見られることもないだろうが……。背に腹はかえられない。声を掛けておく」
(何だか知らないけれど、勝手にどんどん進む〜)
 再び座ることも忘れ、成り行きを見守っていた純子。開演まで十五分です!という声
に、スイッチが切り替わる。
(あー、もうっ、覚悟決めた。なるようにしかならない。最善を尽くすのみ! それ
に、このままなら、鷲宇さんの歌を本人と一緒に唄わなくて済むかも? なんちゃっ
て)
 気休めに、いいことを一つでも見付けて、肩の荷を少しでも降ろす。いよいよスタン
バイに掛かろうと、部屋を出ようとしたところへ、市川が言ってくる。
「幕が上がる前に、どう変更するかを決めたかったんだけど、無理かもしれない」
 市川の話に、黙ってうなずく。
「休憩時間までには決まるはずだから、それまでは気にせずに、段取り通りにやって。
いいね?」
「はい」
 久住になりきった声で応えた。
「久住淳の初ライブ、飾りに行ってきます!」

「えっと? サプライズゲストが来ているそうです、カンペによると」
 休憩開けに一曲、カバーソングを歌ったあと、純子は、否、久住は切り出した。
「正直に言います。僕が最初に聞いていたサプライズゲストとは違います。だから、僕
にとっても本当にサプライズになってしまいました」
 観客席からの反応が、どういうこと?という訝るものから、笑い声へと変化する。
「お待たせしては問題ですし、早速お呼びします。かつて映画で共演し、勉強させてい
ただきました、加倉井舞美さんに星崎譲さんです」
 思っていた以上に、大きなどよめきがあった。加倉井か星崎、どちらか一人ならまだ
想像できたが、二人揃ってというのが予想外だったのかもしれない。新作映画の宣伝で
もない限り、普通はない華やかな組み合わせなのだ。
 二人はそれぞれ、舞台袖の両サイドから現れた。客席から見て左が星崎、右が加倉
井。久住は順番にハイタッチしてから、女性である加倉井に真ん中を譲ろうとした。
が、やんわりと拒まれてしまい、思わず苦笑い。仕方なく、中央に収まり、三人で肩を
組む。
「何を引っ込もうとしてるの? 今日の主役は久住淳でしょう」
「そうそう。楽をしようたって、そうはいかない」
 加倉井、星崎の順に早速やり込められた。大雑把な流れしか決められていないし、聞
かされていない。手探り状態で、トークを続ける。
「そのつもりだったんですが、お二人の芸能人オーラを目の当たりにして、怖じ気づい
ちゃいました」
「怖がらなくていいじゃない。久住君のオーラだって、負けてない」
 さも、オーラが見えているかのように、指差す仕種の加倉井。つい、振り向いて背後
を見上げてしまった。笑いを取れたからOKとしよう。
「真面目な話をしますけど、本当に急な話で出演してくださって、感謝しています。加
倉井さん、星崎さん、ありがとうございます」
 深々とお辞儀。あまり丁寧だと女性っぽく映る恐れがあるので、上体を起こすときは
やや粗っぽく。
「いやいや、どういたしまして」
「真面目な話は面白くないよ。ほら、お客さんがあくびしてる」
 さすが慣れていると言うべきか、星崎が客いじりを始める。そのあとしばらくは、先
輩二人の独壇場だった――二人で独り舞台というのもおかしいかもしれないけれど。
「――あ、星崎さん、時間みたいです。一曲、歌ってもらわないと」
「ああ、そうだった。でも、お客さん、いいの?」
 星崎が耳に片手を添える。即座に、観客全員が声を揃えたのではないかと思えるくら
い大きな「いいよ−!」という答が返って来た。ここに至るまでに充分に温め、客席と
のやり取りで心を掴んだ成果が出た。
「よかった。じゃあ、何がいいかな。今日は収録がないから、何を唄っても大丈夫と聞
いたんだ。リクエストがないなら、久住君とは畑の違うところで、演歌を」
「えー? 演歌、ですか」
 イメージにないので、心の底から驚いてしまった。まあ、演歌なら比べられることも
少ないだろうから、安心ではあるけれども。
「演歌を歌う星崎さんなんて珍しい姿、ファンの人に取っておけばいいのでは」
「そんなに勿体ぶるもんじゃないよ。えっと、このところはまっているのが、『氷雨』
なんですが、皆さん、特に若い人は知ってる?」
 半数ぐらいが知っていたようだった。

 星崎が『氷雨』を朗々と?見事に歌い上げると、期せずして拍手が起こった。どちら
かといえば大人しめの容貌の星崎だから、女性になりきったような歌い方をするのかと
思いきや、芯のしっかりした男っぽい声でやり通した。
 あとを受けてマイクを握った加倉井は、「一番得意なのが持ち歌なのは言うまでもあ
りませんが、今日は宣伝に来たんじゃないし、先に星崎君に演歌なんて面白いことをや
ってしまわれると、私も何かしなくちゃいけないのかなと考えて」云々と前置きした挙
げ句、『すみれ September Love 』を振り付けありで力一杯やってくれた。星崎と違
い、独自色をなるべく消し、物真似に徹したような唄いっぷりで、これまた見事だっ
た。
「この曲も結構昔、大昔の曲だった気がするんですが」
「それが?」
 久住が話し掛けると、加倉井はほんの少し息を切らしながらも、髪を軽く振って答え
る。
「いや、加倉井さんがどうして知っているのかなって。物真似できるほど」
「カラオケの十八番の一つなの。それより、久住君だって物真似だと分かってるってこ
とは、つまり知ってるんじゃない」
「あはは、ばれましたか」
 軽妙なやり取り。ようやくこつが掴めたかなという頃合いだったが、時間の都合でそ
ろそろ切り上げねばならない。
 先に思い付いていた星崎とのユニットは、加倉井が参加してくれたことで、なしとし
た。どちらか一方を特別扱いはしたくないし、あといって加倉井と二人で唄うのも練習
なしでは難しいというわけ。
 ゲストの最後の見せ場ということで、三人で唄う。ぶっつけ本番で三人揃って唄える
ほぼ唯一の歌というと、共演した映画の主題歌になる。緊急事態の割に、意外と感覚で
記憶しているもので、まずまず聴ける物になっていた。さすがに歌詞はうろ覚えだった
ため、歌詞カードを見ながらになってしまったが。
「――では、残念ですが加倉井さんと星崎さんはここまでということで」
「もう? あら、ほんとだわ。マネージャーが時計を指差して、頭から湯気を立てて
る」
 冗談を言う加倉井の口調は、実際、まだまだやりたそうな響きを含んでいた。が、時
間切れというのも事実。星崎とともに、登場したのとは反対方向にそれぞれ下がった。
「ほんっとうに、ありがとうございました。ピンチのときは、また来てください」
 舞台袖にそんな呼びかけをすると、「次からは一人で!」と反応があった。
 とにもかくにも大きな山場は乗り切った。久住は一安心すると同時に、気を引き締め
直しもした。
(さあ、ラストスパート!)
 脳裏にこのあとの進行を改めて思い描き、切り出す言葉を考える。
「また一人になってしまいました。寂しい気もしますが、がんばります。次は――」
 曲名を伝えようとしたそのときだった。
 場内が暗転し、次の瞬間には、舞台上手にスポットライトが当てられる。ほぼ同時
に、
「寂しいと言ったか? ならばもう一人、僕がゲストになりましょう!」
 鷲宇憲親の声が轟いた。
「鷲宇さん?」
(間に合ってたの?)
 いつもなら、というか通常の状態なら、鷲宇憲親ほどのビッグネームであれば大歓声
がわき起こっておかしくないのだが、今のは唐突すぎた。声だけでは誰か分からない人
もいたようだ。
 若干外し気味だったが、鷲宇が姿を現すと一挙に空気をひっくり返した。観客に向か
って満遍なく手を振ると、次いで久住を指差した。
「え? え?」
 わけが分からない。間に合っていたのか、今し方到着したのか知らないが、これから
唄うつもりらしい。伴奏が流れ出している。
「メドレーで行くよっ」
 元々のセットリスト通りにやる、ということだ。
(急な変更の対応だけでもくたくたなのに、ここで鷲宇さんとデュエット……)
 久住は純子に戻りそうになるのを踏み止まった。力を込めて拳を握り、応じるサイン
を鷲宇に返す。
(最後まで全力で、楽しんでやる! こんな経験、普通できないんだから!)

 ミニライブの翌日は、午後から比較的負担の少ないインタビューの仕事があるだけだ
った。なので、空き時間を使って、星崎と加倉井それぞれの事務所にお礼に行くつもり
でいたのだが……身体が動かなかった。心身ともに疲れ切っていた。
 ありがたいことに、双方の事務所からは、「今は当人(星崎または加倉井)も仕事で
不在ですし、後日落ち着いてからで一向にかまいません」的な対応をしてもらった。お
言葉に甘えて、後日に回すことに。
「いいのかなあ」
 早めに迎えに来た市川は、上がり込んできて、しばらく話をすることに。
「いいのかなあって、後回しにしてもらうと最終的に決めたのは、市川さんじゃないで
すか」
 身支度を終えて、仕事モードに入る努力をしつつ、純子は指摘する。
「それはその通りで、別に心配してない。ただ、借りを作った形だからね。鷲宇さんの
方がより大きな借りだけど、だからといってこちらが頬被りしていいもんじゃない」
「助けてもらったんです。お返しをするのは当たり前です」
「それは同意。けど、ネームバリューから言えば、同じ状況のとき、久住淳がゲスト出
演したって、釣り合いが取れない」
「う。それは仕方ありません。か、数でこなしましょう」
「私は、数よりも質を求められる可能性ありと踏んでいるのよ。どうだろう?」
「どうだろうって……具体的に言ってもらわないと」
 市川がこういう喋り方をするときは、どことなく嫌な予感が立つ。経験上、当たって
いることが多い。
「思い当たらない? 何にも?」
「はあ、そうですね……」
 考えるつもりの「そうですね……」だったのだが、市川は「思い当たらない?」とい
う質問に対しての返事と受け取ったようだ。すぐに言葉を被せてきた。
「星崎君はともかくとして、加倉井さんは前に言ってたんでしょうが」
「前と言いますと、映画のとき、ですか」
「そうそう。覚えてるじゃない。彼女、あなたに――久住淳に、また共演したいって持
ち掛けてきてたじゃないの」
「あ。そうか、そうでした」
 言われるまで忘れていた。そして言われた途端、鮮明に蘇る記憶。九割方リップサー
ビスだと信じているのだが、加倉井が「久住君、まだしごいてあげるわ」なんて気でい
るとすれば、可能性ゼロではない。
「うわ−、一緒にできるとしたら光栄なんだけど、どうしよう、今から考えただけで疲
れが」
「こらこら。このあと仕事だってのに。だいたい、私の勝手な想像に対して、そこまで
思い巡らせるっていうことは、もしも話があったとしたら、受ける気満々てことじゃな
いのかな」
「うーん。分かんない」
 頭を抱えた純子に、市川は別の方向から追い打ちを掛けてきた。
「それで、お礼の件なんだけどね。ゴールデンウィークの最終日に入れちゃおうかと思
う。何だっけ、護身術の日と重なるけれども、大丈夫ね?」
「ふぁい?」
 もうどうとでもしてください……。

――『そばにいるだけで 65』おわり




#498/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:27  (368)
偽お題>書き出し指定>告四(前)   永山
★内容
 僕は告白したあと、その日が四月一日だと気付いた。あとになって気付いても、もう
遅かった。
 勇気をありったけ振り絞って告白したのに、目の前に立つおねえさんは真面目に受け
取らず、てんで相手にしてくれなかった。
「ははーん。綿貫君、それってエイプリルフールだよね?」
 こう言われて、僕はただただ動揺しただけなのに、恐らくおねえさんには「嘘がばれ
た、しまった」という顔に見えたに違いない。
「ち、ちが」
「だめだよ、大人をからかっちゃあ。こんなことして許されるのは、子供のときだけだ
からね。小学五年、いや、今日からは六年生か。小六って結構微妙だよ。私だからよか
ったようなものの、他の人相手だったら叱られてる。それどころか、ぶっ飛ばされてい
たかもしれないよ」
 文字通り、小さな子に言い聞かせる口ぶりで、おねえさん――正田義子おねえさんは
僕の頭に手をのっけた。そして僕の髪をくしゃくしゃにする勢いで撫でながら、続け
た。
「遊びたい年頃なのは分かるよぉ。だけど、私もこうしてお仕事があるからね。次のお
休みの日まで待ってて、いい子だから」
 僕はそれでも、告白を続けようとしたんだ。でもそのとき、おねえさんにはお客さん
が来て、そちらの応対が始まってしまった。こうなるともうだめだ。終わるまで、他の
ことには関心を向けない。経験で分かっている。
 僕はあきらめ、その日は家に帰った。休みの日まで待つつもりはなかった(そもそ
も、休みの日では意味がないのだ)ので、翌日にでも出直そうと思っていた。
 ところが、そうするには行かなくなる事情が、夜の内に起きてしまったのだ。それは
一本の電話から始まった。僕は携帯電話の音に起こされた。時間は、0時を回ったとこ
ろ。つまり、日付が変わったばかりのタイミングだった。
「誰?」
 寝床から気持ち上半身を出して携帯電話を握りしめ、ディスプレイを見たが、そこに
は数字が表示されていた。名前が出ていないということは、登録されていない人からの
電話だ。拒否設定は非通知のみ。基本的に、こういう電話にはなるべく親に先に出ても
らうのだけれど、夜中だったし、ベッドから出るのが面倒だったのもある。四月に入っ
たばかりで、夜はまだ冷える。
 一応迷ったのだが、僕は電話に出た。
「もしもし、どなたですか」
 不機嫌な調子になってしまった声で誰何すると、相手は「綿貫君?」と聞いてきた。
それが女の声だったから、驚いた。
「綿貫一郎ですが……」
 再度、どなたですかと問う前に、答が返って来た。
「夜遅くにごめんなさい。同じクラスの吉原です」
「よ、吉原さん?」
 思わずどもった。クラスの女子から電話なんて初めてだし、しかもこんな時間に掛け
てくるなんて何事だ? 一瞬、思い浮かんだのは、僕と親しい男子の身の上に何かとて
つもない不幸が降りかかり、そのことを知らせる役が吉原さんになったのではないかと
いう流れ。吉原さんはクラス委員長なのだ。
 けど、それにしては、口調が明るい。おかしい。いいことが起きたからってこんな時
間に電話連絡があるはずないし、一体何なんだろう。
「今、話をしてもかまわない? 時間ある?」
「うん」
 彼女は、明らかにひそひそ声だった。僕は同じように声の音量を絞り、低めた。
「こんな時間に、本当にごめんね。寝てた?」
「寝てた」
「わ、私はいつもは眠ってるんだけれど、今日は眠れなくて。日付が変わるのを待って
いたから」
「日付って、四月二日になるのを待ってたってこと?」
 誰かの誕生日なのかなと、漠然と考えた。心当たりはないけれども。
「そう。昨日だと、嘘だと思われる可能性があるもの」
「……あのさ、そろそろ話してよ」
「じゃ、じゃあ言う。大きな声を出さないで聞いてよ」
「? うん、分かった」
「――綿貫君。私とお付き合いしてください」
 滅茶苦茶早口で言われた。でも、ちゃんと鮮明に聞き取れた。
 僕は電話を持つ手が震えるのが分かった。かさかさ音を立てて、みっともない。左手
を右手で押さえて、それでも止まらないので、右手に携帯電話を持ち替えた。
「……あの……だめ?」
 吉原さんの不安な響きの声。僕は黙ったまま、首を横に振った。それでは伝わらない
と気が付いて、遅ればせながら口を動かす。
「だめじゃないよ! ぜひぜひ」
 みっともない返事になったが、誰も僕を責められないだろう。吉原さんは僕が一番好
きな女子であり、クラスの男子全体からの人気も高い。
 瞬時にして有頂天になった僕は、ありとあらゆる嫌なこと面倒ごとを忘れ、それらか
ら逃れようと決意を固めた。
 だから僕は、出直そうと思っていたおねえさんへの告白も、やめることにした。

 ――大人になるのを目前に控えた今になっても、当時のこの判断が正しかったのかど
うか、僕は非常に迷う。本来、二股に掛けるべくもない、全く異なる物事を天秤の左右
の皿それぞれに載せたのだ。揺れは収まらず、いつまで経っても結果が出ない。
 尤も、現状を思うと、正解を選んだと言える。僕は希望する大学に入り、充実した
日々を送れている。吉原との付き合いは今も続いている上に、同じ大学の同じ学部に入
ったという相性のよさを誇る。将来、一緒になるかもしれない。可能性は高い。
 小学六年生のあのときもし、おねえさんに告白していたら、現在の幸せはないことに
なる。断言できる。
 何故なら、僕はあのとき、人を殺してしまったことを、婦警である正田おねえさんに
打ち明けるつもりだったのだから。

 もちろん僕は殺人鬼ではない。殺したのは一人だけで、それも計画的な犯行ではな
く、多分、過剰防衛の類に入るんじゃないだろうか。
 告白しようと考えた日の前々日は、日曜日だった。僕は、町の中心部から見て小学校
とは反対側に位置する山にいた。正式名称か知らないが、松城山とみんな呼んでいた。
大きな山ではないが、学校からは遠くて、自転車でも一時間半はゆうに掛かったろう。
子供らがしょっちゅう足を運ぶような場所ではなく、わざわざ遊びに行きたくなるよう
な施設がある訳でもない。植物や昆虫採集の“聖地”として認識されているくらい。だ
から、僕が問題の日にあの山に行って、あれを目撃したのは何の必然性もない、偶然の
産物だった、はず。
 詳しいいきさつは忘れたが、あの日曜日は朝から、僕の家の近所に住む叔父に着いて
行って、車で出掛けた。叔父は松城山の近くの神社か何かに用があったんだと記憶して
いる。僕は麓で一人、遊んでいた。何故、着いてきたのかというと、用事のあと、映画
を見に行くから一緒に来ないかと誘われたんだった。
 はじめに聞いていたよりも遅くなりそうだと叔父に言われたのをきっかけに、僕は山
に踏み行ってみた。ほんの少しだけ登るつもりが、薄気味悪い沼や廃屋や蔦やらを見て
回る内に、意外と楽しくて、いつの間にか中腹まで来ていた。中腹には平らかでミニサ
ッカーができる程度のスペースがあり、そこからは町が一望できたのだが、僕の興味は
背後にある鬱蒼とした林に向いた。季節は秋を迎え、徐々に葉が色づき始めていた。足
元に落ち葉が溜まっていたが、それは去年までの物と思われ、腐葉土とほとんど変わり
がなかった。
 僕の目当ては、さっき目撃した沼や廃屋がまたないかということにあり、そういった
ちょっと不気味な雰囲気の物を探して、歩き回った。
 最初は見付からなかったが、少し奥まったところに、沼を発見した。規模から言え
ば、池と呼ぶのがふさわしいのかもしれなかったけど、緑色に濁ったような水面は、い
かにも沼といった風情に感じられた。
 その先は行き止まりだったので引き返す。途中、不意に人の声がした。僕は反射的に
身を木陰に隠した。足元に丸くて平べったいフリスビー大の石があって、ぐらついた
が、何とか堪える。
 人の声とがさがさという音のする方を覗くと、セーラー服姿の中学生か高校生が、大
人の男に後ろから掴まえられているのが見えた。男の腕は、片方が女生徒の口元を覆
い、もう片方は胴体をがっちり抱えていた。身長差がだいぶあるみたいだけど、男は膝
を曲げ気味にしているため、正確なところは分からない。と、見ている間に男が女生徒
を仰向けに引き倒し、馬乗りになる。よく見ると、口を押さえている手には、白い布が
あった。薬を嗅がそうとしているのだと推測できたのは、だいぶ後になってから。リア
ルタイムでは、目の前の出来事にただただ唖然として、息を殺していた。
 薬が効いたのか呼吸困難に陥ったのか、やがて女生徒が静かになり、ほとんど動かな
くなった。男は馬乗りのまま、女生徒の首に両手をやった。
 それを見た僕は、唐突に思い出した。当時、僕らの住む県南部では、連続殺人事件が
広範囲に起きていた。最初の殺人から三ヶ月ぐらい経っており、僕らの市内ではまだ起
きていなかったが、隣接する複数の都市でも二件、発生していたと思う。
 その犯人は一部マスコミから「ロガー」なる名前を与えられた。無差別に老人や女子
供、つまりは弱者ばかりを狙う卑劣な快楽殺人鬼と認識され。殺害手段は様々だった。
それまでに起きていた八件の中では、扼殺を含む絞殺が半数を占めており、あとは刺殺
と撲殺、溺死させる、墜死させる手口が一件ずつ。何故、同一犯の仕業とされたか? 
小学生の僕はその正確な理由まで把握していなかったが、後年になって知ったことと合
わせて説明するなら、前の被害者の持ち物を次の被害者の服に忍ばせる点と、偶数番目
の被害者の身体のどこかに白墨で丸い印を残す点が挙げられる。
 被害者同士の関係は、ほとんどなかった。唯一、最初の被害者と次の被害者とは、同
じ小学校に通ったことのある女子中学生だった。ただ、中学は別々で特に親交が続いて
いる様子はなく、小学校時代にしても三、四年生時にクラスが一度同じになっただけと
いう、頼りないものだった。
 話を戻す。
 僕は恐かった。すぐそこで女子生徒を襲っている男が、殺人鬼ロガーに違いないと思
い込んだ。冷静になって考えれば、そんな根拠はまるでないと分かる。裏を返せば、そ
のときの僕は冷静ではなかったし、現在よりもなお子供だった。
 僕は逃げることすらできず、気付かれないようにと息を潜めていた。そのつもりだっ
た。
 だけど次の瞬間、男が僕の方を一瞥した。そう思えた。僕は顔を引っ込め、木陰に全
身を隠した。そのとき足元がまたぐらついて、少し音を立てた。男に聞かれたかもしれ
ない。だが、恐怖からすぐにまた覗き見るなんて真似はできなかった。
 どのぐらいの時間が経ったか分からないが、多分、五分と過ぎていなかっただろう。
男が僕の方へやって来る気配はなく、女子生徒の悲鳴一つ聞こえず、ただただ男が何か
しているらしい物音だけがしていた。僕は思い切って、顔を再び覗かせた。さっきとは
反対側からにしたのは、子供じみた対応策だった。
 が、またもや男に見られた。目が合ったような気がしたのだ。
 もうだめだ! このままここにいたら、殺されるっ。かといって逃げ出せない。パニ
ック寸前だった。あの女の人が殺されたあとは、僕なんだ。
 そこからあとの行動は、自分でもよく記憶していない。結果から推測した僕の行動
は、足元のフリスビー状の石を取り上げると、なるべく足音を殺して、男の背後から近
付き、そして男の頭部を殴打したらしい。何度も、何度も。男が女生徒に意識を向けて
いる間に、不意を突くのが唯一の勝ち目だと思ったに違いない。ともかく、僕は無我夢
中で殴っていた。
 手応えがなくなるまで、続けていたように思う。気が付いたときには、僕は宙を石で
漕いでいた。男は俯せの姿勢のまま、真下に倒れ伏していた。地面に沈み込むかの如
く。
 不思議だったのは、女生徒の姿が消えていたことだ。最初は、男の身体の下敷きにな
って、見えないだけだと思ったが、違った。誰もいなかった。
 よく見ると、男の頭の先に、向こうへと地面を何かが這ったような擦った痕跡ができ
ていた。最前までなかったものだ。つまり、女生徒は僕が男を殴打している間に、意識
を取り戻して逃げたらしい。痕跡は二メートルほどで途切れている。そこからは立ち上
がり、一目散に走り去ったということか。
 と、冷静な風に描写しているけれども、これは今現在の僕が、状況を整理して書いた
からこそで、小学生の僕はここまで落ち着いてはいられなかった。
 まず男が動かないのを見て、次に返り血を浴びた自分自身を見た。死んだ、殺したと
直感し、その場を飛び退いた。女生徒がいないのも把握して、混乱しつつも血塗れでは
出歩けない、どこかで洗い流そうと考えた。思い出したのが沼だ。僕はがくがくと震え
る膝を何とか操って、沼の畔まで辿り着くと、波紋のできていた水面に両手を突っ込
み、じゃばじゃばと音を立てて、目に付く限りの血を洗い落とした。さらに顔も洗っ
た。水を鏡代わりに見てみようとしたが、濁ってしまって全然役立たなかった。念のた
め、上着のジャンパー脱いで見てみると、ぱっと見では分かりにくいが、細かな赤い
点々が前面に残っていると分かった。しょうがない。沼に落としたことにしよう。僕は
ジャンパーを丸ごと沼に漬け込んだ。
 叔父の存在を思い出したのはその直後。今日は映画は無理だ。沼に僕自身が落ちたこ
とにして、連れて帰ってもらおう。そこまで知恵を働かせると、尤もらしく見えるよ
う、慎重に自らの身体を部分的に濡らした。
 皮肉なことに、その途端、空から雨粒がぽつぽつと落ちてきて、じきに土砂降りにな
った。でも、これは好都合だ。男の周辺の血までもが、雨で洗い流されていく。

 それなりに人が往来する場所であるはずなのに、遺体発見のニュースはなかなか流れ
なかった。僕はまんじりともせずに翌日の三月最後の日を過ごし、夜を迎えた。
 そして、家族で二時間サスペンスを見ているとき、はっと気付かされた。画面では、
大人の男女がテントの中でセックスしていた。見ているこっちは、親子で気まずくなる
時間。けれども、僕は別の発見もあった。
 女の人が嫌がっていなくても、口では嫌と言う場合があることを、このドラマを見る
まで知らなかったのだ。
 途端に、恐ろしい考えが閃いてしまった。もしかすると、僕が木陰から目撃したあれ
は、男が女生徒を襲っていたのではなく、合意に基づいた性交渉だったのではないか。
だとしたら、僕は勘違いをして男の人を死なせたことになる。女生徒がいなくなったの
は、きっと、必死の形相の僕を見て、恐ろしくて逃げたのだ。
 殺人鬼をこの世から消したのなら、まだ救われる。それが全くの的外れで、勘違いか
ら人殺しになったのだとしたら、どうしようもない。最低だ。
 無口になった僕を、父と母はいつもの恥ずかしさから来るものだと思ったろう。僕は
それを受け入れ、そのままテレビのある部屋を出た。自分の部屋に入るとドアをしっか
り閉める。鍵が付いていないから、いきなり開けられないように、勉強机から椅子を持
って来て、ドアの前に置いた。これで少しは落ち着ける。深呼吸をし、どうすべきか真
剣にじっくり検討を重ねた。
 結果、通学路の途中にある交番勤務の制服警官、正田義子おねえさんに全てを打ち明
けようと決心したのだ。男が罪人であろうとなかろうと、小学生が背負い込むには重す
ぎる事態だったから。
 そもそも、冷静になって思い返すと、僕が目撃した一連のシーンが、全て演技だった
とはとても考えられない。外で演技する意味が理解できないからだ。特殊な状況で演技
したいのであれば、もっと人目に付かない場所を選ぶものでは? 松城山は観光地では
ないが地元の人が割とよく訪れるし、ましてや現場となったスペースは休憩するのには
ちょうどいい場所のように思う。本当に演技――つまり、映画か何かの撮影だとして
も、僕が石をふるった時点で関係者が飛び出してくるだろう。
 もちろん、反対のことも言えなくはない。あれが犯罪行為なら、犯人の男は何故、人
がいつ来るか分からないような場所で、女生徒を襲ったのか?と。ただ、この疑問は演
技説のそれよりは、遙かに納得しやすい説明が可能だ。犯人は我慢できなかった、もし
くは、犯人は被害者を押し倒したあと、茂みに引きずり込むつもりだった、という風
に。
 以上の考察から、僕は(小学生当時においても)、男は犯罪者であり、女生徒を襲っ
たのだと判断した。それにやはり、僕は間違いなく、男を殺したのだということも。
 そうして覚悟を決め、告白したのだが――相手にされなかった。エイプリルフールじ
ゃなくても、同じだったかもしれない。小学生が殺人を告白したって、簡単には信じて
もらえまい。それでも再度、日を改めて言おうと踏み止まった。なのに、まさかこんな
タイミングで、好きな子から告白されてるなんて。
 僕は決意を放り捨て、保身に転じることにした。
 そのためにまずやらねばらないのは、死体の隠蔽か、女生徒の発見か。僕はとりあえ
ず、ある予感もあって、現場に戻ってみることにした。犯罪者は現場に戻るという格
言?通りの行動になるけれども、他に選択肢がない。
 最初、叔父にまた乗せて行ってもらえないかと考えたが、そうそう都合よく行くはず
もなし。自力で、つまりは自転車で行くことにした。
 吉原さんとサイクリングならどんな長距離でも楽しい道のりなのだろうけれど、目的
が目的だけに、気が重い。足も重かった。松城山のすぐ近くまで来ると、警戒心が働い
て、一層のろのろしたスピードになった。もうすでに発見されていて警察が来ているん
じゃないかという恐れから、しばらく様子見のため、ぐるぐると周辺を何度か行き来し
た。が、異状は見られない。大人からすれば今日は平日、行楽に来る人もいないようだ
った。僕は自転車を適当な茂みに隠すと、思い切って現場に向かった。上り坂は所々き
つかったが、くだんのスペースには意外と早く到着した。人がいない今の内にと、気が
急いていたのかもしれない。
 僕は問題の現場を見渡せる位置に立つと、息を飲んだ。
 遺体が見当たらなかったのだ。

 あれは夢だったのか、なんて希望的観測に満ちた甘い夢は、小学生のときの僕だって
見やしない。
 頭の片隅で予感はしていたため、パニックに陥って叫び声を上げるなんて真似はせず
に済んだ。
 女子生徒が無事に逃げ出したのなら、ここに他殺体がある(少なくとも、流血沙汰が
あった)ことを認識しているのだから、警察に通報するはず。女子生徒が何らかの理由
で口をつぐんでいる可能性は低いと思うし、仮に口をつぐんだとしても、三日の間、他
の誰も現場を訪れないなんて、なさそうだ。
 なのに、現実には、丸三日が経過しても全くニュースに出ない。普通はあり得ない。
 そうなってくると、考えられるのは一つだけ。男の遺体が消えたのだ。
 かような分析に基づく“予感”通り、遺体は消えていた。凶器に使った平らな石すら
ない。
 僕はしかし、予感の的中を喜ぶよりも、新たな問題に実際に直面し、困惑していた。
死体が独りでに動くことはないのだから、誰かが動かしたに違いない。
 なお、男は実は死んでおらず、息を吹き返した後、去ったなどということはあり得な
い。僕が血を落とそうと奮闘し、十五分は経過していただろうけど、男の身体は微塵も
動いていなかった。確実に死んだのだ。
 では遺体を隠したのは誰か? 何が起きたかを知っている女生徒か。彼女にとって僕
は命の恩人だろうから、かばってくれるということはあり得る。警察が動いていないら
しいのも、辻褄が合う。
 これが正解だとして、女子中学生だか高校生だかが、大の男を移動させるには制限が
掛かる。単独ではほとんど動かせないはず。かといって、普通に考えるなら、知り合い
に協力を求められる状況でもない。
 僕は改めて広場を見回した。すぐに目がとまったのは、例の沼。あそこまでなら、女
生徒一人でも引きずっていけるのではないか。最後は足で蹴飛ばして、沼の底に沈めれ
ばよい。
 僕は沼の畔に立った。相変わらず濁っていて、底どころか水中がどうなっているのか
も分からない。
 遺体があるのならいつか浮き上がってくるだろうけれど、その頃には、色んな証拠は
流されて、人の記憶も曖昧になっていると期待できる……と、ここまで考えたものの、
だからといって楽観視できるものでもなし。せめて、本当に男の遺体が沈められている
のか、確かめたいと思った。
 無論、潜る訳に行かない。片膝をついてしゃがむと、水面に顔を近付ける。目を凝ら
すが、視界は変わらなかった。しょうがないので、手を入れて、少しかき分ける仕種を
してみたが、結果は同じ。いや、むしろ逆効果だったかもしれない。
 あきらめて手を引っ込めようとした瞬間、指先が何かに触れた。固くもなく柔らかく
もない。ゴムかプラスチックの感触に近い……?
 生き物だったら気持ち悪いなと思いつつ、もう一度同じ場所に右手を、恐る恐る入れ
た。さっきと違って、ゆっくりゆっくり水をのけるように手を動かす。すると、不意に
それは浮かんできた。
 ぷかりと浮かんだのは、黒っぽい色をした靴だった。サイズはそんなに大きくない。
僕ぐらいにちょうど合いそうな、でも女物らしく見えた。水に落ちてまだそう日が経っ
ていないのか、乾かせば使えそうな感じがする。
 と、突然、その靴に見覚えがあることに気付いた。飾り気のない、色も地味な、いか
にも学校指定の靴……もしや、これは。
「あの女子の?」
 思わず、呟いていた。
 まさか、あのときの女生徒は、男の身体の下から逃げ出したあと、行くべき方向を誤
って、沼に落ちたのか? 靴がそのままあるっていうことは、彼女自身、今も沈んだま
まなのか?
 背筋に戦慄が走った。全身が総毛立った気もする。
 がたがた震える自分を自分で抱きしめ、立ち上がろうとしたが、くずおれてしまっ
た。尻餅をついた格好で、しばらく動けなかった。口の中はからからだったが、唾を飲
み込んで、いくらか後ずさる。姿勢を立て直して、震えが収まるのを待つ。が、待ちき
れなくて、膝に意識的に力を入れてやっと立ち上がった。五秒ほど考え、靴は拾得する
ことにした。
 子供が行方不明になっても、誘拐事件である可能性を考慮して、すぐには報道されな
いケースは結構あるだろう。女生徒の場合もそれに当てはまっているのか。
 しかし、女生徒が沼で溺死したとすると、男の遺体を消したのは一体、誰なんだ?

 僕は自転車を目一杯漕いで、家を目指した。安全運転に努める余裕はほとんどなかっ
たが、どうにか無事に帰り着いた。それから帰路を行く間にずっと考えていたことを、
自分の部屋に籠もってまとめようと思った。
 それは、男の遺体を隠したのは、やはり女生徒だったのではないかという考えだ。詳
しく言うと、女生徒が男を遺棄する過程で、誤って自身も落ちてしまったという仮説。
ないとは言えない。
 ただ、何となく心理的になさそうな気がした。何故かというと――僕が放置した凶器
が、あの現場には見当たらなかった。凶器と遺体の両方を沼に沈めるとして、先にやる
のは遺体の方を選ぶんじゃないかと思う。凶器を先に始末したあと、万が一にも男が蘇
生したら、女生徒には武器がなくなるし。
 いくら考えても推論は推論でしかなく、結論は下せない。男もしくは女生徒の遺体が
浮かび上がり、警察によって沼が浚われるのを待つしかないようだった。でも、女生徒
には生きていて欲しい。だからこそ、靴を持ち去ったのだ。彼女が生きているなら、靴
は脱げ落ちただけということになる。現場に残しておくと、男の遺体が発見されたと
き、男を殺した犯人につながる手掛かりと見なされるだろう。
 僕はそのときが来るまでは、せめて忘れていようと、小学生最後の一年間をいかに充
実したものにするかに意識を向け、そして吉原さんとの付き合いに力を入れた。
 が、それを妨げるかのように、気に掛かることが持ち上がっていた。春休み中に見た
朝のワイドショーでの特集だった。
 ロガーによる犯行が、ぴたりと止んだのだ。
 およそ十週の間に八人を殺したロガーが、音沙汰梨となってからもうすぐひと月にな
る。犯人はどうしたのか。どこで何をしているのか。分かりもしないことを、ゲストの
タレントや専門家と称する複数の男女がああだこうだと言い募って、特集は終わった
が、僕はこの事実を突きつけられ、嫌でも思い起こした。
 あの男がやはりロガーで、女生徒を九人目の犠牲者にしようとしていた? ロガーが
死んだから、犯行は止まった?
 そう解釈すれば、何もかもがぴたりとうまく収まる気がした。殺人鬼を葬り去ったの
なら、僕の精神も比較的安定するだろう。
 だけど、一方で、二ヶ月あまりで人を殺すような殺人鬼が、僕のような子供にあんな
にあっさりとやられるものなのだろうか。疑念は消えない。

 四月の十五日になって、動きがあった。ある意味待望の、である。
 松城山中腹の沼に遺体が浮かんだのだ。
 男性だった。
 速やかに警察の捜索が入り、一両日中に沼を完全に浚ったらしい。その結果、他に遺
体が上がることはなかった。
 沼には、長い間に投げ込まれたり落としたりした物が、大量に沈んでいたそうだが、
女子生徒の持ち物らしき遺留品はなかった、と思う。発表されていないだけで、見付か
った物があっても伏せられているのかもしれないが、とにかくニュースや新聞では何も
言っていなかった。
 一方で、男については、比較的多くの情報が出て来ていた。名前は大家延彦と言い、
三十五歳の独身、アパートに一人暮らし。二十八で結婚するも三十三で離婚。ビジネス
用品メーカー勤務でトップクラスの営業マンだったが、身体を壊して昨年末に休職。別
れた妻との間には子供が一人いるが、会うようなことはしていない。養育費はきちんと
払い続けており、生活に困っている様子はなかったという。
 アパートの部屋からは、ロガーに殺された被害者との関連を裏付ける物が複数発見さ
れたそうだが、ほとんどは明かされていない。正式発表されたのは、八人の被害者名を
書き記した手帳と、最初の被害者の皮膚組織が検出された革紐。特に後者は、有力な物
証と言える。もちろん、大家が紐を触ったという証拠も見付かっている。
 動機が不明だが、離婚や休職をきっかけに、少しずつ精神的に弱っていたんじゃない
かという説明がなされていた。小学生だった当時は、その説明ですんなり納得していた
けれど、今考えると随分と乱暴な話だ。
 結局、容疑者が死んでしまったせいもあり、大家が八件の殺人全てをやったという証
明は難しかったらしく、半分の四件で、容疑者死亡の不起訴処分という処置がなされ
た。僕が大家延彦を殺したがために、事件の完全解決ができなかったのだとしたら、ま
た僕の重荷が増えるが……。あの女生徒の命を守るためにやった正当防衛だと思い込む
ことにする。それに、大家延彦は少なくとも四人殺したと認められたも同然なのだか
ら、三人殺せば死刑と言われる日本の刑罰に照らせば、先んじて刑を執行してやったと
も言える。とにかく、そう思い込むことで、僕は心の均衡を保つことができた。
 夏休みに入る頃合いには、ロガー事件は決着を見たような空気になった。あとから思
うと、世間はロガーという殺人鬼に飽きて、次の大事件を求めていたような気がする。
 僕は吉原さんとの付き合いを深めた。と言っても、小学生のできることなんて、たか
がしれていたけれども。遊びに行くのも二人きりになることは滅多になく、グループで
出掛けた。
 松城山には足が向かなかった。だけど、そちらの方面になら行くことがたまにあっ
た。そのときだけは、忘れかけていた重荷とか緊張感とかを嫌でも思い出した。確率は
低いかもしれないが、あのときの女生徒とばったり出くわすという偶然が、起こらない
とは言えないのだ。相手が僕に感謝していて、秘密を公にする気がないとしたって、会
わない方がいい。そうに決まっている。


――続く




#499/514 ●長編    *** コメント #498 ***
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:28  (466)
偽お題>書き出し指定>告四(後)   永山
★内容
 そして――七年後の今。
 僕と吉原は揃って大学に入り、上京した。さすがに住居は別だが、距離にして一駅と
違わないマンションに入った。同じマンションに入れなかったのは、吉原が家族の意向
もあって女性専用のそれを選んだからだ。結婚云々は別としても、互いの家族とも小さ
な頃から顔を合わせ、行き来もしており、公認の仲と言えるだろう。
 二人の時間を大切にするため、大学では、なるべる緩いクラブかサークルに入ろうと
考え、僕らは都市伝説研究会というサークルを選んだ。原則的に掛け持ち自由なので、
登録者数は百を超すが、サークル室に姿を見せるメンバーとなると二十人前後、さらに
そこからサークル名通りの活動に参加している者は、十人ぐらいだろう。
 僕と吉原は、都市伝説に興味がなくはないといった程度で、さっきの分類に従えば、
サークル室に姿を見せるが活動参加はあまり積極的でないタイプ。テストやイベントな
どの情報収集が目的のメインだった。
 ところが、ひょんなきっかけから、僕と吉原は活動の中心に躍り出る、いや、出され
る羽目になった。夏休みの合宿先を、先輩方が検討しているときのことだ。
「そういえば、君ら」
 部長(サークルだから会長と呼ぶべきかもしれないが、部長で通っている)の名倉絵
里さんが、部室中央の丸テーブルを離れ、僕らのいる長机の方にやって来た。
「何でしょう?」
 そう応じつつ、合宿先の意見を求められるものと思い、ホワイトボードに書き出され
た候補をちらっと見やった。
 しかし、予想に反して名倉部長はもっと個人的なことを聞いてきた。
「ロガーの事件が起きた地域の出身じゃなかったっけか」
「は、はあ」
 吉原も僕も似たような反応をした。厳密に言えば、僕の方がコンマ五秒ほど遅れたか
もしれないが。
「連続殺人事件のことですよね」
 吉原は笑顔でさらりと言った。怪談話でも始めそうな雰囲気だ。
「うん。えっと、七、八年になるかな」
 指折り数え、自ら納得したように頷く部長。僕も何か言わねば。鼓動の高まりを意識
しながらも、平静を装って、ゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、出身って訳じゃないんです。隣接する市で発声しただけですから」
「それでも、話題にはなったろう? 小学生の頃なら、学校だってぴりぴりするだろう
し」
「はい。それはもう」
 笑みを絶やさない吉原。横目で見ていた僕も、つられて笑う。
「集団下校するようになったんですけど、登校のときと違って、上級生と下級生とで時
間を合わせるのが難しいから、すぐにやめになって。保護者が迎えに来るのをOKにし
たり、登校時にやってる交通安全見守り活動を、下校のときにも行うようになったり。
でも、子供の方は、距離的な実感なんてないから、家に帰ったら勝手に遊びに行ってま
したけど」
 彼女の思い出話を耳にして、僕も思い出した。隣の市まで殺人鬼が現れるようになっ
ていた割に、叔父は僕を一人で遊ばせていた。危ないとは考えなかったんだろうか。そ
ういえば、僕の親もあの日服を濡らして帰ってきた僕を、あんまり叱らなかった。叔父
を責める様子もなかったと記憶している。でもまあ、僕が見ていないところで、無責任
な叔父をきつく注意したかもしれないが。
 でも……。それなら後日、僕が自転車で遠出したのを、両親はよく許可したなと思
う。いや、嘘をついて出掛けたんだったかな? あのときは自分のことだけでいっぱい
いっぱいで、嘘をついている余裕すらなかったかもしれない。
「新年度になったら、全児童に防犯ブザーを持たせようっていう話まで出ていたらしい
んですけど、その四月中に犯人が分かって」
「犯人の遺体が見つかった沼だか池だかってのが、吉原さん達の地元でしょ」
 別の先輩が言った。妹尾という二年男子で、普段はあまり出て来ないが、合宿前にな
ると姿を現すそうだ。続けざまに、部長に尋ねる。
「ロガー事件で都市伝説って、何かありましたか?」
「メジャーじゃないし、都市伝説っぽさには欠けるかもしれないが、あるにはある。ロ
ガー生存説だ」
「ああ、それですか」
 その場にいるメンバーのほとんどが納得した風に頷いたり手を打ったりしたが、僕は
「えっ」と声に出して驚いていた。
「何だ、知らないの?」
「し、知りません。初めて聞きました」
「ふうん。吉原さんは」
「私もよく知りません。何か噂みたいなのは聞いたかもしれませんけど、地元はやっぱ
り、事件が身近だった分、決着したんだ、もうこれ以上は言うなって雰囲気があったの
かも」
「なるほどね。じゃあ、生存説の詳しい理由は知らないんだ? よろしい、話してあげ
よう」
 揉み手をしかねないほど嬉しそうに頬を緩めると、部長は資料を参考にすることな
く、以下の内容をそらで喋った。
 ロガー生存説をより厳密に表現するなら、二人による共犯説になる。つまり、ロガー
の犯行は、二人の人間の仕業であり、大家延彦はその片割れに過ぎない。もう一人は生
きており、今も犯行再開の好機を待っている。
 この説の根拠は、いくつかある。大家の犯行として認定された四件の殺人は、ロガー
の犯行八件の奇数番目のものばかりだったこと。一番目と三番目と五番目と七番目の殺
しが、大家の犯行で、二、四、六、八の偶数番目は共犯の犯行だとする見方。
 また、殺害方法が多岐に渡る点も、共犯説を補強する。大家の自室から紐状の凶器が
見付かったことで、考察や扼殺は大家が好んで用いた方法であり、他の手口は共犯の仕
業と推定される。
「あ、待ってください。ちょっといいでしょうか」
 突然、吉原が先輩の話を遮ったので、びっくりした。
「何?」
「記憶が朧気なんですけど、確か殺し方は、絞め殺すのが前半に集中していたような」
「その通り。奇数番目が絞殺や扼殺なんていう風にはなっていなかった」
「じゃあ、おかしい……」
「うん。そこがこの説の弱いところでね。だからあんまり話題にならず、今では風化し
ているのかもしれない」
「当時の警察の見解では――」
 名倉部長のあとを受けて、妹尾先輩が話す。
「ロガーは大家の単独犯行で、前半に絞殺や扼殺が集中し、後半は手口が変化したの
は、絞め殺すのに飽きて、新しい方法を試したくなったということだったかな。連続殺
人だと分からせるためのサインは、所持品のリレーとチョークで事足りる」
「絞殺が決め手じゃないのなら、どうして奇数番目が全て大家の犯行と認定されたんで
しょう?」
 僕も会話に加わっておく。長い間黙っていると、何となく不安を覚えるから。
 部長が反応する。
「地元で起きた事件なのに、頼りないな。この分じゃ、合宿先にしてもあんまりおいし
くなさそう」
「私達の地元を合宿先にして、ガイドさせるつもりでした? 無理ですよ、そんなの」
 吉原がこう応じた結果、僕らの地元を合宿先の候補にする案はあえなく没となったら
しく、そのまま話題が変わった。
 奇数番目が大家延彦の犯行と認定された理由は、聞けずじまいだった。なので、僕は
マンションに戻ってから、調べてみた。本当は帰宅を待たずとも、いくらでも検索する
手段はあったのだけれど、吉原と二人でいるときまで殺人事件のことを考えたくはなか
ったから、後回しにしたのだ。
「――なるほど。五番目と七番目の被害者の所持品の一部が、大家の部屋から見付かっ
ていたのか」
 独り言が出た。ノンアルコールビールを片手に、検索結果の画面を見ていく。
 所持品は順にハンカチとイヤリングで、ハンカチはきれいに半分に切り裂かれていた
という。部屋から見付かったのは半分だけで、もう半分が六番目の被害者の衣服に押し
込まれていた。イヤリングも部屋から出て来たのは片方のみ。もう片方は、八番目の被
害者の口の中にあったらしい。
「うん? こういう状況なら、六番目と八番目も、大家の犯行と見なせるんじゃないの
か」
 そもそも、一番目と三番目が大家の犯行と認定された上で、それぞれの被害者の持ち
物が、次の被害者の遺体のそばで見付かっているのなら、二番目及び四番目も同一人
物、つまり大家の犯行と見なしていいのでは。
 なのに、そうなっていないのには理由があるのか。
 検索結果を追ってみたが、警察の発表という形では、特に何もないようだった。
 ただ、芸能週刊誌やスポーツ新聞レベルの噂話として、大家にはアリバイがあったん
じゃないかという記事が見付かった。何番目の殺人かという言及はないものの、駅や商
店街、銀行などの防犯カメラ映像に、大家延彦らしき男が映っていたという。大家なの
か肯定も否定もしがたい画像でアリバイとは認められなかったものの、八件全部を大家
の仕業とするのにも引っ掛かりを覚える材料だったため、四件での書類送検に留まった
という経緯らしかった。
 改めて知ってみると、ロガーは二人いるとする説には、頷けるものがある。100
パーセントの肯定はまだ無理だが、あり得ない話じゃないという気になってきた。
 もし、ロガーがもう一人いたとして、そいつは共犯者を殺され、何を考えただろう?
 断るまでもないが、大家延彦の死は殺人事件として扱われ、今も捜査は継続してい
る。そのはずだ。これまで、僕の元を刑事が訪れることは一度もなかった。警察の方針
は知らないが、世間の大半は、ロガーは犯行中に反撃を食らって死んだ、自業自得だと
思われている。今度の検索で知ったが、ごく一部の人達、つまりロガー二人説を採る人
達は、仲間割れをして殺されたという見解らしい。どちらにせよ、世間一般は、大家延
彦に同情なんてしていないし、このまま犯人は捕まらなくてかまわないという風潮があ
った。だから警察も本腰を入れてないのではないか。そういう風に僕は考え、一応安心
して暮らしてきたのだが。
 本当にロガーがもう一人いて、共犯者を殺されたことや、その犯人だと思われている
ことに怒りを覚えているとしたら、そいつは僕を見つけ出し、落とし前を付けさせたい
と考えているではないだろうか。
 とは言え、そんな想像から、僕がぶるぶる震えているかというと、そうでもない。ロ
ガーは、共犯者を殺した人物を特定するために、どんな方法を採れる? まさか警察に
駆け込む訳に行くまいし、警察以上に捜査能力のある組織は、恐らく日本にはない。絵
空事の名探偵が入るなら、話は変わってくるかもしれないが。
 唯一、恐いのは、僕が大家を打ち殺すところを、もう一人のロガーが目撃していた場
合だが、七年も経ったのだから、心配の必要はない。いや、あの場にもう一人のロガー
がいたのなら、僕は即座にやられているに決まってる。
 意識することもなく、楽観的な考えに浸った僕は、その後も検索結果を適当にピック
アップしては、ざっと読む行為をだらだらと続けていた。やがて、瞼が重たくなってき
た。飲んだのはノンアルコール飲料のくせに。そろそろ寝る頃合いか。僕は最後のつも
りで、適当に検索結果をクリックした。
 それは誰かのツイッターらしかった。****年に@@市等で発生したロガー事件に
興味あります、みたいなことが書いてある。何か特別な情報や噂を知っている様子はな
く、逆に募集をかけている感じだ。名前は“きあらん”となっていた。
 プロフィール画像に目を凝らすと、イラストではなく、女の子の顔写真だと分かっ
た。小学生高学年ぐらい。細身と言うよりも痩せていて、面長に見える。後ろに映る電
柱や木の高さから判断すると、身長は結構ありそうだ。こんな小さな子が、七年前の事
件に興味を持つのかと怪訝に感じたが、プロフィールを読んで納得した。具体的な校名
はなかったが、東京の大学に通う学生で、年齢は二十一とある。当時なら十四歳。連続
殺人事件が近辺で起こったら、強烈な印象を残しても不思議じゃない。小さな頃の顔写
真にしているのは、プライバシーを守るため、今の写真を使いたくないからだろう。
 ――自分は今、どうしてこの女性の近辺で事件が起きたと思った? プロフィールを
見直して、すぐに答は見付かった。出身地が、僕と同じだった。
「あっ」
 次の瞬間、叫んでいた。
 髪に片手を突っ込み、がりがり掻きながら、目を細めて改めて顔写真に見入る。確信
を持てた。
 あのときの女生徒だ……。
 僕はみたび、プロフィールを読み直した。事件についての記述はなし。検索でヒット
した呟きに目を移す。彼女がロガー事件に興味を持った理由までは触れられていない。
情報を広く募る旨が書いてあるだけだ。始めたのが今年の四月からで、まだほとんど知
られていないらしく、リプライなんかも大した数じゃなかった。有益な情報が集まった
とは思えないが、一応目を通すと、怪しげな書き込みがいくつかあると分かる。「特ダ
ネを持ってるが、ネットで話す気はない。実際に会って、証拠ごと渡す」というニュア
ンスのものが、三つほど確認できた。まともに考えれば、ツイート主の女性に会いたい
だけの書き込みと思うのだが、きあらんは割と真摯に反応していた。と言っても、「会
います。日時はお任せしますから、待ち合わせ場所は※※警察署でお願いします」なん
ていう返しをするくらいだから、身を守る意識はちゃんと働いているらしい。無論、面
会が成立した様子はなかった。
「だからって、連絡を取る訳にいかない」
 ふっ、と息を細く短く吐いた。この女性が命の恩人を見つけ出し、礼を言いたいがた
めにこのつぶやきをしたのだとしても、僕には応じられない。勘繰るなら、警察の罠と
いう可能性だって、完全否定はできない。
 僕はネットを切断した。パソコンの電源をさっさと落とし、就寝の準備をする。
 何とも言えない、もやもやしたものを見つけてしまった。そんな気分では、布団を被
っても簡単には寝付けなかった。

 事態が急展開を見せたのは、僕がそのツイッターに気付いてから、四日か五日ぐらい
過ぎていたと思う。
 きあらんが殺されたのだ。
 最初にテレビのニュースで一報を見聞きしたときは、僕にとっては無関係な殺人事件
が起きたんだな、程度の認識だった。その後、ネットで改めてニュースを読み、ようや
く被害者がきあらんだと把握した。あの女生徒の本名は、荒木蘭子だと分かった。
 ロガー事件に関して情報を求めていたことも、関係者筋からの話として既に報じられ
ており、過去のロガー事件は瞬く間に注目されるようになった。
 翌日の続報では、さらに詳しいことが判明した。殺害方法は絞殺で、凶器は未発見。
遺体の傍らには、御影石の欠片が置いてあったという。八番目の被害者の所持品がどこ
にも見当たらなかったことから、ロガーが蘇って犯行を再開したのではなく、別人の仕
業だとする分析を、犯罪学者がワイドショーのスタジオでとくとくと語っていたが、午
後になって一変する。警察が八番目の被害者の入る墓を調べたところ、墓石の角が少し
壊されていたことが判明したのだ。鑑定待ちだが、恐らく遺体のそばにあった御影石
と、組成が一致するに違いない。
 僕は、大学をしばらく休むことにした。外出も控えねば。荒木蘭子は、もう一人のロ
ガーに見付かり、七年前の続きとばかりに殺されたのだ。そうに決まっている。
 ロガーが荒木蘭子の居所を突き止められたのは、きっとあのツイートが発端なんだろ
う。七年前、大家が九番目の犠牲者として荒木蘭子を襲うところを、共犯者は見守って
いたのではないか。八件の殺人も同様だったかもしれない。片方が実行犯で、片方が見
張り役。恐らく交互に殺人を行い、被害者の所持品を手に入れては、共犯者に渡してい
たのだ。
 ああ、そうか。僕は違和感の正体と理由に気が付いた。大家は九番目の殺人が未遂の
まま、死んだというのに、八番目の被害者の所持品を持っていなかったと思われる(持
っていれば、絶対に報道される)。犯行の時点では、共犯者が持っていたんだ。殺しの
あと、物を受け取るか、共犯者自身が物を遺体の懐に入れる算段だった……。
 だが、九番目はハプニング起きた。僕の介入だ。見守っていた方は、慌てたに違いな
い。飛び出して小学生の僕を排除するくらいできただろうが、その前に、どこの誰とも
分からぬ女子生徒に逃げられてしまった。下手に動くと、共犯者は捕まるリスクがあ
る。僕だけでも始末するという選択肢を選ばなかったのは、何故か。留まるリスクの方
が大きいと見て、早々に現場を立ち去ったのか。
 一人になったロガーは、長い潜伏期間を持つことになる。共犯を失ったことも大きな
理由かもしれないが、それと同時に、女生徒と僕の居場所を突き止める手掛かりを得る
必要があった。だけど、僕も女生徒も警察には行かなかったし、警察は大家殺しの犯人
を見付けられないでいた。名前の漏れようがない。長期戦を覚悟した犯人は、八番目の
被害者の所持品を、廃棄したのだろう。持ち続けていると、容疑を掛けられた際、物証
とされるから。犯人自身が市内の学校を中心に張り込みをすれば、僕や荒木蘭子を見付
けられたかもしれない。そうしなかったのは(しなかったはずだ)、やはり慎重を期し
たからに違いない。
 七年が経ち、犯人は荒木蘭子のツイッターに着目する。もちろん、全く無関係である
可能性もあったが、子供の頃の顔写真で確信を持てたのだろう。一方の荒木蘭子は、既
にロガーは死んだと思っているから、無防備になっていた。恐らく、他のツイートで上
げた写真に位置情報を含んだ物があって、ロガーは荒木蘭子の居場所を特定したのでは
ないか。仮にそうじゃなくても、市の中学校の卒業アルバムをどんなことをしてでもか
き集め、きあらんの子供のときと同じ顔がないか、当たっていけばいずれ本名が分か
る。本名が分かれば、あとはどうにでもなるのではないか。ロガーが殺人以外の犯罪に
どこまで精通しているかは分かりようがないが、一度狙った獲物は逃さないという執念
があれば、何としてでも調べ上げるのではないか。
 執念。
 脳裏に浮かべたその単語に、僕は身震いを覚えた。
 荒木蘭子の身に降りかかったのと同じことは、僕自身にも当てはまる。ロガーの次の
獲物は、恐らく僕だ。
 そのときから僕は、ネットをしなくなった。関係ない、意味のない行為とは思うが、
そうせずにはいられなかった。
 外出時には、色の濃い眼鏡とマスクを欠かさないようになった。帽子を被ることもあ
った。大学へもその格好で行ったが、周りの評判はあまりよくなかった。特に、吉原か
らは呆れられてしまった。理由を話せないのだから仕方がないが、これでもう彼女とは
別れるかもしれない。一緒にいて、彼女が巻き込まれるようなことになれば申し訳が立
たないという気持ちもある反面、別れたくない気持ちも当然あるので、現状では成り行
きに任せるとしよう。
 狙われてびくびくしているだけでは始まらない。対策も講じようとした。ロガーの顔
や姿を前もって知ることができればいいのだが、そんなことは無理に決まってる。だ
が、不審者の目星を付けるくらいなら、可能じゃないか? そこで思い付いたのが、荒
木蘭子の葬儀に足を運ぶことだったのだが……ロガーが姿を見せる確証がない上、自分
は危険を冒している。荒木蘭子の関係者でもないのに葬儀に顔を出せば、怪しまれる。
もしも警察が張り込んでいたら、注意を惹いてしまうだろう。天秤に掛けるまでもな
い。自らが不審人物であることを忘れてはならない。この程度の策ではだめだ。

 叔父から電話をもらったのは、僕が訪ねてきた家族に素っ気ない対応をしたしばらく
あとのことだった。
 叔父と話すのは、二年ぶりぐらいになる。直に会ったのは、もう五年ほど前になるの
ではないか。
「元気か? 何かあったんじゃないかって、みんな心配してるみたいだぞ」
 叔父の若々しい声は、うるさいくらいだった。僕は電話を耳から少し離し、応じた。
「うーん。ちょっとね。たいしたことじゃないんだけど、僕にとってはたいしたこと
で」
「何だ何だ、思わせぶりだな。家族や友達に言えない悩みか」
「でもないんだけど」
 曖昧にかわして終わらせるつもりだったけれども、ふと嘘の理由を思い付いたから、
そっちの方に叔父や家族の意識を向けさせておこう。
「まあ、叔父さんにだったら、話してもいいかな。昔、小さなときにはよく相手しても
らったし」
「こんな冴えない中年男でよければ、聞き手になってやるよ」
 叔父は自分では中年ぶるが、見た目は声と同様に若々しい。去年か一昨年にもらった
年賀状に、旅先での写真が載せてあったが、一つ上の父が、白髪が増えて老け込んだ印
象なのとは正反対に、IT企業の若社長って雰囲気を持っている。まあ、飽くまでイ
メージだけれど。今の実際の職業は――以前聞いたときから変わっていないとして――
カメラマンだ。と言っても、芸術家じゃないし、記者でもない。ありとあらゆる様々な
物事を撮影して、素材写真として提供する。そんな企業に所属している。
「実は今、仕事で東京まで出て来てる。今は無理だが、暇なときは相手してやれるぞ」
「会わなくても、電話で充分だよ。それがさ、ずっと付き合ってきた彼女と最近、すれ
違いが増えてきた感じでさ」
「それって、えっと吉原さんて子のことかい? 勿体ない」
「別れたい訳じゃないよ」
「理由というか、心当たりあるの?」
「なくもない。こっちはこの頃、あんまり出歩きたくないのに、向こうは外に行きたが
るとか、僕が都会の空気が汚れてる感じがして嫌だから、マスクとサングラスを掛ける
ようにしたら、不審人物だ何だとひどい言い方をされたんです」
「はは、そんなくだらないことで! 気に病む必要なんてないだろ。自然に元通りにな
るさ。ならないようなら、君が少し妥協すれば済む」
「妥協、ですか。男から折れた方がいいんですかね」
「まあ、いくら平等が唱えられても、そういうことになるかな」
 乾いた笑い声を立てる叔父。ようやく音量が調整された。耳を近付けたところで、話
題を少し変えられた。
「実はもっと深刻なことで悩んでるんじゃないかと思って、気になってたんだよ」
「深刻ですよ」
「だから、もっと、さ。ほら、そっちであれが起きたじゃないか」
「あれ?」
「ロガー事件だよ」
 一瞬だけ、どきりとした。心臓の鼓動が早まったようだ。鼻で強く息をして、整え
る。
「ああ、あれですか。完全に同一犯なのか、模倣犯なのかは分からないんじゃないです
か。第一、ロガーは七年前、沼で死んだのだから」
「そうだけどさ。まことしやかに囁かれていたロガー複数犯説を採用するなら、生き延
びたロガーがまた犯行を始めたように見えるだろ。君にとっちゃ、地元を離れたのに事
件が引っ付いてきたみたいで、いい気分はしないだろうと思ってね」
「それはまあ」
「ロガーが沈んでいた沼にも、遺体が見つかる直前と言っていいくらいに、出掛けたも
んな。覚えてるよ。あのときは君が沼に足を滑らしたとかで、服を濡らして一騒動だっ
たけれど、まさか殺人犯の遺体が浮かぶとは」
 僕は再び電話を遠ざけた。腕の長さ分いっぱいに。聞く内に、頭を締め付けるような
感覚に襲われた。何でこんな。他の人とロガー事件について話しても、ここまで不快な
気分になったことはなかった。僕が大家を殺したあと、最初に会った人物が叔父だから
か?
「まあ、何ともないのならいいよ。――聞こえてるかい?」
「あ、はい。聞こえてます」
「君の彼女は、事件について、何か言ってた?」
「吉原さんですか。うーん、楽しい話題ではないので、彼女との会話にはほとんど出て
来ません。ただまあ、サークルで話題に出たことがあって、そのときは割と平気な感じ
で話してましたよ」
「聞いたのは、吉原さんの話した内容なんだけどな。ロガー事件が起きてからの」
「ああ。そうですね……何言ってたっけ。印象に残らないくらい、ごく普通でしたよ。
また始まったのかしらとか怖いねとか」
「特段、トラウマが出てるようではないと。それならよかった」
 出ているとしたら、僕の方だ。
「しかし何だな。大家延彦の死亡推定日時ってのは、幅があるけども、僕らが松城山に
行った日も入ってるんだよな。ど真ん中に。だから、ひょっとしたらひょっとして、す
でにもう沼には死体が沈んでいたかもしれない訳だ。その沼の水に濡れたと思うと、君
だって平気でいられないんじゃないか?」
「や――やめてくださいよ」
 僕は無理矢理笑った。自分の声なのに、少し遠くに聞こえる。
「そんなことあり得ませんよ。あったとしても、死にたてなら水に混じってはいないで
しょう、その、体液とか」
「ははは、死んだばかりかどうかは分からんぜ。幅があるんだから、最も早い時期に死
んでいたとしたら、得体の知れない物が沼の水に溶け込んでいたかもな」
 叔父の声は明るい。だが、呪いのように僕の耳に届く。
「もしかすると、そのせいかな? 君の身体に染みついたロガーの体液や血液やらが、
今になって呪いの執念みたいなものを爆発させてさ。その結果、君の近くでロガー事件
が再開したのかもしれん。犯行に及んだロガーはかつての共犯なんかじゃなく、ロガー
の霊が乗り移った人間なんだよ」
「――」
 僕は何事かを叫んで、電話を切っていた。

 一眠りして、目が覚めて、飲み物と食べ物を軽く入れて、しばらくすると落ち着いて
きた。時計を見ると、深夜三時過ぎだった。
 冷静になったところで、ふとした疑問が頭の中をよぎった。
 叔父は何故、電話であんなことを言ったのか。いい年した大人が、悪ふざけにしては
度が過ぎるのではないか。
 想像を逞しくし、さらに七年前を思い出そうと試みる。
 七年前のあの日。松城山の近くまで、叔父の車に乗って連れて行ってもらったとき、
叔父は一体何の用事があったんだ?
 子供だったから詳しく聞かされていなくても当然だと思っていたが、本当は何もなか
ったんじゃないか? いや、言えなかったのでは?
 たとえば、叔父こそがもう一人のロガーであり、大家の犯行を見守ることこそが用事
だった――。
 証拠はない。根拠もゼロに等しい。妄想レベルだろうか。
 反証ならすぐに挙げられる。叔父がロガーなら、犯行現場の近くまで僕という子供を
連れて来て、自由に遊ばせたりするものか? 普通はしない。
 だが、殺人鬼は普通じゃない。たとえば、僕を十番目の犠牲者にするつもりだったと
考えれば、連れて来たことに説明が付く。身内を犠牲者に選ぶのは、犯人にとってリス
クを高める行為だろうけれど、最後のつもりならあり得るんじゃないか。犠牲者の数が
十で打ち止めならきりがよい。
 だとしたら、僕の早すぎる反撃は、ロガー達にとって予想の埒外だったのかもしれな
い。だから、僕を止めることすらできず、荒木蘭子には逃走を許し、大家は命を落と
し、叔父は立ち去るしかなかった。
 この仮説を肯定するなら、叔父は共犯者を殺したのが僕だと知っていながら、ずっと
放って置いたことになる。いつでも殺せるから? いや、むしろ、順番に拘ったのか。
九番目の犠牲者として荒木蘭子を見つけ出し、殺してから、最後に僕を殺そうという当
初の計画に拘った。
 すると――どうなる? 今や、ロガーにとって残す標的は僕だけ。叔父はロガーの片
割れとして、最後の“仕事”を遂行しようとする。さっきの電話は、殺しに行く前の様
子見だった? そういえば、こっちに出て来ていると行っていた。悪趣味な話を聞かせ
てくれたのだって、僕を恐怖させ、追い詰めるためにやったのでは。いや、そうに違い
ない。そしてじきに、ここへ来る。外出の機会がめっきり減った僕を、いつまでも待た
ないだろう。叔父なら、訪ねる理由を作れる。拒んで先延ばしにすることは、恐怖の先
延ばしにつながる。だったらいっそ、迎え撃った方が賢明なのでは。
 僕は椅子から立ち上がった。嘱託を離れ、台所を見渡す。キッチン下の扉の裏には、
包丁が何本かある。他に武器になりそうな物……修学旅行のとき、若気の至りで購入し
た木刀。あれを持って来たはずだ。どこに仕舞ったか……。
 僕は小学生のとき、吉原と付き合うために、秘密を抱える決心をした。彼女と別れな
い内は、秘密が増えるくらい、何ともない。

            *             *

「――ええ。大家延彦とは全く関係ありませんでした。他人の犯罪に便乗して、連続殺
人を起こせるかどうかという、一種の実験みたいなものを試みたかった。ただ、それだ
けです。だから、最初の方は私も彼と同じ殺害方法、絞殺を選んだんです。でも、自分
の犯行だという証拠も欲しかったので、チョークで白い印を残しました。
 最初の被害者? 最初とは、私にとって最初という意味ですね。大家が起こした最初
の殺人、桑間さんを殺した現場に行って、一人で冥福を捧げている女の子の中から物色
したんです。桑間さん同じ学校の子になると面白くないから、制服で区別しました。そ
うして選んだ三島さんが、まさか桑間さんと小学校時代同じクラスになったことがあ
り、しかも密かに付き合っていた仲だったとは、予想外の結果でしたが。ただ、その事
実を警察は掴めなかったみたいですね。それだけ慎重に、周囲に隠して付き合っていた
んでしょう。私だって、三島さんが持っていた手帳を見て、初めて知ったんです。おか
げで、大家と私が別々に起こした殺人なのに、期せずして連続殺人の様相を呈してしま
った。はい、生前、桑間さんが使い古した腕時計を三島さんにプレゼントしただけなん
でしょう、きっと。
 そのことを知った僕は、次第に面白いと思いました。大家が次の殺しを行うのなら、
何とかして三島さんの所持品を渡してやろうと考えた。最悪でも、次に大家が殺した被
害者の懐に、三島さんの手帳の一部を押し込んでやろうと。でも、大家がもう殺す気が
ないのなら、僕が自分でやるか、別の殺人を見付けるしかない。迷ったんですが、賭け
てみることにしました。大家は、自身の殺しを、誰だか分からない奴に勝手に連続殺人
に仕立てられたと思ってる。憤慨してるか面白がってるかは分からないが、乗ってくる
に違いない。そう考えたんです。こっちからコンタクトを取れないかと、新聞広告やネ
ット上に簡単な暗号文を載せてみたり、桑間さん、三島さんそれぞれの殺害現場に足を
運んだりしたんですが、なかなかうまく行かない。そうこうする内に三件目と言うべき
か二件目と言うべきか、殺人が発生した。絞殺で、しかも三島さんのアクセサリーが遺
体の上に置かれていたというじゃありませんか。大家の仕業だと直感しましたね。あ、
もちろん、その時点では大家なんて名前、分かってないですよ。最初の奴がまたやった
んだ、っていう認識です。
どうやって手に入れたのかは知りませんが、想像するなら、弔問客を装って三島家に上
がり込んで、うまくやったんじゃないですか。
 で……ですね、こうなったら私も続けなければいけない。今言った想像の通り、三人
目の被害者の、ええっと福木家の葬式に行ってみたんです。そのとき、ちょっとしたい
たずら心から、手に白のチョークを持ってみたんですよ。一見、煙草に見えるように。
 そうしたら――驚きましたよ! あの瞬間ほど驚き、そして嬉しかったことはない。
 声を掛けてきたんです、大家延彦が。さすが、同好の士だ。私達は最初の数分こそ互
いに警戒しましたが、じきに分かり合えました。このときになって初めて、私と大家は
共犯関係を結んだんです。
 それからは簡単でした。所持品を入手するのが楽になりましたから。私は大家から、
福木さんの身に付けていたシャープペンを受け取り、次の殺しのときに置いてきまし
た。あとはこの繰り返しです」

            *             *

 床にばったりと倒れた叔父の左手が、いつの間にかテーブルから落ちていたテレビの
リモコンに当たった。次の瞬間、テレビが入った。ニュースをやっていた。
 僕は返り血を浴びた顔を、用意しておいたトイレットペーパーで拭いながら、何の気
なしにアナウンサーの声に耳を傾けた。
<ただいま入りましたニュースです。ロガー事件の再開とも言われる女子大生殺人事件
の容疑者として、**署警察は自称・心理学者の男を逮捕しました。男の名は江畑栄
介。四十歳。警察に捜査協力した経験も幾度かあるとのことです>
 足元から、う゛ぉとんという音がした。僕の手から、木刀がこぼれ落ちていた。
 視界が揺らぐ、世界が揺らぐ。耳の中で何かがぐるぐる回って、脳の奥に入り込んで
くる。
「じゃあ……叔父は何だったんだ?」
 電話からほぼ二十四時間後、僕の部屋を訪ねてきた叔父は、もう二度と動かない。

            *             *

「普段、どうやって大家と連絡を取り合っていたのかと問われましても……何が不思議
なんです? 携帯電話を使った形跡がない? そりゃ当然です。使っていないのだか
ら。その気になれば、秘密裏に連絡を取ることは難しくはない。急ぐ必要がないのな
ら、一定間隔をおいて、決められた場所にメモを残すだけでも事足ります。尤も、私達
も多少は警戒していましたから、毎回、伝達方法は変えていました。
 大家が殺されたときのこと、ですか? いえ、残念ながら、たいしたことは何も知り
ません。現場の近くにはいなかったので。大家がターゲットを殺害後、所持品を交換す
る約束で、麓にて車で待機していたのですが、明らかに襲われたらしい少女が逃げ出し
てきた。これは大家がミスをしでかしたと直感したので、私はさっさと逃げることにし
ました。ただし、少女の顔はしっかりと記憶に刻みましたよ。大家が仕留め損なったの
なら、狙う価値があると感じたので。どこにいるのか突き止めるのに、思いの外、時間
が掛かってしまったな。こうして捕まったのは、ブランクがあったせいかもしれませ
ん。まさかあんな古寺の墓場に、あんな最新式の防犯カメラがカモフラージュの上、設
置されているなんて、まるで想像できなかった。
 えっ、恨み? ああ、大家を殺した犯人に、復讐しようとは思わなかったかってこと
ですか。特にしようとは……。共犯関係を結んだと言っても、助け合うというのではな
かった。相方がミスをしても、我が身の安全確保を第一に考え、行動を選択することを
原則としていました。
 ただ、今になって思えば、私が捕まったのは、大家という共犯を失ったのも大きかっ
たのかな。そういう意味でなら恨んでいます。七年ぶりに」

            *             *

「そうか……」
 時間の経過とともに、何とかして論理的な思考を取り戻した僕は、あり得べき一つの
新説に辿り着いた。テレビを消し、木刀をきれいに拭き、包丁を仕舞った。
「ロガーは三人の共犯だったんだ」
 間違いない。そうでなければいけない。

――終




#500/514 ●長編    *** コメント #491 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/30  23:09  (498)
絡繰り士・冥 2−1   永山
★内容                                         18/06/03 02:39 修正 第3版
 冥は、計画の一部変更を余儀なくされ、些かご機嫌斜めだった。
 次に巻き起こす殺人は、名探偵を自称する高校生・十文字龍太郎を試すものであるの
と同時に、自分とは信条を異にするプロの殺し屋をその被害者に選ぶ腹づもりでいた。
だが、肝心の被害者が定まらない。
 無論、殺し屋連中の心当たりがなくはない。だが、それはいずれこちら側に引き込め
る可能性ありとみて、意に留めている者ばかりで、無碍に殺すのは“勿体ない”。
 それに、当初の思惑では、辻斬り殺人の犯人を始末した奴か、前辻を再び裏切らせよ
うとした殺し屋、そのいずれかを被害者にしようと考えていたのだ。しかし、どう手を
尽くしても見付けられない。唯一の手掛かりは、辻斬り殺人犯を殺した場所から推し
て、十文字龍太郎の通う高校・七日市学園の関係者であることはほぼ確実と云える程
度。そこから調査を進めても、はっきりしなかった。その殺し屋が十文字のそばにいる
と仮定すれば、腕の立つ生徒が二、三人いるようだが、確実さに欠ける。冥が見た限り
では、真っ当な人間ばかりに感じられた。
 仕方がない。
 冥は被害者に関する拘りを捨てた。代わりに、容疑者に拘る。殺人の疑いが、十文字
龍太郎の親しい者に掛かるよう、仕向けるのだ。
(今までの経緯を考慮し、高校での知り合いに限るとしよう。自ずと候補は絞られてく
る。一ノ瀬和葉は、一ノ瀬メイの関係者でもあるから、選ばぬ方がよい。十文字個人の
力を量るためには、できることなら、一ノ瀬メイを遠ざけておきたいくらいだ。同じ理
由で、警察一家の五代春季も選ばないでおく。音無亜有香は剣道だけでなく、剣の腕も
立つようだが、探偵能力そのものには関係あるまい。候補の一人になるが、普段の生活
パターンが判で押したように一定では、容疑を掛けづらい恐れがある。三鷹珠恵は、も
っと厳格だ。運転手付きで移動することも多い。その点、百田充という男子生徒は、か
なり自由だ。問題は最近、事件に被害者として巻き込まれたらしく、以来、家族の心配
が増している。保護者が放任主義と思われるのは、四谷成美と六本木真由の二人か。と
もに、十文字とのつながりは比較的薄いのが難である。七尾弥生は、趣味のマジックに
よる交友関係が広く、矢張り容疑を掛けるためには余分な手間が必要となろう。これま
で見てきた中で、容疑者を選ぶなら……)
 被害者選定との兼ね合いも頭に入れ、冥は一人に絞り込んだ。

             *             *

 寝てしまっていたらしい。あるいは、意識を失っていたのか。最悪の気分の覚醒だっ
たのは、確実に云える。頭痛と胸焼け、そして軽い吐き気が同時に来た。
 床に横たわっていた状態から身体を起こし、辺りを見渡す。教室だ。自分のクラスで
はない。特別教室で、窓から見える景色は二階……多分、家庭科室?
 僕・百田充は、夕日でオレンジ色に染まった室内をぼーっと眺めた。何でこんなとこ
ろに寝転んでいたのだろう? 教壇のすぐ横、段差に身を寄せるようにして倒れていた
ようだ。こうなるまでの経緯を思い出そうとしたが、頭がずきずき痛くなったので一旦
中止。様子を見つつ、立ち上がる。教卓に腕をついて、姿勢を保つ。
 と、不意に、非日常的な物を視界に捉えてしまった。
 ぎょっとして声を上げそうになったが、我慢してそれに近付こうと、机の間に歩を進
めた。
 女子が倒れている。教室後ろの少し広いスペースに。こちらに背中を向ける格好だ
し、逆光ということもあって、誰だかすぐには分からないが、制服を着ているのだか
ら、うちの生徒なのは間違いない。
 彼女まであと二メートルくらいになったとき、僕ははっとした。息を飲む。心臓がば
くばく云い出した。
「音無さん……?」
 見覚えのあるポニーテールに後ろ姿。背格好も同じ。
 確証はまだ持てなかったが、とにかく声を掛ける。
「大丈夫? 僕もあんまり大丈夫じゃないんだけど」
 さらに近付き、彼女の顔が見える方へ回り込む。矢っ張り、音無亜有香その人だ。
 僕の心臓の鼓動は一段と早くなった。何故なら、彼女のお腹の辺りからは、赤い血の
ような液体が流れ出ていたのだから。
 僕は彼女の身体を起こそうと、手を伸ばした。でも――動かしていいのか? 返事が
ないのは、気を失っているだけなのか、それとも命が危ないのか。今は助けを呼ぶのが
先だ。
 僕は床を蹴って、駆け出した。後方の扉に張り付き、思い切り横に引いた。
 が、動かない。鍵が掛かっている。ねじ込み錠を開けるのがもどかしく思え、僕は前
方の扉へ向かった。しかし、そちらの鍵も施錠されていた。後方と違って、前の扉は金
属のバーを上にスライドさせるだけで、解錠できる。僕は、教室が密室状態だったのが
引っ掛かったが、ともかく助けを求めるのを優先した。
 扉を開け放ち、廊下に飛び出した。同時に僕は「誰かー! 救急車を!」等と叫びな
がら、職員室を目指そうとした。その途端に、後方から二人組の女子生徒が通り掛か
り、「どうかしたの?」とか何とか云ったようだった。
 僕が受け答えする前に、彼女達は家庭科室の中を覗いた。途端に、悲鳴が上がる。
「あなたがやったの?」
 一人はきつい目付きに、緊張した口調。もう一人は怯えた目で室内と僕を順番に見
て、歯の根が合ってない風にかちかち音を立てながら、「し、死んでるんじゃない…
…?」なんて云っている。
「僕じゃないっ。とにかく、今は救急車を呼ばないと!」
 言い捨てて、ダッシュしようとしたが、「待って」ときつい目付きをした方に止めら
れた。彼女はもう一人に耳打ちし――と言っても声が大きくて漏れ聞こえたが――、そ
の子に職員室へ向かわせた。
「まだ信じられるかどうか分からないから、私と一緒にいてもらうわよ。名前は?」
「……百田充、です」
 遅ればせながら、相手が一年先輩だと気が付いた。極々簡単に自己紹介している間
に、彼女は家庭科室に入った。
「応急処置」
 呟きつつ、室内をぐるりと見回すと、窓際の棚に置いてあった、一抱えほどある段
ボール箱を覗き込んだ。手を突っ込み、また出すと、小さな布がいくつも掴んであっ
た。授業で使った余りらしい。
「止血するには、もっと大きい布か何かがほしい」
「――だったら」
 僕はカーテンに飛び付くと、力任せ引き剥がした。カーテンレールのコマが、たくさ
ん散らばった。
「これを」
 先輩の女子は、面食らった様子は一瞬で消し、僕からカーテンの布を受け取ると、ぐ
るぐる丸めて、横たわったままの音無の腹部に宛がった。
「百田君、だっけ? あなた、脈とか診た?」
「い、いえ」
 云われてみれば、どうして僕は具合を見ようとしなかったのだろう。いくら動転した
にしても、曲がりなりにも探偵助手を務めてきた者として、血を流して倒れている人が
いたら、何らかの措置を講じられるぐらいのレベルに達していなければならないのに。
「……おかしいわ。血はもうほとんど止まってるみたい」
「え?」
「止血したって意味じゃないわよ」
 面を起こした先輩女子。その顔色は白みがかりつつあった。手首に触れていた指を引
っ込め、さらに告げる。
「脈も弱い……ないかも。それに、体温が凄く下がってる」
 こういうとき、どうすればいい? 一刻の猶予もならない、いや、もう手遅れかもし
れない。けれど、担いででも病院に向かうべきなのか? 救急車が来るのなら、ちょっ
とでも近くまで運んでおくのがいいのか?
「あなたはこの人、知ってるの?」
「あ、ああ。音無亜有香さん、だと思う」
 僕が答えると、先輩女子は叫ぶような大声で呼び掛けた。
「音無さん! 音無亜有香さん! しっかり!」

             *             *

「百田充君。調子はどうだね?」
「刑事さん、調子と言われましても」
「だいぶ、冷静さを失っていたように見えたからな。覚えてないか」
「そう、でしたか」
「まあ、今はだいぶ落ち着いたように見える。だからこそ、こうして事情聴取の再開と
なった訳だが」
「僕も何が起きたか、知りたいです」
「結構な心掛けだ。他の人間がいると話しづらいこともあるようだから、弁護士の付き
添いをなしにしたが、本当にいいんだね」
「ええ、多分」
「繰り返し念押ししておくと、これは取り調べではないし、君は逮捕された訳でもな
い。とにかく、ことのあらましを知りたいから、知っていることを話して欲しいだけ
だ。いいね?」
「はい……」
「それとね、以前聞いたのと同じ質問をするかもしれないが、面倒臭がらずに答えても
らいたい。では、百田充君。まずは、倒れていた彼女について、話して」
「クラスメイトの音無さんです。音無亜有香さん」
「ふむ。何人かから聞いたんだが、君はその音無さんのことを好いていたようだね」
「――ええ、まあ」
「付き合っていた訳ではないと?」
「も、もちろんです。多分、向こうはこっちが好意を持っていたことさえ、知らなかっ
たと思います」
「じゃあ、当日はどうしてあんな場所で、二人で?」
「それは……あんまり、はっきり覚えてないんです」
「あんまりと云うからには、少しは思い出しているんだろう?」
「……あの日は、前日の体育祭の打ち上げで、クラスで有志が集まっていました。で
も、音無さんは急な用事ができて来られないと聞いていました。だから、校内で音無さ
んを見掛けたときは、ちょっと驚いて」
「見掛けたというのは、君達の教室に入ってきたのかい?」
「違います。午後三時前だったと思いますが、トイレに立ったとき、渡り廊下を歩いて
いるのをたまたま見たんです。遠ざかる方向でしたけど、見間違えじゃありません」
「来てないはずの彼女を見付けて、君はどうした?」
「もう少しで打ち上げは終わるけど、用事が終わったから来たのかなと思って。僕はそ
のときまだトイレを済ませてなかったから、急いで済ませて、元の場所まで引き返した
けれど、すでに音無さんの姿はなくて。教室に入ったのかもしれないと考えて、僕も教
室に戻りました。でもいなかったから、また教室を出て」
「ちょっと待った。そのとき、クラスのみんなに音無さんのことを尋ねなかった?」
「いえ。名前を出すと、冷やかして来そうなのがいたし、黙ってました。それで、あ
あ、少しの間、教室にいたんだ。でも結局気になって、出たのが十分ぐらい経っていた
と思います」
「そして探しに行ったと」
「はい。とりあえず、音無さんが向かっていた方に行って。家庭科室とか化学室とかが
集まっている棟でした」
「探している間、誰かとすれ違ったり、見掛けたりは?」
「ない、です、多分。すみません、覚えてなくて」
「いや、かまわんよ。それから?」
「信じてもらえないかもしれないんですが、急に電話が鳴って、それが音無さんから
で」
「信じるよ。記録が残ってるしね。百田君は、音無さんに番号を教えていたのかな」
「えっと、教えたというか、伝わったというか。僕の先輩で二年生の人が、その、探偵
をやっていて、万が一のときに備える意味でも、知り合い同士いつでも連絡は取れるよ
うにしておくべきだという考えで。音無さんは一度、その先輩に世話になったせいか、
敬意を払っているところがあって、云う通りにしたんです」
「経緯はどうあれ、知っていたんだな。掛けてきたのは、音無さんの携帯電話からだっ
たかい?」
「それが違いました。だから、電話に出て初めて、『百田君? 音無だが』って云われ
て、音無さんからだと分かったんです」
「なるほど。携帯電話が違うことについて、尋ねたかい?」
「いいえ、そんな質問をするいとまもなく、『今すぐ、下駄箱を覗いて来て』と云わ
れ、電話を切られたので。何が何だか分かりませんでしたが、下駄箱まで一目散に行き
ました。そして下駄箱の中に、破り取ったノートの紙があったんです。『読んだらこの
紙は燃やすか、ちぎって流して。家庭科室にすぐに来て欲しい』と」
「その紙は、前に聞いたメモのことだね。細かくちぎって、トイレに流したという。残
念ながら、まだ見付かっていない。よほど細かくちぎったのかと思ったが、もしかする
と水溶性の紙だったのかもしれないな」
「恥ずかしいから、処分して欲しいのかと思ったんです。それに、すぐさま行きたかっ
たから、あとのことは考えていなかった」
「責めてる訳じゃないんだ。ただ、証言を信じるために、強力な裏付けが欲しいんだ
よ」
「……」
「そのあとは?」
「えっと、玄関から一番近い一階のトイレで紙を処理したあと、家庭科室に駆け付けま
した。ドアは閉じてあったけれど、手を掛けてみるとすっと開いて」
「このときも、誰にもすれ違わなかったんだ?」
「え、はい、多分。認識しなかっただけかもしれませんが。それで……ドアを開けて前
から入ると、いきなり左の方向から強い衝撃を受けて、気が遠くなって意識をなくし
た。と思います」
「衝撃というのは、何だか分かる? 傷はないようなんだが」
「分かりませんけど……最初、後頭部に重たい物を食らった感じがあって、そのあと電
気でしびれたみたいに、身体が動かなくなった気がしました」
「なるほど。で、意識を取り戻したときには、女生徒が刺されて倒れていた、と」
「はい……」
「鍵を自分で掛けた覚えはあるかね?」
「ありません」
「ふむ。君は音無さんから呼び出されて、どんなことを考えた?」
「何か、こう、内緒の話があるんだろうなって」
「それは恋愛関係か、それとも他に内緒話に思い当たる節があったのか」
「そりゃあ、前者を全く考えなかったと云えば嘘になりますが、以前、音無さんは気に
なることを口にしてたから、そっちの方かなと」
「説明を詳しく」
「詳しくと云っても、そもそも曖昧であやふやなんですが……霊の存在を信じるかどう
かとか。音無さん、“視える”体質らしくて。ただ、幽霊と断定してるんでもなくっ
て、霊ぽい物が視えるそうです」
「何だ、そんな話か。女子中高生によくあるやつじゃないのかね」
「よくあるかは知りませんが、音無さんが云うには、人は他人の生死に関わった数だ
け、霊が憑くことがあるんだとか。そして、身近には大変な数の霊をしょった人物がい
て、そいつは十文字先輩に――あ、さっき云った探偵をやってる先輩です――、害を与
えるかもしれないっていう警告みたいなことを云ってたんです」
「うーん。その警戒すべき人物って誰?」
「まだ確証がないことだからと、名前までは教えてくれませんでした」
「警戒を呼び掛けておいて、それか。矢張り、事件とは無関係のようだ」
「はあ。確かに、この話がしたいのなら、十文字先輩に直に伝えるべきだし」
「音無さんが狙われるとしたら、どんな理由が考えられると思うね?」
「何にも思い浮かびません。だいたい、あの音無さんが簡単にやられるなんて、あり得
ない。刑事さんもご存知なんでしょう? 音無さんの剣道の腕前」
「無論だ。尤も、剣道は武器のありなしで、戦闘能力は大きく違ってくると思うが」
「音無さんは、他の武道も一通り身に付けているはずです」
「うんうん、分かった。今は、殺される動機の話をしている。一応聞いておくが、百田
君はやってないんだよな?」
「ばっ、莫迦なことを! やってないに決まってる! 僕が音無さんを殺すはずない
っ」
「しかし、いくら好きな異性でも、袖にされたら、感情が裏返ることはあるんじゃない
か。職務上、そういうのをよく見てきたしねえ」
「絶対にありません! 僕には殺せないんだから。心理的にも、体力的にも」
「確かに、さっきも云った通り、身体能力は彼女の方が圧倒的に上だ。聞くところによ
ると、油断して隙を見せるようなタイプでもないらしい。そもそも、現場の状況という
ものがある。密室内にいたのは、被害者の他には君一人。普通に考えるなら、やったの
は君だとなるが、決め付けられないのは凶器が見当たらないからだ」
「……思い出しました。そんなことを云ってましたよね。何が凶器かは教えてもらえな
かったけれど、校庭の周りにある溝に落ちているのが発見されたって。じゃあ、どうし
て僕を疑うようなことを」
「密室の方が片付かないからさ。襲われた君が、身を守るために意識朦朧となりながら
も施錠した、なんてことはないか?」
「ないです。ありましたって云いたいですけど、嘘は吐けない」
「探偵助手としての矜持って訳かね」
「そんな立派なものじゃありません。嘘を吐いたら、真相に届かなくなる恐れが高ま
る、それだけです」
「真理だ。そんな百田君には、こちらもきちんと手持ちのカードを出すべきだな。凶器
が何かは明かせないが、代わりにいいことを教えてやるとしよう」
「いいこと? そんな、殺人事件が起きてるのに、いいことなんて」
「文字通り、朗報だよ。なに、この部屋を出れば、誰かがすぐにでも教えてくれるだろ
うがな」
「みんなはもう知ってるってことですか? 一体、何の話を」
「これだよ。被害者が身に付けていた物なんだが」
「――」

             *             *

 僕・百田充は、この事件で半狂乱めいた状態に、二度も陥ったらしい。
 一度目は、云うまでもないが、音無が死んだという事態を、はっきりと自覚し、認識
したとき。最初の頃は、参考人としての事情聴取もままならなかったという。
 そして二度目が、つい今し方だ。同じ半狂乱めいた状態と云っても、一度目とはまる
で正反対の、信じられないことが起きた驚きと嬉しさによる。
「百田君」
 その声に、僕は目を覚ました。自分の家の自分の部屋、自分のベッドでさっきまで眠
っていた。
「――ああ、よかった。本当に無事だったんだ」
 上体を起こし、泣きそうになりながら、それでも僕は笑った。
 音無さんが、ベッドの傍らに片膝をつき、真剣な顔つきでこっちを見ている。
 あ、この機会に呼び捨てで記述するのはやめにした。今までは、好意的感情が溢れて
しまわぬよう、制御する意味でも、地の文では「さん」付けせずにいたけれど、もう気
にしない。別にいいじゃないか。
「その様子なら、正真正銘、落ち着いたようだな。安心した」
 音無さんは安堵を隠さず、穏やかな表情になった。
 と、見舞いに来てくれたのは彼女だけかと思っていたが、その後ろにまだ二人いた。
「君はつくづく、巻き込まれやすいタイプのようだな。まあ、無事で何よりだ」
 十文字先輩が云った。腕組みをしてこちらを見下ろす目に込められた感情は、しょう
がないなとだめな弟子に対する師匠のようだ。尤も、僕は弟子になったつもりは微塵も
ないけれど。
「鯛焼き、食べる?」
 猫の手の形を作って鯛焼きを差し出してきたのは、一ノ瀬和葉だ。お見舞いに鯛焼き
というセンスは、彼女が外国生活が長かったことと無関係ではない気がする。でも、嬉
しい。ありがたく尻尾の部分をもらっておく。
「起きたばかりのところを悪いが、事件の話をしても平気か? 君の家族からの承諾は
得た。残り、二十分ほどだが」
 先輩が名探偵モードに入った。僕は鯛焼きの皮とあんこを飲み込むと、しっかり頷い
た。
「問題ありません。ただ、その前にいくつか教えてください。死んでいたのは誰だった
のか、判明したんですか?」
「その点から始めるつもりだった」
 僕があの日、家庭科室で見た被害者は、音無さんに外見をよく似せた偽者だった。刑
事に。被害者が身に付けていたという特殊なマスクを見せられたとき、しばらくはその
意味するところが全く飲み込めなかった。
 背格好や髪型を同じにし、七日市学園の制服を着込み、顔には映画撮影で使われるメ
イキャップにプラス、特殊マスク。じっくり観察しなければ分からないほどの出来映え
だったという。実際に目の当たりにした僕ですら、あれが変装だったなんて信じられな
い。
「まだ判明してないが、うちの生徒じゃないのは確かだ。指紋を残すことを警戒したの
か、全ての指先には透明なマニキュアを塗っていたと教えてもらった。年齢は僕らと同
世代で、もちろん女性。顔写真を見せてもらったが、僕は会ったことがない」
「ミーも」
 一ノ瀬が甲高い声で云った。今日は比較的大人しい。その隣で、音無さんも静かに頷
いた。
「百田君にも後日、刑事が見せてくれるだろう」
「早く見せてくれればよかったのに」
 僕が不満をあらわにすると、十文字先輩は首を横に振った。
「さすがに無理というもんだ。残念ながら、君は最有力容疑者だった。警察が簡単に手
の内を晒すものか。今になって、やっと容疑が薄まったから、こうなったんだよ」
「完全に容疑が晴れた訳ではないと云うんですね」
「それもまた仕方がない。密室状態の殺人現場に、被害者と二人きりだったという事実
は大きい」
 改めて断るまでもないが、家庭科室の鍵は職員室にあった。先生が図書室にいた間
も、各教室の鍵を保管する壁掛け式のボックスはちゃんとロックされており、こっそり
持ち出すことは不可能だ。
「気になってたんですけど、密室状態だってことはどうやって客観的に証明されたんで
しょう? 僕が第三者に事態を知らせた時点で、鍵は解錠されてたんだから、飽くまで
僕一人の証言になるのでは」
「自らの不利益になることを偽証するはずがない、というのがまず一点。加えて、百田
君が助けを呼ぼうとする前に、もっと云えば、意識を取り戻すよりも前に、家庭科室に
鍵が掛かっていたことを把握していた人物がいるんだ。君が助けを求めた二人の女子だ
よ」
「うん? どういうことでしょう?」
「彼女達は先生に頼まれて、各教室の施錠具合を見て回っていたんだ。そろそろ閉めよ
うという頃合いだったからな。君が廊下へ飛び出してくるおよそ十分前に、家庭科室の
ドアに手を触れ、鍵が掛かっていたことをチェックしている」
「……人を無闇に疑うのはよくないと分かってますけど」
 前置きしてから仮説を口にしようとしたら、先輩は名探偵っぽく、先回りした。
「二人にはアリバイがある。君が襲われたのは、午後三時過ぎだろ? その時間帯、女
子二人は自身のクラスの打ち上げの席にいた。証人はいくらでもいる」
 それなら違う。
「犯人が被害者と僕を密室に閉じ込めたのは、矢っ張り、僕に濡れ衣を着せるためなん
でしょうか」
「だと思うんだが、凶器を現場に置いていかなかったのは、不可解だな」
「不可解なら、他にもあるよん、十文字さん。七日市学園の生徒じゃない人を被害者に
選んでいるところとか、その人が剣豪の変装をしていたこととか」
 “剣豪”とは、一ノ瀬が音無さんに付けたニックネームだ。当人がいてもお構いなし
に使ってる。
「音無君は元々は、打ち上げに参加するつもりだったんだね?」
 十文字先輩が尋ねると、音無さんはまた無言で頷いた。一拍おいて、口を開く。
「体育祭のあった日の夜、家の方に連絡が入り、昔、音無家が所有していたされる刀の
行方が分かったから、確認を求める旨を受け取ったんです。通常なら、祖父か父が参る
のですが、生憎と祖父は体調がすぐれず、父も外せない所用を抱えていたため、自分が
代理で向かうことになった次第」
「なるほど。一応、聞いておこう。刀発見の話は、本当だったのかな?」
「無論です。終戦の頃に米軍に接収された業物の一つで、長らく行方知れずだったので
すが――」
「ああ、いい。事実であればいいんだ。今回の事件の犯人が、何らかの意図を持って、
音無君を遠ざけたかった可能性を考えてみたんだが、どうやらないようだ」
「自分に化けた者は、どういう狙いがあったと考えていますか?」
 音無さんの不意の質問に、名探偵は「うーん」と唸った。
「仮説ならたくさんあるが、まるで絞り込めない。たとえば、被害者は自らの意思で化
けたのか、誰かに命じられてやむを得ず化けたのか。殺人犯の意志が働いているのか、
全くの無関係の事柄が偶然にも同時に起こったのか。これらの点のどれ一つ取っても、
可能性は多岐に渡るだろう」
「いずれにしても、殺人犯の本来の狙いは、音無さんだった?」
 僕は、あまり言葉にしたくないことを、がんばって声に出した。
「100パーセントではないが、可能性は高い。百田君に罪を被せるべく、音無君を狙
ったつもりが、そのそっくりさんを殺してしまったというのは、流れとしてはおかしく
ない」
 僕が音無さんの命を狙うはずないんですが。そこを抗議すると、十文字先輩からは刑
事に云われたのとほとんど同じ指摘をされた。その辺のやり取りは敢えて記すほどでは
ないため、ばっさりカットする。
「さて、もうすぐ時間切れだ。たいして話を聞けなかったな。今、早急に議論しておく
べきことはあるかな?」
「じゃあ、ミーが」
 招き猫みたいな挙手をした一ノ瀬。
「剣豪を狙った犯行だということを決定事項とすると、少なくともミーや充っち(僕・
百田充のこと)のクラス全員は容疑から外れにゃいかにゃ? 今日、ターゲットが来ら
れなくなったことはみんなが知っていたのだから」
「多分ね。犯行計画を中止したが、たまたま音無君のそっくりさんを見掛けたから、矢
っ張りやってみた、なんていうのは乱暴に過ぎる」
「でしょでしょ。それともう一つ。春に起きた辻斬り事件と関係あるのかないのか、気
になってるにゃ」
 無理に猫っぽい語尾をつけなくていい。
「辻斬り事件の犯人は、判明しているが」
 怪訝そうに皺を作った十文字先輩。一ノ瀬は「あれ? 気付いてにゃい?」とこちら
も怪訝そうに、いや、不思議そうに目を丸くした。
「辻斬り犯は七日市学園内で殺害されて、事件は未解決。あれから半年も経たない内
に、今度の事件。関係ある可能性を探るのは、当然だと思ったです」
「そ、そうだな」
 若干、動揺したようにどもった十文字先輩。一ノ瀬に云われた可能性を考えていなか
ったのか? そんなことはないと思うんだけど。
「犯人は、辻斬り犯殺しと同一人物と云うのか?」
 音無さんはすっくと立ち上がり、一ノ瀬に詰め寄らんばかりの勢いで云った。辻斬り
事件は、音無さんとも関係があったから、居ても立ってもいられないのかもしれない。
「可能性にゃ。飽くまで可能性。二つの事件の犯人が学校関係者なら、比較的やり易い
に違いないって意味だよん」
「理解した。――相当な手練れと推測するが、十文字さん、助っ人が必要なときはいつ
でも云ってください。遠慮は無用です」
「ああ。体力勝負になりそうだったら、ぜひ頼むよ」
 苦笑を浮かべた先輩は、腕時計を見た。
「これ以上長居すると、百田君のお母さんから叱られてしまうな。お暇するとしよう」
「百田君、明日は出て来られそうか?」
 音無さんに問われ、僕は首を縦にこくこくと振った。
「もちろん。病気じゃないんだ」
「よかった。変装していた輩のせいとは言え、多少の責任は感じていたところだから」
 少し笑ってくれた。心配してもらったのは嬉しいが、申し訳なくもある。
「鯛焼きの残り、ここに置いとくよん」
 一ノ瀬が最後に云った。

             *             *

「正直な気持ちを云おう。恐いのだ」
 十文字龍太郎は柔道着に袖を通し、帯を固く締めた。色は白だが、実際の腕前が初段
以上であるのは確実である。
「辻斬り事件の捜査中、校内で何者かに襲われたとき、ああ、終わったと感じた。助か
ったと分かったときは、恐怖がベールのように頭の上から被さってくる気がした。取っ
ても取っても、被さってくるんだ」
「その恐怖心を取り除くために、私に稽古を付けてもらいたいと」
 五代春季は、ため息をついた。十文字と同い年の幼馴染みで、柔道の強化選手に選ば
れるほどの剛の者だ。
「こっちもはっきり云うと、感心しない。高校生が探偵業に精を出すのは」
 ここは七日市学園の柔道場。かつては他の武道と共同使用の格技場があったが、学園
が各武道の選手育成に力を入れた結果、独自の練習場所を持つようになっていた。
「でも、こうして練習が終わるまで待っていて、稽古を付けてもらおうという気概は買
うわ」
 半ば諦めている風に微苦笑をつなげてから、五代は一転、自身の頬を軽く叩いて気合
いを入れた。
「本気でやっていいんだ?」
「ああ。技術面よりも精神面を鍛えたいから。投げられ続け、こてんぱんにやられた
ら、少なくとも恐怖心はなくなる気がする」
「――聞くところによると、あの音無さんから剣術を少し教わったそうね」
「基本だけな。代わりに、こっちは柔術の一種を教えた。シャーロック・ホームズ流の
制圧術をね」
「ふうん。異種格闘技戦でもかまわないよ。どれだけ通じるか、試したいんじゃない
の? 通用すれば、自信になるだろうし」
「さすがに柔道と剣道で異種格闘技はまずいだろう。という以前に、成り立つのか?」
「無論、双方ともに竹刀を手にして試合をする。私も試してみたいんだ。用意スタート
で始める試合なら、自分は弱くないことを確かめるために」
「……何かあったのか」
 十文字の問い掛けに、五代はまともには答えなかった。
「仮に、何でもありの決闘のような勝負をすれば、恐らく私は強くない。せいぜい、中
の上ぐらい。音無さんにも負ける可能性が高い。そして音無さんと互角の勝負をした八
神という子は、試合では音無さんに敗れたが、実際はもっと強いんじゃないかと思う」
「その話、知ってたのか」
「最初、一ノ瀬さんからね。そのあと、音無さんから詳しく聞いた。伝聞だから完全に
は掴めていないけれど、強いと感じたわ。だから、一応の注目はしていた。なのに、や
られた」
「やられた? 君が?」
 信じられないと、表情で語る名探偵。五代は今度は自嘲の笑みを浮かべた。
「言葉で説明するのは大変難しい。多分、無理。廊下ですれ違った直後、生殺与奪の権
利を握られたって感覚になったのよ」
「生殺与奪の権利って、この場合は、本当の生き死にって意味か」
「ええ。殺気のとても鋭いやつ。気が付いたときには終わってる、みたいな具合だっ
た。私、立ち止まって、振り返ったんだけれど、もう遠ざかっていて、曲がり角の陰に
消えるところだった」
「……その後、八神君と接触は?」
「全くない。試されただけなのかもしれない。その上で、わざわざ勝負するに値しない
と判断されたのかもしれない」
「おいそれとやり合って、無駄に怪我をしたくないと考えたんじゃないか」
「へえ。ありがとう。そういう気遣い、できるんだ?」
 意地悪げに笑った五代。十文字は目をそらし加減にして応じた。
「トップクラスのアスリートの身体能力を、高く評価しているまでさ。正面からやり合
えば、そこいらの喧嘩自慢なんて相手にならない」
「ふむ。では、そろそろトップアスリートの力を、直に味わってみる? さっき云った
異種格闘技戦をやるなら、竹刀や木刀や刺叉がこの道場にも備えられているけれど」
 数ヶ月の間に殺人事件が繰り返し起きた事実を重く見て、学校側がとりあえず侵入者
対策として導入した物だ。なお、防犯カメラを大量に設置しようという案も出ている
が、さすがにハードルが高いらしく、即時の決定には至っていない。
「八神君との件があったから、そっちがやってみたいだけなんじゃないか? まあ、一
度だけなら、竹刀を使ってみるか」
 合意がなった。防具がないため、肩から上を狙うのは禁じ手とし、また、竹刀の鍔よ
りも先の部分を直に持つ行為はなしとした。勝敗の決定方法は、柔道のそれに加えて、
相手の竹刀による攻撃によって自らの竹刀を取り落とすことが二度あれば負けとする。
(狙えるのは小手と胴。イレギュラーな試合なんだから、足なんかも狙っていい。ある
いは、胴体への突き。でも、そんなにうまく行くとは思えん)
 通常の柔道の試合と同じように、相手の五代と正対しつつ、十文字は考えていた。当
初は投げられに来たつもりだったが、この変則的な試合だけは、十文字も勝つ気で行か
ねばなるまい。それが五代の望みだと分かる。
(掴まえられた終わり。竹刀で距離を取って、ペースを先に握るのが理想。成功するか
否かは別として、立ち上がりの速攻がいいか?)
 各方向への一礼を済ませ、改めて正対する。竹刀を構える。様になっているのは、十
文字の方だろう。
「開始の合図はそちらに任せるからね」
 五代が云った。
 十文字は、ならばと、かけ声を発することなく、いきなり動いた。
 竹刀を最小限の所作で振りかぶり、小手と突きどちらも狙えるような構えで前に出
た。
「おっと」
 五代も警戒していたのか、身を引いて構えを保つ。かわされた十文字は、距離を取る
という最低限の目的を果たし、竹刀を構え直した。
 と、五代の方から詰めてきた。打ち込むつもりの感じられない、防御のためだけの竹
刀の角度。
 十文字がおかしいなと思った刹那、五代は竹刀を野球のバットのように、水平方向に
フルスイングした。
 竹刀が消えた。
 次の瞬間、十文字の腰の辺りをかすめるようにして、竹刀が飛んで行った。
(な何てことを。自分から手放すなんて、ありかよ?)
 柔道技を認めているから、竹刀を自らの意思で手放すのは当然ありなのだが、まさか
投げつけてくるとは想像の埒外だった。
 怯んだ十文字に対し、五代はあっという間に接近し、懐に潜り込むタックルを決め
た。
 十文字の身体が宙に浮く。風に舞い上げられた木の葉の如く、軽々と。そして一秒も
しない内に、畳の上にずしんと叩き付けられた。
「――」
 悲鳴を上げないだけで精一杯だった。いや、むしろ逆で、声すら出なかったとすべき
か。呼吸が詰まったような感覚が、しばらく続く。もう動けなかった。
「一本だと思うけど、念のため」
 そんな五代の囁き声が耳に届いたと思ったら、袈裟固めでがっちり極められてしまっ
た。「参った」と叫んだつもりだったが、全然声にならない。手で五代の背中を弱々し
く叩き、降参の意思表示をした。
「ごめんねー。八神さん対策で色々と考えていたことを、試してみたんだけれど、大丈
夫かな?」
(そりゃあ確かに、柔道部の部員同士でこんな変則試合はやれまい)
 十文字は思った。思っただけで、声はまだ出せなかった。

――続く




#501/514 ●長編    *** コメント #500 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/31  01:39  (474)
絡繰り士・冥 2−2   永山
★内容                                         18/06/03 03:13 修正 第4版
             *             *

 木部逸美(きべいつみ)。それが、音無さんに化けて七日市学園に入り込み、死亡し
た女性の本名だった。
 東北の出身で、年齢は十八。地元の公立高校を一年で辞め、家族と離れて上京。俳優
志望で、数多ある小劇団の一つに入っていた。が、最近は稽古に出て来なくなり、幽霊
団員と化しつつあった。その矢先の事件である。
「若い団員達は劇団の用意したシェアハウスに入るパターンが多くて、木部もそこに入
っていた。が、年始にそこを出て三ヶ月ほど経った頃から、段々と足が遠のくようにな
っていったらしい」
 すっかり顔なじみになった八十島刑事が、捜査の進捗状況を話してくれた。もちろ
ん、明かせる範囲に限られているんだろうけど、これまでの十文字先輩の実績や、五代
家の口添えのおかげか、ハードルが比較的低い気がする。
「シェアハウスを出た木部は、どこに行ったんです?」
 十文字先輩が聞いた。ここは八十島刑事が指定したラーメン屋だ。雑然としている上
に、カウンター席もテーブル席も間仕切りがあるので、秘密の会話もしやすいらしい。
 今日は放課後、捜査本部のある警察署に出向き、木部逸美のものだという音声データ
を聞かされた。事件当日、僕の携帯に電話をしてきたのが木部逸美に間違いないか、確
認を求められた次第だ。僕の返答は「似ている気はするが、断定まではできない」とい
うレベルに留まった。尤も、電話の音声の仕組みからすれば、これは無理もないことら
しいが。
 ともかく、その調べが済んだあと、情報をもらうためにこの店に寄った。署内でやる
のは、さすがにまずいという訳だ。
「まだ分かってない。劇団員の証言で、男がいたのは間違いないんだ。前髪を茶色くし
た痩身だが高身長。見掛けた者の証言では、ゆうに一八五センチはあるそうだよ。バタ
臭いというか洋風の顔立ちに薄い色のサングラスをだいたい掛けていて、ハンサムに入
る部類らしい。具体的な容貌はさっぱり掴めないし、どこで何をやっているかも分から
ない。名前は苗字だけ、ウエダと。そいつの家に転がり込んだんじゃないかっていうの
が、大方の見方だが、捜査はまだまだこれからだね」
「想像を逞しくして、ウエダが事件に大きく関与しているとします。恐らく、俳優や映
画、ドラマ業界に関する何らかの美味しい話を持ち掛け、木部を連れ出し、手元に置い
たんじゃないでしょうか。実際、業界に詳しい可能性が高い。木部に特殊メイクを施し
たのが、ウエダの手配だとしたら、ですが」
「ウエダが木部の変装に力を貸したのは、まず間違いないだろうと、我々も見ている。
だが、木部殺しに関わっているかとなると、何とも云えない。わざわざ変装させ、木部
とはまるで関係のない学校に入り込ませ、そこで殺害するという行為に意味を見出せな
いからだ。仮に、百田君を陥れ、十文字君に事件を解くよう仕向けるためだとしたっ
て、やり方が迂遠すぎるじゃないか」
 店に入ってから、先輩と僕はラーメンを、八十島刑事はチャーハンを注文したのだ
が、僕らが早々に平らげたのとは対照的に、刑事のチャーハンはほとんど減っていな
い。残すのなら、タッパーにでも詰めて一ノ瀬に持って行ってやろうか。
「仮に、ウエダが木部を騙していたとして」
 十文字先輩が、議論の焦点を変えた。
「『音無亜有香という女子高生に変装し、七日市学園潜入しろ』という命令を、木部が
素直に聞くものでしょうかね」
「うーん。『演技テストだ。うまくやったら、映画に出られるようにしてやる』なんて
云われても、鵜呑みにするとは思えんね。ウエダが本物の業界人でない限り、じきに嘘
がばれるだろう。今の時代、調べれば割と簡単に分かるはずだ。ましてや、学校に無断
で入るのは、明らかにおかしな行為だし」
「……木部は、どんな俳優を目指していたんです? 音無君に化けられたのはマスクと
メイクのおかげで、木部の素顔は際だって美人と云うほどではなかったような。だか
ら、性格俳優?」
 辛口批評をずけずけと云う名探偵。
「いや、違う。意外にも、アクション俳優だったそうだよ。日本の女優には激しいアク
ションのできる人はあまりいないから狙い目だと考えていたみたいで、当人もスポーツ
は得意だったようだ」
「アクションですかぁ。ますます分からなくなった。変装しての演技テストという想定
から、遠くなってしまった」
「アクションの演技テストを受けたけど、何らかのハプニングで凶器が刺さり、死んで
しまった、というのはどうでしょう?」
 僕は思い付きを口にした。深くは考えない。間違っていても、先輩や刑事達の頭脳を
刺激する材料になれば御の字だ。
「事件ではなく、事故だと?」
「侵入行為そのものの説明は付かないけれども、アクションの相手をしていたウエダが
黙って出て行った理由にはなってるでしょう? 予想外の事態に動転して、木部を見捨
てて行った」
「一見、筋が通っているようだが、密室は?」
 八十島刑事が当然の疑問を口にした。引き継いで、先輩がはっきりと表現した。
「動転しているのに、わざわざ現場を密室にしてから逃げる訳がない、か」
「それを言い出したら、僕を陥れるための殺人だったとしても、密室を作っていくのは
やりすぎって印象受けるんですが」
「まあ、君を気絶させて、被害者と同じ部屋に置いておくだけでも充分効果的だとは思
うよ」
 応じたのは刑事。チャーハンは相変わらず、ほぼ手付かずだ。お冷やのグラスに着い
た水滴が、テーブルに小さな水たまりを作りつつある。
「一応容疑者の君に、ここまで喋っていいのか分からないが、密室だったせいで、かえ
って君への疑いは薄まったとも云えるんだ。犯人が死体とともに密室に籠もるなんて、
心理的にはまずあり得ない」
 そこで言葉を区切ると、八十島刑事は十文字先輩を見た。さあ名探偵はどう判断す
る?とでも問いたげな視線だ。
「勇み足のようですよ」
 まず、先輩の一言。
「整理するために、少しだけ話を戻しましょう。予想外のハプニングで木部は死んだと
いう仮説は、そもそも成り立ちそうなのか? ここから考えなければいけない。重要な
のは、百田君、君が気絶させられたという事実だ。電話とメモを使って家庭科室まで呼
び出されたのだから、君が関係したことは偶然じゃない。木部もしくはウエダが望んだ
んだ。ならば、アクション演技のテストだとすると、君はどういう役回りをさせられた
んだろう? 君を殴って電気ショックで気絶させることまでが、テストなのか?」
「い、いえ、それはないですよ、多分。テストなら、あそこまで強く殴らない」
 痛みが甦った気がした。思わず、頭に手をやっていた。
「だったらハプニング説は捨てよう。これは殺人だ。殴ったのがウエダにせよ木部にせ
よ、演技テストなんかじゃないこともまず確実だ」
「あー、ちょっとストップしてもらっていいかな」
 八十島刑事が口を挟んだ。ようやく、チャーハンが減っていた。
「なかなかの論理展開だと思う。ただ、気になったのは、ウエダなる男がその場にいた
と決め付けて語っているようだけど、どうなのだろう?」
「と、云いますと……もしかして、男の不審人物は七日市学園に出入りしていない証拠
でも見付かったんですか」
「証拠って程じゃないが、学校へ通じる周辺の道路には、いくつか防犯カメラがあるか
らね。それを全て当たった結果、事件前後の近い時間帯に、正体不明の男が出入りする
様子は確認できなかった」
「しかし、木部逸美は」
「被害者の方は、女生徒のなりをしていたから、紛れ込むのは簡単だったろう。現段階
では、いつの時点で入り込んだのか掴めてないんだけどね。マスクを着けている子が多
くて、手間取っている」
「だったら、ウエダも男子か先生に化けて」
「それは厳しいだろ。ウエダは目立つくらい背が高い。出入りしたのなら、我々がカメ
ラの映像の中から見付けている」
「そうでしたか。早く教えてくれればよかったのに」
 両肩をすくめると、先輩は気を取り直した風に笑みを浮かべた。
「あれ? でもさっき、ウエダが木部殺害犯の可能性どうこうって云ってませんでした
か、刑事さん?」
「実行犯ではなくとも、関与しているケースは考えられる。木部の行動をある程度コン
トロールできるとしたら、ウエダだろうからね」
「なるほど。じゃあ、ついでに伺いますが、木部以外に学校関係者じゃない者が入り込
んでいたという可能性は? 情報の小出しは勘弁してください」
「飽くまでも今のところだが、見付かっていない。知っての通り、当日は基本的に休み
だから人が少ない方だが、大勢の中から特定の一人を探し出すのならまだしも、不審人
物がいないか生徒や教職員らの顔写真と照らし合わせながらだと、どうしても時間が掛
かるんだ。マスクも厄介だしな」
「それでも、木部の他に校内に潜入するとしたら、犯行時刻の直前か、せいぜい一時間
前ではないでしょうか。生徒らに見られて、不審がられたらアウトだ」
「無論、犯行時刻と思しき午後三時から四時を中心に、範囲を広げながらチェックして
いるよ。そうした上での話だ」
「つまり、変装して入り込んだのは、木部一人しかいなかったと考えても?」
「私的判断では、かまわないと思う」
「では、その前提で進めるとしましょう。木部を手引きした学校関係者がもしいたな
ら、また話がややこしくなるが、変装させて学校に呼んで殺害するメリットがない。少
なくとも、僕には思い付かない。音無君に見せ掛けるのも、ほんの短い間しか効き目が
ない。百田君に濡れ衣を着せるのも同様。だからここは、当日、木部は単独行動してい
たと仮定します。大前提と云ってもいい。さて、変装は何のためにやるか。百田君、ど
う?」
「え? えっと、他人になりすますため」
「そうじゃなくて、なりすますのは何のためかってことさ」
 呆れたように鼻で笑われてしまった。さすがにしゅんとなったが、僕は頑張って答を
探した。
「普通なら、悪事をなすためでしょう。自分のやりたくないような」
「同意する。木部も恐らく、何らかの悪事を働こうとしていた。それが、君を呼び出し
ての襲撃だ」
「そこまでは納得できます。でも、そのあとが……」
 僕は口ごもった。まさか、僕が正当防衛で死なせたって云い出すんじゃないですよ
ね? 凶器の件があるし、大丈夫だと信じていますが。
 からつばを飲み込んだ僕の横で、先輩はしかし、続きの推理を語らなかった。
「八十島刑事。木部が望んでいた職業が、本当にアクション俳優なのか、調べられませ
んかね?」
「ああ? それが事件に関係あるって?」
「分かりませんが、多分、あります。状況証拠ないしは傍証になる程度ですが」
「まあ、被害者と犯人をつなぐ線は当然、調べているが、被害者の過去、それもかなり
幼少期となるとねえ」
「幼少期じゃなくてもいいんです。元々、憧れの職業として俳優とは全く異なるものを
言葉にしていた可能性があるんじゃないかと」
「十文字君。君は一体、何の職業を思い描いているんだ?」
 刑事からの率直な問いに、先輩は名探偵らしくもったいを付けた。
「正規の仕事とは云えません。裏稼業の一つで、僕らも何度か事件を通じて見知ってい
ると云えるでしょう」
「殺し屋か」
 この単語が日常会話で飛び出したら、荒唐無稽、絵空事で片付けるに違いない。しか
し、僕らにとって「殺し屋」や「遊戯的殺人鬼」は、日常語になっていた。
「ええ。木部はその行動原理から推して、職業的な殺し屋ではなく、遊戯的な殺人鬼の
方だと思いますが」
「行動原理?」
「真っ当な動機なしに、まるで関係のない者を殺そうとしたんですよ、木部は。百田君
をね」
「え?」
 そうなのか? こうして助かったから、感覚が鈍くなっているのかもしれないが、ま
さか殺されかけていたとは。
「先輩の推理が当たっているとして、じゃあ、どうして僕は殺されずに済んだんでしょ
う? 意識を失っていたんだから、自由にやれただろうに」
「助けられたんだろうねえ」
 十文字先輩は云ってから、にやっと笑った。
「誰にですか」
「木部を殺した犯人に、さ。助けるために、木部を殺したと云えるかもしれない」
 いつの間にか、僕は椅子からずり落ちそうになっていた。力が抜けて、改めて入れよ
うにもうまく行かない。そんな感覚がずっと続いた。
「誰が百田君を助けたかは、目処が立っているのかい?」
「いえ、そこまでは」
 刑事の質問に、探偵はあっさり首を横に振った。八十島刑事は手帳に何やらメモをし
てから、場を促す。
「では、ひとまず整理しよう。木部逸美が何をしようとしていたか、だ。動機は斟酌し
ない」
「待ってください。強いて云えば、動機は、音無君を窮地に陥れ、恐らくは僕に謎を解
かせるためだったかもしれません」
「つまり、以前、君に挑んできた連中と同類ってことかい」
「高い確率で、当たっているんじゃないかな。七日市学園で殺人事件を起こすことは、
すなわち、十文字龍太郎の介入を覚悟しているも同然。しかも、僕の親しい知り合いで
ある音無君を容疑者に仕立てようとしたのだから」
「音無さんを窮地に陥れるとか、容疑者に仕立てるとか、その辺りの説明をしてくれな
いか」
「簡単ですよ。音無君に変装した木部は、百田君を殺害した後、第三者にある程度目撃
されつつ、立ち去るつもりだったんでしょう」
「そうか。殺害現場から立ち去ったのが音無さんの姿形をしていれば、音無さんに疑い
が向くのが当然の流れだ」
「実際は、急用で音無さんが来られなくなり、おかしな状況になってしまいましたが。
いや、そもそも、殺人を失敗した挙げ句、自分自身が命を落としたことが大誤算だ」
 八十島刑事はまたメモを書き付け、顎をさすってしばらく考える姿勢になった。その
間に僕は先輩に質問をぶつけた。
「音無さんが学校に来ることを見越して、木部は計画を実行したんですよね? おかし
くないですか。罪を被せる以前に、鉢合わせの危険性があります」
「いや、殺人実行まで身を潜めていれば、鉢合わせする危険はさほどあるまい。侵入か
ら殺人実行までの時間は、なるべく短くするに越したことはないが」
「それでも、音無さんがクラスにずっといたらアリバイ成立するから、濡れ衣を着せる
のだって難しくなるような」
「そこは仲間がいて、恐らくウエダが手を打ったんだと思う。予め打ち合わせしておい
た時刻になったら、ウエダは音無君の携帯番号に電話して、呼び出す算段になっていた
んじゃないか。連中がどこまで音無家について調査したかは知らないが、それこそ、刀
が発見されたという理由付けで呼び出すことを思い付いたかもしれない。あ――」
「どうしたんだい?」
 八十島刑事が云った。考えている間もちゃんと話を聞いていたらしい。
「もしかすると、本当にそうやって呼び出したんじゃないかと思ったんですよ。だが、
音無君の方はちょうど刀を確認しに行くところだったから、再確認の電話と受け取っ
て、何となくおかしいと感じつつもスルーしたんじゃないかな。ウエダはウエダで、呼
び出しに成功したと信じ、木部に最終的なゴーサインを送ったと」
「想像力たくましいな。実際、木部の所持していた携帯電話には、事件の直前と思われ
る時間帯に、四度鳴っただけで切れた着信記録が残っていた。非通知だったから気に留
めなかったが、ウエダの合図だった可能性はあるな」
「念のため、音無君にそういう電話がなかったか、聞いてみればいいのでは? もしイ
エスなら、彼女の携帯電話の着信を調べる」
「木部やウエダの犯行計画を炙り出すには、必要かもしれん。手掛かりとしては期待で
きないだろうがね。十中八九、いや、百パーセント非通知か公衆電話からだろう。木部
の携帯電話に残っていたのも、念の入ったことに公衆電話からの非通知だった」
 と、ここで時刻を確かめた刑事は、慌てたように席を立った。
「こりゃいかん、長居しすぎた。密室の検討がまだだが、しょうがない。あー、追加注
文するのなら、ひとまず自腹で頼むよ」
 八十島刑事は一方的に喋ると、伝票を持って急ぎ足でレジに向かう。チャーハンの大
部分が残された。

             *             *

 どんなによい計画でも、人任せにすると無惨な結果に終わることがある。
 冥は改めて肝に銘じた。
 十文字龍太郎を試すための犯罪なのだから、その絡繰りを見破られるのは一向にかま
わない。だが、計画した犯罪そのものが不発に終わるのは無惨としか云いようがなかっ
た。計画通りに行かない上に、貴重な同胞を失うわ、誰にやられたのか分からないわと
来た。これを無惨な失敗と云わずして、何を云うのか。
(洗い出して、けりを付けるべきか、それとも優れた探偵達をピックアップするのが先
か。悩ましい)
 問題はもう一つある。上田(ウエダ)をどう遇するか。この度の計画の実行を任せた
のだが、この有様では続けて重用するのは難しい。系統だった組織がある訳ではない
が、それでも示しが付かないであろう。一方で、上田当人からは挽回の機会をと必死の
アピールがあり、かつてないほどのやる気を見せている。
(木部を屠った輩を見付けるよう、命令を下してもいいのだけれども……あれの年齢や
風貌では、七日市学園に潜入調査するのは難しかろう。今一度、百田充を襲うことで、
おびき出せるか? 最悪でも、上田を当て馬に、木部をやった者の正体を突き止められ
ればいいのだが、確実性を欠く。
 春先でも、辻斬り殺人の件で、やられているからな。同一人物による仕業だとする
と、矢張り、無差別な遊戯的殺人を嫌う職業的殺人者が最有力。そんな奴をおびき出す
には、無差別殺人や遊戯的殺人を起こすのが手っ取り早い。上田には、七日市学園の人
的・地理的周辺で、殺人を起こさせるとするか。十文字龍太郎が食いついてきたら、そ
ちらの方は私自らテストをしてやるとしよう)

             *             *

「おまえ、最近何かやったか?」
 行き付けにしている数少ない食堂で、カウンター席に着くなり店の主人から問われ
た。
 上田は表情を変えないように努めつつ、サングラスのブリッジをくい、と押し上げ
た。
「誰か訪ねて来たとでも?」
「警察と警察じゃないのが来たよ。それより注文、早くする」
 唐揚げとビールを頼むつもりだったが、やめた。とりあえず、早く食べ終われそうな
丼物の中から、天津丼を選んだ。
「それだけ? お酒なし? 給料日前か」
「いいから、早くしてくれ。どんな奴が来たのか、話してくれたら、倍払うよ」
「ああ。警察は若いのと中年のコンビ。名乗られたけど、忘れたよ」
「いや、そっちはいい。刑事じゃない方が気になってるんだ」
「何だ。――ほいよ」
 天津飯の丼を受け取る。割り箸立てに手を伸ばし掛けたが、レンゲを頼んだ。
「警察じゃないのは、女が来たね。派手で華やかな感じで、三十前ぐらい? ファッシ
ョン雑誌から抜け出したようなきれいななりなのに、腕っ節は強そうだったね」
「美人の女か……」
 心当たりはなかった。
「どんなことを聞かれた?」
「警察も女も、似顔絵を見せてきて、『このウエダって男を知らないか』って。どちら
の絵も、そっくりだったよ」
 手に持った玉じゃくしで、上田を示してくる店長。上田は飯をかき込んでから、くぐ
もった声で聞いた。
「で、何て答えた?」
「知らないと云っておいたよ。だって、おまえ、『ウエダ』じゃないもんね」
「ああ」
 上田は水を飲んだ。通常は香取と名乗っている。趣味の殺しに関係している場合の
み、上田と称しているのだ。
「けど、あの調子じゃ特定されるのは時間の問題よ。ほんとにまずいのなら、覚悟しと
くか、逃げるかしたらいいよ」
「ご忠告、ありがとさん」
 財布を引っ張り出し、天津飯二杯分の金をカウンター上に置いて、座り直す上田。
(予想以上に早いな。どうやって絞り込んだのか。それとも、ローラー作戦か。でも、
警察はともかくとしても、女ってのは何者だ? 単独で動いているとは思えない。まさ
か、殺し屋グループの一人か)
 殺すのは好きでも、殺されるのは御免被る。
(冗談抜きで逃げたい気分だ。だがしかし、冥からの指示を受け、新たな計画に着手し
たばかり。今度しくじれば、冥の信頼は最早得られなくなるに違いないし、俺も途中で
投げ出すのはプライドが許さない。殺し屋連中が俺を探しているのなら、むしろ好都合
じゃないか。おびき出した上で、処分してやる)
 食事を短時間で終わらせると、上田はそそくさと店をあとにした。
 およそ一時間半後、わざと遠回りをしてから“根城”に戻った上田は、計画の段取り
を再確認した。
 今回、上田がやろうとしているのは、フラッシュモブを利した無差別殺人だった。
 想定しているのは、イベント企画会社が仕掛けるそれではなく、ネット上での呼び掛
けにより有志が自由勝手に集まって行うタイプ。突然始まった“お祭り騒ぎ”に足を止
めて見入る観客の中から犠牲者を選んでもよいし、フラッシュモブの内容によっては、
参加者を犠牲者にすることもできるだろう。
 問題は、上田にとって都合のよい、条件にぴたりと当てはまるフラッシュモブが近々
行われるかどうか、である。なるべくなら、自らが呼び掛けて発起人になる事態は避け
たい。
 幸運にもこの週末は、条件に合うフラッシュモブが二つ予定されていた。七日市学園
と同じ市内か、隣接する都市が地理的な最低条件だが、今週末の二つは、いずれも近
い。一つは、新しく開発の始まった駅前の噴水広場、一つは廃止された遊具施設の跡地
となかなか対照的だ。
 できれば、その場所に七日市学園の関係者を誰でもいいから来るように仕向け、犠牲
者とするのが一石二鳥の妙手。自分の仮の名前を使えば、エキストラとして選んだ人間
を、ある程度意のままに操ることはできる。が、警察が動き出した今、表に名前を出す
ような行動は取るのは賢い選択とは云えない気もする……。

             *             *

「非通知と云ったって、実際には記録されている訳だから、特別な事情があれば、情報
の開示は可能なんだ。公衆電話も基本的には同じ」
 八十島刑事の説明を受けて、僕らは捜査の過程をよく理解できた。
「それでウエダがどこの公衆電話から発信したのか、特定できたんですか」
「そう。あとは、その周辺で聞き込みを掛けて、目撃証言を集めたり、知っている者が
いないかを当たったりした結果、香取丈治と名乗っている男が問題のウエダらしいと分
かったんだよ」
「木部は殺人に成功し、現場から無事逃走するつもりだったのだから、着信履歴にさほ
ど頓着していなかった。通常の連絡を非通知にしておけば充分だと考えていたんでしょ
うね。それが仇となった訳か」
 十文字先輩が補足説明するかのように云った。上田発見に関して、探偵能力を発揮す
る機会がほとんどなく、せめてここで意地を見せておきたかったのかもしれない。
「それで、上田を拘束したんですよね? 事情聴取では何て云ってます?」
「だんまりを決め込んでいる。名前や年齢、職業すら口を割らない。実は、しばらく泳
がせていたんだがね。次の殺人を計画している節があり、上田の他に実行犯がいて連絡
を取り合うかもしれなかったから」
「次の殺人?」
「雑踏の中で殺しをやらかそうと考えていたことは、木部とのメールのやり取りで分か
ったんだが、具体的な情報が掴めない。拘束に踏み切って、奴さんのパソコンや携帯端
末やらを浚った結果、フラッシュモブの人混みを利用しようとしていたと推察された」
「わざわざフラッシュモブじゃなくても、混雑しているところならどこでもできるだろ
うに。通勤ラッシュの駅とか夏休みのプールとか」
「その場にいても不自然じゃない状況が欲しかったんじゃないかな。通勤ラッシュなん
かだと、日常的にその路線を利用していないと不自然だろ」
「上田が映画業界、ドラマ業界に詳しいとしたら、フラッシュモブにも何か理由があり
そうですが。エキストラとして選んだ人物をフラッシュモブの現場に送り込む、といっ
た」
「なるほど。その手口なら、被害者をある程度は選べそうだ。無差別殺人に見せ掛け
て、狙った人物を始末する。口を割らせるのに役立つかもしれないな。お見通しだぞっ
ていう圧力を掛ける」
 殺人を未遂に食い止めた喜びからか、いつにも増して軽い口ぶりの八十島刑事だ。事
件の話をしないのであれば、豪華なレストランに連れて行ってくれたかもしれないと期
待させるほど。現実は、いつものラーメン屋もしくはファミレスのどちらかだが。
「僕らとしては、木部逸美が死んでいた事件の方が気になってるんですが」
 十文字先輩が云ってくれた。なかなかその話題に移らないので、やきもきしていたと
ころだ。
「さっきも云ったように、上田の奴がだんまりなんで、新たに判明したことは少ない。
ただ、上田は木部に、ターゲットから逆襲されたときや邪魔が入ったときの心構えとし
て、防御か、一撃を加えた後の逃亡を説いていたと分かった」
「……それって、有益な情報ですか? 当たり前の対処法のような」
 僕が疑問を呈するのを、十文字先輩は止めた。
「いや、案外、真相を突いているかもしれないよ」
「どういう訳です?」
「要するに、殺人鬼として追い詰められたときの対処法だろう。殺しが好きでも、自害
するってのは矢張りないようだ」
「そりゃそうでしょう」
「でも、考えてみるんだ、百田君。防御をした上で、当人が死んでしまったらどうなる
か」
「え? 防御したあと、死ぬ?」
 何で死ぬんですかと聞きそうになったが、さすがに分かった。致命傷を負った者が、
死ぬ前に何らかの行動を取るケースを云ってるんだ。
「木部逸美は、家庭科室に呼び付けた君を襲って、自由を奪ってから殺すつもりだっ
た。が、そこを目撃した何者かに邪魔された。その何者か――面倒だからXと呼ぶよ、
Xは恐ろしいほど素早く行動を起こしたんだろう。凶器を取り出し、家庭科室のドアの
ところで、中にいる木部を刺した。受けた木部は、これはまずいと理解したかもしれな
い。していなくても、とにかく逃げよう、防御しようとする。だが、逃亡は無理だ。廊
下はXが立ち塞がっている。できることは、ドアを閉め、鍵を掛け、傷の具合を見て、
可能であれば二階の窓から外へ脱出するぐらいだろう」
「あ。鍵」
「そう。密室は木部自身が作ったんじゃないだろうか。逆に、施錠されたら、Xとして
もどうしようもない。いや、鍵を取りに行けば追撃可能だが、現実的でない。それに多
分、手応えがあったんだと思う。どうせ動けないはずだという確信が」
 先輩は刑事に目をやった。
「もう解決間近だから、教えてくださいよ。凶器は何だったのか」
「……T字型をした金属の棒だよ」
 八十島刑事は一段低くした声で教えてくれた。
「コルク栓抜きみたいなやつさ。横棒を手のひらに握り込んで、指の隙間から出した縦
棒の先端で相手の急所を刺す」
「凶器と云うより、特殊な武器だな。使い慣れた者なら、一突きで仕留められるんじゃ
ないですか」
「その辺はよく分からないが、犯人は――木部を殺した犯人は、一突きではなく二突き
していた。極短い間隔で、連続的に刺したという見立てだ。二突き目から逃れようと、
木部は手で払ったらしく、そのせいで傷口が大きく開いた。そこから大量出血につなが
り、動けなくなったと推定されている。たとえ窓から逃げようとしても、無理だったろ
うね。十文字君の推理が当たっているとして、鍵を掛けるだけで精一杯だっだと思う」
「Xが凶器を捨てたのは、捜査が入ることを見越し、手元に置いておきたくなかった
と。Xの行動からすると、いつでも取り出せるようにしておいた、手に馴染んだ武器だ
っただろうに」
「足が着かない自信があったんだろう。指紋も汗も、何も検出されていない。お手製み
たいだから、流通ルートを辿ることもできない」
 まさにプロの殺し屋の仕業。そう感じたが、一方で、信じられない気持ちもまだ残っ
ている。この七日市学園に殺し屋がいるって? 殺人鬼がいたというだけでも驚きなの
に。
「七日市学園は一芸に秀でた生徒を多く集めていると、前に聞いたけれど」
 そこまで喋った八十島刑事は、最後のひとすくいを口に入れてから、話を続けた。今
日はカツカレーをきれいに平らげた。
「まさか、殺しの得意な生徒も入れてるんじゃなかろうね」
 冗談と分かっていても、笑えない。
「八十島さんは七尾弥生君とも親しいんでしたよね?」
 先輩が聞いた。頷いて水を飲む刑事。
「彼女の前で、同じ話をしたことあります?」
「まさか。ないよ。あの子が学園長の身内というのとは関係なく、今の冗談は思い付い
たばかりだから」
「そうですか」
「何だい、高校生探偵。本気で可能性を考えているのか、殺人の得意な生徒を集めてる
んじゃないかって」
「ふふふ。まあ、思考実験と云いますか、ありとあらゆる可能性を考えておきたいんで
すよ」
 十文字先輩は声では笑いながらも、表情は真顔のままだった。

             *             *

 冥は実験結果に満足していた。案出した殺人トリックの一つを使うと決め、ミニチュ
アを調達して、思った通りに動くかどうかを確かめたのだ。
(ミニチュアで成功したから、実物でも成功するとは限らないが……これで目処は立っ
た。あとは、実行役だけれども)
 冥は大きく息を吐いた。満足していた気分がしぼむ。
(上田に任せてやろうと思っていたのに、あっさり捕まって……文字通り、使えない奴
になってしまった。さあ、どうしたものか。ここ最近、人材不足を感じる。殺し屋側の
人間に、こちらの面々が次から次へとやられているから。全く、忌々しい)
 冥の心中の呟きでは、一方的に押されているようなニュアンスだが、実際には冥ら遊
戯的殺人者の側も、殺し屋サイドへ被害を与えている。ただ、遊戯的殺人者の犠牲は、
いずれもそこそこ大物であるのに対し、殺し屋側で命を落としたのは総じて小粒。考え
てみればそうなる理由があって、遊戯的殺人が世間で騒がれ、目立ったからこそ、殺し
屋サイドから目を付けられたのだ。反対に、遊戯的殺人者が狙える殺し屋は、過去につ
ながりがあった顔見知りの連中がほとんどで、大物に行き当たらない。
(七日市学園関係者に殺し屋がいるのは、ほぼ確実。それも、学校内での事件にちょっ
かいを出してくる傾向があるようだ。それはイコール、十文字龍太郎が絡んだ事件でも
あるか。不確定要素は可能な限り排除したいから、十文字へのテストとする殺人は、学
校の外で起こすのが吉かな。――それにしても、木部をやった奴は、どうして木部を怪
しんだんだろう? 完璧に化けたと聞いたのに。警察発表を信じるなら、犯人は音無亜
有香に変装した木部を目撃してすぐに見破り、一瞬の内に仕留めたみたいじゃないか)
 しきりに首を傾げる冥だった。

             *             *

 土曜の午後、八神蘭は電車に揺られながら、そのニュースを知った。
 木部逸美の密室死亡事件が一応の解釈がなされ、犯人の正体に関しては依然として不
明であると分かり、まずは安心できた。
(自分が捕まらない自信はある。けれども、百田充に迷惑を掛ける意図は全然なかった
から気になってはいた)
 電車のシートに放り出されたスポーツ新聞から視線を外し、八神は目を軽く閉じた。
(積極的に助けるつもりもなかったが、どうやら大した怪我もなく、生きながらえた様
子)
 八神は百田充を助けに入ったのではなかった。
 あの日、学校で木部逸美を見掛けた刹那、何だこいつはと感じた。音無亜有香そっく
りの格好をして、何を企んでいる?と。
(あのとき、瞬時に変装を見抜けたのは、矢張り、音無亜有香を好敵手と認めているか
らかな。技術的に私の好敵手たり得る音無亜有香を、つまらぬことで貶めるのは許せな
い。そう思ったからこそ、身体が自然に動いた)
 木部のあとを尾けた八神は、百田が殴り倒されるのを見た時点で、おおよその察しが
付いた。どんな事情があるか知らないが、音無に殺人の濡れ衣を着せるのはやめてもら
おうか。思ったのとほぼ同時に、手が凶器を握り、日常動作の中に織り込んだ仕種で、
木部を刺していた。
(あいつが遊戯的殺人者の一人だったとは、全く想像できなかった。結果オーライとは
云え、あまり目立つのは殺し屋としてよくない。敵側に何か知られたら厄介だ。まあ、
十文字龍太郎の周囲で網を張っていれば、何人かが出て来るはずとの読みは、見事に当
たっているし、継続することになるだろう)
 頭の中で考えていると、急制動により身体が大きく傾いた。乗客はさほどなく、席も
だいぶ空いているが、電車が停止するとさすがにざわざわする。
 程なくして、人身事故発生のアナウンスがあった。長くなるかもしれない。
 八神蘭は、再び目をつむった。決して、緊張感は緩めない。神経を張り詰めておく。
(――私が乗っているから、事故が起きて死人が出る、ということはあるまいが)
 ふっと、妙な想像が浮かんだ。
(もしも音無亜有香が、人を殺す経験をすれば、今よりもさらに優れた剣士になるだろ
うに。そう考えると、あの木部逸美の邪魔をしない方がよかったか。殺人容疑を掛けら
れた音無が、どう変化するのか。ちょっと見てみたかった)

――終わり




#502/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/07/29  22:57  (430)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(前)   永山
★内容
 大粒の雨が降りしきる曇天を、下から赤く照らす一角があった。森林火災だと気付く
のに、差して時間は要さなかった。恐らく、雷が落ちて火が出たのだ。
「あっちの方角って確か……」
「ああ。ホブマンの家だ。二代目がいるはずだが」
 農場を一人でやっていたアーン・ホブマンが老衰で亡くなり、継ぎ手がいなくなると
ころを、戻って来たのが息子のオーレイ・ホブマンだった。オーレイは妹のジーンと香
水の製造会社を起ち上げて、当初は大いに売り上げを伸ばした。オーレイは、特定の相
手に短い声のメッセージを時間差で届ける伝言魔法が使えるのだが、これを活かして、
相手へのメッセージ付きで香水をプレゼントするという売り出し方が当たったのだ。だ
が、徐々に飽きられ、競争相手が増えるにつれて苦戦。結局、後発の同業者に会社を売
却して出身地に戻ったという次第だ。
 なお、妹のジーン・ホブマンは、匂い別に一度に複数の液体を分離できる魔法の持ち
主であり、その能力を活かし、調香師として会社に残ったとのことだ。
「できる範囲で畑を耕しとったが、持久力がてんでだめで、わしらが教えていても、隙
あらば休もうとするくらいだ。こんな天気で、外には出ておるまい」
 とは言え、山火事を放って置く訳にはいかない。田舎町故、残念ながら魔法消火隊は
整備されていない。だから消火自体は大部分が雨任せになるとしても、延焼を防ぐ必要
がある。若い者三名が、先行して斧を携え、馬で行くことになった。
 足元の悪い中、十分ほどで到着した三人は、しかし鎮火活動どころではない事態を突
きつけられることになる。牛及び馬の足跡が。今まさに燃えさかる森へと伸びていたの
だ。
「まさか、オーレイは逃げ出した牛を追って、森の中に入ったんじゃあ……」
 そんな悪い想像が脳裏をよぎる。オーレイの農場へ急ぐと、確かに牛一頭に馬一頭が
いなくなっていた。そこへ加えて、さらによくない物を見付ける。
「何だこの赤いのは」
「……血?」
 地面の所々に、血液らしき赤い液体があった。散っていたり、線を引いたりと、様々
な形状があるが、それも雨で滲んでいく。
「オーレイの血とは限らないが、嫌な予感がする」
「足跡の具合から判断すりゃ、まだ大して時間は経ってないはずだ。追い掛ければ間に
合うかもしれない」
 そう言った当人が足跡を追い、残る二人が延焼を食い止めるべく、木々を斬り倒す役
を担うことになった。
「気を付けろよ!」
 互いに声を掛け合ってから、別行動を取り始めた。

            *            *

 ウォーレン・ウィングルはヨーゼ・テミばあさんを送り出し、ドアが閉まるのを待っ
てから思わず苦笑を漏らした。
(ほんと、定期的に診る必要のないくらい健康そのものだ。ここに来るのは、きっと暇
潰しなんだろうけれど、まあよいことだ)
 午後の診療時間が終わった。念のため、看護婦のニッキー・フェイドに、待合室に誰
も残っていないことを確かめてもらう。それが済めば、お茶の時間だ。
「ウィングル先生。患者さんはもう見えませんけれど、スペンサー刑事が」
「え? まさか捜査で怪我を負ったとかじゃないだろうね」
「ですから、患者さんじゃありませんてば」
「となると、また例の」
「多分」
 ともに苦笑いを浮かべ、診察室の戸口方向を見やる。すでに開け放たれたドアから、
刑事のセオドア・スペンサーが姿を現した。年齢はウィングルより二十近く上のはずだ
が、髪は黒々として、肌の色つやもよい。骨の太さを感じさせる、がっしりとした体躯
の持ち主だ。この分なら、まだまだ刑事をやっていけるだろう。
「やあ、先生、お元気そうで。フェイド君も。お時間、よろしいですかな」
「かまいません。どうしました?」
 椅子を勧めながら尋ねる。フェイドはお茶を入れに給湯室に立った。もちろん、三杯
分。
「皆まで言わせんでくださいよ。難事件を持って来たんでさあ」
「やっぱり」
「お好きでしょ? それとも、何か本業の方で研究課題を抱えているとか?」
「いえ、それはありません」
 ウィングルは個人開業の魔法医だ。国全体を見渡せば、魔法を使える医者自体は特
段、珍しくない。ただ、この片田舎では重宝される。ごく稀に、研修名目でワウブリン
などよその大都市に出ることはあるが、最新技術等の情報収集が主目的。最先端を行く
ような研究行為そのものとは、ほとんど無縁である。
「じゃあ、決まりだ。話を聞いてもらいますよ」
 患者用の椅子を前後逆向きにした刑事は、どっかと腰掛けた。背もたれを抱くような
格好だ。ウィングルはメモを用意した。
「どうぞ」
「えー、亡くなったのは、ロドニー・アルセ。ご存知ですかな、念画家をやっとったん
ですが、四ヶ月ほど前に行方不明になっていた」
 念画家とは、念写の力で絵を描く職業のこと。芸術性はあまりなく、実物をそっくり
そのまま写し取るのが売りで、人物画を希望する客が多い。
「ええ。何度か会ったことがあります。一度は念画を撮ってもらいましたよ。この土地
に来て間もない頃、記念にやってもらったんです。フェイド君と一緒にね。推理小説好
きで話が合ったし、気のいい若者だったが、亡くなったとは。姿を見ないのはてっき
り、旅行に出たのかと」
 そこへフェイドが戻り、お茶を配る。会話はしっかり聞こえていたらしく、「ロド
ニー・アルセさんが亡くなったんですの?」と関心ありげに尋ねてくる。スペンサー刑
事がもう一度同じ話をしてから、続きに入った。
「――で、アルセに限った話じゃないんですが、今のご時世、念画家は商売の先行きに
不安を覚えているのが当たり前でして」
「ああ、写真機の」
 ウィングルはすぐさま合点して、頷いた。
「そう。色つきで撮れる写真機が発明され、最初、高嶺の花だった内はまだよかった
が、比較的安価な物が普及しつつある」
「しかし、まだ個人が持つには至っていないでしょう。だいたい、ここいらで写真機を
所有している人なんていないし」
「いや、それが今度、レロイ・マクガートが予約を入れたそうで」
 レロイ・マクガートは、豊かな森林を抱える山を所有する材木業者だ。商売は大いに
繁盛しており、地域で一、二を争う富豪と言えるだろう。
「あの人が写真機なんて必要なのかな」
 答は期待せず、感じたままの疑問を口にするウィングルへ、スペンサー刑事は意外な
ほど早く応じた。
「元々、絵が趣味で写真にも興味はあったようだ。それよりも、森林に勝手に入る輩を
写真に収めてやると息巻いていたよ。どうやって自動的に撮すのかは知らんが」
 森林に無断侵入して、獣を狩ったり、木々を持って行ったりする連中がたまにいると
聞く。マクガートは複数の町村に跨がって山を所有しており、広大なだけになかなか捕
まらないし、魔法を使っての警備も功を奏していないらしい。
「小さな山一つだけでも、周囲をぐるっと警備できる魔法を身に付けた人物を雇うとな
ると、それなりに金が掛かろうってもんです。それに比べりゃ、写真機は安いかもしれ
ないが。――脱線しましたな、今は事件の話だ。そんな訳で、アルセが姿を見せなくな
ったのは、仕事の先行きに不安を感じて、別の職を探しに都会へ出たのではないかと思
われておったんですが……一週間前、トーテン山麓の原っぱの茂みで、白骨化がかなり
進んだ状態で死んでいるのが見付かりました」
「ああ、あの遺体がアルセだったんですか。どういう経緯で遺体が見付かり、アルセだ
と分かったんでしょう?」
「順序が逆になるが、身元が判明したのは簡単です。衣服が見覚えのある物だったし、
財布や時計が残っていましたからね。見付けたのは、さっき話に出たマクガートのとこ
ろの若者、えっとドロン・バスと言ったかな。マクガートに新たに買う山林の物色を命
じられて、調べていたらしい。沼を迂回し、野原を突っ切って山林に入ろうとしたら、
その前に見付けたと」
「なるほど。アルセに身内は? 独り暮らしだとは聞いた覚えがありますが」
「両親は何年も前に他界していて、他に身寄りはいなかったようです。そのせいもあっ
て、捜索願が出されていなかった訳でして」
 スペンサーは、警察として動きようがなかったんだと言いたげに首を左右に振った。
「死因は?」
「細目の荒縄が首に巻き付いたままでした。窒息死で間違いないとのことです」
「……先程から他殺と言い切らないようですが、何か理由でも?」
「ん、まあ、他殺に違いないとは思う。が、色々な場合があり得ますから。過去に、ウ
ィングル先生に解いてもらった事件にもね、ほら」
 得心の行ったウィングルは、黙って頷いた。スペンサー刑事は、殺人事件の話に戻っ
た。いちいち質疑応答の形を取らなくて済むよう、一気に喋る。
「凶器と思しき荒縄は、長さは一メートル強で、この地域ならどこにでもありそうな代
物でした。それこそ、道端にでも落ちていそうな。分析に回したが、乾いた泥にまみれ
ていて、犯人につながるような特段の痕跡は見当たらなかった。あと、死亡推定時刻は
死後四ヶ月前後とのことだから、行方不明になるのとほぼ同時期に殺されたのかもしれ
ない。ああ、地面からは失禁の跡がどうにか検出できましたよ。分析をして、アルセの
物と考えてもおかしくない一致を見た。これにより、遺体発見現場が犯行現場でもある
と断定されたんです」
「一応伺いますが、現場や遺体に魔法痕は?」
 犯行現場に限らず、魔法を使うと痕跡が残る。それは波紋のようなものだが、目に見
える訳ではなく、他の感覚で感知できるものでもない。警察が開発し、捜査に導入して
いる特殊な装置によってのみ、魔法痕は感知可能なのである。
 通常、魔法が使われてからおよそ三ヶ月以内であれば、使われた魔法の種類まで特定
できる。早ければ早いほど強く出て、数時間以内なら魔法痕から、魔法を使った者の個
体識別すら可能なことがある。今回は三ヶ月以上過ぎているのは確からしいから、得ら
れる情報は比較的少ない。
 参考までに――こんな世界だと、特に大都会ではそこいら中が魔法痕だらけになり、
犯罪捜査の妨げになりそうだが、実際にはそうはならない。魔法痕には強弱があって、
およそではあるが使われた時期が分かる。犯行があったと推定される時期との重なり具
合から、関係の有無を識別するのだ。
「あるにはありましたが、月日が経過しており、魔法の使用者はおろか、どんな魔法が
使われたのかすら分からない」
「回数はどうです?」
「あっと、先に遺体の方を言いますと、一回。でも、遺体に特徴的かつ不可解な傷があ
る訳じゃなし、何の魔法だかさっぱり。日常生活を送る上で、使ってもらった魔法かも
しれませんしねえ」
「いつものことながら、判断は難しいです」
「現場も一回でしたが、こちらは被害者が行使したと考えるのが道理だ」
「というと……ああ、念写の能力を持っている人は、簡単な文字や模様ならほぼ瞬時に
できるから」
「そう、何らかの形で残すに違いないんです、犯人の手掛かりを。そして一番確実なの
は、犯人自身の顔など目立つ箇所に念写してやること。これ、警察が口を酸っぱくして
言ってますから、きっと、アルセも同じことをしたと思うんですが」
 アルセは推理小説好きでもあったから、ダイイングメッセージを残す可能性は一般の
者よりも高いだろう。
「歯切れが悪くなりましたね、スペンサー刑事。わざわざ相談に来られたのは、ひょっ
とすると、顔に何かを念写されたような有力な容疑者がどこにも見当たらないと?」
「さような有様でして。訳が分からん。念写できるのなら、犯人の名前を知らなくてい
いんですからねえ。アルセは、犯人の顔かどこかに、自分の名前でも何でも大きく念写
してやるだけでいい。なのに、そんな奴を見掛けたという情報は、村の中にも外にもな
い」
「念画家をやるくらいだから、アルセの念写能力は、相当強力なんでしょうね」
「無論です。簡単に改変できてしまったら、念画の意味がない。他の何らかの魔法で、
念画を書き直したり、剥がしたりは無理。上書きも受け付けない。消せるのは念画家本
人のみ。念画家本人が死んでも、念画は残るというくらいです」
「使用制限があったのでは? 一日に念画できる回数がたとえば十で、殺害された日は
襲われるまでに使い切っていて、犯人に印を付けられなかった、という」
「残念ですが、外れです。被害者は念画家をやるだけあって、一日当たりの上限数は1
45もありました。お客がそんなに来たという記録はないし、他に念画の回数を150
近くも無駄遣いさせる方法はないと思えるんで、今の先生の説は却下です」
「確認ですが、アルセが念画を作ろうとして、完成するまでの時間はどれぐらいでした
っけ?」
「商売用、つまり精密な絵で十分程度。だが、犯人に印を付けるのに、精密も何もない
でしょう。そもそも、絵である必要がない。さっきも言った通り、目立つところにアル
セ自身の名前や、罪を告発する言葉を文字で付けてやれば、犯人は表を歩けなくなる。
文字なら十秒もあれば充分だったはず。サイン代わりに書いているのを、目の当たりに
したことがありますから確かですよ」
「十秒なら、犯人も逃げ切れないか……。あ、でも、面と向かった状態でなければ、印
の付きが悪くなるなんてことは?」
「精密な絵なら、紙なり何なりにじっと正対する必要があったみたいですが、字ならそ
んなことはないようですよ。よその町の念画家にも問い合わせたんで、間違いありませ
ん」
「つまり、文字を残すのであれば、書き付けたい対象を一瞬でも見さえすれば、あとは
十秒で書けるって訳ですか。窒息死なんだから、即死じゃないでしょうし。あ! 襲わ
れた時点で、アルセは視界を奪われていたとすればどうなります?」
 ウィングルのこの質問には、スペンサー刑事も口を丸く開いたまま、返答に窮した。
「ほほう。そういう線がありましたな。相手を視界に捉えられなかった場合、念画家は
印を付けられるのかどうか。これはまだ聞いてません。調べさせます」
 腰を浮かせたスペンサーは、残っていたお茶を飲み干すと、フェイドに礼を言った。
それから改めてウィングルに聞く。
「先生、他に何か思い付きませんか? 思い付かないようだったら、早く手配したいん
でお暇しますが」
「うーん、恐らくすぐには何も浮かばないと思います」
 苦笑交じりにウィングルが答えると、スペンサーはこちらの方の礼はそこそこに、慌
ただしく駆け出していった。
「やれやれ。真相究明には近付いていない気もするが、可能性を潰すのは必要不可欠な
手順だろうから仕方がないか」
 窓の外に刑事を見送りつつ、ウィングルはフェイドにお茶のお代わりを所望した。

 次にスペンサーが訪ねてきたのは、三日後のことだった。その日は休診日だったた
め、朝から時間的な余裕はあったものの、休みを邪魔される形になったウィングルは
少々不機嫌になっていた。
「すみません、休みのところを朝っぱらから押し掛けて。でも、劇的な進展というか、
驚くべき展開というか、とにかく大きな変化があったので、一刻も早くお耳に入れたい
と」
「かまいませんよ。早く本題に入ってもらえた方がありがたい」
 病院が休みの日は、当然、フェイドがいない。スペンサーを客間に招き入れると、ウ
ィングル自身はお茶を出すことなく、ソファに収まり、向き合った。
「順を追って話しますと、先日、先生が示唆した事柄から」
「念画家は視界を奪われていても、念画ができるかどうか、ですね?」
「ええ。個人の持つ能力にも因るが、事前に相手を目撃したのであれば、そのイメージ
だけで対象物とすることは可能だというのが、他の念画家からの解答でした。複数名に
当たったので、間違いのない話なんでしょう。一応気になるのは、アルセがそれだけの
能力を持っていたかですが、これも周囲の者の証言により、持っていたと見なせます」
「結局、相手を見ながらでなくても、その相手に印を付けることはできたという訳です
か。なかなか問題解決とはなりませんねえ」
「それは残念だったんですが、さらに大変な事態になってましてね。どうも、アルセ殺
しに関連して、新たな殺人が起きてしまったかもしれんのです」
「新たな? この三日で新しく起きた殺人事件……ありましたか?」
「公には事故としての発表しかしてません。だからこのあとする話は、くれぐれも他言
無用に願いますよ」
 ウィングルはしっかりと頷いた。同時に、刑事はフェイド不在を見越して、休みの日
に敢えて押し掛けてきたのではないかと感じた。
「その遺体が見つかったのは、先生にこの前話をした日の夜遅くのことでさあ。ラタン
湖で夜釣りをしていた男が」
「ちょっと待ってください。湖で夜釣りですか? よそは知りませんが、ラタン湖にわ
ざわざ夜釣りをせねばならぬような魚が、棲息していましたっけ?」
「当人の言い分をそのまま採用し、説明したんですがね。実際は、どうやら禁猟指定さ
れている野鳥を狙っていたようです。釣り道具を用意し、釣り人らしい格好もしていた
が、餌を持っていなかったし、網も魚用にしては不自然な大きさでしたしね。まあ、そ
の辺は別件です。自称釣り人は充分に注意して静かに振る舞っていたようだが、湖の岸
辺に漂着した首無し死体を見付け、みっともないくらいに悲鳴を上げた。それを夜回り
中の警官が聞きつけたって次第です」
「頭部のない死体ですか。身元は分かったのですか」
「まだです。行方不明者を洗ってる段階で。でも、関係ありそうじゃないですか。アル
セを殺害したはいいが、念画によって顔に印を付けられた犯人は、共犯の仲間に始末さ
れたんじゃないですかね。このまま活かしておけば、仲間全体に捜査の手が及ぶと判断
し、弱点となるアルセ殺害犯を処分した。頭部を切断して持ち去ったのは、身元を隠す
のと、アルセ殺しの証拠を隠滅するため」
「えっと、待ってくださいよ。とりあえず、死亡推定時期は? あなたの説だと、アル
セが殺されて数日以内に犯人も始末されたと見なすべきですよね」
「ええ。同時期に殺されたという結果が出ました。重石を付けて湖に放り込んだのが、
月日が経って浮かび上がったものと睨んでおります」
「それだけですか、アルセの事件と結び付ける理由は」
「いえいえ。今のは理由と言うより、推理ですよ。そもそものきっかけは、首無し死体
の身につけていた上着の内ポケットから、アルセの店のチラシが出て来たことです」
 いつの間にか得意げな表情になっていたスペンサーだったが、ウィングルが難しそう
に唸るのを前にして、自信がしぼんできたようだ。「先生は反対ですか?」と眉根を下
げて聞いてくる。
「いや、明白に反対する訳ではありませんが、鵜呑みにするのはどうでしょう。身元が
まだ判明していないということは、死体は身元を示す物を一切身に付けていなかったん
でしょう。なのに、アルセの店のチラシが出て来るのは、作為を感じなくもないです」
「あ、そういう理屈でしたか。なるほど。しかし、先生の考えだと、男を殺した犯人
は、チラシをわざと入れておいた、あるいは残しておいたことになる。その狙いは何な
のか……」
「単に首無し死体の男はアルセの客で、チラシを持っていた。殺害犯はチラシに気付い
たが関係ないと見なし、そのままにしたという可能性もありますが、とりあえず棚上げ
ですね。同じ時期に、店の主人と客が相次いで不審死を遂げたのなら、関連を疑うべき
です」
「それじゃあ、やはりアルセ殺しの犯人が絡んでくると?」
「分かりません。たとえば、アルセ殺害に関与はしていないが、アルセの死を早い時点
で知った者がいるとします。その人物はこう考えた。『今、憎い奴を殺して首無し死体
として放り出せば、アルセ殺害犯と見なされるのではないか。アルセの店のチラシを入
れておけば、アルセとつながりがあったように見せ掛けられる』と」
「可能性は低そうですが、一応の筋は通っているように聞こえた……かな? アルセが
死んだことを早い内から知っていたという点が気に食いませんが」
「うん、そうですね。強力な理屈がなくても、ここは蓋然性の高い方を選んでよいと思
う。アルセを殺害した人物が、首無し死体の正体であると考えるのが自然だ」
「よかった」
「でも」
「でも?」
「もう一つ、留意しておいた方がよさそうな仮説があるのです」
「遠慮せず、勿体ぶらず、教えてください。そのために来たんですから」
「アルセ殺害犯が、二件目の殺人でも犯人であるという可能性です」
「ええ? そいつはいけませんや。いくらウィングル先生の話でも、だめなものはだ
め」
 スペンサーはソファの左右の肘掛けに両腕を突っ張らせ、前のめり気味になった。そ
の姿勢のまま、熱弁を続ける。
「いいですか? アルセは犯人の目立つところ、外からよく見える部分に、犯行の印と
なる何らかの文字を大きく念画した可能性が非常に高い。ここはお認めですよね?」
「無論です。そここそが大前提ですから」
「だったら自明でしょう。犯人はその印を隠そうとしても隠せない。家に籠もりきりで
暮らしていくしかなくなる。そんな犯人が、首無し死体を作り出しても、何の得にもな
らないじゃないですか。そりゃまあ、恨みのある相手を殺したのなら気は晴れるかもし
れんが、首無し死体をアルセ殺しの身代わりに仕立てるという目的は、中途半端に終わ
る。犯人自身の印が消えない限りね」
「スペンサー刑事、あなたが今言った状況を成立させる場合があるとは思いませんか
?」
「はあ? それがないから、さっきの結論――アルセ殺しの実行犯が、首無し殺人の被
害者でもあるという推測を打ち出したんじゃないんですか」
「可能性の一つだと思っています。あくまでも、可能性の一つに過ぎない。ただ、それ
を話す前に、肝心なことをまだ聞いていないので……」
「何でしょう?」
「首無し死体の事件についての、魔法痕の有無です」
「ああっ、そうでしたな。忘れておりました。時間はだいぶ経過しているが、死体その
ものに魔法痕の形跡はなかったと報告が上がっ……あれ、おかしいな」
 答える内に、矛盾に気が付いた様子のスペンサー。頭をかきむしった。
「アルセ殺しの犯人なら、魔法痕が残っていないのは辻褄が合わない。いや、念画によ
って印を付けられた頭部が、切断されたなら、魔法痕が検出されないことも……」
「魔法を使われた部分を分離すれば、残りからは検出されないんですか?」
「あ、いや、そのような実験が行われたことは、まだないはずです」
「でしたら、すぐにでも実験すべきですよ。動物実験にせざるを得ないでしょうが、人
と獣とで大差が生じるとは考えにくい」
「仰る通りだ。とりあえず、そういう実験をできる限り早くやるよう、要望を出してお
くとしましょう。即実現て訳にはいかんでしょうが、早いに越したことはない」

 スペンサーが実験の実施を要望する電話を終えて椅子に戻るや、ウィングルは忘れな
い内にと質問を繰り出した。
「先程の続きになりますが、首無し死体が見付かった場所の方は、魔法痕はありました
か? 魔法の種類によっては、ラタン湖全域を調査するべきかもしれませんが」
「遺体発見の岸辺一帯を検査しただけですが、何にも出ませんでした。もちろん、水中
も調べましたが、結果は右に同じで。首無し事件の殺人犯は、魔法を使えない人物かも
しれませんな」
「それは早計というものでしょう」
「分かっとります。自分の軽率さに、ちょいと嫌気が差した。そのせいで出た冗談に過
ぎません」
「私の推理が的外れかもしれないのだし、失敗をしたと感じたのであれば、それを次に
活かすことを考え、実行することこそが大切ではありませんか」
「まあ、そうなんですがね。もっと深く物事を考えようとすれば、がくんと無口になっ
ちまう」
 まだ冗談めかして言ったスペンサーは、何か不意に思い付いたように右手の人差し指
を立てた。
「犯人は頭部をどうしたんでしょうな。そこに印があろうとなかろうと、隠し続ける必
要がある訳でしょう?」
「なるほど。被害者の身元がばれたら、犯人自身との結び付きから容疑を掛けられる。
どの説を採ろうとも、そこは変わりませんね。でも、その先は想像するしかないでしょ
う。魔法で隠す場合を考え始めたら、きりがない」
「ですな。容疑者を特定できたとき、有力な証拠になるかもしれないが、魔法で消滅で
もさせられていたら、お手上げだ」
「いや、さすがに、物体を消滅させるような魔法が使えるのなら、死体全てを消すでし
ょう」
 苦笑交じりにウィングルが指摘すると、スペンサーは案外、落ち込むことなく、むし
ろ表情を明るくした。
「ならば、まだ希望の光はある訳だ。物証として頭部が見付かる可能性の光が」
「一市民として、そう願いたいです。警察も最近は富みに大変なのではありませんか?
 四ヶ月程前というともう一つ、大きな事件が起きていたじゃないですか」
「……ああ、ホブマン農場の。事件だか事故だか未だ判然としちゃいませんが、捜査は
続いとりますよ。不審な死であるのは間違いないですから」
 落雷による山火事発生を受けて町の有志らが消火に駆け付けたが、その内の数名によ
り、オーレイ・ホブマンは発見された。激しく燃えた森の中で、遺体となって。倒れた
巨木に打たれ上、折悪しく、沼地から流れ出たと思しきメタンガスが原因の爆発が重な
り、オーレイの身体はかなり損傷していたが、人定が不可能というほどではなかった。
「自分は担当じゃないので、聞いただけですが、オーレイは特に右腕が酷くやられてい
たらしい。解剖医と捜査に当たった刑事の話を合わせると、こんな見立てになるようで
す――」
 オーレイの右腕に縄がしっかり巻き付いていたことと、ホブマン農場から牛が一頭消
え、森の中で黒焦げの死体になっていたこと、さらに馬が一頭、厩舎を出入りした痕跡
があったこと。これらから、オーレイは牛が逃げ出したのを見て、慌てて馬に乗り、投
げ縄で捕らえようとした、あるいは捕らえるのに成功したかもしれないが、ともかく牛
を追って森に入った。そこへ火災が発生。火や雷鳴に驚いた馬に、オーレイは振り落と
される。馬は自力で厩舎に帰るが、オーレイは落ちたダメージか、はたまた牛に引き摺
られたかして、森林火災から避難できない。そこへ大きな木が落雷によって倒れ、飛び
出た枝がオーレイの右肩辺りを直撃し、肉体を分断。右腕は樹の油分のせいか激しく燃
え、さらに農場横にある沼から森林へと流れ出たメタンガスに引火、爆発が起きたため
に、右腕はばらばらに吹き飛んだ。オーレイ自身はその時点ではまだ息が合った可能性
が高いが、倒木の幹に押さえ付けられ、身動きが取れず、死を迎えた。
「――オーレイの遺体は、右腕ほどではないにしてもだいぶダメージを受けており、お
かげで、正確な死因が酸欠による窒息死なのか、焼死なのか特定できない有様だとか。
まあ、その両方というところでしょう」
 言葉を句切ると、スペンサーはウィングルの顔をじっと見た。ウィングルは興味をそ
そられたのを隠そうとしなかった。やや俯き加減になって、考えごとを新たに始めたの
は明白だった。
「どうせならホブマン農場の事件を持ち込んで欲しかった、とでも言いたげですなあ」
「いや、一介の医者が、事件の選り好みなんてとんでもない。ただ、関心を持ったのは
事実ですが。話を聞いた限り、事故と断定してよさそうですが、未だに捜査が続いてい
るのは何か理由でも?」
「農場の近くで、血痕が見つかってるんです。雨にいくらか流されたが、検査結果は、
オーレイの物とみて間違いないと出た。雨量から推測して、元はかなりの出血だったと
考えられるが、オーレイの遺体を調べても、そんな大きな傷は見当たらなかったと聞い
ています。ああ、無論、右腕は別ですが、農場近くってことは森に入り込む前の段階で
すから」
「吐血もしくは鼻血では?」
「その線は否定されています。鼻孔や気道、食道なんかは焼けずにどうにか残ってお
り、吐血や鼻血をやった痕跡はないと」
「……じゃあ、森で落馬し、さらに右腕を失ったときに、馬の身体に血が大量に飛び散
って、その後、戻った馬からオーレイの血が滴り落ちた……」
「それは無理がありますぜ、先生。オーレイを振り落とした時点で、馬は逃げ帰るんじ
ゃないですか? それに、馬に大量の血が降りかかったのなら、ちょっとくらい残って
るもんでしょう。我が同僚が見落としをしたと?」
「ううむ、そうだね」
「何らかの魔法が使われたんじゃないかという説も唱えられたんですよ。一時的に応援
に駆り出されたから、その辺の経緯はよく知っています。実は、オーレイの妹、ジー
ン・ホブマンは匂いによって液体を分離する魔法を使えるってことで、一応、嫌疑が掛
けられたんです」
「ほう。血液の匂いさえ分かれば、分離して、遺体と離れた位置に落とすことができる
という理屈ですか。何のためにそんなことをするのか分かりませんが……それで?」
「いやまあ、嫌疑はすぐに晴れました。アリバイがあったので。ジーンは調香師とし
て、首都ワウブリンの研究開発室にいたというアリバイがね。加えて、血痕やその周辺
からは、魔法痕が検出されなかったんです」
「何だ。拍子抜けですね」
「ジーンは仕事を放り出して、山火事の日の夜遅くにはこの町へ到着しました。自前の
会社を立ち行かなくさせた件で不平不満は抱いていたろうに、兄思いではあったみたい
ですな」
「会社?」
 ウィングルはホブマン兄妹の香水会社のことを知らなかった。スペンサー刑事は一通
り、説明してやった。
「――あと、言い忘れていましたが、ジーンの魔法は、分離するだけじゃなく、分離後
に元へ戻すこともできるそうです。この場合、分離と戻すのとでワンセット、一回の魔
法に数えるとか」
「ふうん、面白い能力ですね、ジーンにしてもオーレイにしても。オーレイの魔法は、
距離の制限はないんでしょうか」
「どうだったかな? 距離というか、香水の瓶なり箱なりに購入者の声を付けて、贈る
相手が受け取ったときに、頭の中で声が流れるって具合らしいですが」
「距離は関係なく、声を付けた物に触れなければ聞こえない……」
「確かそうです。あ、でも、身内は例外だったんだ」
「身内というと、両親や兄弟姉妹ですか?」
「ええ。三親等以内の血縁者には、どんなに離れていようとも、即座に声を伝えること
ができたと聞きました。尤も、該当するのは両親と妹だけでしたから、あんまり使い勝
手がいいとは思えませんや。せいぜい、都会暮らしをしている間、郷里の父母に無事を
知らせるくらいで。それとて、返事がもらえる訳でなし――ウィングル先生?」
「あ、空想にふけってしまいました」
「空想って呼ぶには、えらく難しい顔をしてましたが」
「スペンサー刑事。念のための質問になりますが、オーレイ・ホブマンとロドニー・ア
ルセとの間に、親交はなかったでしょうか?」
 唐突に、二つの案件の被害者を並べられ、スペンサーは思わず「はあ?」と聞き返し
た。
「親交じゃなくても、単なる店と客としてのやり取りでもかまいません。何かあったん
だとすれば、一応、調べるべきかもしれない」
「言わんとすることが飲み込めん。第一、その質問に答えられるだけの情報が、今の自
分にはありませんよ」
「アルセの店の売り上げ関連の書類は見たんでしょう? そこにオーレイかジーン、ホ
ブマン家の名前がありませんでした?」
「生憎と、記憶にありませんなぁ。推理でも空想でもいいから、二人の名前を結び付け
ようと思った理由を教えてください。そうしたら、警察も動きようがありますから」
 スペンサーの真っ当な要望に、ウィングルは少々考えてから、首を縦に振った。
「右腕と尿、です」

――続く




#503/514 ●長編    *** コメント #502 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/30  00:08  (352)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(後)   永山
★内容                                         17/08/11 19:52 修正 第2版
 一週間後。再び迎えた休みの日に、しかし看護婦のニッキー・フェイドは職場に姿を
現した。
「事件の話をするのなら、ぜひとも聞きたいですわ」
 エプロンを取り去って、私服姿になったフェイドは、ウィングル及び二人の刑事――
スペンサーとレッド・ランカスター――の前に、お茶を並べた。軽くつまめる物は大皿
に盛って、すでに置いてある。
「先に始めたりしないから、お盆を仕舞ってきなさい、フェイド」
 お盆を胸に抱えた格好で座ったフェイドを、ウィングルは苦笑交じりにたしなめた。
この場の唯一の女性は、舌先をちろりと出し、「分かりました」と席を立った。
 戻ってくるまでの僅かの間に、ウィングルがランカスター刑事に頭を垂れる。
「すみません。口は堅い人ですから」
「まあ、病院勤めをされている方なら、口は堅いんでしょう」
 ウィングルの病院を初めて訪れたランカスターは、捜査の素人が関与すること自体
は、半ばあきらめるように了承していた。ただ、年上で先輩に当たるスペンサーには、
ややきつい視線を送る。
「お医者さんから捜査のヒントを得ているとは聞いていましたが、法医学的なことでは
なく、事件全般だとは思いも寄りませんでしたよ」
「そう言うなよ」
 スペンサーが抗弁を続けようとしたそのとき、フェイドが戻って来た。
「お待たせしました。さあ、始めてくださいます?」
 フェイドの言葉に、スペンサーは短く息を吐いて、ウィングルに顔を向けた。
「この間までの進展具合は、フェイドさんに伝えたんですか?」
「いや、口外無用の約束は守りましたよ」
 返事を聞いて、スペンサーは前回ウィングルとした話を、掻い摘まんで伝えた。お茶
がほぼなくなるくらいの時間を要したが、お代わりをすることなく、次の段階に進む。
「それでですね……先に、実験結果が出たので、話すとしますか。生物に対して部分的
に魔法を使い、そこを切除した場合、残りの部分から魔法痕は検出されるかどうか。生
物実験用のモルモットを使って、実験を行いました。時間の都合により、モルモットは
六個体。三個体を安楽死せしめた後に魔法を掛け、残る三個体を生きた状態で魔法を掛
けた後に安楽死せしめて、頭部もしくは尾部を分離。魔法痕を測りました。ああ、魔法
を掛けたのは全て頭部で、尾部は比較対象のためとか」
 スペンサーは懐から報告書を取り出し、丁寧に広げてから、淡々と話す。既に内容を
知っているであろうランカスターも含め、皆が興味深げに聞いていた。
「六個体それぞれについて魔法痕の計測を、頭部のみ分離後、尾部のみ分離後、頭部と
尾部を分離後に行いました。で、肝心要の実験結果ですが、複雑な手順を踏んだ割に、
単純明快。いずれの場合でも、魔法痕は出ました。分離された側にも、残った胴体にも
魔法を使った形跡は、ちゃんと記されていた訳です。さらに追加で行った、分離された
頭部が何らかの理由で原形をとどめぬほどに破壊された場合も、残りの肉体からは魔法
痕が計測できました。ただし、最初の実験では、何の魔法が使われたのかが、どの部位
からでも明確に判定できたのに対し、魔法を行使した部位を破壊した場合では、残りの
部位からの魔法痕は弱くなるのか、何の魔法が使われたのかは判別不可能になったとの
ことです」
「要望を聞き入れてくれての実験、ありがとうございます。ということは」
 ウィングルが口を開く。
「ラタン湖で見付かった首無し死体は、魔法の影響を受けていない、つまりアルセ殺し
の犯人ではないと言えそうですね」
「そうなります。アルセ殺しの犯人が便乗して、いかにもアルセから顔面に念写された
ように見せ掛ける目的で何者かを殺害、頭部を切断・隠蔽した可能性は残りますが」
「スペンサーさん、その構図であるならば、便乗と言うよりも、かねてから殺したかっ
た奴をついでに始末したとでも表現すべきでは」
 ランカスター刑事の指摘に、スペンサーは一つ咳払いした。
「まあ、分かり易いように各自解釈してくれればいい。さあて、ここからはランカス
ター、おまえさんの出番だ」
「ええ。分かっています」
 カップの底に残っていた、僅かばかりのお茶を喉に流し込むと、ランカスターは座り
直した。
「ウィングルさんから出されていた質問についてですが、まず、オーレイ・ホブマン事
件において、魔法痕の検出はどんな具合だったのか。最初に言及すべきは、やはり遺体
でしょうね。オーレイの遺体からは、どんな魔法か不明ですが魔法痕が二つ、検出され
ました。オーレイの死から間もない時点での計測でしたので、もしも魔法が彼の死に関
係しているのであれば、その種類は判定できる。だが実際には判定不可だったのだか
ら、オーレイの遺体から検出された魔法痕は、彼の死亡には関係していない、言い換え
れば生前に受けた何らかの魔法だと結論づけました。
 次に、周辺において関係性が疑われる地点も、魔法痕の有無を調べました。具体的に
は、血の落ちていた場所や農場の牛舎に厩舎、縄の類を保管する物置等々。遺体のあっ
た場所は言うまでもありません。その結果、魔法が使われていたのは、遺体の周辺だけ
でした。そして使われていた魔法は、不明の一回分を除くと、オーレイ・ホブマン自身
の伝達魔法が複数回だと分かりました。推測するに、これはオーレイが救助を求める声
をジーン・ホブマンに送ろうとしたのではないかと。しかし、現実問題としてジーンは
ワウブリンにおり、救助に駆け付けるのは不可能に近い」
 不可能の断言しなかったのは、ジーン・ホブマンの近くに移動魔法や治療魔法といっ
た、何らかの形で救助に役立つ魔法の使い手がいれば、妹を通して助けを求め得るため
だ。
「ジーンが深夜になって駆け付けたのは、オーレイの声を聞いたというのもあったの
か」
 スペンサーが独り言のように呟いた。ホブマン農場の捜査に関して、細かい点までは
聞かされていないようだ。
「ジーン本人が証言しています。声は聞こえたが聞き取りづらく、窮地に立っているこ
とだけは分かったが、いずれにせよどうすることもできなかったと。実際には、その時
点で町の救助隊が集まり始めていたから、ジーンが何らかの手を打ったとしても、オー
レイを救えたとは思えない。大勢に影響はなかったでしょう」
「あー、ランカスター刑事。よく分かりました。ところで、オーレイの右腕は調べまし
たか」
 刑事同士のやり取りが済んだところで、ウィングルが待ちかねた風に尋ねた。
「いえ。炭化が非常に進んでおり、また欠片に近い状態でしたから、事案発生時点では
調べませんでした。この度、あなたの指摘を受けて慎重に分別し、検査をしたところ―
―」
 一旦、口を閉ざすランカスター。勿体ぶっているのではなく、悔しがっているのは、
唇の噛みしめ具合から窺えた。見落としをしていたことと、それを素人からの指摘でや
っと気付いたことに対して。
「――使用の痕跡が認められました。そこで詳細に皮膚を検査分析し、相当不鮮明では
あるものの、魔法でしか付けられない文字の一部と見られる線が確認できました。他の
状況と考え合わせ、ロドニー・アルセの念写で間違いありません」
「つまり、オーレイ・ホブマンがアルセを殺した可能性が急浮上した訳です」
 ランカスターのあとを引き取って、スペンサーが言った。この辺りの捜査情報は、当
然ながら刑事達で共有済みである。
「思い付きが的を射ていたようで、私個人としては安心できました」
 柔和な笑みを見せるウィングル。一方、フェイドはいささか険しい顔つきになって、
遠慮のない批判を展開した。
「ちょっと待ってください。じゃあ、ランカスターさんは、オーレイ・ホブマンの右腕
の検査を怠ったばかりか、遺体から出た魔法痕の内、不明の一回分について深く考慮せ
ずにいたってことですよね?」
「まあまあ、フェイド君。魔法を分離した肉体に加えた場合の考察は、警察もまだ手付
かずで、捜査手法として確立していなかったのだから、やむを得ない面はあるよ」
「ですが、ここで甘い顔をしていたら、犯罪者に先を越されてしまいそうで、私、心配
なんです」
「肝に銘じます」
 ランカスターは深々と頭を下げた。スペンサー刑事の後輩で若いといっても、フェイ
ドよりは年上のはず。一人前の刑事たる男が、割と素直にミスを認め反省するのは、な
かなか珍しい。
「分かってくださればいいんです。私も不躾な物言いをして、ごめんなさいね」
 フェイドが殊勝に詫び、継いでぱっと明るい笑みを見せたことで、場の空気が少々弛
緩した。

「えー、それでは次に」
 フェイドがお茶を入れ直したあと、事件の話は再スタートを切った。ランカスター刑
事は、どことなくフェイドの視線を避けるように、身体をウィングルに向けた。
「以下はスペンサー刑事の受け持ちとも言えますが、私が引き続き説明をします。ロド
ニー・アルセの遺体発見現場で見付かった、尿の件です。遺体発見時で既に死亡から四
ヶ月が経っていたため、種類こそ分からないが、アルセの遺体には魔法を一度、行使し
た痕跡があった。これ自体は当初より判明していたことであり、いかなる魔法が使われ
たのか、それは犯行に関係しているのかは、想像する他ありません。そしてこの度、ウ
ィングルさんから提示されたのが、尿の移動による殺害現場の偽装という説でした」
 ランカスター刑事は魔法医を見やった。ウィングルは特に反応することなく、続きを
待った。
「飽くまで想像ですが、ジーン・ホブマンの分離魔法を用いれば、死後間もないアルセ
の身体から、尿を抜き取ることは可能でしょう。四ヶ月前、死んだアルセから尿をでき
る限り分離し、遺体発見場所の地面に散布。頃合いを見て、遺体をその上に遺棄すれ
ば、あたかもアルセがその場所で絞殺されたような現場が完成します。
 ならばジーンもまた兄と同様、アルセ殺しの犯人かというと、疑問符を付けねばなら
ない。彼女にはアリバイがあるので。遠距離を瞬時にして移動できる魔法の使い手が知
り合いにいるという情報もない。ですが、ホブマン家がアルセ殺しに関与した疑いは濃
厚です。そこで、我々警察はホブマン農場一帯の土を、アルセの遺体の首に残されてい
たロープにこびりついた土と比較し、同一と見なせる物がないか調べました。すると、
農場内ではなかったものの、すぐ隣にある沼地の泥の成分が、ロープの土と一致するこ
とが明らかになった。これは恐らく、アルセの遺体がしばらくの間、沼に沈んでいたこ
とを示唆する証拠と思われます。その仮定に基づき、沼及び周辺を捜索したところ、沼
の一部を囲う柵から、オーレイ・ホブマンの指紋が多数検出されました。ちょっと寄り
掛かったというようなものではなく、沼の縁に立って何かをするために柵を掴んだ、そ
んな指紋の付き方でした。さらに、オーレイの指紋に上から重なるようにして、ジーン
の指紋も出ています。数は兄よりも若干、少なめでした」
 ランカスターはさすがに喋り疲れたのか、お茶を呷った。その隙を突いた訳でもない
だろうが、今度はスペンサーが口を開く。
「よし、交代しよう。残るは首無し死体だ。身元不明のままだったが、事ここに至っ
て、ホブマン家に関係する人物ではないかとの推測が成り立つ。周辺の人物を当たって
みると、一人、行方知れずになっている男がいた。ナッソー・ロメイン、この町の出身
で、現住所はワウブリン。木材業者のレロイ・マクガートのところに勤めていて、ワウ
ブリンでの窓口業務の一端を担っていたようです。ジーンとはワウブリンで知り合い、
付き合っていたが、およそ四ヶ月前から姿を目撃されていない。ここまで分かれば、
ジーンに聞くのが一番だ。呼び付けると疑っているのを勘付かれる恐れもあったので、
こちらから首都に出向いて事情聴取をした。案外短い時間で、口を割りましたよ。列車
の切符を二人分、購入した記録が残っていたのも効いたんでしょうが。それで、ウィン
グル先生? ジーンがどう行動し、犯行に関わったのか、絵は描けてますか? 一通り
の自供を引き出せたので、おおよそのところは掴んでいます」
「答合わせという訳ですか。あんまりいい趣味じゃないですが、色々と動いてもらった
手前、私も恥を掻くつもりで話すとしましょう」
 ウィングルはひと呼吸を置き、少し考えてから語り始めた。
「うまくまとまっていないから、行きつ戻りつになるかもしれませんが、ご容赦を。山
火事のあった日、ジーン・ホブマンはオーレイ・ホブマンからの声を受け取った。それ
は彼女が警察に当初証言したような救いを求める内容ではなく、家の名誉を守るための
懇願あるいは脅しだったのではないでしょうか。オーレイはきっと、こんなことを言っ
たんです。『ロドニー・アルセを殺してしまった。隠蔽したいが、俺も山火事に巻き込
まれて長くは保たない。あのままアルセが見付かれば、ホブマン家の名は地に落ちる。
ジーン、おまえにも人殺しの妹という汚名が着せられるだろう。そうなりたくないな
ら、一刻も早く帰郷し、沼に沈めてあるアルセの遺体をうまく処理しろ』」
「まあ」
 高い声で反応したのは、もちろんフェイド。
「そんなことを頼まれて、実行するものかしら」
「状況と性格に因るんじゃないかな。ジーンは調香師として成功をつかみかけていたか
もしれない。ああ、オーレイはアルセから右手に何らかの印を付けられたことと、右腕
を犠牲にしてどうにか消したことも、ジーンに伝えたんじゃないかな。そうでないと、
いくらジーンが急いでもどうしようもない。オーレイの覚悟を感じ取ったからこそ、隠
蔽工作をする気になったのかもしれない」
「完全に納得した訳ではありませんけど、そういうことにしておきますわ」
 フェイドが澄ました調子で答えるのを聞き、ウィングルは思わず苦笑した。刑事達も
笑いを堪えている様子だった。
「決意したジーンは、夜遅くに農場へ到着すると、警察や消防から説明を受け、家の事
情や兄の様子を話した。ですよね? それから警察や消防が引き上げたあと、秘密の行
動に移ったはず。沼の岸辺に立ち、兄が沈めたという遺体を探し、引き揚げた。このと
き、分離魔法が役立ったのかもしれません。ジーンがどれほどの腕力の持ち主か知りま
せんが、女性が大の男の、それも死んだ者を沼から引っ張り上げるのは、簡単ではない
と思えます。でも、アルセの身体に付いた水分や、体内のあらゆる液体を一時的に分離
すれば、それだけ軽くなるし、乾燥もするでしょうから、扱いは容易になる」
「まるでミイラか何かのように?」
 ランカスター刑事の質問に、ウィングルは困り顔を返した。
「そこまでやったかどうかは分かりませんが、ジーンがアルセの遺体に魔法を使ったの
は確かでしょう。少なくとも、尿の移動をしなければいけないのだから。彼女がいつの
時点で遺体を遺棄する場所を定め、そこに尿をばらまいたかは知りませんが、魔法痕で
特定されるのを避けるために、なるべく早い段階でやったはずです。そもそも、遺体が
死後四ヶ月なのに、尿がたっぷり地面に染み込んでいるのはかなり不自然になってしま
いますから」
「アルセの遺体を四ヶ月間、どこかに隠しておいたんですね」
 フェイドが尋ねる。
「けれども、一体どこに……。下手に動かすくらいなら、沼に沈めたままと変わらない
でしょうに」
「いや、メタンガス流出の件を忘れてはいけない。完全に鎮火したあと、ガスの発生源
を特定するため、沼を調査するかもしれない。沈めたままだと、早々に発見されてしま
う」
「なるほど、そうでしたわね。是が非でも移動の必要があったと」
「恐らく、というか、私がジーンの立場で遺体を隠さなければならなくなったとした
ら、乾いて軽くなった遺体と液体分を別々に、ワウブリンの自宅へ運ぶね。この町で起
きた事件だ、遠く離れた家を捜索される恐れはかなり低い。あったとしても先のことに
なるという計算が立つ」
「ああ、ウィングル先生。一つ付け加えておきますと、ジーンの魔法は、分離した液体
を重さとは無関係に、人目にさらすことなく自由に動かせる、つまり持ち運べるんで
す。まあ限度はあって、本人の体重以上の重量は無理のようですが。普段は、香水の調
合に使うだけだから、重量感のある液体というイメージが湧きにくい」
 スペンサーの補足に、我が意を得たりとばかりに頷いたウィングル。
「それなら別々ではなく、一度で怪しまれることなく運べるね。次は――そう、ロメイ
ン殺害だ。ジーンはアルセが殺されたことそのものは、機会を見て公になるよう仕向け
るつもりでいた。襲われたアルセが犯人に何らかの印を残すはずだと警察が推理するの
を見越して、ロメインを殺害し、首無し死体として晒す計画を立てた。これも急がねば
ならない。いずれ見付かるアルセの遺体から死亡が四ヶ月前と判明しても、ロメインが
三ヶ月前まで顔に印を付けられることなく、大手を振って歩いていたら辻褄が合わなく
なる。殺そうとするからには二人の仲は冷めてたんでしょうが、ジーンは兄を失った寂
しさでも口実にしたのかな。よりを戻すことを匂わせつつ、故郷への同行をロメインに
頼んだ。そして、まあ、殺害時の細かい様子は想像つきませんが、凶器や切断道具は農
場にいくらでもあったと思います。うまくやり遂げたジーンは、頭部のないロメインの
遺体を、ラタン湖に沈める。身元不明でさえいてくれれば、いつ見付かってもかまわな
いと言えますが、理想はやはり、アルセの遺体の発見後でしょうね。だからもし、ジー
ンがロメインの遺体の浮上を調節するとしたら、水より比重の重い液体を詰めた袋を錘
にして、ロメインの身体を水中にアンカーしておくというのはどうだろう? アルセの
遺体が見つかったというニュースを知ったら、ワウブリンからやって来て、袋の液体を
分離魔法で抜き取れば目的達成です。このやり方なら、魔法痕は遺体には残らないでし
ょう」
 ウィングルがこう述べると、スペンサーとランカスターは「これは」「ああ」等とや
り取りした。次いで目配せをしたかと思ったら、若いランカスターの方が、「ちょっと
失礼をします。話は進めてくださって結構です」と言い置いて、出て行った。
「どうなさいましたの?」
 フェイドのきょとんとした眼差しを受けて、スペンサーが苦笑いをなした。
「いやあ、今し方の先生の推理が、ジーンの自供にはなかった事柄だったんで、確認に
走らせたんでさあ。推理通りなら、湖には明瞭な魔法痕の残った袋があるはず」
「ということは、ロメイン殺害を全面自供した訳ではない?」
「そうなんです。ジーンは計画殺人ではないことを訴えておるんですが、先生の袋説が
当たりだったら、覆せますよ」
「ふむ。ちなみに、これまでの推理はどうです?」
「誇ってもいいと思いますよ、ほぼ当たっていると言えます。オーレイが右手の印を処
理できたかどうかは、賭けだったようです。ジーンに届いたオーレイの音声魔法は、右
腕ごと炎に巻かれて焼けたとのみ伝えたらしいので。さて、続きと行きませんか」
「続きと言われても、あとはジーンがアルセの遺体を四ヶ月後に発見させる段取りくら
いかな? ロメインがマクガートの会社の社員なら、どの辺りをいつ調査するかの計画
を知っていた可能性がある。ジーンはそれをロメインから聞き出し、えっと何ていう名
前でしたか、マクガートのところの……そう、ドロン・バスが調査に来る前日に、遺体
を持ち出し、予め尿を散布しておいた場所に放置したんでしょう」
「はいはい、お見事です。ジーンはロメインの手帖を盗み見たと言ってましたが、大き
な違いじゃない」
 拍手の形に手を動かしてから、お手上げのポーズをしたスペンサー刑事。ウィングル
はさすがに面映ゆくなって、鼻の下を指で擦った。
「アルセの遺体にあった魔法痕は、ジーンが遺体から尿を始めとする液体を分離したと
きのものですね。戻す場合は、分離と戻すのとで一回と数えるから、魔法痕は四ヶ月前
のものとして検出された。遺体発見現場の魔法痕は、多分、ジーンが尿を撒いたとき、
地下により染み込まさせようとしたんじゃないでしょうか」
「それもご名答です。取り調べの場に、こっそり忍び込んでいたんではないでしょう
ね」
「はは。運に恵まれるのもこの辺まで。ジーンのやったことは、当人が生きているから
探りようもありますが、オーレイの方はなかなか難しいでしょう」
「アルセの念写で右手の甲に何らかの印を付けられたのは確実で、ジーンの証言もあり
ますし、凶器のロープに付着した土は、沼の物と合致した。これだけ証拠が揃えば、
オーレイがアルセ殺害犯であることは立証済みと言えますな。ただ、動機はまだ分から
ない。オーレイがアルセの店を利用したことはあったが一度だけ。だいたい、一体全体
何があってアルセを殺した直後、牛を追い掛けるような事態になったのやら。人を殺し
ておいて、牛を気にするのはしっくり来ないし、天候の悪化は予想できていたろうか
ら、いくらオーレイでも家畜が外に出ないようにするくらいは、ちゃんとやっていたと
思えるんですがねえ」
「……意図的なのかもしれない」
 ウィングルの呟きを、スペンサーもフェイドも聞きとがめた。二人の声が被さって、
聞き返す。
「何が意図的ですの、先生?」
「オーレイ自身が、牛を一頭、外に出したんじゃないかっていう……待って、思い付い
たばかりで、まだまとまらない。あ、そうか。アルセはオーレイの顔ではなく、右手に
印を念写した。そこ、気になってたんです」
「顔でも手でも、大差はないでしょう」
「いえいえ。手なら理由を付けて覆い隠しやすいんですよ。それが顔だとなかなか難し
い。続けざまに怪我をしたと嘘を吐いても、怪しまれるのは手よりも顔です。殺人犯と
して告発するためなら、顔に念写する方が絶対にいい。にもかかわらず、アルセは手に
やった。考えてみたんですが、アルセはオーレイに警告して、殺人行為を止めさせたか
ったんではないでしょうか?」
「警告?」
「今まさに自分を絞め殺そうとしているオーレイの右手に、殺人を告発する印を浮かび
上がらせるんです。同時に、ありったけの息を振り絞り、『オーレイ、手を見ろ! そ
いつを消せるのは私だけだぞ!』とでも叫ぶ」
「なーるほど。顔に印を念写したら、オーレイ本人には見えないから効果が薄い、か」
 感心するスペンサー。ウィングルは浮かんだばかりの推測を続けた。
「オーレイに少しでも冷静さが残っていれば、気付いて我に返るでしょう。手の力を緩
める。ところが、とうに瀕死の状態になっていたアルセは崩れ落ち、沼にはまってしま
う。ああ、凶行の現場は沼の畔だったと思います」
「沼に落ちたアルセを、オーレイは……とりあえず助けようとするでしょうな。印を消
させたあと、また殺そうとするかもしれないが」
「ええ。でも沼は沼地と呼べるほどぬかるんでいて、引っ張り上げることは困難だっ
た。アルセに意識があれば、また違ったかもしれませんが、意識を失っていたとした
ら、ずぶずぶと沈む一方だった可能性が高い」
「――あ、そこで牛ですか。牛に引かせて、アルセを沼から出そうと考えたんだ、オー
レイは」
「はい、私の推測ではそうなります。オーレイは輪っかにした縄をアルセに放り、その
縄の他端を牛に結わえた。だけど、輪がうまくアルセにはまらなかったのでしょう。柵
に掴まり、なるべく近くから投げようとしたんだと思います。柵から見付かったオーレ
イの多数の指紋がその証です。そんな努力も空しく、輪の準備が整わない内に、牛が突
然走り出してしまった。雷が鳴ったせいかもしれない」
「ああっ」
「牛に結わえた縄を、オーレイは当然手で握っています。慌てて引っ張りますが、力で
叶うはずもなく、逆に引っ張られる。ここで縄を手放せたらよかったんですが、恐らく
は右腕にしっかりと絡みついていたんじゃないでしょうか」
「うん? 何故、そんな風に思うんです?」
 スペンサーが待ったを掛けた。フェイドも追随する。
「そうですよ先生。右腕に縄が絡まって引っ張られたのなら、そのままオーレイ・ホブ
マンは引き摺られていきます。農場からは、馬も外に出されていたんでしょ? オーレ
イは牛を追い掛けるために、馬に乗ったはずです」
「牛が逃げただけなら、他の牛を出してくるさ。そのときのオーレイは、アルセを沼か
ら出すのが最優先事項なのだから。なのに、馬に乗って牛を追ったのは、それ以上の緊
急事態が起きたからに違いない」
「……分かりませんな」
 スペンサーが首を横に振り、フェイドはただウィングルの答を待った。
「縄が右腕に絡まったオーレイは、都会暮らしが長かったせいか、自らが沼にはまるの
を恐れて、しばらく頑張ってしまったんだと思う。左手は柵を掴んでいただろうしね。
そして頑張った結果、右腕が肩から千切れた」
「――」
 スペンサーは目を丸くし、フェイドはぽかんと開けた口を素早く両手で覆った。ウィ
ングルは彼自身の台詞の余波を楽しむでもなく、淡々と話を続けた。
「繰り返し念押ししますが、飽くまでもこれは推測、思い付き、空想です。右腕を持っ
て行かれたオーレイは、次にどうしたか。応急処置? 人を呼ぶ? それらも考えたか
もしれません。だが、衣服がうまい具合に捻れて止血の役を何とか果たしていると分か
ったなら、どうでしょうか。一刻も早く牛に追い付き、右腕を回収したいと考えるので
は。そこで馬を出してきたんです。そうだ、農場にあった血痕は、右の肩口から滴り落
ちた物だったと考えられます。オーレイは左腕だけでどうにか馬に乗り、牛を、右腕を
追った。すでに山火事の発生していた森に入ってから、右腕は縄から外れたんでしょ
う。それに近づき、回収しようとしていた矢先、またも雷鳴です。もしくは落雷か。激
しく驚いた馬はオーレイを振り落として、居心地のよい住処を目指し、来た道を戻っ
た。オーレイは自身の右腕を傍らに、振り落とされた衝撃で動けなくなる。さらに、さ
らにです。運の悪いことに、落雷か炎のせいか分かりませんが、近くの大きな木が倒れ
てきた。強烈な打撃を食らう形になったオーレイは、自分の命はここであきらめたかも
しれない。でも、家のことが頭をよぎった。ホブマン家の名誉はどうなる? アルセは
まだ息があったが、あのままではいずれ死ぬに違いない。オーレイが、会社を売り払っ
て戻ったというだけでも恥に感じていたのだとしたら、この上、殺人犯の名を冠せられ
るのは耐えがたい苦痛に思えたでしょう。そんな死の間際に脳裏に閃いたのは、己の魔
法を使ってジーンに後事を託すこと。――こういう顛末だったんじゃないでしょうか
?」
 感想を求めるウィングルに、スペンサーもフェイドもしばし言葉を失った。

 その後、ジーン・ホブマンの証言で、オーレイはこんな“企み”を冗談半分に話して
いたとされた。
『田舎に戻ったら、念画家がいてね。アルセっていう奴なんだが、推理小説が好きって
言う割には素直な性格をしていて、騙されやすい。思ったんだが、もしも金に困るよう
なことが将来あれば、アルセを仲間に引き入れりゃ簡単に稼げるんじゃないか? ほ
ら、ワウブリンで流行り出してるだろ、写真をネタに金持ちを恐喝するってのが。あれ
って、苦労して写真を撮らなくても、念写で充分じゃないか。アルセに金持ちの悪事や
濡れ場を念写させて、そいつをネタに脅すんだよ。事実に合うような念写が難しかった
ら、美人女優のヌードを念写するのもいいかもな。飛ぶように売れるぜ、きっと。アル
セを仲間に引き込む方法? それは色々あるが、ギャンブルが手っ取り早いな。ギャン
ブルで最初勝たせて、調子づいたところをいかさまで借金を作らせるんだ。それを免除
してやる代わりにって言えば、従わざるを得まい』

――終




#504/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:02  (413)
そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香
★内容
「身を守る一番の方法は、危険に近付かないこと。だけどまあ、これは土台無理という
もので、危険が向こうから近付いてくる場合を想定しなければいけない」
 柔斗の師範代だという浅田沙織(あさださおり)は、年齢で言えば純子の十ほど上だ
った。しかし、身長はほぼ同じ。さすがに肉付きは、日頃から鍛えている浅田は“分厚
い”が、太っている感じはしない。詰まっている感じだ。それでいて柔軟性があること
は、事前の準備運動で見せつけられた。
「二番目は逃げる。逃げられるのならとっとと逃げる。周りに助けを求める。これらが
できないとき、初めて相手の身体に触れて、逃げるための道を開くわけだ」
 喋り口調は男っぽいが、声の質自体は女性らしい、高いものだった。ひっつめにした
髪をまとめるのも、ピンク色のゴム。
「さて、涼原さん。聞いた限りでは、あなたにとって最も想定される危機的状況は、フ
ァンを装って近付いてきた相手が、いきなり襲ってきた場合だと思うのだけれど、ど
う?」
「どう、と言われましても」
 考えていなかった純子は、正直に戸惑いを露わにした。
「恐らく、そうでしょう」
 代わって答えたのは相羽。女性二人が私服なのに対し、彼だけ白の道着だ。靴はス
ニーカーを、相羽を含めた三人ともが履いている。道場の一角に敷かれたマットの上
で、護身術教室は進められていた。
「あるとしたら、刃物か長い棒のような物を振るってくるか、何かを投げてくるか」
 そこまで答えて、相羽は純子に目を合わせた。
「怖い?」
「怖い。けど、その対策に、護身術を習うんだから、状況を想定するのは当然て分かっ
てる」
 純子は胸の高さで、両拳をぎゅっと握った。
 浅田は頭を掻きながら、「投げてくるのは、厄介だな」と呟く。
「石のような固い物かもしれないし、液体の劇物かもしれない。何か投げられたと思っ
たら、両腕で、頭と顔、特に目を守るぐらいか。ただし、亀の姿勢になるのはだめだ」
「亀?」
 内心、怖さがいや増すのを覚えながら聞いていた純子は、いきなり飛び出した生物名
に首を傾げた。そこへ相羽がフォローを入れる。
「浅田先生、噛み砕いてお願いします」
「先生と言われると歳を取ったと実感するから、『さん』付けでいい。ついでに、君が
説明してあげて」
「――亀の姿勢というのは、地面にひれ伏して、頭を両手で抱える格好で……やった方
が早いか」
 相羽はその場にしゃがみ、爪先を立てた状態で正座をすると、上半身を前向きに倒し
た。そのまま、両手で後頭部を覆う。
「そう、これが亀の姿勢。こういう風にしゃがみ込むのはまずい。相手に距離を詰めら
れ、さらなる攻撃を受ける」
 相羽のすぐ近くに立った浅田は、蹴りを入れるポーズだけをした。
「液体なら、真上から掛けられる恐れもある」
 やはり仕種だけやってから、浅田は相羽に立つように言った。
「逃げられる内は、とにかく逃げて離れる。相手と距離を取る。近くに何か物があれ
ば、利用してもいい。傘とか椅子とか。
 ここまでは術と言うより、心得だね。距離を詰められてからが術。闘いのプロでもな
い限り、攻撃の動作はだいたい、二段階から三段階からなる。そのことを分かっていれ
ば、第一撃をかわすことはさほど難しくない」
「そ、そうですか?」
 信じられないとばかりに口走った純子。
 と、浅田はいきなり右手を大きく振り上げた。
 頭の上の手刀が振り下ろされる前に、純子は後ろに飛び退く。
「ほら。こういうこと」
「あ――理解しました。でも、毎回、うまく行くとは限らない気がします」
「そりゃあ、当てようと思えば当てられる。たとえば」
 浅田の話の途中で、相羽が突然、「あ、浅田先生!」と叫ぶ。純子はびっくりして両
手を握り合わせ、硬直してしまった。次にきょとんとした。浅田がにやっと笑って、相
羽に対して片手を上下に振っているのだ。
「分かってる分かってる」
「寸止めでもだめですよ!」
「何で」
「驚いてよろめいて、足首をくじくかもしれないじゃないですか」
「なるほど。モデルやら何やらをやっている人に、そいつはよくない、な」
 浅田は「な」を言い切ると同時に、ハイキックを放った――相羽に。
 純子が息を飲んで状況を理解したときには、浅田の右足の甲が、相羽の頭のすぐ横で
停止していた。相羽は左腕を上げてガードをしていたが、その腕とほぼ重なる位置にあ
る。
「お、反応、早くなったねえ」
 足を戻す浅田。にこにこしている。
「浅田先生!」
「だから、『さん』付けしなさいって。今のはいつまでも先生先生と言い続けた罰」
「じゃあ、浅田さん。浅田さんが靴を履いてなかったら、多分、ここまでガードできて
ません」
「かもね」
 そう言ってから、やっと純子の方に意識を向けてきた浅田。
「今やったみたいに、技を修めた者になると、一見、ノーモーションで攻撃を繰り出せ
る。完全なノーモーションは達人レベルじゃないと無理だから、一見と言ってるけれ
ど、とにかく経験者が素人に当てることは、割と容易い。でも、あなたが想定している
のはそういう空手の有段者みたいなのじゃないでしょう?」
「……」
「うん? 聞こえてる?」
「あ、はい」
「びっくりさせちゃったかしら。彼氏が蹴られそうになったのを見て」
「そ、それもありますけど。凄く、きれいだなあって」
「きれい?」
「ぴたっと止まった形がきれい。一連の動きも素早くて、目にも止まらない……美しい
流れ? そういう風に感じたから。私もやってみたいくらいです」
 純子の返事に、浅田は最初、目を丸くしていたが、やがて笑い声を立てた。
「はははっ、これはいいね。相羽君、彼女は意外と才能があるかもしれないよ」
「……もしくは、美的感覚が鋭いからかもしれませんね」
 相羽は淡々とした調子で言ってから、道場の先輩女性に微苦笑を返した。
 浅田は少し考え、ピストルの形にした右手で、純子の方を指差した。
「聞いた話だと、運動神経はいいんだよね。バク転ぐらいは楽にできるとか」
「楽じゃありませんよ〜。それにしばらくやっていませんし」
 と言うや否や、二人から五歩ほど離れた純子は、バク転をやってみた。
「あ、できた」
 よかった、と笑う純子に、浅田が感心した風に息をつく。
「その分ならバク宙だってやれそうだね。蹴りにしても、まあ威力は別として、型だけ
ならじきにできるようになるんじゃないかしら」
「あの、今日一日だけの予定なんですが」
「そうか、そうだったわね。まあ、本当にやりたいのなら、型は追々ね。では、本題に
戻るとしましょう。どこまで言ったっけ?」
 問われた相羽が「ほとんど進んでません。亀まで」と答えると、「まさしく亀の歩み
だ」と自嘲する浅田。
 純子もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは逆関節の取り方から。最初、私が相羽君を相手にやるから、よく見ておいて。
次に格好だけの真似でいいから、同じく相羽君に技を掛けてみる。いい?」
「はい。お願いします」
 浅田は相羽に対して一つ頷き、相羽も同じ仕種で応じた。それから相羽は右手を振り
かぶり、いかにも暴漢が襲ってきたような動きをする。いつの間に用意したのか、ボー
ルペンを握っていた。その攻撃を浅田は右肩を引いてかわすと、相羽の腕を脇で抱える
風にして捕らえた。総じて、ゆっくりめに行われているのは、素人目にも分かる。
「ここで肘を逆方向に極めながら、手首を内側に折り込み、得物――武器を落とさせ
る」
 相羽はボールペンを落とした。本当に極められて痛かったのかどうかは、純子には分
からなかった。浅田はすぐには解かず、続けて相羽の右手首を巻き込むように捻る。も
ちろん、形だけだ。
「肘を極めるのが無理そうなら、相手の手首を外向きに捻る。相手との距離は縮まる
が、武器を手放させるのが第一だ。そしてさらに続けて」
「ま、待った、浅田さん。ここで区切りましょう。一度に覚えるのは大変だろうし、こ
っちも怖くてひやひやものですよ」
「それもそうか。了解した」
 手をゆっくりと放す浅田。相羽は自由になった右手を二、三度振ると、先程のボール
ペンを拾い上げる。
「さてと。準備はどう?」
 純子へと向き直った相羽は、口ぶりこそ軽やかだったが、真剣な眼差しで尋ねた。
「手順は頭に入ったわ。すぐにできるとは思えないけど」
「私がフォローを入れていくから、とにかくやってみよう」
 浅田に促された純子は深呼吸をした。また「お願いします」と言って、身構える。す
ぐさま避けられる態勢を取ったのだが、それはだめだと首を横に振られた。
「あくまでも日常の中、不意に襲われたことにしないと」
 純子は当初の想定を思い出し、サイン会か握手会でもやる体で、相羽に身体の正面を
向けた。浅田の合図で、相羽が腕を振りかぶった。
 純子はさっき見たままに、右肩を引こうとした。その動きを続けながら、思わず質問
を発した。
「どうして右肩なんですか?」
「え?」
 声を上げたのは浅田で、相羽は動きを途中で止めていた。
「相手が右手に武器を持って襲ってきたら、左肩を引いた方が、避けやすい気がしたん
ですが……おかしいですか?」
「なるほど。これは本当にセンスがあるかもしれないぞ、相羽君」
「ええ」
「じゃ、先にその理屈を教えましょう。もういっぺん、相羽君が振りかぶるから、左肩
を引いて避けてみて」
 真正面、向かい合って立つ純子と相羽。相羽は同じ動作で、右手を振り上げた。
 純子は下ろされる右腕の動きに合わせ、左肩を引いた。自然と、左足も斜め後ろに退
がる。
 と、よけたと思った相羽の右腕が、まだ追い掛けてきた。ボールペンの先が、純子の
みぞおちのやや上に、ちょんと当たる。
「あ、ごめん、当てるつもり、なかったのに」
「ううん。それより、理由の方を……」
「――浅田さん、僕から言っていいですよね? まず、今みたいに、よけてもその攻撃
をかわしきれない可能性が高いこと。人間は通常、脇を開く動作が苦手なんだ。バラン
スが悪くなるというか、力を入れにくくなるというか。相手の右手による攻撃を、右肩
を引く動作でかわした場合、相手から見ればターゲットは右、つまり脇を開く方向に逃
げたことになるよね。そこを追撃しようとしても、力を入れにくいからうまく行かな
い。逆に、左肩を引いてかわすと、相手にとって脇を締める方向に逃げることになる。
だから追撃しやすい」
 純子は相羽の説明を聞きながら、自分でもやってみた。確かに、脇を開く動作の方
が、狙いを定めにくく、力も比較的入りにくい気がする。
「武器の持ち方が順手と逆手とで若干違うけれども、脇を開く方がやりにくいのは一
緒。そしてもう一つの理由は、右肩を引いてよけないと、相手の肘関節を極めるのが難
しい」
 相羽がそこまで言ったところで、浅田が手を一つ打った。
「そういうことで、さっきの動作の続き。先に右肩から引いてみて」
 純子は実際に試してみて、よく分かった。右だと逃げる動作のまま、スムーズに肘を
極められるのに対し、左ではとてもじゃないけれど無理。逆に、襲撃者から抱きつかれ
そうで怖い。
 理解したところで、何度か反復練習をし、次に反対の手で襲撃された場合も同じよう
にやる。
「無論、咄嗟の判断が間に合わなくて、逆の反応をしてしまう恐れだってある。そんな
ときは臨機応変に、相手の突き出してきた方の腕――手首と肘の辺りをしっかり握り、
相手の勢いも利用して投げる、というのもある」
 浅田の追加説明を受けて、またやってみたが、今度も怖かった。投げること自体は、
相羽の身体の重さをほとんど感じずにできたものの、手に持っているのが刃物だったら
と思うと、実践は心理的に難しそう。
「次にやるのは、相手を怯ませ、近付けないやり方になる。まあ、相手が西洋人なら、
空手のポーズをしただけで、逃げ出してくれる場合もなくはないそうだけれど、一般性
に欠けるのでやめときましょう。ということで定番中の定番、金的を」
 浅田が言った最後のフレーズを、純子はすぐには理解できなかった。

 あれは小学六年生の二月だったから四年ほど前になる。スケートに行ったときのこと
を否応なしに思い出しつつ、純子は色々な護身術を通り一遍ではあるが、教わった。身
に付いたと言えるレベルではまだなかったものの、落ち着いた状態なら問題なく技を掛
けることができる。
「じゃあ最後に、人を相手に練習するわけに行かないから取っておいたのを、言葉だけ
で説明しようかな」
 浅田が言った。純子は心中、密かに「金的だって試せません」とつっこんでおいた。
「涼原さん。目突きと言ったら、どんな風に攻撃する?」
「目付き?」
 浅田の問い掛けに対し、純子は根本的なところで単語の意味を取り違えた。
「浅田さん、無理ですよ。武術や格闘技をやっている人か、日常的に喧嘩のことを考え
ているような人じゃない限り、“めつき”と聞いて目を突くことを連想する女性は、な
かなかいないんじゃあ……」
 相羽がこう言ったので、純子も飲み込めた。浅田はと言えば、片手を頭にやって、
「だろうねえ」と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「しかし、秘訣の教え甲斐がないなあ。――涼原さん。漫画なんかで見たことないかし
ら。目を突くと言ったら、立てた人差し指と中指をこうして開いて――」
 右手で作ったVサインを寝かして水平にする浅田。そのまま自身の両目に、それぞれ
の指の先端が当たるよう、ゆっくりと向ける。
「目を潰す勢いで、突く」
「アクション映画で、何となく見た覚えがあるような気がします」
「それはよかった。で……実戦だと、二本の指を二個の目玉に当てるなんて、確率の悪
いことはしない。わざわざ二本指を立てるよりも、五本指で狙う方が当たる確率は高く
なるっていう理屈」
 喋りに合わせ、右手を開いて五本指を見せる浅田。爪のある獣のような手つきだ。
「不審者というか襲撃者に抱きつかれときなんかに有効だろうね。くれぐれも、普段の
喧嘩で使わないように」
「使いませんてば。喧嘩自体、しないし」
「彼氏とはしない?」
 もう指導は終わりという意識が出たのか、浅田は頬を緩めている。
「しません」
 相羽と声が揃った。神棚脇の壁掛け時計を見ていた浅田は不意に、くっくっくと笑い
声を立てた。
「確かに、息ぴったりだ。喧嘩なんて、口論さえしそうにない」
「い、いえ、口喧嘩ぐらいはします、するかも」
 恥ずかしさから、そんなことを口走ってしまった。相羽がどんな表情をしたのかまで
は、見る余裕がなかった。
「あははは。では、これまでのおさらいをして、締めとしましょう」
 浅田はそう言ったが、純子は気持ちを引き締め直すのに結構時間を要した。

 用意してきた服に着替えた純子は、女子更衣室を出ると、先に支度を済ませて待って
いた相羽と合流した。
「このあと、どうするの? もし時間があるのなら、どこか近場でもいいから」
 そう尋ねた純子の方は、時間があった。ミニライブで、急な要請にも快く協力してく
れた二人――星崎と加倉井へのお礼は午前中に終えていた。
「えっと。少しだけなら」
「あ、何か予定があるのなら、無理しなくていい」
「無理ってわけじゃない。ただ、そのぅ」
 言いにくそうにする相羽。純子は待った。道場を完全に出たところで、やっと答えて
くれた。
「今日は五月の第二日曜だから」
「……ああ」
 遅まきながら察した純子は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、相羽君。早く帰らなくちゃいけないわよね。自転車? 歩きだったら、呼べ
ば杉本さんが車で来てくれるかも。ここまで送ってもらったとき、このあとは暇だって
言ってたから」
「純子ちゃん。そんな心配顔、すんなって」
 思いのほか、笑顔で相羽が言った。一瞬、ぽかんとした純子の頬を、左右から両手で
軽く引っ張る。
「笑って笑って。悲しむ日じゃないでしょ」
「――それはそうだけど」
 手を放してもらって、今度は自分の手で頬を撫でる純子。
「いいの? お母さんと一緒にいなくて。お休みなんでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと言ってきたから。そうだな、一時間半は時間ある」
「いいのかなあ」
「不安なら、母さんに電話する? 『母の日ですが、ちょっとだけ息子さんをお借りし
ます』って」
「い、いえ、そこまでは」
「それじゃ、決まり。短いけどデートしよう。と言っても、何の案も持ち合わせていな
いし、荷物もあるし。あ、そう言えば君の方こそ、母の日、大丈夫?」
「え? ああ、そっか。はい、忘れてたくらいだから、何にも考えていなかった」
「もしプレゼントを買うっていうのなら、付き合うよ」
「――うん、そうする。時間もちょうどよさそう」
 この時点で二人とも徒歩だと分かっていたので、並んで歩き出す。とりあえず、駅の
方向へ。
「何かある?」
「ちょっと前に欲しがっていたのは、ミントンだけれど……何かのアンケート結果で、
聞いたことあるのよね。母の日に、家事をしなくて済むとしたら一番助かるっていうの
が多数回答だったとか何とか。ミントンなんて贈ったら、家事を頑張ってくださいと言
ってるみたいで」
「家事……今からじゃ間に合わないね。できるのは、料理を手伝うぐらい?」
「そうよねえ。まさかケータリングや出前を取るなんて、できないし。あの、相羽君は
何するか、聞いてもいい?」
「特別なことは何も。準備は前からしたけどね」
「詳しくは教えてくれないのね」
「だって、教えたら純子ちゃん、また言い出しそうだから。『早く帰らなくちゃ』っ
て」
「う。そう聞いて、今また言いたくなったわ」
 駅に着くと、程なくして目当ての電車が入って来た。今日、時間があまりない二人に
とって、非常にラッキーだ。初めて利用する駅だったので、ターミナルまでの所要時間
の目安は分からなかったが、電車に揺られつつお喋りをしていると、あっという間だっ
た。ロッカーを探し、中に荷物を預けて身軽になってから、候補の店を目指す。
「そういえば、持ち合わせは? 少しだけど協力できるよ」
「ありがとう、でも平気。元々、高価な物にするつもりじゃないから」
 やや慌て気味に断ったのは、パン屋でのアルバイトのことが頭に浮かんだから。今こ
こで少しでも借りたら、誕生日プレゼントを渡すとき、様にならない気がした。
「目当ての店、どっち?」
「新しくできたお店で、私もまだ入ったことがなくて」
 言いながら、フロア入口の壁に掲げられた案内板を見る。じきに分かって指差した。
同じフロアの端っこ。少し距離があったので、早足になる。
「あれって……ファッションの店?」
 見えてきたショップの外観から、すぐに当たりを付ける相羽。一般高校生が入るに
は、少し勇気がいりそうな、黒くて渋い店構え。ショーウィンドウを視界に捉えたとこ
ろで、有名(かつ高級)ブランドを扱っているのが分かった。
「ミントンはなさそうだ……いや、あるかもしれないけど」
 後ろの相羽が呟くのを耳にして、純子は笑顔で振り返った。
「『家事で楽をさせられないのなら、せめて出掛けるときのお洒落を!』作戦よ」
「今思い付きました感が満載のネーミング」
「実際、今思い付いたんだもの。でも、悪くないと思わない?」
「悪くない。いいと思う。そうなると、父の日にはお父さんにお出かけファッションア
イテムを贈らないとね。夫婦仲よく」
「そこまではまだ決めかねますが」
 店先でごちょごちょやっていると、店員からじろっと見られたような気がした。無
論、そんなことはないのだろうけれど、他のお客さんを入りにくくさせたとしたら申し
訳ない。
「すみません。アドバイスをしてほしいんですが、かまいませんか」
 時間がないのに加え、店員に怪訝がられぬ内にと、純子は先に声を掛けた。了解の返
事をもらってから、要望を伝える。
「母の日に、外出時のアイテム、アクセサリーを贈りたいんです。予算は――、年齢は
――、あ、それから金属アレルギーはありません」
 セレクトに役立ちそうな情報をすらすらと並べる。心得たもので、店員もカウンター
を兼ねたショーケースの上に、専用の用紙を取り出し、前もって印刷された選択肢に
次々と丸を付けていった。このときになって初めて、店員の名前が伊土(いづち)さん
だと分かった。左胸にネームプレートがあったのだが、よく見えていなかったのだ。
「――そうですね」
 記入の終わった用紙を見返しながら、伊土は言った。
「具体的に何とお決めでないようでしたら、先に色味を見てみるのがよいかもしれませ
んね。これからの季節、夏に向けてというイメージを加味すると、こちらの」
 純子達から見て右側に数歩移動し、ショーケースの一角を手で示す。
「青系統の物をおすすめします。いかがでしょう」
 言葉の通り、青系統の色を持つアクセサリーが並ぶ。指輪とブローチばかりのよう
だ。指輪が4×4、ブローチが3×4のマトリクスをそれぞれなしている。他のタイプ
のアクセサリーは、また別のところにあるらしい。
 一口に青系統と言っても、様々なバリエーションがあると分かる。ざっと見て、藍色
から水色まで、比較のしやすいように並べてあった。もちろん、同じ色合いのデザイン
違いもある。
「瑪瑙にトルコ石。あこや真珠はちょっと」
 張り込んだ予算額を伝えたせいか、結構高額な物までおすすめされていた。実際、真
珠を施した品は、どれも予算を若干オーバーしている。
(まけてくれるのかな? これと決めたわけじゃないし、聞きにくい)
 なんてことを逡巡していると、一歩退いて立っていた相羽が、呟くような調子で質問
を始めた。
「トルコ石は衝撃や水分に弱くて、特に扱いが難しいイメージがあるんですが、そうい
った普段使いの面で言えば、どういった物がいいんでしょう?」
「そうですね。まず、お断りしておかねばならないのは、宝石はどれもお手入れに手間
を掛けてこそ、本来の美しさを保ちます。この石は大変だけどあの石は楽、というよう
な大きな差は実はございません。普通に手間が掛かるか、とても手間が掛かるかぐらい
の違いとご認識ください」
「はい、分かります」
 純子も相羽と一緒になって頷く。伊土店員は、聞き分けのいい生徒を前にした教師の
ように、にこりと微笑んだ。そして若干柔らかい物腰になって、真珠には真珠の、瑪瑙
には瑪瑙のお手入れの仕方があることを簡単に説明した。
「――青系統ですと、青サンゴもありますね。天然の物と着色した物があって、お値段
はかなり差がありますが、天然物でもご予算内に収まると思います。お手入れの面を考
えると、特別なコーティングをした物がし易いとされています。ただ、強く拭くと、そ
のコーティングが剥離してしまう恐れもあります」
 青サンゴの商品も見せてもらったが、純子の想像とは違って、あまり好みの色合いで
はなかった。
「それでは……ラピスラズリはいかがでしょう」
「あ、宇宙から見た地球みたいな加工をした物を見たことがあります。私、好きです」
「君が好きかどうかより、お母さんが好きかどうかが大事なんじゃ……」
 斜め後ろから、相羽のぼそりとした声が聞こえて、瞬時に赤面したのを自覚する。で
も、店員は優しい口ぶりで応じた。リラックスさせようという心遣いなのか、より一
層、砕けた口調で。
「お母様と好みは被ることが多いですか? たとえば、服を着回しできたり」
「服はさすがにないですけど、好みは近いと思います。あー、でもそれを言い出した
ら、母の一番の好みはオレンジ色や紫色かも。青色はその次ぐらい」
 急な新情報に、伊土店員は丁寧に対応してくれた。オレンジ色ですとこちら、紫色で
すとこちらになりますという風に、流れるように商品を見せてくれる。
「ただ、衣服や帽子といったベースとなる物がオレンジや紫でしたら、同じ色では使い
にくいかと」
 念のために申し添えておきますといった調子で、伊土。純子は「そっか、そうですよ
ね」と首肯する。
(モデルをやるようになってだいぶ経ったし、デザインとかコーディネイトとか、ファ
ッションには結構自信が付いたつもりでいたのに。いざ贈るとなったら、迷っちゃう)
 時間も気になり始めた。相羽を振り返る。
「どうしよう?」
「僕が選ぶのも変だから、口は出さないよ。まあ、難しく考えすぎなんじゃないかとは
思う」
「え、そうかなあ。だって、折角の機会なんだから、ぴったり合う物を贈りたいじゃな
い」
「気持ちは分かる。でも、純子ちゃんのお母さんて、センスはとてもいいと思うよ。君
のお母さんだけに」
「……〜っ」
 むずむずするようなことをさらっと付け足さないで!と叫びそうになった。お店に来
ているのだと意識が働き、寸前で堪える。
「要するに、何が言いたいわけよ」
「母親のセンスを信じてみれば。純子ちゃんはいいと思った物を贈る。君のお母さんは
どんな物であっても、うまく使いこなすよ、きっと」
「む」
 意見を受け止め、考えてみる。母の姿を思い描こうとすると、家庭で主婦をしている
ところが優先的に浮かぶけれども、たまにお出かけするときや参観日に来てくれると
き、どうだったろう。
(私ったら、モデルや芸能人と接する機会が増えて、何て言うか一般的じゃない、華や
かできらびやかなファッションに基準が傾いていたかも。お母さんなら、ここにあるど
んな物だって、自分に似合うように使うわ、うん)
 気持ちが固まってきた。
「相羽君、ありがとう。決めた」
「え。急すぎるんじゃあ……」
「いいの」
 純子は伊土の方へ向き直った。ショーケースに改めて近寄ると、波をモチーフにした
と思しきラピスラズリのブローチを指差す。
「これが一番いい気がします」

 母の日用にプレゼント包装をしてもらって、店のロゴ入り紙袋ごと渡された。ブロー
チのサイズに比べて少し大ぶりな袋だが、包装を衝撃から守るためのものらしい。
「ありがとうございました」
 店員と言葉が被ってしまって、思わず吹き出しそうになる。でも、一層気持ちよく帰
路に就けそうだ。
「相羽君、アドバイスをありがとね」
「そんなつもりは……少しでも早く終わって欲しいとは思っていたけど」
「あ、退屈だった?」
「そうじゃなくて……残念ながら、もう時間がなくなったってこと」
「え、あ、ほんと」
 首を巡らし、駅ビル内の電光表示時計を目の端に捉え、少々びっくり。こんなに時間
が経過していたなんて。
「ごめんー! お茶を飲む時間くらいあるかなって思ってた」
 両手を拝み合わせる純子に、相羽は「いいよいいよ」と手を振って応じた。それから
片手を自動販売機に向けた。
「中途半端だけど、缶ジュースでよければ飲んでいく?」
「うう、実は少し、カロリー制限をしようと思ってて」
「へえ? 必要なの?」
 あれだけ運動しているのにというニュアンスが、言外に含まれているようだった。
「必要というか、これから必要になるかもしれないっていうか」
 笑ってごまかす。理由を話すわけにはいかないんだった。
「ねえ、それよりも少しでも多く、お喋りしたい。でも相羽君には少しでも早くお母さ
ん孝行して欲しいし」
「――分かった。では、帰るとしますか」
 相羽は詮索することなく、元来た道を戻りだした。


――つづく




#505/514 ●長編    *** コメント #504 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:03  (433)
そばにいるだけで 66−2   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:14 修正 第2版
「じゃあ、最初は慣れてもらうために、パンを並べることからやってください。こうし
て」
 店主は実際にやりながら、説明を続ける。
「まるごと入れ替えるだけ。注意するのは向きだね。こういう風に、お客にパンの顔が
見えるように置く。すると見栄えがいい」
「この、バスケットにパンを一つ一つ並べるのは、誰がやるんでしょう?」
 話の切れ目を捉えて、純子は尋ねた。すでに店のユニフォーム――三角巾にエプロン
姿になっている。髪の毛がじゃまにならないようまとめるのに、ちょっと手間取った。
抜け毛が多いようなら、透明なビニールのキャップを被るように言われている。
「今日は最初、僕か寺東さんがやるから、それを見て覚えてください。明日からは――
明日、来られるの?」
「あ、はい」
「よかった。明日からは、涼原さんが最初からやってみてください。並べ方はそんな難
しいものでないし、今日これから見ていれば分かるでしょう」
「はい」
「今のは通常の話で、人気のあるパンは臨時に補充することがある。焼けた分を並べる
んだけれど、そのとき残っている分があれば、手前の向かって右側に移す。新たにでき
あがった分は、少し間を取って並べる。お客も分かっているから、古い方が残ることが
多いんだけれどね」
「そうなんですか」
 知らなかった。お客として来ていた頃に知っていたら、新しい方を取っていただろう
か。
「まあ、お客がいるところで並べる場合でも、焦らなくていいから。ゆっくり落ち着い
て。お客にぶつからないようにする。あとは……そうそう、型が崩れたり、切れ端が出
たり、あるいは売れ残ったりした分を安売りに回すんだが、その詰め合わせを作るの
も、やってもらおうかな」
 店主がそこまで言ったとき、店のドアの開く合図――ベルがからんからんと鳴った。
「寺東、少し遅れました。すみません」
 寺東は純子が初めて会ったときよりは、幾分丁寧な物腰で入って来た。裏に回らない
のは一緒だが。
「まだ大丈夫だよ。でも準備、急いで」
 店主の言葉に頷きつつ、寺東はこちらに近寄ってきた。唇の両端をにんまりと上げ
て、凄く嬉しそうな顔になった。
「よかった。本当に来てくれたんだ?」
「え、ええ」
 純子の手を取った寺東は、「これからよろしくね」と言った。こちらこそと返そうと
した純子だったが、それより早く、「先輩として、びしびししごいてあげる」と寺東が
付け加えた。
「寺東さん、早く」
 店主が促すが、今度はその店主に向けて話し始める寺東。
「思ったんですけど、早いとこ彼女にパン作りにタッチさせたらいいんじゃないかっ
て。風谷美羽が作ったパンとして売れば、新規のお客さん獲得!」
「寺東さん」
「――はーい。分かりました、着替えてきまっす」
 奥に引っ込む寺東を見つめていた純子だったが、店主の言葉に注意を引き戻される。
「客足の傾向を言うと、今日これからの時間帯、ぼちぼち増え始めるのが通例だから。
曜日や天気もあるから、一概には言えないが、だいたい君達の年代の子が第一波で、第
二波は買い物のついでに寄るお母さん方かなあ。サラリーマンは少ない」
 ということは……純子は頭の中で考えた。
(風谷美羽を看板娘にするのって、効果が期待できないような)
 元々、本意ではないから、かまわないのだが。とにかく頑張ろう。意を強くした。
 しばらくして寺東が出て来た。ユニフォーム姿になると、少し印象が変わる。髪が隠
れるせいかもしれない。
「……うーん」
 と、横に並んだ寺東が、顎を撫でつつ、難しげなうなり声を上げた。
「店長。これって罰ゲームじゃないですかあ」
 そしていきなり、そんなことを言い出した。当然、店主はきょとんとし、次いで「何
のことだい?」と聞き返す。
「こんなスタイルのいい子と一緒に働くってことは、常に見比べられるってわけで」
 寺東は純子を指差しながら答える。
「精神的苦痛がこれからずっと続くと思うと、モチベーションが激減しちゃいそ。せ
め、て、時給を少しでもアップしてもらえたら、やる気を維持できるんですけど」
 昇給交渉のだしに使われたと理解した純子だったが、黙っていた。まだそこまで店の
雰囲気に馴染んでいない。
「……」
 一方、店主もしばらく黙っていた。怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。や
がて、呆れたように嘆息すると、右手で左の耳たぶの辺りをちょっと触った。
「寺東さんはよくやってくれてるしねえ。仕事の前後の言動や態度はちょっとどうかな
と思うことはあるけれども。いざ始まると集中してるし、熱心だし。考慮はする。が、
すぐには無理。新しく人を入れたばかりなんだから分かるでしょう」
 言い終えて、店主が純子の方をちらと一瞥。今度は、昇給を遅らせる理由付けに使わ
れてしまった。
「へいへい。気長にお待ちしまーす。さあ、がんばろうっと」

 聞かされていた通り、高校生から小学生ぐらいまでのお客の波がまずやって来た。途
切れたところで補充に動く。人気は甘い物及びかわいらしい物に偏っている。それを店
主も当然把握しており、追加で焼き上げる分の八割方はそのタイプだ。
 パンの並べ方は、簡単そうだった。全種のパンをまだ見たわけではないけれども、一
度見れば覚えられる。一方、パンを運ぶ段になってちょっとびっくりしたのは、予想外
の重さ。数が集まれば重たくなるのは道理だが、家で食べる分には軽いイメージしかな
かったから、最初は力の加減のギャップから「う?」なんて声が出てしまった。
「いらっしゃいませ」
 ドアのベルが鳴るのに呼応して、寺東と純子の声が響く。始めたばかりの純子は、慣
れるまではとマスク着用。普段の音量だとぼそぼそした声になってしまうので、気持
ち、声を張り上げた。
 その声から一拍遅れてドアの方を振り向いた純子は、入って来たお客さん――女性一
人――を見て、あっと叫びそうになった。思わず、顔を背ける。
(白沼さんのお母さん? このお店で買うんだ? もっと高級なところへ足を延ばすの
かと……って、これは店長に悪いわ。味は最高なんだから)
 などと胸の中でジタバタやっていると、真後ろを白沼の母が通った。幸い(?)、向
こうは純子に気が付いていない様子。マスクのせいもあるだろうが、こんなところにい
るなんて、考えもしていないのかもしれない。
(お仕事のこともあるし、挨拶すべき? でも、アルバイト中に私語はよくない気がす
るし……気付かれたら挨拶しよう)
 レジには寺東が立つことになっている。でも、その他の接客は、声を掛けられた方が
応じる。無論、必要が生じれば、声を掛けられなくても動かなければいけない、が。
(できることなら、アルバイトをしてるって白沼さんに伝わらない方がいい)
 そんな頭もあるため、ついつい、距離を取りがちに。
(しばらく運ぶパンはないし、トレイは片付けたばかりだり、焼き菓子の整頓くらいし
かすることが)
「おすすめはある? 甘さ控えめの物がよいのだけれど」
 突然の質問に、純子は反射的に振り返った。と同時に、意識のスイッチを切り替え
た。自分は久住淳なのだと。
「売れ筋ベストスリーはこちらにある通りですが、この中で甘さ控えめは、胡桃クリー
ムパンになります。酸味が大丈夫でしたら、ヨーグルトのサワーコロネやいちご本来の
味を活かしたストロベリーパンもおすすめです」
 低めにした声で答える。店内のポップを活用しつつ、如才なくこなしたつもり。
「そう、ありがと。どれも美味しそうだから、全部いただこうかしら」
 白沼の母は呟き気味に言って、トングを操った。どうやら純子には気付かずじまいの
ようだ。
 寺東からは、うまくやったねというニュアンスだろうか、ウィンクが飛んできた。純
子はマスクを直しながら、目礼を返した。
(それにしても、今の様子だと来店は初めてなのかしら。気に入ってもらえたらいい
な。あっ、だけど、頻繁に来られたら、じきに私だってことがばれる!)
 あれこれ想像して、頭の痛くなる純子だった。
「お買い上げありがとうございます。――八点で1300円になります」
 寺東の、対お客様用の声が軽やかに聞こえた。

(いけないと思いつつ、もらってしまった)
 午後八時過ぎ、アルバイト初日を終えた純子は白い買い物袋を手にしていた。中身は
売れ残ったパン。人気のパン屋だけあって数は多くないが、どうしても売れ残りは出
る。しかも初日サービスと言って、純子の大好物である胡桃クリームパンをわざわざ一
個、取り分けておいてくれていた。恐縮しきりである。
(これがあると聞いていたから、普段はカロリーを抑えめにしようと決めたんだけど、
だからといってぱくぱく食べていいもんじゃないし)
 自転車置き場まで来ると、先に出ていた寺東が待っていた。自然と頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜。さっきも聞いたけど、このあと暇じゃないんだよね? だったらせめて、
行けるところまで一緒に帰ろうと思ってさ。それともモデルか何かの仕事が入ってて、
絶対にだめとか」
「全然そんなことないです。いいんですけど、確か正反対の方向って言ってませんでし
た?」
「いいのいいの。興味あるから、少し遠回りしていくのだ」
 自転車に跨がり、早く早くと急かせる寺東。
「あ、別に家を突き止めようとか、芸能界の裏話を聞き出そうとかじゃないから、安心
してよ」
「はあ」
 調子くるうなあと戸惑いつつ、純子も出発できる態勢に。漕ぎ出していいものか躊躇
していると、「遠回りするのは私なんだから、あなたが先行って」と寺東に促された。
 ライトを灯しているとは言え、夜八時ともなると暗い。街灯や建物、行き交う自動車
のライトを助けに、比較的ゆっくりしたスピードで進む。
「あんま時間ないだろうから、さっさと聞くね」
「え? あ、はい、どうぞ」
 後ろからの寺東の声に、純子は遅れながら応えた。
「何であんなパン屋でバイトしたいと思ったわけ? 正直なとこ、他のことでがっぽり
稼いでるんじゃないかって思ってたけど、そうでもないとか?」
「えー……っと」
 いきなり、答えに窮する質問だ。一から説明すると長くなるのは確実だし、知り合っ
て間もない人に理由を話すのも恥ずかしい。
「言いたくなかったら言わなくていいし、他言無用だってんならそう付け加えてよ。こ
れでも口は堅いと自負してるんだ。そりゃまあ、バイト面接に来てたあなたのこと、店
長にぺらぺら喋っちゃったくらいだから、無条件に信用してくれなんて言わないけれ
ど。あのときは興奮しちゃって、つい」
 寺東の話を純子は、よく口が動くなあと感心して聞いていた。
(お店では肩の凝りそうな喋り方に徹していたから、今は解放されたってところなのか
しら。まあ、今日だけでもお世話になってるし、これくらいは答えてもいいと思う、う
ん)
 決めた。ただし、多少はオブラートに包もう。
「隠すようなことじゃないんですけど、一応、他言無用で」
「ふんふん、了解」
「お世話になっている人がいて、その人の誕生日が近いんです。プレゼントをして感謝
の気持ちを表そうと思ったんだけど、モデルの仕事とかを始めるきっかけを作ってくれ
たのがその人なんです」
「お、読めた。その人とは関係のない仕事で稼いで、プレンゼトを買いたいってこと
だ?」
「え、ええ。当たりです」
「うんうん、気持ちは分かる。私がその立場だったら、実際に行動に移そうとはこれっ
ぽっちも思わないだろうけどねえ」
 信号待ちで停まったところで、純子は振り返った。気付いた相手は「うん?」という
風に目をぱちくりさせ、次に横に並んだ。
「何?」
「質問、もう終わりかなと思って」
「お、いや、一個聞いたから、次はそっちから質問出るかなと思って。興味ないなら、
パスしてくれていいよー」
「あっあります」
 手を挙げそうになったが、信号が青に切り替わった。寺東に気付かされ、進み始め
る。
「そんで、質問は何?」
「デ、デートではどこへ行って、どんなことをします?」
「――わははは。意表を突かれた。まさかの質問だわ。いるの、彼氏? あ、言えない
か」
「今はまだ……大っぴらには」
 ごまかして答える純子。
「将来、彼氏ができるのはだいぶ先になるかもしれない。それまで全然経験がなくて、
いきなりだと、どうすればいいのか困ってしまいそうで」
「なるほどねー、分からない苦労があるもんなんだ。でも、今は自分もいないからな
あ」
「え、ほんと?」
「こんなことで変な見栄を張ったりしないよ。髪を染めるくらいだから、いると思った
とか?」
「そういうわけじゃないです。寺東さん、とてもさばけていて、男性客の接し方も慣れ
てるように見えたから……」
「それこそ接客に慣れただけ。ま、確かにちょっと前はいたんだけどさ」
「……悪いことを聞いてしまいました……?」
 声が強ばる。知り合ってまだ日が浅いのに、ちょっと突っ込みすぎたろうか。
「気にしない気にしない。別れたばっかなのは事実だけど、引きずってないから。歳は
相手が上で、まだ大学生のくせして、いっちょこ前に起業してさ。私より事業に夢中。
で、時間が合わなかったんだ。まあ、他にも色々あって、しゃあなかったんよ」
「はあ」
「風谷さん……じゃないや、涼原さんも仕事持ってるわけだから、付き合う相手を高校
で探すのは大変と思うよ、多分」
「そ、そうですね」
「そんなわけで、前彼との経験でいいのなら、さっきの質問、いくらか答えられるかも
だけど」
 上目遣いになる寺東。次の信号は青だが、スピードを落とし始めた。
「さすがにもう引き返さなきゃ。今夜はここまでってことで、いい?」
「もちろんです」
 純子も自転車を漕ぐのをやめた。信号は黄色に変わり、ちょうどいいのでストップす
る。
「その内、芸能界の話、少し聞かせてちょうだいね。今日は楽しかった」
「こちらこそ。今日はお世話になりました。しばらくの間、ご迷惑を掛けるかもしれま
せんが、よろしくお願いします」
 頭をぺこり。すると、「固いな〜」と寺東の声が降ってきた。
「普通、逆っしょ? 私が緊張して固くなるのなら分かるけど」
「生まれつき、こんな感じで……じきに柔らかくなると思います」
「うん、期待してる。じゃーねー」
 自転車に跨がったまま、器用にその場で方向転換した寺東は、手を一度振ってから前
を向いた。
「気を付けて!」
「そっちもね!」
 夜の街路に二人の声が結構響いた。

 パン屋でのアルバイトのことは当然、学校に届け出ているが、周りのみんなには内緒
にしておくつもりでいた。
(相羽君が知ったら変に思うだろうし、わけを聞いてくるに決まってる)
 だが、状況は変化した。積極的には宣伝しないとしても、“風谷美羽があそこでバイ
トしている”という噂が流れる程度に知られることで、売り上げに貢献する。本意では
ないが、そういう話になってしまったのだから。
「おばさまにも伝わっているはずなんだけど、相羽君には私の口から言いたくて」
 学校の一コマ目と二コマ目に挟まれた休み時間、純子は相羽一人を教室から、校舎三
階の屋上へと通じる階段踊り場まで連れ出した。念のため、唐沢ら仲のいい友達には仕
事の話だからと、着いてこないように心理的足止めをした。
「うぃっしゅ亭って、あのパン屋さん? アルバイトをって何のために?」
 予想通りの質問を発した相羽に、純子は前もって考えておいた答を言う。
「市川さん達との話で、演技の幅を広げるためには、社会経験を一つでも増やしておく
といいんじゃないかって意見が出てさ。だったら高校生らしいバイトをしてみたいです
ってリクエストしたら、意外と簡単に通って」
「何も仕事を増やさなくてもいいのに」
「もちろん、邪魔にならないペースで、よ。期間も短いし。じきに定期考査があるでし
ょ。その手前でやめる」
「……まあ、君が判断すべき領域の事柄だから、君が必要なことと思ったのなら、僕は
口出ししない」
 相羽がため息交じりに固い口調で言った。ここで終わりかと思ったら、続きがあっ
た。迷いの後、急遽付け足そうと決めた風に。
「でも、時間があるなら、学校の外でももっと会いたいのに――なんてね」
「……」
 相羽の(ほぼ)ストレートな恋愛表現は珍しい。嬉しいのと、本当のことを言い出せ
ない申し訳なさとで、しばし言葉を出せなくなる。
「純子ちゃん?」
「あー、ううん、ごめんね。休める日がないかと思ったんだけど、始めたばかりで、し
かも短期バイトだから言い出せないかも」
「決めたからにはやる方がいいよ、きっと。僕のことは気にしなくていいから。ただ、
学校にモデル仕事にアルバイト、三つを平行してするのは無理だと感じたときは、いつ
でも言って。母さん達に言い出しにくくても、僕が何とかする」
「うん」
 頼もしくさえある励ましの言葉に、純子の返事にも元気が戻った。そして、アルバイ
ト経験を演技に活かすという嘘も、いつか本当に変えてやろうと思った。
「ところで、僕だけを呼んでアルバイトの話をしたのは、何か意味があるのかなあ。み
んなには言ってはいけないとか?」
「あ、それはね、言ってもいいんだけど、万が一にも噂が広がることで、お店に迷惑が
掛かるといけない。例の脅しの手紙は、久住淳宛てだから関係ないと信じてるけれど、
風谷美羽でもアニメのエンディングを唄ってるから、ひょっとしたらがないとは言い切
れないし」
「……うん? 結局、言わない方がいいってこと?」
 時間を気にして戻り始めた二人だったが、すぐに足が止まった。
「虫のいい話なんだけど、ほどよく噂が広まって、それなりに売り上げアップしてくれ
たらいいなって」
 純子は舌先を少しだけ覗かせ、自嘲した。相羽はしょうがないなとばかりに苦笑を浮
かべ、
「だったら、友達みんなで行く方が早くて効果的かも。よし、そうしよう」
 と早々と決めたように手をぽんと打った。
「一度に大勢来られたら緊張して、凄く恥ずかしい気がするけど、がんばるわ」
「平日の放課後、みんなで遠回りしていくのは大変だから、土曜がいいかな。あ、で
も、純子ちゃんは土曜日、バイトよりもルーク関係だっけ?」
「ううん。そっちの方は、テストが近付いてるから、土曜どころかほぼ休み。なまらな
いように、レッスンを日曜にやってもらって。あ、あと白沼さんのところと一度、ミー
ティングがあるくらい」
「充分忙しそうだけど、まあよかった。じゃ、今度の土曜にでも。学校が終わって一緒
に行くのと、バイトに勤しんでいるところへ押し掛けるのとじゃ、どっちがいい?」
「……考えさせて」
 小さいとは言え頭痛の種を抱えつつ、今度こそ教室へ向かう。チャイムまであまり間
がないと分かっていたので、小走りに近い早足になった。

(バイトできるかどうかで頭がいっぱいになっていたけれど)
 午前の授業で出された古典の宿題をどうにかやり終え、昼休みの残り少ない時間を仮
眠――と言っても正味数分しかないので目をつむって頭を横たえるだけだ――に当てよ
うとしたき、ふと思った。
(誕生日プレゼント、何がいいんだろ?)
 宿題に集中していたおかげで、今、隣の席に相羽がいるのかどうかさえ知らない。目
をぱちりと開けて、気配を探りながらゆっくり振り向いてみた。
 いなかった。
(男子の友達はいるみたいだけど。トイレかな。じゃなければ、また先生のところと
か)
 いや、今考えているのはそんなことじゃなく。
(前に、母の日の買い物に付き合ってもらったとき、ついでを装って聞けばよかったか
もしれない。でも、あのタイミングで聞いたとしたら、誕生日プレゼントのことだって
絶対にぴんと来るはず)
 あげるのなら欲しがっている物をあげたいけれど、多少のサプライズ感も残したい。
相反する希望を叶えるには、普段から相手のことをよく見て、知っておく必要がある。
だからといって確実に成功するとは断言できないが、そうしなければ始まらない。
(ういっしゅ亭のバイトでもらえる範囲で買える、相羽君の欲しい物……)
 再び頭を机に着ける。いや、今度は腕枕を作って、そこへ額をのせて沈思黙考。
(お家にピアノがあるのなら、譜面ホルダーって思うんだけど。それ以外となると……
何にも浮かんでこない。一緒にいる時間は前より減ったかもしれないけど。基本的に相
羽君、物欲が薄いというか欲しい物を言葉にするなんて、滅多になかった気が)
 少し方針を転換する必要がありそう。
(似合うと思う服か何かを贈るのもありよね。私服の日なら、学校にも着てこられる
し。腕時計はいらないかなあ)
 予鈴が鳴った。身体を起こす。午後一番の授業の準備に掛かる。
(うーん、音楽以外に相羽君が興味関心を持っているのは、マジックと武道? 武道の
方はさっぱり分からないから、絞るとしたらマジック。マジック道具で、相羽君が持っ
ていない、手頃な商品てあるのかしら。手先の技で魅せる演目が多いから、逆にいかに
もっていうマジック道具、意外と持ってないみたいだし)
 テキストとノートを机表面でとんとんと揃えていたら、相羽が教室に入ってきた。自
身の席に駆け付けた彼は、少し息を弾ませていた。
「気付いたらいなかったけど?」
 先生が来る前にと、省略した形で尋ねる。
「宿題に夢中だったから声掛けなかったけど、神村先生のところに」
「また? 保護者が忙しいと大変ね」
 以前の話を思い起こした純子。
「うん、まあそうなんだけど」
 某か続けたそうな相羽だったが、ここでタイムアップ。始業のチャイムにぴったり合
わせたかのように、神村先生が入って来た。
 委員長の号令で、起立、礼、着席。約一ヶ月が経過して、唐沢の委員長ぶりも、よう
やく板に付いてきた。
「授業に入る前に、今日は用事があってホームルームができないから、今、三分ほども
らう。最近、中高生を狙ったカンパ詐欺が起きているそうだ。たとえば、インターネッ
ト上で『名前は明かせないが在校生の一人が妊娠した。親に内緒で中絶したいが、手術
費用が足りないので、力を貸してほしい』というような名目で金を集め、消えてしま
う」
 妊娠だの堕胎だのの単語が出たところで、教室内がざわついた。神村先生は静かにと
注意してから、話を続ける。
「集金の手口は様々で、プリペイド式の電子マネーを購入させてIDを送らせたり、代
理を名乗る者が直に集金に来たり、指定した口座に振り込ませたり。大胆なのは学校の
一角に募金箱を設置した事例もあった。金額こそ小さいが実際に被害が出ていて、まだ
一部しか解決していないそうだ。この手の犯罪は巧妙化する傾向があるから、早めに注
意喚起しておく。また、間違っても知らない内に片棒を担いでいたなんてことにならな
いように、充分に気を付けること。分かったな」
 以上、と話を打ち切って、授業に入ろうとした先生だったが、生徒の一人が挙手しな
がら「先生、質問〜」と言い出したため、教科書を戻した。
「何だ、唐沢」
「委員長なんで代表して、みんなが聞きたいだろうことを聞こうかと」
 真顔でありながら、どことなく笑みを我慢しているような体の唐沢。神村先生の表情
を見れば、嫌な予感を覚えているのが窺えた。
「前置きはいいから、早く言うんだ」
「詐欺には気を付けるけど、もし仮に、本当に中絶手術カンパの話が回ってきたら、生
徒はどうしたらいいのかなって」
 さっきとは少々異なるニュアンスで、クラスのみんながざわつく。
「まったく、何を言い出すかと思えば。みんなが聞きたいことか、それ?」
「まあ、半数ぐらいはいるんじゃないですか」
「しょうがないな。そりゃあ学校側としては、報告しろって話になるだろな。ついで
に、誰も知らないようだから教えておくと、うちの校則に、妊娠したら退学というよう
な決まりはない。生徒手帳を読め」
「まじで?」
 先生の言葉を受けて、実際に生徒手帳を繰る者もちらほら。
「ああ。明記している学校もあるが、我が校はそうではない。認めてるわけじゃない
し、高校生らしからぬ逸脱した行為を禁ずる条項があるから、それを名目に妊娠を退学
に結び付けることも可能だ。だけど、緑星学園史上、適用例はない」
「でも、そういう妊娠騒動を起こした生徒がいなかっただけなんじゃあ……」
「そうよね。進学校なんだし」
「あったとしても、表面化してないだけで」
 主に女子からごにょごにょと声が上がる。堂々と質問するのは、さすがに気後れする
様子だ。これらにも神村先生は応じた。
「個人情報に関わり得るから、そこはノーコメント。ただ、歴代校長の方針は、妊娠し
た生徒がいればできる限り学業が続けられる方向でサポートするっていうのが、慣習と
いうか不文律だ。――さあて」
 腕時計を見た神村先生は、教科書で教卓をばんと叩いた。
「三分のつもりが、五分になった。授業、始めるぞ」
 静かになった。それでも空気が落ち着きを取り戻すには、もうしばらく掛かった。

「真面目な話――」
 放課後、大掃除の時間。女子は男子、男子は女子の目を盗んで、こそこそと内緒話に
花を咲かせていた。
「学校は許したとしても、スポンサーは許さないからね」
 白沼の言葉を理解するのに、純子は十数秒を要した。
「わ、分かってるって」
 手にしたモップの柄をぎゅっと握りしめる。同じくモップを持つ白沼は、柄の部分を
純子の持つそれに押し当て、ぐいぐい押してきた。
「信頼していいの、ねっ」
「いい、よっ」
 負けじと押し返して距離を取る。と、間に入ったのは淡島と結城。
「まあまあ、熱くならない。二人とも、らしくないよ」
「熱くもなるわ。もしものことを思うと」
 嘆息混じりに言った白沼の前に淡島が立つ。
「白沼さんたら、何も妊娠だけを言ってるのではありませんね? 多分、タレントのイ
メージを気にしてのことです。恋人がいるといないとじゃ大違い」
「そう、なの?」
 先に純子が反応を示す。白沼はもう一つため息をついた。
「そうよ。友達の内では公認でも、世間的にはまだなんだから、充分に注意してもらわ
なくちゃいけないの」
「それくらいなら、弁えている。これでも何年かプロをやってるんだから」
 純子は自信を持って返した。白沼は気圧されたみたいに、上体を少しだけ退いた。
「だからってことじゃないんだけれど、相羽君とは――」
 一旦言葉を切って、クラスの中に相羽を探す純子。窓ガラスを拭いていた。周りには
唐沢達もいて、お喋りが弾んでいるようだが、相羽自身はあまり口を開いていない。
「彼とは、まだなーんにもありません」
「……そう。よかった」
 白沼は、ばか負けしたみたいに肩をすくめた。が、少し経って、よい返しを思い付い
たとばかりににやりと笑むと、ちょっとだけボリュームを戻して言った。
「さっき、友達の内では公認とか言ったけれども、私はまだ隙あらば狙っているから。
何にもないと聞いたから、なおさらね」
「うわ、それはあんまりだよー、白沼さん。板挟み過ぎるっ」
 純子も調子を合わせ、芝居めかして応じると、じきに笑いが広がった。
 何事かと、他のグループから注目されたのに気付いて、すぐに引っ込めたけれども。
その落ち着いたところへ、今度は淡島が爆弾発言をしてくれた。
「これまでのところ何もないのでしたら、私の予想は大外れになります」
「えっと、何の話?」
「てっきり、今度の誕生日にでも捧げるものと推し量っていましたが、段階を踏まずに
いきなりはない――」
「! しないしない!」
 モップを放したその両手で、淡島の口の辺りを覆おうとした。淡島はそれ以上続ける
気は元からなかったらしく、すんなり大人しくなる。反面、モップが床に倒れた音が大
きく響いた。
「そういえば、相羽君の誕生日、近かったわね」
 白沼が意味ありげにモップを拾い、渡してくれた。受け取る純子に、質問を追加す
る。
「何をあげるつもりなのかしら」
「考えてるんだけど、決めかねてて」
 また声の音量を落として、相羽の方をこっそり見やる。いつの間にか唐沢と二人だけ
になっていた。
(探りを入れてみるつもりだったのに、聞けてないわ)
 神村先生のあの話のおかげで、プレゼントをどうしようと悩んでいたことが一時的に
飛んでしまった。
「悩む必要なんてないってば。何をあげたって喜ぶよ」
 請け合う結城に、純子はつられて「それはそうかもしれないけど」と答えた。すかさ
ず、「背負ってるわねえ」と白沼から指摘される始末。この辺で反撃、もしくは転換し
ておきたい。
「私のことは散々言ってきたから、飽きたでしょ。みんなはどうなの?」

            *             *


――つづく




#506/514 ●長編    *** コメント #505 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:19  (471)
そばにいるだけで 66−3   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:16 修正 第2版
「もしかして、自分の身に降りかかるかもしれないから、聞いたんじゃないよね、あれ
って?」
 ちりとりをほったらかしにした平井はそう聞きながら、唐沢の脇腹付近をぐりぐりや
った。不意を突かれた唐沢はオーバーアクションでその場を離れ――こちらはほうきを
放り出してそのままだ――、「何がだよ」と問い返す。
「だから、神村先生にした質問。あんなこと聞けるなんて、ある意味すげーって感じた
けど、ひょっとしたら唐沢君自身がそうなんじゃないかって思ってしまったのだ」
「ばーか。そんなことあるかい」
 唐沢は普段のキャラクターをここぞとばかりに発揮する。
「俺はそんな下手は打たない。基本、広く浅く。万々が一にも深くなったとしたって、
一線は守る」
「おー、意外」
「尤も、高校に入ってから勉強に時間を取られがちなんだよなあ。あんまり遊べてない
のが悔しいし、さみしい。相羽センセーに教えてもらって、どうにか時間を作ってる有
様だから情けない」
「いや、唐沢は前よりもずっとできるようになってる」
 近くの窓を拭いていた相羽は聞きとがめ、本心からそう評した。しかし、当人は額面
通りには受け取らなかったようで。
「ばかやろー、それは以前の俺と比べてってだけで、客観的にはまだまだだろ、どう
せ。そうじゃなけりゃ、成績を維持するのにこんなに苦労すはずがない!」
「みんな苦労してるよ」
「苦労してるようには、とても見えん」
 唐沢は平井に同意を求めた。
「まあ、確かに、相羽君が苦労してるようには見えない。稲岡君みたいに年がら年中勉
強優先て感じでないのに、成績いいのは納得しがたいよ」
「だよな。その上、彼女持ちで。あ――涼原さんと特に進んでいないのは、勉強に時間
を回してるせいとでも言うのか」
「か、勝手に話を作るなよ」
 唐沢の“急襲”に、思わずぞうきんを取り落としそうになった相羽。内側を拭いてい
るときでよかった。
「お互いに忙しいし、今の時点では無理して進める必要がないって二人とも思ってるし
……」
 相羽の声が小さくなる。唐沢とは前に似たようなことを話題にしたが、他の男子には
初めてなので、言いづらい。幸い、平井らものろけを聞かされてはたまらんと思った
か、他の男子グループに呼ばれて行ってしまった。
「そういや、天文部の話、鳥越から聞いたか?」
 二人だけになったところで、唐沢がいきなり尋ねてきた。
「何で部員じゃないのに、天文部の話題を。まあいいや。それって、合宿のこと?」
「うむ。鳥越が言うには、皆既日食に合わせて、K県K市に行くという希望が、ほぼ確
実に通る見込みだと」
「僕もぼんやりとは聞いてたけど、本決まりになるなら行ってみたいな。夏休みか…
…」
 少し伏し目がちになって考え込む相羽。
「え? 何か予定あんの?」
「――ん? まさか。そんな先のことは分からない」
「だよな。今の時期に夏休みのスケジュールが決まっているとしたら、海外旅行いく奴
か、仕事のある涼原さんくらいだろ」
 そう言った唐沢が、肩越しに振り返る。つられて、相羽も純子達のいる方を向く。何
だか知らないが、モップを持って楽しげに“攻防”しているのが見えた。
「他にもいるだろ。夏期講習を受けるとか」
「嫌なことを思い出させてくれる。補習があるとしたら、皆既日食に被るんだっけか
?」
「知らないよ。まず、補習を受けずに済むように考えないと。ていうか、唐沢がどうし
て皆既日食との被りを心配するのさ?」
「おまえらが――相羽と涼原さんが行くのなら、楽しそうだから着いて行こうかなと思
ったんだ。無論、俺も天文部に入って」
「冗談だろ?」
「割と本気だぜ。まあ、夏までに本命の彼女でもできれば、話は違ってくるかもしれな
いがな」
「……他人のことに首を突っ込む気はあまりないんだけど、町田さんはどうしてる?」
 聞いてから、別の窓ガラスに移動する。
 が、唐沢の方は、その質問をスルーしたかったのか、はたまたクラス委員長として役
割をはたと思い出したのか、ほうきとちりとりを持って平井を追い掛けた。
(やれやれ)
 短く息を吐いた相羽に、背後から声が掛かった。
「ねえねえ、相羽君」
 相羽は手を止めずに、そちらに目だけをやった。湯上谷(ゆがみたに)、西野中(に
しのなか)、下山田(しもやまだ)の女子三人組。彼女ら自身、名前の共通項を意識し
ており、上中下トリオと呼ばれるのをよしとしている。相羽や純子らとは、今年初めて
同じクラスになった。
「さっき話しているのが耳に入ったんだけど、天文部の合宿に参加するの?」
 代表する形で、西野中が聞いてきた。
「うーん、多分ね」
「唐沢君の話も聞こえたんだけど、今からでも入部できる?」
「え? ごめん、僕は幽霊部員に近いから、詳しいことは分からないんだ。クラス違う
んだけど、鳥越って知ってる? あいつに聞けばいいよ」
「えー、知らない。ねえ、知ってる?」
 お下げ髪を振って、左右の二人にも聞く西野中。返事は二つとも否だった。
「悪いんだけれど、相羽君から確かめてくれないかなあ?」
「しょうがないな。どさくさ紛れに、今、行って来ようかな」
 一斉清掃だから、特別教室に回されていない限り、鳥越を掴まえて話をちょっとする
くらいは容易だろう。
「うん、お願い」
 声を揃える三人組。下山田は手を合わせてまでいる。相羽はまた密かにため息をつい
て、窓から離れかけた。が、ふと浮かんだことがあって、足を止めた。
「――思い過ごしだったらごめん。一応、聞くけど、唐沢目当てとかじゃないよね? 
唐沢は今のところ部員じゃない」
「やだ」
 三人は申し合わせたかのように、口元を片手で覆って笑った。それから湯上谷が日焼
けした健康的な肌に、白い歯を見せる。
「唐沢君も格好いいけれど、そんなんじゃないよー、私達。こう見えても星に興味ある
の――というのは大げさになるけど」
「正直に言うとね、思い出作りしたいなとみんなで話してたんだ」
 あとを受けて、西中野がわけを語り出す。
「高校の思い出作りで、何かロマンチックなことをって考えたら、天文部の合宿の噂話
を聞いて」
「噂話って?」
「何年かおきに、合宿でカップル誕生しているとか、流星群の観察で二人きりになると
盛り上がるとか」
「はあ」
 聞いた覚えないなあ、女子の間だけで広まっているのかなと思った相羽。
(いかにも唐沢が好みそうなシチュエーションではあるが、今年予定されているのは、
皆既日食だし)
 多かれ少なかれ星に興味関心を持っているのなら、入部動機に全然問題ないだろう。
好意的に解釈し、鳥越に聞いてみることにした。
 相羽は「ちょっと待ってて」と言い残し、教室後方の戸口を目指した。
(――純子ちゃんは合宿の件、まだ知らないのかな? 伝えて、参加できそうなら、早
く鳥越に教えてやろう)
 爪先の向きをちょっぴり調整し、純子のいる方へ立ち寄る。ちょうど純子達もこちら
を見ていた。

            *             *

 純子の「みんなはどうなの?」の問い掛けに、まともに反応したのは白沼だった。
「私の方から告白したくなるようなフリーの男子はいないわね。逆に前、一年生に懐か
れて困ったような、戸惑ったことはあったけれども」
 もてるアピールなのか、そう付け足した白沼。どことなく自慢げだ。
「その一年生の話、聞きたい」
 純子は意識的に食いついた。話題をそらせれば何でもいいという気持ちはあるが、白
沼に懐く(告白したってこと?)一年生男子に興味がなくもない。
 だけど、今度は白沼の反応が鈍い。その視線が、純子の肩口をかすめて、相羽のいる
であろう方に向いている。
「白沼さん?」
「相羽君、女子に囲まれているわよ」
 その言葉に、急いで振り返る。囲まれていると表現でいるかどうかは別にして、西野
中、湯上谷、下山田の三人と話している相羽の姿を捉えた。
(何の話をしてるのか、気になる……)
 日常の一場面だけを切り取って無闇に詮索したり嫉妬したりはしないよう、心掛けて
いるつもり。それでもなお、気になってしまう。純子が聞き耳を精一杯立てようとした
矢先、相羽が一人、窓際を離れた。こっちに来る。
「デートのお誘いですわね、きっと」
 淡島が適当なことを口にすると、結城が「ぞうきん片手に?」と笑いながら混ぜ返
す。
 そんな中、相羽は自然な形で輪に加わった。
「ちょっといいかな。純子ちゃん。天文部の合宿の話、聞いてる? 皆既月食観察の線
で、ほぼ決まりだって」
「ほんと? まだ聞いてなかった。日程はどうなるのかしら」
「そこまでは決まってないみたい。例年だと二泊三日か三泊四日って聞いてるし、日食
が二日目か三日目に来るようにするんじゃないかな」
「きっとそうね。うん、分かった。スケジュールはまだもらってないけれども、もし重
なっていたら、調整を頼んでみる」
 純子が期待感いっぱいの満面の笑みで言うのへ、横合いから白沼が口を出す。
「具体的にいつ? 万が一、うちの関係している仕事が入っていたら、影響あるから聞
いておきたいわ」
 質問先は相羽だったが、彼は慌てたように両手を振った。
「悪い、今すぐ鳥越のところに行かないと。純子ちゃんが知ってるから」
 言い置くと、すぐさま教室を出て行く。ぞうきんを持ったままなのは、先生に見咎め
られた際、どうにか言い逃れするためだろうか。
「そういうことだそうだけれど」
 白沼が目を向けてきた。純子が答えようとすると、淡島が「皆既日食の日ぐらい、私
でも答えられますのに」と不満げに呟いた。無意識なのかどうか、場を混乱させてい
る。純子は返答を急いだ。
「七月二十*日よ、白沼さん」
 白沼はメモを取るでもなく、二度ほど首を縦に振った。「分かったわ、覚えた」とだ
け言うと、掃除に戻ろうとする。
(ひょっとして、わざと仕事を入れてくるなんて、ないよね?)
 白沼の後ろ姿を見つめ、そんなことを思った純子。
 と、いきなり白沼が向き直った。
「安心しなさい。なるべく協力してあげるつもりだから」
「え、ええ。……ごめんなさい」
 思わず謝った純子に、白沼は左の眉を吊り上げ、怪訝さを露わにした。
「うん? 今言ってくれるとしたら、『ありがとう』じゃないのかしら」
「あ、今のは――無理をさせることになったら申し訳ないなって気持ち込みで。感謝し
てます」
 内心、冷や汗をかくも、どうにかごまかせた。
「感謝してくれるのなら、芸能人の男の一人でも紹介して。付き合いたいってわけじゃ
ないけれど、世の中には相羽君よりもいい男がいるんだって実感を持たないと、次に進
めないのよね」
 白沼は口元に小さな笑みを浮かべた。本気なのか冗談なのか分からない。
「それなら白沼さんも、蓮田秋人に一緒に会いに行かない?」
 結城が言い出したのを聞いて、純子もすぐに思い出した。
「マコ、遅くなっててごめんね。少ない伝を頼って、ご都合を伺ってるんだけれど、伝
わってるのかどうかも、ちょっと心許ない状況なの」
「いいって。確か今、映画の海外ロケのはずだし。――白沼さん、蓮田秋人は知ってる
わよね?」
「当然、知ってるけれど。結城さん、あなたって随分と渋くて年上好みなのね」
「やだなあ、タレントとして見て好きなだけで、異性の好みとか関係ないから」
「そうなの? それなら分かるけれども。蓮田秋人ね……一般人相手には線引きが厳し
そうなイメージがあるわ。大丈夫なの?」
 と、再び純子に質問を向ける。
「わ、分かんないけど、お会いしたときは、好感を持ってもらえたみたいだった」
「いやいや、あなたは素人じゃないでしょうが」
 的確なつっこみだったのに、自覚の乏しい純子は首を傾げた。

 それは三度目のアルバイトの日のことだった。
 純子は短い時間ではあるが、店番を一人で任されていた。
 経験の浅い純子がどうしてそんな役目を仰せつかったかというと、偶然が働いた結果
だった。この日、シフトでは寺東も入る予定だったが、当日になって連絡が店長に入っ
た。前日、英語教師が車上荒らしに遭い、金銭的被害は小さかったものの、アタッシュ
ケースに入れていた採点済みの答案用紙を、鞄ごと盗まれてしまった。定期考査ではな
く小テストだったが、成績を付けるには必要なものであり、再テストせねばならない。
英語教師は己の不注意を該当する生徒達に深く詫びた上で、放課後に再テストを受ける
よう求めた。求めたと言っても、生徒側には拒否権はないわけで、受けざるを得ない。
その影響により、一時間ほど学校を出るのが遅れる見込みとなった寺東は、昼過ぎにな
って遅れることを伝えてきた次第である。
 では店長はどうしたのかというと、午後三時半頃に起きた震度三の地震に驚いて、卵
を大量に床に落とし、だめにしてしまった。パン作りに重要な材料だけに、残った僅か
な個数では心許なく、アルバイトが入るのを待って急遽買い足しに出ることに。卵ぐら
いなら純子でも買いに行けそうなものだが、何でも拘りの銘柄があって、車で遠くまで
足を延ばさねばならない。よって、店長もしばし抜けることになってしまった。
(四十分ぐらいと言っていたけれど)
 時計を見ても、なかなか時間が進まないことにじりじりするだけなのに、あまり見な
いようにした。それ以上に、お客がほぼ途切れずに来るので、時刻を気にしている余裕
がなかった。レジを受け持つのはまだ二度目。手際は決して悪くないのだが、非常に緊
張する。
「――レシートと三十円のお釣りです」
 女子中学生二人組に、まとめて会計を済ませて送り出す。その次に並んでいたお客
が、「あ、やっぱりそうか」と言うのが聞こえた。
「いらっしゃいませ。トレイとトングをこちらへ――」
 マニュアル通りに喋る純子にも、相手が誰だか分かった。以前は学生服姿だったの
が、今回は私服なので気付くのが遅れたが、真正面から顔を見て思い出せた。でも私語
は極力、慎まねば。
「胡桃クリームパン好きが高じて、とうとう就職か」
 その男性客――佐藤一彦が、ややからかうような口調で言った。
「就職じゃありません、バイトです、バイト」
 たまらず、早口で答えた。パンを個別に袋に入れる動作も、いつも以上に速くなる。
「分かってる、冗談さ。ええっと、四年前になるんだっけ? あのときは、本当に悪か
った」
「そのことならちゃんと謝ってもらいましたし、もういいんですよ。――五百円になり
ます」
「ほい」
 五百円硬貨をカルトン――硬貨の受け皿に投げ入れる佐藤。角度がよかったのか、ゴ
ムの突起物の間に挟まって、五百円玉が立った。
「おっ」
「五百円ちょうどをお預かりします。――はい、レシートですっ」
 後ろに並ぶお客がまだいないことを見て取り、純子はレシートを押し付けるようにし
て渡した。悪い人じゃないのは分かっている。でも、今は早く帰って欲しいという意思
表示のつもり……だったが、佐藤もまだ他の客が並んでいないことを知っている。
「他に店の人、いないの?」
「一時的に外しています」
「そうか。じゃあ、あんまり邪魔できないな。相羽の近況も聞きたかったんだが」
 パンの入った袋を摘まみ持ち、がっかりした様子の佐藤。
(……あの頃はまだ、私と相羽君、付き合ってなかったのに)
 訝る純子だったが、敢えて聞く必要もないと黙っていた。
「過去のお詫びがてら、友達連中に宣伝しとくわ。多少は売り上げに協力しないとな」
「――あ、ありがとうございます。お待ちしています」
 自然とお辞儀していた。風谷美羽としてでなく、涼原純子としてお客を増やすのに貢
献できるとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「あ、そうだ。宣伝するとき、『涼原っていう、すっげーかわいい子がいる』って付け
加えてもいいか?」
「だ、だめです。かわいくなんかありませんっ」
 大慌てで否定する。佐藤は笑いながら出て行った。
(つ、疲れる。でも、今何をされているかぐらい、聞けばよかったかな。忘れてたわ)
 ほっとしたのも束の間、程なくして次のお客がレジ前に並んだ。
 そんなこんなで客足が途切れたのが、午後五時十分頃。あと十分ほどで店長が戻る予
定だし、二十分後には寺東も来るはず。がんばろうと気合いを入れてパンを並べている
と、ショーウィンドウの外、道路を挟んだ向こう側にたたずむ男の姿が目に止まった。
(あの人、五時になる前からいたような)
 忙しい最中でも何となく記憶していた。五月も半ばを過ぎ、ぼちぼち暑さを意識し始
める頃合いに、その男は黒い手袋をしているように見えたから、印象に残ったのかもし
れない。
(バイクに乗る人でもなさそうだし、ほとんど同じ位置に立ってる)
 道路工事を予告する立て看板の横、まるでこちらの店からの視線を避けるかのような
ポジション取り。
(――まさか)
 不意に浮かんだ悪い想像に、一瞬、身震いを覚えた。ショーウィンドウに背を向け、
カウンターの内側に駆け込む。
(脅しの手紙の主?)
 呼吸を整え、ゆっくり、自然な感じで振り返る。ショーウィンドウのガラスには、白
い文字で店名などが施されている。それが障害になって、反対側の歩道にいる人とじか
に目が合うことはなかなかない。でも警戒してしまう。
(……いなくなった?)
 目線を左右にくまなく走らせる。男の姿は消えていた。三十分近くいて、何をするで
もなしに立ち去ったことになる。
(気のせいかな? 分かんない)
 脅しは久住淳に宛てた物だった。普段の格好をしている今の純子は風谷美羽であっ
て、久住ではない。ならば、基本的に心配無用となるはずだが、ことはそう単純でもな
い。風谷もアニメ『ファイナルステージ』には歌で関与しているわけで、その線から度
を外した原作ファンから嫌われている恐れはある。さらに言えば、久住淳の居場所を突
き止めるために、風谷美羽に近付いて問い詰めるなんていうケースも、考えられなくは
ないだろう。
「用心するに越したことはない、かな」
 呟いて、護身術の型をやってみた。店のユニフォームを着ていても、案外動けると分
かって、多少は安心できた。
 と、そのとき店のドアの鐘が鳴った。型の動作を止め、急いで服のしわを伸ばす。店
長は裏口から入るはずだし、寺東が来るにはまだ早いから、お客に違いない。
「いらっしゃいませ」
 声を張ると同時に、笑顔を入口の方へ向ける。
「あれ? 相羽君」
 今度の土曜に来るはずの相羽が、何故かいた。学校からの帰り道なのか、ブレザー
姿。でも、ここまで来るには自転車じゃないと不便だろうから、一旦帰宅しているは
ず。どちらにせよ、今は一人のようだ。
「急にごめん。今、大丈夫?」
「お客さんはいないけれど、私一人だけだから……手短になら」
 どぎまぎしつつも、気は急いている。
「急用ができて、土曜日は来られそうにないんだ。だから、僕だけ今日来てみたんだけ
ど、驚かせちゃったね」
「え? え?」
 唐突な話に、すぐには思考がついて行けない。相羽の方は、言うだけ言ってパンの物
色を始めそうな気配だ。
「待って。相羽君だけ来られなくなったって子とは、他の人は土曜に来るのね?」
「うん。唐沢に言っておいた。君がここでバイトしていることをいつ教えるかが、悩み
どころで」
「そっか、まだ言ってないんだ? だったら……当日がいいのかな」
 そこまで考えて、細かいことを気にしすぎと思えてきた。事情を知る相羽が皆を連れ
て来る形ならまだしも、彼が来られなくなった現状で、友達をコントロールしようとし
ているのは、いい気持ちではない。
「やっぱり、早めに言おうかしら。そうして、来たい人は好きなときに来てくれればい
い。来たくない人や来られない人は、それでかまわない。元々、そういうもんじゃな
い?」
「君がそう言うのなら、分かった。噂が一瞬にして第三者にまで広まって、千客万来っ
てことにはまあならないだろうし」
「よかった。よし、これで少し気が楽になったわ。土曜日、緊張するだろうなあって覚
悟してたから」
 純子が両手で小さくガッツポーズするのを見届け、相羽は今度こそパン選びに専念す
る。見ていると、胡桃クリームパンの他、レーズンサンドや野菜カレーパンを取ってい
くのが分かった。出たぱかりの新作、桃ピザはスルーされてしまったけれど。
「そうだ、さっき、佐藤さんが来たんだったわ」
「佐藤さん?」
 さすがに思い出せない様子の相羽。あるいは、人口に占める比率の高い佐藤姓だか
ら、多すぎて特定できないといったところか。純子は、中学生のときのパン横取り事件
を示唆した。
「ああ、あの人。へえ、今もここで買ってるんだ」
「誰のために買っていくのかは、聞かなかったけれどね」
 トレイにパンを五つ載せて、相羽はレジに戻って来た。会計を済ませて、純子がレ
シートを渡すと、「これ、記念に取っておくべきかな」と言った。
「えー、おかしいよ、そういうの」
「そう?」
「だって、記念になることなら他にもっとあるはず。これから先、ずっと」
 純子が答えたところで、店の裏手にある勝手口の方から音が聞こえた。ドアの開け閉
めに続いて、「ただいま。少し遅くなりましたが、店番、大丈夫でしたか」という店長
の声が届く。
「はい。結構お客さん、来ました。というか、今も来てます……友達なんですけど」
 どう紹介しようか急いで考える純子を置いて、相羽は店長に目礼した。
「涼原さんのクラスメートで、相羽と言います」
「うん? 君も見覚えがある。涼原さんがよく買いに来てくれていた頃、よく、同じよ
うに胡桃クリームパンを買っていったから、記憶に残ってる。同じ高校に進学したんだ
ね」
 店長の言葉に、相羽は瞬時、はにかんだ。
(相羽君も買いに来てたなんて、知らなかった。あのとき食べて、気に入ってくれたの
かな)
「凄いですね。常連客全員の顔と好みを一致させて覚えてるんですか」
 興味ありげに尋ねる相羽。店長は首を横に振った。
「全員は無理だろうなあ。何せ、毎回違うパンを買って行かれて、好みがさっぱり掴め
ない人もいるから。おっと、こうしちゃいられないんだった」
 店長は相羽に礼を言うと、いそいそと奥に引っ込んだ。新しくパンを焼かねば。卵を
追加購入した意味がない。
「忙しくなりそうだね。そろそろ帰るよ。送っていけなくてごめん」
「あ、うん」
 もう少し待ってくれたら、寺東が来て紹介できる――そんな考えが浮かんだ純子だっ
たが、引き留めるのはやめた。寺東に相羽を紹介すれば、「なーんだ、彼氏いるんじゃ
ないの。付き合ってどのくらい?」なんて風に聞かれそうな予感があった。うまくかわ
す自信がない。
「気を付けてね」
 笑みを浮かべて手を振っていると、ちょうどお客が入って来た。慌てて笑みを引っ込
め、手を下ろした。

「昨日、言うのを忘れていたんだけれど」
 純子はそう前置きして、アルバイト中に目撃した、店の外にしばらく立っていた男に
ついて、ざっと説明した。
「うーん」
 聞き手は相羽と唐沢。ちょうど、相羽が純子のバイトのことを唐沢に伝えたところだ
ったので、ついでに話しておこうと思った。
「それだけじゃあ、何とも言えないな」
 怖がらせたくないのか、本当に何とも言えないと感じたのか、唐沢が答えた。相羽も
一応、同意を示す。
「たまたま待ち合わせをしていて、立っていただけかもしれない。急にいなくなったの
は、迎えの車が来て乗り込んだか、来られなくなったからと連絡が入って立ち去ったと
か」
「仮にそのパン屋の方を見ていたとしても、危ない奴とは限らないしなあ。『あ、かわ
いい子がいる。声を掛けたいけど勇気が出ない。どうしよう』ってだけかもしれない
ぜ」
 唐沢は茶化し気味に言った。やはり、怖がらせたくない気持ちが強いようだ。
「まあ、最初は無害でも、悪い方へエスカレートする場合、なきにしもあらずだけど」
 対する相羽は、楽観的な見方ばかり示さない。これはもちろん、脅しの手紙の存在を
相羽が知っているからであって、知らない唐沢とは差が出て当然かもしれなかった。そ
のような手紙の存在なんて、昼食を終えたばかりのこんな場所――学校の教室で、第三
者に話すことではなかった。
「気になるのは、手袋かな。指紋を残したくないから、これから暑くなる季節でも手袋
を付けている、とか」
「おいおい、相羽。何でそんな風に、悪い方へ考えるんだよ。怖がらせて楽しんでると
かじゃないよな、まさか」
 小声だが不満を露わにする唐沢。
「当たり前だ、そんなんじゃない。大事だからこそ、最悪の場合を想定するよう、癖を
付けている。それにこんなことまで言いたくないけど、純子ちゃんに何かあったら、母
さんや他の大人に、影響があるから」
「それもそうだ。納得した」
 あっさりと矛を収めた唐沢は、続いて「じゃあ、学校の行き帰りもなるべく一緒にい
ないとだめだな」と二人に水を向けた。にんまり笑って、ボディガードにかこつけての
のろけ話でも何でも聞いてやるぜという態度を示す。それは純子でも分かるくらいに明
白なサインだった。
 しかし、相羽は真面目に答えた。
「百パーセントというわけに行かなくて、困ってる。僕が無理なときは、誰か代わりに
付いていてほしいよ」
「……こっちを見るってことは、俺でもいいのかいな」
 唐沢は自身を指差し、最前のにんまり笑みのまま言った。相羽は相羽で、真顔を崩さ
ずに応じる。
「ああ」
「……まじ、なんだな。俺、腕は結構筋肉着いていて太いが、これはテニスのおかげ。
護身術なんて知らないぞ。喧嘩もなるべく避ける平和主義者だぜ」
「それでもいい。近くに男がいるだけで、だいぶ違うはずだから」
「盾になって死ねってか」
「冗談を。盾になりつつ、逃げて生還しなきゃ意味がない」
 二人の間で、やり取りを聞いていた純子は、心理的におろおろし始めた。黙って聞い
ていると、息が詰まりそう。
「も、もう、やだなあ。相羽君も唐沢君も、万が一のことについて真剣になりすぎっ。
心配してくれるのは嬉しいけど。わ、私だって、少しだけど対処法は教わったんだか
ら」
 相羽らの通う道場で護身術を習ったことまで唐沢に伏せておく理由はなかったはずだ
が、今は話がちょっと変な方向に行ってしまっている。相羽がそのことを言わなかった
のを、唐沢は不審がるかもしれない。だから強くは言わずにおいた。
「ま、すっずはっらさんを守るってのは、悪くない。護衛名目に、お近づきになれる。
相羽クンのいないところでも、な」
「……しょうがないことだ。でも、唐沢が不純な動機オンリーでやるって言うのなら、
道場の誰かに頼もうかな」
「もー、二人とも、いつまで続ける気よ。ほんとにやめてよね。居心地悪くなっちゃう
じゃない。私が大げさに心配したせいね。はい、これでこの話はおしまい。いざとなっ
たら、車で迎えに来てもらうことだってできるんだから」
「なるほど」
 唐沢は合点がいった風に、大げさに首肯した。そろそろ収拾を付けるべきだと考えた
のだろう。一方の相羽も、疲れたような嘆息をしながらも、「とりあえず、うぃっしゅ
亭に行ってくれたらいい」と結んだ。
「そうだ、涼原さんのバイトのこと、白沼さんにも言っていいのか?」
「何で気にするの」
 聞き返しつつも、純子は白沼の存在を気にした。確か、何かの委員会に顔を出さなき
ゃいけないとかで、早めにお昼を済ませて、教室を出て行った。まだ戻っていないよう
だ。
「いやほら、詳しくは知らないけどさ。白沼さんの親父さんか誰かが、仕事のオファー
を涼原さんに出してるんだろ? そんな最中に、他の仕事にまで手を出してるなんて知
ったら、彼女の性格からして怒る……は言い過ぎだとしても、不愉快に思うんじゃない
か。うちの仕事一本に絞ってよ!って」
「契約では、オファーされた期間中、他の仕事をしていいことになってて。もちろん、
被るというか競合するようなのはだめだけれど」
 純子は相羽を見た。一人で判断していいものやら、決めかねたため。
「別にいいんじゃないか。秘密にしておいて、あとで知られる方が、よっぽど決まりが
悪いよ。何なら、今日にでも唐沢が誘って、一緒にういっしゅ亭に行けばいい」
「前もって目的を告げずに、か? それ、ハードル高すぎだろ」
 片手で額を抱えるように押さえた唐沢。だが、腕の影から覗く表情は、面白がってい
る節も見受けられた。
「びっくりする顔が見たい気もするな」
「唐沢君が誘うだけでも、充分にびっくりされそうだけど」
 純子の呟きに、そうかもなと男子二人も頷く。
「あ、でも、白沼さん、店のこと知っているかもしれない。一度、白沼さんのお母さん
が買いにいらしたから」
「ははあ。その情報は……誘いやすくなったのか、逆なのか。ていうか、そもそも今
日、シフト入ってるの、涼原さん?」
「うん。なるべくたくさん入れてるわ」
「何でそんなにがんばるかねえ。絶対、コレの問題じゃないんだから」
 右手の親指と人差し指でコインの形を作る唐沢。相羽がその腕を叩いた。
「その手つき、やめ。何だか下品だ」
「じゃ、はっきり言う。お金が目当てじゃなく、体験が目的なら、そんなにいっぱい働
かなくても、充分じゃないの? 違うか?」
「それは」
 純子は人差し指を伸ばした右手を肩の高さまで上げて、答えようとした。が、相羽の
前で本当の理由を話すのは、やはり躊躇われる。無理。
「……それは?」
「ち、父の日のためよ。お父さん、表面的には許してくれてるけれど、芸能関係の仕
事、ほんとはやめてほしいみたいだから。だから、父の日のプレゼントを買うのは、ア
ルバイトで稼ごうかなって」
 咄嗟の思い付きでペラペラと答えた。心中では、予定にないことを口走って、頭を抱
える自分の姿を描いていたが。
(ああー、何てことを! これじゃあ、色々説明しなければないことが増えるし、下手
をしたら、相羽君に勘付かれる?)
 唐沢に向いていた目を、ちらと相羽に移す。特段、何かに気付いたとか閃いたとか、
そんな気配は彼から感じ取れない。ただただ、急に顔つきを曇らせ、
「純子ちゃんのお父さん、反対してるの?」
 と聞いてきた。
「え、えっと、全面的ってわけじゃなく、たまーにね。一時あったでしょ、水着の仕事
とか」
 適当な返事を続けざるを得ない。実際のところ、父が内心どう思っているかは聞いて
いないが、応援してくれているのは間違いない。ごく稀にだが、会社の上司の娘さんが
ファンでサインを頼まれた、なんてことを笑顔で言ってくるぐらいだから、悪い気はし
ていないはず。
「そんなら分かる。よし、売り上げに協力しましょう。白沼さんに声を掛けるかどうか
は別として、なるべく早く行くよ」
 唐沢が胸を叩くポーズをした。ちょうどそのタイミングで、白沼が教室に入ってくる
のが、純子の位置から見えた。すぐさま、唐沢にもジェスチャーで知らせる。
 唐沢は、胸を叩いた腕ともう片方の腕を組むと、首を傾げた。
「さて、どうすっかな」

――つづく




#507/514 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/514 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




#509/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/10/31  22:09  (389)
ほしの名は(前)  永山
★内容                                         17/11/03 17:56 修正 第2版
「全天で一番明るい天体がシリウスで、全天で一番遠い天体がさんかく座銀河で、全天
で一番好きな天体が地球で、そして、世界で一番好きな人が君」
 それは夜、皆から離れ、ペンションの広いベランダに出て、彼の好きな星の話を聞い
ているとき、突然起きた出来事だった。
 突然だったので、もちろんびっくりしたけれども、それ以上に笑ってしまいそうにな
った。笑いと涙を堪えながら、聞き返す。
「何それやだ。ただでさえ涼しくて肌寒いくらいなのに、寒い冗談やめてよね」
「ほんとに嫌か? それならやめるけど……こっちは本気で付き合って欲しいと思って
るから」
「――か。考えさせて」
 言ってしまった。即OKでもよかったんだ。ただ、軽いと見られたくなかったから、
少し引っ張ることにした。
「どのぐらい?」
 そう質問してくる方に顔を向けると、彼――君津誉士夫(きみづほしお)は、斜め上
を見たままだった。こっちが黙っていたせいか、彼はまた言った。
「どのぐらい考えるんだ? 何光年とかじゃないことを願う」
「光年は距離の単位でしょうが」
「そこはニュアンスで。それで、どのぐらい?」
「うーん、三日ぐらい」
「それでも長い。実は自分、この間、他の人から告白されてさ」
 えっ、と思うより、ぎょっとした。あっさり言うようなことかしら。
「好きな人がいるからって断ったんだけど、まだ告白してないのを知ると、さっさと告
白しろと言うんだ。ふられたら、またアタックしてくるつもりだってさ」
「誰から?」
「それはルール違反だろっ」
「クラスにいるかどうかぐらいなら、言えるんじゃない?」
 室内の方を肩越しにちらっと見て、すぐに視線を戻す。夏休みに入って、私達は林間
学校に来ている。ほぼ全員が参加しているけれども、その中に、君津へ告白した子がい
るんだろうか。
「だめだ」
 君津は案外、頑なだった。
「それより、林間学校が終わるまでに返事、くれないか」
「……いいよ。すぐ返事するから。OKだよ」
 私は気持ちに勢いを付けてそう言った。相手の顔を見る余裕はなかったけれども、も
し見ていたら、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を観察できたかもしれない。
「え……っと、急展開過ぎるんだけど」
 急な告白をしてきたくせに、どの口が言うか。
「君津に告白してきた相手に、結果を早く知らせといてよ。変に隠しておいて、恨まれ
ちゃかなわないわ」
 明るい調子で要求して、その場を離れた。みんなのいるところに戻っても普段通りで
いられる自信は、ある。

           *            *

 告白から十年近くが過ぎた。時代は平成になっていた。
 君津はヨーロッパにいた。高校二年時に交換留学の形で渡ったのが、きっかけになっ
た。グループ単位の自由研究の授業で、太陽光電池のアイディアを発表すると、その効
率性が高く評価された。担任教師がその手の企業に伝があり、地元企業と協力してのプ
ロジェクトがあれよあれよとまとまった。君津も参加を条件に飛び級での大学進学も可
能だと言われて、迷った末にやってみることに決めた。その時点で両親とも天に召され
ていたのも大きかった。恋人のことを除けば、迷う要素は、天文学の道を断念するのが
惜しいと感じたくらいだった。
 遠距離恋愛を強いられた君津誉士夫だったが、連絡は定期的にしていたし、回数こそ
少ないが日本に帰れるときには必ず帰った。付き合いは順調で、お互いの家族にも、そ
の存在を仄めかす程度にまで進んでいた。
 だから、彼女と急に連絡が取れなくなったときは、ほんの短い間だというのに焦りに
さいなまれた。折悪しく、プロジェクトが山場に差し掛かって多忙を極めたため、帰国
はおろか、知り合いに彼女のことを尋ねる暇すらなかった。
 そして八日後。どうにか時間を見付け、電話や電子メールで知り合いに聞いてみた
が、まともな情報は返って来なかった。電話の相手は素っ気なく、電子メールの文面は
意図的に話題をそらしている節があった。そして返ってくる答は最終的にいつも「分か
らない」「知らない」だった。
 輪を掛けておかしいのは、実家暮らしの彼女の自宅固定電話に掛けても、常に話し中
なのだ。送受器を外しているとしか思えない。
 不可解さが解消されぬまま、再び仕事に戻らなければならない、その直前のタイミン
グで、電話が掛かってきた。小学校のときから付き合いのある、荒田勇人からだった。
「まだ何も聞かされていないんだな?」
 お互いの近況を報告する間もなく、本題から入った。
「ああ。何が起きてるんだ?」
「それは……直に教えるのは、俺もきつい」
「どうしてだよ。わざわざ電話をくれたのは、教えるためじゃないのか」
「……そっちに、日本のニュースは伝わってないのか」
「全然ない訳じゃないけれど、大きなニュースじゃないと。おい、何だよ。新聞種にな
るようなことに巻き込まれたとでも言うのか」
「……しょうがないか。誰でも嫌がるよな、こんな役目。俺が言わなきゃ、いつまでも
このまんまだ」
「そうだ、言ってくれよ!」
「今、一人だな? 周りに人がいないなって意味だ」
 君津は思わず無言で頷いた。五秒ほどして気が付いて、「誰もいない」と答えた。
「そうか。――最悪を想像して、心構えをしろ。それと、俺は事実を伝えたあと、すぐ
に電話を切るからな。細かいことを聞かれても、俺もほとんど知らないし」
「分かった。電話代も掛かるだろう」
 早くなる心臓の鼓動。緊張感で汗ばむ手のひら。せめてジョークの一つでも言って、
僅かでも落ち着こうとしたが、全く変わらなかった。
「一回しか言わない。録音できるならした方がいい。できないなら、メモを取ってく
れ」
「待ってくれ――準備できた」
 極力、平静さを保とうと努める君津に、荒田はニュースキャスターみたいな抑揚で、
早口に言った。
「――え?」
 聞き直した君津。荒田は一回きりのはずが、もう一度だけ繰り返して話してくれた。

 きっかけになったのは、小学校の同窓会だった。
 六年三組の一クラスだけの集まりだから、さほど大規模ではなかった。ただ、開催前
からかなりの盛り上がりを見せ、参加OKは九割超え。当初は適当な居酒屋で行うつも
りだったのが、あれよあれよと話がまとまり、ホテルの宴会場を借りるまでになった。
さらに、泊まりたい者はそのまま宿泊できるオプション付き。
 そして、事件は泊まりになったクラスメートの間で起きた。殺人だった。
 死んだのは村木多栄。小学生時は小柄だが活発で、勢いに任せて好きなことなら何で
もチャレンジしてみたがるタイプだったが、大学生になった今は、正反対なまでに大人
しくなったように、かつてのクラスメートらの眼には映った。昔が活発に過ぎたせい
で、極当たり前の分別を身に付けただけなのが、殊更おしとやかに見えたのかもしれな
い。
 だからという訳でもないが、村木多栄を殺すような者が元同級生の間にいるなんて、
俄には信じられない。それが素直な感想……になるはずだった。
 実際は違った。何故なら、村木多栄はダイイングメッセージを遺したのだ。
 いや、正確に言い直そう。村木多栄がメッセージを残すところを、大勢が目撃したの
である。
 夜の十一時を回った頃、ホテルの裏庭に当たるスペースで、村木多栄は倒れていた。
仰向けだが、やや身体の右側を下にする格好で、弱い外灯に照らされていた。
 第一発見者は、酔いさましに出て来たという財前雅実と、財前と交際中だと宣言・報
告した綿部阿矢彦。大学が異なる二人が再会し、付き合いだしたきっかけは、大道芸の
サークルに入った綿部が、往来でセミプロ級の技を披露しているところへ、財前が通り
掛かったという偶然だった。
 そんないきさつはさておき……倒れている村木を見た財前が、盛大に悲鳴を上げたた
めに人が一挙に増えた。その衆目のただ中、綿部が村木を抱え起こそうとした。が、一
瞬、彼の動きが止まる。村木多栄の口から下が赤く染まっていた。それでも綿部の躊躇
はすぐに消え、片腕を村木の背中側に回し、上体を起こしてやった。そうする間にも、
財前が村木に声を掛け続ける。
 やがて話し疲れたのか、財前が静かになると、今度は綿部が村木の名前を呼ぶ。この
頃になると、半径二メートル以内に、元クラスメートが十人前後集まっていた。綿部が
「誰か救急車を!」と叫ぶ。
 そのとき、村木多栄の口が動いた。そして彼女が喋り出す。
「刺さ、れた」
「え、刺された? 誰に?」
 思わず聞き返した様子の綿部。本来なら、意識があると確認できた時点で、無駄に体
力を使わせるべきではない状況と言えそうだが、かまっていられなかったようだ。
 村木の生気の乏しい眼を見返しながら、身体を少し揺さぶる綿部。
「しっかりしろ、村木さん!」
「きみにやられた」
「君?」
 ぎょっとした風にしかめ面をなす綿部。周りにも聞き取れた者がいたらしく、多少ざ
わついた。
「星川希美子が、刺した」
 最後の力を振り絞るような響きで、その声が告げた。
 星川希美子。小学六年生のときに副委員長を務めた彼女は、同窓会には間違いなく出
席していたが、今この周辺に姿は見当たらなかった。
「――村木さん? おい、しっかり」
 先程よりも激しく村木を揺さぶる綿部。その行為の原因は明らかで、村木多栄の頭が
ぐにゃりと力なく下を向いたのだ。
「安静にした方が」
 そんな声が周りから飛んだ。手を貸そうとする男も現れた。その内の一人、戸倉憲吾
と綿部、そして財前雅実の三人でゆっくりと村木を横たえていく。
「うん?」
 途中で綿部が、続いて戸倉がやや驚いたような声を発した。
「首の後ろに、何かある」
 男二人は言った。
 横たえる動作を中断し、村木の身体の左側を下にする形でキープし、彼女のうなじを
確認した。
「これは」
 戸倉はそれきり絶句し、綿部も息を飲んでいた。財前が悲鳴を上げ、それはほとんど
時差なく、周囲の者達にも伝播した。
 村木多栄のうなじからは、二本の細い串のような物が突き出ていた。照明を浴びて、
銀色に照り返していた。

 同窓会が開かれた頃、日本では、無差別と思われる連続殺人事件が世間を騒がせ、話
題になっていた。
 殺人鬼のニックネームは牙。バーベキューで肉を刺して焼くのに使うような鉄串を二
本、被害者の身体のどこかに突き刺すのがトレードマークで、その対の鉄串を蛇や猛獣
の牙に見立てたのが由来とされる。くだんの鉄串は大量生産の流通品で、誰にでも買え
る代物。持ち手の部分が何度か捻ってあり、持ちやすいとはいえ、凶器としては扱いに
くい。実際、牙の殺害方法は絞殺がほとんどで、串を刺すのは犠牲者が死んだあとだっ
た。半年ほどの間に五人の被害者が出ていたが、犯人の逮捕には至っていなかった。
 そんな折に、同窓会で発生した村木多栄殺しは、牙の犯行のように見えた。死因は絞
殺ではなく腰部を背後から刺されたことによる失血死だったが、これまでの牙の犯行に
も刺殺はあったので、それほどおかしくはない。絶命前に串を刺している点が、大きく
異なるが、ホテルという限られた敷地を現場に選び、しかも同窓会開催で人の行き来も
そこそこあったのだから、さしもの牙も死亡を確認する余裕がなかったと捉えれば合点
がいく。
 問題は、村木多栄が死の間際、「星川希美子にやられた」という意味の言葉を言い遺
したと、大勢が証言したことである。
 部屋で休んでいた星川希美子は、通報により駆け付けた捜査官により、程なくして身
柄を確保された。事情聴取において、彼女は当然のことながら犯行を否認した。無論、
殺人鬼の牙ではないかという疑いについても、完全に否定した。
 凶器は未発見かつ不明。鉄串から不審人物の指紋は検出されず、また、足跡や毛髪と
いった、具体的に星川を示す物証が現場にあった訳でもない。警察にとって、攻め手は
ダイイングメッセージだけだった。
 ただ漫然と星川希美子を取り調べるだけでは、進展が望めない。捜査陣はまず、今ま
でに起きた牙の仕業とされる殺人事件について、星川希美子が本当に犯行可能だったの
かを検証した。犯行推定時刻が割り出されているので、それらの時間帯のアリバイの有
無を調査するのだ。
 その結果、五件の内の三件において、アリバイが成立。加えて、残る二件の内の一件
は、体格的にも体力的にも星川希美子を大きく上回る男性が被害者で、星川に限らず、
並みの女性に絞殺できるとは考えにくかった。
 そうなると浮上したのが、模倣説。星川が行ったのは村木多栄殺しの一件のみである
が、牙の犯行に見せ掛ける目的で、鉄串二本を突き刺したのだろうという見方だ。
 この説を星川にぶつけると、これまた当然であるが、否定が返ってきた。当初に比べ
て冷静さを取り戻した彼女は、「無差別殺人鬼の真似をするのであれば、今度の同窓会
のような限られた場所で行うなんて馬鹿げている。誰もが出入りできる、開けた空間で
やらないと意味がない」とまで言い切った。
 星川の反論には首肯できる部分もあったが、容疑者当人が言い出したせいで、一部の
捜査員にはかえって疑惑を強める逆効果となった。
 村木多栄殺しに関して、白黒を見極められぬまま、警察は捜査を進めざるを得なかっ
た。

            *             *

「早速で悪いんだけど」
 電話口でそう切り出した君津。続きを口にする前に、相手が言った。
「全然、悪くないわよ。多栄の事件のことでしょう? 遠慮なしに聞いて頂戴。知って
ることは何でも答える」
 相手は財前雅実である。電話では顔が見えないし、想像しようにも小学生時代の容貌
しか浮かばない。君津はイメージをなるべく膨らませて、脳裏に今の財前の顔を思い浮
かべた。
 だが、時間は余り掛けられない。恋人のためとは言え、国際電話に費やせる金には限
度がある。他にも何人かに電話することになるのは確実だ。
「まず、財前さんに言う筋合いではないかもしれないけど、みんなはどうして事件のこ
とを知らせてくれなかったんだろう?」
「それは……」
 言い淀む財前。君津は五秒だけ待つと決めた。五秒経過する寸前に、相手からの声が
届いた。
「やっぱり、いい知らせじゃないし、知らせたってあなたを動揺させるだけで、どうし
ようもない。みんなそう思ったんじゃないの」
「そういうものか。全てを投げ出して、飛んで帰るかもしれないのに」
「実際問題、まだ日本に帰ってきてないんでしょう?」
「それはまあそうだけれど」
「あなたがそっちで成功してるっていう彼女の自慢話、結構広まっててね。その邪魔を
したくないっていう気持ちもあったのよ、きっと」
「ふうん。まあ、分からないでもない。でも、僕が電子メールで問い合わせたなら、真
実を話してくれていいんじゃないか」
「……言えないわよ。他の誰かが言うだろうって、逃げたくなる役目だわ」
「なるほどね。荒田の奴も、似たようなことを言っていた。よし、じゃあ次。事件のと
きのことをなるべく詳しく教えて欲しい」
 気持ちを切り替え、いよいよ本題に入る。
「詳しくと言われても、私はそばでおろおろしていただけよ。多栄が倒れているのを見
付ける前に、何か目撃した訳でもないし」
「目撃してないっていうのは、怪しい人物とか妙な出来事とかはなかったっていう意
味?」
「そうなるわね」
「じゃあ……串は何センチぐらい突き出ていた?」
「えっと、五センチぐらい? ど、どうしてそんなことを知りたがるのよ」
「突き刺さっていた部分は、何センチぐらいなんだろう?」
「分かんないわよ、そんなことまで。全体の三分の二程じゃないの」
「そうだとしたら十センチか。なあ。うなじから五センチ、異物が飛び出ている人を仰
向けの状態から抱き起こそうとしたら、その異物に手が触れるのが普通と思わないか
?」
「――何それ? まさか、綿部を疑ってるの?」
 声が甲高くなる財前。付き合っている相手を悪く言われそうなのだから、当たり前だ
ろう。この質問はまだ早かったかと悔やんだ君津だが、もう後戻りはできない。
「疑ってるんじゃないよ。不自然さを少し感じただけ。綿部は首の後ろ側に腕を回さな
かったのかな」
「……回さなかったんでしょうね、鉄串に気付かなかったんだから」
 そう返事してから数拍間を取り、財前はさらに言葉を重ねた。
「多栄の顔面は、口の辺りから下、ずっと血塗れだったのよ。その血が首の側に流れて
きていた。首に腕を回すと、血で汚れてしまうとほとんど無意識で判断して、別のとこ
ろに腕を入れたのよ、多分」
「そうか。あり得るね。全然、不自然じゃない」
 一旦、相手の言葉を認め、穏やかな口調に努める。財前の安堵の息を聞いてから、別
の質問をぶつける。
「財前さんは、この殺人事件が牙の犯行だと思ってる? それとも、模倣だと?」
「そりゃあもちろん、模倣よ。希美――星川さんが無差別に人を殺してるなんて、さす
がに信じられないし、以前の事件ではアリバイもあるっていうし」
「模倣だとしたら、村木さんを殺す個人的動機があったことになる。それについて、何
か思い当たる節はある?」
「思い当たる節、ねえ……。二人は確か中学まで一緒だったけど、仲が悪いようなこと
はなくて、どちらかと言えば仲良しに見えた。私は村木さん、苦手だったけど、星川さ
んは誰とでも仲よくなれる、一種の才能みたいなものがあった。だから人気もあって…
…」
 答が脱線していることに気付いたか、財前はぴたりと黙った。が、じきに再開する。
「そうね。妬まれて殺されるとしたら、星川さんの方ね。だめだわ、何にも思い付かな
い」
「そうか。君でも分からないか」
 君津は応じながら、先程浮かんだ疑問を持ち出すことにした。
「さっき、口から首の方へ血が流れていたと言ったよね」
「ええ、そういう意味のことをね」
「仰向けだったんだから、出血は口からあった。刺されたのは腰の辺りだから、関係な
い。ということは、鉄の串はうなじを通って、口の内側にまで突き抜けていたんだろう
か」
「確かそうなっていたと聞いたわ。さ、参考になるかどうか知らないけれど、うなじの
方の傷はきゅって閉まっていて、血はほとんど流れ出ていなかったって」
 刺さったままの串が栓の役割を果たしたに違いない。口腔内は外の皮膚に比べれば柔
らかいだろうから、出血を止めるほどには収縮しなかったのだろう。
「うなじから口に串が突き抜けたなら、即死するんじゃないだろうか? 延髄って、そ
の辺りにあるんじゃなかったっけ? 確か、延髄に強い衝撃を受けると、死亡すると聞
いた記憶があるんだけど」
 プロレス技の一つ、延髄斬りに纏わるこぼれ話を、君津は思い浮かべていた。プロレ
スのテレビ中継で散々聞かされたものだ。延髄を蹴られたら普通の人間は死ぬ、とかど
うとか。
「延髄は滅茶苦茶太いもんじゃないし、うなじだって延髄と重なっていない部分は結構
あるわ。串が延髄を傷付けずに口の方へ貫通することは、充分にあり得るんじゃないか
しら」
「……財前さん、医大とか看護学校に入ったんじゃないよね」
「え、ええ。あ、今さっき喋ったのは受け売り。私達の小学生の頃ってプロレスが流行
ってたでしょ。特に男子の間で。そのせいで、延髄を蹴られたら死ぬっていう話を、事
件のときも誰かがその場で言い出したのよ。それを聞いた刑事さんだったかお医者さん
だったかが、今みたいな説明をしてくれたの」
 納得しかけた君津だったが、あることに気付いて、電話口にもかかわらず首を傾げ
た。自らのうなじを触りながら、その気付きについて言ってみる。
「一般論として、犯人が相手を殺すつもりなら、うなじに串を二本刺すつもりでも、一
本目はど真ん中を狙うんじゃないかな? わざわざ延髄を避けるような位置に刺すのは
おかしい気がする。だいたい、牙の仕業なら、あるいは牙の仕業に見せ掛けたいのな
ら、被害者が絶命後に刺すものだろう。それができない状況だったら、串を刺す行為自
体で絶命させようとするのが殺人犯の心理だと思うが」
「ああ、もう、知らないわよ。犯人じゃあるまいし、そんなことまで分かるはずないじ
ゃない。模倣犯なんだから、まだ殺せていないのに殺したと信じちゃったんじゃない
の?」
「……そうかもしれないね」
「君津君、やっぱり悪いけど、もういいかしら。思い出す内に、気分が悪くなって来ち
ゃって」
 そう言ってすぐにでも電話を切りそうな口調に、君津は慌てて反応した。
「あと一つだけ。事件そのもののことじゃないから」
「事件じゃないなら、何?」
「君が付き合ってる相手のこと。僕が君からの告白を断ったあと、君が選ぶくらいだか
ら、綿部の奴、よほどいい男になったんだろうなって思ってね」
「ま、まあね」
「確か、綿部の一つ上のお姉さんと仲よかったんだっけ? それがきっかけ?」
「全然。きっかけはもっとあと。大学に入ってから、彼の路上パフォーマンスを見たか
らだけれど、今は内面で通じ合ってるっていうか」
 財前は照れたのか、早口になった。
「そう言えば、その路上パフォーマンスっていうか大道芸って、どんなの?」
「それは……」
 答えそうになりながら、何故かしらやめた財前。
「彼から直に聞くといいわ。どうせ、綿部にも電話をするんでしょう?」

 財前雅実に続いて、綿部阿矢彦にも電話した。間を空けなかったのは、財前から綿部
に前もって通話内容が伝わるのを防ぐため。君津の腹づもりとしては、先入観の排除が
目的なのだが、こうして嗅ぎ回るのは犯人捜しと受け取られる面もあると、財前への電
話で自覚した。
「連絡しなくて、済まなかった」
 簡単な挨拶のあと、綿部が開口一番に言ったのがこれだった。財前から話が伝わって
いたのかと疑った君津だったが、すぐに払拭した。
「別に気にしちゃいない。だいいち、連絡方法がなかったろう、そっちからは」
「それもそうだ。だけど、そっちこそ俺が自宅暮らしじゃなかったら、この電話、どう
するつもりだった?」
「親御さんにお願いして、新しい番号を教えてもらうつもりだった。それでもだめな
ら、他の友達を当たる」
「すまん。俺はそこまで必死になれないだろうな。事件は悪いニュースだから、わざわ
ざしなくてもって思ったろう」
「気にすんな。それよりも、早いとこ用件に取り掛かりたい」
「分かった。何が聞きたい?」
「最初に断っておくと、これは疑ってるんじゃなく、確認のために聞くんだ。村木さん
を抱え起こしたとき、首の後ろの串には気が付かなかったのかどうか」
「うむ……うーん」
 しばらく黙る綿部。いや、唸り声だけは小さく続いていた。
「気付かなかったとしか言いようがない。ひょっとしたら、ちょっとくらい触ったかも
しれないが、だとしても、アクセサリーか何かだと判断したろうな。それくらい緊迫し
た状況だった」
「うん、そういうこともあるかもしれないな。言われて初めて思い当たった」
 君津は一応、疑問を引っ込めた。完全に合点が行ったのではないが、一つの捉え方と
して受け入れた。
 このあとも基本的な質問をした。怪しい人物は見掛けなかったか、何かおかしなこと
は起きていなかったか。いずれも、綿部の返答はノーだった。
「ところで綿部はこの事件、模倣説を支持している?」
「殺人鬼・牙の真似をしたっていう? ああ、まあそう解釈するのが妥当じゃないか」
「だったら、村木さんが殺された動機は何だと思う。聞かせてくれ」
「うーん。映画やドラマなんかだと、子供のときに友達同士で、二人だけの秘密を持っ
ていて、大人になった今ではその秘密が公になると非常にまずい、だから口封じのため
に殺す、なんてのがあるけれど」
「そんな検証のしようがないことを言われても、だな」
「そうだよな。うーん」
 唸ったきり、綿部の口から次の仮説は出て来なかった。君津は動機に関しては切り上
げることにした。
「何にも浮かばないってことは、財前さんとうまくやってるんだろうな。はは」
「そ、それとこれとは話が別だ」
「うまく行ってないのか?」
「そんなことはない。だから、話の次元が違うってんだよ」
「大道芸の技を見せてやったり、教えてやったりしているんだろ?」
「……のろけてもいいのか? 君津の方は恋人がこんなことになってるっていうのに」
「少しぐらいなら。あ、いや、その前に、どんなパフォーマンスができるんだよ? ブ
レイクダンスとかか」
「違う違う、ほんとにいかにもな大道芸ばっかりさ。ジャグリングとか物真似とか、あ
と筒乗りとか」
「筒乗りって?」
 一瞬だが、焼き海苔の入った筒を想像してしまった君津。
「玉乗りの変形バージョンって言うのが分かりやすいかな。金属製の筒状の物体を寝か
して、上に板を載せて、その板の上に俺が立ってバランスを取るんだ」
「あ、分かった。テレビで見たことある」
 しばらく事件とは無関係な話題を選び、相手の気持ちと口がまたほぐれるのを待つ。
頃合いを見て、改めて事件の話に戻った。と言っても、残る質問は少ない。
「もう少し発見が早かったら、助けられたと思うか?」
「……いや。難しかったと思う。現実には助けられなかったから、俺がそう信じたいと
いうのもあるかもしれないが、実際問題、村木さんの身体はかなり冷たく感じたんだ。
あれは恐らく、少々発見が早かったくらいじゃ、助からない」
「ということは、犯行からはだいぶ時間が経っていたと」
「い、いや、そこまでは分からねえよ。そんな気がしただけだ」
「時間がだいぶ経っていたと仮定して、どうして星川さんは逃げなかったんだろう?」
「それは……逃げたら怪しまれるからじゃないか」
「動機が見当たらないのに、か」
「だったら……ああ、星川さん、ホテルに宿泊をすることにしていたから。宿泊をキャ
ンセルして逃げ出したら、怪しまれて当然だ」
「いや、根本的な疑問として、何故、宿泊を決めてたんだろう? 鉄串を用意していた
ってことは、計画的な殺人だ。殺したあと、のうのうと犯行現場のホテルに泊まるだな
んて、普通じゃない。最初から日帰りにすればいいんだ」
「……俺にはもう分からん。頭が痛くなってきたよ」
 急に弛緩したような軽い口調で言い、綿部は笑い声を立てた。頭痛というのは事実な
のか、どことなく疲れた笑いに聞こえる。
 潮時と判断した君津は、相手に礼を述べて通話を終えた。

――続く




#510/514 ●長編    *** コメント #509 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/01  00:08  (395)
ほしの名は(後)  永山
★内容                                         18/06/24 03:53 修正 第3版
 死に瀕した村木多栄に触れた最後の一人、戸倉憲吾にも電話をした。
 君津と戸倉は小学生時代はさほど親しくなかったが、中学に入ってから変化が生じ
た。ともに頭はよい方だが、君津が閃きを重視するタイプであるのに対し、戸倉は論理
を一から積み上げるという違いがあった。そこが互いに魅力に映ったのだろうか、何か
と馬が合い、以後、付き合いは長く続いた。君津の海外留学を機に、さすがにやや疎遠
になったが、それでも電子メールでのやり取りぐらいはたまにあった。現在、戸倉はコ
ンピューターで様々な音を合成することを研究テーマにしているらしい。
「伝える役をしなければならないとしたら、自分だったんだろうな」
 戸倉は些か自嘲気味に、そして後悔を滲ませた口ぶりで始めた。君津は本題と余り関
係のない話が長引くのを嫌って、「それはもういいから」と言った。
 しかし、戸倉は意外な頑なさを見せた。
「躊躇したのには理由があるんだ」
「理由って、どうせあれだろ。知らせてもどうしようもないし、日本にすぐさま帰って
来られる訳じゃないしっていう。聞き飽きたよ」
「違うんだ。言いたいのはそんなことじゃなくて、もっとちゃんとした理由さ。事件が
起きた、村木さんが殺されたと知ったとき、僕はすぐに思ったんだよ。もしかしたら財
前さんが殺したんじゃないかって」
「え? 何でまた?」
「知らないみたいだな、やっぱり。財前さんから告白されたことがあるって聞いてたか
ら、ひょっとしたら君津も知ってるのかなとも思ってたんだが」
「おい、分かるように話してくれよ」
 送受器を持ち替え、握る手にも声にも力が入る。君津は手のひらに多めの汗を感じ
た。
「ちょっと頭の中で整理するから、待ってくれ。――よし。今から話すのは、僕が中一
のときに、女子の会話を立ち聞きして知ったことだ。噂話みたいなもんだったし、わざ
わざ言いふらすようなものじゃなかったので、誰にも言ったことはない。それから、財
前さんの立場からの話だということに、注意して欲しい」
 承知したという意味で、君津は「ああ」と短く言った。
「財前さんが小学生のとき、君津に告白したのって、何だか急じゃなかったか?」
「ううん、急かどうか分からないけれど、バレンタインとか卒業とかのイベントにかこ
つけた告白ではなかったな。急な告白に意味があったっていうのか?」
「意味というか、理由だな。財前さん、他の人から告白されて、それを断るために急い
でおまえに告白したらしいんだ」
「それって僕自身と同じ……」
「状況は同じようなもんだったろうな。違うのは、財前さんが告白された相手っていう
のが、同性だったってことだ」
「はあ、女子から告白されたってか?」
 さすがに驚いた。小学生で同性から告白されるってのは、どんな気持ちになるものな
んだろうか。
「そう聞いた。その相手が、村木さんなんだ」
 村木多栄が財前雅実に告白を。
 それは確かに隠された事実かもしれない。が、だからといって、財前が村木を殺害す
る動機はどこから生じるのだろう。逆なら、つまり告白してふられた村木が、財前を憎
んで殺すのなら――どうして今さらという疑問は残るが――まだ理解できなくもない
が。
「何で、財前さんが殺したと思った?」
「おまえにふられた財前さんは、村木さんの告白を断れなかった。好奇心もあって付き
合ってみたらしい。だが、一年ほど経って後悔した。村木さんの方が飽きて、関係は自
然消滅したんだ。財前さんにとったら、いい面の皮だよな。これは僕の勝手な想像だ
が、文句を言うなり、秘密を暴露してやるなりしたくても、彼女自身にとっても相手に
秘密を知られている状況だし、言えなかったんじゃないか。唯一人、愚痴をこぼした相
手が綿部千代、綿部のお姉さん」
「え」
「その二人の会話を、僕が偶然、立ち聞きしたって訳。これなら、財前さんが根に持っ
ていてもおかしくはないだろ」
「分かるけど、今になって、わざわざ殺す程には思えないな」
「そこは同感。だからこそ、僕も警察には何も言わなかった。ただ、同窓会に出たなら
分かると思うんだが、財前さんは綿部と交際中の割には、幸せオーラがたいして感じら
れなかった。どちらかというと緊張していてさ。まあ、冷やかされるのを覚悟していた
せいかもしれないが」
「同窓会で、自分達よりも幸せそうな村木さんを見て、昔の恨みが殺意までに強まった
と?」
「そこまでは言ってない。村木さんの方も特に幸せそうに見えた訳じゃないし。犯人は
鉄串を用意していた、つまり犯行は計画的。動機は、同窓会当日に作られた殺意じゃな
いはず」
「だよな」
「このことを警察に言っていれば、星川さんがあんなあっさり逮捕されることはなかっ
たなじゃないか。そう思うと、おまえに連絡する勇気が出なかった」
 やっと理屈がつながって、君津は納得できた。
(星川さん――僕の彼女が警察に拘束されたのは、村木さんが名前を言い遺したのが大
きな理由だろ。それなのに、細かいことを気にするなんて。戸倉らしいっちゃらしいけ
ど)
 ちょっぴり感動しつつ、それ以上に厄介な性格だなと笑い飛ばしたくなった君津。だ
が、恋人が逮捕されたままという現実の前に、笑っている暇はない。
「計画犯罪なら、動機も以前からあったに違いない。その条件に、星川さんが当てはま
るとは思えないんだ」
「知る限りじゃ、動機がありそうなのは、さっき言った財前さんだけだぜ。しかし、財
前さん以外に動機のある人物がいようがいまいが、ダイイングメッセージが全てを否定
してしまう」
 そうなのだ。いくら他の容疑者を挙げようとも、星川希美子の名を言い遺した事実が
立ちはだかる。君津と星川を苦しめる。
「君津、こっちはとことんまで付き合えるが、そっちは大丈夫か」
「ああ。仕事、いや、明日は大学の方だっけ。それが始まるまでは、徹夜も厭わない
よ」
「じゃあ、まず……星川さんは犯人ではないと決め付ける。そこから出発だ」
「言われなくても、そうしてる」
「もっと積極的に、かつ、論理的に活用するんだ。閃き型のおまえには難しいかもしれ
んが」
「論理派を自認するのなら、分かり易く言ってくれよ」
「つまりだな。星川さんが犯人でないなら、何で村木さんは、犯人は星川さんだと告発
したのか。この謎を解き明かす必要があるってことさ」
「そういう意味か。確かにな。――見間違えた、とか」
 早速、閃いた仮説を、大した自己検討もせずに口に出す。
「犯人は星川さんとそっくりの格好・変装をして、村木さんを襲った。村木さんは当
然、星川さんに刺されたと思い込む」
「うーむ。理屈だけなら成り立つだろうが、実際のところはどうなんだろうな。この場
合、本当にそっくりに化けなければ、星川さんの名前を出すまでには至らないはず。と
なると、何はともあれ、顔を似せねばならない」
「よくできたゴム製の被り物なら、かなり本物っぽく見えるんじゃないか。前に、映画
で見たんだ。犯行はあっという間に終わるし」
「いや、難しい気がする。まず、犯行はあっという間と言うが、刺すのは一瞬で済んで
も、鉄串が残っている。二本続けて刺すのは、結構時間を要するんじゃないか。見ただ
けで被り物に気付かれるか否かは五分五分ぐらいとしても、村木さんの反撃に遭って被
り物に触られる可能性が高い」
「戸倉の言いたいことは分かるけれど、それだけでは否定の根拠として認められない」
「まだある。当日、村木さんと星川さんは顔を合わせている点だ。長い間会っていなく
て、いきなり犯行に及ぶのであれば、変装は適当なレベルで大丈夫だろう。しかし、当
日会ったとなると、話は違う。顔だけでなく、化粧の具合や背格好、全体から受ける印
象、髪型や服装、靴まで揃えないと、村木さんに違和感を与える恐れがある」
「……化粧に髪型、服装は、当日にならないと分からない、か。泊まるつもりで来てい
るのなら、着替えて別の服になっていてもおかしくはないが、化粧と髪型をその日の内
に変えるのは相当不自然。よって、見間違い説、いや、変装説は除外される」
「ちなみに、単なる見間違いも起こらなかったと思う。当日の星川さんとそっくりの姿
形をした出席者は、女性にせよ男性にせよいなかったと僕が保証しよう」
 こんな場合に男まで含めて論じるのも、戸倉らしいと、君津は思った。
「論理展開は頼もしいが、謎の解明には近付いていない。まあ、変装説等が間違ってい
たと分かったのは、前進と言えるけれども」
「もう仮説はないか?」
「ない。時間が経てば閃くかもしれないし、閃かないかもしれないが、現時点では手持
ちはゼロだ」
「こっちも大した説はないんだが、気になることが一つできた。村木さんがはっきりと
星川さんの名前を出したということは、真犯人は星川さんに濡れ衣を着せる意図が明確
にあったと言えるんじゃないか?」
「それは要するに……犯人は他の誰でもなく、星川さんに罪を被せたかったという意味
だな。言い換えると、犯人は村木さんだけでなく、星川さんにも恨みを抱いていた」
「その通り。そして星川さんに恨みを抱くという条件にも、財前さんは当てはまる」
「そうなるのか」
 ぴんと来なくて、君津は問い返した。
「自覚がないのか。おまえは財前さんを振ったんだろう。彼女にしてみれば、君津誉士
夫を手に入れた女、星川希美子に対して敗北感を感じたかもしれない。憎く思ったとし
ても、不思議ではあるまい」
「恨むなら、僕自身を恨むものだと思ってた」
 率直な感想を述べた君津に、戸倉は少しだけ笑い声を漏らした。
「そう思ってるのなら、一応、注意しとけよ。このあと、財前さんがおまえも刺しに行
くかもしれないぞ」
「まさか」
「言ってる自分も、どこまで冗談のつもりなのか、測れてないんだぜ。今の時点で、星
川さんを除いた犯人の最有力候補は財前さんなんだからな」
「僕の記憶にある財前さんは、そんなことする人には全然見えないな」
「当たり前だ。僕だって、信じられん。第一、君津が今思い浮かべてる財前さんての
は、大方、告白してきた小学生の頃の姿なんだろう」
「当たらずとも遠からず、とだけ言っておく。けど、仮に財前さんが犯人だとして、こ
んな大胆な犯行ってやれるもんかな?」
「大胆とは、同窓会で殺すっていう点か」
「それもあるが、襲ってから間もない段階で、彼氏と一緒に発見役を演じるなんて。他
に適当なアリバイ証人が見付からなかったのかもしれないが、だからといって、好きな
男を巻き込むかね」
「そりゃあ、ばれない気でいるからだろう」
「あるいは、端からアリバイ証人にするために付き合い始めた、なんて……」
 他愛もない思い付きを言葉にしただけのつもりだった。だが、何かが君津の脳裏によ
ぎり、引っ掛かった。
「君津?」
 押し黙った君津の耳に、戸倉の声が届く。
「――最初っから、綿部も承知の上だった、共犯だったと考えれば」
「え? 何だって」
 一段と大きな声量になった戸倉。君津は興奮気味に、負けないくらいの大きな声で返
事した。
「そうだ、そうなんだ。綿部が技を彼女に教えたとしたら、謎は解ける!」

            *             *

 空港に降り立ったときは、あいにくの雨だった。折角の連休も予定が多少狂う人が大
勢いるに違いない。
 手続きを済ませ、多くない荷物を受け取ると、都心まで直行する。小さな子供の頃に
はまずくてとても飲めなかったブラックの缶コーヒーで、眠気を少しでも飛ばしてお
く。
 駅の改札を出たところで、三人の姿が視界に入った。
「やあ。久しぶり」
 軽く手を挙げてから、平常心に努めつつ言った。
 三人の中から真っ先に駆け寄ってきたのは、財前雅実だった。
「久しぶり! だけど、感動の反応が薄いわね」
「少し疲れてるし、帰ってきた理由が理由だから」
「そうね。……まあ、思っていた通りのいい男に育ってるわね。見た目だけでも元気そ
うで、安心したわ」
 財前は後ろを振り返り、綿部を手招きした。
「今の彼氏の方がもっと上だけど」
「そりゃそうじゃないと困る」
 応えてから、君津は目線を綿部に合わせた。髪を伸ばしてパーマを掛けているのは、
大道芸人として目立つためだろうか。そして、思い描いていたよりも大きい印象を受け
る。鳩胸のせいかもしれない。
「よおっ。路上パフォーマンス、頑張ってるんだって?」
「まあな。おまえには全然負けてるけど」
「比べるもんじゃなし。将来はプロでやっていくの?」
「分かんねえ。でも、日本じゃ無理かな」
 二人の会話が一段落すると、三人目――戸倉が声を掛けてくる。ここしばらくよく連
絡を取り合ったので、挨拶抜きだ。
「君津、どうする? どこか落ち着いて話せる場所……喫茶店かファミリーレストラン
か」
「ファミレスは騒がしいイメージがあるけど、腹も空いている」
 時間は午後三時。迎えの三人は、とうに昼食を終わらせていることだろう。
「機内食はどうした」
「食べた。でも、足りないし、日本食が食べたいんだ」
「だったら、ちゃんとした店に入ろう。ファミリーレストランの日本食なんて、メニ
ューが少ないだろ」
 そう言ってくれたものの、近くに適当な店がなかったので、蕎麦屋に入った。甘い物
も少し置いてあるらしい。
「寝泊まりするとこはあるの?」
 四人掛けのテーブルに案内され、注文を済ませるや、財前が聞いてきた。僕が急遽帰
国した理由が殺人事件にあることは承知しているはずだが、とりあえずは当たり障りの
ないところから話題にしたいようだ。
「うん。今日と明日はホテル泊まりだけど、明後日からは親戚の家に泊めてもらう。墓
参りするから、方角的にもちょうどいいんだ」
「ああ、そうだったな」
 綿部が気まずそうに反応した。両親がいないことは、このテーブルに着いた全員が知
っている。
「てことは、明日は弁護士さんのところか」
 隣に座る戸倉が話題を換える。と言っても、人の生き死に関係している点は同じだ
が。
「会う約束はできたんだが、長い時間は無理だと言われてるんだ。いくら依頼人の彼氏
でも、真相解明に役立つ何かを持ってる訳じゃないし、しょうがない」
「真相解明って……星川さんが犯人ではないとまだ思ってるの?」
 財前が言った。辺りを気にする風に、声のボリュームを落としている。
「そうだよ。そのために無理に調整して、帰って来たんだ」
「やっぱり。戸倉君を通じて呼び出されたときから、そういう予感はしてたんだ」
 早々にざる蕎麦が来た。穴子天ぷらのミニ丼も付けた。他の三人は、そば粉を使った
和菓子とお茶のセットだ。
「とりあえず、食べながらでいいかな」
 承諾を求めると、曖昧な答が返って来た。
「食べるのはもちろんかまわないけど、何が『いいかな』なのよ」
「事件のことで、新たに確かめたいことができてさ。戸倉にはざっと伝えたんだけれど
も、二人にも聞いてもらいたい」
 手を合わせてから割り箸を割って、まず蕎麦のつゆにわさびを溶く。薬味を散らした
ところで、前に座る二人にも食べるよう促した。
「楽しくないことを思い出しながらだと、まずく感じるかもしれないけど」
「どうせ食べ始めたらすぐに終わっちまう。そっちがあらかた片付くまでは、このまま
待機してるさ」
 綿部が笑いながら言って、腕組みをする。木の椅子の背もたれに身体を預け、聞く体
勢になった。財前の方はお茶ではなく、お冷やを一口飲んで、テーブルの上で両手を組
んだ。
「大前提として、僕は彼女が――星川さんが犯人ではないと決めている」
「……当然よね。あなたの立場なら」
「星川さんが犯人じゃないなら、村木さんはどうして星川さんを犯人だと言い遺したの
か。最初に考えたのは、犯人を何らかの理由で星川さんと誤認した可能性なんだけど」
 以下、犯行が計画的であることを軸に、この説は成り立たないことを説明し終えた。
 黙って聞いていた綿部が、湯飲みを手にしてから、ゆっくりと口を開く。
「何だ、結局、証明ならずか。俺達に聞いてもらいたいことって、これか?」
「まだ続きがある。次に僕が閃いたのは、音による欺瞞だ」
「ぎまん?」
 どういう意味の単語で、どんな字を書くのか分からないと言わんばかりに、横目を見
合わせた様子の二人。僕は「トリックと言い換えても通じるかな」と付け足した。
「同窓会に出た大勢が、村木さんが星川さんの名前を言うのを聞いている。特に近くで
聞いたのが、君達と戸倉だ。三人には、検証してもらいたい、僕がこれから話すトリッ
クが成り立つかどうかを」
「……分かった」
 綿部と財前は、今度ははっきりと互いに目を見合わせてから頷いた。
「村木さんが犯人ではない星川さんの名前を言うとしたら、どんな場合があるか。シン
プルに考えることにした。言ってない、と」
「言って……ない?」
「意味が分からないわ。私達は確かに聞いた」
 きょとんとする綿部に、捲し立てる財前。戸倉が止め役に入ってくれた。
「まあまあ、検証はあと。最後まで聞こう」
「……」
 不満そうだが、財前は黙った。僕は結局、食事には箸を付けずに話を続けていた。
「村木さんは星川さんの名前を言っていない。これも決定事項とする。では、何故、周
りのみんなには声が聞こえたのか。声は作り物だったんじゃないか。僕はそう考えて、
入手できた事件の状況を再検討してみた。最初は録音しておいた音声を流せば何とかな
るだろうって思っていたが、そう簡単じゃないと分かった」
「そうよ。あのとき、村木さんの口は動いてたんですからね」
 思わずという風に、財前が身を乗り出して反証を挙げる。僕は一つ首肯した。
「そう、それがネックだった。他の方法を考えなきゃならない。たまたま村木さんが声
を出せずに、口を動かしただけのタイミングに、犯人が幸運にも音声を合わせられたの
か。そんな偶然は認められない。僕は発想を少し変えてみた。村木さんの口を動かした
のも、犯人の仕業だったとしたら?」
「ば、馬鹿な」
 今度は綿部が“思わず”反応したようだ。
「死んでる人の口を動かすなんて、リモコンでも仕掛けたって言うのか?」
「ん? 変なことを言うね。君らが見付けたとき、村木さんはまだ息があったんじゃな
かったか?」
 僕は綿部、財前の順番に顔を凝視し、それから戸倉を見た。戸倉は「うむ。息があっ
たように思えた。あのときは」と答えた。彼だけが、注文した品を消費している。
「言い間違えただけだ。結果的に死んでしまったのだから」
 取り繕うことなく、ストレートに訂正する綿部。その隣では、財前が居心地悪そうに
もぞもぞ動いて、座り直した。彼ら二人が何も言わなくなったので、戸倉が口を挟んで
くれた。
「でもよ、君津。生きてる人間の口を、他人が自由に操るのは、死人の口を操るよりも
難しいんじゃないか? 死んでるなら、さっき綿部が言ったみたいにリモコンを取り付
けたら、曲がりなりにも動かせるだろうけどさ」
「同感だ。その人が生きていたら、偽の音声に、本物の音声が重なる可能性もある。犯
人にとって、絶対に避けたい状態だろう。そこで僕は考えを推し進めた。発見されたと
き、既に村木さんは亡くなっており、犯人は外的な力で村木さんの口を動かすととも
に、偽の音声を周りに聞かせることで、まだ村木さんが生きていると思わせようとし
た。これなら、全ての説明が付く」
 言い切った僕は、前の二人を見やった。しばらくの沈黙のあと、財前が切り出した。
「どうやって? 具体的にどうすれば、村木さんの口を動かし、声を出せるのよ」
「そこを説明できなければ、絵に描いた餅だな」
 財前の台詞を引き継ぎ、綿部も言った。
「だから、先に君達の話が聞きたいんじゃないか。村木さんの口を動かすような仕掛
け、村木さんの声を流すような仕掛け、そういったものが彼女の身体のどこか、あるい
は近くになかったのかなってね」
「そんな物、ある訳ないじゃない。あったら警察が気付いてるだろうし、私達は間違い
なく、村木さんの口から声を聞いてるのよ」
「――戸倉は、そこまで断言できる?」
「無理無理。声がどこから聞こえたなんて、判断のしようがない。極端な話、村木さん
の口の中に、スピーカーを仕込まれていたら、どこから聞こえようが関係ないってこと
になるしな」
「だから! そんなスピーカーなんて、見付かってないでしょ!」
 当初の囁き声はどこへ行ったのか、財前は大声で主張した。さすがにまずいとすぐに
気が付いたらしく、息を整えつつも肩を窄ませる。
 落ち着くのを待ってから、僕は推理の続きを話し始めた。
「スピーカーなんてなくても声は流せるし、リモコンを仕掛けなくても口は動かせる。
僕はそう思うんだ」
「どうやって」
 穏やかな口調で、綿部。額に汗の縦筋ができていた。どこかしら緊張しているよう
だ。
「もう一つ、僕が着目したのは、犯人が牙なる殺人鬼の手口を模倣しようとしたこと。
無差別殺人として牙に罪をなすりつけるにしては、同窓会の場はふさわしくない。だっ
たら、何故? 犯人にとっていかなるメリットがあるのか。牙の犯行で特徴と言えば?
 そう、二本の鉄の串だ。犯人は村木さんの遺体に鉄串を刺す必要があったんじゃない
か。このように考えることで、見えてきた。犯人は、うなじから刺した二本の鉄串を持
って、遺体の口を動かした――」
「そんな、あり得ない……」
 財前は両手で口を覆っていた。対照的に、綿部は鼻息を荒くした。
「その説だと、俺が一番怪しいことになりそうなんだが?」
「もちろん、鉄串をリモコンで動かしたのでなければ、最も怪しいのは、村木さんを抱
え起こしていた綿部、君になる」
「は! 馬鹿らしい。冗談も休み休み言え」
「冗談のつもりはないよ。こうして披露するからには、本気だ」
「そうかい。だったら、声は? 俺が裏声を使って女の声を出したってか? いくらパ
フォーマーでも、そんな芸当は身に付けてないぜ。第一、俺はずっと村木さんに呼び掛
けていたんだ。同時に女声を出せるはずがないだろ。声はカセットテープとでも言う
か?」
「いや」
 長い反論に対し、僕は短い返事でまず応じた。
「先に聞いておく。綿部は声に関するパフォーマンスで、何かできることがあるよな
?」
「……ああ。腹話術だ。簡単なやつで、男の声しかできないぞ。それにさっきも言った
ように、俺は村木に声を掛け続けていた」
「その腹話術のこつを、彼女に教えたんじゃないのか」
 僕は綿部の隣に目を移した。口を覆ったままの財前が、こちらを見る。
「偽の声で、星川さんの名前を言ったのは、財前さん、君だろう?」

 〜 〜 〜

「証拠はない」
 しばらくしてから、どちらかが言った。僕は戸倉に目配せしてから、“犯人”達の説
得を試みた。
「鉄串に、綿部の指紋が付いている」
「付いていて当然だ。助け起こしたときに、触ってしまうことはあるだろう」
「だけど、口を操るために触ったのだとしたら、指紋の付き方が随分違ってくるはずだ
よ。元々、刑事達は何か変だなと感じているかもしれない。僕の推理を警察に伝えた
ら、どうなるだろうね? 君か財前さんの同窓会前の買い物を警察が調べれば、鉄串を
買ったことが明らかになるんじゃないか」
「……いや、証拠にはならない。絶対的なものじゃない」
 自らに言い聞かせるような口ぶりの綿部。僕はわざと哀れむようなため息を吐いた。
「仕方がないね。戸倉、あれを出して、説明してあげよう」
「うむ。了解した」
 戸倉がジャケットの内ポケットをまさぐり始めると、綿部と財前は表情に怪訝さを浮
かべた。程なくして、戸倉はその物――小型のテープレコーダーを引っ張り出した。
「同窓会の席で、僕の現在の研究テーマは音の合成だと話したよな。研究材料を集める
ために、テープレコーダーを持ち歩いて適宜、録音しているんだ。今も録ってたんだ
が、証拠云々はそれじゃなく」
 と、録音をストップし、中のカセットを別の物と入れ替える戸倉。
「こっちのテープは、同窓会のときに使ったやつだ」
「まさか……」
「うむ。村木さんを助けようとしていた場面で、録音していたんだよ。これにはあのと
きの声もばっちり入っている。聞いてみるか? 警察に声紋を調べてもらう前に」

 自首の形を取りたいという二人のために、弁護士に事情を話して来てもらい、後は全
て任せることになった。恋人と対面できるのは、もう少しだけ先になる。
「本当のところはどうなんだ、戸倉?」
 駅のプラットフォームの中ほど、横並びに立っているときに、聞いてみた。
「うん、何がだ」
 煙草を吹かしながら、戸倉は聞き返してきた。喫煙するとは意外だ。蕎麦屋では我慢
していたらしい。
「本当に録音できていたのかってことさ」
 風向きを気にしつつ、僕は質問の意図を明確にした。隣を見ると、特段、表情に変化
はない。
「無論だ。僕はこれでも研究熱心だからね。ま、多少は聞き取りにくい部分はあるかも
しれないが、いざとなったら合成してやるよ」
「それはだめだろう」
 苦笑いが出てしまった。
「いつまでいられるんだ?」
 吸い殻入れに一歩近づき、煙草の火をもみ消す戸倉。
「日本に? うーん、実を言うと、真犯人が捕まったら、すぐに戻ってこいと言われて
るんだけれどな」
「馬鹿正直にその約束を守ってたら、彼女と会う時間がないな」
「だな」
「そもそも、窮地を救いに万難を排して帰国したってことを、星川さんはまだ知らない
んじゃないか」
「多分ね。弁護士先生も伝えてないだろうな」
「じゃ、やっぱり、会っていかねばなるまい。ついでに、向こうの家族にも」
 家族と言われ、あることにふっと合点がいった。星川さんと連絡が取れなくなったあ
と、自宅に電話してもつながらなかったのは、マスコミの電話攻勢に悩まされていたの
が原因なんだろうな。
「そうするよ。それに、できるだけ日本の星空を見ておきたい」
「星か。昔から好きだったんだよな」
 ライターを弄んでいた戸倉は、急に「あ」と叫んだかと思うと、こちらに勢いよく振
り向いた。
「な、何だ、どうした」
「重大なことに気が付いた。おまえと星川さんが結婚したら、どちらの姓を名乗るつも
りか知らないが――」
「ああ、そのこと。ずっと前から、とっくに気付いているよ」
 君津希美子であろうと、星川誉士夫であろうと、その程度のこと、気にならない。

――終




#511/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/11/28  22:59  (499)
カグライダンス(前)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:41 修正 第3版
 それは成人式を迎えたことを祝して行われたインタビューだった。もちろん、出演し
た新作映画の宣伝も兼ねていたけれども、名目は飽くまでも二十歳になったこと。ス
ポーツ新聞の芸能面におけるシリーズ企画で、加倉井舞美は三人目に選ばれた。前の二
人はアイドル歌手とバラエティアイドルで、女性が続いている。加倉井は女優代表の形
だ。ちなみに四人目以降は、グラビアアイドル、お笑い芸人、声優、作家……と予定さ
れている。
「子役でデビューして人気が出たあと、大人になってからも大成した人は少ないとされ
ているけれども、舞美ちゃんはその少ない方に入れそう?」
「え、本人に答えさせますか、その質問?」
 加倉井は困った表情を作って見せた。場所は新聞社の地下にある喫茶店の一角。白く
て正方形をしたテーブルの向こうにいるのは、カメラマンと女性記者。幸いと言ってい
いのか、記者の浦川(うらかわ)とは顔なじみで、関係は良好だ。
「自信があると答えたら生意気に映るし、ないと答えたらかわい子ぶってるとか軽く見
られる。どちらにしたって評価が下がりそう」
 マネージャー抜きのインタビューなので、余計な口出しが入らない分、自分の言葉の
みが反映される。普段以上によく考えて受け答えをしなければ。
「確かに。でもこちらとしては、難しい質問にも率直な答が欲しいわけ」
「じゃあ、評価は周りの人に委ねますってのもだめ?」
「だめではないけど、面白くない感じ」
「だったら……周りの皆さんの支えでここまで来られたのだから、今後も信じて進むだ
けです、ぐらいかな」
「おお、大人な回答ですなー」
 それ採用とばかりに、メモ書きに丸印を入れる浦川記者。インタビューの受け答え自
体は録音されているのだが、文章に起こすときの道標としてメモを取るのだという。
(ほんとにこんなインタビュー、面白くなるのかしら。そもそも、アイドル系の人達の
間に挟まれているのが、若干、不本意だし)
 内心では多少の不平を浮かべつつ、これもお仕事、そして宣伝のためと割り切って笑
顔で応じてきた加倉井。が、次の質問には、笑みがちょっと固まった。
「大人と言えば、大人になったのを記念して、こういう質問も解禁と聞いたから」
「何です?」
「ずばり、恋愛関係。好きな人はいるのか、これまで付き合った人はいるか等々」
「――子役からやっていると、付き合う暇なんて。芸能人の友達ばかり増えただけ」
「やっぱり。昔の雑誌のインタビューを見返したら、クラスの同級生と話が合わなくて
困る、みたいな受け答えしてたんですよね。あれって、噂では、同級生の男子がガキ過
ぎて話にならない、みたいな過激な答だったのを、マネージャーさんの要請で直したと
か」
「……小学生の頃の話ですから」
 思い出すと、小学生だったとは言え我ながら考えなしに喋っていたものだと、冷や汗
ものの反省しきりだ。
(あのときはマネージャーじゃなく、確かお母さんが言ったような記憶が。二人ともだ
ったかな?)
 妙に細かいことまで思い出してしまい、苦笑いを浮かべた加倉井。
「それじゃ質問を変えて、好きな男性のタイプは?」
「え?」
「聞いてなかった? 好きな男性のタイプ。具体的な名前は出さなくていいから。これ
くらいなら大丈夫でしょ」
「ああ、好きな男性のタイプ……。そんなこと考えて生活してないもんね。うーん、そ
う、細かいことに口うるさい人は嫌い。だからその逆。大雑把じゃなくて。器の大きな
人になるのかしら?」
「なるほどなるほど。舞美ちゃん自身は、仕事――ドラマや映画の撮影では細かいこと
に拘るみたいだけど」
「仕事では、ね。仕事だったら、細かいことを言うし、言われても全く平気。ただ、言
われるときは納得させて欲しいとは思います」
「昔、二時間サスペンスに出たとき、犯人ばればれの脚本にけち付けたんだって?」
「いやだ、十歳の頃の話ですよ。みんな正解が分かってるのに、そこを避けるようなス
トーリーに感じたから。真面目な話、小学四年にばればれって、問題あるでしょう」
「結局、どうなったの?」
「事務所の力もあって、穏便に済みました。あ、台本は少し直しが入ったかな」
 加倉井は話しながら、現在の事務所の状況に思いを馳せた。彼女の所属する事務所“
グローセベーア”は、分裂したばかりだった。企業組織として大きくなりすぎた影響が
出たのか、先代の社長が亡くなるや、その片腕として働いていた人の何名かが、方針に
異を唱え、所属タレントを引き連れて飛び出してしまった。契約上の問題は(お金のや
り取りもあって)クリアされている。問題なのは、飛び出した側の方が質量ともに上と
見られている点。人数面ではほぼ二分する形なのだが、会社に不満を抱いていた人の割
合はキャリアを重ねた人達に多かった。つまり、タレントならベテランで確実に仕事の
ある人、事務方なら仕事に慣れてしかも業界にコネのある人が大勢、出て行ってしまっ
た。無論、残った側が若手や無能ばかりということはないが、先代社長に気に入られて
いたおかげで、仕事がよりスムーズに回っていた者が多いのは事実だ。
(人気のある人はこちらにもいるから、勢力は五分五分。ただ、無用の争いが起きて、
仕事がやりにくくなる恐れはあり、か)
 マネージャーの言葉を思い出す加倉井。これまではテレビ番組やドラマ等で当たり前
のように共演していたのが、こうして事務所が別々になった結果、一緒に出られなくな
ることもあり得る。言い換えれば、起用に制約が掛かるわけだ。共演者のどちらを残す
かは、番組のプロデューサー次第。あるいはスポンサーの意向が働く場合もあろう。
(“ノットオンリー”……だったかしら、向こうの事務所名。元々は、能登(のと)さ
んと織部(おりべ)さんの二人だけで始めるつもりだったそうだけど、反主流派が尻馬
に乗った感じね)
 能登恭二(きょうじ)と織部鷹斗(たかと)はともに三十過ぎ。出て行ったタレント
の中では若い方だが、人気は絶頂と言ってもいい程に高い。アイドル歌手としてデビ
ューし、俳優として地位を固めた。人気のある分、仕事が先々まで決まっており、グ
ローセベーアをやめるに当たって一番揉めた二人と言える。そのあおりで、今期は露出
が減って、連続ドラマの出演記録も途切れていた。四月から巻き返すのは間違いない。
(能登さんとは共演せずじまい。織部さんとも、同じシーンに出たことはなかった)
 個人的には親しくもらっていたし、青臭い演技論を戦わせた末に、将来の共演を約束
したことすらあった。当分、もしかすると永遠に果たせないかもしれないが。
「じゃあ、共演したい人は誰? テレビ番組でもドラマ・映画でもいいけど」
 インタビューは続いていた。頭の中で考えていたこととシンクロしたせいで、つい、
能登と織部の名を挙げそうになったが、踏み止まる。
「外国の人でも?」
「それは……つまらない気がするから、NGにしましょう。ハリウッドスターの名前を
出されてもねえ」
「日本に限るなら、憧れ込みで、崎村智恵子(さきむらちえこ)さんと大庭樹一(おお
ばじゅいち)さん。同年代でキャリアも近い人なら、ナイジェル真貴田(まきた)君と
一緒にやってみたい。あとは……風谷美羽」
 大御所女優に渋いベテラン、売り出し中の日仏混血、そして。
「最後の人って、あんまり聞かないけれども……」
 浦川の顔には戸惑いが出ている。芸能畑ばかり歩んできた記者なら、知らなくても無
理はないかもしれない。名前を売るのに協力する義理はないので、四人目の名はカット
してもらっても結構ですと告げる。その上で説明する。
「ファッションモデルをメインに活動している子。演技はまだまだ下手。でも多分、何
でもできる子だから、早い内に私達のフィールドに引っ張り込みたい。他人にかまって
られる身分じゃないけれど、あの子に関しては別。引っ張り上げれば、面白くなりそう
な予感が凄くする。以上、オフレコでお願いします」
「えー?」
「私がちょっとでも誉めたと知ったら、彼女に悪い影響を与えると思ってるので。ごめ
んなさい」
「さっきのは誉めたというか、期待してるってニュアンスだったけど……ま、いいわ。
オフレコ、了解しました。引き続いて、出演してみたい監督を」
 来た来た。新作映画の監督名を真っ先に言わねばなるまい。

 インタビューを受けてから約二週間後。スポーツ紙に掲載されたのは、映画の公開前
日に合わせた形になっていた。しかも、事前に聞かされていたのと違って、一面の見出
しにまで使われるというおまけ付き。一面にあるとは思っていなかったので、他の芸能
面から読んでしまった。おかげで、多少縁のある俳優、パット・リーの軽いスキャンダ
ル記事が目にとまり、わずかに苦笑してしまった。
 ついでに、小学生時代の頃まで思い出して――。

            *             *


 小さな子供の頃から、自分は他の子とは違うという意識があった。
 早くから個人というものを意識していただけのことなのだが、周囲にはそれが傲慢に
映ったらしい。拍車を掛けたのは、彼女――加倉井舞美は勝ち気でこましゃくれてて、
そして美少女だった。何より、彼女が芸能人であることが大きな要因かもしれない。
「あら珍しい」
 六年五組の教室に前の戸口から入るなり、すぐ近くの席に座る木原優奈(きはらゆ
な)が呟いた。いや、聞こえよがしに言った、とする方が適切であろう。
「二日続けて、朝から登校なんて」
「そうね」
 聞き咎めた加倉井は、ついつい反応した。でも、冷静さはちゃんと残している。
「前に二日以上続けて来たのは、二週間前だから、珍しいと言えば珍しいわ」
 嫌味を含んだその言い種に対し、座ったまま、じろっと見上げてくる木原。加倉井は
一瞬だけ目を合わせたが、すぐに外し、自分の席に向かった。廊下側から数えて一列
目、最後尾が加倉井の席だ。後ろから入ってもいいのだが、木原を避けているように思
われたくないので、こうして前からに拘っている。
「ねえ、宿題見せて」
 自分の席に着くなり、加倉井は隣の男子に声を掛けた。
「分かった」
 田辺竜馬(たなべりょうま)はすんなり承知した。国語のプリントと算数のドリルを
出し、該当するページを開くと、重ねて加倉井の机の上に置いた。
「字がきれいで助かるわ」
 田辺の宿題を手に取った加倉井は、自らの宿題を出すことなく、まずは算数ドリルの
該当するページに目を通す。宿題を見せてもらうのは、自分がやっていないから書き写
そうという魂胆からではない。芸能活動をやっているとは言え、加倉井は学校の宿題は
きちんとやる質だ(時間の都合でどうしても無理なもの、たとえば植物の生長観察日記
なんかは除く)。少ない時間をやりくりして急ぎ気味にこなした宿題。その答が合って
いるかどうか、確かめておきたいのだ。
「言っとくけど、間違ってるかもしれないからな」
 田辺は横目で加倉井を見ながら言った。彼は副委員長で、小学六年生男子にしては身
体は大きい方である。勉強、体育ともにできる。図画工作や家庭科もまあまあだが、音
楽だけは今ひとつ。真面目な方で、クラス担任からの信頼は厚い。だからこそ、加倉井
のような芸能人の隣の席を宛がわれた。宿題を見せてと初めて頼んだときは、有無を言
わさず拒まれた。でも、理由を話すと、半信半疑ながら見せてくれるようになった。こ
のクラスになっておよそ三ヶ月になるが、現在では疑っていないようだ。
「はいはい」
 いつもの台詞を聞き流し、加倉井は記憶にある自分の出した答と照らし合わせてい
く。
 田辺も加倉井の答合わせにまで付き合う理由はないので、残り少ない朝の休み時間、
他の男子達とのお喋りに戻った。
「――うん?」
 自分の答と違うのを見付けてしまった。算数だから、正解は基本的に一つと言える。
少なくともどちらかが誤りだ。加倉井は計算過程を追い、さらに二度見三度見と確認を
重ねた。そうして結論に達する。
(計算ミスだ。私ではなく、彼の)
 計算の最後のところで、6×8が48ではなしに、46としてあった。
 実際のところ、再三の確認を経ずとも、途中でおかしいと気付いていた。これまで田
辺が算数でミスをすることはなかったため、念を入れたまで。
「た――」
 田辺君、ここ間違えていない?
 そう聞くつもりだったが、ふっと違和感を覚えて、口を閉ざした加倉井。再びドリル
に視線を落とし、むずむずと居心地の悪い、妙な感覚の正体を探る。
 やがて思い当たった。46の箇所だが、一度、消しゴムを掛けて改めて書いてあるよ
うなのだ。6の下、最初に書かれていた数字は、8と読めた。加倉井は口の中でぶつぶ
つ言いながら考えた。それからやおら国語のプリントに移った。
 ざっと見ただけでは分からなかったが、じきに気付いた。欄外に、不自然な落書きが
あった。文章題の本文のところどころに、鉛筆で薄く丸が付けてある。順に拾っていく
と、「貯 召 閉 照 五面」という並びだった。
(「ちょ しょう へい しょう ごめん」……じゃなくて、本文で使われている通り
の読みを当てはめると、貯めた、お召し、閉める、照り返し。五面はごめんのままで、
「ためしてごめん」か)
 おおよそのところを把握できた加倉井は、そのまま宿題のチェックを続けた。
 休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴ると同時にチェックも終了。ドリルとプリントを
返す段になって、田辺に言葉を掛けた。
「毎回、ありがと。あとで顔を貸してよね」
「え、な、何?」
「それと、算数の授業が始まるまでに、戻すのを忘れないように」

 二時間目は理科の実験があるため教室移動、三時間目は二コマ続けて隣の組との合同
体育で、休み時間は着替えに当てられた。だから田辺と話をするには、合同体育の合間
に設けられる休憩まで待たねばならない。と腹を据えた加倉井だったが、体育の授業
中、隙を見て?田辺の方から話し掛けてきた。授業内容は五十メートル走などの記録測
定で、暇ができたのだ。
「さっきのことだけど」
 体育座りをしてぽつんと一人いた加倉井の左横、一メートル弱の間隔を取って田辺が
座った。二人とも、前を向いたまま会話に入る。
「今やる? 事の次第によっちゃあ、ただで済まさないつもりなんだけど」
 周りに人がいたらやりにくいじゃないの、という意味で言った加倉井。
「てことは、やっぱり、ばれたか」
「私を相当なアホだと思ってる? げーのーじんだから」
 つい、田辺の方を振り向いた。田辺も気配を感じ取ったか、振り向いた上で、首を横
に素早く振った。
「いやいや、思ってないよ、全然。頭いいのはよく知ってる」
「だったら、何でわざと誤答を書いてたのよ、算数の七問目」
 前に向き直る。6×8を計算ミスすることはあり得ても、一旦、48と正解を出して
おきながら、それを46に書き直すなんてことはあり得ない。少なくとも、田辺くらい
普段から成績のいい者が。だからあの46はわざとである。加倉井はそう結論づけてい
た。
「そんなことを聞くからには、国語の方には気付いてないのかな」
 田辺の方はまだ加倉井を見たまま、呟くように言った。
「気付いたわよ。あんな分かり易い印に、分かり易い暗号」
 本文の読み通りに、続けて読むと「ためしてごめん」となる。
「何で試すような真似をしたのかってことが、聞きたいわけ。分かる?」
「それは……」
 途端に言いづらそうになる田辺の声。いらいらした加倉井は、先に予想を述べた。
「大方、私が本当に丸写ししていないか、確認したかったんでしょ? 間違いに気付か
ずに写して、恥をかけばいいと思った」
「ち、違う。疑ってなんかない」
 よっぽど焦ったか、田辺は体育座りの姿勢を崩し、右手を地面について、少しにじり
寄ってきた。
「じゃあ、どうして」
「うーん、誰にも言わないと約束してくれるなら」
「約束なんて無理。それでも、君には答える義務があるわよ、田辺クン」
 口ごもった田辺に、加倉井は追い打ちを掛ける。
「そもそも、条件を出せる立場じゃないわよね。わざと間違えた答を見せるなんて、普
通に考えて悪気があるとしか」
「……ある人から頼まれた。加倉井さんが宿題をちゃんとやって来ているかどうか、分
かるように嘘の答を混ぜろって」
「ある人って、誰よ」
「それは勘弁してよ」
「まったく。まさか、先生じゃないわよね。宿題を見せてもらっていること、知らない
はずだし。そうなると、クラスの誰か」
 言葉を切り、田辺の表情を見て反応を伺う。相手は何も言うまいと誓うかのように、
口をすぼめていた。
「さっき、田辺君は『ある人』って言った。対象が男子なら、そんな言い方はしないん
じゃない? そう考えると女子。君に指図してくるぐらいだから、結構親しい。なおか
つ、私にいい感情は持っていない……」
 すぐに浮かんだ名前が三つくらいある。ただ、今朝、いきなり突っかかってきた印象
が強いため、一人の名前がクロースアップされた。
「木原優奈でしょ?」
 大した理由なしにかまを掛けただけなのに、田辺の顔には動揺の色が意外とはっきり
浮かんだ。肯定のサインだ。
「返事はしない。読み取ってくれ」
 それだけ言うと、真っ直ぐ前を向く田辺。
「まるで脅されてるみたいよ」
「そんなことない。僕がいくら言っても聞き入れないから、証明のつもりで引き受け
た」
「? 何を」
「そ、それは」
 またたじろぐ田辺だったが、言い渋る内に走る順番が回ってきた。名前を呼ばれて、
急ぎ足で立ち去る彼を、加倉井はしばらく目で追った。
(これは逃げられたかな。でも気になるから、逃がさない。あとで聞こう。と言って
も、今日はこのあと、給食食べずに午後から早退なのよね。忘れないようにしなきゃ)

 子供の立場で言うのもおかしいかもしれないが、今、加倉井のメインの仕事は、子供
向けのドラマである。ゆる〜い探偵物で、タイトルは「ゲンのエビデンス」という。頼
りない大人の探偵ゲンを、助手の小学生二人が助けるのが基本パターン。加倉井はその
助手の一人だ。もう一人は男子で、香村綸という子が受け持っている。
「ねね、聞いたかい?」
 風が止むのを待つため撮影が中断したとき、香村が近寄ってきたかと思うと、唐突に
切り出した。
「何て?」
 風による葉擦れの音のせいで、加倉井は耳に片手を当てながら聞き返した。
「この番組、もうすぐ抜けるから、僕」
「ふうん。人気急上昇で仕事殺到、忙しいアピール?」
「そうそう」
 答えながら、へし口を作る香村綸。加倉井の反応の薄さが気に入らない様子だ。察し
た加倉井は、どうせ暇があるんだしと、しばらく付き合ってやることに。
「香村君が抜けると、大きな穴があくわね。誰か新しく入るのかしら」
「僕の抜けた穴を埋められる奴なんて、そういない……って言いたいけれど、もう決ま
ってるんだってさ。知らない名前だった」
「もう聞いてるんだ? 誰よ」
「だから、知らない名前だったから、印象に残ってなくってさ。えーと、確か……服部
みたいな名前」
「何なの、それ。服部みたいなってことは、服部ではないという意味?」
「うん。そうそう、外国人の血が混じってるんだっけ。だから片仮名」
「それを早く言いなさいよ」
 ため息をつきつつ考えてみると、じきに一人の名前が浮かんだ。
「まさか、パット・リーかしら」
 日英混血で、日本名は圭。加倉井達より一つか二つ年上で、英米及び香港での映画や
ドラマ出演多数。見た目はかわいらしい子役なのに、アクションをこなせるのと日本語
と英語、そして中国語(の一部)を話せるのが強みとなっているようだ。今年度下半期
辺りから活動の主軸を日本に移すとの芸能ニュースが、少し前に報じられた。
「そうだ、確かにパット・リーだった」
「香村君は知らないの、パット・リーを?」
「外国で何か出てるってのは知ってたけれども、大して意識してなかったから。日本に
来てライバルになるんだったら、これからはちゃんと覚えるさ」
 口ではそう説明するも、わざと知らなかったふりをしていた節が、どことなく感じら
れた。
「香村君の退場は、どんな脚本になるのかしらね。爆死か何かで壮絶に散るとか」
「子供番組なのに。まあ、そんな筋書きにしてくれたら、伝説になる可能性ありだか
ら、僕はかまわないけど。あ、でも、再登場がなくなるのは惜しい」
「あ、いい案を思い付いたわ。パットが演じる新入り助手に、こてんぱんにやっつけら
れるの。心も体も傷ついたあなたは、海外修行に旅立つ」
「踏み台かい。優秀さを認められて、海外支部に派遣の方がいい」
「そんな設定ないじゃない。探偵事務所の海外支部って、後付けしようにも無理ね」
 想像を膨らませて雑談を続けていると、撮影再開の声が掛かった。いつの間にか風が
収まっていた。

 川沿いの坂を香村がスケートボードで下るシーンの撮影中に、“お客”がやって来
た。黒縁眼鏡に帽子、白マスクと完全防備の訪問者は、パット・リーその人(とマネー
ジャーに、日本での所属先となる事務所の人)だった。予定にない参上に、撮影スタッ
フらの動きが慌ただしくなる。
 幸い、香村のシーンはちょうどOKが出たところだったので、撮影の邪魔にはならな
かったが、ぎりぎりのタイミングとも言える。香村がふくれ面になるのを、加倉井は見
逃さなかった。
「香村君、冷静に。抑えてちょうだい」
 本来、香村のマネージャー辺りがすべき役割だろうが、パット・リー登場に浮き足立
ったのか、姿が見当たらない。
「分かってるって」
「嫌味な口の利き方もなしよ。彼と一緒に仕事する私達のことも考えてね」
「分かった分かった。僕だって、一話か二話、共演する可能性残してるし」
 主役クラスの二人が離れたところでごにょごにょやってる内に、パットはマスクだけ
取った。この現場の責任者に挨拶を済ませる。
「見学に来ました」
 パットはイントネーションに若干の怪しさを残すも、流暢な日本語を使えるようだ。
にこやかな表情で、主なスタッフ数名と握手をしていく。
「主役の一人で探偵役は郷野寛之(ごうのひろゆき)さんなんですが、今日は来られて
ないので、助手役の二人を紹介します」
 監督自らの案内で、パットは加倉井達の前に来た。
「はじめまして。パット・リーです。見学に来ました。よろしくお願いします」
 予め決めてあったような口ぶりだったが、気持ちはこもっていた。さすが俳優と言う
べきなのかもしれない。
 近くまで来ると、パットの背の高さが分かった。二つほど年上なのだから、パット自
身が際立って高身長というわけでもないが、香村は小柄な方なので比較すれば差があ
る。一方、加倉井とは同じくらい。それでもパットの方がやや上か。
「舞美ちゃんにはまだ言ってなかったけど、十月から彼、パット・リーが出演者に加わ
るんだ」
 監督が簡単に説明する。加倉井は初耳のふりをして聞いておいた。最初に驚いてみ
せ、次に関心ありげにタイミングよくうなずく。
 実際、関心はある。眼前の混血俳優が、一体どういうつもりで、外国でのスターダム
路線を(一時的なのかずっとなのかは知らないが)外れ、日本の子供向けドラマに出て
みる気になったのか。
 と言っても、初対面かつ撮影中の現場では、突っ込んだ話はできまい。ここは大人し
くしておく。香村が暴走しそうだったら、手綱を引き締めなければいけないし。
 ところがパット・リーは西洋育ちのせいか、女性である加倉井に対してより関心と気
遣いを見せた。
「加倉井さん、あなたが出ている作品、これともう一つ『キッドナップキッド』を観ま
した。同じ人とは思えない、演じ分けていましたね」
「どうもありがとう。ほめ言葉として受け取ってもいい?」
「もちろんです。これなら自分もよい芝居ができると思いました」
「私も楽しみです」
 それからパット・リーの出演作で視聴済みの物を挙げようとしたのだが、香村が会話
に割って入ってきた。
「ねえねえ、リーさん。僕は?」
「香村君の出ている作品ももちろん観ました。勘のいい演技だと思いましたね。よくも
悪くも、香村綸という個性が際立っていますし」
 これもほめ言葉なのだろうか。微妙な言い回しだと受け取った加倉井だが、当の香村
は好意的に解釈したらしい。ふくれ面はどこへやら、にこにこしている。
(香村君は台詞覚えは早くて、言葉だけは知っていても、言葉の意味までは大して知ら
ないものねえ。もうちょっと勉強にも力を入れた方が)
 心中でアドバイスを送る加倉井。声に出して言ったことも何度となくあるのだが、改
まった様子はない。
「短い期間だけど、僕とも共演することになるだろうから、仲よくやろうよ」
 香村は右手を出し、握手を求めた。相手は年上だが、このドラマでは先輩だし、日本
国内でもしかり。そんな意識の表れなのか、香村の言動はフレンドリーを些か超えて、
上から目線の気が漂う。
 パット・リーは(まだ子供だけど)大人の対応を見せる。眼を細めて微笑を浮かべる
と、右手で握り返した。
「よろしくお願いします。センパイ」

 思わぬ見物人が来た撮影の翌日は、金曜日だった。今日は学校でフルに授業を受け、
土日はまた撮影に当てられる予定である。
 そして加倉井は、朝から少々憂鬱だった。また木原につっかかられるんだろうなとい
う覚悟に加え、前日の撮影の醜態に頭が痛い。撮り直しの連続で疲れた。と言っても、
撮影でミスをしたのは加倉井自身ではない。
(香村君、パットを知らないと言ってた癖に、意識しちゃって)
 思い出すだけでも、疲労感を覚える。
 パット・リーが見ていると力が入ったのか、香村は動作の一つ一つに文字通り力みが
出て、固くなっていた。台詞はやたらとアドリブを入れるし、声が必要以上に大きくな
る場面もしばしばあった。使えないレベルではないものの、これまで撮ってきた分との
差が明らかにあるため、リテイクせざるを得ない。
(番組を出て行くあなたが、意識過剰になってどうするのよ)
 心の中での言葉ではあるが、つい、香村と呼び捨てしたり、あんたと言いそうになっ
たりするのを堪える加倉井。心中の喋りは、実際のお喋りでも、ふっと出てしまいが
ち。そこを分かっているから、少なくとも同業者やスタッフの名前は、声にしないとき
でも丁寧さを心掛ける。そのせいでストレスが溜まるのかもしれないが。
「あ、来た」
 気が付くと、教室のドアのところまで来ていた。声の主は、木原優奈。加倉井がおか
しいわねと首を傾げたのは、その声がいつもと違っていたから。
(何だか弾んでいるように聞こえたけれど……さては、新しい悪口でも思い付いたのか
しら)
 警戒を強めた加倉井が立ち止まると、木原は席を離れ、近寄ってきた。これまたいつ
もと異なり、邪気に乏しい笑顔である。
「どうしたの? 入りなよ」
「……何か企んでいる眼だわ」
 隠してもしょうがない。感じたままをはっきり言った。
 指摘に対し、木原はより一層笑みを増した。
「やーね、企んでなんかいないって。ただ、お願いがあるんだけれどね」
 と言いながら、早くも手を拝み合わせるポーズの木原。加倉井は別の意味で、警戒し
た。相手のペースから脱するために、さっさと自分の席に向かう。
 木原は早足で着いてきた。
「聞くだけでもいいから、聞いてよ〜」
「はいはい聞いてます。早く座りたいだけよ」
 付け足した台詞が効いたのか、木原はしばし静かになった。席に収まり、机の上に一
時間目の準備を出し終えるまで、それは続いた。
「で? 何?」
「昨日までのことは忘れて、聞いて欲しいのだけれど」
「忘れるのは難しいけれども、聞く耳は持っているわ。とにかく言ってくれなきゃ、話
は進まないわよ」
「そ、それじゃ言うけど、加倉井さんは今度、あのパット・リーと共演するって本当
?」
 この質問だけで充分だった。
(情報解禁したのね。というか、私の耳に入るの遅すぎ。きっと、情報漏れを恐れてぎ
りぎりまで伏せておきたかったんでしょうから、別にかまわないけれど。それはさてお
き、この子ってば、パット・リーのファンだったのね。それも相当な)
 ぴんと来た加倉井は、どう対処するかを素早く計算した。「内定の段階ね。まだ本決
まりじゃないってこと」と答えた上で、相手の次の言葉を待つ。
「それじゃ、正式決定になった場合でいいから、パット・リーのサインをもらってきて
欲しいのですが」
 木原はその場でしゃがみ込み、手を小さく拝み合わせて言った。
 後半、急に丁寧語になったのがおかしくて、無表情を崩しそうになった。だが、そこ
は人気子役の意地で踏み止まる。
「私も一度会ったきりだから、何とも言えない」
 若干、冷たい口調で応じた。サインをもらってきて欲しいとお願いされるのは予想し
た通りだったが、これを安請け合いするのは避ける。今後、木原との関係を優位に運ぶ
には、ここは色よい返事をすべきかもしれないが、万が一、もらえなかったら元の木阿
弥。それどころかかえって悪化しかねない。
 しかし、そういった加倉井の思惑なんて関係なしに、木原は違う方向からの反応を示
す。
「え、もう、会ったことあるの?」
「それはまあ」
 向こうが勝手に見学に来ただけだが。
「いつ? どんな感じだった、彼?」
 加倉井の机の縁に両手を掛け、にじり寄る木原。このまま加倉井の手を取るか、さも
なくば二の腕を掴んで揺さぶってきそうな勢いだ。
「話すようなことはほとんどないけど」
「それでもいいから、聞かせて! ねえ」
 おいおいいつからこんなに親しくなったんだ、私達は。そう突っ込みを入れたくなる
ほど、木原はなれなれしく接してくる。
「分かったわ。話す。でも、その前に」
 両手のひらで壁を作り、距離を取るようにジェスチャーで示す。木原は一拍遅れて、
素直に従った。
「さっき言ってた忘れるどうこうだけど、やっぱり無理だから。けじめを付けたいの」
「わ、分かった。悪かったわ」
「ちょっと、ほんとにそれでいいの? 目先の利益に囚われてるんじゃないの」
 謝ろうとする木原をストップさせ、加倉井は問い質した。そのまま受け入れておけば
すんなり収まるのは分かっていても、性格上、難しい。
「じゃあ、どうしろって……」
「言いたいことがあるんじゃないの? もしそれが文句ならば、はっきり声に出して言
って」
 加倉井の圧を帯びた物言いに、木原の目が泳ぐ。明らかに戸惑っていた。どう反応す
るのがいいのか分からなくて、困っている。
「私は好き好んで喧嘩したいわけじゃないし、そっちも同じじゃないの? だったら―
―」
 チャイムが鳴って、加倉井の言葉は中断された。このまま続けても、相手の答まで聞
いている時間はないに違いない。一旦切り上げる。
「またあとでね」

 一時間目の授業で、先生から当てられた木原が答を間違えたのは、休み時間における
加倉井とのやり取りのせいかもしれない。二時間目以降もこんな調子ではたまらないと
考えたのかどうか、授業が終わるや、木原は加倉井の席までダッシュで来た。
「答をずっと考えてた」
 前置きなしに始めた木原。対する加倉井は、次の授業の準備を淡々と進める。
「悪口を言ってたのは、うらやましかったから。別に、加倉井さんが悪いっていうんじ
ゃないわ」
 木原は普段よりも小さめの声で言った。こんなことを認めるだけでも、一大決心だっ
たのだろう。加倉井はノートと教科書を立てて、机の上でとんとんと揃えた。そして聞
き返す。
「――それだけ?」
「……悪くはないけど、いらいらする。あんた、何を言っても、落ち着いてるから」
「それが嫌味で上から目線に見えたとでも?」
「そ、そうよ」
「分かったわ。できる限り、改める。できる限り、だけね。それと言っておくけど、私
だって悪く言われたら泣きたくなることあるし、わめき散らして怒りたいことだってあ
るわよ」
「……全然、見えない」
 それは私が演技指導を受けているから。言葉にして答えるつもりだった加倉井だが、
すんでのところでやめた。
 代わりに、それまでと打って変わっての笑顔をなしてみせる。勝ち誇るでも見下すで
もなく、嘲りやお追従とももちろん違う。心からの笑み――という演技。
「木原さんも知っての通り、パット・リーは日本語が上手よね」
「う、うん」
 急激な話題の転換に、ついて行けていない様子の木原。だが、パット・リーの名前を
認識して、じきに追い付いたようだ。その証拠に「決まってるじゃない。ハーフなんだ
し、日本で過ごしたこともあるんだから」と応じる。
(これで戻ったわね)
 加倉井は心中、満足感を得た。
「私が会ったときの彼、思ってた以上に日本語がうまかった。ニュアンスまで完璧に使
いこなしてたわ」

 日々過ぎること半月足らず、金曜の下校時間を迎えていた。
 加倉井が校門を出てしばらく行ったところで、斜め後ろからした「へー」という男子
の声に、ちょっとだけ意識が向いた。聞き覚えのある声だったが、呼び止められたわけ
ではないし、自分と関係のあることなのかも定かでない。結局、ペースを落とさずに、
さっさと進む。
「待って」
 さっきの声がまた聞こえた。加倉井を呼び止めようとしている可能性が出て来たけれ
ども、名前が入っていない。だから、相変わらず歩き続けた。すると、ランドセルのか
ちゃかちゃという音とともに、声の主が駆け足で迫ってくる気配が。
「待ってって言ってるのに」
 そう言う相手――田辺と、振り向きざまに目が合う。不意のことに急ブレーキを掛け
る田辺に対し、加倉井は前に向き直ると、そのまますたすた。
「私に用があるのなら、名前を呼びなさいよ」
 一応、そう付け加える。と、田辺が再度、駆け足で短い距離をダッシュ、横に並ん
だ。
「言っていいの?」
「……何で、だめだと思ってるわけ?」

――続




#512/514 ●長編    *** コメント #511 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/29  01:15  (500)
カグライダンス(後)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:56 修正 第4版
「外で名前を叫んだら、みんな気付いて、集まってくるんじゃあ……」
 なるほど。納得した。そこまでの人気や知名度はないと自覚している加倉井だが、田
辺の小学生なりの気遣いには感心したし、多少嬉しくもあった。
 しかし、感情の変化をおいそれと表に出しはしない。
「ばかなこと言わないで。私なんか、まだまだ」
「そうかぁ?」
「そうよ。名前で呼べるのは今の内だから、どんどん呼んで。人気が出たらやめてね」
 返事した加倉井は、田辺が目を丸くするのを視界に捉えた。
「何その反応は」
「びっくりした。そういう冗談、言うんだね」
「結構本気で言いました。さっき、『へー』っていうのが聞こえた気がするんだけど、
あれはどういう意味?」
「何だ、ちゃんと聞こえてるじゃん」
「だから、そっちが名前を呼ばないからだと」
「へーって言ったのは、歩いて帰るのが珍しいと思ったからで」
「私が? そんなに珍しがられるほど、久しぶりだったかしら」
「前がいつだったかなんて覚えてないけど、とにかく久しぶりだ」
「覚えていられたら、気色悪いわね」
「……加倉井さんのファンが聞いたら泣きそうなことを」
「そういう田辺君は、いつまで着いてくるつもりなのかしらね」
「えっ。ちょっと。忘れてるみたいだから言うけどさ、登校は同じ班だったろ」
 朝、登校時には地区ごとの子供らで列になって学校へ行く。正確を期すなら、同じ班
と言っても男女は別だが。
「通学路は同じ。つまり、ご近所」
「そうだったっけ……だったわね」
 さすがにこれは恥ずかしいと感じた。表情のコントロールができているのか自信がな
くなり、さっと背けた。頬に片手を宛がうと、熱を少し感じたので赤くなっているのか
もしれない。加倉井は思った。
「朝、登校するときはほとんど車だもんね。忘れられてもしょうがないか」
 田辺の方は、さして気にしていない風である。変わらぬ口調で、話を続けた。
「少し前にさ、加倉井さんと木原さんが長いこと話していたのを見たけれど、あれは何
だったの? 僕が木原さんの言うことを聞いて宿題に間違いを混ぜていたせいで、もっ
と仲が悪くなったんじゃないかって心配してたんだけど、そうでもなさそうだから、不
思議なんだよなー」
「あれは田辺君のしたことと、直接の関係はないわ。だから心配する必要なし。木原さ
んとの関係は……冷戦状態だったのが、お互い、物言えるようになった感じかしら。あ
る俳優さんのおかげだから、今後どうなるか知れたものじゃないけれど」
 パット・リーが参加しての撮影はすでに何度か経験していた。漠然と想像していたよ
りは、ずっと自己主張が少なく、与えられた役を与えられた通りにそつなくこなす、そ
んな印象を受けた。加倉井ともすぐに打ち解け、スタッフ間の評判もよい。加倉井は折
を見てサインを色紙にしてもらった。まだ木原に渡すつもりはない。当分の間、引っ張
ろう。
「それならいいんだけど」
「もしかして、木原さんから頼み事をされなくなって不満なの?」
「そ、それだけは絶対にない!」
 声だけでなく全身に力を込めて否定する田辺。加倉井はちょっとした思い付きを言っ
ただけなのに、ここまで大げさに反応されると、逆に勘繰りたくなる。ただ、他人の好
みを詮索する趣味は持ち合わせていないので、これ以上は聞かない。
 しかし、田辺にしてみれば、逆襲しないと気が済まない様子。
「そういう加倉井さんは、学校の友達付き合いあんまりないし、誰某が嫌いっていうの
はあっても、好きっていうのはないんじゃないのか。仕事場に行けば、年上の二枚目が
いくらでもいるんだろうしさ」
「うーん、確かにそうだけどさ。芸能界にも好きな人はいないかな。憧れるっていう
か、尊敬する人なら一杯いても、田辺君が言うような意味での好きな人はいないな、う
ん」
 一応、本心を答えている加倉井だが、恥ずかしい思いがわき上がってくるので、喋り
は若干、芝居がかっていた。

 そのシーンに関して言えば、加倉井は台本に目を通した時点で、少しだけ消極的な気
持ちになった。
 加倉井が演じる笹木咲良(ささきさら)は、パット・リー演じる新加入の探偵助手、
服部忍(はっとりしのぶ)といまいち反りが合わず、ぎくしゃくが続いていたところ
へ、服部のふと漏らしたジョークにより、咲良が彼を平手打ちする――という、いかに
もありそうな場面展開なのだが。
(叩くのは気にならない。でも、これがオンエアされたあとの木原さんの反応を想像す
ると、ちょっと嫌な感じがするわ)
 幸か不幸か、パットは本気で平手打ちされても一向にかまわない、むしろ手加減せず
に来いというスタンス。もちろん、彼自らも頭を逆方向に振って、ダメージを逃がす
し、叩く音はあとで別に入れるのだが。
「でも、手首の硬いところはくらくらするから、ちゃんと手のひらでお願いします」
 笑いながら言う。リハーサルを繰り返す内に、加倉井も芝居に入り込む。一発、ひっ
ぱたいてやりたいという気分になってきた。そして本番。
『取り消して!』
 叫ぶと同時に右手を振りかぶり、水平方向にスイング。ほぼ同じ背の高さだから、姿
勢に無理は生じない。だけど、パットが首を動かすのが若干、早かった。相手の頬を、
指先が触れるか触れないかぐらいのところで、加倉井の右手は空を切った。
 派手に空振りして、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 よろめいた加倉井を、パットが両腕で受け止める。そしてしっかり立たせてから、
「大丈夫でした? ごめんなさい。早すぎました」と軽く頭を垂れる。その低姿勢ぶり
に、加倉井もつい、「私も遅かったかもしれません」と応じてしまった。両者がそれぞ
れミスの原因は自分にあると思ったままでは、次の成功もおぼつかない。
「いや、やはり、僕が早かった。大変な迫力で迫ってきたので、身体が勝手に逃げてし
まったんですよ」
 パットは冗談めかして言いながら、首を振るさまを再現してみせた。結局、パットの
動き出しが早かったということになり、再トライ。
『取り消して!』
 ――ぱしっ。
 今度はうまく行った。それどころか、加倉井には手応えさえあった。事実、音もかな
りきれいに出たように思う。もちろん、そんな心の動きを表に出すことはしない。即座
に監督からOKをもらえた。
 演技を止め、表情を緩める。そして目の前のパットに聞く加倉井。
「痛くなかったですか」
「平気。痛かったけど」
 オーバーアクションなのかどうか知らないが、彼の手は左頬をさすっている。その指
の間から覗き見える肌の色は、確かに赤っぽいようだ。
「今後、気を付けますね」
「それはありがたくも助かります。ついでに、このドラマで二度も三度も叩かれるの
は、勘弁して欲しいです」
 台詞の後半に差し掛かる頃には、彼の目は監督ら撮影スタッフに向いていた。

 明けて日曜。早朝からの撮影では、仲直りのシーンが収録されることになっていた。
 事件解決を通じて格闘術の技量不足を痛感した笹木咲良(加倉井)が、服部に教えを
請い、実際に指導を受けるという流れである。
 朝日を正面に、河川敷のコンクリで座禅する服部。衣装は香港アクションスターを連
想させる黄色と黒のつなぎ。その背後から近付く咲良。こちらは小学校の体操服姿。足
音を立てぬよう、静かに近付いたまではよかったが、声を掛けるタイミングが見付から
ない。と、そのとき、服部が声を発する。まるで背後にも眼があるかの如く、『何の用
ですか、咲良?』と。
 これをきっかけに、咲良は服部に頭を下げて、格闘術を教わる。そこから徐々にフ
ェードアウトする、というのが今回のエピソードのラスト。
 殺陣というほどではないが、格闘技の動きは前日とつい先程、簡単に指導を受けてい
る。リハーサルも問題なく済んだ。あとは、日の出に合わせての一発勝負だ。
『何の用ですか、咲良?』
 名を呼ばれたことにしばし驚くも、気を取り直した風に首を横に小さく振り、咲良は
会話に応じる。そして本心を伝えると、服部は迷う素振りを見せるも、あっさり快諾。
『実力を測るから掛かってきなさい』という台詞とともに、咲良に向けて右腕を伸ば
し、手のひらを上に。親指を除く四本の指をくいくいと曲げ、挑発のポーズ。
 咲良を演じる加倉井は、飽くまで礼儀正しく、一礼した後に攻撃開始。突きや蹴りを
連続して繰り出すも、ことごとくかわされ、二度ほど手首を掴まれ投げられる。最後
に、左腕の手首と肘を決められ、組み伏せられそうなところへさらに膝蹴りをもらうと
いう段取りに差し掛かる。当然、型なのだからほとんど痛みはないはずだったが、組み
伏せられる直前に、パットの右肘が胸に当たってしまった。
「うっ」
 ただ単に胸に当たっただけなら、気にしない。強さも大してなかった。だが、このと
きのパットの肘は、加倉井のみぞおちにヒットしたからたまらない。暫時、息ができな
い状態に陥り、演技を続けられそうになくなる。パットは気付いていないらしく、その
まま続ける。台本通り、組み伏せられた。元々、あとはされるがままなのだから、一
見、無事にやり通したように見えただろう。しかし、カットの声が掛かっても、加倉井
は起き上がれなかった。声が出ない。代わりに、涙がにじんできた。
 女性スタッフの一人がやっと異変に気付いて、駆け寄ってきた。場を離れてタオルを
受け取ろうとしていたパット・リーも、すぐさま引き返してきた。
「大丈夫ですか? どこかみぞおちに入りましたか?」
 答えようにも、まだ声が出せない。頷くことで返事とする。そこへ、遅ればせながら
マネージャーが飛んできて、事態を把握するや、加倉井を横にして休ませるよう、そし
てそのために広くて平らかで柔らかい場所に移動するよう、周りの者にお願いをした―
―否、指示を出した。大げさに騒ぎ立てるなんて真似は、決してしない。
「アクシデントでみぞおちに入ってしまったみたいですが、後々揉めることのないよ
う、診察を受けてもらった方がいいかと」
「そうさせていただきます」
 仰向けに横たえられ、普段通りの呼吸を取り戻しつつある加倉井の頭上で、そんなや
り取りが交わされていた。
(当人が具体的に何も言ってないのに、どんどん進めるのはどうかと思う。けど、妥当
な判断だし、ここは大人しくしておくとするわ。第一――)
 加倉井は自分の傍らにしゃがみ込むパット・リーを見上げた。左手を両手で取り、ず
っと握っている。表情はさも心配げに目尻が下がり、眉間には皺が寄る。
(こうも親切さを見せられたら、受け入れとくしかないじゃない)

 幸い、診察結果は何ともなかった。薄い痣すらできていなかった。
 くだんの「ゲンのエビデンス」がオンエアされたのは、それからさらにひと月あまり
が経った頃。前回で香村綸は去り、パットが物語に本格的に関わり始め、加倉井と衝突
するエピソードである。
 その放送が終わって最初の学校。加倉井は午前中最後の授業からの出席になった。昼
休みに待ち構えているであろう、木原優奈らからの質問攻め――恐らくは非難を含んだ
――を思うと、授業にあまり集中できなかった。
 ちょうど給食当番だった加倉井は、おかずの配膳係をしているときも、何か言われる
んじゃないかしら、面倒臭いわねと、いささか憂鬱になっていた。ところが、木原にお
かずの器を渡したとき、相手からは特に怒ってる気配は感じられなかった。どちらかと
言えば、にこにこしている。
「あとでパットのこと、聞かせてちょうだいね」
 木原からそう言われ、マスクを付けた加倉井は黙って頷いた。
 給食が始まると、加倉井がまだ半分も食べない内に、木原はいつもより明らかに早食
いで済ませると、席の隣までやって来た。そして開口一番、言うことが奮っている。
「もう洗っちゃったわよね、右手」
「は?」
 いきなり、意味不明の質問をされて、さしもの加倉井も素で聞き返した。
「パットの頬に触れたあと、右手を全然洗っていないなんてことは、ないわよね」
 理解した。
「残念ながら、洗ったわ」
 どういった機会に洗ったかまでは言わなくていいだろう。木原はさほどがっかりした
様子は見せなかったが、視線が加倉井の右手の動きをずっと追っているようで、何とは
なしにコワい。
 その後も食べながら、問われるがままに答えられる範囲で答える加倉井。木原の質問
のペースが速いため、加倉井の食べるペースは反比例して遅くなる。その内、他のクラ
スメートもぽつぽつと集まってきた。もちろん、女子がほとんど。やがて彼女らの間で
論争が勃発した。
「香村綸もよかったけど、パット・リーも案外、早く馴染みそう」
「私はカムリンの方がいいと思うんだけど」
「断然、パット! カムリンは小さい」
「これから伸びるって!」
 おかげでようやく給食を終えることができた。加倉井は食器とお盆を返し、ついでに
給食室までおかずの胴鍋を運んだ。教室に戻って来ると、論争は終わりかけていたよう
だ。香村派らしき女子が、加倉井に聞いてくる。
「カムリンが降板したのって、何か理由があるの?」
「具体的には聞いていないわ。人気が出て他の仕事が忙しくなったみたいよ」
「ほら、やっぱり。カムリンは“卒業”。下手だから降ろされたんじゃないわ」
「途中で抜けるのは無責任だわ」
 終わりそうだった論争に、また火を着けてしまったらしい。加倉井はため息を密かに
つき、机の中を探った。次の準備をしようとするところへ、男子の声が。田辺だ。
「僕からも聞いていい?」
「遠慮なくどうぞ」
 何でわざわざ確認をするのと訝しがりつつ、加倉井は相手に目を合わせた。
「最後のシーン、遠くからで分かりにくかったけど、ほんとに倒れてなかった?」
「――ええ、まあ」
 「ほんと」のニュアンスを掴みかねたが、とりあえずそう答えておく。
 普段、自分の出演した作品のオンエアを見ることはほとんどしない加倉井だが、この
回の「ゲンのエビデンス」は別だった。ラストの乱取りが、どんな風に編集されたの
か、多少気になったから。
 田辺の言ったように、そして当初の台本通り、加倉井が組み伏せられた遠くからの
シーンでエンドマークを打たれていた。大画面のテレビならば、加倉井がみぞおちへの
ダメージで、膝蹴りを食らう前にがくっと崩れ落ちる様子が分かるだろう。
「じゃあ、ミスったんだね、どちらかが」
 田辺の使った「ほんと」が、「本当に強く攻撃が入った」という意味だとはっきりし
た。加倉井は頭の中で返事を瞬時に検討した。
(肘は予定になかった。だから、ミスは私じゃない。でも今この雰囲気の中、真実を話
すのは、恐らくマイナス。かといって、私一人が責任を被るのも納得いかない)
「ミスがあったのは当たりだけれども、どちらかがじゃなくて、二人ともよ。何パター
ンか撮ったのだけれど、あまりにバリエーションが豊富で、私もパット・リーも段取り
がごちゃごちゃになってしまった。だからあのラストシーンは、厳密にはNGなの。で
も、見てみると使えると判断したんでしょうね、監督さん達が」
 と、こういうことにしておく。すると、女子同士で言い争いが再び始まった。
「カムリンが相手だったら、そんなミスはしなかったのに」
「それ以前の問題よ。香村綸に、パットのような動きは絶対無理!」
「そうよね。身長が違うし」
「関係ないでしょ!」
 耳を塞ぎたくなった加倉井だが、我慢してそのまま聞き流す。平常心に努める。
「それで加倉井さん、大丈夫だったのかい?」
 田辺が聞いてきた。心配してくれたのは、彼一人のようだ。加倉井はまた返事をしば
し考えた。あのときを思い起こすかのように一旦天井を見上げ、次いで胸元を押さえな
がら、俯いた。そうしてゆっくり口を開く。
「物凄く痛かった。息が詰まって涙が出るくらい」
「え、それは」
 おろおろする気配が田辺の声に滲んだところで、加倉井は芝居をやめた。満面の笑み
を田辺に向ける。
「心配した? ほんの一時だけよ。念のため、病院に行って、ちゃんとお墨付きをもら
ったから」
「何だ。脅かしっこなし」
「だいたい、撮影はだいぶ前よ。一ヶ月あれば、少々の怪我なら治るわ」
「ふん、そんなこと知らねーもん」
 小馬鹿にされたとでも思ったのか、田辺は踵を返して、彼の席に戻ってしまった。
(あらら。心配してくれてありがとうの一言を付け足すつもりだったのに、タイミング
を逃しちゃったじゃないの)

 次の日の学校で、加倉井はある噂話を耳にした。
 パット・リーはアクション、特に武術の動きが得意とされている割に、撮影中の軽い
アクシデントが結構ある、というものだ。話をしていたのは当然、香村綸ファンの女子
達である。昨日、下校してからパットの粗探しに時間を費やしたと見られる。
「アクシデントと言ったって、たいしたことないじゃない」
 パット派の女子も負けていない。攻撃材料がないため、否定に徹する格好だが、勢い
がある。
「今よりも子供の頃の話だし、ある程度はしょうがないわよ」
「付け焼き刃の腕前でやるから、こんなに事故が多いんじゃないの」
「大げさなんだから。怪我をしたりさせたりってわけじゃないし、ニュースにだってな
ってない」
「それはプロダクションの力で、押さえ込んでるとか。ねえ、加倉井さん?」
 予想通り、飛び火してきた。加倉井は間を置くことなしに、正確なところを答える。
「少なくとも、前の撮影で、パット・リーの側から圧力や口止めはなかったわよ。みん
な、妄想しすぎ」
「ほら見なさい」
 パット派がカムリン派を押し戻す。休み時間よ早く終われと、加倉井は祈った。
「でもでも、パット・リーのキャリアで、三回もあるのは異常よ、やっぱり」
 作品名や制作年、アクシデント内容の載った一覧を示しながら、カムリン派の一人が
疑問を呈する。
(なるほどね。小さい頃から始めたとしたって、アクション専門じゃないんだし、周り
も無理はさせないだろうから、三回は多い。ううん、私の分も含めれば、四回)
 少し、引っ掛かりを覚えた。加倉井は、パット派の代表的存在である木原が反駁する
のを制しつつ、最前のリストを見せてもらった。
(全部じゃないけど、二つは観ている。……ううん、似たような内容が他にも多いから
ごちゃ混ぜになって、はっきり覚えてないわ。でも、この二作品て確かどちらも)
 記憶を手繰ると、徐々に思い出してきた。一方はカンフーマスターを目指す少年の役
で、劇中、しごかれまくっていた。もう一方では、学園ラブコメで、二枚目だが女子の
扱いが下手でやたらと平手打ちされたり、教師から怒られる役。
(もしかすると)
 加倉井はあることを想像し、打ち消した。パット・リーはまだ若いとは言え、国際的
に活躍しようかという人気俳優だ。いくら何でも想像したようなことがあるはずない。
(……と思いたいんだけど、私より年上でも、子供には違いない)
 完全には払拭できなかった。加倉井はリストを返して礼を言うと、どうすれば確かめ
られるかを考え始めた。が、程なくして木原の声に邪魔された。
「ねえ、加倉井さんはどっちが相手役としてやりやすいのよ?」
 まだ火の粉は飛んでいるようだ。

「見学に来ているあの人は、何者ですか」
 休憩に入るや、パットが聞いてきた。加倉井の肩をかすめるようにして投げ掛ける視
線の先には、その見学者が立っている。やや細身の中背で、歳は四十代半ば辺りに見え
よう。本日はスタジオ撮影なのだが、この中にいる誰とも異質な空気を放っている。
「加倉井さんと親しく話していたようですから、お知り合いなんでしょう?」
「親しいとまでは言えませんが、知り合いです。私のプロダクションの先輩が、コマー
シャルで共演したことがあるんです」
 答えながら、振り返って見学者の方を向いた加倉井。
「役者やタレントではなくて、格闘技の指導者なの」
「道理で。よい体付きをしていると思っていました」
 格闘技と聞き、パットの目が輝いたよう。加倉井は気付かぬふりをして続けた。
「私は全然詳しくないけれども、空手とキックボクシングの経歴があって、ストライク
という大会でチャンピオンになったこともあるって」
「凄い。その大会、知っています。名前も知っているかもしれない。映像や写真がほと
んどなく、あまり自信ありませんが……藤村忠雄(ふじむらただお)選手では?」
「あら、本当に知ってるなんて。だいぶ前に引退されたから、選手と呼ぶのは間違いか
もしれないですけど」
「武道、武術をやる人間に、引退はありませんよ。生涯現役に違いありません」
「パット、とっても嬉しそう。紹介しましょうか」
「ぜひ」
 休憩の残り時間が気になったが、加倉井はパットを藤村の前に連れて行った。紹介を
するまでもなく、藤村はパットについて既に聞いていた。
「突然、お邪魔して申し訳ない。気になるようなら、姿を消します」
「いえいえ、とんでもない」
 パットは即座に否定した。そして自分が格闘技をやっていること、それを演技に活か
していることなどを盛んにアピール?する。藤村の方も承知のことだったらしく、「今
日はアクションシーンがないとのことで、残念だな」なんて応じていた。
「藤村さんは、どうして見学に? コマーシャルの続編が決まったとしても、ここへ来
るのはおかしい気がするんですけど」
 加倉井が問うと、藤村は首を曖昧に振った。
「いや、コマーシャルじゃないよ。敵役で出てみないかって、お誘いを受けてね。子供
向け番組と聞いたけど、チャレンジすることは好きだから、前向きに考えてるんだ」
「じゃあ、決定したら、私達と藤村さんが戦うんですね?」
「多分ね。ああ、喋る芝居は苦手だから、台詞のない役柄にしてもらわないといけな
い。コマーシャルで懲りたよ」
 藤村出演の精肉メーカーのテレビCMは、素人丸出しの棒読みで一時有名になった。
思い出して苦笑いする藤村の横に、監督と番組プロデューサーらが立った。
「藤村さん、もしよろしかったら、パット君と軽く手合わせしてみるのはどうです? 
無論、型だけですが」
 プロデューサーが唐突に提案した。いや、藤村忠雄のドラマ出演が頭にあるのだった
ら、当然の提案なのかもしれないが。
「僕はかまいません」
「僕もです」
 藤村が受ける返事に、食い込み気味に答を被せるパット。
「ただ、スペースが見当たらないようですが」
「そんなに派手に動き回らなくても、その場でか〜るく。段取りを詳細に決める暇はさ
すがにありませんから、際限のない場所でやると、危険度が高くなるのでは」
「それもそうです。パット君はそれでもかまわないかな」
「もちろんですとも。型で手合わせ願えるだけで、充分すぎるほど幸福なくらいですか
ら」
 パットの日本語は表現が過剰になって、少々おかしくなったようだ。結局、スタジオ
の隅っこに約四メートル四方の空きスペースを見付け、そこで試し合うことになった。
 身長もリーチも藤村が上回るが、大差はない。演舞なら、二人の体格が近ければ美し
いものに、体格差が大きければ派手なものに仕上がりやすいだろう。しかし今からやる
のは、ほぼぶっつけ本番のアクション。どうなるかは、事前の簡単で短い打ち合わせ
を、どれだけ忠実に実行できるかに掛かってくる。
「トレーニングは欠かしていないが、寄る年波で動き自体は鈍くなってると思うので、
スピードは君から合わせてくれるとありがたい」
「了解しました。あ、それと、もしドラマ出演が決まったら、最終的には僕らが勝つ台
本でしょうから、今日は藤村さんが勝つパターンでいかがでしょう」
「花を持たせてくれるということかい」
 往年の大選手を相手に、舐めた発言をしたとも受け取れる。藤村はしかし、パットの
提案を笑って受け入れた。
 他にも色々と取り決めたあと、互いの突きや蹴りのスピード及び間合いを予習してお
く目的で、それぞれが数回ずつ、パンチとキックを繰り出し、空を切った。
 そして二人は無言のまま、合図を待つことなく、急に始まった。
 仕掛けたのはパット。カンフーの使い手、それもムービースターのカンフーをイメー
ジしているらしく、大げさな動作と奇声から助走を付けての跳び蹴りで先制攻撃。かわ
す藤村は、キックボクサーのステップだったが、距離を取ってからは空手家のようにど
っしり構える。パットが向き直ったところへ一気に距離を詰め、胴体目掛けて突きを四
連続で放つ。もちろん、実際にはごく軽く当てているだけのはずだが、迫力があった。
よろめきながら離れたパットは、口元を拭う動作を入れ、態勢を整えると、身体を沈め
片足を伸ばした。かと思うと相手の下に潜り込むスライディング。一度、二度とかわす
も、三度目で足払いを受け、今度は藤村がよろめく。姿勢を戻せない内に、パットが突
きの連打。藤村のそれよりは軽いが、その分、数が多い。バランスを一層崩した藤村
は、倒れそうな仕種に紛れて前蹴り一閃。パットは寸前で避け、バク転を披露。再び立
ったところへ、藤村がバックスピンキック。
 と、ここでパットが一歩踏み出したせいで、藤村との間合いが詰まった。藤村の蹴り
足をパットが抱え込むような形になり、もつれて二人とも倒れてしまった。上になった
パットが突きを落とすポーズを一度して、離れる。
 改めて距離を作った二人は、アイコンタクトと手の指を使って、もう一回同じことを
するか?という確認を取った。再開後、藤村のバックスピンを、今度はパットも巧く当
たりに行き、派手に倒れてみせた。素早く起き上がった藤村が、先程のパットのよう
に、振り下ろす突きを喉元に当てて――実際は素早く触れるだけ――、アクション終了
となった。
 周りで見ていた者は皆一斉に拍手した。感嘆の声もこぼれている。
「パット君、やるねえ。演技だけに使うのは惜しいくらいだ」
「いえいえ。藤村さんに引っ張っていただいたからこそ、動けたんです」
「こちらこそ、久々だったから疲れたよ」
「まさかそんな。現役を離れているとは信じられないくらい、きれがあって、驚きまし
た。当たり前ですが、プロは違いますね」
 パットは爽やかに笑いながら、藤村の両手を取って、深々と頭を下げていた。

 藤村忠雄が去ったあと、撮影は再スタートした。パットは興奮が残っていたか、しば
らくは何度か撮り直しになったが、しばらくするとそれもなくなった。
 結果的に、予定されていたスケジュール通りに撮影を消化し、この日は終わった。
「パット。お話しする時間ある? 少しでいいんだけど」
 加倉井は控室に戻る前にパットに声を掛け、約束を取り付けた。着替えが終わってか
ら、スタジオの待合室で話す時間を作ってもらった。
「お待たせしました。すみません」
 撮影を通じて仲がよくなり、フランクに話せる間柄にはなっていた。とは言え、キャ
リアが上の相手を、こちらの用事で足止めしておいて、あとから来たのでは申し訳な
い。加倉井は頭を下げた。
「いいよ、気にしなくて。女性の方が身だしなみに時間が掛かるのは、当然だからね」
 パットは近くの椅子に座るよう、加倉井を促した。それに従い、すぐ隣の椅子に腰を
据える加倉井。
「それで話は何かな」
「率直に物申しますけど、怒らないでくださいね」
「うん? 断る必要なんてない。仕事に関することで正当な指摘や要望なら、僕は受け
入れる度量を持っているよ」
 若干の緊張を顔に浮かべながらも、微笑するパット。加倉井は彼の目を見つめた。
「それじゃ言います。パットって、負けず嫌いなところ、あるよね」
「まあ、程度の差はあっても、男なら負けず嫌いな面は持ってるんじゃないかな」
「男に限らないわ。私も負けず嫌いですから」
「ふうん?」
「前から、ちょっと引っ掛かってたことがあって。今日、藤村さんから意見を伺って、
確信に近いものを得たわ。パット、この前の肘がみぞおちに入ったのって、わざとでし
ょ?」
「……どうしてそう思うんだい」
 ほんの一瞬、面食らった風に目を見開いたパット。すぐ笑顔に戻り、聞き返す。
「あなたほどできる人なら、肘が相手に当たったなら、分かるはずよ。なのに、問題の
撮影の際、あなたは倒れた私に『どこかみぞおちに入りましたか』と言った。肘と分か
っていないなんておかしいと思ったのは、あとになってからだけれどね」
「確かに、当たったのが肘だったのは分かっていたよ。でも、わざとじゃない。あのと
き気が動転して、肘と膝、どっちがエルボーだったかを度忘れしちゃって、それで『ど
こか』なんて言っちゃったんだよ」
「動転した? その割には、同じことを繰り返しやっているみたいだけれども」
 加倉井は胸元のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。長机の上に広げて
みせる。そこには、パット・リーがアクションシーンの撮影で起こしたアクシデント三
件について、その詳細が書かれていた。
「これは……」
「日本語、どこまで読めるのか知らないから、こっちでざっと説明すると……まず、こ
の作品では師匠役の男優のお腹に肘を入れてるわね。次は作中でも芸能界でもライバル
である男優に、台本にない中段蹴りと肘を入れている。三つ目は、鬼教師役の男優に、
また肘」
「……こんな細かいことは表に出ないよう、伏せさせたはずなんだけどな」
「パットは日本の事情に詳しくないでしょうけど、私の所属するところは大手の一つ
で、それなりに力があるのよ。調べれば、ある程度のことは分かる」
「それは知らなかった。油断してたよ」
 力が抜けたように口元で笑うと、パットは座ったまま、大きく伸びをした。
「認めるのね?」
「うん、まあ、証拠はないけど、認めざるを得ない。今後、撮影を続けるにはそうしな
いと無理だろうし」
「どうしてこんなことをしてきたのか、聞かせてもらえる?」
「……あの、答える前に、他言無用を約束して欲しいんだけど、無理かな」
 パットは両手を組み合わせ、拝むように懇願してきた。加倉井は考えるふりをして、
焦らしてから承知の意を示した。
「私だって、このドラマの撮影は最後まできちんとやりたいもの。それで、理由は?」
「実は僕は元々、プロ格闘家志望でさ。そのためにトレーニングしていたのを、親が何
を勘違いしたのか、芸能のオーディションに応募しちゃって、とんとん拍子に合格しち
ゃって、芸能界に入っちゃった。名前を売ってからプロ格闘家デビューすれば格好いい
とか言われてね。でも、自分で言うのもあれだけど、顔がいいのとアクションができる
だけで、演技は平凡でも人気が出てさ。いつのまにかプロ格闘家の道はなかったことに
されてた」
「自慢はたくさん。早く続きを」
「それで……撮影でアクションシーン、特に格闘技を交えたアクションがある度に、本
当だったらこんな奴らには負けないのに、とか、この中で一番強いのは自分なんだぞっ
ていう気持ちが膨らんでね。時々、実力を示したくて溜まらなくなるんだ。あ、今日の
藤村さんは強いね。ちょっと仕掛けてみたけれど、簡単に流された。そのあとで、しっ
かり喉にぎゅっと力を入れられたし」
 パットの答を聞きながら、加倉井は、ああ最後のやり取りって二人の間ではそういう
ことが行われていたんだ、と理解した。
「実力を示すと言ったわね。女の私にまで? 以前の三回にしても、相手は演技のみで
実際は素人同然でしょうに」
「そこは自尊心の沸点に触れるようなことがあったから、と言えばいいのかなあ」
 パットが自尊心なんて言葉を使うものだから、どんなことがあったかしらと自分のパ
ットに対する言動を顧みる加倉井。が、特に思い当たる節はない。
「激しく投げられたり、平手打ちされたりしたら、抑えがたまに効かなくなるんだ。だ
から、加倉井さんの場合は、平手打ちが痛かったから、よしここで知らしめねばと考え
てしまったんだよ」
「……それだけ?」
「うん、他には何もない」
 当たり前のように答えるパット。理解してもらえて当然といった体だ。
(ちっちゃ! 呆れた。年上なのに、なんで子供なの)
 非難する言葉を一度に大量に思い付いた加倉井。引きつりそうな笑顔の下で、どうに
かこうにか飲み込んでおく。
(これから芸能活動を続けるのに、そんな性格だといずれ絶対に衝突が起きて、うまく
行かなくなるわ。分かって言ってるのかしら? もっと精神的にも成長して、器の大き
な人にならないと。――私の知ったことではないけれども)
 加倉井は若いアクションスターに何とも言えない視線を向けるのだった。

            *             *

 思い出にまた微苦笑を浮かべていた自分に気付き、加倉井舞美は我に返った。
(器の大きな人になれてないのね、パットは)
 パット・リーに関する記事は読まずに、自分の記事を探す。そして一面にやっと辿り
着いた次第。
「えっ」
 一面とはその新聞の顔。トップの扱いを受けたとなると、普通なら喜びそうなものだ
が、今回は事情が全く異なったのである。
「何よこれはっ」
 だから、加倉井は問題の新聞を左右に引っ張った。破ける寸前で、マネージャーが止
めに入る。マネージャーは一足先に、一面に目を通したようだ。
「だめよ。抑えて抑えて」
「……新聞紙が案外丈夫なことを確かめられたわ」
 皺のよった新聞を近くのテーブルに放り出し、マネージャーに向き直る。事務所の一
室だから、人目を気にする必要はない。それ以前に、ビルのワンフロア全てがグローセ
ベーアなので、部外者は基本的にはいない。
「でも、これは怒って当然よね?」
「気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 ネット上のサイト閲覧で済まさず、わざわざ紙媒体を購入してきたのには理由があ
る。スポーツ紙の見出しは、スタンドに挿した状態では、次のような言葉が目立つよう
に文字が配されていた。
『加倉井舞美 好き 男性器 大きい』
 こういう手法が古くからあることは充分に認識済み。だが、まさか自分が餌食になる
とは、心構えができていなかった。向こうは、こちらが成人するのを待っていたのだろ
うか。
「マネージャー、前もってチェックしたんでしょうね?」
「したのは本文とそのページのレイアウトだけ。まさか一面見出しに使われるなんて、
考えもしなかったから」
「まったく。してやられたってわけね。抗議は?」
「当然、電話を入れたけれども、浦川さんがつかまらなくて。代わりの人が言うには、
大きなスポーツイベントが中止で紙面が空いたから、ネームバリューを考慮して使わせ
ていただいた、だそうよ」
「取って付けたような……」
 最後まで言う気力が失せて、加倉井は鼻で息をついた。
「どうせ、他にも早々と広まってるんでしょうね」
「他のサイトの芸能ニュースに、ネタとして取り上げられている」
「腹立たしいけれども、我慢するほかなさそうね。一日も経てば、目立たなくなるでし
ょ」
「今後を考えると、浦川さんとの付き合い方を、見直さないといけないかもね」
 マネージャーの言に首肯した加倉井はことの発端となった質問を思い起こした。
(好きな異性のタイプ、か。次に似た質問をされたときは、はっきり明確に答えられる
ようにしておくべきかしら)
 そんなことを考えた加倉井の脳裏に、小学生時代の同級生の名前が浮かんだ。少し前
まで思い出していたせいに違いない。頭を振って追い払った。その名前が誰なのかは、
彼女だけの秘密。

――『カグライダンス』終




#513/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/06/27  22:49  (325)
愛しかけるマネ <前>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:14 修正 第2版
 事務所での打ち合わせの最後に、初めての経験となる仕事を持ち掛けられた。
「どっきり番組?」
 マネージャーを務める杉本からの話に、純子はおうむ返しをした。声には、訝かる気
持ちがそのまま乗っている。
 すると杉本は、「え、知らない? 仕掛け人がいて、有名人を驚かせる」と当たり前
の説明を始めた。純子はすぐさま、顔の前で片手を振った。
「いえ、そうじゃなくって、どっきり番組の出演話を、私に全て明かしてしまって大丈
夫なのでしょうか」
「……」
「ひょっとして、仕掛け人の役ですか」
「……今の、忘れてもらえない?」
 忘れろということは、仕掛け人ではなく仕掛けられる方らしい。純子は即答した。
「無理です」
「だよねー。じゃあ、だまされるふり、できないかな」
「そういうのはあんまり得意じゃありませんが……」
 演技の一環と思えばできないことはない、かもしれない。
「杉本さん。このお話、だめになるとして――」
「どうしてだめになると仮定するの」
「えっと、多分、そうなるんじゃないかなと」
 ちょっとくらい怒った方がいいかしらと思った純子だが、ここはやめておいた。第一
に、怒るのは苦手だ。相手のためとしても、うまく言う自信がない。第二に、杉本の掴
み所のなさがある。打たれ強いのか弱いのか。仕事上の些細なミスをやらかしても半日
と経たない内にけろっとしてるかと思ったら、長々と引き摺って気にしてる場合もあ
る。
「どんなどっきりで、他に芸能人の方が絡んでくるのか、気になったんです。だめにな
るならないとは別に、ここまでばらしちゃったんだから、いいですよね?」
「う……内容は言えない。関係してる人については、共演NGじゃないかどうか、遠回
しに聞くように言われていたんだった」
「遠回し」
「共演NGなんて君にはほぼゼロだから、忘れてたんだよぉ」
「もういいですから。どなたなんです?」
「厳密を期すと、芸能人じゃない。古生物学者の天野佳林(あまのかりん)氏。知って
ると思うけど、男性」
「知ってるも何も、有名人じゃないですか」
 二年ほど前からテレビ番組に出だした大学教授。髪はロマンスグレーだが若い顔立ち
で、えらがやや張っているせいでシャープな印象を与える。二枚目と言えば二枚目。喋
りの方は、古生物のことを分かり易く説明する、そのソフトな語り口が受けた。当初は
動物番組にたまにゲストに出たり、化石発掘のニュースで解説をしたりといった程度だ
ったのが、アノマロカリスとシーラカンスをデフォルメキャラクターにしたアニメが子
供を中心にヒットしたのがきっかけで、一時期は引っ張りだこの人気に。今は落ち着い
てきたが、それでもしばしば出演しているのを見掛ける。
「面識はないよね?」
「ありません。前からお目にかかりたいなと思ってましたけど。というか、何故、共演
NGを心配されなくちゃいけないのか理解できませんよ〜」
「そりゃあ、君の化石好きは、僕らは知っていても、プロフィールに書いてるわけじゃ
ないから。企画を持って来た人だって、生き物全般だめっていう女の子がいることを念
頭に、聞いてきたんだと思うよ」
「そういうものなんですね」
「それで……僕としては、受けて欲しい。失敗を隠すためにも」
「自覚はあるんですね、失敗した自覚は」
「きついお言葉だなぁ。涙がちょちょぎれる」
 聞いたことのない表現が少し気になった純子だったが、聞き返すほどでもない。
「途中でぎくしゃくした空気になって、どっきり不発。挙げ句に、お蔵入りになっても
知りませんよ〜」
「そうなったとしても、君の責任じゃないし、させない」
 表情を急に引き締める杉本。黙っていれば割と整った顔立ちだし二枚目で通りそう、
などと関係のない感想を抱きながら、純子は答える。
「分かりました。何事も経験と思って、やります。台本が手に入ったとしても、私には
見せないでくださいね」
「そりゃ当然。最後の一線は越えさせないぞ」
 独り相撲という言葉が、純子の脳裏に浮かんだ。
(どっきり番組だけ、他の人が担当してくれた方がいいんじゃあ……)

 元々そういう線で行くつもりだったのか、それとも杉本がうまく言って変更がなった
のかは分からない。天野佳林との共演――つまりはどっきり番組の収録は、いつ行われ
るか未定とされた。
「なるほど」
 純子は低い声で合点した。本日の仕事で久住淳の格好をしていたせいで、男っぽく振
る舞おうという意識が抜けきっていなかったようだ。声の調子を改めて応える。
「いつになるか分からないということは、本当にだまされて、驚けるかもしれないです
ね」
「でも」
 隣に座る相羽が口を開いた。今、二人は普通乗用車の後部座席に並んで腰掛けてい
る。運転は杉本、助手席には相羽の母がいた。
「元々、その天野教授と会うのが初めてになるんだったら、意味がない気がしますが」
「それもそっか」
 純子は今気付いたような応答をしつつ、相槌を打った。杉本に気を遣って、そこは言
わないであげようと思っていたのに。
「はい、それは少し考えたら分かったんだけどね」
 少し考えなければ気付けなかったの? 杉本の言葉に心の中で突っ込みを入れた。
「もし可能であれば、他にも仕掛け人を用意していただけないでしょうかとお願いした
のだけれど、色よい返事はまだ」
「杉本さん。それ、言って大丈夫なの?」
 相羽母がびっくりしたように目を丸くして横を向き、指摘した。
「あ」
 杉本はブレーキを踏んだ。ショックで動揺し思わず踏んだ、のではない。黄色信号を
見て、安全に停まっただけのこと。
「万が一、僕の要望が通ったら、このこと自体、伏せておかなきゃいけないんだ!」
 叫ぶように自分のミスを確認すると、ハンドルに額を着けて深く大きな息を吐いた。
「いや、要望、通らないから大丈夫だ、うん」
 早々と立ち直った。要望は通らないと決めてかかるのもどうかと思うが。
「杉本さんはもしかすると、自分が口を滑らせたのが原因とは言ってないんじゃありま
せんか?」
 突然そんなことを言い出した相羽に、純子は「さすがにそれは」と止めに入った。
が、杉本は動揺を露わにし、あっさり認めた。
「どうして分かったのさ、信一君? 風谷美羽の勘が鋭くて、どっきりの企画だってば
れてしまったということにしといたけど」
「ひどいなあ」
「うちは人材不足だから、僕が抜けるわけに行かないのだ」
「人材不足以前に人数不足ってだけです」
「それで、何で分かった?」
「杉本さんが自分の失敗ですと認めていたなら、とても次善の策の要望なんて出せる雰
囲気じゃないだろうと考えただけですよ」
「はあ。そうか。言われてみれば確かに」
「杉本さん、ほんとに変よ。私生活で何か抱えてるんじゃないでしょうね?」
 と、息子に負けず劣らず、唐突な発言をした相羽の母。
(いつもよりも失敗の度が過ぎてる気がするけれど、プライベートがどうこうっていう
風でもないような。それとも、大人なら感じるものがあるのかな)
 純子はそんなことを思いつつ、杉本の返事を待つ。長い赤信号が終わり、運転手は
「うーん、特には」と答えて、車を発進させた。
「あ、でも、一つあると言えばあるかもしれません」
「何?」
「付き合っている彼女から、結婚してちょうだいサインを受け取った気がするんです」
「ええーっ?」
 一瞬にして騒がしくなる車内。蜂の巣をつついたまでは行かないにしても、皆の言葉
が重なって、ほとんど聞き取れない状態が二十秒くらい続いた。
「そんなにおかしいですか」
 次の赤信号で停まったタイミングで、車の中はようやく静かになった。
「おかしくはなくても、杉本さんに今までそんな素振り、全くなかったものだから、驚
いてしまって」
 相羽の母が言い、後部座席で子供二人がうんうんと首を縦に振る。
「まあ、隠すつもりはあったんですよね〜」
 後ろから横顔を見やると、何だか嬉しそう。目を細め、口元を緩ませ、その内鼻歌で
も唄い始めそうだ。
「あの、お相手の方はどんな人なんですか」
 純子は思わず聞いた。声が普段のものになっている。
「言ってもいいけれど、内緒にしてね。ここだけの秘密」
「はい、それはもちろん」
 今この車に乗っている面々の中で、一番口が軽いのは杉本だろう。飛び抜けて軽い。
その当人が口外無用というのは、どことなく変な感じだった。
 それはともかく、相羽母子も口外しないと約束すると、杉本は口を割った。
「ほんとにお願いしますよ。彼女って一応、芸能人なもので」
「――!」
 最前、結婚話をするほどの彼女がいると杉本が言ったときと同様かそれ以上の騒がし
さになった。漫画で描くとしたら、道路の上で車が跳ねている。
「だ、誰ですか」
 相羽の母は子供達よりも慌てた反応を示していた。
「やだなあ、相羽さん。そんな飛び付きそうな顔をしなくても」
「いえ、緊急事態だわ。話を聞かない内から言いたくないけれど、何かスキャンダルに
発展したら、お相手の所属事務所に迷惑が掛かるかもしれないし、こちらにだって」
「そうですかー? 客観的に見ればそういう恐れを感じるのは無理ないかもしれません
けども」
「いいから早く、名前を教えて」
「はいはい。松川世里香(まつかわせりか)さんです」
「……心の準備をしていたから、もう驚かないと思っていたけど、驚いた」
 後部座席の二人も驚いていた。
(松川世里香……さんて、あの?)
 純子より一回りは上の世代で、今となっては元アイドルとすべきだろう。現在はバラ
エティがメインのタレント。一時、下の名前を片仮名のセリカにして、“なんちゃって
ハーフ”のキャラクターを演じていた(ハーフを演じたのではなく、飽くまで“なんち
ゃってハーフ”だ)。純子も面識があるにはある。某ファッションブランドのライト層
向けイベントのゲストとして松川が来たときに、挨拶した程度だが。
「お付き合いはいつから?」
「尋問みたいだなあ。えっと、三年目に入ったとこだと思います」
「先方の事務所は、このことをご存知?」
「多分、知らないのじゃないかと。本人が言ってれば別ですが。――あ、行き過ぎてし
まいました」
 突然何のことかと思いきや、左折すべき道を通り過ぎてしまったらしい。杉本の今日
の役目は、純子と相羽母とを撮影スタジオに迎えに行き、その後、柔斗の道場で相羽信
一をピックアップ(社内規定ではだめだが、事前に承諾を取ってある)し、それぞれ自
宅まで送り届けるというもの。
「Uターンできそうにないな。遠回りになるかもですが、この先で左折しますねー」
 今、話せる時間が増えるのは、相羽母にとっては歓迎だろう。
「逆に、こっちは知ってるのかしら?」
「こっち、とは」
「市川さんよ。あなたのボスは知っているの?」
「言ってないです」
「そう。困ったことにならなきゃいいんだけど」
 ふぅ、と憂鬱げに息を吐く相羽母。
「できることなら、すぐにでも話をしておきたいところなのに」
 子供のことを思うと、そうは言ってられない。そんなニュアンスが感じられた。
「杉本さん。とりあえず、返事は待ってください」
「返事? ああ、彼女への。了解しました。というか、どう返事するかを決めかねてい
るので」
「市川さんに報告するつもりだけれど、よろしいですね」
「仕方ないです。隠し続けるのも潮時だと感じていましたし、覚悟して打ち明けたんで
すから」
 何故かしら爽やかな調子で杉本が言う。
(恋愛を語るとイメージが変わる人だったんだ、杉本さん)
 純子は妙に感心した。
 隣の相羽をふと見ると、いつの間にか興味が萎んだのか、窓の外を眺めていた。

 そんな一騒動があって以来、杉本に再び会えたのは三日後だった。
「どうでした?」
「所属タレントに自分の恋バナをする趣味は、持ち合わせてないんだけどなあ」
 恋バナのニュアンスがちょっとおかしい気がしたが、純子は敢えて言わずに、話を前
進させる。これから仕事場へ送ってもらうのだが、当然のことながら、行きは帰りより
も時間的余裕がない。
「そうじゃなくてですね。市川さんから叱られませんでした?」
「叱られる? うーん、叱られたというか呆れられたというか。自社の商品に手を着け
るのがだめだからって、よそ様に手を出すとは!って」
「はあ」
「そういうつもりじゃないんだけどな。接近してきたのは、松川世里香さんの方なんだ
から」
「本当ですか、それ」
「嘘じゃないって。信じてよ」
 ルームミラーを通して、杉本の困ったような苦笑顔が捉えられた。
「きっかけはやっぱり、あのときですか。松川さんがイベントにゲストで来られた」
 そう質問してから、計算が合わないと気付いた純子。お付き合いして三年目と杉本は
言っていたが、くだんのファッションイベントは、一年ほど前の出来事だった。
「いつだったかなあ。正直言って、僕の方は最初の出会いを覚えてなくってさ。彼女が
僕を見掛けて、何か気になったみたいで」
「ふうん?」
 では他に松川世里香と同じ場所にいるような機会があったか、思い返してみた純子だ
が、特に記憶していない。
(二、三年前と言ったら、ファッション関連よりも映像作品に関わることが比較的多か
った気がする。あの頃、松川世里香さんと同じ仕事場になること……分かんないなあ。
まあ、テレビ局でならあり得るのかな。遠目にすれ違ったら、気付かずに挨拶なしって
場合もなくはないし)
 そう解釈することで納得し、気持ちを切り替える。今日の仕事は、関連するアニメの
番宣を兼ねた、テレビ番組のクイズコーナー出演だ。生放送で行われるケースが多い
が、今回は純子が学生であることが考慮され、収録。だから比較的気楽と言える。ライ
ブだと失敗の取り返しが付かないのに対し、収録なら最悪でも撮り直せる。さらに、挨
拶するべき関係者が別撮りだと少ないのは、精神的に非常に助かる。
 その関門たる挨拶をこなしたあと、早速スタジオ入りだ。
「もし答が分かっても、全問正解すると嫌味になるかもだから、ほどほどにね。局だっ
て自分のところの番組の宣伝、もし全問不正解でも時間はくれるに決まってる。適当に
ぼけて」
「はいはい」
 杉本のアドバイスを話半分に聞き流しつつ、送り出される。クイズは五問出題され、
一問正解につき十五秒のコマーシャルタイムをもらえる。全問正解すれば、七十五秒に
プラスして十五秒のボーナスが加算され、九十秒もらえる仕組みだ。
(九十秒をもらったとしても、間が持たないな)
 元々、そのアニメのスポットとして、十五秒バージョンと三十秒バージョンの二通り
が作られたが、もちろん純子は出演していない。アニメのキャラが登場し、アニメの見
せ場でこしらえられたCMだ。ドラマや映画だと出演者がコメントを喋るCMが多いの
に対し、アニメではまずない。事前特番でも制作されるのなら、レギュラー役の声優達
に主題歌を担当する歌手、監督、(いるのであれば)原作者が揃って出演となるだろう
けれど。
「おはようございます。よろしくお願いします……?」
 撮影の行われるスタジオに入るや、雰囲気の違いを感じ取った純子。もちろん、この
番組に出るのは初めてで、普段を承知している訳ではないけれども、何やらぴりぴりし
た緊張感のある肌触りが場の空気にはあった。仮にこれがいつもの空気なら、撮影収録
の度にくたくたに疲れるに違いない。
 緊張感の中心は、探すまでもなく、じきに知れた。
 女性が二人、対峙している一角がある。若い人と、もっと若い人。二人とも面識があ
った。
「――どういうつもりでいるのかと聞いているのですが」
 丁寧語でもややぞんざいな口ぶりで言っているのは、より若い方。加倉井舞美だ。加
倉井と純子は現在、あるチョコレート製品のCMに揃って起用されて、“三姉妹”設定
の内の二人である。一緒に撮影したばかりと言っていい。一つ年上ということにされた
加倉井は、少々不満そうではあったが、仲よくやっている。
「そう言われても、私にも都合がありましたから」
 加倉井の詰問調に怯むことなく応じたのは、松川世里香。そう、杉本の言っていたお
相手だ。テレビを通して見るよりも大人びて感じるのは、普段の松川世里香に近いとい
うことだろうか。あるいは、離れたところからでも、その化粧の濃さが分かるせいかも
しれない。
「何か問題でも?」
「問題? あるわ」
 我慢できなくなった、というよりも我慢するのをやめた風に、加倉井が言葉遣いを変
化させた。
「三度誘って、三度ともドタキャンされちゃ、こちらの予定が狂う」
「あら。困るほどお忙しいんでしたか? それはそれは失礼をしました」
 松川は相変わらずのペースである。足先が出入り口の方を向いているのだから、もう
用事はないはずだが、何故かスタジオを出て行こうとしない。無論、彼女の前に加倉井
が立っているのだが、ちょっと避ければ済む話。なのにそうはせずに、どっしり構えて
いた。やり取りを楽しむかのように。
 周りには男女合わせて十名ほどの人数がいるのだが、止めかねているのは雰囲気で分
かった。加倉井舞美は若手ながら安定した実力を誇る女優だし、松川世里香だって浮き
沈みこそ経てきたが今また何度目かのブレイクを果たした人気タレントだ。二人とも
に、マネージャーと思しき存在がいないことも、状況に拍車を掛けている。
「あの。何があったんですか」
 純子は一番近くにいたスタッフに小声で聞いた。小柄だががっしりした体付きの男性
スタッフは、その場を飛び退くように振り返った。そして口を開いたのだが、彼の声が
発せられるよりも早く、加倉井が反応した。
「ちょうどよかった。あなたに聞いてもらって、判断してもらいましょう」
 いきなりそんなことを言って、純子を手招きする。戸惑いと焦りと不安を覚えた純子
だったが、断りづらい空気に流されてしまった。仕方なく、歩を進める。加倉井と松川
の周りを囲んでいた人垣が崩れ、その間を気持ちゆっくり歩く。
(うわ〜、何か知らないけれども巻き込まれた? 事の次第が分からないまま行くの
は、凄く嫌な予感が)
 対策の立てようがないまま、加倉井の右隣に立つ純子。ここは少しでも自分のペース
を保とうと、加倉井と松川に「おはようございます」で始まる芸能界流の挨拶をした。
それから目で加倉井に尋ねる。
 加倉井は純子の挨拶に些か呆れたようだったが、怒りが収まった様子は微塵もない。
「あなた、松川世里香さんはご存知?」
「も、もちろん。お会いするのはまだ二度目で、最初のときも挨拶を交わしたくらいだ
けど」
 改めて松川に向き直り、目で礼をする。松川は同じ仕種で返してきた。
「そうなの。よかったわね」
 加倉井の言わんとする意味が掴めずに、純子は「よかった?」とおうむ返しした。
「今後、親しくなるつもりだったなら、ようく考えてからにしなさい。不愉快な目に遭
いたくないでしょ」
「不愉快って、加倉井さん、大げさね」
 松川が言葉を差し挟んだ。
「食事の誘いをキャンセルしたくらいで。よくあることでしょうに」
「三度、立て続けに土壇場になってキャンセルされたのは、初めてですけれども」
「それはあなたのキャリアじゃ仕方のないことかもしれない。私は経験あるわよ、三連
続ドタキャン」
「自分がされて不愉快なことを、他人にして平気だと?」
「その言い方だと、私がわざとあなたの誘いをドタキャンしたみたいに聞こえるわね」
「そうじゃないと誓って言えます?」
「証拠はあるの?」
 充分な説明がないまま、純子を挟んで、二人の応酬が再開されてしまった。どうやら
加倉井が松川を食事に誘い、松川も受けたものの、ぎりぎりになって断った。それが三
回連続で起きたらしい。
(あ、確かだいぶ前、同じ映画に出ていたんだわ、加倉井さんと松川さん。コメディ映
画のオールスターキャストで、どちらも脇役だったけど印象に残ってる。そのときの縁
で、加倉井さんが食事に誘ったのかな? だとしたら最初は仲よくやっていたはずなの
に、どうしてこんなことに。――え)
 推測を巡らせる純子の腕を、加倉井が引いた。不意のことだったので、バランスを崩
しそうになる。
「ねえ、風谷さん。察しのいいあなたのことだから、今ので飲み込めたと思うけれど、
どちらが悪い?」
「え? えーっと。まだ飲み込めてません」
「ほんとに? 掻い摘まんで言うと、私があの人を――」
 と、松川を遠慮ない手つきで指差した加倉井。
「――食事にお誘いしたのに、三度も振られてしまった。それも当日ぎりぎりになっ
て」
「ちょっと。自分の都合のいいことだけ言わないで」
 松川が再び割って入る。今度は明白に怒りを響かせた口ぶりだ。
「ドタキャンしたの、最初はあなたでしょ」
 えっ、という口元を覆いつつ、純子は加倉井を見やった。
「その点については、きちんと謝罪したつもりです。あなたも受け入れてくださったと
解釈しましたが」
 その後しばらく繰り広げられた話から推し量るに……一番初めに食事に誘ったのは、
松川。応じる返事をした加倉井だったが、前日になってドラマの撮り直しが決まり、や
むなく約束をキャンセルした。後日、お詫びの挨拶に行き、今度は加倉井の方から食事
に誘った。そこから三度、ドタキャンが繰り返されたという経緯のようだ。
「あなたの意見では、どちらが悪いと思う?」
 加倉井が改めて聞いてきた。
 事情は理解できた純子だったが、心境は全く改善しなかった。こんな状況でどう答え
ろと。

――つづく




#514/514 ●長編    *** コメント #513 ***
★タイトル (AZA     )  18/06/28  01:03  (332)
愛しかけるマネ <後>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:15 修正 第2版
「……」
 口を開き掛けて、何も言い出せないまま、また閉じる。
「どうしたの? 簡単でしょ、率直な意見を言えばいいだけ」
 加倉井の視線から逃げるように顔を逸らすと、今度は松川と目が合った。
「こんなこと聞かれても、困るだけよね。まだ若いんだし、マネージャーさんもいない
みたいだし。そう言えば杉本さんはお元気?」
「え――っと、はい、元気です」
 松川の台詞にも、どう対処すればいいのやら。取って付けたような杉本への言及が、
かえって松川と杉本の付き合いを真実らしく感じさせる。
(うー、どちらにも肩入れしにくいよ〜。直感だと、加倉井さんが筋を通してるのに、
松川さんがわざとキャンセルを重ねてるように思えるけれど、ほんとに急用が入ったの
かもしれないし。だいたい、ここで加倉井さんの味方をして、杉本さんの恋愛に悪い影
響を及ぼしちゃあ、申し訳が立たない……。かといって、松川さんの味方をすれば、加
倉井さん怒るだろうなあ。一緒に仕事する機会も増えてるし、今後のことを思うと、隙
間風が吹くような事態は避けなくちゃ)
 心の中で懸命に考えている間にも、加倉井は「どうなのよ」とせっついてくるわ、松
川は意味ありげににこにこ微笑みかけてくるわで、追い込まれる。
 このあとの宣伝の仕事も頭にあり、急がねばならない。と言って、吹っ切って場を離
れるだけの度胸は、まだ持ち合わせていない純子であった。こういうとき、マネージ
ャーがそばにいれば、多少強引にでも引っ張ってくれるものかもしれないが、現状では
期待できない。そもそも、杉本のがここにいたらいたで、話がややこしくなる恐れも僅
かながらありそう。
 こうして切羽詰まった挙げ句、純子はふとした閃きを咄嗟に口走った。
「じゃあ、私がお二人を食事に誘います!」
「は?」
 怪訝な反応をしたのは加倉井も松川も同じ。声を出したのは、加倉井だけだったが。
「関係ない私が言うのは差し出がましいから、とやかく言いません。二人に仲直りして
もらう場を、私が作ります! どうでしょうか」
 言い出したからには止められない。純子は加倉井の手をぎゅっと握りながら、目は松
川の方へ向けた。最低限、この場はこれで収めてください!と念じる。
 すると松川の視線が動くのが分かった。どうやら加倉井と目を合わせたようだ。もち
ろん、言葉を交わしてはいない。ただ、予想外の提案に困惑しつつも、加倉井の意向を
探る気にはなったのかもしれない。
「……風谷さん、あなたって」
 加倉井の声は、最前までの熱が引いて、冷めていた。
「その食事の席が、今以上の修羅場になったらどうするつもり?」
「そのときはそのとき。思い切りやりあって、すっきりさせてもらえたらいいなあ……
って。おかしいでしょうか?」
「……おかしい。あなたの発想が面白いって意味で」
 誉められているのだろうか。細かいことは気にせず、押し切ろう。
「さあ、のんびりしてないで決めませんか。皆さんには及ばないですけれども、私だっ
ていいお店、ちょっとは知ってるんですよ」
「あなたの場合、ほとんどが鷲宇憲親経由の情報でしょ」
「そ、それは当たってますけど」
「ま、私はいいわ。“姉”のよしみであなたの提案に乗ってあげる。あとは相手次第」
 加倉井は松川に最終判断という名のボールを投げた。芸能界の先輩を立てたとも言え
るし、器が試される面倒な決定権でもある。
「……私も、そちらのかわいいモデルさんに免じて、応じてもいいけれども」
 この返答に一瞬、喜色を浮かべた純子だったが、含みを持たせた語尾に不安が残る。
「果たして日があるのかしら。曲がりなりにも、今人気のある三人の休暇が重なるよう
な都合のいい日が」
「あ」
 そうですねと言いそうになったが、踏み止まる。ここでそうですねと答えては、自分
は二人と肩を並べる程の芸能人だと言ってるようなもの。
「私はどうとでもなりますから、皆さんの都合のいい日を教えてください。すぐには難
しいでしょうから、あとで連絡をくだされば合わせます」
「了解したわ」
 即答した松川。そのまま行こうとして、二、三歩歩いたところで立ち止まる。
「そうそう、連絡先を教えてもらわなくちゃね」
 杉本との親しいつながりを隠す意図があるんだろうなと察した純子。少し考え、杉本
の携帯番号を伝えた。互いに携帯端末の類を持ち込んでいないため、手書きのメモの形
で渡す。
 受け取った松川は特に何も言うことなく、スタジオを退出。ドアを開けるときに、マ
ネージャーらしき人が待ち構えていたのが見えた。
(ドアのすぐ前で待っているくらいなら、入って来てもいいんじゃないの? あの人が
いてくれたら、このもめごとももうちょっと早く解決したかもしれないのに〜)
 純子がそんな不満を抱いていると、加倉井のため息が聞こえた。
「加倉井さん?」
「どう転ぶか分からないし、お礼はまだ言わないけれども。あなたって、ほんっとうに
お人好しなところあるわね」
「そ、そう?」
「この業界、続けるのなら、取って喰われないようにせいぜい気を付けて。喰われると
きは、一人で喰われてね。巻き添えは御免だわ」
「そんなあ。でも、アドバイス、ありがとう」
 改めて加倉井の手を取って握った。加倉井はもう一度ため息をつくと、引きつり気味
の苦笑を浮かべた。

「会わなかったんですか?」
 帰りの車中、純子は意外さを込めてそう言った。
「うん。知らなかったし」
 運転席の杉本が淡々と答える。
「第一、知っていても会うわけにいかないんじゃないかなあ。他人の目が多すぎるっ
て」
 尤もな話だ。
 松川世里香と同じ仕事場に居合わせたのだから、事前に連絡を取り合ってちょっとで
も会う時間を作ったのではと考えた純子だったが、それは浅薄だったようだ。
(それを思うと、私の場合はまだ幸せなのかな……)
「ところで、松川さんと加倉井さんが揉めたって言ってたけれども、どのくらい? 険
悪ムード?」
 そう聞いてくる杉本の横顔は、いつもに比べるとずっと真剣な面持ちに見えた。
「どうなんだろ……。見た感じ、険悪でしたけど。がんばって取りなしたつもりなんで
すが、まだ結果は出てないわけですし」
「しょうがないよ。加倉井さんの性格は前から分かっていたとは言え、松川さんとぶつ
かるなんて想像できないもんな。びっくりしてベストの反応ができなかったとしたっ
て、誰も文句言わないよ」
「――どうするのがベストだったって言うんですかあ」
 少しむっときた純子は、対応に苦慮するそもそも原因の片棒を担いでいる杉本に聞き
返した。
「うーん、そう言われると困る。確かに難しい」
 杉本は簡単に引き下がる。こういう場合、責め立てて追い込んだつもりでも、杉本の
ように変わり身が早く、あっさり引ける人間相手には効果が薄い。
「仮に僕を呼んでもらっても、他の人がいる場で、何か松川さんに言える自信はないか
らなあ。はははは」
「じゃ、次にお二人だけで話すチャンスがあったら、ぜひ言ってくださいね。加倉井さ
んとも仲よくしてくださいって」
「がんばって言うよ。うちのタレントが板挟みで困ってるんだって言えば、効果抜群」
「何言ってるんですか。彼氏としての言葉の方が絶対に効き目ありますって」
「そうなるのかなあ。あ、でも、二人で話すより前に、松川さんが空いている日を連絡
してきたらどうしよう」
「ちょうどいいんじゃありませんか。三人で食事をする前に、杉本さんから念押しして
くれれば、松川さんも仲直りする気持ちを固めて来てくれるに違いない、うん、決まり
っ」
 事態収拾の目処が立った。そんな気がして、上機嫌になって言った純子だった。

 そしてその翌日の日曜日。雑誌のインタビューのお仕事だと聞かされて、純子はテレ
ビ局まで連れて来られた。運転手兼マネージャーの杉本は、所用があると言って、局を
離れてしまった。
(松川世里香さんに会いに行った、とか。まさかね)
 控室で一人座って待つ。インタビューの開始予定まで、小一時間はあった。時間を持
て余して考える内に、もやもやしたものが頭に浮かんできた。
(テーマが漠然としているのよね。最近の仕事とこれからの自分について、だなんて。
そんな語れるほどの人生経験ないし、こんな漠然としたインタビューを受けるほど、大
きな作品に関わっていない気がするんだけど。……そうだわ。何でテレビ局? 今ま
で、テレビ局で仕事があるときの待ち時間を利用して、雑誌などのインタビューを受け
てきたわ。雑誌単独のインタビューは、ホテルのロビーもしく部屋か、喫茶店。宣伝の
ために出版社を訪ねてそこで受ける形が多かった。わざわざ雑誌インタビューのためだ
けに、テレビ局に来るのは珍しい。というよりも、おかしい)
 純子は違和感の正体を突き詰めて考えてみた。対する答は程なくして降りてきた。
(もしかして――前に聞いてたどっきり番組? 前もって知らせることなしにやるって
言われたけれども、きょ、今日なのかしら? 天野佳林先生とどういった形で共演する
のか知らないけれども、対談形式だとしたら、インタビューに近いと言えなくもない…
…。どっきり番組だからこそ、テレビ局まで出向いた。ええ、筋は通る)
 と、そこまで推測を積み重ね、状況把握に努めた途端に、悲鳴を上げそうになった純
子。実際には黙っていたが、思わず空唾を飲み込んだ。
(どっきり番組ということは――この部屋に隠しカメラがあるかも?)
 途端に緊張が全身に回った。探してみたくなる。が、一方でうまくだまされなきゃい
けないんだから、隠しカメラ探しなんて言語道断、やっちゃだめと己に命じる。だけれ
ども、ゆったりできるはずの控室に、もしもカメラがセットされて撮影されているとし
たら、気が抜けない。
(まずいわ。私、スカートで来たのよ。低い位置にカメラがあったら、動きによっては
中が映っちゃう恐れが)
 頭に両手をやって、抱えるポーズをした。この姿も撮られているかもと思うと、何か
理由を付けなくてはという心理が生まれ、「ああ、覚えられない、台詞!」と口走って
みせた。
(だ、だめだわ。この短い間に、物凄い疲労感が)
 両肘をテーブルに着き、顔を手のひらで覆う。本当に隠しカメラがあるかまだ分から
ないというのに、意識過剰で動けなくなりそう。
(元々は、杉本さんのミスから始まってるんですからね! それなのにこんな、見え見
えの舞台を用意して……恨みます)
 部屋で待っているように言われていたが、息が詰まる。ちょっとくらいならいいだろ
うと、腰を上げた。ドアを少し開け、廊下を覗く。カメラを持った人物はいないよう
だ。
(もし行き違いになっても、ちょっと新鮮な空気を吸いに出てたって言えばいいわよ
ね。時間までには戻るつもりだし)
 そうやって自分を納得させて、外に踏み出そうとした刹那。
「やあやあ、お待たせしました」
 陽気な声が掛かった。純子が廊下へ出るのを待ち構えていたかのようなタイミング。
 声のした方向を振り返ると、知らない男性と女性のコンビ、さらに天野佳林その人が
いた。テレビ出演を終えたばかりといった体で、スーツ姿が決まっている。
 天野先生との初対面に少なからず感動を覚えた純子だったが、それと同等以上に気に
なるのはテレビカメラ。やはり見当たらないものの、女性の手にはデジタルカメラが握
られていた。
「事前にお知らせしていなかったと思いますが、本日のインタビューは天野佳林先生と
の対談形式でお願いしたいと考えています。風谷さんは、化石に興味をお持ちだと聞い
たものですから」
 男女二人はそんな前置きで始めて、それぞれ名刺を取り出し、自己紹介をした。続け
て、天野佳林との引き合わせ。ネクタイを少々緩めてから、当人が言った。
「天野佳林です。初めまして。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
「初めまして、風谷美羽と言います。天野先生のご活躍、テレビで常日頃から拝見して
います。難しいことを小さな子にも分かるくらいに、楽しく面白く話されるから、私も
大好きで、だから急なことに驚いてるんですが、とてもわくわくもしてるんです」
 とりあえず、正直な気持ちを一気に喋ることで、最初の不自然さは乗り切れた?

 純子の懸念、いや、確信に近い想像に反して、対談形式のインタビューは特段、テレ
ビ番組らしい仕掛けなしに終わりを迎えた。
(あれ? 杉本さんから聞いていた話と違うんですけど……いいのかな? ある意味、
びっくりはしてるけれども)
 何が何だか分からない。内心、混乱の嵐が吹いていた純子だった、表面上はきっちり
笑顔を作れている。天野佳林との対談が考えていた以上に楽しいものに終始したのが大
きい。
「それじゃあ、若干時間オーバーしてるところをすみませんが、最後にツーショットの
写真を何枚か、いただきたいと思います」
 男性スタッフの声に応じて、女性がカメラの準備を。純子は天野佳林と仲よく?収ま
った。
 これで終了と伝えられ、純子は心中、ほっとすると同時に疑問符もいっぱい浮かべて
いた。終わりと見せ掛けて最後にどっきりがあるのだろうか。警戒を完全には解かずに
いると、天野が脱いでいたジャケットに腕を通しながら話し掛けてきた。
「そうだ、風谷さん。サインをもらえないだろうか」
「え、サインですか」
 来たわ、と感じた純子。
(こんな学者先生が私なんかのサインを欲しがるはずがない)
 意識して身構えてしまう。いやいや、あくまで自然に振る舞わなくては。見事にだま
されることこそが目的。
「はい。実は、うちの子達があなたのファンだと、今朝になって聞かされましてね。男
と女一人ずつおりますが、二人揃ってあなたについて詳しいのなんの。私、出掛ける前
に色々教えられましたよ」
「はあ。ありがとうございます」
(なるほどね。お子さんがファンだということにすれば、不自然じゃないわ)
 芸の細かさに密かに感心している純子に、先程の男性スタッフからサインペンと色紙
が差し出される。
「先生に言われて、急いで用意したんですよ」
 と、天野へ笑いかける男性。
「すまなかったね。買っておく暇がなかったんだ。――それで、先走ってしまったよう
だが、サイン、いいだろうか?」
「え、はい、かまいません」
 そう答えてペンと色紙を受け取ろうとしたが、またも想像をしてしまった。
(これって強めに握ったら、電気が流れるやつ?)
 雷が大の苦手な純子だけに、電気も苦手な方である。だが待てと冷静になる。
(確か、電気が流れるのはボタンを押すタイプのボールペンとかシャープペンじゃなか
ったかしら? サインペンは押すところがない。スタッフさんだって、普通に持って
た。サイン色紙の方も電気的な機械仕掛けをするには、薄すぎるような)
 自然な動作でサインペンを右手、色紙二枚を左手で受け取った。電気ショックは無論
のこと、何の変哲もない。
「何てお書きしましょう?」
 天野に尋ねつつ、ペンのキャップを取る段になって、またもや嫌な想像が鎌首をもた
げる。
(キャップを外そうと強く捻ったら電気が来るとか?)
 もうこれくらいしかどっきりの仕掛けようがないでしょ!という意識が強くなった。
その余りに、逃げを打ってしまった
「あの、色紙を持ったままだとキャップが取れないので、開けてもらえますか」
 誰ともなしに言ったのだが、男性スタッフが開けてくれた。そしてやっぱり、何とも
ない。平気で開けた。ペンを返され、受け取っても感触はさっきと変わらなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 ペンをしげしげと見つめる純子に、天野が問われていた事柄を返す。
「ごく普通にお名前を。それから、みのるとさき、子供の名前なんですが、共に平仮名
で頼みますよ」
 純子は色紙を重ねて構え、一枚ずつ、サインペンを走らせた。現在の心理状態を考え
ると、上出来のサインが書けた。
「これでいいでしょうか」
「ええ、大丈夫。二人の大喜びする顔が目に浮かびます。本当にありがとう」
 終わった。どっきりではなかった?
 純子は何かに化かされたような心地でいた。が、天野が「それではお先に失礼を」と
部屋を出ようと横を通ったとき、はっと気付いて、切り替えた。
「あ、あの、すみません!」
 天野と男女二人が足を止めて振り返る。純子は対談相手に駆け寄って、お辞儀をしな
がらお願いした。
「私も、天野先生のサインをいただけませんか?」

 インタビューだか対談だか、あるいは不発のどっきり番組だか分からない仕事が終わ
って、しばらく経ってから杉本が控室に姿を見せた。
「遅いです、杉本さん」
「そう? 十分と遅れていないはずだけれど」
 十分近い遅刻でも大概だと思うが、そういったずれを見越して、余裕を持ってスケジ
ュールは組まれているので、大きな問題ではない。純子は音を立てて椅子から立ち上が
ると、その背もたれの縁に両手をついた。
「聞きたいことがあって待ちかねてたんです。だから、いつもよりもじれったく感じち
ゃって」
「何かあった?」
「終わったんだから、もうとぼけないでほしいな、杉本さん。お仕事ってインタビュー
と言うよりも、対談でしたよ。それも、天野佳林先生との」
「うん。そうだよね」
「……」
 捉えどころのないふにゃっとした返事に、純子は一瞬、二の句を継げなくなった。が
どうにか修正し、言葉を重ねる。
「どっきり番組だったんですよね? 私、ちゃんと覚えていたんですよ。雑誌インタビ
ューなのにテレビ局に来るから、おかしいと感じてたんです」
「うん、君の記憶力は僕よりずっと上だから、覚えてると思ってたよ。その上で、がっ
くりくるようなことを言うけれども、いいかい?」
「……何だか怖いですが、いいですよ」
 背もたれから手を離すと、握りこぶしを作って覚悟を決めるポーズを取る。
「実は、天野佳林先生とのどっきり番組、取りやめになったんだよねー」
「ええ? 意味が分からない。だって今日、さっき、天野先生が来られて……あ、ひょ
っとしてそっくりさん? 偽者の天野先生にサインをもらっちゃったんですか、私?」
 大騒ぎして、自らを指差す純子。その目の前で、過杉本はおなかを押さえる格好にな
って盛大に笑った。
「ち、違うって。どっきりじゃないって言ったのに。正真正銘、本物の天野佳林先生で
すよ、あの人は」
「わ、分かるように言ってください。大人しく聞きますから」
「だから、対談の仕事も正真正銘の本物で。テレビ局に来たのは、天野先生のご都合な
んだよね。出演番組の収録があって。それでも天野先生が君との対談を結構楽しみにさ
れていたみたいで、どっきり番組が取りやめになったのなら別口で何か仕事を一緒にで
きないかと言われたそうなんだよね。じゃあってことで、当初の予定をそのままスライ
ドさせて、風谷美羽と天野佳林の対談と相成ったわけ」
「……どっきりは完全になくなったんですか?」
 天野からそんな風に言われていたとはちょっとした感激ものだったが、今はそれに浸
っている場合でない。
「あー、どっきりはねえ、完全になくなったかと言われると、そうでもなくて」
「えっと、もしかすると、まずいことを質問しちゃいました? 近い将来、何もかも改
めて私をどっきりに引っ掛けるつもりでいるとか。だったら、もう聞きません」
 耳を塞ぐ格好をしてみせた純子。だが、案に相違して、杉本は首を横に振った。
「なくなったんじゃなくて、どう言えばいいのか……まあ、支度をして、出て来てよ。
外で待ってるから」
 奥歯に物が挟まった言い種になり、そそくさと廊下に出て行ってしまった。
 純子は急いで追い掛けた。支度なんて、とうにすんでいる。
「杉本さん!」
「ロビーで待ってるから、そんなに全力疾走しなくていいよ。むしろ、ゆっくり現れた
方がいいかなあ」
「ちょっと、どういう」
 意味なんですかという質問は途中で溶けて消えた。何度か角を折れ、ロビーへと通じ
る廊下に出たとき、その突き当たりの景色を見覚えのある人の影が横切った気がしたか
ら。
 とにかく、急ぎ足でテレビ局の広いロビーへと向かう。正面玄関を入ったところにあ
るホールまで戻って来ると、テレビカメラを担いだ人が二名ほどいるのが分かった。
「これって……まさか」
 ホールの一角を占めるロビーのソファ群に足を向ける純子。その正面に、二人の女性
が手を取り合ってひょいと現れた。さっき、純子が見た人影だ。
「このあと、食事に行く時間はあるかしら?」
「この通り、仲直りはもうしているから、安心して」
 加倉井舞美、松川世里香の順にそう言った。二人とも、意地悪げな満面の笑みを浮か
べていた。

「つまり……」
 完全にオフレコになったのを見計らい、純子は杉本に詰め寄った。詰め寄ったと言っ
ても、既に精神的に相当消耗しているため、迫力はなかったけれども。
「杉本さんが言っていた、別の人を仕掛け人にして私を引っ掛けるっていう要望は通っ
ていた。そうなんですね?」
「正解〜」
 ホールドアップの手つきをした杉本は、情けない声で認めた。加倉井・松川の両名と
は少し話ができたものの、とりあえず急ぎの仕事を片付けるからと、今はここにいな
い。
「だめ元で出した代替案が採用されたから、驚くのなんのって。まるで、僕自身がどっ
きりに掛けられた気分だったよ」
「それはそれとして」純子の華麗なるスルー。
「加倉井さんと松川さんは、ほんとに何にもなかったんですよね? 口喧嘩は全部お芝
居だったと」
「うんうん。さっき、カメラの回ってるときに言った通りですよ、はい」
「よかった」
 胸のつかえが取れた心地。気分がいくらかよくなった。
 腕を下ろした杉本は、「これで許してくれる?」と笑いかけてきた。純子は間を取っ
て考える振りをして、
「ううん、だめ。まだ聞きたいことがあるわ」
 と強い調子で言った。
「な何でしょう」
「あれも嘘なんですね? 加倉井さんと松川さんが仕掛け人だったということは、松川
さんが杉本さんと恋人関係っていう話。松川さんが仕掛け役を引き受けてくれたから、
急遽思い付いて恋人ってことにして、私がどちらの味方にもなれないようにした……」
 答は聞くまでもない。そう信じて疑わないまま質問した純子だった。しかし。
「さあ? どうなのかあ」
 杉本が答えるその表情はとぼけつつも、普段に比べると数段真面目なように見えなく
もなかった。

――『愛しかけるマネ』おわり




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