AWC ●長編



#480/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:15  (271)
既読スルーな犯罪<前>   永山
★内容
 事件発生の通報があったのは、三月中旬、うららかな陽気から一転、冬の最後のあが
きのように冷え込んだ日の夜だった。そんな急な気候変化のためか、殺人現場となった
一軒家の一室に、暖房器具の類は見当たらなかった。
「亡くなったのは玉井貴理子(たまいきりこ)、二十八歳の独身。一応、イラストレー
ターだそうですが、最近はゲームのキャラクターデザイン等で結構稼いでいたようで
す。この若さで家を持てるくらいですから」
 上條刑事の話はもちろん耳に届いていたが、それよりも気になったのは、現場のちょ
っとした奇抜さだ。オレンジ色に溢れているのだ。被害者自身の部屋だというが、床も
壁も天井も全て、沈んだオレンジ色に統一してある。加えて、玉井貴理子の身に付けて
いる服も、ほとんどが橙色系統だ。オレンジ色をしたキャップに長袖シャツ、下はオレ
ンジ色のロングスカートで、縁を鮮やかな黄色の折れ線模様が二本、交差を繰り返すよ
うに彩っている。靴下だけが真っ黒だ。
 そんなオレンジ色大好き人間(多分)が一人暮らしする部屋で、血溜まりが異彩を放
つ。刺殺だった。上條刑事の現時点での見立てでは、逃げようとしたところを背後から
組み付かれ、腹を刃物で数度刺された、となるらしい。
「即死じゃなかったようで、ご覧の通り、自らの血で文字を書き残しています」
「うむ。『白木美弥』だな、どう見ても」
「ええ。間違いありません。読みも、『しらきみや』でよいみたいです」
「というと、被害者の知り合いに白木美弥なる人物がいると、早々に判明した訳かね」
「はい。アドレス帳に載っていたので、簡単でした。割と近くなんで、今、同僚が向か
ってます。日曜だから、自宅にいる可能性が高いでしょう。何の仕事をやってるか、ま
だ分かってませんが」
「……白木美弥が犯人なら、こんな血文字を残されて、そのまま放置して現場を去るか
ね?」
「犯人と決め付けてはいませんよ。参考人です。恐らくですが、犯人が白木美弥に罪を
被せるために、文字を偽装したんだと思うんです。となると、犯人は白木美弥と知り合
いで、彼女に対しても何らかの悪意を抱いていることになる。白木に話を聞くのは当然
です」
「確かに。ただ、犯人が白木美弥に罪を被せようとしたと決め付けるのも、またどうか
と思うがね」
「決め付けたんじゃありませんが……肝に銘じておきます。捜査会議で方針がそうと決
まった訳じゃないですし」
「もう一点、おかしなところがある。何で漢字なんだろう? 平仮名か片仮名で書けば
楽だろうに」
「そう考えると、やはり偽装工作と見なすべきかもしれませんね。いや、まあ決め付け
はよくありません。アドレス帳には、白木美弥の他に白木田(しらきだ)が一人、深山
(みやま)が一人、下の名前で宮子(みやこ)が一人いましたから、その人達と混同さ
れるのを恐れて、漢字で白木美弥と書いた……という見方もできなくはない」
「だとしても、フルネームを漢字というのはなあ。凶器は?」
 唐突な問い掛けに、上條刑事は反応が遅れた。それでもじきに首を横に振る。
「見付かってません。犯人が持ち去り、逃走途中で捨てるというのが一番ありそうな線
ですが、何せその逃走経路が判明していないので、とりあえずこの家の周辺を当たるこ
とになるんでしょう」
「第一発見者は?」
「あ、待ってもらってるんでした。死体のある家にいたくないとかで、車の方にいま
す。会っておきますか?」
「僕の肩書きは何と伝えればいい?」
「お任せします。コンサルタントでもアドバイザーでも」
 思わず苦笑してしまった。真っ正直に「私立探偵です」と名乗らないのがいいこと
は、自分自身、経験上よく分かっていた。

「――ええ。家族の都合で刑事の職を一時退いたのですが、その問題が解消したときに
は中途半端な年齢になってまして。戻りにくかったので、こうして捜査の補助をする仕
事を与えられた訳です」
 警察OBで捜査アドバイザーという自己紹介に説明を補足すると、相手は納得したよ
うだった。首を何度も縦に振り、名刺からこちらへ視線を上げた。その顔色はまだ青ざ
めているようだ。三十歳になる男で、痩身の割に頭が大きく、マッチ棒を連想させた。
「それで……三川宗吉(みかわそうきち)さんは、何の用で玉井さん宅を訪れたんです
か」
 二度も三度も同じことを聞かれてうんざりしているのか、三川は最初、知り合いだと
しか言わなかった。なので、詳しく突っ込んで尋ねる。
「自慢にもならねえから、繰り返し言いたかないんですけどね。借りてた金のことで、
ちょっと話し合いを持つために」
「お金の貸し借りをする仲ですか。ということは、相当親しかったんですね、亡くなら
れた玉井さんとは」
「貸し借りって言うか、借りる一方ですがね。要するに、昔付き合ってたんですよ。は
っきり別れたつもりもないんで、こうして付かず離れずの付き合いをしてたんです」
「どんな話し合いを?」
「話し合いって言いましたけど、実はいきなり電話があって、呼び付けられたんです」
「ほう、呼び付けられた? 電話は何時頃でしたか」
「正午過ぎだったかなあ。何が原因で急にごきけん斜めになったか知りませんけど、貸
した金を一刻も早く返して欲しいと言われまして。十万ちょっと借りてたんですが、す
ぐには用意できないって言ったら、とにかく来いと。それはもう、かなり恐ろしい剣幕
でしたよ。こう、走って追い掛けられるような」
「それを受け、あなたは玉井さん宅に急行した」
「はい、いや、まあ仕事の都合もあるんで、夜にしてもらって。結局、八時半くらいに
ここへ着きました」
 そうして遺体発見に至る訳か。
「三川さんは、何をされてる方なんです?」
「えっと、元はゲームクリエイターだったんですが、だいぶ前に会社からほっぽり出さ
れて、今はギャンブル研究家の肩書きでやってます。その手の雑誌や新聞に文章を書く
のがメインでしたが、仕事は減る一方。糊口を凌ぐため、ギャンブル研究の元手のため
に貴理子の――玉井さんの助けを借りてた次第ですよ」
「返す当てはあったと」
「いや……返すつもりはあったが、今すぐってのはない、という意味です。俺を疑って
るんで?」
「『型通りの質問です』と、型通りの説明をしておきましょう。他の刑事さんにも聞か
れたでしょう?」
「ああ、それは確かに」
 人を食った返事にたじろいだのか、三川は身震いをしたようだった。そうして自ら話
題を換えようとした。
「他の刑事さんと言えば、さっき通り掛かった刑事の一人が、白木美弥とかいう名前を
口にしてたみたいですが」
「していたかもしれません。何かご存知で?」
「ええ、まあ。直接知ってた訳じゃなく、玉井さんの知り合いってことで、間接的に。
揉めてたみたいだし」
「揉めていたとは、玉井さんと白木美弥さんが?」
「詳しくは聞いちゃいませんが、玉井さんのデザインしたキャラクターに、白木さんが
クレームを入れてきたとかどうとか」
「あー、話す前に、ちょっと確認を。白木さんはそもそも何をされている方なんです?
 やはり、ゲーム関係ですか」
「いやいや。彼女は――あれを職業と言っていいのなら、アイドル、になるのでしょう
ねえ、やっぱり」
「つまり、芸能人?」
 白木美弥なる芸能人がいただろうか。知らない芸能人は大勢いるが、それにしても白
木美弥が全国的に有名とは思えない。
「うーん……芸能人とは呼べないか。学生やってるみたいだし。いわゆる地下アイド
ル、それとローカルアイドルの中間みたいな立ち位置で活動してるようだから」
「――」
 耳慣れない職業に多少面食らったが、ニュアンスは伝わってきた。何とかイメージで
きたし、実態とそう懸け離れていないであろう自信もあったので、そのまま素知らぬ態
度で聴取を続ける。
「それなりに人気はあるんでしょうね」
「多分。ステージで唄ったり踊ったりするだけじゃなく、あちこちのイベントに出てた
みたいだし、雑誌に取り上げられたことも何度かあるとか聞いてます。ああ、地元のコ
ミュニティ誌で、同じく地元出身の推理作家と対談したのを、たまたま読んだ覚えが」
「多岐に渡って活動していたと。そんなローカルアイドルがゲームデザイナーに、何の
クレームを入れてきたんです?」
「あ、いや、玉井さんはゲームデザイナーではなく、ゲームのキャラクターをデザイン
するのが主でして」
「そうでしたね」
 低めた声音で短く言い、先を促す。
「クレームは、あるキャラクターの姿形が、白木さんが昔着ていたステージ衣装にそっ
くりだというものだったみたいです。それも一点ではなく、三つか四つも」
「待ってください。白木さんはクレームを付けるために、玉井さんに接近してきたので
しょうかね?」
「いやいや。元から知り合いだった。ほんと詳しくないんだけど、白木さんはだいぶ小
さい頃からローカルアイドルやってたみたいで。玉井さんが白木さんの昔のステージを
観て、知り合ったんですよ。デザインのクレームは、玉井さんがステージを観たとき印
象に残ったのをつい、ほとんど無意識の内に使った、というのが真相なんじゃないかな
あ」
「玉井さんがそんな風なことを、あなたに打ち明けていたのですか」
「はい。完全に認めるという風ではなく、仄めかす程度だったけどね。援助してもらっ
てる身としては、そんなこと聞いても胸の内に仕舞っておくしかない」
 悪びれもせずに言い放つと、三川は苦笑いめいた表情をなした。
「問題の衣装やゲームキャラクターの画像、お持ちじゃありませんか」
「いやあ、ないです。ゲームキャラの方は、彼女の――玉井さんの仕事場を探せばすぐ
に見付かるはずですよ」
「なるほど。――ここまでの話だと、白木美弥というのは芸名なんですか」
「生憎、そこまでは知りません。何となく、芸名だと思い込んでましたが」
 表札もしくは郵便受けの名前が、“白木美弥”ではなかったら、住居を特定するのに
ちょっとだけ手こずるかもしれない。しかし、大きな障害にはなるまい。
「そうですか。話を戻しますが、玉井さんについて、他に誰か殺意を抱くような人物に
心当たりはありませんか。また、白木さんに関してもご存知の範囲で、同じことを考え
てみてもらえると助かります」
「白木さんまで? さっきの刑事さんは、そんなことは言ってませんでしたが」
「すみませんが、質問に答えていただきたい。聞いてるのはこっちなのです」
「あ、はあ、ですね。玉井さんはあれで若くして成功した部類に入るだろうから、やっ
かみはあったと思いますよ、うん。具体的に誰と、名前を挙げるのは無理ですが。あと
は男関係だろうな。俺が言うと説得力ないかもしれないですけど、仕事に没頭してると
きとそうでないときの落差が激しくて、振り回されるんですよ、あいつには。顎でこき
使ってきたりパンチしてきたりと思ったら、優しくしてくれたり尽くしてくれたり。き
っと、今の男にも同じだったに違いない」
「その人の名前は」
「西川嶺(さいかわりょう)。俺とおんなじ、ギャンブル好きで、お馬さんにはまって
る口。ただ、俺と違って料理ができるし、それなりに稼いでいるみたいだった。貴理子
が――玉井さんが俺から乗り換えたのも、納得してる」
 自らは殺意・動機がないことのアピールなのか、三川の声は少し大きくなった。
「お答え、どうも。ところで、玉井さんの部屋、仕事部屋だそうですが、やけにオレン
ジ色が使われているなと。何か理由が?」
「あー、あれは、彼女がオレンジ色好きなのが一番だけど。好きな色に囲まれている
と、気分が高揚して、仕事が捗ると言っていたっけ。割とそういう意識の高い女で、寒
がりのくせに仕事部屋には暖房器具を置いてなかったよ、確か。温かくなると、眠気を
催したり、頭がぼーっとしたりして非効率的だとか言って」
「なるほど。話を戻しまして念のために伺いますが、玉井さんは色覚異常、なんてこと
はなかったんですね」
「全然。ごく自然に色を使ってたと思いますよ」
 三川は何をばかなと言わんばかりに、大きな仕種で首を横に振った。

「西川嶺の名前、アドレス帳にあったのかな? あれば早々に知らせてくれていいんじ
ゃないか」
 三川を聴取から解放したあと、上條刑事を呼んで尋ねた。
「実物を見てないんで何とも言えませんが、きっとあれじゃないですか。西川の名前の
とこに、ハートマークでも書いてありゃあ気付くでしょう。でも単なる名前の羅列だっ
たら、特別な存在に見えないんですから、無理ありません」
「アドレスって、パソコンや携帯電話の類じゃなく、実物の手帳か何かだったのか」
「ええ。ピンク色のファンシーなのが、机の上に放り出してありました。持って来させ
ましょうか」
「いや、いい。必要性を感じたときは、見る機会を作ってくれと頼むから。それより
も、白木美弥はアイドルをやってるらしいぞ。もう聞いたか?」
「え、いや、まだです。第一発見者が言ったのですか」
「そうだ。タイミングが悪かったようだな」
 経緯を伝えると、上條は「本名じゃない可能性もあるのなら、すぐに知らせないと」
と呟き、立ち去ろうとした。その背中に声を浴びせる。
「地下だろうがローカルだろうが、検索すれば写真が出て来るかもしれないぞ。早く見
たいから、頼む」
「え。また持って来てないんですか?」
 立ち止まって振り向いた上條は、一瞬驚いたようだったが、じきにあきれ顔に変化し
た。
「ああ、忘れた」
「――しょうがありません。これでどうぞ」
 懐から個人用の携帯機器を取り出し、手渡してきた上條。だがその動作が完了寸前で
ストップする。
「使い方、覚えました?」
「いや、心許ないな」
「まったく、ほんとにしょうがないですね」
 上條は口の中でぶつぶつ言いながら、使い慣れた機器を素早く操作した。
「……どうやら、これのようです。思っていたよりも若そうだな。被害者より十近く下
かもしれませんよ」
 そう言って向けた画面には、茶髪頭の両サイドに大きな団子を一つずつ付けたような
ヘアスタイルの、二十歳前後の女性の写真がずらりと表示されていた。一番大きな画像
は上半身だけで、他に比べる物もないため、背の高さは分からないが、すらっとした体
型のようだ。目鼻立ちがはっきりしており、ハーフかと想像させる。そしてトレード
マークなのか偶々なのか、たいていの写真では黄色がかったレンズのサングラスを掛け
ていた。
「……」
 何か閃きが訪れそうな気がした。

「お忙しいところを来ていただいて、ありがとうございます」
 上條は白木美弥こと白石美弥子(しらいしみやこ)に礼を述べながら、事務机を挟ん
で、正面に座った。
 相手の白木は、緊張もせず、どちらかと言えばリラックスしているようだった。取調
室のような狭い空間ではなく、会議室の片隅で相対しているからかもしれない。
「知り合いが巻き込まれた事件の捜査に協力できるなら、可能な限りのことをするのは
当然です。早く始めましょう」
 アイドル活動で鍛えられたのか、物怖じしない性格なのだろう。先を促す白木に、固
さは見られない。化粧っ気こそ抑えめだが、写真とほとんど変わりがない。ただ、サン
グラスや帽子を室内でも外さないのは、彼女なりの防御なのかもしれなかった。
「本来なら、女性が当たるべきなんですが、生憎と人手が足りておりませんで、相済み
ませんね」
「かまいません。それよりも、玉井さんが亡くなったと聞きましたけれど、一体どうい
う……」
 ここで初めて不安そうな色を見せた白木。上條はそれには答えず、まず、人定質問か
ら始めた。目の前の彼女が、被害者と付き合いのあった白木美弥であることを確かめた
後、本題に入る。
「いきなりですが、白木さんは昨日の午後二時から晩の八時頃まで、どこで何をされて
いたか、お聞かせくださいますか」
「その時間帯なら……大学近くのファミレスで遅めの昼食のあと、歩いて大学に行き、
サークル棟でみんなで作業をしていた、かな。切り上げたのが七時過ぎで、同じファミ
レスで今度は早めの夕食を済ませてから、確か八時ちょうどにその店を出ました」
「作業とは?」
「衣装作りというかデザインを。私自身の分も含めて、仲間のを作るんです。四月に大
学で新入生歓迎の催しがあるので」
 ここでまた表情が柔らかくなる。嬉しそうに笑った。
 上條は細かな点は棚上げし、「アリバイを尋ねているのはお分かりだと思います。証
明してくれる人はいますか」と直球の質問を続けた。
「ファミレスでの一度目の食事は友達と一緒でしたし、作業はもっと大勢と一緒にやっ
てましたから。二度目のファミレスは一人だったけれども、多分、店員さんが覚えてく
れてるんじゃないかしら。私、目立つ方なので」
 白木は目線を少し上向きにし、上條に訴えるように見つめてきた。なるほど、黄色の
サングラスと帽子がよく目立つだろう。
「昨日も、そのサングラスと帽子を?」
「サングラスはそうです。いつも掛けてますから。帽子は違う物、確かクローシェを」
 上條はアリバイに関する白木の説明を詳しく聞き取り、メモに取った。すぐにでも調
べさせよう。
 そのやり取りが済むと、白木はしばし口ごもり、やがて意を決した風に話し出した。
「私が玉井さんと揉めていたのは、ご存知なんですね、刑事さん?」
「詳しくはまだですが、だいたいのところは」
「揉めていたのは、私も認めます。ですが、それで殺し殺されっていう事態にはなりま
せん」
「我々はまだ何も断定していません。ただ、動機以外の点であなたを調べなければいけ
ない理由があるので、こうして来てもらった」
 上條はダイイングメッセージの件を持ち出すタイミングを計っていた。目の前にいる
年端もいかない女性が殺人犯だなんて、普通なら信じがたい。だが、あまりにも明々
白々なダイイングメッセージが破壊されることなく現場に残っていた事実故に、逆説的
に白木美弥が犯人であるとは考えにくくなっていた。ここでもし彼女が犯人なら、勇み
足からダイイングメッセージのことを口にする可能性、なきにしもあらず。そう、白木
美弥が口を滑らさないか、上條は待っているのだ。もちろん、彼女が今し方、明確なア
リバイを主張した事実も気になっている。
「何があると言うんです? 理由を教えてください」
 上條は躊躇した。頭の中で、信号が点滅している。ここで早々に切り札を切るより、
アリバイの真偽を検討してからの方がよい、と。何しろ、白木が犯人でない場合、彼女
は真犯人から恨まれているはずなのだ。
「捜査上の都合により、今はまだ明かせません。が、この点に関しては二つの見方がで
きるのです。仮にあなたを容疑者のリストから外せたとしたら、逆にあなたの身に危険
が及ぶ可能性、ゼロとはしません。くれぐれも注意してもらいたいのです」
「じゃあ、警察が保護してくださる?」
「現時点では難しい。とにかく、居場所をはっきりさせておいてください」
 上條の言葉に、白木は眉を寄せて不満を垣間見せたが、口に出すことはなかった。

――続く




#481/512 ●長編    *** コメント #480 ***
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:16  (280)
既読スルーな犯罪<後>   永山
★内容                                         16/07/31 16:31 修正 第3版
「アリバイ成立、か」
 上條のまとめた照会結果を眺め、白木美弥のアリバイに穴のないことを嫌でも確認で
きた。思わず、嘆息してしまう。
「成立ですね。大学では常に知り合いと一緒、ファミリーレストランでも友人が同席ま
たは店員がはっきり覚えていたとなれば、認めない訳にいきません」
「となると、捜査班や俺の見込みは外れていたことになるな」
「真犯人の思惑も、じゃないですか」
 上條は警察だけが失敗したとは認めたくないのか、妙な理屈を持ち出した。
「真犯人が白木美弥に罪を着せたかったんだとすれば、アリバイの有無くらい調べるべ
きだった。なのに怠ったおかげで、ダイイングメッセージの偽装工作はあっさり崩れ、
意味がなくなったんですから」
「それが犯人逮捕につながれば、なおいいんだがな」
 こちらとしてもあまり笑ってばかりいられない。このままでは、折角の閃きが、砂上
の楼閣に終わりそうだ。
「他のことで、新しい報告はないのか」
「取り立てて言うようなものは……凶器は未発見、足跡の類も見付からず。ああ、現場
でちょっとした発見がありました」
 手帳のページをめくるや、上條は今思い出したとばかりに早口で言った。
「被害者の家の寝室にも、僅かながら血痕があったんです。ベッドのすぐ横の平らなス
ペース、その隅っこですね。ちょうどベッドの下に隠れそうな位置でした」
「犯行現場は、遺体のあった仕事部屋ではない可能性が出て来たってことか」
「どうでしょう? 仕事部屋における血の飛散具合に、矛盾はなかったようですが。
我々は逆に、凶器が寝室に持ち込まれた際に血が落ちたのかと考え、凶器を探したんで
すが、何も出て来なかったんです」
「滴下血痕だったのか」
「いえ、飛沫の方でした。だから、寝室で刺したと考えてもいいんですが、そうすると
大部分の血が飛び散って周辺を汚すことになりますから、事実に反します。少なくとも
床にビニールシートのような物を敷く必要が出て来る訳です」
「そのような物は見付かってないと言うんだな。だが、犯人が持ち去ったのかもしれ
ん」
「はい、その可能性は認めます。が、もしその説を取るのなら、何のために同じ家の中
で遺体を動かし、殺害場所を偽装しなければいけないのかという疑問に答を見付けねば
なりませんよ」
「そうだな……」
 口ごもると、上條は更に言い足した。
「もう一つ、発見がありまして、ビニールシートではないのですが、毛布が洗濯機に押
し込んでありました。薄手のオレンジ色で、人一人がすっぽりくるまれるほどの大き
さ。これにも被害者の血痕が大量に着いていました。もしかすると、犯人が返り血を防
ぐ目的で使用したのかもしれませんが、現在のところ、被害者以外の痕跡物は出ていま
せん」
「さっき言ったビニールシートの代わりに、その毛布を寝室の床に敷いたとしたらどう
だ?」
「実験はしていませんが、恐らく無意味でしょう。しみ出た血が、床を汚したはずで
す」
「うーん。被害者は寒がりだったそうだから、毛布は仕事部屋で足下にでも掛けていた
のかもしれない。その最中に襲われ、血液が部屋や毛布を汚した。寝室の血痕は、凶器
を持ったまま犯人が入り、何か捜し物でもしているときに、たまたま飛び散った。こう
考えれば、辻褄は合う。だが、何となくしっくり来ない。凶器を持ち歩いたとしたらも
っとあちこち、廊下なんかにも血痕があっていいはずなのにないからだ」
 寝室の血痕に関しては、そこが殺害現場だったと見なす方が、理に適う気がする。凶
器やビニールシートは犯人が持ち込み、犯行後にまた持ち去ったと考えればよい。だ
が、犯行現場を偽装する意味が分からない。
「上條刑事。仕事部屋と寝室を見比べて、大きな違いはあっただろうか? もしあった
なら、印象に残ってると思うんだが聞かせてほしい。何せこちとら、寝室は関係ないと
思って、ろくに観察してないんでね」
「見比べると言っても、そんな意識で見ていなかったですからねえ。仕事部屋にはデス
クが会って、様々な資料があって、パソコンがあって……。寝室の方はベッドとタンス
ぐらいかな。暖かそうなベッドでしたよ。つい先日まで、寒かったですからね」
「……寝室に暖房器具は」
「ありました。壁掛けタイプのエアコンが一台、ファンヒーターが二台、ミニサイズの
電気カーペットが一枚、それくらいでしたか。布団の中に、何かあったかもしれません
が、自分は見ておりません」
「――たくさんの暖房器具を一度に作動させたら、室温は当然、上がるよな」
「え、ええ」
 こちらが切り出した言葉の意味を、上條もすぐに察したようだった。軽く頷き、続け
る。
「そんな部屋にいた人間の身体の温度も上がるに違いない。一方、仕事部屋には暖房器
具がなかった。また、死亡時刻の推定は、遺体発見前日から当日にかけての気温を元に
室温を推測し、それを基準に算出したものだろう」
「でしょうね。それが手順であり、常道です」
「今度の殺人が、暖房を充分に効かせた寝室で行われたと仮定した上で、改めて死亡推
定時刻を計算すれば、最初の推定よりもだいぶ前になるんじゃないか?」
「恐らく……」
「つまり、白木美弥のアリバイは、完全成立した訳ではないと言える。そうだな」
「えっと、ちょっと待ってくださいよ。犯人が誰かは置いとくとして。暖房による死亡
推定時刻をずらす工作が行われたんだとしたら、その犯人は暖房器具のスイッチを切り
に戻り、遺体を寝室から仕事部屋に移したと言うんですか? だったら、あまりアリバ
イ工作になってないような」
「違う。殺す直前まで、被害者を暖めておくんだ。殺してすぐに暖房を止め、遺体を仕
事部屋に移す。ああ、仕事部屋の室温は、前もって窓を開けるなどして、思い切り低く
していたかもしれないな」
「そうか……それなら死亡時刻は、午後二時よりもだいぶ前になりそうです」
「そして、いい頃合いに発見させるために三川を電話で呼び出させた。ん? 犯人は被
害者を脅して、電話させたことになるのかな、ここは。まあ、細かい詰めは後回しだ。
今すべきは死亡推定時刻の再算出と――」
 全部を言い切らぬ内に、上條があとを引き取った。
「白木美弥の、午後二時よりも前のアリバイですね」

 事件のあった日の午後二時まで、白木美弥は自宅マンションにいたと答えたが、それ
を証明するものはなかった。
 彼女の入居するマンションにも防犯カメラは設置されているが、エントランスホール
と各階エレベーター扉のみで、非常階段を使えば、映らぬように出入りする術がない訳
ではなかった。要は、住人が前もって中から非常口の鍵を解錠しておけば、難なくでき
る。
 また、玉井貴理子の死亡推定時刻は訂正ではなく、大幅な追加修正が行われた。午前
十時から午後二時の間に死亡した可能性もある、と。
 この結果を受け、白木美弥に対する上條刑事の事情聴取が行われた。
「無論、アリバイがないというだけで、あなたを犯人と断定はしない。そもそも、こん
な明々白々な手掛かりを被害者が残しているのに、消したり壊したりすることなく現場
を立ち去るなんて、普通はできない」
 ダイイングメッセージについては、ここが切り出し時とみて話していた。その瞬間の
白木の反応は、すぐに声を発することはなく、ただ首を横に振るばかりだった。
「白木さん。あなたが犯人でないというのなら、このようなことをされる心当たりは?
 言い換えると、玉井さんに殺意を持っており、かつ、あなたのことも恨んでいるか、
少なくともあなたと玉井さんとの間のトラブルを知っている人物に」
「……あの男。玉井さんの元彼で、三川さん」
 少し考えただけで、その名前が出て来た。予想していた人物だ。上條はゆっくり首肯
した。
「三川さんにはアリバイがあるんだが、一応、記録しておこう。他には?」
「じゃあ、今の彼氏だった西川嶺さんは? 玉井さんは私が謝罪を要求したことを、西
川さんには話していなかったみたいですけど、彼が私を知っているのは確かです」
「西川さんは、バイクで交通事故を起こし、入院していた。足首を折ってたから、病院
を抜け出すのも無理だろう。だいたい、万が一にも西川さんが犯人なら、あなたより
も、三川さんに罪をなすりつけようとするんじゃないかな。三川さんを犯人と想定して
も、同じだと思う」
「それって、西川さんや三川さんを知る人物が犯人なら、名前を書き残す偽装工作で、
私の名を選ぶはずがないってことですか」
「まあ、そう考えるのが妥当じゃないかな」
「そんな……玉井さんの知り合いで、西川さんの存在を知らない人なんて、多分いない
わ」
「うん、だから犯人はあなたにも恨みを抱いているんだと思われる。そういう人物がい
るのなら、隠さずに話して欲しい」
「……」
 上條は、声を荒げることなく、基本的に優しげな口調に努めつつ、聴取を進めてい
る。それでも白木は追い詰められた気分を味わっているようだ。
「私だけに対するストーカーっぽい人なら、いなくもないです。けれど、その人が玉井
さんを知っていて、しかも殺すだなんて」
「いや、分からないよ。ファンは対象とするアイドルのことなら、何でも知りたがるも
のだろうから。あなたが玉井さんにクレームを入れているのを知ったあなたのファン
が、代わりに殺したのかもしれない」
「あ――そ、それです、きっと」
 救われたような明るい表情になり、白木は座ったまま、前のめりになった。
「保山翔太(ほやましょうた)って言います。あいつを捕まえて、調べてください!」
「保山ね」
 手元のメモ書きを一瞥する上條。
「その男のことなら、警察も掴んでいます。あなたに恨みを持ってはいないが、半ば狂
信的ファンで、白木美弥の気を惹くためならどんなことでもやりかねない」
「は、はい、そういう雰囲気ありました」
「で、昨日、警察へお出で願って、調べてるんです」
「え、じゃあ」
「彼が常時持ち歩いているカメラを調べたところ、あなたの映ったショットがたくさん
ありました」
「それはそうでしょう。そんなことよりも、犯人かどうか……」
「写真の大半は、ステージやイベントでのあなたを写したのではなく、プライベートな
物でした。どうやら、暇なときにあなたをつけていたらしい」
「え……そ、それは気味が悪いですけれど、アイドルしていたら宿命みたいなものです
から、あっても不思議じゃありません」
「でしょうね。ただ、プライベート写真の中に興味深い物がありまして、そいつがこち
ら」
 上條は用意しておいた写真三枚を、机に並べた。三枚とも似たようなもので、一人の
女性が玉井貴理子の自宅に入っていくところを連写していた。
「これ、あなたですよね、白木さん?」
「はい。でも、私が玉井さんの家に出入りするのは、珍しくも何ともないでしょ。知り
合いなんだから」
「問題は日付でして」
 写真の隅にある日付を人差し指で示す上條。そこにある数字は、玉井貴理子殺しが起
きた日と一致していた。
「念のため、カメラ本体のデータや設定も調べましたが、細工の痕跡は皆無でした。日
付に関して、嘘偽りはない」
「でも……」
「このあと、保山は出て来るあなたを撮ろうと待ち構えていたが、いつまで経っても出
て来ないので、あきらめて引き返したと言っている。それは残念なんだけれども、一方
で重要な証言もしてくれた。あの日の朝九時から正午過ぎの間、玉井さん宅に入った人
物は、白木さんしかいなかったと」
「……それだけでは何の決め手にもならない。そうでしょう?」
「はい。他の人物が、だいぶ前からすでにいたのかもしれない。あなたが玉井さん宅を
辞去したあと、殺人が行われたのかもしれない」
「――そうだわ。保山が嘘を言っているのよ。正午過ぎにあきらめて引き上げたのが
嘘。私が出ていくのを見てから、あいつは玉井さんの家に入り、彼女を殺した。そして
ダイイングメッセージを書いた。辻褄が合うわ」
 語る白木の目が輝いているように見えた。だが、上條は首を左右に振った。
「その線も考え、警察は保山のアリバイを確かめた。そして成立した。バイト先に顔を
出している。時間的に、正午過ぎに玉井さん宅前を出発しなければ、間に合わない。ヘ
リコプターでも使ったのなら別だが、まさかそんな手段は現実的でない」
「じゃ、じゃあ……一体誰が」
 上條刑事はそう言う白木をしばらく見つめてから、ふっと、こちらを振り返った。
 それを受けて、交代する。座るや否や、すぐさま言った。
「あなたがやったんじゃないのか」

「写真を見ると、あなたは事件当日も、黄色のサングラスを掛けて玉井さん宅を訪れて
いる」
 先程上條刑事が並べた写真を一枚ずつ、上から指でとんとんとやった。
「黄色のレンズを通すと、当然、全ての物が黄色がかって見えるはずだ。一方、遺体の
見つかった仕事部屋は、内装がほぼオレンジ一色と言っていい。そんな部屋の床、オレ
ンジ色の床に、赤い血で文字を書く。普通なら大変目立つが、黄色のレンズを通して見
た場合、どうだろう? 黄色と赤色を混ぜると、オレンジ色になるんじゃなかったか
な? オレンジ色の床にオレンジ色の文字。これなら、犯人が自分の名前を書き残され
たにも関わらず、気付かずに放置したとしても不思議じゃない。何せ、認識できないん
だから」
 私は得意げに説明してみせた。言い終えると、腕を組んで、相手の返事を待ち構え
た。尊大に、見下ろすように。
「……あはは」
 俯いていた白木美弥は不意に笑い声を立てた。面を起こすと、表情もやはり笑ってい
る。
「ああ、おかしい。刑事さんがあんまりおかしなことを言うものだから、途中から笑い
を堪えるのに苦労しちゃったじゃない」
「私は刑事ではなく、アドバイザーです」
「どっちでもいいじゃない、庶民から見れば同じよ。それよりも、赤と黄を混ぜればオ
レンジ色になる、ですって? 確かにそうよね。でも、絵の具での足し算を、そのまま
実際の景色当てはめていいのかしら」
「というと?」
「確かにね、このレンズで赤い物を見れば、オレンジ色っぽく見えるわ。けれども、色
それぞれには濃い薄いがある。血の赤をこのサングラスで見て、ちょうどあの部屋のオ
レンジ色と同じになるなんて偶然、あるはずないじゃないの」
「全く同じオレンジ色にはならないかもしれない。しかし、字が読みづらくなるのは間
違いない」
「読みづらいだけでしょ。被害者が死の間際に血文字で何書き残そうとしていること自
体には、絶対に気付く。気付いたら、犯人はそのメッセージを読み取るために、サング
ラスを外すでしょうね。そして血文字をめちゃめちゃにして読めなくする」
「本当にそうでしょうか。現実には、全く同じオレンジ色になった。だからこそ、あな
たは文字を見逃し、立ち去ったんでは?」
「そこまで言うからには、何か根拠がおありなんでしょうね」
「え、ええ。実はテストを行った。同じサングラスを手に入れ、犯行現場の仕事部屋に
立ち、本物の人血を垂らして、どんな色に見えるか。結果は、オレンジ色。全く同じと
言って差し支えないレベルのオレンジ色だった」
「嘘よ! だって私は読めた――」
 その通り。私は嘘を言った。実験を行ったのは事実だが、レンズ越しに見えた血文字
は、床のオレンジ色とはだいぶ異なっていた。
 だが、口元を手のひらで覆った白木は、失言を充分に自覚しているようだ。

「最後まで分からなかったのは、あなたの判断だった。白木美弥さん、あなたはどうし
て自分の名前を示す血文字を、そのまま手付かずで残して行けたのか」
 はっきりと残された己の名前。それを放置していける犯人がいるだろうか。
 なるほど、警察はあまりにもあからさまな“証拠”を目の当たりにし、素直に採用す
ることなく、疑問を抱いてくれる可能性が高い。結果、犯人は容疑の圏外に置かれるか
もしれない。
 だが、たとえそのような計算が成り立つとしても、いざとなると、果たして実行可能
だろうか? そんな賭け、恐ろしくてできそうにない。いかにも偽装工作っぽく、犯人
自身が自分の名前を書いたとしても、不安は強く残るに違いない。
「あなたの仕事をつぶさに見ていき、ようやく理解できた気がします」
 言いながら、一冊の冊子を上條から受け取り、机の上にぽんと放った。該当するペー
ジを開けなくても、白木にはそこに何が乗っているのか思い出せたようだ。その証拠
に、唇を噛みしめたのが分かった。
「このコミュニティ誌の企画で、あなたは推理作家の平野年男と対談している。そのや
り取りの中で、平野氏がこんなことを言っていた。『――もしも、犯人が被害者の血を
使って、自分自身の名前を現場に残す勇気を持てたら、案外それが完全犯罪の近道なの
かもしれない――』と。あなたはこれを思い出し、忠実に実行した」
 ある意味、それは勇気と呼べなくはない。蛮勇ではあるが。

 その後、犯行を認めた白木美弥は、アリバイ工作についても詳細を語った。彼女はそ
れを「独り我慢大会」と呼んでいた。
 つまり――デザインの盗作を許して欲しければ、暖房をがんがん掛けた部屋で、毛布
にくるまって半日ほど過ごせ。最低でも六時間やってもらう。許すかどうかは、様子を
見に行って、そのとき私が判断して決める――こんな取引を持ち掛けたという。負い目
があった玉井はこれを受け入れた。季節がまだ冬だったのも、玉井をその気にさせたの
かもしれない。
 寝室で「独り我慢大会」に取り組んだ玉井を、白木はしかし、端から許すつもりはな
かった。当日朝、玉井宅を訪れ、我慢大会を励行しているのを見届けてから、プラスア
ルファとして金を要求した。それも、玉井が三川に貸している分全額という条件を出し
た。そこから言葉巧みに誘導し、玉井に三川へ電話を掛けさせ、夜八時以降に、玉井宅
へ来るように約束させた。
 環境が整うと、白木は玉井を刺した。毛布にくるまったままの彼女を、背後から腕を
回し、腹部にぐさりと。なお、凶器は自宅にあった、いつ入手したかも定かでない、新
品のナイフを持ち込んだ。
 寝室に血溜まりがなかったのは、暖房の利きを強くするためと適当なことを言って、
ビニール(ピクニックで柴の上に敷くような青い物)を前もって敷かせ、その上で我慢
大会をさせていたから。ビニールのサイズが大きかったおかげもあり、寝室には血痕が
ほぼ残らなかった。毛布に血を吸わせると、丸めて持ち運ぶのに支障なくなった。この
ビニールと凶器は犯行後持ち去り、ひとけのない公園に出向くと、そこのトイレの用具
入れに捨てた。
 遺体を寝室から仕事部屋に移動したのは、暖房していたことを気取られないようにす
るため。ビニールに遺体を乗せたまま、引きずるように移動したが、予想以上にうまく
行ったという。移動した段階では凶器を刺したままにしていた。移動後、凶器を抜くこ
とで、血を飛び散らせ、犯行現場が仕事部屋だったとかのように見せた。
 ここで予想外のことが起きる。息絶えていなかった玉井が、血文字を残したのだ。漢
字でしっかりと、「白木美弥」と。それは黄色いレンズ越しでも、ある程度は読めた。
 急いでとどめを刺してから、白木は少しの間思案することになった。この血文字をど
うするべきか。当然、読めなくする考えもよぎったが、それ以上に強く脳裏に浮かんだ
のが、推理作家との対談内容だった。短い逡巡の後、彼女は常識外れの選択をしたので
ある。

 蛇足かつ答のない疑問ではあるが、玉井貴理子が死を意識した中、犯人・白木美弥の
名を漢字で残した心理については不明のままだ。
 己が玉井の立場だったらと置き換えて想像してみるに……なるほど、平仮名・片仮名
で書けば簡単に済むだろう。しかし、そこまで冷静でいられるかどうか。普段から書き
慣れている漢字を使ってしまう可能性も、充分にあるのではないか。
 そんな風に思ったが、結局のところ――そういう状況にならないと、分かりそうにな
い。

――終




#482/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/04/28  22:22  (362)
安息日 <上>   永山
★内容
 愉快犯なんてものは周囲に一人いるだけでも、空恐ろしい。不気味で得体の知れない
存在だ。それが、ここのところ立て続けに複数名が現れたものだから、混沌に拍車が掛
かっている。しかもそのほとんどが、人を殺しても名とも思わない連中らしい。
 まず、僕・百田充になりすましていた千房有敏だが、取り調べに大人しく応じている
そうだ。中卒で働きに出た千房が、どうやって生計を立て、整形手術を行えたのか。そ
もそも、家族は? 色んな疑問も解決した。母子二人の家庭に育った千房だが、生活自
体は困窮していた訳ではない。別れた父というのがIT事業で成功しており、充分な慰
謝料や養育費をきちんと送っていた。千房の人生に狂いが生じたとすれば、中学二年の
春休み。進路をそろそろ決めようかという頃合いに、母親を交通事故で亡くしている。
保険金プラス父親からの送金で、進学に弊害はない。ただ、面倒を見てくれる家族が簡
単には見付からなかった。父親はすでに再婚しており、その相手というのが他人の子供
とは家族になれない質だった。結局、父親からの養育費増額につられた親戚の女が千房
を引き取ったが、放任主義に徹していたという。そんな環境下で、そんな大人達を見て
育った千房有敏の目に、一年上の十文字龍太郎が眩しく映ったのかもしれない。両親が
揃った幸せそうな家に育ち、天才ともてはやされ、パズルの才能を発揮し、実績を残し
ていた十文字先輩に、いつしか嫉妬し、越えてやろう倒してやろうという考えに取り憑
かれた――。一応、こんな形で、千房の件は落着を迎えそうだ。
 次に、瀧村清治の件。いや、瀧村自身はすでに死亡しているので、彼の起こした事件
の未解決部分と、彼が殺された事件についての進展具合。
 瀧村がホテルでの殺人直前に購入したハンディタイプのコンプレッサー、その用途が
はっきりしなかったが、浴室を密室に仕立てるために必要な道具だったことはある程
度、裏付けが取れた。というのも、瀧村はネットカフェや図書館、ホテル等で備え付け
のパソコンを利用していたのだが、そのネット検索履歴を調べたところ、人体の仕組み
や操り人形の構造に興味を示していたことが窺われた。ここからは想像になるけれど
も、瀧村は死体にコンプレッサーの管を突き刺し、空気圧で死体の腕や手を操ろうとし
ていたのではないか。そして死体の手で浴室のドアを、内側からロックさせるつもりだ
った……。こう書くと全くの絵空事に聞こえるが、瀧村は実行しようとしていた。前も
って実験することもできただろう。それなりに成功の確信を持っていたと思われる。
 一方、瀧村殺しに関しては、大きな進展はない。十文字先輩の知り合いである針生早
惠子さんが、瀧村とも顔見知りで、かつ、偽名を称していた瀧村の本名を知っていたと
いう事実が判明した訳だが、それ以上切り込めないでいた。彼女曰く、偽名を知ってい
たのは、瀧村自ら明かしたもので、「ネット上のハンドルネームだよ」と説明されてい
たという。瀧村本人亡き今、真偽の確かめようがない。ただ、瀧村がインターネットで
件の偽名を用いていた事実は、裏付けが取れていた。無論、瀧村はその人物になりすま
していたのだから、偽名を用いるのは当然とも云えるのだが。
 そんな風に、複数の事件が片付いたり継続したり、あるいは進展なしだったりと、あ
る意味名探偵の日常らしい風景が繰り返されていた。
 繰り返しに変化をもたらすのは、十文字先輩が高校生である以上、学校行事であるこ
とが多い。今の季節なら、十月にある体育祭だ。
「百田君は、体力回復しそうなのかい?」
 体育の授業を休んだ僕に声を掛けてくれたのは、クラスメートの音無亜有香だった。
女子だけど、剣道の腕が立つ。それでいて汗臭さとは無縁の、ポニーテール美人だ。僕
の理想とする異性だし、こうして心配されるのは嬉しい。
「まだ分からない。復活できたとしても、あとから加わるのは難しい団体競技なんか
は、出ない方がいいかもね」
「そんな情けないこと云うとは情けない」
 重複表現ぽい云い回しで割って入ってきたのは、一ノ瀬和葉。同じくクラスメート
で、コンピュータ全般、特にプログラミングの才能を認められた学内有名人かつ天才の
一人。海外生活が長かったせいか、日本語に少しおかしなところがあったが、最近はわ
ざとやっている節が窺えなくもない。
「仮にも探偵の相棒にしちゃ、非常にココロモトナインじゃあ、ありませんか」
 ……“ココロモトナイン”てのは、“心許ない”か。猫型ロボットの秘密道具か、新
しい栄養ドリンクみたいなイントネーションで云うから、すぐには分からなかったじゃ
ないか。
「一ノ瀬の体力だって、心許ないと思うけど。後半、行進に着いて行くのもやっとだっ
た」
「あれは前半頑張りすぎて、ペースがちょっぴり狂ったんだよん。次からは修正する空
問題ないから」
 元来がインドア派の一ノ瀬にしては、きっぱり否定した。彼女にとって日本の学校の
体育祭は久しぶりになるはずだから、できる限り頑張ろうと決めているのかもしれな
い。
「分かった。それなら、一ノ瀬が予行演習で徒競走三位以内に入ったら、僕も頑張って
全部出るように努力する」
「努力じゃなく、確約してもらおー」
 そんな無茶な。医師の許可がまだ下りてないんだってこと、把握できてるんだろう
か。

             *             *

「早惠子さんの方から連絡をくれるなんて、珍しいですね」
 携帯電話のメールを示しつつ、十文字龍太郎は待ち合わせ場所に現れた。ターミナル
駅の三つ手前、乗降客が多すぎず少なすぎず、駅周辺に店の類は皆無で、人目もさほど
ない。内緒話をするにはうってつけの場所かもしれなかった。
「ありがとう、来てくれて。そんなに珍しいかしら?」
 ベンチから腰を上げた針生早惠子は、制服ではなく私服姿だった。清楚さや純粋さを
アピールするかのような、白のワンピースに鍔広の黄色い帽子。時間帯から云って学校
帰りと思っていた十文字は、少し意外に感じた。わざわざ着替えたのだろうか。
「珍しいですよ。少なくとも、高校生になってからは、記憶にないな」
「そんなになるのね。――どこかに入る? 十分ほど歩けば、喫茶店があったと思う」
「いや。それじゃ、この駅にした意味がなくなるでしょう。一刻も早く相談したいので
は」
 短いメールにあった。「弟のことで相談したい。都合のいい日を教えて」と。
「そうね。じゃ、隣に座って。ちょうど木陰もできてる」
 ベンチの上を覆うように、木が枝葉を広げていた。隙間を通して雲が臨める。
「徹平が死んでからまだみつきと経っていないのに、随分昔のことのように思える……
十文字君はそう感じてるんじゃない?」
「は?」
 てっきり、早惠子が弟・針生徹平の死について感想を述べるのだと思い、聞いていた
十文字は、一瞬呆気に取られた。体勢を立て直し、答える。
「そんなことはない。事件はあれからもたくさん起きたが、彼が亡くなった事件はまだ
謎が残っている」
「つまり、まだ生々しく記憶に乗っているのね。それなら話が早いわ。私も同じだか
ら」
 十文字は何も答えずにいた。姉が弟を亡くしたのなら、普通はそんなものだろう。だ
が、十文字は早惠子が徹平の死に関わっているのではないかと推測したことがある。今
もその疑念は薄まりこそすれ、消えてはいない。もし彼女が犯人であれば、事件につい
て記憶がいつまでも鮮明なのは、ある意味当然ではないか。
「実は私、狙われているみたいなの」
「……まさか狙われているというのは、その、命を?」
「さすが鋭いわね」
 声なく笑ってみせた針生早惠子を、十文字は素早く観察した。緊張や憔悴、あるいは
恐怖や焦りの色が少しずつ浮かんでいるように思えた。こめかみに浮かぶ小粒の汗、髪
の微かな乱れ、唇の小刻みな震え、いつにない早口等々。
「とりあえず、事情を伺いたい」
「ええ。身内の恥をさらすようだし、死んだ徹平を悪く云うようで気が引けるのだけれ
ど、弟は……人の死や殺人を美化するような主旨のサイトに出入りしていたみたいな
の」
「それだけで恥とは云えませんよ」
「かもしれない。けれども、有名な殺人犯のグッズを手に入れようとしたり、毒物の作
り方を調べ上げて得意げに書き込んだりするのは、どうかと……」
「ふむ。徹平のそういった行為を知ったのは、彼の死後? たとえば、彼専用のパソコ
ンの履歴から分かったとか」
「そうよ。ほんと、鋭いのね」
「常道です」
「徹平は元々パソコンを買い与えられていたのに、わざわざ別のノートパソコンを密か
に購入していた。もちろん中古だけど、自分のお金で。殺人関係のアングラなサイトに
は、そのパソコンでのみ接続していたみたい。一応、徹平自身、隠すべき趣味だという
意識はあったのね」
「その二台目のノートパソコンは、どこに隠してあったんです? そして早惠子さんが
いかにして見付けたのか、興味あります」
「――目の付け所が違うのは、名探偵だから? 隠し場所って云うほどじゃなかった
わ。ノートパソコンを持ち運びするためのバッグがあるでしょ。あれの中にあった」
「隠し場所と云えないんじゃあ」
「一台目のパソコン用に、バッグも併せて買ってもらったのよ。その中に、二台目を隠
していた」
「なるほど。買ってやったパソコンが使われているのなら、普通、バッグは空っぽだと
思うという訳か」
 でも、警察が見落とすだろうか。十文字は疑問に思った。
 針生徹平は、殺人事件の被害者として死んだ。当然、警察は被害者についてよく知ろ
うと、周辺を調べたはず。
 十文字はしかし、疑問を飲み込み、本題に戻るべく、相手に話の続きを促した。
 針生早惠子は少し間を取り、話をまとめ直したようだ。
「徹平は殺人アングラサイトに参加する内に、同じ趣味の人達とつながりができ、さら
には本物の犯罪者とも関わるようになったらしいの。そして、そういった連中の一人と
トラブルになっていた」
「どうやって知ったんです? メールや書き込みの痕跡が残っていた?」
 この質問は合いの手のようなもので、当然、肯定の答が返ってくるとばかり思ってい
た十文字だったが、実際は違った。
「ううん。徹平はその辺りも用心深くて、きれいさっぱり消していた。でも、相手から
もメールは来るでしょう? 弟が死んだあとに来たメールは、誰も削除できずに残って
いたわ。片仮名でフラキと名乗ってる」
「そのフラキが、徹平の死を知り、矛先をあなたに向けてきたとでも?」
「そう。おかしなことになってる。こちらから教えた訳じゃなく、向こうがニュースを
見て把握したらしいのだけれど――」
「一つ質問が。徹平はそんなサイトやメールで本名を名乗っていたのですが」
「分からないのよ、それが。フラキの話だと、本名のアナグラムになっていたらしいの
だけれど、どう名乗っていたかは分からないまま」
「なるほどね、アナグラムか」
 パズル好きな徹平らしい。十文字はひとまず納得し、話の続きに耳を傾ける。
「どうやって調べたのか、九月十一日、私のパソコンメールのアドレスに、フラキから
メールが届いたのよ。そいつと弟の間にもめ事があった大まかないきさつを聞かされた
上、『いずれ徹平君の思い上がりを叩き潰してやるつもりだったのに、“勝ち逃げ”さ
れてしまい、気分が悪い。この鬱憤を晴らすには、彼の身内を壊すしかない』という文
章を送りつけられて……」
「警察に届けましたか」
「無理よ。警察に報せたら、犠牲は一人で終わらないとまで云われたのだから」
「それを信じたんですか」
 十文字からすれば、狙われるのが一人から二人に増えたとしても、大した違いではな
いと感じる。当人やその家族にとっては、大問題だとしてもだ。
「信じるしかないでしょう。元の脅迫に、命を狙うとか殺すという意味の表現は使って
いないのだから、ひょっとしたら命までは取らないということかもしれない。相手を刺
激することはないと、家族で決めたの」
「なのに、僕に相談を持ち掛けてきたのは、どういう風の吹き回しです?
「決まってるでしょう、警察じゃないからよ。誘拐と同じ」
「……早惠子さんは結局、何を僕に依頼したいのですか。命を狙われていると本気で恐
怖を覚えているのであれば、何があっても警察に報せるべきだ」
「それでは、依頼は受けてくれないのね。力不足を認めて」
「……」
 相手の挑発的な物言いに、十文字は若干、鼻白んだ。針生徹平が死んだ件で、その姉
への信頼度が弱くなっていたが、ここに来てますます冷めてしまった。もしかするとこ
の度の依頼そのものが罠なのかもしれない、とまで考えた。
「ええ、僕には無理ですね」
 高校生探偵として名を知られるようになって以降、依頼を断ったことがなかった訳で
はない。だが、嫌な予感がするからという理由で断るのは、今回が初めてだ。
「せめてあなたが同じ学校なら、ある程度は目を配れますが、現状ではとても手が回ら
ない。他を当たってください」
 腰を上げかけた十文字。彼の右腕を、早惠子の細い指が掴み止める。
「待って。話を最後まで聞いて頂戴。ずっと警護して欲しい訳ではないのよ。何も起こ
らない内から、犯人――フラキを見付けてと頼むつもりもない」
「ではどうしろと」
 座り直し、肩をすくめる。すると、相手はピンク色の封筒を取り出した。
「フラキを名乗る差出人から、こんな手紙が届いたの。切手が張ってないから、直接、
郵便受けに入れたのかもしれない」
 一旦、破棄しようとしたのか、くしゃくしゃに丸めた痕跡がある。もう指紋には期待
できまい。そう判断した十文字は手紙を手に取ると、ざっと観察した。表には針生早惠
子が宛名として書かれており、郵便番号や住所も記入してある。裏にはフラキとだけあ
った。封筒の口に軽く息を吹きかけ、中を覗くと便箋が三つ折りになって入っていた。
枚数は一枚きりのようだ。早惠子の了解を得て便箋を引き出し、読んでみた。思ったよ
りもずっと短い文面だった。

『おまえの秘密を知っている。
 公にされたくなければ、十月一日午後八時に、下記の住所まで独りで足を運ばれよ。
 指定した日時に姿を現さないときは、秘密を公開するとともに、かねてよりの予告を
実行する。壊れるのは、あなた自身とは限らないことを忠告するものである。 フラ
キ』

 今時珍しく、雑誌や新聞などから切り抜いた文字を貼り合わせて作られている。フラ
キの名のあとに、指定の住所が記されていたが、どこなのかまでは分からない。
 手紙を受け取った当人を見ると、十文字の考えを察したかのように、「うちの高校の
旧校舎があったところよ」と答えた。
「美馬篠高校の旧校舎……ということは、今は使われていない?」
「使われていないどころか、十年以上前に更地になっているはず。だから、行っても何
もないと思うのだけれど」
「その周辺は? 建物があるのか、人通りは多いのか少ないのか」
「詳しくは知らないし、実際に行ったことはないのだけれど、再開発の予定が立ち消え
になったと噂に聞いたわ。だから、寂れてるんじゃないかしら」
 凶行をなすには向いているということか。十文字は顎に手を当て、考え込んだ。
「……腑に落ちない点が、まだいくつかある。徹平を殺した犯人はまだ分かっていな
い。フラキは有力な容疑者になると思う。そのことを、警察に話すつもりは」
「だから、さっきも云った通り。警察に届ける気はないの。少なくとも、脅しの件が決
着するまではね」
「うーん」
「それに、フラキが弟を殺した犯人だとしたら、もう目的を達成してる訳でしょう? 
なのに私達家族を脅してくるなんて、辻褄が合わない」
「それはそうですが……」
 カムフラージュの可能性も検討すべきだろうか。それとも、最前の嫌な予感の通り、
これも含めて全てが何かの罠なのか。
「立ち入ったことを聞きますが、早惠子さん。この手紙にある、あなたの抱える秘密と
は何です?」
「分からない」
 即答した針生早惠子の表情に、くもりはない。何ら隠し立てするようなことはないと
思えた。
「心当たりがないのよ。宛名の間違いかもしれない。でも、聞く訳に行かないし」
「しつこいようですが、何一つ秘密を持っていないんですか」
「莫迦ね。ないはずないじゃない。でも、公にされて本当に困るようなものじゃないっ
てこと」
「おかしいな。それなら、こんな脅迫なんて無視すればよい」
「でもそれは、殺されかねないような文句が書かれてるから」
「そもそも、この脅迫自体、何だか妙な印象を受けたんですがね。『秘密をばらされた
くなければどこそこに来い』と『来なければ命を狙う』という二つの脅しがあって、そ
れぞれ前後の関係になっている。普通、『来なければ秘密をばらす』で完結するものじ
ゃないのか? これだと、フラキの目的は結局はあなたを害することであって、脅迫す
る必要がないんじゃないか? そんな風に思えるのですよ」
「それは……そんなこと云われたって、私が書いたんじゃあるまいし、知らないわ。フ
ラキを掴まえて、聞いてみればいい」
「のりの乾きがまだ完全じゃない」
「えっ、何?」
「この脅迫文の切り抜き、のりで貼り付けてあるみたいだが、まだ完全に乾き切っては
ない感じだ。作られてから、まださほど時間が経っていないような……」
 とぼけた口調で述べる十文字。鎌を掛けてみることにしたのだ。
「念のため、あなたの家を捜索させてもらえませんか。ひょっとしたら、切り抜いたあ
との新聞や雑誌が出て来るかもしれない」
「何を云うの? つまりそれって、脅迫者は私の家族ってことになるじゃない」
「かもしれないし、違うかもしれない」
「そんな」
「僕に依頼するのであれば、まずそこから始めたい。それも今すぐにです。この条件を
受け入れられないのなら、矢張り、依頼をお断りさせていただきます」
「……分かったわ」
 針生早惠子はベンチから立った。
「手間を取らせたわね。この話は忘れてくれていいわ。聞かなかったことにして」
 そう云い残すと、十文字に返事するいとまを与えることなしに、立ち去った。何故
か、駅とは反対向きの方角に。

            *              *

「だめだったわ。話に乗ってこなかった」
 早惠子は電話口で嘆息混じりに云った。相手は無言のまま聞いている。
「謎をちらつかせれば応じると簡単に考えていたんだけれども、甘かったようよ。思い
付きの計画、急ごしらえの小道具では、すぐに怪しいと見抜かれてしまった。特に、切
り抜きの痕跡を指摘されたときは、冷や汗もの」
「やむを得まい。若いとはいえ、彼は名探偵。つきもあるのだろう」
 相手は平板な調子で感想を述べた。本心からの言葉なのか、判断しかねる。
「彼を盾にするつもりだったのに、当てが外れた訳だが、一体どうするね?」
「次善の策――今風ならBプランで行くほかありません。だから……」
「やれやれ。私が行かねばならないのか」
「仕方がありません。決戦の場として指定してきたのが、カップル限定イベントなの
で」
「どういうつもりなのだろう。ホテルで外界とは隔てられた空間とは言え、そのような
人の集まる場に君を招くとは。敵は、君の正体に当たりを付けているのか?」
「恐らく。疑うというレベルを超えていないと、こんな大胆に接触して来ないはず」
「もしかすると、敵側こそ一般人を盾にするつもりなのかもな。こちらは目的のために
は、何ら躊躇することはないというのに」
「無意味、無駄、徒労」
 三つの単語を云う早惠子の口元に微笑が浮かぶ。自分達が好む遊戯的殺人にこそ、無
意味で無駄である種の徒労が含まれていることに気付いたから。
「私達の同好の士を仕留めて回った人物が、今回の敵と同じだとしたら、何故、いきな
り襲って来ず、こうして招待するのかしら」
「探りを入れるため、かもしれないな。君が君の弟と同類なのか否か、敵方は確信が持
てなかったんじゃないか」
「それでは、素知らぬふりを通して、やり過ごすこともできます? 招待に応じるだけ
応じて、何にも知らない芝居をし続ければ、敵は矢っ張り関係ないと思い、何事もなく
帰してくれる、なんて」
「そう甘くはなかろう。こちらから誘いに乗るのなら、最悪を想定して動くべきだ。逃
亡するのなら、徹底して逃亡する」
「でも、私は復讐したい。徹平のためにも」
「理解している。だから協力はする。ただし、万が一にもどちらかが生命の危機に瀕
し、助けようがないと判断したなら、かまわずに見捨てて逃げる。そう決めておく。お
互いのためだ」
「云われるまでもない。了解よ」
 早惠子はもう笑っていなかった。

 針生早惠子との電話を終えた前辻能夫(まえつじよしお)は、自然と身震いをした。
 彼も遊戯的殺人、快楽殺人者の一人である。ただ、実際に人を殺したことは、十年ほ
ど昔に一度きり。専ら、殺人トリックを案出し、他人に提供することで、己の嗜好を満
足させていた。表立った活動をしてこなかった分、その存在を“敵”に察知されにくか
ったのかもしれない。
 そんな裏方である前辻が、再び表舞台に出て来たのは、同好の士が次々に殺害されて
いるからに他ならない。気が付けば、互いに見知っている仲間は、針生早惠子一人にな
っていた。
「彼女にはああいったものの、敵のテリトリーにのこのこ出て行くのは、避けたいとこ
ろだね」
 独り言を口にし、思案顔になる。通話を終えた携帯端末を握りしめたまま、自分の部
屋の中をうろうろと歩き回る。しばらく経ち、部屋の角に置いた姿見にそんな己の姿を
認めて、前辻は我に返った。犯罪計画を考える自分の表情は、こんなにも恐ろしげであ
るのかと、少々驚いた。
 気を付けねばなるまい。他人にこれを見られたら、何事かと訝しがられること必定。
前辻は独り言をやめた。
(こちらから仕掛けて、相手の反応を見るのは、策略としてありだろう)
 狙いを設定し、計画を組み立てに掛かった。

「針生早惠子君。君には死んでもらうことにした」
 前辻がそう持ち掛けると、針生早惠子は彼が期待したようには驚きはしなかった。一
瞬だけ目を見開いたようだったが、あとは淡々としたものだった。
「どのような方法で? それに、どういった目的で?」
 ストレートに聞き返され、前辻は微苦笑を浮かべた。察しがよくて話が早いのはいい
ことだが、面白味に欠ける。
「あまり凝った工作はしない方が、懸命だろう。何しろ、警察だけでなく、殺し屋連中
の検証にも耐えなければならない。シンプルかつ重要そうでない事件ないしは事故に見
せ掛けるのがベストと考える」
「では、交通事故か何かですか」
「いや、交通事故――車だと、事故とはいえ加害者の存在が必要になるからね。高所か
らの転落死がよいと思う」
「高所……ビルとか」
「うん。今、僕の頭にあるのは、ビルの屋上から転落して、下層階の張り出した部分に
叩き付けられて死ぬという形だ。身元が分からない程度に、外見が潰れてもおかしくな
い」
「指紋は?」
「手の方は、ビルの壁面にしがみつこうとした際に、削れてしまったことにしよう。足
の指紋はどうしようもないが、比較できる指紋が残っていること自体、滅多にないだ
ろ? それとも君は、君の足の指紋だと確実に断言できる痕跡を、家の中にでも残して
いるのか?」
「いや、それはない。では最大の問題は、誰を身代わりにするか」
「そうなる。でも、確か君は以前云っていたじゃないか。身近に自分とよく似た背格好
の同級生がいると」
「厳密には今は同級生じゃなく、別のクラスですけどね。宮迫恭子(みやさこきょう
こ)といって、背格好に留まらず、肉付きも似ているし、血液型は同じ。髪の長さも、
あの子が切っていなければ、多分だいたい同じくらい」
「ちょうどいい。どうせ、君も万が一のときは、その宮迫恭子を身代わりにと考え、目
を付けていたんだろう?」
「利用価値はあると思っていたわ」
「利用すべきは今だ。敵陣に乗り込むくらいなら、こちらが死んだと見せ掛けて、敵を
誘き出し、逆襲する方が勝算がぐっと高まる。百パーセントとは云わないがね。ここま
で話せば、君が用意すべき物事も分かるだろう?」
「身元確認を偽装するために、宮迫恭子の毛髪や爪などを手に入れ、私の部屋や学校の
机といった生活圏に、いかにも私の物らしく置いておく。逆に、私の髪の毛などは、丁
寧に取り除いておく。――そういえば、私はどうなるんです? ことが終われば、また
針生早惠子に戻る?」
「うーん、戻ることを願うとは、予想していなかったな」
 前辻は意識してしかめ面を作り、腕組みをした。
「不可能ではないが……そのまま消えてしまう方がずっと楽だろう」
「願ってる訳じゃありません。戻らなくてもいいけれど……十文字龍太郎とは接点を持
っておいた方がいいと考えていたものだから」
「なるほど。彼の存在は、遊戯的殺人のやり甲斐をアップしてくれるね。まあ、いいじ
ゃないか。名探偵は彼だけじゃないし、改めて知り合うことだってできるさ」
「分かりました。残る問題は、一つだけ」
 ウィンクする早惠子に、前辻は意外なものを見る目つきになってしまった。
「何かな?」
「前辻さんの計画にしては、ちっとも遊戯的殺人らしさがないわ」
 なるほど。これは再考の余地ありかもしれないな。
 前辻は笑みを浮かべると、腕を組み直した。

――続く




#483/512 ●長編    *** コメント #482 ***
★タイトル (AZA     )  16/04/29  00:02  (324)
安息日 <下>   永山
★内容                                         16/12/07 04:44 修正 第3版
             *             *

 その光景を見た者がいたとすれば、摩訶不思議な現象に映ったかもしれない。
 夜の闇の中、街灯の光を部分的に浴びて、高校の女子制服姿の人間が仰向けに横たわ
った姿勢のまま、するすると上がっていく。その人物はぴくりともしない。時折強くな
る風に、スカーフやロングヘアが揺れる程度だ。
 天を目指しているかのようだったが、上昇は突然止まった。建物――ビルの屋上の高
さまで来ると、今度は横移動を始めた。屋上の縁に近付いたところで、腕が伸ばされ
た。人の手により、若い女性の身体は空中から屋上の敷地内へと引き込まれた。
 ここで絡繰りが明らかになる。よく見ると、棒――もしくは枠、あるいは台と呼んで
もいい――が女性の身体を支えていたことに気付く。マジックにおける人体浮遊と原理
は同じ。細くて見えづらいが丈夫なワイヤーを数本、女性の身体の背中側から脇を通っ
て前に回し、引っ張る。それだけだ。ただし、上昇のための動力は、ワイヤーを滑車に
通し、人力とスマートヘリによって引っ張り上げていた。滑車は、元々あった広告設置
のための物を利用した。
 若い女性をビルの屋上に引き込んだ人物は、待機していたもう一人の人物にバトンタ
ッチした。あとを継いだ人物は、今し方空中浮遊をしてきたばかりの女性と同じぐらい
の年齢で、矢張り女性だった。
「まだ死んでいない」
 彼女は僅かな驚きを含んだ声で呟くと、注射器を手に取った。


             *             *

「四日前に都内の空きテナントで見付かった女性の遺体、身元判明したって載ってるよ
ん」
 丸めた新聞紙を振りながら、一ノ瀬和葉が僕らの方にやって来た。
 僕らとは、僕・百田と十文字先輩のことだ。場所は校内のカフェテリア。一ノ瀬のお
ば、一ノ瀬メイさんに会うため、放課後ここで待ち合わせすることになっていた。
「一ノ瀬君でも、紙の新聞に目を通すなんてことがあるのかい」
 今の世の中、必要な情報をネットで調べ、集めるという人は多いだろう。が、一ノ瀬
はコンピュータを手足のように使いこなす割に、意外とアナログなところがあるし、古
い物を大事にする傾向もある。同級生ではない先輩には分からないかもしれないが、一
ノ瀬が新聞を読んでいても不思議じゃない。
「あれれ? 前、この事件の第一報を少し気にしてたはずだけど、その様子だと、まだ
知らない?」
 事件そのものは、僕もしっかり記憶している。遺体が見つかったのは、駅にほど近い
雑居ビル。再開発が狙い通りに進んでいないらしく、テナントがいくつも空いていて、
どちらかというと寂しい区画だ。そんな空きテナントの屋根で、女性の遺体が見つかっ
たのだ。
 テナントの屋根なんて書くと、そのテナントが最上階にあるみたいに聞こえるだろう
けれど、実際は違う。件の雑居ビルは、何フロアか毎に階段状になるように作られてい
た。正確な数は知らないが、たとえば一階部分は五部屋、二階が四部屋、三階が三部屋
という風に、上になるほどフロアのスペースが狭くなる設計だ。遺体が見つかったテナ
ントは五階にあり、そこから上は最上階の十階まで直方体を縦に置いた形になってる。
各階の窓は開かないが、十階の更に上、屋上から見下ろせば、五階テナントの屋根が覗
ける訳だ。
「生憎と、今日の夕刊を手に入れる機会はなかったし、ネットにも触れていないから
ね」
「五代先輩も知らせてくれなかったんですね?」
 テーブルにもたれかかるような勢いで着席した一ノ瀬は、念押ししてきた。
 五代先輩は警察一家の生まれで、高校女子柔道の実力者。十文字先輩とは幼馴染みの
仲で、時折、捜査の情報をもたらしてくれる。
「ああ、何も聞いてない」
「じゃあ、ひょっとしたら同姓同名の別人かにゃ? 知ってる人だと思ったけど、写真
が出てる訳じゃなし」
 深刻な状況から解放されたかのように、口調が軽くなる一ノ瀬。その手から新聞が十
文字先輩に渡された。一ノ瀬の云ったページはすでに開いてあり、先輩は受け取ってす
ぐに記事の内容を把握できたはず。
「――信じられない」
 表情が強ばっていた。見た目にも明らかに動揺が浮かんでいる。十文字先輩のこんな
態度は、初めて目の当たりにした。
 僕はここで初めて記事に目をやった。先輩の肩越し、斜め上から覗いてみる。そこに
は、四日前に発見された身元不明遺体が、針生早惠子さんだと特定された旨が書かれて
いた。
 結果、メイさんと会うのは延期になってしまった。

 十文字先輩は熟考の上、自ら動きははしないと決めたようだった。
 あとから知らされたのだけれど、先輩は一週間前に早惠子さんと会っていた。用件の
詳細は教えてもらえなかったが、掻い摘まんで云うと早惠子さんから身辺警護を依頼さ
れたらしい。しかし真実かどうか疑わしいとの理由で、依頼を拒否した。
 そのことが、この殺人に直結したのかどうか、定かではない。表面上の出来事を素直
に解釈するなら、十文字先輩が警護を拒否したことで、早惠子さんは殺されやすい立場
に置かれ、実際に命を奪われた、となるが……ここに来てまだ、高校生探偵は旧友の姉
を全面的には信じていないのだ。
 全てが罠だとすると、こちらから動くのは得策でない。そういった判断により、早惠
子さんから警護を頼まれた事実を、警察にすら話さないと決めた。
「無論、二つのグループの抗争により、殺害されたという目もある」
 先輩は二人でいるとき、そう説明した。
「以前に話したのを覚えているか? 遊戯的殺人を好んで行う連中が、逆にここ最近で
何名か殺されている。もしかすると、殺人を職業的に行う連中、要は殺し屋が遊戯的殺
人者を邪魔な存在として片付けているのかもしれないと。今度の針生早惠子さん殺しが
本当なら、殺し屋に始末された可能性はある。確証のない、単なる仮説だが」
 もしそうだとすると、早惠子さんが助けを求めたのも、事実、殺し屋を恐れていたか
らとなる。
「でも、そう易々とやられるものだろうか? 前触れなし、不意打ちを食らうのなら話
は違ってくるが、“同好の士”が殺されたことを知っていたはずだし、脅迫文まで受け
取ったのだから、警戒したに違いない。人殺し仲間が皆無だったとも思えない。だから
――だから僕は、この件は遊戯的殺人者側の策略だとみている。下手に動いて流れを壊
すよりも、しばらく静観して、両者をあぶり出すのが得策だ。その上で、誰も犠牲が出
ないのが最善だが、それは高望みかもしれないな」
 こうして、パズルの天才にして名探偵の十文字龍太郎は、一時的に手を引くことを宣
言した。

             *             *

 八神蘭は通常、調査などしない。巡ってきた依頼をこなすだけだ。もちろん、仕事の
現場において、移り変わる状況に即して判断が必要となることは多々あるが、それを調
査とは呼べまい。
 だから今回は特別だ。仲間内のネットワークを通じて、ある人物の正体を探り出すこ
とを込みで始末を頼まれ、引き受けた。引き受けたのには理由がある。そのターゲット
が、自分の周辺にいると予想できたし、正体を隠したままターゲットに接近すること
も、他の者と比べて八神なら容易に可能だったから。
 そもそも、この面倒事の発端は、殺し屋側にいた万丈目が、遊戯的殺人に手を広げて
しまったことにある。趣味に走るのなら走るでこっそりやればまだ見逃せたが、万丈目
は大っぴらにやった。彼自身が利用する電車の沿線でばかり被害者を物色していては、
いずれ警察に捕まるのは火を見るよりも明らか。逮捕された万丈目の口から、殺し屋の
情報が漏れる危険性があった。その恐れを断つためにも、万丈目を早急に処分する必要
があった。その刺客として白羽の矢が立ったのが、八神だった。万丈目の表の職業は高
校の教師。八神は学生に化けることで――いや、化けなくても現役の高校生なのだが―
―、簡単に万丈目へと接近でき、目的を達成した。
 その過程で、高校生探偵を気取る十文字龍太郎や一ノ瀬和葉、音無亜有香らを知っ
た。十文字の周辺を観察していれば、他にも遊戯的殺人者が網に掛かるかもしれない。
そんな目算は、見事に当たった。針生徹平を始めとする“該当者”について、八神は仕
事仲間に知らせた。誰が始末したのかは聞いていないし、興味はない。
 現在、八神の関心は針生早惠子に向いていた。弟に次いで姉までも遊戯的殺人者であ
るなら、一度に片付けるべきだったと思うが、今さら悔いても仕方がない。少し前まで
確証がないどころか、針生早惠子は全く尻尾を出していなかったのだ。針生徹平が死
に、さらに鎌を掛けられたことで、ようやく隙を見せたと云える。
 前辻能夫と接触を持ったことは、既に把握していた。この男もまた、遊戯的殺人者の
嗜好を直隠しにして生きてきたようだった。殺し屋の側でも、前辻とつながりのある者
は何人かいた。依頼された殺しの実行が困難なとき、金と引き替えにうまい方法を案出
してくれるのが前辻だった。いつの頃から遊戯的殺人にまで手を染めるようになったの
かは、判明していない。
(前辻の方は、始末するには惜しいという声が上がっているが……こちらの身に危険が
及ばぬ限り、私も前辻には手出しすまい)
 方針は決めている。ただ、一線を越えたかどうかの基準はフレキシブルだ。あまりが
ちがちにラインを設け、いざというときに命を落としては元も子もない。臨機応変、柔
軟に対処できる必要がある。
 八神はふと、思考を止めた。目を付けていた人物がアパートから出て来たのだ。張り
込みを開始した時点から、神経を研ぎ澄ませていたが、雑多な思考をやめることで更に
磨きが掛かる。信条を異にするとは云え、敵もまた殺しのエキスパートであることは間
違いのない事実。油断禁物である。
 八神は追跡を五分ほど続けた。ひとけが全くない路地に入り込んだ時点で、一層、緊
張感を高めた。
 正直云って、あとを付けている相手は、さほど怖くはない。相手――前辻能夫の実技
は、八神のレベルに全く達していない。恐れるとしたら、前辻の助っ人だ。現れるかも
しれないし、現れないかもしれない。この場に助っ人が来たとして、いきなり襲ってく
るか、どこかで観察をするかも分からない。
 一本道の先に、神社が見えた。時刻は夕方に差し掛かり、辺りは暗くなってきた。
 八神は自ら動くことにした。
「前辻能夫」
 いつでも最終手段が執れる体制を整えた上で、相手の名前を呼んだ。距離は十メート
ルほど。
 前辻は背中をぴくりとさせ、足を止めた。振り返らない。
「前辻さん。申し開きがあれば聞こうと思う。このあとどうなるかは、そちらの気持ち
次第だ」
「君の名前は?」
 乾いた声で質問が来た。まだ背を向けたままだ。それを知っていながら、八神は首を
横に振った。
「残念ながらその要望には添えない」
 万が一に備え、日常的にしているソバージュを解き、化粧で年齢を高く見せ、靴は若
干上げ底にした。突発事に対処できるだけの動きを確保しつつ、変装をしたのに、あっ
さり名前を明かせるはずがない。八神は話を戻した。
「早く意思表示をしてもらいたい。人が通り掛かると、面倒になる」
「君は……普通の人ではないのだね?」
 ここでようやく振り返った前辻。色つきの丸眼鏡を掛け、無精髭を生やし、頬はやや
こけている。手足が長いせいか、痩せて見える。実際、血色はよくないようだ。
 八神は前辻の大まかな問い掛けに、黙って首肯した。
「話のしやすい場所に移動する気はないのか、あるのか?」
「待ってくれ。まず、一つ教えてもらいたい。針生早惠子君を知っているか?」
「知っている」
 その件で来たのだとまでは答えないが、恐らく前辻も察知しているであろう。
「彼女と連絡が取れなくなっているのだが、君達の仕業か?」
「これはおかしな話を。あなたが彼女の死を演出したのでは」
 八神は敢えて意地悪く尋ね返した。
「そう。その通りだ。彼女の死を演出しただけで、本当に殺してなんかいない。死んだ
のは、別の女子高生のはずなのに……連絡が取れない」
「……」
 どうやら前辻は計画を立てただけで、現場には立ち会わなかったようだ。八神はそう
推測した。
 似ているからというだけで殺されかけた宮迫恭子を助け、代わりに針生早惠子を葬っ
ておいた。前辻の計画通りに、ただ死んだのが宮迫恭子ではなく、本物の針生早惠子だ
ったというだけのこと。
 尤も、宮迫恭子を救えたのは偶々運がよかったに過ぎない。八神達のグループからす
れば、針生早惠子の処分が目的で、あとは取るに足りないことだ。ただ、無駄な死を防
ぐチャンスがあれば、積極的に動く。遊戯的殺人の否定につながるからだ。殺し屋が人
命救助をすることがあっていい。
「針生早惠子は、もうこの世にはいない。前辻さんの計画は途中で座礁した」
「……そうか。それで君は、私も始末しに来た訳だ」
「さっきも云った通り、どうなるかはそちら次第。あなたの立案能力を買っている者
は、こちら側にも結構いるということです」
「なるほど」
 前辻の表情に、安堵の色が少し浮かんだようだ。陽光の具合で分かりにくいが、希望
を見出したに違いない。
「ありがたくも勿体ない話だが、果たしてどこまで信用できるのだろう? 確か、万丈
目と云ったかな? 彼は元々そちら側の人間だったが、趣味に走ったばかりに始末され
たと聞いている。彼に、申し開きのチャンスを与えられなかったのか?」
「あれは、大っぴらにやり過ぎた。早急に片付けなければ、我々全体に悪影響が及びか
ねなかった。私が云うのもおかしいだろうが、そちら側の連中にも助かった者がいるの
ではないか」
「理屈は通っているという訳だな」
 そう答えつつ、考える風に首を傾げる前辻。何かを待っている様子ではない。軍門に
降るべきか否か、真剣に検討しているように見える。
「条件を出せる立場でないと分かっているが、敢えて云わせてもらいたい」
「――決定権は私にはないが、聞くだけ聞こう」
 人目を気にせずに話せるよう、場所を移したいのだが、前辻の警戒心はまだ完全には
解けていないらしい。なかなか動こうとしない。
「ある人物に関する情報を持っている。そちらにとっても重要な情報だ。それを手土産
に、この前辻の地位をある程度高いものにしてくれると保証してもらえないか」
 そのような権利は自分にはないし、興味もない。そもそも、一流企業のようなきっち
りと体系だった組織が作られている訳ではないことぐらい、前辻自身承知のはずだろう
に。
「ある人物とは誰?」
 それでも現時点で相手から引き出せる情報は得ておこう。八神は聞いた。
「そちらから云わせれば、遊戯的殺人者の親玉、かな。不可能犯罪メーカー、冥府魔道
の絡繰り士」
「冥、ですか」
 噂に聞いたことはある。文字通り神出鬼没の怪人物で、冥の仕業と思しき犯罪が日本
各地で起きている。ほんの一時期、隣の幌真市で立て続けに殺人を起こし、人前にも姿
を現したが、捕まることなくすぐにいなくなったという。遊戯的殺人者の親玉とはぴっ
たりの呼称で、冥は中でも劇場型犯罪を好む傾向があるらしい。不可能犯罪を大衆に披
露する、そんな感覚なのだろうか。
「前辻さんは冥と会ったことがあると?」
「二度だけ。電話でも二度ほどある。ただ、こちらからつなぎを取るのは無理なんだ。
でも、いくらか時間をもらえれば、より詳しい情報を手に入れられる。正体を掴むのは
厳しいが、冥が次にどこで何をやらかそうとしているか、とかなら」
 八神は沈思黙考した。魅力的な話である。冥を捕らえるか殺すことが叶えば、遊戯的
殺人者達は勢いを失うだろう。結果、殺し屋の仕事もやりやすくなる。遊戯的殺人者の
側に寝返っていた面々も、戻ってくるかもしれない(同業者が増えすぎるのは、八神と
しても歓迎したくないが)。
「今、冥について知っていることを、全て話してもらいたい。情報を持ち帰って、上に
諮るとしよう。それができないのであれば、これから一緒に来てもらい、直接話すか
だ」
 八神が提案すると、前辻は表情を曇らせた。いや、最早辺りは帳が降りつつあり、相
手の顔はほとんど見えない。気配や雰囲気で感じ取っただけである。
 やがて前辻は、決断を下したかのように気負った声で云った。
「冥の声を録音したディスクがある。それを取りに行きたい」
「ならば、同行しよう」
 八神が歩を進めると、前辻は後退した。
「だめだ。まだ完全に信じ切れていない。音声データの他にも、もう一つ手掛かりがあ
る。それも同じ場所に隠してあるんだが、自宅ではない」
「隠し場所を知られたくないということか」
 八神はつい、舌打ちした。ここで無理強いしても、埒は明くまい。かといって、前辻
を一人で行かせるのも不安要素が多い。逃げられでもすれば、その失敗はいつまでも八
神のプライドを傷付けるだろう。
「――前辻さん。もしあなたが約束を違え、戻ってこなかった場合、あなたが冥を我々
に売ろうとしたことを、冥に知らしめる。冥はネットのチェックを欠かさないそうだか
らな。ネット上に噂を流せば、じきに冥は把握する。噂の真偽がどうであろうと、冥は
あなたをただではおくまい」
「……かまわない。そうだな、午後八時にこの場に戻ってくる。まだお疑いなら、味方
を大勢引き連れてくればいい」
 どうにか合意にこぎ着けた。普段、し慣れていないことをやると、肉体的にも精神的
にも強く疲労する。八神は改めて実感した。

 だが、前辻能夫は二度と姿を現さなかった。

             *             *

 体育祭のリハーサルを終え、僕らは街のファミリーレストランに来ていた。先延ばし
になっていた、一ノ瀬メイさんとの再会を果たすためだ。
 約束の時間にはまだ早いが、先に来て好きな物を食べていていいとメイさんから云わ
れていたので、遠慮なく注文する。
 僕らというのは、前と違って今日は四人に増えている。僕・百田と十文字先輩、一ノ
瀬和葉に、音無亜有香が加わった。
「ご心配をお掛けしましたが、どうやら体育祭には間に合いそうです。一ノ瀬の順位に
関係なく」
 そう報告すると、先輩は嬉しそうに目を細めた。本当に心配してくれていたんだと、
改めて分かる。ちらと横の席を伺うと、音無も同様に安堵の笑みを浮かべていた。憧れ
の女子にこんな反応をされると、天にも昇る心地になる。いやまあ、純粋に心配されて
いただけなのだが。
「朝一番に復活宣言を聞いちゃったから、気合いが入らなかったよん」
 一ノ瀬がこう言い訳するのは、もう何度目だろう。予行演習での徒競走で、彼女は結
局五位になった。七人中の五番目だから、一ノ瀬としては大健闘と云えるかもしれな
い。
「ところで十文字先輩。しばらく探偵を休んでる間に、大きな事件が起きましたね」
 僕が話題を振ると、しかし先輩は特に気のない風にふんふんと頷くばかりだった。
 高校生名探偵を自認する先輩が、あの事件に興味を抱かないはずがない。にもかかわ
らず、今のような反応をするのは、針生早惠子さんの事件が影を落としているのだろ
う。十文字先輩はまだ、早惠子さんが殺された件に関して、何ら行動に移していない。
少なくとも、僕の知る範囲では。
「多分ニュースで見た事件だと思うが、詳しくは知らないな。百田君、話してくれない
か」
 音無に促され、掻い摘まんで伝える。
 その殺人事件が起きたのは三日前。被害者は男性で、午後四時から同六時の間に死亡
したと推定されている。発覚は同じ日の午後八時十五分で、身元や死因はまだ判明して
いない。年齢は三十から四十辺り。手足が長く、やせ形だが、胴回りは結構だぶついて
いた。肌に日焼けが見られないことからも、あまり出歩かない生活をしていたと考えら
れている。
 重要かつ名探偵が興味を惹くであろう事柄は、その死に様だ。端的に表現するなら、
遺体はばらばらにされていた。頭、両腕、両足、胴体に切断され、更にそれぞれが二つ
に切り分けられていた。頭は左右に割られ、右腕は手首から、左腕は肘から、右足は膝
から、左足は踝から、そして胴体と腹部に切断されていた。都合十二の部位に分割され
ていたことになる。
 発見された場所も異なっており、頭部は私立大学に隣接する学生寮の駐車場に無造作
に置かれ、腕はスポーツジムの裏口にある青のごみバケツに放り込まれ、足は商店街に
ある古着屋の試着室に立て掛けられ、胴体は山道のすぐ脇に積み重ねられていた。いず
れも防犯カメラのない場所だった。
 不可解な点は他にもある。死亡推定時刻に入っている当日午後四時頃、市内で被害者
の目撃情報が複数出ているのだが、距離を考慮するとあり得ないほど離れているとい
う。ワイドショーの解説によると、目撃場所と遺体発見場所は最大で車で五時間を要す
るほど離れているとか、同じ時間に二箇所で目撃されているとか、俄には信じがたい話
が出回っている。
「――聞きかじっていた以上に陰惨な事件だ。まともな理由があって起こした殺人なの
だろうか」
「さあ。僕に問われても……」
 十文字先輩に目をやると、多少は興味を持ったらしく、一ノ瀬に何やら検索を頼んで
いた。端末を触る一ノ瀬が、何らかの結果を表示し、先輩の方にその画面を見せる。
と、そのとき、一ノ瀬がひょいと首を伸ばし、レストランの出入り口の方を向いた。
「来た! メイねえさん、こっちこっち!」
 遅れてドア方向に視線をやると、一ノ瀬メイさんの姿があった。白のTシャツに緑と
黄のタンクトップを重ね着し、下は細いジーンズが足の長さを強調している。確かに目
立つ人だが、出入り口に背を向けていた一ノ瀬和葉がいち早く気付いたのは、さすが親
戚、血縁のなせる業と云うべきか。
 挨拶のあと、「相変わらず、お綺麗ですね」と云うべきかどうか僕が迷っている(音
無がいるから)と、当のメイさんが「相変わらず――」と口火を切ったので、びっくり
した。
「相変わらず、殺人が多いようだね、君らの周りには」
「ええ」
 十文字先輩が居住まいを正した。メイさんは音無からメニューを受け取りながら、十
文字先輩の話を待っている。程なくして、先輩が尋ねた。
「殺人事件が多いことと関係しているかもしれないんですが……メイさんは何か噂を聞
いていませんか。職業的殺し屋のグループと遊戯的殺人者のグループが争っている、と
いうような」
 メイさんはちょっと唇を尖らせ、検討するかのように二、三度首を縦に振った。それ
からウェイターを呼んで、注文を済ませた。ウェイターが立ち去ったあと、声を潜めて
高校生探偵に答える。
「殺し屋のグループについてはあまり知らないが、遊戯的というか愉快犯というか、そ
の手の殺人者に関してなら、情報がある」
 お冷やを呷り、続ける。
「そいつは私がずっと追っている相手でもある。腹立たしいことに、名前の読みが私と
同じなんだ」

――終わり




#484/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:47  (366)
アイドル探偵CC <前>  永山
★内容                                         16/08/01 22:22 修正 第2版
「――続いては、今週のピックアップ。ゲストアーティストはクライムクラブの皆さん
です。四人組のユニットとしてデビューしたのが約一年前。今でも人気上昇中。早速、
歌の方に行ってもらいましょう。『恋愛不在証明』『顔のないラバース』、二曲続けて
どうぞ」
 まだ場慣れしていないのが見て取れる女性司会者の紹介を受け、四人の男がスタジオ
袖から現れると、それぞれの定位置に陣取った。前方に二人、後方に二人。後方の二人
は、前と重ならないよう、一歩外にはみ出た感じだ。意図したのかどうか、向かって右
から左へと身長順になっている。
 全員、黒の礼服姿だが、堅苦しさはなく、少し崩して洒落たコートのように着こなし
ていた。
 四人はそれぞれ右や左や上を向いて、決めポーズを取っている。そこへイントロが流
れ始める。同時に、四人は向かって右から順に動き出す。フィギュアスケートよろし
く、その場でくるりと回って、ダンス力を見せつけた。
 スタジオ観覧の一般客、特に若い女性から歓声が飛ぶ。テレビ局側の合図で出される
おざなりなそれではなく、本当のファンらしい。歌い出そうかというタイミングぎりぎ
りまで、歓声が続いたのがその証拠。
“まだ分かってくれないのかい 飾るのはやめたのに”
 一番背の高い、刀根龍輝(とねりゅうき)が歌の口火を切った。鋭い目つきに筋肉質
で大きな身体の持ち主で、スポーツは大抵難なくこなすし、力仕事も得意というワイル
ドさが売り。そのイメージ通りの低めの声だ。
“見た目だけで決めないで ちゃんと感じてほしい”
 次に坂巻優弥(さかまきゆうや)が口を開く。背の高さでは三番目だが、ユニットの
年長者で、リーダー格。中肉中背、どこにでもいそうだがなかなかいない二枚目タイプ
を自称する。
“示せる証拠はないけれど 君への思い本物さ”
 三人目は京本啓吾(きょうもとけいご)。刀根に次ぐ高身長で、美形度で言えばユニ
ット随一との定評がある。男にしてはしなやかな動きの指を聴衆の方へ向け、甘い声で
囁くように唄う。
“なのにこんなにつれなくされて 僕はどうすりゃいいの?”
 最後は一番小さくて一番かわいらしいと評判の、大葉綸(おおばりん)。小さいが、
頭の天辺から抜けるような高音ボイスが出せる。京本の甘い声に対し、彼は甘えた声が
持ち味だ。
“あぁ 君の疑い晴らすためなら 何だってするよ 恋のアリバイ証明”
 四人の声が揃う。個性的な四つの声が、不思議と心地のよいハーモニーをなした。

 〜 〜 〜

 一年前、クライムクラブが結成された経緯はシンプルだ。一定レベル以上の二枚目イ
ケメンで歌唱力もそれなりにあるのに、なかなか売れない、ブレイクしない若手を集め
て作られた。所属する事務所も当初はばらばらで、ユニット結成に当たって一所に移籍
した。尤も、期待されていた訳ではなく、メンバー数も企画に乗ったのがたまたま四人
だったというだけ。寄せ集めてどうにかならなければ、はいおしまいという崖っぷちレ
ベルだった。人気の兆しが見えたのは、そこそこ人気のある推理漫画のアニメ化に際
し、デビュー曲がエンディングテーマ曲に採用されたこと。ほぼ同時期に、四人で街を
ぶらついていた折りに、逃げてきた強盗犯を捕り押さえ、警察から感謝状をもらった。
これで一気に知られるようになった。半年後にはアニメの主題歌も任されるようにな
り、テレビ等への露出が増えた。個性的な面々が揃っており、皆年齢の割にトークが達
者だった点が助けになって、知名度を上げ、ファン層を広げた。今期は、ゴールデンタ
イムのドラマの主題歌までやっている。
「ドラマ『帰り未知』では、歌だけでなく、皆さんがゲスト出演するという噂が出てい
ますが、そこのところどうなってるんでしょう?」
 歌い終わったクライムクラブの四人に、女性司会者が質問する。もちろん、番宣を兼
ねての予定通りの質問だ。
「実はこの間、もう撮って来ちゃいましたー」
 食い気味に、大葉が反応する。マイクを向けられたら、奪い取りそうな勢いだ。
「あ、本当に? それはどういうシーンで、どんな役柄なんでしょう」
「まだ秘密です。というか、放送を見てくださいと」
 坂巻が笑顔で答える。その隣では、刀根が仏頂面を作っている。司会者が今気付いた
という風に話を振った。
「刀根君、ドラマに出てみてどうでした? 感想を聞かせて欲しいな」
「俺は最初っから反対してた。歌手の俺らが何で出るのって。演技は下手だし、脚本を
変更させるのは失礼だろうと」
「こんなこと言いながら、こいつ、結構ノリノリでやってたんですよ」
 指差しながら、リーダーの坂巻が指摘する。刀根は顔をそちらに向けて、抗議口調に
なった。
「馬鹿言うな。あれはやるからには最善を尽くしたまで。ノリノリというのは、京本み
たいなのを言うんだろうが」
「役に入り込んだと言ってもらいたいね」
 京本は肯定的に受け入れた。演技に自信があるのか自信過剰なのかしれないが、キャ
ラクターに合っている。
「ええっと、クライムクラブの素晴らしい演技、楽しみなんですが、いつ観られるんで
しょう? 放送日は?」
「残念、それがまだ決まっていないらしくて、ここでお知らせできません。テロップで
出るかも」
 両手を使って画面下方を指し示す動作をする坂巻に、大葉が「今、生放送だよぉ」と
べたなつっこみを入れると、笑いが起きた。
「発表が待ち遠しいですね。それでは最後にもう一曲ありますから、準備をお願いしま
す。ドラマ『帰り未知』主題歌、『まだ見ぬ過去へ』を」

「まただよ」
 ファンレターを見ていた坂巻が、その一通を指先に挟んで、ぷらぷらと振ってみせ
た。
 プロダクション事務所に集まったクライムクラブの四人は、スケジュール確認などを
終えて、ファンレターのチェックをしていた。
「またとは、あれか。探偵依頼」
 刀根が反応するのへ、坂巻は黙って頷き、次いでマネージャーの古屋(ふるや)に向
き直った。
「例によって、放置でいいのかな」
「そうするしかないでしょう」
 古屋は細い眼の目尻を下げ、困り顔で応じた。顎に片手を当てる仕種は女性っぽい
が、れっきとした男性である。ひょろりとした身体付きに男にしては小さめの頭、肩幅
だけは広く、デフォルメして描くならば逆二等辺三角形になるだろう。
「いちいち付き合っていられない。もしも依頼を受けたとしても、解決できなければ評
判を落とすだけ。解決できる見込みがあったとしても、今のあなた達にはそんな時間的
余裕がない」
「いやまあ、時間の問題は、テレビ局が企画として採用してくれれば、解決できると思
ってるんですけど」
 探偵作業そのものをタレントとしての仕事にしてしまう、という発想。クライムクラ
ブというグループ名や推理アニメのイメージの付いている彼ら四人にとって、関連性の
ある番組は企画が通りやすいと言えよう。
「そんなこと言うってことは、ひょっとして解けそうな依頼なの? ファンレターには
先に目を通しているけれど、そんな話、あったかしら」
 坂巻の手にした封筒を指差すマネージャー。坂巻は曖昧に頷いた。
「解けるかどうか知らないけれど、緊急事態っぽいんだよなあ」
「どれどれ」
 大葉が覗き込もうとするのへ、坂巻は封筒ごと手渡した。受け取った大葉は、ディス
クジョッキーよろしく、喋り始めた。
「続いてのお便りは、S県T市から。えー、児山次郎君、十二歳になる小学六年生。え
っと……ええ?」
 本文に入る前に、絶句してしまった大葉。目を白黒させ、口は開けっ放し。内容に驚
いたのが、手に取るように分かった。
「おまえに任せていると、話が進まねえ」
 刀根が横合いから便箋を奪い取った。残った封筒を大葉はまだ見つめている。
「――マジかよ。スマホのゲームをしていたら、森に入り込んで、死体を見付けた、と
ある」
「死体って猫か何か?」
 京本が言った。分かっていてとぼけているのは、その目付きから明らかだ。
「いや、人間だとよ。きれいなドレスを着た女の人、らしい。二日前と書いてあるが、
具体的な日付はないな。時刻も夕方とあるだけ」
「ああ、それね」
 古屋マネージャーが、一つ手を打つ。
「どう考えても冗談でしょう。小学生の悪ガキ、基、男の子がちょっとしたいたずら心
で、書いてよこしたに決まってる」
「でも、妙に細かいな。地名を明記してるし、死体の状況も微に入り細に入りって感じ
だぜ。首に絞めた痕跡、飛び出た舌、スカートの汚れは失禁のことのようだ。正確を期
している」
「今時の子供は、それくらい知ってるんじゃない? テレビとか。知らなくても、ネッ
トで調べたらすぐに分かる」
「問題なのは、通報していないことだと思うよ」
 マネージャーの見解を無視して、坂巻が言った。
「不法侵入に当たるかもしれないから、警察に話せなかった。だから僕らにこうして手
紙を送ってきたんだよ」
「とりあえず、調べてみよう。手紙に書いてある場所で、遺体が発見されたというニ
ュースが報じられていないか」
 京本の提案に、大葉が席を立ち、部屋にあるパソコンの前に座った。しばし放心状態
だったが、復活したようだ。なお、クライムクラブの面々は、携帯端末は連絡用に旧い
型式の物を持たされているのみで、個人的に所持・使用することは事務所から禁じられ
ている。かつて、同じ事務所に所属していた若手芸人が、スマホの使用を端緒とする不
祥事を起こしたことがあるためだ。
「ないね。女性の遺体が見つかったなんてニュースは、この一ヶ月間出ていないよ。一
方で、行方不明になった女性の捜索願は、近隣地域を含めていくつか届けがあるみた
い。手紙には年齢の印象は書かれていなかったけど、“おばさん”と表現するくらいだ
から、中学生や高校生じゃないだろうし、七十歳以上ってこともなさそう。そういう風
に絞り込むなら、該当するのは一人になる」
「無論、捜索願が出されていない場合や、公開されていない場合は除く、だな」
 坂巻の言葉に、こくこくと首肯した大葉。パソコンを触って、何やら検索をしながら
口を開く。
「その一人が、上谷直美(かみたになおみ)さん、二十六歳。T市で建築会社の事務員
をやってる。写真は……見付からないなあ。もう少し頑張って探せば、ネットのどこか
に出てるかもだけど」
「写真があれば、この児山って子に見せて、確認ができる訳か」
 京本が言うと、刀根が即座に反応した。
「本質を見誤ってないか? 今優先して検討すべきは、遺体が誰かではないだろ。子供
の依頼が本物かどうか、遺体が本当にあるのかどうかを確認することだと思うが。そし
て遺体が見付かって初めて、速やかに通報する」
「そうだよな。緊急事態と感じたのに、つい」
 坂巻がすまなそうに頭に手をやった。最前、写真で確認云々という意見を述べたのは
彼ではなく京本なのに。話の流れを制御できなかったことを悔いているようだ。
「そういう訳で古屋さん。何とかならない?」
 努めて明るい調子で、坂巻がマネージャーを振り返った。
 少し前から腕組みをし、難しい顔をして聞いていた古屋だったが、腕組みを解いて何
度か頭を掻くと、ため息交じりに返事した。
「あなた達が直に出向くのは無理。だって、これからすぐにでしょ? うちの若いのを
行かせるか、無理なら、信用のおける記者さんに話してみる。手紙から、正確な場所は
分かりそう?」
「どうかなあ。難しいかも。児山って子は、モンスターを捕獲するゲームのために、親
に引っ付いて、親戚のおじさんの家に行ってるんだけど」
 小学生の児山は問題の森へ、自宅からではなく、親戚の家から一人で歩いて行ったよ
うだった。親戚宅は同じ市内であるのは分かるのだが、児山の家からどれくらい離れて
いるのかは分からない。車で行き来するほどだから近くではないだろう。ゲーム中も当
然一人で、遺体を見付けたのは彼だけ。勝手に一人で歩いて行ったことを怒られるかも
しれないからと、死体があったことを家族にも言っていない。
「元々、親戚の家の“おにいさん”と遊ぶつもりだったのに、不在だったからゲームば
かりしていたみたいだね。この“おにいさん”にも死体を見付けたなんて話は、してな
いんだろうなあ。でも、児山君には悪いけれど、家族や身近な人に打ち明けるのが一番
手っ取り早いよね」
 大葉が閃いた!という風に、両手を合わせた。
「これこれこういうことがファンレターに書いてあったんですが、事実かどうか確かめ
てもらえませんかって。電話番号が分からないから、直接行く必要があるのは変わらな
いけれど」
「その手段を執るのなら、児山君が叱られないように、予防線を張った方がいいだろう
な。俺達の誰か一人でも、直接出向くとか」
 刀根が外見に似合わず、心遣いを垣間見せる。マネージャーは悲鳴を上げた。
「だから〜、あなた達のスケジュールは詰まっていて、次の休みは三日後よ!」
「一人だけ抜けるくらい、何とかなるでしょ。今日はこのあと、振り付けのレッスンだ
ったよね。一人、熱が出たとか言って、休ませてよ」
 坂巻が手を合わせて拝むが、古屋は首を横に激しく振った。
「そんなっ。四人揃って合わせるところ、いっぱいあるのに」
「そうかあ。じゃあ……夕方になっちゃうけど、歌のレッスンで一人抜ける。今やって
るのって、ソロパートがいっぱいある曲だから何とかなるっしょ。これで決まり!」
 片手拝みになって、目配せする坂巻。他の三人も頭を下げた。
 古屋は苦い表情を隠そうとせず、返事まで相当間が空いた。
「しょうがないねー、ほんとにもう。これは貸しにしておくから、忘れないように」
「お、サンキュー、古屋さん。話が分かる」
「おだててもこれ以上何も出ないんだから。そんなことより、誰が抜けるのか、決めて
頂戴。振り付けはやってもらうんだから、体調が悪い演技をするのは、そのあとから
ね」
「じゃあ、じゃんけんで」
 腕まくりをするポーズの坂巻へ、古屋は慌てて付け足した。
「あっと、あなたはだめ。坂巻君が一番下手なんだから」

 結局、大葉が児山宅に向かうことになった。三人のじゃんけんで決めた訳でもなく、
一番歌がうまいからという訳でもない。小柄で目立たないとの理由で、話し合いで決め
た結果だ。
「まさかこんなことまでするとは、入社時点では思いも寄りませんでしたよ」
 同行者の一人で、お目付役兼運転手の中垣内秋好(なかがうちあきよし)が、タレン
ト顔負けの爽やかな笑顔でこぼした。笑顔だから、喜んでやっているように見える。厚
めの胸板から想像できるように、学生時代はラグビーをやっており、武道も習ってい
る。
「私もです」
 助手席の江差今日子(えさしきょうこ)が呼応した。彼女の表情は硬く、先程からナ
ビと地図と実際の風景とを見比べては、時間を気にしている。女性がいる方が当たりが
ソフトになるだろうとの思惑で、“追加派遣”された江差だが、まだこの業界に入って
日が浅い。シャープな眼鏡の位置を直す仕種が、“できる女”に見られがちで、ギャッ
プに苦戦している。そんな彼女にとって、このあとの業務はまだ楽だろう。
「いきなり行って大丈夫なんでしょうか。それに、留守かもしれない」
「連絡の入れようがないのだから、仕方ないじゃん」
 大葉が気楽な調子で言った。中垣内も「そうそう。電話番号が分かってないからこ
そ、こうして来てるんだし」と同調する。
 しばらく直進し、二度ほど曲がったところで、児山家と思しき家が見付かった。
「駐車スペースがないな。自分は待ってるから、大葉君と江差さんで行ってくれるか
な?」
「了解〜」
 青い屋根の二階建て和風建築の前に立ち、門扉に掛かった表札で名字を確かめてか
ら、カメラ付きインターフォンのボタンを押す。すぐに応答があり、声から奥さんらし
いと推測できた。
 自己紹介し、児山次郎君からファンレターをもらったこと、その内容に気になること
があって訪問させてもらった旨を告げた。
 すぐには信じてくれなかったが、カメラを通して、大葉が伊達眼鏡と帽子を取って、
顔をよく見せると、入れてもらえた。
「芸能人の方が、こんな風に来るなんてこと、あるんですか?」
 挨拶もそこそこに、そんな質問をぶつけてくる奥さん。「普通はありません」と笑顔
で答える大葉。ふと廊下の突き当たりに目をやると、部屋から子供が顔を覗かせてい
る。男の子だ。外見から受ける印象は小学生高学年。多分、差出人だろう。
「あ、児山次郎君?」
 大葉が声を掛けると、その男児は一瞬、部屋に引っ込みかけたが、思いとどまったよ
うに出て来た。大葉と江差が笑みをなして近寄ると、はにかみと戸惑いを一緒くたにし
たような、上目遣いで見上げてきた。
「やあ、君が児山次郎君だね? 僕のこと、分かるかなー?」
 大葉が高いトーンで切り出した。小学六年生の男の子に接するには、いささかハード
ルを下げすぎた感のある台詞選択だったが、次郎は素直に「分かる」と返事してきた。
「ほんと? 名前言ってみてよ」
「大葉綸……さん、でしょ」
 ファンの割に、口ぶりは落ち着いている。もじもじした態度は、人見知りから来てい
るようだ。
「そう、当たり。今日はね、ファンレターのお礼を言いに来たんだ」
 大葉が子供へ話し掛けている間に、江差が母親に詳しい事情を伝える。そして何かあ
ってもお子さんを叱らないであげてほしいとも。
「そういえば……旦那様はいらっしゃらないんですか」
 大葉は子供から母親へと振り返り、明るい調子で聞いた。
「はい。今はまだ仕事中で」
「あー、そうでしたか。そんなときにお邪魔して、本当にすみません。なるべく手短に
終わらせますから」
「それはいいんですが……これ、テレビか何かのドッキリじゃないんですよね?」
 もしテレビに映るのなら、お化粧をやり直さなくては。そんな思いが見え隠れする質
問に、大葉と江差は相次いで否定した。
 そのまま応接間に通してもらい、母子と対面する形で、テーブルに着く。それからフ
ァンレターと封筒を取り出して、いきさつをきちんと話した。
「――それで、この手紙を書いて、出したのは次郎君で間違いない?」
「うん。ポストに入れたのはお母さんだけど」
 “出した”という表現を厳密に捉えたのだろう。次郎は真面目に説明した。
「私も覚えています。これを投函したのは私です」
「中身は、そのときは知らなかったんですね」
「ええ。こんなことを書いてたと知っていたら、先に警察に報せています」
「そこなんですけど、この手紙に書かれたご親戚宅の近くで、遺体が発見されたなんて
いうニュースは、出ているんですか?」
「いいえ、全然覚えがないです。親戚というのは私の兄の家で、西木(にしき)と言い
ます。実家ではありませんから、気にしていないというのはあるかもしれませんけれ
ど、でも、多分、そんなニュースはなかったと思いますよ」
 考え考え、答える母親。江差の前もってのお願いが効いたのか、子供を叱るような様
子は今のところ全くない。
「それじゃ、すぐにでも確かめましょう。今からこの場所へ行ってもいいし、可能な
ら、電話して西木家の人に何とかしてもらうっていう方法も。――ああ、でももう夜だ
ね。暗いから難しいかも」
「え、ええ。どうしましょう……」
 母親の反応には、面倒ごとは嫌だなという感情が見て取れた。大葉は両手を顔の前で
広げ、提案した。主に次郎の顔を見ながら言う。
「じゃあさ、地図を書いてくれる? それを見て、僕らが直接行ってみるよ」
「地図?」
「うん。その親戚のおじさんの家と、女の人が亡くなっていたという場所の位置関係が
分かるような地図だね。おじさんの家までは、簡単に分かるだろうから」
「いいよ。地図があれば、僕が行かなくても、大葉さん達だけで大丈夫だと思う」
 なかなか頼もしい。大葉は微笑を浮かべた。
 一方、江差はふと気付いた風に、母親へ尋ねた。
「失礼ですが、あなたのお兄さんは、何のお仕事をされているのでしょう? この時
間、ご在宅でしょうか」
「兄は、**食品のリサーチ部に務めていると聞いています。時と場合によっては、、
遅くなることもあるようですから、不在かもしれません。でも奥さんの美紀子(みき
こ)さんはいると思います」
「よかった。あ、そういえば、次郎君が書いていた“おにいさん”というのは?」
「兄の子、長男です。確か、大学二年生だったと思います」
「大学生だと、家にいるかどうか、想像しにくいですね。西木家への連絡、奥様の方か
ら、お願いできますでしょうか?」
「かまいませんけど、実際に見付かってからでいいんじゃありません? 私が言うのも
あれですけれど、子供って――」
 と、次郎に目をやる母親。嘘をつくことがあると言いたいのだろう。我が子が嘘をつ
いたと疑いたくはないが、はっきりするまでは騒ぎを起こしたくない。その本音は、江
差にもよく理解できた。
「では、私どもが確認に行き、その結果をなるべく早くお伝えします」
 方針はまとまった。あとは地図の完成を待つばかりだ。

 結果から記すと、児山次郎の示した遺体発見場所に、遺体はなかった。
 これをもって、子供の嘘・いたずらだったと済ませるのは簡単だが、そう決め付ける
には疑問があった。
 暗がりの中、懐中電灯と月明かりのみでよくぞ見付けたものだと、中河内は我がこと
ながら感心した。それは、蟻の群れだった。
「何にもないのに、蟻がたかっているのはおかしい」
 中河内が指差したのは地面、もっと言うなら、草が生い茂って土を覆い隠しているよ
うな場所だった。
「草から甘い液体でも出てるのかな?」
 大葉が直感で述べたが、その辺の草はどう見ても雑草だった。蟻を惹き付ける何かを
出すようには、ちょっと見えない。
「想像を逞しくするのなら」
 中河内は、その逞しい胸の前で腕を組み、斜め上を見ながら言った。
「糖尿病の人の尿には蟻がたかるという俗説がある。絶対確実にたかるものでは無いら
しいんだけれど、たかる例も報告されていたと思う。だから、ひょっとしたら、ここに
糖尿病の人が」
「嫌だ、中河内さん。糖尿病の人がその、立ち小便をしたと言うんですか?」
 江差が先回りしたつもりで言った。「立ち小便」という言葉を口にしても、割と平気
のようだ。
「違う違う」
 慌てたように首を横に振る中河内。横手で聞いていた大葉は、ぴんと来たとばかり
に、右手人差し指を立てた。
「あ、絞殺遺体の失禁跡!」
「はい、その通りで。想像でしかありませんが、殺された女性が糖尿病持ちで、ここで
絞殺されたのだとしたら、その辺の土や草に尿が付着したかもしれない」
「もう五日ぐらい経ってるんですよ? 残ってるものでしょうか」
「専門家じゃないから分からんなあ」
 あっさりと白旗を揚げる中河内。それを受け、大葉が考えを述べた。
「児山次郎君の言う通り、遺体がここにあったとしたら、今ないのは何故? 誰かが移
動させたってことになるよね。移動させる作業の最中、尿が地面に落ちたんじゃないか
な。うまい具合に、太ももの間に溜まっていた分とかが」
「可能性はある、としか言えませんね。我々だけで議論していても、進まないでしょ
う」
「警察、呼ぶ?」
「その前に……被害者候補を見付けていたんでしたね、大葉君?」
「うん、そうだよ。――あっ、糖尿病で通院歴がないか、調べればいいんだ。でも、そ
んなデータまで公開されてたかな。ハッキングはごめんだよぉ」
「そんな危ない橋を渡るのは、うちとしてもごめんです。結局、警察に問い合わせるほ
かないか」
 それでも一応、大葉は江差から携帯端末を借り、調べてみた。候補に残っていた上谷
直美について、通院歴が公開されていたかどうか。
「糖尿病は場合によっちゃインスリン療法が必要だから、行方不明となったら、必要な
物として列挙するかも。誘拐された可能性を考えてさ」
「確かに。二十六歳で糖尿病だとしたら、1型の可能性が高そうだし」
「――あ、あった。出てた」
 意外と簡単に見付かった。大葉が最初に調べて当たったのと同じデータに、ちゃんと
掲載されていた。注意力不足だった。
 画面を覗き込んだ中垣内は、「これは、インスリン療法必須のようだ」と呟く。
「一気に可能性が高まりましたけど、どうしましょう?」
 江差が芸能人と先輩を交互に見ながら言った。中河内は考えながらの返事なのか、口
ぶりがややゆっくりになった。
「まだ確定とは言えませんが……警察に通報するべきかと」
「それには賛成。ただ、この辺りでもコネが利くかな?」
 クライムクラブはその活動において、警察署の一日署長を務めたことが何度かある。
加えて、かつての強盗犯逮捕に協力した実績のおかげもあって、警察にはそこそこ顔が
利く。ただ、それは東京や横浜方面であって、S県ではどうなのか、自分達でも分から
ない。顔見知りの警察関係者がいないことだけは確かだ。
「和井(わい)警部に連絡して、間を取り持ってもらうのはどう?」
 大葉は一番親しい警部の名を挙げ、提案した。だが、中河内は首を傾げた。
「各都道府県の警察は縄張り意識が強く、よそからの干渉を嫌うと聞くからなあ。刺激
するのはやめておいた方が、現段階ではよいでしょう」
「じゃあ……正攻法、正面突破だね。いきさつをちゃんと話して、来てもらおう」
 大葉が決めると、中河内は江差に目配せした。彼女が警察に電話することになった。

――続く




#485/512 ●長編    *** コメント #484 ***
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:48  (373)
アイドル探偵CC <後>  永山
★内容                                         17/04/10 17:04 修正 第3版
 現場一帯を警察が調べたところ、確かに人間の尿が検出され、それは上谷直美の物で
あると鑑定された。さらに、同じく彼女の物と認められる毛髪や唾液、皮膚片が、わず
かながら見付かった。一方で、殺害されたという証拠はまだない。
「どうなってるのかな〜?」
 レッスンの休憩中、大葉が呟くように皆に尋ねた。もちろん、三日前に通報した一件
についてである。
 通報すれば、あとは警察の仕事だ。発見者だからと言って、捜査の経過を教えてもら
える訳もない。
「俺達の役目は通報して終わりだ。感謝状も今回はないだろうしな」
 刀根がペットボトルの水を煽ってから、断定的に言った。
「捜査の情報が漏れ聞こえてくるとしたら、児山家じゃないかな。発見した当時の状況
を、警察が聴取するに違いない。その過程で、何らかの示唆はあっておかしくないよ」
 坂巻が意見を述べる。直接通報に関わった大葉のみならず、他の三人も捜査の成り行
きに関心を持っている。ただ、自分達の手ではどうしようもない。昔のように売れない
芸能人であったなら、自力で調べる時間だけはあるだろうが。
「そういや、今度の事件では、クライムクラブの名前は、まだ表に出てないみたいだ」
 事件面を開いたスポーツ新聞を片手に、京本が言った。やや不満げに、眉根を寄せて
いる。
「一応名乗ったんだけど、少なくとも事件が未解決の内は、名前は出ないって」
 大葉が事情を話すと、京本は「解決することで名前が出るというのなら、自分達の手
でそうしたいね」と笑みを浮かべる。冗談と本気が半々といった体。
「そんな手間掛けなくても、マスコミに漏らせば、現状でも書いてくれるだろうよ」
 ドライでひねくれた言い方をしたのは刀根。グループの中で一番歌に情熱を傾けてい
る彼にとって、他の仕事は比較的身が入らないのだ。ましてや、“探偵ごっこ”は面白
くもない。
「それだと、ファンのあの子供に迷惑掛かるかもしれない。名前を売るには、自分達で
努力しないと」
 大葉が真面目に力説したのに対し、刀根はため息を大げさについた。
「わーってるって。ジョークだ」
「僕としては」
 リーダー格の坂巻が、話をまとめる風に切り出した。
「自力で解決に乗り出すには、暇がないのが現実。能力だってあるかどうか、自信ない
しね。だけど、経過は気になる。だったら、和井警部に頼んで、捜査の進み具合をちょ
こっと調べてもらうのがいいんじゃないかな。縄張り意識が強いったって、同じ日本の
警察なんだから、伝はあるはず。どうだろう?」
 この意見に、三人から相次いで反応が返る。
「賛成!」
「悪くない」
「迷惑掛けるだけじゃないのか」
 順に大葉、京本、刀根。一応、賛成が上回ったことになる。
「じゃあ、古屋さんに言って、そうしてもらうとするか」
 坂巻が言ったちょうどそのとき、控え室のドアがノックされ、古屋マネージャーの声
が届いた。
「みんな、いい?」
「あ、はい。何です? もう休憩終わり?」
 時計で時刻を確かると、まだ十分近くある。ドアが開けられ、古屋が入ってきた。
「ううん、休んでいていいんだけど、さっき警察の和井さんから電話があって」
「へえ、何て? ちょうど話題にしてたとこなんだ」
「この間のT市の一件で、遺体が発見されたって。その場所が八王子の方で」
「てことは、合同捜査?」
 早呑み込みしたのは大葉。古屋は首を振って、「それは分からないけれど」と応じ、
話を続ける。
「しかも、第一容疑者が東京に住居を構えていると分かったため、和井さんも照会に応
じて協力するんだそう」
「ほぼ、合同捜査だ」
 大葉が満足げに眼を細め、うんうんと頷いた。マネージャーは取り合わず、とにかく
警部からの話を伝えきる。
「ついては、大葉君達が通報する直前の状況や、ファンレターの中身について検証した
いので、近い内に伺う、だって」
「おー、願ったり叶ったり」
 坂巻が音を立てずに拍手した。
「だけど、時間の確保が難しいから、とりあえず中河内君と江差ちゃんだけで対処す
る。ええ、どうせあなた達のことだから、気になって首を突っ込んでくるのは分かって
る。あとで教えるから、今は本業に集中してちょうだい」
 古屋マネージャーはほとんど一方的に言い置くと、他にも用事が詰まっているのか、
足早に出て行ってしまった。閉まりきらなかった扉を、一番近くにいた刀根が苛立たし
げに閉めた。
「全く、じきに新曲のレコーディングだってのによ」

「私がこんなこと引き受けたの、上には内緒にしてくださいね」
 和井警部との対面を終えて帰ってきた江差今日子を、クライムクラブの四人は事務所
の出入り口で待ち構えていた。前もって彼女にメールを入れて、メンバーが聞き出した
いことを彼女が警部に質問するよう、お願いしておいたのだ。
「言わない言わない。ばれないようにするためにも、手早くね。じゃあ、最初に――」
 坂巻が言い掛けたが、それを手のひらで制した江差。怪訝な表情をなして、坂巻と大
葉らは顔を見合わせた。
「手早く済ませるために、文字にしておきました。車中での手書きだから読みづらいか
もしれませんが、勘弁してください」
「おー、さすが。できるねえ、今日子サン」
「本業でそう言われたいです」
 手帳数ページ分を破いた紙を受け渡すと、江差はそそくさと事務所に入った。
「これでよし。飯を食いながら、検討しよう」
 四人は軽く変装すると、馴染みの食堂へ向かった。芸能人なんて来そうにない、古び
たビルの一階にある、ありふれた中華料理屋だ。もちろん、古屋マネージャーは同行し
ない。
 店の奥のテーブルに着くと、各々が適当な注文を済ませる。待つ間、メモ書きを皆で
回し読みした。
「最初に遺体のあった森の中は無論のこと、そこへ通じるけもの道にも防犯カメラの類
はゼロ。さらにそのけもの道に通じる生活道路に出て、やっといくつかある程度。今の
ところ、不審者や不審車両は確認できていない。と同時に、被害者が第一の現場に向か
う姿も未確認。車で犯人と一緒に来て、すぐに森に入ったのなら、映らなくても不思議
じゃない、とある」
「第二の現場、つまり遺体発見現場は河川敷の草むらで、同じく防犯カメラの類は、皆
無ではないが、現時点では映像に怪しい人物は認められず。この場合の怪しいって言う
のは、遺体のような大きな物を運んでいる奴、ということだな」
「死因は窒息で、紐状の凶器、恐らくはネクタイのような幅のある布製の紐による絞
殺。死亡推定時刻は六日前の午後三時から六時にかけて……って、これ、あの児山次郎
君が目撃したのと、あんまり変わらない時間帯になるんじゃない? 夕方としか分から
ないけれど」
「ひょっとしたら、犯人はまだ近くにいた可能性があるね。身を潜め、子供が立ち去る
のを辛抱強く待ってから、遺体を別の場所に移した。悪くすると、子供も殺されていた
かもしれない」
「まさか、今さら子供に目撃された可能性を考え、命を狙うってことはないだろうな」
「そうするくらいなら、その場でやってるだろう」
 オーダーした料理が、届けられ始めた。会話を中断し、並べられるのを待つ。全て揃
ったところで、まずは腹ごしらえに専念する。
「犯人が被害者を森で殺したのだとしたら、何の用事があって、そんなところに入って
行ったんだろうね?」
 メモ書きにはない、気になった点を大葉が挙げた。
「……アイドルらしからぬ単語を吐いていいのなら、真っ先に思い付くことがある」
 京本がレンゲでチャーハンの残りをかき集めつつ、他の三人の顔を見てから言った。
みんな、承知している。
「それって、野外で男女がやるってことでしょ」
 大葉が屈託のない笑顔を作って、さらっと言った。ラーメン一本をつるっと吸い込
む。
「そうだが。しかし、最有力容疑者の栄田(さかえだ)という男は東京者だというか
ら、話の辻褄が合わない。わざわざT市まで来て、やることじゃないだろう」
「東京は緑が少ないから――じゃあないよね」
「犯人が被害者を殺すための誘い出したというのが基本で、そこにどんな理由付けをし
たか、だね」
 坂巻はそう言うと、天津丼に麻婆豆腐を載せるという濃い組み合わせを試した。
 刀根は厨房の店員に向けて手を挙げ、杏仁豆腐四つを持って来るよう合図した。それ
から各人のコップに、お冷やを注いでやる。
「簡単だ。ガキと一緒だろ」
「ガキと一緒って何だい?」
「スマホのゲームさ。詳しくは知らないが、珍しいキャラが出現するとか言って、連れ
出したんじゃないか」
「面白い見方だけど、T市はほとんど出ないらしいよ。レアものどころか、ノーマルな
タイプも」
 坂巻がやんわり否定する。
「だいたい、ほんとにレアなのが出現していないと、騙しようがない。本当にレアもの
が出現したなら、プレーヤー達が集まってくるはず。実際には児山次郎君一人が来ただ
けだった」
「それは……T市にはプレーヤーも少ないんじゃないか」
「そこまで言うのなら、児山次郎君に聞けば、話が早いけど? レアなキャラを追っか
けてあの森に入ったのか、ってね。たださ、そんなことがあったのなら、ファンレター
に書いてると思うんだけど、そうじゃなかった。だから、刀根君の推測は外れていると
思う」
 大葉によって否定されると、刀根は軽く両手を挙げ、口をつぐんだ。ちょうど杏仁豆
腐が並べられたので、片付けに掛かる。
「さて、あまり長居もしていられないが、俺達がじっくり話せる場所はここくらいだか
ら、少しは粘ろう。栄田裕一郎(ゆういちろう)は被害者の上谷直美の元恋人で、同じ
大学の出身。在学中の付き合いが卒業後も続いていたが、約一年前に別れてる」
「僕らが結成して、売り出した頃か〜」
 余計な口を挟む大葉。坂巻は無視して続けた。
「男の方によい縁談話が持ち上がったのが原因らしいから、被害者は未練があったのか
もしれない。完全に縁切りできず、業を煮やした栄田が……という構図を警察は描いて
いる訳だ」
「縁談相手とはもう結婚してるのか? 書いてなかったようだが」
「確かに、その点は書かれていないね。だけど、大きな問題ではないだろ。結婚したに
せよ婚約中にせよ、あるいは破局したにせよ、男が被害者を消そうとする動機は成り立
つ」
「まあ、そうだな」
「問題はこっち。栄田にはアリバイがある。犯行のあったとされる時間帯、栄田は学生
時代の友人四人と会って、都内を遊び歩いていたそうじゃないか」
 メモ書きの一点を指でとんとんと叩きながら、坂巻は首を傾げた。正確に言うと、栄
田が五人で行動していたのは、当日の正午過ぎから午後四時半まで。その後は帰宅した
と述べているが、そちらの証人はない。と言って、四時半から六時までのアリバイが成
立しないのかというと、そうではない。友人らを駅まで送り届けたあと、T市の現場ま
で、車で一時間は掛かる。往復で二時間、被害者と落ち合って殺害その他諸々で三十分
は余計に掛かると考えられるが、栄田が午後六時半に帰宅するのを、近所の人間が目撃
している。
「これが事実なら、彼には犯行不可能だ。友人全員が協力したとは考えにくい」
「……しかし、移動手段は車とある。栄田の車だ」
 刀根が重要事項のように述べた。が、他の三人はまだ彼が何を言いたいのか掴めな
い。
「前もって被害者の自由を、睡眠薬か何かで奪っておき、車の後部トランクに押し込ん
でおく。友人達と遊びに出たあと、何度か駐車する場面はあったろう。途中、隙を見計
らって皆から離れ、トランクを開けて被害者を絞殺。再びトランクを閉め、素知らぬ顔
で移動。友人達と別れたあと、T市の森に直行し、遺体を遺棄。すぐさま引き返せば、
ぎりぎりだが六時半には帰宅できるんじゃないのか?」
「綱渡りに過ぎるね」
「ぎりぎりなのは認めている。成り立たないとも言えんだろう。栄田がもしこうしたの
だとしたら、最初から完璧なアリバイ作りを企図してやったとも思えない。ガキが遺体
を見付けるなんて予想外だったろう。また、帰宅の姿を近所の人に目撃してもらえると
も限らないんだからな。アリバイはたまたまなのかもしれない。後に第二の現場に移動
しているくらいだしな」
「うーん……時間的にはぎりぎり成立でも、それ以外の点で心理的に無理」
 京本が明確に反対を表する。
「どこが?」
「どこがって、たとえば殺害の瞬間ね。いくら友人達の眼を遠ざけても、真っ昼間に、
トランクを開けて中の女性を絞め殺すなんて、きついでしょ。どこに停めたら、目撃さ
れる恐れなしに実行できる?」
「それは……やはり、山奥だろう。友人達と一緒に回ったコースを丹念に調べれば、適
した場所があるに違いない」
「そううまく行くかねえ。第一、そんな都合のいい場所に駐車できたなら、殺したあ
と、遺体をそこに置いていく方がいいんじゃあ? 山奥なら一時的には隠せるでしょ。
遺体を積んでずっと一緒に走るよりは、安心だと思うね」
「……性格の違いだ。栄田は図太いのかもしれん」
 自説に執着する刀根だったが、坂巻が割った入った。
「面白い説だと思ったけど、自分も反対だな。万が一、被害者が途中で意識を回復した
ら、目も当てられない。それに、第一現場にあった尿のこともある」
「……ああ」
 刀根は自説の決定的な弱点を理解したようだが、坂巻は敢えて口に出して説明を始め
る。
「トランク内で殺害したのなら、失禁した尿の大部分はトランク内に残ったろう。その
遺体を森に放置したって、現場から尿はほとんど検出されないと思う。六日も経って、
蟻がたかることもない」
 刀根が項垂れるように首肯した。そのとき、店のドアの方から、女性グループの声
が。
「あれ見て。もしかして」
「クライム? 似てるかも」
「うそ」
 そんな囁きが、意外とはっきり聞こえてきた。
 潮時とみて、クライムクラブの面々は店を出ることにした。

 夕食のあと、スケジュールの打ち合わせやグラビア撮影をこなし、解放されたのが夜
の十時。未成年者もいることから、原則的にはこれでタイムリミットいっぱいだ。
 クライムクラブの四人は、事務所の用意したマンションの同じフロアの隣り合った四
部屋に入っている。炊事や洗濯、共用スペースの掃除などはハウスキーパーがやってく
れる。ちょっと贅沢な寮生活のようなものだ。
「何度も言ってるけれど、夜更かしは厳禁。身体や肌に悪いし、特に明日は早いんだか
ら」
 マネージャーの聞き飽きた注意事項を受け流し、おやすみの挨拶をする。うるさい監
視の目がなくなったら、当然、事件についての検討会だ。坂巻の部屋に集まった――刀
根を除いて。
「刀根っちは? 否定されていじけちゃった?」
 いないところでは、刀根をそう呼ぶ大葉。坂巻がたしなめながら、「音楽の方でやる
ことがあるんだってさ。今日は空き時間を事件に費やしてたから、これくらいは仕方な
い」と度量の広さを示す。尤も、今やっているのは飽くまで余技、探偵ごっこ、捜査遊
びの域を出ないのだから、許容するも何もないのだが。
「それじゃあいつ抜きで始めるとしますか。これまで話し合った以外で、何か気になっ
た点は?」
「気になったというか、まだ話し合っていないというか。警部がファンレターを再検討
したいと言ったのは、何をどう再検討したかったのかと思ってさ」
 待ち構えていたみたいに京本が述べた。
「言われてみれば、江差さんのメモにも、その言及がないな。こちらからファンレター
を提供しただけで終わったのかな」
 児山次郎からのファンレターは、封筒ともども、警察にて提出された。念のため、宛
名書きと内容文全てをコピーしてあるが、そのコピーは事務所が保管しており、今、ク
ライムクラブで文面を確認することはできない。
「特段、おかしな箇所はなかったよねえ」
「……警察が気にするとしたら、まず、男の子自身が犯行に関わっているか、現場をい
じったか、だろうな」
 坂巻はそう言ってから、二人からの視線に気付き、急いで付け足した。
「無論、前者はない。警察は、児山次郎君がつい、現場に何らかの手を加えてしまった
ケースを考えているのかもしれない」
「仮にそうだとしても、あの文章、記憶してる限りじゃ、特に何もなかったはず」
「警察だって、確信があってファンレターを預かったんじゃないだろうしね。最終的に
発見された遺体と、子供が目撃したときの遺体の状況に、変化があるかどうかって話な
んじゃないか」
「それならまあ分かる。犯人が誰にしろ、遺体を移動したのは犯人である可能性が高い
し、遺体の状態に変化があったのなら、そこには犯人の痕跡が残っていると期待できる
訳だ」
 こうして京本を納得させた坂巻だったが、自身の言葉を反芻する内に、ふと気に掛か
ったことがあった。
「……犯人は何故、遺体を移動したんだろう?」
「うん? そりゃあ、子供に見付けられたと知ったから、じゃないの?」
 大葉は、決まってると言わんばかりの口調だ。対して坂巻は、首を横に振って、まっ
すぐに見つめ返す。
「見付けられたことを、どうやって知った?」
「えっと、その話なら前もしたじゃない。現場のすぐ近くに隠れていて、見たって」
「普通の殺人犯なら、なるべく早く現場を立ち去りたいはずだ。隠れていたのなら、そ
の理由がいる」
「それは……」
 大葉の声は細くなり、語尾が判然としないまま消えた。助けを求める視線を、京本に
向ける。京本は咳払いを一つした。
「そうだなあ。最初から、遺体を動かすつもりだった……というのは無理があるか」
「ああ。殺したばかりなんだから。第一の現場は、本来、人がなかなか立ち入らない場
所で、遺体を隠すのに持って来いの場所なのに、端から移動するつもりだとしたら合点
がいかない」
「すると……殺した直後で、逃げる前に子供が来てしまった、とか」
「確率は低いが、ないとは言い切れない。でも、その場合、犯人は小学生を見逃すだろ
うか? いっそ始末しようと考えるのでは?」
「犯人の性格に因るだろうよ。目的以外の殺人はやりたくなったのかもな」
「いいだろう。しかし、それを認めるとしても、だ。犯人は当然、児山次郎君が立ち去
った直後から、遺体を移動させようと行動を開始したはずだね」
「うむ。そうなるね」
「でも、心理的におかしくない? 児山次郎君は怖くて通報しないどころか、誰にも話
さなかったみたいだけれど、犯人は最悪のケースを想定するのが普通じゃないかな。こ
の場合、さっきの小学生が大人を連れてすぐに戻ってくる、と」
「……なるほど。犯人は、遺体移動を開始したくても目撃されてしまう、と予想するの
が自然だな。森の奥に入る訳にも行くまいし」
「だろ? 考えてみると、おかしいんだよな」
 京本から反論が出なくなったところで、大葉が議論に復帰する。
「でもでも、事実は遺体移動されてるんだよ。理に適った流れがあるはず」
「理に適ったというか、条件に合う状況を描くなら――犯人は現場を立ち去ったあと、
児山次郎君が遺体を見付けたことを知った――となる。これなら、遺体を動かすタイミ
ングをある程度選べる。犯人にとって自由に動ける、人目に付かない時間帯にやれる」
「え? けど、児山次郎君は誰にも話してないんだから、犯人は遺体を見付けられたこ
とを知りようがないんじゃあ」
「現場を離れ、安全な場所へ舞い戻ったあと、男子小学生が森に通じるけもの道から出
て来るところを見たのだとしたら?」
「意味が分からないよ。安全な場所って、車の中? だけど、犯人は一刻も早く、現場
から遠ざかりたいっていう理屈を採用するんなら、車内からじっと見張っているのはお
かしいし」
 坂巻は大葉の見解に、丁寧に頷いた。
「車じゃない。今思い浮かんだんだけれどさ。犯人は、現場の近くに家を構えているん
じゃないかなって。窓から、森への道を監視できるくらいの距離に」
「……」
 大葉と京本は何度も瞬きした。それから顔を見合わせ、どう思う?という風に視線を
交わらせる。
「何だか説得力あるような」
「ただ、どこかに穴がありそうな気もする」
 二人の反応を受け、坂巻は「穴っていうのは、こういうことじゃないか」と前置き
し、己の推理の締め括りに入る。
「森への道を見張れる場所にいるのなら、小学生が入って行く姿にも気付いたのではな
いか、ってね」
「ああ、うん、そういう穴がある」
「だけど、これくらいの穴なら、埋めるのは簡単だよ。児山次郎君が入って行くとき、
犯人はいなかった。それだけのことだ」
「いなかったって……状況としては、殺人を犯したばっかりなんだよね? 家から見張
れるんだったら、じっと見てるもんじゃあないの?」
 大葉の質問に、坂巻は待ってましたとばかりに即答する。
「単純に、出掛けていたと考えればいい。少しでもアリバイ作りしたくて、人に会いに
行ったのかもしれないし、単に外せない用事があったのかもしれない。そして帰宅後
に、森から出て来る児山次郎君を見掛けた。恐らく、こういう経緯があったんじゃない
かな」
「ていうことは……児山家の近くに、犯人の家が?」
「大葉君、慌てない。児山次郎君は当時、親戚の家を訪ねていたんだよ」
「あ、そうだった」
 アイドルとしてリアクションの癖が付いているのか、いわゆるテヘペロポーズを決め
る大葉。不謹慎だぞと注意した京本にも、めんごめんごと返す始末だ。
「とにかく、今の推理を、和井警部に話してみようと思う。どう処理するかは、向こう
次第ってことで」
 京本と大葉はすぐに賛意を示した。あとは刀根の意見をまだ聞いていないが……。
「クライムクラブの総意って訳でもないんだし、了承なしでかまわないだろう」
「だね。いちいち、全員で決を採ってたら、スピードが出ない」

 和井警部は坂巻の推理を、興味を持って聞いてくれた。代わりに、捜査の情報をちょ
っとだけ教えてくれさえした。といっても、最終的に見つかった遺体の状態と、児山次
郎が最初に見付けた時点での遺体の状態に、顕著な差がないという現状確認のような情
報だったが。
 夜の電話はそれだけで終わったが、翌日の夕方には、捜査は大きな進展を見せてい
た。
「西木俊也? 誰なんですそれ?」
「小学生の子――児山次郎君の言っていた“おにいさん”だよ。そして、今度の事件の
容疑者として逮捕されたって」
 古屋がもたらした最新ニュースに、クライムクラブの四人は、椅子から腰を浮かせ
た。レコーディングを前にして、トレーニングが一段落したところだったからよかった
ようなもの。話してもらうのがレコーディイング直前だったりしたら、仕事に悪い影響
が出ていたかもしれない。
「つまり、犯人? 何で?」
 唖然としていたメンバーの中で、いち早く立ち直った坂巻が聞き返す。
「よく分かんないんだけれど、現場の森へ通じる道を見通せる部屋を使っていること
と、小学生の子が遺体を目撃した当日、しばらく留守にしていたという事実が端緒にな
ったんだって。調べてみたら、亡くなった女性とは、東京へ遊びに行った際に知り合っ
て、深い仲になっていたらしいね」
「ははあ〜」
 何とも言えず、嘆息する坂巻。
 マネージャーの古屋は休憩があと五分だと告げてから、思い出したように付け加え
た。
「あ、あと、和井さんがあなた達にお礼を言っておいてくださいと言っていたわ。何の
こと? 何かしたの、あなた達?」
 不思議がる古屋。疑いをこちらに向けてこないよう、坂巻らは「何言ってんの、古屋
さん。最初の通報で協力したじゃん」と、最高の笑みを作って答えておいた。

             *           *

「何だよ、久しぶりに“掃除”ができると、腕が鳴っていたのに」
「そう言うなよ。一応、悪いことだという認識はあるんだから、せずに済んだのはめで
たい」
「だがな。皆の推理の輪に加わらずに、音楽――俺個人の作詞作曲も犠牲にして、準備
に取り掛かっていたんだぜ。それが無駄になったんだから、落胆もひとしおさ」
「悪かったよ。ちょっと急ぎすぎた。次は、方向性がはっきり、明確になってから、動
くことにしよう」
「次って、次も俺の番でいいんだな?」
「まあ、京本君の了解は取ってないけれど、刀根君でいいと思うよ。大葉君は元から、
直接手を下すのはあんまり好きじゃないみたいだし」
「約束したからな、リーダー」
 刀根が部屋を出て行くのを見送ると、ドアを背中で押してぴたりと閉めた坂巻。ドア
の冷たさから離れると、ユニット結成時のことを、不意に思い起こす。
(何の因果か、全員、人を殺した経験のあるグループなんて。その上、ユニット名がク
ライムクラブと来ちゃ、冗談にもならない)
 口元に笑みが勝手に浮かんだ。だが、すぐさま引き締める。
(他の三人も、俺と同じなのかな? 本来の自分とは別の名前を与えられ、別人として
生きている……。だとしたら、メンバーの誰か一人でも、前の経歴がばれた場合、ユニ
ットはどうなるんだろうか。補充するのか、解散か。補充するのなら、そいつもまた殺
人経験を有していなければばらない?)
 いつか来るかもしれない未来を脳裏に描くと、何故かまた笑みが浮かぶ坂巻優弥だっ
た。

――終




#486/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/08/30  22:50  (364)
崩れる欲望の塔 <前>   永山
★内容
 退屈さのあまり、盛大にあくびをしたところで、ドアをノックする音がした。
「こちらは探偵の江口さんの事務所で間違いないでしょうか。ご依頼したいことがあ
り、伺わせてもらったのですが」
 続いて聞こえてきた声は、なかなか渋く、落ち着いていた。年齢層は絞りづらいが、
豊年(中年の別の言い方として提唱されるも、定着しなかった用語だ)なのは間違いな
い。
 江口は目元を指先で拭うと、咳払いをして喉の調子を確かめた。
「どうぞ。開いております」
 回転椅子を軋ませ居住まいを正し、待ち受ける。
「失礼をします」
 ドアを開けて軽く一礼して入ってきたのは、一見すると人品卑しからぬ紳士。身長1
70センチ前後、グレーのスーツを着込んだ身体は恰幅よく、胸板の厚さは昔スポーツ
をやっていたと思わせる。小さな目と鼻髭が特徴的。後ろに撫で付けた髪は豊かで、白
髪はほとんどない。ただ、顔の肌および皺から五十代半ばと推測された。
「そこのソファにお掛けください。生憎、助手は外出しており、何もお出しできません
がご勘弁を」
 事務机を離れた江口は、自分もソファに収まる前に、ドアの方を指差した。
「施錠した方がよろしいでしょうか」
「はい?」
 唐突な質問と感じたのか、訪問者は初めて頓狂な声を上げた。が、すぐに意味を理解
したようで、「ああ、鍵ですか。念のため、掛けておいてもらいましょう」と答えた。
 言われた通りにすると、江口は訪問男性の前に座った。間にはテーブル。その上には
ガラス製の灰皿がある。
「ご用件を伺う前に、どちらでここのことを?」
「『捲土重来』というバーで飲んでいるとき、どこかクラブから流れてきたらしいグ
ループ客が入ってきて、彼らの会話が耳に入ったのですが……ここは紹介状が必要なの
で?」
「いえいえ、そのようなことはありません。積極的な宣伝広告は打っていないので、ど
うやってうちに辿り着かれたのか、気になるのです」
「はあ、それならよかった」
「さて、ご依頼は? わざわざうちを選ばれたからには、ご存知と思いますが一般部門
か、それともAV部門でしょうか」
「その、後者の方です」
 男性は少し俯き、早口で言った。
「どうしてもちゃんと観てみたい、AVがあるのです」
「なるほど。詳しい話を聞かせてください」
 江口は受付用の紙を取り出し、メモを始める構えをした。
 眼前にいるような紳士がAV部門の依頼を持ち込むことも、もうすでに意外には感じ
なくなっていた。

「サイトを持てとまでは言わない。せめて、メールぐらい導入しましょーよ」
「いや、何だかな。簡単手軽に依頼できるシステムがあると、捌ききれなくなる」
 江口は数字をメモすると、計算機のアプリを閉じた。
「特に、AV部門に依頼が殺到するかもしれない」
 江口は探偵を生業としている。推理小説に登場するような、殺人事件を主に扱う探偵
だ。だが、それだけでは生活が成り立たないので、副業としてこれまた探偵――アダル
トビデオの探偵をやっている。依頼者が朧気にしか覚えていない、でもどうしても観て
みたいアダルトビデオ作品を特定する。そして希望があれば、入手方法も示唆するのが
主な仕事だ。
 と言っても、江口の知識はたいしたことない。自身が興味を持っていた昭和時代が中
心で、それよりあととなると守備範囲に入るのはせいぜい一九九五年辺りまで。加え
て、真っ当なアダルトビデオしか見てこなかったため、裏物はほぼ分からない。また、
レズやゲイ、スカトロといったジャンルはたとえ表の作品だったとしても、全く詳しく
ないどころか、見ると気分が悪くなってしまう。SM物でも血が出るようなのはだめだ
し、強姦物はあまり真に迫っていると途中で停止する。
 かように一般市民的な江口には、何名かサポーターがいる。その内の一人が、助手の
占部あきらだ。さっきメールぐらい導入しよう云々は、占部の台詞。若いくせに結構詳
しい。若さ故の好奇心と言える。ただし鑑賞経験はさほどなく、ネットを駆使してデー
タとして把握している。ジャケット写真を見れば、たとえその作品を知らなくても制作
年をプラスマイナス一年の範囲内で言い当てるという特技?の持ち主だが、今のところ
役に立った経験はない。
「殺到して欲しい〜。ここのところ、両部門とも依頼がさっぱりないじゃないのさ」
「しばらく困らない程度には稼いだはず。この間の、満田蔵之介氏からの依頼をこなし
て、礼金を弾んでもらっただろう」
 満田蔵之介はIT業界で成功した事業家・投資家で、江口の上得意でもある。金を持
て余したのか、それとも元々性的欲求が強いのか知らないが、五十才にしてアダルトビ
デオのソフトを密かに集め始めた。それも、本人が中高生の頃に見て印象に残っている
作品を中心に。
 中学生や高校生でアダルトビデオを見たとは、ネット全盛の昨今ならまだしも、昭和
五十年頃では難しいはず、と感じた向きもあるかもしれない。だが、当時はある意味非
常におおらかな時代であった。地上波で、アダルトビデオが流れていたのだ。無論、作
品を丸々流すことは滅多になかったが(「滅多に」という注釈は、とある噂に因る。某
ローカル局が誤ってオンエアしたことがあるらしい)、深夜のアダルト番組の一コー
ナーとして、アダルトビデオのダイジェストを流して紹介するのは当たり前のようにあ
った。一度に紹介するのは2〜3作品。長さは五分程度で、見せ場となる“よいシーン
”が含まれている。いいところで切れるのもお約束。
 そんなお預け状態の映像でも、普通の中高生には刺激的で、強烈に印象に残ることも
あろう。でも、夜遅くに音量を下げたテレビの前で一人スタンバイし、「今週はどんな
エッチなビデオが紹介されるんだろうか」とわくわく?して待ち構えている青少年が、
将来を見越して作品のタイトルやメーカー名、女優名なんかをわざわざメモに取るだろ
うか。いや、取らない。好みの女優の名前ぐらいは覚えることもあるだろうが、その他
のデータは雲散霧消。残るのは、印象深いシーンに決まっている。
 さて、成長した元青少年は、ふと思い立つ。あのときのアダルトビデオの全編を見て
みたい、と。だが、脳裏に染みついたように残る作品のデータ全てを思い出すのは不可
能だ。断片的な記憶を拾い集め、そのプレー内容で検索してみても、世の中には同じ趣
向の作品なんて星の数ほどあろう。
 大っぴらに問い掛けてみるのも一つの手かもしれない。ネットの掲示板なり質問箱な
りで、これこれこういうシーンのあるアダルトビデオご存知ありませんか?って。確実
に見付かるとは限らないが、期待はできる。ただ、いい年した大人になると、こういう
質問をネットに書き込むことに、慎重になるものだ。個人情報の流出が頻発する昨今、
怖くて書けやしない。
 そんな大人を手助けしようとの趣旨で開設されたのが、江口探偵事務所のAV部門。
千客万来とはとても言えないが、口コミで一定の利用者が現れる。ただ、部門設立のき
っかけは、警察の人が持ち込んだ依頼だった。
 元から顔見知りだった多倉刑事は当時、連続絞殺事件の捜査に携わっていた。三人の
被害者は若い女性ばかりで、遺体発見時、いずれも本人の物ではない服を着用してい
た。関係を持った男がプレゼントした服だと推測されたが、それにしてはおかしな事実
が浮かび上がった。どの服も既製品ではあったがデザインが古めかしく、一九八八年辺
りの物だと判明。実際、販売ルートを探ってみると、既に新品・正規品としては流通し
ておらず、オークションやバザー、リサイクルショップの類でしか見当たらないだろう
と考えられた。そういった衣服の入荷照会は困難で、地道に聞き込みを続けるも成果が
上がらないでいた。行き詰まった多倉刑事は、江口を訪ね、何の事件かは明かさずに、
かつ、さもうっかり見せてしまったかのように振る舞って、遺体や凶器の写真及び現場
周辺の簡単な地図を示した。いつものことなので江口も承知の上で、意見を述べる。
「この人達って……どこかで見たような」
「見た? 見たって、まさか江口君。被害者の中に知り合いがいるってのか?」
「そうじゃない。そうじゃないのは明らかなんですが、記憶に残ってる。個人の顔とか
ではなく、全体の印象が……あ」
 ふわふわと頼りなく漂っていた記憶の断片を掴まえた。江口は刑事の顔を見て、若
干、顔を赤くした。
「僕も若い頃、人並みにアダルトビデオは見ました。ま、何を持って人並みと判断する
のかは横に置いておきます」
「何を言い出すんだ?」
「彼女ら被害者は、どれもアダルトビデオのパッケージ写真を模倣しているんじゃない
かと思います。この写真、発見時のままを撮影したんですよね?」
「ああ、そうだと聞いている」
「ポーズを取らせている節がある。大きく開脚して右手で髪をかき上げたり、何かに両
腕をついて腰を突き出したり、胸を強調するように自らを抱きしめたり」
「確かにそうだが。しかし、こんなポーズ、アダルトビデオなら極当たり前にあるんじ
ゃあないか?」
「独創的ではないかもしれませんが、服のデザインや色まで一致しているのは、偶然で
は片付けられないでしょう」
「言ってる意味が分からん」
「この被害者達の格好は、一人の監督が撮った特定のシリーズのパッケージ写真を模し
ているのだと思います」
「ええ? ……そんなことが言えるとは、江口君は意外と助平なんだな」
 信じていないのか、多倉刑事は茶化すように言い添えた。江口は真顔で応じる。
「若い頃に見たアダルト作品は、強い印象を残すものです。それに一つ、傍証を挙げま
しょうか。えっと、確か、**シリーズの、監督名が出て来ないな。一人の監督が撮っ
たのは間違いないんですが。とにかく、このシリーズは行為の最中に首を絞めるプレイ
が必ずあるんですよ」
「うむむ。分かった、調べてみよう。だが、こんなことが手掛かりになるかね」
「衣装を揃えてるんですよ。犯人の執念というか執着を感じませんか。恐らく作品にも
拘りを持ってコレクションをしている。ネットで購入していたら、辿れるんじゃないで
すか? それにシリーズは確かあと四作ありました。次の犯行の準備をしているのだと
したら、警察側が先手を打つことだってできるかもしれない」
「なるほどな」
 結果的に、この江口の気付きが端緒になって、犯人は捕まった。ちなみに、男女の二
人組で、男の方の性的欲求及び殺人衝動を満たすために、女が手伝っていた。衣服の購
入も二人が手分けして行っていたため、簡単には把握できなかったという。

 きっかけは大事件で、ある意味なかなか華々しいスタートを切った訳だが、その気に
なってAV部門を起ち上げて以降は、刑事事件に結び付くような依頼はほとんどない。
あっても多倉刑事を通じた持ち込みで、見返りは金一封程度。稀にまとまった額が入る
こともあるが、基本的には小遣い稼ぎのような部門だ。ただ、本業の方も大して依頼の
ない昨今、重要な食い扶持になっているのもまた事実。
「江口さんは、ああいうのはやらないの? ほら、出演してるAV女優の身元を特定す
るの」
 資料の整理を終えた占部が、ファイルを閉じながら言った。
「必要があればやるかもしれないが、興味本位の依頼なら受けるつもりはないな。問題
は、身内を始めとする親しい人間からの依頼だよ。連れ戻したい気持ちは理解できる一
方で、女優当人の事情も把握しておきたい」
「あー、そういう態度なら、最初から受けないのが賢明ですねー」
「そうだな。――よし、と」
 江口の方も紳士からの依頼を片付け、報告書の区切りが付いたため、お茶を飲もうと
立ち上がった。が、ポットのお湯が足りない。水を少し入れて沸かし直す。
「占部君も飲むか?」
「あ、はい。いただきます。――全然ヘルプなしでしたけど、依頼、簡単だった?」
「ああ、検索だけで済んだ。多分、間違いない」
 依頼人が覚えていたのは、ざっくりとした内容とAV女優の顔立ち、媒体は地上波テ
レビ番組のAV紹介コーナーだったということくらい。だが、話を聞く内に、見た時期
を思い出した。一九八六年の四月以降、年内だった。
 テレビ番組で紹介されたからには、正規品であり、新作である。つまり一九八六年発
売。依頼者にこの年活躍した女優一覧を示し、有力な候補を挙げてもらい、五人に絞り
込んだ。ここで依頼者はお役御免、帰らせる。
 江口はこれまで積み重ねた調査実績により、その番組と特に結び付きの強かったAV
メーカー二社が分かっている。その二社から一九八六年四月以降に発売された女優五名
の作品をリストアップし、依頼者の説明した内容に合致する物を拾っていく。三つにな
った。あとは、依頼者の記憶していた場面と重なるかどうかを調べなければならない。
普通、ここが一番面倒で手間が掛かる(作品を入手することも多々ある)のだが、幸い
にも依頼者はその場面で女優が身につけていた下着を、色からデザインから詳細に覚え
ていた。ネット上の中古AV店でパッケージ写真を参照すると、ある一作の裏側のワン
カットがビンゴ。下着の色や形状が見事に一致した。
「こんなのでお金をもらっていいのかねえ。発売年さえ覚えていたら、時間は掛かって
も依頼者が自力で辿り着けただろうに」
「いやいや、そこは江口さんの話術があってこそ。エッチな思い出でも話しやすい雰囲
気に持って行くのがうまい」
「探偵に必須の能力ではないような」
 くさり気味に呟いたところで、ポットのお湯が沸いた。
 が、お茶を入れようという動作は中断させられた。またドアがノックされたからだ。

「職務中は、お茶一杯もらうのも慎重にならないといかんので」
 訪ねてきたのは多倉刑事だった。彼が建前を述べ、お茶を断ったので、江口と占部だ
けでコーヒーを摂る。
「どんな事件なんですか」
 AV部門以外の依頼なら何でもかまわない、ましてや多倉刑事からとなるとれっきと
した犯罪だろう。江口は腕が鳴るのを覚えた。
「ある意味、君ら向けの事件と言えるかもしれん」
 江口が顔をしかめたのは、コーヒーが苦かったからではない。君ら向けという言い回
しに、嫌な予感を覚えた。
「殺人なんだが、犯人らしき男はもう分かっている。天口利一郎という私立の大学生
だ。被害者はその知り合いで、同じ大学の尾藤寛太。ともに二年生で、年齢は一浪して
いる尾灯が上。大学に入ってから知り合ってる。一応、友人だったらしい。実際、動機
が分からない」
「本人が口を割らないのですか」
「割ろうにも割れないんだよ。死んでるんだ」
「え? つまりは犯行後に自殺したということですか?」
「違う。まだはっきりしていない。直接の死因は後頭部を強打したことによる脳内出血
と聞いてるんだが、現場の状況がな。他殺かもしれないし、事故死かもしれない」
 刑事の話を聞き、江口は、被害者が滑って転んで机の角にでも頭をぶつけたか、階段
を転がり落ちた可能性があるのだろうと思った。
「死んでいたのはアパートの一室。被害者の部屋で、ビデオテープが山のようにあっ
た」
「ビデオテープ……もしや、アダルト物ですか」
「ああ」
 それでここに来たんだなと合点する。嬉しくない。
「山のようにって、どのぐらい?」
「俺は実際に数えてちゃいないが、三百四十一本あったらしい。全部積み上げれば九十
センチ近くになる」
「三百四十一本、床に積み重ねてあったんですか?」
「それが崩れていて分からなかった。多分、いくつかに分けていただろう。あと、床に
あったかどうかも不明だ。本棚の上にも数本残っていたから」
「推測すると、テープの山が崩れて、天口の後頭部を直撃し、死に至らしめた可能性を
考えている?」
「そうだ。何せ、部屋は内側から施錠された、いわゆる密室状態だった。しかも、死亡
推定時刻には震度四の地震が起きている」
 それを聞いて、おおよその日時が見当づいた。十二日前の午前二時半頃だったろう。
土曜から日曜に掛けての出来事で、夜更かししていた江口は割と鮮明に覚えている。同
レベルの余震が今も続いている。
「正式な死亡推定時刻はその前後二時間なんだが……ちょうど頭を低くしているときに
地震が発生し、ビデオテープが崩れ落ち、打ち所が悪かったとしたら死ぬかもしれな
い。一本一本の重量はさほどないが、まとめて、あるいは連続して直撃すれば、可能性
はあると見ている」
「尾藤の死因は?」
「こちらも後頭部を強打している。ただし、死亡推定時刻は、地震発生の三〜五時間前
だ」
 頭の中で簡単な計算をする。前日の午後九時半から十一時半までの二時間か。
「尾藤も事故死の可能性あり?」
「ありかなしかと問われれば、ありだ。現場に転がっていたトロフィーの台の角と、頭
部の傷が合致しており、トロフィーは全体がきれいにぬぐい去られていたがね」
「蓋然性を鑑みて、何者かが尾藤をトロフィーで殴ったあと、指紋を拭ったと考えるの
が妥当という訳ですね」
「そうだ。そしてその何者かってのが、天口なのかどうかが問題だ。アパートには防犯
カメラがなくて、人の出入りの記録はない。目撃証言も、今のところないから、天口が
いつ尾藤の部屋を訪れたのか、不明なんだよ」
「尾藤を殺害した犯人が、天口も殺したのかもしれないと」
「そうなる」
「うーん。まだまだ気になる点がたくさんあるんですが。たとえば、何で今時、ビデオ
テープなんでしょう?」
「分からん。が、生活安全課の人間が言うには、三百四十一本のほとんどが珍しい裏物
らしく、DVDの形で出回っていない物もあったそうだ。ネット上にも流れていない、
超レア物だとさ。ビデオにはラベルの記載がほとんどなく、メモ書き程度だったんで、
いちいち確認するのに骨が折れたと言っていたよ。とにかく、被害者はそういった物を
コレクションしていたんだな。いつ、どこで購入したのか分かってないが、ネットでの
記録は見当たらないから、実店舗で買ったんだろう。小まめに回っているのを見掛けた
知り合いもいる」
「被害者はビデオからDVDにコピーしていなかったんでしょうか? 違法でしょうけ
ど、それを言うなら裏物自体、コピーが多いはずだし」
「今のところ、コピーしたと思しきDVDは、本棚の隅から少しだけ見付かっている。
ただし、三百四十一本あるビデオとのダブりはなかったようだ」
「へえ。じゃあ、片端からコピーして、ビデオテープは処分していたのかな」
「そこまでは分からんなあ。部屋に機械はあった。ビデオデッキとDVDレコーダーが
一体になったのが一つ、ビデオデッキ単体が一つ、DVDレコーダーが一つ。いずれも
ダビング中だったらしい。らしいというのは、捜査員が乗り込んだ時点では、三台とも
停止していたからだが、ファイルが作られた時刻はそれぞれ午前二時二十二分、午前一
時五十分となっていた」
「……時刻から考えると、そのコピー作業をしていたのは、天口ですね」
「うむ、気付いたか。メーカーや機種によって差があるかどうか知らんが、尾藤の部屋
にあったレコーダーは、どちらも録画を始めた時刻をファイル作成時刻として記録する
タイプだった」
「じゃあ、天口は珍しい裏物をコピーしたいがために、尾藤を殺害したんでしょうか」
 どんな条件を出しても尾藤がコピーさせなかったとしたら、あるいはあり得る?
「そのくらいのことで知り合いを殺すか? 第一、殺害現場に居残ってダビングを続け
るのも異常だぞ。目当てのビデオテープだけ選んで持ち出し、自宅でゆっくりやればい
い」
「メモ程度なら、選別できなかったのかも」
「あん? ああ、そうか。再生してみないと分からないという訳か。しかし、冒頭数十
秒で分かるんじゃないのか。タイトルぐらい出るんだろう?」
「それは物によります。テロップの類を一切入れていないやつもあるだろうし、色んな
作品から短いシーンをつぎはぎにした物もあります」
「うーん、そうか。となると……三百四十一本全部を持ち出すのは、難しいか」
「そこですよね。何往復かする必要があるものの、慎重になるべく物音立てずにやれ
ば、他の入居者や近所に気付かれることなく運び出せるでしょう。あ、天口は車を持っ
ているんでしょうか?」
「有名私立に通うぐらいだからと言っていいのか、持ってたよ。親が買い与えた物だが
ね。現場近くの駐車場に駐めてあった」
「それなら運べるか……。うん? 尾藤も同じ大学に通ってたんですよね? お金持ち
の家の子なら、防犯カメラもないようなアパートに何で……」
「ああ、すまん、言い忘れていたな。アパートは言ってみれば、尾藤のセカンドハウ
ス、ビデオ部屋なんだ。大量にあるビデオテープを保管するのが主な目的で、あとは鑑
賞だな。それだけのために、尾藤自らアパートを探して契約を結んでいる。防音だけは
完璧な物件をな」
「し、信じられんことをするなあ」
「同感だ。かなり古びて埃っぽくて、掃除機も何もない環境なのに、よく鑑賞できるも
んだ。まともな家具は棚以外には、冷蔵庫だけだった。それでいて尾藤の本来の住居
は、大学にも近い立派なマンションでね。そこに女性を呼ぶこともあったという話だ。
というか、マンションに女を連れ込むから、趣味のアダルトビデオを置いておけなく
て、アパートを借りたのかもしれん」
「尾藤って学生、普通に恨みを買っていそうだ……」
「アダルトビデオ好きという趣味は、よほど親しい男の知り合いにしか話していなかっ
たようだがな。天口を含めて四人、同好の士って奴だ」
「もし天口が殺人犯でないとしたら、残りの三人の中の誰かの仕業でしょうか」
「無論、その線も検討している。内一人には、アリバイがあった。旅行中――寝台列車
で移動していたんだ。連れがいたから間違いない」
「残る二人は……」
「現時点で引っ張る要素はないから、それぞれ一度ずつ事情を聞かせてもらっただけ。
一人は神坂伸人といって、尾藤と高校が同じで、学年は一つ上だった。進学せずに、実
家の電器店に入っている。もう一人は渡辺光三郎といって、尾藤や天口と同じ大学の同
学年。ちなみにこの三人は学部も同じ社会学部だ。事件当夜は二人とも、自宅で寝てい
たと語っている。現場の部屋を前に訪れたことがあると言っているのは神坂だけで、渡
辺はそんな部屋があることすら知らなかったと申し立てているが、信じていいのやら」
「こういうのはどうでしょう? 犯人が、尾藤のコレクションから超レアな裏ビデオを
奪って手に入れたとしたら、自分と犯行を結び付ける物であっても恐らく捨てられな
い」
「だから何か理由を付けて、家宅捜索をやれと? いやー、現段階では難しいな。わい
せつ画像を大量に所持してる可能性はあるが、そんな見込みだけではまず無理だ。現場
周辺で事件の前後、似たような男の目撃証言でもあれば、話は違ってくるが」
「そうですか……。天口も現場に来ていたのだから、犯人は天口とやり取りしているは
ず。携帯電話の記録を調べれば」
「天口の携帯電話なら、とうの昔に調べたさ。割と新しめのスマートフォンだったが、
案外使いこなしていない感があったな。殊に、AV趣味に関することには使った形跡が
ない。形跡を残すのを警戒して、敢えて使っていなかったのかもしれない。それはとも
かく、天口が神坂や渡辺と連絡を取り合って、尾藤の部屋に行く話になった様子はな
い。連絡自体も皆無ではないが、事件発生の何週間も前だ」
「その口ぶりだと、尾藤と天口の間でも、連絡を取り合った跡はなし?」
「ああ。恐らく法に引っ掛かるような物も扱ってたんだろうから、慎重に事を運んでい
たんじゃないか。こちとら違法なアダルト物ってだけでいちいち相手をしていられるほ
ど暇じゃないんだが」
 苦笑いを浮かべた多倉刑事は、占部の方を向いて、やっぱりコーヒーをもらおうかと
言った。喋る内に喉が渇いたらしい。
「いつものように、砂糖ちょびっと、ミルクたっぷりですかー?」
 席を立ちながら占部が聞くと、刑事は少し考え、今日は砂糖抜きでいいと答えた。
「天口の部屋も見たんですよね? アダルト物のコレクションはどのくらいあったんで
す?」
「二十作ぐらいだったかな。全部DVD。そういえば、レコーダーがなかったな。パソ
コンで済ませていたんだろう」
「レコーダーを持ってなかったとしても、DVDの扱いには慣れていたでしょうね。目
当ての作品がDVDにコピーされているのなら、そっちをさらにダビングした方が早
い。ビデオテープからダビングした物なら、コピーガードは掛からないのが普通ですか
ら、DVDからコピーできないってこともない。なのに、ビデオからダビングしようと
していたのだから、被害者の尾藤もビデオテープの中身をまだDVD化していなかった
……」
「理屈は分かった。だが、それが事件解決につながるのか?」
 疑問を呈した刑事の元に、コーヒーカップが届く。すぐに口を付け、満足げに頷い
た。
「分かりません。でも、根本的な疑問として、天口が尾藤を殺したのなら、やはり、犯
行現場に長々と留まって、ダビングを続けるというのは理解に苦しみます。尾藤と天口
以外に少なくとも一人、神坂が部屋の存在を知っていたんです。深夜だろうと何だろう
と、いつ来るともしれない」
「休み前だしな。運び出せる手段がありながら、留まっている理由……ああ、ダビング
するための機械がないじゃないか」
 多倉刑事はこれだとばかりに、膝を打った。
「天口の家にはDVDレコーダーすらなかった。パソコンでコピーしようにも、ビデオ
デッキがなければ話にならない」
「うーん、どうでしょう? ビデオデッキも、尾藤のを持っていけばいいじゃないです
か」
「そうか。配線が分からん、てこともないだろうし」
「第一、本当にビデオデッキはなかったんですか? 同じ家宅捜索でもどういう目線で
するかによって、見えてくる物が違ってくるもんです」
「……あとで聞いておく」
 多倉刑事の返答に、占部が横合いから突っ込みを入れる。
「あれ? 多倉さんて前に、個人の携帯電話の公的利用とかなんとかいう申請、したん
じゃなかった?」
「した。よく覚えてるな」
 渋い顔をする刑事。
「じゃあ、すぐにでも問い合わせよーよ」
「単独行動してるだけでもまあまあ異例なのに、また一般市民に助言を求めていると知
られたら、立つ瀬がない」
「もしかして、居場所を知られたくないから、電源オフにしてるとか?」
「そういうことだ」
 緊急の連絡があったらどうするのだろう、と疑問が浮かんだ江口だったが、聞かずに
スルーした。

――続く




#487/512 ●長編    *** コメント #486 ***
★タイトル (AZA     )  16/08/31  01:00  (359)
崩れる欲望の塔 <後>   永山
★内容
「ビデオデッキの件は横に置くとして」
 刑事が話の軌道修正を図る。
「仮に天口が犯人ではなく、事故死でもないとしたら、大きな問題を認めなければなら
なくなるぞ。密室だ」
「確かに問題です。地震が起きると予知できるのなら、それを利用したトリックも考え
られなくはありませんが。現場を密室にしたのが犯人の意図だとしたら、その狙いは天
口に罪を被せ、地震による間接的な事故死に偽装したかったんでしょう。そうなると、
地震が発生したあとに、犯人は天口を現場で殺害したことになる」
「なるほどな。となると……常識的に考えて、地震が起きた二時半以降に犯人から呼び
出されて現場に出向くってのは、まずなさそうだ」
「お宝アダルトが地震で偉いことになってるぞ!って言ったら?」
 これは占部の意見。対して江口は即座に否定的な意見を述べた。
「いくらお宝だと言っても、他人の物だし。呼び出すには、天口に大きなメリットがな
いとねえ。加えて、その時点で尾藤は死んでるんだ。犯人自身が電話する訳だけど、声
に気付かれたら、疑われるだけだよ」
「そっかー。納得した」
 占部が引っ込むと、江口は続けて仮説を展開した。
「思うに、天口も最初から現場にいたんじゃないでしょうか」
「同感だ」
「尾藤のコレクション部屋には、尾藤と天口と犯人の三人がいた。まあ、犯人は複数か
もしれませんが、ここでは一人にしておきましょう。多量のビデオテープを鑑賞しつつ
ダビングするために集まった、とでもします。その最中に何らかのトラブルが起き、犯
人が尾藤を殴り殺してしまう。想定外の事態に、犯人も天口も泡を食ったかもしれませ
ん。隠蔽すると決めた二人は、まず、自分達が今夜この場にいた痕跡の消去に精を出し
たでしょう。指紋や使ったグラスの始末、髪の毛なんかを拾っていたら、一時間以上掛
かる。何しろ、掃除機の類がないんだから」
「髪の毛は別に気にしなくても、問題ないんじゃあ。前に一度でも部屋に来たことがあ
るんだったら、落ちていておかしくない」
 占部が言うのへ、江口は首を左右に振った。
「仮定の上に仮定を重ねるのは好きじゃないが、たとえば、散髪してから間がなかった
としたら? 髪先の形状に明確な違いが現れる。嘘がばれる恐れ大だ。他にも、食べか
すが散らばったとしたらどうだろう。その“新しい”食べかすの上に毛髪があったら、
その毛髪は落ちたばかりだと分かる」
「うむむ……分かりました。先へ進めて」
「――仮に尾藤死亡が土曜の夜十一時半だったとすると、最初の混乱と痕跡を消す作業
だけで、午前一時ぐらいになっていたでしょう。その間に、途中だったダビングも済ん
だはずだし、犯人にとっては悪くない時間の使い方です。分からないのは、このあと。
普通なら、一目散に逃走する。まともな感覚の持ち主なら、留まってダビングを続行し
ようなんて考えない。もしかすると、犯人と天口、二人いたから心強かったのかもしれ
ません。一人はダビング作業に没頭し、もう一人は誰か来ないか見張り役をするんで
す。万が一、誰かが訪ねて来るようなら、素早く作業を中断し、息を潜めてやり過ご
す」
「二人いればという心理状態は分からなくもないが、それでもなお、ビデオテープを持
ち出さなかったのは何故かという疑問が残る。二人なら、運び出すのももっと楽だ」
 刑事の指摘に、江口は「そうなんですよね」と首を縦に何度か振った。
「大量のテープを持ち出すのは確かに手間でしょうが、犯罪の現場に留まる危険さに比
べたら、たいしたことじゃない。……ダビング後に、テープを戻す手間を嫌がったのか
な?」
「いやいや、戻す必要はあるまい。手元に残したら証拠になりかねないが、そこいらに
捨てりゃいいだけさ」
「ですねえ」
 行き詰まり、沈黙する江口。他の二人の口からも、何も出て来ない。名案はすぐには
浮かぶものではないようだ。
「……途中からちょっと気になってたんだけれど」
 占部がおずおずとした調子で言った。目は刑事の方を向いている。
「トロフィーって何のトロフィーなんです?」
「は? ああ、尾藤殺しの凶器か。学生の発明コンテストか何かだったな。高校生部門
で優秀賞をもらっていた。自動給餌器や給水器の発展版みたいな物だった」
「ふうん。そんないかにも自慢話に使えそうなトロフィーを、どうしてアダルトビデオ
鑑賞ルームなんかに置いていたんでしょう? 不釣り合いにも程がある」
「確かに」
 多倉刑事と江口は顔を見合わせた。しゃべり出したのは江口の方だ。
「本来なら、自宅に飾っておいて、やって来た女の子に気付いてもらうなり、さりげな
く見せつけるなりするのが普通ですね」
「それが普通かどうかは知らんが、少なくとも男しか来ないであろうアパートの一室
で、埃を被らせておく意味はないな」
「つまり……犯行現場そのものが、アパートではない?」
「考えられる。トロフィーはきれいに拭いてあった。指紋や血痕を消すためだろうが、
そのおかげで拭く前の状態が埃だらけだったか、それともぴかぴかに磨いてあったかな
んて、分かりゃしない」
「元々、尾藤のマンションに置いてあったんだとすると、殺人が起こったのもそこにな
る訳で、そのあと遺体移動が行われたことに……でも、マンションなら防犯カメラがあ
るんでしょう?」
「あ、ああ。そうだった。映像で確認したが、事前前夜の九時過ぎに出て行く尾藤が映
っていた。酔ったみたいな足取りだったが」
「ふらふらしていた?」
「うむ……そうか、江口君。考えていることが分かったぞ。トロフィーで殴られたあと
も尾藤はすぐには絶命せず、病院に行くためか、助けを求めるためか、とにかく外に出
たんだ」
「多分。脳内出血が徐々に進行することで、死が緩やかに訪れるケースはいくらでもあ
りますからね。それよりも、マンションの防犯カメラには、犯人らしき人物は映ってい
なかったんですか」
「それが、身元の確認できない人物なら、何名かいた。特に、尾藤の直前に入っていく
二人が。マンションは基本的に住人でないと入れないシステムを採用していて、鍵とパ
ネル操作で自動ドアが開くんだ。だから、問題の二人組は尾藤に開けてもらって、先に
入った可能性がある」
「出るときは?」
「出るときは、内側のボタンを押すだけで、自動ドアが開く」
「それなら尾藤に出て行かれたあと、追い掛けても問題なくマンションを出られるんで
すね。カメラ映像に、二人組が出て行くところはありました?」
「あった。ただし、二人揃ってではなく、一人が駆け足気味に出て、しばらくしてから
もう一人が出て来た。時間にして五分余りあとってところだ」
「恐らく、先に出た奴が尾藤を足止めして、あとから来た奴と合流し、アパートに車で
向かったんじゃないでしょうか。病院に連れて行くと騙したか、あるいは脅してアパー
トに向かわせたか」
「――畜生、思い出したっ」
 突然、刑事が吐き捨てたので、江口と占部はびくりとしてしまった。
「どうしました?」
「映像で見ていたのに、スルーしてたんだよ。あとから出た奴はボストンバッグを持っ
ていたんだ。その中に、きっとトロフィーが隠してあったに違いない!」
「ああ、だったら病院に連れて行くと嘘をついた可能性よりも、脅してアパートに向か
った可能性の方が高いですね。最初から、アパートを殺人現場に偽装する目的で、トロ
フィーを持ち出した。もっと言えば、その段階で病院に行けば助かったかもしれない尾
藤を、端から始末するつもりでいた」
「犯人達は、マンションに入るところを防犯カメラに撮られたと意識したからこそ、別
の場所で事件が起きたことにしたかったんだな。しかし……尾藤の頭に、殴られた傷は
一箇所しかなかった。改めて殴りつけてはいないことになるんだが」
「そこはやはり、最初の一撃のダメージがゆっくりと進行し、アパートの部屋に入った
時点で死に至ったんでしょう。何にしても、トロフィーは必要だったはずです。多倉さ
んから伺った状況から推して、ビデオテープの山が崩れることでその上に置いていたト
ロフィーが落下し、それを後頭部に食らって死んだと見せ掛けたかったんじゃないでし
ょうか」
「だが、実際はそうじゃなかったぞ。たまたま落下したと偽装するんなら、もっと“ら
しい”場所にトロフィーを放り出しているはずだ。第一、トロフィー全体を拭ったあ
と、改めて尾藤の指紋と血を付ける必要があるのに、そうはなっていなかった」
「気が回らなかったか、他の良策を思い付いたのか……もしかすると、ここで犯人は甘
口に全ての罪を被せることに決めたのかもしれない」
「“ここで”とは、アパートに着いてからという意味かね?」
「うーん、どうでしょう。ひょっとしたら、地震が起きてからかもしれません。地震が
起きて初めて事故死に見せ掛ける計画を思い付き、さらに天口に全部おっ被せることも
思い付いたとしたら……」
「待て待て。すると何か。結局、犯人と天口は地震発生までアパートに留まったと言う
のか、死体を傍らに? 状況がちっとも変わらないじゃないか」
「いえ、違いますよ、多倉刑事。今、我々が想定した状況なら、尾藤を車内に閉じ込め
ておくことができる。加えて、アパートは当初の犯行現場ではないという事実。万々が
一、来訪者があっても安心でしょう」
「まあ、比較的安心というレベルだろう」
「ともかく、二時二十二分まではダビング作業を行っていたんだと思います。正確に
は、DVDレコーダーのハードディスクに録画した分を、今度はDVDディスクにコ
ピーする時間が必要でしょうけど」
「地震発生後、犯人が天口をも始末したと仮定するのはいいとして、そのあとは何でダ
ビングをやめたのかね? 本数から言って、全部済んだはずがない」
「恐らく尾藤をアパートに運び込んだあとだし、天口も殺したとなると、さすがに留ま
っていられないと考えたのかもしれません。あるいはもっと単純に、犯人が欲しい作品
のダビングは終わった、だからさっさと立ち去ったのかもしれない」
「全てを欲しがっていたとは限らない、か。そりゃそうだな」
 一応の合点を得たらしい多倉刑事。顎を撫でながら、「残る問題は密室の作り方と、
物的証拠か」と呟いた。
「トロフィーが元々、マンションの方にあったことが証明できれば、この想定で大きな
間違いはないと思いますよ」
「うむ。尾藤のマンションの部屋に出入りした面々に、トロフィーに見覚えがないか聞
いていけば、割と簡単に証明できるだろう。マンションの部屋を子細に調べれば、最後
に部屋を訪れた人物の遺留物が見付かる可能性も高い。直接的な証拠とは言えないまで
も、落とすには充分強力な武器になる。結局、密室が最後に残る。江口君の柔軟な発想
力が試されるシーンだな」
「現場を見せてもらわないと、何も始まらないですよ」

 まだ解決に至っていない殺人事件の現場に、一般市民がおいそれと入れる訳もなく、
多倉刑事が部屋の写真を持って来ることで、代替案とした。
「写真を見せる前に、報告がいくつかあったな」
「何です?」
 日を改めてやって来た多倉刑事に対し、きょとんとして問い返す江口。今日は占部が
いないので、お茶の類が飲みたければ自分でやらねばならない。
「ビデオデッキの件だよ。天口宅にビデオデッキはなかった」
「そうでしたか。ま、大勢に影響はない事柄なので――」
「続きがある。ビデオとテレビが一体になった家電ならあった。最早テレビとして用は
なさない、単なるモニターだったが」
「へえ? お金持ちにしては物持ちがいいのか、けちなのか」
「入学から間もなく、ネットオークションで買っていた。ところが、半年ほどでビデオ
機能がだめになったらしく、修理のために電器店に持ち込んでいる」
「富裕層が物を大事にするのは、消費の拡大という意味では余り歓迎できないけれど、
基本的にはまあいいことですかね」
「驚くなかれ、その電器店こそが神坂の実家だ」
「――ほう。やはり、つながりはあったんですね。尾藤の知り合い同士」
「尾藤が天口に、神坂の店を紹介したようだ。結局、ビデオは修理不能だったが。
 次に、尾藤のマンションを調べた結果だ。事件前日の消印がある郵便物の上に、天口
及び神坂の毛髪が落ちていた。奴ら、マンションの部屋には以前から来たことがある
し、犯行現場をアパートであるように偽装するつもりだったから、油断したようだ」
「それじゃあ、容疑者は確定ですか」
「神坂だ。もう引っ張れるんだが、万全を期すために、密室の謎を解いてからにしたい
というのが捜査の方針でな。尤も、解けなくても、明日中には神坂を重要参考人として
呼ぶつもりだ」
「できれば解きたいですね。実は、腹案はもう浮かんでいるんですけど、現場写真を見
せてもらってからにします」
 多倉刑事は「期待してるぞ」と声を掛け、用意してきた写真十数枚をテーブルに並べ
た。
 ドアノブのアップが二枚、廊下側と室内側。室内側は、ノブの上にあるつまみを横に
倒すと施錠されるタイプの鍵だと分かる。廊下側には当然鍵穴があった。
「鍵は二本で、二本とも一つのキーホルダーに付けられ、尾藤の尻ポケットに入ってい
た」
 室内の様子は話に聞いていた通り、壁には棚が並び、ビデオテープが散乱している。
一部、床で重なっている物は、せいぜい三巻ぐらいか。大きなテレビはテレビ台に載っ
ており、その下のスペースにビデオと一体になったDVDレコーダーが収まっている。
さらにその手前には、DVDレコーダーとビデオデッキが横並びに置いてあった。前者
の薄さに比べて、後者の大きさが無骨な感じだ。それにレコーダーはディスク取り出し
口が床と平行になるよう、つまりは通常の置き方なのに対して、ビデオデッキはテープ
取り出し口が上向きになうように置いてある。
「付け加えておくと、手前の二台によるダビングが先に終わっており、テープもDVD
も入っていなかった。一体型の方はテープは入ったままで、DVDは抜いてあった」
 トロフィーは床に横倒しになっていた。部屋の奥らしい。すぐそばに、人間も横たわ
っている。これが被害者の尾藤に違いない。
 棚に目をやると、これまた聞いていた通り、一番上に一、二本のテープが乗ってい
る。並べてあるのは、ほとんどがDVDのディスクで、書籍も大量にあるようだ。
「本は写真集が大半だ。言うまでもないが、ヌード写真集ばかりだった。あと、アダル
トビデオの資料的な本があった。この事務所にも同じ本が何冊かあるだろう」
「持っていない物があれば、今後の調査のために欲しいぐらいです」
 冗談を言ってから、江口はビデオデッキの映った数枚に目を凝らした。次いで、ドア
の映った物にも目をやる。
「多倉刑事。この単独のビデオデッキと、玄関ドアとの距離や位置関係は分かります
か?」
「ええっと、そんなに広くない空間だからな。距離は4.5メートル程か、位置関係
は、まあ一直線と言っていい」
「間に障害物は?」
「室内のドアがあるが、発見時、開け放たれていた」
「いいですねえ。で、これが最も肝心。ドアのロックの固さはどんな具合でした? こ
の写真にあるつまみの動きが、スムーズかどうか」
「滑らかだし、大した力を入れなくても動いた」
「じゃあ、あとは方向だけの問題ですね。テグスのような丈夫で細い糸を、五〜六メー
トル分ほど用意して、両端に輪っかを作る。片方をドアのつまみに掛け、つまみを倒す
横向きの力が掛かるように、糸をまずドアの横方向に延ばす。そこから、釘か画鋲を壁
に刺すか、あるいは棚や下駄箱、傘立てなんかもあるでしょうからそれらの突起物を利
用し、一種の滑車とするんです。糸の方向をビデオデッキに向けるためのね。あとはビ
デオデッキまで糸を引っ張り、テープを収める挿入口まで持って来る。そしてもう片方
の輪っかを、テープを走査する軸に結び付ければ準備終了。ああ、もう一つ、タイマー
セットをしなければ。たとえば五分後に録画が始まるようにセットすれば、犯人は部屋
を出てドアを閉めるだけです。録画動作が始まったら、糸が巻き取られ、つまみが倒れ
て施錠されるという次第ですよ」
「……」
 江口のトリック解説を聞いた多倉刑事は、難しい顔をして首を傾げた。江口は言葉に
よる反応を待たずに言い添える。
「壁に釘や画鋲が打ってあった記録は、ないのかもしれません。でも、それはカレン
ダーを掛けておいた名残とか、ポスターを剥がしたあとだと思って、重要視されなけれ
ば記録されないのは当然です」
「いや、そこじゃない。私が、江口君よりビデオデッキを使っていた期間が長いからか
もしれんが、今の仮説には決定的におかしな点があると思う」
「ええ? どこがです?」
 頓狂な声を上げた江口。目が丸くなるのが自分でも何となく分かった。
「ビデオデッキって物は、テープが入っていなければ、録画の動作は始まらないはず
だ。早送りも巻き戻しも、再生も、どのボタンを押したって君の言う軸は動かないぞ、
多分」
「え……そうでしたっけ」
 動揺が露わになり、口の動きがあわあわとおぼつかなくなった。それでも食い下がろ
うと試みる。
「し、しかし。じゃあ、もう一台のデッキを使ったんでしょう。ビデオテープ、入った
ままだったんですよね?」
「うむ。だが、捜査の過程で当然、テープを取り出した。そのとき、機械の中にテグス
が巻き付いていれば、気が付くさ。実際にはそんな物、見付かっていない」
「……では、DVDレコーダーだ。ディスクトレイを開閉する動作を利用したんじゃな
いかな。リモコンを持って廊下に出て、素早く開閉を行えば、一旦開いたディスクトレ
イがまた引っ込んで元に収まる。その間にドアとドア枠の隙間からリモコンを室内に放
り、素早くドアを閉める。トレイの引っ込む力で、つまみは倒れ、鍵が掛かる」
「そのトリックの実現性は分からんが、ディスクトレイは糸を巻き取ってはくれまい。
糸が丸見えなら、やはり捜査員が気付く」
「……だめですか」
 江口はすっかり意気消沈した。自らの勘違い・思い込みで、解けたと思っていた密室
トリックが、再び難攻不落の城となってしまった。
「念のためにお尋ねしますが、テープレコーダーやテープリワインダー、もしくは8ミ
リ映写機の類は、室内にありませんでした?」
「今時珍しい代物だから、あればちゃんと記録するだろう。なかったはずだ」
「では、扇風機は?」
「なかった。エアコンならあったが」
「うーん……」
 しばし黙り込む江口。刑事の方は、並べた写真をどうしようか考えているようだっ
た。江口は仕舞われないよう、手を伸ばして一枚一枚を改めて見直す。
「玄関ドアの下から三分の一ほどの高さに、郵便受けのための取り出し口があります
が、これは?」
「とうの昔に調べたさ。完全に目隠しがされていて、外から内部は覗けない。糸などを
使った操作も不可能だ。万が一、うまく糸を通せたとしても、擦れた痕が錆に残るのは
間違いない」
 厳しく否定した刑事。それでも江口はあきらめなかった。
「――多倉刑事。玄関のたたき付近に、何か落ちていませんでしたか。特別な物じゃな
くてもいいんです。玄関にあって当たり前だが、とにかくそこいらに落ちていた、散乱
していた物」
「ええっと、靴に靴べらだな。靴は相当雑然とはしていたが、三足ほど並んでいた。い
ずれも尾藤の靴だと分かっている。靴べらは、セルロイドか何かでできた安物で、土間
に放り出された感じだった。ちなみにマンションの方にあった靴べらは、水牛の角に本
革を使用した高そうな代物だったのに、こっちには金を掛けたくなかったようだ」
「それだけ?」
「ああ。あとは、靴は三足ともスニーカーだった、くらいかな。一足は紐がほどけてだ
らんと垂れていた」
「靴べらはセルロイド製なら、それなりに反りますよね?」
「多分。下敷きよりは固いだろうな。そうそう、プラスティックの定規って感じだ。長
さも二十五センチから三十センチ見当だろう」
「……多倉刑事。これは実験してみないと断定できませんが、新しい説を思い付きまし
た」
「妙な前置きをしなくても聞くから、遠慮なく話してくれ。第一、最初の仮説だって、
実験しないことには成功するかどうか分からなかったろう」
「そうですね。じゃあ――靴べらには輪っかになった紐が付いているでしょう?」
「ああ、確かそうだったな。壁なんかの突起物に掛けるために」
「それをドアノブに通した上で、板状の部分をつまみにもたせかける風にセッティング
するんです。板を押せば、つまみが横倒しになる位置関係にね」
 江口の話を受け、多倉刑事は上目遣いになった。脳裏に、構図を描いているのだろ
う。
「イメージできた。それから?」
「次に、靴べらの先端に、スニーカーの片方を引っ掛ける。靴紐で輪っかを作れば簡単
です」
「だろうな」
「靴紐は、なるべく長くなるようにしておく。犯人は以上の準備をした後、そっと廊下
に出て、ドアを少しの隙間を残して閉める。隙間の幅は、片手でスニーカーを掴める程
度です」
「掴むとは、上から鷲づかみか、下から支える感じか、それともサイドからか?」
「そうですね、下からがいいでしょう。犯人はドアを完全に閉める寸前に、スニーカー
を上向きに軽く放る。ドアが完全に閉まる頃には、スニーカーは落下運動を始め、靴べ
らを押す力が発生する。靴べらはつまみを倒し、鍵が掛かる。と同時にスニーカーの紐
は靴べらから外れ、靴べらの紐もドアノブからはなれ、それぞれ土間に転がる。……い
かがでしょう?」
 探るような目付きになる江口。多倉刑事は一度口を開き掛け、何も言わないまま再び
閉じた。次に言葉を発すまでに、十秒以上経っていた。
「……言いたいトリックは分かった。できそうな気がしないでもない。実験してみても
いいと思うが、とりあえず、靴べらがノブに引っ掛かったままにならないか?」
「それはどっちでもかまいません。結果的に今回は落ちたんでしょうが、ノブに掛かっ
たままだったとしても、こういう風にして靴べらを用意してるんだなと思われるだけで
す」
「ふむ、なるほどな。状況とも合致している」
 刑事はメモを取り始めた。検討する価値ありと認めた証だった。

 その後、多倉刑事から寄せられた事後報告は、江口の自負心を少し満足させ、少し落
ち込ませた。
 警察署にて本格的な事情聴取を受けた神坂は、かなり早い段階で犯行を認めたとい
う。元々、犯罪をしでかして知らぬ存ぜぬを通せる質ではなかったらしく、防犯カメラ
の映像を見せたあと、マンションからトロフィーを移動させただろうと推理を突きつけ
ただけで、震え出したとのことだ。
 事件の構図は、江口らが想像していた通りと言ってよく、尾藤をトロフィーで殴った
のは神坂で、動機は本人の供述によれば、「金に困っており、冗談のつもりで尾藤に金
の無心を頼み、断るようならアダルトビデオをコレクションしていることや著作権を無
視してコピーしていることを大学で言いふらしてやろうか等と口にしたところ、激高し
て躍りかかってきたため、仕方なく手近にあった物を掴んで応戦した」という。どこま
で事実を語っているかは分からないが、たとえ事実であってもその後の計画的な犯行の
進め方や、天口をも手に掛けた行為から、情状酌量の余地はない。
 そして最後の障壁となっていた密室の作り方だが――。
「君の言うやり方を思い付き、やってみたのは確かだそうだ」
 多倉刑事には、にやにや笑いを堪えている節があった。
「ただ、うまく行かなかったんだと」
「え?」
「天口に罪を被せようという考えは、地震が起きたとき急遽思い付いたものだから、密
室作りも試行錯誤している余裕がなく、言うなればぶっつけ本番で行ったが、成功する
訳がないってことだ。三度ほど試したが、靴べらが早い段階でノブから外れてしまい、
失敗続き」
「でも、実際、部屋は密室になっていたんでしょう? 犯人があきらめたのなら、一体
どうやって密室ができたんだか」
「神坂は最後、仕掛けをそのままにして逃げ出した。本来なら片付けていかないと、天
口の事故死に見えなくなるが、アパートの同じフロアの誰かが起き出した気配を感じた
ので、一刻も早く立ち去りたかったと言っている。で、ここからは全くの推測になる
が、最初の地震から一時間後ぐらいに大きめの余震があったろ?」
「はい。まさか、そのままになっていた仕掛けが、余震の揺れによって作動し、偶然に
も密室が完成したと」
 思わず刑事を指差す江口。その手が小刻みに揺れた。
「そう推測するしかあるまい。室内の二人が虫の息ながらまだ生きていて、施錠したと
も考えられんのだし」
「そう、ですね」
 江口は現実を認め、受け入れることにした。偶然にはかなわない。
「気にする必要は全くないぞ、江口君。真相を見抜くきっかけを作ったのは、君らの手
柄だ。特にトロフィーがアパートにあったのはおかしいと勘付いたところは」
「それは助手の手柄ですよ」
 唇を尖らせて答えた江口は、占部の方を肩越しに見やった。データ入力作業に没頭し
ていたようなのに、今の会話はしっかり聞いていたらしい。にっ、と笑顔を向けてき
た。
「まあ、今回は仕方ないよねっ」
 探偵所長を所長とも思わぬ口ぶりで話し掛けてくる占部に、江口はまだ唇を尖らせた
まま、「慰めてくれてどーも」と応じた。
「いやいや、真面目な話。ぱっと見は似てるけれど畑違いの分野に首を突っ込んだ結
果、勇み足をしてしまったというだけで、基本的にはいつもの探偵能力を発揮できてい
たんじゃないかなと」
「ぱっと見が似てるって、何のことだい?」
 聞きとがめた江口は、椅子ごと向き直った。占部は芝居がかったウィンクをした。
「だってほら、AV探偵の看板を掲げていても、機械の方のAV――オーディオビジュ
アルには弱かったってことじゃない?」

――終わり




#488/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:38  (261)
広がるアクセスマジック 1   亜藤すずな
★内容                                         17/04/24 03:24 修正 第2版
            *             *

 カロン・ジーラは標的と対峙したときにいつもするように、警告を発した。
「誰かが通り掛かって助けてくれるなんて、期待しないことです」
 時間は平日の正午過ぎ、場所はオフィス街の公園。周囲に人はもちろんいる。
「光の屈折をちょっといじってやって、私もあなたも、その姿は他人に目にはとまらな
くなっていますから。声の方も、周囲をぐるりと真空の層で囲みましたので、届きませ
ん」
「それだけなら、行き交う人がたまたま入ってくることもあるんじゃないのか、その真
空の層に囲まれた内側に」
 標的である男は、ネクタイを少し緩めながら言った。やや前傾姿勢を取り、カロンの
動きに即座に反応できるよう身構えている。
「対処はしてあります。入った瞬間、その者の視力と聴力は失われますから。よほどの
覚悟を持って、しかも最初からあなたを助けるのだという決意を固めた者でない限り、
この場に入ってきても、何にもできますまい。それに」
 カロン・ジーラは自身の右手に視線を落とした。水滴がいくつも付いている。
「大して時間を掛けずに、目的は達成されるはずです」
 ボールを下手投げする要領で、スナップを利かせて右手を振る。水滴がいくつか飛ん
だ。矢のように、猛スピードで標的を目指す。
 いかにも日本のサラリーマンらしいスーツ姿の標的は、咄嗟に両腕を身体の前でクロ
スさせた。その腕に、小さな穴が空く。水滴と同じ数だけできた穴からは、少しだが血
がにじみ出た。
「痛いですか? 加減はしています。血が滴り落ちると、面倒なことになる可能性が高
まるので。ディスクを大人しく渡して、他言無用を約束してもらえるのなら、すぐにで
も終わります」
「こちとら、おまえらの実在を承知していたんだ。暇さえあれば、経験値を上げて能力
を磨いていたんだぜ」
「魔法の? 『Reversal』を介して得た魔法は発声を伴わねばならない。私に
とって空気を操り、声を奪うぐらい、簡単なことですよ」
「嘘だね」
 標的の発言に、カロンは初めて余裕の色を消した。表情を歪め、「何?」と短く問い
返す。
「空気を操れるのが本当なら、端から俺の声を奪っていたはず。そうしていないってこ
とは、おまえにそんな能力はないってことじゃないのか。何せ、俺のような魔法使いと
違い、おまえらは一人で一つの能力しか持てない。真空の層云々てのは、他の奴の力を
借りたんだろう。おまえらは仲間内において、時間制限あり等の条件付きで、能力の貸
し借りができるって、情報を得てるんだ」
「……まったく、あのゲームの作り込み具合には、驚かされる」
 元の余裕を取り戻そうと、冷静さの回復に努めるカロン。
「手の内を知られているのなら、のんびり構えてもいられない。交渉を打ち切り、実力
行使と行きましょう」
 言いながら動く。標的が今、ディスクを持ち歩いていることは確実だ。無傷での回収
が望みだが、最悪、破壊してもよい。だから遠慮なく、水滴を打ち込める。最前よりも
速く、手首を振った。
 標的の男の腕に、穴が増えた。
「確かに強烈な水の弾丸だが、慣れてくるとそんなに驚異じゃないな」
 強がりなのか、正直な感想なのか、男は笑みを口元に浮かべながら言った。
「これなら逃げ切れると思いましたか?」
「分からんが、可能性は上がった」
「いや、ありませんね」
 カロンは最後のつもりで、手首をみたび振った。今度はいくつか当たらなかった。
「私の力を、高速で物を飛ばすことだと考えているとしたら、それは大間違いですよ」
「何?」
「能力の貸し借りは、一対一でしかできない。つまり、真空の層は借りてきた力だが、
もう一つの光を操るのは私の力だということ」
「……」
 男のこめかみを、汗が一筋伝った。
「光を操り、水を高速で飛ばす。このどちらか一方の能力で、両方を実現するには? 
答はそう、水を操るのが私の能力なんだ。自分で用意した、ごく少量しか扱えませんが
ね」
「――もしや」
 はっと、何かに思い当たった顔になる男。その刹那、カロン・ジーラは己の能力を最
大限、攻撃的に発動させた。
 男の身体に火が着き、一瞬にして燃え上がった。ばたりとその場に倒れ込んだとき、
彼は既に死体になっていた。
(光を屈折させていたレンズは、全て私が操った水のレンズ。ちょいと角度を変えて、
太陽光を標的に集中させれば、一瞬にして焼き尽くせるのですよ。――おっと、呑気に
解説している場合じゃありません)
 借り物の力である真空の層が、時間切れを迎えていた。このまま視覚的に消えていて
も、煙や異臭で周りの人間が気付くだろう。カロンは公園を立ち去ることにした。ディ
スクは燃え尽きたに違いないから、確認の必要もない。
(そういえば)
 公園で騒ぎが始まったのを背中で感じつつ、カロンは思った。
(あの男はいかなる魔法の数々を身に付けていたのか、分からないまま終わってしまっ
たな。まあよい。呪文を詠唱することは叶わなかったのだから)

            *             *

 ショーン長門は、これなら興信所に頼まなくても、自力で突き止められたかもしれな
いなと思った。報告書や資料が一式入った封筒を帰宅後広げ、読み終えての感想だ。
 リストアップされた女子中学生は四十五人。報告書に添付されたそれら顔写真の中か
ら、あの日あの朝ぶつかった子を見付けるのは、案外簡単だった。
(松井飛鳥さん、中学一年生だったのか。あのときは一瞬だったからか、記憶に残った
彼女の印象はもっと年齢が上に見えた)
 写真をテーブルに戻し、さて、と腕組みをする。交通事故でこの数ヶ月動けなかった
遅れをやっと取り戻せたが、このあとどうすればよいか。
 やるべきことは分かっている。あのフロッピーディスクの行方を突き止める。この女
子中学生が所持している可能性はそれなりに高いだろう。所持していると仮定して、問
題はこの子かその周囲の誰かが既にゲームをプレーしたか否か、それも魔法使いを選ん
でプレーをしたかどうか、そして最も重要なのはキャラクター設定の途中でディスクに
触れたのか――つまり、本当の魔法使いになったプレーヤーがいるのかどうかだ。ノー
なら、速やかにフロッピーディスクを取り戻す。この場合、家捜しも辞さない。
 イエスならどうか。とうに騒ぎになっていてもおかしくないのだが、今のところ音沙
汰なし。だからといって、魔法使いが誕生していないとも限らない。うまく隠している
のかもしれない。少なくとも、悪用はしていないのだろう。
 ともかく、松井飛鳥に接触しなくては始まらぬ。そのための手も考えてはいる。成功
確率百パーセントとは言えないが、他に思い付かない。
 肝心なのは、余計な第三者を介在させないことだ。できるのなら、当人のみとコンタ
クトを取りたい。不審者扱いされないよう、いかなる段取りで行くのがよいのか。
 長門はしばらく沈思黙考したが、妙案は降りて来なかった。

            *             *

 日本での“初仕事”を終えたカロン・ジーラに、次の依頼が入った。
「英語教師として、ある中学校に潜入する? ええ、資格の点は問題ありませんが、今
すぐという訳には行かないんじゃありませんか?」
「心配無用。近い将来、その学校の英語教師に欠員が出る。採用されるよう、手筈は可
能な限り整えておく。あとはカロン・ジーラ、あなたの売り込み次第だろう」
「分かりました。それで、この仕事こそが、あなた方の言うへまをやらかした仲間の尻
ぬぐいでしょうか」
「そうなる。標的を突き止めるのに時間を要したのは、驫木空也の奴が単独行動に走っ
たからで」
「挙げ句、浄化されて元の人間に戻るとは、情けない限りです」
「言わんでくれ。あなたのように人間でいる内から積極的に荷担してくれた者と、強制
的に仲間に引き入れた者とでは自ずと差が生じるようなのだよ。それよりも、依頼の話
をしたい。標的は若い女――女の子と判明したのだが、意外と手強いかもしれない。驫
木空也は個人プレーが過ぎたが、特殊能力や戦法に関しては皆が認める実力者だった。
それを倒す程なら、腕の立つ魔法使いに違いない」
「せいぜい、注意するとしましょう。頼まれてわざわざ日本に来たからには、きちんと
こなしてみせますよ」
「言っておくが、次こそはディスクを奪取してもらいたい。敵を知るためにはあれを入
手・分析するのが近道だと考えられるのだから」
「そちらの保証はできかねます。私だって死にたくはないし、この力を失うのもお断
り。成り行きに任せるしかありません」

            *             *

 自慢にならないけれども、あたしは記憶力に自信がある方じゃない。試験勉強で必死
に覚えたことなんて、大半をじきに忘れてしまう。買い物はメモをしておかないと怪し
いし、道順にしたって方向音痴の気がある。少なくとも、胸を張れるレベルじゃないの
は確か。
 だけど、そんな私でも、今目の前にいる男の人は覚えていた。
「すみません。私は長門と言います。覚えておいででしょうか」
 幾分頼りのない、おずおずとした口調で切り出した相手男性は、三十代に見えた。彫
りが深く、見方によっては日本と西洋のハーフって印象。顔は、世間一般の基準に照ら
してなかなかの男前と評されるに違いない。両手で一つの紙袋を提げ、やや猫背気味に
しているため、ハンサムによるプラスが帳消しになりかねないけれど。
 いや、そんなことよりも。
「お、覚えてます。三ヶ月ぐらい前、この先の公園で……」
「はい。ぶつかってしまいました。あのときは急いでいたものですから、お詫びも何も
できずに立ち去ってしまい、大変申し訳ないことをしました。今さらですが、お詫びを
しようと思い、待っていたのです。お時間はありますか」
 本日ただいま、木曜日の放課後。宿題はもちろん出ているが、いつもに比べれば少な
い方。って、そんな状況とは関係なしに、この人には聞きたいことが山ほどある。
「あの、長門さん? 長門さんはあのとき、落とし物をされませんでしたか?」
「――しました。拾ってくれていたのですか?」
 男性の顔が少し強張り、すぐに柔和な表情に戻った。あたしが見ても分かる、明らか
な緊張、ひょっとしたら動揺?
「拾いました。あ、すぐに返そうとしたんですよ。あのあと、また公園に来てみて、あ
なたが通り掛からないか待ってみたんですが、一向に現れなくて。警察に届けるべきだ
ったかもしないですけど、その前に落とし主のヒントがあるかもって思って、その、フ
ロッピーディスクをパソコンに入れてみたんですよね……」
 あたしは相手に探るような目を向けていた、と思う。駆け引きするつもりはないもの
の、敵か味方か分からない内は、こうして探り探り、進めるしかないじゃない。
 対する長門さんはというと、唇をぐっと噛み、次にちょっとだけ嘗めてから小さく息
を吐いた。間が生じていた。この人は恐らく、『Reversal』について、詳しく
知っている。そして、あたしが『Reversal』をプレイしたのか、魔法使いにな
ったのか、量りかねている? 敵だとしたら、とうにあたしが魔法使いだってことは掴
んでいるはず。いきなり襲撃してきてもおかしくないのに、そうじゃなかった。だか
ら、敵ではない。味方同士になれるかどうかは分からないけれども、今はとにかくあた
しの方には敵意のないことを知ってもらいたい。
 あっ、そうだ。こんなときに備えて、江山君と相談していたんだった。携帯電話を持
っていれば、すぐに連絡を取れるんだけれど、今のあたし達にはないからってことで捻
り出した方法――そう、魔法を使う。
「長門さん。あたし、魔法を使えます。少しだけですけど」
「――そうか」
「今から、魔法を使って友達を呼びますね。信頼を置いているクラスメートで、フロッ
ピーについても知っています」
「待て。その友達をここにいきなり呼び寄せるというのか?」
 周囲に目を走らせ、往来を気にする様子の長門さん。あたしは首を横に振った。
「そんな魔法は使えません。携帯電話の代わりに、メモを友達の元へ送るんです」
 言いながら、あたしは生徒手帳のページを一枚破り、必要な事柄を書き付けた。起き
ている事態とこの場所を伝えるために。
「移動魔法を使います」
 小声で言ってから、メモを瞬間移動させる先を心に明確に思い描く。誰それのいる場
所、という風なのはだめで、具体的に場所や空間を思い描く必要がある。この場合、あ
たしは江山君の生徒手帳のカバー裏を脳裏に投影した。これだけでは気付かない恐れも
あるから、カバー裏と表紙の間に異物が挟まると、小さなブザーが鳴る仕掛けをして
る。もちろん、江山君の自作。
「ラスレバー・エブリフェア」
 呪文を唱えつつ、メモが瞬間移動する、つまり消えるところを見てもらおうと、メモ
の紙を載せた手のひらを心持ち前に傾けた。
「――確かに」
 感心した口ぶりで、冷静なまま答える長門さん。が、不意に思い出したように聞いて
きた。
「杖を持っていないようだけれども? 杖を持たずに魔法を使えるようになるものなの
かい?」
 そうそう、杖があったわ。ゲームを最初にプレイしたときに生成?された、ペンライ
ト大の小ぶりな杖。これを身に付けていなければ、魔法は発動しない。最初は律儀に握
っていたのだけれど、衣服のポケットに入れる等して、身に付けていればいいと分かっ
た。
 説明を聞いた長門さんは、これまた感心したように頷いた。意外と知らないことが多
いみたい。あたしとしてはちょっと不安になる。落とし主と出会うことで、魔法のフロ
ッピーディスクの謎が解けると期待していたのに。
 あたしの心配をよそに、長門さんは改まった声で、秘密めかして始めた。
「率直に話してくれて、ありがとう。私は『Reversal』の発見に携わった関係
者なのだが、どうすれば信じてもらえるだろうか」
「……襲ってきた人とは、どういう関係なんでしょう?」
「襲ってきた? もしや、すでにジャドーの者から目を付けられているのか」
 再び、緊張を露わにする長門さん。さっきよりも強烈で、手の先が震え始めたように
すら見えた。あたしは黙って頷き、「杖のおかげで助かりましたけど」と答えた。
「詳しく聞かせて欲しい。杖で撃退できたというのかい?」
「撃退というか……相手の人が勝手に杖に触れたんです。そしたら何か化学反応をした
みたいになって、相手の手がただれたみたいになって」
 この説明に、長門さんの緊張が少し解け、安堵する。
「敵はそのあとどうなった?」
 あたしの方にも聞きたいことは一杯あるのに、何故か質問攻めにされている。思って
いたのと違うけれど、仕方がない。攻撃魔法を使った結果、敵は一時的に気絶し、意識
が戻ると普通の人に戻って、何も覚えていないようだったことを伝えた。
「なるほど、興味深い。――そうだ、信用してもらうために、杖を押し当ててみるとい
うのはどうだろう」
「……敵なら皮膚がただれたみたいになる、そうじゃなかったら何の変化もないってこ
とですね」
 これにはあたしも気付いていた。正確には、江山君と相談する内に思い付いたんだけ
れど。実例が一つしかないのが心許ないとは言え、有効じゃないかしら。あたしは杖を
取り出した。長門さんが差し出した右腕は、袖がまくられ、肌が露わになっている。
「押し当ててみて」
「はい」
 遠慮なく、きつめに当ててみた。何も起きない。長門さんも全く動じない。
「これで一応、証明できたかな。尤も、普通の人間のまま、ジャドーに協力している輩
がいるとしたら、この方法で分かるのかどうか」
「え? そんな怖がらせるようなこと言われたら、信用しにくくなるじゃないですか」
「ごめんごめん。でも、もし私が敵に与する普通の人間なら、今のチャンスを逃しはし
ないと思うよ。杖を奪う絶好のチャンスを」
「あ、そっか」
 中学生のあたしに、大人の男の腕力にあらがう力はない。
 場の空気がだいぶ和んだところへ、長門さんはさらに和ませるようなことを言った。
「ところで、松井さんの友達という人は、あとどれくらいしたら来てくれそうなんだろ
うか」

 学校にいた江山君は、十分足らずで駆け付けてくれた。
 息を切らしながらも、長門さんを見て警戒を露わにするものだから、あたし、慌てち
ゃった。事の次第を急いで話すと、さすが江山君、即座に把握したみたい。自己紹介を
そつなくこなし、早速、「長門さんの知っている話を、僕らに教えるつもりはあるので
しょうか」と切り出した。
「もちろん。そうしたいところなんだが、適当な場所が近くにあるかい? 君達の指定
する場所に移動するよ」
 往来でするような話じゃないのは当然よね。
「それじゃあ、そこそこ騒がしいところがいいでしょうから」
 ってことで、最寄りのファミリーレストランに移動した。校則でこういう店の出入り
は禁じられているけれど、大人と一緒なら入れる。あ、カラオケ店という選択肢もあっ
たけれど、やっぱり会ったばかりの人と個室空間で膝をつき合わせるのは不用心だと考
えた、とあとで江山君が言っていた。
「何か食べるかい? 一応、経費で落ちるから」
 長門さんの言葉に甘えて、メニューから物色を始める。けど、あたしと違って江山君
は対照的に、「今、経費と言いました。長門さんは何らかの組織に属して、組織の思惑
で動いているのですか」と尋ねた。
「そうだ」
 力強くうなずいた長門さんは、通り掛かったウェイトレスを呼び止め、ホットコー
ヒーを頼んだ。あたしと江山君もそれぞれオーダーしたあと、会話再開。
「こんな仕事だから、名刺は作っていないし、携帯電話にもろくな情報は残していない
んだが、私はテストする部署に所属している。組織名はメイジリバーサルプロジェクト
という。略してMRP」
「明治?」
 あたしと江山君の声が揃った。長門さんが笑みを浮かべて補足説明をしてくれる。
「メイジはアルファベットでmageと綴って、魔法使い、魔術師を意味するマジシャ
ンに相当する古い英語表現なんだ。いや、私も知らなかったんだが、組織のお偉いさん
がそう名付けたってだけで。ああ、もし第三者に聞かれても、明治リバイバルとかの聞
き違いだと思ってくれそうだから、なんて理由もあるとかないとか」

――続く




#489/512 ●長編    *** コメント #488 ***
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:39  (350)
広がるアクセスマジック 2   亜藤すずな
★内容                                         17/04/24 03:33 修正 第2版
「テストというのは、どんなことをするんです?」
「それは……順を追って話した方がよさそうだ。まず、『Reversal』の出所か
らね。アンバー・トンプソンという伝記作家が、ビリーとジェイドのゲイル夫妻につい
て調べ始めたのがきっかけだ。ゲイル夫妻は十年ほど前(※本作の年代は一九九六年
頃)に亡くなった人物で、元々は発明で財をなしたんだが、交通事故で生死の境を彷徨
ったのを機に、何やら“目覚めて”しまったらしい。奇跡を求めるという風にね。老後
は、夫婦で錬金術や超常現象といった怪しげな研究に時間と金を費やしたんだ。普通な
ら成果が上がるはずがないんだが、ゲイル夫妻は何らかの発見もしくは発明を成し遂げ
たという噂があって、くだんの伝記作家が興味を惹かれたのもそこなんだ。トンプソン
は調査の末に、ゲイル夫妻に協力していた考古学者の存在を突き止め、その娘に会うこ
とができた。さらに、ゲイル夫妻に関係すると思われるいくつかの品物を見せてもらえ
たというんだ。その中に、3.5インチフロッピーがあった。インデックスにはRev
ersalと書いてあるフロッピーがね」
「それが、長門さんの落とした物なんですね」
「いや、違うんだ]
 意外な返事の意味を、あたしや江山君が考えているところへ、注文した料理が届い
た。長門さんの前にはホットコーヒー、あたしにはパフェ、江山君にはサンドイッチと
野菜ジュースが並ぶ。
 長門さんは、「食べながら話そう」とあたし達を促した。手を合わせていただきます
をしてから、またまた話に戻る。
「オリジナルのフロッピーをコピーしたんだよ。コピーした物でも元と同じ力が備わっ
ているか否かを調べるためにね」
「コピーできたんですね」
 江山君がまだ意外そうに反応を示してる。前を向いたまま野菜ジュースに差したスト
ローの吸い口をくわえようとするものだから、何度か空振りしてた。
「コピーの成功確率が異常に低いけれどね。千回に一度もないんじゃないかな。話の順
番を戻そう。アンバー・トンプソンは問題のフロッピーを含めた数点の品を、借りる許
可を得た。そしてフロッピーの中身がゲームソフトであることを確認し、ひとまずプレ
イしてみたが、何も起きなかった。プレイした君らなら知っていると思うが、キャラク
ターの職業を選ぶ等、いくつかのパターンがあるが、その全てを試す暇のなかったトン
プソンは他の品を当たる間、『Reversal』を姪っ子の小学生、ルビィに自由に
遊ばせた。その結果が、魔法使いの誕生ってことで、大騒ぎになった」
「どういう経過というか手順で、魔法使いになってしまったんですか」
 興味津々、あたしは身を乗り出し気味に聞いた。長門さんはしかし、残念そうに首を
横に振った。
「分からないんだ。今言った通り、トンプソンはその場に居合わせていなかったし、小
学生の子は驚きのあまりよく覚えていない有様だったから。でも、その後のテストで判
明はしている。多分、松井さんも該当するはず」
 そう言って長門さんが教えてくれた、『Reversal』をプレイした人が魔法使
いになる手順は、あたしが経験の上で想像していたのとほぼ重なっていた。違うのは、
一枚のフロッピーディスクにつき、魔法使いになるのは多くても一人だけということ。
ゲームを最初にプレイした人のみが対象になり、条件に当てはまった者が魔法使いにな
ってしまう。詳しいことはまだ長門さんも掴んでいないそうだけど、最も重要なのはキ
ャラクター設定の途中でフロッピーに触れること、さらにそのときに電気が流れたよう
なショックを受けるかどうかに掛かっているみたい。
「他にもこうじゃないかって推測している事柄はあるんだけれど、その辺りは追々と伝
えたい。まだまだ分かっていないことが多いし、できれば松井さんに協力して欲しいの
が本音なんだよね」
 目線をもらって、こちらはどぎまぎしてしまった。スプーンの動きを止め、「あたし
も知りたいです。だから協力したい気持ちはあります」と答えた。それから隣を振り返
って、江山君の顔を見る。
「基本的に賛成、だけどいくつか明快にしてもらいたい点があります。まず……国の組
織ですか、民間ですか」
「民間だ。扱う物事から言って、国家が関わるのは現状では難しいだろうし、そもそも
魔法の実在を公にしづらいからね」
「危険はないんでしょうか? 敵対する者がいるみたいですが」
「テストする分には危険はないと考えている」
「テスト以外では危険があると?」
「……あんまり言いたくないんだが、MRPに関わることで、敵からより狙われやすく
なる恐れはある」
「防衛・迎撃態勢は? 熟練の魔法使いが警備に就いているんじゃあないんですか」
「残念ながら、いない。協力者ならいるけれどね。その前に、君達は勘違いしているか
もしれないな。大きなビルに仰々しい看板を掲げて、ここはMRPの研究所です、なん
てやっている訳じゃないよ」
「それじゃあ、敵はどうやって魔法使いを見付けて攻撃してくるんでしょう?」
 江山君からの尤もな疑問に、長門さんは難しい顔をした。眉間に皺を寄せ、考え考
え、紡ぐように答える。
「正直言って不明なんだが、松井さんの場合は、私のせいかもしれない」
「ええ?」
「君とぶつかった日、私は敵と思しき男に追われていた。だからこそ、ぶつかっても急
いで立ち去らざるを得なかったんだけれども。狙いがフロッピーにあるのは明らかだっ
たからね。で、その後、交通事故に遭って結構な重傷を負った。その事故が敵の仕業か
どうか分からないが、私の上司が重大事態だと見なしてくれて、秘密裏に入院療養させ
てもらっていた。その間、私を追っていた男は、何らかの方法でフロッピーが私の手元
にはなく、松井さんに渡ったことを察した。そうして君の前に現れたんだと推測でき
る」
「何らかの方法っていうのが分からないんじゃあ、話にならないですよ」
 江山君が半ば呆れたみたいな声を出した。すると長門さんの表情には笑みが浮かん
だ。
「仮説はある。ゲームを進めていけば、出て来るんだけれど、まだそこまで到達してい
ないのかな」
 そう言って、あたし達を当分に見やってくる。あたしは首を左右に振った。
「ゲームって『Reversal』ですよね。クリアするという意味でだったら、大し
て進んでないんです。なるべく多くの魔法を身に付けた方がいいと思って、そっちばか
り力を入れていました。慣れていないゲームで下手に戦って、もし死んだら、現実の自
分がどうなっちゃうのか不安もあったし……」
「なるほど。確かにその危惧はある。MRPでも試していない。だけど、魔法使いでな
い者がやる分には、問題ないことが証明されている。だから、江山君がやってあげれば
いい」
「ああっ、そうか」
 これには思い当たらなかったという風に、頭に手をやる江山君。あたしも全く同じ思
いだ。二人して、ゲームは魔法使いが進めなければならないと、頭から決め込んでいた
わ。
「まあ、今からちまちまやりなさいって言うのも酷だろうから、分かっている範囲で教
えると……敵は匂いを嗅ぎつけるようなんだ。魔法使いに関する物や魔法使いが触った
物からは特定の匂いがしており、連中はそれを頼りに標的を定める」
 話を聞いて、思わず鼻をくんと鳴らしてしまった。今までにない匂いが身体に付いて
いるのかしら。そんな意識、これまで全然なかったし、今も全く匂ってこない。
「それが事実なら、いつ襲撃されてもおかしくない訳か……。あ、ごめん、怖がらせる
つもりはないんだ。ただ、注意を怠らないようにと」
 江山君に謝られて、気付いた。自分、震えてる。
 長門さんはこちらを見て言った。
「安心材料になるかどうか分からないが、敵の数自体は多くないと推測されている。現
在、活動が確認されていたのはちょうど十人。うち、日本国内では三人だったが、一人
は松井さんが倒したことになる」
「国内というからには、外国にもいる?」
「発端がアメリカだからね。アメリカで四人、欧州圏で三人。他の地域は情報がない」
「念のために伺います。そいつらは普通の人間と同じように、出入国できるんですか」
「できると見なすのが妥当だろう。外見上の差はないし、元々は普通の人間だったと考
えられるのだし」
「――普通の人間が、どうやってその、敵になったんでしょう? あたしが魔法使いに
なったみたいに、『Reversal』をプレイした結果?」
「そちらの方は、完全に五里霧中だ。原因が分かれば、対処の講じようもあるかもしれ
ないが、今は望み薄」
「ゲームをプレイすることで、何か推測できないのですか」
「『Reversal』を終えた者が、まだいないんだ。この摩訶不思議な現象に取り
組む機関としてMRPが組織されて三年だが、本当にエンディングがあるのかすら、疑
わしい。MRP成立以前からやっている人もいるんだけどねえ」
「そんなに時間があったのなら、プログラムを解析した方が近道なのでは」
「そうそう、そこなんだ。ある意味、最も不思議なのは。『Reversal』はフロ
ッピーディスク一枚に収まっているが、プログラムとして記述されている訳ではない。
真っ白なんだ。それでいてファイル名は存在するし、コピーも一応できる。しかも実質
的な空き容量ゼロ。まさしく、魔法で書き込まれたゲームなんじゃなかと」
「……当然、誰が作ったのかも不明なんですよね」
「ゲイル夫妻とジート・カーン博士――夫妻に協力した考古学者――の三人が作ったの
かもしれないが、証拠はない。彼らにプログラミングの知識はなかったようだしね。ど
ちらかと言えば、ジート・カーンがどこからか発掘してきたとでも考えた方が、ありそ
うな気がするよ」
 半ば冗談なのだろう、長門さんは苦笑を隠さずに言った。
「ジート・カーンは、まだ存命してるんですか」
 江山君が尋ねる。
「いや。ジート・カーンは友人の誘いで小型クルーザーに乗り合わせたとき、悪天候に
より転覆・遭難し、行方不明の状態が続いたが、今では死亡認定されている。事故は、
えっと確か五年前だ」
「ふうん……ついでに、ゲイル夫妻が死んだときの状況も、分かっているのなら教えて
ください」
「二人とも病死とされている。記録によると夫のビリーが先で、一九八五年の十二月に
肺炎をこじらせ、亡くなった。妻のジェイドは約四ヶ月後、心臓発作で永久の眠りに就
いた。年齢を考えれば、二人ともありがちな死因で、不自然ではない。ジャドーの呪い
って訳ではなさそうだ」
「病死させる能力、とかじゃない限り、ですね」
 江山君は本気とも冗談ともつかない口ぶりで言った。あたしはパフェを片付けたのを
機に、質問してみた。
「ゲイルさん夫妻はともかく、ジート・カーン博士の事故死は、敵にやられた可能性も
あるんじゃあ……」
「船が見付かっていないから何とも言えない。でも、その後、彼の家族に害が及んだ話
はないから、やはり単なる事故じゃないのかな。もしも敵の仕業なら、フロッピーを入
手しようと、家捜しぐらいはしそうなものだ」
 気休めかもしれないけれども、ちょっと明るい気分になれた。重ねて質問する。
「敵がフロッピーを欲しがるのは、どうしてなんでしょう?」
「向こうにとって天敵である魔法使いを、これ以上増やさないため、かな。戦闘例はま
だごく僅かなんだが、松井さんの話で、攻撃魔法だけでなく、杖そのものでもダメージ
を与えることができると分かったし」
「……もしかして、敵と戦って死んだ人って、いますか?」
 嫌な質問を思い付いてしまった。だけど、聞かずに済ませられない。長門さんは答え
にくそうに、口元を手の甲で拭った。十秒くらい間を取ってから、思い切ったようにし
ゃべり出す。
「いるにはいる。MRPのメンバーで、一般職員が二人。魔法使いに犠牲は出ていな
い」
 またちょっとだけ安堵できた。組織の人が亡くなっているのは怖いけれども、魔法使
いには死んだ人はいないのだから。
「注意喚起のために言うけれど、MRPとつながりのある魔法使いだからこそ、敵の存
在を意識できたし、対策の取りようもあった。こう解釈すべき。MRPの調査でね、欧
米で発生した不可思議な死に方をした事件・事故の中には、死んだ者が実は魔法使いだ
ったと思える例があったんだ。その人の日記とかでね。フロッピーは持ち去られただろ
うから、確実な物証はないんだが」
 つまり、魔法使いでも敵と戦って死ぬ場合はある……。さっきからあたしの精神状
態、上がったり下がったりを繰り返して、まるでジェットコースター。
 と、長門さんが懐に手をやった。携帯電話が鳴っている。通話を始めた長門さんの声
は、少し低くなっていた。
 しかし、会話の内容は部分的に漏れ聞こえてくる。やがて、あたしの耳は、その言葉
をしっかり捉えた。
「――魔法使いの犠牲者って日本で? え、戸口さんが?」

 緊急事態だからと長門さんは代金を置いてすぐに出て行ってしまった。後日、再びフ
ァミリーレストランで会って、教えてもらった話によると、亡くなったのは戸口徳文と
いう人。MRPに協力していた魔法使い。初めての犠牲者が出てしまったことになる。
 説明を聞いて呆然とするばかりだったあたしに比べると、江山君はしっかりしてい
た。彼が気にしたのは、戸口という人がどんな風にして亡くなったのかという点と、ど
んな魔法を獲得していたか、だった。
 まず、死んだときの状況。これがよく分かっていない。昼日中の公園で、それなりに
人がいたにもかかわらず、目撃者はゼロ。異変を来す前に、戸口さんらしき人物を見掛
けた人なら数名いたそうだけれど、襲われた瞬間となると皆無だった。気が付いたら、
人の形に黒く焦げた物体があった、という事態だったらしい。防犯カメラはなく、怪し
い人物の目撃情報もなかった。
 それから、戸口さんが使えた魔法。四つあって、まず攻撃魔法。これはあたしも使え
る。レベルは分からないけれど、あたしより低いことはない。これを習得していながら
倒されるっていうことは、使ういとまがなかった?
 次は治癒魔法で、これまたあたしも使える。治せるのは怪我で、病気は無理。そし
て、魔法使い自身には効果がない。この辺りはレベルが上がれば変わってくるのかもし
れないけれど、戸口さんもあたしと同レベルだった。
 三つ目は浮遊魔法。物を浮かせられる魔法らしい。原則的に目で見える、手で持てる
物に限られており、しかも自分の体重の半分程度が上限だったと言うから、あんまり便
利じゃない。
 最後はいくつかある防護・防御魔法の一種で、ラスレバー・カバーという呪文を使う
もの。両手に乗るサイズの大きさの物なら、絶対確実に守る能力。この三つ目と四つ目
は、一度呪文を唱えてスタートすれば、魔法使いが解除しない限り、効果を発揮し続け
るんだって。それなりに自分自身の体力を削られるみたいだけど、呪文を唱え直さなく
てもずっと発動し続ける魔法があるなんて、初めて知った。
「魔法使いが亡くなったら、そのラスレバー・カバーはどうなるんですか」
 メモを取るあたしの横で、江山君が長門さんに尋ねる。
「これまでに例がなかったから分からなかったが、MRPのメンバーが身元確認に駆け
付けたときには、解除されていた。いつ解除されたのかは不明だけれど、戸口さんの守
ろうとした物は無事に残っていたから、敵が立ち去るまでは効果が継続していたんだろ
う」
「守ろうとしていた物って? 差し支えがなければ……」
「『Reversal』のフロッピーその他、メモ書きだ。戸口さんは主に、魔法使い
になった者が新たなフロッピーでプレイした場合、どうなるかをテストしていたんだ。
別の魔法使いとして生まれ変わるのかとか、他の職業を選んだのならその方面の特殊能
力が身に付くのか、とかね。芳しい結果は出ていなかったと聞いているけれど」
「攻撃魔法を身に付けていながら、相手を倒せなかったのは、どんな理由が考えられる
んでしょう?」
「うーん、いきなりやられた、つまり急襲されたか、呪文を唱えるための声を封じられ
たか、周囲の一般人への影響を考えて出方を窺っていたか。敵の狙いはフロッピーだろ
うから、急襲ってのはないと思うけどね。声を封じるというのも、どうかな。敵は原則
的に、一人が持てる特殊能力は一つだけ。戸口さんを焼死させた能力で、声を出させな
くすることまで可能とは考えづらいな」
 周囲のことを考えて様子見した結果、亡くなったのだとしたら……。
「松井さん」
 江山君が名前を呼んでる。振り向くと、いつも以上に真剣な顔つきで言ってきた。
「今後もし松井さんが敵に襲われたとしたら、とにかく生きることを一番に考えて行動
するんだよ。そうしなきゃだめだ」
「え、でも、いいのかな」
「当たり前じゃないか、決まってる」
 理由を言わず、言い切る江山君。あたしは長門さんの方を見た。
 長門さんは少しの間だけ、困ったような迷ったような具合に目を泳がせたが、すぐに
決意した。
「計算高い大人の役を演じさせてもらうと――私としても、貴重な存在の魔法使いには
いつまでも協力してもらいたい。その上で、全員を守れたら最高だね」
 長門さんがこんな憎まれ口を叩くのは、きっとあたしが重荷に思わないで欲しいか
ら、なんだ。何だか、場がしんみりとする。
 その空気を破るのも長門さん。「そうそう、前に会ったとき、渡そうとして忘れてい
たんだっけ」と切り出し、テーブルの上に置いたのは、紙袋。
「あのときはお詫びって建前だったから、菓子折を用意してたんだ。色々と予想外のこ
とが起きて、すっかり忘れてしまったけど、賞味期限はまだだいぶ先だから、安心して
食べてよ」

            *             *

 電話ボックスを見付けて入ると、カロン・ジーラはそらんじている番号をプッシュし
た。一度目のコールですぐにつながる。簡単にお互いの確認を取ったあと、本題に入っ
た。
「どうなってるんです? 例の中学校、英語教師の募集の件がなくなってしまったよう
ですが」
 電話をした先は、依頼人だ。聞かされていた話が違ってきたため、説明を求めるべく
電話をしたのだ。言葉遣いは丁寧でも、詰問調を隠せない。
「すまない。英語教師として潜り込んでもらう計画は、白紙に戻ったと受け取って欲し
い。ただ、弁解するようだが、こちらの手違いではない」
「というと?」
 プライドを傷付けられた感は拭い切れていなかったが、とりあえず、聞く耳を持つと
する。
「学校側がさっさと代役を見付けてしまったのだ。ハーフだというのも受けがよかった
のか、あるいは学校関係者に血縁の者でもいるのかもしれない。念のため、調査に当た
っている」
「……もしかすると、魔法使いの仲間達が先手を打った可能性があるんでしょうかね」
「あるいは、な。差し当たって気になるのは、驫木が追っていた人物か。驫木が報告を
入れなかったせいで情報が不足していて、今もって消息不明だ」
「よく、女子中学生の方を突き止められましたねえ。確かな情報なんでしょうか」
 遠慮なしに疑いを口にしたカロン・ジーラ。電話の相手は、自信があるのか、強い調
子で「99.99パーセント、確かだ」と答えた。
「驫木の奴も興味が最初の男から移ったらしく、魔法使いと化した女子中学生について
はある程度の記録を残していたんだ。そこからの分析結果に、まず間違いあるまい」
「信用するとしましょう。万が一、誤りだったとしても、無辜の人間が一人、犠牲にな
るだけで済みます」
「頼むから、フロッピーの奪取を最優先に考えてくれたまえ」
「心得ています。それでは、潜入計画はなくなったのであれば、私は私の考えで行動し
てかまわないのかな」
「うむ……止め立てはしない。が、どうするつもりなのかだけは聞いておきたい」
 提示した段取りが崩れた負い目があるせいか、相手の語調は強くはなかった。
「実は今、その中学校と目と鼻の先にある公衆電話から掛けています」
「何? まさか、即座に行動に移すつもりかね?」
 相手の声が大いに慌てる響きを含んだ。対して、軽く笑い声を上げるカロン・ジー
ラ。
「ははは。即座ではありません。何せ、問題の女子中学生を特定する必要がありますか
ら。恐らく、その者は魔法使いとしての立場を理解し、敵の存在を常日頃から意識して
いるはず。普段からウォンド(杖)を携帯している可能性が高い。裏を返せば、匂いを
嗅ぐことで、その人物を特定できるという読みです」
「そういうことなら、まあかまわないが……くれぐれも、不審者扱いされぬように。端
から見れば、女の子に近付いては匂いを嗅ぐ外国人なんだぞ」
「私の鼻の利きは仲間内でもよい方でしてね。さほど接近する必要はないんですよ。い
ずれにせよ、特定できたとしても、実際に接触するのは明日以降になります。私の能
力、夜には弱いのでね」
 電話を終わらせたカロン・ジーラは、心の中で付け加えた。
(尤も、匂いが漏れないように厳重に包むなどの処置をされていると、ちょっと厄介で
すが……我々の攻撃に備えているのなら、何重にも包んでいるとは思えない。だから多
分、楽に特定成功となるはず)
 確信を持って、電話ボックスを出た。
 ほとんど同時に、中学校のチャイムが鳴り響き、終業時間を知らせる。

            *             *

 今日は疲れる一日だったわ。あたしは放課後、下校の間、何度もそう思い返した。
 まず、朝一番から、司に詰め寄られて困ってしまった。司――三波司は仲のいい女友
達三人組の一人で、同級生。同じく同級生の江山君のことが、以前から好きなんだけれ
ど、はっきりとは言い出せずにいる。今は今の友達関係が続くことを願う気持ちの方が
大きいのかもしれない。だからといって、江山君が他の女子と親しくなるのは気になる
らしくて。
「ファミレスで二人きりで入ったって聞いたわよ」
 そう、長門さんを含めて三人で入ったときのことを、学校の誰かが目撃していたらし
く、司の耳にも噂が伝わったの。しかも、三人だったのに二人きりだという間違った形
で。
「司、興奮しないの」
 三人組のもう一人、成美――横川成美がたしなめるように間に入ってくれた。実際、
あたしは司に詰め寄られて、自分の机を背に追い込まれ、のけぞりそうになっていた。
「興奮なんかしてないもんっ」
「そうかな? さっき、『ファミレスで二人きりで入った』って言ってたけれど、『フ
ァミレスに二人きりで入った』でしょうが」
「ちょ、ちょっとした言い間違いですっ」
 二人がやり取りしている感に、説明を考えた。一から十まで全部ほんとのことを話す
訳には行かない。だって、『Reversal』や魔法使いのこと、司には(もちろん
他の人にも)全然打ち明けてないんだから。知っているのは、江山君だけ。そうなった
のはひょんなきっかけからであって、他意はなかった。少なくとも当時の段階では。
「司。ごめんね、心配させるようなことして」
 そう切り出すと、司は成美との会話を打ち切って、勢いよくあたしの方を向いた。
「じゃあ、やっぱり」
「違う違う。二人きりじゃない。江山君とあたしの他に、もう一人、外人さんがいたの
よ」
「外人さん?」
 司だけでなく、成美まで声を揃えて言った。
「そうよ。第一、考えてもみてよ。中学生だけで、ファミレスに入るなんてできない
よ。制服だったんだし」
「そっか。それもそうだね」
 よかった。やっと落ち着いてくれた。
「でもって、その外人さんとやらは、どういういきさつで、あなた達と一緒に?」
 成美の冷静な質問に、あたしは唇を少し湿して、先程まとめたばかりの作り話を披露
する。
「えっと、あのときはあたしが話し掛けられたの、外人さんから。あ、男の人でね。
ハーフっぽいんだけれど、日本語は片言以下だったから、あたし、もーあたふたしちゃ
ってさ。困ってるところに、偶然、江山君が通り掛かって助け船を出してくれたの」
「あー、江山君、英語も結構得意だものね。ぺらぺらに話せるほどじゃないにしても」
「うん。あとは想像が付くと思うけれど、外人さんに道順を教えてあげたら、そのお礼
に何かごちそうしましょうってことになって、近くのファミレスに入ったという流れな
の」
「なーるほど納得した」
 成美が大きく頷く。この声と仕種は、司に見せるためかもしれない。その効果があっ
たのか、司もまた納得したみたいね。泣きそうだった顔がからっと晴れて、にまにまし
てる。こっちは内心、ほっとしていた。誤解が解けたことと、嘘がばれなかったこと
に。
 その後、学校に来た江山君に事情を説明し、話を合わせて頼んだのは言うまでもな
い。ただ、その頼み事をするところを司に見られるとぶり返しかねないから、慎重を期
したわ。
 そして三時間目。英語の授業があったの。前いた先生が長いお休みを取るということ
で、今日から代わりの先生が来るとは知っていたんだけれども……教室に入ってきた先
生の顔を見て、椅子から飛び上がり、叫びそうになっちゃった。真面目な話、椅子から
何センチか腰を浮かしたと思う。
「皆さん、初めまして。私は、長門紫音です。本日からここの学校に赴任することにな
りました。見た目の通り、英語を担当します。以後、よろしくお願いします」
 長門紫音ことショーン長門は、あたし達の英語の先生にもなった。

――Period4.終




#490/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:34  (306)
絡繰り士・冥 1−1   永山
★内容
 『冥府魔道の絡繰り士』を自称する殺人者・冥は、前辻能夫を葬り去った。
 快楽殺人の徒である前辻は、秀れた殺人トリックメーカーでもあった。その才能を惜
しいと思わないでもない。が、裏切りの動きを垣間見せた彼を許すつもりは、元から一
毫もなかった。
 にもかかわらず、殺す直前まで、前辻を救ってやろうという素振りを見せたのには理
由がある。前辻の本気を引き出すためだ。冥は文字通りの“生殺与奪の権利”を握った
上で、前辻に条件を出した。「おまえの考え得る最高のトリックを、今すぐにこの場で
見せよ。その中身が素晴らしければ、おまえが戻ってくることを許す」と。
 前辻は隠し持っていた秘密の手帳を取り出すと、そこから犯罪のためのトリックを
次々と示した。そして殺された。
 冥もまた、不可能犯罪メーカーを自負している。純粋に、前辻能夫よりもトリックの
案出において優れていることを犯罪者の世界に知らしめたい。そんな欲求があった。
 だから、冥はいくつか試してみようと心に決めている。死の間際、生への執着を露わ
にした前辻が選んだトリックを。
 そして、名探偵が解決できるかどうか挑戦させるのだ。世評に高い探偵は無論のこ
と、今までに冥の仕掛けた犯行を一度でも見破ったことのある探偵もすでにリストアッ
プ済み。彼らの居所も掴んでいた。
 あとは、トリックに適した被害者の役を見付けるだけだった。必要ならば、犯人役も
用意しよう。これらも普段より意を留めて探し求めているため、さほど時間は要すま
い。
 むしろ考えておかねばならないのは、探偵達がトリックを解けなかったときのことか
もしれない。冥の考案したトリックを看破した探偵が、前辻考案のトリックを見破れな
かったとしたら、それはそれは冥にとって屈辱だ。探偵を逆恨みするかもしれない。自
らが創出したトリックを用い、その探偵を葬りたくなるかもしれない。世界を見渡して
もさして多くない好敵手を減らしてしまうのは、人生をつまらなくすると理解している
冥だったが、前辻のトリックを解けないような探偵であれば、この際切り捨てることも
ありだと思った。

             *             *

 五日前に発生したその殺人の現場は、一種異様な光景と言えた。
 場所は海浜地帯の中央を外れた区域にある、天井の高い古工場。使われなくなって長
いのか、中はがらんとしていた。機械の類はとうの昔に運び出されたのかほとんどな
く、残っていても錆びて全く使えない代物ばかり。柱にしても、さして太くない、断面
がH字をした無骨な感じのやつが何本かあるだけで、邪魔になっていない。砂だかごみ
だか、とにかく埃が積もっているが、臭いの方は意外としない。
 建物の規模としては、大雑把に見積もって高さ十メートル余り、桁行が二十メート
ル、幅が五十メートルといったところだろう。横に長い直方体の建物、その長辺のちょ
うど中ほどに出入り口として、スライド式の金属扉が設置されている。高さ八メートル
はあろうかという大きな二枚扉で、左右に開くと最大で十メートルになる。これは機械
類や資材等の搬入を見越した設計だという。
 被害者の男性は、左の肩口から胸に掛けてざっくりと切られており、凶器と思しき大
ぶりな包丁が三本、すぐそばに転がっていた。遺体は出入り口から見て正面一番奥、壁
際の柱にワイヤーで縛り付けられていた。足を投げ出してもたれかかるような姿勢だっ
た。彼の名は三谷根八郎と言い、五十三歳になる。仕事はタクシー運転手だが元は会社
員で、部長の椅子に手が届こうかというとき、女で失敗して躓いた。彫りの深い顔立ち
のおかげでよくもてたようだ。出世コースを外れると、何もかも面白くなくなって、会
社を辞め、タクシー運転手に転じる。顔だけでなく喋りも達者だったせいか、なかなか
稼いでいた。そんな男が殺されたのだから、タクシー強盗にやられたのかと思いきや、
当日は休みだった。現場である古工場まで、被害者がどうやって来たのか分かっていな
い。様々な可能性が考えられるが、犯人の車に同乗して来たかもしれないし、あるいは
もう一人の被害者と一緒だったのかもしれない。
 二人目の被害者、豊野茂美は三谷根とはちょうど反対側にて、向き合う形で拘束され
ていた。同じく、長さ三メートル程度のワイヤーで両手首を後ろ手に縛られ、他端を扉
の取っ手に括り付けられていた。姿勢も似ていたが、足を投げ出さず、正座を崩したよ
うないわゆる女座りをしていた。彼女の方の死因は、まだ判明していなかった。遺体は
きれいなもので、少なくとも三谷根と同じ死因でないことは確かだった。毒物の検出な
し。溺れさせられたり、電気ショックを与えられたりといった痕跡も見付かっていなか
った。三十になったばかりの被害者は健康体で、病死もありそうにない。
「残るは窒息死ぐらいだろうってことです。今はその線で詳しく調べていると」
 経過を報告しに来た刑事の言葉に、少女探偵団四名の内の一人、両津重子が反応す
る。
「窒息? 首に絞められた跡が残るんじゃあ……」
「口と鼻を覆うとか」
 応じたのは刑事ではなく、別の団員、江尻奈由。刑事はその意見を肯定も否定もせ
ず、「現在、検査中」とだけ言った。
 少女探偵団は四人全員が中学生である。そんな女子中学生の集まりに、刑事が事件を
報告に来るなんてあり得ない――普通なら。
 彼女達には、実績があった。近所の日常的な悩み事や困り事だけでなく、本物の事件
も解決した経験があるのだ。尤も、数は知れているし、殺人事件となると四つほどしか
ない。それでも充分に凄いと言えるかもしれないが、警察が頼るほどのレベルでないの
も確かだ。
 にもかかわらず、刑事がわざわざ足を運んで知らせに来たのは、この事件が、ある特
異な犯罪者の仕業によるものと見なされたため。
 その犯罪者の名は冥。冥府魔道の絡繰り士を自称するこの人物は、遊戯的殺人を進ん
で手掛ける。推理小説的なトリックを好んで用い、ときに予告をしたり、署名的行動を
したりする。神出鬼没であることに加え、そのやり口が常識外れであるためか、警察も
手を焼いている実態があった。
 一方、少女探偵団は一度きりだが、冥の犯行を解き明かしたことがあった。冥に言わ
せれば遊び相手を見付けるための小手調べのテストで、解明されても痛くも痒くもなか
ったかもしれない。ただ、“テスト”に合格した少女探偵団は、冥から特別扱いされる
ようになってしまった。
 冥が殊更お気に入りなのは、探偵団のリーダー、九条若菜らしい。何せ、最終テスト
だとでも言いたげに、九条の目の前に姿を現したことまであった。以来、冥の犯行声明
や予告状、挑戦状に九条の名前が出されることしばしば。しかも、冥は警察に対し、九
条を始めとする少女探偵団を捜査に加えろという、無茶な要求までしてきたことすらあ
った。応じない場合、死体を増やすという脅しとともに。
 無論、警察が脅迫に屈したのではなく、あくまで冥を逮捕するために最前の手だとし
て、九条ら少女探偵団に事件の情報を明かせる範囲で伝えるようになった。九条は冥を
目撃し、言葉を交わした数少ない人物の一人なのだ。
「現段階で、二人の被害者間にいかなるつながりがあったのかは、判明していない」
「あ、話を進めていただく前に、質問があります」
 九条が肩の高さに手を挙げ、刑事に聞いた。ちなみに、彼ら彼女らが今話している場
所は、警察署内の会議室だ。正確にはその広い部屋の一角をパーティションで区切っ
て、六畳ほどのスペースを確保。建前上、殺人鬼に名前を出されて迷惑している女子中
学生が、警察に相談に来ているとの体を取っている。
「現場の状況は、先程話してくださった分で全部なんでしょうか? 差し支えなけれ
ば、お願いします」
「何か不自然だったかね」
 刑事は特に表情を変えることなく、目玉をじろりと向けた。眼鏡も髭もない、没個性
的な容貌だが、ときに凄みがちらりと覗く。
 対する九条は静かに首肯し、意見を述べた。
「冥の犯行にしては、不可思議さが足りないと感じたものですから。冥の犯行には不可
能犯罪が多く、そうでない場合にも明確な“謎”を提示するのが常。顧みるに、今伺っ
た事件は、奇抜さは感じられても、不可能性はないに乏しく、明白な謎も見当たりませ
ん。強いて言えば、無関係の男女を同じ場所でほぼ同時に殺している点、女性の被害者
の死因が不明である点ぐらいでしょうか。でも、その二点は結果的にそうなったという
印象を受けます。警察の捜査が進めば、じきに分かることだと思えます」
「――なかなか察しがよい」
 刑事は初めて笑みらしきものを見せた。今回が少女探偵団と初めての顔合わせとなる
この刑事、今岡達人は相手の能力を明らかに疑っていたが、少し見直したらしい。
「指摘の通り、現場にはもっと別の細工がなされていた。私が承知しているのは二点。
まず、現場は密室だった。次に、被害者二人に関する事実だ。三谷根は喉に大きなダ
メージを与えられ、恐らく声を出せなくなっていたと推測される。また、豊野はアイマ
スクで目隠しをされていた」
「情報量が多くて、すぐには把握できませんが、とりあえず、密室というのは?」
「現場の工場は元々精密部品を扱っていたとかで、埃をなるべく避けられるように気密
性の高い作りになっていた。だから出入り口は一つだけなんだ。そこは内側からロック
されていた。大きなカムを噛ませるタイプで、外からの操作はできない。外からは別の
鍵を掛けるんだが、そちらの方は手付かずだった。他には窓が多数あったが、いずれも
はめ殺し。ただ、出入り口とは反対側の壁の両隅に、非常時用の開閉可能な窓ガラスが
あったが、ともに内側から施錠されていた」
「……もしかすると、警察はその密室を、大した謎ではないと考えています?」
「ああ、そうだな」
 九条の推察を、今岡刑事はあっさり認めた。
「推理小説のトリックめいた物なんてと馬鹿にしている訳ではないんだ。簡単に作れる
と判断した」
「そうですよね」
 九条が明るい表情をなす。他の団員三名は、きょとんとしていた。
「リーダー、もう分かったの?」
 書記に徹していた蘇我森晶が、その手を止めて九条に聞いた。
「今聞いていた通り、被害者の内、豊野さんは出入り口の扉の取っ手に、ワイヤーで括
り付けられていた。ということは、豊野さんが拘束を逃れようともがけば、取っ手が動
いて施錠される可能性があるのでは、と考えたの。無論、その程度の力で錠が動くかど
うかは分かりませんが、推測するだけなら充分」
「実験の結果、錠は動き、ロックされた」
 刑事の補足説明に、九条は我が意を得たりとばかりに、満足げに頷いた。が、すぐに
表情を曇らせる。
「やはりおかしい。こんなに簡単な密室なんて、冥の仕業らしくない」
「あ、密室そのものは偶然の産物だったのかもしれないよー」
 両津が閃いたという風に、両手をパチンと合わせた。
「被害者二人を、工場の奥と前の位置関係に固定することが目的だったのかも」
「なるほど……。今岡さん、ワイヤーのたるみはどのくらいありました?」
「三メートルと言ったのは解いた状態での長さで、実質的にはまあ、一メートル強だろ
う。しかも相当に固い代物で、普通の紐のような柔軟性はなかった」
「ありがとうございます。だったら、被害者固定説は充分にありそうですね。換言する
なら、被害者の位置こそが一つの謎であり、トリックの要である可能性が高まりまし
た」
「目撃者はいないんですか。結構大掛かりな犯行みたいだし」
 江尻が刑事に尋ねた。
「事件を直接見聞きしたという人物は、見付かっていない。ただ、前日の夜、大型のコ
ンテナ車が行き来したのを見た人がいる。保冷もしくは冷凍機能を備えたコンテナだっ
たらしい。調べた結果、辺り一帯にそのような車両を当日使用した工場や企業はなかっ
た。だからといって、それが即座に殺人と関連があるかは断定不可能だが、怪しむに足
る証言なのは間違いない」
「冷やす必要……遺体を冷やして、死亡推定時刻をごまかすのが定番だけれども」
 江尻は言ったきり、腕組みをして黙り込んだ。本来、彼女は頭脳労働ではなく、腕っ
節に自信がある方なのだ。
「もしくは、氷を使ったトリック、アイストリックだよね」
 今度は両津。甘い物が大好きな彼女は、アイスクリームの方を思い浮かべていそうだ
けれども。
「そちらの検証は後回しにしましょう。今岡さん、喉を潰されていただの目隠しだのと
いうのは」
 九条が詳しい説明を求めるが、今岡刑事は困惑した風に首を傾げた。
「文字通りの意味しかない。目隠しの方は、何かにこすりつけるなり引っ掛けられるな
りできていたら、取れたかもしれないが、実際にはそのままだった。豊野は三谷根より
あとに殺されたとしても、三谷根の死に様を目撃することなく死んだだろう。三谷根は
声を出せない状態だったから、叫び声も聞かなかった」
「犯人は――冥は、三谷根さんが死ぬところを、豊野さんに見せたくなかった? 向か
い合う位置関係に拘束しておきながら? とても変な感じがします。今岡さん、絶対に
何かあります。三谷根さんと豊野さんとの間に何らかのつながりが」
「そもそも、ないと断定した訳じゃない。継続して調べている。三谷根は女性関係が緩
かったようだから、重点的に」
 そこまで答えたとき、今岡刑事の携帯電話が鳴った。捜査情報の連絡らしく、ディス
プレイを見ると通話せずに席を立って、「ちょっと待っていてくれ」と言い残し、出て
行った。
「どう思います?」
 若干、緊張がほぐれた空気の中、九条が三人のメンバーに聞いた。
「冥の犯行らしくもあれば、らしくないところもあるって感じかな」
 蘇我森が真っ先に答える。書記として記録した情報は、既に保存済みだ。
「理論立てて説明するのは難しいけれど」
「私もです。感覚でよければ、こういうのはどうでしょうか。今までの冥は、殺人プラ
ストリック乃至は謎というスタイルが目立ったのに、今回は殺人方法にトリックがある
ような」
「うん、そんな感覚だね。包丁が三本というの気になるし」
「他に大きなポイントっていうと、やっぱり、冷凍車になってくるのかなぁ」
 江尻が言った。
「有力でしょうね。犯人につながる糸を手繰るのなら、その冷凍車の事件前後の動きを
追跡するだけでもなかなかの成果が上がりそうです。でも、それではトリックは分かり
そうにありません」
「女の人の方の死因がまだ分かってないからか、死亡推定時刻を教えてくれてないよ
ね」
 両津が不満げに口を尖らせた。
「せめて三谷根って人のだけでも教えてくれればいいのに。氷で死亡推定時刻をごまか
すような細工があったかどうか、検討したいし」
「氷を運んでいたと決め付けるのはよくないわ。たとえば遺体を直接、冷凍車で冷やす
というやり方だってある」
 九条に指摘され、両津は素直に「そうだったね、えへへ」と先走りを認めた。
「今岡刑事が出て行ったのって、死亡推定時刻のことかな? 豊野さんの死因が判明し
たとかさ」
 蘇我森が想像を口にしたところで、くだんの今岡が戻ってきた。パーティションの隙
間から身体を滑り込ませ、元いた席に着座する。
「一つ、新たに分かったことがある。君らにも教えられる情報だから、言っておこう」
 この前置きに、少女探偵団四名は身を乗り出した。
「三谷根の遺体には、相当に強い力が加わっていたことが判明した。約三メートルの高
さから、凶器を振り下ろされたと見なせば辻褄が合うらしい」

             *             *

 一ノ瀬メイは馴染みの刑事からの呼び出しに応じ、その証拠物を見せられたとき、
(これは予想外の行幸だ。冥の方から接触してくるなんて!)
 とラッキーに思った。しかし、と彼女は心の中で続けた。
(これほどあからさまに、この私を指名するかのような犯行、いや、指名した犯行はか
つてなかった。どういう心境の変化だ、絡繰り士?)
 一ノ瀬メイの手の中には、一個のルービックキューブがあった。ある変死体の着てい
たジャケットのポケットから出て来た物で、六面全てが不揃いだった。特徴的なのは、
この立方体の各升目――3×3×6=54の升目一つ一つに、アルファベットが割り振
られている点。そして六面全ての色が揃うように完成させると、文字の向きがきれいに
同じになり、ITINOSEMEINITUTAEYOKONOTUIRAKUSHI
NONAZOGATOKERUKAbyMEIの文章が現れた。「一ノ瀬メイに伝えよ
 この墜落死の謎が解けるか 冥より」という訳だ。
「一ノ瀬さん、どうです?」
 刑事の宇月黎葉が、職業意識以上に好奇心を露わにして聞いてきた。一ノ瀬メイがど
んな反応を示すのか、興味津々といった体である。
「書いてある通りだろうね。幸い、時間制限はないようだけれど、もたもたしているの
は性に合わない。早速だけど、事件について教えてくれる?」
「新聞なんかでも報じられたんですよ。確かに冥の犯行と言われれば、いかにもという
感じなんですが。何しろ、ここR県で最大の湖、S湖のど真ん中で見付かった墜死体な
んですから。辺りに飛び込み台なんてもちろんなくて、もしやろうと思えば、飛行機か
ヘリコプターで飛んで来なくちゃならない」
「……まだよく分からないけど、よそで墜落死した遺体をボートで運んではだめなのか
な?」
 ぱっと思い浮かんだ、最も簡単そうな方法を口にする。が、宇月刑事は皆まで聞き終
わらぬ内に、首を横に振った。
「司法解剖の結果、墜落死と溺死が同時に起こったような状態だったんですよ、遺体
は。比較検討の結果、墜落の衝撃がより早く死の原因になったであろうという推測の
元、墜落死とされました。別の場所で墜落死させてからどうこうという方法だと、肺に
大量の水が入りませんよ」
「判断の根拠は分かった。けれども、私が今言った方法でも、あとから肺に水を入れる
ことは可能のはず」
「それがですね、生体反応の痕跡から、死後、肺に水を入れたのではないのは確かだそ
うです」
「ならば、先に溺れかけさせてから、墜落死させるという方法だってあり得る。無論、
水は死体を遺棄する湖から汲んでおく」
「うーん、詳しいことは分かりませんが、そのやり方だと、墜落死と溺死がほぼ同時と
いう判断は出ない気がするような」
「分かった分かった。法医学の結論を尊重するわ。それで、何メートルくらいから落ち
たのかは推測できてるのかしら」
 細かな点で議論していても停滞するばかりと見切りを付け、一ノ瀬メイは新たな質問
を発した。
「およそ五十メートル。十二、三階建てのビルに相当する高さになります」
「五十メートルね。クレーンでも届くのはあるだろうけれど、それだけ大きな重機だと
おいそれと用意できる代物でもなさそうか……。冥ならやってのける能力はあるだろう
けれども、考えてみれば、こんな直接的な方法が答だなんて、冥らしくない」
「でしょ? 絶対に何かあるに決まってます、奇抜なトリックが」
 そう語る宇月は、刑事らしからぬ喜色を浮かべていた。警察の属する人間としては珍
しい部類に入るだろう、推理小説が大好きなのだ。それもこてこてのトリック小説が。
だからこそ、冥の捜査に携われていると言えるし、一ノ瀬メイの相方役に選ばれたとも
言える。
「そうなんだろうねえ。直接的というのであれば、飛行機やヘリを利用するのだって、
同じく凡庸と言える。そういった方法を排除するのであれば――」
 同意してから、一ノ瀬メイは考える時間を少し取った。程なくして、再び口を開く。
「被害者についてまだ何も聞いてないけれど、先に確かめておきたいことができた。私
の知り合いが経験した事件に、似た感じのがあった。そのトリックの応用で、この墜落
死体の謎も解明できるかもしれない」
「え、そうなんですか? どんな事件だったんです?」
 驚いてますよと全力で主張するかのように、目をまん丸にした宇月。一ノ瀬メイは笑
いをかみ殺しながら応じた。
「説明の前に、教えて。S湖の水深は? 遺体の見つかった地点の付近でいいから」

             *             *

 本格推理小説を、「不可能を可能にする文学」と言い表したのは誰だったか。
 そして、その言葉を聞いて、「不可能が可能になるもんか。不可能はできないから不
可能なんだ」云々とやり込めたのは誰だったか。ともに有名な探偵作家だったことは間
違いないのだが、名前までは覚えていない。
 年を食ったのを改めて自覚し、探偵の流次郎は嘆息した。続いてまた思い出した。
「名探偵にとって死は恐くないが、老いほど恐ろしいものはない」というようなこと
を、歴代の名探偵の誰かが言っていたはず。いや、あれは確かパロディ作品に登場した
名探偵だったから、本物が口にした言葉とは言えないのか?
 まあ、今はどうでもいい。それに、自分自身の記憶力が、偏りこそあれ、さほど衰え
ていないことを確かめられたように思えて、流は気を取り直した。これで、眼前の事件
に集中できる。
 そもそも、「不可能を可能にする文学」なんていうフレーズを想起したのは、現場の
状況のせいだった。
 展開されていたのは、ミステリにおいては今や古典的な謎と言える、足跡なき殺人。
現場となった一軒家は、別荘と呼ぶのを些か躊躇させる規模と佇まいを持っており、別
邸と呼ぶのがふさわしい。そこの庭に白砂が敷き詰められ、流麗な模様を浮かび上がら
せていた。問題の遺体は、その枯山水のほぼ中央に配された巨大な石――舞台のように
平らな面がある――に、腰掛けるような格好で置かれていた。砂の模様に乱れはなく、
何者も行き来していないように見えた。庭園の枠の外から石までの距離は、一番近いと
ころでも、七メートルはあろう。足元の状態や石の高さなどを考慮すれば、ジャンプし
て飛び移れるものではない。たとえ成功しても、帰ってくることができない。石の上で
は助走距離が全く足りないからだ。
「――そして、これが一番の問題かもしれんのですが」
 刑事の吉野が言いにくそうに間を取った。
「何があったんです?」
「実は、被害者の細木氏は足が不自由で、普段は車椅子を使っていたんですな」
「なるほど。そんな人物をあそこの石までどうやって運ぶのか。少なくとも、自力では
行けそうにない、と」
「ええ。自殺はあり得ないことになる」
 細木海彦の死因は失血死と考えられていた。頸動脈の辺りをすっぱりと切られ、流れ
出た血が石を赤くしている。凶器と思しき剃刀は、細木の右手のすぐそばに落ちてい
た。これが自殺であったのなら、どんなに楽か。

――続く




#491/512 ●長編    *** コメント #490 ***
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:36  (299)
絡繰り士・冥 1−2   永山
★内容                                         17/05/15 21:42 修正 第2版
「この邸宅は細木海彦の所有で、剃刀もこの家にあった物。本邸は二十三区内にある
が、芸術家として名と財をなした細木氏は、気が向いたときにふいっと姿を消して、こ
ちらの屋敷に滞在することがあったという話でさあ。そのときの気分次第で、枯山水を
こしらえるよう、専門業者へ前日に注文が出されることもあった」
「今回はどうだったんです?」
「やや余裕があったな。二日前に注文があって、せっせと作り上げたと」
「その業者が犯行に関わっている可能性は?」
 流は、数多い選択肢を潰す意味で聞いてみた。もし犯人が枯山水作りを得意としてい
るのであれば、足跡のない謎なんて存在しないことになる。
「アリバイあり、動機なし。ついでに言えば、ご丁寧にも、この枯山水の仕上がりを写
真に収めていた。その写真と現場を見比べることで、他人によって枯山水が破壊され、
作り直された可能性はないと判断できた。一度壊してしまうと、細部まで完全に再現で
きるものではないという訳ですよ」
「元々の形がちょっとでも崩れたような箇所は、なかったんですか」
「そりゃまあ、渦巻きの尾根がちょこっと崩れたというような箇所はありました。だ
が、それくらいなら強い風が吹いたり、大きな虫が通ったりするだけでも起こることで
すからな。だいたい、その程度の小さな痕跡があったって、人一人が行き来できるよう
になるはずないでしょう」
「……まあ、そういうことにしておきましょう。被害者は、ここへは一人で滞在してい
たのですか? 足が悪いのなら、世話をする人が一人はいそうですが」
「いや、それが一人だった。芸術家っていうやつなのか、細木氏がここへやって来るの
は、インスピレーションを得るのが目的で、そのためには他人の存在を邪魔に考えてい
たんですな。だから、車でさえ特別しつらえにして、自分で運転できるようにし、本邸
からここまで一人で来たみたいで。食事は、買い込んでおいたインスタントや缶詰なん
かで、充分だったようです」
「掃除は我慢するとして、トイレや風呂はどうするんだろう。一人でできたのかな」
「できたと聞きましたし、実際、出発時は一人だったことは確定しとりますよ」
「途中で誰かを乗せたかもしれない、と」
「まあ、可能性はある。犯人を乗せた可能性がね。だが、被害者の車は残っとりますか
らな。ここまで同乗してきた奴がいて、そいつが犯人なら、ここから立ち去る手段に困
る。タクシーを呼ぶ訳にもいかんでしょうから、恐らく犯人は自前の車で来たんでしょ
うよ」
「なるほど、納得したよ、吉野刑事」
 そこまで言って、流はふっとしゃがみ込んだ。虚を突かれた形になった吉野が、慌て
た風に目線を落とす。
「何か見付けましたか」
「この葉っぱ……」
 流の指は、地面に落ちていた黄色い木の葉を示していた。正確には、木の葉の形をし
ていた物、となるだろう。親指ほどのサイズのその葉っぱは、元の形状を残しつつも、
諸々に崩れていた。わずかに、葉脈のラインが木の葉の骨格のように残っていた。
「その葉っぱが何なんです?」
「こんな崩れ方はおかしいんじゃないか。少なくとも、珍しいと思う。普通の枯れ方で
はないし、腐った訳でもない。虫に食われたのなら、こんなに粉は残らないだろうし…
…」
「うーん、言われる通りかもしれんが、気にするようなことですかね」
 刑事もしゃがみ、指先で葉っぱにちょんと触れた。その拍子に、葉脈の部分までが、
ぽきりと折れた。
「お、随分と脆いな。力ずくで揉み潰したみたいだ」
「――吉野刑事。これは証拠になるかもしれない。保管することをおすすめします」
 流が真剣な口調で告げると、吉野刑事は一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐさまその表情
を消すと、言われた通りに証拠袋に問題の葉を収めた。
「何なんです、一体」
「ええっと……事件の状況を聞いて最初に私が思い付いたのは、水を注ぎ入れて庭園全
体を池にして、ゴムボートか何かで遺体を運んだという方法でした」
「そりゃ無理だ」
「ええ。現場を見て、撤回しました。ここまで見事な枯山水だと、水をどんなに静かに
注ぎ入れても、崩れてしまう。第一、水を溜めるだけの枠が、この庭園にはない。注い
でも注いでも、流れてしまうだけ」
「でしょうなあ。それで、この葉っぱを見て、別の方法を思い付いたと」
 流は頷いたものの、「まだ確信は持てませんが」と前置きした。
「この葉っぱ、極めて低温に晒されたんじゃないかと思うんです」
「低温というと……この辺は真冬でもマイナス二、三度ぐらいですかね。ここは高度が
あるから、もう少し下がるかもしれないが、今はまだ秋口だ。そんなに下がるとは思え
ませんな」
「犯人が意図的に低温にしたんです。液体窒素を持ち込んでね」
「液体窒素? ああ、昔、テレビコマーシャルでありましたな。バナナで釘を打つと
か、薔薇の花が粉々に砕けるとか」
「はい、あれからの連想になります。葉っぱは低温のために諸々になったんじゃないか
と考えた」
「ふむ。液体窒素をおいそれと運べるかどうかは調べないといかんが、意見としては面
白い。液体窒素を犯人はどう使ったと?」
 問い掛けに、流は立ち上がりながら答えた。
「枯山水を崩さぬよう、固めるために」
 刑事も続いて腰を上げる。
「ほほう? 果たして、液体窒素を撒くだけで、この枯山水全体が固まるでしょうか
ね」
「全体を固める必要はない。遺体を運び、また戻れるだけのルートを確保できさえすれ
ばいい。被害者の足が不自由だった点から推して、車椅子が通れる幅があれば、事足り
るんじゃないかな」
「しかし、そもそも液体窒素を撒いただけで、砂が固まるもんですかな?」
「水分を含んでいるだろうから、固まるはず。もし足りなければ、加えてやればいい。
霧吹きでも用意して」
「まあ、霧吹きの霧ぐらいだったら、砂は崩れませんな。で、犯人はかちこちに固めた
砂の上を、ゆうゆうと進んで遺体を運んだと」
「いや。直に触れて進むと、さすがに崩れそうだ。固さは脆さに通じるからね。多分、
重量を分散するために、平らで長くて丈夫な板を用意したんじゃないかな。板を渡し掛
けて、その上を進めばいけると思う」
「うむむ。実験をしてみたいところだが……」
 吉野刑事は難しい顔をして、腕組みをした。
「葉っぱ一枚じゃあ弱い。もう一つ二つ、決め手が欲しいな」
「そこいらを掘り返せばいいさ。葉っぱ以上に“冷凍”を窺わせる証拠が見付かるかも
しれない」
「何だ、それは?」
 首を捻った刑事に対し、流はほんの少し笑ってから答えた。
「幼虫やミミズの類ですよ。凍死したのがあるはず」

             *             *

 一ノ瀬メイが逗留している宿に、朝早くからやって来た宇月刑事は、報告書を手に、
嬉しそうに話していた。艶のある長めの髪をかき上げ、弾んだ声で告げる。
「ご指摘の通り、倒産したエア遊具メーカーの工場周辺で目撃者を探したところ、何度
も出入りしていた男がいました。冥もしくは冥の仲間かどうかはまだ分かりませんが、
割と特徴的な顔立ちだったようなので、ひょっとしたら行方を掴めるかもしれません」
「その工場から、遊具は持ち去られていたの?」
 朝食をほぼ終えた一ノ瀬メイは、コーヒーカップを口に運んだ。通常は食堂まで出向
いていただく物なのだが、特別に部屋まで持って来てもらった。捜査中の事件の話をす
るのに、人の出入りが多い食堂はふさわしくなかった。
「はい。幸い、記録が残っていて、何がなくなったか把握できました。なくなった物を
つなぎ合わせると、五十メートルくらいになります。もちろん、直方体なんかは、長い
方を採用したとしてですが」
「湖底に設置しようとすると、アンカーが絶対にいるだろうし、空気を送り込む機械も
必要になる。その辺りは?」
「アンカーは確認できました。さすがに持ち帰ることは難しかったみたいで、湖底を捜
索すると、割と早く見付かっています。方々から集めたのか、大きなコンクリートブロ
ックや金属の球で、回収の方が大変だったみたいですよ」
「送風機は?」
「同じエア遊具メーカーにあるにはあったんですが、会社を畳む直前に売り払っていま
した。だから、そこから持ち出したんじゃあないですね。鋭意捜査中です」
 そこまでは難しかったか。だが、一ノ瀬メイは一定の安心を得た。
 この墜落死事件の犯人、恐らく冥は、S湖の水中に巨大な空気のタワーを用意するこ
とで、墜落死と溺死がほぼ同時に起こる状態を拵えたのだろう。天辺が湖上から覗くよ
うにして、そこへ被害者を横たえた。無論、被害者を眠らせるなり何なりして、意識を
奪っておかねばならない。それから空気のタワーを崩壊させる。膨らんでいた風船を破
裂させるのだ。すると被害者を支えていた足場は瞬時に消失し、結果、被害者は五十
メートルの湖底へと真っ逆さまに落ちる。それとほとんど同時に、周囲の水も流れ込ん
でくる……。
 五十メートルにも及ぶ空気のタワーを作るには、巨大な容れ物がいる。真っ先に思い
浮かんだのが、エア遊具だった。デパートなどが主催する子供向けのイベントでたまに
設置される、ビニールを膨らませた滑り台や、中で飛び跳ねて遊べるような遊具だ。調
べてみると、あつらえたかのように、R県内で倒産したメーカーが見付かった。
「これで決まりと言っていいでしょう。それにしても、こんな大掛かりで馬鹿げた殺害
方法を考え出し、実行する冥も冥ですが、見破る一ノ瀬さんも相当ですね」
「前も言ったように、今回は私一人で思い付いたんじゃないんだけれどな」
 宇月の称賛とも呆れとも取れる言い様に、一ノ瀬メイは肩をすくめた。冷めたコー
ヒーの残りを飲み干すと、懸念も表しておく。
「気になるのは、冥の意図だね。この捜査で捕まるかどうか分からないけれど、正直言
って、私は当てにしていないから」
「ひどいなあ」
「だってそうでしょ? 今回の犯行は、冥らしさとそうでない部分が同居してる感じ
で、気持ち悪い。向こうから私にアプローチしてくるのだって珍しいし、遊具メーカー
の近くで事件を起こすなんて、わざと解かせたがってるみたい。基本的に冥は動機なき
殺人、無差別に被害者を選んでいるはずだから、場所はどこでもいいだろうに」
 そこまで言ってから、一ノ瀬メイははたと思い出した。しきりに納得している宇月刑
事に、改めて聞いてみた。
「そういえばまだ知らされていないんだけれど」
「何をですか、一ノ瀬さん」
「この事件で死んだのって、誰なの」

             *             *

 豊野茂美の死因が特定された。窒息死、それも二酸化炭素によるものだった。
 その情報が新たにもたらされたとき、少女探偵団リーダーの九条は、事件の全貌が見
えたような気がした。
「水曜会議を始めます」
 定期的に開いている、少女探偵団の会議のスタートを告げた九条。今回集まった場所
は、九条の自宅だ。
「議題は当然、三谷根さんと豊野さんが殺された工場の事件です。今岡刑事に考えを聞
いてもらう前に、私達で充分に検討しておきましょう」
「するっていうと、若菜はもう何か思い付いているのね。凄い」
 江尻が感嘆したようにため息とともに言った。九条は九条で、戸惑いを纏った笑みを
返す。
「早いだけで正解でなければ、意味はあまりありません。それよりも、みんなの意見を
先に聞きたいのです。先入観を持つのを避けるのは難しいでしょうが、なるべく公平に
判断するつもりですから」
「私は当然、なし」
 江尻は左隣の二人を見やった。両津が反応する。
「部分的でもいいの?」
「無論です」
「じゃあ……三メートルの高さから刺すなんて、あり得ない話だよね。でも鑑識や司法
解剖で、そうそう誤りが出るとも思えないし。だからあれは、遺体の向きが発見された
ときとは違ってたんじゃないかなって思った」
「刺されたタイミングが、遺体が壁にもたれかかっていたときではなく、別の姿勢のと
きと考えるんですね」
 九条が察しよく答えると、両津は強く首肯した。
「たとえば、完全に横になっている場合とか。床を滑ってきた刃物が刺さったら、三
メートルの高さから刺さったと判断されるかも」
「ちょっと。距離の問題じゃないでしょ」
 蘇我森が指摘する。
「力と角度が重要なんじゃないの? 三メートルの高さから落下したときとおなじくら
いの加速が必要になると思う。今の説だと、角度はともかく、力は弱まりそう」
「じゃあ、あきちゃんは何か思い付いてるの?」
 やり込められて悔しかったのか、両津は食ってかからんばかり有様だ。蘇我森は「私
も部分的だけど」と断ってから、九条へと向き直った。
「冷凍車が使われたんだとしたら、やっぱり、氷を何かに使ったという考えが、頭から
離れなくって。それでね、さっきはあんな言い方をしたけれども、重子の考え方に基本
的には似てるの。つまり、姿勢が違ってたんじゃないかっていうところ」
「あ、分かった」
 両津と江尻がほとんど同時に言った。ここは両津が譲る。
「三メートルの高さを氷で稼いだんだ? たとえば氷で、高さ三メートルの雲梯みたい
な物を作って、上に被害者を横たえる。当然、意識を失わせ、自由を奪っておく。一
方、その真下には、凶器の刃物を立てておく。必要なら、充分に大きな氷で固定すれば
いい。時間が経つと雲梯の氷が溶けて、遺体は落下。肩口に刃物が刺さる――こんな感
じ?」
「ええ、まあ、そんな感じ」
 蘇我森は口調を真似て返事した。そして三人の目がリーダーに集まる。
「二つとも独創的な案で、いいんですけど……」
 九条は言いにくそうにしつつも、程なく、きっぱりと言った。
「どちらも違うと思います」
「うん、それも分かってる」
 蘇我森が苦笑いを浮かべて即応した。
「私が言ったやり方じゃあ、現場が水浸しになるし、三谷根さんだっけ、被害者の姿勢
が発見時とそぐわなくなる。まあ、犯人が遺体を置き直したと考えてもいいんだけれ
ど、それじゃあ何のために自動殺人トリックを用いたのか分からなくなっちゃう。ただ
単に、身長三メートルの大男に刺されたという構図を演出したい、なんてのもなさそう
だし」
 二案にだめ出しがなされたところで、九条はこほんと咳払いをした。
「では、私の仮説を聞いてください。発想の源は、豊野さんの死因から」
「二酸化炭素による窒息死ってやつね」
「はい。二酸化炭素と言えば、ドライアイスです。ドライアイスと言えば、氷の代わり
になります」
 九条以外の三人から、あ、という息が漏れたようだった。
「犯人が冷凍車で持ち込んだのは、大量のドライアイスだったのではないかと考えてみ
ました。気密性の高い建物内で、ドライアイスが解けたために二酸化炭素が充満し、豊
野さんの命を奪った」
「……納得した。けど」
 江尻が三人を代表する形で質問する。
「そのことと高さ三メートルからの刺殺は別物なの?」
「いえ。つながっていると推測しています。犯人はドライアイスを、大きな板状の形で
用意したのだと思います。それも少しずつサイズを変えた板を、何枚も」
「うーん、よく分からない……」
「ドミノ倒しです。ドライアイスの板を何枚も立てて、端っこの小さな板をちょんと押
すと、段々と大きなサイズのが倒れていき、最後には高さ三メートルの板が倒れ、前も
って上端の辺りに埋め込まれていた刃物が、三谷根さんを刺し殺した。その後ドライア
イスは気化して、豊野さんの命を奪いつつ、消え失せます」
「何とも凄い絵面の殺人トリックだわ」
 感嘆と呆然が混じったような感想を漏らす江尻。代わって、両津が口を開いた。
「じゃ、じゃあさ、ドミノを押したのは誰なのよ? 犯人が自分で押したんだったら、
トリックの意味、あんまりなくない?」
「うーん、押したのは犯人かもしれないし、そうでないかもしれない。現時点では、判
断できないわ」
 苦情はそこまで言ってから一呼吸置き、やがて思い切った風に付け加えた。
「ただし、誰が押したのかは、想像が付いている」
「どういうこと? 犯人かどうか分からないけれど、押したのが誰かは分かってるだな
んて」
「その誰かが、悪意を持った犯人、もしくは犯人の仲間かどうかは分からないっていう
意味よ。ここまでの話で想像できてるかもしれないけれど、私が思い描いているのは、
豊野さん」
「豊野さん? 拘束されていたのに?」
 再び江尻が聞いた。
「拘束されていたと言っても、足は動かせたはず。豊野さんと三谷根さんとの間に、さ
っき言ったドミノが並べてあったとしたら。最初の小さなドミノに、爪先が当たる位置
にね」
 江尻、両津、蘇我森はそれぞれ上目遣いになった。情景を脳裏に描いているのだろ
う。
 次に口を開いたのは、蘇我森だった。
「その位置関係だと、ドミノを押したのは豊野さんの意志か、それとも拘束を逃れよう
ともがいた弾みかは分からないってことね」
「ええ。豊野さんは目隠しをしていたから、自分の足元に殺人ドミノがあるなんて気付
かなかったのかもしれない。一方の三谷根さんは声を出せなくなっていましたから、彼
自身の危機を豊野さんに伝えることはできなかったでしょう」
「そういうことなら、内側の鍵がロックされたのも、豊野さんの意志かどうか不明にな
るんだ……。でも、最後に死んじゃってるんだから、やっぱり犯人じゃないんじゃな
い?」
 両津が述べたのに対し、九条はまたも首を横に振って、肯定しなかった。
「冥が主犯、豊野さんが従犯の関係で、最後に冥が豊野さんを切り捨てたのかもしれな
い。ドミノがドライアイス製だとは伝えずに、ただの氷製と言っておけば、安心して協
力するでしょうね。後に発見されたとき、三谷根さんは殺されたが、豊野さんは危ない
ところを発見されるというシナリオだったのかも。ドミノが消えることで、豊野さんが
三谷根さんを殺したようには見えない訳ですし」
 九条の推理に、両津達は改めて感心したらしく、それぞれ何度も首肯を繰り返す。そ
れから蘇我森が新たな問題を提起した。
「もしも、豊野さんが三谷根さんを殺したのだとしてよ。動機は? 動機なしに冥に協
力するかしら」
「さっき述べた推理通り、豊野さんが遺体とともに見付かる役目を負うつもりだったの
なら、かなり危ない橋を渡ることになります。普通、動機なしに協力はしないはず。警
察が調査を続けているのですから、きっと動機が見付かると信じています」
 九条は思いを込めて断言した。
「さあ、この推理を私達少女探偵団の総意として、今岡刑事にお伝えするという方針
で、よろしいでしょうか?」

             *             *

 ここ数日の新聞等による報道を見聞きして、冥は満足していた。
 自分が前辻能夫よりも優れていることを、自身の内で証明できた。当たり前のことで
あったが、証明できたことでよりすっきりした。全ては心の安寧のために。
 それと同時に、自分の鑑定眼に狂いはなかったとも確信を持った。好敵手と認めた探
偵達は皆、今度のテストをクリアしたのだ。今後の人生が楽しいものになる。そう保証
された。
 と、一定の満足を得た冥だったが、喜びに浸っている時間はあまりない。次の仕掛け
が待っている。
 この春先からこっち、将来有望そうな若い探偵の存在を掴んでおきながら、彼の実力
を試す機会がなかなか得られなかった。遊戯的殺人の謎を続々と解いていることから、
能力は確かなように思えるが、念には念を入れ、冥自身が直接試しておきたい。そう、
九条若菜を試したときのように。
(十文字龍太郎、か。高校生ということは、九条若菜よりは年上だけれども、まだ若
い。不安材料は、知り合いに一ノ瀬メイがいるという点かな。これまでの十文字の手柄
は全て、彼の独力によるものだったのか。そこを含めて、きっちり査定してあげよう)
 冥は頭の中にある数々のプランから、条件に合うものを絞り込みつつあった。
(できるものなら、被害者には殺し屋さんを選びたいね。私のような者にとって、プロ
の殺し屋は近いようで遠い存在。似ているようで、まるで違う。遠くでうろちょろした
り、すれ違うだけならよかった。でも、ここ最近は前辻の件を含めて目障りになってき
た。警告を発するのに、ちょうどよい頃合い)
 絞り込みや選定にいよいよ熱を入れる冥。テレビをつけっぱなしでいたのだが、消し
た方が集中できるだろう。
 リモコンを向けた先のテレビでは、ニュース番組のキャスターが、殺人事件の詳報を
伝えていた。
<――警察の発表によりますと、豊野茂美の実母が三谷根から――>

――終わり




#492/512 ●長編    *** コメント #479 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:13  (327)
目の中に居ても痛くない!3−1   永山
★内容
第三話「帰路のための岐路」

 結論から記そう。
 リボラボが実験したところ、彼女の仮説は正しかったと分かった。エナライトレンズ
を通して目から体内に入った生物個体がもし死ねば、エナライトの影響は解け、同種生
物の他の個体に入れるようになる。だがそれで全ての影響がなくなる訳ではないらし
く、リボラボはまだ元の世界に帰ることができないでいる。
 これまでの試行錯誤から、帰る手段として一つの有力な仮説が成り立つ。リボラボが
僕ら人間の暮らす世界に来て以降、エナライトレンズを通して体内に入り込んだ生物全
てが死を迎えたなら、彼女はエナライトの縛りから逃れ、帰れるようになるはず。
 そのためには、僕・真霜光も死ななきゃいけない訳だけど……。
 日曜の朝からするには、ちょっと重くて難しい話を僕らはしていた。
「帰る方法は、他にもあるに違いない」
 根拠は?と問い返すと、リボラボは一瞬返事に詰まったが、すぐに言葉をつないだ。
「前に真霜が言ってくれたじゃないか。私が退治した獣人もエナライトを通して体内に
入ったのに、ちゃんと元の世界に戻れた。この事実だけで、信じるに足る」
 自分自身に言い聞かせるように、リボラボは右の拳を握った。その手をじっと見つめ
ている。
「新しく思い付いた実験がいくつかある。残念ながら、すぐには試せそうにないものが
ほとんど。だから、その、当初覚悟していたよりも更に長逗留になりそうなのだ」
 視線を起こしたリボラボは、その目を僕に向けて、訴えかける。僕は皆まで言わさ
ず、片手の平を広げて相手の喋りをストップさせた。
「いいよ。前にも言ったよね。帰れるようになるまで、ずっといてくれてかまわない」
「真霜――恩に着る」
 リボラボは僕の両手を取ると、膝を折り、押し頂くような姿勢を取った。時々、彼女
の世界での習慣や仕種なんかが不意に出て、戸惑うこともあるけれど、今回のはまだ分
かり易い。
「とは言え、厚意に甘えっ放しも気が引ける。とりあえずではあるが、仕事を見付けた
い」
「それは……難しいかも」
 僕は彼女に視線をやり、頭のてっぺんからつま先まで改めて見直して言った。不服そ
うな反応が即座に上がった。
「何故だ? これでも私は、私の世界では立派に仕事をこなしているのだぞ」
「でも、今は、今いる世界の話をしてる。リボラボはどう見ても未成年だし、できるこ
とは限られてくる。前言っていた探偵の看板を出すのは無理だろうね。そうなると」
「待て。無理と決め付ける理由は何だ?」
 立ち上がった勢いそのままに、詰め寄ってくるリボラボ。距離を取り、冷静に答え
る。
「未成年て言葉の意味、知ってるよね」
「ああ。成人していない状態であろう。だが、それが何だというのだ。私は元いた世界
の基準でも未成年だが、仕事をこなしていた」
「君のは特殊な例だと思う」
「かもしれない。ならば、こちらの世界にも特殊な例はあろう。未成年が探偵をやる特
殊な例も」
 僕は返答に詰まった。確かに、未成年の探偵は大勢いる。いやまあ、思い浮かべたの
は全て物語の中での話だけれど。
「それとも何か? こちらでは探偵には年齢の制約があるのか? 免許制度なのかい
?」
「い、いや、確か、探偵に免許はいらない。日本では、だけど」
「だったら、私が探偵を始めてもかまうまい」
 怒らせていた肩が、安心したように下がる。リボラボは自らを見下ろしてから言っ
た。
「こちらの風習に沿った衣服を身につけ、それらしい格好をすれば問題なし」
 赤毛の彼女は、服装の他にも色々変えないと目立つし、浮くだろうな。
「いや、しかし、外見だけじゃなくてね」
 税務申告が必要になるほど稼げるとは思えないけれど、その辺りを抜きにしても個人
が探偵業をやるには、色々と準備が必要なんじゃないか。事務所はうちを使うとしたっ
て、専用の電話がいるだろうし、宣伝もしなくちゃ。リボラボがちゃんとした報告書を
書けるのかさえ、未知数だ。書けないならば、専任の秘書か助手を置くことになる? 
諸々考えると、到底できそうにない。
 そういった感想を、僕が説明してやったら、リボラボは一つ頷いた。納得したのかと
思いきや、違った。
「分かった。一人でやろうとするから難しいのだ。探偵事務所に雇ってもらえばよい」
「いやいや、だから」
 ひょっこりやって来た女の子を探偵として雇う興信所なんて、ある訳がない。そもそ
も、履歴書にどう書くつもりだ。
「――そうまで心配してくれるのは、私の身を案じてのことか?」
 辞めさせようと説得を続ける僕に対し、リボラボは見当違いの返事を寄越した。あき
らめてくれるのなら、それに乗ってもいいのだけれど。
「それはいらぬお節介というもの。私はこちらの世界では、一種の魔法使いのような存
在であろう。多少の危険は切り抜けられる自信がある」
 胸を張ったリボラボは、本当に自信に満ちている。何だか、探偵でも何でもできそう
に見えてくる。――いやいやいや、それは幻想です、はい。
「ま、まあ、仕事のことはもう少しあとで考えよう。借りを作るのが嫌なのは理解でき
るけれど、今慌てて動くとかえってマイナスに働くかもしれないしさ」
「……こちらの世界の人間である真霜が判断し、そこまで言うのなら……。では、金額
をきっちり付けておいてくれないか。帰るときまでには、きっちり払う」
「分かった」
 ようやく翻意させることに成功して、ほっとする。ただ、リボラボの性格から推す
と、またいつ仕事を始めたいと言い出すかしれないな。
 あーあ、ライトノベルによくある展開みたく、リボラボが同じ学校に通えればいいん
だけれどね。普段から僕の目の届くところにいてくれたら、不安がだいぶ解消される。
実際には、異世界から来たリボラボを入学させるのは、まず不可能。あり得るとしたら
……体験入学? 認められたとして、どのくらいの期間、いられるのかしらん?
 などと詮無きことを想像していると、目の前からリボラボの姿が消えていた。あり
ゃ、知らない内に僕の目を通って中に入ってしまったのかなと焦ったけれど、そんなマ
ナーを欠いた行為をする彼女じゃない。
 視線を巡らせると、部屋を出て廊下を進むのが見えた。先には玄関がある。
「リボラボ、出掛けるの? だったら、その格好を何とかしないと」
「何を言ってる、真霜光」
 びっくり顔で振り返るリボラボ。鳩豆ってやつか。
「呼び鈴が鳴ったから、出なくていいのかと聞いたら生返事をする。私が出ようかと尋
ねると、うんと言ったじゃないか」
「え? あ、いやそんなつもりは。考え事をしてた、ごめん。僕が行くから、君は一
応、隠れてて」
 慌てたので早口で言い、彼女の横をすり抜けた。玄関ドアのノブに飛びつくと、のぞ
き窓の小さな穴で、向こう側を確認する。
「ん?」
 思わずそう発したのは、予想していない人物がそこに見えたから。
 天然パーマに眼鏡をしたクラスメート。城ノ内史華がいた。彼女がここに来るのは初
めてだ。
 彼女が僕に用があるのは承知している。史学研究部なる部を新たに作るために、僕に
も参加協力して欲しいという。僕は条件を出した。学校側から部活動を認められる最少
人数五名を確保できたら、勧誘に応じてちゃんとやると。
 その城ノ内が、月曜日の学校を待たず、わざわざ僕の家の前まで来たからには、何か
理由があるに違いない。
 さてここで問題になるのは、リボラボの存在だ。当然ながら、今まで誰にもリボラボ
のことを明かしていない。リボラボを見た人だって少ない。僕の知り合いの中では、隣
に住む同級生で幼馴染みの蘇我美月ぐらいだ。美月にはリボラボについて、外国に仕事
で行っている僕の両親が現地で知り合った子で、日本に来たときは世話をしてあげてほ
しいと言い付かった、という嘘の設定を説明しておいた。あと、やはり同級生のコロク
――六島鼓太郎にも、リボラボという外国人の子が来ていることだけは伝わっている。
そういえば、コロクの奴、リボラボに会ってみたいから近い内に来るなんて言ってた割
に、来ないな。金髪好きな奴だから、赤毛のリボラボへの興味は持続しなかったのか
も。
 そんなことよりも今は城ノ内さんだ。追い返すのは無理だろうから、上がってもらう
か、どこかに出掛けるか。リボラボは僕の目から中に入り込むことで、完全かつ瞬時に
姿を隠せるから、基本的には大丈夫なんだけど、いつまで隠し通せるやら。万が一、美
月が今ここへやって来て、リボラボのことを城ノ内さんに喋ったら、どこにいるのって
話になるだろう。
 とは言え、今すぐ打てる対策は、リボラボに隠れてもらうことぐらいしかない。振り
返って、ぽつんと立っているリボラボに言った。
「リボラボ。来たのはクラスメートで、上がってもらうかもしれない」
「そなたの中に居ればよいのだな。承知した」
 察しよく言うと、リボラボは魔法のランプじみた小道具を取り出し、軽くひと撫でし
た。あっという間もなく、彼女の姿は消え失せた。僕の目にはほんの微かな違和感が生
じるが、今ではもう気になるほどじゃない。
 ピンポンと呼び鈴が繰り返されたところで、急いでノブを回した。
「城ノ内さん」
 顔を見ながら名前を呼んだら、被せるように「遅い。いないと思ったわ」と言われ
た。ここは素直に謝っておこう。
「ごめんなさい。ちょっと手が離せない用事が。それに、びっくりしたから。急に来る
なんて」
「あー、学校でもよかったのだけれども、途中経過を見せたくって」
 そう応えた彼女は、学校で顔を合わせるときと違って、私服姿だ。柄の入ったTシャ
ツに、ブルーのジーパン。靴だけは学校指定のスニーカーだ。肩から提げた大ぶりのバ
ッグを、よいしょと掛け直す。
「途中経過? 部員集めの話だと直感したんだけど、違った?」
「合ってる。これから、最後の一人を勧誘に行くから、それに立ち会ってもらえないか
しら」
「……何のために」
 夏休み明けまでと期限を切ったのに、夏休みにならない内から順調に四人まで集めた
らしい。そのことに感心しつつも、より気になる点を問い質す。
「公明正大に部員集めしているところを見せるのと、一刻も早く、あなたにも入部して
欲しいからよ」
「いや別に疑ってないし、早く入られたいのなら先に五人目を確保してからの方が」
「それにもう一つ、場所が近くて同時にこなすのが便利なのよ」
 また意味不明だ。恐らく、五人目の部員候補がこの近所に住んでるっていう意味なん
だろうけどさ……あ。もしかして。
「城ノ内さん、ひょっとするとひょっとして、うちの隣のことを言ってる?」
「その通り。あなたには伝わってないはずだけど、勘がいいわね。それとも、当人から
聞いた?」
「ううん、何にも」
 慌て気味、急ぎ気味に首を横に振った。美月ったら、何を考えてる? 史学に興味な
んてあったっけ?
「私が四人目まで部員を確保できたら、五人目になるって言ってくれたのよ。今日、そ
の約束を果たしてもらおうって訳ね」
「いるのは確認した?」
「もちろん。家を出る前に電話をしたら、両親が買い物に出掛けて暇してるから歓迎す
るって言ってくれた。さらに、さっき窓越しに姿を見掛けたわ」
「なるほど。これは年貢の納め時かな」
「何よ、嫌そうに」
「嫌じゃないってば。ただ、部活をするようになったら、交友関係が広がるなあと思っ
て。自分、人見知りする方だからさ」
「とてもそうは見えないけれども」
 不審がられてしまった。
 実際のところ、僕が懸念したのは、部活動をするようになったら、リボラボを隠し通
すのがますます大変になるだろうなってこと。リボラボには、僕が学校のときは基本的
に家に閉じ籠もって居留守をしてもらって、これまでのところ問題なく過ごせている。
でも、僕の帰宅時間が今以上に遅くなると、不確定要素が高まるだろう。この近所も最
近、物騒になったみたいだし、トラブルやハプニングがいつ起こってもおかしくない。
 それなら常に一緒に、つまり彼女には僕の中に入っていてもらえばいい? リボラボ
がどの程度の時間、僕の中に居られるか知らないし、仮にずっと居られるのだとして
も、本当にずっと籠もってもらう訳にも行くまい、と思う。
 今後生じるであろう悩みに思いを巡らせながら、僕は外に出た。城ノ内に着いて行っ
て、隣家に向かう。行かなきゃしょうがないだろう。美月がリボラボの話をしたら、そ
のときはそのとき。
 ふと日差しのなさを感じて、空を見上げる。気付かなかったけれど、天気がいつの間
にか随分と崩れている。じきに雨が降り出しそうだ。
「城ノ内さん、ここへは自転車で来た?」
「歩きよ。ご心配なく、ちゃんと折りたたみ傘を持って来ているから」
 前を行く彼女が、僕の目の動きを知るはずもないのに、今の台詞は勘のよさ故か。あ
んまり勘がいいのも困るのだけれど……偶然だと思いたい。
「さあ、着いたけれど、どっちが押す?」
 顔を振って、インターフォンのボタンを示す城ノ内。別に、どちらが押そうとそれは
重要な事柄ではあるまい。美月と幼馴染みの僕に、変に気を回したのだろうか。だとし
たら、ここで断るのもおかしいので、黙って僕がボタンを押した。
「……」
 反応がない。しばらく待ったが、インターフォンは沈黙したままだ。蝉の声にかき消
された訳でもないようだけれど、念のため、再度ボタンを押す。
「……おっかしいな」
 背後で城ノ内の困惑声。つい先程見掛けたのであれば、それも当然だろう。でも、こ
の短い間に外出した可能性だってゼロではあるまい。ただ、友達が訪ねてくると分かっ
ていて、家を空けるというのは腑に落ちないが。
 僕はインターフォンから視線を移し、門の隙間から中庭を覗いた。自転車で出掛けた
としたら、地面にタイヤの新しい痕跡があるはず――なかった。出て行く足跡も見当た
らない。逆に、入って行く足跡が目にとまった。真新しいそれは、普通の靴には見えな
かった。想像を逞しくして表現すると、わらじのような靴底で、その周囲に七本ぐらい
のピンヒールが備わっている。しかもいくつかのピンヒールの先は、かぎ爪でも持って
いるのか、土を深く刻んでいる。
「何だこれ」
 口の中だけでもごもご呟いた。それと同時に、僕の脳内に声が響く。リボラボの声だ
った。
「真霜、真霜。注意喚起だ!」
「え?」
 名前の連呼に続いて、普段聞き慣れない言い回しに、思わず声に出して反応してしま
った。幸い、城ノ内には聞こえていないようだけれど、だからってこのままリボラボと
会話するのも難しい。
「あー、城ノ内さん。ちょっとの間だけ、離れて向こうを向いてくれる?」
「何で?」
 唐突なお願いに対し、彼女はやや憮然とした表情をなす。僕は最高速で、嘘の理由付
けを考えた。
「実は、美月が置き鍵をしてる秘密の場所があって。そう、幼馴染みだから教えてもら
ってるんだけれど」
「ふうん? だからって、勝手に鍵を使っては入れるの?」
「い、いや、それは難しいけれども、隠し場所にはメモがあるかもしれないんだ。伝言
が。一応、確かめたいから、その間だけ、見ないようにして欲しいなと」
「分かったわ」
 表情を緩めると、素直に返事し、踵を返す城ノ内さん。物分かりがよくて助かる。今
後、心の中でもずっと「さん」付けで呼んだっていい。
「あなたの家の前にいるから、終わったら呼んでよ」
 すたすたと歩き去りながら、そう言った彼女の姿が視界から消えたところで、こっち
も行動を起こす。まずはいかにも置き鍵の隠し場所に向かうふりをして、門扉の中へ。
なーに、美月はしょっちゅう僕の家に勝手に上がり込んでるのだから、これくらい全く
問題ない。
「リボラボ? どうかした? 今出て来られると、ちょっとまずいんだけれど」
「待て。先に人払い。域を発動させる」
 リボラボは人間に見られては困る行動をするとき、“域”を使って人を遠ざけること
ができる。域の発動により、リボラボと僕は他の人からは存在を感知されなくなる。長
時間は無理で、リボラボの体調がよく、かつ平穏時においてでも、せいぜい三十分が限
界らしい。
 ともかく、この状態であれば、リボラボがいきなり出現しても大丈夫だ。
「周りに誰もいないな、真霜?」
 ところが彼女はこんな、警戒を解いていない言葉を発した。僕は「うん」と答え、続
いて訳を尋ねようとしたが、姿を現したリボラボの顔を見てできなくなった。とても緊
張感に溢れている。唇を固く結び、目は油断なく周囲を窺う。鼻も利かせているよう
だ。見ると、手には短剣らしき刃物が握られていた。持ち手をガードする鍔は金色の
ドーム状。柄の末端からは、長いロープ状の物が延びている。銀色をしたそれは鞭のよ
うだ。以前に見た剣とはまた違う武器に、僕は唾を飲み込んだ。知らず、緊張してい
た。
「巻き込む形になってしまって、済まない」
「うん?」
「できるなら、真霜にも安全圏に避難してもらいたいんだが、私は生憎と宿主から完全
に離れて戦うことはできない」
 それは何となく理解している。リボラボのような“向こうの世界”から来た“保安師
”は、鋭気を養うために、僕らの世界の生物の身体を借りる。職務中に燃料切れを起こ
したら洒落にならないだろうって。
「何か……いる?」
「恐らく」
 短く答えるリボラボ。と、彼女の手にある短剣が反応した。鞭のような物がぴくりと
動いたかと思うと、鎌首をもたげた蛇みたいに、宙で姿勢を保つ。その先端は、標的を
探査しているかの如く、軽い前後上下運動を繰り返しながら、リボラボを導いているよ
うだった。
「やはり、この家に何者かがいる。真霜、入れないか?」
 リボラボの言う何者かとは、多分、彼女の側の世界から逃亡してきた罪人で、僕も一
度見た。獣と人間とが入り交じったような姿をしている。あれを思い返すと、ついさっ
き見付けた不気味な足跡にも合点が行った。
「えっ、無理無理。鍵が掛かってちゃ、どうしようもない」
 と応じつつ、玄関のドアノブを握って回してみると、意外にも楽に動いた。
「あ、開いてる……普段は在宅してても鍵掛けるのに」
「ふむ。何者かが玄関から入った証かもしれない。――真霜、エナライトレンズを置い
てきてしまった。すまない」
 エナライトレンズがあれば、敵を処理しやすくなる。レンズ越しにターゲットを覗く
ことで、強制的に取り込んだり、逆に取り込んだものを放出したりできる。その取り込
む軌道に合わせて、リボラボが剣を振るえばよい。
 が、そのレンズがないとなると……どうなるんだろう?
 いや、リボラボはこれまでレンズなしに保安師の仕事をこなしてきたはず。だからき
っと、心配することはない。今心配すべきは、美月の身の安全だ。
「しょうがないよ。それよりも、早く」
「分かった」
 リボラボに続き、僕も中に入る。三和土には、美月が普段よく履く靴が、そのままあ
った。一方で、来客の存在を示す靴はない。
 リボラボは靴を脱がずに上がった。僕は多少躊躇したが、彼女に倣う。
 僕と違い、美月の家に上がるのは初めてのリボラボだが、僕が案内する必要はなかっ
た。案内は、彼女が手にした道具がしてくれる。どうやらキッチンに向かっているらし
い。ありがたいことに、廊下の途中途中にある扉はどれも開いていて、視界を邪魔され
ない。じきに、台所が見通せる位置に来た。
 次の瞬間、僕は息を飲んだ。その音が外に漏れ聞こえたのではないかと思うほどに、
強く。そうしないと、悲鳴を上げてしまいそうだったから。
 キッチンカウンター越しに、上半身だけ見えたのは、青白い肌をした美形の男――多
分、男だ――だった。第一印象は、若いドラキュラ。頬がこけて耳が尖り気味で、肩に
はマントのような物が確認できる。若干前屈みで分かりづらいが、身長は百八十センチ
くらい?
 リボラボは右手を素早く動かした。あの鞭がしなり、そして真っ直ぐになって、不審
者目がけてその先端が突き進む。
 が、鞭が届く前に、不審者は勘付いた。目だけ振り向くと、身を屈めて攻撃をかわ
す。リボラボも既に鞭を引いた。第二撃を加えるには見通しが悪く、カウンターの向こ
うに何があるか分からない、という判断からだろうか。
「貴様、何をしている」
「他人の家に入って来て、第一声がそれか」
 噴き出すのを堪える風に表情を歪めた相手は、自宅にいるかのような台詞を吐いた。
もちろん違う。ここは美月の家だ。
「まあいい。探す手間が省けた。こんなに小さな家が並んでいるとは、想像もしていな
かったのでね。てっきり、こちらの家にいると思ったのだが、当てが外れて途方に暮れ
かけていた」
「つまり、貴様は私を追ってきたということか」
 リボラボが距離を測りながらも、僅かずつ接近する。僕は彼女の身体に隠れるように
して立っていた。
「その表現は、厳密ではないな。私は私のペットの臭いを追跡して来た。尤も、追跡を
始める前に、ペットは死体となって送り返されてきたが」
「……貴様は、あの逃亡者の知り合いか」
 リボラボが述べた推測は、僕も一拍遅れで理解できた。リボラボがこちらの世界に来
たのは、罪を犯して逃亡中の者を追跡してのこと。彼女は目的を達成するも取り残さ
れ、逃亡者の肉体のみが元いた世界に帰っていた。
「知り合いという表現も正確でない。今まさに言ったように、ペットだ。大事にし、い
とおしく思っていたが、ダノーマルはペットだ」
 件の逃亡者はダノーマルという名前らしい。そういえば、こいつの名前は何というの
だろう? 青い肌の若い男は続けて言った。
「さて。私はダノーマルの仇を討とうとしたのだが、肝心の保安師が戻ってこないでは
ないか。待ち構えていたのに、恐れをなして逃げた――などとは考えなかった。何かの
理由で留まっていると推測し、ならば私から出向こうと、ダノーマルの臭いを追跡した
訳だ」
「……素晴らしい能力だな。その能力を、保安師仲間も使えたのなら、すぐにでも私を
見付けて救出に来てくれるだろうに」
「黙れ! 何を巫山戯たことを言っている?」
 相手は急に大声を発した。こっちはびくっとしてしまった。今のところ、相手の眼中
に僕は入っていないようだけれど、戦いでも始められたら、狙われる危険性はありそう
……。
「ダノーマルを殺したのはおまえだろうが!? 私は戻ってこない保安師が誰かなんて
把握していなかったが、臭いを追ってここに来て、おまえがいたということは、おまえ
が犯人に違いないっ」
 激高しているようなのだけれど、顔色が青のままだから、いまいち伝わって来ない。
「待て。私は原則通り、くるみの剣を用い、かの者――ダノーマルを失神させた。命を
奪ってはいない」
「嘘をつくな! 私は確かに見た。ダノーマルは既に死んでいた!」

――続く




#493/512 ●長編    *** コメント #492 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:14  (349)
目の中に居ても痛くない!3−2   永山
★内容                                         17/01/25 23:03 修正 第2版
「馬鹿な。ダノーマルが転送されてくるのを見たのか?」
「ああ、そうだとも。逃亡者の関係者として、捜索本部とやらに呼び出されていたから
な。転送台の傍らで事情を聞かれていた。その目の前に、現れたんだ!」
 怒りの波が収まらない男。よくよく観察すると、案外若いようだ。と言っても、地球
人の常識や感覚を当てはめていいのか、怪しいところだけれど。
「そんな……あり得ない」
「あり得ない? 起きたことは事実なんだよ!」
 飛びかかって来んばかりの口吻だが、相手は口ばかりで動こうとしない。もしかする
と、まだこちらの世界に来たばかりで、活動しづらい? 確か、リボラボもいくらか鋭
気を養ってから活動を始めると言っていたし。
 一方、リボラボも動かない。最前の相手の言葉に、少なからずショックを受けている
ようだった。油断はしてないが、集中力を乱されている。そんな動揺が、僕からでも分
かった。
 が、さすがにプロの保安師だ。立ち直りも早い。
「話し合いたいのだが、その余地は?」
「ない!」
 相手は答えると同時に、何かを投げつけてきた。リボラボは避けることなく、右手を
動かし、鞭でその物体を絡め取る。
 からんと乾いた音を立てて、真下の床に落とされたのは出刃包丁だった。台所を物色
して、武器になりそうな物を見付け、投げてきたということか。
「貴様、いや、あなたの怒りは受け止めてもいい。ただし、私もこのままでは納得でき
ない。ここは冷静になって、矛を収めてくれまいか。このまま争っても、双方が傷つい
て終わるだけだ」
「信じられるかっ。……おまえの仲間達は、おまえがミスをしたか、やむなく殺したの
だろうと言っていたんだぞ」
 呼吸が荒くなっていた。さっきの攻撃をあっさり食い止められて、焦りを覚えたのか
もしれない。
「おまえが帰って来ないのは、ミスをしたからに違いないとも言っていた。そんな奴の
言葉が、信じられるものか!」
「私は自らの意思で戻らないのではない。戻れないのだ」
 リボラボが冷静さを保つのに努力しているのが、手に取るように感じられた。仲間が
誰も自分のことを探してくれていないのではないか? そんな嫌な想像が脳裏をよぎっ
たのだろう。深まる動揺を隠しつつ、彼女は続けた。
「ねえ、名前は何ていう? そこから教えてくれないか。私はリボラボ。ご覧の通り、
まだ若輩者だが、礼儀は弁えているつもりだ」
 この呼び掛けに、相手はストレートには答えなかった。
「――そこまで言うなら、証拠を見せろ! 戻れないという証拠をなっ」
「証拠……無理だ。あなたの身体で試せば、あるいは証明できるかもしれないが、さす
ればあなたまで戻れなくなる恐れがある」
 リボラボが絞り出す風に言った。その台詞を耳にして、僕は思わず呟いた。
「前にリボラボは、こっちの世界へ行き来できるのは、保安師の能力の一つだ、みたい
なこと言ってなかった? だったらどうしてあの人は……。ダノーマルだって」
「それは」
 リボラボが答えようとする。だが、最後まで言い終わらぬ内に、当事者が口を開い
た。
「逃亡の手助けを生業とする者がいるのさ。私がこちらに来られたのも、その者の助け
を借りた。この時点で私は既に罪人。最早、引き返せない。今はただダノーマルの仇を
討つのみ!」
 男はまた決意を固めてしまったようだ。僕の発言が、悪い方へ働いた。リボラボはさ
ぞかし起こっているだろうと思いきや、そっと表情を伺うと、そうでもなかった。むし
ろ、余裕を取り戻したかのように見えた。彼女は一歩前に進み出ると、仁王立ちした。
「敵討ちと称するからには、後ろめたいところはなかろう。正々堂々、名乗るべきだ」
「――」
 しばし怯んだ様子が顔色に浮かんだ男は、唇を噛みしめると、すぐに言った。
「アブネル。マートン家のアブネルだ。ダノーマルとは身分の違いから、ペットと呼び
続けていたが、彼は古くからの親友も同然。そんな親友の命を奪った者を、私は許せ
ん」
「私は合点が行っていない。だが、アブネル。あなたが意志を貫くのであれば、私も保
安師として誇りを持って応じよう。アブネル・マートンを逃亡者と見なし、すぐさま送
り返す」
 リボラボは右手を一振りした。すると得物が、短剣と鞭の合わせ物から、長剣に変化
していた。ダノーマルを射通した、あの細身の剣だ。実際に武器が変化したのか、それ
とも目にもとまらぬ早業で入れ替えたのかは分からない。
「アブネル。あなたは生物の中に入り込んで、鋭気を養うことはできないのだろう? 
今の体調で、私と勝負する気か?」
「――リボラボだっけ? 君の言う通り、できない」
 そう答えたアブネルの顔色が、不意に赤みを帯びた。いや、全体に青みがかっている
のは元のままだが、生気を取り戻したように見えた。口元に笑みをたたえている。何
か、状況が好転したとでも言いたげに。
「だが、他の方法がある。突然入ってこられたときには焦ったが、時間稼ぎが成功して
よかったよ」
「――まさか」
 今まで距離感を重視していたリボラボが、急に動いた。と言っても相手に突進するの
ではなく、キッチンの内側を覗ける位置に。僕も続く。そして思わず、声を上げた。
「あ!」
 美月が俯せに倒れていた。頭は向こう側だからよく見えないが、その肩口には、アブ
ネルの両足の指、というか履き物のサイドに着いた突起物が食い込んでいる。そこには
赤い染みが僅かだがあった。
「美月に何をした!」
 気付くと叫んでいた。いけない、これは冷静さを失う。手近にあった丸い何かを掴
み、アブネル目がけて放っていた。アブネルはカウンターを乗り越え、反対側に降り立
つ。余裕を持ってかわされたが、奴が美月から離れたので、ほんの少しだけ安堵でき
た。もし人質に取られたら大変だった。
 遅れて、がしゃんと物が割れる音がした。
「吸血の種族か」
 リボラボの言葉を僕は咀嚼し、何となく想像・理解した。恐らくアブネル・マートン
は、美月の血を吸収することで、鋭気を養ったのだ。問題は、どのくらいの血を奪った
のか?だ。美月はぴくりとも動かないし、声一つ聞こえて来ない。
「気付かれないかとひやひやしていた。今なら、互角に戦えよう」
 もう勝利した気でいるのか、アブネルは得意げに言った。身長が低くなったように見
えるのは、さっきまでは美月の身体を踏み台にしていたからだ。何て奴だ。
「アブネル・マートン。命は惜しくないな?」
 冷たい口調になったリボラボが、いきなり問うた。
「な――何を今さら」
 一瞬怯んだアブネルだが、懐から束になった鉄串めいた鈍色の物を取り出した。その
武器を構えることで踏ん張り、自信を保ったようだ。
 リボラボは警戒を怠らず、また言った。
「事前に警告を与えるのが義務であろう。この剣、普段なら対象者を生きたまま自由を
奪い、送り返す。ところが今は、理由は分からぬが、どうやら対象者を死なせてしまう
らしい。それでもかまわないのなら、覚悟を持って掛かってくるがいい」
「……」
「言っておくが、今の私は優しくない。あなたは、いや、貴様は私の恩人の友達を傷付
けた。掛かってくるのであれば、容赦しない。保安師を、なめるなっ」
 リボラボの一喝に、明らかに気圧されるアブネル。それでもまだあきらめて投降しな
いのは、ダノーマルのためを思ってか。それとも、プロの保安師に打ち勝つ特技でも身
に付けているのか。動揺ぶりから見て、後者はないはずだけど。
「――くそっ」
 汚い言葉を吐くや、アブネルは右手の串数本をリボラボ目掛けて投げた。リボラボは
すぐに反応し、剣で全て払い落とした。手の動きが丸分かりだったせいか、余裕綽々
だ。かわすこともできたに違いないが、それだと僕に当たっていたかもしれない訳で。
 真後ろにいたら、リボラボも余計な神経を使わねばならないと気付き、僕は右斜め後
ろに下がった。戦いの場からなるべく離れつつも、美月のところへ行ってやりたい。で
きれば、救急車を呼んだ上で、外へ運び出したいのだけれども、域の発動中、救急車は
この家に接近できるんだろうか。
 と、そんな僕の視線に、アブネルが気付いたらしかった。
「二人とも動くな! 動けば、そこにいる人間にこれをお見舞いするからな!」
 しまった。僕のせいで、アブネルは悪知恵を思い付いてしまった。焦りと動揺で震え
を覚える。
 が、リボラボは場慣れしていた。剣を再び、鞭と短剣に戻すと、鋭い声で言った。
「試してみるか、アブネル? 私の鞭と貴様の串、どちらが早いか。貴様は身のこなし
こそ早いようだが、その串の武器はなっちゃいない。私の腕前なら、簡単に絡め取れ
る」
「――そこまで言うのなら、何故、私を直接攻撃してこない? 殺せる自信がないんじ
ゃないのか?」
「違う。死なせたくないからだ」
 リボラボの台詞に、アブネルの表情が少し変わった。怒りや恐ればかりだったのへ、
理解できないものを見聞きしたというきょとんとした色が加わる。
「貴様は目的を達したあと、帰る手段を確保してるんだろう? 保安師でない者が帰る
には、何らかの不正な方法を採るか、くるみの剣で貫かれるかだ。さっき貴様が証言し
た通りなら、私の剣は今、命を奪う危険な代物と化している恐れがある。だから、無事
に帰りたければ、貴様が貴様自身の手で帰るほかない。それを見越した上で、私はこう
考えている。帰還した暁には、私の現状を向こうにいる皆に伝えてくれまいか?と」
「何だって?」
 素っ頓狂な声とはこれのことかと、端で聞いていた僕は一人、解釈した。想像の埒外
のことを言われて、アブネルは面食らっていた。今なら闘争心も反応速度も、通常より
だいぶ劣っているのではないだろうか。
 それでもリボラボは一気に畳み掛けることはせず、説得を試み続けた。戻るための希
望の一筋なのだから、当然だろう。
「違法な手段でここまで来たことは、錯誤があったためとして不問に付すよう、私から
も進言する。全くの無罪放免を確約できるものではないが、力を尽くすことを約束しよ
う」
「……お仲間から疑われている君が進言したところで、大した助けにならないだろう」
 アブネルが言った。言葉では疑問を呈していながらも、徐々に軟化している気配があ
る。このまま、一刻も早く穏便に終わってくれ。そして美月を病院に!
「私が異変に見舞われていることは、ある物体による効果だと推測できるのだ。だか
ら、その物体を……持って行かれるのは困るが、そのような物体が存在することを向こ
うの面々に伝えてもらえれば、きっと分かってくれる。そう信じている。だからという
訳ではないが、アブネルも私を信じて欲しい」
 要請を伝え切ると、リボラボは手から武器を消した。僕は内心、え?っと焦ったが、
どうしようもない。幸い、アブネルが美月に攻撃を仕掛けることはなかった。
 リボラボは改めて両手のひらを相手に向け、何も持っていないことを示すと、重ねて
言った。
「私の提案を聞き入れるつもりがあるのなら、そちらも武器を手放してもらいたい」
「……条件がある」
 アブネルはすでに鉄串を束ねていた。最早、すぐさま投げられる状態ではない。
「実は、こちらの世界に来るために、ある人物と取引をしたんだ。そいつは、前金とし
て半額を受け取ったあと、残り半分の支払いは、ある物を持ち帰ってくることで成し遂
げられると言った。持ち帰れぬ場合は、三倍の金額を支払わせられる。元々の額が額だ
から、三倍となると大変なことになる」
「ある物とやらを見付けねば帰れないという訳か。――行き来する方法を知る人物と、
我ら保安師が直接会うのは難しいかな?」
「恐らく無理。警戒心が強く、複数名だと会ってくれない」
「では、誰かがアブネル・マートンに変装して、というのはどうだろう」
 リボラボがそこまで言ったとき、僕は辛抱たまらなくなった。二、三歩前に出て、声
を張る。
「あの! 話し合いもいいけれど、美月のこと覚えとてよ!」

 美月の顔色がよくなってきた。意識はまだ完全には戻らないが、命に別状がなかった
ことは分かったし、大きな怪我をしてもいない。倒れた拍子に腕や足に痣ができたよう
だけれど、現状ではこれでよしとせねばならないのだろう。とりあえず、今目覚められ
ると、状況説明に窮すのは明らかなので、もうしばらく眠っていてもらうことに。
 ここは美月の家の中。病院には行っていない。ソファに横たわらせた美月の傍らで
は、アブネル・マートンが、その特徴的な足から延ばした管を、するすると戻したとこ
ろだった。アブネルら吸血の種族は、一度奪った血をある程度返すことができるそうな
のだ。別の生物の身体に入った血を、そのまままた戻しても大丈夫なのかと心配だった
けれども、ついさっき目の当たりにして、納得した。論より証拠ってやつ。
「これで全部だ。残っていた血は全部返した」
 ばつ悪げに言ったアブネル。こちらとしてはもっと怒っていいのかもしれないが、ア
ブネルにも思い込むだけの事情があるようだし、リボラボにとってはアブネルは帰還の
ための手掛かりだ。休戦協定の成立にやぶさかでない。
 ちなみに、ほったらかしだった城ノ内さんには、美月の回復を待つ間に、僕が話に行
き、今日のところは帰ってもらった。理由付けとして、「美月が貧血で倒れた」という
線で説明すると、納得したようだった(この理由付けは、後ほど、美月本人にも使うつ
もり)。ただ、それならお見舞いをという彼女を、今はまだ無理だの何だのと押しとど
めるのにちょっと苦労した。
「血は足りるようだから、こちらは一応よしとして……」
 リボラボは美月から視線を外すと、アブネルを見やった。吸血の種族は血を返却した
せいか、どっと疲れが押し寄せたようだ。片膝を突き、近くのテーブルに頭をもたせか
ける格好で、ぐったりとしている。
 なお、蘇我家の中、特に台所近辺はリボラボとアブネルのおかげで、結構荒れていた
のだが、あらかた片付け終わっている。幸い、破損して直せないような物はなかった。
ガラスのコップと皿が一つずつ割れていたけれども、これは美月が貧血で倒れた拍子に
割ってしまったことにしてもらおう、うん。
「何か食わさなくちゃ、話が進まない」
 アブネルを顎で示しつつ、リボラボ。そんな彼女に聞いてみた。
「リボラボみたいに、生物の中に入り込んで鋭気を養うのは?」
「それは保安師しかできない――はず。この間のダノーマルは、エナライトの効果で吸
い込まれただけのようだ」
「だったら、アブネルもエナライトレンズで吸い込ませれば……」
「いや、それは避けたい。ダノーマルが死亡した原因は、あのレンズを通ったせいかも
しれないからね」
 なるほど。そこまでは思い付かなかった。リボラボとしては、自分のミスや道具の不
具合なんかではなく、飽くまでエナライトに全ての原因があると考えたいに違いない。
「いずれにせよ、この家に長くいるのは賢明じゃないと思う。済まぬが真霜の家に戻っ
て、彼に栄養補給をさせたい」
「分かった。でも、美月を一人にするのは……」
 美月の両親は、未だ帰宅の気配がない。今すぐ帰って来られても困るが、極度の貧血
状態を脱して間もない美月を一人にするのは、なおよくないだろう。
「許可が得られるのなら、私がインスタント食品を用意するのだが」
「もちろん、かまわないよ。けど、二人きりになって大丈夫?」
 休戦状態とは言え、リボラボへの復讐のためにやって来たアブネルだ。些細なことで
再び開戦状態になる恐れ、なきにしもあらず。
「大丈夫」
 一言で請け負うリボラボ。同い年ぐらいなのに、とても頼もしい。
「アブネルの言う、取ってくるように要請された物について、検討する必要もあるか
ら、ちょうどいい。話をじっくり聞いてみることにするよ」
 一方のアブネルからは、何の反応もない。会話が聞こえているのかどうかさえ、定か
じゃなかった。
「僕の家まで行けるのかな?」
 できれば人目に付かないようにお願いしたい。
「問題ない。――アブネル、歩けるかい? 隣の家に移動だ」
「……」
 もっさり、とでも形容したくなる動作で、アブネルが上体を起こした。半開きの目を
僕とリボラボに向け、力なく頷いた。
「この世界の食べ物は初めてだろう? だが案ずることはない。美味だ」
 そんな風に元気付けながら、リボラボはアブネルとともに中庭の方から出て行った。
 さて――。
 僕は庭に面した窓の鍵を閉めると、美月のいるソファへと引き返した。ようやく起こ
せる。が、無理に起こす必要もあるまい。
 料理でも作ってやるか。貧血から少しでも早く回復するには、適した食べ物を摂るの
がいいはず。レバーとか小松菜とかアサリとか。台所に立つと、まずある物を確かめ、
そこから勝手に使っていい品目を見当づけてから、メニューを考える。がっつりした物
ではない方がいいだろうから……ハマグリの缶詰とほうれん草と牛乳とで、クラムチャ
ウダーもどきでも。
 十五分ほどで完成し、ほうじ茶も用意してから、美月を起こした。
「――何? 何かあったの? どうして光がいるの」
 目覚めると、そのままの姿勢でこっちをまじまじと見つめ、聞いてきた。僕は予め考
えておいた答を口にする。
「訪ねたんだけど返事がなくて、ドアが開いていたから入ってみたら、台所で倒れてい
るのを見付けた。顔色が悪くて、意識を失ってたから、貧血じゃないかな。ここまで引
っ張ってきて、寝かせたんだけど、重かったよ〜」
「……そういえば、凄く恐い目に遭った気がする」
 どきりとした。覚えているのか、侵入してきたアブネルを。あの男が言うには、一瞬
見られただけで、じきに卒倒したとのことだったが。
「恐い目? 血の気が引くような?」
 話を合わせつつ、そらす方法も考える……考え付いた。
「そうそう、城ノ内さんが来たんだけど、こういう状態がだったから、帰ってもらっ
た。いいんだよね?」
「あ、そうか。そうだった。城ノ内さんに悪いことしちゃったなあ」
 美月はようやく起き上がった。鼻をひくつかせながら、台所の方を見る。
「お茶を用意するつもりで、台所に立ったんだけど、何故か倒れちゃったみたい」
「ふうん」
「ところでこれ、何の匂い?」
「貧血に効く料理を即席で作ってみた。もし入るようなら、食べてみて」
 キッチンカウンターを越えたところにあるテーブルを指差す。
「移動するのがしんどいなら、持って来るけど」
「あ、多分平気」
 言って立ち上がる美月。その刹那、ふらついたようだけど、すぐに落ち着いた。その
まま歩いて、テーブルに着く。
「お。美味しそう」
「念のため、薄味にしてるから、気に入らなかったら塩こしょうでも何でも振りかけ
て」
 そう言っている間にも、美月はスプーンを手に取り、いただきますと同時にスープを
口に運んだ。
「あー、いい。これでちょうどいい」
「よかった」
 僕は小さくガッツポーズをした。自信はあったけれども、実際にこの耳で感想を聞く
までは、不安が残るというもの。
「でも何で飲み物がほうじ茶? うちにあるお茶っ葉は、緑茶や玄米茶だってあるし、
麦茶もパックのがあるはず」
「ほうじ茶も貧血に効くっていう話、聞いたことがあったから」
「へー、渋いことまで知ってるねえ、光」
 見る間に元気になった様子の美月は、口を大きく開けてハマグリを食べた。それを飲
み込んでから、こっちをじっと見つめて来て、さらっと言った。
              、、
「やっぱり、こういうところは女子だよね」
「な、何を今さら」
 たじろぎつつ、僕はどうにか反応した。
「だって、普段は『僕っ子』なのに、ちゃんと料理スキルがあって、知識も持ち合わせ
てるっていうのは、凄いと思う」      、
「そんなこと言うのなら、美月こそ、もう少し男らしくした方がいいんじゃない?」
「あ、久々に言われた。性別による『らしさ』なんて気にしないんじゃなかったっけ」
「いくら何でも、台所でぶっ倒れるのはひ弱だってーの」
「それについてはほんと、おかしいんだよ。貧血なんて、今までなかったのに」
 あんまり突っつくと、藪蛇になりそう。僕は早めに矛を収めた。
 女子と男子の幼馴染みで、こんなに長く続いている関係を、壊したくないし。

 小一時間ほどして美月の両親が帰宅した。僕は何があったのかを詳しく説明――もち
ろん、こしらえた嘘の状況説明だ――し、しばらくの間は美月の様子に注意してあげて
くださいとお願いした。そのまま帰ろうとしたら、二人から、特におばさんから凄く感
謝されてしまって、胸の内では冷や汗をかいちゃった。何かお礼をと言い始めたので、
いいですいいですお互い様ですからと断って、ようやく自宅に戻れた。そうそう、割れ
てしまった食器類に関しては、思惑通り、お咎めなしで済んだ。ほっとする。恐らく、
皿を割ったのは僕が投げたからだろうなあ。
「ただいま……。リボラボ、状況は?」
 家の中はしんとしていた。まさか、あのあと協定は破られ、戦闘再開となったのでは
あるまい。普段からなるべく静かにしているよう、申し渡している。不意に来客に備え
てのことだ。
「お帰り、真霜」
 食堂に通じるドアが開き、首から上を覗かせたリボラボ。どことはなしに、疲れてい
るようだ。
「どうかした? あいつは?」
「アブネルなら、ようやく寝入ったところだ。ああ、リビングのソファを使っているけ
れども、事後承諾になってすまない」
「それぐらい、早く体力回復させるためにも、仕方がない」
「他にもあって……アブネルの奴がそれほどまでに消耗していたのか、それとも単に大
食漢なのか知らないが、一食出したくらいじゃ足りなくて」
「まあ、それもしょうがないよ。インスタントってラーメンだよね。いくつ食べた?」
 この質問に、リボラボはまるで自分のことで恥ずかしがるように、素早く答えた。
「八つ」
「え、八つも? そりゃ……凄いな」
「あ、ああ。事情は分からぬが、呆れてしまう。ほんの数時間前まで、仇と目していた
相手に、平気で所望してくるとは。何度も何度もお湯を用意させられて、こっちは疲れ
た」
「はは。だったら、電気ポットを作動させておけばよかったかもね」
「電気ポット? 何それ」
 割とこっちの世界の知識が豊富なリボラボも、電気ポットは知らないらしい。使い方
を含め、あとで教えることにして、僕は最重要事項に話題を移した。
「アブネルの言っていた、持ち帰るべき物ってのは分かった?」
「いまいち、要領を得ない」
 アブネルによると、こちらの世界へ行き来するための橋渡しをしたブローカー(そう
呼ぶことにしよう)から要求されたのは、カッツェルケルという名を持つ物体らしい。
その名称は飽くまで、リボラボらの世界での名称であり、こちらで何という物なのかは
分からない。リボラボも初めて聞いたというし、アブネルにしてもブローカーが何のた
めに欲しがっているのかまでは把握していない。
「形状は色々だが、品物としては黒い粉末で、研磨剤みたいな物らしい。とても稀少だ
が、こちらの世界の方が比較的多く存在するとも。と言っても、大きな差ではないみた
いだ。それでも一掴み分は持ち帰れと言われているところからして、そのくらいは楽に
採れるのかな。せめて、サンプルでも持たされているのであれば、探しやすくなると思
うんだが」
「ないの? じゃあ、どうやってアブネルは、カッツェルケルか否かを判断するんだろ
う?」
 リボラボは尤もな疑問だとばかり、指を鳴らした。
「迂闊だった。まだ聞いていない」
 彼女はリビングに、文字通り飛ぶように駆け込む。僕が追いつく前に、戻って来た。
「特殊な磁石を持たされていた。これがそうらしい」
 アブネルから借りたのか、無理矢理ひったくったのか、リボラボの右手にはそれが乗
っていた。馬蹄型の磁石にそっくりだった。一点違うのは、アーチの部分が三重に捻れ
ていること。青と赤で色分けされてはなく、ひたすらに黒い。そのせいで重厚感があっ
たけれど、手に取ってみると、見た目よりは軽かった。
「僕は見たことがなかったけれども、検知鉱の一種だな。これを近付けて、吸い付く物
がカッツェルケル。そうでない物、つまり無反応なら違う」
「どうしよう……手当たり次第に近付けてみる?」
 そう言いながら、検知鉱の磁石を軽く振ってみた。
 と、僕は次の瞬間、磁石を持つ右手を見つめた。
「ううん?」
 微かながら、引っ張られるような感覚があったようななかったような……。

――第三話終わり




#494/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:43  (497)
そばにいるだけで 65−1   寺嶋公香
★内容                                         17/06/08 12:44 修正 第3版
 新学年二日目、学校からの帰り道。唐沢は愚痴をこぼしっ放しだった。「忙しくなけ
りゃ、涼原さんを指名したのに」だの、「こんなことなら、テニス部に入っておけばよ
かったよ」だのと、前の日にも言っていたフレーズをぶつぶつ繰り返す。
 今日中に決めるよう言われていた副委員長のポストを、まだ決められないでいる。先
生に頼んで、もう一日だけ延ばしてもらうのに苦労したらしい。そのため、委員長を引
き受けたこと自体を後悔し始めている。
「修行だと思えばいいじゃない」
 駅に着き、結城が笑み混じりに口を開く。唐沢、相羽、純子達と別れ、反対側のプラ
ットフォームへと向かう間際のこと。
「しゅぎょお〜?」
 どんな漢字を当てはめればいいのか分からない、という風に唐沢が聞き返す。
「敢えて苦手な人を選ぶとか、それができないなら、くじで決めるとか。そうすれば経
験値が上がるってもんよ」
「……何と不謹慎な」
 間を置いてから答えた唐沢。反論を色々考え、最適なものを選び出したらしい。
「そんないい加減に副委員長を選ぶのは、よいことじゃないなあ」
「だったら、まず、自分自身がいい加減じゃないようにしないとね。――じゃ、バイバ
イ」
 駅アナウンスが流れる中、結城はさらに上手を行く切り返しを見せた。そうして、反
対側のプラットフォームへと急ぐ。ちょうど入って来た列車に乗り込む姿が、純子達の
いる位置からも確認できた。
「うるさいのが行ってくれた」
 列車が遠ざかるのを最後まで見送り、やれやれと芝居めいた息をつく唐沢。それから
おもむろに振り返ると、相羽に対して言った。
「という俺自身も、お邪魔虫か。二人で話したいことがあるんなら、今日のところは消
えてやろう」
「別にないよ」
 相羽に続いて、純子が答える。
「そうよ。気を遣われたら、かえって話できなくなる」
 この返事に唐沢が食いついた。
「うん? 話ができなくなるってことは、したい話があるってことじゃ?」
「あ」
 口元を押さえる純子。相羽に聞きたいことがあるのは本当だが、今すぐのつもりはな
かったのだ。
 相羽を見やると、彼も純子の今の台詞に引っ掛かりを覚えた様子。どうしたのと、目
だけで聞いてくる。
「な、内緒話ってわけじゃないし。――あ、ほら。来たわ」
 結局、車内で続きを話すことに。時間帯が早いため、座席は充分に空いていた。他人
の耳をさほど気にすることなく、お喋りできる。
「昨日の朝のことなんだけれど」
 純子は左隣に座った相羽に尋ねた。本当は昨日の下校時に尋ねるつもりだったが、タ
イミングを逃し、聞きそびれてしまっていた。
「教室に来るの、遅かったよね。生徒指導室に行っていたとも聞いたんだけど、何かあ
った?」
「あ、それ、俺もちょっとだけ気になってたんだ。珍しく、叱られるようなことでもし
たのかと」
 右隣の唐沢もまた、相羽へと顔を向けながら軽口を叩く。相羽はそんな質問をされた
こと自体意外そうに、何度か瞬きをした。コンマ数秒の間を取って、口を開く。
「生徒指導室に行ったのは本当だけど、大した話じゃないよ」
「もったいぶらずに言えって。気になる」
「――みんなやることさ。進路とか受験とかの相談」
「もう?」
 声を揃えたのは、相羽の答に驚いた純子と唐沢。乗客が少なめであるせいか、響いた
ような気がする。
「いや。悪い、勘違いさせたみたいだ。二年になったら、じきに三者面談があると聞い
たから、いつ頃なのかを確かめたんだ」
「ん? 何のために」
「五月上旬ぐらいまでだと、母さんの都合の付く日があまりなくて」
「なるほど。理解した」
 声に出してうなずく唐沢。純子も納得していた。一つの疑問を除いて。
「でも、わざわざ生徒指導室でするなんて……職員室で済むのに」
「職員室は始業式で慌ただしい雰囲気だったから、『場所を変えよう』と神村先生が」
「なあんだ。生徒指導室に行ったって最初聞いたときにびっくりして、損した気分」
「そういえば、ついでのときでいいから伝えておいてくれないかと、先生に頼まれてい
たんだった」
 と、相羽が改まって見つめてくる。純子は気持ち、のけぞった。電車の微振動が不安
感を増幅させるような。
「え、何なに? まさか、呼び出し?」
「違う違う。『三者面談のとき、芸能活動について聞くから、そのつもりでいるよう
に。今後在学中の一、二年、あるいはもっと先の将来のことも含めて、考えをある程度
まとめておいてくれ』だって」
「あっ、そういうことなら」
 ほっとした。けど、別の意味でどきどきする。仕事――学校側から見ればアルバイト
――のことに触れられるのは、気が重い。
「考えをまとめるも何も、続けるんだろ?」
 唐沢が口を挟む。視線はよそを向いている(車内の女性に目移りしているらしい)の
だが、友達の会話は逃さず聞いていたようだ。
「……将来、と言われたら、迷っちゃう」
 純子の声は、その言葉通り、迷いの響きを含んでいる。少し前、事務所で市川から言
われたことも思い出していた。
「今は好きでやっていることだけれど、運がよかったというか、周りの人に支えてもら
った結果だものね。他にもしたいことあるし……。改めて考えると、難問かも」
「えー、やめないでよ。続けてほしいな。何ってたって、友達に芸能人がいたら自慢で
きるっ」
「唐沢君たら」
 冗談とも本気ともつかぬ台詞に、純子は気抜けしたような笑いをため息に乗せた。
「純子ちゃん、唐沢に紹介できるような仕事仲間っている?」
「え?」
 相羽のひそひそ声による質問、その意図が分からなくて、純子は首を傾げた。
「いたら、紹介してやって。芸能人の友達がいれば、唐沢は満足できるみたいだから」
「いっそ、唐沢君自身をモデルか何かに推薦してあげて――」
 遅まきながら察し、調子を合わせる純子。声のボリュームは、すでに通常レベルにな
っていた。
「二人とも、それは誤解だ。ボクは悲しい」
 唐沢はしっかり聞いていた。
「相羽の前で言うのも何だが、俺、涼原さんのファンだもんね。応援するし、ああいう
世界でどこまで行けるのか、見てみたい」
「今でもあっぷあっぷなのに、期待されても困るなぁ」
「いやいや。もし学校がなかったらどうよ。仕事に集中できるわけで、絶対に行けるっ
て」
「唐沢、これ以上忙しくさせてどうする。少しは考えろって」
 呆れ口調で、相羽。対する唐沢は、膝上の学生鞄を手のひらでばんと叩き、心外そう
に反論する。
「聞いてなかったのか。学校がなかったらっていう仮定の話だ。今より忙しくなるかど
うか、分からないだろうが」
「今は学校があるという理由で、セーブしてもらっているようなものなんだ。その盾が
なくなったら、忙しくなるに決まっている」
「――知らねえよ、そんなこと。知らなかったんだから、仕方ないだろ。もっと人気出
てほしいと思うのは、悪いことかい?」
 徐々に、だが確実に熱を帯びるやり取り。二人の間に挟まれた純子は、自分に関する
話だけあって、身が縮む思いを味わう。相羽も唐沢も、自分のことを思ってくれるが故
の発言。たまらなくなる。
「やめて」
 小さいがしっかりした声で、きつく止めた。その響きにただならぬものを感じ取った
か、男子二人は静かになる。
「もう。さっきまで普通に話していたのに、どうしてこうなるのよ……」
「分かった。もうやめる。――な?」
 相羽は唐沢へと目線を移した。唐沢も空気を読んだか、即座に調子を合わせる。
「ああ。こんなに仲いいんだから、安心してよ、すっずはっらさん」
 席を立ち、ハイタッチ、と言うよりも“せっせっせ”のような格好で手を合わせる唐
沢と相羽。純子は二人の間で、今度は笑い、和ませてもらった。
「さすが、委員長」

           *           *

 昼休み、電話を終えて教室に戻った白沼は、すぐさま純子の席を目指した。父から仕
事上の伝言を受け、伝えねばならない。
「――ちょっと。何寝てるのよ」
 ハンカチを敷いた机に頭をもたせかけ、顔を横向きにし、腕は下にだらんとさせた姿
勢でいる純子。その姿を見て、白沼はつい声を荒げた。正確には、純子の隣の席で、相
羽が同じ姿勢で休んでいるという理由が大きい。顔はどちらも右向き。見つめ合う形に
なっていない分、許せるものの……今日は朝一番に、精神的にちょっとハードルを越え
ねばならない出来事があったので、どうしても声が刺々しくなる。
「ん? ああ、白沼さん」
「全く。休み時間に熟睡するなんて」
「……眠るなら授業中にしなさいと?」
 本格的に寝入っていたらしく、純子は半眼のまま、ぼんやりと返事をした。
「昔に比べて、また妙に理屈っぽくなったわね。まあいいわ。仕事で忙しいんでしょう
し。パパからの伝言があるの」
「パパ……ああ、白沼さんのお父さん」
 かぶりを振り、頭の中をすっきりさせる風の純子。次いで、自らの身体のあちこち
を、ぺたぺたと触る仕種を繰り返した。
「……何をしているの」
「――あった。お待たせ」
 純子の手には、シャープペンシルと表紙が桜色のメモ帳が。
 白沼は片手を額に当て、純子が完全に目覚めていることを確認してから、用件を伝え
た。
「――いい? 変更したのがまた取り消されたから。分かったわね?」
「うん、了解しました。ありがとう……って、どうして白沼さんが、わざわざ」
 疑問を口にしつつ、純子は持たされた携帯電話のメール機能で、変更の知らせを受け
たことを関係各所に報告する。
「電波の具合が悪いところにいるのか、そっちの人が掴まらなくて、私に連絡してきた
まで。考えてみれば、学校にいる間は、こうする方が確実に伝えられるわけよね」
「じゃあ、これからもこういうこと、あるのかな」
「かもね。まあ、今日はあなた達がべたべたしていなかったから、素直に教えてあげた
けれど――」
 と、通路を挟んで逆側の相羽を一瞥し、また視線を戻す白沼。
「――見せつけられたら、どうしようかしら。教えてあげないか、嘘を伝えるかも」
「そ、そんな恐いこと、白沼さんはしないわよね」
「当たり前でしょうが。責任を持ってきちんと伝えなくちゃ、私が叱られる」
 強い調子で答えると、白沼は改めて相羽の方を見やった。この近距離で、結構声高に
お喋りしたのに、微動だにせず眠っている様子だった。
「涼原さん、あなたがちょっとでも眠ろうとするのは理解できる。でも、相羽君は何
故?」
「何故と言われても、ずっと一緒にいるわけじゃないし」
「……ずっと一緒にいられてたまりますか!」
 目元を赤くした白沼は、急いで叫んだ。“ずっと一緒”で“二人揃って寝不足”、こ
の二つからよからぬ想像をした自分を打ち消そうと、何度か首を横に振る。
「そ、そりゃあ、あなた達はもう公認の仲ですから、ええ、悔しいですけれど、そうな
んですから、いかにもなことに及んでも第三者が口出しする領域じゃありませんわよ。
ですけど、高校生に分相応な」
「白沼さん、何を言っているのか分かんない……」
「ともかくっ。彼氏のことを、把握できてないの? 学校以外で直接会う時間は少ない
でしょうけど、それでも電話ぐらい当然、頻繁にしてるんでしょうに」
「電話ならするわ。でも、頻繁なのかな……。話の中身だって、その日の出来事を互い
に伝え合うのがメインで、あとは、宿題で分からないところを聞くぐらい」
「私が言うのも変だけれど……デートの約束や悩み事の相談、していないの?」
 相羽が目を覚ましていないのを再度確かめ、白沼は聞いた。
「デ、デートは、なかなか都合が付かなくて……。悩みは、なるべく言わないようにし
てる」
「どうして」
「今の私の悩みって、仕事絡みがほとんどだから、相羽君に言っても困らせるだけと思
って。事務所の人に聞けば、だいたい解決するしね」
「なるほどね。あなたがそれだから、相羽君も悩みがあっても、言い出せないのかもし
れない」
「そんな」
「じゃあ、聞いたことあるの? 『最近、疲れているみたいだけど、どうかしたの?』
とか」
「一度だけ。『大丈夫。ピアノのことを考え過ぎたみたいだ。心配させてごめん。あり
がとう』っていう返事だった」
「……」
 二人のやり取りを想像すると、そこはかとなくしゃくに障った。なので、平静になる
ために、しばらく間を取る白沼であった。
「……そう聞いたあとも、この調子なんでしょうが。もっと、何度でも尋ねなさいよ。
心配させて悪いと思っているのなら、こんな風にはならないんじゃなくて?」
「私も気になってるわよ。でも、同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がるは
ず」
「それにしても――」
 白沼は反駁を途中でやめた。相羽が起き出すのを、目の端で捉えたためだ。彼女の目
の動きを追って、純子も相羽へと顔を向ける。
 相羽は、時計を見やると、安心したように次の授業の準備を始めた。午後最初の授業
まで、あと十分ほどある。
「ねえ、相羽君」
 白沼は、自分の存在をまるで気にかけない様子の相羽を腹立たしく思いつつ、声を掛
けた。純子の最前の言葉――同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がる――を思
い起こし、私が聞く分には問題ない、と考えたのだ。
「近頃、昼休みに眠っていることが多いようだけれど、どうかしたの?」
 相羽は白沼から純子へと視線を動かし、また戻した。瞼を一度こすって、普段に比べ
て早口で答える。
「単なる寝不足。昨日、観たい映画が深夜にあって、録画予約しているのに、ついつい
観てしまって」
「何ていう映画かしら。私も観てみたいから、教えて」
 即座に次の問いを発した白沼。映画の題名に興味がなかったわけではないが、それよ
りも、質問に対する相羽の答が、純子へしたものと異なっていたことが気になった。無
論、今日と以前とで疲労の理由が違うことはあり得るが。
「『シャレード』だよ。ただし、一九六三年の方」
 題名を復唱しかけた白沼だったが、制作年を言われたおかげで戸惑った。
「年を聞いただけでレトロって感じ。わざわざ断るということは、リメイクでもされた
のかしら」
「うん。二〇〇二年に」
 一九六三年と二〇〇二年なら、メモを取らなくても区別が付くはず。白沼は記憶し
た。主目的は、そんな映画を本当に昨日の深夜に放映していたかどうかを調べるためだ
ったが、ここまで詳しい返答があったということは、まず間違いなく放映されたのだろ
う。
「映画で思い出したけれど、この前言っていた『麗しのサブリナ』、やっと観られた
わ」
「どうだった?」
「途中で、ファッションにばかり目が行っちゃって。最初から観直すことに」
 ふと気が付くと、純子と相羽が話し込んでいる。
「なんだかんだ言って、恋人らしいことしてるじゃないの」
 小さな声で言い置き、白沼はその場を離れた。
 ――と言っても、彼女の席はすぐ近くなので、会話は続いた。
「白沼さん。今日は久しぶりに当たりがきつかったみたいだけど、何かあった?」
 相羽のその問い掛けに、白沼はさっきまでの純子とのやり取りを聞かれていたんだと
察した。
「起きていたのなら、身体も起こしておいてよね」
 抗議調かつ早口でそう言うと、白沼は恥ずかしさを紛らわせるべく、質問に答える。
「何かあったかと言われたら、あったわ。ご存知の通り、副委員長に指名されたこと。
こっちは部活してるのにねっ」
 朝のホームルームで、委員長の唐沢の指名により、白沼が副委員長に決まったと報告
された。唐沢と白沼は仲が悪いとは言わないが、価値観がだいぶ違っているのは傍目に
も明らか。故に、かなりの意外感でもってこの指名は受け止められたのだが、反面、唐
沢のいい加減な部分を補うには、白沼がふさわしいという見方もできたので、納得の人
事と言えなくもない。それでもなお、唐沢自身が白沼を選んだというのは、予想外の選
択だったが。
「元々、性格が合わないのは分かりきっているけれど、先生の方針もあるし、承知した
わ。でも、早速、引き受けるんじゃなかったと思うことがあったから」
「ふうん?」
 相羽の、話を促すような視線に、白沼は少し考え、教室を見渡した。唐沢の姿はな
い。
「二時間目と三時間目の間に、公民の先生に資料を運んでおくように言われて、二人し
てやっていたのよ。その途中、廊下ですれ違った女子と話し込んで、立ち止まったまま
なのよ、あの“色男”は」
 “色男”にアクセントを付けてやった。
「いつまでも動こうとしないものだから、放っておいて、先に行ったの。そうして引き
返して来ると、まだ話していて一歩も動いてないじゃない!」
 思わず、机をばんと叩きたくなったが、さすがに自重した。
「本当ならあいつを蹴り飛ばしてでも行かせるべきだったんだけれど、時間がなくなり
そうだったから、仕方なく、一緒に運んだわ。もう、先が思いやられる」
「お疲れ様だね。唐沢も悪気があってやってるんじゃないと思うけど」
「悪気があってたまるもんですか――と言いたいところだけれど、悪気がないのはよく
分かってるわ。知り合って四年ほどかしら。あれがあの男の地なんだってことは、骨身
に染みてる。だからこそ腹が立つとも言えるわね」
「ちょっとは気を配れって、言っておこうか?」
 相羽の折角の申し出だったが、白沼は首を振って断った。
「そんなのいいわ。我慢できなくなったら、直接、はっきり言うつもりだから。もうじ
き、そうなりそうだけど」
 答えつつも、白沼は多少、気分がよくなったことを自覚していた。純子との仲を認め
たとは言え、相羽からの優しい言葉は、精神衛生の特効薬になる。
 と、そこへ純子の声が。
「あ、戻って来たわよ、唐沢君」
 元の木阿弥になりかねない。白沼は、純子からの「今、言うの?」とでも問いたげな
視線を感じたが、吹っ切った。

           *           *

 新学年が始まって最初の日曜は、昼から春らしくない、じめじめした雨模様になっ
た。
 そんな天気の下、モデル仕事を終えた純子は、帰り支度を手早く済ませると外に出
た。途端に、目をしばたたかせて少々びっくり。迎えの顔ぶれが普段と違ったからだ。
モデル仕事の場合、相羽の母が来てくれることがほとんどなのに、今日は市川までもが
足を運んできていた。
(何かあったんだ)
 直感する。大人達の表情が曇って見えるのは、天気のせいばかりではあるまい。いい
知らせではないらしい。
 労いの言葉もそこそこに、市川が切り出す。「声優の件で、ちょっと。詳しくは車の
中で話すから」と。内緒めかした仕種、言い種に、純子は急ぎ気味に乗り込んだ。
「何か問題が起きたんですね」
 ドアを閉め、エンジンの掛かる音を聞きながら純子は尋ねた。待たされる時間が長い
と、それだけ不安も大きくなる。
「出来映えがよくないとか……」
「いや、評判はいいんだ。概ねわね」
 後部座席の隣に座った市川が、明確に答える。が、「概ね」という表現が気にならな
いでもない。その意味はすぐに明かされた。
「ただ、極一部、原作の熱狂的ファンの中には、気に入らない人もいるみたいなの」
「そう、ですか」
 声が小さくなり、俯く純子。その背中に、市川の手が素早く宛がわれる。
「落ち込みなさんな。まあ、あなたのことだから、こんな感想が出てると伝えたらどう
なるのか、予想はついていたけれども。こっちだって、落ち込ませようと思って言って
るんじゃないよ」
「じゃあ……」
 どうして?という言葉が出る前に、運転席の方から深刻な声が。
「落ち着いて聞いてね、純子ちゃん。万が一に備えての話なんだから」
「ちょっと、詩津玖。そういう前置きだと、かえって恐がらせちゃうじゃない」
「それだけ重大なことだと、認識してもらわなくちゃ。実際、恐い話だし」
 大人達のやり取りに、純子は探るように「あの」と言葉を挟んだ。幸い、二人の耳に
は届いていたらしく、すぐさま会話は収まった。相羽の母は運転に専念し、純子には市
川が応じる。
「あー、落ち着いて聞いて。隠してもしょうがないというか、知らせておかないと危な
そうなんで、はっきり伝えておくことにしようと決めたんだけど……」
 自らそう言いつつも、まだ渋っている感がありありと窺える。市川にしては珍しい態
度に、純子の緊張と不安は膨らんだ。
「は、早く言ってくださいっ」
「うむ。さっき言った熱狂的なファン、いわゆる原作信者って奴になるのかね、そうい
うのが脅かしてきた」
「脅かし……って、どんな風に」
 口元を両手で覆いつつ、冷静に聞き返した純子。自分でも意外なほどだった。かつ
て、ポスターにいたずらをされたことで免疫ができていたのかもしれない。
「封筒で便箋一枚、裏表にびっしり、赤い文字で印刷されていた。現物、ここにはない
んだけどね。もしかしたら、警察に届けることになるかもしれないから」
「警察に届けようかと考えるくらい、ひどい文章なんですか」
 この質問に対し、市川は何故か苦笑いを浮かべた。
「うーん、まあ、ひどいと言ったらひどい。お粗末という意味でね。――その様子な
ら、話しても大丈夫そうだね。最初に『声優』と書いてあって、そのあと便箋いっぱい
に『やめろやめろやめろ』って印字してあるの」
「はあ」
「で、裏返すと、今度は『おりろ』で埋め尽くされている」
「あのー、よくある剃刀とかは入っていませんでした?」
「はは、面白いことを気にする子ね。なかったわよ」
「だったら……警察に届けるまでしなくても」
「こういう手合いは放置するとエスカレートするケース、結構あるんだよねえ。それこ
そ、剃刀入りとか」
「仮にそうなったとしても、通報はそのときでも遅くないと思います。それよりも、警
察に届けたらこの件が表に出て、評判に響きそう」
「おやま。評判を気にするなんて、珍しい」
「そんな。表現は問題あるにしても、折角、私の仕事ぶりに対して意見を送ってくれて
るのに、一方的に悪者扱いしたくないなって思っただけです。こんな些細なことまで警
察に通報していたら、他の視聴者の意見が届かなくなるかも。見てる人の意見、私も聞
きたい。たとえ悪く言われていても」
「――ふふん」
 一瞬ぽかんとし、やがてにやりとする市川。
「ほんと、いつの間にやら強くなっちゃって。以前は、繊細なガラス工芸品みたいだっ
たのに」
「そ、そんなことないですよー」
「ポスターの顔写真に画鋲刺されて、えらく落ち込んでいたのはどこの誰かな?」
「大昔の話は、忘れました」
「四、五年前を昔と言われると、凄く年寄りになった気分がするわ」
 ため息を長くつくと、市川は頬に手を当てた。肌の張りを気にしているのかも……。
「ま、とにかく、だ。わざわざ嫌な話を明かしたのは、注意を促すためなの。念には念
を入れてね」
「と言われても、いまいち、意味が」
「まずないとは思うのだけれど」
 市川から相羽の母へと話し手が替わった。
「その手紙の差出人のような視聴者が、実力行使に出た場合を想定しておかなくちゃい
けない。私達の目の届く範囲なら、まだ対策の立てようがある。けれども、学校の行き
帰りやその他の日常生活までは、手が回らないのが実情なのよ。顔や名前が売れた分、
普段から気を付ける必要も高まってしまったわ」
 真剣さが声の調子からだけでも伝わってきた。ルームミラーで伺うと、相羽の母の表
情はいつもに比べて硬い。次の瞬間、はっとした純子。
「日常生活とか普段からって、もしかして久住だけじゃなく、風谷美羽にも脅迫が?」
 声の調子に緊張感が増す。答えるのは市川。
「ええ。今現在じゃなく、これまでにね。数はごく僅かで、表現も比較的大人しかった
から無視していた」
「え、そうだったんですか」
「ごめんなさい。恐がらせたくなかったし、仕事をやめてほしくなかったから」
 相羽の母の申し訳なさげな声が届く。そこからまた真剣味を強く帯びた声に転じた。
「常日頃より注意しておくと同時に、道を歩いているときや電車に乗っているときに、
少しでもおかしなことがあったら、すぐに知らせて」
「――はい。分かりました」
 純子も真剣に返事した。そのあと、ちょっと考え、相羽の母に尋ねる。
「あの、このこと、相羽君――信一君は知っているんでしょうか」
「それなんだけれど」
 今度は相羽の母が深い息をついた。
「自宅に市川さんから電話が掛かってきて、今度の件について話をしているときに、聞
こえてしまったのね。心配して詳しく知りたがったから、仕方なく教えたわ」
「そう、ですか」
 心配してくれた――勝手に綻ぶ表情を、意識して引き締める。
「じゃ、じゃあ、隠さなくていいですね」
「隠すつもりだったの、純子ちゃん?」
「だって……」
 純子は言いかけてやめ、しばらく口ごもる。冗談めかすことに決めた。真面目に言う
なんて、恥ずかしいにも程がある。
「私の口から知ったら、危ないから仕事をやめてほしいって言い出しそうじゃないです
か。そうじゃなきゃ、一日中ボディガードをするとか。あはは」
「似たようなこと、言っていたわ」
「え」
 笑い声が引っ込む。目を丸くする純子を、隣の市川が面白そうに見ていた。
「羨ましいねえ」
「さすがに、一日中護衛に張り付くのは無理と理解しているらしいわ。私達の方で、ち
ゃんとしたボディガードを雇えないの?って言ってきたからね」
「お、大げさなんだからっ」
 赤面したような気がして、両手のひらで顔をこする純子。そこへ、追い打ちを掛ける
質問が、相羽の母からなされた。
「そうだわ、前から聞こうと思っていたのよ。純子ちゃんは信一と二人きりのとき、信
一のことを何て呼んでいるのかしら?」
 えっと……質問の意図がとても気になって答えにくいです。答につまった純子は、思
わずそんな反応を口にしそうになった。
「名前? 名字?」
 ハンドルを握る相羽の母は、純子の戸惑いを知ってか知らずか、重ねて聞いてくる。
「みょ、名字に君付けです」
「やっぱり。さっきも言い掛けていたし」
 予想していたようだが、その割にほっとした様子も見て取れる。
 純子はしかし、すぐ前にいる相羽の母よりも、相羽自身のことが気に掛かった。
「もしかして、名字で呼ばれることを、何か言ってました……?」
「え? いいえ、特に何も」
「じゃあ、どうしてそんなことを」
「私が言い出したのかって? 年頃の息子を持つ親の立場としては、あなたとの仲が
今、どのぐらいなのかはとても気になる。それを測る物差しに、呼び方を教えてもらう
のがちょうどいいと」
「もしかして、恋愛禁止とか……ですか」
「え? ううん、そんなことは全く考えてないわよ」
 純子の反応がよほど意外だったらしく、相羽の母の目が一瞬だけ後ろを向こうとした
のが分かった。もちろん運転中だから、実際の時間はコンマ0何秒もなかっただろう。
 安堵する純子に対し、今度は市川が口を開く。
「本音を言えば、私はできることなら恋愛禁止にしたいよ。異性からの人気が違ってく
るだろうからね」
「そういえば、プロフィールにはどう書いてあるんだったかしら?」
 相羽の母の問い掛けに、市川は「デビュー当初に使った資料上では」と前置きをして
から答えた。
「好きな人はいる、とだけにしておいたはず。恋人だとか両想いだとかには触れずに
ね。確か、親御さん、特にお父様の強い希望で、余計な虫が付かないよう、予防線を張
ったんだわ。実態とは無関係に。その頃はまだ付き合ってなかったんでしょ?」
「全然」
 ぶんぶんと頭を振る純子。それよりも何よりも、父がそんなことを頼んでいたとは知
らなかった。多分、娘に知られるのは恥ずかしかったから、伏せていたのだろう。
「今は特に明記していないけど、いないと思われているかもしれないわね。さっきみた
いな脅しがあるくらいだから、早めに公表した方がいいに違いないんだけれど」
「名前を出すのは反対よ」
 即座に相羽の母が言った。ちょうど赤信号で停まったのを機に、市川へ振り向き、さ
らに純子へと視線を移してから続ける。
「本当にごめんなさいね。あなたにはこんな仕事をやらせておいて、自分の子供のこと
になると、できるだけ隠そうとするなんて」
「そんな。好きでやっていますし、付き合っている人がいることだけならともかく、信
一君の名前まで大っぴらにされるのは、私も嫌です。知っているのは、周りの人達だけ
でいい」
「――そういうことだけれど?」
 相羽の母が再び市川に視線を合わせる。市川は一つ嘆息してから、右の人差し指で前
を示した。
「詩津玖、前。青信号だよ」
「――いけない」
 一度慌ててみせてから、落ち着いて車を発進させる。
「まあ、今のところは、聞かれない限りは現状維持でいいと思ってるんだ。聞かれたと
きは……好きな人ならいるって言っておけばいいのかねえ。正直、うちはまだ小さい
し、歴史もないから、ノウハウに乏しくて。スキャンダルになったら、自力で押さえ込
めるのかどうか。火消しを頼むとしたら、鷲宇さんのルートぐらいしかないし」
「スキャンダル……」
 過去のあまりよくない思い出が脳裏によみがえる。あのときは、相手が一方的に悪か
ったせいもあり、世間的には大きなニュースにならずに済んだ。
「恋愛なんて興味ありませんてなふりをして、ボディガードの少年と恋仲!なんてすっ
ぱ抜かれたら、多少のイメージダウンは免れない」
「ボ、ボディガードって」
「たとえばの話だよ。さっき言っていたのを、例に取ったまで。ま、今問題なのは、あ
なたの彼氏の話じゃないわ。脅してくるような手合いの対策をどうするか。これこそが
重要」
 市川は問題の便箋が手元にあるかのように、ひらひらと振る仕種をした。
「本職のボディガードは難しいにしても、マネージャーに護身術というか護衛術を習わ
せるとか」
「……私のマネージャーさんて、誰になるんでしょう?」
「……」
 素朴な疑問に、大人達は少しの間、沈黙した。
「決まった人はいないわね、考えてみれば。杉本君を含めて、私ら三人の内、都合のい
いのが付く。あと、仕事の内容にもよるけれども」
「警護というイメージなら、男性になりそう。でも、杉本君ではちょっぴり心許ない」
 相羽母の言葉を、市川は声のボリュームを上げて否定した。
「彼では、ちょっぴり心許ないどころか、まるで頼りにならないって言った方が適切だ
わ」
 きつい表現を、純子は笑いをかみ殺して聞いていた。杉本には申し訳ないが、腕っ節
が強いようには見えないし、暴力沙汰からは真っ先に逃げ出しそうなタイプに思えた。
(でも、習えば違ってくるのかも。確か、弱い人、普通の人が身を守るための技術が護
身術なのよね)
 相羽ら男子がしていた会話を思い起こしながら、そんなことを考えた純子。そこから
の連想で、ふと思い付きを口にしてしまった。
「杉本さんだけだと心細いから、私自身も習っておけば、少しは安心できるかなぁ」
「――いいかも」
 市川が呟き、相羽母に意見を求めた。
「私はそんなにいい考えとは思えない。でも、最終手段として、身に付けておくのはマ
イナスにはならないでしょうね。モデル業に支障が出ないのであれば、習得しておくの
も悪くはない」
「それに、護身術や武道が使えたら、演技の幅が広がるわね」
 市川は話を聞きながら、計算も働かせていたようだ。次に純子の顔を見たときには、
本気になっていた。
「ちょうどいいわ。護身術、習いに行こうか」
 軽い気持ちで口走っただけなのに、一気に具体化しそうな流れに、純子は無言で首を
横に振った。
「全然、自信ないです」
「やってみないと分からないじゃない。運動、得意なんだし」
「いえ、その、モデルに支障が出るかもしれないという意味で……。怪我をするか、そ
うでなかったら筋肉が付いちゃうか」
「うーん、大丈夫じゃないの? 詳しくないけど、護身術の人って、筋肉ムキムキのイ
メージはないし、怪我は注意すれば防げるだろうし、ここは一つ、レッスンの一環のつ
もりで」
 市川は随分と楽観的だ。演技の幅を広げるという目的の前に、判断を甘めにしている
のかもしれない。
 純子は押し切られるのを既に覚悟した。こうなったら、要望を出しておこう。
「もし習うんだったら、私、信一君から習いたいです」

――つづく




#495/512 ●長編    *** コメント #494 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:48  (485)
そばにいるだけで 65−2   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:51 修正 第3版

「聞いたかもしれないけれど」
 翌月曜日の学校。純子は昼休みの時間に、相羽と二人だけで話せる機会を得た。廊下
に出て、護身術の件をすぐに伝えた。
「都合が付いたら、護身術を習いに行くかもしれないから、そのときはよろしくお願い
します」
 話の流れ込みで事情を伝え、ぺこりと頭を下げる純子。相羽は片手を自分の頭にやっ
た。
「そんなことをしなくても、僕が一緒にいれば」
「ボディガードはなくて大丈夫よ。万一に備えてのことなんだから。相羽君だって忙し
いでしょ」
「……まあ、確かにそうだけどさ。うーん、登下校は僕もだいたい一緒にいるからいい
として、問題はそれ以外のとき」
「だからそうじゃなくって」
 真顔で応じる相羽に、純子は苦笑いをなしたが、じきに気が付いた。相手が視線を外
しがちなことに。
「――相羽君、話をそらそうとしてる?」
「……いくら純子ちゃん相手でも、いや、君だからこそ、教えづらいような予感がして
まして」
「そう、かな」
「べ、別に、変な意味で言ってるんじゃなく、周りの目があるから。特に、僕らが付き
合っていると知ってる奴に見られていると、凄くやりにくい」
 情景が目に浮かんだ。これは恥ずかしい。
「でも、私達のことを知っている人って、道場にいた?」
「望月が知ってる。特段、口止めなんてしていないから、他のみんなにも伝わってる可
能性がある」
「えー、ちょっと嫌かも。誰も見てないところで、二人きりで教えてもらえたらいいの
に」
「えっと、それも別の意味でまずいんじゃあ」
「……そ、それもそうだね。あはは……」
 変な方向に走ってしまった思考を取り繕おうと、笑い声を立ててみせた。相羽も同じ
ようにする。
「と、とりあえず、決まってから考えよう。道場には大勢いるんだから、僕らがああし
ようこうしようと予め決めていたって、多分、思い通りにならない可能性が高いよ」
 純子は黙ってうなずき、承知した。
 それから、教室の方をちらりと見やって、ついでに別の話を切り出した。
「変なこと聞いてるかもしれないけれど……稲岡君て、私のこと嫌ってる?」
 純子にとって、高校二年生の春は、ほぼ最高のスタートを切ったと言える。
 好きな異性――相羽と付き合い始めて三ヶ月あまり、彼と同じクラスになれただけで
なく、席まで隣同士。クラスには仲のいい友達も大勢いるし、反りが合わなかった白沼
とも、純子のタレント仕事を通じて、仲は随分と好転した。その仕事も順調だし、クラ
ス担任の神村先生は理解のあるタイプだから安心して打ち込める。
 だったら何がどう不満で“ほぼ”なのかというと……新しく知り合った一人の同級生
の存在が少なからず気になるのだ。
 真後ろの席を占める稲岡時雄。勉強なら学年で十指、いや五指に入る優等生。学校期
待の一人と言えよう。主要科目以外に目を向けると、家庭科は人並み(男子として)だ
が、体育や音楽などもそつなくこなす。外見は、レンズが厚めの眼鏡で損をしているよ
うだが、それでも充分に整った顔立ちだ。
 さて、稲岡がいくら優等生でも、純子が気になるのは心変わりしたとかではもちろん
違う。気を遣うと表現した方が近いかもしれない。
 稲岡は、ガリ勉とまでは行かずとも、時間が少しでもあれば勉強に充てたいらしく、
休み時間も暇さえあれば参考書や問題集を開いている。そういう風にされると、周りの
者は騒ぎにくい。折角、相羽がすぐそばにいるというのに、お喋り一つしづらい。
 実際には、多少うるさくしても、稲岡が常に抗議や文句を言ってくるわけではく、ほ
とんどは黙々と勉強している。だけど純子にとって、新学年最初の日に注意をされたこ
とが、案外と重くのし掛かっているのだった。
「うん? 後ろの席にいるんだから、直接聞けば?」
 気楽な口調で相羽。純子は左右にきつく振った。
「できるわけないでしょ。だから、あなたにこうして聞いてるの。こっちは真剣なんだ
から、冗談で返さないで欲しい」
「ごめんごめん。純子ちゃんが嫌われるって、想像できないものだから、つい」
「でも、稲岡君とは全然話をしないし、たまに口を聞いても、私達がうるさいっていう
注意ばかり。そりゃあ、お喋りに夢中でうるさくしていたこともあったかもしれないけ
れど、最初に注意されてからはかなり気を付けているつもりよ。だいたい、休み時間の
ことなんだから、とやかく言われることじゃないと思うの、本来は」
「それは僕も思う。ただ、だからといって、どうして君が嫌われてるってことに?」
「この前、気付いたのよね。周りの席には私達よりも騒いでいるところがあったとして
も、そっちには滅多に注意しない。不公平に感じちゃう。ひょっとしたら、私が嫌い
で、殊更に注意してやろうと、鵜の目鷹の目でチャンスを探してるんじゃないかしら」
「ないと思うけどなあ」
「根拠があって言ってる? 稲岡君が何か言っていたとか」
「そういうのはないけれど。うるさくて勉強できないって言うなら、図書室にでも行っ
てるだろうし」
「移動時間が惜しい、とかじゃないの」
「どうなんだろ? あいつが歩きながら参考書を読んでるのを、見たことあるよ」
「歩きながら……凄い。うーん」
 それならそれで、稲岡の態度をどう受け取ればいいのか、困ってしまう。
 純子の困惑に、ある程度の答が与えられたのは、その日の午後最初のコマが終わった
あとだった。
 数学の授業を少しばかり早く切り上げると、神村先生は純子の名を呼んだ。「はい」
と小走りで教卓前まで行く。先生は、他の生徒には終業ベルまで自習を言い付けてか
ら、「ちょっといいか」と純子に廊下に出るよう促した。相羽らの目線を背中で何とな
く感じつつ、教室を出た。
 さらに、先生は人のいない場所が必要なのか、階段の踊り場まで移動した。
「時間もあまりないことだし、率直に伝えるぞ。実は今朝、稲岡の親御さんから話があ
ってだな」
「稲岡君の?」
「うむ、母親の方だ。今の席だと周りがうるさくて勉学に差し支えがあるようだから、
できれば席替えをしてもらいたいと」
「えっ」
「ああ、深刻に受け止めなくていいんだ。今は、向こうさんの言い分を伝えているだけ
だよ。その辺、涼原なら分かると思って率直に言ってるんだが」
「あ、はい、分かります」
「よかった。それでだな、僕も納得しかねたので、一応、今朝から機会があればちらち
ら見ていたんだ」
 言われてみて、思い当たる節があった。今日は授業がないときでも神村先生、やたら
に来るなあ、と。
「可能な限り客観的に見て、涼原と涼原の友達が特別うるさくしているようには思えな
かった。どちらかと言えば、稲岡からもっと離れた席だが、四倍も五倍も騒がしい連中
がいたと感じたよ。だから、この件は稲岡の過剰反応、思い込みだという気がするんだ
が……涼原は稲岡から直接、何か言われていないか? 静かにしてくれ的なこと以外
に」
「えっと」
 頬に片手を当てて、思い起こそうと努める純子。だが、何もなかった。答えられない
でいると、先生が補足する。
「言葉じゃないかもしれん。小さく舌打ちするとか、椅子の脚を軽く蹴ってくるとか」
「そんな、まさか。全然ありません」
「そうか。念のために聞いておくが、涼原は香水を付けて学校に来てはないだろうな?
 この年頃の男子はそういうのに惑わされやすい――」
「ないです!」
 心外な言われように思わず、声が大きくなった。校内での香水の使用は、原則的に校
則で禁じられている。ただでさえ芸能活動をしていることで目立つのに、香水をしてく
るなどという違反をして、目を付けられても何の意味があるのやら。
「すまん。疑っているんじゃなく、おまえのやってる仕事で使ったのが、何らかの形で
残ってしまっていたなんてことを想定したんだ」
「そういうのもありませんから。だいたい、二年の一学期が始まってから学校のある日
には、今のところ仕事を入れていません。先生も知ってるはず」
「すまんすまん。ただ、細かな可能性を、日曜に仕事で香水を使ってそいつが残るとか
の可能性を考えてしまうんだ、数学教師をやってるせいかな」
「……分かりましたけど、日曜日の匂いが残るなんて、お風呂に入らないとでも?」
 怒ってみせたが、話の脱線にも気付いているので、この辺で矛を収める。
「それより先生、稲岡君本人は何か言ってきてないんですか」
「うむ、何もない。あとで直に聞くつもりだ。案外、デリケートな問題のようだから、
より気を遣う……ああ、いや生徒の前で言っても始まらんな」
 神村先生は口元を隠しながらも、苦笑いをこぼした。
「よし、分かった。わざわざすまなかったな。戻っていいぞ。一分もしない内に休み時
間になるだろうが、静かに戻れよ」
 これに肯定の返事をしてから立ち去ろうとした純子だったが、ちょうど終業の合図が
鳴った。感じていた以上に時間が過ぎていた。
「――あ、先生。今のこと、稲岡君には言わない方が?」
「まあそうなる。でも、必要があると思ったとしたら、話すのは自由だ。止めんよ」
 去り際に尋ねたたことに対する先生からの返答内容が、ちょっと意外だった。生徒同
士で話をして決着するのであれば、それが一番よいと考えているのかもしれなかった。

 三日が過ぎた。その後、神村先生が担任として稲岡から話を聞いたのかどうか、まだ
分からない。とりあえず、また席替えをするというような不自然な事態にはなっていな
い。
(先生からはああ言われたけれど)
 背後の席に稲岡がいないことを確認してから、純子は前を向いたままため息をつい
た。
(気になるからって、稲岡君に直接聞くなんて、やっぱりできないし)
 大型連休に入る前に、すっきりさせておきたかったのだけれど、ことはうまく運びそ
うにない。
(先生に聞いたら、分かるのかなぁ。でも……席替えが行われていなということは、稲
岡君の希望、というか稲岡君のご両親の希望は通っていないわけで……)
 稲岡の側に譲歩してもらったのではないかと考えると、それはそれで気が重い。
 一方で、明るい材料もある。あれからさほど時間が経ったわけではないが、稲岡がう
るさいと注意してくることはなくなっていた。逆に、稲岡と会話をする回数は増えた
(元がほぼゼロに等しかった故、微増に過ぎないのだが)。朝夕の挨拶や、実験の授業
で分からない点を教えてもらう、その程度ではあるけれども、進展には違いない。
(相羽君は普通に話せてるみたい)
 男子と女子の違いはあるだろうが、相羽がより積極的に稲岡に話し掛けるようになっ
た結果、反応もよくなってきているようだ。
(ひょっとしたら相羽君、私が前に相談したから、稲岡君と仲よくなろうと話し掛ける
ようにしたのかしら。私も努力しなくちゃ、かな)
 頭ではそう思うのだが、忙しい身の純子。掛かりきりになれない理由があった。
 目下のところ、ゴールデンウィーク中に催されるミニライブが一番の山。テレビとは
無関係なところで、観客を入れて唄うのは初めてなのだ。しかも久住淳として、つまり
男の格好をしてとなると、より緊張感が強まるに違いない。
 次にアルファグループ関連の仕事。白沼の父が関係しているだけに、普段以上にプレ
ッシャーを感じる。そうでなくても、モデル撮影やテラ=スクエアのキャンペーンガー
ル等々、多岐に渡っているだけに、目が回りそうだ。明日もコマーシャルの撮影が入っ
ていて、今夜の内から移動しないといけない。
(連休明けに仕事が一段落したら、アルバイトをしたいと思ってたんだけど、無理か
な)
 手帳を取り出し、スケジュールを確認した純子は、さっきとは別のため息をついた。
 芸能関係の仕事で、高校生にしては充分にもらっている純子が、どうして他にアルバ
イトをしたいのか。
 純子は右隣の席を見た。相羽の姿はあるが、こちらには背を向けている。何を話題に
しているのか、他の男子達四、五人と盛り上がっていた。
(休みが終わってから誕生日まで、三週間くらい。短い!)
 五月二十八日は相羽の誕生日。当日、誕生会のような催しは無理だとしても、プレゼ
ントを直接手渡したい。そしてプレゼントを買うために、アルバイトをしたい。
(モデルやタレントは、何か違うもんね。元々、相羽君のお母さんの縁で始めたことだ
し。私の力だけでもらったお金で、感謝の気持ちを表したいな)
 気持ちは強いのだが、時間が厳しい。相羽の誕生日が過ぎれば、すぐに中間考査に突
入だ。勉強時間を確保しつつ、アルバイトできるだろうか。校則で、テスト一週間前に
はバイト禁止が原則なので、ますます時間が限られる。
(いかにもバイトって感じの、飲食店でやってみたい。もし叶うのなら、あそこのパン
屋さんがいいんだけど、短期じゃ嫌われるだろうなあ)
 三回目のため息。小学生の頃から贔屓にしているパン屋に、だめ元でお願いに行くつ
もりなのだが、いつから入れるのかはっきりしない内は言い出しにくい。タレント仕事
が、本当に連休明けにきちんと終わるのか、確実性がないのだ。定期試験が近いのは向
こうも承知しているのだから、配慮はしてくれるに違いないのだが。
(あんまりぎりぎりになってもまずいし、断られた場合も考えて、早めに動かないと)
 手帳に備わったカレンダーをじっと見据え、動ける日を選びにかかった。
 予鈴が鳴る寸前に、どうにかこうにか決められた、が。
(そうだわ。護身術を習う日も決めないといけないんだった!)

 次の日、純子は朝も早くから走っていた。
 コマーシャルの仕事はこれまでに回数をこなし、慣れたところはあった。だが、今回
のように朝が早いのはやはりつらい。
 きれいな朝日がほしいというスポンサーサイドの希望に沿って、実際の日の出に合わ
せて撮影が行われた。わざわざ本物の朝日を捉えなくても、他にやりようはいくらでも
あるが、スポンサーと撮影監督のこだわりというやつだ。ついでにロケ地にもこだわっ
た。桜の花の咲き誇る中、“文明開化”をイメージさせる橋の架かる川という、少し変
わった注文だ。
 おかげで前日の夜遅くに現地近くの宿を取り、早朝まだ暗い内に発つと、河川敷にス
タンバイ。小さな照明の中、リハーサルを何度か重ね、天気予報を信じてじっと待つ。
やり直しが利かない(無論、厳密には失敗しても別の日に再チャレンジできるが)とい
う緊張感の中、川に平行する道をダッシュし、橋を駆け抜け、通行人や飛行機などに邪
魔されることなく撮影を終えた。そして首尾よくOKが出た。
「はい、お疲れ〜」
 六時前には撤収できたが、ロケ地が遠かったため、自宅に戻るほどの余裕はない。学
校へは車で送ってもらえることになっていたが、その前に朝食をお腹に入れなければ。
車内で仮眠を取りつつ、一時間近く揺られ、早くから開いているファミリーレストラン
に到着した。
「何でも食べていいよ」
 マネージャーとして着いてきた杉本が正面からこちらに向けたメニューは、ステーキ
のページが開いてあった。
「無理」
 普段でさえ、朝から肉はまず食べない。ましてや、全力疾走をリハーサルを含めて幾
度もやった身では、見るだけでも胸が悪くなりそう。
「この、朝がゆセットがいいかな」
 記載のカロリーを確かめてから、各テーブル備え付けのタッチパネルを通じて注文す
る。
「そんなのでいいの?」
 隣に座るメイクのおねえさんが言った。彼女は先に、ミックスサンドとレモンティー
とフルーツゼリーを頼んでいた。
「そりゃあカロリーを気にするのは分かるけれど、このあと学校があるっていうのに、
若者がこの程度で大丈夫?」
「はい。折角だから、普段食べないような朝ご飯にしてみようと思って」
 そもそも、撮影の一時間ばかり前に、朝一番のエネルギー補給としてバナナとゆで卵
とチョコレートを少しずつ食べているのだ。摂ったエネルギーの大部分はもう使った気
がしないでもないけれど、全体の量を考えると今食べるのは、朝がゆくらいがちょうど
いい、と思う。
 お客が少ないせいか、注文した料理が全て揃うまで、十分も掛からなかった。尤も、
撮影スタッフ全員が入店した訳でなく、別ルートでとうに帰った者も大勢いる。
「――あ、おいしい」
 おかゆは予想していた以上の味だった。フレーク状にされたトッピングが六種類容易
されており、甘い、塩辛い、ピリ辛、ごま風味等々、どれも特長があって変化を楽しめ
る。純子が個人的に嬉しかったのは、そのどれでもなく、箸休め的に付されたコウナゴ
とクルミの和え物だったが。
 食べ終わったのが七時半で、店を出たのが十分後。それでも八時四十分の予鈴までに
は、余裕を持って学校に着けるはず――だったのだが。
「おっかしいなあ」
 杉本は思わずクラクションを押しそうになる右手を、左手で止めた。
「渋滞、ですね」
 時計と外を交互に見ながら、純子が言った。
「じ時間帯は朝の通勤ラッシュと重なってるけれども、ほ方角が違うから大丈夫のはず
なんだよ。じ実際、何度もこの辺をこの時間に走ってるけど、こんなに混雑してたこと
なんてなかった」
 焦りを如実に表す早口の杉本。普段から割と早口なので、油断すると聞き逃してしま
いそうだ。
「事故でしょうか」
「かもしれない」
 ラジオの交通情報はまだ何も言ってくれない。しょうがないので、ネットで調べてみ
る。すると今まさに進もうとしている市道の先で、車三台が絡む衝突事故が起きたばか
りと分かった。発生場所は、学校までの順路の手前で、事故現場を過ぎればスムーズに
流れている可能性が高い。
「まずいなあ。回り道しようにも詳しくないし、ナビは載せてないし」
「……ここからだと、いつもならどれくらい掛かるか、分かりますか、杉本さん?」
「ええっと。十分ぐらいかな?」
「歩きだと?」
「ええ? 分かんないけど、最低一時間は掛かると思うよ」
「そうですか……。予鈴から十分間は朝のホームルームだから、一時間目の授業は八時
五十分開始。最悪でも授業には間に合わせなくちゃ」
 独り言を口にする純子。状況任せなので計算して答が出るものではないが、一応の目
処は立てておきたい。
「ぎりぎり八時二十分までは車で進んでもらって、そこからは降りて走る。杉本さん、
これで行きましょうっ」
「君がそれでいいのなら、そうしよう。はっきり言って、判断付かないよ。くれぐれも
気を付けてね」
「杉本さんも運転、気を付けてくださいね」
 そこからは時計とにらめっこになるつもりだったが、はたと思い出したのが携帯電
話。仕事用という意識で持っているので、それ以外で使うことは頭になかったが、学校
の誰か――担任か相羽にでも電話で今から伝えておくのはどうだろう。事故渋滞で遅れ
るかもしれないと。
「電話しますね」
 杉本に断ってから、短縮ダイヤルのボタンを押そうとした。が、そのとき、車窓の外
に、道路と平行して走るレールを捉えた。
「あっ――。杉本さん、ここから一番近い駅って、行けそうですか?」
「うん? ああ、駅ね。確かすぐそこの、いや二つ目の十字路を左に曲がったらじきに
着くはず」
「だったら、そっちの方が早くないですか? 電車に乗って、最寄り駅まで行く。いつ
もとは反対方向だから詳しい時刻表は知りませんけど、多分、同じような間隔で列車は
走ってるだろうから」
「なるほどっ。その方が確実だね!」
 何だか興奮した口ぶりになった杉本は、首を左斜め方向に伸ばした。曲がる箇所の状
況を見極めようとしているようだ。
「いいぞ。行けそうだ。五分か十分で曲がり角までは行けるだろう。その先もこの道ほ
ど渋滞しているとは思えないし」
 方針をあっさり変更。
「電車賃はあるかい?」
「あ、定期じゃだめなんだ。あります」
 距離から推測して、さほど大きな額にはならないはず。
 電車を利用するという思い付きのせいか、電話のことはすっかり忘れてしまったが、
とにもかくにも近くの駅には七分半で乗り付けられた。道路渋滞とは無縁らしく、駅は
いつもと変わらぬ程度の混み具合のようだ。
「念のため、時刻表を見てきて。もしいいのがなくて、車の方がましなようだったら、
すぐに戻って来て」
「はい。五分で戻らなかったら、もう行ってくださいね。ありがとうございました」
 降りながら急ぎ口調で言い、ドアを勢いよく閉める。車は駅前のなるべく邪魔になら
ない位置に移動した。
「さあて、と」
 純子はほんの心持ち身を屈め、駅舎に歩を進めた。初めて利用する駅なので、様子を
窺うような感じになる。大きくもなければ小さくもない、ごく平均的な規模の駅だと分
かる。普段使っている最寄り駅と似ている。
「次が三分後でその次がさらに六分後」
 時刻表から壁掛け時計に目を移し、時刻を確認。早い方に乗れたとしても、学校の最
寄り駅に到着する時間は、いつもよりは約十分遅くなる。学校へは、ホームルーム中に
なるだろうか。
 と、そんなことを考えている時間も惜しい。切符を買って改札を通った。少し迷っ
て、跨線橋を渡らなくていいんだと確認した。
(こういうときのためにも、電子マネーにした方がいいのかな?)
 手にした切符の感触が、何となく久しぶりで、持て余し気味になる。取り落としそう
になったところを、宙で素早く拾い上げた。
(おっとと。危ない危ない。とにかく、無事に着きますように!)
 心の中でお願いをしてから、やって来た電車に乗り込んだ。

 学校に着くや、純子は職員室に直行した。そこで遅刻届の用紙を受け取り、記入して
から教室に向かい、担任なりそのときの授業を行っている先生なりに渡すのだ。今はま
だホームルーム中だから、担任の神村先生に渡すことになるだろう。
 職員室を出ると急ぎ足で離れ、階段を駆け上がる。誰もいないから、走りやすくはあ
る。学生鞄の角が太ももの辺りに当たって痛いが、気にしている暇はない。踊り場で方
向を転じ、またステップを上がって、二階に。教室横の廊下を行くときは、さすがに走
れない。それでも可能な限り早足で急ぎ、教室の扉まで辿り着いた。開ける前に呼吸を
整えつつ、中からの音に耳をそばだてる。まだまだホームルームの最中だ。
 先生の声が聞こえてきたのは当然だが、内容の方ははっきり聞き取れない。状況は分
からないが、緊張を強いられる場面ではないようだ。ここに来てようやく、電話をし忘
れていたことを思い出す。
「――すみません、遅刻しました」
 がらりとそろりの中間ぐらいの勢いで扉を横に引くと、こちらを見る神村先生と目が
合った。クラスメートからの視線も感じながら、純子は届けの紙を先生に差し出した。
「どれ」
 どんな遅刻理由なのかなとばかりに用紙に見入る先生。
「『寝坊しました』?」
 先生は書いてあることを読み上げ、純子の顔を改めて見た。
(あれ? 面倒だから寝坊ってことにしたんだけど、疑われてる? と言うより、仕事
だってばれてる?)
 収まりかけた呼吸の乱れがぶり返し、心臓の鼓動もペースを上げた気がした。
「目は腫れぼったくないな」
「そ、そうですか?」
「仕事だと聞いたぞ。それにさっき調べて、近くで事故渋滞が起きていることも把握済
みだ」
「え」
 今日、仕事があるとは先生に伝えていなかったから、誰かが言ったことになる。とな
るとそれは相羽か白沼しかいない。
 二人のいる方向をそれぞれ見て、白沼が言ったんだと分かった。
「すみません。少しでも早く来ようと思って、適当に書きました」
 この答は半分だけだ。もう一点、間接的に仕事のせいで遅れたということを皆の前で
言いたくなかった。
「まったく。書き直して、あとでまた出すように。さあ、席に着いて」
「わ、分かりました」
 怒られると覚悟していたが、どうやら最小限の注意で済んだようだ。
「あと、涼原、大丈夫か? 何か知らんが、結構な汗だぞ。はぁはぁ言ってるし」
「え? あ、はい。これは走ってきたからで。暑いです」
 自嘲気味に笑いながら、ハンカチを取り出して額に当てる。今日の天気予報による
と、四月にしてはかなり高い気温になるという。
「言ったことを繰り返している余裕はないので、あとで他の者から聞いておくように。
――さて諸君。このあと一時間目は僕の授業だが、ここで予告しておく。抜き打ちの小
テストをするからな」
「ええーっ!」
 純子の遅刻でざわざわしていた教室内が、これで一気に騒がしくなった。「聞いて
ねー」「先生、ずるい」なんのかんのと抗議のブーイングが起きた。
「何がずるいだ。抜き打ちテストを予告してやったんだから、感謝してくれてもいいだ
ろうに」
「抜き打ちテストを予告したら抜き打ちじゃなくなるよ」
「屁理屈をこねてないで、残りのホームルームの時間をやるから、復習でもしとけ。で
は、お楽しみに」
 にこにこ笑顔で神村先生は教室を出て行く。皆、慌てて数学の教科書やノートを机に
広げ始めた。
「散々だね。渋滞に巻き込まれて遅刻するわ、抜き打ちテストはあるわで」
 隣の相羽が話し掛けてきた。余裕なのか、焦って教科書を見ることはしていない。
「ほんと、厄日かしら。――ね、上着って脱いでもいいと思う?」
 尋ねつつ、学校指定のブレザーの襟口をつまみ、ぱたぱたさせて自身に風を送る純
子。数学の復習も気になるが、先に暑さをどうにかしないと、頭に効率的に入らない。
「別にいいんじゃないか」
「まだ冬服の季節なんだけど」
「――唐沢、委員長としての見解は?」
 相羽は唐沢に聞いた。
「あ? 問題ないんじゃねえの? 去年確か、体育のあとやたら暑かったときは、ブレ
ザーを着ずにしばらくいたぞ。そんなことで煩わせてくれるなよ。余裕のおまえと違っ
て、俺はこれから暗記せねばならんのよ」
「悪い悪い」
 相羽が再び純子の方を向き、促す風に首を軽く傾けた。純子は一応の了解を得たと捉
え、安心してブレザーを脱ぎ、自分の椅子の背もたれに掛けた。
 その動作の途中、振り向いたときに後ろの稲岡と目が合った。
「――少し静かにしてくれ」
「ごめん」
 久しぶりに言われてしまった。テストがあるのだから仕方がない。前を向くと純子
は、舌先をちょっぴり出して無理に笑って見せた。朝から失敗続きで滅入りそうになる
のを、どうにか吹っ切る。それから教科書とノートを取り出し、新学年になってから進
んだ分を見直しに掛かった。

 ちょっとした“異変”が発覚したのは、小テストの採点のときだった。
 通常のテストと違って、小テストはその場ですぐに採点が行われる。先生が一旦回収
して行う場合もあるが、今回は答案用紙を隣と交換し、先生の解説を聞いて採点する形
式が採られた。
 全問の説明が終わって、三問六十点満点での配点も示されたので、各自、隣のクラス
メートの点数合計を書いて、当人に返すのだが。
「稲岡君、これどうしたんだよ」
 純子のすぐ右後ろの席で、平井(ひらい)という男子生徒が心配げな声を上げるのが
聞こえた。気になって肩越しに伺ってしまう。
「単純な計算ミス、ケアレスミスだけど、らしくないな」
「――調子が今ひとつ上がらなかった」
「それにしたって、一つならともかく、二問も落とすなんて」
「言うなよ」
 そう答えながらも、得点を隠すつもりはないらしく、26という数字が見えた。三問
中正解が一つで二十点。残り六点は、やり方が合っていたからおまけの三点ずつを加え
たということになる。
「――稲岡君、あの」
 純子は後ろを向いて、声を掛けた。
 そのとき先生から、答案用紙を集めるようにと号令が掛かる。集めるのは、各列最後
尾の生徒の役目だ。稲岡はすっくと立つと、無言で手を出してきた。
「うるさくしたせい?」
 渡しながら、つい尋ねる純子。だが、受け取った稲岡は返事をせず、機械的に答案を
重ねた。
(わ〜、怒ってる? うるさくしたつもり、ないんだけれど……朝から遅刻騒ぎを起こ
しちゃったのもあるし)
 稲岡の後ろ姿を見送っていた純子は、頭を抱えた。と、そこへ人の気配が。相羽だっ
た。
「僕からは見えなかったんだけど、稲岡の点数、悪かったの?」
「……平井君に聞けば」
「『言うなよ』って一言を気にしたみたいで、もう言う気はないみたいなんだ」
 苦笑交じりに言って、平井の方を見やる。
 純子も稲岡の態度が気に掛かっているので、もう言いたくない心持ちだ。
「悪かったとだけ言っておくわ。ねえ、やっぱり私のせい?」
「考えすぎ。さっきだけじゃなく、このところはうるさくしてなかったじゃないか。誰
だって調子のよくないときはあるんだよ」
 教室の前方を見ると、稲岡は自分から低い点数になったことを申告したらしく、神村
先生と何やら話し込んでいた。
「そうなんだったら、気が楽になるんだけれど」
 ぶるっと震えを覚えて、腕をさすった。
「上着、もう着ていいんじゃない?」
 相羽に言われて、思い出した。汗が引いてきて、一転して寒気を感じたようだ。授業
が再開されない内にと、立ち上がってブレザーの袖に腕を通した。

「アルバイトの希望?」
「はい」
 純子がこくりと頷くと、パン屋・うぃっしゅ亭の店長――職人兼オーナーのおじさん
は、一度大きく瞬きをした。昔は鼻下に髭を蓄え、どちらかと言えば丸顔で、某アニメ
に出て来そうなイメージ通りのパン屋さんだった。今は髭がきれいに消え、少し痩せた
結果、ダンディな雰囲気に変わっている。調理帽の縁から覗く髪は、白髪が圧倒的に増
えていた。
「確か……二、三年前までよく来てくれていたお嬢さん? 胡桃のパンが好きな」
 覚えられていた。嬉しいような恥ずかしいような。そして凄いとも思う。店で対面す
るのはレジの女性がほとんどで、こちらのご主人とは数えるほどしか言葉を交わした記
憶がない。
「最近は来られないから、どこか遠くの学校に行かれたんじゃないかと、残念に思って
ましたよ」
 懐かしむ口ぶりで店長が続ける。時間帯は夕方で、ぼちぼちお客が増え始めるであろ
う頃合い。純子も後ろのドアを気にしつつ、話に乗る。
「緑星に通ってますが、自宅通学なので、来られないことはないんです。でも、ちょっ
と忙しくて……」
 あれ? 話の行き先がまずい方に向いているような。慌てて修正を試みようとする
が、接ぎ穂が見付からない。
 店長は声を立て、短く笑った。
「いいよいいよ。高校生にもなれば、色々と交友関係が広がるものだろうからね。緑星
の生徒さんだということは、制服ですぐに分かった。あそこは進学校だし、忙しいのも
無理はない。それで、その忙しい生徒さんが、アルバイトする余裕ができたと?」
「えっと。忙しいことは忙しいんですが、どうしてもこちらでアルバイトをしてみたい
んです」
「今現在、特に募集を掛けてないんだけどね。仮に採用するとして、いつからどのくら
い入れるの?」
「それが、確実に大丈夫なのは、ゴールデンウィーク明けから、五月二十七日までで、
そのあとは試験の期間に入ってしまって、試験が終わったあともどうなるか、今は分か
りません……」
 だめ元で来たとは言え、声が小さくなってしまう。それでも俯いてしまわぬよう、し
っかりと前を見る。
「正味三週間ほどかあ。うーん。一日に何時間ぐらいできそう? それと、これまでの
バイト経験は?」
「曜日によって違ってきますが、早いときは、午後四時半頃にはお店に到着できるはず
です。夜は八時か九時。父と母とで意見がぶつかっていて……はっきりしなくて、申し
訳ありません。それから」
 アルバイト経験について、どう切り出そうか、ゆっくりと始めようとしたそのとき、
背後でベルがからんと鳴り、お店のドアが意外と勢いよく開けられた。
「ちーっす。寺東(じとう)入りまーす」
「寺東さん、入るときは勝手口からってお願いしてるのにまた。それにその言葉遣い」
「いいじゃないっすか。裏まで行くのは遠回りだし、お客さんの前では直しまぁす」
 最後だけかわいらしく媚びた声色になった。振り向いて様子を窺う。細い顎ととろん
とした目が特徴的な、同い年か少し上ぐらいの女の子だった。アルバイトの人らしい
が、髪が茶色のショートというのは、純子にはちょっと驚きだった。
 と、ふと気付くと、寺東の方も何やら驚いている様子。口をぽかんと開け、純子の方
を指差してきた。
「あんた――」
 とまで言って、一度口をぎゅっと閉め、腕組みをして考え込む。肩に掛けたマジソン
バッグ風の?バッグがずり落ちた。
「こんなとこにいるわきゃないと思うんだけど」
 呟いてから、改めて純子を見た。視線を上から下まで、サーチライトで照らすかのよ
うに。頭のてっぺんから爪先まで、というやつだ。
「ねえ、あんた。いや、お客様かな。あなた、風谷美羽に似ているって言われたことは
ないですか?」

――つづく




#496/512 ●長編    *** コメント #495 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:14  (477)
そばにいるだけで 65−3   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:53 修正 第4版
 どきっとした。久しぶりにずばりと言われ、自分がそれなりに有名になっているのだ
と、今さらながら実感する。
「あ、あの。ありません。ほ、本人です」
「へ? って、へー! 信じられない。何してるの、こんなところで!」
 遠く地方で別れた旧友に会ったかのごとく、寺東は反応した。手にバッグを持ってい
なかったら、そのまま抱きついてきて、肩の辺りをばんばんと叩きそうな勢いだ。言葉
遣いも元に戻ってしまっている。
「アルバイトをここでしたくて」
「へー? バイトって、何で? いや、まあ何でもいいわ。今は聞かなくてもいいや。
店長、もっちろんOKしたんでしょうね!」
「あ、いや、まだだが。話の途中だったし」
 戸惑いの色が明らかな店長は、帽子のずれを直しながら、寺東に尋ねた。
「君はこの子と知り合いなのかい?」
「違いますよ。知り合いじゃなく、一方的に知ってるだけ。結構知ってますよ〜。私、
彼女がCMをしてるのをみて、飲み物や化粧品なんかは美生堂を贔屓にしてるんだか
ら」
「よく分からないが、こちらのお嬢さんは広告に出ているのかね」
「出てます出てます。ファッションモデルもしてるし、ドラマにも出たし、他にも色々
と。まあ、全体に露出は抑えめだから、店長みたいな男の人が知らなくても無理はない
ですけどね」
「ふ、ふーん」
 店長もまた、純子をまじまじと見つめてきた。さすがに視線に耐えきれず、下を向い
た。
「言われてみれば、きれいな顔立ちをしてるし、すっとしたスタイルだな。あんまり言
うと、ハラスメントと取られるか」
「い、いえ」
 純子は素早くかぶりを振った。横に立った寺東が、とうとう純子の手を取った。
「ほらほら、店長もそう思うでしょ。だったら雇いましょう。看板娘かマスコットガー
ルってことで、風谷美羽を目当てに来るお客が増えますよ、きっと」
 ええ? そういうのはちょっと……。
 寺東の盛り上がりに、すぐには言い出せなかった純子であった。

「あはは、そいつは傑作」
 鷲宇憲親は、純子からアルバイトを頼みに行ったときのエピソードを聞き、快活に笑
った。
「笑いごとじゃなかったんですよ、そのときは」
 マイクスタンドを握りしめ、力説する純子。姿はひらひらが多く付いているとは言
え、男物のズボンにシャツにジャケット、そしてウィグと、久住淳仕様。今いるのは、
ミニライブで使う会場のステージ上だ。開催まで日にちはもう少しあるが、本番と同じ
場所で雰囲気・空気感を掴んでおこうというわけ。鷲宇のスケジュールの都合で、今
日、土曜しかできないので集中的に取り組んでいる。
 三時間ほどレッスンを兼ねたリハーサルを重ねたあと、休憩中の息抜きに、アルバイ
トの話をしたところだった。
「結局、採用された?」
「めでたく採用していただきました。短期間で時間も不確定っていう悪い条件なのに、
寺東さんの猛プッシュがあったおかげです。だから、その意味では感謝なんですが、客
寄せパンダになるのだけはお断りしました」
「そりゃあ、ルークさんとことしても事務所の断りなしに、そんな営業めいたことをさ
れちゃあ面目丸つぶれだ」
「はい。それに、私がアルバイトをする目的って、さっき言いましたように、相羽君の
誕生日プレゼントのためなんです。だったら、風谷美羽の名前を利用するのは、避けた
いなあって」
「確かに。風谷美羽、来たる!というようなやり方なら、普段と仕事と大きな違いはな
い。わざわざアルバイトをする意味が薄まるね。相羽さんところの影響力がない、自分
自身で勝負してみたいと」
「そうなんです。でも、会って間もない人達に、そこまでの事情を話すのは躊躇われち
ゃって。寺東さん、ミーハーなところあるみたいでしたしね。一応、事務所の意向って
ことで押し切りました」
「納得してもらったの?」
「あー、それがですね。風谷美羽の名前で人を集めるような行為はしないけれども、噂
に立つくらいならいいんじゃないかっていうのが妥協点でした。気付いた人が広める分
には、かまわないという」
「凄く、玉虫色ですな」
 また笑う鷲宇。純子は急いで、「事務所の許可はちゃんともらったんですよ」と言い
添えた。
「分かったよ。それにしてもよくアルバイトまでしようっていう気になれるね。相羽さ
んと市川さんから君のスケジュールを教えてもらったけれど、かなり詰まってるじゃな
いか。明日もどこだっけかイベント広場で、握手会とか」
「あ、それ、握手はなくなりました。サインだけです。限定で先着百名、整理券配布方
式で。あとは歌」
「どっちで唄うのかな?」
「え? ああ、明日は久住淳ではなく、風谷美羽としてです。アニメ『ファイナルス
テージ』のエンディング曲だから。放送開始して間もないし、百人も来てくれるのかし
らって心配で心配で」
「甘く見ない方がいいよ。僕も昔――っといかん。こんなに時間が経ってる」
 鷲宇はお喋りをすっと切り上げ、リハーサルに戻ることを宣言した。
「次はいよいよ、お待ちかねの曲、いや、リレーメドレーを行ってみよう」
「鷲宇さんの持ち歌ですね……ほんとに鷲宇さん、一緒に出るんですか」
「何ですか、その嫌そうな言い種は」
 からかうような口ぶりになる鷲宇。純子は少しだけ迷って、正直に答えることにし
た。
「嫌ですよ。気が重い。鷲宇さんの持ち歌を、鷲宇さんと一緒に唄うなんて」
「しょうがないでしょう。ミニライブとは言え、ショーとして成立させるには曲が少な
く、話術も心許ない。そこで応援出演どうでしょうっていう市川さんからの依頼があっ
たんだ。僕は快く引き受けた。感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「サプライズとして出てくださるのには、光栄すぎていくら感謝してもしきれないって
思っています。でも、それとこれとは別です。普通に鷲宇さんお一人で唄ってくださる
のが、ファンの人達にとってもいいんじゃないですか」
 本気でそうしてもらいたい。けど、言って、聞いてもらえるとは期待していないか
ら、一生懸命練習するほかなかった。
「ばかなこと言わない。当日は久住ファンが集まるんだよ。この会場いっぱいに。大き
くはない箱だけど、一人一人の熱狂が近くに感じられるはず。それに対して全力で応え
ることに集中しなさいな、久住君」
「それはもう覚悟できています」
 力強く言い切る。
 純子のそんな様子を見て、満足かつ安心したのか、微笑を浮かべて軽く頷いた鷲宇。
「その意気込みついでに、一曲まるまる、僕の歌を唄ってみないかな」
「拷問に等しいですよ、それ」

「また寝てる」
 頭上からの声に目を開けると、白沼の手が見えた。ふと、「手だけで白沼さんだと分
かるなんて、親しくなれた証拠かな」と思った。
 それとも、声で察したのかしら等と考えながら、「何、白沼さん?」と応じる。机の
上には、携帯できるミニ枕。
「それだけ眠りたいくせに、よく授業中、起きていられるわね」
 しゃがみ込んだ白沼が、机の縁に両腕をのせて話し始める。
「授業で眠らないように、休み時間に休んでるんだよぁ」
 あくびをかみ殺しながら、身体を起こす。ミニ枕を机の中に仕舞い込んだ。
「疲れが溜まってるんじゃないの。確か、昨日の日曜はスケジュールが入っていたけれ
ど、土曜は何もなかったんでしょ」
「え、そんなこ……」
 そんなことないわ、土曜もリハーサルがあったと答え掛けて、慌てて口をつぐむ。
(危ない危ない。白沼さんには、久住淳としての活動は秘密なんだったわ。でも、レッ
スンて言うだけなら、まあいっか)
 覚醒したばかりの頭をフル回転して、それだけのことを考えた。
「何? 言い掛けてやめるなんて気持ち悪い」
「ううん、くしゃみが出そうになっただけ。で、そんなことないのよ。白沼さんの方に
渡しているスケジュールは仕事絡みだけで、レッスンなんかはほとんど省いているか
ら」
「そうなの? じゃあ、空いていると思ったら実際は埋まっている場合もあるのね」
「うん、まあ、時々は。だいたいは空いてる」
 あまり歓迎できない方向に話が進むので、純子は切り替えに掛かった。
「心配してくれてありがとう! 凄く嬉しい」
「ば、ばか。心配するわよ。パパの評価にも関係があるんだから」
「それでも嬉しい」
 純子がにこにこして見せると、白沼の方は耐えきれないという風に、横を向いた。
「変なこと言い出すから、本題を忘れそうになったじゃない」
「ということは、また仕事関係の連絡が?」
「そうじゃないわ。完全にプライベートなことよ。あなた、相羽君から何か聞いてな
い?」
「うん? 何のことやら……」
 答えながら、白沼の肩を視線でかすめて、相羽の席を見る。今は空っぽ。教室内にも
いないらしい。
「いないわよ。まだ職員室にいるんじゃないかしら」
 探す仕種に勘付いた白沼が言った。
「職員室って、神村先生のところ?」
「ええ。クラス委員の用事で職員室に先生を訪ねたら、相羽君が先にいて。何か相談事
をしていたみたいなんだけど、私が近付いたらぴたっとやめちゃって。先生が手にして
いた資料、ぱたんて閉じるくらいだから、結構個人的な話なんでしょうけど」
「成績かなあ。でも、相羽君、下がってはないはず」
「でしょ。第一、普通とちょっと違う感じなのよね。ぴりぴりしてるというか、緊張感
が高いというか」
「ふうん」
「だから、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけれど……そ
の様子だと特に何もないみたいね」
「うん……」
 ここ数日のことを思い出してみるが、これといって思い当たる節はない。もちろん、
純子が忙しいということもあるけれど、少しの時間でもあれば相羽は一緒にいてくれる
し、楽しい会話も普段と変わりない。
「そういえば、始業式の頃、相羽君が先生に三者面談の日について、お願いしたみた
い。お母さんの都合がどうなるか分からないので、この日にしてほしい、という風な感
じで」
「その話だったのかしら。あんまり詮索することじゃないから、直に聞くのもしにくい
し。涼原さん、恋人として、うまく聞き出しておいてよ。気になるわ」
「や、やってみる」
 恋人という言い方に赤面するのを自覚した。

 駅近くのファーストフード店はほどよく混んでおり、騒がしい。内緒話をするのには
うってつけと言えるかもしれない。
 相羽も純子も飲み物だけ注文して、奥の二人掛けのテーブルに着いた。
「――それじゃあ、当日の格好について。一番上に着るのは、伸びたり穴が空いたりし
てもかまわない服にすること。上下ともにね。あと、靴も」
「靴まで? 畳の上でやるんじゃないの?」
 この日の下校は、結城達や唐沢には悪いが、仕事関係の話があるからと言って、二人
きりにしてもらった。実際には、護身術を教えてもらう日を決めるのとその段取り、そ
して純子からすれば白沼から言われて気に掛けていたことを確かめるためであった。
「護身術を実際に使わざるを得ない状況になったとして、その状況になるべく近い形で
練習するのがいいんだってさ」
「なるほど。って、畳に靴で上がっていいの?」
「専用のマットを用意して、その上でやるみたいだよ。女性の指導員が付いてくれるか
ら、ちゃんと系統立って教えてもらえると思う」
「え、相羽君は?」
「補助が必要なときは協力することになってる。最初からいた方がいいのなら、そうす
るけど」
「もちろん、いてほしい」
 こんな具合にして、護身術を習う日は決まった。連休の最後の日だ。一日で完璧に身
に付けるのはどだい無理があるだろうけど、とりあえず第一歩。仕事だってその日まで
にとりあえず片付いているはず。身体の方は悲鳴を上げているかもしれないが。
「これでよし、と」
「よろしくお願いします」
 お互いにメモ帳を閉じ、飲み物のストローに口を付ける。先に飲むのをやめた純子
は、次の話題に移ろうと、軽く息を吸った。
「このあと、まだ大丈夫よね?」
「うん。何かあるの?」
「特別に何ってわけじゃなくて、もっと話していたいなあって」
「どうぞどうぞ。愚痴でも悪口でも夢でも、何でも聞きましょー」
 おどけた口調になる相羽。純子はつられて笑ってから、切り出した。
「ちょっと前から気になってたの。二年になって、相羽君、神村先生のところに行く機
会が増えてない? 今日も行ってたみたいだし」
「増えたかも」
「数学の質問、とか?」
「いや、質問に行くことはほとんどない。前に言ったと思うけど、三者面談をね。早め
にしてもらうことになりそうなんだ。こちらの都合でわがままを聞いてもらって、特別
扱いは気が引けるんだけど、凄く助かる」
「……」
 純子は短い間だが、相羽の様子を観察した。嘘を言っている風には見えない。
「へえー。普通は中間考査のあとでしょ。それを前にやるなんて、よっぽど成績がいい
人じゃないと、認められないんじゃない?」
「そんなことないって。成績とは関係なしに、先にしてくれたんだと思うよ」
「またご謙遜を」
「いや、ほんとに」
「それじゃあ、先生のところに何回も通ったのは、お願いを聞いてもらうためってわけ
ね」
「うん。こちらも事情を説明するために、証明書って言ったら大げさになるけれど、
色々と出す必要があったしね」
「わぁ〜。お母さんが忙しいと、大変だ」
「忙しいのは純子ちゃんもでしょ。休み時間になると、たいていは机にもたれかかって
寝ちゃう。みんな気を遣って、話し掛けられないみたいだよ」
「そうなんだ?」
 白沼さんは平気で話し掛けてきたけれど、と思った。でも、結城や淡島といった女子
に、唐沢までも話し掛けてこないということは、相当気遣われている。
「起こしてもらったら、いくらでも付き合うのに」
「君のやっていることを知っていたら、無理に起こそうなんて考えもしないよ」
「白沼さんは起こすわ」
「仕事関係でしょ、それも」
「そっか」
 答えてから、心の中でそっと付け加える。
(今日は違ったけれどね。相羽君も心配されているのよ、気付いていないみたいだけ
ど)
 純子はいつの間にかにんまりしていた。
「相羽君。私ね、とっても幸せな気分よ、今」
「え?」
「友達がいて、みんなそんなにも私のことを心配してくれてる。友達だけじゃないわ。
周りの人達大勢に支えられてるんだなって、改めて実感した。感激して泣けて来ちゃ
う」
「――そうだね」
 戸惑い気味だった相羽の表情がほころんだ。
「僕もその輪の中に入ってる?」
「何を言うの。相羽君が一番よ。あ、順番は付けにくいけど、でも相羽君は特別なの
っ」
「よかった。同じだ」
 顔を赤らめながら言った純子の前で、相羽がまた微笑む。
「僕も色んな人に支えられているけれども、君が一番」
 純子は相羽をまともに見つめ直し、そして安心した。相羽も、目元付近に朱が差して
いたから。

 ゴールデンウィークを目前にした、最後の学校の日。校舎内でも各教室でも、それこ
そあちらこちらで、生徒は遊びに行く話題で盛り上がっている。
「分かっていたことですけど」
 昼食の時間、集まって食べ始めるや、淡島が言い始めた。
「やはり、さみしいものです。お休みなのに、自宅に留まるというのは」
「みんなで遊びに行けないこと?」
「ああ、結城さん。折角ぼかして言っておりましたのに」
 この場にいる誰もが、ぼかしていないのでは……と心の中で突っ込んだかもしれな
い。
「ごめんね」
 いただきますのために手を合わせていた純子は、そのままのポーズで頭を下げた。
「私抜きで計画を立ててくれて、全然平気だったのに」
「そんなつもりは毛頭ございません。――ほら、結城さん。こういうことになりますか
ら」
「分かった分かった、分かりました」
 結城は面倒くさいとばかりに肩をすくめた。
「それじゃ、この話題は打ち切り?」
「いえ。一度、話題に出たからには、続けましょう。涼原さんは、いつなら暇になるの
でしょう?」
「遊びに出掛けるとなると……中間試験が終わってからかな」
「一ヶ月以上先の話!」
 結城は心底驚いたらしく、食べている物が口から飛び出さないようにと、急いで手で
覆った。もぐもぐと咀嚼してから、「やっぱり、忙しいんじゃないの」と呆れた風に付
け足す。
「一応説明しとくと、仕事の休みが全くないわけじゃないんだよ。ただ、中間考査前ま
では連続で休める日はなかなかなくて、あっても宿題や完全休養に充てたいなって」
「一つ、抜けています」
 淡島は箸を置いて、右手の人差し指を上向きにぴんと伸ばした。
「な、何が」
「デートをする日も必要なはずです」
 さらっと言ってくれる。当事者の立場からすれば、前置きなしにいきなり冷やかされ
ると、顔が熱くなる。
「い、いえそれは、まあ、ゼロってことはないけれども、相羽君の方も忙しいし。ほ
ら、ピアノのレッスンとかで。だからお互いに無理をしないで、行けるときに行こうね
って合意ができてるの」
「先は長いですから、それでも充分なんでしょう。これからの人生、思う存分に楽しむ
といいですわ」
 淡島は占いを趣味としているせいか、この手の言い種をよくする。純子はお茶を飲み
かけていたが、吹きそうになって、すぐさまコップから口を離した。それでもけほけほ
と咳き込んでしまう。
「もう、淡島さん、今日は飛ばしすぎ!」
「そのような意識は全くないのですが……自重します」
 箸を構え直し、小さな煮豆を器用に一粒ずつつまみ上げてはぱくつく淡島。
「デートって、どんなところ行くの?」
 今度は結城が聞いてきた。純子が答を渋ると、補足を入れてくる。
「根掘り葉掘りはしないからさ。今後の参考までに」
「月並みだよ。映画館とか遊園地とか。最近では、お花見」
「月並みでも幸せなんだから、いいよね。極端な話、二人でいられればどこだっていい
んじゃない?」
「それはまあ……って、そっちから聞いておいて、ひどい言われようだわ」
 純子が怒った素振りを見せると、結城はまあまあとなだめてきた。ひとしきり笑って
いるところへ、淡島がぽつりと。
「噂をすれば、です」
 廊下側に顎を振るので、つられて振り向くと、相羽と唐沢、鳥越の男子三人がこっち
に来るのが分かった。今日は学食に行っていたようだ。
「鳥越が、そろそろ顔を出してくれないと、新入部員にしめしがつかないって」
 前置きなしに、相羽が純子に言った。鳥越は天文部で、夏以降は副部長に収まる予定
だとか。相羽と純子も籍を置いているが、幽霊部員度は似たり寄ったりだ。強いて言う
なら、相羽の方が参加している。
「忙しいのは分かってるけど、そこを何とか。三十分でもいいからさ」
 鳥越は、何故か両手を拝み合わせて下手に出た。
「そんな。悪いのは私の方なのに」
 残りわずかになったお弁当を前に箸を置き、純子は両手を振った。
「気にすることはないぜ、涼原さん」
 唐沢が口を挟む。彼は天文部とは関係ないが、稀に昼の太陽観測に付き合っているら
しい。
「こいつ、今年の新入部員を勧誘するときに、モデルをやってる風谷美羽も在籍してる
よってのを売り文句に、何人か獲得したみたいだから」
「えー、まじ? 星好きにあるまじき行為」
 純子より早く、結城が反応した。続いて淡島も、彼女は無言だったが、じとっとした
“軽蔑の眼”を鳥越に向けた。
「ほ、ほんの少しだよ。入るかどうか揺れ動いてる人を、こっちに傾いてくれるよう、
ちょっと押しただけ」
 言い訳がましく、汗をかきかき説明する次期天文部副部長。
「でもその少しの人数から、風谷美羽さんはどこにいるんですかって突き上げを食らっ
たんだろ」
「ま、まあ、それに近いものはある。――こんなわけで、偉そうに頼めた義理じゃない
んだけど、近い内に一度、部室に来てよ、涼原さん」
 また拝まれた。純子は十秒ぐらい間を取って考え、そして答えた。
「行くのは全然かまわないけど。万が一、その一年生が私を見るだけが目当てだった
ら、すぐにやめちゃうかもしれないよ? 私が言うのもおかしいけれど、その子は真面
目に参加してる?」
「それは……」
 言い淀んだ鳥越。
「……凄く熱心とまでは言えないけれど、たまにさぼるのは、こっちが嘘ついたみたい
になってるせいかもしれないし……ああ、ごめん!」
 大声を出したかと思うと、鳥越は深々と頭を下げた。
「この言い方だと、涼原さんのせいみたいにも聞こえるよね。本当にごめんなさい。そ
んなつもりはないんだ」
「いいの。行かないのは、私が絶対悪いんだし。参加できないくらい忙しいのなら、最
初から入るなってことよね」
「いやそれは、誘ったのは僕らの方だし。それに、だからといって、今さら退部されて
も困るんだ」
「許されるのなら、籍は置いておきたいの。今年はちょうど夏に皆既日食があるでし
ょ? 観られる地域は限られるけれども、それに合わせて合宿をするんだったら、行き
たいなあって思うし」
「分かった。その線で合宿をするように持って行くよ」
 だから部室に顔を出して、と言いたげな鳥越だったが、言葉をぐっと飲み込んだ様子
だ。
「私、まだ先のスケジュール分からないよ? だから参加するって約束もできない…
…」
「いい、いい。たとえ不参加になっても、涼原さんの魂は現地に持って行く」
 魂って何だそれはと、相羽と唐沢、左右両サイドから鳥越に突っ込み。
 鳥越は頭を掻きながら、気持ちだけでも来て欲しいってことさと答える。そうして、
改めて純子の方を向いた。
「とにかく、さっきまで僕が言ったことは忘れて。暇なとき、活動に来て欲しいんだ。
説明するまでもないだろうけど、とっても面白くて楽しいから」
「うん。行く」
 笑顔で返事した純子。
「いついつになるって約束できないのが申し訳ないけれど、絶対に行くから」

 明日からはきゅうきゅうのスケジュールで、ミニライブに撮影にインタビュー、歌や
振り付けのレッスンと目白押しだ。休みも二日あるにはあるが、撮影の予備日に充てら
れているため、天候や進行具合に左右される。
 そういう状況なので、純子にとって今日は学校があるとは言っても、貴重な休みとも
言える。
 明日以降のために早く帰って休息を取りたい反面、友達付き合いも大事にしたいと思
う。だからというわけではないが、下校途中、みんな――相羽、唐沢、結城、淡島、そ
して白沼――と一緒にちょっと寄り道をすることに。
 元からそう決めていたのではなく、相羽が買いたい本があるのだけれど、近くの書店
にはないので、駅ビルの大型書店に寄ってみたいと言い出したのが始まり。六人で列車
に乗り、ターミナル駅までやって来た。
 書店までの道すがら、白沼に問われて相羽が買いたい本のタイトルを口にすると、唐
沢が反応をした。
「なぬ? 『トラ・慰安婦』と『ちん○は、ちん○』だって?」
 相羽はぴたりと足を止めると、唐沢の方を向いた。他の者が引き気味になる中、思わ
ず立ち止まった唐沢の真ん前で、右の握り拳に息を吐きかける相羽。
「いー加減にしろっ。わざと聞き違えるにしても、ひどい。ひどすぎる」
「わ、分かった。悪かった。茶化すつもりはないんだが、もう条件反射みたいに」
「なお悪い」
「いや、だから、今後は気を付けるって。で、もういっぺん言ってくれよ、本のタイト
ル」
 唐沢の懇願に、相羽はため息をついてから、ゆっくりはっきりと答えた。
「『マジック:応用とギミック トライアンフとチンク・ア・チンク』だ」
 純子は歩き出しながら、そのフレーズを頭の中で繰り返し唱えてみた。
(確かにひどかったけれど、唐沢君が下ネタに走るのも、分からないでもないかも)
 そう考える自分が恥ずかしくて、頬が赤くなるのを感じた。両手で覆って隠す。
「トライアンフやチンク・ア・チンクというのは、マジックの演目の名前だよ」
「どんな現象なのかしら」
 白沼が聞いた。彼女はさっきの下ネタの後遺症は浅かったらしい。
「トライアンフはカードマジックで、様々なバリエーションが考案されてるけれども、
基本は、順番も表裏もばらばらになった一組のトランプが、マジシャンの手に掛かると
あっという間に順番も向きも揃うという現象。チンク・ア・チンクはコインを使ったマ
ジックで、基本は……四枚のコインを四つの角において、手のひらをかざしていくと、
コインが一瞬にして別の角に移動し、最終的には一つの角に全部が集まるという現象、
と言えばいいかな」
「相羽君はできる、その二つ?」
「うーん、どちらも簡単なものならいくつか」
「今度見せて」
「いいよ。マットがなくても、何とかできるかな」
 相羽と白沼が話し込むのを目の当たりにした結城が、純子の脇をつついた。
「いいの? 喋らせておいて」
「え? 私、そこまで嫉妬深くないよ〜」
「それじゃあ相羽君の今言ったマジック、観たことあるの?」
「多分ね。名前だけじゃ分からなかったけれど、説明を聞いたら、観たことあると気が
付いたわ」
「そう、それならいいのかしら。随分、絆がお強いようで、うらやましい」
「うふふ」
 素直に受け取って、にやけておこう。
 と、そんな会話が聞こえていたのか、相羽が隣に着いた。
「それじゃあ純子ちゃんにも興味を持ってもらえるよう、新しいのを覚えてから、みん
なの前で披露するよ」
 目当ての書店は、意外と混雑していた。会社の終業時刻にはまだ早いだろうに、乗降
客がよく立ち寄るのか、場所によっては身体の向きを横にしなければ通れないくらい。
この光景だけを見ると、本が売れないなんてどこ吹く風だ。
「どうせ他の本にも目移りするんだろ? 俺、コミックのところにいるわ」
 唐沢はいち早く輪を離れた。結城と淡島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは淡
島。
「では、私は占いのコーナーにでも」
 皆にそう告げると、淡島はすたすたと足音を立て、でも何故かゆっくりしたスピード
で進んだ。結城は少し迷った表情を浮かべたが、同じ方向に歩き出した。
「淡島さんとはぐれたら、見付けづらそうな気がする。引っ付いといた方がいいかも」
 何となく納得する理由だったので、その役目を彼女にお願いすることに。
 残った白沼は、純子と同じように相羽に着いて行くつもりなのだ――と、純子自身は
思っていた。しかし、白沼は意外なことを言い出した。
「私は、週刊誌と写真集のところに行くわ。確か、あなたに出てもらった広告の一つ
が、週刊誌に載っている頃のはず」
「き、聞いてない」
 焦りと冷や汗を同時に覚えた。純子は、まさかと思って、続けて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、写真集というのは? 私、それこそ全然知らないんですけど!」
「写真集は写真集よ。あなた、前に撮ったんでしょ。それが今も残っていないか、チェ
ックしてあげる」
「えー、入れ替わりが激しいから、きっともうないって」
 今度はほっとすると同時に、白沼の感覚が理解できなくて戸惑った。
「本人が通う学校や自宅に近い書店なら、大量に仕入れて在庫が残ってるんじゃないの
かしら。リサーチよ」
「そんなことないって。返本するって」
 ねえ相羽君も説明してあげてよと、振り返ったが、そこにはもう相羽の姿はなかっ
た。少し先の通路にて、向こうもこっちを振り返っていた。
「多分あっちの方だから、探してるよ。どうぞごゆっくり」
 行ってしまった。人目がなければ、がっくりと膝と手を床につきそうだ。
「さあ行くわよ」
 そして何故か一緒に行くことになっているらしい。白沼に引っ張られ、まずは雑誌
コーナーに来た。
「えーと。白沼さん、何の広告だっけ?」
「『スマイティR』よ」
「ああ、美容健康食品……」
(コマーシャルだけでなく、静止画媒体向けにも撮ったんだっけ。『毎日食べてます』
っていうフレーズがなくなって、肩の荷が軽くなった気がする)
 そんな感想を抱く純子の前で、白沼は女性週刊誌を何冊か選び取り、次から次へ、ぱ
らぱらとめくっていく。手にした内の二誌で純子の出ているチラシを見付けたようだ。
一誌を純子に渡し、もう一誌は自らが見る。
「同じ物だけど、色ののりが違う感じ」
 純子の手元も覗いてから、白沼が言った。商品の魅力が上手に表現されているか、モ
デルがどう映っているかよりも、まず先に色調の差が気になるとは。広告のデザインを
決めた段階で分かりきっていることには興味ない、実際に紙面に載った広告の状態が肝
心だというわけなのだろう。
 映っている当人としては、そう割り切れるものではなく、純子は恥ずかしさを我慢
し、自らの映り具合を確かめた。
(あっ。ちょっと大人っぽく見えるかも? って、私が言うのもおかしいかな。でも、
『ハート』のときに比べたら、落ち着いている感じが出てるような。服かメイクの違い
かしら)
 ロングスカートのワンピースは、紫と群青の間のような色合いで、今までに自分がや
って来たはつらつとしたイメージに比べると、かなり大人びて見える。製品を持って微
笑んでいるだけ。言ってしまえばそれまでの広告なのに、無言の説得力が備わっている
ような気がしないでもなし。
(自分で自分の仕事を、ここまで肯定的に感じられるのって、珍しい)
 意外さから、舞い上がっているのかなと我が身を省みる心持ちになる。
「期待に応えてくれた、いい仕事をしてると思うわよ」
 心中を読み取ったかのように、白沼の声がそう話し掛けてきた。思わず目を見張った
まま、相手の顔を見返した。
「同級生の意見じゃ心許ない? 違うわよ。私だけじゃなく、会社のみんながいい出来
映えだって誉めてたんだから」
「本当に? う、うれしいよー」
 少なからず感動して、涙がにじみそうになる。ごまかすために、ちょっとおどけた声
を出した。
「あとは『スマイティR』が売れてくれればいいだけ」
 現実的な話をされて、涙は引っ込んだみたい。
「さあて、時間を取ってる暇はないわ。次、写真集よ。早く調べて、相羽君のところに
行かなくちゃね」
「見なくていいよ〜」
 置いているはずないと信じているが、もしあったらやっぱり赤面してしまうだろう
し、なかったなかったでちょっと寂しい。
 渋る純子だったが、またも引っ張られてしまった。抵抗むなしく、写真集の置いてあ
る一角に差し掛かる。
「今日は男性アイドルはお呼びじゃない、と――あら」
 横を向いていた純子の耳に、白沼の訝るような響きの声が届いた。何事かとそちらの
方を見ると、顔見知りの男子生徒が立っていた。
(稲岡君?)

――つづく




#497/512 ●長編    *** コメント #496 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:15  (494)
そばにいるだけで 65−4   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:54 修正 第4版
 意外なところで意外な顔を見た。白沼が怪訝がったのも頷ける。稲岡のイメージは、
勉強一筋でお堅くて、芸能界や女性に興味関心全くなし、だったのだ。それが今、写真
集のコーナー前に立っている。その位置から推して、女性写真集が並べてあるのは確か
だ。
 稲岡に、純子や白沼がいることを気付いた様子は全くない。と言って、写真集に見入
っているのでもない。何せ、全ての写真集は透明なビニールでパッケージされて、開く
ことができないのだから。品定めしているのか、表紙と裏表紙、そして背表紙をためつ
すがめつしている模様だ。あるいは、視力がよい方ではなさそうな稲岡だから、ビニー
ルに蛍光灯の明かりが反射して、文字がよく見えないのかもしれない。
「い――」
 名前を呼ぼうとした純子を、白沼が手で遮った。
「なに?」
「察しなさいな。あの稲岡君がこんな意外なとこにいるのだから、声を掛けたら逃げ出
しかねないわ」
「まさか」
「とにかく、両サイドから挟み撃ちの態勢を取る。声を掛けるのはそれから」
「えー」
 ひそひそ声で話したので勘付かれた気配はまだない。しかし気乗りしない純子は、改
めて名前を呼ぼうとした。
「待って。じゃあ、彼が何を手にとっているのか、それだけ確認させてよ」
 意地悪げな笑みを浮かべた白沼は、返事を聞かずに行動を開始した。白沼も成績優秀
な方だから、稲岡をライバル視していて、その相手の弱点を見付けた気になっているの
かもしれない。忍び足で稲岡の背後へ近付くと、そっと首を伸ばして、彼の手元を覗い
た。
「あっ」
 声を発するつもりはなかったのだろう、白沼はしまったという風に口元を手で覆っ
た。が、もう遅い。稲岡が振り返る。
「あ」
 稲岡も似たような反応を示して、しばらく動きが止まった。けれど、次の行動に出た
のは稲岡が早い。持っていた写真集一冊を書棚にぐいと押し込んで戻すと、俯き加減に
なって立ち去ってしまった。呼び止めるいとまのない、あっという間のことだった。
「ほらあ、白沼さんがびっくりさせるから」
 純子がしょうがないなあと苦笑いを我慢しながら近寄る。立ち尽くしていた白沼は、
その声にくるっと力強く向き直った。真正面から両肩に手を置き、言い聞かせるような
口ぶりで始める。
「涼原さん」
「な、なに」
「稲岡君が成績を落としたとしたら、その原因はやはりあなたにあるみたいよ」
「はい? どうしてそんなことが今、言えるの?」
 うるさくしたことを悪いとは思っている。しかし、そのことだけで小テストの赤点の
原因とされては、理不尽だ。
「素早く棚に戻されたけれども、私しかと見たわ。そこにあるのはあなたの写真集でし
ょ?」
「え、まだあるの?」
 白沼が指差した先に目を凝らす。何段かある本棚の中程、若干左上の隅に収まった書
籍の背表紙に、風谷美羽写真集という文字が読み取れた。
「ほ、ほんとだ。びっくり」
「私がびっくりしたのは、稲岡君がそれを手に取っていたことよ」

 相羽が目的の本を見付けて購入したのを機に、純子達六人は書店を離れた。そして白
沼の提案で、隣接するカフェに入る。普通、喫茶店に入るのは保護者同伴でなければい
けない校則があるが、そこはブックカフェという名目故。校則の適用外とされていた。
本を購入した客がすぐに読めるよう、場所を提供するのが主目的で、飲食物は極簡単な
物のみ用意されている。
「偶然じゃねえの?」
 丸テーブルに全員がついたところで、稲岡の一件を白沼が話す。すぐに反応したの
は、唐沢だった。
「あいつがアイドル写真集に興味を持つところが、想像できん」
「アイドルじゃなくて、クラスメート」
「それにしたって、なあ」
 相羽に同意を求める唐沢。だけど、そのクラスメートと付き合う相羽は、どう答えて
いいのやら、困り顔を露わにした。
「偶然なわけないわ。あの稲岡君が女性アイドルの写真集を置いているコーナーにい
て、この子の写真集を手に取っていた。私はこの目で見たのだから」
 白沼は純子の方を示しながら力説した。これを受けて、淡島が分析的に答える。
「事実として受け止めるとしましょう。つまりは、稲岡君は涼原さんに好意を抱いてし
まい、それが成績低下につながったと」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとする純子だが、あんまりうまく行かなかった。周りの賛同も得られて
いないらしい。
「おかしいわ。仮に、淡島さんの言ったことが当たってるとして、どうしてそれが成績
低下につながるのか」
「気になる異性ができて、勉強に身が入らないというのは、ありがちではありません
か。もしや、涼原さんはそのようなタイプではないのでしょうか」
「……うん、そうなのかな。えっとね、好きな相手とうまく行っていたのに、何かのき
っかけで仲が悪くなった、とかなら、何も手に付かなくなるかもしれない。でも、気に
なる人ができただけなら、それは幸せなこと、嬉しいことだわ」
「なるほどね」
 結城が腕組みをして頷いた。それから腕を解き、純子を軽く指差した。
「けれども、今の場合は、純の状況を当てはめなきゃいけない。稲岡君からすれば、彼
氏持ちの女子を好きになりかけてるんだよ。声を掛けたくてもできない。悶々としたと
しても当然よ」
「少し、分かった気がする」
 そう返事したものの、まだ不明点が残っている。つい、首を傾げた。
「私、どう考えても稲岡君からは嫌われてると思ったんだけど。嫌うって言うのが強す
ぎるのなら、避けられてる、疎まれている感じ。こんなので、実は好意を持ってますな
んて、あり得ないわ」
「小学生ぐらいなら、好きだからこそちょっかいを出すというのがあるかもしれないけ
ど、さすがにねえ。いくら勉強の虫でも」
「好意を少しでも持ってくれてるなら、席替えの希望を出すとも思えない」
 稲岡の親から席替え希望が出された経緯は、皆に打ち明けてある。
「実際に成績が下がり始めたのは、いつ頃なんだろうな」
 唐沢が問い掛けを出すが、誰もすぐには答えられない。
「はっきりと表面化したのは、この間の数学の小テストね。二十六点」
 白沼の声は、何とはなしに弾んで聞こえる。と言っても、ライバルの失敗を喜んでい
るんじゃあなく、こうして大勢で分析して原因を探るのが面白いようだ。
「あの日、起きたこと。きっかけになるような、何か特別な……」
 相羽が口元にぴんと伸ばした右手人差し指を当て、心持ち瞼を下げ、宙を見つめるか
のようにじっとした。他の者が見守る中、十秒ほどしてからつぶやく。
「あ――あった」

 学校が始まるまで待てない。それに、学校では話しにくいかもしれない。そんな考え
から、純子は白沼と連れだって、稲岡の家を訪れた。
 当初、白沼には「何で私まで」と拒まれ掛けたが、書店での目撃者として相手に知ら
れているのだからと、連れて来た。
(相羽君に来てもらうわけにいかないしね)
 稲岡宅の住所等を調べる必要があったので、出直しの形になった。そのため、書店で
稲岡を見掛けてから約一時間半が経っていた。
「案外近くで助かったね」
「近いと言っても、電車で反対方向に十分。そこから歩いて五分強。楽じゃないわ」
 角を曲がると、目的の家が見えた。
「大きいわね。私の家ほどじゃないけれど」
 付き合わされている意識がまだ残っているせいか、白沼はそんな憎まれ口を叩いた。
 家の門のところまで来ると、見上げながらまた白沼が口を開いた。
「さあて、まともに呼び出しても、出て来てくれるかしら」
「任せておいて」
 純子はインターフォンを見付けると、レンズに顔を通常よりもかなり近付け、躊躇す
ることなしにボタンを押した。
「どちらさまでしょう?」
 すぐに声がした。女の人の声だ。両親とも仕事を持っている――それぞれ病院と化粧
品メーカー勤務――ことを、事前に把握しておいたので、母親ではないだろう。稲岡は
一人っ子だし、お手伝いさんかもしれない。
「初めまして、稲岡時雄君のクラスメートです。忘れ物を届けに来ました。直に渡した
いのですが、時雄君はいますでしょうか」
「はい。わざわざすみません。しばらくお待ちください」
 お手伝いさんと思しき女性の声は、すんなりと受け入れてくれた。
 が、純子の隣では、白沼が目を白黒させている。それもそのはず、純子は今し方、男
子の声色でインターフォンのやり取りを行ったのだ。
「す、涼原さん。あなた、そんな声、出せたの?」
「うん。ボイストレーニングをやっている内に身に付けた特技」
 しれっとして答えた。本当のところは、久住淳として活動するために、低い調子で喋
る練習を重ね、その結果、今では何種類か男性の声を操れるようになった。もちろん、
喉を傷めてはいけないので、大絶叫するなど出せないトーンはあるが。
「将来、文化祭や何かの打ち上げをやるときは、それ、披露しなさいな。大受け間違い
なしだわ」
 唖然とした状態から立ち直った白沼は、どうやら本気で感心してくれたようだ。
「いざというときに取っておきたいんだけど――あ、来たみたい」
 一応、門扉の影に隠れる二人。姿を見た途端、稲岡が中に引っ込んでしまう可能性、
なきにしもあらずだ。
 門とは反対側の塀越しに、植え込みの隙間から見ていると、稲岡が靴を片足ずつとん
とんとさせてから進み出てきた。校則をきっちり守りたい質なのだろう、制服姿だ。ブ
レザーの上着こそ着ていないが、普段学校で見るのとあまり変わらない。
 門の格子を通して、その向こう側に誰もいないのを、稲岡は怪訝に感じているよう
だ。それでもやがて門を開け、外に出て来た。
「稲岡君。こっちよ」
 純子と白沼は期せずして声を揃えた。お互い、予想外のことについ噴き出してしま
う。
 一方、稲岡は口を半開きにして、呆気に取られている。これは学校ではなかなか見ら
れない、赤面した上に間の抜けた表情だ。男子が来たと思っていたのが、女子だったと
いうだけでも充分に戸惑いの原因になるに違いないが、さらに書店で見られたくないと
ころを見られた白沼と、純子が来たとなると、頭の中が真っ白になったとしてもおかし
くない。
 が、それでも中に戻らなかったのは、今、純子と白沼の二人が噴き出したおかげかも
しれない。場の空気が緩んだ。
「な、何だよ、君達。男子は?」
「ごめんね、私達だけなの。直接会って、話がしたかったから、ちょっと声色を」
 稲岡は疲れた風に片手を門柱につき、もう片方の手を自らの額に当てた。
「忘れ物というのも嘘なんだ?」
「ごめん」
 純子は再び謝罪したが、白沼は首を傾げて見せた。
「一つ忘れていたんじゃあない? 書店に、買うつもりだった写真集を置いてきたのか
と思ったのだけれど」
「……やっぱり、見られていたか」
 一瞬にして赤面の度合いが上がる。が、すぐにあきらめがついたのか、嘆息した。
「どこまで見えた? いや、それよりも、涼原さんもあの場にいたの?」
「うん」
 稲岡は額の手をずらし、顔全体を隠すようにした。それだけでは足りないと、もう片
方の手も門柱から離して、顔を覆う。眼鏡に指紋が付くだろうに、お構いなしだ。
「だめだ。物凄く恥ずかしい」
「いいじゃないの。勉強にしか興味のないガリ勉かと思ってたのが、普通の男子と変わ
りないと分かって、安心したわよ」
 白沼が気軽い調子で言った。彼女なりのエールなのかは分からないが、気まずくなる
のを避ける効果はあったようだ。
「わ、私も恥ずかしさはちょっぴりある。けれど、手に取ってくれたのは、嬉しい。フ
ァンが増えるんだもの」
 純子も調子を合わせる。ちょっぴりどころか、かなり恥ずかしい。
「だから、稲岡君からうるさいとか静かにしてくれって言われると、落ち込んじゃう。
席替えまで言われた、なおさらよ」
「ああ、いや、あれは、僕の言葉をお母さんが極端に受け取ったせいで、僕はそこまで
思ってない」
「そうなの? それなら少し救われた気分」
 手を合わせ、顔をほころばせる純子。後を引き継いで、白沼が指摘する。
「でも、邪魔になっているのは事実よね? 成績、下がったんだから」
「うぅ、あれは……」
 口をもごもごさせ、続きの出て来ない稲岡に対し、純子は「やっぱり私のせいなの
?」と尋ねる。
「君のせいというか、違うというか」
「折角聞きに来たんだから、はっきり言っておけば?」
 白沼は悪役を引き受けるつもりになっているようだ。本心を引き出すために、きつい
言葉を投げ掛けつつ、稲岡を促す。
「涼原さんを間近で見て、一目惚れみたいになったんでしょう? おかげで勉強に身が
入らなくなった」
「……いや、我慢していたんだ」
「そうみたいね。でも、小テストで悪い点を取った日は、我慢できなくなった」
「あれは別の原因が」
「隠さないでいいのに」
 白沼のこの台詞には先走りを感じた純子。急いで割って入る。
「稲岡君。突き詰めれば、私のせいなんだよね? あの日、私が遅刻してきたせい」
「え。分かってたの、か」
「ううん、分かってなかった。相羽君に言われて、気が付いたの」
「相羽が。そうか。相羽なら気付くな、うん」
 どこかほっとした様子になる稲岡。そこへ、白沼が改めて尋ねた。
「一応、確認させてもらうわよ、稲岡君。あの日、遅刻してきた涼原さんがブレザーを
脱いだことで、ブラジャーのバンドが透けて見えた。そのことが気になって、テストに
集中できなかったのね?」
「そ、そうだよ」
 また顔を赤くする稲岡の前で、純子も少し頬を染めた。
 あの日は朝から走り通しだったから、汗をかいた。結果、透けて見えやすくなってい
ただろう。加えて、撮影のときはシンプルなスポーツブラ着用だったが、終了後に着替
えて、若干華美なデザインの物に変えたことも影響したかもしれない。
(気を付けなくちゃいけないなぁ。相羽君も気付いていたわけだし)
 胸中で反省する純子。
 白沼は白沼で、双方に呆れた視線をくれてやっていた。
「去年も周りの女子には、何人か無防備なのがいたでしょうに、気にならなかったのか
しら?」
「全然。変な風に受け取らないで欲しいんだけど、涼原さんだからこそ、意識してしま
ったというか。だから、克服しようと思って、写真集を探したんだ。水着の写真があれ
ば、それを見て慣れるかもしれないだろ」
「はあ、まったく、おかしなこと思い付くものね。それで、今後どうする気よ、稲岡君
は」
「どうするって」
「これから暑くなるのよ。夏服になるのよ。ブレザーを着なくなるの。毎日、目の前で
見えるのよ」
 畳み掛ける白沼に、たじたじとなる稲岡。純子は二人のやり取りを前に、「な、なる
べく見えないように気を付けるから」と小声で訴えた。
「完全に見えなくするのは無理でしょうが。付けないわけにいかないでしょうし」
「そ、そりゃあ、私だって昔と違って」
 ブラジャーの初使用が周りの友達よりも遅かったのを思い出し、内心、汗をかく心持
ちになる。
「やっぱり、席替えしてもらいなさい」
 白沼が断定的に言った。
「クラス全員がやらなくても、あなた達二人が入れ替われば済む話よ。理由はまあ、稲
岡君、あなたの視力がちょっと落ちたってことにすればいいんじゃない?」
「……そうだね。席替えしたって言えば、お母さんも納得する」
「なぁに、そんなに厳しいの?」
「いや、厳しくはない。心配性なんだ。学校側に希望を伝えたのに、通らないでいる
と、ずっとやきもきしている」
「それなら、席替えがあったことのみ伝えれば、解決ね」
 白沼と稲岡の間で、どんどん話が進む。最初はそれを聞き流していた純子だったが、
はたと気付いた。
「ま、待って!」
「何?」
 白沼が振り向いたが、純子は稲岡の方に言った。
「席替えしてもらうんだったら、隣の平井君も説得してくれないかなあ」
 このお願いに、いち早くぴんと来たのは当然、白沼。
「ははあ。あなたが一つ下がったら、隣が相羽君じゃなくなると。それが嫌なのね」
「あ、当たり、です」
 しゅんとなった純子の背後に回った白沼は、相手の肩を上からぎゅっと押し込んだ。
「また仲よくお昼寝するつもりね」

 大型連休中、最大の仕事であるミニライブの現場は、恐らく最大となるであろうトラ
ブルの発生に、幕開け前から混乱を来していた。
「え? 来ない?」
「正確には、来られないかもしれない、だけど、見通しが立たないのなら同じことだ
ね」
 シークレットゲストとしてスタンバイしてもらう予定の鷲宇憲親が、開演の三十分前
になっても、まだ会場入りできていないのだ。飛行機の遅れだという。
「車の流れは順調みたいだから、本来の出演時刻には間に合いそうなんだけれど、最終
チェックなしにやるのは、結構リスキーだよね」
 鷲宇サイドから派遣されたスタッフの一人・牟禮沢(むれさわ)が、平静さを保ちな
がらも緊張感のある声で述べる。
「一応、間に合う前提で諸々準備を進めますが、気持ち、遅らせ気味に願えます?」
「遅らせると言われても、うちの久住はトークは無理なんですよ」
 市川が懸念を表する。その隣やや後方で、純子――久住淳も黙ってうなずいた。ハプ
ニングに、ともすれば震えが来そうになるが、どうにか堪えている。
「司会役を用意していればよかったんですがね」
 別のスタッフが言った。この度のミニライブ、もちろん歌だけでは数が足りず、つま
りは時間がもたないので、喋りも予定されてはいる。でもそれは鷲宇が舞台登場後のこ
とで、要は全て鷲宇頼みなのだ。他には短い挨拶くらいしか考えていなかった。
「演奏のテンポを1.1倍ぐらいまで延ばす、なんて荒技もありますが、余計に無理で
すよねえ」
 恐らく冗談なのだろう、牟禮沢が言ったのだが、誰も笑わない。
「それよりはましな、でもやっぱり無茶な提案が一つあるのですけど」
 市川が反応を伺いながら、小出しに喋る。牟禮沢が伺いましょうと、身を乗り出す。
可能であれば、この打開策を話し合う現状を、鷲宇本人にも携帯電話を通じて聞いても
らいたいところだが、バッテリー切れが恐いので、必要なタイミングになるまで取って
おく。
「牟禮沢さんもご存知だと思いますが、芸能人の方を何名か、お招きしたじゃありませ
んか」
「ええ。彼――久住と同世代で、多少なりとも親交のある人数名に」
(え。そうなの?)
 後方で聞いていた純子は、小さく飛び跳ねるぐらいびっくりした。聞かされていなか
った。思わず、女の子の声で叫びそうになったけれども、これも何とか我慢。
「実際に来られた方がいるはずです。その方に助っ人をお願いするというのは、どうで
しょうか」
「どうなんでしょう……たとえ親友同士でも、事務所を通すのが常識です。今から言っ
て受けてもらえるかどうか。ギャラの問題も発生する。でもまあ、だめ元で頼んでみま
しょうか。マネージャー同伴で来てる人がいれば、比較的話が早いんだが」
 打診する前に鷲宇と相談する必要があるとのことで、席を外す牟禮沢。内緒話がした
いのではなく、使っている大部屋がざわついているため、静かな場所に移動するのだ。
 三分足らずで戻って来た牟禮沢は、落ち着く前に「ゴーサイン出ましたよ」と告げ
た。
「手配は任されたが、どちら様が来てくれているかを把握しないといけませんね。さっ
き、確認に行かせたんですが、まだ戻ってこないな」
 呟いてドアの方を振り返ろうとした矢先、ノックの乾いた音が。この緊急事態に呑気
にノックするとは、スタッフではなく、訪問者だろう。
「どうぞ!」
「お忙しそうなところをすみません。控室を訪ねたら、今、こちらだと聞いたもので」
 腰の低い、柔らかい口ぶりで入って来たのは、招待した一人だった。
「あ、星崎さん」
 純子は久住として声を上げた。パイプ椅子の背もたれを持って回り込むのももどかし
く、駆け寄る。
「やあ。お招きを受けて、来てみたんだけどね。空気がざわざわしていて、知っている
顔のスタッフさんが何人も走り回っているから、どうなってるのかと心配になってさ」
「それが」
 事情を話そうとして、シークレットゲストの存在を言っていいのか、迷ってしまっ
た。星崎は芸能友達とは言え、お客さんだ。
 そこへ市川と牟禮沢が加わり、代わって説明を始めた。事態を飲み込んだ星崎は、と
りあえずは勧められた椅子に腰を下ろした。そして「鷲宇さんに貸しを作るのは悪くな
い話ですね」と、苦笑交じりに始めた。
「二人でユニットの曲も唄えるかもしれないね。ただ、事務所の許可がいるので、ちょ
っと時間をください。マネージャーに言えば、多分OKが出ると思います」
 早い方がいいので、また席を立って出て行こうとする星崎。が、「あ、そうだ!」と
足を止めて、牟禮沢に言った。
「加倉井舞美ちゃんも来てましたよ」
「ほんとですか!?」
「ええ。彼女、マネージャーさんと一緒だったから、出てくれるかどうかは別として、
判断は早いと思います。ええと、席は」
 壁に掛かる会場全体の座席表を見て、加倉井のいる位置を指し示した星崎。そのま
ま、携帯電話を取り出しながら退室して行った。
「よし、すぐにコンタクトを」
「でも、女性ってどうなんでしょう? 久住のファンが集まってるところへ同世代の女
の子が登場して、受け入れられるかどうか」
 声を小さく、低くして思案がなされる。
「そうだな。星崎さんに出てもらえると決まったら、一緒に登場することで、変な目で
見られることもないだろうが……。背に腹はかえられない。声を掛けておく」
(何だか知らないけれど、勝手にどんどん進む〜)
 再び座ることも忘れ、成り行きを見守っていた純子。開演まで十五分です!という声
に、スイッチが切り替わる。
(あー、もうっ、覚悟決めた。なるようにしかならない。最善を尽くすのみ! それ
に、このままなら、鷲宇さんの歌を本人と一緒に唄わなくて済むかも? なんちゃっ
て)
 気休めに、いいことを一つでも見付けて、肩の荷を少しでも降ろす。いよいよスタン
バイに掛かろうと、部屋を出ようとしたところへ、市川が言ってくる。
「幕が上がる前に、どう変更するかを決めたかったんだけど、無理かもしれない」
 市川の話に、黙ってうなずく。
「休憩時間までには決まるはずだから、それまでは気にせずに、段取り通りにやって。
いいね?」
「はい」
 久住になりきった声で応えた。
「久住淳の初ライブ、飾りに行ってきます!」

「えっと? サプライズゲストが来ているそうです、カンペによると」
 休憩開けに一曲、カバーソングを歌ったあと、純子は、否、久住は切り出した。
「正直に言います。僕が最初に聞いていたサプライズゲストとは違います。だから、僕
にとっても本当にサプライズになってしまいました」
 観客席からの反応が、どういうこと?という訝るものから、笑い声へと変化する。
「お待たせしては問題ですし、早速お呼びします。かつて映画で共演し、勉強させてい
ただきました、加倉井舞美さんに星崎譲さんです」
 思っていた以上に、大きなどよめきがあった。加倉井か星崎、どちらか一人ならまだ
想像できたが、二人揃ってというのが予想外だったのかもしれない。新作映画の宣伝で
もない限り、普通はない華やかな組み合わせなのだ。
 二人はそれぞれ、舞台袖の両サイドから現れた。客席から見て左が星崎、右が加倉
井。久住は順番にハイタッチしてから、女性である加倉井に真ん中を譲ろうとした。
が、やんわりと拒まれてしまい、思わず苦笑い。仕方なく、中央に収まり、三人で肩を
組む。
「何を引っ込もうとしてるの? 今日の主役は久住淳でしょう」
「そうそう。楽をしようたって、そうはいかない」
 加倉井、星崎の順に早速やり込められた。大雑把な流れしか決められていないし、聞
かされていない。手探り状態で、トークを続ける。
「そのつもりだったんですが、お二人の芸能人オーラを目の当たりにして、怖じ気づい
ちゃいました」
「怖がらなくていいじゃない。久住君のオーラだって、負けてない」
 さも、オーラが見えているかのように、指差す仕種の加倉井。つい、振り向いて背後
を見上げてしまった。笑いを取れたからOKとしよう。
「真面目な話をしますけど、本当に急な話で出演してくださって、感謝しています。加
倉井さん、星崎さん、ありがとうございます」
 深々とお辞儀。あまり丁寧だと女性っぽく映る恐れがあるので、上体を起こすときは
やや粗っぽく。
「いやいや、どういたしまして」
「真面目な話は面白くないよ。ほら、お客さんがあくびしてる」
 さすが慣れていると言うべきか、星崎が客いじりを始める。そのあとしばらくは、先
輩二人の独壇場だった――二人で独り舞台というのもおかしいかもしれないけれど。
「――あ、星崎さん、時間みたいです。一曲、歌ってもらわないと」
「ああ、そうだった。でも、お客さん、いいの?」
 星崎が耳に片手を添える。即座に、観客全員が声を揃えたのではないかと思えるくら
い大きな「いいよ−!」という答が返って来た。ここに至るまでに充分に温め、客席と
のやり取りで心を掴んだ成果が出た。
「よかった。じゃあ、何がいいかな。今日は収録がないから、何を唄っても大丈夫と聞
いたんだ。リクエストがないなら、久住君とは畑の違うところで、演歌を」
「えー? 演歌、ですか」
 イメージにないので、心の底から驚いてしまった。まあ、演歌なら比べられることも
少ないだろうから、安心ではあるけれども。
「演歌を歌う星崎さんなんて珍しい姿、ファンの人に取っておけばいいのでは」
「そんなに勿体ぶるもんじゃないよ。えっと、このところはまっているのが、『氷雨』
なんですが、皆さん、特に若い人は知ってる?」
 半数ぐらいが知っていたようだった。

 星崎が『氷雨』を朗々と?見事に歌い上げると、期せずして拍手が起こった。どちら
かといえば大人しめの容貌の星崎だから、女性になりきったような歌い方をするのかと
思いきや、芯のしっかりした男っぽい声でやり通した。
 あとを受けてマイクを握った加倉井は、「一番得意なのが持ち歌なのは言うまでもあ
りませんが、今日は宣伝に来たんじゃないし、先に星崎君に演歌なんて面白いことをや
ってしまわれると、私も何かしなくちゃいけないのかなと考えて」云々と前置きした挙
げ句、『すみれ September Love 』を振り付けありで力一杯やってくれた。星崎と違
い、独自色をなるべく消し、物真似に徹したような唄いっぷりで、これまた見事だっ
た。
「この曲も結構昔、大昔の曲だった気がするんですが」
「それが?」
 久住が話し掛けると、加倉井はほんの少し息を切らしながらも、髪を軽く振って答え
る。
「いや、加倉井さんがどうして知っているのかなって。物真似できるほど」
「カラオケの十八番の一つなの。それより、久住君だって物真似だと分かってるってこ
とは、つまり知ってるんじゃない」
「あはは、ばれましたか」
 軽妙なやり取り。ようやくこつが掴めたかなという頃合いだったが、時間の都合でそ
ろそろ切り上げねばならない。
 先に思い付いていた星崎とのユニットは、加倉井が参加してくれたことで、なしとし
た。どちらか一方を特別扱いはしたくないし、あといって加倉井と二人で唄うのも練習
なしでは難しいというわけ。
 ゲストの最後の見せ場ということで、三人で唄う。ぶっつけ本番で三人揃って唄える
ほぼ唯一の歌というと、共演した映画の主題歌になる。緊急事態の割に、意外と感覚で
記憶しているもので、まずまず聴ける物になっていた。さすがに歌詞はうろ覚えだった
ため、歌詞カードを見ながらになってしまったが。
「――では、残念ですが加倉井さんと星崎さんはここまでということで」
「もう? あら、ほんとだわ。マネージャーが時計を指差して、頭から湯気を立てて
る」
 冗談を言う加倉井の口調は、実際、まだまだやりたそうな響きを含んでいた。が、時
間切れというのも事実。星崎とともに、登場したのとは反対方向にそれぞれ下がった。
「ほんっとうに、ありがとうございました。ピンチのときは、また来てください」
 舞台袖にそんな呼びかけをすると、「次からは一人で!」と反応があった。
 とにもかくにも大きな山場は乗り切った。久住は一安心すると同時に、気を引き締め
直しもした。
(さあ、ラストスパート!)
 脳裏にこのあとの進行を改めて思い描き、切り出す言葉を考える。
「また一人になってしまいました。寂しい気もしますが、がんばります。次は――」
 曲名を伝えようとしたそのときだった。
 場内が暗転し、次の瞬間には、舞台上手にスポットライトが当てられる。ほぼ同時
に、
「寂しいと言ったか? ならばもう一人、僕がゲストになりましょう!」
 鷲宇憲親の声が轟いた。
「鷲宇さん?」
(間に合ってたの?)
 いつもなら、というか通常の状態なら、鷲宇憲親ほどのビッグネームであれば大歓声
がわき起こっておかしくないのだが、今のは唐突すぎた。声だけでは誰か分からない人
もいたようだ。
 若干外し気味だったが、鷲宇が姿を現すと一挙に空気をひっくり返した。観客に向か
って満遍なく手を振ると、次いで久住を指差した。
「え? え?」
 わけが分からない。間に合っていたのか、今し方到着したのか知らないが、これから
唄うつもりらしい。伴奏が流れ出している。
「メドレーで行くよっ」
 元々のセットリスト通りにやる、ということだ。
(急な変更の対応だけでもくたくたなのに、ここで鷲宇さんとデュエット……)
 久住は純子に戻りそうになるのを踏み止まった。力を込めて拳を握り、応じるサイン
を鷲宇に返す。
(最後まで全力で、楽しんでやる! こんな経験、普通できないんだから!)

 ミニライブの翌日は、午後から比較的負担の少ないインタビューの仕事があるだけだ
った。なので、空き時間を使って、星崎と加倉井それぞれの事務所にお礼に行くつもり
でいたのだが……身体が動かなかった。心身ともに疲れ切っていた。
 ありがたいことに、双方の事務所からは、「今は当人(星崎または加倉井)も仕事で
不在ですし、後日落ち着いてからで一向にかまいません」的な対応をしてもらった。お
言葉に甘えて、後日に回すことに。
「いいのかなあ」
 早めに迎えに来た市川は、上がり込んできて、しばらく話をすることに。
「いいのかなあって、後回しにしてもらうと最終的に決めたのは、市川さんじゃないで
すか」
 身支度を終えて、仕事モードに入る努力をしつつ、純子は指摘する。
「それはその通りで、別に心配してない。ただ、借りを作った形だからね。鷲宇さんの
方がより大きな借りだけど、だからといってこちらが頬被りしていいもんじゃない」
「助けてもらったんです。お返しをするのは当たり前です」
「それは同意。けど、ネームバリューから言えば、同じ状況のとき、久住淳がゲスト出
演したって、釣り合いが取れない」
「う。それは仕方ありません。か、数でこなしましょう」
「私は、数よりも質を求められる可能性ありと踏んでいるのよ。どうだろう?」
「どうだろうって……具体的に言ってもらわないと」
 市川がこういう喋り方をするときは、どことなく嫌な予感が立つ。経験上、当たって
いることが多い。
「思い当たらない? 何にも?」
「はあ、そうですね……」
 考えるつもりの「そうですね……」だったのだが、市川は「思い当たらない?」とい
う質問に対しての返事と受け取ったようだ。すぐに言葉を被せてきた。
「星崎君はともかくとして、加倉井さんは前に言ってたんでしょうが」
「前と言いますと、映画のとき、ですか」
「そうそう。覚えてるじゃない。彼女、あなたに――久住淳に、また共演したいって持
ち掛けてきてたじゃないの」
「あ。そうか、そうでした」
 言われるまで忘れていた。そして言われた途端、鮮明に蘇る記憶。九割方リップサー
ビスだと信じているのだが、加倉井が「久住君、まだしごいてあげるわ」なんて気でい
るとすれば、可能性ゼロではない。
「うわ−、一緒にできるとしたら光栄なんだけど、どうしよう、今から考えただけで疲
れが」
「こらこら。このあと仕事だってのに。だいたい、私の勝手な想像に対して、そこまで
思い巡らせるっていうことは、もしも話があったとしたら、受ける気満々てことじゃな
いのかな」
「うーん。分かんない」
 頭を抱えた純子に、市川は別の方向から追い打ちを掛けてきた。
「それで、お礼の件なんだけどね。ゴールデンウィークの最終日に入れちゃおうかと思
う。何だっけ、護身術の日と重なるけれども、大丈夫ね?」
「ふぁい?」
 もうどうとでもしてください……。

――『そばにいるだけで 65』おわり




#498/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:27  (368)
偽お題>書き出し指定>告四(前)   永山
★内容
 僕は告白したあと、その日が四月一日だと気付いた。あとになって気付いても、もう
遅かった。
 勇気をありったけ振り絞って告白したのに、目の前に立つおねえさんは真面目に受け
取らず、てんで相手にしてくれなかった。
「ははーん。綿貫君、それってエイプリルフールだよね?」
 こう言われて、僕はただただ動揺しただけなのに、恐らくおねえさんには「嘘がばれ
た、しまった」という顔に見えたに違いない。
「ち、ちが」
「だめだよ、大人をからかっちゃあ。こんなことして許されるのは、子供のときだけだ
からね。小学五年、いや、今日からは六年生か。小六って結構微妙だよ。私だからよか
ったようなものの、他の人相手だったら叱られてる。それどころか、ぶっ飛ばされてい
たかもしれないよ」
 文字通り、小さな子に言い聞かせる口ぶりで、おねえさん――正田義子おねえさんは
僕の頭に手をのっけた。そして僕の髪をくしゃくしゃにする勢いで撫でながら、続け
た。
「遊びたい年頃なのは分かるよぉ。だけど、私もこうしてお仕事があるからね。次のお
休みの日まで待ってて、いい子だから」
 僕はそれでも、告白を続けようとしたんだ。でもそのとき、おねえさんにはお客さん
が来て、そちらの応対が始まってしまった。こうなるともうだめだ。終わるまで、他の
ことには関心を向けない。経験で分かっている。
 僕はあきらめ、その日は家に帰った。休みの日まで待つつもりはなかった(そもそ
も、休みの日では意味がないのだ)ので、翌日にでも出直そうと思っていた。
 ところが、そうするには行かなくなる事情が、夜の内に起きてしまったのだ。それは
一本の電話から始まった。僕は携帯電話の音に起こされた。時間は、0時を回ったとこ
ろ。つまり、日付が変わったばかりのタイミングだった。
「誰?」
 寝床から気持ち上半身を出して携帯電話を握りしめ、ディスプレイを見たが、そこに
は数字が表示されていた。名前が出ていないということは、登録されていない人からの
電話だ。拒否設定は非通知のみ。基本的に、こういう電話にはなるべく親に先に出ても
らうのだけれど、夜中だったし、ベッドから出るのが面倒だったのもある。四月に入っ
たばかりで、夜はまだ冷える。
 一応迷ったのだが、僕は電話に出た。
「もしもし、どなたですか」
 不機嫌な調子になってしまった声で誰何すると、相手は「綿貫君?」と聞いてきた。
それが女の声だったから、驚いた。
「綿貫一郎ですが……」
 再度、どなたですかと問う前に、答が返って来た。
「夜遅くにごめんなさい。同じクラスの吉原です」
「よ、吉原さん?」
 思わずどもった。クラスの女子から電話なんて初めてだし、しかもこんな時間に掛け
てくるなんて何事だ? 一瞬、思い浮かんだのは、僕と親しい男子の身の上に何かとて
つもない不幸が降りかかり、そのことを知らせる役が吉原さんになったのではないかと
いう流れ。吉原さんはクラス委員長なのだ。
 けど、それにしては、口調が明るい。おかしい。いいことが起きたからってこんな時
間に電話連絡があるはずないし、一体何なんだろう。
「今、話をしてもかまわない? 時間ある?」
「うん」
 彼女は、明らかにひそひそ声だった。僕は同じように声の音量を絞り、低めた。
「こんな時間に、本当にごめんね。寝てた?」
「寝てた」
「わ、私はいつもは眠ってるんだけれど、今日は眠れなくて。日付が変わるのを待って
いたから」
「日付って、四月二日になるのを待ってたってこと?」
 誰かの誕生日なのかなと、漠然と考えた。心当たりはないけれども。
「そう。昨日だと、嘘だと思われる可能性があるもの」
「……あのさ、そろそろ話してよ」
「じゃ、じゃあ言う。大きな声を出さないで聞いてよ」
「? うん、分かった」
「――綿貫君。私とお付き合いしてください」
 滅茶苦茶早口で言われた。でも、ちゃんと鮮明に聞き取れた。
 僕は電話を持つ手が震えるのが分かった。かさかさ音を立てて、みっともない。左手
を右手で押さえて、それでも止まらないので、右手に携帯電話を持ち替えた。
「……あの……だめ?」
 吉原さんの不安な響きの声。僕は黙ったまま、首を横に振った。それでは伝わらない
と気が付いて、遅ればせながら口を動かす。
「だめじゃないよ! ぜひぜひ」
 みっともない返事になったが、誰も僕を責められないだろう。吉原さんは僕が一番好
きな女子であり、クラスの男子全体からの人気も高い。
 瞬時にして有頂天になった僕は、ありとあらゆる嫌なこと面倒ごとを忘れ、それらか
ら逃れようと決意を固めた。
 だから僕は、出直そうと思っていたおねえさんへの告白も、やめることにした。

 ――大人になるのを目前に控えた今になっても、当時のこの判断が正しかったのかど
うか、僕は非常に迷う。本来、二股に掛けるべくもない、全く異なる物事を天秤の左右
の皿それぞれに載せたのだ。揺れは収まらず、いつまで経っても結果が出ない。
 尤も、現状を思うと、正解を選んだと言える。僕は希望する大学に入り、充実した
日々を送れている。吉原との付き合いは今も続いている上に、同じ大学の同じ学部に入
ったという相性のよさを誇る。将来、一緒になるかもしれない。可能性は高い。
 小学六年生のあのときもし、おねえさんに告白していたら、現在の幸せはないことに
なる。断言できる。
 何故なら、僕はあのとき、人を殺してしまったことを、婦警である正田おねえさんに
打ち明けるつもりだったのだから。

 もちろん僕は殺人鬼ではない。殺したのは一人だけで、それも計画的な犯行ではな
く、多分、過剰防衛の類に入るんじゃないだろうか。
 告白しようと考えた日の前々日は、日曜日だった。僕は、町の中心部から見て小学校
とは反対側に位置する山にいた。正式名称か知らないが、松城山とみんな呼んでいた。
大きな山ではないが、学校からは遠くて、自転車でも一時間半はゆうに掛かったろう。
子供らがしょっちゅう足を運ぶような場所ではなく、わざわざ遊びに行きたくなるよう
な施設がある訳でもない。植物や昆虫採集の“聖地”として認識されているくらい。だ
から、僕が問題の日にあの山に行って、あれを目撃したのは何の必然性もない、偶然の
産物だった、はず。
 詳しいいきさつは忘れたが、あの日曜日は朝から、僕の家の近所に住む叔父に着いて
行って、車で出掛けた。叔父は松城山の近くの神社か何かに用があったんだと記憶して
いる。僕は麓で一人、遊んでいた。何故、着いてきたのかというと、用事のあと、映画
を見に行くから一緒に来ないかと誘われたんだった。
 はじめに聞いていたよりも遅くなりそうだと叔父に言われたのをきっかけに、僕は山
に踏み行ってみた。ほんの少しだけ登るつもりが、薄気味悪い沼や廃屋や蔦やらを見て
回る内に、意外と楽しくて、いつの間にか中腹まで来ていた。中腹には平らかでミニサ
ッカーができる程度のスペースがあり、そこからは町が一望できたのだが、僕の興味は
背後にある鬱蒼とした林に向いた。季節は秋を迎え、徐々に葉が色づき始めていた。足
元に落ち葉が溜まっていたが、それは去年までの物と思われ、腐葉土とほとんど変わり
がなかった。
 僕の目当ては、さっき目撃した沼や廃屋がまたないかということにあり、そういった
ちょっと不気味な雰囲気の物を探して、歩き回った。
 最初は見付からなかったが、少し奥まったところに、沼を発見した。規模から言え
ば、池と呼ぶのがふさわしいのかもしれなかったけど、緑色に濁ったような水面は、い
かにも沼といった風情に感じられた。
 その先は行き止まりだったので引き返す。途中、不意に人の声がした。僕は反射的に
身を木陰に隠した。足元に丸くて平べったいフリスビー大の石があって、ぐらついた
が、何とか堪える。
 人の声とがさがさという音のする方を覗くと、セーラー服姿の中学生か高校生が、大
人の男に後ろから掴まえられているのが見えた。男の腕は、片方が女生徒の口元を覆
い、もう片方は胴体をがっちり抱えていた。身長差がだいぶあるみたいだけど、男は膝
を曲げ気味にしているため、正確なところは分からない。と、見ている間に男が女生徒
を仰向けに引き倒し、馬乗りになる。よく見ると、口を押さえている手には、白い布が
あった。薬を嗅がそうとしているのだと推測できたのは、だいぶ後になってから。リア
ルタイムでは、目の前の出来事にただただ唖然として、息を殺していた。
 薬が効いたのか呼吸困難に陥ったのか、やがて女生徒が静かになり、ほとんど動かな
くなった。男は馬乗りのまま、女生徒の首に両手をやった。
 それを見た僕は、唐突に思い出した。当時、僕らの住む県南部では、連続殺人事件が
広範囲に起きていた。最初の殺人から三ヶ月ぐらい経っており、僕らの市内ではまだ起
きていなかったが、隣接する複数の都市でも二件、発生していたと思う。
 その犯人は一部マスコミから「ロガー」なる名前を与えられた。無差別に老人や女子
供、つまりは弱者ばかりを狙う卑劣な快楽殺人鬼と認識され。殺害手段は様々だった。
それまでに起きていた八件の中では、扼殺を含む絞殺が半数を占めており、あとは刺殺
と撲殺、溺死させる、墜死させる手口が一件ずつ。何故、同一犯の仕業とされたか? 
小学生の僕はその正確な理由まで把握していなかったが、後年になって知ったことと合
わせて説明するなら、前の被害者の持ち物を次の被害者の服に忍ばせる点と、偶数番目
の被害者の身体のどこかに白墨で丸い印を残す点が挙げられる。
 被害者同士の関係は、ほとんどなかった。唯一、最初の被害者と次の被害者とは、同
じ小学校に通ったことのある女子中学生だった。ただ、中学は別々で特に親交が続いて
いる様子はなく、小学校時代にしても三、四年生時にクラスが一度同じになっただけと
いう、頼りないものだった。
 話を戻す。
 僕は恐かった。すぐそこで女子生徒を襲っている男が、殺人鬼ロガーに違いないと思
い込んだ。冷静になって考えれば、そんな根拠はまるでないと分かる。裏を返せば、そ
のときの僕は冷静ではなかったし、現在よりもなお子供だった。
 僕は逃げることすらできず、気付かれないようにと息を潜めていた。そのつもりだっ
た。
 だけど次の瞬間、男が僕の方を一瞥した。そう思えた。僕は顔を引っ込め、木陰に全
身を隠した。そのとき足元がまたぐらついて、少し音を立てた。男に聞かれたかもしれ
ない。だが、恐怖からすぐにまた覗き見るなんて真似はできなかった。
 どのぐらいの時間が経ったか分からないが、多分、五分と過ぎていなかっただろう。
男が僕の方へやって来る気配はなく、女子生徒の悲鳴一つ聞こえず、ただただ男が何か
しているらしい物音だけがしていた。僕は思い切って、顔を再び覗かせた。さっきとは
反対側からにしたのは、子供じみた対応策だった。
 が、またもや男に見られた。目が合ったような気がしたのだ。
 もうだめだ! このままここにいたら、殺されるっ。かといって逃げ出せない。パニ
ック寸前だった。あの女の人が殺されたあとは、僕なんだ。
 そこからあとの行動は、自分でもよく記憶していない。結果から推測した僕の行動
は、足元のフリスビー状の石を取り上げると、なるべく足音を殺して、男の背後から近
付き、そして男の頭部を殴打したらしい。何度も、何度も。男が女生徒に意識を向けて
いる間に、不意を突くのが唯一の勝ち目だと思ったに違いない。ともかく、僕は無我夢
中で殴っていた。
 手応えがなくなるまで、続けていたように思う。気が付いたときには、僕は宙を石で
漕いでいた。男は俯せの姿勢のまま、真下に倒れ伏していた。地面に沈み込むかの如
く。
 不思議だったのは、女生徒の姿が消えていたことだ。最初は、男の身体の下敷きにな
って、見えないだけだと思ったが、違った。誰もいなかった。
 よく見ると、男の頭の先に、向こうへと地面を何かが這ったような擦った痕跡ができ
ていた。最前までなかったものだ。つまり、女生徒は僕が男を殴打している間に、意識
を取り戻して逃げたらしい。痕跡は二メートルほどで途切れている。そこからは立ち上
がり、一目散に走り去ったということか。
 と、冷静な風に描写しているけれども、これは今現在の僕が、状況を整理して書いた
からこそで、小学生の僕はここまで落ち着いてはいられなかった。
 まず男が動かないのを見て、次に返り血を浴びた自分自身を見た。死んだ、殺したと
直感し、その場を飛び退いた。女生徒がいないのも把握して、混乱しつつも血塗れでは
出歩けない、どこかで洗い流そうと考えた。思い出したのが沼だ。僕はがくがくと震え
る膝を何とか操って、沼の畔まで辿り着くと、波紋のできていた水面に両手を突っ込
み、じゃばじゃばと音を立てて、目に付く限りの血を洗い落とした。さらに顔も洗っ
た。水を鏡代わりに見てみようとしたが、濁ってしまって全然役立たなかった。念のた
め、上着のジャンパー脱いで見てみると、ぱっと見では分かりにくいが、細かな赤い
点々が前面に残っていると分かった。しょうがない。沼に落としたことにしよう。僕は
ジャンパーを丸ごと沼に漬け込んだ。
 叔父の存在を思い出したのはその直後。今日は映画は無理だ。沼に僕自身が落ちたこ
とにして、連れて帰ってもらおう。そこまで知恵を働かせると、尤もらしく見えるよ
う、慎重に自らの身体を部分的に濡らした。
 皮肉なことに、その途端、空から雨粒がぽつぽつと落ちてきて、じきに土砂降りにな
った。でも、これは好都合だ。男の周辺の血までもが、雨で洗い流されていく。

 それなりに人が往来する場所であるはずなのに、遺体発見のニュースはなかなか流れ
なかった。僕はまんじりともせずに翌日の三月最後の日を過ごし、夜を迎えた。
 そして、家族で二時間サスペンスを見ているとき、はっと気付かされた。画面では、
大人の男女がテントの中でセックスしていた。見ているこっちは、親子で気まずくなる
時間。けれども、僕は別の発見もあった。
 女の人が嫌がっていなくても、口では嫌と言う場合があることを、このドラマを見る
まで知らなかったのだ。
 途端に、恐ろしい考えが閃いてしまった。もしかすると、僕が木陰から目撃したあれ
は、男が女生徒を襲っていたのではなく、合意に基づいた性交渉だったのではないか。
だとしたら、僕は勘違いをして男の人を死なせたことになる。女生徒がいなくなったの
は、きっと、必死の形相の僕を見て、恐ろしくて逃げたのだ。
 殺人鬼をこの世から消したのなら、まだ救われる。それが全くの的外れで、勘違いか
ら人殺しになったのだとしたら、どうしようもない。最低だ。
 無口になった僕を、父と母はいつもの恥ずかしさから来るものだと思ったろう。僕は
それを受け入れ、そのままテレビのある部屋を出た。自分の部屋に入るとドアをしっか
り閉める。鍵が付いていないから、いきなり開けられないように、勉強机から椅子を持
って来て、ドアの前に置いた。これで少しは落ち着ける。深呼吸をし、どうすべきか真
剣にじっくり検討を重ねた。
 結果、通学路の途中にある交番勤務の制服警官、正田義子おねえさんに全てを打ち明
けようと決心したのだ。男が罪人であろうとなかろうと、小学生が背負い込むには重す
ぎる事態だったから。
 そもそも、冷静になって思い返すと、僕が目撃した一連のシーンが、全て演技だった
とはとても考えられない。外で演技する意味が理解できないからだ。特殊な状況で演技
したいのであれば、もっと人目に付かない場所を選ぶものでは? 松城山は観光地では
ないが地元の人が割とよく訪れるし、ましてや現場となったスペースは休憩するのには
ちょうどいい場所のように思う。本当に演技――つまり、映画か何かの撮影だとして
も、僕が石をふるった時点で関係者が飛び出してくるだろう。
 もちろん、反対のことも言えなくはない。あれが犯罪行為なら、犯人の男は何故、人
がいつ来るか分からないような場所で、女生徒を襲ったのか?と。ただ、この疑問は演
技説のそれよりは、遙かに納得しやすい説明が可能だ。犯人は我慢できなかった、もし
くは、犯人は被害者を押し倒したあと、茂みに引きずり込むつもりだった、という風
に。
 以上の考察から、僕は(小学生当時においても)、男は犯罪者であり、女生徒を襲っ
たのだと判断した。それにやはり、僕は間違いなく、男を殺したのだということも。
 そうして覚悟を決め、告白したのだが――相手にされなかった。エイプリルフールじ
ゃなくても、同じだったかもしれない。小学生が殺人を告白したって、簡単には信じて
もらえまい。それでも再度、日を改めて言おうと踏み止まった。なのに、まさかこんな
タイミングで、好きな子から告白されてるなんて。
 僕は決意を放り捨て、保身に転じることにした。
 そのためにまずやらねばらないのは、死体の隠蔽か、女生徒の発見か。僕はとりあえ
ず、ある予感もあって、現場に戻ってみることにした。犯罪者は現場に戻るという格
言?通りの行動になるけれども、他に選択肢がない。
 最初、叔父にまた乗せて行ってもらえないかと考えたが、そうそう都合よく行くはず
もなし。自力で、つまりは自転車で行くことにした。
 吉原さんとサイクリングならどんな長距離でも楽しい道のりなのだろうけれど、目的
が目的だけに、気が重い。足も重かった。松城山のすぐ近くまで来ると、警戒心が働い
て、一層のろのろしたスピードになった。もうすでに発見されていて警察が来ているん
じゃないかという恐れから、しばらく様子見のため、ぐるぐると周辺を何度か行き来し
た。が、異状は見られない。大人からすれば今日は平日、行楽に来る人もいないようだ
った。僕は自転車を適当な茂みに隠すと、思い切って現場に向かった。上り坂は所々き
つかったが、くだんのスペースには意外と早く到着した。人がいない今の内にと、気が
急いていたのかもしれない。
 僕は問題の現場を見渡せる位置に立つと、息を飲んだ。
 遺体が見当たらなかったのだ。

 あれは夢だったのか、なんて希望的観測に満ちた甘い夢は、小学生のときの僕だって
見やしない。
 頭の片隅で予感はしていたため、パニックに陥って叫び声を上げるなんて真似はせず
に済んだ。
 女子生徒が無事に逃げ出したのなら、ここに他殺体がある(少なくとも、流血沙汰が
あった)ことを認識しているのだから、警察に通報するはず。女子生徒が何らかの理由
で口をつぐんでいる可能性は低いと思うし、仮に口をつぐんだとしても、三日の間、他
の誰も現場を訪れないなんて、なさそうだ。
 なのに、現実には、丸三日が経過しても全くニュースに出ない。普通はあり得ない。
 そうなってくると、考えられるのは一つだけ。男の遺体が消えたのだ。
 かような分析に基づく“予感”通り、遺体は消えていた。凶器に使った平らな石すら
ない。
 僕はしかし、予感の的中を喜ぶよりも、新たな問題に実際に直面し、困惑していた。
死体が独りでに動くことはないのだから、誰かが動かしたに違いない。
 なお、男は実は死んでおらず、息を吹き返した後、去ったなどということはあり得な
い。僕が血を落とそうと奮闘し、十五分は経過していただろうけど、男の身体は微塵も
動いていなかった。確実に死んだのだ。
 では遺体を隠したのは誰か? 何が起きたかを知っている女生徒か。彼女にとって僕
は命の恩人だろうから、かばってくれるということはあり得る。警察が動いていないら
しいのも、辻褄が合う。
 これが正解だとして、女子中学生だか高校生だかが、大の男を移動させるには制限が
掛かる。単独ではほとんど動かせないはず。かといって、普通に考えるなら、知り合い
に協力を求められる状況でもない。
 僕は改めて広場を見回した。すぐに目がとまったのは、例の沼。あそこまでなら、女
生徒一人でも引きずっていけるのではないか。最後は足で蹴飛ばして、沼の底に沈めれ
ばよい。
 僕は沼の畔に立った。相変わらず濁っていて、底どころか水中がどうなっているのか
も分からない。
 遺体があるのならいつか浮き上がってくるだろうけれど、その頃には、色んな証拠は
流されて、人の記憶も曖昧になっていると期待できる……と、ここまで考えたものの、
だからといって楽観視できるものでもなし。せめて、本当に男の遺体が沈められている
のか、確かめたいと思った。
 無論、潜る訳に行かない。片膝をついてしゃがむと、水面に顔を近付ける。目を凝ら
すが、視界は変わらなかった。しょうがないので、手を入れて、少しかき分ける仕種を
してみたが、結果は同じ。いや、むしろ逆効果だったかもしれない。
 あきらめて手を引っ込めようとした瞬間、指先が何かに触れた。固くもなく柔らかく
もない。ゴムかプラスチックの感触に近い……?
 生き物だったら気持ち悪いなと思いつつ、もう一度同じ場所に右手を、恐る恐る入れ
た。さっきと違って、ゆっくりゆっくり水をのけるように手を動かす。すると、不意に
それは浮かんできた。
 ぷかりと浮かんだのは、黒っぽい色をした靴だった。サイズはそんなに大きくない。
僕ぐらいにちょうど合いそうな、でも女物らしく見えた。水に落ちてまだそう日が経っ
ていないのか、乾かせば使えそうな感じがする。
 と、突然、その靴に見覚えがあることに気付いた。飾り気のない、色も地味な、いか
にも学校指定の靴……もしや、これは。
「あの女子の?」
 思わず、呟いていた。
 まさか、あのときの女生徒は、男の身体の下から逃げ出したあと、行くべき方向を誤
って、沼に落ちたのか? 靴がそのままあるっていうことは、彼女自身、今も沈んだま
まなのか?
 背筋に戦慄が走った。全身が総毛立った気もする。
 がたがた震える自分を自分で抱きしめ、立ち上がろうとしたが、くずおれてしまっ
た。尻餅をついた格好で、しばらく動けなかった。口の中はからからだったが、唾を飲
み込んで、いくらか後ずさる。姿勢を立て直して、震えが収まるのを待つ。が、待ちき
れなくて、膝に意識的に力を入れてやっと立ち上がった。五秒ほど考え、靴は拾得する
ことにした。
 子供が行方不明になっても、誘拐事件である可能性を考慮して、すぐには報道されな
いケースは結構あるだろう。女生徒の場合もそれに当てはまっているのか。
 しかし、女生徒が沼で溺死したとすると、男の遺体を消したのは一体、誰なんだ?

 僕は自転車を目一杯漕いで、家を目指した。安全運転に努める余裕はほとんどなかっ
たが、どうにか無事に帰り着いた。それから帰路を行く間にずっと考えていたことを、
自分の部屋に籠もってまとめようと思った。
 それは、男の遺体を隠したのは、やはり女生徒だったのではないかという考えだ。詳
しく言うと、女生徒が男を遺棄する過程で、誤って自身も落ちてしまったという仮説。
ないとは言えない。
 ただ、何となく心理的になさそうな気がした。何故かというと――僕が放置した凶器
が、あの現場には見当たらなかった。凶器と遺体の両方を沼に沈めるとして、先にやる
のは遺体の方を選ぶんじゃないかと思う。凶器を先に始末したあと、万が一にも男が蘇
生したら、女生徒には武器がなくなるし。
 いくら考えても推論は推論でしかなく、結論は下せない。男もしくは女生徒の遺体が
浮かび上がり、警察によって沼が浚われるのを待つしかないようだった。でも、女生徒
には生きていて欲しい。だからこそ、靴を持ち去ったのだ。彼女が生きているなら、靴
は脱げ落ちただけということになる。現場に残しておくと、男の遺体が発見されたと
き、男を殺した犯人につながる手掛かりと見なされるだろう。
 僕はそのときが来るまでは、せめて忘れていようと、小学生最後の一年間をいかに充
実したものにするかに意識を向け、そして吉原さんとの付き合いに力を入れた。
 が、それを妨げるかのように、気に掛かることが持ち上がっていた。春休み中に見た
朝のワイドショーでの特集だった。
 ロガーによる犯行が、ぴたりと止んだのだ。
 およそ十週の間に八人を殺したロガーが、音沙汰梨となってからもうすぐひと月にな
る。犯人はどうしたのか。どこで何をしているのか。分かりもしないことを、ゲストの
タレントや専門家と称する複数の男女がああだこうだと言い募って、特集は終わった
が、僕はこの事実を突きつけられ、嫌でも思い起こした。
 あの男がやはりロガーで、女生徒を九人目の犠牲者にしようとしていた? ロガーが
死んだから、犯行は止まった?
 そう解釈すれば、何もかもがぴたりとうまく収まる気がした。殺人鬼を葬り去ったの
なら、僕の精神も比較的安定するだろう。
 だけど、一方で、二ヶ月あまりで人を殺すような殺人鬼が、僕のような子供にあんな
にあっさりとやられるものなのだろうか。疑念は消えない。

 四月の十五日になって、動きがあった。ある意味待望の、である。
 松城山中腹の沼に遺体が浮かんだのだ。
 男性だった。
 速やかに警察の捜索が入り、一両日中に沼を完全に浚ったらしい。その結果、他に遺
体が上がることはなかった。
 沼には、長い間に投げ込まれたり落としたりした物が、大量に沈んでいたそうだが、
女子生徒の持ち物らしき遺留品はなかった、と思う。発表されていないだけで、見付か
った物があっても伏せられているのかもしれないが、とにかくニュースや新聞では何も
言っていなかった。
 一方で、男については、比較的多くの情報が出て来ていた。名前は大家延彦と言い、
三十五歳の独身、アパートに一人暮らし。二十八で結婚するも三十三で離婚。ビジネス
用品メーカー勤務でトップクラスの営業マンだったが、身体を壊して昨年末に休職。別
れた妻との間には子供が一人いるが、会うようなことはしていない。養育費はきちんと
払い続けており、生活に困っている様子はなかったという。
 アパートの部屋からは、ロガーに殺された被害者との関連を裏付ける物が複数発見さ
れたそうだが、ほとんどは明かされていない。正式発表されたのは、八人の被害者名を
書き記した手帳と、最初の被害者の皮膚組織が検出された革紐。特に後者は、有力な物
証と言える。もちろん、大家が紐を触ったという証拠も見付かっている。
 動機が不明だが、離婚や休職をきっかけに、少しずつ精神的に弱っていたんじゃない
かという説明がなされていた。小学生だった当時は、その説明ですんなり納得していた
けれど、今考えると随分と乱暴な話だ。
 結局、容疑者が死んでしまったせいもあり、大家が八件の殺人全てをやったという証
明は難しかったらしく、半分の四件で、容疑者死亡の不起訴処分という処置がなされ
た。僕が大家延彦を殺したがために、事件の完全解決ができなかったのだとしたら、ま
た僕の重荷が増えるが……。あの女生徒の命を守るためにやった正当防衛だと思い込む
ことにする。それに、大家延彦は少なくとも四人殺したと認められたも同然なのだか
ら、三人殺せば死刑と言われる日本の刑罰に照らせば、先んじて刑を執行してやったと
も言える。とにかく、そう思い込むことで、僕は心の均衡を保つことができた。
 夏休みに入る頃合いには、ロガー事件は決着を見たような空気になった。あとから思
うと、世間はロガーという殺人鬼に飽きて、次の大事件を求めていたような気がする。
 僕は吉原さんとの付き合いを深めた。と言っても、小学生のできることなんて、たか
がしれていたけれども。遊びに行くのも二人きりになることは滅多になく、グループで
出掛けた。
 松城山には足が向かなかった。だけど、そちらの方面になら行くことがたまにあっ
た。そのときだけは、忘れかけていた重荷とか緊張感とかを嫌でも思い出した。確率は
低いかもしれないが、あのときの女生徒とばったり出くわすという偶然が、起こらない
とは言えないのだ。相手が僕に感謝していて、秘密を公にする気がないとしたって、会
わない方がいい。そうに決まっている。


――続く




#499/512 ●長編    *** コメント #498 ***
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:28  (466)
偽お題>書き出し指定>告四(後)   永山
★内容
 そして――七年後の今。
 僕と吉原は揃って大学に入り、上京した。さすがに住居は別だが、距離にして一駅と
違わないマンションに入った。同じマンションに入れなかったのは、吉原が家族の意向
もあって女性専用のそれを選んだからだ。結婚云々は別としても、互いの家族とも小さ
な頃から顔を合わせ、行き来もしており、公認の仲と言えるだろう。
 二人の時間を大切にするため、大学では、なるべる緩いクラブかサークルに入ろうと
考え、僕らは都市伝説研究会というサークルを選んだ。原則的に掛け持ち自由なので、
登録者数は百を超すが、サークル室に姿を見せるメンバーとなると二十人前後、さらに
そこからサークル名通りの活動に参加している者は、十人ぐらいだろう。
 僕と吉原は、都市伝説に興味がなくはないといった程度で、さっきの分類に従えば、
サークル室に姿を見せるが活動参加はあまり積極的でないタイプ。テストやイベントな
どの情報収集が目的のメインだった。
 ところが、ひょんなきっかけから、僕と吉原は活動の中心に躍り出る、いや、出され
る羽目になった。夏休みの合宿先を、先輩方が検討しているときのことだ。
「そういえば、君ら」
 部長(サークルだから会長と呼ぶべきかもしれないが、部長で通っている)の名倉絵
里さんが、部室中央の丸テーブルを離れ、僕らのいる長机の方にやって来た。
「何でしょう?」
 そう応じつつ、合宿先の意見を求められるものと思い、ホワイトボードに書き出され
た候補をちらっと見やった。
 しかし、予想に反して名倉部長はもっと個人的なことを聞いてきた。
「ロガーの事件が起きた地域の出身じゃなかったっけか」
「は、はあ」
 吉原も僕も似たような反応をした。厳密に言えば、僕の方がコンマ五秒ほど遅れたか
もしれないが。
「連続殺人事件のことですよね」
 吉原は笑顔でさらりと言った。怪談話でも始めそうな雰囲気だ。
「うん。えっと、七、八年になるかな」
 指折り数え、自ら納得したように頷く部長。僕も何か言わねば。鼓動の高まりを意識
しながらも、平静を装って、ゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、出身って訳じゃないんです。隣接する市で発声しただけですから」
「それでも、話題にはなったろう? 小学生の頃なら、学校だってぴりぴりするだろう
し」
「はい。それはもう」
 笑みを絶やさない吉原。横目で見ていた僕も、つられて笑う。
「集団下校するようになったんですけど、登校のときと違って、上級生と下級生とで時
間を合わせるのが難しいから、すぐにやめになって。保護者が迎えに来るのをOKにし
たり、登校時にやってる交通安全見守り活動を、下校のときにも行うようになったり。
でも、子供の方は、距離的な実感なんてないから、家に帰ったら勝手に遊びに行ってま
したけど」
 彼女の思い出話を耳にして、僕も思い出した。隣の市まで殺人鬼が現れるようになっ
ていた割に、叔父は僕を一人で遊ばせていた。危ないとは考えなかったんだろうか。そ
ういえば、僕の親もあの日服を濡らして帰ってきた僕を、あんまり叱らなかった。叔父
を責める様子もなかったと記憶している。でもまあ、僕が見ていないところで、無責任
な叔父をきつく注意したかもしれないが。
 でも……。それなら後日、僕が自転車で遠出したのを、両親はよく許可したなと思
う。いや、嘘をついて出掛けたんだったかな? あのときは自分のことだけでいっぱい
いっぱいで、嘘をついている余裕すらなかったかもしれない。
「新年度になったら、全児童に防犯ブザーを持たせようっていう話まで出ていたらしい
んですけど、その四月中に犯人が分かって」
「犯人の遺体が見つかった沼だか池だかってのが、吉原さん達の地元でしょ」
 別の先輩が言った。妹尾という二年男子で、普段はあまり出て来ないが、合宿前にな
ると姿を現すそうだ。続けざまに、部長に尋ねる。
「ロガー事件で都市伝説って、何かありましたか?」
「メジャーじゃないし、都市伝説っぽさには欠けるかもしれないが、あるにはある。ロ
ガー生存説だ」
「ああ、それですか」
 その場にいるメンバーのほとんどが納得した風に頷いたり手を打ったりしたが、僕は
「えっ」と声に出して驚いていた。
「何だ、知らないの?」
「し、知りません。初めて聞きました」
「ふうん。吉原さんは」
「私もよく知りません。何か噂みたいなのは聞いたかもしれませんけど、地元はやっぱ
り、事件が身近だった分、決着したんだ、もうこれ以上は言うなって雰囲気があったの
かも」
「なるほどね。じゃあ、生存説の詳しい理由は知らないんだ? よろしい、話してあげ
よう」
 揉み手をしかねないほど嬉しそうに頬を緩めると、部長は資料を参考にすることな
く、以下の内容をそらで喋った。
 ロガー生存説をより厳密に表現するなら、二人による共犯説になる。つまり、ロガー
の犯行は、二人の人間の仕業であり、大家延彦はその片割れに過ぎない。もう一人は生
きており、今も犯行再開の好機を待っている。
 この説の根拠は、いくつかある。大家の犯行として認定された四件の殺人は、ロガー
の犯行八件の奇数番目のものばかりだったこと。一番目と三番目と五番目と七番目の殺
しが、大家の犯行で、二、四、六、八の偶数番目は共犯の犯行だとする見方。
 また、殺害方法が多岐に渡る点も、共犯説を補強する。大家の自室から紐状の凶器が
見付かったことで、考察や扼殺は大家が好んで用いた方法であり、他の手口は共犯の仕
業と推定される。
「あ、待ってください。ちょっといいでしょうか」
 突然、吉原が先輩の話を遮ったので、びっくりした。
「何?」
「記憶が朧気なんですけど、確か殺し方は、絞め殺すのが前半に集中していたような」
「その通り。奇数番目が絞殺や扼殺なんていう風にはなっていなかった」
「じゃあ、おかしい……」
「うん。そこがこの説の弱いところでね。だからあんまり話題にならず、今では風化し
ているのかもしれない」
「当時の警察の見解では――」
 名倉部長のあとを受けて、妹尾先輩が話す。
「ロガーは大家の単独犯行で、前半に絞殺や扼殺が集中し、後半は手口が変化したの
は、絞め殺すのに飽きて、新しい方法を試したくなったということだったかな。連続殺
人だと分からせるためのサインは、所持品のリレーとチョークで事足りる」
「絞殺が決め手じゃないのなら、どうして奇数番目が全て大家の犯行と認定されたんで
しょう?」
 僕も会話に加わっておく。長い間黙っていると、何となく不安を覚えるから。
 部長が反応する。
「地元で起きた事件なのに、頼りないな。この分じゃ、合宿先にしてもあんまりおいし
くなさそう」
「私達の地元を合宿先にして、ガイドさせるつもりでした? 無理ですよ、そんなの」
 吉原がこう応じた結果、僕らの地元を合宿先の候補にする案はあえなく没となったら
しく、そのまま話題が変わった。
 奇数番目が大家延彦の犯行と認定された理由は、聞けずじまいだった。なので、僕は
マンションに戻ってから、調べてみた。本当は帰宅を待たずとも、いくらでも検索する
手段はあったのだけれど、吉原と二人でいるときまで殺人事件のことを考えたくはなか
ったから、後回しにしたのだ。
「――なるほど。五番目と七番目の被害者の所持品の一部が、大家の部屋から見付かっ
ていたのか」
 独り言が出た。ノンアルコールビールを片手に、検索結果の画面を見ていく。
 所持品は順にハンカチとイヤリングで、ハンカチはきれいに半分に切り裂かれていた
という。部屋から見付かったのは半分だけで、もう半分が六番目の被害者の衣服に押し
込まれていた。イヤリングも部屋から出て来たのは片方のみ。もう片方は、八番目の被
害者の口の中にあったらしい。
「うん? こういう状況なら、六番目と八番目も、大家の犯行と見なせるんじゃないの
か」
 そもそも、一番目と三番目が大家の犯行と認定された上で、それぞれの被害者の持ち
物が、次の被害者の遺体のそばで見付かっているのなら、二番目及び四番目も同一人
物、つまり大家の犯行と見なしていいのでは。
 なのに、そうなっていないのには理由があるのか。
 検索結果を追ってみたが、警察の発表という形では、特に何もないようだった。
 ただ、芸能週刊誌やスポーツ新聞レベルの噂話として、大家にはアリバイがあったん
じゃないかという記事が見付かった。何番目の殺人かという言及はないものの、駅や商
店街、銀行などの防犯カメラ映像に、大家延彦らしき男が映っていたという。大家なの
か肯定も否定もしがたい画像でアリバイとは認められなかったものの、八件全部を大家
の仕業とするのにも引っ掛かりを覚える材料だったため、四件での書類送検に留まった
という経緯らしかった。
 改めて知ってみると、ロガーは二人いるとする説には、頷けるものがある。100
パーセントの肯定はまだ無理だが、あり得ない話じゃないという気になってきた。
 もし、ロガーがもう一人いたとして、そいつは共犯者を殺され、何を考えただろう?
 断るまでもないが、大家延彦の死は殺人事件として扱われ、今も捜査は継続してい
る。そのはずだ。これまで、僕の元を刑事が訪れることは一度もなかった。警察の方針
は知らないが、世間の大半は、ロガーは犯行中に反撃を食らって死んだ、自業自得だと
思われている。今度の検索で知ったが、ごく一部の人達、つまりロガー二人説を採る人
達は、仲間割れをして殺されたという見解らしい。どちらにせよ、世間一般は、大家延
彦に同情なんてしていないし、このまま犯人は捕まらなくてかまわないという風潮があ
った。だから警察も本腰を入れてないのではないか。そういう風に僕は考え、一応安心
して暮らしてきたのだが。
 本当にロガーがもう一人いて、共犯者を殺されたことや、その犯人だと思われている
ことに怒りを覚えているとしたら、そいつは僕を見つけ出し、落とし前を付けさせたい
と考えているではないだろうか。
 とは言え、そんな想像から、僕がぶるぶる震えているかというと、そうでもない。ロ
ガーは、共犯者を殺した人物を特定するために、どんな方法を採れる? まさか警察に
駆け込む訳に行くまいし、警察以上に捜査能力のある組織は、恐らく日本にはない。絵
空事の名探偵が入るなら、話は変わってくるかもしれないが。
 唯一、恐いのは、僕が大家を打ち殺すところを、もう一人のロガーが目撃していた場
合だが、七年も経ったのだから、心配の必要はない。いや、あの場にもう一人のロガー
がいたのなら、僕は即座にやられているに決まってる。
 意識することもなく、楽観的な考えに浸った僕は、その後も検索結果を適当にピック
アップしては、ざっと読む行為をだらだらと続けていた。やがて、瞼が重たくなってき
た。飲んだのはノンアルコール飲料のくせに。そろそろ寝る頃合いか。僕は最後のつも
りで、適当に検索結果をクリックした。
 それは誰かのツイッターらしかった。****年に@@市等で発生したロガー事件に
興味あります、みたいなことが書いてある。何か特別な情報や噂を知っている様子はな
く、逆に募集をかけている感じだ。名前は“きあらん”となっていた。
 プロフィール画像に目を凝らすと、イラストではなく、女の子の顔写真だと分かっ
た。小学生高学年ぐらい。細身と言うよりも痩せていて、面長に見える。後ろに映る電
柱や木の高さから判断すると、身長は結構ありそうだ。こんな小さな子が、七年前の事
件に興味を持つのかと怪訝に感じたが、プロフィールを読んで納得した。具体的な校名
はなかったが、東京の大学に通う学生で、年齢は二十一とある。当時なら十四歳。連続
殺人事件が近辺で起こったら、強烈な印象を残しても不思議じゃない。小さな頃の顔写
真にしているのは、プライバシーを守るため、今の写真を使いたくないからだろう。
 ――自分は今、どうしてこの女性の近辺で事件が起きたと思った? プロフィールを
見直して、すぐに答は見付かった。出身地が、僕と同じだった。
「あっ」
 次の瞬間、叫んでいた。
 髪に片手を突っ込み、がりがり掻きながら、目を細めて改めて顔写真に見入る。確信
を持てた。
 あのときの女生徒だ……。
 僕はみたび、プロフィールを読み直した。事件についての記述はなし。検索でヒット
した呟きに目を移す。彼女がロガー事件に興味を持った理由までは触れられていない。
情報を広く募る旨が書いてあるだけだ。始めたのが今年の四月からで、まだほとんど知
られていないらしく、リプライなんかも大した数じゃなかった。有益な情報が集まった
とは思えないが、一応目を通すと、怪しげな書き込みがいくつかあると分かる。「特ダ
ネを持ってるが、ネットで話す気はない。実際に会って、証拠ごと渡す」というニュア
ンスのものが、三つほど確認できた。まともに考えれば、ツイート主の女性に会いたい
だけの書き込みと思うのだが、きあらんは割と真摯に反応していた。と言っても、「会
います。日時はお任せしますから、待ち合わせ場所は※※警察署でお願いします」なん
ていう返しをするくらいだから、身を守る意識はちゃんと働いているらしい。無論、面
会が成立した様子はなかった。
「だからって、連絡を取る訳にいかない」
 ふっ、と息を細く短く吐いた。この女性が命の恩人を見つけ出し、礼を言いたいがた
めにこのつぶやきをしたのだとしても、僕には応じられない。勘繰るなら、警察の罠と
いう可能性だって、完全否定はできない。
 僕はネットを切断した。パソコンの電源をさっさと落とし、就寝の準備をする。
 何とも言えない、もやもやしたものを見つけてしまった。そんな気分では、布団を被
っても簡単には寝付けなかった。

 事態が急展開を見せたのは、僕がそのツイッターに気付いてから、四日か五日ぐらい
過ぎていたと思う。
 きあらんが殺されたのだ。
 最初にテレビのニュースで一報を見聞きしたときは、僕にとっては無関係な殺人事件
が起きたんだな、程度の認識だった。その後、ネットで改めてニュースを読み、ようや
く被害者がきあらんだと把握した。あの女生徒の本名は、荒木蘭子だと分かった。
 ロガー事件に関して情報を求めていたことも、関係者筋からの話として既に報じられ
ており、過去のロガー事件は瞬く間に注目されるようになった。
 翌日の続報では、さらに詳しいことが判明した。殺害方法は絞殺で、凶器は未発見。
遺体の傍らには、御影石の欠片が置いてあったという。八番目の被害者の所持品がどこ
にも見当たらなかったことから、ロガーが蘇って犯行を再開したのではなく、別人の仕
業だとする分析を、犯罪学者がワイドショーのスタジオでとくとくと語っていたが、午
後になって一変する。警察が八番目の被害者の入る墓を調べたところ、墓石の角が少し
壊されていたことが判明したのだ。鑑定待ちだが、恐らく遺体のそばにあった御影石
と、組成が一致するに違いない。
 僕は、大学をしばらく休むことにした。外出も控えねば。荒木蘭子は、もう一人のロ
ガーに見付かり、七年前の続きとばかりに殺されたのだ。そうに決まっている。
 ロガーが荒木蘭子の居所を突き止められたのは、きっとあのツイートが発端なんだろ
う。七年前、大家が九番目の犠牲者として荒木蘭子を襲うところを、共犯者は見守って
いたのではないか。八件の殺人も同様だったかもしれない。片方が実行犯で、片方が見
張り役。恐らく交互に殺人を行い、被害者の所持品を手に入れては、共犯者に渡してい
たのだ。
 ああ、そうか。僕は違和感の正体と理由に気が付いた。大家は九番目の殺人が未遂の
まま、死んだというのに、八番目の被害者の所持品を持っていなかったと思われる(持
っていれば、絶対に報道される)。犯行の時点では、共犯者が持っていたんだ。殺しの
あと、物を受け取るか、共犯者自身が物を遺体の懐に入れる算段だった……。
 だが、九番目はハプニング起きた。僕の介入だ。見守っていた方は、慌てたに違いな
い。飛び出して小学生の僕を排除するくらいできただろうが、その前に、どこの誰とも
分からぬ女子生徒に逃げられてしまった。下手に動くと、共犯者は捕まるリスクがあ
る。僕だけでも始末するという選択肢を選ばなかったのは、何故か。留まるリスクの方
が大きいと見て、早々に現場を立ち去ったのか。
 一人になったロガーは、長い潜伏期間を持つことになる。共犯を失ったことも大きな
理由かもしれないが、それと同時に、女生徒と僕の居場所を突き止める手掛かりを得る
必要があった。だけど、僕も女生徒も警察には行かなかったし、警察は大家殺しの犯人
を見付けられないでいた。名前の漏れようがない。長期戦を覚悟した犯人は、八番目の
被害者の所持品を、廃棄したのだろう。持ち続けていると、容疑を掛けられた際、物証
とされるから。犯人自身が市内の学校を中心に張り込みをすれば、僕や荒木蘭子を見付
けられたかもしれない。そうしなかったのは(しなかったはずだ)、やはり慎重を期し
たからに違いない。
 七年が経ち、犯人は荒木蘭子のツイッターに着目する。もちろん、全く無関係である
可能性もあったが、子供の頃の顔写真で確信を持てたのだろう。一方の荒木蘭子は、既
にロガーは死んだと思っているから、無防備になっていた。恐らく、他のツイートで上
げた写真に位置情報を含んだ物があって、ロガーは荒木蘭子の居場所を特定したのでは
ないか。仮にそうじゃなくても、市の中学校の卒業アルバムをどんなことをしてでもか
き集め、きあらんの子供のときと同じ顔がないか、当たっていけばいずれ本名が分か
る。本名が分かれば、あとはどうにでもなるのではないか。ロガーが殺人以外の犯罪に
どこまで精通しているかは分かりようがないが、一度狙った獲物は逃さないという執念
があれば、何としてでも調べ上げるのではないか。
 執念。
 脳裏に浮かべたその単語に、僕は身震いを覚えた。
 荒木蘭子の身に降りかかったのと同じことは、僕自身にも当てはまる。ロガーの次の
獲物は、恐らく僕だ。
 そのときから僕は、ネットをしなくなった。関係ない、意味のない行為とは思うが、
そうせずにはいられなかった。
 外出時には、色の濃い眼鏡とマスクを欠かさないようになった。帽子を被ることもあ
った。大学へもその格好で行ったが、周りの評判はあまりよくなかった。特に、吉原か
らは呆れられてしまった。理由を話せないのだから仕方がないが、これでもう彼女とは
別れるかもしれない。一緒にいて、彼女が巻き込まれるようなことになれば申し訳が立
たないという気持ちもある反面、別れたくない気持ちも当然あるので、現状では成り行
きに任せるとしよう。
 狙われてびくびくしているだけでは始まらない。対策も講じようとした。ロガーの顔
や姿を前もって知ることができればいいのだが、そんなことは無理に決まってる。だ
が、不審者の目星を付けるくらいなら、可能じゃないか? そこで思い付いたのが、荒
木蘭子の葬儀に足を運ぶことだったのだが……ロガーが姿を見せる確証がない上、自分
は危険を冒している。荒木蘭子の関係者でもないのに葬儀に顔を出せば、怪しまれる。
もしも警察が張り込んでいたら、注意を惹いてしまうだろう。天秤に掛けるまでもな
い。自らが不審人物であることを忘れてはならない。この程度の策ではだめだ。

 叔父から電話をもらったのは、僕が訪ねてきた家族に素っ気ない対応をしたしばらく
あとのことだった。
 叔父と話すのは、二年ぶりぐらいになる。直に会ったのは、もう五年ほど前になるの
ではないか。
「元気か? 何かあったんじゃないかって、みんな心配してるみたいだぞ」
 叔父の若々しい声は、うるさいくらいだった。僕は電話を耳から少し離し、応じた。
「うーん。ちょっとね。たいしたことじゃないんだけど、僕にとってはたいしたこと
で」
「何だ何だ、思わせぶりだな。家族や友達に言えない悩みか」
「でもないんだけど」
 曖昧にかわして終わらせるつもりだったけれども、ふと嘘の理由を思い付いたから、
そっちの方に叔父や家族の意識を向けさせておこう。
「まあ、叔父さんにだったら、話してもいいかな。昔、小さなときにはよく相手しても
らったし」
「こんな冴えない中年男でよければ、聞き手になってやるよ」
 叔父は自分では中年ぶるが、見た目は声と同様に若々しい。去年か一昨年にもらった
年賀状に、旅先での写真が載せてあったが、一つ上の父が、白髪が増えて老け込んだ印
象なのとは正反対に、IT企業の若社長って雰囲気を持っている。まあ、飽くまでイ
メージだけれど。今の実際の職業は――以前聞いたときから変わっていないとして――
カメラマンだ。と言っても、芸術家じゃないし、記者でもない。ありとあらゆる様々な
物事を撮影して、素材写真として提供する。そんな企業に所属している。
「実は今、仕事で東京まで出て来てる。今は無理だが、暇なときは相手してやれるぞ」
「会わなくても、電話で充分だよ。それがさ、ずっと付き合ってきた彼女と最近、すれ
違いが増えてきた感じでさ」
「それって、えっと吉原さんて子のことかい? 勿体ない」
「別れたい訳じゃないよ」
「理由というか、心当たりあるの?」
「なくもない。こっちはこの頃、あんまり出歩きたくないのに、向こうは外に行きたが
るとか、僕が都会の空気が汚れてる感じがして嫌だから、マスクとサングラスを掛ける
ようにしたら、不審人物だ何だとひどい言い方をされたんです」
「はは、そんなくだらないことで! 気に病む必要なんてないだろ。自然に元通りにな
るさ。ならないようなら、君が少し妥協すれば済む」
「妥協、ですか。男から折れた方がいいんですかね」
「まあ、いくら平等が唱えられても、そういうことになるかな」
 乾いた笑い声を立てる叔父。ようやく音量が調整された。耳を近付けたところで、話
題を少し変えられた。
「実はもっと深刻なことで悩んでるんじゃないかと思って、気になってたんだよ」
「深刻ですよ」
「だから、もっと、さ。ほら、そっちであれが起きたじゃないか」
「あれ?」
「ロガー事件だよ」
 一瞬だけ、どきりとした。心臓の鼓動が早まったようだ。鼻で強く息をして、整え
る。
「ああ、あれですか。完全に同一犯なのか、模倣犯なのかは分からないんじゃないです
か。第一、ロガーは七年前、沼で死んだのだから」
「そうだけどさ。まことしやかに囁かれていたロガー複数犯説を採用するなら、生き延
びたロガーがまた犯行を始めたように見えるだろ。君にとっちゃ、地元を離れたのに事
件が引っ付いてきたみたいで、いい気分はしないだろうと思ってね」
「それはまあ」
「ロガーが沈んでいた沼にも、遺体が見つかる直前と言っていいくらいに、出掛けたも
んな。覚えてるよ。あのときは君が沼に足を滑らしたとかで、服を濡らして一騒動だっ
たけれど、まさか殺人犯の遺体が浮かぶとは」
 僕は再び電話を遠ざけた。腕の長さ分いっぱいに。聞く内に、頭を締め付けるような
感覚に襲われた。何でこんな。他の人とロガー事件について話しても、ここまで不快な
気分になったことはなかった。僕が大家を殺したあと、最初に会った人物が叔父だから
か?
「まあ、何ともないのならいいよ。――聞こえてるかい?」
「あ、はい。聞こえてます」
「君の彼女は、事件について、何か言ってた?」
「吉原さんですか。うーん、楽しい話題ではないので、彼女との会話にはほとんど出て
来ません。ただまあ、サークルで話題に出たことがあって、そのときは割と平気な感じ
で話してましたよ」
「聞いたのは、吉原さんの話した内容なんだけどな。ロガー事件が起きてからの」
「ああ。そうですね……何言ってたっけ。印象に残らないくらい、ごく普通でしたよ。
また始まったのかしらとか怖いねとか」
「特段、トラウマが出てるようではないと。それならよかった」
 出ているとしたら、僕の方だ。
「しかし何だな。大家延彦の死亡推定日時ってのは、幅があるけども、僕らが松城山に
行った日も入ってるんだよな。ど真ん中に。だから、ひょっとしたらひょっとして、す
でにもう沼には死体が沈んでいたかもしれない訳だ。その沼の水に濡れたと思うと、君
だって平気でいられないんじゃないか?」
「や――やめてくださいよ」
 僕は無理矢理笑った。自分の声なのに、少し遠くに聞こえる。
「そんなことあり得ませんよ。あったとしても、死にたてなら水に混じってはいないで
しょう、その、体液とか」
「ははは、死んだばかりかどうかは分からんぜ。幅があるんだから、最も早い時期に死
んでいたとしたら、得体の知れない物が沼の水に溶け込んでいたかもな」
 叔父の声は明るい。だが、呪いのように僕の耳に届く。
「もしかすると、そのせいかな? 君の身体に染みついたロガーの体液や血液やらが、
今になって呪いの執念みたいなものを爆発させてさ。その結果、君の近くでロガー事件
が再開したのかもしれん。犯行に及んだロガーはかつての共犯なんかじゃなく、ロガー
の霊が乗り移った人間なんだよ」
「――」
 僕は何事かを叫んで、電話を切っていた。

 一眠りして、目が覚めて、飲み物と食べ物を軽く入れて、しばらくすると落ち着いて
きた。時計を見ると、深夜三時過ぎだった。
 冷静になったところで、ふとした疑問が頭の中をよぎった。
 叔父は何故、電話であんなことを言ったのか。いい年した大人が、悪ふざけにしては
度が過ぎるのではないか。
 想像を逞しくし、さらに七年前を思い出そうと試みる。
 七年前のあの日。松城山の近くまで、叔父の車に乗って連れて行ってもらったとき、
叔父は一体何の用事があったんだ?
 子供だったから詳しく聞かされていなくても当然だと思っていたが、本当は何もなか
ったんじゃないか? いや、言えなかったのでは?
 たとえば、叔父こそがもう一人のロガーであり、大家の犯行を見守ることこそが用事
だった――。
 証拠はない。根拠もゼロに等しい。妄想レベルだろうか。
 反証ならすぐに挙げられる。叔父がロガーなら、犯行現場の近くまで僕という子供を
連れて来て、自由に遊ばせたりするものか? 普通はしない。
 だが、殺人鬼は普通じゃない。たとえば、僕を十番目の犠牲者にするつもりだったと
考えれば、連れて来たことに説明が付く。身内を犠牲者に選ぶのは、犯人にとってリス
クを高める行為だろうけれど、最後のつもりならあり得るんじゃないか。犠牲者の数が
十で打ち止めならきりがよい。
 だとしたら、僕の早すぎる反撃は、ロガー達にとって予想の埒外だったのかもしれな
い。だから、僕を止めることすらできず、荒木蘭子には逃走を許し、大家は命を落と
し、叔父は立ち去るしかなかった。
 この仮説を肯定するなら、叔父は共犯者を殺したのが僕だと知っていながら、ずっと
放って置いたことになる。いつでも殺せるから? いや、むしろ、順番に拘ったのか。
九番目の犠牲者として荒木蘭子を見つけ出し、殺してから、最後に僕を殺そうという当
初の計画に拘った。
 すると――どうなる? 今や、ロガーにとって残す標的は僕だけ。叔父はロガーの片
割れとして、最後の“仕事”を遂行しようとする。さっきの電話は、殺しに行く前の様
子見だった? そういえば、こっちに出て来ていると行っていた。悪趣味な話を聞かせ
てくれたのだって、僕を恐怖させ、追い詰めるためにやったのでは。いや、そうに違い
ない。そしてじきに、ここへ来る。外出の機会がめっきり減った僕を、いつまでも待た
ないだろう。叔父なら、訪ねる理由を作れる。拒んで先延ばしにすることは、恐怖の先
延ばしにつながる。だったらいっそ、迎え撃った方が賢明なのでは。
 僕は椅子から立ち上がった。嘱託を離れ、台所を見渡す。キッチン下の扉の裏には、
包丁が何本かある。他に武器になりそうな物……修学旅行のとき、若気の至りで購入し
た木刀。あれを持って来たはずだ。どこに仕舞ったか……。
 僕は小学生のとき、吉原と付き合うために、秘密を抱える決心をした。彼女と別れな
い内は、秘密が増えるくらい、何ともない。

            *             *

「――ええ。大家延彦とは全く関係ありませんでした。他人の犯罪に便乗して、連続殺
人を起こせるかどうかという、一種の実験みたいなものを試みたかった。ただ、それだ
けです。だから、最初の方は私も彼と同じ殺害方法、絞殺を選んだんです。でも、自分
の犯行だという証拠も欲しかったので、チョークで白い印を残しました。
 最初の被害者? 最初とは、私にとって最初という意味ですね。大家が起こした最初
の殺人、桑間さんを殺した現場に行って、一人で冥福を捧げている女の子の中から物色
したんです。桑間さん同じ学校の子になると面白くないから、制服で区別しました。そ
うして選んだ三島さんが、まさか桑間さんと小学校時代同じクラスになったことがあ
り、しかも密かに付き合っていた仲だったとは、予想外の結果でしたが。ただ、その事
実を警察は掴めなかったみたいですね。それだけ慎重に、周囲に隠して付き合っていた
んでしょう。私だって、三島さんが持っていた手帳を見て、初めて知ったんです。おか
げで、大家と私が別々に起こした殺人なのに、期せずして連続殺人の様相を呈してしま
った。はい、生前、桑間さんが使い古した腕時計を三島さんにプレゼントしただけなん
でしょう、きっと。
 そのことを知った僕は、次第に面白いと思いました。大家が次の殺しを行うのなら、
何とかして三島さんの所持品を渡してやろうと考えた。最悪でも、次に大家が殺した被
害者の懐に、三島さんの手帳の一部を押し込んでやろうと。でも、大家がもう殺す気が
ないのなら、僕が自分でやるか、別の殺人を見付けるしかない。迷ったんですが、賭け
てみることにしました。大家は、自身の殺しを、誰だか分からない奴に勝手に連続殺人
に仕立てられたと思ってる。憤慨してるか面白がってるかは分からないが、乗ってくる
に違いない。そう考えたんです。こっちからコンタクトを取れないかと、新聞広告やネ
ット上に簡単な暗号文を載せてみたり、桑間さん、三島さんそれぞれの殺害現場に足を
運んだりしたんですが、なかなかうまく行かない。そうこうする内に三件目と言うべき
か二件目と言うべきか、殺人が発生した。絞殺で、しかも三島さんのアクセサリーが遺
体の上に置かれていたというじゃありませんか。大家の仕業だと直感しましたね。あ、
もちろん、その時点では大家なんて名前、分かってないですよ。最初の奴がまたやった
んだ、っていう認識です。
どうやって手に入れたのかは知りませんが、想像するなら、弔問客を装って三島家に上
がり込んで、うまくやったんじゃないですか。
 で……ですね、こうなったら私も続けなければいけない。今言った想像の通り、三人
目の被害者の、ええっと福木家の葬式に行ってみたんです。そのとき、ちょっとしたい
たずら心から、手に白のチョークを持ってみたんですよ。一見、煙草に見えるように。
 そうしたら――驚きましたよ! あの瞬間ほど驚き、そして嬉しかったことはない。
 声を掛けてきたんです、大家延彦が。さすが、同好の士だ。私達は最初の数分こそ互
いに警戒しましたが、じきに分かり合えました。このときになって初めて、私と大家は
共犯関係を結んだんです。
 それからは簡単でした。所持品を入手するのが楽になりましたから。私は大家から、
福木さんの身に付けていたシャープペンを受け取り、次の殺しのときに置いてきまし
た。あとはこの繰り返しです」

            *             *

 床にばったりと倒れた叔父の左手が、いつの間にかテーブルから落ちていたテレビの
リモコンに当たった。次の瞬間、テレビが入った。ニュースをやっていた。
 僕は返り血を浴びた顔を、用意しておいたトイレットペーパーで拭いながら、何の気
なしにアナウンサーの声に耳を傾けた。
<ただいま入りましたニュースです。ロガー事件の再開とも言われる女子大生殺人事件
の容疑者として、**署警察は自称・心理学者の男を逮捕しました。男の名は江畑栄
介。四十歳。警察に捜査協力した経験も幾度かあるとのことです>
 足元から、う゛ぉとんという音がした。僕の手から、木刀がこぼれ落ちていた。
 視界が揺らぐ、世界が揺らぐ。耳の中で何かがぐるぐる回って、脳の奥に入り込んで
くる。
「じゃあ……叔父は何だったんだ?」
 電話からほぼ二十四時間後、僕の部屋を訪ねてきた叔父は、もう二度と動かない。

            *             *

「普段、どうやって大家と連絡を取り合っていたのかと問われましても……何が不思議
なんです? 携帯電話を使った形跡がない? そりゃ当然です。使っていないのだか
ら。その気になれば、秘密裏に連絡を取ることは難しくはない。急ぐ必要がないのな
ら、一定間隔をおいて、決められた場所にメモを残すだけでも事足ります。尤も、私達
も多少は警戒していましたから、毎回、伝達方法は変えていました。
 大家が殺されたときのこと、ですか? いえ、残念ながら、たいしたことは何も知り
ません。現場の近くにはいなかったので。大家がターゲットを殺害後、所持品を交換す
る約束で、麓にて車で待機していたのですが、明らかに襲われたらしい少女が逃げ出し
てきた。これは大家がミスをしでかしたと直感したので、私はさっさと逃げることにし
ました。ただし、少女の顔はしっかりと記憶に刻みましたよ。大家が仕留め損なったの
なら、狙う価値があると感じたので。どこにいるのか突き止めるのに、思いの外、時間
が掛かってしまったな。こうして捕まったのは、ブランクがあったせいかもしれませ
ん。まさかあんな古寺の墓場に、あんな最新式の防犯カメラがカモフラージュの上、設
置されているなんて、まるで想像できなかった。
 えっ、恨み? ああ、大家を殺した犯人に、復讐しようとは思わなかったかってこと
ですか。特にしようとは……。共犯関係を結んだと言っても、助け合うというのではな
かった。相方がミスをしても、我が身の安全確保を第一に考え、行動を選択することを
原則としていました。
 ただ、今になって思えば、私が捕まったのは、大家という共犯を失ったのも大きかっ
たのかな。そういう意味でなら恨んでいます。七年ぶりに」

            *             *

「そうか……」
 時間の経過とともに、何とかして論理的な思考を取り戻した僕は、あり得べき一つの
新説に辿り着いた。テレビを消し、木刀をきれいに拭き、包丁を仕舞った。
「ロガーは三人の共犯だったんだ」
 間違いない。そうでなければいけない。

――終




#500/512 ●長編    *** コメント #491 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/30  23:09  (498)
絡繰り士・冥 2−1   永山
★内容                                         17/06/07 20:30 修正 第2版
 冥は、計画の一部変更を余儀なくされ、些かご機嫌斜めだった。
 次に巻き起こす殺人は、名探偵を自称する高校生・十文字龍太郎を試すものであるの
と同時に、自分とは信条を異にするプロの殺し屋をその被害者に選ぶ腹づもりでいた。
だが、肝心の被害者が定まらない。
 無論、殺し屋連中の心当たりがなくはない。だが、それはいずれこちら側に引き込め
る可能性ありとみて、意に留めている者ばかりで、無碍に殺すのは“勿体ない”。
 それに、当初の思惑では、辻斬り殺人の犯人を始末した奴か、前辻を再び裏切らせよ
うとした殺し屋、そのいずれかを被害者にしようと考えていたのだ。しかし、どう手を
尽くしても見付けられない。唯一の手掛かりは、辻斬り殺人犯を殺した場所から推し
て、十文字龍太郎の通う高校・七日市学園の関係者であることはほぼ確実と云える程
度。そこから調査を進めても、はっきりしなかった。その殺し屋が十文字のそばにいる
と仮定すれば、腕の立つ生徒が二、三人いるようだが、確実さに欠ける。冥が見た限り
では、真っ当な人間ばかりに感じられた。
 仕方がない。
 冥は被害者に関する拘りを捨てた。代わりに、容疑者に拘る。殺人の疑いが、十文字
龍太郎の親しい者に掛かるよう、仕向けるのだ。
(今までの経緯を考慮し、高校での知り合いに限るとしよう。自ずと候補は絞られてく
る。一ノ瀬和葉は、一ノ瀬メイの関係者でもあるから、選ばぬ方がよい。十文字個人の
力を量るためには、できることなら、一ノ瀬メイを遠ざけておきたいくらいだ。同じ理
由で、警察一家の五代春季も選ばないでおく。音無亜有香は剣道だけでなく、剣の腕も
立つようだが、探偵能力そのものには関係あるまい。候補の一人になるが、普段の生活
パターンが判で押したように一定では、容疑を掛けづらい恐れがある。三鷹珠恵は、も
っと厳格だ。運転手付きで移動することも多い。その点、百田充という男子生徒は、か
なり自由だ。問題は最近、事件に被害者として巻き込まれたらしく、以来、家族の心配
が増している。保護者が放任主義と思われるのは、四谷成美と六本木真由の二人か。と
もに、十文字とのつながりは比較的薄いのが難である。七尾弥生は、趣味のマジックに
よる交友関係が広く、矢張り容疑を掛けるためには余分な手間が必要となろう。これま
で見てきた中で、容疑者を選ぶなら……)
 被害者選定との兼ね合いも頭に入れ、冥は一人に絞り込んだ。

             *             *

 寝てしまっていたらしい。あるいは、意識を失っていたのか。最悪の気分の覚醒だっ
たのは、確実に云える。頭痛と胸焼け、そして軽い吐き気が同時に来た。
 床に横たわっていた状態から身体を起こし、辺りを見渡す。教室だ。自分のクラスで
はない。特別教室で、窓から見える景色は二階……多分、家庭科室?
 僕・百田充は、夕日でオレンジ色に染まった室内をぼーっと眺めた。何でこんなとこ
ろに寝転んでいたのだろう? 教壇のすぐ横、段差に身を寄せるようにして倒れていた
ようだ。こうなるまでの経緯を思い出そうとしたが、頭がずきずき痛くなったので一旦
中止。様子を見つつ、立ち上がる。教卓に腕をついて、姿勢を保つ。
 と、不意に、非日常的な物を視界に捉えてしまった。
 ぎょっとして声を上げそうになったが、我慢してそれに近付こうと、机の間に歩を進
めた。
 女子が倒れている。教室後ろの少し広いスペースに。こちらに背中を向ける格好だ
し、逆光ということもあって、誰だかすぐには分からないが、制服を着ているのだか
ら、うちの生徒なのは間違いない。
 彼女まであと二メートルくらいになったとき、僕ははっとした。息を飲む。心臓がば
くばく云い出した。
「音無さん……?」
 見覚えのあるポニーテールに後ろ姿。背格好も同じ。
 確証はまだ持てなかったが、とにかく声を掛ける。
「大丈夫? 僕もあんまり大丈夫じゃないんだけど」
 さらに近付き、彼女の顔が見える方へ回り込む。矢っ張り、音無亜有香その人だ。
 僕の心臓の鼓動は一段と早くなった。何故なら、彼女のお腹の辺りからは、赤い血の
ような液体が流れ出ていたのだから。
 僕は彼女の身体を起こそうと、手を伸ばした。でも――動かしていいのか? 返事が
ないのは、気を失っているだけなのか、それとも命が危ないのか。今は助けを呼ぶのが
先だ。
 僕は床を蹴って、駆け出した。後方の扉に張り付き、思い切り横に引いた。
 が、動かない。鍵が掛かっている。ねじ込み錠を開けるのがもどかしく思え、僕は前
方の扉へ向かった。しかし、そちらの鍵も施錠されていた。後方と違って、前の扉は金
属のバーを上にスライドさせるだけで、解錠できる。僕は、教室が密室状態だったのが
引っ掛かったが、ともかく助けを求めるのを優先した。
 扉を開け放ち、廊下に飛び出した。同時に僕は「誰かー! 救急車を!」等と叫びな
がら、職員室を目指そうとした。その途端に、後方から二人組の女子生徒が通り掛か
り、「どうかしたの?」とか何とか云ったようだった。
 僕が受け答えする前に、彼女達は家庭科室の中を覗いた。途端に、悲鳴が上がる。
「あなたがやったの?」
 一人はきつい目付きに、緊張した口調。もう一人は怯えた目で室内と僕を順番に見
て、歯の根が合ってない風にかちかち音を立てながら、「し、死んでるんじゃない…
…?」なんて云っている。
「僕じゃないっ。とにかく、今は救急車を呼ばないと!」
 言い捨てて、ダッシュしようとしたが、「待って」ときつい目付きをした方に止めら
れた。彼女はもう一人に耳打ちし――と言っても声が大きくて漏れ聞こえたが――、そ
の子に職員室へ向かわせた。
「まだ信じられるかどうか分からないから、私と一緒にいてもらうわよ。名前は?」
「……百田充、です」
 遅ればせながら、相手が一年先輩だと気が付いた。極々簡単に自己紹介している間
に、彼女は家庭科室に入った。
「応急処置」
 呟きつつ、室内をぐるりと見回すと、窓際の棚に置いてあった、一抱えほどある段
ボール箱を覗き込んだ。手を突っ込み、また出すと、小さな布がいくつも掴んであっ
た。授業で使った余りらしい。
「止血するには、もっと大きい布か何かがほしい」
「――だったら」
 僕はカーテンに飛び付くと、力任せ引き剥がした。カーテンレールのコマが、たくさ
ん散らばった。
「これを」
 先輩の女子は、面食らった様子は一瞬で消し、僕からカーテンの布を受け取ると、ぐ
るぐる丸めて、横たわったままの音無の腹部に宛がった。
「百田君、だっけ? あなた、脈とか診た?」
「い、いえ」
 云われてみれば、どうして僕は具合を見ようとしなかったのだろう。いくら動転した
にしても、曲がりなりにも探偵助手を務めてきた者として、血を流して倒れている人が
いたら、何らかの措置を講じられるぐらいのレベルに達していなければならないのに。
「……おかしいわ。血はもうほとんど止まってるみたい」
「え?」
「止血したって意味じゃないわよ」
 面を起こした先輩女子。その顔色は白みがかりつつあった。手首に触れていた指を引
っ込め、さらに告げる。
「脈も弱い……ないかも。それに、体温が凄く下がってる」
 こういうとき、どうすればいい? 一刻の猶予もならない、いや、もう手遅れかもし
れない。けれど、担いででも病院に向かうべきなのか? 救急車が来るのなら、ちょっ
とでも近くまで運んでおくのがいいのか?
「あなたはこの人、知ってるの?」
「あ、ああ。音無亜有香さん、だと思う」
 僕が答えると、先輩女子は叫ぶような大声で呼び掛けた。
「音無さん! 音無亜有香さん! しっかり!」

             *             *

「百田充君。調子はどうだね?」
「刑事さん、調子と言われましても」
「だいぶ、冷静さを失っていたように見えたからな。覚えてないか」
「そう、でしたか」
「まあ、今はだいぶ落ち着いたように見える。だからこそ、こうして事情聴取の再開と
なった訳だが」
「僕も何が起きたか、知りたいです」
「結構な心掛けだ。他の人間がいると話しづらいこともあるようだから、弁護士の付き
添いをないとしたが、本当にいいんだね」
「ええ、多分」
「繰り返し念押ししておくと、これは取り調べではないし、君は逮捕された訳でもな
い。とにかく、ことのあらましを知りたいから、知っていることを話して欲しいだけ
だ。いいね?」
「はい……」
「それとね、以前聞いたのと同じ質問をするかもしれないが、面倒臭がらずに答えても
らいたい。では、百田充君。まずは、倒れていた彼女について、話して」
「クラスメイトの音無さんです。音無亜有香さん」
「ふむ。何人かから聞いたんだが、君はその音無さんのことを好いていたようだね」
「――ええ、まあ」
「付き合っていた訳ではないと?」
「も、もちろんです。多分、向こうはこっちが好意を持っていたことさえ、知らなかっ
たと思います」
「じゃあ、当日はどうしてあんな場所で、二人で?」
「それは……あんまり、はっきり覚えてないんです」
「あんまりと云うからには、少しは思い出しているんだろう?」
「……あの日は、前日の体育祭の打ち上げで、クラスで有志が集まっていました。で
も、音無さんは急な用事ができて来られないと聞いていました。だから、校内で音無さ
んを見掛けたときは、ちょっと驚いて」
「見掛けたというのは、君達の教室に入ってきたのかい?」
「違います。午後三時前だったと思いますが、トイレに立ったとき、渡り廊下を歩いて
いるのをたまたま見たんです。遠ざかる方向でしたけど、見間違えじゃありません」
「来てないはずの彼女を見付けて、君はどうした?」
「もう少しで打ち上げは終わるけど、用事が終わったから来たのかなと思って。僕はそ
のときまだトイレを済ませてなかったから、急いで済ませて、元の場所まで引き返した
けれど、すでに音無さんの姿はなくて。教室に入ったのかもしれないと考えて、僕も教
室に戻りました。でもいなかったから、また教室を出て」
「ちょっと待った。そのとき、クラスのみんなに音無さんのことを尋ねなかった?」
「いえ。名前を出すと、冷やかして来そうなのがいたし、黙ってました。それで、あ
あ、少しの間、教室にいたんだ。でも結局気になって、出たのが十分ぐらい経っていた
と思います」
「そして探しに行ったと」
「はい。とりあえず、音無さんが向かっていた方に行って。家庭科室とか化学室とかが
集まっている棟でした」
「探している間、誰かとすれ違ったり、見掛けたりは?」
「ない、です、多分。すみません、覚えてなくて」
「いや、かまわんよ。それから?」
「信じてもらえないかもしれないんですが、急に電話が鳴って、それが音無さんから
で」
「信じるよ。記録が残ってるしね。百田君は、音無さんに番号を教えていたのかな」
「えっと、教えたというか、伝わったというか。僕の先輩で二年生の人が、その、探偵
をやっていて、万が一のときに備える意味でも、知り合い同士いつでも連絡は取れるよ
うにしておくべきだという考えで。音無さんは一度、その先輩に世話になったせいか、
敬意を払っているところがあって、云う通りにしたんです」
「経緯はどうあれ、知っていたんだな。掛けてきたのは、音無さんの携帯電話からだっ
たかい?」
「それが違いました。だから、電話に出て初めて、『百田君? 音無だが』って云われ
て、音無さんからだと分かったんです」
「なるほど。携帯電話が違うことについて、尋ねたかい?」
「いいえ、そんな質問をするいとまもなく、『今すぐ、下駄箱を覗いて来て』と云わ
れ、電話を切られたので。何が何だか分かりませんでしたが、下駄箱まで一目散に行き
ました。そして下駄箱の中に、破り取ったノートの紙があったんです。『読んだらこの
紙は燃やすか、ちぎって流して。家庭科室にすぐに来て欲しい』と」
「その紙は、前に聞いたメモのことだね。細かくちぎって、トイレに流したという。残
念ながら、まだ見付かっていない。よほど細かくちぎったのかと思ったが、もしかする
と水溶性の紙だったのかもしれないな」
「恥ずかしいから、処分して欲しいのかと思ったんです。それに、すぐさま行きたかっ
たから、あとのことは考えていなかった」
「責めてる訳じゃないんだ。ただ、証言を信じるために、強力な裏付けが欲しいんだ
よ」
「……」
「そのあとは?」
「えっと、玄関から一番近い一階のトイレで紙を処理したあと、家庭科室に駆け付けま
した。ドアは閉じてあったけれど、手を掛けてみるとすっと開いて」
「このときも、誰にもすれ違わなかったんだ?」
「え、はい、多分。認識しなかっただけかもしれませんが。それで……ドアを開けて前
から入ると、いきなり左の方向から強い衝撃を受けて、気が遠くなって意識をなくし
た。と思います」
「衝撃というのは、何だか分かる? 傷はないようなんだが」
「分かりませんけど……最初、後頭部に重たい物を食らった感じがあって、そのあと電
気でしびれたみたいに、身体が動かなくなった気がしました」
「なるほど。で、意識を取り戻したときには、女生徒が刺されて倒れていた、と」
「はい……」
「鍵を自分で掛けた覚えはあるかね?」
「ありません」
「ふむ。君は音無さんから呼び出されて、どんなことを考えた?」
「何か、こう、内緒の話があるんだろうなって」
「それは恋愛関係か、それとも他に内緒話に思い当たる節があったのか」
「そりゃあ、前者を全く考えなかったと云えば嘘になりますが、以前、音無さんは気に
なることを口にしてたから、そっちの方かなと」
「説明を詳しく」
「詳しくと云っても、そもそも曖昧であやふやなんですが……霊の存在を信じるかどう
かとか。音無さん、“視える”体質らしくて。ただ、幽霊と断定してるんでもなくっ
て、霊ぽい物が視えるそうです」
「何だ、そんな話か。女子中高生によくあるやつじゃないのかね」
「よくあるかは知りませんが、音無さんが云うには、人は他人の生死に関わった数だ
け、霊が憑くことがあるんだとか。そして、身近には大変な数の霊をしょった人物がい
て、そいつは十文字先輩に――あ、さっき云った探偵をやってる先輩です――、害を与
えるかもしれないっていう警告みたいなことを云ってたんです」
「うーん。その警戒すべき人物って誰?」
「まだ確証がないことだからと、名前までは教えてくれませんでした」
「警戒を呼び掛けておいて、それか。矢張り、事件とは無関係のようだ」
「はあ。確かに、この話がしたいのなら、十文字先輩に直に伝えるべきだし」
「音無さんが狙われるとしたら、どんな理由が考えられると思うね?」
「何にも思い浮かびません。だいたい、あの音無さんが簡単にやられるなんて、あり得
ない。刑事さんもご存知なんでしょう? 音無さんの剣道の腕前」
「無論だ。尤も、剣道は武器のありなしで、戦闘能力は大きく違ってくると思うが」
「音無さんは、他の武道も一通り身に付けているはずです」
「うんうん、分かった。今は、殺される動機の話をしている。一応聞いておくが、百田
君はやってないんだよな?」
「ばっ、莫迦なことを! やってないに決まってる! 僕が音無さんを殺すはずない
っ」
「しかし、いくら好きな異性でも、袖にされたら、感情が裏返ることはあるんじゃない
か。職務上、そういうのをよく見てきたしねえ」
「絶対にありません! 僕には殺せないんだから。心理的にも、体力的にも」
「確かに、さっきも云った通り、身体能力は彼女の方が圧倒的に上だ。聞くところによ
ると、油断して隙を見せるようなタイプでもないらしい。そもそも、現場の状況という
ものがある。密室内にいたのは、被害者の他には君一人。普通に考えるなら、やったの
は君だとなるが、決め付けられないのは凶器が見当たらないからだ」
「……思い出しました。そんなことを云ってましたよね。何が凶器かは教えてもらえな
かったけれど、校庭の周りにある溝に落ちているのが発見されたって。じゃあ、どうし
て僕を疑うようなことを」
「密室の方が片付かないからさ。襲われた君が、身を守るために意識朦朧となりながら
も施錠した、なんてことはないか?」
「ないです。ありましたって云いたいですけど、嘘は吐けない」
「探偵助手としての矜持って訳かね」
「そんな立派なものじゃありません。嘘を吐いたら、真相に届かなくなる恐れが高ま
る、それだけです」
「真理だ。そんな百田君には、こちらもきちんと手持ちのカードを出すべきだな。凶器
が何かは明かせないが、代わりにいいことを教えてやるとしよう」
「いいこと? そんな、殺人事件が起きてるのに、いいことなんて」
「文字通り、朗報だよ。なに、この部屋を出れば、誰かがすぐにでも教えてくれるだろ
うがな」
「みんなはもう知ってるってことですか? 一体、何の話を」
「これだよ。被害者が身に付けていた物なんだが」
「――」

             *             *

 僕・百田充は、この事件で半狂乱めいた状態に、二度も陥ったらしい。
 一度目は、云うまでもないが、音無が死んだという事態を、はっきりと自覚し、認識
したとき。最初の頃は、参考人としての事情聴取もままならなかったという。
 そして二度目が、つい今し方だ。同じ半狂乱めいた状態と云っても、一度目とはまる
で正反対の、信じられないことが起きた驚きと嬉しさによる。
「百田君」
 その声に、僕は目を覚ました。自分の家の自分の部屋、自分のベッドでさっきまで眠
っていた。
「――ああ、よかった。本当に無事だったんだ」
 上体を起こし、泣きそうになりながら、それでも僕は笑った。
 音無さんが、ベッドの傍らに片膝をつき、真剣な顔つきでこっちを見ている。
 あ、この機会に呼び捨てで記述するのはやめにした。今までは、好意的感情が溢れて
しまわぬよう、制御する意味でも、地の文では「さん」付けせずにいたけれど、もう気
にしない。別にいいじゃないか。
「その様子なら、正真正銘、落ち着いたようだな。安心した」
 音無さんは安堵を隠さず、穏やかな表情になった。
 と、見舞いに来てくれたのは彼女だけかと思っていたが、その後ろにまだ二人いた。
「君はつくづく、巻き込まれやすいタイプのようだな。まあ、無事で何よりだ」
 十文字先輩が云った。腕組みをしてこちらを見下ろす目に込められた感情は、しょう
がないなとだめな弟子に対する師匠のようだ。尤も、僕は弟子になったつもりは微塵も
ないけれど。
「鯛焼き、食べる?」
 猫の手の形を作って鯛焼きを差し出してきたのは、一ノ瀬和葉だ。お見舞いに鯛焼き
というセンスは、彼女が外国生活が長かったことと無関係ではない気がする。でも、嬉
しい。ありがたく尻尾の部分をもらっておく。
「起きたばかりのところを悪いが、事件の話をしても平気か? 君の家族からの承諾は
得た。残り、二十分ほどだが」
 先輩が名探偵モードに入った。僕は鯛焼きの皮とあんこを飲み込むと、しっかり頷い
た。
「問題ありません。ただ、その前にいくつか教えてください。死んでいたのは誰だった
のか、判明したんですか?」
「その点から始めるつもりだった」
 僕があの日、家庭科室で見た被害者は、音無さんに外見をよく似せた偽者だった。刑
事に。被害者が身に付けていたという特殊なマスクを見せられたとき、しばらくはその
意味するところが全く飲み込めなかった。
 背格好や髪型を同じにし、七日市学園の制服を着込み、顔には映画撮影で使われるメ
イキャップにプラス、特殊マスク。じっくり観察しなければ分からないほどの出来映え
だったという。実際に目の当たりにした僕ですら、あれが変装だったなんて信じられな
い。
「まだ判明してないが、うちの生徒じゃないのは確かだ。指紋を残すことを警戒したの
か、全ての指先には透明なマニキュアを塗っていたと教えてもらった。年齢は僕らと同
世代で、もちろん女性。顔写真を見せてもらったが、僕は会ったことがない」
「ミーも」
 一ノ瀬が甲高い声で云った。今日は比較的大人しい。その隣で、音無さんも静かに頷
いた。
「百田君にも後日、刑事が見せてくれるだろう」
「早く見せてくれればよかったのに」
 僕が不満をあらわにすると、十文字先輩は首を横に振った。
「さすがに無理というもんだ。残念ながら、君は最有力容疑者だった。警察が簡単に手
の内を晒すものか。今になって、やっと容疑が薄まったから、こうなったんだよ」
「完全に容疑が晴れた訳ではないと云うんですね」
「それもまた仕方がない。密室状態の殺人現場に、被害者と二人きりだったという事実
は大きい」
 改めて断るまでもないが、家庭科室の鍵は職員室にあった。先生が図書室にいた間
も、各教室の鍵を保管する壁掛け式のボックスはちゃんとロックされており、こっそり
持ち出すことは不可能だ。
「気になってたんですけど、密室状態だってことはどうやって客観的に証明されたんで
しょう? 僕が第三者に事態を知らせた時点で、鍵は解錠されてたんだから、飽くまで
僕一人の証言になるのでは」
「自らの不利益になることを偽証するはずがない、というのがまず一点。加えて、百田
君が助けを呼ぼうとする前に、もっと云えば、意識を取り戻すよりも前に、家庭科室に
鍵が掛かっていたことを把握していた人物がいるんだ。君が助けを求めた二人の女子だ
よ」
「うん? どういうことでしょう?」
「彼女達は先生に頼まれて、各教室の施錠具合を見て回っていたんだ。そろそろ閉めよ
うという頃合いだったからな。君が廊下へ飛び出してくるおよそ十分前に、家庭科室の
ドアに手を触れ、鍵が掛かっていたことをチェックしている」
「……人を無闇に疑うのはよくないと分かってますけど」
 前置きしてから仮説を口にしようとしたら、先輩は名探偵っぽく、先回りした。
「二人にはアリバイがある。君が襲われたのは、午後三時過ぎだろ? その時間帯、女
子二人は自身のクラスの打ち上げの席にいた。証人はいくらでもいる」
 それなら違う。
「犯人が被害者と僕を密室に閉じ込めたのは、矢っ張り、僕に濡れ衣を着せるためなん
でしょうか」
「だと思うんだが、凶器を現場に置いていかなかったのは、不可解だな」
「不可解なら、他にもあるよん、十文字さん。七日市学園の生徒じゃない人を被害者に
選んでいるところとか、その人が剣豪の変装をしていたこととか」
 “剣豪”とは、一ノ瀬が音無さんに付けたニックネームだ。当人がいてもお構いなし
に使ってる。
「音無君は元々は、打ち上げに参加するつもりだったんだね?」
 十文字先輩が尋ねると、音無さんはまた無言で頷いた。一拍おいて、口を開く。
「体育祭のあった日の夜、家の方に連絡が入り、昔、音無家が所有していたされる刀の
行方が分かったから、確認を求める旨を受け取ったんです。通常なら、祖父か父が参る
のですが、生憎と祖父は体調がすぐれず、父も外せない所用を抱えていたため、自分が
代理で向かうことになった次第」
「なるほど。一応、聞いておこう。刀発見の話は、本当だったのかな?」
「無論です。終戦の頃に米軍に接収された業物の一つで、長らく行方知れずだったので
すが――」
「ああ、いい。事実であればいいんだ。今回の事件の犯人が、何らかの意図を持って、
音無君を遠ざけたかった可能性を考えてみたんだが、どうやらないようだ」
「自分に化けた者は、どういう狙いがあったと考えていますか?」
 音無さんの不意の質問に、名探偵は「うーん」と唸った。
「仮説ならたくさんあるが、まるで絞り込めない。たとえば、被害者は自らの意思で化
けたのか、誰かに命じられてやむを得ず化けたのか。殺人犯の意志が働いているのか、
全くの無関係の事柄が偶然にも同時に起こったのか。これらの点のどれ一つ取っても、
可能性は多岐に渡るだろう」
「いずれにしても、殺人犯の本来の狙いは、音無さんだった?」
 僕は、あまり言葉にしたくないことを、がんばって声に出した。
「100パーセントではないが、可能性は高い。百田君に罪を被せるべく、音無君を狙
ったつもりが、そのそっくりさんを殺してしまったというのは、流れとしてはおかしく
ない」
 僕が音無さんの命を狙うはずないんですが。そこを抗議すると、十文字先輩からは刑
事に云われたのとほとんど同じ指摘をされた。その辺のやり取りは敢えて記すほどでは
ないため、ばっさりカットする。
「さて、もうすぐ時間切れだ。たいして話を聞けなかったな。今、早急に議論しておく
べきことはあるかな?」
「じゃあ、ミーが」
 招き猫みたいな挙手をした一ノ瀬。
「剣豪を狙った犯行だということを決定事項とすると、少なくともミーや充っち(僕・
百田充のこと)のクラス全員は容疑から外れにゃいかにゃ? 今日、ターゲットが来ら
れなくなったことはみんなが知っていたのだから」
「多分ね。犯行計画を中止したが、たまたま音無君のそっくりさんを見掛けたから、矢
っ張りやってみた、なんていうのは乱暴に過ぎる」
「でしょでしょ。それともう一つ。春に起きた辻斬り事件と関係あるのかないのか、気
になってるにゃ」
 無理に猫っぽい語尾をつけなくていい。
「辻斬り事件の犯人は、判明しているが」
 怪訝そうに皺を作った十文字先輩。一ノ瀬は「あれ? 気付いてにゃい?」とこちら
も怪訝そうに、いや、不思議そうに目を丸くした。
「辻斬り犯は七日市学園内で殺害されて、事件は未解決。あれから半年も経たない内
に、今度の事件。関係ある可能性を探るのは、当然だと思ったです」
「そ、そうだな」
 若干、動揺したようにどもった十文字先輩。一ノ瀬に云われた可能性を考えていなか
ったのか? そんなことはないと思うんだけど。
「犯人は、辻斬り犯殺しと同一人物と云うのか?」
 音無さんはすっくと立ち上がり、一ノ瀬に詰め寄らんばかりの勢いで云った。辻斬り
事件は、音無さんとも関係があったから、居ても立ってもいられないのかもしれない。
「可能性にゃ。飽くまで可能性。二つの事件の犯人が学校関係者なら、比較的やり易い
に違いないって意味だよん」
「理解した。――相当な手練れと推測するが、十文字さん、助っ人が必要なときはいつ
でも云ってください。遠慮は無用です」
「ああ。体力勝負になりそうだったら、ぜひ頼むよ」
 苦笑を浮かべた先輩は、腕時計を見た。
「これ以上長居すると、百田君のお母さんから叱られてしまうな。お暇するとしよう」
「百田君、明日は出て来られそうか?」
 音無さんに問われ、僕は首を縦にこくこくと振った。
「もちろん。病気じゃないんだ」
「よかった。変装していた輩のせいとは言え、多少の責任は感じていたところだから」
 少し笑ってくれた。心配してもらったのは嬉しいが、申し訳なくもある。
「鯛焼きの残り、ここに置いとくよん」
 一ノ瀬が最後に云った。

             *             *

「正直な気持ちを云おう。恐いのだ」
 十文字龍太郎は柔道着に袖を通し、帯を固く締めた。色は白だが、実際の腕前が初段
以上であるのは確実である。
「辻斬り事件の捜査中、校内で何者かに襲われたとき、ああ、終わったと感じた。助か
ったと分かったときは、恐怖がベールのように頭の上から被さってくる気がした。取っ
ても取っても、被さってくるんだ」
「その恐怖心を取り除くために、私に稽古を付けてもらいたいと」
 五代春季は、ため息をついた。十文字と同い年の幼馴染みで、柔道の強化選手に選ば
れるほどの剛の者だ。
「こっちもはっきり云うと、感心しない。高校生が探偵業に精を出すのは」
 ここは七日市学園の柔道場。かつては他の武道と共同使用の格技場があったが、学園
が各武道の選手育成に力を入れた結果、独自の練習場所を持つようになっていた。
「でも、こうして練習が終わるまで待っていて、稽古を付けてもらおうという気概は買
うわ」
 半ば諦めている風に微苦笑をつなげてから、五代は一転、自身の頬を軽く叩いて気合
いを入れた。
「本気でやっていいんだ?」
「ああ。技術面よりも精神面を鍛えたいから。投げられ続け、こてんぱんにやられた
ら、少なくとも恐怖心はなくなる気がする」
「――聞くところによると、あの音無さんから剣術を少し教わったそうね」
「基本だけな。代わりに、こっちは柔術の一種を教えた。シャーロック・ホームズ流の
制圧術をね」
「ふうん。異種格闘技戦でもかまわないよ。どれだけ通じるか、試したいんじゃない
の? 通用すれば、自信になるだろうし」
「さすがに柔道と剣道で異種格闘技はまずいだろう。という以前に、成り立つのか?」
「無論、双方ともに竹刀を手にして試合をする。私も試してみたいんだ。用意スタート
で始める試合なら、自分は弱くないことを確かめるために」
「……何かあったのか」
 十文字の問い掛けに、五代はまともには答えなかった。
「仮に、何でもありの決闘のような勝負をすれば、恐らく私は強くない。せいぜい、中
の上ぐらい。音無さんにも負ける可能性が高い。そして音無さんと互角の勝負をした八
神という子は、試合では音無さんに敗れたが、実際はもっと強いんじゃないかと思う」
「その話、知ってたのか」
「最初、一ノ瀬さんからね。そのあと、音無さんから詳しく聞いた。伝聞だから完全に
は掴めていないけれど、強いと感じたわ。だから、一応の注目はしていた。なのに、や
られた」
「やられた? 君が?」
 信じられないと、表情で語る名探偵。五代は今度は自嘲の笑みを浮かべた。
「言葉で説明するのは大変難しい。多分、無理。廊下ですれ違った直後、生殺与奪の権
利を握られたって感覚になったのよ」
「生殺与奪の権利って、この場合は、本当の生き死にって意味か」
「ええ。殺気のとても鋭いやつ。気が付いたときには終わってる、みたいな具合だっ
た。私、立ち止まって、振り返ったんだけれど、もう遠ざかっていて、曲がり角の陰に
消えるところだった」
「……その後、八神君と接触は?」
「全くない。試されただけなのかもしれない。その上で、わざわざ勝負するに値しない
と判断されたのかもしれない」
「おいそれとやり合って、無駄に怪我をしたくないと考えたんじゃないか」
「へえ。ありがとう。そういう気遣い、できるんだ?」
 意地悪げに笑った五代。十文字は目をそらし加減にして応じた。
「トップクラスのアスリートの身体能力を、高く評価しているまでさ。正面からやり合
えば、そこいらの喧嘩自慢なんて相手にならない」
「ふむ。では、そろそろトップアスリートの力を、直に味わってみる? さっき云った
異種格闘技戦をやるなら、竹刀や木刀や刺叉がこの道場にも備えられているけれど」
 数ヶ月の間に殺人事件が繰り返し起きた事実を重く見て、学校側がとりあえず侵入者
対策として導入した物だ。なお、防犯カメラを大量に設置しようという案も出ている
が、さすがにハードルが高いらしく、即時の決定には至っていない。
「八神君との件があったから、そっちがやってみたいだけなんじゃないか? まあ、一
度だけなら、竹刀を使ってみるか」
 合意がなった。防具がないため、肩から上を狙うのは禁じ手とし、また、竹刀の鍔よ
りも先の部分を直に持つ行為はなしとした。勝敗の決定方法は、柔道のそれに加えて、
相手の竹刀による攻撃によって自らの竹刀を取り落とすことが二度あれば負けとする。
(狙えるのは小手と胴。イレギュラーな試合なんだから、足なんかも狙っていい。ある
いは、胴体への突き。でも、そんなにうまく行くとは思えん)
 通常の柔道の試合と同じように、相手の五代と正対しつつ、十文字は考えていた。当
初は投げられに来たつもりだったが、この変則的な試合だけは、十文字も勝つ気で行か
ねばなるまい。それが五代の望みだと分かる。
(掴まえられた終わり。竹刀で距離を取って、ペースを先に握るのが理想。成功するか
否かは別として、立ち上がりの速攻がいいか?)
 各方向への一礼を済ませ、改めて正対する。竹刀を構える。様になっているのは、十
文字法の方だろう。
「開始の合図はそちらに任せるからね」
 五代が云った。
 十文字は、ならばと、かけ声を発することなく、いきなり動いた。
 竹刀を最小限の所作で振りかぶり、小手と突きどちらも狙えるような構えで前に出
た。
「おっと」
 五代も警戒していたのか、身を引いて構えを保つ。かわされた十文字は、距離を取る
という最低限の目的を果たし、竹刀を構え直した。
 と、五代の方から詰めてきた。打ち込むつもりの感じられない、防御のためだけの竹
刀の角度。
 十文字がおかしいなと思った刹那、五代は竹刀を野球のバットのように、水平方向に
フルスイングした。
 竹刀が消えた。
 次の瞬間、十文字の腰の辺りをかすめるようにして、竹刀が飛んで行った。
(な何てことを。自分から手放すなんて、ありかよ?)
 柔道技を認めているから、竹刀を自らの意思で手放すのは当然ありなのだが、まさか
投げつけてくるとは想像の埒外だった。
 怯んだ十文字に対し、五代はあっという間に接近し、懐に潜り込むタックルを決め
た。
 十文字の身体が宙に浮く。風に舞い上げられた木の葉の如く、軽々と。そして一秒も
しない内に、畳の上にずしんと叩き付けられた。
「――」
 悲鳴を上げないだけで精一杯だった。いや、むしろ逆で、声すら出なかったとすべき
か。呼吸が詰まったような感覚が、しばらく続く。もう動けなかった。
「一本だと思うけど、念のため」
 そんな五代の囁き声が耳に届いたと思ったら、袈裟固めでがっちり極められてしまっ
た。「参った」と叫んだつもりだったが、全然声にならない。手で五代の背中を弱々し
く叩き、降参の意思表示をした。
「ごめんねー。八神さん対策で色々と考えていたことを、試してみたんだけれど、大丈
夫かな?」
(そりゃあ確かに、柔道部の部員同士でこんな変則試合はやれまい)
 十文字は思った。思っただけで、声はまだ出せなかった。

――続く




#501/512 ●長編    *** コメント #500 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/31  01:39  (474)
絡繰り士・冥 2−2   永山
★内容                                         17/06/08 12:35 修正 第2版
             *             *

 木部逸美(きべいつみ)。それが、音無さんに化けて七日市学園に入り込み、死亡し
た女性の本名だった。
 東北の出身で、年齢は十八。地元の公立高校を一年で辞め、家族と離れて上京。俳優
志望で、数多ある小劇団の一つに入っていた。が、最近は稽古に出て来なくなり、幽霊
団員と化しつつあった。その矢先の事件である。
「若い団員達は劇団の用意したシェアハウスに入るパターンが多くて、木部もそこに入
っていた。が、年始にそこを出て三ヶ月ほど経った頃から、段々と足が遠のくようにな
っていったらしい」
 すっかり顔なじみになった八十島刑事が、捜査の進捗状況を話してくれた。もちろ
ん、明かせる範囲に限られているんだろうけど、これまでの十文字先輩の実績や、五代
家の口添えのおかげか、ハードルが比較的低い気がする。
「シェアハウスを出た木部は、どこに行ったんです?」
 十文字先輩が聞いた。ここは八十島刑事が指定したラーメン屋だ。雑然としている上
に、カウンター席もテーブル席も間仕切りがあるので、秘密の会話もしやすいらしい。
 今日は放課後、捜査本部のある警察署に出向き、木部逸美のものだという音声データ
を聞かされた。事件当日、僕の携帯に電話をしてきたのが木部逸美に間違いないか、確
認を求められた次第だ。僕の返答は「似ている気はするが、断定まではできない」とい
うレベルに留まった。尤も、電話の音声の仕組みからすれば、これは無理もないことら
しいが。
 ともかく、その調べが済んだあと、情報をもらうためにこの店に寄った。署内でやる
のは、さすがにまずいという訳だ。
「まだ分かってない。劇団員の証言で、男がいたのは間違いないんだ。前髪を茶色くし
た痩身だが高身長。見掛けた者の証言では、ゆうに一八五センチはあるそうだよ。バタ
臭いというか洋風の顔立ちに薄い色のサングラスをだいたい掛けていて、ハンサムに入
る部類らしい。具体的な容貌はさっぱり掴めないし、どこで何をやっているかも分から
ない。名前は苗字だけ、ウエダと。そいつの家に転がり込んだんじゃないかっていうの
が、大方の見方だが、捜査はまだまだこれからだね」
「想像を逞しくして、ウエダが事件に大きく関与しているとします。恐らく、俳優や映
画、ドラマ業界に関する何らかの美味しい話を持ち掛け、木部を連れ出し、手元に置い
たんじゃないでしょうか。実際、業界に詳しい可能性が高い。木部に特殊メイクを施し
たのが、ウエダの手配だとしたら、ですが」
「ウエダが木部の変装に力を貸したのは、まず間違いないだろうと、我々も見ている。
だが、木部殺しに関わっているかとなると、何とも云えない。わざわざ変装させ、木部
とはまるで関係のない学校に入り込ませ、そこで殺害するという行為に意味を見出せな
いからだ。仮に、百田君を陥れ、十文字君に事件を解くよう仕向けるためだとしたっ
て、やり方が迂遠すぎるじゃないか」
 店に入ってから、先輩と僕はラーメンを、八十島刑事はチャーハンを注文したのだ
が、僕らが早々に平らげたのとは対照的に、刑事のチャーハンはほとんど減っていな
い。残すのなら、タッパーにでも詰めて一ノ瀬に持って行ってやろうか。
「仮に、ウエダが木部を騙していたとして」
 十文字先輩が、議論の焦点を変えた。
「『音無亜有香という女子高生に変装し、七日市学園潜入しろ』という命令を、木部が
素直に聞くものでしょうかね」
「うーん。『演技テストだ。うまくやったら、映画に出られるようにしてやる』なんて
云われても、鵜呑みにするとは思えんね。ウエダが本物の業界人でない限り、じきに嘘
がばれるだろう。今の時代、調べれば割と簡単に分かるはずだ。ましてや、学校に無断
で入るのは、明らかにおかしな行為だし」
「……木部は、どんな俳優を目指していたんです? 音無君に化けられたのはマスクと
メイクのおかげで、木部の素顔は際だって美人と云うほどではなかったような。だか
ら、性格俳優?」
 辛口批評をずけずけと云う名探偵。
「いや、違う。意外にも、アクション俳優だったそうだよ。日本の女優には激しいアク
ションのできる人はあまりいないから狙い目だと考えていたみたいで、当人もスポーツ
は得意だったようだ」
「アクションですかぁ。ますます分からなくなった。変装しての演技テストという想定
から、遠くなってしまった」
「アクションの演技テストを受けたけど、何らかのハプニングで凶器が刺さり、死んで
しまった、というのはどうでしょう?」
 僕は思い付きを口にした。深くは考えない。間違っていても、先輩や刑事達の頭脳を
刺激する材料になれば御の字だ。
「事件ではなく、事故だと?」
「侵入行為そのものの説明は付かないけれども、アクションの相手をしていたウエダが
黙って出て行った理由にはなってるでしょう? 予想外の事態に動転して、木部を見捨
てて行った」
「一見、筋が通っているようだが、密室は?」
 八十島刑事が当然の疑問を口にした。引き継いで、先輩がはっきりと表現した。
「動転しているのに、わざわざ現場を密室にしてから逃げる訳がない、か」
「それを言い出したら、僕を陥れるための殺人だったとしても、密室を作っていくのは
やりすぎって印象受けるんですが」
「まあ、君を気絶させて、被害者と同じ部屋に置いておくだけでも充分効果的だとは思
うよ」
 応じたのは刑事。チャーハンは相変わらず、ほぼ手付かずだ。お冷やのグラスに着い
た水滴が、テーブルに小さな水たまりを作りつつある。
「一応容疑者の君に、ここまで喋っていいのか分からないが、密室だったせいで、かえ
って君への疑いは薄まったとも云えるんだ。犯人が死体とともに密室に籠もるなんて、
心理的にはまずあり得ない」
 そこで言葉を区切ると、八十島刑事は十文字先輩を見た。さあ名探偵はどう判断す
る?とでも問いたげな視線だ。
「勇み足のようですよ」
 まず、先輩の一言。
「整理するために、少しだけ話を戻しましょう。予想外のハプニングで木部は死んだと
いう仮説は、そもそも成り立ちそうなのか? ここから考えなければいけない。重要な
のは、百田君、君が気絶させられたという事実だ。電話とメモを使って家庭科室まで呼
び出されたのだから、君が関係したことは偶然じゃない。木部もしくはウエダが望んだ
んだ。ならば、アクション演技のテストだとすると、君はどういう役回りをさせられた
んだろう? 君を殴って電気ショックで気絶させることまでが、テストなのか?」
「い、いえ、それはないですよ、多分。テストなら、あそこまで強く殴らない」
 痛みが甦った気がした。思わず、頭に手をやっていた。
「だったらハプニング説は捨てよう。これは殺人だ。殴ったのがウエダにせよ木部にせ
よ、演技テストなんかじゃないこともまず確実だ」
「あー、ちょっとストップしてもらっていいかな」
 八十島刑事が口を挟んだ。ようやく、チャーハンが減っていた。
「なかなかの論理展開だと思う。ただ、気になったのは、ウエダなる男がその場にいた
と決め付けて語っているようだけど、どうなのだろう?」
「と、云いますと……もしかして、男の不審人物は七日市学園に出入りしていない証拠
でも見付かったんですか」
「証拠って程じゃないが、学校へ通じる周辺の道路には、いくつか防犯カメラがあるか
らね。それを全て当たった結果、事件前後の近い時間帯に、正体不明の男が出入りする
様子は確認できなかった」
「しかし、木部逸美は」
「被害者の方は、女生徒のなりをしていたから、紛れ込むのは簡単だったろう。現段階
では、いつの時点で入り込んだのか掴めてないんだけどね。マスクを着けている子が多
くて、手間取っている」
「だったら、ウエダも男子か先生に化けて」
「それは厳しいだろ。ウエダは目立つくらい背が高い。出入りしたのなら、我々がカメ
ラの映像の中から見付けている」
「そうでしたか。早く教えてくれればよかったのに」
 両肩をすくめると、先輩は気を取り直した風に笑みを浮かべた。
「あれ? でもさっき、ウエダが木部殺害犯の可能性どうこうって云ってませんでした
か、刑事さん?」
「実行犯ではなくとも、関与しているケースは考えられる。木部の行動をある程度コン
トロールできるとしたら、ウエダだろうからね」
「なるほど。じゃあ、ついでに伺いますが、木部以外に学校関係者じゃない者が入り込
んでいたという可能性は? 情報の小出しは勘弁してください」
「飽くまでも今のところだが、見付かっていない。知っての通り、当日は基本的に休み
だから人が少ない方だが、大勢の中から特定の一人を探し出すのならまだしも、不審人
物がいないか生徒や教職員らの顔写真と照らし合わせながらだと、どうしても時間が掛
かるんだ。マスクも厄介だしな」
「それでも、木部の他に校内に潜入するとしたら、犯行時刻の直前か、せいぜい一時間
前ではないでしょうか。生徒らに見られて、不審がられたらアウトだ」
「無論、犯行時刻と思しき午後三時から四時を中心に、範囲を広げながらチェックして
いるよ。そうした上での話だ」
「つまり、変装して入り込んだのは、木部一人しかいなかったと考えても?」
「私的判断では、かまわないと思う」
「では、その前提で進めるとしましょう。木部を手引きした学校関係者がもしいたな
ら、また話がややこしくなるが、変装させて学校に呼んで殺害するメリットがない。少
なくとも、僕には思い付かない。音無君に見せ掛けるのも、ほんの短い間しか効き目が
ない。百田君に濡れ衣を着せるのも同様。だからここは、当日、木部は単独行動してい
たと仮定します。大前提と云ってもいい。さて、変装は何のためにやるか。百田君、ど
う?」
「え? えっと、他人になりすますため」
「そうじゃなくて、なりすますのは何のためかってことさ」
 呆れたように鼻で笑われてしまった。さすがにしゅんとなったが、僕は頑張って答を
探した。
「普通なら、悪事をなすためでしょう。自分のやりたくないような」
「同意する。木部も恐らく、何らかの悪事を働こうとしていた。それが、君を呼び出し
ての襲撃だ」
「そこまでは納得できます。でも、そのあとが……」
 僕は口ごもった。まさか、僕が正当防衛で死なせたって云い出すんじゃないですよ
ね? 凶器の件があるし、大丈夫だと信じていますが。
 からつばを飲み込んだ僕の横で、先輩はしかし、続きの推理を語らなかった。
「八十島刑事。木部が望んでいた職業が、本当にアクション俳優なのか、調べられませ
んかね?」
「ああ? それが事件に関係あるって?」
「分かりませんが、多分、あります。状況証拠ないしは傍証になる程度ですが」
「まあ、被害者と犯人をつなぐ線は当然、調べているが、被害者の過去、それもかなり
幼少期となるとねえ」
「幼少期じゃなくてもいいんです。元々、憧れの職業として俳優とは全く異なるものを
言葉にしていた可能性があるんじゃないかと」
「十文字君。君は一体、何の職業を思い描いているんだ?」
 刑事からの率直な問いに、先輩は名探偵らしくもったいを付けた。
「正規の仕事とは云えません。裏稼業の一つで、僕らも何度か事件を通じて見知ってい
ると云えるでしょう」
「殺し屋か」
 この単語が日常会話で飛び出したら、荒唐無稽、絵空事で片付けるに違いない。しか
し、僕らにとって「殺し屋」や「遊戯的殺人鬼」は、日常語になっていた。
「ええ。木部はその行動原理から推して、職業的な殺し屋ではなく、遊戯的な殺人鬼の
方だと思いますが」
「行動原理?」
「真っ当な動機なしに、まるで関係のない者を殺そうとしたんですよ、木部は。百田君
をね」
「え?」
 そうなのか? こうして助かったから、感覚が鈍くなっているのかもしれないが、ま
さか殺されかけていたとは。
「先輩の推理が当たっているとして、じゃあ、どうして僕は殺されずに済んだんでしょ
う? 意識を失っていたんだから、自由にやれただろうに」
「助けられたんだろうねえ」
 十文字先輩は云ってから、にやっと笑った。
「誰にですか」
「木部を殺した犯人に、さ。助けるために、木部を殺したと云えるかもしれない」
 いつの間にか、僕は椅子からずり落ちそうになっていた。力が抜けて、改めて入れよ
うにもうまく行かない。そんな感覚がずっと続いた。
「誰が百田君を助けたかは、目処が立っているのかい?」
「いえ、そこまでは」
 刑事の質問に、探偵はあっさり首を横に振った。八十島刑事は手帳に何やらメモをし
てから、場を促す。
「では、ひとまず整理しよう。木部逸美が何をしようとしていたか、だ。動機は斟酌し
ない」
「待ってください。強いて云えば、動機は、音無君を窮地に陥れ、恐らくは僕に謎を解
かせるためだったかもしれません」
「つまり、以前、君に挑んできた連中と同類ってことかい」
「高い確率で、当たっているんじゃないかな。七日市学園で殺人事件を起こすことは、
すなわち、十文字龍太郎の介入を覚悟しているも同然。しかも、僕の親しい知り合いで
ある音無君を容疑者に仕立てようとしたのだから」
「音無さんを窮地に陥れるとか、容疑者に仕立てるとか、その辺りの説明をしてくれな
いか」
「簡単ですよ。音無君に変装した木部は、百田君を殺害した後、第三者にある程度目撃
されつつ、立ち去るつもりだったんでしょう」
「そうか。殺害現場から立ち去ったのが音無さんの姿形をしていれば、音無さんに疑い
が向くのが当然の流れだ」
「実際は、急用で音無さんが来られなくなり、おかしな状況になってしまいましたが。
いや、そもそも、殺人を失敗した挙げ句、自分自身が命を落としたことが大誤算だ」
 八十島刑事はまたメモを書き付け、顎をさすってしばらく考える姿勢になった。その
間に僕は先輩に質問をぶつけた。
「音無さんが学校に来ることを見越して、木部は計画を実行したんですよね? おかし
くないですか。罪を被せる以前に、鉢合わせの危険性があります」
「いや、殺人実行まで身を潜めていれば、鉢合わせする危険はさほどあるまい。侵入か
ら殺人実行までの時間は、なるべく短くするに越したことはないが」
「それでも、音無さんがクラスにずっといたらアリバイ成立するから、濡れ衣を着せる
のだって難しくなるような」
「そこは仲間がいて、恐らくウエダが手を打ったんだと思う。予め打ち合わせしておい
た時刻になったら、ウエダは音無君の携帯番号に電話して、呼び出す算段になっていた
んじゃないか。連中がどこまで音無家について調査したかは知らないが、それこそ、刀
が発見されたという理由付けで呼び出すことを思い付いたかもしれない。あ――」
「どうしたんだい?」
 八十島刑事が云った。考えている間もちゃんと話を聞いていたらしい。
「もしかすると、本当にそうやって呼び出したんじゃないかと思ったんですよ。だが、
音無君の方はちょうど刀を確認しにくところだったから、再確認の電話と受け取って、
何となくおかしいと感じつつもスルーしたんじゃないかな。ウエダはウエダで、呼び出
しに成功したと信じ、木部に最終的なゴーサインを送ったと」
「想像力たくましいな。実際、木部の所持していた携帯電話には、事件の直前と思われ
る時間帯に、四度鳴っただけで切れた着信記録が残っていた。非通知だったから気に留
めなかったが、ウエダの合図だった可能性はあるな」
「念のため、音無君にそういう電話がなかったか、聞いてみればいいのでは? もしイ
エスなら、彼女の携帯電話の着信を調べる」
「木部やウエダの犯行計画を炙り出すには、必要かもしれん。手掛かりとしては期待で
きないだろうがね。十中八九、いや、百パーセント非通知か公衆電話からだろう。木部
の携帯電話に残っていたのも、念の入ったことに公衆電話からの非通知だった」
 と、ここで時刻を確かめた刑事は、慌てたように席を立った。
「こりゃいかん、長居しすぎた。密室の検討がまだだが、しょうがない。あー、追加注
文するのなら、ひとまず自腹で頼むよ」
 八十島刑事は一方的に喋ると、伝票を持って急ぎ足でレジに向かう。チャーハンの大
部分が残された。

             *             *

 どんなによい計画でも、人任せにすると無惨な結果に終わることがある。
 冥は改めて肝に銘じた。
 十文字龍太郎を試すための犯罪なのだから、その絡繰りを見破られるのは一向にかま
わない。だが、計画した犯罪そのものが不発に終わるのは無惨としか云いようがなかっ
た。計画通りに行かない上に、貴重な同胞を失うわ、誰にやられたのか分からないわと
来た。これを無惨な失敗と云わずして、何を云うのか。
(洗い出して、けりを付けるべきか、それとも優れた探偵達をピックアップするのが先
か。悩ましい)
 問題はもう一つある。上田(ウエダ)をどう遇するか。この度の計画の実行を任せた
のだが、この有様では続けて重用するのは難しい。系統だった組織がある訳ではない
が、それでも示しが付かないであろう。一方で、上田当人からは挽回の機会をと必死の
アピールがあり、かつてないほどのやる気を見せている。
(木部を屠った輩を見付けるよう、命令を下してもいいのだけれども……あれの年齢や
風貌では、七日市学園に潜入調査するのは難しかろう。今一度、百田充を襲うことで、
おびき出せるか? 最悪でも、上田を当て馬に、木部をやった者の正体を突き止められ
ればいいのだが、確実性を欠く。
 春先でも、辻斬り殺人の件で、やられているからな。同一人物による仕業だとする
と、矢張り、無差別な遊戯的殺人を嫌う職業的殺人者が最有力。そんな奴をおびき出す
には、無差別殺人や遊戯的殺人を起こすのが手っ取り早い。上田には、七日市学園の人
的・地理的周辺で、殺人を起こさせるとするか。十文字龍太郎が食いついてきたら、そ
ちらの方は私自らテストをしてやるとしよう)

             *             *

「おまえ、最近何かやったか?」
 行き付けにしている数少ない食堂で、カウンター席に着くなり店の主人から問われ
た。
 上田は表情を変えないように努めつつ、サングラスのブリッジをくい、と押し上げ
た。
「誰か訪ねて来たとでも?」
「警察と警察じゃないのが来たよ。それより注文、早くする」
 唐揚げとビールを頼むつもりだったが、やめた。とりあえず、早く食べ終われそうな
丼物の中から、天津丼を選んだ。
「それだけ? お酒なし? 給料日前か」
「いいから、早くしてくれ。どんな奴が来たのか、話してくれたら、倍払うよ」
「ああ。警察は若いのと中年のコンビ。名乗られたけど、忘れたよ」
「いや、そっちはいい。刑事じゃない方が気になってるんだ」
「何だ。――ほいよ」
 天津飯の丼を受け取る。割り箸立てに手を伸ばし掛けたが、レンゲを頼んだ。
「警察じゃないのは、女が来たね。派手で華やかな感じで、三十前ぐらい? ファッシ
ョン雑誌から抜け出したようなきれいななりなのに、腕っ節は強そうだったね」
「美人の女か……」
 心当たりはなかった。
「どんなことを聞かれた?」
「警察も女も、似顔絵を見せてきて、『このウエダって男を知らないか』って。どちら
の絵も、そっくりだったよ」
 手に持った玉じゃくしで、上田を示してくる店長。上田は飯をかき込んでから、くぐ
もった声で聞いた。
「で、何て答えた?」
「知らないと云っておいたよ。だって、おまえ、『ウエダ』じゃないもんね」
「ああ」
 上田は水を飲んだ。通常は香取と名乗っている。趣味の殺しに関係している場合の
み、上田と称しているのだ。
「けど、あの調子じゃ特定されるのは時間の問題よ。ほんとにまずいのなら、覚悟しと
くか、逃げるかしたらいいよ」
「ご忠告、ありがとさん」
 財布を引っ張り出し、天津飯二杯分の金をカウンター上に置いて、座り直す上田。
(予想以上に早いな。どうやって絞り込んだのか。それとも、ローラー作戦か。でも、
警察はともかくとしても、女ってのは何者だ? 単独で動いているとは思えない。まさ
か、殺し屋グループの一人か)
 殺すのは好きでも、殺されるのは御免被る。
(冗談抜きで逃げたい気分だ。だがしかし、冥からの指示を受け、新たな計画に着手し
たばかり。今度しくじれば、冥の信頼は最早得られなくなるに違いないし、俺も途中で
投げ出すのはプライドが許さない。殺し屋連中が俺を探しているのなら、むしろ好都合
じゃないか。おびき出した上で、処分してやる)
 食事を短時間で終わらせると、上田はそそくさと店をあとにした。
 およそ一時間半後、わざと遠回りをしてから“根城”に戻った上田は、計画の段取り
を再確認した。
 今回、上田がやろうとしているのは、フラッシュモブを利した無差別殺人だった。
 想定しているのは、イベント企画会社が仕掛けるそれではなく、ネット上での呼び掛
けにより有志が自由勝手に集まって行うタイプ。突然始まった“お祭り騒ぎ”に足を止
めて見入る観客の中から犠牲者を選んでもよいし、フラッシュモブの内容によっては、
参加者を犠牲者にすることもできるだろう。
 問題は、上田にとって都合のよい、条件にぴたりと当てはまるフラッシュモブが近々
行われるかどうか、である。なるべくなら、自らが呼び掛けて発起人になる事態は避け
たい。
 幸運にもこの週末は、条件に合うフラッシュモブが二つ予定されていた。七日市学園
と同じ市内か、隣接する都市が地理的な最低条件だが、今週末の二つは、いずれも近
い。一つは、新しく開発の始まった駅前の噴水広場、一つは廃止された遊具施設の跡地
となかなか対照的だ。
 できれば、その場所に七日市学園の関係者を誰でもいいから来るように仕向け、犠牲
者とするのが一石二鳥の妙手。自分の仮の名前を使えば、エキストラとして選んだ人間
を、ある程度意のままに操ることはできる。が、警察が動き出した今、表に名前を出す
ような行動は取るのは賢い選択とは云えない気もする……。

             *             *

「非通知と云ったって、実際には記録されている訳だから、特別な事情があれば、情報
の開示は可能なんだ。公衆電話も基本的には同じ」
 八十島刑事の説明を受けて、僕らは捜査の過程をよく理解できた。
「それでウエダがどこの公衆電話から発信したのか、特定できたんですか」
「そう。あとは、その周辺で聞き込みを掛けて、目撃証言を集めたり、知っている者が
いないかを当たったりした結果、香取丈治と名乗っている男が問題のウエダらしいと分
かったんだよ」
「木部は殺人に成功し、現場から無事逃走するつもりだったのだから、着信履歴にさほ
ど頓着していなかった。通常の連絡を非通知にしておけば充分だと考えていたんでしょ
うね。それが仇となった訳か」
 十文字先輩が補足説明するかのように云った。上田発見に関して、探偵能力を発揮す
る機会がほとんどなく、せめてここで意地を見せておきたかったのかもしれない。
「それで、上田を拘束したんですよね? 事情聴取では何て云ってます?」
「だんまりを決め込んでいる。名前や年齢、職業すら口を割らない。実は、しばらく泳
がせていたんだがね。次の殺人を計画している節があり、上田の他に実行犯がいて連絡
を取り合うかもしれなかったから」
「次の殺人?」
「雑踏の中で殺しをやらかそうと考えていたことは、木部とのメールのやり取りで分か
ったんだが、具体的な情報が掴めない。拘束に踏み切って、奴さんのパソコンや携帯端
末やらを浚った結果、フラッシュモブの人混みを利用しようとしていたと推察された」
「わざわざフラッシュモブじゃなくても、混雑しているところ場ならどこでもできるだ
ろうに。通勤ラッシュの駅とか夏休みのプールとか」
「その場にいても不自然じゃない状況が欲しかったんじゃないかな。通勤ラッシュなん
かだと、日常的にその路線を利用していないと不自然だろ」
「上田が映画業界、ドラマ業界に詳しいとしたら、フラッシュモブにも何か理由があり
そうですが。エキストラとして選んだ人物をフラッシュモブの現場に送り込む、といっ
た」
「なるほど。その手口なら、被害者をある程度は選べそうだ。無差別殺人に見せ掛け
て、狙った人物を始末する。口を割らせるのに役立つかもしれないな。お見通しだぞっ
ていう圧力を掛ける」
 殺人を未遂に食い止めた喜びからか、いつにも増して軽い口ぶりの八十島刑事だ。事
件の話をしないのであれば、豪華なレストランに連れて行ってくれたかもしれないと期
待させるほど。現実は、いつものラーメン屋もしくはファミレスのどちらかだが。
「僕らとしては、木部逸美が死んでいた事件の方が気になってるんですが」
 十文字先輩が云ってくれた。なかなかその話題に移らないので、やきもきしていたと
ころだ。
「さっきも云ったように、上田の奴がだんまりなんで、新たに判明したことは少ない。
ただ、上田は木部に、ターゲットから逆襲されたときや邪魔が入ったときの心構えとし
て、防御か、一撃を加えた後の逃亡を説いていたと分かった」
「……それって、有益な情報ですか? 当たり前の対処法のような」
 僕が疑問を呈するのを、十文字先輩は止めた。
「いや、案外、真相を突いているかもしれないよ」
「どういう訳です?」
「要するに、殺人鬼として追い詰められたときの対処法だろう。殺しが好きでも、自害
するってのは矢張りないようだ」
「そりゃそうでしょう」
「でも、考えてみるんだ、百田君。防御をした上で、当人が死んでしまったらどうなる
か」
「え? 防御したあと、死ぬ?」
 何で死ぬんですかと聞きそうになったが、さすがに分かった。致命傷を負った者が、
死ぬ前に何らかの行動を取るケースを云ってるんだ。
「木部逸美は、家庭科室に呼び付けた君を襲って、自由を奪ってから殺すつもりだっ
た。が、そこを目撃した何者かに邪魔された。その何者か――面倒だからXと呼ぶよ、
Xは恐ろしいほど素早く行動を起こしたんだろう。凶器を取り出し、家庭科室のドアの
ところで、中にいる木部を刺した。受けた木部は、これはまずいと理解したかもしれな
い。していなくても、とにかく逃げよう、防御しようとする。だが、逃亡は無理だ。廊
下はXが立ち塞がっている。できることは、ドアを閉め、鍵を掛け、傷の具合を見て、
可能であれば二階の窓から外へ脱出するぐらいだろう」
「あ。鍵」
「そう。密室は木部自身が作ったんじゃないだろうか。逆に、施錠されたら、Xとして
もどうしようもない。いや、鍵を取りに行けば追撃可能だが、現実的でない。それに多
分、手応えがあったんだと思う。どうせ動けないはずだという確信が」
 先輩は刑事に目をやった。
「もう解決間近だから、教えてくださいよ。凶器は何だったのか」
「……T字型をした金属の棒だよ」
 八十島刑事は一段低くした声で教えてくれた。
「コルク栓抜きみたいなやつさ。横棒を手のひらに握り込んで、指の隙間から出した縦
棒の先端で相手の急所を刺す」
「凶器と云うより、特殊な武器だな。使い慣れた者なら、一突きで仕留められるんじゃ
ないですか」
「その辺はよく分からないが、犯人は――木部を殺した犯人は、一突きではなく二突き
していた。極短い間隔で、連続的に刺したという見立てだ。二突き目から逃れようと、
木部は手で払ったらしく、そのせいで傷口が大きく開いた。そこから大量出血につなが
り、動けなくなったと推定されている。たとえ窓から逃げようとしても、無理だったろ
うね。十文字君の推理が当たっているとして、鍵を掛けるだけで精一杯だっだと思う」
「Xが凶器を捨てたのは、捜査が入ることを見越し、手元に置いておきたくなかった
と。Xの行動からすると、いつでも取り出せるようにしておいた、手に馴染んだ武器だ
っただろうに」
「足が着かない自信があったんだろう。指紋も汗も、何も検出されていない。お手製み
たいだから、流通ルートを辿ることもできない」
 まさにプロの殺し屋の仕業。そう感じたが、一方で、信じられない気持ちもまだ残っ
ている。この七日市学園に殺し屋がいるって? 殺人鬼がいたというだけでも驚きなの
に。
「七日市学園は一芸に秀でた生徒を多く集めていると、前に聞いたけれど」
 そこまで喋った八十島刑事は、最後のひとすくいを口に入れてから、話を続けた。今
日はカツカレーをきれいに平らげた。
「まさか、殺しの得意な生徒も入れてるんじゃなかろうね」
 冗談と分かっていても、笑えない。
「八十島さんは七尾弥生君とも親しいんでしたよね?」
 先輩が聞いた。頷いて水を飲む刑事。
「彼女の前で、同じ話をしたことあります?」
「まさか。ないよ。あの子が学園長の身内というのとは関係なく、今の冗談は思い付い
たばかりだから」
「そうですか」
「何だい、高校生探偵。本気で可能性を考えているのか、殺人の得意な生徒を集めてる
んじゃないかって」
「ふふふ。まあ、思考実験と云いますか、ありとあらゆる可能性を考えておきたいんで
すよ」
 十文字先輩は声では笑いながらも、表情は真顔のままだった。

             *             *

 冥は実験結果に満足していた。案出した殺人トリックの一つを使うと決め、ミニチュ
アを調達して、思った通りに動くかどうかを確かめたのだ。
(ミニチュアで成功したから、実物でも成功するとは限らないが……これで目処は立っ
た。あとは、実行役だけれども)
 冥は大きく息を吐いた。満足していた気分がしぼむ。
(上田に任せてやろうと思っていたのに、あっさり捕まって……文字通り、使えない奴
になってしまった。さあ、どうしたものか。ここ最近、人材不足を感じる。殺し屋側の
人間に、こちらの面々が次から次へとやられているから。全く、忌々しい)
 冥の心中の呟きでは、一方的に押されているようなニュアンスだが、実際には冥ら遊
戯的殺人者の側も、殺し屋サイドへ被害を与えている。ただ、遊戯的殺人者の犠牲は、
いずれもそこそこ大物であるのに対し、殺し屋側で命を落としたのは総じて小粒。考え
てみればそうなる理由があって、遊戯的殺人が世間で騒がれ、目立ったからこそ、殺し
屋サイドから目を付けられたのだ。反対に、遊戯的殺人者が狙える殺し屋は、過去につ
ながりがあった顔見知りの連中がほとんどで、大物に行き当たらない。
(七日市学園関係者に殺し屋がいるのは、ほぼ確実。それも、学校内での事件にちょっ
かいを出してくる傾向があるようだ。それはイコール、十文字龍太郎が絡んだ事件でも
あるか。不確定要素は可能な限り排除したいから、十文字へのテストとする殺人は、学
校の外で起こすのが吉かな。――それにしても、木部をやった奴は、どうして木部を怪
しんだんだろう? 完璧に化けたと聞いたのに。警察発表を信じるなら、犯人は音無亜
有香に変装した木部を目撃してすぐに見破り、一瞬の内に仕留めたみたいじゃないか)
 しきりに首を傾げる冥だった。

             *             *

 土曜の午後、八神蘭は電車に揺られながら、そのニュースを知った。
 木部逸美の密室死亡事件が一応の解釈がなされ、犯人の正体に関しては依然として不
明であると分かり、まずは安心できた。
(自分が捕まらない自信はある。けれども、百田充に迷惑を掛ける意図は全然なかった
から気になってはいた)
 電車のシートに放り出されたスポーツ新聞から視線を外し、八神は目を軽く閉じた。
(積極的に助けるつもりもなかったが、どうやら大した怪我もなく、生きながらえた様
子)
 八神は百田充を助けに入ったのではなかった。
 あの日、学校で木部逸美を見掛けた刹那、何だこいつはと感じた。音無亜有香そっく
りの格好をして、何を企んでいる?と。
(あのとき、瞬時に変装を見抜けたのは、矢張り、音無亜有香を好敵手と認めているか
らかな。技術的に私の好敵手たり得る音無亜有香を、つまらぬことで貶めるのは許せな
い。そう思ったからこそ、身体が自然に動いた)
 木部のあとを尾けた八神は、百田が殴り倒されるのを見た時点で、おおよその察しが
付いた。どんな事情があるか知らないが、音無に殺人の濡れ衣を着せるのはやめてもら
おうか。思ったのとほぼ同時に、手が凶器を握り、日常動作の中に織り込んだ仕種で、
木部を刺していた。
(あいつが遊戯的殺人者の一人だったとは、全く想像できなかった。結果オーライとは
云え、あまり目立つのは殺し屋としてよくない。敵側に何か知られたら厄介だ。まあ、
十文字龍太郎の周囲で網を張っていれば、何人かが出て来るはずとの読みは、見事に当
たっているし、継続することになるだろう)
 頭の中で考えていると、急制動により身体が大きく傾いた。乗客はさほどなく、席も
だいぶ空いているが、電車が停止するとさすがにざわざわする。
 程なくして、人身事故発生のアナウンスがあった。長くなるかもしれない。
 八神蘭は、再び目をつむった。決して、緊張感は緩めない。神経を張り詰めておく。
(――私が乗っているから、事故が起きて死人が出る、ということはあるまいが)
 ふっと、妙な想像が浮かんだ。
(もしも音無亜有香が、人を殺す経験をすれば、今よりもさらに優れた剣士になるだろ
うに。そう考えると、あの木部逸美の邪魔をしない方がよかったか。殺人容疑を掛けら
れた音無が、どう変化するのか。ちょっと見てみたかった)

――終わり




#502/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/07/29  22:57  (430)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(前)   永山
★内容
 大粒の雨が降りしきる曇天を、下から赤く照らす一角があった。森林火災だと気付く
のに、差して時間は要さなかった。恐らく、雷が落ちて火が出たのだ。
「あっちの方角って確か……」
「ああ。ホブマンの家だ。二代目がいるはずだが」
 農場を一人でやっていたアーン・ホブマンが老衰で亡くなり、継ぎ手がいなくなると
ころを、戻って来たのが息子のオーレイ・ホブマンだった。オーレイは妹のジーンと香
水の製造会社を起ち上げて、当初は大いに売り上げを伸ばした。オーレイは、特定の相
手に短い声のメッセージを時間差で届ける伝言魔法が使えるのだが、これを活かして、
相手へのメッセージ付きで香水をプレゼントするという売り出し方が当たったのだ。だ
が、徐々に飽きられ、競争相手が増えるにつれて苦戦。結局、後発の同業者に会社を売
却して出身地に戻ったという次第だ。
 なお、妹のジーン・ホブマンは、匂い別に一度に複数の液体を分離できる魔法の持ち
主であり、その能力を活かし、調香師として会社に残ったとのことだ。
「できる範囲で畑を耕しとったが、持久力がてんでだめで、わしらが教えていても、隙
あらば休もうとするくらいだ。こんな天気で、外には出ておるまい」
 とは言え、山火事を放って置く訳にはいかない。田舎町故、残念ながら魔法消火隊は
整備されていない。だから消火自体は大部分が雨任せになるとしても、延焼を防ぐ必要
がある。若い者三名が、先行して斧を携え、馬で行くことになった。
 足元の悪い中、十分ほどで到着した三人は、しかし鎮火活動どころではない事態を突
きつけられることになる。牛及び馬の足跡が。今まさに燃えさかる森へと伸びていたの
だ。
「まさか、オーレイは逃げ出した牛を追って、森の中に入ったんじゃあ……」
 そんな悪い想像が脳裏をよぎる。オーレイの農場へ急ぐと、確かに牛一頭に馬一頭が
いなくなっていた。そこへ加えて、さらによくない物を見付ける。
「何だこの赤いのは」
「……血?」
 地面の所々に、血液らしき赤い液体があった。散っていたり、線を引いたりと、様々
な形状があるが、それも雨で滲んでいく。
「オーレイの血とは限らないが、嫌な予感がする」
「足跡の具合から判断すりゃ、まだ大して時間は経ってないはずだ。追い掛ければ間に
合うかもしれない」
 そう言った当人が足跡を追い、残る二人が延焼を食い止めるべく、木々を斬り倒す役
を担うことになった。
「気を付けろよ!」
 互いに声を掛け合ってから、別行動を取り始めた。

            *            *

 ウォーレン・ウィングルはヨーゼ・テミばあさんを送り出し、ドアが閉まるのを待っ
てから思わず苦笑を漏らした。
(ほんと、定期的に診る必要のないくらい健康そのものだ。ここに来るのは、きっと暇
潰しなんだろうけれど、まあよいことだ)
 午後の診療時間が終わった。念のため、看護婦のニッキー・フェイドに、待合室に誰
も残っていないことを確かめてもらう。それが済めば、お茶の時間だ。
「ウィングル先生。患者さんはもう見えませんけれど、スペンサー刑事が」
「え? まさか捜査で怪我を負ったとかじゃないだろうね」
「ですから、患者さんじゃありませんてば」
「となると、また例の」
「多分」
 ともに苦笑いを浮かべ、診察室の戸口方向を見やる。すでに開け放たれたドアから、
刑事のセオドア・スペンサーが姿を現した。年齢はウィングルより二十近く上のはずだ
が、髪は黒々として、肌の色つやもよい。骨の太さを感じさせる、がっしりとした体躯
の持ち主だ。この分なら、まだまだ刑事をやっていけるだろう。
「やあ、先生、お元気そうで。フェイド君も。お時間、よろしいですかな」
「かまいません。どうしました?」
 椅子を勧めながら尋ねる。フェイドはお茶を入れに給湯室に立った。もちろん、三杯
分。
「皆まで言わせんでくださいよ。難事件を持って来たんでさあ」
「やっぱり」
「お好きでしょ? それとも、何か本業の方で研究課題を抱えているとか?」
「いえ、それはありません」
 ウィングルは個人開業の魔法医だ。国全体を見渡せば、魔法を使える医者自体は特
段、珍しくない。ただ、この片田舎では重宝される。ごく稀に、研修名目でワウブリン
などよその大都市に出ることはあるが、最新技術等の情報収集が主目的。最先端を行く
ような研究行為そのものとは、ほとんど無縁である。
「じゃあ、決まりだ。話を聞いてもらいますよ」
 患者用の椅子を前後逆向きにした刑事は、どっかと腰掛けた。背もたれを抱くような
格好だ。ウィングルはメモを用意した。
「どうぞ」
「えー、亡くなったのは、ロドニー・アルセ。ご存知ですかな、念画家をやっとったん
ですが、四ヶ月ほど前に行方不明になっていた」
 念画家とは、念写の力で絵を描く職業のこと。芸術性はあまりなく、実物をそっくり
そのまま写し取るのが売りで、人物画を希望する客が多い。
「ええ。何度か会ったことがあります。一度は念画を撮ってもらいましたよ。この土地
に来て間もない頃、記念にやってもらったんです。フェイド君と一緒にね。推理小説好
きで話が合ったし、気のいい若者だったが、亡くなったとは。姿を見ないのはてっき
り、旅行に出たのかと」
 そこへフェイドが戻り、お茶を配る。会話はしっかり聞こえていたらしく、「ロド
ニー・アルセさんが亡くなったんですの?」と関心ありげに尋ねてくる。スペンサー刑
事がもう一度同じ話をしてから、続きに入った。
「――で、アルセに限った話じゃないんですが、今のご時世、念画家は商売の先行きに
不安を覚えているのが当たり前でして」
「ああ、写真機の」
 ウィングルはすぐさま合点して、頷いた。
「そう。色つきで撮れる写真機が発明され、最初、高嶺の花だった内はまだよかった
が、比較的安価な物が普及しつつある」
「しかし、まだ個人が持つには至っていないでしょう。だいたい、ここいらで写真機を
所有している人なんていないし」
「いや、それが今度、レロイ・マクガートが予約を入れたそうで」
 レロイ・マクガートは、豊かな森林を抱える山を所有する材木業者だ。商売は大いに
繁盛しており、地域で一、二を争う富豪と言えるだろう。
「あの人が写真機なんて必要なのかな」
 答は期待せず、感じたままの疑問を口にするウィングルへ、スペンサー刑事は意外な
ほど早く応じた。
「元々、絵が趣味で写真にも興味はあったようだ。それよりも、森林に勝手に入る輩を
写真に収めてやると息巻いていたよ。どうやって自動的に撮すのかは知らんが」
 森林に無断侵入して、獣を狩ったり、木々を持って行ったりする連中がたまにいると
聞く。マクガートは複数の町村に跨がって山を所有しており、広大なだけになかなか捕
まらないし、魔法を使っての警備も功を奏していないらしい。
「小さな山一つだけでも、周囲をぐるっと警備できる魔法を身に付けた人物を雇うとな
ると、それなりに金が掛かろうってもんです。それに比べりゃ、写真機は安いかもしれ
ないが。――脱線しましたな、今は事件の話だ。そんな訳で、アルセが姿を見せなくな
ったのは、仕事の先行きに不安を感じて、別の職を探しに都会へ出たのではないかと思
われておったんですが……一週間前、トーテン山麓の原っぱの茂みで、白骨化がかなり
進んだ状態で死んでいるのが見付かりました」
「ああ、あの遺体がアルセだったんですか。どういう経緯で遺体が見付かり、アルセだ
と分かったんでしょう?」
「順序が逆になるが、身元が判明したのは簡単です。衣服が見覚えのある物だったし、
財布や時計が残っていましたからね。見付けたのは、さっき話に出たマクガートのとこ
ろの若者、えっとドロン・バスと言ったかな。マクガートに新たに買う山林の物色を命
じられて、調べていたらしい。沼を迂回し、野原を突っ切って山林に入ろうとしたら、
その前に見付けたと」
「なるほど。アルセに身内は? 独り暮らしだとは聞いた覚えがありますが」
「両親は何年も前に他界していて、他に身寄りはいなかったようです。そのせいもあっ
て、捜索願が出されていなかった訳でして」
 スペンサーは、警察として動きようがなかったんだと言いたげに首を左右に振った。
「死因は?」
「細目の荒縄が首に巻き付いたままでした。窒息死で間違いないとのことです」
「……先程から他殺と言い切らないようですが、何か理由でも?」
「ん、まあ、他殺に違いないとは思う。が、色々な場合があり得ますから。過去に、ウ
ィングル先生に解いてもらった事件にもね、ほら」
 得心の行ったウィングルは、黙って頷いた。スペンサー刑事は、殺人事件の話に戻っ
た。いちいち質疑応答の形を取らなくて済むよう、一気に喋る。
「凶器と思しき荒縄は、長さは一メートル強で、この地域ならどこにでもありそうな代
物でした。それこそ、道端にでも落ちていそうな。分析に回したが、乾いた泥にまみれ
ていて、犯人につながるような特段の痕跡は見当たらなかった。あと、死亡推定時刻は
死後四ヶ月前後とのことだから、行方不明になるのとほぼ同時期に殺されたのかもしれ
ない。ああ、地面からは失禁の跡がどうにか検出できましたよ。分析をして、アルセの
物と考えてもおかしくない一致を見た。これにより、遺体発見現場が犯行現場でもある
と断定されたんです」
「一応伺いますが、現場や遺体に魔法痕は?」
 犯行現場に限らず、魔法を使うと痕跡が残る。それは波紋のようなものだが、目に見
える訳ではなく、他の感覚で感知できるものでもない。警察が開発し、捜査に導入して
いる特殊な装置によってのみ、魔法痕は感知可能なのである。
 通常、魔法が使われてからおよそ三ヶ月以内であれば、使われた魔法の種類まで特定
できる。早ければ早いほど強く出て、数時間以内なら魔法痕から、魔法を使った者の個
体識別すら可能なことがある。今回は三ヶ月以上過ぎているのは確からしいから、得ら
れる情報は比較的少ない。
 参考までに――こんな世界だと、特に大都会ではそこいら中が魔法痕だらけになり、
犯罪捜査の妨げになりそうだが、実際にはそうはならない。魔法痕には強弱があって、
およそではあるが使われた時期が分かる。犯行があったと推定される時期との重なり具
合から、関係の有無を識別するのだ。
「あるにはありましたが、月日が経過しており、魔法の使用者はおろか、どんな魔法が
使われたのかすら分からない」
「回数はどうです?」
「あっと、先に遺体の方を言いますと、一回。でも、遺体に特徴的かつ不可解な傷があ
る訳じゃなし、何の魔法だかさっぱり。日常生活を送る上で、使ってもらった魔法かも
しれませんしねえ」
「いつものことながら、判断は難しいです」
「現場も一回でしたが、こちらは被害者が行使したと考えるのが道理だ」
「というと……ああ、念写の能力を持っている人は、簡単な文字や模様ならほぼ瞬時に
できるから」
「そう、何らかの形で残すに違いないんです、犯人の手掛かりを。そして一番確実なの
は、犯人自身の顔など目立つ箇所に念写してやること。これ、警察が口を酸っぱくして
言ってますから、きっと、アルセも同じことをしたと思うんですが」
 アルセは推理小説好きでもあったから、ダイイングメッセージを残す可能性は一般の
者よりも高いだろう。
「歯切れが悪くなりましたね、スペンサー刑事。わざわざ相談に来られたのは、ひょっ
とすると、顔に何かを念写されたような有力な容疑者がどこにも見当たらないと?」
「さような有様でして。訳が分からん。念写できるのなら、犯人の名前を知らなくてい
いんですからねえ。アルセは、犯人の顔かどこかに、自分の名前でも何でも大きく念写
してやるだけでいい。なのに、そんな奴を見掛けたという情報は、村の中にも外にもな
い」
「念画家をやるくらいだから、アルセの念写能力は、相当強力なんでしょうね」
「無論です。簡単に改変できてしまったら、念画の意味がない。他の何らかの魔法で、
念画を書き直したり、剥がしたりは無理。上書きも受け付けない。消せるのは念画家本
人のみ。念画家本人が死んでも、念画は残るというくらいです」
「使用制限があったのでは? 一日に念画できる回数がたとえば十で、殺害された日は
襲われるまでに使い切っていて、犯人に印を付けられなかった、という」
「残念ですが、外れです。被害者は念画家をやるだけあって、一日当たりの上限数は1
45もありました。お客がそんなに来たという記録はないし、他に念画の回数を150
近くも無駄遣いさせる方法はないと思えるんで、今の先生の説は却下です」
「確認ですが、アルセが念画を作ろうとして、完成するまでの時間はどれぐらいでした
っけ?」
「商売用、つまり精密な絵で十分程度。だが、犯人に印を付けるのに、精密も何もない
でしょう。そもそも、絵である必要がない。さっきも言った通り、目立つところにアル
セ自身の名前や、罪を告発する言葉を文字で付けてやれば、犯人は表を歩けなくなる。
文字なら十秒もあれば充分だったはず。サイン代わりに書いているのを、目の当たりに
したことがありますから確かですよ」
「十秒なら、犯人も逃げ切れないか……。あ、でも、面と向かった状態でなければ、印
の付きが悪くなるなんてことは?」
「精密な絵なら、紙なり何なりにじっと正対する必要があったみたいですが、字ならそ
んなことはないようですよ。よその町の念画家にも問い合わせたんで、間違いありませ
ん」
「つまり、文字を残すのであれば、書き付けたい対象を一瞬でも見さえすれば、あとは
十秒で書けるって訳ですか。窒息死なんだから、即死じゃないでしょうし。あ! 襲わ
れた時点で、アルセは視界を奪われていたとすればどうなります?」
 ウィングルのこの質問には、スペンサー刑事も口を丸く開いたまま、返答に窮した。
「ほほう。そういう線がありましたな。相手を視界に捉えられなかった場合、念画家は
印を付けられるのかどうか。これはまだ聞いてません。調べさせます」
 腰を浮かせたスペンサーは、残っていたお茶を飲み干すと、フェイドに礼を言った。
それから改めてウィングルに聞く。
「先生、他に何か思い付きませんか? 思い付かないようだったら、早く手配したいん
でお暇しますが」
「うーん、恐らくすぐには何も浮かばないと思います」
 苦笑交じりにウィングルが答えると、スペンサーはこちらの方の礼はそこそこに、慌
ただしく駆け出していった。
「やれやれ。真相究明には近付いていない気もするが、可能性を潰すのは必要不可欠な
手順だろうから仕方がないか」
 窓の外に刑事を見送りつつ、ウィングルはフェイドにお茶のお代わりを所望した。

 次にスペンサーが訪ねてきたのは、三日後のことだった。その日は休診日だったた
め、朝から時間的な余裕はあったものの、休みを邪魔される形になったウィングルは
少々不機嫌になっていた。
「すみません、休みのところを朝っぱらから押し掛けて。でも、劇的な進展というか、
驚くべき展開というか、とにかく大きな変化があったので、一刻も早くお耳に入れたい
と」
「かまいませんよ。早く本題に入ってもらえた方がありがたい」
 病院が休みの日は、当然、フェイドがいない。スペンサーを客間に招き入れると、ウ
ィングル自身はお茶を出すことなく、ソファに収まり、向き合った。
「順を追って話しますと、先日、先生が示唆した事柄から」
「念画家は視界を奪われていても、念画ができるかどうか、ですね?」
「ええ。個人の持つ能力にも因るが、事前に相手を目撃したのであれば、そのイメージ
だけで対象物とすることは可能だというのが、他の念画家からの解答でした。複数名に
当たったので、間違いのない話なんでしょう。一応気になるのは、アルセがそれだけの
能力を持っていたかですが、これも周囲の者の証言により、持っていたと見なせます」
「結局、相手を見ながらでなくても、その相手に印を付けることはできたという訳です
か。なかなか問題解決とはなりませんねえ」
「それは残念だったんですが、さらに大変な事態になってましてね。どうも、アルセ殺
しに関連して、新たな殺人が起きてしまったかもしれんのです」
「新たな? この三日で新しく起きた殺人事件……ありましたか?」
「公には事故としての発表しかしてません。だからこのあとする話は、くれぐれも他言
無用に願いますよ」
 ウィングルはしっかりと頷いた。同時に、刑事はフェイド不在を見越して、休みの日
に敢えて押し掛けてきたのではないかと感じた。
「その遺体が見つかったのは、先生にこの前話をした日の夜遅くのことでさあ。ラタン
湖で夜釣りをしていた男が」
「ちょっと待ってください。湖で夜釣りですか? よそは知りませんが、ラタン湖にわ
ざわざ夜釣りをせねばならぬような魚が、棲息していましたっけ?」
「当人の言い分をそのまま採用し、説明したんですがね。実際は、どうやら禁猟指定さ
れている野鳥を狙っていたようです。釣り道具を用意し、釣り人らしい格好もしていた
が、餌を持っていなかったし、網も魚用にしては不自然な大きさでしたしね。まあ、そ
の辺は別件です。自称釣り人は充分に注意して静かに振る舞っていたようだが、湖の岸
辺に漂着した首無し死体を見付け、みっともないくらいに悲鳴を上げた。それを夜回り
中の警官が聞きつけたって次第です」
「頭部のない死体ですか。身元は分かったのですか」
「まだです。行方不明者を洗ってる段階で。でも、関係ありそうじゃないですか。アル
セを殺害したはいいが、念画によって顔に印を付けられた犯人は、共犯の仲間に始末さ
れたんじゃないですかね。このまま活かしておけば、仲間全体に捜査の手が及ぶと判断
し、弱点となるアルセ殺害犯を処分した。頭部を切断して持ち去ったのは、身元を隠す
のと、アルセ殺しの証拠を隠滅するため」
「えっと、待ってくださいよ。とりあえず、死亡推定時期は? あなたの説だと、アル
セが殺されて数日以内に犯人も始末されたと見なすべきですよね」
「ええ。同時期に殺されたという結果が出ました。重石を付けて湖に放り込んだのが、
月日が経って浮かび上がったものと睨んでおります」
「それだけですか、アルセの事件と結び付ける理由は」
「いえいえ。今のは理由と言うより、推理ですよ。そもそものきっかけは、首無し死体
の身につけていた上着の内ポケットから、アルセの店のチラシが出て来たことです」
 いつの間にか得意げな表情になっていたスペンサーだったが、ウィングルが難しそう
に唸るのを前にして、自信がしぼんできたようだ。「先生は反対ですか?」と眉根を下
げて聞いてくる。
「いや、明白に反対する訳ではありませんが、鵜呑みにするのはどうでしょう。身元が
まだ判明していないということは、死体は身元を示す物を一切身に付けていなかったん
でしょう。なのに、アルセの店のチラシが出て来るのは、作為を感じなくもないです」
「あ、そういう理屈でしたか。なるほど。しかし、先生の考えだと、男を殺した犯人
は、チラシをわざと入れておいた、あるいは残しておいたことになる。その狙いは何な
のか……」
「単に首無し死体の男はアルセの客で、チラシを持っていた。殺害犯はチラシに気付い
たが関係ないと見なし、そのままにしたという可能性もありますが、とりあえず棚上げ
ですね。同じ時期に、店の主人と客が相次いで不審死を遂げたのなら、関連を疑うべき
です」
「それじゃあ、やはりアルセ殺しの犯人が絡んでくると?」
「分かりません。たとえば、アルセ殺害に関与はしていないが、アルセの死を早い時点
で知った者がいるとします。その人物はこう考えた。『今、憎い奴を殺して首無し死体
として放り出せば、アルセ殺害犯と見なされるのではないか。アルセの店のチラシを入
れておけば、アルセとつながりがあったように見せ掛けられる』と」
「可能性は低そうですが、一応の筋は通っているように聞こえた……かな? アルセが
死んだことを早い内から知っていたという点が気に食いませんが」
「うん、そうですね。強力な理屈がなくても、ここは蓋然性の高い方を選んでよいと思
う。アルセを殺害した人物が、首無し死体の正体であると考えるのが自然だ」
「よかった」
「でも」
「でも?」
「もう一つ、留意しておいた方がよさそうな仮説があるのです」
「遠慮せず、勿体ぶらず、教えてください。そのために来たんですから」
「アルセ殺害犯が、二件目の殺人でも犯人であるという可能性です」
「ええ? そいつはいけませんや。いくらウィングル先生の話でも、だめなものはだ
め」
 スペンサーはソファの左右の肘掛けに両腕を突っ張らせ、前のめり気味になった。そ
の姿勢のまま、熱弁を続ける。
「いいですか? アルセは犯人の目立つところ、外からよく見える部分に、犯行の印と
なる何らかの文字を大きく念画した可能性が非常に高い。ここはお認めですよね?」
「無論です。そここそが大前提ですから」
「だったら自明でしょう。犯人はその印を隠そうとしても隠せない。家に籠もりきりで
暮らしていくしかなくなる。そんな犯人が、首無し死体を作り出しても、何の得にもな
らないじゃないですか。そりゃまあ、恨みのある相手を殺したのなら気は晴れるかもし
れんが、首無し死体をアルセ殺しの身代わりに仕立てるという目的は、中途半端に終わ
る。犯人自身の印が消えない限りね」
「スペンサー刑事、あなたが今言った状況を成立させる場合があるとは思いませんか
?」
「はあ? それがないから、さっきの結論――アルセ殺しの実行犯が、首無し殺人の被
害者でもあるという推測を打ち出したんじゃないんですか」
「可能性の一つだと思っています。あくまでも、可能性の一つに過ぎない。ただ、それ
を話す前に、肝心なことをまだ聞いていないので……」
「何でしょう?」
「首無し死体の事件についての、魔法痕の有無です」
「ああっ、そうでしたな。忘れておりました。時間はだいぶ経過しているが、死体その
ものに魔法痕の形跡はなかったと報告が上がっ……あれ、おかしいな」
 答える内に、矛盾に気が付いた様子のスペンサー。頭をかきむしった。
「アルセ殺しの犯人なら、魔法痕が残っていないのは辻褄が合わない。いや、念画によ
って印を付けられた頭部が、切断されたなら、魔法痕が検出されないことも……」
「魔法を使われた部分を分離すれば、残りからは検出されないんですか?」
「あ、いや、そのような実験が行われたことは、まだないはずです」
「でしたら、すぐにでも実験すべきですよ。動物実験にせざるを得ないでしょうが、人
と獣とで大差が生じるとは考えにくい」
「仰る通りだ。とりあえず、そういう実験をできる限り早くやるよう、要望を出してお
くとしましょう。即実現て訳にはいかんでしょうが、早いに越したことはない」

 スペンサーが実験の実施を要望する電話を終えて椅子に戻るや、ウィングルは忘れな
い内にと質問を繰り出した。
「先程の続きになりますが、首無し死体が見付かった場所の方は、魔法痕はありました
か? 魔法の種類によっては、ラタン湖全域を調査するべきかもしれませんが」
「遺体発見の岸辺一帯を検査しただけですが、何にも出ませんでした。もちろん、水中
も調べましたが、結果は右に同じで。首無し事件の殺人犯は、魔法を使えない人物かも
しれませんな」
「それは早計というものでしょう」
「分かっとります。自分の軽率さに、ちょいと嫌気が差した。そのせいで出た冗談に過
ぎません」
「私の推理が的外れかもしれないのだし、失敗をしたと感じたのであれば、それを次に
活かすことを考え、実行することこそが大切ではありませんか」
「まあ、そうなんですがね。もっと深く物事を考えようとすれば、がくんと無口になっ
ちまう」
 まだ冗談めかして言ったスペンサーは、何か不意に思い付いたように右手の人差し指
を立てた。
「犯人は頭部をどうしたんでしょうな。そこに印があろうとなかろうと、隠し続ける必
要がある訳でしょう?」
「なるほど。被害者の身元がばれたら、犯人自身との結び付きから容疑を掛けられる。
どの説を採ろうとも、そこは変わりませんね。でも、その先は想像するしかないでしょ
う。魔法で隠す場合を考え始めたら、きりがない」
「ですな。容疑者を特定できたとき、有力な証拠になるかもしれないが、魔法で消滅で
もさせられていたら、お手上げだ」
「いや、さすがに、物体を消滅させるような魔法が使えるのなら、死体全てを消すでし
ょう」
 苦笑交じりにウィングルが指摘すると、スペンサーは案外、落ち込むことなく、むし
ろ表情を明るくした。
「ならば、まだ希望の光はある訳だ。物証として頭部が見付かる可能性の光が」
「一市民として、そう願いたいです。警察も最近は富みに大変なのではありませんか?
 四ヶ月程前というともう一つ、大きな事件が起きていたじゃないですか」
「……ああ、ホブマン農場の。事件だか事故だか未だ判然としちゃいませんが、捜査は
続いとりますよ。不審な死であるのは間違いないですから」
 落雷による山火事発生を受けて町の有志らが消火に駆け付けたが、その内の数名によ
り、オーレイ・ホブマンは発見された。激しく燃えた森の中で、遺体となって。倒れた
巨木に打たれ上、折悪しく、沼地から流れ出たと思しきメタンガスが原因の爆発が重な
り、オーレイの身体はかなり損傷していたが、人定が不可能というほどではなかった。
「自分は担当じゃないので、聞いただけですが、オーレイは特に右腕が酷くやられてい
たらしい。解剖医と捜査に当たった刑事の話を合わせると、こんな見立てになるようで
す――」
 オーレイの右腕に縄がしっかり巻き付いていたことと、ホブマン農場から牛が一頭消
え、森の中で黒焦げの死体になっていたこと、さらに馬が一頭、厩舎を出入りした痕跡
があったこと。これらから、オーレイは牛が逃げ出したのを見て、慌てて馬に乗り、投
げ縄で捕らえようとした、あるいは捕らえるのに成功したかもしれないが、ともかく牛
を追って森に入った。そこへ火災が発生。火や雷鳴に驚いた馬に、オーレイは振り落と
される。馬は自力で厩舎に帰るが、オーレイは落ちたダメージか、はたまた牛に引き摺
られたかして、森林火災から避難できない。そこへ大きな木が落雷によって倒れ、飛び
出た枝がオーレイの右肩辺りを直撃し、肉体を分断。右腕は樹の油分のせいか激しく燃
え、さらに農場横にある沼から森林へと流れ出たメタンガスに引火、爆発が起きたため
に、右腕はばらばらに吹き飛んだ。オーレイ自身はその時点ではまだ息が合った可能性
が高いが、倒木の幹に押さえ付けられ、身動きが取れず、死を迎えた。
「――オーレイの遺体は、右腕ほどではないにしてもだいぶダメージを受けており、お
かげで、正確な死因が酸欠による窒息死なのか、焼死なのか特定できない有様だとか。
まあ、その両方というところでしょう」
 言葉を句切ると、スペンサーはウィングルの顔をじっと見た。ウィングルは興味をそ
そられたのを隠そうとしなかった。やや俯き加減になって、考えごとを新たに始めたの
は明白だった。
「どうせならホブマン農場の事件を持ち込んで欲しかった、とでも言いたげですなあ」
「いや、一介の医者が、事件の選り好みなんてとんでもない。ただ、関心を持ったのは
事実ですが。話を聞いた限り、事故と断定してよさそうですが、未だに捜査が続いてい
るのは何か理由でも?」
「農場の近くで、血痕が見つかってるんです。雨にいくらか流されたが、検査結果は、
オーレイの物とみて間違いないと出た。雨量から推測して、元はかなりの出血だったと
考えられるが、オーレイの遺体を調べても、そんな大きな傷は見当たらなかったと聞い
ています。ああ、無論、右腕は別ですが、農場近くってことは森に入り込む前の段階で
すから」
「吐血もしくは鼻血では?」
「その線は否定されています。鼻孔や気道、食道なんかは焼けずにどうにか残ってお
り、吐血や鼻血をやった痕跡はないと」
「……じゃあ、森で落馬し、さらに右腕を失ったときに、馬の身体に血が大量に飛び散
って、その後、戻った馬からオーレイの血が滴り落ちた……」
「それは無理がありますぜ、先生。オーレイを振り落とした時点で、馬は逃げ帰るんじ
ゃないですか? それに、馬に大量の血が降りかかったのなら、ちょっとくらい残って
るもんでしょう。我が同僚が見落としをしたと?」
「ううむ、そうだね」
「何らかの魔法が使われたんじゃないかという説も唱えられたんですよ。一時的に応援
に駆り出されたから、その辺の経緯はよく知っています。実は、オーレイの妹、ジー
ン・ホブマンは匂いによって液体を分離する魔法を使えるってことで、一応、嫌疑が掛
けられたんです」
「ほう。血液の匂いさえ分かれば、分離して、遺体と離れた位置に落とすことができる
という理屈ですか。何のためにそんなことをするのか分かりませんが……それで?」
「いやまあ、嫌疑はすぐに晴れました。アリバイがあったので。ジーンは調香師とし
て、首都ワウブリンの研究開発室にいたというアリバイがね。加えて、血痕やその周辺
からは、魔法痕が検出されなかったんです」
「何だ。拍子抜けですね」
「ジーンは仕事を放り出して、山火事の日の夜遅くにはこの町へ到着しました。自前の
会社を立ち行かなくさせた件で不平不満は抱いていたろうに、兄思いではあったみたい
ですな」
「会社?」
 ウィングルはホブマン兄妹の香水会社のことを知らなかった。スペンサー刑事は一通
り、説明してやった。
「――あと、言い忘れていましたが、ジーンの魔法は、分離するだけじゃなく、分離後
に元へ戻すこともできるそうです。この場合、分離と戻すのとでワンセット、一回の魔
法に数えるとか」
「ふうん、面白い能力ですね、ジーンにしてもオーレイにしても。オーレイの魔法は、
距離の制限はないんでしょうか」
「どうだったかな? 距離というか、香水の瓶なり箱なりに購入者の声を付けて、贈る
相手が受け取ったときに、頭の中で声が流れるって具合らしいですが」
「距離は関係なく、声を付けた物に触れなければ聞こえない……」
「確かそうです。あ、でも、身内は例外だったんだ」
「身内というと、両親や兄弟姉妹ですか?」
「ええ。三親等以内の血縁者には、どんなに離れていようとも、即座に声を伝えること
ができたと聞きました。尤も、該当するのは両親と妹だけでしたから、あんまり使い勝
手がいいとは思えませんや。せいぜい、都会暮らしをしている間、郷里の父母に無事を
知らせるくらいで。それとて、返事がもらえる訳でなし――ウィングル先生?」
「あ、空想にふけってしまいました」
「空想って呼ぶには、えらく難しい顔をしてましたが」
「スペンサー刑事。念のための質問になりますが、オーレイ・ホブマンとロドニー・ア
ルセとの間に、親交はなかったでしょうか?」
 唐突に、二つの案件の被害者を並べられ、スペンサーは思わず「はあ?」と聞き返し
た。
「親交じゃなくても、単なる店と客としてのやり取りでもかまいません。何かあったん
だとすれば、一応、調べるべきかもしれない」
「言わんとすることが飲み込めん。第一、その質問に答えられるだけの情報が、今の自
分にはありませんよ」
「アルセの店の売り上げ関連の書類は見たんでしょう? そこにオーレイかジーン、ホ
ブマン家の名前がありませんでした?」
「生憎と、記憶にありませんなぁ。推理でも空想でもいいから、二人の名前を結び付け
ようと思った理由を教えてください。そうしたら、警察も動きようがありますから」
 スペンサーの真っ当な要望に、ウィングルは少々考えてから、首を縦に振った。
「右腕と尿、です」

――続く




#503/512 ●長編    *** コメント #502 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/30  00:08  (352)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(後)   永山
★内容                                         17/08/11 19:52 修正 第2版
 一週間後。再び迎えた休みの日に、しかし看護婦のニッキー・フェイドは職場に姿を
現した。
「事件の話をするのなら、ぜひとも聞きたいですわ」
 エプロンを取り去って、私服姿になったフェイドは、ウィングル及び二人の刑事――
スペンサーとレッド・ランカスター――の前に、お茶を並べた。軽くつまめる物は大皿
に盛って、すでに置いてある。
「先に始めたりしないから、お盆を仕舞ってきなさい、フェイド」
 お盆を胸に抱えた格好で座ったフェイドを、ウィングルは苦笑交じりにたしなめた。
この場の唯一の女性は、舌先をちろりと出し、「分かりました」と席を立った。
 戻ってくるまでの僅かの間に、ウィングルがランカスター刑事に頭を垂れる。
「すみません。口は堅い人ですから」
「まあ、病院勤めをされている方なら、口は堅いんでしょう」
 ウィングルの病院を初めて訪れたランカスターは、捜査の素人が関与すること自体
は、半ばあきらめるように了承していた。ただ、年上で先輩に当たるスペンサーには、
ややきつい視線を送る。
「お医者さんから捜査のヒントを得ているとは聞いていましたが、法医学的なことでは
なく、事件全般だとは思いも寄りませんでしたよ」
「そう言うなよ」
 スペンサーが抗弁を続けようとしたそのとき、フェイドが戻って来た。
「お待たせしました。さあ、始めてくださいます?」
 フェイドの言葉に、スペンサーは短く息を吐いて、ウィングルに顔を向けた。
「この間までの進展具合は、フェイドさんに伝えたんですか?」
「いや、口外無用の約束は守りましたよ」
 返事を聞いて、スペンサーは前回ウィングルとした話を、掻い摘まんで伝えた。お茶
がほぼなくなるくらいの時間を要したが、お代わりをすることなく、次の段階に進む。
「それでですね……先に、実験結果が出たので、話すとしますか。生物に対して部分的
に魔法を使い、そこを切除した場合、残りの部分から魔法痕は検出されるかどうか。生
物実験用のモルモットを使って、実験を行いました。時間の都合により、モルモットは
六個体。三個体を安楽死せしめた後に魔法を掛け、残る三個体を生きた状態で魔法を掛
けた後に安楽死せしめて、頭部もしくは尾部を分離。魔法痕を測りました。ああ、魔法
を掛けたのは全て頭部で、尾部は比較対象のためとか」
 スペンサーは懐から報告書を取り出し、丁寧に広げてから、淡々と話す。既に内容を
知っているであろうランカスターも含め、皆が興味深げに聞いていた。
「六個体それぞれについて魔法痕の計測を、頭部のみ分離後、尾部のみ分離後、頭部と
尾部を分離後に行いました。で、肝心要の実験結果ですが、複雑な手順を踏んだ割に、
単純明快。いずれの場合でも、魔法痕は出ました。分離された側にも、残った胴体にも
魔法を使った形跡は、ちゃんと記されていた訳です。さらに追加で行った、分離された
頭部が何らかの理由で原形をとどめぬほどに破壊された場合も、残りの肉体からは魔法
痕が計測できました。ただし、最初の実験では、何の魔法が使われたのかが、どの部位
からでも明確に判定できたのに対し、魔法を行使した部位を破壊した場合では、残りの
部位からの魔法痕は弱くなるのか、何の魔法が使われたのかは判別不可能になったとの
ことです」
「要望を聞き入れてくれての実験、ありがとうございます。ということは」
 ウィングルが口を開く。
「ラタン湖で見付かった首無し死体は、魔法の影響を受けていない、つまりアルセ殺し
の犯人ではないと言えそうですね」
「そうなります。アルセ殺しの犯人が便乗して、いかにもアルセから顔面に念写された
ように見せ掛ける目的で何者かを殺害、頭部を切断・隠蔽した可能性は残りますが」
「スペンサーさん、その構図であるならば、便乗と言うよりも、かねてから殺したかっ
た奴をついでに始末したとでも表現すべきでは」
 ランカスター刑事の指摘に、スペンサーは一つ咳払いした。
「まあ、分かり易いように各自解釈してくれればいい。さあて、ここからはランカス
ター、おまえさんの出番だ」
「ええ。分かっています」
 カップの底に残っていた、僅かばかりのお茶を喉に流し込むと、ランカスターは座り
直した。
「ウィングルさんから出されていた質問についてですが、まず、オーレイ・ホブマン事
件において、魔法痕の検出はどんな具合だったのか。最初に言及すべきは、やはり遺体
でしょうね。オーレイの遺体からは、どんな魔法か不明ですが魔法痕が二つ、検出され
ました。オーレイの死から間もない時点での計測でしたので、もしも魔法が彼の死に関
係しているのであれば、その種類は判定できる。だが実際には判定不可だったのだか
ら、オーレイの遺体から検出された魔法痕は、彼の死亡には関係していない、言い換え
れば生前に受けた何らかの魔法だと結論づけました。
 次に、周辺において関係性が疑われる地点も、魔法痕の有無を調べました。具体的に
は、血の落ちていた場所や農場の牛舎に厩舎、縄の類を保管する物置等々。遺体のあっ
た場所は言うまでもありません。その結果、魔法が使われていたのは、遺体の周辺だけ
でした。そして使われていた魔法は、不明の一回分を除くと、オーレイ・ホブマン自身
の伝達魔法が複数回だと分かりました。推測するに、これはオーレイが救助を求める声
をジーン・ホブマンに送ろうとしたのではないかと。しかし、現実問題としてジーンは
ワウブリンにおり、救助に駆け付けるのは不可能に近い」
 不可能の断言しなかったのは、ジーン・ホブマンの近くに移動魔法や治療魔法といっ
た、何らかの形で救助に役立つ魔法の使い手がいれば、妹を通して助けを求め得るため
だ。
「ジーンが深夜になって駆け付けたのは、オーレイの声を聞いたというのもあったの
か」
 スペンサーが独り言のように呟いた。ホブマン農場の捜査に関して、細かい点までは
聞かされていないようだ。
「ジーン本人が証言しています。声は聞こえたが聞き取りづらく、窮地に立っているこ
とだけは分かったが、いずれにせよどうすることもできなかったと。実際には、その時
点で町の救助隊が集まり始めていたから、ジーンが何らかの手を打ったとしても、オー
レイを救えたとは思えない。大勢に影響はなかったでしょう」
「あー、ランカスター刑事。よく分かりました。ところで、オーレイの右腕は調べまし
たか」
 刑事同士のやり取りが済んだところで、ウィングルが待ちかねた風に尋ねた。
「いえ。炭化が非常に進んでおり、また欠片に近い状態でしたから、事案発生時点では
調べませんでした。この度、あなたの指摘を受けて慎重に分別し、検査をしたところ―
―」
 一旦、口を閉ざすランカスター。勿体ぶっているのではなく、悔しがっているのは、
唇の噛みしめ具合から窺えた。見落としをしていたことと、それを素人からの指摘でや
っと気付いたことに対して。
「――使用の痕跡が認められました。そこで詳細に皮膚を検査分析し、相当不鮮明では
あるものの、魔法でしか付けられない文字の一部と見られる線が確認できました。他の
状況と考え合わせ、ロドニー・アルセの念写で間違いありません」
「つまり、オーレイ・ホブマンがアルセを殺した可能性が急浮上した訳です」
 ランカスターのあとを引き取って、スペンサーが言った。この辺りの捜査情報は、当
然ながら刑事達で共有済みである。
「思い付きが的を射ていたようで、私個人としては安心できました」
 柔和な笑みを見せるウィングル。一方、フェイドはいささか険しい顔つきになって、
遠慮のない批判を展開した。
「ちょっと待ってください。じゃあ、ランカスターさんは、オーレイ・ホブマンの右腕
の検査を怠ったばかりか、遺体から出た魔法痕の内、不明の一回分について深く考慮せ
ずにいたってことですよね?」
「まあまあ、フェイド君。魔法を分離した肉体に加えた場合の考察は、警察もまだ手付
かずで、捜査手法として確立していなかったのだから、やむを得ない面はあるよ」
「ですが、ここで甘い顔をしていたら、犯罪者に先を越されてしまいそうで、私、心配
なんです」
「肝に銘じます」
 ランカスターは深々と頭を下げた。スペンサー刑事の後輩で若いといっても、フェイ
ドよりは年上のはず。一人前の刑事たる男が、割と素直にミスを認め反省するのは、な
かなか珍しい。
「分かってくださればいいんです。私も不躾な物言いをして、ごめんなさいね」
 フェイドが殊勝に詫び、継いでぱっと明るい笑みを見せたことで、場の空気が少々弛
緩した。

「えー、それでは次に」
 フェイドがお茶を入れ直したあと、事件の話は再スタートを切った。ランカスター刑
事は、どことなくフェイドの視線を避けるように、身体をウィングルに向けた。
「以下はスペンサー刑事の受け持ちとも言えますが、私が引き続き説明をします。ロド
ニー・アルセの遺体発見現場で見付かった、尿の件です。遺体発見時で既に死亡から四
ヶ月が経っていたため、種類こそ分からないが、アルセの遺体には魔法を一度、行使し
た痕跡があった。これ自体は当初より判明していたことであり、いかなる魔法が使われ
たのか、それは犯行に関係しているのかは、想像する他ありません。そしてこの度、ウ
ィングルさんから提示されたのが、尿の移動による殺害現場の偽装という説でした」
 ランカスター刑事は魔法医を見やった。ウィングルは特に反応することなく、続きを
待った。
「飽くまで想像ですが、ジーン・ホブマンの分離魔法を用いれば、死後間もないアルセ
の身体から、尿を抜き取ることは可能でしょう。四ヶ月前、死んだアルセから尿をでき
る限り分離し、遺体発見場所の地面に散布。頃合いを見て、遺体をその上に遺棄すれ
ば、あたかもアルセがその場所で絞殺されたような現場が完成します。
 ならばジーンもまた兄と同様、アルセ殺しの犯人かというと、疑問符を付けねばなら
ない。彼女にはアリバイがあるので。遠距離を瞬時にして移動できる魔法の使い手が知
り合いにいるという情報もない。ですが、ホブマン家がアルセ殺しに関与した疑いは濃
厚です。そこで、我々警察はホブマン農場一帯の土を、アルセの遺体の首に残されてい
たロープにこびりついた土と比較し、同一と見なせる物がないか調べました。すると、
農場内ではなかったものの、すぐ隣にある沼地の泥の成分が、ロープの土と一致するこ
とが明らかになった。これは恐らく、アルセの遺体がしばらくの間、沼に沈んでいたこ
とを示唆する証拠と思われます。その仮定に基づき、沼及び周辺を捜索したところ、沼
の一部を囲う柵から、オーレイ・ホブマンの指紋が多数検出されました。ちょっと寄り
掛かったというようなものではなく、沼の縁に立って何かをするために柵を掴んだ、そ
んな指紋の付き方でした。さらに、オーレイの指紋に上から重なるようにして、ジーン
の指紋も出ています。数は兄よりも若干、少なめでした」
 ランカスターはさすがに喋り疲れたのか、お茶を呷った。その隙を突いた訳でもない
だろうが、今度はスペンサーが口を開く。
「よし、交代しよう。残るは首無し死体だ。身元不明のままだったが、事ここに至っ
て、ホブマン家に関係する人物ではないかとの推測が成り立つ。周辺の人物を当たって
みると、一人、行方知れずになっている男がいた。ナッソー・ロメイン、この町の出身
で、現住所はワウブリン。木材業者のレロイ・マクガートのところに勤めていて、ワウ
ブリンでの窓口業務の一端を担っていたようです。ジーンとはワウブリンで知り合い、
付き合っていたが、およそ四ヶ月前から姿を目撃されていない。ここまで分かれば、
ジーンに聞くのが一番だ。呼び付けると疑っているのを勘付かれる恐れもあったので、
こちらから首都に出向いて事情聴取をした。案外短い時間で、口を割りましたよ。列車
の切符を二人分、購入した記録が残っていたのも効いたんでしょうが。それで、ウィン
グル先生? ジーンがどう行動し、犯行に関わったのか、絵は描けてますか? 一通り
の自供を引き出せたので、おおよそのところは掴んでいます」
「答合わせという訳ですか。あんまりいい趣味じゃないですが、色々と動いてもらった
手前、私も恥を掻くつもりで話すとしましょう」
 ウィングルはひと呼吸を置き、少し考えてから語り始めた。
「うまくまとまっていないから、行きつ戻りつになるかもしれませんが、ご容赦を。山
火事のあった日、ジーン・ホブマンはオーレイ・ホブマンからの声を受け取った。それ
は彼女が警察に当初証言したような救いを求める内容ではなく、家の名誉を守るための
懇願あるいは脅しだったのではないでしょうか。オーレイはきっと、こんなことを言っ
たんです。『ロドニー・アルセを殺してしまった。隠蔽したいが、俺も山火事に巻き込
まれて長くは保たない。あのままアルセが見付かれば、ホブマン家の名は地に落ちる。
ジーン、おまえにも人殺しの妹という汚名が着せられるだろう。そうなりたくないな
ら、一刻も早く帰郷し、沼に沈めてあるアルセの遺体をうまく処理しろ』」
「まあ」
 高い声で反応したのは、もちろんフェイド。
「そんなことを頼まれて、実行するものかしら」
「状況と性格に因るんじゃないかな。ジーンは調香師として成功をつかみかけていたか
もしれない。ああ、オーレイはアルセから右手に何らかの印を付けられたことと、右腕
を犠牲にしてどうにか消したことも、ジーンに伝えたんじゃないかな。そうでないと、
いくらジーンが急いでもどうしようもない。オーレイの覚悟を感じ取ったからこそ、隠
蔽工作をする気になったのかもしれない」
「完全に納得した訳ではありませんけど、そういうことにしておきますわ」
 フェイドが澄ました調子で答えるのを聞き、ウィングルは思わず苦笑した。刑事達も
笑いを堪えている様子だった。
「決意したジーンは、夜遅くに農場へ到着すると、警察や消防から説明を受け、家の事
情や兄の様子を話した。ですよね? それから警察や消防が引き上げたあと、秘密の行
動に移ったはず。沼の岸辺に立ち、兄が沈めたという遺体を探し、引き揚げた。このと
き、分離魔法が役立ったのかもしれません。ジーンがどれほどの腕力の持ち主か知りま
せんが、女性が大の男の、それも死んだ者を沼から引っ張り上げるのは、簡単ではない
と思えます。でも、アルセの身体に付いた水分や、体内のあらゆる液体を一時的に分離
すれば、それだけ軽くなるし、乾燥もするでしょうから、扱いは容易になる」
「まるでミイラか何かのように?」
 ランカスター刑事の質問に、ウィングルは困り顔を返した。
「そこまでやったかどうかは分かりませんが、ジーンがアルセの遺体に魔法を使ったの
は確かでしょう。少なくとも、尿の移動をしなければいけないのだから。彼女がいつの
時点で遺体を遺棄する場所を定め、そこに尿をばらまいたかは知りませんが、魔法痕で
特定されるのを避けるために、なるべく早い段階でやったはずです。そもそも、遺体が
死後四ヶ月なのに、尿がたっぷり地面に染み込んでいるのはかなり不自然になってしま
いますから」
「アルセの遺体を四ヶ月間、どこかに隠しておいたんですね」
 フェイドが尋ねる。
「けれども、一体どこに……。下手に動かすくらいなら、沼に沈めたままと変わらない
でしょうに」
「いや、メタンガス流出の件を忘れてはいけない。完全に鎮火したあと、ガスの発生源
を特定するため、沼を調査するかもしれない。沈めたままだと、早々に発見されてしま
う」
「なるほど、そうでしたわね。是が非でも移動の必要があったと」
「恐らく、というか、私がジーンの立場で遺体を隠さなければならなくなったとした
ら、乾いて軽くなった遺体と液体分を別々に、ワウブリンの自宅へ運ぶね。この町で起
きた事件だ、遠く離れた家を捜索される恐れはかなり低い。あったとしても先のことに
なるという計算が立つ」
「ああ、ウィングル先生。一つ付け加えておきますと、ジーンの魔法は、分離した液体
を重さとは無関係に、人目にさらすことなく自由に動かせる、つまり持ち運べるんで
す。まあ限度はあって、本人の体重以上の重量は無理のようですが。普段は、香水の調
合に使うだけだから、重量感のある液体というイメージが湧きにくい」
 スペンサーの補足に、我が意を得たりとばかりに頷いたウィングル。
「それなら別々ではなく、一度で怪しまれることなく運べるね。次は――そう、ロメイ
ン殺害だ。ジーンはアルセが殺されたことそのものは、機会を見て公になるよう仕向け
るつもりでいた。襲われたアルセが犯人に何らかの印を残すはずだと警察が推理するの
を見越して、ロメインを殺害し、首無し死体として晒す計画を立てた。これも急がねば
ならない。いずれ見付かるアルセの遺体から死亡が四ヶ月前と判明しても、ロメインが
三ヶ月前まで顔に印を付けられることなく、大手を振って歩いていたら辻褄が合わなく
なる。殺そうとするからには二人の仲は冷めてたんでしょうが、ジーンは兄を失った寂
しさでも口実にしたのかな。よりを戻すことを匂わせつつ、故郷への同行をロメインに
頼んだ。そして、まあ、殺害時の細かい様子は想像つきませんが、凶器や切断道具は農
場にいくらでもあったと思います。うまくやり遂げたジーンは、頭部のないロメインの
遺体を、ラタン湖に沈める。身元不明でさえいてくれれば、いつ見付かってもかまわな
いと言えますが、理想はやはり、アルセの遺体の発見後でしょうね。だからもし、ジー
ンがロメインの遺体の浮上を調節するとしたら、水より比重の重い液体を詰めた袋を錘
にして、ロメインの身体を水中にアンカーしておくというのはどうだろう? アルセの
遺体が見つかったというニュースを知ったら、ワウブリンからやって来て、袋の液体を
分離魔法で抜き取れば目的達成です。このやり方なら、魔法痕は遺体には残らないでし
ょう」
 ウィングルがこう述べると、スペンサーとランカスターは「これは」「ああ」等とや
り取りした。次いで目配せをしたかと思ったら、若いランカスターの方が、「ちょっと
失礼をします。話は進めてくださって結構です」と言い置いて、出て行った。
「どうなさいましたの?」
 フェイドのきょとんとした眼差しを受けて、スペンサーが苦笑いをなした。
「いやあ、今し方の先生の推理が、ジーンの自供にはなかった事柄だったんで、確認に
走らせたんでさあ。推理通りなら、湖には明瞭な魔法痕の残った袋があるはず」
「ということは、ロメイン殺害を全面自供した訳ではない?」
「そうなんです。ジーンは計画殺人ではないことを訴えておるんですが、先生の袋説が
当たりだったら、覆せますよ」
「ふむ。ちなみに、これまでの推理はどうです?」
「誇ってもいいと思いますよ、ほぼ当たっていると言えます。オーレイが右手の印を処
理できたかどうかは、賭けだったようです。ジーンに届いたオーレイの音声魔法は、右
腕ごと炎に巻かれて焼けたとのみ伝えたらしいので。さて、続きと行きませんか」
「続きと言われても、あとはジーンがアルセの遺体を四ヶ月後に発見させる段取りくら
いかな? ロメインがマクガートの会社の社員なら、どの辺りをいつ調査するかの計画
を知っていた可能性がある。ジーンはそれをロメインから聞き出し、えっと何ていう名
前でしたか、マクガートのところの……そう、ドロン・バスが調査に来る前日に、遺体
を持ち出し、予め尿を散布しておいた場所に放置したんでしょう」
「はいはい、お見事です。ジーンはロメインの手帖を盗み見たと言ってましたが、大き
な違いじゃない」
 拍手の形に手を動かしてから、お手上げのポーズをしたスペンサー刑事。ウィングル
はさすがに面映ゆくなって、鼻の下を指で擦った。
「アルセの遺体にあった魔法痕は、ジーンが遺体から尿を始めとする液体を分離したと
きのものですね。戻す場合は、分離と戻すのとで一回と数えるから、魔法痕は四ヶ月前
のものとして検出された。遺体発見現場の魔法痕は、多分、ジーンが尿を撒いたとき、
地下により染み込まさせようとしたんじゃないでしょうか」
「それもご名答です。取り調べの場に、こっそり忍び込んでいたんではないでしょう
ね」
「はは。運に恵まれるのもこの辺まで。ジーンのやったことは、当人が生きているから
探りようもありますが、オーレイの方はなかなか難しいでしょう」
「アルセの念写で右手の甲に何らかの印を付けられたのは確実で、ジーンの証言もあり
ますし、凶器のロープに付着した土は、沼の物と合致した。これだけ証拠が揃えば、
オーレイがアルセ殺害犯であることは立証済みと言えますな。ただ、動機はまだ分から
ない。オーレイがアルセの店を利用したことはあったが一度だけ。だいたい、一体全体
何があってアルセを殺した直後、牛を追い掛けるような事態になったのやら。人を殺し
ておいて、牛を気にするのはしっくり来ないし、天候の悪化は予想できていたろうか
ら、いくらオーレイでも家畜が外に出ないようにするくらいは、ちゃんとやっていたと
思えるんですがねえ」
「……意図的なのかもしれない」
 ウィングルの呟きを、スペンサーもフェイドも聞きとがめた。二人の声が被さって、
聞き返す。
「何が意図的ですの、先生?」
「オーレイ自身が、牛を一頭、外に出したんじゃないかっていう……待って、思い付い
たばかりで、まだまとまらない。あ、そうか。アルセはオーレイの顔ではなく、右手に
印を念写した。そこ、気になってたんです」
「顔でも手でも、大差はないでしょう」
「いえいえ。手なら理由を付けて覆い隠しやすいんですよ。それが顔だとなかなか難し
い。続けざまに怪我をしたと嘘を吐いても、怪しまれるのは手よりも顔です。殺人犯と
して告発するためなら、顔に念写する方が絶対にいい。にもかかわらず、アルセは手に
やった。考えてみたんですが、アルセはオーレイに警告して、殺人行為を止めさせたか
ったんではないでしょうか?」
「警告?」
「今まさに自分を絞め殺そうとしているオーレイの右手に、殺人を告発する印を浮かび
上がらせるんです。同時に、ありったけの息を振り絞り、『オーレイ、手を見ろ! そ
いつを消せるのは私だけだぞ!』とでも叫ぶ」
「なーるほど。顔に印を念写したら、オーレイ本人には見えないから効果が薄い、か」
 感心するスペンサー。ウィングルは浮かんだばかりの推測を続けた。
「オーレイに少しでも冷静さが残っていれば、気付いて我に返るでしょう。手の力を緩
める。ところが、とうに瀕死の状態になっていたアルセは崩れ落ち、沼にはまってしま
う。ああ、凶行の現場は沼の畔だったと思います」
「沼に落ちたアルセを、オーレイは……とりあえず助けようとするでしょうな。印を消
させたあと、また殺そうとするかもしれないが」
「ええ。でも沼は沼地と呼べるほどぬかるんでいて、引っ張り上げることは困難だっ
た。アルセに意識があれば、また違ったかもしれませんが、意識を失っていたとした
ら、ずぶずぶと沈む一方だった可能性が高い」
「――あ、そこで牛ですか。牛に引かせて、アルセを沼から出そうと考えたんだ、オー
レイは」
「はい、私の推測ではそうなります。オーレイは輪っかにした縄をアルセに放り、その
縄の他端を牛に結わえた。だけど、輪がうまくアルセにはまらなかったのでしょう。柵
に掴まり、なるべく近くから投げようとしたんだと思います。柵から見付かったオーレ
イの多数の指紋がその証です。そんな努力も空しく、輪の準備が整わない内に、牛が突
然走り出してしまった。雷が鳴ったせいかもしれない」
「ああっ」
「牛に結わえた縄を、オーレイは当然手で握っています。慌てて引っ張りますが、力で
叶うはずもなく、逆に引っ張られる。ここで縄を手放せたらよかったんですが、恐らく
は右腕にしっかりと絡みついていたんじゃないでしょうか」
「うん? 何故、そんな風に思うんです?」
 スペンサーが待ったを掛けた。フェイドも追随する。
「そうですよ先生。右腕に縄が絡まって引っ張られたのなら、そのままオーレイ・ホブ
マンは引き摺られていきます。農場からは、馬も外に出されていたんでしょ? オーレ
イは牛を追い掛けるために、馬に乗ったはずです」
「牛が逃げただけなら、他の牛を出してくるさ。そのときのオーレイは、アルセを沼か
ら出すのが最優先事項なのだから。なのに、馬に乗って牛を追ったのは、それ以上の緊
急事態が起きたからに違いない」
「……分かりませんな」
 スペンサーが首を横に振り、フェイドはただウィングルの答を待った。
「縄が右腕に絡まったオーレイは、都会暮らしが長かったせいか、自らが沼にはまるの
を恐れて、しばらく頑張ってしまったんだと思う。左手は柵を掴んでいただろうしね。
そして頑張った結果、右腕が肩から千切れた」
「――」
 スペンサーは目を丸くし、フェイドはぽかんと開けた口を素早く両手で覆った。ウィ
ングルは彼自身の台詞の余波を楽しむでもなく、淡々と話を続けた。
「繰り返し念押ししますが、飽くまでもこれは推測、思い付き、空想です。右腕を持っ
て行かれたオーレイは、次にどうしたか。応急処置? 人を呼ぶ? それらも考えたか
もしれません。だが、衣服がうまい具合に捻れて止血の役を何とか果たしていると分か
ったなら、どうでしょうか。一刻も早く牛に追い付き、右腕を回収したいと考えるので
は。そこで馬を出してきたんです。そうだ、農場にあった血痕は、右の肩口から滴り落
ちた物だったと考えられます。オーレイは左腕だけでどうにか馬に乗り、牛を、右腕を
追った。すでに山火事の発生していた森に入ってから、右腕は縄から外れたんでしょ
う。それに近づき、回収しようとしていた矢先、またも雷鳴です。もしくは落雷か。激
しく驚いた馬はオーレイを振り落として、居心地のよい住処を目指し、来た道を戻っ
た。オーレイは自身の右腕を傍らに、振り落とされた衝撃で動けなくなる。さらに、さ
らにです。運の悪いことに、落雷か炎のせいか分かりませんが、近くの大きな木が倒れ
てきた。強烈な打撃を食らう形になったオーレイは、自分の命はここであきらめたかも
しれない。でも、家のことが頭をよぎった。ホブマン家の名誉はどうなる? アルセは
まだ息があったが、あのままではいずれ死ぬに違いない。オーレイが、会社を売り払っ
て戻ったというだけでも恥に感じていたのだとしたら、この上、殺人犯の名を冠せられ
るのは耐えがたい苦痛に思えたでしょう。そんな死の間際に脳裏に閃いたのは、己の魔
法を使ってジーンに後事を託すこと。――こういう顛末だったんじゃないでしょうか
?」
 感想を求めるウィングルに、スペンサーもフェイドもしばし言葉を失った。

 その後、ジーン・ホブマンの証言で、オーレイはこんな“企み”を冗談半分に話して
いたとされた。
『田舎に戻ったら、念画家がいてね。アルセっていう奴なんだが、推理小説が好きって
言う割には素直な性格をしていて、騙されやすい。思ったんだが、もしも金に困るよう
なことが将来あれば、アルセを仲間に引き入れりゃ簡単に稼げるんじゃないか? ほ
ら、ワウブリンで流行り出してるだろ、写真をネタに金持ちを恐喝するってのが。あれ
って、苦労して写真を撮らなくても、念写で充分じゃないか。アルセに金持ちの悪事や
濡れ場を念写させて、そいつをネタに脅すんだよ。事実に合うような念写が難しかった
ら、美人女優のヌードを念写するのもいいかもな。飛ぶように売れるぜ、きっと。アル
セを仲間に引き込む方法? それは色々あるが、ギャンブルが手っ取り早いな。ギャン
ブルで最初勝たせて、調子づいたところをいかさまで借金を作らせるんだ。それを免除
してやる代わりにって言えば、従わざるを得まい』

――終




#504/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:02  (413)
そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香
★内容
「身を守る一番の方法は、危険に近付かないこと。だけどまあ、これは土台無理という
もので、危険が向こうから近付いてくる場合を想定しなければいけない」
 柔斗の師範代だという浅田沙織(あさださおり)は、年齢で言えば純子の十ほど上だ
った。しかし、身長はほぼ同じ。さすがに肉付きは、日頃から鍛えている浅田は“分厚
い”が、太っている感じはしない。詰まっている感じだ。それでいて柔軟性があること
は、事前の準備運動で見せつけられた。
「二番目は逃げる。逃げられるのならとっとと逃げる。周りに助けを求める。これらが
できないとき、初めて相手の身体に触れて、逃げるための道を開くわけだ」
 喋り口調は男っぽいが、声の質自体は女性らしい、高いものだった。ひっつめにした
髪をまとめるのも、ピンク色のゴム。
「さて、涼原さん。聞いた限りでは、あなたにとって最も想定される危機的状況は、フ
ァンを装って近付いてきた相手が、いきなり襲ってきた場合だと思うのだけれど、ど
う?」
「どう、と言われましても」
 考えていなかった純子は、正直に戸惑いを露わにした。
「恐らく、そうでしょう」
 代わって答えたのは相羽。女性二人が私服なのに対し、彼だけ白の道着だ。靴はス
ニーカーを、相羽を含めた三人ともが履いている。道場の一角に敷かれたマットの上
で、護身術教室は進められていた。
「あるとしたら、刃物か長い棒のような物を振るってくるか、何かを投げてくるか」
 そこまで答えて、相羽は純子に目を合わせた。
「怖い?」
「怖い。けど、その対策に、護身術を習うんだから、状況を想定するのは当然て分かっ
てる」
 純子は胸の高さで、両拳をぎゅっと握った。
 浅田は頭を掻きながら、「投げてくるのは、厄介だな」と呟く。
「石のような固い物かもしれないし、液体の劇物かもしれない。何か投げられたと思っ
たら、両腕で、頭と顔、特に目を守るぐらいか。ただし、亀の姿勢になるのはだめだ」
「亀?」
 内心、怖さがいや増すのを覚えながら聞いていた純子は、いきなり飛び出した生物名
に首を傾げた。そこへ相羽がフォローを入れる。
「浅田先生、噛み砕いてお願いします」
「先生と言われると歳を取ったと実感するから、『さん』付けでいい。ついでに、君が
説明してあげて」
「――亀の姿勢というのは、地面にひれ伏して、頭を両手で抱える格好で……やった方
が早いか」
 相羽はその場にしゃがみ、爪先を立てた状態で正座をすると、上半身を前向きに倒し
た。そのまま、両手で後頭部を覆う。
「そう、これが亀の姿勢。こういう風にしゃがみ込むのはまずい。相手に距離を詰めら
れ、さらなる攻撃を受ける」
 相羽のすぐ近くに立った浅田は、蹴りを入れるポーズだけをした。
「液体なら、真上から掛けられる恐れもある」
 やはり仕種だけやってから、浅田は相羽に立つように言った。
「逃げられる内は、とにかく逃げて離れる。相手と距離を取る。近くに何か物があれ
ば、利用してもいい。傘とか椅子とか。
 ここまでは術と言うより、心得だね。距離を詰められてからが術。闘いのプロでもな
い限り、攻撃の動作はだいたい、二段階から三段階からなる。そのことを分かっていれ
ば、第一撃をかわすことはさほど難しくない」
「そ、そうですか?」
 信じられないとばかりに口走った純子。
 と、浅田はいきなり右手を大きく振り上げた。
 頭の上の手刀が振り下ろされる前に、純子は後ろに飛び退く。
「ほら。こういうこと」
「あ――理解しました。でも、毎回、うまく行くとは限らない気がします」
「そりゃあ、当てようと思えば当てられる。たとえば」
 浅田の話の途中で、相羽が突然、「あ、浅田先生!」と叫ぶ。純子はびっくりして両
手を握り合わせ、硬直してしまった。次にきょとんとした。浅田がにやっと笑って、相
羽に対して片手を上下に振っているのだ。
「分かってる分かってる」
「寸止めでもだめですよ!」
「何で」
「驚いてよろめいて、足首をくじくかもしれないじゃないですか」
「なるほど。モデルやら何やらをやっている人に、そいつはよくない、な」
 浅田は「な」を言い切ると同時に、ハイキックを放った――相羽に。
 純子が息を飲んで状況を理解したときには、浅田の右足の甲が、相羽の頭のすぐ横で
停止していた。相羽は左腕を上げてガードをしていたが、その腕とほぼ重なる位置にあ
る。
「お、反応、早くなったねえ」
 足を戻す浅田。にこにこしている。
「浅田先生!」
「だから、『さん』付けしなさいって。今のはいつまでも先生先生と言い続けた罰」
「じゃあ、浅田さん。浅田さんが靴を履いてなかったら、多分、ここまでガードできて
ません」
「かもね」
 そう言ってから、やっと純子の方に意識を向けてきた浅田。
「今やったみたいに、技を修めた者になると、一見、ノーモーションで攻撃を繰り出せ
る。完全なノーモーションは達人レベルじゃないと無理だから、一見と言ってるけれ
ど、とにかく経験者が素人に当てることは、割と容易い。でも、あなたが想定している
のはそういう空手の有段者みたいなのじゃないでしょう?」
「……」
「うん? 聞こえてる?」
「あ、はい」
「びっくりさせちゃったかしら。彼氏が蹴られそうになったのを見て」
「そ、それもありますけど。凄く、きれいだなあって」
「きれい?」
「ぴたっと止まった形がきれい。一連の動きも素早くて、目にも止まらない……美しい
流れ? そういう風に感じたから。私もやってみたいくらいです」
 純子の返事に、浅田は最初、目を丸くしていたが、やがて笑い声を立てた。
「はははっ、これはいいね。相羽君、彼女は意外と才能があるかもしれないよ」
「……もしくは、美的感覚が鋭いからかもしれませんね」
 相羽は淡々とした調子で言ってから、道場の先輩女性に微苦笑を返した。
 浅田は少し考え、ピストルの形にした右手で、純子の方を指差した。
「聞いた話だと、運動神経はいいんだよね。バク転ぐらいは楽にできるとか」
「楽じゃありませんよ〜。それにしばらくやっていませんし」
 と言うや否や、二人から五歩ほど離れた純子は、バク転をやってみた。
「あ、できた」
 よかった、と笑う純子に、浅田が感心した風に息をつく。
「その分ならバク宙だってやれそうだね。蹴りにしても、まあ威力は別として、型だけ
ならじきにできるようになるんじゃないかしら」
「あの、今日一日だけの予定なんですが」
「そうか、そうだったわね。まあ、本当にやりたいのなら、型は追々ね。では、本題に
戻るとしましょう。どこまで言ったっけ?」
 問われた相羽が「ほとんど進んでません。亀まで」と答えると、「まさしく亀の歩み
だ」と自嘲する浅田。
 純子もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは逆関節の取り方から。最初、私が相羽君を相手にやるから、よく見ておいて。
次に格好だけの真似でいいから、同じく相羽君に技を掛けてみる。いい?」
「はい。お願いします」
 浅田は相羽に対して一つ頷き、相羽も同じ仕種で応じた。それから相羽は右手を振り
かぶり、いかにも暴漢が襲ってきたような動きをする。いつの間に用意したのか、ボー
ルペンを握っていた。その攻撃を浅田は右肩を引いてかわすと、相羽の腕を脇で抱える
風にして捕らえた。総じて、ゆっくりめに行われているのは、素人目にも分かる。
「ここで肘を逆方向に極めながら、手首を内側に折り込み、得物――武器を落とさせ
る」
 相羽はボールペンを落とした。本当に極められて痛かったのかどうかは、純子には分
からなかった。浅田はすぐには解かず、続けて相羽の右手首を巻き込むように捻る。も
ちろん、形だけだ。
「肘を極めるのが無理そうなら、相手の手首を外向きに捻る。相手との距離は縮まる
が、武器を手放させるのが第一だ。そしてさらに続けて」
「ま、待った、浅田さん。ここで区切りましょう。一度に覚えるのは大変だろうし、こ
っちも怖くてひやひやものですよ」
「それもそうか。了解した」
 手をゆっくりと放す浅田。相羽は自由になった右手を二、三度振ると、先程のボール
ペンを拾い上げる。
「さてと。準備はどう?」
 純子へと向き直った相羽は、口ぶりこそ軽やかだったが、真剣な眼差しで尋ねた。
「手順は頭に入ったわ。すぐにできるとは思えないけど」
「私がフォローを入れていくから、とにかくやってみよう」
 浅田に促された純子は深呼吸をした。また「お願いします」と言って、身構える。す
ぐさま避けられる態勢を取ったのだが、それはだめだと首を横に振られた。
「あくまでも日常の中、不意に襲われたことにしないと」
 純子は当初の想定を思い出し、サイン会か握手会でもやる体で、相羽に身体の正面を
向けた。浅田の合図で、相羽が腕を振りかぶった。
 純子はさっき見たままに、右肩を引こうとした。その動きを続けながら、思わず質問
を発した。
「どうして右肩なんですか?」
「え?」
 声を上げたのは浅田で、相羽は動きを途中で止めていた。
「相手が右手に武器を持って襲ってきたら、左肩を引いた方が、避けやすい気がしたん
ですが……おかしいですか?」
「なるほど。これは本当にセンスがあるかもしれないぞ、相羽君」
「ええ」
「じゃ、先にその理屈を教えましょう。もういっぺん、相羽君が振りかぶるから、左肩
を引いて避けてみて」
 真正面、向かい合って立つ純子と相羽。相羽は同じ動作で、右手を振り上げた。
 純子は下ろされる右腕の動きに合わせ、左肩を引いた。自然と、左足も斜め後ろに退
がる。
 と、よけたと思った相羽の右腕が、まだ追い掛けてきた。ボールペンの先が、純子の
みぞおちのやや上に、ちょんと当たる。
「あ、ごめん、当てるつもり、なかったのに」
「ううん。それより、理由の方を……」
「――浅田さん、僕から言っていいですよね? まず、今みたいに、よけてもその攻撃
をかわしきれない可能性が高いこと。人間は通常、脇を開く動作が苦手なんだ。バラン
スが悪くなるというか、力を入れにくくなるというか。相手の右手による攻撃を、右肩
を引く動作でかわした場合、相手から見ればターゲットは右、つまり脇を開く方向に逃
げたことになるよね。そこを追撃しようとしても、力を入れにくいからうまく行かな
い。逆に、左肩を引いてかわすと、相手にとって脇を締める方向に逃げることになる。
だから追撃しやすい」
 純子は相羽の説明を聞きながら、自分でもやってみた。確かに、脇を開く動作の方
が、狙いを定めにくく、力も比較的入りにくい気がする。
「武器の持ち方が順手と逆手とで若干違うけれども、脇を開く方がやりにくいのは一
緒。そしてもう一つの理由は、右肩を引いてよけないと、相手の肘関節を極めるのが難
しい」
 相羽がそこまで言ったところで、浅田が手を一つ打った。
「そういうことで、さっきの動作の続き。先に右肩から引いてみて」
 純子は実際に試してみて、よく分かった。右だと逃げる動作のまま、スムーズに肘を
極められるのに対し、左ではとてもじゃないけれど無理。逆に、襲撃者から抱きつかれ
そうで怖い。
 理解したところで、何度か反復練習をし、次に反対の手で襲撃された場合も同じよう
にやる。
「無論、咄嗟の判断が間に合わなくて、逆の反応をしてしまう恐れだってある。そんな
ときは臨機応変に、相手の突き出してきた方の腕――手首と肘の辺りをしっかり握り、
相手の勢いも利用して投げる、というのもある」
 浅田の追加説明を受けて、またやってみたが、今度も怖かった。投げること自体は、
相羽の身体の重さをほとんど感じずにできたものの、手に持っているのが刃物だったら
と思うと、実践は心理的に難しそう。
「次にやるのは、相手を怯ませ、近付けないやり方になる。まあ、相手が西洋人なら、
空手のポーズをしただけで、逃げ出してくれる場合もなくはないそうだけれど、一般性
に欠けるのでやめときましょう。ということで定番中の定番、金的を」
 浅田が言った最後のフレーズを、純子はすぐには理解できなかった。

 あれは小学六年生の二月だったから四年ほど前になる。スケートに行ったときのこと
を否応なしに思い出しつつ、純子は色々な護身術を通り一遍ではあるが、教わった。身
に付いたと言えるレベルではまだなかったものの、落ち着いた状態なら問題なく技を掛
けることができる。
「じゃあ最後に、人を相手に練習するわけに行かないから取っておいたのを、言葉だけ
で説明しようかな」
 浅田が言った。純子は心中、密かに「金的だって試せません」とつっこんでおいた。
「涼原さん。目突きと言ったら、どんな風に攻撃する?」
「目付き?」
 浅田の問い掛けに対し、純子は根本的なところで単語の意味を取り違えた。
「浅田さん、無理ですよ。武術や格闘技をやっている人か、日常的に喧嘩のことを考え
ているような人じゃない限り、“めつき”と聞いて目を突くことを連想する女性は、な
かなかいないんじゃあ……」
 相羽がこう言ったので、純子も飲み込めた。浅田はと言えば、片手を頭にやって、
「だろうねえ」と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「しかし、秘訣の教え甲斐がないなあ。――涼原さん。漫画なんかで見たことないかし
ら。目を突くと言ったら、立てた人差し指と中指をこうして開いて――」
 右手で作ったVサインを寝かして水平にする浅田。そのまま自身の両目に、それぞれ
の指の先端が当たるよう、ゆっくりと向ける。
「目を潰す勢いで、突く」
「アクション映画で、何となく見た覚えがあるような気がします」
「それはよかった。で……実戦だと、二本の指を二個の目玉に当てるなんて、確率の悪
いことはしない。わざわざ二本指を立てるよりも、五本指で狙う方が当たる確率は高く
なるっていう理屈」
 喋りに合わせ、右手を開いて五本指を見せる浅田。爪のある獣のような手つきだ。
「不審者というか襲撃者に抱きつかれときなんかに有効だろうね。くれぐれも、普段の
喧嘩で使わないように」
「使いませんてば。喧嘩自体、しないし」
「彼氏とはしない?」
 もう指導は終わりという意識が出たのか、浅田は頬を緩めている。
「しません」
 相羽と声が揃った。神棚脇の壁掛け時計を見ていた浅田は不意に、くっくっくと笑い
声を立てた。
「確かに、息ぴったりだ。喧嘩なんて、口論さえしそうにない」
「い、いえ、口喧嘩ぐらいはします、するかも」
 恥ずかしさから、そんなことを口走ってしまった。相羽がどんな表情をしたのかまで
は、見る余裕がなかった。
「あははは。では、これまでのおさらいをして、締めとしましょう」
 浅田はそう言ったが、純子は気持ちを引き締め直すのに結構時間を要した。

 用意してきた服に着替えた純子は、女子更衣室を出ると、先に支度を済ませて待って
いた相羽と合流した。
「このあと、どうするの? もし時間があるのなら、どこか近場でもいいから」
 そう尋ねた純子の方は、時間があった。ミニライブで、急な要請にも快く協力してく
れた二人――星崎と加倉井へのお礼は午前中に終えていた。
「えっと。少しだけなら」
「あ、何か予定があるのなら、無理しなくていい」
「無理ってわけじゃない。ただ、そのぅ」
 言いにくそうにする相羽。純子は待った。道場を完全に出たところで、やっと答えて
くれた。
「今日は五月の第二日曜だから」
「……ああ」
 遅まきながら察した純子は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、相羽君。早く帰らなくちゃいけないわよね。自転車? 歩きだったら、呼べ
ば杉本さんが車で来てくれるかも。ここまで送ってもらったとき、このあとは暇だって
言ってたから」
「純子ちゃん。そんな心配顔、すんなって」
 思いのほか、笑顔で相羽が言った。一瞬、ぽかんとした純子の頬を、左右から両手で
軽く引っ張る。
「笑って笑って。悲しむ日じゃないでしょ」
「――それはそうだけど」
 手を放してもらって、今度は自分の手で頬を撫でる純子。
「いいの? お母さんと一緒にいなくて。お休みなんでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと言ってきたから。そうだな、一時間半は時間ある」
「いいのかなあ」
「不安なら、母さんに電話する? 『母の日ですが、ちょっとだけ息子さんをお借りし
ます』って」
「い、いえ、そこまでは」
「それじゃ、決まり。短いけどデートしよう。と言っても、何の案も持ち合わせていな
いし、荷物もあるし。あ、そう言えば君の方こそ、母の日、大丈夫?」
「え? ああ、そっか。はい、忘れてたくらいだから、何にも考えていなかった」
「もしプレゼントを買うっていうのなら、付き合うよ」
「――うん、そうする。時間もちょうどよさそう」
 この時点で二人とも徒歩だと分かっていたので、並んで歩き出す。とりあえず、駅の
方向へ。
「何かある?」
「ちょっと前に欲しがっていたのは、ミントンだけれど……何かのアンケート結果で、
聞いたことあるのよね。母の日に、家事をしなくて済むとしたら一番助かるっていうの
が多数回答だったとか何とか。ミントンなんて贈ったら、家事を頑張ってくださいと言
ってるみたいで」
「家事……今からじゃ間に合わないね。できるのは、料理を手伝うぐらい?」
「そうよねえ。まさかケータリングや出前を取るなんて、できないし。あの、相羽君は
何するか、聞いてもいい?」
「特別なことは何も。準備は前からしたけどね」
「詳しくは教えてくれないのね」
「だって、教えたら純子ちゃん、また言い出しそうだから。『早く帰らなくちゃ』っ
て」
「う。そう聞いて、今また言いたくなったわ」
 駅に着くと、程なくして目当ての電車が入って来た。今日、時間があまりない二人に
とって、非常にラッキーだ。初めて利用する駅だったので、ターミナルまでの所要時間
の目安は分からなかったが、電車に揺られつつお喋りをしていると、あっという間だっ
た。ロッカーを探し、中に荷物を預けて身軽になってから、候補の店を目指す。
「そういえば、持ち合わせは? 少しだけど協力できるよ」
「ありがとう、でも平気。元々、高価な物にするつもりじゃないから」
 やや慌て気味に断ったのは、パン屋でのアルバイトのことが頭に浮かんだから。今こ
こで少しでも借りたら、誕生日プレゼントを渡すとき、様にならない気がした。
「目当ての店、どっち?」
「新しくできたお店で、私もまだ入ったことがなくて」
 言いながら、フロア入口の壁に掲げられた案内板を見る。じきに分かって指差した。
同じフロアの端っこ。少し距離があったので、早足になる。
「あれって……ファッションの店?」
 見えてきたショップの外観から、すぐに当たりを付ける相羽。一般高校生が入るに
は、少し勇気がいりそうな、黒くて渋い店構え。ショーウィンドウを視界に捉えたとこ
ろで、有名(かつ高級)ブランドを扱っているのが分かった。
「ミントンはなさそうだ……いや、あるかもしれないけど」
 後ろの相羽が呟くのを耳にして、純子は笑顔で振り返った。
「『家事で楽をさせられないのなら、せめて出掛けるときのお洒落を!』作戦よ」
「今思い付きました感が満載のネーミング」
「実際、今思い付いたんだもの。でも、悪くないと思わない?」
「悪くない。いいと思う。そうなると、父の日にはお父さんにお出かけファッションア
イテムを贈らないとね。夫婦仲よく」
「そこまではまだ決めかねますが」
 店先でごちょごちょやっていると、店員からじろっと見られたような気がした。無
論、そんなことはないのだろうけれど、他のお客さんを入りにくくさせたとしたら申し
訳ない。
「すみません。アドバイスをしてほしいんですが、かまいませんか」
 時間がないのに加え、店員に怪訝がられぬ内にと、純子は先に声を掛けた。了解の返
事をもらってから、要望を伝える。
「母の日に、外出時のアイテム、アクセサリーを贈りたいんです。予算は――、年齢は
――、あ、それから金属アレルギーはありません」
 セレクトに役立ちそうな情報をすらすらと並べる。心得たもので、店員もカウンター
を兼ねたショーケースの上に、専用の用紙を取り出し、前もって印刷された選択肢に
次々と丸を付けていった。このときになって初めて、店員の名前が伊土(いづち)さん
だと分かった。左胸にネームプレートがあったのだが、よく見えていなかったのだ。
「――そうですね」
 記入の終わった用紙を見返しながら、伊土は言った。
「具体的に何とお決めでないようでしたら、先に色味を見てみるのがよいかもしれませ
んね。これからの季節、夏に向けてというイメージを加味すると、こちらの」
 純子達から見て右側に数歩移動し、ショーケースの一角を手で示す。
「青系統の物をおすすめします。いかがでしょう」
 言葉の通り、青系統の色を持つアクセサリーが並ぶ。指輪とブローチばかりのよう
だ。指輪が4×4、ブローチが3×4のマトリクスをそれぞれなしている。他のタイプ
のアクセサリーは、また別のところにあるらしい。
 一口に青系統と言っても、様々なバリエーションがあると分かる。ざっと見て、藍色
から水色まで、比較のしやすいように並べてあった。もちろん、同じ色合いのデザイン
違いもある。
「瑪瑙にトルコ石。あこや真珠はちょっと」
 張り込んだ予算額を伝えたせいか、結構高額な物までおすすめされていた。実際、真
珠を施した品は、どれも予算を若干オーバーしている。
(まけてくれるのかな? これと決めたわけじゃないし、聞きにくい)
 なんてことを逡巡していると、一歩退いて立っていた相羽が、呟くような調子で質問
を始めた。
「トルコ石は衝撃や水分に弱くて、特に扱いが難しいイメージがあるんですが、そうい
った普段使いの面で言えば、どういった物がいいんでしょう?」
「そうですね。まず、お断りしておかねばならないのは、宝石はどれもお手入れに手間
を掛けてこそ、本来の美しさを保ちます。この石は大変だけどあの石は楽、というよう
な大きな差は実はございません。普通に手間が掛かるか、とても手間が掛かるかぐらい
の違いとご認識ください」
「はい、分かります」
 純子も相羽と一緒になって頷く。伊土店員は、聞き分けのいい生徒を前にした教師の
ように、にこりと微笑んだ。そして若干柔らかい物腰になって、真珠には真珠の、瑪瑙
には瑪瑙のお手入れの仕方があることを簡単に説明した。
「――青系統ですと、青サンゴもありますね。天然の物と着色した物があって、お値段
はかなり差がありますが、天然物でもご予算内に収まると思います。お手入れの面を考
えると、特別なコーティングをした物がし易いとされています。ただ、強く拭くと、そ
のコーティングが剥離してしまう恐れもあります」
 青サンゴの商品も見せてもらったが、純子の想像とは違って、あまり好みの色合いで
はなかった。
「それでは……ラピスラズリはいかがでしょう」
「あ、宇宙から見た地球みたいな加工をした物を見たことがあります。私、好きです」
「君が好きかどうかより、お母さんが好きかどうかが大事なんじゃ……」
 斜め後ろから、相羽のぼそりとした声が聞こえて、瞬時に赤面したのを自覚する。で
も、店員は優しい口ぶりで応じた。リラックスさせようという心遣いなのか、より一
層、砕けた口調で。
「お母様と好みは被ることが多いですか? たとえば、服を着回しできたり」
「服はさすがにないですけど、好みは近いと思います。あー、でもそれを言い出した
ら、母の一番の好みはオレンジ色や紫色かも。青色はその次ぐらい」
 急な新情報に、伊土店員は丁寧に対応してくれた。オレンジ色ですとこちら、紫色で
すとこちらになりますという風に、流れるように商品を見せてくれる。
「ただ、衣服や帽子といったベースとなる物がオレンジや紫でしたら、同じ色では使い
にくいかと」
 念のために申し添えておきますといった調子で、伊土。純子は「そっか、そうですよ
ね」と首肯する。
(モデルをやるようになってだいぶ経ったし、デザインとかコーディネイトとか、ファ
ッションには結構自信が付いたつもりでいたのに。いざ贈るとなったら、迷っちゃう)
 時間も気になり始めた。相羽を振り返る。
「どうしよう?」
「僕が選ぶのも変だから、口は出さないよ。まあ、難しく考えすぎなんじゃないかとは
思う」
「え、そうかなあ。だって、折角の機会なんだから、ぴったり合う物を贈りたいじゃな
い」
「気持ちは分かる。でも、純子ちゃんのお母さんて、センスはとてもいいと思うよ。君
のお母さんだけに」
「……〜っ」
 むずむずするようなことをさらっと付け足さないで!と叫びそうになった。お店に来
ているのだと意識が働き、寸前で堪える。
「要するに、何が言いたいわけよ」
「母親のセンスを信じてみれば。純子ちゃんはいいと思った物を贈る。君のお母さんは
どんな物であっても、うまく使いこなすよ、きっと」
「む」
 意見を受け止め、考えてみる。母の姿を思い描こうとすると、家庭で主婦をしている
ところが優先的に浮かぶけれども、たまにお出かけするときや参観日に来てくれると
き、どうだったろう。
(私ったら、モデルや芸能人と接する機会が増えて、何て言うか一般的じゃない、華や
かできらびやかなファッションに基準が傾いていたかも。お母さんなら、ここにあるど
んな物だって、自分に似合うように使うわ、うん)
 気持ちが固まってきた。
「相羽君、ありがとう。決めた」
「え。急すぎるんじゃあ……」
「いいの」
 純子は伊土の方へ向き直った。ショーケースに改めて近寄ると、波をモチーフにした
と思しきラピスラズリのブローチを指差す。
「これが一番いい気がします」

 母の日用にプレゼント包装をしてもらって、店のロゴ入り紙袋ごと渡された。ブロー
チのサイズに比べて少し大ぶりな袋だが、包装を衝撃から守るためのものらしい。
「ありがとうございました」
 店員と言葉が被ってしまって、思わず吹き出しそうになる。でも、一層気持ちよく帰
路に就けそうだ。
「相羽君、アドバイスをありがとね」
「そんなつもりは……少しでも早く終わって欲しいとは思っていたけど」
「あ、退屈だった?」
「そうじゃなくて……残念ながら、もう時間がなくなったってこと」
「え、あ、ほんと」
 首を巡らし、駅ビル内の電光表示時計を目の端に捉え、少々びっくり。こんなに時間
が経過していたなんて。
「ごめんー! お茶を飲む時間くらいあるかなって思ってた」
 両手を拝み合わせる純子に、相羽は「いいよいいよ」と手を振って応じた。それから
片手を自動販売機に向けた。
「中途半端だけど、缶ジュースでよければ飲んでいく?」
「うう、実は少し、カロリー制限をしようと思ってて」
「へえ? 必要なの?」
 あれだけ運動しているのにというニュアンスが、言外に含まれているようだった。
「必要というか、これから必要になるかもしれないっていうか」
 笑ってごまかす。理由を話すわけにはいかないんだった。
「ねえ、それよりも少しでも多く、お喋りしたい。でも相羽君には少しでも早くお母さ
ん孝行して欲しいし」
「――分かった。では、帰るとしますか」
 相羽は詮索することなく、元来た道を戻りだした。


――つづく




#505/512 ●長編    *** コメント #504 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:03  (433)
そばにいるだけで 66−2   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:14 修正 第2版
「じゃあ、最初は慣れてもらうために、パンを並べることからやってください。こうし
て」
 店主は実際にやりながら、説明を続ける。
「まるごと入れ替えるだけ。注意するのは向きだね。こういう風に、お客にパンの顔が
見えるように置く。すると見栄えがいい」
「この、バスケットにパンを一つ一つ並べるのは、誰がやるんでしょう?」
 話の切れ目を捉えて、純子は尋ねた。すでに店のユニフォーム――三角巾にエプロン
姿になっている。髪の毛がじゃまにならないようまとめるのに、ちょっと手間取った。
抜け毛が多いようなら、透明なビニールのキャップを被るように言われている。
「今日は最初、僕か寺東さんがやるから、それを見て覚えてください。明日からは――
明日、来られるの?」
「あ、はい」
「よかった。明日からは、涼原さんが最初からやってみてください。並べ方はそんな難
しいものでないし、今日これから見ていれば分かるでしょう」
「はい」
「今のは通常の話で、人気のあるパンは臨時に補充することがある。焼けた分を並べる
んだけれど、そのとき残っている分があれば、手前の向かって右側に移す。新たにでき
あがった分は、少し間を取って並べる。お客も分かっているから、古い方が残ることが
多いんだけれどね」
「そうなんですか」
 知らなかった。お客として来ていた頃に知っていたら、新しい方を取っていただろう
か。
「まあ、お客がいるところで並べる場合でも、焦らなくていいから。ゆっくり落ち着い
て。お客にぶつからないようにする。あとは……そうそう、型が崩れたり、切れ端が出
たり、あるいは売れ残ったりした分を安売りに回すんだが、その詰め合わせを作るの
も、やってもらおうかな」
 店主がそこまで言ったとき、店のドアの開く合図――ベルがからんからんと鳴った。
「寺東、少し遅れました。すみません」
 寺東は純子が初めて会ったときよりは、幾分丁寧な物腰で入って来た。裏に回らない
のは一緒だが。
「まだ大丈夫だよ。でも準備、急いで」
 店主の言葉に頷きつつ、寺東はこちらに近寄ってきた。唇の両端をにんまりと上げ
て、凄く嬉しそうな顔になった。
「よかった。本当に来てくれたんだ?」
「え、ええ」
 純子の手を取った寺東は、「これからよろしくね」と言った。こちらこそと返そうと
した純子だったが、それより早く、「先輩として、びしびししごいてあげる」と寺東が
付け加えた。
「寺東さん、早く」
 店主が促すが、今度はその店主に向けて話し始める寺東。
「思ったんですけど、早いとこ彼女にパン作りにタッチさせたらいいんじゃないかっ
て。風谷美羽が作ったパンとして売れば、新規のお客さん獲得!」
「寺東さん」
「――はーい。分かりました、着替えてきまっす」
 奥に引っ込む寺東を見つめていた純子だったが、店主の言葉に注意を引き戻される。
「客足の傾向を言うと、今日これからの時間帯、ぼちぼち増え始めるのが通例だから。
曜日や天気もあるから、一概には言えないが、だいたい君達の年代の子が第一波で、第
二波は買い物のついでに寄るお母さん方かなあ。サラリーマンは少ない」
 ということは……純子は頭の中で考えた。
(風谷美羽を看板娘にするのって、効果が期待できないような)
 元々、本意ではないから、かまわないのだが。とにかく頑張ろう。意を強くした。
 しばらくして寺東が出て来た。ユニフォーム姿になると、少し印象が変わる。髪が隠
れるせいかもしれない。
「……うーん」
 と、横に並んだ寺東が、顎を撫でつつ、難しげなうなり声を上げた。
「店長。これって罰ゲームじゃないですかあ」
 そしていきなり、そんなことを言い出した。当然、店主はきょとんとし、次いで「何
のことだい?」と聞き返す。
「こんなスタイルのいい子と一緒に働くってことは、常に見比べられるってわけで」
 寺東は純子を指差しながら答える。
「精神的苦痛がこれからずっと続くと思うと、モチベーションが激減しちゃいそ。せ
め、て、時給を少しでもアップしてもらえたら、やる気を維持できるんですけど」
 昇給交渉のだしに使われたと理解した純子だったが、黙っていた。まだそこまで店の
雰囲気に馴染んでいない。
「……」
 一方、店主もしばらく黙っていた。怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。や
がて、呆れたように嘆息すると、右手で左の耳たぶの辺りをちょっと触った。
「寺東さんはよくやってくれてるしねえ。仕事の前後の言動や態度はちょっとどうかな
と思うことはあるけれども。いざ始まると集中してるし、熱心だし。考慮はする。が、
すぐには無理。新しく人を入れたばかりなんだから分かるでしょう」
 言い終えて、店主が純子の方をちらと一瞥。今度は、昇給を遅らせる理由付けに使わ
れてしまった。
「へいへい。気長にお待ちしまーす。さあ、がんばろうっと」

 聞かされていた通り、高校生から小学生ぐらいまでのお客の波がまずやって来た。途
切れたところで補充に動く。人気は甘い物及びかわいらしい物に偏っている。それを店
主も当然把握しており、追加で焼き上げる分の八割方はそのタイプだ。
 パンの並べ方は、簡単そうだった。全種のパンをまだ見たわけではないけれども、一
度見れば覚えられる。一方、パンを運ぶ段になってちょっとびっくりしたのは、予想外
の重さ。数が集まれば重たくなるのは道理だが、家で食べる分には軽いイメージしかな
かったから、最初は力の加減のギャップから「う?」なんて声が出てしまった。
「いらっしゃいませ」
 ドアのベルが鳴るのに呼応して、寺東と純子の声が響く。始めたばかりの純子は、慣
れるまではとマスク着用。普段の音量だとぼそぼそした声になってしまうので、気持
ち、声を張り上げた。
 その声から一拍遅れてドアの方を振り向いた純子は、入って来たお客さん――女性一
人――を見て、あっと叫びそうになった。思わず、顔を背ける。
(白沼さんのお母さん? このお店で買うんだ? もっと高級なところへ足を延ばすの
かと……って、これは店長に悪いわ。味は最高なんだから)
 などと胸の中でジタバタやっていると、真後ろを白沼の母が通った。幸い(?)、向
こうは純子に気が付いていない様子。マスクのせいもあるだろうが、こんなところにい
るなんて、考えもしていないのかもしれない。
(お仕事のこともあるし、挨拶すべき? でも、アルバイト中に私語はよくない気がす
るし……気付かれたら挨拶しよう)
 レジには寺東が立つことになっている。でも、その他の接客は、声を掛けられた方が
応じる。無論、必要が生じれば、声を掛けられなくても動かなければいけない、が。
(できることなら、アルバイトをしてるって白沼さんに伝わらない方がいい)
 そんな頭もあるため、ついつい、距離を取りがちに。
(しばらく運ぶパンはないし、トレイは片付けたばかりだり、焼き菓子の整頓くらいし
かすることが)
「おすすめはある? 甘さ控えめの物がよいのだけれど」
 突然の質問に、純子は反射的に振り返った。と同時に、意識のスイッチを切り替え
た。自分は久住淳なのだと。
「売れ筋ベストスリーはこちらにある通りですが、この中で甘さ控えめは、胡桃クリー
ムパンになります。酸味が大丈夫でしたら、ヨーグルトのサワーコロネやいちご本来の
味を活かしたストロベリーパンもおすすめです」
 低めにした声で答える。店内のポップを活用しつつ、如才なくこなしたつもり。
「そう、ありがと。どれも美味しそうだから、全部いただこうかしら」
 白沼の母は呟き気味に言って、トングを操った。どうやら純子には気付かずじまいの
ようだ。
 寺東からは、うまくやったねというニュアンスだろうか、ウィンクが飛んできた。純
子はマスクを直しながら、目礼を返した。
(それにしても、今の様子だと来店は初めてなのかしら。気に入ってもらえたらいい
な。あっ、だけど、頻繁に来られたら、じきに私だってことがばれる!)
 あれこれ想像して、頭の痛くなる純子だった。
「お買い上げありがとうございます。――八点で1300円になります」
 寺東の、対お客様用の声が軽やかに聞こえた。

(いけないと思いつつ、もらってしまった)
 午後八時過ぎ、アルバイト初日を終えた純子は白い買い物袋を手にしていた。中身は
売れ残ったパン。人気のパン屋だけあって数は多くないが、どうしても売れ残りは出
る。しかも初日サービスと言って、純子の大好物である胡桃クリームパンをわざわざ一
個、取り分けておいてくれていた。恐縮しきりである。
(これがあると聞いていたから、普段はカロリーを抑えめにしようと決めたんだけど、
だからといってぱくぱく食べていいもんじゃないし)
 自転車置き場まで来ると、先に出ていた寺東が待っていた。自然と頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜。さっきも聞いたけど、このあと暇じゃないんだよね? だったらせめて、
行けるところまで一緒に帰ろうと思ってさ。それともモデルか何かの仕事が入ってて、
絶対にだめとか」
「全然そんなことないです。いいんですけど、確か正反対の方向って言ってませんでし
た?」
「いいのいいの。興味あるから、少し遠回りしていくのだ」
 自転車に跨がり、早く早くと急かせる寺東。
「あ、別に家を突き止めようとか、芸能界の裏話を聞き出そうとかじゃないから、安心
してよ」
「はあ」
 調子くるうなあと戸惑いつつ、純子も出発できる態勢に。漕ぎ出していいものか躊躇
していると、「遠回りするのは私なんだから、あなたが先行って」と寺東に促された。
 ライトを灯しているとは言え、夜八時ともなると暗い。街灯や建物、行き交う自動車
のライトを助けに、比較的ゆっくりしたスピードで進む。
「あんま時間ないだろうから、さっさと聞くね」
「え? あ、はい、どうぞ」
 後ろからの寺東の声に、純子は遅れながら応えた。
「何であんなパン屋でバイトしたいと思ったわけ? 正直なとこ、他のことでがっぽり
稼いでるんじゃないかって思ってたけど、そうでもないとか?」
「えー……っと」
 いきなり、答えに窮する質問だ。一から説明すると長くなるのは確実だし、知り合っ
て間もない人に理由を話すのも恥ずかしい。
「言いたくなかったら言わなくていいし、他言無用だってんならそう付け加えてよ。こ
れでも口は堅いと自負してるんだ。そりゃまあ、バイト面接に来てたあなたのこと、店
長にぺらぺら喋っちゃったくらいだから、無条件に信用してくれなんて言わないけれ
ど。あのときは興奮しちゃって、つい」
 寺東の話を純子は、よく口が動くなあと感心して聞いていた。
(お店では肩の凝りそうな喋り方に徹していたから、今は解放されたってところなのか
しら。まあ、今日だけでもお世話になってるし、これくらいは答えてもいいと思う、う
ん)
 決めた。ただし、多少はオブラートに包もう。
「隠すようなことじゃないんですけど、一応、他言無用で」
「ふんふん、了解」
「お世話になっている人がいて、その人の誕生日が近いんです。プレゼントをして感謝
の気持ちを表そうと思ったんだけど、モデルの仕事とかを始めるきっかけを作ってくれ
たのがその人なんです」
「お、読めた。その人とは関係のない仕事で稼いで、プレンゼトを買いたいってこと
だ?」
「え、ええ。当たりです」
「うんうん、気持ちは分かる。私がその立場だったら、実際に行動に移そうとはこれっ
ぽっちも思わないだろうけどねえ」
 信号待ちで停まったところで、純子は振り返った。気付いた相手は「うん?」という
風に目をぱちくりさせ、次に横に並んだ。
「何?」
「質問、もう終わりかなと思って」
「お、いや、一個聞いたから、次はそっちから質問出るかなと思って。興味ないなら、
パスしてくれていいよー」
「あっあります」
 手を挙げそうになったが、信号が青に切り替わった。寺東に気付かされ、進み始め
る。
「そんで、質問は何?」
「デ、デートではどこへ行って、どんなことをします?」
「――わははは。意表を突かれた。まさかの質問だわ。いるの、彼氏? あ、言えない
か」
「今はまだ……大っぴらには」
 ごまかして答える純子。
「将来、彼氏ができるのはだいぶ先になるかもしれない。それまで全然経験がなくて、
いきなりだと、どうすればいいのか困ってしまいそうで」
「なるほどねー、分からない苦労があるもんなんだ。でも、今は自分もいないからな
あ」
「え、ほんと?」
「こんなことで変な見栄を張ったりしないよ。髪を染めるくらいだから、いると思った
とか?」
「そういうわけじゃないです。寺東さん、とてもさばけていて、男性客の接し方も慣れ
てるように見えたから……」
「それこそ接客に慣れただけ。ま、確かにちょっと前はいたんだけどさ」
「……悪いことを聞いてしまいました……?」
 声が強ばる。知り合ってまだ日が浅いのに、ちょっと突っ込みすぎたろうか。
「気にしない気にしない。別れたばっかなのは事実だけど、引きずってないから。歳は
相手が上で、まだ大学生のくせして、いっちょこ前に起業してさ。私より事業に夢中。
で、時間が合わなかったんだ。まあ、他にも色々あって、しゃあなかったんよ」
「はあ」
「風谷さん……じゃないや、涼原さんも仕事持ってるわけだから、付き合う相手を高校
で探すのは大変と思うよ、多分」
「そ、そうですね」
「そんなわけで、前彼との経験でいいのなら、さっきの質問、いくらか答えられるかも
だけど」
 上目遣いになる寺東。次の信号は青だが、スピードを落とし始めた。
「さすがにもう引き返さなきゃ。今夜はここまでってことで、いい?」
「もちろんです」
 純子も自転車を漕ぐのをやめた。信号は黄色に変わり、ちょうどいいのでストップす
る。
「その内、芸能界の話、少し聞かせてちょうだいね。今日は楽しかった」
「こちらこそ。今日はお世話になりました。しばらくの間、ご迷惑を掛けるかもしれま
せんが、よろしくお願いします」
 頭をぺこり。すると、「固いな〜」と寺東の声が降ってきた。
「普通、逆っしょ? 私が緊張して固くなるのなら分かるけど」
「生まれつき、こんな感じで……じきに柔らかくなると思います」
「うん、期待してる。じゃーねー」
 自転車に跨がったまま、器用にその場で方向転換した寺東は、手を一度振ってから前
を向いた。
「気を付けて!」
「そっちもね!」
 夜の街路に二人の声が結構響いた。

 パン屋でのアルバイトのことは当然、学校に届け出ているが、周りのみんなには内緒
にしておくつもりでいた。
(相羽君が知ったら変に思うだろうし、わけを聞いてくるに決まってる)
 だが、状況は変化した。積極的には宣伝しないとしても、“風谷美羽があそこでバイ
トしている”という噂が流れる程度に知られることで、売り上げに貢献する。本意では
ないが、そういう話になってしまったのだから。
「おばさまにも伝わっているはずなんだけど、相羽君には私の口から言いたくて」
 学校の一コマ目と二コマ目に挟まれた休み時間、純子は相羽一人を教室から、校舎三
階の屋上へと通じる階段踊り場まで連れ出した。念のため、唐沢ら仲のいい友達には仕
事の話だからと、着いてこないように心理的足止めをした。
「うぃっしゅ亭って、あのパン屋さん? アルバイトをって何のために?」
 予想通りの質問を発した相羽に、純子は前もって考えておいた答を言う。
「市川さん達との話で、演技の幅を広げるためには、社会経験を一つでも増やしておく
といいんじゃないかって意見が出てさ。だったら高校生らしいバイトをしてみたいです
ってリクエストしたら、意外と簡単に通って」
「何も仕事を増やさなくてもいいのに」
「もちろん、邪魔にならないペースで、よ。期間も短いし。じきに定期考査があるでし
ょ。その手前でやめる」
「……まあ、君が判断すべき領域の事柄だから、君が必要なことと思ったのなら、僕は
口出ししない」
 相羽がため息交じりに固い口調で言った。ここで終わりかと思ったら、続きがあっ
た。迷いの後、急遽付け足そうと決めた風に。
「でも、時間があるなら、学校の外でももっと会いたいのに――なんてね」
「……」
 相羽の(ほぼ)ストレートな恋愛表現は珍しい。嬉しいのと、本当のことを言い出せ
ない申し訳なさとで、しばし言葉を出せなくなる。
「純子ちゃん?」
「あー、ううん、ごめんね。休める日がないかと思ったんだけど、始めたばかりで、し
かも短期バイトだから言い出せないかも」
「決めたからにはやる方がいいよ、きっと。僕のことは気にしなくていいから。ただ、
学校にモデル仕事にアルバイト、三つを平行してするのは無理だと感じたときは、いつ
でも言って。母さん達に言い出しにくくても、僕が何とかする」
「うん」
 頼もしくさえある励ましの言葉に、純子の返事にも元気が戻った。そして、アルバイ
ト経験を演技に活かすという嘘も、いつか本当に変えてやろうと思った。
「ところで、僕だけを呼んでアルバイトの話をしたのは、何か意味があるのかなあ。み
んなには言ってはいけないとか?」
「あ、それはね、言ってもいいんだけど、万が一にも噂が広がることで、お店に迷惑が
掛かるといけない。例の脅しの手紙は、久住淳宛てだから関係ないと信じてるけれど、
風谷美羽でもアニメのエンディングを唄ってるから、ひょっとしたらがないとは言い切
れないし」
「……うん? 結局、言わない方がいいってこと?」
 時間を気にして戻り始めた二人だったが、すぐに足が止まった。
「虫のいい話なんだけど、ほどよく噂が広まって、それなりに売り上げアップしてくれ
たらいいなって」
 純子は舌先を少しだけ覗かせ、自嘲した。相羽はしょうがないなとばかりに苦笑を浮
かべ、
「だったら、友達みんなで行く方が早くて効果的かも。よし、そうしよう」
 と早々と決めたように手をぽんと打った。
「一度に大勢来られたら緊張して、凄く恥ずかしい気がするけど、がんばるわ」
「平日の放課後、みんなで遠回りしていくのは大変だから、土曜がいいかな。あ、で
も、純子ちゃんは土曜日、バイトよりもルーク関係だっけ?」
「ううん。そっちの方は、テストが近付いてるから、土曜どころかほぼ休み。なまらな
いように、レッスンを日曜にやってもらって。あ、あと白沼さんのところと一度、ミー
ティングがあるくらい」
「充分忙しそうだけど、まあよかった。じゃ、今度の土曜にでも。学校が終わって一緒
に行くのと、バイトに勤しんでいるところへ押し掛けるのとじゃ、どっちがいい?」
「……考えさせて」
 小さいとは言え頭痛の種を抱えつつ、今度こそ教室へ向かう。チャイムまであまり間
がないと分かっていたので、小走りに近い早足になった。

(バイトできるかどうかで頭がいっぱいになっていたけれど)
 午前の授業で出された古典の宿題をどうにかやり終え、昼休みの残り少ない時間を仮
眠――と言っても正味数分しかないので目をつむって頭を横たえるだけだ――に当てよ
うとしたき、ふと思った。
(誕生日プレゼント、何がいいんだろ?)
 宿題に集中していたおかげで、今、隣の席に相羽がいるのかどうかさえ知らない。目
をぱちりと開けて、気配を探りながらゆっくり振り向いてみた。
 いなかった。
(男子の友達はいるみたいだけど。トイレかな。じゃなければ、また先生のところと
か)
 いや、今考えているのはそんなことじゃなく。
(前に、母の日の買い物に付き合ってもらったとき、ついでを装って聞けばよかったか
もしれない。でも、あのタイミングで聞いたとしたら、誕生日プレゼントのことだって
絶対にぴんと来るはず)
 あげるのなら欲しがっている物をあげたいけれど、多少のサプライズ感も残したい。
相反する希望を叶えるには、普段から相手のことをよく見て、知っておく必要がある。
だからといって確実に成功するとは断言できないが、そうしなければ始まらない。
(ういっしゅ亭のバイトでもらえる範囲で買える、相羽君の欲しい物……)
 再び頭を机に着ける。いや、今度は腕枕を作って、そこへ額をのせて沈思黙考。
(お家にピアノがあるのなら、譜面ホルダーって思うんだけど。それ以外となると……
何にも浮かんでこない。一緒にいる時間は前より減ったかもしれないけど。基本的に相
羽君、物欲が薄いというか欲しい物を言葉にするなんて、滅多になかった気が)
 少し方針を転換する必要がありそう。
(似合うと思う服か何かを贈るのもありよね。私服の日なら、学校にも着てこられる
し。腕時計はいらないかなあ)
 予鈴が鳴った。身体を起こす。午後一番の授業の準備に掛かる。
(うーん、音楽以外に相羽君が興味関心を持っているのは、マジックと武道? 武道の
方はさっぱり分からないから、絞るとしたらマジック。マジック道具で、相羽君が持っ
ていない、手頃な商品てあるのかしら。手先の技で魅せる演目が多いから、逆にいかに
もっていうマジック道具、意外と持ってないみたいだし)
 テキストとノートを机表面でとんとんと揃えていたら、相羽が教室に入ってきた。自
身の席に駆け付けた彼は、少し息を弾ませていた。
「気付いたらいなかったけど?」
 先生が来る前にと、省略した形で尋ねる。
「宿題に夢中だったから声掛けなかったけど、神村先生のところに」
「また? 保護者が忙しいと大変ね」
 以前の話を思い起こした純子。
「うん、まあそうなんだけど」
 某か続けたそうな相羽だったが、ここでタイムアップ。始業のチャイムにぴったり合
わせたかのように、神村先生が入って来た。
 委員長の号令で、起立、礼、着席。約一ヶ月が経過して、唐沢の委員長ぶりも、よう
やく板に付いてきた。
「授業に入る前に、今日は用事があってホームルームができないから、今、三分ほども
らう。最近、中高生を狙ったカンパ詐欺が起きているそうだ。たとえば、インターネッ
ト上で『名前は明かせないが在校生の一人が妊娠した。親に内緒で中絶したいが、手術
費用が足りないので、力を貸してほしい』というような名目で金を集め、消えてしま
う」
 妊娠だの堕胎だのの単語が出たところで、教室内がざわついた。神村先生は静かにと
注意してから、話を続ける。
「集金の手口は様々で、プリペイド式の電子マネーを購入させてIDを送らせたり、代
理を名乗る者が直に集金に来たり、指定した口座に振り込ませたり。大胆なのは学校の
一角に募金箱を設置した事例もあった。金額こそ小さいが実際に被害が出ていて、まだ
一部しか解決していないそうだ。この手の犯罪は巧妙化する傾向があるから、早めに注
意喚起しておく。また、間違っても知らない内に片棒を担いでいたなんてことにならな
いように、充分に気を付けること。分かったな」
 以上、と話を打ち切って、授業に入ろうとした先生だったが、生徒の一人が挙手しな
がら「先生、質問〜」と言い出したため、教科書を戻した。
「何だ、唐沢」
「委員長なんで代表して、みんなが聞きたいだろうことを聞こうかと」
 真顔でありながら、どことなく笑みを我慢しているような体の唐沢。神村先生の表情
を見れば、嫌な予感を覚えているのが窺えた。
「前置きはいいから、早く言うんだ」
「詐欺には気を付けるけど、もし仮に、本当に中絶手術カンパの話が回ってきたら、生
徒はどうしたらいいのかなって」
 さっきとは少々異なるニュアンスで、クラスのみんながざわつく。
「まったく、何を言い出すかと思えば。みんなが聞きたいことか、それ?」
「まあ、半数ぐらいはいるんじゃないですか」
「しょうがないな。そりゃあ学校側としては、報告しろって話になるだろな。ついで
に、誰も知らないようだから教えておくと、うちの校則に、妊娠したら退学というよう
な決まりはない。生徒手帳を読め」
「まじで?」
 先生の言葉を受けて、実際に生徒手帳を繰る者もちらほら。
「ああ。明記している学校もあるが、我が校はそうではない。認めてるわけじゃない
し、高校生らしからぬ逸脱した行為を禁ずる条項があるから、それを名目に妊娠を退学
に結び付けることも可能だ。だけど、緑星学園史上、適用例はない」
「でも、そういう妊娠騒動を起こした生徒がいなかっただけなんじゃあ……」
「そうよね。進学校なんだし」
「あったとしても、表面化してないだけで」
 主に女子からごにょごにょと声が上がる。堂々と質問するのは、さすがに気後れする
様子だ。これらにも神村先生は応じた。
「個人情報に関わり得るから、そこはノーコメント。ただ、歴代校長の方針は、妊娠し
た生徒がいればできる限り学業が続けられる方向でサポートするっていうのが、慣習と
いうか不文律だ。――さあて」
 腕時計を見た神村先生は、教科書で教卓をばんと叩いた。
「三分のつもりが、五分になった。授業、始めるぞ」
 静かになった。それでも空気が落ち着きを取り戻すには、もうしばらく掛かった。

「真面目な話――」
 放課後、大掃除の時間。女子は男子、男子は女子の目を盗んで、こそこそと内緒話に
花を咲かせていた。
「学校は許したとしても、スポンサーは許さないからね」
 白沼の言葉を理解するのに、純子は十数秒を要した。
「わ、分かってるって」
 手にしたモップの柄をぎゅっと握りしめる。同じくモップを持つ白沼は、柄の部分を
純子の持つそれに押し当て、ぐいぐい押してきた。
「信頼していいの、ねっ」
「いい、よっ」
 負けじと押し返して距離を取る。と、間に入ったのは淡島と結城。
「まあまあ、熱くならない。二人とも、らしくないよ」
「熱くもなるわ。もしものことを思うと」
 嘆息混じりに言った白沼の前に淡島が立つ。
「白沼さんたら、何も妊娠だけを言ってるのではありませんね? 多分、タレントのイ
メージを気にしてのことです。恋人がいるといないとじゃ大違い」
「そう、なの?」
 先に純子が反応を示す。白沼はもう一つため息をついた。
「そうよ。友達の内では公認でも、世間的にはまだなんだから、充分に注意してもらわ
なくちゃいけないの」
「それくらいなら、弁えている。これでも何年かプロをやってるんだから」
 純子は自信を持って返した。白沼は気圧されたみたいに、上体を少しだけ退いた。
「だからってことじゃないんだけれど、相羽君とは――」
 一旦言葉を切って、クラスの中に相羽を探す純子。窓ガラスを拭いていた。周りには
唐沢達もいて、お喋りが弾んでいるようだが、相羽自身はあまり口を開いていない。
「彼とは、まだなーんにもありません」
「……そう。よかった」
 白沼は、ばか負けしたみたいに肩をすくめた。が、少し経って、よい返しを思い付い
たとばかりににやりと笑むと、ちょっとだけボリュームを戻して言った。
「さっき、友達の内では公認とか言ったけれども、私はまだ隙あらば狙っているから。
何にもないと聞いたから、なおさらね」
「うわ、それはあんまりだよー、白沼さん。板挟み過ぎるっ」
 純子も調子を合わせ、芝居めかして応じると、じきに笑いが広がった。
 何事かと、他のグループから注目されたのに気付いて、すぐに引っ込めたけれども。
その落ち着いたところへ、今度は淡島が爆弾発言をしてくれた。
「これまでのところ何もないのでしたら、私の予想は大外れになります」
「えっと、何の話?」
「てっきり、今度の誕生日にでも捧げるものと推し量っていましたが、段階を踏まずに
いきなりはない――」
「! しないしない!」
 モップを放したその両手で、淡島の口の辺りを覆おうとした。淡島はそれ以上続ける
気は元からなかったらしく、すんなり大人しくなる。反面、モップが床に倒れた音が大
きく響いた。
「そういえば、相羽君の誕生日、近かったわね」
 白沼が意味ありげにモップを拾い、渡してくれた。受け取る純子に、質問を追加す
る。
「何をあげるつもりなのかしら」
「考えてるんだけど、決めかねてて」
 また声の音量を落として、相羽の方をこっそり見やる。いつの間にか唐沢と二人だけ
になっていた。
(探りを入れてみるつもりだったのに、聞けてないわ)
 神村先生のあの話のおかげで、プレゼントをどうしようと悩んでいたことが一時的に
飛んでしまった。
「悩む必要なんてないってば。何をあげたって喜ぶよ」
 請け合う結城に、純子はつられて「それはそうかもしれないけど」と答えた。すかさ
ず、「背負ってるわねえ」と白沼から指摘される始末。この辺で反撃、もしくは転換し
ておきたい。
「私のことは散々言ってきたから、飽きたでしょ。みんなはどうなの?」

            *             *


――つづく




#506/512 ●長編    *** コメント #505 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:19  (471)
そばにいるだけで 66−3   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:16 修正 第2版
「もしかして、自分の身に降りかかるかもしれないから、聞いたんじゃないよね、あれ
って?」
 ちりとりをほったらかしにした平井はそう聞きながら、唐沢の脇腹付近をぐりぐりや
った。不意を突かれた唐沢はオーバーアクションでその場を離れ――こちらはほうきを
放り出してそのままだ――、「何がだよ」と問い返す。
「だから、神村先生にした質問。あんなこと聞けるなんて、ある意味すげーって感じた
けど、ひょっとしたら唐沢君自身がそうなんじゃないかって思ってしまったのだ」
「ばーか。そんなことあるかい」
 唐沢は普段のキャラクターをここぞとばかりに発揮する。
「俺はそんな下手は打たない。基本、広く浅く。万々が一にも深くなったとしたって、
一線は守る」
「おー、意外」
「尤も、高校に入ってから勉強に時間を取られがちなんだよなあ。あんまり遊べてない
のが悔しいし、さみしい。相羽センセーに教えてもらって、どうにか時間を作ってる有
様だから情けない」
「いや、唐沢は前よりもずっとできるようになってる」
 近くの窓を拭いていた相羽は聞きとがめ、本心からそう評した。しかし、当人は額面
通りには受け取らなかったようで。
「ばかやろー、それは以前の俺と比べてってだけで、客観的にはまだまだだろ、どう
せ。そうじゃなけりゃ、成績を維持するのにこんなに苦労すはずがない!」
「みんな苦労してるよ」
「苦労してるようには、とても見えん」
 唐沢は平井に同意を求めた。
「まあ、確かに、相羽君が苦労してるようには見えない。稲岡君みたいに年がら年中勉
強優先て感じでないのに、成績いいのは納得しがたいよ」
「だよな。その上、彼女持ちで。あ――涼原さんと特に進んでいないのは、勉強に時間
を回してるせいとでも言うのか」
「か、勝手に話を作るなよ」
 唐沢の“急襲”に、思わずぞうきんを取り落としそうになった相羽。内側を拭いてい
るときでよかった。
「お互いに忙しいし、今の時点では無理して進める必要がないって二人とも思ってるし
……」
 相羽の声が小さくなる。唐沢とは前に似たようなことを話題にしたが、他の男子には
初めてなので、言いづらい。幸い、平井らものろけを聞かされてはたまらんと思った
か、他の男子グループに呼ばれて行ってしまった。
「そういや、天文部の話、鳥越から聞いたか?」
 二人だけになったところで、唐沢がいきなり尋ねてきた。
「何で部員じゃないのに、天文部の話題を。まあいいや。それって、合宿のこと?」
「うむ。鳥越が言うには、皆既日食に合わせて、K県K市に行くという希望が、ほぼ確
実に通る見込みだと」
「僕もぼんやりとは聞いてたけど、本決まりになるなら行ってみたいな。夏休みか…
…」
 少し伏し目がちになって考え込む相羽。
「え? 何か予定あんの?」
「――ん? まさか。そんな先のことは分からない」
「だよな。今の時期に夏休みのスケジュールが決まっているとしたら、海外旅行いく奴
か、仕事のある涼原さんくらいだろ」
 そう言った唐沢が、肩越しに振り返る。つられて、相羽も純子達のいる方を向く。何
だか知らないが、モップを持って楽しげに“攻防”しているのが見えた。
「他にもいるだろ。夏期講習を受けるとか」
「嫌なことを思い出させてくれる。補習があるとしたら、皆既日食に被るんだっけか
?」
「知らないよ。まず、補習を受けずに済むように考えないと。ていうか、唐沢がどうし
て皆既日食との被りを心配するのさ?」
「おまえらが――相羽と涼原さんが行くのなら、楽しそうだから着いて行こうかなと思
ったんだ。無論、俺も天文部に入って」
「冗談だろ?」
「割と本気だぜ。まあ、夏までに本命の彼女でもできれば、話は違ってくるかもしれな
いがな」
「……他人のことに首を突っ込む気はあまりないんだけど、町田さんはどうしてる?」
 聞いてから、別の窓ガラスに移動する。
 が、唐沢の方は、その質問をスルーしたかったのか、はたまたクラス委員長として役
割をはたと思い出したのか、ほうきとちりとりを持って平井を追い掛けた。
(やれやれ)
 短く息を吐いた相羽に、背後から声が掛かった。
「ねえねえ、相羽君」
 相羽は手を止めずに、そちらに目だけをやった。湯上谷(ゆがみたに)、西野中(に
しのなか)、下山田(しもやまだ)の女子三人組。彼女ら自身、名前の共通項を意識し
ており、上中下トリオと呼ばれるのをよしとしている。相羽や純子らとは、今年初めて
同じクラスになった。
「さっき話しているのが耳に入ったんだけど、天文部の合宿に参加するの?」
 代表する形で、西野中が聞いてきた。
「うーん、多分ね」
「唐沢君の話も聞こえたんだけど、今からでも入部できる?」
「え? ごめん、僕は幽霊部員に近いから、詳しいことは分からないんだ。クラス違う
んだけど、鳥越って知ってる? あいつに聞けばいいよ」
「えー、知らない。ねえ、知ってる?」
 お下げ髪を振って、左右の二人にも聞く西野中。返事は二つとも否だった。
「悪いんだけれど、相羽君から確かめてくれないかなあ?」
「しょうがないな。どさくさ紛れに、今、行って来ようかな」
 一斉清掃だから、特別教室に回されていない限り、鳥越を掴まえて話をちょっとする
くらいは容易だろう。
「うん、お願い」
 声を揃える三人組。下山田は手を合わせてまでいる。相羽はまた密かにため息をつい
て、窓から離れかけた。が、ふと浮かんだことがあって、足を止めた。
「――思い過ごしだったらごめん。一応、聞くけど、唐沢目当てとかじゃないよね? 
唐沢は今のところ部員じゃない」
「やだ」
 三人は申し合わせたかのように、口元を片手で覆って笑った。それから湯上谷が日焼
けした健康的な肌に、白い歯を見せる。
「唐沢君も格好いいけれど、そんなんじゃないよー、私達。こう見えても星に興味ある
の――というのは大げさになるけど」
「正直に言うとね、思い出作りしたいなとみんなで話してたんだ」
 あとを受けて、西中野がわけを語り出す。
「高校の思い出作りで、何かロマンチックなことをって考えたら、天文部の合宿の噂話
を聞いて」
「噂話って?」
「何年かおきに、合宿でカップル誕生しているとか、流星群の観察で二人きりになると
盛り上がるとか」
「はあ」
 聞いた覚えないなあ、女子の間だけで広まっているのかなと思った相羽。
(いかにも唐沢が好みそうなシチュエーションではあるが、今年予定されているのは、
皆既日食だし)
 多かれ少なかれ星に興味関心を持っているのなら、入部動機に全然問題ないだろう。
好意的に解釈し、鳥越に聞いてみることにした。
 相羽は「ちょっと待ってて」と言い残し、教室後方の戸口を目指した。
(――純子ちゃんは合宿の件、まだ知らないのかな? 伝えて、参加できそうなら、早
く鳥越に教えてやろう)
 爪先の向きをちょっぴり調整し、純子のいる方へ立ち寄る。ちょうど純子達もこちら
を見ていた。

            *             *

 純子の「みんなはどうなの?」の問い掛けに、まともに反応したのは白沼だった。
「私の方から告白したくなるようなフリーの男子はいないわね。逆に前、一年生に懐か
れて困ったような、戸惑ったことはあったけれども」
 もてるアピールなのか、そう付け足した白沼。どことなく自慢げだ。
「その一年生の話、聞きたい」
 純子は意識的に食いついた。話題をそらせれば何でもいいという気持ちはあるが、白
沼に懐く(告白したってこと?)一年生男子に興味がなくもない。
 だけど、今度は白沼の反応が鈍い。その視線が、純子の肩口をかすめて、相羽のいる
であろう方に向いている。
「白沼さん?」
「相羽君、女子に囲まれているわよ」
 その言葉に、急いで振り返る。囲まれていると表現でいるかどうかは別にして、西野
中、湯上谷、下山田の三人と話している相羽の姿を捉えた。
(何の話をしてるのか、気になる……)
 日常の一場面だけを切り取って無闇に詮索したり嫉妬したりはしないよう、心掛けて
いるつもり。それでもなお、気になってしまう。純子が聞き耳を精一杯立てようとした
矢先、相羽が一人、窓際を離れた。こっちに来る。
「デートのお誘いですわね、きっと」
 淡島が適当なことを口にすると、結城が「ぞうきん片手に?」と笑いながら混ぜ返
す。
 そんな中、相羽は自然な形で輪に加わった。
「ちょっといいかな。純子ちゃん。天文部の合宿の話、聞いてる? 皆既月食観察の線
で、ほぼ決まりだって」
「ほんと? まだ聞いてなかった。日程はどうなるのかしら」
「そこまでは決まってないみたい。例年だと二泊三日か三泊四日って聞いてるし、日食
が二日目か三日目に来るようにするんじゃないかな」
「きっとそうね。うん、分かった。スケジュールはまだもらってないけれども、もし重
なっていたら、調整を頼んでみる」
 純子が期待感いっぱいの満面の笑みで言うのへ、横合いから白沼が口を出す。
「具体的にいつ? 万が一、うちの関係している仕事が入っていたら、影響あるから聞
いておきたいわ」
 質問先は相羽だったが、彼は慌てたように両手を振った。
「悪い、今すぐ鳥越のところに行かないと。純子ちゃんが知ってるから」
 言い置くと、すぐさま教室を出て行く。ぞうきんを持ったままなのは、先生に見咎め
られた際、どうにか言い逃れするためだろうか。
「そういうことだそうだけれど」
 白沼が目を向けてきた。純子が答えようとすると、淡島が「皆既日食の日ぐらい、私
でも答えられますのに」と不満げに呟いた。無意識なのかどうか、場を混乱させてい
る。純子は返答を急いだ。
「七月二十*日よ、白沼さん」
 白沼はメモを取るでもなく、二度ほど首を縦に振った。「分かったわ、覚えた」とだ
け言うと、掃除に戻ろうとする。
(ひょっとして、わざと仕事を入れてくるなんて、ないよね?)
 白沼の後ろ姿を見つめ、そんなことを思った純子。
 と、いきなり白沼が向き直った。
「安心しなさい。なるべく協力してあげるつもりだから」
「え、ええ。……ごめんなさい」
 思わず謝った純子に、白沼は左の眉を吊り上げ、怪訝さを露わにした。
「うん? 今言ってくれるとしたら、『ありがとう』じゃないのかしら」
「あ、今のは――無理をさせることになったら申し訳ないなって気持ち込みで。感謝し
てます」
 内心、冷や汗をかくも、どうにかごまかせた。
「感謝してくれるのなら、芸能人の男の一人でも紹介して。付き合いたいってわけじゃ
ないけれど、世の中には相羽君よりもいい男がいるんだって実感を持たないと、次に進
めないのよね」
 白沼は口元に小さな笑みを浮かべた。本気なのか冗談なのか分からない。
「それなら白沼さんも、蓮田秋人に一緒に会いに行かない?」
 結城が言い出したのを聞いて、純子もすぐに思い出した。
「マコ、遅くなっててごめんね。少ない伝を頼って、ご都合を伺ってるんだけれど、伝
わってるのかどうかも、ちょっと心許ない状況なの」
「いいって。確か今、映画の海外ロケのはずだし。――白沼さん、蓮田秋人は知ってる
わよね?」
「当然、知ってるけれど。結城さん、あなたって随分と渋くて年上好みなのね」
「やだなあ、タレントとして見て好きなだけで、異性の好みとか関係ないから」
「そうなの? それなら分かるけれども。蓮田秋人ね……一般人相手には線引きが厳し
そうなイメージがあるわ。大丈夫なの?」
 と、再び純子に質問を向ける。
「わ、分かんないけど、お会いしたときは、好感を持ってもらえたみたいだった」
「いやいや、あなたは素人じゃないでしょうが」
 的確なつっこみだったのに、自覚の乏しい純子は首を傾げた。

 それは三度目のアルバイトの日のことだった。
 純子は短い時間ではあるが、店番を一人で任されていた。
 経験の浅い純子がどうしてそんな役目を仰せつかったかというと、偶然が働いた結果
だった。この日、シフトでは寺東も入る予定だったが、当日になって連絡が店長に入っ
た。前日、英語教師が車上荒らしに遭い、金銭的被害は小さかったものの、アタッシュ
ケースに入れていた採点済みの答案用紙を、鞄ごと盗まれてしまった。定期考査ではな
く小テストだったが、成績を付けるには必要なものであり、再テストせねばならない。
英語教師は己の不注意を該当する生徒達に深く詫びた上で、放課後に再テストを受ける
よう求めた。求めたと言っても、生徒側には拒否権はないわけで、受けざるを得ない。
その影響により、一時間ほど学校を出るのが遅れる見込みとなった寺東は、昼過ぎにな
って遅れることを伝えてきた次第である。
 では店長はどうしたのかというと、午後三時半頃に起きた震度三の地震に驚いて、卵
を大量に床に落とし、だめにしてしまった。パン作りに重要な材料だけに、残った僅か
な個数では心許なく、アルバイトが入るのを待って急遽買い足しに出ることに。卵ぐら
いなら純子でも買いに行けそうなものだが、何でも拘りの銘柄があって、車で遠くまで
足を延ばさねばならない。よって、店長もしばし抜けることになってしまった。
(四十分ぐらいと言っていたけれど)
 時計を見ても、なかなか時間が進まないことにじりじりするだけなのに、あまり見な
いようにした。それ以上に、お客がほぼ途切れずに来るので、時刻を気にしている余裕
がなかった。レジを受け持つのはまだ二度目。手際は決して悪くないのだが、非常に緊
張する。
「――レシートと三十円のお釣りです」
 女子中学生二人組に、まとめて会計を済ませて送り出す。その次に並んでいたお客
が、「あ、やっぱりそうか」と言うのが聞こえた。
「いらっしゃいませ。トレイとトングをこちらへ――」
 マニュアル通りに喋る純子にも、相手が誰だか分かった。以前は学生服姿だったの
が、今回は私服なので気付くのが遅れたが、真正面から顔を見て思い出せた。でも私語
は極力、慎まねば。
「胡桃クリームパン好きが高じて、とうとう就職か」
 その男性客――佐藤一彦が、ややからかうような口調で言った。
「就職じゃありません、バイトです、バイト」
 たまらず、早口で答えた。パンを個別に袋に入れる動作も、いつも以上に速くなる。
「分かってる、冗談さ。ええっと、四年前になるんだっけ? あのときは、本当に悪か
った」
「そのことならちゃんと謝ってもらいましたし、もういいんですよ。――五百円になり
ます」
「ほい」
 五百円硬貨をカルトン――硬貨の受け皿に投げ入れる佐藤。角度がよかったのか、ゴ
ムの突起物の間に挟まって、五百円玉が立った。
「おっ」
「五百円ちょうどをお預かりします。――はい、レシートですっ」
 後ろに並ぶお客がまだいないことを見て取り、純子はレシートを押し付けるようにし
て渡した。悪い人じゃないのは分かっている。でも、今は早く帰って欲しいという意思
表示のつもり……だったが、佐藤もまだ他の客が並んでいないことを知っている。
「他に店の人、いないの?」
「一時的に外しています」
「そうか。じゃあ、あんまり邪魔できないな。相羽の近況も聞きたかったんだが」
 パンの入った袋を摘まみ持ち、がっかりした様子の佐藤。
(……あの頃はまだ、私と相羽君、付き合ってなかったのに)
 訝る純子だったが、敢えて聞く必要もないと黙っていた。
「過去のお詫びがてら、友達連中に宣伝しとくわ。多少は売り上げに協力しないとな」
「――あ、ありがとうございます。お待ちしています」
 自然とお辞儀していた。風谷美羽としてでなく、涼原純子としてお客を増やすのに貢
献できるとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「あ、そうだ。宣伝するとき、『涼原っていう、すっげーかわいい子がいる』って付け
加えてもいいか?」
「だ、だめです。かわいくなんかありませんっ」
 大慌てで否定する。佐藤は笑いながら出て行った。
(つ、疲れる。でも、今何をされているかぐらい、聞けばよかったかな。忘れてたわ)
 ほっとしたのも束の間、程なくして次のお客がレジ前に並んだ。
 そんなこんなで客足が途切れたのが、午後五時十分頃。あと十分ほどで店長が戻る予
定だし、二十分後には寺東も来るはず。がんばろうと気合いを入れてパンを並べている
と、ショーウィンドウの外、道路を挟んだ向こう側にたたずむ男の姿が目に止まった。
(あの人、五時になる前からいたような)
 忙しい最中でも何となく記憶していた。五月も半ばを過ぎ、ぼちぼち暑さを意識し始
める頃合いに、その男は黒い手袋をしているように見えたから、印象に残ったのかもし
れない。
(バイクに乗る人でもなさそうだし、ほとんど同じ位置に立ってる)
 道路工事を予告する立て看板の横、まるでこちらの店からの視線を避けるかのような
ポジション取り。
(――まさか)
 不意に浮かんだ悪い想像に、一瞬、身震いを覚えた。ショーウィンドウに背を向け、
カウンターの内側に駆け込む。
(脅しの手紙の主?)
 呼吸を整え、ゆっくり、自然な感じで振り返る。ショーウィンドウのガラスには、白
い文字で店名などが施されている。それが障害になって、反対側の歩道にいる人とじか
に目が合うことはなかなかない。でも警戒してしまう。
(……いなくなった?)
 目線を左右にくまなく走らせる。男の姿は消えていた。三十分近くいて、何をするで
もなしに立ち去ったことになる。
(気のせいかな? 分かんない)
 脅しは久住淳に宛てた物だった。普段の格好をしている今の純子は風谷美羽であっ
て、久住ではない。ならば、基本的に心配無用となるはずだが、ことはそう単純でもな
い。風谷もアニメ『ファイナルステージ』には歌で関与しているわけで、その線から度
を外した原作ファンから嫌われている恐れはある。さらに言えば、久住淳の居場所を突
き止めるために、風谷美羽に近付いて問い詰めるなんていうケースも、考えられなくは
ないだろう。
「用心するに越したことはない、かな」
 呟いて、護身術の型をやってみた。店のユニフォームを着ていても、案外動けると分
かって、多少は安心できた。
 と、そのとき店のドアの鐘が鳴った。型の動作を止め、急いで服のしわを伸ばす。店
長は裏口から入るはずだし、寺東が来るにはまだ早いから、お客に違いない。
「いらっしゃいませ」
 声を張ると同時に、笑顔を入口の方へ向ける。
「あれ? 相羽君」
 今度の土曜に来るはずの相羽が、何故かいた。学校からの帰り道なのか、ブレザー
姿。でも、ここまで来るには自転車じゃないと不便だろうから、一旦帰宅しているは
ず。どちらにせよ、今は一人のようだ。
「急にごめん。今、大丈夫?」
「お客さんはいないけれど、私一人だけだから……手短になら」
 どぎまぎしつつも、気は急いている。
「急用ができて、土曜日は来られそうにないんだ。だから、僕だけ今日来てみたんだけ
ど、驚かせちゃったね」
「え? え?」
 唐突な話に、すぐには思考がついて行けない。相羽の方は、言うだけ言ってパンの物
色を始めそうな気配だ。
「待って。相羽君だけ来られなくなったって子とは、他の人は土曜に来るのね?」
「うん。唐沢に言っておいた。君がここでバイトしていることをいつ教えるかが、悩み
どころで」
「そっか、まだ言ってないんだ? だったら……当日がいいのかな」
 そこまで考えて、細かいことを気にしすぎと思えてきた。事情を知る相羽が皆を連れ
て来る形ならまだしも、彼が来られなくなった現状で、友達をコントロールしようとし
ているのは、いい気持ちではない。
「やっぱり、早めに言おうかしら。そうして、来たい人は好きなときに来てくれればい
い。来たくない人や来られない人は、それでかまわない。元々、そういうもんじゃな
い?」
「君がそう言うのなら、分かった。噂が一瞬にして第三者にまで広まって、千客万来っ
てことにはまあならないだろうし」
「よかった。よし、これで少し気が楽になったわ。土曜日、緊張するだろうなあって覚
悟してたから」
 純子が両手で小さくガッツポーズするのを見届け、相羽は今度こそパン選びに専念す
る。見ていると、胡桃クリームパンの他、レーズンサンドや野菜カレーパンを取ってい
くのが分かった。出たぱかりの新作、桃ピザはスルーされてしまったけれど。
「そうだ、さっき、佐藤さんが来たんだったわ」
「佐藤さん?」
 さすがに思い出せない様子の相羽。あるいは、人口に占める比率の高い佐藤姓だか
ら、多すぎて特定できないといったところか。純子は、中学生のときのパン横取り事件
を示唆した。
「ああ、あの人。へえ、今もここで買ってるんだ」
「誰のために買っていくのかは、聞かなかったけれどね」
 トレイにパンを五つ載せて、相羽はレジに戻って来た。会計を済ませて、純子がレ
シートを渡すと、「これ、記念に取っておくべきかな」と言った。
「えー、おかしいよ、そういうの」
「そう?」
「だって、記念になることなら他にもっとあるはず。これから先、ずっと」
 純子が答えたところで、店の裏手にある勝手口の方から音が聞こえた。ドアの開け閉
めに続いて、「ただいま。少し遅くなりましたが、店番、大丈夫でしたか」という店長
の声が届く。
「はい。結構お客さん、来ました。というか、今も来てます……友達なんですけど」
 どう紹介しようか急いで考える純子を置いて、相羽は店長に目礼した。
「涼原さんのクラスメートで、相羽と言います」
「うん? 君も見覚えがある。涼原さんがよく買いに来てくれていた頃、よく、同じよ
うに胡桃クリームパンを買っていったから、記憶に残ってる。同じ高校に進学したんだ
ね」
 店長の言葉に、相羽は瞬時、はにかんだ。
(相羽君も買いに来てたなんて、知らなかった。あのとき食べて、気に入ってくれたの
かな)
「凄いですね。常連客全員の顔と好みを一致させて覚えてるんですか」
 興味ありげに尋ねる相羽。店長は首を横に振った。
「全員は無理だろうなあ。何せ、毎回違うパンを買って行かれて、好みがさっぱり掴め
ない人もいるから。おっと、こうしちゃいられないんだった」
 店長は相羽に礼を言うと、いそいそと奥に引っ込んだ。新しくパンを焼かねば。卵を
追加購入した意味がない。
「忙しくなりそうだね。そろそろ帰るよ。送っていけなくてごめん」
「あ、うん」
 もう少し待ってくれたら、寺東が来て紹介できる――そんな考えが浮かんだ純子だっ
たが、引き留めるのはやめた。寺東に相羽を紹介すれば、「なーんだ、彼氏いるんじゃ
ないの。付き合ってどのくらい?」なんて風に聞かれそうな予感があった。うまくかわ
す自信がない。
「気を付けてね」
 笑みを浮かべて手を振っていると、ちょうどお客が入って来た。慌てて笑みを引っ込
め、手を下ろした。

「昨日、言うのを忘れていたんだけれど」
 純子はそう前置きして、アルバイト中に目撃した、店の外にしばらく立っていた男に
ついて、ざっと説明した。
「うーん」
 聞き手は相羽と唐沢。ちょうど、相羽が純子のバイトのことを唐沢に伝えたところだ
ったので、ついでに話しておこうと思った。
「それだけじゃあ、何とも言えないな」
 怖がらせたくないのか、本当に何とも言えないと感じたのか、唐沢が答えた。相羽も
一応、同意を示す。
「たまたま待ち合わせをしていて、立っていただけかもしれない。急にいなくなったの
は、迎えの車が来て乗り込んだか、来られなくなったからと連絡が入って立ち去ったと
か」
「仮にそのパン屋の方を見ていたとしても、危ない奴とは限らないしなあ。『あ、かわ
いい子がいる。声を掛けたいけど勇気が出ない。どうしよう』ってだけかもしれない
ぜ」
 唐沢は茶化し気味に言った。やはり、怖がらせたくない気持ちが強いようだ。
「まあ、最初は無害でも、悪い方へエスカレートする場合、なきにしもあらずだけど」
 対する相羽は、楽観的な見方ばかり示さない。これはもちろん、脅しの手紙の存在を
相羽が知っているからであって、知らない唐沢とは差が出て当然かもしれなかった。そ
のような手紙の存在なんて、昼食を終えたばかりのこんな場所――学校の教室で、第三
者に話すことではなかった。
「気になるのは、手袋かな。指紋を残したくないから、これから暑くなる季節でも手袋
を付けている、とか」
「おいおい、相羽。何でそんな風に、悪い方へ考えるんだよ。怖がらせて楽しんでると
かじゃないよな、まさか」
 小声だが不満を露わにする唐沢。
「当たり前だ、そんなんじゃない。大事だからこそ、最悪の場合を想定するよう、癖を
付けている。それにこんなことまで言いたくないけど、純子ちゃんに何かあったら、母
さんや他の大人に、影響があるから」
「それもそうだ。納得した」
 あっさりと矛を収めた唐沢は、続いて「じゃあ、学校の行き帰りもなるべく一緒にい
ないとだめだな」と二人に水を向けた。にんまり笑って、ボディガードにかこつけての
のろけ話でも何でも聞いてやるぜという態度を示す。それは純子でも分かるくらいに明
白なサインだった。
 しかし、相羽は真面目に答えた。
「百パーセントというわけに行かなくて、困ってる。僕が無理なときは、誰か代わりに
付いていてほしいよ」
「……こっちを見るってことは、俺でもいいのかいな」
 唐沢は自身を指差し、最前のにんまり笑みのまま言った。相羽は相羽で、真顔を崩さ
ずに応じる。
「ああ」
「……まじ、なんだな。俺、腕は結構筋肉着いていて太いが、これはテニスのおかげ。
護身術なんて知らないぞ。喧嘩もなるべく避ける平和主義者だぜ」
「それでもいい。近くに男がいるだけで、だいぶ違うはずだから」
「盾になって死ねってか」
「冗談を。盾になりつつ、逃げて生還しなきゃ意味がない」
 二人の間で、やり取りを聞いていた純子は、心理的におろおろし始めた。黙って聞い
ていると、息が詰まりそう。
「も、もう、やだなあ。相羽君も唐沢君も、万が一のことについて真剣になりすぎっ。
心配してくれるのは嬉しいけど。わ、私だって、少しだけど対処法は教わったんだか
ら」
 相羽らの通う道場で護身術を習ったことまで唐沢に伏せておく理由はなかったはずだ
が、今は話がちょっと変な方向に行ってしまっている。相羽がそのことを言わなかった
のを、唐沢は不審がるかもしれない。だから強くは言わずにおいた。
「ま、すっずはっらさんを守るってのは、悪くない。護衛名目に、お近づきになれる。
相羽クンのいないところでも、な」
「……しょうがないことだ。でも、唐沢が不純な動機オンリーでやるって言うのなら、
道場の誰かに頼もうかな」
「もー、二人とも、いつまで続ける気よ。ほんとにやめてよね。居心地悪くなっちゃう
じゃない。私が大げさに心配したせいね。はい、これでこの話はおしまい。いざとなっ
たら、車で迎えに来てもらうことだってできるんだから」
「なるほど」
 唐沢は合点がいった風に、大げさに首肯した。そろそろ収拾を付けるべきだと考えた
のだろう。一方の相羽も、疲れたような嘆息をしながらも、「とりあえず、うぃっしゅ
亭に行ってくれたらいい」と結んだ。
「そうだ、涼原さんのバイトのこと、白沼さんにも言っていいのか?」
「何で気にするの」
 聞き返しつつも、純子は白沼の存在を気にした。確か、何かの委員会に顔を出さなき
ゃいけないとかで、早めにお昼を済ませて、教室を出て行った。まだ戻っていないよう
だ。
「いやほら、詳しくは知らないけどさ。白沼さんの親父さんか誰かが、仕事のオファー
を涼原さんに出してるんだろ? そんな最中に、他の仕事にまで手を出してるなんて知
ったら、彼女の性格からして怒る……は言い過ぎだとしても、不愉快に思うんじゃない
か。うちの仕事一本に絞ってよ!って」
「契約では、オファーされた期間中、他の仕事をしていいことになってて。もちろん、
被るというか競合するようなのはだめだけれど」
 純子は相羽を見た。一人で判断していいものやら、決めかねたため。
「別にいいんじゃないか。秘密にしておいて、あとで知られる方が、よっぽど決まりが
悪いよ。何なら、今日にでも唐沢が誘って、一緒にういっしゅ亭に行けばいい」
「前もって目的を告げずに、か? それ、ハードル高すぎだろ」
 片手で額を抱えるように押さえた唐沢。だが、腕の影から覗く表情は、面白がってい
る節も見受けられた。
「びっくりする顔が見たい気もするな」
「唐沢君が誘うだけでも、充分にびっくりされそうだけど」
 純子の呟きに、そうかもなと男子二人も頷く。
「あ、でも、白沼さん、店のこと知っているかもしれない。一度、白沼さんのお母さん
が買いにいらしたから」
「ははあ。その情報は……誘いやすくなったのか、逆なのか。ていうか、そもそも今
日、シフト入ってるの、涼原さん?」
「うん。なるべくたくさん入れてるわ」
「何でそんなにがんばるかねえ。絶対、コレの問題じゃないんだから」
 右手の親指と人差し指でコインの形を作る唐沢。相羽がその腕を叩いた。
「その手つき、やめ。何だか下品だ」
「じゃ、はっきり言う。お金が目当てじゃなく、体験が目的なら、そんなにいっぱい働
かなくても、充分じゃないの? 違うか?」
「それは」
 純子は人差し指を伸ばした右手を肩の高さまで上げて、答えようとした。が、相羽の
前で本当の理由を話すのは、やはり躊躇われる。無理。
「……それは?」
「ち、父の日のためよ。お父さん、表面的には許してくれてるけれど、芸能関係の仕
事、ほんとはやめてほしいみたいだから。だから、父の日のプレゼントを買うのは、ア
ルバイトで稼ごうかなって」
 咄嗟の思い付きでペラペラと答えた。心中では、予定にないことを口走って、頭を抱
える自分の姿を描いていたが。
(ああー、何てことを! これじゃあ、色々説明しなければないことが増えるし、下手
をしたら、相羽君に勘付かれる?)
 唐沢に向いていた目を、ちらと相羽に移す。特段、何かに気付いたとか閃いたとか、
そんな気配は彼から感じ取れない。ただただ、急に顔つきを曇らせ、
「純子ちゃんのお父さん、反対してるの?」
 と聞いてきた。
「え、えっと、全面的ってわけじゃなく、たまーにね。一時あったでしょ、水着の仕事
とか」
 適当な返事を続けざるを得ない。実際のところ、父が内心どう思っているかは聞いて
いないが、応援してくれているのは間違いない。ごく稀にだが、会社の上司の娘さんが
ファンでサインを頼まれた、なんてことを笑顔で言ってくるぐらいだから、悪い気はし
ていないはず。
「そんなら分かる。よし、売り上げに協力しましょう。白沼さんに声を掛けるかどうか
は別として、なるべく早く行くよ」
 唐沢が胸を叩くポーズをした。ちょうどそのタイミングで、白沼が教室に入ってくる
のが、純子の位置から見えた。すぐさま、唐沢にもジェスチャーで知らせる。
 唐沢は、胸を叩いた腕ともう片方の腕を組むと、首を傾げた。
「さて、どうすっかな」

――つづく




#507/512 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/512 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




#509/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/10/31  22:09  (389)
ほしの名は(前)  永山
★内容                                         17/11/03 17:56 修正 第2版
「全天で一番明るい天体がシリウスで、全天で一番遠い天体がさんかく座銀河で、全天
で一番好きな天体が地球で、そして、世界で一番好きな人が君」
 それは夜、皆から離れ、ペンションの広いベランダに出て、彼の好きな星の話を聞い
ているとき、突然起きた出来事だった。
 突然だったので、もちろんびっくりしたけれども、それ以上に笑ってしまいそうにな
った。笑いと涙を堪えながら、聞き返す。
「何それやだ。ただでさえ涼しくて肌寒いくらいなのに、寒い冗談やめてよね」
「ほんとに嫌か? それならやめるけど……こっちは本気で付き合って欲しいと思って
るから」
「――か。考えさせて」
 言ってしまった。即OKでもよかったんだ。ただ、軽いと見られたくなかったから、
少し引っ張ることにした。
「どのぐらい?」
 そう質問してくる方に顔を向けると、彼――君津誉士夫(きみづほしお)は、斜め上
を見たままだった。こっちが黙っていたせいか、彼はまた言った。
「どのぐらい考えるんだ? 何光年とかじゃないことを願う」
「光年は距離の単位でしょうが」
「そこはニュアンスで。それで、どのぐらい?」
「うーん、三日ぐらい」
「それでも長い。実は自分、この間、他の人から告白されてさ」
 えっ、と思うより、ぎょっとした。あっさり言うようなことかしら。
「好きな人がいるからって断ったんだけど、まだ告白してないのを知ると、さっさと告
白しろと言うんだ。ふられたら、またアタックしてくるつもりだってさ」
「誰から?」
「それはルール違反だろっ」
「クラスにいるかどうかぐらいなら、言えるんじゃない?」
 室内の方を肩越しにちらっと見て、すぐに視線を戻す。夏休みに入って、私達は林間
学校に来ている。ほぼ全員が参加しているけれども、その中に、君津へ告白した子がい
るんだろうか。
「だめだ」
 君津は案外、頑なだった。
「それより、林間学校が終わるまでに返事、くれないか」
「……いいよ。すぐ返事するから。OKだよ」
 私は気持ちに勢いを付けてそう言った。相手の顔を見る余裕はなかったけれども、も
し見ていたら、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を観察できたかもしれない。
「え……っと、急展開過ぎるんだけど」
 急な告白をしてきたくせに、どの口が言うか。
「君津に告白してきた相手に、結果を早く知らせといてよ。変に隠しておいて、恨まれ
ちゃかなわないわ」
 明るい調子で要求して、その場を離れた。みんなのいるところに戻っても普段通りで
いられる自信は、ある。

           *            *

 告白から十年近くが過ぎた。時代は平成になっていた。
 君津はヨーロッパにいた。高校二年時に交換留学の形で渡ったのが、きっかけになっ
た。グループ単位の自由研究の授業で、太陽光電池のアイディアを発表すると、その効
率性が高く評価された。担任教師がその手の企業に伝があり、地元企業と協力してのプ
ロジェクトがあれよあれよとまとまった。君津も参加を条件に飛び級での大学進学も可
能だと言われて、迷った末にやってみることに決めた。その時点で両親とも天に召され
ていたのも大きかった。恋人のことを除けば、迷う要素は、天文学の道を断念するのが
惜しいと感じたくらいだった。
 遠距離恋愛を強いられた君津誉士夫だったが、連絡は定期的にしていたし、回数こそ
少ないが日本に帰れるときには必ず帰った。付き合いは順調で、お互いの家族にも、そ
の存在を仄めかす程度にまで進んでいた。
 だから、彼女と急に連絡が取れなくなったときは、ほんの短い間だというのに焦りに
さいなまれた。折悪しく、プロジェクトが山場に差し掛かって多忙を極めたため、帰国
はおろか、知り合いに彼女のことを尋ねる暇すらなかった。
 そして八日後。どうにか時間を見付け、電話や電子メールで知り合いに聞いてみた
が、まともな情報は返って来なかった。電話の相手は素っ気なく、電子メールの文面は
意図的に話題をそらしている節があった。そして返ってくる答は最終的にいつも「分か
らない」「知らない」だった。
 輪を掛けておかしいのは、実家暮らしの彼女の自宅固定電話に掛けても、常に話し中
なのだ。送受器を外しているとしか思えない。
 不可解さが解消されぬまま、再び仕事に戻らなければならない、その直前のタイミン
グで、電話が掛かってきた。小学校のときから付き合いのある、荒田勇人からだった。
「まだ何も聞かされていないんだな?」
 お互いの近況を報告する間もなく、本題から入った。
「ああ。何が起きてるんだ?」
「それは……直に教えるのは、俺もきつい」
「どうしてだよ。わざわざ電話をくれたのは、教えるためじゃないのか」
「……そっちに、日本のニュースは伝わってないのか」
「全然ない訳じゃないけれど、大きなニュースじゃないと。おい、何だよ。新聞種にな
るようなことに巻き込まれたとでも言うのか」
「……しょうがないか。誰でも嫌がるよな、こんな役目。俺が言わなきゃ、いつまでも
このまんまだ」
「そうだ、言ってくれよ!」
「今、一人だな? 周りに人がいないなって意味だ」
 君津は思わず無言で頷いた。五秒ほどして気が付いて、「誰もいない」と答えた。
「そうか。――最悪を想像して、心構えをしろ。それと、俺は事実を伝えたあと、すぐ
に電話を切るからな。細かいことを聞かれても、俺もほとんど知らないし」
「分かった。電話代も掛かるだろう」
 早くなる心臓の鼓動。緊張感で汗ばむ手のひら。せめてジョークの一つでも言って、
僅かでも落ち着こうとしたが、全く変わらなかった。
「一回しか言わない。録音できるならした方がいい。できないなら、メモを取ってく
れ」
「待ってくれ――準備できた」
 極力、平静さを保とうと努める君津に、荒田はニュースキャスターみたいな抑揚で、
早口に言った。
「――え?」
 聞き直した君津。荒田は一回きりのはずが、もう一度だけ繰り返して話してくれた。

 きっかけになったのは、小学校の同窓会だった。
 六年三組の一クラスだけの集まりだから、さほど大規模ではなかった。ただ、開催前
からかなりの盛り上がりを見せ、参加OKは九割超え。当初は適当な居酒屋で行うつも
りだったのが、あれよあれよと話がまとまり、ホテルの宴会場を借りるまでになった。
さらに、泊まりたい者はそのまま宿泊できるオプション付き。
 そして、事件は泊まりになったクラスメートの間で起きた。殺人だった。
 死んだのは村木多栄。小学生時は小柄だが活発で、勢いに任せて好きなことなら何で
もチャレンジしてみたがるタイプだったが、大学生になった今は、正反対なまでに大人
しくなったように、かつてのクラスメートらの眼には映った。昔が活発に過ぎたせい
で、極当たり前の分別を身に付けただけなのが、殊更おしとやかに見えたのかもしれな
い。
 だからという訳でもないが、村木多栄を殺すような者が元同級生の間にいるなんて、
俄には信じられない。それが素直な感想……になるはずだった。
 実際は違った。何故なら、村木多栄はダイイングメッセージを遺したのだ。
 いや、正確に言い直そう。村木多栄がメッセージを残すところを、大勢が目撃したの
である。
 夜の十一時を回った頃、ホテルの裏庭に当たるスペースで、村木多栄は倒れていた。
仰向けだが、やや身体の右側を下にする格好で、弱い外灯に照らされていた。
 第一発見者は、酔いさましに出て来たという財前雅実と、財前と交際中だと宣言・報
告した綿部阿矢彦。大学が異なる二人が再会し、付き合いだしたきっかけは、大道芸の
サークルに入った綿部が、往来でセミプロ級の技を披露しているところへ、財前が通り
掛かったという偶然だった。
 そんないきさつはさておき……倒れている村木を見た財前が、盛大に悲鳴を上げたた
めに人が一挙に増えた。その衆目のただ中、綿部が村木を抱え起こそうとした。が、一
瞬、彼の動きが止まる。村木多栄の口から下が赤く染まっていた。それでも綿部の躊躇
はすぐに消え、片腕を村木の背中側に回し、上体を起こしてやった。そうする間にも、
財前が村木に声を掛け続ける。
 やがて話し疲れたのか、財前が静かになると、今度は綿部が村木の名前を呼ぶ。この
頃になると、半径二メートル以内に、元クラスメートが十人前後集まっていた。綿部が
「誰か救急車を!」と叫ぶ。
 そのとき、村木多栄の口が動いた。そして彼女が喋り出す。
「刺さ、れた」
「え、刺された? 誰に?」
 思わず聞き返した様子の綿部。本来なら、意識があると確認できた時点で、無駄に体
力を使わせるべきではない状況と言えそうだが、かまっていられなかったようだ。
 村木の生気の乏しい眼を見返しながら、身体を少し揺さぶる綿部。
「しっかりしろ、村木さん!」
「きみにやられた」
「君?」
 ぎょっとした風にしかめ面をなす綿部。周りにも聞き取れた者がいたらしく、多少ざ
わついた。
「星川希美子が、刺した」
 最後の力を振り絞るような響きで、その声が告げた。
 星川希美子。小学六年生のときに副委員長を務めた彼女は、同窓会には間違いなく出
席していたが、今この周辺に姿は見当たらなかった。
「――村木さん? おい、しっかり」
 先程よりも激しく村木を揺さぶる綿部。その行為の原因は明らかで、村木多栄の頭が
ぐにゃりと力なく下を向いたのだ。
「安静にした方が」
 そんな声が周りから飛んだ。手を貸そうとする男も現れた。その内の一人、戸倉憲吾
と綿部、そして財前雅実の三人でゆっくりと村木を横たえていく。
「うん?」
 途中で綿部が、続いて戸倉がやや驚いたような声を発した。
「首の後ろに、何かある」
 男二人は言った。
 横たえる動作を中断し、村木の身体の左側を下にする形でキープし、彼女のうなじを
確認した。
「これは」
 戸倉はそれきり絶句し、綿部も息を飲んでいた。財前が悲鳴を上げ、それはほとんど
時差なく、周囲の者達にも伝播した。
 村木多栄のうなじからは、二本の細い串のような物が突き出ていた。照明を浴びて、
銀色に照り返していた。

 同窓会が開かれた頃、日本では、無差別と思われる連続殺人事件が世間を騒がせ、話
題になっていた。
 殺人鬼のニックネームは牙。バーベキューで肉を刺して焼くのに使うような鉄串を二
本、被害者の身体のどこかに突き刺すのがトレードマークで、その対の鉄串を蛇や猛獣
の牙に見立てたのが由来とされる。くだんの鉄串は大量生産の流通品で、誰にでも買え
る代物。持ち手の部分が何度か捻ってあり、持ちやすいとはいえ、凶器としては扱いに
くい。実際、牙の殺害方法は絞殺がほとんどで、串を刺すのは犠牲者が死んだあとだっ
た。半年ほどの間に五人の被害者が出ていたが、犯人の逮捕には至っていなかった。
 そんな折に、同窓会で発生した村木多栄殺しは、牙の犯行のように見えた。死因は絞
殺ではなく腰部を背後から刺されたことによる失血死だったが、これまでの牙の犯行に
も刺殺はあったので、それほどおかしくはない。絶命前に串を刺している点が、大きく
異なるが、ホテルという限られた敷地を現場に選び、しかも同窓会開催で人の行き来も
そこそこあったのだから、さしもの牙も死亡を確認する余裕がなかったと捉えれば合点
がいく。
 問題は、村木多栄が死の間際、「星川希美子にやられた」という意味の言葉を言い遺
したと、大勢が証言したことである。
 部屋で休んでいた星川希美子は、通報により駆け付けた捜査官により、程なくして身
柄を確保された。事情聴取において、彼女は当然のことながら犯行を否認した。無論、
殺人鬼の牙ではないかという疑いについても、完全に否定した。
 凶器は未発見かつ不明。鉄串から不審人物の指紋は検出されず、また、足跡や毛髪と
いった、具体的に星川を示す物証が現場にあった訳でもない。警察にとって、攻め手は
ダイイングメッセージだけだった。
 ただ漫然と星川希美子を取り調べるだけでは、進展が望めない。捜査陣はまず、今ま
でに起きた牙の仕業とされる殺人事件について、星川希美子が本当に犯行可能だったの
かを検証した。犯行推定時刻が割り出されているので、それらの時間帯のアリバイの有
無を調査するのだ。
 その結果、五件の内の三件において、アリバイが成立。加えて、残る二件の内の一件
は、体格的にも体力的にも星川希美子を大きく上回る男性が被害者で、星川に限らず、
並みの女性に絞殺できるとは考えにくかった。
 そうなると浮上したのが、模倣説。星川が行ったのは村木多栄殺しの一件のみである
が、牙の犯行に見せ掛ける目的で、鉄串二本を突き刺したのだろうという見方だ。
 この説を星川にぶつけると、これまた当然であるが、否定が返ってきた。当初に比べ
て冷静さを取り戻した彼女は、「無差別殺人鬼の真似をするのであれば、今度の同窓会
のような限られた場所で行うなんて馬鹿げている。誰もが出入りできる、開けた空間で
やらないと意味がない」とまで言い切った。
 星川の反論には首肯できる部分もあったが、容疑者当人が言い出したせいで、一部の
捜査員にはかえって疑惑を強める逆効果となった。
 村木多栄殺しに関して、白黒を見極められぬまま、警察は捜査を進めざるを得なかっ
た。

            *             *

「早速で悪いんだけど」
 電話口でそう切り出した君津。続きを口にする前に、相手が言った。
「全然、悪くないわよ。多栄の事件のことでしょう? 遠慮なしに聞いて頂戴。知って
ることは何でも答える」
 相手は財前雅実である。電話では顔が見えないし、想像しようにも小学生時代の容貌
しか浮かばない。君津はイメージをなるべく膨らませて、脳裏に今の財前の顔を思い浮
かべた。
 だが、時間は余り掛けられない。恋人のためとは言え、国際電話に費やせる金には限
度がある。他にも何人かに電話することになるのは確実だ。
「まず、財前さんに言う筋合いではないかもしれないけど、みんなはどうして事件のこ
とを知らせてくれなかったんだろう?」
「それは……」
 言い淀む財前。君津は五秒だけ待つと決めた。五秒経過する寸前に、相手からの声が
届いた。
「やっぱり、いい知らせじゃないし、知らせたってあなたを動揺させるだけで、どうし
ようもない。みんなそう思ったんじゃないの」
「そういうものか。全てを投げ出して、飛んで帰るかもしれないのに」
「実際問題、まだ日本に帰ってきてないんでしょう?」
「それはまあそうだけれど」
「あなたがそっちで成功してるっていう彼女の自慢話、結構広まっててね。その邪魔を
したくないっていう気持ちもあったのよ、きっと」
「ふうん。まあ、分からないでもない。でも、僕が電子メールで問い合わせたなら、真
実を話してくれていいんじゃないか」
「……言えないわよ。他の誰かが言うだろうって、逃げたくなる役目だわ」
「なるほどね。荒田の奴も、似たようなことを言っていた。よし、じゃあ次。事件のと
きのことをなるべく詳しく教えて欲しい」
 気持ちを切り替え、いよいよ本題に入る。
「詳しくと言われても、私はそばでおろおろしていただけよ。多栄が倒れているのを見
付ける前に、何か目撃した訳でもないし」
「目撃してないっていうのは、怪しい人物とか妙な出来事とかはなかったっていう意
味?」
「そうなるわね」
「じゃあ……串は何センチぐらい突き出ていた?」
「えっと、五センチぐらい? ど、どうしてそんなことを知りたがるのよ」
「突き刺さっていた部分は、何センチぐらいなんだろう?」
「分かんないわよ、そんなことまで。全体の三分の二程じゃないの」
「そうだとしたら十センチか。なあ。うなじから五センチ、異物が飛び出ている人を仰
向けの状態から抱き起こそうとしたら、その異物に手が触れるのが普通と思わないか
?」
「――何それ? まさか、綿部を疑ってるの?」
 声が甲高くなる財前。付き合っている相手を悪く言われそうなのだから、当たり前だ
ろう。この質問はまだ早かったかと悔やんだ君津だが、もう後戻りはできない。
「疑ってるんじゃないよ。不自然さを少し感じただけ。綿部は首の後ろ側に腕を回さな
かったのかな」
「……回さなかったんでしょうね、鉄串に気付かなかったんだから」
 そう返事してから数拍間を取り、財前はさらに言葉を重ねた。
「多栄の顔面は、口の辺りから下、ずっと血塗れだったのよ。その血が首の側に流れて
きていた。首に腕を回すと、血で汚れてしまうとほとんど無意識で判断して、別のとこ
ろに腕を入れたのよ、多分」
「そうか。あり得るね。全然、不自然じゃない」
 一旦、相手の言葉を認め、穏やかな口調に努める。財前の安堵の息を聞いてから、別
の質問をぶつける。
「財前さんは、この殺人事件が牙の犯行だと思ってる? それとも、模倣だと?」
「そりゃあもちろん、模倣よ。希美――星川さんが無差別に人を殺してるなんて、さす
がに信じられないし、以前の事件ではアリバイもあるっていうし」
「模倣だとしたら、村木さんを殺す個人的動機があったことになる。それについて、何
か思い当たる節はある?」
「思い当たる節、ねえ……。二人は確か中学まで一緒だったけど、仲が悪いようなこと
はなくて、どちらかと言えば仲良しに見えた。私は村木さん、苦手だったけど、星川さ
んは誰とでも仲よくなれる、一種の才能みたいなものがあった。だから人気もあって…
…」
 答が脱線していることに気付いたか、財前はぴたりと黙った。が、じきに再開する。
「そうね。妬まれて殺されるとしたら、星川さんの方ね。だめだわ、何にも思い付かな
い」
「そうか。君でも分からないか」
 君津は応じながら、先程浮かんだ疑問を持ち出すことにした。
「さっき、口から首の方へ血が流れていたと言ったよね」
「ええ、そういう意味のことをね」
「仰向けだったんだから、出血は口からあった。刺されたのは腰の辺りだから、関係な
い。ということは、鉄の串はうなじを通って、口の内側にまで突き抜けていたんだろう
か」
「確かそうなっていたと聞いたわ。さ、参考になるかどうか知らないけれど、うなじの
方の傷はきゅって閉まっていて、血はほとんど流れ出ていなかったって」
 刺さったままの串が栓の役割を果たしたに違いない。口腔内は外の皮膚に比べれば柔
らかいだろうから、出血を止めるほどには収縮しなかったのだろう。
「うなじから口に串が突き抜けたなら、即死するんじゃないだろうか? 延髄って、そ
の辺りにあるんじゃなかったっけ? 確か、延髄に強い衝撃を受けると、死亡すると聞
いた記憶があるんだけど」
 プロレス技の一つ、延髄斬りに纏わるこぼれ話を、君津は思い浮かべていた。プロレ
スのテレビ中継で散々聞かされたものだ。延髄を蹴られたら普通の人間は死ぬ、とかど
うとか。
「延髄は滅茶苦茶太いもんじゃないし、うなじだって延髄と重なっていない部分は結構
あるわ。串が延髄を傷付けずに口の方へ貫通することは、充分にあり得るんじゃないか
しら」
「……財前さん、医大とか看護学校に入ったんじゃないよね」
「え、ええ。あ、今さっき喋ったのは受け売り。私達の小学生の頃ってプロレスが流行
ってたでしょ。特に男子の間で。そのせいで、延髄を蹴られたら死ぬっていう話を、事
件のときも誰かがその場で言い出したのよ。それを聞いた刑事さんだったかお医者さん
だったかが、今みたいな説明をしてくれたの」
 納得しかけた君津だったが、あることに気付いて、電話口にもかかわらず首を傾げ
た。自らのうなじを触りながら、その気付きについて言ってみる。
「一般論として、犯人が相手を殺すつもりなら、うなじに串を二本刺すつもりでも、一
本目はど真ん中を狙うんじゃないかな? わざわざ延髄を避けるような位置に刺すのは
おかしい気がする。だいたい、牙の仕業なら、あるいは牙の仕業に見せ掛けたいのな
ら、被害者が絶命後に刺すものだろう。それができない状況だったら、串を刺す行為自
体で絶命させようとするのが殺人犯の心理だと思うが」
「ああ、もう、知らないわよ。犯人じゃあるまいし、そんなことまで分かるはずないじ
ゃない。模倣犯なんだから、まだ殺せていないのに殺したと信じちゃったんじゃない
の?」
「……そうかもしれないね」
「君津君、やっぱり悪いけど、もういいかしら。思い出す内に、気分が悪くなって来ち
ゃって」
 そう言ってすぐにでも電話を切りそうな口調に、君津は慌てて反応した。
「あと一つだけ。事件そのもののことじゃないから」
「事件じゃないなら、何?」
「君が付き合ってる相手のこと。僕が君からの告白を断ったあと、君が選ぶくらいだか
ら、綿部の奴、よほどいい男になったんだろうなって思ってね」
「ま、まあね」
「確か、綿部の一つ上のお姉さんと仲よかったんだっけ? それがきっかけ?」
「全然。きっかけはもっとあと。大学に入ってから、彼の路上パフォーマンスを見たか
らだけれど、今は内面で通じ合ってるっていうか」
 財前は照れたのか、早口になった。
「そう言えば、その路上パフォーマンスっていうか大道芸って、どんなの?」
「それは……」
 答えそうになりながら、何故かしらやめた財前。
「彼から直に聞くといいわ。どうせ、綿部にも電話をするんでしょう?」

 財前雅実に続いて、綿部阿矢彦にも電話した。間を空けなかったのは、財前から綿部
に前もって通話内容が伝わるのを防ぐため。君津の腹づもりとしては、先入観の排除が
目的なのだが、こうして嗅ぎ回るのは犯人捜しと受け取られる面もあると、財前への電
話で自覚した。
「連絡しなくて、済まなかった」
 簡単な挨拶のあと、綿部が開口一番に言ったのがこれだった。財前から話が伝わって
いたのかと疑った君津だったが、すぐに払拭した。
「別に気にしちゃいない。だいいち、連絡方法がなかったろう、そっちからは」
「それもそうだ。だけど、そっちこそ俺が自宅暮らしじゃなかったら、この電話、どう
するつもりだった?」
「親御さんにお願いして、新しい番号を教えてもらうつもりだった。それでもだめな
ら、他の友達を当たる」
「すまん。俺はそこまで必死になれないだろうな。事件は悪いニュースだから、わざわ
ざしなくてもって思ったろう」
「気にすんな。それよりも、早いとこ用件に取り掛かりたい」
「分かった。何が聞きたい?」
「最初に断っておくと、これは疑ってるんじゃなく、確認のために聞くんだ。村木さん
を抱え起こしたとき、首の後ろの串には気が付かなかったのかどうか」
「うむ……うーん」
 しばらく黙る綿部。いや、唸り声だけは小さく続いていた。
「気付かなかったとしか言いようがない。ひょっとしたら、ちょっとくらい触ったかも
しれないが、だとしても、アクセサリーか何かだと判断したろうな。それくらい緊迫し
た状況だった」
「うん、そういうこともあるかもしれないな。言われて初めて思い当たった」
 君津は一応、疑問を引っ込めた。完全に合点が行ったのではないが、一つの捉え方と
して受け入れた。
 このあとも基本的な質問をした。怪しい人物は見掛けなかったか、何かおかしなこと
は起きていなかったか。いずれも、綿部の返答はノーだった。
「ところで綿部はこの事件、模倣説を支持している?」
「殺人鬼・牙の真似をしたっていう? ああ、まあそう解釈するのが妥当じゃないか」
「だったら、村木さんが殺された動機は何だと思う。聞かせてくれ」
「うーん。映画やドラマなんかだと、子供のときに友達同士で、二人だけの秘密を持っ
ていて、大人になった今ではその秘密が公になると非常にまずい、だから口封じのため
に殺す、なんてのがあるけれど」
「そんな検証のしようがないことを言われても、だな」
「そうだよな。うーん」
 唸ったきり、綿部の口から次の仮説は出て来なかった。君津は動機に関しては切り上
げることにした。
「何にも浮かばないってことは、財前さんとうまくやってるんだろうな。はは」
「そ、それとこれとは話が別だ」
「うまく行ってないのか?」
「そんなことはない。だから、話の次元が違うってんだよ」
「大道芸の技を見せてやったり、教えてやったりしているんだろ?」
「……のろけてもいいのか? 君津の方は恋人がこんなことになってるっていうのに」
「少しぐらいなら。あ、いや、その前に、どんなパフォーマンスができるんだよ? ブ
レイクダンスとかか」
「違う違う、ほんとにいかにもな大道芸ばっかりさ。ジャグリングとか物真似とか、あ
と筒乗りとか」
「筒乗りって?」
 一瞬だが、焼き海苔の入った筒を想像してしまった君津。
「玉乗りの変形バージョンって言うのが分かりやすいかな。金属製の筒状の物体を寝か
して、上に板を載せて、その板の上に俺が立ってバランスを取るんだ」
「あ、分かった。テレビで見たことある」
 しばらく事件とは無関係な話題を選び、相手の気持ちと口がまたほぐれるのを待つ。
頃合いを見て、改めて事件の話に戻った。と言っても、残る質問は少ない。
「もう少し発見が早かったら、助けられたと思うか?」
「……いや。難しかったと思う。現実には助けられなかったから、俺がそう信じたいと
いうのもあるかもしれないが、実際問題、村木さんの身体はかなり冷たく感じたんだ。
あれは恐らく、少々発見が早かったくらいじゃ、助からない」
「ということは、犯行からはだいぶ時間が経っていたと」
「い、いや、そこまでは分からねえよ。そんな気がしただけだ」
「時間がだいぶ経っていたと仮定して、どうして星川さんは逃げなかったんだろう?」
「それは……逃げたら怪しまれるからじゃないか」
「動機が見当たらないのに、か」
「だったら……ああ、星川さん、ホテルに宿泊をすることにしていたから。宿泊をキャ
ンセルして逃げ出したら、怪しまれて当然だ」
「いや、根本的な疑問として、何故、宿泊を決めてたんだろう? 鉄串を用意していた
ってことは、計画的な殺人だ。殺したあと、のうのうと犯行現場のホテルに泊まるだな
んて、普通じゃない。最初から日帰りにすればいいんだ」
「……俺にはもう分からん。頭が痛くなってきたよ」
 急に弛緩したような軽い口調で言い、綿部は笑い声を立てた。頭痛というのは事実な
のか、どことなく疲れた笑いに聞こえる。
 潮時と判断した君津は、相手に礼を述べて通話を終えた。

――続く




#510/512 ●長編    *** コメント #509 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/01  00:08  (395)
ほしの名は(後)  永山
★内容                                         17/11/03 17:57 修正 第2版
 死に瀕した村木多栄に触れた最後の一人、戸倉憲吾にも電話をした。
 君津と戸倉は小学生時代はさほど親しくなかったが、中学に入ってから変化が生じ
た。ともに頭はよい方だが、君津が閃きを重視するタイプであるのに対し、戸倉は論理
を一から積み上げるという違いがあった。そこが互いに魅力に映ったのだろうか、何か
と馬が合い、以後、付き合いは長く続いた。君津の海外留学を機に、さすがにやや疎遠
になったが、それでも電子メールでのやり取りぐらいはたまにあった。現在、戸倉はコ
ンピューターで様々な音を合成することを研究テーマにしているらしい。
「伝える役をしなければならないとしたら、自分だったんだろうな」
 戸倉は些か自嘲気味に、そして後悔を滲ませた口ぶりで始めた。君津は本題と余り関
係のない話が長引くのを嫌って、「それはもういいから」と言った。
 しかし、戸倉は意外な頑なさを見せた。
「躊躇したのには理由があるんだ」
「理由って、どうせあれだろ。知らせてもどうしようもないし、日本にすぐさま帰って
来られる訳じゃないしっていう。聞き飽きたよ」
「違うんだ。言いたいのはそんなことじゃなくて、もっとちゃんとした理由さ。事件が
起きた、村木さんが殺されたと知ったとき、僕はすぐに思ったんだよ。もしかしたら財
前さんが殺したんじゃないかって」
「え? 何でまた?」
「知らないみたいだな、やっぱり。財前さんから告白されたことがあるって聞いてたか
ら、ひょっとしたら君津も知ってるのかなとも思ってたんだが」
「おい、分かるように話してくれよ」
 送受器を持ち替え、握る手にも声にも力が入る。君津は手のひらに多めの汗を感じ
た。
「ちょっと頭の中で整理するから、待ってくれ。――よし。今から話すのは、僕が中一
のときに、女子の会話を立ち聞きして知ったことだ。噂話みたいなもんだったし、わざ
わざ言いふらすようなものじゃなかったので、誰にも言ったことはない。それから、財
前さんの立場からの話だということに、注意して欲しい」
 承知したという意味で、君津は「ああ」と短く言った。
「財前さんが小学生のとき、君津に告白したのって、何だか急じゃなかったか?」
「ううん、急かどうか分からないけれど、バレンタインとか卒業とかのイベントにかこ
つけた告白ではなかったな。急な告白に意味があったっていうのか?」
「意味というか、理由だな。財前さん、他の人から告白されて、それを断るために急い
でおまえに告白したらしいんだ」
「それって僕自身と同じ……」
「状況は同じようなもんだったろうな。違うのは、財前さんが告白された相手っていう
のが、同性だったってことだ」
「はあ、女子から告白されたってか?」
 さすがに驚いた。小学生で同性から告白されるってのは、どんな気持ちになるものな
んだろうか。
「そう聞いた。その相手が、村木さんなんだ」
 村木多栄が財前雅実に告白を。
 それは確かに隠された事実かもしれない。が、だからといって、財前が村木を殺害す
る動機はどこから生じるのだろう。逆なら、つまり告白してふられた村木が、財前を憎
んで殺すのなら――どうして今さらという疑問は残るが――まだ理解できなくもない
が。
「何で、財前さんが殺したと思った?」
「おまえにふられた財前さんは、村木さんの告白を断れなかった。好奇心もあって付き
合ってみたらしい。だが、一年ほど経って後悔した。村木さんの方が飽きて、関係は自
然消滅したんだ。財前さんにとったら、いい面の皮だよな。これは僕の勝手な想像だ
が、文句を言うなり、秘密を暴露してやるなりしたくても、彼女自身にとっても相手に
秘密を知られている状況だし、言えなかったんじゃないか。唯一人、愚痴をこぼした相
手が綿部千代、綿部のお姉さん」
「え」
「その二人の会話を、僕が偶然、立ち聞きしたって訳。これなら、財前さんが根に持っ
ていてもおかしくはないだろ」
「分かるけど、今になって、わざわざ殺す程には思えないな」
「そこは同感。だからこそ、僕も警察には何も言わなかった。ただ、同窓会に出たなら
分かると思うんだが、財前さんは綿部と交際中の割には、幸せオーラがたいして感じら
れなかった。どちらかというと緊張していてさ。まあ、冷やかされるのを覚悟していた
せいかもしれないが」
「同窓会で、自分達よりも幸せそうな村木さんを見て、昔の恨みが殺意までに強まった
と?」
「そこまでは言ってない。村木さんの方も特に幸せそうに見えた訳じゃないし。犯人は
鉄串を用意していた、つまり犯行は計画的。動機は、同窓会当日に作られた殺意じゃな
いはず」
「だよな」
「このことを警察に言っていれば、星川さんがあんなあっさり逮捕されることはなかっ
たなじゃないか。そう思うと、おまえに連絡する勇気が出なかった」
 やっと理屈がつながって、君津は納得できた。
(星川さん――僕の彼女が警察に拘束されたのは、村木さんが名前を言い遺したのが大
きな理由だろ。それなのに、細かいことを気にするなんて。戸倉らしいっちゃらしいけ
ど)
 ちょっぴり感動しつつ、それ以上に厄介な性格だなと笑い飛ばしたくなった君津。だ
が、恋人が逮捕されたままという現実の前に、笑っている暇はない。
「計画犯罪なら、動機も以前からあったに違いない。その条件に、星川さんが当てはま
るとは思えないんだ」
「知り限りじゃ、動機がありそうなのは、さっき言った財前さんだけだぜ。しかし、財
前さん以外に動機のある人物がいようがいまいが、ダイイングメッセージが全てを否定
してしまう」
 そうなのだ。いくら他の容疑者を挙げようとも、星川希美子の名を言い遺した事実が
立ちはだかる。君津と星川を苦しめる。
「君津、こっちはとことんまで付き合えるが、そっちは大丈夫か」
「ああ。仕事、いや、明日は大学の方だっけ。それが始まるまでは、徹夜も厭わない
よ」
「じゃあ、まず……星川さんは犯人ではないと決め付ける。そこから出発だ」
「言われなくても、そうしてる」
「もっと積極的に、かつ、論理的に活用するんだ。閃き型のおまえには難しいかもしれ
んが」
「論理派を自認するのなら、分かり易く言ってくれよ」
「つまりだな。星川さんが犯人でないなら、何で村木さんは、犯人は星川さんだと告発
したのか。この謎を解き明かす必要があるってことさ」
「そういう意味か。確かにな。――見間違えた、とか」
 早速、閃いた仮説を、大した自己検討もせずに口に出す。
「犯人は星川さんとそっくりの格好・変装をして、村木さんを襲った。村木さんは当
然、星川さんに刺されたと思い込む」
「うーむ。理屈だけなら成り立つだろうが、実際のところはどうなんだろうな。この場
合、本当にそっくりに化けなければ、星川さんの名前を出すまでには至らないはず。と
なると、何はともあれ、顔を似せねばならない」
「よくできたゴム製の被り物なら、かなり本物っぽく見えるんじゃないか。前に、映画
で見たんだ。犯行はあっという間に終わるし」
「いや、難しい気がする。まず、犯行はあっという間と言うが、刺すのは一瞬で済んで
も、鉄串が残っている。二本続けて刺すのは、結構時間を要するんじゃないか。見ただ
けで被り物に気付かれるか否かは五分五分ぐらいとしても、村木さんの反撃に遭って被
り物に触られる可能性が高い」
「戸倉の言いたいことは分かるけれど、それだけでは否定の根拠として認められない」
「まだある。当日、村木さんと星川さんは顔を合わせている点だ。長い間会っていなく
て、いきなり犯行に及ぶのであれば、変装は適当なレベルで大丈夫だろう。しかし、当
日会ったとなると、話は違う。顔だけでなく、化粧の具合や背格好、全体から受ける印
象、髪型や服装、靴まで揃えないと、村木さんに違和感を与える恐れがある」
「……化粧に髪型、服装は、当日にならないと分からない、か。泊まるつもりで来てい
るのなら、着替えて別の服になっていてもおかしくはないが、化粧と髪型をその日の内
に変えるのは相当不自然。よって、見間違い説、いや、変装説は除外される」
「ちなみに、単なる見間違いも起こらなかったと思う。当日の星川さんとそっくりの姿
形をした出席者は、女性にせよ男性にせよいなかったと僕が保証しよう」
 こんな場合に男まで含めて論じるのも、戸倉らしいと、君津は思った。
「論理展開は頼もしいが、謎の解明には近付いていない。まあ、変装説等が間違ってい
たと分かったのは、前進と言えるけれども」
「もう仮説はないか?」
「ない。時間が経てば閃くかもしれないし、閃かないかもしれないが、現時点では手持
ちはゼロだ」
「こっちも大した説はないんだが、気になることが一つできた。村木さんがはっきりと
星川さんの名前を出したということは、真犯人は星川さんに濡れ衣を着せる意図が明確
にあったと言えるんじゃないか?」
「それは要するに……犯人は他の誰でもなく、星川さんに罪を被せたかったという意味
だな。言い換えると、犯人は村木さんだけでなく、星川さんにも恨みを抱いていた」
「その通り。そして星川さんに恨みを抱くという条件にも、財前さんは当てはまる」
「そうなるのか」
 ぴんと来なくて、君津は問い返した。
「自覚がないのか。おまえは財前さんを振ったんだろう。彼女にしてみれば、君津誉士
夫を手に入れた女、星川希美子に対して敗北感を感じたかもしれない。憎く思ったとし
ても、不思議ではあるまい」
「恨むなら、僕自身を恨むものだと思ってた」
 率直な感想を述べた君津に、戸倉は少しだけ笑い声を漏らした。
「そう思ってるのなら、一応、注意しとけよ。このあと、財前さんがおまえも刺しに行
くかもしれないぞ」
「まさか」
「言ってる自分も、どこまで冗談のつもりなのか、測れてないんだぜ。今の時点で、星
川さんを除いた犯人の最有力候補は財前さんなんだからな」
「僕の記憶にある財前さんは、そんなことする人には全然見えないな」
「当たり前だ。僕だって、信じられん。第一、君津が今思い浮かべてる財前さんての
は、大方、告白してきた小学生の頃の姿なんだろう」
「当たらずとも遠からず、とだけ言っておく。けど、仮に財前さんが犯人だとして、こ
んな大胆な犯行ってやれるもんかな?」
「大胆とは、同窓会で殺すっていう点か」
「それもあるが、襲ってから間もない段階で、彼氏と一緒に発見役を演じるなんて。他
に適当なアリバイ証人が見付からなかったのかもしれないが、だからといって、好きな
男を巻き込むかね」
「そりゃあ、ばれない気でいるからだろう」
「あるいは、端からアリバイ証人にするために付き合い始めた、なんて……」
 他愛もない思い付きを言葉にしただけのつもりだった。だが、何かが君津の脳裏によ
ぎり、引っ掛かった。
「君津?」
 押し黙った君津の耳に、戸倉の声が届く。
「――最初っから、綿部も承知の上だった、共犯だったと考えれば」
「え? 何だって」
 一段と大きな声量になった戸倉。君津は興奮気味に、負けないくらいの大きな声で返
事した。
「そうだ、そうなんだ。綿部が技を彼女に教えたとしたら、謎は解ける!」

            *             *

 空港に降り立ったときは、あいにくの雨だった。折角の連休も予定が多少狂う人が大
勢いるに違いない。
 手続きを済ませ、多くない荷物を受け取ると、都心まで直行する。小さな子供の頃に
はまずくてとても飲めなかったブラックの缶コーヒーで、眠気を少しでも飛ばしてお
く。
 駅の改札を出たところで、三人の姿が視界に入った。
「やあ。久しぶり」
 軽く手を挙げてから、平常心に努めつつ言った。
 三人の中から真っ先に駆け寄ってきたのは、財前雅実だった。
「久しぶり! だけど、感動の反応が薄いわね」
「少し疲れてるし、帰ってきた理由が理由だから」
「そうね。……まあ、思っていた通りのいい男に育ってるわね。見た目だけでも元気そ
うで、安心したわ」
 財前は後ろを振り返り、綿部を手招きした。
「今の彼氏の方がもっと上だけど」
「そりゃそうじゃないと困る」
 応えてから、君津は目線を綿部に合わせた。髪を伸ばしてパーマを掛けているのは、
大道芸人として目立つためだろうか。そして、思い描いていたよりも大きい印象を受け
る。鳩胸のせいかもしれない。
「よおっ。路上パフォーマンス、頑張ってるんだって?」
「まあな。おまえには全然負けてるけど」
「比べるもんじゃなし。将来はプロでやっていくの?」
「分かんねえ。でも、日本じゃ無理かな」
 二人の会話が一段落すると、三人目――戸倉が声を掛けてくる。ここしばらくよく連
絡を取り合ったので、挨拶抜きだ。
「君津、どうする? どこか落ち着いて話せる場所……喫茶店かファミリーレストラン
か」
「ファミレスは騒がしいイメージがあるけど、腹も空いている」
 時間は午後三時。迎えの三人は、とうに昼食を終わらせていることだろう。
「機内食はどうした」
「食べた。でも、足りないし、日本食が食べたいんだ」
「だったら、ちゃんとした店に入ろう。ファミリーレストランの日本食なんて、メニ
ューが少ないだろ」
 そう言ってくれたものの、近くに適当な店がなかったので、蕎麦屋に入った。甘い物
も少し置いてあるらしい。
「寝泊まりするとこはあるの?」
 四人掛けのテーブルに案内され、注文を済ませるや、財前が聞いてきた。僕が急遽帰
国した理由が殺人事件にあることは承知しているはずだが、とりあえずは当たり障りの
ないところから話題にしたいようだ。
「うん。今日と明日はホテル泊まりだけど、明後日からは親戚の家に泊めてもらう。墓
参りするから、方角的にもちょうどいいんだ」
「ああ、そうだったな」
 綿部が気まずそうに反応した。両親がいないことは、このテーブルに着いた全員が知
っている。
「てことは、明日は弁護士さんのところか」
 隣に座る戸倉が話題を換える。と言っても、人の生き死に関係している点は同じだ
が。
「会う約束はできたんだが、長い時間は無理だと言われてるんだ。いくら依頼人の彼氏
でも、真相解明に役立つ何かを持ってる訳じゃないし、しょうがない」
「真相解明って……星川さんが犯人ではないとまだ思ってるの?」
 財前が言った。辺りを気にする風に、声のボリュームを落としている。
「そうだよ。そのために無理に調整して、帰って来たんだ」
「やっぱり。戸倉君を通じて呼び出されたときから、そういう予感はしてたんだ」
 早々にざる蕎麦が来た。穴子天ぷらのミニ丼も付けた。他の三人は、そば粉を使った
和菓子とお茶のセットだ。
「とりあえず、食べながらでいいかな」
 承諾を求めると、曖昧な答が返って来た。
「食べるのはもちろんかまわないけど、何が『いいかな』なのよ」
「事件のことで、新たに確かめたいことができてさ。戸倉にはざっと伝えたんだけれど
も、二人にも聞いてもらいたい」
 手を合わせてから割り箸を割って、まず蕎麦のつゆにわさびを溶く。薬味を散らした
ところで、前に座る二人にも食べるよう促した。
「楽しくないことを思い出しながらだと、まずく感じるかもしれないけど」
「どうせ食べ始めたらすぐに終わっちまう。そっちがあらかた片付くまでは、このまま
待機してるさ」
 綿部が笑いながら言って、腕組みをする。木の椅子の背もたれに身体を預け、聞く体
勢になった。財前の方はお茶ではなく、お冷やを一口飲んで、テーブルの上で両手を組
んだ。
「大前提として、僕は彼女が――星川さんが犯人ではないと決めている」
「……当然よね。あなたの立場なら」
「星川さんが犯人じゃないなら、村木さんはどうして星川さんを犯人だと言い遺したの
か。最初に考えたのは、犯人を何らかの理由で星川さんと誤認した可能性なんだけど」
 以下、犯行が計画的であることを軸に、この説は成り立たないことを説明し終えた。
 黙って聞いていた綿部が、湯飲みを手にしてから、ゆっくりと口を開く。
「何だ、結局、証明ならずか。俺達に聞いてもらいたいことって、これか?」
「まだ続きがある。次に僕が閃いたのは、音による欺瞞だ」
「ぎまん?」
 どういう意味の単語で、どんな字を書くのか分からないと言わんばかりに、横目を見
合わせた様子の二人。僕は「トリックと言い換えても通じるかな」と付け足した。
「同窓会に出た大勢が、村木さんが星川さんの名前を言うのを聞いている。特に近くで
聞いたのが、君達と戸倉だ。三人には、検証してもらいたい、僕がこれから話すトリッ
クが成り立つかどうかを」
「……分かった」
 綿部と財前は、今度ははっきりと互いに目を見合わせてから頷いた。
「村木さんが犯人ではない星川さんの名前を言うとしたら、どんな場合があるか。シン
プルに考えることにした。言ってない、と」
「言って……ない?」
「意味が分からないわ。私達は確かに聞いた」
 きょとんとする綿部に、捲し立てる財前。戸倉が止め役に入ってくれた。
「まあまあ、検証はあと。最後まで聞こう」
「……」
 不満そうだが、財前は黙った。僕は結局、食事には箸を付けずに話を続けていた。
「村木さんは星川さんの名前を言っていない。これも決定事項とする。では、何故、周
りのみんなには声が聞こえたのか。声は作り物だったんじゃないか。僕はそう考えて、
入手できた事件の状況を再検討してみた。最初は録音しておいた音声を流せば何とかな
るだろうって思っていたが、そう簡単じゃないと分かった」
「そうよ。あのとき、村木さんの口は動いてたんですからね」
 思わずという風に、財前が身を乗り出して反証を挙げる。僕は一つ首肯した。
「そう、それがネックだった。他の方法を考えなきゃならない。たまたま村木さんが声
を出せずに、口を動かしただけのタイミングに、犯人が幸運にも音声を合わせられたの
か。そんな偶然は認められない。僕は発想を少し変えてみた。村木さんの口を動かした
のも、犯人の仕業だったとしたら?」
「ば、馬鹿な」
 今度は綿部が“思わず”反応したようだ。
「死んでる人の口を動かすなんて、リモコンでも仕掛けたって言うのか?」
「ん? 変なことを言うね。君らが見付けたとき、村木さんはまだ息があったんじゃな
かったか?」
 僕は綿部、財前の順番に顔を凝視し、それから戸倉を見た。戸倉は「うむ。息があっ
たように思えた。あのときは」と答えた。彼だけが、注文した品を消費している。
「言い間違えただけだ。結果的に死んでしまったのだから」
 取り繕うことなく、ストレートに訂正する綿部。その隣では、財前が居心地悪そうに
もぞもぞ動いて、座り直した。彼ら二人が何も言わなくなったので、戸倉が口を挟んで
くれた。
「でもよ、君津。生きてる人間の口を、他人が自由に操るのは、死人の口を操るよりも
難しいんじゃないか? 死んでるなら、さっき綿部が言ったみたいにリモコンを取り付
けたら、曲がりなりにも動かせるだろうけどさ」
「同感だ。その人が生きていたら、偽の音声に、本物の音声が重なる可能性もある。犯
人にとって、絶対に避けたい状態だろう。そこで僕は考えを推し進めた。発見されたと
き、既に村木さんは亡くなっており、犯人は外的な力で村木さんの口を動かすととも
に、偽の音声を周りに聞かせることで、まだ村木さんが生きていると思わせようとし
た。これなら、全ての説明が付く」
 言い切った僕は、前の二人を見やった。しばらくの沈黙のあと、財前が切り出した。
「どうやって? 具体的にどうすれば、村木さんの口を動かし、声を出せるのよ」
「そこを説明できなければ、絵に描いた餅だな」
 財前の台詞を引き継ぎ、綿部も言った。
「だから、先に君達の話が聞きたいんじゃないか。村木さんの口を動かすような仕掛
け、村木さんの声を流すような仕掛け、そういったものが彼女の身体のどこか、あるい
は近くになかったのかなってね」
「そんな物、ある訳ないじゃない。あったら警察が気付いてるだろうし、私達は間違い
なく、村木さんの口から声を聞いてるのよ」
「――戸倉は、そこまで断言できる?」
「無理無理。声がどこから聞こえたなんて、判断のしようがない。極端な話、村木さん
の口の中に、スピーカーを仕込まれていたら、どこから聞こえようが関係ないってこと
になるしな」
「だから! そんなスピーカーなんて、見付かってないでしょ!」
 当初の囁き声はどこへ行ったのか、財前は大声で主張した。さすがにまずいとすぐに
気が付いたらしく、息を整えつつも肩を窄ませる。
 落ち着くのを待ってから、僕は推理の続きを話し始めた。
「スピーカーなんてなくても声は流せるし、リモコンを仕掛けなくても口は動かせる。
僕はそう思うんだ」
「どうやって」
 穏やかな口調で、綿部。額に汗の縦筋ができていた。どこかしら緊張しているよう
だ。
「もう一つ、僕が着目したのは、犯人が牙なる殺人鬼の手口を模倣しようとしたこと。
無差別殺人として牙に罪をなすりつけるにしては、同窓会の場はふさわしくない。だっ
たら、何故? 犯人にとっていかなるメリットがあるのか。牙の犯行で特徴と言えば?
 そう、二本の鉄の串だ。犯人は村木さんの遺体に鉄串を刺す必要があったんじゃない
か。このように考えることで、見えてきた。犯人は、うなじから刺した二本の鉄串を持
って、遺体の口を動かした――」
「そんな、あり得ない……」
 財前は両手で口を覆っていた。対照的に、綿部は鼻息を荒くした。
「その説だと、俺が一番怪しいことになりそうなんだが?」
「もちろん、鉄串をリモコンで動かしたのでなければ、最も怪しいのは、村木さんを抱
え起こしていた綿部、君になる」
「は! 馬鹿らしい。冗談も休み休み言え」
「冗談のつもりはないよ。こうして披露するからには、本気だ」
「そうかい。だったら、声は? 俺が裏声を使って女の声を出したってか? いくらパ
フォーマーでも、そんな芸当は身に付けてないぜ。第一、俺はずっと村木さんに呼び掛
けていたんだ。同時に女声を出せるはずがないだろ。声はカセットテープとでも言う
か?」
「いや」
 長い反論に対し、僕は短い返事でまず応じた。
「先に聞いておく。綿部は声に関するパフォーマンスで、何かできることがあるよな
?」
「……ああ。腹話術だ。簡単なやつで、男の声しかできないぞ。それにさっきも言った
ように、俺は村木に声を掛け続けていた」
「その腹話術のこつを、彼女に教えたんじゃないのか」
 僕は綿部の隣に目を移した。口を覆ったままの財前が、こちらを見る。
「偽の声で、星川さんの名前を言ったのは、財前さん、君だろう?」

 〜 〜 〜

「証拠はない」
 しばらくしてから、どちらかが言った。僕は戸倉に目配せしてから、“犯人”達の説
得を試みた。
「鉄串に、綿部の指紋が付いている」
「付いていて当然だ。助け起こしたときに、触ってしまうことはあるだろう」
「だけど、口を操るために触ったのだとしたら、指紋の付き方が随分違ってくるはずだ
よ。元々、刑事達は何か変だなと感じているかもしれない。僕の推理を警察に伝えた
ら、どうなるだろうね? 君か財前さんの同窓会前の買い物を警察が調べれば、鉄串を
買ったことが明らかになるんじゃないか」
「……いや、証拠にはならない。絶対的なものじゃない」
 自らに言い聞かせるような口ぶりの綿部。僕はわざと哀れむようなため息を吐いた。
「仕方がないね。戸倉、あれを出して、説明してあげよう」
「うむ。了解した」
 戸倉がジャケットの内ポケットをまさぐり始めると、綿部と財前は表情に怪訝さを浮
かべた。程なくして、戸倉はその物――小型のテープレコーダーを引っ張り出した。
「同窓会の席で、僕の現在の研究テーマは音の合成だと話したよな。研究材料を集める
ために、テープレコーダーを持ち歩いて適宜、録音しているんだ。今も録ってたんだ
が、証拠云々はそれじゃなく」
 と、録音をストップし、中のカセットを別の物と入れ替える戸倉。
「こっちのテープは、同窓会のときに使ったやつだ」
「まさか……」
「うむ。村木さんを助けようとしていた場面で、録音していたんだよ。これにはあのと
きの声もばっちり入っている。聞いてみるか? 警察に声紋を調べてもらう前に」

 自首の形を取りたいという二人のために、弁護士に事情を話して来てもらい、後は全
て任せることになった。恋人と対面できるのは、もう少しだけ先になる。
「本当のところはどうなんだ、戸倉?」
 駅のプラットフォームの中ほど、横並びに立っているときに、聞いてみた。
「うん、何がだ」
 煙草を吹かしながら、戸倉は聞き返してきた。喫煙するとは意外だ。蕎麦屋では我慢
していたらしい。
「本当に録音できていたのかってことさ」
 風向きを気にしつつ、僕は質問の意図を明確にした。隣を見ると、特段、表情に変化
はない。
「無論だ。僕はこれでも研究熱心だからね。ま、多少は聞き取りにくい部分はあるかも
しれないが、いざとなったら合成してやるよ」
「それはだめだろう」
 苦笑いが出てしまった。
「いつまでいられるんだ?」
 吸い殻入れに一歩近づき、煙草の火をもみ消す戸倉。
「日本に? うーん、実を言うと、真犯人が捕まったら、すぐに戻ってこいと言われて
るんだけれどな」
「馬鹿正直にその約束を守ってたら、彼女と会う時間がないな」
「だな」
「そもそも、窮地を救いに万難を排して帰国したってことを、星川さんはまだ知らない
んじゃないか」
「多分ね。弁護士先生も伝えてないだろうな」
「じゃ、やっぱり、会っていかねばなるまい。ついでに、向こうの家族にも」
 家族と言われ、あることにふっと合点がいった。星川さんと連絡が取れなくなったあ
と、自宅に電話してもつながらなかったのは、マスコミの電話攻勢に悩まされていたの
が原因なんだろうな。
「そうするよ。それに、できるだけ日本の星空を見ておきたい」
「星か。昔から好きだったんだよな」
 ライターを弄んでいた戸倉は、急に「あ」と叫んだかと思うと、こちらに勢いよく振
り向いた。
「な、何だ、どうした」
「重大なことに気が付いた。おまえと星川さんが結婚したら、どちらの姓を名乗るつも
りか知らないが――」
「ああ、そのこと。ずっと前から、とっくに気付いているよ」
 君津希美子であろうと、星川誉士夫であろうと、その程度のこと、気にならない。

――終




#511/512 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/11/28  22:59  (499)
カグライダンス(前)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:41 修正 第3版
 それは成人式を迎えたことを祝して行われたインタビューだった。もちろん、出演し
た新作映画の宣伝も兼ねていたけれども、名目は飽くまでも二十歳になったこと。ス
ポーツ新聞の芸能面におけるシリーズ企画で、加倉井舞美は三人目に選ばれた。前の二
人はアイドル歌手とバラエティアイドルで、女性が続いている。加倉井は女優代表の形
だ。ちなみに四人目以降は、グラビアアイドル、お笑い芸人、声優、作家……と予定さ
れている。
「子役でデビューして人気が出たあと、大人になってからも大成した人は少ないとされ
ているけれども、舞美ちゃんはその少ない方に入れそう?」
「え、本人に答えさせますか、その質問?」
 加倉井は困った表情を作って見せた。場所は新聞社の地下にある喫茶店の一角。白く
て正方形をしたテーブルの向こうにいるのは、カメラマンと女性記者。幸いと言ってい
いのか、記者の浦川(うらかわ)とは顔なじみで、関係は良好だ。
「自信があると答えたら生意気に映るし、ないと答えたらかわい子ぶってるとか軽く見
られる。どちらにしたって評価が下がりそう」
 マネージャー抜きのインタビューなので、余計な口出しが入らない分、自分の言葉の
みが反映される。普段以上によく考えて受け答えをしなければ。
「確かに。でもこちらとしては、難しい質問にも率直な答が欲しいわけ」
「じゃあ、評価は周りの人に委ねますってのもだめ?」
「だめではないけど、面白くない感じ」
「だったら……周りの皆さんの支えでここまで来られたのだから、今後も信じて進むだ
けです、ぐらいかな」
「おお、大人な回答ですなー」
 それ採用とばかりに、メモ書きに丸印を入れる浦川記者。インタビューの受け答え自
体は録音されているのだが、文章に起こすときの道標としてメモを取るのだという。
(ほんとにこんなインタビュー、面白くなるのかしら。そもそも、アイドル系の人達の
間に挟まれているのが、若干、不本意だし)
 内心では多少の不平を浮かべつつ、これもお仕事、そして宣伝のためと割り切って笑
顔で応じてきた加倉井。が、次の質問には、笑みがちょっと固まった。
「大人と言えば、大人になったのを記念して、こういう質問も解禁と聞いたから」
「何です?」
「ずばり、恋愛関係。好きな人はいるのか、これまで付き合った人はいるか等々」
「――子役からやっていると、付き合う暇なんて。芸能人の友達ばかり増えただけ」
「やっぱり。昔の雑誌のインタビューを見返したら、クラスの同級生と話が合わなくて
困る、みたいな受け答えしてたんですよね。あれって、噂では、同級生の男子がガキ過
ぎて話にならない、みたいな過激な答だったのを、マネージャーさんの要請で直したと
か」
「……小学生の頃の話ですから」
 思い出すと、小学生だったとは言え我ながら考えなしに喋っていたものだと、冷や汗
ものの反省しきりだ。
(あのときはマネージャーじゃなく、確かお母さんが言ったような記憶が。二人ともだ
ったかな?)
 妙に細かいことまで思い出してしまい、苦笑いを浮かべた加倉井。
「それじゃ質問を変えて、好きな男性のタイプは?」
「え?」
「聞いてなかった? 好きな男性のタイプ。具体的な名前は出さなくていいから。これ
くらいなら大丈夫でしょ」
「ああ、好きな男性のタイプ……。そんなこと考えて生活してないもんね。うーん、そ
う、細かいことに口うるさい人は嫌い。だからその逆。大雑把じゃなくて。器の大きな
人になるのかしら?」
「なるほどなるほど。舞美ちゃん自身は、仕事――ドラマや映画の撮影では細かいこと
に拘るみたいだけど」
「仕事では、ね。仕事だったら、細かいことを言うし、言われても全く平気。ただ、言
われるときは納得させて欲しいとは思います」
「昔、二時間サスペンスに出たとき、犯人ばればれの脚本にけち付けたんだって?」
「いやだ、十歳の頃の話ですよ。みんな正解が分かってるのに、そこを避けるようなス
トーリーに感じたから。真面目な話、小学四年にばればれって、問題あるでしょう」
「結局、どうなったの?」
「事務所の力もあって、穏便に済みました。あ、台本は少し直しが入ったかな」
 加倉井は話しながら、現在の事務所の状況に思いを馳せた。彼女の所属する事務所“
グローセベーア”は、分裂したばかりだった。企業組織として大きくなりすぎた影響が
出たのか、先代の社長が亡くなるや、その片腕として働いていた人の何名かが、方針に
異を唱え、所属タレントを引き連れて飛び出してしまった。契約上の問題は(お金のや
り取りもあって)クリアされている。問題なのは、飛び出した側の方が質量ともに上と
見られている点。人数面ではほぼ二分する形なのだが、会社に不満を抱いていた人の割
合はキャリアを重ねた人達に多かった。つまり、タレントならベテランで確実に仕事の
ある人、事務方なら仕事に慣れてしかも業界にコネのある人が大勢、出て行ってしまっ
た。無論、残った側が若手や無能ばかりということはないが、先代社長に気に入られて
いたおかげで、仕事がよりスムーズに回っていた者が多いのは事実だ。
(人気のある人はこちらにもいるから、勢力は五分五分。ただ、無用の争いが起きて、
仕事がやりにくくなる恐れはあり、か)
 マネージャーの言葉を思い出す加倉井。これまではテレビ番組やドラマ等で当たり前
のように共演していたのが、こうして事務所が別々になった結果、一緒に出られなくな
ることもあり得る。言い換えれば、起用に制約が掛かるわけだ。共演者のどちらを残す
かは、番組のプロデューサー次第。あるいはスポンサーの意向が働く場合もあろう。
(“ノットオンリー”……だったかしら、向こうの事務所名。元々は、能登(のと)さ
んと織部(おりべ)さんの二人だけで始めるつもりだったそうだけど、反主流派が尻馬
に乗った感じね)
 能登恭二(きょうじ)と織部鷹斗(たかと)はともに三十過ぎ。出て行ったタレント
の中では若い方だが、人気は絶頂と言ってもいい程に高い。アイドル歌手としてデビ
ューし、俳優として地位を固めた。人気のある分、仕事が先々まで決まっており、グ
ローセベーアをやめるに当たって一番揉めた二人と言える。そのあおりで、今期は露出
が減って、連続ドラマの出演記録も途切れていた。四月から巻き返すのは間違いない。
(能登さんとは共演せずじまい。織部さんとも、同じシーンに出たことはなかった)
 個人的には親しくもらっていたし、青臭い演技論を戦わせた末に、将来の共演を約束
したことすらあった。当分、もしかすると永遠に果たせないかもしれないが。
「じゃあ、共演したい人は誰? テレビ番組でもドラマ・映画でもいいけど」
 インタビューは続いていた。頭の中で考えていたこととシンクロしたせいで、つい、
能登と織部の名を挙げそうになったが、踏み止まる。
「外国の人でも?」
「それは……つまらない気がするから、NGにしましょう。ハリウッドスターの名前を
出されてもねえ」
「日本に限るなら、憧れ込みで、崎村智恵子(さきむらちえこ)さんと大庭樹一(おお
ばじゅいち)さん。同年代でキャリアも近い人なら、ナイジェル真貴田(まきた)君と
一緒にやってみたい。あとは……風谷美羽」
 大御所女優に渋いベテラン、売り出し中の日仏混血、そして。
「最後の人って、あんまり聞かないけれども……」
 浦川の顔には戸惑いが出ている。芸能畑ばかり歩んできた記者なら、知らなくても無
理はないかもしれない。名前を売るのに協力する義理はないので、四人目の名はカット
してもらっても結構ですと告げる。その上で説明する。
「ファッションモデルをメインに活動している子。演技はまだまだ下手。でも多分、何
でもできる子だから、早い内に私達のフィールドに引っ張り込みたい。他人にかまって
られる身分じゃないけれど、あの子に関しては別。引っ張り上げれば、面白くなりそう
な予感が凄くする。以上、オフレコでお願いします」
「えー?」
「私がちょっとでも誉めたと知ったら、彼女に悪い影響を与えると思ってるので。ごめ
んなさい」
「さっきのは誉めたというか、期待してるってニュアンスだったけど……ま、いいわ。
オフレコ、了解しました。引き続いて、出演してみたい監督を」
 来た来た。新作映画の監督名を真っ先に言わねばなるまい。

 インタビューを受けてから約二週間後。スポーツ紙に掲載されたのは、映画の公開前
日に合わせた形になっていた。しかも、事前に聞かされていたのと違って、一面の見出
しにまで使われるというおまけ付き。一面にあるとは思っていなかったので、他の芸能
面から読んでしまった。おかげで、多少縁のある俳優、パット・リーの軽いスキャンダ
ル記事が目にとまり、わずかに苦笑してしまった。
 ついでに、小学生時代の頃まで思い出して――。

            *             *


 小さな子供の頃から、自分は他の子とは違うという意識があった。
 早くから個人というものを意識していただけのことなのだが、周囲にはそれが傲慢に
映ったらしい。拍車を掛けたのは、彼女――加倉井舞美は勝ち気でこましゃくれてて、
そして美少女だった。何より、彼女が芸能人であることが大きな要因かもしれない。
「あら珍しい」
 六年五組の教室に前の戸口から入るなり、すぐ近くの席に座る木原優奈(きはらゆ
な)が呟いた。いや、聞こえよがしに言った、とする方が適切であろう。
「二日続けて、朝から登校なんて」
「そうね」
 聞き咎めた加倉井は、ついつい反応した。でも、冷静さはちゃんと残している。
「前に二日以上続けて来たのは、二週間前だから、珍しいと言えば珍しいわ」
 嫌味を含んだその言い種に対し、座ったまま、じろっと見上げてくる木原。加倉井は
一瞬だけ目を合わせたが、すぐに外し、自分の席に向かった。廊下側から数えて一列
目、最後尾が加倉井の席だ。後ろから入ってもいいのだが、木原を避けているように思
われたくないので、こうして前からに拘っている。
「ねえ、宿題見せて」
 自分の席に着くなり、加倉井は隣の男子に声を掛けた。
「分かった」
 田辺竜馬(たなべりょうま)はすんなり承知した。国語のプリントと算数のドリルを
出し、該当するページを開くと、重ねて加倉井の机の上に置いた。
「字がきれいで助かるわ」
 田辺の宿題を手に取った加倉井は、自らの宿題を出すことなく、まずは算数ドリルの
該当するページに目を通す。宿題を見せてもらうのは、自分がやっていないから書き写
そうという魂胆からではない。芸能活動をやっているとは言え、加倉井は学校の宿題は
きちんとやる質だ(時間の都合でどうしても無理なもの、たとえば植物の生長観察日記
なんかは除く)。少ない時間をやりくりして急ぎ気味にこなした宿題。その答が合って
いるかどうか、確かめておきたいのだ。
「言っとくけど、間違ってるかもしれないからな」
 田辺は横目で加倉井を見ながら言った。彼は副委員長で、小学六年生男子にしては身
体は大きい方である。勉強、体育ともにできる。図画工作や家庭科もまあまあだが、音
楽だけは今ひとつ。真面目な方で、クラス担任からの信頼は厚い。だからこそ、加倉井
のような芸能人の隣の席を宛がわれた。宿題を見せてと初めて頼んだときは、有無を言
わさず拒まれた。でも、理由を話すと、半信半疑ながら見せてくれるようになった。こ
のクラスになっておよそ三ヶ月になるが、現在では疑っていないようだ。
「はいはい」
 いつもの台詞を聞き流し、加倉井は記憶にある自分の出した答と照らし合わせてい
く。
 田辺も加倉井の答合わせにまで付き合う理由はないので、残り少ない朝の休み時間、
他の男子達とのお喋りに戻った。
「――うん?」
 自分の答と違うのを見付けてしまった。算数だから、正解は基本的に一つと言える。
少なくともどちらかが誤りだ。加倉井は計算過程を追い、さらに二度見三度見と確認を
重ねた。そうして結論に達する。
(計算ミスだ。私ではなく、彼の)
 計算の最後のところで、6×8が48ではなしに、46としてあった。
 実際のところ、再三の確認を経ずとも、途中でおかしいと気付いていた。これまで田
辺が算数でミスをすることはなかったため、念を入れたまで。
「た――」
 田辺君、ここ間違えていない?
 そう聞くつもりだったが、ふっと違和感を覚えて、口を閉ざした加倉井。再びドリル
に視線を落とし、むずむずと居心地の悪い、妙な感覚の正体を探る。
 やがて思い当たった。46の箇所だが、一度、消しゴムを掛けて改めて書いてあるよ
うなのだ。6の下、最初に書かれていた数字は、8と読めた。加倉井は口の中でぶつぶ
つ言いながら考えた。それからやおら国語のプリントに移った。
 ざっと見ただけでは分からなかったが、じきに気付いた。欄外に、不自然な落書きが
あった。文章題の本文のところどころに、鉛筆で薄く丸が付けてある。順に拾っていく
と、「貯 召 閉 照 五面」という並びだった。
(「ちょ しょう へい しょう ごめん」……じゃなくて、本文で使われている通り
の読みを当てはめると、貯めた、お召し、閉める、照り返し。五面はごめんのままで、
「ためしてごめん」か)
 おおよそのところを把握できた加倉井は、そのまま宿題のチェックを続けた。
 休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴ると同時にチェックも終了。ドリルとプリントを
返す段になって、田辺に言葉を掛けた。
「毎回、ありがと。あとで顔を貸してよね」
「え、な、何?」
「それと、算数の授業が始まるまでに、戻すのを忘れないように」

 二時間目は理科の実験があるため教室移動、三時間目は二コマ続けて隣の組との合同
体育で、休み時間は着替えに当てられた。だから田辺と話をするには、合同体育の合間
に設けられる休憩まで待たねばならない。と腹を据えた加倉井だったが、体育の授業
中、隙を見て?田辺の方から話し掛けてきた。授業内容は五十メートル走などの記録測
定で、暇ができたのだ。
「さっきのことだけど」
 体育座りをしてぽつんと一人いた加倉井の左横、一メートル弱の間隔を取って田辺が
座った。二人とも、前を向いたまま会話に入る。
「今やる? 事の次第によっちゃあ、ただで済まさないつもりなんだけど」
 周りに人がいたらやりにくいじゃないの、という意味で言った加倉井。
「てことは、やっぱり、ばれたか」
「私を相当なアホだと思ってる? げーのーじんだから」
 つい、田辺の方を振り向いた。田辺も気配を感じ取ったか、振り向いた上で、首を横
に素早く振った。
「いやいや、思ってないよ、全然。頭いいのはよく知ってる」
「だったら、何でわざと誤答を書いてたのよ、算数の七問目」
 前に向き直る。6×8を計算ミスすることはあり得ても、一旦、48と正解を出して
おきながら、それを46に書き直すなんてことはあり得ない。少なくとも、田辺くらい
普段から成績のいい者が。だからあの46はわざとである。加倉井はそう結論づけてい
た。
「そんなことを聞くからには、国語の方には気付いてないのかな」
 田辺の方はまだ加倉井を見たまま、呟くように言った。
「気付いたわよ。あんな分かり易い印に、分かり易い暗号」
 本文の読み通りに、続けて読むと「ためしてごめん」となる。
「何で試すような真似をしたのかってことが、聞きたいわけ。分かる?」
「それは……」
 途端に言いづらそうになる田辺の声。いらいらした加倉井は、先に予想を述べた。
「大方、私が本当に丸写ししていないか、確認したかったんでしょ? 間違いに気付か
ずに写して、恥をかけばいいと思った」
「ち、違う。疑ってなんかない」
 よっぽど焦ったか、田辺は体育座りの姿勢を崩し、右手を地面について、少しにじり
寄ってきた。
「じゃあ、どうして」
「うーん、誰にも言わないと約束してくれるなら」
「約束なんて無理。それでも、君には答える義務があるわよ、田辺クン」
 口ごもった田辺に、加倉井は追い打ちを掛ける。
「そもそも、条件を出せる立場じゃないわよね。わざと間違えた答を見せるなんて、普
通に考えて悪気があるとしか」
「……ある人から頼まれた。加倉井さんが宿題をちゃんとやって来ているかどうか、分
かるように嘘の答を混ぜろって」
「ある人って、誰よ」
「それは勘弁してよ」
「まったく。まさか、先生じゃないわよね。宿題を見せてもらっていること、知らない
はずだし。そうなると、クラスの誰か」
 言葉を切り、田辺の表情を見て反応を伺う。相手は何も言うまいと誓うかのように、
口をすぼめていた。
「さっき、田辺君は『ある人』って言った。対象が男子なら、そんな言い方はしないん
じゃない? そう考えると女子。君に指図してくるぐらいだから、結構親しい。なおか
つ、私にいい感情は持っていない……」
 すぐに浮かんだ名前が三つくらいある。ただ、今朝、いきなり突っかかってきた印象
が強いため、一人の名前がクロースアップされた。
「木原優奈でしょ?」
 大した理由なしにかまを掛けただけなのに、田辺の顔には動揺の色が意外とはっきり
浮かんだ。肯定のサインだ。
「返事はしない。読み取ってくれ」
 それだけ言うと、真っ直ぐ前を向く田辺。
「まるで脅されてるみたいよ」
「そんなことない。僕がいくら言っても聞き入れないから、証明のつもりで引き受け
た」
「? 何を」
「そ、それは」
 またたじろぐ田辺だったが、言い渋る内に走る順番が回ってきた。名前を呼ばれて、
急ぎ足で立ち去る彼を、加倉井はしばらく目で追った。
(これは逃げられたかな。でも気になるから、逃がさない。あとで聞こう。と言って
も、今日はこのあと、給食食べずに午後から早退なのよね。忘れないようにしなきゃ)

 子供の立場で言うのもおかしいかもしれないが、今、加倉井のメインの仕事は、子供
向けのドラマである。ゆる〜い探偵物で、タイトルは「ゲンのエビデンス」という。頼
りない大人の探偵ゲンを、助手の小学生二人が助けるのが基本パターン。加倉井はその
助手の一人だ。もう一人は男子で、香村綸という子が受け持っている。
「ねね、聞いたかい?」
 風が止むのを待つため撮影が中断したとき、香村が近寄ってきたかと思うと、唐突に
切り出した。
「何て?」
 風による葉擦れの音のせいで、加倉井は耳に片手を当てながら聞き返した。
「この番組、もうすぐ抜けるから、僕」
「ふうん。人気急上昇で仕事殺到、忙しいアピール?」
「そうそう」
 答えながら、へし口を作る香村綸。加倉井の反応の薄さが気に入らない様子だ。察し
た加倉井は、どうせ暇があるんだしと、しばらく付き合ってやることに。
「香村君が抜けると、大きな穴があくわね。誰か新しく入るのかしら」
「僕の抜けた穴を埋められる奴なんて、そういない……って言いたいけれど、もう決ま
ってるんだってさ。知らない名前だった」
「もう聞いてるんだ? 誰よ」
「だから、知らない名前だったから、印象に残ってなくってさ。えーと、確か……服部
みたいな名前」
「何なの、それ。服部みたいなってことは、服部ではないという意味?」
「うん。そうそう、外国人の血が混じってるんだっけ。だから片仮名」
「それを早く言いなさいよ」
 ため息をつきつつ考えてみると、じきに一人の名前が浮かんだ。
「まさか、パット・リーかしら」
 日英混血で、日本名は圭。加倉井達より一つか二つ年上で、英米及び香港での映画や
ドラマ出演多数。見た目はかわいらしい子役なのに、アクションをこなせるのと日本語
と英語、そして中国語(の一部)を話せるのが強みとなっているようだ。今年度下半期
辺りから活動の主軸を日本に移すとの芸能ニュースが、少し前に報じられた。
「そうだ、確かにパット・リーだった」
「香村君は知らないの、パット・リーを?」
「外国で何か出てるってのは知ってたけれども、大して意識してなかったから。日本に
来てライバルになるんだったら、これからはちゃんと覚えるさ」
 口ではそう説明するも、わざと知らなかったふりをしていた節が、どことなく感じら
れた。
「香村君の退場は、どんな脚本になるのかしらね。爆死か何かで壮絶に散るとか」
「子供番組なのに。まあ、そんな筋書きにしてくれたら、伝説になる可能性ありだか
ら、僕はかまわないけど。あ、でも、再登場がなくなるのは惜しい」
「あ、いい案を思い付いたわ。パットが演じる新入り助手に、こてんぱんにやっつけら
れるの。心も体も傷ついたあなたは、海外修行に旅立つ」
「踏み台かい。優秀さを認められて、海外支部に派遣の方がいい」
「そんな設定ないじゃない。探偵事務所の海外支部って、後付けしようにも無理ね」
 想像を膨らませて雑談を続けていると、撮影再開の声が掛かった。いつの間にか風が
収まっていた。

 川沿いの坂を香村がスケートボードで下るシーンの撮影中に、“お客”がやって来
た。黒縁眼鏡に帽子、白マスクと完全防備の訪問者は、パット・リーその人(とマネー
ジャーに、日本での所属先となる事務所の人)だった。予定にない参上に、撮影スタッ
フらの動きが慌ただしくなる。
 幸い、香村のシーンはちょうどOKが出たところだったので、撮影の邪魔にはならな
かったが、ぎりぎりのタイミングとも言える。香村がふくれ面になるのを、加倉井は見
逃さなかった。
「香村君、冷静に。抑えてちょうだい」
 本来、香村のマネージャー辺りがすべき役割だろうが、パット・リー登場に浮き足立
ったのか、姿が見当たらない。
「分かってるって」
「嫌味な口の利き方もなしよ。彼と一緒に仕事する私達のことも考えてね」
「分かった分かった。僕だって、一話か二話、共演する可能性残してるし」
 主役クラスの二人が離れたところでごにょごにょやってる内に、パットはマスクだけ
取った。この現場の責任者に挨拶を済ませる。
「見学に来ました」
 パットはイントネーションに若干の怪しさを残すも、流暢な日本語を使えるようだ。
にこやかな表情で、主なスタッフ数名と握手をしていく。
「主役の一人で探偵役は郷野寛之(ごうのひろゆき)さんなんですが、今日は来られて
ないので、助手役の二人を紹介します」
 監督自らの案内で、パットは加倉井達の前に来た。
「はじめまして。パット・リーです。見学に来ました。よろしくお願いします」
 予め決めてあったような口ぶりだったが、気持ちはこもっていた。さすが俳優と言う
べきなのかもしれない。
 近くまで来ると、パットの背の高さが分かった。二つほど年上なのだから、パット自
身が際立って高身長というわけでもないが、香村は小柄な方なので比較すれば差があ
る。一方、加倉井とは同じくらい。それでもパットの方がやや上か。
「舞美ちゃんにはまだ言ってなかったけど、十月から彼、パット・リーが出演者に加わ
るんだ」
 監督が簡単に説明する。加倉井は初耳のふりをして聞いておいた。最初に驚いてみ
せ、次に関心ありげにタイミングよくうなずく。
 実際、関心はある。眼前の混血俳優が、一体どういうつもりで、外国でのスターダム
路線を(一時的なのかずっとなのかは知らないが)外れ、日本の子供向けドラマに出て
みる気になったのか。
 と言っても、初対面かつ撮影中の現場では、突っ込んだ話はできまい。ここは大人し
くしておく。香村が暴走しそうだったら、手綱を引き締めなければいけないし。
 ところがパット・リーは西洋育ちのせいか、女性である加倉井に対してより関心と気
遣いを見せた。
「加倉井さん、あなたが出ている作品、これともう一つ『キッドナップキッド』を観ま
した。同じ人とは思えない、演じ分けていましたね」
「どうもありがとう。ほめ言葉として受け取ってもいい?」
「もちろんです。これなら自分もよい芝居ができると思いました」
「私も楽しみです」
 それからパット・リーの出演作で視聴済みの物を挙げようとしたのだが、香村が会話
に割って入ってきた。
「ねえねえ、リーさん。僕は?」
「香村君の出ている作品ももちろん観ました。勘のいい演技だと思いましたね。よくも
悪くも、香村綸という個性が際立っていますし」
 これもほめ言葉なのだろうか。微妙な言い回しだと受け取った加倉井だが、当の香村
は好意的に解釈したらしい。ふくれ面はどこへやら、にこにこしている。
(香村君は台詞覚えは早くて、言葉だけは知っていても、言葉の意味までは大して知ら
ないものねえ。もうちょっと勉強にも力を入れた方が)
 心中でアドバイスを送る加倉井。声に出して言ったことも何度となくあるのだが、改
まった様子はない。
「短い期間だけど、僕とも共演することになるだろうから、仲よくやろうよ」
 香村は右手を出し、握手を求めた。相手は年上だが、このドラマでは先輩だし、日本
国内でもしかり。そんな意識の表れなのか、香村の言動はフレンドリーを些か超えて、
上から目線の気が漂う。
 パット・リーは(まだ子供だけど)大人の対応を見せる。眼を細めて微笑を浮かべる
と、右手で握り返した。
「よろしくお願いします。センパイ」

 思わぬ見物人が来た撮影の翌日は、金曜日だった。今日は学校でフルに授業を受け、
土日はまた撮影に当てられる予定である。
 そして加倉井は、朝から少々憂鬱だった。また木原につっかかられるんだろうなとい
う覚悟に加え、前日の撮影の醜態に頭が痛い。撮り直しの連続で疲れた。と言っても、
撮影でミスをしたのは加倉井自身ではない。
(香村君、パットを知らないと言ってた癖に、意識しちゃって)
 思い出すだけでも、疲労感を覚える。
 パット・リーが見ていると力が入ったのか、香村は動作の一つ一つに文字通り力みが
出て、固くなっていた。台詞はやたらとアドリブを入れるし、声が必要以上に大きくな
る場面もしばしばあった。使えないレベルではないものの、これまで撮ってきた分との
差が明らかにあるため、リテイクせざるを得ない。
(番組を出て行くあなたが、意識過剰になってどうするのよ)
 心の中での言葉ではあるが、つい、香村と呼び捨てしたり、あんたと言いそうになっ
たりするのを堪える加倉井。心中の喋りは、実際のお喋りでも、ふっと出てしまいが
ち。そこを分かっているから、少なくとも同業者やスタッフの名前は、声にしないとき
でも丁寧さを心掛ける。そのせいでストレスが溜まるのかもしれないが。
「あ、来た」
 気が付くと、教室のドアのところまで来ていた。声の主は、木原優奈。加倉井がおか
しいわねと首を傾げたのは、その声がいつもと違っていたから。
(何だか弾んでいるように聞こえたけれど……さては、新しい悪口でも思い付いたのか
しら)
 警戒を強めた加倉井が立ち止まると、木原は席を離れ、近寄ってきた。これまたいつ
もと異なり、邪気に乏しい笑顔である。
「どうしたの? 入りなよ」
「……何か企んでいる眼だわ」
 隠してもしょうがない。感じたままをはっきり言った。
 指摘に対し、木原はより一層笑みを増した。
「やーね、企んでなんかいないって。ただ、お願いがあるんだけれどね」
 と言いながら、早くも手を拝み合わせるポーズの木原。加倉井は別の意味で、警戒し
た。相手のペースから脱するために、さっさと自分の席に向かう。
 木原は早足で着いてきた。
「聞くだけでもいいから、聞いてよ〜」
「はいはい聞いてます。早く座りたいだけよ」
 付け足した台詞が効いたのか、木原はしばし静かになった。席に収まり、机の上に一
時間目の準備を出し終えるまで、それは続いた。
「で? 何?」
「昨日までのことは忘れて、聞いて欲しいのだけれど」
「忘れるのは難しいけれども、聞く耳は持っているわ。とにかく言ってくれなきゃ、話
は進まないわよ」
「そ、それじゃ言うけど、加倉井さんは今度、あのパット・リーと共演するって本当
?」
 この質問だけで充分だった。
(情報解禁したのね。というか、私の耳に入るの遅すぎ。きっと、情報漏れを恐れてぎ
りぎりまで伏せておきたかったんでしょうから、別にかまわないけれど。それはさてお
き、この子ってば、パット・リーのファンだったのね。それも相当な)
 ぴんと来た加倉井は、どう対処するかを素早く計算した。「内定の段階ね。まだ本決
まりじゃないってこと」と答えた上で、相手の次の言葉を待つ。
「それじゃ、正式決定になった場合でいいから、パット・リーのサインをもらってきて
欲しいのですが」
 木原はその場でしゃがみ込み、手を小さく拝み合わせて言った。
 後半、急に丁寧語になったのがおかしくて、無表情を崩しそうになった。だが、そこ
は人気子役の意地で踏み止まる。
「私も一度会ったきりだから、何とも言えない」
 若干、冷たい口調で応じた。サインをもらってきて欲しいとお願いされるのは予想し
た通りだったが、これを安請け合いするのは避ける。今後、木原との関係を優位に運ぶ
には、ここは色よい返事をすべきかもしれないが、万が一、もらえなかったら元の木阿
弥。それどころかかえって悪化しかねない。
 しかし、そういった加倉井の思惑なんて関係なしに、木原は違う方向からの反応を示
す。
「え、もう、会ったことあるの?」
「それはまあ」
 向こうが勝手に見学に来ただけだが。
「いつ? どんな感じだった、彼?」
 加倉井の机の縁に両手を掛け、にじり寄る木原。このまま加倉井の手を取るか、さも
なくば二の腕を掴んで揺さぶってきそうな勢いだ。
「話すようなことはほとんどないけど」
「それでもいいから、聞かせて! ねえ」
 おいおいいつからこんなに親しくなったんだ、私達は。そう突っ込みを入れたくなる
ほど、木原はなれなれしく接してくる。
「分かったわ。話す。でも、その前に」
 両手のひらで壁を作り、距離を取るようにジェスチャーで示す。木原は一拍遅れて、
素直に従った。
「さっき言ってた忘れるどうこうだけど、やっぱり無理だから。けじめを付けたいの」
「わ、分かった。悪かったわ」
「ちょっと、ほんとにそれでいいの? 目先の利益に囚われてるんじゃないの」
 謝ろうとする木原をストップさせ、加倉井は問い質した。そのまま受け入れておけば
すんなり収まるのは分かっていても、性格上、難しい。
「じゃあ、どうしろって……」
「言いたいことがあるんじゃないの? もしそれが文句ならば、はっきり声に出して言
って」
 加倉井の圧を帯びた物言いに、木原の目が泳ぐ。明らかに戸惑っていた。どう反応す
るのがいいのか分からなくて、困っている。
「私は好き好んで喧嘩したいわけじゃないし、そっちも同じじゃないの? だったら―
―」
 チャイムが鳴って、加倉井の言葉は中断された。このまま続けても、相手の答まで聞
いている時間はないに違いない。一旦切り上げる。
「またあとでね」

 一時間目の授業で、先生から当てられた木原が答を間違えたのは、休み時間における
加倉井とのやり取りのせいかもしれない。二時間目以降もこんな調子ではたまらないと
考えたのかどうか、授業が終わるや、木原は加倉井の席までダッシュで来た。
「答をずっと考えてた」
 前置きなしに始めた木原。対する加倉井は、次の授業の準備を淡々と進める。
「悪口を言ってたのは、うらやましかったから。別に、加倉井さんが悪いっていうんじ
ゃないわ」
 木原は普段よりも小さめの声で言った。こんなことを認めるだけでも、一大決心だっ
たのだろう。加倉井はノートと教科書を立てて、机の上でとんとんと揃えた。そして聞
き返す。
「――それだけ?」
「……悪くはないけど、いらいらする。あんた、何を言っても、落ち着いてるから」
「それが嫌味で上から目線に見えたとでも?」
「そ、そうよ」
「分かったわ。できる限り、改める。できる限り、だけね。それと言っておくけど、私
だって悪く言われたら泣きたくなることあるし、わめき散らして怒りたいことだってあ
るわよ」
「……全然、見えない」
 それは私が演技指導を受けているから。言葉にして答えるつもりだった加倉井だが、
すんでのところでやめた。
 代わりに、それまでと打って変わっての笑顔をなしてみせる。勝ち誇るでも見下すで
もなく、嘲りやお追従とももちろん違う。心からの笑み――という演技。
「木原さんも知っての通り、パット・リーは日本語が上手よね」
「う、うん」
 急激な話題の転換に、ついて行けていない様子の木原。だが、パット・リーの名前を
認識して、じきに追い付いたようだ。その証拠に「決まってるじゃない。ハーフなんだ
し、日本で過ごしたこともあるんだから」と応じる。
(これで戻ったわね)
 加倉井は心中、満足感を得た。
「私が会ったときの彼、思ってた以上に日本語がうまかった。ニュアンスまで完璧に使
いこなしてたわ」

 日々過ぎること半月足らず、金曜の下校時間を迎えていた。
 加倉井が校門を出てしばらく行ったところで、斜め後ろからした「へー」という男子
の声に、ちょっとだけ意識が向いた。聞き覚えのある声だったが、呼び止められたわけ
ではないし、自分と関係のあることなのかも定かでない。結局、ペースを落とさずに、
さっさと進む。
「待って」
 さっきの声がまた聞こえた。加倉井を呼び止めようとしている可能性が出て来たけれ
ども、名前が入っていない。だから、相変わらず歩き続けた。すると、ランドセルのか
ちゃかちゃという音とともに、声の主が駆け足で迫ってくる気配が。
「待ってって言ってるのに」
 そう言う相手――田辺と、振り向きざまに目が合う。不意のことに急ブレーキを掛け
る田辺に対し、加倉井は前に向き直ると、そのまますたすた。
「私に用があるのなら、名前を呼びなさいよ」
 一応、そう付け加える。と、田辺が再度、駆け足で短い距離をダッシュ、横に並ん
だ。
「言っていいの?」
「……何で、だめだと思ってるわけ?」

――続




#512/512 ●長編    *** コメント #511 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/29  01:15  (500)
カグライダンス(後)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:56 修正 第4版
「外で名前を叫んだら、みんな気付いて、集まってくるんじゃあ……」
 なるほど。納得した。そこまでの人気や知名度はないと自覚している加倉井だが、田
辺の小学生なりの気遣いには感心したし、多少嬉しくもあった。
 しかし、感情の変化をおいそれと表に出しはしない。
「ばかなこと言わないで。私なんか、まだまだ」
「そうかぁ?」
「そうよ。名前で呼べるのは今の内だから、どんどん呼んで。人気が出たらやめてね」
 返事した加倉井は、田辺が目を丸くするのを視界に捉えた。
「何その反応は」
「びっくりした。そういう冗談、言うんだね」
「結構本気で言いました。さっき、『へー』っていうのが聞こえた気がするんだけど、
あれはどういう意味?」
「何だ、ちゃんと聞こえてるじゃん」
「だから、そっちが名前を呼ばないからだと」
「へーって言ったのは、歩いて帰るのが珍しいと思ったからで」
「私が? そんなに珍しがられるほど、久しぶりだったかしら」
「前がいつだったかなんて覚えてないけど、とにかく久しぶりだ」
「覚えていられたら、気色悪いわね」
「……加倉井さんのファンが聞いたら泣きそうなことを」
「そういう田辺君は、いつまで着いてくるつもりなのかしらね」
「えっ。ちょっと。忘れてるみたいだから言うけどさ、登校は同じ班だったろ」
 朝、登校時には地区ごとの子供らで列になって学校へ行く。正確を期すなら、同じ班
と言っても男女は別だが。
「通学路は同じ。つまり、ご近所」
「そうだったっけ……だったわね」
 さすがにこれは恥ずかしいと感じた。表情のコントロールができているのか自信がな
くなり、さっと背けた。頬に片手を宛がうと、熱を少し感じたので赤くなっているのか
もしれない。加倉井は思った。
「朝、登校するときはほとんど車だもんね。忘れられてもしょうがないか」
 田辺の方は、さして気にしていない風である。変わらぬ口調で、話を続けた。
「少し前にさ、加倉井さんと木原さんが長いこと話していたのを見たけれど、あれは何
だったの? 僕が木原さんの言うことを聞いて宿題に間違いを混ぜていたせいで、もっ
と仲が悪くなったんじゃないかって心配してたんだけど、そうでもなさそうだから、不
思議なんだよなー」
「あれは田辺君のしたことと、直接の関係はないわ。だから心配する必要なし。木原さ
んとの関係は……冷戦状態だったのが、お互い、物言えるようになった感じかしら。あ
る俳優さんのおかげだから、今後どうなるか知れたものじゃないけれど」
 パット・リーが参加しての撮影はすでに何度か経験していた。漠然と想像していたよ
りは、ずっと自己主張が少なく、与えられた役を与えられた通りにそつなくこなす、そ
んな印象を受けた。加倉井ともすぐに打ち解け、スタッフ間の評判もよい。加倉井は折
を見てサインを色紙にしてもらった。まだ木原に渡すつもりはない。当分の間、引っ張
ろう。
「それならいいんだけど」
「もしかして、木原さんから頼み事をされなくなって不満なの?」
「そ、それだけは絶対にない!」
 声だけでなく全身に力を込めて否定する田辺。加倉井はちょっとした思い付きを言っ
ただけなのに、ここまで大げさに反応されると、逆に勘繰りたくなる。ただ、他人の好
みを詮索する趣味は持ち合わせていないので、これ以上は聞かない。
 しかし、田辺にしてみれば、逆襲しないと気が済まない様子。
「そういう加倉井さんは、学校の友達付き合いあんまりないし、誰某が嫌いっていうの
はあっても、好きっていうのはないんじゃないのか。仕事場に行けば、年上の二枚目が
いくらでもいるんだろうしさ」
「うーん、確かにそうだけどさ。芸能界にも好きな人はいないかな。憧れるっていう
か、尊敬する人なら一杯いても、田辺君が言うような意味での好きな人はいないな、う
ん」
 一応、本心を答えている加倉井だが、恥ずかしい思いがわき上がってくるので、喋り
は若干、芝居がかっていた。

 そのシーンに関して言えば、加倉井は台本に目を通した時点で、少しだけ消極的な気
持ちになった。
 加倉井が演じる笹木咲良(ささきさら)は、パット・リー演じる新加入の探偵助手、
服部忍(はっとりしのぶ)といまいち反りが合わず、ぎくしゃくが続いていたところ
へ、服部のふと漏らしたジョークにより、咲良が彼を平手打ちする――という、いかに
もありそうな場面展開なのだが。
(叩くのは気にならない。でも、これがオンエアされたあとの木原さんの反応を想像す
ると、ちょっと嫌な感じがするわ)
 幸か不幸か、パットは本気で平手打ちされても一向にかまわない、むしろ手加減せず
に来いというスタンス。もちろん、彼自らも頭を逆方向に振って、ダメージを逃がす
し、叩く音はあとで別に入れるのだが。
「でも、手首の硬いところはくらくらするから、ちゃんと手のひらでお願いします」
 笑いながら言う。リハーサルを繰り返す内に、加倉井も芝居に入り込む。一発、ひっ
ぱたいてやりたいという気分になってきた。そして本番。
『取り消して!』
 叫ぶと同時に右手を振りかぶり、水平方向にスイング。ほぼ同じ背の高さだから、姿
勢に無理は生じない。だけど、パットが首を動かすのが若干、早かった。相手の頬を、
指先が触れるか触れないかぐらいのところで、加倉井の右手は空を切った。
 派手に空振りして、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 よろめいた加倉井を、パットが両腕で受け止める。そしてしっかり立たせてから、
「大丈夫でした? ごめんなさい。早すぎました」と軽く頭を垂れる。その低姿勢ぶり
に、加倉井もつい、「私も遅かったかもしれません」と応じてしまった。両者がそれぞ
れミスの原因は自分にあると思ったままでは、次の成功もおぼつかない。
「いや、やはり、僕が早かった。大変な迫力で迫ってきたので、身体が勝手に逃げてし
まったんですよ」
 パットは冗談めかして言いながら、首を振るさまを再現してみせた。結局、パットの
動き出しが早かったということになり、再トライ。
『取り消して!』
 ――ぱしっ。
 今度はうまく行った。それどころか、加倉井には手応えさえあった。事実、音もかな
りきれいに出たように思う。もちろん、そんな心の動きを表に出すことはしない。即座
に監督からOKをもらえた。
 演技を止め、表情を緩める。そして目の前のパットに聞く加倉井。
「痛くなかったですか」
「平気。痛かったけど」
 オーバーアクションなのかどうか知らないが、彼の手は左頬をさすっている。その指
の間から覗き見える肌の色は、確かに赤っぽいようだ。
「今後、気を付けますね」
「それはありがたくも助かります。ついでに、このドラマで二度も三度も叩かれるの
は、勘弁して欲しいです」
 台詞の後半に差し掛かる頃には、彼の目は監督ら撮影スタッフに向いていた。

 明けて日曜。早朝からの撮影では、仲直りのシーンが収録されることになっていた。
 事件解決を通じて格闘術の技量不足を痛感した笹木咲良(加倉井)が、服部に教えを
請い、実際に指導を受けるという流れである。
 朝日を正面に、河川敷のコンクリで座禅する服部。衣装は香港アクションスターを連
想させる黄色と黒のつなぎ。その背後から近付く咲良。こちらは小学校の体操服姿。足
音を立てぬよう、静かに近付いたまではよかったが、声を掛けるタイミングが見付から
ない。と、そのとき、服部が声を発する。まるで背後にも眼があるかの如く、『何の用
ですか、咲良?』と。
 これをきっかけに、咲良は服部に頭を下げて、格闘術を教わる。そこから徐々にフ
ェードアウトする、というのが今回のエピソードのラスト。
 殺陣というほどではないが、格闘技の動きは前日とつい先程、簡単に指導を受けてい
る。リハーサルも問題なく済んだ。あとは、日の出に合わせての一発勝負だ。
『何の用ですか、咲良?』
 名を呼ばれたことにしばし驚くも、気を取り直した風に首を横に小さく振り、咲良は
会話に応じる。そして本心を伝えると、服部は迷う素振りを見せるも、あっさり快諾。
『実力を測るから掛かってきなさい』という台詞とともに、咲良に向けて右腕を伸ば
し、手のひらを上に。親指を除く四本の指をくいくいと曲げ、挑発のポーズ。
 咲良を演じる加倉井は、飽くまで礼儀正しく、一礼した後に攻撃開始。突きや蹴りを
連続して繰り出すも、ことごとくかわされ、二度ほど手首を掴まれ投げられる。最後
に、左腕の手首と肘を決められ、組み伏せられそうなところへさらに膝蹴りをもらうと
いう段取りに差し掛かる。当然、型なのだからほとんど痛みはないはずだったが、組み
伏せられる直前に、パットの右肘が胸に当たってしまった。
「うっ」
 ただ単に胸に当たっただけなら、気にしない。強さも大してなかった。だが、このと
きのパットの肘は、加倉井のみぞおちにヒットしたからたまらない。暫時、息ができな
い状態に陥り、演技を続けられそうになくなる。パットは気付いていないらしく、その
まま続ける。台本通り、組み伏せられた。元々、あとはされるがままなのだから、一
見、無事にやり通したように見えただろう。しかし、カットの声が掛かっても、加倉井
は起き上がれなかった。声が出ない。代わりに、涙がにじんできた。
 女性スタッフの一人がやっと異変に気付いて、駆け寄ってきた。場を離れてタオルを
受け取ろうとしていたパット・リーも、すぐさま引き返してきた。
「大丈夫ですか? どこかみぞおちに入りましたか?」
 答えようにも、まだ声が出せない。頷くことで返事とする。そこへ、遅ればせながら
マネージャーが飛んできて、事態を把握するや、加倉井を横にして休ませるよう、そし
てそのために広くて平らかで柔らかい場所に移動するよう、周りの者にお願いをした―
―否、指示を出した。大げさに騒ぎ立てるなんて真似は、決してしない。
「アクシデントでみぞおちに入ってしまったみたいですが、後々揉めることのないよ
う、診察を受けてもらった方がいいかと」
「そうさせていただきます」
 仰向けに横たえられ、普段通りの呼吸を取り戻しつつある加倉井の頭上で、そんなや
り取りが交わされていた。
(当人が具体的に何も言ってないのに、どんどん進めるのはどうかと思う。けど、妥当
な判断だし、ここは大人しくしておくとするわ。第一――)
 加倉井は自分の傍らにしゃがみ込むパット・リーを見上げた。左手を両手で取り、ず
っと握っている。表情はさも心配げに目尻が下がり、眉間には皺が寄る。
(こうも親切さを見せられたら、受け入れとくしかないじゃない)

 幸い、診察結果は何ともなかった。薄い痣すらできていなかった。
 くだんの「ゲンのエビデンス」がオンエアされたのは、それからさらにひと月あまり
が経った頃。前回で香村綸は去り、パットが物語に本格的に関わり始め、加倉井と衝突
するエピソードである。
 その放送が終わって最初の学校。加倉井は午前中最後の授業からの出席になった。昼
休みに待ち構えているであろう、木原優奈らからの質問攻め――恐らくは非難を含んだ
――を思うと、授業にあまり集中できなかった。
 ちょうど給食当番だった加倉井は、おかずの配膳係をしているときも、何か言われる
んじゃないかしら、面倒臭いわねと、いささか憂鬱になっていた。ところが、木原にお
かずの器を渡したとき、相手からは特に怒ってる気配は感じられなかった。どちらかと
言えば、にこにこしている。
「あとでパットのこと、聞かせてちょうだいね」
 木原からそう言われ、マスクを付けた加倉井は黙って頷いた。
 給食が始まると、加倉井がまだ半分も食べない内に、木原はいつもより明らかに早食
いで済ませると、席の隣までやって来た。そして開口一番、言うことが奮っている。
「もう洗っちゃったわよね、右手」
「は?」
 いきなり、意味不明の質問をされて、さしもの加倉井も素で聞き返した。
「パットの頬に触れたあと、右手を全然洗っていないなんてことは、ないわよね」
 理解した。
「残念ながら、洗ったわ」
 どういった機会に洗ったかまでは言わなくていいだろう。木原はさほどがっかりした
様子は見せなかったが、視線が加倉井の右手の動きをずっと追っているようで、何とは
なしにコワい。
 その後も食べながら、問われるがままに答えられる範囲で答える加倉井。木原の質問
のペースが速いため、加倉井の食べるペースは反比例して遅くなる。その内、他のクラ
スメートもぽつぽつと集まってきた。もちろん、女子がほとんど。やがて彼女らの間で
論争が勃発した。
「香村綸もよかったけど、パット・リーも案外、早く馴染みそう」
「私はカムリンの方がいいと思うんだけど」
「断然、パット! カムリンは小さい」
「これから伸びるって!」
 おかげでようやく給食を終えることができた。加倉井は食器とお盆を返し、ついでに
給食室までおかずの胴鍋を運んだ。教室に戻って来ると、論争は終わりかけていたよう
だ。香村派らしき女子が、加倉井に聞いてくる。
「カムリンが降板したのって、何か理由があるの?」
「具体的には聞いていないわ。人気が出て他の仕事が忙しくなったみたいよ」
「ほら、やっぱり。カムリンは“卒業”。下手だから降ろされたんじゃないわ」
「途中で抜けるのは無責任だわ」
 終わりそうだった論争に、また火を着けてしまったらしい。加倉井はため息を密かに
つき、机の中を探った。次の準備をしようとするところへ、男子の声が。田辺だ。
「僕からも聞いていい?」
「遠慮なくどうぞ」
 何でわざわざ確認をするのと訝しがりつつ、加倉井は相手に目を合わせた。
「最後のシーン、遠くからで分かりにくかったけど、ほんとに倒れてなかった?」
「――ええ、まあ」
 「ほんと」のニュアンスを掴みかねたが、とりあえずそう答えておく。
 普段、自分の出演した作品のオンエアを見ることはほとんどしない加倉井だが、この
回の「ゲンのエビデンス」は別だった。ラストの乱取りが、どんな風に編集されたの
か、多少気になったから。
 田辺の言ったように、そして当初の台本通り、加倉井が組み伏せられた遠くからの
シーンでエンドマークを打たれていた。大画面のテレビならば、加倉井がみぞおちへの
ダメージで、膝蹴りを食らう前にがくっと崩れ落ちる様子が分かるだろう。
「じゃあ、ミスったんだね、どちらかが」
 田辺の使った「ほんと」が、「本当に強く攻撃が入った」という意味だとはっきりし
た。加倉井は頭の中で返事を瞬時に検討した。
(肘は予定になかった。だから、ミスは私じゃない。でも今この雰囲気の中、真実を話
すのは、恐らくマイナス。かといって、私一人が責任を被るのも納得いかない)
「ミスがあったのは当たりだけれども、どちらかがじゃなくて、二人ともよ。何パター
ンか撮ったのだけれど、あまりにバリエーションが豊富で、私もパット・リーも段取り
がごちゃごちゃになってしまった。だからあのラストシーンは、厳密にはNGなの。で
も、見てみると使えると判断したんでしょうね、監督さん達が」
 と、こういうことにしておく。すると、女子同士で言い争いが再び始まった。
「カムリンが相手だったら、そんなミスはしなかったのに」
「それ以前の問題よ。香村綸に、パットのような動きは絶対無理!」
「そうよね。身長が違うし」
「関係ないでしょ!」
 耳を塞ぎたくなった加倉井だが、我慢してそのまま聞き流す。平常心に努める。
「それで加倉井さん、大丈夫だったのかい?」
 田辺が聞いてきた。心配してくれたのは、彼一人のようだ。加倉井はまた返事をしば
し考えた。あのときを思い起こすかのように一旦天井を見上げ、次いで胸元を押さえな
がら、俯いた。そうしてゆっくり口を開く。
「物凄く痛かった。息が詰まって涙が出るくらい」
「え、それは」
 おろおろする気配が田辺の声に滲んだところで、加倉井は芝居をやめた。満面の笑み
を田辺に向ける。
「心配した? ほんの一時だけよ。念のため、病院に行って、ちゃんとお墨付きをもら
ったから」
「何だ。脅かしっこなし」
「だいたい、撮影はだいぶ前よ。一ヶ月あれば、少々の怪我なら治るわ」
「ふん、そんなこと知らねーもん」
 小馬鹿にされたとでも思ったのか、田辺は踵を返して、彼の席に戻ってしまった。
(あらら。心配してくれてありがとうの一言を付け足すつもりだったのに、タイミング
を逃しちゃったじゃないの)

 次の日の学校で、加倉井はある噂話を耳にした。
 パット・リーはアクション、特に武術の動きが得意とされている割に、撮影中の軽い
アクシデントが結構ある、というものだ。話をしていたのは当然、香村綸ファンの女子
達である。昨日、下校してからパットの粗探しに時間を費やしたと見られる。
「アクシデントと言ったって、たいしたことないじゃない」
 パット派の女子も負けていない。攻撃材料がないため、否定に徹する格好だが、勢い
がある。
「今よりも子供の頃の話だし、ある程度はしょうがないわよ」
「付け焼き刃の腕前でやるから、こんなに事故が多いんじゃないの」
「大げさなんだから。怪我をしたりさせたりってわけじゃないし、ニュースにだってな
ってない」
「それはプロダクションの力で、押さえ込んでるとか。ねえ、加倉井さん?」
 予想通り、飛び火してきた。加倉井は間を置くことなしに、正確なところを答える。
「少なくとも、前の撮影で、パット・リーの側から圧力や口止めはなかったわよ。みん
な、妄想しすぎ」
「ほら見なさい」
 パット派がカムリン派を押し戻す。休み時間よ早く終われと、加倉井は祈った。
「でもでも、パット・リーのキャリアで、三回もあるのは異常よ、やっぱり」
 作品名や制作年、アクシデント内容の載った一覧を示しながら、カムリン派の一人が
疑問を呈する。
(なるほどね。小さい頃から始めたとしたって、アクション専門じゃないんだし、周り
も無理はさせないだろうから、三回は多い。ううん、私の分も含めれば、四回)
 少し、引っ掛かりを覚えた。加倉井は、パット派の代表的存在である木原が反駁する
のを制しつつ、最前のリストを見せてもらった。
(全部じゃないけど、二つは観ている。……ううん、似たような内容が他にも多いから
ごちゃ混ぜになって、はっきり覚えてないわ。でも、この二作品て確かどちらも)
 記憶を手繰ると、徐々に思い出してきた。一方はカンフーマスターを目指す少年の役
で、劇中、しごかれまくっていた。もう一方では、学園ラブコメで、二枚目だが女子の
扱いが下手でやたらと平手打ちされたり、教師から怒られる役。
(もしかすると)
 加倉井はあることを想像し、打ち消した。パット・リーはまだ若いとは言え、国際的
に活躍しようかという人気俳優だ。いくら何でも想像したようなことがあるはずない。
(……と思いたいんだけど、私より年上でも、子供には違いない)
 完全には払拭できなかった。加倉井はリストを返して礼を言うと、どうすれば確かめ
られるかを考え始めた。が、程なくして木原の声に邪魔された。
「ねえ、加倉井さんはどっちが相手役としてやりやすいのよ?」
 まだ火の粉は飛んでいるようだ。

「見学に来ているあの人は、何者ですか」
 休憩に入るや、パットが聞いてきた。加倉井の肩をかすめるようにして投げ掛ける視
線の先には、その見学者が立っている。やや細身の中背で、歳は四十代半ば辺りに見え
よう。本日はスタジオ撮影なのだが、この中にいる誰とも異質な空気を放っている。
「加倉井さんと親しく話していたようですから、お知り合いなんでしょう?」
「親しいとまでは言えませんが、知り合いです。私のプロダクションの先輩が、コマー
シャルで共演したことがあるんです」
 答えながら、振り返って見学者の方を向いた加倉井。
「役者やタレントではなくて、格闘技の指導者なの」
「道理で。よい体付きをしていると思っていました」
 格闘技と聞き、パットの目が輝いたよう。加倉井は気付かぬふりをして続けた。
「私は全然詳しくないけれども、空手とキックボクシングの経歴があって、ストライク
という大会でチャンピオンになったこともあるって」
「凄い。その大会、知っています。名前も知っているかもしれない。映像や写真がほと
んどなく、あまり自信ありませんが……藤村忠雄(ふじむらただお)選手では?」
「あら、本当に知ってるなんて。だいぶ前に引退されたから、選手と呼ぶのは間違いか
もしれないですけど」
「武道、武術をやる人間に、引退はありませんよ。生涯現役に違いありません」
「パット、とっても嬉しそう。紹介しましょうか」
「ぜひ」
 休憩の残り時間が気になったが、加倉井はパットを藤村の前に連れて行った。紹介を
するまでもなく、藤村はパットについて既に聞いていた。
「突然、お邪魔して申し訳ない。気になるようなら、姿を消します」
「いえいえ、とんでもない」
 パットは即座に否定した。そして自分が格闘技をやっていること、それを演技に活か
していることなどを盛んにアピール?する。藤村の方も承知のことだったらしく、「今
日はアクションシーンがないとのことで、残念だな」なんて応じていた。
「藤村さんは、どうして見学に? コマーシャルの続編が決まったとしても、ここへ来
るのはおかしい気がするんですけど」
 加倉井が問うと、藤村は首を曖昧に振った。
「いや、コマーシャルじゃないよ。敵役で出てみないかって、お誘いを受けてね。子供
向け番組と聞いたけど、チャレンジすることは好きだから、前向きに考えてるんだ」
「じゃあ、決定したら、私達と藤村さんが戦うんですね?」
「多分ね。ああ、喋る芝居は苦手だから、台詞のない役柄にしてもらわないといけな
い。コマーシャルで懲りたよ」
 藤村出演の精肉メーカーのテレビCMは、素人丸出しの棒読みで一時有名になった。
思い出して苦笑いする藤村の横に、監督と番組プロデューサーらが立った。
「藤村さん、もしよろしかったら、パット君と軽く手合わせしてみるのはどうです? 
無論、型だけですが」
 プロデューサーが唐突に提案した。いや、藤村忠雄のドラマ出演が頭にあるのだった
ら、当然の提案なのかもしれないが。
「僕はかまいません」
「僕もです」
 藤村が受ける返事に、食い込み気味に答を被せるパット。
「ただ、スペースが見当たらないようですが」
「そんなに派手に動き回らなくても、その場でか〜るく。段取りを詳細に決める暇はさ
すがにありませんから、際限のない場所でやると、危険度が高くなるのでは」
「それもそうです。パット君はそれでもかまわないかな」
「もちろんですとも。型で手合わせ願えるだけで、充分すぎるほど幸福なくらいですか
ら」
 パットの日本語は表現が過剰になって、少々おかしくなったようだ。結局、スタジオ
の隅っこに約四メートル四方の空きスペースを見付け、そこで試し合うことになった。
 身長もリーチも藤村が上回るが、大差はない。演舞なら、二人の体格が近ければ美し
いものに、体格差が大きければ派手なものに仕上がりやすいだろう。しかし今からやる
のは、ほぼぶっつけ本番のアクション。どうなるかは、事前の簡単で短い打ち合わせ
を、どれだけ忠実に実行できるかに掛かってくる。
「トレーニングは欠かしていないが、寄る年波で動き自体は鈍くなってると思うので、
スピードは君から合わせてくれるとありがたい」
「了解しました。あ、それと、もしドラマ出演が決まったら、最終的には僕らが勝つ台
本でしょうから、今日は藤村さんが勝つパターンでいかがでしょう」
「花を持たせてくれるということかい」
 往年の大選手を相手に、舐めた発言をしたとも受け取れる。藤村はしかし、パットの
提案を笑って受け入れた。
 他にも色々と取り決めたあと、互いの突きや蹴りのスピード及び間合いを予習してお
く目的で、それぞれが数回ずつ、パンチとキックを繰り出し、空を切った。
 そして二人は無言のまま、合図を待つことなく、急に始まった。
 仕掛けたのはパット。カンフーの使い手、それもムービースターのカンフーをイメー
ジしているらしく、大げさな動作と奇声から助走を付けての跳び蹴りで先制攻撃。かわ
す藤村は、キックボクサーのステップだったが、距離を取ってからは空手家のようにど
っしり構える。パットが向き直ったところへ一気に距離を詰め、胴体目掛けて突きを四
連続で放つ。もちろん、実際にはごく軽く当てているだけのはずだが、迫力があった。
よろめきながら離れたパットは、口元を拭う動作を入れ、態勢を整えると、身体を沈め
片足を伸ばした。かと思うと相手の下に潜り込むスライディング。一度、二度とかわす
も、三度目で足払いを受け、今度は藤村がよろめく。姿勢を戻せない内に、パットが突
きの連打。藤村のそれよりは軽いが、その分、数が多い。バランスを一層崩した藤村
は、倒れそうな仕種に紛れて前蹴り一閃。パットは寸前で避け、バク転を披露。再び立
ったところへ、藤村がバックスピンキック。
 と、ここでパットが一歩踏み出したせいで、藤村との間合いが詰まった。藤村の蹴り
足をパットが抱え込むような形になり、もつれて二人とも倒れてしまった。上になった
パットが突きを落とすポーズを一度して、離れる。
 改めて距離を作った二人は、アイコンタクトと手の指を使って、もう一回同じことを
するか?という確認を取った。再開後、藤村のバックスピンを、今度はパットも巧く当
たりに行き、派手に倒れてみせた。素早く起き上がった藤村が、先程のパットのよう
に、振り下ろす突きを喉元に当てて――実際は素早く触れるだけ――、アクション終了
となった。
 周りで見ていた者は皆一斉に拍手した。感嘆の声もこぼれている。
「パット君、やるねえ。演技だけに使うのは惜しいくらいだ」
「いえいえ。藤村さんに引っ張っていただいたからこそ、動けたんです」
「こちらこそ、久々だったから疲れたよ」
「まさかそんな。現役を離れているとは信じられないくらい、きれがあって、驚きまし
た。当たり前ですが、プロは違いますね」
 パットは爽やかに笑いながら、藤村の両手を取って、深々と頭を下げていた。

 藤村忠雄が去ったあと、撮影は再スタートした。パットは興奮が残っていたか、しば
らくは何度か撮り直しになったが、しばらくするとそれもなくなった。
 結果的に、予定されていたスケジュール通りに撮影を消化し、この日は終わった。
「パット。お話しする時間ある? 少しでいいんだけど」
 加倉井は控室に戻る前にパットに声を掛け、約束を取り付けた。着替えが終わってか
ら、スタジオの待合室で話す時間を作ってもらった。
「お待たせしました。すみません」
 撮影を通じて仲がよくなり、フランクに話せる間柄にはなっていた。とは言え、キャ
リアが上の相手を、こちらの用事で足止めしておいて、あとから来たのでは申し訳な
い。加倉井は頭を下げた。
「いいよ、気にしなくて。女性の方が身だしなみに時間が掛かるのは、当然だからね」
 パットは近くの椅子に座るよう、加倉井を促した。それに従い、すぐ隣の椅子に腰を
据える加倉井。
「それで話は何かな」
「率直に物申しますけど、怒らないでくださいね」
「うん? 断る必要なんてない。仕事に関することで正当な指摘や要望なら、僕は受け
入れる度量を持っているよ」
 若干の緊張を顔に浮かべながらも、微笑するパット。加倉井は彼の目を見つめた。
「それじゃ言います。パットって、負けず嫌いなところ、あるよね」
「まあ、程度の差はあっても、男なら負けず嫌いな面は持ってるんじゃないかな」
「男に限らないわ。私も負けず嫌いですから」
「ふうん?」
「前から、ちょっと引っ掛かってたことがあって。今日、藤村さんから意見を伺って、
確信に近いものを得たわ。パット、この前の肘がみぞおちに入ったのって、わざとでし
ょ?」
「……どうしてそう思うんだい」
 ほんの一瞬、面食らった風に目を見開いたパット。すぐ笑顔に戻り、聞き返す。
「あなたほどできる人なら、肘が相手に当たったなら、分かるはずよ。なのに、問題の
撮影の際、あなたは倒れた私に『どこかみぞおちに入りましたか』と言った。肘と分か
っていないなんておかしいと思ったのは、あとになってからだけれどね」
「確かに、当たったのが肘だったのは分かっていたよ。でも、わざとじゃない。あのと
き気が動転して、肘と膝、どっちがエルボーだったかを度忘れしちゃって、それで『ど
こか』なんて言っちゃったんだよ」
「動転した? その割には、同じことを繰り返しやっているみたいだけれども」
 加倉井は胸元のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。長机の上に広げて
みせる。そこには、パット・リーがアクションシーンの撮影で起こしたアクシデント三
件について、その詳細が書かれていた。
「これは……」
「日本語、どこまで読めるのか知らないから、こっちでざっと説明すると……まず、こ
の作品では師匠役の男優のお腹に肘を入れてるわね。次は作中でも芸能界でもライバル
である男優に、台本にない中段蹴りと肘を入れている。三つ目は、鬼教師役の男優に、
また肘」
「……こんな細かいことは表に出ないよう、伏せさせたはずなんだけどな」
「パットは日本の事情に詳しくないでしょうけど、私の所属するところは大手の一つ
で、それなりに力があるのよ。調べれば、ある程度のことは分かる」
「それは知らなかった。油断してたよ」
 力が抜けたように口元で笑うと、パットは座ったまま、大きく伸びをした。
「認めるのね?」
「うん、まあ、証拠はないけど、認めざるを得ない。今後、撮影を続けるにはそうしな
いと無理だろうし」
「どうしてこんなことをしてきたのか、聞かせてもらえる?」
「……あの、答える前に、他言無用を約束して欲しいんだけど、無理かな」
 パットは両手を組み合わせ、拝むように懇願してきた。加倉井は考えるふりをして、
焦らしてから承知の意を示した。
「私だって、このドラマの撮影は最後まできちんとやりたいもの。それで、理由は?」
「実は僕は元々、プロ格闘家志望でさ。そのためにトレーニングしていたのを、親が何
を勘違いしたのか、芸能のオーディションに応募しちゃって、とんとん拍子に合格しち
ゃって、芸能界に入っちゃった。名前を売ってからプロ格闘家デビューすれば格好いい
とか言われてね。でも、自分で言うのもあれだけど、顔がいいのとアクションができる
だけで、演技は平凡でも人気が出てさ。いつのまにかプロ格闘家の道はなかったことに
されてた」
「自慢はたくさん。早く続きを」
「それで……撮影でアクションシーン、特に格闘技を交えたアクションがある度に、本
当だったらこんな奴らには負けないのに、とか、この中で一番強いのは自分なんだぞっ
ていう気持ちが膨らんでね。時々、実力を示したくて溜まらなくなるんだ。あ、今日の
藤村さんは強いね。ちょっと仕掛けてみたけれど、簡単に流された。そのあとで、しっ
かり喉にぎゅっと力を入れられたし」
 パットの答を聞きながら、加倉井は、ああ最後のやり取りって二人の間ではそういう
ことが行われていたんだ、と理解した。
「実力を示すと言ったわね。女の私にまで? 以前の三回にしても、相手は演技のみで
実際は素人同然でしょうに」
「そこは自尊心の沸点に触れるようなことがあったから、と言えばいいのかなあ」
 パットが自尊心なんて言葉を使うものだから、どんなことがあったかしらと自分のパ
ットに対する言動を顧みる加倉井。が、特に思い当たる節はない。
「激しく投げられたり、平手打ちされたりしたら、抑えがたまに効かなくなるんだ。だ
から、加倉井さんの場合は、平手打ちが痛かったから、よしここで知らしめねばと考え
てしまったんだよ」
「……それだけ?」
「うん、他には何もない」
 当たり前のように答えるパット。理解してもらえて当然といった体だ。
(ちっちゃ! 呆れた。年上なのに、なんで子供なの)
 非難する言葉を一度に大量に思い付いた加倉井。引きつりそうな笑顔の下で、どうに
かこうにか飲み込んでおく。
(これから芸能活動を続けるのに、そんな性格だといずれ絶対に衝突が起きて、うまく
行かなくなるわ。分かって言ってるのかしら? もっと精神的にも成長して、器の大き
な人にならないと。――私の知ったことではないけれども)
 加倉井は若いアクションスターに何とも言えない視線を向けるのだった。

            *             *

 思い出にまた微苦笑を浮かべていた自分に気付き、加倉井舞美は我に返った。
(器の大きな人になれてないのね、パットは)
 パット・リーに関する記事は読まずに、自分の記事を探す。そして一面にやっと辿り
着いた次第。
「えっ」
 一面とはその新聞の顔。トップの扱いを受けたとなると、普通なら喜びそうなものだ
が、今回は事情が全く異なったのである。
「何よこれはっ」
 だから、加倉井は問題の新聞を左右に引っ張った。破ける寸前で、マネージャーが止
めに入る。マネージャーは一足先に、一面に目を通したようだ。
「だめよ。抑えて抑えて」
「……新聞紙が案外丈夫なことを確かめられたわ」
 皺のよった新聞を近くのテーブルに放り出し、マネージャーに向き直る。事務所の一
室だから、人目を気にする必要はない。それ以前に、ビルのワンフロア全てがグローセ
ベーアなので、部外者は基本的にはいない。
「でも、これは怒って当然よね?」
「気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 ネット上のサイト閲覧で済まさず、わざわざ紙媒体を購入してきたのには理由があ
る。スポーツ紙の見出しは、スタンドに挿した状態では、次のような言葉が目立つよう
に文字が配されていた。
『加倉井舞美 好き 男性器 大きい』
 こういう手法が古くからあることは充分に認識済み。だが、まさか自分が餌食になる
とは、心構えができていなかった。向こうは、こちらが成人するのを待っていたのだろ
うか。
「マネージャー、前もってチェックしたんでしょうね?」
「したのは本文とそのページのレイアウトだけ。まさか一面見出しに使われるなんて、
考えもしなかったから」
「まったく。してやられたってわけね。抗議は?」
「当然、電話を入れたけれども、浦川さんがつかまらなくて。代わりの人が言うには、
大きなスポーツイベントが中止で紙面が空いたから、ネームバリューを考慮して使わせ
ていただいた、だそうよ」
「取って付けたような……」
 最後まで言う気力が失せて、加倉井は鼻で息をついた。
「どうせ、他にも早々と広まってるんでしょうね」
「他のサイトの芸能ニュースに、ネタとして取り上げられている」
「腹立たしいけれども、我慢するほかなさそうね。一日も経てば、目立たなくなるでし
ょ」
「今後を考えると、浦川さんとの付き合い方を、見直さないといけないかもね」
 マネージャーの言に首肯した加倉井はことの発端となった質問を思い起こした。
(好きな異性のタイプ、か。次に似た質問をされたときは、はっきり明確に答えられる
ようにしておくべきかしら)
 そんなことを考えた加倉井の脳裏に、小学生時代の同級生の名前が浮かんだ。少し前
まで思い出していたせいに違いない。頭を振って追い払った。その名前が誰なのかは、
彼女だけの秘密。

――『カグライダンス』終




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