AWC ●長編



#423/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/03/30  23:27  (343)
白い彼方のホワイトデー 上  永山
★内容                                         14/01/12 10:11 修正 第4版
 窓の外にちらつく白い物を認めたとき、ふっと思い出した。これまで雪を見
ても思い出すことはまずなかったのに、どうしたのだろう。昨夏、当時を過ご
した町に戻って来た、その事実が大きいのかもしれない。
 すでに三十年ほどが経過している。あの日も今と同様に雪が降っていたが、
勢いは段違いだった。
 思い出したのは忌まわしい事件の記憶だが、三十年も経つとさすがに懐かし
さを覚える。
 あれはまだ昭和の時代。今のように携帯電話や防犯カメラが、世の中に溢れ
ていなかった。科学捜査も現代には及ばない。もしも今、あの事件が起きたの
なら、即座に解決されていた気がする。
 詳しく思い返してみることにした。僕は古雑誌の整理の手を休め、コーヒー
を準備した。

 この町で三月半ばに雪が降る、それも積もるほどとなると極めて珍しい。あ
る意味、三月十四日という日にふさわしい彩りではあると思う。反面、不安を
煽る異常現象とも言えた。
 不安と表現したが、僕のクラス――二年四組の面々ならぴんと来るだろう。
一ヶ月前のバレンタインデーに起こった騒動が、まだ燻っていることだと。
 大多数の中学校と同様、我が校も、バレンタインだからと言ってチョコレー
トだの何だのを学校に持ち込む行為を、校則で禁じている。教師が見逃してく
れるのを期待してはいけない。完全に取り締まるのは無理だが、見つかったら
アウト。禁止物を持ち込んだ生徒は言うまでもないが、もらった側の生徒も処
分を受ける。正確には、物を受け取っておきながら速やかに報告しなかった場
合に限られるのだが、この理不尽な定めのおかげで、今度の騒動が起きたと言
える。
 校則の存在は、校内の誰もがよく分かっている。故に、バレンタインデー当
日、気持ちでは浮ついた者がいたとしても、実際に物をやり取りするような無
駄な勇気をふるおうという生徒は、滅多にいない。学校の外で渡せばお咎めな
しなのだから。渡す側にとって、プレゼントを学校に持ち込むことは駄目でも、
派手な包装をせず、宛名も記さないでおけば、言い逃れはできる。
 そういった意識が生徒間に広まっているにもかかわらず、騒動――事件と言
い換えてもよい――は起きた。
 二月十四日は三学年ともまだ平常授業が行われており、定期考査を意識し出
す頃と言える。かくいう僕、正田昌樹もその一人で、バレンタインなんて頭の
片隅にもなく、試験に向けてそろそろ対策を練り上げねばならないと思ってい
た。
 だから、その日の終わり、ホームルームで騒動が持ち上がったときも、しば
らくは傍観していた。司会進行役を滞りなく務めていたクラス委員長の羽根川
進が、判所役である副委員長の石橋美奈穂から、最後の付け足しのように尋ね
られたのがきっかけだった。
「他に何もないようだったら、私から一つ」
 石橋は天然パーマの持ち主で愛嬌のある美人だが、外見とは裏腹に理知的な
面を備えている。これが僕の彼女のに対する評価だ。そしてその評価は、この
ときも当たっていた気がする。
「実は今日、体育の授業が終わって教室に戻ってきたあと、私の机の中に走り
書きのメモが入れられていたの」
 石橋は胸ポケットから紙片を取り出した。四つ折りにされたそれを開く。
「ここに書いてあることが事実なら、私は副委員長として言わなければいけな
い。メモを見た直後に行動を起こさなかったのは、羽根川君、あなたが自分で
先生に言いに行くだろうと期待したからなんだけれど……そういう素振りは皆
無だったから、この場で言わせてもらうわ」
 羽根川はきょとんとしていた。彼もかなりの男前だが、近眼で、あまりセン
スのよくない厚い眼鏡を掛けている。背は高くて体格もいいので、センスさえ
磨けばもっともてるだろうに、改善の兆しがない。
「何が書いてあるのか、言ってくれないと」
 羽根川が戸惑い気味に聞き返すと、石橋はうなずき、少しボリュームを落と
した声で読み上げた。
「『私は目撃した。委員長の羽根川がバレンタインデーのプレゼントっぽい物
を持っているところを。どうしたらいいのか分からない。副委員長に判断を任
せる』」
「――はぁ?」
 ますます訳が分からないとばかり、頓狂な声を上げた羽根川。
「それ、見せて」
「いいけれど、先生やみんなに見てもらうのが先」
 きっぱりした物腰で、主導権を握り続ける石橋。彼女は教室の廊下側に行く
と、列の先頭から紙を回すように伝えた。
「誓って言うが、身に覚えがない。誰が書いたのか分からないのか?」
 紙の動きを眼で追いつつ、羽根川は石橋に問うた。副委員長は首を傾げた。
「署名なし。文字は手書きだけれど、利き手じゃない方で書いたみたいな、へ
ろへろの筆跡で、とてもじゃないけど特定は無理だと思うわ。まさか指紋を採
るなんて、無理でしょうし」
 仮に指紋採取できる環境が整ったとしても、最早手遅れだ。僕は、回ってき
た紙片を見下ろしながら思った。紙はノートの切れ端のようだが、罫線が引い
てあったり、メーカーの印があったりという特徴は見当たらない。鋏かカッタ
ーナイフを使ったのか、縁はきれいに切られている。元のノートと切れ目を合
わせれば一致する可能性はあるが、逆に、真っ直ぐ切ってさえいれば、どんな
ノートにも一致するとも言えそうだった。
「それで、羽根川君。身に覚えがないんだったら、鞄や机、ロッカーなんかを
調べても――」
「色々私物が入っているんだぞ? 見せたくない物だってある」
「私だって見たくないわよ。こうして疑いが掛かっているんだから、潔白を証
明するために、何とかしてほしい訳。委員長としても、きちんと対応してもら
わないと」
「……調べる役を僕が指名する。それなら応じてやる」
 ちょうど紙片が戻って来て、石橋から羽根川へ渡された。
「まったく、誰がこんなでたらめを」
「指名でいいと思う。ただし、先生を含めた三人ね。あとの二人は男女一人ず
つ」
「よし、じゃあ……女子は石橋さんがやれ。あとで何か言われたらたまらない」
 そんな風に選ばれた三人で、最初に羽根川の学生鞄を調べてみた。
 結果、あっさり見つかったのである。焦げ茶色の包装紙に包まれた、小さな
箱入りのチョコレートには、宛名の記されたカードが挟んであった。
 もちろん、羽根川は「知らない。誰かが勝手に入れた」と頑なに否定したし、
告発の経緯にも不自然さが感じられるのは明らか。と言って、見過ごしもでき
ないので、状況説明全てを含め、生徒指導主任に報告されることになった。そ
して翌日の夕方に下された処分が、次の通りである。
 チョコレートを持ち込んだ者が誰か、その人物が羽根川に渡したのは本気か
悪意か、の二点に関しては判断保留。保留と言いつつ、継続調査して結論を出
す日は来ないだろう。
 ただし、羽根川は反省文を提出すること。クラス委員長を務めていながら、
脇が甘かった点を責める形だ。
 かように強引な幕引きが行われたバレンタイン騒動が、後々まで火種を抱え
込むのは当然だったかもしれない。

 卒業式まで一週間を切り、他にも行事が立て込むこの時期、本来なら早朝か
ら学校は人でざわついていておかしくない。だが、ときならぬ大雪のおかげで、
教職員の大半が遅れての出勤を余儀なくされた。午前五時になる直前に止んだ
とはいえ、雪に慣れない土地の人々の足を乱すには、充分だった。
 よって、“現場”に最初に到着し、異変に気付いたのは、学校のごく近所に
住む一年生の女子生徒二人になった。
 雪の積もり具合を心配し、もしかすると休校かもという期待込みで、二人の
女子は中学校まで歩いて来た。時刻は朝の七時になるかならないかの頃。雪は
やんでいたが曇天のおかげで薄暗く、校舎の窓には明かりがぽつん、ぽつんと
ようやく灯り出したタイミングだった。教職員用の通用口は裏手にあり、一年
女子二人が目の前にしている正門は、生徒や来客用。そこからグラウンド、校
舎へと至る地面を覆う雪に、足跡が一筋。いや、足跡は途切れていた。ちょう
どグラウンドの中程、正門からも校舎からも三十メートルばかり離れた位置で。
 そして、足跡の主であろう人物は、その地点で仰向けに倒れていた。
 身に着けているのは学校指定の制服で、男子と分かる。頭を校舎側にしてい
るため、顔はしかとは見えない。
 やがて、一年生の女子二人が揃って悲鳴を上げた。彼の胸には異様な物が突
き立てられ、その傷口を中心に赤い液体が広がっていた。

 学校側は渋ったようだが、警察に通報せずに済ませられるはずもない。発見
者である一年生二人から異常を伝えられてから、教師の一人が倒れたままの男
子生徒に近付き、意識や脈がないことを確認。救急車を要請したあと、警察に
も通報がなされた。時刻にして、午前七時半。学校は、とりあえず午前中を休
校とし、午後からどうするかは改めて連絡するとした。
 その後、男子生徒の死亡が確認され、身元も判明した。バレンタインデー騒
動の渦中にいた、羽根川進だった。
 以下、警察の発表によると――当日の朝五時半から六時半の間に死亡したと
推測され、死因は発見時の状況から容易に想像できた通り、大量失血のためだ
った。
 胸のほぼ真ん中に突き刺さっていたのは木製の矢で、深さは約五センチにも
達していた。心臓を逸れていたので即死こそ免れたろうが、血管を傷付けてお
り、襲撃から程なくして死に至ったと考えられた。至近距離で撃たれたか、で
なければ、腕力のある者が矢を握り、直接突き刺した可能性が高い。
 矢は樫の木を刃で削った物で、手作りと見られる。これを発射する弓または
ボーガンの類は、発見されていない。なお、矢からは一切の指紋が出なかった。
犯人の物が付いていないのは当然として、被害者の物まで検出されなかったの
は、羽根川が防寒のため、手袋をしていたからと思われる。実際には、羽根川
は矢を抜こうと努力した形跡が認められた。深く刺さって抜けなかったのか、
抜くと出血量が増えると感じ取ったのか、途中でやめたようだった。
「二度目になりますな、正田さん」
 僕の目の前には刑事がいる。男で厳つい顔をしている。ドラマなどで見るベ
テラン刑事のイメージに、かなり重なっていると思った。
 場所は校長室横の応接室。事件発生当日、警察の申入れで、ここを臨時の事
情聴取場所として提供し、僕も話を聴かれた。革張りの立派なソファには、普
段でさえあまり慣れず、居心地がよくないのに、刑事相手となるとなおさらだ。
 今日は事件から三日が経っていた。騒々しい中、卒業式を昨日終え、曲がり
なりにも行事を消化する目途が立った頃合いに、捜査陣の刑事二人が乗り込ん
できた形である。
「まあ、そんなに緊張しないで、気楽に」
「型通りの質問ですから」
 ベテラン刑事の隣に座る、若い刑事が言い足した。若い方は、ドラマに出て
来るエリート刑事という雰囲気はなく、むしろ見習い研修中といった風情があ
った。
「何しろ、正田さんは亡くなった羽根川君のクラス担任なんですし、話を伺わ
ない訳にはいきません」
「はあ、まあ、そりゃあそうでしょうね」
 僕は微苦笑を浮かべようとしてやめた。生徒が死んでいるのだ、どんな形で
あれ、笑みを見せるのは不謹慎であろう。喉元のネクタイを少し緩め、足を開
き気味にして座り直した。
「何でも聞いてください」
「忙しいでしょうから、なるべく手短に行くとしましょう。羽根川君は先月十
五日、学校から軽い処分を食らっていますね。何でも、バレンタイン当日に、
禁止されている物を校内で受け取ったのが原因だとか」
「はい。ただ、本人は否定しましたし、状況に不自然なところもありましたの
で、クラス委員長としての責任を問い、処分も軽めで済んだと思います」
「その辺りも聞き及んでいます。こちらが確認したいのは、羽根川君に物を贈
った人物が誰なのか、本当に分からないのかということと、贈り物が悪意であ
ったのか、だとしたら密告――きつい表現だがご勘弁を――したのは誰なのか、
といった点なんですが」
「恐らく、刑事さん達が掴んでいる以上の話は、何もできないと思いますよ」
 僕は唇を湿らせ、考えながら話し始めた。
「僕自身の考え、感じたところでは、羽根川の鞄に入っていたチョコレートは、
やはり悪意からのもので、彼をはめるためだったんでしょう。当然、贈った生
徒と副委員長にメモを託した生徒は同一人物で、大なり小なり、羽根川に対し
て思うところがあったんじゃないかと。いやあ、信じたくはないんですが」
「なるほど。じゃあ、羽根川君を憎むか嫌うかしている人物に心当たりがあれ
ば、仰ってください」
「……生徒を売るような真似は、何かハードルが高いというか……」
「勘違いしないで欲しいのは、羽根川君をはめた者が、殺人事件の犯人と決ま
った訳ではないということ。捜査の参考に使うだけです。それに、クラスメー
トを陥れるような生徒には、指導をしてやらんといかんでしょう」
 ベテラン刑事はうまいこと言ったつもりのようだった。
 僕は溜息をついて、口を開き掛け、また一つ息をついた。踏ん切りを付ける
のに努力を要する。
「僕からも勘違いしないで欲しいと前置きします。僕はバレンタインの騒動の
折、一応、考えました。誰がこんな卑劣な行為をやったのかと。幸か不幸か結
論は出なかった。出ても推測の域内だろうし、生徒を問い詰める気は毛頭あり
ませんでしたが。だから、今から挙げる名は、そのときに思い浮かんだ単なる
候補ということで、了解を願います」
 刑事二人はうなずき、若い方が「お聞きした話は、慎重に取り扱います。ど
うぞ」と促してきた。
「最前、刑事さんが使った表現、羽根川を憎むとか嫌うという意味では、実は
誰も思い浮かばなかったんです。停学処分に追い込んでやろうなんて悪戯と釣
り合うようなものは何も。だから、彼をライバル視していた者や、彼がいなけ
れば利益を得る者がいるかという観点で、考えてみました。その結果が」
 僕は紙とペンを用意し、二人の名前を書き出した。
 石橋美奈穂と宝木忠敏。
「石橋というのは、副委員長の?」
 ベテラン刑事が紙の上を指で押さえながら、聞いてきた。
「ええ。彼女と羽根川は成績優秀で、張り合っているところがありましたし、
ショートステイの枠でも競っていたので。三年の夏に、学校を代表して短期の
体験留学に行ける枠があるのですが、二人とも希望を出しています。尤も、羽
根川一人がいなくなったからと言って、石橋に決まる訳じゃありません。ライ
バルは他にも大勢いますから、ほとんど意味ないんじゃないかと思います」
「石橋さんが、その辺のシステムを理解せず、羽根川君さえ排除すれば自分が
選ばれると思い込んでいたようなことは?」
「ないですよ。優秀な生徒は、そんなばかげた思い込みをするはずがない」
「ふむ。では、この宝木という生徒は、初耳ですがどういった……」
「宝木は二年四組ではなく五組の生徒で、大げさに言えば不良、まあ僕の見る
ところ、少し悪ぶってるだけですけれどね。一年生時に羽根川とぶつかってい
ます。そのときは担任でも何でもなかったので、あとで聞いただけですが。き
っかけはくだらなくて、掃除の時間にふざけていた男子グループの一人が宝木
で、彼の放った雑巾か何かが、たまたま羽根川に当たった。宝木はすぐに謝っ
たが、その言い方がひどく軽い調子だったから、羽根川も頭に来たらしく、口
論に。それがずっと尾を引き、似たような衝突を二、三度繰り返したあと、宝
木の校外での校則違反、確か服装の違反を目撃した羽根川が学校に報せたこと
で、宝木も懲りたというか、ばか負けしたようです。クラスが別になった二年
からは、特に何も起きていませんでした」
「つまり、一年近く、何らトラブルは起きていなかったと。収まっていたのが
急に復活して、殺し殺されるの関係になるとは、俄には信じられませんなあ」
「僕も同感です。宝木がバレンタイン騒動の張本人というのはまだあり得なく
はないかもしれないが、殺人となるとね……。石橋に至っては、バレンタイン
騒動の動機としても弱い」
「他に思い浮かぶ人物はいませんかね」
「羽根川にバレンタイン騒動のような悪戯を仕掛ける、という意味でなら、一
人だけいます。殺人には無関係に違いないから、言う必要ないと思ったんです
が」
「念のため、拝聴しましょう」
 刑事の言葉を受け、僕は先の紙に、もう一人の名を記した。倉森三郎。
「倉森は四組の生徒です。父親が製薬会社の重役で、倉森自身も化け学に強い
ですね。羽根川は理科にやや弱いから、互いに補っている感じでした。二人は
幼稚園の頃から友達で、クラスもずっと同じだったと聞いてます。まあ、親友
という奴でしょうか。倉森と羽根川は、互いに何でもできる、言い合える仲だ
ったようでしてね。悪ふざけも同様で、あいつなら許せるという感じでした。
バレンタイン騒動のときも、僕個人は、倉森のことが真っ先に頭に浮かんだも
のです」
「じゃあ、倉森君に直接、聞いたんですか」
「いえ、それが、あり得ないんですよ。二月十四日、倉森は早退しています。
薬局で薬剤師をやってる母親が倒れたと報せが来たんで、大事を取って。幸い、
母親は無事退院できたと聞いています」
「ふむ……」
 刑事達が黙したのを見て、僕はここぞとばかりに質問をした。ホワイトデー
事件のあることに関して、警察の見解をぜひ聞いてみたかった。
「刑事さん。そもそも、これは本当に殺人なんでしょうか?」
「と言いますと」
 こちらからの問い掛けを特に咎める風もなく、ベテラン刑事は乗ってきた。
「現場の状況を、僕も見ました。足跡は、救助に向かった者を除くと、羽根川
自身の分だけだったですよね? 殺人なら犯人の足跡も付くはずだが、どこに
も見当たらなかった。常識的に考えて、犯人は存在せず、事故か自殺と見なす
べきなんじゃないんでしょうか」
「校長先生も似たようなことを言われていましたよ」
 ベテラン刑事は、わずかばかり口元を曲げて言った。
「学校内で殺人事件が起きたよりは、自殺の方がまだまし。事故ならもう少し
まし。そんなところなんでしょうな」
「いえ、そんなつもりでは……」
 図星だったが、口では否定しておく。本心をごまかし、続けて意見を述べた。
「殺人だというのなら、警察は足跡について、どう解釈してるんです? 犯人
が遠くから、弓で矢を射たと考えているのですが」
「当初はそう思いました。しかし、実験してみると、あの手作りの矢では、三
十メートルの距離を飛んで突き刺さるには、重すぎるようで。ボーガンを使え
ば飛距離は伸びるが三十メートルに届くかは微妙な上、真っ直ぐ飛ばないと来
た」
「じゃあ、やっぱり殺人ではないのでは? まさか、犯人が雪の止まない内か
ら校庭のど真ん中で羽根川を待ち伏せ、通り掛かった彼を刺し殺したあと、ヘ
リコプターで飛び去ったなんて考えている訳ありませんよね」
「正田さん、あなた面白い人なんですな。教師というイメージから、もっと堅
物なんだと思ってましたよ」
「学生時代、バイトで小学校低学年の子の勉強を見てやったこともありますし、
これくらいの柔軟さは必要なんです。それで、どう考えてるんですか」
「まあ、こうと確定した答を見つけた訳ではないんだが、仮説ならあります。
その仮説でもうまく説明できない点が残るので、答えづらいんですがね」
「何なんです?」
「正田さんは推理小説はお読みにならない? じゃあ、ヒントは……人は刺さ
れたあとも少しなら歩けることもある。これで勘弁願います。くれぐれも他言
無用ですぞ」
 ベテラン刑事は、秘密めかして答えると、相当に不気味なウィンクをした。

 解放されたあとも、僕は暇を見つけては、刑事のヒントを検討した。
 人は刺されたあとも歩ける。つまり、羽根川は弓を直接突き刺されたあと、
即死せずに歩いたという意味に違いない。正門のすぐ外で刺せば、犯人の足跡
は他の物や自動車などのタイヤ痕に紛れ、じきに分からなくなるだろう。羽根
川がグラウンドの真ん中で倒れたのは、犯人の計画にはなかった、単なる幸運
だった。
 こう考えると、足跡の謎はなくなる。
 では刑事の言っていた、説明の付かない点とは何なんだろうか? 雪に血痕
が見当たらなかったのは、矢が栓の役割を果たして傷口を塞いでいたと見なせ
ば、さほど不思議ではないらしい。
 羽根川がふらふらと逃げたのに、犯人がとどめを刺そうと追い掛けてはいな
い。それが不自然なんだろうか。だが、犯人は一方で現場から一刻も早く逃げ
たいものだろう。手応えがあったなら、さっさと逃亡する方を選んでもおかし
くない。
 現場周辺で、目撃者や怪しい物音を聞いた者は見つかっていないらしいが、
羽根川が叫び声一つ挙げなかったのが不自然なのか? しかし、羽根川は現場
の学校まで、冬の朝早くからのこのこ出向いて、正面から刺されている。相手
を警戒していなかった証拠ではないか。だとしたら、突然刺されて、訳が分か
らず、まともな悲鳴も上げずに逃げることは充分にありそうだ。
 そんな曖昧ではない、もっと具体的で明白な疑問が、きっとある。
「正田先生。遅れていた人の分、持って来ました」
 職員室に尋ねてきたのは、石橋だった。副委員長の彼女は、委員長がいなく
なったこともあり、終業式までの間、かけずり回っている。今、持って来てく
れたのは、羽根川の死に対するクラスメートの率直な言葉を聞く、一種のアン
ケートだ。無記名かつ各人が封をして提出する形を取っている。原則的に校内
だけの書類に属するが、場合によっては、心理学の専門家に見せることもある
と聞いた。
「ああ、ご苦労さん。これで揃ったか?」
「はい。倉森君が一番最後だったわ。あ、言っていいのかな、これ」
「それくらいならかまわんだろ。実際、倉森の様子は気になるしな」
「朝と変わらない。辛そうでした。やたらと溜息をついて。泣きそうな様子も
時々見られるけれど、男子だからか、さすがに泣かない」
「よく観察してるな」
「観察なんて呼べるほど、大げさじゃありません。副委員長として、みんなの
様子に気を配らなくちゃと思っただけです」
 舌先を覗かせた石橋。努力して明るく振る舞っているのか、これが地なのか
見極めは付かない。
「他に気になる奴はいないか? 教師の前だと、本音を出さないのもいるだろ
うから」
「うーん、先生も見てるから知ってるだろうけれど、女子には結構泣いてる子
がいます。でも、羽根川君に好意を持っていたとかじゃなく、死そのものにシ
ョックを受けてる感じ、かな」
「――おまえはどうなんだろうな?」
「私? 人並みに悲しんでる頭は持ち合わせてる。あと、自分も気を付けなく
ちゃいけない」
「その、なんだ。石橋も殺人だと思っているんだな」
「警察も言ってるし……違うの、先生?」
「いや、警察の発表が正しい……んだと思う。足跡も問題にしていないようだ
しな」
「へえー。じゃ、どうして羽根川君が道路側に逃げず、学校側に逃げたのかの
説明も付いてるんだ?」
「ん?」
 教え子からのいきなりの台詞に、僕は思わず、じろっと見上げてしまった。
気味悪がる石橋を呼び止め、「どこまで把握してるのか、教えてくれないか」
と潜めた声で尋ねる。周囲も気になるが、幸い、昼過ぎの職員室に人は少ない。
「把握って?」
「足跡についてだよ」
「……話してもいいけれど、お昼、おごってください」
 赤く細いバンドの腕時計を指差しながら、石橋は真顔で言った。


――続く




#424/598 ●長編    *** コメント #423 ***
★タイトル (AZA     )  13/03/31  00:06  (408)
白い彼方のホワイトデー 下  永山
★内容                                         22/05/30 17:08 修正 第5版
 我が校にも給食制は導入されているが、今日は午前中で学校が終わるので、
給食はない。学食なんて施設もなく、購買部に多少の食品が置いてある程度だ
った。もちろんこの年頃の子供、そんなお菓子のような物で満足するはずもな
く、近くの喫茶店に出向き、スパゲティナポリタンをおごる羽目になった。ま
あ、どうせ自分も昼を摂る必要があったのだから、ちょうどいいと思うことに
する。
「で?」
 僕はカツカレーのカツ一切れを、スプーンで半分にしながら、石橋に話の続
きを促した。
「そんなに急かさなくても、食べ終わるまでには話します」
「男の教師と女子生徒が二人きりで店に入るというのは、外聞が悪い。早く済
ませたいんだよ」
「こそこそきょろきょろせずに、堂々としていればいいのよ、先生。部活終わ
りに、顧問の先生が生徒を連れて食事をしてる、ぐらいにしか見えないわ」
「そんなものか」
 石橋が気にしないのであれば、こちらも必要以上に言い立てまい。でも、そ
れとは別に、話を早く聞きたいのも事実。
「カツを一切れやるから、早く話せ」
「カツより、デザートなどをいただける方がありがたいんですけど」
「……分かった。何でも頼め」
 これで目新しい話が聞けなかったら、成績を採点し直して少し下げてやりた
い。
 スパゲティが片付き、デザートに何かのケーキと、ジュースを頼んだところ
で、ようやく石橋は話し始めた。
「警察は多分、弓矢で射殺したなんて方法はあり得ないと、すぐに気付いたは
ず。だったら、次に、学校の外で襲われた羽根川君が、学校内に逃げ込んだと
考えるはず。逃げる途中で死んでしまったと。ここまではどうです? 先生は
警察から捜査の状況を聞いたんですよね?」
「うむ。誉めていいのか分からんが、一致している」
 実際、戸惑った。十四歳前後の女子が、犯罪絡みのことを言い当てるなんて。
 そんな感想が表情に出ていたのだろう。石橋は僕の顔を見て、ふと気付いた
ように目をぱちくりさせ、「そんな意外そうにされるとは思わなかったな」と、
からかう口ぶりで言った。
「私はこれでも、推理小説や二時間ドラマが大好きなんです。小学生のときに
購読していた雑誌に、推理クイズブックみたいな付録があって、そこからのめ
り込んだんです。足跡の問題なんて、お茶の子さいさい」
 そういえば、刑事も似たようなことを言っていた。推理小説を読む人間にと
って、死にかけの被害者が歩いたがために足跡が不思議になるというのは、常
道のパターンなのだろう。
「足跡の謎を解釈するのに、一番有力な仮説なのは、先生も認めますよね」
「ああ」
「その上で、なお残る疑問は、羽根川君は何故、学校の外ではなく中に逃げた
のかという点であることも、すぐに理解できるでしょう?」
「何となくは……。でも、学校の誰かに助けを求めても、おかしくはない気が
するな」
「時間帯を考えて。早朝だったんでしょ。加えて大雪。ワイドショーで見た死
亡推定時刻だと、学校はまだ無人だったはずよ。最後の力を振り絞って駆け出
したのに、明かりが灯っていない校舎を目指すかしら」
「なるほど、理屈だが……犯人が大男で、とても道路側へは逃げられそうにな
かったのかもしれないじゃないか」
「可能性はあります。でも、羽根川君が怖がるくらい大きな人って、大人の男
性でもそこかしこにいるとは思えない。だいたい、羽根川君は真正面から矢を
突き立てられているんでしょう? 大男と相対していたのなら、警戒して、そ
んな簡単に刺されないと思いますけど」
 自分の正面に立った相手に、あっさり刺される。早朝という時間帯や大雪と
いう状況を考え合わせると、相当に油断していない限り、女の子にだって刺さ
れそうにない。
「勘になるけれど、羽根川君は年齢の近い知り合いに呼び出されたのよ、きっ
と。だって、私なら、そうでもない限り、寒い朝にのこのこ歩いて行かないわ」
 確か、羽根川のところは父親との二人暮らしで、会社員の父親は遅番勤務だ。
五時前後に在宅しているか不在かまでは把握していないが、在宅していてもき
っと睡眠を取るだろうから、息子が早朝に出て行っても気付かれにくい。
「雪の早朝に呼び出せるのは、羽根川とかなり親しい間柄に絞れるな」
「そうとも限らないんじゃありません?」
 いつの間にか運ばれたケーキを食べつつ、石橋が言った。
「何故だ? 仲の悪い奴から呼び出されたら、普通は無視するか、時間の変更
を求めるもんだ」
「普通ならね。けど、羽根川君はバレンタイン騒動で陥れられたと主張してい
た。犯人探しをしていたの、先生は知らない?」
「いや、何となくは知っていた」
 一度だけだが、羽根川に問われたことがある。自分の評価が下がって得する
奴はいませんかと。いないとしか答えようがなかったが、あのときもっとちゃ
んと話を聞いておけばよかったのか。
「そんな羽根川君が、たとえば『バレンタインに、おまえの鞄を触っていた奴
を見た。詳しく話したいから、三月十四日の朝五時に学校の正門前まで来て欲
しい』とでも持ち掛けられたとしたら、どう? 相手との仲がどうだろうと、
会いに行くじゃないかしら」
 なかなか鋭い見方かもしれない。電話で持ち掛けられたとして、重大なこと
だから直接会って伝えたい、なんて言われたら、従うしかあるまい。
 だとすると、動機は何だ。手作りの矢を用意し、刺したんだから、計画的な
殺しなんだろう。バレンタインでの悪戯を嗅ぎつけられそうになった犯人が、
それならいっそのこと殺してしまえとやったのか? 小さな罪を隠蔽するため
に、殺人を犯していては割に合わない。乱暴すぎる気がする。
「正田先生は、誰か怪しい人物、浮かびました?」
「そんなの、いやしない。石橋も余計な詮索はやめておけよ。顔見知りを疑う
なんて、どうせろくなことにならない」
「それ、経験談ですか」
「犯罪絡みじゃないが、大なり小なり似たような経験ならあるさ」
 僕の台詞に、石橋は感心したように息をつき、それから「さすが年の功」と
付け足した。

 事件から一週間が経ち、学校の行事は終業式まで無事に済んだ。春休み目前
ともなると、当初の騒々しさは一気に和らいでいた。世間でもっと大きな事件
が起きたせいもあるだろう。ただ、警察の動きがあまり伝わってこないのは、
迷宮入りを想像させて気分のいいものではなかった。
 とはいえ、教師の身分では自ら調べる力なんて高が知れているし、その上、
春休みに入ったからといって暇になる訳ではない。むしろ、新年度に備えて多
忙を極める時期だ。事件の捜査状況を知るには、週刊誌やスポーツ新聞を適当
に読み漁るぐらいしかない。
 だから、羽根川進が殺された事件について、目新しい情報を得るのは期待し
ていなかったのだが、どこにも特ダネ狙いのひねくれ者はいると見える。ある
週刊誌の小さな記事によれば、凶器に使われた矢から、羽根川の血の他に、彼
とは異なる型の血液も検出されたという。O型で、犯人の血液の可能性もある
らしいが、最近付着したものではないとの記述もあった。過去にいかほど遡る
のかについての言及はない。
 来年度も、四組を持ち上がりで受け持つことが決まっていた僕は、各生徒の
情報に接することが、比較的容易にできる。血液型も知ろうと思えば知れる。
だが、教師に過ぎない僕が、そこまでする必要があるのか。そこまでしていい
のか。血液型が決め手になるのであればまだしも、どう扱えばいいのか判断に
困る手掛かりでは、下手にしゃしゃり出るのは自重すべき。そう決断した。
 しかし……中学生の女子ともなると、占いが流行るおかげで、血液型の把握
には熱心な者もいるようだ。あの週刊誌記事を目にすれば、調べたくなっても
不思議じゃない。
「――あ、よかった、いた。先生!」
 たまの休日、自宅アパートの中庭でくつろいでいたところへ、石橋美奈穂は
突然現れた。茶系統でまとめたベレー帽に肩掛け、黒のタイツとと、どちらか
と言えば春よりも秋を感じさせる装いは、校則の定めからはみ出していない。
生徒なりの精一杯おしゃれした私服の効力か、石橋は普段よりも可愛らしさは
減じたが、代わって大人びた雰囲気が増したようだ。
 緑の生け垣を間に挟み、ほぼ正面から向き合う格好になる。
「何だ何だ、石橋。誰かとデートか」
 思い付いたジョークをそのまま口にすると、相手はむくれてしまった。面白
くないと言われるのはかまわないが、不機嫌そうにされるのは予想外で困る。
「正田先生は見ていないのですか、週刊誌に載った記事を」
 早口で捲し立てるように言い、僕に例の週刊誌を突き付ける。読んでいたか。
芸能人ネタの多い号で、セクシャルな記事はほぼなかったな、うん。
「読んだよ」
「O型の血液を持つ人物が犯人だと思います?」
「分からんよ」
 石橋のペースに巻き込まれるのを意識するも、逃れる術はなさそうだ。やむ
を得ず、話に付き合うことにする。アパートの部屋に招き入れる訳にはいかな
いので、僕の方が外に出た。念のため、財布を持って出たが、喫茶店に入ろう
などとは言われなかった。少々歩いた場所にある公園に向かう。天気はよく、
気温も高め。散歩日和だ。
「矢に付着したO型が、いつのものか、記事には書いてなかったからな。そこ
が分からないと、進めようがない」
 道すがら、会話を再開する。石橋は何度か首を縦に振った。
「確かにその通りです。でも私、一応、念には念をと思い、O型の人物をリス
トアップしてみました」
「やめなさい。いらぬ先入観を与えるだけだ」
「クラスのみんなには言わないわ。知りたければ、自分で調べればいいのよ」
 咎められたのが不服なのだろう、唇を尖らせる石橋。
 公園には幸い、誰もいなかった。聞かれる心配をしなくて済む。いくつかあ
るベンチの内、道路に近いやつに腰を下ろした。
「最初は私もO型の人が怪しいと思った。でも、血痕は古い物らしい。矢は木
を削った手作り。今度の事件で、弓を用いて飛ばした様子もない。だったら、
昔の血痕が証拠になりかねないのなら、ちょっと削って取ればいい。なのにし
ていないってことは、ひょっとしたら犯人の血ではないのかもと考えるように
なって。それで、先生の意見を聞きたいと思って、こうして足を運んだんです」
「そうだな、ユニークな見方だ。もちろん、前提条件のハードルをいくつか跳
ばしていることは、承知の上だろう。たとえば、古い血痕の大きさ。仮に、肉
眼では捉えにくいほどの小さなサイズであれば、犯人は見逃したが、科学捜査
によって発見できたということは充分にあり得る」
「はい。でも、私の思い付きを先に検討するだけの、充分に興味深い情況証拠
が存在します。私、推理小説に興味を持った頃から、実際の事件にも関心を持
つようになって、未解決事件なんて報道があると、スクラップするようにして
います」
「そう言うからには、過去の未解決事件に、関係ありそうな事柄を見つけた
のか?」
「三年前の夏、町内で起きた殺人事件です。正田先生も記憶してるはずですよ。
犠牲者は二人、いずれも小学生。二年女子と三年男子で、それぞれ首に細い棒
状の物を突き立てられた結果、動脈を傷付けられ失血死。凶器は未発見。そし
て偶然なんでしょうけど、被害者は両名ともO型」
「一ヶ月半前に羽根川を殺害した犯人と、三年前の連続殺人犯が同一人物だと
言いたいのか」
 驚きを隠さず、僕は聞き返した。無意識の内に、石橋を指差していた。相手
はけろりとして答える。
「少なくとも、凶器は一致するんじゃないでしょうか。刺し方や被害者の年齢
はまるで異なりますけど」
「三年前に二人も刺した凶器なら、それこそ血まみれになったに違いない。そ
んな物をそのまま保管して、今また使おうとするかな」
「三年前の犯行後に、血の付いた部分を削り取ったんだと思います。ひょっと
すると、三年前は真っ直ぐな杖状の物だったのを、血があちこちに染み込んだ
ので、削って矢の形にしたのかも。ただ、血痕全てを取り去るのは無理だった」
「……いや、やはり想像がたくましすぎる。狭い範囲で時を隔てて起きた複数
の殺人事件に関し、一方の事件の凶器が過去の事件に使われたかもしれないと
いう、非常に薄い可能性を追っているだけだ」
「そう言われると思っていました。私も、私みたいな中学生が言っても、まと
もに取り合ってもらえるとは考えていません。そこでお願いが。先生の方から
警察へ、進言してくださいませんか」
「何だって?」
 先程とは違う種類の驚きに、僕は腰を浮かした。石橋は相変わらず、落ち着
き払っている。
「それとなく言ってもらえれば、警察も一応調べてくれると思います。結果が
仮説と違っていても、それはそれで一つの進展です」
「いやいや、違っていたら、捜査の邪魔をしたことになる。だいたい、どうや
って証明できる? 石橋の想像だと、凶器の形状が変わってしまった恐れがあ
る。言い換えると、たとえ同じ凶器でも、傷口は一致しないってことだ」
「最新の科学捜査では、わずかな血痕から、人物の特定が可能になったと聞き
ます」
 石橋は詳しく説明してくれたが、僕は分かったような分からないような、今
ひとつ、理解できなかった。
「と、とにかくだ。その技術はまだ日本では普及していないんだろ? やると
したら専門の研究機関に、特別に依頼することになるだろう。まだ大した確証
もないのに、特別な検査をしてもらえるはずがないさ」
「確証ではありませんが、傍証ならもう一つあります。先生はご存知ないみた
いですけれど、三年前の事件の一人目の被害者は、羽根川君と同じ小学校に通
っていました」
「何と……」
 三度目の驚きには、もう声も満足に出ない。
「じゃあ、羽根川が殺されたのは、三年前の事件の何かを知っていて、そのこ
とを突き止めた犯人に始末されたとか……」
「動機はいくらでも想像できます。でも、凄く興味深い事実でしょう?」
「ああ、そうだな。刑事に伝えてみるくらいの値打ちはありそうだ」
 結局、僕は石橋の頼みを引き受けた。事件の解決自体に関心があったのも確
かだが、それ以上に、石橋が勝手に動いて、万が一、犯人に狙われてはいけな
い。

「どうもどうも、正田先生。お待たせしました」
 すっかり顔なじみになったベテラン刑事が、笑顔で手を振りながら現れた。
僕はパイプ椅子から立ち上がり、軽く一礼した。
「今日はあの若い刑事さんはいないんですか」
「さっきまで一緒にいたのですがね。先生が来たから、自分だけ戻ってきたん
ですよ」
「それはすみません。申し訳ないことをした」
「いやいや、それだけの値打ちがありますよ。実は、矢に関して公にしていな
い情報がいくつかありましてな。それが、三年前の根口君殺害の件と結び付き
そうなんです」
「公にしていない情報とは……」
「全部を明かす訳にはいきませんが、特別に一つだけ話しましょう。根口君の
遺体には、ある植物の花粉が付着していた。今度の事件の矢の羽の部分から、
同じ種類の花粉が微量ながら検出されている。当時の花粉が、今も残っている
としたら、これは有力な証拠になる。新たな観点からの捜査の後押しになるに
違いない。それにしても、三年前に殺された児童二名の血液型なんて、よく覚
えていたものですな」
 刑事は感嘆の中に皮肉を混ぜたような口調で言った。僕もつい、苦笑した。
今回の進言は、僕自身の意見ではなく、ある女子生徒の意見だと、正直に伝え
てある。
「推理小説ファンみたいでして。僕も知らなかったので、意外でした」
「警察官志望なら、将来有望ですな」
 刑事は豪快に笑うと、また立った。
「他に何もなければ、捜査やら何やらあるんで、よろしいですかな」
「え、ああ、一つだけ、教えてください。できればでいいんですが」
 応の返事をもらったので、手短に尋ねる。前に言っていた不自然さとは、羽
根川が学校側に逃げたことなのかと。
 刑事は厳つい顔を縦に振った。
「その通りですよ。これもまたその女子生徒の見方ですか」

 僕は石橋が警察に先んじていたと信じて疑いもしなかったが、捜査陣の一部
は児童連続殺害事件との関連を口にしていたらしい。その上、僕なんかが思い
も寄らない仮説を検討していたのだった。
「何か変なんですよ、先生」
 入学式の予行演習に登校した石橋は、終わるや否や、僕に話し掛けてきた。
どうせ事件のことだと判断し、とっさに人の輪から外れる。
「おかしいって何かあったか」
「私の周辺を誰かが嗅ぎまわってた」
「え? 真面目な話か?」
 にわかには信じられず、また緊張もしたので、つい、確認してしまった。す
ると石橋は案の定、靨を作って少しだけ笑みを見せた。
「多分、警察の人が私の評判を聞いていったみたいなんです」
「警察が? 意味が分からない。むしろ君は、護衛されてもいいくらいなのに」
 そもそも、僕は彼女の名を警察に伝えていないのだが。
「事件の真相をずばり見抜いていた中学生を怪しんで、身辺調査したのかも」
 石橋は本気とも冗談ともつかぬことを言う。
「真相かどうかはさておき、事件に首を突っ込んでくる君を疑った可能性はあ
るな。今、思ったんだが、石橋はもしかすると、三年前の事件の被害者どちら
かと、つながりがあるんじゃないのか」
「同じ学校に通っていました。ただそれだけで、おしゃべりはおろか、見掛け
たことすらないですけど」
「当然、三年間の事件で、警察から事情を聴かれたことは……」
「ありません」
 真の意味で、念には念を入れて調べてみた、ただそれだけのことだったのか。
 しかし、と僕は内心、首をかしげる。
 僕らの進言で警察が新たに動き始めたのなら、捜査員達は忙しく駆けずり回
るものではないのか。女子中学生に疑いをかけ、念のため調べる余裕があるの
だろうか。
 ひょっとすると、大真面目に容疑をかけていたのかも――。僕はまじまじと
石橋を見た。
 彼女はちょうど横を向いており、こちらの視線には気付かなかったらしい。
顔を戻すと、「それで思ったんです」と始めた。
「警察は、羽根川君の事件で、中学生も容疑者に含めている。このことは容易
に想像できます。そこへ、三年前の事件との関連を窺わせる話が出てきた。今
の中学生が三年前は、小学生。羽根川君の中学の知り合いの中に、殺された児
童二人とつながりを持っている者がいておかしくない。そんな風に考えたんじ
ゃないかしらって」
「……筋は通っているようだ」
 児童を殺した犯人が児童だとしたら、衝撃は大きい。盲点だ。三年前の時点
で、小学生を対象にした捜査が徹底されたとは考えにくい。
「うちの学校で、三年前の被害者二人と少しでも関わりがあった者は、全員調
査されているのか。――だめだな、僕は。みんなを警察から遠ざけるために、
一刻も早い事件解決を期してあれこれ動き回ったつもりだったが、逆になって
しまったよ」
「真相が藪の中になるよりは、ずっとましです」
 事も無げに答える石橋。生徒みんなが彼女ぐらい強ければ、どんなに気が楽
だろう。
「犯人が三年前の事件と同じなら、その人物は何故、羽根川君をホワイトデー
に、矢で殺したのか、気になるんですよね」
「ホワイトデーなのは、バレンタイン騒動があったからじゃないのか。あの騒
動がらみで殺されたと思われるように」
「だったら、凶器に矢を使う意味が分かりません。キューピッドの矢になぞら
えたのかもしれませんが、それならわざわざ三年前の凶器を改造せず、普通の
木で作ればいいんですよ。凶器のおかげで、関連性が浮かび上がったんですか
ら」
「言われてみれば、不可解だな。昔の事件とのつながりを隠す気があるのかな
いのか。学校側に逃げた謎と合わせて、三つの謎だ」
「あ、その謎なら、私、一つ思い付いたことがあります」
「え、学校側に逃げた謎を解釈したというのか」
「あくまで仮説です。確認を取るまでは、話したくないのですが」
「そう言って隠しておいて、一人で容疑者に接近して確かめようとするなよ」
 二時間ドラマでよくありそうなパターンを想起しつつ、僕は忠告した。石橋
は意外と真剣に反応した。
「ようく承知しています、先生。口封じに殺されるのはまっぴらごめんです。
だから、私の考えを先生に話しておきますね。死ぬなら一蓮托生です」
「おいおい」
「冗談です。二人で一緒に、容疑者のところに行って、この疑問をぶつけてみ
てもいいんですけど」
「警察に任せた方が……いや、想定している容疑者は、生徒なんだな」
「ええ」
 生徒のことを思えば、僕のような教師でもクッションとして間に入ることは、
重要なのではないか。警察任せにするよりは、よほどいい気がする。
「聞かせてくれるか」
「もちろんです」
 石橋は乗り気らしい。早く話したがっているのは明白だったが、場所を選ぶ
べき話題だ。僕は少々考えて、放課後の教室を選んだ。
「襲われたときの羽根川君の立場に立って、考えてみました。どうしたら足が
校舎に向くのか。そちらに逃げれば、助かる可能性が高いと判断したからに違
いないんです」
「当たり前だな。第一、だからこそ何故、人のいない校舎に向かったのかが疑
問なんだろう」
「はい。つまり、校舎にいる人に助けを求めたのではない、ということになり
ます」
「じゃあ何だ。あ、電話か?」
「いいえ。学校の周辺にも、公衆電話はたくさんあります。一番近い文房具店
横まで、十メートルちょっとしかありません」
「人でも電話でもないなら……」
 第三の説を探したが、見つからない。僕は白旗を掲げた。
「分からん。教えてくれ」
「簡単ですよ。教室に解毒剤があると犯人に言われたから、です」
「は? 解毒剤だって?」
 どこに毒が登場したんだと訝しんだが、じきに理解した。
「そうか! 犯人の嘘なんだな。『今、お前を刺した矢の先端には短時間で死
に至る猛毒が塗ってある。助かりたければ、二年四組の教室に行き、教卓の上
にある解毒剤を飲むしかない』なんて風に」
「はい。私はそう考えました。刺されるという緊急事態下で、こんなことを囁
かれれば、従ってしまっても無理ありませんよね」
「それには同意するが、刺した相手に言われて、すぐに信じるだろうかねえ?」
「普通の人に言われても、信じるかどうかは半々ぐらいでしょう。だけど、相
手の知識や背景を羽根川君が知っていたなら、信じてしまう場合があります。
それは、犯人に薬物の知識が豊富にあるということ」
「うん? 言わんとすることは分からなくはないが、中学生で薬に詳しいやつ
なんて、少なくとも我が校にいたかな」
「いるじゃないですか。羽根川君の身近に」
 石橋は即答する。僕も即座に理解した。羽根川の身近といえば、真っ先に思
い浮かぶ生徒――。
「倉森か。父親が製薬会社の偉いさんだったな。それに、母親は薬剤師」
「羽根川君が信じる要素は充分でしょ?」
「しかし、彼は羽根川の親友中の親友だぞ。動機は何だ」
「私は動機には関知しません。どうせ完全に分かるはずないのだし、想像だけ
ならいくらでもできますから」
「だが、倉森があの矢を使って殺したのだとしたら、倉森こそが三年前の――」
「そこまでにしましょう、先生。あとはそれこそ警察の領分ですよ」
 そう言った石橋は、制服姿にもかかわらず、大人びて映った。

 その後、警察は倉森の逮捕を発表し、匿名での報道がされた。テレビや週刊
誌、新聞などがこぞって報じ、情報量の見た目だけは莫大なものになった。だ
が、情報の山の中に、石橋や僕が知りたかった答えはなかった。
 わざわざ三年前と同じ凶器を用いたことと、動機だ。
 そしてそれらに対する答は、根っこでは一つにつながっていたことを、僕ら
はベテラン刑事から教えられる。
「先生も複雑な気持ちでしょうな。あなたが児童連続殺害事件との関連を言っ
てくれたおかげで、解決を見たんだから。ま、それに対するお礼の意味を込め、
話して差し上げますよ。裁判がどうなるか分かりゃしませんしね。あっと、こ
れから話すのは倉森の主張であって、裏付けはまだなんだ。そこのところ、よ
うく理解しておいてくださいよ。
 あいつが言うには、三年前に相次いで小学生を殺害したのは、羽根川だとし
ている。当時から仲がよかったが、羽根川の暴走を止めるにはあまりに非力だ
ったと涙をこぼしたよ。羽根川が年下の小学生を殺した理由? 単なる興味、
好奇心からやったんだと。それを止めるために倉森は体力をつけ、さらに凶器
の杖――矢の前の姿です――を隠した。凶器は物証になることを分かっている
羽根川は、それ以後、殺人への興味を抑え込み、倉森との親友関係を続けたと
いう。だが、長くは続かなかった。中学二年生の冬になり、殺人の衝動が抑え
らそうになくなりつつあった。そんな羽根川に、倉森は欲求のはけ口を提供し
た。その一つが、話に聞いたバレンタイン騒動なんですな。
 ええ、全ては倉森と羽根川が仕組んだ、狂言だと。どういうことかというと、
羽根川を被害者に仕立てた事件を起こし、自らを追い込まれる立場に置く。周
囲の人間はおそらく羽根川を責めたてる。敵だらけになる訳ですな。それら敵
に対し、羽根川が怒りを爆発させて反論や反撃をしても、流れだけを見ればご
く自然だ。同時に、犯人かと疑われ、苦しみを知ることは羽根川にとってよい
ことに違いないと、倉森は考えたらしい。いまいち理解しがたい理屈です。
 バレンタインデーの狂言は、しかしちょっとした誤算が生じた。倉森が母親
の急病を知らされ、早退したせいです。あれがなければ、倉森こそが先頭に立
ち、羽根川を糾弾する役目を負っていた。その予定が狂い、羽根川は石橋さん
を筆頭に、何人かに責め立てられた。そのことが、彼の心理に殺意を急速に芽
吹かせた。そう、殺意です。倉森の主張ではね。
 羽根川の殺人への興味が完全に復活し、またも倉森では止められなくなった。
ホワイトデー当日に、石橋さんを殺してやるとまで言い出していたそうです。
何の証拠も出ていませんがね。凶行を止めるため、倉森は羽根川を殺すしかな
いと思い詰めた。そして隠しておいた杖を凶器に使えば、安全に処分できると
も考え、矢に作り直して羽根川を刺した。解毒剤どうこうの点は、先生方の話
してくださった通りでした。あ、呼び出した口実は、倉森も羽根川の犯行を手
伝うからと申し出たみたいですな。
 一見、筋が通っているようで、随分といびつな犯行ですよ、これは。倉森の
証言が真実だとしてもね。いくつかの疑問が解決できたと思ったら、大きな疑
問が最後にできてしまった感じですかね。ええ。羽根川を止めるために彼の殺
害などという極端な手段に走った理由がね、全然理解できません。正田先生の
クラスの女子に、聞いてみてくれませんか」

 刑事の最後の言葉を真に受けた訳じゃないが、僕は石橋に意見を求めた。倉
森と同じ年齢の彼女なら、多少は理解できるのではないかと思ったのだ。
「恐らく真実を射抜いている――かもしれない、極々単純な答が転がっている
じゃないですか」
 例によって事も無げに、あっさりと言い放った石橋美奈穂。羽根川に命を狙
われていた話を、彼女は飲み込んだはずなのに、動揺はまるで見られない。
 中学三年生になった彼女は続けた。
「一度は思い当たった仮説です。三年前の児童連続殺害犯は羽根川君ではなく、
倉森君だった」

――終わり




#425/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/04/30  19:03  (494)
そばにいられると<前>   寺嶋公香
★内容                                         17/04/20 20:22 修正 第3版
「なんかすげー曇ってきたぞ」
 八月も後半に入り、暑さのピークは過ぎたかなと思わせる日曜日の午後。碧
と暦姉弟の家――相羽家に、クラスメート二人が来ていた。
 窓の向こうを見てつぶやいたのは、その内の一人、川内亮介(かわうちりょ
うすけ)だ。窓を背にしていたもう一人のクラスメート、女子の小倉優理と碧
が振り向く。暦も目線を模造紙から起こした。
 川内の言葉の通り、灰色の雲がいつの間にか空一面に広がり、渦巻きだそう
とする様が分かる。
「予報じゃ、夕立があるかもしれないと言っていたけれど、それぐらいじゃ済
まなそう……」
 小倉は不安げに言い、語尾を濁した。
 集合した午後二時には、雲が多いものの晴れ間が確認できたのだが、二時間
近くが経過して、急変の様相を呈している。
 皆が集まったのは、夏休みの宿題を片付けるため。といっても、個々人に出
される宿題を協力して済ませるあれではない。班単位で出された新聞作りの課
題だ。それも壁新聞とホームページ、それぞれにまとめるという、取材や情報
収集、構成力に加えて、ツールの比較も込みのなかなかの難題だ。
「何言ってんの。夕立の前触れって、こんな感じじゃない?」
 碧は気軽な口調で言ったが、言葉とは裏腹に、パソコンをネットにつなぐと、
最新の気象情報を当たった。自分達のいる地域を選択し、雨雲の動きを見る。
「――夕立レベルよりは大雨になるのかな。それでも、ずっと降り続くわけじ
ゃないみたいだから、きっと大丈夫」
「いつ頃やみそう?」
 画面をのぞき込む小倉。まだ降り出さない内から、心配を募らせている。
「十五分もしない内に降り出して、五時過ぎには上がる」
「あ、俺の自転車!」
 唐突に叫んだ川内は、誰にも説明せずに部屋を飛び出した。
「……自転車が濡れないよう、移動させるってところかしら」
 碧が冷静に分析・解釈した。小倉が慌てていないのは、彼女は自転車ではな
く、母親に車で送ってもらってここに来たからだ。帰りも迎えに来てくれるこ
とになっている。
(小倉さんも自転車だったらよかったのに)
 暦は内心、ちょっとした妄想込みの想像を始めた。暦が小倉のことを好きな
のは、半ば公然の秘密と化している。
(大雨で門限まで帰れそうになく、困ってる小倉さんを、車で送り届ける……
運転は母さんに頼むしかないけど。着いて行くぐらいはいいはず)
 好きな異性に好印象を与えるためなら、どんな小さなことでも活用したい。
そんな年頃を迎えていた。ただ、本人に自覚があるところが、同年代の男子と
やや異なる点かもしれない。今の妄想も、もうすでにばからしくなって打ち消
している。
(車でいいのなら、小倉さんの家族が迎えに来れば済む話だもんなー。って、
仮定に仮定を積み重ねてもしょうがない)
 そこへ、川内が戻ってきた。たいした距離を走ったわけでもあるまいに、息
を切らせている。
「どこかに置けた?」
「それが、悪いんだけど、ちょうど母ちゃんから電話あって」
 と、ポケットを指さす川内。そこに携帯電話が入っているという意味だろう。
「洗濯物を干しっぱなしだから、降り出さない内に取り込んでおいてくれない
かって言われた」
 川内の家は母子家庭で、今日も母親は働きに出ているようだ。
「だから一旦、帰って来る」
「しょうがない。気を付けろよ、車とか人とか」
「分かってるって。五分ぐらいの距離だし、大丈夫」
「というか、もう粗方できてるし、いいんじゃない?」
 碧がパソコンの画面を元に戻してから言った。
「どういう意味?」
「天気がどうなるか分からないのに、帰ってまた来るの、面倒で大変でしょう
が。優理みたいに車で送り迎えしてもらえるのならいいけれど」
「だいたいできてると言ったって、完成はしてないんだぞ。いいのか?」
「私はいい。優理と暦は?」
 意見を求められた二人は、少しだけ目を見合わせた。先に小倉が答える。
「私も別にかまわないと思う。川内君、写真を用意してくれたり、ICレコー
ダーでインタビュー取材してくれたり、構成を考えてくれたり、すっごく役目
を果たしてる」
「二人がいいのなら、俺も異議なし」
 暦は答えてから、主体性のない物言いをしたことをちょっと後悔した。本当
は、無理に戻らなくてもいいと最初から思っていた。それを真っ先に口にしな
かったのは、川内の意思を尊重したかったから。
(そもそも、俺がそう言い出したら、小倉さんだけを残したがってるように受
け取られるかもしれないし)
 異性を意識し始めた年頃だと、余計なことまで考えてしまうものだ。
 そんな暦の心中を知るよしもない川内は、「それならお言葉に甘えるぞ。い
いんだな?」と念押しした上で、帰ることを決めた。空模様を気にしつつ、持
ってきた物を急いで集めて、手提げかばんに放り込む。その慌ただしさを保っ
たまま、飛び出していった。玄関で、暦達の母親に挨拶する声――「おばさん、
さよなら!」――がした。と思ったら、何か手土産を渡されて、時間を取って
いる。
「くれぐれも気を付けてよ!」
 窓から顔を出し、三人で見送る。ごうごうと雲と風の音が低く鳴り渡り、冷
たい空気と生暖かい空気が入り混じる。いよいよ降り出しそうな気配に。雷も
鳴るんじゃないかと想像させた。
「窓、閉めよう」
 と、暦が窓を閉め、鍵を掛けたその瞬間、雨粒の落ち始める音が聞こえた。
遅れて雨粒がガラスを叩き、アスファルト道路の色を濃くし始める。
「うわ、微妙なタイミングね」
 そう言った碧は、壁掛け時計を見やった。川内が間に合ったかどうか、気に
したに違いない。少し考え、
「洗濯物は濡れたかもねー。私達の母さんが呼び止めたせいで」
 と苦笑い。
「姉さん、それより早く仕上げよう」
 暦が促して、ようやく本題に戻った。そうして青写真通りに、紙に文章を書
く作業を地道にやっていると、部屋のドアがノックされた。直後、暦と碧の母
親の声が。
「いい? おやつを用意したのだけれど、休憩しない?」
「する!」
 返事をした暦が立ち上がり、ドアを開ける。案の定、母の両手はふさがって
いた。ケーキとカップとポットと紅茶セットを載せたお盆二つの内、一つを引
き受ける。
「調子はどう?」
「その前に、お母さん。さっき、川内君を呼び止めてたでしょ。あれのせいで、
濡れちゃったかもしれないわよ」
 彼が早く帰ることになった事情を、碧が説明する。途端に、母の表情が申し
訳なさげになった。空いたお盆を縦に持ち、肩をすぼめる。
「お菓子を渡していたのよ。ケーキを持ち帰るのは難しいから、他のを開けて。
知っていたら、そんなことしなかったのに……」
「急いでいるの、様子を見て分かると思うんだけどな。立て続けに、一階と二
階を往復してたんだし」
「すみません。会ったとき、謝っといてもらえる?」
「分かった」
 暦の目には、碧の様子はどこか満足げに映った。母親をやり込めて、楽しい
らしい。
(川内のやつだって、満更じゃなかったはず。部屋に来てすぐ、「おまえの母
さん、いつ見てもきれいだな。さすがモデル」って何度も言ってたくらいだ)
 思いながら、母と姉と好きなクラスメートを見比べる。いずれ劣らぬ美人揃
い。順番を付けるとしたら、世間的には母、姉、小倉となるだろう。しかし。
(俺の中では、小倉さんが一番)
 なんて暦が考えた刹那、とうの彼女がこちらを振り向いた。慌てて目をそら
せる。顔に朱が差している気がして、そこを隠すように手をあてがった。
「ねえ、暦君。ここを書いたの、暦君だよね?」
 小倉は模造紙の一角を示している。その両サイドで、母と姉が、何だかにや
にやしているのに気付いた。
「――誤字か!」
 一瞬で察した暦。問題の箇所をのぞき込むと、そこには“5g”とあった。
kg(キログラム)を間違えていた。宿題の進み具合を聞いた母が見つけたと
いう。
「漫然と書き写すから、こういうミスに気付かないのよ」
「お言葉を返す。下書きの文字が悪い」
「うまくやれば、5をkに書き直せるかな。暦君の5って癖があるし」
 姉と弟が責任を押し付け合う隣で、前向きなことを言う小倉。母がため息交
じりに注意した。
「二人ともみっともない。小倉さんを見習って」
「はーい」
「休憩しながら、誤字脱字を探すといいんじゃないかしら。ああ、私がいると
食べにくいわね。それじゃ」
 母親が部屋を退出すると、今度は小倉が息を長く深くついた。
「はあ、緊張した」
 え、っと顔を見合わせたのは暦と碧。姉の方が聞く。
「全然、緊張してるようには見えなかったけれど?」
「だめ。話するのも声が震えちゃいそうで」
「そういえば、優理の方からは話し掛けていなかったわね」
「聞かれても、『はい』とか『うん』がほとんどだった」
 またため息をついて、落ち込む様子の小倉。
「前から感じてたことだけど、うちの母さんにあこがれ、抱いてる?」
「うん。元モデルさんていうだけで。やっぱり、分かる?」
「何となくは。でも緊張するほどのことじゃないってば。普通の人、普通の母
親だよ」
「そう?」
「少なくとも、家では」
「じゃ、外では違うんだ?」
 目を丸くしつつ、納得しているようでもある小倉。
「仕事関係だとね。さすがって感心するところは多々あるわ。考え方もだけど、
それ以上に態度に出る感じ」
 モデルを始めとする仕事を今はセーブしており、母親“業”優先だが、近い
将来の完全復帰を見越し、余裕のあるときだけオファーを受けている。加えて、
碧と暦も子供服のモデルをすることがあり、保護者としてたまに現場に着いて
くるのだ。
「見てみたいなあ」
 そのつぶやきを受けて、碧が暦に目配せした。あとの対応は任せた、という
ニュアンスらしい。
 余計な気を回して……と思いながらも、口に運びかけていたフォークを止め、
暦は言った。
「それなら言ってくれればいい。現場でうるさくさえしなければ、たいていの
場合、見学OKだから」
「ほんとに?」
「嘘じゃないよ。母さんもきっと歓迎する。普段から、もし見学したいという
友達がいれば、いつでも連れて来なさいと言ってるくらいだから」
「それじゃあ……」
「たださ、今、見学したいと思ったのなら、直接言った方がいいよ。あとにな
って僕らが伝えてもいいけれど、それじゃあどうしてあのとき言わなかったの
ってなるから」
「うぅ。勇気が必要だわ」
「何だい、それ。まるで怖がってるみたいじゃん」
 暦は吹き出してしまった。一方、小倉はあくまで真剣だ。
「暦君にはあこがれの人、いないの?」
 と、抗議調で聞いてきた。
(この『あこがれの人』っていうのは、好きな人という意味ではないよな、う
ん)
 念のため考えてから、「いなくはないよ」と正直に答えておく。
「だったら、分かるはず。その人の前に立つだけで、どれほど緊張するか」
「そりゃあ、まあ、ね」
「だから……しばらく時間がほしい。心の準備ができたら、直接言ってみる」
 膝立ちし、小倉は両拳をぎゅっと握る。決意を固めようとしている。
「まあまあ、今は休憩なんだから、そんなに焦らなくても」
 碧が口を挟む。見ると、彼女のケーキ皿はすでにきれいになっていた。
 その台詞に、小倉も座り直し、ケーキに取りかかる。
「よし。先に宿題を片付けましょ」
 三人は模造紙を食べ物や飲み物で汚さないよう注意しながら、誤字脱字チェ
ックを始めた。

 ふっと気付いたときには、大雨になっていた。結果的に、ゲリラ豪雨と呼ん
で差し支えない勢いの雨だった。
 が、それはほんの一時のこと。じきに勢いは弱まり、やがて小雨になり、そ
のままやんだ。遠くの雲の切れ目からは、日の光が差し込むまでに回復してい
る。
「ちょうどいいタイミングで、終わったわね。うん、上等上等」
 碧が満足そうに首を縦に振る。できあがった壁新聞を床に広げ、立って見下
ろしているところだ。
「ホームページのデータ、バックアップもしたし、これでおしまいと」
「壁新聞の保管は、当然、暦君達に任せるから、よろしくね」
「ああ。川内にも、できたって電話しとこうか」
 三人がそんなやり取りをしていると、小倉の携帯電話が鳴った。手に取った
彼女は、ディスプレイを見て、「お母さんだ」とつぶやく。
「――もしもし? うん、終わったところ」
 通話を始め、廊下に出ようとする小倉。ドアを閉めようとしたとき、「ええ
っ? 本当に?」という、明らかに驚きの叫びを発した。
 何ごと?と、暦と碧が廊下に視線を向ける。ドアは完全に閉められていない
ため、小倉の表情が窺えた。浮かぶのは……困惑。
「どうしたんだろ?」
「さあて。迎えが遅くなる、とか?」
 声を潜めて想像を巡らせる内に、小倉の通話が済んだ。
「何かあった?」
「それが……お母さん、来られそうにないって」
「え……何時間も遅れるってこと?」
「っていうか……テレビ、つけていい?」
 小倉の求めに、碧は黙ってリモコンを取り、テレビのスイッチを入れた。
「何チャンネル?」
「どこでも。ニュースか、今の時間帯なら夕方のワイドショー?」
 碧はとりあえずNHKに合わせた。
「ひょっとして、事故?」
「うん。――あ、交通事故じゃないよ」
 暦達の表情が険しくなったのだろう。小倉は慌て気味に否定した。
「さっき、お母さんが言ったの。この近くの道路で何箇所か冠水して、車が通
れなくなってるって」
「なるほどね。運悪く、小倉家とこことを結ぶルートは、全て絶たれたってわ
けか」
「どうしよう……」
 目を伏せがちにし、俯く小倉。彼女の横顔を目の当たりにした暦は、あれこ
れ考えるより先に、「心配すんな」と口走った。
 当然、女子二人の視線を集めることになる。暦は窓の外、町の様子を一瞥し
てから続けた。
「もし――もしだけど、今日、水が引かず、車が来られないのなら、泊まれば
いい」
「え」
「実際、そうなったときは、そうするしかないだろ」
「おー、確かに真理だわ」
 どこか面白がる口調ながら、碧が同意する。小倉はといえば、口元に片手を
やり、しばし思案する仕草を見せた。
「仮にそうなったとして、着る物がない」
「そんなのは、問題にならないわよ」
 碧が即答する。
「私のを貸すわ。色んなとこからもらって、一度も袖を通していないのがあき
れるほどたくさんあるから、選び放題。サイズも合うでしょ、多分」
「そ、そっか」
 戸惑い気味の小倉だが、少し落ち着き、気持ちも傾いたようだ。不安の色が
薄くなり、きつく結ばれていた唇も今は微笑している。
「とにかく、優理はお母さんに聞いてみなよ。泊まっていいかどうか」
 暦が言い、小倉が応じようとする。そこへ碧が声を掛ける。
「ちょい待ち。先に、こっちがOKだってことを確実にしておかなきゃ」
「あ。じゃ、母さんに聞いてくる」
 暦は急ぎ足で母親の部屋に向かった。返事はすぐにもらえた。事情を伝えて
いる途中で、承諾してくれたのだ。
「小倉さんのご家族の意向、ちゃんと聞くこと。それが条件よ」
「分かった。向こうの人が、母さんと話がしたいと言ったら、出てよ」
「もちろん。ああ、それにしても、まさか同じことが起きるなんてねえ」
「同じことって?」
 きびすを返しかけた暦は、母の言葉に動きを止める。
 母の方は、書き物をしていた帳面を閉じると、昔を思い返す風に斜め上を見
やった。
「私とお父さんが高校生のとき、同じことが起きたの。やっぱり大雨で、帰れ
なくなって。車で来ていたわけじゃなくて、自転車だったけれどね」
「高校生で……。それって、どっちがどっちの家に泊まることになったの?」
 息子の質問に答えようとした母だったが、ふと思い出したように話を換えた。
「そんなことより、早く小倉さんに伝えないとだめでしょ」
「あ」
 母の指摘に、来たとき以上に急いで部屋に戻る暦だった。

「あー、落ち着かない」
 トイレに立って一人になったとき、暦はそうつぶやいた。
(小倉さんが泊まるのはうれしいのに、気が抜けない。それに、見つめること
もできないし)
 実際、彼女が泊まると決まったあと、自然に振る舞えず、いつも以上に目を
そらしたり、素っ気なく接したりしてしまっている。
 手を洗ったあと、暦は顔をごしごしこすった。それから、「平常心平常心」
と呪文のごとく唱えた。
 が、子供部屋に戻り、小倉と顔を合わせると、また背けてしまった。避けて
いるんじゃないんだとアピールするべく、さも姉の方に用事があるかのように
声を掛ける。
「ベッド二つしか無いけれど、寝るとこ、どうするのさ?」
「うん? 優理の?」
「言うまでもないだろ」
「そうかしら。私と優理がここで寝て、暦がソファか何かで寝るのが普通だと
思ってたわ」
「そんな――」
 怒ろうとした暦だが、言葉を途切れさせた。小倉の表情を横目でとらえたた
めだ。
「私が急にお邪魔することになったんだから、私がソファで」
「冗談! お――客さんにそんな真似、させられない」
 暦は小倉に向き直り、熱弁を振るった。「小倉さんに」と言いそうになった
箇所は、寸前で「お客さんに」と言い換えた。
「俺がソファでも床でも寝るから、小倉さんは気にしないで、ベッドを」
「あ、ありがと」
 やっとまともに会話できたのと、お礼を言われたこととで、暦はひとまず満
足した。が、碧が水を差す。
「でも……冷静になってみると、暦のベッドで優理に寝てもらうのは、ちょっ
と考えものかしらね」
 えっ、と同時に声を発し、暦と小倉は互いを意識した。すぐそばにいるだけ
に、確実に分かる。
「それは――シーツや掛け布団を総取り替えすれば」
「暦、あんたが決めることじゃないでしょ。優理、どう?」
「全然、平気……だと思う」
 口ではそう答えているものの、小倉には多少、迷っている雰囲気が滲む。見
透かしたように、碧が「ほんとに?」と念押しすると、即座の返事はない。
「誰かドア、開けてー」
 不意に母の声がした。一番近くにいた碧が開けると、敷き布団を両腕に持ち、
上半身がすっかり隠れている母の姿が。
「小倉さんの休むところを用意しなくちゃね。今の内に、運んでおこうと思っ
て。敷くのをあとにすれば、遊ぶスペースは充分あるでしょ?」
 そう言って、三つ折りに畳んだ布団を床に置いた。その母の背中に、碧が戸
惑い気味に話し掛けた。
「え……っと。今、ちょうどその話をしていて、暦がベッドを空けようかって
ことになりかけてた」
「何言ってるの。お客様に普段使ってるベッドで寝てもらうなんて。こうして
ちゃんと布団一式あるのだし……」
 話の途中で、暦達の母は、小倉に目をやった。
「小倉さん、もしかすると、ベッドでなければ眠れない? だったら、他の方
法を考えるわ」
「い、いえ」
 小倉の方は、いきなり話し掛けられたせいもあってか、また例の緊張が現れ
ている。それでも何とか応じた。
「いつもうちでは布団です。あの、お気遣いなくっ」
 声は裏返りそうになっていたけれど。相羽母の方は、花の咲いたような笑顔
を見せた。
「よかった。じゃ、あとは寝間着ね。用意しておくわ」
「はい、ど、どうも」
 ありがとうございますまで言い切らぬ内に、相羽母は出て行ってしまった。
 小倉は両手で頬を押さえ、それから肩を落とした。
「姉さん。結局こうなったけれど」
 暦が詰問調で言うと、碧は首をかしげた。そして潜めた声で、弟に耳打ちす
る。
「だって、あり得ないと思ってたから。これだと、私達三人、同じ部屋で寝る
ことになるわよ」
「――」
 姉と弟だけならいつも通りなので慣れっこだ。だが、クラスメートの異性が
いるのは――下手をすると眠れない。

「私なんて、中学一年生のときに、一つの部屋に女子二人、男子一人の状況で
眠ったことあるわよ」
 碧と暦が母にどういうつもりなのか確かめに、台所に出向くと、こんな風に
言われてしまった。「もちろん、今のお父さんがその男子」とうれしそうに付
け足す始末。
 ちょうど夕食の準備に取り掛かったところだった母は、エプロン姿をしてい
る。元々、年齢以上に若く見えるタイプだが、思い出を語る様は新婚ほやほや
の体だ。
「みんなは小学生なんだし、修学旅行みたいで、きっと楽しいわ」
「夜更かしを小学生にすすめてくれてるの、それって」
 碧が呆れつつ問い返すと、母は「夏休みだし、いいんじゃない?」と答える。
「小倉さんは何て言ってるの?」
「それが、意外と乗り気」
 答える碧の横で、暦はうんうん頷いた。小倉の反応は文字通り、意外だった。
(普通は避けると思うんだけどな。脈ありと受け取っていいのか、これ)
 小倉に言わせると、折角の滅多にない機会だから、二人とおしゃべりをした
いということなのだが。
「だったら、問題なしじゃない。暦だって、一人寂しく、別の部屋で眠りたく
ないわよね」
「別に寂しかないよ」
「そう? 碧と小倉さんのおしゃべりしている声が聞こえてきたら、きっと気
になると思うけれどな」
「それは……」
 気になる。
(姉さんのことだから、小倉さんに、俺についてあることないこと吹き込むか
も……)
 悪い方へ想像が働く。こうなると俄然、仲間外れの形になるのはごめんだと
意を強くした。
「分かった。いつも通り、あのベッドで寝るよ。ただ――姉さん、一つ約束し
て」
「ん?」
 自分に話が向けられるとは思っていなかったらしく、振り返った碧はきょと
んとしていた。
「今日のことは、クラスのみんなには他言無用だぞ」
「何だ、そんなこと。そりゃま、私だって言いふらしたくはない」
 合意成立。
 話がまとまった段階で、母が手を一つ打った。
「さてと。夕食の準備を始めるのだけれど、小倉さんの苦手な物って分かる? 
それから昨日から今日に掛けて食べた物も、分かればいいな。被ったらかわい
そうだから」
 暦がすぐさま答える。
「嫌いな物は、レバーとらっきょう。好きな物も分かるよ。鶏の唐揚げとマカ
ロニサラダ」
「さすがね」
 母の微苦笑混じりの言葉の意味に、暦は遅ればせながら気付いた。顔が熱く
なる。姉の方はもう見なかった。
「昨日食べた物までは分からないから、聞いてくる」
 勢いよくきびすを返して、台所を立ち去った暦。小倉の待つ子供部屋に、足
早に移動し、半開きのドアから中を窺った。
 手持ち無沙汰のためか、床に座り込んだまま、広げた壁新聞のチェックをし
ている様子。暦はドアをノックしつつ、中に入ると、立ったまま用件を伝える。
「そんな、気を遣わせてると思うだけで、ほんと恐縮しちゃう」
 見上げる小倉の困惑顔に、暦は気楽な調子で笑みを返す。
「遠慮しなくていいから。何でもいいと言われたら、母さんが決められなくて
困るかもしれないよ」
「私の答によっては、買い物に行くなんて、まさかないよね? 車の行き来も
怪しい中……」
「それは大丈夫じゃないかな。買い物は昨日行ったばかりで、おかずがある程
度選べるから言ってるんだと思う。あ、今夜は父さんも帰れないから、量の心
配はしなくていいから」
「……そんなに食べないよー、私。食いしん坊じゃないもん」
 むくれる小倉を前にして、暦は慌てた。その場にしゃがみ込み、目の高さを
合わせる。
「いや、そういう意味で言ったんじゃ……。ごめん。謝ります」
 そっぽを向いたままの彼女を見て、言い訳はやめた。ほぼ無意識に正座をし
て、頭を下げていた。無理に好きになってくれとは思わないが、嫌われるのだ
けは勘弁。このあと一緒に過ごすのだし、何よりも気まずい。
 と、下を向き絨毯を見つめる格好の暦の耳に、くすくす笑いが聞こえてきた。
「え」と顔を起こすと、さっきまでのふくれっ面が嘘のように、ころころ笑う
小倉がいた。
「ごめんね。ちょっとからかってみました」
「え、え?」
「からかったと言うより、試しちゃった。碧が前に言っていたの。暦君の前で、
ちょっと不機嫌なそぶりをしたら、慌てる暦君が見られるって。本当にそうな
ったから、びっくりした」
「……」
 姉には一度、思い知らさないとだめなようだ。黙ったまま、心のメモ帳に書
き込む暦だった。
 そんな心の動きは知らず、小倉は笑顔で続けている。
「暦君て、学校じゃ、女子には素っ気ない態度取ること多いよね。でも、芯は
優しいっていうか、相手のことを考えてくれてるっていうか。だから告白する
女子も結構いるの、納得できる」
「――知ってるのか」
「もっちろん。そういう話、女子はみんな大好き。そして暦君がみんな断って
るのも」
「あー、それは――」
「全員断るってことは、つまり、平等に接したいってことなのよね、暦君?」
「……まあ、そういうことにしておく」
 小声で答えると、暦はすっくと立ち上がった。部屋から廊下に出た途端、ぴ
たっと立ち止まる。
 小倉が昨日今日と食べた料理について、まだ何も聞いていなかった。

「母さん、張り切りすぎ」
 子供達がそう評したほど、食卓は大小様々な皿でうめられていた。チキンと
温野菜のラクレット風に、ポテトの冷製スープ。グリーンサラダにはかりかり
に揚げたオニオンを散らして。普通のご飯に加え、高菜を混ぜたおにぎりには、
ベーコンを巻いてある。
「さ、自由に取り分けて、どんどん食べて。デザートも用意してあるけれど、
別腹と言うし、三人とも食べ盛りだから、全然問題にならないわよね」
 手を合わせ、いただきますと唱えてから食べ始める。
 食卓での話題には、まずは学校での出来事が上った。主に相羽母が三人の子
供に聞く形になる。珍しい授業や宿題、校則はあるか、どんなことで喧嘩する
のか、誰がもてるのか、先生は面白いか恐いか等々。答える内に、小倉もよう
やく慣れて、リラックスしていった。
「――少し前まで、碧と暦君、早退するときは二人揃ってだったのに、近頃は
どちらか一人だけってこともあるようになったよね。何か変わったの?」
 暦と碧もたまにモデル仕事にかり出されるが、どうしても平日に重なってし
まった場合、学校を早引け、もしくは遅刻せざるを得ない。周りにはどう見ら
れているのかしらと、相羽母が質問した流れから、小倉がふと思い出したよう
に言った。
「もちろん、一人ずつの仕事が入るようになったからよ」
 相羽母は自分の子供達を等分に見つめた。
「二人セットのときは、双子を珍しがられていたのもあったのね」
「双子ったって、男と女だってのに、時々妙にひらひらした服を着せられてた
まんなかったぜ」
「こら」
 わざと粗野な口ぶりをした暦を、母がたしなめる。
「でも、嫌がらずに続けたことは偉い。碧の方は、男っぽい格好をしても、の
りのりでやっていたように見えたけれど」
「まあね。色んなことをやれて、面白いもん。それに、いくらボーイッシュな
姿をしたって、私の女らしさは隠しようがないっ」
 自信満々で胸を張る碧。正面に座る暦は、大げさに首をかしげてみせた。
「あれれ、さほど女らしくないんじゃないかなあ。おしとやかにはほど遠いし、
腹筋すごくあるし」
「うるさい。いざというとき、見た目を装えるかどうかを言ってるの」
「装わなきゃいけないってことは、元からの女らしさじゃないってことでは」
「二人ともやめなさい。小倉さんが笑ってる」
 母の声に言い合いをストップし、姉弟は今夜のお客、クラスメートを見た。
「あ、これは、面白がって笑ったんじゃなくて、二人とも学校と変わりないな
あと思ったら、何だか微笑ましくて」
 小倉の話に、暦はきょとんとしてから反応する。
「当たり前。何でわざわざ態度を変える必要があるんだか」
「それよりも優理ったら、私達のこと、よく観察してるのね」
「観察だなんて、そんな。碧と暦君、目立つから自然と視界に入るんだよー」
 こんな風に賑やかに進んだ夕食も、デザートが出される段になった。皿を片
付ける相羽母は、「今日は手伝いはいいから、食べ終わったらなるべく早くお
風呂に入りなさい」と子供らに告げた。
「お風呂」
 暦は思わずつぶやいていた。
(さすがに、入浴は一緒にできない〜)
 女子二人を見ると、早速、一緒に入る話がまとまったようだ。きゃっきゃと
黄色い声を上げている。
「暦は先に入りたい? それともあと?」
 碧に問われ、暦は少しだけ時間を取った。が、自分で決めるのは放棄した。
「どっちでも」
「じゃ、私達が先にしようか。お客さんには一番風呂に入ってもらいたいしね。
でも、長くなるかもしれないわよ」
「どっちでもいいって言ったろ」
「優理はどっちがいい?」
 急に暦から小倉に話相手を換える。小倉は暦の方をちらと一瞥し、またすぐ
視線を戻した。
「あとの方がいいかも……。湯船に髪の毛とか浮いてるのを見られるのって、
恥ずかしい」
 そんなことを気にするものなのかーと、暦は変に感心した。
「髪の毛が気になるのなら、すくい取るネットがあるけれど。ま、これで決ま
りね」
 碧の一声で決定した。暦は黙って着替えを取りに行った。

――つづく




#426/598 ●長編    *** コメント #425 ***
★タイトル (AZA     )  13/04/30  19:05  (396)
そばにいられると<後>   寺嶋公香
★内容                                         14/01/12 10:40 修正 第2版
           *           *

「水泳の授業や、健康診断のときも思ったんだけれど」
 背中の流しっこをしている最中、小倉が不意に言い出した。
「碧の肌って、きれい。すべすべとかなめらかなのは当たり前だけど、そうい
うのとは別のところで」
「ほめてくれて、ありがとう。私、ほめられると真に受けて、ますますきれい
になるタイプだからね」
 冗談めかす碧に対し、小倉は鏡越しに真顔を向けた。
「実際、どんな手入れをしているの?」
「特別なことはしてなくて、お母さんからの贈り物」
「そうなんだー。……碧のお母さんとも一緒に入りたかったな、なんちゃって」
「肌を見るだけだけに? まあ、見たら驚くかもね。歳を数え間違えていると
しか思えなくなる」
 話を聞いて、小倉はふーっと息をついた。
「うらやましい。今から心配することじゃないけれど、私もそうなりたいな」
「何のために? 好きな男を惹きつけるため?」
 碧は話の流れをつかまえ、聞きたいと思っていたことを探り始めた。
「な何でそういう話に」
 慌てる小倉を見て、碧は先に自分の身体の泡を洗い流した。そして交代を促
す。今度は碧が小倉の背中を洗う番。
「充分、きれいなのに、そんなこと言うから。片思いの相手でもいるのかなっ
て考えるのは、至極自然な成り行きだと思いますが。いかが?」
「それは……私も人並みにいるようないないような」
「おっ」
「で、でも、そのことと肌をずっときれいに保ちたいのとは関係ないわ」
 碧にとって、最早、肌のことはどうでもいい。
「いるのね、好きな男子」
「……うん」
「よし、今の内に恋愛トークしましょ。寝るときは暦がいるんだから、多分で
きない」
「……先に碧が言って」
「あ? あれ、言ったことなかったかしら? 私が好きなのは、父さん達の知
り合いで、探偵をやってる人だって」
「それは聞いたことある。でも、それとは別に、学校の誰それとか、いるでし
ょ?」
「少なくとも今までのところ、いません」
「そんなあ」
「嘘じゃないもんね。私の言ってる探偵さんを知ったら、優理だって心が揺ら
ぐかもしれないわよ」
「そんなことない――と思う」
「言い切るからには、よっぽど格好いい男子なんだ? 誰よ、その羨ましい一
名は」
 にやにやしつつ追及する碧に、小倉はあきらめの体で嘆息した。
「私、移り気なのかもしれない。一人じゃなくて、三人いるの」
「何と」
 背中流しが終わった。湯船につかっても、同じ話題を引っ張る。
「三人同時に好きになるとは、ある意味すごい」
「好きになるというより、今は、いいなって感じてるだけだと思う。本当に好
きになるのは、その中の一人だけ……のはず」
 自分のことなのに自信を持てない、そう思わせる小倉の話しぶりだ。
「うーん、じゃ、その三人の名前、教えて」
「三人ともは言えない。碧は一人しか言ってないのに」
「そりゃあ、一人しか好きじゃないからじゃないの」
 思わず苦笑いを浮かべた碧。
「ま、いいわ。一人だけでいいから教えて。――あ、ちょっと待って。質問を
変える。三人の中に、私の弟は入ってる?」
 碧は必要な情報を得るため、率直な問い掛けに切り替えた。
 小倉はしばらく無反応だったが、やがて碧をじっと見上目遣いで見て、深く
頷いた。お湯に口元がつかるくらいに。

           *           *

「ほんと、長かったなー。先に入っていて正解だった。今も退屈で退屈で」
 ノックおよびドアの開く音に暦は振り返らず、パソコンでやっていたシンプ
ルなゲームを終わらせた。
「あぁ、いいお湯だった。つい長湯を」
 姉の言葉に、「どうせ、俺に聞こえないと思って悪口を」と応じ、パソコン
本体の電源を落とす。ここで初めて振り返った。
「――か」
 かわいい、と言いそうになって、飲み込む。
 小倉優理の上気した赤い顔、まだ少し濡れたようなつやの髪、そしてキャラ
クター柄のパジャマ姿。学校では見られない彼女に、どきっとさせられた。
「あ、サイズ、合ったんだ? よかった」
「お、おかげさまで」
 暦の取って付けたような台詞に、小倉も妙な反応をした。二人のぎこちない
雰囲気を横目に、碧は机についた。引き出しを開け、コンパクトタイプのデジ
タルカメラを取り出す。
「滅多にない機会だし、記念に写真撮ろうか。携帯電話のだと、他人に見られ
る可能性大だから、こっちで」
 椅子を回して、暦達に尋ねる。
「俺は別に、どっちでも」
「主体性を持ちなさいな」
「小倉さんが嫌がるかもしれないだろ」
「そんなことないよねー」
 碧の呼び掛けに、首肯する小倉。風呂の中で、何か約束ができあがったのか
なと暦は想像した。
「それじゃあ、二人ずつ撮って、最後にタイマーで三人一緒に」
「二人ずつって、俺と姉さんも?」
「あ、それはなくていいか。あはは。最初は暦がカメラマンね」
 カメラをよこすと、立ち上がって小倉の横に並ぶ碧。やはり、入浴中に話が
できていたらしく、さっさとポーズを決めた。売り出し中の女性デュオの決め
ポーズだ。
「いい? ちゃんと公平に入るようにしてよ」
「分かってるよ」
 このカメラ、暦も使い慣れた物だ。特に意識せずにシャッターを押した。が、
小倉を被写体にしたことでどこか力が入ったのか、大きく手ぶれしてしまった。
「わ、悪い。もう一回」
「ちゃんと構えて。美女を写すんだから、真剣にやりなさい」
「はいはい。そういや、かけ声は?」
「そうね。自然な笑みになるっていう、ウィスキーで」
「え、ウィスキー?」
 小倉がポーズを解いた。目を丸くして、説明を求めている。
「カメラマンから聞いた話よ。どこの国だったか忘れたけれど、チーズの代わ
りにウィスキーっていうところがあるらしいの。チーズよりも柔らかで自然な
笑顔になるって触れ込み」
「そうかな……」
 小倉は声に出さず、口の形を「ウ・イ・ス・キー」と動かした。
「チーズだと横に引っ張る感じが長くて、作った笑顔っぽくなりがちなんだっ
てさ。たいして差はないと思うけどね」
 そう言いながら暦は小倉を撮った。仕種が非常に愛らしかったので、つい。
当然、音で気付かれる。
「あ。ひどーい」
「ごめんごめん。テストのつもりだった。押すタイミングとかさ」
 迫ってきた小倉の叩く身振りをかわし、暦は言い訳しつつ謝った。
「変な顔になってるんでしょ?」
「そんなことはない。絶対」
 データを消してと言われない内に、カメラの裏を相手に向け、画像を見せる。
「……」
 小倉は微妙な反応だった。が、彼女の後ろ、肩越しに見た碧が「あら、ほんと。
かわいく撮れてる」と感想を述べたことで、消さずに済んだ。
「代わりに、あとで暦君の変顔、撮らせてもらおうっと」
「うう、仕方がない」
 かような経緯で撮った記念写真は、チーズやウィスキーと言わなくても、自
然な笑顔になった。暦と小倉、二人きりの写真でも。
 あとは寝るまで、ひたすらおしゃべり。話題は、小倉が二人にモデルや母の
ことを尋ねるパターンが多くなった。
 その間、一応テレビを入れ、水害のニュースを気にしていたが、進展がない
のか、順調に復旧しているのか、ローカル枠でも大きな扱いではない。夜九時
半を過ぎたところで、小倉は自宅に電話してくると言って席を外した。
「ツーショットが撮れてよかったでしょ」
「やっぱり、姉さん、そういうつもりだったんだ。急に写真なんて、おかしい
と思った」
「感謝してくれないの? パジャマ姿の小倉さんに心を奪われていたようだけ
れど」
「……感謝してる」
「よろしい。ま、がんばりなさい。望みはあるから」
「ん?」
 どういう根拠で言ってるのか、問い質そうとしたら、小倉が戻ってきた。
「お母さんに宿題全部済んでるのと言われて、思い出した。国語で一つだけ、
意味の分からない問題があったの。分かる?」
「え、どんな問題だったっけ?」
 暦が答えて、碧がプリントとドリルを持ち出す。問題を見つけ、これでいい
んじゃないかという答を伝えると、小倉はしばらく考え、やがてぱっと閃いた
みたいに表情を明るくした。ノートにメモを取りつつ、舌先を覗かせた。
「私ったら早とちり。指示語の受け取り方、勘違いしてた」
「あー、あるある」
「教えてくれてありがとうね」
「どういたしまして。ところで、私と暦は、社会科のとある問題に苦戦してい
るのですが」
 碧の手には、社会科の宿題のプリントがあった。

 互いに教え合ったあとは、もうそろそろおやすみの時間。
 と言っても、布団に入るだけで、すぐに就寝するわけではない。
「川の字になって眠ると言うけれど、これは差し詰め……矢印?」
 元々あるベッドが直角をなしているところへ、布団を敷いたあと、碧がそん
な感想を述べた。横になったとき、三人の頭が一箇所に集まるようにした結果
だ。
「高さの違いが気になる……」
 ベッドに入ってみた暦は、床の布団、枕の辺りを見下ろしてつぶやいた。小
倉は今、歯磨き中でこの場にいない。
「何なに? 同じ床で眠りたいって?」
 姉が聞き咎めていた。慌てて「ち、違う」と否定する。
「今からでも、布団をもう一揃い敷く?」
「うるさいなー」
 薄手の毛布に潜り込んだ。
 そうしていると小倉が戻って来た。暦君どうかしたのと碧に聞いている。身
体を起こすべきか迷う間に、碧が「電気消すよー」と言ったかと思うと、突然
暗くなった。毛布の端から頭を出すと、オレンジの豆球だけが光っていた。
「姉さん、いきなり消さなくてもいいのに」
「このまま怪談でもやる?」
「だめっ。私、恐いの苦手だし、怪談知らないし!」
 下から小倉の声が早口で届いた。焦りが手に取るように分かる。
「それじゃ、優理がお題を決めて」
「お題? えっと……今までで一番どきどきしたこと、とか?」
「なかなか面白そう。私は……やっぱり、初めてステージに立ったとき」
「ちょっと待った。同じ初めてで、モデルをやったときは、どきどきしなかっ
たの?」
 暦が疑問を呈すると、碧は頭を動かす気配を見せた。
「あのときは、わけも分からずやっていたから。暦は緊張してたの?」
「緊張したよ。大人の目がいっぱいで」
「ねえ、二人はそもそも何歳のとき、初めて仕事したのか、教えて」
「幼稚園のとき」
 小倉の質問には、暦が即答する。
「新入学の制服やランドセルなんかの広告に出てみないかって、母さんが持ち
掛けられて、僕らの気持ちを直接聞いたらしいんだけど、全然覚えてない」
「あら、私は覚えてる。やりたいってすぐに言ったわ」
「おかしいなあ。撮られるときはだいぶ緊張したのに、最初に聞かれたときを
覚えてないなんて」
「暦君の一番どきどきしたのは、その最初のモデル撮影のとき?」
「それはない」
 答ながら、心中で別のことを付け足す暦。
(君にどきどきしたことがいくらでもあるんだけど、それを口にするのは……
躊躇してしまうな)
 他に何があったっけ。思い返そうと努める。
「じゃあ何?」
「えっと、だいぶ恥ずかしくて言いにくいんだけど」
「もったいぶらずに、早く」
「女子から初めて告白されたとき」
「ほう」
 声で反応したのは姉の碧だけで、小倉のいる方からは特に何も聞こえない。
「あれって小一だったっけ?」
「二年になったばかりだよ。一丁前に意味を理解してたから、ちょっとしたパ
ニックだった。で、速攻で断った」
 小倉が口を開く。
「誰から告白されたの? 断ったのは、どきどきしていたせい?」
「誰だったっけな」
 暦はとぼけた。本当は覚えているのだが、好きなクラスメートの前でわざわ
ざ言うことはない。
「でも、断ったのは好きじゃなかったからと覚えてる」
「好きでもない子から告白されて、そんなにどきどきする?」
「初めての経験だったら、普通するんじゃないか。小倉さん、経験ない?」
「ない。したこともされたことも」
 この答は、喜んでいいのだろうか。
「それで、優理の一番どきどきしたことって何?」
 碧が尋ねると、小倉は「うーん」と迷う気配を出した。暗がりだから、どん
な表情をしているのかは分からない。
「とりあえず、今日、泊まるって決まったときは、すっごくどきどきした」
「なるほどね。うまいこと逃げたな」
「逃げたって何よー」
 女子二人がきゃあきゃあやってる横で、暦はまた同じ感想を抱いた。喜んで
いいのだろうか、と。
「次のお題、行きましょ。碧が決めて」
「そうね、じゃあ……言える範囲で秘密を明かすっていうのは」
「言える範囲なら、たいした秘密じゃないような」
「たいした秘密じゃなくていいの。他人の噂話なんかで結構。ただし、今ここ
で知ったことは他言無用ね」
 暦は「面白い。姉さん、乗った」と呼応し、碧に取られない内にととってお
きの芸能ネタを披露する。
「噂話って言ったら、芸能界にはつきもの。ヘアスタイリストさんから聞いた
話なんだけど、歌手の木邑祐剛(きむらゆうごう)と俳優の中福刀一郎(なか
ふくとういちろう)が」
「だめっ。暦、それはだめだと思う。聞いたら、絶対に言いふらしたくなるネ
タよ」
 碧が止めに入った。おかげで、小倉はますます聞きたくなった模様だ。ごそ
ごそと布団から身を乗り出すのが、気配で伝わる。
「何なに? その二人なら、二枚目同士で前までよく共演していたけれど」
「共演しなくなったのには理由があって、実は」
「しゃべるなって言ってるの!」
 碧の大まじめな声とともに、ぼこっという軽い衝撃が暦を襲う。枕が飛んで
来たのだ。
「痛いな。そんなにNGか、これ?」
「だめ。真偽に関わらず、だめだって」
「あのー、喧嘩してるとかじゃないの?」
 小倉が想像を述べる。碧と暦は薄明かりの下、首を横に振った。
「じゃあ何だろ……」
 暦は喉から出かかっていた答えを、努力して飲み込んだ。
(同性愛の噂が持ち上がって、事務所同士が共演をやめさせたって言われてる
んだ。検索しても多分、出て来ない)
「私から振っておいて何だけど、このお題は取り消そう、うん。それが平和だ
わ」
「そんなあ。今の話だけでも、聞きたかったな」
 小倉が惜しそうに言う。といっても、執着しているわけではないらしい。そ
の証拠に、続けて交換条件を出してきた。
「代わりに、私から二人にお題を出すから、聞いて」
「しょうがないなー」
「碧と暦君が知っている、風谷美羽の秘密を一つずつ、教えてください」
 暦は目を見開き、次いで姉の方を見やった。きっと姉も同じ行動を取ってい
る。
「風谷って、僕らの母さんの芸名だけど。母さんの秘密を?」
「もっちろん」
 小倉の口調が弾んでいる。いい流れになったと思っているに違いない。
「大げさに秘密ってことじゃなくても、家族だけが知っている、みたいなこと
でいいの。聞きたい」
「そう言われてもなぁ。家では普通の人だし」
「芸能ネタは、話せないし」
 暦、碧の順に言って、考え込む。
「基本的に、母さんて裏表がない気がする」
「うんうん。嫌味や皮肉を言うことはたまにある。でも、率直な言動が多い」
「だからといって、秘密がないわけじゃないと思う。むしろ、秘密をまとって、
着こなしている感じ」
「何たって、私達にも分からないことが多いもんね。若々しさの秘訣や、顔の
広さ……」
 語尾を濁して含み笑いをする碧。
「一つ、全然たいした秘密じゃないけれど、思い出したわ。母さんと父さんの
馴れ初め」
「え、それは知りたい」
 小倉が碧のベッドの方に顔を寄せる。暦は、あれを話すのかと、黙って聞い
ていた。
「最初の印象は最悪だったって言ってたわ、母さん」
「本当に? 直接お話ししたことはほとんどないけれど、とても素敵な感じの
お父さんに見えたよ」
「ええ。何しろ、小学六年生のときに会って数日で、唇を奪われたそうだから」
「――」
 絶句した小倉。正確で詳しいいきさつを話すのは、もう少し待つとしよう。
面白いから。

 朝。
 サイドテーブルの目覚まし時計に目をやる暦。七時まであと十分ぐらい。
 姉の方のベッドに視線を移す。毛布は人型に膨らんでいるから、まだ眠って
いるようだ。自分ももう少しだけ――と視線を戻す途中、床が視界に入った。
「わ!」
 がばっと上半身を起こす。
(……そうだった。小倉さん、泊まったんだった。しゃべってる内に、いつの
間にか眠って。最後まで起きていたのは自分だと思うけど)
 状況を把握して落ち着くと、暦は改めて小倉の寝床を見下ろした。
 あいにく、彼女はドア側を向いて横たわっていて、横顔がどうにか確認でき
る程度。朝から幸せな心地になるには、それでも充分だけれども。
(起こさない方がいいんだろうな。寝顔を見られたってだけで、恥ずかしがり
そうだし。てことは俺、寝たふりしておかなきゃ)
 そう結論づけた暦だが、小倉のすやすや眠っている様子を、少しでも長く見
ておきたい気持ちもある。しばらくそのままの姿勢でいた。その判断がよくな
かった。
「――あ」
 小倉の右目が開くのが、スローモーション映像のように映った。事実、ゆっ
くりと開いたのかもしれない。だが、暦はさっと毛布を被ることすらできず、
ただただ見つめてしまった。
「うぅーん」
 小倉は横になったまま、一度目を閉じ、伸びをした。次に目を開けた彼女は、
当然のごとく、暦と目が合った。
「えっと、ごめん。ちょうど起きたとこ――」
 暦が早口で弁解した。それを聞いたか聞こえなかったか、小倉は「いやっ」
と短い悲鳴のように言って、毛布を被る。
「あの……」
 伸ばし掛けた手を宙に浮かせ、もてあます暦。そのとき、姉がベッドで起き
上がった。長い髪を手櫛で撫でつけながら、嘆き調でつぶやく。
「まったく、何をやってるのよ……」
 暦が目覚めるよりも少し前の時点で、起きていたようだ。

 テレビのニュースは、この近所の水が引いて、道路が通れるようになったこ
とを、繰り返し伝えていた。
「こっちこそごめんね。一緒に眠ることにしたんだから、当然、寝顔を見られ
るのも予想できてよかったのに」
 朝食の席で小倉に謝られ、暦は恐縮した。「もういいよ、こっちが悪かった
んだし」と何度繰り返したことか。
「話はまとまった? そろそろ食べましょうか」
 今朝のことを知らない相羽母は、笑顔で着席し、昨日は何時に寝たのかを聞
いてきた。
「時計見てなかった。十一時ぐらい?」
 碧に確認を求められたが、暦もよく覚えていない。小倉も同様で、「日付が
変わっていなかったとだけは、言えると思います」と答えるのが精一杯。
「普段に比べると、起きていた方ね。どんなことしゃべってたの?」
「それは……」
 母さんの秘密について、とは言えない。一瞬口ごもったとき、ちょうど電話
が鳴った。携帯電話ではなく、家の電話だ。
 母が席を立つことで、会話は中断。しばしほっとする。
 が、じきに戻ってきた。
「川内君からよ。昨日、忘れ物をしたみたいだから、これから寄ってもいいで
すかって」
「ええ? これからって今から?」
 子供達三人はそれぞれ声を発した。小倉が泊まったことを、知られるのはま
ずい。
「暦達の都合が分からないから、まだ返事していないし、電話もつながってる。
直接話す?」
「う、うん」
 暦は飛び降りるように椅子を離れ、固定電話のある一角に急いだ。
 外したままの送受器を通して、小倉の声が伝わっていないことを祈る。
「はい、代わりました。おう、おはよう。何を忘れたって?」
「いやー、あのとき慌ててただろ。ICレコーダーだけ見つからないから、焦
った焦った。あれ、俺個人の物じゃないからさ」
「ここに忘れたなら見つけておくから、あとで届けてやるよ」
「そうか? でも五分ぐらいだし、今なら暇なんだけど。あ、そういや、宿題
どうなった? 完成したか?」
「そっちの方は心配ない」
 あまり好ましくない話題だと感じる。今は、見に来いよと言えない。見たい
と言われれば、断る理由がない。暦は先を急いだ。
「とにかく、川内はこのあと出掛ける予定とかないんだろ? じゃあ、届ける
から、待ってりゃいいよ。今日はそっちで遊ぼう」
「分かった。じゃあ……あ、レコーダーのスイッチ、もしも入っていたら、切
っといてほしい。バッテリーの保ちが悪くなるかもしれないから」
「了解。万が一、見当たらなかったらすぐに連絡する」
 電話を終えた暦は、食堂に顔を出し、事情を皆に説明した。そういうことな
らと、碧と小倉もテーブルを離れ、川内の忘れ物を探すべく、子供部屋に向か
う。
「来なくて大丈夫なのに。想像が正しければ、簡単に見つかるはず」
 暦は部屋に入るなり、壁際に畳んで置いてある布団を横にぐいと押しのけた。
すると、本棚の陰に隠れる形で、銀色の細長い物体が見つかった。ICレコー
ダーだ。言った通り、簡単に発見できた。
「床の片隅にあったのが、母さんが布団を運び込んだとき、隠れてしまったん
だ、きっと。そのまま気付かずにいただけ」
「なるほど、理屈だわ」
「……暦君。それ、赤いランプが光ってるけれど、もしかして録音スイッチ入
ってる?」
 小倉の指摘に、暦は持っていたレコーダーをしげしげと見た。確かに録音さ
れている。長時間の録音が可能とは聞いていたが、まさか昨日からずっと入り
っ放しだった?
「ふー、危ない危ない」
 録音を止め、記録を消さねばならない。
「川内が電話なしに、いきなり来ていたら、そのまま渡すことになっていたか
も」
「幸運だったと。でも、消す前に、聞いてみたい気もするわね」
 碧が手を伸ばしてきたのを、暦はさっとかわした。
「どうせ、今聞けば、単なる恥ずかしい会話だよ。昨日の夜、あの状況で話し
たからこそ、楽しく感じただけに決まってる。朝から気まずくなりたくない」
「それもそっか」
 碧はあっさり引いた。小倉はと見ると、唇をぎゅっとかんで、暦の手元のレ
コーダーを見つめている。
「記録されてたなら、残しておけば、いい思い出になるかも……」
「――いや、やっぱり消す」
 有無を言わさず、レコーダーを操作した暦。小倉の「ああ」という声と、残
念そうな表情に、少し責められる心地。
「記録なんかなくても、いい思い出じゃない? 三人だけの秘密だよ」
 暦の言い分に、小倉はすぐさま微笑んだ。
「そうだよね」

――そばいる番外編『そばにいられると』おわり




#427/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/06/30  20:27  (295)
君とともに館へ 上   永山
★内容
 テーブルの上を片付けていた渡辺(わたなべ)は、物音を聞いた気がして、
面を起こした。音のした方向――外に目をやる。
 窓の向こう、鈍色の空の下は、針葉樹が林立している。秋の景色の中、どこ
にも生き物はいないように見えた。少なくとも、目立って動く物は。
 だが、気配は感じる。どこか遠くで、何かがざわついているような。
 やがて、音がはっきり聞こえ出した。人の声と足音のようだ。近付いてきて
いるのは間違いない。渡辺は、中指で眼鏡のずれを直した。
「……二人、ですかな? 出迎えの準備をしなければ」
 つぶやき、また片付けの作業に戻る。手早く済ませ、不意の訪問者に備えよ
うと動き出した。
「まず、お湯を沸かすとしますか」

           *           *

 渡辺と名乗った四十がらみの男に案内された広間には、なるほど彼の言った
通り、先客が大勢いた。ざっと数えると、五人。外見で判断するなら、男三人
に女二人という構成だ。そこに私達二人が加わるので、男四の女三となる。
「おや、新顔が現れるとは、タイミングが悪い」
 五人の中で、一番背の高い男が言った。よく通る声の持ち主で、もみあげか
らつながるあごひげが印象的だ。細身だが、袖から覗く腕の逞しさから筋肉質
と窺える。
「ちょうど自己紹介が終わったばかりなんだ。少なくとも一晩は一緒に過ごさ
ねばならない仲だし、お互いのことを少しぐらい話してもいいだろうと。着い
て早々で悪いけれど、あなた方から自己紹介してくれないかな」
 彼の口調は耳に心地よいが、ペースに乗りっ放しというのもしゃくだ。
「かまいませんが、せめてあなたのお名前だけでも、先に聞かせてもらえませ
んか」
「おっと、こいつは失礼をした。新橋礼次郎(しんばしれいじろう)だ。アマ
チュアの登山家にしてアマチュアのカメラマン。雑文で食っている」
 男は名前だけでなく、他のプロフィールもすらすらと答えた。
「今日は仕事抜きで、彼女とドライブがてら、出掛けてきたんだが、土砂崩れ
に巻き込まれてにっちもさっちもいかなくなった」
 土砂崩れに巻き込まれたというのは、私達と同じ、前後の道をふさがれて動
けなくなったという意味だろうか。それとも、車そのものを流され、命からが
ら脱出したという意味か。
「ついでだから、私も自己紹介しておくわね」
 新橋に「彼女」とあごで差された女性が、椅子からすっと立ち上がった。す
らりとして彼女もまたなかなか長身だ。一礼してから始める。
「湯島佐由美(ゆしまさゆみ)、出版社で編集なんかをやっていたけれど、今
は辞めてパート。新橋とは仕事関係で知り合ったのが、今につながるといった
ところ」
 明け透けな物言いに、五人の間でできあがった空気が想像できた。新たに加
わる者としては、ここまでプライベートを語るのは少々敷居が高いが、仕方が
ない。私達は順に名乗ることにした。
「男沢黎(おとこざわれい)です。調査業をやっています」
「その助手で、左巻ひろみ(さまきひろみ)と言います。お見知りおきくださ
い」
 名刺を配らんばかりの体で、スマイルを振りまく左巻。あいにく、手元に名
刺はない。セカンドバッグごと、車に置いてきてしまった。災害に遭って車を
止めた直後、携帯電話が通じなかったため、近くの家で電話を借りてすぐに戻
るつもりだったのだ。それがこんなことになるとは。
「調査業とはつまり、興信所の人ですか」
 奥の方で向かい合って座り、チェスをしていた二人の内、向かって左の丸顔
の男が言った。無論、ゲームの手は止めている。
「ええ、まあ。掲げている看板は、一応、探偵としていますが」
「刑事事件も取り扱うような?」
「幸か不幸か、そんなケースに遭遇したことはありません」
 答えてから相手に自己紹介を眼で促す。男は察しよく応じた。
「僕は中田寿樹(なかたとしき)。こう見えても医者だ。獣医だけどね」
 きちんとした身なりで、顔が丸いだけで身体が太っている訳ではない。医者
に見えない風体ではないにもかかわらず、こんな物言いをするのには、コンプ
レックスでも持っているのだろうか。中田は正面に座る痩せぎすの男を指さし
ながら続けた。
「こいつも同業者で、名前は小林英孝(こばやしひでたか)。懇親会に出席し
たあと、帰り道で事故に巻き込まれたんだ。この辺には家がほとんどないみた
いで、参ったよ。なあ?」
「ああ」
 小林は生返事だけして、こちらを振り向きもしない。チェスに没頭している
様子だが、それほど劣勢なのだろうか。
 私達は最後に残った若い女性に目を向けた。実を言えば、五人の中で彼女が
最も目立つ格好をしている。大きなタオルケットを肩と膝に掛けているが、ラ
ンナーそのものの出で立ちをしているのがよく分かる。携帯電話をいじるも、
やはりつながらないらしく、舌打ちをし、しきりと首をひねっている。
「――ああ、私は安居恵美(やすいめぐみ)と言います。陸上をやっていて、
ちょっと単独で走りに出た矢先に、土砂崩れに遭って、帰れなくなったものだ
から……同僚に連絡着けば、すぐだと思うんだけれど」
「そういえば、ここには電話がないというのは本当ですか」
 渡辺から聞かされた話を、皆に確かめる。新橋が口を開いた。
「のようです。すでにお聞きでしょうが、こちらは作家先生が仕事から離れて
完全休養するために建てられた別荘だとか。その目的のため、外部とつながる
手段は一切ないという話でしたね」
「インターネットも?」
「恐らく。いや、そこまで突っ込んで尋ねてはいないけれども、こちらが電話
を求めた折に、電話がないがネットならつながるというのであれば、教えてく
れるのが普通でしょう」
「でしょうね」
 念のため、機会があれば確認しようと思ったそのとき、後方で人の気配がし
た。渡辺がいつの間にかいた。
「皆さん、それなりに歩かれてお疲れでしょう。軽食の用意ができましたので、
食堂に案内いたします」
 時計を見ると、午後三時。おやつにはちょうどいい。

 食事の最中に尋ねてみたが、インターネットの類もないという答だった。
 それどころか、テレビやラジオも置いていないそうだ。仕事を離れると言う
よりも、俗っぽい文明から離れるための屋敷と言えそう。
「そういえば、作家先生とはまだ対面できていませんね。名前すら聞いていな
い」
 こう言い出したのは、獣医の中田。口に食べ物を含んでいるように見えるが、
その淀みないしゃべりからすると空っぽらしい。
「差し支えがなければ、教えてもらえませんかね」
 コーヒーのおかわりを注いで回る渡辺は、その作業が全員分終わってから答
えた。
「申し訳ありません。差し支えがあるのです。あとでマスコミに知られると、
うるさく面倒なことになるかもしれないと、危惧されていまして。皆さんを歓
迎しているのは間違いございませんが、今回のことは他言無用でお願いします」
「ええ、そりゃまあかまいませんがね。お目にかかって感謝の気持ちを伝えた
いのですが、それもだめですか」
「いえ、会うことには何ら問題ありません。顔写真を非公開にしていますので。
それに伴い、筆名ではなく、本名ならお伝えできます」
「何だ。それを早く言ってくださいよ」
 拍子抜けした風に、中田は笑った。渡辺はきちんと頭を下げ、「気を持たせ
るような真似をして、すみません」と言った。
「本間国彦(ほんまくにひこ)というのが、この主の本名です。後ほど、皆さ
んと会う機会も設けられると思います」
「後ほどってことは、今は忙しい訳だ?」
 口を挟んだのは小林。
「一人で何をされてるんです? テレビもネットもないとこに滞在して、部屋
にこもってやるようなことって」
「それが……私でも苦笑を禁じ得ないのですが、小説を執筆なさっているとの
ことでして」
「はあ? 仕事を離れるために、ここに来たと言ってませんでしたっけ?」
「仕事を離れ、自分の書きたい物を書くために、ここに来るのだそうです。私
は文学にさほど造詣はなく、また先生の作品を読んだことはありませんが、出
版関係者にもし知られれば、関心を抱く会社も出てくることでしょう」
「なるほどね。作家は書きたい物を書かせてもらえる訳ではないってことです
か」
 湯島が微苦笑混じりに言った。大方、自身のかつての仕事を思い出したんだ
ろう。
「そんなことよりも、ここにいることを知り合いに伝えたいんですが、どうに
かなりませんか」
 安居が気忙しく、早口で言った。手は相変わらず、携帯電話を触っている。
「申し訳ありません。そのご要望には――」
「渡辺さん達がトラブルに巻き込まれたり、病気になったりした場合、どうす
るんですか。何かあるんじゃありません?」
「そのときは、お隣まで行くしかありません」
「隣って……どこですか」
 食堂にある南向きの大窓に視線をやる安居。腰を浮かし、外を覗こうとして
いるが、恐らく家並みは見えまい。
「直線距離にして一キロ強、離れています。山肌を登らねばなりませんから、
実際は三十分ほど掛かるでしょうか。何せ、実際に歩いたことがないもので。
そもそも、お隣も別荘ですから、人がいるかどうか分かりませんし、土砂崩れ
の影響が及んでいないかも不確かです」
「――自動車、いえ、自転車でもないんですか」
「自転車でしたら、雨ざらしの物が一台ありますが、動くかどうか。それに道
は険しいですよ。獣道とまでは言いませんが」
「……仕方がないわ。歩いて行ってくるので、道順を教えてください」
「かまいませんが、あちらが不在だったときはどうするので」
「どこかガラス窓を割って、電話を借りるつもり。緊急事態だから、許される
んじゃない?」
「それはあまり感心しません。差し出がましいですが、おやめになるべきかと」
 眉根を寄せる渡辺。
「どうして」
「皆さんの話から、明日の昼までには、仮復旧がなると思います。それまで待
てば済む話です。どうしても待てない理由がおありですか?」
「どうしてもって言われると、違うけれど。でも、早く知らせるに越したこと
はないわ」
 二人のやり取りに耳を傾けながら、私は考えていた。安居恵美を後押しすべ
きか、いさめるべきか。というのも、災害に遭う直前まで、気になるニュース
をラジオで聞いていたからだ。
「ちょっと、いいですか」
 軽く挙手し、発言を求める。二人が静かになったので、それを承諾の意に受
け取った。
「私も徒歩でよそに向かうことを、考えないでもなかった。ただ、ラジオのニ
ュースで殺人犯が逃げていることを言っていたのが、どうも気になって。ここ、
本間さんの別荘が見えなかったとしたら、車を離れるのもやめておこうと思っ
たぐらいですよ」
「そんなニュース、知らないわ。本当?」
 安居が言い、渡辺を振り返った。だが、テレビやラジオ、インターネットの
ない屋敷に暮らす彼が、最新ニュースを知るはずもない。首を横に振るばかり
だ。
「私も知らないな。ラジオを付けていなかったから」
 新橋が言うと、同乗者であった湯島佐由美も首をこくこくと縦に振った。
 彼らとは反対に、中田と小林は車中でラジオのニュースを入れていた。
「僕らは聞いた。電波状態が悪くて詳しくは分からなかったが、今朝、殺人の
容疑者が警察を振り切り、この近くに入り込んでいる可能性が高い、みたいな」
「それだけでしたか?」
 自分の得ている情報と、若干の開きがあるため、私は聞き返した。返事はイ
エス。ならば、私の知っていることを伝えねば。
「私が聞いたのは、もう少し詳しい話でした。信じがたいのですが、殺人容疑
の逃走者が二名いると言うんです」
「えっ、二人?」
「それは……共犯関係にあるということですか」
 小林が考え考え聞いてくる。私は頭を左右に振った。
「違います。別々の事件で、一人は知り合いを刺した現行犯、もう一人は殺人
罪で収監されていた脱獄犯。現行犯の方は氏名も何も分かりませんが、脱獄犯
の方は言っていました。三村幸道(みむらゆきみち)、三十五歳。体格や外見
については、言及がなかったかのかどうか、よく聞き取れませんでした」
「そんな凶悪犯が二人、同時にこの一体に逃げ込んだ?」
「確定事項じゃありません。目撃情報があった訳でもないようだし、可能性だ
けでしょう。山に逃げ込めば全て、この近辺となり得るんですしね。とは言え
――」
 私は安居に向き直った。
「外は、殺人犯が二人もうろついているかもしれない。そんなところに出て行
くのは危険だと警告しておきます」
「……滅多に出くわすものじゃないんじゃないかしら? この近所に逃げ込ん
だのが確実ならともかく、砂浜に適当に投げた小石二つ、みたいなもの。わず
かな可能性を恐れ、行動を起こさないのは性に合わないな、私」
 強がりの現れか、口調を変えた安居。こちらとしては、最悪の事態に備える
よう、説くしかない。幾度かのやり取りを経て、提案した。
「どうしても行くのであれば、条件が二つあります。明るい内に出発して、戻
れる時間帯にすること」
「それくらい。私なら今からいけば、間に合う」
「もう一点。単独では行かないでください。少なくとも一人、あなたが信用で
きる人物と行動を共にしていただきたい」
「それは……ちょっと難しいわね。私だけ連れがいない。会ったばかりの誰を
信用していいのか……」
「信用と言っても、別にその人物が殺人逃亡犯であるかどうかという意味では
ありませんよ。いざというときに頼りになると思える人物を選べばいい」
「そう言われてもね。すぐに出発したいから、脚力もそこそこなければいけな
いし」
 自身以外の女性を見やる安居。一般的な感覚の持ち主なら、みんなスタミナ
に難がありそうだと判断するだろう。事実、彼女はそう判断したようだ。
「行くとしたら、男沢さんにお願いします」
「――私でかまわなければ、着いていきましょう」
 予想しないでもない展開だったが、相手の決断の早さは意外だった。よほど、
外部と早く連絡を取りたいと見える。
「黎が行くなら、自分も」
 ひろみが行動を起こそうとするのを、「ここにいてくれ」と止めた。
「どうして? 足手まといにはならないよ」
「君はここにとどまり、万が一に備えるんだ。逃亡犯が現れても、冷静に行動
できるだろう?」
「……しょうがないなー」
 普段なら駄々をこねることもある助手だが、今回は緊急事態だからか、割と
素直に引き下がった。余計な時間を取られずに済み、助かる。
「それでは、道順のメモと、水筒に入れた飲み物をご用意しましょうか?」
 渡辺が気を利かせて申し出てくれた。ありがたく受けることにする。

           *           *

 出発は延期された。恐らく、無期延期だ。
 出発しなかった訳ではない。出発した途端に障害にぶつかったのだ。
 裏庭を抜けていくのが少しでも近道だからと、渡辺に案内されてこの屋敷の
裏手に回り、何メートルか歩いたところで、私と安居は人間の死体を発見した。
植え込みの傍らに、隠れるように倒れていたのは、恰幅がよく、鼻の下に髭を
蓄えた四十代後半と思しき男。身なりはスーツ姿だが、上着はなく、白シャツ
のみだ。この季節にしては少々肌寒い格好ではないか。衣類のよしあしは分か
らないが、革靴は高級品と分かる代物だった。
 安居とともに屋敷に取って返し、渡辺を呼ぶ。気分がすぐれないという安居
をおいて、今度は渡辺と二人で遺体発見場所に戻った。
「絞殺……でしょうか?」
 彼の意外と冷静な反応に、質問を被せる。
「それよりも、この人は誰なんです? てっきり、作家先生だと思い、あなた
を連れて来たんですが」
「いえ、先生ではない。少なくとも私に見覚えはない……です」
 念のための確認のように、遺体の顔をのぞき込んだ渡辺だが、すぐに首を左
右に振った。
「しかし、この家とつながりのある人物である可能性は高いでしょう。先生を
呼んで、確かめてもらえませんか」
「なるほど、そうすべきですね」
 しゃがんでいた渡辺は揉み手のような仕種をし、腰を上げた。彼と目を合わ
せ、尋ねる。
「即座に警察へ通報したいが、外部との連絡手段はないんですよね」
「はい」
「殺人逃亡犯が身近にいるかもしれないとなると、無闇に出歩くのも危険。と
なると……道がつながるであろう明日の昼まで待つしかなさそうです。最終手
段として、近くで大火事でも起こして救助ヘリの注意を惹く、という方法も考
えられなくはありませんが」
「それは避けたい」
 最終手段の内容に驚いたのか、渡辺は執事役の仮面を外し、素に戻ったよう
な口ぶりで応じた。
「とにかく、この場は私が見ていますので、渡辺さんは作家先生を連れて来て
ください。それと、遺体に被せる毛布かシートのような物があれば、用意して
ください。あっ、皆さんに注意喚起も」
「承知しました。男沢さんは一人で大丈夫でしょうか?」
「しばらく見張るぐらい、何ともありません。護身術の心得もあります。それ
よりも、屋敷中の戸締まりをチェックした方がいいかもしれない。もう侵入さ
れている可能性も考えて、これからは慎重な行動が必要になる」
「分かりました。くれぐれもお気を付けください」

 館の主は、五分足らずで現れた。茶色のサングラスを掛けた、四十代ぐらい
の男が作家先生らしい。中肉中背で色白だが、文筆業のイメージは薄い。手が
ごつごつしているせいだ。
「本間国彦です。挨拶が遅れまして、申し訳ない」
「こちらこそ、お世話になっています。お礼を早く述べたかったのが、こんな
とんでもない事態になってしまって」
 簡単な挨拶を交わし、当面の問題に取り掛かる。横たわる死人の顔を見ても
らった。
「どうでしょう?」
 本間は顔を近づけ、サングラスを上げて目を凝らした。だが、じきにやめる
と、「知らない人だ」とつぶやいた。
「格好からして、歩いて来たという雰囲気ではありませんな。表に車が止めて
あるかもしれない」
「待つ間に見てみましたが、近くに乗り物の類は見当たりませんでした。タク
シーで来ていたか、私達と同じように、土砂災害で前後の道を寸断された結果、
降りてここまで辿り着いたんだと思います。逃亡犯が人質として連れ回してい
た可能性もあります」
「この別荘に着いたから、用済みになった人質を始末したと?」
「あり得ます。あとで男何人かで組になって、屋敷内を調べたいのですが」
「なるほど。ぜひ、やらねば。早い方がいい。ここは放って、戻らんと」
「放っておく訳には行きません。遺体を調べることはかなわなくても、現場保
存の必要があります。渡辺さんにシートを頼んだんですが……遅いな」
 裏口のある方を振り返ると、ちょうどブルーシートを抱えて出て来る渡辺の
姿が見えた。

――続く




#428/598 ●長編    *** コメント #427 ***
★タイトル (AZA     )  13/06/30  20:28  (286)
君とともに館へ 下   永山
★内容                                         14/01/12 10:48 修正 第2版
 館内を調べて回ったが、侵入者は見つからなかった。が、これで安心できる
とはとても言い切れない。すぐ近くで様子を窺っているかもしれない。さらに
疑うのなら、救いを求めて来た五人――私達二人は除かせてもらったが、屋敷
の人間からすれば七人――の中に、善良なふりをして紛れ込んでいるかもしれ
ないのだ。
 そんな仮説を、迷った末に、全員の前で口にした。疑心暗鬼を生じる恐れが
あるが、注意を喚起するには、周知徹底しておく必要がある。
「殺人逃亡犯がこの中にいるとして、ですよ」
 新橋礼次郎が口を開く。ゆっくりとした口調で、考えながら話をしているの
がよく分かる。
「免許証のような、身分を証明する物を持っている人は? いない」
「携帯電話は照会すれば証明になるでしょうが、現状では照会自体が無理でし
ょうね」
「そうなると、理屈で容疑を絞り込むしかない。ですよね?」
 同意を求められ、仕方なしに頷いた。疑心を煽るような行為は、なるべく避
けたいのだが。
 新橋は、こちらの心配を知らぬまま、続けた。
「誰か一人が犯人だとしたら、私と佐由美は除外できるんじゃないですか? 
私は彼女の身元を保証できるし、逆もしかり。犯人が脅して言うことを聞かせ
ているのではないことくらい、見れば分かるでしょうし」
「その理屈が通るならありがたいな。僕らにも当てはまる」
 中田寿樹が言い、小林英孝の肩を叩いた。小林の方は分かりにくい笑みを浮
かべているようだ。
 すると今度は、唯一人、単独行動でここに辿り着いた安居恵美が声を上げた。
「私が怪しいってことになるの? 犯人は男って言ってなかった?」
「いや、男と判明しているのは脱獄した方だけで、もう一人は性別不明だ」
「そんな。私がその逃亡者だとして、こんなランナーの格好をしてると思う?」
「普通はしないだろう。でも、衣服を着替える必要に迫られ、盗んだ物が偶々
そういった服装だったということもないとは……」
 中田が推測を述べると、安居は反論に窮したようだった。が、思わぬ方向か
ら援軍が現れる。左巻だ。
「ちょっと待ってよー。こういうのはどうかな? 逃亡犯は二人。彼らが偶々、
逃亡中に出くわし、意気投合した。二人はコンビで行動している」
「ばかな。あり得ない」
 我が助手のとんでもない仮説には、当然ながら否定の声が上がった。新橋、
中田、小林の三人が順に偶然性を非難する。
 しかし、左巻は口が達者だ。男三人を向こうに回し、とうとうと言い立てる。
「こんな偶然、確率が低くて起きるはずがないというのでしたら、逃亡犯が一
人でもここに現れるのだって偶然だし、このタイミングで土砂災害が派生し、
私達が孤立させられたのも偶然。逃亡犯がこの近くに逃げ込んでいたのなら、
災害で命を落とすか、少なくとも動けなくなっている可能性の方がよほど高い
と思いません?」
「しかし――」
「最初に、逃亡犯がこのお屋敷に紛れ込んだという仮定を認めた段階で、たい
ていの偶然は許容すべきなんです。人を疑うからには、それくらい当然ではあ
りませんか」
「……よし。じゃあ、我々二人組の者にも、なりすましは可能だと認めよう」
 新橋がやや興奮気味に応じた。
「だが、それで何になる? 絞り込めないのなら、意味がない。少しでも安全
を確保し、安心したいからこその検討ではないのかね」
「今の絞り込みを否定だけであって、絞り込みそのものを否定はしてないです
よ。できる限りのことをしましょう。公平にね」
 左巻が調子に乗っていることが、よく分かった。今は止めても無駄だろうか
ら、成り行きに任せるとする。
 と、そのとき、館の主から思わぬ申し出があった。
「皆さんが望むのであれば、監禁場所を提供できるが、いかがかな」
「監禁?」
 その穏やかでない表現に、誰もが本間を振り返った。本間は満足げな笑みを
浮かべると、うろうろと歩きながら話を続けた。
「怪しいとにらんだ人物を、閉じ込めておける部屋がある。外からは施錠でき
るが、内側には窓もなければ鍵穴すらないという部屋がね。それも、お誂え向
きに、二部屋」
 逃亡犯が二人紛れ込んでいても対応可能、という意味か。
「明日、外部との行き来が可能になるまでの間、怪しい人物二人を決めて、閉
じ込めておく。皆さん、やりますか?」
「……」
「殺人が本当に起きている、この事実を忘れずに。野放しにしておくと、寝首
をかかれる恐れ、ないと言い切れるかどうか」
「仮に、監禁を実行するとして」
 誰も口を開こうとしなくなったので、聞いてみる。
「まず、その部屋は元々、何のための部屋なんです? まさか最初から監禁目
的で作られたのではありますまい」
「平たく言えば、物置ですな。ちょっとでもいる物や、骨董品の類を運び込ん
でいたら、結構な量になったので」
「通気や採光はどうなんです? 人が入っても、大丈夫なんでしょうね?」
 私が質問を発したことで空気の緊張が解けたのか、新橋が聞いた。
「通気は全く問題がないはず。光の方は、窓がないから暗いが、電灯が設置し
てある」
「監禁されても、食事はもらえるんでしょうね?」
 口数が極端に減っていた湯島が、現実的なことを尋ねた。それにしても、監
禁の実行を前提に話しているのが気になる。本当にこれでいいのか。
「無論です。まあ、私一人が決めることではないが」
「犯人が捕まって、監禁されていた人は全くの無実だったとなった場合、その
責任はどうなるんだろう?」
 別の意味で現実的な疑問を投げかけたのは、小林だった。これには誰も答え
られない。私は意見を述べた。
「もし仮に監禁を実行するのであれば、全員合意の上でやらねばなりません。
加えて、検討の結果、監禁されることになった者も、後に訴えることはしない
と確約する必要があるでしょう」
「思いますに」
 部屋の隅に立っていた渡辺が、静かな調子で言った。
「監禁という表現がよろしくないかと。せめて軟禁、隔離、一時的措置などと
表現すれば、皆さんも気が楽になるのではないでしょうか」
 まただ。どうして監禁実行が、さも決定事項のように語る? 皆でひとかた
まりになって過ごすとか、逆に各人個室にこもって一歩も出ないとか、身を守
る方法なら他にもあるだろうに。
 だが、渡辺のこの発言は、他の者の背中を押したようだ。これより夕食を挟
み、話し合いを行い、最大で二名の者を翌日正午まで“軟禁”状態に置くこと
が決まった。

 話し合いを始める前に、容疑者二人の選び方について、いくつかの取り決め
がなされた。
・多数決で決める
・屋敷側の人間である本間と渡辺は投票には加わらない。討議には参加する
・安居恵美は不利なので二票分の権利を持つ。ただし、一人に二票分を投じて
はならない
・時間は午後九時半までの二時間

「真っ先に考えるべきは、容疑者に関する明白な条件よ」
 優先的に発言権を与えられた安居が、先制攻撃とばかり始めた。
「それは何か。男沢さんがもたらした情報。逃亡犯の一人は、三十五歳の男性
ということです。言い換えれば、外見が三十代から四十代ぐらいの男性が候補
という理屈になるわ」
「当てはまるのは、ひぃ、ふぅ……四人」
 ひろみが指さし数え上げる。無論、私も含めてだ。だが、助手の発言とあっ
て、反論は私に向けられた。
「お言葉だが、男沢さん。あなたが聞いたというラジオのニュースだが、正確
なのかい? 雑音でよく聞き取れなかったのを、勝手に補ったんじゃあないで
しょうね?」
 新橋の問い掛けに、即座に首を振って否定を返す。
「誇張や妄想のない事実です。こいつも聞いていました」
 と、左巻ひろみにあごを振る。当人はにこにこ顔で首肯した。誰の味方をす
るでもなく、公正にやっているのだから、後ろめたくはないのも当然だ。それ
でも、助手なんだからもう少し配慮してくれてよいものを。
「知り合い同士の証言では、信憑性が薄いとは言えませんか」
 渡辺が余計な口を挟んでくれた。ため息をついてから反論する。
「もしそうだとしたら、私自身には容疑が掛からぬよう、偽情報を流すと思い
ませんか? 逃亡犯が三十五歳であることを伝えるメリットがない」
「確かにその通り。だが、館に集まった男性陣を見て、似たような年齢の者ば
かりだったので、やむを得ず三十五歳ということにした……とも考えられます」
 そこまで深読み、裏読みされるとは。
「いいですか。その場合なら、年齢の情報を伝える必要がない。ラジオを聞き
取れなかった、と言えばいいんです」
「……なるほど、そうですね」
「そもそも、こうして検討会を行うかどうか、予測できるものじゃないでしょ
うに」
「さすが、探偵を仕事としてるだけのことはありますね」
 新橋が言った。最前から彼は湯島と何やらささやき合っており、気にはなっ
ていたのだが、どうやら話がまとまったらしい。
「男沢さんの証言に比して、中田さん達のラジオに関する証言が、怪しく思え
てきたんですが、どうでしょうか」
「どういう意味だ、そりゃ」
 気色ばむ中田。小林の方は、表面上は冷静さを保っている様子だ。唯一、テ
ーブルに置いた手の人差し指が時折、震えて、こつこつと音を立てている。
「色々な意味がありますよ。我々に、逃亡犯が一人だと思い込ませようとした
のではないかとか、詳しい情報を一切聞いていないことにしたのは誰かに罪を
なすりつけるのに好都合だからじゃないのかとかね」
「く、空想にもほどがある」
 中田は新橋を強く指出した。が、すぐに引っ込める。怒りを飲み込みつつも、
我慢しきれない部分が態度に出た感じだ。
「そういう見方もあるのは認める。だが、僕は違う。もちろん、小林もだ」
「証拠はないがね」
 小林が渡辺の方を向いて、釘を刺した。同じことを言われないように、先手
を打った形である。そのまま、小林は自説を展開した。
「正直な気持ちを言うなら、怪しさでは、自分はやはり、安居さんが最右翼な
んだな」
「今までに挙がった他に、怪しむ根拠でもおありでしょうか」
 尖った口調で聞き返す安居。案の定、雰囲気がどんどん悪くなっていく。
「昼間、あれほど出たがっていたじゃないか。あれ、逃げ出そうと思ってたん
じゃないのか」
「何を言うかと思ったら。私は男沢さんと一緒に出るつもりだったんですよ」
「一人ぐらいなら、振り切るなり殺せるなりできると踏んだのかもしれない」
「冗談を。だいたい、裏手で身元不明の遺体を見付けたのは、私と男沢さんで
す。もしも逃亡犯なら、わざわざ遺体のそばを通りますか?」
「それは……裏を掻いたのかもしれん」
「待てよ」
 中田が割って入ったかと思うと、こっちを見た。
「安居さんが助けを呼びに行こうとするのを、一番止めていましたよね、男沢
さん」
「ええ。危険と思ったので」
「本心から言ってます、それ?」
「どういう意味でしょう?」
 挑発して来ているのだと感じる。しかし、ここで腹を立てても仕方がない。
平常心を心がけ、耳を傾ける。
「助けを呼びに行かれたらまずいから、止めたんじゃないでしょうね? どう
しても止められないと分かると、今度は着いていくことにした。隙を見て、安
居さんを襲うつもりで」
 中田の新たな説に、安居も私に驚きの眼差しを向けた。若干、距離をおこう
とする仕種が見られなくもない。
「思い出してください。私が着いていくことを希望したのではなく、安居さん、
あなたから私を指名したんでしょう」
「あ――そうだったわ」
 安居は緊張を解いて肩を落とし、ほっと息をついた。
「探偵さんは、どなたか怪しいとにらんでいる人がいるのですかな」
 本間に問われ、困ってしまった。答えたくない質問だ。しかし、答えなかっ
たり、分かりませんと言ったりしたら、無能の烙印を押されかねない。不当な
評価は辛抱できない、我ながら困った性格をしているのだ。
 少し考え、場の均衡を保つためになら、推測が間違っていても、あとで言い
訳が立つ、と思った。これまでにあまりやり玉に挙がっていない人達に言及し
てみることにする。
「私には天邪鬼なところがありまして。今のところ、新橋さんと湯島さんには、
たいした疑いは掛かってないようですが、本当にそれでいいのでしょうか」
「何か不審な点がありますか」
 語気をやや強めつつ、新橋は湯島の肩を右手で引き寄せた。結束のアピール
は、この場では長短どちらもありそうだ。
「たとえば……私達が広間に入るなり、あなたは喋り出した。あれって、主導
権を握りたい意識の表れと分析しました。主でもないあなたがそうしたがるの
は、他でもない、殺人逃亡犯のニュースについて、各人がどれだけ把握してい
るかを探るためではないかと」
「想像力のたくましい探偵さんだな。陳腐な台詞を言わせてもらえるなら、探
偵よりも作家に転向した方がいいんじゃないですか」
「引退後の職業として、考えてもいいですよ。ただ、今の疑問は真剣な意見で
すから。皆さんも考えてみください。逃亡犯がまだ警察に捕まらず、逃げてい
られるのは、災害というアクシデントも影響しているでしょうが、そこに加え
て逃亡犯達が賢いからですよ、きっと。こんな場でも、疑われることのないよ
う、ずるがしこく振る舞える術を身に付けているに違いない」
「くだらない。根拠のない推測だ」
「ほら、今もさも賢明なように振る舞い、意見を切り捨てる」
 ちょっと言い過ぎたか。できれば投票不成立を狙っての発言を続けてきたが。
徒に混乱させるのは本意でない。ここらが潮時だろう。
「ま、それを言い出すと、私だって、探偵ぶって実は逃亡犯なのかもしれませ
んがね」
 このあともしばらく、愚にも付かない議論が続いたが、じきに材料が出尽く
した。制限時間まで十五分ほど残していたが、決を採ることとなった。
 方法は無記名投票で、渡辺が全ての準備をしてくれた。開票作業も彼の役目
となる。
「集計が終わりましたので、発表させていただきます」
 渡辺はメモ用紙を片手に、こほんと咳払いした。しーんとした室内に、やけ
に響く。
「ともに三票ずつで、新橋さんと男沢さんが最多得票でした」
「……」
 何ということだろう。探偵が犯人扱いされ、軟禁の憂き目に遭うとは。

           *           *

 左巻ひろみは、軟禁状態におかれる直前の男沢黎から、ある指示を受けてい
た。
(誰が誰に投票したか調べてくれ、と言われてもなあ)
 宛がわれた部屋にこもり、内側からしっかりと施錠した左巻は、行動に移せ
ないでいた。
 勝手に出歩いて、うろちょろできる雰囲気ではなかった。殺人逃亡犯と思わ
れる恐れが強い。その上、もしも各人に会えたとしても、素直に答えてくれる
か怪しいものだった。それだけ、あの検討会が雰囲気をぎすぎすしたものに変
えてしまったのだ。
(まあ、人狼ゲームみたいになっちゃったから、険悪になるのも無理ないとは
思うけど。それよりも、先生は何を疑問に感じて、こんな指示を出したのか)
 仕方なく、ベッドに寝転がり、仰向けで考える左巻。髪の毛が蜘蛛の巣のよ
うに広がる。
(当然、投票結果に疑問を覚えたからなんだろうけれど……どうして、という
かどこに疑問を? 総投票数は、安居さんが二票分持ってたから、八票。で、
先生と新橋に三票ずつ入ったから、六票。差し引き二票。自分は湯島に投票し
た。彼女が怪しいって訳じゃなく、犯人が万が一、暴れ出した場合、一番足手
まといになりそうなのが彼女だと思ったから。先生も同じ理由で、安居に入れ
たと言っていた。これで合計八票。
 ……うん、おかしい気がする。私達以外の五人が、先生と新橋に三票ずつを
入れたことになるけれど、内訳が納得できない。まず、二票分を持つ安居は同
じ人に二票を投じられないのだから、先生と新橋に一票ずつ入れたことになる。
あの討論会の流れで彼女が先生に票を入れるのは違和感あるけれど、とりあえ
ずそこは棚上げ。新橋はまさか自分自身に入れるはずないから、先生に入れた。
新橋の恋人らしい湯島も、同じはず。これで先生に三票だから、残る中田と小
林は新橋に入れた。あれほど安居を疑っていた中田と小林のコンビが、どちら
も安居に入れないなんてあるだろうか?
 何かおかしい。この理由を話せば、誰に投票したかを打ち明けてくれるんじ
ゃないかしらん? でも、あー、だめ。理由を話すチャンスが……。
 少しでも話を聞いてくれそうな人って――いるじゃないの)
 左巻は上体を起こした。ベッドのスプリングが微かに軋む。
(執事さんに聞けばいいんだ。あの人なら、開票もしたんだから、内訳を知っ
ているし。なーんだ、最初からあの人に聞けば簡単に済む話だったんだ)
 そうとなれば、行動は早い方がよい。左巻はベッドから飛び降りると、手櫛
で髪を整え、服のしわを伸ばした。それからドアのロックを解除した。
 扉を開け、できた隙間から廊下に首を出す。左右を窺い、誰もいないことを
確かめる。そして、渡辺がいるであろう部屋を目指し、歩き始めた。
(……そういえば)
 息を潜めて歩く道すがら、無意識の内に引っかかっていたことが、心に浮か
んだ。
(開票のとき、執事さんは何で、投票結果を全部は言わなかったんだろ?)

           *           *

<――逃亡中だった殺人容疑者と殺人罪で服役していた脱獄囚が、相次いで身
柄拘束されました>

<――真壁(まかべ)容疑者と三村服役囚とは面識がありませんでしたが、逃
亡の最中に出会い、意気投合した模様です>

<――二人は、Nにある作家の竜藤輝平(りゅうどうきへい)さん、本名・本
間国彦さん所有の家屋に侵入し、竜藤さんと手伝いの男性を殺害した後、竜藤
さん宅の家人になりすましていました>

<――竜藤さん宅では、竜藤さんらの他にも男女七名の変死体が確認されてお
り、身元の確認を急ぐとともに、両容疑者の関与を追及しているとのことです>

<次はCMを挟み、Nで発生した土砂崩れの復旧に関して、続報をお伝えしま
す――>

――終




#429/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/09/28  23:30  (499)
未完全犯罪(前)   永山
★内容
 ジャンルを問わず、同好の士というものは案外と近くにいるようだ。
 謎好きの同志となると数も多い方だろう、知り合うきっかけさえあれば、十
を超える人数が軽く集まる。その中に仕切り役が一人でも含まれていたら、サ
ークルはできたも同然。
 自分の所属する“迷言解”は、そんな風にして結成された集まりの一つだ。
 インターネット全盛の昨今、手広くやるのも可能だろうが、迷言解はこぢん
まりと、月に数度の会合に顔を出せる範囲でメンバーが構成されている。厳密
な会則が定めてある訳ではなく、会費を徴収する訳でもなし(場所はメンバー
の一人が経営する喫茶店を開放してくれる)、常識と節度を保ちさえすればい
い。入会には既存メンバーによる紹介の後、仮会員として会合参加を何度か重
ねてから可否を下す決まりになっているものの、現時点では実質オープン状態
だ。
 名簿作成のため、本名や住所等の登録は必須だが、会合では偽名を使ってか
まわない。むしろ、推奨されているくらいだから、これはペンネームや芸名の
ような物と捉えるべきだろう。経歴や年齢も偽ってかまわないが、なりきるだ
けの技量・才能が求められるのは言うまでもない。
 会合の中身だが、たまにバス旅行などに出掛けて親睦を深めることもあるよ
うだ(自分はまだ旅行には参加したことがない)が、原則的にはメンバーが輪
番で謎の提示役となり、それについて皆で考えるスタイルを取る。
 出題者が正解を承知もしくは用意している場合は、各人個別に考えた後、答
合わせをし、最優秀正解者に賞品が進呈されることも希にある。
 正解が不明な場合――たとえばスーツを三着も抱えて走り回る男を見かけた
とか、毎週決まった日に五十円玉二十枚を千円札に両替してくれと頼みに来る
男の謎とか――は、出席者全員で議論し、会なりの答を出す。
 適当な謎の提示が無理であれば、推理小説に関する話題をメインに雑談で時
を費やすのが常である。
「ぼちぼち、始めるとしましょか。今回の当番は、どなたでしたかな」
 白く豊かな顎髭を撫でながら、二葉亭迷宮(ふたばていめいきゅう))が言
った。迷言解会長を務める彼は、その肩書きにふさわしい雰囲気を纏っている。
当年取って六十一、実年齢より老けて見られがちだが、好奇心旺盛で、思考の
柔らかさも保たれている。
「会長もお人が悪い。またそうやって、我々の記憶力を試す」
 カウンターの向こうで、四角い顔をした男が言った。蝶ネクタイをし、カッ
プを磨く彼は、当喫茶店「理窟」のオーナーマスター。会合時には、トリック
スター保志(ほし)を名乗る。
「滅相もない。真実、記憶が朧気だったので、尋ねたまで。それで――」
 再度問い掛けるように、場を見渡した二葉亭。各人は思い思いの席に着いて
いるが、さほど広い店内ではないため、議論するのに支障はない。
「私です」
 額が広く、白皙の有場伊知朗(ありばいちろう)が答えた。大学教授と称す
る彼だが、何を専門とするかまでは明かしてくれない。これまでの会合での言
動では、豊富な知識や雑学を誇り、何の専門であろうと合点が行く。逆に言え
ば、極端な話、詐欺師だったとしても納得できる。五十歳になるという割に、
皺がほとんどないのは、穏やかな性格なのか、笑みを絶やさぬように心掛けて
いるのか。
「おお、有場さんが当番ですか。今回も犯人当てですかな。楽しみにしていま
すよ」
「いえ、それが違うんです。回を重ねてきますと、アイディアも枯渇気味でし
てね。皆さんのご期待に添うような謎をこしらえるのは、難しくなってきまし
た。代わりに、ちょっとした議論の種をお届けしようかと」
 幾人かのメンバーが落胆するのを感じたか、有場は取りなすような笑顔を覗
かせた。
「友人から聞いた話です。そこそこ知られた話だそうなので、もしかするとご
存知の方もいるかもしれませんが、そのときはあしからず」
 前置きをしてから、有場は本題に入った。それは次のようなパズルめいた話
だった。
 A、B、Cの三人が砂漠にテントを張って過ごしていました。日を重ねる内
に三人の間でいさかいが起こり、やがてBとCはそれぞれ別個に、Aに殺意を
抱くようになりました。
 とある深夜、BはAのテントに忍び込むと、Aの全飲料水が入った水筒に毒
を投じました。少しでも飲むと確実に死に至る猛毒です。
 直後に、CはBのそんな行動を全く知らずに、Aのテントに忍び込みます。
CはAの水筒の底に小さな穴を空け、一晩で流れきってしまうように細工しま
した。
 水を失ったAは数日後、命を落としました。
 さて、Aを本当に殺したと言えるのは、BとCのどちらなのでしょうか?
「実は私、退職後に暇ができたら、これを組み込んだ推理小説を書きたいと目
論んでいます。皆さんのお考えを伺い、参考にしたいと思いまして、今回、提
示させていただきました」
 有場伊知朗はにこやかな笑みを見せた。
「謎は謎でも、推理小説のそれではなく、パラドックスに近い感じですね」
 自分――窖霧(あなぐらきり)は、率直に第一印象を口にした。
「仮にAの死に様が公にならないとしたら、BとCの二人ともが、自分こそが
Aを殺したと思うでしょうね」
 続けて述べると、対する有場は「ああ、勘がいいというか何というか」と嘆
き口調になり、額を押さえた。
「私の腹案の一つにそっくりなのです。Aを国王か何かにして、その死がしば
らく伏せられる状況を作ろうと思っていたのですが……まさか、霧さんの口か
ら同じアイディアが早々に出るなんて」
「それは……すみません」
「いえいえいえ。謝られる必要は皆無です。ただまあ、今はストレートにお答
えを聞かせていただきたい。BとCのどちらを殺人犯だと考えるのか」
「自分は……Cですね。結果が全てと思いますから」
「俺も同感」
 紫野安吾(しのあんご)が片手を挙げつつ言った。休学中の学生と称する彼
は、粗野なところと繊細なところが同居したような人だ。ハーフっぽい顔立ち
をしており、これで髪を整え、無精髭を剃れば、二枚目として充分に通用する
に違いない。
「毒を飲んでいたら、確実に死んだ。水を飲めなくても、確実に死んだ。実際
に機能したのは後者。単純明快な理屈さ」
「そう単純かな? 毒を入れられた時点で、Aの死は決まったんだ。Cが穴を
空けようが空けまいが、関係ない」
 全員分の飲み物を用意し終えた保志が、各自の前に器を置いて周りながら口
を挟んだ。
「むしろCは、毒を飲むのを防いでくれたとさえ言えるかもしれない」
「それは日常生活の場合でしょう。水がないことが即、命に関わる状況とは全
然異なる」
「少なくとも一つ、確認したい点がありますね」
 可能風(かのうふう)が手元を見つめたまま、質問を発した。彼女の手には、
ほぼ常に折り紙がある。悪魔や蜥蜴といった複雑な部類に入る折り紙を、売り
物になるのではと思えるほど、短時間できれいに仕上げる器用さの持ち主。丸
眼鏡を掛けたどこにでもいそうな主婦、といった外見からは想像が付かない。
「他の二人から、水を分けてもらう訳には行かなかったのか、という点です」
「BもCもAに殺意を抱き、現に実行しているのですよ。Aが水を分けてくれ
と言ったって、はいどうぞとは……」
「私の表現が穏やかすぎましたね。Aが他の二人から水を得ることは、いかな
る方法でも不可能だったのでしょうか。つまり、殺してでも奪い取る行為も含
めて」
「おっ。それはちょっとした盲点でした。殺し合うという選択肢は、考慮しな
いといけませんね。パズルとしてなら不要でも、小説にするなら絶対に考慮の
必要がある」
 有場はメモを取るのに忙しい。本気でこのネタを推理小説にしようと思って
いる様子だ。
 可能風は微笑をたたえつつ、
「問題文の通りだとしますと、Aは他の二人を殺そうとせず、死んでしまった
ようです。つまり、水が飲めずにじわじわと死んだのではなく、毒でほぼ即死
だったと考えるのが適切でしょう。辻褄の合った解釈をすると……Aは空にな
った水筒を嘗め、毒を口にしてしまった。僅かでも毒は残留しているでしょう
から」
 と、意地の悪い見解を示した。
「もう、これまでの意見をまとめるだけでも、掌編が書けそうだな」
 真葛明敏(まくずめいびん)が、半ば茶化すように言った。野太い声とは対
照的に、柔和な顔をしている。歯科医師をやってるとのことだけれども、小さ
な子は顔と声のギャップに怖がるのではなかろうか。
 このあとも、活発な意見交換がなされ、話題は古今東西の毒殺ミステリ及び
トリックに移った。古典的な作品について、いくつか未読のある自分は、退席
しようか迷ったが、結局は最後まで居続けた。ミステリの名作は、種を知って
いても楽しめる、多分。
「おや、もうこんな時間」
 壁の時計を見上げ、いささか芝居がかった物言いをしたのは二葉亭。落語に
出てきそうな風体だが、当人も落語観賞が趣味の一つだという。
「今宵はここらでお開きにしましょうか」
「ええ。ただ、散会の前に、宿題を出したいと思います」
 保志が店内を見渡した。まるで、小学校の先生だ。と言っても、自分達の方
は児童みたいに、「えーっ」と叫んだりはしないが。
「来月の当番は私なのですが、完全犯罪をテーマにと思っております。論じる
ほどたくさんのネタがある訳でもないので、皆さんもちょっと考えていただき
たいんですよ。完全犯罪の定義ってやつをね。そしてできれば、それを実行す
る手段も」
「空想でも実行することを念頭に置くと、比較的軽い犯罪になってしまいそう
ですが」
 自分が感想を述べると、即座に答が返ってきた。
「ああ、殺人に限定しましょう。ごく普通の人間が、無差別にではなく、面識
のある相手を、明確な動機を持って、計画的に殺すこと。この仮定の下、完全
犯罪を定義付け、可能なら実行手段も考えてみてください」
 興味をそそる設定に、店内は、議論が直ちに始まってもおかしくない空気に
なったが、会長の声でそこまでは至らず、〆となった。

 およそひと月後、会合の日を迎えた。場所はいつもの通り、貸し切りにした
喫茶“理窟”の中。
「本題に入る前に」
 会長が柔らかな物腰で始めた。柔らかいが、凜としてよく通る声。
「新規の入会者がおりますので、紹介しておきましょ。こっちに入って来て」
 斜め後ろを振り返ると、大げさな動作で手招きをする。ドアの向こう、隣の
部屋から現れたのは、年齢のよく分からない男性だった。黒のスーツを着こな
し、細身で背が高い。外見だけで判断するなら、芸能人か、でなければ裏の世
界で生きる人だ。マスターの知り合いだろうか。
「彼は僕の知り合いで、名はヒソカムロ・アヤト」
 案の定、保志が紹介をする。そしてちょっと妙なことを付け加えた。
「どんな字を書くのかは教えてもらっていないんだ」
「『密室殺人』と書いて、そう読むということにしておいてください」
 ヒソカムロはそう応じると、ほんの僅かな笑みを浮かべた。切れ味の鋭いナ
イフのような笑みだ。対照的に、声は意外にもソフトだ。それはともかく、名
前については、この会ならではのニックネームということのようだ。
「彼の肩書きやプロフィールなんかは、後回しにしようと思う。今日の本題を
進めたいからね」
 保志が断定的に言うと、会長があとを継いだ。
「まあ、ヒソカムロさんには、今日は意見を求めることはしないから、気楽に、
オブザーバーか何かのつもりでいてほしい。よいですかな」
 ヒソカムロ当人も他のメンバー達も一様に頷いた。全員の前に飲み物とつま
む物が並んだところで、さあ、いよいよメインテーマだ。
「定義するに当たり、漏れが生じるのは好ましくないので、最大公約数的に考
えてみました」
 完全犯罪の定義の発表は、会員になってからのキャリアが若い順にというこ
とで、自分がトップバッターに立った。
「それを踏まえて、絶対に必要なのは捕まらないこと。犯人が逮捕された完全
犯罪なんて矛盾を孕んでいます。大雑把に言えば、この条件だけで完全犯罪で
あるか否かを判定してもいいでしょう。ただ、これだけでは、完全犯罪と迷宮
入り事件との区別が付かない」
 時折、メモに視線を落としつつ、聴衆にも目を向ける。会で壇上に立つのは、
今日でまだ三度目。少々緊張しているのを感じる。
「そこで、完全犯罪の『完全』が表すところを推し量るとします。どこにも欠
けたところのない犯罪、でしょうか? 換言すると、万全の計画犯罪。つまり、
犯人と同じような立場の人がその計画通りに行えば、百パーセント成功する犯
罪。これこそが完全犯罪と呼ぶにふさわしいんじゃないかと思います。まあ、
百パーセントはハードルが高すぎるかもしれませんが、よほど不運でない限り、
成功率九割九分九厘は求めたいですね。残りの一厘は、大地震に遭遇するとか、
ターゲットが先に死んでしまうとかの偶然を考慮すると、どうしても詰め切れ
ません」
「まとめると、犯人が逮捕されず、誰がやっても成功する犯罪、ですか」
 マスターの保志が、小刻みに頷きながら言った。
「シンプルで、なかなかよいですね。異論反論は、他の方の発表のあととして、
実行する方法は浮かびましたか?」
「そっちの方はちょっと……。思い付いたら、ここでは発表せずに、小説にし
たいですし」
「小説にしない方の案、てのがあるんじゃあないのかね?」
 どきりとする。会長には見透かされていた。確かに、なくはない。ただそれ
は、ありふれているからという理由で、開陳しづらいだけなんだが。
「一応、あります。つまらないんですが、皆さんの露払いの役目を果たす意味
で、発表してみますよ。
 先月、宿題を提示された際に、保志さんは確かこんな風におっしゃいました。
“無差別ではなく、面識のある相手を明確な動機から殺す、完全犯罪の計画”
と」
「ああ、そんなことを言ったよ」
「自分はこれを、『木の葉を隠すのなら森に隠せ』方式を弾く条件ではないと
受け取りました。つまり、殺したい人物だけを殺すのでは目立ってしまうが、
大量殺人に紛れ込ませれば目立たなくなり、真の動機も見えづらくなるという
あれです」
「無差別ではないという表現が微妙なところだけれど、まあかまわない。具体
的にはどうする?」
「仮に……保志さんの立場に立って、展開してみましょうか。保志さんには一
人、殺したい人物Xがいるとします。そのXを殺したいがために、保志さんは
彼を――あ、Xは男性としとしてください――彼を、自分の所属する仲よしク
ラブに入会させる」
「ほう」
 声を上げて反応したのは、ヒソカムロアヤト。後方の席、壁際に位置してい
た彼は、なかなか察しがよいようだ。
「無論、保志さんはクラブの面々には何の恨みもない。そんな中にXを引き込
み、全員まとめて命の危険にさらそうという訳です」
「骨子は分かった。じゃあ、僕は皆をどんな方法で殺す?」
「毒……だと、いくら何でも疑われるでしょうし、入手にも苦労しますよね。
爆弾かな。爆弾なら、ネットで調べて努力すれば、作れないことはない」
「確実性に欠ける」
 口を開いたのは紫野安吾。辛抱たまらないといった感が窺えた。
「そもそもね、この想定では、君の案は全然生きない。死んでるぜ」
「どうしてですか?」
 反論を受け、こっちも唇を尖らせる。紫野は余裕綽々の態度で応じた。
「考えてもみな。保志さんが我々に何の恨みも持っていないと認識しているの
は、我々だけだ。一人を殺したいがために、全員の命を危険にさらしたとして、
警察は保志さんがメンバーの誰にも恨みを抱いていないなんて、知りゃしない。
徹底的に調べるさ。そして些細なことを大げさに捉えて、いくらでも殺意を見
付けてくるに違いない」
「……その通りかもしれません」
 悔しいが認めざるを得ない。二の矢を探し求めて、自分は脳細胞をフル回転
させた。
「こういうのはどうでしょう。本命の殺害決行までに、この一帯の喫茶店で、
毒殺未遂事件を何件か発生させておくんです。本当に死ぬかどうかは、どっち
でもいい。本命さえ殺せたらいいんですから。でも、未遂事件が続いたあと、
本命の殺害で連続毒殺事件が幕を閉じたら、疑われる可能性があるので、何人
かは死んでいてほしいですね。それに、本命殺害後にも、最低一人は殺したい」
「それだと、リスクが大きすぎやしないか」
 保志が苦笑交じりに言った。
「テーブルにある調味料にでも毒を混入する手法を採るんだろうけど、同業者
の店に客として行くだけでも、かなり目立って印象に残ると思うよ。さっき君
自身が言及した、毒の入手難度は棚上げするとしても、毒を入れるタイミング
も気になる。いよいよ本命を殺すつもりで、毒を店の砂糖壺に入れたはいいが、
不意に団体客がやって来て、ターゲットの座る席がなくなっちまった、なんて
展開が排除しきれないだろ」
 旗色が悪い。いや、もう完全に押し切られていると見るべきだ。白旗を掲げ
よう。
「つまらないアイディアでしたが、初っ端にはこれくらいでよかったんだと思
うことにします」
「そう腐りなさんな。あくまでも、メインは完全犯罪の定義なんだから。シン
プルで悪くはないと思いました」
 保志はそう言うと、紫野に視線を向けた。
「キャリア順で行くつもりだったけれど、流れ的には次は紫野君がいいかな? 
年齢順に変更ってことで」
「何でもかまいまやしないよ。個人的好みを言えば、早い方がいいし、大歓迎
ってところだね」
 入れ替わる形で、紫野が演壇に立つ。手には何も持っていない。メモの類を
必要としないようだ。
「俺が定義する完全犯罪、殺人の完全犯罪とは、単純明快だ。被害者の死体を
完璧に隠すこと、ただそれだけ」
「これまたシンプルな定義で来ましたな」
 そう発言した会長が、どこかおかしそうな表情をしている。もしかすると、
用意してきた定義が紫野と被ったのかもしれない。
「殺人事件の主体である死体を隠し果せれば、殺人という犯罪そのものが起き
たのか、実証できない。警察はお手上げという段取りさ」
「しかし……現実には、疑惑から捜査が始まり、死体が見つかる前の段階で、
犯人が逮捕されたケースがあったように記憶しておりますが」
 主婦の可能風が、顎に指先を当てて思い出す風に言った。今日は折り紙を手
元に置きこそすれ、折ってはいない。
「仰る通り。事例に関しては、俺も承知しています」
 率直に認めた上で、紫野は持論を繰り広げるつもりのようだ。
「実際の事件で、死体を消すことに成功したかに見えた犯罪が、何故、露見す
る結果に終わったのか。それを考えてみると、一つのポイントが浮かび上がる。
疑惑を招いた、それだけのことだ。普通、人ひとりいなくなると、周りの人間
が遅かれ早かれ気付く。身寄りがいなくても、世間と何らかの接触を持ってい
れば、いつかは気付かれる。だから、俺が考えた実行するための方法は、殺し
たい相手を、失踪しても不思議でないよう、事前に状況を整えることから始め
るんだ」
「面白い。具体的にはどう状況をこしらえるのか、興味を惹かれるね」
 有場が反応した。二人は各々、大学教授と大学院生だからか、どことなくゼ
ミの雰囲気が漂う。と言っても、自分は大学のゼミがどんなものなのか、ドラ
マなどでしか知らないが。
「被害者とはそれなりに親しいという設定なんだから、普段から接触を図れる
訳だ。時々、気が滅入るようなことを吹き込んでやればいい」
「つまり、何かね? 精神的に追い詰めて、第三者が見て、『あいつは失踪前
から様子がおかしかった』と思えるように持って行くと?」
 真葛が今日初めてまともに発言した。最前まで、しきりに書き物をしていた
様子だったのは、発表する内容をまとめ切れていなかったせいらしい。
「犯罪を疑われぬようにするためなら、それで充分だと思うが?」
「そこの点にも異論はなくはないが、認めがたいのは、精神的に追い詰めるこ
とができるくらいなら、端からそのテクニックを用い、ターゲットを自殺に向
かわせるなんて芸当が可能ということになりはしないかい?」
 紫野の弁明に、真葛は全く納得していないようだ。さらに、一つ空席を挟ん
だ隣では、有場もしきりに首肯している。だが、紫野も負けてはいない。
「失踪してもおかしくない状況を整えた後に殺害し、死体を完全に隠蔽すると
いう手法は、自殺させるという手法に比べれば、確実性が段違いに高い。確実
性の高い方法を選ぶのは、犯罪者であるかどうかとは関係なく、人として当然
の思考ではないか」
「尤もな意見だと言いたいが」
 今度は会長が軽く挙手してから始めた。
「前提に少々問題があるんじゃないかの。他人を精神的に追い詰めるには、そ
れなりの技術がいるじゃろ?」
「そりゃまあ、多少は……」
「ましてや他人に気付かれずになると、なおのこと。果たしてそんな技術を、
世間一般の人が遍く有しているかな?」
「……少なくはないが、多くもない、でしょうな」
 悔しげに認める紫野。会長の言いたいことを既に理解しているようだ。皆ま
で言わさず、続けた。
「テーマを出した保志さんが言っていた、“ごく普通の人間が”という条件に、
抵触するかしないか、際どいところであると認めますよ」
 それだけ言うと、敗北に耐えられないといった風情で彼は引き下がった。
 なかなか激しい応酬があったためか、店内の空気がいささか重たくなった。
そこでという訳でもないだろうけれど、三番目は女性である可能風が登壇する
ことになった。
「今月のテーマが出されてから、私、ずっと考えてました。完全犯罪。定義す
ること自体は、案外、簡単でした。私にとっての完全犯罪とは、誰がやっても
成功する犯罪です。ここで、“犯罪の成功”についても定義ないしは分類をし
なければいけないところです」
 彼女は何も見ずに、なめらかに喋り続けた。身振り手振りを抑えるためなの
か、その両手は一羽の大きな折り鶴を掴んでいる。
「本懐を遂げさえすれば、警察に捕まってもいい、死んでもかまわないといっ
た殺人者がいることは確かです。そんな人達にとったら、相手を亡き者にでき
さえすれば、犯罪は成功したと言える訳で、私の心情では、これも完全犯罪の
一種です」
「しかしそれでは――」
 保志が口を挟むのを、可能風は「ええ、分かってますよ」と制した。
「捕まったり、死んだあとも犯人として糾弾されたりでは、犯人に近しい者達
に多大な影響が及びます。間違いなく、悪い影響でしょう。それをよしとしな
い殺人者は、露見しないことを目標とした犯罪計画を立てるはずです。それじ
ゃ、露見しない犯罪とは? 先ほど、紫野さんが述べられたように、遺体が発
見されないというのも一つに数えられるでしょう。そこに加えてもう一つ、誰
もが思い付くものがあります。そう、他殺を他殺ではないように見せかける。
病死や自然死は条件が厳しくなりますから、ここでは事故死と自殺に絞ります。
通常、事故死は確実性で劣り、自殺は科学捜査による検証に耐えられるかどう
かがハードルになるでしょうね」
 しゃべり疲れた風の可能は、一息ついた。冷たいお茶で喉を潤すと、「失礼
をしました」と言ってから論を再開する。
「一般人にも比較的簡単にできて、最も確実性が高く、かつ、科学捜査でも区
別しにくいというと、高所からの転落死があるんじゃないかしら。マンション
の高層から落ちて命を取り留めた事例は、割とありますが、亡くなる人の方が
遙かに多いですし」
「待った待った。転落死させるのだって、それなりに工夫しないと、簡単には
事故や自殺と見なしてくれるもんじゃない」
 真葛が疑問を呈した。自身の定義の方は、すっかりまとまったようだ。
「簡単に言うと、落ちたときの姿勢で、おおよそのことは推測可能とされてい
るはず。その辺をどう克服するかは、看過できない問題だ」
「はい。自殺だと、足から着地することがほとんどだというあれなら、私も存
じています。工夫・苦心すれば、足から飛び込むようなポーズで突き落とすこ
とも不可能ではないと思いますが、難しいことは確かでしょうね。それに、最
終的には運の領域になってくる気がするんですよ」
「運?」
 ロジカルな話だったのが、不意に、突拍子もない単語が飛び出してきた。そ
んな風に受け取った聴衆が、一斉にオウム返しした。
「だってそうじゃありません? どんなに工夫しても、偽装を見破られる可能
性は残るはずなんです。絶対に見破れまいと自信を持てる方が、どうかしてい
ます。逆に、凡庸な監察医に当たる幸運だって、なくはないでしょうけれど。
結局のところ、ばれない・捕まらない完全犯罪というのは、とても幸運な殺人
者にしかできないことじゃないかしらね」
「……えっと。ということは、つまり?」
 保志マスターが、戸惑いを露わにする。自分を含めた他の人達の反応も、そ
れぞれ似たようなものだ。いや、今日来たばかりのヒソカムロだけは、全てが
興味深いといった風情で、泰然としている。
 そんな中、発表者の可能は、にこりと笑って認めた。
「完全犯罪は不可能。ただし、幸運が味方すれば、偶然成功することもある。
というのが私の結論です」
 場を脱力感が包む。
 彼女の言っていることはある意味、正鵠を射ているのかもしれない。けれど
も、不可能だなんて認めては、推理小説マニアにとってつまらなくはないか。
「お次はどなたで?」
 会長の求めに応じたのは、真葛だった。
「可能さんの論に近いものがあるので、続けて発表させていただきたいなと思
いましてね」
「近いというと?」
「最初に断っておきます。私の定義する完全犯罪には、実行する方法がありま
せん。少なくとも、私には見付けられなかった。それを承知の上で、お聞き願
います」
 そう前置きしてから、彼は壇上に立った。メモ、というかプリント用紙らし
き物を四つ折りにして手に握り混んでいるが、基本的に見ずに話すようだ。
「完全犯罪。この言葉にはどことなく矛盾した響きが感じられないでしょうか。
即ち、犯罪と認識された時点で、それは完全な犯罪ではないのではないか、と
いう疑問が生じる。たとえ刑事罰に処せられなくとも、世間から疑われたり、
民事訴訟を起こされたりしたのでは、完全犯罪の名にふさわしくないと私は考
える」
「要するに、さっきの可能さんと同じ趣旨ってことか」
 有場が小声で口を挟んだ。真葛はそちらの方を一瞥し、首を横に振った。
「自殺や事故死等に見せかけても、疑われることはある。完全犯罪と称すから
には、疑われる余地のないものを目指さねばならない。だが、残念ながら、定
義としては、百パーセント完璧に疑われることのない、としたのではあまりに
も現実的でない。そこで、限りなく百パーセントに近い物を目指すと言い換え
るとする。こう定義することで、実行手段ではないが、事例を挙げることが可
能になる。たとえば、地震や洪水といった大きな災害が起きたとき、ターゲッ
トである人物を災害事故に見せかけて殺す。常日頃より機会を活かすことを意
識し、ターゲットとさほど距離をおかずに生活を送っていれば、これも一つの
完全殺人計画と言えなくはないでしょう」
「待ちの姿勢の完全犯罪、という訳ですね」
 保志は感想を述べると、テーブルの間を回る。空になったグラスなどを回収
し、新たな飲食物を用意し始める。
「面白い発想だが、受け身というのが気に入らん」
 会長が笑いながら言った。
「ころり転げた木の根っこ、プロバビリティの犯罪とさほど変わらない。それ
どころか、突き詰めれば、相手が老衰して死ぬのを待つのも似たようなもので
はないかな」
「そういった一面も、あるにはあります」
「問題は他にもあるぜ」
 紫野が、何故か愉快そうに割り込んだ。
「死人が出ておかしくない大災害が起きたとき、犯人自身が生き残れる保証が
全然ないってとこ。自分自身が死んでいい完全犯罪なんて、俺は認めたくない
な」
「それは弱った」
 と、会長が反応した。
「私にはそういう類の論理展開になってるんじゃが」
「おっと、そいつは失礼をしました。気にせずに発表してくださいよ。最初か
らだめと決め付けるのは、やめておきます」
 冷や汗混じりの苦笑を浮かべ、紫野は会長を送り出す手つきをした。そのま
ま、会長が登壇する流れになる。
「えー、私も断りを入れることから始めようかの。これから話す内容は、完全
オリジナルではないということだ。かまわんかな?」
「そりゃまあ、ミステリの創作じゃないんだから、完全オリジナルである必要
はないでしょう」
 保志が肯定すると、会長は安心したように胸をなで下ろした。芝居がかった
人である。
「では、先に進もう。私が定義した完全犯罪は、非常に感覚的でな。後の世で、
犯罪が起きていたことに気付いた人が、『ああ、こいつは完全犯罪だ』と思っ
てくれれば、それが完全犯罪だよ」
「はは、そりゃいい」
「ま、最低限、犯人が存命の内は、誰にも犯行を気付かれないのが望ましい。
が、一歩譲ってもらって、犯行が露見しようとも、犯人に疑いが向かなければ
よしとしましょうか。とは言え、単に殺人決行後、自殺するだけでは、いくら
何でも完全犯罪と認めがたい。そこにプラスアルファが要る。アルファとは何
か。推理小説の話であれば、機知や趣向と言い表すべき装飾だ。さあて、ここ
からがオリジナルではないと断った部分になる。とある推理小説のトリックに
ついて軽く言及するが……」
 会長は全体を見渡した。ネタバレ注意の念押しに、保志が軽く手を挙げ、応
じる。
「できれば、作品名を伏せて、トリックもぼかしていただきたいのですが」
「それくらいは心得とるよ。舞台は大きな館内で、殺人犯人はつい先ほど亡く
なったばかりの人物。つまり死者だ。いやいや、慌てるでない。無論、犯行前
には生きておる。死亡を装って、犯人は安置所代わりの部屋に運び込まれる。
皆が寝静まった頃、密かに抜け出し、ターゲットを殺害。その後、また安置室
に戻って本当の死を迎える。あとは灰に帰すという次第だ」
「――某クリスティの某名作を思い浮かべましたが、少し違うようだ」
 有場が言った。会長は右手の人差し指を立て、ちっちと左右に振った。
「有場さん、無粋なことをするでない。作品を当てるのは本筋とはかけ離れた
行為よのう。この作品に行き当たったとき、大いに驚きなさい」
「それじゃあ、お言葉に倣って本筋に戻しますが」
 口を開いたのは真葛。
「今述べられた状況なら、完全犯罪と呼んでも差し支えないと思える魅力はあ
ります。でも、実際に行使するとなると、かなり条件が絞られてきますよね。
その、犯人の」
「その通りだ。犯人は少なくとも医者一人を抱き込めるだけの金が必要かもし
れんな。ま、私なりの定義に対する、ほんの一例を紹介したと捉えてほしい」
 会長はかかと笑いつつ、壇を降りた。個人的感想を言えば、これまでの中で
一番好きな定義だ。周りが認めれば完全犯罪。何て言うか、爽快な解釈じゃな
いかしらん。
「とりは提案者、今回は保志マスターに飾ってもらうのが恒例。ということは、
次は私だね」
 有場が立ち上がった。壇を前にした彼を見ると、人に教える職業に就いてい
るとこちらが知っているせいか、様になっている気がした。
「結論から言うと、私、有場伊知朗流の完全犯罪とは、“犯人が己の犯行につ
いて他人に話しても、咎められることのない犯罪”である」
「……ハードルが高すぎないですか」
 誰も何も言わなかったので、自分が発言した。多分、他の人も似たような印
象を受けたんだと思う。その証拠に、無言ながら頷く人を何名か確認できた。
 有場もまた、あっさり頷く。
「このぐらいでないと、完全という表現にふさわしくない。しかし、残念なが
ら、この定義に沿った殺人は、まずあり得ない気がする」
「真葛さんと同じ立場ですね」
 可能風が、真葛の方をちらと見てから、聞いた。
「ええ、そうなります。ただ、それで終わりだとあんまりなので、仄かな光明
――と自分で信じているだけなんだが――を示すとします。別人に罪を擦り付
け、その別人に対する有罪判決が一点の疑いの余地もなく確定すれば、完全犯
罪と言えるかもしれない」
「それはあり得んでしょう」
 真っ先に反応したのは会長だった。当然ながら、他の会員達からも否定的な
声が飛ぶ。自分だって同感だ。罪を擦り付けられた相手が、おとなしく刑に服
すとは考えられない。徹底的に戦うに決まっている。そうなれば、世間の何パ
ーセントかの人間は、判決に疑いを持つ。
「予想通りの反応で、嬉しい限りです」
 有場はいささか嫌味な調子で応えた。でも、表情は真面目そのもの。決して、
皆をからかった訳ではないと分かる。
「皆さん、早合点をなさってる。濡れ衣を着せられた人物は、そのこと自体に
気付かない。言い換えると、その人物は本当に自分が殺人を犯したと信じてい
るのです」
「まさか。それこそあり得ない」
 紫野が首を傾げながらも、吐き捨てるように断じた。
「有場さん、仰る意味は分かった。ある種の光明ではある。が、実現する道筋
の方には、光明はあるのかな?」
 会長の質問に、有場は曖昧に首を振った。そしてその口から出てきた言葉の
意味も、曖昧だった。
「ないといえばない、あるといえばあるような」
「何ですかそりゃ」
「ご存知の通り、私は素人の手すさびながら、書く方もやっていますので。腹
案がなきにしもあらず、だが、ここでの披露は勘弁してもらいたいという訳で
す」

――続く




#430/598 ●長編    *** コメント #429 ***
★タイトル (AZA     )  13/09/29  00:41  (121)
未完全犯罪(後)   永山
★内容
「代替案の一つでも、ないんですか」
 保志が肩透かしを食らったとばかり、不満そうに尋ねた。他の何名かは代替
案を示していただけに、ここで終わっては物足りない。
「定義することと、それを実現することとはリンクしている必要はないはずで
す。証明に至っていない命題がいくつもあるのと同じですよ」
「確かにそうだが、あなたの場合は腹案があるんでしょ。そのさわり、いや概
略だけでも聞かせてもらえませんかね」
「極々、簡単になら話せなくもないか……。犯人の身代わりになる人物に、犯
罪行為を疑似体験させるんですよ」
「疑似体験とは、バーチャルリアリティの装置を使って?」
 可能風が尋ねる。
「そこまで大げさにするかどうかは、分かりません。必要性も含めて」
「機械を使わないなら……お芝居?」
「詮索はその辺で勘弁してください」
 苦笑を浮かべ、お手上げのポーズを取った有場。これでおしまいのようだ。
「それじゃ、最後は保志さんに」
 会長がマスターの方を向いて言い掛けたとき、後方で声がした。
「もし許されるのであれば、この新入りにも発表の機会を与えてもらえないで
しょうか?」
 ヒソカムロアヤトだ。耳当たりのよい、しかしどこか不安にさせる響きを持
つ声だと、このとき感じた。
 彼の質問を保志が目で受け取り、そのまま会長に視線を移す。
「もちろん、歓迎しますぞ。皆さんも、異存ないでしょう?」
 会長が自分らを見渡す。反対意見は出なかった。ただ、紫野が挑発混じりの
言葉を投げかけた。
「急な発表になるが、それを理由にしちゃいけないぜ。だめならだめで、厳し
く反論させてもらうから」
「ええ。覚悟できています」
 すっくと立ったヒソカムロは、前方の壇に、ゆっくり向かった。迷言解に所
属してすでに何年にもなるかのような、落ち着き払った態度に写った。
「先輩会員各位の諸説を、興味深く拝聴しました。それらに被らないよう、即
興で捻り出した理屈ですが、恐らく満足いただけると信じています」
 淡々と述べるヒソカムロ。自信があるのかないのか、掴みづらい。いや、全
く掴めない。
「さて、皆さん」
 彼は壇を両手で強く叩いた。乾いた音が、少なからず聴衆を驚かせる。
「このヒソカムロアヤトが、迷言解に入った理由をご存知でしょうか? 知る
はずありませんね。詳しい自己紹介をしていないのだから。この場を借りて、
お伝えします。迷言解の皆さんが、およそ十九ヶ月前に旅行をなさったからで
す」
 ヒソカムロは言葉を切った。発言の効果を確かめる、あるいは楽しむかのよ
うに店内を右から左に、じっくりと見渡す。
「分からないという顔をされていますね? 僕には子供がいます。いました。
あなた達のおかげで、死んでしまいましたので」
「ヒソカムロ君、何の冗談を」
 保志が問おうとしたが、相手の「冗談ではない!」という怒声に、途中で断
たれてしまった。
「あなた方は、二日目の朝、宿の近くの河原にて、ミステリのトリックに使え
そうな実験をあれやこれやとやりましたね。その中の一つに、空にしたペット
ボトルにドライアイスと少量の水を入れて、キャップをきつく閉めるというの
があったはずだ。トリックスター保志さん、あなたから聞き出したことだから
間違いない」
「……」
 そう言われた保志だが、微動だにしない。動こうにもできないのか。
「危険なペットボトル爆弾を何本かこしらえて、破裂までの時間やその威力を
調べたようですが、その内の一本が河原を転がり、下流へと流されてしまった。
それを拾ったのが、僕の子供ですよ。水辺で遊んでいたところへ、おかしな物
が流れてきた。好奇心から近付くのは致し方ないでしょう。そして折悪しく、
子供が顔を近付けたまさにその瞬間、ペットボトルは破裂した。破片が当たっ
たのか、音に驚いただけなのか、子供はその場で転びました。しかも、頭を打
って意識を失ったらしくて……そのまま流され始めたんですよ! 僕らが気付
いたときには、まだ間に合いそうだった。しかし急に流れの速くなっている地
点があって、そこに飲み込まれた子供は、じきに見えなくなった。八時間後に
見つかったときには、もう冷たくなっていた」
「……」
 想像もしなかった“告発”に、自分は唖然としていた。他の人達はなおのこ
とに違いない。当事者なのだから。寂として声なし、だった。
「察しのよい方なら、とうにお気付きだろう。僕は、復讐に来た」
「いったい……どうするつもりだ」
 会長が問い掛けを絞り出す。
「言うまでもない。同じ目に遭ってもらう」
「やめておきなさい。うまく行くはずがない」
 会長が説得調で始めた。
「お子さんのことは、お気の毒だと心より思う。あなたの心の痛み全てを分か
るなどと傲慢なことは言えないが、お子さんがあなたにとって大切な存在だっ
たことは分かる。そのお子さんが、あなたが殺人犯になることを望んでいると
は思えないんだが」
「大丈夫さ」
 にやりと悪魔的な笑みを浮かべたヒソカムロアヤト。
「今回のテーマは、奇しくも完全犯罪のようだが、僕がそれを成し遂げてやる。
よく考えてみるがいい。あなた方を殺害する動機を、僕が持っているというこ
とを誰も知らない」
「誰も? まさか」
「子供が死んだとき、僕はペットボトルのことを警察には一切話さなかった。
事故が起きた瞬間から、心の中で決意したのだ。この事故の原因を作った奴に、
必ず罰を与えてやるとね。独力で迷言解を突き止め、こうして接近した。誰一
人として、僕の殺意を知らないのさ」
「し、しかし。……そう、名簿には本名を記したのだろう?」
 会長のこの問いに応じたのは、ヒソカムロではなく、保志だった。
「会長、それが……まだなんです」
「まだ、とは?」
「僕も、ヒソカムロ君とは知り合ったばかりなんです。彼と話す内に、どうし
た訳か、虜になりまして、すぐにでも入会をと動いたもので……」
「そういうことですよ」
 復讐者の正体を現したヒソカムロは勝ち誇った。
「本名すら知らない謎の男が、初めて姿を見せた会合で、その会のメンバー達
を殺し、姿を消しても、誰が追跡できます? これから起きることは、無差別
殺人とほぼ同等なんですよ。違うのは、僕には明確な動機がある。保志さんと
も知り合っている。完全殺人を起こす犯人の資格がある訳だ」
 ヒソカムロはここで、腕時計を見やる仕種をした。
「そろそろ効果が出始める頃合いだが、どうかな」
「……!」
 彼の言葉を合図としたかのように、メンバーの人達が次々と倒れていった。
呻き声すら上げず、ばたばたと音を立て、テーブルに突っ伏したり、背もたれ
に身体をだらんと預けたり、あるいは床に頽れたり。
 その様子を、自分はただただ、見ているほかなかった。席を立ち、しかし動
くことはできなくて、各人に目を向けていくのみ。
「えっと、窖霧さん?」
 ヒソカムロアヤトが不意に自分の名を呼んだ。こくりと頷く。声を発しよう
にも、喉がひりついて自由にならない。
「僕の調査では、君は問題の旅行に参加していない。単に迷言解の人間だから
というだけで、旅行に加わっていない者まで僕は罰したくはない。そこで、毒
を無害化する薬を密かに吸わせてやった。よって君が、この気化毒で命を落と
すことはない。だが、この正義の復讐に関し、他言をするのなら、僕は容赦し
ない。誰にも言わないと誓えるか? 誓うなら、僕は君を仲間と見なし、完全
に見逃そう」
「――じ、自分は」
 答えようとした。考えながら答える。答える。答えなければ。
 答は、決まっている。

――未完




#434/598 ●長編
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:18  ( 76)
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★内容
第一幕

其の一

ここは、真白な世界だ。
彼女は、そう思った。
彼女の名は、ジュリエットという。
ジュリエットは、乗っていた白いリムジンから降りると、一歩踏み出す。
彼女の踏み出した場所は、象牙のように真っ白な橋の上だ。
その、月の光で染め上げたような白い橋の上を、赤い絵の具を含ませた筆を走らせ
たかのように、深紅の筋が走っている。
彼女は、赤い小さな川が流れているようなその先を、見た。
ひとりのおとこが、倒れている。
多分、その赤は、おとこが流した血だ。
赤いものは、その血以外に、もうひとつある。
おとこの傍らに、深紅のバイクが倒れていた。
ジュリエットは、おとこに向かって歩き始める。
この世界には、白と赤以外の音がないばかりか。
音も、途絶えている。
しんとした、張りつめた空気が、あたりを支配していた。
彼女は、塩のように白い橋の上を歩いてゆき、おとこの傍らに立つ。
おとこは、白い服を身に付けている。
白いジャケットに、白いシャツ、白いトラウザース。
ただ、そのベルトのバックルだけに、赤い心臓と骸骨のエンブレムがつけられてい
た。
おとこは、仰向けに倒れている。
おそらく、背中に傷があるらしく、赤い血は背中から白い橋へと流されていた。
ジュリエットもまた、白いワンピースを身に付けている。
ただ、その胸元には、血の滴をたらしたようなルビーのネックレスがあった。
色のない、音のない世界で、ただ赤だけが存在を主張している。
ジュリエットは、おとこの側に膝をつく。
おとこは生きているらしく、その胸が静かに上下していた。
そしておとこの瞳は、真っ直ぐ空を見据えている。
彼女は、その視線を追うように、空を見上げた。
輝く空は、蒼いはずであったのに、見上げたその瞬間あまりの眩しさに全てが白く
染まる。
その瞬間、音も色も完全に消えたその空間に、ジュリエットとおとこの二人きりに
なった。
彼女は、永遠にも似た時が過ぎ去ったような、気になる。
ジュリエットは、自分の中の勇気を振り絞り、おとこに声をかけることにした。
「あの」
すこし掠れた小さな声で、彼女は語りかける。
「あの、大丈夫ですか」
おとこは、夢見るように微笑んだ。
そのあまりの美しさに、ジュリエットのこころが震える。
「どうやらおれは、天国に来てしまったか?」
おとこはその瞳で、ジュリエットを見つめる。
彼女は、こころを剣で貫かれたような、気持ちになった。
「天使がおれを、覗き込んでるじゃないか」
ジュリエットの頬が、朝焼けの空のように、薔薇色に染まった。
突然、静寂が破られる。
バイクのエンジン音が、獣の咆哮がごとく轟いた。
黒いバイクに跨がったおとこが、叫ぶ。
「おい、おいロミオ! いつまで寝ている」
ロミオと呼ばれたおとこは、獲物をみつけた豹のような動作で跳ね起きる。
深紅のボディを持つバイクを起こすと、一挙動でエンジンをかけた。
赤いバイクは、待ち構えていたかのように、獣の唸りのようなエンジン音をあげる。
ロミオは、笑みをジュリエットに投げ掛けると、バイクで走り出す。
走りながら、ロミオは背中から大きな銃を抜く。
ツーハンデットソードのように、大きな銃を、橋の欄干にぶつかり止まっているセ
ダンに向かって撃った。
ジュリエットは、雷が落ちてきたような爆音と衝撃で、骨まで揺さぶられる。
白いワンピースを着た身体が、一瞬宙に浮いたような気がした。
銃弾に貫かれたセダンは、地獄の業火がごとき焔に包まれている。
世界に、色と音が戻ってきた。
それは、塞き止められていたダムが開かれ、水が濁流となったような様である。
悲鳴があがり、怒号が飛び交う。
緊急車両のサイレンが、猟犬の吠え声のように響き渡る。
色彩と騒音が、洪水となってジュリエットの回りを、流れていた。
ジュリエットは、それでもこころの奥底に残った、しんとした場所で考える。
自分が出会ったのは何か、自分に起こったのはなにか。
彼女は、考えた。
そう、きっと、自分は奥深い秘密にされた場所から、ようやくのことで見いだされ
たのだ。
彼女は、そんなことを思うと。
ゆっくり踵を返し、リムジンに向かって歩いていった。




#435/598 ●長編    *** コメント #434 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:19  ( 78)
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★内容                                         13/11/22 00:23 修正 第2版
其の二

その部屋には、ふたりのおとこがいる。
広く、薄暗い部屋であった。
その中心に、円卓がおかれており、その机にふたりのおとこはついている。
部屋の周囲は、闇の中に飲み込まれており、壁を見ることはできない。
その円卓だけが、闇の中に浮かび上がっている。
ふたりのおとこ、ひとりは痩せており、ひとりは太っていた。
外見には似かよったところはないが、しかし共通点はある。
ふたりとも、夫であったり父であったり、市民であったりするまえに、ひとりのお
とこであると。
そういう、顔つきをしていた。
おそらく、必要があれば容赦なく酷薄になれるような、鋼の厳しさを内に隠してい
る、そんなおとこ達である。
闇の中から、もうひとりのおとこが姿を表す。
闇から溶けだしたかのように、黒いおとこである。
僧衣のような黒い服を身に付け、黒い髪、黒い瞳を持ち。
昏さを湛えたその表情も、どこか黒い。
そんなおとこが、円卓についているふたりのおとこの間にたつ。
おとこたちの表情に、緊張がはしる。
黒いおとこは、痩せたおとこを見ていった。
「モンタギュー、それに」
今度は、太ったおとこを見て言う。
「キャピュレット」
キャピュレットと呼ばれたおとこは、耐えかねように口を開く。
「エスカラス大公、」
キャピュレットは、エスカラスに瞳で制され、口を閉ざす。
黒い男、エスカラスは、ふたりのおとこを交互に見ると、語り始めた。
「おまえたちが何をしようが本来は関知するつもりは無いが、馬鹿騒ぎにも限度が
あるぞ」
モンタギューと、キャピュレットは、一瞬眼差しを交わしたが、何も言わずにうつ
向く。
「司法が介入するような騒ぎを、このヴェローナ・ビーチでおこすな。金で沈黙を
買うことはできるが、それにも限度と言うものがある」
エスカラスの瞳は、太古の司祭のように、呪術的な力を宿しているかのごとくふた
りを凍らせる。
エスカラスは、言葉を重ねた。
「なあ、モンタギュー、それにキャピュレット。もし次にこんなことがあれば、お
れはコークのビジネスから手を引く。そうすればおまえたちは、ニューヨークのガ
ンビーノと直接取引をすることになる」
モンタギューは、苦々しい顔をして、口を開いた。
「それは」
「無理だろう。おまえたちは今のしのぎを続けたければ、限度をわきまえろ」
モンタギュー、それにキャピュレットは、その言葉に深々と頭を垂れる。
「おれの話しは、これで終わりだ」
ふたりのおとこたちは、エスカラスの呪縛から解き放たれたように、立ち上がった。
立ち去ろうとするふたりに、再びエスカラスが声をかける。
「キャピュレットは、残れ。紹介したいおとこがいる」
モンタギューは、一瞬鋭い眼差しでキャピュレットを見たが、エスカラスに一礼す
ると部屋を出ていった。
キャピュレットは、少し戸惑った顔をしてその場に残る。
「一体、」
キャピュレットの言葉を遮るように、エスカラスは叫ぶ。
「パリス!」
闇の中から、おとこが姿を表す。
映画俳優のように、整った顔であり、洒落たヴァレンチノのスーツを見事に着こな
している。
ブロマイドのハリウッドスターみたいに、華やかな笑みを浮かべていた。
「パリス・ガンビーノだ。ステーツから来た」
キャピュレットは驚いた顔をして、パリスを見る。
パリスは、優雅に一礼をした。
その仕草は、貴族のように洗練されている。
「パリスは、おまえの娘、ジュリエットと結婚したいそうだ」
エスカラスの言葉に、キャピュレットは腹を殴られたように一瞬息をとめたが。
すぐに平静を取り戻し、笑みを浮かべる。
「光栄です、ミスタ・ガンビーノ」
「パリス、と呼んでください」
パリスは、キャピュレットに手を差し出して言った。
「僕は、ヴァージニア州ラングレーから来ました」
キャピュレットは、苦いものを飲まされた顔をして、パリスと握手をする。
「笑えない冗談ですな」
キャピュレットの言葉に、パリスは大きく笑う。
「あいにくと、冗談ではないのですよ。僕はあなたがたのいうところの、カンパニ
ーと繋がってます」
キャピュレットは呆れ顔になって、エスカラスを見る。
エスカラスは、魔物のように邪悪な笑みを浮かべていた。
「まあ、決めるのはおまえだ、キャピュレット」
キャピュレットは、深い深いため息をつく。




#436/598 ●長編    *** コメント #435 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:20  (137)
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★内容
其の三

聖市は、摩天楼の聳えたつ世界的に見ても十指には入るであろう、大きな都市だ。
その街の周囲に、ファベーラと呼ばれるスラム街がある。
それはたんなるスラム街ではなく、土地の所有者が明確になっていないような政治
的空白地帯へ、不法占拠的に住む移民たちがコミューンを形成したものであった。
そこは法の支配下に置かれていなため、治安放棄地区ともいえるし、ならず者たち
の造った自治区であるとも言えた。
ヴェローナシティは、そうしたファベーラのうちのひとつである。
有名で巨大なファベーラであるパライゾポリスの隣にあるため、天国に一番近い街
とも呼ばれた。
そのおとこは、ヴェローナビーチの大通りの路肩へ、大きなハーレーのバイクを止
める。
バイクから降りたおとこは、悠然と通りを歩き始めた。
ドレッドヘアーに、浅黒い肌を持つ、黒豹のように滑らかな身のこなしをしたおと
こである。
ファベーラとはいえ、大通りは人口が2万を越える街らしく、それなりの賑わいを
見せていた。
違法建築された現代芸術のオブジェか、魔法結社の儀礼小屋のようにも見える建物
が立ち並ぶ中、道端には露店商が店を開き日用雑貨から肉や野菜、パンやワインに
いたるまで様々なものが商われる。
ドレッドヘアーのおとこは、獲物を探す肉食獣の忍びやかな、けれど素早い足取り
で、裏通りに入ってゆく。
裏通りを少し奥にいけば、ファベーラとしての本性を、ヴェローナビーチは露呈す
る。
建物の影となり薄暗い路地で商う露店商の商品は、出事の怪しげな武器であったり、
麻薬の香りのする煙草であった。
剣呑な顔つきのおとこたちが行き交う路地裏を、ドレッドヘアーのおとこは自分の
庭を歩くように進んでいく。
凶悪な顔つきのおとこたちも、ドレッドヘアーのおとこの顔を見ると、怯えたよう
に目を伏せる。
しかし、そのおとこはそんなことを気にも止めずに、より物騒で荒廃した路地の奥
へと歩を進めた。
そのサイケデリックに壁を派手に塗られた店の前に置かれた椅子に、ひとりのおと
こが腰かけている。
その整った顔立ちのおとこは読んでいた本から顔をあげ、ドレッドヘアーのおとこ
を見つけると軽く会釈した。
「よう、マキューシオ」
マキューシオと呼ばれたおとこは、椅子に座ったおとこに野性的な笑みを見せて答
える。
「よお、ベンヴォーリオ」
マキューシオが、派手に塗られた扉を落ち着かなげに見るのを、ベンヴォーリオと
呼ばれたおとこは薄く笑みを浮かべて眺めていた。
「マキューシオ、おまえの恋人、ロミオなら中にいるよ」
マキューシオは、野獣のように生還な顔に、少しはにかんだ笑みを浮かべる。
「恋人ね、だったらいいけどな」
ベンヴォーリオは、少しため息をつく。
マキューシオは、それを見咎めて舌打ちすると、ベンヴォーリオが読んでいた本を
とりあげた。
「何を読んでんだよ、おまえは」
その表紙には「野生のアノマリー」と書かれている。
ベンヴォーリオは薄く笑みを浮かべたまま、言った。
「首相暗殺を企て失敗したおとこが、獄中で書いた絶望と希望の本だよ」
マキューシオは、苦笑する。
「相変わらずだな、ベンヴォーリオ。なんでおまえは、ロミオと一緒に中に入らな
い」
ベンヴォーリオは、呆れたように肩を竦める。
「御守り役が、一緒にラリる訳にはいくまい」
「まあ、そうだが」
マキューシオは、扉に手をかけた。
それを開き、店の中へと入る。
そこは、とても薄暗い。
洞窟の中に、迷い込んだようでもある。
ボディラインを強調したナイトドレスを着たおんなが、マキューシオを出迎えた。
マキューシオは、首を振って案内を断る。
おんなはマキューシオの顔を知っていたらしく、頷くと退いてマキューシオを奥へ
通した。
その店のなかは、黄昏の世界のように暗い。
広々とした部屋を、いくつもの幕によって仕切っている。
その仕切られたスペースの中に、客が横たわっていた。
ドラッグに酔い、横たわる姿は死体のようでもある。
そうしてみると、その場所は死体置き場のようだと、マキューシオは思った。
彼は、猫科の肉食獣のようにどこか黄色く底光する瞳で、店の中を見回す。
マキューシオは、狼のように夜目がきくようだ。
彼は、闇の中から死んだように瞳を閉じて横たわるロミオを見いだすと、獲物を見
付けた黒豹の動きでそちらへと向かう。
マキューシオは、ロミオの側に静かに膝をつく。
ロミオは、意識が飛んでしまっているようで、火のついた麻薬入り煙草を手にした
まま、横たわっている。
マキューシオは、優しげな笑みを浮かべると、夢見心地の表情でロミオに唇をよせ
た。
唇が触れそうになったその瞬間に、ロミオは目を閉じたまま口をひらく。
「よお、マキューシオ。我が友よ」
マキューシオは、少し悪戯を見つけられた子供のような笑みを浮かべ、ロミオから
唇を離す。
「ロミオ、目を閉じているのに、よく判るな」
ロミオは目をひらき、美しい笑みを浮かべる。
大輪の花のようなその笑みをみて、マキューシオは少し照れたような笑みを浮かべ
て言った。
「目を閉じていて、よく判るな」
ロミオは、まだ眠っているような表情のまま、答える。
「ハシシュをやると、物凄く感覚が鋭敏になる。すると音や匂いであたりの状態が
判ってくる。目を開いているときと、おなじようにな」
マキューシオは、ため息をつく。
「ロミオは、おまえは忘却のためにここへ来たんだろ。意識を鋭くするためじゃあ
ないだろうに」
ロミオは少し肩を竦め、答えない。
「ロザラインとは、どうなんだ」
「ふられたよ」
ロミオは野に咲く薔薇のように美しい笑顔を浮かべたまま、言った。
「おれたちは幾度も熱い肌を溶け合わすように、身体を交えた。全てを焼き尽くす
ような快楽を、ふたりで味わった。そのはずなのに」
ロミオは、少し歌うような口調で続ける。
「おれの頭の中から、銃声と悲鳴、血の薫りが消え去ることは無かったんだ。そし
て」
ロミオは、闇のなかで黒曜石のように輝く瞳で、マキューシオを見る。
マキューシオは、見つめられて身体の奥が震えるのを感じた。
「ロザラインは、そのことに気がついた。ときおりおれのこころが恋人から離れ、
虐殺の荒野をさ迷っていることに」
マキューシオは、無理矢理笑った。
「まあ、おんななんてそんなもんさ。魂と快楽を食らいつくしても決して満足する
ことはない。むしろ、食えば食うほどに飢えていくんだ。おんなたちは」
ロミオは、少し怪訝な顔をする。
「そんなものなのか?」
マキューシオは、深く頷く。
「そんなものだ。忘れちまえよ、ロザラインなんておんなは」
「どうやって」
ロミオの少し戸惑った問いに、マキューシオは真顔で答える。
「おれの愛を、受けてみればいい。忘れさせてやろう」
ロミオは、首をふる。
「残念だがおれは」
マキューシオは、大きく笑う。
「今のは、冗談だ。忘れろ、ロミオ」
マキューシオは、一枚の封筒をロミオに向かって投げる。
ロミオはそれを、受け取った。
その中身には、夜を背景に天使と踊る骸骨の描かれたカードが入っている。
「こいつは」
「ダンスパーティの招待状だ。おんなを忘れるには、もっといいおんなを抱くこと
だ」
ロミオは、少し呆れ顔でマキューシオを見る。
「このカードには、キャピュレットの紋章が入ってる。あのファミリー主催のパー
ティなら、おれが行っても門前払いだ」
マキューシオは、ちっちっと舌を鳴らして、指を左右に動かす。
「仮装ダンスパーティだぜ。仮面をつけていきゃあ、わかりゃあしないさ」
「そんなもんかな」
少し戸惑っていうロミオに、満面の笑みでマキューシオは答える。
「そんなものだよ」




#437/598 ●長編    *** コメント #436 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:21  ( 97)
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★内容                                         13/11/22 00:38 修正 第2版
其の四

そして、その夜。
ロミオとベンヴォーリオは、マキューシオにつれられるまま、そのパーティ会場に
ついた。
そこは、外見はまるきり倉庫であったが。
中で鳴り響く轟音に、その身を震わせているかのようだ。
回りは大きな空き地になっており、そこにバイクを停めた三人は会場へと向かう。
マキューシオは狼のマスクで顔の上半分を覆い、ロミオは道化、ベンヴォーリオは
悪魔の仮面を着けている。
会場の入り口には、背が高く分厚い身体をした黒服のおとこたちが、並んでいた。
マキューシオは、涼しげに笑うと、招待状のカードを黒服に差し出す。
無表情の黒服は、そのカードを一瞥してマキューシオに頷いて見せた。
マキューシオは、手をひらひらさせながら通りすぎようとしたが、黒服が呼び止め
る。
「武器の持ち込みは、禁止している。預からせてもらおう」
マキューシオは黒服に笑みを返し、ホルスターに入ったままのS&W M19を黒服に
渡した。
ベンヴォーリオもそれに倣い、ホルスターごとコルトパイソンを差し出す。
ロミオだけが、躊躇っている。
マキューシオは、楽しげに笑いながら、肘でつついてロミオを促す。
ロミオは、意を決したようにガンベルトをはずし、ソード社製のツーハンデッドソ
ードのように巨大な銃を差し出した。
黒服は、表情を強ばらせる。
その巨大なソード社製の銃を扱うおとこは、この街にはひとりしかいないはずであ
った。
それを、知らないものはいない。
ガンベルトごとその銃を受け取った黒服は、ぐっとロミオを見つめる。
慌ててマキューシオが、その黒服に抱きついた。
「いいおとこだねぇ、あんた」
黒服は、少し鼻白む。
「その銃のことなら、気にするな」
マキューシオは目配せすると、無理矢理黒服のポケットに札をねじ込んだ。
「こいつは、かっこをつけたくて、レプリカを持ち歩いてるんだ。そいつはただの
32口径コルトだよ。犬も殺せない、豆鉄砲さ」
マキューシオは、黒服の頬に口づけする。
黒服は、諦めたようにその銃を持って、後ろにさがった。
そして三人は、会場の中に足を踏み入れる。
音が、物理的な圧力をもってロミオたちを包み込んだ。
電子的サウンドが、機銃掃射のように鳴り響いている。
シンセサイザーが、麻薬に浸った脳が見る夢のような、高速のメロディを奏でてい
た。
さらに、光が狂ったように、乱舞している。
あたりは、輝く宝石でできた、カレイドスコープのようであった。
その無数の花火が炸裂するただ中のような空間で、スーポーツカーのように優美な
ボディラインを持つおんなたちが踊っている。
彼女たちは、深海を遊弋する魚のように、穏やかに踊っていた。
しかしその回りは、光と音の空爆を受けているように、音が炸裂し光が疾走してい
る。
「ようこそ、子供たち」
気がつくと、ロミオたちの前に梟の仮面をつけた太ったおとこが、笑みを浮かべて
立っている。
ロミオは、仮面の下の顔が、キャピュレットの当主のそれであることに気がついた。
そうやら向こうも、彼がロミオであることに気づいているようだ。
しかし、そんなことを感じさせぬ笑みを浮かべたまま、梟の仮面をつけたおとこが
言う。
「おれがおんなであれば、放ってはおかないほど好いおとこぶりだな、子供たち」
マキューシオは、優雅に一礼した。
梟おとこは満足げに頷き、言葉を重ねる。
「ここは、顔を忘れ、名を忘れ楽しむ場所だ。子供たち、おまえたちが誰かは知ら
ぬが、存分に楽しんでいけ。優しい夜が駆け足で去り、残酷な朝が来るまでの間だ
けはな」
そういい終えると、梟おとこは一礼して奥へとさがってゆく。
会場の奥には仕切りが作られ、小部屋のような場所があった。
そこには豪華なソファが置かれ、テーブルには酒と料理が並べられている。
梟の仮面を外したキャピュレットは、ソファへと腰をおろす。
その隣には、精悍な顔立ちの若者がいた。
「今のは、ロミオではないのですか?」
問いかける若者に、キャピュレットは杯を口に運びながら一瞥をくれ、答えた。
「ティボルトよ、どうやらそのようだな」
ティボルトと呼ばれた若者は、顔を蒼ざめさせると立ち上がる。
その腰には、大きな純白の拳銃が吊るされていた。
460ウエザビーマグナムという巨大な銃弾を撃ち出す、ホワイトホースと呼ばれ
る銃だ。
「ティボルト、何をする気だ」
「決まってるじゃないですか」
ティボルトは、叫ぶように言った。
「モンタギューは我らの敵だ。叩き出して、土を食わせてやる」
「やめておけ」
キャピュレットは、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「ロミオ、あいつはな、蜘蛛だ」
ティボルトは、怪訝な顔でキャピュレットを見る。
「家にある蜘蛛の巣が邪魔だからといって、取り除くのは馬鹿者のすることだ。そ
んなことをすれば、家はあっという間に虫に食われて崩れてしまう」
キャピュレットは笑みを浮かべていたが、鋭い眼光でティボルトを見ている。
「二年前、ロミオはこの街をのっとろうとしたチャイニーズマフィア15人を血祭
りにあげた。その時おまえは、何をしていたのだ、ティボルト」
ティボルトは、蒼ざめた顔で、キャピュレットを睨みつける。
キャピュレットは、優しげと言ってもいい口調で、話し続けた。
「ティボルト、死んだ弟の子供であるお前をおれは、我が子として育ててきた。し
かしな、お前がおれに従わぬのなら、ここの主がだれであるか、お前に教えなけれ
ばならなくなる」
ティボルトは、口を開こうとして、やめる。
そして言った。
「判りました、父さん」
キャピュレットは、鋭い眼差しのまま笑みを浮かべ、頷く。
「判ったなら、座れ。そして、酒を飲め。おまえも、楽しむがいい、我が子よ」




#438/598 ●長編    *** コメント #437 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:22  (113)
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★内容                                         13/11/22 00:23 修正 第2版
其の五

電子的にブーストされた轟音が、響き続ける。
炸裂するリズムが脳の奥を揺さぶり、高速で走行するフレーズが身体の奥、敏感な
部分を刺激していた。
そして、こころの奥を蕩かすような甘いメロディが、歌われていく。
南国の花々のように極彩色のドレスを纏ったおんなたちが、深海に沈んだ死体のよ
うに身体を揺すっている。
研ぎ澄まされたナイフのようなおとこたちが、その周囲でステップを踏む。
マキューシオは自分の狩り場を見回る猫のように、悠々とフロアを闊歩していく。
おんなたちに頬をよせ、おとこたちに眼差しを投げる。
マキューシオはディオニュッソスのような笑い声をあげ、ロミオを手招きした。
ロミオは、激しい音と色彩に、少し酔ったように思う。
そこは水の変わりに轟音が満ちた、深海のようだ。
身体の動作が緩慢になり、意識が遠くなる。
オペラグラスを逆さに見たように、全てが遠くに感じられた。
ロミオは、ポケットから煙草を取り出す。
煙草といいながら、ハシシュが混ざっている。
ロミオはそれに火を点け、煙を吸い込んだ。
そして、目を閉じる。
とたんに、全てがクリアになった。
音が結晶化して、幾何学模様のように閉じた瞳の中で見える。
おんなたちも、おとこたちも、工場で動作するマシンのように、ダンスを踊ってい
た。
ロミオは、目を閉じたままフロアを歩いていく。
突然、ロミオは爆弾の炸裂したような輝きを感じた。
音の無い閃光が、フロアの片隅から発せられている。
ロミオは、目を閉じたまま、超新星のような輝きに向かって歩いていく。
ロミオは、ようやく光の前についた。
そこで、目を開く。
そのとき、撃ち殺されたように、全ての音が消えた。
それだけではなく、全ての色も消滅する。
そこは、無限に白く、果てしの無い静寂に満ちた空間であった。
その白い世界に、ひとりの少女が佇んでいる。
ロミオにとって、今世界はその少女だけが全てであった。
彼は、その少女を知っている。
今朝、橋の上で出会った少女であった。
ロミオは、叫び、少女を抱き締めたいと思ったが、実際には身体が動くことはなく。
何も言い出せぬまま、少女の前で立ち竦んでいる。
少女は、名もなき花が開くようにそっと微笑むと、赤い薔薇のような唇から言葉を
零れさせた。
「あの、あなたはどなたなのでしょう」
その言葉と同時に、世界に色と音が戻ってきた。
そこは、元のダンスフロアである。
おんなたち、おとこたちが海を泳ぐ魚のように、音楽の中を漂っていた。
少女は、おそらくキャピュレットの精鋭であろう若者たちに、取り囲まれている。
ロミオは、大輪の花のように美しい顔に、笑顔を浮かべ囁く。
「おれは、名も無き道化。天使のあなたとダンスを共にするために、来た」
少女は、ロミオの差し出した手を取る。
少女の回りの若者たちは、ざわついたが少女が手をあげて留めた。
若者たちは、指示を仰ぐようにキャピュレットの当主を見る。
当主が、許可を与えるように頷くのを見て、動きを止めた。
少女は、風に舞う花びらのように、ロミオと共に音楽の中を漂っていく。
やがてふたりは、ダンスフロアの片隅にある、人気の無いパーティションに落ち着
いた。
少女が、再び問う。
「あなたは本当は、どなたなのかしら」
ロミオは、少女に頬を寄せて答える。
「おれは、エグザイル。愛を失い放浪するもの。しかし、それは今宵で終わる」
少女は、瞳で問いかける。
ロミオは、語る。
「愛を探す探求は、今終わったんだ。おれはここに愛を見つけた」
朝焼けのような薔薇色に染まった少女の頬に、ロミオはそっと手を添える。
「おまえの愛は、どこにある? 愛するおとこは、いるのか?」
「いてます」
少女の言葉に、ロミオは目を見開く。
少女は、優しく微笑んだ。
「今日の朝、橋の上で倒れていたひとに、わたしの愛は奪われたのです」
ロミオは笑い、道化の仮面をとりさった。
少女は、頷く。
「そう、そのひとは、あなたなの」
ロミオは。口づけするように、少女に顔を寄せる。
その時、声が聞こえてきた。
「ジュリエット様」
少女は顔をあげ、答える。
「ここに、います」
黒服が、ふたりのいるパーティションを覗く。
「お父上が、お呼びです」
少女は頷き、ロミオを見る。
「わたし、行かなくては。最後に、あなたの名前を」
「ロミオだ」
それを聞き終えると、少女は立ち去ってゆく。
ロミオは、途方に暮れたように立ち竦んでいた。
彼は、まるで冥界を流離う亡者のように、ダンスフロアを歩いてゆく。
そのロミオの肩を、叩くおとこがいた。
マキューシオである。
「なんだ、ロミオ。幽霊を見たような顔だな」
ロミオは、魂を失ったような顔で呟く。
「おれは、新しい恋を得たぜ」
「ほう」
マキューシオは、笑みを浮かべる。
「結構なことだな。相手は誰なんだ?」
「ジュリエット」
マキューシオは、一瞬胸にナイフを突きたてられたような顔になる。
けれど、すぐに笑みを取り戻した。
ただ、その笑みは苦いものを噛み締めるような、笑みではあったが。
「ロミオ、その名はキャピュレットのひとり娘の名としらぬ訳ではあるまい」
「もちろん」
ロミオは、少し遠くを見る目をして言った。
「知っているさ」

黒服は、ジュリエットを導きながら、彼女に声をかける。
「先程、御一緒されていた方は、ロミオではありませんか?」
ジュリエットは、驚いた顔をして黒服を見た。
「知っているの? ロミオを」
「もちろん」
黒服は、賢者のように落ち着いた口調でジュリエットに答える。
「モンタギューの、跡取り息子ですよ」
ジュリエットは、すっと月が雲に隠れるように、表情を失う。
彼女の周囲から色が消え、灰色に閉ざされたかのようだ。
黒服は、慇懃な口調でジュリエットに語る。
「もし知らずに話をされていたのであれば、誰にも語らず忘れることですね」
ジュリエットは、死者のように白い顔をして、無言のまま頷いた。




#439/598 ●長編    *** コメント #438 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:24  (119)
love fool 06     つきかげ
★内容
第二幕

其の一

真夜中近い夜空は、黒曜石のように深く暗い。
その黒い夜空に、穿たれた白い穴のような月が、輝いている。
月の白い輝きが、夜空の闇の深さをより濃くしているかのようだ。
深紅のバイクに跨がったロミオは、煙草に火を点ける。
ロミオが乗っている高貴な獣がごとき佇まいを持つバイクは、MVアグスタ・ブル
ターレ・セリエオーロという名を持つ。
血で染められたような深紅のボディと、太陽を捕らえたような金色のホイールを持
っていた。
そのバイクの傍らに、四輪車運搬用のトラックが停められている。
そのハンドルを握るのは、ベンヴォーリオであった。
そして、そのトラックの向こうには、塀に囲われた屋敷がある。
キャピュレットの、館であった。
ロミオは、煙草の紫煙を吐き出すと、明かりの灯るベランダの窓を眺める。
彼は、その窓から彼の愛する少女が姿を現すのを見た。
月影を纏めて織ったように、白いドレスを着た天使の美貌を持つ少女が、夢見心地
の表情でベランダに佇む。
ジュリエットで、あった。
ロミオは、そっと目を閉じる。
そうすることで、漆黒の夜空から降り注ぐ月の光が、よりはっきりと感じられた。
そして、その白い月の光に浮かび上がる炬のような少女を、より強く感じとる。
ロミオは、愛する少女がまるで自らのすぐそばにいるように、その気配を感じた。
彼は、ジュリエットの呟く言葉を、隣で聴いているように聞き取ることができる。
彼女は、こう囁いていた。
「ロミオ、あなたはロミオなのね」
少女の呟きは、続く。
「あなたはロミオ、そう。あの輝く月が月であるように、夜空を横切る鳥が鳥であ
るように、そして」
ジュリエットはどこか夢見るものが語るような調子で、言葉を重ねる。
「暗い大地に転がる石が石であるように、あなたはロミオなのだわ。だから」
ロミオは、ジュリエットが真っ直ぐ自分を見つめているような気がしていた。
「あなたは道化でもエグザイルでもない、ましてやモンタギューですらなくて」
少女は、そっとため息をついて、こう言葉を重ねた。
「あなたは、ロミオであるロミオなのよ」
ジュリエットは、両手を空に向かって差し出し、叫ぶように言った。
「だからわたしも、あなたの前に立つときにはキャピュレットでは無くて、ジュリ
エットになるの」
少女は、自分を抱き締めて、こう言った。
「あなたといる時のわたしは、ジュリエットであるジュリエットなのよ」
ロミオは、目を見開いた、
気がつくと、その傍らにベンヴォーリオが立っている。
トラックの四輪車を積む荷台はバンクされ、スロープを作り上げていた。
ベンヴォーリオは、うんざりしたような口調でロミオに語りかける。
「まさか、本気じゃあないよな」
ロミオは、夢見るような表情で、ベンヴォーリオを見る。
「おれは、いつだって本気だぜ」
ベンヴォーリオは、肩を竦めた。
「ガキじゃあ、あるまいし」
ロミオは、おんなであれば誰であれ、こころを溶かされてしまうような瞳でベンヴ
ォーリオを見る。
「おれたちは、紛れもなくガキだ。そうだろう」
ロミオは煙草を捨てると、バイクのハンドルを握った。
ベンヴォーリオは、ため息をつくと言った。
「ハンフリー・ボガードが出演している古い映画で、こんな台詞がある」
ベンヴォーリオは、腰からコルト・パイソンを抜くとロミオに向ける。
「命が惜しければ、三つ数える間に失せろ」
ロミオは、苦笑した。
「おいおい、ベンヴォーリオ」
「おれは、本気だ」
そして、コルト・パイソンの撃鉄をあげる。
カチリと、機械が噛み合う音をたてた。
「これが最後の警告だ、ロミオ。おまえは愚かな道を選んでしまった」
「もちろん」
ロミオは、甘い笑みを見せた。
「愛とは常に、愚かな道だろう」
「映画みたいに」
ベンヴォーリオは、感情が消えた声で言った。
「三つかぞえよう。その間に考え直せ」
「ああ、答えはもう決まっているさ」
「1、2」
ロミオのバイクが、獣の咆哮のようなエンジン音を響かせた。
「3」
銃声は、獣が後脚で立ち上がるように前輪を跳ねあげたバイクのエンジン音に、掻
き消される。
銃弾は、ロミオからそれ塀にあたって煙をあげた。
バイクは、疾走する獣のように、トラックの作り上げたスロープを駆け上っていく。
深紅の獣が、漆黒の夜空を飛んだ。
ロミオの乗ったバイクが、キャピュレットの屋敷の塀を越えて、肝木をへし折りな
がら庭へと着地する。
そして、真っしぐらにジュリエットの立つベランダの下めがけて走ってゆく。
獲物に襲いかかる獣のように疾走したバイクは、ベランダの下へピタリと止まる。
静寂が、一瞬戻った。
月明かりの下で、ロミオは軽々とベランダへと登る。
ジュリエットは、水から上がってきたひとのように、大きく息をして言った。
「ロミオ、ロミオ、なんてこと、あなたはいつもわたしを驚かせる」
ロミオは、夢見るような表情を浮かべたまま、ジュリエットに顔を寄せる。
「忘れ物を、届けに来たんだ」
「まあ、いったい何かしら」
ジュリエットが驚いた顔をするのを無視して、ロミオはその唇を奪った。
それは、相手の魂までも吸い付くしてしまうかのような、濃厚な口づけだ。
ジュリエットは、世界が消え去り二人だけになったように思う。
熱が、そして燃え盛る愛が、ロミオの唇から彼女に流れ込んでくるのがわかる。
脳の奥が、火で炙られているかのように熱かった。
胸から広がっていく暖かい血の固まりは、腰や下腹を通り抜け脚の先まで伝わって
ゆく。
愛の熱に満たされ、息苦しくすらある。
まるで、愛に溺れてしまうようだ。
そう思った時、ロミオの唇が離れた。
それだけのことが、ジュリエットに身を裂くような寂しさをもたらす。
屋敷が、騒然となった。
階段を誰かが上がってきて、扉を叩く音がする。
庭が一斉にライトで照らされ、マシンガンを持った黒服たちが姿を現す。
けれどロミオは、自分の部屋にいるように落ち着いていた。
ジュリエットに紙きれを渡すと、もう一度軽く唇を触れあわせ、飛ぶように自分の
バイクへ戻る。
再び獣の咆哮がごときエンジン音が、漆黒の夜空の下響き渡った。
けたたましくマシンガンの銃声が、鳴り響く。
猟犬の吠え声のようなその銃声を貫いて、ロミオのバイクは走った。
ロミオは、大きなソード社製ハンドガンを抜くと、門に向かって一発撃つ。
落雷のように巨大な銃声が轟き、巨人の鉄槌を受けたように門が開いた。
ロミオは、疾風のように門を抜け闇の中へと走り去ってゆく。
ジュリエットは、ロミオに手渡された紙切れを見る。
そこには、こう書かれていた。
「明日、16時。教会で待つ」
部屋の扉が、開かれる音がした。
ジュリエットは慌ててその紙を口に入れ、飲み込んだ。




#440/598 ●長編    *** コメント #439 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:25  ( 87)
love fool 07     つきかげ
★内容
其の二

善きにしろ、悪しきにしろ、ヴェローナ・ビーチは活気に満ちている。
その街は、ジャンクヤードのような混沌が溢れていたが、裏返せば剥き出しの生命
力に満たされているとも言えた。
しかし、その教会の中は、静寂が支配している。
森の奥深い場所であるかのような、しんとして澄んだ空気が漂っていた。
そして、黄昏のような薄闇が、全ての音を飲み込んでいるようだ。
その静かな場所に、ひとりのおとこが踏み込んでくる。
白いジャケットを身に付け、腰にツーハンデット・ソードのように大きな拳銃を吊
るしたおとこであった。
「これは、珍しい」
祭壇の下に居た、黒衣の神父が声をかける。
「ロミオではないですか。まさかわたしの話を聞きに来たわけでは、ないでしょう
ね」
ロミオはベンチのひとつに腰をおろすと、神父を見る。
「あなたにお願いがあって来た、ロレンツ神父」
ロレンツは、驚いた顔でロミオを見る。
しかし、その顔に笑みを取り戻した。
「わたしにできることであれば、なんなりと力になりましょう、ロミオ」
ロミオは、大きく頷く。
その眼差しに、真剣なものを読み取ったロレンツは、真摯な眼差しでロミオを見つ
め返す。
ロミオは、ゆっくりと語り始めた。
「おれは、結婚しようと思っている」
ロレンツは、再び驚いた顔となった。
「まさか、ロザラインとですか?」
ロミオは、苦笑する。
「あのおんなには、ふられたよ」
ロレンツは、ため息をついた。
「相手の名を、聞かせてもらえますか、ロミオ」
ロミオは、ひと呼吸おくと、思いきった口調でその名を語った。
「ジュリエットだ、ロレンツ神父」
ロレンツは、頬を張り飛ばされたように、息をとめる。
しばらくして、その顔を笑みで崩れさせた。
「ロミオ、ロミオ。全く君には驚かされる。君はキャピュレットのひとり娘と、結
婚するというのですか」
ロミオは、少し苛立った顔で、頷いた。
「キャピュレットだのモンタギューだのというものは、おれにとってもう、どうで
もいいんだ」
ロミオは、真っ直ぐにロレンツを見る。
「おれは、ひとりのおとことして、ひとりのおんなを愛した。だから結婚する。何
か間違っているのか? おれは」
ロレンツは優しく微笑むと、首をふった。
「君は、この街の誰より正しい決断をくだしたと思いますね、ロミオ」
ロミオは、当然だと言うように、頷いた。
「おれはこれから、ジュリエットを妻として迎える。あんたにはその場に立ち会っ
てもらい、証人となって欲しいんだ、ロレンツ神父」
「いいでしょう、ロミオ。君がわたしにその役を求めてくれたことを、とても嬉し
く思います」
ロレンツは、そっとため息をついた。
「それにしても、わたしの元に来てくれるとは、少し意外ですね。君は、主への信
仰などに興味を持ってなかったでしょう?」
ロミオは、肩を竦める。
「ロレンツ神父、残念だがおれにとってあんたらの教えは難しすぎる」
ロミオは、少し苦笑いを浮かべて語る。
「あんたらは、おれたちは罪深い存在だという。その理由というのが、大昔にひと
りのおんなが木の実を食べたからだという」
ロミオは、困惑気味の表情を浮かべている。
「おれの知らないおんなが犯した罪を負わされ、さらにその罪を贖うために十字に
吊るされたおとこを崇めろと言われても」
ロミオは、首をふる。
「おれには、無理な相談だ」
「ロミオ、君は間違っていますよ」
ロミオは、驚いた顔をしてロレンツを見る。
「おれが、間違っている?」
「はい。罪なぞ存在しませんし、主が十字架に吊るされたのも、もちろん罪を贖う
ためではありません」
「ほう」
ロミオは、興味深そうにロレンツを見た。
「では、なんのために彼は死んだのだ」
「愛を、知らしめるために」
ロレンツは、じっとロミオを見つめ、厳かといってもいい口調で語った。
「全てのひとは愛につつまれており、愛によって生かされていることを知らしめる
ために、十字架に登ったのです」
ロミオは、苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「あんた、そんな話をしてヴァチカンから破門されないのか?」
「ここは、天国に一番近いファベーラですから、わたしはヴァチカンよりも主に近
いのですよ。それより、信仰を持たない君が、なぜ証人としてわたしを選んでくれ
たのですか?」
ロミオは、少し鼻で笑う。
「決まってるさ。このヴェローナ・ビーチでキャピュレットでも、モンタギューで
もないひとで、信頼できるのはあんただけだからさ、神父」
神父は、深く頷いた。
その時、再び教会の扉が開く。
ひとりの、白いワンピースを着た少女がそこに立っている。
ジュリエットであった。




#441/598 ●長編    *** コメント #440 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:26  ( 84)
love fool 08     つきかげ
★内容
其の三

ロレンツは、息をのむ。
その少女は、彼の知っていたジュリエットではない。
彼女は教会に踏み込む度に、そこの時間を凍り付かせていくようであった。
黄昏の闇に満たされた教会の時間を、きらきらと輝く水晶の結晶のように、凍り付
かせてゆく。
ロレンツは、自分の目を疑う。
ロミオに向かって歩いて行くジュリエットの周りから、色が失われていくようだっ
た。
ロミオが出迎えるように、踏み出していく。
ロミオの周りからも、色が失われていった。
ふたりを中心にして、白い闇が広がってゆくようだ。
ロミオとジュリエットのふたりは、真っ白な凍り付いた世界で彫像のように抱き合
っている。
ロレンツは、自分が見ているものが、永遠であると思えた。
愛は自分達の意識を超えた、永遠の一部に触れる行為なのだと、ロレンツは感じる。
それは、落雷にうたれるように、ロレンツのこころに訪れた理解であった。
唐突にロミオが膝をつき、ガラスが砕かれたように、時間が動き始める。
ロミオは腰からソード社製の、ツーハンデッドソードのように長大な拳銃を、ジュ
リエットに捧げた。
その姿は、誓いをたてる、中世の騎士に似た姿である。
ジュリエットは、無言のままその銃把に手をかけた。
銃口は、ロミオの心臓に向けられている。
ロミオが、言った。
「おれは、おまえを愛し続ける」
ロミオの声は、大きくはなかったが、教会に響きわたってゆく。
「泡立つ海が押し寄せて、我を飲み込まぬ限り」
ロミオは、いにしえの司祭が儀式を執り行うように、言葉を続ける。
「蒼天、我が上に墜ちてきたらぬ限り」
ロミオは、祈りを捧げるように顔をふせ、言葉を締め括った。
「我が誓い、破られることなし」
言い終えるとロミオは銃を腰のホルスターに戻し、立ち上がるとジュリエットに口
づけをした。
まるで、ふたりがその身体を溶け合わせようとするかのような、熱い口づけをかわ
す。
長い長い無言の時間が過ぎた後、唇を離したふたりは見つめ合う。
ジュリエットが沈黙を破り、口を開く。
「わたしは、これであなたの妻となったのですね」
「そうだ」
ロミオは、頷く。
「おまえは、今、我が妻となった」
ジュリエットは、ロミオの肩にその額をもたれかける。
ロミオは、優しくジュリエットの肩を抱き締めた。
ロレンツはそのふたりを見ているだけで、胸を締め付けられるような思いに満たさ
れて行く。
ロレンツは、ふたりの傍らに立つと、言った。
「わたしが証人となりましょう。あなたがたの誓い、確かに見届けました」

マキューシオが、モンタギューの屋敷の前にバイクをを停めたその時に、ちょうど
ベンヴォーリオが外出しようとしているところだった。
「おい、何を急いでる、ベンヴォーリオ」
ベンヴォーリオは、マキューシオを見ると、珍しく焦った感じで問いかける。
「ロミオを見なかったか?」
「いや」
マキューシオは、苦笑した。
「ロミオのお守りは、お前のかかりだろう」
「お前には愛の導きが、あるんじゃあないかと思ったんだが」
マキューシオは、少し頬を染める。
「よせよ、そういうのは」
ベンヴォーリオは、少し肩を竦め立ち去ろうとした。
マキューシオは、慌ててベンヴォーリオを止める。
「おい、何があったんだよ」
ベンヴォーリオは、マキューシオに封筒を投げる。
マキューシオは、ロミオに宛てられたらしい封筒の中を見た。
マキューシオは、眉をしかめる。
「これは、果たし状じゃあないか」
ベンヴォーリオは、頷く。
「キャピュレットのティボルトが、ロミオの相手をしたいらしい」
マキューシオは、ため息をついた。
「エスカラス大公は、認可したのか」
「サインがある」
マキューシオは、自身でそれを確かめる。
封筒をベンヴォーリオへ戻すと、問うた。
「どうするんだ」
「ロミオに知らせぬわけには、いくまい」
「ほっとけ、やつは。恋に狂ってそれどころじゃあない」
「しかし」
マキューシオは、不敵な笑みを浮かべる。
「決闘には代理人をたてることが、許されている。おれが代理人として、ティボル
トの相手をしよう」
マキューシオは、獣の目をして言った。
「ロミオを殺させるわけにも、ロミオに殺させるわけにもいくまい」
ベンヴォーリオは、やれやれと頷く。




#442/598 ●長編    *** コメント #441 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:27  ( 76)
love fool 09     つきかげ
★内容
其の四

ジュリエットは、とても幸福だった。
まるで、薔薇色の宇宙の中を、漂っているかのようである。
頭の天辺から、胸の先、下腹、爪先まで、ぴりぴりとした痺れるような快感に薄く
覆われているようだ。
今この瞬間が、永遠に続けばいいと思う。
それでなければ、今この瞬間に世界が滅べばいいと思った。
ああ、なんて愚かなことを考えているんだろうと、ジュリエットは頭の片隅で思う。
そして、その愚かさはどんどん加速していくようであった。
ロミオが、そんなジュリエットの耳に、唇をよせる。
「今夜、真夜中におまえの元へゆく。夜を共にすごそう。だから、通用口の鍵をあ
けておけ」
ジュリエットは、目の眩むような幸福を感じながら、頷いた。

そこにいるものは皆、場違いな侵入者を見る目でロミオを見た。
そう、このファベーラの裏通りの奥にある広場に相応しいのは、流される血と死を
吐き出す銃口の熱であり、愛に酔いしれたおとこの瞳ではない。
対峙しているのは、ティボルトとマキューシオであり、双方に付き添い人がいた。
マキューシオの付き添い人は、ベンヴォーリオである。
ティボルトは、獲物を狙う蛇のような目でロミオを睨み、マキューシオはあから様
に舌打ちをした。
「それで、何をいってるんだ、おまえは」
ディボルトは、毒を吐くような口調で、ロミオを問い詰める。
「簡単なことさ」
ロミオは、夢見るような口調で語った。
「争いをやめて、今夜は皆、愛するものの元へ帰ろうといったんだ」
そこにいるものは、全員失笑した。
ティボルトは唾を吐き捨て、腰の銃を抜く。
シルバーホワイトの、美しい銃が姿を現す。
18インチの長大な銃身を持つ、カスタムメイドのその銃は、ロミオの持つ凶悪な
銃とは違い優美なスタイルを持っていた。
しかし、その使用する弾丸は460ウエザビーマグナムという、ロミオの銃よりも
強大な破壊力のある銃である。
「寝言にしても、間抜けすぎるぞ、ロミオ」
月の光に照らされたティボルトの精悍な顔は、血に飢えた爬虫類のように冷酷であ
った。
「おれの銃は、貴様の血を見るまで、満足することはない」
ロミオは、薄く笑みを浮かべると、頷いた。
「なるほど、判ったよ」
ロミオは、懐からナイフを出す。
ナイフというようりは、短剣といったほうがいいサイズの刃が、月の光を受け冴え
た輝きを見せる。
ティボルトが、嘲笑した。
「ふん、やる気をだしたのかもしれんが、得物が違うぞ」
ロミオは優しく笑みを浮かべたまま、首を振る。
「いや、これでいい」
ロミオはその短剣を振り上げ、一切の躊躇いなく自分の左腕に突き刺した。
短剣は腕を貫き、切っ先を見せている。
ロミオは、物凄い苦痛に襲われているのだろうが、笑みを浮かべたままであった。
マキューシオも、ティボルトも、酷くハレンチなものを見せつけられた紳士のよう
な顔で、ロミオを見る。
ロミオは、額に汗を滲ませたが、涼しげな笑みは消さず一気に短剣を引き抜いた。
金属質の輝きを帯びた血が、放物線を描き月の光を受け煌めく。
「これで、満足したか、おまえの銃は」
ロミオは、夢見るような調子でティボルトに囁きかける。
「足りなければ、次は胸を刺そうか?」
「やめろ」
ティボルトは、生まれてこの方、ここまで恥知らずな行為は見たことがないという
顔をして、叫ぶ。
「やめろ、この愚か者」
ベンヴォーリオがロミオに駆け寄り、無理矢理地面に座らせると、治療を始める。
「おまえは馬鹿者だと思っていたが」
ベンヴォーリオは、心底うんざりした口調で、ロミオの傷口を消毒し血止めを塗り
込む。
「ここまで、馬鹿とは思わなかったぞ、ロミオ」
「すまない」
ロミオの謝罪を、ベンヴォーリオは鼻で笑い飛ばし、針と糸を取り出す。
「おまえの傷口を縫ってきたせいで、裁縫が上手くなっちまった。全くしまらない」
「すまない」
繰り返されたロミオの謝罪に対し、ベンヴォーリオは睨み付けて答える。
「くだらなすぎる」
ティボルトは、うんざりしたように言うと、銃を納めた。
そして、振り返り付き添い人へ帰るように促す。
その背中に、マキューシオが声をかける。
「おい、待てよ、この腰抜け」




#443/598 ●長編    *** コメント #442 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:28  ( 92)
love fool 10     つきかげ
★内容
其の五

ティボルトは、振り向いてマキューシオを見た。
その口元には、楽しげと言っていいような笑みが、浮かんでいる。
「おまえの相手は、ロミオじゃない。おまえは代理人としておれを承認した。そう
だろう?」
ティボルトは、目に面白がっている色を浮かべた。
「ほう」
そして、その瞳には、血に飢えた獣の欲望が透けて見える。
「マキューシオ、おまえはガンビーノと直接繋がりを持ってるつもりなんだろうが」
ティボルトは、その声に酷薄な響きを滲ませた。
「決闘では、そんなものは役に立たないぞ」
マキューシオは、失笑する。
「おまえこそ、決闘ではキャピュレットの名がつくものが勝つようにできてると、
信じてるんだろうが」
マキューシオは、嘲りを声にのせた。
「ロミオもおれも、家の名前なんぞ役に立たない無法の荒野で戦ってきたんだ。温
室で、大事に育てられたおまえと違ってな」
ティボルトは、頬を赤く染める。
マキューシオは、こころの中でほくそ笑んだ。
ティボルトにあるのは、ロミオへの劣等感である。
あえて実用性が無い、カスタムメイドの銃を持っているところも、その現れだ。
ロミオより強力な銃を持つことが重要であり、それが実戦では役に立たないことな
ど、ティボルトには意味を持っていなかった。
ロミオの持つ、ソード社製リボルビングオートマティックは、30ー06ウィンチ
ェスターマグナムという拳銃弾としては強力すぎる弾を扱う。
しかし、ガスシリンダーで重たいボルトを動かすことで、強大な反動を殺す仕組み
を持っており、使い手を選ぶが辛うじて実戦でも使用可能な銃だ。
一方ティボルトのホワイトホースは、コルトSAAという百年前の銃と同様の仕組
みを持つ銃であり、美しく強力な銃ではあるが実用性を著しく欠く。
決闘で、S&W・M19を持つマキューシオと対峙すれば、本来なら勝てるものでは
ない。
おそらく、ティボルトは自分の部下に代理人をさせるつもりであったはずだ。
それは、マキューシオの望むところではない。
マキューシオは、ティボルトを殺すつもりであった。
もし、ロミオが本気でジュリエットと添い遂げるつもりならば、ティボルトこそが
唯一の障害である。
ある意味、メデジンとカリという二大カルテルの代理戦争としての様相を持つ、キ
ャピュレットとモンタギューの対立は当主からするとただのポーズに過ぎないもの
だ。
両家は、対立しているように見せかけることで、メデジンそしてカリとうまくやっ
ていけるから、そうしている。
だから、両家とも表面的にロミオとジュリエットを絶縁したとしても、こころの中
では祝福するだろう。
けれど、ティボルトは違う。
こいつにあるのは、ロミオへの憎しみだ。
マキューシオは、挑発を続ける。
「御大層に立派な銃を、腰に提げているようだが」
マキューシオは、あからさまに嘲りの笑みを浮かべる。
「父親の膝から降りたことの無いおまえは、その銃だって撃ったことは無いんだろ
う」
ティボルトの顔から、表情が消えた。
マキューシオは、満足げに笑う。
本気に、なりやがった。
これで、銃を抜かないわけにはいくまい。
最悪、相討ちでいいと、マキューシオは思う。
「ロミオの犬の癖に、でかい口をたたく」
ティボルトが毒のような憎しみをこめて、言った。
マキューシオは、優しげといってもいい笑みでかえす。
「おや、嫉妬なのか? おまえもロミオに飼われたいんだろ」
「ごたくはもう沢山だ」
ティボルトは、鋼のような固さを瞳に宿らせる。
「おしゃべりをしに来たわけじゃあない、そろそろ始めようか」
「よかろう」
マキューシオは、頷く。
我ながら、不思議である。
自分の恋を考えれば、ロミオがジュリエットと結ばれないようすべきなのに。
なぜ、おれはこいつを殺そうとするのか。
マキューシオは、自嘲する。
なるほど愛は、ひとを愚かにするようだ。
けれど、愛は欲望を超え崇高なものだとも思う。
ティボルトは、マキューシオの笑いを自分に向けたものと思い、怒りで瞳を輝かす。
そして、後ろにいる従者に言った。
「10数えろ、それが終わったら決闘の合図だ」
従者が頷き、数え始める。
その時、ベンヴォーリオの腕を降りきって、ロミオがマキューシオの前に立ちふさ
がった。
「やめろ、やめてくれ」
ロミオは、叫ぶ。
マキューシオは、うんざりしたようにロミオの身体を脇にそかそうとした。
「今夜は、誰にも死んで欲しくないし、殺して欲しくない。今夜は、祝福された夜
としたいんだ、おれは」
ロミオの声は、絶叫に近づいてゆく。
マキューシオは、首を振った。
「寝言は、寝て言ってくれ。何かを得るなら、何かが失われる。それにおまえがい
ると、ティボルトが見えない」
ロミオはさらに、叫ぶ。
「おれはほんの子供のころから、望まれるまま、何十人も殺してきた。なぜ、たっ
た一夜の平和すら許されない」
マキューシオは、一瞬胸を締め付けられるような思いにとらわれ悲しげな顔となる。
その時、訃報を告げる鐘のような銃声が轟き、マキューシオは自分の腹で炎が炸裂
するのを感じた。




#444/598 ●長編    *** コメント #443 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:29  ( 87)
love fool 11     つきかげ
★内容
其の六

マキューシオは、目を開く。
視界に真っ暗な夜空に輝く月が、飛び込んでくる。
マキューシオは、自分がまだ生きていることに、軽い驚きを覚えた。
生きてはいるものの、燃え盛る焔を腹におさめたような気分である。
身体は、ばらばらになったようで、どこに手があり脚があるのかさっぱりわからな
い。
ただ、夜の闇より暗い痛みだけが、自分をこの世にとどめているのだと思う。
誰かが、遠くで叫んでいるようだ。
視界に、ロミオの顔が入ってくる。
どうも、叫んでいるのはロミオらしいが、声は遠くで叫んでいるようによく聞こえ
ない。
マキューシオは、微笑もうとしたがどうやら顔がひきつっただけのようだと思う。
「落ち着け、ロミオ」
そう言ったつもりだが、多分でたのはうめき声だ。
水滴が、マキューシオの頬を濡らす。
ロミオの、涙のようだ。
そいつは、ジュリエットにとっておけと言おうとしたが、うまくいえない。
喘ぎがもれ、マキューシオは血の塊を吐いた。
言葉が、出るようになる。
「ロミオ、おれの傷をみろ」
「マキューシオ、」
「天国への門にしちゃあ、狭すぎるが、地獄へとどくには、浅すぎる。それにした
って」
マキューシオは、笑みを浮かべるのに成功する。
「死ぬには、十分だ。そうだろう?」
「マキューシオ、おれは」
マキューシオは、首を振った。
「ヴァルハラで会おう、ロミオ。だが、おまえはそんなに急いでこなくてもいい」
マキューシオは、ロミオが自分の手を握っていることを確認し、満足げに頷く。
そして、最後の力を振り絞って叫ぶ。
「キャピュレットもモンタギューも、この世から消えてなくなれ!」
そして、おれの恋人、ロミオを自由にしろ。
そう言おうとしたが、最後の文句は声にならず、死がマキューシオを連れ去った。
傷をおった獣の、遠吠えのようなロミオの叫びが、夜の闇を切り裂き凍り付かせて
ゆく。
孤独な獣の叫びが、夜の闇を深くし、月の光を刃のように鋭くした。
真夜中に、暗黒の太陽が昇ってくるように。
ロミオは、ゆっくりと立ち上がった。
ロミオは、世界が渦に巻き込まれているように感じる。
誰がどこにいるのか、把握できない。
ただ。
足元に、マキューシオの死体があることだけは、判った。
まるで死体以外の世界が全て粉々に破壊され、万華鏡の中の風景になったようだ。
ああ、おれは。
死にこそ、愛されている。
そう思った瞬間、ロミオの意識が闇に飲まれた。

「そこにいるのは、誰だ」
モンタギューの当主は、自分の書斎への侵入者がいることに気がつく。
彼は、自分の部屋に明かりを点けていなかった。
その部屋を照らしているのは窓から入り込む、月の光だけである。
「父さん」
その人影は、月の光の元に、蒼ざめた姿を晒す。
「ロミオか」
モンタギューは、我が子の名を呼ぶ。
「父さんおれは」
ロミオは、少し震える声で語る。
「ティボルトを、殺してしまった」
「知っている」
モンタギューは、静かな声で我が子に語りかける。
「エスカラス大公からの使者が、さっき帰ったところだ。おまえは、このヴェロー
ナ・ビーチから追放だと言い渡していったよ」
「父さんおれは」
モンタギューは首を振って、我が子の言葉を止める。
そして、彼はロミオの身体を、強く抱き締めた。
「ロミオ、わたしはおまえに父親らしいことは、何もできなかった」
モンタギューは、夜のように静かな声で語り続ける。
「ロミオ、もしもおまえが望むのであれば、この街の全てが潰えるような戦いを引
き起こそう」
モンタギューは、ロミオを抱き締めたまま、言葉を重ねる。
「わたしにできるのは、せめておまえを全てから解き放つことだ」
ロミオは、首を振った。
「父さん、おれはそんなことは望まない」
モンタギューはロミオから、身体を離す。
ふたりは、向き合った。
「追放が裁きの結果なら、おれはそれを受け入れる。ただ、朝まで時間をくれ、行
くところがある」
モンタギューが何かを言おうとしたが、ロミオが首を振ってとめる。
「最後にひとりにさせてくれ。おれは、今まで何も望まなかった。ひとつくらい、
願いを言っていいだろう?」
モンタギューは、頷く。
そして、ロミオは再び夜の闇へと消えていった。
死霊たちが、墓地にある棲みかへと帰るように。
闇の中へと、音もなく溶け込み気配をたった。
モンタギューはひとり、闇をみつめている。




#445/598 ●長編    *** コメント #444 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:30  ( 77)
love fool 12     つきかげ
★内容
其の七

ジュリエットは、ベッドの中にいた。
恋人が、兄を殺したという情報は、既に彼女のもとへ届いている。
それでも、ロミオが今宵彼女のもとにくることを、信じて疑うことはなかった。
ジュリエットは、凍える真冬の夜に春を待ちわびるように、恋人をじっと待つ。
ジュリエットにとって、夜の闇は恐ろしいものではない。
それは、おそらく、彼女とロミオの恋を守ってくれる、秘密の帷であるはずだ。
彼女は、窓の外を見る。
真っ暗な空を、月明かりに照らされた銀灰色の雲が、横切っていくのを見ていた。
永遠にも似た時間が、過ぎ去ったような気もする。
けれど、全ては一瞬のことだあったような気もした。
気がつくと、黒い影が窓の前に、佇んでいる。
そのシルエットは、まぎれもなく彼女の恋人のものだ。
ジュリエットは、愛しいその名を歌うように呼ぶ。
「ロミオ、待っていたの」
ロミオが少し動き、その顔が半分だけ月の光に照らされる。
そこに現れたのは、仮面のように凍り付いた、蒼ざめた顔であった。
「おれは」
ロミオは、とても深く静かな声で、ジュリエットに話しかける。
「おまえの兄を、殺した」
「知っているわ」
ジュリエットは、殺されたのはロミオではないのかと、思えてしまう。
その闇に包まれた姿は、死霊のようでもあった。
死の天使は、今夜ついに恋人をその手に抱き止めたというのだろうか。
いいえ。
ジュリエットは、思う。
今夜、ロミオを手に入れるのは、他の誰でもなくこのわたし。
「愛しいひと、あなたの手が血まみれであっても、かまわないの」
ジュリエットは、両手をロミオに向かって差し出す。
「今、世界にはわたしとあなたしかいないのよ。だから」
彼女は、すがるようにロミオを見る。
「ここへきて、わたしを抱いて」
ロミオは滑らかな動作で、彼女の側にくる。
そして、世界は白い闇に包まれた。
ジュリエットは、とても不思議な経験をする。
それは、真っ白な世界であった。
その世界は、時間がないように思える。
そして、空間もないようだ。
きっと、永遠で無限な世界にちがいない。
そこには、彼女とロミオの二人しかいなかった。
そして、そこでジュリエットはロミオに、産み出されることになる。
ロミオの手が、彼女の身体の表面をなぞってゆく。
ぬばたまの髪に包まれた頭や花びらのように柔らかい頬、白い丘陵のような胸や、
弦楽器のように優美なラインを持つ腰。
果実のように膨らんだ臀部に、しなやかさと流れるように美しいラインを兼ね備え
る足。
植物の枝のようにのびる腕や、貝殻のような耳、その他秘められた場所、熱をはら
んで息づいている場所をロミオの手のひらはなぞってゆく。
演奏者が楽器を奏でるように、画家が絵を描いてゆくように、彫刻家が形を掘り出
してゆくように。
白い闇に埋まっているジュリエットの身体を、快楽を含んだ熱を与えて造り上げて
ゆく。
ジュリエットは、自分がロミオによって産み出されてゆくように思えた。
自分は、この闇の中で快楽という熱の海に現れながら、愛という灼熱の太陽にその
身を余すところなくさらけだし、産まれつつあるのを感じる。
ああ、わたしはもういちど、今日この夜にこの世へ生まれてくるのね。
そう、叫ぼうとしたが、それは言葉にならない喘ぎとなって、白い闇の中に谺する。
ロミオとジュリエットの吐息は、その白い闇に合わせ鏡の中にある景色のように、
無限に響きあい行き交っていた。
ジュリエットは、その時間が永遠に続くように思える。
彼女は、目の眩むような幸福に、包まれていた。
しかし、ロミオが唐突に言葉を発する。
「見るがいい、明けの明星が輝き始めた」
その瞬間、ふたりはベッドの中にいた。
燃えるように熱い肌を寄せあい、闇の中でひとつのシーツにくるまっている。
夜が、終わろうとしていた。
ロミオは、そのことをジュリエットに告げる。
それは、残酷な別離の時でもあった。
ジュリエットは、こう答える。
「ねえ、わたしは愚かになるの。荒野を旅する、愚者になるの。愛に目が眩んで何
も見えずなにも聞くことのできなくなった愚か者になるの。だから」
ジュリエットは、ロミオの耳に囁きかける。
「わたしはあなたを、送り出すわ。奇跡がふたりを再び結び付けると信じて」
「おれは」
ロミオは、暗い夜空に輝く明るい星を見つめていた。
「あの星が憎い。夜の終わりを告げる、あの星が」




#446/598 ●長編    *** コメント #445 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:37  (188)
love fool 13     つきかげ
★内容
第三幕

ロミオは、ヴェローナ・ビーチのはずれに佇んでいた。
その向こうには、荒野が広がるばかりだ。
そして、東の空は金色の光が燻りつつある。
テンガロンハットを目深に被ったロミオは、砂漠の砂の色をしたポンチョを纏
い、深紅のボディを持つ大きなバイクに跨がっていた。
腰に提げられたハンドガンは、ソード社製のリボルビングオートマティックであり、
ツーハンデット・ソードのような大きさを持つ。
ロミオは、甘い美貌に憂鬱げな笑みを浮かべ、誰にともなく呟いた。
「夜の蝋燭は、燃え尽きたようだ。歓喜にも似た金色の輝きが、荒野のむこうで踊
りだしているのが見える。行って生を選ぶか、留まって死に身をゆだねるか。思案
のしどころというわけだな」
彼はその言葉とは裏腹に、こころは決まっているようだ。
昏い瞳は、荒野の果てを見定めている。
ロミオのこころの中を去来していたのは、妻のことであった。
妻は、こう語った。
「わたしは馬鹿になるの。どんどん馬鹿になるのよ。愛がわたしを馬鹿にするの。
わたしの中で、耐えがたいほど大きく狂おしく膨れ上がった愛が。わたしをとてつ
もない、愚か者にする」
夜の果てで。
熱を持った身体を、愛と共に交え。
そして彼の妻、ジュリエットは、こう言った。
「だからあなたはわたしを棄てて去るのよ。美しき暴君。愛に飢え凶暴化した子羊。
あなた、ロミオ。わたしは愚かだから信じるの。あなたが生き延びて。わたしの前
に再び立つ日のことを」
その時、巨大な車のエンジン音が、彼の追憶を破った。
それは巨人の棺桶のように、巨大なリムジンである。
そこからひとりのおとこが、降り立った。
大きな、おとこだ。
夜のように黒い長衣を、纏っている。
そのおとこは、エスカラス大公という名だ。
彼は、少し皮肉な笑みをエスカラス大公に投げ掛けた。
「おれの追放を、見届けにきたという訳か」
エスカラスは、辛辣な笑みを返す。
「追放だと? 本当にそう思うほどにおまえは愚かであったのか、ロミオ」
ロミオは、狼のように暗く笑ってみせる。
「キャピュレットほどには、愚かではないつもりだが」
「ほう」
エスカラスは、悪魔のように優しく微笑んだ。
「ティボルトは愚か者であったがゆえに、殺したとでもいうのか」
ロミオは、テンガロンハットの下から投げやりな眼差しを返す。
「あれはまあ、事故みたいなものだ」
ロミオは、再び記憶に沈む。
ほんの昨夜のことだというのに、とても遠い出来事だと思える。
それは真夜中を過ぎて、間もないころ。
彼の足元には、死体があった。
彼の親友である、マキューシオの死体である。

ティボルトは、呆然と友の死体を見つめるロミオを、サデスティックな笑みを浮か
べながら見ていた。
洒落た夜会服を着こなし、おんなであれば間違いなく見蕩れるであろうその甘いマ
スクが苦悩で蒼ざめるのを見るのは、嗜虐の喜びがある。
ティボルトは、まだ銃を構えたままだ。
マキューシオを殺した銃弾を放ったホワイトホースはまだ熱っを失っておらず、
銃口からは陽炎が立ち上っている。
ロミオは腑抜けた体であるが、彼の腰にはソード社製のリボルビングオートマティ
ックが提げられていた。
夜会服には似合わぬ、凶悪で強力な30−06ウィンチェスターマグナム弾を放つ、
危険なハンドガンである。
ティボルトの持つ460口径マグナムのホワイトホースですら、玩具のように頼り
なく感じさせた。
そんな凶悪な銃を使いこなせるおとこは、このヴェローナ・ビーチの街にはロミオ
しかいない。
彼はだからこそ、美しき暴君と呼ばれ恐れられる。
ソード社製の銃が抜かれたとき、ひとの死なくしてホルスターへ戻ることはないと
も言われた。
ロミオは、愛に狂った死神である。
けれど今は、ただの腑抜けにしか見えない。
それにティボルトは、ジュリエットの兄である自分をロミオが殺すことはないとふ
んでいた。
グレゴリーが、マキューシオの死体へ唾を吐きかける。
その時、落雷のような銃声が轟いた。
グレゴリーが巨大な鉄槌で跳ね飛ばされたように、地面へところがる。
ロミオの手には、巨大なリボルビングオートマティックがあり、その銃口からは煙
が立ち上っていた。
蒼ざめるのは、ティボルトの番であったがそれでも自分がまだ優位を保っているこ
とを疑っていない。
「おい、ロミオ。ふざけるな、これは正式に承認された決闘の結果であって」
「心配するな、まだ災厄は始まったところだ。本当におぞましいことは、これから
はじまる。それに」
ロミオはその甘い顔に似合わぬ、地の底から響くような声でかたる。
「そこの馬鹿は、死んじゃあいないぜ」
確かにグレゴリーは鼓膜が破けたらしく耳から血を流していたが、苦痛のうめきを
あげている。
どうやら30−06ウィンチェスターマグナムは、単に耳元を掠めただけのようだ。
しかし、それだけでも衝撃波がひとをなぎ倒すほどのパワーがある。
そんな銃弾を片手で放つロミオはとんでもない化け物ではあるが、所詮愛に縛られ
た奴隷にすぎない。
「ふん、芝居のような大袈裟な台詞はやめて、友の死体を家族の所へ運んではどう
だい、なんなら手をかしてもいいぜ」
ロミオはそれには答えず、銃を構えたままポケットから煙草をだすと、片手で火を
点ける。
焔が夜の闇の中で、ロミオの瞳を輝かす。
それは地獄の幽鬼が放つ、鬼火のようである。
ティボルトはぞっとして思わず目をそらすと、苛立たしげに叫んだ。
「おい、ロミオ。いい加減に銃を仕舞え」
「映画みたいに」
ロミオは、独り言のように言った。
「映画みたいに、三つ数えよう。それが合図だ」
ティボルトはホワイトホースを、ロミオに向け叫ぶ。
「ふざけるな、おい」
ティボルトは、周囲からブーイングが起こるのを呆然として聞いた。
真夜中とはいえ、いつの間にかギャラリーに取り囲まれている。
ロミオは巨大な銃を軽々と振り回し、ストンとホルスターへ戻した。
少し眠たげにすら思える声で、語りかけてくる。
「おれとの決闘が怖ければ、逃げて帰ってもいいんだぜ」
ティボルトは、ようやく事態を飲み込み蒼ざめた顔で叫ぶ。
「ふざけるな、てめぇも殺してやるよ。モンタギューの腰抜け野郎が」
ギャラリーから、喝采があがった。
ティボルトはまるで夢の中にいるような、奇妙な高揚感を得る。
ロミオは満足げに頷くと、ティボルトへ背を向けた。
「十歩離れろ。足音が止まれば、三つ数える。」
ティボルトは頷き、ホワイトホースをホルスターに納め十歩離れた。
ロミオは、背を向けたまま数え始める。
「1、2、」
ティボルトはその時、ホワイトホースを抜いたが、構える前にリボル
ビングオートマティックの銃口が自分に向けられているのを見た。
「3」
ロミオは数え終わったが、撃たなかった。
銃口は、自分に向けられている。
ホワイトホースの銃口は、下を向いたままだった。
ティボルトは、ロミオの目を見る。
そこには、憐れむような色があった。
ティボルトの頭に、血が上る。
「ふざけんな!」
落雷のような銃声が、轟く。
ティボルトは、猛獣に飛びかかられたような衝撃を受け、身体が宙に
浮くのを感じる。
自分の胸から、大輪の薔薇が咲くように血が飛び散るのを見た。
がくんと、身体が上を向き、夜空が見える。
宝石を散りばめたような、満天の星空であった。
空に向かって落ちていくようだと、ティボルトは思う。

エスカラスは自分を無視したかのように、追憶にふけるロミオを苦々しく見つめる。
テンガロンハットの下の顔は、おんなであれば誰でも身とこころを蕩かされるであ
ろう美貌であった。
しかし、その腰には巨大な銃が、吊るされている。
ポンチョの隙間から、象牙で作られた純白の銃把が覗いていた。
アラバスタのように汚れなく美しい白に、骸骨と深紅の心臓の紋章が刻まれている。
一度抜き放たれれば、死を見なければ収まることの無い恐ろしい銃だ。
リムジンから三丁のサブマシンガンで守られているはずのエスカラスですら、丸裸
でいるような無防備の気分にさせられる。
そして、ロミオは巨大で獰猛な獣のようなバイクに、跨がっていた。
MVアグスタ・ブルターレ・セリエオーロ。
深紅のボディに黄金のホイールを持つ、美しいバイクである。
そのバイクに股がったロミオは、精悍で高貴な獣のように見えた。
その昏いひとみには、大公であるエスカラスすらゾッとさせるような、輝きがある。
けれど、今のロミオは愚か者にすぎない。
愛が野獣を、ただの愚か者へ変えたのだ。
「それでおまえは」
エスカラスは遠いところでこころをさ迷わすロミオを、呼び戻すように語りかける。
「キャピュレットをなぜ、馬鹿だという」
ロミオは、冷笑を浮かべた。
「アウトローカンパニーの走狗になるなど、馬鹿にしかできぬ技だろう」
エスカラスは、冷徹な眼差しで若者の冷笑に答える。
「ステーツの連中と、ことを構えるのは危険だ。南米はやつらの裏庭みたいなもの
だ。そこは常に安定している必要がある」
「だから反体制革命勢力を売り飛ばして、協力するのか? 馬鹿らしい。気がつけば
おれたちはみんな、奴隷になってるぜ」
「だから」
エスカラスは、優しげともとれる笑みをロミオへ、投げ掛けた。
「おまえたちモンタギューが、必要なのだ。用はバランスだよ。左手で握手する時
にも、右手はナイフを握っておく必要がある」
ロミオの瞳が、昏くつりあがった。
「おれらは、お前の駒じゃねえ。能書きはもう沢山だ」
ロミオは、再び投げやりな調子に戻る。
「で、おれに何をさせたい」
「お前の言うところのアウトローカンパニーは、この荒野の向こうにある村で、反
体制ゲリラを支援している」
ロミオの眉が、片方だけ吊り上がった。
「その反体制ゲリラに虐殺行為をさせようとしている。ステーツが人道的支援の名
目で国連軍を派遣できるようにな。だから」
「そいつらを、ぶっ殺せってか?」
エスカラスが頷くと同時に、落雷のような銃声が轟いた。
エスカラスの頭を掠め、銃弾は朝焼けの空へ向かって飛んで行く。
エスカラスは、膝が震えるのを辛うじておさえこんだ。
自分の声が震えないのを祈りつつ、ロミオに語りかける。
「何を撃った?」
ロミオは、夢見るような調子で答える。
「明けの明星だよ。永遠に」
バイクが獣の唸り声のような、エンジン音を響かせた。
「夜が続くように。星を落とせるような気がしたんだよ」
バイクは、走り去った。
エスカラスは、ため息ををついた。
本当に。
本当に、愛こそひとを愚かにするものだ。
そう、こころの中で呟いた。




#447/598 ●長編    *** コメント #446 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:40  ( 62)
love fool 14     つきかげ
★内容
其の二

十字架に祈りを捧げるロレンツは、気配を感じて振り向いた。
白い影が、教会の薄闇の中に浮かびあがる。
その影は、足早にロレンツに歩み寄った。
そして、その足元にひざまづくと、うちひしがれた声を放つ。
「ああ、神父様、神父様」
愛の誓いを交わしたときとは別人のようにやつれた、ジュリエットである。
彼女は、ふりひしぐ雨のように、涙を流す。
「ジュリエット、どうしたのです」
ロレンツの問いに、うめような声をあげたジュリエットは、顔をあげる。
「わたし、あのおとこと結婚させられてしまう、わたしはロミオと永遠の愛を誓っ
たというのに、ね、そうでしょう?」
ロレンツの顔が、曇った。
「誰です?」
「パリスですわ、神父様。お父様は、式を挙げるため街じゅうにふれ回ったの」
ロレンツは、眉間に皺をよせると、静かに首を振る。
「ジュリエット、落ち着いて」
「もうわたしは、どうすればいいのか判らない」
彼女は、赤く泣きはらした目で、ロレンツを見つめる。
「今夜には、式が挙げられる。逆らうことはできないと思う。だって、パリスは」
ロレンツは、膝をつきジュリエットの手をとった。
「心配しないで、ジュリエット」
ジュリエットは、泣きながら首を振る。
「パリスに逆らえば、キャピュレットはお仕舞いだわ。わたし、もう死ぬしかない
の」
ロレンツは、頷いた。
「なるほど、そうかもしれない」
ジュリエットは、驚いた顔をしてロレンツを見る。
ロレンツは、少し微笑むと、ジュリエットの元を離れた。
そして、小さな紙の袋を持って戻ってくる。
「これは、教会に伝わる秘薬です」
ロレンツは、静かに笑みを浮かべたまま、言葉を重ねる。
「この薬を飲めば、仮死状態となり、死体と見分けがつかなくなる。けれど、12
時間たてば、また目覚めます」
「まあ」
ジュリエットの目に、光が点る。
「でも、どうすればいいのかしら」
「ジュリエット、家に帰ってこの薬を飲みなさい。おそらく毒をあおって、死んだ
と思われるでしょう」
ロレンツは、強い意思を感じさせる口調で、ジュリエットに語りかける。
「霊廟に運びこまれたあなたの死体を、わたしはこっそり街の外へと運び出します」
ジュリエットの瞳に、光が宿った。
「ロミオはヴェローナ・ビーチに帰ってくることはできませんが、ジュリエット、
あなたが街の外へ出れば会うことができる」
ジュリエットは、ロレンツの言葉に、強く頷いた。
「街の外で、なんとかあなたたち二人が出会えるよう、手配しましょう。まずは、
家に帰ってこの薬を飲むのです。ただ」
ロレンツは、強く光る目でジュリエットを見る。
「何人かにひとりは、この薬で仮死状態になってから、目覚めないことがあります。
あなたはそのリスクを犯す覚悟をしなければいけません、ジュリエット」
ジュリエットは、ロレンツに抱きつき、その頬へキスをした。
そして、薬を受け取り、風のように去っていく。
ロレンツは、皮肉な笑みを浮かべる。
かつて、ここのネイティブたちに、キリストの奇跡をを再現すると称してこっそり
使っていた薬がこんな形でやくにたつとは。
かつて自分は、信仰に従っていた。
しかし、今は愛にこそ、仕えている。
ロレンツは、そう思う。
だから、偽物の死と再生すら、主が愛を世界に知らしめるためにおこなった業と同
じ意味をもつのだと。
ロレンツは、そんなふうに考えた。




#448/598 ●長編    *** コメント #447 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:41  (128)
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★内容
第四幕

其の一

昼間でもなお、深夜の闇を内に湛えたその密林を、漆黒のボディを持つドゥカティ
を駆ってそのおとこが村にたどりついた時には、既に夜が開けつつあった。
危険な夜の密林を夜通し駆け抜けるような豪胆さを持つおとこであったが、凄烈な
朝日に晒されたその村を見た瞬間ぞっとするものを感じる。
静かで、あった。
ドゥカティのエンジンを切ったとたん、耳が痺れるような静寂が降りてくる。
革のスーツに身を包んだ若い獣のようなおとこは、深夜のように静まりかえった村
の中へと足を踏み入れた。
原色の緑が支配した密林から村へ入ると、そこの建物の白さや砂利の敷き詰められ
た街路の白さが、目に突き刺さってくる。
そして、その白さを貫くように赤い河が流れていた。
いや。
おとこは、整った顔に少し困惑したような表情を浮かべ、眉をよせる。
その赤い河に流れているのは、血であった。
おそらく何百ものひとが流した血が街路へと流れ込み、血の河となっているのだ。
おとこは死の匂いが濃厚にたちこめている村の奥へと、足を踏み出す。
白い石作りの建物が作り上げた村の中を、深紅の河が赤い蛇のようにその身をくね
らせながら、流れている。
おとこは、その赤い河を遡ってゆく。
あまりに濃厚な死の気配に毒気をあてられたせいで、無意識の内に腰に吊るしたコ
ルト・パイソンの銃把に手をあてていたが。
その村の中には、まったく動くものの気配を感じない。
一切の生あるものの気配を、おとこが感じることはなかった。
ただじりじりと昇りつつある太陽の下で、次第に濃くなってゆく死の匂いがおとこ
のこころを掻き乱す。
村の中心へと、向かうにつれ。
死体が道端に転がっているのを、見ることとなった。
おとこの死体。
おんなの死体。
子供の死体。
老人の死体。
そして、若者の死体。
死体の数は、どんどん増えてゆく。
そこで行われた虐殺が、全くの無差別に行われたであろうことは、たやすく想像で
きた。
あらゆる年齢の死体があり、おとこもおんなも同じくらいに、殺されている。
死体の様子を見ると、おそらく拳銃弾を何発も撃ち込まれて死んだようだ。
多分、マシンガンを無差別に乱射したのだろう。
やがて村の中心にある、教会が見えてきた。
高い塔を持ったその教会もまた、白い石で作られているため、それは大きな墓標の
ようにも見える。
深紅の河は、その雪を固めたように白い教会から、流れているようだ。
その教会の回りには、少し種類の違う死体が転がっている。
それらは、武装したおとこたちの死体であった。
迷彩服を身に付け、マシンガンを手にしたまま死んでいる。
そのまわりには、金色に光る薬筴が撒き散らされていた。
武装したおとこたちは、そこでマシンガンを乱射して虐殺をおこなったのであろう
が。
おとこたちもまた、その場で撃ち殺されていた。
それも、とても無惨な死に様をさらしている。
それを見たおとこは、その整った顔を、少し嫌悪に歪めた。
腕が契れ、胴が内蔵を撒き散らし、吹き飛ばされた足が転がる。
おそらく、猛獣狩り用の大口径マグナムライフルの銃弾が使われたのであろう。
武装したおとこたちは、地獄に堕ちた亡者のように、苦悶の表情を浮かべながら死
んでいる。
こんな無惨な殺し方をするものに、おとこはひとりこころあたりがあった。
そして、教会の入り口近くに深紅のボディと黄金色のホイールを持つ、獰猛な獣の
ようなバイクを見いだし、自分の求めたおとこがそこに居ることを確信する。
そのバイクは、MVアグスタ・ブルターレ・セリエオーロであり、彼の友が乗るも
のと同じ車種であった。
おとこは、ホルスターに納めたままのリボルバーに手をかけて、大きな教会の扉を
開く。
洞窟のように薄暗い教会もまた、死の静寂に満ちていた。
いたるところに、破壊された死体がある。
マシンガンを構えた、おとこたちがその身体を大口径マグナムの銃弾に破壊され、
苦悶の末死んでいた。
薄闇の中でも、壁にぶちまけられた赤い血は、はっきりと見える。
そしてその教会の最奥には、白く輝く十字架があった。
それはあたかも、巨人の骸骨のように、真白く聳えている。
塔の上部にある天窓から、金色の糸のような朝日が白い十字架へ向かって、降りて
きていた。
そしてその十字架の下、金色の朝日が降りてきたその場所に、そのおとこは横たわ
っている。
そのおとこが死んでいないことは、砂漠の色をしたポンチョの胸が微かに上下して
いることで判った。
その顔は半ばをテンガロンハットで隠されていたが、花びらのような唇は吐息を吐
いているのが判る。
パイソンを腰に吊るしたおとこは、横たわったおとこへ声をかけた。
「おい、ロミオ。いつまで寝ているつもりだ」
ロミオはその声に、テンガロンハットの下から鬼火のような輝きを放つ瞳を覗かせ、
ポンチョの隙間から巨大なリボルビングオートマチックを突きだすと、地の底から
響くような声で応える。
「おれはもう十分殺したぞ。この上、まだ死体を重ねさせようと言うのか」
「おいおい」
苦笑しながら、おとこが応える。
「おれだ、ロミオ。ベンヴォーリオだ」
その声に、ロミオは立ち上がる。
「何事だ、友よ。地獄へ半歩足を踏み入れたこのおれに、わざわざ会いに来るとは」
ベンヴォーリオは、暗い笑いを見せる。
「半歩だと。もう、手が届かぬほど深く沈んでいるようにしか、おれには見えんが。
まあいい。ロミオ、よくない知らせを持ってきた」
ロミオはおんなであれば、だれであろうとこころを蕩けさせるような美貌に笑みを
浮かべた。
「地獄に沈んでなお、よくない知らせを聞くはめになるとはな」
「まあ、聞け。おまえのおんな、ジュリエットがな。結婚することになった」
一瞬、ベンヴォーリオは目の前で焔が燃え盛ったような気を感じたが、それは極寒
の冷気に転じロミオの昏い瞳に封じられた。
ロミオは、仮面のような無表情になり、蒼ざめた唇に煙草をくわえ火を点ける。
その火の光を受け、テンガロンハットの下で瞳が明けの明星のように輝いた。
「で、おれの妻は誰と結婚するんだ」
「パリスだよ」
ベンヴォーリオは、ロミオの瞳が一瞬だけ稲光のような光を放つのをみたような気
がしたが、ロミオは落ち着いたふうに煙草の煙を吐く。
「やつこそ、アウトローカンパニーのエージェントじゃあないか。キャピュレット
は度しがたい馬鹿だな」
「やつらは完全に、ステーツへ身売りする気だ」
ロミオは、ホルスターへソード社製リボルビングオートマチックを納めると、足早
に歩き出す。
ベンヴォーリオは、その後を追った。
「おい、ロミオ」
「戻るぞ」
「どこへだよ」
「決まってる、ヴェローナ・ビーチへだ」
「おい、しかし」
ロミオは振り向くと、傷をおった野獣のように獰猛な笑みを浮かべた。
「必要であれば、エスカラスのやつを血祭りにあげる。愚か者には愚か者が死をく
れてやる」
ベンヴォーリオは、眉間に皺をよせる。
ロミオは愛という鎖で、縛られていたはずだった。
けれど今、その鎖が切れようとしている。
「とばせば日が暮れる前に、ヴェローナ・ビーチへ戻れるな」
ロミオは、歩きながら呟く。
ベンヴォーリオは、この村に入った時以上に、背中を冷たいものが這っていくのを
感じた。




#449/598 ●長編    *** コメント #448 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:42  (107)
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★内容
其の二

夜の空に向かって掲げられている光の剣であるかのような、摩天楼が聳える聖都市。
その都市に隣接する地区に、広大な貧民街がある。
それが、ヴェローナ・ビーチであった。
バラックが作り上げた迷路のただなかに、その教会は暗く孤独に建っている。
闇の中に佇む隠遁者のようなその教会の前に、一台のリムジンが止まった。
巨人の棺桶のような、巨大で四角いリムジンから立ち上がった影のように黒い男が
姿を現す。
そのおとこは、真っ直ぐに教会へと向かった。
その大きな扉を無造作に開くと、中へと入り込む。
液体化したかのように濃い闇が、教会の中を支配している。
そしてその最奥にある祭壇に、世界の中心の木で吊るされたおとこを祭る、十字架
があった。
闇の中に、世界の罪を贖うために血を流したおとこが、月明かりに浮かび上がって
いる。
おとこは、その祭壇めざして歩いていった。
その祭壇の下に、黒衣のおとこが佇んでいる。
黒衣のおとこは、穏やかに笑みを浮かべると、自分に向かってくる黒いおとこへ語
りかけた。
「これはこれは、エスカラス大公。あなたが主の導きを必要とされるとは、珍しい」
「あいにく戯言は間に合ってる、ロレンツ神父」
ロレンツは笑みを浮かべたまま、エスカラスに傍らの椅子を勧めたが、エスカラス
は無視する。
「なぜだ、なぜおまえは」
黒い男の瞳が闇の中で、昏く光っている。
「ジュリエットを殺した」
ロレンツは、驚いたように眉を片方だけあげて見せる。
そして、少し皮肉な笑みを浮かべた。
「なぜ、わたしにそんなことを聞くのです?」
エスカラスは、吠えるように、答える。
「そんな問いに、答えさせるな」
ロレンツは、そっとため息をついた。
「いいでしょう、あなたはこの天国に一番近い街の支配者だ。わたしに答えさせる
権利があるのでしょう」
ロレンツの顔から、すっと笑みが消える。
「あなたは悪魔に、魂を売った。その償いのためですよ」
エスカラスは、失笑する。
「悪魔だと。まさかラングレーの連中のことじゃあないだろうな」
ロレンツは、答えない。
エスカラスは、少し苛立った声になる。
「ラングレーの連中、ロミオが言うところの、カンパニーから来たアウトローども。
やつらに興味があるのはコークだけだ。コークとその流通経路」
ロレンツは無言のまま、話を続けるよう促す。
エスカラスは、うんざりしたように語る。
「ラングレーは随分前からメデジンを叩こうとしている。直接叩き潰すのはもうす
ぐだろうが。ラングレーはメデジン・カルテルが壊滅した後、分散した小規模カル
テルがコークを捌き続けるのを恐れてる。だからコークの流通ルートの情報が必要
なんだ。そんなものくらい、くれてやればいい。それが一体どうだっていうんだ」
ロレンツは、ようやく口をひらく。
「あなたは、ジュリエットを結婚させた」
エスカラスは、肩を竦めた。
「ああ、ラングレーからきた、すかしたアウトローにくれてやったよ。それがどう
した」
「ヴァージニア州からきたアウトローだろうとなんであろうと。パリスは愛してい
たのですか?」
エスカラスの顔から、表情が消えた。
ロレンツは、落ち着いた声で問い直す。
「パリスは、ジュリエットを、愛していたのですか?」
エスカラスの顔が一瞬赤く染まり、そうして蒼白になった。
まるで、憎悪と絶望が、交互に襲いかかっているようだ。
「神父、あんたまさかそんな理由で、おれたちを皆、破滅に導いたのか!」
ロレンツは、真っ直ぐエスカラスを見つめる。
まるで、大天使のように冷酷な瞳で。
「ジュリエットは幼くまだ子供ではあるが、ひとりのおんなです。家畜のように扱
われてもいい理由はない」
エスカラスは、空気を奪われたように口を開いたり閉じたりする。
そして、ようやく絞り出すように言った。
「ふざけるな」
「ふざけているのは、あなたのほうだ、大公」
ロレンツは、狂おしい表情になったエスカラスとは対照的に、落ち着いた声で語る。
「キャピュレットとモンタギューの対立にしても結局のところ、メデジンとカリ、
ふたつの麻薬カルテルの代理戦争にすぎない。そしてその上にはステーツと革命勢
力の対立がある。じつにふざけています。わたしたちは、二重にも三重にも奴隷と
なっているのです」
エスカラスは、咆哮するような声でいった。
「そんな状況をなんとかするために、ラングレーを操ろうとしたんだろうが!」
ロレンツは少し哀しげに、首を振る。
「怪物と戦うために、怪物になったというのですね。あなたは気高い、大公。でも、
その戦いには意味がない」
エスカラスはもう言葉を失ったかのように、沈黙していた。
ロレンツは、優しげと言ってもいい調子で語る。
「わたしたちは、天国に一番近い街に住む。けれどそれは、地獄にも近いところに
住んでいるということでもあるのです。そんなところで生きていくには戦うことよ
りも、必要なものがあるのです」
エスカラスは、黙ったままロレンツを見る。
ロレンツは、ゆっくりと言った。
「わたしたちに必要なもの、それは希望です」
エスカラスは、失笑する。
「まだ子供のジュリエットを殺しておいて、言う台詞か」
「死んでませんよ」
エスカラスが、驚いた顔になるが、それを無視してロレンツは言葉を重ねる。
「それと大公、あなたは忘れていることがある。ジュリエットこそ、あの愚かな愛
の奴隷であるロミオを縛る鎖であったはず」
エスカラスは、乾いた笑いをみせる。
「やつならまだ、革命派のゲリラと遊んでる」
その時。
夜の闇を、砕くような。
魂を、串刺しにしてしまうような。
傷ついた獣の、遠吠えのような。
雷鳴を思わせる銃声が、轟いた。
ロレンツの顔が、驚愕に歪む。
「どうやら、わたしたちは二人とも、あの愛に飢えた野獣の愚かさを過小評価して
しまったようだ」
ロレンツは、歩き出す。
「急ぎましょう、もう手遅れかもしれないが」
エスカラスは頷き、その後ろに続く。




#450/598 ●長編    *** コメント #449 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:44  (155)
love fool 17     つきかげ
★内容                                         13/11/22 00:53 修正 第3版
其の三

ヴェローナ・ビーチを空から見下ろしたら、どう見えるだろうか。
ヴァレンチノのスーツを粋に着こなし、ムービー・スターのように整った顔のその
おとこは、棺桶を見下ろしながらぼんやりと考えていた。
おそらく、ここは暗いはずだ。
聖都市は、宝石箱のように夜の闇の中で煌めいているのだろうが、その隣にあるヴ
ェローナ・ビーチは闇に沈んでいるだろう。
そして、その暗いヴェローナ・ビーチの中でもさらに暗い墓地の入り口にある、
霊廟であるここは。
きっと、ブラックホールのように、全てを吸い込むような闇に見えるのだろう。
そう思いつつ、口元を微かに歪める。
それを見とがめられたのか、おとこは後ろから声をかけられた。
「おい、パリス。一体どうするつもりなんだ」
パリスは後ろを向き、声をかけたおとこを見る。
大きなおとこで、あった。
身長も、幅もあり、筋肉の鎧に覆われているようだ。
黒い肌に、黒い革のジャケットを着たその姿は、半ば闇に溶け込んでいる。
かつて、ネイヴィー・シールズに所属していたそのおとこを、パリスはシールズと
呼んでいた。
パリスは薄く笑みを浮かべたまま、答える。
「どう、とは?」
シールズは、舌打ちをした。
「おまえの妻は、死んでしまってこのざまだ。キャピュレットとの繋がりは切れた
んだぞ」
「気にするなよ」
パリスは、歌うような口調で語る。
「死んでようが、死んでいまいが、妻は妻だ。幸いなことに、ジュリエットは結婚
の誓いの後に、命を絶った」
「違うだろうが」
「そうするんだよ、判るだろ?」
パリスは、気楽な笑みを見せる。
シールズは、ため息をつく。
「そう、うまくいくのか?」
「もちろん。キャピュレットだって、ラングレーに見捨てられたいわけじゃあない
しな。やつらはメデジンを見限って、裏切る決意をした。後戻りはできない。ジュ
リエットはおれの妻だと、認めるはずだぜ」
シールズは、まだ疑っているような目でパリスを見ていたが、突然腰の拳銃に手を
あてる。
45口径という大砲のような弾を撃つ、コルト・オートマティックだった。
自分の部下には9ミリ弾を扱うハンドガンを持たせていたが、自分だけはその規格
外の拳銃を扱い続けている。
シールズの部下が、無言のままフォーメーションをとった。
右にふたり、左にふたり。
シールズは、ツーマンセル二組が一チームだと考えている。
彼らは、シールズ直下の生え抜きチームだった。
そのチームが気配に反応し、臨戦体勢をとっていた。
パリスにも、気配は感じられる。
それは、獰猛な肉食獣の気配であった。
直接見なくても、背中を火で炙られているように、凶悪な気配を感じる。
パリスは、ゆっくりと振り向いた。
カツンと、はじめて足音が霊廟に響く。
おとこは闇から出て、天窓からさしこむ月明かりにその身を晒した。
テンガロンハットに、砂色をしたポンチョを纏ったおとこである。
蒼ざめたその顔は、苦悩に彩られてもなお、美しさを失っていない。
おんなであれ、おとこであれ、そのこころを甘美な麻痺へと誘い込むような美しさ
である。
しかし間違いなく、飢えた獣のような凶悪な気を漂わせるおとこでもあった。
パリスは、気楽さを装って声をかける。
「君、何の用だい」
おとこはパリスの言葉を無視して、歩を進める。
「ここには、死体しかないのだよ」
おとこは、目をあげる。
テンガロンハットの下から、鬼火のような光を放つ瞳が覗く。
「おれが望むのは、ただひとつ」
おとこの声は、地の底から響くようであった。
「我が妻の傍らに、この身を横たえること」
パリスは、喉の奥でくつくつと笑った。
「では、君がロミオなのだね」
ロミオは、無言で瞳をパリスに向ける。
「何かの間違いだと思うが、あいにくとここにあるのはわたしの妻の死体だけなん
だよ」
パリスは、悪魔のように優しげな笑みを見せる。
「だからロミオ、君は帰って寝た方がいいね。できれば、しこたまコークを喰らっ
て、全てを忘れたほうがいい」
ロミオは、懐から煙草を取り出すと、口にくわえる。
それに火を点けた瞬間、そのひとみが夜空に輝くシリウスのように蒼く光った。
「おれを怒らせたいのなら」
ロミオはゆっくり紫煙を、吐き出す。
「命を失う、覚悟をしておくことだ」
パリスは目配せをして、シールズに合図を送る。
シールズは、彼のチームへ指示を無言のまま出した。
パリスは、とても優しく語りかける。
「ぼうや、そんなに不機嫌なのはね、きっとお腹が空いてるせいだと思うな。なん
なら、わたしが晩餐を、奢ってあげよう」
ロミオがポンチョを跳ね上げて、腰に吊るした拳銃を剥き出しにするのと、シール
ズの部下が放ったスタングレネードが床に転がるのは、ほぼ同時であった。
一瞬、世界が太陽に飲み込まれたように白い光に包まれる。
鼓膜を破壊するような爆音が、霊廟を満たした。
そして、その轟音を突き破るように。
獣の咆哮がごとき、銃声が響きわたる。
死の大天使がラッパを吹き鳴らした後のように、光と音が消え闇が降りてきた。
パリスは、自分の足が震えるのを止められない。
おそらく、彼は奇跡に近いものを見たのだ。
銃声は、一発のように聞こえたが、五発放たれていた。
シールズのチームが、闇の中に倒れている。
ロミオは、真夜中の太陽が夜空に昇るように、その瞳を開いた。
彼は、スタングレネードの閃光で感覚を狂わせないよう、瞳を閉じて撃ったのだ。
瞳を閉じていても彼の記憶と、空間把握は完璧であった。
パリスは、後ろを振り向く。
コルト・オートマティックを構えたままシールズは、信じられないものを見るよう
に自分の胸を見ていた。
そこには、赤い薔薇をさしたように、真っ赤な血が滲んでいる。
シールズは部下と同じく、対刃対弾ボディーアーマーを身に付けていた。
ロミオの放った銃弾はボディーアーマーを貫けなかったのだが、そのパワーはシー
ルズたちの肋骨を砕き、折れた骨が肺を傷つけていた。
シールズは、引きずり込まれるように床へ倒れる。
パリスは幾度も銃撃戦を経験してきたが、ボディーアーマーをつけたひとを倒せる
ハンドガンなど知らなかったし、目を閉じて的に当てることができるガンマンなど
想像を遥かに越えていた。
ロミオは、銃口から煙を燻らせる銃を構えたままだ。
パリスは、自分が倒れていない意味を考え、理解した。
パリスは、拍手をする。
「素晴らしい、素晴らしい」
ロミオは、輪胴式弾倉をスイングアウトする。
パリスの想像したとおり、それは空だった。
ロミオは、懐から弾を取り出す。
三発しか、残弾はないようだ。
しかし、ロミオは満足げに頷くとそれを弾倉に納め、くるりと拳銃を振り回しホル
スターへ納めた。
「映画みたいに」
ロミオは、夢を見ているひとのように言った。
その瞳には、哀しみの色さえある。
「映画みたいに、三つ数えよう。それが合図だ」
ロミオは、パリスを憐れんでいた。
そのことに気がつき、パリスはぞっとしたが、明るく微笑んでロミオに応える。
「いいだろう」
パリスはヴァレンチノの上着を脱ぎ捨てると、腰につけた9ミリのベレッタを剥き
出しにする。
パリスは、ロミオの腰につけた銃を見た。
それは、剣のように長く大きい。
クイックドローには、向かないことは確かだ。
パリスは、腰のベレッタをコンマ1秒あれば撃つことができる。
ロミオがどんな怪物であっても、それ以上速く撃てるとは思わない。
やつは、死ぬ気なんだろう、パリスはそう思う。
パリスを、道連れにして。
まあいい、つきあってやろうじゃあないか。
ロミオが、カウントを始める。
「1、2」
パリスは、ベレッタを抜いた。
「3」
パリスが撃つと同時に、ロミオは後ろに倒れていく。
その肩が血渋きをあげるのを確認し、二弾目を放とうとした時に、轟音が轟いた。
パリスは、剣で刺し貫かれたような衝撃をおぼえる。
自分の胸に、薔薇が咲いたように血が滲むのを見た。
「素晴らしい」
パリスは苦痛で歪む視界の中で、ロミオを見る。
ロミオの銃は、ホルスターに納められたままだ。
彼は抜くことなく、その銃を撃った。
ホルスターに納めた銃を撃つために、後ろに跳び、肩に着弾したショックも利用し
ホルスターに納められた銃をパリスに向けたのだ。
パリスは、微笑むように唇を歪め、闇に沈んでいく。
人生の最後に、奇跡を二度見られるとは。
そんなに悪いことじゃあない、と。
そう、呟いたつもりだった。




#451/598 ●長編    *** コメント #450 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:45  ( 46)
love fool 18     つきかげ
★内容
其の四

ロミオは、ゆっくりと立ち上がる。
苦痛で少しふらついたが、体勢を整えると真っ直ぐに棺桶へと向かった。
撃ち抜かれた左肩から血が滴り、左手の先から床へと落ちていく。
闇の中に花弁を落とすように、ロミオは血の滴を床に落としジュリエットの元へと
向かう。
壇上に置かれた棺桶の傍らに、ロミオは立った。
その棺桶は、宝石のように美しい花々に満たされている。
その中に、死して尚天使のごとく美しいジュリエットがいた。
おそらく花嫁衣装のまま棺に納められたらしく、純白のドレスを纏っている。
ロミオは、その姿を見て夢見るひとのように笑みを浮かべた。
「ようやく、君の元へ」
そっとロミオは、ジュリエットに唇を重ねた。
それは、身を切り裂く冬の風のように冷たい。
それでも、ロミオは満足げな笑みを浮かべる。
「たどり着けた。もう、ここから離れたりしない」
ロミオは、ジュリエットの横に身を横たえる。
血塗れの腕で、ジュリエットを抱く。
純白のドレスに、薔薇を散らしたように血の滴が滲んだ。
ロミオは、拳銃を構える。
真っ直ぐ、空に向かって。
「ああ、今こそ撃てるよ」
ロミオは、天井を透かしてその向こうにある、宝石を散らしたような夜空を見てい
た。
ロミオの拳銃は、真っ直ぐ空に向けられる。
「残酷な朝を呼び込む明けの明星を」
ロミオは薄く目を閉じ、そっと笑みを浮かべる。
「撃ち砕くんだ」
それは、慟哭のような。
死を悼む、獣の遠吠えのような。
銃声だった。
天井に命中した銃弾は、正確に跳ね返り、ロミオの胸を貫く。
着弾の衝撃で、ロミオは吐息を漏らす。
その全身が、幾度か痙攣する。
そして、ロミオは満足げな笑みを浮かべたまま、闇へ落ちていった。
ロミオは、思う。
(今こそ、おれたちの愛は、永遠となった)
ロミオは、浮游感に飲み込まれている。
ロミオの目には、星が見えていた。
ダイヤモンドが砕かれ、散りばめられたような星々の中へと墜ちて行く。
ジュリエットと共に。
ロミオは、思う。
(明けることのないこの夜の中で、おれたちの愛は永遠になる)
ロミオは血塗れの腕でジュリエットを抱きしめると、もの凄い速さで星々の中を墜
ちて行った。




#452/598 ●長編    *** コメント #451 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:47  (114)
love fool 19     つきかげ
★内容                                         13/11/22 00:54 修正 第2版
其の五

ここは、海の底のようだ。
ジュリエットは、そう思う。
暗くて冷たく重たいものが、身体にまとわりつき自由を奪った。
ふと、遥か彼方、上方で光が見えることに気がつく。
ジュリエットは、その光に意識を集中する。
すると、重たい水の中で彼女の身体は、動き始めた。
ジュリエットは身を捩り、光に向かって昇ってゆく。
水面に向かって泳いで行く魚の動きを、イメージしてみる。
彼女の身体は、加速していった。
気がつくと、回りは単なる闇ではなく、藍色に染まりつつあることに気がつく。
速度を増して行くので、彼女の回りに渦が巻き起こってゆくようだ。
突然、彼女は水面に出たかと思うと、目覚めていた。
ジュリエットは自ら毒を飲んだ霊廟で、目を開く。
彼女は、自分が恋人の死体の腕に、抱かれていることに気がついた。
ジュリエットは、大きく息を吸って吐く。
あたりには、色がない。
灰色の、世界だった。
ただ、恋人の流した血だけが、その灰色の世界で赤い。
ジュリエットが毒をあおいだ時に着ていた白いドレスに、花弁を散らしたように赤
い色がついている。
それが、この世界の唯一の色だ。
ジュリエットは、自分が目覚めていないように思う。
こころが、動いていない。
当然襲いかかるであろう哀しみも、絶望も、まだやってこなかった。
これは、夢の世界だと、ジュリエットは感じる。
しかし、多分それは自分の夢ではなく、死の世界へと旅だった恋人、ロミオの夢の
中にいるような気がした。
ジュリエットは、ロミオの口許に頬をよせる。
美しい恋人の唇から、吐息が漏れることは無かった。
ジュリエットは、ロミオの唇に自分の重ねる。
薔薇の花弁のような唇は、まだ完全に温もりを失っていない。
しかし、それは冷たかった。
明らかに死者の、それである。
突然、こころに痛みが訪れた。
まるで、いきなり胸の奥を、短刀で貫かれたようである。
ジュリエットは、耐えきれず叫んでいた。
「ロミオ。ロミオ、ロミオ、ロミオ。ロミオ!」
彼女の瞳から、真珠のような涙がぼろぼろと零れ落ちる。
それは、ジュリエットの意思には関わりなく、彼女の胸の底奥深いところから止め
ようもなく沸き上がってくる熱い固まりがひきおこすのだ。
彼女は、叫ぶ。
「ああ、ロミオ、ロミオ、ロミオ、ロミオ!」
ジュリエットは、ロミオの死体に口づけをする。
その唇に、閉ざされた瞳に、まだ温もりをのこす頬に。
渇いたひとが泉から水を貪るように、何度も何度も口づけを繰り返す。
そして、叫ぶ。
「ロミオ、わたし判っていたの、そう判っていたのよ、はじめから」
ジュリエットはロミオの頬を、唇を、滴る涙で濡らしてゆく。
ロミオの死体もまた、泣いているように見えた。
「あなたの瞳の奥に、死があるのを。あなたが逃れようもなく、死に魅入られてい
るのを。そして」
ジュリエットは、確かめるようにロミオの頭を、頬を、首を撫で回す。
「ロミオ、あなたもまたどこかあなた自身も知らないような深いところで、死を魅
入っていたことを。ああ、わたしは知っていた。わたしの恋敵は宝石で飾られた美
女ではなく、黒い翼の死の天使だって。けれど」
ジュリエットは、もう一度口づけをする。
まるで彼女の激情をロミオに注ぎ込もうとしているかのような、熱く深い口づけだ
った。
そして、再び顔を上げる。
「わたしが、そこへゆく。もしあなたが死の天使に抱かれていれば、あなたを奪い
返してやるわ。わたしたちの愛を」
ジュリエットは、優しくロミオの頬を撫でた。
「愛を永遠にするために」
彼女は、ロミオが死してなおその手に握っている拳銃を、手にする。
ロミオが握りしめた手は、そのままにして。
ジュリエットは、その弾倉に最後の一発の弾が残っているのを確かめると、顔を歪
めた。
「ああ、ロミオ。あなたは死んでも優しいのね。わたしの為に、最後の弾を残して
くれるなんて」
ジュリエットは、ロミオの隣に再び身を横たえた。
ロミオの腕を、空に向かってさし出す。
ジュリエットは、天井に弾痕があるのを知っていた。
なぜか彼女は、その弾痕が赤く輝いているように見える。
色を失った恋人の夢の世界で、唯一残っている赤が。
そこにあるように思え、それはきっとロミオの恐れた夜の終わりを告げる明けの明
星であると思えたのだ。
ジュリエットは、真っ直ぐロミオの腕をその赤い星に向かって捧げ。
目を、閉じる。
そこには満天の星空が広がり、そのあまりの美しさに吐息をもらした。
降るような、星々。
白銀の花が、黒いビロードの幕に撒き散らされたような。
その時、奇跡がおきた。
死後硬直によって、筋肉の収縮がおきたのか、死んだはずのロミオの指が引き金を
ひいて。
この世の終わりを告げる大天使のラッパがごとき銃声が、灰色の世界を貫いた。
竜の吐息のように燃え盛る銃弾は、正確に暗い天井で赤く輝いていた星を砕くと、
跳ね返りジュリエットの胸へ突き刺さる。
ジュリエットは、焔でできた剣で、心臓を貫かれたようだと思った。
全身を吹き飛ばすような衝撃に襲われ、彼女は一瞬意識を失い。
そして、目を開いた。
ジュリエットは、息を飲む。
そこは、白かった。
世界を雪が覆い尽くしたとでもいうかのように、一面が純白の世界である。
ジュリエットは、自分が身に付けているドレスに付いた血の赤も、消えていること
に気がついた。
全てが、白く汚れなく、恐怖も不安も苦しみも、なぜか消え去っている。
傍らには、ロミオが横たわっていた。
眠っているように、瞳を閉じている。
彼女と同じように、純白の服を身に付けており、彼女と同じように血の後は消えて
いた。
ジュリエットは、ぼんやりと思う。
ここは、時間が結晶化した、永遠の世界なんだと。
水晶のように時間が凍り付いた世界に、わたしたちとわたしたちの愛は、閉じ込め
られたのだろう。
ジュリエットは、脈絡もなくそんなことを思う。
彼女は、ロミオを見つめる。
きっと、もうすぐ彼は起き上がり、彼女を抱き締め口づけて、こう言ってくれるに
違いない。
愛してるって。
白い、全てが白いその、全てが凍り付いた世界の中で。
ジュリエットは、ロミオの手を握り、待っていた。
永遠に。




#453/598 ●長編    *** コメント #452 ***
★タイトル (CWM     )  13/11/22  00:49  (103)
love fool 20     つきかげ
★内容
其の六

霊廟には、死体だけが残った。
灰色の空間を、静寂が包んでいる。
しかしやがて、空の支配を月が太陽に譲り渡そうとするころに、静寂は破られるこ
ととなった。
エスカラス大公とロレンツ神父が、キャピュレットの当主とその部下たちをつれ霊
廟へと踏み込んでくる。
その惨状を見た瞬間に、悲鳴と怒号が沸き起こり、絶望と悲嘆が交錯した。
明かりがつけられ、また朝日も差し込み、灰色の世界に色が戻ってくる。
キャピュレットのおとこたちは忙しく立ち回り、事後処理に勤しむ。
やがて、モンタギューの当主も呼び出され、その場へ配下のおとこたちを引き連れ
て現れる。
繰り返される、絶望。
繰り返される、哀しみ。
霊廟は、騒然としていた。
夜の間は、時間が凍り付いていたというのに、今それは溶け濁流となって過ぎてゆ
く。
その慌ただしいひとの群れの中で、ロレンツ神父だけがひとり立ち竦んでいた。
その顔は蒼白であり、流れる涙を拭おうともせず。
神父の回りだけは夜の空気が残っており、そこだけ時間が澱んでいる。
ロレンツ神父はただひとり、じっとロミオとジュリエットの死体を見つめていた。
やがて、神父は誰に向けてという訳でもなく、言葉を紡ぎはじめる。
「わたしは、愚か者でした」
それは、囁くようなけれど不思議と響き渡る声であった。
「それは、ロミオ、それにジュリエットあなたたちの愚かさを、読み取れなかった
ことです。あなたたちの愛は、ひとを愚かさに導く」
ロレンツ神父は、悲しげに首を振る。
「いや、それとも」
神父は、固く抱き合った恋人達の亡骸を、少し眩しげに見つめながら言葉を重ねる。
「そもそもひとは愚かなものであり、もしかすると愛こそが、ひとの本来の姿を剥
き出しにするものなのかもしれない」
「愛は、愚かだと」
突然後ろから声をかけられ、ロレンツ神父は振り替える。
そこには、エスカラスが立っていた。
夜のように暗い、闇をその身に纏って。
「そんなことは、知っている。うんざりするほどにな。それを利用し出し抜こうと
して、このざまだ。おれは、愛に復讐されたのかもしれぬ」
「大公」
神父は、少し笑みを投げ掛ける。
エスカラスは、それを無視して独り言のように、言葉を重ねた。
「おれは、爵位を金で買ったがゆえに、大公などと呼ばせているが、元はシシリー
の下街の生まれだ」
ロレンツ神父は、驚いたようにエスカラスを見る。
エスカラスはより深く、自分の物思いに沈んでゆく。
「気がついたときには、おれは抗争の中にいた。生き延びるために、数えきれぬほ
ど殺してきた。ローマで、ニューヨークで、リオで、サンパウロで、そしてこのヴ
ェローナ・ビーチで」
神父は、黙ってエスカラスを見つめている。
エスカラスは、そんな神父に自嘲めいた笑みをみせた。
「その結果どうだ。妻は殺され、息子たちを殺され、兄弟を殺され、友を殺された。
残ったものといえば、全身につけられた拷問の傷跡だけだ」
エスカラスは、喉の奥で笑う。
「そうまでしてたどり着いたのが、この愚か者たちの死体のある場所だというのか。
もういい、おれはもう厭きた」
ロレンツ神父が、静かに問いかける。
「どうされるつもりですか?」
エスカラスは、歪んだ笑みを浮かべる。
「これから、司法に出頭して、洗いざらいぶちまけてやるさ」
ロレンツ神父の目が驚愕に見開かれ、震える声で問うた。
「あなたは、三世紀は続いたコーサ・ノストラの、沈黙の掟を破るおつもりか」
エスカラスは、どうでもいい、といったふうに肩を竦める。
「厭きたんだよ。あれにもこれにもな」
それだけ言うと、身を翻し出口へと向かう。
神父は、その背中に言葉を投げる。
「幸運を、祈ります」
エスカラスは、足を止め振り返った。
苦笑を浮かべながら、言う。
「おいおい、あんたは神父だぞ。そこは主のお導きをとかそういう」
ロレンツ神父は、首を振った。
「わたしはひとりの友として、あなたを送りたかった」
エスカラスは、苦笑をさらに深め、再び身を翻すと歩き出す。
そして、出口の近くにきたところで足を止めると振りかえる。
エスカラスは、大声で叫んだ。
「キャピュレット、モンタギュー、おまえたち、よく聞け」
エスカラスの老いた獣が吠えるような声が響きわたり、霊廟は再び静まりかえった。
「おれはもう、コークのビジネスから手を引く。だからおまえたちもこの街では、
コークを扱えなくなる。これは助言だ。もうこのビジネスから手をひけ」
蒼ざめた顔のキャピュレット当主が、とまどった声をだす。
「しかし」
「ラングレーのことだったら、気にするな」
エスカラスは、獰猛な笑みを浮かべる。
「おれがこれから、とてつもないねたをやつらにくれてやる。ニューヨークのガン
ビーノを壊滅させられるくらいのねただ」
キャピュレットは怯えた顔で、頷いた。
エスカラスは、満足げに笑う。
「メデジン、それにカリ。あの麻薬カルテルからはさっさと手をひくことだ。やつ
らはもうすぐステーツに叩き潰される。まあ、そんなことはおまえらのほうがよく
知ってるだろうが」
エスカラスは、キャピュレットとモンタギューの二人を交互に見た。
「そうすればおまえたちがいがみ合う理由も、なくなるだろう。手をとりあって協
力しろ。そして」
エスカラスは、厳かに言った。
「戦って、生き抜け。愚か者たちの分もな」
キャピュレットとモンタギューの二人は何も言わず、ただ深々とその頭を垂れた。
エスカラスは、それを見届けると霊廟を去る。
ロレンツ神父は、その背中を見ながら呟いた。
「愛は、ひとを愚かにする。けれど、ひとの本性が愚かであるということならば」
神父は、そっと笑みを漏らした。
「それもよし、としなければならない」


完




#454/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  13/12/30  23:01  (486)
お題>旅行(上)   永山
★内容                                         14/07/28 14:42 修正 第2版
 快速電車は定刻通り、目的のターミナル駅に到着した。他の客に続いて、プ
ラットフォームに降り立つ。寒風に首をすくめ、コートの襟を立てた。宣伝の
謳い文句を信じるなら、今日泊まる宿まで、あと徒歩一分ほどだ。早く暖かい
部屋に入りたい。
 宿の外観を確認しておこうと、足を止めて首を巡らせた。当然ながら、ここ
からでも充分に見通せる距離にある。濃い焦げ茶色の外壁に、窓ガラスがいく
つもならび、光を反射しているのが見て取れた。
「おお、来たか」
「来たかじゃない。君が誘ったんだろう」
 そう返事した私に、ベンチに座ったままこちらを見つめる男の目は、やに下
がった。
「来ないと言っていたくせに、人恋しくなったのかい」
「気乗りしないと言っただけだ。ただ、二人分のチケットをどうするのか、気
になったんでね。大方、君は私以外に誘う相手もいないだろうと心配してやっ
て来てみたら、案の定だったな」
「何でもいいよ。来てくれて嬉しい」
 彼は腰を上げ、荷物を片手に持つと、先に歩き出した。いつから待っていた
のか知らないが、ご苦労なことである。その背中に向けて、予防線を張ってお
くとする。
「つまらないイベントだったら、途中で帰るかもしれないぜ」
「大丈夫だろう。確かに、君ほどの名探偵なら、あっという間に解いてしまう
可能性もあるが、そうなったとしても大人の対応を頼む」
「どういう意味だ?」
「正解を、他の参加者がいる前で大声で披露する、とかさ」
「誰がするか。君は私をよほど非常識な人間だと思っているようだ」
「ある程度は非常識じゃないと、名探偵にはなれないんじゃないかと思ってた
よ」
 そんな馬鹿げたやり取りをする内に、宿に着いた。
 推理イベントを催すからか、出入り口には執事のような格好をした初老男性
が立ち、参加者を出迎えている。リーフレットを手渡しては、お辞儀をし、手
で中へと促す。
 私達もそれぞれリーフレットをもらうと、受付のカウンターに向かった。
「手続きはやっておくから」
 チェックインは彼に任せて、リーフレットに見入る。あまり派手な配色では
なく、むしろ暗い色を意図的に用いているようだ。推理だのミステリだののイ
ベントでは、こういう風におどろおどろしさを醸し出すのが定番らしい。
「お待たせしました。ご案内します」
 軽やかな声に面を起こすと、白の制服に身を包んだ若い女性が立っている。
片手にはすでに私の連れの荷物があり、空いている方の手を私の荷物へと伸ば
してきた。
「結構。自分で持つよ。両手に大荷物では、他の客にも迷惑が掛かるかもしれ
ない」
 廊下を見通し、私は感想を述べた。さっき目の当たりにした外観は立派だっ
たが、内部、特に通路の類はホテルにしてはいささか狭い。
「それじゃ、私も自分で持とう」
 我がワトソンは主体性に欠けるようだ。女性客室係は、一度持った荷物を運
ばずに返すのに、多少は抵抗があったようだが、無論拒否などしなかった。に
こりと微笑み、それではこちらへと、先頭に立って歩き出す。私達もゆっくり
続く。
「こちら、四〇二号室でございます」
 胸ポケットから大ぶりな鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。右に軽く回
すと、これまた大げさな音がかちゃりとし、解錠されたと分かる。客室係は慣
れた動作でドアを押し開き、私達二人を通した。
「おお、いい部屋じゃないか」
 相棒が感嘆の声を上げた。まるで子供だが、それを咎める気にはならない。
部屋は実際、広くて豪華と形容できた。第一印象は、奥行きのある長方形の部
屋。ほぼ真ん中に内扉があり、寝室とリビングその他を仕切っている。奥が寝
室で、手前がリビング。歩を進めてよく見ると、一つの部屋を仕切ったという
よりも、二つの部屋をつなげた趣が強い。リビングにはソファやテーブル、棚
などが配され、それぞれ機能性は高そうだ。
「照明の入り切りは、こちらのスイッチで操作してください」
 女性客室係の手が、壁に備え付けのコントロールパネルに触れると、ライト
が柔らかな橙色の光を注ぎ始めた。
 そのあとも使用方法を説明し、係員は下がっていった。
「何か飲むかい? 冷蔵庫の飲み物は料金に含まれているそうだから、遠慮す
ることはない」
「この部屋で最初に交わす会話が、随分しみったれているな」
 苦笑してしまったじゃないか。
「しょうがないだろ。普段の暮らしとは大違い、非日常空間てやつだ。さもし
いことを口走りはするし、浮かれもする」
「どんと構えて、楽しめばいいのさ。ましてや、招待されたのだから、金だの
何だのと口にするのがおかしい」
 そうなのだ。誘ったのは相棒だが、費用は一切出していない。私も同様だ。
遡ること三年とふた月、ある連続殺人事件を解決してみせたのだが、そのとき
依頼をしてきたのが八尾大悟(やおだいご)という大地主で、いたく感謝され
た。報酬は充分受け取ったのだが、あちらはまだ足りないとの念が残っていた
らしい。ちょうど半年前に、この宿泊を伴うイベントへの参加を手紙で打診し
てきた。
 それが、二泊三日の謎解きミステリーイベント、「殺人者、東方より来たる
(仮題)」である。
 企画・主催は東方企画といい、八尾氏の仕事の関連会社だそうだ。仮題とあ
るように、正式に販売されているツアーではなく、最終チェックの段階らしい。
近しい者を客として招き、体験してもらって、意見を集め、より完成度を高め
るつもりなのだ。招待に気兼ねなく応じられるようにという配慮だろうか、手
紙には、私達にはミステリーとしての難易度を判定していただきたいとの一文
が付してあった。
「招待で思い出した。難易度の判定の件だけど、名探偵基準ではなく、一般人
基準でやってくれよな」
 相棒はソフトドリンクを適当に何種類か取り出し、私に見せながら言った。
 私はヨーロッパの名水とやらを選び、栓を開けてもらってから受け取った。
「これ、水割り用ではないだろうね」
「そんなことよりも、基準の話だよ」
「分かっているさ。これこそ、大人の対応をしないとね。――だが、真剣に取
り組まないと解けない難問である可能性も、十二分にあるんじゃないかなあ」
「君が解けないときは、難易度を大幅に下げるよう、進言すべきだな」
「プレッシャーを掛けないでくれたまえ。この手の推理問題は得てして、現実
とは異なるが故に、手こずるもんだよ」
 私が正直な気持ちを口にしたとき、ちょうどアナウンスが入った。
 イベント参加者が全員到着したので、スタート前に説明やら確認やらを行う
ため、ロビーに集まってくださいとのことだった。

           *           *

 皆様、謎解きミステリーイベント「殺人者、東方より来たる」にようこそ。
私は当イベントの進行役で、今回のイベント中の責任者でもあります、大沢理
助(おおさわりすけ)と申します。お見知りおきを。
 皆様には今回、モニターとして参加していただく訳ですが、イベントの中身
は本番のそれと基本的に変わりありません。モニターせねばという意識は頭の
片隅にでも置いて、これから二泊三日の間、謎解きの世界に存分に浸り、味わ
い、楽しんでいってください。
 謎解きミステリーの形式ですが、皆様のいるこの場が、そして全てのフロア
が、そのまま舞台になります。あ、もちろん、皆様の寝泊まりする個室は除き
ますが。
 事件を起こす犯人や被害者、その他関係者は全員、当方で手配した役者の方
方に演じていただきます。
 では、皆様の役割は何か? 無論、探偵としての役割です。ただ、決められ
た台詞や動作振る舞いの指示はございません。観客として劇を眺め、探偵とし
て推理に集中できます。
 ここで一つ、注意点が。劇の進行中は、演じている役者達の邪魔にならない
よう、大人の対応をお願いいたします。また、推理するに当たり、演者に事情
聴取をしたいと考えられるかもしれませんが、ご遠慮くださいませ。関係者の
証言を含む必要な情報は、捜査の指揮を執る警部役を通じ、皆様に伝えられま
す。なお、「これこれこういう情報がないのはおかしい」という点がございま
したら、私の方へお伝えください。可能な限り対応させていただき、イベント
本番での改善にもつなげたいと考えております。
 先ほどのご説明で、演者の方々と参加者各位を見分ける必要があるとお気付
きでしょう。それに、お互いの呼び名を知らないのも、恐らく不便を生じるか
と思います。そこで、皆様には黄色い名札を着けていただきます。これからお
配りするプレートに、皆様の手で好きな呼び名をご記入ください。本名でもニ
ックネームでもかまいません。まあ、大人の節度を持って、人名と分かるよう
なネーミングをお願いします。それと、既存のミステリに登場する名探偵や怪
人などの名前を借用するのも、できれば避けてください。ミステリマニアとし
ておしゃべりする機会があると思いますが、その際に甚だややこしいことにな
りかねませんので。
 それではしばし時間を設けますから、ご記入ください。

           *           *

 私は堀詰写楽(ほりづめしゃらく)と記入した。相棒の手元を見ると、桑藤
尊也(くわとうそんや)と書いていた。

           *           *

 全員、書き終えたようですね。説明を続けます。今この時点から、皆さんは
お客様ではなく、探偵と見なされます。
 話が前後しますが、役者の方々も名札を着けています。皆さんの黄色に対し、
役者は赤色となっています。
 起きる事件は三つ。おおよそ、二日目の夜までには三つの事件全てが起きる
ことになるでしょう。三日目の午前中に、正解発表を行う予定でいます。前も
ってお渡ししたガイドにあります通り、その間、事件の進行が全くない時間を
適宜を設けます。夜は身体を休め、睡眠を取るための時間であり、昼は観光な
どにお当てください。念のためにご忠告申し上げますと、お出掛けになってイ
ベント開始時刻までに戻られなかった場合、途中参加は難しく、置いてけぼり
になる可能性が非常に高いです。あしからず。
 事件に関してですが、犯行は単独犯によるものとします。犯人は誰かという
謎の他に、それぞれの事件には解くべき謎が一つずつ設定されます。関係者の
証言を含む、必要な手掛かりは全て、私の方から発表する形を取ります。
 三つ目の事件が発覚した時点から、解答を受け付けます。原則的に、正解を
より早く提出された方を優秀な探偵として認定します。ただし、他の要素を加
味して審査する場合もないとは言いません。たとえば、探偵の皆さんは協力し
合ってもかまいませんが、そういった人の評価は、単独で解決した人よりも低
い、と言う意味合いです。尤も、誰が誰とどんな相談をしたのか、詳しく把握
できるはずありませんから、協力や相談は今回、審査には無関係とします。賞
品も出ませんしね。
 それから、これが一番大事なのですが、七百番台の部屋があるフロアには、
無断で立ち入らないでください。のぞき見や立ち聞きもご遠慮願えたらと思い
ます。と言いますのも、舞台裏を明かすのは興醒めですが、役者の方々やスタ
ッフの部屋となっており、また、シナリオの段取りを確認するための場でもあ
ります。何卒、ご理解ください。この禁止事項を破られた場合、失格と見なす
こともありますので、ご注意願います。
 事前の説明は以上です。他の細々とした点は、イベントの進行に従い、ある
いは必要に応じて説明いたしますが、現時点で何か質問がございましたら、伺
います。
 ――ございませんね? それでは、謎解きミステリーイベント「殺人者、東
方より来たる」、開幕です。

           *           *

 進行役の台詞を待っていたかのように、大きな音がした。思わず、足を踏ん
張る。
 アナウンスのスピーカーから、サスペンスを盛り上げるようなメロディが流
れ、じきに止まった。続いて声が流れることは……なかった。たった今からが
非日常空間のスタートだという区切りなのだろう。

           *           *

 午後六時。予め送付されていたプログラムガイドにある通り、夕食の時刻だ。
ダイニングに向かうと、他の参加者達も三々五々、集まっていた。
 複数脚ある丸テーブルの上には、数の書かれた札が置いてある。部屋番号に
対応しており、自室の数字のところに座るようになっている。
 私は七〇四と書かれたプレートの前に来ると、自ら椅子を引いて座った。
 イベント中、私は四谷英孝(よつやえいこう)という役を与えられている。
このあと、早々に退場することになっていることからも分かるように、まだ駆
け出しのペーペーだ。自分の力量を分かっているから、役に関しては文句ない。
でも、シナリオの全てを見せてもらえないのは不満だ。信用されていないらし
い。参加者の誰かに、答を教えるとでも思われているのか。まあいい。その内、
見返してやる。
 誰が犯人か知らないまま、殺されるというのは、演技においてどうなんだろ
う? 私は毒殺されることになっている。現実の殺人で毒殺となると、殺され
る側は犯人を知らないままということがほとんどだろうから、リアリティがあ
ると言えばある。反面、劇全体を眺めたとき、どういった位置を占めているの
かが分からないというのは、どうも頼りない。
 おっと、全員が揃ったようだ。私のテーブルには役者が他に三名、一般参加
者が二名座っている。普通に考えるなら、役者三人の中に犯人がいるはずだが。

           *           *

 料理に舌鼓を打っていると、役者による芝居が始まった。役名と簡単な来歴
が分かるやり取りがなされたあと、二人の人物がいきなり大きな声で言い合い
を始めた。最初は訳が分からなかったが、これも芝居と知ると、皆、意識を集
中する。
 ここで整理しておこう。役者演じる登場人物の内、現時点で明確な動きを見
せたのは八名。

七〇一号室:一ノ瀬寛人(いちのせひろと)不動産業者
七〇二号室:二階堂春彦(にかいどうはるひこ)大富豪。妻に先立たれて以降、
財産の浪費が増えた
七〇六号室:二階堂夏子(にかいどうなつこ)春彦の娘。教師。骨董品収集が
趣味で、その費用の大半を父親からせびっている
七〇七号室:二階堂秋雄(にかいどうあきお)春彦の息子。名目上、父の会社
の研究員だが実際は何もしていない
七〇八号室:二階堂冬美(にかいどうふゆみ)秋雄の妻。元ファッションモデ
ル
七〇三号室:三鷹孝美(みたかたかみ)タレントの卵。春彦に言い寄っている
七〇四号室:四谷英孝(よつやえいこう)自称フリーライター。恐喝で糧を得
る
七〇五号室:五代和保(ごだいかずほ)春彦の秘書

 この内、私・堀詰と相棒の桑藤は、二階堂夏子と相席だった。整った顔立ち
だが、銀縁眼鏡で損をしている。いかにも堅そうな人物然としているが、話し
ぶりは砕けていて、作法は万全とは言いがたい。つい最前も、キューブアイス
を浮かべたストレートティーを、ストローでかき混ぜ、音を立てていた。
 場の設定は、二階堂春彦の誕生パーティで、我々参加者も招かれた一般客と
いうことになっている。
 寸劇により、四谷なる若い男が、二階堂家やその知り合い達何名かの秘密を
握っており、恐喝しようとしていたことが明らかになった。
 示唆された秘密――恐喝のネタは、次の通り。春彦はかつて違法行為で財を
築いたこと。冬美は過去にいかがわしい映像作品に出演経験があること。一ノ
瀬は不起訴に終わったが詐欺容疑を掛けられた過去があること。五代は前の勤
務先での横領疑惑。三鷹にも何かあるようだったが、それが明るみに出る前に、
夏子が手にしたグラスの中身を、四谷にぶちまけた。
 四谷は一瞬、目を白黒させたがにやりと不敵に笑い、両手で髪を整える仕種
を見せた。春彦らから出て行けと言われても、しばらくは粘った四谷だったが、
秋雄と一ノ瀬が腕力に訴える素振りを示すと、急に及び腰になった。
「まあ、着替えなきゃいけないしね」
 我々のいる方へくるりと背を向け、ドアへと向かう。
 そのまま退場かと思いきや、途中で立ち止まり、ウェイターに水を所望する。
同時に、懐から薬瓶を取り出した。近くの席に座っていた一ノ瀬が、コップ一
杯の水を渡した。受け取る前に、瓶の中の数錠を手のひらに落とす四谷。
「こんな稼業をやってるが、意外と繊細な質でしてね。胃が痛む。だから薬が
手放せない」
 気取った調子でのたまいながら、薬を口に含み、渡されたコップの水をあお
った。そしてまた歩き始めたが、数歩進んだところで突然、頽れた。
 床に頭を打ち付けかねない、真に迫った倒れ方もあって、室内の空気は騒然
となる。四谷の手には、コップが握られままである。飲み残しの水がこぼれ、
床に広がった。
 春彦の主治医だという男が進み出て、四谷の傍らに跪く。脈を取ったり動向
を調べたりと一連の動作のあと、首を横に振った。
「亡くなっておる」
 短い一言。場は大きく揺らいだ。
 すぐさま通報がなされ、やがて警察が乗り込んできた。

・志賀大作(しがたいさく)ウェイター
・町野秀一(まちのしゅういち)春彦の主治医
・蒲生連也(がもうれんや)刑事
・星名九州男(ほしなくすお)刑事

           *           *

 探偵の皆さん、警察から発表がありました。その内容をここにお知らせしま
す。
 四谷の死は、青酸系の毒物が原因と判明しました。現在、彼が死の直前に服
用した薬及び水、さらには水の入っていたコップの検査が行われています。
 この殺人で皆さんに考えていただきたい謎は、犯人はどうやって四谷に毒を
盛ったのか、です。必要な情報はまだ出揃っていませんが、考える取っ掛かり
として、被害者のいたテーブルの座席図が参考になるかもしれません。右隣に
一ノ瀬、左隣には五代、そして彼女の左隣に町野がいました。
 なお、毒の入手経路は考慮する必要ありません。誰にでも入手可能だったと
お考えください。
 おっと、そうこうする内に、検査結果が出たようです。ここは蒲生刑事から
直接、話していただくとしましょう。

           *           *

「まあ、当たり前と言えば当たり前の展開だね」
 個室に戻るなり、私が言うと、桑藤はソファに倒れ込むように座りながら、
ああそうだねと怪しげな口調で反応した。酒の飲み過ぎだ。
「君、いくら今回は記録をしなくていいからといって、羽目を外しすぎるのは
困る」
「大丈夫大丈夫。意識はしっかりしてるんだ、これでも。身体が付いてこない
だけ」
「それが困るんだよ。万が一、何かあったときは特に」
「起こらないよ、さすがに。イベントだけで充分なのに」
「根拠のないことを……」
 酔っ払い相手に議論をふっかけてもしょうがない。私はリラックスできる服
に着替えた。
 それから、桑藤にコップ一杯の水を用意してやってから、自分もソファに収
まり、第一の事件について考え始めた。
 蒲生刑事の発表によると、青酸系毒物は、四谷の所持していた薬や薬瓶から
も、床にこぼれた水やそれが入っていたコップからも一切検出されなかった。
推理劇にあって、これは充分に予想できる結果だ。こうでなくては、毒殺トリ
ックの謎が締まらない。
 青酸系毒物は即効性が高いので、夕食で出された食べ物や飲み物に予め入れ
られていた訳でもないと見なすのが妥当だろう。パーティとあって、取り分け
るスタイルの料理がほとんどだったから、特定の一人を殺害するために毒を用
いるのは無理がある。
 そうなると、可能性は……少なくとも一つある。薬瓶とコップを再度、調べ
ればはっきりするが、そういう要望を出していいのか? 受け入れられるのだ
ろうか。
 と、ここまで考えを進めたところで、相棒の寝息が聞こえてきた。思考を中
断し、声を掛けたが、簡単には目覚めそうにない。寝かせてやっても一向にか
まわないのだが、ソファで寝るのは身体によくなかろう。
 私は席を立ち、桑藤の近くに立つと、彼の肩を揺さぶった。起きてベッドで
寝るように促した。三度ほど繰り返すと、寝ぼけ眼とあくび混じりの声で反応
があり、どうにかこうにか移動してくれた。

 その後も夜八時から十一時にかけて、警察の捜査状況が断続的に発表された。
アナウンスの都度、部屋を出て、指定されたフロアまで移動せねばならないの
は、正直言って面倒だ。ゆっくり休めない。だが、他の参加者の中には、楽し
んでやっているように見受けられる者も大勢いる。この手のイベントに慣れて
いる人達らしい。夜通し、謎解きに頭を使うつもりなのかもしれない。
 それよりも、警察からもたらされた新たな情報が重要だ。
 四谷の部屋から、いくつかの証拠品――彼が恐喝を考えていた、そして殺害
の動機の裏付けとなる物が見つかったという。たとえば、春彦の過去の違法行
為に関する証言リスト一覧。ただしそれらは全て、すでに噂で囁かれていたも
のばかりで、今更表沙汰になっても春彦にダメージを与えるかは疑問だという。
冬美の映像作品出演に関しては、その静止画像をプリントアウトした写真が数
枚、出てきた。春彦に比べれば、彼女の被るダメージは大きい。尤も、いかが
わしい映像と言っても、せいぜい下着姿までで、当時ならともかく、現代なら
どうというほどのこともないレベルかもしれない。一ノ瀬の詐欺及び五代の横
領疑惑は、それぞれ被害者や関係者の証言を集めた程度で、以前の警察の判断
を超えるものではないようだ。
 そして食事のときは仄めかしだけで終わった、三鷹の件だが、芸能関係の仕
事を得るため、いわゆる枕営業をしたことがあるというものだった。これには
写真などの証拠はない。当時、三鷹が未成年だったことがより大きな問題で、
当人は無論のこと、関係した業界の人間も口を噤んでいるのだという。
 四谷がいかに嫌な存在であったかが浮き彫りになる一方、一見すると手掛か
りにはなり得なさそうな、他の人間関係の報告も上がっていた。
 二階堂家は、パーティの席では仲よく写真に収まるなどしていたが、実情は
どろどろとしたものが渦巻いているようだ。お定まりの相続の問題に、春彦の
浪費癖とそれに付随する女性関系。夏子は金の件で、秘書の五代と諍いが絶え
ないし、秋雄と冬美は子を授からないことで、しょっちゅう揉めているようだ。
そこを三鷹がかき回し、混沌とした状況を作り出している。
 一ノ瀬は、春彦相手にまとまりかけた投資話を、夏子に潰されて恨みがまし
く思っている。秋雄も表立って反対しないだけで、一ノ瀬の売り込みを内心で
は疎んじており、仲がよい訳ではない。一ノ瀬は三鷹と連合を組んでいる節が
あるとされた。
 これらの中から、真相に辿り着くために必要な情報を選び取らねばならない。
謎解きイベントに参加するのは初めてで勝手が分からなかったが、そういうも
のらしい。決定打がないだけに、眠れぬ夜になりそうだった。

 翌朝は、七時に起床し身支度を調え、三十分後には朝食の席に着いた。
 パーティの招待客である我々は、事件発生に伴い、警察の要請により、ホテ
ルへの逗留を続けているという設定だ。パーティ参加者やホテル関係者に犯人
がいるに違いないとの理屈からだが、その割に、宿泊客が一人も警察に事情聴
取されないのはおかしい。まあ、これを言うのは野暮というものだし、細かな
指摘はあとでよかろう。
 四十五分から配膳され、朝食が始まった。相棒もそうだが、皆、ぱくぱく食
べている。現実に毒殺事件が起きたあと、出された料理を平気で食べられるも
のかどうか……いや、野暮は言うまい。
 それよりも、気になっていることがあった。主要関係者――要するに俳優達
の中で、死んだ四谷以外にもう一人、姿の見えない者がいる。
 私の他にも気付いている参加者が何名かおり、次の被害者かしらと囁く声が
耳に入った。
 程なくして、進行役の大沢がウェイターに指示をした。当該人物の客室に走
らせたに違いない。ちなみにこのウェイターは本物ではなく、昨日も劇に加わ
った志賀という男だ。
 およそ三分が経ち、志賀が慌てふためいた様子で駆け戻ってきた。叫びたい
のを飲み込んだような顔で、大沢に耳打ちをする。大沢は表情に驚愕を、次い
で緊張を走らせた。なかなかの役者だが、少々オーバーだ。
 彼はマイクスタンドを引き寄せ、ダイニングにいる全員に呼び掛けた。
「皆さん、お食事中を失礼します。非常にショッキングな話をいたしますので、
お手を止めていただければ幸いです。――どうもありがとうございます。お一
人、この場に姿を見せていないことにお気付きの向きもあったかと思います。
はい、二階堂夏子さんがおりません。先ほど、ウェイターの志賀にお部屋の方
へ様子を見に行かせましたところ、彼が言うには、夏子さんは冷たくなってい
るようです」
 場の空気が変わった、というほどのことはなく、かすかに揺れる程度か。事
件の発生は予告されていたのだし、そもそも、これは本物の殺人ではない。俳
優陣だけが驚きを示した。
 ともかく、食事はおしまいとなり、参加者は夏子の部屋である七〇六号室に
向かうことになった。人数の多さに比すと部屋や通路が手狭なため、数名ずつ
に分けて、であったが。

           *           *

 ご覧のように、夏子さんは左胸部を中心に何箇所か刺され、亡くなっていま
す。警察の所見でも、これらが致命傷とされました。念には念を入れて、毒物
を摂取した形跡の有無を調べているそうですが、結果が出るのはもう少し掛か
るとのことです。凶器は、ベッドの傍ら、床に落ちているナイフ。調理場を探
せばすぐに見つかる、ごく当たり前のナイフです。
 この部屋は、否、このフロアは皆さんのフロアと違い、若干、旧いタイプで
す。よって部屋の設備も多少古く、ネット回線はございませんし、鍵も横方向
にスライドする単純な閂錠です。でも、防音は完全だとお考えください。ああ、
発見時、部屋の鍵は掛かっていませんでした。よって第二の殺人に密室の謎は
ございません。
 この殺人における謎は、ダイイングメッセージです。
 見てお分かりのことと思いますが、最初の一撃を受けた夏子さんは指先に自
らの血を着け、文字を壁に書き残したようです。多分、犯人を示す手掛かりと
考えられますが、さて、どのように解釈すればいいものやら。ほんの数文字で
しかも小さいですし、他にも血が飛び散ったため、犯人は見落としたようです
が。

           *           *

 私は、二階堂夏子が書いたとされるメッセージを、メモに写し取った。そし
て桑藤にも写し取るように言う。それぞれ先入観なく書き取り、感じたことを
あとで述べ合うのだ。
 このあとは正午まで自由時間となっていた。ちょうど足下も落ち着いたこと
だし、観光がてら外に出ようと決めた。名所を回るバスがオプションとして用
意されており、当日の枠が空いていたので申し込むと、無事に席を確保できた。
 外出中に重きを置くのは観光ではなく、謎解きの検討だが、謎解きイベント
にこうした名所巡りがオプションとはいえセットになっているのなら、これも
体験した上で、イベントの感想を述べるのが筋であろう。
 お城や神社、それにいわれのある滝壺や大岩といったいわゆるパワースポッ
トも含むコースを、それなりに満喫した(日本語として変かもしれないが、私
は本来、記述者ではないので許してもらうとしよう)。途中々々に土産物屋が
あり、地元にお金を落とさせるようになっている。いっそのこと、観光巡り自
体をイベントに組み込んで、途中の店に解決へのヒントが隠されている、とい
うのも面白いのではないかと思った。企画内容の改良にまで口出しする必要は
あるまいが、客の意見として、感想に書き加えるくらいはしてよかろう。
 さてこの記述は、謎解きイベントのためのものだから、観光に関しては省略
する。およそ二時間半の内、バスに乗っていた間は、第一及び第二の事件につ
いて、あれやこれやと推理を巡らせた。と言っても、イベント参加者が他にも
同乗しているため、興をそがぬよう、筆談がほとんどだったが。
 最初に検討したのは、第二の事件の方で、特にダイイングメッセージの解読
に時間を費やした。
 ダイイングメッセージは二行に渡っており、一行目は一文字、二行目は二文
字から成っていた。行と行の間は、まだ文字が書けるくらい空いていたので、
この三文字が実は一つの文字を表す、などということはなさそうである。
 まずは一行目の一文字から、まな板に載せる
『ぱっと見、yだ。筆記体の』
 先に桑藤が述べた(書いた)。とりあえず、小さな点を指摘しておこう。
『大文字か小文字かは判別できないがね』
「確かに」
 つぶやいた桑藤。続けて「これ以外に何か解釈できないかな」と言った。
『数字の4。開き気味に書けば似ている』
「ふむ」
『あるいはギリシャ文字のファイ:φやプシー:ψ、ガンマ:γ辺りが似てい
なくもない』
「なるほど。しかし……」
 語尾を濁した桑藤は、続きを筆記した。
『筆記体のyほどではないね』
『仮にyとしてどんな意味を表していると思う?』
『犯人のイニシャル』
 相棒の返答に、「真っ先に考えたよ。では聞くが」と応じてみせた。
『関係者の中でイニシャルyは誰だ?』
 この問いに桑藤は指折り数える仕種をし、やがて答を出した。
『四谷一人だ。第一の犠牲者しか当てはまらない』
「そうなんだよ。もしこれがこれじゃなく、こっちだとしても」
 メモ用紙を指さしながら、私は続けた。yが4だとしても、該当者は四谷だ
けになる、と。
「どうなってるんだ?」
 死者が犯人? 四谷は死んでいない? まさか。これは作り物のゲームだが、
超常現象めいたも要素は紛れ込んでいないはずだし、四谷が毒で死亡したこと
ははっきり告げられた。司会進行が嘘を吐いてはゲームにならないのは明白だ
から、真実を語っていると解釈するしかない。
「ここで悩んでも時間の浪費だ。二行目に移るとしよう」
 私が促すと、桑藤はすぐに次のメモを用意した。
『XyもしくはXVだね』
 私も同感だった。縦にX・Vと順に書いたように見えた。
『XVでは、関係者のイニシャルにはならない。これら二つで一文字を形成す
る可能性もある』
 私のこの指摘に、桑藤はしばらく考え込んだあと、紙に書き付けた。バスが
ちょうど悪路に差し掛かったのか、大きく揺れたため、ひどく乱れた文字にな
った。『レイジートング?』
 念のために説明すると、レイジートングとは多数のX型をつなぎ合わせたよ
うな形をした、手元の操作により伸び縮みするマジックハンドのことである。
「これは文字じゃないな」
「うむ。万が一、当たっていたとしても、何を示唆しているのかさっぱりだよ。
密室トリックに使われた道具、とかなら分からなくもないんだけど」
 桑藤のぼやきを聞き流し、私は七〇六号室でメモを取った時点で思い付いた
考えを伝えることにした。
『ローマ数字かもしれない。Xは十、Vが五』
『五は五代? 十が分からない』
 確かに。刑事の一人は下の名前が九州男で、一足りない。
 桑藤が紙の上で手を動かすので見ていると、『七一〇号室の客かも』と書い
た。
「悪くないが、その部屋は空室だろう?」
「分からないだろう。あとから来た刑事は、どこで寝泊まりしているんだ?」
 ふむ。七〇九と七一〇に収まったかもしれない訳か。後々情報が提示されな
いようであれば、司会に尋ねてみる値打ちはある。
 とまあ、かように想像を膨らませ、堂々巡りをしながら名所も巡り、昼食前
には宿に戻った次第である。

――継続




#455/598 ●長編    *** コメント #454 ***
★タイトル (AZA     )  13/12/30  23:02  (340)
お題>旅行(下)   永山
★内容                                         14/03/24 19:46 修正 第2版
 昼食もこれまでの二回の食事と同様、ダイニングで摂る。
 当然、第三の事件もこの昼食の間に、何らかの動きがあるのではと心の準備
をしていたのだが、見事に透かされたようだった。警察発表がいくつかあった
だけで、平穏無事に終了した。
 ただ、最後に司会の大沢が、「三時まで自由行動可としますが、外出は控え
てください」と言ったのが、意味ありげである。ちなみに、三時からは近所に
ある有名なレストランで、お茶の時間を取っているという。そこでまた何か事
件が起きるのか、情報発表の追加があるに違いない。
 とにもかくにも、ゲーム参加者としてルールには従わねば。私の部屋で桑藤
と二人、またまた検討会を開く。
「さっきの昼食時間では、たいした材料は与えられなかった気がする」
 桑藤はそう言いながら、持ち歩いている大学ノートを見開きにし、書き付け
始めた。

・二階堂夏子の死因は、刺殺による失血死に確定。薬物の類は検出されず。
・夏子の死亡推定時刻は、午前三時から五時の間。
・この時間帯に、関係者の中でアリバイを有する者は皆無。
・刑事達捜査関係者は犯人ではない。

 この程度だった訳だが……。
「夏子に対し殺害動機を持つのは誰か、考えてみよう」
「いいね」
 私の呼び掛けに応じ、桑藤は続けて答えながら筆記を続けた。
「まず、金のことで揉めていたという秘書の五代。次に、不動産業の一ノ瀬は、
投資話をご破算にされて恨んでいた」
「その程度のことを取り上げるのなら、同じ二階堂家の人間も外す訳に行くま
い。財産が絡んでいるのだから」
「そうか……何だ、関係者全員じゃないか」
「うむ。金が絡めば、だいたいはそうなる。三鷹も含めていいだろう。父親の
春彦だって、娘の収集癖を疎んでいたと捉えれば、排除を考えておかしくはな
い」
「しかし、そんな理由で親が子を殺すかねえ?」
「フィクションの世界なのだから、その辺りは気にすべきではないんじゃない
か?」
「かもしれないが」
 我が相棒の桑藤は、小説で食っている割に、リアリティにこだわりすぎる嫌
いがある。もう少し自由な発想で書けば、今よりもずっと売れるだろうに。
 と、そのとき身体に多少の揺れを感じた。そういえばこの旅行に出る前から、
小さな地震が各地で頻発していたなと思い出した。落ち着かない。
「現実世界の情報も仕入れておくとしよう」
 リモコンを操作し、テレビを付けた。偶然にも、ちょうど画面の上の方にテ
ロップが入っていた。速報は最大で震度4の地震が起きたと伝えている。
「ここからはだいぶ離れているな」
 言いながら、ニュースをやっているところを探す。見たことのないコマーシ
ャルが次々と移り、結局、地上波ではニュースをやっていなかった。衛星放送
に切り替え、ようやく見付けた。当然のごとく、今し方の地震を報じている。
速報レベルなので時間は短く、次に大きな交通事故を伝え出した。幸い死者は
出ていないようだが、二桁の車が巻き込まれている。
「雪でスリップか。気を付けないとな」
 当たり前の感想を口にする桑藤。昨晩、アルコールでダウンしていた分を取
り戻したいのか、イベントの謎解きに気持ちが傾いているようだ。
 私はニュースに集中した。最後まで見終わり、名探偵が乗り出すべきタイプ
の事件は報じられていないと判断した。
「犯人は単独犯なんだから、四谷と夏子を殺したのは同一人物。被害者双方に
殺害動機があるのは……やはり全員か」
「動機で絞り込めないのは、謎解きでは当たり前じゃないのかね。動機の有無
だけで容疑から外すのは、あまりロジカルではない」
「その通り。一見、動機がなさそうな者が犯人だった、というパターンも結構
多いし」
「だったら、この謎解きイベントは、動機のなさそうな者がいない分、楽とも
言える」
 私の冗談に、桑藤も笑みを浮かべた。
 しかし、解決の糸口はまだ見えていないようだ。

 ここで正直な心情を明かす。
 実は、おおよその見当は、とうに付いていた。当初はモニターとしてきちん
と役目を果たそう、名探偵として恥ずかしくない結果を出そうと意識して、身
構えて臨んでいた。だが、始まってしばらくする内に、所詮はクイズだと思い
直すと、意外と簡単に正解らしきものが見えてきたのだ。
 無論、私の推理が正解だとは限らないが、相棒や他の参加者の様子を観察し
たくて、分かっていないふりをすると決めた。手記の方も、桑藤が覗き込む可
能性があるため、同じく分からないふりの記述に徹した。
 だが、そろそろ、私の本当の推理を明かす頃合いだろう。具体的な筋の通っ
た仮説一つ出さずに、開始から二十四時間を迎えるのは、私のプライドが許さ
ない。参加者の中にも、「分かったかも」的な発言をしている人が、ちらほら
出てきているようだが、彼らに後れを取ることも我慢ならない。
 一方で、現段階での推理披露は、この手記を読む人の楽しみを奪うものかも
しれない。
 そこで、私は相棒に推理を伝えたという事実のみを記す。詳しい内容は、第
三の事件のあとにでも綴るとしよう。

「――なるほど。筋は通っている」
「ロジックとしては実に頼りなく、いかにもイベント的、ゲーム的ではあるが
ね」
 口では謙遜気味に言いつつ、桑藤が感心してくれたのを見て、内心少なから
ずほっとした。推理作家の桑藤が頷くということは、謎解き推理の常道から外
れていない証だ。現実の事件とは勝手が違い、手応えが分からない。
「動機の点で、やや瑕疵があると思うけれど、それはこういうイベントでは大
目に見るべきなのかな」
 相棒のこうした疑問は、お茶の時間に解消されることになる。
 レストランでは、新たな事件こそ起きなかったが、二名の刑事から、今まで
に判明したこととして、様々な発表がなされた。

・四谷は二階堂家の関係者の誰かから、内情を提供されていた節がある。
・夏子の遺体を調べたところ、利き手である右手の人差し指に血が付着してお
り、血文字は彼女の意思で残したものにほぼ間違いない。ただ、血の痕跡から、
通常とは異なる筆運び(指運び)をした可能性が高い。
・四谷の毒はカプセルで与えられた物ではない。
・春彦は子宝に恵まれなかった。夏子と秋雄は養子である。
・一ノ瀬は夏子に見返りを渡すことを約束して、再び投資話をまとめようとし
ていた。
・三鷹は春彦に頼まれ、夏子や秋雄夫婦の動向を探っていた。
・主治医の町野は第二の事件において、急患を診ていたというアリバイが成立。

 この中で参加者達から特に注目されたのは、三鷹が夏子や秋雄らを見張って
いたというくだりだった。刑事の補足説明によると、春彦が、自分のいない場
で子供達がどんな言動をしているのか、知りたがったとのことである。
 次いで注目度が高かったのは、夏子の血文字の件だ。通常とは異なる筆運び
とは具体的にどうなのか、参加者から質問が飛んだが、これには答えられない
という返事。代わりに、想像力を逞しくせよ、とのヒント?があった。
 最後は、「徹夜してでも推理したい方は、今の内に睡眠を取ることをお勧め
します。事件はまだ残っていますし、解決のために必要な情報も出揃っていな
いのですから」とのアドバイスで、お茶会はお開きになった。

 四時二十分に宿へ戻った。参加者が次に集まる時刻は、例によって夕食時だ。
それまで外出はできない。どうやって過ごすかを思案した結果、桑藤はアドバ
イスに従い、一眠りすると決めた。私はラウンジに出向くことにした。他の参
加者と話がしてみたくなった。
 初めて足を踏み入れたラウンジは、個室以上に豪華に映った。夜間はバーが
開くというカウンターや、高価な器を飾ったケースは重厚な木目調。天井も同
様に見えたが、実は絵で、プラネタリウムを投影できる仕組みになっているそ
うだ。広々とした空間に配されたテーブルは広く、椅子もゆったりと腰掛けら
れた。無論、座り心地も言うことなし。奥にはピアノが置いてあり、誰でも触
っていいようだ。尤も、実際に弾こうなんて人はなかなかいまい。
 窓際の席を確保し、さてどなたに声を掛けてみるかなと、ラウンジを見渡す。
と、先手を打たれた。
「ちょっと失礼をします。もしやあなたは」
 背後、上からの声に振り向くと、柔和な顔の中年夫婦が、前後に列ぶ風に立
っていた。夫婦と断定したのは、名所巡りの折に、彼らの会話を小耳に挟んだ
からである。
「探偵のN**さんではありませんか」
 男性の方が聞いてきた。
 私は一応頷いてから、「ここでは堀詰を名乗っていますので」と注意気味に
答えた。
「ああ、そうでした。申し訳ない。私は上田善行(かみたぜんこう)と言いま
して、地方の大学で教壇に立っております。こちらは妻の」
「美智子(みちこ)です。初めまして」
 見事な連携で自己紹介をする上田夫婦。この奥さんの方には見覚えがあった。
記憶の戸棚を開け、思い出す。
「料理研究家をなさっている? テレビで幾度か拝見しましたよ」
「はい。どうもありがとうござます」
 この二人は札に本名を書いたらしい。少なくとも奥さんの方が世間に顔を知
られているのだから、それでもかまわないと判断したのかもしれない。探偵業
は、できれば顔を出したくないのだが、ときには公に出ざるを得ない事態も起
きる。
 夫妻が同席の可否を尋ねてきたので、快く応じる。
「暇であれば、実際の事件で何か興味深い話が伺えると期待するところなので
すが」
 苦笑交じりに始めた上田善行。髪の白さに目が行くが、よく観察するとさほ
どは齢を重ねていない気がした。専門は何だろう? そういえば名刺をもらっ
ていないが、私が本名云々と言い出したから、引っ込めてしまったのだろうか。
「今は、謎解きイベントのことで頭がいっぱいです。恥ずかしくない程度には、
解答をこしらえねばなりませんからね」
「主人も私も、テレビのサスペンス物は好きなのですが、謎解きだの犯人当て
だのとなると、からっきしなんですよ」
「まあ、こういった謎々に対する、一般の知識人層のレベルを見るサンプルに
は、ちょうどいいんでしょう。その点、えっと、堀詰さんは本職のようなもの
だから、お茶の子さいさいなんでしょうねえ」
「いえいえ、実際とは違いますから、難儀していますよ。目星は付けましたが、
まだ事件が一つ残っている訳ですし、保留です」
「それでも私どもよりは、遙かに先を行かれているはず。そこでというのも何
ですが、道標のようなものをお願いできませんか。平たく言えば、ヒントがい
ただけると助かります」
「ちょっと待ってください。私の考えが当たっているとは限りませんよ」
「かまいません。私達の推理なんて何の足しにもならんのは明らかですから、
このイベントに挑む探偵として協力し合ったというのにも該当しないはず。あ
なたの評価を下げるものじゃありません」
「……では、先にお二人の推理を話してくださいますか? 私の推理と異なる
点があれば、その中から一つか二つ、お伝えしましょう」
「それでも充分です」
 にこやかに頭を下げる上田夫妻。二人は顔を見合わせた後、短く微かなボデ
ィランゲージを経て、夫の方が喋り出した。
「第一の事件の毒殺トリックは、ウェイターが絡んでいるとにらんでいます」
「ほう……」
 いきなり、意表を突く推理が述べられた。
「四谷が死ぬ前後の場面を思い出してみると、あのタイミングで薬を飲むかど
うかは、本人以外には分からない。ですから、事前に毒を仕込むとしたら、薬
しかない。だが、捜査の結果、薬から毒は検出されず。となると、毒は水に仕
込んであり、四谷の死亡後、みんながざわざわしている隙に、ウェイターが毒
の付着していないグラスに、こっそり取り替えたんじゃないでしょうか」
「ウェイターは何が目的で、水に毒を入れて用意していたのですか?」
「ウェイターは、実は一ノ瀬を殺害しようと目論んでいたんです。一ノ瀬から
渡されたグラスで、四谷は薬を飲んだんですから。ウェイターは当てが外れた
が、今更止められない。とりあえず自分の身を守るために、無害のコップとす
り替えた。いかがでしょう?」
「うーん、私の考えとは違います」
「やはり」
「それに、仰る方法だと、床に広がった水からは毒が出なければいけません」
「そこなんですよねえ、ネックは。この引っ掛かりのせいで、自信が持てなく
て」
 なるほど、そういう訳か。
「ユニークな推理だと思いますよ。第二の事件に関しても、聞かせてください」
「まず、単独犯なのだから、犯人はウェイター。第二の事件の謎は、ダイイン
グメッセージ。ウェイターとあのメッセージを結び付ける理屈を考え出そうと、
頭を捻りました。ところで、堀詰さんはダイイングメッセージ、なんて書いて
あるように見えました?」
「一文字の方は、筆記体のyもしくは4。二文字あるように見えた方は、XV
もしくはXYです」
「おっ、ほぼ同じだ」
 上田は年齢に似合わず、子供みたいに嬉しそうに微笑む。妻も一緒に笑みを
浮かべていた。
「私どもはそれぞれ4とXYと解釈しました。ウェイターの名前は志賀大作だ
から、『し』と4をかけて、4と書いた。さらにそれだけでは伝わりづらいの
で、ウェイターの頭文字Wを示唆するXYと書いた。XYに先んじるアルファ
ベットはWです」
「どうして直接、Wと書かなかったんですか。それに、志賀の『し』を表した
いのなら、Sで事足りる」
「犯人に勘づかれて、消されてしまうと考えたんでしょう」
「うーん。まあ考え方の一つではあると思いますが……」
「いいじゃありませんか。こちらの考えは誤りと承知で話しているんですから。
さあ、あなたの推理と比較した上で、優れたヒントをお頼みしますよ」
 請われた私は、どんなヒントがよいかを、しばしの間沈思黙考した。
「じゃあ、それぞれの事件について、一つずつヒントを出します。第一の事件
は、毒はコップと薬瓶それぞれの外側にも付着していなかったのか。もし付着
していたとすればどうなるか」
「はあ……」
 首を傾げつつも、メモを取る上田夫妻。
「第二の事件は、ダイイングメッセージが通常とは異なる筆運びで書かれたと
いう情報に注目して……そうですね、ここまでは言っていいかな。二階堂夏子
は犯人に壁際まで追い詰められた刹那、壁に後ろ手で書いたのかも」
「後ろ手?」
「言えるのはこの程度です。お役に立つでしょうか」
「うーん、正直、ぴんと来ませんな」
 上田善行が苦笑いを浮かべ、頭をなでる。
「でもこれ以上のヒントはなしなんですよね? だったら、自分達でじっくり
考えるとしますよ」
「ありがとうございました」
 上田美智子がすっくと席を立ち、お辞儀をした。時間が惜しいようだ。案外、
本気になって取り組んでいるのが分かる。微笑ましく感じながら私も立ち上が
り、見送ろうとした。
 その瞬間、大きな揺れが衝撃となって、空間を襲った。
 目の前でバランスを崩した上田美智子を受け止めようとして、私は無様に転
倒してしまった。しかも運悪く、テーブルの角に側頭部を打ち付ける始末だっ
た。

〜 〜 〜

 意識を失っていたようだ。
 目を開けると、こっちを心配げに見下ろす桑藤と上田夫妻、大沢司会、それ
にもう一人、見知らぬ顔があった。視線を左右に振り、自分がラウンジの大型
ソファに横たえられているのだと把握した。
「具合はどうです?」
「大丈夫……だと思います」
 話す内に、この見知らぬ男が医師だと分かった。宿に常駐の医師らしい。彼
から「問題ない」とのお墨付きをもらい、まずは一安心だ。
 すると残る四人から次々と気遣いの言葉を掛けられた。頭はすっきりしてい
るし、痛みも消えている。逆に聞き返した。
「何分ぐらい、意識を失ってました? イベント、というか事件の方は?」
「ええっと、五分程度です。事件の方は、堀詰さんの回復待ちでしたよ」
 大沢は答えながら、徐々に笑顔になっていった。大事にならずに済んでほっ
とした、そんな感情がよく表れている。
 医師からもOKをもらい、イベントの進行が再開された。

           *           *

 皆さん、第三の殺人が起きてしまいました。
 犠牲になったのは、二階堂秋雄さんで、彼の寝泊まりする七〇七号室が殺害
現場です。皆さんご存知の通り、七〇七号室は夏子さんが殺された七〇六号室
と、全く同じ間取りで、中の設備や家具、備品にも差はありません。
 死因は絞殺、凶器はカーテン留めのロープで、現場に残されていました。こ
れは七〇七号室の物だと判明しています。
 死亡推定時刻は、四時半から五時の間。奥さんの冬美さんによって発見され
たのが五時十分。冬美さんの話によると、元々五時にラウンジに出る約束をし
ていたのに、いつまで経っても姿を見せないため、部屋まで行き、ノックをし
たが返事がない。さらに施錠されており、ドアが開かない。中にいるのは間違
いないので、すぐさま司会進行の私、大沢を通じて刑事を呼び、マスターキー
で開けてもらったところ、遺体となった夫を見付けたという流れです。
 察しのよい方もそうでない方もお分かりと思います。第三の事件で用意され
た謎は、密室の謎です。犯人は密室をどうやって作ったのか。これをお答えく
ださい。
 なお、この第三の事件に関して、アリバイを有する者はいません。また、殺
害方法は絞殺でしたが、女性にはできないとは限りません。全員にやりおおせ
るチャンスがあったとお考えください。
 このあと、解答用紙をお配りします。書式に従って、欄を埋めてください。
必須項目は三つの謎に対する答えと、犯人の名前、そう推理する理由となって
おります。他にもお気付きの点があれば、どんどん列挙していってください。
内容によっては、大きく加点される場合があります。

           *           *

1.毒の混入方法の謎
 犯人は四谷ではなく、二階堂夏子を狙っていた。彼女の飲んでいたアイステ
ィにはキューブアイスが多数入れてあったが、あの氷の中央部に、毒が仕込ま
れていたのだ。恐らく、犯人は厨房に忍び込んで、細工をしたのだろう。とこ
ろが、氷が溶けきる前に、四谷と何人かの揉め事が始まり、夏子は四谷に飲み
物をぶちまけた。夏子が飲んでいた間は溶け出していなかった毒が、四谷に浴
びせた時点では溶けていたのである。
 そんな毒入りの液体を、四谷は素手で拭った。そして手をしっかりと拭かな
いまま、薬を手のひらに取った。当然、薬には毒が移る。これを飲んだがため
に、四谷は死亡した。

2.ダイイングメッセージの謎
 被害者の夏子が遺したメッセージは、筆記体のy、及び通常のXVと読めた。
夏子はこれを壁に書いていた。遺体発見時には、ベッドに倒れていたのに、何
故、壁に書かれていたか。
 想像するに、夏子は犯人に襲撃され、軽傷を負った段階で壁際に追い込まれ
た。そのとき、後ろ手で文字を書いた。後ろ手で書くと、文字は上下左右が逆
になる。つまり、筆記体のyとXVはそれぞれひっくり返して読まないと、死
者の真意は伝わらない。
 XVをひっくり返すとへX。縦に並べて書くと、ある漢字になる。父である。
 また、筆記体のyに同様のことを施すと、筆記体のhになる。hは春彦のイ
ニシャルである。
 では何故、夏子は同じ人物を指し示す父とh、二通りのメッセージを書いた
のか。それは夏子が春彦の養子であるからと推測できる。最初に父と書いたが、
これだけでは実父と誤解される可能性がゼロではない。そこで急いでhと書い
たところで、犯人に追撃され、メッセージは中断。命を奪われたのだ。

3.密室の謎
 これが最も難しかった。その理由は、殺害現場が密室と化したのが犯人の作
為ではなく、偶然の産物であるからだと推察する。
 そもそも、犯人は秋雄を絞殺という明らかに他殺と分かる方法で殺害してお
いて、部屋を密室状態にする必要があるのか? ない。一刻も早く、部屋から
立ち去ったに違いない。
 ではいったい誰が密室を作ったのか。ここで思い出したいのが、宿全体を襲
った大きな揺れである。あれは秋雄殺害後に起きた可能性が高い。
 あの揺れは、たちのよくない鉄道マニアが、我々が寝泊まりしているここ――
九州一周イベント専用豪華寝台列車の写真撮りたさに、踏切内に入り込み、運
転士が非常ブレーキを作動させたためと判明している。これにより起きた急制
動で、力が列車の進行方向へと掛かる。それは奇しくも、スライド式の閂が、
ロックされる方向と同じ。さらに言えば、七〇〇番台の部屋はどれも古く、閂
錠も緩めだった。開いていた閂が締まってしまうのに、急ブレーキを元とする
力で充分だったと考えられる。

4.犯人の名前、その他お気付きの点
 主にダイイングメッセージに関する分析を理由に、二階堂春彦を犯人と名指
しする。
 なお、二階堂家の内部情報を四谷に漏らしていたのは、春彦である可能性が
高い。混乱を引き起こすことで、二階堂家とその周辺に多くの殺意を生じさせ、
自らの殺意を隠す狙いがあったのだろう。
 また、四谷が薬を飲むのに使ったコップ及び薬瓶の外側を子細に調べれば、
毒が検出されるはずである(四谷の手から毒が移ったと考えられるから)。も
しこの仮説が事実と合致すれば、最初に毒で狙われたのが四谷ではなく、夏子
だったことの傍証になる。
 最後に、この推理劇の仮題『殺人者、東方より来たる』だが、内容にそぐわ
ないなと感じていた。しかし、終了まで半日ほどとなって、はたと気が付いた。
 このタイトルは『オリエント急行の殺人』を意識しているのではないだろう
か。共通点は列車内で事件が発生するというだけだが、それを暗示するために、
オリエントを日本語に直してみたのではないかと思うのだが、いかがだろう?

――終着




#456/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  14/04/30  22:29  (462)
金星と夏休みと異形の騎士 1   永山
★内容                                         14/06/30 10:56 修正 第3版
 私には、一つの忘れがたい記憶がある。恐怖で彩られており、思い出すのも
おぞましい。
 体験したのは幼少の頃、多分、小学一年生のときだと思う。場所に関しては
判然としない。脳裏のスクリーンに再生される絵を参考にするなら、学校のよ
うでもあり、病院のようでもある。が、当てにならない。とにかく、周りの状
況よりも、目の前で展開された現象の方が、圧倒的に印象が強かった。
 その記憶の中で、私は部屋に一人で入っていく。窓の外は暗い。夜ではなく、
雨雲が低く立ちこめている感じだ。灯された蛍光管のいくつかは、もうすぐ寿
命が尽きるのか、明滅を繰り返していた。
 そんな不安を煽る光の下、長椅子もしくは寝台めいた物が置かれていた。そ
の上に、人が一人、腰掛けている。性別は……男に見える。細面で青ざめた顔
色、きっちり九十度に曲げた両膝に、両腕をついている。彼はぼんやりとした
眼差しを私に向け、かすかに、にこりと笑んだようだった。さらに、片腕をぎ
こちなく上げて、手招きをした。
 ごろごろごろ、と遠くで雷鳴が。
 私は勇気を出して、足を前に進める。ある程度近付いた――と言ってもまだ
二メートルは離れていたと思う――とき、男は不意に私とは違う方へ頭を向け
た。私もつられて見る。ちょうど私の右真横、約五メートル先だ。
 そこには、魔物めいた異形の戦士がいた。赤みがかった銀色の西洋甲冑で全
身を包み、頭部は猛牛を思わせる面相と二本の太い角、手の指からは半透明の
爪が長く伸びていた。右手は、長く重たそうな剣を握りしめている。
 と、猛牛のような戦士は剣を両手で持ち、振りかぶった。次の瞬間、椅子の
男までの距離を一気に縮め、剣を右上から左下へ、ざんっ、と振り下ろした。
 すると、腰掛けた男は、胴体を真っ二つにされた。横方向に、つまり上半身
と下半身に分かたれたのだ。下半身はそのまま残り、上半身は横滑りした形で、
長椅子の上に横たわった。男の顔はこっちを向いており、断末魔、いや、魔物
に切断された末の叫び声が、その口から迸る。
 血が激しく噴き出すものと思ったら、そうはならない。切れた服の布地がに
じむ程度に赤くなっただけ。魔物の剣がなせる業か。加えて、男はまだ息絶え
てはいない。上半身は虫のごとく這い回ろうとしているし、下半身は足が小刻
みに動き、床を叩く踵の音が、雷に混じって小さく、しかしはっきり聞こえた。
 斬られた男は、こちらに向かって「助けて、くれ。元に、戻して、くれ」と
いう台詞を繰り返している。小学生の私は、それに応えることができない。自
分も魔物の戦士に襲われるのではという恐れから、息をほとんど止めて後ずさ
りした。事実、牛の頭を持つ異形の者は、こちらを振り向いた。そして一歩を
踏み出す。私は内臓が口から飛び出しそうな心地だった。それだけ動悸が激し
くなっている。最早、後ずさる意味がない。魔物の戦士に背を向けて、一目散
に駆け出す。部屋から転がり出て、その勢いのまま廊下を逃げた。正しい方向
かどうかも分からなかったけれど、とにかく逃げた。何か叫んでいたに違いな
い。誰か大人が助けに来てくれた気もする。でも、そのあとのことはよく覚え
ていない。

           *           *

 悪夢だ。
 皆上幸代(みなかみゆきよ)は思った。
 十二、三年前に体験した恐怖が、今また起こるなんて。前回と異なるのは、
長椅子の代わりにベッドだったこと。そのベッドの縁に腰を下ろしていたのが、
見知らぬ男ではなく、知り合いの男――部屋の主・横田(よこた)という男で
あること。知り合ってまだ間がないため、下の名前は知らないが。
 フラッシュバックというやつだろうか、現在と過去の結び付く感覚を経て、
何かに追い詰められた心地になった。皆上はマンションの一室から、廊下へ飛
び出した。
 慌てているせいで、壁にぶつかるわ、靴はつま先に引っ掛けただけだわ、挙
げ句に一度転んでしまった。幸い、怪我はなく、というよりも痛みを感じる暇
もなく、エレベーター前に辿り着く。降下ボタンを押すと、うまい具合にほと
んど待つことなく、箱が来た。ドアが開くなり、中に入る。他には誰も乗って
いない。ワンフロア分下るだけなのに、やけに時間を要した気がした。
 一階に着くや、乗り込んだときと同様に飛び出て、さてどうしようと立ち止
まった。もう小さな子供ではないのだから、単に逃げればいいというものでは
あるまい。警察に通報する? 信じてもらえるだろうか。だいたい、夢か現実
なのか、自分自身ですらあやふやに感じる。さっきの部屋に戻れば、魔物の戦
士がまだいるかどうかはともかく、惨状そのものは残っているはず。あの様子
を見れば、警察も本気になるかもしれない。
 そこまで考えた皆上の眼が、管理人室の窓口を見つけた。そうだ、とりあえ
ず管理人に話せば、対処してくれるに違いない。
 思いを行動に移そうとした矢先、背後からドアの開く音がした。魔物の戦士
が追って来た? びくりとして、恐ろしいにもかかわらず、エレベーターを振
り返る。
「どうかしましたか」
 現れたのは、一人の男性で背は高いが頼りなげな細身の上、かなり若い。大
学生の皆上と同世代に見える。皆上がよほど驚いた表情をしていたのか、心配
して声を掛けてくれたようだ。
「いえ、別に」
 早口で答え、管理人室の方に向かおうとする。
「管理人にご用ですか? だったら、僕が承ります。代理の者ですから」
 意外な台詞を背中で聞いて、皆上は再度振り返った。男は志木竜司(しきり
ゅうし)と名乗った。人のよさそうな笑みを浮かべつつも、何故か言い訳めい
た口ぶりで付け足す。
「僕の叔父がここの管理人、やってるんですが、今日明日と検査入院をするか
らということで、学生の僕にお鉢が回ってきたんです。さっき、二階の切れて
いた電球を取り替えて来たんですが、ひょっとしてあなたは廊下を走って、エ
レベーターに乗り込みました?」
 見られていたのか。ほんの少しだけ恥ずかしくなった皆上だったが、それよ
りも今は、体験したばかりの惨劇を伝える方が重要だ。
「あの、二〇四号室で大変なことが。警察を呼ばないといけないわ、多分」
「二〇四号室というと、横田峰夫(よこたみねお)さんの部屋ですか。お知り
合い?」
「はい、大学の」
 皆上はそれから状況を一気に説明した。聞いていた管理人代理は、案の定、
訝しがる気配を覗かせた。あからさまではないにしても、皆上を見る目つきが、
この人大丈夫?と言わんばかりのそれに変化したようだ。
「本当なんです! 行ってみれば分かります!」
 皆上の請願に、管理人代理の志木は静かに頷いた。
「分かりました。一緒に行きましょう。あなたが言うような異常事態が確認で
きたら、通報するとします。ただ、あなたの言う魔物の戦士が本当にいたら、
私なんかでは到底太刀打ちできない訳で……」
 志木は管理人室に一旦消えると、すぐに出て来た。手にはゴルフクラブが握
られている。
「叔父が用意してるんですよ。気休めだが、ないよりましでしょう」
 手に力を込めるのが傍目にも分かる。魔物の戦士の存在を本気で受け取って
はいないが、何らかの不審者がいることは覚悟してもいるようだ。二人揃って
エレベーターに戻り、二階に向かう。
「ここの防犯システムは、一昔前の物で遅れていますからね。カメラは正面の
出入り口と勝手口、それとエレベーター内にあるだけ。しかも勝手口の方は、
死角を把握できていれば、どうにか映らずに出入りできる。非常階段を使えば、
エレベーター内の防犯カメラも関係ないし」
 叔父とやらから聞かされたのだろう、肩をすくめつつ説明した。
 じきに二階に着き、扉が開く。皆上は思わず、身をすくめた。扉のすぐ向こ
うに、あの化け物が待ち構えている。そんな絵が浮かんだのだ。
 実際にはそんなことはなく、静かなものだった。人影はないが、マンション
の外から生活音が届くため、しんと静まりかえっている訳ではない。
「二〇四号室でしたね」
 志木の口頭確認に頷く。そのまま、相手の背中に隠れるようにして、問題の
部屋に向かった。玄関ドアを閉めた覚えはなかったが、自然に戻ったようであ
る。あるいは、魔物の戦士が閉めたか。閉じたドアの前で、管理人代理は言っ
た。
「オートロックじゃないんで、もし施錠されていたら、中に誰かがいてロック
したか、もしくは鍵を使って締めて出て行ったことになる」
 状況を再確認するかのような独り言。さすがに緊張した面持ちになっている。
 男性にしては細くて綺麗に手入れされた指をノブに当てる志木。それから回
しかけて、ぱっと手放した。
「いかんいかん。こういうときであろうと、一度は呼び掛けないと」
 インターホンを押し、「横田さん、いらっしゃいますか? 管理人代理の志
木です」と呼び掛ける。返答はない。再び、住人の名を呼ぶがやはり同じこと
だった。
「それじゃ、入るとしますか。失礼します」
 右手でクラブを構えると、左手で一気にドアを開けた。
 奥へ通じる短めの廊下が見渡せるだけで、人の姿はない。気配すらない。
「ベッドはどこです?」
 志木の問いに、皆上は首を左に振って応じたが、これでは相手から見えない
と気付き、口で答え直す。
「左手の襖の部屋です」
「分かりました。あなたはここにいて。もしも、万が一、何かあったら、すぐ
に助けを呼んでください。二階の部屋の何人かは在宅のはずですから」
「は、はい」
 空つばを飲み込んだ。皆上の前で、志木は靴を脱ぎ、ゆっくりと歩いて行っ
た。襖は開け放したままだから、覗けばすぐに状況が分かるはずだ。志木は、
ゴルフクラブをいつでも振り下ろせるように構え直してから、寝室の前に進み
出た。

           *           *

 一時期、僕の目から見ても、十文字龍太郎(じゅうもんじりゅうたろう)先
輩の苦悩ぶりは手に取るように分かった。
 高校生にしてパズルの天才でもある彼は現在、名探偵たらんと日々努力し、
行動している。事件解決の経験も数多く、依頼を受けることさえあるほどだ。
そんな先輩が、先頃手がけた事件の結末に納得しきれず、真相にかかるもやを
吹き飛ばすためだと言って、ある人物の出身地その他身辺調査を始めた。が、
結果は空振り。ある人物への疑いは、一応晴れた。
 この、ある人物とは、十文字先輩のライバルだった男の姉で、名前を針生早
惠子(はりおさえこ)という。僕が想像するに先輩は多分、彼女に前々から一
定の好意を抱いているようだ。
 当初、先輩が早惠子さんに容疑を掛けたことについて、明白な理由は恐らく
ない。事件関係者と親しい人物の一人、その程度だったんだと思う。だから今、
先輩は早惠子さんを疑ったこと、そしてそういう思考をした己自身を嫌悪して
いたのかもしれない。
 それはさておくとして。
「先輩、この間話した夏休みの件、本当に大丈夫ですか」
「――百田(ももた)君、何だっけかな?」
 学校に来るなり、朝一で二年生の教室を息せき切って訪ね、先輩に問うた反
応がこれ。僕は膝から下の力が抜けそうになった。廊下の窓際の壁に寄り掛か
り、どうにかバランスを保つ。
「音無(おとなし)さんからの誘いですよっ」
 僕にとって、目下の最重要事項。同級生の音無亜有香(あゆか)は、僕の理
想に一番近い女子だ。もちろん公言している訳ではないけれど、恐らく十文字
先輩にはばれている。
 そんな彼女がかつて巻き込まれた事件を、十文字先輩が解決した。そのお礼
にと、夏休み、別荘に招待してくれているのだ。蛇足だけど、音無のこういう
義理堅いところも、好きな点の一つ。
「そういえばそうだった。全く問題ないさ。改めてわざわざ聞くから、何事か
と思ったじゃないか」
 廊下に出てきてくれた十文字先輩は、窓の外を見やりながら、何でもない風
に応じた。
「あ、そうでしたか」
 ほっと胸をなで下ろす。とりあえず、落ち込みの底辺を脱し、気分は上向き
になっているようだ。この分なら、楽しい夏休み中盤を迎えられそう。
「ただし」
 戻ろうとした僕を、先輩の声が引き留める。
「期末試験が終わったからか、一つ、依頼が舞い込んだ。それを八月頭までに
解決できなかった場合は、取りやめるかもしれないな」
「え」
 慌てて、汗も飛ばさんばかりに振り向くと、名探偵のにやにや顔が待ってい
た。
「じょ、冗談ですか」
「よく分かったね。なかなか勘がよくなってきたじゃないか。頼もしい」
 冗談を肯定するコメントそのものに、冗談ぽさを混ぜないでほしい……。
「招待を一度受けておてい、翻すような失礼はできないからね。もし不在時に
何かあったら、五代(ごだい)君に話が行くように段取りしている」
「それこそ大丈夫ですか。五代先輩は、その、探偵活動にあまりいい顔をして
ないようですが」
 僕は教室を横目で見渡しながら尋ねた。どうやら、五代先輩はちょうど席を
外しているみたいだった。スポーツ特待生扱いだから、一部授業が異なってい
るのかもしれない。
 五代春季(はるき)先輩は、十文字先輩の幼馴染み。警察一家に生まれた関
係で始めたらしい柔道の有望選手で、はっきりいって並の男では勝てないだろ
う。また、十文字先輩の探偵活動にいい顔をしないと言ったけれど、時折、大
なり小なり捜査情報をもたらしてくれるのは、幼馴染みの身を案じてのことだ
と思う。
「今回ばかりは、だからこそ、だよ、百田君。もしも警察が乗り出すべき事件
であれば、五代君が巧く処理するさ」
「でも、何か大会があるんじゃないですか。あるいは、合宿とか。十文字先輩
も五代先輩も揃って不在なら、依頼したい人がいたとしても、コンタクトの取
りようがありませんよ」
「かもしれない。そのときは……一ノ瀬君(いちのせ)君ならどこにいても、
連絡が付きそうじゃないか」
「いや、あいつは学会とかで、海外ですから、それこそ動きようがないでしょ
う」
 一ノ瀬和葉(いちのせかずは)は、僕とクラスが同じで、何かとまとわりつ
いてくる。学業成績はトップクラス、かつコンピューターのことなら何でもご
ざれの天才で、僕なんかとは比べものにならない。なのに、妙に懐かれている
のは、一ノ瀬が少々苦手としてる日本語――外国暮らしが長かったせいか――
を直してやったのがきっかけの一つかもしれない。
「ああ、そうだったなぁ。もう準備は進めてるんだろうね。確か、月末には出
発だと聞いたから」
「はい。昨日も忙しそうにしていたし、今日はまだ見掛けていない――」
 喋っている途中で、身体に衝撃を受けた。右方向から、誰かにぶつかられた
のだ。よろけながらも振り向くと、話題にしたばかりの一ノ瀬が、おでこを押
さえながら立っている。
「いたた。結構、堅いね。みつるっち、たいしたガタイじゃないのに」
 みつるっちとは彼女が付けた僕のあだ名の一つだ。本名の百田充(みつる)
から来ている、単純なもの。
「いたたって、こっちの台詞だ。もしかして、堅いとガタイのしゃれを言いた
かっただけとか?」
「おお、鋭い。そのとーり」
 一ノ瀬には、新しく言葉遊びを覚えると、しばらく続けたがる傾向があるよ
うだ。こちらとしちゃ、着いていくのが大変……別に着いていかなきゃならな
いことはないんだけど。
「忙しいのに、わざわざここまで来るとは、何か用事かい?」
 先輩が一ノ瀬に尋ねる。一ノ瀬は猫のようにまん丸く目を見開き、こくこく
と頷いた。
「お土産の交換を約束しておきましょう」
「お土産?」
「はい。学会はハワイで開催されるので、マカダミアナッツ以外に何か買って
きます」
 何となくおかしな文脈だ。しかし、定番中の定番であるマカダミアナッツを
外すというのは、ありがたいと言えるのかもしれない。
「十文字さんやみつるっちは、剣豪の別荘に招待されてるでしょ? 地元の名
物を何でもいいから買ってきてほしいにゃと」
 剣豪というのも、一ノ瀬が勝手に付けた音無のニックネーム。これまた単純
で、音無が剣道の(というか恐らく刀剣の)達人だから。
「了解した。食べ物とそうでない物と、どちらがいい?」
「どっちも」
 遠慮なくリクエストする一ノ瀬を見て、ある意味、うらやましくなった。

 音無の別荘は、K高原にある。避暑にはもってこいの場所だとは聞いていた
が……着いたその日は小雨模様で、肌寒いくらいだった。プラットフォームに
降り立つや、思わず肌をさすったほど。
「カーディガンの一枚でも持ってくればよかったかな」
 駅を出て、傘を差しながら十文字先輩は呟いた。そう云いつつ、薄手ながら、
長袖を着ている。出発の折は、袖を折って短くしていたんだと気付いた。
 かく云う僕は、用意が悪く、長袖は持ってこなかった。二泊三日の予定だが、
着替えは予備を含めて、どれもこれも半袖。
「そこいらの店で、羽織る物を買うかい?」
 駅を中心にしたテリトリーは観光地化が進んでいて、しゃれた感じの店が建
ち並んでいる。
「予算にあまり余裕がないのですが。それよりも、矢っ張り、早く着きすぎで
すよ」
 音無とは駅前で待ち合わせて、とりあえず昼食は周辺の店で摂ろうという話
になっている。問題は時間だ。約束したのは正午だというのに、先輩は見物し
たいと二時間近く早い便を選んだのだ。
「初めての土地には、色々と興味がわくからね」
「だったら、最初に音無さんに言って、合流してから付き合ってもらった方が
よかったんじゃあ」
「勝手気ままに歩いてみたいんだ。君も自由行動の方がいいだろう」
「それはまあ、男二人で歩くような土地柄って雰囲気でもないですし」
 けど、男一人で歩くような場所でもないような。目立つのはカップルか女性
のグループ。他には団体旅行客らしき集団が、ちらほら。想像していたよりは、
年齢層が若干高めだ。
「矢っ張り、記録係として同行します。音無さんが着いたときに、うまく再合
流できないとまずいですし」
「自由行動だからね、かまわないよ」
 荷物は重いというほどではなく、背負ったまま、散策を開始する。
「あ、念のため、音無さんに連絡を入れておきませんか。着きましたって」
 早めに到着することを、先方には前もって伝えていないのだ。
「任せる」
 足を止めたまま、先輩はガイドブックを取り出していた。観光する気、満々
のようだ。
 とにかく、僕は屋根のあるスペースに入り、音無から前もって聞いておいた
番号に電話した。上三桁から察するに、携帯電話の番号ではなく、別荘にある
固定電話のそれのようだ。
「――もしもし」
 二度の呼び出しのあと、つながった。声から判断して、音無本人らしい。知
らない人が出たらどうしようという緊張は解けたけれども、別の意味で緊張す
る。
「音無さんのお宅でしょうか? 僕、クラスメートの百田充と――」
「ああ、百田君。亜有香だ。まだ列車の中では?」
 下の名前を名乗った音無に、どぎまぎしてしまう。確かに、音無家別荘に電
話して、音無と名乗られても区別できない。そこを配慮して、下の名前を口に
したんだろうけど、新鮮に聞こえる。それに、何だか恋人同士の会話みたいだ
し。
「実をいうと、すでに到着してるんだ」
「え? 聞かされていなかった。いや、ひょっとすると、自分が時間変更につ
いて、聞き漏らしたのか?」
「いや、云ってなかっただけだよ。十文字先輩の意向で、早めに着いて、観光
がしたいと」
 音無の声が、申し訳なさげな響きを帯びる。僕は急いで付け足した。
「それならそうと、事前に伝えてくれればよいものを。案内をしたのに」
「その辺も、先輩の意向で」
 と答えた刹那、電話口の向こうで、第三者の声がした。若い女性、いや、女
子の声だ。多分、僕らと同世代……と当たりを付けたところで、会話の内容が
はっきり聞こえた。話しているのは二人で、「どなたからかしら」「百田君か
らみたいです」「あら。少しお早いようですけれども」等と云っている。二人
の声にはともに聞き覚えがあった。
「あのー、音無さん。他にも友達呼んだ? 女子の友達」
「う、うむ。男子だけを招くと、家族が変な風に受け取りかねない故、女子も
呼んでおいた」
 聞いてない。お互い様だけれど。とにかく、確認だ。
「誰を呼んだの?」
「百田君とも十文字さんとも顔見知りだから、問題ないと思う。七尾弥生(な
なおやよい)さんに、三鷹珠恵(みたかたまえ)さん」
 自分の耳に自信を持てる返事だった。音無が口にした二人は、ともに僕と同
学年の一年生。
 七尾さんは僕らの通う学校、七日市学園学長の愛娘だ。マジックを特技とす
る「僕っ子」で、学園長の娘であるせいか、あまり友達は多くないみたい。そ
れはともかく、保護者の信用を得るには最適の人選だろう。
 三鷹さんも学校内有名人の一人で、見た目は縦ロールの髪をしたお嬢様。そ
の実態は、機械いじり好きが高じて、工学関連の諸々に才能を発揮していると
か。僕は目の当たりにしたことがないので、よく分からないけれど、ロボット
も作るらしい。
「そっか。先輩に伝えとくよ」
「あ。それはかまわないんだが、早く着いたのであれば、今すぐ迎えに出よう
と思う。雨も降っているようだし。駅をまだ離れていない?」
「あー、離れちゃないけど、十文字さんがどう思うか……」
 電話を顔に寄せたまま、先輩を振り返る。すると、じわじわとではあるが、
すでに歩き出しているではないか。
「ごめん、最初の予定通りで行こう。もし、待ち合わせ時間になっても、姿が
見えないようだったら、まだ電話してよ」
「……しょうがない。了解した」
 残念そうに云った音無。眉間にしわを作っていそうだ。些細なことで深く考
えない方がいいよ、とアドバイスしたい。云えないけれど。
 通話を終え、少し先行していた先輩に追いつく。
「それで百田君。結局、服を買うのか買わないのか、決めたかい?」

     〜     *           *     〜

「電話は十文字さんからでしたか。噂をすれば何とやらね」
 三鷹は微笑混じりに云うと、手首を返して腕時計で時刻を確かめた。
「時間がどうのこうの、たいした用件ではなかったようですが」
「待ち合わせ時刻の確認だった」
 音無は即答してから、はたと気付き、思わず叫んでしまった。
「しまった!」
「ど、どうしたの?」
 七尾が、さっきまで遊んでいたトランプを仕舞う手を止め、聞き返す。
「昼食にはどんなジャンルの料理がよいか、聞いておけばよかった」
「そんなこと、心配する必要ないのではありませんか。会ってから尋ねれば、
すむ話のように思います」
「確かにそうだが……物事はなめらかに運びたいと考えていたから」
「音無さん。ちょっとよろしいでしょうか」
 改まった調子で許可を求めてきた三鷹に、音無は気持ち、身構えた。
「何なりと」
「今回の話を伺って、いくつか感じたことがあります。十文字さんに感謝の意
を示すために、別荘へご招待するというのは、とても素晴らしい考えです。十
文字さんには、かつての事件で、自分もお世話になりましたし、感謝していま
す。七尾さんも同じでしょう」
 急に振られ、七尾は小刻みに頷いた。三鷹はまた微笑し、話を続ける。
「精一杯、もてなそうという気持ちでいることが、音無さんからはよく伝わっ
てきます」
「そのつもりでいる」
「ただ――自分は少し疑問に感じます。十文字さんの探偵ぶりには敬意を表し
ますが、果たして名探偵と呼べるほどの能力なのかしらと」
「――なるほど。あなたも気付いていたようだ」
 音無は硬くしていた全身から力を抜いた。自然と小さな笑みが浮かぶ。
「え、っと。どういう意味ですか」
 一人置いてけぼりを食らった格好の七尾が、音無と三鷹を交互に見やった。
 答えるのは音無。
「四月に起きた事件について、皆がどの程度知っているのか、私は把握してい
ないが、未解決であることは承知していると思う」
「ええ」
「私は、警察から嫌疑を掛けられてもおかしくないところを、十文字さんに救
ってもらった。犯人は捕まっていない。それどころか、途中、十文字さんは何
者かに襲撃されて、しばらく入院した。それと事件とが関係あるのかないのか
は、あずかり知らぬが」
「他にも、十文字さんが関わった事件で、表向きは解決していても、何か曖昧
さが残っているものもいくつかあるという話は、七尾さんもご存知でしょう」
 音無に続き、三鷹からも云われ、七尾はこくりと首肯した。
「僕が実際に関わった件もそうだし、他にも噂レベルなら」
「擁護する訳ではないが」
 音無はきっぱりとした口調で云った。
「某かの事情により公にされていないだけで、内々にはきちんと決着している
のかもしれない。そもそも、今回、私が十文字さんを招いたのは、あの人が名
探偵であるからではない。ただただ、私と我が家の家宝を守ってくれたことに
対し、感謝の意を表するためでしかない。それでは不足だろうか?」
「いいえ、まったく」
 承知の上でしたら何も云いませんとばかり、三鷹は笑みで応じた。
「自分も楽しみにしてるんです。十文字さんはパズルの天才と聞き及んでいま
すから、そちらの方の話を伺いたいと」
「だったら、何か問題を作って、出題するのがいいかも。解くことを喜びとし
ている感じだから」
 七尾の提案に、音無は唇をきゅっと噛んで、考え込んだ。
「それは私も考えた。よいパズルを出題できれば、それが最高のもてなしにな
るに違いないのだから。でも、残念ながら、私の頭脳はそういった作業には向
いていないようだ。その、二人はどうだろう?」
「私達の中で、最も向いているのは、七尾さんでしょうね」
「僕? 不思議な物を生み出すことに関心は高い方だと思うけれど、マジック
に偏ってるからなぁ。問題解決能力って云うのかな? そういう観点からなら、
三鷹さんの方が」
「自分も、パズルに関しては、論理パズルの知識を多少持ち合わせている程度
で、問題作成となると、期待に添えられそうにありません。が、音無さんと同
じく、あの人にはお礼をしたいと思っていました。そこで――あるアイディア
を用意してきたわ。お二人にも協力を仰ぎたいし、前もって聞いておかない?」
 不意に砕けた言葉遣いになった三鷹。その表情は最前から笑顔だが、今はい
たずらげな色合いが加わっている。
「何なに?」

     〜     *           *     〜

 正午を一分ほど過ぎた頃に、迎えの車が現れた。多人数でも対応できるよう
にということだろうか、ワゴンだった。青みがかったグレーの車体はよく磨き
込まれ、雨粒を弾いている。
 運転しているのはもちろん大人で、初老の男性。眼鏡を掛け、角刈りに近い
髪型が実直そうな印象を与える。眼は柔和で優しそうだが、肌はほどよく日焼
けして精悍な感じ。普通のおじさんと見せかけて、実は屈強なボディガード、
というやつかもしれない。
「観光の途中だったのではありませんか」
 挨拶のあと、音無が気遣いを見せた。先輩は首を横に振り、「いや、もう済
んだ」と応じる。
 僕はこのとき、実はがっかりしていた。音無の私服姿が見られると期待して
いたのだ。でも現れた彼女は、学校指定の制服姿だった。他の二人、七尾さん
と三鷹さんは、それぞれポロシャツにジーンズ、ブラウスに長めのスカートと
私服なのに。
「懸命に歩いたから、腹ぺこだよ。早く食べに行きたいな」
「何料理がよいか、希望はあるでしょうか?」
「いや、お任せするよ。まあ、この地方の名物料理があるなら、食べてみたい
かな」
「郷土料理で、お昼に合いそうなもの……蕎麦か豚肉でしょうか、あとは、野
菜の天ぷらも」
「それじゃ、天ざるでどうです?」
 ワゴンのシート、その奥に収まっていた三鷹さんが声を上げた。本人も食べ
たいという気持ちが顔に出ている。
「いいね。行ける?」
 先輩に問われた音無は、すぐに力強く頷いた。そして運転手に声を掛けた。
「田中(たなか)さん、お願いします」
 蕎麦屋なら、今いる場所からも二軒が目にとまったが、中心街からやや離れ
たところにある店がおいしいという。車で走ること十五分弱、国道沿いにぽつ
んと建つ店に到着した。
「もしや、高いのでは」
 藁葺き屋根の立派な純和風建築を前に、思わず呟いてしまう。しんがりにい
た音無が、「心配しなくていい」と応じる。
「そうなんだ」
「何が」
「値段、高くはないんだろ?」
「基準が分からぬが、そこそこすると思う。ただ、滞在中の食事に関しては、
全て持つから」
「え」
 絶句してしまった僕に対して、音無は涼しい顔で続けた。
「当然であろう。私が頼んで、来てもらったのだから」
「しかし……十文字さんはともかく、僕まで?」
「気にする必要はない」
 店内に入る。その際にぐずぐずしたものだから、音無に追い抜かれてしまっ
た。
「ありがたい話だけど。あのさ、音無さん。もしかすると、君のところって結
構なお金持ち? 別荘を持っていて、お抱え運転手もいるし」
「また基準の分からぬ話をする。だいたい、百田君は些細なことどもに気を回
しすぎるきらいがある。そこが長所なのかもしれないが、招待を受けたときぐ
らい、全て忘れるべきじゃないか」
「――うん、分かった」
 そう答えたのと同時に、すでに席に収まっていた先輩から声が飛んできた。
「何をしている。早く座って、注文を済ませてくれ。一緒に食べられないじゃ
ないか」

――続く




#457/598 ●長編    *** コメント #456 ***
★タイトル (AZA     )  14/04/30  22:31  (468)
金星と夏休みと異形の騎士 2   永山
★内容                                         14/06/30 10:56 修正 第2版

 天ざるをメインとした昼食が一段落し、和のデザートが出てきたところで、
三鷹さんがいささか唐突に話を切り出した。
「十文字さん、パズルにはマッチ棒パズルというのがありますでしょう?」
「ああ。何本かのマッチ棒で数式や図形等を作った上で、限られた本数を加減
することにより、数式を成り立たせたり、別の図形をこしらえたりするパズル
だね」
「実は、問題を持ってきました。ここにはマッチ棒がありませんので……爪楊
枝で代用するのは邪道でしょうか」
「かまわないだろう。ただし、マッチ棒と違って、爪楊枝はパズルに使ったあ
と、元に戻す訳にいかないが」
 触りまくった爪楊枝を、店の楊枝入れに戻すのは確かによくない。
「マッチ棒なら、ここに」
 僕と背中合わせに座っていた運転手の田中さんが、遠慮がちに口を挟んだ。
一人、別のテーブルについて食事を摂っていたのだ。マッチ箱を持っているの
だが、白手袋を外したその両手は、ごつごつしたイメージが強かった。
「使ってください。折ろうが燃やそうが、お構いなく。飲み屋でもらった物で
すが、私は煙草を吸いませんし」
「ありがとう」
 席を立った音無が、腕を伸ばして受け取ると、そのマッチ箱を三鷹さんに渡
した。朱色に店名らしきアルファベットが金文字で踊るデザインは、よく目立
つだろう。開けると、中のマッチ棒の頭も朱色だった。ぎっしり詰まっている
から、数が足りないことはあるまい。
「では、お借りして……」
 細長くて器用そうな指で、テーブルの上にマッチ棒を並べていく三鷹さん。
十二本で正方形を三つ作り、それらを「品」の形に配置した。
「最初の形は何でもいいんですけれど、この十二本のマッチ棒のみを用いて、
正三角形を三つと正方形を三つ、作ってみてください。ただし、マッチ棒を折
ったり曲げたり燃やしたり、あるいは重ねたりしてはいけません。また、完成
した時点でマッチ棒に触れていてはいけません」
「――なるほどね」
 眼を細める十文字先輩。口元も愉快げだ。
「触れてはいけないとは、つまり立体的な構造を禁じることだ。まあ、うまく
燃やせばマッチ棒同士をくっつけることができなくはないが、燃やすこと自体
も禁じられているからね。正方形と正三角形を三つずつ、まともに作るとした
ら、九本足りない。折ったり曲げたりもだめなんだから、一本で二辺を兼ねる
箇所を作るしかない……」
 先輩は語るだけで、マッチ棒を動かそうとしない。頭の中で、図を描いてい
るのだろうか。だとしたら、僕には真似できない。
「三鷹さん。マッチ棒、僕にも」
 十二本、出してもらい、試行錯誤をし始める。すると、七尾さんや音無も続
いた。
「……できそうで、できない」
 適当に並べるだけでも、正方形二つに正三角形二つぐらいなら簡単に作れる。
だからか、超難問という感じはしない。でもそこからが進まないのだ。
「三鷹君。質問をいいかな」
 口元に右手を当て、目を伏せがちにして黙考していた十文字先輩だったが、
不意に視線を起こして云った。
「どうぞ」
「正三角形三つと正方形三つ以外に、何らかの形ができていてもOK?」
「問題文が全てです。つまり、かまいません」
 三鷹さんは微笑しながら答えた。極めて自信たっぷりに、というか全ては思
惑通りという顔にも見える。
「なるほど、明確だ。じゃあ、答の一例として、こういうのはどうかな」
 十文字先輩は口元から手を離すと、素早くマッチ棒を並べた。その形状を描
写するのは、少々難しいのだが、これも練習と思いやってみよう。
 まず、七本で正三角形三つを作る。上向きを二つとそれらに挟まれる格好で
下向きを一つ。残りの五本で、「田」の上辺を取り払った形を作り、さらに真
ん中の縦棒を半分の長さだけ上にずらす。その突き出た中棒が下向きの正三角
形の頂点からすっぽり収まるよう、両図形を配置する。これで正三角形が三つ、
正方形が三つできた。ただし、正方形のサイズは、大きな物が一つと、その内
部に小さい物が二つという具合になっていた。
「さすがです。正解です」
 三鷹さんは、今度はにっこりと笑った。
「解けたのは、君がフェアに問題文を提示してくれたからこそだ。禁止事項が
逆にヒントになった」
「お気に召しましたか、このパズル?」
「素直すぎるきらいはあるが、なかなかの良問だった」
 その言葉は世辞ではないようだ。先輩は満足げに首肯している。そうしてお
もむろに云った
「今度は僕から出題していいかな。オリジナルじゃないんだが」
 パズラー、特にプロポーザーとしての資質が疼いたか、先輩が云い出した。
無論、僕らに異存があるはずもない。先輩は少し上目遣いをして、何かを考え
ているようだ。やがて、「百田君、君の手元のマッチ棒をもらうよ」と、僕の
前にあったマッチ棒十二本を取り、最初から先輩の前にあった十二本と合わせ
た。
 それから急に席を立つと、通路側に出た十文字先輩。何をするんだろうと思
っていたら、マッチ棒を並べ始めた。そうか、テーブルにつく全員にとって見
易いよう、位置を変えたんだ。
「これでよし」
 数式ができあがっていた。僕らから見て、9−5+6=8と読める。各数字
は、いわゆる電卓数字表示だ。計算すると、すぐに成り立っていないと分かる。
「この数式を成立させるには、マッチ棒を最少で何本動かす必要があるだろう
か? プラスとマイナス、それにイコールの部分は触ってはいけないものとし
て考えてほしい」
「当然、ここに新たにマッチ棒を加えたり、使わないマッチ棒があってはいけ
ないと?」
 三鷹さんが即座に質問した。「そうだね」と先輩。続いて七尾さんが、小さ
く挙手して尋ねる。
「あの、プラスとマイナスを触ってはいけないというのは、全く動かしてはい
けないという意味ですか。つまり、たとえばプラスを少し斜めにして、かけ算
の記号にするとか」
「ああ、なるほどね。そういうのもなしで頼むよ」
「そうですか……。プラスとマイナスを入れ替えたら、すぐなんだけどな」
 七尾さんのつぶやきに、誰もが頷いた。プラスの縦棒を取って、マイナスに
重ねてプラス記号にすれば、9+5−6で答は8だ。でも、これはだめらしい。
「ということは」
 音無が手を伸ばし、式の一点を指さした。
「この6の左下の一本を取って5にし、取ったマッチ棒を手前の5の左下に置
いて6とする。これで9−6+5=8になる。どうですか?」
 声に合わせて指を動かした音無。ちょっと見とれてしまった。
「確かに成立するね」
 十文字先輩はそう認めたが、何故か意地悪そうな笑顔になっている。
「だが、残念ながら最少の本数じゃないん」
「ええ? 一本しか動かしていませんが」
 声の大きくなった音無。そこへ三鷹さんが、すかさず云う。
「一本も動かさずに、成立させる方法があるんですよ」
「その通り」
 にやにやとチェシャ猫のような笑みを見せた十文字先輩。
「まだ掛かるようですね? 私は一服してきます」
 運転手の田中さんが席を立ち、先輩の後ろを通った。すると不思議なことに、
先輩は笑みを消して、テーブルに身体を密着せんばかりに寄せた。まるで、マ
ッチ棒パズルを田中さんに見せまいとするかのようだ。
 それでも田中さんからは見えたらしく、テーブルの上を一瞥すると、軽く首
を傾げてから通り過ぎ、店外へ出て行った。
「おお、危なかった」
 先輩はわざとらしく云い、胸をなで下ろす。ひょっとすると、今の動作もパ
ズルのヒントではないか? そう直感した僕は、田中さんからはパズルがどう
見えたかを思い描いた。
 と、次の瞬間、「あ、分かった」と呟いていた。
「ほう。百田君、答えてみてくれ」
「一本も動かさずに式を成り立たせるには、こうすればいいんです」
 僕は立ち上がり、通路に出た。それから先輩と同じ方を向く。
「どういう意味だ?」
 音無がその瞳を怪訝さいっぱいにする。ちょっといい格好ができると気付い
て、緊張した。
「逆から見れば、この数式、そのままで成り立つ」
 そうなのだ。天地を逆にすれば、式は8=5+9−6になる。田中さんがさ
っき首を傾げたのは、何が難しいんだと思ったせいかもしれない。
 コンマ数秒後、おおーっという感嘆が起きた。なかなか気持ちがいい。
「さすがだ、百田君。僕のそばにいて、成長したのかな」
 先輩は短く拍手しながら云った。冗談なのか本気なのか分からない。
「ただ……それだけかい?」
「それだけ、とは?」
「君の答は合っている。だが、正解の一つに過ぎない」
「まだあるんですか?」
「うむ」
「しかし……一本も動かさずに、成立させる方法が他にもあるなんて」
「方法と云うよりも、解釈の仕方だね。ヒントを出そうか」
 先輩は窓の外を見てから云った。多分、田中さんがどのぐらいで吸い終わり
そうかを計っているのだ。
「お願いします」
「そうだな、電卓数字であることがヒントだ」
 出題者の言葉に、しばらく考えを巡らせる。二分経ったかどうかの頃、三鷹
さんが口を開いた。
「数を数と認識せず、形や集合体として捉えることで、解決できます?」
「小難しい表現だねえ。うん、まあそれで合っているかもしれないな」
「だとしたら、こういう解釈はいかがでしょうか」
 三鷹さんは音無と同様に、ぴんと伸ばした指でマッチ棒の数式を示した。
「各々の数字を形として見なす、すなわちマッチ棒の並びと捉えれば、9は六
本のマッチ棒からできています。同様に、5はマッチ五本、6はマッチ六本」
 面白い見方だと感じた。しかし、6−5+6では8にならない。
「さらに、マッチ棒の位置にも着目します。そう、まさしく電卓の液晶に表示
される形として。すると、9の形から5の形をマイナスする――言い換えると
取り除く、ですよね――右上の縦棒一本が残ります。そこへ6の形をプラスす
ると、右上の空白が埋まり、8の形になります」
「ご名答。複数通りの正解があるパズルは珍しくないが、本問は作者が出題時、
正解を一つしか認識していなかったんだ。予期せぬ正解が見つかることを、そ
のパズルが『パンクした』と表現するんだけど、僕がそのことを知った事例が
このパズルなのさ」
「ふうん。どっちが作者の用意していた正解だったんですか」
 七尾さんの質問に、「どっちだと思う?」と返す先輩。
「普通に考えると、より簡単に思い付けそうな答だから、逆さまに見る方?」
「それが、逆なんだ。作者は電卓文字の方を正解のつもりでいた。用意してい
た物よりも、もっとシンプルな正解を見付けられる方が、よりパンク度が高い
と言えるかもしれない。どうしてこんな簡単な答を思い付けなかったんだ情け
ない、とね」
 解説し終わったところへ、田中運転手が戻ってきた。

 思わず、声が漏れる。
「おお、凄い」
 音無の別荘は大きかった。
 事前に、コテージ風の建物を想像していたから、尚更だ。今、眼前にあるの
は、明治か大正の香りを感じさせる、洋館である。多分、二階建て。「多分」
というのは、窓のサイズが大きく見えるし、装飾が凝っているため、区切りを
判別しづらく、断言できないのだ。
 隣の家、なんて物も見当たらず、山肌に建つ一軒家といった趣だ。
「最初に伺った折に、自分も予想外だと感じました」
 三鷹さんも同感だったらしい。よかった、仲間がいて。
「音無さんのお人柄から推して、純和風の日本建築が拝見できると思っていま
した。それがこのような洋風の建物とは驚かされました」
 え、そっちの方。
「自宅が日本家屋であるから、こちらも同じにしてはつまらぬと考えた、祖父
からそう聞いている。が、正直なところ、私は自宅の方が好きだ」
 だろうな。音無は椅子に腰掛けるより、畳に正座する方が似合う。服はドレ
スよりも着物……等とそれぞれの場面を想像していると、中へ通された。
「両親は不在です。後日――二日後の昼に来る予定なので、皆とはすれ違いか、
顔を合わせるとしても極短い時間になるはず」
 音無が十文字先輩に告げるのが聞こえた。少し、緊張が解ける。
「ただ……兄は早めに来ると云っていたので、もしかすると、今日にも姿を見
せるかもしれません」
「へー、お兄さんがいるんだ?」
 音無は主に十文字先輩を相手に話しているのだが、僕は割って入った。
「ああ。云ってなかったから、知らぬのは無理もない。だいたい、積極的に紹
介したいと思える人種ではないのでな、真名雄(まなお)兄さんは」
「マナオ?」
 どういう字を書くのかと問うと、真の名の英雄、と教えられた。
「紹介したくないとは穏やかじゃない。何か事情でも?」
 先輩が尋ねる。音無はしばらく黙していたが、程なくして意を決した風に口
元に力を込めるのが分かった。
「――顔を合わせたときに驚かぬよう、前もって伝えておきましょう。兄は、
まず、髪の毛が黄色です」
「は?」
「私が前回会ったときは、そのように染めていました。音楽を、バンドを趣味
としているせいらしいです。背が190センチほどあるように見えるかもしれ
ませんが、その場合、シークレットブーツで底上げしています。実際はそれで
も185センチ近くあるはずですが。年齢は、もうすぐ二十一。まだやめてい
なければ、一応、大学生。腕っ節は強いが、気は優しい方です。少々、だらし
ないところもあります。あらゆる面で、移り気というか……」
 列挙する内に声が小さくなる音無。つらいのか恥ずかしいのか。聞く限りで
は、ちょっと変わったお兄さんて感じだけれど、音無家の家風には確かに合わ
ないとも思える。
「兄のことはこれぐらいにして、あとは来てからでいいでしょう。部屋に案内
します」
 気を取り直した風にかぶりを振って、音無はポニーテールを揺らした。彼女
自ら案内してくれるようだ。先輩と僕は荷物片手に付き従い、二階へ向かう。
階段を上りきったところで右に折れると、廊下が続いている。その左右に部屋
が三つずつ。廊下を挟んで部屋のドアが向き合わないよう、少しずらして配置
されている。
「十文字さんは一番奥の部屋、百田君はその隣の部屋を」
「ありがとう」
「鍵をお渡ししておきます。スペアはありますが、大切に扱ってください」
 革のストラップ付きのキーを受け取る。旧い代物なのか、結構、無骨な感じ
の鍵だった。
「鍵、必要かな?」
「念のためです。あ、今は開けてある」
 鍵穴にキーを差し込もうとした僕に、音無が声を掛けた。なるほど、ノブを
回すと、ドアはすっと押し開けることができた。
「テレビやパソコンはありません。どうしても必要でしたら、運び込むことも
できますが」
「いや、いいよ。ただ、ニュースや天気予報のチェックぐらいはしたいな。ど
こかでテレビ、見られないのかな」
「居間に一台、食堂に一台あります。要するに、共用ですが」
「充分だよ。それよりも、僕にはこの部屋になくて寂しい物が別にある」
 十文字先輩が目配せしながら云うと、音無は戸惑ったように眼を泳がせた。
室内を覗く仕種をしながら、「な、何が不足でしょう?」と問う。
 先輩は笑いながら答えた。
「ドアの上の方にね。プレートがあったら気分が出たんだが。そう、部屋番号
を示すプレートがね」
 何とも、名探偵っぽいジョークだ。でも、音無は真面目に受け取ったらしい。
「宿泊施設ではないので、部屋番号は付けられていません。しかし、どうして
も必要でしたら、テレビと同様、用意できると思います」
「いやいや、大丈夫。冗談だよ。音無さん、我々を緊張させまいと気を遣って
くれるのは、うれしいよ。でも、代わりに君が緊張しちゃあ意味がない。気疲
れで参ってしまうぞ」
「はい。すみません」
 まだ完全に緊張を解いた訳ではないようだけれど、率直に云われて、少しは
肩の荷が下りた。そんな感じに見えた。
「それで、このあとはどうするんだろう? 部屋で休んでいていいのかな」
「今日このあとは特段、予定を立ててませんので、自由に過ごしてかまいませ
ん。三時頃にお茶の時間を設けているくらいです。あとは夕食が七時に。ああ、
外に出るときは、声を掛けてください。連絡が取れるとは云っても、急に姿が
見えなくなると不安になりますから」
「分かった。それじゃ、早速だが、外出するとしよう。天気も雨は去ったよう
だし、この別荘の周りを歩いてみたい。おっと、案内はいらないよ。迷子にな
るようなジャングルや、危険な底なし沼なんかがあると云うなら、話は別だが」
「そんな物はありませんが、三時までに戻ってくださいね」
「了解した。百田君はどうする?」
 不意に聞かれて、即答できなかった。事件の依頼を受けたときなら、僕も成
り行き上、先輩と行動を共にすることが多いけれども、今回の旅行では音無の
近くにできるだけいたいような。
「お供しますよ」
 第一希望と違うことを口にした訳は、僕も別荘の周囲を見ておきたいと思っ
たからだ。音無の別荘に招かれるなんて幸運、次にあるとしても、何年後にな
ることやら。

 真夏とは思えぬ快適さ。雨上がりのため、多少の湿気を覚えなくもないが、
緑の中を半時間ほど歩き回ったにしては、汗はほとんど出ていなかった。
「それにしても意外でした。先輩がこんなに自然好きだなんて」
「自然が格別に好きという訳じゃない」
 ちょっとした小川、せせらぎに出て、手頃な石に腰を下ろして僕らは話をし
ていた。
「環境を普段と変えるのは、謎解きで疲れた心身をリフレッシュできるし、パ
ズルのヒントを見付けられる期待もある」
「のんびりするのなら、釣り道具でも用意してきたらよかったかもしれません
ね。さすがにそこのせせらぎじゃ小さすぎるでしょうが、適当な川か池が近く
にありそう」
「君は釣りをするのかい」
「したことは何度かあります。趣味ってほどじゃなく、ほんの遊び感覚で。最
初の頃は、釣ってやろうと躍起になっていましたが、段々と悟ったというか、
文字通り、のんびり構えるようになりましたね」
「骨休めには、なかなかよさそうだ。しかし、僕の一つ下の若い者が、そんな
老成した物言いはどうかと思うぞ」
「老成はひどいなあ。それなら先輩だって、割と時代がかった言葉遣いをする
じゃないですか」
「あれは名探偵を目指しているからさ。形から入るってやつだね。言葉遣いと
云えば、あの三人の女子も相当、特徴があるな」
「三人て、音無さんと三鷹さんと七尾さんですか」
「他に誰がいる」
「いえ、僕と先輩共通の女子の知り合いって、他にも個性的なのが多い気がす
るので」
 たとえば一ノ瀬とか。
「認める。だが、今、三人の女子と云えば決まっているじゃないか。もしや、
君。音無君のことを話題にされたくなくて、とぼけたんじゃないだろうね」
「とぼけてなんかいませんよ。そもそも、音無さんの話題を避ける理由があり
ませんたら」
「そうか? 音無君が僕に好意を抱いているように映って、気にしているんじ
ゃないのかな?」
「そ、それは……ないと云えば嘘になりますが」
「心配しなくとも、今回の招待は、純粋に彼女からのお礼だ。僕に対して音無
君が過度の緊張を覗かせるのも、彼女の性格故だろう。この二泊三日が過ぎれ
ば、きちんと礼をしたとして、普通の接し方になるはずとにらんでいる」
「でしょうか。だといいんですが。僕にとっても」
 あ――っと、口が滑った。僕の音無への好意を、先輩が察しているのは間違
いないとは云え、認めるようなことをこっちから喋りすぎると、弱い立場がま
すます弱くなる。
「どうだろう、百田君。僕に依頼をしてみないか」
「何をですか」
 不意に立ち上がった先輩を、僕は見上げた。逆光で分からないが、今の先輩
は多分、例のいたずらげな笑みを浮かべていそうだ。
「君と音無君との仲を取り持つことをさ。恋のキューピッドなんて、僕も経験
がないから、いかに名探偵でも成功の確約は無理だがね」
「……お断りします」
 先輩の能力云々ではなく、自分の力でやりたいじゃないか、こういうのって。
 と、僕も立ち上がって答えたとき、せせらぎとは反対方向から声がした。
「十文字君に百田君、そっちにいるかー?」
 呼んでいる声に、僕らは聞き覚えがなかった。顔を見合わせている間に、足
音が近付くのが分かる。じきに、少し高くなった土手の上に、茶色のサングラ
スをした男性の姿が。
「ああ、いるじゃない。君達だろ、十文字君に百田君てのは?」
「あなたは?」
 先輩が誰何する。相手は僕らより少し年上、二十歳前後くらいか。体格はか
なりいい。もちろん肉付きは分からないが、バネのある格闘家タイプのように
思える。
 男は僕らを見下ろしながら云った。
「音無亜有香の兄、真名雄だ。聞いてるよね?」
「ああ……」
 髪の毛は黄色じゃなかったが、云われてみれば兄と妹とで似ている箇所があ
るようなないような。
「迎えに来た。さっき別荘に着いたら、もうすぐお茶の時間だと云うのに、君
らが戻ってないから、探しに来た訳。車があるから、すぐだ」
「あの、どうしてここにいると分かりました?」
「あん? 適当に探したら、足跡があった。何だ、疑ってる? さすが探偵だ
なあ。ほら、免許証」
 向こうは僕らを信用しているらしく、運転免許証を投げてよこした。そこに
ある顔写真と、当人とを見比べる。髪型は全然違うが、確かに同じ人物だ。氏
名の欄には、音無真名雄とある。
「信用したか?」
「しました。どうも、初めまして」
 先輩と僕は自己紹介をした。

 別荘に引き返すと、すぐにティータイムとなった。その席には、真名雄さん
の他にもう二人、新しい顔が加わっている。ともに真名雄さんと同じ大学に通
う友人とのこと。
「高校生探偵が来てるっていうから、楽しみにしていたのよ。面白い話が聞け
そう」
 芝立香(しばたてかおる)は、やや舌足らずな物腰で云った。髪のせいで頭
部が逆三角形に見えて、ダチョウのそれを想起させるフォルムなのだが、目鼻
立ちは整っている。見慣れれば美人と分かる、そんな感じ。座ったままだけど、
多分、スタイルもよいのだろう。黄色を主としたサマードレスが似合っている。
少し寒そうだが。
「矢張り、家族や知り合いに警察関係者がいるとか? ドラマや漫画でよくあ
るみたいに」
 笹川亜久人(ささがわあくと)、丸顔で太って見えるが、喉仏が出ている身
体の方は痩せているのだろうかと想像していると、ちょうど立ち上がってくれ
た。想像通り、細い。上はタートルネックタイプの白いシャツに薄紅色のジャ
ケットを羽織り、下はパンタロンみたいな黒っぽいズボンに大ぶりなバックル
付きの革ベルトを通していた。袖から覗く腕時計は、全体が黄色をした安物の
ようだ。おしゃれが成功しているのかどうか、微妙な線。
「いるにはいます。でも、警察の捜査情報を、ぺらぺら喋ってはくれませんね」
「だろうな」
 十文字先輩は、この席で与えられた役に快く応えるつもりのようだ。
 さて、僕はと云えば、密かに喜びをかみしめていた。やっと音無の私服姿を
拝めたので。
 上は眩しい程の白いブラウスに、葡萄茶色のリボンが首元にアクセントを施
す。下は黒のスカートのようだ。少し古いドラマに出てくる、音楽教師のイメ
ージが浮かんだ。教師っぽくないのは、スカートが若干短めであること。さっ
き、靴下を直すふりをして確かめた。
「――百田君、君から話してくれないか」
「え?」
 聞いてなかったのが丸分かりの反応をしてしまった。話し掛けてきた先輩が、
やれやれと云わんばかりに肩をすくめ、もう一度繰り返してくれた。
「今までに携わった依頼の中で、話しても差し支えのないもの、さらにここに
いる皆さんが知らないようなものを選んで、君の方から話してくれないか」
「あ、はい」
 そうだった。名探偵が事件を自ら語るとは限らない。下手すると、ただの自
慢になってしまう。そういうことを十文字先輩も意識していて、普段、打ち合
わせをしていたのに忘れていた。
「僕が関わったのは、どれもまだ起きてから日が浅いですから、語れるのは少
ないですが、一つだけ……」
 そうして、僕は語り始めた。こういうときのために話せる、架空の事件につ
いて。

 お茶会は意外と長く、二時間余りも続いた。僕の語りが終わったあとも、話
題は多岐に渡り、真名雄さん達の話に聞き入ってしまった。素人の感想だけれ
ど、真名雄さんは喋りがうまいと感じた。
 お手伝いさんらしき女性が食堂に顔を出し、そろそろ夕飯の支度に掛かるこ
とを伝えに来てくれたので、それを機にようやくお茶会は終わった。
「あーあ、どうしよう。思ってもいない展開〜」
 部屋に戻る途中で行ったのは、七尾さん。
「マジックをやるつもりじゃなかったから、あんまり準備してないのに」
 夕食後、マジックを披露してくれと真名雄さんにせがまれ、押し切られてし
まったのだ。
「プロだったら、いざっていうときに備えて、常に準備しているというけれど、
僕はまだそこまでの器じゃない」
「すまない。兄はああいう性格で……本人は、頼まれてもできなければきっぱ
り断るんだが」
 音無が項垂れながらも詫びた。続いて口を開いた三鷹さんは、対照的に明る
く云う。
「よろしいんじゃないですか。ある物だけを使って、精一杯やれば」
「他人事だと思って」
「何でしたら、自分も協力を惜しみません。必要なときは声を掛けてください。
サクラにでも何にでもなりましょう」
「……考えておきますから、声を小さくしてください」
 夕食が予定されている七時まで、一時間半ほどある。それなりに見られるシ
ョー構成を考え、準備を整えるのに充分なのかどうか、僕には分からない。
「十文字さんと百田君は、先にお風呂、どうでしょうか?」
 音無に云われて、僕と先輩は目を見合わせた。
「二人一緒に?」
「一人でも、二人でも。広さは問題ないはず」
「――百田君は普段の入浴時間、何分ぐらいなんだ?」
「えっと、二十分くらいですかね」
「僕も同じぐらいだ」
 だから一緒に入ろうということなのかと、ちょっと焦った。時間がないのな
らともかく、一時間半あるのだから、一人で二十分を要しても問題あるまい。
「どちらが先に入る?」
 あ、順番を気にしていたんですか。
「先輩が選んでくださいよ。冬場なら一番風呂より、二番以降の方が暖まって
いていいと聞きますけど」
「ここの風呂は、室温の制御もできる」
 これは音無。僕は苦笑を浮かべ、頭を掻いた。
「じゃあ、先に入るとしよう。僕が入っている間、みんなで楽しく遊んでくれ
たまえ」
 そう云われて、僕は約二十分間、女子三人に囲まれる場面を想像した。
 無論、実際はそんなことにはならない。七尾さんはマジックの構成を考える
のに一生懸命だし、三鷹さんは七尾さんに頼まれたら協力する気でいるから、
落ち着けない。残るは音無だけだが、いきなり二人きりになっても何が起こる
という訳もなく。
「百田君、護身術の心得は?」
「知ってると思うけど、何もない。せいぜい、格技の授業ぐらいだよ」
「前と変わりなしか」
 応接間みたいな部屋で彼女と二人になったけれども、何故かこんな話を始め
ていた。
「十文字さん自身は、武術か何かを身につけているのだろうか」
「いやあ、聞いたことない。シャドーボクシングって云うのかな? ボクシン
グのパンチを出すポーズを、暇なときはよくやっているけれど」
 先輩自身の弁によると、シャーロック・ホームズがボクシングを身につけて
いたことに影響を受けたらしい。先輩のボクシングの腕前がどれほどのものか
は、全くの未知数。
「探偵を続けるのなら、護身術の一つでも習得しておくべきだと思う」
「同感だ」
「私が云っているのは、君のことだ。同道する機会が多いのであれば、君が十
文字さんの足手まといになってはいけない。身を挺して先輩を守りなさいなん
て、もちろん云わない。自分の身は自分で守る、これが鉄則」
「……そうだよね」
 はっきり云って、僕は先輩に半ば巻き込まれる形で、強引にワトソン役に収
まってしまった。だから、悪漢と対峙して身を守るなどという発想は、ほとん
どなかった。だが、必要を感じなかった訳でもない。実感がなかっただけで、
十文字先輩の身に降りかかったいくつかの危険を思い返せば、自分は危険な目
に遭わないなんて楽観論、とても持てない。
「ひょっとして、何か有効な剣道の技を教えてくれるとか?」
「いや、私は……。兄が格闘技をやっているそうだから、聞けば教えてくれる
と云いたいだけだ」
「ええ? 真名雄さんが格闘技って、そんなこと全然聞いてないんだけど」
「ああ。私も今日、兄の口から初めて聞いた。移り気故、どれほど続けている
のか、はなはだ怪しいが、あの体格であるし、そこそこ使えるらしい」
「教えてもらえるのはありがたいけれど、風呂の前は遠慮しておくよ」
「それはそうだ。……素人が刀剣を手にして戦わざるを得なくなった場合、一
般に有効とされるのは、突きだ」
「え?」
「無闇に振り回したり、振りかぶるよりはましという程度だが、相手が使い手
でない限り、逃げるまでの時間稼ぎにはなるだろう」
「――分かった。いざというときのために、心に留めておくよ。ありがとう」
「言葉で教わっただけでは、だめだ。練習し、身体で覚えることこそ肝要」
 厳しい口調だったけれども、心配してくれているのが伝わってきた。僕は再
度、礼を述べた。

――続く




#458/598 ●長編    *** コメント #457 ***
★タイトル (AZA     )  14/05/01  02:32  (397)
金星と夏休みと異形の騎士 3   永山
★内容                                         14/06/30 10:57 修正 第2版

 風呂から上がってしばらくすると夕食の時間になったのだが、様子がおかし
くなっていた。真名雄さんと芝立さん、笹川さんの間に変な緊張感があるのだ。
もっと云えば、空気の底を険悪なムードが漂っているような。
 何かあったに違いないのだが、高校生の僕らに聞ける雰囲気ではなく、夕食
は最初から最後まで気まずさが列をなして行進していた。
「まあ、僕は助かったと云えば助かったけれど……」
 大学生三人が別々にそそくさと食堂を出て行ったあと、七尾さんが大きな吐
息とともに云った。
「助かったって?」
「この分なら、マジックはなしでしょ」
「あら、自分は観たい」
 三鷹さんが不平そうに云ったが、これは恐らくジョークだろう。何故って、
結局、三鷹さんはマジックの手伝いをする段取りになっていたのだから。
「七尾君のマジックは、別の機会に期待するとして」
 十文字先輩は、音無の方を向いた。
「彼らの間で何があったのか、君からお兄さんに尋ねてみてくれないか」
「聞くことはできますが、ちゃんとした答が返ってくるかは、責任を持てませ
ん。兄はこういうとき、たいていはぐらかす口ですから」
 硬い表情、堅い口調で音無は言った。
「それでも、念のため、尋ねておいてほしい。タイミングは音無君の判断に任
せるよ。何だか気になるんでね」
「あ、あの、任せてくださるのなら、僭越ですが、十文字さん達は一切、兄達
に接触しないでほしいのですが。下手を打つと、機嫌をさらに損ねることにな
るかもしれないので」
「承知した。任せると云ったんだから、僕は口出ししない。果報は寝て待つも
のだ。ははは」
「ありがとうございます。……本当に申し訳ありません、十文字さん、百田君
にも、三鷹さん、七尾さんにも。招待しておいて、こんな……」
「気にするな。君のせいじゃないのは明らかだ」
 先輩に慰められ、励まされ、音無はようやくいつもの顔つきに戻った。緊張
しすぎだったり、落ち込んでいたりする音無を見られるのは珍しいが、もう見
たくない。
「気分を新たにするためにも、早くお風呂に入りたいわ」
 三鷹さんが云った。場を明るくしようとしての発言かもしれない。
「ん。他の人達は、もっとあとで入ると思うから、先に入って」
「よかった。それじゃ、三人一緒に入りましょ」
 三鷹さんは七尾さんの手をつかまえ、さらに音無に目配せする。
「しかし、私は兄に尋ねないといけないし、のんびりと湯船に浸かっている暇
は……」
「大して時間は掛からないわ。先にさっぱりして、リフレッシュした方が絶対
にいい。決まりよ」
 女子三人のやり取りを聞く内に、どことなく気恥ずかしような微笑ましいよ
うな気持ちになってきた。十文字先輩とともに、その場を立ち去ることにする。
「正直な感想を述べるとだね」
 二階への階段の途中で、先輩が呟くように云った。
「音無君と三鷹君という組み合わせは、最初聞いたときどうなんだろうと思っ
た。七尾君の方は、何ら違和感はないんだがね」
「分かります」
 七尾さんは学園長の娘だから敬遠されることはあっても、彼女自身は友達を
とても欲している。誰とでも仲良くなれるタイプだ。そんな七尾さんに比べる
と、三鷹さんはとんがった個性の持ち主だ。そしてそれは、音無にも云える。
個性がぶつかり合えば、得てしてうまくいかないものというのがセオリーだろ
う。
「でも、実際はいい友達だと見せつけられたよ。僕の勘も当てにならない」
「ですね。今日ばかりは、勘が外れてよかったと思います」
「百田君も云うようになったね」
 部屋の前まで来て、先輩にこっちに来ないかと誘われた。
「かまいませんが、何かあるんでしょうか」
「これまで関わった事件の、有耶無耶な部分に焦点を当ててみたい」
「え、ということは、新しい証拠か推理が見つかったんですか」
「そうじゃないが、何かに集中していないと、真名雄さんを直に問い質しそう
になる」
 なるほど。

 眠い。
 お手伝いさんにコーヒーをもらって飲み干したのが、何故か眠気が取れない。
 眠たさの理由は一体? 十文字先輩とのディスカッションが退屈な訳では、
もちろんない。昼間、遊びすぎて疲れたというのも当てはまらないだろう。確
かに早起きはしたが、寝る時刻を前倒しにせねばらないほどではないと思うし。
「まあ、疲れがたまったんだろう。特に心理的な。何しろ、理想の異性の別荘
に泊まるのだから」
 いきなり云われると、どきりとする。
「先輩!」
「ディスカッションはここらで切り上げよう。僕も眠気に誘われたしね」
 目立った成果は出ていなかったが、先輩が云うのなら仕方がない。
「おやすみなさい」
 そういえば、音無から明日の予定を聞きそびれたな。そんなことを思いなが
ら、寝床に入った。安眠を妨げるものはあるはずがないと、微塵も疑っていな
かった。
 ところが、数時間後、全く逆の目が出た。
「百田君! 起きてください!」
 ドアをどんどん叩く音と僕の名を呼ぶ声に起こされた。反射的に時計を見よ
うとするが、いつもの位置にない。ああ、別荘に来ているんだった。携帯電話
で時刻を確かめることもできたが、それよりもノックの音にただならぬ物を感
じた。
「――七尾さん。どうかしたのか」
 ドアを開けてから、声の主が七尾さんであると気が付いた。落ち着きの中に
も、動揺が見て取れた。
「大変なんです。男の人の手が必要になりそうなので、急いで呼びに」
「だから、一体何が」
「笹川さんが、芝立さんを包丁で刺したみたいなんです。今、このお屋敷内を
探しているんですが、見当たりません」
「え? し、芝立さんは無事なのか」
「怪我を負ったので無事ではありませんが、命に関わる傷ではないようです。
それよりも、真名雄さんが頭に来て、輪を掛けて大変なことになるかも。笹川
さんを探し出して、制裁を加えようとしているんじゃないかって」
「それはつまり」
 不意に十文字先輩の声がした。先に起こされて、身嗜みを整えてから廊下に
出て来たらしい。飛び出してこなかったのはどうかと思う反面、七尾さんの話
をしっかり聞いている辺りは、さすが名探偵。
「推測するに、芝立香さんを巡り、真名雄さんと笹川さんは争っていたのか」
「うーん、少し違います。僕もさっき聞いたばかりですが、真名雄さんの彼女
さんが芝立さんで、笹川さんは横恋慕というやつみたい。それが今夜、芝立さ
んにつれなくされて、逆恨みした挙げ句、発作的に刺したんじゃないかって」
「ふむ……」
 思案げに小さく頷き、黙考する様子の十文字先輩。だが、やがて打ち切った。
「今、どの辺りを探しているんだろう?」
「外に出たみたいです。靴がなくなっていたので」
 僕、七尾さん、十文字先輩の順で階段を降り始める。
「笹川さんが逃げて、真名雄さんがそれを追いかけており、さらに他の面々が
二人を探しているんだね?」
「だと思います」
「警察へ通報は?」
「まだのはずです。真名雄さんが何か武器を手にしていたとしても、それは笹
川さんの攻撃を防ぐためだけなのかもしれないし。音無さん家だって穏便に収
めたいに決まってます」
「しかし、笹川さんが芝立さんを本当に刺したのなら、それだけで傷害事件な
んだが……」
 降りきったところで先輩は僕をちらっと一瞥し、迷う素振りを覗かせた。
「警察と同じ行動を取っていては、探偵の存在意義がなくなる」
 名探偵はそう呟いた。
 と、三鷹さんが玄関前に立っているのが見えた。扉を細く開け、時折外を窺
っているようだ。近付くと、ドアにはチェーンロックが掛けられていると分か
った。
「どうなっている?」
「分からない。笹川さんを追って、いえ、あの人の靴がないのを見て、真名雄
さんも音無さんも外に出て行ったわ。あとは田中さんが、この別荘の周囲を見
回っている。別荘内には、私達の他には芝立さんと彼女の看病をお手伝いさん
がしているだけ」
「他に男はいないんだね?」
「そう聞きました、はい」
「真名雄さんと笹川さんと芝立さんは、真名雄さんの車でここへ来たと云って
たな。笹川さんは車を運転できるんだろうか。車を奪って逃げた可能性も、考
えねばなるまい」
「音無さんか田中さんに聞けば、分かると思いますけれど……」
「音無さんは携帯電話を今、持ってるんだろうか。ああ、持っていたとしても、
我々は番号を知らないんだった。三鷹さんか七尾さんは?」
「自分と七尾さんは、前に教えてもらいました」
 三鷹さんは云うが早いか、携帯電話で発信した。二回の呼び出しで、向こう
が出た。
 切迫した声が漏れ聞こえたが、中身までは不明だった。三鷹さんが音無を落
ち着かせ、車の有無を尋ねる。
「――うん、分かりました。くれぐれもご注意を」
 電話を切るや、三鷹さんは「車は全て車庫にあると、確認済みだそうです」
と教えてくれた。
「笹川さんは遠くには行ってない可能性が高い、と。そうなると、山か、川沿
いに逃げるか……しかしこの暗闇で。懐中電灯を持って出たとは考えにくいし、
携帯電話の類の明かりなんて、たかがしれている。危険な生物だっているだろ
うから、一番安全なのは、この別荘の光が届く範囲に、身を潜める――」
 独り言のように推理を繰り出していた先輩が、喋るのをぴたっと止めた。
「笹川さんの部屋は?」
「え、知りません」
「自分も聞いていません」
「あ、でも、一階だと云ってたような」
「確かか、七尾さん?」
「はい」
 気忙しい会話を経て、十文字先輩は玄関とは逆方向に歩き出した。早足で移
動する彼を、僕らも追い掛ける。
「三鷹さん、もう一度電話を。音無さんに聞いてもらいたい。笹川さんは一階
のどの部屋を宛がわれたのかと」
 求めに応じ、電話する三鷹さん。しかし、今度はつながらないようだ。呼び
出しはなっているのに、向こうが出ない。電話に出られないような変化があっ
たのか、単に携帯電話を落としただけなのか。
「つながりませんわ」
「仕方がない、掛け続けて」
 三鷹さんが短縮ボタンを押そうとした刹那、彼女の手にある電話が鳴った。
「あ、音無さんから。――はい?」

『笹川さんの部屋に近付かないで! ああっと、一階の四番目の部屋。いい? 
分かる?』

 三鷹さんが電話に出るなり、音無の張り上げた声が、僕らにまで届いた。
「四番目の部屋って……どれだ」
 僕は困惑した。二階と同じく、通路の両サイドに部屋がある。どう数えて、
あるいはどちらか数えて四番目なのだろうか。
「――この部屋のようだ。騒がしい」
 十文字先輩は耳ざとく、部屋を特定した。右側のドアを手前から数えて四番
目の部屋だった。
「近付くなと云われても、探偵がここで引っ込む訳にいかない。みんなは下が
っていてくれ」
 命じられるがまま、僕と三鷹さんと七尾さんは、三メートルばかり距離を
取って立ち止まる。先輩は問題の部屋の前で、ドアノブに慎重に手を掛けた。
――ノブが回った。
 名探偵は素早くドアを開け、内部に視線を走らせたようだ。部屋は薄暗く、
しかし人の気配、否、人の立てる物音がすでにある。窓が開け放たれているの
か、木々の匂いを含んだ風が、微弱ながら流れてくるのが感じられた。
 そうか。笹川さんは自室の窓を開けておき、外に逃げたと見せ掛けて、こっ
そり舞い戻ったんだ。その策略に気付いた真名雄さんと音無も、相次いでここ
へ集まったということらしい。

 先輩は次の瞬間、あっさりと中に入った。僕たち三人も、部屋までの距離を
狭めた。室内をどうにか覗ける。僕らに割り振られた部屋からは一番遠い客室
で、一回りか二回り広いようだ。
「どうして来たんですか」
 低く冷静だが、緊張感のある声で音無が云った。姿は、僕の位置からは確認
できない。
「分かったから、来るしかない。君に任せたのは会話だけだしね」
「格好付けている場合じゃないんですよ。ほら」
 音無の台詞に、僕はもう三歩ほど身を乗り出し、部屋の中全体が見通せる位
置に立った。
「あ」
 短く叫び、次いで空唾を飲み込む。
 部屋の奥の壁に沿わせる形でベッドが置いてあり、そこに、長めのポンチョ
みたいなだぼっとした服を着た男が、背を丸めて腰掛けている。笹川さんだ。
 そのほぼ正面に、足を前後に開いて立つ人影。こちらは真名雄さんだ。両手
には、何やら長い得物が握られている。そして真名雄さんと僕の視線のちょう
十文字先輩。先輩の右、二メートルほど離れて音無がいる。音無の手にあるの
は木刀のようだ。彼女から見て、笹川さんまでおよそ五メートル、真名雄さん
までは四メートルといったところか。
「十文字さん、そこをどいてください。兄はやる気かもしれません」
「何?」
 先輩が真名雄さんの方を向く。はっきり見えるはずないのに、真名雄さんの
両目は血走っているように思えた。そして手にした得物は、真剣らしかった。
もうすでに、鞘から抜かれている。
「あれは四月の事件のときの刀か?」
「確言はできません。うちには、刀剣がいくつか保管してあるので」
 音無と先輩との会話しか聞こえないが、この間にも、真名雄さんと笹川さん
はぼそぼそと聞き取りにくい声で、言葉の応酬をしているようだった。と、先
輩達の会話が途切れたことにより、笹川さんの声が聞こえた。
「俺は恨みの塊になったからな。柔な刀で斬られたくらいじゃ、死なん」
「我が家に伝わる刀まで侮辱するか。ならば本当に試してやろう」
 真名雄さんも、静かだが気迫の込められた声で返す。最前までとは打って変
わって、二人の声がよく聞こえる。
「やってみるがいいさ。たとえ斬られても、何度でも甦ってみせる」
「酔っているのか? 香を刺して、気が動転しておかしくなったか?」
「何とでもぬかせ。おまえこそ、口先だけで、実行できない輩か? その刀は
お飾りか?」
「云わせておけば」
 ぐっと力を入れて刀を構え直し、笹川さんとの距離を着実に詰めた真名雄さ
ん。「真名雄さんの剣の腕は?」
 先輩が早口で音無に聞く。返事は音量を絞っていた。
「私よりは劣るが、一通りはこなす。藁を巻いた竹くらいなら、すっぱりと」
「そりゃまずいな。君は木刀で彼を止められるか?」
「分からない。云えるのは、そこにあなたがいては不可能だということ」
「うむ。邪魔するのは本意でない」
 先輩はその視線の動きからして、下がるか前に転がるかを検討していたんだ
と思う。だが、行動を起こすより先に、真名雄さんが歩を一気に進めた。すー
っと笹川さんに接近するとともに、刀を振りかざす。最適な距離まで詰めた一
瞬後、刀を袈裟斬りに振り下ろした。
 それから――僕は信じられないものを目撃した。
 笹川さんの身体が、胸と胴体の間辺りで、二つに分かれたのだ。どうっ、と
横に倒れる笹川さんの上半身。下半身は、斬られたことにまだ気付かないのか、
足先が苛立たしげに動いて、床を叩く。上半身も、ベッドの上をとてもゆっく
りとではあるが、ずるずると這い回ろうとしていた。が、それらの動作も、段
段と弱くなり、いずれ完全に停止する――と思いきや、合図があったかスイッ
チが入ったかでもしたみたいに、急にまた激しくなった。足は床を踏み抜かん
ほどの強さで、がしがしっとテンポを刻む。上半身は両腕を突っ張って起き上
がると、下半身の上へと戻っていく。
 下半身に上半身を載せた笹川さんは、「ほうら、復活するぞ」と、にたりと
した笑みをふりまく。B級映画のモンスター役を彷彿とさせる。型通りだが、
迫力と凄みを有した笑み。
「身体が復活すれば、今度はこちらの番だ」
「――させるか」
 鋭く短い一括が聞こえるのと、音無の木刀が空気を裂いたのはほとんどタイ
ムラグがなかった。飛ぶように踏み込んだ彼女の木刀の切っ先が、笹川さんの
首筋を捉える。その一撃は、不死身の怪物のように振る舞った彼を失神させる
のに、充分な威力を持っていた。
「誰か、明かりを」
 音無の冷静な声に、僕は室内に入ると、壁にあるであろうスイッチを手探り
で求めた。すぐにそれらしき突起に触れたが、押し下げても手応えがない。壊
れているのか?
「――ははあ、そういうことか!」
 突然、十文字先輩が大きな声を張った。皆、何事かと見やる。
 そんなことにはお構いなしに、先輩は拍手を始めた。間延びした拍手だ。
「先輩? あの、十文字さん?」
 呼び掛けると、やっとまともに反応してくれた。
「百田君も拍手したまえ。まだ分からないかもしれないが、僕と君は観客だっ
たんだ。たった二人のね。言い換えるなら、たった二人のために、皆さんはと
ても骨を折って、派手な歓迎をしてくれたんだよ。
「どういう……意味ですか。僕にはさっぱり」
 判然としない名探偵の表情どうにか読み取ろうとしつつ、正直に答えた。
「だから、今し方目の前で繰り広げられた、ホラーもどきの怪現象は、音無さ
ん達の出し物なのさ。――間違ってるかい、音無さん?」
 先輩の質問に合わせて、僕は音無の顔を見つめた。
 いつもの冷静で硬い表情は消え、口元が震えている。あっという間にこらえ
きれなくなった彼女は、声を出して笑った。
「すみません、その通りです」
 認めると、音無は僕と先輩に深々と頭を下げた。そして面を上げると、この
部屋のベッドを示しながら続けた。
「感想を伺う前に、笹川さんの様子をみてよろしいですか? さっき、木刀が
思いもよらず、強く入った気がしないでもないので」

「痛いことは痛かった。気絶はしなかったけど」
 笹川さんは、首筋に貼られた湿布をさすりながら、苦笑を盛大に浮かべた。
 音無が恐縮気味に、「本当にごめんなさいっ」と謝るのを聞いたのは、これ
で何度目だ。
「さて、そろそろ、名探偵に種明かしをしてもらいたい」
 真名雄さんが十文字先輩に水を向けた。
「どこで気付いた?」
「全てが終わってから分かったのだから、自慢になりませんが」
「いいから。即座に察したってことは、ずっと前の段階で、どことなくおかし
いなとか感じていたんじゃないのか?」
 十文字先輩の空になったグラスに、液体――ジュースを注ぎつつ、解説を迫
る真名雄さん。この人の見せた剣の扱いは、練習の賜だったそうだ。真名雄さ
んも笹川さんも、そして芝立さん(無論、刺されてなんかない)も、揃って演
劇仲間だという。大小の道具を揃え、アイディアを形にしたのは、この三人の
力が大きい。
「断片的で、順序立てて話せないんですが……たとえば、音無君が木刀を手に
していた点」
「な、何か不自然さが? しかし、私は笹川さんか兄かのどちらかを止めるつ
もりで、木刀を持って追い掛けたという設定なのだから、おかしくはないと思
う……うん」
「別荘には刀が何本もあるようなことを云っていた。それなら、木刀よりも刀
を選ぶのではないかと思ったんだ。いくら実の兄とは云え、怒り心頭に発した
状態で真剣を携えているんだ。音無君も真剣を持って応戦したいと考えるの普
通じゃないか」
「それは……腕前の差があるので、木刀でも勝てぬことはありません。大きな
怪我を負う危険がありますが」
「そう気にしないで。他にも変だなと感じたことはある。えっと、真名雄さん
の車に乗ったときもだな」
「うん? 何かおかしかったっけ?」
「あのとき、あなたは別荘に着いてすぐまた僕らを迎えに出たというニュアン
スで喋っていましたよね。でも、その割にはシートに腰を下ろした瞬間、ひや
っとしたんですよ。笹川さんや芝立さんはどこに乗っていたんだってことにな
る」
「なーる。本当は、昨日の夜に来て、準備を始めていたんだ。車のシートがぬ
くくなかったのは当然だ」
 やられたという顔をして、額に片手を当てる真名雄さん。僕も内心、似たよ
うな思いを味わっていた。だって、僕は先輩と同じようにあの車に乗り、座っ
たのに、全然気付かなかったんだよ。悔しいじゃないか。
「あとは、夕食後の取って付けたような険悪な雰囲気も不自然と云えば不自然
でしたし、通報しないのも気になった。部屋の電気が点かなかったのは、あま
り明るくすると、仕掛けがばれるかもしれないから。到着時間を気にしていた
のもヒントになったかな。駅まで早く来るのはいいが、別荘に早く到着されち
ゃあ、準備が終わらない可能性があったからだとにらんでる。僕と百田君を風
呂に早々に入れたのにしても、準備の都合があったんじゃないかな。最大の引
っ掛かりは、割り振ってくれた部屋の位置。仕掛けを設置する部屋の物音が聞
こえぬようにという配慮で、最も離れた二部屋を用意したんだろうけど、だい
ぶ不自然でした。他にも空き部屋がある様子なのに、わざわざ廊下の突き当た
りの、たくさん歩かねばならない部屋を用意するなんて。窓の外を見ても、格
別に景色がよいという風な特典もないようだしね。音無君ともあろう人が、感
謝の意を示すために招待したゲストを、そんな部屋に通すはずがないと信じた
訳です」
「……誉められている気がします」
 音無がはにかんだ笑顔を見せた。
 その隣に座る三鷹さんが、「それでは、謎そのものの魅力はどうでしたかし
ら」と聞いてきた。
「満足していただけたなら、幸いですけれど」
「ああ、人体切断と復活! あれは素晴らしい。まるで魔法だった。誰が思い
付いて、どうやって実現せしめたのか、気になるよ」
「思い付いたのではなく、インターネットから拾ってきたんです」
 三鷹さんが答える。
「小学生のときに人体切断と復活を学校で体験をした人が、大人になってホー
ムページを作り、その中の記事の一つとして、昔話の形で書いていた。それを
目に留めた自分が、音無さんと七尾さんに、十文字さん歓迎の出し物にできな
いかと相談したのです」
「ちょっと気になる話だな。あんな魔法めいたことを小学校で体験したのか」
「ああ、言葉足らずでした。その人の体験した年齢が小学生の頃で、場所は定
かではなかったと思います。西洋甲冑を着込んだ牛頭の騎士が現れ、男性を一
刀両断するも復活したとか。ファンタジー映画、もしくはマジックショーのワ
ンシーンのように感じましたわ」
「そこで、七尾君に相談を持ち掛けた訳か」
「はい。彼女なら、種を突き止めてくれると信じておりました。そして見事に
応えてくれたので、この出し物ができたのです」
「三鷹さんの話し方で持ち上げられるとむずむずするから、やめて〜」
 耳をふさぐポーズの七尾さん。愛らしい仕種に、笑いが起こる。
「称えられて当然のことをしたのだから、堂々と誉められるべき」
 三鷹さんの攻勢(口勢)にストップを掛け、僕は七尾さんに直接聞いた。
「種はすぐに分かったの? 元々知っていたとか」
「いえ、知りませんでしたし、すぐには分かりませんでした。映像でもあれば
また違ってくるのですが、話に聞いただけではなかなか難しいです。でも、美
馬篠のみんなが協力してくれましたから」
「へえ、美馬篠高校というと衣笠(きぬがさ)さんや無双(むそう)さん達か。
心強い味方だね」
「ええ、本当に。マジックの知識は僕一人じゃ全然だめだから、みんなに教え
てもらったり調べてもらったりして、やっと形にできたんだぁ」
 最後の「できたんだぁ」に嬉しさがぎゅっと詰まっている。きっとそうだ。
「私が思うに、台車と服と隠れるスペース、これらが特に重要だったね」
 芝立さんが口を挟んだ。彼女こそ、マジックを実現する道具を作ったリーダ
ーだという。ちなみに、切断後の上半身は笹川さん本人が膝を抱える格好をし
て演じ、下半身は“刺されて寝込んでいたはずの”芝立さんが、ベッド下のス
ペースに横たわって熱演していたのだ。斬り付けてくる動きに合わせ、小型の
台車を利してタイミングよく跳び、切断されたように振る舞うのである。
「種明かしもいいが、さっきの元ネタのホームページが矢張り気になるな。三
鷹君、あとでいいから、そのページについて教えてほしいんだが」
 名探偵の求めに、三鷹さんは力強く請け負った。
「お安いご用。さすがに記憶はしていませんけれど、調べがついたら、すぐに
でもお伝えします」
「サンキュー。ああ、話の邪魔をしてすみませんでした」
「それはいいんだけれど。――一つ気になっていたことがあったんだ。聞いて
いい?」
 芝立さんの質問の矛先は、三鷹さんと音無のようだ。二人を等分に見つめて
から、話を続ける。
「この出し物、十文字君が早くに解いてくれたから、スムーズに種明かしに移
れたけれどさ。もしも彼が悪戦苦闘して、翌日や翌々日に持ち越すようだった
ら、どうするつもりだったの?」
「自分も密かに思っていたぞ」
 真名雄さんが主張する。芝立さんの尻馬に乗っかったのか、本当に前から思
っていたのかは分からない。
「そんな心配は全くしていませんでした」
 きっぱり、即座に答えたのは三鷹さん。彼女は音無に顔を向け、「ね?」と
いう風に首を傾げてみせた。そのボディランゲージを受けて、音無も口を開く。
「十文字龍太郎は名探偵です。さっと解いてしまうに違いない。その前提で計
画を進めればよい。そういうことです」

――終




#459/598 ●長編    *** コメント #244 ***
★タイトル (AZA     )  14/06/30  22:24  (388)
遭遇、金星と冥府の士 <上>   永山
★内容
 音無亜有香には、他人に打ち明けないでいることが一つある。秘密というも
のとはちょっと違う、彼女自身の少し不思議な力のことだ。
 彼女は『視える人』なのである。
 平たく言えば、いわゆる幽霊とされる何らかのものについて、時折、目撃す
ることができる、となる。常に見える訳ではない。見える姿形も、どこの誰某
に似ているなんてケースは今までになく、多くの場合、白くてぼんやりした人
型が地面すれすれに浮かんでいる、そんな感じだった。また、幽霊とコミュニ
ケーションを取れる訳でもない。そもそも、音無本人は幽霊の存在を信じてい
ない。
 では見えたとき、どう解釈しているのだろうか? ありのままを受け入れる
のだ。幽霊めいたものが見えたなら、そこにそういうものがある。幽霊かどう
かは知らないし、興味もさしてない。尤も、まるで関心がない訳でもなく、そ
れなりに本を読んで調べることも、幾度かあった。今は、脳が見せる錯覚とい
う説が気に入っているので、そう解釈するようにしていた。
 そんな音無が最近、気にしている事柄がある。
「百田君、つかぬことを尋ねる。身体の調子はどうだろうか?」
「え?」
 そう問うと、クラスメートの百田充はびっくりしたような眼差しで見返して
きた。折を見て聴いたつもりだったが、タイミングを誤ったようだ。音無は心
中で反省しつつ、言葉を重ねた。
「普段と比べて、好調もしくは不調ということはないか」
「特に意識してないけど……高校生活を送る分には、支障を来してないかな。
探偵に付き合わされたときは、間違いなく疲れるけれどね」
 百田はそう答えると、視線を前にやり、目配せした。
 前方には、音無達にとって一年先輩に当たる十文字龍太郎がいる。かなりの
早足で、こちらが置いて行かれないようにするには努力が必要だ。
「何をひそひそ話しているんだ? 事件に関係のあることかい?」
 十文字が振り返らずに鋭く云った。歩くスピードは落ちない。
 今、彼らは待ち合わせ場所に向かっている。元々、ここK高原には夏休みを
利して泊まり掛けで遊びに来たのだが、パズル名人にして名探偵志望の十文字
が、ある事件を気にし始め、居ても立ってもいられなくなったのか、とうとう
行動に移してしまった。ネットで調べて事実を把握した上で、つてを頼り、捜
査状況を知る刑事に会える手筈が整った。駅で落ち合った刑事は尾上と名乗り、
ちょうど折よく、長野方面に足を伸ばす所用があったらしい。
「第一発見者の内、女性の方、皆上幸代こそが人体切断の目撃者でもある」
 人が多くざわざわした喫茶店に入り、適当にオーダーをしたところで、尾上
は話し始めた。童顔で実際に若そうな尾上刑事は、せめて喋りだけでも威厳を
持たせようとしてか、堅い調子で切り出した。
「彼女の話によると、マンションの二〇四号室に知り合いの横田峰夫を訪ねた
際、横田が異形の騎士に一刀両断にされる様を目撃したと、こう云うんですな」
「異形の騎士とは、具体的にどんな姿形をしてるんです?」
 十文字の質問に、刑事は少しだけ「ん?」という表情を覗かせた。だが、す
ぐに元の調子に戻る。
「えー、証言によれば、面構えは牛で、立派な角もあった。身長は二メートル
近くあった。西洋の鎧を身に纏い、手にした西洋風の大きな剣を振るって、横
田峰夫を斬り殺した、ということだ」
「なるほど」
「断っておくが、これは飽くまで目撃者の証言をそのまま伝えただけであって、
我々が鵜呑みにしている訳ではない」
「承知しています。明言してもらって、より安心しました。僕と同じスタンス
だ」
 十文字は初対面の刑事に対し、物怖じせずに受け答えをする。尾上刑事は苦
い表情をちらりと覗かせることはあっても、継続はしない。上司から言い含め
られているものと推測された。
「そんな化け物みたいな輩が実在したとして、目撃した女性が無傷で無事とい
うのは、納得しかねるんですが……本人は何か云ってるんでしょうか」
 百田が尋ねる。その直前、十文字の顔色を窺う仕種が見られたので、事前に
打ち合わせしていた通りなのかもしれない。
「ああ、それなら説明は付く。皆上は惨劇を目撃した直後に、現場から逃げ出
したんだ。一階の管理人室に助けを求め、そこにいた管理人代理の志木竜司が
これに応じ、揃って現場に引き返している。静まり返った二〇四号室を調べた
ところ、化け物は姿をくらまし、遺体だけが残されていたという話だ」
 「分かりました」という百田の台詞を引き継ぎ、十文字が口を開く。
「でも、別の疑問が。異形の騎士は部屋を抜け出たあと、どうしたのか? 警
察は当然、マンション内をくまなく探したはずですが、現在まで容疑者逮捕の
報道がないということは……」
「その通りだ。マンション内にそんなけったいな格好をした輩はいなかった。
それだけじゃない。マンションには防犯カメラがいくつかあるんだが、そのど
れにも映っていなかった。扮装を解いたあと、別の部屋の住人を脅して中に隠
れるという可能性も排除されている。残るは、住人の誰かが犯人で、自室に籠
もった場合くらいだが、これも些か心許ない。というのも、扮装一式が全く見
つからなかったからだ。皆上の証言を信じるなら、大ぶりの剣だの鎧だのに、
牛のお面にマント等々、相当な嵩になる。仮に一つずつ別々にされたとしても、
マンション内に隠したのならじきに見つからなきゃおかしいんだ。しかし、見
つからなかった」
 話す内に声が大きくなり、口調に熱を帯びる尾上刑事。悔しさを思い起こし
たようだ。
「二〇四号室の前の廊下には、防犯カメラはないんですか? あれば、少なく
とも何者かが逃走する姿を捉えているはず」
「ない。エレベーター内に備え付けられたカメラが、各フロアに到着時、廊下
の様子を一時的に映すだけだ。ついでに教えとくが、そのカメラの録画映像に、
犯人らしき人物は映っていなかった」
「エレベーターを使った人物についてもっと詳しく、お願いできますか。少な
くとも被害者本人と、発見者達の乗り降りを把握する必要がある」
「教えるのはかまわんが、不完全なものだ。何せ、現場は二階だからな。エレ
ベーターの使用状況を見てなのか、健康志向なのかは知らんが、外階段を使う
住人も多いらしい。そして間の抜けたことに、階段の方には防犯カメラがない」
「不完全でもかまいません。教えていただくだけで、ありがたいです」
「それじゃ……被害者の横田は前日、夕方五時過ぎに大学から自宅へ直帰。以
後、エレベーターを使った様子はない。その後、皆上が事件当日の午後二時前
に部屋を訪れるまでの間、エレベーターを利用した人物は、他の住人やその知
り合いなどであると特定され、事件に無関係と判断した」
「皆上が一階に降りたあと、再び上がってくるまでは?」
「誰も使わなかった。エレベーターは動いていない」
「マンションに設置されている防犯カメラは、初見の人でもすぐにカメラと分
かる代物ですか?」
「今風の丸っこい形のカメラだ。防犯カメラと聞いて四角い箱から筒が伸びた
のしか思い浮かばない人間もいるだろうが、たいていは気付くんじゃないか」
「ふむ……なるほど、あまり参考になりそうにありませんね。事件発生時、偶
偶階段を使っていて、怪しい人物を目撃したというような証言は?」
「ないな」
「殺害現場は、二〇四号室なんでしょうか」
「分からん」
 不承々々ながらもすらすらと答えてくれる尾上刑事だが、他の用がまだ済ん
でいないのか、時刻を気にする素振りを見せ始めた。その割に、椅子に深く、
どっかりと腰掛けていたが。
「証言と状況だけ見れば、あの部屋で殺されたとしか考えられんが、科学的に
はまだ分からんというのが答だ。ベッドの上で死んでいたからな。よそで殺害
して、遺体をベッドごと運び込めば、現場の再現は可能かもしれない。床や壁
や天井に飛び散った血液なんかも、偽装はできる」
「詳しい解説をどうも。警察としては、犯人の見当を付けているのですか?」
「公表できるものはまだない。はっきりしているのは、異形だの魔物だのの騎
士なんて実在せず、人間の扮したものに違いないと見なしていること。加えて、
扮装道具が全く発見できないため、証言を疑う声も上がっている。これくらい
だな」
「つまり、皆上幸代こそが犯人で、捜査を惑わせる目的で嘘をついている?」
「肯定も否定もしない。容疑を絞り込んだ訳じゃないからな。事実、捜査に関
わる仲間からは、反問が出ている。大学生の女が、そんな幼稚な嘘をつくだろ
うかってな。確かに、わざわざ牛の顔をした騎士なんて持ち出さなくても、強
盗がいたとでも云えば事足りる。一方で、強盗だろうが殺し屋だろうが、被害
者を胴体から切断するなんて殺害方法を採るには、説得力がない。だからこそ、
苦し紛れと承知の上で、怪物めいた騎士の存在を仄めかしたんだろうって意見
も出て、まとまらない」
「実は、尾上刑事。僕らは一つの仮説を持ってきました。異形の騎士の犯行に
関する仮説です。聞いてもらえませんか」
 そうして、“異形の騎士の振るった剣により腹部から上下に真っ二つにされ
たあともしばらく動き続ける男”のからくりを、図解付きで説明する。元々、
被害者役は上半身と下半身とが別々で、下半身は被害者役が座る場所、今回の
場合はベッドを隠れ蓑として、別の人間が肩代わり(足代わり、か?)するか、
精巧な作り物を用意する。上半身は、下半身部分に被害者本人が膝を抱えて座
るような格好になり、だぼだぼの服を着ることで“つなぎ目”をカムフラージ
ュする。そうした下準備を経て、騎士役の人物が刀を振るのに合わせ、上半身
部分はその場から飛び退けばよい。よりスムーズに動きたければ、最初の時点
で上半身部分は平らな台車に乗り、タイミングよく横方向に引っ張ってもらえ
ばいい。室内におどろおどろしい低音の曲でも流しておくことで、車輪の音は
ごまかせる。たとえ音楽がなくても、血糊が派手に出るように細工しておけば、
目撃者の意識はそちらに集中するだろう。
「話だけ聞いてると、できそうな気がするが」
 尾上刑事は顎を撫でながら、僅かに首を傾げた。不可解な現象を説明できる、
一つの考えだとは認めつつも、当たっているかどうかは判断しかねる、といっ
た反応だ。
「被害者と騎士がぐるなら、騎士の剣や鎧は作り物でかまわなくなる。くしゃ
くしゃに丸めて燃やせるような素材なら、今もって発見されないことにも合点
が行く。問題は、別の道具が増えたことだ。現場の部屋を調べた限り、台車は
なかったし、ベッドに仕掛けがあったとも聞いていない。血糊もだ。現場の血
の全てを検査した訳じゃなかろうが、少なくとも作り物の血は発見されていな
いぞ」
「皆上幸代が横田の部屋を訪れるのは、このときが初めてだったのでは?」
 十文字の唐突な問い掛けに、刑事の片眉が上がる。
「ん? 何が言いたい?」
「現場を訪れたことが皆無かそれに近い人物なら、部屋の位置を錯覚する可能
性があると思うんですよ。二〇四号室だと信じ込んでいたが、実はその隣の部
屋に誘導されていた、とか」
「云ってることが分からん。明快に頼む」
 つい、頼むなんて表現をしてしまったことに、すぐに気付いたのだろう。尾
上刑事は直後に小さく舌打ちをした。それに気付いているのかどうか、十文字
は応じて答える。
「殺人は二〇四号室で行われたが、皆上幸代が目撃した一連のシーンは、別の
部屋で行われたのではないかということです。現場を見ていないし、見取り図
もないので、全くの想像になりますが……部屋の位置をわざと錯覚させるには、
二つの方法が考えられます。二〇四号室が角部屋だとしたら、廊下にその空間
をすっぽり埋めるほどの巨大な板をはめ込むことで、偽の『突き当たり』を演
出し、一つ手前の部屋を二〇四号室と錯覚させられるでしょう。無論、その部
屋を一旦離れた間に偽の壁を取り外し、戻ってくる頃には正規の二〇四号室に
入れるようにしておく」
「残念だが、それはないな。廊下が完全に建物の中を通るんなら可能かもしれ
んが、生憎と現場のマンションの廊下は、片側にのみ部屋があり、もう片側は
胸ぐらいの高さまでの柵があるだけで、そこから上は外の景色が見通せる。偽
の『突き当たり』を作るには、相当に分厚い、それこそ壁そのものを用意する
必要が生じるだろうよ。板程度では、不自然さが際立つ。もう一つ、二〇四号
室は角部屋ではない」
 先にそれを云えばいいのに、尾上は悪戯げに付け加えた。刑事を顎で使う高
校生探偵に対する、ささやかな仕返しといったところか。十文字は特に気にす
る様子はなく、再び話し出す。
「それでは第二の方法だ。第一の方法よりも、ずっと単純です。エレベーター
を降りてから、二〇四号室があるとされる位置まで、それなりの距離と部屋数
があれば成り立つ。エレベーターの昇降口から、二〇四号室まで、何部屋あり
ますか?」
「えっと、エレベーターを出ると、廊下は左右に分かれて、片方が二一〇号室
か始まる」
「それなら充分だ。目撃者はそもそも、何を目印に部屋を二〇四号室と認識し
たのか、警察では掴んでいますか?」
「あ、いや、それは……分からん。多分、聞いていない。ただ、これは自分の
個人的感想になるが、マンションに行ったときに、どの部屋にも表札や番号の
プレートがある訳でもなく、どれもこれも外観は似ていて区別しづらかった。
そんな中、被害者の部屋の玄関ドアには、黄色い雲形のプレートで表札が貼り
付けてあったな」
「恐らく皆上は、その黄色い雲形を目印にして、訪ねてくるようにと云われて
いたんですよ。二階で降りて廊下を進み、黄色い雲の張られたドアがあれば、
そこを二〇四号室だと信じ込む。たとえそこが隣の部屋でも」
 十文字の話の途中で、尾上刑事は手帳を取り出し、しきりにページを繰り始
めた。程なくして目当ての箇所に行き当たったらしく、軽く二度、頷いた。
「二〇四号室の両隣は、空き部屋になっている。中はがらんとしていた上、ド
アも窓も施錠されていたから、犯人が隠れたり証拠品を隠した可能性も低いと
見なされ、適当なチェックしか行われていない。このどちらかの部屋が、偽の
殺人現場として寸劇の演じられた場所だったかもしれないのか」
「そうなりますね。なるべく早い確認をお願いしたいのですが。犯人の手によ
り偽の現場の片付けはされたに違いないが、何らかの微細な痕跡が残っている
こともまた確実ですよ」
「もちろんだ。それに、もし君の考えが正しいとすると、犯人も明らかなじゃ
ないかね?」
「明らかは云い過ぎかもしれませんが、一気に容疑が酷なる人物は確かにいま
す。当日、管理人代理を務めていた志木竜司が一枚噛んでいる可能性が非常に
高い」
 十文字の台詞を聞き終えてから、尾上刑事は「ここではさすがにまずいな」
等と呟きつつ席を立った。携帯電話を取り出しながら、店の外へ行く。
「首尾よく解決、となればいいのだけれどね」
 十文字龍太郎は、百田と音無の方に振り向き、満足そうな笑みを見せた。

           *           *

 僕らは当初の予定である二泊三日を過ぎても、音無家の別荘に滞在を続けて
いた。
 僕、百田充としては嬉しい限りなのだけれど、他の人はどうなんだろう。十
文字先輩は滞在延長自体はともかく、「異形の騎士」事件の顛末がなかなか伝
わって来ないことに、少々苛立ちを募らせているようだ。
 でも、名探偵は不平を口にしない。K高原に足止めを食らうきっかけは、先
輩にあったせいかもしれない。「異形の騎士」事件に口を出すために、スケジ
ュールを変更して刑事に会いに行ったおかげで、まず一日延びた。一日延ばし
たがために、そのあとに発生した土砂災害で、別荘と街をつなぐ道が不通とな
ったのだ。復旧まで、早くても三日を要する見通しという。リビングに集まり、
今後の相談をしていたところだ。
「いくらでも滞在してください。遠慮は無用です」
 最前、音無は真剣な顔つきかつ嬉しそうな口ぶりで云ってくれた。心底歓迎
しているのが、伝わってくる。食料や燃料は充分にあり、音無の家族も了承し
ているというから、ありがたい話である。ちなみに、彼女の兄の真名雄さんや
その友人達は気まぐれさ故か、それとも予感が働いたのか、土砂災害発生前に、
車で無事引き上げていた。お手伝いさんも、帰ってしまっている。後日、来る
予定になっていた音無の他の家族も当分、来られそうにない。
「心配があるとしたら、料理のメニューでしょうか」
 冷蔵庫を覗いたあと、扉を閉めながらそう話したのは、音無家お抱え運転手
の田中さん。別荘にいる中で唯一の大人である。男子厨房に入らずを地で行く
タイプらしく、調理は無論、洗い物一つもやろうとしない。でも、他の家事、
特に掃除はこまめにやってくれている。現在も、調子のよくない冷房の清掃を
しながら、話に加わっていたところである。
「あら。自分は料理作りが得意と自負しております」
 三鷹珠恵が声高に主張した。同じ一年生でも、クラスが違うので三鷹さんの
ことはよく知らない。工学全般に渡って興味の網を張り巡らせ、才能を発揮し
ていることは見聞きしているけど、料理まで得意だとは意外だ。何せ、彼女の
縦ロールの髪型一つとっても、キッチンに立つようなタイプじゃなく、何もか
も使用人に任せきりの、お嬢様のイメージだ。
 そんな外見の女の子が今、冷房が清掃で直らないようならば自分の出番だと、
手ぐすね引いて待っている――といった構図がリビングで展開されていた。
「お疑い?」
 三鷹さんの高校生らしからぬ、気取っていながらも凜とした問い返しに、田
中さんは首だけ振り向き、気圧された風に目を丸くした。
「決してそんな意味ではなく、限られた食材で工夫するのはさぞかし大変だろ
うなという心配から出た言葉ですよ」
 彼の釈明に、納得したらしい三鷹さん。それならよろしいとばかり、笑みを
浮かべて頷く。
「じゃあ、料理は全部、三鷹さんに任せていいの?」
 両手の平を合わせ、だったら助かるとでも云いたげに目を輝かせたのは、七
尾弥生。矢張り一年生で、僕らの通う七日市学園の学園長のお子さんだ。一人
称に「僕」を使う彼女は、料理が苦手なのかもしれない。反面、奇術を得意と
するくらいだから、手先は器用に違いなく、料理もやってみれば案外簡単にこ
なせる可能性も充分あるんじゃないだろうか。
「全部で六人前くらいなら、一人でもできるわ。けれど、いい機会だと思って、
七尾さんもやってみれば? 音無さんは云わなくてもやるでしょうし」
 と、視線を宙に彷徨わせた三鷹さん。
「音無さんは?」
 音無は少し前に、呼び鈴に応じて玄関に向かったのだが、三宅さんは気付い
ていなかったようだ。そのことを伝えると、
「遅くないかしら?」
「云われてみれば……でも、十文字先輩も一緒だから」
 変な人が来たとしても、大丈夫だろう。と思ったものの、確かにちょっと長
いな。僕も行ってみることにした。
 が、玄関に着くまでに、先輩と出くわした。両腕で段ボール箱を抱えている。
箱の上には、飲料水のペットボトルが数本載っていた。
「どうしたんです?」
「ご近所さんからSOSだ。食料が足りそうにないというので、少し分けるこ
とにした」
「そうだったんですか。遅いから何かあったのかと。あ、運ぶの、僕も手伝い
ましょう」
「いや、これ一つだけなんだ。足りなくなったら、また来てもらうことで話が
ついたからね」
 それでもと、僕はペットボトルだけ手に取った。二人で玄関に行くと、音無
とそのご近所さんが話をしている。近くの別荘の人だからそれなりに年齢の行
った人が来ているのだと思ったら、さにあらず。僕らと同年代と思しき、一人
の少女が硬い表情でいた。
「別荘まで運ぼうか?」
 十文字先輩の声に、少女は反応し、顔をこちらに向けた。異国の血が混じっ
ているのではと想像させる整った目鼻立ちに、すらりとした背格好。髪はソバ
ージュで、肩にやや届かぬ程度の長さ。表情に、多少の笑みが加わるのが分か
った。
「お気持ちだけで。こう見えて、腕力には自信がありますから」
 答えた少女の目が、僕の方に移った。
「そちらは? 私は八神蘭(やがみらん)。今、彼女と話していて、どうやら
同じ高校みたいなの。顔を合わせたことはないよね?」
「え? え?」
 一度に情報を与えられ、戸惑ってしまった。同じ七日市学園の生徒だって? 
同じ災害に巻き込まれ、それが隣同士の別荘に? 何て偶然だ。
「彼は百田充君。八神君と同じく一年生だよ。クラスは異なるようだね」
 先輩が代わりに紹介してくれた。それに応えて、八神さんは「よろしくね」
と僕に微笑んだ。笑ったときと、そうでないときとの差がはっきりしている。
そんな感想を抱きつつ、僕も急いで挨拶を返す。
「百田です、よろしく。あのー、とっくに聞かれたことの繰り返しになるかも
しれないけど、八神さんは一人で別荘に来てるの?」
「知り合いと一緒に五人で。もちろん、大人もいる。それと、ここと違って、
貸別荘だから」
「そんな中から、八神さんに食料調達の役目が回ってきたのは?」
 ふと浮かんだ疑問をストレートにぶつける。すると、横にいた十文字先輩が
「それも僕がもう聞いたよ」と苦笑交じりに言葉を挟んできた。でも、返事は
八神さんに任せるらしい。
「じゃんけんで負けたから……というのは冗談。私以外の四人の内訳を云おう
か。一人は足腰を悪くしたお年寄り、もう一人はその世話係、一人は高校生だ
けれど何にもできない引っ込み思案、残る一人は大学生で頼りになるものの、
災害で不安がる高校生に『離れないで!』とせがまれて、別荘から動けない」
「なるほど」
「納得してもらえたところで、そろそろ行かなくちゃ。お腹を空かせて待って
いる」
 八神さんは、先輩が床に置いた段ボール箱をひょいと持ち上げた。見るから
に細腕なのに、力は本当にあるようだ。僕は、箱の上にペットボトルを載せて
あげた。隣の貸別荘まで、何メートルあるのか知らないけれど、ペットボトル
をガムテープか何かで箱に留めた方がいいかもしれない。
「音無さん、これ、固定できないかな?」
「え? ああ、そうか」
 考え事でもしていたらしく、反応がいつもより遅れた音無。だが、そのあと
の行動は素早かった。ポニーテールを靡かせて踵を返すと、奥に走って行き、
ガムテープを手に、すぐに戻ってきた。
 手際よくペットボトルを固定し、箱だけ持てば運べるようにする。
「本当にありがとう。正式なお礼はいずれするから。それと、来られるような
ら、他の人達をここに来させるつもり」
「八神さん、無理しなくてよい。それよりも帰り道、くれぐれも気をつけて。
天候もまだ不安定であるようだ」
 音無が例によって固い調子で送り出す。
「分かった。気をつける。あ、十文字さん、すみません」
 先輩が玄関ドアを押し開けている間に、荷物を両手でふさいだ八神さんは外
に出た。振り向きざま、軽く会釈して、そのまましっかりした足取りで去って
いく。小さくなっていく後ろ姿は、ドアが閉められ、全く見えなくなった。

「八神蘭? 知らない名前だわ」
 夕食の席で、来訪者のことが話題に上った。三鷹さんか七尾さんが八神さん
を知っている可能性があったので、その点を真っ先に聞いたところ、三鷹さん
からの返答はこうだった。
 一方、七尾さんは少し違った。面識があるという訳ではないが、名前は聞い
た覚えがあるという。
「確か、学校が始まってから転校してきたんだっけ。確か、四月の下旬だった
かな。そんなケース、滅多にないから事務員の間で話題になるくらい。お父さ
――父を通じて、僕の耳にも入ってきた」
「へえ。じゃ、かなり優秀なんだろうね、彼女」
 十文字先輩が、興味深げに云った。七尾さんは即座に首を横方向に、強く振
った。
「成績までは知りません。知ったらだめじゃないですか」
「何かに秀でているから入学を認められた、というんじゃないのかな?」
「特別枠で入ったかどうかも、僕、聞いてませんから」
 七日市学園には、勉学や芸術、運動等における特定の分野で才能ありと見込
んだ者を特待生として迎えるシステムがある。たとえば三鷹さんはその口だし、
十文字先輩と幼馴染みの五代春季先輩は、柔道で入学したと自ら語っていた。
それに、十文字先輩自身も特待生のようなものだ。この人の場合、ちょっと毛
色が違って、パズルの天才ということになっている。もちろん、パズル学科な
んてコースはないし、パズルの才能を伸ばすための特別な課外活動が用意され
ている訳でもないのだけれど。
 それはさておき、八神さんがもし、何らかの才能を認められて転校してきた
のだとしたら、なおのこと、ある分野において相当なレベルに達していると考
えて間違いないだろう。そうとでも考えなきゃ、途中入学させる理由が分から
ない。今度会ったら、折を見て直に聞いてみたい。
「音無さん、間近で八神さんを見て、何か気付いたことはなかったかしら? 
運動系であれば、外見にヒントがあっておかしくない」
 三鷹さんが尋ねたのだが、音無は会話に上の空だったらしく、機械的に食事
を口に運ぶのみ。なお、メインのおかずは青椒肉絲である。
「音無さん? 聞こえなかった?」
 三鷹さんが再度呼び掛け、ようやく反応した。「ああ、ごめん」と謝る音無
に、三鷹さんは質問を繰り返した。
「そう、だな……」
 上の空だったことを詫びる気持ちもあるのか、真剣に考え込む音無。元から
凜々しい顔立ちが、眉間に軽くしわを寄せている今、少し怖いくらいになる。
「挨拶の際に、八神さんの手に触れる機会があった。そのときに感じたのは、
柔らかい筋肉が付いているようだということ。多分、身体全体も柔らかい。想
像を逞しくしてたとえるなら、猫のようにしなやかな動きのできる肉付きだっ
た」
「猫……体操や新体操とかかな」
 僕は、真っ先に浮かんだ運動種目を、さして検討せずに口にした。十文字先
輩も賛成するかのように頷いた。けれども、音無は小首を傾げた。
「体操や新体操を目の前で観たことはないが、あの手の競技とは、匂いが違う
気がする。巧く云えないが……美よりも武の匂いだった」
「つまり、武道の方だろうってことか」
 先輩の問いに、黙って首肯で返す音無。
「武道や格闘技に関して素人同然だから、よく分からないが、猫のような動き
の武道となると……たとえば拳法かな。柔軟さが必要な印象が強いよ、あれは」
「近いかもしれません」
 音無は一応認めたものの、完全には納得していないのがありありと分かった。
剣道の強者である音無のことだから、もしかしたら、武芸者としての血がふつ
ふつと騒いでいるのか。剣道と拳法では、公平なルールで戦いようがないだろ
うけど。
 と、このときはそう思っていたんだ。まさか、一週間後に音無と八神さんの
試合が行われるなんて、想像の遙か外だった。

――続く




#460/598 ●長編    *** コメント #458 ***
★タイトル (AZA     )  14/07/01  01:26  (395)
遭遇、金星と冥府の士 <下>   永山
★内容

 土砂により不通になっていた道は、予告されていた三日で無事に復旧した。
僕らは引き上げる前に、隣(といっても八百メートルほど離れていることがあ
とで分かった)の貸別荘に八神さんを訪ねたんだけれど、すでに出発したあと
だった。足腰の悪い人を含んでいれば、一刻も早く安心できる場所に移りたい
と考えるのは当然か。
 かような次第で、八神さんと再会したのは、旅行から戻って二日後だった。
 土砂災害のせいで旅程が狂ったことは、七日市学園にも伝わっていた。無事
の帰宅を改めて報せるために、十文字先輩と僕とで学校に出向いたのだけれど、
そこに八神さんも来ていたのだ。
「あのときは連絡なしに、さっさと帰っちゃって、ごめんなさい」
 学校側への報告を済ませたあと、僕らと八神さんは合流し、校内のカフェに
あるオープンテラスに陣取った。風通しがよく、ちょうど日陰になる時間帯で
もあったので、夏の昼前とは思えぬほど快適だ。学園内の店は基本的に夏期休
暇中は休みだから、何かを注文することはできない。代わりに、缶ジュースを
めいめいが買ってきた。
「僕らは全然、気にしていない。多分、音無君もね」
 先輩が些かフライング気味に請け負う。そんなことよりもと話題を換えた。
「八神君がここに入った経緯に、興味があるんだ。差し支えがなかったら、教
えてくれないかな」
「随分、ストレートな聞き方をなさるんですね。名探偵との噂を聞いていまし
たから、もっと手練手管を駆使した、巧妙な尋問をされるのかと」
「話したがっていない場合は、それもあり得る。でも、君の入学経緯は、隠す
ようなことではなかろうと判断したんだ。違ったかな?」
「隠すようなことではありませんが、プライバシーに関わる事柄ですよ。でも
ま、かまいやしません。聞くところによれば、こちらの学校では、芸能に関わ
る特待生は入学間もない時期に、全校生徒の前で特技を披露するのが伝統にな
っているようですし」
 気を悪くした様子は欠片もない。八神さんはソバージュをかき上げ、ほとん
ど表情のない顔に笑みを載せた。
「そう云うからには、八神さんは芸能関係で?」
「違います。変な言い方をして、誤解させてしまいましたね。私は普通に編入
試験を受けて、合格した。それだけです」
「そうなんだ? いや〜、四月の下旬頃に転入なんて珍しいから、てっきり、
よほどの事情があるに違いないと思ったよ」
「ご期待に添えなくて、申し訳ないです。これといって図抜けた特技はないん
ですよ。強いて挙げるなら、運動が得意なぐらいで」
「運動で思い出した」
 十文字先輩は両手を一つ打ち鳴らし、僕に視線を向けてきた。話を引き継げ
ということだろう。
「八神さんは何かスポーツをやってるの? 武道方面で」
「――音無さんが云ったんですね?」
 勘が鋭い。意表を突かれ、ジュースでむせてしまった。そんな僕が肯定も否
定もしない内から、彼女は続けた。
「音無さんなら、気付いても不思議じゃないか。慧眼ですね。私、護身術のよ
うなものを、幼い頃から習ってます」
「護身術かあ。興味あるな」
 十文字先輩が感嘆したように云った。
「名探偵に必要なものは色々あるが、言葉二つで表現するなら、頭脳と力だろ
う。頭脳労働の方は、独学でも高められる。しかし、護身術や捕縛術となると
限界がある。いずれきちんとした形で習得したいんだが、機会がなかなかなく
て」
「私が習ったのは、独学ではありませんが、我流ですので、教え方が系統立っ
ていないんですよ。それでもよろしければ、練習相手を見付けるぐらいならで
きますけど」
「こてんぱんどころか、ぼろぼろにされそうだ。一応、考えておくけど」
 苦笑交じりに先輩が云ったそのとき、僕の視界に女生徒の姿が入って来た。
一瞬で音無だと認識する。彼女も同じく報告に来て、その帰りに違いあるまい。
「おーい」とこっちが呼ぶまでもなく、音無の方から近付いてきた。やけに早
足だ。
「八神さん、お久しぶり」
「先日はお世話になりました。音無さん、ありがとう。他の人達からも、感謝
を伝えてほしいと頼まれていて……今日は持って来てないけど、菓子折を受け
取ってね」
「あ、ああ」
 戸惑う音無に、先輩がこれまでのおしゃべりの内容を伝えた。音無が興味を
示したのは、当然、護身術のこと。
「差し支えなければ、どのような術なのか、見てみたいのだが」
「競技じゃないから、見せることを前提にしていないんだけど……将来、チャ
ンスがあればご披露できると思うわ。同じ学校なんだしね」
「それはたとえば、今ここで誰かが躍りかかっても、対処できるという意味?」
 和やかに話す八神さんに比べると、音無の口調はいつも以上に固く、その内
容も少々物騒だ。
 緊張感が一気に高まる場を和ませるためには、僕が護身術の実験台になれば
……なんて考えがよぎったが、さすがに実行はしない。
「うまく対処できるか、分かりません」
 八神さんの方は、これまでにない満面の笑みを見せた。
「相手が武の達人だったり、強力で有効な武器を持っているなら恐らく負ける。
という以前に、そんなときは逃げるだけよ。私が相手を制するのは、制する必
要がある場合のみ」
「分かった。答えてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。――逆に、私が音無さんに相手してもらうというのは、
無理?」
「え?」
 云わんとすることが飲み込めない。そう感じたのは、音無当人だけでなく、
僕も、十文字先輩でさえも同様だった。
「剣道の練習試合で、音無さんと一戦交えてみたいなってこと」
 八神さんの意図を理解して、僕は唐突に無茶なことを云い出すなあ、ずっと
笑ってたけれど内心では怒ってたのかも、ってな感想を抱いた。
 でも、音無の反応は少し違った。
「練習?」
 音無は急な試合申し込み自体はスルーして、練習という但し書きに引っ掛か
りを感じたようだ。
「公式戦ではないというニュアンスよ。近く、大会がある訳じゃないでしょ? 
あったとしても、今からエントリーが間に合うはずないし、だいたい、私って
剣道の経験あんまりないの。ただ、音無さんの強さを体感してみたいのよ。そ
うしたら、悔しくて私も術で強さを見せつけてやるって思うわ、きっと」
「そういうことなら、練習試合という名目でかまわない。私も大会に出ること
を目標にしていないし。期日はいつがよい?」
「今日と明日は予定があるので、明後日。そうね、涼しい内にやりたいから、
朝九時。どう?」
「問題ない。場所は学校に申請すれば、格技場を使えると思う」
「可能であれば、場所はグラウンドがいいわ」
「グラウンドとは、ここの運動場? ……了解した」
 こんな突拍子もない要求さえ、ほんのコンマ数秒考えただけで受け入れた。
そればかりか、音無にしては珍しい、ジョークで切り返す。
「だが、面や胴着、袴は着用してもらいたい」
「それはもちろん。持っていないから、借りられるかしら」
「だったら、すぐにでも合わせておいた方がいい。早速、剣道部に話に行かな
いと」
 音無と八神さんは、席を立つと、足早に校舎の方へ歩いて行った。
 やり取りが気になり、腰を浮かたが、着いて行くほどでもないだろう。僕は
座り直し、十文字先輩に話し掛けた。
「大丈夫ですよね」
「些か唐突に試合をすることになったにしろ、喧嘩をする訳じゃないんだから。
僕は他に気になったことがある。君もそうじゃないか?」
 意味ありげに僕を見やってくる。少し考えて、「音無さんが挑戦的だったこ
とですか?」と云ってみた。
「その通り。彼女らしくない。少なくとも、僕の知る音無君は、礼節を弁え、
自己をコントロールできる。会うのが二度目の相手に挑発的な言葉を吐いたり、
試合をしようなんて云い出したりはしない」
「ですよね。一体、どうしたんだろう……」
「初対面の印象が悪かったとも思えないしね。もし悪かったなら、食料の提供
を断ったはずだ」
「断らないまでも、悪印象が態度に出るもんだと思います。今思い起こしても、
あのときの音無さんは……何か緊張していたような」
「ふむ。僕の見方は少しだけ違う。緊張だけなら、あんな災害時に初対面の人
と話をしたんだから、あり得る。あれは、驚いていたように見えた。得体の知
れないものを見た、という風な」
「はあ」
 僕より先に、しかも長く、あのときの音無を見ていた先輩の言葉だから、き
っとそれがより正しい印象なんだろう。
「しかし、八神さんのどこに、そんな驚く要素があります?」
「……分からないな」
 さしもの名探偵も黙り込んでしまった。

 二日後の午前九時。
 音無と八神さんの剣道勝負は、予定通り、七日市学園のグラウンドで行われ
ることになった。といっても、運動場の真ん中ではなく、片隅だが。剣道場と
同じスペースを確保し、地面をざっとならし、仕切り線を引いただけの、まさ
に野試合だ。
 三人の審判は、夏休み中とあって剣道部員がつかまらなかったので、剣道部
の顧問と剣道経験のある先生にお願いした。副審のどちらかがタイムキーパー
を兼ねるという。
 勝敗は三本勝負の二本先取。一本の時間は三分(高校生は通常四分だが、八
神さんの剣道歴を鑑み、短く設定したとのこと)。制限時間内にけりが付かな
い場合、その回は引き分けとみなし、攻勢の優劣による旗判定はなし。延長戦
もなしとする。
 なお、立会人という名目で、僕と十文字先輩が見学することになった。
 先に現れたのは、音無。すでに胴着と袴を装着し、右手に袋に入ったままの
竹刀を持ち、左の小脇に面を抱えている。竹刀の先には、小手が紐で絡めてあ
った。
「――草履? わらじか?」
 先輩が呟いた。それで僕は音無の足下に注目した。確かに、野外の試合で何
を履くのかは注目すべき点と云える。音無はわらじを履いてきた。履き慣れて
いるのか、特に不便そうではない。
 ところが、音無は剣道部顧問に近寄ると、質問を発した。
「先生。試合場には素足で入るべきでしょうか」
「あ、いや、それは……この場合、個人の自由ではないかと思う」
 予想外の質問だったようだ。そもそも、ルールブックにそんなことまで書か
れているのだろうか。野試合のときは履き物の着用をよしとする、なんて風に。
 ともかく、先生の返答を受け、音無は考え込む仕種を覗かせた。……こっち
は、凜々しい横顔に見とれてしまいそうになる。
 結局、どうするか分からぬまま、試合場の数歩外に敷かれたビニールシート
の上で、待機する音無。手ぬぐいを折り、頭部に巻く準備を始めた。
 その所作を待っていたかのように、八神さんが姿を現す。矢張り胴着と袴を
身につけ、面を小脇に抱えている。異なっているのは、右手に握られた竹刀が
大小二本であること。もしや、二刀流? 八神さんの嗜んでいる護身術では二
刀流が有効なのだろうか?
「スニーカーだ」
 再び、十文字先輩の声。まさかと思ったが、本当にスニーカー履きだ。おろ
したてのような白のスニーカー。
「でも、靴の中は素足みたいだな」
 これまた先輩の観察通り。成り行きを見守っていると、八神さんもまた、ビ
ニールシートの上で最後の支度を始めた。スニーカーを脱ぐと素足だった。
 双方、面を着けた。体格はほぼ互角。胴着に名前が記されている訳でもない。
それでも、後部より覗く髪のおかげで、見分けるのは簡単だ。ポニーテールが
音無で、ソバージュの名残が感じられるのが八神さん。ああ、それに一方は竹
刀を二本持っている。
 小手の装着も済み、いよいよ準備が整った。
「これより練習試合を始める。両者、前へ」

 一礼して試合場に足を踏み入れる。注目の足元は――二人とも裸足になって
いた。
 それぞれ二歩進んで、互いに礼を交わし、また三歩進んでから蹲踞の姿勢を
取る。音無が白で、八神さんが赤。こういった光景を見たことは何度もあるが、
二刀流は矢張り異様に映る。
「――始め!」
 主審の声に両者立ち、己の距離を保とうと足を運ぶ。すぐさま、音無がどっ
しり構え、八神さんがその周囲を回る格好になった。
 これはあとで知ったのだけれど、二刀流の長い方の竹刀、大刀は一刀の竹刀
よりも上限が若干短く規定されているらしい。が、このときの僕の目には、ど
ちらも同じぐらいの長さに見えた。
 試合は、八神さんが仕掛ける素振りを見せると、それに呼応した音無が前に
出る。が、八神さんもうまく引くという動きが何度か繰り返された。相手がま
っすぐ下がったなら、音無がスピードに物を云わせて一気に打ち込むはずなの
だが、、そうできないのは、八神の下がり方に理由があるらしい。ストレート
に後退するのではなく、緩やかな弧を描くような足運びをしている。右にそれ
るか左にそれるかを見極めない内は、音無も迂闊に飛び込めない。
 膠着気味だった試合が、二分あまり経過したとき、動いた。急に突進をする
八神さん。音無は用心したか、迎撃の構えを取った。互いの剣先が届こうかと
いう刹那、八神さんが意想外の動きを見せた。
「あ!」
 器用にも、大刀を順手のまま上下逆にし、地面を勢いよく突いたのだ。猫を
思わせる動作で、ほぼ逆立ちの姿勢のまましなやかに身体を伸ばしきり、音無
の真横に降り立つ。いや、降り立つ以前に、小刀で小手を打っていた――らし
い。正直云って、極短い間のことで、僕には全てを把握できなかった。あとか
ら説明されて、ようやく事態を飲み込めた。
 八神さんの気合いの声とともに、赤い旗が揚がる……主審のみ。二人の副審
は明らかに迷っていた。
 試合は中断され、三人の審判が集まって審議に入る。
 これまたあとから聞かされたことだけれど、このとき揉めていたのは、主に
二つの点について。一つは、八神さんの打突が本当に有効だったか否か。確実
に小手を打っていたが、その繰り出した姿勢から判断して、有効とは云えない
のではないか。もう一つは、残心。逆立ち状態からすぐに元の姿勢に戻ったと
はいえ、八神さんの体勢はあまりにも不利。剣道における残心の要件を満たし
ていないのではないか。これ以外にも、竹刀を落としてはいけないというルー
ルもあるそうだけど、これに関しては握らずにいた時間はあったものの、落と
してはいないとの判断で、反則に当たらずと早めに結論が出た。
 最初の二点に関し、長い審議が続き、らちがあかない。そこへ、打たれた音
無が申し出た。
「有効な小手でした。私が認めます。早く二本目を開始してください」
 審議が続く間、面を取って待っていた彼女は、顔色こそ紅潮していたが、冷
静な声でそう告げた。審判達は、困惑したが、所詮は練習試合なのだという思
いもあったのか、割とあっさり認めて、一本目は八神さんの勝ちと判定した。
「認めてくれてありがとう」
 八神さんはそれだけ云うと、さっさと面を着けた。音無から返す台詞はない。
 両者とも足が汚れていたが、音無だけがタオルでぬぐい、きれいにした。八
神さんがそのままで二本目に臨んだのは、一本目の験担ぎか?
 二本目も八神さんは二刀流で来た。今度も、距離を測り、間の制し合いが始
まる。先ほどの超変則的な動きはもう通用しまいと分かっているのだろう、八
神さんはほぼ一刀と変わらない構えに変えている。一本目と違い、二人がそれ
ぞれ動き、円を描く形になっているようだ。
 一分が経過しようという頃、この試合で初めて鍔迫り合いの体勢になった。
それも長くは続かず、両者すっと離れる。それから様子見なのだろう、剣先を
ちょんちょんと当て合う。
「八神君は見た目以上にパワーがあるようだ」
 十文字先輩の感想。僕は音無を贔屓しているせいか、同意できなかった。音
無が少し押されたように見えたのは、いなしただけに違いない。
 二本の剣先が当たること数度、試合はまたも急に動いた。
 音無の竹刀がほんの僅か、深めに相手の竹刀を払った――と思ったら、八神
さんの手から大刀が消えていた。振り飛ばされ、地面に転がる。
 八神さんの「あ」という声が、確かに漏れ聞こえた。次の瞬間には、音無の
いつも以上に気合いのこもった声とともに面が打ち込まれ、三本の白旗が揚が
った。
 再三で申し訳なくなるが、これもあとから仕入れた知識になる。このとき音
無がやったのは巻き技とかいう、難易度のとてもとても高い技らしい。よほど
の実力差がなければ普通は決まらないという。本来の剣道の実力では、音無が
八神さんを圧倒的に上回っているという証拠なのか。
「はは……これはやられたわ」
 八神さんの独り言が、耳にはっきり届いた。多分、対戦相手に聞こえるよう
に云っている。
「こうなると、礼を尽くさなければいけない」
 会ってから今までになかった真剣な語調で呟くと、八神さんは小刀を手放し
た。三本目は二刀流をやめるという意思表示。試合途中で二刀流から一刀に変
える行為が、ルールで認められているのか知らないが、音無は受けて立つ姿勢
だ。
 審判からも異議は出ない。強弱を決するべく、三本目が始まった。
 いきなり、八神さんがダッシュした。鋭い踏み込み。音無に匹敵するかもし
れないスピード。それは戦法と云うよりも、獣の本能めいていた。最短距離で
命を取りに行く、そんな攻撃である。実際、八神さんの剣先は、のどを狙って
いるとしか思えない角度を行く。音無に避ける様子は見受けられない。
 危ない!と、僕が目を瞑りかけたそのとき、音無も前に出た。
 必要にして充分な、最小限の動きによる回避。見切りというやつか、これが。
物語に出てくる剣豪そのものだ。
 相手の、敵の竹刀をかわした音無は、胴を打った。いや、斬ったようにすら
見えた。
 音は高いが圧力のある声が響き渡り、長く続いた。音無の気勢が残る内に、
彼女の勝利が宣せられた。
「やった!」
 僕はつい、叫んでしまっていたかもしれない。

           *           *

(ようやく一人になれた)
 音無亜有香は内心でそう呟いた。申し訳ない気持ちがこれ以上膨らまぬよう、
十文字と百田が曲がった方向には振り返らないでおく。
 八神蘭との剣道勝負のあと、身支度をし、彼ら二人とともに帰路についた。
少し早い昼食に誘われたが、疲労を理由に断った。実際、事前に覚悟していた
以上に疲労感を覚えている。肉体的にも精神的にも。
(八神蘭……漠然と想像していたよりも、遙かに手練れだった)
 一本目で見せたあの変則的な戦法に、護身術の片鱗が見えた気がする。同時
に、違和感もあった。あれは護身と呼べるような術なんかではなく……。
(軍隊格闘技? それとももっと目的に特化した、殺傷術?)
 そういえばと思い返す。対戦後に、八神と言葉を交わす機会をいくらか持て
たのだが、そのときけろりとした顔で云ったものだ。「砂や石つぶての利用を
考えていたのに、思った以上にきれいに整地されていたから、当てが外れた
わ」と。本気だったか否かは分からない。
 音無が八神を最初から警戒の眼で捉え、その正体――隠している何かを知ろ
うと考えたのには、理由が当然ある。音無に備わった、気まぐれな特殊能力が
働いたためだ。
(百田君に憑いているのが見えたときは、多少驚きもしたが……一人か、せい
ぜい二人の影。十文字さんに付き従って探偵活動を行っていれば、あの霊のよ
うなものが憑く可能性が高まるのかもしれない)
 そして、霊のようなものは、八神蘭の背後にも見えた。あの災害時、別荘に
現れたそのときから、今もずっと。
(彼女の場合、数の桁が違った。霊らしきものが十は憑いている。探偵の経験
があるから、では片付けられない)
 では、他に一体どんな事情が考えられる? 家の近くに葬儀場か火葬場か病
院でもある? 親しい知り合いに戦場カメラマンがいる? あるいは家族の誰
かが死刑執行の役を担っている? 空想の翼を広げてみても、納得できる答に
辿り着かなかった。納得するのを、八神の洗練された肉体が邪魔をした。
(ほんの少し触れただけだが、只者でない鍛え方をしていた)
 直感は当たっていたと、今改めて思う。
(私達の側に生きる人間ではない気がする。害をなす存在でないのであれば、
こちらも無用な関わりは避けたい。矢張り、十文字さん達にも伝えておくべき
か……。しかし、理由を問われると困る。霊のようなものが見えるとは云えな
いし、納得しまい)
 最初の悩みに戻ってしまった。これがあるからこそ、十文字や百田に事の次
第を云えないでいた。
(今の時点では、静観する外なさそうだけれども……万が一に備え、柔の術も
身に付けることも考えねばならぬか。だが、生兵法は何とやら。柔術は基本に
とどめ、剣道の腕を磨くことこそ肝要)
 音無はそう心に刻んだ。そのあと、彼女は荷物を入れるバッグに、手を当て
た。布地を通し、角張った感触が伝わってくる。
(この菓子折、どうしたものかな)

           *           *

「そうそう、思い出した」
 十文字さんのそんな声に、僕は目線を上げた。
 僕らは定食屋さんに入り、ざる蕎麦を食べていた。蕎麦と云えば、音無の別
荘に遊びに行ったときを思い出す。あのときの名店の一品とは比べるべくもな
いが、ここのざる蕎麦はコストパフォーマンスがよい。夏の最中の昼食には、
持って来いだった。
「何をです?」
「剣道勝負の興奮冷めやらぬで、すっかり忘れていたが、『異形の騎士』事件
に関して、昨日、続報があった」
 以前から馴染みの八十島刑事を通じて、尾上刑事が報せてきたという。
「志木竜司の犯行である可能性が非常に高まり、身柄確保に動いたが、すでに
姿をくらませたあとだったそうだ」
「遅かった訳ですか……」
「それだけじゃあない。志木竜司というのも偽名だった。正確には、なりすま
しだな。志木竜司なる人物が某大学に籍を置いていたのは事実で、入学から程
なくして届けを出して休学した。その約一年後に復学するんだが、外見が似た
雰囲気の男が、志木になりすまして、復学届だけでなく履修届なんかも出し、
キャンパスライフを送っていたというんだ。実家から遠く離れて一人暮らし、
家族とのやり取りもほとんどない状況でこそ、可能だったなりすましだろうね」
「しかし、確か、マンションの管理人代理というのは、本物の志木竜司の叔父
が管理人だから、お鉢が回ってきたのではありませんでしたっけ」
 箸でつまんだ蕎麦を宙に止めたまま、質問をすると、先輩は「尤もな疑問だ」
と誉めてくれるような調子で云った。
「元々、志木竜司と叔父の間の交流も、まるで活発ではなく、顔を合わせたる
のが数年ぶりという状況だったらしい。本物の志木竜司自身が、他人との関わ
りを持ちたがらない質だった節が窺える」
「はあ。犯人にとって、好都合な人間だったんですね。それで、本物の志木竜
司はどうなったんでしょう?」
「分からない。偽志木と同様、行方不明だそうだよ」
「え? ちょっと待ってくださいよ。本物まで行方知れずなら、どうしてなり
すましがばれたんです?」
 息を荒くして喋ったら、薬味の刻み海苔が少しばかりテーブル上に散ってし
まった。拾い集めるのも何なので、そのままスルー。
「不可解な流れなんだが……匿名の電話があったと。公衆電話から若い女の声
で、大学と警察にそれぞれ一度ずつ、『志木竜司は志木竜司ではない。別人が
騙っている。調べる必要がある』ってな感じに一方的に喋ったんだってさ」
「うーん、何かその女も凄く怪しいような。情報は正しかったけれど」
「怪しいね。マンションでの『異形の騎士』事件だって、管理人代理に化けて
いた男が単独で行うには、タイムスケジュールがきつすぎる感じだしね。複数
犯である可能性の方が高い。その場合、匿名電話の主は犯行グループの裏切り
者か、もしくは偽志木を蜥蜴の尻尾みたいに切り捨てるつもりか」
「動機から絞れば、ある程度の見当は付くんじゃないでしょうか。一介の学生
である横田某を殺す動機のある人物が、そんなにたくさんいるとは考えづらい
ですよ」
「その辺りの詳しい報告はなかったが、警察は綿密に調べ上げるに違いない。
近い内に、はっきりするんじゃないか」
 十文字先輩の口ぶりを聞いていると、もうこの事件には関心を薄れさせてい
る様子だ。“異形の騎士”及び動く切断死体の謎が解明できれば、あとは警察
任せにして大丈夫だろう、そんな態度である。
 僕の思いを見透かしたかのように、名探偵が口を開く。いつの間にか、蕎麦
を食べ終えていた。
「今回は、事件の最初から関わったんじゃなく、途中で僕の方から首を突っ込
んだ形だったからね。その部分的な謎解きだって、半分以上は三鷹君や七尾君
の手柄だ。これ以上、美味しいところを持って行くのは、捜査に携わる人達に
失礼というもの」
「……ひょっとして、五代さんから何か云われました? そういえば、合宿も
もう終わった頃では」
「断じて、そのようなことはないよ、百田君」
 十文字さんは探偵から高校生の顔になって、苦笑いを浮かべて云った。

           *           *

 二十数年生きてきた内の数年を志木竜司として過ごした男は、軌道に乗りか
けた新たな人生に突如出現し、己の計画を破綻に追い込んだ宿敵の顔を確認に
来ていた。云うなれば、敵情視察だ。
(あれが十文字龍太郎か。話には聞いていたが、本当に高校生だとは)
 世に知られた名探偵に看破されたのならまだしも、あのような若造にしてや
られるとは。悔しさが男の奥歯を軋ませた。
(だが、見くびってはならない存在であるのは確かだ。俺の同胞で、月曜ごと
に殺人を重ねていた、“週明けの殺人鬼”の正体を見破ったのも、あいつだと
いうからな)
 男は将来、お礼をするつもりでいた。だが、命を奪う前に、やりたいことが
ある。やらねば気が済まない。今一度、奇妙奇天烈な事件を起こし、あの高校
生に突きつけてやる。解けるものなら解いてみろ、とな!

――終わり




#461/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  14/08/30  22:44  (437)
共犯者は天に向かう <上>   永山
★内容
「おおう、充っちに、十文字さん。久しぶり〜!」
 前日、一ノ瀬和葉から、IT関連のシンポジウムが終わって帰国するよん、
との連絡を受けた。そこで僕ら――僕、百田充と一年先輩の十文字龍太郎さん
は、まだ夏休みだということもあり、ミニ観光がてら、空港まで出向いて来た。
一ノ瀬の乗った便はほぼ定刻通りの到着だったのに、当人はなかなか姿を現さ
ない。やきもきし始めたところへ、やっと彼女が旅行鞄をころころ引きずりな
がら出て来た。こっちが恥ずかしくなるくらいの大声に加え、身体のバランス
を崩しそうなほど、大きく手を振っている。少し日焼けした外見には違和感を
覚えるが、何はともあれ元気そうである。
「お帰り、一ノ瀬君」
「ただいまにゃ。早速ですが、お土産は?」
「ん?」
 帰国した途端、出迎えの人にお土産を求めるとは意味が分からない。逆だろ、
逆。
「やだなあ、二人とも。K高原に行くって云ってたじゃまいか。剣豪の別荘に
泊まり掛けで」
「ああ」
 約束を思い出した。夏休み中の同じ時期、一ノ瀬はハワイ、僕らは国内の避
暑地K高原に行くという話から、お互いに土産を買ってきて交換しようとかそ
んな話ができあがっていたんだった。
「こんなところにまで、持って来ちゃいないよ。荷物になる」
「ミーの荷物を目の前にして、よくそんなことが云えるなり」
 云えるよ。だいたい、僕らが今、お土産を渡したら、そっちの荷物が増える
だろうに。
「ところで、一ノ瀬君。メイさんは来られなかったみたいだが、お忙しいのか
な」
 十文字さんが尋ねた。メイさんというのは、一ノ瀬にとっておばに当たる人
物で、色々な意味で色々と超越してる人だ。まず見た目から年齢を判断しづら
い。けど、若く見える。職業もよく分からない。僕個人が抱いているイメージ
は、旅人兼調査員。バイクや車で全国を走り回ってる。性格は多分ワイルド。
そして美人だ。ファッションに割と無頓着なのに、それでもびしっと決めてい
る感がある。
「ミーにも近況は不明で。今回、出国するときに送ってくれて、そのときに帰
国時には迎えに来られない可能性が高いので、当てにしないようにと云われま
したにゃ」
「そうか。ちゃんとお会いしたかったんだが、仕方がない」
 十文字さんは指を鳴らして残念がってみせた。かつて先輩は、謎解きの美味
しいところをメイさんに持って行かれた形になったことがあったけれど、メイ
さんに対してどんな感情を抱いてるんだろう? ライバル心か尊敬か、それと
も単に悔しい、だろうか。
「こっちも聞きたいことが。ミーがいない間、充っちと剣豪の仲はどれほど進
展したのか? 別荘での出来事を含めて、ぜ〜んぶ聞きたいにゃ」
 語尾に「にゃ」を付けるときの一ノ瀬は、顔つきや仕種も猫っぽい。好物を
前にして、舌なめずりをしている絵が何故か浮かんだ。
 まあ、僕としては不本意だけれども、帰り道の話題には事欠くまい。一ノ瀬
の云った“剣豪”とは、音無亜有香という同級生のことで、僕は彼女が好きな
のだ。告白一つできないでいるけれど。

 夏休みも残すところあと八日となったその日、僕は十文字先輩から電話をも
らった。朝十時頃だった。
「明日、動けるかね?」
「えっ。藪から棒に何です。また依頼があったんですか」
「少し違うんだが。掻い摘まんで説明しよう。今朝、八十島刑事の訪問を受け
てね。大下俊幸なる男が他殺体で見つかった件で、ちょっと話を聴かれた」
「大下俊幸? 誰ですか」
「以前の事件の関係者だ。ほら、河田珠恵を誘拐した犯人と目されるも、行方
知れずだった人物(『木陰に臥して枝を折る』事件参照)」
 思い出した。ただ、関係者と云っても、僕や十文字さんとは面識がない。確
かに以前の事件にて、先輩は積極的に関わったが、大下が死のうが殺されよう
が、警察が十文字先輩に話を聴きに来るというのは変な気がする。
「八十島刑事の話では、大下のポケットから、僕に関するデータをメモした紙
が見つかったらしい」
「ええ? どうして大下が十文字さんのこと知ってるんです? もしかして、
河田が事細かに伝えていた?」
「経緯は分からない。知って、調べたのは間違いのない事実のようだ。名前と
顔写真、中学生のときの身長と体重と大まかな成績、それに住所や電話番号が
書かれていたよ。コピーを見せてもらったんだが、几帳面な字で手書きされて
いた。ああ、今は手書き風の印刷もできるから、見ただけでは手書きと云い切
れないが、警察の方でちゃんと調べた結果だから」
 先輩の声は緊張を帯びていた。それどころか、名探偵らしくなく、若干震え
ているようにすら聞こえた。
「薄気味悪いですね……」
「そうだな。八十島刑事の用件は、ここ数週間のスパンで、大下の動きを予感
させるような何かが起きていなかったかということだったんだが、答えようが
なかった。心当たりがない。いや、何か起きていたのかもしれないが、君も知
っての通り、ここ二ヶ月ほどは精力的に探偵活動をこなしたつもりだからね。
忙殺されて、不覚にも感知できなかった可能性、ゼロとはしない。君の方は、
何もなかったかい?」
「特に何も。ところで、大下はどこでどんな風に死んでいたんでしょうか。口
ぶりから、犯人逮捕もまだみたいですが」
「順に答えるとしよう。大下俊幸は一昨日、埼玉の安ホテルの一室で、首を絞
められて死んでいた。現場は密室状態だったらしいが、詳細はまだ聞かされて
いない。僕の個人情報を調べていたことから、復讐を目論んでいたようなんだ
が、腑に落ちない。あの事件で僕の果たした役割が、大下自身にどれほどの不
利益をもたらした?」
「……逆かもしれませんよ」
「逆?」
「復讐ではなく、依頼するために調べたのかも。大下は何かピンチに陥ってい
て、河田珠恵を救おうとした探偵・十文字龍太郎を頼ろうと考えた。でも、大
下は脛に傷持つ身だから、どこまで信頼できるのかを量るため、個人情報を集
めた」
「面白い発想だ。単純な依頼ではなく、僕を利用しようと考えていたケースも
含め、あり得る。百田君、冴えているな」
「当たっているとは限りませんが」
「いや、いいんだ。視野狭窄に陥るところだったよ。あらゆる可能性を検討す
ることが大事と、再認識させてくれただけでも充分ありがたい」
 珍しく誉められると、嬉しいよりも落ち着かない。僕は先を促した。
「それで、明日動けるかっていうのは?」
「計らいで、現場を見せてもらえることになった。短い時間だが、着いて来る
かね?」
「行きます」
 一昨日までなら迷っていたかもしれない。夏休みの宿題が少々残っていたの
だ。帰国した一ノ瀬に教えてもらって、全て片付けられたのが昨日のこと。
「あの、一ノ瀬にも声を掛けていいですか? 来られるかどうかは分かりませ
んけど、本人は久しぶりに十文字先輩と行動を共にしたがってたので」
「問題ない」
 先輩との通話を終えると、今度は一ノ瀬にメールを送った。

 安ホテルというより安宿と呼ぶのが相応しい。大下俊幸が泊まっていた施設
を一目見て、そんな感想を持った。
 最寄り駅から徒歩で二十分ほど。事件があったせいかどうか、本日の宿泊客
は皆無のようだ。ロビーには泊まりではない利用者、というかオーナーの知り
合いらしき中年男性が二人、オーナー自身と屯している。折り畳み式の将棋盤
を囲み、時折テレビに目をやる。暇潰しに立ち寄った、そんな風情を醸し出し
ていた。
「よし、入っていいぞ」
 一階廊下、一番奥の部屋の前で八十島刑事が小声で云った。胸の前でぴんと
伸ばした右手親指を左側――室内に向けている。第三者にやりとりを聞かれた
くない風に見て取れた。
「遺体搬出、済んでるんですよね?」
 先輩に続いて入ろうとしていた僕は、念のため刑事に尋ねた。
「何日前に起きた事件と思ってるんだい?」
 あきれたように笑われたが、返事を聞いて安心した。死因についても、ここ
に来るまでの車中で、絞殺と知らされていたから、現場が血まみれなんてこと
もあるまい。
「凄く安っぽい作りだにゃ〜」
 僕の横をすり抜け、中をぐるりと見渡した一ノ瀬が感想を述べる。朝食を摂
る暇がなかったとかで、ここに到着するまでの車中でチョコレートコーティン
グされた菓子パンをもぐもぐ食べていたが、その名残が口元に付いている。こ
っそり注意してやると、当人は素早く拭った。
 部屋の方は実際、安っぽかった。三畳プラス出窓のスペースの設けられた準
和室なんだが、すり切れた畳に穴の開いた襖や障子は当たり前。壁も表面がそ
こここではげ落ちかけている。いずれも得体のしれない、茶色がかった染みが
散見された。若干すえた匂いの漂う中、座卓と座布団が一つあるだけで、テレ
ビや給湯セットの類は見当たらない。むしろ、お茶を用意されても口を付ける
のをためらうだろう。窓にはカーテンがなく、中庭?が見通せた。庭園がある
はずもなく、申し訳程度の庭木が数本ある以外は、雑草と土が斑模様を作って
いた。
「でも、ここよりひどい宿を知ってるし、ランクは中の下ぐらい」
 どんな宿だよと突っ込もうとしたが、出掛かった台詞を飲み込んだ。外国の
宿には、これよりもずっとずっとひどいところがあるに違いない。
「特別に入らせてあげたのは、君の個人データがメモにあったからだけじゃな
い」
 八十島刑事が周囲と時間を気にするような視線を巡らせつつ、早口で云った。
「密室の謎を手っ取り早く解いてもらいたい。その期待もあってのことなんだ」
「それにはまず、状況を教えていただかないと」
「見ての通り、外部につながる出入り口は、ドア一つと窓一つだ。鍵の仕組み
も見れば分かる。ドアは上から引っ掛けるタイプの閂錠、窓はねじ込み式。遺
体発見時、どちらもしっかり施錠されていた。ドアの鍵は二本あって、一本は
室内で見つかり、もう一本はフロントで管理していた」
 少し補足すると、ドアの閂錠は、壁の方に受け金が、ドアの方に落とし金が
付いているタイプだ。ともに真鍮製のようだ。窓のねじ込み錠も真鍮製で、右
に回すことで締まる。
「窓はともかく、ドアの方は与し易そうだな。細くて丈夫な糸をある程度の長
さを持たせて輪っかにし、閂に掛けて支え、ドアを閉めつつ他端を隙間を通し
て廊下側に出す。あとは糸を下に引っ張れば、閂が受け金にはまるのでは」
 十文字先輩の推理を、刑事はすぐさま片手を横に振って否定した。
「そのやり方なら、もう試したんだよ。隙間が皆無とは云わないが、内と外と
でドア枠の出っ張り具合に差があって、糸の操作がうまくいかない」
「ならば、針金をその段差に合わせて少し曲げて、閂を支えながら外に出た後、
引き抜けば」
「糸は何とか通るが、針金は通りそうもない。少なくとも、市販品では無理だ。
細すぎると、閂を支える強度が足りなくなる」
「なるほど。案外、重みがありますね」
 実際にドアとドア枠、及び周囲の壁を観察し、閂の落とし金を触った上で、
納得した様子の先輩。
「隙間の利用が不可能だとしたら、氷などを使って閂を時間の経過とともに、
自動的にはまるようにする仕掛けが考えられる」
 独りごちながら、改めて閂錠を観察する。と、先輩はおもむろに振り返った。
「八十島刑事。ドアやその下の床に、濡れたような、あるいは湿ったような感
触はありませんでしたか」
「そのような報告はない。氷の可能性ぐらい、警察も考えたさ。だが、否定さ
れている。死亡推定時刻は一昨昨日の午後七時を中心とする前後二時間の範囲
で、発見されたのは同日午後十時頃でね。当日の気温等を考慮して、この程度
の時間経過では、濡れた畳が乾き切ることはないと推定された」
「ドライアイスだったらどうでしょう?」
 僕は口を挟んでみた。恐らく否定されるだろうけど。
「確かに、ドライアイスなら溶けても周囲が濡れるようなことはない。が、逆
に、溶け切らないのではないかというのが我々の見方だよ。何らかの工夫によ
りドライアイスの塊をドアに固定し、落とし金を支えたとして、発見時までに
溶け切らず、ドライアイスの欠片が室内に残っていてしかるべきだとね」
 矢張り、否定された。先輩に目を向けると、どこか楽しげに頷いている。
 そこへ、一ノ瀬が元気よく挙手した。
「はい! 分かんにゃいことが一つ。そんな時刻に遺体発見に至った経緯は? 
ふつー、朝、起きてこないのを不審に思い、行ってみたらってパターンじゃ?」
「ええっと、それは……宿の支配人は、大下が夕方、戻って来たのを見ていた。
それから数時間経っても、部屋の明かりが一度も点らなかったことが気に掛か
り、様子を見に行ったということらしい」
「にゃるほど。ありがとうございました」
 一ノ瀬は満足そうに首肯した。手はいつもよくやる猫の手つきではなく、ア
ライグマみたいにこすり合わせている。菓子パンのせいで、手がべとついてい
るのだろうか。
「明かりが点らなかったということは、死亡推定時刻のかなり早い時間帯に殺
された可能性が高い、そう云えますか?」
 十文字先輩が刑事に確認する。返事は応だった。
「一昨昨日の天気は晴で、日没が午後六時二十五分ぐらい。だから、六時過ぎ
に殺害した線が濃いだろうな」
「あ、もう一つ質問」
 一ノ瀬だ。さっきとは反対の手を挙げている。八十島刑事は無言で、先を促
した。
「支配人だか管理人だか、とにかく宿の人は、被害者の部屋の様子を気にして
いたみたいだけど、それなら部屋を出入りした人物についても気に留めてるん
じゃにゃいかな、かな?」
「残念ながら、そうではなかった。支配人が通常、待機する部屋があって、そ
この窓からちょうど、この部屋の窓が見えるんだ。だから、明かりの点灯ぐら
いしか分からない」
「ふ〜ん。でも、こんなさして大きくない宿泊施設なんだから、受付にいれば、
人の出入りぐらいだいたい把握できるんじゃあ?」
「本人の弁では、ずっとカウンターに張り付いている訳じゃないしねえ、とな
る。奥に引っ込んでいるときは、ベルを鳴らしてもらうシステムなんだ。玄関
ドアを静かに開け閉めされれば、気付かれずに出入りされてしまう。防犯カメ
ラもないし」
 宿泊施設として大問題だろう、それは。って、だからこそ殺人が起きたとも
云えるのか?
「大下がここに宿泊した目的は、まだ分かっていないんでしたっけ」
「うむ。仕事でも観光でもないのは明らかだ。誰かと会うために出向いた、も
しくは呼び出されたという意見が大勢を占めている」
「ひょっとして、当初は僕も容疑者だったのでは? メモ書きに個人情報が残
されていたのだから」
 先輩が真顔で尋ねると、刑事も真顔で返した。
「無論。検討すべき可能性の一つだった。確固たるアリバイがあったので、早
早に除外できた訳さ」
「……犯人が呼び出したのだとして、何のために密室を作り上げたんだろう?」
 独り言のような調子で疑問を呈した十文字先輩。
「自殺に見えるような死に方でしたか?」
「いや。明らかに他殺だ。絞め殺されたとしか云いようがない」
「にもかかわらず、現場を密室に……。発見を遅らせるためなら、電気を点け
ていきそうなもんだし、鍵を使えた人物――支配人を犯人に仕立てたいのだと
したら、偽装工作が中途半端だ。支配人の個人情報をメモ書きして、残してお
けばいい」
「遊戯的なものを感じるね」
 庭を見つめていた一ノ瀬が、振り向きざまに云った。
「十文字さんを事件に巻き込むために、昔の事件で十文字さんと関連のあった
人を被害者に選び、さらに個人情報を紙に書いて残しておいた。その上、密室
の謎を提示することで、十文字さんをのめり込ませようとしてる。そんな匂い
がぷんぷんと漂ってきましたよん」
「それも考え方の一つだな。うん、ありだと思う。もしこれが当たっていると
したら、犯人は僕が過去に携わった事件を調べ上げ、関係者の一人を見つけ出
した上で、殺害したことになる。たいした調査能力と実行力だ」
「すると何か。犯人は十文字君に密室殺人で挑戦して来たとでも? 随分と漫
画チックだが、仮に当たっているとしたら、犯人の奴は矢張り君の知り合いっ
てことになりそうだな。それも、何らかの恨みを抱いている」
「かもしれません。もう一つ、僕が危惧するのは、この事件が犯人の計画の第
一段階に過ぎないんじゃないかということです。密室の謎と云ったって、安宿
の閂錠では随分と緩い。わざわざ名指しで巻き込むからには、難攻不落の謎を
用意しているんじゃないかという気がしてならない」
「警察としては、別の懸念を抱いてるんだが」
「と云いますと?」
 八十島刑事の言葉に、先輩は敏感に反応し、鋭い視線を向けた。
「犯人は、十文字君自身に危害を加える意図があるのかもしれない」
「……」
 言葉をなくす高校生探偵。顔色や表情から、一気に高まった緊張が見て取れ
た。その緊張が僕や刑事に伝播する……と感じた矢先、一ノ瀬が頓狂な声を発
した。
「あ! 見て見て、充っち、十文字さん!」
 床を指さす彼女に駆け寄り、何事かと目を凝らす。
「――これは」
 最初は一ノ瀬が何を騒いだのかさっぱり不明だったが、やがて把握した。先
輩が先んじて云う。
「蟻だな。蟻の行進」
 室内で、蟻が黒い列をなしていた。列と呼ぶのは大げさかもしれない。ざっ
と見たところ、十匹余りの蟻が、ほぼ同じルートを行き交い、すれ違いざまに
接触してお互いを確認すると、また動き出す。そんな様子が見て取れた。
「さっき、菓子パンの小さな小さな欠片が落ちたのかも。それを蟻が目聡く集
め始めてる」
「蟻がいるということは、どこかに出入りできる穴があるってことになる」
 蟻の動きを目で追う。どうやら、窓の方向から来ている。出窓のところまで
行くと、床との間に小さな隙間、それこそピンホールと云える穴ができていて、
そこを黒い蟻達が行き来していた。
「まさかこの穴から、窓の錠なりドアの鍵なりを操作したと?」
 考え込む様子の先輩に、僕は問い掛けた。
「うん? いや、そんなことまでは考えていない。恐らく無理だ。僕が思い付
いたのは――」
 十文字先輩は、蟻の行進を再び目で追ってから、ドアの方を見やった。
「落とし金を一時的に支えた楔を、蟻に始末させたんじゃないかってことさ」
「楔って、先ほど論じていた氷だのドライアイスだのの?」
「ああ。でも、蟻に始末させるとしたら、氷なんかではだめだ。餌だ。蟻が喜
んで巣に持ち帰るような食物。角砂糖とかチョコレートとか」
 云わんとする意味は理解できた。
 犯人がたとえば角砂糖をドアに貼り付け、落とし金を支えた状態にしてから、
蟻を数匹、中庭から誘導して“獲物”にありつくよう仕向ける。ドアをそっと
閉めたあとは、蟻が角砂糖を運びきれば落とし金が受け金にはまり、密室の完
成と相成る――十文字先輩はそう考えたのだ。
「面白い考えとは思うが……」
 八十島刑事が云いづらそうに感想を述べ始めた。
「角砂糖をドアに固定する方法は? 接着剤なんかを使ったとすれば、痕跡が
残るはずだ。チョコレートならそれ自体を少し溶かしてドアに貼り付けられる
かもしれないが、強度が足りんだろう」
「……何らかの工夫が必要なようですね」
 推理が不充分であることを認めた先輩。その脇で、一ノ瀬が様子を窺うよう
に視線を先輩と刑事の間を行き来させている。
「一ノ瀬、何か云いたいことがあるんじゃあ?」
「あ、うん。いいのかな。ドアには部分的に鉄が使われてるみたいだから、磁
石を利用すればいいんじゃないかなって。鉄の微粒子に磁力を帯びさせ、さら
に砂糖で味付けして、適当なサイズのキューブ状に整えれば鉄にひっつく角砂
糖の完成」
「そうか。落とし金は真鍮製だから、磁石の影響はない。問題は、微粒子同士
があまり強力にひっつくと、蟻には運べなくなる恐れがあるかもしれない」
「ちょっと待ってくれよ」
 苦笑いを浮かべ、刑事が割って入ってきた。
「磁力付き角砂糖で決まり、みたいな流れになっているが、そんな特殊な物を
犯人はわざわざ作って、持ち込んだと云うのかい?」
「僕への挑戦が目的なら、あり得るんじゃないですか」
「それはそうかもしれんが、いや、しかし」
「とりあえず、中庭を調べて蟻の巣を見付け、そこに磁気を帯びた砂糖粒があ
るかどうか、調べてください」
「……根拠に乏しいから、難しい気がするが、掛け合ってみよう」
「何だったら、許可さえいただければ、僕達ですぐにでもそこの庭を掘り返し
て、全ての蟻の巣からサンプルを集めてみせますよ」
 名探偵の勘がそうさせるのか、十文字先輩は自信ありげに云った。

 数日後、推理もしくは直感の正しさが裏付けられた。
 捜査員が安宿の中庭に存在する蟻の巣を可能な限り探索したところ、ある一
箇所から砂糖の粒が大量(蟻にとって、だが)に見つかり、それには鉄の微粒
子が含まれていたという。磁気を帯びていたという調査結果も出ていた。
「恐らく犯人は、志木竜司だな。正しくは、志木の名を騙った偽志木だ」
 十文字先輩の自宅にわざわざ出向き、報せに来てくれた八十島刑事は、その
ような見解を述べたという。
 志木竜司及びその偽者とは、この夏休みに先輩が解き明かした事件の関係者
だ(『金星と夏休みと異形の騎士』参照)。簡単に記すと、殺人犯の偽志木は
現在も行方知れずで、十文字先輩に恨みを抱いている可能性は充分にある。殺
人の手口も、はったりが効いてるというか虚仮威しというか、普通ならこんな
無意味なことをしないであろうトリックを用いていた。つまり、遊戯的な殺人
を好む気質なのかもしれない。その意味で、安宿密室殺人の犯人像と重なる。
「それに、偽志木は大学で、金属工学を学んでいた。鉄を始めとする金属の微
粒子を入手・加工し易い立場だったし、専門ではないが磁石についても磁性流
体に関心を示し、扱った経験もあるという話だ」
 密室トリックを思い付くだけでなく、成し遂げる知識や能力を持ち合わせて
いると云えそうだ。
「偽志木が犯人である可能性は高く、また、十文字君に危害を加える恐れがあ
ると踏んで、こうして忠告がてら来た訳なんだが……」
 あとから聞いた話になるけれど、八十島刑事の話はここで鈍ったという。
「『現時点で、護衛を付けることはできないんだ。くれぐれも注意を払ってほ
しいとしか云えない』だってさ」
 夏休みもあと二日。市立図書館の喫茶コーナーで、十文字先輩は物真似と苦
笑を交えてそう語った。白い丸テーブルを、先輩と僕と一ノ瀬とで囲んでいる。
「具体的に僕を狙うと予告や脅迫があった訳じゃなし、当然の対応だろうさ」
「そうなると、五代先輩や音無にまた護衛してもらうことに?」
 僕は過去のケースを踏まえ、発言した。十文字先輩と同学年の五代先輩は、
女子柔道の猛者だ。音無は僕や一ノ瀬の同級生で、細身の女子ながら剣道の腕
が立つ。
「いや、五代君は大きな大会があるとかで、それに備えて稽古に励んでいる。
邪魔をしたくない。音無君は競技者ではないから、云えば力を貸してくれる可
能性大だが、彼女には恩返ししてもらったばかりだし、再び危険な目に遭わせ
るのも忍びない」
「そんな強がって、大丈夫なんですかー?」
 一ノ瀬がパフェをぱくつきながら、聞きにくいことをずばり云った。僕も内
心、先輩の身を案じている。パズルの天才でもある十文字先輩は、頭脳労働は
確かなものがあるだろうが、腕っ節となると心許ない。ホームズに倣ってボク
シングを少しかじった程度で、それとて実践で役立つのかどうか。学校内で襲
われ、意識を失ったことすらある。
「少なくとも今回は大丈夫だよ」
 先輩は答えると、シャツの胸ポケットから、ナイロン袋を取り出した。その
中から、さらに一枚の便箋がを引っ張り出す。
「実は、警察には内緒で、仕掛けてみたんだ。ほんの一時的にブログとフェイ
スブックを立ち上げ、両方に暗号文を載せた。暗号だと思って取り組めば、た
いていの者には解けるであろう、単純な置換式暗号で、偽志木に呼び掛けてみ
たんだ。反応があれば儲けものぐらいのつもりだったんだが、予想以上に早く、
反応があったよ」
 警察に知らせずに何てことをしてるんだ、この人は。しかも、その様子から
して、偽志木から反応があったことも、警察に伝えていない気がする。
 唖然とする僕の前で、先輩は話を続けた。
「反応はネットを通じてではなく、直接あった。僕の家の郵便受けに、この便
箋入りの封筒が放り込まれていた。恐らく、昨夜遅くのことだろう。ネットに
上げた暗号では、大下俊幸殺しについて、僕の推理した密室トリックが当たっ
ているのかどうか、犯人自身に問おうとしたんだ。蟻と角砂糖の使用を仄めか
してね。あの事件に関して、密室トリックは公にされていないが、この文章で
は、角砂糖と鉄の微粒子を用いたことに言及があった。犯人に間違いない」
 なるほど、その言葉の通り、便箋にある印刷文字は密室トリックに触れ、先
輩の推理が正解であるとしていた。途中を飛ばして文末に目をやると、犯人は
偽志木であることを認め、新たに瀧村清治(たきむらきよはる)と名乗ってい
ることも分かった。
「本名かどうか怪しいが、今後は偽志木を瀧村と呼ぶとしよう。瀧村は、次の
戦いの場を用意するつもりだ。と云っている。応じるか否かは、僕の自由だそ
うだ。応じるなら、出会う日時と場所を新たに指定してくるらしい。何にせよ、
警察には報せるなとある」
「そりゃあ危ないよ、十文字さん」
 当人が意志を示さない内から、一ノ瀬が云った。
「復讐に燃える殺人犯の呼び出しに応じ、のこのこ出て行ったら、やられるか
も。戦いの場なんて嘘っぱちのアパッチで」
「果たしてそうかな? 僕への襲撃だけが目的なら、こんな便箋を届けずに、
さっさと襲えばいい。なのに、実際にはそうしていない。瀧村が、頭脳戦で僕
を倒すことこそ復讐と考えている証拠だよ。それも正々堂々とした戦いを望ん
でいる」
「そうかなぁ。この文面だと、あまりに垢抜けてる」
 うん? 垢抜けてるって?
「あ、間違えた。ぬけぬけとしてる」
「どこがだい?」
 がっくりと脱力する僕をおいて、先輩が一ノ瀬に問う。
「警察に報せるなってとこ。普通、犯罪をする側が、こんな強気に出られませ
ん。人質やその他とても大事な物品を預かっているとか、脅迫の材料を握って
いるとかじゃない限り。なのに、こんなしゃあしゃあと要求するのは……不思
議です。もしかしたら、十文字さんが勝負に応じなければ、あっさり殺してや
ろうと目論んでるからじゃないかしら、とミーは思う訳ですよ。あるいは、警
察に報せたらどうなるかまでは書いてないけど、通報を口実に殺害してやろう
という狙いかも」
「……いや、これは矢張り、僕が名探偵であることを見越し、応じるものと信
じての挑戦状だ。僕を殺せさえすればいいのなら、さっきも云ったように、余
計な手間などかけずに、黙って襲ってくればいい。現実には、ネット上の暗号
を見付けて返事をよこしてきた。この点だけで、相手が頭脳戦を望んでいるこ
とは明白だよ」
「――十文字さん、悪いことは云いませんから、警察に報せて、保護を仰ぐべ
きです」
 一ノ瀬のいつになく真剣な物腰に、僕は思わず彼女の横顔を見つめていた。
「どうしたんだ、一ノ瀬君。君らしくもない。アメリカで銃社会の恐ろしい面
にでも触れてきたのかな?」
「十文字さんが翻意するなら、そういうことにしてかまいませんです。はっき
り云って、ミーは創作物に登場する名探偵の一部の行動には、首を捻ることし
ばしばです」
 普段の一ノ瀬なら、「しばしば」を「柴漬け」とでもぼけるところだ。
「何故、凶悪な犯罪者からの要求や提案に、大した対策も立てずに、ひょいひ
ょい応じるんでしょう? 相手に殺意があれば、簡単にやられちゃうに違いな
いストーリーをいくつも読みました。十文字さんが名探偵を志す余り、そんな
ところまで感化されているのだとしたら、目を覚ましてくださいと声を大にし
て云います」
「……」
 しばし沈黙する十文字先輩。
 今、一ノ瀬が指摘した内容に近い行動を、この人は過去に取ったことがある。
それを思い返しているのだろうか。いつもは巫山戯気味で、日本語も若干不自
由な一ノ瀬が、真剣な物言いをしたのも効いているに違いない。
 そして一ノ瀬がこれだけ真剣になるのは、一ノ瀬メイの存在が頭にあるせい
かもしれない。多分、メイさんは十文字先輩よりも修羅場を潜っている。比例
して危機管理も怠っていまい。
「分かった。今回は一ノ瀬君の忠告を受け入れるとしよう」
「――よかった。さすが、名探偵、賢いにゃん」
 このとき一ノ瀬が見せた笑みは、破顔一笑とはこのことかと得心するほどだ
った。ずっと似合う。
「ただし、僕が応じないことで、瀧村が新たな企みに出る恐れ、なきにしもあ
らず。もし何か起きれば、また対応を考えることになるだろうけれどね」
「そのときはそのとき。探偵らしく、考えて行動する、でしょ」
 云い放つと、一ノ瀬はパフェの器から、ほとんど溶けたアイスクリームをス
プーンで掬い上げた。

 全国的に快晴の空の下、九月を迎えた。新学期スタートの日、十文字龍太郎
は学校に現れなかった。

――続く




#462/598 ●長編    *** コメント #461 ***
★タイトル (AZA     )  14/08/31  01:40  (442)
共犯者は天に向かう <下>   永山
★内容

           *           *

(一ノ瀬君に嘘をつくつもりはなかった)
 十文字龍太郎は対決を前に、心中で言い訳をした。
(こうなったのは名探偵としての必然だ。彼女や百田君に、事前に打ち明けた
のは、どこかで止めてもらいたい気持ちが無意識の内に芽生えていたからかも
しれない。その弱さを、自らの意志で克服できたからこそ、僕は今、ここにい
る)
 瀧村が指定してきた場所は、都内にある某シティホテルのロビーだった。平
均的なファミリーレストラン程度の広さがあり、宿泊客と来訪者が待ち合わせ
て少々話す程度なら問題なく利用できるようになっている。十文字は十ほどあ
るソファセットの内、壁際の席を選んで座っていた。そこからなら、ホテルの
玄関、フロント、エレベーターの三箇所がどうにか一度で視界に入る。
 昨日、百田や一ノ瀬と会った折り、十文字は瀧村からのメッセージを予め改
竄しておいた。本来の便箋の文面には、日時と場所が指定されていたのだが、
そこを隠すことにした。代わりに、十文字が瀧村の挑戦に応じれば、改めて日
時と場所を報せてくることになっているかのような文章をこしらえておいた
のだ。
 元のメッセージでは、八月末日の正午までにこのホテルのロビーに来て待て
とあった。このあとどうなるかについては、全く触れられていなかった。
(あと三分余り)
 腕時計を見て、さらに壁の高い位置にある掛け時計に目線を移して、ずれが
ないことを確かめた。
(瀧村が他人を巻き込むような真似はしないと信じたいが……一ノ瀬君の意見
も無下に否定できないしな)
 落ち着こうと努めているのだが、じきに辛抱できなくなり、きょろきょろし
てしまう。志木を名乗っていた頃の瀧村の顔は、警察で写真を見せてもらって
知っている。だが、相手が今現在も同じ顔でいるかどうかは分からない。
(どこかからこちらを観察しているのだろうか。あるいはより積極的な攻勢を
仕掛けるために、狙いを定めているのかもしれない)
 思わず首をすくめる。弱さを振り払い、強くなったつもりだったがそれは錯
覚で、無謀な行為だったかもしれない。
(ここまで来て引き返せるか)
 肝を据え、時刻の到来を待つ。最前までは長く感じた三分が、瞬く間に過ぎ
た。
 そして正午になった。
 同時に、館内放送が流れ始める。
「**よりお越しの十文字様。メッセージをお預かりしております。一階フロ
ントまで足をお運びください」
 十文字は床を蹴るようにして立つと、フロントのカウンターに急いだ。十文
字であることを名乗り、必要であるならばと生徒手帳を用意した。
 実際には身元を確かめられることはなく、「一一三号室にご案内するよう、
瀧村様より承っております」と告げられた。
「部屋に? つまり、僕にチェックインしろという……?」
「瀧村清治様のお名前で、部屋を取っておられます。瀧村様のお支払いも済ん
でおりますが、いかがいたしましょう」
 男性スタッフは笑顔のまま応対を続けた。何者かに脅されている様子は微塵
もない。また、十文字の身元を詮索することもない。ただただ事務的に仕事を
こなそうとしているだけのようだ。
「分かりました。お願いします」
 十文字はチェックインの手続きを済ませ、案内を請う。すると、ポーター役
の従業員を呼ばれた。まさか泊まるとは想像しておらず、持って来たのはクラ
ッチバッグ一つで、運ばせるような荷物はないのだが。引き継がれる前に、フ
ロントの男性に尋ねる。
「瀧村さんはこちらのホテルに泊まっているのか、分かります?」
「お泊まりです。瀧村様から、もし尋ねられた場合は答えてかまわないとの旨
を承っておりますのでお答えしますが、一一三号室の隣、一一二号室に昨日よ
りお泊まりです」
「隣……。今、在室中かな?」
 男性スタッフはキーボックスを覗く仕種をしたあと、「ご在室か否かは分か
りかねますが、当ホテルの外には出られていないと思います」と返事をよこし
た。
「なるほど。ありがとうございます」
 早口で礼を述べると、若い(もしかすると高校を出たばかりくらいの)ポー
ターのあとについて、エレベーターに乗り込む。このホテル、一階はロビーや
レストラン等の共用スペースで占められ、客室はない。グランドフロアという
やつだ。部屋番号は、実際の階数からマイナス1×百番台になっている。
 まさか泊まるとは想像しておらず、持って来たのはクラッチバッグ一つで、
運ばせるような荷物はない。
「こちらでございます」
 ドアを開け放した状態で、中を見せられながら、ポーターによるお決まりの
説明を聞く。それが済むと、十文字はポーターを呼び止めて質問した。
「つかぬことを尋ねますが、隣の一一二号室の案内をしたのはあなた?」
「左様ですが」
「瀧村さんを見ている訳ですね。どんな方です? 年齢や顔立ちとか」
「そうですね……四十前後の小柄な男性です。お顔をじろじろ見るようなこと
はしておりませんが、濃い顎髭と小さめの目が印象に残っております。それか
ら、髪は白髪まじり、というよりも白髪の方が多いくらいでした」
「ふむ」
 内心、首を傾げたくなった十文字。写真で見た瀧村清治は、二十歳前後のい
かにも今時の大学生然とした格好をしており、髭もなかった。身長もどちらか
と云えば高い方だろう。
(変装の可能性もなくはないが、ひょっとすると替え玉?)
 十文字は思考を打ち切り、ポーターに礼を述べた。
「ところで、泊まり客について他人から聞かれたら、いつもこんな風に喋って
くれるんですか?」
「いえ、とんでもないです。特別な事情がない限り、お話ししませんよ」
「じゃ、瀧村さんは特別なケースなんだ?」
「はい。ご本人から、もし一一三号室のお客に聞かれたら、答えるようにと」
「またか」
 思わず呟いた。もう行ってもらおうと、手をひらひら振ったが、不意に思い
とどまった。ポーターの肩を掴まえ、最後の問いかけを発する。
「答は事実なんでしょうね? こう答えるようにと嘘の答が用意してあったん
じゃありませんよね?」
「本当ですよ」
 ややきつい口調で返事すると、ポーターは十文字の手を振り切るように、廊
下を引き返していった。
 十文字は一一三号室に入ると、バッグをベッドの脇に放った。洋間で、広さ
は十五平米ほどか。ライティングデスクにテレビにティーセット等々と一通り
揃っている。十文字はそれらを含め、室内を調べて回った。瀧村からのメッセ
ージがどこかに隠されている可能性を考慮してのことだ。しかし、浴室やトイ
レまで覗いたが、何も出てこなかった。
「……隣に行くしかないか」
 独り言を口にしたのは、自分の背を自分で押すため。
 鍵を持って部屋を出る。オートロックが作動したことを確かめ、隣の一一二
号室を訪ねた。
 ノックする。反応はない。次にノックと同時に呼び掛けてみた。
「瀧村――さん? 云われた通りにやって来た。指示通り、部屋に入りもした。
これからどうする?」
 返事を待ちつつ、考える。ホテルでの手配を本名で行うとは、何という大胆
さだろうか。僕が警察を連れて来ていたら、一発でアウトじゃないか。という
ことは、部屋にとどまっているとは思えない。いや、ホテル内にいるかすら、
怪しいのではないか?
 室内からの返事はない。ドアの隙間に何らかのメモが挟まれていないか、探
してみたが、見当たらなかった。
「結局、部屋で待てということか」
 舌打ちまじりに呟いた十文字は、念のためにと目の前のドアノブに手を掛け、
回してみた。
「――あれ?」
 軽く回った。押すと、音もなく開く。自分に宛がわれた部屋とそっくり同じ
空間が広がる。
「オートロックなのに開くってことは」
 しゃがむと、ドア側面の錠を視認した。半透明のゴムテープがしっかりと貼
り付けてあった。
 改めて室内に視線を戻す。三歩ほど中に進み、部屋全体が覗ける位置まで来
た。
「うっ」
 ベッドに上半身を投げ出すようにして、男が一人、仰向けに倒れていた。両
足は床に着いている。全く動かない。
 恐る恐る接近し、顔を見る。
「瀧村……か?」
 横たわる男は半眼になっており、若干分かりづらかったが、写真で見知った
瀧村清治に間違いない。
 十文字はさらに近付き、顔を寄せた。呼吸音がまるで聞こえない。全身から
発せられているはずの体温も、感じられない。
(恐らく、死んでいる……)
 これまでの経験に照らし合わせ、十文字は判断を下した。少しの間考え、自
前のちり紙を指先に巻いて、瀧村の肌に触れてみた――生きている者の温度で
はなかった。冷たい。
(見える範囲に、外傷はない。病死か? しかし、ゴムテープが気になる)
 早く警察に届けねばと思いつつも、もう一人の自分が眼前の変死体に興味を
そそられ、調べずにはいられない。
(これが殺人で、テープを貼ったのが犯人だとすると、その狙いは何か。もし
や、犯人はこの部屋を一旦離れたが、また戻ってくる気ではないのか? いや、
それなら鍵を持ち出せば済む話。テープは不要。そうなると……まさか、僕に
罪を擦り付けるため、部屋の出入りが誰にでも可能な状態にした? だが、誰
がそんなことを。僕を一番恨んでいるのは、死んでいる瀧村じゃないのか)
 混乱してきた。それに、ぐずぐずしていると第三者にこの場を見られ、余計
な疑いを招く恐れ、なきにしもあらずだと気付いた。
 あと五分だけと自らにタイムリミットを課し、十文字は室内を見て回った。
瀧村の持ち込んだであろう荷物を探す。調べれば、この男がどんな計画を立て
ていたのか、分かるかもしれない。そううまく行かずとも、ヒントくらいは得
られるんじゃないか。
 期待を込めて探索に着手した十文字だったが、目的の物は見つからない。な
らば、遺体の着ている衣服を調べようかとも考えた。が、何か入っていそうな
尻ポケットを探るには、遺体の向きを変えねば難しい。さすがにそれはまずい。
「あ、忘れてた」
 閃いたと云うほどでもないが、十文字はまだ探していない場所があることに
気付いた。浴室を見ていなかったのだ。
 トイレを併設したその空間に通じるドアは、下部に二センチほどの隙間が設
けられていた。犯人が隠れ潜んでいる可能性もゼロではない。念のため、床に
頬を寄せるようにして、隙間から中を覗く。人の足が見えるようなことはなか
った。白いタイルがあるだけだ。姿勢を戻すと意を決し、ドアを引き開ける。
と――。
「うっ」
 一一二号室に入って以降、二度目の呻き声を発した十文字。
 防水カーテンの開け放たれた向こうに、赤く染まったバスタブがあった。中
には、小柄な男が半裸の状態で蹲っていた。血塗れで、恐らく絶命している。
(うう……。この人物は、ポーターが云っていた男のイメージに重なるな。顎
髭、細い目、体格)
 そこまでで限界だった。時間的にも精神的にも。
 これ以上、とどまってはいけない。現場を乱してはいけない。通報を遅らせ
てはいけない。
 頭の中で、警鐘がけたたましく鳴り響く。十文字は歯を食いしばり、部屋を
出た。
 現場から目を離すのはなるべく避けたい。携帯電話を使いたいが、生憎、こ
このフロントの番号を記憶していない。仕方がないので、自室に戻り、備え付
けの電話を利用した。

           *           *

「一瞬、心配しましたよ。ひょっとしたら、瀧村って男の呼び出しに応じた挙
げ句、連れ去られたんじゃないかと」
 当人から説明を聞いた僕は、大げさでなく、安堵の息を漏らした。
 反応は、十文字先輩宅に集まったみんな――五代先輩、音無、一ノ瀬――も
似たり寄ったりだった。前もってある程度聞いていたのであろう五代先輩は、
「本当に人騒がせなんだから」と十文字先輩の肩を叩き、揺さぶった。音無は、
「次の機会が万が一訪れた折は、自分が着いていきます」と宣言した。そして
一ノ瀬は、「だから云ったのに〜」と甲高い声で先輩の軽率さを責めたが、無
事だったことにほっとしているのは傍目からでもよく分かった。
「反省している。心配を掛けて済まなかった。すぐに知らせられたらよかった
んだが、警察に色々と長時間、聞かれたのでできなかったんだ」
「言い訳しない。そこを含めて反省しなさいっての」
 警察一家に育った五代先輩は、舌鋒鋭く云い放つ。先輩二人の間はいつもこ
んな調子なのだが、今回はややきつめかな。
「分かったよ。でも、気になるから教えてほしい。捜査はどこまで進んでるん
だろう?」
 シティホテルでの殺人に関して、十文字先輩への容疑は初期の段階で、簡単
に晴れていた。瀧村及びバスタブで死んでいた菱川邦義の死亡推定時刻がそれ
ぞれ当日の午前十一時前後、午前九時から十一時と算出されたのだが、その時
間帯、十文字先輩には堅固なアリバイがあった。自宅からホテルまでの移動時
間が、そのままアリバイとなるのだ。
 加えて、ホテルのエレベーターには防犯カメラが備わっており、内部及び各
階での乗降がきちんと記録される。死亡推定時刻を含めた三時間程度の映像を
警察がチェックした結果、十文字先輩の疑いは完全に晴れたのだ。
「それどころか、極めて怪しい人物が写っていたのよ」
 精神的ショックの大きい高校生探偵の安心・安静のためと理屈を付けて、五
代先輩は捜査の進展具合を話してくれた。
「映像はさすがに持ち出せないので、口で説明するしかないんだけれど……何
ていうか、ぼやーっとした陽炎みたいな、でも時折銀色に煌めく感じの人影が
映っていた」
「陽炎みたいな銀色の人影? 何だそれは。お化けじゃあるまいし」
「まだ途中なんだから、黙って聞きなさい。これは着ている服が原因なんだっ
て。再帰性反射材を表面に使った服を、カメラを通して見ると、今云ったみた
いにぼんやりと映ってしまうらしいわ」
「再帰性……ああ、透明人間を作り出す実験で使っているのを、テレビで観た
ことがある」
 それなら僕も観た覚えが。えっと確か、光を、入ってきた方向にそのまま返
すのが再帰性反射材の性質だったかな。で、その性質を利して、反射剤を塗っ
たフード付きコートを着込んだ人物に、背景画像をリアルタイムで投影し、透
けて見えるような錯覚を起こさせるとかどうとか。
「その再帰性反射材を使った衣服を着ていると、防犯カメラでも人物を明確に
捉えられないのは分かった。だが、何故その人物が怪しいとなるんだろう? 
たまたま、そういう素材の服を着ていただけかもしれないじゃないか」
「その人物が着ていたのは、踝まで隠れるロングコートで、頭部もフードを被
って隠していたそうよ。八月末の晴れ渡った日に、そんな格好で歩き回るなん
て不自然だというのが捜査本部の見解」
「なるほどね。しかし……何らかの病気かもしれない。たとえば、太陽の光に
極端に弱いといった」
「それなら、コートを常にしっかり着込んでいるはずよね。凄く目立って、目
撃者が大勢出るはず。ところが実際には、目撃者は皆無。この事実から導き出
されるのは、問題の人物が防犯カメラの撮影範囲でのみ、再帰性反射剤のコー
トを着たことにならない?」
「うむ。納得したよ。足元まで隠れるコートを着ていたのも、映像から人物を
特定されることのないよう、考慮した選択だろうしね」
「どういう意味ですか?」
 音無が尋ねると、先輩は息苦しさから解放されたような笑みを見せた。
「科学技術は日々進歩しているという意味さ、音無君。やろうと思えば、歩い
ている映像を分析することにより、かなりの確度で一個人に絞り込める。ただ
し、比較するデータがなければだめだが」
「再帰性反射材を使った服を着て、足元まで隠した人物相手だと、絞り込みが
不可能になるということですか」
「不可能と断言してよいかは分からないが、極めて困難になるだろうね」
 十文字先輩の話を受けて、五代先輩が再び口を開く。
「だから、怪しい人物がいるにはいるが、ほとんど手掛かりなしというのが現
状。身長が百六十五センチ前後と推定されているものの、着る物に気を遣った
容疑者だから、慎重にも小細工をしているかもしれない。靴が上げ底だったり、
フードの下に詰め物をしていたり」
「瀧村の持ち物は見つからなかったんだろうか?」
「そのようね。チェックイン時にはボストンバッグサイズの手荷物があったと
いうから、犯人に持ち去られた可能性が高いとみている模様。手帳やメモの類
も、現場からは見つかっていない」
「そういえば、死因を聞いてなかったっけ。まだ判明していないとか?」
「今朝一番に分かったって。これはまだ公にしてはいけない情報だから、特に
他言無用よ。――静脈に空気を注射し、空気塞栓を引き起こさせたと推測され
る、だってさ」
 五代先輩は生徒手帳を開き、そこにあった一文を読み上げた。
 十文字先輩は椅子から身を乗り出し、首を傾げた。
「空気注射? よほど大きな注射器でなければ、その方法では死なないと読ん
だ覚えがある。空気を細い血管に送り込むには、単純に道具が大きければいい
って物でもないだろうし」
「その点はまだ不明。注射器の類も発見されてないんだから、推測の域を出な
いというやつね」
 この返答に、十文字先輩はしばらく考え込んでいたが、やおら、次の質問に
移った。
「浴室で殺されていた男の方は? 菱川という名前の他に何か判明してないの
かな?」
「いわゆる路上生活者で、年齢は五十ちょうど。詳しい身の上はまだ。瀧村ら
しき男に声を掛けられ、どこかへ行くのを仲間が目撃していたらしいわ」
「ありがちな線では、金で雇われ、身なりを整えた上で、瀧村を名乗ってホテ
ルにチェックインしたってところか。そもそも、瀧村自身はどうやってホテル
の部屋に入れたんだろう? 混雑時を狙ってうまく紛れたのかな?」
「紛れたと云えば確かにその通りなんでしょうけれど、もう少しだけ凝ってい
たみたい。防犯カメラの映像を当たったところ、菱川に似せて軽く変装をした
上で、ホテルに入ったと確かめられてるから」
「……話を聞いてると、エレベーターに乗る前の段階にも、防犯カメラはある
のかい?」
「ええ。玄関に向けて一台と、ロビー全体を見渡す一台が」
「じゃあ、最重要容疑者である再帰性反射材の人物が、映っているかもしれな
いじゃないか」
「もちろん、調べている。再帰性反射材の服を上から着込む前だろうから、簡
単には見つからないだけよ、きっと」
 五代先輩の説明に、十文字先輩はしきりに頷いた。
「もしくは、コートは捜査陣や僕らの勝手な想像で、意外と薄手にできている
のかもしれないな。上から普通の服をもう一枚着ることで、隠せるような」
「さすがに可能性は低そうだけれど……」
「再帰性反射材の服を着脱したという見方にのみ囚われていたら、映像チェッ
クで無意識の内に、半袖や薄着の人ばかり注目してしまう恐れがある。優秀な
日本の警察官が、そんな思い込みをしちゃいないとは思うけれどね」
「……分かった。一応、注意喚起してもらう。他には? そろそろお暇しない
といけないのよ。用事があって」
 五代先輩が時刻を気にする仕種をすると、十文字先輩は「じゃあ、あと一つ
だけ」と指を一本立ててみせた。
「菱川の死因というか、殺害方法は?」
「刺殺。何らかの刃物で、胸板と腹部を一度ずつ。服を身に付けていなかった
点から、入浴しようとしていたとき襲われたとの見立てよ。これでいい?」
「ありがとう。また何かあったら頼むと思う」
「反省が足りないわね。自重してよ」
 そう云い残すと、五代先輩は足音を立ててどたばたと出て行った。本当に急
ぎの用事があるようだ。
 一学年上の女子が去ると、場は静かになる……というようなことはなく、今
度は音無が口を開いた。
「一ノ瀬さん、何か思い付いているのでは?」
「は?」
「とぼけなくてもよいであろう。先程から見ていたのだ。云いたいことがあっ
てうずうずしているが、云えないでいる。そんな風に口元がむずむずしていた。
事件についてなのか? 五代先輩がいると話しにくいような」
 そうだったのか。先輩二人のやり取りに集中していて、他には目が向かなか
った。
「さすが剣豪!だね。うずうずむずむずしてたのは当たりだよん。事件につい
ての話というのも当たりだけど、喋らなかったのは五代さんに原因がある訳じ
ゃあない。タイミングを計ってただけ」
「事件解決に役立ちそうなら、早く発言するのがよいのではないか。十文字先
輩に、これ以上の心労を掛けないようにするためにも」
「いや、僕は目の前に謎がある方が、元気なくらいだけど」
 苦笑まじりに訴えた先輩。それを音無は真っ向から否定した。
「だめです。探偵行為に乗り出す度に、五代先輩に負担と心配を掛けているこ
とに、気付かない十文字先輩じゃないでしょう? 今回は皆で協力し合ってで
も一刻も早く解決し、平穏な日常に戻るべきです」
「無論、僕一人で取り組むより、音無君や一ノ瀬君の知恵を借りた方が、より
早く解決するだろうね。一ノ瀬君の考えを聞かせてもらおう」
「多分、同じ意見に到達してると思うので、にゃんだか気恥ずかしい……でも、
確認の意味で話しますか。
 瀧村は次の戦いの場を用意するとして、十文字さんをホテルに呼び出し、部
屋にチェックインさせた。その隣の部屋には瀧村と菱川、二人の男が死んでい
た。明らかに、瀧村自身の死がイレギュラーな要素にゃ。ここで、瀧村が死ん
でいなかったらと仮定し、どんな風に事件が姿を現し、進行したのか想像して
みる。きっと瀧村は、菱川殺しを十文字さんに向けての謎として用意したはず。
当然、菱川を殺したのは瀧村。浴室で殺害した事実と以前の安宿の事件から推
して、浴室を密室にする計画を立てていた。しかし、自らが殺されるというア
クシデントにより、不発に終わった、と」
 言葉を切ると、一ノ瀬は先輩の顔をちらと見た。
 しきりに「ふんふん」と軽く頷き、聞いていた十文字先輩は、十秒ほど間を
取った。そして感想を口にする。
「悔しいとすべきか嬉しいとすべきか、同じ見解だ。この推理を裏付けるメモ
か何かが、瀧村の持ち物にあると踏んだんだが、持ち物自体が見付からなかっ
た。警察が瀧村の住まいを早く突き止めることを願うばかりだよ」
「菱川殺害に関しては、その方向でよいとしても」
 音無が質問する。僕も同じことを云おうとしていた。
「瀧村殺害は、誰の仕業かという問題が残る。死亡推定時刻から見て、菱川、
瀧村の順に死亡しているのだから、菱川でないのは明らか」
「犯人は再帰性反射材の男、としか今は云えそうにない。ああ、いや、男とは
限らないが」
「いちいち、再帰性反射材の人物と云うのはめんどっちいから、Rとかにしま
せんか?」
 提案したのは一ノ瀬。別に異存はないけど、どうしてRなんだろう。とりあ
えず、乗っかっておくことにし、僕は聞いた。
「Rと瀧村か共犯関係にあった線は、考慮しなくていいんですかね」
「僕への復讐が動機だとしたら、共犯の線は薄そうだ。あったとしても、Rは
一歩退いて、アイディアを出すだけって感じじゃないかな。だが、瀧村のせい
で我が身も危なくなると判断し、蜥蜴の尻尾切りをした……うーん、しっくり
来ない。瀧村が邪魔になって始末したいなら、菱川殺害の日まで待つ必要がな
い。当日まで、Rは瀧村の正確な居所を掴めていなかった、とでも考えねば。
そうすると、矢張りRと瀧村は共犯関係にあらず、むしろ敵対していたと見る
べきか」
「……ぁ」
 音無が小さく声を漏らすのを、僕は聞き逃さなかった。
「何か云った、音無さん?」
「いや、たいしたことではない」
「そう?」
 僕が問い質そうとしたせいで、十文字先輩と一ノ瀬も、彼女に注目する形に
なった。
「素人の空想、思い付きに過ぎない。気にせず、続けてほしい」
「いや、気になるな。素人と云ったけれど、僕らだってアマチュアだよ」
 高校生探偵の優しい口調にも、音無は首を横に振った。夏休み前より短くし
たポニーテールが揺れる。
「自分には探偵の才能はありません。その意味で、素人だと云ったのです」
「常道に囚われない、新しい見方が必要なときは往々にしてある。たとえいか
に突飛な思い付きでも、ここにいる誰一人として笑いやしない。だから、音無
君、君の思い付きとやらを聞かせてほしい。お願いするよ」
「……思い出していたのです、春先の事件を」
 意外な話が飛び出した。春先の事件と云えば……(『週明けの殺人者』参照)。
「というと……辻斬り事件かい? それとも校内で万丈目先生が殺された方?」
「どちらもですが、強いて云うならば、後者です。無差別連続殺人の犯人と目
された万丈目が殺されるという状況、今度の事件に似ていると感じました」
「ほう、なるほどなるほど」
 感嘆の声を上げた十文字先輩。
「云われてみれば確かに。瀧村もマンションでの殺人事件の犯人とされており、
その犯行には遊戯的なところがある。万丈目先生の方は無差別殺人で、遊戯的
とは云えないかもしれないが、快楽殺人の傾向がある。どちらも、一般によく
ある殺しの動機とは云えない」
「殺人そのものを目的とした犯罪者を、処刑している感じですかね?」
 僕も感じたままを述べた。
「処刑はちょっと表現が違う気がするね。処刑なら、それと分かるように、象
徴的な殺し方をするものだ。今度の瀧村の件や春先の万丈目先生の件は、殺せ
るチャンスがあれば殺し、装飾したりメッセージ性を付したりすることなく、
可能な限り速やかに現場を立ち去っている。そんな匂いを感じる。もちろん、
瀧村の荷物を持ち去ったことには、意味があるのだろう」
「……瀧村の荷物って、密室殺人を行うための道具だったんじゃあ?」
 思い付きに手応えを覚えたのか、一ノ瀬がその場で飛び跳ねるようにして云
った。
「遊戯的な殺人や快楽殺人なんかを許せないRは、瀧村が用意した密室を作る
ための道具や計画書を現場に残すことすら、忌避した。こう解釈すれば、辻褄
が合ってくるなり」
「うむ。いいぞ。これまでの推測が当たっていると仮定して、さらに推し進め
ると……Rは以前から瀧村を狙っており、居場所を探していたが、見付けられ
ずにいた。そんなとき、瀧村が僕への復讐から動きを見せた。Rは瀧村の動き
に気付き……いや、ここは無理があるな。瀧村の居所が分からずにいたRが、
瀧村の動きに気付くのはおかしい。ああ、逆だ。Rは僕の動きを察したんだ! 
瀧村が僕への復讐に動くと睨んでいたRは、僕の動きを見張っていた。そして
ブログかフェイスブックの暗号に気付いた。瀧村からの返事を見ることはでき
なかったが、僕の動向を見張っていれば、いずれ瀧村と接触することになるだ
ろうと読んでいたんだ」
「だとしたら、Rは相当時間に余裕がある人物になりますね。自由業、しかも
警察か探偵並みの追跡能力が必要になりそう」
 音無も、最早堂々と意見を述べる。最初のきっかけさえ突破できれば、こん
なものだろう。
「待った待った、剣豪。そこは変にややこしく考えなくてもいいんじゃないか
にゃ」
 一ノ瀬が反応する。当初、音無と一ノ瀬は互いに互いを苦手とする雰囲気が
ありありと漂っていたのだが、今ではそこそこ打ち解けているようだ。
「万丈目殺害はどこで起きたか? 七日市学園の中。そう、ミー達の通う学校
だよね。そして犯人はまだ捕まっていない。それどころか、誰なのかも分かっ
ていない。一方、今度の事件で、十文字さんの動向を見張るのに適している人
は? 七日市学園の関係者はかなり有力な候補者になるよね。もし気付かれて
も、誤魔化しが利く。また、仮に、夏休み中に事が終わらなかったとしても、
学校関係者なら継続して見張れる」
「面白い推理だが、一ノ瀬君。たとえ学校関係者でも、平日、陽の高い内に僕
をずっと見張るのは難しくないか?」
「あれれ? 十文字さんは気付いてない? 学校関係者だなんてビブラートに
包んだ云い方したけれど――」
 オブラートだ、オブラート。日本語を云い間違えるのはスルーしてもいいと
思ってるけど、外国語や外来語を(わざとにしろ)間違えるなよな、一ノ瀬。
「――ミーの直感では、怪しいカテゴリは生徒だよん。生徒なら、夏休みだろ
うが学校が始まろうが関係なし! 十文字さんを見張ることができる」
「そうか。これは一本取られた。僕の目が曇っていたと認めざるを得ない」
 額に片手を当てた十文字先輩。表情に出る深刻さが一気に増した。
 探偵がそう反応するのは理解できる。でも。
「音無さん?」
 僕は音無の方を振り返って、一瞬、ぎょっとした。
 いつもなら、芯の強さを感じさせる凜とした佇まいを崩さず、抑制の利いた
立ち居振る舞いの音無が、今は目をいっぱいに見開いている。歯がうまく噛み
合わないのか、かちかちと小さく音が聞こえた。いや、それは震えだったのか
もしれない。音無の手がかすかに震えるのに、僕は気付いた。
「音無君。どうした?」
 先輩の声に、音無はやっと我に返ったように、目をしばたたかせた。
 そしていきなり、こんなことを聞いた。独り言のような調子で。
「生徒の誰かが犯人だと仮定して、その者はこれまでにも大勢殺している可能
性はあるだろうか? 被害者の霊が憑くほどに」

――終




#463/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  14/09/28  23:32  (396)
土と士 <上>  永山
★内容                                         16/12/07 04:31 修正 第3版
 夜、辺りには街灯もなく、暗がりばかりが広がっていた。
 昨日から両親が旅行に出て、こちらとしてはしばらく一人暮らしで、自由を
満喫できる。開放感に浸っていた。そこに緩みがあったのかもしれない。
 相手の存在に気付いたときには、すでに遅かった。「あ!」と叫ぶのが精一
杯で、僕・百田充は頭部に受けた衝撃を痛みに変換して感じる間もなく、倒れ
てしまった。
 アスファルトが頬に触れる。昼間の日光から蓄えた熱をまだ残していて、冷
たくはなかった。あちこちに擦り傷切り傷ができたと思うが、状況はそれどこ
ろではない。手足を突き出すように動かし、必死に抵抗する。
 相手は二人いるようだ。ただ、暴力を振るってくるのは一人だけ。もう一人
は……塀際に立ってこちらを見ている。
 抵抗虚しく僕は胸ぐらを掴まれ、引き起こされた。身体が云うことを聞かな
い。動かなくなる。電気ショックか薬物でも与えられたみたいだ。
 十文字先輩のことを、名探偵にしては武術の心得が不充分だなんだと評して
いたけれど、襲われたそのときになって初めて分かる。仮に技術を身に付けて
いても、簡単には力を発揮できまい。
 どうして襲われたのか、相手は何者なのか、さっぱり分からぬまま、いよい
よ危険な状態に――と感じた矢先、光が僕のいる位置を照らす。車かバイクの
ヘッドライトか? それよりも、助かったのか?
 僕は希望を見出したおかげで、最後の力を振り絞れた。

           *           *

「想像はしていたが……凄い包帯だな。顔の三分の一ぐらいが隠れているぞ」
 十文字先輩は驚きを新たにしたように、事実をそのまま指摘した。
 襲撃事件の三日。僕は動けるようになった。簡単な手術を受け、身も心も一
新できたように感じる。
 最初の探偵作業が、瀧村清治殺しの一件だった。ワトソン役が動けない間に、
瀧村の住所が分かったというので、今日は呼び出しに応じた次第である。ちな
みに場所は、七日市学園のカフェテラス。空いているときなら、特に何も注文
しなくても、だべっていられる。聴衆は僕一人きりだ。
 警察の発表によれば、瀧村清治は東京と埼玉の境に位置するマジックショッ
プ、その二階に住み込みの定員として居着いていたという。
 店のオーナーは七十過ぎの女性で、店は元々、夫が切り盛りしていた。マジ
ックに詳しい夫に先立たれたあとは、惰性で続けていたが、女性本人はマジッ
クについて知識も伝も乏しい。足を悪くしたのを機に、店を閉じようかと考え
始めていたところへ、瀧村が客として現れた。じきに、なんやかやと手伝って
くれるようになり、安月給でもいいから雇ってほしいと頼まれたことで、住ま
わせるようになったという。
 警察によって瀧村の部屋の捜索が行われ、結果、いくつかの興味深い物が見
付かった。
 一つは、犯行計画書。そう銘打たれていた訳ではないが、瀧村の犯行の青写
真と呼べる物が、ノートに文章として残されていた。それによると、大下俊幸
並びに菱川邦義を殺害し、密室殺人に仕立てることで、高校生探偵・十文字龍
太郎に挑戦し、罠に填めようと目論んでいた――と読めた。
 二つ目は、ある機械工具を購入した痕跡が見付かったこと。瀧村は死亡する
ちょうど二週間前に、ハンディタイプのコンプレッサーを手に入れていた。持
ち運びできるサイズで、細い管が付いている。ただ、部屋のどこにも現物は見
当たらなかった。店の女性オーナーには新しく考案したマジックを実現するた
めに狩ったと云っていたらしいが、もしかすると殺人トリックに使うつもりで
いたのかもしれない。
 最後の三つ目は、瀧村が他の殺人犯数名と知り合いだったらしいこと。その
中には、今春に起きた通り魔事件の犯人も含まれていた。瀧村が誘拐犯である
大下俊幸の居所を突き止められたのも、犯罪者間のコネクションを利したもの
と、警察では推定していた。
「想像を逞しくするに……」
 これらの情報を得た上で、十文字先輩はある推理を組み立て、語り始めた。
「瀧村は、他の殺人鬼達とグループを形成していたんじゃないだろうか。それ
も、密室等のトリックに拘った遊戯的な殺人や、殺したいから殺すといった無
差別殺人を好むグループを」
「そいつらが集団で、犯行を?」
 僕は合いの手代わりに質問を差し挟む。待っていたかのように、すぐさま返
事がある。
「その可能性は低いと思う。二名程度の共犯ならあるかもしれないが、基本的
に単独で殺人をなしていたんじゃないかな。グループといってもつながりは緩
やかなもので、司直の手から逃れるための情報交換が最大の目的だろうと想像
している。もう少し推し進めると、連中は互いに競っているのかもしれない」
「競うって、殺人をですか」
「そう考えれば、辻褄が合う気がしないかね? 我が七日市学園で起きた万丈
目先生殺害事件やこの前の瀧村が殺された件は、殺人コンテストで最下位にな
った者が、罰として消されて行っている、と」
「まさか。極端すぎますよ」
 笑って否定したつもりだったが、一蹴するには引っ掛かりを覚える説でもあ
る。僕は迷いながらも、先輩の説の否定を続けてみる。
「始末して行ってるんだとしたら、その殺し自体、同じグループの仕業なんで
すよね? だったら、もっと殺し方を工夫するんじゃないでしょうか。実際は
死体の状態こそ派手な部分もありましたけど、殺し方や状況は割とあっさりし
ていて、遊戯的殺人、純粋殺人らしくないというか」
「なるほど。尤もな見方だ。瀧村なんか、次の密室殺人をやろうとしていると
ころを、殺された風だった。まるで、コンテストの途中で邪魔されたかのよう
に。この違和感は、最初の前提を誤りと認めれば解消できる」
「仲間内で殺し合ったんじゃないとしたら、瀧村殺害犯は一体何者なんでしょ
う? 殺人鬼を殺せるような奴って、普通じゃないですよ」
「根拠に欠けるが、仮説ならいくつか浮かんでいる。たとえば、正義の味方だ」
「え?」
 いきなり飛び出した単語に、僕は反射的に聞き返していた。先輩はにやにや
笑って、補足する。
「天に代わって悪を討つ、というあれだよ。警察が捕まえられないでいる殺人
犯を見つけ出し、私的に制裁しているのかもしれない」
「警察を上回る捜査能力がないと、そんなことは不可能では。仮にそれをクリ
アしても、自らの手で殺す必要はないじゃありませんか。瀧村のような遊戯的
殺人者で、多人数の犠牲者を出している輩なら、司法に裁きを委ねても、現行
法では死刑判決が下る可能性は非常に高いはずです」
「確かにね。そう簡単に割り切れない心理というのも想定できるが、とりあえ
ず、脇に置くとしよう。正義の味方でないのなら、考えられるのは……近親憎
悪的な動機かな。似たような殺人集団が存在しており、瀧村達のグループを目
障りに感じ、一人ずつ始末している、とか」
「ますますなさそうな仮説だと思いますが、認めるとしても、矢張りおかしい
ですよ。遊戯的殺人グループのライバル集団なら、殺し方も同じく遊戯的でな
いと話が合いません」
「ふむ。一理ある。なら、こう考えてはどうだろう? 遊戯的殺人を好まない
殺人者が存在する、と」
「つまり、主義主張の違いで、二つのグループが殺し合っているという説です
か」
「厳密に云えば、グループ対個人でも成立するさ。遊戯的殺人のグループを、
一人の殺人者が狙う構図だ」
「辻褄は合いますね、一応」
「遊戯的殺人を認めない殺人者ということは、真面目な殺人を奨励しているこ
とになるな。ははは」
 冗談めかし、笑い声を立てる十文字先輩。僕もつられて笑ったが、相手の表
情が意外と真剣なままなので、慌てて引っ込めた。
「どうしたんですか?」
「いや……真面目な殺人、殺人に真摯に取り組む人種がいるとすれば、それは
殺し屋なんじゃないかと思ってね」
「殺し屋」
 口に出しても実感が湧かない。黒尽くめの服装に黒サングラスを掛け、ライ
フルを構える絵面が浮かぶだけだ。
「ビジネスで殺人を請け負うって意味ですよね、殺し屋って」
「そうなるだろうね」
「そんな殺し屋集団がいたとして、報酬もなしに、ただただ主義主張が違うか
らという理由で、遊戯的殺人犯を殺すものでしょうか。殺し屋らしくないって
いうか……」
「報酬を得ているのだとしたら、おかしくない。飽くまで殺し屋としての仕事
の一環でね。こう考えてくると、瀧村殺しの件で、コンプレッサーが彼の周辺
から消えていることも、何となく分かる気がする」
 こっちはちっとも分からない。首を捻る僕に、先輩は考えをまとめるためか、
少し間を取ってから答えた。
「僕らは、瀧村はホテルで密室殺人を演出する予定だったと推測した。それが
正しいとして、ではどうやって浴室を密室にするつもりだったのか。ハンディ
タイプのコンプレッサーを現場に持ち込み、何らかの形で使うつもりだったの
ではないか。しかし現実には、浴室はもちろんのこと、現場のどこも密室状態
ではなかった。密室が作られる前に、瀧村殺害犯が瀧村を殺したからだろう。
そして恐らく、犯人は瀧村の意図に気付いたんじゃないだろうか。コンプレッ
サーをどう使えば密室を作れるかと。その上で、意趣返しと云えばいいいのか
な、コンプレッサーを使って、瀧村を死に至らしめた」
「え? 意味が飲み込めませんが」
「瀧村の死因を思い出してくれたまえ。血管に空気を注射されたせいだったろ
う。コンプレッサーを使えば、死に至る塞栓を生むに充分な空気を、血管に送
り込めるんじゃないかな。無論、挿入口に工夫は必要だろうが、元々、瀧村自
身が用意していた可能性がある」
「つまり、瀧村案出の密室トリックにコンプレッサーを用いる場合と、犯人が
瀧村を殺害した方法には大差がない。応用可能な関係にあると」
「方法は同じだが目に見える現象が異なる、というやつだ。具体的にはまだ不
明だが。話は前後するけれども、今云った説に沿うと、犯人は瀧村を葬ったあ
と、コンプレッサーを持ち去った訳だが、僕はそこに密室殺人なんてさせない
という意志を感じるんだよ。これもまた、遊戯的殺人を忌避する、殺しを生業
とする者の姿と重なる。そう思わないか?」
 全体を俯瞰すれば絵空事の域を出ていない気がする。だが、各部分に焦点を
当てれば、それなりに説得力がある推理だと感じたのも確かだ。
「残念ながら、瀧村が密室トリックにコンプレッサーを具体的にどう使うつも
りだったかまでは、想像が付かない。浴室に通じるドアは、下部に幅三センチ
程だろうか、それなりに大きな隙間があった。そこからコンプレッサーの管を
通すんじゃないかとは思うんだが。
 まあ、密室に関しては一旦置くとしよう。実際には作られなかった密室のト
リックを、あれやこれやと論じるのは、楽しいかもしれないが、建設的ではな
い。僕が今一番気になるのは、この犯人が、我が校の関係者である可能性が高
いということだよ」
「ああ、それですか」
 四月、辻斬り殺人を重ねていた万丈目先生を校内のロッカーに押し込める形
で殺害。八月、ホテルの浴室で人を殺したばかりの瀧村を殺害。この二件が同
一人物の仕業とすれば、相当な奴だ。殺すための戦闘力だけでなく、精神力・
胆力においても。そんな輩が、高校の関係者だなんて、俄には信じがたい。
「さっき推理したように、殺しのプロなら、殺人犯を相手に易々と殺害に成功
していることも合点がいく。そんな恐るべき犯罪者が、七日市学園内に本当に
いるとすれば、脅威以外の何ものでもない。しかも、少し前に一ノ瀬君が指摘
したように、学校関係者の中でも生徒である可能性が一番高い。我々の考察が
的を射ているのなら、殺人犯は今まで尻尾をちらとも見せず、学園生活に完全
に溶け込んでいる訳だ。全く、恐るべき相手だよ」
 僕も同意しかけたそのとき、後方から、十文字先輩に声が飛んだ。
「ここにいたの! 探したんだから」
 五代春季先輩だ。結構なスピードで駆け寄ってきたが、息一つ乱していない。
流石、女子柔道期待の星、といったところか。
「普通なら捜査の情報を簡単に漏らしたりしないんだけど、今回は特別よ。ひ
ょっとしたら身の安全に関わるかもしれないんだから」
 急ぎの用事が他にあるのか、用件そのものが緊急事態なのか、五代先輩はい
きなり捲し立てるように話し始めた。
「感謝する。聞こう」
 慣れた調子で応じた十文字先輩。
「死んだ瀧村の身辺を洗っていたら、意外な人物との交流が明らかになったわ。
針生早惠子さんとつながりがあったみたいよ」
 その名前を耳にした途端、十文字先輩はがたんと音を立て、立ち上がった。

 針生早惠子さんは、十文字先輩から見て一つ年上で、他校――美馬篠高校の
三年生だ。彼女の弟である針生徹平と十文字先輩がパズルを通してのライバル
だったことから、先輩と早惠子さんも顔見知りである。先輩は早惠子さんを好
ましい存在と見なしている節が窺われるけれども、深い関係という訳じゃあな
い(多分)。ここしばらくは疎遠になっている。早惠子さんが進学に向けて暇
がなくなったこともあるだろうが、ある事件により、針生徹平が命を落とした
のが大きいように思う。
 その後に起きた別の事件では、先輩は黒幕が早惠子さんではないかと疑った
みたいだが、結果的に空振りに終わっている。
「つながりとはどんな?」
「彼女の弟が、手品道具を瀧村の店で購入した履歴が見付かって、その線から、
どうやら姉弟ともに瀧村と面識があったようよ」
 針生徹平はパズルの他にマジックも趣味としており、学校で奇術倶楽部の手
伝いをすることも多々あった。
「単に、店員と客の関係じゃないのかい?」
「詳しくはまだ分からない。でも、名前が挙がるからには、何らかの根拠があ
るんだと思うわ。信じられなくても無理ないけど」
「いや、信じる。だが、信じるのは警察の捜査の段取りであって、そのことと
早惠子さんが犯人かどうかは別問題だ。今現在は単なる参考人、せいぜい容疑
者候補の一人に過ぎまい」
 これには五代先輩、「へぇ〜」と感心したような声を漏らした。両肩を上下
させ、息を吐く。
「とにかく、これは忠告のための情報なんだからね。万が一にも早惠子さんが
何らかの犯罪に手を染めているとしたら、あなたにも危害を及ぼす可能性があ
るということ。念頭に置いて、気を付けて。いつもいつも、ボディガードをし
てあげられないから」
「了解。注意するよ」
 十文字先輩が真摯な口ぶりで確約すると、五代先輩は一つ頷き、来たときと
同じように急ぎ足で退出した。
 その姿が視界から消えるのを待って、僕は聞いた。
「他の誰かに、また護衛を頼むんですか」
「そのつもりはないよ」
 先輩は即答した。椅子に座り直し、続けて喋る。
「そもそもだ、瀧村殺害犯が僕に私怨を抱いているとは思えない。この事件の
動機は、さっき見立てたように、殺人者同士の争いだと睨んでいる。僕に危害
を加えたいのなら、瀧村殺害時にいくらでもやりようがあっただろう。僕に濡
れ衣を着せることも、できたはずだ。だが、現実にはそうなっていない。ひょ
っとしたら、感謝さえしてるかもしれない。瀧村が僕に接触してきたおかげで、
犯人は瀧村の動向を掴めたかもしれないからね。よって、犯人がどこの誰であ
ろうと、僕を襲う気はないんだろう。少なくとも、今のところは」
「じゃあ、どうするんです? 犯人捜しはやめておきますか。先輩が何もしな
ければ、犯人だって動かないでしょうし」
「それは云い過ぎだ。かつ、楽観的に過ぎるな。僕の動きと無関係に、犯人は
次の行動に出るかもしれないじゃないか。世間には、遊戯的殺人者がまだまだ
大勢いるようだからね」
「ということは……」
 嫌な予感を抱きつつも、聞かずにはいられない。
「針生早惠子に会いに行く」
 宣言した高校生探偵は、口元を微かに上向きにしていた。
 十文字先輩がこの人の名を呼び捨てにするのは、初めてかもしれない。

 先輩は早速行動に移った。九月最初の金曜夕方、十文字先輩と僕は、線香を
上げる名目で、針生家を訪れた。
「――久しぶりね」
 そう出迎えてくれた早惠子さんは、存外、明るい口調だった。こちらに向け
あれた笑顔は決して作り物なんかではなく、晴れやかですらある。
「ライバルだったあなたに来てもらって、徹平も喜ぶと思うわ」
 仏間に通され、線香を上げる。針生徹平の生前をほとんど知らない僕にとっ
ては、第三者としての人並み以上の感慨は湧くはずもない。だから黙祷もすぐ
に終えて目を開けた。右横にいる先輩がまだ続けているのを見て、再び目を閉
じ、しばらく付き合った。
 それが済むと、隣の洋間に移り、お茶と菓子の用意された、四角いテーブル
に着いた。グラスは三つで、菓子は一つの大皿に盛ってある。
「思い出話をするつもりで来たのではないのです」
 僕ら二人とは反対側に座った早惠子さんに対し、最初に釘を刺した先輩。
「そうなの? それは寂しいけれども……かまわないわ。帰る訳でもないよう
だし、何か別の話でも?」
「早惠子さんは先月末日、どこで何をしていたか、覚えています?」
「藪から棒ね。夏休み最後の日は、特にすることもなく、この家にいたと思う
けれど……証人は身内しかいないから、認められないかしら」
「保留としましょう」
「その日、一体何があったの? 十文字君のことだから、また事件絡みなんで
しょう」
「仰る通りです。ある殺人事件の犯人にして、その後殺された男の件を追って
いまして」
「誰かからの依頼?」
「いえ、成り行きで。巻き込まれたからには、最後まで付き合ってやろうと思
いましてね」
 相手を試すつもりなのか、先輩の返答には、少し嘘が含まれていた。瀧村殺
害犯はどうか分からないが、瀧村は先輩への挑戦の意味を込めて、犯罪を行っ
ていた。だったら、先輩も事件の当事者だ。成り行きなんかではない。
「どの事件を示しているのか分からないけれど、私には無関係な話ね。アリバ
イを尋ねるということは、私がその人殺しを殺したと考えているようだけど」
「そこまでは言っていませんよ。話を聴きたいんです。早惠子さんはその人物
と面識があるようなので」
「誰?」
「知り合いの中に、最近亡くなられた方がいるんじゃあ?」
「……心当たりはないわね。本当よ」
 早惠子さんの受け答えに、十文字先輩はとうとうカードを切った。「……瀧
村、ですよ」と絞り出すような声で告げる。
「……瀧村って、マジックショップの?」
「ほら、ご存知だ」
「待って。亡くなったなんて、今初めて聞いた。知らなかったのよ、本当に」
「どの程度の面識があったんですか」
 先輩は早惠子さんの主張を受け流し、質問に入る。
「徹平があの店のお得意さんだった関係で、私も足を運ぶようになった。親切
にしてもらったし、一度、街でばったり会ったときは、喫茶店に入ったことも
あったけれど、それだけ」
「順番に行きましょう。早惠子さん、あなたはマジックに興味はなかったので
は? それなのに、店に行くとは」
「弟の付き添いで行ったらおかしい?」
「高校生になる弟が、ほんの数駅離れたところにある店まで行くのに、姉が付
いていくのは過保護に映りますね」
「思い違いをしてるわ。すでに何度か店に行ったことのある徹平が、私を誘っ
たのよ。『姉さんでもあそこに行けばマジックが好きになるから』と云われて、
一度ぐらいは付き合ってあげようと、行ってみたの。そうしたら、徹平の云っ
た通り、結構はまったわ。でも今は、ね。徹平を思い出し過ぎてしまうから、
マジックの一切合切を遠ざけてる」
「初めてその店に行ったのは、いつでした?」
「私が初めて行ったのは、今年の四月頃だったかしら。弟はもっと前に見付け
て、通っていたようだけれども」
「それじゃあ、ほんの短い間だったんですね、マジックにはまったのは」
「ええ。マジックの名前も種も、ほとんど教えてもらわない内に」
 早惠子さんは思いを凝縮するかのように、語尾の声を小さく低くした。真っ
当な話にも聞こえるし、無関係であるとアピールしている風にも聞こえる。
「それじゃあ、これを聞いてもしょうがないかな? 実は、彼は持ち運び可能
なハンディタイプのコンプレッサーを購入していたんです。事件後、それが見
当たらなくなっている。何に使おうとしていたか、早惠子さんは聞いていませ
んか」
「残念だけど。そもそも、コンプレッサーを持っていたことすら、知らなかっ
たわ。恐らく、徹平が亡くなったあとなんじゃないかしら」
「かもしれませんね」
 これを機に話を終え、引き上げることになった。

 針生家からの帰途、充分に離れる頃合いを待っていたのか、十文字先輩はい
きなり話し始めた。
「彼女は口を滑らせた」
「え?」
 聞き返した僕を無視するかのように、先輩は続けた。
「よほど甘く見られたらしい。油断にもほどがある」
「あの、彼女って、早惠子さんを差しているんですよね? いったいどんなこ
とで口を滑らせたのでしょうか」
「気付いていないのか。あれほど明白なものは、なかなかないぞ」
 呆れたとばかり、見下す視線をくれた。反発せずに、教えを請うとしよう。
「分かりません。教えてください」
「思い出すんだ。いいかい。彼女は瀧村と聞いて、マジックショップ店員と分
かった。おかしいじゃないか。瀧村は志木として活動していたんだぜ? まさ
か、彼女にだけ正体を明かしていたのか? 仮にそうだとしたら、余計に怪し
いだけだ」
「なるほど……少なくとも早惠子さんは志木竜司が偽者で、その正体が瀧村だ
と知っていたことになる」
「だからと云って、彼女が瀧村殺害の犯人と断定はできないけれどね。我が校
の生徒ないしは関係者という条件からも外れてしまう」
 尤もな理屈だが、放擲するには惜しい推理と感じた。僕は抜け穴を探した。
「あ、でも、早恵子さんは同じ高校生なんだから、変装すれば潜り込めるんじ
ゃあ? 制服一式を揃えて着込んで」
「夏休み中ならともかく、四月の事件がな。ゴールデンウィークと重なる部分
もあるが、基本的に学校のある平日だ。美馬篠高校の生徒としても日常を送る
必要がある。七日市学園と美馬篠の両方に姿を現すのは、大変だ。というより
も不可能だろう」
「それでも念のため、アリバイを調べてみてはいかがです? 美馬篠高校に本
当に登校していたか」
「……ワトソンの意見に従うとしよう」
 高校生探偵は、珍しくも僕の意見を素直に取り入れてくれた。

 流石と賞賛すべきなのだろう、二日後の日曜日には、十文字先輩は早惠子さ
んのアリバイについて調べ終えていた。僕はしかし調査に同行できなかった。
というのも、病院で術後の経過を看てもらう必要があったせいだ。包帯はすっ
かり取れたのだが、事件捜査がどう進んだのかが気になっていた。
 成果を知るために、先輩と会うことになった。場所は何故か、一ノ瀬和葉の
マンションを指定された。
「よ、ようこそようこそ。歓迎するに、にゃん」
 僕を出迎えた部屋の主・一ノ瀬は、思い切ったように僕の両手を取り、激し
く上下に振ってくれた。相手をするのに疲れる存在だ。
「十文字さんは先に来ているから、存分に話すといいよ」
「はあ。一ノ瀬はどうする?」
「聞くともなしに聞いてる、よん。……菊とも梨? 面白いかも?」
 独り言の世界に入ったようなので、勝手に進む。彼女が示していた部屋に入
ると、十文字先輩がいた。ソファの背もたれに手を掛け、書架を眺めていた。
「おっ、着いたか。まあ座りたまえ。一ノ瀬君の許可なら取っている」
 笑みを浮かべながら僕を促し、先輩自身もソファに腰を下ろした。
 云われた通りにすると、一ノ瀬がティーセットを運んできた。僕らの前のテ
ーブルにカップや急須などを並べると、少し離れた場所にある椅子に、ちょこ
んと腰掛けた。最前の宣言通り、聞くともなしに聞くつもりらしい。
「君の云うことを聞いてよかったよ」
 唐突にそう切り出した十文字先輩。僕が「はい?」を聞き返すと、その反応
を予想していたみたいに、間髪入れずに続ける。
「針生早惠子さんは、確かに四月下旬に、学校を休んでいる」
「そうでしたか。じゃあ、あの人が犯人という可能性が高まりましたね」
「ところがそううまくは運ばない。早惠子さんの休んだ日は、万丈目殺害の期
日とは合致しないんだ」
「何と……」
 がっくり。折角よい推理を提示したつもりだったが、矢張り簡単ではない。
「さて、それなら次に検討すべき仮説が、自然と頭に浮かぶだろう」
「何ですか」
「共犯だよ。グループによる犯行である可能性は捨てきれない。一人は偵察役
で、ターゲットの存在や習慣を確かめる。一人は実行犯で、偵察役からの情報
を元に、ターゲットを確実に仕留める。こう考えると、早惠子さんも容疑の圏
外に去ったとは云えない。瀧村の名を知っていた件もある」
「もし当たっているとすれば、複数犯のメリットは、学校を休むことを目立た
なくする効果があるかもしれませんね。一人で何日も休むよりは、ずっといい」
「まあ、そいつは微妙だな。一日でも休めば目立つさ。とにかく、疑問が残っ
たことは間違いない。だから、彼女に直接質問をぶつけてみた」
「ええ?」
「学校を休んだ理由は何か。休んだ日に、何をしていたのか」
 名探偵らしく頭脳労働の面で突出するも、腕力面では些か頼りない。不足分
を行動力で補っている感じか。無謀と云えなくもない気がするが、先輩には何
らかの確信があっての“容疑者訪問”なのだろう。
「それで、どうでした?」
「百聞は一見にしかず……ちょっと違うか。早惠子さんの休んだ理由は、葬儀
に出るためだった。父方の祖父が病死している。もちろん、弟も学校を休んで
参列していた。アリバイもしっかりしている。彼女が、万丈目や瀧村を殺した
一味である可能性は極めて低いと判断していいだろうね」
「振り出しに戻る、ですか」
 努力はなかなか実らぬものだと、肌で味わった。
「落胆するよりも、先にやるべきことがある」
 十文字先輩が云った。どうせ、真相解明に向けて新たな一歩を踏み出すとか
何とか、そんなところだろう。
「少し前から気になっていたのだが」
 先輩はソファを離れると、僕の目の前に立った。そして、思いも寄らぬ問い
掛けを寄越した。
「君は一体何者なんだ?」

――続く




#464/598 ●長編    *** コメント #463 ***
★タイトル (AZA     )  14/09/29  01:11  (123)
土と士 <下>   永山
★内容                                         16/12/07 04:30 修正 第3版
「な……何を云い出すんですか、先輩? 僕は僕ですよ。百田充です」
「確かに、僕の知っている百田君とよく似ている。だが、微妙な差異を感じて
いたのだよ。それでも気のせいかと、百田君の自宅に電話をして確認したかっ
たんだが、ちょうど家族が旅行中だという話を思い出した。そこで、僕は一計
を案じ、君が百田君であるかどうかを判断した。少し前にその答えは出ていた
んだ。君は百田充ではない」
「莫迦々々しい。僕は百田です。どんな根拠があって、そんな言い掛かりを?」
「君が百田君なら、今日この部屋に来た瞬間に、おかしなことに気付かなけれ
ばならない」
「……おかしいって、部屋の模様替えでもしたんですか。そんなの、気付かな
くたって不思議じゃありませんし、いちいち指摘するほどでもないでしょう」
 僕の力ない反論。名探偵はとどめを刺した。
「君は彼女を誰だと思っているんだい?」
 十文字先輩は身体の前で両腕を開き、この部屋の主を示した。だれって、彼
女は一ノ瀬和葉……。
「まさか――あの人は、一ノ瀬和葉ではない?」
 やっと。やっと分かった。そうか。いや、しかし。
「そうだよ。知り合いに代理を頼んだんだ」
「だ、だけど、彼女は同じクラスにいた。写真も確かめた」
「写真? もしかすると、百田君になりすますために、彼と親しい人物に関す
る個人情報を得るべく、学校のサーバーに不正アクセスしたのかな。それなら
思惑通りだ」
 勝ち誇る高校生探偵。口調は変わっていないはずなのに、“上から目線”を
感じる。
「一ノ瀬君の写真は、一ノ瀬君自身の茶目っ気で、他人の写真とすり替えてあ
るんだ。複数回クリックすれば、当人の写真が表れるように細工してあるそう
だが、実際の仕掛けはまだ見たことがないから分からない」
「で、でも、彼女は」
 と、一ノ瀬和葉だと思っていた女生徒を指差す。彼女は椅子から腰を上げ、
手には何やら長い物を握りしめていた。
「金曜の一日だけだが、クラスに潜り込んだとき、いた。確か、一ノ瀬と名乗
っていた……気がする」
「違う」
 くだんの女生徒が声を発した。さっき、訪問時に出迎えてくれたときの声と
は全く異なり、酷く冷たく響く。
「それは貴様の思い込みに過ぎない。あの時点で、一ノ瀬さんになりすます訳
がないであろう。十文字さんが貴様に違和感を覚えたのは、あの日の放課後、
会ってからなんだからな」
「……十文字探偵に今、協力しているからには、百田充ともかなり親しいはず。
なのに、事前に調べたときは分からなかった。誰なんです?」
「――十文字さん、答える必要がありますか?」
「別に答えなくていい。逆に、僕らがこいつを問い質さなければならない。口
を割らないようなら、手荒な真似をしてもかまわない。任せるよ」
 十文字先輩は僕の真正面に立ったまま、プレッシャーを掛けてきた。こっち
は腰を上げられない。
「聞きたいことはたくさんあるが、何をおいても最初はこれだ。百田充君をど
こへやった? 無事でないのならただじゃおかない」

           *           *

 あとから聞いたところによると、無理矢理摂取させられた眠り薬とアルコー
ルが身体から抜け切るまで、丸二日ほどかかったそうだ。
 実際にはもう少し早い段階で、意識ははっきりしていたつもりなのだけれど、
所々で記憶が飛んでいる。大小ままざまな穴が開いたボードで、向こうの景色
を見ようとするのに似ているかも。
「とにかく無事でよかった。何よりだな、百田君」
 十文字先輩は退院の日に合わせて来てくれた。僕自身が密かに期待していた
音無の姿はなく、代わりに一ノ瀬を連れていた。
「命に別状はなかったという意味で無事ですけど、小さい怪我ならしたんです
よ。それに加えて、両親から大目玉を食らいそうですし」
「うん? 何故だ? 君のご両親は心配こそすれ、怒ることはないだろう。探
偵の手伝いなんてやめろとでも?」
「いや、事件に関してはごまかせるかもしれません。まだ伝わっていませんか
ら。伝わってないからこそ、のんきに旅行日程を最後まで消化してるんです。
ただ、僕は自宅を長い間留守にしていて、そのことを親は知ってるんですよ。
家の電話に出なかったから」
「そこは正直に話すべきだ。隠しておいて、あとで真実が伝わったら、それこ
そ探偵活動はお預けになりかねないぞ。そうなったら、とりあえず僕が困る」
「……考えておきます。もし旗色が悪くなりそうだったら、先輩、助け船をお
願いしますよ」
 十文字先輩は笑いながら快諾した。
「ところで、僕を騙っていた奴、結局は何者だったんですか」
「あ、それがあったな。幸い、正体がばれたあとは素直な奴で、積極的に供述
しているよ。細部に不明な点はいくつか残るが、おおよそ判明した。まず……
あいつは僕の中学時代の同学年で、同じパズル研究会に入っていた。入会は僕
の方が先だったし、僕にとって彼はライバルには値しないと判断したから、あ
まり記憶に残っていない。その上、君そっくりに整形していたせいで、すぐに
は見抜けなかったよ」
「全く……。そいつ、何て名前です?」
「千房有敏(ちぼうありとし)という。僕は全く認識してなかったんだが、千
房は僕を打ち負かしたいとずっと以前から考えていたらしい。だが、在学中に
は願い叶わず、中学卒業後、働きながら機会を窺っていたようだね。そして七
日市学園内で殺人事件が起きたと知るや、計画をまとめたようだ。僕に失敗さ
せる、ただそれだけのために、顔を変え、君になりすました」
 病的な執着を感じた僕は、思わず肌をさすった。薄気味悪い感覚を払拭しよ
うと、質問をした。
「失敗させようというのは、真犯人を知っていて、その真実から先輩の推理が
遠ざかるように誘導していたと?」
「いや、万丈目殺しや拓村殺しの真実を知っているというんじゃないらしい。
ただひたすら攪乱を狙ったと云っている。無論、裏付けが必要だが、例のコン
プレッサーの用途について全く知らないようであるし。
 引っ掛かるとすれば、千房の犯行自体が、遊戯的な匂いを纏っている点だな。
人を殺してこそいないが、タイプとしては瀧村や万丈目に近いと云えそうだ。
だから、千房こそが瀧村殺害犯である可能性は、ゼロとはしない。遊戯的犯罪
を好むグループが存在するとして、そのグループ内での粛正行為かもしれない
からね。一方で、千房の証言を信じるなら、万丈目殺しは千房の仕業ではなく
なる。この辺り、整合性の取れた説明が付くかどうか……今後の捜査待ちかな」
「もし万が一、目的を達していたら、千房って奴はどうしたんでしょう? 僕
を生かしていたのだから、また元に戻る気だったんでしょうけど、僕は襲われ
た記憶があるんだし、簡単にはいかないに決まってる」
「記憶喪失にでもするつもりだったのかねえ。まあ、詰めが甘いというか、行
き当たりばったりな面もある犯罪者だよ、あいつは。何せ、百田君になりすま
そうというのに、音無君の存在を全く察知していなかったんだから」
「……」
 僕が音無を好きだというデータは、学校の個人情報には記載されていまい。
「剣豪さんの名前が出たところで、思い出した!」
 珍しく静かにしていた一ノ瀬だったが、それを帳消しにするくらいの大声を
突然発した。
「充っち〜、もっと入院が長引けば、お見舞いとして渡すつもりだったお宝が
あるんだけど……見たい?」
 勿体ぶった云い回しで、明らかに楽しんでいる一ノ瀬。僕は手のひらを上に
向けて、右手をまっすぐ前に出した。
「くれ。お見舞いには間に合わなくても、退院祝いがある」
「分かったよん。でも持って来なかったから、あとで渡すね。映像と音声、楽
しめるはず」
「映像と音声? まずます気になるじゃないか」
 着替えを詰めたバッグを振り、不満をあらわにする。
 と、ここでも一ノ瀬は珍しい反応をした。どうした風の吹き回しか、教えて
くれたのだ。
「ふっふっふ。掛け値なしのお宝映像ですにゃん。何しろ、あの剣豪・音無さ
んが、語尾に『にゃん』と付けて喋ってるんだからっ」

――終




#465/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  14/10/17  23:15  (274)
お題>行楽>そばいる(前)   寺嶋公香
★内容
「もしこれが二時間サスペンスドラマならサービスカット、アニメなら温泉回
というやつに当たるのかな」
 バスの車中、一行の誰かの呟きは、他のざわめきにかき消された。
 物語でよくあるように、「町内会の福引きで、二等賞の温泉旅行が当たった」
ということにしておいてもいいのだが、実際は違う。賞品は賞品でも、テレビ
のクイズ番組のそれだ。チーム対抗のクイズに風谷美羽として出演した純子が、
紆余曲折を経て獲得したものである。
 芸能人達だけで競うタイプのクイズ番組では、賞品は名目だけのこともある。
まず、優勝と準優勝、三位辺りまで賞品が出るとして、それぞれの順位に応じ
た品物が用意されていても、本当に順位通りの物を受け取るかどうかは決まっ
ていない。裏で誰がどれを持って行くか決まっていることもあれば、成績順に
好きな物を選ぶこともある。
 何故そんなシステムになっているのか。もらってもありがたくない賞品があ
るからだ。色んな番組に出て、似たような家電製品を二つも三つももらっても、
スペースを取るだけだ。食品の類も好き嫌いがある。特に不人気なのは旅行だ。
日程や行き先を固定されていては、スケジュールの都合がつかず、行く暇がな
い。いつでもどこへでも使える旅行券で、代用する場合もあるが、それとて売
れっ子芸能人には使いづらい。
 というような舞台裏を踏まえた上で――今回は事情を異にする。スポンサー
の旅行会社や旅先の地元自治体の意向により、日程・行き先とも固定の賞品が
用意された。そうなると、超売れっ子で多忙な芸能人は、いよいよ敬遠する。
結果、純子にお鉢が回ってきた次第。
 尤も、表向きは――つまりみんなに対しては、親戚が町内会の福引きで当て
た、ということにしておいた。同行者の中には、純子の芸能活動をよく知らな
い者もいるので、面倒な説明を避けるためだ。まあ、この辺の設定は些末なこ
とであり、気にしない方がよろしい。
「町内会の福引きにしては、人数が十名までフリーってのは太っ腹だなあ」
 唐沢は窓外から視線を戻し、誰ともなしに言った。
「モニターを兼ねているとは言え、ありがたい。おかげで、俺達もご相伴にあ
ずかれるわけだ」
「ちょうど夏休みだしね。でも、繁忙期に人数の調整が利くなんて、どんなに
寂れたところなんだろうって、心配していたわ。ただより高い物はないと言う
じゃないの」
 憎まれ口を叩いたのは白沼。今の時季、家族で海外旅行を恒例としてきた白
沼にとって、国内の地方の、あまり知られていない温泉地に足を向けるのは、
初めての経験に等しい。
 そんな白沼が呼び掛けに応じて参加したのは、一にも二にも、相羽の存在が
大きい。純子と相羽の仲を今では認めているものの、からかい混じりにちょっ
かいは出す、というスタンスだが。今は相羽や勝馬、鳥越ら男子と、白沼に富
井、井口ら女子とで、トランプ遊びに興じている。
「ガイドさん、まさか混浴なんて、ある?」
 唐沢の前に座る町田が、男性ガイドの方を振り返り、ふと思い付いた風に聞
いた。唐沢の幼馴染みで、しょっちゅう口喧嘩をしているが、仲はいい。トラ
ンプ遊びに混じっていないのも、町田が唐沢の何気ない軽口に噛み付いたのが
きっかけだった。
「ございます。ただし、純粋な意味での混浴風呂ではありませんが」
 男性ガイドの保谷(ほや)は、意味ありげな微笑を添えて答えた。声は優し
げでどちらかと言えば女性的。細い垂れ目が、柔和な印象を強くしている。な
のに、背は百九十センチを超えているだろう。こんな人がガイドなら、どこか
に案内されているとき、万が一はぐれても見付けやすい。
「純粋でないということは不純な……?」
「いえいえ」
 女子高生からの想像力たくましい質問に、ガイドの保谷は微苦笑を隠しきれ
ずに返した。
「混浴風呂の『風呂』の部分が。温水プールのような施設なら、一箇所ありま
すよという意味です」
「要するに、水着を着けて入る温泉てことですか」
 相羽が何やら思い出したように言った。ガイドは「はい」と即答する。
「それで、持って来る物に水着推奨とあったわけかぁ。山奥に向かうのに、ど
うして? 泳げるような湖や川があるんだろうか、でも地図を広げても見当た
らないし……って悩んでしまいました」
「パンフレットに詳細を載せていなかったことは、お詫びします。軽いサプラ
イズのつもりでした。そう、サプライズと言えば、秋祭りに合わせてあの蓮田
秋人を始めとする芸能人の方を呼んでいただけるとかで、組合の皆さんも喜ん
でおりました」
 純子に顔を向けた保谷。純子は慌てて席を離れ、ガイドの隣に立った。
「そのことは、私の力でも何でもなくてですね」
「はい、そのように伺ってはおりましたが、後日、別の話も耳にしました。風
谷美羽様だからこそ、蓮田秋人さんも応じたと」
「――杉本さん、また余計なことを言いました?」
 車内に視線を巡らせ、お目付役のマネージャーを探す。最後部の座席の収ま
っていた杉本は、手を振って反応した。
「隠すようなことじゃないよ。大先輩から好かれている証拠。そのことをそれ
となく広めれば、君の評判も上がるんだし」
「うう、それはそうかもしれませんが、実力もないのに……って、杉本さん、
顔が赤いですよ? まさか、もうお酒?」
「いやノンアルコールしか飲んでない。僕って気分だけで酔えるタイプなんだ
なと、最近気付いたなあ。あはははは」
 普段から調子のよいところのある杉本は、ほろ酔い気分ならぬ気分だけほろ
酔い状態で、拍車が掛かっているようだ。
「お目付役があれで大丈夫なのかいな」
 唐沢が困ったような口ぶりで言った。無論、困ったようなのは口ぶりだけで、
顔を見れば面白がっているのが明白だ。
「じきに到着ですから、ぼちぼち降りる支度をお願いします」
 景色と時計を見てから、ガイドが告げた。最寄り駅で送迎バスに乗り込み、
出発してからすでに十五分は過ぎている。
「距離、結構ありますね」
 町田が率直な感想を述べると、保谷は頭に手をやった。
「ええ……私の立場で言うのも何ですが、交通の便がもう少しよければ申し分
ないんですよね。近頃のお客様は、駅を出てすぐに観光地、ぐらいの手軽さを
お求めのようで」
「時間を無駄にしたくない、という気持ちの表れかもなあ」
 トランプを仕舞いつつ、勝馬が言った。遊びながらも、会話はちゃんと聞い
ていたようだ。
「せめて、駅から宿までのルートに、観光名所というかパワースポットみたい
なとこがあれば、こんな風にトランプで遊んだりしないと思う」
 井口からも遠慮のない意見。ガイドは苦笑交じりに受け止めた。
「滝壺や大岩、神社といった見るべき箇所はいくつかあります。いずれも若干、
道を外れて奥まったところになるので、それらを回るとしたら、チェックイン
後に改めてという形を取っているんですよ」
「ずっと見てた訳じゃないけれど、割といい景色が続いてるように感じたのに」
 これは鳥越。天文部部員とあってか、自然の風景にも関心は強い方と見える。
「きれいな景色と言うだけじゃ、今の時代、弱いのよきっと。ドラマや映画の
ロケ地になった、とかじゃないと」
 富井はそう言うと、純子へと顔を向けた。はしゃいだ調子で続ける。
「ね、純ちゃん。ドラマの出演予定とかは? あったら、ここをロケに推薦し
てあげればいいよ」
「あは、本当に話があれば、そうしたいところだけど」
 あいにく、映像作品に出る話は、ここのところない。以前、しばらく断り続
けたことが影響しているのかもしれない。その上、香村倫の所属プロダクショ
ンが裏で手を回しているなんて噂も。
(さすがにそれはないと思うけど。ああ、でも、ほんと、自然がそのまま残っ
てる。立ち止まって、じっと見続けていたいくらい)
 窓の外を流れる景色は、山も川も、空も緑も、文字通り自然のままにそこに
あって、絵葉書の自然写真に感じるような作り物感はない。
(電柱や電線もほとんどないし。違和感があるのはガードレールだけ。仕方な
いけど)
 そんな風に思いを巡らせる内に、バスはようよう、旅館前に到着した。

 全員の部屋は、二階建ての二階に用意されていた。半分は和室で、半分は洋
室。さらにそれぞれ一人部屋は三つずつ、二人部屋が一つずつという構成。モ
ニターを兼ねているのだから、仕方がない。
「誰がどの部屋にというのは、皆様でご相談の上、決めてくださって結構です。
決まったら、あとで正式に記録します」
 ガイド保谷の言葉に、十名は戸惑った。
「とりあえず……杉本さんは一人部屋でしょ、やっぱり」
 純子が言うと、当事者を除く全員が頷いた。
「確かに。高校生と相部屋になったら、どっちも気まずいな」
「和室と洋室、どっちがいいんですか」
「そりゃあ洋室がいいに決まってる。正直言って、布団が面倒かつ苦手で」
 子供か――と心の中でつっこんだ高校生が複数名いたのは間違いない。
「和洋はどうにでもなるとして、問題は相部屋の方だろ」
 唐沢が皆の顔を窺いながら言った。相羽があとを引き継ぐ。
「同性同士が大原則で、さらに旅館やガイドさんの意向を推し量れば……男同
士と女同士を一部屋ずつ?」
「いえ、気になさる必要はございません。本音は、カップルに使っていただい
て、どのような感想を抱かれるのかを把握したいところですが、未成年の皆さ
んにはそんなことさせられません。させたら、大問題になります」
「ですよね」
 相羽は首肯すると、しばし思案げな表情を覗かせる。そしておもむろに、皆
に聞いた。
「どうしても相部屋はだめだっていう人は?」
「一人じゃないと落ち着かないとか、いびきが凄くて恥ずかしいとか」
 唐沢が余計なことを付け足す。そんな例を出されては、意思表明しにくくな
るじゃないか。事実、誰も希望しない。
 と、そこへ白沼が手を挙げた。
「私、逆に二人部屋でいいわ。ただし、相手は指名させてほしいの」
「決定ってわけじゃないけど、誰と?」
 相羽から問われた白沼は、にっ、と口元だけで笑んでみせると、くるりと向
きを身体の換え、「涼原さんと」と言った。
「え、私?」
「そう。話したいことが色々とあるから。仕事の話もね」
「はあ」
 今回集まった女子の内、白沼とは特に仲がよいとは言えない。悪いわけでも
ないが、純子にとって比較的苦手なタイプだ。でも、直に名指しされると、断
りづらい。
「仕事の話をするのなら、僕が反対する」
 相羽が口を挟んだ。彼氏だからというのではなく、真剣そのもの。
「モニターって言っても、骨休めの旅行なんだよ。仕事を思い出させたり、披
露させたりするようなことはやめよう。――でしょ、杉本マネージャー?」
 相羽が口調を変えて、杉本に話を振る。当の杉本は、己の立場を思い出した
か、「ああ、そうだね。そうだ」と応じた。
 白沼は一瞬、不満そうに唇を噛んだが、すぐに破顔した。
「残念。でも、道理だわ。しょうがない。休ませてあげるためにも、涼原さん
は一人部屋に決定。いいわね?」
 この呼び掛けに「賛成」の声が重なり、純子の部屋が決まった。
(白沼さん……まさか、最初からこうなることを見越して?)
 かようなやり取りを経て、全員の部屋分けが済むと、それぞれ荷物を置いて、
またすぐ食堂に集合。これから昼ごはんである。
 食堂と言っても、合宿所や寮にあるようなただ食事をするための広間ではな
く、ホテル内レストランの趣があった。店内は和のトーンでまとめられていた。
木目調をふんだんに使い、壁には童や玩具を描いた優しい感じの絵をかけ、肩
肘張らずに食事できる雰囲気作りに努めている。
 天ぷらそば膳なるメニューを供され、舌鼓を打つ。ほぼ食べ終わる頃に、ガ
イドの保谷が姿を見せ、今後のスケジュールを話した。
「夕食の夜六時まで、基本はフリーです。ご希望の方は、近隣の名所・パワー
スポット巡りもできます。行かれる方は、午後一時半に、正面玄関にお集まり
ください。地元の方の案内で一時四十分までに出発します。その他のことで、
ご要望や分からない事がございましたら、私の方へ気軽にお声を」
「あの、名所巡りに誰も行かない、なんてことになるのはまずいんでしょうか」
 一番近くにいた純子が、小さく挙手して尋ねた。
「いえ、大丈夫です。村上さんという方が案内してくださるのですが、元々、
近辺の名所を日課で見回りされているんです」
「ゆるい意味で管理人て感じ?」
 町田が言うと、ガイドは苦笑を浮かべながらも、「そのようなところでしょ
う」と追認した。
「風呂の時間は? 決まってるんですか」
 今度は勝馬だ。保谷は小さなメモでも持っているのか、手のひらを一瞥して
から答えた。
「原則的に二十四時間、自由に入れますが、清掃の時間を取る必要があるので、
男湯女湯それぞれ一時間ずつ、入れない時間帯があります。日ごとに時間帯は
変わるので、お手数ですがフロントでお尋ねください、なお、温泉プールは朝
九時から夜六時までとなっています」
「お風呂の話が出たついでに聞いておきたいことが」
 白沼が口を開いた。最前の保谷の言葉は、分からないことがあればその都度
聞いてくれというニュアンスだったはずだが、今が質問タイムになってしまっ
た感がある。
「外湯めぐりはできます? それ以前に、外湯があるのかどうかを伺っていま
せんけれど」
「そうでしたね。はい、ございます。数は多くありませんが、歩いて行ける範
囲に四つ五つ。併せて、宿泊施設の内湯にも、入れるところがあります。詳細
はフロントにある冊子をお手に取ってご覧ください」
 このやり取りに、相羽が「……」と何やら言いたげに口をもごもごさせた。
が、結局言い出さずに終わった。間が空くことなく、次の質問の手が唐沢から
挙がる。
「身もふたもなくなっちゃうかもしれない質問、いいっすか?」
「何でもどうぞ」
「温泉やパワースポット以外の名物や、遊び場って何があります?」
「高校生ぐらいの方が楽しめる、という意味でですよね。ありません。――皆
さん、モニターを兼ねてらっしゃるからぶっちゃけますが、ここは、若い方で
も満喫できる温泉地を目指しています。でも、何らかの付属物で人を集めるの
はなるべく避けたいとの考えだそうですよ」
「じゃあ、温泉プールとやらを派手にバージョンアップするとかもなしかあ」
 どこまで本気なのか、唐沢が勿体なげに言った。保谷は笑みを絶やさず、時
計をちらと見た。
「そろそろお開きにしませんと、楽しむ時間がなくなりますよ? 他に質問が
あれば、その都度という形で、よろしいですか。よろしいですね」
 予定をちょっぴりオーバーして、昼食の時間が終わった。
「で、どうする?」
「完全自由行動でいいんじゃね?」
 相羽が問い、唐沢が答える。
「名所案内はある程度まとまって行かないと」
「そうか。明日もチャンスあるけど、今日、行く奴は?」
 これに対し、富井と井口が顔を見合わせたあと、手を挙げた。
「神社もあるみたいだから、お願いしておきたい」
「へー。何をお願いするの?」
 二人の隣にいた町田が尋ねる。と、富井は頬を少し赤くし、井口は「やだな
ぁ、芙美」と言葉を濁す。
 その反応で町田は察しが付いたようで、「ははん」と顎を撫でる。
「おおかた、彼氏ができますように、でしょ?」
 はっきり口に出したのは、白沼。
 ずばり指摘された富井達は、図星だったようで、「ううー、白沼さんの意地
悪!」「ほんとほんと。昔と変わってない」と口々に反発した。
「待ってよ。私も仲間みたいなものなんだから。というより、できあがってい
るカップルなんて、この中に一組しかないでしょ」
 白沼の発言により、視線は純子と相羽に集中した。純子は顔が火照るのを感
じつつ、逃げ道を探す。
「えっと、芙美は、唐――」
「ないない」
 町田は純子のそばに飛んできて、先を言わさぬようにした。唐沢との仲は進
展していないと見える。
「じゃ、僕ら以外の全員、参拝する? その間、何をしようか悩むな……」
 相羽はそう言うと、芝居がかった態度で腕を組み、小首を傾げて見せた。
「悩む必要はないぞ。俺は辛気くさいところは苦手だから、パワースポット巡
りは今日も明日もパスだ」
「ふむ。それじゃ参考にするから、何をしたいか言ってみてくれ」
「そりゃあ、プールだろ」
 唐沢の即答に、相羽は今度は本当に首を傾げた。
「どうして、『そりゃあ』なんだ? 今日が特に暑いなら分かるけれど、避暑
地だからむしろ涼しいくらい」
「温泉が嫌って程あるんだろ。最初に温泉プールに入っておかないと、入る気
が起きなくなるかもしれん」
「凄い理屈だな」
 相羽の評価に、唐沢は本人も自覚があるのか苦笑いを浮かべた。
「あとは察しろ」
「まあ、折角、用意してきたんだし、温泉の前に入ってもいいかな」
 相羽は純子に顔を向けた。目で、「君は?」と聞いている。
「私もそうしたいけど……一人じゃ無理。女子で道連れになってくれる人は?」
 と、町田を始めとする四人の友達を振り返る。
「うーん、どうしよう……」
「私らは名所巡りでいいよ。だって……」
 富井が純子にじと目を合わせてきた。その視線を、頭のてっぺんからつま先
まで動かす。
「スタイル比べられたら、たまらない!」
「そ、そんなことないって」
 純子はそう答えたが、第三者的には説得力を欠く。モデルをやっているだけ
あって、スタイルのよさはずば抜けている(除くバスト)。対抗できるのは、
白沼でやっと。その白沼が言った。
「うだうだやってると、本当に時間がもったいないわ。プールは私が付き合う
から、さっさと決めましょ」
 鶴の一声ではないが、これをきっかけに、ぱたぱたと決まった。富井と井口、
それに杉本と鳥越が名所巡り組。残る六人がプール組となった。

――つづく




#466/598 ●長編    *** コメント #465 ***
★タイトル (AZA     )  14/10/18  00:03  (283)
お題>行楽>そばいる(後)   寺嶋公香
★内容

 温水プールは建物の中にあった。でも、天井がガラス張りなので、太陽の光
がどんどん降り注ぐ。室温は、外よりも暑くなっているかもしれない。事実、
今日の水温設定は温水レベルではないようだった。
「温泉地の温水プールだから、期待していなかったけどさ」
 勝馬が湯船に浸かり、基、プール槽に入ったところで言った。屋内施設を見
回しながら続ける。
「銭湯っぽいのに、滑り台があるのはミスマッチだけど、面白いかも」
 彼の言う通り、片隅には滑り台があった。無論、大きな物ではない。高さは
公園に設定されているのと同等ぐらいだろう。ただし、滑る長さは結構ある。
目算で、約十五メートル。それにしては傾斜が緩やかだが、表面を水が激しく
流れており、この水流に乗ればそこそこスピードが出そうだ。
「貸し切り状態だし、今の内にばかみたいに滑っておくか」
 早速、唐沢が滑り台に向かった。途端に、「お!?」と声を上げる。滑り台
の向こうに何か見付けたようだ。
「何かあった?」
「ボールをいっぱい浮かべたプールがある。――浅い。幼児用かな。おっ。こ
の滑り台、プラスチックかゴムみたいな感触だ」
「怪我防止だろうね」
 相羽はそう意見を述べると、意識的に呼吸して、胸を膨らませた。それから
少し息を吐き、五十メートルプールの端から、クロールでゆっくりと泳ぎ出す。
勝馬も平泳ぎで続いた。
「女子、遅いな〜」
 勝馬の呟きに、唐沢は「予想できたが確かに」と応えてから、滑り台使用第
一号になる。
「お、わ」
 意味のない言葉を残し、滑っていく。思った以上に速い。あっという間に飛
び出し口に達し、さらに水の中を流される。
「――はは、こりゃいい。意外と迫力あった。まるで花屋敷のジェットコース
ターだ」
「まじ? 俺もやる」
 途中で泳ぎをやめ、引き返す勝馬。相羽は五十メートルを泳ぎ切ってから、
滑り台の方を振り向いた。
 滑ってきた勝馬と、待ち構える唐沢がぶつかりそうなのを、どうにか回避し
ていた。それだけでも危うい感じがなくもないが、次に唐沢が、立ったまま滑
ろうとするのを見て、相羽はつい声を上げた。
「おまえら、怪我するなよっ」
「大丈夫だって。擦り傷ぐらいはあるかもだが、怪我の内に入らん」
「……言いたくないけど、招待されて来てることを忘れずに」
 相羽がことさら真面目な調子で注意すると、唐沢と勝馬は目を見合わせた。
「ふむ。涼原さんに迷惑を掛けることになるかもしれないってか」
「それは本意ではないな」
 急に大人しくなる二人を目の当たりにして、相羽は急いで付け足した。
「ほどよいところで頼むってこと。万が一、その滑り台を普通に使って事故が
起きやすいのなら、それを伝えた方がためになるだろうし」
 そうして、折り返しを泳ぎ始める。今度は全力でバタフライだ。
 元いた地点に着くと、唐沢の姿がない。勝馬に聞くと、「ボールを拾ってる」
という返事。
「幼児用プールのボール? どうする気なんだ」
 上がろうと、プールサイドに腕をついて力を入れる。水から下半身を引き抜
いた瞬間、頭に極々軽い衝撃が。
「あ」
 再び水中に没してしまった。水面を見上げると、赤や黄色のボールが浮かん
でいた。
「投げるの禁止――ってなってないか?」
 怒鳴ろうとして、途中でやめた。全然痛くなかったし、プール施設に使われ
ている物で、ボールが当たって壊れそうな物は見当たらない。ガラスも強化タ
イプだ。
「ええっと、あ、あった。こっちのプールだけでお使いください、だってさ」
「やっぱり、投げるなよ」
 ボール二つを拾って、改めてプールから上がる。幼児用プールにボールを戻
したところで、ドアの向こうより黄色い声が流れ込んできた。磨りガラス越し
なのではっきりとは見えないが、女子三人が来たのは間違いない。
「さっすが、涼原さん。悔しいけど負けるわ」
 白沼の声。珍しく、素直に純子を誉めている模様。さらに感想が続く。
「それにしても昔に比べて、随分大胆になったわねえ。芸能界にいると変わる
のかしら?」
 これに被せるようにして、町田の声が一際大きく聞こえた。
「ほんとほんと。まさか、純子が貝がらの水着だなんて! いやーびっくりだ
わ」
 え。
 ガラス戸のこちら側にいた男子三人は、耳を疑い、それから次に互いの顔を
見た。
 否、見合わせたのは相羽と勝馬だけ。唐沢はドアの方に走り出していた。滑
って転ばないように、よちよちとペンギンみたいな走りだが。
 今この瞬間の、男子三人それぞれの脳内を記してみると、次のようになるだ
ろう。
  何が何だか分からないけど想像してどぎまぎ――勝馬。
  想像してみて本当のところを察した――相羽。
  とにかく一刻も早く見てみたい――唐沢。
 本能のままに動いた唐沢が辿り着くよりも早く、ドアは横にスライドした。
思わず、バランスを崩しそうになる唐沢だったが、中腰でどうにか踏ん張った。
 そこへ、町田と白沼に押されるようにして、純子が銭湯で入ってくる。
「――あれ?」
 床に向いていた目線を起こした唐沢は、意味が理解できず、ぽかんとした。
 純子が着ていたのは、白地に何か細かなデザインを施したワンピースの水着
だった。
「……唐沢君」
 純子は口元を覆った。明らかに、笑いを堪えていた。
「あーあ、予想通りの行動取ってくれちゃって」
 あとから来た町田も、呆れつつも笑っている。彼女の水着は、遠目には黒に
見える、深緑のワンピース。ショルダーの小さなフリルがアクセントだ。
 その左隣に立つ白沼は腰に両手首を当て、これ見よがしに嘆息した。ちなみ
に水着はやはりワンピースで、斜めのラインで区切って水色とピンクを配して
いる。先の二人に比べると、胸元や背中のカットが大胆である。
「唐沢君、あなたが町田さんにどれだけ知られているかが、ようく分かったわ」
「えーと。いっぺんに色々言われても、こっちは何が何やらさっぱり。まずは
……すっずはらさん! その水着、どうしたのさ?」
「え、これ。この夏用に買ったんだけど、似合わない?」
「いや、似合うけど。じゃなくて、さっき、芙美のやつが貝殻って。――まさ
かおまえ、俺をだますために嘘を?」
 話す相手を町田に転じ、唐沢は声を荒げた。しかし、町田は涼しい顔だ。
「嘘なんてついてませんよーだ」
 舌先を覗かせ、きつく言い返す。唐沢がさらに言い返そうとしたところで、
相羽が助け船?を出した。
「唐沢の早とちりだよ。今回は負けをさっさと認めて、白旗を掲げないと。傷
口が広がる」
「ど、どういう意味だ?」
「町田さんは『貝がらの水着』とは言った。でも、『貝殻』じゃあないってこ
と」
「ん?」
 相羽の説明を音声で聞いても、一発で理解するのは難しい。
「純子ちゃんの水着をよく見れば分かる……あんまりじろじろ見てほしくない
が」
 後半は小声でぼそっと付け足す。
 ともかく、言われた通り、唐沢はじーっと目を細め、純子の水着をよく見た。
そして不意に声を上げた。
「あ! 貝の柄ってか!」
 手のひらを額に当て、絵に描いたような「やられた」ポーズを取った。と、
やおら、お腹を抱えて笑い出した。
「参った、参りました。よく考え付くな〜。まさか、このためだけに、涼原さ
んにこの水着を持ってこさせたんじゃないだろ?」
「ばかね、そこまで用意周到じゃないわよ。さっき見て、思い付いたの」
「だよな。それに引っ掛かるなんて、俺の立場が」
 頭を抱えてみせる唐沢に、白沼が追い打ちを掛けた。
「立場というより、性格でしょうね」
 さて、唐沢達のやり取りは放って、相羽は純子に歩み寄り、手をさしのべた。
 純子も手を出しつつ、「ど、どうかな、この水着」と聞いてみた。
「似合ってる。すぐにでも一緒に泳ぎたい」
「よかった」
 ほっとして、胸をなで下ろす。そのとき、相羽が「でもその前に」と言った。
「?」
「準備運動、付き合うよ」
 相羽は純子の手を引き、まだわいわいやっている町田や唐沢達から距離を取
った。

 心地よい疲労感がある。身を委ねると、そのまま眠ってしまいそう。
「いただきます」
 みんなのかけ声で、純子は睡魔の深淵から引き戻された。遅れて「いただき
ます」と唱え、箸と茶碗を手に取る。
 夕食の席は、高校生だけによる女五対男四で、長テーブルに着いた。一人欠
けたフィーリングカップル番組状態だ。杉本とガイドの保谷は、別のテーブル
で摂る。彼らはアルコール込みだ。
(うん、おいしい。でも眠いなぁ)
 仕事明けのせいか、疲れが溜まっている。あまり意識していなかったが、プ
ールで遊んだあと、今や明確な自覚があった。寝ていいよと言われたらいつで
もどこでも眠れる。食事は焼きしゃぶがメインディッシュで、自分で焼く必要
があるのだが、最初の一切れを焼いて口に運んだきりになっていた。他のおか
ずとご飯を、自動的めいた動作で交互に食べてる。
「もー、純ちゃん危ないよ。顔焼いちゃうよ」
 隣の席の富井が甲高い声で注意してくれて、目がぱっちり開く。顔を焼くは
さすがに大げさだが、熱を頬で感じた。
 反対の隣側からは、二本の腕が伸びてきている。見ると、井口が、万が一に
備えて支えようとしてくれていた。
「ご、ごめん。ありがとう。もう大丈夫」
 頭をぶるぶる振って、がんばって目を開ける。箸を持ったまま、ぎゅっと握
り拳を作った。
「さっきから、頭が揺れてたよ。無理しない方が」
 町田からも心配げな声を掛けられた。彼女の正面に座る唐沢が言葉をつなぐ。
「そうそう。眠たいなら、部屋できっちり寝ればいい。食事はあとでも食べら
れるだろ、多分」
「でもこのあと、余興が用意されてるって」
 ガイドの説明によると、パフォーマー二名を呼んでいるそうだ。ともに地元
縁の人だが、活動拠点は東京で、故に今日は余興のために来たことになる。
「――相羽君。この頑固な主賓さんには、あなたが言わないとだめみたいよ」
 白沼が唐突に相羽の名を呼んだ。目をしばたたかせ、暫時、戸惑った相羽だ
ったが、すぐに察した。音を立てて椅子から離れると、長テーブルをぐるりと
回って、純子のところへ来た。
「行こう。拒むのなら――お姫様だっこしてでも連れて行く」
「……うん」
 人の目がなければだっこもいいかも。そんな想いがよぎったのは内緒だ。純
子は立ち上がると、マネージャーの杉本に一言断ってから、相羽と一緒に食堂
を出た。

「眠気の他には、何もない? だるさや頭痛、のど痛とか」
「うん、平気」
 不思議なもので、部屋に戻り、布団に入って落ち着くと、眠気が和らいだよ
うだ。しっかり覚醒したとまでは行かなくても、このまま残されるのは寂しく
感じる。
「電気はどうしようか?」
 電灯のスイッチである紐に指を掛けた相羽。その顔を、純子は下から見つめ
る格好になる。
「点けたままで、しばらくいてほしい……」
「いていいの?」
「話し相手になってほしい。その内寝たら――ごめんなさい」
 口元を薄手の毛布で隠し、お願いをする純子。
「お安いご用。眠るところを見届けた方が、安心できるし」
「……私が寝たら、すぐに出て」
「はいはい」
 返事は素直だが、表情がわずかに笑っているように見えて、不安に駆られる。
だが、気にしてもどうしようもない。
「どんな話をご所望ですか、お姫様」
「だからお姫様じゃないってば。……みんな、楽しんでるかな?」
「と思うよ。プールはあの通りだったし、名所巡りの方も、満足していたみた
いだった。富井さんや井口さんだけじゃなく、鳥越も天文に関係のある史跡を
見ることができたとかで、喜んでいた」
「それなら……よかった」
「他人の反応を気にするの、ほどほどにしないと、精神的に疲れるでしょ」
「そんなことないと思ってたけど、今の状況じゃ言えないなぁ」
 毛布を被ったまま、純子は大きくのびをした。所々、こっている気がする。
「骨休めに来て、心配掛けて、ごめんね」
「謝ることじゃないからさ。一生懸命、骨休めしなよ。この機会を逃したら、
また忙しくなるんだろ」
「そうする」
「……僕がいない場でも、周りの人の言うことをよく聞いて、よく考えて判断
する。がんばりすぎない。いい?」
「……はい」
 かみしめるような返事になったのには、わけがある。思い出してしまったか
ら。この旅行の間くらい忘れていようと努めていたし、他のみんなも触れない
でいた。が、当の相羽からそれを示唆するような話をされては、思い起こさず
にいられない。
(留学、するんだよね、もうすぐ)
 旅行から帰れば、準備に追われる時期に入る。無理をして旅行に参加したの
は、相羽も同じかもしれない。
「あは」
 多少、努力して笑顔を作った純子。相羽が不思議そうに、どうかしたの?と
尋ねてくる。覗き込もうとする相手に、純子は笑みを保ったまま答えた。
「最後の言葉はそっくりそのまま、相羽君に言いたいわ。がんばりすぎないで」
「うん。じゃあ、がんばるとするよ」
 相羽も同じ笑みで返した。

 目が覚めると、午後七時四十五分だった。相羽とのおしゃべりを差し引いて、
多分一時間強、眠ったことになる。お腹の空き具合は微妙だったが、余興のこ
とを思い出し、食堂に向かう。近付くにつれ、にぎやかさが増す。歓声だ。ま
だ余興は終わっていないらしい。
 邪魔にならないよう、そろりそろりとドアを開け、途中で止める。様子を窺
うと、食堂の上手にちょっとしたステージがこしらえられ、そこで若そうだが
白髪だか銀髪をした男性が、マジックらしき出し物を演じているのが見えた。
かなり巧みなようで、みんな集中して見ている。
 どうしよう。一区切り着くまで、ここで待っていようか。そんなことを考え
ていると、
「――ほ?」
 いきなり目の前に現れたのはピエロ。クラウンと表現すべきか。「ほ」の発
音の口をしたまま、純子をじろじろ、オーバーなジェスチャーで上から下から
観察する。
 この人がもう一人のパフォーマーなんだとは見当がついたものの、どうして
いいのやら分からない。戸惑っていると、手を引かれた。赤い白粉で分厚い唇
を描いたクラウンは「しーしー」と発声して、マジシャンを含めたみんなを注
目させた。
「お。おはよう」
「早く見なよ。結構凄いから」
 友達はそう言うのだが、クラウンが手を離してくれない。あれよあれよと、
押し出されるようにして舞台へ。
「遅刻した罰として、お手伝いをお願いします」
 デリー飯富(いいとみ)と自己紹介したマジシャンは、ダンディな声で告げ
た。そこから三連続でカードマジックの手伝いをしたのだが、確かに凄いレベ
ルだった。トランプにした自分のサインが自在に動いて、こすり合わせた別の
カードに移る。サインしたカードをトランプの山に入れてどこにあるか分から
なくしても、一枚選べば必ずそのサインカードが出てくる。そして、サインし
たカードが消えたかと思うと、密閉したボトルの中に現れてフィニッシュ。
「お礼にそのボトルは差し上げます。あ、種が気になると思いますが、中身は
お酒なので、開けるのは大人になってからにしてください」
 両手に収まるサイズの角瓶と、マジシャンの顔を交互に見ながら、純子は礼
を述べた。
 これで解放されるかと思ったら、クラウンに制された。まだ緊張を解いては
いけないらしい。
 クラウンはジェスチャーで、腕時計を見る仕種を繰り返す。
 するとマジシャンの飯富が、ぽんと手を打ち、「忘れるところでした。杉本
さんからお借りしたままの腕時計をお返ししなければ」と言う。純子を除いた
観客は全員、状況を理解している。恐らく、杉本から腕時計を貸りて何らかの
マジックをやり、時計がどこかへ行ってしまっているのだ。それをこれから出
現させようということに違いない。
「どうやら、杉本さんの腕時計はマネージャーの魂が乗り移ったようですね。
タレントさんが心配で、部屋まで様子を見に行っていたようですよ」
 そんな口上から、飯富は純子からボトルを一旦預かると、左肩に手を乗せて
きた。
「すみませんが、腕をゆっくりと持ち上げてもらえますか。皆さんに、左手首
がよく見えるように」
「――えっ、これ」
 薄手のカーディガンの袖をまくると、腕時計が填めてあった。
「全然気付いてなかった?」
「は、はい」
「いいマネージャーさんですね。あなたのことを常に見守っている。あ、あな
たの年頃なら、彼氏さんの方がいいでしょうかね」
「それは……」
「ま、腕時計は杉本さんに返してあげてくださいね」
 促されて、腕時計を外す。すると。
「これ……シール?」
 文字盤の裏に、黄色地のシールが貼ってあり、そこには相羽の文字でこう書
いてあった。
<僕が一番近く、そばにいるから>

――おわり




#468/598 ●長編    *** コメント #271 ***
★タイトル (AZA     )  14/11/20  23:06  (500)
一瞬の証拠 1   寺嶋公香
★内容
 夏期休暇に入ってすでに三日。マンションはいよいよ静かになりつつあった。
「要するに、それだけパパママ恋しい奴が多いってことさね」
 人が減る度に寂しくなるねと言ったブルック・セラーに対し、エイデン・ダ
グズが批判めいた口調で応じた。続けて、
「自分が里帰りしないからこそ、言いたい放題言えるんだけどね」
 と、笑いを混ぜるのを忘れない。
「本当に全然戻らないつもりなの?」
「決めてないだけで、気が向いたら帰るかもな。何せ、親は放任主義の見本み
たいな育て方をしてくれたから、顔を見せに来いとすら思っちゃないよ、きっ
と」
「そんなこと言ってるけど、ほんとは課題が片付きそうにないから、とかじゃ
ないの?」
「そりゃないな」
 ブルックのからかい気味の台詞に、エイデンは真面目に答えた。
「今の言葉で、思い付いた。自分一人だけがこのマンションに残り、創作に没
頭できるとしたら、何か新しい物が生まれるかもしれない」
「試せばいいじゃない」
「今年は無理だ。少なくとも一人、帰らない奴がいると知っている」
「誰?」
 問い返しながら、空になったグラスを回すブルック。氷が音を立てた。
「今、私達が待っている男だよ。ジョエルの奴、遅いな」
 時計を見たエイデン。ブルックもつられて確認する。午後一時ちょうど。約
束した時間になったところだった。三人揃って観に行く映画を何にするか、決
めようという他愛ない会議を開くことになっている。場所はここ、ブルックの
部屋だ。
「部屋には戻ってるはずだから、迎えに行くかな」
「電話でよくない? いきなり部屋に来られたら、迷惑がるかもしれないわよ」
「遅れるのなら、遅れる方が電話で連絡をよこすべき。そうしないってことは、
こっちから行っていいのだ」
 屁理屈をこねつつ、にやりと笑うエイデン。腰を上げた彼女に、ブルックは
しょうがないなと後に続くことにした。案外、廊下でばったり出くわすかもし
れない。むしろ、その可能性が一番高そうだ。
 二人は部屋を出ると、階段に向かった。ジョエルの部屋は一つ上の階にある、
六一〇号室だ。角部屋で、ブルックはまだ入ったことがないが、眺めはよいは
ずだ。すぐ下の五一〇号室、アイリーン・サンテルの部屋を訪れたことがあり、
そこからの眺望はとてもよかったから。アイリーンは脚本家志望で、特にミス
テリについて造詣が深く、面白いアイディアをいくつも思い付く。普段からメ
モを手放さないし、入手困難になった推理小説を常に探し求めている。そんな
彼女にとって、景色のよさは気分転換に効くらしい。
 二人はいつもに比べて極端に静かな廊下を進み、突き当たりまで来た。六一
〇号室の戸をノックする。
「おーい、何してるんだい? 美人二人と会えるのを想像して、変な気分にな
ったとか?」
 エイデンがふざけた口ぶりで呼び掛ける。返事はなく、エイデンはノックし
ていた手を止め、ノブを回した。
「あ、開いてる。ジョエル、いるのよね?」
 ずかずかと上がり込むエイデン。ブルックも「お邪魔します……」と唱えな
がら、遠慮がちに続いた。
 部屋の主の姿を求め、リビングに辿り着いた。そこに彼はいた。いや、正確
には、リビングの大きな窓を開けた向こう、ベランダに。
 ジョエルは外を向いているため、背中しか見えない。ブルック達に気付いた
様子はない。
「ジョエル、何してるのさ? 暑いからって、ベランダに出なくても風は吹き
込んでくるだろうに」
 エイデンの早口に、やっとジョエルが反応した。肩越しにふり向いたその顔
は、憔悴しきったという形容がぴったりと言えた。乱れた髪、充血した目、そ
の周りの隈、浮浪者のような無精髭……。見慣れたジョエル・キーガンとは全
く異なる。ブルックはショックですぐには言葉が出なかった。それはエイデン
も同様だったらしく、口をぱくぱくさせるのみ。
「遅かったじゃないか」
 ジョエルが言った。窓は開け放たれているので、よく聞こえる。ただ、口の
中が乾き切ったようなしわがれ声だったのが気になる。
「約束の時刻に姿を現さなかったら、君達は何分で様子を見に来てくれるのか、
予想を立てていたんだ」
「……そ、そうなんだ」
 やっと絞り出した感じの声でエイデン。
「思っていたよりは遅かったが、想定内だ。おかげで、これから予定通り、決
行できる」
「何をするつもり?」
 エイデンが足を一歩進めると、ジョエルはそれを拒絶するかのように、外へ
と向き直ってしまった。エイデンは再び足を止めた。
「僕はもう、ほとほと嫌になった。いくら努力しても先が見えない。自分の才
能に確信が持てない。だから、死を選ぼうと思う」
「え?」
「君達を待ったのは、見てもらいたかったんだ。人が死ぬ瞬間を目撃すること
で、何らかのよい影響を受けてほしい」
「ちょっと、それどういう――」
 エイデンとブルックが動こうとした矢先、ジョエルはより素早い動きで、ベ
ランダの柵に跨がった。
「それでは、しばしのお別れだ」
 今一度振り返った彼は、先程とは打って変わって笑顔をなし、そして身体全
てを柵の向こう側へ投げた。
「あ!」
「え」
 二人の短い悲鳴は、直後にしたずしんという地響きのような揺れに重なった。
すぐ近くに大きな力が加わったかのように、マンションが揺れた。
「ジョエル!」
 エイデンがベランダに走った。一方、ブルックは呆然としていた。足が動か
ない。立ったまま、腰が抜けたような感覚があった。
 ブルックの視線の先では、エイデンが柵から上半身を少し乗り出している。
ブルックは、エイデンまでもが落ちるのではないかと不安に襲われた。
「エ、エイデン……」
「――ブルック、あんたは大丈夫? こっちは見ない方がいい」
「じゃ、じゃあジョエルは」
「……落ちたわ。ここから見えるけど、あなたは見ない方がいいと思う」
 気が弱く、血に弱いと自覚しているブルックだが、見るなと言われると多少
の反発心も起きた。友人がどうなったのか、少しでもこの目で見ておきたい気
持ちが強まる。
「私にも見させて」
「……知らないよ、気持ち悪くなっても」
 エイデンの忠告を敢えて無視し、ブルックはベランダに出た。エイデンの隣
に立ち、下の地面が見えるようになるまで、頭を傾けた。
「――ひ」
 息を飲んだ。ここ六階から地面までは、二十メートルくらいだろうか。そこ
に横たわる人の形が見えた。顔ははっきりしないが、服はさっきジョエルが身
に付けていた物と同じらしい。首や手足が、奇妙な方向に曲がっている。血溜
まりができているか否かは判然としなかった。
 テスト期間に入る直前頃、このマンションではぬいぐるみに植木鉢、枕が落
ちる事故(もしくは落とされる事件?)が集中的に起きたが、そのどれよりも
禍々しい現場だった。
「本当に大丈夫?」
 エイデンの心配げな声とともに、彼女の手が肩に置かれた。ふらついて落ち
やしないか、心配されたのかもしれない。ブルックは声を出せないまま、首を
縦に何度も振った。
 エイデンは眉根を寄せ、お願いする風に言った。
「通報なんかは私がやるから、ブルックは部屋に戻った方がいい」
「……そう、かな」
 エイデンは力強く首肯し、ブルックとともに部屋の中に戻り、さらに廊下へ
出る。来たときと同じルートを辿って、ブルックの部屋である五〇五号室に着
いた。
「私はとりあえず、一階まで降りて様子を見てくるから。あなたはここで待っ
ていて。気分が悪くならない内に、横になった方がいいかもしれないよ」
「分かったわ」
 心の中でありがとうと付け足し、ブルックはエイデンを見送った。

           *           *

 やや大ぶりのバスケットを脇に抱え、数段のステップをしずしずと降りた彼
女は、ステージ上にいたときと同じように観客席を見渡した。栗色の髪を覆う
白のヘッドドレスが、今はスポットライトを浴びて眩しい。深緑色のドレスと
は対照的だ。
「お客様ども」
 彼女は言った。
「私を手伝いたいという者は、これから散らす花を拾うがいいです。拾った者
から選んでやるです」
 荒っぽさと丁寧さの入り交じった言葉遣い、高い声はきれいだが、口調はと
げとげしい。表情は見下すような笑顔である。
 彼女はバスケットを頭上に掲げ、空っぽであることを示すと、左小脇に戻し
た。そして中に右手を突っ込む。正しく、突っ込むという表現がふさわしい勢
いだ。と、再び右手が観客の目に触れたとき、そこには花が溢れていた。茎は
なく、つぼみの部分のみ。赤、黄、白といった様々な色の花は、全てバラ。
 彼女は腕を大きく振って、それらの花をまいた。客席がわっと沸く。手を伸
ばして取ろうとする人も多い。
 彼女は少し移動してから、また花をまく。これを三度繰り返した。ステージ
に近い前方数列の観客には、ほぼ全員に花が生き渡ったことだろう。
「念のために言っておくと、花は造花だから、永遠に枯れずに、美しさを保つ
です。私のように」
 すかさず、「造花と同じ、作り物の美しさ?」なんて声が飛ぶ。
 彼女はその声の方をきっ、と睨み付けると同時に、指差した。
「そこ! 何てことを言いやがるですか! 時間があったら訂正させてやると
ころです! が、今は暇じゃないので、特別に許してやるです。さあ、花を拾
ったお客様ども。色を確認しなさい。私がばらまいた色とりどり花には、一つ
しか入れてない色があるです。それを手にしたお客が今日これからの下僕にな
るです。栄誉に思いなさい」
 ざわざわする観客達を放って、とうとうと喋る彼女。
「一つだけしかない色は、本来、あり得ないとされてきた色。そう、『あり得
ないこと』『不可能』の代名詞にもなった青いバラ。青を手にしたお客は早く
立つように!」
 その台詞を聞いて、僕は急いで腰を上げた。僕の手の中には、彼女の言った
青いバラがある。
「あの、これ」
 恐らく聞こえないであろう小声で言いつつ、バラを持つ手を挙げる。彼女は
顔を僕から見て右に向けた。目が合う。同時進行で、僕の周りも明るくなった。
もう一つのスポットライトが当てられたのだ。
「名前は?」
「桜庭です」
「桜庭ね。よろしい。お客様ども、彼に拍手を」
 彼女は僕の手を引いて舞台へ――と思ったら、違った。手を引っ張って僕の
身体を前に持って来ると、小突くようにしてきた。「ほらほら早く上がるです」
と急き立てられる。短い階段を登って、舞台上へ押し出された。
「それでは手始めに――手から始めるとします」
 拍手が収まると、早速、彼女は言った。僕の右側に立ち、続ける。
「桜庭、右腕を肩の高さになさい。そう。手のひらを上に向ける。そうして、
手を開いて、さっきの花が皆からよく見えるように」
 言われる通りにした僕は、目で彼女の次の言動を窺った。こうして間近で見
ると、白い肌のきめ細やかさがよく分かる。独日混血と聞くが、今はライトの
せいか、まるっきり白人のようだ。
 彼女はポケットから黄色い薄手の布を取り出した。大きめのハンカチ、もし
くはスカーフだろう。薄いと言っても、向こう側が透けて見えるほどではない。
表裏を改め、何にも仕掛けがないことを示す。
 そしてハンカチを僕の右手に上から被せる、ほんの一瞬。すぐに取り払った。
すると、僕の手から青いバラはなくなっていた。彼女はハンカチを再度改める
が、バラが引っ付いているなんてことはなかった。観客席に、軽めのどよめき
が起きている。
 彼女は唇の両端を上向きにし、得意げな笑みのまま、僕の左胸を指差した。
ジャケットのポケットがある辺りだ。
「青いバラは、まだ桜庭から離れたくないみたいです。あなたのハートにしが
みつこうとしている。嘘だと思うのなら、ポケットの中を確かめてご覧なさい
な」
 右腕を動かしていいとの許可が出ていなかったので、僕は左手でポケットの
口を広げ、中を覗いた。そこにあるのは間違いなく、青いバラ。
「これ――」
 目で問う。彼女は「そこに入っている物を引っ張り出すです。そしてお客様
どもに見せて! さあ、早く!」と早口で急き立てた。
 僕はバラをつまみ出し、斜め上に掲げ持った。どよめきが大きくなり、拍手
が重なった。
 それらが収まると、微かだが客の反応が耳に届いた。「いつ入れられた?」
「ステージに上げるときじゃない?」なんて推測をしている。
 内心、僕は断言した。それはない、と。

 指定されたホテルのロビーで待っていると、案に相違して、マネージャーで
はなく、彼女本人が現れた。もちろん、帽子と眼鏡とウィッグで変装している
から、彼女がそこそこ有名なプロマジシャンと気付く人はいまい。
「何と呼べば?」
 挨拶の前に尋ねた。
「今は、ミドリ・ドミートリでかまわないです。それよりも、その質問、そっ
くりそのままお返ししたいです」
「ああ、さっき桜庭と名乗ったのは、本名を名乗ると、興味を持った観客がネ
ットで調べて、色々突き止めるかもしれませんから」
「納得です」
 僕と彼女――ミドリはエレベーターに乗り込んだ。彼女が押したのは八階の
ボタンと閉ボタン。ドアが閉まるや、会話を再開させる。
「仮名に桜庭を選んだのは、サクラと掛けた?」
「分かりましたか」
「日本語の勉強は怠ってませんから」
「お見それしました。ま、いきなりこんなことを頼んできたあなたに対する、
ちょっとした当てつけです」
「こんなことというのは、当日、急にサクラをお願いしたこと? それとも……」
「当然、前者ですよ」
 僕は苦笑いを浮かべていただろう。
 ミドリからコンタクトがあったのは、ひと月ほど前。それはいい。サクラの
件を打診されたのが昨日とあっては、急すぎるというものだ。
「見てくださる人達に、なるべくよい不思議を体験してもらうには、サクラは
立派な手段ですから。機会を見付けたら、できるだけ取り入れます。マジシャ
ンとして当たり前のこんこんちきです」
 彼女の日本語の勉強は、些か偏りがあるようだ。あるいは、舞台上でのトー
クに磨きを掛けるため、わざとやっているのかもしれないが。
 エレベーターが八階に着いた。八〇一と記されたカード型ルームキーをひら
ひらさせるミドリに付き従い、廊下を少し歩き、部屋の前へ。
 ミドリは解錠し、ドアノブに手を掛けてから、こちらを振り返った。
「これから部屋で話すことは、公にしてはだめ。秘密なのです」
「承知しました」
 ドアが開かれ、僕はマジシャンのシングルルームに足を踏み入れた。

「これから話すのは、私の友達が体験した不思議な、というよりも奇妙な出来
事。そして恐ろしくもあるです」
 ミドリは最近お気に入りになったという緑茶を僕に入れさせ、落ち着いてか
ら本題に入った。
「友達の名前は、ブルックと言うのです。多少気の弱いところがあって、血を
見るのがとても苦手。音楽業界を目指していたんだけれど、耳を悪くして、断
念した過去があるです」
「あの、喋りづらければ、日本語でなくても大丈夫ですよ」
「――スワヒリ語でもですか」
 冗談なのだろうが、まさかの提案に一瞬びっくりした。笑いながら応える。
「それはちょっと……正確なニュアンスを掴みかねるかな。ミドリ、あなたの
得意なドイツ語か英語でいかがです?」
「それじゃ、お言葉に甘えてやるです。――奇妙な出来事が起きたのは学生マ
ンションで、話に登場する学生は皆、ここに入居している……亡くなった人も
いるので、入居していたと言うべきかも」
「ちょっと待った。日本での話?」
「ううん、アメリカ。先月、滞在したときに、ブルックと会って」
「ブルックさんが体験をしたのは、いつのことです?」
「確か、さらに遡ること、三週間程よ。サマーバケーションの頃。だから、マ
ンションにもあまり人は残っていなかったそうよ」
「把握しました。続けてください」
「ブルックは耳を悪くしてから、美術の方面に進んだの。堅苦しいのじゃなく
て、映像作品のグラフィックね。入った学校もそういう映画関係のところで、
映画監督や脚本家や俳優志望の人達といっぱい知り合ったと言ってたわ。今度
の話に主に関係するのは、その内の二人。一人は男性でジョエル・キーガン。
アクション物が好きで、アクションスターを目指すようになったって。映画の
好みは、ブルックとは合わないんだけれど、ジョエルの方から積極的にモーシ
ョンを掛けてたみたい。もう一人は女性で、ブルックと同じグラフィック専攻
のエイデン・ダグズ。彼女はお堅い美術からの転向組で、音楽をあきらめて今
の道を選んだブルックに、シンパシーを感じたのか、いつの間にかよく話すよ
うになったそうよ。ブルックも、女友達の中では一番親しいって言っているわ。
 さっきも言ったように、三人は同じマンションに入っていた。上の階から述
べるわね。ジョエルは最上階に当たる六階の角部屋で、部屋番号は六一〇。ブ
ルックは一つ下の五〇五。エイデンはさらに一つ下の四〇一」
「確認ですが、その学生マンションは男女の区別はないのかな? 旨は同じだ
としても、フロア毎に分けるとか」
「あ、学生マンションと言ったのは便宜上で、元々、普通のマンションなの。
近くに駅があって、いくつかの学校への通学が便利なので、入居者は結果的に
学生ばかりに。出入り口は入居者でないと通れないし、駐車場完備だしね。高
い防音性を備えているのも、芸術系の学校に通う学生にとっては、高ポイント
らしいわ」
「経済的に裕福な家庭の子が集まっていそうだなあ」
「うん、まあ、確かに。でも、そのことと今度の話は無関係だと思う。それで
……ことが起きたのは、夏休みに入って間もない八月三日。私がブルックから
聞いた通りに話すと、こんな感じになるかしら――」

           *           *

 ベッドに横たわったブルックは、しばらくの間、右腕を額に載せた格好で目
を閉じていた。最前、目撃したことが脳裏のスクリーンから剥がれない。身体
は落ち着こうと努力しているのに、心は恐慌が収まらない。結局、その体勢で
いられたのは、十分余りだった。
 身体を起こし、ベッドから降りると電話を見つめ、しばし迷った。通報は済
んだのだろうか。もしまだなら、自分がしておくべきではないのか。エイデン
はまだ戻らない。救急や警察が到着した気配はないから、事情を聞かれている
訳ではない。まさか、ジョエルに息があり、救命を試みているのか。だとした
ら、自分に手伝えることはあるだろうか。
 あれこれと想像を巡らす内に、居ても立ってもいられなくなる。気の弱い自
分に、できることはないかもしれない。けれど、声を掛けるぐらいなら。第一、
想像という行為は無限に広がって、悪い方にも向かう。それを払拭したかった。
 ブルックは意を決し、自室を出た。暖色系の内装を施された廊下を、壁に手
を突きながら進む。一階まで階段で歩く気力はないので、エレベーターの昇降
口を目指した。
 ボタンに手を伸ばし、触れようとした刹那、扉が開いた。下ってきた箱が、
ちょうどこの階で降りる人を乗せていたようだ。
「――ブルック?」
 名を呼ばれ、伏し目がちにしていた面を起こすと、エイデンがいた。
「もう平気なの?」
 彼女はドアの開ボタンを押し、話を続ける。
 ブルックは「うん」と頷くと、状況を尋ねた。
「それが……おかしなこと言うようだけど、ジョエルの姿が見当たらない」
「え?」
「一階に降りたんだけど、いなかった。誰かに救助された風でもなかったし、
まさかとは思うけれど、自力で歩いてどこかに行ったのかなって……でも辺り
にはいないようだったから、あいつの部屋の様子を見てこようと考えた訳」
「あんな落ち方をして歩けたとしたら……奇跡としか」
「だから、その奇跡が起きたか、いや、起きていないことを確かめるために、
まず六一〇号室に行く。着いてくる?」
「もちろん、一緒に行く」
 普段なら階段を使うところだが、今はこのままエレベーターで向かう。
「ねえ、エイデン。万が一、ジョエルが歩けたとしても、六階まで階段では無
理だと思う」
「エレベーターを使ったと?」
「ええ。けど、血の痕跡は全くない」
 視線を床に向けるブルック。エイデンも同じようにしてから、少し考えたあ
と、意見を述べた。
「地面にも血の痕はなかった。骨折だけで、血は流していない可能性がある」
「そ、そっか」
 会話の途中で六階に着いていた。急いで降り、六一〇号室へ。閉じられたド
アの前に立ち、今度もエイデンがノブに手をやった。
「ジョエル……いる?」
 呼び掛けと同時に、がちゃがちゃという音が広がった。ノブが回らないのだ。
エイデンは扉をどんどん叩いた。その間に、ブルックもノブを回そうとしてみ
たが、びくともしない。
「だめだわ。鍵が掛かってるって、中にジョエルが?」
 ブルックは叫ぶように言い、エイデンを見た。相手の顔色が、すっと白くな
ったような気がした。
「ジョエル、いるの? いるなら開けて!」
 聴力のよくないブルックですら耳を押さえたくなるほどの大声で、エイデン
は呼び掛け続けた。防音設備のことが頭にあったに違いない。しかし、それで
も返事や反応はない。呻き声すら上げられないのか。
「念のために聞くけど、鍵、持ってないわよね」
 エイデンの問いにブルックは首を横に振った。ジョエルは幾度かブルックに
モーションを掛けたことがあったので、合い鍵を渡されている可能性を考えた
のだろう。
「よし、それじゃあ……」
 言ったきり、次がなかなか出てこないエイデン。
「管理人だか管理会社がスペアキーを持っているはずだけど、それって本人以
外でも借りられると思う?」
「分からない。事情を伝えれば、何とかなりそうな気がするけれど……」
 このマンションは、管理人が常駐するスタイルを採っていない。電話をして
事情を説明するとなると、なかなか難航が予想された。それでも掛けないわけ
にはいかない。
「番号知ってる?」
 エイデンは知らなかったので、ブルックが掛けることになった。事情説明の
言葉がまだまとまっていないが、とにかく携帯電話のアドレスから管理人の番
号を選んだ。
「――出ないわ」
 呼び出しの回数が二桁になったところで、電話を切った。
「おかしいな。普通、出るでしょ。何のための管理人なんだか」
「どうしよう……あ、念のため、ジョエルの携帯電話に掛けてみたら」
「そうね」
 エイデンが自身の携帯電話で、ジョエルに掛ける。呼び出し音がドアの向こ
うから聞こえるようなことはもちろんなく、回線がつながる気配もなかった。
「しょうがない。やっぱり、管理人に電話するしか」
 エイデンが呟き調で意を示したそのとき、外からの雑音が大きくなった。普
段から聞こえる生活音の類ではない、何やら騒がしいざわめき。外で何か起き
たのは確かだ。
 ブルックとエイデンは顔を見合わせると、エレベーターに走った。一階に向
かう。幸い、途中で止められることなしに、箱は一階に着いた。
 エレベーターホールを抜け、管理人不在の受付窓口の前を通り、外へ出る。
騒ぎの源を定めようと、耳を澄ます。
「こっちだ」
 エイデンが言った。彼女のあとに着いていくブルック。そちらの方角は、六
一〇号室のベランダが面した側の真下だった。学生や近所の人達だろう、数名
の人だかりができている。
 ひょっとして、やっぱりジョエルは転落していたのでは。もしくは、一度は
奇跡的に立ち上がり、部屋に戻ったものの、再び転落したのか。
 嫌な予感、奇妙な想像に襲われつつ、ブルックはエイデンの腕にしがみつく
ようにして、前に進んだ。人だかりに加わり、そこにある“もの”を確かめる。
「――えっ。これって」
 ブルックは絶句した。すぐさまエイデンを見たが、彼女も呆然とするだけで
あった。
 マンション脇の地面には、人が倒れていた。ただしそれはジョエル・キーガ
ンではなく、男性ですらなかった。
「アイリーンが、どうして……」
 五一〇号室の住人、アイリーン・サンテルはもう動かなくなっていた。

           *           *

「主要な人物が、一人増えましたね」
「言い忘れていた訳じゃないのよ。アイリーン・サンテルの名を前もって出し
ておくと、先入観を与えるかもしれないと思って」
 僕は別に非難するつもりで言ったんじゃなかったが、ミドリは真摯に答えて
くれた。
「先入観というからには、もしかすると、あなたも何らかの仮説を立てている
んではないですか、ミドリ?」
「当たりよ。ブルックに、この不可解な事件を解き明かしてと頼まれたの。彼
女ったら、私を本当のマジシャン、つまり魔法使いだと信じている節があって、
それはもう大変なんだから。正解らしきものが見付かっても、おいそれと口に
することはできない。殺人事件なんだから、なおさら」
「殺人事件? アイリーンは殺されたと確定しているのですか」
「ううん。はっきり他殺と分かっているのは、もう一人の方。ジョエル・キー
ガンが殺されていたのよ」
「え。飛び降り自殺ではなく?」
「彼自身の部屋で、モデルガンを改造した特殊な銃で撃たれていたらしいわ」
「特殊な銃っていうのは、どんな代物なのかな」
「私も実物は見ていない。写真で見ただけ。元は撮影の小道具だったモデルガ
ンで、古びて使い物にならなくなったのを、ジョエルが安値で買った。彼は独
自に手を加え、ニードルガンに仕立てたそうよ」
「日曜大工なんかで、板に釘を打つあれ?」
 僕の質問に、ミドリは軽く頷き、話を続ける。
「ちょっとした飛び道具と呼べるほど、強力な物を作っちゃったらしいわ。数
発撃ち込めば、人を殺せるくらいの。ジョエル自身が怖くなり、使うのをきっ
ぱり自制していた」
「そのことは、学生マンション中の噂になっていたとか言うんじゃないだろう
ね」
「残念ながら、その通りよ。誰もが知っていたみたい」
「しかし、作った本人が危険を認識していたのなら、厳重に保管するものでは」
「さあ、その辺りは不明だけど、実際、三発撃たれているのだから、部屋に置
いておけば問題ないと考えていたんじゃないかしら」
「凶器は発見されているのかな」
「五一〇号室で見付かってる。散乱した紙やメモの下からね。指紋の類は、拭
き取られていたそうだけれど」
「アイリーン・サンテルの部屋ですか……」
「ただし、ドアも窓も開閉自由な状態だったから、アイリーンが使ったとは言
い切れない。でも、より決定的な状況証拠がある……というのが警察の見解」
「その状況証拠とは?」
「ジョエルが亡くなった六一〇号室がね、半密室状態だったの。ドアは内側か
ら施錠されてた上に、チェーンまで掛けられていた。ちなみにドアの鍵は室内
にあった。けれど、窓は開け放たれていた」
「つまり」
 一旦言葉を区切って、考えをまとめた。
「アイリーンがジョエルを殺害後、ドアの鍵を掛け、高さを物ともせず窓から
脱出したが、結局失敗して転落したと、警察は見ているんだね」
「大筋ではそうみたい。細かい点で、辻褄の合わないことがあるから」
「それはたとえば、凶器がアイリーンの部屋で見付かったこと?」
「ええ。解釈できなくはないけれど」
 その通り。アイリーンが六一〇号室のベランダの柵に丈夫なロープ状の物を
通して命綱とし、真下の五一〇号室へと脱出したとすれば、凶器を五一〇号室
に置ける。ただ、そのあと転落する可能性は低い。
「ベランダからロープでぶら下がっている時点で、先に凶器を室内に放ったの
かもしれないわね。凶器を持っていると、降りるのに邪魔で。そして凶器を放
り投げた反動で、誤って墜落したのかも」
「うーん、どうだろう。想像したようにアイリーンがジョエルを殺したのなら、
凶器を持ち去る理由が分からない。被害者自身の持ち物なんだから、発見され
ても捜査陣は犯人に辿り着けない」
「そうよね。加えて、ジョエルの動きがはっきりしないし」
 思案顔になるミドリ。ステージでマジックを演じるときに見せる芝居がかっ
た表情ではなく、本気で悩んでいるのがよく伝わってきた。
「ジョエルは本当に飛び降りたのか。飛び降りたのだとしたら、その段階で命
は助かったのか。助かったとしても、何故病院に行かず、自室に戻ることを選
んだのか」
 思い付くまま、時系列順に疑問を並べてみた。
「ああ、付け加える情報があるわ。ジョエルは右足首を捻挫していた。歩くの
に足を引きずらねばならないくらいに」
「それじゃますます、自室に戻るという行動は解せないな。その捻挫は、事件
当日に負ったものかどうか判明してる?」
「当日の午前中、平気で歩いている姿を何人も目撃してる」
「ということは、やはり彼は飛び降りており、その際に右の足首に怪我を負っ
たと……」
 呟いてみたものの、信じられないでいた。いくらアクション俳優志望で、運
動神経がよかったとしても、マンション六階の高さから地面目がけて飛び降り、
捻挫一つで済むとは考えがたい。
「ジョエルの行動に関して、警察は何かコメントしているんだろうか? 公式
非公式を問わず」
「私は聞いていないわ。ブルックも多分、同じ。特に見解は持ってないんじゃ
ないかしら」
「殺人犯はアイリーンで、犯行後に事故死したという仮説を真相として押し切
るつもりなのかな。もしかすると、ブルックやエイデンに証言の撤回を要請す
るかもしれない」
「もしそうなったら、私は私の仮説を伝えるつもり。証拠はなくてもね」
「話を聞いていると、あなたの頼み事というのは、その仮説の証拠探し?」
「証拠が見付かれば言うことないけれども、無理なら、仮説の検証をお願い。
お墨付きがあれば、自信を持って話せる」
「……話しぶりを聞いていると、自信を持てない理由は、証拠がないことだけ
じゃないようですが」
「そう……かもしれない。私が疑っているのは、ブルックの友人なのだから」
「どのような推理を組み立てたのか、拝聴しましょう」
「きっかけは、ブルックの話で一箇所、引っ掛かりを覚えたところがあったこ
と。恐らく、あなたも気付いていると思う」
「もしかして……エレベーターが下りだったこと?」
 答えると、相手は我が意を得たりという風に、微笑とともに頷いた。
「よかった。合っている可能性が高まった気がする。ショックを受けて自室で
横になっていたブルックが、再び起き出してエレベーターの前に来ると、タイ
ミングよく箱が降りてきた。乗っていたのは、エイデンだけ。一階に様子を見
に行った彼女はその帰途、ブルックのいる階を飛ばして、五階か六階に足を運
んだことになるわ」
「まさか、ボタンを押し間違えたとは考えにくいので、五階か六階のどちらか、
あるいは両方に行ったのは確実でしょう。と、先に進む前に、伺いたいことが。
エレベーター内を映す防犯カメラは、設置されていないのですか」
「私も気になったから、詳しく聞いたわ。あるにはあったけれど、少し以前に
故障したきりになってた。夏期休暇に入る前々日というから、七月三十日ね。
作動中を示す赤ランプが点灯していないんじゃないかって声が上がって、翌日
に管理人が見てみたもののどうにもならず、夏休み中の修理交換を予定してい
たと聞いたわ」
「なるほど。エレベーターの稼働状況は不明と。尤も、カメラの故障がなくと
も、階段を使えば、行き来は自由のようですが。――話の腰を折ってしまいま
した。続けてください」
「ええっと、エイデンを殺人犯と仮定すると、色んな選択肢が考えられるわ。
たとえば、ベランダから飛び降りたジョエルをエイデンは六一〇号室まで運ん
だ後に殺害した、とか」
 あり得ない仮説と分かって言っているのだろう。ミドリは肩をすくめるポー
ズをした。

――続く




#469/598 ●長編    *** コメント #468 ***
★タイトル (AZA     )  14/11/21  03:07  (455)
一瞬の証拠 2  寺嶋公香
★内容                                         16/01/10 03:43 修正 第2版
「現実的には、ジョエルが六一〇号室に自力で戻ったと考えるべき。足の怪我
があるから、誰かの肩を借りる程度はあったにしても。ではベランダから飛び
降りたのは? アクション俳優志望の彼は、身体を張ったマジックを見せたん
じゃないかしら。六階の窓から飛び降りたと見せ掛け、その実、真下の部屋に
飛び込んだ、というような」
「ロープでも使ってですか」
「多分。丈夫なロープ状の物を、ベランダの柵の一本か二本に跨がらせるよう
に通し、輪っかを作るのよ。無論、“観客”――ブルックには見えないように、
下の方にね。その輪っかの一端を手首にしっかり固定し、準備完了。あとはブ
ルック達が部屋を訪ねるのを待ち、彼女らが入ってくると同時に演技を始める。
飛び降りた勢いで、五一〇号室の窓から室内に転がり込むのは可能だと思う。
あ、当然、五一〇号室の窓は前もって開放しておく。首尾よく行ったあと、ロ
ープを切って回収する。足首捻挫は誤算だった」
「地面にあった人型は?」
「恐らく、人形ね。予め設置したのか、窓から落としたのかは分からないけれ
ど、あとになって消えたのは、誰かが回収したことを示唆しているわ。ジョエ
ル自身は足首を捻挫して、一階まで往復できたか微妙よね。そこで浮上するの
が、エイデンよ。エイデンなら身体的にも時間的にも可能だわ。彼女が人形の
回収役なら、必然的にジョエルのどっきり計画を知っていたことになる」
「ジョエルが飛び降り自殺のふりをして驚かせたかったのは、ブルック一人だ
ってことになりますね。ブルックが観客になるよう、エイデンが誘導したとも
言える」
「そうなのよ」
 いよいよ意を強くした風に、ミドリは声の音量を上げた。
「ただし、エイデンには彼女だけの計画があった。ジョエルの計画を利用して、
彼を始末しようという。五一〇号室から自分の部屋である六一〇号室に戻った
ジョエルを、エイデンは待ち構え、殺した」
「アイリーンの死と、彼女の部屋である五一〇号室の窓が、前もって開けられ
ていた点の説明は?」
「想像するに、アイリーンはジョエルに謝礼するからと頼まれ、詳しい計画は
聞かされずに、部屋の使用を許可したの。事が済むまでの短い間部屋を空けて
いるだけで、それなりのお金になるのならと引き受けたんじゃないかしら。で
も、部屋に戻るのが早すぎたのが、彼女の不幸。五一〇号室は、大の男が飛び
込むために、衝撃を和らげるためにクッションの類を山のように積み重ねてい
たのかもしれない。その有様を覗き見たアイリーンは、六一〇号室に問い質し
に向かった。そこでエイデンと鉢合わせし、ニードルガンを向けられる。エイ
デンは窓際に追い詰めた相手に、一発撃つ。アイリーンは後ろ向きに転倒し柵
を越える。それを見て落ちたと判断したエイデンは、部屋を立ち去る。が、ア
イリーンは五階のベランダにしがみついていた。落ちまいと必死に頑張ったが、
やがて力尽き、墜落。幸か不幸か、この偶然により、エイデンにはアリバイが
できることになったわけね」
「……一応、辻褄は合うようです」
 僕はいくらかの驚嘆を込めて言った。
「それと同時に、証拠がないのも確か。唯一の状況証拠が、エレベーターの方
向では、いかにも脆弱」
「探偵としての感想は? 検証に耐えられないかしら?」
 ミドリは期待と不安の入り交じった目で、こちらを見つめてきた。不安の方
が多いようだ。
「僕にはまだ何とも言えません。が、現状で、別の仮説を示せるとしたら、ど
うでしょう? あなたの仮説と同じく、証拠はありませんが」
「そりゃあ……自信が揺らぎます。私の考えを警察に伝えるのは、一時保留に
なるわ」
「ふむ。とにかく、話してみます。――ミドリさんの仮説を聞いて、僕はより
シンプルな構図もあり得るのではないかと考えました。ジョエルが悪戯心から
どっきりを仕掛けたのは間違いないと思います。そうでないと、六階からの転
落で無事だった説明が付かない。彼が飛び降りた直後、ずしんという揺れがす
ぐ近くで感じられたというのは、地面ではなく、真下の部屋からだったと解釈
すれば、状況に合致しますからね。ジョエルの計画をサポートした仲間がいた
というのも、同意します。でもですね、その仲間はエイデンではないのでは? 
五一〇号室を使ったことから推して、部屋の借り主、アイリーン・サンテルこ
そが仲間ではないのか?」
「あ」
 口を丸く開けたミドリ。少し遅れて、そんな自分に気付き、慌てて手のひら
で口元を覆う。そしてくぐもった声で続ける。
「た、確かに、その可能性を探る思考が、欠落していました」
「だからといって、これが正解とは限りませんが、とりあえず、想像を完成さ
せます。アイリーンがジョエル殺害犯なら、彼女の転落死は警察の考えた通り
でしょう。ジョエルの部屋から自分の部屋にベランダ伝いに戻ろうとして、失
敗した。ニードルガンが彼女の部屋にあった謎が残りますが、棚上げさせてく
ださい。その一方で、転落した状況は明白です。ブルック達がジョエルを探し
に六一〇号室を訪れたちょうどそのとき、アイリーンはジョエルを殺害した直
後だったんでしょう。無論、犯行前にドアの鍵は内側から掛けたでしょうが、
このままではいずれ踏み込まれ、見付かる恐れがある。逃げねばと焦ったアイ
リーンは、殺したばかりのジョエルと同じ方法を採ろうと思い立つ。ロープ状
の物は、ジョエルが部屋に持ち帰っていたでしょうから、アイリーンがこの発
想に至る可能性は大いにある。あ、凶器を手放さなかったのは、追われる立場
として、護身用の武器を持っておきたかった心理が働いたのかも」
「あり得る見方だわ」
「ありがとう。そうしてアイリーンはアクロバットにぶっつけ本番で挑んだが、
凶器を部屋に放り込むだけで精一杯、無残にも失敗し、死を迎えた」
「ブルックとエイデンの行動が、アイリーンの死を呼び込んだ……」
 表情が暗くなるミドリ。ブルックに頼まれて動いている彼女にとって、この
結論はあまり好ましくないだろう。当然、反論の芽を探す。
「人形は? ジョエルがいかにも落ちたように見せ掛けるための人形は、アイ
リーンが回収した?」
「そうなりますね。エイデン犯人説よりも時間的余裕があるから、回収どころ
か始末も可能だったかもしれない」
「エイデンが降りてくるエレベーターに乗っていた件は? あれの説明が付か
ない」
「本当にジョエルを心配して一階まで降りたエイデンは、そこに彼の姿を見付
けられず、ひとまずブルックの部屋に行こうとした。だが、箱に乗り込み、四
階のボタンを押すよりも早く、六階でボタンを押した者がいたため、先に六階
に到着し、それから四階に着いた。こう考えれば筋は通りませんか。エレベー
ターのボタンを押すタイミングと停まる階の決定は、色々なアルゴリズムがあ
るとは思いますが、あり得るシステムの一つでしょう」
「……六階でボタンを押した人物って、もしかして……」
 ミドリはすでに答を知っているような、探り探りの声で聞いてきた。
「アイリーンが押した可能性は充分にある。何故なら、エレベーターの箱を六
階にとどめておくことで、わずかでも余分に時間稼ぎできるから。単純計算で
倍の時間を要する」
「犯人の心理として、あり得るのは認める。しかし、実際にはブルック達の到
着に気付かず、逃げ出せなくなったんじゃあ?」
「それは仕方なかったんでしょう。エレベーターの前に張り付いていては、殺
人を決行できない」
「ボタンを押す時間稼ぎは、ほんの気休めだった訳ね。ああ、二つの仮説を比
べると、あなたの説の方が筋が通っている気がする」
「証拠がないのをお忘れなく。僕も自信はありません。ミドリさんの説への反
証として、構築してみたまでです」
「……ねえ、呼び付けて、頼み事をしておいてなんだけど……あなたのお師匠
さんに意見を求めてみたらどうかしら」
「お師匠さんて、地天馬先生のこと?」
 ミドリが最前言ったように、僕は探偵だ。まだまだキャリアは浅い。探偵と
して実績のある地天馬鋭の指導を仰ぎ、経験を積んでいる身だが、今回のよう
に独りで調査を行うことはある。
「そうよ。私達の共通の友人、みどり――私のことじゃなくて相羽碧のことよ
――の紹介で、最初に名前が挙がったのは地天馬鋭その人だったんだし」
 僕は、相羽碧とは友人ではなく、恋人のつもりでいるのだけれど……ひょっ
とすると、相手は僕をまだ認めていないのかもしれない。推薦する探偵として、
僕ではなく、地天馬先生の名を最初に挙げたのがその証拠……。
 ――今は落ち込んでいる場合じゃなかった。僕は時計を見た。地天馬先生は
依頼を受けて、探偵活動中だ。おいそれと電話できないので、メールを送るこ
とにした。そうと決めれば、マジシャンのミドリから又聞きした事件の概要を、
なるべく簡潔にまとめて文章にしなくては。

           *           *

 今し方、事件のあらましを読み終えた。
 最初に注意しておこう。情報不足だ。さらに、又聞き故の思い違いが生じて
いる恐れがある。このような形でもたらされた話では、真相に辿り着くのが困
難であることは、誰にとっても明白だろう。
 その上で、敢えて判断するなら、少なくとも君の仮説は、正解の可能性が薄
いのではないかと思う。
 何故なら、アイリーン・サンテルがミステリに詳しく、アイディアの創出に
も優れているとあったからだ。そんな彼女がジョエル・キーガンの悪戯を利用
して、彼の殺害を計画するのなら、ジョエルが自室に密かに戻ったところを襲
うなどという手段を採らずとも、もっとよい方法があると気付くのではないか。
いや、気付いてしかるべき、思い付かないはずがないとすら思える。
 その方法とは、五一〇号室のベランダの柵に、少しの障害物を設置すること
だ。ジョエルは悪戯を実行する前に、数度のリハーサルを経て自信を深めてい
ただろう。しかし、本番当日、ベランダの高さが僅かに高くなっていたとした
ら? ロープの反動で部屋に飛び込むつもりが、その僅かな差により失敗、地
面まで転落する。こうなれば、彼の死は彼自身の愚行と不注意が招いた事故と
見なされるに違いない。ついでに付け足すなら、五一〇号室が事故に関係して
いることも隠されたままだ。アイリーンにとって理想的な殺人手段なのに、ミ
ステリ好きの人物がこれを見逃すとは考えられない。
 さらに、一歩退いて事件を俯瞰してみよう。犯人はジョエルが六一〇号室に
戻ったところを殺害しているが、その理由は何か? 悪戯を仕掛けた直後の彼
を殺すことが、犯人にとってどんなメリットになるのか。現段階で得られた情
報から判断する限り、エイデン・ダグズ犯人説も疑わしいと思う。エイデンに
はそんな殺害方法を採るメリットがない。アイリーンに罪を着せようとした? 
それは結果論であって、計画されてはいない。
 とにかく、情報不足だ。君にしろミドリ嬢にしろ、関係者を限定しすぎでは
ないか? 事件発生当時、学生マンションにはブルック・セラーとエイデンと
ジョエルとアイリーン以外に、誰もいなかったのか? この基本的な点を押さ
えずして、先には進めないよ。
 他に、今の時点で優先して調べるべき事柄を挙げるとしたら、エイデンを問
い質すことだ。ジョエルが悪戯を計画し、エイデンが協力したのかどうか。始
めは口が堅いかもしれないが、こちら側が真相究明に真剣であること、彼女の
味方であることを示せば、彼女が殺人犯でない限り、打ち明けてもらえるだろ
う。
 優先事項はまだある。アイリーンの動向だ。当日、アイリーンはどうしてい
たのか。確かに五一〇号室を空けていたのか。その時間帯は?

 君に伝えるべきことはまだある気がしてならないが、時間がなくなった。
 収集すべき情報は多いが、段階を踏むことで道は開ける。健闘を祈る。

           *           *

 ハーイ、お元気?
 今はグリュン・ロウを名乗っているミドリ・ドミートリよ。記述の勉強野の
成果を計測するために、日本語でメールを書きます。よろしく。
 まず、私の近況を。面倒ごとが片付いて、本名で活動できる見込みが立った
わ。いずれまた日本でも公演を行う日が来ると思うから、そのときはぜひいら
してね。お師匠の地天馬鋭さんもご一緒に、招待しますわ。

 ここからは事件のこと。
 再びアメリカ合衆国に渡り、ブルック達関係者と会う機会を得たので、あな
たからのアドバイスに従い、情報を収集してみたです。
 エイデンはジョエルのどっきり計画に荷担していたことを認めました。これ
まで打ち明けなかったのは、打ち明けることで自分自身が疑われるのを恐れた
と語っています。
 彼女の証言では、アイリーンにも計画の一端を話していました。「スタント
の練習をしたいから、二日間、それぞれ一時間から二時間ほど、部屋を使わせ
てくれないか。報酬はこのくらいで」と持ち掛けると、最初は渋ったアイリー
ンですが、同性のエイデンが口添えしたのと、労働対価による報酬の上乗せに
より、承諾に至った模様です。なお、二日の内の一日は、予行演習に費やすた
めで、七月三十一日、アイリーンが夏休み前最後の講義を受けているときを当
てたとの話です。
 アイリーンは事件の起きた当日、駅を挟んでマンションと反対側にあるショ
ッピングタウンへと出掛けていました。地天馬さんの意見では、アイリーンの
犯行はほぼ否定されていますが、念のためにアリバイ確認してみました。彼女
はそこそこ目撃されていましたが、特に記憶していたのは、馴染みの古書店で
す。ミステリの品揃えが豊富なその店は、アイリーン行き付けで、店主とも親
しいようでした。その店主が、彼女の来店を証言しました。もしかすると他の
日と思い違いしている可能性を考慮し、間違いないかと尋ねると、店主は胸を
張って答えたものです。「あとであの子が転落死したと聞いたから、印象に残
っている。その上、あの日は模造紙をあげたから鮮明に記憶しているよ」と。
もう少し詳しい事情を聞くと、アイリーンは店内を回る最中にアイディアが浮
かんだ様子で、最初は小さな手帳にメモをしていたが、足りなくなって、店主
に大きな紙はないかと相談した次第でした。どうやら、図を描きたくて、手帳
ではなく、大きな紙が必要になったみたいです。ともかく、アイリーンが出掛
けていたことは間違いないです。
 それから……ジョエルとエイデンは、五一〇号室を正午から午後一時半まで
の約束で借りたと言います。
 エイデンの言によると、ジョエルの計画は極めてシンプルです。驚かす対象
はブルック一人で、エイデンは彼女をうまくだまされるように誘導する役割を
負っていました。実際、うまくやったと思うです。エイデンの誘導により、ブ
ルックは六一〇号室まで様子を見に行き、ジョエルの芝居を目の当たりにし、
またブルックの誘導で自分の部屋に戻って休むことになったんですから。
 ブルックを自室に引っ込めさせるのに成功したエイデンは、その後、すぐに
一階に降りて実物大の人形を回収、さらに分解することでがらくたに見せ掛け、
周囲に放置したらしいです。彼らが用意した人形は、木ぎれやバケツ、毛糸な
どの寄せ集めで、服もぼろぼろだったそうです。案外だませるものだと感心し
ました(これはマジシャンとしての感想)。
 それからエイデンは、五一〇号室に行きました。ジョエルの首尾を見るため
です。そこで彼女はジョエルが足首を捻挫したと知ります。しかしどっきりの
ために、六一〇号室に行かねばなりません。エイデンはジョエルに肩を貸し、
六一〇号室まで付き添いました。そこからブルックの部屋に向かったのですが、
ちょうどブルックもエレベーターに乗ろうとしていたため、鉢合わせする形に
なったです。エレベーターが六階から降りて来たのは、このせいでした。ブル
ックはそれに気付かず、計画は続行されることになります。エイデンがブルッ
クを再び六一〇号室に連れて行ったのは予定通りであるけれども、ジョエルの
捻挫が気になってもいたみたいです。
 このような心理状態で、ドアをノックし、呼び掛けたところ、全くの無反応
だったため、エイデンは酷く狼狽しました。その後、アイリーンが転落死した
だけでもショックを受けたのに、さらにジョエルが殺されたため、どっきり計
画についてとても打ち明けられなくなったと言っていました。
 エイデンは犯行を否定しています。

 事件当日、学生マンションにいた人間ですが、ブルックを始めとする四人の
他に、里帰りしていなかった学生はちょうど十名いたと判明しました。内、過
半数の六名に関して、三名は一室に集って入り浸り、他の三名は外出中などで
アリバイを確認済み。
 残りの四人の内、二人は恋人同士で、互いのアリバイを証言しています。こ
の二人はジョエル、アイリーン、エイデン、ブルックの誰とも接点がなく、事
件とは無関係と見なしてよいかもしれません。
 最後の二人には、ジョエルとの接点がありました。より強い表現をすれば、
殺害の動機らしきものがあるです。一人はマニー・サンチャゴという陽気だが、
奇矯な男子学生で、グラフィック専攻です。インスピレーションが湧くのに最
適だという理由で、六一〇号室へ入りたがっていました。ジョエルに再三、換
わってくれと交渉するも、その都度退けられ、逆恨みしていたようです。
 今一人は俳優志望の女子学生で、メリル・リップスといいます。メリルは同
性愛者であることを公言し、エイデンにアプローチを掛け、彼女の身の回りの
世話を焼くまでになったが、告白は失敗に終わり、以来、エイデンと仲良くす
る男性を嫉妬するようになったと聞きました。彼女にとって、どっきり計画を
エイデンと一緒に進めるジョエルも、嫉妬の対象に入ったのは間違いないです。
 今判明したのは以上です。しばらく滞在しますから、早めに指示をもらえれ
ばその通りに行動しますと、地天馬さんにお伝えくださいませ。

           *           *

 ミドリ・ドミートリことグリュン・ロウは、今日に限って、魔法使いではな
く、名探偵を演じることになった。立つのもいつものステージと違って、事件
の起きた学生マンションのロビー。格好だけは、いつものステージ衣装そのま
まの、緑の魔法使いに扮している。
 地天馬の手回しにより、地元警察の許可を得た。担当刑事同席の下、関係者
を集め、これより推理を伝える。ミドリが独力で考えたものではないが、地天
馬達から役目を託されたからには、精一杯い演じきらねばならない。
「このような場を作ってくださった警察の方、呼び掛けに応じて集まってくだ
さった関係者の皆さんに、感謝を申し上げます。さあ、手短に参りましょう。
まず、刑事のヤングさん、盗聴器の類は発見されませんでしたね?」
「なかったよ」
 浅黒い肌をした中年男性が、腰の両サイドに手を当て、斜め下を向いたまま
素っ気なく答えた。髪に白い物が混じる彼は、ベテランらしく、気のない態度
で続けた。
「あんたに言われた通り、被害者ジョエル・キーガン、アイリーン・サンテル、
エイデン・ダグズ、ブルック・セラーの各部屋を徹底的に調べた。結果は空振
りだった」
「念押ししますけれど、急いで取り外したような痕跡も皆無と」
「ああ、皆無だ」
 刑事はぶっきらぼうな態度だが、実はミドリとの間で事前に話が通じている。
推理を伝え、納得してもらっているからこそ、一芝居打つことにも協力を得ら
れた。
「盗聴行為が行われていなかったことで、犯人に関するある条件が確定するの
です。犯人は明らかに、ジョエルのどっきりに合わせて、犯行を計画し、実行
しています。そうすることで、どっきりの片棒を担いだ人物に容疑を向けさせ
る、あわよくばそのまま罪を被ってもらおうとの魂胆だったのでしょうね。こ
こで思い起こしてください、ジョエルのどっきり計画は秘密裏に進められた。
事前に知っていたのは、ジョエル本人以外ではエイデンとアイリーンの二人。
アイリーンに至っては、計画の細部は知らされていなかったと考えられます。
エイデンの証言では、ジョエルからきつく口止めされていたとのことなので、
アイリーンも同様だったはず。そして、エイデンは誰にも漏らしていない。ア
イリーンに関しては確証はありませんが、仮に漏らしていたとしても、詳細を
知らないのだから、聞いた方もどっきりが行われるとは予想し得ません。せい
ぜい、ジョエルがスタントやアクションの練習をするのかなと思うくらいでし
ょう。にもかかわらず、犯人は知ることができた。一体、どうやって」
 言葉を句切ると、ミドリは場の全員を見渡した。集まっているのは、エイデ
ンにブルック、マニー・サンチャゴ、メリル・リップス、そして刑事数人とマ
ンション管理人だ。ミドリは両手を胸の前に持って来ると、それぞれ指をそっ
と合わせ、静かに告げた。
「想像の翼を広げると、ある可能性を見出せました。リハーサルを目撃したの
では?と」
 少しどよめきが起きる。波紋が広がる。マジックショーと似た感覚があった。
「リハーサルを目撃しただけで、悪戯を計画していると察せるものかね?」
 ヤング刑事が質問を挟む。実のところ、合いの手のようなものだ。
「詳細を掴むのは難しいと思いますわ。でも、ジョエル・キーガンが人をだま
して驚かそうとしているんだとは、すぐに分かるはずです。恐らく犯人は最初、
マンションの外から見掛けたんでしょう。これは危ない、注意しなければと考
えたかもしれません。あるいは、何をやってるのか聞いてやろう、と思ったか。
とにかく、問題の部屋まで足を運んだ。そこで初めて、アクロバティックな動
きをしていたのがジョエル・キーガンだと気付く。犯人はジョエルに秘めたる
殺意を持っていた。これはチャンスだと直感したんじゃないかしら。身を隠し、
物陰から様子を窺うことで、ジョエルのどっきりの全体像を掴んだ。さて、そ
の後、犯人は何をしたでしょう?」
 聴衆に問い掛けるミドリ。返事はなかったが、織り込み済みだ。
「アイリーンに尋ねたに違いありません。『次に留守にするのはいつ?』と。
こんなストレートな質問ではなく、帰省の話に絡めてそれとなく聞いたんでし
ょうけれどね。そして首尾よく、八月三日午後という答を引き出した」
 ミドリは息を吐き、間を取った。このあと容疑者について言及する。人を疑
うという行為は、あまり気持ちのよいものでない。緊張を覚えた。落ち着こう
と、少し砕けた口調になる。
「あら、少し先走ってしまったわ。学生マンションでのジョエルのリハーサル
を目撃し得た、これが犯人の条件です。事件当日、マンションにいた人物で該
当する者がいるか、調べました」
 警察の当初の見解及びミドリによる予備調査で、ジョエル殺害の容疑は、墜
死したアイリーン・サンテル、エイデン・ダグズ、マニー・サンチャゴ、メリ
ル・リップスの四人であることは、すでに伝えられている。だが、実質的に、
アイリーンとエイデンへの疑いは、トリックを弄する意味がないとの理屈で、
ほぼ晴れている。マニーとメリルには、トリックを使うことでエイデンに罪を
着せられるという理由が想定できる。二人の内、七月末日のリハーサルを目撃
するチャンスのあった者がいるのかどうか。
「結果は、意外でした。私が怪しいんじゃないかと睨んでいた、サンチャゴさ
んとリップスさんには、立派なアリバイがあると分かったんです。それぞれ、
必修の講義に出席していた。サンチャゴさんは課題を提出しているし、リップ
スさんに至っては与えられたテーマで、演技をしている。絶対確実なアリバイ
成立と言えます」
 あからさまにほっとするサンチャゴと、口元を緩めるだけのリップス。とも
に安堵したのはよく分かった。
「おやおや。では、犯人は誰だ? 煙みたいに消えたのか、それとも我々の最
初の方針が合っていたのかい?」
 ヤング刑事の合いの手に、ミドリは目配せを返した。万が一、犯人が逃亡を
図ったときも、素早く対応できるよう、外には相応の人員を配している。
「当てが外れ、私も焦りましたわ。しかし、一からやり直す必要はなかったん
です。ほんのちょっと、見方を変えると、別の容疑者が闇から浮かび上がった
んですから」
「闇?」
 誰ともなしに、おうむ返しが。
「全くの盲点だった、というニュアンスね。普段はマンションにいないが、七
月末、つまり三十一日には、確実にマンションを訪れた人がいると気付いたと
き、光が差し込んできたんです」
「七月三十一日って、もしかして――」
 ブルックが口を開いた。ミドリは親しい友人からの言葉をそのまま受け入れ、
先を促した。
「――防犯カメラの具合を見に、管理人さんが来た日だけれど……」
 彼女の台詞をきっかけにして、関係者の目が一人の人物に向けられた。
「私、ですか?」
 管理人は上擦った声で言い、自らを指差していた。ミドリは、写真でしか見
たことがなかったが、こうして実物を目の当たりにすると、色白で清潔感があ
り、なかなかの二枚目だと分かる。年齢は四十七と聞いたが、十近く若く見える。
「はい、あなたです」
 ミドリはそっくりそのまま返し、微笑みかけた。
「条件に合うのは、あなたしかいません。リハーサルを目撃できて、このマン
ションに自由に出入り可能で、入居者と接点がある。事件当日、犯行時間帯の
アリバイもないみたいですね。ブルックからの電話に出られなかったのは、犯
行の最中だったから?」
「……条件に合うのは認めざるを得ないが、何故、私がジョエル・キーガン君
を殺めなくちゃいけないんです?」
「動機は知りません。警察があとから調べれば済む話ですわ」
 人をくったミドリの物言いに驚いたのか、管理人は目をぱちくりさせた。そ
の驚きが去ると、微かに笑った。
「それなら、証拠を出してみなさい。状況証拠なんかではなく、もっと強力な
物証でもあれば、私も警察まで足を運びますよ。だが、今のままじゃあ、拒否
する。警察だって、せいぜい任意同行止まりだ」
 管理人とヤングら警察関係者の視線が交錯した。
「甘く見てもらっては困る。現時点でも、その気になれば引っ張れるぞ」
 ヤング刑事は、台詞の中身とは裏腹に、明るく気軽い口ぶりで述べた。表情
も笑顔だ。
「幸い、今夏の事件はそんな真似をしなくても済んだ。秘密にしていたが、前
もって、ある場所を調べ直した結果、証拠が見付かった」
「ばかばかしい。鎌を掛けても無駄だと言っておく」
 強気を通す管理人に、ヤング刑事は「やれやれ」と大きく息を吐いた。
「こちらの手品師のお嬢さんにやり込められて、俺は虫の居所が悪い。今の内
に認めておいた方が、身のためだが、飽くまで否定するんだな?」
「も、もちろんだ」
「ではやむを得ん。――ここに鑑定報告書がある」
 部下らしき白人刑事に、身振りで合図するヤング。紙切れを受け取ると、確
かめるように一瞥した。
「犯行現場と推定される六一〇号室及び五一〇号室から、あんたの指紋が山ほ
ど出た。どう言い訳するね?」
「――ばかなのか、警察は」
 失笑をすんでの所で堪えたのか、顔を歪めて悪態をつく管理人。
「私は管理人だぞ。各部屋に私の指紋があったところで、全く不思議ではない。
逆に、私がよく働いている証じゃないかな。ははは」
 言い終わる前に、管理人はとうとう笑い出してしまった。ミドリはそこへ被
せて、ふふふと笑い声を立てた。
「何がおかしいんだ」
「普通の状況なら、あなたの主張は尤もですわ。でも、偶然頼みの犯行には、
どこかに大きな落とし穴が開く。幸運な偶然には、不運な偶然が似合うの」
「一体どんな……」
 ミドリの自信あふれる語りに、管理人はとうとう動揺を垣間見せた。ここぞ
とばかり、畳み掛ける。
「犯人であるあなたは六一〇号室から五一〇号室に逃げ込んだとき、折悪しく
戻って来たアイリーンと鉢合わせし、殺すに至った。その際、もみ合いになり、
室内は元に比べると多少散らかったわね。あなたは指紋なんて付いていて当た
り前だから、凶器さえ拭っておけば、あとは証拠にならないと踏んでたんでし
ょう。けれど、指紋が付くはずがない物にまで付いたとしたら?」
「……」
「アイリーンはあの日、部屋を空けている間、古書店に寄っていた。そこにい
るとき、突如、アイディアが閃いた。当然、メモを取る。それだけでは足りず、
親しい店長に模造紙をもらっているのよ。閃いたアイディアというのが、図を
必要とするものだったから、メモ帳のスペースじゃ不充分だったわけね」
「それがどうした?」
「まだ分からない? 自室に戻ったアイリーンは、折り畳んだ模造紙を小脇に
抱えていたはず。犯人は彼女ともみ合ったとき、その紙に指紋を残した。当日
になって思い浮かんだアイディアの書かれた、当日、古書店でもらった模造紙
に、あなたの指紋が付くとしたら、それは犯行時としか考えられない」
「あ……」
「言い逃れるために、あの日、マンションにはいなかったという証言を翻すか
しら? 『実はマンションにいて、偶々帰ってきたアイリーンと顔を合わせ、
模造紙に触らせてもらった』とでも。それはそれで、疑うに充分な翻意と見な
されるだけでしょうけれど」
 逃げ道を塞ぐ速攻が決まった。管理人はがっくりとうなだれた。まるで、映
画によくあるシーンの如く。

           *           *

 二人は公園のベンチに横並びに座っていた。秋を感じさせる風が吹き始めた
日の昼下がり、のんびりとした空気と時間の中。
「どうだった?」
 相羽碧は好奇心を隠さずに、探偵の彼に聞いた。
「全然、だめだった」
 答える声は、落ち込んでいるのに無理に明るくしようと努めている。アクセ
ントと響き具合でよく分かる。
「え、そうなんだ? 無事に解決したと、ロウから聞いてるんだけれど、彼女
か私の思い違いかしら」
「解決したのは僕じゃない。グリュン・ロウの行動力と、的確なアドバイスを
送った地天馬先生のおかげ」
「そんなに落ち込まないでよ。ロウは感謝してたわ」
「地天馬先生に、でしょ」
 碧の励ましに多少は気分が戻ったのか、彼は口を尖らせ、ふてくされてみせ
た。飽くまでポーズだ。長い付き合いだから、手に取るように分かる。
「あなたにも感謝してる。誤った推理を披露して、友達を失望させなくて済ん
だって」
「……そういう見方もできるか」
 つぶやき、それから横を向き、碧と顔を見合わせる。
「気遣ってくれてるんだろうけど、フォローできるロウさんて、いい人だな」
「私から言わせると、今さら、だよ。もっと前から、いい人だと気付かなきゃ」
「いや、あのきつい日本語喋りでは、なかなか……」
「あれが魅力の一つじゃないの。それで、このあとは?」
 碧は話題を戻した。
「このあとって、今日これからどうするかってこと?」
「それもある。他にも二つあるわ。まず、あなたの次の仕事、どんなのかな」
「まだ決定じゃないけれど、先生の手伝いになると思う。もう一つは?」
「うん。あなたの将来も気になるかなって」
 碧の囁き台詞に、相手の彼は目の下を赤くした。
「こ、答えるまでもないだろ」
 再び、顔を前に向けた。まっすぐ前を見つめたまま、続けて答える。
「碧さんが思い描くような名探偵には、まだまだ近付けていない。だから……
何も言えないよ」
「そっか」
 碧は両足で反動をつけ、ベンチから立ち上がった。くるりと向きを換え、彼
の正面に立つ。真顔に少しの笑みを加え、それから気持ちをしっかりと伝えた。
「分かった。待ってる」

――おわり




#470/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/06/30  20:44  (297)
ペトロの船出 <上>   永山
★内容
 事件は拳銃自殺で片が付く気配が濃かった。
 食品会社社長の男、ノッド・シャウスキーは、社長室のデスクにでんと収ま
ったまま、こめかみから血を流して死んでいた。遺書こそなかったが、自ら命
を絶つ理由は、誰もが推測できた。老舗の菓子メーカーは、二代目となるシャ
ウスキーが継いだあとも好業績を維持していたが、ここ一年で、製品への異物
混入問題を発端に、材料に関する虚偽や疑惑まで持ち上がり、経営状態は一気
に悪化していた。責任は、対応を誤った社長にあるとの見方が、世間一般に広
まった。その矢先の死。捜査員達が自殺を念頭に置くのは、当然だろう。
 それだけではない。遺体発見当日――それはノッド・シャウスキーが死んだ
日でもある――、社長室に出入りした者は一人しかいない。社長自身である。
社長室に通じる小部屋で受付をこなす秘書および守衛それぞれの証言に、食い
違いはなかった。午前十時ちょうどに社長室にシャウスキーが入ってから、正
午半過ぎに遺体となって発見されるまで、誰も訪れなかったし、誰も出て来な
かった、と。
 しかし――サン・ルバルカンは殺人現場を十分程度観察しただけで、いきな
り言った。
「今日、この部屋にノッド・シャウスキー以外の誰も足を踏み入れていないと
いうのは、疑わしい」
「……まさか、自殺ではないと? 何を根拠に、そう考えるんだね」
 ブラウベ・フィエリオが、鼻の下の立派な髭をしごきながら問うた。肩幅が
広く背の高い彼は、貫禄充分な地元警察の署長である。国王ワムズ・フィエリ
オの近親者で、王からも民からも信頼が厚い。いずれ警察のトップに立つ人物
と目されている。そのブラウベ署長が、民間の探偵であるサン・ルバルカンを、
捜査の現場に立ち会わせるのは、署長がルバルカンの能力を買ってるためだ。
難事件や世間への影響が大きい事件には、ときに部署の領域を超えてでも、ル
バルカンを介入させるほどだ。
 そんなブラウベ署長も、今回は形ばかりの名探偵出馬になるはずと思ってい
たに違いない。ルバルカンが疑問を呈したことに、意外感を隠さず、目を何度
もしばたたかせている。
「シャウスキー社長は、自社製品のキャンディ『フェアリナス』が大好物で、
日頃からよく口にしていたと聞いたので」
「ああ、それは事実だ。いくら食べても健康を保っていられるというアピール
でもあったようだが、日に二、三十個は食べていたらしいね。それがどうかし
たのかな」
「デスクのすぐそばにあるごみ箱に、フェアリナスの個包装が、いくつも捨て
てある。掃除は毎日終業後に行われているというから、ここに入っている分は
全て今日食べたと見なせる。ところで、私は面白くも興味深い点に気が付きま
した。この十はありそうな包装の一つだけが、他と違うことに」
 言いながら、デスクに新聞紙を広げ、その上にごみを撒くルバルカン。キャ
ンディの個包装以外には、何もない。
「違いがあると言われても、分からん。私には、どれも同じキャンディの包み
紙に見えるね」
「署長、紙ではありません、個包装です」
「ふむ。それが重要なことなのかね?」
「間接的には。恐らく、包み紙であったならば、個体差は出なかった可能性が
高い」
「個体差……もしかすると、破き方が違うと言うのですか」
 少し興奮したように、署長が言った。彼もなかなか察しがよい。
「はい。今数えたところ、開封済みの個包装は、十一あります。その内の十ま
では、包装の右もしくは左肩を捻るようにして破いてある。ところが、残る一
つは、そうじゃない。丁寧に、両サイドから引っ張るようにして、開封されて
いる」
 なるほど、ルバルカンの言葉の通りだ。彼が指で示した“例外”の個包装は、
袋の形状を保っている。
「これは興味深い。シャウスキーがこれ一つだけ、丁寧に開けるとは考えにく
いという理屈だね」
「ええ。これが逆だったなら、まだあり得るかもしれません。普段は丁寧に開
けている人が、何かのきっかけで乱暴に開ける可能性は充分にある。しかし、
普段、適当に開けている人が、丁寧に開けるようなことはまずないでしょう。
特に、会社や自身の進退問題に頭を痛めている人物が」
「なるほど。ということは、部屋に入った人物がおり、そいつがシャウスキー
を自殺に見せ掛けて殺した、という目が生じる。犯人は社長を油断させるため
か、シャウスキーに勧められるままキャンディをもらい、いつものように丁寧
に開けた。そのごみはシャウスキーが受け取って捨てたか、犯人自身の手で捨
てられたかは分からないが、とにかくごみ箱に捨てられた。その後、訪問者は
犯行を成し遂げ、遺体の状況を自殺らしく偽装したが、ごみにまでは注意が行
き届かなかった……」
「無論、他のケースも想定はできます。たまたま、昨日の来客の中に、丁寧に
開封した者がおり、しかもたまたま掃除に手抜かりがあって残ったのかもしれ
ない。シャウスキー社長が自殺前に神妙な心持ちになって、人生最後のキャン
ディを丁寧に開けて味わったのかもしれない。偶然にも、中身の入っていない、
片方の口が開いた個包装だけの不良品が社長のキャンディに紛れ込み、それを
手に取った社長がごみ箱に捨てただけかもしれない」
「いずれも、蓋然性は低い。本件は殺人で、丁寧に開けられた個包装は、犯人
の遺留品であると見なす方が、ずっと理に適っているね。すると、秘書と守衛
の証言はどうなるんだろう? 怪しむべきは彼らと言うことかな」
「現時点で殺人犯であると断定できないまでも、何らかの理由で二人が揃って
嘘の証言をしたのは確かだと考えます」
「私も同意する。――よし、二人から改めて話を聴くんだ。今度は少々、厳し
くな」
 部下に命を飛ばすブラウベ署長。個包装を詳細に調べるようにとも告げた。
「今日のところは、これで私の役目も終わりということで」
 ルバルカンは署長に対しそう言うと、コートの両サイドにあるポケットに手
を突っ込み、首をすくめるようにして出て行こうとする。
「うむ、ありがとう。今回も助けられたよ。礼を弾むように言っておくので、
遠慮せずに受け取ってくれたまえ」
「それはどうも。ただ、報酬は結果が出てからでかまいやしません」
 ぼそぼそ声で応じて、退出して行く。謎が解けると、この名探偵は途端にぼ
んやりして、覇気をなくす傾向がある。見た目まで変わるはずはないのだが、
鼻筋の通った二枚目の青年から、老成した中年男にランクダウンするような雰
囲気さえあった。
「また何かあったら、頼むことになるが、いいかね」
 署長が一際大きな声を張り上げ、尋ねると、ルバルカンも疲労感のまとわり
ついた声ではあったが、「そんな大事件が起きないことを願う立場でしょう、
私もブラウベ署長も」と返事した。

 名探偵や優秀な警察署長の願いも虚しく、大事件はまた起きた。
 しかも、それはルバルカンにとって、今までに解決してきた数々の事件とは
様相を異にする、特殊なケースであった。
「――だから、何度も言っているように、私はやっていない」
 サン・ルバルカンは、机を挟み、刑事に訴えた。取調室は充分に広く、直接
聴取する刑事が二人に加え、記録役が少し離れた小机でタイプを打つ。
「最低限、状況を教えてもらえぬ限り、それしか言いようがない」
「ほう、そうですか。あなたのような名探偵の頭脳を持ってしても、この嫌疑
は晴らせぬと」
 取り調べを主導する古株刑事の名は、アブドレ・コンチオーネという。ルバ
ルカンも同じ捜査に加わったことがあるが、その当時から嫌われてた節がある。
コンチオーネは受け持つ地域は離れているが、ブラウベ・フィエリオとも面識
があり、両者はそりが合わぬ訳ではない。ただ、民間人を捜査に加わらせるこ
とについては、前々から反発していた。
「いつものように、捜査に立ち会わせてもらえるのであれば、私への疑いを晴
らし、真実を掴めるかもしれない。現状では無理だと言っている」
「容疑者であるあなたに、そんな便宜を図れるはずがない。少なくとも、私の
一存ではな。ブラウベ・フィエリオ署長を呼んでやろうか」
「……ブラウベ署長に、こちらから連絡を取るつもりはない。迷惑を掛けるこ
とになる」
「立派な心がけだ。ま、この件があの人の耳に入るのも時間の問題だろう。だ
が、そのときまでは、私流のやり方で通させてもらう。あとで告げ口でも何で
もしてくれ」
「……それが職務と信じているのなら、仕方がない。私は告げ口などしないよ」
「ますます結構。だいたい、事件の概要を知れば、署長だって匙を投げるはず
だ。ルバルカン、あんたの置かれた立場は、殺人犯以外の何ものでもない」
 コンチオーネの言葉が荒っぽさを帯び出した。
 ただ、公平に言って、彼の主張にはうなずけるところがあった。
 被害者はアニータ・ヨーステットという女性で、サン・ルバルカンの元助手
にして元妻でもある。離婚は四年ほど前で、二人の間に子供はない。ルバルカ
ンが今の職業を続ける限り、家族を危険に晒すとの理由で別れたとされる。離
婚後も交流は僅かながらあったが、ほとんどは葉書のやり取りで、顔を合わせ
ることは年に一度もなかったという。
 そんな関係だから、殺人の動機があるとは言い切れないのだが、遺体の発見
されたときの状況が、ルバルカンにとって不利に働いた。
 何せ、ルバルカンは元妻の遺体の横で、目覚めたのだから。彼自身の証言に
寄れば、夏の休暇を取り、避暑地の別荘を借りて十日ほどを過ごす予定を立て
た。同行者なし、一人で骨休めするつもりだった。避暑地に着いてから、同じ
ように休暇を楽しむ人々と言葉を交わすことはあっても、さほど深く知り合う
訳でもなく、のんびりとすごしていた。が、四日目の朝、事件が起きた。目覚
めたとき、ベッドのすぐ横の床に、アニータが俯せに倒れ、絶命していたとい
う。
 死因は分からなかったが、彼女の死亡を確認したルバルカンは、冷静に振る
舞った。まず、現地の警察に通報をしようとしたが、外界との接触を断つため、
わざわざ電話のない別荘を選んだことを思い出す。外に出て車を拾うか、近所
の別荘に電話があるのなら、借りるとしよう。そこまで考え、行動を起こし始
めたとき、ルバルカンは異変に気付いた。
 別荘全体が密室になっている?
 ドアといい窓といい、別荘内と外とをつなぐあらゆる出入り口が、内側から
ロックされていたのだ。借りる手続きをした際に渡されたキーは、二本とも手
元にある。簡単には複製できない代物だと聞いたし、そもそもキーホルダーか
ら外されたような痕跡は見当たらなかった。
 ここでルバルカンが狡賢く、どこか一箇所でいいから鍵を開けておけば、彼
が殺人容疑で即座に逮捕されることはなかったかもしれない。それだけの事件
解決実績が、彼にはあった。
 だがしかし、名探偵は――本人の主張を信じるなら――飽くまで正義の人で
あり、現場保存に努めた。
 ともかく、ルバルカンの通報により、アニータ殺しの捜査が始まった。
 警察は現場が密室状態であることをいち早く確かめ、引き留めておいたルバ
ルカンを、限りなく犯人に近い重要参考人と見なし、事情聴取に取り掛かった。
 ルバルカンは、短期間の内に合鍵が作成された可能性を指摘したが、警察の
捜査ではそれらしき鍵を持ち込んだ者は、近隣の業者にはいなかった。
「そもそも、あんたは前夜、寝床に入る前に、戸締まりをしっかりしたんだろ
う? 合鍵を作ろうにも、まず鍵を手に入れるのが大変じゃないか。戸締まり
をものともしない輩が犯人なら、合鍵を作る必要もないだろうしな」
「ピッキングで開けたのかもしれない」
「それはない。名探偵なら知っての通り、鍵穴の内部に傷一つ、擦れた痕一つ
残さないでピッキングするのは不可能だ。そして現場の別荘の鍵に、いじった
形跡はなかったんだよ」
「……無闇に人を疑いたくはないが、別荘の管理会社の関係者なら、もう一つ、
マスターキー的な物を保管しているのでは?」
「確かにそうだが、あの別荘の管理会社はしっかりしていて、キーを無断では
持ち出せない。申請書と許可のサインが必要だ。複数、確か五人のチェックが
入るので、だまくらかして持ち出すこともまあ無理だな。チェックする五人全
員がぐるなら、話は別だが」
「貸別荘なのだから、私より以前に借りた人物が数名いるはず。そのときに鍵
を密かにコピーした者がいるかもしれない。そいつが、何らかの理由で私を陥
れようとしている、という線はどうだろうか」
「よく捻り出したもんだと拍手してやってもいいが、だめだね。その説は成り
立たん。鍵は、シーズンが終わる度に、総取っ替えするんだとさ。新しい鍵と
交換することで、あんたが今言ったような合鍵をこっそり作る輩による悪巧み
を防ぎ、安全性を確保するって訳だ」
 密室に関して八方塞がりになったルバルカンは、別の角度からも証拠を突き
つけられる。凶器である。
 検死の結果、アニータ・ヨーステットの死因は、ブラキッドなる毒物による
ものと判明した。即効性に優れたブラキッドは、一般人は無論のこと、専門家
でもなかなか入手困難な代物で、仮に入手できたとしても確実に記録が残る。
ルバルカンは昔、ブラキッド絡みの事件をいくつか解決しているが、そのとき
に犯人が使い残したブラキッドをくすね、密かに所有することは可能と見なさ
れた。
「被害者は別れた奥さん、アリバイなし、現場は密室であんた以外誰も出入り
できない、入手困難な毒物を手に入れられる立場にあった。これだけ揃ってい
れば、誰だってあんたが犯人だと思うさ。あんた自身もそうじゃないのか、え
え?」
「眠っているときのことまで、完全に責任を持てと言われれば、それは誰にも
不可能だろう。もしかすると夢遊病患者のように、無意識の内に行動している
かもしれない。だが、借りた別荘に昔の妻を呼んだり、毒を準備したりとなる
と、あり得ない。私は殺していない」
「だ・か・ら、計画的にやったんじゃないのかってことだよ」
「もし仮に私がブラキッドを使って殺人を犯すなら、通報をもっと遅くする。
個体差は多少あるだろうが、ブラキッドという毒は、二日から三日で体内から
消える性質がある。消えるのを待ってから届け出れば、病死や突然死で済むこ
とが期待できる」
「そりゃあ理屈だが……奥さんの健康状態や年齢を考えれば、病死や突然死で
は不自然だ。最初からブラキッドが使われた前提で調べれば、三日経っていよ
うが、検出は不可能ではないと聞くぞ。それを知っていた名探偵殿は、敢えて
早めに通報したんじゃないか? 夏場、いかに避暑地といえども、遺体の保管
は一苦労に違いないしな」
「私が借りた別荘は、冷房が完備され、地下室もある。言っても詮無きことだ
が」
「なあ、ルバルカン。そこまで否定するなら、聞いてやる。自分はやってない
と主張するだけでなしに、他に心当たりはないのか。アニータ・ヨーステット
を殺害しそうな輩に」
「いなくはない。想定される大半は、私に刑務所送りにされた犯罪者の逆恨み
だが、そうなるのを避ける意味で別れたんだ」
「大半じゃない方を聞かせてくれ」
「……彼女と結婚すると決めたとき、ひどく取り乱した者が二人いた。一人は、
かつての依頼人で、レリー・カルマン嬢。交際を申し込まれたのだが、断った
経緯がある。もう一人は当時、私の助手をしていたカーギュラー少年。正直言
って、あのときのカーギュラー君の心理を正確には量りかねるが、想像するに、
私を父親のような存在と見ており、その父親が別の女と結婚する、と解釈した
のかもしれない」
「その二人が容疑者として、今になってあんたと別れた奥さんを殺すのは、変
じゃないか」
「……仰る通り。冷静さを欠いていたようだ」
 これを境に、サン・ルバルカンは明らかに自信をなくした。自らが巻き込ま
れた事件を積極的に検証することなく、「自分はやっていない」の一本槍で通
すしかなくなった。
 その状態は、ブラウベ署長が味方に現れたあとも変わらなかった。現場に改
めて入らせてやる、捜査で分かったことを教えてやると告げられても、間違い
を恐れてか、厚意を受けようとはしなかった。
 これでは疑いを晴らせる訳がない。裁判により有罪判決が下された。この国
では、殺人罪は被害者数とは関係なく、基本的に死刑を科される。情状酌量を
求めて、警察関係者数名が証言台に立ち、これまでルバルカンが貢献してきた
事件の数々を挙げてみせたが、効果はなかった。逆に、善人の皮を被った極悪
人との印象を持たれたようだった。

 ルバルカンが死刑囚となって八年が経過していた。
 死刑囚に対する刑の執行は、その四日前に仮決定され、三日を掛けて最後の
検討がなされる。そしてこの者の犯行に間違いがないと判定されて、初めて正
式決定となる。
 が、これは建前で、王族・政府・警察組織などの意向により、恣意的に運用
されることも多いと囁かれている。
 事実、ルバルカンの死刑を急ごうとする動きもあった。王族のブラウベ署長
がルバルカンに肩入れしていたことで、ブラウベのみならず、王族全体のイメ
ージダウンにつながると見なされたのである。
 そんな性急な動きを、ブラウベ・フィエリオは必死に押しとどめた。ルバル
カンの無実を証明するのは難しい。だが、ルバルカンの探偵としての優秀さを
アピールし、その能力をこのまま永遠に葬ることは国家的損失だという論陣を
張った。これが奏功し、サン・ルバルカンには特別な措置が執られることにな
る。
『殺人もしくはそれに匹敵する凶悪ないしは重大犯罪事件を、一年に八つ以上
解決すれば、サン・ルバルカンの死刑執行を一年先延ばしにする』
 これが、ブラウベ署長の勝ち取った条件であった。ルバルカンの死刑判決が
確定してから、四年が経過していた。
 言うまでもないが、解くべき事件は、ルバルカンが好きに選ぶのではなく、
国の機関が定める。なお、万が一にも、ルバルカンに解かせるに値する難事件
が年間で八つに満たなかった場合は、特赦により減刑される取り決めがなされ
ているが、この四年間でそのような奇跡的な事態は起きていない。
 むしろ、ルバルカンが獄中にいながら、年に八つの難事件を解決し続け、今
や三十件を超えたという実績こそ、奇跡と言えるのかもしれない。
「久しぶりだね」
 新たな事件を伝えるために、ブラウベ署長が面会に現れた。彼は時間が許す
限り、ルバルカンに事件を伝える役目を負う。ちなみに、将来を嘱望されたブ
ラウベが未だに署長でいるのは、ルバルカンの件が尾を引いているせいだと、
巷では囁かれている。
「ああ。あなたとこうして顔を合わせるのも久しぶりだし、前の事件から二ヶ
月以上が経っている。年に八つのペースから、あまり外れると少し怖くなる」
「怖さを覚えるとは、いいことだ。生への執着が、まともに機能している」
「そうらしい。四年ほど続ける内に、外で探偵をやっていた頃の感覚を思い出
したんだ。命を失うこともそうだけれど、謎に取り組めなくなることが恐ろし
い」
「そんなに意欲的になっているのなら――」
 署長が瞳を輝かせ、身を乗り出した。透明な強化アクリル板を挟んだ向こう
で、ルバルカンは若干項垂れ、頭を左右に振った。
「無理です」
「まだ何も言っていないぞ」
 ブラウベが浮かせた腰を椅子に戻す。ルバルカンは静かに答えた。
「何を仰りたいのかは、分かってる。アニータ殺しの件に取り組んでみろと言
うんでしょう?」
「ああ、その通り」
「まだ、無理です。私は、そこまでは戻っていない」
 獄中の名探偵は、片手で額を押さえる仕種をした。彼から深いため息が出る
のを聞いて、ブラウベは一応、あきらめた。
「分かった。それじゃあ、今回持って来た事件を知らせるよ。現時点での捜査
記録も用意した。追加が必要なら、あとで言ってもらいたい」
 手渡された資料に早速、視線を落とす。同時に、ルバルカンは「助手は?」
と問う。
「いつもの通り、レイ・マルタスを好きに使えばいいよ。それとも何か? マ
ルタスに気に入らない点でもあるとか?」
「とんでもない。マルタスほど優秀な人材を、また使えるとは想像していなか
ったので」
「それなら心配いらないよ。レイ・マルタス自身が希望していることだから。
ルバルカンの手足となって動くことを、光栄に思っているようだ」
「ありがたい話です。今の私から彼に渡せる感謝の印は、気持ちしかない」
「直接言ってやりなさい。無論、事件解決が最優先だがね」
 時刻を確認したブラウベは椅子から立った。
「今回も難題だが、見事な解決を期待している」


――続く




#471/598 ●長編    *** コメント #470 ***
★タイトル (AZA     )  15/06/30  20:45  (352)
ペトロの船出 <下>   永山
★内容                                         17/05/16 04:31 修正 第2版
 事件は、発生からちょうど一年が経過していた。
(解けというのなら、もっと早く回してくれた方がよいんだが)
 いつも抱く感想は飲み込んで、資料を読み進める。探偵作業に関する全ての
資料は、独房に持ち込むことを許可されており、じっくりと読み込める。
 被害者はペトロ・ロジオネスなる富豪で、造船業と運輸業で財をなしたとあ
る。ルバルカンは知らなかったが、かなり有名な人物らしい。三年前、つまり
死の二年ほど前に社長の座から退くと、経済・経営の専門家と称して、マスコ
ミに顔を出すようになっていった。そこから、ベテラン女優カリー・ドットソ
ンと面識を持ったことが、事件に発展したと見られている。
 当時、人気面では落ち目だったドットソンだが、ペトロから見れば、青年の
日にあこがれた美人女優であり、知り合えたことをこの上なく喜んでいたとい
う。どちらが積極的に誘ったかは定かでないが、二人は男女の仲となった。ド
ットソンは独身を通しており、またペトロも妻とは十年近くも前に死別してい
たため、モラル的には何ら問題のない付き合いだった。しかし、ペトロ・ロジ
オネスの子供らにすれば、内心穏やかでない。もしもドットソンと再婚したり、
彼女との間に子をなしたりしようものなら、将来入る遺産が減る。ペトロが後
継者を自分の子供の中から選ばなかった事実から推測できるように、この富豪
の三人の子ら――長男イジス、長女エルメス、次男ケンネス――は、揃いも揃
って経営の才覚を持ち合わせていなかった。それどころか、仕事に就かず、遊
び暮らす日々を送ってきた。そんな彼らにとって、ドットソンの登場は、人生
における初めての“厄介事”だった。
 それでもロジオネス家は、表面上の穏やかさを保っていた。カリー・ドット
ソンがペトロとの結婚に前向きでなかった内は。
 だが、半年後、ペトロの熱烈なアプローチに負けたのか、ドットソンは求婚
を受け入れた。
 ペトロは間を置かず、夏期休暇を利して家族が一堂に会する食事の席を設け、
婚約を皆に伝えた。機会を見て、世間にも公表するという。三人の子供らにと
っては、寝耳に水だったろう。女優が結婚に同意するとしても、何らかの前兆
があるはずと踏んでいたのに、全く感じられなかった。女優が演技していたの
ではと疑いさえした。とにかく、彼らにとって、恐れていた事態になりつつあ
ったのは間違いない。
 事件は、会食の翌々日に起きた。
 ペトロ・ロジオネスは海に関する事業で成功したこともあり、海を大変愛し
た。それ故、彼の邸宅は海に面した港に立地し、クルーザーで直接、海に出ら
れる構造を持っていた。その日は家族にお手伝い、航海士二名にケリー・ドッ
トソンを含めた九名で、二泊三日の短いクルーズに発つ予定になっていた。
 ところが、出発直前の朝八時過ぎ、ペトロは遺体となって発見された。海を
臨む彼の書斎で、肘掛け椅子に腰を下ろした姿勢のまま、毒入りのコーリーを
呷って死んでいた。
 その死に様は、一見、自殺に思えた。書斎のドアと窓は全て内側からロック
されていたためだ。しかし、遺書がなかったこと、ひいては婚約したばかりで
自殺する理由が見当たらないことから、犯罪が疑われた。
「容疑者は、前夜から邸宅にいて寝泊まりしたイジス、エルメス、ケンネスの
子供三人に、ケリー・ドットソン、お手伝いの二人に運転手、それから弁護士
の合計八人。航海士達はいなかったと。それに、邸宅には防犯カメラが設置さ
れていて、八人以外に出入りする不審者はなかったと分かっている、か」
 注釈によると、弁護士は婚前契約の諸々を考えるために呼ばれたとある。ペ
トロとドットソンは、もしも将来別れることになった場合の慰謝料に関して、
予め決めておくつもりでいたようだ。この弁護士と運転手は、クルーズには同
行しないことになっていた。
 使われた毒は青酸系の薬品で、ブラキッドほどではないが、即効性がある。
ロジオネス家との関連で言えば、メッキ工場で青酸ソーダが使われている。管
理体制はしっかりしているものの、例外的にペトロ自身が若い時分、“事業の
成功に命を賭ける”決意の証として、青酸ソーダを持ち出し、自宅で保管して
いた。その在処が、ペトロの死亡により不明となっていた。本当に自殺だとし
たら、この保管分が使われたに違いないし、他殺でも可能性はある。
 一方、ケリー・ドットソンは、二代前の元マネージャーが薬学部出身で、こ
の線から毒の入手は可能ではないかと疑われるも、元マネージャーは否定。証
拠もない。
「えっと、コーヒーカップは残っていたんだよな……変だ……」
 あることに気付き、独りごちるルバルカン。心の中で続ける。
(自殺であれ他殺であれ、自宅で保管していた毒を使ったのだとしたら、当然、
容器があるはず。その容器は、ペトロの書斎の机にでも放置されてるのが自然
じゃないか? わざわざ仕舞う必要があるか?)
 自問するも、答は出ない。だからといって、ロジオネス家に保管されていた
青酸ソーダが使われなかったとは、断定しづらい。
(女優の元マネージャーの線も薄そうだし……)
 もやもやを抱えたまま、コーヒーについての記述を読む。
 亡くなったペトロはコーヒー好きで、拘りがあった。決まった銘柄を愛飲す
るのではないが、濃いめを好んだ。他の飲み物ならお手伝いに運ばせるが、コ
ーヒーだけは自分で入れる主義だった。そのための簡易キッチンを、書斎の片
隅に特注で作らせたほどである。死んだ日の朝の一杯も、彼自身が入れた物と
推測されている。
 キッチンのゴミ入れには、入れたあとのコーヒー豆の残滓があったが、分析
しても、毒は検出されなかった。コーヒーメーカーも調べられたが、同様に何
も出なかった。殺人だったとして、前もってコーヒー豆に毒を混ぜたり、コー
ヒーメーカー内部に毒を塗布したりといった方法は、採られなかったことにな
る。
 次の項目、密室に移る。見取り図や写真付きで、ペトロの遺体が見つかった
書斎について、細かく説明されていた。
 窓は海を一望できる大きな物が一つに、ベランダに通じるフランス窓が一つ、
小窓が二つあった。この内、大きな窓ははめ殺し、小窓は小さすぎて人は出入
りできない上に、スライド式の二重ロックがしっかりと掛けられていた。フラ
ンス窓の方は、普段は、金属の細い棒を受け金に落とすだけの簡単な鍵で済ま
せていたのだが、それとは別に鍵穴があり、内側から鍵を使ってしか掛けられ
ない。遺体発見時は掛けられていた上に、鍵穴に鍵が差し込まれたままだった。
(自殺なら、普段のように掛け金だけにするか、それとも自殺だからこそ、よ
り厳重に鍵を掛けようとするものなのか)
 ペトロ・ロジオネスと接した経験が皆無のルバルカンには、全く想像が付か
なかった。
 書斎のドアの鍵は、古めかしいシリンダー錠で、ペトロがドアのデザインを
気に入っていたので、新式の鍵に取り替えることはなかったという。遺体発見
時、ここの鍵も掛かっており、お手伝いが合鍵を持って来て開けた。合鍵自体
は、金庫で保管されており、二つの暗証番号を入力しなければ開けられないシ
ステムが採られ、二名のお手伝いが一つずつ暗証番号を覚えている。換言する
と、お手伝い二人が揃わないと、合鍵を持ち出せない仕組みという訳だ。
 なお、ペトロが日頃使っていた鍵は、遺体の着ていたガウンのポケットから
見付かっている。
(部屋にはこれといった隙間もないようだし、読む限りじゃ、密室を作れるの
は、お手伝い二人が協力したときだけか。しかし、お手伝いには動機がない。
その上、主人の死によって、職を失っている。充分な手当は受け取ったようだ
が、事件で悪いイメージが付いたのか、再就職はかなっていないようだ。ペト
ロとの主従関係も良好だったとあるし、殺すのは引き合わない)
 絶対確実なロジックではないが、お手伝いは犯人ではないとの印象を、ルバ
ルカンは強めた。
(こうまで強固な密室となると、遺体発見時に誤魔化しがあったか、嘘があっ
た可能性が高い。ドアを合鍵で開けたとき、その場にいたのは――)
 書類に目を走らせる。ほしい情報はちゃんと載っていた。お手伝い二人に弁
護士、三人の子供達、そしてドットソン。
(何だ、ほとんど全員じゃないか。では、書斎に足を踏み入れたのは……弁護
士が真っ先に入り、異変を察知。女性は見ない方がいいと叫んだこともあって、
お手伝いとエルメス、ドットソンが廊下に残った。イジスとケンネスが入り、
ペトロの死を確認。ガウンのポケットから鍵を見付けたのは……警官か。とい
うことは、警察の到着まで、書斎が密室だったと意識されてはいなかったか。
そんな状況なら、遺体発見の混乱に乗じて、ポケットに鍵を滑り込ませるくら
い、訳なくできそうじゃないか。警察だって、その程度の想像はできるはず。
容疑は弁護士と息子二人に絞り込めるだろうに、一体、何に手間取って犯人を
特定できないんだろう?)
 読み進めると、じきに理由が分かった。警察が到着するまでの間に、エルメ
スとドットソンも、書斎に入り、ペトロの遺体に触れているのだ。その際に監
視の目があったかどうかは記述がないが、女性二人にも鍵をポケットに入れる
チャンスはあったと見なせる。
(それにしても、妙な事件ではある。最初っから、何となく頭の片隅に引っ掛
かっていたが……どうして犯人は、陸地で殺したんだ? クルーズに出ること
が決まっているのだから、出航後、機会を見て被害者を海に突き落とせば事足
りるのでは。確実性に欠けるというのなら、睡眠薬を飲ませてから突き落とす
か、あるいは殺してから海に投げ込んだっていい。遺体はしばらく発見されず、
事故とも他殺とも自殺とも断定できなくなるのは間違いない。
 このようなケースでは、犯人は、被害者が死んだという事実が早くほしかっ
たということが考えられる。海に落ちて行方不明となったのでは、死が確定す
るまで半年ほどかかる。それまで遺産なり保険金なりが手に入らない。関係者
の中に、早急に金が必要だった者がいるのか……)
 急いで読み進めるが、そのような注釈は見当たらない。三人の子供達もドッ
トソンも弁護士も、当座の金には困っていない。借金を抱えているとか、病気
の身内がいるとか、使い込みがばれそうだった等のドラマめいた秘密は一切な
し。
(警察が一年間捜査してこれなのだから、信用していい。他に考えられるのは
……クルーズに同行しない人物が犯人である場合だな。ガウンに鍵を戻せて、
クルーズに同行しない関係者は、弁護士だけ。動機がないが、理屈だけなら、
弁護士が犯人ということになる。あ、いや、青酸毒の入手が難しいか。ロジオ
ネス家の顧問弁護士であっても、ペトロが密かに保管していた毒の在処までは、
知らなかっと見るのが普通……。ペトロが保管場所を打ち明けるとしたら、同
じ家に住む者、特に家族相手だろう。誤って摂取しないよう、注意を促すべく、
毒だと明言しないまでも、危険物として教えることはあり得る。そしてそのこ
とを事件後、誰も言い出さないのは、疑われると分かっているから?)
 推測を重ねるのにも限界が来たようだ。レイ・マルタスの行動力を頼みとせ
ねばならない。
 ルバルカンは指示をまとめると、獄卒にマルタスへの伝言を託した。

 五日後、マルタスからの返事が届けられた。
<取り急ぎ、以下にご報告します。
 指示通り、関係者一人一人に会い、「ペトロ・ロジオネスが服用した青酸ソ
ーダは長期間、空気にさらされていたことが判明した」と鎌をかけたところ、
・その意味を解さなかったと思しき者……ケンネス、お手伝い二名、運転手
・意味を解し、ペトロの死因は何であったのかを尋ねてきた者……イジス、エ
ルメス、弁護士
 と反応が分かれました。
 さらに、意味を解した三名の内、イジスは「そんな馬鹿な」、弁護士は「ま
さか」との第一声を漏らしました。エルメスは「ふうん。それっておかしくな
い?」でした。
 次に、ペトロ・ロジオネスの化学知識ですが、彼の学生時代の友人らに尋ね
て回った結果、一般素人よりもわずかに上といったレベルだと推定します。た
とえば、「青酸毒は酸化により無毒化する」といった知識は持ち合わせていた
ようです。
 それから、ロジオネス邸はすでに売却され、人手に渡っておりましたが、ペ
トロの書斎は“著名人の亡くなった場所”として、使用されることなく封印。
実際のところ、警察の要請もあったようですが、とにもかくにも、ほぼ当時の
状態を保っている模様です。
 そこで、ブラウベ署長に、書斎の簡易キッチンの排水溝を調べていないかと
問い合わせると、否との返答でしたので、至急、調査を行ってもらいました。
それについての結果は、署長ご自身が伝えるとのことです。>
 報告は終わったが、文章はまだ少し続いていた。挨拶のようなもので、今は
とりあえず読み飛ばす。
(さすがに、この程度の鎌かけでは、ペトロが隠しておいた毒の在処を知って
いたような反応を示す輩はいなかったか。それでも充分に興味深い。イジスと
弁護士の反応は、「毒殺したつもりだったのに、無毒化していたのなら話が合
わない」あるいは「あれだけ厳重に密閉された容器に入っていた毒が酸化して
いただと?」という驚きに受け取れる。無論、他の意味にも解釈可能だが。
 それよりも困ったのは、ペトロの化学知識のレベルだ。長期間空気にさらさ
れれば確実に無毒になっていると思い込んでいたとしたら……仮説が増えてし
まう。いや、案外、これこそが本命なのか。……ブラウベ署長が早く来てくれ
ることを願おう)
 ルバルカンの願いは、半日と経たずに叶った。
 夕刻になって監獄に到着したブラウベ・フィエリオは、多少上気した顔で、
面会室に姿を見せた。
「排水溝だが、どうにか一年前の状態を保っていたようだよ」
 前置きなしに始めるブラウベ署長は口を開いた。
「青酸ソーダを液体、恐らく水に溶かして流したと思しき形跡が確認できた。
ごく微量の粉末も見付かり、酸化した青酸ソーダだと判明したものの、これが
いつの時点で酸化していたのかは特定不能だった」
「それは仕方ありません。一年が経っているのだから。ただ、一年前、事件発
生直後の段階で排水溝を調べていれば、事件の核心に迫る発見があったかもし
れない」
「その点については、弁解のしようもない。毒の入ったコーヒーが現場にあり、
毒の容器が見当たらなかったことや、コーヒー豆の残り滓などから毒が検出さ
れなかったことから、自殺ならペトロが毒を使い切った、他殺なら犯人が持ち
去った、そう思い込んで捜査を進めてしまったようだ。私の管轄ではないが、
事件の真相如何では、誰かが責任を取る必要が生じるだろうね」
「それは、警察にとってまずい真相なら、ねじ曲げてくれという意味?」
「いや、違うよ」
 ブラウベは苦笑を少し覗かせた。
「君は君の意志で結論を出してくれていい。私はそれを報告する。そしてねじ
曲げられそうになったなら、ねじ曲げられないようにする」
「分かった。安心した」
 ルバルカンも小さな笑みを返すと、再び表情を引き締めた。
「実は、二つの説を組み立てて、迷っている」
「聞かせてもらいましょう」
「一つ目は、恐らく警察も一度は辿り着いたであろう説。あ、他殺を大前提に
している。海上で殺して遺体を海に捨てるというメリットを採らず、邸宅で殺
害したのは、クルーズに同行する予定のなかった者の仕業。遺体の発見者を装
って鍵をガウンに戻す方法で密室を構成できるのは、発見時に居合わせた六人。
両条件を満たすのは、弁護士だけだ」
「弁護士には動機がない」
「法的な書類作成に関することが動機だとすれば、ペトロが死んだあと、弁護
士はどうにでも細工できる。動機の存在自体を隠せるだろう。クルーズから戻
るのを待たずに殺したのも、契約か何かで日付の都合があったと考えれば、筋
は通る」
「青酸ソーダをどうやって手に入れた?」
「弁護士は、犯罪者とも知り合う機会は多い。資料によれば刑事事件を担当し
た経験もあるから、弁護を受け持ってやった犯罪者を通じて、毒を入手できた
可能性はある」
「……なるほどと言いたいが、採用しがたいな。丸い穴に四角い物体を無理矢
理通そうとしている感じだね」
 ブラウベが正直な感想を述べると、ルバルカンも「やはりそうか」と応じた。
「ブラウベ署長、あなたは思いやりから敢えて突っ込んでこなかったんでしょ
うが、今のは他にも難のある仮説です。この事件が他殺なら、犯人は自殺に偽
装しようとしてる。なのに、毒の容器を現場に残さないというのは、手抜かり
に思える」
「確かに。死んだペトロが必要な分だけを用意し、使い切ったというのは、無
理筋だね。少なくとも、包装紙が残っていなくてはならない」
「ええ。それに、私見ですが、弁護士が密室殺人を企てるというのが、しっく
り来ない。私の知る弁護士は、程度の差はあっても現実主義に根を下ろしてい
る。そんな人種が、自殺に見せ掛けるためだからといって、密室をこしらえる
ものだろうか? 疑問、と言うよりも違和感が拭えません」
「論理的でなく心情的だか、よく理解できるよ。ではもう一つの説は?」
「もう一つの説も、難がないとは言えませんが……とにかく、話してみましょ
う。当日の朝、ペトロはいつものようにコーヒーを自分で入れた。そのとき、
仕事に対する自身の決意の表れであった、青酸ソーダの処分も行った」
「うん?」
 眉を動かして反応したブラウベだったが、それ以上は口を挟まず、続きを待
った。
「正確な年数は把握してないが、ペトロが事業で成功を収めてから、何十年も
経っているでしょう。そんな人物に、いつまでも決意の毒が必要とは思えない。
多分、ある頃から毒をさほど厳重には保管しなくなったと想像します。いや、
家人の手の届かないよう、隠していたのは確かでしょう。けれども、万が一、
彼の死後、毒を毒と理解しない者、たとえば幼子が毒を見付けたとしたら、非
常に危険である。その危険をなくそうと、容器の密閉状態を緩めた。そう、酸
化を促すために」
「まあ、子供ができたタイミングで、そんな風に考えることはあるかもしれな
いね」
「毒をさっさと処分しなかったのは、簡単にはできないことと、もしも処分し
たことで会社の経営が傾きだしたら……と想像して、捨てられなかったんだと
推察します。ともかく、ペトロは毒を無毒化させるつもりで保管しておいた。
そして、出航の朝、処分を思い立った。新たな婚約者を迎え、船旅に出る。文
字通り、旅立ちの日と呼ぶにふさわしいタイミング。今なら処分できる。そん
な心の動きだったのではないか」
「待て。つまり、何だ……ペトロ・ロジオネスは、青酸ソーダを簡易キッチン
に流すことで処分した。だが、その粉末だか固形物だかは完全には無毒化して
いなかった。しかも運の悪いことに、準備していたコーヒーに、毒が混入した
と言いたいのか、ルバルカン?」
「はい。察しがよくて助かります。あるいは、毒性がないと思い込んで、わざ
とコーヒーに入れた可能性もゼロではない」
 表面上笑ってみせたルバルカンに、ブラウベは直ちに、唾を飛ばさんばかり
に反論を開始する。
「いただけないよ、名探偵。こいつは一番目の説に劣る。何故って、容器の問
題はどうしたんだ? 君の今言った説が事実なら、容器がどこかに残っている
はずだ。容器が何製か知らんが、押し潰してごみ箱に投げ込んだとしても、書
斎にあるのは間違いない。窓を開けて、海に投げ捨てたなんて馬鹿は言わない
でくれたまえ。ペトロ・ロジオネスは海を愛する男だったのだ」
「言いません。念のため、見取り図を参考にざっと計算してみましたが、海に
投げ捨てるには、クルーザーの係留している地点まで出て行く必要がありそう
です。書斎のベランダから投げても、海に届くか怪しい。届いたとしても、問
題の容器が水に浮かぶようなら、すぐに発見される可能性大です」
「そこまで考えが及んでいながら、どうして――」
「そもそも、今までに話した第二の説だと、部屋が密室であるのは変でしょう」
「……言われてみれば、窓はともかく、ドアの鍵を掛ける必要はないようだ。
いや、窓にしたって、鍵穴に鍵を差しているのはおかしい」
「一つずつ片付けますと、まず、窓の鍵は、これから出航するのだから、きち
んと施錠していても、おかしくはない。ペトロ自身が鍵を掛けたと推定します。
ドアはどうか。コーヒーを飲むためだけに、わざわざ施錠するものか。飲んで
るときに、他に用事を思い付き、お手伝いを呼ぶとすると、鍵をペトロが開け
てやる必要が生じる。実に非合理的です。普段は、鍵を掛けていなかったと推
定します」
「うむ。あとで使用人達に聞けば分かるだろうが、その推定に異論はない。だ
が、それを認めれば、密室はなかったことになってしまう」
「事実と反するのは、何らかの理由がある。今回は、ペトロ以外の人物が関与
したと見なすのが、妥当でしょう。その人物は殺人犯ではないが、ペトロが死
んでいるのを見付け、ある細工を施した」
「それは八時過ぎに、六名が遺体を見付けたときのことを言っているのかな?」
「違います。その人物は、八時よりも前の時点で、ペトロの書斎に入り、遺体
を見付けたという想定です」
「ああ……。その段階では、ドアの鍵は開いていたと」
「何の用事だったのか、呼ばれたのか、自らの意思で出向いたのかは斟酌の必
要がない。その人物――Xと呼びましょう――が単独で書斎に入り、ペトロの
遺体を見付けたことが大事ですから。Xは遺体や部屋の状態を見て、こう考え
た。『ペトロ・ロジオネスは自殺した』と」
「え?」
 反射的に声を上げたブラウベだったが、短い間黙考し、合点した。
「そうか。机の上にコーヒーカップがあって、毒の容器があって、ペトロは椅
子に座ったまま絶命している。覚悟して毒を飲んだように見える」
「ショックが過ぎ去ると、Xは次に金の計算を始めた。そう、生命保険です。
自殺では保険金が下りない、あるいは額が少ない。そんなのはごめんだと、ペ
トロの死を他殺に見せ掛けようと、行動し始めた」
「それはおかしい。現場を密室にして、より自殺らしく見えるようにしたので
はないのかね」
「それだと、毒の容器を持ち去った理由が説明できない。Xはまずは毒の容器
を始末しようと、書斎から持ち出した。その際、他の人物に遺体を見付けられ
ることがないよう、外から部屋に鍵を掛けた」
「なるほど。そうつながるんだね。しかし思惑とは裏腹に、他殺の偽装が全く
できない内に、合鍵で開けられてしまった。やむを得ず、作戦変更。鍵を持っ
ているのがばれると、殺人犯と見なされる。そこで皆の目を盗み、鍵をガウン
のポケットに戻した訳だ」
「想像がほとんどで、物証に乏しいが、一番辻褄が合うのはこの説だと考えて
いる。どうですか」
「説得力はそれなりにある。しかし、その細工をしようとした人物、Xを見つ
け出さない限り、上を納得させるのは難しい」
 ブラウベが腕組みをすると、ルバルカンは仕切り板に片手を掛けた。
「信じて動いてもらえるのなら、多分、特定できます」
「どうやる?」
「Xは、毒の容器の始末だけはやり遂げたはず。まさか自分の身近に置いてお
くとは考えにくい。邸宅の外に捨てに行った可能性が高いんじゃないか。とい
うことは、防犯カメラにその姿が映っている。朝八時より前に」
「そうか。防犯カメラの映像なら、今も保存されている。繰り返しチェックし
たはずだが、容器の始末という観点で見ていなかったからな」
 ブラウベ署長は立ち上がると、一旦席を離れ、部屋の外に出た。ペトロ・ロ
ジオネス殺人事件の担当部署に、捜査すべき事柄を伝えてから、急ぎ足で戻る。
「どうでした?」
 ルバルカンの問いに、ブラウベは座りながら苦笑を返した。
「そんなに早くは分からないさ。だが、手応えはある。近い内にはっきりする
だろうね」
「これで解明となることを期待していますよ」
 そうして息をつくルバルカンは、頭を片手で掻きながら、再び口を開いた。
「ところでブラウベ署長。ここ最近、持ち込まれる事件に偏りが感じられるん
ですが……」
「偏りとは、一体どんな?」
 口を丸い形にし、首を傾げてみせるブラウベ。
「密室における毒死が続いている。これってもしや、私にアニータの事件を解
く気を起こさせようと、刺激を与えているおつもりでは」
「何を言い出すかと思ったら」
 肩をすくめるブラウベ。横を向き、笑いを堪えるポーズを取る。
「偶然だろう。意図的に似た事件を持ち込もうにも、私にそんな権限はない。
決めているのは、実質的に、国王なのだから」
「では、あなたが国王に口添えしてくださっているのではありませんか」
「……具体的なことは何もしておらん」
 ブラウベは真顔になり、ルバルカンに向き直った。
「ただ、サン・ルバルカンを窮地から掬い上げてやってほしいとの意見は、常
に出している。密室における毒死事件が続いているのなら、ひょっとすると、
私の意を国王が汲み取ってくださったのかもな」
「……ありがとう。期待に添えるよう、奮起に努めるよ」
 ルバルカンは小さく笑い、大きな動作で頭を垂れた。

――終わり




#472/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/07/30  21:48  (  1)
裏返ったパッチワーク<前>   永山
★内容                                         23/11/22 17:14 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#473/598 ●長編    *** コメント #472 ***
★タイトル (AZA     )  15/07/31  01:53  (  1)
裏返ったパッチワーク<後>   永山
★内容                                         23/11/22 17:14 修正 第7版
※都合により、一時的に非公開風状態にしています。




#474/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/11/30  22:01  (214)
雪密室ゲーム<上>   永山
★内容                                         18/06/24 03:25 修正 第2版
 私の通う**大学の推理小説研究会では毎冬、三年生以下の有志を募っての自主合宿
を行うのが慣例となっている。時季がクリスマスシーズンと重なるだけに、参加は強制
されない。しかし実際のところ、冬合宿が行われるようになって以来、参加率はほぼ一
〇〇パーセントである。
 その理由の半分は想像に任せるとして、もう半分は合宿の行われる場所に因ろう。遙
か昔のOBに推理作家になった内藤隆信(ないとうたかのぶ)という人がいて、大きな
成功を収めた。彼が、自分を育ててくれた推理小説研究会に少しでも恩返しをしたい
と、所有する別荘の開放を提案してきたことで、冬合宿は始まったと言える。
 この別荘が北国の人里離れた山にあり、十二月中旬には確実に雪に見舞われるという
シチュエーションが、推理小説の好事家を惹き付けるのだ。加えて、交通費の一部まで
援助してもらえるとなれば、たとえ極端な寒がりでも、推理小説好きなら参加してみた
くなるものだろう。
「交通費に関しては太っ腹だが、別荘の開放は、冬場、南半球に出掛けるのが恒例にな
ったんで、遊ばせとくのが勿体ないというのが実情らしいぜ」
 四津上(よつがみ)先輩が、サングラス越しに、残り少なくなったウーロンハイのグ
ラスを透かし見ながら言った。取りようによってはOB推理作家の悪口に聞こえるが、
他の部員達を見ると、誰も気にしてないらしい。
「できることなら、料理の面でサポートが欲しい」
 柿谷(かきたに)先輩が、両手をこすり合わせつつ言った。巨漢故か、額に汗を浮か
べている。にもかかわらず、暖炉を模したファンヒーターの前から、ほとんど離れな
い。
「毎回、イブが焼き肉、クリスマスが鍋。男しかいないからしょうがないとは言え、ワ
ンパターンに過ぎる」
「まだ二回目のおまえが言うか」
 前部長の力丸(りきまる)先輩が、苦笑を浮かべる。うちの大学では通常、部やサー
クルの役員は、三年の上期で交代する。三年になる四月に切り替わる部もあれば、学園
祭まで引っ張る部もある。
「過去の記録を見ていたら、そうなってたもんだから、来年のことを想像すると、つ
い」
 頭を掻く柿谷先輩。その横を通り、力丸先輩が私の方を振り向いた。特別に大柄とい
う訳でもないが、その存在感故か、風が起こったような気がした。
「志賀(しが)、殿蔵(とのくら)の様子を見てきてくれないか」
 反応して席を立とうとしたのだが、先に動いた者がいた。同学年の浅田(あさだ)
だ。
「それなら自分が行きます。ついでがあるんで」
 元から立っていた浅田は眼鏡のずれを直すと、リビングの中央を横切り、出て行っ
た。
 殿蔵先輩は、今回の合宿の犯人当て担当だった。部員が犯人当て短編を自作し、合宿
などの場で皆を前に問題編を朗読、質疑応答の後、シンキングタイムを挟んで、各人は
解答を用紙にまとめる。提出された回答を出題者がチェックし、最優秀者を決めるとい
う、推理小説研究会によくあるイベントの一つだ。
 殿蔵先輩は、犯人当ての案はできていたのだが、一時的な体調不良により執筆が若干
遅れ、別荘到着後の今も、部屋に籠もって書いている。もう四時間が経とうとしてい
た。
「まるで売れっ子作家だ」
 四津上先輩はグラスを完全に干すと、台所に立った。三度の食事を除いて、自分で使
った食器類は自分で洗うのがルールだ。
「何か持って行ってやった方がいいかね? あいつは気遣い無用と言っていたが」
「どうかな。責任を感じてのことだろうし」
 前部長と前副部長のやり取りに、意識を集中する。食べ物や飲み物を持って行くとな
ったら、今度こそ私の出番だ。
「そういうことなら、差し入れはドアの外に置くべきかな。犯人当ての公平性を保つ意
味で」
 冗談めかした声に、リビングにいた全員が一斉に振り向く。そして一斉に、驚いた。
参加する予定じゃなかった折沢(おりさわ)先輩がいたのだから。細くて背の高い身体
に黒のコートを纏った今の姿は、なかなか迫力がある
 両肩や頭にまだ残る雪を右手で払いながら、折沢先輩がファンヒーターのそばに寄
る。垣谷先輩が場所を空けた。
「どうしたんですか、急に」
「予定が変わった。ふられた」
 依然として冗談めかした口調だから、本当なのかどうか分からない。私達の質問を前
もってシャットアウトするかのように、左手に持った買い物袋を少し掲げた。
「あ、これ、食料の追加」
 四津上先輩がそれを受け取り、冷蔵庫に仕舞った。
「それから、内藤さんから伝言があってね」
「伝言?」
「部の共有アドレスにメールを送ったんだが、もしどんちゃん騒ぎして見てないとつま
らないので、確認するよう言ってくれ、だってさ。それなら直接、言ってくれたら話が
早いのに」
 確かに、内藤さんが折沢先輩と会うなり電話したりしたのなら、そのときメールの内
容を直に伝えればいいとは思う。
 力丸先輩が時計を一瞥する。
「どんちゃん騒ぎをする時間帯でもないが、わざわざ部のメールを確認しようとはしな
いもんな。クローズドサークルの雰囲気を味わうために、ここにいるようなもんだし」
「それじゃ、全員でメールを見るとしますか。缶詰してる殿蔵センセーも、内藤さんか
らのメールと聞けば、中断するはず」
 ネット接続できる機械は、別荘内には一つしかない。書斎のパソコンだけだ。その他
のツールは、部のルールとして持ち込まないようにしている。
 ちょうど戻って来た浅田に事情を説明し、さらに殿蔵先輩にも同じことを伝えて、全
員で書斎に向かった。

 内藤さんからのメールは、次のようなものだった。
<**大推理研の諸君、今年も冬合宿を満喫しているだろうか? ――クリスマスソン
グの流れる中。
 今年は少し彩りを添えてあげようと思い、君達にプレゼントを贈ることに決めた。そ
う、クリスマスプレゼントだ。
 別荘に離れがあるのは知っているね? その中に用意しておいた。いずれもミステリ
に関連のある物を揃えてある。たとえば、初版本や絶版本、ミステリ映画に使われた小
道具等々。数は人数分あるが、お宝度は――個々人の趣味嗜好によるとは言え――それ
ぞれ差がある。
 誰がどれを受け取ってくれても構わないが、推理研のメンバーなら、ゲームをして順
位を決め、それに従って分けてもらいたい。
 私が提案するゲームのは、名付けて雪密室ゲームだ。
 天気予報を見るに、そちらはちょうど雪が降り積もった頃だと思う。止んだかどうか
までは知らないが、十センチほど積もったあと、雪が降り止んだものと仮定する。
 本館から離れまで、雪に足跡を付けることなく、行き来して、お宝を持ち出す方法を
考えてみたまえ。
 以下、注釈だ。
・使える道具や機械の類は、現在別荘や周辺にある物に限る。
・思考ゲームだからと言って、解答が現実離れしていてはいけない。超能力や幽霊の類
は御法度。

 一応、私・内藤隆信の答を用意してはあるが、これを絶対の正解とするつもりはな
い。私の答は後日、離れの鍵の在処とともにメールで教える予定だ。
 皆それぞれ解答し、君達の間で議論・検討の上、順位を付ければよい。時間制限や一
人当たりの解答可能数、優劣の判定方法等、細かなルールは君達に任せる。

 それでは、よき聖夜を送られんことを。
                                  内藤隆信>

「面白そうじゃないですか」
 浅田が真っ先に反応した。私も同意する。犯人当ての完成が遅れていることでもある
し、このイベントで盛り上がりたい。
「殿蔵は? とりあえず、犯人当てはできたのか」
「推敲はまだですけど。朗読の際は、適宜読み替えすることで対応は可能だと思ってい
ます」
「それなら、もう少し時間をやってもいいってことだ。裏を返せば、今日はこの雪密室
ゲームに興じても大丈夫だな」
 鶴の一声という訳ではないが、力丸先輩の発言で、方向は決まった。リビングに戻る
や、早速、ルール作りに取り組む。
「差し当たって、期限と解答数、解答方法を決めるとするか」
「期限は今日中ってことでいいでしょう。明日は犯人当てがある」
「解答を受け付ける期限が、今日いっぱいってことでいいな。即座に開票――開票って
言っていいのか? とにかく解答をチェックし、審査はゆっくりやればいい。解答数は
一人につき……三つまで?」
「三つだと、最大で7×3の21通りの答が出される訳か。ちょっと多くない? 被り
も出て来て、判定が煩わしくなりそうだ」
「解答方法を決めていないから、被りが生じるかどうかはまだ分からないが、確かに雪
上に痕跡を残さずに行き来する方法が、二十一もあるとは思えん」
「え? 雪の密室トリックなら、二十一ぐらい軽くあるような気がしますけど」
 これは浅田。思ったことを、反射的に口に出したようだ。
「君が言うのはあくまでも雪の密室トリックであって、足跡を付けないで行き来する方
法じゃないだろう?」
「……同じでは……ありませんね、なるほど」
 今、様々な作例が、浅田の脳裏を往来しているに違いない。
「三つが多いなら、二つにするか」
「いや、いっそ一つに」
 前部長の言を、前副部長が打ち消す。四津上先輩はさらに続けた。
「男らしく、と言うより、名探偵らしく、だな。探偵が謎解きの場面で、第一の候補、
第二の候補なんて推理を披露するのなんて、見たくない」
「まあ、納得できる意見だ。一つで行こうか」
 力丸先輩が場を見渡す。折沢先輩は声に出して「いいね」と応じ、二年生の二方は黙
って頷いた。私や浅田に異論があるはずもなく。
「となると、次なる問題は解答方法だが、当然、フリーに発言する形式は無理か」
「無理ってことはないでしょうが、何だか早い者勝ちみたいになりそうな予感がしない
でもないですねえ」
 と、お腹に手を当て小首を傾げる柿谷先輩。この人の癖だ。
「早く解決するというのは、判定において重要な要素だと思うけどね」
 折沢先輩が、今の主題から外れるようなことを言う。力丸先輩は“脱線”を咎めるこ
となく、話を受け継いだ。
「そうだな。早い者ほど評価されるという物差しも必要だ。それじゃあ……解答は、記
名して文書の形で提出する。同じ解答・似たような解答があった場合は、早く提出され
た方をより優秀と見なす。これでどうだろう?」
 解答方法と、判定基準の一部が決まった。
「他に基準はどうしましょう?」
「オリジナリティを評価するのか否か、とか」
「推理小説のトリックじゃないんだから、過去に同じトリックがあるかとか、類例があ
るかなんて、気にしなくていいんじゃないのか」
「でも、僕らは推理研であって」
 しばらくの間、侃々諤々の議論が繰り広げられたが、最終的には力丸先輩の判断で決
められた。
「話し合って、一番面白いと感じられたものが最優秀。内藤さんの答に一番近いもの、
近いと言えるものがあれば、それを二位とする。一位と二位が同じ解答になることもあ
る」
 推理小説研究会の看板にかけて、つまらない解答を一位にはできない、という次第
だ。
「あのー、早さを考慮するというのは、どうなるのかと」
「似たような答があったときに適用、ってことでいいだろう」
 こうしてルールが決められ、この瞬間からゲームスタートと相成った。

 本館から離れまで、直線距離にして最短でおよそ八メートル。実際には、両建物の玄
関を、小道が弧を描いて結んでいる。その正規ルートを行くのなら、十メートルほどに
なろうか。
 本館が二階建てであるのに対し、離れ平屋。中を見せてもらったことが一度あるが、
内藤さんの趣味の部屋だった。当人は喫煙者ではないのに、大小様々なパイプが所狭し
と棚に並べられ、どこの物ともしれぬ仮面や杖や人形、木製の武器といった民芸品が、
壁やショーケースを飾っていた。
「見に行ってもいいのかな。どう思う?」
「見に行く?」
 浅田に声を掛けられ、私はおうむ返しをした。
「実地検証っていうかさ。離れの中や周りを見れば、思い付くことがあるかもしれない
だろ」
「一理あるけれど、多分、中は見られないよ。前、見せてもらったときも、厳重に施錠
されてた。あれは内藤さんが居合わせたから、見ることができたんだと思う」
「そっか、そうだったな。じゃあ、周囲をぶらつくぐらいは」
「さあ……ルールで決めてないけど、先輩に聞いてみないことには分からない」
 時計を見ると、食事の準備を始める頃合いだった。そのついでに聞いてみることにし
た。
「離れを見るのはOKかって?」
 力丸先輩はこちらの質問にそう反応すると、ホットプレートを箱から出す作業を終了
させた。それから、一番近くの窓から外に目を向けた。
「もう勝手に行った奴、いるかもしれないな。でもまあ、俺達は何度もここを訪れてる
訳で、今さら行っても仕方ない。頭に入ってるから。行きたければ、行けばいい。もち
ろん、上がり込むのは無理だが」
 何とも拍子抜けしてしまう。とにもかくにも、了解は得た。
「見に行くのなら、すぐに行った方がいいだろ。今でさえ結構暗いのに、晩飯のあとだ
と、お話にならない」
「準備は……」
「気にするな。明日、穴埋めしてもらう」
 それならと二人して行こうと思ったが、私は途中で足を止めた。
「何だよ、志賀。穴埋めで働かされるのが嫌とかか?」
「そんなんじゃなくて、先輩達が見ないのなら、自分も見ない方がフェアかなと思っ
た」
「そうかなあ? さっき力丸部長、じゃなくて前部長が言ってたように、最初からハン
デがあるんだから、それを埋めてこそフェアと言えるんじゃ?」
「もう一つ、理由がある。見てしまうことで、発想が縛られてしまわないかって」
「何も見なければ自由に思い付くが、現場を見ちまったら発想の枠が狭まるってこと
か。まあ、分からんではない」
 腕組みをし、ひとしきり考える様子の浅田。じきに腕組みを解くと、
「好きにやるとしようぜ。俺は見る、おまえは見ない。それでいいや」
 と言い残し、玄関へ向かって行った。


――続く




#475/598 ●長編    *** コメント #474 ***
★タイトル (AZA     )  15/11/30  22:02  (301)
雪密室ゲーム<下>   永山
★内容                                         18/06/24 03:35 修正 第2版
 ミステリなら、ここで単身出て行くような登場人物は、しばらく行方不明になった末
に、殺されるというのがよくあるパターンだけれど、もちろんそんな事件は起こらなか
った。
 戻って来た浅田は、何らかの目処を付けたのか、少し自信を覗かせている――と、私
の目には映った。
 夕食の席は、雪密室ゲームのことは、ほとんど話題に上らなかった。うっかり口を滑
らせて、自信のある答を知られたくない、との意識が働いたに違いない。
 食事が済んで、皆が部屋に戻る前に、急ごしらえの解答用紙が配られた。
「厳密に時間を守る必要はないかもしれないが、まあ、今日中に出してくれ。間に合わ
なかったら問答無用で最下位、いや、失格にするか。余りのプレゼントは最優秀者がも
らえることにしよう」
「今になってのルールの付け足しは感心しないが、まあ賛成。面白いから」
 力丸先輩の急な提案に、折沢先輩が同意した。他の面々にも反対する者はいない。
「他にルールの付け足しはないですよね? だったら、早速書いてきちゃおうかな」
 浅田が用紙をひらひらさせて、宛がわれた部屋に引っ込んだ。「もうかよ」と驚くよ
りも呆れた風な力丸先輩。その横で、四津上先輩がまたアルコールを摂りながらふと呟
く。
「解答用紙の保管はどうするんだ? みんなぎりぎりに出すもんだとばかり思ってたか
ら、考えてなかったようだが」
「そこまで厳密さを求めるか。気になるのなら、封筒に入れて、封蝋でもするか。蝋燭
は、どこかに転がってたし」
「割り印かサインでいいでしょう」
 殿蔵先輩の案が採用された。みんながみんな、印鑑を持って来ているはずもなく、ベ
ロ(フラップ)の折り返しに、自身の名前及び他の部員二名に名前を書くことに決定。
 私は念のため、浅田にこのことを伝えておこうと、彼の部屋に行った。ノックをし、
了解を得てから入る。
「ルールの付け足しを口実に、探りを入れに来たか」
「違うって」
 笑いながら説明すると、それを聞いた浅田は「なるほど」と得心したように首肯し
た。
「推理小説的には、三人以上による“共犯”も疑うべきなんだろうが、ここは妥協する
としよう」
 三人が組んでお互いのサインを書けば、早く提出したふりをして、ぎりぎりまで考え
ることができるという意味だ。
「プレゼントが具体的にどんな物か分からないのに、そこまで悪知恵を働かせるメリッ
トはないね。ばれたときのデメリットの方が大きいし、“共犯者”が多いのも不安にな
る」
「――いや。三人だけでグループを作ったつもりが、一人が抜け駆けして、残るの四人
とも二人ずつ、三人組になる、なんていう手口を取れば、全員の解答を盗み見た上で、
自分の答が書けるんじゃないか」
「漫画の影響を受けてるな〜」
 これを機に出て行こうとしたのだけれど、呼び止められた。
「真面目な話、お宝をゲットするために、組むのも悪くないと思ってる」
「三人組を?」
「じゃなくて、確率を上げるだけだよ。俺ら二人で共同戦線を張って、最高と思える解
答二つを出すんだ。どちらかが最優秀になれば御の字」
「プレゼントは、山分けにできるような物じゃないだろう、多分」
「そりゃあそうだろうが、共同保有ってことで」
「うーん……」
 はっきり言って、気乗りしない。むげに突っぱねるのも、人間関係を悪くしかねない
ので、言葉を選ぼう。と、考える間を取ったのがいけなかったのか、浅田は私がその気
になりかけていると受け取ったようだ。
「俺達のどちらの解答が一位になろうと、プレゼントは志賀の好きな物を選んでいい。
とにかく、俺は勝ちたいんだ」
「……名探偵がコンビを組むっていうのは、格好悪くないかなあ」
「コンビの名探偵だって、いくらでもいるだろう」
「主に、テレビドラマにね。小説ではかなり稀な存在だと思うよ。名探偵とワトソン役
の二人一組というスタイルがスタンダードだから、二人とも名探偵というのはあまりな
いんだろうね」
「うぐぐ……」
 黙ってしまった浅田を見て、ちょっと気の毒になってきた。
「君さえよければ、なんだけど。相談するのはありだと考えてる。相談と言うよりも、
ディスカッションかな。その過程で出た案のどれを書いて出すのかは、各人の自由。こ
れなら、偶然同じ案を選ばない限り、君の言ったこととほとんど変わらない」
「お宝は?」
「それはまあ、どんな物があるのかを見てから、決めればいいんじゃない? 必要であ
れば、今度は二人だけでゲームをやって、買った方がもらうことにしてもいいし」
「よし、乗った」
 気が変わらない内にと思ったのか、返事が早い。そのまま、ディスカッションに突入
する。椅子とベッドの縁にそれぞれ腰を下ろし、スタート。
「実を言うと、問題文の文言をどう受け止めるべきか、迷ってるんだ。そこを相談した
くてしょうがなかった」
 浅田がそう切り出したが、すぐには意味が飲み込めない。こちらが首を傾げると、彼
は話を続けた。
「『雪に足跡を付けることなく』とあっただろ? あれって、馬鹿正直に受け取るな
ら、足跡以外は付けてもかまわないってことになる」
「ああ、言われてみれば」
「もしそう解釈していいとしたら、逆立ちするとか、自転車に乗るとかもありか?」
「自転車は、この別荘にないみたいだけど」
「たとえだよ、たとえ。他にも、足跡を靴跡と同じ意味と見なしていいのだとすれば、
スキーや竹馬なんかもOKになっちまう」
「さすがにそこまでは、認められないような。足を使って歩いたことが明白なんだか
ら、それがたとえスキーや竹馬の跡だったとしても、足跡だよ」
「そうだろうなあ。でも、逆立ち案はキープしておいていいと思ってるんだ、今のとこ
ろ」
「そうだね。こればかりは、先輩達に尋ねる訳に行かないし」
 二人してメモを取る。尤も、現時点で逆立ち案を採用するかと問われれば、私は否と
答えるだろう。とんちや謎々的な面白味はあるが、ミステリとしての面白味に欠けると
思うから。売れっ子推理作家・内藤隆信からの出題に、こんなとんちめいた答は似合わ
ない。
「さて、ここからはまともな方法を考えよう。飯前に見てきた感じでは、ジャンプして
届く距離ではないのは確かだ。ははは」
「そりゃまあそうだろうけど」
 ちっとも笑えないのだが、浅田は自分で言った冗談に笑っている。仕方なしに、こっ
ちも冗談を挟んでやった。
「本館の屋根に登り、てっぺんから駆け下りてジャンプすれば、届くかもな」
「それは無理」
 何でまともに返してくるんだよっ。
「万が一を考えて、屋根を観察して見たのさ。ここらは豪雪地帯だから、急角度の三角
屋根で、とてもじゃないが、駆け下りるなんてできない」
「……それはよかった」
 実験しないで済んで、本当によかった。
「他に考えられるのは、ロープを渡す方法だな」
「ロープを渡すって、カウボーイよろしく投げ縄? とてもできそうにない。どこかに
引っ掛かったとしたって、そのロープをレンジャーみたいにするすると手繰って移動す
るのは、難しいだろう」
「たとえば、弓矢の矢にロープを結わえて発射するとか」
「現実味がないなあ。しっかり突き刺さるような材質なのかい、離れの壁って。あ、そ
もそも、この別荘に弓矢はないんじゃないか」
「俺の記憶では、離れにはあったぞ」
「うん? そうだったかもしれないが、離れにある物を使うのは、ありなのかな?」
「離れも別荘の一部には違いない」
「それは分かる。だけど、本館から足跡を付けずに離れに行こうってのに、そのために
離れにある弓矢をどうやって取ってくるのかという……」
「雪が降る前に、持ち出したと」
「うーん。本末転倒してるような」
 事前に弓矢を持ち出したのなら、お宝も併せて持ち出しとけばいい。
「一応、離れには弓矢を始めとして、色んな物があることだけは留意するよ」
「そうか。俺はこれもキープ」
 ロープの次は、橋を架ける方法を検討する。橋と表現するのが大げさなら、足場だ。
「途中までは、本館から続く飛び石があるから、その上を行けばごまかせる可能性があ
る。無論、石の上に痕跡が残るが、雪を被せれば隠せなくはない」
「無理がありそうだけど、仮に飛び石伝いに最接近したとして、離れまでは残り何メー
トル?」
「目測で、五メートル強。ジャンプすれば届く可能性が出て来た」
「届いたとしても、雪が積もっているから、着地点に痕跡が残るんじゃないか」
「うん、そうなんだ。離れの玄関先に大きな庇でもあればいいんだが、なかった」
「じゃあ、無理だ」
「だが、ここで俺は思い出したね。玄関を入ってしばらく行くと、右手に大きな絵が掛
けられていることを」
「玄関て本館の玄関か。絵はあった気がするが、それをどうする?」
「足場にする」
 得意げに言う浅田。私の方は、どんな顔をしていただろう。
「あの絵の横幅は、五メートル近くあった。額縁の枠内に板を敷き詰めて固定し、一枚
の大きくて頑丈な板にする。それを飛び石から離れの方向にひょいと放ってやれば、足
場になる」
「……大きくて平たいから、荷重が分散され、雪に残る跡が目立つことはない、という
理屈だね」
「そういうこと」
「敷き詰める板はどこに?」
「まだ見付けていないが、こんな山に建つ別荘なんだから、どこかにあっても不思議じ
ゃない」
「あったとしても、後始末はどうするのさ。恐らく、絵がぼこぼこになる」
「放っておけばいいんじゃないか?」
「いや、だって、絵を元の場所に掛けておかないと、怪しまれる」
「そこなんだよ。俺が感じた、問題文に対するもう一つの疑問。雪密室のトリックを使
ったとして、そのことを他人から隠さねばならないのか?」
「……推理小説的には、隠すべきだろう」
「しかし、犯罪じゃないんだぞ。プレゼントをくれるというからもらうために考えただ
けだ」
「そんなことを言い出したら、雪に足跡を付けずに離れに行く方法なんて考えずに、鍵
の場所を内藤さんが教えてくれるまで待って、みんなで仲よく取りに行けばいいことに
なる」
「ゲームはゲームとして尊重したい。ゲーム内でのことを言ってるんだ、俺は」
「分かった、理解した。じゃあ……犯罪でもないのにトリックを使うのは、トリックに
よって他人を驚かせたいからだろう。それなのに、どんなトリックを使ったか、あから
さまに証拠を残すのは、その精神に反しているとは思わないか?」
「おお、なるほど。真理だな。そうなると、さっき俺が言った絵を使うトリックは、だ
めだな。絵を元の場所に戻せない。絵を焼却して、盗まれたように偽装しても、トリッ
クのヒントになることには変わりがない」
「絵を足場にするくらいなら、スキー板を利用する方がましだ」
「ほう。たとえばどんな風に」
「たとえば……多分、ここにはスキー板が何組もあるだろうから、重ねてブリッジ状に
するんだ。橋脚になる物さえあれば、恐らく渡れる。長さ的に足りないけど、ブリッジ
自体が可動式だから、何とかなるだろ」
 これは口から出任せの即興だ。色々と穴はあるが、とりあえず橋脚をしっかり固定す
る手段がないだろう。しかし、浅田は真剣にメモを取った。「物干し竿も使えるかも
な」等と呟きながら。
「ジャンプやロープや橋の他に、何か方法があるかな」
「あとは……空中浮遊ぐらいしか。ドローンみたいなスマートヘリがあればの話だけ
ど」
「だよな」
「密室殺人じゃないんだから、時間差を利用するトリックも応用が利かないし」
「時間差ねえ……。雪が降り出すまでに離れへ行き、そのまま留まって、雪が止んだあ
とどうにかして本館に帰るっていうのは、問題文の条件から外れるか」
 浅田の言う通り。雪が降り止んだあと、足跡を残さず、“行き来”しなければならな
いのだ。
 このあとも少しの間、ディスカッションは続けられたが、もう出がらしのようなネタ
しか残っていなかった。適当なところで切り上げ、私は自分の部屋に戻った。

 結局、七人全員、提出がぎりぎりになった。言い換えると、サイン云々の保管対策は
行使されなかった。
 リビングに集まると、テーブルを囲む。そのテーブルの中央には、四折りにされた用
紙が七枚、重なって山になっている。
「では、ランダムに見ていくとするか」
 ここでも力丸先輩がイニシアチブを取る。現部長が来ていないのだから、当然だ。
 前の部長は、一番上の用紙を取り上げた。
「おっと、いきなり自分のを引いた。何かトップバッターは気恥ずかしいな。えー、
『他人に行かせる』が俺の答だ」
「え?」
 どよっ、と部屋の空気がざわめく。
「他人に行かせるって、つまり、自分の足跡さえ付かなければいいっていう解釈です
か」
 私が尋ねると、力丸先輩は皆の反応に満足したように、にやりと笑った。
「ああ。他にも候補はあったんだが、これが一番ユニークだと思ったんで書いた」
「そ、そんな」
 殿蔵先輩が、開いた口がふさがらないとばかり、ぽかんとしている。
 力丸先輩は「先に全員のを見てしまおう」と、二枚目を手に取った。
「二枚目は、殿蔵だ。犯人当てにかかり切りだったから、こっちはお疲れかな? どれ
どれ……『自分以外の関係者を招く前の段階で、本館を白い布で覆って隠す。また、離
れの窓から別の離れがあるのが見えるよう、小屋を建てておく。やって来た皆には、離
れがさも本館であるかのように案内する。この間にお宝を頂く。その後、一度全員で外
出。戻ってきたら、今度は本館に入る』――長いな」
「長い上に、いまいち意味が掴めない。分かるような分かんないような」
 四津上先輩の批評に、殿蔵先輩は捨て鉢な反応を示した。
「頭がこんがらがった状態で書いたんです。犯人当ての推敲が終わったばかりだったん
で。あー、そうですとも、自分の責任ですから仕方ありません。でも、まさか、『他人
に行かせる』なんてのがありだなんて……真面目に考えた自分は、とほほですよ」
「疲れてるな〜。いいぞ、今は無礼講だ、ぐだっとなって休め休め。よし、次は」
 上から三つ目。ちらっと見えた名前は、浅田だった。果たして、どの案を選んだの
か、少々気になる。彼の顔を窺おうとすると、ちょうど目が合った。慌ててそらす。
「浅田だな。一年の答は……『逆立ちして往復した』」
 結局、最初に思い付いた案を選択したのか。浅田らしいと言えばらしい。
「足跡を付けたらだめっていうなら、手なら文句あるまいってことで」
「一見するとうまく裏を掻いたようだが」
 四津上先輩が、何やら意地悪げな目をしている。
「もしほんとにお宝を持ち出すとしたら、逆立ちで運ぶのは一苦労しそうだな。重量の
ある物だったら、リュックに入れて背負ったとしても、バランスを崩しそうだ」
「そのときは、重たい物はあきらめて、軽めの初版本でも頂いていきます」
 浅田は笑いながらではあるが、真面目に反論した。勝ちたいという言葉に、嘘はなか
ったようだ。ただ、この答でその目的が達成できるかどうかは、心許ない。
「で、次は四枚目になるのか。えー、柿谷」
「はいはい」
 名前を呼ばれたせいか、返事をする柿谷先輩。
「オリジナリティでマイナスになると分かってしまったので、しょんぼり」
「というと、誰かと被ったか。どれ、『雪が凍るよう、予め水を撒く。凍った後、ゴム
ボートに乗って、氷の上を滑るようにして離れと本館を行き来する』――被ってるか
?」
「浅田君のと同工異曲でしょ。雪に足跡以外の痕跡が残るという点で」
「えらく自分に厳しいな」
「それよりも、この別荘のどこにゴムボートがあるのかを聞きたい」
 折沢先輩が言った。
「近くにボートを使うような水場もなさそうだし」
「去年来たとき、物置部屋の片隅で見たんですよ。膨らませてないから確証はないけれ
ど、あの色合いと質感はゴムボートで間違いありません」
 柿谷先輩がそう話しても、他の先輩方はぴんと来ないようだ。あとで見に行こうとな
って、五枚目の用紙を開くことに。
「四津上、おまえだ。字が酷いな。酔いが抜けないまま書いたな、これ」
「すまんな。内容の方も酔っ払ってるが、勘弁してくれ。読みにくければ交代するが」
「うんにゃ、どうにか読める。『そこいらにいるであろう昆虫を一匹捕らえ、その体に
細くて軽くて丈夫な糸を結わえる。釣り糸がよろしいが、ここにあるかどうかは不明な
り。なき場合は、衣服の端をほどけば事足りる。糸を結わえた昆虫を、窓から離れに向
けて放ってやる。一度でうまく行く保証はなき故、成功するまでチャレンジするがよろ
しい。首尾よく、昆虫が離れまで飛んでいった暁には、糸を引き、本館まで戻ってくる
よう、導いてやるがよろしい』……驚いたな、俺よりもひねくれた答があるとは」
 力丸先輩自身、『他人に行かせる』と答えた手前、この四津上先輩の昆虫を利用する
答を否定できないらしい。それにしても、問題文に言及されてないとはいえ、昆虫を飛
ばして往復とは……。
「俺のは忘れてくれ。気を取り直して、六枚目に」
「そうするか。えっと、残ってるのは二人で、次は……折沢」
「『最後から二番目の真実』になるかな」
 折沢先輩は薄く笑って、ミステリのタイトルを口にした。そういえば、『雪密室』と
いうミステリもあるなあ。
「『オランダのスポーツ運河跳び――フィーエルヤッペンの要領で、本館から離れへ跳
躍する。帰りも同様。ポールは周囲に生えている竹を使う』とは、また特殊なネタを持
って来たもんだ」
「雪に一点だけ、ポールを着いた跡が残るが、まさか“犯人”がフィーエルヤッペンの
名手だとは、誰も思い至るまいというトリックさ」
 台詞とは異なり、特に誇る様子もなく、淡々と語る折沢先輩。
「最初は、もっと本気で考えていたんだけれどね。内藤さんの用意したプレゼントが七
つのはずがないと気付いたから、ちょっとやる気が削がれた」
「え? でも、人数分を用意したとあったじゃないですか」
 浅田が問い返すと、折沢先輩は首を横に振った。
「お忘れかな。僕は冬合宿に飛び入り参加なんだよ。内藤さんは、事前に六人参加と聞
いた上で、プレゼントを用意したはずだろ」
「あ、そうか」
 言われてみれば、である。でも、数が足りないなら、最下位になった者がプレゼント
なしという取り決めにしてもよかったのに。
「お宝の数の問題は、棚上げするとしてだ。最後の一枚、志賀の分を読むぞ」
 手を叩き、全員の注意を惹く力丸先輩。静かになったところで、読み上げ出す。
「えー、志賀の答は――こりゃいい。『雪解けまで待つ』」
 静寂に覆われていた室内が、一転して沸いた。「気が長いな」「再び雪が積もれば、
確かに」などという感想が飛び交う。
「おまえ、そんなこと考えていたとは。ディスカッションのときは、おくびにも出さな
かったくせに。やられたぜ」
 浅田に背中をばんばん叩かれた。
 順位はどうなるか知らないが、受けがよかったので、私はほっとした。

 その後――十二月二十六日になると同時に、内藤さんからのメールが着信した。これ
に鍵の在処と、雪密室の解答例が記載されている。私達推理研のメンバーは、息を殺す
ようにして文面に目を走らせた。
 だが、鍵の在処も解答例も、はっきりとは書かれていなかった。
 ゲームに関係のある文言としては、台所の床にある貯蔵庫に下りてみなさい、これだ
けである。
 私達七人は揃って台所に行き、床に設けられた観音開きの扉を開けた。よくある貯蔵
庫だ。根菜類や味噌などを保管していると聞いた覚えがある。
「意外と深いな。それに、広い。これなら下りられる」
 力丸先輩が懐中電灯を持って下りた。懐中電灯は他に二つしかない。全員が下りて酸
欠になったら洒落にならないし、ここは四津上先輩(今は酔っていない)が加わるのみ
とした。万が一、悪い意味でのトラブルやハプニングが起きた場合、残る一本の懐中電
灯を持って、助けに行く。
 が、そんな緊迫感とは無縁の、力丸先輩ののんびりした声がやがて聞こえてきた。
「面白い物があったぞ。扉だ」
 扉? 残された五人は顔を見合わせた。クエスチョンマークがいくつも浮かぶ。
「扉には、目の高さにプレートが貼り付けてあって、そこにはこう書いてある」
 今度は四津上先輩の声。若干、反響しているが、充分に聞き取れる。
「『離れまでの秘密の地下通路はこちら』だとさ」
「ええー?」
 売れっ子推理作家が、秘密の通路を使うなんて……あり得ない。

――終わり




#476/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/12/30  22:42  (358)
稚児の園殺人事件 1   永宮淳司
★内容                                         16/01/01 14:43 修正 第2版
「姉を助けてください」
 可憐なその少年が言った。ほっそりとしているから、髪を伸ばせば少女にも見間違え
るであろう。詰め襟をきっちりと留め、いかにも真面目な印象がある。身体の大きな小
学六年生といった風貌だ。
 事務所に入って来た当初は、目に落ち着きがなく、おどおどしていた彼は、金尾幸治
と名乗った。誰も要求しない内から、生徒手帳を出してみせた。進学校として知られる
高校の一年生と分かった。
「警察は姉の話をほとんど信じてないみたいだし、弁護士さんは熱心じゃないように見
えたし、このままだと殺人犯人にされてしまうんじゃないかって思えて、心配で、どう
したらいいか分からなくて、それで僕、地天馬鋭さんの噂を聞いたから」
「分かったよ。順序立てていこう。まず、お姉さんの名前は」
 我が友・地天馬鋭は、彼にしては優しい物腰で言った。
「金尾夏江と言います。僕より八つ上で、今年二十四歳になります。私立草高幼稚園の
先生をしています」
 幸治少年はなかなか利発そうな外見をしていたが、中身もギャップがないようだ。依
頼内容に関係することを聞かれる前に話し始めた。
「草高幼稚園はどこにあるんだろう? 残念ながら僕は知らない」
「Y県の方です。詳しい住所はここに」
 と、少年はメモ用紙を胸ポケットから取り出し、開いてから地天馬の前に差し出し
た。地天馬は紙を一瞥してから、私によこしてきた。データ入力しておく。
「こちらでは報道されてませんが、だいたい一ヶ月くらい前に、この幼稚園で殺人事件
がありました」
 幼稚園で殺人とは穏やかでない。私は思わず口を挟んだ。
「まさか、子供が殺されたのかい?」
「いいえ。江内ローンという金貸しの社長が被害者です。江内省三、五十九歳と聞きま
した。幼稚園は老朽化がひどくって、その改修費用を江内ローンから借り、大変な額に
膨らんでしまったそうです」
「お金が動機と見なされているんだね」
 再び地天馬が聞く。
「だと思います。詳しくは……」
「お姉さんは幼稚園の経営にタッチしていたのかい?」
「していませんが、子供達や幼稚園の将来を思う心は、園のみんなが同じように持って
いるって……」
 姉を思い起こしたのか、しばし言葉を詰まらせ、幸治は唇を噛みしめた。若干、頬が
紅潮したようだ。色白の肌が朱に染まる。
「すみません。僕にとって、姉は母親代わりの存在だったから」
「かまわない。ゆっくり、落ち着いて喋ってくれればいいよ」
「でも、少しでも早くしたいから」
「そうか。では――夏江さんがどうして容疑者にされたのか、知っていることを全て話
してくれないか」
「それなら、警察と国選の弁護士さんから、粗方聞いています。殺人現場の状況が、姉
にしか行えないことを示しているって」
「うん。もっと具体的に。先に、状況を説明してほしい。事件のニュースはこちらでは
どうやら流れていないらしい。僕らは全く知らないんだ」
「はい。江内社長が幼稚園の庭で死んでいて……あ、洗濯物を干すロープで、首を絞め
られていて。ロープはベランダの柵に掛けてあった物で、誰にでも使える状態でした。
ううん、背の低い子供には無理ですけど」
 さすがに殺人の説明に差し掛かると、話し方がおぼつかなくなる。人から聞いた話で
あること以上に、やはりその非日常性が少年を動揺させるに違いない。
 地天馬は両肘を机につき、組んだ手の甲に顎を乗せる格好で、辛抱強く聞き役に徹し
た。
「事件が起きたのは、大雨が降った翌日の土曜でした。実は、僕も姉のアパートに行っ
ていたんです」
「え?」
 さすがに地天馬も意外に感じたのか、声を上げた。
「電話したとき、姉がとても落ち込んでいるように思えたから、金曜の夜、思い切って
行ってみたんです。泊めてもらうつもりで、あらかじめ連絡を入れておきました。土日
と休みだし」
「事件直前のお姉さんの様子に、何か不自然なところはあったのかな」
「あるというかないというか……依然として落ち込んでいる風でしたが、聞いても何も
教えてくれなくて。それ以外の話題には明るく応じてくれるんです。僕が冗談を言うと
笑うし、テレビの物まね番組で派手なかつらを被ったタレントを見て、急に姉もかつら
を引っ張り出してきて被って、おどけたり。あとで思ったんですけど、僕を心配させま
いとして、姉は無理をしてそんな振る舞いをやったのかもしれませんよね。
 結局、金曜の晩、姉は早めに布団に潜ってしまいました。それで、僕も仕方なく眠っ
たんですが、まさか次の朝、あんな知らせを聞くなんて」
 声を詰まらせる金尾幸治。我々は先を急かさずに待った。
「在来線を乗り継いでいった疲れで、僕は寝坊してしまいました。起きると八時二十五
分ぐらいで、姉が用意してくれたコーンフレークとハムサラダの食事があって、それを
食べてるとき、急に訪問者があったんです」
「お姉さんがいつ出て行ったのかは、分からないんだね?」
「はい……」
「思い出すのは辛いかもしれないが、殺人事件そのもののことを聞かせてくれないか。
他に必要と感じれば、君のことも聞くよ」
「分かりました……土曜日は朝から曇りで、地面がぬかるんだままで……そうだ、写真
を見せてもらったんですけど、水たまりがほんの小さな物ですがあっちこっちに残って
いるくらいの状態でした。そんな泥の中に、社長は仰向けで倒れて亡くなってた」
「凶器のロープはどこに?」
「遺体の首に巻かれたままだったとか。それで、ロープから指紋が……姉の指紋が出た
のが、証拠の一つにされました。でも、他の人のだって、着いてるんです。当然ですよ
ね、普段から園で使っている物なんだから」
「恐らく、夏江さんは遺体発見時にロープに触ったんじゃないか」
「そ、そうです。あの、まだ言ってないと思うんですが。姉が第一発見者だってこと
を」
 目を大きく開いて、それから瞬きを幾度もした幸治少年。一方、地天馬はわざとなの
かどうか、驚いた顔つきをする。
「ああ、推理が当たったようだね。よかった」
「推理って……」
「ロープに多人数の指紋が残っているにも関わらず、君のお姉さん一人が特に疑われる
としたら、その理由は何かと考えてみたんだ。前日、大雨に降られたんだから、それま
でに着いたロープの指紋は薄くなったはず。夏江さんの指紋だけが鮮明に残るとした
ら、事件後、ロープに触れた可能性が高い。ロープに触れるには、第一発見者でなけれ
ば難しいだろう……と」
「す、凄いですね。その通りなんです」
 見開かれていた少年の目が、ほっとした光を帯びる。地天馬に全幅の信頼を置くこと
に決めた――そんな様子に見えた。
 地天馬は椅子の上で腰の位置を直すと、次のことを付け加えた。
「ただ、第一発見者という理由だけじゃない気がする。幸治君は地面のぬかるみを強調
していたから、恐らくは事件に関係があると見たんだが、どうかな」
「は、はい。当たってます。凄い、本当に……」
「君が知っていることを言い当てても意味がない。事件の真相を射抜かないとね。さ
あ、続きを」
 地天馬に先を促され、少年は居住まいを正し、両手を膝上に揃えた。畏敬の念を態度
で示そうというのか、傍目から見ていると面白い。
「足跡が、姉のものしかなかったんです」
「ふむ。被害者の足跡もなかったのかい?」
「あ、いえ。間違えました。姉さんの他に、死んだ社長さんのもありました」
 小さな間違いでも恥ずかしいのか、うつむいて、頭頂部を地天馬に向ける格好になっ
た。ずっと「姉」で通してきたのが、初めて「姉さん」に変化したことからも、動揺が
窺える。
「気にしないで、僕にもっと教えてくれよ、事件のことを」
 私は依頼人と地天馬の様子を目の当たりにして、何だか先生が児童に接しているみた
いだな、と内心で苦笑した。
 この金尾幸治少年、今時珍しいタイプの高校生ではないか。いや、本当はいつの時代
にもいるのだが、目立たないだけなのだ。
「は、はい」
 顔を半分ばかり起こし、幸治少年は唇をなめた。詰め襟に指をやって息苦しさを緩和
し、深呼吸を挟むと、話を再スタートさせる。
「姉さんが、じゃなくて、姉が言うには、その朝七時、幼稚園に一番にやって来て、庭
で遺体を発見したとき、地面には社長さんの足跡だけがあったって。それでびっくりし
て駆け寄って、首に絡まっていたロープを外し、何度も揺さぶったけれど、社長さんは
意識を失ったまま。恐くなったけど、それでも脈とか心臓の音とかを探って、死んでる
みたいだって……警察と救急車を呼ぼうとしたら、ちょうど他の先生達が姿を現したん
だそうです。その中の一人に通報を頼んで、姉は社長さんの身体から離れて。そうした
ら急に震えが来て、その場にしゃがみ込んだって言ってました」
「幼稚園の敷地内の見取図、ないかな。君に書いてもらってもいいんだが」
 地天馬が求めるのへ、少年は慌てたように首を横に振った。
「絵は、全然駄目なんです。見取図をもらっていればお渡しするんですが、あいにくと
……」
「ん、分かった。こちらで何とかするとしよう。では、そうだな。金尾君は、直接その
幼稚園に行ったことは?」
「姉に会いに行ったとき、何度かあります。事件のあとなら、一度だけですが。そのと
き、事件の説明をされたんです。全然納得できなかった」
「結構。足跡が残らない領域が、当然あったと思う。たとえば幼稚園の建物のベランダ
や、コンクリートブロック、短い芝を植えたスペースがあれば、そこも該当するかもし
れないな。そういった足跡が付かないであろう場所と、被害者が倒れていた位置との距
離を思い出してほしい」
「あっ、ジャンプできるかどうか、ですね。それなら警察の人がすでに実験したそうで
す。まず無理だろうって。ジャンプしても届かないか、ぬかるんだ地面に足を取られ
て、派手に転ぶのが落ちだとかどうとか」
「さすがにこの程度は、警察も調べているか。ついでにもう一つ、空想の可能性を潰し
ておくか。園内にブランコはある?」
「ブランコ? 確か、箱型の四人乗りのやつが置いてあったと思います。ただ、安全面
で問題が取り沙汰されているとかいう理由で、使用中止になっていましたよ」
「ほう。その“使用中止”とは、警告だけなのかな? それともブランコ自体が動かな
いように、針金か何かで固定していると?」
「固定されてました。太い針金で揺れないようにして、さらにブランコの真下の地面に
クッションみたいな物を置いて、空間をなくしているというか……」
「クッション?」
 これは私の発言。野外に布製のクッションなんか置いたら、すぐにぼろぼろになって
しまうだろうと感じたのだ。
「あ、あの、クッションというか、空気の入った直方体のブロックみたいな代物です。
えっと、ビニール製で、そう、ビーチボールと同じ材質じゃないでしょうか。あれの直
方体版という感じです。一個が抱き枕ぐらいありそうな」
「ああ、なるほど。理解できたよ」
 正式名称を知らないが、教育テレビの幼児番組で見掛けたことがある。ビニール製の
大きな積木といった趣だった。各面が赤や青や黄色など、異なる色で塗り分けられてお
り、なかなかカラフルだったのを覚えている。
「ブランコがそんな状態では、横揺れを利して勢いをつけてのジャンプもあり得ない訳
だな」
 地天馬は真面目な調子で言ったあと、相好を崩してくすくすと笑った。
「金尾君、話してくれたことに感謝するよ。このあとは僕の方で動くから、心配しなく
ていい」
「あ、あの、地天馬さん。僕の依頼、引き受けてくださるんでしょうか?」
 不安いっぱいの眼差しで、低いところから見上げるかのように、恐る恐る、地天馬を
見る少年。
 名探偵は力強く首肯した。
「もちろんだとも。ここまで事件について聞いておきながら、何もしない訳が無いじゃ
ないか」
「あ、ありがとうございます。で、でも……僕……」
 またもやうつむいてしまう。彼は、学生ズボンの尻ポケットに手を持って行こうとし
てはやめる、という仕種を何度か繰り返した。
 もしかすると、この子は……。
 しばらく静かな時間が続いたので、私は地天馬に近付き、耳打ちした。
「地天馬。彼は依頼料の心配をしているんだよ、きっと」
「ん? ああ、そうか。仕事であるのをすっかり忘れていた」
 地天馬は席を立つと、背後のロッカーから、この間作ったばかりの木製のドアプレー
トを取り出してきた。「本日休業」と彫られた、素朴な味わいの板だ。地天馬自身はチ
ェーン部分が気に入らないらしく、他の物を買ってきて付け替えようと主張していた。
 地天馬はそのプレートを手に、一旦部屋の外に出ると、ドアノブに引っかけ、また戻
って来た。名探偵のこの突然の振る舞いに、私だけでなく、少年も一緒になって怪訝な
顔つきをした。
「なに妙な顔をしてるんだ?」
 我々の前で、地天馬は両腕を横に大きく開いた。
「金尾君。君は、休業中の探偵事務所に来て、雑談をした。その話に僕が勝手に興味を
持ち、調べる気になった。いいね?」
 ……また私を当てにする気だな。しょうがない奴。

 金尾夏江についた国選の弁護士は、我々との協調どころか、会うことさえ拒否した。
容疑者の弟からの依頼を受けたとは言え、探偵という存在は胡散臭く映るに違いない。
弁護士としての義務を遵守するなら、第三者の民間人に介入させないのは当然の態度
だ。充分に予想できる事態であり、ショックはない。
 幸い、Y県警には旧知の早矢仕刑事がいる。地天馬にとって本意ではないかもしれな
いが、彼を頼らざるを得なかった。むしろ、早矢仕刑事の存在が頭にあり、算段を立て
ていたのだと思う。
「お久しぶりです」
 駅前まで迎えに来てくれた早矢仕刑事は、短いながら顎髭を蓄え、イメージが多少変
わっていた。若々しい感じは薄れたが、代わりに精悍さを得たと言ったところか。知ら
ない人が見れば、社会人スポーツ選手と思うかもしれない。
「お世話になります」
 警察が好きでないらしい地天馬も、このときばかりは礼を尽くす。握手を交わし、お
互いに軽く頭を下げた。
「お世話と言っても、大したことはできないと思いますよ。今回、地天馬さんは我々の
見解とは異なる立場をお取りだそうですね。下田さんから聞きました」
「いがみ合うつもりは毛頭ない。真相を知りたいだけです」
「何でも、容疑者の弟から依頼を受けたとか。私も会いましたが、かわいらしい感じの
少年で、探偵に依頼を出すなんてことをするようにはとても見えなかったな。姉のため
を思って、懸命なんでしょうねえ」
 刑事の口ぶりには、同情する響きがあった。事件の構図は警察が掴んだ一通りしかな
い、と自信を持っているのであろう。
「とにかく、車にどうぞ。現場を見るにしても、資料を見るにしても」
 早矢仕刑事が示した車両は、黄色の軽四だった。記憶を掘り起こした私は、このとき
微苦笑を浮かべていたろう。
「ひょっとすると、あれは早矢仕さん自身の車で?」
「ええ。よく分かりましたね。警察車両だと、地天馬さんに文句を言われることを学習
しましたから。今回のように意見の相違がある場合、こうするしかないでしょう」
「そうなってくると、燃料代が気になるな」
 地天馬が言ったが、多分これは冗談だ。
 全員が車に収まると、早矢仕刑事はエンジンを掛ける前に、我々の方を振り返った。
「天気がよくて何よりです。で、どうします?」
「早矢仕さんはこの事件の捜査に携わっているのですか」
「無論です。携わってなければ、ここまで勝手はできません。携わっていても、かなり
冷ややかな目で見られますがね」
「お骨折りには感謝しましょう。捜査に携わっているのなら、事件のあらましの説明は
問題ないですね」
「ええ。話せる範囲で、お話ししますよ」
「では、現場に向かおう。足跡がポイントになっているようだから、早めに見ておきた
い」
 地天馬の決定に、早矢仕は黙ってうなずき、車をスタートさせた。ロータリーを出
て、ハンドルを左に切る。ビル群が少しだけ続き、程なくして風景が開けた。住宅街ら
しき区画に入る。
「近いんですか」
 私が尋ねると、「まあ、近いですね」と返事があった。
「日を指定させてもらったのは、今日明日と幼稚園が休みだからでして。心置きなく、
現場を見ることができるでしょう」
「保存状況は、期待しない方がいいでしょうね。幼稚園の運営がある」
「はあ。充分に捜査しましたし、写真などで記録も取ったので、フォローは万全かと」
 やがて草高幼稚園に着いた。事前の想像では、さほど広くない土地を最大限有効活用
した、こじんまりした施設を描いていたが、実際は違った。建物自体は確かにこじんま
りしているが、広い庭付きだ。塀は低いようだが、生垣が作られ、道路との距離を充分
に取っている。幼児を思う存分遊ばせることができるし、親も安心感を持てるだろう。
「鍵を、事務長の草高均氏から預かってきました」
 門をくぐり、足を踏み入れる。門から園舎の玄関まで、コンクリートの白い道が続く
が、我々が今目指すのはそちらではない。
 左脇に逸れると、やはりコンクリートで固められたごく緩やかな坂がある。そこを下
ると、幸治少年が言っていたように、ビニールブロックを三つ載せた箱型ブランコを真
左に見ながら、殺人現場である庭に出た。園舎の前からは、コンクリートが途切れ、地
面になる。刑事が言った。
「庭は遺体発見時の状況を再現してます。写真を元に再現したから、間違いありませ
ん。無論、足跡と遺体そのものを除いて、ですがね」
 鰻の寝床のように細長い庭だ。広くはあるが、遊具や砂場、プールなどが道路側の塀
際にまとめて設置されているせいもあり、土が露出したスペースのみを取り上げると長
辺と短辺の長さが極端に違う長方形に見える。
「江内省三が倒れていたのは、あそこです」
 早矢仕刑事は一方向を指差しながら、我々を先導する。すでに地面はぬかるんでいな
いし、足跡も残っていない。だが、それでも足下を注意してしまう。
 刑事は立ち止まると、改めて「ここです」と言った。門から見て、最も奥まった地点
と言えた。
「塀に頭を向け、足はこっちでした」
 頭の位置を示す早矢仕刑事。隣家側の塀から一メートル近く離れていた。道路側の塀
へ一メートル行くと、ブランコがあった。こちらの方は一人乗りのブランコが二つだ
が、やはり使えないように針金で縛ってあった。事故防止なのだろう。
「足跡は二種類のみ。どちらも門のところからここまで続いていた。被害者と容疑者・
金尾夏江のものです。幸いにもほとんど重なっておらず、識別は大変容易でした。他の
足跡を消した形跡はなし」
「念のため、足跡に沿って、歩いてみてくれますか」
 リクエストを、早矢仕刑事は気安く引き受けた。何度も現場に立って記憶に鮮明なの
か、迷う様子もなく二往復した。先に被害者、次に金尾夏江の足取りを再現する。
 被害者の方が、道路寄りのルートを取ったと分かる。対する夏江は、被害者の足跡と
園舎のベランダのちょうど中間辺りを通ったらしい。
「金尾の供述では、被害者の足跡を避けて歩いたのは、何となく嫌な予感がしたからだ
と。まあ、門のところに立てば倒れた江内の姿が目に入るでしょうから、不自然とは言
い切れませんがね」
「洗濯紐による絞殺だと聞いています。凶器となった紐は、どこに掛かっていたんで
す?」
「ベランダの両サイドに柵があるでしょう。その向かって右側の方です」
「そうですか。ちょっとおかしいな」
「え。な、何がですか」
 うろたえぶりが激しい早矢仕刑事。以前の事件で地天馬の探偵能力を目の当たりにし
たせいだろうか。
「紐を手に取るのに、金尾さんが歩いたルートでは、やや遠いように思える」
「何だ、そんなことですか。手を伸ばせば届かない距離じゃないでしょう。金尾夏江に
会えば分かりますが、背の高い、すらりとした美人ですよ。ああ、美人は余計でした
ね」
 安堵の息のあと、笑みを浮かべた早矢仕刑事。だがそれも束の間。
「何故、わざわざ手を伸ばしたのかな。ベランダのすぐ前まで近付いて、紐を取ればい
い」
「……なるほど。理屈だ」
 言いながら、首を捻った刑事。地天馬の見解に疑問があると言うよりも、認めたくな
かったのかもしれない。
「しかし、それだけでは覆せませんよ」
「でしょうね」
 地天馬は淡々と認めると、庭をぐるりと見渡した。
「話を先に進めますよ。塀越しに、道路からこちらに遺体を投げ込むことは、不可能で
すか」
 地天馬の問い掛けに、刑事は目を見開いた。だが、そんな驚きの表情はほんの一瞬
で、すぐに微笑を浮かべた。
「一応、警察でも考えましたよ。ダミー人形を使った実験では、よほどの怪力無双か、
あるいは重機を使うかでなければ無理との結論が出ました。機械の類を持ち込むと、近
隣で気付く人が大勢いていいはず。実際はそうでありませんでしたから」
「車高の高い、たとえば大型トラックやバスから遺体を投げ落とせば、届くのでは?」
「実験はしていませんが、そんな高さから落とせば、遺体に何らかのダメージが出ま
す。そのような報告は受けていません」
「ふむ。園舎内を通って、遺体をあの位置まで放るのも無理だろうな……。納得しまし
た。説明の続きを」
 地天馬に促された早矢仕刑事は、小さく咳払いをした。
「えー、先にも触れましたが、金尾夏江は江内を絞殺するのに充分な身長を持っていま
す。首にはほぼ平行に絞殺痕が残っており、身長の点で問題はありません。腕力の方
は、火事場の何とやらと言いますし」
「ちょっと待った。早矢仕さん、いちいちそんなことを断るからには、何かあるね。た
とえば……被害者の首が折れていた?」
「い、いえ。とんでもない。折れてはいません。わずかにひびが入った程度で、女性の
力でも充分ですよ」
「随分断定的だなあ。相手が無抵抗だったら、そうかもしれないが」
「その点はこれからお話しします。動機にも絡んでまして……さっきから、私、被害者
を呼び捨てにしてると思うんですが、江内っていう男は正直言って、いけ好かない野郎
なんですよ。金貸しというだけで悪徳のイメージがあるかもしれませんが、そういうん
じゃなく、女に手が早い。返済期限の延長を餌に、女をものにしてきたようなところが
あります」
 刑事の力説を聞いて、私はつい、聞いてみたくなった。
「被害者の年齢は割と行っていたんじゃなかったですか」
「今年で六十。周りの人間の噂によると、全く衰えていなかったようですよ。もうご想
像できてると思いますが、江内は金尾夏江を狙っていた。ここへの融資を続行し、返済
期限を延ばしてやる代わりに、自分のものになれっていうやつですね」
「草高幼稚園の経営は、そんなに苦しいんですか」
 私は幼稚園のあちこちを眺めながら、不思議に感じた。建物は多少老朽化しているよ
うだが、遊具は充実しているし、塀はまだ真新しい。全ては融資のおかげなのだろう
か。
「園長の……違った、事務長の草高均氏は他にもいくつか事業を手がけており、うち、
一つが江内金融に食い物にされている状態です」
「江内が死んだからと言って、借金がなくなる訳じゃないでしょう」
 私が指摘すると、早矢仕刑事からたしなめるような返答があった。
「ですから、江内の女癖の悪さが、本来の動機であると言ってるんですよ」
「それは分かりますが、ロープで殺すって言うのが、ぴんと来ない。計画殺人てことに
なる。これがたとえば、強引に言い寄られたのを拒絶した結果、突き飛ばして死なせて
しまったというような状況なら、まだ分からなくもないんですが」
「僕も同意見だ」
 地天馬が言った。彼と意見の一致を見ると、何故だか嬉しくなる。
「計画的犯行だとすれば、殺害場所に幼稚園を選ぶのは、論理的でない。真っ先に疑わ
れるし、園や子供達に多大な迷惑を及ぼす」
「ごもっとも」
 つぶやき、考え込む刑事。当初の自信が薄らぎつつあるのが見て取れた。
「でも、ですね。その考え方だと、幼稚園の職員は全員、犯人ではあり得なくなりま
す」
「悪徳金融業者を恨んでいるのは、草高幼稚園の人ばかりじゃないでしょう」
「もちろんですが、幼稚園の庭で死んだとなりますとねえ」
「幼稚園の関係者に容疑を向けさせるためかもしれない。江内と関係を持った女性が、
貸付先のリストを盗み見るか聞き出すくらいは、可能だと思いますね」
「あるかないかを論じれば、あるに振れるでしょう。だが警察は――私ごときが言うの
は口幅ったいですが――現実主義者です。最もありそうなことを真実として汲み取って
行く」
 論がかみ合わない。否、早矢仕刑事が故意に避けている。立場上、やむを得ないのだ
ろう。
「建物の中を見たら、ここは立ち去るとしよう」
 地天馬が言った。


――続く




#477/598 ●長編    *** コメント #476 ***
★タイトル (AZA     )  15/12/31  01:31  (413)
稚児の園殺人事件 2   永宮淳司
★内容
 園舎の内部は、いかにも園児達が喜びそうな飾り付けがされていた。折り紙や切り抜
きの動物が壁を飾り、天井から下がる音符のモールが揺れる。庭に面した大きなガラス
窓は、太陽の光を適度に取り入れ、教室を暖かくする。事件に関連しそうな代物は、ほ
とんどなかった。唯一、これら窓の施錠状態が問われたが、刑事によると、いずれもき
ちんと閉められていたらしい。玄関と勝手口も同様だった。
「これからお見せする資料に関しては、口外なしでお願いします」
 あらかじめ机上に用意されていたファイル群を示しながら、早矢仕刑事が釘を差す。
 捜査本部のある署に着くと、地天馬と私は小さな部屋に案内された。人目をはばかる
と言っては大げさになるが、あまり目立たないようにとの注意を事前に受け、どうやら
歓迎されていないらしいと分かる。
「約束を守るのは当然だ。ただし、警察の見解とは異なる真相があった場合、あなた方
警察がそれを隠そうとするのなら、僕も約束を守れない」
「……仕方ありませんね」
 早矢仕刑事は端からあきらめた風だった。地天馬のことをよく知っている。
「私一人が確約しても何の意味もないかもしれないが、真相が別のところにあるんだっ
たら、過ちを改めるにやぶさかでありません」
「OK。ご厚意に感謝します」
 地天馬と私は、一つ席を空けて、腰掛けた。真ん中に資料を置く。正面に早矢仕刑
事。
「全てをどうぞとお渡しできればいいんですが、上がよくない顔をして、ストップを掛
けられました。申し訳ありませんが、地天馬さんの方から要求をお出しください。応え
られる物だけ、お見せします」
「死亡推定時刻を」
「分かりました」
 ファイルを繰ろうとする刑事を、地天馬は手を挙げて止めた。
「覚えているのなら、口頭でかまわない。推定時刻に疑問があれば、報告書を見たいと
思う」
「そうですか。午前四時半から六時半までの二時間です。アリバイも言いましょうか」
「ほとんどの人には、アリバイがないんじゃないか?」
「はい。午前六時以降なら、はっきりしている人も何名かいますが、二時間丸まるとな
ると、誰もいません」
「誰もと言うからには、最初から金尾さんを犯人と決め付けていた訳じゃないようだ
ね」
 多少、皮肉の響きを帯びる地天馬の声。
「ええ、まあ。金尾夏江に重要参考人として来てもらった間に、他の人にも当たってみ
たという形を取りました」
「他の容疑者を列挙してもらえますか」
「容疑者というと語弊があるから、言うなれば関係者のリストになります。これはリス
トをお渡しした方が早いでしょう」
 早矢仕刑事は顔写真付きで手書きのメモをよこした。まさか、正規の印刷した資料は
持ち出し禁止で、特別に計らってくれたのだろうか。
 地天馬はそんなことに思いを巡らせる様子は微塵もなく、リストを受け取るや、目を
通し始める。私も横合いから覗き込んだ。
 トップは金尾夏江になっていた。弟とよく似た顔立ちの美人であるが、姉の方が積極
的な性格のように見えたのは、私の色眼鏡かもしれない。
 次に草高均。これまでに何度か耳にした、幼稚園の事務長で、オーナーでもある。小
太りで、福耳の持ち主。ただ、額に刻まれたしわは、苦労の多さを物語っているかのよ
うだ。
 以降三名は、草高幼稚園の職員が続く。阪口伸吾は園長で、五十キロを切るほどの体
躯に加え、その優男の風の容貌は一見頼りないが、腕力は強い。唯一の男手でもあり、
力仕事全般は彼の受け持ちだそうだ。早矢仕刑事も実際に会って、逆三角形の見事な肉
体を目の当たりにし、驚いたという。
 原田世津子は大柄の、肝っ玉母さんのイメージをそのまま具現化したような体格、笑
顔を持っているとのこと。ふくよかでよく笑う、大きな声の持ち主。
 大家心は原田とは対照的に、小柄で細身の女性。体重は四十キロちょうどぐらいで、
力仕事はもちろん、激しい運動も付いていくのが辛いほどスタミナがないが、子供の受
けはよいらしい。
「幼稚園の教職員の中で、死んだ社長に言い寄られていたのは、金尾夏江だけだったん
ですか」
 リストの途中で、地天馬が早矢仕に聞いた。
「いえいえ。江内の奴は女の好みの幅が広かったようで、全員に、その、穏やかな表現
を使えば、アプローチしていた、と。その中で本命が、金尾だったというのが背景で
す。ああ、全員拒絶していたのは言うまでもありません」
 リストの続きに戻ると、幼稚園関係者は終わって、三河章太郎という五十五の男性の
名があった。玩具店経営とあるから、店主なのだろう。江内に多額の借金があって、ト
ラブルになっていた一人。椎間板ヘルニアの手術を経て足腰を悪くし、杖を手放せない
身体になったのが商売に響き、返済に苦しんでいたようだ。早矢仕刑事の補足説明によ
ると、最近では食事も喉に通らないほど悩んでおり、体重が五十キロを切ったという。
彼が特に名前を挙げられたのは、草高幼稚園の近所に店を構えているとの理由からであ
った。
 江内の妻、江内美子も挙がっていた。言い方はよくないかもしれないが、でっぷりと
太って装飾品をやたらと着けた、成金の典型のような身なりをしている。夫の会社の副
社長に収まっており、実際にも事務的な仕事をこなしてはいるらしい。時折、夫と不仲
になることもあるようだが、殺意に結び付くほどなのか不明。ただ、江内の死で美子が
遺産を手に入れられるのは間違いない。
 最後にあったのは、手塚理緒奈という二十七になる元モデルにして、江内の秘書。も
っとも、秘書とは名ばかりで、愛人であるとの話だ。元モデルだけあって、きれいなな
りをしているが、私個人の感想を述べるなら、癖のある美人といったところか。
「この注釈の、ビニール・ゴム製品にアレルギーありというのは?」
 気になる書き込みを見付け、私は早矢仕刑事に尋ねた。
「手塚は一部の石油製品アレルギーで、少しでも触れると、その肌がかぶれたように赤
くなるんだそうです。私は見ていませんが、寝不足だったり、体調を崩していたりする
と、特に過敏になるそうで。彼女がモデルをやめた理由の一つは、これがあったみたい
ですね。水着や服の材質をいちいちチェックしなければいけないモデルとなると、使う
側が嫌うようです」
「なるほど。江内の秘書という役割は、いい居場所を見つけたつもりだったのかもしれ
ませんね。これからどうするんだろ」
 他人事ながら詮索してしまう。事件に話を戻そう。
 美子が江内と手塚の仲を知っていたかどうかは定かでない。ただ、美子も手塚も、江
内の女好きの性癖をよく知っていた。
「繰り返しになりますが、全員、アリバイなしです」
「殺されるまでの被害者の行動を、判明している範囲で教えてもらえますか」
「午前一時過ぎまでは、はっきりしています。十時過ぎからずっと、知り合いのバーだ
かキャバレーだかで、大勢と飲み明かしていた。あっ、店は閉めて、個人的な付き合い
で飲んでいたとの話です。手塚が午前〇時まで付き合っており、それ以降も多くの証人
がいます。それからタクシーで自宅に戻り、四時半頃まで仮眠。これは妻の証言しかあ
りませんし、当の美子も夫の帰りを出迎えただけで、すぐにベッドに潜り込んだと証言
しています」
「四時半まで寝ていたというのは、どうして分かるんです?」
 当然の疑問を呈す地天馬。
「仮眠を取る場合、三時間であることが常だったから、と美子は言っています。帰宅が
一時半ぐらいだったそうで」
「ふん。確実ではないと」
「そうなります。で、このあと、午前七時に出勤してきた金尾夏江に“発見”されるま
で、全くの不明。何故、朝早くから幼稚園に向かったのかも、はっきりしない。恐ら
く、金尾夏江の甘言に、ほいほいと出て行ったのだろうというのが、捜査本部の読みで
すが……地天馬さんは気に入らないでしょうね」
「金尾夏江の名をかたった手紙で呼び出された可能性はあるんじゃないですか」
「別人が金尾のふりをして江内を呼び出し、これを殺害したと」
「江内が金尾に相当入れ込んでなければ、成り立ちませんがね」
「ええ、ええ、それはありですよ。江内が金尾夏江に執着していたのは間違いない事実
ですから」
「要するに、早矢仕刑事。真犯人を捕まえなくとも、足跡の疑問を解き明かせば、彼女
への疑いは晴れる。違うかな?」
「……足跡が強力な決め手なのは、その通りですが……」
「ひっくり返して見せましょう」
 断言した地天馬。早矢仕刑事はその言葉を待っていたかのように、「ぜひ、やっても
らいましょうか」と即座に応じた。挑戦的な台詞に聞こえたが、その直後、頭を下げる
早矢仕。
「誤りがあるのなら、早めに正さねばならない。これが私の本心です。お願いします
よ、地天馬さん」
 これには地天馬も激しい反応を示した。楽しげに手を叩くと、演説口調で一気に喋
る。
「ああ。素晴らしいね、早矢仕さん! 僕の事務所に近所に引っ越してきてもらいたい
くらいだ。転勤の予定は?」
「さ、さあ? 人事のことは分かりません……」
「そうですか、残念。もしもこちらへの転勤が決まったら、知らせてほしい。よければ
歓迎会を開こう」
「はあ……」
「さて、早矢仕刑事。現場で撮った写真――足跡の写真をここへ」
 自分の前の机を、指で叩いた地天馬。早矢仕刑事は準備していたのだろう、数葉の写
真を手早く取り出し、置いた。靴の裏の模様が地面にくっきりと刻まれており、よく分
かる。
「全体を色々な確度から収めた物と、個別に足跡を撮った物、それに遺体の周りの物で
す。足跡を一つずつ接写した物もあるにはあるのですが、ここへは持ち出してきていま
せん」
「ふん。必要が生じれば頼みますよ」
 そう応えた地天馬は、早くも写真に鋭い視線を投げかけている。
「遺体のすぐそばに乱れた足跡がいくつかあるのが見えると思いますが、それは江内の
足跡です。絞殺される際に、抵抗したんでしょう」
 早矢仕の示唆に、地天馬は生返事をし、やおら質問を発した。
「意外に硬そうな地面だ。もっとぐちゃぐちゃにぬかるんだのかと思っていましたよ」
「あそこの庭の土は元々硬いんです。畑の土みたいに柔らかい物だと、子供が転んでも
安全は安全でしょうが、それでは幼稚園の外の生活において、かえって子供を危険にさ
らすという考え方だそうで。普段から、転ぶと痛いものだと教えてこそ意味があると
か」
「なるほど、結構なことです。それで、遺体発見時の地面の具合は、どうだったんで
す?」
「どうと言われても、写真にあるように……小さな水たまりがそこここにできて、全体
にじっとりと湿った感じの地面ですよ。確かに泥と呼ぶのは無理があるかもしれません
が、靴で歩けば重みでへこみ、足跡は鮮明に着く」
「おおよそ分かりました。いいでしょう。当夜、雨は何時に上がったんですか」
「午前四時十分となっています」
「ふうん。案外、犯行推定時刻に近いな。――この小さな穴は、傘の先で突いた痕跡か
な」
 地天馬が写真の表を刑事に向け、一点を指差す。刑事は身を乗り出し、目を近付け
た。
「ああ、そのようですね。杖代わりに使ったのかな。結構、数が多い……」
「被害者は傘を?」
「ええと。持って来ていなかった、ですね。自宅を車で出た江内は、十五分ほど要して
幼稚園の近くまで行き、そこから三分ほど徒歩だったようです。そう、思い出したぞ。
車の中には置き傘がありましたが、濡れていませんでしたよ」
「四時半頃に出掛けたのだとしたら、雨は上がっているから、話は合う。となると、こ
の傘の跡は犯人の物と見ていいでしょうね」
「はあ、そうなります。しかし、そんなに重要ですか?」
「犯人は午前三時五十分までに、幼稚園に姿を見せた可能性が高いと言える」
「地天馬さん、それは理屈ですが、絶対とは言い切れません。空模様を見て、ひょっと
したらまた降り出すかと考え、念のために傘を持って出たのかもしれない」
「素晴らしいね、早矢仕刑事。ますます気に入ったよ」
 嬉しそうに手もみする地天馬。
「ここで雨は一時的に忘れましょう。あなたは犯人が傘を持っていったと認めるんです
ね?」
「ん? ええ、もちろんです」
「先ほど、杖代わりに使ったのではと推測した。これも認める?」
「はい。確かにそう言いました」
「では、あなた方警察が犯人だと想定する金尾夏江の足跡の、すぐそばに傘の先で突い
た痕跡が全く見当たらないのは、どういう理由からでしょう?」
「え?」
 虚を突かれた様子の早矢仕刑事は、首を前に突き出した。唇をなめ、しばし考慮を重
ねた。
「それは……傘を差していたんでしょう。ああ、前言撤回だ。雨が降っているときに、
金尾は現場まで来た。これに変更します。これなら傘の跡は着かない」
「そう。そして、足跡も残らない」
「あ」
 思わず出たのだろう、舌打ちの音がした。早矢仕刑事は何度も首を傾げ、再び沈思黙
考が始まる。一分近く待たされただろうか。
「こういうのはどうでしょう? 金尾夏江は雨が降っているときに現場に来て、江内を
待った。途中、雨が止んだので傘を閉じ、杖代わりにして立っていた。そして江内が到
着し、犯行に至った。その後、門のところまで、後ろ向きに歩いていった」
「何のためにそんなことを?」
「自分が善意の第一発見者であるかのごとく見せかけるため、足跡を残す……あっ、だ
めですね。これだと、金尾自身が遺体のそばに居られない」
「その通り。この写真を見ると、一度着けた足跡を上からまた踏んでごまかした様子も
ない」
「困ったな。じゃあ……」
 つぶやいたきり、あとが続かない。名案は浮かばないようだ。
「もう一度、現場に戻ろう。一つ、実験を行いたい」
 地天馬が突然そう切り出した。
「も、もしや、足跡を着けない方法を思い付かれたんで?」
「大層な方法ではないけどね」
 地天馬は自信ありげに言うと、私に目配せしてきた。

「犯人は恐らく、午前四時にここで江内省三と出会う約束を取り付けたんでしょう。少
なくとも、江内を呼び出すことに自信があった」
 地天馬は手を広げ、高草幼稚園の庭全体を示した。彼が立つ場所は、ちょうど遺体が
あった付近だ。
 その庭は、水浸しになっていた。事務長に電話で断りを入れ、外付けの水道からホー
スを使って庭に水撒きをしたのである。事件当日の状況になるべく近付けるためである
ことは、言うまでもない。
「犯人は約束の十分前までに着いていた。始めから江内殺害しか頭になかった犯人は、
洗濯用のロープをベランダの柵から外した。傘を差して待っていると、しばらくして雨
が上がる。閉じた傘の先が、地面に小さな穴をいくつか作った。約束の時刻に遅れるこ
と五十分、江内が現れた」
「五十分も待つものか? いくら殺意を抱いていたとしても」
 私はつい、口を挟んでしまった。地天馬は嫌な顔一つせず、また言い淀むこともなく
応えた。
「約束の時刻が四時だとか、江内が四時半まで寝ていたというのは、あくまでも仮定だ
ということを忘れないでくれ。五十分という時間も不正確だ。ただ、真相に与える影響
はないと信じる」
「うん、飲み込めたよ。話の腰を折って悪かった。続けてくれ」
「江内は犯人に対して油断があったのだろう。アルコールがまだ残っていたのかもしれ
ないな。犯人に不用意に近寄り、あっさり絞め殺された。犯人は逃走する段階に至り、
困惑することになる。このまま門から出るには、足跡を庭に残してしまう」
 地天馬は塀の方を見やった。
「自殺に偽装したい訳ではないんだから、足跡を消しながら逃げるとか、足跡がはっき
り残らないようにすり足で逃げるとか、あるいは自分の靴を手に持ち、裸足になって逃
げる、被害者の靴を奪って逃げる等、色々な方法が考えられる。だが、犯人はそうしな
かった。多分、パニックになっていたんだと想像するよ。足跡を着けてはいけない、と
思い込んでしまったんだ。
 足跡を着けずに逃げるにはどうすればいいか。ジャンプ一番、塀を飛び越え、道路や
隣の家に逃げるのは無理がある。何しろ、塀プラス生垣の幅があるからね。雨上がりの
地面は滑るため、なおさらだ。
 同じジャンプをするのなら、ベランダに飛び移る方がまだ可能性がありそうだが、窓
の鍵が掛かっており、ガラスが割られた形跡もない。午前四時半から五時と言ったら、
微妙な時間帯だ。大きな音を立てたくなかったのかもしれない。とにかく、犯人はこの
手段も選択しなかった。
 犯人が選択したのは――それだと思う」
 地天馬は腕を真っ直ぐに伸ばし、我々のいる方角を差し示した。
「何のことだい、地天馬?」
「君の左側にある、ブランコの上に載っている物さ」
「うん? ビニールブロックしかないが」
「それだよ。一旦外に回って、持って来てくれないか。塀越しに渡してくれればいい」
 使うのなら、水を撒く前に持って行けばいいじゃないかと思った。そしてその不満を
口に出すと、地天馬は苦笑顔を横に振った。
「だめなんだ。事件後、ブロック三個がその箱型ブランコの上に移動してあったことを
確かめてもらいたかったのだ」
「移動? どこからどこへ?」
「そのブロックは元は、こっちのブランコのために使われていたんじゃないか。そう考
えるのが自然だろう」
 地天馬は、二連の一人乗りブランコへ顎を振った。早矢仕刑事が察しよく反応を返
す。
「言われてみれば、そっちのブランコも箱型と同じように針金で固定されているのに、
ビニールブロックを下に挟んでいませんね」
 私も幸治少年の話を思い出した。
「箱型の方は、ビニールブロックが多すぎるな。下に詰めるだけでいいのが、ブランコ
そのものに三つ載せてある」
「恐らく、こちらのブランコにあった物を引っ張り出し、運んだんだよ」
 地天馬の言葉に、私がビニールブロックに手を伸ばそうとしたとき、刑事から肩越し
に鋭い声をかけられた。
「ああ、待ってください! 犯行に関わっているのなら、指紋が出るかもしれない」
「いや、時間が経ちすぎている。事件以後、何人もの手が触れているでしょう」
 地天馬が大声で言った。刑事は「それもそうか」とつぶやく。
「早矢仕刑事。日本の警察は優秀だから、きっと最初の現場検証のときに調べている
さ。それに、指紋に過度の期待をしない方がいい。仮に幼稚園の関係者が犯人なら、完
璧な物証にはならない。追い詰める材料にはなるがね」
「はあ。確かにそのようで……」
 私は一応、刑事の承諾をもらい、ブロック三個を抱えた。いずれも空気を入れ直した
のか、焼き立てのパンみたいに膨らんでいる。
 慎重な足取りで門から道路へ出、前方を注意しながら進む。もうじき塀が途切れると
いう地点で、ようやく地天馬の姿を右隣に捉えた。ブロックを放ると、生垣と塀を越え
て、相手の足下に転がった。
「犯人は忍者の気分だったかもしれないな。地面を水に、ビニールブロックを水蜘蛛に
見立てた」
「忍者?」
「冗談だよ。うん、ちょうどいい大きさだ」
 ブロックの一つを手に取り、ぽんぽんと音を立てながら、回す。そしておもむろに、
地面に設置した。地天馬はそれを片足でしばらく強く踏みつけ、すぐまた持ち上げた。
「――よし。これを見てください」
 手招きをして早矢仕刑事も呼ぶ地天馬。刑事は少し迷ったあと、「足跡を着けてもか
まいませんか?」と聞き返した。
「端を通るのなら。そう、道路寄りに」
 それならばと、私も引き返し、早矢仕刑事のあとに続いて、庭を横切り、地天馬のそ
ばまでやって来た。
「ブロックを置いた跡だとは、一見、分からないでしょう?」
 地天馬は再び自分の足下を指差した。私は目を凝らし、感想を述べる。
「跡……本当だ。全然、分からない」
「うむ。わずかに、角の線がある。薄い上に、途切れ途切れで、これは分からないのと
一緒だ」
 早矢仕刑事も納得した風に言い、顎を撫でている。彼は顔を起こすと、地天馬に尋ね
た。
「もしや、そのブロック三つを順繰りに使って、犯人は足跡を着けずに門まで移動でき
た?」
「まず、このブランコの下にビニールブロックを挟んであったかどうかを、幼稚園の誰
かに確認してください。もしブロックの移動が、事件を挟んで密かに行われたのだとし
たら、犯人が使ったとしか考えられない」
 早矢仕刑事は承知すると、連絡を取るべく、外に出て行った。
「地天馬。よく思い付いたなあ。自分は全く見落としていたよ」
「まだ実験していないんだぜ。これが正解とは限らない。いや、実験が成功しても正解
とは言い切れないが」
「そうだな。刑事が戻ってくるまでに、実験しておこうか」
 私はそう言うと、ブロックを三つ集め、長い辺が自分の正面に来るように、手前に並
べていった。カラフルなビニールの橋ができる。地天馬自身がやるとはとても思えない
ので、自ら右足を乗せた。
「この上を歩き、通り過ぎたブロックを前に置いて行けばいいんだな。……おっと」
 右足に力を入れ、左足を地面から離す。ぐらついた。慌てて左足を戻す。
「靴を履いたままじゃあ、難しいようだ」
 地天馬に言い、私は革靴を脱いだ。ブロックの表面がすでに汚れているため、靴下は
どうしようかと思案していると、地天馬が何故か異論を唱えた。
「靴を履いてくれたまえ」
「どうして?」
「僕が支えるから、ブロックの上に両足で立ってみてくれないか」
「それでいいのなら、そうするよ」
 靴を履き直した私は地天馬の手を借り、一つ目のブロックの上に立った。支えてもら
っているにも関わらず、やけに揺れる。ビニール面が沈み、バランスを取るのが難し
い。
「手を離すと、転んでしまうな」
 地天馬の手のひらにも汗が滲んでいるようだ。いや、これは私の汗だろうか。
「ああ。四つん這いで行くか? 服が汚れるが仕方ない」
 しゃがみたい一心で提案してみた。
「頼む」
 地天馬の手を頼ったまま、腰を折り、膝をつく。不安定極まりない。両手を三つ目の
ブロックの上に置いたが、揺れは収まらなかった。
 さらに、私はここまでやってから、重大なことに気が付いた。
「地天馬。これだと、前進のしようがないぞ。三つのブロックに乗るので精一杯だ!」
「そのようだ。まさかブロックを縦に並べた訳でもあるまい。幅が狭すぎる」
 再考を迫られ、黙してしまった地天馬。私はふらつきながらも地面に降り立ち、汚れ
を手で払った。
 早矢仕刑事が引き返してきたのは、ちょうどこのタイミングだった。
「地天馬さん、当たりですよ! 三つのビニールブロック、奥のブランコの下にあった
んだそうです!」

「結局、体重が要だった」
 地天馬が確信溢れる口調で始めた。
「その後の検証により、五十キログラム未満の人ならば、ビニールブロックの上を楽に
渡れると分かった。これ以上だと、ビニール表面の張力の関係で、足が深く沈みすぎ、
どうしても無理だ」
「五十キロない人が犯人と?」
 立ったまま喋る地天馬と相対する形で、幸治少年はパイプ椅子に肩をすぼめるように
して収まっていた。
「だけど、それだけで犯人だと決め付けるには、無理があるような気もします。多分、
五十キロない人なんて、幼稚園に関わりのある人の中に大勢います」
「その通りだ。僕は、足跡を着けずに現場から脱出する方法を示しただけに過ぎない。
とにかく、該当者を挙げてみるとしよう」
 警察が調べ上げた関係者の中で、体重五十キログラム未満に当てはまるのは、大家
心、阪口伸吾、三河章太郎、手塚理緒奈の四名。
「この中で、大家さんは身長が低く、江内を絞殺したとすると、首には下向きの痕が着
く。実際の絞殺痕はそうではなく、ほぼ平行だった」
「……」
「念のために説明を加えると、相手の後ろから首にロープを巻き、犯人は被害者と背中
合わせになる格好で身体を背負う、いわゆる地蔵背負いというやり方ならば、身長に関
係なく、首に平行もしくは上向きの絞殺痕を残すことはできる。ただし、これには相当
の力が必要だ。小柄で細身の大家さんの体力では無理だと断定せざるを得ない。
 その点、同じ女性でも手塚理緒奈さんなら、背が高く、わざわざ背負わなくても要件
を満たす。ところがこの人は、ビニール製品にアレルギー症状を持っていると聞いた。
ビニールブロックでアレルギーが出るかどうかは、触れてみなければ分からないもの
の、そんなリスクを背負ってまで、ブロックによる足跡隠しを実行するとは考えられな
い」
「いよいよ二人に絞られましたね」
「もう長くはない。残る二名の内、三河さんは手術の後遺症により、足腰の調子が万全
でない。歩くにも杖を必要とするため、ブロックの上に乗るだけでも一苦労だろう。よ
って彼も除外できる」
「とうとう最後の一人ですか」
 少年の嬉しそうなつぶやきに、地天馬は黙って首を縦に一度だけ振った。
「ここで視点を変えてみるとしよう。江内が幼稚園に呼び出された正確な時刻は分から
ないが、午前四時から六時と見ていい。そんな早い時刻にのこのこ出て行ったのは、夏
江さんの名前で誘われたからだ。一方、地面に残る足跡と傘の先の痕跡から、犯人は江
内よりも先に現場に着いて、待っていたと推測できる。
 薄暗い早朝、幼稚園の庭の片隅に、犯人の姿を認めた江内の心理を考えてみよう。も
しそこにいるのが、阪口さんのような筋骨隆々とした背の高い男性であれば、近付きは
しまい。門のところを左に曲がって、シルエットを見ただけで分かるはず。『誰だ、貴
様は!』ぐらいのことは叫んでも、正体不明の相手にわざわざ近寄るのは愚行だ。
 にも関わらず、現実に近付いている。それは江内にとって、待っていたのが女性に見
えたからだ」
「女性? じゃあ、最後に残った一人も」
「阪口さんも犯人ではない。これでは、容疑者がいなくなってしまう。不思議なようだ
が、あと一人、関係者がいたのを思い出した。それが、君だよ」
 地天馬は無感情な口ぶりで、相手を視線で射抜いた。
「僕、ですか」
「体重を教えてくれるかな」
「え、それは、確かに、五十キロないです。四十五キロぐらいですが」
 少年の声は裏返っていた。名探偵から名指しをされ、すでに精神状態は恐慌を来た
し、耐え切れなくなったに違いない。
「僕は、でも」
 そう言った切り、口をぱくぱくと動かすだけで、小刻みに震え始めた。特に、机に置
いた腕の揺れが激しくて、机自体が乾いた音を立て始める。
「幸治君。確認したいことが数多くあるんだが、僕はもうお別れしなくちゃならないよ
うだ。警察には君自身の意志で行くんだ。付き添ってくれと言うのならそうしよう」
 金尾幸治はうなだれたまま、ゆっくりと席を立った。
 が、すぐにまたへたり込み、泣き始めた。

 以下は付け足しに過ぎない。
 地天馬の推理によって見つかった真相は、すべて早矢仕刑事の手柄になるはずだった
が、そうはならなかった。早矢仕刑事が幸治少年の自首を認めたためだ。早矢仕刑事は
事前に地天馬の推理を聞き、さらには地天馬の話を幸治少年が聞く場にも、密かに居合
わせたにも関わらず、である。
 今度の事件でよかったことは、早矢仕刑事との再会だけだったと、地天馬は言った。
 幸治少年なら髪型さえ似せれば、姉の夏江になりすませる。身長も体重も、犯人像に
合致する。何よりも、強い動機がある。
 事件前夜、姉のアパートに泊まった幸治は、姉からことの次第を聞き出していた。そ
して、土曜早朝に幼稚園で江内社長と会う約束をしたことも聞いた。金尾は眠れぬ夜を
過ごし、その時間が彼に決意を固めさせた。姉の代わりに幼稚園に行き、江内を殺そ
う、と。
 やはり夜遅くまで眠れずにいた姉の前に起きてきた少年は、喉が渇いたと言って、二
人でジュースを飲んだ。そのとき、姉のグラスに風邪薬を多めに投じた。その効き目が
出たのかどうか、夏江は眠りについたが、それだけでは安心できず、目覚まし時計の時
刻も大幅にずらした。
 それから少年は、姉のかつらを探し出し、被った。さらに、姉がよく着るという赤の
ジャージの上下を着込み、姉になりすました。薄暗い中、脳内を妄想でいっぱいにした
江内の目をごまかすには、これで充分だったようだ。
 夏江が弟の犯行を知っていたのか、あるいはそれとなく感づいていたのかは、誰にも
分からない。

――終




#478/598 ●長編    *** コメント #414 ***
★タイトル (AZA     )  16/01/30  22:00  (  1)
目の中に居ても痛くない!2−1   永山
★内容                                         23/07/17 21:56 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#479/598 ●長編    *** コメント #478 ***
★タイトル (AZA     )  16/01/31  01:32  (  1)
目の中に居ても痛くない!2−2   永山
★内容                                         23/07/17 21:57 修正 第4版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#480/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:15  (271)
既読スルーな犯罪<前>   永山
★内容
 事件発生の通報があったのは、三月中旬、うららかな陽気から一転、冬の最後のあが
きのように冷え込んだ日の夜だった。そんな急な気候変化のためか、殺人現場となった
一軒家の一室に、暖房器具の類は見当たらなかった。
「亡くなったのは玉井貴理子(たまいきりこ)、二十八歳の独身。一応、イラストレー
ターだそうですが、最近はゲームのキャラクターデザイン等で結構稼いでいたようで
す。この若さで家を持てるくらいですから」
 上條刑事の話はもちろん耳に届いていたが、それよりも気になったのは、現場のちょ
っとした奇抜さだ。オレンジ色に溢れているのだ。被害者自身の部屋だというが、床も
壁も天井も全て、沈んだオレンジ色に統一してある。加えて、玉井貴理子の身に付けて
いる服も、ほとんどが橙色系統だ。オレンジ色をしたキャップに長袖シャツ、下はオレ
ンジ色のロングスカートで、縁を鮮やかな黄色の折れ線模様が二本、交差を繰り返すよ
うに彩っている。靴下だけが真っ黒だ。
 そんなオレンジ色大好き人間(多分)が一人暮らしする部屋で、血溜まりが異彩を放
つ。刺殺だった。上條刑事の現時点での見立てでは、逃げようとしたところを背後から
組み付かれ、腹を刃物で数度刺された、となるらしい。
「即死じゃなかったようで、ご覧の通り、自らの血で文字を書き残しています」
「うむ。『白木美弥』だな、どう見ても」
「ええ。間違いありません。読みも、『しらきみや』でよいみたいです」
「というと、被害者の知り合いに白木美弥なる人物がいると、早々に判明した訳かね」
「はい。アドレス帳に載っていたので、簡単でした。割と近くなんで、今、同僚が向か
ってます。日曜だから、自宅にいる可能性が高いでしょう。何の仕事をやってるか、ま
だ分かってませんが」
「……白木美弥が犯人なら、こんな血文字を残されて、そのまま放置して現場を去るか
ね?」
「犯人と決め付けてはいませんよ。参考人です。恐らくですが、犯人が白木美弥に罪を
被せるために、文字を偽装したんだと思うんです。となると、犯人は白木美弥と知り合
いで、彼女に対しても何らかの悪意を抱いていることになる。白木に話を聞くのは当然
です」
「確かに。ただ、犯人が白木美弥に罪を被せようとしたと決め付けるのも、またどうか
と思うがね」
「決め付けたんじゃありませんが……肝に銘じておきます。捜査会議で方針がそうと決
まった訳じゃないですし」
「もう一点、おかしなところがある。何で漢字なんだろう? 平仮名か片仮名で書けば
楽だろうに」
「そう考えると、やはり偽装工作と見なすべきかもしれませんね。いや、まあ決め付け
はよくありません。アドレス帳には、白木美弥の他に白木田(しらきだ)が一人、深山
(みやま)が一人、下の名前で宮子(みやこ)が一人いましたから、その人達と混同さ
れるのを恐れて、漢字で白木美弥と書いた……という見方もできなくはない」
「だとしても、フルネームを漢字というのはなあ。凶器は?」
 唐突な問い掛けに、上條刑事は反応が遅れた。それでもじきに首を横に振る。
「見付かってません。犯人が持ち去り、逃走途中で捨てるというのが一番ありそうな線
ですが、何せその逃走経路が判明していないので、とりあえずこの家の周辺を当たるこ
とになるんでしょう」
「第一発見者は?」
「あ、待ってもらってるんでした。死体のある家にいたくないとかで、車の方にいま
す。会っておきますか?」
「僕の肩書きは何と伝えればいい?」
「お任せします。コンサルタントでもアドバイザーでも」
 思わず苦笑してしまった。真っ正直に「私立探偵です」と名乗らないのがいいこと
は、自分自身、経験上よく分かっていた。

「――ええ。家族の都合で刑事の職を一時退いたのですが、その問題が解消したときに
は中途半端な年齢になってまして。戻りにくかったので、こうして捜査の補助をする仕
事を与えられた訳です」
 警察OBで捜査アドバイザーという自己紹介に説明を補足すると、相手は納得したよ
うだった。首を何度も縦に振り、名刺からこちらへ視線を上げた。その顔色はまだ青ざ
めているようだ。三十歳になる男で、痩身の割に頭が大きく、マッチ棒を連想させた。
「それで……三川宗吉(みかわそうきち)さんは、何の用で玉井さん宅を訪れたんです
か」
 二度も三度も同じことを聞かれてうんざりしているのか、三川は最初、知り合いだと
しか言わなかった。なので、詳しく突っ込んで尋ねる。
「自慢にもならねえから、繰り返し言いたかないんですけどね。借りてた金のことで、
ちょっと話し合いを持つために」
「お金の貸し借りをする仲ですか。ということは、相当親しかったんですね、亡くなら
れた玉井さんとは」
「貸し借りって言うか、借りる一方ですがね。要するに、昔付き合ってたんですよ。は
っきり別れたつもりもないんで、こうして付かず離れずの付き合いをしてたんです」
「どんな話し合いを?」
「話し合いって言いましたけど、実はいきなり電話があって、呼び付けられたんです」
「ほう、呼び付けられた? 電話は何時頃でしたか」
「正午過ぎだったかなあ。何が原因で急にごきけん斜めになったか知りませんけど、貸
した金を一刻も早く返して欲しいと言われまして。十万ちょっと借りてたんですが、す
ぐには用意できないって言ったら、とにかく来いと。それはもう、かなり恐ろしい剣幕
でしたよ。こう、走って追い掛けられるような」
「それを受け、あなたは玉井さん宅に急行した」
「はい、いや、まあ仕事の都合もあるんで、夜にしてもらって。結局、八時半くらいに
ここへ着きました」
 そうして遺体発見に至る訳か。
「三川さんは、何をされてる方なんです?」
「えっと、元はゲームクリエイターだったんですが、だいぶ前に会社からほっぽり出さ
れて、今はギャンブル研究家の肩書きでやってます。その手の雑誌や新聞に文章を書く
のがメインでしたが、仕事は減る一方。糊口を凌ぐため、ギャンブル研究の元手のため
に貴理子の――玉井さんの助けを借りてた次第ですよ」
「返す当てはあったと」
「いや……返すつもりはあったが、今すぐってのはない、という意味です。俺を疑って
るんで?」
「『型通りの質問です』と、型通りの説明をしておきましょう。他の刑事さんにも聞か
れたでしょう?」
「ああ、それは確かに」
 人を食った返事にたじろいだのか、三川は身震いをしたようだった。そうして自ら話
題を換えようとした。
「他の刑事さんと言えば、さっき通り掛かった刑事の一人が、白木美弥とかいう名前を
口にしてたみたいですが」
「していたかもしれません。何かご存知で?」
「ええ、まあ。直接知ってた訳じゃなく、玉井さんの知り合いってことで、間接的に。
揉めてたみたいだし」
「揉めていたとは、玉井さんと白木美弥さんが?」
「詳しくは聞いちゃいませんが、玉井さんのデザインしたキャラクターに、白木さんが
クレームを入れてきたとかどうとか」
「あー、話す前に、ちょっと確認を。白木さんはそもそも何をされている方なんです?
 やはり、ゲーム関係ですか」
「いやいや。彼女は――あれを職業と言っていいのなら、アイドル、になるのでしょう
ねえ、やっぱり」
「つまり、芸能人?」
 白木美弥なる芸能人がいただろうか。知らない芸能人は大勢いるが、それにしても白
木美弥が全国的に有名とは思えない。
「うーん……芸能人とは呼べないか。学生やってるみたいだし。いわゆる地下アイド
ル、それとローカルアイドルの中間みたいな立ち位置で活動してるようだから」
「――」
 耳慣れない職業に多少面食らったが、ニュアンスは伝わってきた。何とかイメージで
きたし、実態とそう懸け離れていないであろう自信もあったので、そのまま素知らぬ態
度で聴取を続ける。
「それなりに人気はあるんでしょうね」
「多分。ステージで唄ったり踊ったりするだけじゃなく、あちこちのイベントに出てた
みたいだし、雑誌に取り上げられたことも何度かあるとか聞いてます。ああ、地元のコ
ミュニティ誌で、同じく地元出身の推理作家と対談したのを、たまたま読んだ覚えが」
「多岐に渡って活動していたと。そんなローカルアイドルがゲームデザイナーに、何の
クレームを入れてきたんです?」
「あ、いや、玉井さんはゲームデザイナーではなく、ゲームのキャラクターをデザイン
するのが主でして」
「そうでしたね」
 低めた声音で短く言い、先を促す。
「クレームは、あるキャラクターの姿形が、白木さんが昔着ていたステージ衣装にそっ
くりだというものだったみたいです。それも一点ではなく、三つか四つも」
「待ってください。白木さんはクレームを付けるために、玉井さんに接近してきたので
しょうかね?」
「いやいや。元から知り合いだった。ほんと詳しくないんだけど、白木さんはだいぶ小
さい頃からローカルアイドルやってたみたいで。玉井さんが白木さんの昔のステージを
観て、知り合ったんですよ。デザインのクレームは、玉井さんがステージを観たとき印
象に残ったのをつい、ほとんど無意識の内に使った、というのが真相なんじゃないかな
あ」
「玉井さんがそんな風なことを、あなたに打ち明けていたのですか」
「はい。完全に認めるという風ではなく、仄めかす程度だったけどね。援助してもらっ
てる身としては、そんなこと聞いても胸の内に仕舞っておくしかない」
 悪びれもせずに言い放つと、三川は苦笑いめいた表情をなした。
「問題の衣装やゲームキャラクターの画像、お持ちじゃありませんか」
「いやあ、ないです。ゲームキャラの方は、彼女の――玉井さんの仕事場を探せばすぐ
に見付かるはずですよ」
「なるほど。――ここまでの話だと、白木美弥というのは芸名なんですか」
「生憎、そこまでは知りません。何となく、芸名だと思い込んでましたが」
 表札もしくは郵便受けの名前が、“白木美弥”ではなかったら、住居を特定するのに
ちょっとだけ手こずるかもしれない。しかし、大きな障害にはなるまい。
「そうですか。話を戻しますが、玉井さんについて、他に誰か殺意を抱くような人物に
心当たりはありませんか。また、白木さんに関してもご存知の範囲で、同じことを考え
てみてもらえると助かります」
「白木さんまで? さっきの刑事さんは、そんなことは言ってませんでしたが」
「すみませんが、質問に答えていただきたい。聞いてるのはこっちなのです」
「あ、はあ、ですね。玉井さんはあれで若くして成功した部類に入るだろうから、やっ
かみはあったと思いますよ、うん。具体的に誰と、名前を挙げるのは無理ですが。あと
は男関係だろうな。俺が言うと説得力ないかもしれないですけど、仕事に没頭してると
きとそうでないときの落差が激しくて、振り回されるんですよ、あいつには。顎でこき
使ってきたりパンチしてきたりと思ったら、優しくしてくれたり尽くしてくれたり。き
っと、今の男にも同じだったに違いない」
「その人の名前は」
「西川嶺(さいかわりょう)。俺とおんなじ、ギャンブル好きで、お馬さんにはまって
る口。ただ、俺と違って料理ができるし、それなりに稼いでいるみたいだった。貴理子
が――玉井さんが俺から乗り換えたのも、納得してる」
 自らは殺意・動機がないことのアピールなのか、三川の声は少し大きくなった。
「お答え、どうも。ところで、玉井さんの部屋、仕事部屋だそうですが、やけにオレン
ジ色が使われているなと。何か理由が?」
「あー、あれは、彼女がオレンジ色好きなのが一番だけど。好きな色に囲まれている
と、気分が高揚して、仕事が捗ると言っていたっけ。割とそういう意識の高い女で、寒
がりのくせに仕事部屋には暖房器具を置いてなかったよ、確か。温かくなると、眠気を
催したり、頭がぼーっとしたりして非効率的だとか言って」
「なるほど。話を戻しまして念のために伺いますが、玉井さんは色覚異常、なんてこと
はなかったんですね」
「全然。ごく自然に色を使ってたと思いますよ」
 三川は何をばかなと言わんばかりに、大きな仕種で首を横に振った。

「西川嶺の名前、アドレス帳にあったのかな? あれば早々に知らせてくれていいんじ
ゃないか」
 三川を聴取から解放したあと、上條刑事を呼んで尋ねた。
「実物を見てないんで何とも言えませんが、きっとあれじゃないですか。西川の名前の
とこに、ハートマークでも書いてありゃあ気付くでしょう。でも単なる名前の羅列だっ
たら、特別な存在に見えないんですから、無理ありません」
「アドレスって、パソコンや携帯電話の類じゃなく、実物の手帳か何かだったのか」
「ええ。ピンク色のファンシーなのが、机の上に放り出してありました。持って来させ
ましょうか」
「いや、いい。必要性を感じたときは、見る機会を作ってくれと頼むから。それより
も、白木美弥はアイドルをやってるらしいぞ。もう聞いたか?」
「え、いや、まだです。第一発見者が言ったのですか」
「そうだ。タイミングが悪かったようだな」
 経緯を伝えると、上條は「本名じゃない可能性もあるのなら、すぐに知らせないと」
と呟き、立ち去ろうとした。その背中に声を浴びせる。
「地下だろうがローカルだろうが、検索すれば写真が出て来るかもしれないぞ。早く見
たいから、頼む」
「え。また持って来てないんですか?」
 立ち止まって振り向いた上條は、一瞬驚いたようだったが、じきにあきれ顔に変化し
た。
「ああ、忘れた」
「――しょうがありません。これでどうぞ」
 懐から個人用の携帯機器を取り出し、手渡してきた上條。だがその動作が完了寸前で
ストップする。
「使い方、覚えました?」
「いや、心許ないな」
「まったく、ほんとにしょうがないですね」
 上條は口の中でぶつぶつ言いながら、使い慣れた機器を素早く操作した。
「……どうやら、これのようです。思っていたよりも若そうだな。被害者より十近く下
かもしれませんよ」
 そう言って向けた画面には、茶髪頭の両サイドに大きな団子を一つずつ付けたような
ヘアスタイルの、二十歳前後の女性の写真がずらりと表示されていた。一番大きな画像
は上半身だけで、他に比べる物もないため、背の高さは分からないが、すらっとした体
型のようだ。目鼻立ちがはっきりしており、ハーフかと想像させる。そしてトレード
マークなのか偶々なのか、たいていの写真では黄色がかったレンズのサングラスを掛け
ていた。
「……」
 何か閃きが訪れそうな気がした。

「お忙しいところを来ていただいて、ありがとうございます」
 上條は白木美弥こと白石美弥子(しらいしみやこ)に礼を述べながら、事務机を挟ん
で、正面に座った。
 相手の白木は、緊張もせず、どちらかと言えばリラックスしているようだった。取調
室のような狭い空間ではなく、会議室の片隅で相対しているからかもしれない。
「知り合いが巻き込まれた事件の捜査に協力できるなら、可能な限りのことをするのは
当然です。早く始めましょう」
 アイドル活動で鍛えられたのか、物怖じしない性格なのだろう。先を促す白木に、固
さは見られない。化粧っ気こそ抑えめだが、写真とほとんど変わりがない。ただ、サン
グラスや帽子を室内でも外さないのは、彼女なりの防御なのかもしれなかった。
「本来なら、女性が当たるべきなんですが、生憎と人手が足りておりませんで、相済み
ませんね」
「かまいません。それよりも、玉井さんが亡くなったと聞きましたけれど、一体どうい
う……」
 ここで初めて不安そうな色を見せた白木。上條はそれには答えず、まず、人定質問か
ら始めた。目の前の彼女が、被害者と付き合いのあった白木美弥であることを確かめた
後、本題に入る。
「いきなりですが、白木さんは昨日の午後二時から晩の八時頃まで、どこで何をされて
いたか、お聞かせくださいますか」
「その時間帯なら……大学近くのファミレスで遅めの昼食のあと、歩いて大学に行き、
サークル棟でみんなで作業をしていた、かな。切り上げたのが七時過ぎで、同じファミ
レスで今度は早めの夕食を済ませてから、確か八時ちょうどにその店を出ました」
「作業とは?」
「衣装作りというかデザインを。私自身の分も含めて、仲間のを作るんです。四月に大
学で新入生歓迎の催しがあるので」
 ここでまた表情が柔らかくなる。嬉しそうに笑った。
 上條は細かな点は棚上げし、「アリバイを尋ねているのはお分かりだと思います。証
明してくれる人はいますか」と直球の質問を続けた。
「ファミレスでの一度目の食事は友達と一緒でしたし、作業はもっと大勢と一緒にやっ
てましたから。二度目のファミレスは一人だったけれども、多分、店員さんが覚えてく
れてるんじゃないかしら。私、目立つ方なので」
 白木は目線を少し上向きにし、上條に訴えるように見つめてきた。なるほど、黄色の
サングラスと帽子がよく目立つだろう。
「昨日も、そのサングラスと帽子を?」
「サングラスはそうです。いつも掛けてますから。帽子は違う物、確かクローシェを」
 上條はアリバイに関する白木の説明を詳しく聞き取り、メモに取った。すぐにでも調
べさせよう。
 そのやり取りが済むと、白木はしばし口ごもり、やがて意を決した風に話し出した。
「私が玉井さんと揉めていたのは、ご存知なんですね、刑事さん?」
「詳しくはまだですが、だいたいのところは」
「揉めていたのは、私も認めます。ですが、それで殺し殺されっていう事態にはなりま
せん」
「我々はまだ何も断定していません。ただ、動機以外の点であなたを調べなければいけ
ない理由があるので、こうして来てもらった」
 上條はダイイングメッセージの件を持ち出すタイミングを計っていた。目の前にいる
年端もいかない女性が殺人犯だなんて、普通なら信じがたい。だが、あまりにも明々
白々なダイイングメッセージが破壊されることなく現場に残っていた事実故に、逆説的
に白木美弥が犯人であるとは考えにくくなっていた。ここでもし彼女が犯人なら、勇み
足からダイイングメッセージのことを口にする可能性、なきにしもあらず。そう、白木
美弥が口を滑らさないか、上條は待っているのだ。もちろん、彼女が今し方、明確なア
リバイを主張した事実も気になっている。
「何があると言うんです? 理由を教えてください」
 上條は躊躇した。頭の中で、信号が点滅している。ここで早々に切り札を切るより、
アリバイの真偽を検討してからの方がよい、と。何しろ、白木が犯人でない場合、彼女
は真犯人から恨まれているはずなのだ。
「捜査上の都合により、今はまだ明かせません。が、この点に関しては二つの見方がで
きるのです。仮にあなたを容疑者のリストから外せたとしたら、逆にあなたの身に危険
が及ぶ可能性、ゼロとはしません。くれぐれも注意してもらいたいのです」
「じゃあ、警察が保護してくださる?」
「現時点では難しい。とにかく、居場所をはっきりさせておいてください」
 上條の言葉に、白木は眉を寄せて不満を垣間見せたが、口に出すことはなかった。

――続く




#481/598 ●長編    *** コメント #480 ***
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:16  (280)
既読スルーな犯罪<後>   永山
★内容                                         18/06/24 03:24 修正 第4版
「アリバイ成立、か」
 上條のまとめた照会結果を眺め、白木美弥のアリバイに穴のないことを嫌でも確認で
きた。思わず、嘆息してしまう。
「成立ですね。大学では常に知り合いと一緒、ファミリーレストランでも友人が同席ま
たは店員がはっきり覚えていたとなれば、認めない訳にいきません」
「となると、捜査班や俺の見込みは外れていたことになるな」
「真犯人の思惑も、じゃないですか」
 上條は警察だけが失敗したとは認めたくないのか、妙な理屈を持ち出した。
「真犯人が白木美弥に罪を着せたかったんだとすれば、アリバイの有無くらい調べるべ
きだった。なのに怠ったおかげで、ダイイングメッセージの偽装工作はあっさり崩れ、
意味がなくなったんですから」
「それが犯人逮捕につながれば、なおいいんだがな」
 こちらとしてもあまり笑ってばかりいられない。このままでは、折角の閃きが、砂上
の楼閣に終わりそうだ。
「他のことで、新しい報告はないのか」
「取り立てて言うようなものは……凶器は未発見、足跡の類も見付からず。ああ、現場
でちょっとした発見がありました」
 手帳のページをめくるや、上條は今思い出したとばかりに早口で言った。
「被害者の家の寝室にも、僅かながら血痕があったんです。ベッドのすぐ横の平らなス
ペース、その隅っこですね。ちょうどベッドの下に隠れそうな位置でした」
「犯行現場は、遺体のあった仕事部屋ではない可能性が出て来たってことか」
「どうでしょう? 仕事部屋における血の飛散具合に、矛盾はなかったようですが。
我々は逆に、凶器が寝室に持ち込まれた際に血が落ちたのかと考え、凶器を探したんで
すが、何も出て来なかったんです」
「滴下血痕だったのか」
「いえ、飛沫の方でした。だから、寝室で刺したと考えてもいいんですが、そうすると
大部分の血が飛び散って周辺を汚すことになりますから、事実に反します。少なくとも
床にビニールシートのような物を敷く必要が出て来る訳です」
「そのような物は見付かってないと言うんだな。だが、犯人が持ち去ったのかもしれ
ん」
「はい、その可能性は認めます。が、もしその説を取るのなら、何のために同じ家の中
で遺体を動かし、殺害場所を偽装しなければいけないのかという疑問に答を見付けねば
なりませんよ」
「そうだな……」
 口ごもると、上條は更に言い足した。
「もう一つ、発見がありまして、ビニールシートではないのですが、毛布が洗濯機に押
し込んでありました。薄手のオレンジ色で、人一人がすっぽりくるまれるほどの大き
さ。これにも被害者の血痕が大量に着いていました。もしかすると、犯人が返り血を防
ぐ目的で使用したのかもしれませんが、現在のところ、被害者以外の痕跡物は出ていま
せん」
「さっき言ったビニールシートの代わりに、その毛布を寝室の床に敷いたとしたらどう
だ?」
「実験はしていませんが、恐らく無意味でしょう。しみ出た血が、床を汚したはずで
す」
「うーん。被害者は寒がりだったそうだから、毛布は仕事部屋で足下にでも掛けていた
のかもしれない。その最中に襲われ、血液が部屋や毛布を汚した。寝室の血痕は、凶器
を持ったまま犯人が入り、何か捜し物でもしているときに、たまたま飛び散った。こう
考えれば、辻褄は合う。だが、何となくしっくり来ない。凶器を持ち歩いたとしたらも
っとあちこち、廊下なんかにも血痕があっていいはずなのにないからだ」
 寝室の血痕に関しては、そこが殺害現場だったと見なす方が、理に適う気がする。凶
器やビニールシートは犯人が持ち込み、犯行後にまた持ち去ったと考えればよい。だ
が、犯行現場を偽装する意味が分からない。
「上條刑事。仕事部屋と寝室を見比べて、大きな違いはあっただろうか? もしあった
なら、印象に残ってると思うんだが聞かせてほしい。何せこちとら、寝室は関係ないと
思って、ろくに観察してないんでね」
「見比べると言っても、そんな意識で見ていなかったですからねえ。仕事部屋にはデス
クが会って、様々な資料があって、パソコンがあって……。寝室の方はベッドとタンス
ぐらいかな。暖かそうなベッドでしたよ。つい先日まで、寒かったですからね」
「……寝室に暖房器具は」
「ありました。壁掛けタイプのエアコンが一台、ファンヒーターが二台、ミニサイズの
電気カーペットが一枚、それくらいでしたか。布団の中に、何かあったかもしれません
が、自分は見ておりません」
「――たくさんの暖房器具を一度に作動させたら、室温は当然、上がるよな」
「え、ええ」
 こちらが切り出した言葉の意味を、上條もすぐに察したようだった。軽く頷き、続け
る。
「そんな部屋にいた人間の身体の温度も上がるに違いない。一方、仕事部屋には暖房器
具がなかった。また、死亡時刻の推定は、遺体発見前日から当日にかけての気温を元に
室温を推測し、それを基準に算出したものだろう」
「でしょうね。それが手順であり、常道です」
「今度の殺人が、暖房を充分に効かせた寝室で行われたと仮定した上で、改めて死亡推
定時刻を計算すれば、最初の推定よりもだいぶ前になるんじゃないか?」
「恐らく……」
「つまり、白木美弥のアリバイは、完全成立した訳ではないと言える。そうだな」
「えっと、ちょっと待ってくださいよ。犯人が誰かは置いとくとして。暖房による死亡
推定時刻をずらす工作が行われたんだとしたら、その犯人は暖房器具のスイッチを切り
に戻り、遺体を寝室から仕事部屋に移したと言うんですか? だったら、あまりアリバ
イ工作になってないような」
「違う。殺す直前まで、被害者を暖めておくんだ。殺してすぐに暖房を止め、遺体を仕
事部屋に移す。ああ、仕事部屋の室温は、前もって窓を開けるなどして、思い切り低く
していたかもしれないな」
「そうか……それなら死亡時刻は、午後二時よりもだいぶ前になりそうです」
「そして、いい頃合いに発見させるために三川を電話で呼び出させた。ん? 犯人は被
害者を脅して、電話させたことになるのかな、ここは。まあ、細かい詰めは後回しだ。
今すべきは死亡推定時刻の再算出と――」
 全部を言い切らぬ内に、上條があとを引き取った。
「白木美弥の、午後二時よりも前のアリバイですね」

 事件のあった日の午後二時まで、白木美弥は自宅マンションにいたと答えたが、それ
を証明するものはなかった。
 彼女の入居するマンションにも防犯カメラは設置されているが、エントランスホール
と各階エレベーター扉のみで、非常階段を使えば、映らぬように出入りする術がない訳
ではなかった。要は、住人が前もって中から非常口の鍵を解錠しておけば、難なくでき
る。
 また、玉井貴理子の死亡推定時刻は訂正ではなく、大幅な追加修正が行われた。午前
十時から午後二時の間に死亡した可能性もある、と。
 この結果を受け、白木美弥に対する上條刑事の事情聴取が行われた。
「無論、アリバイがないというだけで、あなたを犯人と断定はしない。そもそも、こん
な明々白々な手掛かりを被害者が残しているのに、消したり壊したりすることなく現場
を立ち去るなんて、普通はできない」
 ダイイングメッセージについては、ここが切り出し時とみて話していた。その瞬間の
白木の反応は、すぐに声を発することはなく、ただ首を横に振るばかりだった。
「白木さん。あなたが犯人でないというのなら、このようなことをされる心当たりは?
 言い換えると、玉井さんに殺意を持っており、かつ、あなたのことも恨んでいるか、
少なくともあなたと玉井さんとの間のトラブルを知っている人物に」
「……あの男。玉井さんの元彼で、三川さん」
 少し考えただけで、その名前が出て来た。予想していた人物だ。上條はゆっくり首肯
した。
「三川さんにはアリバイがあるんだが、一応、記録しておこう。他には?」
「じゃあ、今の彼氏だった西川嶺さんは? 玉井さんは私が謝罪を要求したことを、西
川さんには話していなかったみたいですけど、彼が私を知っているのは確かです」
「西川さんは、バイクで交通事故を起こし、入院していた。足首を折ってたから、病院
を抜け出すのも無理だろう。だいたい、万が一にも西川さんが犯人なら、あなたより
も、三川さんに罪をなすりつけようとするんじゃないかな。三川さんを犯人と想定して
も、同じだと思う」
「それって、西川さんや三川さんを知る人物が犯人なら、名前を書き残す偽装工作で、
私の名を選ぶはずがないってことですか」
「まあ、そう考えるのが妥当じゃないかな」
「そんな……玉井さんの知り合いで、西川さんの存在を知らない人なんて、多分いない
わ」
「うん、だから犯人はあなたにも恨みを抱いているんだと思われる。そういう人物がい
るのなら、隠さずに話して欲しい」
「……」
 上條は、声を荒げることなく、基本的に優しげな口調に努めつつ、聴取を進めてい
る。それでも白木は追い詰められた気分を味わっているようだ。
「私だけに対するストーカーっぽい人なら、いなくもないです。けれど、その人が玉井
さんを知っていて、しかも殺すだなんて」
「いや、分からないよ。ファンは対象とするアイドルのことなら、何でも知りたがるも
のだろうから。あなたが玉井さんにクレームを入れているのを知ったあなたのファン
が、代わりに殺したのかもしれない」
「あ――そ、それです、きっと」
 救われたような明るい表情になり、白木は座ったまま、前のめりになった。
「保山翔太(ほやましょうた)って言います。あいつを捕まえて、調べてください!」
「保山ね」
 手元のメモ書きを一瞥する上條。
「その男のことなら、警察も掴んでいます。あなたに恨みを持ってはいないが、半ば狂
信的ファンで、白木美弥の気を惹くためならどんなことでもやりかねない」
「は、はい、そういう雰囲気ありました」
「で、昨日、警察へお出で願って、調べてるんです」
「え、じゃあ」
「彼が常時持ち歩いているカメラを調べたところ、あなたの映ったショットがたくさん
ありました」
「それはそうでしょう。そんなことよりも、犯人かどうか……」
「写真の大半は、ステージやイベントでのあなたを写したのではなく、プライベートな
物でした。どうやら、暇なときにあなたをつけていたらしい」
「え……そ、それは気味が悪いですけれど、アイドルしていたら宿命みたいなものです
から、あっても不思議じゃありません」
「でしょうね。ただ、プライベート写真の中に興味深い物がありまして、そいつがこち
ら」
 上條は用意しておいた写真三枚を、机に並べた。三枚とも似たようなもので、一人の
女性が玉井貴理子の自宅に入っていくところを連写していた。
「これ、あなたですよね、白木さん?」
「はい。でも、私が玉井さんの家に出入りするのは、珍しくも何ともないでしょ。知り
合いなんだから」
「問題は日付でして」
 写真の隅にある日付を人差し指で示す上條。そこにある数字は、玉井貴理子殺しが起
きた日と一致していた。
「念のため、カメラ本体のデータや設定も調べましたが、細工の痕跡は皆無でした。日
付に関して、嘘偽りはない」
「でも……」
「このあと、保山は出て来るあなたを撮ろうと待ち構えていたが、いつまで経っても出
て来ないので、あきらめて引き返したと言っている。それは残念なんだけれども、一方
で重要な証言もしてくれた。あの日の朝九時から正午過ぎの間、玉井さん宅に入った人
物は、白木さんしかいなかったと」
「……それだけでは何の決め手にもならない。そうでしょう?」
「はい。他の人物が、だいぶ前からすでにいたのかもしれない。あなたが玉井さん宅を
辞去したあと、殺人が行われたのかもしれない」
「――そうだわ。保山が嘘を言っているのよ。正午過ぎにあきらめて引き上げたのが
嘘。私が出ていくのを見てから、あいつは玉井さんの家に入り、彼女を殺した。そして
ダイイングメッセージを書いた。辻褄が合うわ」
 語る白木の目が輝いているように見えた。だが、上條は首を左右に振った。
「その線も考え、警察は保山のアリバイを確かめた。そして成立した。バイト先に顔を
出している。時間的に、正午過ぎに玉井さん宅前を出発しなければ、間に合わない。ヘ
リコプターでも使ったのなら別だが、まさかそんな手段は現実的でない」
「じゃ、じゃあ……一体誰が」
 上條刑事はそう言う白木をしばらく見つめてから、ふっと、こちらを振り返った。
 それを受けて、交代する。座るや否や、すぐさま言った。
「あなたがやったんじゃないのか」

「写真を見ると、あなたは事件当日も、黄色のサングラスを掛けて玉井さん宅を訪れて
いる」
 先程上條刑事が並べた写真を一枚ずつ、上から指でとんとんとやった。
「黄色のレンズを通すと、当然、全ての物が黄色がかって見えるはずだ。一方、遺体の
見つかった仕事部屋は、内装がほぼオレンジ一色と言っていい。そんな部屋の床、オレ
ンジ色の床に、赤い血で文字を書く。普通なら大変目立つが、黄色のレンズを通して見
た場合、どうだろう? 黄色と赤色を混ぜると、オレンジ色になるんじゃなかったか
な? オレンジ色の床にオレンジ色の文字。これなら、犯人が自分の名前を書き残され
たにも関わらず、気付かずに放置したとしても不思議じゃない。何せ、認識できないん
だから」
 私は得意げに説明してみせた。言い終えると、腕を組んで、相手の返事を待ち構え
た。尊大に、見下ろすように。
「……あはは」
 俯いていた白木美弥は不意に笑い声を立てた。面を起こすと、表情もやはり笑ってい
る。
「ああ、おかしい。刑事さんがあんまりおかしなことを言うものだから、途中から笑い
を堪えるのに苦労しちゃったじゃない」
「私は刑事ではなく、アドバイザーです」
「どっちでもいいじゃない、庶民から見れば同じよ。それよりも、赤と黄を混ぜればオ
レンジ色になる、ですって? 確かにそうよね。でも、絵の具での足し算を、そのまま
実際の景色当てはめていいのかしら」
「というと?」
「確かにね、このレンズで赤い物を見れば、オレンジ色っぽく見えるわ。けれども、色
それぞれには濃い薄いがある。血の赤をこのサングラスで見て、ちょうどあの部屋のオ
レンジ色と同じになるなんて偶然、あるはずないじゃないの」
「全く同じオレンジ色にはならないかもしれない。しかし、字が読みづらくなるのは間
違いない」
「読みづらいだけでしょ。被害者が死の間際に血文字で何か書き残そうとしていること
自体には、絶対に気付く。気付いたら、犯人はそのメッセージを読み取るために、サン
グラスを外すでしょうね。そして血文字をめちゃめちゃにして読めなくする」
「本当にそうでしょうか。現実には、全く同じオレンジ色になった。だからこそ、あな
たは文字を見逃し、立ち去ったんでは?」
「そこまで言うからには、何か根拠がおありなんでしょうね」
「え、ええ。実はテストを行った。同じサングラスを手に入れ、犯行現場の仕事部屋に
立ち、本物の人血を垂らして、どんな色に見えるか。結果は、オレンジ色。全く同じと
言って差し支えないレベルのオレンジ色だった」
「嘘よ! だって私は読めた――」
 その通り。私は嘘を言った。実験を行ったのは事実だが、レンズ越しに見えた血文字
は、床のオレンジ色とはだいぶ異なっていた。
 だが、口元を手のひらで覆った白木は、失言を充分に自覚しているようだ。

「最後まで分からなかったのは、あなたの判断だった。白木美弥さん、あなたはどうし
て自分の名前を示す血文字を、そのまま手付かずで残して行けたのか」
 はっきりと残された己の名前。それを放置していける犯人がいるだろうか。
 なるほど、警察はあまりにもあからさまな“証拠”を目の当たりにし、素直に採用す
ることなく、疑問を抱いてくれる可能性が高い。結果、犯人は容疑の圏外に置かれるか
もしれない。
 だが、たとえそのような計算が成り立つとしても、いざとなると、果たして実行可能
だろうか? そんな賭け、恐ろしくてできそうにない。いかにも偽装工作っぽく、犯人
自身が自分の名前を書いたとしても、不安は強く残るに違いない。
「あなたの仕事をつぶさに見ていき、ようやく理解できた気がします」
 言いながら、一冊の冊子を上條から受け取り、机の上にぽんと放った。該当するペー
ジを開けなくても、白木にはそこに何が乗っているのか思い出せたようだ。その証拠
に、唇を噛みしめたのが分かった。
「このコミュニティ誌の企画で、あなたは推理作家の平野年男と対談している。そのや
り取りの中で、平野氏がこんなことを言っていた。『――もしも、犯人が被害者の血を
使って、自分自身の名前を現場に残す勇気を持てたら、案外それが完全犯罪の近道なの
かもしれない――』と。あなたはこれを思い出し、忠実に実行した」
 ある意味、それは勇気と呼べなくはない。蛮勇ではあるが。

 その後、犯行を認めた白木美弥は、アリバイ工作についても詳細を語った。彼女はそ
れを「独り我慢大会」と呼んでいた。
 つまり――デザインの盗作を許して欲しければ、暖房をがんがん掛けた部屋で、毛布
にくるまって半日ほど過ごせ。最低でも六時間やってもらう。許すかどうかは、様子を
見に行って、そのとき私が判断して決める――こんな取引を持ち掛けたという。負い目
があった玉井はこれを受け入れた。季節がまだ冬だったのも、玉井をその気にさせたの
かもしれない。
 寝室で「独り我慢大会」に取り組んだ玉井を、白木はしかし、端から許すつもりはな
かった。当日朝、玉井宅を訪れ、我慢大会を励行しているのを見届けてから、プラスア
ルファとして金を要求した。それも、玉井が三川に貸している分全額という条件を出し
た。そこから言葉巧みに誘導し、玉井に三川へ電話を掛けさせ、夜八時以降に、玉井宅
へ来るように約束させた。
 環境が整うと、白木は玉井を刺した。毛布にくるまったままの彼女を、背後から腕を
回し、腹部にぐさりと。なお、凶器は自宅にあった、いつ入手したかも定かでない、新
品のナイフを持ち込んだ。
 寝室に血溜まりがなかったのは、暖房の利きを強くするためと適当なことを言って、
ビニール(ピクニックで芝の上に敷くような青い物)を前もって敷かせ、その上で我慢
大会をさせていたから。ビニールのサイズが大きかったおかげもあり、寝室には血痕が
ほぼ残らなかった。毛布に血を吸わせると、丸めて持ち運ぶのに支障なくなった。この
ビニールと凶器は犯行後持ち去り、ひとけのない公園に出向くと、そこのトイレの用具
入れに捨てた。
 遺体を寝室から仕事部屋に移動したのは、暖房していたことを気取られないようにす
るため。ビニールに遺体を乗せたまま、引きずるように移動したが、予想以上にうまく
行ったという。移動した段階では凶器を刺したままにしていた。移動後、凶器を抜くこ
とで、血を飛び散らせ、犯行現場が仕事部屋だったとかのように見せた。
 ここで予想外のことが起きる。息絶えていなかった玉井が、血文字を残したのだ。漢
字でしっかりと、「白木美弥」と。それは黄色いレンズ越しでも、ある程度は読めた。
 急いでとどめを刺してから、白木は少しの間思案することになった。この血文字をど
うするべきか。当然、読めなくする考えもよぎったが、それ以上に強く脳裏に浮かんだ
のが、推理作家との対談内容だった。短い逡巡の後、彼女は常識外れの選択をしたので
ある。

 蛇足かつ答のない疑問ではあるが、玉井貴理子が死を意識した中、犯人・白木美弥の
名を漢字で残した心理については不明のままだ。
 己が玉井の立場だったらと置き換えて想像してみるに……なるほど、平仮名・片仮名
で書けば簡単に済むだろう。しかし、そこまで冷静でいられるかどうか。普段から書き
慣れている漢字を使ってしまう可能性も、充分にあるのではないか。
 そんな風に思ったが、結局のところ――そういう状況にならないと、分かりそうにな
い。

――終




#482/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/04/28  22:22  (362)
安息日 <上>   永山
★内容                                         19/01/16 22:54 修正 第2版
 愉快犯なんてものは周囲に一人いるだけでも、空恐ろしい。不気味で得体の知れない
存在だ。それが、ここのところ立て続けに複数名が現れたものだから、混沌に拍車が掛
かっている。しかもそのほとんどが、人を殺しても名とも思わない連中らしい。
 まず、僕・百田充になりすましていた千房有敏だが、取り調べに大人しく応じている
そうだ。中卒で働きに出た千房が、どうやって生計を立て、整形手術を行えたのか。そ
もそも、家族は? 色んな疑問も解決した。母子二人の家庭に育った千房だが、生活自
体は困窮していた訳ではない。別れた父というのがIT事業で成功しており、充分な慰
謝料や養育費をきちんと送っていた。千房の人生に狂いが生じたとすれば、中学二年の
春休み。進路をそろそろ決めようかという頃合いに、母親を交通事故で亡くしている。
保険金プラス父親からの送金で、進学に弊害はない。ただ、面倒を見てくれる家族が簡
単には見付からなかった。父親はすでに再婚しており、その相手というのが他人の子供
とは家族になれない質だった。結局、父親からの養育費増額につられた親戚の女が千房
を引き取ったが、放任主義に徹していたという。そんな環境下で、そんな大人達を見て
育った千房有敏の目に、一年上の十文字龍太郎が眩しく映ったのかもしれない。両親が
揃った幸せそうな家に育ち、天才ともてはやされ、パズルの才能を発揮し、実績を残し
ていた十文字先輩に、いつしか嫉妬し、越えてやろう倒してやろうという考えに取り憑
かれた――。一応、こんな形で、千房の件は落着を迎えそうだ。
 次に、瀧村清治の件。いや、瀧村自身はすでに死亡しているので、彼の起こした事件
の未解決部分と、彼が殺された事件についての進展具合。
 瀧村がホテルでの殺人直前に購入したハンディタイプのコンプレッサー、その用途が
はっきりしなかったが、浴室を密室に仕立てるために必要な道具だったことはある程
度、裏付けが取れた。というのも、瀧村はネットカフェや図書館、ホテル等で備え付け
のパソコンを利用していたのだが、そのネット検索履歴を調べたところ、人体の仕組み
や操り人形の構造に興味を示していたことが窺われた。ここからは想像になるけれど
も、瀧村は死体にコンプレッサーの管を突き刺し、空気圧で死体の腕や手を操ろうとし
ていたのではないか。そして死体の手で浴室のドアを、内側からロックさせるつもりだ
った……。こう書くと全くの絵空事に聞こえるが、瀧村は実行しようとしていた。前も
って実験することもできただろう。それなりに成功の確信を持っていたと思われる。
 一方、瀧村殺しに関しては、大きな進展はない。十文字先輩の知り合いである針生早
惠子さんが、瀧村とも顔見知りで、かつ、偽名を称していた瀧村の本名を知っていたと
いう事実が判明した訳だが、それ以上切り込めないでいた。彼女曰く、偽名を知ってい
たのは、瀧村自ら明かしたもので、「ネット上のハンドルネームだよ」と説明されてい
たという。瀧村本人亡き今、真偽の確かめようがない。ただ、瀧村がインターネットで
件の偽名を用いていた事実は、裏付けが取れていた。無論、瀧村はその人物になりすま
していたのだから、偽名を用いるのは当然とも云えるのだが。
 そんな風に、複数の事件が片付いたり継続したり、あるいは進展なしだったりと、あ
る意味名探偵の日常らしい風景が繰り返されていた。
 繰り返しに変化をもたらすのは、十文字先輩が高校生である以上、学校行事であるこ
とが多い。今の季節なら、十月にある体育祭だ。
「百田君は、体力回復しそうなのかい?」
 体育の授業を休んだ僕に声を掛けてくれたのは、クラスメートの音無亜有香だった。
女子だけど、剣道の腕が立つ。それでいて汗臭さとは無縁の、ポニーテール美人だ。僕
の理想とする異性だし、こうして心配されるのは嬉しい。
「まだ分からない。復活できたとしても、あとから加わるのは難しい団体競技なんか
は、出ない方がいいかもね」
「そんな情けないこと云うとは情けない」
 重複表現ぽい云い回しで割って入ってきたのは、一ノ瀬和葉。同じくクラスメート
で、コンピュータ全般、特にプログラミングの才能を認められた学内有名人かつ天才の
一人。海外生活が長かったせいか、日本語に少しおかしなところがあったが、最近はわ
ざとやっている節が窺えなくもない。
「仮にも探偵の相棒にしちゃ、非常にココロモトナインじゃあ、ありませんか」
 ……“ココロモトナイン”てのは、“心許ない”か。猫型ロボットの秘密道具か、新
しい栄養ドリンクみたいなイントネーションで云うから、すぐには分からなかったじゃ
ないか。
「一ノ瀬の体力だって、心許ないと思うけど。後半、行進に着いて行くのもやっとだっ
た」
「あれは前半頑張りすぎて、ペースがちょっぴり狂ったんだよん。次からは修正するか
ら問題ないから」
 元来がインドア派の一ノ瀬にしては、きっぱり否定した。彼女にとって日本の学校の
体育祭は久しぶりになるはずだから、できる限り頑張ろうと決めているのかもしれな
い。
「分かった。それなら、一ノ瀬が予行演習で徒競走三位以内に入ったら、僕も頑張って
全部出るように努力する」
「努力じゃなく、確約してもらおー」
 そんな無茶な。医師の許可がまだ下りてないんだってこと、把握できてるんだろう
か。

             *             *

「早惠子さんの方から連絡をくれるなんて、珍しいですね」
 携帯電話のメールを示しつつ、十文字龍太郎は待ち合わせ場所に現れた。ターミナル
駅の三つ手前、乗降客が多すぎず少なすぎず、駅周辺に店の類は皆無で、人目もさほど
ない。内緒話をするにはうってつけの場所かもしれなかった。
「ありがとう、来てくれて。そんなに珍しいかしら?」
 ベンチから腰を上げた針生早惠子は、制服ではなく私服姿だった。清楚さや純粋さを
アピールするかのような、白のワンピースに鍔広の黄色い帽子。時間帯から云って学校
帰りと思っていた十文字は、少し意外に感じた。わざわざ着替えたのだろうか。
「珍しいですよ。少なくとも、高校生になってからは、記憶にないな」
「そんなになるのね。――どこかに入る? 十分ほど歩けば、喫茶店があったと思う」
「いや。それじゃ、この駅にした意味がなくなるでしょう。一刻も早く相談したいので
は」
 短いメールにあった。「弟のことで相談したい。都合のいい日を教えて」と。
「そうね。じゃ、隣に座って。ちょうど木陰もできてる」
 ベンチの上を覆うように、木が枝葉を広げていた。隙間を通して雲が臨める。
「徹平が死んでからまだみつきと経っていないのに、随分昔のことのように思える……
十文字君はそう感じてるんじゃない?」
「は?」
 てっきり、早惠子が弟・針生徹平の死について感想を述べるのだと思い、聞いていた
十文字は、一瞬呆気に取られた。体勢を立て直し、答える。
「そんなことはない。事件はあれからもたくさん起きたが、彼が亡くなった事件はまだ
謎が残っている」
「つまり、まだ生々しく記憶に乗っているのね。それなら話が早いわ。私も同じだか
ら」
 十文字は何も答えずにいた。姉が弟を亡くしたのなら、普通はそんなものだろう。だ
が、十文字は早惠子が徹平の死に関わっているのではないかと推測したことがある。今
もその疑念は薄まりこそすれ、消えてはいない。もし彼女が犯人であれば、事件につい
て記憶がいつまでも鮮明なのは、ある意味当然ではないか。
「実は私、狙われているみたいなの」
「……まさか狙われているというのは、その、命を?」
「さすが鋭いわね」
 声なく笑ってみせた針生早惠子を、十文字は素早く観察した。緊張や憔悴、あるいは
恐怖や焦りの色が少しずつ浮かんでいるように思えた。こめかみに浮かぶ小粒の汗、髪
の微かな乱れ、唇の小刻みな震え、いつにない早口等々。
「とりあえず、事情を伺いたい」
「ええ。身内の恥をさらすようだし、死んだ徹平を悪く云うようで気が引けるのだけれ
ど、弟は……人の死や殺人を美化するような主旨のサイトに出入りしていたみたいな
の」
「それだけで恥とは云えませんよ」
「かもしれない。けれども、有名な殺人犯のグッズを手に入れようとしたり、毒物の作
り方を調べ上げて得意げに書き込んだりするのは、どうかと……」
「ふむ。徹平のそういった行為を知ったのは、彼の死後? たとえば、彼専用のパソコ
ンの履歴から分かったとか」
「そうよ。ほんと、鋭いのね」
「常道です」
「徹平は元々パソコンを買い与えられていたのに、わざわざ別のノートパソコンを密か
に購入していた。もちろん中古だけど、自分のお金で。殺人関係のアングラなサイトに
は、そのパソコンでのみ接続していたみたい。一応、徹平自身、隠すべき趣味だという
意識はあったのね」
「その二台目のノートパソコンは、どこに隠してあったんです? そして早惠子さんが
いかにして見付けたのか、興味あります」
「――目の付け所が違うのは、名探偵だから? 隠し場所って云うほどじゃなかった
わ。ノートパソコンを持ち運びするためのバッグがあるでしょ。あれの中にあった」
「隠し場所と云えないんじゃあ」
「一台目のパソコン用に、バッグも併せて買ってもらったのよ。その中に、二台目を隠
していた」
「なるほど。買ってやったパソコンが使われているのなら、普通、バッグは空っぽだと
思うという訳か」
 でも、警察が見落とすだろうか。十文字は疑問に思った。
 針生徹平は、殺人事件の被害者として死んだ。当然、警察は被害者についてよく知ろ
うと、周辺を調べたはず。
 十文字はしかし、疑問を飲み込み、本題に戻るべく、相手に話の続きを促した。
 針生早惠子は少し間を取り、話をまとめ直したようだ。
「徹平は殺人アングラサイトに参加する内に、同じ趣味の人達とつながりができ、さら
には本物の犯罪者とも関わるようになったらしいの。そして、そういった連中の一人と
トラブルになっていた」
「どうやって知ったんです? メールや書き込みの痕跡が残っていた?」
 この質問は合いの手のようなもので、当然、肯定の答が返ってくるとばかり思ってい
た十文字だったが、実際は違った。
「ううん。徹平はその辺りも用心深くて、きれいさっぱり消していた。でも、相手から
もメールは来るでしょう? 弟が死んだあとに来たメールは、誰も削除できずに残って
いたわ。片仮名でフラキと名乗ってる」
「そのフラキが、徹平の死を知り、矛先をあなたに向けてきたとでも?」
「そう。おかしなことになってる。こちらから教えた訳じゃなく、向こうがニュースを
見て把握したらしいのだけれど――」
「一つ質問が。徹平はそんなサイトやメールで本名を名乗っていたのですが」
「分からないのよ、それが。フラキの話だと、本名のアナグラムになっていたらしいの
だけれど、どう名乗っていたかは分からないまま」
「なるほどね、アナグラムか」
 パズル好きな徹平らしい。十文字はひとまず納得し、話の続きに耳を傾ける。
「どうやって調べたのか、九月十一日、私のパソコンメールのアドレスに、フラキから
メールが届いたのよ。そいつと弟の間にもめ事があった大まかないきさつを聞かされた
上、『いずれ徹平君の思い上がりを叩き潰してやるつもりだったのに、“勝ち逃げ”さ
れてしまい、気分が悪い。この鬱憤を晴らすには、彼の身内を壊すしかない』という文
章を送りつけられて……」
「警察に届けましたか」
「無理よ。警察に報せたら、犠牲は一人で終わらないとまで云われたのだから」
「それを信じたんですか」
 十文字からすれば、狙われるのが一人から二人に増えたとしても、大した違いではな
いと感じる。当人やその家族にとっては、大問題だとしてもだ。
「信じるしかないでしょう。元の脅迫に、命を狙うとか殺すという意味の表現は使って
いないのだから、ひょっとしたら命までは取らないということかもしれない。相手を刺
激することはないと、家族で決めたの」
「なのに、僕に相談を持ち掛けてきたのは、どういう風の吹き回しです?
「決まってるでしょう、警察じゃないからよ。誘拐と同じ」
「……早惠子さんは結局、何を僕に依頼したいのですか。命を狙われていると本気で恐
怖を覚えているのであれば、何があっても警察に報せるべきだ」
「それでは、依頼は受けてくれないのね。力不足を認めて」
「……」
 相手の挑発的な物言いに、十文字は若干、鼻白んだ。針生徹平が死んだ件で、その姉
への信頼度が弱くなっていたが、ここに来てますます冷めてしまった。もしかするとこ
の度の依頼そのものが罠なのかもしれない、とまで考えた。
「ええ、僕には無理ですね」
 高校生探偵として名を知られるようになって以降、依頼を断ったことがなかった訳で
はない。だが、嫌な予感がするからという理由で断るのは、今回が初めてだ。
「せめてあなたが同じ学校なら、ある程度は目を配れますが、現状ではとても手が回ら
ない。他を当たってください」
 腰を上げかけた十文字。彼の右腕を、早惠子の細い指が掴み止める。
「待って。話を最後まで聞いて頂戴。ずっと警護して欲しい訳ではないのよ。何も起こ
らない内から、犯人――フラキを見付けてと頼むつもりもない」
「ではどうしろと」
 座り直し、肩をすくめる。すると、相手はピンク色の封筒を取り出した。
「フラキを名乗る差出人から、こんな手紙が届いたの。切手が張ってないから、直接、
郵便受けに入れたのかもしれない」
 一旦、破棄しようとしたのか、くしゃくしゃに丸めた痕跡がある。もう指紋には期待
できまい。そう判断した十文字は手紙を手に取ると、ざっと観察した。表には針生早惠
子が宛名として書かれており、郵便番号や住所も記入してある。裏にはフラキとだけあ
った。封筒の口に軽く息を吹きかけ、中を覗くと便箋が三つ折りになって入っていた。
枚数は一枚きりのようだ。早惠子の了解を得て便箋を引き出し、読んでみた。思ったよ
りもずっと短い文面だった。

『おまえの秘密を知っている。
 公にされたくなければ、十月一日午後八時に、下記の住所まで独りで足を運ばれよ。
 指定した日時に姿を現さないときは、秘密を公開するとともに、かねてよりの予告を
実行する。壊れるのは、あなた自身とは限らないことを忠告するものである。 フラ
キ』

 今時珍しく、雑誌や新聞などから切り抜いた文字を貼り合わせて作られている。フラ
キの名のあとに、指定の住所が記されていたが、どこなのかまでは分からない。
 手紙を受け取った当人を見ると、十文字の考えを察したかのように、「うちの高校の
旧校舎があったところよ」と答えた。
「美馬篠高校の旧校舎……ということは、今は使われていない?」
「使われていないどころか、十年以上前に更地になっているはず。だから、行っても何
もないと思うのだけれど」
「その周辺は? 建物があるのか、人通りは多いのか少ないのか」
「詳しくは知らないし、実際に行ったことはないのだけれど、再開発の予定が立ち消え
になったと噂に聞いたわ。だから、寂れてるんじゃないかしら」
 凶行をなすには向いているということか。十文字は顎に手を当て、考え込んだ。
「……腑に落ちない点が、まだいくつかある。徹平を殺した犯人はまだ分かっていな
い。フラキは有力な容疑者になると思う。そのことを、警察に話すつもりは」
「だから、さっきも云った通り。警察に届ける気はないの。少なくとも、脅しの件が決
着するまではね」
「うーん」
「それに、フラキが弟を殺した犯人だとしたら、もう目的を達成してる訳でしょう? 
なのに私達家族を脅してくるなんて、辻褄が合わない」
「それはそうですが……」
 カムフラージュの可能性も検討すべきだろうか。それとも、最前の嫌な予感の通り、
これも含めて全てが何かの罠なのか。
「立ち入ったことを聞きますが、早惠子さん。この手紙にある、あなたの抱える秘密と
は何です?」
「分からない」
 即答した針生早惠子の表情に、くもりはない。何ら隠し立てするようなことはないと
思えた。
「心当たりがないのよ。宛名の間違いかもしれない。でも、聞く訳に行かないし」
「しつこいようですが、何一つ秘密を持っていないんですか」
「莫迦ね。ないはずないじゃない。でも、公にされて本当に困るようなものじゃないっ
てこと」
「おかしいな。それなら、こんな脅迫なんて無視すればよい」
「でもそれは、殺されかねないような文句が書かれてるから」
「そもそも、この脅迫自体、何だか妙な印象を受けたんですがね。『秘密をばらされた
くなければどこそこに来い』と『来なければ命を狙う』という二つの脅しがあって、そ
れぞれ前後の関係になっている。普通、『来なければ秘密をばらす』で完結するものじ
ゃないのか? これだと、フラキの目的は結局はあなたを害することであって、脅迫す
る必要がないんじゃないか? そんな風に思えるのですよ」
「それは……そんなこと云われたって、私が書いたんじゃあるまいし、知らないわ。フ
ラキを掴まえて、聞いてみればいい」
「のりの乾きがまだ完全じゃない」
「えっ、何?」
「この脅迫文の切り抜き、のりで貼り付けてあるみたいだが、まだ完全に乾き切っては
ない感じだ。作られてから、まださほど時間が経っていないような……」
 とぼけた口調で述べる十文字。鎌を掛けてみることにしたのだ。
「念のため、あなたの家を捜索させてもらえませんか。ひょっとしたら、切り抜いたあ
との新聞や雑誌が出て来るかもしれない」
「何を云うの? つまりそれって、脅迫者は私の家族ってことになるじゃない」
「かもしれないし、違うかもしれない」
「そんな」
「僕に依頼するのであれば、まずそこから始めたい。それも今すぐにです。この条件を
受け入れられないのなら、矢張り、依頼をお断りさせていただきます」
「……分かったわ」
 針生早惠子はベンチから立った。
「手間を取らせたわね。この話は忘れてくれていいわ。聞かなかったことにして」
 そう云い残すと、十文字に返事するいとまを与えることなしに、立ち去った。何故
か、駅とは反対向きの方角に。

            *              *

「だめだったわ。話に乗ってこなかった」
 早惠子は電話口で嘆息混じりに云った。相手は無言のまま聞いている。
「謎をちらつかせれば応じると簡単に考えていたんだけれども、甘かったようよ。思い
付きの計画、急ごしらえの小道具では、すぐに怪しいと見抜かれてしまった。特に、切
り抜きの痕跡を指摘されたときは、冷や汗もの」
「やむを得まい。若いとはいえ、彼は名探偵。つきもあるのだろう」
 相手は平板な調子で感想を述べた。本心からの言葉なのか、判断しかねる。
「彼を盾にするつもりだったのに、当てが外れた訳だが、一体どうするね?」
「次善の策――今風ならBプランで行くほかありません。だから……」
「やれやれ。私が行かねばならないのか」
「仕方がありません。決戦の場として指定してきたのが、カップル限定イベントなの
で」
「どういうつもりなのだろう。ホテルで外界とは隔てられた空間とは言え、そのような
人の集まる場に君を招くとは。敵は、君の正体に当たりを付けているのか?」
「恐らく。疑うというレベルを超えていないと、こんな大胆に接触して来ないはず」
「もしかすると、敵側こそ一般人を盾にするつもりなのかもな。こちらは目的のために
は、何ら躊躇することはないというのに」
「無意味、無駄、徒労」
 三つの単語を云う早惠子の口元に微笑が浮かぶ。自分達が好む遊戯的殺人にこそ、無
意味で無駄である種の徒労が含まれていることに気付いたから。
「私達の同好の士を仕留めて回った人物が、今回の敵と同じだとしたら、何故、いきな
り襲って来ず、こうして招待するのかしら」
「探りを入れるため、かもしれないな。君が君の弟と同類なのか否か、敵方は確信が持
てなかったんじゃないか」
「それでは、素知らぬふりを通して、やり過ごすこともできます? 招待に応じるだけ
応じて、何にも知らない芝居をし続ければ、敵は矢っ張り関係ないと思い、何事もなく
帰してくれる、なんて」
「そう甘くはなかろう。こちらから誘いに乗るのなら、最悪を想定して動くべきだ。逃
亡するのなら、徹底して逃亡する」
「でも、私は復讐したい。徹平のためにも」
「理解している。だから協力はする。ただし、万が一にもどちらかが生命の危機に瀕
し、助けようがないと判断したなら、かまわずに見捨てて逃げる。そう決めておく。お
互いのためだ」
「云われるまでもない。了解よ」
 早惠子はもう笑っていなかった。

 針生早惠子との電話を終えた前辻能夫(まえつじよしお)は、自然と身震いをした。
 彼も遊戯的殺人、快楽殺人者の一人である。ただ、実際に人を殺したことは、十年ほ
ど昔に一度きり。専ら、殺人トリックを案出し、他人に提供することで、己の嗜好を満
足させていた。表立った活動をしてこなかった分、その存在を“敵”に察知されにくか
ったのかもしれない。
 そんな裏方である前辻が、再び表舞台に出て来たのは、同好の士が次々に殺害されて
いるからに他ならない。気が付けば、互いに見知っている仲間は、針生早惠子一人にな
っていた。
「彼女にはああいったものの、敵のテリトリーにのこのこ出て行くのは、避けたいとこ
ろだね」
 独り言を口にし、思案顔になる。通話を終えた携帯端末を握りしめたまま、自分の部
屋の中をうろうろと歩き回る。しばらく経ち、部屋の角に置いた姿見にそんな己の姿を
認めて、前辻は我に返った。犯罪計画を考える自分の表情は、こんなにも恐ろしげであ
るのかと、少々驚いた。
 気を付けねばなるまい。他人にこれを見られたら、何事かと訝しがられること必定。
前辻は独り言をやめた。
(こちらから仕掛けて、相手の反応を見るのは、策略としてありだろう)
 狙いを設定し、計画を組み立てに掛かった。

「針生早惠子君。君には死んでもらうことにした」
 前辻がそう持ち掛けると、針生早惠子は彼が期待したようには驚きはしなかった。一
瞬だけ目を見開いたようだったが、あとは淡々としたものだった。
「どのような方法で? それに、どういった目的で?」
 ストレートに聞き返され、前辻は微苦笑を浮かべた。察しがよくて話が早いのはいい
ことだが、面白味に欠ける。
「あまり凝った工作はしない方が、懸命だろう。何しろ、警察だけでなく、殺し屋連中
の検証にも耐えなければならない。シンプルかつ重要そうでない事件ないしは事故に見
せ掛けるのがベストと考える」
「では、交通事故か何かですか」
「いや、交通事故――車だと、事故とはいえ加害者の存在が必要になるからね。高所か
らの転落死がよいと思う」
「高所……ビルとか」
「うん。今、僕の頭にあるのは、ビルの屋上から転落して、下層階の張り出した部分に
叩き付けられて死ぬという形だ。身元が分からない程度に、外見が潰れてもおかしくな
い」
「指紋は?」
「手の方は、ビルの壁面にしがみつこうとした際に、削れてしまったことにしよう。足
の指紋はどうしようもないが、比較できる指紋が残っていること自体、滅多にないだ
ろ? それとも君は、君の足の指紋だと確実に断言できる痕跡を、家の中にでも残して
いるのか?」
「いや、それはない。では最大の問題は、誰を身代わりにするか」
「そうなる。でも、確か君は以前云っていたじゃないか。身近に自分とよく似た背格好
の同級生がいると」
「厳密には今は同級生じゃなく、別のクラスですけどね。宮迫恭子(みやさこきょう
こ)といって、背格好に留まらず、肉付きも似ているし、血液型は同じ。髪の長さも、
あの子が切っていなければ、多分だいたい同じくらい」
「ちょうどいい。どうせ、君も万が一のときは、その宮迫恭子を身代わりにと考え、目
を付けていたんだろう?」
「利用価値はあると思っていたわ」
「利用すべきは今だ。敵陣に乗り込むくらいなら、こちらが死んだと見せ掛けて、敵を
誘き出し、逆襲する方が勝算がぐっと高まる。百パーセントとは云わないがね。ここま
で話せば、君が用意すべき物事も分かるだろう?」
「身元確認を偽装するために、宮迫恭子の毛髪や爪などを手に入れ、私の部屋や学校の
机といった生活圏に、いかにも私の物らしく置いておく。逆に、私の髪の毛などは、丁
寧に取り除いておく。――そういえば、私はどうなるんです? ことが終われば、また
針生早惠子に戻る?」
「うーん、戻ることを願うとは、予想していなかったな」
 前辻は意識してしかめ面を作り、腕組みをした。
「不可能ではないが……そのまま消えてしまう方がずっと楽だろう」
「願ってる訳じゃありません。戻らなくてもいいけれど……十文字龍太郎とは接点を持
っておいた方がいいと考えていたものだから」
「なるほど。彼の存在は、遊戯的殺人のやり甲斐をアップしてくれるね。まあ、いいじ
ゃないか。名探偵は彼だけじゃないし、改めて知り合うことだってできるさ」
「分かりました。残る問題は、一つだけ」
 ウィンクする早惠子に、前辻は意外なものを見る目つきになってしまった。
「何かな?」
「前辻さんの計画にしては、ちっとも遊戯的殺人らしさがないわ」
 なるほど。これは再考の余地ありかもしれないな。
 前辻は笑みを浮かべると、腕を組み直した。

――続く




#483/598 ●長編    *** コメント #482 ***
★タイトル (AZA     )  16/04/29  00:02  (324)
安息日 <下>   永山
★内容                                         16/12/07 04:44 修正 第3版
             *             *

 その光景を見た者がいたとすれば、摩訶不思議な現象に映ったかもしれない。
 夜の闇の中、街灯の光を部分的に浴びて、高校の女子制服姿の人間が仰向けに横たわ
った姿勢のまま、するすると上がっていく。その人物はぴくりともしない。時折強くな
る風に、スカーフやロングヘアが揺れる程度だ。
 天を目指しているかのようだったが、上昇は突然止まった。建物――ビルの屋上の高
さまで来ると、今度は横移動を始めた。屋上の縁に近付いたところで、腕が伸ばされ
た。人の手により、若い女性の身体は空中から屋上の敷地内へと引き込まれた。
 ここで絡繰りが明らかになる。よく見ると、棒――もしくは枠、あるいは台と呼んで
もいい――が女性の身体を支えていたことに気付く。マジックにおける人体浮遊と原理
は同じ。細くて見えづらいが丈夫なワイヤーを数本、女性の身体の背中側から脇を通っ
て前に回し、引っ張る。それだけだ。ただし、上昇のための動力は、ワイヤーを滑車に
通し、人力とスマートヘリによって引っ張り上げていた。滑車は、元々あった広告設置
のための物を利用した。
 若い女性をビルの屋上に引き込んだ人物は、待機していたもう一人の人物にバトンタ
ッチした。あとを継いだ人物は、今し方空中浮遊をしてきたばかりの女性と同じぐらい
の年齢で、矢張り女性だった。
「まだ死んでいない」
 彼女は僅かな驚きを含んだ声で呟くと、注射器を手に取った。


             *             *

「四日前に都内の空きテナントで見付かった女性の遺体、身元判明したって載ってるよ
ん」
 丸めた新聞紙を振りながら、一ノ瀬和葉が僕らの方にやって来た。
 僕らとは、僕・百田と十文字先輩のことだ。場所は校内のカフェテリア。一ノ瀬のお
ば、一ノ瀬メイさんに会うため、放課後ここで待ち合わせすることになっていた。
「一ノ瀬君でも、紙の新聞に目を通すなんてことがあるのかい」
 今の世の中、必要な情報をネットで調べ、集めるという人は多いだろう。が、一ノ瀬
はコンピュータを手足のように使いこなす割に、意外とアナログなところがあるし、古
い物を大事にする傾向もある。同級生ではない先輩には分からないかもしれないが、一
ノ瀬が新聞を読んでいても不思議じゃない。
「あれれ? 前、この事件の第一報を少し気にしてたはずだけど、その様子だと、まだ
知らない?」
 事件そのものは、僕もしっかり記憶している。遺体が見つかったのは、駅にほど近い
雑居ビル。再開発が狙い通りに進んでいないらしく、テナントがいくつも空いていて、
どちらかというと寂しい区画だ。そんな空きテナントの屋根で、女性の遺体が見つかっ
たのだ。
 テナントの屋根なんて書くと、そのテナントが最上階にあるみたいに聞こえるだろう
けれど、実際は違う。件の雑居ビルは、何フロアか毎に階段状になるように作られてい
た。正確な数は知らないが、たとえば一階部分は五部屋、二階が四部屋、三階が三部屋
という風に、上になるほどフロアのスペースが狭くなる設計だ。遺体が見つかったテナ
ントは五階にあり、そこから上は最上階の十階まで直方体を縦に置いた形になってる。
各階の窓は開かないが、十階の更に上、屋上から見下ろせば、五階テナントの屋根が覗
ける訳だ。
「生憎と、今日の夕刊を手に入れる機会はなかったし、ネットにも触れていないから
ね」
「五代先輩も知らせてくれなかったんですね?」
 テーブルにもたれかかるような勢いで着席した一ノ瀬は、念押ししてきた。
 五代先輩は警察一家の生まれで、高校女子柔道の実力者。十文字先輩とは幼馴染みの
仲で、時折、捜査の情報をもたらしてくれる。
「ああ、何も聞いてない」
「じゃあ、ひょっとしたら同姓同名の別人かにゃ? 知ってる人だと思ったけど、写真
が出てる訳じゃなし」
 深刻な状況から解放されたかのように、口調が軽くなる一ノ瀬。その手から新聞が十
文字先輩に渡された。一ノ瀬の云ったページはすでに開いてあり、先輩は受け取ってす
ぐに記事の内容を把握できたはず。
「――信じられない」
 表情が強ばっていた。見た目にも明らかに動揺が浮かんでいる。十文字先輩のこんな
態度は、初めて目の当たりにした。
 僕はここで初めて記事に目をやった。先輩の肩越し、斜め上から覗いてみる。そこに
は、四日前に発見された身元不明遺体が、針生早惠子さんだと特定された旨が書かれて
いた。
 結果、メイさんと会うのは延期になってしまった。

 十文字先輩は熟考の上、自ら動きははしないと決めたようだった。
 あとから知らされたのだけれど、先輩は一週間前に早惠子さんと会っていた。用件の
詳細は教えてもらえなかったが、掻い摘まんで云うと早惠子さんから身辺警護を依頼さ
れたらしい。しかし真実かどうか疑わしいとの理由で、依頼を拒否した。
 そのことが、この殺人に直結したのかどうか、定かではない。表面上の出来事を素直
に解釈するなら、十文字先輩が警護を拒否したことで、早惠子さんは殺されやすい立場
に置かれ、実際に命を奪われた、となるが……ここに来てまだ、高校生探偵は旧友の姉
を全面的には信じていないのだ。
 全てが罠だとすると、こちらから動くのは得策でない。そういった判断により、早惠
子さんから警護を頼まれた事実を、警察にすら話さないと決めた。
「無論、二つのグループの抗争により、殺害されたという目もある」
 先輩は二人でいるとき、そう説明した。
「以前に話したのを覚えているか? 遊戯的殺人を好んで行う連中が、逆にここ最近で
何名か殺されている。もしかすると、殺人を職業的に行う連中、要は殺し屋が遊戯的殺
人者を邪魔な存在として片付けているのかもしれないと。今度の針生早惠子さん殺しが
本当なら、殺し屋に始末された可能性はある。確証のない、単なる仮説だが」
 もしそうだとすると、早惠子さんが助けを求めたのも、事実、殺し屋を恐れていたか
らとなる。
「でも、そう易々とやられるものだろうか? 前触れなし、不意打ちを食らうのなら話
は違ってくるが、“同好の士”が殺されたことを知っていたはずだし、脅迫文まで受け
取ったのだから、警戒したに違いない。人殺し仲間が皆無だったとも思えない。だから
――だから僕は、この件は遊戯的殺人者側の策略だとみている。下手に動いて流れを壊
すよりも、しばらく静観して、両者をあぶり出すのが得策だ。その上で、誰も犠牲が出
ないのが最善だが、それは高望みかもしれないな」
 こうして、パズルの天才にして名探偵の十文字龍太郎は、一時的に手を引くことを宣
言した。

             *             *

 八神蘭は通常、調査などしない。巡ってきた依頼をこなすだけだ。もちろん、仕事の
現場において、移り変わる状況に即して判断が必要となることは多々あるが、それを調
査とは呼べまい。
 だから今回は特別だ。仲間内のネットワークを通じて、ある人物の正体を探り出すこ
とを込みで始末を頼まれ、引き受けた。引き受けたのには理由がある。そのターゲット
が、自分の周辺にいると予想できたし、正体を隠したままターゲットに接近すること
も、他の者と比べて八神なら容易に可能だったから。
 そもそも、この面倒事の発端は、殺し屋側にいた万丈目が、遊戯的殺人に手を広げて
しまったことにある。趣味に走るのなら走るでこっそりやればまだ見逃せたが、万丈目
は大っぴらにやった。彼自身が利用する電車の沿線でばかり被害者を物色していては、
いずれ警察に捕まるのは火を見るよりも明らか。逮捕された万丈目の口から、殺し屋の
情報が漏れる危険性があった。その恐れを断つためにも、万丈目を早急に処分する必要
があった。その刺客として白羽の矢が立ったのが、八神だった。万丈目の表の職業は高
校の教師。八神は学生に化けることで――いや、化けなくても現役の高校生なのだが―
―、簡単に万丈目へと接近でき、目的を達成した。
 その過程で、高校生探偵を気取る十文字龍太郎や一ノ瀬和葉、音無亜有香らを知っ
た。十文字の周辺を観察していれば、他にも遊戯的殺人者が網に掛かるかもしれない。
そんな目算は、見事に当たった。針生徹平を始めとする“該当者”について、八神は仕
事仲間に知らせた。誰が始末したのかは聞いていないし、興味はない。
 現在、八神の関心は針生早惠子に向いていた。弟に次いで姉までも遊戯的殺人者であ
るなら、一度に片付けるべきだったと思うが、今さら悔いても仕方がない。少し前まで
確証がないどころか、針生早惠子は全く尻尾を出していなかったのだ。針生徹平が死
に、さらに鎌を掛けられたことで、ようやく隙を見せたと云える。
 前辻能夫と接触を持ったことは、既に把握していた。この男もまた、遊戯的殺人者の
嗜好を直隠しにして生きてきたようだった。殺し屋の側でも、前辻とつながりのある者
は何人かいた。依頼された殺しの実行が困難なとき、金と引き替えにうまい方法を案出
してくれるのが前辻だった。いつの頃から遊戯的殺人にまで手を染めるようになったの
かは、判明していない。
(前辻の方は、始末するには惜しいという声が上がっているが……こちらの身に危険が
及ばぬ限り、私も前辻には手出しすまい)
 方針は決めている。ただ、一線を越えたかどうかの基準はフレキシブルだ。あまりが
ちがちにラインを設け、いざというときに命を落としては元も子もない。臨機応変、柔
軟に対処できる必要がある。
 八神はふと、思考を止めた。目を付けていた人物がアパートから出て来たのだ。張り
込みを開始した時点から、神経を研ぎ澄ませていたが、雑多な思考をやめることで更に
磨きが掛かる。信条を異にするとは云え、敵もまた殺しのエキスパートであることは間
違いのない事実。油断禁物である。
 八神は追跡を五分ほど続けた。ひとけが全くない路地に入り込んだ時点で、一層、緊
張感を高めた。
 正直云って、あとを付けている相手は、さほど怖くはない。相手――前辻能夫の実技
は、八神のレベルに全く達していない。恐れるとしたら、前辻の助っ人だ。現れるかも
しれないし、現れないかもしれない。この場に助っ人が来たとして、いきなり襲ってく
るか、どこかで観察をするかも分からない。
 一本道の先に、神社が見えた。時刻は夕方に差し掛かり、辺りは暗くなってきた。
 八神は自ら動くことにした。
「前辻能夫」
 いつでも最終手段が執れる体制を整えた上で、相手の名前を呼んだ。距離は十メート
ルほど。
 前辻は背中をぴくりとさせ、足を止めた。振り返らない。
「前辻さん。申し開きがあれば聞こうと思う。このあとどうなるかは、そちらの気持ち
次第だ」
「君の名前は?」
 乾いた声で質問が来た。まだ背を向けたままだ。それを知っていながら、八神は首を
横に振った。
「残念ながらその要望には添えない」
 万が一に備え、日常的にしているソバージュを解き、化粧で年齢を高く見せ、靴は若
干上げ底にした。突発事に対処できるだけの動きを確保しつつ、変装をしたのに、あっ
さり名前を明かせるはずがない。八神は話を戻した。
「早く意思表示をしてもらいたい。人が通り掛かると、面倒になる」
「君は……普通の人ではないのだね?」
 ここでようやく振り返った前辻。色つきの丸眼鏡を掛け、無精髭を生やし、頬はやや
こけている。手足が長いせいか、痩せて見える。実際、血色はよくないようだ。
 八神は前辻の大まかな問い掛けに、黙って首肯した。
「話のしやすい場所に移動する気はないのか、あるのか?」
「待ってくれ。まず、一つ教えてもらいたい。針生早惠子君を知っているか?」
「知っている」
 その件で来たのだとまでは答えないが、恐らく前辻も察知しているであろう。
「彼女と連絡が取れなくなっているのだが、君達の仕業か?」
「これはおかしな話を。あなたが彼女の死を演出したのでは」
 八神は敢えて意地悪く尋ね返した。
「そう。その通りだ。彼女の死を演出しただけで、本当に殺してなんかいない。死んだ
のは、別の女子高生のはずなのに……連絡が取れない」
「……」
 どうやら前辻は計画を立てただけで、現場には立ち会わなかったようだ。八神はそう
推測した。
 似ているからというだけで殺されかけた宮迫恭子を助け、代わりに針生早惠子を葬っ
ておいた。前辻の計画通りに、ただ死んだのが宮迫恭子ではなく、本物の針生早惠子だ
ったというだけのこと。
 尤も、宮迫恭子を救えたのは偶々運がよかったに過ぎない。八神達のグループからす
れば、針生早惠子の処分が目的で、あとは取るに足りないことだ。ただ、無駄な死を防
ぐチャンスがあれば、積極的に動く。遊戯的殺人の否定につながるからだ。殺し屋が人
命救助をすることがあっていい。
「針生早惠子は、もうこの世にはいない。前辻さんの計画は途中で座礁した」
「……そうか。それで君は、私も始末しに来た訳だ」
「さっきも云った通り、どうなるかはそちら次第。あなたの立案能力を買っている者
は、こちら側にも結構いるということです」
「なるほど」
 前辻の表情に、安堵の色が少し浮かんだようだ。陽光の具合で分かりにくいが、希望
を見出したに違いない。
「ありがたくも勿体ない話だが、果たしてどこまで信用できるのだろう? 確か、万丈
目と云ったかな? 彼は元々そちら側の人間だったが、趣味に走ったばかりに始末され
たと聞いている。彼に、申し開きのチャンスを与えられなかったのか?」
「あれは、大っぴらにやり過ぎた。早急に片付けなければ、我々全体に悪影響が及びか
ねなかった。私が云うのもおかしいだろうが、そちら側の連中にも助かった者がいるの
ではないか」
「理屈は通っているという訳だな」
 そう答えつつ、考える風に首を傾げる前辻。何かを待っている様子ではない。軍門に
降るべきか否か、真剣に検討しているように見える。
「条件を出せる立場でないと分かっているが、敢えて云わせてもらいたい」
「――決定権は私にはないが、聞くだけ聞こう」
 人目を気にせずに話せるよう、場所を移したいのだが、前辻の警戒心はまだ完全には
解けていないらしい。なかなか動こうとしない。
「ある人物に関する情報を持っている。そちらにとっても重要な情報だ。それを手土産
に、この前辻の地位をある程度高いものにしてくれると保証してもらえないか」
 そのような権利は自分にはないし、興味もない。そもそも、一流企業のようなきっち
りと体系だった組織が作られている訳ではないことぐらい、前辻自身承知のはずだろう
に。
「ある人物とは誰?」
 それでも現時点で相手から引き出せる情報は得ておこう。八神は聞いた。
「そちらから云わせれば、遊戯的殺人者の親玉、かな。不可能犯罪メーカー、冥府魔道
の絡繰り士」
「冥、ですか」
 噂に聞いたことはある。文字通り神出鬼没の怪人物で、冥の仕業と思しき犯罪が日本
各地で起きている。ほんの一時期、隣の幌真市で立て続けに殺人を起こし、人前にも姿
を現したが、捕まることなくすぐにいなくなったという。遊戯的殺人者の親玉とはぴっ
たりの呼称で、冥は中でも劇場型犯罪を好む傾向があるらしい。不可能犯罪を大衆に披
露する、そんな感覚なのだろうか。
「前辻さんは冥と会ったことがあると?」
「二度だけ。電話でも二度ほどある。ただ、こちらからつなぎを取るのは無理なんだ。
でも、いくらか時間をもらえれば、より詳しい情報を手に入れられる。正体を掴むのは
厳しいが、冥が次にどこで何をやらかそうとしているか、とかなら」
 八神は沈思黙考した。魅力的な話である。冥を捕らえるか殺すことが叶えば、遊戯的
殺人者達は勢いを失うだろう。結果、殺し屋の仕事もやりやすくなる。遊戯的殺人者の
側に寝返っていた面々も、戻ってくるかもしれない(同業者が増えすぎるのは、八神と
しても歓迎したくないが)。
「今、冥について知っていることを、全て話してもらいたい。情報を持ち帰って、上に
諮るとしよう。それができないのであれば、これから一緒に来てもらい、直接話すか
だ」
 八神が提案すると、前辻は表情を曇らせた。いや、最早辺りは帳が降りつつあり、相
手の顔はほとんど見えない。気配や雰囲気で感じ取っただけである。
 やがて前辻は、決断を下したかのように気負った声で云った。
「冥の声を録音したディスクがある。それを取りに行きたい」
「ならば、同行しよう」
 八神が歩を進めると、前辻は後退した。
「だめだ。まだ完全に信じ切れていない。音声データの他にも、もう一つ手掛かりがあ
る。それも同じ場所に隠してあるんだが、自宅ではない」
「隠し場所を知られたくないということか」
 八神はつい、舌打ちした。ここで無理強いしても、埒は明くまい。かといって、前辻
を一人で行かせるのも不安要素が多い。逃げられでもすれば、その失敗はいつまでも八
神のプライドを傷付けるだろう。
「――前辻さん。もしあなたが約束を違え、戻ってこなかった場合、あなたが冥を我々
に売ろうとしたことを、冥に知らしめる。冥はネットのチェックを欠かさないそうだか
らな。ネット上に噂を流せば、じきに冥は把握する。噂の真偽がどうであろうと、冥は
あなたをただではおくまい」
「……かまわない。そうだな、午後八時にこの場に戻ってくる。まだお疑いなら、味方
を大勢引き連れてくればいい」
 どうにか合意にこぎ着けた。普段、し慣れていないことをやると、肉体的にも精神的
にも強く疲労する。八神は改めて実感した。

 だが、前辻能夫は二度と姿を現さなかった。

             *             *

 体育祭のリハーサルを終え、僕らは街のファミリーレストランに来ていた。先延ばし
になっていた、一ノ瀬メイさんとの再会を果たすためだ。
 約束の時間にはまだ早いが、先に来て好きな物を食べていていいとメイさんから云わ
れていたので、遠慮なく注文する。
 僕らというのは、前と違って今日は四人に増えている。僕・百田と十文字先輩、一ノ
瀬和葉に、音無亜有香が加わった。
「ご心配をお掛けしましたが、どうやら体育祭には間に合いそうです。一ノ瀬の順位に
関係なく」
 そう報告すると、先輩は嬉しそうに目を細めた。本当に心配してくれていたんだと、
改めて分かる。ちらと横の席を伺うと、音無も同様に安堵の笑みを浮かべていた。憧れ
の女子にこんな反応をされると、天にも昇る心地になる。いやまあ、純粋に心配されて
いただけなのだが。
「朝一番に復活宣言を聞いちゃったから、気合いが入らなかったよん」
 一ノ瀬がこう言い訳するのは、もう何度目だろう。予行演習での徒競走で、彼女は結
局五位になった。七人中の五番目だから、一ノ瀬としては大健闘と云えるかもしれな
い。
「ところで十文字先輩。しばらく探偵を休んでる間に、大きな事件が起きましたね」
 僕が話題を振ると、しかし先輩は特に気のない風にふんふんと頷くばかりだった。
 高校生名探偵を自認する先輩が、あの事件に興味を抱かないはずがない。にもかかわ
らず、今のような反応をするのは、針生早惠子さんの事件が影を落としているのだろ
う。十文字先輩はまだ、早惠子さんが殺された件に関して、何ら行動に移していない。
少なくとも、僕の知る範囲では。
「多分ニュースで見た事件だと思うが、詳しくは知らないな。百田君、話してくれない
か」
 音無に促され、掻い摘まんで伝える。
 その殺人事件が起きたのは三日前。被害者は男性で、午後四時から同六時の間に死亡
したと推定されている。発覚は同じ日の午後八時十五分で、身元や死因はまだ判明して
いない。年齢は三十から四十辺り。手足が長く、やせ形だが、胴回りは結構だぶついて
いた。肌に日焼けが見られないことからも、あまり出歩かない生活をしていたと考えら
れている。
 重要かつ名探偵が興味を惹くであろう事柄は、その死に様だ。端的に表現するなら、
遺体はばらばらにされていた。頭、両腕、両足、胴体に切断され、更にそれぞれが二つ
に切り分けられていた。頭は左右に割られ、右腕は手首から、左腕は肘から、右足は膝
から、左足は踝から、そして胴体と腹部に切断されていた。都合十二の部位に分割され
ていたことになる。
 発見された場所も異なっており、頭部は私立大学に隣接する学生寮の駐車場に無造作
に置かれ、腕はスポーツジムの裏口にある青のごみバケツに放り込まれ、足は商店街に
ある古着屋の試着室に立て掛けられ、胴体は山道のすぐ脇に積み重ねられていた。いず
れも防犯カメラのない場所だった。
 不可解な点は他にもある。死亡推定時刻に入っている当日午後四時頃、市内で被害者
の目撃情報が複数出ているのだが、距離を考慮するとあり得ないほど離れているとい
う。ワイドショーの解説によると、目撃場所と遺体発見場所は最大で車で五時間を要す
るほど離れているとか、同じ時間に二箇所で目撃されているとか、俄には信じがたい話
が出回っている。
「――聞きかじっていた以上に陰惨な事件だ。まともな理由があって起こした殺人なの
だろうか」
「さあ。僕に問われても……」
 十文字先輩に目をやると、多少は興味を持ったらしく、一ノ瀬に何やら検索を頼んで
いた。端末を触る一ノ瀬が、何らかの結果を表示し、先輩の方にその画面を見せる。
と、そのとき、一ノ瀬がひょいと首を伸ばし、レストランの出入り口の方を向いた。
「来た! メイねえさん、こっちこっち!」
 遅れてドア方向に視線をやると、一ノ瀬メイさんの姿があった。白のTシャツに緑と
黄のタンクトップを重ね着し、下は細いジーンズが足の長さを強調している。確かに目
立つ人だが、出入り口に背を向けていた一ノ瀬和葉がいち早く気付いたのは、さすが親
戚、血縁のなせる業と云うべきか。
 挨拶のあと、「相変わらず、お綺麗ですね」と云うべきかどうか僕が迷っている(音
無がいるから)と、当のメイさんが「相変わらず――」と口火を切ったので、びっくり
した。
「相変わらず、殺人が多いようだね、君らの周りには」
「ええ」
 十文字先輩が居住まいを正した。メイさんは音無からメニューを受け取りながら、十
文字先輩の話を待っている。程なくして、先輩が尋ねた。
「殺人事件が多いことと関係しているかもしれないんですが……メイさんは何か噂を聞
いていませんか。職業的殺し屋のグループと遊戯的殺人者のグループが争っている、と
いうような」
 メイさんはちょっと唇を尖らせ、検討するかのように二、三度首を縦に振った。それ
からウェイターを呼んで、注文を済ませた。ウェイターが立ち去ったあと、声を潜めて
高校生探偵に答える。
「殺し屋のグループについてはあまり知らないが、遊戯的というか愉快犯というか、そ
の手の殺人者に関してなら、情報がある」
 お冷やを呷り、続ける。
「そいつは私がずっと追っている相手でもある。腹立たしいことに、名前の読みが私と
同じなんだ」

――終わり




#484/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:47  (  1)
アイドル探偵CC <前>  永山
★内容                                         20/12/31 10:24 修正 第4版
※都合により一時非公開風状態にします。




#485/598 ●長編    *** コメント #484 ***
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:48  (  1)
アイドル探偵CC <後>  永山
★内容                                         20/12/31 10:24 修正 第4版
※都合により一時非公開風状態にします。




#486/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/08/30  22:50  (364)
崩れる欲望の塔 <前>   永山
★内容
 退屈さのあまり、盛大にあくびをしたところで、ドアをノックする音がした。
「こちらは探偵の江口さんの事務所で間違いないでしょうか。ご依頼したいことがあ
り、伺わせてもらったのですが」
 続いて聞こえてきた声は、なかなか渋く、落ち着いていた。年齢層は絞りづらいが、
豊年(中年の別の言い方として提唱されるも、定着しなかった用語だ)なのは間違いな
い。
 江口は目元を指先で拭うと、咳払いをして喉の調子を確かめた。
「どうぞ。開いております」
 回転椅子を軋ませ居住まいを正し、待ち受ける。
「失礼をします」
 ドアを開けて軽く一礼して入ってきたのは、一見すると人品卑しからぬ紳士。身長1
70センチ前後、グレーのスーツを着込んだ身体は恰幅よく、胸板の厚さは昔スポーツ
をやっていたと思わせる。小さな目と鼻髭が特徴的。後ろに撫で付けた髪は豊かで、白
髪はほとんどない。ただ、顔の肌および皺から五十代半ばと推測された。
「そこのソファにお掛けください。生憎、助手は外出しており、何もお出しできません
がご勘弁を」
 事務机を離れた江口は、自分もソファに収まる前に、ドアの方を指差した。
「施錠した方がよろしいでしょうか」
「はい?」
 唐突な質問と感じたのか、訪問者は初めて頓狂な声を上げた。が、すぐに意味を理解
したようで、「ああ、鍵ですか。念のため、掛けておいてもらいましょう」と答えた。
 言われた通りにすると、江口は訪問男性の前に座った。間にはテーブル。その上には
ガラス製の灰皿がある。
「ご用件を伺う前に、どちらでここのことを?」
「『捲土重来』というバーで飲んでいるとき、どこかクラブから流れてきたらしいグ
ループ客が入ってきて、彼らの会話が耳に入ったのですが……ここは紹介状が必要なの
で?」
「いえいえ、そのようなことはありません。積極的な宣伝広告は打っていないので、ど
うやってうちに辿り着かれたのか、気になるのです」
「はあ、それならよかった」
「さて、ご依頼は? わざわざうちを選ばれたからには、ご存知と思いますが一般部門
か、それともAV部門でしょうか」
「その、後者の方です」
 男性は少し俯き、早口で言った。
「どうしてもちゃんと観てみたい、AVがあるのです」
「なるほど。詳しい話を聞かせてください」
 江口は受付用の紙を取り出し、メモを始める構えをした。
 眼前にいるような紳士がAV部門の依頼を持ち込むことも、もうすでに意外には感じ
なくなっていた。

「サイトを持てとまでは言わない。せめて、メールぐらい導入しましょーよ」
「いや、何だかな。簡単手軽に依頼できるシステムがあると、捌ききれなくなる」
 江口は数字をメモすると、計算機のアプリを閉じた。
「特に、AV部門に依頼が殺到するかもしれない」
 江口は探偵を生業としている。推理小説に登場するような、殺人事件を主に扱う探偵
だ。だが、それだけでは生活が成り立たないので、副業としてこれまた探偵――アダル
トビデオの探偵をやっている。依頼者が朧気にしか覚えていない、でもどうしても観て
みたいアダルトビデオ作品を特定する。そして希望があれば、入手方法も示唆するのが
主な仕事だ。
 と言っても、江口の知識はたいしたことない。自身が興味を持っていた昭和時代が中
心で、それよりあととなると守備範囲に入るのはせいぜい一九九五年辺りまで。加え
て、真っ当なアダルトビデオしか見てこなかったため、裏物はほぼ分からない。また、
レズやゲイ、スカトロといったジャンルはたとえ表の作品だったとしても、全く詳しく
ないどころか、見ると気分が悪くなってしまう。SM物でも血が出るようなのはだめだ
し、強姦物はあまり真に迫っていると途中で停止する。
 かように一般市民的な江口には、何名かサポーターがいる。その内の一人が、助手の
占部あきらだ。さっきメールぐらい導入しよう云々は、占部の台詞。若いくせに結構詳
しい。若さ故の好奇心と言える。ただし鑑賞経験はさほどなく、ネットを駆使してデー
タとして把握している。ジャケット写真を見れば、たとえその作品を知らなくても制作
年をプラスマイナス一年の範囲内で言い当てるという特技?の持ち主だが、今のところ
役に立った経験はない。
「殺到して欲しい〜。ここのところ、両部門とも依頼がさっぱりないじゃないのさ」
「しばらく困らない程度には稼いだはず。この間の、満田蔵之介氏からの依頼をこなし
て、礼金を弾んでもらっただろう」
 満田蔵之介はIT業界で成功した事業家・投資家で、江口の上得意でもある。金を持
て余したのか、それとも元々性的欲求が強いのか知らないが、五十才にしてアダルトビ
デオのソフトを密かに集め始めた。それも、本人が中高生の頃に見て印象に残っている
作品を中心に。
 中学生や高校生でアダルトビデオを見たとは、ネット全盛の昨今ならまだしも、昭和
五十年頃では難しいはず、と感じた向きもあるかもしれない。だが、当時はある意味非
常におおらかな時代であった。地上波で、アダルトビデオが流れていたのだ。無論、作
品を丸々流すことは滅多になかったが(「滅多に」という注釈は、とある噂に因る。某
ローカル局が誤ってオンエアしたことがあるらしい)、深夜のアダルト番組の一コー
ナーとして、アダルトビデオのダイジェストを流して紹介するのは当たり前のようにあ
った。一度に紹介するのは2〜3作品。長さは五分程度で、見せ場となる“よいシーン
”が含まれている。いいところで切れるのもお約束。
 そんなお預け状態の映像でも、普通の中高生には刺激的で、強烈に印象に残ることも
あろう。でも、夜遅くに音量を下げたテレビの前で一人スタンバイし、「今週はどんな
エッチなビデオが紹介されるんだろうか」とわくわく?して待ち構えている青少年が、
将来を見越して作品のタイトルやメーカー名、女優名なんかをわざわざメモに取るだろ
うか。いや、取らない。好みの女優の名前ぐらいは覚えることもあるだろうが、その他
のデータは雲散霧消。残るのは、印象深いシーンに決まっている。
 さて、成長した元青少年は、ふと思い立つ。あのときのアダルトビデオの全編を見て
みたい、と。だが、脳裏に染みついたように残る作品のデータ全てを思い出すのは不可
能だ。断片的な記憶を拾い集め、そのプレー内容で検索してみても、世の中には同じ趣
向の作品なんて星の数ほどあろう。
 大っぴらに問い掛けてみるのも一つの手かもしれない。ネットの掲示板なり質問箱な
りで、これこれこういうシーンのあるアダルトビデオご存知ありませんか?って。確実
に見付かるとは限らないが、期待はできる。ただ、いい年した大人になると、こういう
質問をネットに書き込むことに、慎重になるものだ。個人情報の流出が頻発する昨今、
怖くて書けやしない。
 そんな大人を手助けしようとの趣旨で開設されたのが、江口探偵事務所のAV部門。
千客万来とはとても言えないが、口コミで一定の利用者が現れる。ただ、部門設立のき
っかけは、警察の人が持ち込んだ依頼だった。
 元から顔見知りだった多倉刑事は当時、連続絞殺事件の捜査に携わっていた。三人の
被害者は若い女性ばかりで、遺体発見時、いずれも本人の物ではない服を着用してい
た。関係を持った男がプレゼントした服だと推測されたが、それにしてはおかしな事実
が浮かび上がった。どの服も既製品ではあったがデザインが古めかしく、一九八八年辺
りの物だと判明。実際、販売ルートを探ってみると、既に新品・正規品としては流通し
ておらず、オークションやバザー、リサイクルショップの類でしか見当たらないだろう
と考えられた。そういった衣服の入荷照会は困難で、地道に聞き込みを続けるも成果が
上がらないでいた。行き詰まった多倉刑事は、江口を訪ね、何の事件かは明かさずに、
かつ、さもうっかり見せてしまったかのように振る舞って、遺体や凶器の写真及び現場
周辺の簡単な地図を示した。いつものことなので江口も承知の上で、意見を述べる。
「この人達って……どこかで見たような」
「見た? 見たって、まさか江口君。被害者の中に知り合いがいるってのか?」
「そうじゃない。そうじゃないのは明らかなんですが、記憶に残ってる。個人の顔とか
ではなく、全体の印象が……あ」
 ふわふわと頼りなく漂っていた記憶の断片を掴まえた。江口は刑事の顔を見て、若
干、顔を赤くした。
「僕も若い頃、人並みにアダルトビデオは見ました。ま、何を持って人並みと判断する
のかは横に置いておきます」
「何を言い出すんだ?」
「彼女ら被害者は、どれもアダルトビデオのパッケージ写真を模倣しているんじゃない
かと思います。この写真、発見時のままを撮影したんですよね?」
「ああ、そうだと聞いている」
「ポーズを取らせている節がある。大きく開脚して右手で髪をかき上げたり、何かに両
腕をついて腰を突き出したり、胸を強調するように自らを抱きしめたり」
「確かにそうだが。しかし、こんなポーズ、アダルトビデオなら極当たり前にあるんじ
ゃあないか?」
「独創的ではないかもしれませんが、服のデザインや色まで一致しているのは、偶然で
は片付けられないでしょう」
「言ってる意味が分からん」
「この被害者達の格好は、一人の監督が撮った特定のシリーズのパッケージ写真を模し
ているのだと思います」
「ええ? ……そんなことが言えるとは、江口君は意外と助平なんだな」
 信じていないのか、多倉刑事は茶化すように言い添えた。江口は真顔で応じる。
「若い頃に見たアダルト作品は、強い印象を残すものです。それに一つ、傍証を挙げま
しょうか。えっと、確か、**シリーズの、監督名が出て来ないな。一人の監督が撮っ
たのは間違いないんですが。とにかく、このシリーズは行為の最中に首を絞めるプレイ
が必ずあるんですよ」
「うむむ。分かった、調べてみよう。だが、こんなことが手掛かりになるかね」
「衣装を揃えてるんですよ。犯人の執念というか執着を感じませんか。恐らく作品にも
拘りを持ってコレクションをしている。ネットで購入していたら、辿れるんじゃないで
すか? それにシリーズは確かあと四作ありました。次の犯行の準備をしているのだと
したら、警察側が先手を打つことだってできるかもしれない」
「なるほどな」
 結果的に、この江口の気付きが端緒になって、犯人は捕まった。ちなみに、男女の二
人組で、男の方の性的欲求及び殺人衝動を満たすために、女が手伝っていた。衣服の購
入も二人が手分けして行っていたため、簡単には把握できなかったという。

 きっかけは大事件で、ある意味なかなか華々しいスタートを切った訳だが、その気に
なってAV部門を起ち上げて以降は、刑事事件に結び付くような依頼はほとんどない。
あっても多倉刑事を通じた持ち込みで、見返りは金一封程度。稀にまとまった額が入る
こともあるが、基本的には小遣い稼ぎのような部門だ。ただ、本業の方も大して依頼の
ない昨今、重要な食い扶持になっているのもまた事実。
「江口さんは、ああいうのはやらないの? ほら、出演してるAV女優の身元を特定す
るの」
 資料の整理を終えた占部が、ファイルを閉じながら言った。
「必要があればやるかもしれないが、興味本位の依頼なら受けるつもりはないな。問題
は、身内を始めとする親しい人間からの依頼だよ。連れ戻したい気持ちは理解できる一
方で、女優当人の事情も把握しておきたい」
「あー、そういう態度なら、最初から受けないのが賢明ですねー」
「そうだな。――よし、と」
 江口の方も紳士からの依頼を片付け、報告書の区切りが付いたため、お茶を飲もうと
立ち上がった。が、ポットのお湯が足りない。水を少し入れて沸かし直す。
「占部君も飲むか?」
「あ、はい。いただきます。――全然ヘルプなしでしたけど、依頼、簡単だった?」
「ああ、検索だけで済んだ。多分、間違いない」
 依頼人が覚えていたのは、ざっくりとした内容とAV女優の顔立ち、媒体は地上波テ
レビ番組のAV紹介コーナーだったということくらい。だが、話を聞く内に、見た時期
を思い出した。一九八六年の四月以降、年内だった。
 テレビ番組で紹介されたからには、正規品であり、新作である。つまり一九八六年発
売。依頼者にこの年活躍した女優一覧を示し、有力な候補を挙げてもらい、五人に絞り
込んだ。ここで依頼者はお役御免、帰らせる。
 江口はこれまで積み重ねた調査実績により、その番組と特に結び付きの強かったAV
メーカー二社が分かっている。その二社から一九八六年四月以降に発売された女優五名
の作品をリストアップし、依頼者の説明した内容に合致する物を拾っていく。三つにな
った。あとは、依頼者の記憶していた場面と重なるかどうかを調べなければならない。
普通、ここが一番面倒で手間が掛かる(作品を入手することも多々ある)のだが、幸い
にも依頼者はその場面で女優が身につけていた下着を、色からデザインから詳細に覚え
ていた。ネット上の中古AV店でパッケージ写真を参照すると、ある一作の裏側のワン
カットがビンゴ。下着の色や形状が見事に一致した。
「こんなのでお金をもらっていいのかねえ。発売年さえ覚えていたら、時間は掛かって
も依頼者が自力で辿り着けただろうに」
「いやいや、そこは江口さんの話術があってこそ。エッチな思い出でも話しやすい雰囲
気に持って行くのがうまい」
「探偵に必須の能力ではないような」
 くさり気味に呟いたところで、ポットのお湯が沸いた。
 が、お茶を入れようという動作は中断させられた。またドアがノックされたからだ。

「職務中は、お茶一杯もらうのも慎重にならないといかんので」
 訪ねてきたのは多倉刑事だった。彼が建前を述べ、お茶を断ったので、江口と占部だ
けでコーヒーを摂る。
「どんな事件なんですか」
 AV部門以外の依頼なら何でもかまわない、ましてや多倉刑事からとなるとれっきと
した犯罪だろう。江口は腕が鳴るのを覚えた。
「ある意味、君ら向けの事件と言えるかもしれん」
 江口が顔をしかめたのは、コーヒーが苦かったからではない。君ら向けという言い回
しに、嫌な予感を覚えた。
「殺人なんだが、犯人らしき男はもう分かっている。天口利一郎という私立の大学生
だ。被害者はその知り合いで、同じ大学の尾藤寛太。ともに二年生で、年齢は一浪して
いる尾灯が上。大学に入ってから知り合ってる。一応、友人だったらしい。実際、動機
が分からない」
「本人が口を割らないのですか」
「割ろうにも割れないんだよ。死んでるんだ」
「え? つまりは犯行後に自殺したということですか?」
「違う。まだはっきりしていない。直接の死因は後頭部を強打したことによる脳内出血
と聞いてるんだが、現場の状況がな。他殺かもしれないし、事故死かもしれない」
 刑事の話を聞き、江口は、被害者が滑って転んで机の角にでも頭をぶつけたか、階段
を転がり落ちた可能性があるのだろうと思った。
「死んでいたのはアパートの一室。被害者の部屋で、ビデオテープが山のようにあっ
た」
「ビデオテープ……もしや、アダルト物ですか」
「ああ」
 それでここに来たんだなと合点する。嬉しくない。
「山のようにって、どのぐらい?」
「俺は実際に数えてちゃいないが、三百四十一本あったらしい。全部積み上げれば九十
センチ近くになる」
「三百四十一本、床に積み重ねてあったんですか?」
「それが崩れていて分からなかった。多分、いくつかに分けていただろう。あと、床に
あったかどうかも不明だ。本棚の上にも数本残っていたから」
「推測すると、テープの山が崩れて、天口の後頭部を直撃し、死に至らしめた可能性を
考えている?」
「そうだ。何せ、部屋は内側から施錠された、いわゆる密室状態だった。しかも、死亡
推定時刻には震度四の地震が起きている」
 それを聞いて、おおよその日時が見当づいた。十二日前の午前二時半頃だったろう。
土曜から日曜に掛けての出来事で、夜更かししていた江口は割と鮮明に覚えている。同
レベルの余震が今も続いている。
「正式な死亡推定時刻はその前後二時間なんだが……ちょうど頭を低くしているときに
地震が発生し、ビデオテープが崩れ落ち、打ち所が悪かったとしたら死ぬかもしれな
い。一本一本の重量はさほどないが、まとめて、あるいは連続して直撃すれば、可能性
はあると見ている」
「尾藤の死因は?」
「こちらも後頭部を強打している。ただし、死亡推定時刻は、地震発生の三〜五時間前
だ」
 頭の中で簡単な計算をする。前日の午後九時半から十一時半までの二時間か。
「尾藤も事故死の可能性あり?」
「ありかなしかと問われれば、ありだ。現場に転がっていたトロフィーの台の角と、頭
部の傷が合致しており、トロフィーは全体がきれいにぬぐい去られていたがね」
「蓋然性を鑑みて、何者かが尾藤をトロフィーで殴ったあと、指紋を拭ったと考えるの
が妥当という訳ですね」
「そうだ。そしてその何者かってのが、天口なのかどうかが問題だ。アパートには防犯
カメラがなくて、人の出入りの記録はない。目撃証言も、今のところないから、天口が
いつ尾藤の部屋を訪れたのか、不明なんだよ」
「尾藤を殺害した犯人が、天口も殺したのかもしれないと」
「そうなる」
「うーん。まだまだ気になる点がたくさんあるんですが。たとえば、何で今時、ビデオ
テープなんでしょう?」
「分からん。が、生活安全課の人間が言うには、三百四十一本のほとんどが珍しい裏物
らしく、DVDの形で出回っていない物もあったそうだ。ネット上にも流れていない、
超レア物だとさ。ビデオにはラベルの記載がほとんどなく、メモ書き程度だったんで、
いちいち確認するのに骨が折れたと言っていたよ。とにかく、被害者はそういった物を
コレクションしていたんだな。いつ、どこで購入したのか分かってないが、ネットでの
記録は見当たらないから、実店舗で買ったんだろう。小まめに回っているのを見掛けた
知り合いもいる」
「被害者はビデオからDVDにコピーしていなかったんでしょうか? 違法でしょうけ
ど、それを言うなら裏物自体、コピーが多いはずだし」
「今のところ、コピーしたと思しきDVDは、本棚の隅から少しだけ見付かっている。
ただし、三百四十一本あるビデオとのダブりはなかったようだ」
「へえ。じゃあ、片端からコピーして、ビデオテープは処分していたのかな」
「そこまでは分からんなあ。部屋に機械はあった。ビデオデッキとDVDレコーダーが
一体になったのが一つ、ビデオデッキ単体が一つ、DVDレコーダーが一つ。いずれも
ダビング中だったらしい。らしいというのは、捜査員が乗り込んだ時点では、三台とも
停止していたからだが、ファイルが作られた時刻はそれぞれ午前二時二十二分、午前一
時五十分となっていた」
「……時刻から考えると、そのコピー作業をしていたのは、天口ですね」
「うむ、気付いたか。メーカーや機種によって差があるかどうか知らんが、尾藤の部屋
にあったレコーダーは、どちらも録画を始めた時刻をファイル作成時刻として記録する
タイプだった」
「じゃあ、天口は珍しい裏物をコピーしたいがために、尾藤を殺害したんでしょうか」
 どんな条件を出しても尾藤がコピーさせなかったとしたら、あるいはあり得る?
「そのくらいのことで知り合いを殺すか? 第一、殺害現場に居残ってダビングを続け
るのも異常だぞ。目当てのビデオテープだけ選んで持ち出し、自宅でゆっくりやればい
い」
「メモ程度なら、選別できなかったのかも」
「あん? ああ、そうか。再生してみないと分からないという訳か。しかし、冒頭数十
秒で分かるんじゃないのか。タイトルぐらい出るんだろう?」
「それは物によります。テロップの類を一切入れていないやつもあるだろうし、色んな
作品から短いシーンをつぎはぎにした物もあります」
「うーん、そうか。となると……三百四十一本全部を持ち出すのは、難しいか」
「そこですよね。何往復かする必要があるものの、慎重になるべく物音立てずにやれ
ば、他の入居者や近所に気付かれることなく運び出せるでしょう。あ、天口は車を持っ
ているんでしょうか?」
「有名私立に通うぐらいだからと言っていいのか、持ってたよ。親が買い与えた物だが
ね。現場近くの駐車場に駐めてあった」
「それなら運べるか……。うん? 尾藤も同じ大学に通ってたんですよね? お金持ち
の家の子なら、防犯カメラもないようなアパートに何で……」
「ああ、すまん、言い忘れていたな。アパートは言ってみれば、尾藤のセカンドハウ
ス、ビデオ部屋なんだ。大量にあるビデオテープを保管するのが主な目的で、あとは鑑
賞だな。それだけのために、尾藤自らアパートを探して契約を結んでいる。防音だけは
完璧な物件をな」
「し、信じられんことをするなあ」
「同感だ。かなり古びて埃っぽくて、掃除機も何もない環境なのに、よく鑑賞できるも
んだ。まともな家具は棚以外には、冷蔵庫だけだった。それでいて尾藤の本来の住居
は、大学にも近い立派なマンションでね。そこに女性を呼ぶこともあったという話だ。
というか、マンションに女を連れ込むから、趣味のアダルトビデオを置いておけなく
て、アパートを借りたのかもしれん」
「尾藤って学生、普通に恨みを買っていそうだ……」
「アダルトビデオ好きという趣味は、よほど親しい男の知り合いにしか話していなかっ
たようだがな。天口を含めて四人、同好の士って奴だ」
「もし天口が殺人犯でないとしたら、残りの三人の中の誰かの仕業でしょうか」
「無論、その線も検討している。内一人には、アリバイがあった。旅行中――寝台列車
で移動していたんだ。連れがいたから間違いない」
「残る二人は……」
「現時点で引っ張る要素はないから、それぞれ一度ずつ事情を聞かせてもらっただけ。
一人は神坂伸人といって、尾藤と高校が同じで、学年は一つ上だった。進学せずに、実
家の電器店に入っている。もう一人は渡辺光三郎といって、尾藤や天口と同じ大学の同
学年。ちなみにこの三人は学部も同じ社会学部だ。事件当夜は二人とも、自宅で寝てい
たと語っている。現場の部屋を前に訪れたことがあると言っているのは神坂だけで、渡
辺はそんな部屋があることすら知らなかったと申し立てているが、信じていいのやら」
「こういうのはどうでしょう? 犯人が、尾藤のコレクションから超レアな裏ビデオを
奪って手に入れたとしたら、自分と犯行を結び付ける物であっても恐らく捨てられな
い」
「だから何か理由を付けて、家宅捜索をやれと? いやー、現段階では難しいな。わい
せつ画像を大量に所持してる可能性はあるが、そんな見込みだけではまず無理だ。現場
周辺で事件の前後、似たような男の目撃証言でもあれば、話は違ってくるが」
「そうですか……。天口も現場に来ていたのだから、犯人は天口とやり取りしているは
ず。携帯電話の記録を調べれば」
「天口の携帯電話なら、とうの昔に調べたさ。割と新しめのスマートフォンだったが、
案外使いこなしていない感があったな。殊に、AV趣味に関することには使った形跡が
ない。形跡を残すのを警戒して、敢えて使っていなかったのかもしれない。それはとも
かく、天口が神坂や渡辺と連絡を取り合って、尾藤の部屋に行く話になった様子はな
い。連絡自体も皆無ではないが、事件発生の何週間も前だ」
「その口ぶりだと、尾藤と天口の間でも、連絡を取り合った跡はなし?」
「ああ。恐らく法に引っ掛かるような物も扱ってたんだろうから、慎重に事を運んでい
たんじゃないか。こちとら違法なアダルト物ってだけでいちいち相手をしていられるほ
ど暇じゃないんだが」
 苦笑いを浮かべた多倉刑事は、占部の方を向いて、やっぱりコーヒーをもらおうかと
言った。喋る内に喉が渇いたらしい。
「いつものように、砂糖ちょびっと、ミルクたっぷりですかー?」
 席を立ちながら占部が聞くと、刑事は少し考え、今日は砂糖抜きでいいと答えた。
「天口の部屋も見たんですよね? アダルト物のコレクションはどのくらいあったんで
す?」
「二十作ぐらいだったかな。全部DVD。そういえば、レコーダーがなかったな。パソ
コンで済ませていたんだろう」
「レコーダーを持ってなかったとしても、DVDの扱いには慣れていたでしょうね。目
当ての作品がDVDにコピーされているのなら、そっちをさらにダビングした方が早
い。ビデオテープからダビングした物なら、コピーガードは掛からないのが普通ですか
ら、DVDからコピーできないってこともない。なのに、ビデオからダビングしようと
していたのだから、被害者の尾藤もビデオテープの中身をまだDVD化していなかった
……」
「理屈は分かった。だが、それが事件解決につながるのか?」
 疑問を呈した刑事の元に、コーヒーカップが届く。すぐに口を付け、満足げに頷い
た。
「分かりません。でも、根本的な疑問として、天口が尾藤を殺したのなら、やはり、犯
行現場に長々と留まって、ダビングを続けるというのは理解に苦しみます。尾藤と天口
以外に少なくとも一人、神坂が部屋の存在を知っていたんです。深夜だろうと何だろう
と、いつ来るともしれない」
「休み前だしな。運び出せる手段がありながら、留まっている理由……ああ、ダビング
するための機械がないじゃないか」
 多倉刑事はこれだとばかりに、膝を打った。
「天口の家にはDVDレコーダーすらなかった。パソコンでコピーしようにも、ビデオ
デッキがなければ話にならない」
「うーん、どうでしょう? ビデオデッキも、尾藤のを持っていけばいいじゃないです
か」
「そうか。配線が分からん、てこともないだろうし」
「第一、本当にビデオデッキはなかったんですか? 同じ家宅捜索でもどういう目線で
するかによって、見えてくる物が違ってくるもんです」
「……あとで聞いておく」
 多倉刑事の返答に、占部が横合いから突っ込みを入れる。
「あれ? 多倉さんて前に、個人の携帯電話の公的利用とかなんとかいう申請、したん
じゃなかった?」
「した。よく覚えてるな」
 渋い顔をする刑事。
「じゃあ、すぐにでも問い合わせよーよ」
「単独行動してるだけでもまあまあ異例なのに、また一般市民に助言を求めていると知
られたら、立つ瀬がない」
「もしかして、居場所を知られたくないから、電源オフにしてるとか?」
「そういうことだ」
 緊急の連絡があったらどうするのだろう、と疑問が浮かんだ江口だったが、聞かずに
スルーした。

――続く




#487/598 ●長編    *** コメント #486 ***
★タイトル (AZA     )  16/08/31  01:00  (359)
崩れる欲望の塔 <後>   永山
★内容
「ビデオデッキの件は横に置くとして」
 刑事が話の軌道修正を図る。
「仮に天口が犯人ではなく、事故死でもないとしたら、大きな問題を認めなければなら
なくなるぞ。密室だ」
「確かに問題です。地震が起きると予知できるのなら、それを利用したトリックも考え
られなくはありませんが。現場を密室にしたのが犯人の意図だとしたら、その狙いは天
口に罪を被せ、地震による間接的な事故死に偽装したかったんでしょう。そうなると、
地震が発生したあとに、犯人は天口を現場で殺害したことになる」
「なるほどな。となると……常識的に考えて、地震が起きた二時半以降に犯人から呼び
出されて現場に出向くってのは、まずなさそうだ」
「お宝アダルトが地震で偉いことになってるぞ!って言ったら?」
 これは占部の意見。対して江口は即座に否定的な意見を述べた。
「いくらお宝だと言っても、他人の物だし。呼び出すには、天口に大きなメリットがな
いとねえ。加えて、その時点で尾藤は死んでるんだ。犯人自身が電話する訳だけど、声
に気付かれたら、疑われるだけだよ」
「そっかー。納得した」
 占部が引っ込むと、江口は続けて仮説を展開した。
「思うに、天口も最初から現場にいたんじゃないでしょうか」
「同感だ」
「尾藤のコレクション部屋には、尾藤と天口と犯人の三人がいた。まあ、犯人は複数か
もしれませんが、ここでは一人にしておきましょう。多量のビデオテープを鑑賞しつつ
ダビングするために集まった、とでもします。その最中に何らかのトラブルが起き、犯
人が尾藤を殴り殺してしまう。想定外の事態に、犯人も天口も泡を食ったかもしれませ
ん。隠蔽すると決めた二人は、まず、自分達が今夜この場にいた痕跡の消去に精を出し
たでしょう。指紋や使ったグラスの始末、髪の毛なんかを拾っていたら、一時間以上掛
かる。何しろ、掃除機の類がないんだから」
「髪の毛は別に気にしなくても、問題ないんじゃあ。前に一度でも部屋に来たことがあ
るんだったら、落ちていておかしくない」
 占部が言うのへ、江口は首を左右に振った。
「仮定の上に仮定を重ねるのは好きじゃないが、たとえば、散髪してから間がなかった
としたら? 髪先の形状に明確な違いが現れる。嘘がばれる恐れ大だ。他にも、食べか
すが散らばったとしたらどうだろう。その“新しい”食べかすの上に毛髪があったら、
その毛髪は落ちたばかりだと分かる」
「うむむ……分かりました。先へ進めて」
「――仮に尾藤死亡が土曜の夜十一時半だったとすると、最初の混乱と痕跡を消す作業
だけで、午前一時ぐらいになっていたでしょう。その間に、途中だったダビングも済ん
だはずだし、犯人にとっては悪くない時間の使い方です。分からないのは、このあと。
普通なら、一目散に逃走する。まともな感覚の持ち主なら、留まってダビングを続行し
ようなんて考えない。もしかすると、犯人と天口、二人いたから心強かったのかもしれ
ません。一人はダビング作業に没頭し、もう一人は誰か来ないか見張り役をするんで
す。万が一、誰かが訪ねて来るようなら、素早く作業を中断し、息を潜めてやり過ご
す」
「二人いればという心理状態は分からなくもないが、それでもなお、ビデオテープを持
ち出さなかったのは何故かという疑問が残る。二人なら、運び出すのももっと楽だ」
 刑事の指摘に、江口は「そうなんですよね」と首を縦に何度か振った。
「大量のテープを持ち出すのは確かに手間でしょうが、犯罪の現場に留まる危険さに比
べたら、たいしたことじゃない。……ダビング後に、テープを戻す手間を嫌がったのか
な?」
「いやいや、戻す必要はあるまい。手元に残したら証拠になりかねないが、そこいらに
捨てりゃいいだけさ」
「ですねえ」
 行き詰まり、沈黙する江口。他の二人の口からも、何も出て来ない。名案はすぐには
浮かぶものではないようだ。
「……途中からちょっと気になってたんだけれど」
 占部がおずおずとした調子で言った。目は刑事の方を向いている。
「トロフィーって何のトロフィーなんです?」
「は? ああ、尾藤殺しの凶器か。学生の発明コンテストか何かだったな。高校生部門
で優秀賞をもらっていた。自動給餌器や給水器の発展版みたいな物だった」
「ふうん。そんないかにも自慢話に使えそうなトロフィーを、どうしてアダルトビデオ
鑑賞ルームなんかに置いていたんでしょう? 不釣り合いにも程がある」
「確かに」
 多倉刑事と江口は顔を見合わせた。しゃべり出したのは江口の方だ。
「本来なら、自宅に飾っておいて、やって来た女の子に気付いてもらうなり、さりげな
く見せつけるなりするのが普通ですね」
「それが普通かどうかは知らんが、少なくとも男しか来ないであろうアパートの一室
で、埃を被らせておく意味はないな」
「つまり……犯行現場そのものが、アパートではない?」
「考えられる。トロフィーはきれいに拭いてあった。指紋や血痕を消すためだろうが、
そのおかげで拭く前の状態が埃だらけだったか、それともぴかぴかに磨いてあったかな
んて、分かりゃしない」
「元々、尾藤のマンションに置いてあったんだとすると、殺人が起こったのもそこにな
る訳で、そのあと遺体移動が行われたことに……でも、マンションなら防犯カメラがあ
るんでしょう?」
「あ、ああ。そうだった。映像で確認したが、事前前夜の九時過ぎに出て行く尾藤が映
っていた。酔ったみたいな足取りだったが」
「ふらふらしていた?」
「うむ……そうか、江口君。考えていることが分かったぞ。トロフィーで殴られたあと
も尾藤はすぐには絶命せず、病院に行くためか、助けを求めるためか、とにかく外に出
たんだ」
「多分。脳内出血が徐々に進行することで、死が緩やかに訪れるケースはいくらでもあ
りますからね。それよりも、マンションの防犯カメラには、犯人らしき人物は映ってい
なかったんですか」
「それが、身元の確認できない人物なら、何名かいた。特に、尾藤の直前に入っていく
二人が。マンションは基本的に住人でないと入れないシステムを採用していて、鍵とパ
ネル操作で自動ドアが開くんだ。だから、問題の二人組は尾藤に開けてもらって、先に
入った可能性がある」
「出るときは?」
「出るときは、内側のボタンを押すだけで、自動ドアが開く」
「それなら尾藤に出て行かれたあと、追い掛けても問題なくマンションを出られるんで
すね。カメラ映像に、二人組が出て行くところはありました?」
「あった。ただし、二人揃ってではなく、一人が駆け足気味に出て、しばらくしてから
もう一人が出て来た。時間にして五分余りあとってところだ」
「恐らく、先に出た奴が尾藤を足止めして、あとから来た奴と合流し、アパートに車で
向かったんじゃないでしょうか。病院に連れて行くと騙したか、あるいは脅してアパー
トに向かわせたか」
「――畜生、思い出したっ」
 突然、刑事が吐き捨てたので、江口と占部はびくりとしてしまった。
「どうしました?」
「映像で見ていたのに、スルーしてたんだよ。あとから出た奴はボストンバッグを持っ
ていたんだ。その中に、きっとトロフィーが隠してあったに違いない!」
「ああ、だったら病院に連れて行くと嘘をついた可能性よりも、脅してアパートに向か
った可能性の方が高いですね。最初から、アパートを殺人現場に偽装する目的で、トロ
フィーを持ち出した。もっと言えば、その段階で病院に行けば助かったかもしれない尾
藤を、端から始末するつもりでいた」
「犯人達は、マンションに入るところを防犯カメラに撮られたと意識したからこそ、別
の場所で事件が起きたことにしたかったんだな。しかし……尾藤の頭に、殴られた傷は
一箇所しかなかった。改めて殴りつけてはいないことになるんだが」
「そこはやはり、最初の一撃のダメージがゆっくりと進行し、アパートの部屋に入った
時点で死に至ったんでしょう。何にしても、トロフィーは必要だったはずです。多倉さ
んから伺った状況から推して、ビデオテープの山が崩れることでその上に置いていたト
ロフィーが落下し、それを後頭部に食らって死んだと見せ掛けたかったんじゃないでし
ょうか」
「だが、実際はそうじゃなかったぞ。たまたま落下したと偽装するんなら、もっと“ら
しい”場所にトロフィーを放り出しているはずだ。第一、トロフィー全体を拭ったあ
と、改めて尾藤の指紋と血を付ける必要があるのに、そうはなっていなかった」
「気が回らなかったか、他の良策を思い付いたのか……もしかすると、ここで犯人は甘
口に全ての罪を被せることに決めたのかもしれない」
「“ここで”とは、アパートに着いてからという意味かね?」
「うーん、どうでしょう。ひょっとしたら、地震が起きてからかもしれません。地震が
起きて初めて事故死に見せ掛ける計画を思い付き、さらに天口に全部おっ被せることも
思い付いたとしたら……」
「待て待て。すると何か。結局、犯人と天口は地震発生までアパートに留まったと言う
のか、死体を傍らに? 状況がちっとも変わらないじゃないか」
「いえ、違いますよ、多倉刑事。今、我々が想定した状況なら、尾藤を車内に閉じ込め
ておくことができる。加えて、アパートは当初の犯行現場ではないという事実。万々が
一、来訪者があっても安心でしょう」
「まあ、比較的安心というレベルだろう」
「ともかく、二時二十二分まではダビング作業を行っていたんだと思います。正確に
は、DVDレコーダーのハードディスクに録画した分を、今度はDVDディスクにコ
ピーする時間が必要でしょうけど」
「地震発生後、犯人が天口をも始末したと仮定するのはいいとして、そのあとは何でダ
ビングをやめたのかね? 本数から言って、全部済んだはずがない」
「恐らく尾藤をアパートに運び込んだあとだし、天口も殺したとなると、さすがに留ま
っていられないと考えたのかもしれません。あるいはもっと単純に、犯人が欲しい作品
のダビングは終わった、だからさっさと立ち去ったのかもしれない」
「全てを欲しがっていたとは限らない、か。そりゃそうだな」
 一応の合点を得たらしい多倉刑事。顎を撫でながら、「残る問題は密室の作り方と、
物的証拠か」と呟いた。
「トロフィーが元々、マンションの方にあったことが証明できれば、この想定で大きな
間違いはないと思いますよ」
「うむ。尾藤のマンションの部屋に出入りした面々に、トロフィーに見覚えがないか聞
いていけば、割と簡単に証明できるだろう。マンションの部屋を子細に調べれば、最後
に部屋を訪れた人物の遺留物が見付かる可能性も高い。直接的な証拠とは言えないまで
も、落とすには充分強力な武器になる。結局、密室が最後に残る。江口君の柔軟な発想
力が試されるシーンだな」
「現場を見せてもらわないと、何も始まらないですよ」

 まだ解決に至っていない殺人事件の現場に、一般市民がおいそれと入れる訳もなく、
多倉刑事が部屋の写真を持って来ることで、代替案とした。
「写真を見せる前に、報告がいくつかあったな」
「何です?」
 日を改めてやって来た多倉刑事に対し、きょとんとして問い返す江口。今日は占部が
いないので、お茶の類が飲みたければ自分でやらねばならない。
「ビデオデッキの件だよ。天口宅にビデオデッキはなかった」
「そうでしたか。ま、大勢に影響はない事柄なので――」
「続きがある。ビデオとテレビが一体になった家電ならあった。最早テレビとして用は
なさない、単なるモニターだったが」
「へえ? お金持ちにしては物持ちがいいのか、けちなのか」
「入学から間もなく、ネットオークションで買っていた。ところが、半年ほどでビデオ
機能がだめになったらしく、修理のために電器店に持ち込んでいる」
「富裕層が物を大事にするのは、消費の拡大という意味では余り歓迎できないけれど、
基本的にはまあいいことですかね」
「驚くなかれ、その電器店こそが神坂の実家だ」
「――ほう。やはり、つながりはあったんですね。尾藤の知り合い同士」
「尾藤が天口に、神坂の店を紹介したようだ。結局、ビデオは修理不能だったが。
 次に、尾藤のマンションを調べた結果だ。事件前日の消印がある郵便物の上に、天口
及び神坂の毛髪が落ちていた。奴ら、マンションの部屋には以前から来たことがある
し、犯行現場をアパートであるように偽装するつもりだったから、油断したようだ」
「それじゃあ、容疑者は確定ですか」
「神坂だ。もう引っ張れるんだが、万全を期すために、密室の謎を解いてからにしたい
というのが捜査の方針でな。尤も、解けなくても、明日中には神坂を重要参考人として
呼ぶつもりだ」
「できれば解きたいですね。実は、腹案はもう浮かんでいるんですけど、現場写真を見
せてもらってからにします」
 多倉刑事は「期待してるぞ」と声を掛け、用意してきた写真十数枚をテーブルに並べ
た。
 ドアノブのアップが二枚、廊下側と室内側。室内側は、ノブの上にあるつまみを横に
倒すと施錠されるタイプの鍵だと分かる。廊下側には当然鍵穴があった。
「鍵は二本で、二本とも一つのキーホルダーに付けられ、尾藤の尻ポケットに入ってい
た」
 室内の様子は話に聞いていた通り、壁には棚が並び、ビデオテープが散乱している。
一部、床で重なっている物は、せいぜい三巻ぐらいか。大きなテレビはテレビ台に載っ
ており、その下のスペースにビデオと一体になったDVDレコーダーが収まっている。
さらにその手前には、DVDレコーダーとビデオデッキが横並びに置いてあった。前者
の薄さに比べて、後者の大きさが無骨な感じだ。それにレコーダーはディスク取り出し
口が床と平行になるよう、つまりは通常の置き方なのに対して、ビデオデッキはテープ
取り出し口が上向きになうように置いてある。
「付け加えておくと、手前の二台によるダビングが先に終わっており、テープもDVD
も入っていなかった。一体型の方はテープは入ったままで、DVDは抜いてあった」
 トロフィーは床に横倒しになっていた。部屋の奥らしい。すぐそばに、人間も横たわ
っている。これが被害者の尾藤に違いない。
 棚に目をやると、これまた聞いていた通り、一番上に一、二本のテープが乗ってい
る。並べてあるのは、ほとんどがDVDのディスクで、書籍も大量にあるようだ。
「本は写真集が大半だ。言うまでもないが、ヌード写真集ばかりだった。あと、アダル
トビデオの資料的な本があった。この事務所にも同じ本が何冊かあるだろう」
「持っていない物があれば、今後の調査のために欲しいぐらいです」
 冗談を言ってから、江口はビデオデッキの映った数枚に目を凝らした。次いで、ドア
の映った物にも目をやる。
「多倉刑事。この単独のビデオデッキと、玄関ドアとの距離や位置関係は分かります
か?」
「ええっと、そんなに広くない空間だからな。距離は4.5メートル程か、位置関係
は、まあ一直線と言っていい」
「間に障害物は?」
「室内のドアがあるが、発見時、開け放たれていた」
「いいですねえ。で、これが最も肝心。ドアのロックの固さはどんな具合でした? こ
の写真にあるつまみの動きが、スムーズかどうか」
「滑らかだし、大した力を入れなくても動いた」
「じゃあ、あとは方向だけの問題ですね。テグスのような丈夫で細い糸を、五〜六メー
トル分ほど用意して、両端に輪っかを作る。片方をドアのつまみに掛け、つまみを倒す
横向きの力が掛かるように、糸をまずドアの横方向に延ばす。そこから、釘か画鋲を壁
に刺すか、あるいは棚や下駄箱、傘立てなんかもあるでしょうからそれらの突起物を利
用し、一種の滑車とするんです。糸の方向をビデオデッキに向けるためのね。あとはビ
デオデッキまで糸を引っ張り、テープを収める挿入口まで持って来る。そしてもう片方
の輪っかを、テープを走査する軸に結び付ければ準備終了。ああ、もう一つ、タイマー
セットをしなければ。たとえば五分後に録画が始まるようにセットすれば、犯人は部屋
を出てドアを閉めるだけです。録画動作が始まったら、糸が巻き取られ、つまみが倒れ
て施錠されるという次第ですよ」
「……」
 江口のトリック解説を聞いた多倉刑事は、難しい顔をして首を傾げた。江口は言葉に
よる反応を待たずに言い添える。
「壁に釘や画鋲が打ってあった記録は、ないのかもしれません。でも、それはカレン
ダーを掛けておいた名残とか、ポスターを剥がしたあとだと思って、重要視されなけれ
ば記録されないのは当然です」
「いや、そこじゃない。私が、江口君よりビデオデッキを使っていた期間が長いからか
もしれんが、今の仮説には決定的におかしな点があると思う」
「ええ? どこがです?」
 頓狂な声を上げた江口。目が丸くなるのが自分でも何となく分かった。
「ビデオデッキって物は、テープが入っていなければ、録画の動作は始まらないはず
だ。早送りも巻き戻しも、再生も、どのボタンを押したって君の言う軸は動かないぞ、
多分」
「え……そうでしたっけ」
 動揺が露わになり、口の動きがあわあわとおぼつかなくなった。それでも食い下がろ
うと試みる。
「し、しかし。じゃあ、もう一台のデッキを使ったんでしょう。ビデオテープ、入った
ままだったんですよね?」
「うむ。だが、捜査の過程で当然、テープを取り出した。そのとき、機械の中にテグス
が巻き付いていれば、気が付くさ。実際にはそんな物、見付かっていない」
「……では、DVDレコーダーだ。ディスクトレイを開閉する動作を利用したんじゃな
いかな。リモコンを持って廊下に出て、素早く開閉を行えば、一旦開いたディスクトレ
イがまた引っ込んで元に収まる。その間にドアとドア枠の隙間からリモコンを室内に放
り、素早くドアを閉める。トレイの引っ込む力で、つまみは倒れ、鍵が掛かる」
「そのトリックの実現性は分からんが、ディスクトレイは糸を巻き取ってはくれまい。
糸が丸見えなら、やはり捜査員が気付く」
「……だめですか」
 江口はすっかり意気消沈した。自らの勘違い・思い込みで、解けたと思っていた密室
トリックが、再び難攻不落の城となってしまった。
「念のためにお尋ねしますが、テープレコーダーやテープリワインダー、もしくは8ミ
リ映写機の類は、室内にありませんでした?」
「今時珍しい代物だから、あればちゃんと記録するだろう。なかったはずだ」
「では、扇風機は?」
「なかった。エアコンならあったが」
「うーん……」
 しばし黙り込む江口。刑事の方は、並べた写真をどうしようか考えているようだっ
た。江口は仕舞われないよう、手を伸ばして一枚一枚を改めて見直す。
「玄関ドアの下から三分の一ほどの高さに、郵便受けのための取り出し口があります
が、これは?」
「とうの昔に調べたさ。完全に目隠しがされていて、外から内部は覗けない。糸などを
使った操作も不可能だ。万が一、うまく糸を通せたとしても、擦れた痕が錆に残るのは
間違いない」
 厳しく否定した刑事。それでも江口はあきらめなかった。
「――多倉刑事。玄関のたたき付近に、何か落ちていませんでしたか。特別な物じゃな
くてもいいんです。玄関にあって当たり前だが、とにかくそこいらに落ちていた、散乱
していた物」
「ええっと、靴に靴べらだな。靴は相当雑然とはしていたが、三足ほど並んでいた。い
ずれも尾藤の靴だと分かっている。靴べらは、セルロイドか何かでできた安物で、土間
に放り出された感じだった。ちなみにマンションの方にあった靴べらは、水牛の角に本
革を使用した高そうな代物だったのに、こっちには金を掛けたくなかったようだ」
「それだけ?」
「ああ。あとは、靴は三足ともスニーカーだった、くらいかな。一足は紐がほどけてだ
らんと垂れていた」
「靴べらはセルロイド製なら、それなりに反りますよね?」
「多分。下敷きよりは固いだろうな。そうそう、プラスティックの定規って感じだ。長
さも二十五センチから三十センチ見当だろう」
「……多倉刑事。これは実験してみないと断定できませんが、新しい説を思い付きまし
た」
「妙な前置きをしなくても聞くから、遠慮なく話してくれ。第一、最初の仮説だって、
実験しないことには成功するかどうか分からなかったろう」
「そうですね。じゃあ――靴べらには輪っかになった紐が付いているでしょう?」
「ああ、確かそうだったな。壁なんかの突起物に掛けるために」
「それをドアノブに通した上で、板状の部分をつまみにもたせかける風にセッティング
するんです。板を押せば、つまみが横倒しになる位置関係にね」
 江口の話を受け、多倉刑事は上目遣いになった。脳裏に、構図を描いているのだろ
う。
「イメージできた。それから?」
「次に、靴べらの先端に、スニーカーの片方を引っ掛ける。靴紐で輪っかを作れば簡単
です」
「だろうな」
「靴紐は、なるべく長くなるようにしておく。犯人は以上の準備をした後、そっと廊下
に出て、ドアを少しの隙間を残して閉める。隙間の幅は、片手でスニーカーを掴める程
度です」
「掴むとは、上から鷲づかみか、下から支える感じか、それともサイドからか?」
「そうですね、下からがいいでしょう。犯人はドアを完全に閉める寸前に、スニーカー
を上向きに軽く放る。ドアが完全に閉まる頃には、スニーカーは落下運動を始め、靴べ
らを押す力が発生する。靴べらはつまみを倒し、鍵が掛かる。と同時にスニーカーの紐
は靴べらから外れ、靴べらの紐もドアノブからはなれ、それぞれ土間に転がる。……い
かがでしょう?」
 探るような目付きになる江口。多倉刑事は一度口を開き掛け、何も言わないまま再び
閉じた。次に言葉を発すまでに、十秒以上経っていた。
「……言いたいトリックは分かった。できそうな気がしないでもない。実験してみても
いいと思うが、とりあえず、靴べらがノブに引っ掛かったままにならないか?」
「それはどっちでもかまいません。結果的に今回は落ちたんでしょうが、ノブに掛かっ
たままだったとしても、こういう風にして靴べらを用意してるんだなと思われるだけで
す」
「ふむ、なるほどな。状況とも合致している」
 刑事はメモを取り始めた。検討する価値ありと認めた証だった。

 その後、多倉刑事から寄せられた事後報告は、江口の自負心を少し満足させ、少し落
ち込ませた。
 警察署にて本格的な事情聴取を受けた神坂は、かなり早い段階で犯行を認めたとい
う。元々、犯罪をしでかして知らぬ存ぜぬを通せる質ではなかったらしく、防犯カメラ
の映像を見せたあと、マンションからトロフィーを移動させただろうと推理を突きつけ
ただけで、震え出したとのことだ。
 事件の構図は、江口らが想像していた通りと言ってよく、尾藤をトロフィーで殴った
のは神坂で、動機は本人の供述によれば、「金に困っており、冗談のつもりで尾藤に金
の無心を頼み、断るようならアダルトビデオをコレクションしていることや著作権を無
視してコピーしていることを大学で言いふらしてやろうか等と口にしたところ、激高し
て躍りかかってきたため、仕方なく手近にあった物を掴んで応戦した」という。どこま
で事実を語っているかは分からないが、たとえ事実であってもその後の計画的な犯行の
進め方や、天口をも手に掛けた行為から、情状酌量の余地はない。
 そして最後の障壁となっていた密室の作り方だが――。
「君の言うやり方を思い付き、やってみたのは確かだそうだ」
 多倉刑事には、にやにや笑いを堪えている節があった。
「ただ、うまく行かなかったんだと」
「え?」
「天口に罪を被せようという考えは、地震が起きたとき急遽思い付いたものだから、密
室作りも試行錯誤している余裕がなく、言うなればぶっつけ本番で行ったが、成功する
訳がないってことだ。三度ほど試したが、靴べらが早い段階でノブから外れてしまい、
失敗続き」
「でも、実際、部屋は密室になっていたんでしょう? 犯人があきらめたのなら、一体
どうやって密室ができたんだか」
「神坂は最後、仕掛けをそのままにして逃げ出した。本来なら片付けていかないと、天
口の事故死に見えなくなるが、アパートの同じフロアの誰かが起き出した気配を感じた
ので、一刻も早く立ち去りたかったと言っている。で、ここからは全くの推測になる
が、最初の地震から一時間後ぐらいに大きめの余震があったろ?」
「はい。まさか、そのままになっていた仕掛けが、余震の揺れによって作動し、偶然に
も密室が完成したと」
 思わず刑事を指差す江口。その手が小刻みに揺れた。
「そう推測するしかあるまい。室内の二人が虫の息ながらまだ生きていて、施錠したと
も考えられんのだし」
「そう、ですね」
 江口は現実を認め、受け入れることにした。偶然にはかなわない。
「気にする必要は全くないぞ、江口君。真相を見抜くきっかけを作ったのは、君らの手
柄だ。特にトロフィーがアパートにあったのはおかしいと勘付いたところは」
「それは助手の手柄ですよ」
 唇を尖らせて答えた江口は、占部の方を肩越しに見やった。データ入力作業に没頭し
ていたようなのに、今の会話はしっかり聞いていたらしい。にっ、と笑顔を向けてき
た。
「まあ、今回は仕方ないよねっ」
 探偵所長を所長とも思わぬ口ぶりで話し掛けてくる占部に、江口はまだ唇を尖らせた
まま、「慰めてくれてどーも」と応じた。
「いやいや、真面目な話。ぱっと見は似てるけれど畑違いの分野に首を突っ込んだ結
果、勇み足をしてしまったというだけで、基本的にはいつもの探偵能力を発揮できてい
たんじゃないかなと」
「ぱっと見が似てるって、何のことだい?」
 聞きとがめた江口は、椅子ごと向き直った。占部は芝居がかったウィンクをした。
「だってほら、AV探偵の看板を掲げていても、機械の方のAV――オーディオビジュ
アルには弱かったってことじゃない?」

――終わり




#488/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:38  (  1)
広がるアクセスマジック 1   亜藤すずな
★内容                                         21/07/31 10:10 修正 第3版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#489/598 ●長編    *** コメント #488 ***
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:39  (  1)
広がるアクセスマジック 2   亜藤すずな
★内容                                         21/07/31 10:10 修正 第4版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#490/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:34  (306)
絡繰り士・冥 1−1   永山
★内容
 『冥府魔道の絡繰り士』を自称する殺人者・冥は、前辻能夫を葬り去った。
 快楽殺人の徒である前辻は、秀れた殺人トリックメーカーでもあった。その才能を惜
しいと思わないでもない。が、裏切りの動きを垣間見せた彼を許すつもりは、元から一
毫もなかった。
 にもかかわらず、殺す直前まで、前辻を救ってやろうという素振りを見せたのには理
由がある。前辻の本気を引き出すためだ。冥は文字通りの“生殺与奪の権利”を握った
上で、前辻に条件を出した。「おまえの考え得る最高のトリックを、今すぐにこの場で
見せよ。その中身が素晴らしければ、おまえが戻ってくることを許す」と。
 前辻は隠し持っていた秘密の手帳を取り出すと、そこから犯罪のためのトリックを
次々と示した。そして殺された。
 冥もまた、不可能犯罪メーカーを自負している。純粋に、前辻能夫よりもトリックの
案出において優れていることを犯罪者の世界に知らしめたい。そんな欲求があった。
 だから、冥はいくつか試してみようと心に決めている。死の間際、生への執着を露わ
にした前辻が選んだトリックを。
 そして、名探偵が解決できるかどうか挑戦させるのだ。世評に高い探偵は無論のこ
と、今までに冥の仕掛けた犯行を一度でも見破ったことのある探偵もすでにリストアッ
プ済み。彼らの居所も掴んでいた。
 あとは、トリックに適した被害者の役を見付けるだけだった。必要ならば、犯人役も
用意しよう。これらも普段より意を留めて探し求めているため、さほど時間は要すま
い。
 むしろ考えておかねばならないのは、探偵達がトリックを解けなかったときのことか
もしれない。冥の考案したトリックを看破した探偵が、前辻考案のトリックを見破れな
かったとしたら、それはそれは冥にとって屈辱だ。探偵を逆恨みするかもしれない。自
らが創出したトリックを用い、その探偵を葬りたくなるかもしれない。世界を見渡して
もさして多くない好敵手を減らしてしまうのは、人生をつまらなくすると理解している
冥だったが、前辻のトリックを解けないような探偵であれば、この際切り捨てることも
ありだと思った。

             *             *

 五日前に発生したその殺人の現場は、一種異様な光景と言えた。
 場所は海浜地帯の中央を外れた区域にある、天井の高い古工場。使われなくなって長
いのか、中はがらんとしていた。機械の類はとうの昔に運び出されたのかほとんどな
く、残っていても錆びて全く使えない代物ばかり。柱にしても、さして太くない、断面
がH字をした無骨な感じのやつが何本かあるだけで、邪魔になっていない。砂だかごみ
だか、とにかく埃が積もっているが、臭いの方は意外としない。
 建物の規模としては、大雑把に見積もって高さ十メートル余り、桁行が二十メート
ル、幅が五十メートルといったところだろう。横に長い直方体の建物、その長辺のちょ
うど中ほどに出入り口として、スライド式の金属扉が設置されている。高さ八メートル
はあろうかという大きな二枚扉で、左右に開くと最大で十メートルになる。これは機械
類や資材等の搬入を見越した設計だという。
 被害者の男性は、左の肩口から胸に掛けてざっくりと切られており、凶器と思しき大
ぶりな包丁が三本、すぐそばに転がっていた。遺体は出入り口から見て正面一番奥、壁
際の柱にワイヤーで縛り付けられていた。足を投げ出してもたれかかるような姿勢だっ
た。彼の名は三谷根八郎と言い、五十三歳になる。仕事はタクシー運転手だが元は会社
員で、部長の椅子に手が届こうかというとき、女で失敗して躓いた。彫りの深い顔立ち
のおかげでよくもてたようだ。出世コースを外れると、何もかも面白くなくなって、会
社を辞め、タクシー運転手に転じる。顔だけでなく喋りも達者だったせいか、なかなか
稼いでいた。そんな男が殺されたのだから、タクシー強盗にやられたのかと思いきや、
当日は休みだった。現場である古工場まで、被害者がどうやって来たのか分かっていな
い。様々な可能性が考えられるが、犯人の車に同乗して来たかもしれないし、あるいは
もう一人の被害者と一緒だったのかもしれない。
 二人目の被害者、豊野茂美は三谷根とはちょうど反対側にて、向き合う形で拘束され
ていた。同じく、長さ三メートル程度のワイヤーで両手首を後ろ手に縛られ、他端を扉
の取っ手に括り付けられていた。姿勢も似ていたが、足を投げ出さず、正座を崩したよ
うないわゆる女座りをしていた。彼女の方の死因は、まだ判明していなかった。遺体は
きれいなもので、少なくとも三谷根と同じ死因でないことは確かだった。毒物の検出な
し。溺れさせられたり、電気ショックを与えられたりといった痕跡も見付かっていなか
った。三十になったばかりの被害者は健康体で、病死もありそうにない。
「残るは窒息死ぐらいだろうってことです。今はその線で詳しく調べていると」
 経過を報告しに来た刑事の言葉に、少女探偵団四名の内の一人、両津重子が反応す
る。
「窒息? 首に絞められた跡が残るんじゃあ……」
「口と鼻を覆うとか」
 応じたのは刑事ではなく、別の団員、江尻奈由。刑事はその意見を肯定も否定もせ
ず、「現在、検査中」とだけ言った。
 少女探偵団は四人全員が中学生である。そんな女子中学生の集まりに、刑事が事件を
報告に来るなんてあり得ない――普通なら。
 彼女達には、実績があった。近所の日常的な悩み事や困り事だけでなく、本物の事件
も解決した経験があるのだ。尤も、数は知れているし、殺人事件となると四つほどしか
ない。それでも充分に凄いと言えるかもしれないが、警察が頼るほどのレベルでないの
も確かだ。
 にもかかわらず、刑事がわざわざ足を運んで知らせに来たのは、この事件が、ある特
異な犯罪者の仕業によるものと見なされたため。
 その犯罪者の名は冥。冥府魔道の絡繰り士を自称するこの人物は、遊戯的殺人を進ん
で手掛ける。推理小説的なトリックを好んで用い、ときに予告をしたり、署名的行動を
したりする。神出鬼没であることに加え、そのやり口が常識外れであるためか、警察も
手を焼いている実態があった。
 一方、少女探偵団は一度きりだが、冥の犯行を解き明かしたことがあった。冥に言わ
せれば遊び相手を見付けるための小手調べのテストで、解明されても痛くも痒くもなか
ったかもしれない。ただ、“テスト”に合格した少女探偵団は、冥から特別扱いされる
ようになってしまった。
 冥が殊更お気に入りなのは、探偵団のリーダー、九条若菜らしい。何せ、最終テスト
だとでも言いたげに、九条の目の前に姿を現したことまであった。以来、冥の犯行声明
や予告状、挑戦状に九条の名前が出されることしばしば。しかも、冥は警察に対し、九
条を始めとする少女探偵団を捜査に加えろという、無茶な要求までしてきたことすらあ
った。応じない場合、死体を増やすという脅しとともに。
 無論、警察が脅迫に屈したのではなく、あくまで冥を逮捕するために最前の手だとし
て、九条ら少女探偵団に事件の情報を明かせる範囲で伝えるようになった。九条は冥を
目撃し、言葉を交わした数少ない人物の一人なのだ。
「現段階で、二人の被害者間にいかなるつながりがあったのかは、判明していない」
「あ、話を進めていただく前に、質問があります」
 九条が肩の高さに手を挙げ、刑事に聞いた。ちなみに、彼ら彼女らが今話している場
所は、警察署内の会議室だ。正確にはその広い部屋の一角をパーティションで区切っ
て、六畳ほどのスペースを確保。建前上、殺人鬼に名前を出されて迷惑している女子中
学生が、警察に相談に来ているとの体を取っている。
「現場の状況は、先程話してくださった分で全部なんでしょうか? 差し支えなけれ
ば、お願いします」
「何か不自然だったかね」
 刑事は特に表情を変えることなく、目玉をじろりと向けた。眼鏡も髭もない、没個性
的な容貌だが、ときに凄みがちらりと覗く。
 対する九条は静かに首肯し、意見を述べた。
「冥の犯行にしては、不可思議さが足りないと感じたものですから。冥の犯行には不可
能犯罪が多く、そうでない場合にも明確な“謎”を提示するのが常。顧みるに、今伺っ
た事件は、奇抜さは感じられても、不可能性はないに乏しく、明白な謎も見当たりませ
ん。強いて言えば、無関係の男女を同じ場所でほぼ同時に殺している点、女性の被害者
の死因が不明である点ぐらいでしょうか。でも、その二点は結果的にそうなったという
印象を受けます。警察の捜査が進めば、じきに分かることだと思えます」
「――なかなか察しがよい」
 刑事は初めて笑みらしきものを見せた。今回が少女探偵団と初めての顔合わせとなる
この刑事、今岡達人は相手の能力を明らかに疑っていたが、少し見直したらしい。
「指摘の通り、現場にはもっと別の細工がなされていた。私が承知しているのは二点。
まず、現場は密室だった。次に、被害者二人に関する事実だ。三谷根は喉に大きなダ
メージを与えられ、恐らく声を出せなくなっていたと推測される。また、豊野はアイマ
スクで目隠しをされていた」
「情報量が多くて、すぐには把握できませんが、とりあえず、密室というのは?」
「現場の工場は元々精密部品を扱っていたとかで、埃をなるべく避けられるように気密
性の高い作りになっていた。だから出入り口は一つだけなんだ。そこは内側からロック
されていた。大きなカムを噛ませるタイプで、外からの操作はできない。外からは別の
鍵を掛けるんだが、そちらの方は手付かずだった。他には窓が多数あったが、いずれも
はめ殺し。ただ、出入り口とは反対側の壁の両隅に、非常時用の開閉可能な窓ガラスが
あったが、ともに内側から施錠されていた」
「……もしかすると、警察はその密室を、大した謎ではないと考えています?」
「ああ、そうだな」
 九条の推察を、今岡刑事はあっさり認めた。
「推理小説のトリックめいた物なんてと馬鹿にしている訳ではないんだ。簡単に作れる
と判断した」
「そうですよね」
 九条が明るい表情をなす。他の団員三名は、きょとんとしていた。
「リーダー、もう分かったの?」
 書記に徹していた蘇我森晶が、その手を止めて九条に聞いた。
「今聞いていた通り、被害者の内、豊野さんは出入り口の扉の取っ手に、ワイヤーで括
り付けられていた。ということは、豊野さんが拘束を逃れようともがけば、取っ手が動
いて施錠される可能性があるのでは、と考えたの。無論、その程度の力で錠が動くかど
うかは分かりませんが、推測するだけなら充分」
「実験の結果、錠は動き、ロックされた」
 刑事の補足説明に、九条は我が意を得たりとばかりに、満足げに頷いた。が、すぐに
表情を曇らせる。
「やはりおかしい。こんなに簡単な密室なんて、冥の仕業らしくない」
「あ、密室そのものは偶然の産物だったのかもしれないよー」
 両津が閃いたという風に、両手をパチンと合わせた。
「被害者二人を、工場の奥と前の位置関係に固定することが目的だったのかも」
「なるほど……。今岡さん、ワイヤーのたるみはどのくらいありました?」
「三メートルと言ったのは解いた状態での長さで、実質的にはまあ、一メートル強だろ
う。しかも相当に固い代物で、普通の紐のような柔軟性はなかった」
「ありがとうございます。だったら、被害者固定説は充分にありそうですね。換言する
なら、被害者の位置こそが一つの謎であり、トリックの要である可能性が高まりまし
た」
「目撃者はいないんですか。結構大掛かりな犯行みたいだし」
 江尻が刑事に尋ねた。
「事件を直接見聞きしたという人物は、見付かっていない。ただ、前日の夜、大型のコ
ンテナ車が行き来したのを見た人がいる。保冷もしくは冷凍機能を備えたコンテナだっ
たらしい。調べた結果、辺り一帯にそのような車両を当日使用した工場や企業はなかっ
た。だからといって、それが即座に殺人と関連があるかは断定不可能だが、怪しむに足
る証言なのは間違いない」
「冷やす必要……遺体を冷やして、死亡推定時刻をごまかすのが定番だけれども」
 江尻は言ったきり、腕組みをして黙り込んだ。本来、彼女は頭脳労働ではなく、腕っ
節に自信がある方なのだ。
「もしくは、氷を使ったトリック、アイストリックだよね」
 今度は両津。甘い物が大好きな彼女は、アイスクリームの方を思い浮かべていそうだ
けれども。
「そちらの検証は後回しにしましょう。今岡さん、喉を潰されていただの目隠しだのと
いうのは」
 九条が詳しい説明を求めるが、今岡刑事は困惑した風に首を傾げた。
「文字通りの意味しかない。目隠しの方は、何かにこすりつけるなり引っ掛けられるな
りできていたら、取れたかもしれないが、実際にはそのままだった。豊野は三谷根より
あとに殺されたとしても、三谷根の死に様を目撃することなく死んだだろう。三谷根は
声を出せない状態だったから、叫び声も聞かなかった」
「犯人は――冥は、三谷根さんが死ぬところを、豊野さんに見せたくなかった? 向か
い合う位置関係に拘束しておきながら? とても変な感じがします。今岡さん、絶対に
何かあります。三谷根さんと豊野さんとの間に何らかのつながりが」
「そもそも、ないと断定した訳じゃない。継続して調べている。三谷根は女性関係が緩
かったようだから、重点的に」
 そこまで答えたとき、今岡刑事の携帯電話が鳴った。捜査情報の連絡らしく、ディス
プレイを見ると通話せずに席を立って、「ちょっと待っていてくれ」と言い残し、出て
行った。
「どう思います?」
 若干、緊張がほぐれた空気の中、九条が三人のメンバーに聞いた。
「冥の犯行らしくもあれば、らしくないところもあるって感じかな」
 蘇我森が真っ先に答える。書記として記録した情報は、既に保存済みだ。
「理論立てて説明するのは難しいけれど」
「私もです。感覚でよければ、こういうのはどうでしょうか。今までの冥は、殺人プラ
ストリック乃至は謎というスタイルが目立ったのに、今回は殺人方法にトリックがある
ような」
「うん、そんな感覚だね。包丁が三本というの気になるし」
「他に大きなポイントっていうと、やっぱり、冷凍車になってくるのかなぁ」
 江尻が言った。
「有力でしょうね。犯人につながる糸を手繰るのなら、その冷凍車の事件前後の動きを
追跡するだけでもなかなかの成果が上がりそうです。でも、それではトリックは分かり
そうにありません」
「女の人の方の死因がまだ分かってないからか、死亡推定時刻を教えてくれてないよ
ね」
 両津が不満げに口を尖らせた。
「せめて三谷根って人のだけでも教えてくれればいいのに。氷で死亡推定時刻をごまか
すような細工があったかどうか、検討したいし」
「氷を運んでいたと決め付けるのはよくないわ。たとえば遺体を直接、冷凍車で冷やす
というやり方だってある」
 九条に指摘され、両津は素直に「そうだったね、えへへ」と先走りを認めた。
「今岡刑事が出て行ったのって、死亡推定時刻のことかな? 豊野さんの死因が判明し
たとかさ」
 蘇我森が想像を口にしたところで、くだんの今岡が戻ってきた。パーティションの隙
間から身体を滑り込ませ、元いた席に着座する。
「一つ、新たに分かったことがある。君らにも教えられる情報だから、言っておこう」
 この前置きに、少女探偵団四名は身を乗り出した。
「三谷根の遺体には、相当に強い力が加わっていたことが判明した。約三メートルの高
さから、凶器を振り下ろされたと見なせば辻褄が合うらしい」

             *             *

 一ノ瀬メイは馴染みの刑事からの呼び出しに応じ、その証拠物を見せられたとき、
(これは予想外の行幸だ。冥の方から接触してくるなんて!)
 とラッキーに思った。しかし、と彼女は心の中で続けた。
(これほどあからさまに、この私を指名するかのような犯行、いや、指名した犯行はか
つてなかった。どういう心境の変化だ、絡繰り士?)
 一ノ瀬メイの手の中には、一個のルービックキューブがあった。ある変死体の着てい
たジャケットのポケットから出て来た物で、六面全てが不揃いだった。特徴的なのは、
この立方体の各升目――3×3×6=54の升目一つ一つに、アルファベットが割り振
られている点。そして六面全ての色が揃うように完成させると、文字の向きがきれいに
同じになり、ITINOSEMEINITUTAEYOKONOTUIRAKUSHI
NONAZOGATOKERUKAbyMEIの文章が現れた。「一ノ瀬メイに伝えよ
 この墜落死の謎が解けるか 冥より」という訳だ。
「一ノ瀬さん、どうです?」
 刑事の宇月黎葉が、職業意識以上に好奇心を露わにして聞いてきた。一ノ瀬メイがど
んな反応を示すのか、興味津々といった体である。
「書いてある通りだろうね。幸い、時間制限はないようだけれど、もたもたしているの
は性に合わない。早速だけど、事件について教えてくれる?」
「新聞なんかでも報じられたんですよ。確かに冥の犯行と言われれば、いかにもという
感じなんですが。何しろ、ここR県で最大の湖、S湖のど真ん中で見付かった墜死体な
んですから。辺りに飛び込み台なんてもちろんなくて、もしやろうと思えば、飛行機か
ヘリコプターで飛んで来なくちゃならない」
「……まだよく分からないけど、よそで墜落死した遺体をボートで運んではだめなのか
な?」
 ぱっと思い浮かんだ、最も簡単そうな方法を口にする。が、宇月刑事は皆まで聞き終
わらぬ内に、首を横に振った。
「司法解剖の結果、墜落死と溺死が同時に起こったような状態だったんですよ、遺体
は。比較検討の結果、墜落の衝撃がより早く死の原因になったであろうという推測の
元、墜落死とされました。別の場所で墜落死させてからどうこうという方法だと、肺に
大量の水が入りませんよ」
「判断の根拠は分かった。けれども、私が今言った方法でも、あとから肺に水を入れる
ことは可能のはず」
「それがですね、生体反応の痕跡から、死後、肺に水を入れたのではないのは確かだそ
うです」
「ならば、先に溺れかけさせてから、墜落死させるという方法だってあり得る。無論、
水は死体を遺棄する湖から汲んでおく」
「うーん、詳しいことは分かりませんが、そのやり方だと、墜落死と溺死がほぼ同時と
いう判断は出ない気がするような」
「分かった分かった。法医学の結論を尊重するわ。それで、何メートルくらいから落ち
たのかは推測できてるのかしら」
 細かな点で議論していても停滞するばかりと見切りを付け、一ノ瀬メイは新たな質問
を発した。
「およそ五十メートル。十二、三階建てのビルに相当する高さになります」
「五十メートルね。クレーンでも届くのはあるだろうけれど、それだけ大きな重機だと
おいそれと用意できる代物でもなさそうか……。冥ならやってのける能力はあるだろう
けれども、考えてみれば、こんな直接的な方法が答だなんて、冥らしくない」
「でしょ? 絶対に何かあるに決まってます、奇抜なトリックが」
 そう語る宇月は、刑事らしからぬ喜色を浮かべていた。警察の属する人間としては珍
しい部類に入るだろう、推理小説が大好きなのだ。それもこてこてのトリック小説が。
だからこそ、冥の捜査に携われていると言えるし、一ノ瀬メイの相方役に選ばれたとも
言える。
「そうなんだろうねえ。直接的というのであれば、飛行機やヘリを利用するのだって、
同じく凡庸と言える。そういった方法を排除するのであれば――」
 同意してから、一ノ瀬メイは考える時間を少し取った。程なくして、再び口を開く。
「被害者についてまだ何も聞いてないけれど、先に確かめておきたいことができた。私
の知り合いが経験した事件に、似た感じのがあった。そのトリックの応用で、この墜落
死体の謎も解明できるかもしれない」
「え、そうなんですか? どんな事件だったんです?」
 驚いてますよと全力で主張するかのように、目をまん丸にした宇月。一ノ瀬メイは笑
いをかみ殺しながら応じた。
「説明の前に、教えて。S湖の水深は? 遺体の見つかった地点の付近でいいから」

             *             *

 本格推理小説を、「不可能を可能にする文学」と言い表したのは誰だったか。
 そして、その言葉を聞いて、「不可能が可能になるもんか。不可能はできないから不
可能なんだ」云々とやり込めたのは誰だったか。ともに有名な探偵作家だったことは間
違いないのだが、名前までは覚えていない。
 年を食ったのを改めて自覚し、探偵の流次郎は嘆息した。続いてまた思い出した。
「名探偵にとって死は恐くないが、老いほど恐ろしいものはない」というようなこと
を、歴代の名探偵の誰かが言っていたはず。いや、あれは確かパロディ作品に登場した
名探偵だったから、本物が口にした言葉とは言えないのか?
 まあ、今はどうでもいい。それに、自分自身の記憶力が、偏りこそあれ、さほど衰え
ていないことを確かめられたように思えて、流は気を取り直した。これで、眼前の事件
に集中できる。
 そもそも、「不可能を可能にする文学」なんていうフレーズを想起したのは、現場の
状況のせいだった。
 展開されていたのは、ミステリにおいては今や古典的な謎と言える、足跡なき殺人。
現場となった一軒家は、別荘と呼ぶのを些か躊躇させる規模と佇まいを持っており、別
邸と呼ぶのがふさわしい。そこの庭に白砂が敷き詰められ、流麗な模様を浮かび上がら
せていた。問題の遺体は、その枯山水のほぼ中央に配された巨大な石――舞台のように
平らな面がある――に、腰掛けるような格好で置かれていた。砂の模様に乱れはなく、
何者も行き来していないように見えた。庭園の枠の外から石までの距離は、一番近いと
ころでも、七メートルはあろう。足元の状態や石の高さなどを考慮すれば、ジャンプし
て飛び移れるものではない。たとえ成功しても、帰ってくることができない。石の上で
は助走距離が全く足りないからだ。
「――そして、これが一番の問題かもしれんのですが」
 刑事の吉野が言いにくそうに間を取った。
「何があったんです?」
「実は、被害者の細木氏は足が不自由で、普段は車椅子を使っていたんですな」
「なるほど。そんな人物をあそこの石までどうやって運ぶのか。少なくとも、自力では
行けそうにない、と」
「ええ。自殺はあり得ないことになる」
 細木海彦の死因は失血死と考えられていた。頸動脈の辺りをすっぱりと切られ、流れ
出た血が石を赤くしている。凶器と思しき剃刀は、細木の右手のすぐそばに落ちてい
た。これが自殺であったのなら、どんなに楽か。

――続く




#491/598 ●長編    *** コメント #490 ***
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:36  (299)
絡繰り士・冥 1−2   永山
★内容                                         19/01/17 02:34 修正 第3版
「この邸宅は細木海彦の所有で、剃刀もこの家にあった物。本邸は二十三区内にある
が、芸術家として名と財をなした細木氏は、気が向いたときにふいっと姿を消して、こ
ちらの屋敷に滞在することがあったという話でさあ。そのときの気分次第で、枯山水を
こしらえるよう、専門業者へ前日に注文が出されることもあった」
「今回はどうだったんです?」
「やや余裕があったな。二日前に注文があって、せっせと作り上げたと」
「その業者が犯行に関わっている可能性は?」
 流は、数多い選択肢を潰す意味で聞いてみた。もし犯人が枯山水作りを得意としてい
るのであれば、足跡のない謎なんて存在しないことになる。
「アリバイあり、動機なし。ついでに言えば、ご丁寧にも、この枯山水の仕上がりを写
真に収めていた。その写真と現場を見比べることで、他人によって枯山水が破壊され、
作り直された可能性はないと判断できた。一度壊してしまうと、細部まで完全に再現で
きるものではないという訳ですよ」
「元々の形がちょっとでも崩れたような箇所は、なかったんですか」
「そりゃまあ、渦巻きの尾根がちょこっと崩れたというような箇所はありました。だ
が、それくらいなら強い風が吹いたり、大きな虫が通ったりするだけでも起こることで
すからな。だいたい、その程度の小さな痕跡があったって、人一人が行き来できるよう
になるはずないでしょう」
「……まあ、そういうことにしておきましょう。被害者は、ここへは一人で滞在してい
たのですか? 足が悪いのなら、世話をする人が一人はいそうですが」
「いや、それが一人だった。芸術家っていうやつなのか、細木氏がここへやって来るの
は、インスピレーションを得るのが目的で、そのためには他人の存在を邪魔に考えてい
たんですな。だから、車でさえ特別しつらえにして、自分で運転できるようにし、本邸
からここまで一人で来たみたいで。食事は、買い込んでおいたインスタントや缶詰なん
かで、充分だったようです」
「掃除は我慢するとして、トイレや風呂はどうするんだろう。一人でできたのかな」
「できたと聞きましたし、実際、出発時は一人だったことは確定しとりますよ」
「途中で誰かを乗せたかもしれない、と」
「まあ、可能性はある。犯人を乗せた可能性がね。だが、被害者の車は残っとりますか
らな。ここまで同乗してきた奴がいて、そいつが犯人なら、ここから立ち去る手段に困
る。タクシーを呼ぶ訳にもいかんでしょうから、恐らく犯人は自前の車で来たんでしょ
うよ」
「なるほど、納得したよ、吉野刑事」
 そこまで言って、流はふっとしゃがみ込んだ。虚を突かれた形になった吉野が、慌て
た風に目線を落とす。
「何か見付けましたか」
「この葉っぱ……」
 流の指は、地面に落ちていた黄色い木の葉を示していた。正確には、木の葉の形をし
ていた物、となるだろう。親指ほどのサイズのその葉っぱは、元の形状を残しつつも、
諸々に崩れていた。わずかに、葉脈のラインが木の葉の骨格のように残っていた。
「その葉っぱが何なんです?」
「こんな崩れ方はおかしいんじゃないか。少なくとも、珍しいと思う。普通の枯れ方で
はないし、腐った訳でもない。虫に食われたのなら、こんなに粉は残らないだろうし…
…」
「うーん、言われる通りかもしれんが、気にするようなことですかね」
 刑事もしゃがみ、指先で葉っぱにちょんと触れた。その拍子に、葉脈の部分までが、
ぽきりと折れた。
「お、随分と脆いな。力ずくで揉み潰したみたいだ」
「――吉野刑事。これは証拠になるかもしれない。保管することをおすすめします」
 流が真剣な口調で告げると、吉野刑事は一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐさまその表情
を消すと、言われた通りに証拠袋に問題の葉を収めた。
「何なんです、一体」
「ええっと……事件の状況を聞いて最初に私が思い付いたのは、水を注ぎ入れて庭園全
体を池にして、ゴムボートか何かで遺体を運んだという方法でした」
「そりゃ無理だ」
「ええ。現場を見て、撤回しました。ここまで見事な枯山水だと、水をどんなに静かに
注ぎ入れても、崩れてしまう。第一、水を溜めるだけの枠が、この庭園にはない。注い
でも注いでも、流れてしまうだけ」
「でしょうなあ。それで、この葉っぱを見て、別の方法を思い付いたと」
 流は頷いたものの、「まだ確信は持てませんが」と前置きした。
「この葉っぱ、極めて低温に晒されたんじゃないかと思うんです」
「低温というと……この辺は真冬でもマイナス二、三度ぐらいですかね。ここは高度が
あるから、もう少し下がるかもしれないが、今はまだ秋口だ。そんなに下がるとは思え
ませんな」
「犯人が意図的に低温にしたんです。液体窒素を持ち込んでね」
「液体窒素? ああ、昔、テレビコマーシャルでありましたな。バナナで釘を打つと
か、薔薇の花が粉々に砕けるとか」
「はい、あれからの連想になります。葉っぱは低温のために諸々になったんじゃないか
と考えた」
「ふむ。液体窒素をおいそれと運べるかどうかは調べないといかんが、意見としては面
白い。液体窒素を犯人はどう使ったと?」
 問い掛けに、流は立ち上がりながら答えた。
「枯山水を崩さぬよう、固めるために」
 刑事も続いて腰を上げる。
「ほほう? 果たして、液体窒素を撒くだけで、この枯山水全体が固まるでしょうか
ね」
「全体を固める必要はない。遺体を運び、また戻れるだけのルートを確保できさえすれ
ばいい。被害者の足が不自由だった点から推して、車椅子が通れる幅があれば、事足り
るんじゃないかな」
「しかし、そもそも液体窒素を撒いただけで、砂が固まるもんですかな?」
「水分を含んでいるだろうから、固まるはず。もし足りなければ、加えてやればいい。
霧吹きでも用意して」
「まあ、霧吹きの霧ぐらいだったら、砂は崩れませんな。で、犯人はかちこちに固めた
砂の上を、ゆうゆうと進んで遺体を運んだと」
「いや。直に触れて進むと、さすがに崩れそうだ。固さは脆さに通じるからね。多分、
重量を分散するために、平らで長くて丈夫な板を用意したんじゃないかな。板を渡し掛
けて、その上を進めばいけると思う」
「うむむ。実験をしてみたいところだが……」
 吉野刑事は難しい顔をして、腕組みをした。
「葉っぱ一枚じゃあ弱い。もう一つ二つ、決め手が欲しいな」
「そこいらを掘り返せばいいさ。葉っぱ以上に“冷凍”を窺わせる証拠が見付かるかも
しれない」
「何だ、それは?」
 首を捻った刑事に対し、流はほんの少し笑ってから答えた。
「幼虫やミミズの類ですよ。凍死したのがあるはず」

             *             *

 一ノ瀬メイが逗留している宿に、朝早くからやって来た宇月刑事は、報告書を手に、
嬉しそうに話していた。艶のある長めの髪をかき上げ、弾んだ声で告げる。
「ご指摘の通り、倒産したエア遊具メーカーの工場周辺で目撃者を探したところ、何度
も出入りしていた男がいました。冥もしくは冥の仲間かどうかはまだ分かりませんが、
割と特徴的な顔立ちだったようなので、ひょっとしたら行方を掴めるかもしれません」
「その工場から、遊具は持ち去られていたの?」
 朝食をほぼ終えた一ノ瀬メイは、コーヒーカップを口に運んだ。通常は食堂まで出向
いていただく物なのだが、特別に部屋まで持って来てもらった。捜査中の事件の話をす
るのに、人の出入りが多い食堂はふさわしくなかった。
「はい。幸い、記録が残っていて、何がなくなったか把握できました。なくなった物を
つなぎ合わせると、五十メートルくらいになります。もちろん、直方体なんかは、長い
方を採用したとしてですが」
「湖底に設置しようとすると、アンカーが絶対にいるだろうし、空気を送り込む機械も
必要になる。その辺りは?」
「アンカーは確認できました。さすがに持ち帰ることは難しかったみたいで、湖底を捜
索すると、割と早く見付かっています。方々から集めたのか、大きなコンクリートブロ
ックや金属の球で、回収の方が大変だったみたいですよ」
「送風機は?」
「同じエア遊具メーカーにあるにはあったんですが、会社を畳む直前に売り払っていま
した。だから、そこから持ち出したんじゃあないですね。鋭意捜査中です」
 そこまでは難しかったか。だが、一ノ瀬メイは一定の安心を得た。
 この墜落死事件の犯人、恐らく冥は、S湖の水中に巨大な空気のタワーを用意するこ
とで、墜落死と溺死がほぼ同時に起こる状態を拵えたのだろう。天辺が湖上から覗くよ
うにして、そこへ被害者を横たえた。無論、被害者を眠らせるなり何なりして、意識を
奪っておかねばならない。それから空気のタワーを崩壊させる。膨らんでいた風船を破
裂させるのだ。すると被害者を支えていた足場は瞬時に消失し、結果、被害者は五十
メートルの湖底へと真っ逆さまに落ちる。それとほとんど同時に、周囲の水も流れ込ん
でくる……。
 五十メートルにも及ぶ空気のタワーを作るには、巨大な容れ物がいる。真っ先に思い
浮かんだのが、エア遊具だった。デパートなどが主催する子供向けのイベントでたまに
設置される、ビニールを膨らませた滑り台や、中で飛び跳ねて遊べるような遊具だ。調
べてみると、あつらえたかのように、R県内で倒産したメーカーが見付かった。
「これで決まりと言っていいでしょう。それにしても、こんな大掛かりで馬鹿げた殺害
方法を考え出し、実行する冥も冥ですが、見破る一ノ瀬さんも相当ですね」
「前も言ったように、今回は私一人で思い付いたんじゃないんだけれどな」
 宇月の称賛とも呆れとも取れる言い様に、一ノ瀬メイは肩をすくめた。冷めたコー
ヒーの残りを飲み干すと、懸念も表しておく。
「気になるのは、冥の意図だね。この捜査で捕まるかどうか分からないけれど、正直言
って、私は当てにしていないから」
「ひどいなあ」
「だってそうでしょ? 今回の犯行は、冥らしさとそうでない部分が同居してる感じ
で、気持ち悪い。向こうから私にアプローチしてくるのだって珍しいし、遊具メーカー
の近くで事件を起こすなんて、わざと解かせたがってるみたい。基本的に冥は動機なき
殺人、無差別に被害者を選んでいるはずだから、場所はどこでもいいだろうに」
 そこまで言ってから、一ノ瀬メイははたと思い出した。しきりに納得している宇月刑
事に、改めて聞いてみた。
「そういえばまだ知らされていないんだけれど」
「何をですか、一ノ瀬さん」
「この事件で死んだのって、誰なの」

             *             *

 豊野茂美の死因が特定された。窒息死、それも二酸化炭素によるものだった。
 その情報が新たにもたらされたとき、少女探偵団リーダーの九条は、事件の全貌が見
えたような気がした。
「水曜会議を始めます」
 定期的に開いている、少女探偵団の会議のスタートを告げた九条。今回集まった場所
は、九条の自宅だ。
「議題は当然、三谷根さんと豊野さんが殺された工場の事件です。今岡刑事に考えを聞
いてもらう前に、私達で充分に検討しておきましょう」
「するっていうと、若菜はもう何か思い付いているのね。凄い」
 江尻が感嘆したようにため息とともに言った。九条は九条で、戸惑いを纏った笑みを
返す。
「早いだけで正解でなければ、意味はあまりありません。それよりも、みんなの意見を
先に聞きたいのです。先入観を持つのを避けるのは難しいでしょうが、なるべく公平に
判断するつもりですから」
「私は当然、なし」
 江尻は左隣の二人を見やった。両津が反応する。
「部分的でもいいの?」
「無論です」
「じゃあ……三メートルの高さから刺すなんて、あり得ない話だよね。でも鑑識や司法
解剖で、そうそう誤りが出るとも思えないし。だからあれは、遺体の向きが発見された
ときとは違ってたんじゃないかなって思った」
「刺されたタイミングが、遺体が壁にもたれかかっていたときではなく、別の姿勢のと
きと考えるんですね」
 九条が察しよく答えると、両津は強く首肯した。
「たとえば、完全に横になっている場合とか。床を滑ってきた刃物が刺さったら、三
メートルの高さから刺さったと判断されるかも」
「ちょっと。距離の問題じゃないでしょ」
 蘇我森が指摘する。
「力と角度が重要なんじゃないの? 三メートルの高さから落下したときとおなじくら
いの加速が必要になると思う。今の説だと、角度はともかく、力は弱まりそう」
「じゃあ、あきちゃんは何か思い付いてるの?」
 やり込められて悔しかったのか、両津は食ってかからんばかり有様だ。蘇我森は「私
も部分的だけど」と断ってから、九条へと向き直った。
「冷凍車が使われたんだとしたら、やっぱり、氷を何かに使ったという考えが、頭から
離れなくって。それでね、さっきはあんな言い方をしたけれども、重子の考え方に基本
的には似てるの。つまり、姿勢が違ってたんじゃないかっていうところ」
「あ、分かった」
 両津と江尻がほとんど同時に言った。ここは両津が譲る。
「三メートルの高さを氷で稼いだんだ? たとえば氷で、高さ三メートルの雲梯みたい
な物を作って、上に被害者を横たえる。当然、意識を失わせ、自由を奪っておく。一
方、その真下には、凶器の刃物を立てておく。必要なら、充分に大きな氷で固定すれば
いい。時間が経つと雲梯の氷が溶けて、遺体は落下。肩口に刃物が刺さる――こんな感
じ?」
「ええ、まあ、そんな感じ」
 蘇我森は口調を真似て返事した。そして三人の目がリーダーに集まる。
「二つとも独創的な案で、いいんですけど……」
 九条は言いにくそうにしつつも、程なく、きっぱりと言った。
「どちらも違うと思います」
「うん、それも分かってる」
 蘇我森が苦笑いを浮かべて即応した。
「私が言ったやり方じゃあ、現場が水浸しになるし、三谷根さんだっけ、被害者の姿勢
が発見時とそぐわなくなる。まあ、犯人が遺体を置き直したと考えてもいいんだけれ
ど、それじゃあ何のために自動殺人トリックを用いたのか分からなくなっちゃう。ただ
単に、身長三メートルの大男に刺されたという構図を演出したい、なんてのもなさそう
だし」
 二案にだめ出しがなされたところで、九条はこほんと咳払いをした。
「では、私の仮説を聞いてください。発想の源は、豊野さんの死因から」
「二酸化炭素による窒息死ってやつね」
「はい。二酸化炭素と言えば、ドライアイスです。ドライアイスと言えば、氷の代わり
になります」
 九条以外の三人から、あ、という息が漏れたようだった。
「犯人が冷凍車で持ち込んだのは、大量のドライアイスだったのではないかと考えてみ
ました。気密性の高い建物内で、ドライアイスが解けたために二酸化炭素が充満し、豊
野さんの命を奪った」
「……納得した。けど」
 江尻が三人を代表する形で質問する。
「そのことと高さ三メートルからの刺殺は別物なの?」
「いえ。つながっていると推測しています。犯人はドライアイスを、大きな板状の形で
用意したのだと思います。それも少しずつサイズを変えた板を、何枚も」
「うーん、よく分からない……」
「ドミノ倒しです。ドライアイスの板を何枚も立てて、端っこの小さな板をちょんと押
すと、段々と大きなサイズのが倒れていき、最後には高さ三メートルの板が倒れ、前も
って上端の辺りに埋め込まれていた刃物が、三谷根さんを刺し殺した。その後ドライア
イスは気化して、豊野さんの命を奪いつつ、消え失せます」
「何とも凄い絵面の殺人トリックだわ」
 感嘆と呆然が混じったような感想を漏らす江尻。代わって、両津が口を開いた。
「じゃ、じゃあさ、ドミノを押したのは誰なのよ? 犯人が自分で押したんだったら、
トリックの意味、あんまりなくない?」
「うーん、押したのは犯人かもしれないし、そうでないかもしれない。現時点では、判
断できないわ」
 九条はそこまで言ってから一呼吸置き、やがて思い切った風に付け加えた。
「ただし、誰が押したのかは、想像が付いている」
「どういうこと? 犯人かどうか分からないけれど、押したのが誰かは分かってるだな
んて」
「その誰かが、悪意を持った犯人、もしくは犯人の仲間かどうかは分からないっていう
意味よ。ここまでの話で想像できてるかもしれないけれど、私が思い描いているのは、
豊野さん」
「豊野さん? 拘束されていたのに?」
 再び江尻が聞いた。
「拘束されていたと言っても、足は動かせたはず。豊野さんと三谷根さんとの間に、さ
っき言ったドミノが並べてあったとしたら。最初の小さなドミノに、爪先が当たる位置
にね」
 江尻、両津、蘇我森はそれぞれ上目遣いになった。情景を脳裏に描いているのだろ
う。
 次に口を開いたのは、蘇我森だった。
「その位置関係だと、ドミノを押したのは豊野さんの意志か、それとも拘束を逃れよう
ともがいた弾みかは分からないってことね」
「ええ。豊野さんは目隠しをしていたから、自分の足元に殺人ドミノがあるなんて気付
かなかったのかもしれない。一方の三谷根さんは声を出せなくなっていましたから、彼
自身の危機を豊野さんに伝えることはできなかったでしょう」
「そういうことなら、内側の鍵がロックされたのも、豊野さんの意志かどうか不明にな
るんだ……。でも、最後に死んじゃってるんだから、やっぱり犯人じゃないんじゃな
い?」
 両津が述べたのに対し、九条はまたも首を横に振って、肯定しなかった。
「冥が主犯、豊野さんが従犯の関係で、最後に冥が豊野さんを切り捨てたのかもしれな
い。ドミノがドライアイス製だとは伝えずに、ただの氷製と言っておけば、安心して協
力するでしょうね。後に発見されたとき、三谷根さんは殺されたが、豊野さんは危ない
ところを発見されるというシナリオだったのかも。ドミノが消えることで、豊野さんが
三谷根さんを殺したようには見えない訳ですし」
 九条の推理に、両津達は改めて感心したらしく、それぞれ何度も首肯を繰り返す。そ
れから蘇我森が新たな問題を提起した。
「もしも、豊野さんが三谷根さんを殺したのだとしてよ。動機は? 動機なしに冥に協
力するかしら」
「さっき述べた推理通り、豊野さんが遺体とともに見付かる役目を負うつもりだったの
なら、かなり危ない橋を渡ることになります。普通、動機なしに協力はしないはず。警
察が調査を続けているのですから、きっと動機が見付かると信じています」
 九条は思いを込めて断言した。
「さあ、この推理を私達少女探偵団の総意として、今岡刑事にお伝えするという方針
で、よろしいでしょうか?」

             *             *

 ここ数日の新聞等による報道を見聞きして、冥は満足していた。
 自分が前辻能夫よりも優れていることを、自身の内で証明できた。当たり前のことで
あったが、証明できたことでよりすっきりした。全ては心の安寧のために。
 それと同時に、自分の鑑定眼に狂いはなかったとも確信を持った。好敵手と認めた探
偵達は皆、今度のテストをクリアしたのだ。今後の人生が楽しいものになる。そう保証
された。
 と、一定の満足を得た冥だったが、喜びに浸っている時間はあまりない。次の仕掛け
が待っている。
 この春先からこっち、将来有望そうな若い探偵の存在を掴んでおきながら、彼の実力
を試す機会がなかなか得られなかった。遊戯的殺人の謎を続々と解いていることから、
能力は確かなように思えるが、念には念を入れ、冥自身が直接試しておきたい。そう、
九条若菜を試したときのように。
(十文字龍太郎、か。高校生ということは、九条若菜よりは年上だけれども、まだ若
い。不安材料は、知り合いに一ノ瀬メイがいるという点かな。これまでの十文字の手柄
は全て、彼の独力によるものだったのか。そこを含めて、きっちり査定してあげよう)
 冥は頭の中にある数々のプランから、条件に合うものを絞り込みつつあった。
(できるものなら、被害者には殺し屋さんを選びたいね。私のような者にとって、プロ
の殺し屋は近いようで遠い存在。似ているようで、まるで違う。遠くでうろちょろした
り、すれ違うだけならよかった。でも、ここ最近は前辻の件を含めて目障りになってき
た。警告を発するのに、ちょうどよい頃合い)
 絞り込みや選定にいよいよ熱を入れる冥。テレビをつけっぱなしでいたのだが、消し
た方が集中できるだろう。
 リモコンを向けた先のテレビでは、ニュース番組のキャスターが、殺人事件の詳報を
伝えていた。
<――警察の発表によりますと、豊野茂美の実母が三谷根から――>

――終わり




#492/598 ●長編    *** コメント #479 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:13  (  1)
目の中に居ても痛くない!3−1   永山
★内容                                         23/07/17 21:58 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#493/598 ●長編    *** コメント #492 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:14  (  1)
目の中に居ても痛くない!3−2   永山
★内容                                         23/07/17 21:58 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#494/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:43  (497)
そばにいるだけで 65−1   寺嶋公香
★内容                                         17/06/08 12:44 修正 第3版
 新学年二日目、学校からの帰り道。唐沢は愚痴をこぼしっ放しだった。「忙しくなけ
りゃ、涼原さんを指名したのに」だの、「こんなことなら、テニス部に入っておけばよ
かったよ」だのと、前の日にも言っていたフレーズをぶつぶつ繰り返す。
 今日中に決めるよう言われていた副委員長のポストを、まだ決められないでいる。先
生に頼んで、もう一日だけ延ばしてもらうのに苦労したらしい。そのため、委員長を引
き受けたこと自体を後悔し始めている。
「修行だと思えばいいじゃない」
 駅に着き、結城が笑み混じりに口を開く。唐沢、相羽、純子達と別れ、反対側のプラ
ットフォームへと向かう間際のこと。
「しゅぎょお〜?」
 どんな漢字を当てはめればいいのか分からない、という風に唐沢が聞き返す。
「敢えて苦手な人を選ぶとか、それができないなら、くじで決めるとか。そうすれば経
験値が上がるってもんよ」
「……何と不謹慎な」
 間を置いてから答えた唐沢。反論を色々考え、最適なものを選び出したらしい。
「そんないい加減に副委員長を選ぶのは、よいことじゃないなあ」
「だったら、まず、自分自身がいい加減じゃないようにしないとね。――じゃ、バイバ
イ」
 駅アナウンスが流れる中、結城はさらに上手を行く切り返しを見せた。そうして、反
対側のプラットフォームへと急ぐ。ちょうど入って来た列車に乗り込む姿が、純子達の
いる位置からも確認できた。
「うるさいのが行ってくれた」
 列車が遠ざかるのを最後まで見送り、やれやれと芝居めいた息をつく唐沢。それから
おもむろに振り返ると、相羽に対して言った。
「という俺自身も、お邪魔虫か。二人で話したいことがあるんなら、今日のところは消
えてやろう」
「別にないよ」
 相羽に続いて、純子が答える。
「そうよ。気を遣われたら、かえって話できなくなる」
 この返事に唐沢が食いついた。
「うん? 話ができなくなるってことは、したい話があるってことじゃ?」
「あ」
 口元を押さえる純子。相羽に聞きたいことがあるのは本当だが、今すぐのつもりはな
かったのだ。
 相羽を見やると、彼も純子の今の台詞に引っ掛かりを覚えた様子。どうしたのと、目
だけで聞いてくる。
「な、内緒話ってわけじゃないし。――あ、ほら。来たわ」
 結局、車内で続きを話すことに。時間帯が早いため、座席は充分に空いていた。他人
の耳をさほど気にすることなく、お喋りできる。
「昨日の朝のことなんだけれど」
 純子は左隣に座った相羽に尋ねた。本当は昨日の下校時に尋ねるつもりだったが、タ
イミングを逃し、聞きそびれてしまっていた。
「教室に来るの、遅かったよね。生徒指導室に行っていたとも聞いたんだけど、何かあ
った?」
「あ、それ、俺もちょっとだけ気になってたんだ。珍しく、叱られるようなことでもし
たのかと」
 右隣の唐沢もまた、相羽へと顔を向けながら軽口を叩く。相羽はそんな質問をされた
こと自体意外そうに、何度か瞬きをした。コンマ数秒の間を取って、口を開く。
「生徒指導室に行ったのは本当だけど、大した話じゃないよ」
「もったいぶらずに言えって。気になる」
「――みんなやることさ。進路とか受験とかの相談」
「もう?」
 声を揃えたのは、相羽の答に驚いた純子と唐沢。乗客が少なめであるせいか、響いた
ような気がする。
「いや。悪い、勘違いさせたみたいだ。二年になったら、じきに三者面談があると聞い
たから、いつ頃なのかを確かめたんだ」
「ん? 何のために」
「五月上旬ぐらいまでだと、母さんの都合の付く日があまりなくて」
「なるほど。理解した」
 声に出してうなずく唐沢。純子も納得していた。一つの疑問を除いて。
「でも、わざわざ生徒指導室でするなんて……職員室で済むのに」
「職員室は始業式で慌ただしい雰囲気だったから、『場所を変えよう』と神村先生が」
「なあんだ。生徒指導室に行ったって最初聞いたときにびっくりして、損した気分」
「そういえば、ついでのときでいいから伝えておいてくれないかと、先生に頼まれてい
たんだった」
 と、相羽が改まって見つめてくる。純子は気持ち、のけぞった。電車の微振動が不安
感を増幅させるような。
「え、何なに? まさか、呼び出し?」
「違う違う。『三者面談のとき、芸能活動について聞くから、そのつもりでいるよう
に。今後在学中の一、二年、あるいはもっと先の将来のことも含めて、考えをある程度
まとめておいてくれ』だって」
「あっ、そういうことなら」
 ほっとした。けど、別の意味でどきどきする。仕事――学校側から見ればアルバイト
――のことに触れられるのは、気が重い。
「考えをまとめるも何も、続けるんだろ?」
 唐沢が口を挟む。視線はよそを向いている(車内の女性に目移りしているらしい)の
だが、友達の会話は逃さず聞いていたようだ。
「……将来、と言われたら、迷っちゃう」
 純子の声は、その言葉通り、迷いの響きを含んでいる。少し前、事務所で市川から言
われたことも思い出していた。
「今は好きでやっていることだけれど、運がよかったというか、周りの人に支えてもら
った結果だものね。他にもしたいことあるし……。改めて考えると、難問かも」
「えー、やめないでよ。続けてほしいな。何ってたって、友達に芸能人がいたら自慢で
きるっ」
「唐沢君たら」
 冗談とも本気ともつかぬ台詞に、純子は気抜けしたような笑いをため息に乗せた。
「純子ちゃん、唐沢に紹介できるような仕事仲間っている?」
「え?」
 相羽のひそひそ声による質問、その意図が分からなくて、純子は首を傾げた。
「いたら、紹介してやって。芸能人の友達がいれば、唐沢は満足できるみたいだから」
「いっそ、唐沢君自身をモデルか何かに推薦してあげて――」
 遅まきながら察し、調子を合わせる純子。声のボリュームは、すでに通常レベルにな
っていた。
「二人とも、それは誤解だ。ボクは悲しい」
 唐沢はしっかり聞いていた。
「相羽の前で言うのも何だが、俺、涼原さんのファンだもんね。応援するし、ああいう
世界でどこまで行けるのか、見てみたい」
「今でもあっぷあっぷなのに、期待されても困るなぁ」
「いやいや。もし学校がなかったらどうよ。仕事に集中できるわけで、絶対に行けるっ
て」
「唐沢、これ以上忙しくさせてどうする。少しは考えろって」
 呆れ口調で、相羽。対する唐沢は、膝上の学生鞄を手のひらでばんと叩き、心外そう
に反論する。
「聞いてなかったのか。学校がなかったらっていう仮定の話だ。今より忙しくなるかど
うか、分からないだろうが」
「今は学校があるという理由で、セーブしてもらっているようなものなんだ。その盾が
なくなったら、忙しくなるに決まっている」
「――知らねえよ、そんなこと。知らなかったんだから、仕方ないだろ。もっと人気出
てほしいと思うのは、悪いことかい?」
 徐々に、だが確実に熱を帯びるやり取り。二人の間に挟まれた純子は、自分に関する
話だけあって、身が縮む思いを味わう。相羽も唐沢も、自分のことを思ってくれるが故
の発言。たまらなくなる。
「やめて」
 小さいがしっかりした声で、きつく止めた。その響きにただならぬものを感じ取った
か、男子二人は静かになる。
「もう。さっきまで普通に話していたのに、どうしてこうなるのよ……」
「分かった。もうやめる。――な?」
 相羽は唐沢へと目線を移した。唐沢も空気を読んだか、即座に調子を合わせる。
「ああ。こんなに仲いいんだから、安心してよ、すっずはっらさん」
 席を立ち、ハイタッチ、と言うよりも“せっせっせ”のような格好で手を合わせる唐
沢と相羽。純子は二人の間で、今度は笑い、和ませてもらった。
「さすが、委員長」

           *           *

 昼休み、電話を終えて教室に戻った白沼は、すぐさま純子の席を目指した。父から仕
事上の伝言を受け、伝えねばならない。
「――ちょっと。何寝てるのよ」
 ハンカチを敷いた机に頭をもたせかけ、顔を横向きにし、腕は下にだらんとさせた姿
勢でいる純子。その姿を見て、白沼はつい声を荒げた。正確には、純子の隣の席で、相
羽が同じ姿勢で休んでいるという理由が大きい。顔はどちらも右向き。見つめ合う形に
なっていない分、許せるものの……今日は朝一番に、精神的にちょっとハードルを越え
ねばならない出来事があったので、どうしても声が刺々しくなる。
「ん? ああ、白沼さん」
「全く。休み時間に熟睡するなんて」
「……眠るなら授業中にしなさいと?」
 本格的に寝入っていたらしく、純子は半眼のまま、ぼんやりと返事をした。
「昔に比べて、また妙に理屈っぽくなったわね。まあいいわ。仕事で忙しいんでしょう
し。パパからの伝言があるの」
「パパ……ああ、白沼さんのお父さん」
 かぶりを振り、頭の中をすっきりさせる風の純子。次いで、自らの身体のあちこち
を、ぺたぺたと触る仕種を繰り返した。
「……何をしているの」
「――あった。お待たせ」
 純子の手には、シャープペンシルと表紙が桜色のメモ帳が。
 白沼は片手を額に当て、純子が完全に目覚めていることを確認してから、用件を伝え
た。
「――いい? 変更したのがまた取り消されたから。分かったわね?」
「うん、了解しました。ありがとう……って、どうして白沼さんが、わざわざ」
 疑問を口にしつつ、純子は持たされた携帯電話のメール機能で、変更の知らせを受け
たことを関係各所に報告する。
「電波の具合が悪いところにいるのか、そっちの人が掴まらなくて、私に連絡してきた
まで。考えてみれば、学校にいる間は、こうする方が確実に伝えられるわけよね」
「じゃあ、これからもこういうこと、あるのかな」
「かもね。まあ、今日はあなた達がべたべたしていなかったから、素直に教えてあげた
けれど――」
 と、通路を挟んで逆側の相羽を一瞥し、また視線を戻す白沼。
「――見せつけられたら、どうしようかしら。教えてあげないか、嘘を伝えるかも」
「そ、そんな恐いこと、白沼さんはしないわよね」
「当たり前でしょうが。責任を持ってきちんと伝えなくちゃ、私が叱られる」
 強い調子で答えると、白沼は改めて相羽の方を見やった。この近距離で、結構声高に
お喋りしたのに、微動だにせず眠っている様子だった。
「涼原さん、あなたがちょっとでも眠ろうとするのは理解できる。でも、相羽君は何
故?」
「何故と言われても、ずっと一緒にいるわけじゃないし」
「……ずっと一緒にいられてたまりますか!」
 目元を赤くした白沼は、急いで叫んだ。“ずっと一緒”で“二人揃って寝不足”、こ
の二つからよからぬ想像をした自分を打ち消そうと、何度か首を横に振る。
「そ、そりゃあ、あなた達はもう公認の仲ですから、ええ、悔しいですけれど、そうな
んですから、いかにもなことに及んでも第三者が口出しする領域じゃありませんわよ。
ですけど、高校生に分相応な」
「白沼さん、何を言っているのか分かんない……」
「ともかくっ。彼氏のことを、把握できてないの? 学校以外で直接会う時間は少ない
でしょうけど、それでも電話ぐらい当然、頻繁にしてるんでしょうに」
「電話ならするわ。でも、頻繁なのかな……。話の中身だって、その日の出来事を互い
に伝え合うのがメインで、あとは、宿題で分からないところを聞くぐらい」
「私が言うのも変だけれど……デートの約束や悩み事の相談、していないの?」
 相羽が目を覚ましていないのを再度確かめ、白沼は聞いた。
「デ、デートは、なかなか都合が付かなくて……。悩みは、なるべく言わないようにし
てる」
「どうして」
「今の私の悩みって、仕事絡みがほとんどだから、相羽君に言っても困らせるだけと思
って。事務所の人に聞けば、だいたい解決するしね」
「なるほどね。あなたがそれだから、相羽君も悩みがあっても、言い出せないのかもし
れない」
「そんな」
「じゃあ、聞いたことあるの? 『最近、疲れているみたいだけど、どうかしたの?』
とか」
「一度だけ。『大丈夫。ピアノのことを考え過ぎたみたいだ。心配させてごめん。あり
がとう』っていう返事だった」
「……」
 二人のやり取りを想像すると、そこはかとなくしゃくに障った。なので、平静になる
ために、しばらく間を取る白沼であった。
「……そう聞いたあとも、この調子なんでしょうが。もっと、何度でも尋ねなさいよ。
心配させて悪いと思っているのなら、こんな風にはならないんじゃなくて?」
「私も気になってるわよ。でも、同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がるは
ず」
「それにしても――」
 白沼は反駁を途中でやめた。相羽が起き出すのを、目の端で捉えたためだ。彼女の目
の動きを追って、純子も相羽へと顔を向ける。
 相羽は、時計を見やると、安心したように次の授業の準備を始めた。午後最初の授業
まで、あと十分ほどある。
「ねえ、相羽君」
 白沼は、自分の存在をまるで気にかけない様子の相羽を腹立たしく思いつつ、声を掛
けた。純子の最前の言葉――同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がる――を思
い起こし、私が聞く分には問題ない、と考えたのだ。
「近頃、昼休みに眠っていることが多いようだけれど、どうかしたの?」
 相羽は白沼から純子へと視線を動かし、また戻した。瞼を一度こすって、普段に比べ
て早口で答える。
「単なる寝不足。昨日、観たい映画が深夜にあって、録画予約しているのに、ついつい
観てしまって」
「何ていう映画かしら。私も観てみたいから、教えて」
 即座に次の問いを発した白沼。映画の題名に興味がなかったわけではないが、それよ
りも、質問に対する相羽の答が、純子へしたものと異なっていたことが気になった。無
論、今日と以前とで疲労の理由が違うことはあり得るが。
「『シャレード』だよ。ただし、一九六三年の方」
 題名を復唱しかけた白沼だったが、制作年を言われたおかげで戸惑った。
「年を聞いただけでレトロって感じ。わざわざ断るということは、リメイクでもされた
のかしら」
「うん。二〇〇二年に」
 一九六三年と二〇〇二年なら、メモを取らなくても区別が付くはず。白沼は記憶し
た。主目的は、そんな映画を本当に昨日の深夜に放映していたかどうかを調べるためだ
ったが、ここまで詳しい返答があったということは、まず間違いなく放映されたのだろ
う。
「映画で思い出したけれど、この前言っていた『麗しのサブリナ』、やっと観られた
わ」
「どうだった?」
「途中で、ファッションにばかり目が行っちゃって。最初から観直すことに」
 ふと気が付くと、純子と相羽が話し込んでいる。
「なんだかんだ言って、恋人らしいことしてるじゃないの」
 小さな声で言い置き、白沼はその場を離れた。
 ――と言っても、彼女の席はすぐ近くなので、会話は続いた。
「白沼さん。今日は久しぶりに当たりがきつかったみたいだけど、何かあった?」
 相羽のその問い掛けに、白沼はさっきまでの純子とのやり取りを聞かれていたんだと
察した。
「起きていたのなら、身体も起こしておいてよね」
 抗議調かつ早口でそう言うと、白沼は恥ずかしさを紛らわせるべく、質問に答える。
「何かあったかと言われたら、あったわ。ご存知の通り、副委員長に指名されたこと。
こっちは部活してるのにねっ」
 朝のホームルームで、委員長の唐沢の指名により、白沼が副委員長に決まったと報告
された。唐沢と白沼は仲が悪いとは言わないが、価値観がだいぶ違っているのは傍目に
も明らか。故に、かなりの意外感でもってこの指名は受け止められたのだが、反面、唐
沢のいい加減な部分を補うには、白沼がふさわしいという見方もできたので、納得の人
事と言えなくもない。それでもなお、唐沢自身が白沼を選んだというのは、予想外の選
択だったが。
「元々、性格が合わないのは分かりきっているけれど、先生の方針もあるし、承知した
わ。でも、早速、引き受けるんじゃなかったと思うことがあったから」
「ふうん?」
 相羽の、話を促すような視線に、白沼は少し考え、教室を見渡した。唐沢の姿はな
い。
「二時間目と三時間目の間に、公民の先生に資料を運んでおくように言われて、二人し
てやっていたのよ。その途中、廊下ですれ違った女子と話し込んで、立ち止まったまま
なのよ、あの“色男”は」
 “色男”にアクセントを付けてやった。
「いつまでも動こうとしないものだから、放っておいて、先に行ったの。そうして引き
返して来ると、まだ話していて一歩も動いてないじゃない!」
 思わず、机をばんと叩きたくなったが、さすがに自重した。
「本当ならあいつを蹴り飛ばしてでも行かせるべきだったんだけれど、時間がなくなり
そうだったから、仕方なく、一緒に運んだわ。もう、先が思いやられる」
「お疲れ様だね。唐沢も悪気があってやってるんじゃないと思うけど」
「悪気があってたまるもんですか――と言いたいところだけれど、悪気がないのはよく
分かってるわ。知り合って四年ほどかしら。あれがあの男の地なんだってことは、骨身
に染みてる。だからこそ腹が立つとも言えるわね」
「ちょっとは気を配れって、言っておこうか?」
 相羽の折角の申し出だったが、白沼は首を振って断った。
「そんなのいいわ。我慢できなくなったら、直接、はっきり言うつもりだから。もうじ
き、そうなりそうだけど」
 答えつつも、白沼は多少、気分がよくなったことを自覚していた。純子との仲を認め
たとは言え、相羽からの優しい言葉は、精神衛生の特効薬になる。
 と、そこへ純子の声が。
「あ、戻って来たわよ、唐沢君」
 元の木阿弥になりかねない。白沼は、純子からの「今、言うの?」とでも問いたげな
視線を感じたが、吹っ切った。

           *           *

 新学年が始まって最初の日曜は、昼から春らしくない、じめじめした雨模様になっ
た。
 そんな天気の下、モデル仕事を終えた純子は、帰り支度を手早く済ませると外に出
た。途端に、目をしばたたかせて少々びっくり。迎えの顔ぶれが普段と違ったからだ。
モデル仕事の場合、相羽の母が来てくれることがほとんどなのに、今日は市川までもが
足を運んできていた。
(何かあったんだ)
 直感する。大人達の表情が曇って見えるのは、天気のせいばかりではあるまい。いい
知らせではないらしい。
 労いの言葉もそこそこに、市川が切り出す。「声優の件で、ちょっと。詳しくは車の
中で話すから」と。内緒めかした仕種、言い種に、純子は急ぎ気味に乗り込んだ。
「何か問題が起きたんですね」
 ドアを閉め、エンジンの掛かる音を聞きながら純子は尋ねた。待たされる時間が長い
と、それだけ不安も大きくなる。
「出来映えがよくないとか……」
「いや、評判はいいんだ。概ねわね」
 後部座席の隣に座った市川が、明確に答える。が、「概ね」という表現が気にならな
いでもない。その意味はすぐに明かされた。
「ただ、極一部、原作の熱狂的ファンの中には、気に入らない人もいるみたいなの」
「そう、ですか」
 声が小さくなり、俯く純子。その背中に、市川の手が素早く宛がわれる。
「落ち込みなさんな。まあ、あなたのことだから、こんな感想が出てると伝えたらどう
なるのか、予想はついていたけれども。こっちだって、落ち込ませようと思って言って
るんじゃないよ」
「じゃあ……」
 どうして?という言葉が出る前に、運転席の方から深刻な声が。
「落ち着いて聞いてね、純子ちゃん。万が一に備えての話なんだから」
「ちょっと、詩津玖。そういう前置きだと、かえって恐がらせちゃうじゃない」
「それだけ重大なことだと、認識してもらわなくちゃ。実際、恐い話だし」
 大人達のやり取りに、純子は探るように「あの」と言葉を挟んだ。幸い、二人の耳に
は届いていたらしく、すぐさま会話は収まった。相羽の母は運転に専念し、純子には市
川が応じる。
「あー、落ち着いて聞いて。隠してもしょうがないというか、知らせておかないと危な
そうなんで、はっきり伝えておくことにしようと決めたんだけど……」
 自らそう言いつつも、まだ渋っている感がありありと窺える。市川にしては珍しい態
度に、純子の緊張と不安は膨らんだ。
「は、早く言ってくださいっ」
「うむ。さっき言った熱狂的なファン、いわゆる原作信者って奴になるのかね、そうい
うのが脅かしてきた」
「脅かし……って、どんな風に」
 口元を両手で覆いつつ、冷静に聞き返した純子。自分でも意外なほどだった。かつ
て、ポスターにいたずらをされたことで免疫ができていたのかもしれない。
「封筒で便箋一枚、裏表にびっしり、赤い文字で印刷されていた。現物、ここにはない
んだけどね。もしかしたら、警察に届けることになるかもしれないから」
「警察に届けようかと考えるくらい、ひどい文章なんですか」
 この質問に対し、市川は何故か苦笑いを浮かべた。
「うーん、まあ、ひどいと言ったらひどい。お粗末という意味でね。――その様子な
ら、話しても大丈夫そうだね。最初に『声優』と書いてあって、そのあと便箋いっぱい
に『やめろやめろやめろ』って印字してあるの」
「はあ」
「で、裏返すと、今度は『おりろ』で埋め尽くされている」
「あのー、よくある剃刀とかは入っていませんでした?」
「はは、面白いことを気にする子ね。なかったわよ」
「だったら……警察に届けるまでしなくても」
「こういう手合いは放置するとエスカレートするケース、結構あるんだよねえ。それこ
そ、剃刀入りとか」
「仮にそうなったとしても、通報はそのときでも遅くないと思います。それよりも、警
察に届けたらこの件が表に出て、評判に響きそう」
「おやま。評判を気にするなんて、珍しい」
「そんな。表現は問題あるにしても、折角、私の仕事ぶりに対して意見を送ってくれて
るのに、一方的に悪者扱いしたくないなって思っただけです。こんな些細なことまで警
察に通報していたら、他の視聴者の意見が届かなくなるかも。見てる人の意見、私も聞
きたい。たとえ悪く言われていても」
「――ふふん」
 一瞬ぽかんとし、やがてにやりとする市川。
「ほんと、いつの間にやら強くなっちゃって。以前は、繊細なガラス工芸品みたいだっ
たのに」
「そ、そんなことないですよー」
「ポスターの顔写真に画鋲刺されて、えらく落ち込んでいたのはどこの誰かな?」
「大昔の話は、忘れました」
「四、五年前を昔と言われると、凄く年寄りになった気分がするわ」
 ため息を長くつくと、市川は頬に手を当てた。肌の張りを気にしているのかも……。
「ま、とにかく、だ。わざわざ嫌な話を明かしたのは、注意を促すためなの。念には念
を入れてね」
「と言われても、いまいち、意味が」
「まずないとは思うのだけれど」
 市川から相羽の母へと話し手が替わった。
「その手紙の差出人のような視聴者が、実力行使に出た場合を想定しておかなくちゃい
けない。私達の目の届く範囲なら、まだ対策の立てようがある。けれども、学校の行き
帰りやその他の日常生活までは、手が回らないのが実情なのよ。顔や名前が売れた分、
普段から気を付ける必要も高まってしまったわ」
 真剣さが声の調子からだけでも伝わってきた。ルームミラーで伺うと、相羽の母の表
情はいつもに比べて硬い。次の瞬間、はっとした純子。
「日常生活とか普段からって、もしかして久住だけじゃなく、風谷美羽にも脅迫が?」
 声の調子に緊張感が増す。答えるのは市川。
「ええ。今現在じゃなく、これまでにね。数はごく僅かで、表現も比較的大人しかった
から無視していた」
「え、そうだったんですか」
「ごめんなさい。恐がらせたくなかったし、仕事をやめてほしくなかったから」
 相羽の母の申し訳なさげな声が届く。そこからまた真剣味を強く帯びた声に転じた。
「常日頃より注意しておくと同時に、道を歩いているときや電車に乗っているときに、
少しでもおかしなことがあったら、すぐに知らせて」
「――はい。分かりました」
 純子も真剣に返事した。そのあと、ちょっと考え、相羽の母に尋ねる。
「あの、このこと、相羽君――信一君は知っているんでしょうか」
「それなんだけれど」
 今度は相羽の母が深い息をついた。
「自宅に市川さんから電話が掛かってきて、今度の件について話をしているときに、聞
こえてしまったのね。心配して詳しく知りたがったから、仕方なく教えたわ」
「そう、ですか」
 心配してくれた――勝手に綻ぶ表情を、意識して引き締める。
「じゃ、じゃあ、隠さなくていいですね」
「隠すつもりだったの、純子ちゃん?」
「だって……」
 純子は言いかけてやめ、しばらく口ごもる。冗談めかすことに決めた。真面目に言う
なんて、恥ずかしいにも程がある。
「私の口から知ったら、危ないから仕事をやめてほしいって言い出しそうじゃないです
か。そうじゃなきゃ、一日中ボディガードをするとか。あはは」
「似たようなこと、言っていたわ」
「え」
 笑い声が引っ込む。目を丸くする純子を、隣の市川が面白そうに見ていた。
「羨ましいねえ」
「さすがに、一日中護衛に張り付くのは無理と理解しているらしいわ。私達の方で、ち
ゃんとしたボディガードを雇えないの?って言ってきたからね」
「お、大げさなんだからっ」
 赤面したような気がして、両手のひらで顔をこする純子。そこへ、追い打ちを掛ける
質問が、相羽の母からなされた。
「そうだわ、前から聞こうと思っていたのよ。純子ちゃんは信一と二人きりのとき、信
一のことを何て呼んでいるのかしら?」
 えっと……質問の意図がとても気になって答えにくいです。答につまった純子は、思
わずそんな反応を口にしそうになった。
「名前? 名字?」
 ハンドルを握る相羽の母は、純子の戸惑いを知ってか知らずか、重ねて聞いてくる。
「みょ、名字に君付けです」
「やっぱり。さっきも言い掛けていたし」
 予想していたようだが、その割にほっとした様子も見て取れる。
 純子はしかし、すぐ前にいる相羽の母よりも、相羽自身のことが気に掛かった。
「もしかして、名字で呼ばれることを、何か言ってました……?」
「え? いいえ、特に何も」
「じゃあ、どうしてそんなことを」
「私が言い出したのかって? 年頃の息子を持つ親の立場としては、あなたとの仲が
今、どのぐらいなのかはとても気になる。それを測る物差しに、呼び方を教えてもらう
のがちょうどいいと」
「もしかして、恋愛禁止とか……ですか」
「え? ううん、そんなことは全く考えてないわよ」
 純子の反応がよほど意外だったらしく、相羽の母の目が一瞬だけ後ろを向こうとした
のが分かった。もちろん運転中だから、実際の時間はコンマ0何秒もなかっただろう。
 安堵する純子に対し、今度は市川が口を開く。
「本音を言えば、私はできることなら恋愛禁止にしたいよ。異性からの人気が違ってく
るだろうからね」
「そういえば、プロフィールにはどう書いてあるんだったかしら?」
 相羽の母の問い掛けに、市川は「デビュー当初に使った資料上では」と前置きをして
から答えた。
「好きな人はいる、とだけにしておいたはず。恋人だとか両想いだとかには触れずに
ね。確か、親御さん、特にお父様の強い希望で、余計な虫が付かないよう、予防線を張
ったんだわ。実態とは無関係に。その頃はまだ付き合ってなかったんでしょ?」
「全然」
 ぶんぶんと頭を振る純子。それよりも何よりも、父がそんなことを頼んでいたとは知
らなかった。多分、娘に知られるのは恥ずかしかったから、伏せていたのだろう。
「今は特に明記していないけど、いないと思われているかもしれないわね。さっきみた
いな脅しがあるくらいだから、早めに公表した方がいいに違いないんだけれど」
「名前を出すのは反対よ」
 即座に相羽の母が言った。ちょうど赤信号で停まったのを機に、市川へ振り向き、さ
らに純子へと視線を移してから続ける。
「本当にごめんなさいね。あなたにはこんな仕事をやらせておいて、自分の子供のこと
になると、できるだけ隠そうとするなんて」
「そんな。好きでやっていますし、付き合っている人がいることだけならともかく、信
一君の名前まで大っぴらにされるのは、私も嫌です。知っているのは、周りの人達だけ
でいい」
「――そういうことだけれど?」
 相羽の母が再び市川に視線を合わせる。市川は一つ嘆息してから、右の人差し指で前
を示した。
「詩津玖、前。青信号だよ」
「――いけない」
 一度慌ててみせてから、落ち着いて車を発進させる。
「まあ、今のところは、聞かれない限りは現状維持でいいと思ってるんだ。聞かれたと
きは……好きな人ならいるって言っておけばいいのかねえ。正直、うちはまだ小さい
し、歴史もないから、ノウハウに乏しくて。スキャンダルになったら、自力で押さえ込
めるのかどうか。火消しを頼むとしたら、鷲宇さんのルートぐらいしかないし」
「スキャンダル……」
 過去のあまりよくない思い出が脳裏によみがえる。あのときは、相手が一方的に悪か
ったせいもあり、世間的には大きなニュースにならずに済んだ。
「恋愛なんて興味ありませんてなふりをして、ボディガードの少年と恋仲!なんてすっ
ぱ抜かれたら、多少のイメージダウンは免れない」
「ボ、ボディガードって」
「たとえばの話だよ。さっき言っていたのを、例に取ったまで。ま、今問題なのは、あ
なたの彼氏の話じゃないわ。脅してくるような手合いの対策をどうするか。これこそが
重要」
 市川は問題の便箋が手元にあるかのように、ひらひらと振る仕種をした。
「本職のボディガードは難しいにしても、マネージャーに護身術というか護衛術を習わ
せるとか」
「……私のマネージャーさんて、誰になるんでしょう?」
「……」
 素朴な疑問に、大人達は少しの間、沈黙した。
「決まった人はいないわね、考えてみれば。杉本君を含めて、私ら三人の内、都合のい
いのが付く。あと、仕事の内容にもよるけれども」
「警護というイメージなら、男性になりそう。でも、杉本君ではちょっぴり心許ない」
 相羽母の言葉を、市川は声のボリュームを上げて否定した。
「彼では、ちょっぴり心許ないどころか、まるで頼りにならないって言った方が適切だ
わ」
 きつい表現を、純子は笑いをかみ殺して聞いていた。杉本には申し訳ないが、腕っ節
が強いようには見えないし、暴力沙汰からは真っ先に逃げ出しそうなタイプに思えた。
(でも、習えば違ってくるのかも。確か、弱い人、普通の人が身を守るための技術が護
身術なのよね)
 相羽ら男子がしていた会話を思い起こしながら、そんなことを考えた純子。そこから
の連想で、ふと思い付きを口にしてしまった。
「杉本さんだけだと心細いから、私自身も習っておけば、少しは安心できるかなぁ」
「――いいかも」
 市川が呟き、相羽母に意見を求めた。
「私はそんなにいい考えとは思えない。でも、最終手段として、身に付けておくのはマ
イナスにはならないでしょうね。モデル業に支障が出ないのであれば、習得しておくの
も悪くはない」
「それに、護身術や武道が使えたら、演技の幅が広がるわね」
 市川は話を聞きながら、計算も働かせていたようだ。次に純子の顔を見たときには、
本気になっていた。
「ちょうどいいわ。護身術、習いに行こうか」
 軽い気持ちで口走っただけなのに、一気に具体化しそうな流れに、純子は無言で首を
横に振った。
「全然、自信ないです」
「やってみないと分からないじゃない。運動、得意なんだし」
「いえ、その、モデルに支障が出るかもしれないという意味で……。怪我をするか、そ
うでなかったら筋肉が付いちゃうか」
「うーん、大丈夫じゃないの? 詳しくないけど、護身術の人って、筋肉ムキムキのイ
メージはないし、怪我は注意すれば防げるだろうし、ここは一つ、レッスンの一環のつ
もりで」
 市川は随分と楽観的だ。演技の幅を広げるという目的の前に、判断を甘めにしている
のかもしれない。
 純子は押し切られるのを既に覚悟した。こうなったら、要望を出しておこう。
「もし習うんだったら、私、信一君から習いたいです」

――つづく




#495/598 ●長編    *** コメント #494 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:48  (485)
そばにいるだけで 65−2   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:51 修正 第3版

「聞いたかもしれないけれど」
 翌月曜日の学校。純子は昼休みの時間に、相羽と二人だけで話せる機会を得た。廊下
に出て、護身術の件をすぐに伝えた。
「都合が付いたら、護身術を習いに行くかもしれないから、そのときはよろしくお願い
します」
 話の流れ込みで事情を伝え、ぺこりと頭を下げる純子。相羽は片手を自分の頭にやっ
た。
「そんなことをしなくても、僕が一緒にいれば」
「ボディガードはなくて大丈夫よ。万一に備えてのことなんだから。相羽君だって忙し
いでしょ」
「……まあ、確かにそうだけどさ。うーん、登下校は僕もだいたい一緒にいるからいい
として、問題はそれ以外のとき」
「だからそうじゃなくって」
 真顔で応じる相羽に、純子は苦笑いをなしたが、じきに気が付いた。相手が視線を外
しがちなことに。
「――相羽君、話をそらそうとしてる?」
「……いくら純子ちゃん相手でも、いや、君だからこそ、教えづらいような予感がして
まして」
「そう、かな」
「べ、別に、変な意味で言ってるんじゃなく、周りの目があるから。特に、僕らが付き
合っていると知ってる奴に見られていると、凄くやりにくい」
 情景が目に浮かんだ。これは恥ずかしい。
「でも、私達のことを知っている人って、道場にいた?」
「望月が知ってる。特段、口止めなんてしていないから、他のみんなにも伝わってる可
能性がある」
「えー、ちょっと嫌かも。誰も見てないところで、二人きりで教えてもらえたらいいの
に」
「えっと、それも別の意味でまずいんじゃあ」
「……そ、それもそうだね。あはは……」
 変な方向に走ってしまった思考を取り繕おうと、笑い声を立ててみせた。相羽も同じ
ようにする。
「と、とりあえず、決まってから考えよう。道場には大勢いるんだから、僕らがああし
ようこうしようと予め決めていたって、多分、思い通りにならない可能性が高いよ」
 純子は黙ってうなずき、承知した。
 それから、教室の方をちらりと見やって、ついでに別の話を切り出した。
「変なこと聞いてるかもしれないけれど……稲岡君て、私のこと嫌ってる?」
 純子にとって、高校二年生の春は、ほぼ最高のスタートを切ったと言える。
 好きな異性――相羽と付き合い始めて三ヶ月あまり、彼と同じクラスになれただけで
なく、席まで隣同士。クラスには仲のいい友達も大勢いるし、反りが合わなかった白沼
とも、純子のタレント仕事を通じて、仲は随分と好転した。その仕事も順調だし、クラ
ス担任の神村先生は理解のあるタイプだから安心して打ち込める。
 だったら何がどう不満で“ほぼ”なのかというと……新しく知り合った一人の同級生
の存在が少なからず気になるのだ。
 真後ろの席を占める稲岡時雄。勉強なら学年で十指、いや五指に入る優等生。学校期
待の一人と言えよう。主要科目以外に目を向けると、家庭科は人並み(男子として)だ
が、体育や音楽などもそつなくこなす。外見は、レンズが厚めの眼鏡で損をしているよ
うだが、それでも充分に整った顔立ちだ。
 さて、稲岡がいくら優等生でも、純子が気になるのは心変わりしたとかではもちろん
違う。気を遣うと表現した方が近いかもしれない。
 稲岡は、ガリ勉とまでは行かずとも、時間が少しでもあれば勉強に充てたいらしく、
休み時間も暇さえあれば参考書や問題集を開いている。そういう風にされると、周りの
者は騒ぎにくい。折角、相羽がすぐそばにいるというのに、お喋り一つしづらい。
 実際には、多少うるさくしても、稲岡が常に抗議や文句を言ってくるわけではく、ほ
とんどは黙々と勉強している。だけど純子にとって、新学年最初の日に注意をされたこ
とが、案外と重くのし掛かっているのだった。
「うん? 後ろの席にいるんだから、直接聞けば?」
 気楽な口調で相羽。純子は左右にきつく振った。
「できるわけないでしょ。だから、あなたにこうして聞いてるの。こっちは真剣なんだ
から、冗談で返さないで欲しい」
「ごめんごめん。純子ちゃんが嫌われるって、想像できないものだから、つい」
「でも、稲岡君とは全然話をしないし、たまに口を聞いても、私達がうるさいっていう
注意ばかり。そりゃあ、お喋りに夢中でうるさくしていたこともあったかもしれないけ
れど、最初に注意されてからはかなり気を付けているつもりよ。だいたい、休み時間の
ことなんだから、とやかく言われることじゃないと思うの、本来は」
「それは僕も思う。ただ、だからといって、どうして君が嫌われてるってことに?」
「この前、気付いたのよね。周りの席には私達よりも騒いでいるところがあったとして
も、そっちには滅多に注意しない。不公平に感じちゃう。ひょっとしたら、私が嫌い
で、殊更に注意してやろうと、鵜の目鷹の目でチャンスを探してるんじゃないかしら」
「ないと思うけどなあ」
「根拠があって言ってる? 稲岡君が何か言っていたとか」
「そういうのはないけれど。うるさくて勉強できないって言うなら、図書室にでも行っ
てるだろうし」
「移動時間が惜しい、とかじゃないの」
「どうなんだろ? あいつが歩きながら参考書を読んでるのを、見たことあるよ」
「歩きながら……凄い。うーん」
 それならそれで、稲岡の態度をどう受け取ればいいのか、困ってしまう。
 純子の困惑に、ある程度の答が与えられたのは、その日の午後最初のコマが終わった
あとだった。
 数学の授業を少しばかり早く切り上げると、神村先生は純子の名を呼んだ。「はい」
と小走りで教卓前まで行く。先生は、他の生徒には終業ベルまで自習を言い付けてか
ら、「ちょっといいか」と純子に廊下に出るよう促した。相羽らの目線を背中で何とな
く感じつつ、教室を出た。
 さらに、先生は人のいない場所が必要なのか、階段の踊り場まで移動した。
「時間もあまりないことだし、率直に伝えるぞ。実は今朝、稲岡の親御さんから話があ
ってだな」
「稲岡君の?」
「うむ、母親の方だ。今の席だと周りがうるさくて勉学に差し支えがあるようだから、
できれば席替えをしてもらいたいと」
「えっ」
「ああ、深刻に受け止めなくていいんだ。今は、向こうさんの言い分を伝えているだけ
だよ。その辺、涼原なら分かると思って率直に言ってるんだが」
「あ、はい、分かります」
「よかった。それでだな、僕も納得しかねたので、一応、今朝から機会があればちらち
ら見ていたんだ」
 言われてみて、思い当たる節があった。今日は授業がないときでも神村先生、やたら
に来るなあ、と。
「可能な限り客観的に見て、涼原と涼原の友達が特別うるさくしているようには思えな
かった。どちらかと言えば、稲岡からもっと離れた席だが、四倍も五倍も騒がしい連中
がいたと感じたよ。だから、この件は稲岡の過剰反応、思い込みだという気がするんだ
が……涼原は稲岡から直接、何か言われていないか? 静かにしてくれ的なこと以外
に」
「えっと」
 頬に片手を当てて、思い起こそうと努める純子。だが、何もなかった。答えられない
でいると、先生が補足する。
「言葉じゃないかもしれん。小さく舌打ちするとか、椅子の脚を軽く蹴ってくるとか」
「そんな、まさか。全然ありません」
「そうか。念のために聞いておくが、涼原は香水を付けて学校に来てはないだろうな?
 この年頃の男子はそういうのに惑わされやすい――」
「ないです!」
 心外な言われように思わず、声が大きくなった。校内での香水の使用は、原則的に校
則で禁じられている。ただでさえ芸能活動をしていることで目立つのに、香水をしてく
るなどという違反をして、目を付けられても何の意味があるのやら。
「すまん。疑っているんじゃなく、おまえのやってる仕事で使ったのが、何らかの形で
残ってしまっていたなんてことを想定したんだ」
「そういうのもありませんから。だいたい、二年の一学期が始まってから学校のある日
には、今のところ仕事を入れていません。先生も知ってるはず」
「すまんすまん。ただ、細かな可能性を、日曜に仕事で香水を使ってそいつが残るとか
の可能性を考えてしまうんだ、数学教師をやってるせいかな」
「……分かりましたけど、日曜日の匂いが残るなんて、お風呂に入らないとでも?」
 怒ってみせたが、話の脱線にも気付いているので、この辺で矛を収める。
「それより先生、稲岡君本人は何か言ってきてないんですか」
「うむ、何もない。あとで直に聞くつもりだ。案外、デリケートな問題のようだから、
より気を遣う……ああ、いや生徒の前で言っても始まらんな」
 神村先生は口元を隠しながらも、苦笑いをこぼした。
「よし、分かった。わざわざすまなかったな。戻っていいぞ。一分もしない内に休み時
間になるだろうが、静かに戻れよ」
 これに肯定の返事をしてから立ち去ろうとした純子だったが、ちょうど終業の合図が
鳴った。感じていた以上に時間が過ぎていた。
「――あ、先生。今のこと、稲岡君には言わない方が?」
「まあそうなる。でも、必要があると思ったとしたら、話すのは自由だ。止めんよ」
 去り際に尋ねたたことに対する先生からの返答内容が、ちょっと意外だった。生徒同
士で話をして決着するのであれば、それが一番よいと考えているのかもしれなかった。

 三日が過ぎた。その後、神村先生が担任として稲岡から話を聞いたのかどうか、まだ
分からない。とりあえず、また席替えをするというような不自然な事態にはなっていな
い。
(先生からはああ言われたけれど)
 背後の席に稲岡がいないことを確認してから、純子は前を向いたままため息をつい
た。
(気になるからって、稲岡君に直接聞くなんて、やっぱりできないし)
 大型連休に入る前に、すっきりさせておきたかったのだけれど、ことはうまく運びそ
うにない。
(先生に聞いたら、分かるのかなぁ。でも……席替えが行われていなということは、稲
岡君の希望、というか稲岡君のご両親の希望は通っていないわけで……)
 稲岡の側に譲歩してもらったのではないかと考えると、それはそれで気が重い。
 一方で、明るい材料もある。あれからさほど時間が経ったわけではないが、稲岡がう
るさいと注意してくることはなくなっていた。逆に、稲岡と会話をする回数は増えた
(元がほぼゼロに等しかった故、微増に過ぎないのだが)。朝夕の挨拶や、実験の授業
で分からない点を教えてもらう、その程度ではあるけれども、進展には違いない。
(相羽君は普通に話せてるみたい)
 男子と女子の違いはあるだろうが、相羽がより積極的に稲岡に話し掛けるようになっ
た結果、反応もよくなってきているようだ。
(ひょっとしたら相羽君、私が前に相談したから、稲岡君と仲よくなろうと話し掛ける
ようにしたのかしら。私も努力しなくちゃ、かな)
 頭ではそう思うのだが、忙しい身の純子。掛かりきりになれない理由があった。
 目下のところ、ゴールデンウィーク中に催されるミニライブが一番の山。テレビとは
無関係なところで、観客を入れて唄うのは初めてなのだ。しかも久住淳として、つまり
男の格好をしてとなると、より緊張感が強まるに違いない。
 次にアルファグループ関連の仕事。白沼の父が関係しているだけに、普段以上にプレ
ッシャーを感じる。そうでなくても、モデル撮影やテラ=スクエアのキャンペーンガー
ル等々、多岐に渡っているだけに、目が回りそうだ。明日もコマーシャルの撮影が入っ
ていて、今夜の内から移動しないといけない。
(連休明けに仕事が一段落したら、アルバイトをしたいと思ってたんだけど、無理か
な)
 手帳を取り出し、スケジュールを確認した純子は、さっきとは別のため息をついた。
 芸能関係の仕事で、高校生にしては充分にもらっている純子が、どうして他にアルバ
イトをしたいのか。
 純子は右隣の席を見た。相羽の姿はあるが、こちらには背を向けている。何を話題に
しているのか、他の男子達四、五人と盛り上がっていた。
(休みが終わってから誕生日まで、三週間くらい。短い!)
 五月二十八日は相羽の誕生日。当日、誕生会のような催しは無理だとしても、プレゼ
ントを直接手渡したい。そしてプレゼントを買うために、アルバイトをしたい。
(モデルやタレントは、何か違うもんね。元々、相羽君のお母さんの縁で始めたことだ
し。私の力だけでもらったお金で、感謝の気持ちを表したいな)
 気持ちは強いのだが、時間が厳しい。相羽の誕生日が過ぎれば、すぐに中間考査に突
入だ。勉強時間を確保しつつ、アルバイトできるだろうか。校則で、テスト一週間前に
はバイト禁止が原則なので、ますます時間が限られる。
(いかにもバイトって感じの、飲食店でやってみたい。もし叶うのなら、あそこのパン
屋さんがいいんだけど、短期じゃ嫌われるだろうなあ)
 三回目のため息。小学生の頃から贔屓にしているパン屋に、だめ元でお願いに行くつ
もりなのだが、いつから入れるのかはっきりしない内は言い出しにくい。タレント仕事
が、本当に連休明けにきちんと終わるのか、確実性がないのだ。定期試験が近いのは向
こうも承知しているのだから、配慮はしてくれるに違いないのだが。
(あんまりぎりぎりになってもまずいし、断られた場合も考えて、早めに動かないと)
 手帳に備わったカレンダーをじっと見据え、動ける日を選びにかかった。
 予鈴が鳴る寸前に、どうにかこうにか決められた、が。
(そうだわ。護身術を習う日も決めないといけないんだった!)

 次の日、純子は朝も早くから走っていた。
 コマーシャルの仕事はこれまでに回数をこなし、慣れたところはあった。だが、今回
のように朝が早いのはやはりつらい。
 きれいな朝日がほしいというスポンサーサイドの希望に沿って、実際の日の出に合わ
せて撮影が行われた。わざわざ本物の朝日を捉えなくても、他にやりようはいくらでも
あるが、スポンサーと撮影監督のこだわりというやつだ。ついでにロケ地にもこだわっ
た。桜の花の咲き誇る中、“文明開化”をイメージさせる橋の架かる川という、少し変
わった注文だ。
 おかげで前日の夜遅くに現地近くの宿を取り、早朝まだ暗い内に発つと、河川敷にス
タンバイ。小さな照明の中、リハーサルを何度か重ね、天気予報を信じてじっと待つ。
やり直しが利かない(無論、厳密には失敗しても別の日に再チャレンジできるが)とい
う緊張感の中、川に平行する道をダッシュし、橋を駆け抜け、通行人や飛行機などに邪
魔されることなく撮影を終えた。そして首尾よくOKが出た。
「はい、お疲れ〜」
 六時前には撤収できたが、ロケ地が遠かったため、自宅に戻るほどの余裕はない。学
校へは車で送ってもらえることになっていたが、その前に朝食をお腹に入れなければ。
車内で仮眠を取りつつ、一時間近く揺られ、早くから開いているファミリーレストラン
に到着した。
「何でも食べていいよ」
 マネージャーとして着いてきた杉本が正面からこちらに向けたメニューは、ステーキ
のページが開いてあった。
「無理」
 普段でさえ、朝から肉はまず食べない。ましてや、全力疾走をリハーサルを含めて幾
度もやった身では、見るだけでも胸が悪くなりそう。
「この、朝がゆセットがいいかな」
 記載のカロリーを確かめてから、各テーブル備え付けのタッチパネルを通じて注文す
る。
「そんなのでいいの?」
 隣に座るメイクのおねえさんが言った。彼女は先に、ミックスサンドとレモンティー
とフルーツゼリーを頼んでいた。
「そりゃあカロリーを気にするのは分かるけれど、このあと学校があるっていうのに、
若者がこの程度で大丈夫?」
「はい。折角だから、普段食べないような朝ご飯にしてみようと思って」
 そもそも、撮影の一時間ばかり前に、朝一番のエネルギー補給としてバナナとゆで卵
とチョコレートを少しずつ食べているのだ。摂ったエネルギーの大部分はもう使った気
がしないでもないけれど、全体の量を考えると今食べるのは、朝がゆくらいがちょうど
いい、と思う。
 お客が少ないせいか、注文した料理が全て揃うまで、十分も掛からなかった。尤も、
撮影スタッフ全員が入店した訳でなく、別ルートでとうに帰った者も大勢いる。
「――あ、おいしい」
 おかゆは予想していた以上の味だった。フレーク状にされたトッピングが六種類容易
されており、甘い、塩辛い、ピリ辛、ごま風味等々、どれも特長があって変化を楽しめ
る。純子が個人的に嬉しかったのは、そのどれでもなく、箸休め的に付されたコウナゴ
とクルミの和え物だったが。
 食べ終わったのが七時半で、店を出たのが十分後。それでも八時四十分の予鈴までに
は、余裕を持って学校に着けるはず――だったのだが。
「おっかしいなあ」
 杉本は思わずクラクションを押しそうになる右手を、左手で止めた。
「渋滞、ですね」
 時計と外を交互に見ながら、純子が言った。
「じ時間帯は朝の通勤ラッシュと重なってるけれども、ほ方角が違うから大丈夫のはず
なんだよ。じ実際、何度もこの辺をこの時間に走ってるけど、こんなに混雑してたこと
なんてなかった」
 焦りを如実に表す早口の杉本。普段から割と早口なので、油断すると聞き逃してしま
いそうだ。
「事故でしょうか」
「かもしれない」
 ラジオの交通情報はまだ何も言ってくれない。しょうがないので、ネットで調べてみ
る。すると今まさに進もうとしている市道の先で、車三台が絡む衝突事故が起きたばか
りと分かった。発生場所は、学校までの順路の手前で、事故現場を過ぎればスムーズに
流れている可能性が高い。
「まずいなあ。回り道しようにも詳しくないし、ナビは載せてないし」
「……ここからだと、いつもならどれくらい掛かるか、分かりますか、杉本さん?」
「ええっと。十分ぐらいかな?」
「歩きだと?」
「ええ? 分かんないけど、最低一時間は掛かると思うよ」
「そうですか……。予鈴から十分間は朝のホームルームだから、一時間目の授業は八時
五十分開始。最悪でも授業には間に合わせなくちゃ」
 独り言を口にする純子。状況任せなので計算して答が出るものではないが、一応の目
処は立てておきたい。
「ぎりぎり八時二十分までは車で進んでもらって、そこからは降りて走る。杉本さん、
これで行きましょうっ」
「君がそれでいいのなら、そうしよう。はっきり言って、判断付かないよ。くれぐれも
気を付けてね」
「杉本さんも運転、気を付けてくださいね」
 そこからは時計とにらめっこになるつもりだったが、はたと思い出したのが携帯電
話。仕事用という意識で持っているので、それ以外で使うことは頭になかったが、学校
の誰か――担任か相羽にでも電話で今から伝えておくのはどうだろう。事故渋滞で遅れ
るかもしれないと。
「電話しますね」
 杉本に断ってから、短縮ダイヤルのボタンを押そうとした。が、そのとき、車窓の外
に、道路と平行して走るレールを捉えた。
「あっ――。杉本さん、ここから一番近い駅って、行けそうですか?」
「うん? ああ、駅ね。確かすぐそこの、いや二つ目の十字路を左に曲がったらじきに
着くはず」
「だったら、そっちの方が早くないですか? 電車に乗って、最寄り駅まで行く。いつ
もとは反対方向だから詳しい時刻表は知りませんけど、多分、同じような間隔で列車は
走ってるだろうから」
「なるほどっ。その方が確実だね!」
 何だか興奮した口ぶりになった杉本は、首を左斜め方向に伸ばした。曲がる箇所の状
況を見極めようとしているようだ。
「いいぞ。行けそうだ。五分か十分で曲がり角までは行けるだろう。その先もこの道ほ
ど渋滞しているとは思えないし」
 方針をあっさり変更。
「電車賃はあるかい?」
「あ、定期じゃだめなんだ。あります」
 距離から推測して、さほど大きな額にはならないはず。
 電車を利用するという思い付きのせいか、電話のことはすっかり忘れてしまったが、
とにもかくにも近くの駅には七分半で乗り付けられた。道路渋滞とは無縁らしく、駅は
いつもと変わらぬ程度の混み具合のようだ。
「念のため、時刻表を見てきて。もしいいのがなくて、車の方がましなようだったら、
すぐに戻って来て」
「はい。五分で戻らなかったら、もう行ってくださいね。ありがとうございました」
 降りながら急ぎ口調で言い、ドアを勢いよく閉める。車は駅前のなるべく邪魔になら
ない位置に移動した。
「さあて、と」
 純子はほんの心持ち身を屈め、駅舎に歩を進めた。初めて利用する駅なので、様子を
窺うような感じになる。大きくもなければ小さくもない、ごく平均的な規模の駅だと分
かる。普段使っている最寄り駅と似ている。
「次が三分後でその次がさらに六分後」
 時刻表から壁掛け時計に目を移し、時刻を確認。早い方に乗れたとしても、学校の最
寄り駅に到着する時間は、いつもよりは約十分遅くなる。学校へは、ホームルーム中に
なるだろうか。
 と、そんなことを考えている時間も惜しい。切符を買って改札を通った。少し迷っ
て、跨線橋を渡らなくていいんだと確認した。
(こういうときのためにも、電子マネーにした方がいいのかな?)
 手にした切符の感触が、何となく久しぶりで、持て余し気味になる。取り落としそう
になったところを、宙で素早く拾い上げた。
(おっとと。危ない危ない。とにかく、無事に着きますように!)
 心の中でお願いをしてから、やって来た電車に乗り込んだ。

 学校に着くや、純子は職員室に直行した。そこで遅刻届の用紙を受け取り、記入して
から教室に向かい、担任なりそのときの授業を行っている先生なりに渡すのだ。今はま
だホームルーム中だから、担任の神村先生に渡すことになるだろう。
 職員室を出ると急ぎ足で離れ、階段を駆け上がる。誰もいないから、走りやすくはあ
る。学生鞄の角が太ももの辺りに当たって痛いが、気にしている暇はない。踊り場で方
向を転じ、またステップを上がって、二階に。教室横の廊下を行くときは、さすがに走
れない。それでも可能な限り早足で急ぎ、教室の扉まで辿り着いた。開ける前に呼吸を
整えつつ、中からの音に耳をそばだてる。まだまだホームルームの最中だ。
 先生の声が聞こえてきたのは当然だが、内容の方ははっきり聞き取れない。状況は分
からないが、緊張を強いられる場面ではないようだ。ここに来てようやく、電話をし忘
れていたことを思い出す。
「――すみません、遅刻しました」
 がらりとそろりの中間ぐらいの勢いで扉を横に引くと、こちらを見る神村先生と目が
合った。クラスメートからの視線も感じながら、純子は届けの紙を先生に差し出した。
「どれ」
 どんな遅刻理由なのかなとばかりに用紙に見入る先生。
「『寝坊しました』?」
 先生は書いてあることを読み上げ、純子の顔を改めて見た。
(あれ? 面倒だから寝坊ってことにしたんだけど、疑われてる? と言うより、仕事
だってばれてる?)
 収まりかけた呼吸の乱れがぶり返し、心臓の鼓動もペースを上げた気がした。
「目は腫れぼったくないな」
「そ、そうですか?」
「仕事だと聞いたぞ。それにさっき調べて、近くで事故渋滞が起きていることも把握済
みだ」
「え」
 今日、仕事があるとは先生に伝えていなかったから、誰かが言ったことになる。とな
るとそれは相羽か白沼しかいない。
 二人のいる方向をそれぞれ見て、白沼が言ったんだと分かった。
「すみません。少しでも早く来ようと思って、適当に書きました」
 この答は半分だけだ。もう一点、間接的に仕事のせいで遅れたということを皆の前で
言いたくなかった。
「まったく。書き直して、あとでまた出すように。さあ、席に着いて」
「わ、分かりました」
 怒られると覚悟していたが、どうやら最小限の注意で済んだようだ。
「あと、涼原、大丈夫か? 何か知らんが、結構な汗だぞ。はぁはぁ言ってるし」
「え? あ、はい。これは走ってきたからで。暑いです」
 自嘲気味に笑いながら、ハンカチを取り出して額に当てる。今日の天気予報による
と、四月にしてはかなり高い気温になるという。
「言ったことを繰り返している余裕はないので、あとで他の者から聞いておくように。
――さて諸君。このあと一時間目は僕の授業だが、ここで予告しておく。抜き打ちの小
テストをするからな」
「ええーっ!」
 純子の遅刻でざわざわしていた教室内が、これで一気に騒がしくなった。「聞いて
ねー」「先生、ずるい」なんのかんのと抗議のブーイングが起きた。
「何がずるいだ。抜き打ちテストを予告してやったんだから、感謝してくれてもいいだ
ろうに」
「抜き打ちテストを予告したら抜き打ちじゃなくなるよ」
「屁理屈をこねてないで、残りのホームルームの時間をやるから、復習でもしとけ。で
は、お楽しみに」
 にこにこ笑顔で神村先生は教室を出て行く。皆、慌てて数学の教科書やノートを机に
広げ始めた。
「散々だね。渋滞に巻き込まれて遅刻するわ、抜き打ちテストはあるわで」
 隣の相羽が話し掛けてきた。余裕なのか、焦って教科書を見ることはしていない。
「ほんと、厄日かしら。――ね、上着って脱いでもいいと思う?」
 尋ねつつ、学校指定のブレザーの襟口をつまみ、ぱたぱたさせて自身に風を送る純
子。数学の復習も気になるが、先に暑さをどうにかしないと、頭に効率的に入らない。
「別にいいんじゃないか」
「まだ冬服の季節なんだけど」
「――唐沢、委員長としての見解は?」
 相羽は唐沢に聞いた。
「あ? 問題ないんじゃねえの? 去年確か、体育のあとやたら暑かったときは、ブレ
ザーを着ずにしばらくいたぞ。そんなことで煩わせてくれるなよ。余裕のおまえと違っ
て、俺はこれから暗記せねばならんのよ」
「悪い悪い」
 相羽が再び純子の方を向き、促す風に首を軽く傾けた。純子は一応の了解を得たと捉
え、安心してブレザーを脱ぎ、自分の椅子の背もたれに掛けた。
 その動作の途中、振り向いたときに後ろの稲岡と目が合った。
「――少し静かにしてくれ」
「ごめん」
 久しぶりに言われてしまった。テストがあるのだから仕方がない。前を向くと純子
は、舌先をちょっぴり出して無理に笑って見せた。朝から失敗続きで滅入りそうになる
のを、どうにか吹っ切る。それから教科書とノートを取り出し、新学年になってから進
んだ分を見直しに掛かった。

 ちょっとした“異変”が発覚したのは、小テストの採点のときだった。
 通常のテストと違って、小テストはその場ですぐに採点が行われる。先生が一旦回収
して行う場合もあるが、今回は答案用紙を隣と交換し、先生の解説を聞いて採点する形
式が採られた。
 全問の説明が終わって、三問六十点満点での配点も示されたので、各自、隣のクラス
メートの点数合計を書いて、当人に返すのだが。
「稲岡君、これどうしたんだよ」
 純子のすぐ右後ろの席で、平井(ひらい)という男子生徒が心配げな声を上げるのが
聞こえた。気になって肩越しに伺ってしまう。
「単純な計算ミス、ケアレスミスだけど、らしくないな」
「――調子が今ひとつ上がらなかった」
「それにしたって、一つならともかく、二問も落とすなんて」
「言うなよ」
 そう答えながらも、得点を隠すつもりはないらしく、26という数字が見えた。三問
中正解が一つで二十点。残り六点は、やり方が合っていたからおまけの三点ずつを加え
たということになる。
「――稲岡君、あの」
 純子は後ろを向いて、声を掛けた。
 そのとき先生から、答案用紙を集めるようにと号令が掛かる。集めるのは、各列最後
尾の生徒の役目だ。稲岡はすっくと立つと、無言で手を出してきた。
「うるさくしたせい?」
 渡しながら、つい尋ねる純子。だが、受け取った稲岡は返事をせず、機械的に答案を
重ねた。
(わ〜、怒ってる? うるさくしたつもり、ないんだけれど……朝から遅刻騒ぎを起こ
しちゃったのもあるし)
 稲岡の後ろ姿を見送っていた純子は、頭を抱えた。と、そこへ人の気配が。相羽だっ
た。
「僕からは見えなかったんだけど、稲岡の点数、悪かったの?」
「……平井君に聞けば」
「『言うなよ』って一言を気にしたみたいで、もう言う気はないみたいなんだ」
 苦笑交じりに言って、平井の方を見やる。
 純子も稲岡の態度が気に掛かっているので、もう言いたくない心持ちだ。
「悪かったとだけ言っておくわ。ねえ、やっぱり私のせい?」
「考えすぎ。さっきだけじゃなく、このところはうるさくしてなかったじゃないか。誰
だって調子のよくないときはあるんだよ」
 教室の前方を見ると、稲岡は自分から低い点数になったことを申告したらしく、神村
先生と何やら話し込んでいた。
「そうなんだったら、気が楽になるんだけれど」
 ぶるっと震えを覚えて、腕をさすった。
「上着、もう着ていいんじゃない?」
 相羽に言われて、思い出した。汗が引いてきて、一転して寒気を感じたようだ。授業
が再開されない内にと、立ち上がってブレザーの袖に腕を通した。

「アルバイトの希望?」
「はい」
 純子がこくりと頷くと、パン屋・うぃっしゅ亭の店長――職人兼オーナーのおじさん
は、一度大きく瞬きをした。昔は鼻下に髭を蓄え、どちらかと言えば丸顔で、某アニメ
に出て来そうなイメージ通りのパン屋さんだった。今は髭がきれいに消え、少し痩せた
結果、ダンディな雰囲気に変わっている。調理帽の縁から覗く髪は、白髪が圧倒的に増
えていた。
「確か……二、三年前までよく来てくれていたお嬢さん? 胡桃のパンが好きな」
 覚えられていた。嬉しいような恥ずかしいような。そして凄いとも思う。店で対面す
るのはレジの女性がほとんどで、こちらのご主人とは数えるほどしか言葉を交わした記
憶がない。
「最近は来られないから、どこか遠くの学校に行かれたんじゃないかと、残念に思って
ましたよ」
 懐かしむ口ぶりで店長が続ける。時間帯は夕方で、ぼちぼちお客が増え始めるであろ
う頃合い。純子も後ろのドアを気にしつつ、話に乗る。
「緑星に通ってますが、自宅通学なので、来られないことはないんです。でも、ちょっ
と忙しくて……」
 あれ? 話の行き先がまずい方に向いているような。慌てて修正を試みようとする
が、接ぎ穂が見付からない。
 店長は声を立て、短く笑った。
「いいよいいよ。高校生にもなれば、色々と交友関係が広がるものだろうからね。緑星
の生徒さんだということは、制服ですぐに分かった。あそこは進学校だし、忙しいのも
無理はない。それで、その忙しい生徒さんが、アルバイトする余裕ができたと?」
「えっと。忙しいことは忙しいんですが、どうしてもこちらでアルバイトをしてみたい
んです」
「今現在、特に募集を掛けてないんだけどね。仮に採用するとして、いつからどのくら
い入れるの?」
「それが、確実に大丈夫なのは、ゴールデンウィーク明けから、五月二十七日までで、
そのあとは試験の期間に入ってしまって、試験が終わったあともどうなるか、今は分か
りません……」
 だめ元で来たとは言え、声が小さくなってしまう。それでも俯いてしまわぬよう、し
っかりと前を見る。
「正味三週間ほどかあ。うーん。一日に何時間ぐらいできそう? それと、これまでの
バイト経験は?」
「曜日によって違ってきますが、早いときは、午後四時半頃にはお店に到着できるはず
です。夜は八時か九時。父と母とで意見がぶつかっていて……はっきりしなくて、申し
訳ありません。それから」
 アルバイト経験について、どう切り出そうか、ゆっくりと始めようとしたそのとき、
背後でベルがからんと鳴り、お店のドアが意外と勢いよく開けられた。
「ちーっす。寺東(じとう)入りまーす」
「寺東さん、入るときは勝手口からってお願いしてるのにまた。それにその言葉遣い」
「いいじゃないっすか。裏まで行くのは遠回りだし、お客さんの前では直しまぁす」
 最後だけかわいらしく媚びた声色になった。振り向いて様子を窺う。細い顎ととろん
とした目が特徴的な、同い年か少し上ぐらいの女の子だった。アルバイトの人らしい
が、髪が茶色のショートというのは、純子にはちょっと驚きだった。
 と、ふと気付くと、寺東の方も何やら驚いている様子。口をぽかんと開け、純子の方
を指差してきた。
「あんた――」
 とまで言って、一度口をぎゅっと閉め、腕組みをして考え込む。肩に掛けたマジソン
バッグ風の?バッグがずり落ちた。
「こんなとこにいるわきゃないと思うんだけど」
 呟いてから、改めて純子を見た。視線を上から下まで、サーチライトで照らすかのよ
うに。頭のてっぺんから爪先まで、というやつだ。
「ねえ、あんた。いや、お客様かな。あなた、風谷美羽に似ているって言われたことは
ないですか?」

――つづく




#496/598 ●長編    *** コメント #495 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:14  (477)
そばにいるだけで 65−3   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:53 修正 第4版
 どきっとした。久しぶりにずばりと言われ、自分がそれなりに有名になっているのだ
と、今さらながら実感する。
「あ、あの。ありません。ほ、本人です」
「へ? って、へー! 信じられない。何してるの、こんなところで!」
 遠く地方で別れた旧友に会ったかのごとく、寺東は反応した。手にバッグを持ってい
なかったら、そのまま抱きついてきて、肩の辺りをばんばんと叩きそうな勢いだ。言葉
遣いも元に戻ってしまっている。
「アルバイトをここでしたくて」
「へー? バイトって、何で? いや、まあ何でもいいわ。今は聞かなくてもいいや。
店長、もっちろんOKしたんでしょうね!」
「あ、いや、まだだが。話の途中だったし」
 戸惑いの色が明らかな店長は、帽子のずれを直しながら、寺東に尋ねた。
「君はこの子と知り合いなのかい?」
「違いますよ。知り合いじゃなく、一方的に知ってるだけ。結構知ってますよ〜。私、
彼女がCMをしてるのをみて、飲み物や化粧品なんかは美生堂を贔屓にしてるんだか
ら」
「よく分からないが、こちらのお嬢さんは広告に出ているのかね」
「出てます出てます。ファッションモデルもしてるし、ドラマにも出たし、他にも色々
と。まあ、全体に露出は抑えめだから、店長みたいな男の人が知らなくても無理はない
ですけどね」
「ふ、ふーん」
 店長もまた、純子をまじまじと見つめてきた。さすがに視線に耐えきれず、下を向い
た。
「言われてみれば、きれいな顔立ちをしてるし、すっとしたスタイルだな。あんまり言
うと、ハラスメントと取られるか」
「い、いえ」
 純子は素早くかぶりを振った。横に立った寺東が、とうとう純子の手を取った。
「ほらほら、店長もそう思うでしょ。だったら雇いましょう。看板娘かマスコットガー
ルってことで、風谷美羽を目当てに来るお客が増えますよ、きっと」
 ええ? そういうのはちょっと……。
 寺東の盛り上がりに、すぐには言い出せなかった純子であった。

「あはは、そいつは傑作」
 鷲宇憲親は、純子からアルバイトを頼みに行ったときのエピソードを聞き、快活に笑
った。
「笑いごとじゃなかったんですよ、そのときは」
 マイクスタンドを握りしめ、力説する純子。姿はひらひらが多く付いているとは言
え、男物のズボンにシャツにジャケット、そしてウィグと、久住淳仕様。今いるのは、
ミニライブで使う会場のステージ上だ。開催まで日にちはもう少しあるが、本番と同じ
場所で雰囲気・空気感を掴んでおこうというわけ。鷲宇のスケジュールの都合で、今
日、土曜しかできないので集中的に取り組んでいる。
 三時間ほどレッスンを兼ねたリハーサルを重ねたあと、休憩中の息抜きに、アルバイ
トの話をしたところだった。
「結局、採用された?」
「めでたく採用していただきました。短期間で時間も不確定っていう悪い条件なのに、
寺東さんの猛プッシュがあったおかげです。だから、その意味では感謝なんですが、客
寄せパンダになるのだけはお断りしました」
「そりゃあ、ルークさんとことしても事務所の断りなしに、そんな営業めいたことをさ
れちゃあ面目丸つぶれだ」
「はい。それに、私がアルバイトをする目的って、さっき言いましたように、相羽君の
誕生日プレゼントのためなんです。だったら、風谷美羽の名前を利用するのは、避けた
いなあって」
「確かに。風谷美羽、来たる!というようなやり方なら、普段と仕事と大きな違いはな
い。わざわざアルバイトをする意味が薄まるね。相羽さんところの影響力がない、自分
自身で勝負してみたいと」
「そうなんです。でも、会って間もない人達に、そこまでの事情を話すのは躊躇われち
ゃって。寺東さん、ミーハーなところあるみたいでしたしね。一応、事務所の意向って
ことで押し切りました」
「納得してもらったの?」
「あー、それがですね。風谷美羽の名前で人を集めるような行為はしないけれども、噂
に立つくらいならいいんじゃないかっていうのが妥協点でした。気付いた人が広める分
には、かまわないという」
「凄く、玉虫色ですな」
 また笑う鷲宇。純子は急いで、「事務所の許可はちゃんともらったんですよ」と言い
添えた。
「分かったよ。それにしてもよくアルバイトまでしようっていう気になれるね。相羽さ
んと市川さんから君のスケジュールを教えてもらったけれど、かなり詰まってるじゃな
いか。明日もどこだっけかイベント広場で、握手会とか」
「あ、それ、握手はなくなりました。サインだけです。限定で先着百名、整理券配布方
式で。あとは歌」
「どっちで唄うのかな?」
「え? ああ、明日は久住淳ではなく、風谷美羽としてです。アニメ『ファイナルス
テージ』のエンディング曲だから。放送開始して間もないし、百人も来てくれるのかし
らって心配で心配で」
「甘く見ない方がいいよ。僕も昔――っといかん。こんなに時間が経ってる」
 鷲宇はお喋りをすっと切り上げ、リハーサルに戻ることを宣言した。
「次はいよいよ、お待ちかねの曲、いや、リレーメドレーを行ってみよう」
「鷲宇さんの持ち歌ですね……ほんとに鷲宇さん、一緒に出るんですか」
「何ですか、その嫌そうな言い種は」
 からかうような口ぶりになる鷲宇。純子は少しだけ迷って、正直に答えることにし
た。
「嫌ですよ。気が重い。鷲宇さんの持ち歌を、鷲宇さんと一緒に唄うなんて」
「しょうがないでしょう。ミニライブとは言え、ショーとして成立させるには曲が少な
く、話術も心許ない。そこで応援出演どうでしょうっていう市川さんからの依頼があっ
たんだ。僕は快く引き受けた。感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「サプライズとして出てくださるのには、光栄すぎていくら感謝してもしきれないって
思っています。でも、それとこれとは別です。普通に鷲宇さんお一人で唄ってくださる
のが、ファンの人達にとってもいいんじゃないですか」
 本気でそうしてもらいたい。けど、言って、聞いてもらえるとは期待していないか
ら、一生懸命練習するほかなかった。
「ばかなこと言わない。当日は久住ファンが集まるんだよ。この会場いっぱいに。大き
くはない箱だけど、一人一人の熱狂が近くに感じられるはず。それに対して全力で応え
ることに集中しなさいな、久住君」
「それはもう覚悟できています」
 力強く言い切る。
 純子のそんな様子を見て、満足かつ安心したのか、微笑を浮かべて軽く頷いた鷲宇。
「その意気込みついでに、一曲まるまる、僕の歌を唄ってみないかな」
「拷問に等しいですよ、それ」

「また寝てる」
 頭上からの声に目を開けると、白沼の手が見えた。ふと、「手だけで白沼さんだと分
かるなんて、親しくなれた証拠かな」と思った。
 それとも、声で察したのかしら等と考えながら、「何、白沼さん?」と応じる。机の
上には、携帯できるミニ枕。
「それだけ眠りたいくせに、よく授業中、起きていられるわね」
 しゃがみ込んだ白沼が、机の縁に両腕をのせて話し始める。
「授業で眠らないように、休み時間に休んでるんだよぁ」
 あくびをかみ殺しながら、身体を起こす。ミニ枕を机の中に仕舞い込んだ。
「疲れが溜まってるんじゃないの。確か、昨日の日曜はスケジュールが入っていたけれ
ど、土曜は何もなかったんでしょ」
「え、そんなこ……」
 そんなことないわ、土曜もリハーサルがあったと答え掛けて、慌てて口をつぐむ。
(危ない危ない。白沼さんには、久住淳としての活動は秘密なんだったわ。でも、レッ
スンて言うだけなら、まあいっか)
 覚醒したばかりの頭をフル回転して、それだけのことを考えた。
「何? 言い掛けてやめるなんて気持ち悪い」
「ううん、くしゃみが出そうになっただけ。で、そんなことないのよ。白沼さんの方に
渡しているスケジュールは仕事絡みだけで、レッスンなんかはほとんど省いているか
ら」
「そうなの? じゃあ、空いていると思ったら実際は埋まっている場合もあるのね」
「うん、まあ、時々は。だいたいは空いてる」
 あまり歓迎できない方向に話が進むので、純子は切り替えに掛かった。
「心配してくれてありがとう! 凄く嬉しい」
「ば、ばか。心配するわよ。パパの評価にも関係があるんだから」
「それでも嬉しい」
 純子がにこにこして見せると、白沼の方は耐えきれないという風に、横を向いた。
「変なこと言い出すから、本題を忘れそうになったじゃない」
「ということは、また仕事関係の連絡が?」
「そうじゃないわ。完全にプライベートなことよ。あなた、相羽君から何か聞いてな
い?」
「うん? 何のことやら……」
 答えながら、白沼の肩を視線でかすめて、相羽の席を見る。今は空っぽ。教室内にも
いないらしい。
「いないわよ。まだ職員室にいるんじゃないかしら」
 探す仕種に勘付いた白沼が言った。
「職員室って、神村先生のところ?」
「ええ。クラス委員の用事で職員室に先生を訪ねたら、相羽君が先にいて。何か相談事
をしていたみたいなんだけど、私が近付いたらぴたっとやめちゃって。先生が手にして
いた資料、ぱたんて閉じるくらいだから、結構個人的な話なんでしょうけど」
「成績かなあ。でも、相羽君、下がってはないはず」
「でしょ。第一、普通とちょっと違う感じなのよね。ぴりぴりしてるというか、緊張感
が高いというか」
「ふうん」
「だから、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけれど……そ
の様子だと特に何もないみたいね」
「うん……」
 ここ数日のことを思い出してみるが、これといって思い当たる節はない。もちろん、
純子が忙しいということもあるけれど、少しの時間でもあれば相羽は一緒にいてくれる
し、楽しい会話も普段と変わりない。
「そういえば、始業式の頃、相羽君が先生に三者面談の日について、お願いしたみた
い。お母さんの都合がどうなるか分からないので、この日にしてほしい、という風な感
じで」
「その話だったのかしら。あんまり詮索することじゃないから、直に聞くのもしにくい
し。涼原さん、恋人として、うまく聞き出しておいてよ。気になるわ」
「や、やってみる」
 恋人という言い方に赤面するのを自覚した。

 駅近くのファーストフード店はほどよく混んでおり、騒がしい。内緒話をするのには
うってつけと言えるかもしれない。
 相羽も純子も飲み物だけ注文して、奥の二人掛けのテーブルに着いた。
「――それじゃあ、当日の格好について。一番上に着るのは、伸びたり穴が空いたりし
てもかまわない服にすること。上下ともにね。あと、靴も」
「靴まで? 畳の上でやるんじゃないの?」
 この日の下校は、結城達や唐沢には悪いが、仕事関係の話があるからと言って、二人
きりにしてもらった。実際には、護身術を教えてもらう日を決めるのとその段取り、そ
して純子からすれば白沼から言われて気に掛けていたことを確かめるためであった。
「護身術を実際に使わざるを得ない状況になったとして、その状況になるべく近い形で
練習するのがいいんだってさ」
「なるほど。って、畳に靴で上がっていいの?」
「専用のマットを用意して、その上でやるみたいだよ。女性の指導員が付いてくれるか
ら、ちゃんと系統立って教えてもらえると思う」
「え、相羽君は?」
「補助が必要なときは協力することになってる。最初からいた方がいいのなら、そうす
るけど」
「もちろん、いてほしい」
 こんな具合にして、護身術を習う日は決まった。連休の最後の日だ。一日で完璧に身
に付けるのはどだい無理があるだろうけど、とりあえず第一歩。仕事だってその日まで
にとりあえず片付いているはず。身体の方は悲鳴を上げているかもしれないが。
「これでよし、と」
「よろしくお願いします」
 お互いにメモ帳を閉じ、飲み物のストローに口を付ける。先に飲むのをやめた純子
は、次の話題に移ろうと、軽く息を吸った。
「このあと、まだ大丈夫よね?」
「うん。何かあるの?」
「特別に何ってわけじゃなくて、もっと話していたいなあって」
「どうぞどうぞ。愚痴でも悪口でも夢でも、何でも聞きましょー」
 おどけた口調になる相羽。純子はつられて笑ってから、切り出した。
「ちょっと前から気になってたの。二年になって、相羽君、神村先生のところに行く機
会が増えてない? 今日も行ってたみたいだし」
「増えたかも」
「数学の質問、とか?」
「いや、質問に行くことはほとんどない。前に言ったと思うけど、三者面談をね。早め
にしてもらうことになりそうなんだ。こちらの都合でわがままを聞いてもらって、特別
扱いは気が引けるんだけど、凄く助かる」
「……」
 純子は短い間だが、相羽の様子を観察した。嘘を言っている風には見えない。
「へえー。普通は中間考査のあとでしょ。それを前にやるなんて、よっぽど成績がいい
人じゃないと、認められないんじゃない?」
「そんなことないって。成績とは関係なしに、先にしてくれたんだと思うよ」
「またご謙遜を」
「いや、ほんとに」
「それじゃあ、先生のところに何回も通ったのは、お願いを聞いてもらうためってわけ
ね」
「うん。こちらも事情を説明するために、証明書って言ったら大げさになるけれど、
色々と出す必要があったしね」
「わぁ〜。お母さんが忙しいと、大変だ」
「忙しいのは純子ちゃんもでしょ。休み時間になると、たいていは机にもたれかかって
寝ちゃう。みんな気を遣って、話し掛けられないみたいだよ」
「そうなんだ?」
 白沼さんは平気で話し掛けてきたけれど、と思った。でも、結城や淡島といった女子
に、唐沢までも話し掛けてこないということは、相当気遣われている。
「起こしてもらったら、いくらでも付き合うのに」
「君のやっていることを知っていたら、無理に起こそうなんて考えもしないよ」
「白沼さんは起こすわ」
「仕事関係でしょ、それも」
「そっか」
 答えてから、心の中でそっと付け加える。
(今日は違ったけれどね。相羽君も心配されているのよ、気付いていないみたいだけ
ど)
 純子はいつの間にかにんまりしていた。
「相羽君。私ね、とっても幸せな気分よ、今」
「え?」
「友達がいて、みんなそんなにも私のことを心配してくれてる。友達だけじゃないわ。
周りの人達大勢に支えられてるんだなって、改めて実感した。感激して泣けて来ちゃ
う」
「――そうだね」
 戸惑い気味だった相羽の表情がほころんだ。
「僕もその輪の中に入ってる?」
「何を言うの。相羽君が一番よ。あ、順番は付けにくいけど、でも相羽君は特別なの
っ」
「よかった。同じだ」
 顔を赤らめながら言った純子の前で、相羽がまた微笑む。
「僕も色んな人に支えられているけれども、君が一番」
 純子は相羽をまともに見つめ直し、そして安心した。相羽も、目元付近に朱が差して
いたから。

 ゴールデンウィークを目前にした、最後の学校の日。校舎内でも各教室でも、それこ
そあちらこちらで、生徒は遊びに行く話題で盛り上がっている。
「分かっていたことですけど」
 昼食の時間、集まって食べ始めるや、淡島が言い始めた。
「やはり、さみしいものです。お休みなのに、自宅に留まるというのは」
「みんなで遊びに行けないこと?」
「ああ、結城さん。折角ぼかして言っておりましたのに」
 この場にいる誰もが、ぼかしていないのでは……と心の中で突っ込んだかもしれな
い。
「ごめんね」
 いただきますのために手を合わせていた純子は、そのままのポーズで頭を下げた。
「私抜きで計画を立ててくれて、全然平気だったのに」
「そんなつもりは毛頭ございません。――ほら、結城さん。こういうことになりますか
ら」
「分かった分かった、分かりました」
 結城は面倒くさいとばかりに肩をすくめた。
「それじゃ、この話題は打ち切り?」
「いえ。一度、話題に出たからには、続けましょう。涼原さんは、いつなら暇になるの
でしょう?」
「遊びに出掛けるとなると……中間試験が終わってからかな」
「一ヶ月以上先の話!」
 結城は心底驚いたらしく、食べている物が口から飛び出さないようにと、急いで手で
覆った。もぐもぐと咀嚼してから、「やっぱり、忙しいんじゃないの」と呆れた風に付
け足す。
「一応説明しとくと、仕事の休みが全くないわけじゃないんだよ。ただ、中間考査前ま
では連続で休める日はなかなかなくて、あっても宿題や完全休養に充てたいなって」
「一つ、抜けています」
 淡島は箸を置いて、右手の人差し指を上向きにぴんと伸ばした。
「な、何が」
「デートをする日も必要なはずです」
 さらっと言ってくれる。当事者の立場からすれば、前置きなしにいきなり冷やかされ
ると、顔が熱くなる。
「い、いえそれは、まあ、ゼロってことはないけれども、相羽君の方も忙しいし。ほ
ら、ピアノのレッスンとかで。だからお互いに無理をしないで、行けるときに行こうね
って合意ができてるの」
「先は長いですから、それでも充分なんでしょう。これからの人生、思う存分に楽しむ
といいですわ」
 淡島は占いを趣味としているせいか、この手の言い種をよくする。純子はお茶を飲み
かけていたが、吹きそうになって、すぐさまコップから口を離した。それでもけほけほ
と咳き込んでしまう。
「もう、淡島さん、今日は飛ばしすぎ!」
「そのような意識は全くないのですが……自重します」
 箸を構え直し、小さな煮豆を器用に一粒ずつつまみ上げてはぱくつく淡島。
「デートって、どんなところ行くの?」
 今度は結城が聞いてきた。純子が答を渋ると、補足を入れてくる。
「根掘り葉掘りはしないからさ。今後の参考までに」
「月並みだよ。映画館とか遊園地とか。最近では、お花見」
「月並みでも幸せなんだから、いいよね。極端な話、二人でいられればどこだっていい
んじゃない?」
「それはまあ……って、そっちから聞いておいて、ひどい言われようだわ」
 純子が怒った素振りを見せると、結城はまあまあとなだめてきた。ひとしきり笑って
いるところへ、淡島がぽつりと。
「噂をすれば、です」
 廊下側に顎を振るので、つられて振り向くと、相羽と唐沢、鳥越の男子三人がこっち
に来るのが分かった。今日は学食に行っていたようだ。
「鳥越が、そろそろ顔を出してくれないと、新入部員にしめしがつかないって」
 前置きなしに、相羽が純子に言った。鳥越は天文部で、夏以降は副部長に収まる予定
だとか。相羽と純子も籍を置いているが、幽霊部員度は似たり寄ったりだ。強いて言う
なら、相羽の方が参加している。
「忙しいのは分かってるけど、そこを何とか。三十分でもいいからさ」
 鳥越は、何故か両手を拝み合わせて下手に出た。
「そんな。悪いのは私の方なのに」
 残りわずかになったお弁当を前に箸を置き、純子は両手を振った。
「気にすることはないぜ、涼原さん」
 唐沢が口を挟む。彼は天文部とは関係ないが、稀に昼の太陽観測に付き合っているら
しい。
「こいつ、今年の新入部員を勧誘するときに、モデルをやってる風谷美羽も在籍してる
よってのを売り文句に、何人か獲得したみたいだから」
「えー、まじ? 星好きにあるまじき行為」
 純子より早く、結城が反応した。続いて淡島も、彼女は無言だったが、じとっとした
“軽蔑の眼”を鳥越に向けた。
「ほ、ほんの少しだよ。入るかどうか揺れ動いてる人を、こっちに傾いてくれるよう、
ちょっと押しただけ」
 言い訳がましく、汗をかきかき説明する次期天文部副部長。
「でもその少しの人数から、風谷美羽さんはどこにいるんですかって突き上げを食らっ
たんだろ」
「ま、まあ、それに近いものはある。――こんなわけで、偉そうに頼めた義理じゃない
んだけど、近い内に一度、部室に来てよ、涼原さん」
 また拝まれた。純子は十秒ぐらい間を取って考え、そして答えた。
「行くのは全然かまわないけど。万が一、その一年生が私を見るだけが目当てだった
ら、すぐにやめちゃうかもしれないよ? 私が言うのもおかしいけれど、その子は真面
目に参加してる?」
「それは……」
 言い淀んだ鳥越。
「……凄く熱心とまでは言えないけれど、たまにさぼるのは、こっちが嘘ついたみたい
になってるせいかもしれないし……ああ、ごめん!」
 大声を出したかと思うと、鳥越は深々と頭を下げた。
「この言い方だと、涼原さんのせいみたいにも聞こえるよね。本当にごめんなさい。そ
んなつもりはないんだ」
「いいの。行かないのは、私が絶対悪いんだし。参加できないくらい忙しいのなら、最
初から入るなってことよね」
「いやそれは、誘ったのは僕らの方だし。それに、だからといって、今さら退部されて
も困るんだ」
「許されるのなら、籍は置いておきたいの。今年はちょうど夏に皆既日食があるでし
ょ? 観られる地域は限られるけれども、それに合わせて合宿をするんだったら、行き
たいなあって思うし」
「分かった。その線で合宿をするように持って行くよ」
 だから部室に顔を出して、と言いたげな鳥越だったが、言葉をぐっと飲み込んだ様子
だ。
「私、まだ先のスケジュール分からないよ? だから参加するって約束もできない…
…」
「いい、いい。たとえ不参加になっても、涼原さんの魂は現地に持って行く」
 魂って何だそれはと、相羽と唐沢、左右両サイドから鳥越に突っ込み。
 鳥越は頭を掻きながら、気持ちだけでも来て欲しいってことさと答える。そうして、
改めて純子の方を向いた。
「とにかく、さっきまで僕が言ったことは忘れて。暇なとき、活動に来て欲しいんだ。
説明するまでもないだろうけど、とっても面白くて楽しいから」
「うん。行く」
 笑顔で返事した純子。
「いついつになるって約束できないのが申し訳ないけれど、絶対に行くから」

 明日からはきゅうきゅうのスケジュールで、ミニライブに撮影にインタビュー、歌や
振り付けのレッスンと目白押しだ。休みも二日あるにはあるが、撮影の予備日に充てら
れているため、天候や進行具合に左右される。
 そういう状況なので、純子にとって今日は学校があるとは言っても、貴重な休みとも
言える。
 明日以降のために早く帰って休息を取りたい反面、友達付き合いも大事にしたいと思
う。だからというわけではないが、下校途中、みんな――相羽、唐沢、結城、淡島、そ
して白沼――と一緒にちょっと寄り道をすることに。
 元からそう決めていたのではなく、相羽が買いたい本があるのだけれど、近くの書店
にはないので、駅ビルの大型書店に寄ってみたいと言い出したのが始まり。六人で列車
に乗り、ターミナル駅までやって来た。
 書店までの道すがら、白沼に問われて相羽が買いたい本のタイトルを口にすると、唐
沢が反応をした。
「なぬ? 『トラ・慰安婦』と『ちん○は、ちん○』だって?」
 相羽はぴたりと足を止めると、唐沢の方を向いた。他の者が引き気味になる中、思わ
ず立ち止まった唐沢の真ん前で、右の握り拳に息を吐きかける相羽。
「いー加減にしろっ。わざと聞き違えるにしても、ひどい。ひどすぎる」
「わ、分かった。悪かった。茶化すつもりはないんだが、もう条件反射みたいに」
「なお悪い」
「いや、だから、今後は気を付けるって。で、もういっぺん言ってくれよ、本のタイト
ル」
 唐沢の懇願に、相羽はため息をついてから、ゆっくりはっきりと答えた。
「『マジック:応用とギミック トライアンフとチンク・ア・チンク』だ」
 純子は歩き出しながら、そのフレーズを頭の中で繰り返し唱えてみた。
(確かにひどかったけれど、唐沢君が下ネタに走るのも、分からないでもないかも)
 そう考える自分が恥ずかしくて、頬が赤くなるのを感じた。両手で覆って隠す。
「トライアンフやチンク・ア・チンクというのは、マジックの演目の名前だよ」
「どんな現象なのかしら」
 白沼が聞いた。彼女はさっきの下ネタの後遺症は浅かったらしい。
「トライアンフはカードマジックで、様々なバリエーションが考案されてるけれども、
基本は、順番も表裏もばらばらになった一組のトランプが、マジシャンの手に掛かると
あっという間に順番も向きも揃うという現象。チンク・ア・チンクはコインを使ったマ
ジックで、基本は……四枚のコインを四つの角において、手のひらをかざしていくと、
コインが一瞬にして別の角に移動し、最終的には一つの角に全部が集まるという現象、
と言えばいいかな」
「相羽君はできる、その二つ?」
「うーん、どちらも簡単なものならいくつか」
「今度見せて」
「いいよ。マットがなくても、何とかできるかな」
 相羽と白沼が話し込むのを目の当たりにした結城が、純子の脇をつついた。
「いいの? 喋らせておいて」
「え? 私、そこまで嫉妬深くないよ〜」
「それじゃあ相羽君の今言ったマジック、観たことあるの?」
「多分ね。名前だけじゃ分からなかったけれど、説明を聞いたら、観たことあると気が
付いたわ」
「そう、それならいいのかしら。随分、絆がお強いようで、うらやましい」
「うふふ」
 素直に受け取って、にやけておこう。
 と、そんな会話が聞こえていたのか、相羽が隣に着いた。
「それじゃあ純子ちゃんにも興味を持ってもらえるよう、新しいのを覚えてから、みん
なの前で披露するよ」
 目当ての書店は、意外と混雑していた。会社の終業時刻にはまだ早いだろうに、乗降
客がよく立ち寄るのか、場所によっては身体の向きを横にしなければ通れないくらい。
この光景だけを見ると、本が売れないなんてどこ吹く風だ。
「どうせ他の本にも目移りするんだろ? 俺、コミックのところにいるわ」
 唐沢はいち早く輪を離れた。結城と淡島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは淡
島。
「では、私は占いのコーナーにでも」
 皆にそう告げると、淡島はすたすたと足音を立て、でも何故かゆっくりしたスピード
で進んだ。結城は少し迷った表情を浮かべたが、同じ方向に歩き出した。
「淡島さんとはぐれたら、見付けづらそうな気がする。引っ付いといた方がいいかも」
 何となく納得する理由だったので、その役目を彼女にお願いすることに。
 残った白沼は、純子と同じように相羽に着いて行くつもりなのだ――と、純子自身は
思っていた。しかし、白沼は意外なことを言い出した。
「私は、週刊誌と写真集のところに行くわ。確か、あなたに出てもらった広告の一つ
が、週刊誌に載っている頃のはず」
「き、聞いてない」
 焦りと冷や汗を同時に覚えた。純子は、まさかと思って、続けて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、写真集というのは? 私、それこそ全然知らないんですけど!」
「写真集は写真集よ。あなた、前に撮ったんでしょ。それが今も残っていないか、チェ
ックしてあげる」
「えー、入れ替わりが激しいから、きっともうないって」
 今度はほっとすると同時に、白沼の感覚が理解できなくて戸惑った。
「本人が通う学校や自宅に近い書店なら、大量に仕入れて在庫が残ってるんじゃないの
かしら。リサーチよ」
「そんなことないって。返本するって」
 ねえ相羽君も説明してあげてよと、振り返ったが、そこにはもう相羽の姿はなかっ
た。少し先の通路にて、向こうもこっちを振り返っていた。
「多分あっちの方だから、探してるよ。どうぞごゆっくり」
 行ってしまった。人目がなければ、がっくりと膝と手を床につきそうだ。
「さあ行くわよ」
 そして何故か一緒に行くことになっているらしい。白沼に引っ張られ、まずは雑誌
コーナーに来た。
「えーと。白沼さん、何の広告だっけ?」
「『スマイティR』よ」
「ああ、美容健康食品……」
(コマーシャルだけでなく、静止画媒体向けにも撮ったんだっけ。『毎日食べてます』
っていうフレーズがなくなって、肩の荷が軽くなった気がする)
 そんな感想を抱く純子の前で、白沼は女性週刊誌を何冊か選び取り、次から次へ、ぱ
らぱらとめくっていく。手にした内の二誌で純子の出ているチラシを見付けたようだ。
一誌を純子に渡し、もう一誌は自らが見る。
「同じ物だけど、色ののりが違う感じ」
 純子の手元も覗いてから、白沼が言った。商品の魅力が上手に表現されているか、モ
デルがどう映っているかよりも、まず先に色調の差が気になるとは。広告のデザインを
決めた段階で分かりきっていることには興味ない、実際に紙面に載った広告の状態が肝
心だというわけなのだろう。
 映っている当人としては、そう割り切れるものではなく、純子は恥ずかしさを我慢
し、自らの映り具合を確かめた。
(あっ。ちょっと大人っぽく見えるかも? って、私が言うのもおかしいかな。でも、
『ハート』のときに比べたら、落ち着いている感じが出てるような。服かメイクの違い
かしら)
 ロングスカートのワンピースは、紫と群青の間のような色合いで、今までに自分がや
って来たはつらつとしたイメージに比べると、かなり大人びて見える。製品を持って微
笑んでいるだけ。言ってしまえばそれまでの広告なのに、無言の説得力が備わっている
ような気がしないでもなし。
(自分で自分の仕事を、ここまで肯定的に感じられるのって、珍しい)
 意外さから、舞い上がっているのかなと我が身を省みる心持ちになる。
「期待に応えてくれた、いい仕事をしてると思うわよ」
 心中を読み取ったかのように、白沼の声がそう話し掛けてきた。思わず目を見張った
まま、相手の顔を見返した。
「同級生の意見じゃ心許ない? 違うわよ。私だけじゃなく、会社のみんながいい出来
映えだって誉めてたんだから」
「本当に? う、うれしいよー」
 少なからず感動して、涙がにじみそうになる。ごまかすために、ちょっとおどけた声
を出した。
「あとは『スマイティR』が売れてくれればいいだけ」
 現実的な話をされて、涙は引っ込んだみたい。
「さあて、時間を取ってる暇はないわ。次、写真集よ。早く調べて、相羽君のところに
行かなくちゃね」
「見なくていいよ〜」
 置いているはずないと信じているが、もしあったらやっぱり赤面してしまうだろう
し、なかったなかったでちょっと寂しい。
 渋る純子だったが、またも引っ張られてしまった。抵抗むなしく、写真集の置いてあ
る一角に差し掛かる。
「今日は男性アイドルはお呼びじゃない、と――あら」
 横を向いていた純子の耳に、白沼の訝るような響きの声が届いた。何事かとそちらの
方を見ると、顔見知りの男子生徒が立っていた。
(稲岡君?)

――つづく




#497/598 ●長編    *** コメント #496 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:15  (494)
そばにいるだけで 65−4   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:54 修正 第4版
 意外なところで意外な顔を見た。白沼が怪訝がったのも頷ける。稲岡のイメージは、
勉強一筋でお堅くて、芸能界や女性に興味関心全くなし、だったのだ。それが今、写真
集のコーナー前に立っている。その位置から推して、女性写真集が並べてあるのは確か
だ。
 稲岡に、純子や白沼がいることを気付いた様子は全くない。と言って、写真集に見入
っているのでもない。何せ、全ての写真集は透明なビニールでパッケージされて、開く
ことができないのだから。品定めしているのか、表紙と裏表紙、そして背表紙をためつ
すがめつしている模様だ。あるいは、視力がよい方ではなさそうな稲岡だから、ビニー
ルに蛍光灯の明かりが反射して、文字がよく見えないのかもしれない。
「い――」
 名前を呼ぼうとした純子を、白沼が手で遮った。
「なに?」
「察しなさいな。あの稲岡君がこんな意外なとこにいるのだから、声を掛けたら逃げ出
しかねないわ」
「まさか」
「とにかく、両サイドから挟み撃ちの態勢を取る。声を掛けるのはそれから」
「えー」
 ひそひそ声で話したので勘付かれた気配はまだない。しかし気乗りしない純子は、改
めて名前を呼ぼうとした。
「待って。じゃあ、彼が何を手にとっているのか、それだけ確認させてよ」
 意地悪げな笑みを浮かべた白沼は、返事を聞かずに行動を開始した。白沼も成績優秀
な方だから、稲岡をライバル視していて、その相手の弱点を見付けた気になっているの
かもしれない。忍び足で稲岡の背後へ近付くと、そっと首を伸ばして、彼の手元を覗い
た。
「あっ」
 声を発するつもりはなかったのだろう、白沼はしまったという風に口元を手で覆っ
た。が、もう遅い。稲岡が振り返る。
「あ」
 稲岡も似たような反応を示して、しばらく動きが止まった。けれど、次の行動に出た
のは稲岡が早い。持っていた写真集一冊を書棚にぐいと押し込んで戻すと、俯き加減に
なって立ち去ってしまった。呼び止めるいとまのない、あっという間のことだった。
「ほらあ、白沼さんがびっくりさせるから」
 純子がしょうがないなあと苦笑いを我慢しながら近寄る。立ち尽くしていた白沼は、
その声にくるっと力強く向き直った。真正面から両肩に手を置き、言い聞かせるような
口ぶりで始める。
「涼原さん」
「な、なに」
「稲岡君が成績を落としたとしたら、その原因はやはりあなたにあるみたいよ」
「はい? どうしてそんなことが今、言えるの?」
 うるさくしたことを悪いとは思っている。しかし、そのことだけで小テストの赤点の
原因とされては、理不尽だ。
「素早く棚に戻されたけれども、私しかと見たわ。そこにあるのはあなたの写真集でし
ょ?」
「え、まだあるの?」
 白沼が指差した先に目を凝らす。何段かある本棚の中程、若干左上の隅に収まった書
籍の背表紙に、風谷美羽写真集という文字が読み取れた。
「ほ、ほんとだ。びっくり」
「私がびっくりしたのは、稲岡君がそれを手に取っていたことよ」

 相羽が目的の本を見付けて購入したのを機に、純子達六人は書店を離れた。そして白
沼の提案で、隣接するカフェに入る。普通、喫茶店に入るのは保護者同伴でなければい
けない校則があるが、そこはブックカフェという名目故。校則の適用外とされていた。
本を購入した客がすぐに読めるよう、場所を提供するのが主目的で、飲食物は極簡単な
物のみ用意されている。
「偶然じゃねえの?」
 丸テーブルに全員がついたところで、稲岡の一件を白沼が話す。すぐに反応したの
は、唐沢だった。
「あいつがアイドル写真集に興味を持つところが、想像できん」
「アイドルじゃなくて、クラスメート」
「それにしたって、なあ」
 相羽に同意を求める唐沢。だけど、そのクラスメートと付き合う相羽は、どう答えて
いいのやら、困り顔を露わにした。
「偶然なわけないわ。あの稲岡君が女性アイドルの写真集を置いているコーナーにい
て、この子の写真集を手に取っていた。私はこの目で見たのだから」
 白沼は純子の方を示しながら力説した。これを受けて、淡島が分析的に答える。
「事実として受け止めるとしましょう。つまりは、稲岡君は涼原さんに好意を抱いてし
まい、それが成績低下につながったと」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとする純子だが、あんまりうまく行かなかった。周りの賛同も得られて
いないらしい。
「おかしいわ。仮に、淡島さんの言ったことが当たってるとして、どうしてそれが成績
低下につながるのか」
「気になる異性ができて、勉強に身が入らないというのは、ありがちではありません
か。もしや、涼原さんはそのようなタイプではないのでしょうか」
「……うん、そうなのかな。えっとね、好きな相手とうまく行っていたのに、何かのき
っかけで仲が悪くなった、とかなら、何も手に付かなくなるかもしれない。でも、気に
なる人ができただけなら、それは幸せなこと、嬉しいことだわ」
「なるほどね」
 結城が腕組みをして頷いた。それから腕を解き、純子を軽く指差した。
「けれども、今の場合は、純の状況を当てはめなきゃいけない。稲岡君からすれば、彼
氏持ちの女子を好きになりかけてるんだよ。声を掛けたくてもできない。悶々としたと
しても当然よ」
「少し、分かった気がする」
 そう返事したものの、まだ不明点が残っている。つい、首を傾げた。
「私、どう考えても稲岡君からは嫌われてると思ったんだけど。嫌うって言うのが強す
ぎるのなら、避けられてる、疎まれている感じ。こんなので、実は好意を持ってますな
んて、あり得ないわ」
「小学生ぐらいなら、好きだからこそちょっかいを出すというのがあるかもしれないけ
ど、さすがにねえ。いくら勉強の虫でも」
「好意を少しでも持ってくれてるなら、席替えの希望を出すとも思えない」
 稲岡の親から席替え希望が出された経緯は、皆に打ち明けてある。
「実際に成績が下がり始めたのは、いつ頃なんだろうな」
 唐沢が問い掛けを出すが、誰もすぐには答えられない。
「はっきりと表面化したのは、この間の数学の小テストね。二十六点」
 白沼の声は、何とはなしに弾んで聞こえる。と言っても、ライバルの失敗を喜んでい
るんじゃあなく、こうして大勢で分析して原因を探るのが面白いようだ。
「あの日、起きたこと。きっかけになるような、何か特別な……」
 相羽が口元にぴんと伸ばした右手人差し指を当て、心持ち瞼を下げ、宙を見つめるか
のようにじっとした。他の者が見守る中、十秒ほどしてからつぶやく。
「あ――あった」

 学校が始まるまで待てない。それに、学校では話しにくいかもしれない。そんな考え
から、純子は白沼と連れだって、稲岡の家を訪れた。
 当初、白沼には「何で私まで」と拒まれ掛けたが、書店での目撃者として相手に知ら
れているのだからと、連れて来た。
(相羽君に来てもらうわけにいかないしね)
 稲岡宅の住所等を調べる必要があったので、出直しの形になった。そのため、書店で
稲岡を見掛けてから約一時間半が経っていた。
「案外近くで助かったね」
「近いと言っても、電車で反対方向に十分。そこから歩いて五分強。楽じゃないわ」
 角を曲がると、目的の家が見えた。
「大きいわね。私の家ほどじゃないけれど」
 付き合わされている意識がまだ残っているせいか、白沼はそんな憎まれ口を叩いた。
 家の門のところまで来ると、見上げながらまた白沼が口を開いた。
「さあて、まともに呼び出しても、出て来てくれるかしら」
「任せておいて」
 純子はインターフォンを見付けると、レンズに顔を通常よりもかなり近付け、躊躇す
ることなしにボタンを押した。
「どちらさまでしょう?」
 すぐに声がした。女の人の声だ。両親とも仕事を持っている――それぞれ病院と化粧
品メーカー勤務――ことを、事前に把握しておいたので、母親ではないだろう。稲岡は
一人っ子だし、お手伝いさんかもしれない。
「初めまして、稲岡時雄君のクラスメートです。忘れ物を届けに来ました。直に渡した
いのですが、時雄君はいますでしょうか」
「はい。わざわざすみません。しばらくお待ちください」
 お手伝いさんと思しき女性の声は、すんなりと受け入れてくれた。
 が、純子の隣では、白沼が目を白黒させている。それもそのはず、純子は今し方、男
子の声色でインターフォンのやり取りを行ったのだ。
「す、涼原さん。あなた、そんな声、出せたの?」
「うん。ボイストレーニングをやっている内に身に付けた特技」
 しれっとして答えた。本当のところは、久住淳として活動するために、低い調子で喋
る練習を重ね、その結果、今では何種類か男性の声を操れるようになった。もちろん、
喉を傷めてはいけないので、大絶叫するなど出せないトーンはあるが。
「将来、文化祭や何かの打ち上げをやるときは、それ、披露しなさいな。大受け間違い
なしだわ」
 唖然とした状態から立ち直った白沼は、どうやら本気で感心してくれたようだ。
「いざというときに取っておきたいんだけど――あ、来たみたい」
 一応、門扉の影に隠れる二人。姿を見た途端、稲岡が中に引っ込んでしまう可能性、
なきにしもあらずだ。
 門とは反対側の塀越しに、植え込みの隙間から見ていると、稲岡が靴を片足ずつとん
とんとさせてから進み出てきた。校則をきっちり守りたい質なのだろう、制服姿だ。ブ
レザーの上着こそ着ていないが、普段学校で見るのとあまり変わらない。
 門の格子を通して、その向こう側に誰もいないのを、稲岡は怪訝に感じているよう
だ。それでもやがて門を開け、外に出て来た。
「稲岡君。こっちよ」
 純子と白沼は期せずして声を揃えた。お互い、予想外のことについ噴き出してしま
う。
 一方、稲岡は口を半開きにして、呆気に取られている。これは学校ではなかなか見ら
れない、赤面した上に間の抜けた表情だ。男子が来たと思っていたのが、女子だったと
いうだけでも充分に戸惑いの原因になるに違いないが、さらに書店で見られたくないと
ころを見られた白沼と、純子が来たとなると、頭の中が真っ白になったとしてもおかし
くない。
 が、それでも中に戻らなかったのは、今、純子と白沼の二人が噴き出したおかげかも
しれない。場の空気が緩んだ。
「な、何だよ、君達。男子は?」
「ごめんね、私達だけなの。直接会って、話がしたかったから、ちょっと声色を」
 稲岡は疲れた風に片手を門柱につき、もう片方の手を自らの額に当てた。
「忘れ物というのも嘘なんだ?」
「ごめん」
 純子は再び謝罪したが、白沼は首を傾げて見せた。
「一つ忘れていたんじゃあない? 書店に、買うつもりだった写真集を置いてきたのか
と思ったのだけれど」
「……やっぱり、見られていたか」
 一瞬にして赤面の度合いが上がる。が、すぐにあきらめがついたのか、嘆息した。
「どこまで見えた? いや、それよりも、涼原さんもあの場にいたの?」
「うん」
 稲岡は額の手をずらし、顔全体を隠すようにした。それだけでは足りないと、もう片
方の手も門柱から離して、顔を覆う。眼鏡に指紋が付くだろうに、お構いなしだ。
「だめだ。物凄く恥ずかしい」
「いいじゃないの。勉強にしか興味のないガリ勉かと思ってたのが、普通の男子と変わ
りないと分かって、安心したわよ」
 白沼が気軽い調子で言った。彼女なりのエールなのかは分からないが、気まずくなる
のを避ける効果はあったようだ。
「わ、私も恥ずかしさはちょっぴりある。けれど、手に取ってくれたのは、嬉しい。フ
ァンが増えるんだもの」
 純子も調子を合わせる。ちょっぴりどころか、かなり恥ずかしい。
「だから、稲岡君からうるさいとか静かにしてくれって言われると、落ち込んじゃう。
席替えまで言われた、なおさらよ」
「ああ、いや、あれは、僕の言葉をお母さんが極端に受け取ったせいで、僕はそこまで
思ってない」
「そうなの? それなら少し救われた気分」
 手を合わせ、顔をほころばせる純子。後を引き継いで、白沼が指摘する。
「でも、邪魔になっているのは事実よね? 成績、下がったんだから」
「うぅ、あれは……」
 口をもごもごさせ、続きの出て来ない稲岡に対し、純子は「やっぱり私のせいなの
?」と尋ねる。
「君のせいというか、違うというか」
「折角聞きに来たんだから、はっきり言っておけば?」
 白沼は悪役を引き受けるつもりになっているようだ。本心を引き出すために、きつい
言葉を投げ掛けつつ、稲岡を促す。
「涼原さんを間近で見て、一目惚れみたいになったんでしょう? おかげで勉強に身が
入らなくなった」
「……いや、我慢していたんだ」
「そうみたいね。でも、小テストで悪い点を取った日は、我慢できなくなった」
「あれは別の原因が」
「隠さないでいいのに」
 白沼のこの台詞には先走りを感じた純子。急いで割って入る。
「稲岡君。突き詰めれば、私のせいなんだよね? あの日、私が遅刻してきたせい」
「え。分かってたの、か」
「ううん、分かってなかった。相羽君に言われて、気が付いたの」
「相羽が。そうか。相羽なら気付くな、うん」
 どこかほっとした様子になる稲岡。そこへ、白沼が改めて尋ねた。
「一応、確認させてもらうわよ、稲岡君。あの日、遅刻してきた涼原さんがブレザーを
脱いだことで、ブラジャーのバンドが透けて見えた。そのことが気になって、テストに
集中できなかったのね?」
「そ、そうだよ」
 また顔を赤くする稲岡の前で、純子も少し頬を染めた。
 あの日は朝から走り通しだったから、汗をかいた。結果、透けて見えやすくなってい
ただろう。加えて、撮影のときはシンプルなスポーツブラ着用だったが、終了後に着替
えて、若干華美なデザインの物に変えたことも影響したかもしれない。
(気を付けなくちゃいけないなぁ。相羽君も気付いていたわけだし)
 胸中で反省する純子。
 白沼は白沼で、双方に呆れた視線をくれてやっていた。
「去年も周りの女子には、何人か無防備なのがいたでしょうに、気にならなかったのか
しら?」
「全然。変な風に受け取らないで欲しいんだけど、涼原さんだからこそ、意識してしま
ったというか。だから、克服しようと思って、写真集を探したんだ。水着の写真があれ
ば、それを見て慣れるかもしれないだろ」
「はあ、まったく、おかしなこと思い付くものね。それで、今後どうする気よ、稲岡君
は」
「どうするって」
「これから暑くなるのよ。夏服になるのよ。ブレザーを着なくなるの。毎日、目の前で
見えるのよ」
 畳み掛ける白沼に、たじたじとなる稲岡。純子は二人のやり取りを前に、「な、なる
べく見えないように気を付けるから」と小声で訴えた。
「完全に見えなくするのは無理でしょうが。付けないわけにいかないでしょうし」
「そ、そりゃあ、私だって昔と違って」
 ブラジャーの初使用が周りの友達よりも遅かったのを思い出し、内心、汗をかく心持
ちになる。
「やっぱり、席替えしてもらいなさい」
 白沼が断定的に言った。
「クラス全員がやらなくても、あなた達二人が入れ替われば済む話よ。理由はまあ、稲
岡君、あなたの視力がちょっと落ちたってことにすればいいんじゃない?」
「……そうだね。席替えしたって言えば、お母さんも納得する」
「なぁに、そんなに厳しいの?」
「いや、厳しくはない。心配性なんだ。学校側に希望を伝えたのに、通らないでいる
と、ずっとやきもきしている」
「それなら、席替えがあったことのみ伝えれば、解決ね」
 白沼と稲岡の間で、どんどん話が進む。最初はそれを聞き流していた純子だったが、
はたと気付いた。
「ま、待って!」
「何?」
 白沼が振り向いたが、純子は稲岡の方に言った。
「席替えしてもらうんだったら、隣の平井君も説得してくれないかなあ」
 このお願いに、いち早くぴんと来たのは当然、白沼。
「ははあ。あなたが一つ下がったら、隣が相羽君じゃなくなると。それが嫌なのね」
「あ、当たり、です」
 しゅんとなった純子の背後に回った白沼は、相手の肩を上からぎゅっと押し込んだ。
「また仲よくお昼寝するつもりね」

 大型連休中、最大の仕事であるミニライブの現場は、恐らく最大となるであろうトラ
ブルの発生に、幕開け前から混乱を来していた。
「え? 来ない?」
「正確には、来られないかもしれない、だけど、見通しが立たないのなら同じことだ
ね」
 シークレットゲストとしてスタンバイしてもらう予定の鷲宇憲親が、開演の三十分前
になっても、まだ会場入りできていないのだ。飛行機の遅れだという。
「車の流れは順調みたいだから、本来の出演時刻には間に合いそうなんだけれど、最終
チェックなしにやるのは、結構リスキーだよね」
 鷲宇サイドから派遣されたスタッフの一人・牟禮沢(むれさわ)が、平静さを保ちな
がらも緊張感のある声で述べる。
「一応、間に合う前提で諸々準備を進めますが、気持ち、遅らせ気味に願えます?」
「遅らせると言われても、うちの久住はトークは無理なんですよ」
 市川が懸念を表する。その隣やや後方で、純子――久住淳も黙ってうなずいた。ハプ
ニングに、ともすれば震えが来そうになるが、どうにか堪えている。
「司会役を用意していればよかったんですがね」
 別のスタッフが言った。この度のミニライブ、もちろん歌だけでは数が足りず、つま
りは時間がもたないので、喋りも予定されてはいる。でもそれは鷲宇が舞台登場後のこ
とで、要は全て鷲宇頼みなのだ。他には短い挨拶くらいしか考えていなかった。
「演奏のテンポを1.1倍ぐらいまで延ばす、なんて荒技もありますが、余計に無理で
すよねえ」
 恐らく冗談なのだろう、牟禮沢が言ったのだが、誰も笑わない。
「それよりはましな、でもやっぱり無茶な提案が一つあるのですけど」
 市川が反応を伺いながら、小出しに喋る。牟禮沢が伺いましょうと、身を乗り出す。
可能であれば、この打開策を話し合う現状を、鷲宇本人にも携帯電話を通じて聞いても
らいたいところだが、バッテリー切れが恐いので、必要なタイミングになるまで取って
おく。
「牟禮沢さんもご存知だと思いますが、芸能人の方を何名か、お招きしたじゃありませ
んか」
「ええ。彼――久住と同世代で、多少なりとも親交のある人数名に」
(え。そうなの?)
 後方で聞いていた純子は、小さく飛び跳ねるぐらいびっくりした。聞かされていなか
った。思わず、女の子の声で叫びそうになったけれども、これも何とか我慢。
「実際に来られた方がいるはずです。その方に助っ人をお願いするというのは、どうで
しょうか」
「どうなんでしょう……たとえ親友同士でも、事務所を通すのが常識です。今から言っ
て受けてもらえるかどうか。ギャラの問題も発生する。でもまあ、だめ元で頼んでみま
しょうか。マネージャー同伴で来てる人がいれば、比較的話が早いんだが」
 打診する前に鷲宇と相談する必要があるとのことで、席を外す牟禮沢。内緒話がした
いのではなく、使っている大部屋がざわついているため、静かな場所に移動するのだ。
 三分足らずで戻って来た牟禮沢は、落ち着く前に「ゴーサイン出ましたよ」と告げ
た。
「手配は任されたが、どちら様が来てくれているかを把握しないといけませんね。さっ
き、確認に行かせたんですが、まだ戻ってこないな」
 呟いてドアの方を振り返ろうとした矢先、ノックの乾いた音が。この緊急事態に呑気
にノックするとは、スタッフではなく、訪問者だろう。
「どうぞ!」
「お忙しそうなところをすみません。控室を訪ねたら、今、こちらだと聞いたもので」
 腰の低い、柔らかい口ぶりで入って来たのは、招待した一人だった。
「あ、星崎さん」
 純子は久住として声を上げた。パイプ椅子の背もたれを持って回り込むのももどかし
く、駆け寄る。
「やあ。お招きを受けて、来てみたんだけどね。空気がざわざわしていて、知っている
顔のスタッフさんが何人も走り回っているから、どうなってるのかと心配になってさ」
「それが」
 事情を話そうとして、シークレットゲストの存在を言っていいのか、迷ってしまっ
た。星崎は芸能友達とは言え、お客さんだ。
 そこへ市川と牟禮沢が加わり、代わって説明を始めた。事態を飲み込んだ星崎は、と
りあえずは勧められた椅子に腰を下ろした。そして「鷲宇さんに貸しを作るのは悪くな
い話ですね」と、苦笑交じりに始めた。
「二人でユニットの曲も唄えるかもしれないね。ただ、事務所の許可がいるので、ちょ
っと時間をください。マネージャーに言えば、多分OKが出ると思います」
 早い方がいいので、また席を立って出て行こうとする星崎。が、「あ、そうだ!」と
足を止めて、牟禮沢に言った。
「加倉井舞美ちゃんも来てましたよ」
「ほんとですか!?」
「ええ。彼女、マネージャーさんと一緒だったから、出てくれるかどうかは別として、
判断は早いと思います。ええと、席は」
 壁に掛かる会場全体の座席表を見て、加倉井のいる位置を指し示した星崎。そのま
ま、携帯電話を取り出しながら退室して行った。
「よし、すぐにコンタクトを」
「でも、女性ってどうなんでしょう? 久住のファンが集まってるところへ同世代の女
の子が登場して、受け入れられるかどうか」
 声を小さく、低くして思案がなされる。
「そうだな。星崎さんに出てもらえると決まったら、一緒に登場することで、変な目で
見られることもないだろうが……。背に腹はかえられない。声を掛けておく」
(何だか知らないけれど、勝手にどんどん進む〜)
 再び座ることも忘れ、成り行きを見守っていた純子。開演まで十五分です!という声
に、スイッチが切り替わる。
(あー、もうっ、覚悟決めた。なるようにしかならない。最善を尽くすのみ! それ
に、このままなら、鷲宇さんの歌を本人と一緒に唄わなくて済むかも? なんちゃっ
て)
 気休めに、いいことを一つでも見付けて、肩の荷を少しでも降ろす。いよいよスタン
バイに掛かろうと、部屋を出ようとしたところへ、市川が言ってくる。
「幕が上がる前に、どう変更するかを決めたかったんだけど、無理かもしれない」
 市川の話に、黙ってうなずく。
「休憩時間までには決まるはずだから、それまでは気にせずに、段取り通りにやって。
いいね?」
「はい」
 久住になりきった声で応えた。
「久住淳の初ライブ、飾りに行ってきます!」

「えっと? サプライズゲストが来ているそうです、カンペによると」
 休憩開けに一曲、カバーソングを歌ったあと、純子は、否、久住は切り出した。
「正直に言います。僕が最初に聞いていたサプライズゲストとは違います。だから、僕
にとっても本当にサプライズになってしまいました」
 観客席からの反応が、どういうこと?という訝るものから、笑い声へと変化する。
「お待たせしては問題ですし、早速お呼びします。かつて映画で共演し、勉強させてい
ただきました、加倉井舞美さんに星崎譲さんです」
 思っていた以上に、大きなどよめきがあった。加倉井か星崎、どちらか一人ならまだ
想像できたが、二人揃ってというのが予想外だったのかもしれない。新作映画の宣伝で
もない限り、普通はない華やかな組み合わせなのだ。
 二人はそれぞれ、舞台袖の両サイドから現れた。客席から見て左が星崎、右が加倉
井。久住は順番にハイタッチしてから、女性である加倉井に真ん中を譲ろうとした。
が、やんわりと拒まれてしまい、思わず苦笑い。仕方なく、中央に収まり、三人で肩を
組む。
「何を引っ込もうとしてるの? 今日の主役は久住淳でしょう」
「そうそう。楽をしようたって、そうはいかない」
 加倉井、星崎の順に早速やり込められた。大雑把な流れしか決められていないし、聞
かされていない。手探り状態で、トークを続ける。
「そのつもりだったんですが、お二人の芸能人オーラを目の当たりにして、怖じ気づい
ちゃいました」
「怖がらなくていいじゃない。久住君のオーラだって、負けてない」
 さも、オーラが見えているかのように、指差す仕種の加倉井。つい、振り向いて背後
を見上げてしまった。笑いを取れたからOKとしよう。
「真面目な話をしますけど、本当に急な話で出演してくださって、感謝しています。加
倉井さん、星崎さん、ありがとうございます」
 深々とお辞儀。あまり丁寧だと女性っぽく映る恐れがあるので、上体を起こすときは
やや粗っぽく。
「いやいや、どういたしまして」
「真面目な話は面白くないよ。ほら、お客さんがあくびしてる」
 さすが慣れていると言うべきか、星崎が客いじりを始める。そのあとしばらくは、先
輩二人の独壇場だった――二人で独り舞台というのもおかしいかもしれないけれど。
「――あ、星崎さん、時間みたいです。一曲、歌ってもらわないと」
「ああ、そうだった。でも、お客さん、いいの?」
 星崎が耳に片手を添える。即座に、観客全員が声を揃えたのではないかと思えるくら
い大きな「いいよ−!」という答が返って来た。ここに至るまでに充分に温め、客席と
のやり取りで心を掴んだ成果が出た。
「よかった。じゃあ、何がいいかな。今日は収録がないから、何を唄っても大丈夫と聞
いたんだ。リクエストがないなら、久住君とは畑の違うところで、演歌を」
「えー? 演歌、ですか」
 イメージにないので、心の底から驚いてしまった。まあ、演歌なら比べられることも
少ないだろうから、安心ではあるけれども。
「演歌を歌う星崎さんなんて珍しい姿、ファンの人に取っておけばいいのでは」
「そんなに勿体ぶるもんじゃないよ。えっと、このところはまっているのが、『氷雨』
なんですが、皆さん、特に若い人は知ってる?」
 半数ぐらいが知っていたようだった。

 星崎が『氷雨』を朗々と?見事に歌い上げると、期せずして拍手が起こった。どちら
かといえば大人しめの容貌の星崎だから、女性になりきったような歌い方をするのかと
思いきや、芯のしっかりした男っぽい声でやり通した。
 あとを受けてマイクを握った加倉井は、「一番得意なのが持ち歌なのは言うまでもあ
りませんが、今日は宣伝に来たんじゃないし、先に星崎君に演歌なんて面白いことをや
ってしまわれると、私も何かしなくちゃいけないのかなと考えて」云々と前置きした挙
げ句、『すみれ September Love 』を振り付けありで力一杯やってくれた。星崎と違
い、独自色をなるべく消し、物真似に徹したような唄いっぷりで、これまた見事だっ
た。
「この曲も結構昔、大昔の曲だった気がするんですが」
「それが?」
 久住が話し掛けると、加倉井はほんの少し息を切らしながらも、髪を軽く振って答え
る。
「いや、加倉井さんがどうして知っているのかなって。物真似できるほど」
「カラオケの十八番の一つなの。それより、久住君だって物真似だと分かってるってこ
とは、つまり知ってるんじゃない」
「あはは、ばれましたか」
 軽妙なやり取り。ようやくこつが掴めたかなという頃合いだったが、時間の都合でそ
ろそろ切り上げねばならない。
 先に思い付いていた星崎とのユニットは、加倉井が参加してくれたことで、なしとし
た。どちらか一方を特別扱いはしたくないし、あといって加倉井と二人で唄うのも練習
なしでは難しいというわけ。
 ゲストの最後の見せ場ということで、三人で唄う。ぶっつけ本番で三人揃って唄える
ほぼ唯一の歌というと、共演した映画の主題歌になる。緊急事態の割に、意外と感覚で
記憶しているもので、まずまず聴ける物になっていた。さすがに歌詞はうろ覚えだった
ため、歌詞カードを見ながらになってしまったが。
「――では、残念ですが加倉井さんと星崎さんはここまでということで」
「もう? あら、ほんとだわ。マネージャーが時計を指差して、頭から湯気を立てて
る」
 冗談を言う加倉井の口調は、実際、まだまだやりたそうな響きを含んでいた。が、時
間切れというのも事実。星崎とともに、登場したのとは反対方向にそれぞれ下がった。
「ほんっとうに、ありがとうございました。ピンチのときは、また来てください」
 舞台袖にそんな呼びかけをすると、「次からは一人で!」と反応があった。
 とにもかくにも大きな山場は乗り切った。久住は一安心すると同時に、気を引き締め
直しもした。
(さあ、ラストスパート!)
 脳裏にこのあとの進行を改めて思い描き、切り出す言葉を考える。
「また一人になってしまいました。寂しい気もしますが、がんばります。次は――」
 曲名を伝えようとしたそのときだった。
 場内が暗転し、次の瞬間には、舞台上手にスポットライトが当てられる。ほぼ同時
に、
「寂しいと言ったか? ならばもう一人、僕がゲストになりましょう!」
 鷲宇憲親の声が轟いた。
「鷲宇さん?」
(間に合ってたの?)
 いつもなら、というか通常の状態なら、鷲宇憲親ほどのビッグネームであれば大歓声
がわき起こっておかしくないのだが、今のは唐突すぎた。声だけでは誰か分からない人
もいたようだ。
 若干外し気味だったが、鷲宇が姿を現すと一挙に空気をひっくり返した。観客に向か
って満遍なく手を振ると、次いで久住を指差した。
「え? え?」
 わけが分からない。間に合っていたのか、今し方到着したのか知らないが、これから
唄うつもりらしい。伴奏が流れ出している。
「メドレーで行くよっ」
 元々のセットリスト通りにやる、ということだ。
(急な変更の対応だけでもくたくたなのに、ここで鷲宇さんとデュエット……)
 久住は純子に戻りそうになるのを踏み止まった。力を込めて拳を握り、応じるサイン
を鷲宇に返す。
(最後まで全力で、楽しんでやる! こんな経験、普通できないんだから!)

 ミニライブの翌日は、午後から比較的負担の少ないインタビューの仕事があるだけだ
った。なので、空き時間を使って、星崎と加倉井それぞれの事務所にお礼に行くつもり
でいたのだが……身体が動かなかった。心身ともに疲れ切っていた。
 ありがたいことに、双方の事務所からは、「今は当人(星崎または加倉井)も仕事で
不在ですし、後日落ち着いてからで一向にかまいません」的な対応をしてもらった。お
言葉に甘えて、後日に回すことに。
「いいのかなあ」
 早めに迎えに来た市川は、上がり込んできて、しばらく話をすることに。
「いいのかなあって、後回しにしてもらうと最終的に決めたのは、市川さんじゃないで
すか」
 身支度を終えて、仕事モードに入る努力をしつつ、純子は指摘する。
「それはその通りで、別に心配してない。ただ、借りを作った形だからね。鷲宇さんの
方がより大きな借りだけど、だからといってこちらが頬被りしていいもんじゃない」
「助けてもらったんです。お返しをするのは当たり前です」
「それは同意。けど、ネームバリューから言えば、同じ状況のとき、久住淳がゲスト出
演したって、釣り合いが取れない」
「う。それは仕方ありません。か、数でこなしましょう」
「私は、数よりも質を求められる可能性ありと踏んでいるのよ。どうだろう?」
「どうだろうって……具体的に言ってもらわないと」
 市川がこういう喋り方をするときは、どことなく嫌な予感が立つ。経験上、当たって
いることが多い。
「思い当たらない? 何にも?」
「はあ、そうですね……」
 考えるつもりの「そうですね……」だったのだが、市川は「思い当たらない?」とい
う質問に対しての返事と受け取ったようだ。すぐに言葉を被せてきた。
「星崎君はともかくとして、加倉井さんは前に言ってたんでしょうが」
「前と言いますと、映画のとき、ですか」
「そうそう。覚えてるじゃない。彼女、あなたに――久住淳に、また共演したいって持
ち掛けてきてたじゃないの」
「あ。そうか、そうでした」
 言われるまで忘れていた。そして言われた途端、鮮明に蘇る記憶。九割方リップサー
ビスだと信じているのだが、加倉井が「久住君、まだしごいてあげるわ」なんて気でい
るとすれば、可能性ゼロではない。
「うわ−、一緒にできるとしたら光栄なんだけど、どうしよう、今から考えただけで疲
れが」
「こらこら。このあと仕事だってのに。だいたい、私の勝手な想像に対して、そこまで
思い巡らせるっていうことは、もしも話があったとしたら、受ける気満々てことじゃな
いのかな」
「うーん。分かんない」
 頭を抱えた純子に、市川は別の方向から追い打ちを掛けてきた。
「それで、お礼の件なんだけどね。ゴールデンウィークの最終日に入れちゃおうかと思
う。何だっけ、護身術の日と重なるけれども、大丈夫ね?」
「ふぁい?」
 もうどうとでもしてください……。

――『そばにいるだけで 65』おわり




#498/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:27  (368)
偽お題>書き出し指定>告四(前)   永山
★内容
 僕は告白したあと、その日が四月一日だと気付いた。あとになって気付いても、もう
遅かった。
 勇気をありったけ振り絞って告白したのに、目の前に立つおねえさんは真面目に受け
取らず、てんで相手にしてくれなかった。
「ははーん。綿貫君、それってエイプリルフールだよね?」
 こう言われて、僕はただただ動揺しただけなのに、恐らくおねえさんには「嘘がばれ
た、しまった」という顔に見えたに違いない。
「ち、ちが」
「だめだよ、大人をからかっちゃあ。こんなことして許されるのは、子供のときだけだ
からね。小学五年、いや、今日からは六年生か。小六って結構微妙だよ。私だからよか
ったようなものの、他の人相手だったら叱られてる。それどころか、ぶっ飛ばされてい
たかもしれないよ」
 文字通り、小さな子に言い聞かせる口ぶりで、おねえさん――正田義子おねえさんは
僕の頭に手をのっけた。そして僕の髪をくしゃくしゃにする勢いで撫でながら、続け
た。
「遊びたい年頃なのは分かるよぉ。だけど、私もこうしてお仕事があるからね。次のお
休みの日まで待ってて、いい子だから」
 僕はそれでも、告白を続けようとしたんだ。でもそのとき、おねえさんにはお客さん
が来て、そちらの応対が始まってしまった。こうなるともうだめだ。終わるまで、他の
ことには関心を向けない。経験で分かっている。
 僕はあきらめ、その日は家に帰った。休みの日まで待つつもりはなかった(そもそ
も、休みの日では意味がないのだ)ので、翌日にでも出直そうと思っていた。
 ところが、そうするには行かなくなる事情が、夜の内に起きてしまったのだ。それは
一本の電話から始まった。僕は携帯電話の音に起こされた。時間は、0時を回ったとこ
ろ。つまり、日付が変わったばかりのタイミングだった。
「誰?」
 寝床から気持ち上半身を出して携帯電話を握りしめ、ディスプレイを見たが、そこに
は数字が表示されていた。名前が出ていないということは、登録されていない人からの
電話だ。拒否設定は非通知のみ。基本的に、こういう電話にはなるべく親に先に出ても
らうのだけれど、夜中だったし、ベッドから出るのが面倒だったのもある。四月に入っ
たばかりで、夜はまだ冷える。
 一応迷ったのだが、僕は電話に出た。
「もしもし、どなたですか」
 不機嫌な調子になってしまった声で誰何すると、相手は「綿貫君?」と聞いてきた。
それが女の声だったから、驚いた。
「綿貫一郎ですが……」
 再度、どなたですかと問う前に、答が返って来た。
「夜遅くにごめんなさい。同じクラスの吉原です」
「よ、吉原さん?」
 思わずどもった。クラスの女子から電話なんて初めてだし、しかもこんな時間に掛け
てくるなんて何事だ? 一瞬、思い浮かんだのは、僕と親しい男子の身の上に何かとて
つもない不幸が降りかかり、そのことを知らせる役が吉原さんになったのではないかと
いう流れ。吉原さんはクラス委員長なのだ。
 けど、それにしては、口調が明るい。おかしい。いいことが起きたからってこんな時
間に電話連絡があるはずないし、一体何なんだろう。
「今、話をしてもかまわない? 時間ある?」
「うん」
 彼女は、明らかにひそひそ声だった。僕は同じように声の音量を絞り、低めた。
「こんな時間に、本当にごめんね。寝てた?」
「寝てた」
「わ、私はいつもは眠ってるんだけれど、今日は眠れなくて。日付が変わるのを待って
いたから」
「日付って、四月二日になるのを待ってたってこと?」
 誰かの誕生日なのかなと、漠然と考えた。心当たりはないけれども。
「そう。昨日だと、嘘だと思われる可能性があるもの」
「……あのさ、そろそろ話してよ」
「じゃ、じゃあ言う。大きな声を出さないで聞いてよ」
「? うん、分かった」
「――綿貫君。私とお付き合いしてください」
 滅茶苦茶早口で言われた。でも、ちゃんと鮮明に聞き取れた。
 僕は電話を持つ手が震えるのが分かった。かさかさ音を立てて、みっともない。左手
を右手で押さえて、それでも止まらないので、右手に携帯電話を持ち替えた。
「……あの……だめ?」
 吉原さんの不安な響きの声。僕は黙ったまま、首を横に振った。それでは伝わらない
と気が付いて、遅ればせながら口を動かす。
「だめじゃないよ! ぜひぜひ」
 みっともない返事になったが、誰も僕を責められないだろう。吉原さんは僕が一番好
きな女子であり、クラスの男子全体からの人気も高い。
 瞬時にして有頂天になった僕は、ありとあらゆる嫌なこと面倒ごとを忘れ、それらか
ら逃れようと決意を固めた。
 だから僕は、出直そうと思っていたおねえさんへの告白も、やめることにした。

 ――大人になるのを目前に控えた今になっても、当時のこの判断が正しかったのかど
うか、僕は非常に迷う。本来、二股に掛けるべくもない、全く異なる物事を天秤の左右
の皿それぞれに載せたのだ。揺れは収まらず、いつまで経っても結果が出ない。
 尤も、現状を思うと、正解を選んだと言える。僕は希望する大学に入り、充実した
日々を送れている。吉原との付き合いは今も続いている上に、同じ大学の同じ学部に入
ったという相性のよさを誇る。将来、一緒になるかもしれない。可能性は高い。
 小学六年生のあのときもし、おねえさんに告白していたら、現在の幸せはないことに
なる。断言できる。
 何故なら、僕はあのとき、人を殺してしまったことを、婦警である正田おねえさんに
打ち明けるつもりだったのだから。

 もちろん僕は殺人鬼ではない。殺したのは一人だけで、それも計画的な犯行ではな
く、多分、過剰防衛の類に入るんじゃないだろうか。
 告白しようと考えた日の前々日は、日曜日だった。僕は、町の中心部から見て小学校
とは反対側に位置する山にいた。正式名称か知らないが、松城山とみんな呼んでいた。
大きな山ではないが、学校からは遠くて、自転車でも一時間半はゆうに掛かったろう。
子供らがしょっちゅう足を運ぶような場所ではなく、わざわざ遊びに行きたくなるよう
な施設がある訳でもない。植物や昆虫採集の“聖地”として認識されているくらい。だ
から、僕が問題の日にあの山に行って、あれを目撃したのは何の必然性もない、偶然の
産物だった、はず。
 詳しいいきさつは忘れたが、あの日曜日は朝から、僕の家の近所に住む叔父に着いて
行って、車で出掛けた。叔父は松城山の近くの神社か何かに用があったんだと記憶して
いる。僕は麓で一人、遊んでいた。何故、着いてきたのかというと、用事のあと、映画
を見に行くから一緒に来ないかと誘われたんだった。
 はじめに聞いていたよりも遅くなりそうだと叔父に言われたのをきっかけに、僕は山
に踏み行ってみた。ほんの少しだけ登るつもりが、薄気味悪い沼や廃屋や蔦やらを見て
回る内に、意外と楽しくて、いつの間にか中腹まで来ていた。中腹には平らかでミニサ
ッカーができる程度のスペースがあり、そこからは町が一望できたのだが、僕の興味は
背後にある鬱蒼とした林に向いた。季節は秋を迎え、徐々に葉が色づき始めていた。足
元に落ち葉が溜まっていたが、それは去年までの物と思われ、腐葉土とほとんど変わり
がなかった。
 僕の目当ては、さっき目撃した沼や廃屋がまたないかということにあり、そういった
ちょっと不気味な雰囲気の物を探して、歩き回った。
 最初は見付からなかったが、少し奥まったところに、沼を発見した。規模から言え
ば、池と呼ぶのがふさわしいのかもしれなかったけど、緑色に濁ったような水面は、い
かにも沼といった風情に感じられた。
 その先は行き止まりだったので引き返す。途中、不意に人の声がした。僕は反射的に
身を木陰に隠した。足元に丸くて平べったいフリスビー大の石があって、ぐらついた
が、何とか堪える。
 人の声とがさがさという音のする方を覗くと、セーラー服姿の中学生か高校生が、大
人の男に後ろから掴まえられているのが見えた。男の腕は、片方が女生徒の口元を覆
い、もう片方は胴体をがっちり抱えていた。身長差がだいぶあるみたいだけど、男は膝
を曲げ気味にしているため、正確なところは分からない。と、見ている間に男が女生徒
を仰向けに引き倒し、馬乗りになる。よく見ると、口を押さえている手には、白い布が
あった。薬を嗅がそうとしているのだと推測できたのは、だいぶ後になってから。リア
ルタイムでは、目の前の出来事にただただ唖然として、息を殺していた。
 薬が効いたのか呼吸困難に陥ったのか、やがて女生徒が静かになり、ほとんど動かな
くなった。男は馬乗りのまま、女生徒の首に両手をやった。
 それを見た僕は、唐突に思い出した。当時、僕らの住む県南部では、連続殺人事件が
広範囲に起きていた。最初の殺人から三ヶ月ぐらい経っており、僕らの市内ではまだ起
きていなかったが、隣接する複数の都市でも二件、発生していたと思う。
 その犯人は一部マスコミから「ロガー」なる名前を与えられた。無差別に老人や女子
供、つまりは弱者ばかりを狙う卑劣な快楽殺人鬼と認識され。殺害手段は様々だった。
それまでに起きていた八件の中では、扼殺を含む絞殺が半数を占めており、あとは刺殺
と撲殺、溺死させる、墜死させる手口が一件ずつ。何故、同一犯の仕業とされたか? 
小学生の僕はその正確な理由まで把握していなかったが、後年になって知ったことと合
わせて説明するなら、前の被害者の持ち物を次の被害者の服に忍ばせる点と、偶数番目
の被害者の身体のどこかに白墨で丸い印を残す点が挙げられる。
 被害者同士の関係は、ほとんどなかった。唯一、最初の被害者と次の被害者とは、同
じ小学校に通ったことのある女子中学生だった。ただ、中学は別々で特に親交が続いて
いる様子はなく、小学校時代にしても三、四年生時にクラスが一度同じになっただけと
いう、頼りないものだった。
 話を戻す。
 僕は恐かった。すぐそこで女子生徒を襲っている男が、殺人鬼ロガーに違いないと思
い込んだ。冷静になって考えれば、そんな根拠はまるでないと分かる。裏を返せば、そ
のときの僕は冷静ではなかったし、現在よりもなお子供だった。
 僕は逃げることすらできず、気付かれないようにと息を潜めていた。そのつもりだっ
た。
 だけど次の瞬間、男が僕の方を一瞥した。そう思えた。僕は顔を引っ込め、木陰に全
身を隠した。そのとき足元がまたぐらついて、少し音を立てた。男に聞かれたかもしれ
ない。だが、恐怖からすぐにまた覗き見るなんて真似はできなかった。
 どのぐらいの時間が経ったか分からないが、多分、五分と過ぎていなかっただろう。
男が僕の方へやって来る気配はなく、女子生徒の悲鳴一つ聞こえず、ただただ男が何か
しているらしい物音だけがしていた。僕は思い切って、顔を再び覗かせた。さっきとは
反対側からにしたのは、子供じみた対応策だった。
 が、またもや男に見られた。目が合ったような気がしたのだ。
 もうだめだ! このままここにいたら、殺されるっ。かといって逃げ出せない。パニ
ック寸前だった。あの女の人が殺されたあとは、僕なんだ。
 そこからあとの行動は、自分でもよく記憶していない。結果から推測した僕の行動
は、足元のフリスビー状の石を取り上げると、なるべく足音を殺して、男の背後から近
付き、そして男の頭部を殴打したらしい。何度も、何度も。男が女生徒に意識を向けて
いる間に、不意を突くのが唯一の勝ち目だと思ったに違いない。ともかく、僕は無我夢
中で殴っていた。
 手応えがなくなるまで、続けていたように思う。気が付いたときには、僕は宙を石で
漕いでいた。男は俯せの姿勢のまま、真下に倒れ伏していた。地面に沈み込むかの如
く。
 不思議だったのは、女生徒の姿が消えていたことだ。最初は、男の身体の下敷きにな
って、見えないだけだと思ったが、違った。誰もいなかった。
 よく見ると、男の頭の先に、向こうへと地面を何かが這ったような擦った痕跡ができ
ていた。最前までなかったものだ。つまり、女生徒は僕が男を殴打している間に、意識
を取り戻して逃げたらしい。痕跡は二メートルほどで途切れている。そこからは立ち上
がり、一目散に走り去ったということか。
 と、冷静な風に描写しているけれども、これは今現在の僕が、状況を整理して書いた
からこそで、小学生の僕はここまで落ち着いてはいられなかった。
 まず男が動かないのを見て、次に返り血を浴びた自分自身を見た。死んだ、殺したと
直感し、その場を飛び退いた。女生徒がいないのも把握して、混乱しつつも血塗れでは
出歩けない、どこかで洗い流そうと考えた。思い出したのが沼だ。僕はがくがくと震え
る膝を何とか操って、沼の畔まで辿り着くと、波紋のできていた水面に両手を突っ込
み、じゃばじゃばと音を立てて、目に付く限りの血を洗い落とした。さらに顔も洗っ
た。水を鏡代わりに見てみようとしたが、濁ってしまって全然役立たなかった。念のた
め、上着のジャンパー脱いで見てみると、ぱっと見では分かりにくいが、細かな赤い
点々が前面に残っていると分かった。しょうがない。沼に落としたことにしよう。僕は
ジャンパーを丸ごと沼に漬け込んだ。
 叔父の存在を思い出したのはその直後。今日は映画は無理だ。沼に僕自身が落ちたこ
とにして、連れて帰ってもらおう。そこまで知恵を働かせると、尤もらしく見えるよ
う、慎重に自らの身体を部分的に濡らした。
 皮肉なことに、その途端、空から雨粒がぽつぽつと落ちてきて、じきに土砂降りにな
った。でも、これは好都合だ。男の周辺の血までもが、雨で洗い流されていく。

 それなりに人が往来する場所であるはずなのに、遺体発見のニュースはなかなか流れ
なかった。僕はまんじりともせずに翌日の三月最後の日を過ごし、夜を迎えた。
 そして、家族で二時間サスペンスを見ているとき、はっと気付かされた。画面では、
大人の男女がテントの中でセックスしていた。見ているこっちは、親子で気まずくなる
時間。けれども、僕は別の発見もあった。
 女の人が嫌がっていなくても、口では嫌と言う場合があることを、このドラマを見る
まで知らなかったのだ。
 途端に、恐ろしい考えが閃いてしまった。もしかすると、僕が木陰から目撃したあれ
は、男が女生徒を襲っていたのではなく、合意に基づいた性交渉だったのではないか。
だとしたら、僕は勘違いをして男の人を死なせたことになる。女生徒がいなくなったの
は、きっと、必死の形相の僕を見て、恐ろしくて逃げたのだ。
 殺人鬼をこの世から消したのなら、まだ救われる。それが全くの的外れで、勘違いか
ら人殺しになったのだとしたら、どうしようもない。最低だ。
 無口になった僕を、父と母はいつもの恥ずかしさから来るものだと思ったろう。僕は
それを受け入れ、そのままテレビのある部屋を出た。自分の部屋に入るとドアをしっか
り閉める。鍵が付いていないから、いきなり開けられないように、勉強机から椅子を持
って来て、ドアの前に置いた。これで少しは落ち着ける。深呼吸をし、どうすべきか真
剣にじっくり検討を重ねた。
 結果、通学路の途中にある交番勤務の制服警官、正田義子おねえさんに全てを打ち明
けようと決心したのだ。男が罪人であろうとなかろうと、小学生が背負い込むには重す
ぎる事態だったから。
 そもそも、冷静になって思い返すと、僕が目撃した一連のシーンが、全て演技だった
とはとても考えられない。外で演技する意味が理解できないからだ。特殊な状況で演技
したいのであれば、もっと人目に付かない場所を選ぶものでは? 松城山は観光地では
ないが地元の人が割とよく訪れるし、ましてや現場となったスペースは休憩するのには
ちょうどいい場所のように思う。本当に演技――つまり、映画か何かの撮影だとして
も、僕が石をふるった時点で関係者が飛び出してくるだろう。
 もちろん、反対のことも言えなくはない。あれが犯罪行為なら、犯人の男は何故、人
がいつ来るか分からないような場所で、女生徒を襲ったのか?と。ただ、この疑問は演
技説のそれよりは、遙かに納得しやすい説明が可能だ。犯人は我慢できなかった、もし
くは、犯人は被害者を押し倒したあと、茂みに引きずり込むつもりだった、という風
に。
 以上の考察から、僕は(小学生当時においても)、男は犯罪者であり、女生徒を襲っ
たのだと判断した。それにやはり、僕は間違いなく、男を殺したのだということも。
 そうして覚悟を決め、告白したのだが――相手にされなかった。エイプリルフールじ
ゃなくても、同じだったかもしれない。小学生が殺人を告白したって、簡単には信じて
もらえまい。それでも再度、日を改めて言おうと踏み止まった。なのに、まさかこんな
タイミングで、好きな子から告白されてるなんて。
 僕は決意を放り捨て、保身に転じることにした。
 そのためにまずやらねばらないのは、死体の隠蔽か、女生徒の発見か。僕はとりあえ
ず、ある予感もあって、現場に戻ってみることにした。犯罪者は現場に戻るという格
言?通りの行動になるけれども、他に選択肢がない。
 最初、叔父にまた乗せて行ってもらえないかと考えたが、そうそう都合よく行くはず
もなし。自力で、つまりは自転車で行くことにした。
 吉原さんとサイクリングならどんな長距離でも楽しい道のりなのだろうけれど、目的
が目的だけに、気が重い。足も重かった。松城山のすぐ近くまで来ると、警戒心が働い
て、一層のろのろしたスピードになった。もうすでに発見されていて警察が来ているん
じゃないかという恐れから、しばらく様子見のため、ぐるぐると周辺を何度か行き来し
た。が、異状は見られない。大人からすれば今日は平日、行楽に来る人もいないようだ
った。僕は自転車を適当な茂みに隠すと、思い切って現場に向かった。上り坂は所々き
つかったが、くだんのスペースには意外と早く到着した。人がいない今の内にと、気が
急いていたのかもしれない。
 僕は問題の現場を見渡せる位置に立つと、息を飲んだ。
 遺体が見当たらなかったのだ。

 あれは夢だったのか、なんて希望的観測に満ちた甘い夢は、小学生のときの僕だって
見やしない。
 頭の片隅で予感はしていたため、パニックに陥って叫び声を上げるなんて真似はせず
に済んだ。
 女子生徒が無事に逃げ出したのなら、ここに他殺体がある(少なくとも、流血沙汰が
あった)ことを認識しているのだから、警察に通報するはず。女子生徒が何らかの理由
で口をつぐんでいる可能性は低いと思うし、仮に口をつぐんだとしても、三日の間、他
の誰も現場を訪れないなんて、なさそうだ。
 なのに、現実には、丸三日が経過しても全くニュースに出ない。普通はあり得ない。
 そうなってくると、考えられるのは一つだけ。男の遺体が消えたのだ。
 かような分析に基づく“予感”通り、遺体は消えていた。凶器に使った平らな石すら
ない。
 僕はしかし、予感の的中を喜ぶよりも、新たな問題に実際に直面し、困惑していた。
死体が独りでに動くことはないのだから、誰かが動かしたに違いない。
 なお、男は実は死んでおらず、息を吹き返した後、去ったなどということはあり得な
い。僕が血を落とそうと奮闘し、十五分は経過していただろうけど、男の身体は微塵も
動いていなかった。確実に死んだのだ。
 では遺体を隠したのは誰か? 何が起きたかを知っている女生徒か。彼女にとって僕
は命の恩人だろうから、かばってくれるということはあり得る。警察が動いていないら
しいのも、辻褄が合う。
 これが正解だとして、女子中学生だか高校生だかが、大の男を移動させるには制限が
掛かる。単独ではほとんど動かせないはず。かといって、普通に考えるなら、知り合い
に協力を求められる状況でもない。
 僕は改めて広場を見回した。すぐに目がとまったのは、例の沼。あそこまでなら、女
生徒一人でも引きずっていけるのではないか。最後は足で蹴飛ばして、沼の底に沈めれ
ばよい。
 僕は沼の畔に立った。相変わらず濁っていて、底どころか水中がどうなっているのか
も分からない。
 遺体があるのならいつか浮き上がってくるだろうけれど、その頃には、色んな証拠は
流されて、人の記憶も曖昧になっていると期待できる……と、ここまで考えたものの、
だからといって楽観視できるものでもなし。せめて、本当に男の遺体が沈められている
のか、確かめたいと思った。
 無論、潜る訳に行かない。片膝をついてしゃがむと、水面に顔を近付ける。目を凝ら
すが、視界は変わらなかった。しょうがないので、手を入れて、少しかき分ける仕種を
してみたが、結果は同じ。いや、むしろ逆効果だったかもしれない。
 あきらめて手を引っ込めようとした瞬間、指先が何かに触れた。固くもなく柔らかく
もない。ゴムかプラスチックの感触に近い……?
 生き物だったら気持ち悪いなと思いつつ、もう一度同じ場所に右手を、恐る恐る入れ
た。さっきと違って、ゆっくりゆっくり水をのけるように手を動かす。すると、不意に
それは浮かんできた。
 ぷかりと浮かんだのは、黒っぽい色をした靴だった。サイズはそんなに大きくない。
僕ぐらいにちょうど合いそうな、でも女物らしく見えた。水に落ちてまだそう日が経っ
ていないのか、乾かせば使えそうな感じがする。
 と、突然、その靴に見覚えがあることに気付いた。飾り気のない、色も地味な、いか
にも学校指定の靴……もしや、これは。
「あの女子の?」
 思わず、呟いていた。
 まさか、あのときの女生徒は、男の身体の下から逃げ出したあと、行くべき方向を誤
って、沼に落ちたのか? 靴がそのままあるっていうことは、彼女自身、今も沈んだま
まなのか?
 背筋に戦慄が走った。全身が総毛立った気もする。
 がたがた震える自分を自分で抱きしめ、立ち上がろうとしたが、くずおれてしまっ
た。尻餅をついた格好で、しばらく動けなかった。口の中はからからだったが、唾を飲
み込んで、いくらか後ずさる。姿勢を立て直して、震えが収まるのを待つ。が、待ちき
れなくて、膝に意識的に力を入れてやっと立ち上がった。五秒ほど考え、靴は拾得する
ことにした。
 子供が行方不明になっても、誘拐事件である可能性を考慮して、すぐには報道されな
いケースは結構あるだろう。女生徒の場合もそれに当てはまっているのか。
 しかし、女生徒が沼で溺死したとすると、男の遺体を消したのは一体、誰なんだ?

 僕は自転車を目一杯漕いで、家を目指した。安全運転に努める余裕はほとんどなかっ
たが、どうにか無事に帰り着いた。それから帰路を行く間にずっと考えていたことを、
自分の部屋に籠もってまとめようと思った。
 それは、男の遺体を隠したのは、やはり女生徒だったのではないかという考えだ。詳
しく言うと、女生徒が男を遺棄する過程で、誤って自身も落ちてしまったという仮説。
ないとは言えない。
 ただ、何となく心理的になさそうな気がした。何故かというと――僕が放置した凶器
が、あの現場には見当たらなかった。凶器と遺体の両方を沼に沈めるとして、先にやる
のは遺体の方を選ぶんじゃないかと思う。凶器を先に始末したあと、万が一にも男が蘇
生したら、女生徒には武器がなくなるし。
 いくら考えても推論は推論でしかなく、結論は下せない。男もしくは女生徒の遺体が
浮かび上がり、警察によって沼が浚われるのを待つしかないようだった。でも、女生徒
には生きていて欲しい。だからこそ、靴を持ち去ったのだ。彼女が生きているなら、靴
は脱げ落ちただけということになる。現場に残しておくと、男の遺体が発見されたと
き、男を殺した犯人につながる手掛かりと見なされるだろう。
 僕はそのときが来るまでは、せめて忘れていようと、小学生最後の一年間をいかに充
実したものにするかに意識を向け、そして吉原さんとの付き合いに力を入れた。
 が、それを妨げるかのように、気に掛かることが持ち上がっていた。春休み中に見た
朝のワイドショーでの特集だった。
 ロガーによる犯行が、ぴたりと止んだのだ。
 およそ十週の間に八人を殺したロガーが、音沙汰梨となってからもうすぐひと月にな
る。犯人はどうしたのか。どこで何をしているのか。分かりもしないことを、ゲストの
タレントや専門家と称する複数の男女がああだこうだと言い募って、特集は終わった
が、僕はこの事実を突きつけられ、嫌でも思い起こした。
 あの男がやはりロガーで、女生徒を九人目の犠牲者にしようとしていた? ロガーが
死んだから、犯行は止まった?
 そう解釈すれば、何もかもがぴたりとうまく収まる気がした。殺人鬼を葬り去ったの
なら、僕の精神も比較的安定するだろう。
 だけど、一方で、二ヶ月あまりで人を殺すような殺人鬼が、僕のような子供にあんな
にあっさりとやられるものなのだろうか。疑念は消えない。

 四月の十五日になって、動きがあった。ある意味待望の、である。
 松城山中腹の沼に遺体が浮かんだのだ。
 男性だった。
 速やかに警察の捜索が入り、一両日中に沼を完全に浚ったらしい。その結果、他に遺
体が上がることはなかった。
 沼には、長い間に投げ込まれたり落としたりした物が、大量に沈んでいたそうだが、
女子生徒の持ち物らしき遺留品はなかった、と思う。発表されていないだけで、見付か
った物があっても伏せられているのかもしれないが、とにかくニュースや新聞では何も
言っていなかった。
 一方で、男については、比較的多くの情報が出て来ていた。名前は大家延彦と言い、
三十五歳の独身、アパートに一人暮らし。二十八で結婚するも三十三で離婚。ビジネス
用品メーカー勤務でトップクラスの営業マンだったが、身体を壊して昨年末に休職。別
れた妻との間には子供が一人いるが、会うようなことはしていない。養育費はきちんと
払い続けており、生活に困っている様子はなかったという。
 アパートの部屋からは、ロガーに殺された被害者との関連を裏付ける物が複数発見さ
れたそうだが、ほとんどは明かされていない。正式発表されたのは、八人の被害者名を
書き記した手帳と、最初の被害者の皮膚組織が検出された革紐。特に後者は、有力な物
証と言える。もちろん、大家が紐を触ったという証拠も見付かっている。
 動機が不明だが、離婚や休職をきっかけに、少しずつ精神的に弱っていたんじゃない
かという説明がなされていた。小学生だった当時は、その説明ですんなり納得していた
けれど、今考えると随分と乱暴な話だ。
 結局、容疑者が死んでしまったせいもあり、大家が八件の殺人全てをやったという証
明は難しかったらしく、半分の四件で、容疑者死亡の不起訴処分という処置がなされ
た。僕が大家延彦を殺したがために、事件の完全解決ができなかったのだとしたら、ま
た僕の重荷が増えるが……。あの女生徒の命を守るためにやった正当防衛だと思い込む
ことにする。それに、大家延彦は少なくとも四人殺したと認められたも同然なのだか
ら、三人殺せば死刑と言われる日本の刑罰に照らせば、先んじて刑を執行してやったと
も言える。とにかく、そう思い込むことで、僕は心の均衡を保つことができた。
 夏休みに入る頃合いには、ロガー事件は決着を見たような空気になった。あとから思
うと、世間はロガーという殺人鬼に飽きて、次の大事件を求めていたような気がする。
 僕は吉原さんとの付き合いを深めた。と言っても、小学生のできることなんて、たか
がしれていたけれども。遊びに行くのも二人きりになることは滅多になく、グループで
出掛けた。
 松城山には足が向かなかった。だけど、そちらの方面になら行くことがたまにあっ
た。そのときだけは、忘れかけていた重荷とか緊張感とかを嫌でも思い出した。確率は
低いかもしれないが、あのときの女生徒とばったり出くわすという偶然が、起こらない
とは言えないのだ。相手が僕に感謝していて、秘密を公にする気がないとしたって、会
わない方がいい。そうに決まっている。


――続く




#499/598 ●長編    *** コメント #498 ***
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:28  (466)
偽お題>書き出し指定>告四(後)   永山
★内容
 そして――七年後の今。
 僕と吉原は揃って大学に入り、上京した。さすがに住居は別だが、距離にして一駅と
違わないマンションに入った。同じマンションに入れなかったのは、吉原が家族の意向
もあって女性専用のそれを選んだからだ。結婚云々は別としても、互いの家族とも小さ
な頃から顔を合わせ、行き来もしており、公認の仲と言えるだろう。
 二人の時間を大切にするため、大学では、なるべる緩いクラブかサークルに入ろうと
考え、僕らは都市伝説研究会というサークルを選んだ。原則的に掛け持ち自由なので、
登録者数は百を超すが、サークル室に姿を見せるメンバーとなると二十人前後、さらに
そこからサークル名通りの活動に参加している者は、十人ぐらいだろう。
 僕と吉原は、都市伝説に興味がなくはないといった程度で、さっきの分類に従えば、
サークル室に姿を見せるが活動参加はあまり積極的でないタイプ。テストやイベントな
どの情報収集が目的のメインだった。
 ところが、ひょんなきっかけから、僕と吉原は活動の中心に躍り出る、いや、出され
る羽目になった。夏休みの合宿先を、先輩方が検討しているときのことだ。
「そういえば、君ら」
 部長(サークルだから会長と呼ぶべきかもしれないが、部長で通っている)の名倉絵
里さんが、部室中央の丸テーブルを離れ、僕らのいる長机の方にやって来た。
「何でしょう?」
 そう応じつつ、合宿先の意見を求められるものと思い、ホワイトボードに書き出され
た候補をちらっと見やった。
 しかし、予想に反して名倉部長はもっと個人的なことを聞いてきた。
「ロガーの事件が起きた地域の出身じゃなかったっけか」
「は、はあ」
 吉原も僕も似たような反応をした。厳密に言えば、僕の方がコンマ五秒ほど遅れたか
もしれないが。
「連続殺人事件のことですよね」
 吉原は笑顔でさらりと言った。怪談話でも始めそうな雰囲気だ。
「うん。えっと、七、八年になるかな」
 指折り数え、自ら納得したように頷く部長。僕も何か言わねば。鼓動の高まりを意識
しながらも、平静を装って、ゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、出身って訳じゃないんです。隣接する市で発声しただけですから」
「それでも、話題にはなったろう? 小学生の頃なら、学校だってぴりぴりするだろう
し」
「はい。それはもう」
 笑みを絶やさない吉原。横目で見ていた僕も、つられて笑う。
「集団下校するようになったんですけど、登校のときと違って、上級生と下級生とで時
間を合わせるのが難しいから、すぐにやめになって。保護者が迎えに来るのをOKにし
たり、登校時にやってる交通安全見守り活動を、下校のときにも行うようになったり。
でも、子供の方は、距離的な実感なんてないから、家に帰ったら勝手に遊びに行ってま
したけど」
 彼女の思い出話を耳にして、僕も思い出した。隣の市まで殺人鬼が現れるようになっ
ていた割に、叔父は僕を一人で遊ばせていた。危ないとは考えなかったんだろうか。そ
ういえば、僕の親もあの日服を濡らして帰ってきた僕を、あんまり叱らなかった。叔父
を責める様子もなかったと記憶している。でもまあ、僕が見ていないところで、無責任
な叔父をきつく注意したかもしれないが。
 でも……。それなら後日、僕が自転車で遠出したのを、両親はよく許可したなと思
う。いや、嘘をついて出掛けたんだったかな? あのときは自分のことだけでいっぱい
いっぱいで、嘘をついている余裕すらなかったかもしれない。
「新年度になったら、全児童に防犯ブザーを持たせようっていう話まで出ていたらしい
んですけど、その四月中に犯人が分かって」
「犯人の遺体が見つかった沼だか池だかってのが、吉原さん達の地元でしょ」
 別の先輩が言った。妹尾という二年男子で、普段はあまり出て来ないが、合宿前にな
ると姿を現すそうだ。続けざまに、部長に尋ねる。
「ロガー事件で都市伝説って、何かありましたか?」
「メジャーじゃないし、都市伝説っぽさには欠けるかもしれないが、あるにはある。ロ
ガー生存説だ」
「ああ、それですか」
 その場にいるメンバーのほとんどが納得した風に頷いたり手を打ったりしたが、僕は
「えっ」と声に出して驚いていた。
「何だ、知らないの?」
「し、知りません。初めて聞きました」
「ふうん。吉原さんは」
「私もよく知りません。何か噂みたいなのは聞いたかもしれませんけど、地元はやっぱ
り、事件が身近だった分、決着したんだ、もうこれ以上は言うなって雰囲気があったの
かも」
「なるほどね。じゃあ、生存説の詳しい理由は知らないんだ? よろしい、話してあげ
よう」
 揉み手をしかねないほど嬉しそうに頬を緩めると、部長は資料を参考にすることな
く、以下の内容をそらで喋った。
 ロガー生存説をより厳密に表現するなら、二人による共犯説になる。つまり、ロガー
の犯行は、二人の人間の仕業であり、大家延彦はその片割れに過ぎない。もう一人は生
きており、今も犯行再開の好機を待っている。
 この説の根拠は、いくつかある。大家の犯行として認定された四件の殺人は、ロガー
の犯行八件の奇数番目のものばかりだったこと。一番目と三番目と五番目と七番目の殺
しが、大家の犯行で、二、四、六、八の偶数番目は共犯の犯行だとする見方。
 また、殺害方法が多岐に渡る点も、共犯説を補強する。大家の自室から紐状の凶器が
見付かったことで、考察や扼殺は大家が好んで用いた方法であり、他の手口は共犯の仕
業と推定される。
「あ、待ってください。ちょっといいでしょうか」
 突然、吉原が先輩の話を遮ったので、びっくりした。
「何?」
「記憶が朧気なんですけど、確か殺し方は、絞め殺すのが前半に集中していたような」
「その通り。奇数番目が絞殺や扼殺なんていう風にはなっていなかった」
「じゃあ、おかしい……」
「うん。そこがこの説の弱いところでね。だからあんまり話題にならず、今では風化し
ているのかもしれない」
「当時の警察の見解では――」
 名倉部長のあとを受けて、妹尾先輩が話す。
「ロガーは大家の単独犯行で、前半に絞殺や扼殺が集中し、後半は手口が変化したの
は、絞め殺すのに飽きて、新しい方法を試したくなったということだったかな。連続殺
人だと分からせるためのサインは、所持品のリレーとチョークで事足りる」
「絞殺が決め手じゃないのなら、どうして奇数番目が全て大家の犯行と認定されたんで
しょう?」
 僕も会話に加わっておく。長い間黙っていると、何となく不安を覚えるから。
 部長が反応する。
「地元で起きた事件なのに、頼りないな。この分じゃ、合宿先にしてもあんまりおいし
くなさそう」
「私達の地元を合宿先にして、ガイドさせるつもりでした? 無理ですよ、そんなの」
 吉原がこう応じた結果、僕らの地元を合宿先の候補にする案はあえなく没となったら
しく、そのまま話題が変わった。
 奇数番目が大家延彦の犯行と認定された理由は、聞けずじまいだった。なので、僕は
マンションに戻ってから、調べてみた。本当は帰宅を待たずとも、いくらでも検索する
手段はあったのだけれど、吉原と二人でいるときまで殺人事件のことを考えたくはなか
ったから、後回しにしたのだ。
「――なるほど。五番目と七番目の被害者の所持品の一部が、大家の部屋から見付かっ
ていたのか」
 独り言が出た。ノンアルコールビールを片手に、検索結果の画面を見ていく。
 所持品は順にハンカチとイヤリングで、ハンカチはきれいに半分に切り裂かれていた
という。部屋から見付かったのは半分だけで、もう半分が六番目の被害者の衣服に押し
込まれていた。イヤリングも部屋から出て来たのは片方のみ。もう片方は、八番目の被
害者の口の中にあったらしい。
「うん? こういう状況なら、六番目と八番目も、大家の犯行と見なせるんじゃないの
か」
 そもそも、一番目と三番目が大家の犯行と認定された上で、それぞれの被害者の持ち
物が、次の被害者の遺体のそばで見付かっているのなら、二番目及び四番目も同一人
物、つまり大家の犯行と見なしていいのでは。
 なのに、そうなっていないのには理由があるのか。
 検索結果を追ってみたが、警察の発表という形では、特に何もないようだった。
 ただ、芸能週刊誌やスポーツ新聞レベルの噂話として、大家にはアリバイがあったん
じゃないかという記事が見付かった。何番目の殺人かという言及はないものの、駅や商
店街、銀行などの防犯カメラ映像に、大家延彦らしき男が映っていたという。大家なの
か肯定も否定もしがたい画像でアリバイとは認められなかったものの、八件全部を大家
の仕業とするのにも引っ掛かりを覚える材料だったため、四件での書類送検に留まった
という経緯らしかった。
 改めて知ってみると、ロガーは二人いるとする説には、頷けるものがある。100
パーセントの肯定はまだ無理だが、あり得ない話じゃないという気になってきた。
 もし、ロガーがもう一人いたとして、そいつは共犯者を殺され、何を考えただろう?
 断るまでもないが、大家延彦の死は殺人事件として扱われ、今も捜査は継続してい
る。そのはずだ。これまで、僕の元を刑事が訪れることは一度もなかった。警察の方針
は知らないが、世間の大半は、ロガーは犯行中に反撃を食らって死んだ、自業自得だと
思われている。今度の検索で知ったが、ごく一部の人達、つまりロガー二人説を採る人
達は、仲間割れをして殺されたという見解らしい。どちらにせよ、世間一般は、大家延
彦に同情なんてしていないし、このまま犯人は捕まらなくてかまわないという風潮があ
った。だから警察も本腰を入れてないのではないか。そういう風に僕は考え、一応安心
して暮らしてきたのだが。
 本当にロガーがもう一人いて、共犯者を殺されたことや、その犯人だと思われている
ことに怒りを覚えているとしたら、そいつは僕を見つけ出し、落とし前を付けさせたい
と考えているではないだろうか。
 とは言え、そんな想像から、僕がぶるぶる震えているかというと、そうでもない。ロ
ガーは、共犯者を殺した人物を特定するために、どんな方法を採れる? まさか警察に
駆け込む訳に行くまいし、警察以上に捜査能力のある組織は、恐らく日本にはない。絵
空事の名探偵が入るなら、話は変わってくるかもしれないが。
 唯一、恐いのは、僕が大家を打ち殺すところを、もう一人のロガーが目撃していた場
合だが、七年も経ったのだから、心配の必要はない。いや、あの場にもう一人のロガー
がいたのなら、僕は即座にやられているに決まってる。
 意識することもなく、楽観的な考えに浸った僕は、その後も検索結果を適当にピック
アップしては、ざっと読む行為をだらだらと続けていた。やがて、瞼が重たくなってき
た。飲んだのはノンアルコール飲料のくせに。そろそろ寝る頃合いか。僕は最後のつも
りで、適当に検索結果をクリックした。
 それは誰かのツイッターらしかった。****年に@@市等で発生したロガー事件に
興味あります、みたいなことが書いてある。何か特別な情報や噂を知っている様子はな
く、逆に募集をかけている感じだ。名前は“きあらん”となっていた。
 プロフィール画像に目を凝らすと、イラストではなく、女の子の顔写真だと分かっ
た。小学生高学年ぐらい。細身と言うよりも痩せていて、面長に見える。後ろに映る電
柱や木の高さから判断すると、身長は結構ありそうだ。こんな小さな子が、七年前の事
件に興味を持つのかと怪訝に感じたが、プロフィールを読んで納得した。具体的な校名
はなかったが、東京の大学に通う学生で、年齢は二十一とある。当時なら十四歳。連続
殺人事件が近辺で起こったら、強烈な印象を残しても不思議じゃない。小さな頃の顔写
真にしているのは、プライバシーを守るため、今の写真を使いたくないからだろう。
 ――自分は今、どうしてこの女性の近辺で事件が起きたと思った? プロフィールを
見直して、すぐに答は見付かった。出身地が、僕と同じだった。
「あっ」
 次の瞬間、叫んでいた。
 髪に片手を突っ込み、がりがり掻きながら、目を細めて改めて顔写真に見入る。確信
を持てた。
 あのときの女生徒だ……。
 僕はみたび、プロフィールを読み直した。事件についての記述はなし。検索でヒット
した呟きに目を移す。彼女がロガー事件に興味を持った理由までは触れられていない。
情報を広く募る旨が書いてあるだけだ。始めたのが今年の四月からで、まだほとんど知
られていないらしく、リプライなんかも大した数じゃなかった。有益な情報が集まった
とは思えないが、一応目を通すと、怪しげな書き込みがいくつかあると分かる。「特ダ
ネを持ってるが、ネットで話す気はない。実際に会って、証拠ごと渡す」というニュア
ンスのものが、三つほど確認できた。まともに考えれば、ツイート主の女性に会いたい
だけの書き込みと思うのだが、きあらんは割と真摯に反応していた。と言っても、「会
います。日時はお任せしますから、待ち合わせ場所は※※警察署でお願いします」なん
ていう返しをするくらいだから、身を守る意識はちゃんと働いているらしい。無論、面
会が成立した様子はなかった。
「だからって、連絡を取る訳にいかない」
 ふっ、と息を細く短く吐いた。この女性が命の恩人を見つけ出し、礼を言いたいがた
めにこのつぶやきをしたのだとしても、僕には応じられない。勘繰るなら、警察の罠と
いう可能性だって、完全否定はできない。
 僕はネットを切断した。パソコンの電源をさっさと落とし、就寝の準備をする。
 何とも言えない、もやもやしたものを見つけてしまった。そんな気分では、布団を被
っても簡単には寝付けなかった。

 事態が急展開を見せたのは、僕がそのツイッターに気付いてから、四日か五日ぐらい
過ぎていたと思う。
 きあらんが殺されたのだ。
 最初にテレビのニュースで一報を見聞きしたときは、僕にとっては無関係な殺人事件
が起きたんだな、程度の認識だった。その後、ネットで改めてニュースを読み、ようや
く被害者がきあらんだと把握した。あの女生徒の本名は、荒木蘭子だと分かった。
 ロガー事件に関して情報を求めていたことも、関係者筋からの話として既に報じられ
ており、過去のロガー事件は瞬く間に注目されるようになった。
 翌日の続報では、さらに詳しいことが判明した。殺害方法は絞殺で、凶器は未発見。
遺体の傍らには、御影石の欠片が置いてあったという。八番目の被害者の所持品がどこ
にも見当たらなかったことから、ロガーが蘇って犯行を再開したのではなく、別人の仕
業だとする分析を、犯罪学者がワイドショーのスタジオでとくとくと語っていたが、午
後になって一変する。警察が八番目の被害者の入る墓を調べたところ、墓石の角が少し
壊されていたことが判明したのだ。鑑定待ちだが、恐らく遺体のそばにあった御影石
と、組成が一致するに違いない。
 僕は、大学をしばらく休むことにした。外出も控えねば。荒木蘭子は、もう一人のロ
ガーに見付かり、七年前の続きとばかりに殺されたのだ。そうに決まっている。
 ロガーが荒木蘭子の居所を突き止められたのは、きっとあのツイートが発端なんだろ
う。七年前、大家が九番目の犠牲者として荒木蘭子を襲うところを、共犯者は見守って
いたのではないか。八件の殺人も同様だったかもしれない。片方が実行犯で、片方が見
張り役。恐らく交互に殺人を行い、被害者の所持品を手に入れては、共犯者に渡してい
たのだ。
 ああ、そうか。僕は違和感の正体と理由に気が付いた。大家は九番目の殺人が未遂の
まま、死んだというのに、八番目の被害者の所持品を持っていなかったと思われる(持
っていれば、絶対に報道される)。犯行の時点では、共犯者が持っていたんだ。殺しの
あと、物を受け取るか、共犯者自身が物を遺体の懐に入れる算段だった……。
 だが、九番目はハプニング起きた。僕の介入だ。見守っていた方は、慌てたに違いな
い。飛び出して小学生の僕を排除するくらいできただろうが、その前に、どこの誰とも
分からぬ女子生徒に逃げられてしまった。下手に動くと、共犯者は捕まるリスクがあ
る。僕だけでも始末するという選択肢を選ばなかったのは、何故か。留まるリスクの方
が大きいと見て、早々に現場を立ち去ったのか。
 一人になったロガーは、長い潜伏期間を持つことになる。共犯を失ったことも大きな
理由かもしれないが、それと同時に、女生徒と僕の居場所を突き止める手掛かりを得る
必要があった。だけど、僕も女生徒も警察には行かなかったし、警察は大家殺しの犯人
を見付けられないでいた。名前の漏れようがない。長期戦を覚悟した犯人は、八番目の
被害者の所持品を、廃棄したのだろう。持ち続けていると、容疑を掛けられた際、物証
とされるから。犯人自身が市内の学校を中心に張り込みをすれば、僕や荒木蘭子を見付
けられたかもしれない。そうしなかったのは(しなかったはずだ)、やはり慎重を期し
たからに違いない。
 七年が経ち、犯人は荒木蘭子のツイッターに着目する。もちろん、全く無関係である
可能性もあったが、子供の頃の顔写真で確信を持てたのだろう。一方の荒木蘭子は、既
にロガーは死んだと思っているから、無防備になっていた。恐らく、他のツイートで上
げた写真に位置情報を含んだ物があって、ロガーは荒木蘭子の居場所を特定したのでは
ないか。仮にそうじゃなくても、市の中学校の卒業アルバムをどんなことをしてでもか
き集め、きあらんの子供のときと同じ顔がないか、当たっていけばいずれ本名が分か
る。本名が分かれば、あとはどうにでもなるのではないか。ロガーが殺人以外の犯罪に
どこまで精通しているかは分かりようがないが、一度狙った獲物は逃さないという執念
があれば、何としてでも調べ上げるのではないか。
 執念。
 脳裏に浮かべたその単語に、僕は身震いを覚えた。
 荒木蘭子の身に降りかかったのと同じことは、僕自身にも当てはまる。ロガーの次の
獲物は、恐らく僕だ。
 そのときから僕は、ネットをしなくなった。関係ない、意味のない行為とは思うが、
そうせずにはいられなかった。
 外出時には、色の濃い眼鏡とマスクを欠かさないようになった。帽子を被ることもあ
った。大学へもその格好で行ったが、周りの評判はあまりよくなかった。特に、吉原か
らは呆れられてしまった。理由を話せないのだから仕方がないが、これでもう彼女とは
別れるかもしれない。一緒にいて、彼女が巻き込まれるようなことになれば申し訳が立
たないという気持ちもある反面、別れたくない気持ちも当然あるので、現状では成り行
きに任せるとしよう。
 狙われてびくびくしているだけでは始まらない。対策も講じようとした。ロガーの顔
や姿を前もって知ることができればいいのだが、そんなことは無理に決まってる。だ
が、不審者の目星を付けるくらいなら、可能じゃないか? そこで思い付いたのが、荒
木蘭子の葬儀に足を運ぶことだったのだが……ロガーが姿を見せる確証がない上、自分
は危険を冒している。荒木蘭子の関係者でもないのに葬儀に顔を出せば、怪しまれる。
もしも警察が張り込んでいたら、注意を惹いてしまうだろう。天秤に掛けるまでもな
い。自らが不審人物であることを忘れてはならない。この程度の策ではだめだ。

 叔父から電話をもらったのは、僕が訪ねてきた家族に素っ気ない対応をしたしばらく
あとのことだった。
 叔父と話すのは、二年ぶりぐらいになる。直に会ったのは、もう五年ほど前になるの
ではないか。
「元気か? 何かあったんじゃないかって、みんな心配してるみたいだぞ」
 叔父の若々しい声は、うるさいくらいだった。僕は電話を耳から少し離し、応じた。
「うーん。ちょっとね。たいしたことじゃないんだけど、僕にとってはたいしたこと
で」
「何だ何だ、思わせぶりだな。家族や友達に言えない悩みか」
「でもないんだけど」
 曖昧にかわして終わらせるつもりだったけれども、ふと嘘の理由を思い付いたから、
そっちの方に叔父や家族の意識を向けさせておこう。
「まあ、叔父さんにだったら、話してもいいかな。昔、小さなときにはよく相手しても
らったし」
「こんな冴えない中年男でよければ、聞き手になってやるよ」
 叔父は自分では中年ぶるが、見た目は声と同様に若々しい。去年か一昨年にもらった
年賀状に、旅先での写真が載せてあったが、一つ上の父が、白髪が増えて老け込んだ印
象なのとは正反対に、IT企業の若社長って雰囲気を持っている。まあ、飽くまでイ
メージだけれど。今の実際の職業は――以前聞いたときから変わっていないとして――
カメラマンだ。と言っても、芸術家じゃないし、記者でもない。ありとあらゆる様々な
物事を撮影して、素材写真として提供する。そんな企業に所属している。
「実は今、仕事で東京まで出て来てる。今は無理だが、暇なときは相手してやれるぞ」
「会わなくても、電話で充分だよ。それがさ、ずっと付き合ってきた彼女と最近、すれ
違いが増えてきた感じでさ」
「それって、えっと吉原さんて子のことかい? 勿体ない」
「別れたい訳じゃないよ」
「理由というか、心当たりあるの?」
「なくもない。こっちはこの頃、あんまり出歩きたくないのに、向こうは外に行きたが
るとか、僕が都会の空気が汚れてる感じがして嫌だから、マスクとサングラスを掛ける
ようにしたら、不審人物だ何だとひどい言い方をされたんです」
「はは、そんなくだらないことで! 気に病む必要なんてないだろ。自然に元通りにな
るさ。ならないようなら、君が少し妥協すれば済む」
「妥協、ですか。男から折れた方がいいんですかね」
「まあ、いくら平等が唱えられても、そういうことになるかな」
 乾いた笑い声を立てる叔父。ようやく音量が調整された。耳を近付けたところで、話
題を少し変えられた。
「実はもっと深刻なことで悩んでるんじゃないかと思って、気になってたんだよ」
「深刻ですよ」
「だから、もっと、さ。ほら、そっちであれが起きたじゃないか」
「あれ?」
「ロガー事件だよ」
 一瞬だけ、どきりとした。心臓の鼓動が早まったようだ。鼻で強く息をして、整え
る。
「ああ、あれですか。完全に同一犯なのか、模倣犯なのかは分からないんじゃないです
か。第一、ロガーは七年前、沼で死んだのだから」
「そうだけどさ。まことしやかに囁かれていたロガー複数犯説を採用するなら、生き延
びたロガーがまた犯行を始めたように見えるだろ。君にとっちゃ、地元を離れたのに事
件が引っ付いてきたみたいで、いい気分はしないだろうと思ってね」
「それはまあ」
「ロガーが沈んでいた沼にも、遺体が見つかる直前と言っていいくらいに、出掛けたも
んな。覚えてるよ。あのときは君が沼に足を滑らしたとかで、服を濡らして一騒動だっ
たけれど、まさか殺人犯の遺体が浮かぶとは」
 僕は再び電話を遠ざけた。腕の長さ分いっぱいに。聞く内に、頭を締め付けるような
感覚に襲われた。何でこんな。他の人とロガー事件について話しても、ここまで不快な
気分になったことはなかった。僕が大家を殺したあと、最初に会った人物が叔父だから
か?
「まあ、何ともないのならいいよ。――聞こえてるかい?」
「あ、はい。聞こえてます」
「君の彼女は、事件について、何か言ってた?」
「吉原さんですか。うーん、楽しい話題ではないので、彼女との会話にはほとんど出て
来ません。ただまあ、サークルで話題に出たことがあって、そのときは割と平気な感じ
で話してましたよ」
「聞いたのは、吉原さんの話した内容なんだけどな。ロガー事件が起きてからの」
「ああ。そうですね……何言ってたっけ。印象に残らないくらい、ごく普通でしたよ。
また始まったのかしらとか怖いねとか」
「特段、トラウマが出てるようではないと。それならよかった」
 出ているとしたら、僕の方だ。
「しかし何だな。大家延彦の死亡推定日時ってのは、幅があるけども、僕らが松城山に
行った日も入ってるんだよな。ど真ん中に。だから、ひょっとしたらひょっとして、す
でにもう沼には死体が沈んでいたかもしれない訳だ。その沼の水に濡れたと思うと、君
だって平気でいられないんじゃないか?」
「や――やめてくださいよ」
 僕は無理矢理笑った。自分の声なのに、少し遠くに聞こえる。
「そんなことあり得ませんよ。あったとしても、死にたてなら水に混じってはいないで
しょう、その、体液とか」
「ははは、死んだばかりかどうかは分からんぜ。幅があるんだから、最も早い時期に死
んでいたとしたら、得体の知れない物が沼の水に溶け込んでいたかもな」
 叔父の声は明るい。だが、呪いのように僕の耳に届く。
「もしかすると、そのせいかな? 君の身体に染みついたロガーの体液や血液やらが、
今になって呪いの執念みたいなものを爆発させてさ。その結果、君の近くでロガー事件
が再開したのかもしれん。犯行に及んだロガーはかつての共犯なんかじゃなく、ロガー
の霊が乗り移った人間なんだよ」
「――」
 僕は何事かを叫んで、電話を切っていた。

 一眠りして、目が覚めて、飲み物と食べ物を軽く入れて、しばらくすると落ち着いて
きた。時計を見ると、深夜三時過ぎだった。
 冷静になったところで、ふとした疑問が頭の中をよぎった。
 叔父は何故、電話であんなことを言ったのか。いい年した大人が、悪ふざけにしては
度が過ぎるのではないか。
 想像を逞しくし、さらに七年前を思い出そうと試みる。
 七年前のあの日。松城山の近くまで、叔父の車に乗って連れて行ってもらったとき、
叔父は一体何の用事があったんだ?
 子供だったから詳しく聞かされていなくても当然だと思っていたが、本当は何もなか
ったんじゃないか? いや、言えなかったのでは?
 たとえば、叔父こそがもう一人のロガーであり、大家の犯行を見守ることこそが用事
だった――。
 証拠はない。根拠もゼロに等しい。妄想レベルだろうか。
 反証ならすぐに挙げられる。叔父がロガーなら、犯行現場の近くまで僕という子供を
連れて来て、自由に遊ばせたりするものか? 普通はしない。
 だが、殺人鬼は普通じゃない。たとえば、僕を十番目の犠牲者にするつもりだったと
考えれば、連れて来たことに説明が付く。身内を犠牲者に選ぶのは、犯人にとってリス
クを高める行為だろうけれど、最後のつもりならあり得るんじゃないか。犠牲者の数が
十で打ち止めならきりがよい。
 だとしたら、僕の早すぎる反撃は、ロガー達にとって予想の埒外だったのかもしれな
い。だから、僕を止めることすらできず、荒木蘭子には逃走を許し、大家は命を落と
し、叔父は立ち去るしかなかった。
 この仮説を肯定するなら、叔父は共犯者を殺したのが僕だと知っていながら、ずっと
放って置いたことになる。いつでも殺せるから? いや、むしろ、順番に拘ったのか。
九番目の犠牲者として荒木蘭子を見つけ出し、殺してから、最後に僕を殺そうという当
初の計画に拘った。
 すると――どうなる? 今や、ロガーにとって残す標的は僕だけ。叔父はロガーの片
割れとして、最後の“仕事”を遂行しようとする。さっきの電話は、殺しに行く前の様
子見だった? そういえば、こっちに出て来ていると行っていた。悪趣味な話を聞かせ
てくれたのだって、僕を恐怖させ、追い詰めるためにやったのでは。いや、そうに違い
ない。そしてじきに、ここへ来る。外出の機会がめっきり減った僕を、いつまでも待た
ないだろう。叔父なら、訪ねる理由を作れる。拒んで先延ばしにすることは、恐怖の先
延ばしにつながる。だったらいっそ、迎え撃った方が賢明なのでは。
 僕は椅子から立ち上がった。嘱託を離れ、台所を見渡す。キッチン下の扉の裏には、
包丁が何本かある。他に武器になりそうな物……修学旅行のとき、若気の至りで購入し
た木刀。あれを持って来たはずだ。どこに仕舞ったか……。
 僕は小学生のとき、吉原と付き合うために、秘密を抱える決心をした。彼女と別れな
い内は、秘密が増えるくらい、何ともない。

            *             *

「――ええ。大家延彦とは全く関係ありませんでした。他人の犯罪に便乗して、連続殺
人を起こせるかどうかという、一種の実験みたいなものを試みたかった。ただ、それだ
けです。だから、最初の方は私も彼と同じ殺害方法、絞殺を選んだんです。でも、自分
の犯行だという証拠も欲しかったので、チョークで白い印を残しました。
 最初の被害者? 最初とは、私にとって最初という意味ですね。大家が起こした最初
の殺人、桑間さんを殺した現場に行って、一人で冥福を捧げている女の子の中から物色
したんです。桑間さん同じ学校の子になると面白くないから、制服で区別しました。そ
うして選んだ三島さんが、まさか桑間さんと小学校時代同じクラスになったことがあ
り、しかも密かに付き合っていた仲だったとは、予想外の結果でしたが。ただ、その事
実を警察は掴めなかったみたいですね。それだけ慎重に、周囲に隠して付き合っていた
んでしょう。私だって、三島さんが持っていた手帳を見て、初めて知ったんです。おか
げで、大家と私が別々に起こした殺人なのに、期せずして連続殺人の様相を呈してしま
った。はい、生前、桑間さんが使い古した腕時計を三島さんにプレゼントしただけなん
でしょう、きっと。
 そのことを知った僕は、次第に面白いと思いました。大家が次の殺しを行うのなら、
何とかして三島さんの所持品を渡してやろうと考えた。最悪でも、次に大家が殺した被
害者の懐に、三島さんの手帳の一部を押し込んでやろうと。でも、大家がもう殺す気が
ないのなら、僕が自分でやるか、別の殺人を見付けるしかない。迷ったんですが、賭け
てみることにしました。大家は、自身の殺しを、誰だか分からない奴に勝手に連続殺人
に仕立てられたと思ってる。憤慨してるか面白がってるかは分からないが、乗ってくる
に違いない。そう考えたんです。こっちからコンタクトを取れないかと、新聞広告やネ
ット上に簡単な暗号文を載せてみたり、桑間さん、三島さんそれぞれの殺害現場に足を
運んだりしたんですが、なかなかうまく行かない。そうこうする内に三件目と言うべき
か二件目と言うべきか、殺人が発生した。絞殺で、しかも三島さんのアクセサリーが遺
体の上に置かれていたというじゃありませんか。大家の仕業だと直感しましたね。あ、
もちろん、その時点では大家なんて名前、分かってないですよ。最初の奴がまたやった
んだ、っていう認識です。
どうやって手に入れたのかは知りませんが、想像するなら、弔問客を装って三島家に上
がり込んで、うまくやったんじゃないですか。
 で……ですね、こうなったら私も続けなければいけない。今言った想像の通り、三人
目の被害者の、ええっと福木家の葬式に行ってみたんです。そのとき、ちょっとしたい
たずら心から、手に白のチョークを持ってみたんですよ。一見、煙草に見えるように。
 そうしたら――驚きましたよ! あの瞬間ほど驚き、そして嬉しかったことはない。
 声を掛けてきたんです、大家延彦が。さすが、同好の士だ。私達は最初の数分こそ互
いに警戒しましたが、じきに分かり合えました。このときになって初めて、私と大家は
共犯関係を結んだんです。
 それからは簡単でした。所持品を入手するのが楽になりましたから。私は大家から、
福木さんの身に付けていたシャープペンを受け取り、次の殺しのときに置いてきまし
た。あとはこの繰り返しです」

            *             *

 床にばったりと倒れた叔父の左手が、いつの間にかテーブルから落ちていたテレビの
リモコンに当たった。次の瞬間、テレビが入った。ニュースをやっていた。
 僕は返り血を浴びた顔を、用意しておいたトイレットペーパーで拭いながら、何の気
なしにアナウンサーの声に耳を傾けた。
<ただいま入りましたニュースです。ロガー事件の再開とも言われる女子大生殺人事件
の容疑者として、**署警察は自称・心理学者の男を逮捕しました。男の名は江畑栄
介。四十歳。警察に捜査協力した経験も幾度かあるとのことです>
 足元から、う゛ぉとんという音がした。僕の手から、木刀がこぼれ落ちていた。
 視界が揺らぐ、世界が揺らぐ。耳の中で何かがぐるぐる回って、脳の奥に入り込んで
くる。
「じゃあ……叔父は何だったんだ?」
 電話からほぼ二十四時間後、僕の部屋を訪ねてきた叔父は、もう二度と動かない。

            *             *

「普段、どうやって大家と連絡を取り合っていたのかと問われましても……何が不思議
なんです? 携帯電話を使った形跡がない? そりゃ当然です。使っていないのだか
ら。その気になれば、秘密裏に連絡を取ることは難しくはない。急ぐ必要がないのな
ら、一定間隔をおいて、決められた場所にメモを残すだけでも事足ります。尤も、私達
も多少は警戒していましたから、毎回、伝達方法は変えていました。
 大家が殺されたときのこと、ですか? いえ、残念ながら、たいしたことは何も知り
ません。現場の近くにはいなかったので。大家がターゲットを殺害後、所持品を交換す
る約束で、麓にて車で待機していたのですが、明らかに襲われたらしい少女が逃げ出し
てきた。これは大家がミスをしでかしたと直感したので、私はさっさと逃げることにし
ました。ただし、少女の顔はしっかりと記憶に刻みましたよ。大家が仕留め損なったの
なら、狙う価値があると感じたので。どこにいるのか突き止めるのに、思いの外、時間
が掛かってしまったな。こうして捕まったのは、ブランクがあったせいかもしれませ
ん。まさかあんな古寺の墓場に、あんな最新式の防犯カメラがカモフラージュの上、設
置されているなんて、まるで想像できなかった。
 えっ、恨み? ああ、大家を殺した犯人に、復讐しようとは思わなかったかってこと
ですか。特にしようとは……。共犯関係を結んだと言っても、助け合うというのではな
かった。相方がミスをしても、我が身の安全確保を第一に考え、行動を選択することを
原則としていました。
 ただ、今になって思えば、私が捕まったのは、大家という共犯を失ったのも大きかっ
たのかな。そういう意味でなら恨んでいます。七年ぶりに」

            *             *

「そうか……」
 時間の経過とともに、何とかして論理的な思考を取り戻した僕は、あり得べき一つの
新説に辿り着いた。テレビを消し、木刀をきれいに拭き、包丁を仕舞った。
「ロガーは三人の共犯だったんだ」
 間違いない。そうでなければいけない。

――終




#500/598 ●長編    *** コメント #491 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/30  23:09  (498)
絡繰り士・冥 2−1   永山
★内容                                         19/01/16 22:49 修正 第4版
 冥は、計画の一部変更を余儀なくされ、些かご機嫌斜めだった。
 次に巻き起こす殺人は、名探偵を自称する高校生・十文字龍太郎を試すものであるの
と同時に、自分とは信条を異にするプロの殺し屋をその被害者に選ぶ腹づもりでいた。
だが、肝心の被害者が定まらない。
 無論、殺し屋連中の心当たりがなくはない。だが、それはいずれこちら側に引き込め
る可能性ありとみて、意に留めている者ばかりで、無碍に殺すのは“勿体ない”。
 それに、当初の思惑では、辻斬り殺人の犯人を始末した奴か、前辻を再び裏切らせよ
うとした殺し屋、そのいずれかを被害者にしようと考えていたのだ。しかし、どう手を
尽くしても見付けられない。唯一の手掛かりは、辻斬り殺人犯を殺した場所から推し
て、十文字龍太郎の通う高校・七日市学園の関係者であることはほぼ確実と云える程
度。そこから調査を進めても、はっきりしなかった。その殺し屋が十文字のそばにいる
と仮定すれば、腕の立つ生徒が二、三人いるようだが、確実さに欠ける。冥が見た限り
では、真っ当な人間ばかりに感じられた。
 仕方がない。
 冥は被害者に関する拘りを捨てた。代わりに、容疑者に拘る。殺人の疑いが、十文字
龍太郎の親しい者に掛かるよう、仕向けるのだ。
(今までの経緯を考慮し、高校での知り合いに限るとしよう。自ずと候補は絞られてく
る。一ノ瀬和葉は、一ノ瀬メイの関係者でもあるから、選ばぬ方がよい。十文字個人の
力を量るためには、できることなら、一ノ瀬メイを遠ざけておきたいくらいだ。同じ理
由で、警察一家の五代春季も選ばないでおく。音無亜有香は剣道だけでなく、剣の腕も
立つようだが、探偵能力そのものには関係あるまい。候補の一人になるが、普段の生活
パターンが判で押したように一定では、容疑を掛けづらい恐れがある。三鷹珠恵は、も
っと厳格だ。運転手付きで移動することも多い。その点、百田充という男子生徒は、か
なり自由だ。問題は最近、事件に被害者として巻き込まれたらしく、以来、家族の心配
が増している。保護者が放任主義と思われるのは、四谷成美と六本木真由の二人か。と
もに、十文字とのつながりは比較的薄いのが難である。七尾弥生は、趣味のマジックに
よる交友関係が広く、矢張り容疑を掛けるためには余分な手間が必要となろう。これま
で見てきた中で、容疑者を選ぶなら……)
 被害者選定との兼ね合いも頭に入れ、冥は一人に絞り込んだ。

             *             *

 寝てしまっていたらしい。あるいは、意識を失っていたのか。最悪の気分の覚醒だっ
たのは、確実に云える。頭痛と胸焼け、そして軽い吐き気が同時に来た。
 床に横たわっていた状態から身体を起こし、辺りを見渡す。教室だ。自分のクラスで
はない。特別教室で、窓から見える景色は二階……多分、家庭科室?
 僕・百田充は、夕日でオレンジ色に染まった室内をぼーっと眺めた。何でこんなとこ
ろに寝転んでいたのだろう? 教壇のすぐ横、段差に身を寄せるようにして倒れていた
ようだ。こうなるまでの経緯を思い出そうとしたが、頭がずきずき痛くなったので一旦
中止。様子を見つつ、立ち上がる。教卓に腕をついて、姿勢を保つ。
 と、不意に、非日常的な物を視界に捉えてしまった。
 ぎょっとして声を上げそうになったが、我慢してそれに近付こうと、机の間に歩を進
めた。
 女子が倒れている。教室後ろの少し広いスペースに。こちらに背中を向ける格好だ
し、逆光ということもあって、誰だかすぐには分からないが、制服を着ているのだか
ら、うちの生徒なのは間違いない。
 彼女まであと二メートルくらいになったとき、僕ははっとした。息を飲む。心臓がば
くばく云い出した。
「音無さん……?」
 見覚えのあるポニーテールに後ろ姿。背格好も同じ。
 確証はまだ持てなかったが、とにかく声を掛ける。
「大丈夫? 僕もあんまり大丈夫じゃないんだけど」
 さらに近付き、彼女の顔が見える方へ回り込む。矢っ張り、音無亜有香その人だ。
 僕の心臓の鼓動は一段と早くなった。何故なら、彼女のお腹の辺りからは、赤い血の
ような液体が流れ出ていたのだから。
 僕は彼女の身体を起こそうと、手を伸ばした。でも――動かしていいのか? 返事が
ないのは、気を失っているだけなのか、それとも命が危ないのか。今は助けを呼ぶのが
先だ。
 僕は床を蹴って、駆け出した。後方の扉に張り付き、思い切り横に引いた。
 が、動かない。鍵が掛かっている。ねじ込み錠を開けるのがもどかしく思え、僕は前
方の扉へ向かった。しかし、そちらの鍵も施錠されていた。後方と違って、前の扉は金
属のバーを上にスライドさせるだけで、解錠できる。僕は、教室が密室状態だったのが
引っ掛かったが、ともかく助けを求めるのを優先した。
 扉を開け放ち、廊下に飛び出した。同時に僕は「誰かー! 救急車を!」等と叫びな
がら、職員室を目指そうとした。その途端に、後方から二人組の女子生徒が通り掛か
り、「どうかしたの?」とか何とか云ったようだった。
 僕が受け答えする前に、彼女達は家庭科室の中を覗いた。途端に、悲鳴が上がる。
「あなたがやったの?」
 一人はきつい目付きに、緊張した口調。もう一人は怯えた目で室内と僕を順番に見
て、歯の根が合ってない風にかちかち音を立てながら、「し、死んでるんじゃない…
…?」なんて云っている。
「僕じゃないっ。とにかく、今は救急車を呼ばないと!」
 言い捨てて、ダッシュしようとしたが、「待って」ときつい目付きをした方に止めら
れた。彼女はもう一人に耳打ちし――と言っても声が大きくて漏れ聞こえたが――、そ
の子に職員室へ向かわせた。
「まだ信じられるかどうか分からないから、私と一緒にいてもらうわよ。名前は?」
「……百田充、です」
 遅ればせながら、相手が一年先輩だと気が付いた。極々簡単に自己紹介している間
に、彼女は家庭科室に入った。
「応急処置」
 呟きつつ、室内をぐるりと見回すと、窓際の棚に置いてあった、一抱えほどある段
ボール箱を覗き込んだ。手を突っ込み、また出すと、小さな布がいくつも掴んであっ
た。授業で使った余りらしい。
「止血するには、もっと大きい布か何かがほしい」
「――だったら」
 僕はカーテンに飛び付くと、力任せ引き剥がした。カーテンレールのコマが、たくさ
ん散らばった。
「これを」
 先輩の女子は、面食らった様子は一瞬で消し、僕からカーテンの布を受け取ると、ぐ
るぐる丸めて、横たわったままの音無の腹部に宛がった。
「百田君、だっけ? あなた、脈とか診た?」
「い、いえ」
 云われてみれば、どうして僕は具合を見ようとしなかったのだろう。いくら動転した
にしても、曲がりなりにも探偵助手を務めてきた者として、血を流して倒れている人が
いたら、何らかの措置を講じられるぐらいのレベルに達していなければならないのに。
「……おかしいわ。血はもうほとんど止まってるみたい」
「え?」
「止血したって意味じゃないわよ」
 面を起こした先輩女子。その顔色は白みがかりつつあった。手首に触れていた指を引
っ込め、さらに告げる。
「脈も弱い……ないかも。それに、体温が凄く下がってる」
 こういうとき、どうすればいい? 一刻の猶予もならない、いや、もう手遅れかもし
れない。けれど、担いででも病院に向かうべきなのか? 救急車が来るのなら、ちょっ
とでも近くまで運んでおくのがいいのか?
「あなたはこの人、知ってるの?」
「あ、ああ。音無亜有香さん、だと思う」
 僕が答えると、先輩女子は叫ぶような大声で呼び掛けた。
「音無さん! 音無亜有香さん! しっかり!」

             *             *

「百田充君。調子はどうだね?」
「刑事さん、調子と言われましても」
「だいぶ、冷静さを失っていたように見えたからな。覚えてないか」
「そう、でしたか」
「まあ、今はだいぶ落ち着いたように見える。だからこそ、こうして事情聴取の再開と
なった訳だが」
「僕も何が起きたか、知りたいです」
「結構な心掛けだ。他の人間がいると話しづらいこともあるようだから、弁護士の付き
添いをなしにしたが、本当にいいんだね」
「ええ、多分」
「繰り返し念押ししておくと、これは取り調べではないし、君は逮捕された訳でもな
い。とにかく、ことのあらましを知りたいから、知っていることを話して欲しいだけ
だ。いいね?」
「はい……」
「それとね、以前聞いたのと同じ質問をするかもしれないが、面倒臭がらずに答えても
らいたい。では、百田充君。まずは、倒れていた彼女について、話して」
「クラスメイトの音無さんです。音無亜有香さん」
「ふむ。何人かから聞いたんだが、君はその音無さんのことを好いていたようだね」
「――ええ、まあ」
「付き合っていた訳ではないと?」
「も、もちろんです。多分、向こうはこっちが好意を持っていたことさえ、知らなかっ
たと思います」
「じゃあ、当日はどうしてあんな場所で、二人で?」
「それは……あんまり、はっきり覚えてないんです」
「あんまりと云うからには、少しは思い出しているんだろう?」
「……あの日は、前日の体育祭の打ち上げで、クラスで有志が集まっていました。で
も、音無さんは急な用事ができて来られないと聞いていました。だから、校内で音無さ
んを見掛けたときは、ちょっと驚いて」
「見掛けたというのは、君達の教室に入ってきたのかい?」
「違います。午後三時前だったと思いますが、トイレに立ったとき、渡り廊下を歩いて
いるのをたまたま見たんです。遠ざかる方向でしたけど、見間違えじゃありません」
「来てないはずの彼女を見付けて、君はどうした?」
「もう少しで打ち上げは終わるけど、用事が終わったから来たのかなと思って。僕はそ
のときまだトイレを済ませてなかったから、急いで済ませて、元の場所まで引き返した
けれど、すでに音無さんの姿はなくて。教室に入ったのかもしれないと考えて、僕も教
室に戻りました。でもいなかったから、また教室を出て」
「ちょっと待った。そのとき、クラスのみんなに音無さんのことを尋ねなかった?」
「いえ。名前を出すと、冷やかして来そうなのがいたし、黙ってました。それで、あ
あ、少しの間、教室にいたんだ。でも結局気になって、出たのが十分ぐらい経っていた
と思います」
「そして探しに行ったと」
「はい。とりあえず、音無さんが向かっていた方に行って。家庭科室とか化学室とかが
集まっている棟でした」
「探している間、誰かとすれ違ったり、見掛けたりは?」
「ない、です、多分。すみません、覚えてなくて」
「いや、かまわんよ。それから?」
「信じてもらえないかもしれないんですが、急に電話が鳴って、それが音無さんから
で」
「信じるよ。記録が残ってるしね。百田君は、音無さんに番号を教えていたのかな」
「えっと、教えたというか、伝わったというか。僕の先輩で二年生の人が、その、探偵
をやっていて、万が一のときに備える意味でも、知り合い同士いつでも連絡は取れるよ
うにしておくべきだという考えで。音無さんは一度、その先輩に世話になったせいか、
敬意を払っているところがあって、云う通りにしたんです」
「経緯はどうあれ、知っていたんだな。掛けてきたのは、音無さんの携帯電話からだっ
たかい?」
「それが違いました。だから、電話に出て初めて、『百田君? 音無だが』って云われ
て、音無さんからだと分かったんです」
「なるほど。携帯電話が違うことについて、尋ねたかい?」
「いいえ、そんな質問をするいとまもなく、『今すぐ、下駄箱を覗いて来て』と云わ
れ、電話を切られたので。何が何だか分かりませんでしたが、下駄箱まで一目散に行き
ました。そして下駄箱の中に、破り取ったノートの紙があったんです。『読んだらこの
紙は燃やすか、ちぎって流して。家庭科室にすぐに来て欲しい』と」
「その紙は、前に聞いたメモのことだね。細かくちぎって、トイレに流したという。残
念ながら、まだ見付かっていない。よほど細かくちぎったのかと思ったが、もしかする
と水溶性の紙だったのかもしれないな」
「恥ずかしいから、処分して欲しいのかと思ったんです。それに、すぐさま行きたかっ
たから、あとのことは考えていなかった」
「責めてる訳じゃないんだ。ただ、証言を信じるために、強力な裏付けが欲しいんだ
よ」
「……」
「そのあとは?」
「えっと、玄関から一番近い一階のトイレで紙を処理したあと、家庭科室に駆け付けま
した。ドアは閉じてあったけれど、手を掛けてみるとすっと開いて」
「このときも、誰にもすれ違わなかったんだ?」
「え、はい、多分。認識しなかっただけかもしれませんが。それで……ドアを開けて前
から入ると、いきなり左の方向から強い衝撃を受けて、気が遠くなって意識をなくし
た。と思います」
「衝撃というのは、何だか分かる? 傷はないようなんだが」
「分かりませんけど……最初、後頭部に重たい物を食らった感じがあって、そのあと電
気でしびれたみたいに、身体が動かなくなった気がしました」
「なるほど。で、意識を取り戻したときには、女生徒が刺されて倒れていた、と」
「はい……」
「鍵を自分で掛けた覚えはあるかね?」
「ありません」
「ふむ。君は音無さんから呼び出されて、どんなことを考えた?」
「何か、こう、内緒の話があるんだろうなって」
「それは恋愛関係か、それとも他に内緒話に思い当たる節があったのか」
「そりゃあ、前者を全く考えなかったと云えば嘘になりますが、以前、音無さんは気に
なることを口にしてたから、そっちの方かなと」
「説明を詳しく」
「詳しくと云っても、そもそも曖昧であやふやなんですが……霊の存在を信じるかどう
かとか。音無さん、“視える”体質らしくて。ただ、幽霊と断定してるんでもなくっ
て、霊っぽい物が視えるそうです」
「何だ、そんな話か。女子中高生によくあるやつじゃないのかね」
「よくあるかは知りませんが、音無さんが云うには、人は他人の生死に関わった数だ
け、霊が憑くことがあるんだとか。そして、身近には大変な数の霊をしょった人物がい
て、そいつは十文字先輩に――あ、さっき云った探偵をやってる先輩です――、害を与
えるかもしれないっていう警告みたいなことを云ってたんです」
「うーん。その警戒すべき人物って誰?」
「まだ確証がないことだからと、名前までは教えてくれませんでした」
「警戒を呼び掛けておいて、それか。矢張り、事件とは無関係のようだ」
「はあ。確かに、この話がしたいのなら、十文字先輩に直に伝えるべきだし」
「音無さんが狙われるとしたら、どんな理由が考えられると思うね?」
「何にも思い浮かびません。だいたい、あの音無さんが簡単にやられるなんて、あり得
ない。刑事さんもご存知なんでしょう? 音無さんの剣道の腕前」
「無論だ。尤も、剣道は武器のありなしで、戦闘能力は大きく違ってくると思うが」
「音無さんは、他の武道も一通り身に付けているはずです」
「うんうん、分かった。今は、殺される動機の話をしている。一応聞いておくが、百田
君はやってないんだよな?」
「ばっ、莫迦なことを! やってないに決まってる! 僕が音無さんを殺すはずない
っ」
「しかし、いくら好きな異性でも、袖にされたら、感情が裏返ることはあるんじゃない
か。職務上、そういうのをよく見てきたしねえ」
「絶対にありません! 僕には殺せないんだから。心理的にも、体力的にも」
「確かに、さっきも云った通り、身体能力は彼女の方が圧倒的に上だ。聞くところによ
ると、油断して隙を見せるようなタイプでもないらしい。そもそも、現場の状況という
ものがある。密室内にいたのは、被害者の他には君一人。普通に考えるなら、やったの
は君だとなるが、決め付けられないのは凶器が見当たらないからだ」
「……思い出しました。そんなことを云ってましたよね。何が凶器かは教えてもらえな
かったけれど、校庭の周りにある溝に落ちているのが発見されたって。じゃあ、どうし
て僕を疑うようなことを」
「密室の方が片付かないからさ。襲われた君が、身を守るために意識朦朧となりながら
も施錠した、なんてことはないか?」
「ないです。ありましたって云いたいですけど、嘘は吐けない」
「探偵助手としての矜持って訳かね」
「そんな立派なものじゃありません。嘘を吐いたら、真相に届かなくなる恐れが高ま
る、それだけです」
「真理だ。そんな百田君には、こちらもきちんと手持ちのカードを出すべきだな。凶器
が何かは明かせないが、代わりにいいことを教えてやるとしよう」
「いいこと? そんな、殺人事件が起きてるのに、いいことなんて」
「文字通り、朗報だよ。なに、この部屋を出れば、誰かがすぐにでも教えてくれるだろ
うがな」
「みんなはもう知ってるってことですか? 一体、何の話を」
「これだよ。被害者が身に付けていた物なんだが」
「――」

             *             *

 僕・百田充は、この事件で半狂乱めいた状態に、二度も陥ったらしい。
 一度目は、云うまでもないが、音無が死んだという事態を、はっきりと自覚し、認識
したとき。最初の頃は、参考人としての事情聴取もままならなかったという。
 そして二度目が、つい今し方だ。同じ半狂乱めいた状態と云っても、一度目とはまる
で正反対の、信じられないことが起きた驚きと嬉しさによる。
「百田君」
 その声に、僕は目を覚ました。自分の家の自分の部屋、自分のベッドでさっきまで眠
っていた。
「――ああ、よかった。本当に無事だったんだ」
 上体を起こし、泣きそうになりながら、それでも僕は笑った。
 音無さんが、ベッドの傍らに片膝をつき、真剣な顔つきでこっちを見ている。
 あ、この機会に呼び捨てで記述するのはやめにした。今までは、好意的感情が溢れて
しまわぬよう、制御する意味でも、地の文では「さん」付けせずにいたけれど、もう気
にしない。別にいいじゃないか。
「その様子なら、正真正銘、落ち着いたようだな。安心した」
 音無さんは安堵を隠さず、穏やかな表情になった。
 と、見舞いに来てくれたのは彼女だけかと思っていたが、その後ろにまだ二人いた。
「君はつくづく、巻き込まれやすいタイプのようだな。まあ、無事で何よりだ」
 十文字先輩が云った。腕組みをしてこちらを見下ろす目に込められた感情は、しょう
がないなとだめな弟子に対する師匠のようだ。尤も、僕は弟子になったつもりは微塵も
ないけれど。
「鯛焼き、食べる?」
 猫の手の形を作って鯛焼きを差し出してきたのは、一ノ瀬和葉だ。お見舞いに鯛焼き
というセンスは、彼女が外国生活が長かったことと無関係ではない気がする。でも、嬉
しい。ありがたく尻尾の部分をもらっておく。
「起きたばかりのところを悪いが、事件の話をしても平気か? 君の家族からの承諾は
得た。残り、二十分ほどだが」
 先輩が名探偵モードに入った。僕は鯛焼きの皮とあんこを飲み込むと、しっかり頷い
た。
「問題ありません。ただ、その前にいくつか教えてください。死んでいたのは誰だった
のか、判明したんですか?」
「その点から始めるつもりだった」
 僕があの日、家庭科室で見た被害者は、音無さんに外見をよく似せた偽者だった。刑
事に。被害者が身に付けていたという特殊なマスクを見せられたとき、しばらくはその
意味するところが全く飲み込めなかった。
 背格好や髪型を同じにし、七日市学園の制服を着込み、顔には映画撮影で使われるメ
イキャップにプラス、特殊マスク。じっくり観察しなければ分からないほどの出来映え
だったという。実際に目の当たりにした僕ですら、あれが変装だったなんて信じられな
い。
「まだ判明してないが、うちの生徒じゃないのは確かだ。指紋を残すことを警戒したの
か、全ての指先には透明なマニキュアを塗っていたと教えてもらった。年齢は僕らと同
世代で、もちろん女性。顔写真を見せてもらったが、僕は会ったことがない」
「ミーも」
 一ノ瀬が甲高い声で云った。今日は比較的大人しい。その隣で、音無さんも静かに頷
いた。
「百田君にも後日、刑事が見せてくれるだろう」
「早く見せてくれればよかったのに」
 僕が不満をあらわにすると、十文字先輩は首を横に振った。
「さすがに無理というもんだ。残念ながら、君は最有力容疑者だった。警察が簡単に手
の内を晒すものか。今になって、やっと容疑が薄まったから、こうなったんだよ」
「完全に容疑が晴れた訳ではないと云うんですね」
「それもまた仕方がない。密室状態の殺人現場に、被害者と二人きりだったという事実
は大きい」
 改めて断るまでもないが、家庭科室の鍵は職員室にあった。先生が図書室にいた間
も、各教室の鍵を保管する壁掛け式のボックスはちゃんとロックされており、こっそり
持ち出すことは不可能だ。
「気になってたんですけど、密室状態だってことはどうやって客観的に証明されたんで
しょう? 僕が第三者に事態を知らせた時点で、鍵は解錠されてたんだから、飽くまで
僕一人の証言になるのでは」
「自らの不利益になることを偽証するはずがない、というのがまず一点。加えて、百田
君が助けを呼ぼうとする前に、もっと云えば、意識を取り戻すよりも前に、家庭科室に
鍵が掛かっていたことを把握していた人物がいるんだ。君が助けを求めた二人の女子だ
よ」
「うん? どういうことでしょう?」
「彼女達は先生に頼まれて、各教室の施錠具合を見て回っていたんだ。そろそろ閉めよ
うという頃合いだったからな。君が廊下へ飛び出してくるおよそ十分前に、家庭科室の
ドアに手を触れ、鍵が掛かっていたことをチェックしている」
「……人を無闇に疑うのはよくないと分かってますけど」
 前置きしてから仮説を口にしようとしたら、先輩は名探偵っぽく、先回りした。
「二人にはアリバイがある。君が襲われたのは、午後三時過ぎだろ? その時間帯、女
子二人は自身のクラスの打ち上げの席にいた。証人はいくらでもいる」
 それなら違う。
「犯人が被害者と僕を密室に閉じ込めたのは、矢っ張り、僕に濡れ衣を着せるためなん
でしょうか」
「だと思うんだが、凶器を現場に置いていかなかったのは、不可解だな」
「不可解なら、他にもあるよん、十文字さん。七日市学園の生徒じゃない人を被害者に
選んでいるところとか、その人が剣豪の変装をしていたこととか」
 “剣豪”とは、一ノ瀬が音無さんに付けたニックネームだ。当人がいてもお構いなし
に使ってる。
「音無君は元々は、打ち上げに参加するつもりだったんだね?」
 十文字先輩が尋ねると、音無さんはまた無言で頷いた。一拍おいて、口を開く。
「体育祭のあった日の夜、家の方に連絡が入り、昔、音無家が所有していたされる刀の
行方が分かったから、確認を求める旨を受け取ったんです。通常なら、祖父か父が参る
のですが、生憎と祖父は体調がすぐれず、父も外せない所用を抱えていたため、自分が
代理で向かうことになった次第」
「なるほど。一応、聞いておこう。刀発見の話は、本当だったのかな?」
「無論です。終戦の頃に米軍に接収された業物の一つで、長らく行方知れずだったので
すが――」
「ああ、いい。事実であればいいんだ。今回の事件の犯人が、何らかの意図を持って、
音無君を遠ざけたかった可能性を考えてみたんだが、どうやらないようだ」
「自分に化けた者は、どういう狙いがあったと考えていますか?」
 音無さんの不意の質問に、名探偵は「うーん」と唸った。
「仮説ならたくさんあるが、まるで絞り込めない。たとえば、被害者は自らの意思で化
けたのか、誰かに命じられてやむを得ず化けたのか。殺人犯の意志が働いているのか、
全くの無関係の事柄が偶然にも同時に起こったのか。これらの点のどれ一つ取っても、
可能性は多岐に渡るだろう」
「いずれにしても、殺人犯の本来の狙いは、音無さんだった?」
 僕は、あまり言葉にしたくないことを、がんばって声に出した。
「100パーセントではないが、可能性は高い。百田君に罪を被せるべく、音無君を狙
ったつもりが、そのそっくりさんを殺してしまったというのは、流れとしてはおかしく
ない」
 僕が音無さんの命を狙うはずないんですが。そこを抗議すると、十文字先輩からは刑
事に云われたのとほとんど同じ指摘をされた。その辺のやり取りは敢えて記すほどでは
ないため、ばっさりカットする。
「さて、もうすぐ時間切れだ。たいして話を聞けなかったな。今、早急に議論しておく
べきことはあるかな?」
「じゃあ、ミーが」
 招き猫みたいな挙手をした一ノ瀬。
「剣豪を狙った犯行だということを決定事項とすると、少なくともミーや充っち(僕・
百田充のこと)のクラス全員は容疑から外れにゃいかにゃ? 今日、ターゲットが来ら
れなくなったことはみんなが知っていたのだから」
「多分ね。犯行計画を中止したが、たまたま音無君のそっくりさんを見掛けたから、矢
っ張りやってみた、なんていうのは乱暴に過ぎる」
「でしょでしょ。それともう一つ。春に起きた辻斬り事件と関係あるのかないのか、気
になってるにゃ」
 無理に猫っぽい語尾をつけなくていい。
「辻斬り事件の犯人は、判明しているが」
 怪訝そうに皺を作った十文字先輩。一ノ瀬は「あれ? 気付いてにゃい?」とこちら
も怪訝そうに、いや、不思議そうに目を丸くした。
「辻斬り犯は七日市学園内で殺害されて、事件は未解決。あれから半年も経たない内
に、今度の事件。関係ある可能性を探るのは、当然だと思ったです」
「そ、そうだな」
 若干、動揺したようにどもった十文字先輩。一ノ瀬に云われた可能性を考えていなか
ったのか? そんなことはないと思うんだけど。
「犯人は、辻斬り犯殺しと同一人物と云うのか?」
 音無さんはすっくと立ち上がり、一ノ瀬に詰め寄らんばかりの勢いで云った。辻斬り
事件は、音無さんとも関係があったから、居ても立ってもいられないのかもしれない。
「可能性にゃ。飽くまで可能性。二つの事件の犯人が学校関係者なら、比較的やり易い
に違いないって意味だよん」
「理解した。――相当な手練れと推測するが、十文字さん、助っ人が必要なときはいつ
でも云ってください。遠慮は無用です」
「ああ。体力勝負になりそうだったら、ぜひ頼むよ」
 苦笑を浮かべた先輩は、腕時計を見た。
「これ以上長居すると、百田君のお母さんから叱られてしまうな。お暇するとしよう」
「百田君、明日は出て来られそうか?」
 音無さんに問われ、僕は首を縦にこくこくと振った。
「もちろん。病気じゃないんだ」
「よかった。変装していた輩のせいとは言え、多少の責任は感じていたところだから」
 少し笑ってくれた。心配してもらったのは嬉しいが、申し訳なくもある。
「鯛焼きの残り、ここに置いとくよん」
 一ノ瀬が最後に云った。

             *             *

「正直な気持ちを云おう。恐いのだ」
 十文字龍太郎は柔道着に袖を通し、帯を固く締めた。色は白だが、実際の腕前が初段
以上であるのは確実である。
「辻斬り事件の捜査中、校内で何者かに襲われたとき、ああ、終わったと感じた。助か
ったと分かったときは、恐怖がベールのように頭の上から被さってくる気がした。取っ
ても取っても、被さってくるんだ」
「その恐怖心を取り除くために、私に稽古を付けてもらいたいと」
 五代春季は、ため息をついた。十文字と同い年の幼馴染みで、柔道の強化選手に選ば
れるほどの剛の者だ。
「こっちもはっきり云うと、感心しない。高校生が探偵業に精を出すのは」
 ここは七日市学園の柔道場。かつては他の武道と共同使用の格技場があったが、学園
が各武道の選手育成に力を入れた結果、独自の練習場所を持つまでになった。
「でも、こうして練習が終わるまで待っていて、稽古を付けてもらおうという気概は買
うわ」
 半ば諦めている風に微苦笑をつなげてから、五代は一転、自身の頬を軽く叩いて気合
いを入れた。
「本気でやっていいんだ?」
「ああ。技術面よりも精神面を鍛えたいから。投げられ続け、こてんぱんにやられた
ら、少なくとも恐怖心はなくなる気がする」
「――聞くところによると、あの音無さんから剣術を少し教わったそうね」
「基本だけな。代わりに、こっちは柔術の一種を教えた。シャーロック・ホームズ流の
制圧術をね」
「ふうん。異種格闘技戦でもかまわないよ。どれだけ通じるか、試したいんじゃない
の? 通用すれば、自信になるだろうし」
「さすがに柔道と剣道で異種格闘技はまずいだろう。という以前に、成り立つのか?」
「無論、双方ともに竹刀を手にして試合をする。私も試してみたいんだ。用意スタート
で始める試合なら、自分は弱くないことを確かめるために」
「……何かあったのか」
 十文字の問い掛けに、五代はまともには答えなかった。
「仮に、何でもありの決闘のような勝負をすれば、恐らく私は強くない。せいぜい、中
の上ぐらい。音無さんにも負ける可能性が高い。そして音無さんと互角の勝負をした八
神という子は、試合では音無さんに敗れたが、実際はもっと強いんじゃないかと思う」
「その話、知ってたのか」
「最初、一ノ瀬さんからね。そのあと、音無さんから詳しく聞いた。伝聞だから完全に
は掴めていないけれど、強いと感じたわ。だから、一応の注目はしていた。なのに、や
られた」
「やられた? 君が?」
 信じられないと、表情で語る名探偵。五代は今度は自嘲の笑みを浮かべた。
「言葉で説明するのは大変難しい。多分、無理。廊下ですれ違った直後、生殺与奪の権
利を握られたって感覚になったのよ」
「生殺与奪の権利って、この場合は、本当の生き死にって意味か」
「ええ。殺気のとても鋭いやつ。気が付いたときには終わってる、みたいな具合だっ
た。私、立ち止まって、振り返ったんだけれど、もう遠ざかっていて、曲がり角の陰に
消えるところだった」
「……その後、八神君と接触は?」
「全くない。試されただけなのかもしれない。その上で、わざわざ勝負するに値しない
と判断されたのかもしれない」
「おいそれとやり合って、無駄に怪我をしたくないと考えたんじゃないか」
「へえ。ありがとう。そういう気遣い、できるんだ?」
 意地悪げに笑った五代。十文字は目をそらし加減にして応じた。
「トップクラスのアスリートの身体能力を、高く評価しているまでさ。正面からやり合
えば、そこいらの喧嘩自慢なんて相手にならない」
「ふむ。では、そろそろトップアスリートの力を、直に味わってみる? さっき云った
異種格闘技戦をやるなら、竹刀や木刀や刺叉がこの道場にも備えられているけれど」
 数ヶ月の間に殺人事件が繰り返し起きた事実を重く見て、学校側がとりあえず侵入者
対策として導入した物だ。なお、防犯カメラを大量に設置しようという案も出ている
が、さすがにハードルが高いらしく、即時の決定には至っていない。
「八神君との件があったから、そっちがやってみたいだけなんじゃないか? まあ、一
度だけなら、竹刀を使ってみるか」
 合意がなった。防具がないため、肩から上を狙うのは禁じ手とし、また、竹刀の鍔よ
りも先の部分を直に持つ行為はなしとした。勝敗の決定方法は、柔道のそれに加えて、
相手の竹刀による攻撃によって自らの竹刀を取り落とすことが二度あれば負けとする。
(狙えるのは小手と胴。イレギュラーな試合なんだから、足なんかも狙っていい。ある
いは、胴体への突き。でも、そんなにうまく行くとは思えん)
 通常の柔道の試合と同じように、相手の五代と正対しつつ、十文字は考えていた。当
初は投げられに来たつもりだったが、この変則的な試合だけは、十文字も勝つ気で行か
ねばなるまい。それが五代の望みだと分かる。
(掴まえられたら終わり。竹刀で距離を取って、ペースを先に握るのが理想。成功する
か否かは別として、立ち上がりの速攻がいいか?)
 各方向への一礼を済ませ、改めて正対する。竹刀を構える。様になっているのは、十
文字の方だろう。
「開始の合図はそちらに任せるからね」
 五代が云った。
 十文字は、ならばと、かけ声を発することなく、いきなり動いた。
 竹刀を最小限の所作で振りかぶり、小手と突きどちらも狙えるような構えで前に出
た。
「おっと」
 五代も警戒していたのか、身を引いて構えを保つ。かわされた十文字は、距離を取る
という最低限の目的を果たし、竹刀を構え直した。
 と、五代の方から詰めてきた。打ち込むつもりの感じられない、防御のためだけの竹
刀の角度。
 十文字がおかしいなと思った刹那、五代は竹刀を野球のバットのように、水平方向に
フルスイングした。
 竹刀が消えた。
 次の瞬間、十文字の腰の辺りをかすめるようにして、竹刀が飛んで行った。
(な何てことを。自分から手放すなんて、ありかよ?)
 柔道技を認めているから、竹刀を自らの意思で手放すのは当然ありなのだが、まさか
投げつけてくるとは想像の埒外だった。
 怯んだ十文字に対し、五代はあっという間に接近し、懐に潜り込むタックルを決め
た。
 十文字の身体が宙に浮く。風に舞い上げられた木の葉の如く、軽々と。そして一秒も
しない内に、畳の上にずしんと叩き付けられた。
「――」
 悲鳴を上げないだけで精一杯だった。いや、むしろ逆で、声すら出なかったとすべき
か。呼吸が詰まったような感覚が、しばらく続く。もう動けなかった。
「一本だと思うけど、念のため」
 そんな五代の囁き声が耳に届いたと思ったら、袈裟固めでがっちり極められてしまっ
た。「参った」と叫んだつもりだったが、全然声にならない。手で五代の背中を弱々し
く叩き、降参の意思表示をした。
「ごめんねー。八神さん対策で色々と考えていたことを、試してみたんだけれど、大丈
夫かな?」
(そりゃあ確かに、柔道部の部員同士でこんな変則試合はやれまい)
 十文字は思った。思っただけで、声はまだ出せなかった。

――続く




#501/598 ●長編    *** コメント #500 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/31  01:39  (474)
絡繰り士・冥 2−2   永山
★内容                                         18/06/03 03:13 修正 第4版
             *             *

 木部逸美(きべいつみ)。それが、音無さんに化けて七日市学園に入り込み、死亡し
た女性の本名だった。
 東北の出身で、年齢は十八。地元の公立高校を一年で辞め、家族と離れて上京。俳優
志望で、数多ある小劇団の一つに入っていた。が、最近は稽古に出て来なくなり、幽霊
団員と化しつつあった。その矢先の事件である。
「若い団員達は劇団の用意したシェアハウスに入るパターンが多くて、木部もそこに入
っていた。が、年始にそこを出て三ヶ月ほど経った頃から、段々と足が遠のくようにな
っていったらしい」
 すっかり顔なじみになった八十島刑事が、捜査の進捗状況を話してくれた。もちろ
ん、明かせる範囲に限られているんだろうけど、これまでの十文字先輩の実績や、五代
家の口添えのおかげか、ハードルが比較的低い気がする。
「シェアハウスを出た木部は、どこに行ったんです?」
 十文字先輩が聞いた。ここは八十島刑事が指定したラーメン屋だ。雑然としている上
に、カウンター席もテーブル席も間仕切りがあるので、秘密の会話もしやすいらしい。
 今日は放課後、捜査本部のある警察署に出向き、木部逸美のものだという音声データ
を聞かされた。事件当日、僕の携帯に電話をしてきたのが木部逸美に間違いないか、確
認を求められた次第だ。僕の返答は「似ている気はするが、断定まではできない」とい
うレベルに留まった。尤も、電話の音声の仕組みからすれば、これは無理もないことら
しいが。
 ともかく、その調べが済んだあと、情報をもらうためにこの店に寄った。署内でやる
のは、さすがにまずいという訳だ。
「まだ分かってない。劇団員の証言で、男がいたのは間違いないんだ。前髪を茶色くし
た痩身だが高身長。見掛けた者の証言では、ゆうに一八五センチはあるそうだよ。バタ
臭いというか洋風の顔立ちに薄い色のサングラスをだいたい掛けていて、ハンサムに入
る部類らしい。具体的な容貌はさっぱり掴めないし、どこで何をやっているかも分から
ない。名前は苗字だけ、ウエダと。そいつの家に転がり込んだんじゃないかっていうの
が、大方の見方だが、捜査はまだまだこれからだね」
「想像を逞しくして、ウエダが事件に大きく関与しているとします。恐らく、俳優や映
画、ドラマ業界に関する何らかの美味しい話を持ち掛け、木部を連れ出し、手元に置い
たんじゃないでしょうか。実際、業界に詳しい可能性が高い。木部に特殊メイクを施し
たのが、ウエダの手配だとしたら、ですが」
「ウエダが木部の変装に力を貸したのは、まず間違いないだろうと、我々も見ている。
だが、木部殺しに関わっているかとなると、何とも云えない。わざわざ変装させ、木部
とはまるで関係のない学校に入り込ませ、そこで殺害するという行為に意味を見出せな
いからだ。仮に、百田君を陥れ、十文字君に事件を解くよう仕向けるためだとしたっ
て、やり方が迂遠すぎるじゃないか」
 店に入ってから、先輩と僕はラーメンを、八十島刑事はチャーハンを注文したのだ
が、僕らが早々に平らげたのとは対照的に、刑事のチャーハンはほとんど減っていな
い。残すのなら、タッパーにでも詰めて一ノ瀬に持って行ってやろうか。
「仮に、ウエダが木部を騙していたとして」
 十文字先輩が、議論の焦点を変えた。
「『音無亜有香という女子高生に変装し、七日市学園潜入しろ』という命令を、木部が
素直に聞くものでしょうかね」
「うーん。『演技テストだ。うまくやったら、映画に出られるようにしてやる』なんて
云われても、鵜呑みにするとは思えんね。ウエダが本物の業界人でない限り、じきに嘘
がばれるだろう。今の時代、調べれば割と簡単に分かるはずだ。ましてや、学校に無断
で入るのは、明らかにおかしな行為だし」
「……木部は、どんな俳優を目指していたんです? 音無君に化けられたのはマスクと
メイクのおかげで、木部の素顔は際だって美人と云うほどではなかったような。だか
ら、性格俳優?」
 辛口批評をずけずけと云う名探偵。
「いや、違う。意外にも、アクション俳優だったそうだよ。日本の女優には激しいアク
ションのできる人はあまりいないから狙い目だと考えていたみたいで、当人もスポーツ
は得意だったようだ」
「アクションですかぁ。ますます分からなくなった。変装しての演技テストという想定
から、遠くなってしまった」
「アクションの演技テストを受けたけど、何らかのハプニングで凶器が刺さり、死んで
しまった、というのはどうでしょう?」
 僕は思い付きを口にした。深くは考えない。間違っていても、先輩や刑事達の頭脳を
刺激する材料になれば御の字だ。
「事件ではなく、事故だと?」
「侵入行為そのものの説明は付かないけれども、アクションの相手をしていたウエダが
黙って出て行った理由にはなってるでしょう? 予想外の事態に動転して、木部を見捨
てて行った」
「一見、筋が通っているようだが、密室は?」
 八十島刑事が当然の疑問を口にした。引き継いで、先輩がはっきりと表現した。
「動転しているのに、わざわざ現場を密室にしてから逃げる訳がない、か」
「それを言い出したら、僕を陥れるための殺人だったとしても、密室を作っていくのは
やりすぎって印象受けるんですが」
「まあ、君を気絶させて、被害者と同じ部屋に置いておくだけでも充分効果的だとは思
うよ」
 応じたのは刑事。チャーハンは相変わらず、ほぼ手付かずだ。お冷やのグラスに着い
た水滴が、テーブルに小さな水たまりを作りつつある。
「一応容疑者の君に、ここまで喋っていいのか分からないが、密室だったせいで、かえ
って君への疑いは薄まったとも云えるんだ。犯人が死体とともに密室に籠もるなんて、
心理的にはまずあり得ない」
 そこで言葉を区切ると、八十島刑事は十文字先輩を見た。さあ名探偵はどう判断す
る?とでも問いたげな視線だ。
「勇み足のようですよ」
 まず、先輩の一言。
「整理するために、少しだけ話を戻しましょう。予想外のハプニングで木部は死んだと
いう仮説は、そもそも成り立ちそうなのか? ここから考えなければいけない。重要な
のは、百田君、君が気絶させられたという事実だ。電話とメモを使って家庭科室まで呼
び出されたのだから、君が関係したことは偶然じゃない。木部もしくはウエダが望んだ
んだ。ならば、アクション演技のテストだとすると、君はどういう役回りをさせられた
んだろう? 君を殴って電気ショックで気絶させることまでが、テストなのか?」
「い、いえ、それはないですよ、多分。テストなら、あそこまで強く殴らない」
 痛みが甦った気がした。思わず、頭に手をやっていた。
「だったらハプニング説は捨てよう。これは殺人だ。殴ったのがウエダにせよ木部にせ
よ、演技テストなんかじゃないこともまず確実だ」
「あー、ちょっとストップしてもらっていいかな」
 八十島刑事が口を挟んだ。ようやく、チャーハンが減っていた。
「なかなかの論理展開だと思う。ただ、気になったのは、ウエダなる男がその場にいた
と決め付けて語っているようだけど、どうなのだろう?」
「と、云いますと……もしかして、男の不審人物は七日市学園に出入りしていない証拠
でも見付かったんですか」
「証拠って程じゃないが、学校へ通じる周辺の道路には、いくつか防犯カメラがあるか
らね。それを全て当たった結果、事件前後の近い時間帯に、正体不明の男が出入りする
様子は確認できなかった」
「しかし、木部逸美は」
「被害者の方は、女生徒のなりをしていたから、紛れ込むのは簡単だったろう。現段階
では、いつの時点で入り込んだのか掴めてないんだけどね。マスクを着けている子が多
くて、手間取っている」
「だったら、ウエダも男子か先生に化けて」
「それは厳しいだろ。ウエダは目立つくらい背が高い。出入りしたのなら、我々がカメ
ラの映像の中から見付けている」
「そうでしたか。早く教えてくれればよかったのに」
 両肩をすくめると、先輩は気を取り直した風に笑みを浮かべた。
「あれ? でもさっき、ウエダが木部殺害犯の可能性どうこうって云ってませんでした
か、刑事さん?」
「実行犯ではなくとも、関与しているケースは考えられる。木部の行動をある程度コン
トロールできるとしたら、ウエダだろうからね」
「なるほど。じゃあ、ついでに伺いますが、木部以外に学校関係者じゃない者が入り込
んでいたという可能性は? 情報の小出しは勘弁してください」
「飽くまでも今のところだが、見付かっていない。知っての通り、当日は基本的に休み
だから人が少ない方だが、大勢の中から特定の一人を探し出すのならまだしも、不審人
物がいないか生徒や教職員らの顔写真と照らし合わせながらだと、どうしても時間が掛
かるんだ。マスクも厄介だしな」
「それでも、木部の他に校内に潜入するとしたら、犯行時刻の直前か、せいぜい一時間
前ではないでしょうか。生徒らに見られて、不審がられたらアウトだ」
「無論、犯行時刻と思しき午後三時から四時を中心に、範囲を広げながらチェックして
いるよ。そうした上での話だ」
「つまり、変装して入り込んだのは、木部一人しかいなかったと考えても?」
「私的判断では、かまわないと思う」
「では、その前提で進めるとしましょう。木部を手引きした学校関係者がもしいたな
ら、また話がややこしくなるが、変装させて学校に呼んで殺害するメリットがない。少
なくとも、僕には思い付かない。音無君に見せ掛けるのも、ほんの短い間しか効き目が
ない。百田君に濡れ衣を着せるのも同様。だからここは、当日、木部は単独行動してい
たと仮定します。大前提と云ってもいい。さて、変装は何のためにやるか。百田君、ど
う?」
「え? えっと、他人になりすますため」
「そうじゃなくて、なりすますのは何のためかってことさ」
 呆れたように鼻で笑われてしまった。さすがにしゅんとなったが、僕は頑張って答を
探した。
「普通なら、悪事をなすためでしょう。自分のやりたくないような」
「同意する。木部も恐らく、何らかの悪事を働こうとしていた。それが、君を呼び出し
ての襲撃だ」
「そこまでは納得できます。でも、そのあとが……」
 僕は口ごもった。まさか、僕が正当防衛で死なせたって云い出すんじゃないですよ
ね? 凶器の件があるし、大丈夫だと信じていますが。
 からつばを飲み込んだ僕の横で、先輩はしかし、続きの推理を語らなかった。
「八十島刑事。木部が望んでいた職業が、本当にアクション俳優なのか、調べられませ
んかね?」
「ああ? それが事件に関係あるって?」
「分かりませんが、多分、あります。状況証拠ないしは傍証になる程度ですが」
「まあ、被害者と犯人をつなぐ線は当然、調べているが、被害者の過去、それもかなり
幼少期となるとねえ」
「幼少期じゃなくてもいいんです。元々、憧れの職業として俳優とは全く異なるものを
言葉にしていた可能性があるんじゃないかと」
「十文字君。君は一体、何の職業を思い描いているんだ?」
 刑事からの率直な問いに、先輩は名探偵らしくもったいを付けた。
「正規の仕事とは云えません。裏稼業の一つで、僕らも何度か事件を通じて見知ってい
ると云えるでしょう」
「殺し屋か」
 この単語が日常会話で飛び出したら、荒唐無稽、絵空事で片付けるに違いない。しか
し、僕らにとって「殺し屋」や「遊戯的殺人鬼」は、日常語になっていた。
「ええ。木部はその行動原理から推して、職業的な殺し屋ではなく、遊戯的な殺人鬼の
方だと思いますが」
「行動原理?」
「真っ当な動機なしに、まるで関係のない者を殺そうとしたんですよ、木部は。百田君
をね」
「え?」
 そうなのか? こうして助かったから、感覚が鈍くなっているのかもしれないが、ま
さか殺されかけていたとは。
「先輩の推理が当たっているとして、じゃあ、どうして僕は殺されずに済んだんでしょ
う? 意識を失っていたんだから、自由にやれただろうに」
「助けられたんだろうねえ」
 十文字先輩は云ってから、にやっと笑った。
「誰にですか」
「木部を殺した犯人に、さ。助けるために、木部を殺したと云えるかもしれない」
 いつの間にか、僕は椅子からずり落ちそうになっていた。力が抜けて、改めて入れよ
うにもうまく行かない。そんな感覚がずっと続いた。
「誰が百田君を助けたかは、目処が立っているのかい?」
「いえ、そこまでは」
 刑事の質問に、探偵はあっさり首を横に振った。八十島刑事は手帳に何やらメモをし
てから、場を促す。
「では、ひとまず整理しよう。木部逸美が何をしようとしていたか、だ。動機は斟酌し
ない」
「待ってください。強いて云えば、動機は、音無君を窮地に陥れ、恐らくは僕に謎を解
かせるためだったかもしれません」
「つまり、以前、君に挑んできた連中と同類ってことかい」
「高い確率で、当たっているんじゃないかな。七日市学園で殺人事件を起こすことは、
すなわち、十文字龍太郎の介入を覚悟しているも同然。しかも、僕の親しい知り合いで
ある音無君を容疑者に仕立てようとしたのだから」
「音無さんを窮地に陥れるとか、容疑者に仕立てるとか、その辺りの説明をしてくれな
いか」
「簡単ですよ。音無君に変装した木部は、百田君を殺害した後、第三者にある程度目撃
されつつ、立ち去るつもりだったんでしょう」
「そうか。殺害現場から立ち去ったのが音無さんの姿形をしていれば、音無さんに疑い
が向くのが当然の流れだ」
「実際は、急用で音無さんが来られなくなり、おかしな状況になってしまいましたが。
いや、そもそも、殺人を失敗した挙げ句、自分自身が命を落としたことが大誤算だ」
 八十島刑事はまたメモを書き付け、顎をさすってしばらく考える姿勢になった。その
間に僕は先輩に質問をぶつけた。
「音無さんが学校に来ることを見越して、木部は計画を実行したんですよね? おかし
くないですか。罪を被せる以前に、鉢合わせの危険性があります」
「いや、殺人実行まで身を潜めていれば、鉢合わせする危険はさほどあるまい。侵入か
ら殺人実行までの時間は、なるべく短くするに越したことはないが」
「それでも、音無さんがクラスにずっといたらアリバイ成立するから、濡れ衣を着せる
のだって難しくなるような」
「そこは仲間がいて、恐らくウエダが手を打ったんだと思う。予め打ち合わせしておい
た時刻になったら、ウエダは音無君の携帯番号に電話して、呼び出す算段になっていた
んじゃないか。連中がどこまで音無家について調査したかは知らないが、それこそ、刀
が発見されたという理由付けで呼び出すことを思い付いたかもしれない。あ――」
「どうしたんだい?」
 八十島刑事が云った。考えている間もちゃんと話を聞いていたらしい。
「もしかすると、本当にそうやって呼び出したんじゃないかと思ったんですよ。だが、
音無君の方はちょうど刀を確認しに行くところだったから、再確認の電話と受け取っ
て、何となくおかしいと感じつつもスルーしたんじゃないかな。ウエダはウエダで、呼
び出しに成功したと信じ、木部に最終的なゴーサインを送ったと」
「想像力たくましいな。実際、木部の所持していた携帯電話には、事件の直前と思われ
る時間帯に、四度鳴っただけで切れた着信記録が残っていた。非通知だったから気に留
めなかったが、ウエダの合図だった可能性はあるな」
「念のため、音無君にそういう電話がなかったか、聞いてみればいいのでは? もしイ
エスなら、彼女の携帯電話の着信を調べる」
「木部やウエダの犯行計画を炙り出すには、必要かもしれん。手掛かりとしては期待で
きないだろうがね。十中八九、いや、百パーセント非通知か公衆電話からだろう。木部
の携帯電話に残っていたのも、念の入ったことに公衆電話からの非通知だった」
 と、ここで時刻を確かめた刑事は、慌てたように席を立った。
「こりゃいかん、長居しすぎた。密室の検討がまだだが、しょうがない。あー、追加注
文するのなら、ひとまず自腹で頼むよ」
 八十島刑事は一方的に喋ると、伝票を持って急ぎ足でレジに向かう。チャーハンの大
部分が残された。

             *             *

 どんなによい計画でも、人任せにすると無惨な結果に終わることがある。
 冥は改めて肝に銘じた。
 十文字龍太郎を試すための犯罪なのだから、その絡繰りを見破られるのは一向にかま
わない。だが、計画した犯罪そのものが不発に終わるのは無惨としか云いようがなかっ
た。計画通りに行かない上に、貴重な同胞を失うわ、誰にやられたのか分からないわと
来た。これを無惨な失敗と云わずして、何を云うのか。
(洗い出して、けりを付けるべきか、それとも優れた探偵達をピックアップするのが先
か。悩ましい)
 問題はもう一つある。上田(ウエダ)をどう遇するか。この度の計画の実行を任せた
のだが、この有様では続けて重用するのは難しい。系統だった組織がある訳ではない
が、それでも示しが付かないであろう。一方で、上田当人からは挽回の機会をと必死の
アピールがあり、かつてないほどのやる気を見せている。
(木部を屠った輩を見付けるよう、命令を下してもいいのだけれども……あれの年齢や
風貌では、七日市学園に潜入調査するのは難しかろう。今一度、百田充を襲うことで、
おびき出せるか? 最悪でも、上田を当て馬に、木部をやった者の正体を突き止められ
ればいいのだが、確実性を欠く。
 春先でも、辻斬り殺人の件で、やられているからな。同一人物による仕業だとする
と、矢張り、無差別な遊戯的殺人を嫌う職業的殺人者が最有力。そんな奴をおびき出す
には、無差別殺人や遊戯的殺人を起こすのが手っ取り早い。上田には、七日市学園の人
的・地理的周辺で、殺人を起こさせるとするか。十文字龍太郎が食いついてきたら、そ
ちらの方は私自らテストをしてやるとしよう)

             *             *

「おまえ、最近何かやったか?」
 行き付けにしている数少ない食堂で、カウンター席に着くなり店の主人から問われ
た。
 上田は表情を変えないように努めつつ、サングラスのブリッジをくい、と押し上げ
た。
「誰か訪ねて来たとでも?」
「警察と警察じゃないのが来たよ。それより注文、早くする」
 唐揚げとビールを頼むつもりだったが、やめた。とりあえず、早く食べ終われそうな
丼物の中から、天津丼を選んだ。
「それだけ? お酒なし? 給料日前か」
「いいから、早くしてくれ。どんな奴が来たのか、話してくれたら、倍払うよ」
「ああ。警察は若いのと中年のコンビ。名乗られたけど、忘れたよ」
「いや、そっちはいい。刑事じゃない方が気になってるんだ」
「何だ。――ほいよ」
 天津飯の丼を受け取る。割り箸立てに手を伸ばし掛けたが、レンゲを頼んだ。
「警察じゃないのは、女が来たね。派手で華やかな感じで、三十前ぐらい? ファッシ
ョン雑誌から抜け出したようなきれいななりなのに、腕っ節は強そうだったね」
「美人の女か……」
 心当たりはなかった。
「どんなことを聞かれた?」
「警察も女も、似顔絵を見せてきて、『このウエダって男を知らないか』って。どちら
の絵も、そっくりだったよ」
 手に持った玉じゃくしで、上田を示してくる店長。上田は飯をかき込んでから、くぐ
もった声で聞いた。
「で、何て答えた?」
「知らないと云っておいたよ。だって、おまえ、『ウエダ』じゃないもんね」
「ああ」
 上田は水を飲んだ。通常は香取と名乗っている。趣味の殺しに関係している場合の
み、上田と称しているのだ。
「けど、あの調子じゃ特定されるのは時間の問題よ。ほんとにまずいのなら、覚悟しと
くか、逃げるかしたらいいよ」
「ご忠告、ありがとさん」
 財布を引っ張り出し、天津飯二杯分の金をカウンター上に置いて、座り直す上田。
(予想以上に早いな。どうやって絞り込んだのか。それとも、ローラー作戦か。でも、
警察はともかくとしても、女ってのは何者だ? 単独で動いているとは思えない。まさ
か、殺し屋グループの一人か)
 殺すのは好きでも、殺されるのは御免被る。
(冗談抜きで逃げたい気分だ。だがしかし、冥からの指示を受け、新たな計画に着手し
たばかり。今度しくじれば、冥の信頼は最早得られなくなるに違いないし、俺も途中で
投げ出すのはプライドが許さない。殺し屋連中が俺を探しているのなら、むしろ好都合
じゃないか。おびき出した上で、処分してやる)
 食事を短時間で終わらせると、上田はそそくさと店をあとにした。
 およそ一時間半後、わざと遠回りをしてから“根城”に戻った上田は、計画の段取り
を再確認した。
 今回、上田がやろうとしているのは、フラッシュモブを利した無差別殺人だった。
 想定しているのは、イベント企画会社が仕掛けるそれではなく、ネット上での呼び掛
けにより有志が自由勝手に集まって行うタイプ。突然始まった“お祭り騒ぎ”に足を止
めて見入る観客の中から犠牲者を選んでもよいし、フラッシュモブの内容によっては、
参加者を犠牲者にすることもできるだろう。
 問題は、上田にとって都合のよい、条件にぴたりと当てはまるフラッシュモブが近々
行われるかどうか、である。なるべくなら、自らが呼び掛けて発起人になる事態は避け
たい。
 幸運にもこの週末は、条件に合うフラッシュモブが二つ予定されていた。七日市学園
と同じ市内か、隣接する都市が地理的な最低条件だが、今週末の二つは、いずれも近
い。一つは、新しく開発の始まった駅前の噴水広場、一つは廃止された遊具施設の跡地
となかなか対照的だ。
 できれば、その場所に七日市学園の関係者を誰でもいいから来るように仕向け、犠牲
者とするのが一石二鳥の妙手。自分の仮の名前を使えば、エキストラとして選んだ人間
を、ある程度意のままに操ることはできる。が、警察が動き出した今、表に名前を出す
ような行動は取るのは賢い選択とは云えない気もする……。

             *             *

「非通知と云ったって、実際には記録されている訳だから、特別な事情があれば、情報
の開示は可能なんだ。公衆電話も基本的には同じ」
 八十島刑事の説明を受けて、僕らは捜査の過程をよく理解できた。
「それでウエダがどこの公衆電話から発信したのか、特定できたんですか」
「そう。あとは、その周辺で聞き込みを掛けて、目撃証言を集めたり、知っている者が
いないかを当たったりした結果、香取丈治と名乗っている男が問題のウエダらしいと分
かったんだよ」
「木部は殺人に成功し、現場から無事逃走するつもりだったのだから、着信履歴にさほ
ど頓着していなかった。通常の連絡を非通知にしておけば充分だと考えていたんでしょ
うね。それが仇となった訳か」
 十文字先輩が補足説明するかのように云った。上田発見に関して、探偵能力を発揮す
る機会がほとんどなく、せめてここで意地を見せておきたかったのかもしれない。
「それで、上田を拘束したんですよね? 事情聴取では何て云ってます?」
「だんまりを決め込んでいる。名前や年齢、職業すら口を割らない。実は、しばらく泳
がせていたんだがね。次の殺人を計画している節があり、上田の他に実行犯がいて連絡
を取り合うかもしれなかったから」
「次の殺人?」
「雑踏の中で殺しをやらかそうと考えていたことは、木部とのメールのやり取りで分か
ったんだが、具体的な情報が掴めない。拘束に踏み切って、奴さんのパソコンや携帯端
末やらを浚った結果、フラッシュモブの人混みを利用しようとしていたと推察された」
「わざわざフラッシュモブじゃなくても、混雑しているところならどこでもできるだろ
うに。通勤ラッシュの駅とか夏休みのプールとか」
「その場にいても不自然じゃない状況が欲しかったんじゃないかな。通勤ラッシュなん
かだと、日常的にその路線を利用していないと不自然だろ」
「上田が映画業界、ドラマ業界に詳しいとしたら、フラッシュモブにも何か理由があり
そうですが。エキストラとして選んだ人物をフラッシュモブの現場に送り込む、といっ
た」
「なるほど。その手口なら、被害者をある程度は選べそうだ。無差別殺人に見せ掛け
て、狙った人物を始末する。口を割らせるのに役立つかもしれないな。お見通しだぞっ
ていう圧力を掛ける」
 殺人を未遂に食い止めた喜びからか、いつにも増して軽い口ぶりの八十島刑事だ。事
件の話をしないのであれば、豪華なレストランに連れて行ってくれたかもしれないと期
待させるほど。現実は、いつものラーメン屋もしくはファミレスのどちらかだが。
「僕らとしては、木部逸美が死んでいた事件の方が気になってるんですが」
 十文字先輩が云ってくれた。なかなかその話題に移らないので、やきもきしていたと
ころだ。
「さっきも云ったように、上田の奴がだんまりなんで、新たに判明したことは少ない。
ただ、上田は木部に、ターゲットから逆襲されたときや邪魔が入ったときの心構えとし
て、防御か、一撃を加えた後の逃亡を説いていたと分かった」
「……それって、有益な情報ですか? 当たり前の対処法のような」
 僕が疑問を呈するのを、十文字先輩は止めた。
「いや、案外、真相を突いているかもしれないよ」
「どういう訳です?」
「要するに、殺人鬼として追い詰められたときの対処法だろう。殺しが好きでも、自害
するってのは矢張りないようだ」
「そりゃそうでしょう」
「でも、考えてみるんだ、百田君。防御をした上で、当人が死んでしまったらどうなる
か」
「え? 防御したあと、死ぬ?」
 何で死ぬんですかと聞きそうになったが、さすがに分かった。致命傷を負った者が、
死ぬ前に何らかの行動を取るケースを云ってるんだ。
「木部逸美は、家庭科室に呼び付けた君を襲って、自由を奪ってから殺すつもりだっ
た。が、そこを目撃した何者かに邪魔された。その何者か――面倒だからXと呼ぶよ、
Xは恐ろしいほど素早く行動を起こしたんだろう。凶器を取り出し、家庭科室のドアの
ところで、中にいる木部を刺した。受けた木部は、これはまずいと理解したかもしれな
い。していなくても、とにかく逃げよう、防御しようとする。だが、逃亡は無理だ。廊
下はXが立ち塞がっている。できることは、ドアを閉め、鍵を掛け、傷の具合を見て、
可能であれば二階の窓から外へ脱出するぐらいだろう」
「あ。鍵」
「そう。密室は木部自身が作ったんじゃないだろうか。逆に、施錠されたら、Xとして
もどうしようもない。いや、鍵を取りに行けば追撃可能だが、現実的でない。それに多
分、手応えがあったんだと思う。どうせ動けないはずだという確信が」
 先輩は刑事に目をやった。
「もう解決間近だから、教えてくださいよ。凶器は何だったのか」
「……T字型をした金属の棒だよ」
 八十島刑事は一段低くした声で教えてくれた。
「コルク栓抜きみたいなやつさ。横棒を手のひらに握り込んで、指の隙間から出した縦
棒の先端で相手の急所を刺す」
「凶器と云うより、特殊な武器だな。使い慣れた者なら、一突きで仕留められるんじゃ
ないですか」
「その辺はよく分からないが、犯人は――木部を殺した犯人は、一突きではなく二突き
していた。極短い間隔で、連続的に刺したという見立てだ。二突き目から逃れようと、
木部は手で払ったらしく、そのせいで傷口が大きく開いた。そこから大量出血につなが
り、動けなくなったと推定されている。たとえ窓から逃げようとしても、無理だったろ
うね。十文字君の推理が当たっているとして、鍵を掛けるだけで精一杯だっだと思う」
「Xが凶器を捨てたのは、捜査が入ることを見越し、手元に置いておきたくなかった
と。Xの行動からすると、いつでも取り出せるようにしておいた、手に馴染んだ武器だ
っただろうに」
「足が着かない自信があったんだろう。指紋も汗も、何も検出されていない。お手製み
たいだから、流通ルートを辿ることもできない」
 まさにプロの殺し屋の仕業。そう感じたが、一方で、信じられない気持ちもまだ残っ
ている。この七日市学園に殺し屋がいるって? 殺人鬼がいたというだけでも驚きなの
に。
「七日市学園は一芸に秀でた生徒を多く集めていると、前に聞いたけれど」
 そこまで喋った八十島刑事は、最後のひとすくいを口に入れてから、話を続けた。今
日はカツカレーをきれいに平らげた。
「まさか、殺しの得意な生徒も入れてるんじゃなかろうね」
 冗談と分かっていても、笑えない。
「八十島さんは七尾弥生君とも親しいんでしたよね?」
 先輩が聞いた。頷いて水を飲む刑事。
「彼女の前で、同じ話をしたことあります?」
「まさか。ないよ。あの子が学園長の身内というのとは関係なく、今の冗談は思い付い
たばかりだから」
「そうですか」
「何だい、高校生探偵。本気で可能性を考えているのか、殺人の得意な生徒を集めてる
んじゃないかって」
「ふふふ。まあ、思考実験と云いますか、ありとあらゆる可能性を考えておきたいんで
すよ」
 十文字先輩は声では笑いながらも、表情は真顔のままだった。

             *             *

 冥は実験結果に満足していた。案出した殺人トリックの一つを使うと決め、ミニチュ
アを調達して、思った通りに動くかどうかを確かめたのだ。
(ミニチュアで成功したから、実物でも成功するとは限らないが……これで目処は立っ
た。あとは、実行役だけれども)
 冥は大きく息を吐いた。満足していた気分がしぼむ。
(上田に任せてやろうと思っていたのに、あっさり捕まって……文字通り、使えない奴
になってしまった。さあ、どうしたものか。ここ最近、人材不足を感じる。殺し屋側の
人間に、こちらの面々が次から次へとやられているから。全く、忌々しい)
 冥の心中の呟きでは、一方的に押されているようなニュアンスだが、実際には冥ら遊
戯的殺人者の側も、殺し屋サイドへ被害を与えている。ただ、遊戯的殺人者の犠牲は、
いずれもそこそこ大物であるのに対し、殺し屋側で命を落としたのは総じて小粒。考え
てみればそうなる理由があって、遊戯的殺人が世間で騒がれ、目立ったからこそ、殺し
屋サイドから目を付けられたのだ。反対に、遊戯的殺人者が狙える殺し屋は、過去につ
ながりがあった顔見知りの連中がほとんどで、大物に行き当たらない。
(七日市学園関係者に殺し屋がいるのは、ほぼ確実。それも、学校内での事件にちょっ
かいを出してくる傾向があるようだ。それはイコール、十文字龍太郎が絡んだ事件でも
あるか。不確定要素は可能な限り排除したいから、十文字へのテストとする殺人は、学
校の外で起こすのが吉かな。――それにしても、木部をやった奴は、どうして木部を怪
しんだんだろう? 完璧に化けたと聞いたのに。警察発表を信じるなら、犯人は音無亜
有香に変装した木部を目撃してすぐに見破り、一瞬の内に仕留めたみたいじゃないか)
 しきりに首を傾げる冥だった。

             *             *

 土曜の午後、八神蘭は電車に揺られながら、そのニュースを知った。
 木部逸美の密室死亡事件が一応の解釈がなされ、犯人の正体に関しては依然として不
明であると分かり、まずは安心できた。
(自分が捕まらない自信はある。けれども、百田充に迷惑を掛ける意図は全然なかった
から気になってはいた)
 電車のシートに放り出されたスポーツ新聞から視線を外し、八神は目を軽く閉じた。
(積極的に助けるつもりもなかったが、どうやら大した怪我もなく、生きながらえた様
子)
 八神は百田充を助けに入ったのではなかった。
 あの日、学校で木部逸美を見掛けた刹那、何だこいつはと感じた。音無亜有香そっく
りの格好をして、何を企んでいる?と。
(あのとき、瞬時に変装を見抜けたのは、矢張り、音無亜有香を好敵手と認めているか
らかな。技術的に私の好敵手たり得る音無亜有香を、つまらぬことで貶めるのは許せな
い。そう思ったからこそ、身体が自然に動いた)
 木部のあとを尾けた八神は、百田が殴り倒されるのを見た時点で、おおよその察しが
付いた。どんな事情があるか知らないが、音無に殺人の濡れ衣を着せるのはやめてもら
おうか。思ったのとほぼ同時に、手が凶器を握り、日常動作の中に織り込んだ仕種で、
木部を刺していた。
(あいつが遊戯的殺人者の一人だったとは、全く想像できなかった。結果オーライとは
云え、あまり目立つのは殺し屋としてよくない。敵側に何か知られたら厄介だ。まあ、
十文字龍太郎の周囲で網を張っていれば、何人かが出て来るはずとの読みは、見事に当
たっているし、継続することになるだろう)
 頭の中で考えていると、急制動により身体が大きく傾いた。乗客はさほどなく、席も
だいぶ空いているが、電車が停止するとさすがにざわざわする。
 程なくして、人身事故発生のアナウンスがあった。長くなるかもしれない。
 八神蘭は、再び目をつむった。決して、緊張感は緩めない。神経を張り詰めておく。
(――私が乗っているから、事故が起きて死人が出る、ということはあるまいが)
 ふっと、妙な想像が浮かんだ。
(もしも音無亜有香が、人を殺す経験をすれば、今よりもさらに優れた剣士になるだろ
うに。そう考えると、あの木部逸美の邪魔をしない方がよかったか。殺人容疑を掛けら
れた音無が、どう変化するのか。ちょっと見てみたかった)

――終わり




#502/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/07/29  22:57  (  1)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(前)   永山
★内容                                         21/03/26 12:13 修正 第2版
※都合により非公開風状態にします。




#503/598 ●長編    *** コメント #502 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/30  00:08  (  1)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(後)   永山
★内容                                         21/03/26 12:13 修正 第3版
※都合により非公開風状態にします。




#504/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:02  (413)
そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香
★内容
「身を守る一番の方法は、危険に近付かないこと。だけどまあ、これは土台無理という
もので、危険が向こうから近付いてくる場合を想定しなければいけない」
 柔斗の師範代だという浅田沙織(あさださおり)は、年齢で言えば純子の十ほど上だ
った。しかし、身長はほぼ同じ。さすがに肉付きは、日頃から鍛えている浅田は“分厚
い”が、太っている感じはしない。詰まっている感じだ。それでいて柔軟性があること
は、事前の準備運動で見せつけられた。
「二番目は逃げる。逃げられるのならとっとと逃げる。周りに助けを求める。これらが
できないとき、初めて相手の身体に触れて、逃げるための道を開くわけだ」
 喋り口調は男っぽいが、声の質自体は女性らしい、高いものだった。ひっつめにした
髪をまとめるのも、ピンク色のゴム。
「さて、涼原さん。聞いた限りでは、あなたにとって最も想定される危機的状況は、フ
ァンを装って近付いてきた相手が、いきなり襲ってきた場合だと思うのだけれど、ど
う?」
「どう、と言われましても」
 考えていなかった純子は、正直に戸惑いを露わにした。
「恐らく、そうでしょう」
 代わって答えたのは相羽。女性二人が私服なのに対し、彼だけ白の道着だ。靴はス
ニーカーを、相羽を含めた三人ともが履いている。道場の一角に敷かれたマットの上
で、護身術教室は進められていた。
「あるとしたら、刃物か長い棒のような物を振るってくるか、何かを投げてくるか」
 そこまで答えて、相羽は純子に目を合わせた。
「怖い?」
「怖い。けど、その対策に、護身術を習うんだから、状況を想定するのは当然て分かっ
てる」
 純子は胸の高さで、両拳をぎゅっと握った。
 浅田は頭を掻きながら、「投げてくるのは、厄介だな」と呟く。
「石のような固い物かもしれないし、液体の劇物かもしれない。何か投げられたと思っ
たら、両腕で、頭と顔、特に目を守るぐらいか。ただし、亀の姿勢になるのはだめだ」
「亀?」
 内心、怖さがいや増すのを覚えながら聞いていた純子は、いきなり飛び出した生物名
に首を傾げた。そこへ相羽がフォローを入れる。
「浅田先生、噛み砕いてお願いします」
「先生と言われると歳を取ったと実感するから、『さん』付けでいい。ついでに、君が
説明してあげて」
「――亀の姿勢というのは、地面にひれ伏して、頭を両手で抱える格好で……やった方
が早いか」
 相羽はその場にしゃがみ、爪先を立てた状態で正座をすると、上半身を前向きに倒し
た。そのまま、両手で後頭部を覆う。
「そう、これが亀の姿勢。こういう風にしゃがみ込むのはまずい。相手に距離を詰めら
れ、さらなる攻撃を受ける」
 相羽のすぐ近くに立った浅田は、蹴りを入れるポーズだけをした。
「液体なら、真上から掛けられる恐れもある」
 やはり仕種だけやってから、浅田は相羽に立つように言った。
「逃げられる内は、とにかく逃げて離れる。相手と距離を取る。近くに何か物があれ
ば、利用してもいい。傘とか椅子とか。
 ここまでは術と言うより、心得だね。距離を詰められてからが術。闘いのプロでもな
い限り、攻撃の動作はだいたい、二段階から三段階からなる。そのことを分かっていれ
ば、第一撃をかわすことはさほど難しくない」
「そ、そうですか?」
 信じられないとばかりに口走った純子。
 と、浅田はいきなり右手を大きく振り上げた。
 頭の上の手刀が振り下ろされる前に、純子は後ろに飛び退く。
「ほら。こういうこと」
「あ――理解しました。でも、毎回、うまく行くとは限らない気がします」
「そりゃあ、当てようと思えば当てられる。たとえば」
 浅田の話の途中で、相羽が突然、「あ、浅田先生!」と叫ぶ。純子はびっくりして両
手を握り合わせ、硬直してしまった。次にきょとんとした。浅田がにやっと笑って、相
羽に対して片手を上下に振っているのだ。
「分かってる分かってる」
「寸止めでもだめですよ!」
「何で」
「驚いてよろめいて、足首をくじくかもしれないじゃないですか」
「なるほど。モデルやら何やらをやっている人に、そいつはよくない、な」
 浅田は「な」を言い切ると同時に、ハイキックを放った――相羽に。
 純子が息を飲んで状況を理解したときには、浅田の右足の甲が、相羽の頭のすぐ横で
停止していた。相羽は左腕を上げてガードをしていたが、その腕とほぼ重なる位置にあ
る。
「お、反応、早くなったねえ」
 足を戻す浅田。にこにこしている。
「浅田先生!」
「だから、『さん』付けしなさいって。今のはいつまでも先生先生と言い続けた罰」
「じゃあ、浅田さん。浅田さんが靴を履いてなかったら、多分、ここまでガードできて
ません」
「かもね」
 そう言ってから、やっと純子の方に意識を向けてきた浅田。
「今やったみたいに、技を修めた者になると、一見、ノーモーションで攻撃を繰り出せ
る。完全なノーモーションは達人レベルじゃないと無理だから、一見と言ってるけれ
ど、とにかく経験者が素人に当てることは、割と容易い。でも、あなたが想定している
のはそういう空手の有段者みたいなのじゃないでしょう?」
「……」
「うん? 聞こえてる?」
「あ、はい」
「びっくりさせちゃったかしら。彼氏が蹴られそうになったのを見て」
「そ、それもありますけど。凄く、きれいだなあって」
「きれい?」
「ぴたっと止まった形がきれい。一連の動きも素早くて、目にも止まらない……美しい
流れ? そういう風に感じたから。私もやってみたいくらいです」
 純子の返事に、浅田は最初、目を丸くしていたが、やがて笑い声を立てた。
「はははっ、これはいいね。相羽君、彼女は意外と才能があるかもしれないよ」
「……もしくは、美的感覚が鋭いからかもしれませんね」
 相羽は淡々とした調子で言ってから、道場の先輩女性に微苦笑を返した。
 浅田は少し考え、ピストルの形にした右手で、純子の方を指差した。
「聞いた話だと、運動神経はいいんだよね。バク転ぐらいは楽にできるとか」
「楽じゃありませんよ〜。それにしばらくやっていませんし」
 と言うや否や、二人から五歩ほど離れた純子は、バク転をやってみた。
「あ、できた」
 よかった、と笑う純子に、浅田が感心した風に息をつく。
「その分ならバク宙だってやれそうだね。蹴りにしても、まあ威力は別として、型だけ
ならじきにできるようになるんじゃないかしら」
「あの、今日一日だけの予定なんですが」
「そうか、そうだったわね。まあ、本当にやりたいのなら、型は追々ね。では、本題に
戻るとしましょう。どこまで言ったっけ?」
 問われた相羽が「ほとんど進んでません。亀まで」と答えると、「まさしく亀の歩み
だ」と自嘲する浅田。
 純子もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは逆関節の取り方から。最初、私が相羽君を相手にやるから、よく見ておいて。
次に格好だけの真似でいいから、同じく相羽君に技を掛けてみる。いい?」
「はい。お願いします」
 浅田は相羽に対して一つ頷き、相羽も同じ仕種で応じた。それから相羽は右手を振り
かぶり、いかにも暴漢が襲ってきたような動きをする。いつの間に用意したのか、ボー
ルペンを握っていた。その攻撃を浅田は右肩を引いてかわすと、相羽の腕を脇で抱える
風にして捕らえた。総じて、ゆっくりめに行われているのは、素人目にも分かる。
「ここで肘を逆方向に極めながら、手首を内側に折り込み、得物――武器を落とさせ
る」
 相羽はボールペンを落とした。本当に極められて痛かったのかどうかは、純子には分
からなかった。浅田はすぐには解かず、続けて相羽の右手首を巻き込むように捻る。も
ちろん、形だけだ。
「肘を極めるのが無理そうなら、相手の手首を外向きに捻る。相手との距離は縮まる
が、武器を手放させるのが第一だ。そしてさらに続けて」
「ま、待った、浅田さん。ここで区切りましょう。一度に覚えるのは大変だろうし、こ
っちも怖くてひやひやものですよ」
「それもそうか。了解した」
 手をゆっくりと放す浅田。相羽は自由になった右手を二、三度振ると、先程のボール
ペンを拾い上げる。
「さてと。準備はどう?」
 純子へと向き直った相羽は、口ぶりこそ軽やかだったが、真剣な眼差しで尋ねた。
「手順は頭に入ったわ。すぐにできるとは思えないけど」
「私がフォローを入れていくから、とにかくやってみよう」
 浅田に促された純子は深呼吸をした。また「お願いします」と言って、身構える。す
ぐさま避けられる態勢を取ったのだが、それはだめだと首を横に振られた。
「あくまでも日常の中、不意に襲われたことにしないと」
 純子は当初の想定を思い出し、サイン会か握手会でもやる体で、相羽に身体の正面を
向けた。浅田の合図で、相羽が腕を振りかぶった。
 純子はさっき見たままに、右肩を引こうとした。その動きを続けながら、思わず質問
を発した。
「どうして右肩なんですか?」
「え?」
 声を上げたのは浅田で、相羽は動きを途中で止めていた。
「相手が右手に武器を持って襲ってきたら、左肩を引いた方が、避けやすい気がしたん
ですが……おかしいですか?」
「なるほど。これは本当にセンスがあるかもしれないぞ、相羽君」
「ええ」
「じゃ、先にその理屈を教えましょう。もういっぺん、相羽君が振りかぶるから、左肩
を引いて避けてみて」
 真正面、向かい合って立つ純子と相羽。相羽は同じ動作で、右手を振り上げた。
 純子は下ろされる右腕の動きに合わせ、左肩を引いた。自然と、左足も斜め後ろに退
がる。
 と、よけたと思った相羽の右腕が、まだ追い掛けてきた。ボールペンの先が、純子の
みぞおちのやや上に、ちょんと当たる。
「あ、ごめん、当てるつもり、なかったのに」
「ううん。それより、理由の方を……」
「――浅田さん、僕から言っていいですよね? まず、今みたいに、よけてもその攻撃
をかわしきれない可能性が高いこと。人間は通常、脇を開く動作が苦手なんだ。バラン
スが悪くなるというか、力を入れにくくなるというか。相手の右手による攻撃を、右肩
を引く動作でかわした場合、相手から見ればターゲットは右、つまり脇を開く方向に逃
げたことになるよね。そこを追撃しようとしても、力を入れにくいからうまく行かな
い。逆に、左肩を引いてかわすと、相手にとって脇を締める方向に逃げることになる。
だから追撃しやすい」
 純子は相羽の説明を聞きながら、自分でもやってみた。確かに、脇を開く動作の方
が、狙いを定めにくく、力も比較的入りにくい気がする。
「武器の持ち方が順手と逆手とで若干違うけれども、脇を開く方がやりにくいのは一
緒。そしてもう一つの理由は、右肩を引いてよけないと、相手の肘関節を極めるのが難
しい」
 相羽がそこまで言ったところで、浅田が手を一つ打った。
「そういうことで、さっきの動作の続き。先に右肩から引いてみて」
 純子は実際に試してみて、よく分かった。右だと逃げる動作のまま、スムーズに肘を
極められるのに対し、左ではとてもじゃないけれど無理。逆に、襲撃者から抱きつかれ
そうで怖い。
 理解したところで、何度か反復練習をし、次に反対の手で襲撃された場合も同じよう
にやる。
「無論、咄嗟の判断が間に合わなくて、逆の反応をしてしまう恐れだってある。そんな
ときは臨機応変に、相手の突き出してきた方の腕――手首と肘の辺りをしっかり握り、
相手の勢いも利用して投げる、というのもある」
 浅田の追加説明を受けて、またやってみたが、今度も怖かった。投げること自体は、
相羽の身体の重さをほとんど感じずにできたものの、手に持っているのが刃物だったら
と思うと、実践は心理的に難しそう。
「次にやるのは、相手を怯ませ、近付けないやり方になる。まあ、相手が西洋人なら、
空手のポーズをしただけで、逃げ出してくれる場合もなくはないそうだけれど、一般性
に欠けるのでやめときましょう。ということで定番中の定番、金的を」
 浅田が言った最後のフレーズを、純子はすぐには理解できなかった。

 あれは小学六年生の二月だったから四年ほど前になる。スケートに行ったときのこと
を否応なしに思い出しつつ、純子は色々な護身術を通り一遍ではあるが、教わった。身
に付いたと言えるレベルではまだなかったものの、落ち着いた状態なら問題なく技を掛
けることができる。
「じゃあ最後に、人を相手に練習するわけに行かないから取っておいたのを、言葉だけ
で説明しようかな」
 浅田が言った。純子は心中、密かに「金的だって試せません」とつっこんでおいた。
「涼原さん。目突きと言ったら、どんな風に攻撃する?」
「目付き?」
 浅田の問い掛けに対し、純子は根本的なところで単語の意味を取り違えた。
「浅田さん、無理ですよ。武術や格闘技をやっている人か、日常的に喧嘩のことを考え
ているような人じゃない限り、“めつき”と聞いて目を突くことを連想する女性は、な
かなかいないんじゃあ……」
 相羽がこう言ったので、純子も飲み込めた。浅田はと言えば、片手を頭にやって、
「だろうねえ」と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「しかし、秘訣の教え甲斐がないなあ。――涼原さん。漫画なんかで見たことないかし
ら。目を突くと言ったら、立てた人差し指と中指をこうして開いて――」
 右手で作ったVサインを寝かして水平にする浅田。そのまま自身の両目に、それぞれ
の指の先端が当たるよう、ゆっくりと向ける。
「目を潰す勢いで、突く」
「アクション映画で、何となく見た覚えがあるような気がします」
「それはよかった。で……実戦だと、二本の指を二個の目玉に当てるなんて、確率の悪
いことはしない。わざわざ二本指を立てるよりも、五本指で狙う方が当たる確率は高く
なるっていう理屈」
 喋りに合わせ、右手を開いて五本指を見せる浅田。爪のある獣のような手つきだ。
「不審者というか襲撃者に抱きつかれときなんかに有効だろうね。くれぐれも、普段の
喧嘩で使わないように」
「使いませんてば。喧嘩自体、しないし」
「彼氏とはしない?」
 もう指導は終わりという意識が出たのか、浅田は頬を緩めている。
「しません」
 相羽と声が揃った。神棚脇の壁掛け時計を見ていた浅田は不意に、くっくっくと笑い
声を立てた。
「確かに、息ぴったりだ。喧嘩なんて、口論さえしそうにない」
「い、いえ、口喧嘩ぐらいはします、するかも」
 恥ずかしさから、そんなことを口走ってしまった。相羽がどんな表情をしたのかまで
は、見る余裕がなかった。
「あははは。では、これまでのおさらいをして、締めとしましょう」
 浅田はそう言ったが、純子は気持ちを引き締め直すのに結構時間を要した。

 用意してきた服に着替えた純子は、女子更衣室を出ると、先に支度を済ませて待って
いた相羽と合流した。
「このあと、どうするの? もし時間があるのなら、どこか近場でもいいから」
 そう尋ねた純子の方は、時間があった。ミニライブで、急な要請にも快く協力してく
れた二人――星崎と加倉井へのお礼は午前中に終えていた。
「えっと。少しだけなら」
「あ、何か予定があるのなら、無理しなくていい」
「無理ってわけじゃない。ただ、そのぅ」
 言いにくそうにする相羽。純子は待った。道場を完全に出たところで、やっと答えて
くれた。
「今日は五月の第二日曜だから」
「……ああ」
 遅まきながら察した純子は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、相羽君。早く帰らなくちゃいけないわよね。自転車? 歩きだったら、呼べ
ば杉本さんが車で来てくれるかも。ここまで送ってもらったとき、このあとは暇だって
言ってたから」
「純子ちゃん。そんな心配顔、すんなって」
 思いのほか、笑顔で相羽が言った。一瞬、ぽかんとした純子の頬を、左右から両手で
軽く引っ張る。
「笑って笑って。悲しむ日じゃないでしょ」
「――それはそうだけど」
 手を放してもらって、今度は自分の手で頬を撫でる純子。
「いいの? お母さんと一緒にいなくて。お休みなんでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと言ってきたから。そうだな、一時間半は時間ある」
「いいのかなあ」
「不安なら、母さんに電話する? 『母の日ですが、ちょっとだけ息子さんをお借りし
ます』って」
「い、いえ、そこまでは」
「それじゃ、決まり。短いけどデートしよう。と言っても、何の案も持ち合わせていな
いし、荷物もあるし。あ、そう言えば君の方こそ、母の日、大丈夫?」
「え? ああ、そっか。はい、忘れてたくらいだから、何にも考えていなかった」
「もしプレゼントを買うっていうのなら、付き合うよ」
「――うん、そうする。時間もちょうどよさそう」
 この時点で二人とも徒歩だと分かっていたので、並んで歩き出す。とりあえず、駅の
方向へ。
「何かある?」
「ちょっと前に欲しがっていたのは、ミントンだけれど……何かのアンケート結果で、
聞いたことあるのよね。母の日に、家事をしなくて済むとしたら一番助かるっていうの
が多数回答だったとか何とか。ミントンなんて贈ったら、家事を頑張ってくださいと言
ってるみたいで」
「家事……今からじゃ間に合わないね。できるのは、料理を手伝うぐらい?」
「そうよねえ。まさかケータリングや出前を取るなんて、できないし。あの、相羽君は
何するか、聞いてもいい?」
「特別なことは何も。準備は前からしたけどね」
「詳しくは教えてくれないのね」
「だって、教えたら純子ちゃん、また言い出しそうだから。『早く帰らなくちゃ』っ
て」
「う。そう聞いて、今また言いたくなったわ」
 駅に着くと、程なくして目当ての電車が入って来た。今日、時間があまりない二人に
とって、非常にラッキーだ。初めて利用する駅だったので、ターミナルまでの所要時間
の目安は分からなかったが、電車に揺られつつお喋りをしていると、あっという間だっ
た。ロッカーを探し、中に荷物を預けて身軽になってから、候補の店を目指す。
「そういえば、持ち合わせは? 少しだけど協力できるよ」
「ありがとう、でも平気。元々、高価な物にするつもりじゃないから」
 やや慌て気味に断ったのは、パン屋でのアルバイトのことが頭に浮かんだから。今こ
こで少しでも借りたら、誕生日プレゼントを渡すとき、様にならない気がした。
「目当ての店、どっち?」
「新しくできたお店で、私もまだ入ったことがなくて」
 言いながら、フロア入口の壁に掲げられた案内板を見る。じきに分かって指差した。
同じフロアの端っこ。少し距離があったので、早足になる。
「あれって……ファッションの店?」
 見えてきたショップの外観から、すぐに当たりを付ける相羽。一般高校生が入るに
は、少し勇気がいりそうな、黒くて渋い店構え。ショーウィンドウを視界に捉えたとこ
ろで、有名(かつ高級)ブランドを扱っているのが分かった。
「ミントンはなさそうだ……いや、あるかもしれないけど」
 後ろの相羽が呟くのを耳にして、純子は笑顔で振り返った。
「『家事で楽をさせられないのなら、せめて出掛けるときのお洒落を!』作戦よ」
「今思い付きました感が満載のネーミング」
「実際、今思い付いたんだもの。でも、悪くないと思わない?」
「悪くない。いいと思う。そうなると、父の日にはお父さんにお出かけファッションア
イテムを贈らないとね。夫婦仲よく」
「そこまではまだ決めかねますが」
 店先でごちょごちょやっていると、店員からじろっと見られたような気がした。無
論、そんなことはないのだろうけれど、他のお客さんを入りにくくさせたとしたら申し
訳ない。
「すみません。アドバイスをしてほしいんですが、かまいませんか」
 時間がないのに加え、店員に怪訝がられぬ内にと、純子は先に声を掛けた。了解の返
事をもらってから、要望を伝える。
「母の日に、外出時のアイテム、アクセサリーを贈りたいんです。予算は――、年齢は
――、あ、それから金属アレルギーはありません」
 セレクトに役立ちそうな情報をすらすらと並べる。心得たもので、店員もカウンター
を兼ねたショーケースの上に、専用の用紙を取り出し、前もって印刷された選択肢に
次々と丸を付けていった。このときになって初めて、店員の名前が伊土(いづち)さん
だと分かった。左胸にネームプレートがあったのだが、よく見えていなかったのだ。
「――そうですね」
 記入の終わった用紙を見返しながら、伊土は言った。
「具体的に何とお決めでないようでしたら、先に色味を見てみるのがよいかもしれませ
んね。これからの季節、夏に向けてというイメージを加味すると、こちらの」
 純子達から見て右側に数歩移動し、ショーケースの一角を手で示す。
「青系統の物をおすすめします。いかがでしょう」
 言葉の通り、青系統の色を持つアクセサリーが並ぶ。指輪とブローチばかりのよう
だ。指輪が4×4、ブローチが3×4のマトリクスをそれぞれなしている。他のタイプ
のアクセサリーは、また別のところにあるらしい。
 一口に青系統と言っても、様々なバリエーションがあると分かる。ざっと見て、藍色
から水色まで、比較のしやすいように並べてあった。もちろん、同じ色合いのデザイン
違いもある。
「瑪瑙にトルコ石。あこや真珠はちょっと」
 張り込んだ予算額を伝えたせいか、結構高額な物までおすすめされていた。実際、真
珠を施した品は、どれも予算を若干オーバーしている。
(まけてくれるのかな? これと決めたわけじゃないし、聞きにくい)
 なんてことを逡巡していると、一歩退いて立っていた相羽が、呟くような調子で質問
を始めた。
「トルコ石は衝撃や水分に弱くて、特に扱いが難しいイメージがあるんですが、そうい
った普段使いの面で言えば、どういった物がいいんでしょう?」
「そうですね。まず、お断りしておかねばならないのは、宝石はどれもお手入れに手間
を掛けてこそ、本来の美しさを保ちます。この石は大変だけどあの石は楽、というよう
な大きな差は実はございません。普通に手間が掛かるか、とても手間が掛かるかぐらい
の違いとご認識ください」
「はい、分かります」
 純子も相羽と一緒になって頷く。伊土店員は、聞き分けのいい生徒を前にした教師の
ように、にこりと微笑んだ。そして若干柔らかい物腰になって、真珠には真珠の、瑪瑙
には瑪瑙のお手入れの仕方があることを簡単に説明した。
「――青系統ですと、青サンゴもありますね。天然の物と着色した物があって、お値段
はかなり差がありますが、天然物でもご予算内に収まると思います。お手入れの面を考
えると、特別なコーティングをした物がし易いとされています。ただ、強く拭くと、そ
のコーティングが剥離してしまう恐れもあります」
 青サンゴの商品も見せてもらったが、純子の想像とは違って、あまり好みの色合いで
はなかった。
「それでは……ラピスラズリはいかがでしょう」
「あ、宇宙から見た地球みたいな加工をした物を見たことがあります。私、好きです」
「君が好きかどうかより、お母さんが好きかどうかが大事なんじゃ……」
 斜め後ろから、相羽のぼそりとした声が聞こえて、瞬時に赤面したのを自覚する。で
も、店員は優しい口ぶりで応じた。リラックスさせようという心遣いなのか、より一
層、砕けた口調で。
「お母様と好みは被ることが多いですか? たとえば、服を着回しできたり」
「服はさすがにないですけど、好みは近いと思います。あー、でもそれを言い出した
ら、母の一番の好みはオレンジ色や紫色かも。青色はその次ぐらい」
 急な新情報に、伊土店員は丁寧に対応してくれた。オレンジ色ですとこちら、紫色で
すとこちらになりますという風に、流れるように商品を見せてくれる。
「ただ、衣服や帽子といったベースとなる物がオレンジや紫でしたら、同じ色では使い
にくいかと」
 念のために申し添えておきますといった調子で、伊土。純子は「そっか、そうですよ
ね」と首肯する。
(モデルをやるようになってだいぶ経ったし、デザインとかコーディネイトとか、ファ
ッションには結構自信が付いたつもりでいたのに。いざ贈るとなったら、迷っちゃう)
 時間も気になり始めた。相羽を振り返る。
「どうしよう?」
「僕が選ぶのも変だから、口は出さないよ。まあ、難しく考えすぎなんじゃないかとは
思う」
「え、そうかなあ。だって、折角の機会なんだから、ぴったり合う物を贈りたいじゃな
い」
「気持ちは分かる。でも、純子ちゃんのお母さんて、センスはとてもいいと思うよ。君
のお母さんだけに」
「……〜っ」
 むずむずするようなことをさらっと付け足さないで!と叫びそうになった。お店に来
ているのだと意識が働き、寸前で堪える。
「要するに、何が言いたいわけよ」
「母親のセンスを信じてみれば。純子ちゃんはいいと思った物を贈る。君のお母さんは
どんな物であっても、うまく使いこなすよ、きっと」
「む」
 意見を受け止め、考えてみる。母の姿を思い描こうとすると、家庭で主婦をしている
ところが優先的に浮かぶけれども、たまにお出かけするときや参観日に来てくれると
き、どうだったろう。
(私ったら、モデルや芸能人と接する機会が増えて、何て言うか一般的じゃない、華や
かできらびやかなファッションに基準が傾いていたかも。お母さんなら、ここにあるど
んな物だって、自分に似合うように使うわ、うん)
 気持ちが固まってきた。
「相羽君、ありがとう。決めた」
「え。急すぎるんじゃあ……」
「いいの」
 純子は伊土の方へ向き直った。ショーケースに改めて近寄ると、波をモチーフにした
と思しきラピスラズリのブローチを指差す。
「これが一番いい気がします」

 母の日用にプレゼント包装をしてもらって、店のロゴ入り紙袋ごと渡された。ブロー
チのサイズに比べて少し大ぶりな袋だが、包装を衝撃から守るためのものらしい。
「ありがとうございました」
 店員と言葉が被ってしまって、思わず吹き出しそうになる。でも、一層気持ちよく帰
路に就けそうだ。
「相羽君、アドバイスをありがとね」
「そんなつもりは……少しでも早く終わって欲しいとは思っていたけど」
「あ、退屈だった?」
「そうじゃなくて……残念ながら、もう時間がなくなったってこと」
「え、あ、ほんと」
 首を巡らし、駅ビル内の電光表示時計を目の端に捉え、少々びっくり。こんなに時間
が経過していたなんて。
「ごめんー! お茶を飲む時間くらいあるかなって思ってた」
 両手を拝み合わせる純子に、相羽は「いいよいいよ」と手を振って応じた。それから
片手を自動販売機に向けた。
「中途半端だけど、缶ジュースでよければ飲んでいく?」
「うう、実は少し、カロリー制限をしようと思ってて」
「へえ? 必要なの?」
 あれだけ運動しているのにというニュアンスが、言外に含まれているようだった。
「必要というか、これから必要になるかもしれないっていうか」
 笑ってごまかす。理由を話すわけにはいかないんだった。
「ねえ、それよりも少しでも多く、お喋りしたい。でも相羽君には少しでも早くお母さ
ん孝行して欲しいし」
「――分かった。では、帰るとしますか」
 相羽は詮索することなく、元来た道を戻りだした。


――つづく




#505/598 ●長編    *** コメント #504 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:03  (433)
そばにいるだけで 66−2   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:14 修正 第2版
「じゃあ、最初は慣れてもらうために、パンを並べることからやってください。こうし
て」
 店主は実際にやりながら、説明を続ける。
「まるごと入れ替えるだけ。注意するのは向きだね。こういう風に、お客にパンの顔が
見えるように置く。すると見栄えがいい」
「この、バスケットにパンを一つ一つ並べるのは、誰がやるんでしょう?」
 話の切れ目を捉えて、純子は尋ねた。すでに店のユニフォーム――三角巾にエプロン
姿になっている。髪の毛がじゃまにならないようまとめるのに、ちょっと手間取った。
抜け毛が多いようなら、透明なビニールのキャップを被るように言われている。
「今日は最初、僕か寺東さんがやるから、それを見て覚えてください。明日からは――
明日、来られるの?」
「あ、はい」
「よかった。明日からは、涼原さんが最初からやってみてください。並べ方はそんな難
しいものでないし、今日これから見ていれば分かるでしょう」
「はい」
「今のは通常の話で、人気のあるパンは臨時に補充することがある。焼けた分を並べる
んだけれど、そのとき残っている分があれば、手前の向かって右側に移す。新たにでき
あがった分は、少し間を取って並べる。お客も分かっているから、古い方が残ることが
多いんだけれどね」
「そうなんですか」
 知らなかった。お客として来ていた頃に知っていたら、新しい方を取っていただろう
か。
「まあ、お客がいるところで並べる場合でも、焦らなくていいから。ゆっくり落ち着い
て。お客にぶつからないようにする。あとは……そうそう、型が崩れたり、切れ端が出
たり、あるいは売れ残ったりした分を安売りに回すんだが、その詰め合わせを作るの
も、やってもらおうかな」
 店主がそこまで言ったとき、店のドアの開く合図――ベルがからんからんと鳴った。
「寺東、少し遅れました。すみません」
 寺東は純子が初めて会ったときよりは、幾分丁寧な物腰で入って来た。裏に回らない
のは一緒だが。
「まだ大丈夫だよ。でも準備、急いで」
 店主の言葉に頷きつつ、寺東はこちらに近寄ってきた。唇の両端をにんまりと上げ
て、凄く嬉しそうな顔になった。
「よかった。本当に来てくれたんだ?」
「え、ええ」
 純子の手を取った寺東は、「これからよろしくね」と言った。こちらこそと返そうと
した純子だったが、それより早く、「先輩として、びしびししごいてあげる」と寺東が
付け加えた。
「寺東さん、早く」
 店主が促すが、今度はその店主に向けて話し始める寺東。
「思ったんですけど、早いとこ彼女にパン作りにタッチさせたらいいんじゃないかっ
て。風谷美羽が作ったパンとして売れば、新規のお客さん獲得!」
「寺東さん」
「――はーい。分かりました、着替えてきまっす」
 奥に引っ込む寺東を見つめていた純子だったが、店主の言葉に注意を引き戻される。
「客足の傾向を言うと、今日これからの時間帯、ぼちぼち増え始めるのが通例だから。
曜日や天気もあるから、一概には言えないが、だいたい君達の年代の子が第一波で、第
二波は買い物のついでに寄るお母さん方かなあ。サラリーマンは少ない」
 ということは……純子は頭の中で考えた。
(風谷美羽を看板娘にするのって、効果が期待できないような)
 元々、本意ではないから、かまわないのだが。とにかく頑張ろう。意を強くした。
 しばらくして寺東が出て来た。ユニフォーム姿になると、少し印象が変わる。髪が隠
れるせいかもしれない。
「……うーん」
 と、横に並んだ寺東が、顎を撫でつつ、難しげなうなり声を上げた。
「店長。これって罰ゲームじゃないですかあ」
 そしていきなり、そんなことを言い出した。当然、店主はきょとんとし、次いで「何
のことだい?」と聞き返す。
「こんなスタイルのいい子と一緒に働くってことは、常に見比べられるってわけで」
 寺東は純子を指差しながら答える。
「精神的苦痛がこれからずっと続くと思うと、モチベーションが激減しちゃいそ。せ
め、て、時給を少しでもアップしてもらえたら、やる気を維持できるんですけど」
 昇給交渉のだしに使われたと理解した純子だったが、黙っていた。まだそこまで店の
雰囲気に馴染んでいない。
「……」
 一方、店主もしばらく黙っていた。怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。や
がて、呆れたように嘆息すると、右手で左の耳たぶの辺りをちょっと触った。
「寺東さんはよくやってくれてるしねえ。仕事の前後の言動や態度はちょっとどうかな
と思うことはあるけれども。いざ始まると集中してるし、熱心だし。考慮はする。が、
すぐには無理。新しく人を入れたばかりなんだから分かるでしょう」
 言い終えて、店主が純子の方をちらと一瞥。今度は、昇給を遅らせる理由付けに使わ
れてしまった。
「へいへい。気長にお待ちしまーす。さあ、がんばろうっと」

 聞かされていた通り、高校生から小学生ぐらいまでのお客の波がまずやって来た。途
切れたところで補充に動く。人気は甘い物及びかわいらしい物に偏っている。それを店
主も当然把握しており、追加で焼き上げる分の八割方はそのタイプだ。
 パンの並べ方は、簡単そうだった。全種のパンをまだ見たわけではないけれども、一
度見れば覚えられる。一方、パンを運ぶ段になってちょっとびっくりしたのは、予想外
の重さ。数が集まれば重たくなるのは道理だが、家で食べる分には軽いイメージしかな
かったから、最初は力の加減のギャップから「う?」なんて声が出てしまった。
「いらっしゃいませ」
 ドアのベルが鳴るのに呼応して、寺東と純子の声が響く。始めたばかりの純子は、慣
れるまではとマスク着用。普段の音量だとぼそぼそした声になってしまうので、気持
ち、声を張り上げた。
 その声から一拍遅れてドアの方を振り向いた純子は、入って来たお客さん――女性一
人――を見て、あっと叫びそうになった。思わず、顔を背ける。
(白沼さんのお母さん? このお店で買うんだ? もっと高級なところへ足を延ばすの
かと……って、これは店長に悪いわ。味は最高なんだから)
 などと胸の中でジタバタやっていると、真後ろを白沼の母が通った。幸い(?)、向
こうは純子に気が付いていない様子。マスクのせいもあるだろうが、こんなところにい
るなんて、考えもしていないのかもしれない。
(お仕事のこともあるし、挨拶すべき? でも、アルバイト中に私語はよくない気がす
るし……気付かれたら挨拶しよう)
 レジには寺東が立つことになっている。でも、その他の接客は、声を掛けられた方が
応じる。無論、必要が生じれば、声を掛けられなくても動かなければいけない、が。
(できることなら、アルバイトをしてるって白沼さんに伝わらない方がいい)
 そんな頭もあるため、ついつい、距離を取りがちに。
(しばらく運ぶパンはないし、トレイは片付けたばかりだり、焼き菓子の整頓くらいし
かすることが)
「おすすめはある? 甘さ控えめの物がよいのだけれど」
 突然の質問に、純子は反射的に振り返った。と同時に、意識のスイッチを切り替え
た。自分は久住淳なのだと。
「売れ筋ベストスリーはこちらにある通りですが、この中で甘さ控えめは、胡桃クリー
ムパンになります。酸味が大丈夫でしたら、ヨーグルトのサワーコロネやいちご本来の
味を活かしたストロベリーパンもおすすめです」
 低めにした声で答える。店内のポップを活用しつつ、如才なくこなしたつもり。
「そう、ありがと。どれも美味しそうだから、全部いただこうかしら」
 白沼の母は呟き気味に言って、トングを操った。どうやら純子には気付かずじまいの
ようだ。
 寺東からは、うまくやったねというニュアンスだろうか、ウィンクが飛んできた。純
子はマスクを直しながら、目礼を返した。
(それにしても、今の様子だと来店は初めてなのかしら。気に入ってもらえたらいい
な。あっ、だけど、頻繁に来られたら、じきに私だってことがばれる!)
 あれこれ想像して、頭の痛くなる純子だった。
「お買い上げありがとうございます。――八点で1300円になります」
 寺東の、対お客様用の声が軽やかに聞こえた。

(いけないと思いつつ、もらってしまった)
 午後八時過ぎ、アルバイト初日を終えた純子は白い買い物袋を手にしていた。中身は
売れ残ったパン。人気のパン屋だけあって数は多くないが、どうしても売れ残りは出
る。しかも初日サービスと言って、純子の大好物である胡桃クリームパンをわざわざ一
個、取り分けておいてくれていた。恐縮しきりである。
(これがあると聞いていたから、普段はカロリーを抑えめにしようと決めたんだけど、
だからといってぱくぱく食べていいもんじゃないし)
 自転車置き場まで来ると、先に出ていた寺東が待っていた。自然と頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜。さっきも聞いたけど、このあと暇じゃないんだよね? だったらせめて、
行けるところまで一緒に帰ろうと思ってさ。それともモデルか何かの仕事が入ってて、
絶対にだめとか」
「全然そんなことないです。いいんですけど、確か正反対の方向って言ってませんでし
た?」
「いいのいいの。興味あるから、少し遠回りしていくのだ」
 自転車に跨がり、早く早くと急かせる寺東。
「あ、別に家を突き止めようとか、芸能界の裏話を聞き出そうとかじゃないから、安心
してよ」
「はあ」
 調子くるうなあと戸惑いつつ、純子も出発できる態勢に。漕ぎ出していいものか躊躇
していると、「遠回りするのは私なんだから、あなたが先行って」と寺東に促された。
 ライトを灯しているとは言え、夜八時ともなると暗い。街灯や建物、行き交う自動車
のライトを助けに、比較的ゆっくりしたスピードで進む。
「あんま時間ないだろうから、さっさと聞くね」
「え? あ、はい、どうぞ」
 後ろからの寺東の声に、純子は遅れながら応えた。
「何であんなパン屋でバイトしたいと思ったわけ? 正直なとこ、他のことでがっぽり
稼いでるんじゃないかって思ってたけど、そうでもないとか?」
「えー……っと」
 いきなり、答えに窮する質問だ。一から説明すると長くなるのは確実だし、知り合っ
て間もない人に理由を話すのも恥ずかしい。
「言いたくなかったら言わなくていいし、他言無用だってんならそう付け加えてよ。こ
れでも口は堅いと自負してるんだ。そりゃまあ、バイト面接に来てたあなたのこと、店
長にぺらぺら喋っちゃったくらいだから、無条件に信用してくれなんて言わないけれ
ど。あのときは興奮しちゃって、つい」
 寺東の話を純子は、よく口が動くなあと感心して聞いていた。
(お店では肩の凝りそうな喋り方に徹していたから、今は解放されたってところなのか
しら。まあ、今日だけでもお世話になってるし、これくらいは答えてもいいと思う、う
ん)
 決めた。ただし、多少はオブラートに包もう。
「隠すようなことじゃないんですけど、一応、他言無用で」
「ふんふん、了解」
「お世話になっている人がいて、その人の誕生日が近いんです。プレゼントをして感謝
の気持ちを表そうと思ったんだけど、モデルの仕事とかを始めるきっかけを作ってくれ
たのがその人なんです」
「お、読めた。その人とは関係のない仕事で稼いで、プレンゼトを買いたいってこと
だ?」
「え、ええ。当たりです」
「うんうん、気持ちは分かる。私がその立場だったら、実際に行動に移そうとはこれっ
ぽっちも思わないだろうけどねえ」
 信号待ちで停まったところで、純子は振り返った。気付いた相手は「うん?」という
風に目をぱちくりさせ、次に横に並んだ。
「何?」
「質問、もう終わりかなと思って」
「お、いや、一個聞いたから、次はそっちから質問出るかなと思って。興味ないなら、
パスしてくれていいよー」
「あっあります」
 手を挙げそうになったが、信号が青に切り替わった。寺東に気付かされ、進み始め
る。
「そんで、質問は何?」
「デ、デートではどこへ行って、どんなことをします?」
「――わははは。意表を突かれた。まさかの質問だわ。いるの、彼氏? あ、言えない
か」
「今はまだ……大っぴらには」
 ごまかして答える純子。
「将来、彼氏ができるのはだいぶ先になるかもしれない。それまで全然経験がなくて、
いきなりだと、どうすればいいのか困ってしまいそうで」
「なるほどねー、分からない苦労があるもんなんだ。でも、今は自分もいないからな
あ」
「え、ほんと?」
「こんなことで変な見栄を張ったりしないよ。髪を染めるくらいだから、いると思った
とか?」
「そういうわけじゃないです。寺東さん、とてもさばけていて、男性客の接し方も慣れ
てるように見えたから……」
「それこそ接客に慣れただけ。ま、確かにちょっと前はいたんだけどさ」
「……悪いことを聞いてしまいました……?」
 声が強ばる。知り合ってまだ日が浅いのに、ちょっと突っ込みすぎたろうか。
「気にしない気にしない。別れたばっかなのは事実だけど、引きずってないから。歳は
相手が上で、まだ大学生のくせして、いっちょこ前に起業してさ。私より事業に夢中。
で、時間が合わなかったんだ。まあ、他にも色々あって、しゃあなかったんよ」
「はあ」
「風谷さん……じゃないや、涼原さんも仕事持ってるわけだから、付き合う相手を高校
で探すのは大変と思うよ、多分」
「そ、そうですね」
「そんなわけで、前彼との経験でいいのなら、さっきの質問、いくらか答えられるかも
だけど」
 上目遣いになる寺東。次の信号は青だが、スピードを落とし始めた。
「さすがにもう引き返さなきゃ。今夜はここまでってことで、いい?」
「もちろんです」
 純子も自転車を漕ぐのをやめた。信号は黄色に変わり、ちょうどいいのでストップす
る。
「その内、芸能界の話、少し聞かせてちょうだいね。今日は楽しかった」
「こちらこそ。今日はお世話になりました。しばらくの間、ご迷惑を掛けるかもしれま
せんが、よろしくお願いします」
 頭をぺこり。すると、「固いな〜」と寺東の声が降ってきた。
「普通、逆っしょ? 私が緊張して固くなるのなら分かるけど」
「生まれつき、こんな感じで……じきに柔らかくなると思います」
「うん、期待してる。じゃーねー」
 自転車に跨がったまま、器用にその場で方向転換した寺東は、手を一度振ってから前
を向いた。
「気を付けて!」
「そっちもね!」
 夜の街路に二人の声が結構響いた。

 パン屋でのアルバイトのことは当然、学校に届け出ているが、周りのみんなには内緒
にしておくつもりでいた。
(相羽君が知ったら変に思うだろうし、わけを聞いてくるに決まってる)
 だが、状況は変化した。積極的には宣伝しないとしても、“風谷美羽があそこでバイ
トしている”という噂が流れる程度に知られることで、売り上げに貢献する。本意では
ないが、そういう話になってしまったのだから。
「おばさまにも伝わっているはずなんだけど、相羽君には私の口から言いたくて」
 学校の一コマ目と二コマ目に挟まれた休み時間、純子は相羽一人を教室から、校舎三
階の屋上へと通じる階段踊り場まで連れ出した。念のため、唐沢ら仲のいい友達には仕
事の話だからと、着いてこないように心理的足止めをした。
「うぃっしゅ亭って、あのパン屋さん? アルバイトをって何のために?」
 予想通りの質問を発した相羽に、純子は前もって考えておいた答を言う。
「市川さん達との話で、演技の幅を広げるためには、社会経験を一つでも増やしておく
といいんじゃないかって意見が出てさ。だったら高校生らしいバイトをしてみたいです
ってリクエストしたら、意外と簡単に通って」
「何も仕事を増やさなくてもいいのに」
「もちろん、邪魔にならないペースで、よ。期間も短いし。じきに定期考査があるでし
ょ。その手前でやめる」
「……まあ、君が判断すべき領域の事柄だから、君が必要なことと思ったのなら、僕は
口出ししない」
 相羽がため息交じりに固い口調で言った。ここで終わりかと思ったら、続きがあっ
た。迷いの後、急遽付け足そうと決めた風に。
「でも、時間があるなら、学校の外でももっと会いたいのに――なんてね」
「……」
 相羽の(ほぼ)ストレートな恋愛表現は珍しい。嬉しいのと、本当のことを言い出せ
ない申し訳なさとで、しばし言葉を出せなくなる。
「純子ちゃん?」
「あー、ううん、ごめんね。休める日がないかと思ったんだけど、始めたばかりで、し
かも短期バイトだから言い出せないかも」
「決めたからにはやる方がいいよ、きっと。僕のことは気にしなくていいから。ただ、
学校にモデル仕事にアルバイト、三つを平行してするのは無理だと感じたときは、いつ
でも言って。母さん達に言い出しにくくても、僕が何とかする」
「うん」
 頼もしくさえある励ましの言葉に、純子の返事にも元気が戻った。そして、アルバイ
ト経験を演技に活かすという嘘も、いつか本当に変えてやろうと思った。
「ところで、僕だけを呼んでアルバイトの話をしたのは、何か意味があるのかなあ。み
んなには言ってはいけないとか?」
「あ、それはね、言ってもいいんだけど、万が一にも噂が広がることで、お店に迷惑が
掛かるといけない。例の脅しの手紙は、久住淳宛てだから関係ないと信じてるけれど、
風谷美羽でもアニメのエンディングを唄ってるから、ひょっとしたらがないとは言い切
れないし」
「……うん? 結局、言わない方がいいってこと?」
 時間を気にして戻り始めた二人だったが、すぐに足が止まった。
「虫のいい話なんだけど、ほどよく噂が広まって、それなりに売り上げアップしてくれ
たらいいなって」
 純子は舌先を少しだけ覗かせ、自嘲した。相羽はしょうがないなとばかりに苦笑を浮
かべ、
「だったら、友達みんなで行く方が早くて効果的かも。よし、そうしよう」
 と早々と決めたように手をぽんと打った。
「一度に大勢来られたら緊張して、凄く恥ずかしい気がするけど、がんばるわ」
「平日の放課後、みんなで遠回りしていくのは大変だから、土曜がいいかな。あ、で
も、純子ちゃんは土曜日、バイトよりもルーク関係だっけ?」
「ううん。そっちの方は、テストが近付いてるから、土曜どころかほぼ休み。なまらな
いように、レッスンを日曜にやってもらって。あ、あと白沼さんのところと一度、ミー
ティングがあるくらい」
「充分忙しそうだけど、まあよかった。じゃ、今度の土曜にでも。学校が終わって一緒
に行くのと、バイトに勤しんでいるところへ押し掛けるのとじゃ、どっちがいい?」
「……考えさせて」
 小さいとは言え頭痛の種を抱えつつ、今度こそ教室へ向かう。チャイムまであまり間
がないと分かっていたので、小走りに近い早足になった。

(バイトできるかどうかで頭がいっぱいになっていたけれど)
 午前の授業で出された古典の宿題をどうにかやり終え、昼休みの残り少ない時間を仮
眠――と言っても正味数分しかないので目をつむって頭を横たえるだけだ――に当てよ
うとしたき、ふと思った。
(誕生日プレゼント、何がいいんだろ?)
 宿題に集中していたおかげで、今、隣の席に相羽がいるのかどうかさえ知らない。目
をぱちりと開けて、気配を探りながらゆっくり振り向いてみた。
 いなかった。
(男子の友達はいるみたいだけど。トイレかな。じゃなければ、また先生のところと
か)
 いや、今考えているのはそんなことじゃなく。
(前に、母の日の買い物に付き合ってもらったとき、ついでを装って聞けばよかったか
もしれない。でも、あのタイミングで聞いたとしたら、誕生日プレゼントのことだって
絶対にぴんと来るはず)
 あげるのなら欲しがっている物をあげたいけれど、多少のサプライズ感も残したい。
相反する希望を叶えるには、普段から相手のことをよく見て、知っておく必要がある。
だからといって確実に成功するとは断言できないが、そうしなければ始まらない。
(ういっしゅ亭のバイトでもらえる範囲で買える、相羽君の欲しい物……)
 再び頭を机に着ける。いや、今度は腕枕を作って、そこへ額をのせて沈思黙考。
(お家にピアノがあるのなら、譜面ホルダーって思うんだけど。それ以外となると……
何にも浮かんでこない。一緒にいる時間は前より減ったかもしれないけど。基本的に相
羽君、物欲が薄いというか欲しい物を言葉にするなんて、滅多になかった気が)
 少し方針を転換する必要がありそう。
(似合うと思う服か何かを贈るのもありよね。私服の日なら、学校にも着てこられる
し。腕時計はいらないかなあ)
 予鈴が鳴った。身体を起こす。午後一番の授業の準備に掛かる。
(うーん、音楽以外に相羽君が興味関心を持っているのは、マジックと武道? 武道の
方はさっぱり分からないから、絞るとしたらマジック。マジック道具で、相羽君が持っ
ていない、手頃な商品てあるのかしら。手先の技で魅せる演目が多いから、逆にいかに
もっていうマジック道具、意外と持ってないみたいだし)
 テキストとノートを机表面でとんとんと揃えていたら、相羽が教室に入ってきた。自
身の席に駆け付けた彼は、少し息を弾ませていた。
「気付いたらいなかったけど?」
 先生が来る前にと、省略した形で尋ねる。
「宿題に夢中だったから声掛けなかったけど、神村先生のところに」
「また? 保護者が忙しいと大変ね」
 以前の話を思い起こした純子。
「うん、まあそうなんだけど」
 某か続けたそうな相羽だったが、ここでタイムアップ。始業のチャイムにぴったり合
わせたかのように、神村先生が入って来た。
 委員長の号令で、起立、礼、着席。約一ヶ月が経過して、唐沢の委員長ぶりも、よう
やく板に付いてきた。
「授業に入る前に、今日は用事があってホームルームができないから、今、三分ほども
らう。最近、中高生を狙ったカンパ詐欺が起きているそうだ。たとえば、インターネッ
ト上で『名前は明かせないが在校生の一人が妊娠した。親に内緒で中絶したいが、手術
費用が足りないので、力を貸してほしい』というような名目で金を集め、消えてしま
う」
 妊娠だの堕胎だのの単語が出たところで、教室内がざわついた。神村先生は静かにと
注意してから、話を続ける。
「集金の手口は様々で、プリペイド式の電子マネーを購入させてIDを送らせたり、代
理を名乗る者が直に集金に来たり、指定した口座に振り込ませたり。大胆なのは学校の
一角に募金箱を設置した事例もあった。金額こそ小さいが実際に被害が出ていて、まだ
一部しか解決していないそうだ。この手の犯罪は巧妙化する傾向があるから、早めに注
意喚起しておく。また、間違っても知らない内に片棒を担いでいたなんてことにならな
いように、充分に気を付けること。分かったな」
 以上、と話を打ち切って、授業に入ろうとした先生だったが、生徒の一人が挙手しな
がら「先生、質問〜」と言い出したため、教科書を戻した。
「何だ、唐沢」
「委員長なんで代表して、みんなが聞きたいだろうことを聞こうかと」
 真顔でありながら、どことなく笑みを我慢しているような体の唐沢。神村先生の表情
を見れば、嫌な予感を覚えているのが窺えた。
「前置きはいいから、早く言うんだ」
「詐欺には気を付けるけど、もし仮に、本当に中絶手術カンパの話が回ってきたら、生
徒はどうしたらいいのかなって」
 さっきとは少々異なるニュアンスで、クラスのみんながざわつく。
「まったく、何を言い出すかと思えば。みんなが聞きたいことか、それ?」
「まあ、半数ぐらいはいるんじゃないですか」
「しょうがないな。そりゃあ学校側としては、報告しろって話になるだろな。ついで
に、誰も知らないようだから教えておくと、うちの校則に、妊娠したら退学というよう
な決まりはない。生徒手帳を読め」
「まじで?」
 先生の言葉を受けて、実際に生徒手帳を繰る者もちらほら。
「ああ。明記している学校もあるが、我が校はそうではない。認めてるわけじゃない
し、高校生らしからぬ逸脱した行為を禁ずる条項があるから、それを名目に妊娠を退学
に結び付けることも可能だ。だけど、緑星学園史上、適用例はない」
「でも、そういう妊娠騒動を起こした生徒がいなかっただけなんじゃあ……」
「そうよね。進学校なんだし」
「あったとしても、表面化してないだけで」
 主に女子からごにょごにょと声が上がる。堂々と質問するのは、さすがに気後れする
様子だ。これらにも神村先生は応じた。
「個人情報に関わり得るから、そこはノーコメント。ただ、歴代校長の方針は、妊娠し
た生徒がいればできる限り学業が続けられる方向でサポートするっていうのが、慣習と
いうか不文律だ。――さあて」
 腕時計を見た神村先生は、教科書で教卓をばんと叩いた。
「三分のつもりが、五分になった。授業、始めるぞ」
 静かになった。それでも空気が落ち着きを取り戻すには、もうしばらく掛かった。

「真面目な話――」
 放課後、大掃除の時間。女子は男子、男子は女子の目を盗んで、こそこそと内緒話に
花を咲かせていた。
「学校は許したとしても、スポンサーは許さないからね」
 白沼の言葉を理解するのに、純子は十数秒を要した。
「わ、分かってるって」
 手にしたモップの柄をぎゅっと握りしめる。同じくモップを持つ白沼は、柄の部分を
純子の持つそれに押し当て、ぐいぐい押してきた。
「信頼していいの、ねっ」
「いい、よっ」
 負けじと押し返して距離を取る。と、間に入ったのは淡島と結城。
「まあまあ、熱くならない。二人とも、らしくないよ」
「熱くもなるわ。もしものことを思うと」
 嘆息混じりに言った白沼の前に淡島が立つ。
「白沼さんたら、何も妊娠だけを言ってるのではありませんね? 多分、タレントのイ
メージを気にしてのことです。恋人がいるといないとじゃ大違い」
「そう、なの?」
 先に純子が反応を示す。白沼はもう一つため息をついた。
「そうよ。友達の内では公認でも、世間的にはまだなんだから、充分に注意してもらわ
なくちゃいけないの」
「それくらいなら、弁えている。これでも何年かプロをやってるんだから」
 純子は自信を持って返した。白沼は気圧されたみたいに、上体を少しだけ退いた。
「だからってことじゃないんだけれど、相羽君とは――」
 一旦言葉を切って、クラスの中に相羽を探す純子。窓ガラスを拭いていた。周りには
唐沢達もいて、お喋りが弾んでいるようだが、相羽自身はあまり口を開いていない。
「彼とは、まだなーんにもありません」
「……そう。よかった」
 白沼は、ばか負けしたみたいに肩をすくめた。が、少し経って、よい返しを思い付い
たとばかりににやりと笑むと、ちょっとだけボリュームを戻して言った。
「さっき、友達の内では公認とか言ったけれども、私はまだ隙あらば狙っているから。
何にもないと聞いたから、なおさらね」
「うわ、それはあんまりだよー、白沼さん。板挟み過ぎるっ」
 純子も調子を合わせ、芝居めかして応じると、じきに笑いが広がった。
 何事かと、他のグループから注目されたのに気付いて、すぐに引っ込めたけれども。
その落ち着いたところへ、今度は淡島が爆弾発言をしてくれた。
「これまでのところ何もないのでしたら、私の予想は大外れになります」
「えっと、何の話?」
「てっきり、今度の誕生日にでも捧げるものと推し量っていましたが、段階を踏まずに
いきなりはない――」
「! しないしない!」
 モップを放したその両手で、淡島の口の辺りを覆おうとした。淡島はそれ以上続ける
気は元からなかったらしく、すんなり大人しくなる。反面、モップが床に倒れた音が大
きく響いた。
「そういえば、相羽君の誕生日、近かったわね」
 白沼が意味ありげにモップを拾い、渡してくれた。受け取る純子に、質問を追加す
る。
「何をあげるつもりなのかしら」
「考えてるんだけど、決めかねてて」
 また声の音量を落として、相羽の方をこっそり見やる。いつの間にか唐沢と二人だけ
になっていた。
(探りを入れてみるつもりだったのに、聞けてないわ)
 神村先生のあの話のおかげで、プレゼントをどうしようと悩んでいたことが一時的に
飛んでしまった。
「悩む必要なんてないってば。何をあげたって喜ぶよ」
 請け合う結城に、純子はつられて「それはそうかもしれないけど」と答えた。すかさ
ず、「背負ってるわねえ」と白沼から指摘される始末。この辺で反撃、もしくは転換し
ておきたい。
「私のことは散々言ってきたから、飽きたでしょ。みんなはどうなの?」

            *             *


――つづく




#506/598 ●長編    *** コメント #505 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:19  (471)
そばにいるだけで 66−3   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:16 修正 第2版
「もしかして、自分の身に降りかかるかもしれないから、聞いたんじゃないよね、あれ
って?」
 ちりとりをほったらかしにした平井はそう聞きながら、唐沢の脇腹付近をぐりぐりや
った。不意を突かれた唐沢はオーバーアクションでその場を離れ――こちらはほうきを
放り出してそのままだ――、「何がだよ」と問い返す。
「だから、神村先生にした質問。あんなこと聞けるなんて、ある意味すげーって感じた
けど、ひょっとしたら唐沢君自身がそうなんじゃないかって思ってしまったのだ」
「ばーか。そんなことあるかい」
 唐沢は普段のキャラクターをここぞとばかりに発揮する。
「俺はそんな下手は打たない。基本、広く浅く。万々が一にも深くなったとしたって、
一線は守る」
「おー、意外」
「尤も、高校に入ってから勉強に時間を取られがちなんだよなあ。あんまり遊べてない
のが悔しいし、さみしい。相羽センセーに教えてもらって、どうにか時間を作ってる有
様だから情けない」
「いや、唐沢は前よりもずっとできるようになってる」
 近くの窓を拭いていた相羽は聞きとがめ、本心からそう評した。しかし、当人は額面
通りには受け取らなかったようで。
「ばかやろー、それは以前の俺と比べてってだけで、客観的にはまだまだだろ、どう
せ。そうじゃなけりゃ、成績を維持するのにこんなに苦労すはずがない!」
「みんな苦労してるよ」
「苦労してるようには、とても見えん」
 唐沢は平井に同意を求めた。
「まあ、確かに、相羽君が苦労してるようには見えない。稲岡君みたいに年がら年中勉
強優先て感じでないのに、成績いいのは納得しがたいよ」
「だよな。その上、彼女持ちで。あ――涼原さんと特に進んでいないのは、勉強に時間
を回してるせいとでも言うのか」
「か、勝手に話を作るなよ」
 唐沢の“急襲”に、思わずぞうきんを取り落としそうになった相羽。内側を拭いてい
るときでよかった。
「お互いに忙しいし、今の時点では無理して進める必要がないって二人とも思ってるし
……」
 相羽の声が小さくなる。唐沢とは前に似たようなことを話題にしたが、他の男子には
初めてなので、言いづらい。幸い、平井らものろけを聞かされてはたまらんと思った
か、他の男子グループに呼ばれて行ってしまった。
「そういや、天文部の話、鳥越から聞いたか?」
 二人だけになったところで、唐沢がいきなり尋ねてきた。
「何で部員じゃないのに、天文部の話題を。まあいいや。それって、合宿のこと?」
「うむ。鳥越が言うには、皆既日食に合わせて、K県K市に行くという希望が、ほぼ確
実に通る見込みだと」
「僕もぼんやりとは聞いてたけど、本決まりになるなら行ってみたいな。夏休みか…
…」
 少し伏し目がちになって考え込む相羽。
「え? 何か予定あんの?」
「――ん? まさか。そんな先のことは分からない」
「だよな。今の時期に夏休みのスケジュールが決まっているとしたら、海外旅行いく奴
か、仕事のある涼原さんくらいだろ」
 そう言った唐沢が、肩越しに振り返る。つられて、相羽も純子達のいる方を向く。何
だか知らないが、モップを持って楽しげに“攻防”しているのが見えた。
「他にもいるだろ。夏期講習を受けるとか」
「嫌なことを思い出させてくれる。補習があるとしたら、皆既日食に被るんだっけか
?」
「知らないよ。まず、補習を受けずに済むように考えないと。ていうか、唐沢がどうし
て皆既日食との被りを心配するのさ?」
「おまえらが――相羽と涼原さんが行くのなら、楽しそうだから着いて行こうかなと思
ったんだ。無論、俺も天文部に入って」
「冗談だろ?」
「割と本気だぜ。まあ、夏までに本命の彼女でもできれば、話は違ってくるかもしれな
いがな」
「……他人のことに首を突っ込む気はあまりないんだけど、町田さんはどうしてる?」
 聞いてから、別の窓ガラスに移動する。
 が、唐沢の方は、その質問をスルーしたかったのか、はたまたクラス委員長として役
割をはたと思い出したのか、ほうきとちりとりを持って平井を追い掛けた。
(やれやれ)
 短く息を吐いた相羽に、背後から声が掛かった。
「ねえねえ、相羽君」
 相羽は手を止めずに、そちらに目だけをやった。湯上谷(ゆがみたに)、西野中(に
しのなか)、下山田(しもやまだ)の女子三人組。彼女ら自身、名前の共通項を意識し
ており、上中下トリオと呼ばれるのをよしとしている。相羽や純子らとは、今年初めて
同じクラスになった。
「さっき話しているのが耳に入ったんだけど、天文部の合宿に参加するの?」
 代表する形で、西野中が聞いてきた。
「うーん、多分ね」
「唐沢君の話も聞こえたんだけど、今からでも入部できる?」
「え? ごめん、僕は幽霊部員に近いから、詳しいことは分からないんだ。クラス違う
んだけど、鳥越って知ってる? あいつに聞けばいいよ」
「えー、知らない。ねえ、知ってる?」
 お下げ髪を振って、左右の二人にも聞く西野中。返事は二つとも否だった。
「悪いんだけれど、相羽君から確かめてくれないかなあ?」
「しょうがないな。どさくさ紛れに、今、行って来ようかな」
 一斉清掃だから、特別教室に回されていない限り、鳥越を掴まえて話をちょっとする
くらいは容易だろう。
「うん、お願い」
 声を揃える三人組。下山田は手を合わせてまでいる。相羽はまた密かにため息をつい
て、窓から離れかけた。が、ふと浮かんだことがあって、足を止めた。
「――思い過ごしだったらごめん。一応、聞くけど、唐沢目当てとかじゃないよね? 
唐沢は今のところ部員じゃない」
「やだ」
 三人は申し合わせたかのように、口元を片手で覆って笑った。それから湯上谷が日焼
けした健康的な肌に、白い歯を見せる。
「唐沢君も格好いいけれど、そんなんじゃないよー、私達。こう見えても星に興味ある
の――というのは大げさになるけど」
「正直に言うとね、思い出作りしたいなとみんなで話してたんだ」
 あとを受けて、西中野がわけを語り出す。
「高校の思い出作りで、何かロマンチックなことをって考えたら、天文部の合宿の噂話
を聞いて」
「噂話って?」
「何年かおきに、合宿でカップル誕生しているとか、流星群の観察で二人きりになると
盛り上がるとか」
「はあ」
 聞いた覚えないなあ、女子の間だけで広まっているのかなと思った相羽。
(いかにも唐沢が好みそうなシチュエーションではあるが、今年予定されているのは、
皆既日食だし)
 多かれ少なかれ星に興味関心を持っているのなら、入部動機に全然問題ないだろう。
好意的に解釈し、鳥越に聞いてみることにした。
 相羽は「ちょっと待ってて」と言い残し、教室後方の戸口を目指した。
(――純子ちゃんは合宿の件、まだ知らないのかな? 伝えて、参加できそうなら、早
く鳥越に教えてやろう)
 爪先の向きをちょっぴり調整し、純子のいる方へ立ち寄る。ちょうど純子達もこちら
を見ていた。

            *             *

 純子の「みんなはどうなの?」の問い掛けに、まともに反応したのは白沼だった。
「私の方から告白したくなるようなフリーの男子はいないわね。逆に前、一年生に懐か
れて困ったような、戸惑ったことはあったけれども」
 もてるアピールなのか、そう付け足した白沼。どことなく自慢げだ。
「その一年生の話、聞きたい」
 純子は意識的に食いついた。話題をそらせれば何でもいいという気持ちはあるが、白
沼に懐く(告白したってこと?)一年生男子に興味がなくもない。
 だけど、今度は白沼の反応が鈍い。その視線が、純子の肩口をかすめて、相羽のいる
であろう方に向いている。
「白沼さん?」
「相羽君、女子に囲まれているわよ」
 その言葉に、急いで振り返る。囲まれていると表現でいるかどうかは別にして、西野
中、湯上谷、下山田の三人と話している相羽の姿を捉えた。
(何の話をしてるのか、気になる……)
 日常の一場面だけを切り取って無闇に詮索したり嫉妬したりはしないよう、心掛けて
いるつもり。それでもなお、気になってしまう。純子が聞き耳を精一杯立てようとした
矢先、相羽が一人、窓際を離れた。こっちに来る。
「デートのお誘いですわね、きっと」
 淡島が適当なことを口にすると、結城が「ぞうきん片手に?」と笑いながら混ぜ返
す。
 そんな中、相羽は自然な形で輪に加わった。
「ちょっといいかな。純子ちゃん。天文部の合宿の話、聞いてる? 皆既月食観察の線
で、ほぼ決まりだって」
「ほんと? まだ聞いてなかった。日程はどうなるのかしら」
「そこまでは決まってないみたい。例年だと二泊三日か三泊四日って聞いてるし、日食
が二日目か三日目に来るようにするんじゃないかな」
「きっとそうね。うん、分かった。スケジュールはまだもらってないけれども、もし重
なっていたら、調整を頼んでみる」
 純子が期待感いっぱいの満面の笑みで言うのへ、横合いから白沼が口を出す。
「具体的にいつ? 万が一、うちの関係している仕事が入っていたら、影響あるから聞
いておきたいわ」
 質問先は相羽だったが、彼は慌てたように両手を振った。
「悪い、今すぐ鳥越のところに行かないと。純子ちゃんが知ってるから」
 言い置くと、すぐさま教室を出て行く。ぞうきんを持ったままなのは、先生に見咎め
られた際、どうにか言い逃れするためだろうか。
「そういうことだそうだけれど」
 白沼が目を向けてきた。純子が答えようとすると、淡島が「皆既日食の日ぐらい、私
でも答えられますのに」と不満げに呟いた。無意識なのかどうか、場を混乱させてい
る。純子は返答を急いだ。
「七月二十*日よ、白沼さん」
 白沼はメモを取るでもなく、二度ほど首を縦に振った。「分かったわ、覚えた」とだ
け言うと、掃除に戻ろうとする。
(ひょっとして、わざと仕事を入れてくるなんて、ないよね?)
 白沼の後ろ姿を見つめ、そんなことを思った純子。
 と、いきなり白沼が向き直った。
「安心しなさい。なるべく協力してあげるつもりだから」
「え、ええ。……ごめんなさい」
 思わず謝った純子に、白沼は左の眉を吊り上げ、怪訝さを露わにした。
「うん? 今言ってくれるとしたら、『ありがとう』じゃないのかしら」
「あ、今のは――無理をさせることになったら申し訳ないなって気持ち込みで。感謝し
てます」
 内心、冷や汗をかくも、どうにかごまかせた。
「感謝してくれるのなら、芸能人の男の一人でも紹介して。付き合いたいってわけじゃ
ないけれど、世の中には相羽君よりもいい男がいるんだって実感を持たないと、次に進
めないのよね」
 白沼は口元に小さな笑みを浮かべた。本気なのか冗談なのか分からない。
「それなら白沼さんも、蓮田秋人に一緒に会いに行かない?」
 結城が言い出したのを聞いて、純子もすぐに思い出した。
「マコ、遅くなっててごめんね。少ない伝を頼って、ご都合を伺ってるんだけれど、伝
わってるのかどうかも、ちょっと心許ない状況なの」
「いいって。確か今、映画の海外ロケのはずだし。――白沼さん、蓮田秋人は知ってる
わよね?」
「当然、知ってるけれど。結城さん、あなたって随分と渋くて年上好みなのね」
「やだなあ、タレントとして見て好きなだけで、異性の好みとか関係ないから」
「そうなの? それなら分かるけれども。蓮田秋人ね……一般人相手には線引きが厳し
そうなイメージがあるわ。大丈夫なの?」
 と、再び純子に質問を向ける。
「わ、分かんないけど、お会いしたときは、好感を持ってもらえたみたいだった」
「いやいや、あなたは素人じゃないでしょうが」
 的確なつっこみだったのに、自覚の乏しい純子は首を傾げた。

 それは三度目のアルバイトの日のことだった。
 純子は短い時間ではあるが、店番を一人で任されていた。
 経験の浅い純子がどうしてそんな役目を仰せつかったかというと、偶然が働いた結果
だった。この日、シフトでは寺東も入る予定だったが、当日になって連絡が店長に入っ
た。前日、英語教師が車上荒らしに遭い、金銭的被害は小さかったものの、アタッシュ
ケースに入れていた採点済みの答案用紙を、鞄ごと盗まれてしまった。定期考査ではな
く小テストだったが、成績を付けるには必要なものであり、再テストせねばならない。
英語教師は己の不注意を該当する生徒達に深く詫びた上で、放課後に再テストを受ける
よう求めた。求めたと言っても、生徒側には拒否権はないわけで、受けざるを得ない。
その影響により、一時間ほど学校を出るのが遅れる見込みとなった寺東は、昼過ぎにな
って遅れることを伝えてきた次第である。
 では店長はどうしたのかというと、午後三時半頃に起きた震度三の地震に驚いて、卵
を大量に床に落とし、だめにしてしまった。パン作りに重要な材料だけに、残った僅か
な個数では心許なく、アルバイトが入るのを待って急遽買い足しに出ることに。卵ぐら
いなら純子でも買いに行けそうなものだが、何でも拘りの銘柄があって、車で遠くまで
足を延ばさねばならない。よって、店長もしばし抜けることになってしまった。
(四十分ぐらいと言っていたけれど)
 時計を見ても、なかなか時間が進まないことにじりじりするだけなのに、あまり見な
いようにした。それ以上に、お客がほぼ途切れずに来るので、時刻を気にしている余裕
がなかった。レジを受け持つのはまだ二度目。手際は決して悪くないのだが、非常に緊
張する。
「――レシートと三十円のお釣りです」
 女子中学生二人組に、まとめて会計を済ませて送り出す。その次に並んでいたお客
が、「あ、やっぱりそうか」と言うのが聞こえた。
「いらっしゃいませ。トレイとトングをこちらへ――」
 マニュアル通りに喋る純子にも、相手が誰だか分かった。以前は学生服姿だったの
が、今回は私服なので気付くのが遅れたが、真正面から顔を見て思い出せた。でも私語
は極力、慎まねば。
「胡桃クリームパン好きが高じて、とうとう就職か」
 その男性客――佐藤一彦が、ややからかうような口調で言った。
「就職じゃありません、バイトです、バイト」
 たまらず、早口で答えた。パンを個別に袋に入れる動作も、いつも以上に速くなる。
「分かってる、冗談さ。ええっと、四年前になるんだっけ? あのときは、本当に悪か
った」
「そのことならちゃんと謝ってもらいましたし、もういいんですよ。――五百円になり
ます」
「ほい」
 五百円硬貨をカルトン――硬貨の受け皿に投げ入れる佐藤。角度がよかったのか、ゴ
ムの突起物の間に挟まって、五百円玉が立った。
「おっ」
「五百円ちょうどをお預かりします。――はい、レシートですっ」
 後ろに並ぶお客がまだいないことを見て取り、純子はレシートを押し付けるようにし
て渡した。悪い人じゃないのは分かっている。でも、今は早く帰って欲しいという意思
表示のつもり……だったが、佐藤もまだ他の客が並んでいないことを知っている。
「他に店の人、いないの?」
「一時的に外しています」
「そうか。じゃあ、あんまり邪魔できないな。相羽の近況も聞きたかったんだが」
 パンの入った袋を摘まみ持ち、がっかりした様子の佐藤。
(……あの頃はまだ、私と相羽君、付き合ってなかったのに)
 訝る純子だったが、敢えて聞く必要もないと黙っていた。
「過去のお詫びがてら、友達連中に宣伝しとくわ。多少は売り上げに協力しないとな」
「――あ、ありがとうございます。お待ちしています」
 自然とお辞儀していた。風谷美羽としてでなく、涼原純子としてお客を増やすのに貢
献できるとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「あ、そうだ。宣伝するとき、『涼原っていう、すっげーかわいい子がいる』って付け
加えてもいいか?」
「だ、だめです。かわいくなんかありませんっ」
 大慌てで否定する。佐藤は笑いながら出て行った。
(つ、疲れる。でも、今何をされているかぐらい、聞けばよかったかな。忘れてたわ)
 ほっとしたのも束の間、程なくして次のお客がレジ前に並んだ。
 そんなこんなで客足が途切れたのが、午後五時十分頃。あと十分ほどで店長が戻る予
定だし、二十分後には寺東も来るはず。がんばろうと気合いを入れてパンを並べている
と、ショーウィンドウの外、道路を挟んだ向こう側にたたずむ男の姿が目に止まった。
(あの人、五時になる前からいたような)
 忙しい最中でも何となく記憶していた。五月も半ばを過ぎ、ぼちぼち暑さを意識し始
める頃合いに、その男は黒い手袋をしているように見えたから、印象に残ったのかもし
れない。
(バイクに乗る人でもなさそうだし、ほとんど同じ位置に立ってる)
 道路工事を予告する立て看板の横、まるでこちらの店からの視線を避けるかのような
ポジション取り。
(――まさか)
 不意に浮かんだ悪い想像に、一瞬、身震いを覚えた。ショーウィンドウに背を向け、
カウンターの内側に駆け込む。
(脅しの手紙の主?)
 呼吸を整え、ゆっくり、自然な感じで振り返る。ショーウィンドウのガラスには、白
い文字で店名などが施されている。それが障害になって、反対側の歩道にいる人とじか
に目が合うことはなかなかない。でも警戒してしまう。
(……いなくなった?)
 目線を左右にくまなく走らせる。男の姿は消えていた。三十分近くいて、何をするで
もなしに立ち去ったことになる。
(気のせいかな? 分かんない)
 脅しは久住淳に宛てた物だった。普段の格好をしている今の純子は風谷美羽であっ
て、久住ではない。ならば、基本的に心配無用となるはずだが、ことはそう単純でもな
い。風谷もアニメ『ファイナルステージ』には歌で関与しているわけで、その線から度
を外した原作ファンから嫌われている恐れはある。さらに言えば、久住淳の居場所を突
き止めるために、風谷美羽に近付いて問い詰めるなんていうケースも、考えられなくは
ないだろう。
「用心するに越したことはない、かな」
 呟いて、護身術の型をやってみた。店のユニフォームを着ていても、案外動けると分
かって、多少は安心できた。
 と、そのとき店のドアの鐘が鳴った。型の動作を止め、急いで服のしわを伸ばす。店
長は裏口から入るはずだし、寺東が来るにはまだ早いから、お客に違いない。
「いらっしゃいませ」
 声を張ると同時に、笑顔を入口の方へ向ける。
「あれ? 相羽君」
 今度の土曜に来るはずの相羽が、何故かいた。学校からの帰り道なのか、ブレザー
姿。でも、ここまで来るには自転車じゃないと不便だろうから、一旦帰宅しているは
ず。どちらにせよ、今は一人のようだ。
「急にごめん。今、大丈夫?」
「お客さんはいないけれど、私一人だけだから……手短になら」
 どぎまぎしつつも、気は急いている。
「急用ができて、土曜日は来られそうにないんだ。だから、僕だけ今日来てみたんだけ
ど、驚かせちゃったね」
「え? え?」
 唐突な話に、すぐには思考がついて行けない。相羽の方は、言うだけ言ってパンの物
色を始めそうな気配だ。
「待って。相羽君だけ来られなくなったって子とは、他の人は土曜に来るのね?」
「うん。唐沢に言っておいた。君がここでバイトしていることをいつ教えるかが、悩み
どころで」
「そっか、まだ言ってないんだ? だったら……当日がいいのかな」
 そこまで考えて、細かいことを気にしすぎと思えてきた。事情を知る相羽が皆を連れ
て来る形ならまだしも、彼が来られなくなった現状で、友達をコントロールしようとし
ているのは、いい気持ちではない。
「やっぱり、早めに言おうかしら。そうして、来たい人は好きなときに来てくれればい
い。来たくない人や来られない人は、それでかまわない。元々、そういうもんじゃな
い?」
「君がそう言うのなら、分かった。噂が一瞬にして第三者にまで広まって、千客万来っ
てことにはまあならないだろうし」
「よかった。よし、これで少し気が楽になったわ。土曜日、緊張するだろうなあって覚
悟してたから」
 純子が両手で小さくガッツポーズするのを見届け、相羽は今度こそパン選びに専念す
る。見ていると、胡桃クリームパンの他、レーズンサンドや野菜カレーパンを取ってい
くのが分かった。出たぱかりの新作、桃ピザはスルーされてしまったけれど。
「そうだ、さっき、佐藤さんが来たんだったわ」
「佐藤さん?」
 さすがに思い出せない様子の相羽。あるいは、人口に占める比率の高い佐藤姓だか
ら、多すぎて特定できないといったところか。純子は、中学生のときのパン横取り事件
を示唆した。
「ああ、あの人。へえ、今もここで買ってるんだ」
「誰のために買っていくのかは、聞かなかったけれどね」
 トレイにパンを五つ載せて、相羽はレジに戻って来た。会計を済ませて、純子がレ
シートを渡すと、「これ、記念に取っておくべきかな」と言った。
「えー、おかしいよ、そういうの」
「そう?」
「だって、記念になることなら他にもっとあるはず。これから先、ずっと」
 純子が答えたところで、店の裏手にある勝手口の方から音が聞こえた。ドアの開け閉
めに続いて、「ただいま。少し遅くなりましたが、店番、大丈夫でしたか」という店長
の声が届く。
「はい。結構お客さん、来ました。というか、今も来てます……友達なんですけど」
 どう紹介しようか急いで考える純子を置いて、相羽は店長に目礼した。
「涼原さんのクラスメートで、相羽と言います」
「うん? 君も見覚えがある。涼原さんがよく買いに来てくれていた頃、よく、同じよ
うに胡桃クリームパンを買っていったから、記憶に残ってる。同じ高校に進学したんだ
ね」
 店長の言葉に、相羽は瞬時、はにかんだ。
(相羽君も買いに来てたなんて、知らなかった。あのとき食べて、気に入ってくれたの
かな)
「凄いですね。常連客全員の顔と好みを一致させて覚えてるんですか」
 興味ありげに尋ねる相羽。店長は首を横に振った。
「全員は無理だろうなあ。何せ、毎回違うパンを買って行かれて、好みがさっぱり掴め
ない人もいるから。おっと、こうしちゃいられないんだった」
 店長は相羽に礼を言うと、いそいそと奥に引っ込んだ。新しくパンを焼かねば。卵を
追加購入した意味がない。
「忙しくなりそうだね。そろそろ帰るよ。送っていけなくてごめん」
「あ、うん」
 もう少し待ってくれたら、寺東が来て紹介できる――そんな考えが浮かんだ純子だっ
たが、引き留めるのはやめた。寺東に相羽を紹介すれば、「なーんだ、彼氏いるんじゃ
ないの。付き合ってどのくらい?」なんて風に聞かれそうな予感があった。うまくかわ
す自信がない。
「気を付けてね」
 笑みを浮かべて手を振っていると、ちょうどお客が入って来た。慌てて笑みを引っ込
め、手を下ろした。

「昨日、言うのを忘れていたんだけれど」
 純子はそう前置きして、アルバイト中に目撃した、店の外にしばらく立っていた男に
ついて、ざっと説明した。
「うーん」
 聞き手は相羽と唐沢。ちょうど、相羽が純子のバイトのことを唐沢に伝えたところだ
ったので、ついでに話しておこうと思った。
「それだけじゃあ、何とも言えないな」
 怖がらせたくないのか、本当に何とも言えないと感じたのか、唐沢が答えた。相羽も
一応、同意を示す。
「たまたま待ち合わせをしていて、立っていただけかもしれない。急にいなくなったの
は、迎えの車が来て乗り込んだか、来られなくなったからと連絡が入って立ち去ったと
か」
「仮にそのパン屋の方を見ていたとしても、危ない奴とは限らないしなあ。『あ、かわ
いい子がいる。声を掛けたいけど勇気が出ない。どうしよう』ってだけかもしれない
ぜ」
 唐沢は茶化し気味に言った。やはり、怖がらせたくない気持ちが強いようだ。
「まあ、最初は無害でも、悪い方へエスカレートする場合、なきにしもあらずだけど」
 対する相羽は、楽観的な見方ばかり示さない。これはもちろん、脅しの手紙の存在を
相羽が知っているからであって、知らない唐沢とは差が出て当然かもしれなかった。そ
のような手紙の存在なんて、昼食を終えたばかりのこんな場所――学校の教室で、第三
者に話すことではなかった。
「気になるのは、手袋かな。指紋を残したくないから、これから暑くなる季節でも手袋
を付けている、とか」
「おいおい、相羽。何でそんな風に、悪い方へ考えるんだよ。怖がらせて楽しんでると
かじゃないよな、まさか」
 小声だが不満を露わにする唐沢。
「当たり前だ、そんなんじゃない。大事だからこそ、最悪の場合を想定するよう、癖を
付けている。それにこんなことまで言いたくないけど、純子ちゃんに何かあったら、母
さんや他の大人に、影響があるから」
「それもそうだ。納得した」
 あっさりと矛を収めた唐沢は、続いて「じゃあ、学校の行き帰りもなるべく一緒にい
ないとだめだな」と二人に水を向けた。にんまり笑って、ボディガードにかこつけての
のろけ話でも何でも聞いてやるぜという態度を示す。それは純子でも分かるくらいに明
白なサインだった。
 しかし、相羽は真面目に答えた。
「百パーセントというわけに行かなくて、困ってる。僕が無理なときは、誰か代わりに
付いていてほしいよ」
「……こっちを見るってことは、俺でもいいのかいな」
 唐沢は自身を指差し、最前のにんまり笑みのまま言った。相羽は相羽で、真顔を崩さ
ずに応じる。
「ああ」
「……まじ、なんだな。俺、腕は結構筋肉着いていて太いが、これはテニスのおかげ。
護身術なんて知らないぞ。喧嘩もなるべく避ける平和主義者だぜ」
「それでもいい。近くに男がいるだけで、だいぶ違うはずだから」
「盾になって死ねってか」
「冗談を。盾になりつつ、逃げて生還しなきゃ意味がない」
 二人の間で、やり取りを聞いていた純子は、心理的におろおろし始めた。黙って聞い
ていると、息が詰まりそう。
「も、もう、やだなあ。相羽君も唐沢君も、万が一のことについて真剣になりすぎっ。
心配してくれるのは嬉しいけど。わ、私だって、少しだけど対処法は教わったんだか
ら」
 相羽らの通う道場で護身術を習ったことまで唐沢に伏せておく理由はなかったはずだ
が、今は話がちょっと変な方向に行ってしまっている。相羽がそのことを言わなかった
のを、唐沢は不審がるかもしれない。だから強くは言わずにおいた。
「ま、すっずはっらさんを守るってのは、悪くない。護衛名目に、お近づきになれる。
相羽クンのいないところでも、な」
「……しょうがないことだ。でも、唐沢が不純な動機オンリーでやるって言うのなら、
道場の誰かに頼もうかな」
「もー、二人とも、いつまで続ける気よ。ほんとにやめてよね。居心地悪くなっちゃう
じゃない。私が大げさに心配したせいね。はい、これでこの話はおしまい。いざとなっ
たら、車で迎えに来てもらうことだってできるんだから」
「なるほど」
 唐沢は合点がいった風に、大げさに首肯した。そろそろ収拾を付けるべきだと考えた
のだろう。一方の相羽も、疲れたような嘆息をしながらも、「とりあえず、うぃっしゅ
亭に行ってくれたらいい」と結んだ。
「そうだ、涼原さんのバイトのこと、白沼さんにも言っていいのか?」
「何で気にするの」
 聞き返しつつも、純子は白沼の存在を気にした。確か、何かの委員会に顔を出さなき
ゃいけないとかで、早めにお昼を済ませて、教室を出て行った。まだ戻っていないよう
だ。
「いやほら、詳しくは知らないけどさ。白沼さんの親父さんか誰かが、仕事のオファー
を涼原さんに出してるんだろ? そんな最中に、他の仕事にまで手を出してるなんて知
ったら、彼女の性格からして怒る……は言い過ぎだとしても、不愉快に思うんじゃない
か。うちの仕事一本に絞ってよ!って」
「契約では、オファーされた期間中、他の仕事をしていいことになってて。もちろん、
被るというか競合するようなのはだめだけれど」
 純子は相羽を見た。一人で判断していいものやら、決めかねたため。
「別にいいんじゃないか。秘密にしておいて、あとで知られる方が、よっぽど決まりが
悪いよ。何なら、今日にでも唐沢が誘って、一緒にういっしゅ亭に行けばいい」
「前もって目的を告げずに、か? それ、ハードル高すぎだろ」
 片手で額を抱えるように押さえた唐沢。だが、腕の影から覗く表情は、面白がってい
る節も見受けられた。
「びっくりする顔が見たい気もするな」
「唐沢君が誘うだけでも、充分にびっくりされそうだけど」
 純子の呟きに、そうかもなと男子二人も頷く。
「あ、でも、白沼さん、店のこと知っているかもしれない。一度、白沼さんのお母さん
が買いにいらしたから」
「ははあ。その情報は……誘いやすくなったのか、逆なのか。ていうか、そもそも今
日、シフト入ってるの、涼原さん?」
「うん。なるべくたくさん入れてるわ」
「何でそんなにがんばるかねえ。絶対、コレの問題じゃないんだから」
 右手の親指と人差し指でコインの形を作る唐沢。相羽がその腕を叩いた。
「その手つき、やめ。何だか下品だ」
「じゃ、はっきり言う。お金が目当てじゃなく、体験が目的なら、そんなにいっぱい働
かなくても、充分じゃないの? 違うか?」
「それは」
 純子は人差し指を伸ばした右手を肩の高さまで上げて、答えようとした。が、相羽の
前で本当の理由を話すのは、やはり躊躇われる。無理。
「……それは?」
「ち、父の日のためよ。お父さん、表面的には許してくれてるけれど、芸能関係の仕
事、ほんとはやめてほしいみたいだから。だから、父の日のプレゼントを買うのは、ア
ルバイトで稼ごうかなって」
 咄嗟の思い付きでペラペラと答えた。心中では、予定にないことを口走って、頭を抱
える自分の姿を描いていたが。
(ああー、何てことを! これじゃあ、色々説明しなければないことが増えるし、下手
をしたら、相羽君に勘付かれる?)
 唐沢に向いていた目を、ちらと相羽に移す。特段、何かに気付いたとか閃いたとか、
そんな気配は彼から感じ取れない。ただただ、急に顔つきを曇らせ、
「純子ちゃんのお父さん、反対してるの?」
 と聞いてきた。
「え、えっと、全面的ってわけじゃなく、たまーにね。一時あったでしょ、水着の仕事
とか」
 適当な返事を続けざるを得ない。実際のところ、父が内心どう思っているかは聞いて
いないが、応援してくれているのは間違いない。ごく稀にだが、会社の上司の娘さんが
ファンでサインを頼まれた、なんてことを笑顔で言ってくるぐらいだから、悪い気はし
ていないはず。
「そんなら分かる。よし、売り上げに協力しましょう。白沼さんに声を掛けるかどうか
は別として、なるべく早く行くよ」
 唐沢が胸を叩くポーズをした。ちょうどそのタイミングで、白沼が教室に入ってくる
のが、純子の位置から見えた。すぐさま、唐沢にもジェスチャーで知らせる。
 唐沢は、胸を叩いた腕ともう片方の腕を組むと、首を傾げた。
「さて、どうすっかな」

――つづく




#507/598 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/598 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




#509/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/10/31  22:09  (389)
ほしの名は(前)  永山
★内容                                         17/11/03 17:56 修正 第2版
「全天で一番明るい天体がシリウスで、全天で一番遠い天体がさんかく座銀河で、全天
で一番好きな天体が地球で、そして、世界で一番好きな人が君」
 それは夜、皆から離れ、ペンションの広いベランダに出て、彼の好きな星の話を聞い
ているとき、突然起きた出来事だった。
 突然だったので、もちろんびっくりしたけれども、それ以上に笑ってしまいそうにな
った。笑いと涙を堪えながら、聞き返す。
「何それやだ。ただでさえ涼しくて肌寒いくらいなのに、寒い冗談やめてよね」
「ほんとに嫌か? それならやめるけど……こっちは本気で付き合って欲しいと思って
るから」
「――か。考えさせて」
 言ってしまった。即OKでもよかったんだ。ただ、軽いと見られたくなかったから、
少し引っ張ることにした。
「どのぐらい?」
 そう質問してくる方に顔を向けると、彼――君津誉士夫(きみづほしお)は、斜め上
を見たままだった。こっちが黙っていたせいか、彼はまた言った。
「どのぐらい考えるんだ? 何光年とかじゃないことを願う」
「光年は距離の単位でしょうが」
「そこはニュアンスで。それで、どのぐらい?」
「うーん、三日ぐらい」
「それでも長い。実は自分、この間、他の人から告白されてさ」
 えっ、と思うより、ぎょっとした。あっさり言うようなことかしら。
「好きな人がいるからって断ったんだけど、まだ告白してないのを知ると、さっさと告
白しろと言うんだ。ふられたら、またアタックしてくるつもりだってさ」
「誰から?」
「それはルール違反だろっ」
「クラスにいるかどうかぐらいなら、言えるんじゃない?」
 室内の方を肩越しにちらっと見て、すぐに視線を戻す。夏休みに入って、私達は林間
学校に来ている。ほぼ全員が参加しているけれども、その中に、君津へ告白した子がい
るんだろうか。
「だめだ」
 君津は案外、頑なだった。
「それより、林間学校が終わるまでに返事、くれないか」
「……いいよ。すぐ返事するから。OKだよ」
 私は気持ちに勢いを付けてそう言った。相手の顔を見る余裕はなかったけれども、も
し見ていたら、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を観察できたかもしれない。
「え……っと、急展開過ぎるんだけど」
 急な告白をしてきたくせに、どの口が言うか。
「君津に告白してきた相手に、結果を早く知らせといてよ。変に隠しておいて、恨まれ
ちゃかなわないわ」
 明るい調子で要求して、その場を離れた。みんなのいるところに戻っても普段通りで
いられる自信は、ある。

           *            *

 告白から十年近くが過ぎた。時代は平成になっていた。
 君津はヨーロッパにいた。高校二年時に交換留学の形で渡ったのが、きっかけになっ
た。グループ単位の自由研究の授業で、太陽光電池のアイディアを発表すると、その効
率性が高く評価された。担任教師がその手の企業に伝があり、地元企業と協力してのプ
ロジェクトがあれよあれよとまとまった。君津も参加を条件に飛び級での大学進学も可
能だと言われて、迷った末にやってみることに決めた。その時点で両親とも天に召され
ていたのも大きかった。恋人のことを除けば、迷う要素は、天文学の道を断念するのが
惜しいと感じたくらいだった。
 遠距離恋愛を強いられた君津誉士夫だったが、連絡は定期的にしていたし、回数こそ
少ないが日本に帰れるときには必ず帰った。付き合いは順調で、お互いの家族にも、そ
の存在を仄めかす程度にまで進んでいた。
 だから、彼女と急に連絡が取れなくなったときは、ほんの短い間だというのに焦りに
さいなまれた。折悪しく、プロジェクトが山場に差し掛かって多忙を極めたため、帰国
はおろか、知り合いに彼女のことを尋ねる暇すらなかった。
 そして八日後。どうにか時間を見付け、電話や電子メールで知り合いに聞いてみた
が、まともな情報は返って来なかった。電話の相手は素っ気なく、電子メールの文面は
意図的に話題をそらしている節があった。そして返ってくる答は最終的にいつも「分か
らない」「知らない」だった。
 輪を掛けておかしいのは、実家暮らしの彼女の自宅固定電話に掛けても、常に話し中
なのだ。送受器を外しているとしか思えない。
 不可解さが解消されぬまま、再び仕事に戻らなければならない、その直前のタイミン
グで、電話が掛かってきた。小学校のときから付き合いのある、荒田勇人からだった。
「まだ何も聞かされていないんだな?」
 お互いの近況を報告する間もなく、本題から入った。
「ああ。何が起きてるんだ?」
「それは……直に教えるのは、俺もきつい」
「どうしてだよ。わざわざ電話をくれたのは、教えるためじゃないのか」
「……そっちに、日本のニュースは伝わってないのか」
「全然ない訳じゃないけれど、大きなニュースじゃないと。おい、何だよ。新聞種にな
るようなことに巻き込まれたとでも言うのか」
「……しょうがないか。誰でも嫌がるよな、こんな役目。俺が言わなきゃ、いつまでも
このまんまだ」
「そうだ、言ってくれよ!」
「今、一人だな? 周りに人がいないなって意味だ」
 君津は思わず無言で頷いた。五秒ほどして気が付いて、「誰もいない」と答えた。
「そうか。――最悪を想像して、心構えをしろ。それと、俺は事実を伝えたあと、すぐ
に電話を切るからな。細かいことを聞かれても、俺もほとんど知らないし」
「分かった。電話代も掛かるだろう」
 早くなる心臓の鼓動。緊張感で汗ばむ手のひら。せめてジョークの一つでも言って、
僅かでも落ち着こうとしたが、全く変わらなかった。
「一回しか言わない。録音できるならした方がいい。できないなら、メモを取ってく
れ」
「待ってくれ――準備できた」
 極力、平静さを保とうと努める君津に、荒田はニュースキャスターみたいな抑揚で、
早口に言った。
「――え?」
 聞き直した君津。荒田は一回きりのはずが、もう一度だけ繰り返して話してくれた。

 きっかけになったのは、小学校の同窓会だった。
 六年三組の一クラスだけの集まりだから、さほど大規模ではなかった。ただ、開催前
からかなりの盛り上がりを見せ、参加OKは九割超え。当初は適当な居酒屋で行うつも
りだったのが、あれよあれよと話がまとまり、ホテルの宴会場を借りるまでになった。
さらに、泊まりたい者はそのまま宿泊できるオプション付き。
 そして、事件は泊まりになったクラスメートの間で起きた。殺人だった。
 死んだのは村木多栄。小学生時は小柄だが活発で、勢いに任せて好きなことなら何で
もチャレンジしてみたがるタイプだったが、大学生になった今は、正反対なまでに大人
しくなったように、かつてのクラスメートらの眼には映った。昔が活発に過ぎたせい
で、極当たり前の分別を身に付けただけなのが、殊更おしとやかに見えたのかもしれな
い。
 だからという訳でもないが、村木多栄を殺すような者が元同級生の間にいるなんて、
俄には信じられない。それが素直な感想……になるはずだった。
 実際は違った。何故なら、村木多栄はダイイングメッセージを遺したのだ。
 いや、正確に言い直そう。村木多栄がメッセージを残すところを、大勢が目撃したの
である。
 夜の十一時を回った頃、ホテルの裏庭に当たるスペースで、村木多栄は倒れていた。
仰向けだが、やや身体の右側を下にする格好で、弱い外灯に照らされていた。
 第一発見者は、酔いさましに出て来たという財前雅実と、財前と交際中だと宣言・報
告した綿部阿矢彦。大学が異なる二人が再会し、付き合いだしたきっかけは、大道芸の
サークルに入った綿部が、往来でセミプロ級の技を披露しているところへ、財前が通り
掛かったという偶然だった。
 そんないきさつはさておき……倒れている村木を見た財前が、盛大に悲鳴を上げたた
めに人が一挙に増えた。その衆目のただ中、綿部が村木を抱え起こそうとした。が、一
瞬、彼の動きが止まる。村木多栄の口から下が赤く染まっていた。それでも綿部の躊躇
はすぐに消え、片腕を村木の背中側に回し、上体を起こしてやった。そうする間にも、
財前が村木に声を掛け続ける。
 やがて話し疲れたのか、財前が静かになると、今度は綿部が村木の名前を呼ぶ。この
頃になると、半径二メートル以内に、元クラスメートが十人前後集まっていた。綿部が
「誰か救急車を!」と叫ぶ。
 そのとき、村木多栄の口が動いた。そして彼女が喋り出す。
「刺さ、れた」
「え、刺された? 誰に?」
 思わず聞き返した様子の綿部。本来なら、意識があると確認できた時点で、無駄に体
力を使わせるべきではない状況と言えそうだが、かまっていられなかったようだ。
 村木の生気の乏しい眼を見返しながら、身体を少し揺さぶる綿部。
「しっかりしろ、村木さん!」
「きみにやられた」
「君?」
 ぎょっとした風にしかめ面をなす綿部。周りにも聞き取れた者がいたらしく、多少ざ
わついた。
「星川希美子が、刺した」
 最後の力を振り絞るような響きで、その声が告げた。
 星川希美子。小学六年生のときに副委員長を務めた彼女は、同窓会には間違いなく出
席していたが、今この周辺に姿は見当たらなかった。
「――村木さん? おい、しっかり」
 先程よりも激しく村木を揺さぶる綿部。その行為の原因は明らかで、村木多栄の頭が
ぐにゃりと力なく下を向いたのだ。
「安静にした方が」
 そんな声が周りから飛んだ。手を貸そうとする男も現れた。その内の一人、戸倉憲吾
と綿部、そして財前雅実の三人でゆっくりと村木を横たえていく。
「うん?」
 途中で綿部が、続いて戸倉がやや驚いたような声を発した。
「首の後ろに、何かある」
 男二人は言った。
 横たえる動作を中断し、村木の身体の左側を下にする形でキープし、彼女のうなじを
確認した。
「これは」
 戸倉はそれきり絶句し、綿部も息を飲んでいた。財前が悲鳴を上げ、それはほとんど
時差なく、周囲の者達にも伝播した。
 村木多栄のうなじからは、二本の細い串のような物が突き出ていた。照明を浴びて、
銀色に照り返していた。

 同窓会が開かれた頃、日本では、無差別と思われる連続殺人事件が世間を騒がせ、話
題になっていた。
 殺人鬼のニックネームは牙。バーベキューで肉を刺して焼くのに使うような鉄串を二
本、被害者の身体のどこかに突き刺すのがトレードマークで、その対の鉄串を蛇や猛獣
の牙に見立てたのが由来とされる。くだんの鉄串は大量生産の流通品で、誰にでも買え
る代物。持ち手の部分が何度か捻ってあり、持ちやすいとはいえ、凶器としては扱いに
くい。実際、牙の殺害方法は絞殺がほとんどで、串を刺すのは犠牲者が死んだあとだっ
た。半年ほどの間に五人の被害者が出ていたが、犯人の逮捕には至っていなかった。
 そんな折に、同窓会で発生した村木多栄殺しは、牙の犯行のように見えた。死因は絞
殺ではなく腰部を背後から刺されたことによる失血死だったが、これまでの牙の犯行に
も刺殺はあったので、それほどおかしくはない。絶命前に串を刺している点が、大きく
異なるが、ホテルという限られた敷地を現場に選び、しかも同窓会開催で人の行き来も
そこそこあったのだから、さしもの牙も死亡を確認する余裕がなかったと捉えれば合点
がいく。
 問題は、村木多栄が死の間際、「星川希美子にやられた」という意味の言葉を言い遺
したと、大勢が証言したことである。
 部屋で休んでいた星川希美子は、通報により駆け付けた捜査官により、程なくして身
柄を確保された。事情聴取において、彼女は当然のことながら犯行を否認した。無論、
殺人鬼の牙ではないかという疑いについても、完全に否定した。
 凶器は未発見かつ不明。鉄串から不審人物の指紋は検出されず、また、足跡や毛髪と
いった、具体的に星川を示す物証が現場にあった訳でもない。警察にとって、攻め手は
ダイイングメッセージだけだった。
 ただ漫然と星川希美子を取り調べるだけでは、進展が望めない。捜査陣はまず、今ま
でに起きた牙の仕業とされる殺人事件について、星川希美子が本当に犯行可能だったの
かを検証した。犯行推定時刻が割り出されているので、それらの時間帯のアリバイの有
無を調査するのだ。
 その結果、五件の内の三件において、アリバイが成立。加えて、残る二件の内の一件
は、体格的にも体力的にも星川希美子を大きく上回る男性が被害者で、星川に限らず、
並みの女性に絞殺できるとは考えにくかった。
 そうなると浮上したのが、模倣説。星川が行ったのは村木多栄殺しの一件のみである
が、牙の犯行に見せ掛ける目的で、鉄串二本を突き刺したのだろうという見方だ。
 この説を星川にぶつけると、これまた当然であるが、否定が返ってきた。当初に比べ
て冷静さを取り戻した彼女は、「無差別殺人鬼の真似をするのであれば、今度の同窓会
のような限られた場所で行うなんて馬鹿げている。誰もが出入りできる、開けた空間で
やらないと意味がない」とまで言い切った。
 星川の反論には首肯できる部分もあったが、容疑者当人が言い出したせいで、一部の
捜査員にはかえって疑惑を強める逆効果となった。
 村木多栄殺しに関して、白黒を見極められぬまま、警察は捜査を進めざるを得なかっ
た。

            *             *

「早速で悪いんだけど」
 電話口でそう切り出した君津。続きを口にする前に、相手が言った。
「全然、悪くないわよ。多栄の事件のことでしょう? 遠慮なしに聞いて頂戴。知って
ることは何でも答える」
 相手は財前雅実である。電話では顔が見えないし、想像しようにも小学生時代の容貌
しか浮かばない。君津はイメージをなるべく膨らませて、脳裏に今の財前の顔を思い浮
かべた。
 だが、時間は余り掛けられない。恋人のためとは言え、国際電話に費やせる金には限
度がある。他にも何人かに電話することになるのは確実だ。
「まず、財前さんに言う筋合いではないかもしれないけど、みんなはどうして事件のこ
とを知らせてくれなかったんだろう?」
「それは……」
 言い淀む財前。君津は五秒だけ待つと決めた。五秒経過する寸前に、相手からの声が
届いた。
「やっぱり、いい知らせじゃないし、知らせたってあなたを動揺させるだけで、どうし
ようもない。みんなそう思ったんじゃないの」
「そういうものか。全てを投げ出して、飛んで帰るかもしれないのに」
「実際問題、まだ日本に帰ってきてないんでしょう?」
「それはまあそうだけれど」
「あなたがそっちで成功してるっていう彼女の自慢話、結構広まっててね。その邪魔を
したくないっていう気持ちもあったのよ、きっと」
「ふうん。まあ、分からないでもない。でも、僕が電子メールで問い合わせたなら、真
実を話してくれていいんじゃないか」
「……言えないわよ。他の誰かが言うだろうって、逃げたくなる役目だわ」
「なるほどね。荒田の奴も、似たようなことを言っていた。よし、じゃあ次。事件のと
きのことをなるべく詳しく教えて欲しい」
 気持ちを切り替え、いよいよ本題に入る。
「詳しくと言われても、私はそばでおろおろしていただけよ。多栄が倒れているのを見
付ける前に、何か目撃した訳でもないし」
「目撃してないっていうのは、怪しい人物とか妙な出来事とかはなかったっていう意
味?」
「そうなるわね」
「じゃあ……串は何センチぐらい突き出ていた?」
「えっと、五センチぐらい? ど、どうしてそんなことを知りたがるのよ」
「突き刺さっていた部分は、何センチぐらいなんだろう?」
「分かんないわよ、そんなことまで。全体の三分の二程じゃないの」
「そうだとしたら十センチか。なあ。うなじから五センチ、異物が飛び出ている人を仰
向けの状態から抱き起こそうとしたら、その異物に手が触れるのが普通と思わないか
?」
「――何それ? まさか、綿部を疑ってるの?」
 声が甲高くなる財前。付き合っている相手を悪く言われそうなのだから、当たり前だ
ろう。この質問はまだ早かったかと悔やんだ君津だが、もう後戻りはできない。
「疑ってるんじゃないよ。不自然さを少し感じただけ。綿部は首の後ろ側に腕を回さな
かったのかな」
「……回さなかったんでしょうね、鉄串に気付かなかったんだから」
 そう返事してから数拍間を取り、財前はさらに言葉を重ねた。
「多栄の顔面は、口の辺りから下、ずっと血塗れだったのよ。その血が首の側に流れて
きていた。首に腕を回すと、血で汚れてしまうとほとんど無意識で判断して、別のとこ
ろに腕を入れたのよ、多分」
「そうか。あり得るね。全然、不自然じゃない」
 一旦、相手の言葉を認め、穏やかな口調に努める。財前の安堵の息を聞いてから、別
の質問をぶつける。
「財前さんは、この殺人事件が牙の犯行だと思ってる? それとも、模倣だと?」
「そりゃあもちろん、模倣よ。希美――星川さんが無差別に人を殺してるなんて、さす
がに信じられないし、以前の事件ではアリバイもあるっていうし」
「模倣だとしたら、村木さんを殺す個人的動機があったことになる。それについて、何
か思い当たる節はある?」
「思い当たる節、ねえ……。二人は確か中学まで一緒だったけど、仲が悪いようなこと
はなくて、どちらかと言えば仲良しに見えた。私は村木さん、苦手だったけど、星川さ
んは誰とでも仲よくなれる、一種の才能みたいなものがあった。だから人気もあって…
…」
 答が脱線していることに気付いたか、財前はぴたりと黙った。が、じきに再開する。
「そうね。妬まれて殺されるとしたら、星川さんの方ね。だめだわ、何にも思い付かな
い」
「そうか。君でも分からないか」
 君津は応じながら、先程浮かんだ疑問を持ち出すことにした。
「さっき、口から首の方へ血が流れていたと言ったよね」
「ええ、そういう意味のことをね」
「仰向けだったんだから、出血は口からあった。刺されたのは腰の辺りだから、関係な
い。ということは、鉄の串はうなじを通って、口の内側にまで突き抜けていたんだろう
か」
「確かそうなっていたと聞いたわ。さ、参考になるかどうか知らないけれど、うなじの
方の傷はきゅって閉まっていて、血はほとんど流れ出ていなかったって」
 刺さったままの串が栓の役割を果たしたに違いない。口腔内は外の皮膚に比べれば柔
らかいだろうから、出血を止めるほどには収縮しなかったのだろう。
「うなじから口に串が突き抜けたなら、即死するんじゃないだろうか? 延髄って、そ
の辺りにあるんじゃなかったっけ? 確か、延髄に強い衝撃を受けると、死亡すると聞
いた記憶があるんだけど」
 プロレス技の一つ、延髄斬りに纏わるこぼれ話を、君津は思い浮かべていた。プロレ
スのテレビ中継で散々聞かされたものだ。延髄を蹴られたら普通の人間は死ぬ、とかど
うとか。
「延髄は滅茶苦茶太いもんじゃないし、うなじだって延髄と重なっていない部分は結構
あるわ。串が延髄を傷付けずに口の方へ貫通することは、充分にあり得るんじゃないか
しら」
「……財前さん、医大とか看護学校に入ったんじゃないよね」
「え、ええ。あ、今さっき喋ったのは受け売り。私達の小学生の頃ってプロレスが流行
ってたでしょ。特に男子の間で。そのせいで、延髄を蹴られたら死ぬっていう話を、事
件のときも誰かがその場で言い出したのよ。それを聞いた刑事さんだったかお医者さん
だったかが、今みたいな説明をしてくれたの」
 納得しかけた君津だったが、あることに気付いて、電話口にもかかわらず首を傾げ
た。自らのうなじを触りながら、その気付きについて言ってみる。
「一般論として、犯人が相手を殺すつもりなら、うなじに串を二本刺すつもりでも、一
本目はど真ん中を狙うんじゃないかな? わざわざ延髄を避けるような位置に刺すのは
おかしい気がする。だいたい、牙の仕業なら、あるいは牙の仕業に見せ掛けたいのな
ら、被害者が絶命後に刺すものだろう。それができない状況だったら、串を刺す行為自
体で絶命させようとするのが殺人犯の心理だと思うが」
「ああ、もう、知らないわよ。犯人じゃあるまいし、そんなことまで分かるはずないじ
ゃない。模倣犯なんだから、まだ殺せていないのに殺したと信じちゃったんじゃない
の?」
「……そうかもしれないね」
「君津君、やっぱり悪いけど、もういいかしら。思い出す内に、気分が悪くなって来ち
ゃって」
 そう言ってすぐにでも電話を切りそうな口調に、君津は慌てて反応した。
「あと一つだけ。事件そのもののことじゃないから」
「事件じゃないなら、何?」
「君が付き合ってる相手のこと。僕が君からの告白を断ったあと、君が選ぶくらいだか
ら、綿部の奴、よほどいい男になったんだろうなって思ってね」
「ま、まあね」
「確か、綿部の一つ上のお姉さんと仲よかったんだっけ? それがきっかけ?」
「全然。きっかけはもっとあと。大学に入ってから、彼の路上パフォーマンスを見たか
らだけれど、今は内面で通じ合ってるっていうか」
 財前は照れたのか、早口になった。
「そう言えば、その路上パフォーマンスっていうか大道芸って、どんなの?」
「それは……」
 答えそうになりながら、何故かしらやめた財前。
「彼から直に聞くといいわ。どうせ、綿部にも電話をするんでしょう?」

 財前雅実に続いて、綿部阿矢彦にも電話した。間を空けなかったのは、財前から綿部
に前もって通話内容が伝わるのを防ぐため。君津の腹づもりとしては、先入観の排除が
目的なのだが、こうして嗅ぎ回るのは犯人捜しと受け取られる面もあると、財前への電
話で自覚した。
「連絡しなくて、済まなかった」
 簡単な挨拶のあと、綿部が開口一番に言ったのがこれだった。財前から話が伝わって
いたのかと疑った君津だったが、すぐに払拭した。
「別に気にしちゃいない。だいいち、連絡方法がなかったろう、そっちからは」
「それもそうだ。だけど、そっちこそ俺が自宅暮らしじゃなかったら、この電話、どう
するつもりだった?」
「親御さんにお願いして、新しい番号を教えてもらうつもりだった。それでもだめな
ら、他の友達を当たる」
「すまん。俺はそこまで必死になれないだろうな。事件は悪いニュースだから、わざわ
ざしなくてもって思ったろう」
「気にすんな。それよりも、早いとこ用件に取り掛かりたい」
「分かった。何が聞きたい?」
「最初に断っておくと、これは疑ってるんじゃなく、確認のために聞くんだ。村木さん
を抱え起こしたとき、首の後ろの串には気が付かなかったのかどうか」
「うむ……うーん」
 しばらく黙る綿部。いや、唸り声だけは小さく続いていた。
「気付かなかったとしか言いようがない。ひょっとしたら、ちょっとくらい触ったかも
しれないが、だとしても、アクセサリーか何かだと判断したろうな。それくらい緊迫し
た状況だった」
「うん、そういうこともあるかもしれないな。言われて初めて思い当たった」
 君津は一応、疑問を引っ込めた。完全に合点が行ったのではないが、一つの捉え方と
して受け入れた。
 このあとも基本的な質問をした。怪しい人物は見掛けなかったか、何かおかしなこと
は起きていなかったか。いずれも、綿部の返答はノーだった。
「ところで綿部はこの事件、模倣説を支持している?」
「殺人鬼・牙の真似をしたっていう? ああ、まあそう解釈するのが妥当じゃないか」
「だったら、村木さんが殺された動機は何だと思う。聞かせてくれ」
「うーん。映画やドラマなんかだと、子供のときに友達同士で、二人だけの秘密を持っ
ていて、大人になった今ではその秘密が公になると非常にまずい、だから口封じのため
に殺す、なんてのがあるけれど」
「そんな検証のしようがないことを言われても、だな」
「そうだよな。うーん」
 唸ったきり、綿部の口から次の仮説は出て来なかった。君津は動機に関しては切り上
げることにした。
「何にも浮かばないってことは、財前さんとうまくやってるんだろうな。はは」
「そ、それとこれとは話が別だ」
「うまく行ってないのか?」
「そんなことはない。だから、話の次元が違うってんだよ」
「大道芸の技を見せてやったり、教えてやったりしているんだろ?」
「……のろけてもいいのか? 君津の方は恋人がこんなことになってるっていうのに」
「少しぐらいなら。あ、いや、その前に、どんなパフォーマンスができるんだよ? ブ
レイクダンスとかか」
「違う違う、ほんとにいかにもな大道芸ばっかりさ。ジャグリングとか物真似とか、あ
と筒乗りとか」
「筒乗りって?」
 一瞬だが、焼き海苔の入った筒を想像してしまった君津。
「玉乗りの変形バージョンって言うのが分かりやすいかな。金属製の筒状の物体を寝か
して、上に板を載せて、その板の上に俺が立ってバランスを取るんだ」
「あ、分かった。テレビで見たことある」
 しばらく事件とは無関係な話題を選び、相手の気持ちと口がまたほぐれるのを待つ。
頃合いを見て、改めて事件の話に戻った。と言っても、残る質問は少ない。
「もう少し発見が早かったら、助けられたと思うか?」
「……いや。難しかったと思う。現実には助けられなかったから、俺がそう信じたいと
いうのもあるかもしれないが、実際問題、村木さんの身体はかなり冷たく感じたんだ。
あれは恐らく、少々発見が早かったくらいじゃ、助からない」
「ということは、犯行からはだいぶ時間が経っていたと」
「い、いや、そこまでは分からねえよ。そんな気がしただけだ」
「時間がだいぶ経っていたと仮定して、どうして星川さんは逃げなかったんだろう?」
「それは……逃げたら怪しまれるからじゃないか」
「動機が見当たらないのに、か」
「だったら……ああ、星川さん、ホテルに宿泊をすることにしていたから。宿泊をキャ
ンセルして逃げ出したら、怪しまれて当然だ」
「いや、根本的な疑問として、何故、宿泊を決めてたんだろう? 鉄串を用意していた
ってことは、計画的な殺人だ。殺したあと、のうのうと犯行現場のホテルに泊まるだな
んて、普通じゃない。最初から日帰りにすればいいんだ」
「……俺にはもう分からん。頭が痛くなってきたよ」
 急に弛緩したような軽い口調で言い、綿部は笑い声を立てた。頭痛というのは事実な
のか、どことなく疲れた笑いに聞こえる。
 潮時と判断した君津は、相手に礼を述べて通話を終えた。

――続く




#510/598 ●長編    *** コメント #509 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/01  00:08  (395)
ほしの名は(後)  永山
★内容                                         18/06/24 03:53 修正 第3版
 死に瀕した村木多栄に触れた最後の一人、戸倉憲吾にも電話をした。
 君津と戸倉は小学生時代はさほど親しくなかったが、中学に入ってから変化が生じ
た。ともに頭はよい方だが、君津が閃きを重視するタイプであるのに対し、戸倉は論理
を一から積み上げるという違いがあった。そこが互いに魅力に映ったのだろうか、何か
と馬が合い、以後、付き合いは長く続いた。君津の海外留学を機に、さすがにやや疎遠
になったが、それでも電子メールでのやり取りぐらいはたまにあった。現在、戸倉はコ
ンピューターで様々な音を合成することを研究テーマにしているらしい。
「伝える役をしなければならないとしたら、自分だったんだろうな」
 戸倉は些か自嘲気味に、そして後悔を滲ませた口ぶりで始めた。君津は本題と余り関
係のない話が長引くのを嫌って、「それはもういいから」と言った。
 しかし、戸倉は意外な頑なさを見せた。
「躊躇したのには理由があるんだ」
「理由って、どうせあれだろ。知らせてもどうしようもないし、日本にすぐさま帰って
来られる訳じゃないしっていう。聞き飽きたよ」
「違うんだ。言いたいのはそんなことじゃなくて、もっとちゃんとした理由さ。事件が
起きた、村木さんが殺されたと知ったとき、僕はすぐに思ったんだよ。もしかしたら財
前さんが殺したんじゃないかって」
「え? 何でまた?」
「知らないみたいだな、やっぱり。財前さんから告白されたことがあるって聞いてたか
ら、ひょっとしたら君津も知ってるのかなとも思ってたんだが」
「おい、分かるように話してくれよ」
 送受器を持ち替え、握る手にも声にも力が入る。君津は手のひらに多めの汗を感じ
た。
「ちょっと頭の中で整理するから、待ってくれ。――よし。今から話すのは、僕が中一
のときに、女子の会話を立ち聞きして知ったことだ。噂話みたいなもんだったし、わざ
わざ言いふらすようなものじゃなかったので、誰にも言ったことはない。それから、財
前さんの立場からの話だということに、注意して欲しい」
 承知したという意味で、君津は「ああ」と短く言った。
「財前さんが小学生のとき、君津に告白したのって、何だか急じゃなかったか?」
「ううん、急かどうか分からないけれど、バレンタインとか卒業とかのイベントにかこ
つけた告白ではなかったな。急な告白に意味があったっていうのか?」
「意味というか、理由だな。財前さん、他の人から告白されて、それを断るために急い
でおまえに告白したらしいんだ」
「それって僕自身と同じ……」
「状況は同じようなもんだったろうな。違うのは、財前さんが告白された相手っていう
のが、同性だったってことだ」
「はあ、女子から告白されたってか?」
 さすがに驚いた。小学生で同性から告白されるってのは、どんな気持ちになるものな
んだろうか。
「そう聞いた。その相手が、村木さんなんだ」
 村木多栄が財前雅実に告白を。
 それは確かに隠された事実かもしれない。が、だからといって、財前が村木を殺害す
る動機はどこから生じるのだろう。逆なら、つまり告白してふられた村木が、財前を憎
んで殺すのなら――どうして今さらという疑問は残るが――まだ理解できなくもない
が。
「何で、財前さんが殺したと思った?」
「おまえにふられた財前さんは、村木さんの告白を断れなかった。好奇心もあって付き
合ってみたらしい。だが、一年ほど経って後悔した。村木さんの方が飽きて、関係は自
然消滅したんだ。財前さんにとったら、いい面の皮だよな。これは僕の勝手な想像だ
が、文句を言うなり、秘密を暴露してやるなりしたくても、彼女自身にとっても相手に
秘密を知られている状況だし、言えなかったんじゃないか。唯一人、愚痴をこぼした相
手が綿部千代、綿部のお姉さん」
「え」
「その二人の会話を、僕が偶然、立ち聞きしたって訳。これなら、財前さんが根に持っ
ていてもおかしくはないだろ」
「分かるけど、今になって、わざわざ殺す程には思えないな」
「そこは同感。だからこそ、僕も警察には何も言わなかった。ただ、同窓会に出たなら
分かると思うんだが、財前さんは綿部と交際中の割には、幸せオーラがたいして感じら
れなかった。どちらかというと緊張していてさ。まあ、冷やかされるのを覚悟していた
せいかもしれないが」
「同窓会で、自分達よりも幸せそうな村木さんを見て、昔の恨みが殺意までに強まった
と?」
「そこまでは言ってない。村木さんの方も特に幸せそうに見えた訳じゃないし。犯人は
鉄串を用意していた、つまり犯行は計画的。動機は、同窓会当日に作られた殺意じゃな
いはず」
「だよな」
「このことを警察に言っていれば、星川さんがあんなあっさり逮捕されることはなかっ
たなじゃないか。そう思うと、おまえに連絡する勇気が出なかった」
 やっと理屈がつながって、君津は納得できた。
(星川さん――僕の彼女が警察に拘束されたのは、村木さんが名前を言い遺したのが大
きな理由だろ。それなのに、細かいことを気にするなんて。戸倉らしいっちゃらしいけ
ど)
 ちょっぴり感動しつつ、それ以上に厄介な性格だなと笑い飛ばしたくなった君津。だ
が、恋人が逮捕されたままという現実の前に、笑っている暇はない。
「計画犯罪なら、動機も以前からあったに違いない。その条件に、星川さんが当てはま
るとは思えないんだ」
「知る限りじゃ、動機がありそうなのは、さっき言った財前さんだけだぜ。しかし、財
前さん以外に動機のある人物がいようがいまいが、ダイイングメッセージが全てを否定
してしまう」
 そうなのだ。いくら他の容疑者を挙げようとも、星川希美子の名を言い遺した事実が
立ちはだかる。君津と星川を苦しめる。
「君津、こっちはとことんまで付き合えるが、そっちは大丈夫か」
「ああ。仕事、いや、明日は大学の方だっけ。それが始まるまでは、徹夜も厭わない
よ」
「じゃあ、まず……星川さんは犯人ではないと決め付ける。そこから出発だ」
「言われなくても、そうしてる」
「もっと積極的に、かつ、論理的に活用するんだ。閃き型のおまえには難しいかもしれ
んが」
「論理派を自認するのなら、分かり易く言ってくれよ」
「つまりだな。星川さんが犯人でないなら、何で村木さんは、犯人は星川さんだと告発
したのか。この謎を解き明かす必要があるってことさ」
「そういう意味か。確かにな。――見間違えた、とか」
 早速、閃いた仮説を、大した自己検討もせずに口に出す。
「犯人は星川さんとそっくりの格好・変装をして、村木さんを襲った。村木さんは当
然、星川さんに刺されたと思い込む」
「うーむ。理屈だけなら成り立つだろうが、実際のところはどうなんだろうな。この場
合、本当にそっくりに化けなければ、星川さんの名前を出すまでには至らないはず。と
なると、何はともあれ、顔を似せねばならない」
「よくできたゴム製の被り物なら、かなり本物っぽく見えるんじゃないか。前に、映画
で見たんだ。犯行はあっという間に終わるし」
「いや、難しい気がする。まず、犯行はあっという間と言うが、刺すのは一瞬で済んで
も、鉄串が残っている。二本続けて刺すのは、結構時間を要するんじゃないか。見ただ
けで被り物に気付かれるか否かは五分五分ぐらいとしても、村木さんの反撃に遭って被
り物に触られる可能性が高い」
「戸倉の言いたいことは分かるけれど、それだけでは否定の根拠として認められない」
「まだある。当日、村木さんと星川さんは顔を合わせている点だ。長い間会っていなく
て、いきなり犯行に及ぶのであれば、変装は適当なレベルで大丈夫だろう。しかし、当
日会ったとなると、話は違う。顔だけでなく、化粧の具合や背格好、全体から受ける印
象、髪型や服装、靴まで揃えないと、村木さんに違和感を与える恐れがある」
「……化粧に髪型、服装は、当日にならないと分からない、か。泊まるつもりで来てい
るのなら、着替えて別の服になっていてもおかしくはないが、化粧と髪型をその日の内
に変えるのは相当不自然。よって、見間違い説、いや、変装説は除外される」
「ちなみに、単なる見間違いも起こらなかったと思う。当日の星川さんとそっくりの姿
形をした出席者は、女性にせよ男性にせよいなかったと僕が保証しよう」
 こんな場合に男まで含めて論じるのも、戸倉らしいと、君津は思った。
「論理展開は頼もしいが、謎の解明には近付いていない。まあ、変装説等が間違ってい
たと分かったのは、前進と言えるけれども」
「もう仮説はないか?」
「ない。時間が経てば閃くかもしれないし、閃かないかもしれないが、現時点では手持
ちはゼロだ」
「こっちも大した説はないんだが、気になることが一つできた。村木さんがはっきりと
星川さんの名前を出したということは、真犯人は星川さんに濡れ衣を着せる意図が明確
にあったと言えるんじゃないか?」
「それは要するに……犯人は他の誰でもなく、星川さんに罪を被せたかったという意味
だな。言い換えると、犯人は村木さんだけでなく、星川さんにも恨みを抱いていた」
「その通り。そして星川さんに恨みを抱くという条件にも、財前さんは当てはまる」
「そうなるのか」
 ぴんと来なくて、君津は問い返した。
「自覚がないのか。おまえは財前さんを振ったんだろう。彼女にしてみれば、君津誉士
夫を手に入れた女、星川希美子に対して敗北感を感じたかもしれない。憎く思ったとし
ても、不思議ではあるまい」
「恨むなら、僕自身を恨むものだと思ってた」
 率直な感想を述べた君津に、戸倉は少しだけ笑い声を漏らした。
「そう思ってるのなら、一応、注意しとけよ。このあと、財前さんがおまえも刺しに行
くかもしれないぞ」
「まさか」
「言ってる自分も、どこまで冗談のつもりなのか、測れてないんだぜ。今の時点で、星
川さんを除いた犯人の最有力候補は財前さんなんだからな」
「僕の記憶にある財前さんは、そんなことする人には全然見えないな」
「当たり前だ。僕だって、信じられん。第一、君津が今思い浮かべてる財前さんての
は、大方、告白してきた小学生の頃の姿なんだろう」
「当たらずとも遠からず、とだけ言っておく。けど、仮に財前さんが犯人だとして、こ
んな大胆な犯行ってやれるもんかな?」
「大胆とは、同窓会で殺すっていう点か」
「それもあるが、襲ってから間もない段階で、彼氏と一緒に発見役を演じるなんて。他
に適当なアリバイ証人が見付からなかったのかもしれないが、だからといって、好きな
男を巻き込むかね」
「そりゃあ、ばれない気でいるからだろう」
「あるいは、端からアリバイ証人にするために付き合い始めた、なんて……」
 他愛もない思い付きを言葉にしただけのつもりだった。だが、何かが君津の脳裏によ
ぎり、引っ掛かった。
「君津?」
 押し黙った君津の耳に、戸倉の声が届く。
「――最初っから、綿部も承知の上だった、共犯だったと考えれば」
「え? 何だって」
 一段と大きな声量になった戸倉。君津は興奮気味に、負けないくらいの大きな声で返
事した。
「そうだ、そうなんだ。綿部が技を彼女に教えたとしたら、謎は解ける!」

            *             *

 空港に降り立ったときは、あいにくの雨だった。折角の連休も予定が多少狂う人が大
勢いるに違いない。
 手続きを済ませ、多くない荷物を受け取ると、都心まで直行する。小さな子供の頃に
はまずくてとても飲めなかったブラックの缶コーヒーで、眠気を少しでも飛ばしてお
く。
 駅の改札を出たところで、三人の姿が視界に入った。
「やあ。久しぶり」
 軽く手を挙げてから、平常心に努めつつ言った。
 三人の中から真っ先に駆け寄ってきたのは、財前雅実だった。
「久しぶり! だけど、感動の反応が薄いわね」
「少し疲れてるし、帰ってきた理由が理由だから」
「そうね。……まあ、思っていた通りのいい男に育ってるわね。見た目だけでも元気そ
うで、安心したわ」
 財前は後ろを振り返り、綿部を手招きした。
「今の彼氏の方がもっと上だけど」
「そりゃそうじゃないと困る」
 応えてから、君津は目線を綿部に合わせた。髪を伸ばしてパーマを掛けているのは、
大道芸人として目立つためだろうか。そして、思い描いていたよりも大きい印象を受け
る。鳩胸のせいかもしれない。
「よおっ。路上パフォーマンス、頑張ってるんだって?」
「まあな。おまえには全然負けてるけど」
「比べるもんじゃなし。将来はプロでやっていくの?」
「分かんねえ。でも、日本じゃ無理かな」
 二人の会話が一段落すると、三人目――戸倉が声を掛けてくる。ここしばらくよく連
絡を取り合ったので、挨拶抜きだ。
「君津、どうする? どこか落ち着いて話せる場所……喫茶店かファミリーレストラン
か」
「ファミレスは騒がしいイメージがあるけど、腹も空いている」
 時間は午後三時。迎えの三人は、とうに昼食を終わらせていることだろう。
「機内食はどうした」
「食べた。でも、足りないし、日本食が食べたいんだ」
「だったら、ちゃんとした店に入ろう。ファミリーレストランの日本食なんて、メニ
ューが少ないだろ」
 そう言ってくれたものの、近くに適当な店がなかったので、蕎麦屋に入った。甘い物
も少し置いてあるらしい。
「寝泊まりするとこはあるの?」
 四人掛けのテーブルに案内され、注文を済ませるや、財前が聞いてきた。僕が急遽帰
国した理由が殺人事件にあることは承知しているはずだが、とりあえずは当たり障りの
ないところから話題にしたいようだ。
「うん。今日と明日はホテル泊まりだけど、明後日からは親戚の家に泊めてもらう。墓
参りするから、方角的にもちょうどいいんだ」
「ああ、そうだったな」
 綿部が気まずそうに反応した。両親がいないことは、このテーブルに着いた全員が知
っている。
「てことは、明日は弁護士さんのところか」
 隣に座る戸倉が話題を換える。と言っても、人の生き死に関係している点は同じだ
が。
「会う約束はできたんだが、長い時間は無理だと言われてるんだ。いくら依頼人の彼氏
でも、真相解明に役立つ何かを持ってる訳じゃないし、しょうがない」
「真相解明って……星川さんが犯人ではないとまだ思ってるの?」
 財前が言った。辺りを気にする風に、声のボリュームを落としている。
「そうだよ。そのために無理に調整して、帰って来たんだ」
「やっぱり。戸倉君を通じて呼び出されたときから、そういう予感はしてたんだ」
 早々にざる蕎麦が来た。穴子天ぷらのミニ丼も付けた。他の三人は、そば粉を使った
和菓子とお茶のセットだ。
「とりあえず、食べながらでいいかな」
 承諾を求めると、曖昧な答が返って来た。
「食べるのはもちろんかまわないけど、何が『いいかな』なのよ」
「事件のことで、新たに確かめたいことができてさ。戸倉にはざっと伝えたんだけれど
も、二人にも聞いてもらいたい」
 手を合わせてから割り箸を割って、まず蕎麦のつゆにわさびを溶く。薬味を散らした
ところで、前に座る二人にも食べるよう促した。
「楽しくないことを思い出しながらだと、まずく感じるかもしれないけど」
「どうせ食べ始めたらすぐに終わっちまう。そっちがあらかた片付くまでは、このまま
待機してるさ」
 綿部が笑いながら言って、腕組みをする。木の椅子の背もたれに身体を預け、聞く体
勢になった。財前の方はお茶ではなく、お冷やを一口飲んで、テーブルの上で両手を組
んだ。
「大前提として、僕は彼女が――星川さんが犯人ではないと決めている」
「……当然よね。あなたの立場なら」
「星川さんが犯人じゃないなら、村木さんはどうして星川さんを犯人だと言い遺したの
か。最初に考えたのは、犯人を何らかの理由で星川さんと誤認した可能性なんだけど」
 以下、犯行が計画的であることを軸に、この説は成り立たないことを説明し終えた。
 黙って聞いていた綿部が、湯飲みを手にしてから、ゆっくりと口を開く。
「何だ、結局、証明ならずか。俺達に聞いてもらいたいことって、これか?」
「まだ続きがある。次に僕が閃いたのは、音による欺瞞だ」
「ぎまん?」
 どういう意味の単語で、どんな字を書くのか分からないと言わんばかりに、横目を見
合わせた様子の二人。僕は「トリックと言い換えても通じるかな」と付け足した。
「同窓会に出た大勢が、村木さんが星川さんの名前を言うのを聞いている。特に近くで
聞いたのが、君達と戸倉だ。三人には、検証してもらいたい、僕がこれから話すトリッ
クが成り立つかどうかを」
「……分かった」
 綿部と財前は、今度ははっきりと互いに目を見合わせてから頷いた。
「村木さんが犯人ではない星川さんの名前を言うとしたら、どんな場合があるか。シン
プルに考えることにした。言ってない、と」
「言って……ない?」
「意味が分からないわ。私達は確かに聞いた」
 きょとんとする綿部に、捲し立てる財前。戸倉が止め役に入ってくれた。
「まあまあ、検証はあと。最後まで聞こう」
「……」
 不満そうだが、財前は黙った。僕は結局、食事には箸を付けずに話を続けていた。
「村木さんは星川さんの名前を言っていない。これも決定事項とする。では、何故、周
りのみんなには声が聞こえたのか。声は作り物だったんじゃないか。僕はそう考えて、
入手できた事件の状況を再検討してみた。最初は録音しておいた音声を流せば何とかな
るだろうって思っていたが、そう簡単じゃないと分かった」
「そうよ。あのとき、村木さんの口は動いてたんですからね」
 思わずという風に、財前が身を乗り出して反証を挙げる。僕は一つ首肯した。
「そう、それがネックだった。他の方法を考えなきゃならない。たまたま村木さんが声
を出せずに、口を動かしただけのタイミングに、犯人が幸運にも音声を合わせられたの
か。そんな偶然は認められない。僕は発想を少し変えてみた。村木さんの口を動かした
のも、犯人の仕業だったとしたら?」
「ば、馬鹿な」
 今度は綿部が“思わず”反応したようだ。
「死んでる人の口を動かすなんて、リモコンでも仕掛けたって言うのか?」
「ん? 変なことを言うね。君らが見付けたとき、村木さんはまだ息があったんじゃな
かったか?」
 僕は綿部、財前の順番に顔を凝視し、それから戸倉を見た。戸倉は「うむ。息があっ
たように思えた。あのときは」と答えた。彼だけが、注文した品を消費している。
「言い間違えただけだ。結果的に死んでしまったのだから」
 取り繕うことなく、ストレートに訂正する綿部。その隣では、財前が居心地悪そうに
もぞもぞ動いて、座り直した。彼ら二人が何も言わなくなったので、戸倉が口を挟んで
くれた。
「でもよ、君津。生きてる人間の口を、他人が自由に操るのは、死人の口を操るよりも
難しいんじゃないか? 死んでるなら、さっき綿部が言ったみたいにリモコンを取り付
けたら、曲がりなりにも動かせるだろうけどさ」
「同感だ。その人が生きていたら、偽の音声に、本物の音声が重なる可能性もある。犯
人にとって、絶対に避けたい状態だろう。そこで僕は考えを推し進めた。発見されたと
き、既に村木さんは亡くなっており、犯人は外的な力で村木さんの口を動かすととも
に、偽の音声を周りに聞かせることで、まだ村木さんが生きていると思わせようとし
た。これなら、全ての説明が付く」
 言い切った僕は、前の二人を見やった。しばらくの沈黙のあと、財前が切り出した。
「どうやって? 具体的にどうすれば、村木さんの口を動かし、声を出せるのよ」
「そこを説明できなければ、絵に描いた餅だな」
 財前の台詞を引き継ぎ、綿部も言った。
「だから、先に君達の話が聞きたいんじゃないか。村木さんの口を動かすような仕掛
け、村木さんの声を流すような仕掛け、そういったものが彼女の身体のどこか、あるい
は近くになかったのかなってね」
「そんな物、ある訳ないじゃない。あったら警察が気付いてるだろうし、私達は間違い
なく、村木さんの口から声を聞いてるのよ」
「――戸倉は、そこまで断言できる?」
「無理無理。声がどこから聞こえたなんて、判断のしようがない。極端な話、村木さん
の口の中に、スピーカーを仕込まれていたら、どこから聞こえようが関係ないってこと
になるしな」
「だから! そんなスピーカーなんて、見付かってないでしょ!」
 当初の囁き声はどこへ行ったのか、財前は大声で主張した。さすがにまずいとすぐに
気が付いたらしく、息を整えつつも肩を窄ませる。
 落ち着くのを待ってから、僕は推理の続きを話し始めた。
「スピーカーなんてなくても声は流せるし、リモコンを仕掛けなくても口は動かせる。
僕はそう思うんだ」
「どうやって」
 穏やかな口調で、綿部。額に汗の縦筋ができていた。どこかしら緊張しているよう
だ。
「もう一つ、僕が着目したのは、犯人が牙なる殺人鬼の手口を模倣しようとしたこと。
無差別殺人として牙に罪をなすりつけるにしては、同窓会の場はふさわしくない。だっ
たら、何故? 犯人にとっていかなるメリットがあるのか。牙の犯行で特徴と言えば?
 そう、二本の鉄の串だ。犯人は村木さんの遺体に鉄串を刺す必要があったんじゃない
か。このように考えることで、見えてきた。犯人は、うなじから刺した二本の鉄串を持
って、遺体の口を動かした――」
「そんな、あり得ない……」
 財前は両手で口を覆っていた。対照的に、綿部は鼻息を荒くした。
「その説だと、俺が一番怪しいことになりそうなんだが?」
「もちろん、鉄串をリモコンで動かしたのでなければ、最も怪しいのは、村木さんを抱
え起こしていた綿部、君になる」
「は! 馬鹿らしい。冗談も休み休み言え」
「冗談のつもりはないよ。こうして披露するからには、本気だ」
「そうかい。だったら、声は? 俺が裏声を使って女の声を出したってか? いくらパ
フォーマーでも、そんな芸当は身に付けてないぜ。第一、俺はずっと村木さんに呼び掛
けていたんだ。同時に女声を出せるはずがないだろ。声はカセットテープとでも言う
か?」
「いや」
 長い反論に対し、僕は短い返事でまず応じた。
「先に聞いておく。綿部は声に関するパフォーマンスで、何かできることがあるよな
?」
「……ああ。腹話術だ。簡単なやつで、男の声しかできないぞ。それにさっきも言った
ように、俺は村木に声を掛け続けていた」
「その腹話術のこつを、彼女に教えたんじゃないのか」
 僕は綿部の隣に目を移した。口を覆ったままの財前が、こちらを見る。
「偽の声で、星川さんの名前を言ったのは、財前さん、君だろう?」

 〜 〜 〜

「証拠はない」
 しばらくしてから、どちらかが言った。僕は戸倉に目配せしてから、“犯人”達の説
得を試みた。
「鉄串に、綿部の指紋が付いている」
「付いていて当然だ。助け起こしたときに、触ってしまうことはあるだろう」
「だけど、口を操るために触ったのだとしたら、指紋の付き方が随分違ってくるはずだ
よ。元々、刑事達は何か変だなと感じているかもしれない。僕の推理を警察に伝えた
ら、どうなるだろうね? 君か財前さんの同窓会前の買い物を警察が調べれば、鉄串を
買ったことが明らかになるんじゃないか」
「……いや、証拠にはならない。絶対的なものじゃない」
 自らに言い聞かせるような口ぶりの綿部。僕はわざと哀れむようなため息を吐いた。
「仕方がないね。戸倉、あれを出して、説明してあげよう」
「うむ。了解した」
 戸倉がジャケットの内ポケットをまさぐり始めると、綿部と財前は表情に怪訝さを浮
かべた。程なくして、戸倉はその物――小型のテープレコーダーを引っ張り出した。
「同窓会の席で、僕の現在の研究テーマは音の合成だと話したよな。研究材料を集める
ために、テープレコーダーを持ち歩いて適宜、録音しているんだ。今も録ってたんだ
が、証拠云々はそれじゃなく」
 と、録音をストップし、中のカセットを別の物と入れ替える戸倉。
「こっちのテープは、同窓会のときに使ったやつだ」
「まさか……」
「うむ。村木さんを助けようとしていた場面で、録音していたんだよ。これにはあのと
きの声もばっちり入っている。聞いてみるか? 警察に声紋を調べてもらう前に」

 自首の形を取りたいという二人のために、弁護士に事情を話して来てもらい、後は全
て任せることになった。恋人と対面できるのは、もう少しだけ先になる。
「本当のところはどうなんだ、戸倉?」
 駅のプラットフォームの中ほど、横並びに立っているときに、聞いてみた。
「うん、何がだ」
 煙草を吹かしながら、戸倉は聞き返してきた。喫煙するとは意外だ。蕎麦屋では我慢
していたらしい。
「本当に録音できていたのかってことさ」
 風向きを気にしつつ、僕は質問の意図を明確にした。隣を見ると、特段、表情に変化
はない。
「無論だ。僕はこれでも研究熱心だからね。ま、多少は聞き取りにくい部分はあるかも
しれないが、いざとなったら合成してやるよ」
「それはだめだろう」
 苦笑いが出てしまった。
「いつまでいられるんだ?」
 吸い殻入れに一歩近づき、煙草の火をもみ消す戸倉。
「日本に? うーん、実を言うと、真犯人が捕まったら、すぐに戻ってこいと言われて
るんだけれどな」
「馬鹿正直にその約束を守ってたら、彼女と会う時間がないな」
「だな」
「そもそも、窮地を救いに万難を排して帰国したってことを、星川さんはまだ知らない
んじゃないか」
「多分ね。弁護士先生も伝えてないだろうな」
「じゃ、やっぱり、会っていかねばなるまい。ついでに、向こうの家族にも」
 家族と言われ、あることにふっと合点がいった。星川さんと連絡が取れなくなったあ
と、自宅に電話してもつながらなかったのは、マスコミの電話攻勢に悩まされていたの
が原因なんだろうな。
「そうするよ。それに、できるだけ日本の星空を見ておきたい」
「星か。昔から好きだったんだよな」
 ライターを弄んでいた戸倉は、急に「あ」と叫んだかと思うと、こちらに勢いよく振
り向いた。
「な、何だ、どうした」
「重大なことに気が付いた。おまえと星川さんが結婚したら、どちらの姓を名乗るつも
りか知らないが――」
「ああ、そのこと。ずっと前から、とっくに気付いているよ」
 君津希美子であろうと、星川誉士夫であろうと、その程度のこと、気にならない。

――終




#511/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/11/28  22:59  (499)
カグライダンス(前)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:41 修正 第3版
 それは成人式を迎えたことを祝して行われたインタビューだった。もちろん、出演し
た新作映画の宣伝も兼ねていたけれども、名目は飽くまでも二十歳になったこと。ス
ポーツ新聞の芸能面におけるシリーズ企画で、加倉井舞美は三人目に選ばれた。前の二
人はアイドル歌手とバラエティアイドルで、女性が続いている。加倉井は女優代表の形
だ。ちなみに四人目以降は、グラビアアイドル、お笑い芸人、声優、作家……と予定さ
れている。
「子役でデビューして人気が出たあと、大人になってからも大成した人は少ないとされ
ているけれども、舞美ちゃんはその少ない方に入れそう?」
「え、本人に答えさせますか、その質問?」
 加倉井は困った表情を作って見せた。場所は新聞社の地下にある喫茶店の一角。白く
て正方形をしたテーブルの向こうにいるのは、カメラマンと女性記者。幸いと言ってい
いのか、記者の浦川(うらかわ)とは顔なじみで、関係は良好だ。
「自信があると答えたら生意気に映るし、ないと答えたらかわい子ぶってるとか軽く見
られる。どちらにしたって評価が下がりそう」
 マネージャー抜きのインタビューなので、余計な口出しが入らない分、自分の言葉の
みが反映される。普段以上によく考えて受け答えをしなければ。
「確かに。でもこちらとしては、難しい質問にも率直な答が欲しいわけ」
「じゃあ、評価は周りの人に委ねますってのもだめ?」
「だめではないけど、面白くない感じ」
「だったら……周りの皆さんの支えでここまで来られたのだから、今後も信じて進むだ
けです、ぐらいかな」
「おお、大人な回答ですなー」
 それ採用とばかりに、メモ書きに丸印を入れる浦川記者。インタビューの受け答え自
体は録音されているのだが、文章に起こすときの道標としてメモを取るのだという。
(ほんとにこんなインタビュー、面白くなるのかしら。そもそも、アイドル系の人達の
間に挟まれているのが、若干、不本意だし)
 内心では多少の不平を浮かべつつ、これもお仕事、そして宣伝のためと割り切って笑
顔で応じてきた加倉井。が、次の質問には、笑みがちょっと固まった。
「大人と言えば、大人になったのを記念して、こういう質問も解禁と聞いたから」
「何です?」
「ずばり、恋愛関係。好きな人はいるのか、これまで付き合った人はいるか等々」
「――子役からやっていると、付き合う暇なんて。芸能人の友達ばかり増えただけ」
「やっぱり。昔の雑誌のインタビューを見返したら、クラスの同級生と話が合わなくて
困る、みたいな受け答えしてたんですよね。あれって、噂では、同級生の男子がガキ過
ぎて話にならない、みたいな過激な答だったのを、マネージャーさんの要請で直したと
か」
「……小学生の頃の話ですから」
 思い出すと、小学生だったとは言え我ながら考えなしに喋っていたものだと、冷や汗
ものの反省しきりだ。
(あのときはマネージャーじゃなく、確かお母さんが言ったような記憶が。二人ともだ
ったかな?)
 妙に細かいことまで思い出してしまい、苦笑いを浮かべた加倉井。
「それじゃ質問を変えて、好きな男性のタイプは?」
「え?」
「聞いてなかった? 好きな男性のタイプ。具体的な名前は出さなくていいから。これ
くらいなら大丈夫でしょ」
「ああ、好きな男性のタイプ……。そんなこと考えて生活してないもんね。うーん、そ
う、細かいことに口うるさい人は嫌い。だからその逆。大雑把じゃなくて。器の大きな
人になるのかしら?」
「なるほどなるほど。舞美ちゃん自身は、仕事――ドラマや映画の撮影では細かいこと
に拘るみたいだけど」
「仕事では、ね。仕事だったら、細かいことを言うし、言われても全く平気。ただ、言
われるときは納得させて欲しいとは思います」
「昔、二時間サスペンスに出たとき、犯人ばればれの脚本にけち付けたんだって?」
「いやだ、十歳の頃の話ですよ。みんな正解が分かってるのに、そこを避けるようなス
トーリーに感じたから。真面目な話、小学四年にばればれって、問題あるでしょう」
「結局、どうなったの?」
「事務所の力もあって、穏便に済みました。あ、台本は少し直しが入ったかな」
 加倉井は話しながら、現在の事務所の状況に思いを馳せた。彼女の所属する事務所“
グローセベーア”は、分裂したばかりだった。企業組織として大きくなりすぎた影響が
出たのか、先代の社長が亡くなるや、その片腕として働いていた人の何名かが、方針に
異を唱え、所属タレントを引き連れて飛び出してしまった。契約上の問題は(お金のや
り取りもあって)クリアされている。問題なのは、飛び出した側の方が質量ともに上と
見られている点。人数面ではほぼ二分する形なのだが、会社に不満を抱いていた人の割
合はキャリアを重ねた人達に多かった。つまり、タレントならベテランで確実に仕事の
ある人、事務方なら仕事に慣れてしかも業界にコネのある人が大勢、出て行ってしまっ
た。無論、残った側が若手や無能ばかりということはないが、先代社長に気に入られて
いたおかげで、仕事がよりスムーズに回っていた者が多いのは事実だ。
(人気のある人はこちらにもいるから、勢力は五分五分。ただ、無用の争いが起きて、
仕事がやりにくくなる恐れはあり、か)
 マネージャーの言葉を思い出す加倉井。これまではテレビ番組やドラマ等で当たり前
のように共演していたのが、こうして事務所が別々になった結果、一緒に出られなくな
ることもあり得る。言い換えれば、起用に制約が掛かるわけだ。共演者のどちらを残す
かは、番組のプロデューサー次第。あるいはスポンサーの意向が働く場合もあろう。
(“ノットオンリー”……だったかしら、向こうの事務所名。元々は、能登(のと)さ
んと織部(おりべ)さんの二人だけで始めるつもりだったそうだけど、反主流派が尻馬
に乗った感じね)
 能登恭二(きょうじ)と織部鷹斗(たかと)はともに三十過ぎ。出て行ったタレント
の中では若い方だが、人気は絶頂と言ってもいい程に高い。アイドル歌手としてデビ
ューし、俳優として地位を固めた。人気のある分、仕事が先々まで決まっており、グ
ローセベーアをやめるに当たって一番揉めた二人と言える。そのあおりで、今期は露出
が減って、連続ドラマの出演記録も途切れていた。四月から巻き返すのは間違いない。
(能登さんとは共演せずじまい。織部さんとも、同じシーンに出たことはなかった)
 個人的には親しくもらっていたし、青臭い演技論を戦わせた末に、将来の共演を約束
したことすらあった。当分、もしかすると永遠に果たせないかもしれないが。
「じゃあ、共演したい人は誰? テレビ番組でもドラマ・映画でもいいけど」
 インタビューは続いていた。頭の中で考えていたこととシンクロしたせいで、つい、
能登と織部の名を挙げそうになったが、踏み止まる。
「外国の人でも?」
「それは……つまらない気がするから、NGにしましょう。ハリウッドスターの名前を
出されてもねえ」
「日本に限るなら、憧れ込みで、崎村智恵子(さきむらちえこ)さんと大庭樹一(おお
ばじゅいち)さん。同年代でキャリアも近い人なら、ナイジェル真貴田(まきた)君と
一緒にやってみたい。あとは……風谷美羽」
 大御所女優に渋いベテラン、売り出し中の日仏混血、そして。
「最後の人って、あんまり聞かないけれども……」
 浦川の顔には戸惑いが出ている。芸能畑ばかり歩んできた記者なら、知らなくても無
理はないかもしれない。名前を売るのに協力する義理はないので、四人目の名はカット
してもらっても結構ですと告げる。その上で説明する。
「ファッションモデルをメインに活動している子。演技はまだまだ下手。でも多分、何
でもできる子だから、早い内に私達のフィールドに引っ張り込みたい。他人にかまって
られる身分じゃないけれど、あの子に関しては別。引っ張り上げれば、面白くなりそう
な予感が凄くする。以上、オフレコでお願いします」
「えー?」
「私がちょっとでも誉めたと知ったら、彼女に悪い影響を与えると思ってるので。ごめ
んなさい」
「さっきのは誉めたというか、期待してるってニュアンスだったけど……ま、いいわ。
オフレコ、了解しました。引き続いて、出演してみたい監督を」
 来た来た。新作映画の監督名を真っ先に言わねばなるまい。

 インタビューを受けてから約二週間後。スポーツ紙に掲載されたのは、映画の公開前
日に合わせた形になっていた。しかも、事前に聞かされていたのと違って、一面の見出
しにまで使われるというおまけ付き。一面にあるとは思っていなかったので、他の芸能
面から読んでしまった。おかげで、多少縁のある俳優、パット・リーの軽いスキャンダ
ル記事が目にとまり、わずかに苦笑してしまった。
 ついでに、小学生時代の頃まで思い出して――。

            *             *


 小さな子供の頃から、自分は他の子とは違うという意識があった。
 早くから個人というものを意識していただけのことなのだが、周囲にはそれが傲慢に
映ったらしい。拍車を掛けたのは、彼女――加倉井舞美は勝ち気でこましゃくれてて、
そして美少女だった。何より、彼女が芸能人であることが大きな要因かもしれない。
「あら珍しい」
 六年五組の教室に前の戸口から入るなり、すぐ近くの席に座る木原優奈(きはらゆ
な)が呟いた。いや、聞こえよがしに言った、とする方が適切であろう。
「二日続けて、朝から登校なんて」
「そうね」
 聞き咎めた加倉井は、ついつい反応した。でも、冷静さはちゃんと残している。
「前に二日以上続けて来たのは、二週間前だから、珍しいと言えば珍しいわ」
 嫌味を含んだその言い種に対し、座ったまま、じろっと見上げてくる木原。加倉井は
一瞬だけ目を合わせたが、すぐに外し、自分の席に向かった。廊下側から数えて一列
目、最後尾が加倉井の席だ。後ろから入ってもいいのだが、木原を避けているように思
われたくないので、こうして前からに拘っている。
「ねえ、宿題見せて」
 自分の席に着くなり、加倉井は隣の男子に声を掛けた。
「分かった」
 田辺竜馬(たなべりょうま)はすんなり承知した。国語のプリントと算数のドリルを
出し、該当するページを開くと、重ねて加倉井の机の上に置いた。
「字がきれいで助かるわ」
 田辺の宿題を手に取った加倉井は、自らの宿題を出すことなく、まずは算数ドリルの
該当するページに目を通す。宿題を見せてもらうのは、自分がやっていないから書き写
そうという魂胆からではない。芸能活動をやっているとは言え、加倉井は学校の宿題は
きちんとやる質だ(時間の都合でどうしても無理なもの、たとえば植物の生長観察日記
なんかは除く)。少ない時間をやりくりして急ぎ気味にこなした宿題。その答が合って
いるかどうか、確かめておきたいのだ。
「言っとくけど、間違ってるかもしれないからな」
 田辺は横目で加倉井を見ながら言った。彼は副委員長で、小学六年生男子にしては身
体は大きい方である。勉強、体育ともにできる。図画工作や家庭科もまあまあだが、音
楽だけは今ひとつ。真面目な方で、クラス担任からの信頼は厚い。だからこそ、加倉井
のような芸能人の隣の席を宛がわれた。宿題を見せてと初めて頼んだときは、有無を言
わさず拒まれた。でも、理由を話すと、半信半疑ながら見せてくれるようになった。こ
のクラスになっておよそ三ヶ月になるが、現在では疑っていないようだ。
「はいはい」
 いつもの台詞を聞き流し、加倉井は記憶にある自分の出した答と照らし合わせてい
く。
 田辺も加倉井の答合わせにまで付き合う理由はないので、残り少ない朝の休み時間、
他の男子達とのお喋りに戻った。
「――うん?」
 自分の答と違うのを見付けてしまった。算数だから、正解は基本的に一つと言える。
少なくともどちらかが誤りだ。加倉井は計算過程を追い、さらに二度見三度見と確認を
重ねた。そうして結論に達する。
(計算ミスだ。私ではなく、彼の)
 計算の最後のところで、6×8が48ではなしに、46としてあった。
 実際のところ、再三の確認を経ずとも、途中でおかしいと気付いていた。これまで田
辺が算数でミスをすることはなかったため、念を入れたまで。
「た――」
 田辺君、ここ間違えていない?
 そう聞くつもりだったが、ふっと違和感を覚えて、口を閉ざした加倉井。再びドリル
に視線を落とし、むずむずと居心地の悪い、妙な感覚の正体を探る。
 やがて思い当たった。46の箇所だが、一度、消しゴムを掛けて改めて書いてあるよ
うなのだ。6の下、最初に書かれていた数字は、8と読めた。加倉井は口の中でぶつぶ
つ言いながら考えた。それからやおら国語のプリントに移った。
 ざっと見ただけでは分からなかったが、じきに気付いた。欄外に、不自然な落書きが
あった。文章題の本文のところどころに、鉛筆で薄く丸が付けてある。順に拾っていく
と、「貯 召 閉 照 五面」という並びだった。
(「ちょ しょう へい しょう ごめん」……じゃなくて、本文で使われている通り
の読みを当てはめると、貯めた、お召し、閉める、照り返し。五面はごめんのままで、
「ためしてごめん」か)
 おおよそのところを把握できた加倉井は、そのまま宿題のチェックを続けた。
 休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴ると同時にチェックも終了。ドリルとプリントを
返す段になって、田辺に言葉を掛けた。
「毎回、ありがと。あとで顔を貸してよね」
「え、な、何?」
「それと、算数の授業が始まるまでに、戻すのを忘れないように」

 二時間目は理科の実験があるため教室移動、三時間目は二コマ続けて隣の組との合同
体育で、休み時間は着替えに当てられた。だから田辺と話をするには、合同体育の合間
に設けられる休憩まで待たねばならない。と腹を据えた加倉井だったが、体育の授業
中、隙を見て?田辺の方から話し掛けてきた。授業内容は五十メートル走などの記録測
定で、暇ができたのだ。
「さっきのことだけど」
 体育座りをしてぽつんと一人いた加倉井の左横、一メートル弱の間隔を取って田辺が
座った。二人とも、前を向いたまま会話に入る。
「今やる? 事の次第によっちゃあ、ただで済まさないつもりなんだけど」
 周りに人がいたらやりにくいじゃないの、という意味で言った加倉井。
「てことは、やっぱり、ばれたか」
「私を相当なアホだと思ってる? げーのーじんだから」
 つい、田辺の方を振り向いた。田辺も気配を感じ取ったか、振り向いた上で、首を横
に素早く振った。
「いやいや、思ってないよ、全然。頭いいのはよく知ってる」
「だったら、何でわざと誤答を書いてたのよ、算数の七問目」
 前に向き直る。6×8を計算ミスすることはあり得ても、一旦、48と正解を出して
おきながら、それを46に書き直すなんてことはあり得ない。少なくとも、田辺くらい
普段から成績のいい者が。だからあの46はわざとである。加倉井はそう結論づけてい
た。
「そんなことを聞くからには、国語の方には気付いてないのかな」
 田辺の方はまだ加倉井を見たまま、呟くように言った。
「気付いたわよ。あんな分かり易い印に、分かり易い暗号」
 本文の読み通りに、続けて読むと「ためしてごめん」となる。
「何で試すような真似をしたのかってことが、聞きたいわけ。分かる?」
「それは……」
 途端に言いづらそうになる田辺の声。いらいらした加倉井は、先に予想を述べた。
「大方、私が本当に丸写ししていないか、確認したかったんでしょ? 間違いに気付か
ずに写して、恥をかけばいいと思った」
「ち、違う。疑ってなんかない」
 よっぽど焦ったか、田辺は体育座りの姿勢を崩し、右手を地面について、少しにじり
寄ってきた。
「じゃあ、どうして」
「うーん、誰にも言わないと約束してくれるなら」
「約束なんて無理。それでも、君には答える義務があるわよ、田辺クン」
 口ごもった田辺に、加倉井は追い打ちを掛ける。
「そもそも、条件を出せる立場じゃないわよね。わざと間違えた答を見せるなんて、普
通に考えて悪気があるとしか」
「……ある人から頼まれた。加倉井さんが宿題をちゃんとやって来ているかどうか、分
かるように嘘の答を混ぜろって」
「ある人って、誰よ」
「それは勘弁してよ」
「まったく。まさか、先生じゃないわよね。宿題を見せてもらっていること、知らない
はずだし。そうなると、クラスの誰か」
 言葉を切り、田辺の表情を見て反応を伺う。相手は何も言うまいと誓うかのように、
口をすぼめていた。
「さっき、田辺君は『ある人』って言った。対象が男子なら、そんな言い方はしないん
じゃない? そう考えると女子。君に指図してくるぐらいだから、結構親しい。なおか
つ、私にいい感情は持っていない……」
 すぐに浮かんだ名前が三つくらいある。ただ、今朝、いきなり突っかかってきた印象
が強いため、一人の名前がクロースアップされた。
「木原優奈でしょ?」
 大した理由なしにかまを掛けただけなのに、田辺の顔には動揺の色が意外とはっきり
浮かんだ。肯定のサインだ。
「返事はしない。読み取ってくれ」
 それだけ言うと、真っ直ぐ前を向く田辺。
「まるで脅されてるみたいよ」
「そんなことない。僕がいくら言っても聞き入れないから、証明のつもりで引き受け
た」
「? 何を」
「そ、それは」
 またたじろぐ田辺だったが、言い渋る内に走る順番が回ってきた。名前を呼ばれて、
急ぎ足で立ち去る彼を、加倉井はしばらく目で追った。
(これは逃げられたかな。でも気になるから、逃がさない。あとで聞こう。と言って
も、今日はこのあと、給食食べずに午後から早退なのよね。忘れないようにしなきゃ)

 子供の立場で言うのもおかしいかもしれないが、今、加倉井のメインの仕事は、子供
向けのドラマである。ゆる〜い探偵物で、タイトルは「ゲンのエビデンス」という。頼
りない大人の探偵ゲンを、助手の小学生二人が助けるのが基本パターン。加倉井はその
助手の一人だ。もう一人は男子で、香村綸という子が受け持っている。
「ねね、聞いたかい?」
 風が止むのを待つため撮影が中断したとき、香村が近寄ってきたかと思うと、唐突に
切り出した。
「何て?」
 風による葉擦れの音のせいで、加倉井は耳に片手を当てながら聞き返した。
「この番組、もうすぐ抜けるから、僕」
「ふうん。人気急上昇で仕事殺到、忙しいアピール?」
「そうそう」
 答えながら、へし口を作る香村綸。加倉井の反応の薄さが気に入らない様子だ。察し
た加倉井は、どうせ暇があるんだしと、しばらく付き合ってやることに。
「香村君が抜けると、大きな穴があくわね。誰か新しく入るのかしら」
「僕の抜けた穴を埋められる奴なんて、そういない……って言いたいけれど、もう決ま
ってるんだってさ。知らない名前だった」
「もう聞いてるんだ? 誰よ」
「だから、知らない名前だったから、印象に残ってなくってさ。えーと、確か……服部
みたいな名前」
「何なの、それ。服部みたいなってことは、服部ではないという意味?」
「うん。そうそう、外国人の血が混じってるんだっけ。だから片仮名」
「それを早く言いなさいよ」
 ため息をつきつつ考えてみると、じきに一人の名前が浮かんだ。
「まさか、パット・リーかしら」
 日英混血で、日本名は圭。加倉井達より一つか二つ年上で、英米及び香港での映画や
ドラマ出演多数。見た目はかわいらしい子役なのに、アクションをこなせるのと日本語
と英語、そして中国語(の一部)を話せるのが強みとなっているようだ。今年度下半期
辺りから活動の主軸を日本に移すとの芸能ニュースが、少し前に報じられた。
「そうだ、確かにパット・リーだった」
「香村君は知らないの、パット・リーを?」
「外国で何か出てるってのは知ってたけれども、大して意識してなかったから。日本に
来てライバルになるんだったら、これからはちゃんと覚えるさ」
 口ではそう説明するも、わざと知らなかったふりをしていた節が、どことなく感じら
れた。
「香村君の退場は、どんな脚本になるのかしらね。爆死か何かで壮絶に散るとか」
「子供番組なのに。まあ、そんな筋書きにしてくれたら、伝説になる可能性ありだか
ら、僕はかまわないけど。あ、でも、再登場がなくなるのは惜しい」
「あ、いい案を思い付いたわ。パットが演じる新入り助手に、こてんぱんにやっつけら
れるの。心も体も傷ついたあなたは、海外修行に旅立つ」
「踏み台かい。優秀さを認められて、海外支部に派遣の方がいい」
「そんな設定ないじゃない。探偵事務所の海外支部って、後付けしようにも無理ね」
 想像を膨らませて雑談を続けていると、撮影再開の声が掛かった。いつの間にか風が
収まっていた。

 川沿いの坂を香村がスケートボードで下るシーンの撮影中に、“お客”がやって来
た。黒縁眼鏡に帽子、白マスクと完全防備の訪問者は、パット・リーその人(とマネー
ジャーに、日本での所属先となる事務所の人)だった。予定にない参上に、撮影スタッ
フらの動きが慌ただしくなる。
 幸い、香村のシーンはちょうどOKが出たところだったので、撮影の邪魔にはならな
かったが、ぎりぎりのタイミングとも言える。香村がふくれ面になるのを、加倉井は見
逃さなかった。
「香村君、冷静に。抑えてちょうだい」
 本来、香村のマネージャー辺りがすべき役割だろうが、パット・リー登場に浮き足立
ったのか、姿が見当たらない。
「分かってるって」
「嫌味な口の利き方もなしよ。彼と一緒に仕事する私達のことも考えてね」
「分かった分かった。僕だって、一話か二話、共演する可能性残してるし」
 主役クラスの二人が離れたところでごにょごにょやってる内に、パットはマスクだけ
取った。この現場の責任者に挨拶を済ませる。
「見学に来ました」
 パットはイントネーションに若干の怪しさを残すも、流暢な日本語を使えるようだ。
にこやかな表情で、主なスタッフ数名と握手をしていく。
「主役の一人で探偵役は郷野寛之(ごうのひろゆき)さんなんですが、今日は来られて
ないので、助手役の二人を紹介します」
 監督自らの案内で、パットは加倉井達の前に来た。
「はじめまして。パット・リーです。見学に来ました。よろしくお願いします」
 予め決めてあったような口ぶりだったが、気持ちはこもっていた。さすが俳優と言う
べきなのかもしれない。
 近くまで来ると、パットの背の高さが分かった。二つほど年上なのだから、パット自
身が際立って高身長というわけでもないが、香村は小柄な方なので比較すれば差があ
る。一方、加倉井とは同じくらい。それでもパットの方がやや上か。
「舞美ちゃんにはまだ言ってなかったけど、十月から彼、パット・リーが出演者に加わ
るんだ」
 監督が簡単に説明する。加倉井は初耳のふりをして聞いておいた。最初に驚いてみ
せ、次に関心ありげにタイミングよくうなずく。
 実際、関心はある。眼前の混血俳優が、一体どういうつもりで、外国でのスターダム
路線を(一時的なのかずっとなのかは知らないが)外れ、日本の子供向けドラマに出て
みる気になったのか。
 と言っても、初対面かつ撮影中の現場では、突っ込んだ話はできまい。ここは大人し
くしておく。香村が暴走しそうだったら、手綱を引き締めなければいけないし。
 ところがパット・リーは西洋育ちのせいか、女性である加倉井に対してより関心と気
遣いを見せた。
「加倉井さん、あなたが出ている作品、これともう一つ『キッドナップキッド』を観ま
した。同じ人とは思えない、演じ分けていましたね」
「どうもありがとう。ほめ言葉として受け取ってもいい?」
「もちろんです。これなら自分もよい芝居ができると思いました」
「私も楽しみです」
 それからパット・リーの出演作で視聴済みの物を挙げようとしたのだが、香村が会話
に割って入ってきた。
「ねえねえ、リーさん。僕は?」
「香村君の出ている作品ももちろん観ました。勘のいい演技だと思いましたね。よくも
悪くも、香村綸という個性が際立っていますし」
 これもほめ言葉なのだろうか。微妙な言い回しだと受け取った加倉井だが、当の香村
は好意的に解釈したらしい。ふくれ面はどこへやら、にこにこしている。
(香村君は台詞覚えは早くて、言葉だけは知っていても、言葉の意味までは大して知ら
ないものねえ。もうちょっと勉強にも力を入れた方が)
 心中でアドバイスを送る加倉井。声に出して言ったことも何度となくあるのだが、改
まった様子はない。
「短い期間だけど、僕とも共演することになるだろうから、仲よくやろうよ」
 香村は右手を出し、握手を求めた。相手は年上だが、このドラマでは先輩だし、日本
国内でもしかり。そんな意識の表れなのか、香村の言動はフレンドリーを些か超えて、
上から目線の気が漂う。
 パット・リーは(まだ子供だけど)大人の対応を見せる。眼を細めて微笑を浮かべる
と、右手で握り返した。
「よろしくお願いします。センパイ」

 思わぬ見物人が来た撮影の翌日は、金曜日だった。今日は学校でフルに授業を受け、
土日はまた撮影に当てられる予定である。
 そして加倉井は、朝から少々憂鬱だった。また木原につっかかられるんだろうなとい
う覚悟に加え、前日の撮影の醜態に頭が痛い。撮り直しの連続で疲れた。と言っても、
撮影でミスをしたのは加倉井自身ではない。
(香村君、パットを知らないと言ってた癖に、意識しちゃって)
 思い出すだけでも、疲労感を覚える。
 パット・リーが見ていると力が入ったのか、香村は動作の一つ一つに文字通り力みが
出て、固くなっていた。台詞はやたらとアドリブを入れるし、声が必要以上に大きくな
る場面もしばしばあった。使えないレベルではないものの、これまで撮ってきた分との
差が明らかにあるため、リテイクせざるを得ない。
(番組を出て行くあなたが、意識過剰になってどうするのよ)
 心の中での言葉ではあるが、つい、香村と呼び捨てしたり、あんたと言いそうになっ
たりするのを堪える加倉井。心中の喋りは、実際のお喋りでも、ふっと出てしまいが
ち。そこを分かっているから、少なくとも同業者やスタッフの名前は、声にしないとき
でも丁寧さを心掛ける。そのせいでストレスが溜まるのかもしれないが。
「あ、来た」
 気が付くと、教室のドアのところまで来ていた。声の主は、木原優奈。加倉井がおか
しいわねと首を傾げたのは、その声がいつもと違っていたから。
(何だか弾んでいるように聞こえたけれど……さては、新しい悪口でも思い付いたのか
しら)
 警戒を強めた加倉井が立ち止まると、木原は席を離れ、近寄ってきた。これまたいつ
もと異なり、邪気に乏しい笑顔である。
「どうしたの? 入りなよ」
「……何か企んでいる眼だわ」
 隠してもしょうがない。感じたままをはっきり言った。
 指摘に対し、木原はより一層笑みを増した。
「やーね、企んでなんかいないって。ただ、お願いがあるんだけれどね」
 と言いながら、早くも手を拝み合わせるポーズの木原。加倉井は別の意味で、警戒し
た。相手のペースから脱するために、さっさと自分の席に向かう。
 木原は早足で着いてきた。
「聞くだけでもいいから、聞いてよ〜」
「はいはい聞いてます。早く座りたいだけよ」
 付け足した台詞が効いたのか、木原はしばし静かになった。席に収まり、机の上に一
時間目の準備を出し終えるまで、それは続いた。
「で? 何?」
「昨日までのことは忘れて、聞いて欲しいのだけれど」
「忘れるのは難しいけれども、聞く耳は持っているわ。とにかく言ってくれなきゃ、話
は進まないわよ」
「そ、それじゃ言うけど、加倉井さんは今度、あのパット・リーと共演するって本当
?」
 この質問だけで充分だった。
(情報解禁したのね。というか、私の耳に入るの遅すぎ。きっと、情報漏れを恐れてぎ
りぎりまで伏せておきたかったんでしょうから、別にかまわないけれど。それはさてお
き、この子ってば、パット・リーのファンだったのね。それも相当な)
 ぴんと来た加倉井は、どう対処するかを素早く計算した。「内定の段階ね。まだ本決
まりじゃないってこと」と答えた上で、相手の次の言葉を待つ。
「それじゃ、正式決定になった場合でいいから、パット・リーのサインをもらってきて
欲しいのですが」
 木原はその場でしゃがみ込み、手を小さく拝み合わせて言った。
 後半、急に丁寧語になったのがおかしくて、無表情を崩しそうになった。だが、そこ
は人気子役の意地で踏み止まる。
「私も一度会ったきりだから、何とも言えない」
 若干、冷たい口調で応じた。サインをもらってきて欲しいとお願いされるのは予想し
た通りだったが、これを安請け合いするのは避ける。今後、木原との関係を優位に運ぶ
には、ここは色よい返事をすべきかもしれないが、万が一、もらえなかったら元の木阿
弥。それどころかかえって悪化しかねない。
 しかし、そういった加倉井の思惑なんて関係なしに、木原は違う方向からの反応を示
す。
「え、もう、会ったことあるの?」
「それはまあ」
 向こうが勝手に見学に来ただけだが。
「いつ? どんな感じだった、彼?」
 加倉井の机の縁に両手を掛け、にじり寄る木原。このまま加倉井の手を取るか、さも
なくば二の腕を掴んで揺さぶってきそうな勢いだ。
「話すようなことはほとんどないけど」
「それでもいいから、聞かせて! ねえ」
 おいおいいつからこんなに親しくなったんだ、私達は。そう突っ込みを入れたくなる
ほど、木原はなれなれしく接してくる。
「分かったわ。話す。でも、その前に」
 両手のひらで壁を作り、距離を取るようにジェスチャーで示す。木原は一拍遅れて、
素直に従った。
「さっき言ってた忘れるどうこうだけど、やっぱり無理だから。けじめを付けたいの」
「わ、分かった。悪かったわ」
「ちょっと、ほんとにそれでいいの? 目先の利益に囚われてるんじゃないの」
 謝ろうとする木原をストップさせ、加倉井は問い質した。そのまま受け入れておけば
すんなり収まるのは分かっていても、性格上、難しい。
「じゃあ、どうしろって……」
「言いたいことがあるんじゃないの? もしそれが文句ならば、はっきり声に出して言
って」
 加倉井の圧を帯びた物言いに、木原の目が泳ぐ。明らかに戸惑っていた。どう反応す
るのがいいのか分からなくて、困っている。
「私は好き好んで喧嘩したいわけじゃないし、そっちも同じじゃないの? だったら―
―」
 チャイムが鳴って、加倉井の言葉は中断された。このまま続けても、相手の答まで聞
いている時間はないに違いない。一旦切り上げる。
「またあとでね」

 一時間目の授業で、先生から当てられた木原が答を間違えたのは、休み時間における
加倉井とのやり取りのせいかもしれない。二時間目以降もこんな調子ではたまらないと
考えたのかどうか、授業が終わるや、木原は加倉井の席までダッシュで来た。
「答をずっと考えてた」
 前置きなしに始めた木原。対する加倉井は、次の授業の準備を淡々と進める。
「悪口を言ってたのは、うらやましかったから。別に、加倉井さんが悪いっていうんじ
ゃないわ」
 木原は普段よりも小さめの声で言った。こんなことを認めるだけでも、一大決心だっ
たのだろう。加倉井はノートと教科書を立てて、机の上でとんとんと揃えた。そして聞
き返す。
「――それだけ?」
「……悪くはないけど、いらいらする。あんた、何を言っても、落ち着いてるから」
「それが嫌味で上から目線に見えたとでも?」
「そ、そうよ」
「分かったわ。できる限り、改める。できる限り、だけね。それと言っておくけど、私
だって悪く言われたら泣きたくなることあるし、わめき散らして怒りたいことだってあ
るわよ」
「……全然、見えない」
 それは私が演技指導を受けているから。言葉にして答えるつもりだった加倉井だが、
すんでのところでやめた。
 代わりに、それまでと打って変わっての笑顔をなしてみせる。勝ち誇るでも見下すで
もなく、嘲りやお追従とももちろん違う。心からの笑み――という演技。
「木原さんも知っての通り、パット・リーは日本語が上手よね」
「う、うん」
 急激な話題の転換に、ついて行けていない様子の木原。だが、パット・リーの名前を
認識して、じきに追い付いたようだ。その証拠に「決まってるじゃない。ハーフなんだ
し、日本で過ごしたこともあるんだから」と応じる。
(これで戻ったわね)
 加倉井は心中、満足感を得た。
「私が会ったときの彼、思ってた以上に日本語がうまかった。ニュアンスまで完璧に使
いこなしてたわ」

 日々過ぎること半月足らず、金曜の下校時間を迎えていた。
 加倉井が校門を出てしばらく行ったところで、斜め後ろからした「へー」という男子
の声に、ちょっとだけ意識が向いた。聞き覚えのある声だったが、呼び止められたわけ
ではないし、自分と関係のあることなのかも定かでない。結局、ペースを落とさずに、
さっさと進む。
「待って」
 さっきの声がまた聞こえた。加倉井を呼び止めようとしている可能性が出て来たけれ
ども、名前が入っていない。だから、相変わらず歩き続けた。すると、ランドセルのか
ちゃかちゃという音とともに、声の主が駆け足で迫ってくる気配が。
「待ってって言ってるのに」
 そう言う相手――田辺と、振り向きざまに目が合う。不意のことに急ブレーキを掛け
る田辺に対し、加倉井は前に向き直ると、そのまますたすた。
「私に用があるのなら、名前を呼びなさいよ」
 一応、そう付け加える。と、田辺が再度、駆け足で短い距離をダッシュ、横に並ん
だ。
「言っていいの?」
「……何で、だめだと思ってるわけ?」

――続




#512/598 ●長編    *** コメント #511 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/29  01:15  (500)
カグライダンス(後)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:56 修正 第4版
「外で名前を叫んだら、みんな気付いて、集まってくるんじゃあ……」
 なるほど。納得した。そこまでの人気や知名度はないと自覚している加倉井だが、田
辺の小学生なりの気遣いには感心したし、多少嬉しくもあった。
 しかし、感情の変化をおいそれと表に出しはしない。
「ばかなこと言わないで。私なんか、まだまだ」
「そうかぁ?」
「そうよ。名前で呼べるのは今の内だから、どんどん呼んで。人気が出たらやめてね」
 返事した加倉井は、田辺が目を丸くするのを視界に捉えた。
「何その反応は」
「びっくりした。そういう冗談、言うんだね」
「結構本気で言いました。さっき、『へー』っていうのが聞こえた気がするんだけど、
あれはどういう意味?」
「何だ、ちゃんと聞こえてるじゃん」
「だから、そっちが名前を呼ばないからだと」
「へーって言ったのは、歩いて帰るのが珍しいと思ったからで」
「私が? そんなに珍しがられるほど、久しぶりだったかしら」
「前がいつだったかなんて覚えてないけど、とにかく久しぶりだ」
「覚えていられたら、気色悪いわね」
「……加倉井さんのファンが聞いたら泣きそうなことを」
「そういう田辺君は、いつまで着いてくるつもりなのかしらね」
「えっ。ちょっと。忘れてるみたいだから言うけどさ、登校は同じ班だったろ」
 朝、登校時には地区ごとの子供らで列になって学校へ行く。正確を期すなら、同じ班
と言っても男女は別だが。
「通学路は同じ。つまり、ご近所」
「そうだったっけ……だったわね」
 さすがにこれは恥ずかしいと感じた。表情のコントロールができているのか自信がな
くなり、さっと背けた。頬に片手を宛がうと、熱を少し感じたので赤くなっているのか
もしれない。加倉井は思った。
「朝、登校するときはほとんど車だもんね。忘れられてもしょうがないか」
 田辺の方は、さして気にしていない風である。変わらぬ口調で、話を続けた。
「少し前にさ、加倉井さんと木原さんが長いこと話していたのを見たけれど、あれは何
だったの? 僕が木原さんの言うことを聞いて宿題に間違いを混ぜていたせいで、もっ
と仲が悪くなったんじゃないかって心配してたんだけど、そうでもなさそうだから、不
思議なんだよなー」
「あれは田辺君のしたことと、直接の関係はないわ。だから心配する必要なし。木原さ
んとの関係は……冷戦状態だったのが、お互い、物言えるようになった感じかしら。あ
る俳優さんのおかげだから、今後どうなるか知れたものじゃないけれど」
 パット・リーが参加しての撮影はすでに何度か経験していた。漠然と想像していたよ
りは、ずっと自己主張が少なく、与えられた役を与えられた通りにそつなくこなす、そ
んな印象を受けた。加倉井ともすぐに打ち解け、スタッフ間の評判もよい。加倉井は折
を見てサインを色紙にしてもらった。まだ木原に渡すつもりはない。当分の間、引っ張
ろう。
「それならいいんだけど」
「もしかして、木原さんから頼み事をされなくなって不満なの?」
「そ、それだけは絶対にない!」
 声だけでなく全身に力を込めて否定する田辺。加倉井はちょっとした思い付きを言っ
ただけなのに、ここまで大げさに反応されると、逆に勘繰りたくなる。ただ、他人の好
みを詮索する趣味は持ち合わせていないので、これ以上は聞かない。
 しかし、田辺にしてみれば、逆襲しないと気が済まない様子。
「そういう加倉井さんは、学校の友達付き合いあんまりないし、誰某が嫌いっていうの
はあっても、好きっていうのはないんじゃないのか。仕事場に行けば、年上の二枚目が
いくらでもいるんだろうしさ」
「うーん、確かにそうだけどさ。芸能界にも好きな人はいないかな。憧れるっていう
か、尊敬する人なら一杯いても、田辺君が言うような意味での好きな人はいないな、う
ん」
 一応、本心を答えている加倉井だが、恥ずかしい思いがわき上がってくるので、喋り
は若干、芝居がかっていた。

 そのシーンに関して言えば、加倉井は台本に目を通した時点で、少しだけ消極的な気
持ちになった。
 加倉井が演じる笹木咲良(ささきさら)は、パット・リー演じる新加入の探偵助手、
服部忍(はっとりしのぶ)といまいち反りが合わず、ぎくしゃくが続いていたところ
へ、服部のふと漏らしたジョークにより、咲良が彼を平手打ちする――という、いかに
もありそうな場面展開なのだが。
(叩くのは気にならない。でも、これがオンエアされたあとの木原さんの反応を想像す
ると、ちょっと嫌な感じがするわ)
 幸か不幸か、パットは本気で平手打ちされても一向にかまわない、むしろ手加減せず
に来いというスタンス。もちろん、彼自らも頭を逆方向に振って、ダメージを逃がす
し、叩く音はあとで別に入れるのだが。
「でも、手首の硬いところはくらくらするから、ちゃんと手のひらでお願いします」
 笑いながら言う。リハーサルを繰り返す内に、加倉井も芝居に入り込む。一発、ひっ
ぱたいてやりたいという気分になってきた。そして本番。
『取り消して!』
 叫ぶと同時に右手を振りかぶり、水平方向にスイング。ほぼ同じ背の高さだから、姿
勢に無理は生じない。だけど、パットが首を動かすのが若干、早かった。相手の頬を、
指先が触れるか触れないかぐらいのところで、加倉井の右手は空を切った。
 派手に空振りして、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 よろめいた加倉井を、パットが両腕で受け止める。そしてしっかり立たせてから、
「大丈夫でした? ごめんなさい。早すぎました」と軽く頭を垂れる。その低姿勢ぶり
に、加倉井もつい、「私も遅かったかもしれません」と応じてしまった。両者がそれぞ
れミスの原因は自分にあると思ったままでは、次の成功もおぼつかない。
「いや、やはり、僕が早かった。大変な迫力で迫ってきたので、身体が勝手に逃げてし
まったんですよ」
 パットは冗談めかして言いながら、首を振るさまを再現してみせた。結局、パットの
動き出しが早かったということになり、再トライ。
『取り消して!』
 ――ぱしっ。
 今度はうまく行った。それどころか、加倉井には手応えさえあった。事実、音もかな
りきれいに出たように思う。もちろん、そんな心の動きを表に出すことはしない。即座
に監督からOKをもらえた。
 演技を止め、表情を緩める。そして目の前のパットに聞く加倉井。
「痛くなかったですか」
「平気。痛かったけど」
 オーバーアクションなのかどうか知らないが、彼の手は左頬をさすっている。その指
の間から覗き見える肌の色は、確かに赤っぽいようだ。
「今後、気を付けますね」
「それはありがたくも助かります。ついでに、このドラマで二度も三度も叩かれるの
は、勘弁して欲しいです」
 台詞の後半に差し掛かる頃には、彼の目は監督ら撮影スタッフに向いていた。

 明けて日曜。早朝からの撮影では、仲直りのシーンが収録されることになっていた。
 事件解決を通じて格闘術の技量不足を痛感した笹木咲良(加倉井)が、服部に教えを
請い、実際に指導を受けるという流れである。
 朝日を正面に、河川敷のコンクリで座禅する服部。衣装は香港アクションスターを連
想させる黄色と黒のつなぎ。その背後から近付く咲良。こちらは小学校の体操服姿。足
音を立てぬよう、静かに近付いたまではよかったが、声を掛けるタイミングが見付から
ない。と、そのとき、服部が声を発する。まるで背後にも眼があるかの如く、『何の用
ですか、咲良?』と。
 これをきっかけに、咲良は服部に頭を下げて、格闘術を教わる。そこから徐々にフ
ェードアウトする、というのが今回のエピソードのラスト。
 殺陣というほどではないが、格闘技の動きは前日とつい先程、簡単に指導を受けてい
る。リハーサルも問題なく済んだ。あとは、日の出に合わせての一発勝負だ。
『何の用ですか、咲良?』
 名を呼ばれたことにしばし驚くも、気を取り直した風に首を横に小さく振り、咲良は
会話に応じる。そして本心を伝えると、服部は迷う素振りを見せるも、あっさり快諾。
『実力を測るから掛かってきなさい』という台詞とともに、咲良に向けて右腕を伸ば
し、手のひらを上に。親指を除く四本の指をくいくいと曲げ、挑発のポーズ。
 咲良を演じる加倉井は、飽くまで礼儀正しく、一礼した後に攻撃開始。突きや蹴りを
連続して繰り出すも、ことごとくかわされ、二度ほど手首を掴まれ投げられる。最後
に、左腕の手首と肘を決められ、組み伏せられそうなところへさらに膝蹴りをもらうと
いう段取りに差し掛かる。当然、型なのだからほとんど痛みはないはずだったが、組み
伏せられる直前に、パットの右肘が胸に当たってしまった。
「うっ」
 ただ単に胸に当たっただけなら、気にしない。強さも大してなかった。だが、このと
きのパットの肘は、加倉井のみぞおちにヒットしたからたまらない。暫時、息ができな
い状態に陥り、演技を続けられそうになくなる。パットは気付いていないらしく、その
まま続ける。台本通り、組み伏せられた。元々、あとはされるがままなのだから、一
見、無事にやり通したように見えただろう。しかし、カットの声が掛かっても、加倉井
は起き上がれなかった。声が出ない。代わりに、涙がにじんできた。
 女性スタッフの一人がやっと異変に気付いて、駆け寄ってきた。場を離れてタオルを
受け取ろうとしていたパット・リーも、すぐさま引き返してきた。
「大丈夫ですか? どこかみぞおちに入りましたか?」
 答えようにも、まだ声が出せない。頷くことで返事とする。そこへ、遅ればせながら
マネージャーが飛んできて、事態を把握するや、加倉井を横にして休ませるよう、そし
てそのために広くて平らかで柔らかい場所に移動するよう、周りの者にお願いをした―
―否、指示を出した。大げさに騒ぎ立てるなんて真似は、決してしない。
「アクシデントでみぞおちに入ってしまったみたいですが、後々揉めることのないよ
う、診察を受けてもらった方がいいかと」
「そうさせていただきます」
 仰向けに横たえられ、普段通りの呼吸を取り戻しつつある加倉井の頭上で、そんなや
り取りが交わされていた。
(当人が具体的に何も言ってないのに、どんどん進めるのはどうかと思う。けど、妥当
な判断だし、ここは大人しくしておくとするわ。第一――)
 加倉井は自分の傍らにしゃがみ込むパット・リーを見上げた。左手を両手で取り、ず
っと握っている。表情はさも心配げに目尻が下がり、眉間には皺が寄る。
(こうも親切さを見せられたら、受け入れとくしかないじゃない)

 幸い、診察結果は何ともなかった。薄い痣すらできていなかった。
 くだんの「ゲンのエビデンス」がオンエアされたのは、それからさらにひと月あまり
が経った頃。前回で香村綸は去り、パットが物語に本格的に関わり始め、加倉井と衝突
するエピソードである。
 その放送が終わって最初の学校。加倉井は午前中最後の授業からの出席になった。昼
休みに待ち構えているであろう、木原優奈らからの質問攻め――恐らくは非難を含んだ
――を思うと、授業にあまり集中できなかった。
 ちょうど給食当番だった加倉井は、おかずの配膳係をしているときも、何か言われる
んじゃないかしら、面倒臭いわねと、いささか憂鬱になっていた。ところが、木原にお
かずの器を渡したとき、相手からは特に怒ってる気配は感じられなかった。どちらかと
言えば、にこにこしている。
「あとでパットのこと、聞かせてちょうだいね」
 木原からそう言われ、マスクを付けた加倉井は黙って頷いた。
 給食が始まると、加倉井がまだ半分も食べない内に、木原はいつもより明らかに早食
いで済ませると、席の隣までやって来た。そして開口一番、言うことが奮っている。
「もう洗っちゃったわよね、右手」
「は?」
 いきなり、意味不明の質問をされて、さしもの加倉井も素で聞き返した。
「パットの頬に触れたあと、右手を全然洗っていないなんてことは、ないわよね」
 理解した。
「残念ながら、洗ったわ」
 どういった機会に洗ったかまでは言わなくていいだろう。木原はさほどがっかりした
様子は見せなかったが、視線が加倉井の右手の動きをずっと追っているようで、何とは
なしにコワい。
 その後も食べながら、問われるがままに答えられる範囲で答える加倉井。木原の質問
のペースが速いため、加倉井の食べるペースは反比例して遅くなる。その内、他のクラ
スメートもぽつぽつと集まってきた。もちろん、女子がほとんど。やがて彼女らの間で
論争が勃発した。
「香村綸もよかったけど、パット・リーも案外、早く馴染みそう」
「私はカムリンの方がいいと思うんだけど」
「断然、パット! カムリンは小さい」
「これから伸びるって!」
 おかげでようやく給食を終えることができた。加倉井は食器とお盆を返し、ついでに
給食室までおかずの胴鍋を運んだ。教室に戻って来ると、論争は終わりかけていたよう
だ。香村派らしき女子が、加倉井に聞いてくる。
「カムリンが降板したのって、何か理由があるの?」
「具体的には聞いていないわ。人気が出て他の仕事が忙しくなったみたいよ」
「ほら、やっぱり。カムリンは“卒業”。下手だから降ろされたんじゃないわ」
「途中で抜けるのは無責任だわ」
 終わりそうだった論争に、また火を着けてしまったらしい。加倉井はため息を密かに
つき、机の中を探った。次の準備をしようとするところへ、男子の声が。田辺だ。
「僕からも聞いていい?」
「遠慮なくどうぞ」
 何でわざわざ確認をするのと訝しがりつつ、加倉井は相手に目を合わせた。
「最後のシーン、遠くからで分かりにくかったけど、ほんとに倒れてなかった?」
「――ええ、まあ」
 「ほんと」のニュアンスを掴みかねたが、とりあえずそう答えておく。
 普段、自分の出演した作品のオンエアを見ることはほとんどしない加倉井だが、この
回の「ゲンのエビデンス」は別だった。ラストの乱取りが、どんな風に編集されたの
か、多少気になったから。
 田辺の言ったように、そして当初の台本通り、加倉井が組み伏せられた遠くからの
シーンでエンドマークを打たれていた。大画面のテレビならば、加倉井がみぞおちへの
ダメージで、膝蹴りを食らう前にがくっと崩れ落ちる様子が分かるだろう。
「じゃあ、ミスったんだね、どちらかが」
 田辺の使った「ほんと」が、「本当に強く攻撃が入った」という意味だとはっきりし
た。加倉井は頭の中で返事を瞬時に検討した。
(肘は予定になかった。だから、ミスは私じゃない。でも今この雰囲気の中、真実を話
すのは、恐らくマイナス。かといって、私一人が責任を被るのも納得いかない)
「ミスがあったのは当たりだけれども、どちらかがじゃなくて、二人ともよ。何パター
ンか撮ったのだけれど、あまりにバリエーションが豊富で、私もパット・リーも段取り
がごちゃごちゃになってしまった。だからあのラストシーンは、厳密にはNGなの。で
も、見てみると使えると判断したんでしょうね、監督さん達が」
 と、こういうことにしておく。すると、女子同士で言い争いが再び始まった。
「カムリンが相手だったら、そんなミスはしなかったのに」
「それ以前の問題よ。香村綸に、パットのような動きは絶対無理!」
「そうよね。身長が違うし」
「関係ないでしょ!」
 耳を塞ぎたくなった加倉井だが、我慢してそのまま聞き流す。平常心に努める。
「それで加倉井さん、大丈夫だったのかい?」
 田辺が聞いてきた。心配してくれたのは、彼一人のようだ。加倉井はまた返事をしば
し考えた。あのときを思い起こすかのように一旦天井を見上げ、次いで胸元を押さえな
がら、俯いた。そうしてゆっくり口を開く。
「物凄く痛かった。息が詰まって涙が出るくらい」
「え、それは」
 おろおろする気配が田辺の声に滲んだところで、加倉井は芝居をやめた。満面の笑み
を田辺に向ける。
「心配した? ほんの一時だけよ。念のため、病院に行って、ちゃんとお墨付きをもら
ったから」
「何だ。脅かしっこなし」
「だいたい、撮影はだいぶ前よ。一ヶ月あれば、少々の怪我なら治るわ」
「ふん、そんなこと知らねーもん」
 小馬鹿にされたとでも思ったのか、田辺は踵を返して、彼の席に戻ってしまった。
(あらら。心配してくれてありがとうの一言を付け足すつもりだったのに、タイミング
を逃しちゃったじゃないの)

 次の日の学校で、加倉井はある噂話を耳にした。
 パット・リーはアクション、特に武術の動きが得意とされている割に、撮影中の軽い
アクシデントが結構ある、というものだ。話をしていたのは当然、香村綸ファンの女子
達である。昨日、下校してからパットの粗探しに時間を費やしたと見られる。
「アクシデントと言ったって、たいしたことないじゃない」
 パット派の女子も負けていない。攻撃材料がないため、否定に徹する格好だが、勢い
がある。
「今よりも子供の頃の話だし、ある程度はしょうがないわよ」
「付け焼き刃の腕前でやるから、こんなに事故が多いんじゃないの」
「大げさなんだから。怪我をしたりさせたりってわけじゃないし、ニュースにだってな
ってない」
「それはプロダクションの力で、押さえ込んでるとか。ねえ、加倉井さん?」
 予想通り、飛び火してきた。加倉井は間を置くことなしに、正確なところを答える。
「少なくとも、前の撮影で、パット・リーの側から圧力や口止めはなかったわよ。みん
な、妄想しすぎ」
「ほら見なさい」
 パット派がカムリン派を押し戻す。休み時間よ早く終われと、加倉井は祈った。
「でもでも、パット・リーのキャリアで、三回もあるのは異常よ、やっぱり」
 作品名や制作年、アクシデント内容の載った一覧を示しながら、カムリン派の一人が
疑問を呈する。
(なるほどね。小さい頃から始めたとしたって、アクション専門じゃないんだし、周り
も無理はさせないだろうから、三回は多い。ううん、私の分も含めれば、四回)
 少し、引っ掛かりを覚えた。加倉井は、パット派の代表的存在である木原が反駁する
のを制しつつ、最前のリストを見せてもらった。
(全部じゃないけど、二つは観ている。……ううん、似たような内容が他にも多いから
ごちゃ混ぜになって、はっきり覚えてないわ。でも、この二作品て確かどちらも)
 記憶を手繰ると、徐々に思い出してきた。一方はカンフーマスターを目指す少年の役
で、劇中、しごかれまくっていた。もう一方では、学園ラブコメで、二枚目だが女子の
扱いが下手でやたらと平手打ちされたり、教師から怒られる役。
(もしかすると)
 加倉井はあることを想像し、打ち消した。パット・リーはまだ若いとは言え、国際的
に活躍しようかという人気俳優だ。いくら何でも想像したようなことがあるはずない。
(……と思いたいんだけど、私より年上でも、子供には違いない)
 完全には払拭できなかった。加倉井はリストを返して礼を言うと、どうすれば確かめ
られるかを考え始めた。が、程なくして木原の声に邪魔された。
「ねえ、加倉井さんはどっちが相手役としてやりやすいのよ?」
 まだ火の粉は飛んでいるようだ。

「見学に来ているあの人は、何者ですか」
 休憩に入るや、パットが聞いてきた。加倉井の肩をかすめるようにして投げ掛ける視
線の先には、その見学者が立っている。やや細身の中背で、歳は四十代半ば辺りに見え
よう。本日はスタジオ撮影なのだが、この中にいる誰とも異質な空気を放っている。
「加倉井さんと親しく話していたようですから、お知り合いなんでしょう?」
「親しいとまでは言えませんが、知り合いです。私のプロダクションの先輩が、コマー
シャルで共演したことがあるんです」
 答えながら、振り返って見学者の方を向いた加倉井。
「役者やタレントではなくて、格闘技の指導者なの」
「道理で。よい体付きをしていると思っていました」
 格闘技と聞き、パットの目が輝いたよう。加倉井は気付かぬふりをして続けた。
「私は全然詳しくないけれども、空手とキックボクシングの経歴があって、ストライク
という大会でチャンピオンになったこともあるって」
「凄い。その大会、知っています。名前も知っているかもしれない。映像や写真がほと
んどなく、あまり自信ありませんが……藤村忠雄(ふじむらただお)選手では?」
「あら、本当に知ってるなんて。だいぶ前に引退されたから、選手と呼ぶのは間違いか
もしれないですけど」
「武道、武術をやる人間に、引退はありませんよ。生涯現役に違いありません」
「パット、とっても嬉しそう。紹介しましょうか」
「ぜひ」
 休憩の残り時間が気になったが、加倉井はパットを藤村の前に連れて行った。紹介を
するまでもなく、藤村はパットについて既に聞いていた。
「突然、お邪魔して申し訳ない。気になるようなら、姿を消します」
「いえいえ、とんでもない」
 パットは即座に否定した。そして自分が格闘技をやっていること、それを演技に活か
していることなどを盛んにアピール?する。藤村の方も承知のことだったらしく、「今
日はアクションシーンがないとのことで、残念だな」なんて応じていた。
「藤村さんは、どうして見学に? コマーシャルの続編が決まったとしても、ここへ来
るのはおかしい気がするんですけど」
 加倉井が問うと、藤村は首を曖昧に振った。
「いや、コマーシャルじゃないよ。敵役で出てみないかって、お誘いを受けてね。子供
向け番組と聞いたけど、チャレンジすることは好きだから、前向きに考えてるんだ」
「じゃあ、決定したら、私達と藤村さんが戦うんですね?」
「多分ね。ああ、喋る芝居は苦手だから、台詞のない役柄にしてもらわないといけな
い。コマーシャルで懲りたよ」
 藤村出演の精肉メーカーのテレビCMは、素人丸出しの棒読みで一時有名になった。
思い出して苦笑いする藤村の横に、監督と番組プロデューサーらが立った。
「藤村さん、もしよろしかったら、パット君と軽く手合わせしてみるのはどうです? 
無論、型だけですが」
 プロデューサーが唐突に提案した。いや、藤村忠雄のドラマ出演が頭にあるのだった
ら、当然の提案なのかもしれないが。
「僕はかまいません」
「僕もです」
 藤村が受ける返事に、食い込み気味に答を被せるパット。
「ただ、スペースが見当たらないようですが」
「そんなに派手に動き回らなくても、その場でか〜るく。段取りを詳細に決める暇はさ
すがにありませんから、際限のない場所でやると、危険度が高くなるのでは」
「それもそうです。パット君はそれでもかまわないかな」
「もちろんですとも。型で手合わせ願えるだけで、充分すぎるほど幸福なくらいですか
ら」
 パットの日本語は表現が過剰になって、少々おかしくなったようだ。結局、スタジオ
の隅っこに約四メートル四方の空きスペースを見付け、そこで試し合うことになった。
 身長もリーチも藤村が上回るが、大差はない。演舞なら、二人の体格が近ければ美し
いものに、体格差が大きければ派手なものに仕上がりやすいだろう。しかし今からやる
のは、ほぼぶっつけ本番のアクション。どうなるかは、事前の簡単で短い打ち合わせ
を、どれだけ忠実に実行できるかに掛かってくる。
「トレーニングは欠かしていないが、寄る年波で動き自体は鈍くなってると思うので、
スピードは君から合わせてくれるとありがたい」
「了解しました。あ、それと、もしドラマ出演が決まったら、最終的には僕らが勝つ台
本でしょうから、今日は藤村さんが勝つパターンでいかがでしょう」
「花を持たせてくれるということかい」
 往年の大選手を相手に、舐めた発言をしたとも受け取れる。藤村はしかし、パットの
提案を笑って受け入れた。
 他にも色々と取り決めたあと、互いの突きや蹴りのスピード及び間合いを予習してお
く目的で、それぞれが数回ずつ、パンチとキックを繰り出し、空を切った。
 そして二人は無言のまま、合図を待つことなく、急に始まった。
 仕掛けたのはパット。カンフーの使い手、それもムービースターのカンフーをイメー
ジしているらしく、大げさな動作と奇声から助走を付けての跳び蹴りで先制攻撃。かわ
す藤村は、キックボクサーのステップだったが、距離を取ってからは空手家のようにど
っしり構える。パットが向き直ったところへ一気に距離を詰め、胴体目掛けて突きを四
連続で放つ。もちろん、実際にはごく軽く当てているだけのはずだが、迫力があった。
よろめきながら離れたパットは、口元を拭う動作を入れ、態勢を整えると、身体を沈め
片足を伸ばした。かと思うと相手の下に潜り込むスライディング。一度、二度とかわす
も、三度目で足払いを受け、今度は藤村がよろめく。姿勢を戻せない内に、パットが突
きの連打。藤村のそれよりは軽いが、その分、数が多い。バランスを一層崩した藤村
は、倒れそうな仕種に紛れて前蹴り一閃。パットは寸前で避け、バク転を披露。再び立
ったところへ、藤村がバックスピンキック。
 と、ここでパットが一歩踏み出したせいで、藤村との間合いが詰まった。藤村の蹴り
足をパットが抱え込むような形になり、もつれて二人とも倒れてしまった。上になった
パットが突きを落とすポーズを一度して、離れる。
 改めて距離を作った二人は、アイコンタクトと手の指を使って、もう一回同じことを
するか?という確認を取った。再開後、藤村のバックスピンを、今度はパットも巧く当
たりに行き、派手に倒れてみせた。素早く起き上がった藤村が、先程のパットのよう
に、振り下ろす突きを喉元に当てて――実際は素早く触れるだけ――、アクション終了
となった。
 周りで見ていた者は皆一斉に拍手した。感嘆の声もこぼれている。
「パット君、やるねえ。演技だけに使うのは惜しいくらいだ」
「いえいえ。藤村さんに引っ張っていただいたからこそ、動けたんです」
「こちらこそ、久々だったから疲れたよ」
「まさかそんな。現役を離れているとは信じられないくらい、きれがあって、驚きまし
た。当たり前ですが、プロは違いますね」
 パットは爽やかに笑いながら、藤村の両手を取って、深々と頭を下げていた。

 藤村忠雄が去ったあと、撮影は再スタートした。パットは興奮が残っていたか、しば
らくは何度か撮り直しになったが、しばらくするとそれもなくなった。
 結果的に、予定されていたスケジュール通りに撮影を消化し、この日は終わった。
「パット。お話しする時間ある? 少しでいいんだけど」
 加倉井は控室に戻る前にパットに声を掛け、約束を取り付けた。着替えが終わってか
ら、スタジオの待合室で話す時間を作ってもらった。
「お待たせしました。すみません」
 撮影を通じて仲がよくなり、フランクに話せる間柄にはなっていた。とは言え、キャ
リアが上の相手を、こちらの用事で足止めしておいて、あとから来たのでは申し訳な
い。加倉井は頭を下げた。
「いいよ、気にしなくて。女性の方が身だしなみに時間が掛かるのは、当然だからね」
 パットは近くの椅子に座るよう、加倉井を促した。それに従い、すぐ隣の椅子に腰を
据える加倉井。
「それで話は何かな」
「率直に物申しますけど、怒らないでくださいね」
「うん? 断る必要なんてない。仕事に関することで正当な指摘や要望なら、僕は受け
入れる度量を持っているよ」
 若干の緊張を顔に浮かべながらも、微笑するパット。加倉井は彼の目を見つめた。
「それじゃ言います。パットって、負けず嫌いなところ、あるよね」
「まあ、程度の差はあっても、男なら負けず嫌いな面は持ってるんじゃないかな」
「男に限らないわ。私も負けず嫌いですから」
「ふうん?」
「前から、ちょっと引っ掛かってたことがあって。今日、藤村さんから意見を伺って、
確信に近いものを得たわ。パット、この前の肘がみぞおちに入ったのって、わざとでし
ょ?」
「……どうしてそう思うんだい」
 ほんの一瞬、面食らった風に目を見開いたパット。すぐ笑顔に戻り、聞き返す。
「あなたほどできる人なら、肘が相手に当たったなら、分かるはずよ。なのに、問題の
撮影の際、あなたは倒れた私に『どこかみぞおちに入りましたか』と言った。肘と分か
っていないなんておかしいと思ったのは、あとになってからだけれどね」
「確かに、当たったのが肘だったのは分かっていたよ。でも、わざとじゃない。あのと
き気が動転して、肘と膝、どっちがエルボーだったかを度忘れしちゃって、それで『ど
こか』なんて言っちゃったんだよ」
「動転した? その割には、同じことを繰り返しやっているみたいだけれども」
 加倉井は胸元のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。長机の上に広げて
みせる。そこには、パット・リーがアクションシーンの撮影で起こしたアクシデント三
件について、その詳細が書かれていた。
「これは……」
「日本語、どこまで読めるのか知らないから、こっちでざっと説明すると……まず、こ
の作品では師匠役の男優のお腹に肘を入れてるわね。次は作中でも芸能界でもライバル
である男優に、台本にない中段蹴りと肘を入れている。三つ目は、鬼教師役の男優に、
また肘」
「……こんな細かいことは表に出ないよう、伏せさせたはずなんだけどな」
「パットは日本の事情に詳しくないでしょうけど、私の所属するところは大手の一つ
で、それなりに力があるのよ。調べれば、ある程度のことは分かる」
「それは知らなかった。油断してたよ」
 力が抜けたように口元で笑うと、パットは座ったまま、大きく伸びをした。
「認めるのね?」
「うん、まあ、証拠はないけど、認めざるを得ない。今後、撮影を続けるにはそうしな
いと無理だろうし」
「どうしてこんなことをしてきたのか、聞かせてもらえる?」
「……あの、答える前に、他言無用を約束して欲しいんだけど、無理かな」
 パットは両手を組み合わせ、拝むように懇願してきた。加倉井は考えるふりをして、
焦らしてから承知の意を示した。
「私だって、このドラマの撮影は最後まできちんとやりたいもの。それで、理由は?」
「実は僕は元々、プロ格闘家志望でさ。そのためにトレーニングしていたのを、親が何
を勘違いしたのか、芸能のオーディションに応募しちゃって、とんとん拍子に合格しち
ゃって、芸能界に入っちゃった。名前を売ってからプロ格闘家デビューすれば格好いい
とか言われてね。でも、自分で言うのもあれだけど、顔がいいのとアクションができる
だけで、演技は平凡でも人気が出てさ。いつのまにかプロ格闘家の道はなかったことに
されてた」
「自慢はたくさん。早く続きを」
「それで……撮影でアクションシーン、特に格闘技を交えたアクションがある度に、本
当だったらこんな奴らには負けないのに、とか、この中で一番強いのは自分なんだぞっ
ていう気持ちが膨らんでね。時々、実力を示したくて溜まらなくなるんだ。あ、今日の
藤村さんは強いね。ちょっと仕掛けてみたけれど、簡単に流された。そのあとで、しっ
かり喉にぎゅっと力を入れられたし」
 パットの答を聞きながら、加倉井は、ああ最後のやり取りって二人の間ではそういう
ことが行われていたんだ、と理解した。
「実力を示すと言ったわね。女の私にまで? 以前の三回にしても、相手は演技のみで
実際は素人同然でしょうに」
「そこは自尊心の沸点に触れるようなことがあったから、と言えばいいのかなあ」
 パットが自尊心なんて言葉を使うものだから、どんなことがあったかしらと自分のパ
ットに対する言動を顧みる加倉井。が、特に思い当たる節はない。
「激しく投げられたり、平手打ちされたりしたら、抑えがたまに効かなくなるんだ。だ
から、加倉井さんの場合は、平手打ちが痛かったから、よしここで知らしめねばと考え
てしまったんだよ」
「……それだけ?」
「うん、他には何もない」
 当たり前のように答えるパット。理解してもらえて当然といった体だ。
(ちっちゃ! 呆れた。年上なのに、なんで子供なの)
 非難する言葉を一度に大量に思い付いた加倉井。引きつりそうな笑顔の下で、どうに
かこうにか飲み込んでおく。
(これから芸能活動を続けるのに、そんな性格だといずれ絶対に衝突が起きて、うまく
行かなくなるわ。分かって言ってるのかしら? もっと精神的にも成長して、器の大き
な人にならないと。――私の知ったことではないけれども)
 加倉井は若いアクションスターに何とも言えない視線を向けるのだった。

            *             *

 思い出にまた微苦笑を浮かべていた自分に気付き、加倉井舞美は我に返った。
(器の大きな人になれてないのね、パットは)
 パット・リーに関する記事は読まずに、自分の記事を探す。そして一面にやっと辿り
着いた次第。
「えっ」
 一面とはその新聞の顔。トップの扱いを受けたとなると、普通なら喜びそうなものだ
が、今回は事情が全く異なったのである。
「何よこれはっ」
 だから、加倉井は問題の新聞を左右に引っ張った。破ける寸前で、マネージャーが止
めに入る。マネージャーは一足先に、一面に目を通したようだ。
「だめよ。抑えて抑えて」
「……新聞紙が案外丈夫なことを確かめられたわ」
 皺のよった新聞を近くのテーブルに放り出し、マネージャーに向き直る。事務所の一
室だから、人目を気にする必要はない。それ以前に、ビルのワンフロア全てがグローセ
ベーアなので、部外者は基本的にはいない。
「でも、これは怒って当然よね?」
「気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 ネット上のサイト閲覧で済まさず、わざわざ紙媒体を購入してきたのには理由があ
る。スポーツ紙の見出しは、スタンドに挿した状態では、次のような言葉が目立つよう
に文字が配されていた。
『加倉井舞美 好き 男性器 大きい』
 こういう手法が古くからあることは充分に認識済み。だが、まさか自分が餌食になる
とは、心構えができていなかった。向こうは、こちらが成人するのを待っていたのだろ
うか。
「マネージャー、前もってチェックしたんでしょうね?」
「したのは本文とそのページのレイアウトだけ。まさか一面見出しに使われるなんて、
考えもしなかったから」
「まったく。してやられたってわけね。抗議は?」
「当然、電話を入れたけれども、浦川さんがつかまらなくて。代わりの人が言うには、
大きなスポーツイベントが中止で紙面が空いたから、ネームバリューを考慮して使わせ
ていただいた、だそうよ」
「取って付けたような……」
 最後まで言う気力が失せて、加倉井は鼻で息をついた。
「どうせ、他にも早々と広まってるんでしょうね」
「他のサイトの芸能ニュースに、ネタとして取り上げられている」
「腹立たしいけれども、我慢するほかなさそうね。一日も経てば、目立たなくなるでし
ょ」
「今後を考えると、浦川さんとの付き合い方を、見直さないといけないかもね」
 マネージャーの言に首肯した加倉井はことの発端となった質問を思い起こした。
(好きな異性のタイプ、か。次に似た質問をされたときは、はっきり明確に答えられる
ようにしておくべきかしら)
 そんなことを考えた加倉井の脳裏に、小学生時代の同級生の名前が浮かんだ。少し前
まで思い出していたせいに違いない。頭を振って追い払った。その名前が誰なのかは、
彼女だけの秘密。

――『カグライダンス』終




#513/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/06/27  22:49  (325)
愛しかけるマネ <前>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:14 修正 第2版
 事務所での打ち合わせの最後に、初めての経験となる仕事を持ち掛けられた。
「どっきり番組?」
 マネージャーを務める杉本からの話に、純子はおうむ返しをした。声には、訝かる気
持ちがそのまま乗っている。
 すると杉本は、「え、知らない? 仕掛け人がいて、有名人を驚かせる」と当たり前
の説明を始めた。純子はすぐさま、顔の前で片手を振った。
「いえ、そうじゃなくって、どっきり番組の出演話を、私に全て明かしてしまって大丈
夫なのでしょうか」
「……」
「ひょっとして、仕掛け人の役ですか」
「……今の、忘れてもらえない?」
 忘れろということは、仕掛け人ではなく仕掛けられる方らしい。純子は即答した。
「無理です」
「だよねー。じゃあ、だまされるふり、できないかな」
「そういうのはあんまり得意じゃありませんが……」
 演技の一環と思えばできないことはない、かもしれない。
「杉本さん。このお話、だめになるとして――」
「どうしてだめになると仮定するの」
「えっと、多分、そうなるんじゃないかなと」
 ちょっとくらい怒った方がいいかしらと思った純子だが、ここはやめておいた。第一
に、怒るのは苦手だ。相手のためとしても、うまく言う自信がない。第二に、杉本の掴
み所のなさがある。打たれ強いのか弱いのか。仕事上の些細なミスをやらかしても半日
と経たない内にけろっとしてるかと思ったら、長々と引き摺って気にしてる場合もあ
る。
「どんなどっきりで、他に芸能人の方が絡んでくるのか、気になったんです。だめにな
るならないとは別に、ここまでばらしちゃったんだから、いいですよね?」
「う……内容は言えない。関係してる人については、共演NGじゃないかどうか、遠回
しに聞くように言われていたんだった」
「遠回し」
「共演NGなんて君にはほぼゼロだから、忘れてたんだよぉ」
「もういいですから。どなたなんです?」
「厳密を期すと、芸能人じゃない。古生物学者の天野佳林(あまのかりん)氏。知って
ると思うけど、男性」
「知ってるも何も、有名人じゃないですか」
 二年ほど前からテレビ番組に出だした大学教授。髪はロマンスグレーだが若い顔立ち
で、えらがやや張っているせいでシャープな印象を与える。二枚目と言えば二枚目。喋
りの方は、古生物のことを分かり易く説明する、そのソフトな語り口が受けた。当初は
動物番組にたまにゲストに出たり、化石発掘のニュースで解説をしたりといった程度だ
ったのが、アノマロカリスとシーラカンスをデフォルメキャラクターにしたアニメが子
供を中心にヒットしたのがきっかけで、一時期は引っ張りだこの人気に。今は落ち着い
てきたが、それでもしばしば出演しているのを見掛ける。
「面識はないよね?」
「ありません。前からお目にかかりたいなと思ってましたけど。というか、何故、共演
NGを心配されなくちゃいけないのか理解できませんよ〜」
「そりゃあ、君の化石好きは、僕らは知っていても、プロフィールに書いてるわけじゃ
ないから。企画を持って来た人だって、生き物全般だめっていう女の子がいることを念
頭に、聞いてきたんだと思うよ」
「そういうものなんですね」
「それで……僕としては、受けて欲しい。失敗を隠すためにも」
「自覚はあるんですね、失敗した自覚は」
「きついお言葉だなぁ。涙がちょちょぎれる」
 聞いたことのない表現が少し気になった純子だったが、聞き返すほどでもない。
「途中でぎくしゃくした空気になって、どっきり不発。挙げ句に、お蔵入りになっても
知りませんよ〜」
「そうなったとしても、君の責任じゃないし、させない」
 表情を急に引き締める杉本。黙っていれば割と整った顔立ちだし二枚目で通りそう、
などと関係のない感想を抱きながら、純子は答える。
「分かりました。何事も経験と思って、やります。台本が手に入ったとしても、私には
見せないでくださいね」
「そりゃ当然。最後の一線は越えさせないぞ」
 独り相撲という言葉が、純子の脳裏に浮かんだ。
(どっきり番組だけ、他の人が担当してくれた方がいいんじゃあ……)

 元々そういう線で行くつもりだったのか、それとも杉本がうまく言って変更がなった
のかは分からない。天野佳林との共演――つまりはどっきり番組の収録は、いつ行われ
るか未定とされた。
「なるほど」
 純子は低い声で合点した。本日の仕事で久住淳の格好をしていたせいで、男っぽく振
る舞おうという意識が抜けきっていなかったようだ。声の調子を改めて応える。
「いつになるか分からないということは、本当にだまされて、驚けるかもしれないです
ね」
「でも」
 隣に座る相羽が口を開いた。今、二人は普通乗用車の後部座席に並んで腰掛けてい
る。運転は杉本、助手席には相羽の母がいた。
「元々、その天野教授と会うのが初めてになるんだったら、意味がない気がしますが」
「それもそっか」
 純子は今気付いたような応答をしつつ、相槌を打った。杉本に気を遣って、そこは言
わないであげようと思っていたのに。
「はい、それは少し考えたら分かったんだけどね」
 少し考えなければ気付けなかったの? 杉本の言葉に心の中で突っ込みを入れた。
「もし可能であれば、他にも仕掛け人を用意していただけないでしょうかとお願いした
のだけれど、色よい返事はまだ」
「杉本さん。それ、言って大丈夫なの?」
 相羽母がびっくりしたように目を丸くして横を向き、指摘した。
「あ」
 杉本はブレーキを踏んだ。ショックで動揺し思わず踏んだ、のではない。黄色信号を
見て、安全に停まっただけのこと。
「万が一、僕の要望が通ったら、このこと自体、伏せておかなきゃいけないんだ!」
 叫ぶように自分のミスを確認すると、ハンドルに額を着けて深く大きな息を吐いた。
「いや、要望、通らないから大丈夫だ、うん」
 早々と立ち直った。要望は通らないと決めてかかるのもどうかと思うが。
「杉本さんはもしかすると、自分が口を滑らせたのが原因とは言ってないんじゃありま
せんか?」
 突然そんなことを言い出した相羽に、純子は「さすがにそれは」と止めに入った。
が、杉本は動揺を露わにし、あっさり認めた。
「どうして分かったのさ、信一君? 風谷美羽の勘が鋭くて、どっきりの企画だってば
れてしまったということにしといたけど」
「ひどいなあ」
「うちは人材不足だから、僕が抜けるわけに行かないのだ」
「人材不足以前に人数不足ってだけです」
「それで、何で分かった?」
「杉本さんが自分の失敗ですと認めていたなら、とても次善の策の要望なんて出せる雰
囲気じゃないだろうと考えただけですよ」
「はあ。そうか。言われてみれば確かに」
「杉本さん、ほんとに変よ。私生活で何か抱えてるんじゃないでしょうね?」
 と、息子に負けず劣らず、唐突な発言をした相羽の母。
(いつもよりも失敗の度が過ぎてる気がするけれど、プライベートがどうこうっていう
風でもないような。それとも、大人なら感じるものがあるのかな)
 純子はそんなことを思いつつ、杉本の返事を待つ。長い赤信号が終わり、運転手は
「うーん、特には」と答えて、車を発進させた。
「あ、でも、一つあると言えばあるかもしれません」
「何?」
「付き合っている彼女から、結婚してちょうだいサインを受け取った気がするんです」
「ええーっ?」
 一瞬にして騒がしくなる車内。蜂の巣をつついたまでは行かないにしても、皆の言葉
が重なって、ほとんど聞き取れない状態が二十秒くらい続いた。
「そんなにおかしいですか」
 次の赤信号で停まったタイミングで、車の中はようやく静かになった。
「おかしくはなくても、杉本さんに今までそんな素振り、全くなかったものだから、驚
いてしまって」
 相羽の母が言い、後部座席で子供二人がうんうんと首を縦に振る。
「まあ、隠すつもりはあったんですよね〜」
 後ろから横顔を見やると、何だか嬉しそう。目を細め、口元を緩ませ、その内鼻歌で
も唄い始めそうだ。
「あの、お相手の方はどんな人なんですか」
 純子は思わず聞いた。声が普段のものになっている。
「言ってもいいけれど、内緒にしてね。ここだけの秘密」
「はい、それはもちろん」
 今この車に乗っている面々の中で、一番口が軽いのは杉本だろう。飛び抜けて軽い。
その当人が口外無用というのは、どことなく変な感じだった。
 それはともかく、相羽母子も口外しないと約束すると、杉本は口を割った。
「ほんとにお願いしますよ。彼女って一応、芸能人なもので」
「――!」
 最前、結婚話をするほどの彼女がいると杉本が言ったときと同様かそれ以上の騒がし
さになった。漫画で描くとしたら、道路の上で車が跳ねている。
「だ、誰ですか」
 相羽の母は子供達よりも慌てた反応を示していた。
「やだなあ、相羽さん。そんな飛び付きそうな顔をしなくても」
「いえ、緊急事態だわ。話を聞かない内から言いたくないけれど、何かスキャンダルに
発展したら、お相手の所属事務所に迷惑が掛かるかもしれないし、こちらにだって」
「そうですかー? 客観的に見ればそういう恐れを感じるのは無理ないかもしれません
けども」
「いいから早く、名前を教えて」
「はいはい。松川世里香(まつかわせりか)さんです」
「……心の準備をしていたから、もう驚かないと思っていたけど、驚いた」
 後部座席の二人も驚いていた。
(松川世里香……さんて、あの?)
 純子より一回りは上の世代で、今となっては元アイドルとすべきだろう。現在はバラ
エティがメインのタレント。一時、下の名前を片仮名のセリカにして、“なんちゃって
ハーフ”のキャラクターを演じていた(ハーフを演じたのではなく、飽くまで“なんち
ゃってハーフ”だ)。純子も面識があるにはある。某ファッションブランドのライト層
向けイベントのゲストとして松川が来たときに、挨拶した程度だが。
「お付き合いはいつから?」
「尋問みたいだなあ。えっと、三年目に入ったとこだと思います」
「先方の事務所は、このことをご存知?」
「多分、知らないのじゃないかと。本人が言ってれば別ですが。――あ、行き過ぎてし
まいました」
 突然何のことかと思いきや、左折すべき道を通り過ぎてしまったらしい。杉本の今日
の役目は、純子と相羽母とを撮影スタジオに迎えに行き、その後、柔斗の道場で相羽信
一をピックアップ(社内規定ではだめだが、事前に承諾を取ってある)し、それぞれ自
宅まで送り届けるというもの。
「Uターンできそうにないな。遠回りになるかもですが、この先で左折しますねー」
 今、話せる時間が増えるのは、相羽母にとっては歓迎だろう。
「逆に、こっちは知ってるのかしら?」
「こっち、とは」
「市川さんよ。あなたのボスは知っているの?」
「言ってないです」
「そう。困ったことにならなきゃいいんだけど」
 ふぅ、と憂鬱げに息を吐く相羽母。
「できることなら、すぐにでも話をしておきたいところなのに」
 子供のことを思うと、そうは言ってられない。そんなニュアンスが感じられた。
「杉本さん。とりあえず、返事は待ってください」
「返事? ああ、彼女への。了解しました。というか、どう返事するかを決めかねてい
るので」
「市川さんに報告するつもりだけれど、よろしいですね」
「仕方ないです。隠し続けるのも潮時だと感じていましたし、覚悟して打ち明けたんで
すから」
 何故かしら爽やかな調子で杉本が言う。
(恋愛を語るとイメージが変わる人だったんだ、杉本さん)
 純子は妙に感心した。
 隣の相羽をふと見ると、いつの間にか興味が萎んだのか、窓の外を眺めていた。

 そんな一騒動があって以来、杉本に再び会えたのは三日後だった。
「どうでした?」
「所属タレントに自分の恋バナをする趣味は、持ち合わせてないんだけどなあ」
 恋バナのニュアンスがちょっとおかしい気がしたが、純子は敢えて言わずに、話を前
進させる。これから仕事場へ送ってもらうのだが、当然のことながら、行きは帰りより
も時間的余裕がない。
「そうじゃなくてですね。市川さんから叱られませんでした?」
「叱られる? うーん、叱られたというか呆れられたというか。自社の商品に手を着け
るのがだめだからって、よそ様に手を出すとは!って」
「はあ」
「そういうつもりじゃないんだけどな。接近してきたのは、松川世里香さんの方なんだ
から」
「本当ですか、それ」
「嘘じゃないって。信じてよ」
 ルームミラーを通して、杉本の困ったような苦笑顔が捉えられた。
「きっかけはやっぱり、あのときですか。松川さんがイベントにゲストで来られた」
 そう質問してから、計算が合わないと気付いた純子。お付き合いして三年目と杉本は
言っていたが、くだんのファッションイベントは、一年ほど前の出来事だった。
「いつだったかなあ。正直言って、僕の方は最初の出会いを覚えてなくってさ。彼女が
僕を見掛けて、何か気になったみたいで」
「ふうん?」
 では他に松川世里香と同じ場所にいるような機会があったか、思い返してみた純子だ
が、特に記憶していない。
(二、三年前と言ったら、ファッション関連よりも映像作品に関わることが比較的多か
った気がする。あの頃、松川世里香さんと同じ仕事場になること……分かんないなあ。
まあ、テレビ局でならあり得るのかな。遠目にすれ違ったら、気付かずに挨拶なしって
場合もなくはないし)
 そう解釈することで納得し、気持ちを切り替える。今日の仕事は、関連するアニメの
番宣を兼ねた、テレビ番組のクイズコーナー出演だ。生放送で行われるケースが多い
が、今回は純子が学生であることが考慮され、収録。だから比較的気楽と言える。ライ
ブだと失敗の取り返しが付かないのに対し、収録なら最悪でも撮り直せる。さらに、挨
拶するべき関係者が別撮りだと少ないのは、精神的に非常に助かる。
 その関門たる挨拶をこなしたあと、早速スタジオ入りだ。
「もし答が分かっても、全問正解すると嫌味になるかもだから、ほどほどにね。局だっ
て自分のところの番組の宣伝、もし全問不正解でも時間はくれるに決まってる。適当に
ぼけて」
「はいはい」
 杉本のアドバイスを話半分に聞き流しつつ、送り出される。クイズは五問出題され、
一問正解につき十五秒のコマーシャルタイムをもらえる。全問正解すれば、七十五秒に
プラスして十五秒のボーナスが加算され、九十秒もらえる仕組みだ。
(九十秒をもらったとしても、間が持たないな)
 元々、そのアニメのスポットとして、十五秒バージョンと三十秒バージョンの二通り
が作られたが、もちろん純子は出演していない。アニメのキャラが登場し、アニメの見
せ場でこしらえられたCMだ。ドラマや映画だと出演者がコメントを喋るCMが多いの
に対し、アニメではまずない。事前特番でも制作されるのなら、レギュラー役の声優達
に主題歌を担当する歌手、監督、(いるのであれば)原作者が揃って出演となるだろう
けれど。
「おはようございます。よろしくお願いします……?」
 撮影の行われるスタジオに入るや、雰囲気の違いを感じ取った純子。もちろん、この
番組に出るのは初めてで、普段を承知している訳ではないけれども、何やらぴりぴりし
た緊張感のある肌触りが場の空気にはあった。仮にこれがいつもの空気なら、撮影収録
の度にくたくたに疲れるに違いない。
 緊張感の中心は、探すまでもなく、じきに知れた。
 女性が二人、対峙している一角がある。若い人と、もっと若い人。二人とも面識があ
った。
「――どういうつもりでいるのかと聞いているのですが」
 丁寧語でもややぞんざいな口ぶりで言っているのは、より若い方。加倉井舞美だ。加
倉井と純子は現在、あるチョコレート製品のCMに揃って起用されて、“三姉妹”設定
の内の二人である。一緒に撮影したばかりと言っていい。一つ年上ということにされた
加倉井は、少々不満そうではあったが、仲よくやっている。
「そう言われても、私にも都合がありましたから」
 加倉井の詰問調に怯むことなく応じたのは、松川世里香。そう、杉本の言っていたお
相手だ。テレビを通して見るよりも大人びて感じるのは、普段の松川世里香に近いとい
うことだろうか。あるいは、離れたところからでも、その化粧の濃さが分かるせいかも
しれない。
「何か問題でも?」
「問題? あるわ」
 我慢できなくなった、というよりも我慢するのをやめた風に、加倉井が言葉遣いを変
化させた。
「三度誘って、三度ともドタキャンされちゃ、こちらの予定が狂う」
「あら。困るほどお忙しいんでしたか? それはそれは失礼をしました」
 松川は相変わらずのペースである。足先が出入り口の方を向いているのだから、もう
用事はないはずだが、何故かスタジオを出て行こうとしない。無論、彼女の前に加倉井
が立っているのだが、ちょっと避ければ済む話。なのにそうはせずに、どっしり構えて
いた。やり取りを楽しむかのように。
 周りには男女合わせて十名ほどの人数がいるのだが、止めかねているのは雰囲気で分
かった。加倉井舞美は若手ながら安定した実力を誇る女優だし、松川世里香だって浮き
沈みこそ経てきたが今また何度目かのブレイクを果たした人気タレントだ。二人とも
に、マネージャーと思しき存在がいないことも、状況に拍車を掛けている。
「あの。何があったんですか」
 純子は一番近くにいたスタッフに小声で聞いた。小柄だががっしりした体付きの男性
スタッフは、その場を飛び退くように振り返った。そして口を開いたのだが、彼の声が
発せられるよりも早く、加倉井が反応した。
「ちょうどよかった。あなたに聞いてもらって、判断してもらいましょう」
 いきなりそんなことを言って、純子を手招きする。戸惑いと焦りと不安を覚えた純子
だったが、断りづらい空気に流されてしまった。仕方なく、歩を進める。加倉井と松川
の周りを囲んでいた人垣が崩れ、その間を気持ちゆっくり歩く。
(うわ〜、何か知らないけれども巻き込まれた? 事の次第が分からないまま行くの
は、凄く嫌な予感が)
 対策の立てようがないまま、加倉井の右隣に立つ純子。ここは少しでも自分のペース
を保とうと、加倉井と松川に「おはようございます」で始まる芸能界流の挨拶をした。
それから目で加倉井に尋ねる。
 加倉井は純子の挨拶に些か呆れたようだったが、怒りが収まった様子は微塵もない。
「あなた、松川世里香さんはご存知?」
「も、もちろん。お会いするのはまだ二度目で、最初のときも挨拶を交わしたくらいだ
けど」
 改めて松川に向き直り、目で礼をする。松川は同じ仕種で返してきた。
「そうなの。よかったわね」
 加倉井の言わんとする意味が掴めずに、純子は「よかった?」とおうむ返しした。
「今後、親しくなるつもりだったなら、ようく考えてからにしなさい。不愉快な目に遭
いたくないでしょ」
「不愉快って、加倉井さん、大げさね」
 松川が言葉を差し挟んだ。
「食事の誘いをキャンセルしたくらいで。よくあることでしょうに」
「三度、立て続けに土壇場になってキャンセルされたのは、初めてですけれども」
「それはあなたのキャリアじゃ仕方のないことかもしれない。私は経験あるわよ、三連
続ドタキャン」
「自分がされて不愉快なことを、他人にして平気だと?」
「その言い方だと、私がわざとあなたの誘いをドタキャンしたみたいに聞こえるわね」
「そうじゃないと誓って言えます?」
「証拠はあるの?」
 充分な説明がないまま、純子を挟んで、二人の応酬が再開されてしまった。どうやら
加倉井が松川を食事に誘い、松川も受けたものの、ぎりぎりになって断った。それが三
回連続で起きたらしい。
(あ、確かだいぶ前、同じ映画に出ていたんだわ、加倉井さんと松川さん。コメディ映
画のオールスターキャストで、どちらも脇役だったけど印象に残ってる。そのときの縁
で、加倉井さんが食事に誘ったのかな? だとしたら最初は仲よくやっていたはずなの
に、どうしてこんなことに。――え)
 推測を巡らせる純子の腕を、加倉井が引いた。不意のことだったので、バランスを崩
しそうになる。
「ねえ、風谷さん。察しのいいあなたのことだから、今ので飲み込めたと思うけれど、
どちらが悪い?」
「え? えーっと。まだ飲み込めてません」
「ほんとに? 掻い摘まんで言うと、私があの人を――」
 と、松川を遠慮ない手つきで指差した加倉井。
「――食事にお誘いしたのに、三度も振られてしまった。それも当日ぎりぎりになっ
て」
「ちょっと。自分の都合のいいことだけ言わないで」
 松川が再び割って入る。今度は明白に怒りを響かせた口ぶりだ。
「ドタキャンしたの、最初はあなたでしょ」
 えっ、という口元を覆いつつ、純子は加倉井を見やった。
「その点については、きちんと謝罪したつもりです。あなたも受け入れてくださったと
解釈しましたが」
 その後しばらく繰り広げられた話から推し量るに……一番初めに食事に誘ったのは、
松川。応じる返事をした加倉井だったが、前日になってドラマの撮り直しが決まり、や
むなく約束をキャンセルした。後日、お詫びの挨拶に行き、今度は加倉井の方から食事
に誘った。そこから三度、ドタキャンが繰り返されたという経緯のようだ。
「あなたの意見では、どちらが悪いと思う?」
 加倉井が改めて聞いてきた。
 事情は理解できた純子だったが、心境は全く改善しなかった。こんな状況でどう答え
ろと。

――つづく




#514/598 ●長編    *** コメント #513 ***
★タイトル (AZA     )  18/06/28  01:03  (332)
愛しかけるマネ <後>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:15 修正 第2版
「……」
 口を開き掛けて、何も言い出せないまま、また閉じる。
「どうしたの? 簡単でしょ、率直な意見を言えばいいだけ」
 加倉井の視線から逃げるように顔を逸らすと、今度は松川と目が合った。
「こんなこと聞かれても、困るだけよね。まだ若いんだし、マネージャーさんもいない
みたいだし。そう言えば杉本さんはお元気?」
「え――っと、はい、元気です」
 松川の台詞にも、どう対処すればいいのやら。取って付けたような杉本への言及が、
かえって松川と杉本の付き合いを真実らしく感じさせる。
(うー、どちらにも肩入れしにくいよ〜。直感だと、加倉井さんが筋を通してるのに、
松川さんがわざとキャンセルを重ねてるように思えるけれど、ほんとに急用が入ったの
かもしれないし。だいたい、ここで加倉井さんの味方をして、杉本さんの恋愛に悪い影
響を及ぼしちゃあ、申し訳が立たない……。かといって、松川さんの味方をすれば、加
倉井さん怒るだろうなあ。一緒に仕事する機会も増えてるし、今後のことを思うと、隙
間風が吹くような事態は避けなくちゃ)
 心の中で懸命に考えている間にも、加倉井は「どうなのよ」とせっついてくるわ、松
川は意味ありげににこにこ微笑みかけてくるわで、追い込まれる。
 このあとの宣伝の仕事も頭にあり、急がねばならない。と言って、吹っ切って場を離
れるだけの度胸は、まだ持ち合わせていない純子であった。こういうとき、マネージ
ャーがそばにいれば、多少強引にでも引っ張ってくれるものかもしれないが、現状では
期待できない。そもそも、杉本のがここにいたらいたで、話がややこしくなる恐れも僅
かながらありそう。
 こうして切羽詰まった挙げ句、純子はふとした閃きを咄嗟に口走った。
「じゃあ、私がお二人を食事に誘います!」
「は?」
 怪訝な反応をしたのは加倉井も松川も同じ。声を出したのは、加倉井だけだったが。
「関係ない私が言うのは差し出がましいから、とやかく言いません。二人に仲直りして
もらう場を、私が作ります! どうでしょうか」
 言い出したからには止められない。純子は加倉井の手をぎゅっと握りながら、目は松
川の方へ向けた。最低限、この場はこれで収めてください!と念じる。
 すると松川の視線が動くのが分かった。どうやら加倉井と目を合わせたようだ。もち
ろん、言葉を交わしてはいない。ただ、予想外の提案に困惑しつつも、加倉井の意向を
探る気にはなったのかもしれない。
「……風谷さん、あなたって」
 加倉井の声は、最前までの熱が引いて、冷めていた。
「その食事の席が、今以上の修羅場になったらどうするつもり?」
「そのときはそのとき。思い切りやりあって、すっきりさせてもらえたらいいなあ……
って。おかしいでしょうか?」
「……おかしい。あなたの発想が面白いって意味で」
 誉められているのだろうか。細かいことは気にせず、押し切ろう。
「さあ、のんびりしてないで決めませんか。皆さんには及ばないですけれども、私だっ
ていいお店、ちょっとは知ってるんですよ」
「あなたの場合、ほとんどが鷲宇憲親経由の情報でしょ」
「そ、それは当たってますけど」
「ま、私はいいわ。“姉”のよしみであなたの提案に乗ってあげる。あとは相手次第」
 加倉井は松川に最終判断という名のボールを投げた。芸能界の先輩を立てたとも言え
るし、器が試される面倒な決定権でもある。
「……私も、そちらのかわいいモデルさんに免じて、応じてもいいけれども」
 この返答に一瞬、喜色を浮かべた純子だったが、含みを持たせた語尾に不安が残る。
「果たして日があるのかしら。曲がりなりにも、今人気のある三人の休暇が重なるよう
な都合のいい日が」
「あ」
 そうですねと言いそうになったが、踏み止まる。ここでそうですねと答えては、自分
は二人と肩を並べる程の芸能人だと言ってるようなもの。
「私はどうとでもなりますから、皆さんの都合のいい日を教えてください。すぐには難
しいでしょうから、あとで連絡をくだされば合わせます」
「了解したわ」
 即答した松川。そのまま行こうとして、二、三歩歩いたところで立ち止まる。
「そうそう、連絡先を教えてもらわなくちゃね」
 杉本との親しいつながりを隠す意図があるんだろうなと察した純子。少し考え、杉本
の携帯番号を伝えた。互いに携帯端末の類を持ち込んでいないため、手書きのメモの形
で渡す。
 受け取った松川は特に何も言うことなく、スタジオを退出。ドアを開けるときに、マ
ネージャーらしき人が待ち構えていたのが見えた。
(ドアのすぐ前で待っているくらいなら、入って来てもいいんじゃないの? あの人が
いてくれたら、このもめごとももうちょっと早く解決したかもしれないのに〜)
 純子がそんな不満を抱いていると、加倉井のため息が聞こえた。
「加倉井さん?」
「どう転ぶか分からないし、お礼はまだ言わないけれども。あなたって、ほんっとうに
お人好しなところあるわね」
「そ、そう?」
「この業界、続けるのなら、取って喰われないようにせいぜい気を付けて。喰われると
きは、一人で喰われてね。巻き添えは御免だわ」
「そんなあ。でも、アドバイス、ありがとう」
 改めて加倉井の手を取って握った。加倉井はもう一度ため息をつくと、引きつり気味
の苦笑を浮かべた。

「会わなかったんですか?」
 帰りの車中、純子は意外さを込めてそう言った。
「うん。知らなかったし」
 運転席の杉本が淡々と答える。
「第一、知っていても会うわけにいかないんじゃないかなあ。他人の目が多すぎるっ
て」
 尤もな話だ。
 松川世里香と同じ仕事場に居合わせたのだから、事前に連絡を取り合ってちょっとで
も会う時間を作ったのではと考えた純子だったが、それは浅薄だったようだ。
(それを思うと、私の場合はまだ幸せなのかな……)
「ところで、松川さんと加倉井さんが揉めたって言ってたけれども、どのくらい? 険
悪ムード?」
 そう聞いてくる杉本の横顔は、いつもに比べるとずっと真剣な面持ちに見えた。
「どうなんだろ……。見た感じ、険悪でしたけど。がんばって取りなしたつもりなんで
すが、まだ結果は出てないわけですし」
「しょうがないよ。加倉井さんの性格は前から分かっていたとは言え、松川さんとぶつ
かるなんて想像できないもんな。びっくりしてベストの反応ができなかったとしたっ
て、誰も文句言わないよ」
「――どうするのがベストだったって言うんですかあ」
 少しむっときた純子は、対応に苦慮するそもそも原因の片棒を担いでいる杉本に聞き
返した。
「うーん、そう言われると困る。確かに難しい」
 杉本は簡単に引き下がる。こういう場合、責め立てて追い込んだつもりでも、杉本の
ように変わり身が早く、あっさり引ける人間相手には効果が薄い。
「仮に僕を呼んでもらっても、他の人がいる場で、何か松川さんに言える自信はないか
らなあ。はははは」
「じゃ、次にお二人だけで話すチャンスがあったら、ぜひ言ってくださいね。加倉井さ
んとも仲よくしてくださいって」
「がんばって言うよ。うちのタレントが板挟みで困ってるんだって言えば、効果抜群」
「何言ってるんですか。彼氏としての言葉の方が絶対に効き目ありますって」
「そうなるのかなあ。あ、でも、二人で話すより前に、松川さんが空いている日を連絡
してきたらどうしよう」
「ちょうどいいんじゃありませんか。三人で食事をする前に、杉本さんから念押しして
くれれば、松川さんも仲直りする気持ちを固めて来てくれるに違いない、うん、決まり
っ」
 事態収拾の目処が立った。そんな気がして、上機嫌になって言った純子だった。

 そしてその翌日の日曜日。雑誌のインタビューのお仕事だと聞かされて、純子はテレ
ビ局まで連れて来られた。運転手兼マネージャーの杉本は、所用があると言って、局を
離れてしまった。
(松川世里香さんに会いに行った、とか。まさかね)
 控室で一人座って待つ。インタビューの開始予定まで、小一時間はあった。時間を持
て余して考える内に、もやもやしたものが頭に浮かんできた。
(テーマが漠然としているのよね。最近の仕事とこれからの自分について、だなんて。
そんな語れるほどの人生経験ないし、こんな漠然としたインタビューを受けるほど、大
きな作品に関わっていない気がするんだけど。……そうだわ。何でテレビ局? 今ま
で、テレビ局で仕事があるときの待ち時間を利用して、雑誌などのインタビューを受け
てきたわ。雑誌単独のインタビューは、ホテルのロビーもしく部屋か、喫茶店。宣伝の
ために出版社を訪ねてそこで受ける形が多かった。わざわざ雑誌インタビューのためだ
けに、テレビ局に来るのは珍しい。というよりも、おかしい)
 純子は違和感の正体を突き詰めて考えてみた。対する答は程なくして降りてきた。
(もしかして――前に聞いてたどっきり番組? 前もって知らせることなしにやるって
言われたけれども、きょ、今日なのかしら? 天野佳林先生とどういった形で共演する
のか知らないけれども、対談形式だとしたら、インタビューに近いと言えなくもない…
…。どっきり番組だからこそ、テレビ局まで出向いた。ええ、筋は通る)
 と、そこまで推測を積み重ね、状況把握に努めた途端に、悲鳴を上げそうになった純
子。実際には黙っていたが、思わず空唾を飲み込んだ。
(どっきり番組ということは――この部屋に隠しカメラがあるかも?)
 途端に緊張が全身に回った。探してみたくなる。が、一方でうまくだまされなきゃい
けないんだから、隠しカメラ探しなんて言語道断、やっちゃだめと己に命じる。だけれ
ども、ゆったりできるはずの控室に、もしもカメラがセットされて撮影されているとし
たら、気が抜けない。
(まずいわ。私、スカートで来たのよ。低い位置にカメラがあったら、動きによっては
中が映っちゃう恐れが)
 頭に両手をやって、抱えるポーズをした。この姿も撮られているかもと思うと、何か
理由を付けなくてはという心理が生まれ、「ああ、覚えられない、台詞!」と口走って
みせた。
(だ、だめだわ。この短い間に、物凄い疲労感が)
 両肘をテーブルに着き、顔を手のひらで覆う。本当に隠しカメラがあるかまだ分から
ないというのに、意識過剰で動けなくなりそう。
(元々は、杉本さんのミスから始まってるんですからね! それなのにこんな、見え見
えの舞台を用意して……恨みます)
 部屋で待っているように言われていたが、息が詰まる。ちょっとくらいならいいだろ
うと、腰を上げた。ドアを少し開け、廊下を覗く。カメラを持った人物はいないよう
だ。
(もし行き違いになっても、ちょっと新鮮な空気を吸いに出てたって言えばいいわよ
ね。時間までには戻るつもりだし)
 そうやって自分を納得させて、外に踏み出そうとした刹那。
「やあやあ、お待たせしました」
 陽気な声が掛かった。純子が廊下へ出るのを待ち構えていたかのようなタイミング。
 声のした方向を振り返ると、知らない男性と女性のコンビ、さらに天野佳林その人が
いた。テレビ出演を終えたばかりといった体で、スーツ姿が決まっている。
 天野先生との初対面に少なからず感動を覚えた純子だったが、それと同等以上に気に
なるのはテレビカメラ。やはり見当たらないものの、女性の手にはデジタルカメラが握
られていた。
「事前にお知らせしていなかったと思いますが、本日のインタビューは天野佳林先生と
の対談形式でお願いしたいと考えています。風谷さんは、化石に興味をお持ちだと聞い
たものですから」
 男女二人はそんな前置きで始めて、それぞれ名刺を取り出し、自己紹介をした。続け
て、天野佳林との引き合わせ。ネクタイを少々緩めてから、当人が言った。
「天野佳林です。初めまして。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
「初めまして、風谷美羽と言います。天野先生のご活躍、テレビで常日頃から拝見して
います。難しいことを小さな子にも分かるくらいに、楽しく面白く話されるから、私も
大好きで、だから急なことに驚いてるんですが、とてもわくわくもしてるんです」
 とりあえず、正直な気持ちを一気に喋ることで、最初の不自然さは乗り切れた?

 純子の懸念、いや、確信に近い想像に反して、対談形式のインタビューは特段、テレ
ビ番組らしい仕掛けなしに終わりを迎えた。
(あれ? 杉本さんから聞いていた話と違うんですけど……いいのかな? ある意味、
びっくりはしてるけれども)
 何が何だか分からない。内心、混乱の嵐が吹いていた純子だった、表面上はきっちり
笑顔を作れている。天野佳林との対談が考えていた以上に楽しいものに終始したのが大
きい。
「それじゃあ、若干時間オーバーしてるところをすみませんが、最後にツーショットの
写真を何枚か、いただきたいと思います」
 男性スタッフの声に応じて、女性がカメラの準備を。純子は天野佳林と仲よく?収ま
った。
 これで終了と伝えられ、純子は心中、ほっとすると同時に疑問符もいっぱい浮かべて
いた。終わりと見せ掛けて最後にどっきりがあるのだろうか。警戒を完全には解かずに
いると、天野が脱いでいたジャケットに腕を通しながら話し掛けてきた。
「そうだ、風谷さん。サインをもらえないだろうか」
「え、サインですか」
 来たわ、と感じた純子。
(こんな学者先生が私なんかのサインを欲しがるはずがない)
 意識して身構えてしまう。いやいや、あくまで自然に振る舞わなくては。見事にだま
されることこそが目的。
「はい。実は、うちの子達があなたのファンだと、今朝になって聞かされましてね。男
と女一人ずつおりますが、二人揃ってあなたについて詳しいのなんの。私、出掛ける前
に色々教えられましたよ」
「はあ。ありがとうございます」
(なるほどね。お子さんがファンだということにすれば、不自然じゃないわ)
 芸の細かさに密かに感心している純子に、先程の男性スタッフからサインペンと色紙
が差し出される。
「先生に言われて、急いで用意したんですよ」
 と、天野へ笑いかける男性。
「すまなかったね。買っておく暇がなかったんだ。――それで、先走ってしまったよう
だが、サイン、いいだろうか?」
「え、はい、かまいません」
 そう答えてペンと色紙を受け取ろうとしたが、またも想像をしてしまった。
(これって強めに握ったら、電気が流れるやつ?)
 雷が大の苦手な純子だけに、電気も苦手な方である。だが待てと冷静になる。
(確か、電気が流れるのはボタンを押すタイプのボールペンとかシャープペンじゃなか
ったかしら? サインペンは押すところがない。スタッフさんだって、普通に持って
た。サイン色紙の方も電気的な機械仕掛けをするには、薄すぎるような)
 自然な動作でサインペンを右手、色紙二枚を左手で受け取った。電気ショックは無論
のこと、何の変哲もない。
「何てお書きしましょう?」
 天野に尋ねつつ、ペンのキャップを取る段になって、またもや嫌な想像が鎌首をもた
げる。
(キャップを外そうと強く捻ったら電気が来るとか?)
 もうこれくらいしかどっきりの仕掛けようがないでしょ!という意識が強くなった。
その余りに、逃げを打ってしまった
「あの、色紙を持ったままだとキャップが取れないので、開けてもらえますか」
 誰ともなしに言ったのだが、男性スタッフが開けてくれた。そしてやっぱり、何とも
ない。平気で開けた。ペンを返され、受け取っても感触はさっきと変わらなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 ペンをしげしげと見つめる純子に、天野が問われていた事柄を返す。
「ごく普通にお名前を。それから、みのるとさき、子供の名前なんですが、共に平仮名
で頼みますよ」
 純子は色紙を重ねて構え、一枚ずつ、サインペンを走らせた。現在の心理状態を考え
ると、上出来のサインが書けた。
「これでいいでしょうか」
「ええ、大丈夫。二人の大喜びする顔が目に浮かびます。本当にありがとう」
 終わった。どっきりではなかった?
 純子は何かに化かされたような心地でいた。が、天野が「それではお先に失礼を」と
部屋を出ようと横を通ったとき、はっと気付いて、切り替えた。
「あ、あの、すみません!」
 天野と男女二人が足を止めて振り返る。純子は対談相手に駆け寄って、お辞儀をしな
がらお願いした。
「私も、天野先生のサインをいただけませんか?」

 インタビューだか対談だか、あるいは不発のどっきり番組だか分からない仕事が終わ
って、しばらく経ってから杉本が控室に姿を見せた。
「遅いです、杉本さん」
「そう? 十分と遅れていないはずだけれど」
 十分近い遅刻でも大概だと思うが、そういったずれを見越して、余裕を持ってスケジ
ュールは組まれているので、大きな問題ではない。純子は音を立てて椅子から立ち上が
ると、その背もたれの縁に両手をついた。
「聞きたいことがあって待ちかねてたんです。だから、いつもよりもじれったく感じち
ゃって」
「何かあった?」
「終わったんだから、もうとぼけないでほしいな、杉本さん。お仕事ってインタビュー
と言うよりも、対談でしたよ。それも、天野佳林先生との」
「うん。そうだよね」
「……」
 捉えどころのないふにゃっとした返事に、純子は一瞬、二の句を継げなくなった。が
どうにか修正し、言葉を重ねる。
「どっきり番組だったんですよね? 私、ちゃんと覚えていたんですよ。雑誌インタビ
ューなのにテレビ局に来るから、おかしいと感じてたんです」
「うん、君の記憶力は僕よりずっと上だから、覚えてると思ってたよ。その上で、がっ
くりくるようなことを言うけれども、いいかい?」
「……何だか怖いですが、いいですよ」
 背もたれから手を離すと、握りこぶしを作って覚悟を決めるポーズを取る。
「実は、天野佳林先生とのどっきり番組、取りやめになったんだよねー」
「ええ? 意味が分からない。だって今日、さっき、天野先生が来られて……あ、ひょ
っとしてそっくりさん? 偽者の天野先生にサインをもらっちゃったんですか、私?」
 大騒ぎして、自らを指差す純子。その目の前で、過杉本はおなかを押さえる格好にな
って盛大に笑った。
「ち、違うって。どっきりじゃないって言ったのに。正真正銘、本物の天野佳林先生で
すよ、あの人は」
「わ、分かるように言ってください。大人しく聞きますから」
「だから、対談の仕事も正真正銘の本物で。テレビ局に来たのは、天野先生のご都合な
んだよね。出演番組の収録があって。それでも天野先生が君との対談を結構楽しみにさ
れていたみたいで、どっきり番組が取りやめになったのなら別口で何か仕事を一緒にで
きないかと言われたそうなんだよね。じゃあってことで、当初の予定をそのままスライ
ドさせて、風谷美羽と天野佳林の対談と相成ったわけ」
「……どっきりは完全になくなったんですか?」
 天野からそんな風に言われていたとはちょっとした感激ものだったが、今はそれに浸
っている場合でない。
「あー、どっきりはねえ、完全になくなったかと言われると、そうでもなくて」
「えっと、もしかすると、まずいことを質問しちゃいました? 近い将来、何もかも改
めて私をどっきりに引っ掛けるつもりでいるとか。だったら、もう聞きません」
 耳を塞ぐ格好をしてみせた純子。だが、案に相違して、杉本は首を横に振った。
「なくなったんじゃなくて、どう言えばいいのか……まあ、支度をして、出て来てよ。
外で待ってるから」
 奥歯に物が挟まった言い種になり、そそくさと廊下に出て行ってしまった。
 純子は急いで追い掛けた。支度なんて、とうにすんでいる。
「杉本さん!」
「ロビーで待ってるから、そんなに全力疾走しなくていいよ。むしろ、ゆっくり現れた
方がいいかなあ」
「ちょっと、どういう」
 意味なんですかという質問は途中で溶けて消えた。何度か角を折れ、ロビーへと通じ
る廊下に出たとき、その突き当たりの景色を見覚えのある人の影が横切った気がしたか
ら。
 とにかく、急ぎ足でテレビ局の広いロビーへと向かう。正面玄関を入ったところにあ
るホールまで戻って来ると、テレビカメラを担いだ人が二名ほどいるのが分かった。
「これって……まさか」
 ホールの一角を占めるロビーのソファ群に足を向ける純子。その正面に、二人の女性
が手を取り合ってひょいと現れた。さっき、純子が見た人影だ。
「このあと、食事に行く時間はあるかしら?」
「この通り、仲直りはもうしているから、安心して」
 加倉井舞美、松川世里香の順にそう言った。二人とも、意地悪げな満面の笑みを浮か
べていた。

「つまり……」
 完全にオフレコになったのを見計らい、純子は杉本に詰め寄った。詰め寄ったと言っ
ても、既に精神的に相当消耗しているため、迫力はなかったけれども。
「杉本さんが言っていた、別の人を仕掛け人にして私を引っ掛けるっていう要望は通っ
ていた。そうなんですね?」
「正解〜」
 ホールドアップの手つきをした杉本は、情けない声で認めた。加倉井・松川の両名と
は少し話ができたものの、とりあえず急ぎの仕事を片付けるからと、今はここにいな
い。
「だめ元で出した代替案が採用されたから、驚くのなんのって。まるで、僕自身がどっ
きりに掛けられた気分だったよ」
「それはそれとして」純子の華麗なるスルー。
「加倉井さんと松川さんは、ほんとに何にもなかったんですよね? 口喧嘩は全部お芝
居だったと」
「うんうん。さっき、カメラの回ってるときに言った通りですよ、はい」
「よかった」
 胸のつかえが取れた心地。気分がいくらかよくなった。
 腕を下ろした杉本は、「これで許してくれる?」と笑いかけてきた。純子は間を取っ
て考える振りをして、
「ううん、だめ。まだ聞きたいことがあるわ」
 と強い調子で言った。
「な何でしょう」
「あれも嘘なんですね? 加倉井さんと松川さんが仕掛け人だったということは、松川
さんが杉本さんと恋人関係っていう話。松川さんが仕掛け役を引き受けてくれたから、
急遽思い付いて恋人ってことにして、私がどちらの味方にもなれないようにした……」
 答は聞くまでもない。そう信じて疑わないまま質問した純子だった。しかし。
「さあ? どうなのかあ」
 杉本が答えるその表情はとぼけつつも、普段に比べると数段真面目なように見えなく
もなかった。

――『愛しかけるマネ』おわり




#515/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:11  (411)
そばにいるだけで 67−1   寺嶋公香
★内容
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」
 相羽の突然の“報告”に、唐沢は一瞬、我が耳を疑った。
「――はあ?」
 頓狂な声で反応して、次に「留学?」という単語を発声する前に、相羽の説明がどん
どん進む。
「唐沢に任せたい、というか頼みたいのは」
「ちょちょっと待て。ストップ! 留学だって? おまえが? それってやっぱあれ
か。J音楽院だな?」
「そう」
「今さら、何で蒸し返すんだよ」
「蒸し返すの使い方がおかしい」
「うるさい、知るか。おまえ、じゃあ、さっきの俺の見立ては間違いだったってか。ピ
アノを選ぶのかよ」
「……エリオット先生には前々から誘っていただいていた。お断りしていたのは、いく
つか理由があるけれども、日本にいてもエリオット先生に個人レッスンをつけていただ
けるという特別扱いに甘えていたからかもしれない。それがこの春、先生が国に戻られ
ると決まった時点で、気持ちが揺らいだ」
「……もしかして……クイズ番組の観覧に行ったとき、頻繁に電話が掛かってきていた
が、あれも留学の話だったのか」
「当たり。よく覚えてるな」
「おかしな感じは受けてたんだ。席を外してばかりだったから、何のために涼原さん達
の応援に来たんだよ!って」
「一応、肝心な場面には居合わせて、役に立ったろ」
「ふん。過去のことはもうどうでもいいさ。揺らいだだけだったのが、どうして決定に
至ったんだよっ」
「その辺は長くなるし、ややこしいし、話したくない。ただ、昨日のコンサートは直接
には関係ない。最終チェックみたいな位置づけだった。もっと前、先生の帰国には僕に
も責任の一端があると分かったのが大きいけれども、それだけでもないし」
「……」
 尋ねたいことはいっぱいあったが、唐沢は我慢した。本音を言えば、唐沢も少し以前
から、予感していた。違和感に近い勘に過ぎなかったが、相羽の身に何か大きな変化が
起きるんじゃないかと。その予感があったからこそ、今、留学話を打ち明けられても、
“この程度”で済んでいるんだと思う。もし予感していなければ、相羽とまた喧嘩にな
っていた。
 よく喋って渇いてきた口中を、空唾を二度飲み込むことで湿らせると、唐沢は相羽に
続きを促した。
「率直に言って、いない間、涼原さんが心配なんだ。僕はどちらも選ぶ」
「ここに来てのろけるたあ、面倒くせーな。心配って、粘着質なファンもどきみたいな
奴とかか。なら、涼原さんにさっさと留学のこと言って、連れてけよ」
 投げ遣りな口調になった唐沢。無論、唐沢本人も、その最善の策が実現困難であろう
ことは、充分に承知している。
「できるのならそうしたい。できそうにないから……心配してるんだ」
「……まったく。それで? 俺に何をしろってんだ」
「涼原さんのボディガードになって守る。学校の行き帰りが心配なんだ。他は事務所の
人が付いてくれる。だから、学校にも迎えが来るときなんかは、問題ないが」
「あのな。何度か言ったよな。俺、体力はそこそこ自信あるが、喧嘩はほとんどしたこ
とないぜ。一番最近でも……おまえとしたやつが最後だ」
 心身ともに痛さを思い出して、少し笑ってしまった。が、すぐに戻る。
「いいんだ。じゅ――涼原さんを一人にしないことが大事なんだ。前にも言ったよう
に、男が一人でもついていれば、だいぶ変わってくるはず」
「変だな。具体的に危険が迫ってる口ぶりに聞こえたぞ。……勘違いで終わったけれ
ど、パン屋でのことも、実際には予兆があったのか? バイトを始めたのが噂になって
変な輩が寄ってくるのを心配しただけと思ってたが」
「微妙なんだが……ファンレターに混じって、変なのが稀に届くらしいんだ。今のとこ
ろ、実害は出ていない」
「そうか、ファンレターね。今後も何もないとは限らないってわけだ。しかし、ボディ
ガードってんなら、他にふさわしいのがいるだろうに。ほれ、道場仲間が」
「考えなかったわけじゃない。でも、同じ学校じゃないと厳しい。さすがに、こっちの
学校まで遠回りしてくれとは言えないし、仮にOKだったとしても時間がうまく合うと
は思えない」
「時間なら俺だって、委員長やっているから、遅くなることがあるかもしれないぜ。涼
原さんと合うかどうか分からん」
「そのときはしょうがない。涼原さんが待てるようなら、待ってもらう」
 話す内に、唐沢は想像が付いた。
(留学を勝手に決めて、涼原さんに対して後ろめたい気持ちがある。だから、せめて護
衛役を選んでおこうってことかいな)
 唐沢は少し間を取り、考えた。そしてやおら、座っている姿勢を崩して足を投げ出す
ような格好を取った。
「ご指名は光栄なんだけどさ……ボディガードがVIPを狙うのは簡単だぜ」
「うん? 何の話?」
「おまえが涼原さんを残していくのなら、俺、アプローチするかもしれねえぞってこ
と」
「……」
 まじまじと見返してくる相羽。唐沢は敢えて挑発目的で、口元に笑みを浮かべて横顔
を見せた。
(試すような真似をして悪いな、相羽。俺はこの話、涼原さんのためになることを一番
に考える。俺にはっきり言うぐらいだから、今さら留学を翻意させるのは難しいんだろ
うけど、揺さぶりは掛けさせてもらう)
 さあどうする?と、横目で相羽の反応を窺う。
 相羽は、さっき見開いていた目をもう落ち着かせ、左手の人差し指で前髪の辺り、左
頬と順に掻く仕種をした。
「それでも唐沢にしか頼めないな。信じてるから、唐沢のことも、涼原さんのことも」
 唐沢にとって、予想の範囲内の返事だった。ただ、実際にそう答を返され、考える内
に腹が立ってきた。
「ああ、そうかい」
 また姿勢を改め、相羽の方に身体ごと向く。
「そこまで信じてるなら、まず、涼原さんに言えよ、留学の話を。言ってないんだろ
?」
「ああ、まだ」
「何で、俺が先になったんだ。俺がボディガードを断れば、留学をやめるのか?」
「……悪かった。ごめん」
 相羽は頭を下げた。
「あ、謝られても、だな。第一、謝るとしたら、涼原さんに言ってからじゃないか」
 急に素直になられて、攻め手を失った唐沢が戸惑い混じりに応じる。相羽は即座に返
事をよこした。弱気が顔を覗かせたような、細い声だった。
「とてもじゃないけど言えないよ」
 黙って聞いていた唐沢だったが、内心では「だろうなぁ」と相槌を打った。もう責め
る気は完全に失せた。
「仮の話だが、今突然涼原さんが抜けたら、仕事関係の方はどうなる?」
「替えが効かないっていうほどの立場じゃないし、ほとんどは別の人が代役に入るだろ
うね。だから、ビジネスそのものがストップすることはないと思う。問題はルーク、事
務所の方。確実に迷惑を掛けることになるから、事務所に違約金支払いの責任が課せら
れて、最悪、潰れるかもしれない」
「なら、どうしたって無理、無謀か。やる値打ちがあるんなら、俺も協力して、涼原さ
んや周りを説得してやろうと思ったんだけど」
「残念だけど、そうみたいだ。……唐沢って、そこまで人がよかったとは知らなかっ
た」
「おまえのためじゃねーから」
 あーあ、と唐沢が両腕を突き上げてのびをしたところで、下校を促す校内放送が流れ
始めた。打ち切らざるを得ない。
「聞くまでもないが、留学話は他言無用なんだな?」
 音楽室を出る前に最後の確認と思い、唐沢は聞いた。
「頼む。学校で知っているのは、神村先生を含む何人かの先生と、おまえだけ」
「え。何か急に肩が重くなったぜ」
 廊下に出て、扉の鍵を掛ける頃には、この話題はきれいさっぱり消し去った。他の人
に聞かれてはいけないという意識が、暗黙の内に働いたのだ。
「あ、そうだ。天文部の合宿はどうすんだよ、相羽」
「七月下旬なら行けると思う」
「何やかんやで忙しいだろうに」
 でもまあ恋人と一緒にいられる時間を確保するには当然参加するよな。問題は、その
ときまでに留学のことを言えているかどうか……。唐沢は直感で決めた。
「やっぱ、俺も天文部入って、着いて行くわ。間に合うよな。ぎりぎりか?」
「ええ? どうしてまた」
「何かあったとき、事情を知る者が近くにいた方が便利だと思わん?」
「……うーん」
 相羽の歩みが遅くなる。このままだと、腕組みをして考え出しそうな雰囲気だ。
「おいおい、相羽がそこまで考え込むことじゃないだろ。ほら、早く鍵を戻して帰ろう
ぜ」
「うーん……。合宿までには、彼女に打ち明けてるつもりなんだけどな」

            *             *

 ベーカリー・うぃっしゅ亭でのアルバイト(一応の)最終日、純子は大いに営業に精
を出した。前日には急遽作ったビラ配りをして、風谷美羽の姿を往来にさらした。最後
の一日ぐらいなら、もし仮にお客がどっと押し寄せても大丈夫と踏んでの、うぃっしゅ
亭店長の了解も得た上での決断。
「いつもに比べて、小さな子が物凄く多い。もう、うるさいし大変!」
 そうこぼした寺東は、珍しく玉の汗を額に浮かばせていた。ハンドタオルを宛がい、
スマイルを絶やさぬように奮闘している。
(『ファイナルステージ』のおかげかなあ。高校ではさして話題にならないけれども、
小学生には受けてるみたいだから)
 アニメ番組を思い浮かべつつ、純子も笑みを崩すことなく、接客や陳列などに忙し
い。
 先程から、胡桃クリームパンの消費が激しい。文字通り、飛ぶような売れ行きだ。少
し前、子供の一人から「美羽が好きなパンは何ですか」と問われ、純子が正直に答えた
せいである。小学生のお小遣いで菓子パンをいくつも買うのは厳しいだろうけど、一個
ならほぼ躊躇せずに買える。手頃な価格かつ、風谷美羽の好物となれば、そこに集中す
るのは当然と言えた。
 おかげで店長は店の奥でフル回転だ。今日は他にも店員――パートタイムの主婦が二
人出て来ており、内一人が店長の奥さんだと聞いた。ただ、純子はどちらが奥さんなの
かは把握していない。店員として入ったのと同時に、忙殺されっ放しなのだ。
「整理を兼ねて、一旦、外でまたビラ配りしてみる? このままだと店がパンクしそう
だよ」
 パートタイマーの一人が言った。その視線は最初に純子、次に店の奥へと向けられ
た。
 パンクは大げさだが、大混雑しているのは間違いのない事実。通路の幅が狭くなって
いる箇所では、すれ違うのにも一苦労。トレイの端同士がぶつかる恐れが高まってい
た。
「そうだね。涼原さん一人でビラ配り、頼めるかな」
 店長の指示が届いた。
「あ、はい! 手すきになったら行きまーす」
 返事をする間にも、胡桃クリームパン待ちの小学生らが暇に任せて、純子の着るエプ
ロン型ユニフォームを、あっちやこっちから引っ張る。パンにじかに触っちゃだめと注
意したのは効果があったが、今度は自分が触られそうだ。
「ごめんね、ちょっと通してね。あ、ほどいちゃだめ」
 ようやく子供の輪を抜け、外に出る準備をしながら、純子は思い付きで新情報を流し
てみることにした。
「そうそう、発表します。風谷美羽が好きなパンの二つ目は――」
 桃ピザにしようか。

 午前中は体育やら教室移動やらで、いい機会がなかった。だから、聞けたのは昼休み
に入ってからになった。
 明日の土曜――五月二十八日――、学校が終わったら行っていい?と尋ねた純子に、
相羽は「かまわないなら、僕が君の家に行くよ」と提案してきた。
(相羽君、自分の誕生日だって分かってるのかなあ?)
 純子は座ったまま、隣の彼の表情を探り見たが、簡単には判断が付かなかった。
 まあ、特に支障はないし、もしかすると母子水入らずでお祝いするのかもしれないし
と考え、「かまわないわ」と答えた。
(中間テストが近くなかったら、デートに誘いたいのに。考えてみると来年もこんな感
じになっちゃう? 来年は、テストの後回しにしてみようかな)
 両手を頬に当て、肘を突いた格好で一年後の計画を立て始める。静かになった純子
に、相羽は不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの? 急に黙りこくっちゃって」
「――あ、うん、歓迎するからね。何時頃までいられるかしら?」
「その前に、お昼をどうするか決めておきたいな」
「そっか。お昼御飯は……相羽君がいいのなら、うちで用意するわ。正しくは、しても
らっておく、だけど」
「……純子ちゃんの手作りなら食べたい、とか言ってみたり」
「少し遅くなってもいいのなら」
「物凄い即答だね」
 顔を少しそらし気味にし、目をしばたたかせる相羽。純子は嬉しさを隠さずに答え
た。
「冗談半分に言ったのをまともに受け取られて驚いた、でしょう? いつもいつも、や
られっ放しじゃないんだから」
 誕生日のプレゼントとして、食事を作ってあげるという選択肢が元からあったので、
素早く返せたまでなのだが。
「それで、どうするの?」
「やっとバイトが終わった人に、料理作ってなんて頼めないでしょ」
「大丈夫よ。そんなに難しい物作らないから。焼き飯になるかな? そうだわ、もらっ
たパンがまだ余ってるから、一緒に食べて」
「米とパンを一緒に……」
「育ち盛りなんだから。なんちゃって」
 笑顔がひとりでにはじける純子に対し、相羽はやれやれとばかり、頭を掻いた。
「ところで、何の用事か聞いていいかな」
「それは――」
 ここまで来て黙っておくのも変だし、気が付いている可能性だって充分にある。純子
はそう判断して答えようとした。が、第三者に先を越された。
「誕生日の何かに決まってるじゃない。自分自身のことには、意外と無関心なのね、相
羽君たら」
 白沼だった。いつの間にやらすぐ近くまで来て、聞き耳を立てていたらしい。
「白沼さん、ひどいよー」
 腰を浮かせ、少々むくれ気味に純子が抗議すると、白沼は「どっちがひどいんだか」
と受けた。
「長々といちゃいちゃ話をされるこちらの身にもなって欲しいわ」
「い、いちゃいちゃはしていない、と思うけど……ごめんなさいっ」
 いちゃいちゃしてたことになるのか自信がなかった。悪いと思ったら謝る。
「相羽君に用事なんでしょ。どうぞ、私の話は一応、終わったから」
「違う、はずれ。あなたに用事。お仕事ですわよ」
 白沼はメモを渡してきた。これまでよくあったのと違って、ノート半ページ分ぐらい
はありそうな大きさだ。
「前に会議で出た検討事項の内、結論が出たのがこれだけ。無論、関係者には全員伝わ
ってるんだけど、早めに目を通しておいてほしいという理由から、直接渡すように言わ
れたわけよ」
「どうもありがとう……これ、決定?」
「全部が全部じゃなく、意見を聞くのもあったはずよ。確か、二重丸が付けてある分。
注釈、書いてない?」
「……ごめん、あった。最後の方、自分の指で隠れてた」
 照れ笑いをする純子に、白沼はしっかりしてよねと声を掛けた。
「言うまでもないけど、テストが終わったら再開だから。各種PRの撮影とか」
「それまでには気合いを入れ直しておきまーす」
「……今日明日は浮かれていても、しょうがないわね」
 白沼も最後は咎めることなく、立ち去った。純子はメモを折りたたみ、鞄にしまうた
めに座り直した。終わってから、片肘を突いて相羽に聞く。
「あーあ。怒られちゃった。そんなにいちゃいちゃして浮かれて見えるのかな?」
「分かんないけど……それ以前に、誕生日のこと、忘れてた」
「え?」
 頭を支えていた腕が、コントみたいに、かくんとなった。
「本当に? その、おばさまが何かしら言ってなかったの?」
「言ってたけど、明日だということを忘れてた」
「……凄い、ような気がするわ。誕生日も忘れるなんて、ある意味、充実してる証拠じ
ゃない?」
「だったらいいんだけどね」
 相羽は微かに笑うと、次に、はっと何かに気付いたように唇を噛んだ。
「純子ちゃん、もしかして……アルバイトしたのって……」
「――えへへ。ばれたか」
 もう隠していても意味がない。聞かれれば素直に認めようと決めていた。
「プレゼントのためよ。だってほら、モデルとか芸能とかって、相羽君のおかげで始め
たようなものだから、今回ぐらいは自力でプレゼントを買ったと胸を張りたいなって」
「そうだったの……。あれ? バイトの理由、母さんからも『経験を積むためよ』って
聞かされてたんだけど」
「あ、それは私が頼んだの。嘘の理由を通すためには、どうしても協力が必要だから、
信一君には秘密にしておいてくださいねって」
「やられたよ、まったく」
 そう答えた相羽は、急に上を向いた。速い動作で右手を頬骨の辺りに宛がう。
「あれ、何だこれ。だめみたいだ」
「相羽君?」
 鼻声になった相羽が気になり、名前を呼んだが、すぐには返事がない。
「――ごめん。ちょっと。顔、洗ってくる」
 そのまま表情を見せることなく、席を立つと、足早に廊下へ出てしまった。
 純子が追い掛けようかどうしようか、迷っていると、唐沢が口を開く。
「放っておきなよ、すっずはっらさん」
「でも」
「感激して涙が出た、ってところじゃないの」
「嘘! そんなまさか、大げさな」
「大げさなんかじゃないさ。それに、今のあいつには、泣く理由があるもんな」
「ええ? 唐沢君、私の知らない事情を何か知ってるの?」
「いやいや。好きな相手が忙しいにもかかわらず、自分のためにわざわざアルバイトし
てくれたら、そりゃあ感激するでしょって話」
 世間の常識だぜと言いたげに、肩をすくめる唐沢。純子は完全には納得しかねたが、
感激するのは理解できるし、贈る側として掛け値なしに嬉しい。それ以上の追及はやめ
にした。

            *             *

(あー、情けない)
 目にごみが入ったことにして、校舎を出た相羽、屋外設置の洗い場まで来ると、形ば
かり顔を洗った。
 ハンカチを持っていたが、自然に乾くままにする。鏡の方は持ってないが、いちいち
確認しなくても大丈夫だろうと踏んだ。
(純子ちゃんがそんなこと考えていたなんて。それに全く気付かないなんて。いくら他
のことに気を取られていたとは言え……俺ってだめな奴)
 頭をがりがり掻き、太陽をちらと見上げる。どこかで冷静な部分が残っており、昼休
みが終わるまであと何分あるなという意識があった。
(あのとき、キスする資格なんて自分にはなかった)
 唐沢の自転車を借り、うぃっしゅ亭から純子と一緒に帰った帰り道。そもそも、何で
咄嗟にしたくなったのかを自分でも分からないでいるのだが……多分、留学に伴うしば
しのお別れを意識して、甘えたくなった・思い出を作りたかった・確かめたかったのか
もしれない。
(明日の誕生日。プレゼントを受け取っていいのか?)
 自己嫌悪が続いており、今の自分にはやはり資格がないと思ってしまう。反面、ああ
までしてプレゼントを用意してくれた純子に対し、受け取らないなんてできそうにな
い。
(渡される前に、留学のことを言う? それでも純子ちゃんがプレゼントしてくれるの
なら――いや、こんな試すような真似はしちゃだめだ。それに……中間テストに悪い影
響が出るかもしれないじゃないか)
 留学のことを話さずにいられる理由を探し、見付ける。純子の勉強や成績、ひいては
先生への受け及び学校側のモデル仕事への理解を考えれば、正しい判断であったが、別
の意味では間違っている。
(僕が独断で遠くへ行くと決めておいて、相手には待っていてもらおうなんて、身勝手
極まりないよな。僕が純子ちゃんを信じていても、純子ちゃんは僕を信じられなくなる
かも。ああっ、何もかも分かった上で決断したつもりだったのに! 誕生日プレゼント
のためにバイトを始めたことにすら思い至らない。全然、分かっていなかったんだ)
 留学の件は、もう後戻りできない。よほどのアクシデントがない限り、このまま進む
段階にまで来ている。だったらあとは。
(純子ちゃんの気持ちに任せるしかない)
 あるいは当たり前の結論に、時間を要して達した。少しだけど、すっきりした。

            *             *

 五月二十八日。半ドンが終わった。
 結局、純子の昼食作りはなくなった。相羽に予定があったのだ。誕生日をきれいさっ
ぱり忘れていた当人が言うには、母親が昼間、どこかに食べに行きましょうと決めてい
たのを思い出したらしい。
「案外、おっちょこちょいなんだねえ」
 下校の道すがら、駅まで一緒に行く結城が呆れ気味に評した。なお、淡島は試験を控
え、先日休んだ分を取り戻すべく、補習を自主的に受けている。よってこの場にはいな
い。
「おっちょこちょいっていうか、えっと、視野狭窄? 一つのことに意識が向くと、周
囲がほとんど見えなくなる」
「一言もありません」
 相羽は自嘲の笑みを覗かせ、認めた。
「てゆうことは、このあとどうするんだ?」
 唐沢が聞いた。最後尾をぷらぷらと着いてくる。
「もしかして、俺、というか俺達、お邪魔虫?」
「……僕からは何とも」
 相羽は純子に顔を向けた。
「今は、そうでもないけど」
 純子の返事は、妙な言い回しになった。ぴんと来たのは結城。
「どこだか知らないけど、家の最寄り駅で降りてから、二人きりになれればいいってわ
けね」
「だったら、邪魔してることになるの、俺だけじゃん」
 唐沢がぼやくと、結城が「こっそり見物していったら? 様子をあとで聞かせてよ」
なんて冗談を言った。
 そんな唐沢の心配は、すぐあとになくなった。駅に着く前に、鳥越が追い掛けてきた
からだ。
「唐沢クン、ひどいよ。掃除当番だから、待っててくれって言ってたのに」
 怒りつつも疲れからか、妙なアクセントかつ情けない顔で話す鳥越。それを見て、唐
沢は即座に思い出したらしい。
「わ、わりい。入部の話だったよな。今から戻るか?」
「入部って、唐沢君が天文部に? 今から?」
 聞いていなかった純子は、唐沢に尋ねるつもりで言った。だが、唐沢は鳥越とのやり
取りに忙しいと見て取ったか、相羽がごく簡単に説明する。
「最近、勉強に余裕ができて、何にもしていないのが退屈になったとかで、どこかに入
りたがってたんだ。ほぼ幽霊部員とは言え、僕らがいるところが馴染みやすいだろうっ
て理由で、天文部を選んだみたいだよ」
 純子が頷く間にも、鳥越と唐沢の会話は続いている。純子達とは反対方向の電車に乗
る結城は、「長引きそうだし、電車来るし、ここでバイバイするね。お疲れ〜」と言い
残し、とことこと足早に行ってしまった。
「学校でなくても、届けを書いてもらうことはできる。あと、どれだけ本気なのか質問
していいか」
「何、そんな面接みたいなことするのか」
 驚いたのは唐沢だけじゃない。純子も驚いたし、顔を見合わせた相羽も同様だ。
(私には面接なんてなかったのに)
 そのことを口に出そうか迷っていると、相羽が先に動いた。
「次期副部長。唐沢の知識はともかく、熱意は保証するよ。だから――」
「いくら君の頼みでも、簡単に承知できないな。だいたい、今日の約束を忘れてすっぽ
かすこと自体、本気度が欠けてる証拠だ」
「それは僕らにも責任があるかも……」
 相羽は純子に目配せした。
「今日、誕生日でさ。純子ちゃんがプレゼントをくれるっていう話で盛り上がって、唐
沢も興味を持ったみたいで、着いてきたんだ」
「……確かに気になる。でも」
 鳥越は改めて唐沢に言った。
「男と男の約束なんだから、忘れないでくれよ〜」
 しなだれかかって泣きつかんばかりの勢いに、唐沢は大きく深く息を吐いた。
「男の約束って言われてもな。そういう性格の約束じゃないと思うんだが。すっぽかし
たのはほんと、謝る。面接は勘弁してくれ、してください。今の俺は情熱だけだから、
クリアできる気がしない」
「鳥越、僕からも頼む。星や夜空のことをこれから勉強しようっていう新人を、ここで
門前払いにするのはよくないと思う」
「うう〜ん」
「入部させて、唐沢が他の部員に悪い影響を与えるようだったら、僕が責任を持つ」
「責任……具体的には? 一緒に辞めるとか言われても、部としては嬉しくない。相
羽、君が辞めたら、涼原さんにまで辞められそうだし」
「や、辞めないわ。少なくとも、そういう理由では」
 純子が慌てて言うと、鳥越は、不意に何かを思い付いたらしく、口元で笑った。
「三人とも、中間考査明けから一学期いっぱい、活動日にずっと顔を出すとかはどう
?」
「――鳥越君、ごめん。凄く難しいです」
 純子はスケジュールの書かれたカレンダーを脳裏に描き、ほぼ即答した。
「ほんとに文字通り、顔を出すだけなら何とかなるかもしれないけれど、最後までいる
のは恐らく無理だわ」
「うんうん、そうだろうな。他の二人はともかく」
 分かっていた様子の鳥越。
「だったら、昼の太陽観測はどうだろう? ほぼ毎日、当番制でやってるんだけど、当
番とは関係なしに、涼原さん達は昼休み、屋上まで来て顔を出す」
「それなら……学校を休まない限り、大丈夫かな」
「学期終わりまでに、三人とも来ない日が一度でもあったら、唐沢、君の入部は認める
が」
「へ? 認める?」
 唐沢の顔にクエスチョンマークが描かれたようだ。鳥越は愉快そうに続ける。
「うん。認めるが、合宿には参加禁止。これでどう?」
「ええー、意味ないじゃん! いや、天文に興味はあるが、合宿はまた別の楽しみって
ことで」
 ごにょごにょと語尾を濁す唐沢。その肩をぽんと叩いて、相羽が意見を述べる。
「いいんじゃないかな? 心配なら、唐沢一人でも連日、太陽観測に足を運べば、条件
達成だ」
「むー。俺、女子に声を掛けられると、そっちを優先しちゃう癖があるからなあ。それ
に真面目な話、委員長やってるからその役目で昼の時間、潰れる可能性なきにしもあら
ずだし、自信持って返事できねー」
「そんなときは私か相羽君が行けると思うから、ね?」
 時間が気になり始めたこともあって、純子は鳥越の提案を受け入れる方に回った。実
際、悪くない話だと思う。
(唐沢君がどれだけ本気なのか、私も分からないけれど、入口にはちょうどいいんじゃ
ないかしら。って、私だって部活動に参加していない点では偉そうなこと言えない)
「涼原さんがそう言ってくれるなら。その条件で頼むよ、えーと、副部長だっけ?」
「次期、ね」
 鳥越と唐沢はそのまま入部の手続きに関する諸々を済ませるために、道端で書き物を
始めた。

――つづく




#516/598 ●長編    *** コメント #515 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:12  (331)
そばにいるだけで 67−2   寺嶋公香
★内容
 自宅までの道を心持ち早足で歩いて行く。唐沢の入部騒動で、余計な時間を食ってし
まった。誕生日プレゼントを持って来ていれば、学校でも渡せていたはずだが、包装に
皺が寄るのを嫌ったのと、周りから冷やかされるのを避けたかったのとで、家に置いて
きたのだ。
「お待たせ!」
 家まで来てもらって、上がる時間がない相羽を待たせる形になった。気が急いた分、
短い距離をほぼ全力疾走で往復してしまった。さすがに息は切れないが、足音で気付か
れたようだ。相羽は苦笑する口元を手で隠しつつ、「そこまで急がなくても、大丈夫だ
ったのに」と言った。
「この場で感想を聞きたいんだもの。誕生日、おめでとうっ」
 相羽に紙袋を手渡しながら、純子。
「開けていいんだね。――スコアのノートと、これは……」
 縦長の箱を取り出す。紙ではなく、立派なケース入り。
「万年筆だ。あ、音楽用の?」
 万年筆のケース脇に音楽用を意味するMSと記してあるのに気付いた相羽は、少し意
外そうな反応を示した。小説を書くこともある彼のことだから、そちらの用途でプレゼ
ントされたと思ったのかもしれない。
「そ、そう。前、作曲もするっていうのを聞いたから。手に馴染むかどうか分からない
けれど、もし使いにくくても、お守りか何かみたいに思ってくれたら」
「――ありがとう」
  相羽はプレゼントを持ったまま、純子をしっかり抱き寄せた。紙袋のかさかさという
音が聞こえたかと思うと、すぐにまた元の距離に戻ったけれど、純子をドキドキ支える
には充分な時間だった。
「大切に使う」
「え、ええ。もう、逆に、壊れるくらいに一生懸命使ってもらってもいいわ。すぐにま
た新しいのをプレゼントするから、なんてね、あははは……」
「うん。がんばるよ」
「……相羽君。やだなあ、目がうるうるしてる。これくらいのことでそこまで感激され
ると、困っちゃうじゃない」
 相手の顔に感情を見て取って、純子はわざと茶化すように言った。喜んでもらえるの
は贈った方としても大変嬉しいのだが、普段にない反応をされると戸惑いが勝りそうに
なる。
「嬉しいんだから、仕方ないだろ」
 相羽も恐らくわざとだろう、ぶっきらぼうに返すと、受け取ったばかりのプレゼント
を丁寧に元の状態にする。そして学生鞄の中にスペースを作り、これまた丁寧に仕舞っ
た。
「さて。名残惜しいけど、もう帰らないと」
「おばさまにもよろしく言っておいてね。それに、えっと、親子で仲よくお祝いしてく
ださいって」
「分かった。誕生日の当事者がそれを伝えるのは、何となくおかしな気もするけど」
「そうなのかな? とにかく、おめでとうございますってことよ」
「はは、了解」
 別れ際には、いつもの相羽に戻っていた。

 中間考査は、始まるまでに二度ほど友達同士で集まって勉強会をした成果か、無事に
乗り切れた。純子に限って言えば、一年時最後の成績と比べて点数の上下こそあれ、少
なくとも補習や追試を受けねばならない科目は、一つもなかった。
 特に、大きかったのが白沼のサポート。そう、勉強会には白沼も参加したのだ。
「意外だったって? 今回は特別よ」
 全部のテストの返却が終わったあと、感謝の意を告げた純子に対し、白沼は当然のよ
うに答えた。
「もしも追試なんてことになったら、スケジュールが狂うでしょ、仕事の」
「あ、そういう……」
「もちろん、私が手助けしなくても、大丈夫だったとは思うけど。あなた、多忙な身の
割に、勉強もできるんだから」
「ううん、今回はいつも以上にピンチだった。白沼さんがポイントを教えてくれたか
ら、凄く凄く助かった。あれがなかったら、睡眠時間削らなきゃいけなかったわ」
「それは何よりですこと。寝不足はお肌の大敵と言うし、たっぷりと寝て、鋭気を養っ
てちょうだいね」
「……怒ってる?」
「いいえ。怒ってるように見える? だとしたら、あなたが何度もお礼を言ってくるか
らね。無駄は省きましょ。それよりも――また、唐沢君が見当たらない」
 クラス委員として何かあるのだろう、白沼は腕時計で時間を気にする仕種を見せた。
「知らないわよね」
「ええ。昼休みなら、屋上に行ってる可能性が高いんだけど」
 伝わっているのかどうか心配になったので、天文部のことを白沼に話しておく。
「そうなの。……その合宿、あなた達も参加するのね?」
「達って?」
「決まってるでしょ、相羽君よ」
「う、うん。参加するつもり」
「スキャンダルはごめんだから、監視役で着いて行こうかしら」
 視線を巡らせ唐沢を探すそぶりをしながら、白沼はさらりと言った。
(まさか、白沼さんまでここに来て入部?)
「し、白沼さん! そんなスキャンダルなんてないから!」
「着いて行ったって、ずっと貼り付けるわけないんだし」
「だから、何にもしないってば〜」
「あなたにその気がなくたって、健全な高校生男子が抑えきれるかどうか。夏だから、
涼原さんも薄着になるでしょうしね」
「――」
 赤らんだであろう頬を、両手で隠す純子。白沼はまた腕時計を見やった。
「冗談よ。――もう、仕方がないわね。唐沢君の苦手な子って、やっぱり町田さんにな
るのかしら」
「はい?」
 急に友達の名前を出されて、戸惑った。おかげで気恥ずかしさは吹き飛んだけれど
も、話の脈絡が掴めない。
「あなたからでもいいわ。町田さんに頼んで、唐沢君にきつく言ってもらえないかし
ら。休み時間になっても教室を飛び出さず、少し待機しなさいって。それとも、学校が
違ったら、友達付き合いも疎遠になってる?」
「ううん。大丈夫だけど……芙美が言っても、効果があるかどうか」
「そうなの? じゃあ、あなたと町田さんとで、飴と鞭作戦」
 絵を想像してしまった。唐沢がサーカスのライオンで、純子が給餌係。町田は猛獣使
いだ。思わず、笑った。
「ふふっ。それでもうまく行くか、分かんないけど、今言われたことは伝えておくわ」
「頼むわね。あ、そうだわ。唐沢君の弱みを知りたい」
「え?」
「弱みを握れば、私の言うことも多少は聞くようになるでしょう。町田さんなら、小さ
い頃から唐沢君を知ってるみたいだし、何か恥ずかしいエピソードも知ってるんじゃな
いかしら」
「あんまり気が進まないけど……一応、聞いてみる」
 悪魔っぽい笑みを浮かべた白沼に、純子は不承不承、頷いた。

「――ていうわけなんだけど」
 純子が話し終わると、町田は歯を覗かせ、呆れたように苦笑した。
「久方ぶりのお招きに、何事かと思って来てみたら、あいつの話とはねえ」
 電話口で、ともに中間テストが終わって、時間に余裕がある内に会いたいねという風
な話の振り方をした結果、町田が純子の家に来ることになった。
「ほんとに会いたかったのよ。たまたま、白沼さんに言われたのが重なって」
 ケーキと紅茶を勧めながら、純子は必死に訴えた。
「はいはい。でもって、純子、あなたは私とあいつとの仲がどうなってるか、気にして
ると」
「ま、まあね。芙美だって、学校での唐沢君のこと、気に掛けてるんだし」
 時折、電話したときに、学校での唐沢の様子を伝えてはいた。包み隠さずを心掛けて
いるので、この間のパン屋での一件も知らせてある。
「知っての通り、近所だから、顔はよく合わせるわけよ。デートしてるところを見掛け
る頻度が、めっきり減ったわ。ゼロと言ってもいいんじゃないかな。単に、行動範囲を
変えただけかもしれないけれど」
「見てる限り、校内では女子と親しく話してても、校外のデートはしてないと思う」
「心を入れ替えたとでも?」
「……分かんない。ただ、勉強の時間を確保するのには、苦労してるみたい」
「まったく、無理してレベルの高いところに入るから」
「でもね、最近はコツを掴んだみたいなこと、言ってたような」
「純、それは何のフォローなんだね? 唐沢の立場からすれば、逆効果になってる気が
するんだけど」
「えっと。フォローというか、現状報告の最新版」
「ふうん。それで、あいつは白沼さんとはうまくやってるの? 委員長として」
「うまく……立ち回ってる感じ?」
「あははは。その表現で、様子が目に浮かぶわ。白沼さんの苦労ぶりまで。だからっ
て、弱みを握りたがるのはねえ。気持ちは理解できても、やり過ぎ」
「やっぱり、そうだよね」
「だいたい、そんな弱みになるようなネタがあったら、私が使ってる」
「え」
「実はネタがないわけじゃないんだけど、私にとっても地雷だから。一緒になっていた
ずらしたりね。にゃはは」
「本当に、昔から仲がよかったのね」
「昔は、よ。こーんぐらいの頃だけ」
 町田は手のひらを使って背の高さを表す仕種をする。座っているから今ひとつぴんと
来ないけれども、幼稚園児ぐらいだろう。
「あいつがもて自慢するようになってからね、おかしくなったのは。あ、一個思い出し
た。これなら私は関係ないから、言えるわ」
「うん? 唐沢君の弱みの話?」
「まあ、小っ恥ずかしい話。あれは小学……四年生のときだった。知っての通り、小学
校は別々だったけど、お祭りなんかでばったり出くわすこともあるわけよ。あの年も同
級生の女子を大勢引き連れていた。私の方は友達、女友達二、三人と一緒で、穏やかに
すれ違うつもりだったのに、向こうが『女子ばっかで楽しいか』みたいな挑発をしてき
たから、こっちもつい」
 芙美と関係のない話じゃないのかしら?と疑問に感じないでもなかった純子だった
が、スルーして聞き役に徹した。
「『そっちこそ、毎度毎度同じ顔ぶれを引き連れて、よく飽きないわね』的なことを言
い返してやったの。そうしたら、『じゃあ、おまえらこっちに入れよ』って」
「それが恥ずかしい話?」
(単なる唐沢君の照れ隠しなんじゃあ……)
 純子のさらなる疑問を吹き消すかのように、町田がすかさず言った。
「まだ続きがあるのよ。上からの物言いがしゃくに障ったんで、私らも応じないで、適
当に辺りを見渡しながら、『その辺の女の子をつかまえれば』って言ってやった。それ
を唐沢の奴、真に受けてさ。私が顎を振った方向の先にいた、女の人に声を掛けに走っ
たのよ」
「女の人って、まさか、大人の?」
「そうよ。自信があったんだか知らないけど、当然、相手にされるはずもなく、当たっ
て砕けていたわ」
「唐沢君、無茶するなぁ」
 それだけ芙美を気にしているから――そう解釈できると思った純子だが、敢えて言葉
にはしまい。
(芙美も分かってる。第三者があれこれ口出しするときは過ぎてる。あとは二人のどち
らかが行動するだけ。芙美には唐沢君の普段の様子を伝えているけれど、特に気持ちを
動かされた感じはないのよね。そうなると、唐沢君が行動を起こすしかないんだろうけ
れど)
 かつての自分の鈍さ加減を思うと、無闇に焚きつける気になれない。相羽との件で
は、周りに気を遣わせていた意識は充分すぎるほど自覚している純子なので、今さら自
分が気を遣ったり気を揉んだりする分は厭わない。
(芙美も唐沢君も多分、お互いの気持ちを分かってて、意地を張ってる。どちらか一方
じゃなく、二人が揃って素直になれるタイミングじゃないと難しいかなあ)
 知らず、芙美の顔をじっと見ていた。視線に気付いた相手から、「唐沢のことなんか
より」と話題を転じられた。
「相羽君との仲を聞かせてほしいな。おのろけでも何でもいいから」
「誕生日プレゼントを贈ったわ」
「ほう。何を」
「万年筆と五線譜ノートを。ただね、相羽君てば、自分の誕生日を忘れていたいみたい
で」
「ふうん? よっぽど忙しいのかねー。忙しさなら、純子の方が上だと思ってたけど」
「分かんないけど、私だけ忙しいのよりはずっといい。だって、会えなくなって、私だ
けの責任じゃないもんね。あは」
「ジョークでも悲しいわ。その分じゃ、まともなデート、ほとんどしてないんだ?」
「うん。少ないからこそ、一回が濃くなるようにがんばってるから」
「……濃いって、まさか……」
「ん?」
「……あんた達二人に限って、あるわけないか」
「何が」
「デートの回数が少ない分、一回を濃くしようとして一気に進展するようなこと、ある
わけないわよねって言ったの」
「――な、ないけど」
 キスをしたことが頭を何度もよぎる。一気に進展とまでは言えないだろうけど、純子
達にとっては大きな進展に違いない。
「どうしたん? 顔が赤いよ」
 顎を振って指摘する町田。純子が「何でもない」と急ぎ気味に答える。
「さっきも言ったように、今日の私はのろけも大歓迎よ。自慢でも何でも来い」
「自慢するようなエピソードは、まだ……」
「あらら、残念。うらやましがらせるような話を聞かせてくれたら、私も早く彼氏を作
りたいなーって思ったかもしれないのに」
「ほんと? ようし、それなら楽しい話ができるよう、デートに精を出すわ」
 お互い、どこまで本気で言っているのか、当人達さえも分からないやり取りで終わっ
た。

 町田と久しぶりに顔を合わせて話をした翌日、純子は学校に着くなり、白沼の姿を探
した。唐沢の弱みについて、成果は大してなかったが、一応、伝えておこうと思ったか
ら。
(唐沢君は教室に来るのが遅い方だから、いない内にすませちゃお)
 そんな考えを抱いて教室に入った。途端に、当の白沼が気付いて、駆け寄ってきた。
(えっ、白沼さん、そこまで知りたがっていたなんて。すぐに教えたいけれども、で
も、唐沢君がいないことを確かめてからにしないと)
 慌てて教室を見渡すが、確認し終えるよりも早く、白沼が目の前に立った。
「あ、あの」
「ちょっと」
 袖を引っ張られ、そのまま二人して廊下に出る。鞄を机に置く暇すらもらえない。
「唐沢君、教室にいるの?」
 廊下に連れ出されたことをそう解釈した純子。だが、白沼はあからさまにきょとんと
した。
「何の話? 私はあなたに仕事の話をしたいの。さあ、もっと隅っこに行かなきゃ聞か
れるかもしれないでしょうが」
 校舎の端っこ、壁際まで来た。人がいないわけではないが、通り過ぎるばかりで、誰
も気に留めまい。
「仕事って」
「加倉井舞美の事務所から、直接うちの方に打診があったのよ。夏休みの期間中、テラ
=スクエアのキャンペーンのお手伝いをさせてもらえませんかって」
 話が見えない。とっても意外な名前が出て来た気がする。
「加倉井舞美って、あの加倉井さん?」
「どの加倉井さんか知らないけれども、加倉井舞美はあなたと面識があるのよね? 一
緒にやりたいと言ってきたのが昨日の夜だそうよ。今頃、正式な連絡があなたの事務所
にも入ってるはず。そっちは何か事前に聞いていた?」
「何にもないわ。うーん」
 思わず腕組みをしてしまった。
(加倉井さんがまた一緒に仕事をしたがっていたのは、私――風谷美羽ではなく、久住
とよね。それがまた、どうして私と)
「涼原さんにもわけが分からないのね? 加倉井舞美ほどのタレントが、向こうから使
って欲しいと言ってくれるなんて、ありがたい話だと思うわ。でも、異例でしょう、こ
ういうの。何か裏があるのじゃないかって気になったから、とにもかくにもあなたに事
情を聞こうと考えたわけ。それなのに、その様子じゃねえ」
 がっかりしたのとあきれたのが綯い交ぜになったような、徒労感漂う笑い声が、白沼
の口から漏れ聞こえた。
「白沼さんのところは、この話を受けるつもりは?」
「基本的にはあるみたいね」
「だったら、私、じかに聞いてみようかな」
「個人的に連絡取れるの?」
「え、ええまあ。電話番号やメールアドレス、教えてもらったから。ただ、メモリに入
れてないし、覚えてないから、一旦帰らなくちゃいけないんだけど」
「え、メモリに入れてないって、どうしてよ?」
「万が一、私が携帯電話をなくしたら、迷惑掛かるかもしれないから、芸能人の分は入
れないようにしてる」
「ロックしておけばいいんじゃないの。あー、はいはい、解除されるかもしれないと。
そうよね」
 一人で勝手に納得した白沼は、少し考える時間を取った。
「……今すぐ聞けないのなら、あんまり意味ないわね。あなたのとこのルークにも直接
話が行くのは間違いないから、その返事として問い合わせる方が礼儀にも叶うでしょ
う」
「そうかもしれない。白沼さん、凄い。業界にすっかり慣れた感じ」
「そう見えるのなら、少し分かってきただけよ。全体を大まかに見て意見を述べるの
と、連絡係をやってるだけなのに、やたらと調整に手間が掛かって面倒なのはよく飲み
込めたわ」
 白沼は大きく嘆息すると、視線を純子に向け、じっと見てきた。
「よくやってるわね、こんな仕事」
「わ、私は担がれてる方だから、手間とか面倒とかはあんまり。端で見ていて、大変だ
なあって思うし、スタッフさん達に支えてもらっているというのは、凄く感じてるけど
ね」
「じゃあ楽なの? 楽なら私もチャンスがあればやってみようかしら」
 本気とも冗談ともつかぬ白沼の意思表明に、純子は一瞬戸惑った。
「楽とは言えないけど、白沼さんがやる気なら応援するっ」
「ばかね、冗談よ」
「あ。そうなの。もったいない……」
 純子は本心から言った。少なくとも、美人度という尺度で測れば、白沼の方がずっと
美人だろう。
「ありがと。でもね、私、何がだめって、あの撮影関係の待ち時間の長さがだめ。まっ
たくの無駄ではないんでしょうけど、無駄に過ごしてる感じが耐えられないわ」
 白沼はふと思い出したように時計を見た。そして素早く行動を起こす。
「急いで戻らなきゃ。無駄話のせいで」

 一時間目のあとの休み時間に、加倉井から打診があった件について、相羽にも聞いて
みた。だが、意外と言っていいのか当然とすべきか、彼はこの話に関して何も知らなか
った。
「えらく急な話だね。夏休みと言ったら、あと一ヶ月くらいしかない。もうほとんどキ
ャンペーンの中身は決まってるだろうに」
 話を聞いたばかりでも、分析力に長けた相羽。すぐに不自然なところを洗い出してく
れた。
「あ、そっか。性急さがおかしかったんだわ。それもあって、何となく裏がありそうな
印象を受けたんだ」
「ねえ、純子ちゃん。加倉井さんの話は事務所に正式な形で届くだろうから、そのあと
でいいんじゃない?」
「う、うん。昼休みにでも電話して、聞いてみようかな」
「よし、決まり。実は、こっちも話があってさ。今朝、鳥越に会ったときに言われたん
だ。天文部の集まりに顔を出してくれって。合宿の説明がある」
「あっ、忘れかけてた。だめだ、私」
「そう自分を責めなくても」
「違うのよ。それだけじゃないの。昼休みの定点観測。電話を掛けることばかり考え
て、すっぽかすところだった」
 反省しきりの純子は、昼は屋上、放課後は天文部部室に行くことを頭の中にしっかり
刻んだ。
 ……刻んだのだが、合宿の話は思い掛けず、鳥越の方から足を運んでくれた。二時間
目の終わったあと、わざわざ教室までやって来た次期副部長は、「待っているだけだ
と、本当に来るか不安だから」とやや嫌味な、しかし当然とも言える前置きをした。
 聞き手は純子と相羽と唐沢の三人だ。と言っても、長くはない休み時間故、鳥越は必
要事項を記したプリントを用意しており、手早く配った。
「日程はそこにある通りで決まり。絶対に動かせないから。他に分からないことや、こ
うして欲しいという希望があれば、なるべく早めに言ってくれ。できれば今の役員に」
「はーい」
「費用のことも書いてあるけど、割り当ての活動費でまかなえる範囲に収まったから。
ただし、二日目のバーベキューを豪華にしたいなら、カンパ随時受け付け中」
「つまり、不良部員の俺達に多めに出してくれと」
 唐沢が緊張の色濃く出た笑みを浮かべて尋ねる。鳥越は対照的に、邪気のない笑みで
応じた。
「いやだなあ。そんなつもりは全然。ただ、合宿を楽しく過ごすには、まずは食事の充
実からかなと思ったまでのこと」
「食事の話はおくとして、一つ聞きたいことが。いい?」
 純子はプリントを持っていない方の手を挙げた。鳥越は相好を一層崩した。
「答えられるかどうか分かんないが、受け付ける」
「今回は皆既日食がメインなんでしょう? でも、夜は夜で観測するの? 流星群の時
期に重なるはずだし」
「もちろん、するよ〜。機材の運搬が大変だけど、副顧問の作花(さっか)先生がマイ
クロバスを出すと」
「そうなんだ? それで、細かいスケジュールや観測対象は、またあとで決めるのね」
「そうだね。まあ、夜の観測対象は、やぎ座流星群及びみずがめ座流星群が本命で決ま
りだよ」
「月齢の条件も、まあまあいいんだっけ。楽しみ」
 眼を細める純子の横では、唐沢が相羽の肩をつついていた。
「話が半分ぐらいしか分からないんだが」
「僕はだいたい理解してる」
「うーむ、こんなんで参加していいのか、不安になってきたわ、俺」
 唐沢のぼやきは、鳥越の耳にも届いていた。
「不安なら、テストしてあげようか」
「いやいや、遠慮しとく! 部活の中で教えてくれ」
 唐沢が椅子から立って逃げ出す格好をしたところで、タイムアップとなった。


――つづく




#517/598 ●長編    *** コメント #516 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:13  (384)
そばにいるだけで 67−3   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:12 修正 第2版
「それなんだけどねえ」
 昼休みに三度電話を掛けたがつながらず、太陽の観測に顔を出す必要もあったため、
連絡が取れなかった。なので放課後、純子は相羽とともに事務所に寄って聞いてみた。
部屋に入るや開口一番、「加倉井さんのところから話があったと聞きましたが」と切り
出すと、市川は明らかに困り顔で反応した。
「アルファグループのプロジェクト的には、細かい部分は進めながら決めていく方針だ
から、よそ様のタレントが絡んできても、よい使い方を考えるだけなんでしょうけれ
ど、うちにとってはあんまり美味しくない話」
「あ、いや、そういう部分の問題じゃなくて、そもそも何で加倉井さんがテラ=スクエ
アのキャンペーンに協力したいと言い出してきたのか、理由があるのなら知りたいなと
思ったんです」
「うん、その辺のことならさっき、と言っても一時間以上前だが、連絡をもらった。テ
ラ=スクエアの仕事で協力する代わりに、久住淳との将来の共演を確約して欲しいとい
うご要望だったよ」
「うわ」
 そういう狙いだったのね。一応、納得するとともに、冷や汗をかく思いもする。
(もし朝の段階で加倉井さんとホットラインが通じていて、迂闊にOKの返事をしてい
たら、大変だったかも)
 好ましく思っていないのは、市川も同様だった。回転椅子を軋ませ、事務机越しに身
振りで、高校生二人にソファに座るよう促す。純子と相羽はテーブルを挟み、向き合う
形で座った。
「そんなこと言われたってねえ、先方やアルファさんにはメリットがあっても、うちに
はほとんどないから。そりゃあ、加倉井舞美との共演は魅力的な話ではあるけれども、
その加倉井舞美とあなたが夏休みの間中、しょっちゅう顔を合わせていたら、さすがに
ばれる恐れが高まる。リスクが大きい」
 市川の深い深いため息を引き継いで、杉本がデスクから顔を起こして言った。市川の
デスクとは直角をなす位置におり、純子からは斜め後ろを振り返らないと杉本の姿が見
えない。
「せめて、テラ=スクエアでの仕事そのものが、加倉井舞美ちゃんと久住淳との共演な
んていう要望だったならよかったかもしれませんね。だめ元で、こっちから提案してみ
ます?」
「いや、それはそれで不自然になるだろうね。その共演が行われている間、キャンペー
ンガールの風谷美羽がどこかに消えちゃう形になるんだから。どこをつつかれてもおか
しくない理由を用意できるなら、考えてみる余地はあるが」
「だめですよ、断るべきです」
 相羽が不意に発言した。言葉は柔かだが、口調に断固としたものが感じられる。皆が
注目する中、彼は続けた。
「加倉井舞美さんは、久住淳との共演話は遠い将来という形で希望していたと聞いてい
ますが、間違いないでしょうか」
 大人達へ尋ねる口ぶりだったが、これには純子が答える。
「ええ。あの時点で、加倉井さんはスケジュールが決まってる風だったし」
「それなのに、今回の件は若干、話を急いでる気配がある。もしかしたら、別の都合が
新たに加わったのかも。完全に想像だけで話すと、たとえば、加倉井と久住でカップル
として売りたい、とか」
「え! カップル?」
 相羽の隣で叫んでしまった純子。意味がすぐには飲み込めなかった。
「なるほどね。今はあんまり流行らないけれど、昔は結構あった売り出し手法だね。こ
の男優にはこの女優、みたいなイメージを世間に植え付けるわけだ。ゴールデンコンビ
として認識されれば、しばらくはその組み合わせだけで結構売れる」
「中には、本当にカップルになって、結婚するのもいましたねえ」
 芸能の歴史や事情をよく知る市川と杉本は、説明がてらそんなことを言った。
「け、結婚て……絶対に無理じゃないですか。断らないと」
「いや、あの、決定したわけじゃないんだし」
 焦りが露わな純子を、相羽が落ち着かせる。
「でも、当たっているかどうかは別にして、また、加倉井さんからの要望を聞くか否か
とも関係なく、この話自体、僕は拒むべきだと思いますよ」
「理由を聞こうじゃないか、信一君」
 純子に代わって、市川が聞き返した。
「今の加倉井さんと一緒にやったら、純子ちゃんは食われてしまいます」
「そりゃまあ、理屈だね。相手の方がキャリアは上で、トーク力もある。食われて当
然。だが、私の見立てでは、個性は五分と踏んでいる。キャンペーンの内容によって
は、純子ちゃんが勝つことも可能じゃないのかな?」
「加倉井さんの個性を殺すような勝ち方では、だめなんじゃないですか。恐らく、互い
にマイナスになります。キャンペーン自体の勢いを削ぐかもしれない。ですから、どう
してもこの話を受けるのなら、相手を立て、持ち上げることに専念するのがましじゃな
いかって気がします。そういうのって、圧倒的に差がある人と共演するよりも、力が近
い相手と共演するときの方がずっと難しいでしょうけど」
「なるほど。案外、的を射ているかも」
 市川は目を丸くし、感心した風に息を吐いた。
「さすがね、風谷美羽の一番のファンだけはある」
「べ、別にそんなつもりでなくたって、おおよそのところまでは想像が付きますよ」
 市川にからかわれた相羽は、目元が赤みがかった。純子の方をちらっと見て、「1フ
ァンとしては、彼女の気持ちを最優先にしてもらいたいなって思ってます」と、捲し立
てるように市川に進言した。
「分かった。では聞こう。どう?」
 市川は座ったまま、椅子ごと身体の向きを換えると、純子の顔をじっと見てきた。
「私は……加倉井さんと一緒に仕事をしたくないわけじゃないんですけど、テラ=スク
エアとは切り離した方がいいと思うんです。白沼さんが関係していますから」
「ほう?」
「加倉井さんが来ると多分、芸能界の話題が出るし、久住淳についても色々発言するは
ず。中には外に漏れたらまずい話が出るかも。それが万が一、白沼さんの耳に入った
ら、ややこしくなりそう」
「あの子は口が堅そうだし、仕事とプライベートをきちんと分けられるように見えたけ
ど」
 これは杉本の感想。ほぼ印象のみで語っているはずだが、当たっている。
「ゴシップ程度なら問題ないです、多分。心配なのは、久住淳に関すること。下手をし
たら、一人二役、白沼さんに勘付かれるかもしれません」
「彼女、そんなに勘がいいのかい?」
 市川の質問に、純子は軽く首を傾げ、
「分かりませんけど……久住淳として会ったことがあるので、記憶を刺激するような話
題は避けたいんです」
 と答えた。
「ああ、そういえばそうだった。よろしい、決めた。今回は断る。と言っても、うちが
できるのは、共演を断る意思表明くらいで、企業が別口で加倉井舞美と契約する分には
口を出せないけれどもね」
「充分です。よかった」
 純子が笑み交じりに反応すると、市川の行動は早かった。すぐさま電話をかけ始めた
かと思うと、今決定したばかりの判断を先方に伝え、さらに今後もこのプロジェクトに
関しては共演なしでお願いしたいと強く要望を出し、会話を終えた。
「これでよし、と。――ついでに聞いておきたいんだが、純子ちゃん」
「はい?」
「本音のところでは、どうなの。テラ=スクエア関係は脇に置くとして、加倉井舞美と
張り合って――たとえば、同じ映像作品でダブル主演みたいな形で共演して、負けない
自信はあるのかな? 久住へのお誘いはあったわけだし」
「あのー、全然ありません。こと演技に関しては、加倉井さんは尊敬の対象というか」
 あんまり自信のない物言いをすると怒られるかなと懸念しつつ、正直な気持ちを答え
た。さっき相羽が示した見方の通りねと、純子も自覚している。
 果たして市川は、怒りはしなかった。
「だろうね。この場にいない加倉井舞美に気を遣って、『一緒に仕事をしたくないわけ
じゃない』と前置きするくらいだし」
「え、あ、それは」
 口ごもる純子に、市川は意地悪く追い打ちを掛ける。
「けど、それってつまり、演技以外なら勝負になると思ってるんだ、うん」
「ま、まあ、演技に比べたらまだましかなー。あはは」
「そういえば、歌は勝ってたよ」
 市川が言ったのは、五月の頭に催されたライブのこと。思いがけないハプニングを経
て、星崎とともに急遽出てくれた加倉井は、単独でも一曲披露した。
「冗談きついです。リハーサルやウォームアップなしに、あれだけ唄える加倉井さんが
凄い」
「じゃ、今いきなり唄ってみる? あのときの加倉井さんと比べて進ぜよう」
「もう〜、市川さん、やめましょうよ〜。私、これでも学校生活で忙しいんですっ」
「学校生活で“も”、でしょうが。いいわ、相羽君と仲よくお帰りなさいな。しっかり
休んでね」
 急に物分かりよく言ったのは、市川も仕事を思い出したためかもしれない。気が変わ
らぬ内にと、相羽を促し、急いで腰を上げる純子。
「それじゃあ、失礼します」
「――あ。大事なことを伝え忘れてたわ」
 背中を向けたところで、そんな言葉を投げ掛けられた。純子は嘆息し、相羽と顔を見
合わせた。苦笑を浮かべ、二人して振り返る。
「何でしょうか」
「昼過ぎに鷲宇さんから連絡があったわよ。連絡と言うより、報告ね」
 据え置き型のメモ台紙を見下ろしながら、市川は言った。心持ち、穏やかな表情にな
ったような。
「美咲ちゃんの手術が行われて、成功したって」
「えっ――やった! よかった」
 喜びを露わにする純子。隣の相羽は対照的に、「本当によかった」と静かに呟いた。
「帰国はもう少し先になるそうだけれど、順調に回復を見せているとのことよ」
「音沙汰がないから、海外に渡ってもドナーがなかなか見付からないんだと思っていま
した。いきなり聞かされて、びっくり」
「実を言えば、ドナーが見付かったという話もちょっと前にあったんだけれど、あなた
達には伝えずにおこうと決めてたの。気になって、仕事が手に着かなくなる恐れありと
見てね」
 臓器提供が決定したら、ほとんど間を置かずに手術が行われる。仕事が手に着かなく
なるほど、気にしている暇はないだろう。だから、市川のこの台詞の背景にあるのは多
分、手術の結果も併せて伝えたかったのと、万が一にも悪い結果に終わった場合を見越
してのもの……だったのかもしれない。
 ドアからまた引き返してきて、市川のデスクに両手をついた純子。熱っぽく要望を口
にする。
「帰ってくる日が分かったら、すぐさま知らせてくださいね。そして美咲ちゃんに会え
るように、スケジュールを」
「分かった分かった。今日のところは早く帰って、学校の宿題でも片付けなさいな」
 呆れ口調で応じた市川は、まるで追い払うように手を振った。
 純子と相羽は、事務所のある建物を出てだいぶ歩いてから、自分達もあることを知ら
せるのを忘れていたと気が付いた。
「あ――合宿の日程!」
 美咲の手術成功のニュースが、あまりにも吉報に過ぎた。

「そうですか。やはり、遊びに行くのは無理と」
「ごめん!」
 両手のひらを合わせる純子。頭を下げた相手は、淡島と結城だ。
「いいって、気にしなくても。だいたいは予想してた」
 結城が寛容に笑いつつ、言う。昼食後の休み時間、廊下に出てのお喋りは、今の気候
と相俟って、ついつい長くなりがち。
「天文部の合宿参加を純子、あなたが決めた時点で、他の諸々に影響が及ぶのは目に見
えてたわ」
「うー、面目もありません。当の私が、予想できていなかった。罪滅ぼしと言っちゃお
かしいんだけど、今度の土曜の午後、二人に付き合う」
「暇があるの? なら、その時間、私達に使わずに休養に充てなよ」
 結城の言葉に、純子は内心、頭を抱えたい気分になった。次の土曜日を仕事なしにで
きたのは、他の日にちょっとずつ無理をした積み重ねであって、もちろん淡島と結城の
ためにやったことなのだ。
(忙しいことを先に話したのがいけなかったかな。最初に土曜日の件を言って、約束し
ちゃうべきだった)
 後悔しても遅い。ちょっとだけ考え、再チャレンジ。
「私、遊びに行きたい。だから、マコも淡島さんも付き合って。だめ?」
「――まぁったく。あんたって子は」
 結城が両手を純子の頭に乗せ、軽くだがくしゃくしゃとなで回す。
「そういうことなら、付き合うわ。ね、淡島さんも?」
 純子の頭に手を置いたまま、淡島へ振り向いた結城。淡島は、最前の純子よりは長く
考えて、おもむろに口を開いた。
「基本的に賛成、同意しますが……一つ、いえ、二つ、よろしいでしょうか」
「え、何?」
 頭から手をのけてもらい、純子は面を起こしながら応じた。
「まず、一つ目は、涼原さんは補習の方は大丈夫なのでしょうか」
 心配げな淡島に対し、純子は微笑を返しつつ、また少し考える。テストの点数に関し
てなら、赤点にはなっていない。今、心配されるとしたら、出席日数の方だ。同じ科目
の授業を三度四度と続けて欠席するようなことがあれば、必要に応じて補習を受ける。
もちろん、純子だけが特別扱いという訳ではなく、他の人と一緒に受けるので、タイミ
ングもある。
「心配掛けてごめんね。今のところ、大丈夫だよ」
「そうでしたか。今後を見通して、余裕ができたときに補習を先取り、なんてことはで
きないでしょうし」
「あはは、無理無理」
 それこそ、頭がパンクしちゃうんじゃないだろうか。苦笑する純子。
 淡島もつられたように笑みを浮かべ、それから二つ目の件に移った。
「二つ目は、遊びに行くと仮定して、リクエストなんですが。もう一人、連れて行くの
はいかがでしょう」
「うん、いいかも。それで誰を誘う?」
「相羽君ですわ」
 にこにこと笑顔の淡島。純子は対照的に、表情を強ばらせた。
「あのー、淡島さん。相羽君を選ぶのはどういう理由から……」
「もちろん、二人のためを思ってのこと。付け加えるなら、その様子を端から見守りた
いという気持ちもあります」
「うう。それはさすがに嫌かも」
 冗談で言っていると信じたい純子だが、淡島の顔つきからはどちらとも受け取れて、
判断不可能。とりあえず、拒否の方向で。
「相羽君と一緒に行くのが嫌なのですか?」
「そ、そうじゃなくって、相羽君とはまた別の機会に……二人で……」
 純子は結城に視線を送って、助けを求めた。察しよく声が返ってくる。
「ほらほら、その辺にしておきなさいって。純が困ってる」
「そうですか。少しでも一緒にいられる時間を増やして差し上げようという、いいアイ
ディアだと思ったのですが」
 本気だったんかどうか、まだ分からない言い回しをする淡島。
「あ、ありがとう。気持ちだけで充分、嬉しい。でも、相羽君も最近、何だか忙しいみ
たいだし」
「言われてみれば」
 首を傾げ、教室内に注意をやる結城。
「今もいないみたいね。ま、休憩時間にいないからって、単なるトイレってこともある
だろうけど。純、本人に何か聞いた?」
「ううん。前に忙しそうなときは聞いたけど、大げさに騒ぐようなことじゃなかったか
ら、今後は聞かないでおこうって」
「あれま。気にならないの?」
「気にならない、ことはないけど。気にしないようにしてるの。でも三年になってから
も同じ調子だったら、気になるかなあ。だって、進路に関係してそう」
「なるほど。同じ大学に進みたいと」
「そ、そこまではまだ分かんない」
「てことは、芸能界に専念したい気もあるの?」
 結城は意外そうに目をしばたたかせ、声のボリュームを落とした。純子の方はまた慌
てさせられた。
「違うのよ。そんな意味じゃなくてね。進学したい気持ちの方が圧倒的に強いのだけれ
ど、相羽君は多分、目標が明確になってるのに、自分は全然定まってないなってこと。
こう言うと事務所の人から怒られるかもしれないんだけど、学校の勉強以外でも地球や
宇宙について知りたい。仕事を減らして、勉強してみたい。化石を発掘してみたいし、
オーロラや流星雨を観察したい。知りたいこと、体験しておきたいことはいっぱいあ
る。ただ……研究者を目指すのかと問われたら、強くはうなずけない」
「――ほへー。純て、星だけでなく、足元の方にもそこまで興味あるんだねえ。純の星
好きって、相羽君に合わせてるんだと思ってた」
 結城が感心する横で、淡島は「私は分かっていました」とぼそりと呟いた。と、強い
風が吹いて、開け放たれた窓から砂粒が少々飛び込んできた。ちょうどいい折と見て、
窓を閉めてから三人揃って教室に入る。場所を変えても、話題は変わらない。
「化石には、相羽君、関心ないのかな?」
「ううん、相羽君も好きみたい。でも、私が化石に興味持ったのは、相羽君に会う前だ
から、これも合わせたんじゃないのよ」
「そんなに強弁しなくても信じるって。進路の話からずれてきてるし」
「あ。それで……相羽君の一番したいことは音楽だと思う」
「だろうね」
「対して、私の目標がこんな宙ぶらりんな状態だと、相羽君に相談することもできない
し、一緒の大学に行こうだなんて、それこそ言えないわ」
「進路、迷ってるんなら、迷っていること自体を話すのは、ありなんじゃない?」
「うーん。相談したら、回り回って、相羽君と相羽君のお母さんが喧嘩になるんじゃな
いかと想像してしまって」
「い? 何ですかそれは」
 さっきと違い、今度は予想外だったのか、妙な驚き声を上げた淡島。
「私が相談を持ち掛けると、相羽君は、私が仕事を辞めたがってると受け取るかもしれ
ない。そうしたら、相羽君はお母さんに言うと思う。辞めるのは無理でもせめて仕事を
減らしてとか。でも、おばさまは反対するでしょ。契約あるし」
「考えすぎだと思うなあ。相羽君、それくらい承知でしょ。親子喧嘩なんかしない方向
で、純の相談に乗ってくれるんじゃない?」
 笑い飛ばす風に始められた結城の言葉だったが、急にボリュームが下げられた。彼女
の目線の動きを追って、純子と淡島が振り向く。廊下を通り掛かる相羽の姿が、窓越し
に見えた。
「帰って来たと思ったら、またどっか行っちゃった。何を駆けずり回ってるんだろ」
「職員室での用事が済んで、トイレに行っただけでは」
 結城はやたらとトイレ推しだ。それはともかく、確かに方向は合っているが。
(職員室に用事なら、ここに戻って来る途中にトイレあるのよね)
 純子は内心、ちょっとだけ不安を感じた。気にしないように努めても、やはり気にな
る。
「とりあえずさあ、遊びの方の話を決めておきたいな。純は相羽君を誘う、決まりね」
「え?」
 結城の強引さに、呆気に取られてしまった。
「誘っても来られるかどうか……ほんとに忙しいみたい」
「忙しいあんたが言うなって話だけど。相羽君が来られなくても、別にかまわないか
ら、私らは。誘うことが大事」
「うー。分かった」
「成功確率を少しでも高めるには、遊びの内容を相羽君の好みに寄せるのと、それ以上
に、誘うときの純の格好が重大要素になるね」
「格好って……」
 苦笑いを浮かべた純子だったが、次いでおかしな想像をしてしまい、顔が火照るのを
感じた。友達二人に気取られぬよう、手のひらで頬をさする。
「そ、それで、どんなことして遊ぶ? 二人のやりたいこと言ってよ。私が付き合うっ
て言い出したんだからね」
「ぱっと浮かんだことが一つあります」
 淡島が言った。水晶玉にかざしているかのように、宙を動く手つき。
「流行り物ですが、VRの技術を取り入れたプラネタリウムが先頃、オープンしたはず
です」
「あ、それ、知ってる。イタリア発のプラネタリウムのショーに対抗して、作られたや
つだね。文字通り、星に手が届く感覚が味わえるとかどうとかって。私も興味あるな。
星なら純も相羽君にもいいし。ただ、料金が結構高いのと、場所が遠くなかった?」
 結城の反応が早かったので、黙っていたが、純子ももちろん知っていた。天文好き
云々以前に、とある伝があった。そのことを言い出せない内に、淡島が答えている。
「料金は忘れましたが、距離は確か……一時間半ほど掛かると記憶しています。電車だ
けで一時間でしたか。あ、でも土日にはホリデー快速みたいなのがあったかもしれませ
ん」
「何にしても電車で一時間は、ちょっと時間がもったいない気がするねえ。あー、で
も、純にはちょうどいいか」
 にまっ、と笑い掛けられ、純子はきょとんとなった。
「何で?」
「移動中、睡眠に充てられる」
「そこまで寝不足に悩まされてないよー」
「休み時間、スイッチ切ったみたいにぱたっと寝てること、しょっちゅうあるくせに」
「あれは時間の有効活用と言ってほしい……」
 実際、寝ているところへ話し掛けられたら起きるのだから、という補足反論は心に仕
舞っておく。
「ま、移動時間はいいとしても、入場料が」
「あ、チケットの方は、私に任せて」
「だめだよ、純」
「まだ言ってないけど」
「私達の分を出すとか言うつもりじゃないの。いくら普通のバイト以上に稼いでいて
も、それはだめだよ」
「違うって。実はそのプラネタリウムの運営会社と、お仕事でちょっとつながりがあっ
て。割引券をいただいたの」
 ぼかして言った純子だが、その運営会社とはテラ=スクエアの関連グループだ。割引
チケットは白沼から直に渡された物で、「くれぐれも相羽君と二人きりで行くことのな
いようにっ」と、釘を刺されてもいた。尤も、今の白沼は二人の仲を一応、曲がりなり
にも認めてる訳だし、二人きりで行くな云々は、万が一にも芸能ネタになるのを避ける
ようにしてよねって意味らしい。
(マコと淡島さんが一緒なら、相羽君を誘って行っても問題なし、だよね)
 渡りに船という言葉を思い浮かべつつ、純子は結城らの反応を待った。
「……お金は自分で出す物と言った手前、非常に言いにくいわけですが。その割引券は
何枚あるの?」
「五枚。あ、でも、そもそも一枚で五名まで適用可よ」
「割引って何パーセントです?」
「えっと、七十パーセント引き。有効期限はオープンから一年。ただし、オープンから
半年間は、日曜を含めた休日のみ適用除外で使えない。混雑が予想されるからかな」
「おー、土曜ならセーフ。素晴らしい」
 結城は純子の両手を取り、「お世話になります」と頭を下げた。無論、わざとしゃち
ほこばって見せているのは純子にも分かってるのだが、元々もらい物なのだから、感謝
の意を表されても居心地がよくない。だから、言うことにした。
「白沼さんからもらったんだから、お礼なら白沼さんに言って」
「へえー」
「そういうことでしたの」
 結城と淡島は順に反応を示し、続いて白沼の席に目をやった。が、不在。純子はそれ
を承知の上で言ったのだけれど。

            *             *

 この場にいない白沼に代わってというわけでもないが、純子と結城と淡島の会話に、
じっと耳をそばだてていたクラスメートが一人いた。
(あの様子だと、相羽の奴、まだ言ってないな)
 自分の椅子に収まる唐沢は頬杖をつき、顔を廊下とは反対の方に向けた姿勢でいた。
聞き耳を立てていることに、勘付かれてはいないはず。
(ちょうどいいタイミングを計ってるに違いないけど。俺が口を挟むことじゃないかも
しれないけど)
 すぼめたままの口から、ため息を細く長く吐き出す。
(ああやって、相羽を誘って遊びに行く相談をしているのを聞くと、少し心が痛むぞ。
本人に聞かせてやりたい)
 相羽自身が純子達の先の会話を聞いたとして、その場で留学のことを打ち明けること
は、まずないだろう。それでも聞かせてやりたい。
(合宿までに伝えるつもりとか言ってたが、ほんとにできるのかね? ぎりぎりまで引
き延ばすつもりだとしたら、それはちょっとずるいぞ、相羽。相手にも考える時間てい
うか、気持ちを整理する時間をやれって)
 今度相羽と二人で話せるチャンスがあれば言ってやろうかと心のメモに書き留める。
ただ……それくらいのことを分からない相羽だとは考えにくいのもまた事実。
(早く決着してくれないと、俺まで気になるんじゃんか。おかげで、勉強も何も手に付
かねーよ)
 いざとなれば、俺の口から――と思わないでもない唐沢だが、実行に移すにはハード
ルが高い。高すぎる。
(そういえば)
 会話している三人の内、淡島に目を留めた。
(淡島さんは占いが得意なんだっけ。あの子に相羽の留学話を打ち明けて、占いの形で
涼原さんに伝えてもらう――)
 一瞬、悪くはないアイディアだと思えた。
(淡島さんがそんな芝居、できるかどうかは知らないが、涼原さんの受けるショックを
和らげる効果はあるんじゃないか。それに、相羽だって、直に打ち明けるよりは、気が
楽になるんじゃあ……)
 ただ、懸念がなくはない。
(涼原さんにしてみれば、相羽から自主的に話してほしいだろうなあ、きっと。女子の
気持ち、何でもかんでも分かるとは思っちゃいないが、これくらいは想像できる。占い
で示唆されて、相羽に確かめるなんて真似はしたくないに違いない)
 やっぱり、あんまりいいアイディアじゃないな。唐沢はこの案は捨てることにした。
(相羽から打ち明けるのを早めさせられたらいいんだが。あいつ、誰に背中を押された
ら、そうなるんだろう? 一番は母親だろうけど、でも、方法が思い付かん。俺が関与
できるのはクラスメート……白沼さんとか。確か今、彼女の親父さんだかの会社のキャ
ンペーンの仕事を、涼原さんがしているんだっけ。その線を突っつけばどうかな。涼原
さんがショックを引き摺って、仕事に影響が出たら迷惑だから、少しでも早く打ち明け
て!とか。……待てよ。それ以前に白沼さんて、相羽のことを完全にはあきらめていな
い雰囲気なんだよな。相羽の留学話を教えたら、彼女自身が動揺するかもしれん)
 状況を徒にややこしくするのは避けべき。賢い方法を見付けたい。
(あと頼れそうなのは、うーん、うーん……あ)
 不意に、一人の顔が浮かんだ。女子、でもクラスメートではなく、ここ緑星の生徒で
すらない。唐沢の幼馴染みで、ご近所さんだ。
(芙美。あいつにこのことを話したら、何かいい案を出すかな?)

――つづく




#518/598 ●長編    *** コメント #517 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:11  (449)
そばにいるだけで 67−4   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:13 修正 第2版
            *             *

「何、その紙袋は」
 町田に指差された唐沢は、右手をくるっと返して、紙袋表面のロゴが見えるようにし
た。
「鈴華堂の新作で、クロワッサン風どら焼き。芙美が好きそうだなと思って」
「……微妙」
 町田の視線が手元から上へと昇ってきた。唐沢の目にぴたりと照準、否、焦点を合わ
せる。
「クロワッサンと言えばバターたっぷりで、カロリー高そう。そもそも気味悪い。何の
狙いがあって、あんたが私に和菓子を買ってくるのよ」
「そりゃあ、久々の訪問になるから、手土産があった方がいいだろうなと思って」
「嘘。来るときに手土産を携えていたことなんか一度もなかったのが、急にこんな風に
するなんて、絶対に怪しい。何かあるわね。私の直感がそう告げている」
「とにかく入れてくれよ。玄関先で押し問答するほど、嫌われてるわけ、俺って?」
「……どうぞ。誰もいないから」
 言うだけ言って、先に入る町田。唐沢はそそくさと続いた。
「制服のまま来たってことは、学校帰り?」
「うん、まあ。家に、顔は出したけどな」
「それだけ急いで、ここに来るなんて、一体どんな用事よ」
「あー、話の前にお茶、入れてくんない? 俺もこの菓子、味見しておきたい。よさげ
だったら、他の女子に勧める」
「〜っ」
 文句を言いたげな町田だったが、黙ったまま唐沢をダイニングに通すと、自らはキッ
チンに立った。
「日本茶? コーヒー?」
「改めて問われると迷うな。洋菓子なのか和菓子なのか、はっきりしない物を買ってし
まった」
「コーヒーね。インスタントだと後片付けが楽だから」
 勝手に決めて進める町田。背を向けたまま、唐沢に問うてきた。が、その声とやかん
に水を満たす音が被さり、唐沢は聞き取れなかった。
「何て言った?」
「用事ってもしかして純子のこと?って聞いた」
「どうしてそう思うんだ」
「そりゃあ、今現在、あんたから私に直接関係のある個人的な用事があるとは考えにく
い上に、このお菓子」
 と、町田は紙袋から取り出した個包装のどら焼きを、皿にそのまま載せ、唐沢の前の
テーブルに置いた。
「鈴華堂の『すず』から、『涼原』を連想した。それだけ」
 そう説明されて唐沢も、無意識の内に鈴華堂へと足を運んでいたのかもしれないなと
感じた。
「で、当たってるのかしら」
 聞きながらコーヒーカップにお湯を注ぎ終えた町田は、テーブルまで慎重に運んで来
た。唐沢が目の前に置かれたカップに目をやると、お湯の量が若干、多かったようだ。
揺らすとこぼれかねない。
「当たってるよ。おかげで段取りが狂っちまった」
「段取り?」
 唐沢の正面に座り、自身の分の菓子を空けた町田は、手つきを止めて聞き返した。
「こっちの話」
 コーヒーを前に、“お茶を濁した”唐沢は、その段取りを練り直しに掛かった。元
は、以前に相羽の留学話が出た頃のことを話題にして、当時の相羽が純子に前もって打
ち明けるべきだったかとか、女子の気持ちとしてはどうされるのが最善なのかとか、そ
ういった話をしつつ、流れを見て、現在の留学について口外してみるつもりでいた。
(それなのに、涼原さんに関係することだと先に看破されちゃあ、やりにくいじゃない
か。かといって、他にきっかけはありそうになし。ここは一つ、正面突破で)
 心を決めた唐沢は、気持ち、背筋を伸ばした。相手を見据える視線も真っ直ぐにな
る。
「何よ」
 変に映ったのか、町田が速攻で聞いてきた。
「芙美は今でも口が堅いよな」
「うん? そりゃまああんたと比べたら」
「客観的にでも堅いだろう。そうと見込んで打ち明けるんだからな」
「――分かった。他言無用ね」
 唐沢の真っ直ぐさが伝わったか、町田も居住まいを正した。
「昔、相羽が外国の学校に行くかもって話があったのは覚えてるか」
「もちろん。居合わせたわけじゃないけれども、かなり驚かされたし、記憶に残って
る」
「そのときの縁が、今でも続いているらしいってのも分かってるよな。エリオット先生
のこととか」
「うん」
「どうやらその縁がまた強まったみたいなんだ。はっきり言えば、相羽の奴、J音楽院
への留学を決めたって、俺に伝えてきた」
「えええ? まじ? 担いでんじゃないでしょうね」
 途端に疑いの眼をなす町田。唐沢は肩をすくめ、大げさに嘆息した。
「驚きよりも疑いの方が大きいとは、よっぽど信用されてないのね、俺」
「だって、あまりにも突飛だから……」
「悪ふざけでこんなこと言わねえって。で、問題は、相羽はまだ言ってないんだわ、涼
原さんに」
「……おかしい。普通、恋人が一番でしょうに。何でまたあんたに」
「知らんと言いたいところだが、理由は一応ある。あいつが留守の間、涼原さんの護衛
役を頼まれた」
「え? できるの? 見かけ倒しのくせして」
「ひどいなあ。小学校のときの体育で相撲をやったとき、俺、いい線行ったんだぞ。ク
ラスで二番ぐらい」
「どういうアピールよ。あんたは小さな頃からテニスやってて、腕だけは筋肉ついてた
から、そのアドバンテージで勝てただけじゃあないの?」
「そういう説もある」
「まったく。護衛云々は分かったわ。相羽君が純子に言ってないのは確かなのかしら」
「俺に護衛を頼んできた時点で、まだ言ってなかったのは間違いない。その後は分から
ないが、打ち明けたなら涼原さんの態度に出ると思うし、相羽だって俺にそのことを知
らせてくると思う」
「……」
 カップに視線を落とし、沈黙した町田。その様子を前にして、唐沢も黙る。
(事情を把握したところで静かになるってことは、やっぱ、難しい問題なんだな。悪い
な、巻き込んでしまって)
 今からでも「嘘でしたー」とか言って、なかったことにしてやろうかという考えがよ
ぎる。もしそんな行動に出たら、ぶっ飛ばされそうだが。
「日にちは?」
 目線を起こした町田の質問を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「うん? ああ、相羽が行く日ね。八月の早い段階のはずだ」
「あんまり時間ないわね。送別会すら開く暇がないかも」
「おいおい、心配するとこ、そこか?」
「うるさい。考えてるのよ。あんたとしては、どうしたいのよ」
「当然、相羽の口から早く伝えさせて、涼原さんに心の準備をしてもらいたい」
「基本的には賛成だけど……今、純はどのくらい仕事やってるんだろ?」
「俺に分かるわけが。てか、そんなこと気にする?」
「当然でしょ。ショックを受けた純が、仕事も何も手に付かなくなることだってあり得
る。そう危惧してるの」
 言われてみて、自分も多少は考えていたんだっけと内心で首肯する唐沢。表には出さ
ず、「その辺は、相羽のお袋さんがうまくやるに決まってる」と適当に答えた。
「それもそっか。相羽君の留学を認めた段階で、純子の仕事のことにも考えが及んでい
るはず。……でも、最終的には純子の気持ちの問題だわ。フォローが必要になるかも」
「あー、そんときは芙美ちゃん、頼む。他の二人――富井さんと井口さんも呼んで」
「気軽に言ってくれる。あーあ」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の甲側に顎を乗せた町田。
「そんなことよりも、相羽君に、純子へ打ち明けるよう促す方法よね。……純子の方に
それとなく仕向けて、純子から尋ねるように持っていく?」
「うーん、涼原さんから直接問われたら相羽も正直に言うだろうけど。それって事が済
んだあと、俺達涼原さんから恨まれないか? 知っていて隠していたのねって」
「恨みはしないでしょうけど、気持ちはよくないかも」
「そういうのは避けたいよな。……食わないのかな?」
 ほぼ忘れかけられていたクロワッサン風どら焼きを、真上から指差した唐沢。町田は
黙って、一口分をちぎり取った。
「……悪くはない。けど、やっぱりカロリーが気になる風味だわ」
「次はフルーツを使ったやつにでもするか」
「果物の糖分も、ばかにはできないのよ」
 唐沢もそのぐらい知っている。言い返そうと思ったが、またまた脱線が長くなるのは
考え物なので踏み止まる。
「さっき話に出た、相羽君のお母さんに促してもらうのが、一番安心できる線だと思
う。ただ、端から見て相羽君とこって、自主性を重んじる感じが強い気がしない?」
「まあ同意する。少なくとも俺のとこよりは」
「だから母親として、ぎりぎりまで待つんじゃないかな。いつがタイムリミットのライ
ンなのかは分からないけど」
「下手すると、相羽が涼原さんに打ち明けなくてもよし、旅立ってから伝えるとか考え
ていたりして。自主性を尊重するってのは、そういうことだろ」
「間接的に仕事への影響が予想されるんだから、さすがにそれはないと思う。……人の
心情を推測してばかりじゃ始まらないわね。いっそ、私達で相羽君のお母さんにお願い
してみる?」
「……そこまでやるのって、相羽を直にせっつくのと変わらない気がするぞ」
「じゃあ、そうしようじゃないの」
「ん?」
「あんた、純子から恨まれるのは嫌でも、相羽君からならちょっとくらい恨まれたって
平気でしょ?」
「平気じゃないが、『これまでいい目を見てるんだから、ちったぁ悩んで苦しめ!』く
らいは思ってる」
 割と本心に近いところを吐露した唐沢。町田は口元で意地悪く笑ったようだ。
「それなら、こういうのはどう? 相羽君を早く知らせざるを得ない状況に持ってい
く。例えば、『純子が、相羽君のお母さんが海外留学の本を持っているのを見て、気に
なっているみたいなの。何かあるんだったら、早くきちんと言った方がいいんじゃな
い?』とか」
「うむ。効果はありそうだが、直球勝負だな」
「今のは即興だから。もっと遠回しに、純子の目の前で、誰か男子が相羽君に九月以降
の予定を聞く場面を作るってのもいいんじゃない? 曖昧に返事するだけの相羽君を目
の当たりにして、純子は妙に思って聞く」
「うーん、そっちの方がましかな」
 チャンスがあれば試してみよう。でも、留学話を知っている自分が相羽の前で知らん
ぷりして予定を聞くわけにはいかないので、誰かに頼む形になる。
「実行に移すのなら、早めにね」
 唐沢の頭の中を覗き見たかのように、町田が言った。
「早くしてくれないと、私、言ってしまいそうだわ」
「おい、他言無用だからな」
「分かってるわよ。正直言って、久仁香達でさえ、相羽君が海外留学するって知ったら
泣くかもって思う」
「――それなんだけど、白沼さんはどうなんだろ」
「うん? 泣くかどうか? 知らない。ただ、人づてに知った場合、真っ先に相羽君の
ところに飛んで行って、確認しそうだわ。それか、純子に詰め寄る。『何でしっかり引
き留めておかないの』とか何とか言って」
 容易にその場面が想像できて、ちょっと笑った。
「ありがとな。相談に乗ってくれて。参考にさせてもらう」
「どうぞどうぞ。私だって、今まであの二人には何かと気を遣わされて、その挙げ句に
幸せにならないってんじゃ許さない。そういう気持ちあるからね」
 意見の完全な一致をみた。唐沢は言葉にこそしなかったが、思わず微笑んでいた。

            *             *

 VRのプラネタリウム体験は、想像していたのとは違ったところもあったが、充分に
楽しめた。宇宙旅行をしているような気分を満喫できて、でも映像酔いを起こすような
ことはなく、これならしばらくはお客さんが途切れることはなさそう。
「それで……」
 相羽は懐中時計を仕舞いつつ、面を起こした。エントランスホールは人の入れ替わり
の波が起きていて、下手に動くと離ればなれになりそうだし、突っ立っていては邪魔に
なる。だから、純子達四人は壁に半ばもたれかかるようにして横並びに立っていた。
「このあとはどうする予定なの?」
 前々日、女子から急に誘われた相羽は、今日の行程について何も聞かされていない。
「帰りの時間を計算に入れると、たっぷり余裕があるわけじゃないけど、折角だから話
題のスイーツでも」
 隣に立つ純子を二つ飛び越え、結城が答える。
「厳密には、みつき前まで話題になっていた、今は流行遅れのスイーツです」
 間にいる淡島が付け足す。それにしても、身も蓋もない。
「でも、二人きりになりたいと言うんだったら、私達だけで行ってくるわ。帰りはまた
合流になるけどね」
 結城がからかい混じりの口ぶりで水を向ける。純子は思わず、「マコ!」と声を上げ
た。
 一方、相羽の方は案外冷静なままで、「いや、それはまずいでしょ」と第一声。
「今日は元々、純子ちゃんが先延ばしになっていた遊びの約束を果たすため、結城さん
と淡島さんを誘ったと聞いたよ。だったら――」
「純子ってば、そんな誘い方をしたの。ばか正直に言う必要なんてないのに」
 今度は呆れ口調になる結城。淡島も追随する。
「そうですわ。こちらとしては、二人きりになったところをこっそり追跡して、覗き見
するつもりでしたのに」
「嘘!?」
「半分ぐらい嘘です」
 残り半分は本気だったのねと、苦笑顔になる純子。
「あのー、そろそろ人も減ってきて、動きやすいタイミングなんだけどな」
 相羽は結城とは別の意味で呆れ口調になりつつ、促した。そして再び時計を見やる。
「さっきから時間を気にしてるみたいだけど、早く帰りたいとか?」
 目聡く言ったのは結城。純子が気付けなかったのは、今ちょうど相羽が斜め後ろにい
る形だから。
「いやいや、そんな失礼なことは。もしも行くところが決まってないのなら、行きたい
場所がなきにしもあらずだったから。問題は、一定時間を取られるのと、必ずカレーラ
イスが出される」
「カレー?」
 今日は土曜で、プラネタリウムに来る前、もっと言えば電車に乗る前に昼食は済ませ
ている。そこそこ時間が経っているものの、カレーライスが入るかどうかは微妙なお腹
の空き具合だ。
「いいじゃない。スイーツはパスして、そっちに興味ある。もしかして、相羽君の定番
デートコースだったり?」
「残念ながら外れ。何たって、忙しい純子ちゃんと来るにはちょっと遠いから」
「それよりも、そのお店だか施設だか、お高くはありません? 開始時間が定められて
いるとはつまり、何らかの催し物があると想像できるのですが」
 淡島が恐る恐るといった体で尋ねる。
「そもそも、何のお店なのかを聞いていませんし」
「あ、マジックカフェだよ。学生千円」
 千円ならどうにかなる。それよりも、マジックカフェというあまり聞き慣れない名称
の方が気になったようだ。純子が聞く。
「多分だけど、マジックを見せてくれるカフェ?」
「うん。マジックバーのカフェ版。ほんとに行く気になってるんなら、動こうか」
 異論なしだったため、壁際から離れて外に向かう。
「予約とかチケットとかは?」
 先頭を行く相羽に着いていきながら、結城が尋ねた。
「必要なし。必要なタイプの店もあるみたいだけれども、これから行くところは大丈夫
だよ。満席だったら、少し待たされるかもしれないけれどね」
「相羽君は行ったことがあるの、そのお店に」
 今度は純子がちょっぴり尖った調子で聞く。連れて行ってもらったことがないのが不
満なのではなく、他の誰かと一緒に行ったなんてことになると、少しジェラシーを感じ
てしまうかも。
「ある、だいぶ昔に母さんと」
 地下鉄駅への階段が見えてきた。そこを下り始める。
「え。それって何年前?」
「だいたい五年前。大きな買い物のついでに寄ってもらったんだ」
「待って、ちょっと心配になってきた。五年前に行ったきり?」
 先を行く相羽のつむじを見つめる純子の目が、不安の色を帯びる。が、明るい返答に
その色はすぐに消えた。
「今も店があるかどうかって? 一応調べておいた。値段も変わらず、営業中だった
よ」
 相羽の言う駅までの乗車券を買って、程なくしてホームに入って来た車輌に乗る。三
駅先で実際の距離も大したものではないようだから、時間に余裕があれば歩きを選ぶだ
ろう。灰色の壁面を持つ、飾り気のないビルが見えたところで相羽が言った。
「あのビルの三階に入ってる店なんだけど、そういえば昨日調べたときに、隣は占いの
店になってたっけ。淡島さん、興味あるならあとで寄る?」
「お心遣いをどうもすみません」
 歩きながらぺこりとお辞儀する淡島。
「時間があるようでしたら、寄りたいと思います。でも本日はお二人のことが最優先で
すから」
 これには純子が反応する。
「いいよいいよ。こっちはマコと淡島さんのために今日を使おうと思ってるんだから」
「先程のプラネタリウムまでで充分です」
「私の気が済まない」
 歩みを止めそうになる二人を、相羽と結城が後ろに回って押した。
「はいはい、時間が勿体ない。ていうか、相羽君、間に合いそう?」
「うん、余裕。お客さんも少なそうだし」
 確かに、土曜の午後、往来を行き交う人の混み具合に比べ、ビルを出入りする者は皆
無と言っていい。
 重たいガラスの扉をして中に入ると、意外にも?空調がちゃんと効いていた。左手に
あるフロア毎の図で念のため確認してから、エレベーターに。三階に着いて降りると、
そこそこ人がいた。それまでは幽霊ビルなんじゃないかと感じさせるくらい静かだった
め、ちょっと安堵。尤も、人々のお目手当はマジックカフェ『白昼の魔法』でもなけれ
ば、占いの店『クロス』でもないようだ。フロアの大半を占めるゲームコーナーと、奥
まった場所にある市民講座か何かの教室に人が集まっている。
「何時に入ってもいいんだけど、九十分の時間制……でいいのかな」
 小さな頃の記憶だけでは不安に感じたか、相羽は店先まで小走り。壁に掲げてある板
書の説明に目を通す。
 その間、純子達は隣の占いショップに目を向けた。
「占い師がいて占うだけでなく、関連グッズもあるみたいだね」
「占い師は日替わり……今日は違うみたいですが、一人、かなり有名な方がいます。
マーベラス圭子師は著書が多く、テレビ出演も何度かあるはずです」
 さすがに詳しい淡島。ただし、その有名占い師が今日の当番ではないことを、さほど
残念がってはいないようだ。
 と、そこへ相羽が戻ってきた。
「今なら貸し切り状態。入店すれば、すぐにでも始めてくれるって」
「いいんじゃない?」
 純子が女子二人に振り返る。すると、淡島が急にきょどきょどし出した。
「うん? どうかした?」
「あ、あのう。お客さんに手伝わせるマジックは苦手です。それはなしということで…
…」
 貸し切り状態と聞いて不安を覚えたようだ。
「絶対にないとは言い切れないけれども、あったら僕が引き受ける。アシスタントは女
性がいいと言われたら、純子ちゃんか結城さんに頼む」
「もちろんかまわないわよ」
 ようやく入店。中は昼間だというのに、カーテンをほぼ閉め切っている。照明も豊富
とは言えない。その雰囲気のせいで、若い女性店員のいらっしゃいませの声までも明る
い調子なのに、獲物を待ち構える獣の冷笑を伴っているかのように届く。
「何名様ですか」
 手振りを交えて四名であると伝えると、先払いでお会計。次にテーブル席がいいかカ
ウンター席がいいかを問われた。カウンター席は、バーなどでもよく見られるタイプ
で、細くて高いストールが並んでいる。テーブル席は、通常のファミリーレストランや
喫茶店などで見られる物よりは低く、椅子もソファだ。
「カウンターの方がステージに近い反面、お客様同士が重なって並ぶため、手前の席の
方ほど見えにくくなるかもしれません」
 店員のそんな説明を受け、純子らは眼で短く相談し、「じゃあテーブルでお願いしま
す」と答えた。その頃には、フロア全体を照明が行き渡り、最初より随分明るくなって
いた。
 着座するとおしぼりを出されると同時に、カレー及びドリンク二杯分の注文を求めら
れた。それぞれ数種がラインナップされている。カレーはルーの違いだけで、トッピン
グの類はない。ドリンクは昼専用のメニューなのか、アルコール飲料はなかった(あっ
ても純子達は注文できないけど)。
「どうしよう、ココナツミルク入りカレーに惹かれる」
「いいんじゃないの。言っておくけど、胡桃みたいなナッツが入ってるわけではない
よ」
「分かってるって。胡桃好きだからって選んだんじゃないんだから」
 純子と相羽のそんなやり取りを見せられ、結城と淡島は顔を手のひらで扇ぐ仕種に忙
しい。
 注文が決まったところで女性店員がカウンターの向こうに引っ込み、代わって薄手の
眼鏡を掛けた男性店員が出て来た。年齢は、大学生かもうちょっと上くらい。顔立ちは
優しげだが後ろに撫で付けた髪が多少はワイルドな雰囲気を加味している。お客に舐め
られないようにするためかもしれない。ところが口を開くと、その声は顔立ちにも増し
て優しげかつ頼りなげだった。
「はい、では、お食事を出せるまでの合間に、まずはご挨拶代わりに始めさせていただ
きたいのですが、あ、私、卓村欽一(たくむらきんいち)と申します。覚えなくてもい
いですよ、名刺をお渡ししますので」
 愛想のよい笑みを浮かべた卓村は、カードを配るときみたいに名刺大の紙を四枚、
テーブルに置いた。それはしかし名刺にしては変だった。名前が印刷されてしかるべき
箇所に、一文字しかない。しかも四枚とも異なる漢字だ。それぞれに「卓」「村」「
欽」「一」と書いてある。
「おっと、失礼をしました。慌てて、試し刷りの分を出してしまったようで。すみませ
ん」
 卓村は四枚の紙を集めて回収。手のひらで包み込むように持つと、トランプのように
扇形に広げた。すると最前までの漢字が消え、卓村欽一と記された名刺になっていた。
 純子達は拍手を送った。
「これでよしと。では改めまして、お受け取りください」
 卓村にそう言われても、しばらく手を叩き続ける。挨拶代わりでこの鮮やかさ。続く
演目にも期待が高まる。
 もらった名刺をためつすがめつしてみるも、種は分からない。
「あー、あんまり見ないで。種がばれたら恥ずかしい。皆さんは高校生ですか?」
「はい」
 純子と結城の返事がハモった。
「今まで、マジックを生で観たことはあります?」
 卓村の目線が結城に向く。結城はちょっと小首を傾げて間を取り、「プロはないで
す」と答えた。
「えっ、ということはアマチュアならあると。もしかして、皆さん奇術クラブか何か
で、やる立場だったりするなんて」
「いえいえ。やるのは一人だけ」
 結城が相羽を指差し、純子と淡島も目を向ける。
「あ、そうなんだ。じゃあ、詳しいんだろうなー。種が分かっても、女子三人には教え
ないでね」
「もちろん。それ以前に見破れないと思いますけど」
「うわ、ハードル上げられたなあ。それじゃあ予定していたのと違うのを……」
 その言葉が真実なのかは分からない。卓村は紙のケースに入ったトランプカード一組
をポケットから取り出し、皆に示した。次いで中から本体を出し、表面を見せる。新品
ではないからか、順番はばらばらだ。
「ヒンズーシャッフルをするから、好きなタイミングでストップを掛けてください」
 言われた相羽が頷くと、シャッフルが始まる。五度ほど切ったところで、相羽が「ス
トップ」と声を発した。卓村はその状態で手の動きを止め、左手にあるカードの山を
テーブルに置き、次にそこに十字になるよう、右手に残るカードの山を重ねる。
「さて、ちょっとした個人情報を伺いたいのだけれど、だめだったらはっきり断ってく
れてかまいません。彼女達三人の中で、一番親しい人は?」
「それは」
 多少の躊躇のあと、隣に座る純子に顔を向けた相羽。純子はそれなりに手品慣れして
いるため、何か来るかと身構える。が、卓村は穏やかな調子のまま話し続けた。
「そうですか。正式にカップルかどうかまでは聞きません。では、さっきストップと言
って分けてもらったここ――」
 と、十字になったトランプの上の部分を持ち上げる。全体をひっくり返し、その底に
あるカードを全員に見せた。スペードの6だった。卓村は空いている手でポケットから
黒のサインペンを出し、相羽に渡す。それから「このカードにささっとサインしてもら
えますか」と、右手のカードを山ごと持ったまま、相羽の前にかざした。
「名前でなくても、目印になる物なら何でもかまいません。このカードを特別なスペー
ドの6にするためですから」
 相羽が記したのは馬の簡単な絵だった。
(……愛馬の洒落?)
 相羽の横顔を見ながらそんなことを感じた純子だったが、もちろん声には出さない。
「はい、どうもありがとうございます。このカードはこうして裏向きにして、よそに分
けておきましょう」
 カードを手の中で裏返した卓村は、言葉の通り、テーブルの端にそれを置いた。
「今度はあなたの番ですよ」
 純子に話し掛けた卓村は、最前と同じようにシャッフルをし、止めさせた。先程と違
って、十字に置くことはせず、ストップした時点で右手のカードの山を表向きにする。
現れたのは、ハートの8。これまた同じく、純子がサインをする。ここは流麗なタッチ
でさらさらと。
「お、芸能人みたい」
 おどけた口ぶりを挟む卓村。純子が本当にタレント活動をしていることは知らないら
しい。結城が忍び笑いを浮かべるのが純子から見えた。思わず、しーっの仕種。
 そんなやり取りを知ってか知らずか、卓村のマジックは続く。右手にあった表向きの
カードの山に、名前の入ったハートの8をそのまま見える形で適当に押し込む。さっき
取り分けた相羽のカードは、裏向きのまま、もう一つの山に差し込まれた。さらに二つ
の山を、全体で裏向きになるように重ね、軽くシャッフル。
「これでお二人のカードはどちらも、どこにあるか分からなくなった」
 純子達が首を縦に振ると、それを待っていたみたいに「――と思うでしょ。実は違う
んだな」とマジシャン。カードの山をテーブルに置き、まじないを掛けるポーズを取
る。
「まずは君から」
 相羽に視線をやったあと、「来い! 姿を現せ!」と叫んだ。その拍子にカードが飛
び出す……なんてことはなく、卓村はカードの山に手をあてがい、横に開いていった。
当然、裏向きの柄が続く。が、その中に一枚だけ白が見えた。指先で前に押し出すと、
スペードの6と分かる。相羽による馬の絵もある。
 女子三人から「うわ」「凄い」「こんなのあり得ないわ」と驚きの声が上がる中、卓
村は表向きにカードの山を揃えた。テーブルに残ったスペードの6を指差し、純子に
「じゃあ、あなたの番です。そのカードを好きなところに押し込んでください」と指
示。純子は右手人差し指と親指とで端を摘まみ、スペードの6を山の中程に差し入れ
た。
 卓村はずれを修正しつつカードの山を裏向きにしてテーブルに置く。
「さあ、ハートの8も、恥ずかしがらずに顔を見せて。来い!」
 まじないポーズとかけ声を経て、再び、カードの山を横へと扇に広げていくと……
ハートの8だけが表向きになって現れた。言うまでもなく、純子のサイン入り。
「嘘でしょ」「分かんなーい」「だからあり得ないって」
 女子三人が騒ぐ横合いで、例によって相羽は驚いているんだかどうだかはっきりしな
い。が、目を見れば感心しているのは分かる。
 驚きの反応が収まったところで、卓村が告げる。
「ここまで、マジックだと思って観てこられたでしょうが、実は占いでもあるんです
よ」
 占いと聞いて、ぴくりと身体が動いた淡島。さっきよりも身を乗り出している。
「占いの結果を示すために、あなた、手のひらを上向きにして、右手を出してくださ
い」
 言われた純子がその通りにすると、卓村は相羽にも同じ指示をした。厳密には右と
左、手のひらの上下は違っていたが。
「これからこのハートの8を彼女の手のひらに置きます。君はカードを挟むようにし
て、彼女の手を優しく握ってください」
「はあ」
 表向きに置かれるハートの8。そのサイン入りカードを相羽の左手が覆い隠す。
「もう少し強く握って。そう、バルスと呪文を唱えるアニメ映画ぐらいには強く」
 マジシャンのジョークに苦笑しつつ、純子は相羽の手から伝わる力が強まったのを感
じた。
「そのままの姿勢をキープして。そちらのお二人も冷やかしの目で見ないようにね。よ
い目が出るかどうか、大事な分かれ道だから」
 淡島と結城にも注意を促すと、卓村は残りのカードの山を左手に持ち、その縁に右手
指先を掛けた。そしてカードをぐっと反らせる。狙いは相羽と純子の重ねた手。
「この中にある彼のカード、スペードの6を飛ばします。ようく見ていて……」
 一瞬静寂が訪れ、コンマ数秒後にマジシャンが右手をカードから離す。ばさばさっと
短い音がして、カードの反りが戻った。
「……何にも飛んでないような」
 結城が最初に口を開く。淡島はうんうんと頷いた。
「あれ? 見えませんでした?」
 卓村は相羽と純子の方を見た。
「お二人も? たとえ目で捉えられなくても、感触に変化があるはずなんだけど」
「いえ、特に何も……」
 純子は答えて、ねえ?と相羽に同意を求める。相羽も「感触は同じままですね」と微
笑交じりに卓村に答えた。
「さてさて、困ったな。まあいいや。手のひらを開けてみれば、結果は明らか。まさか
失敗ってことはないと思うけど、万が一失敗だったら、より仲よくするようにご自身で
努力してね」
 身振りで促され、相羽は左手をのける。四人の観客の視線が、カードに注がれた。純
子の右手にあるのは相変わらず、ハートの8だけ。四人の視線は卓村へ移った。
「おっかしいな。よく見てみて。一枚に見えるけれど、二枚がぴったり重なっているの
かも」
「そんなことは」
 純子は左手でカードを持ってみた。指を擦り合わせるようにして確かめるも、やはり
一枚しかない。と、その目が見開かれる。
「――わ!」

――つづく




#519/598 ●長編    *** コメント #518 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:12  (363)
そばにいるだけで 67−5   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:29 修正 第3版
 純子が放り出したハートの8はひらりと舞って、テーブルに裏向きに着地。そこには
裏の模様ではなく、スペードの6が。相羽の手書きの馬もしっかりと描かれてある。
「これは」
 相羽がカードを拾い上げ、改めて一枚であることを確かめた。片面がハートの8、片
面がスペードの6でできた一枚のトランプカード。
「これは素晴らしいですね」
 結城と淡島にカードを回してから、相羽は感想を述べた。
「ありがとうございます。結果も気に入ったでしょうか? それぞれ選んだカードが一
枚になって、お二人は離ればなれになることはない、と」
(あ、そういう意味だったのね。驚くのに忙しくて、気付かなかった)
 頬を両手で押さえる純子。赤くなっているであろう肌を隠す。
 右隣の相羽も占いのニュアンスにまでは思い至っていなかったのか、遅れて「……そ
うですね」と答えた。
「――分かりましたわ」
 と、不意に手を打ったのは淡島。
「え? 種が分かったの?」
「いえいえ。そんな眼力、私にはございません。占いというのはジョークだったんです
ね」
 彼女の受け答えに、マジシャン以外がきょとんとなる。逆に、卓村はほっとしたよう
だ。
 淡島は両表になったカードをちょんちょんとつついて言った。
「ハートの8とスペードの6、どちらも表で裏がなくなった。つまり、うらない、で
す」
「ああ、オチを言われてしまった」
 卓村が片手で目元を覆い、天井を仰いだところで、挨拶代わりのマジックは終了。卓
村は下がり、最初に応対してくれた女性店員が四人の前にドリンクとカレーを運んでき
た。
「ご注文は以上で間違いないでしょうか」
 にっこりと微笑みかける女性店員。結城一人が異を唱えた。
「あのー。メニューは間違ってないですけど、私のスプーン……」
 見れば、彼女の握るスプーンはくにゃくにゃに曲がっていた。
「あ、これは失礼をいたしました。超能力マジックで使用した物が、紛れ込んでしまっ
たようです」
 女性店員は曲がったスプーンを結城から返してもらうと、奥に交換に行く――と見せ
掛けて、再度向き直る。
「お一人だけ食べ始めるのが遅くなるのもよくないですよね。こうする方が早いかと」
 店員が左手に持ったスプーンを何度か振って、右手で撫でるような動作をした。右手
が退けられると、曲がっていたスプーンが真っ直ぐに。
「おー」
 結城も他の三人も拍手を贈る。一礼した女性店員から、スプーンを受け取ろうとする
結城の前で、今度はスプーンがぐーんと長く伸びた。いちいち驚かされてしまって、目
を離せず、なかなか食べ始められない。
「すみません。余計な魔法まで掛けてしまいました。これでも使えなくはないですが、
あちこち触ってしまったので、取り替えますね」
 前掛けのポケットから先端を紙で包んだスプーンが登場。女性店員から「はい」と渡
される結城だったが、警戒してすぐには手を出さなかった。
「このスプーンには、何もございません。しばらくの間、お食事をお楽しみください。
あちらの店内モニターにはマジックショーの映像が流れますので、よろしければどう
ぞ」
 ほぼ正面に位置するモニターは、プロジェクター用のスクリーン大ぐらいあり、やや
粗い画像だったが、マジックの模様が映し出されていた。
「翻弄されっぱなしで、もう疲れてきたわ」
 結城がため息を吐き、カレーを一口食す。
「あら、意外と行ける」
「基本レトルトで、メニュー毎に様々なエキスを足すんだって、前に来たとき聞いた
な」
「キッチン事情の種明かしはしなくていいよ」
 純子が笑い交じりにたしなめると、「じゃあ、マジックの種明かしをしろって?」と
相羽に返された。
「そんな無粋は言いませんよー。でもまあ、分かったのかどうかだけは聞きたいかな。
特にカードが一枚にくっつくやつ」
「私も知りたいです。種が分かったとしたら、再現できます?」
「淡島さん、それって暗に、再現してくれと言ってる?」
「はい、遠回しに」
 遠回しと明言すると、遠回しではなくなる気がするが。
「うーん……ちょっと待ってて」
 相羽は食べる手を止め、しばし考えていた。なかなか答を言い出さないところを見る
と、やっぱり難しいのだろう。
「相羽君がマジックを嗜むって言ったおかげで、さっきの人、難しい演目に変更したみ
たいだけど、元々は何をするつもりだったのかな」
「スプーンを使うのがあるくらいだから、ドリンクのストローとかグラスを使った何か
かも」
「もっと簡単そうな……指が切れたり伸びたりするのとか、首が三百六十度回ったりす
るのとか?」
 純子達女子三人で勝手なことを言っていると、それがおかしかったのか相羽が考える
のを止めて話に加わる。
「僕が小さな頃に来たときは、輪ゴムのマジックだった」
「輪ゴムでマジックって何かあったっけ」
「えっと。簡単なのでよければ、こういうやつ」
 相羽はポケットをまさぐって、茶色の輪ゴム二本を取り出した。一本を左手の人差し
指と親指に掛け、もう一本をそれと交差させてから、右手の人差し指と親指で保持す
る。
「ほんとは色違いの輪ゴムを使うべきなんだけど、持ち合わせがないから勘弁。二本の
輪ゴム、間違いなく交差して、引っ張っても抜けることはない、よね」
 口上に合わせ、両手を左右に引く相羽。輪ゴムは伸びるだけで、交差が解かれること
はない。
「ところがこうして何度か同じことをやっていると」
 手を動かし、輪ゴムを伸ばしたり戻したりする相羽。と、急に動きを止め、輪ゴムの
交差部分に注目するよう、皆に言った。注目を得たところで、ゆっくりと手を動かす。
また伸びると思われた輪ゴムだが、そうはならず、一本ずつに分かれてしまった。何と
いうか“ぬるん”と擬態表現したくなるような現象だ。
「お、やるじゃない」
 結城が小さく手を叩いた。淡島は目をぱちくりさせている。
 純子はすでに見せてもらったことのある演目であったのだが、何度演じられても不思
議に見える。
「自分ができるのはこれだけなんだけど、店の人がやったのはもっと複雑なのが含まれ
ていた。もちろん当時とは違う人だからね、今日も輪ゴムマジックをやる予定でいたの
かどうかは分からない」
「私にとっちゃ輪ゴムのマジックでも充分に驚けるわ。その輪ゴム、特殊な物じゃない
のよね?」
 結城が不審の目つきをするので、相羽は輪ゴムを二本とも渡した。結城はその内の一
本を、目の前で引っ張ったりすかし見たりして調べる。と、強く引っ張ったせいなの
か、輪ゴムが切れてしまった。「あ! わ、ごめん」と慌てる結城に、相羽は首を横に
振った。
「いいよ。正真正銘、どこにでもある普通の輪ゴムなんだから」
「むぅ……それなら安心。だけど、それってつまり種がないってことかぁ。テクニック
だけでできるんだ?」
「まあ、そういうこと。ネット検索をしたら多分、分かるよ」
 カレーを食べ始めてからおよそ十五分が経ち、あらかた済んだところへ店員が来て、
食器を下げた。ドリンクも二杯目の物が新たに置かれる。さすがにこんなときまでマジ
ック的な仕掛けはなかった。食器が割れたら困るからかもしれない。
 そのあと、卓村が再登場。「またマジックでご機嫌伺いをしたいと思います」と寄席
芸人めいた入りから、ペットボトルを使ったマジックを披露。四人全員がサインしたト
ランプカードが、未開封のペットボトルの中に入ってしまうというポピュラーな演目だ
が、テレビ番組などと違い、この至近距離で観てもさっぱり分からないため、驚きが減
じられない。むしろより大きくなったかも。
 続いて、自分も超能力マジックが使えるんです、スプーンは曲げられないけれど云々
と前置きして、フォークをくにゃくにゃと曲げた。四つに分かれたフォークの先を、そ
れぞれ別の方向に曲げて、しかも捻るという一見すると本物の超常現象かと思える。
 最後にはフォークを元の形にして、次のマジックにつなげる。観客の一人から大事な
物を借りて、四つの紙袋の内の一つにマジシャンには分からぬよう隠してもらい、大事
な物が入った袋以外を次々にフォークで突き刺すという演目。なお、“大事な物”とし
て供されたのは相羽の懐中時計だったが、傷一つ付けられることなく無事戻って来たこ
とは言うまでもない。
 卓村最後の出し物は、トランプを使った定番のカードマジックだった。一枚のカード
を選ばせて、クラブのキングと言い当てた後、そのクラブのキングを観客に目で追わせ
る演目のオンパレード。山の一番上に置いたと思ったら二枚目になっていたり、逆に山
の中程に入れたはずなのにトップに上がってきたりと、これもテレビ等でお馴染みのマ
ジックだが、間近で見せられると凄さや巧みさがより一層伝わってくる。
 クラブのキングの彷徨いっぷりはエスカレートし、テーブルの端に一枚だけ別個に置
かれていたり、卓村のネクタイに貼り付けてあったり、同じく卓村の眼鏡に差してあっ
たりと、手を変え品を変えしてきたが、いずれも純子達は気付けなかった。最終的に、
淡島の座るソファの隙間から出て来た。さすがにこれは前もって仕込まれていたと想像
できるのだが、それを認めると、じゃあどうやって最初にクラブのキングを引かせるこ
とができたのかが分からない。
 純子らが手が痛くなるくらいに拍手して興奮冷めやらぬ内に、卓村は「このあと、真
打ち登場です。約三十分のステージマジックをご堪能ください」と言い残して引き下が
った。
 感想を述べるほどの間はなく、正面のスクリーン型モニターが機械音と共に引き上げ
られ、ステージが見通せるようになった。舞台袖から登場したのは、相羽らが入店して
からまだ一度も姿を見せていなかった、お洒落な顎髭のマジシャン。彫りの深い顔立ち
に加え、大げさな黒の燕尾服とシルクハットのせいで、魔術師と呼ぶ方がふさわしそう
だ。
 演者は自己紹介の前に手から次々とトランプを出してみせた。この辺で終わりだろ
う、もう出ないだろうというタイミングで一度手を止め、また次々にカードを出して宙
を舞わせる。左右どちらの手からも出現するし、両手を組んだ状態でもカードは現れ
た。しまいには脱いで逆さにしたシルクハットから、大量のカードが滝のように流れ落
ちる。
 ステージ上は当然、カードが散乱して足の踏み場がないほどに。卓村ら店員達が出て
来て、モップで片付けていく。
「えー、この間を利用して、挨拶をさせてもらいます。初めまして、ダンテ伊達(だ
て)と申します。濃いめの顔なのでたまに誤解される方もいらっしゃいますが、もちろ
ん芸名で、西洋の血が混じってることもありません。あしからず」
 散らばったカードが片付けられ、ステージの片隅には一本足の台が置かれた。卓上に
は直方体の箱や透明なグラス、花瓶など小道具がいくつか。伊達は空いたスペースにシ
ルクハットを載せると、次の演目に取り掛かる。
「先程お見せしたのは、マニピュレーションと言って基本的に、指先のテクニックだけ
で行う奇術です。あ、基本的にと言ったのは色々組み合わせたり、カードの補充にあれ
したりと事情があるので。嘘をつけない性格なもので、白状しておきます。それで、店
の者から聞いたところだと、皆さんはそこそこマジックに詳しいとか」
 四人まとめて言われるとどう返事していいのか困る呼び掛けだが、ここは結城が率先
して「私達は観る専門で、やるのは彼だけ」と相羽を指し示しておいた。
 伊達は承知しているという風に頷き、「何かに気付いたり変な物がちらりと見えたり
しても、やってる間は言わないで。これ、マジシャンとお客との大事な約束」と指切り
のポーズをした。
「さて、そういったマジック慣れした人達に、同じようなネタを見せてもつまらないで
しょう。折角準備したのだけれど、取り外します」
 そう言って伊達が宙を掴むと、右手の指先には金色に光るコインが一枚現れた。台を
引き寄せそこにある花瓶の中に入れると、ちゃりんと音が響く。と、次に左手で宙を掴
むとまたコインが。花瓶に入れるとちゃりん。これを繰り返して、何枚もコインが出現
する。途中、ステージを降りてテーブル席まで来た伊達は、淡島の肩口、結城の耳元、
純子のつむじ、そして相羽の飲み物のグラスの底からコインを出してみせた。
「コインはこれで多分片付いたと思うんですが、まだ他にも仕込んでまして」
 テーブルに右手のひらを押し当てる伊達。そのまま前後に擦る動作をすると、赤い球
が現れた。布か何かでできているようだが、手の中に簡単に隠せるとは思えない大きさ
になる。左手でも同じことをすると、今度も赤い球が出て来たが、右とは異なり、小さ
い。ただし数がやたらと多かった。三十個ぐらいあるだろうか、あっという間にテーブ
ル上に溢れ、転がった。
「それから、これも出しておかないと」
 ステージに戻った伊達は、今度はCDかDVDのディスクと思しき銀色の円盤を手か
ら出した。あんな固そうな物を次々に出現させ、マジシャンの手は赤、青、黄、緑……
とカラフルなディスクで一杯になる。それらを台に置くと、またディスクを出し、今度
は手の中で色がチェンジするおまけ付き。八枚出したところで一揃えにしたかと思う
と、自身がくるりと一回転。観客の方を向いたときにはディスクは巨大な一枚になって
いた。
「これで全部出し切ったかな。――あ、いや、もう一つだけ、最初のトランプで忘れて
おりました」
 口からトランプを出す一般にも有名なネタで、一連の演目を締める。
「ふう。やっと身軽になった。これでやりやすい。ところで皆さんは、お花と蛇、どち
らが好きですか」
 唐突な質問に戸惑う一行。一拍遅れて、「そりゃまあ、花になるでしょう」と相羽が
答える。
 伊達はふむと首肯し、花瓶を手に取った。逆さに振ってコインを取り出すのかと思っ
たら、花が五、六本ととぐろを巻いた蛇のおもちゃが出て来た。さっき入れたはずのコ
インは? 疑問を見て取ったらしい伊達は、蛇のおもちゃの首根っこを押さえて言っ
た。
「ああ、さっきのコインならこの蛇が飲み込んでしまったようだ。ほら」
 空のグラスに蛇を傾けると、その口からコインがあふれ出た。グラスを五割方埋めて
止まる。
「蛇はお嫌いとのことなので、使わないと」
 そう言うなり、蛇のおもちゃを観客席に向けてアンダースローのように投げる格好を
した伊達。次の瞬間、蛇のおもちゃはつーっと空中を泳ぐように伝った。勢いがあっ
て、まるで生きているかのよう。テーブルの端まで来て止まった。前触れなしに目と鼻
の先に蛇が来て、さしもの相羽もソファごと数ミリ後ずさり。
「び、びっくりした」
 この日初めて驚きを露わにした相羽に、伊達は満足げな笑みを浮かべ、髭をひとなで
した。
「その蛇は差し上げます。嫌いなら置いていってもかまいません」
「いただきますよ。面白い」
 相羽が手を伸ばすと、蛇のおもちゃはことっと音を立てて、横倒し?になった。今際
の際に最後の反応を示したみたいで、何だか薄気味悪い。それでも相羽は手に取ると、
もう一度「面白い」と呟いた。
「こちらの花はどうするかというと」
 伊達は台の上にてんでばらばらに置かれた花を見下ろし、両手をかざした。
「生きているようで死んでいた蛇とは逆に、死んでいるようで生きているのがこの花た
ちなのです」
 そう説明するや、顎の近くで揃えていた両手を、急に左右に開いた。そうすると目に
見えない力でも働いたみたいに、花が動いた。ある物は立ち、ある物ははじけ飛び、ま
たある物は浮かび上がる。伊達は浮かび上がった一輪をキャッチし、「この子が最も活
きがいい」なんて宣った。
「うまくすれば、お客さんの目の前でも飛び上がるかもしれない」
 またもステージを降り、テーブルまでやって来た。純子、結城、淡島の三人からほぼ
等距離になるテーブル上の一点に花を置く。
「もしうまく行ったら、キャッチしてください。棘はありませんから、思い切り掴んで
も平気です」
 そう言って皆を花に注目させてから、最前と同じように両腕をかざす。あたかも念じ
ているかのようなポーズがしばらく続き、だめかなと思わせるぐらいまで引っ張って―
―一気に動かした。花はマジシャンから見て左側に跳ね、純子の目の前に落ちた。
「あらら、思ったほど飛ばなかったな。惜しい。でも、その花も差し上げます。取り合
いにならないよう、ここにもう二本持って来ましょう」
 伊達の言葉に合わせて、空っぽだった彼の両手にそれぞれ一輪ずつ、花が現れる。結
城と淡島は呆気に取られながら、その花をもらった。
「少し疲れたので、一休み。皆さん、ドリンクをどうぞ。私もいただきますから」
 ステージに再び立った伊達は、グラスを手に取ると、女性店員からコップ一杯の水を
もらった。コインの詰まったグラスにその水を注ぐ。次の刹那、コインは泡を立てて溶
け出した。金属製のコインに見えていたが、実際は発泡性の溶剤か何かだったのか。
 黄色いオレンジジュースみたいになったグラスの中身を、伊達はうまそうに飲む。半
分くらいになったところで止めて、女性店員からストローをもらった。そのストローを
グラスに挿して吸い始める。と、伊達が両手を離しても、グラスは浮いたままになっ
た。
「おおー、芸が細かい」
 ぱちぱちと手を叩く。それに応えて、伊達が手を振り、「どうもありがとう」と喋っ
た。当然、口からストローが離れ、グラスが数センチ落下した。が、どんな仕組みなの
か、宙で止まってぶらぶら揺れる。
「おおっと危ない危ない。あんまり喜ばせないでくださいよ。油断して落とすところだ
った」
 液体を干してグラスを台に置くと、伊達は直方体の箱を取った。
「休憩、終わり。ああ、皆さんは飲んでいて問題ありません。マジックを観てください
とだけ言っておきましょう。さて、この箱、そうは見えないでしょうが、パン製造機で
す。信じられない? でもこれを見れば納得するのでは」
 今、直方体の上になっている面にはつまみがある。スライド式の蓋になっているよう
だ。そこを持って伊達が開けると、中は空洞。そのことをよく示してから、伊達は蓋を
閉じ、軽く振って呪文を短く唱える。また振ると、今度は何か音がする。聞こえにくい
が、直方体が音の源なのは確かだ。
 伊達はオーバージェスチャーで蓋を開けると、これまた大げさに驚いた顔つきにな
り、直方体からロールパン一個を摘まみ出した。
「ね? これ本物ですよ。食べてみせましょう」
 宣言通り、ひと齧りしてパンの欠片を飲み込む伊達。
「うん、うまい。え? 食べて確かめたい? そうしてもらいたいのはやまやまなんで
すが、残念。このパン、賞味期限が切れてるんですよ。コンプライアンス的にお客様に
提供できません」
 その賞味期限切れを食べた口で言うのがおかしい。逃げるための冗談なのだろう。
「このパン製造機のいいところは、材料を入れなくても新しく一個出て来る点でして、
ほら、この通り」
 口上に合わせて直方体を振り、蓋をスライドさせると中には新たに一個、ロールパン
があった。
「パンが出て来るってだけでも結構なマジックだと思うんですが、これで終わりじゃな
い。ここにサインペンとメモ用紙があります。どなたかお一人、紙に何か書いてもらえ
ますか」
 伊達の手には、すでに何度か登場したサインペンと、付箋のような小さめのメモパッ
ドがあった。用紙一枚を取り、テーブル席の方に来る。
「何でもいいんだけど、時間の関係もあるから、簡単な絵か短い文でお願いします。
あ、私には見えないように。書けたら四つ折りにでもして」
 受け取った淡島が成り行きで書くことに。嫌々という様子はなく、マジックの手伝い
を恐れていたのが嘘みたいだ。
「何て書くのがいいでしょう……」
「今日の感想でいいんじゃない?」
 時間を掛けずに、ぱぱっと『楽しんでます! 緑』と書いた。緑は自分達の学校を表
したつもり。指示の通り、紙を折り畳み、「できました」と伊達に声を掛ける。
「はい、どうも。ペンと用紙は他の人が回収しますので、そのままで。折り畳んだメモ
を、この箱の中に入れてください」
 伊達が両手で持つ直方体の箱は、蓋が開けられている。そこから中に紙を放り込ん
だ。
「はい、確かに」
 伊達は蓋を閉めて。小さく振った。かさっと乾いた音がした。
「えー、さっきは言いませんでしたが、この箱――パン製造機にはもう一つ、優れた点
があります。それはプレーンなパンを作ったあとから、そのパンに具を放り込めるんで
す」
「え、まさか」
「嘘や冗談ではありません。これから実証してみせましょう。実験には、このさっき出
したばかりのパンを使います」
 台に置かれた二個目のロールパンを指差す伊達。
「私が触ると怪しいと思う向きもあるでしょうから、どなたか取りに来てくれますか」
 目を見合わせてから、それじゃあ私がと純子が席を立つ。ステージに足を踏み入れる
と、照明がちょっと眩しかった。パンを両手で包み持って、すぐに引き返す。
「大事なパンです、しっかりと大切に保管してくださいね」
「は、はい」
「繰り返し注意しておきますが、そのパンも賞味期限切れなので、食べちゃいけません
よ」
「はい、食べません」
「結構。では、こういう具合にパンを額の高さに持ち上げて」
 伊達の動きに合わせ、純子は両手を額の位置まで持っていった。舞台を見通せるよう
に腕は若干開き気味。
「その格好……ビームフラッシュとかウルトラセブンて分かる?」
 伊達が言ったが、何を意味しているのか分かる者はおらず、全員きょとんとするばか
りだった。時代を感じると口の中でもごもご言いつつ、伊達は本題に戻った。
「そのまま掲げていて。先程入れてもらった紙を、こちらから飛ばして、パンの中に入
れるからね。下手に動くと、パンじゃなくてあなたの中に入るかも」
「あはは。そのときはさっとよけます」
 ジョークにジョークで切り返す純子。伊達は「これは頼もしい」と笑みを浮かべた。
「では、そろそろ行きましょう。一瞬のことだから、お見逃しなきよう――はっ!」
 直方体が上下に一度、激しく振られた。紙が飛んで行く気配は全く感じられなかった
が、僅かながら風は起きた気がする。
「……成功したと思います。パンをこちらに持って来てもらえますか」
 純子は再び席を立った。離れる際、パンを調べたそうな相羽の視線を感じ取ったが、
勝手な真似はできない。
「台の上に置いてください。はい、どうも。戻らないで、ちょっと待っていて。さて、
このパン製造機の箱には、ナイフが付属しています。パンを切るためと、バターを切り
取るための二種類が」
 講釈を垂れながら、くだんの二本のナイフを側面から取り外す。伊達は純子が持って
来たパンを左手に、パン切りナイフを右手に、純子の顔の高さに合わせて持った。他の
三人からもよく見える。
「今からこうしてナイフでパンを切りますから」
 伊達はナイフの切っ先をロールパンの横っ腹に差し込んだ。ゆっくりと押し込みなが
ら、台詞をつなぐ。
「よく見ておいて。メモ用紙の白い色が見えてくるはず……」
 程なくして白い紙が見えた。観客は口々に「あっ」「何かある」等と声を上げる。
 伊達はナイフを引き抜き、できたばかりの切り口を純子に向ける。
「最後はあなたの手で引っ張り出してください」
 無言で頷き、紙片の角を摘まむ。さほど力を入れずに抜き取れた。
「開いて、みんなに見せてあげて」
「はい……」
 実際には開く前から、全く同じ畳み方だわと気付いていた。焦って落としたり破いた
りしないよう、慎重に開いていく。そして『楽しんでます! 緑』の文字を見付けた。
 純子は用紙を目一杯に開き、テーブル席の方に向けた。が、この小さな紙の小さな字
では読めまいと気付く。伊達に目で許可を取って、ステージを降りた。
「凄い。ほんとにさっき書いた物だね」
「おみくじのフォーチュンクッキーみたい」
「いいバリエーションだなぁ」
 メモ用紙を囲んで、三者三様の感想をこぼす。
 このあとラストとして、人体切断マジックの大ネタを観ることができた。女性店員が
ロングスカートのドレスに着替えて登場。伊達の助手(要するに切られる役)になり、
人の形を簡素化した絵の描かれた箱に入って、上半身と下半身の間辺りに鉄板二枚を差
し込み、上半身を横にずらすという演目。ずらしたあとも、箱から出た手や足の先は動
いており、表情も笑顔のまま。箱のずれを戻して鉄板を抜き取ると、無事に助手が生還
する。箱から出て来た女性店員の衣装がドレスからバニーガールに変化していた。
 見事なフィナーレに拍手喝采し、ショーは幕を下ろす。店を出るときに、簡単なマジ
ックができるカードまでもらった。
「予想以上に面白かったわ」
 店を出てすぐに結城が振り返り、言った。少々興奮気味だ。
「いい趣味してるんだね、相羽君て」
「僕とかマジックがとかじゃなくて、演じた人達のセンスがいいんだよ」
「いやいや、輪ゴムのマジックだけでも分かる。純はいいわね。彼におねだりすれば、
種を教えてもらえるんでしょ」
「そ、そんなことないって!」
 ふるふると首を横に振った純子。
「厳しいんだから。こちらが考えに考えた末に、やっと教えてくれるかどうか」
「そんな、人を鬼教官みたいに」
 そのままエレベーターを目指す三人に、背後から若干恨めしげな声が掛かる。
「お待ちください。時間はまだあると思うのですが」
 淡島だ。純子は振り返って瞬時に思い出した。

――つづく




#520/598 ●長編    *** コメント #519 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:13  (283)
そばにいるだけで 67−6   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:39 修正 第2版
「占い!」
「あっ、ごめん」
 相羽と結城も急いで反転。占いショップの前でたたずむ淡島の元へ駆け付けた。
「せーっかく、お二人の仲を占ってもらう分、おごろうと考えていましたのに」
 淡島がどよんとした目で見上げてくる。
「えっと、このタイミングでそう言われても」
 相羽と純子は共に戸惑いを表情に出した。淡島の機嫌を直してもらうには、おごって
くださいと言うべきなのだろうか。何か変だ。
 相羽は両手を拝み合わせ、淡島に頭を下げた。
「淡島さん、本当にごめん。マジックのライブが久しぶりで、僕もつい夢中になってし
まって。次からは気を付けて、こんなことないようにする。だめかな?」
「……よろしいです。ちょっと意地悪を言いたくなっただけですから、ご安心を」
 淡島が笑顔を見せたので、相羽も純子も結城もほっとした。
「ただ、お二人が占ってもらうところを、同席してみたい。私独自のやり方の参考にな
るかもしれません」
「え。そういうのは、占い師さんに頼んでみないと分からないんじゃあ……」
 店の前で揉めていてもしょうがない。思い切って入ってみることに。店内は占いグッ
ズが所狭しとディスプレイされていた。が、淡島は目もくれない。
「時間がどのくらい掛かるか分からないから、すぐさま観てもらいましょう」
 淡島に手を引かれ、奥の占いスペースらしきコーナーへと連れて行かれる純子。相羽
も仕方なしに着いていき、その後ろを結城が面白がって押す。
 ゲルを思わせるそのコーナーの出入り口には、占い師の名札『小早川和水』が掛かっ
ており、天幕からの布が目隠しになっている。先客はいないようなので、布を持ち上げ
て中の人に声を掛けてみることにした。淡島と純子で声を揃える。
「すみません、占ってほしいのですが……」
「どうぞ、お待ちしておりました」
 存外、軽い調子の返事があった。幾分緊張していたのが和らいで、入りやすくなる。
 壁際の椅子に腰掛けていたのは、浅黒い肌の女性で、太い眉毛が印象的な人だった。
どことなく南国かインド辺りを連想させる。髪はショートカット、衣服は水色のワン
ピースで、いかにも占い師といった風ではない。客の椅子との間には白いテーブルがあ
り、紫のクッションの上にやや大きめの水晶玉が一つ鎮座している。他にも何やら標本
サイズの鉱物がたくさんある。
 椅子を勧められたが、先に伝えねばならないことがある。淡島が暗いジャングルを手
探りで行くような口ぶりで聞いた。
「変なことを言うかもしれないですが、あのう、一度に四人が入っても、大丈夫でしょ
うか……」
「他の人に占いを聞かれてもいいの? だったらかまわない」
 これまた思いのほかフレンドリーだ。虚仮威しタイプよりはずっといいが、こうも親
しげだと占いの重みやありがたみが薄れそうな気もする。
「初めての方ね? 初回特別割引で、学生さんならこういう具合になってるけれども、
いいかしら」
 料金表を示し、ビジネスライクなことまで言ってきた。とにもかくにも、普通の高校
生でも楽に手が届く設定はありがたい。
「お願いします。ただ、とりあえず、観ていただきたいのは二人なんです」
 ここからは純子が話す。相羽との仲を観て欲しいと伝えた。淡島に半ば強制されたこ
とは言わないでおく。
「珍しい。普通は隠したがるものでしょうに。いけない、関係のない詮索はやめないと
ね。れじゃ、二人に前に座ってもらって、付き添いの友達は後ろで……そこのパイプ椅
子を出して置けるようなら、座って」
 相羽が率先して椅子を置いていく。幸い、椅子を二列ならべてもまだ余裕はあった。
「それでは改めて……私の名前は小早川和水(こばやかわなごみ)と言います。ご覧の
通り、水晶占いにジュエリー占いを組み合わせて観させていただきます。他にも姓名判
断とタロットが使えますが、水晶でかまわないかしら」
「は、はあ。お任せします」
 純子が受け答えする横で、相羽は口をつぐみ、占いの道具の数々をぼんやり眼で見て
いる。興味がない訳ではなく、平静を装っているようだった。
「じゃあ、最初にイメージを掴むためにお名前を教えて欲しいの。姓名判断ではなく、
飽くまでイメージを把握するため。それから誕生石を知る必要があるので、誕生月もお
願いね」
 便箋と鉛筆を滑らせるようにして、純子と相羽それぞれの前に置く。相羽がここで初
めて口を開いた。
「名前にふりがなは?」
「何て読むのかを知った方が、よりイメージしやすいわ」
「じゃあ書きます」
 流れに素直に従う。書き終えた便箋を向きを換えて渡すと、小早川は何も言わずに石
を選んだ。五月の代表的な誕生石エメラルドと十月の代表的な誕生石オパール。どちら
も極小さな物で、シートに固定されている。他に参考ということだろうか、翡翠、トル
マリン、ローズクォーツとメモ書きするのが見て取れた。
「最初に言っておくと、このあとの占いで示される見立ては、今の時点でのものだか
ら。どんなにいい結果が出ようと心掛けや行い次第で、悪い方に変化し得るし、逆もし
かり。そのことを忘れないでね」
 二人がはいと答えると、小早川は便箋を返した。個人情報の処理はお客に任せる方針
らしい。
「それではお聞きしますが、お二人の何を観てみましょうか?」
「えっと」
 改まって尋ねられると、具体的には決めていなかったと気付く。かといって、淡島に
判断を仰ぐのもおかしな話だし。
「見たところ――これは占いではなく、私の直感だけれど――見たところ、現状で充分
幸せそうよ。120パーセント満足とまでは行かないにしても、大きな不安や悩みなん
てあるようには思えないわ」
「……小さな不満なら」
 純子が小さな声で言った。占い師の「聞かせて」という促しに応じて続ける。
「会える時間が少ないんです。一緒の学校、一緒のクラスなのに。でもこれは原因がは
っきりしてるからいいんです。一時的なことのはずだし」
「少し、はっきりさせてみましょうか。悩みは過去にあるのか未来にあるのか、それと
も現在なのか」
「未来、かな……この先ずっと、こんな調子だと嬉しくないなって」
 相羽の様子を横目で窺った。相羽の口が、そうかと声のない呟きの形に動いたように
見えた。
「彼氏さん、えっと相羽君の方は何かある?」
「悩み相談室みたいですね。ええ、今の状況に幸せを感じてはいます。だからこそと言
うべきなのか分かりませんが、将来に対する不安はあります」
 ほぼ同じことを言ってるようでいて、ニュアンスの微妙な違いがあるようなないよう
な。その空気を感じ取れたのか、小早川は具体的な提案をした。
「とりあえずというのもおかしいけれど、二人の将来を観てみよう。ね? 今の状態が
いつまで続くのかとか、よい方に向いているのかとか。結ばれるかどうかまでは言えな
いけれど、相性診断も併せて」
 その線でお願いすることに決めた。
 小早川和水は集中するためにと前置きして、占いコーナー内の明かりを若干落とし
た。ほの暗くなった空間で、水晶玉に手をかざす。その手には、エメラルドかオパー
ル、どちらかの誕生石が握り込まれているようだった。
「――今現在の姿から、将来への像を辿って描きます――今現在の涼原さんは全力疾走
しているイメージ。それも多方面に。水晶玉にあなたの誕生石をかざすと、色々な方向
に電気のようなものが走るから。そのことがさっき言っていた原因? あ、答えなくて
いい。……うん。ときが来れば止まる。そのとき、一緒にいてくれる人が」
 小早川は石を取り替えたようだ。ほとんど間を置かずに、首を縦に小さく振る仕種を
した。そして次に、首を傾げる動作もあった。
「そのとき一緒にいてくれる人が、相羽君なのは間違いない。ただ、それまでに……」
 言い掛けてやめる占い師。純子は何があるのかと反射的に聞き返そうとした。が、そ
のタイミングで相羽が手を握ってきた。おかげで口出しはせずに、占いは続くことに。
「もう少し待っててね。ここは慎重に、段取りを踏んで、彼氏さんの今現在の姿も思い
描くから」
 小早川がそう言って、石――多分エメラルドの方を水晶玉にかざす。その様を見てい
る内に、水晶玉の内部を本当に電光が走ったように思えた。
「うん。ちょっと不思議かな」
 どういう意味ですかと聞き返してしまいそうなのを堪え、続きの言葉を待つ純子。相
羽の手を握り返す手に力が入った。
「相羽君の方は今、岐路に立っているか、通り過ぎたばかり。本人が自覚しているして
いないにかかわらず、そういう地点にいるっていう意味」
「あの、よろしいでしょうか」
 意外なことに、相羽が口を挟んだ。隣の純子も、後ろの二人も少なからず驚いて、は
っとする気配が伝染する。小早川も一瞬むっとしたようだが、すぐに如才ない笑みを浮
かべた。
「何か?」
「高校生はそろそろ進路を決める時期だからってことで、当て推量で言ってるのではあ
りませんか?」
「うーん、私がそういう計算を無意識の内にしているのかもしれないけれども、その辺
りも全てひっくるめての占いよ。これでいい?」
「分かりました。失礼をしました」
「じゃあ、続きを――相羽君が行くであろう道は、彼女さんの道とは交わらないか、大
きくぐるっと回ってきてようやくつながる、みたいなイメージを持った。つながったと
きというかつながったあとは涼原さんとずっと一緒になる、そんな感じよ。今ね、二人
の石を同時にかざしているのだけれど、別ちがたい結び付きがあるのが伝わってくる。
それを思うと、道が交わらない時期があるのが逆に不思議。一時的な物とは言え、これ
だけ相反するものが見えたということは、心掛け次第では大きく変化してしまうことも
ないとは言い切れない……」
 明かるさが徐々に戻っていく。どうやら占いは済んだようだ。
「あのー、結局どういう……」
 終わったのなら聞いてもいいだろうと、純子は尋ねた。
「今のあんまり会えない原因が、まだしばらく続くか、拡大するという解釈になるんで
しょうか」
「少し違うと思う。見た目の原因は変わりがないとしても、間接的に相羽君の選択が関
係してるんじゃないかっていう見立てよ」
「そうですか」
 多少の不安を抱えて、相羽の顔を見る純子。相羽も見つめ返していた。
「まあ、驚かせるようなことを最後に付け加えたのは、二人に緊張感を保って欲しいか
らよ。何があってもどうせ一緒になれるんだからと思い込んで、いい加減な行動を取っ
て、それが原因で不仲になったりしたら、私が恨まれてしまう。実際、似たようなこと
で怒鳴り込まれた先輩を知っているし」
 占い師としての実情をぶっちゃける小早川。神秘性はあまりないけれども、親しみを
覚える人柄に、純子は少なからず好感を持った。
「さあて、知りたいことは他にない? あっと申し訳ない、先にお代をいただいておか
なくては」
 そう言われて、相羽が真っ先に動いた。
「ここは僕が」
 皆まで言わない内に支払いを済ませる。それどころか、ずっと見物していた結城と淡
島に向き直り、「何かあるのなら、僕が出すから観てもらいなよ」と誘った。
「ありがたい話だけれども、私は相談を友達に聞かれたくないわ〜」
 結城が冗談交じりに言うのへ、被せるようにして「僕らは出ているから」と後押しの
言葉をつなぐ。
(相羽君が占いのことでこんないい風に言うなんて珍しい。小早川和水さんを相羽君も
気に入ったのかしら)
 結局、淡島も結城も相羽のおごりで観てもらうことになった。先に座った結城は、外
に聞こえるほどの音量で「彼氏がいつになったらできるのか、知りたいです!」と言っ
ていた。

 帰りは当初の予定よりは遅くなったものの、ちょっとしたずれの範囲内で、明るい内
に最寄り駅まで戻れた。
 結城や淡島とはすでに駅で分かれており、ここから自転車に乗っての帰路は相羽と二
人きり。
「あーあ、楽しかった。ちょっぴり無理をした甲斐があったわ」
「やっぱり、無理をしてたんだ?」
 結城達がいなくなったところで気抜けしたのだろう、つい実情を漏らしてしまった。
相羽にはしっかり聞き咎められたが、もしかすると純子自身も心の奥底では誰かにねぎ
らって欲しいと願っていたのかも。
「そんなに、無理って言うほどの無理じゃないわ」
「隠さなくても。実は、おおよそのところは、母さんから聞いて知ってるんだけど」
「そ、そうだったの。だから誘ったときに、簡単にOKしてくれたのね」
「心配して欲しかった? 仕事がないときは休めって」
「うう。かもしれない。でもいいんだ」
 自転車ではなく徒歩だったら、相羽の方を振り返ってほころぶような笑顔を見せてい
ただろう。
「今日は休んだ以上に充実してたもん。寄ったところは三つとも好みに合って。プラネ
タリウムは内容が入れ替わるまではいいけど、マジックはどうなのかしら? ショーの
内容は同じ?」
「基本となる部分は同じで、あとは客に合わせて変えてくると思うよ。僕らのこと覚え
てくれただろうから、なるべく違う演目になるはず」
「じゃあ、近い内にまた行ってみない? 今度はその、二人で」
「……」
「な、何で黙るの!」
 恥ずかしさから声が大きくなる。相羽が急いで返事を寄越した。
「随分、積極的だなと思って、びっくりした」
「それだけよかったってこと! ……それに、占い師さんにああいう風に言われて、少
し気になったから」
 駅から自宅まである程度行くと、あまり信号がなく、あっても青だったため停まらず
に来られた。が、ここで十字路に差し掛かり、一旦停止した。
「相羽君も気になったでしょ?」
「そう、だね」
 相羽の区切った言い方に引っ掛かりを覚えた純子だが、疑問を言葉にする前に、自転
車を漕ぎ出す。比較的狭い路地に入るため、一列になった。純子は後ろに着いた。
「小早川さんの言っていた岐路って、当たってたんじゃあ?」
 思い切って聞いてみた。相羽の背中から反応が来るまで、ちょっと長く感じた。
「どうしてそう思うの?」
「学校で先生のところによく行ってるでしょ、相羽君。面談の話だけにしてはいつまで
も掛かっているし。やっぱり進路の相談なのかなあと思って」
「なるほど。……純子ちゃん、次に時間が取れる日っていつになる?」
「え? それは分からないけれども、当分無理かなぁ。今日の休みを確保するために、
あとのスケジュールにもしわ寄せが行ったみたいだから」
「そっか、そりゃそうだよね」
 相羽が額に手を当てて、考える姿勢になるのが分かった。そのポーズがしばらく続く
ものだから、「前、ちゃんと見てる? 危ない」と声を張る。
 実際には周囲がまだ明るさを残しているおかげもあって、危ない目に遭うことも遭わ
せることもなく、純子の自宅前まで着いた。
「結局、何だったの? 時間が取れる日って……」
 自転車を降りて門扉の手前まで押して立ち止まり、振り返って尋ねた純子。
「気にしないで。僕の方で何とかする。じゃあ急ぐからこれで」
「? う、うん。分かった。気を付けてね」
 違和感を払拭するためにも、手を強く振って彼を見送った純子。だが、何となく居心
地の悪いものが残った。

            *             *

「母さん、純子ちゃんのスケジュールで一日だけでも完全な休みを作れない?」
 マンションの自宅に帰り着くなり、相羽は母に言った。
 キッチンに立っていた相羽の母は、短い戸惑いのあと、眉根を微かに寄せた。難しそ
うだと見て取った相羽は、答を聞く前に言葉を重ねる。
「無理なら、一番仕事に余裕がある日を知りたい。三日間ぐらいのスパンで見た場合
に」
「……もうすぐ夕飯が完成するから、その話は食べながらにして、今は着替えてきなさ
い。うがいと手洗いもね」
 分かったと素直に動く相羽。
 今日午後から遊んだ中で、二度も暗示的な出来事があった。自分と純子との近い将来
を考えさせる出来事が。表裏一体になったカードと占い、どちらも純子に何かを勘付か
せるきっかけになっているような気がする。
(はっきり聞かれる前に、僕から言わなくちゃ)
 しかしそれにはタイミングを見定める必要がある。当初は、彼女にじっくり落ち着い
て聞いてもらえる時間と場所があれば、何とかなると思っていた。だけれども、少し考
えてみて、純子が関わっている仕事への影響も考慮せねばならないと思い直した。その
目的のために、まずは母に聞いてみたのだが。
「――それを教えても、大して差はないと思うわ」
 母の返答に、相羽は何でだよと口走った。似つかわしくない荒っぽい言葉に、母が苦
笑を浮かべる。
「信一がどんな理想的な状況を描いているのか知らないけれど、ショックを与えずに知
らせるなんて、絶対に無理だから。仕事への悪影響って言うのなら、ショックを二日も
三日も引き摺るかもしれないわ」
「それは……」
 続きが出て来ない相羽。母が意見を述べた。
「とは言ってもね。私から見た印象になるのだけど、純子ちゃんはあなたの留学を知っ
ても、多分仕事はきちんとこなすわ。最高の状態ではない、悪いなりにではあるかもし
れないけれど、責任感のある強い子だから、それくらいはやり遂げる。純子ちゃんにと
って一番影響を受けるのは、あなたがいなくなったあとの日常の方」
「そうなのかな……」
「決まっているわ。好きなんでしょう、お互いに。あなたが考えるべきは、一番ましな
伝え方をしようとか、ベストのタイミングを計ろうとかじゃなくて、離ればなれになっ
たあとの彼女のことを想って、今できる行動を起こす。これじゃないのかしらね」
「……分かるけど。難しい」
 食事の手が止まりがちになるのは、カレーライスのせいだけではない。母に促され
て、何とか再開する。
「私が純子ちゃんなら」
 その前置きに相羽が顔を起こすと、母がいたずらげな笑みを浮かべていた。
「こんな大事なこと、一刻も早く知らせてよ!ってなるかな。次は、ひょっとしたら翻
意を期待するかもしれない。そこは信一が誠意を持って受け入れてもらうしかない。そ
れから――一緒にいられる間にできる目一杯のことをしたくなるわね。信一は求められ
る以上に応えてあげて。そうして彼女に安心してもらう」
「安心」
「そう。たとえ遠くに離れていても、これからの将来ずっと一緒に歩んでいけるってい
う安心」
 おしまいという風に、箸でご飯を口に運ぶ相羽母。
「いいアドバイスをもらえた気がする」
 相羽は無意識の内に頭を掻いた。
「けどさ、純子ちゃん忙しいんでしょ? 出発する日までに、どれだけ時間を取れるの
か……」
「そこはまあ、信一が工夫して。学校にいる間を最大限活用するとか。たとえば、思い
っきりべたべたしてみるとか?」
「母さん!」
 怒ってみせた相羽だったが、次の瞬間には学校で純子とべたべたする場面を想像し
て、赤面と共に沈黙した。

――『そばにいるだけで 67』おわり
※作中に出て来た、皆既日食の起こるとされる月日は、架空のものです。過去及び未来
を通して、同じ七月下旬に皆既日食が日本で観られるケースはあるはずですし、なおか
つ本作のカレンダーと合致する年があるとしても、それは偶然であり、本作の年代を特
定する材料とはなりません。念のため。




#521/598 ●長編    *** コメント #501 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/30  22:43  (471)
絡繰り士・冥 3−1   永山
★内容                                         19/02/01 01:30 修正 第2版
「これをどう思うね?」
 十文字先輩が白い封筒とその中身の便箋を示しながら云った。
「この住所のところに行ける? ちょっと季節外れでも、南のリゾート地に行けるなん
てうらやましいにゃ」
 一ノ瀬和葉が答えて、ホットミルクの入ったグラスを両手で引き寄せた。穴の開いた
棒状のお菓子をストロー代わりにして、ぼそぼそと吸っている。
「――百田君、君は?」
 先輩の目が僕に向いた。先輩の注文したコーヒーと焼き菓子がちょうど届いた。
「招待状を受け取る心当たりはあるのですか」
 僕は冷めつつある残り少ないパスタをフォークで弄びながら尋ねる。
 ここは七日市学園のカフェだ。今は放課後の四時。他の利用者はほとんどいない。冷
たい雨が降っているせいか、早々と帰路に就いた者が多いのだろう。唯一、遠く離れた
席で、女子の二人組がお喋りに花を咲かせている。――いや、何やら深刻そうに話し込
んでいる。
「ないさ」
 きっぱりとした返答の十文字先輩。名探偵を志し、実際にいくつかの凶悪犯罪を解き
明かしてきたこの人にとっても、見知らぬ人物から招待状を送られるなんて経験は、珍
しいらしい。それで先輩が困惑したのかどうかは分からないが、意見を聞きたいという
ことで、僕らはカフェに呼び出され――来たのは先輩の方が遅かったけれども――、今
に至る。
「字は毛筆体だが、プリンターで出力したものだね。差出人の名は小曾金四郎と書い
て、こそ・きんしろうと読むと判断した。初めて見る名だ。住所の記載はなく、消印す
らない。直に郵便受けに放り込んだと思われる。中身は便箋と飛行機のチケット。文面
は多少凝っているが、内容は至ってシンプル。『貴殿の探偵業における日頃の活躍を賞
し、また慰労のため、保養の地にご招待する所存』云々かんぬん。要するに、探偵とし
てよくやったから骨休めに来いという訳だ。どこで活躍を見てくれていたのか知らない
が、これを直に郵便受けに投じていることや、スマホや携帯電話その他モバイル機器の
類は持参するなと書いてあること等からして、怪しさ満点だよ」
「小曾金四郎ってのも本名じゃないんでしょうね」
「恐らく、いや間違いなく偽名だろうな。振り仮名がなかったんだが、こそきんしろう
と読める名を名乗ったのは、別の意図があるんだと思う」
「と云いますと?」
 僕が莫迦みたいにおうむ返しした横で、一ノ瀬が「あ」と叫んだ。ストローは消え、
ミルクも飲み干していた。
「もしかして、アナグラム? えっと、ローマ字なら、KOSOKINSHIROUだ
から……」
「KURONOSOSHIKI――『黒の組織』になる」
 すかさず答えた十文字先輩。著名なアニメでもお馴染み、悪者グループの俗称、代名
詞みたいなものと云えよう。
「これが偶然でないとしたら、ますます警戒する必要があるのだが、こういった招待状
に対して、怖じ気づいて応じないというのも名探偵像にはない」
「じゃあ、乗り込むんですか」
「それは君の返事次第だよ、百田君」
 想像の斜め上から来た文言に、僕は口をぽかんと開けた。頭の方も一瞬、ぽかんとな
ったかもしれない。
「ど、どういう意味ですか」
「お誘いの文句には、集合する日時と場所の指定に続けてこうある。『同封したもう一
枚は、お連れの方の分としてご自由にお使いください。ただ、一つだけ当方の我が儘を
述べさせていただきますれば、十文字探偵の名パートーナーでワトソン役である方をご
同伴願えたらと、切に願う所存です。』とね」
「僕のこと、ですか」
「そうなるね。ワトソン役を連れてこいということは、向こうで事件が起きる、少なく
とも準備がなされている可能性が高い。モバイル禁止は、外部の助けを借りるなという
示唆じゃないかな。向こうがここまでして待ち構えているのに、行かずにいられようか
という気分の高鳴りを覚えるんだよ。無論、君の意思は尊重したい」
「待ってください。僕が行かないとしたって、他に誰か頼めばいいのでは? たとえば
……五代先輩を通じて、警察の人に同行してもらうとか」
 五代春季先輩は十文字先輩の幼馴染みで、警察一家に生まれた。柔道の腕前は強化選
手クラスだ。
「この段階で、警察が動くとは考えづらい。仮に動いてもらったとして、何も起きない
内から、探偵が警察を連れて来るというのもまた前代未聞じゃないかな」
「だったら、せめてボディガード的な……それこそ五代先輩や音無さんがいれば、心強
いじゃないですか」
 音無亜有香は僕や一ノ瀬と同級で、剣道に打ち込んで強さを磨いている。こと暴力沙
汰になれば、僕なんかよりずっと役に立つ。
「ご指名は――名指しじゃないが――君なんだよ。特別な理由なしに、君以外の者を同
行させたら、僕が臆病風に吹かれたみたいに映るじゃないか。そうなるくらいなら、最
初から招待を断る」
 何となく格好いいこと云ってるみたいに聞こえるけれども、矛盾してる。そこまでメ
ンツを気にするなら、行かないというのはあり得ないはず。一人でも行くというのが最
後の選択肢なのではないのかしらん……なんてことを先輩相手に指摘できるはずもな
く。多分、十文字先輩は僕に着いてきて欲しいのだと思う。理由は不明だけれど。
「いつなんですか。都合がつけば行きますよ」
 僕の返事に、高校生名探偵は破顔一笑した。

 いくら南国のリゾート地といえども、連休を丸々潰して出向くには、不気味で不確定
な要素が多すぎる。一ノ瀬が云ったように時季外れだし……と、旅立つ前はそう思って
いたのだけれど。
「ようこそ、ワールドサザンクロスへ」
 空港のすぐ外、送迎車らしきワゴンカーの前で待機していた女性二人は朗らかに云っ
た。僕の方に付いた女性は、どことはなしに全体的な雰囲気が音無さんに似ていて、そ
れだけでこの旅がいいもののように思えてきた。あ、毎度のことだから記すのが遅くな
ったけど、僕の理想の女性像は音無さんなのだ。
 尤も、年齢は僕ら高校生より上であるのは確実で、四年生大学卒業前後といった辺り
に見えた。彼女はミーナと名乗り、十文字先輩に付いたもう一人はシーナと名乗った。
もちろん本名ではなく、当人らの説明によると、小曾氏の自宅に隣接する形で氏がオー
ナーを務めるリゾート施設があり、そこのショーに出演するプロのパフォーマーだとい
う。
「そんな方々が迎えに、わざわざ車を運転してくるなんて。まさか、自動運転じゃない
でしょう?」
 先輩が真顔でジョークを飛ばすと、ミーナとシーナはより一層の笑顔を見せた。
「ご安心ください。運転手は別にいます。名を東郷佐八(とうごうさはち)といいま
す」
 スライド式のドアを開け、中へと導かれる。運転席の中年男性に挨拶をすると、振り
向いて強面を目一杯柔和にして挨拶を返してくれた。
「このまま我が主の邸宅へ向かいますが、寄りたい場所があれば云ってください。道す
がら、目にとまった場所でもかまいません」
「とりあえず落ち着きたいので、目的地に直行でお願いします」
 実際問題、下調べをするゆとりがなかったため、どこに何があるのかさっぱりだ。結
局、コンビニエンスストアに立ち寄って、ご当地仕様のお菓子や飲み物なんかを多少買
い込んだぐらいで、他に寄り道はせず小曾邸に着いた。最終的に車は五十分ほど走った
ようだ。
 門をくぐって、噴水を中心にロータリーみたいになっているところで降ろされた。
ミーナが荷物を持ちましょうと云ってくれたが、断った。つい浮かれ気分になりそうな
陽気だが、この旅行は正体不明の差出人からの怪しい招待を受けてのもの。警戒するに
越したことはない。それを云い出したら、迎えの車に乗るのはどうなんだとなるが、だ
ったらそもそも招待に応じなければいいとなるので、虎穴に入る覚悟をある程度してい
る。
「こいつは……想像していたのとは若干違うが、豪邸だな」
 先輩の言葉に、僕も同感だった。ちょっとしたお城のような洋館を思い描いていたの
に対し、目の前に現れたのは、平屋造りの日本家屋。ただ、敷地面積がやたらと広い。
多分、余裕で野球ができる。
 隣接されているレジャー施設も背の高い建物はなく、黄色と青色を配したかまぼこ型
の屋根が長く伸びているのが確認できたのが精一杯だった。
 背の高い扉の玄関の前まで来て、ふと気付くとミーナもシーナもいない。東郷は元か
ら車を離れていない。
 どうしたものかと迷う間もなく、観音開きのドアが内側から押し開けられた。スムー
ズな動きで、音はほとんどしない。
 執事か何かが登場すると思っていたら、筋肉質な身体の持ち主がいた。若い男――と
いっても三十前ぐらいか――で、黄色のシャツに赤いジャケット、膝下でカットしたブ
ルージーンズという信号機みたいななりをしている。男前なのに残念なセンスの持ち主
なのかなと思った。
「よく来てくれたね。僕が小曾金四郎だ。よろしく」
 いきなりの招待主登場に、僕は面食らった。対照的に先輩は、小曾が満面の笑みで差
し出した右手を自然に握り返し、握手に応じている。ああ、何はともあれ、名前の読み
は“こそきんしろう”で当たっていたんだ。
「探偵の十文字です。お招き、ありがとうございます。こちらはワトソン、百田充君で
す」
 先輩の紹介に続いて、僕も小曾と握手。とりあえず名前だけ云って、あとは黙ってお
いた。
「早速ですが、僕らを招いた真の目的は何です? 本当に称えるためだけなら、失礼で
すがこのような僻地まで呼び付けずとも、僕らの地元で祝ってくれればいいのにと感じ
たんですがね」
「話が早いのは助かる。依頼がしたい」
 小曾は最初の笑顔を消して云った。
「依頼なら他に簡単な方法が――」
「ただの依頼じゃない。訳あってこのような迂遠な方法を採ったんだ。否、採らされ
た」
「採らされたとは?」
「言葉通りの意味だ。強制されたのだ」
 つい先程から、低い振動音が微かに聞こえている。スマートフォンか携帯電話のマ
ナーモードによる音らしく、どうやらそれは小曾の方から聞こえる。
「やっと許可が出た。僕は小曾金四郎ではない。俳優だ」
「はあ?」
「名前は岸上健二(きしがみけんじ)、あんまり売れていないが、ネットで調べればい
くつかの舞台劇や映画に出ていると分かるだろう。そんなことは重要じゃない。僕は今
の今まで、小曾金四郎役を強制されていた。さっき、スマホに着信があったんだが、そ
れが合図でこうして事情を君達に喋っている」
「きょ、強制されているって、何が原因なんです?」
 思わず、僕は口を挟んだ。横手から軽く舌打ちする音がして、十文字先輩が僕の肩に
手を掛けた。
「百田君。今は岸上さんの話を聞くのが先決だ。何者か知らないが、彼を操っている人
物から話すチャンスを与えられたようなのだからね」
 なるほど、喋れることを全て喋ってもらおうということか。質問するだけ時間の無駄
という訳だ。岸上も意図を汲み取り、一気に話す。
「僕には妻と子供がいて、三日前から人質に取られている。相手は小曾金四郎と名乗
り、妻達の身の安全と引き換えに、僕に指示をしてきた。警察には届けていない。君ら
には申し訳ないが、この条件なら達成できると思った。云うことを素直に聞いて、妻と
子供を無事に返してもらうつもりだ。条件というのは、さっきの着信まで小曾金四郎の
ふりをして、云われた通りの役回りを務めることと、もう一つ。君達というか十文字君
に、簡単な問題を解いてもらうことだと聞かされている。問題が何かは聞かされていな
い。このあと、指示が来るはずだ。それから、小曾がどこかから見張っていると思うん
だが、詮索するなと厳命されている。そのことは君達も守ってくれ。お願いだ」
 岸上が明確な返事を求める目を向けてきたので、先輩も僕も首肯した。
「もちろん、守ります。話したいこと、話せることは以上ですか」
 先輩の問い掛けに、岸上は一瞬考える仕種を覗かせ、次に早口で云った。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。次の指示があるまでは、自由に答えられる」
「とりあえず三つまとめて聞きます。いつどのようにしてここに来たのか。小曾からの
接触はどんな方法だったか。奥さんとお子さんが無事である証拠は示されたのか」
「着いたのは昨日だ。正午過ぎだった。多分、君らと同じ車で運ばれた。犯人の小曾か
らは三日前の夜、家の固定電話に電話があった。妻が自転車で保育園に飛翔(かける)
を迎えに行った帰り道、妻と飛翔を誘拐したと云っていた。ここへ来る交通費やルート
は、郵便受けに入っていた。無事である証拠は声を聞けた。最初の電話のときから一日
に一度ずつ、一分あるかないかの短い時間だったが」
「次の三問です。昨日着いてから今まで、何をして過ごしましたか。この家や隣の施設
に実際に使われてきた形跡はありましたか。あなたの他に、誰がいますか」
「到着したその日はずっと監禁されていた。奥の方の土蔵のような部屋だった。見張り
の有無は不明だが、外から鍵を掛けられた。食事は小型冷蔵庫があって、その中から適
当に食えと云われていた。トイレも簡易式の物があった。こう説明していると牢屋だ
な、まるで。今朝になって部屋を出された。身なりを整え、こんな格好に着替えさせら
れ、君らの到着を待った。二問目については、よく分からん。この家の方は使っていた
形跡はあるが、住人がいたのかどうかは知らない。隣の施設となるとさっぱりだ。サザ
ンクロス何とかだっけ? サーカスか何かみたいなものだと思っていたが、人の気配や
歓声はなかったな。それから他に誰がいるかは、答えることを禁じられている。云える
のは、犯人側ではない者が何人かいるとだけ」
「――他に禁じられていることは何? 電話をしてきた小曾の声の調子はどんな感じだ
った? それから」
「すまない。着信があった。時間切れらしい」
 岸上は俯き気味に首を振った。ポケットの中で、機械を操作するのが分かる。
「このあと、僕はまた小曾金四郎として振る舞わねばならない。君らもそのつもりで対
応してくれ。他の連中は何が起きているのかをまだ知らない。抽選に当たってただで旅
行に来られてラッキーと思っているようだ」
 言葉を句切ると、岸上は「入ってくれたまえ」と語調を改めて云った。
「案内は彼女達がやってくれる」
 ドアが閉じられてから、岸上が手で示した先には、ミーナとシーナの二人がいた。初
対面時のラフな格好と異なり、ホテルマンのような制服を身につけている。
 岸上の方には東郷佐八が着き、先を歩かされるようにしてどこかへと消えていった。
「ミーナとシーナ。君達には質問してかまわないかい?」
 先輩は物怖じする様子もなく、むしろ気さくな感じで尋ねた。女性二人は顔を見合わ
せたかと思うと、ミーナが口を開いた。
「こちらは将来、宿泊施設に改装もしくは増改築することを念頭に、今回テストとし
て、お客様にはお泊まりいただくことになっております。お二方もモニターという訳で
す。ご質問にはできる限りの範囲でお答えしますが、かような事情ですから、確定的な
返答ができかねる場合もありますことをご了承ください」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 表情に戸惑いが微かに滲む十文字先輩。その間に部屋への移動が始まる。
 やがて、まずは手探りとばかりに、当たり障りのない質問を探偵は発した。
「あなた方はパフォーマーなのに、従業員のような役割を受け持っている? おかしく
ない?」
「現在、私達は故障を抱え、パフォーマンスの方はお休みをいただいています。その
間、別の業務を、という判断がなされました」
「あなた達を雇っているのは小曾金四郎? いや、名前ではなく、さっきいたあの男
性?」
「違います。オーナーの姿を見掛けたことはあまりありませんが、先程の方でないこと
は確かです。あの、質問を返すのは申し訳ないのですが、先程の男性はあなた方に小曾
と名乗られたのでしょうか」
「――ええ、まあ」
「では、オーナーがお客様の皆さんのためにご用意した趣向だと思います。詳しいこと
は一切聞かされていないのですが、誰もが驚くイベントがあるとか。そのおつもりで、
お過ごしください」
「ええ、楽しみに……。東郷さんとは、以前からのお知り合いなんですか」
「はい。東郷は送迎バスの運転手の他、雑用をこなします。ワールドサザンクロスの設
備に不具合が見付かれば、あの人が修繕することがほとんどです」
「なるほど。他にも宿泊客がいるはずだけど、彼らもモニター役とは知らずに来たのか
な」
「知っている方もいれば、ここへ来て初めてお知りになった方もいました。現時点では
皆さん把握されていますから、気兼ねなく交流をお楽しみください」
「……」
 先輩が黙り込む。と同時に、部屋に着いた。扉には味も素っ気もない漢数字「一」の
プレートが掛かっていた。
「こちらになります」
 二人部屋で、扉を開けてみると、玄関の土間に当たるスペースが設けられており、部
屋へはもう一つ内扉があった。再び扉を開け、ようやく十畳程の和室と分かる。内扉は
ふすま風で、外扉は洋風のドア。上がり框が設けられていることからも、すでに宿泊利
用のため、この和風建築のそこかしこに手を入れてあると窺い知れる。
「ご宿泊中は、そちらにありますスリッパをお使いになれます。室内の小さな冷蔵庫は
ご自由にお使いください。中の物もご自由にどうぞ。夕食は――」
 ざっと説明を済ませたあと、シーナとミーナは部屋のカードキーを置いて去って行っ
た。
「さて、できることならワールドサザンクロスに関して、もっと調べておきたいところ
だが」
 荷物を部屋の片隅に放りつつ、先輩が云った。
「素直にルールを守ったおかげで、ネットが使えない。近所に聞き込みに行くのも簡単
ではなさそうだ」
「近くに民家は見当たりませんでしたからね。それよりも、案内してくれた人やその他
と、どう接するのがいいんでしょう? 犯人の小曾と通じている者だっているかもしれ
ませんよ」
「今は、相手のやり方に乗っかるしかあるまい。人質を取られていることを忘れないよ
うに」
「ですが……問題発言かもしれませんけど、あの岸上さんの話を信じられるかどうかも
分からない訳で」
「無論、それを含めて、敵の策略かもしれない。しかしこれは相手が仕掛けてきたゲー
ムだ。最初っからレールを踏み外すような真似はしまい。僕に害を加えることが目的な
ら、歓待の席で毒を盛るなり、行きの飛行機を落とすなり、簡単な方法や派手な方法は
いくらでもあるだろう。わざわざ舞台を用意するからには、意図があるに違いない。恐
らく、この十文字龍太郎の探偵力を試す」
 語る先輩の顔は、微笑しているようにも見えた。

 小曾金四郎が何を解かせようとしているのか提示されない内は、こちらか動く必要は
ないとの判断で、夕食のある午後六時半までは自由に振る舞うこととなった。
 とはいえ、矢張り気になる。何しろ、誘拐事件が起きているのだから。岸上の近くに
いて、一刻も早く次の小曾からの指示なり何なりを掴むのが最善の策ではないのか。そ
のような意見を先輩にしてみた。
「云いたいことは分かる。だが、そんな風に待ち構えるのは、詮索の一種になるんじゃ
ないか」
「それは……微妙な線だと思いますが」
「今現在、岸上氏は小曾金四郎として振る舞っている。その前提を無視するのは、避け
た方がよい気がするんだよ」
「確かに先手の打ちようはないですし、外部に援軍を求められる状況でもないでしょ
う。しかし、何かできることはあるんじゃあ……たとえば、隣の施設に行って、下調べ
をしておくとか。わざわざこの場所を指定したからには、きっと何らかの関連があるん
ですよ」
「僕もそれは考えた。考えた上で、二番目の優先事項だ。ここにいなければ、犯人から
の指示を報せてもらうのが遅れる可能性があるからね」
 そうか。携帯電話やスマホがない影響がここに出る訳か。
「携帯端末を誰かから借りるのはどうです? 従業員は信用できるかどうか半々でしょ
うけど、宿泊客なら」
「宿泊客なら信用できるという理論は怪しいが、借りるのは考え方として悪くない。問
題は、他の人達が持って来ているかどうかだ」
「え? そりゃ持ってるでしょう」
「どうかな」
 十文字先輩は後ろを向いた。
「館内専用のようだが、電話がある。あれでフロントに問い合わせてみないか? スマ
ホなどの持ち込み禁止ルールは徹底されているのか、といった具合に。他の宿泊客にそ
んなルールがないとしたら、電話に出た従業員は怪訝な反応を示すだろうさ」
 僕はすぐにやってみた。すると電話に出た女性従業員――多分シーナ――は、「は
い、厳密に守られています」との返事をくれた。それとなく理由を尋ねると、「皆様は
モニターとしてお試しで当施設をご利用になられています。云うなれば、企業秘密に関
わる事柄ですので、ここでの体験や情報をリアルタイムかそれに近い形で外部に流され
るのは禁止させていただいております」との答を得た。
「――だめでした。矢っ張り、全員が禁止です」
「そうだろう。理由付けがし易い状況だしな」
 満足げに頷く先輩。モニター云々という理由を見越していたらしい。
「まあ、落ち着かないのは分かるが、落ち着こうじゃないか。買ってきた菓子でも食べ
て、栄養補給しておくといい」
「そうですね。夕飯にはまだありますし」
 木製の四つ脚テーブルの上には、電気式の小振りなポットが一つと、湯飲みが二つ、
ティーバッグがいくつかまとめて置いてあった。茶菓子もあるにはある。
「お茶、入れます? それとも冷蔵庫の中から……」
「実は迷っている。いや、何を飲むかじゃない。もし僕を試すつもりなら、飲み物類に
は全て眠り薬が仕込んであって、迂闊に飲んだらぐっすりと眠りこけてしまうんじゃな
いか、とね」
「そういうテストまでされるんだとしたら、気力が保ちませんよ。風呂にいるときだっ
て、布団で寝ているときだって、襲われる可能性を念頭に置かなきゃならなくなる。今
だって、いきなり何者かが乱入してきたら」
「僕が云っているのは、ちょっとニュアンスが違うんだが、まあいい」
 十文字先輩がそう云ったとき、部屋の戸が激しくノックされた。ついさっき、乱入な
んて想像していただけに、余計にどきりとした。僕達は二人して応対に出る。鍵を掛け
たまま、まず僕がドア越しに「どなた? 何ですか?」と誰何する。
「東郷です。十三号室の小曾金四郎様から言伝があります」
 ノックの激しさとは裏腹に、落ち着いた調子のダミ声が響いた。僕の隣で先輩が「十
三号室? オーナーではなく、岸上氏のことか」と呟く。それから外に向けて、「この
まま読み聞かせてください」と云ったのだが、反応は歯切れが悪かった。
「それが、読み上げるにはいささか不適切な内容なので……」
「分かった」
 先輩はドアを開け、東郷佐八を中に入れた。彼の手を見てさらに云った。
「メモがあるのなら、直に見たい」
 この申し出に東郷は考える様子もなしに、すっと渡してくれた。この施設専用のメモ
用紙らしく、ロゴが入っている。
<犯人からの指示があった。君達への出題だ。直に奥の部屋に来てもらいたい。13号
室 岸上>
 なるほど、ドア越しに声を張り上げるには、「犯人」とは云いにくいだろう。
「奥の部屋とは十三号室のことなんですか」
 靴を履きながら問う十文字先輩。東郷は「恐らく。前の廊下の突き当たりが十三号室
なので」と答えた。
「その部屋は土蔵や牢屋のようになっている?」
「まさか。こちらの部屋と同じですよ」
 苦笑交じりに返答された。岸上が監禁されていた部屋は、別にあるらしい。
「急ごう」
 足早に行動を開始した先輩に、僕だけでなく東郷も着いて行く。
「東郷さんに聞きたい。これはイベントの一環?」
「分からんのですが、多分そうなのでしょう。実を云うと、三日前からオーナーは姿を
くらましていて、こちらにはおりません。秘密主義のところがある男で、またいつもの
癖が出たなと」
「あなたはオーナーの小曾金四郎氏とはどのくらい親しいんですか」
「親しいも何も、オーナーとは親戚でして。私の妻の兄が、オーナーの義理の母と姉弟
の関係になる」
「……小曾金四郎というのは本名なのですか」
「いえ。オーナーはかつて芸人をやっており、そのとき名乗っていた芸名をそのまま使
っている次第で。本名は那知元影(なちがんえい)と云います」
 東郷が矢継ぎ早の質問に淀みなく答え切ったところで、十三号室の前に辿り着いた。
「それでは自分はここで」
 帰ろうとする東郷。オーナーの部屋に案内してもらうような錯覚をしていたので、こ
の人に取り次いでもらうのは当然だと思っていたが、考えてみれば関係ない。仮にイベ
ントだとしても、従業員が特定の客に肩入れする形になるのはまずかろう。
「――待ってください。返事がない」
 早々にノックしていた十文字先輩が、東郷を呼び止めた。扉の取っ手をがたがた揺さ
ぶりつつ、「鍵も掛かっている。どうすれば?」と続ける。
「おかしいですな」
 素が出たような困惑の呟きをした東郷。扉にロックがされていること及び中に呼び掛
けても反応がないことを確認し、首を捻る。
「伝言を預かったのは、ついさっきなんだが。十分も経っていない」
 来いと呼び付けておいて、十分足らずで部屋を離れるのはおかしい。意図的に身を潜
めたか、あるいは。
「開けることは?」
「マスターキーを取ってくれば、開けられますが」
「……オーナーの指示で禁じられているとかでないのなら、開けてください」
 十文字先輩の要請に、東郷は黙って応じた。きびすを返し、今来た長い廊下を急ぎ足
で戻る。
「悪い予感しかしないな」
 先輩の言葉に、僕は「え?」と目で聞き返す。
「岸上氏は命じられて強制的に操られているだけで、直に害を蒙ることはない。そう思
い込んでいた。だが、今の状況は……」
 そこから先は口をつぐむ名探偵。もしや十三号室の中には、襲撃されて声も出せない
岸上がいるのだろうか。それこそ最悪の事態を想像したそのとき。
「あ? 開いている」
 何の気なしに触れたドアが、すっと開いた。
「何かしたのか、百田君?」
「いえ、何も。触れただけです」
 冷静さを失って、どもりそうになるのを堪えながら、僕はドアが動くことを示した。
「よし、入るとしよう。ただし、二人一辺に入るのはよそう。閉じ込められでもしたら
間抜けだ」
「でも、中に犯人がまだいるとしたら、一人は危険なんじゃあ」
「現段階では、誘拐が起きたと岸上氏が云っているだけだ。殺人や傷害事件が発生した
とは限らない。そこら辺を確かめないと、話が進まないんだよ。心配しなくても部屋に
入るのは僕で、君は見張りを頼む。充分に注意して、何かあったら大声で知らせてく
れ」
「先輩も気を付けて。中で何かあったら知らせてくださいよ」
「五代君に鍛えてもらったから、多少の心得はあるつもりだ」
 云い置くと、十文字先輩は扉を全開にした。僕は廊下全体に意を注ぎながらも、入っ
て行く先輩の背中を見送った。

 意識を取り戻すと、状況が激変していた。
 時刻は夕方。ブラインドの降りた窓からそれらしき光が差し込んでいる。場所は……
宛がわれた部屋ではない。荷物がないし、布団を敷いた覚えはないのに、今の僕は布団
の上に腰を落としている。そして寝床の横には人の刺殺体がある。
 驚きのあまり声を失うという経験が今までにもないではなかった僕だけれども、この
ときばかりは悲鳴を上げたつもりが出せなかった。物理的にシャットアウトされてい
る。緩くではあるが猿ぐつわをされていた。両足首には手錠のような物がはめられ、両
手首も後ろ手に結束バンド(直に見えてないので恐らく)で自由を奪われている。身体
が固いつもりはないが、この状態で腕を前に持って来るのは無理。肩が抜けそう。縄抜
けの術があれば習っておけばよかった。探偵助手としてのたしなみというもの――いや
いやいや、僕は探偵になりたい訳じゃないし、ましてやワトソン役に好んでなった訳で
もない。
 とにもかくにも、現状の理解だ。
 廊下を見張っていたら、突然、首筋に電撃みたいな一撃を食らって、意識を失った…
…んだと思う。薄れる意識の中、背後は壁なんだ、襲われるなんてあり得ないと疑問に
感じて振り返ったのを覚えている。そのとき視界に端っこに、壁が開いて中から腕が出
て来ていたような。恐らく、壁には仕掛けがあって、普段は単なる壁にしか見えないの
が、機械的な操作で口が開き、そこから腕を伸ばして僕の首筋を殴ったか、電気ショッ
クを与えたかしたのではないか。だとしたら、位置関係から類推するに、僕を襲った腕
の主は十三号室の中にいたことになる。つまり、十文字先輩も襲われて、僕と同じよう
に拘束されているのか?
 ……まさか、死んでいるのが先輩?
 僕は確かめるために、身をくねって遺体ににじり寄った。
 遺体は俯せで、あちらに顔を向けている。そもそも僕がこの人物を見て死んでいると
判断したのは、背中に深々と突き刺さった刃物状の凶器と、床に広がる大きな血溜まり
が理由だが、絶対確実に死んでいるとは言い切れない。といって、声を出せない今、ち
ょんちょんと爪先でつつくぐらいしか反応を見ることはかなわないのだが、もちろん実
際にはしない。
 やや近くで見る内に、この人物が東郷佐八その人だと分かった。後ろ姿が、記憶と重
なる。十文字先輩とは全く異なるシルエットなのに、一瞬でも勘違いしそうになった自
分が情けない。メンタルの疲弊を覚える。自覚したならしたで、意識して己を奮い立た
せる。
 何故、僕がこんな目に遭うのか。もっと云えば、何故、十文字先輩ではなく、僕なの
か? 招待状は高校生探偵である十文字龍太郎宛だった。こうして死体を見せつけるの
なら、名探偵相手に展開するのが常道ってやつじゃないのか。しかし、現実にはそうな
っていない。理由は何だろう?
 まず考えられるのは、僕だけじゃないってケース。さっき思い浮かんだように、先輩
も同じ状況下に置かれているのかもしれない。その場合、先輩が監禁されているのは、
十三号室か?
 次に、何かの手違いや思い違いで、僕が十文字龍太郎だと見なされているケース。可
能性は低いだろうけど、ないとは言い切れない。敵が深読みをする奴で、“名探偵たる
者、こんな怪しげな招きに乗ってくるからには、最初からワトソン役と入れ替わってい
るに違いない”なんて誤解した恐れ、なきにしもあらず。
 三番目は、想像したくないけれども、十文字先輩が既に亡くなっているケース。死者
を相手に死体を見せつけてもしょうがない。犯人だってわざわざ呼び寄せた名探偵をい
きなり殺すつもりはないだろうから、あるとしたら十三号室で乱闘になり、先輩の方が
制圧されて命を落とした可能性ぐらいか。犯人は計画を放り出せずに、僕を代役にして
続行している。もしこれが当たりなら、僕にとって最悪だ。
 四番目は……だめだ、思い付かない。意識を失っていた影響もあるのかもしれない。
 とにかく助けを呼ばなくては。窓ガラスを割るのが最も手っ取り早いだろうが、手足
を拘束された状態で、怪我をせずに割れるかどうか。窓の高さは、一般的な成人男性の
腰の辺り。普通よりは低いかもしれないが、それでも割るのは大変に違いない。道具も
使えそうになく、そもそも窓の下まで五メートルはある。あそこまで這っていくのと、
ぴょんぴょん飛び跳ねていくのとどちらがいいだろう。後者の方が楽だろうけど、もし
転倒すると血溜まりに身体を突っ込む恐れがある。
 まあそれらは些細な点だ。もう一つの脱出経路を検討してみる。ドアだ。窓と反対側
でやや暗く、すぐには気付かなかったが、ドアがある。学校の体育倉庫によくあるタイ
プ。横にスライドする大きな金属製の扉らしい。外から施錠されているのかどうか、こ
こからは分からない。危険防止のため、外からのロックを内側からも開錠できる仕組み
になっているのか否かも不明。距離は窓までよりも若干遠く、七メートルくらい? こ
うして観察していくと、意外に広い。本当に倉庫なのかもしれない。影になって見えづ
らいが、部屋の隅には大ぶりな物体がいくつか置いてあるようにも見える。
 と、ここで別の不安が沸き起こった。おいそれと助けを求めて大丈夫なのか。犯人に
見付かるのは避けねばならない状況なのだろうか。――これにはすぐに判断を下せた。
こうして人を拘束した上で死体を見せつけているのだから、犯人はとっくに立ち去って
いるだろう。次はおまえがこうなるという警告ではなく、飽くまでも高校生探偵への挑
戦と見なすのが妥当。こうとでも信じなければやっていられない、というのも無論あ
る。
 他に出入りできそうな場所を求めて、再三再四、視線を走らせる。するとまた新たな
発見があった。体育倉庫みたいだという連想が効いたのか、壁際の下部、踝ぐらいの高
さに、いくつかの小窓があると分かった。窓と云ってもガラスはなく、板状の蓋を横滑
りさせて開閉できる仕組みのようだ。体育館や体育倉庫にあった、空気の入れ換えのた
めの吐き出し口みたいなものか。施錠の有無は不明だが、どちらにせよ、大の大人が通
り抜けられる程のサイズはないと見えた。目算で、たてよこ三十センチメートルより大
きくはあるまい。二枚の蓋の間に柱がなければ、その二枚とも外に蹴り飛ばすことで、
穴が大きくなるのだが、現実には頑丈そうな金属の棒が通っている。
 検討結果が出た。窓ガラスを割るのが最も手早くできるはず。うまく割れずに脱出し
損なっても、音で気付いてもらえる可能性がある。
 僕は意を決し、身体を起こそうと試みた。やや遠回りになってもいいから血溜まりを
避け、なるべく窓に近付く。もし転倒したらそこからは芋虫のように這うか、横方向に
転がるか。
 ある程度状況を想定した上で、実行に移す。が、その努力は意外な形で幕が下ろされ
た。
「百田君、いるか?」
 足元の小さな扉がスライドし、その軋むような音に混じって十文字先輩の声が聞こえ
た。
 僕は猿ぐつわの存在を忘れ、「います!」と叫んだつもりだった。

――続く




#522/598 ●長編    *** コメント #521 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/31  00:25  (432)
絡繰り士・冥 3−2   永山
★内容                                         19/02/01 01:31 修正 第2版

 拍子抜けする程唐突に窮地を脱し得た。僕はそう思っていた。
「客観的に云って、君の立場は厳しい」
 地元警察の栄(さかえ)刑事は、四十代半ばと思しき男性で、これまで知り合ってき
た警察関係者の中では穏やかな方だろう。太い眉毛を除けば柔和な顔立ちだし、声も威
圧的ではない。ただ、上にも横に大きい巨漢なので、空間的には圧迫感を感じる。太っ
ているというのではなく、大昔の武将みたいなイメージだ。狭い取調室だったら、それ
だけでギブアップする犯人もいるかもしれない。幸い、ここは取調室ではなく、僕(と
十文字先輩)に宛がわれた部屋だし、そもそも僕は犯人じゃない。
「ワールドサザンクロスの西側にある倉庫は、俗に云うところの密室状態にあり、その
中で東郷氏の刺殺体と一緒にいたのは君一人だ。一つしかない扉と六つある窓はいずれ
も施錠され、扉の鍵はスペアも含めて東郷氏自身が身に付けていた。あの場所はそこそ
こ広いし、何だかんだ物が置いてあったので、人が隠れるスペースはあっただろうが、
君を見付けて皆で救出した際、こっそり出ていく者ようなはいなかったと証言を得てい
る」
 窓ガラスを割ることで十文字先輩や施設の人が中に入り、僕を助けてくれたという。
 なお、僕の手足を縛っていた結束バンドや手錠は、自分自身で付けられる物だから、
犯人ではない証拠にならないとされた。
「証言をしたのは君の知り合いで先輩の十文字君だ。彼が嘘を吐く理由はないようだ
し、君との関係も良好のようだ。しかも彼は、君に対する救出は他人に任せ、彼自身は
東郷氏の遺体をそばから観察していたという。これがどういうことか分かるかい?」
「……犯人が僕以外なら、扉の鍵を密かに被害者の懐に戻すという方法は採れなかった
ということでしょうか」
 答えると、栄刑事は意外そうに口をすぼめた。
「ほお、本当に分かるんだな。十文字君が云っていた。名探偵の助手として経験を積ん
だのだから、これくらいは察するに違いないと」
「はあ」
 現状で、そんなことで誉められても嬉しくはない。
「足元にある換気のための小窓は、外側からでも自由に開閉できるが、そこを利用して
鍵を東郷氏の懐に戻すというやり方も、どうやら無理のようだ。何せ、鍵は胸ポケット
にあったのに対し、遺体は俯せの姿勢だったからねえ」
「何か絡繰りめいた仕掛けがあるのかも」
「秘密の隠し扉とか? そういうのは見付かってない。君が証言した、最初に襲われて
意識を失ったという話も、信じがたい。壁から腕が出て来たように感じたと云うが、十
三号室に隠し扉はなかった」
「そんな」
「設計図と実際とを比べ、念入りに調べたから間違いない。建てたのも外部の人間だ。
何か隠し事をしているとは考えられない」
「じゃあ、僕を後ろから襲ったのは……」
「君の言葉を信じるなら、一つだけ可能性がある。襲ったのは十文字君だ」
「え?」
「十文字君は、百田君が襲われる直前に、十三号室に入ったんだろ? 廊下に意識を集
中していた君は、密かに引き返してきた十文字君に気付かなかったという訳だ」
「そんな莫迦な! それだけはあり得ませんよっ」
 強く主張すると、相手は分かっているとばかりに鷹揚に頷いた。
「だとしたら、話は元に戻る。君の立場は厳しい。極めて」

「無事に戻れたら、真っ先に五代君に感謝しておくんだ」
 栄刑事が立ち去ったあと、夕飯と共に先輩が入って来た。どこで時間を潰していたの
か知らないけれども、目が若干落ちくぼんだような印象で、憔悴の痕跡が見て取れた。
そのことを告げると、君はもっと酷い顔になっていると指摘された。
「ということは、身柄を拘束されずに、こうして部屋にいられるのは、五代先輩のご家
族が……」
「手を回してくれたらしい。尤も、基本的に管轄違いだから、いつまで神通力があるか
分からん。今の内に目処を付けたいものだ」
「部屋の外には、見張りの人がいるんでしょうね?」
「いる。百田君はここから出るなと云われなかったのかい?」
「はっきりとは。『出掛けるのなら我々警察に知らせてからにしてくれ』と」
「じゃあ、敷地内なら何とか認めてもらえるかな。いや、容疑者扱いの君を犯行と関係
ありそうな場所に立ち入らせるはずもないな」
「先輩だけでも動けそうですか」
「さて、どうかな。さっきは大丈夫だったが。これも五代君のおかげに違いない」
「……連れて来るの、僕じゃなくて五代先輩がよかったんじゃあ」
 自嘲めかしてこぼす僕に、十文字先輩は叱りつけるような口調で応じた。
「今さら何を云うんだ。これは僕の希望したこと。招待主から逃げたと見なされたくな
いがためにね。それを含めて、君をまた事件の渦中に放り込む格好になってしまって申
し訳ないと思う」
「もう慣れましたよ。先輩のワトソン役を務めるようになって、どれだけ経ったと思っ
てるんです? 今回だって、怪我をしたとか、精神的に酷いショックを受けたとかじゃ
ないですし」
「そう云ってもらえると救われるが、犯人を見付けないことには収まらない」
 先輩はテーブルに置いた大きめのプレートに顎を振った。バイキング料理を適当に見
繕い、盛り付けてきたのが丸分かりだったが、これはこれでうまそうではある。
「とにかく食べようじゃないか。腹ごしらえは大事だろう」
 お茶を入れ、食べ始める。死体を見たあとにしては、食欲は大丈夫だった。
「僕が役立つかどうか分かりませんけど、結局、どういう状況なんでしょうか。イベン
トは本当に用意されていたのかとか、施設の従業員はどこまで把握していたのかとか、
小曾金四郎はどこにいるのかとか。ああっ、岸上さんの誘拐事件も」
 浮かんでくるままに質問を発した。先輩は箸を進めながら、順に答え始めた。
「分かった範囲で云うと、まず、宿泊者を対象とした宿泊モニターは皆が承知だった
が、イベントに関しては小曾金四郎の独断だ。前に聞いた話と変わりない。ただし、パ
フォーマーの何名かは、イベント関連でパフォーマンスを行うように指示を受けてい
た。ミーナとシーナの二人も、空中ブランコを披露する予定だったと聞いた」
「え、ていうことは、怪我は嘘?」
「そうみたいだな。怪我で休んでいると見せ掛けて、じつはっていうどっきりの一環ら
しい。彼女らの他には、ピエロの西條逸太(さいじょうはやた)とマジシャンの安南羅
刹(あんなみらせつ)が組んで、ピエロが空中に浮かんでばらばらになってまた復活す
るという演目を披露する予定だった」
「羅刹って本名じゃないですよね」
「本名は小西久満(こにしひさみつ)といって、西條と組むときは裏ではダブルウェス
トと呼ばれるとか。まあ、これは関係あるまい。演じる予定があったパフォーマーはも
う一人いて、トランポリン芸の北見未来(きたみみく)。普通にトランポリンで跳ねる
だけでなく、壁を徐々に登っていったり、高所から飛び降りてまた戻るという演目だそ
うだ。あ、それからこの北見は元男性」
「へえ。新たに分かった三人には直に会えたんですか?」
「いや。遠目からちらっと見ただけだ。警察以外で情報をくれたのはシーナとミーナだ
よ。話を総合すると、事件発生時に敷地内にいたのは、被害者を除けば、五人のパフ
ォーマーとそのサポート役の二人、そして六人の宿泊客の合計十二人に絞られる。小曾
金四郎が隠れているのなら十三になるけどね。サポート役についてはまだ名前は知らさ
れていないが、文字通りパフォーマンスの手伝いで裏方に当たるようだ」
「ええっと、ちょっと待ってくださいよ。敷地内にいた人ってそれだけなんですか? 
宿泊施設の側の従業員がいるんじゃあ?」
「そこなんだが」
 僕の疑問に、十文字先輩は何とも云えない苦笑顔を見せた。
「ここに来てから、従業員に会った覚えはあるかい?」
「うん? それはありますよ。東郷さんにミーナさん、シーナさん……」
「ミーナとシーナはパフォーマーだ。東郷氏は雑務全般を受け持っているから、まあ宿
泊施設の従業員と云ってもいいかもしれないが、正確には違う」
「もしかして、いないんですか、従業員?」
 ピラフの米粒が飛ばないよう、口元を手で覆いながら云った。十文字先輩は種明かし
を楽しむかのように、目で笑った。
「うむ。人間の従業員はいなくて、ロボットが対応するシステムだ。これもサプライズ
の一つだったというんだ。チェックインや客室への案内は、ロボット従業員が行うはず
だったのが、トラブルでシステムダウンした。結果、急遽パフォーマー達が奮闘したと
いういきさつみたいだ」
「……平屋だったり、通路に曲がり角や段差が少なかったりするのは、そのため? 
え、でも、料理は」
 目の前の料理に視線を落とした。
「料理は将来的にはロボットによる調理も考えているが、宿泊モニター期間は元々、ケ
イタリングで済ませる計画だったから問題ないと聞いた。百田君、そういった細かなと
ころを気にしていたら、事件解決からどんどん遠ざかる」
 あの、ロボットを利した密室トリックや殺人の可能性を思い浮かべていたのですが。
でもまあ、システムダウンしているのであれば、関係ないと言い切れるのか。と、そこ
まで考えてから、ぱっと閃いた。
「――ロボットを使うくらいなら、秘密の扉もあるんじゃあ?」
「ああ、壁から腕が突き出て来たんじゃないという話だな。残念だがそれはない。廊下
を囲う壁は明らかに古い日本家屋の壁で、修繕とその痕跡を覆い隠すための塗装はして
あるが、内部は至って普通だということだよ」
「そうですか……」
 壁の一部が突然開いて、機械の腕が僕の首筋に電流を、なんて場面を想像してしまっ
た。濃いめに入れたお茶を飲み干し、心残りなこの私案を吹っ切る。
「先輩は十三号室に入ったあと、どうなったんですか?」
「入ってすぐ、靴がないと知れたから、岸上氏は留守なんじゃないかと察した。その反
面、人を呼び付けておいて部屋を空けているのはおかしい。とにかく室内を覗いて確認
しようと、靴を脱いで上がり込んだ。念のため声を掛けつつ内扉を開けて、中を見たん
だが、矢張り岸上氏は不在だった。いつ帰ってくるか分からないし、部屋の中で待つの
も問題がある。東郷氏に再確認もしたかったから、部屋を出た。すると君がいないじゃ
ないか。しばらく一人で探したが見付からないのでフロントに出向いたら、今度は東郷
氏が見当たらない。鍵を取りに行ったはずなのに何故? 行き違いになったかと、また
十三号室に引き返したが、誰もいない。何らかのおかしなことが起こっている。施設の
人間を信用できるのかどうか分からない。よほど警察に行こうかと考えたが、ちょうど
このタイミングで東郷氏が現れた」
「ええ? まだ、そのときは生きていたと」
「そうなる。時刻は四時になっていたかな。彼が云うには、十三号室に鍵を開けに戻っ
たが、すでに開いていたから、どういうことなのかと僕を探していたそうだ。僕は鍵が
開いたことと、百田君の姿が見えないことを話し、探すのを手伝ってもらった。といっ
てもすぐ二手に分かれ、別々に行動した。僕はこの宿泊施設の方を探し、東郷氏はワー
ルドサザンクロスに向かったはずだが、この目で見届けた訳ではない。途中、他の宿泊
客に遭遇したので聞いてみたが、知らないという答が返って来ただけ。じきに探す場所
もなくなり、フロントに電話してみた。シーナかミーナかどちらかが出たんで、事情を
伝えるとすぐに行きますと云って――実際は五分以上経過していたと思うが、来てくれ
た。今度は三人で建物周りを三人揃って捜索したんだが成果が上がらず、とりあえず東
郷氏に首尾を伝えようとなって、今度は東郷氏が行方知れずだと判明した。それが確か
五時前だった」
 その後は、僕と東郷氏の両名を探す態勢になり、五時半を少し過ぎたところで、倉庫
部屋に辿り着き、僕は救出。東郷氏は死亡しているところを発見されたという流れだっ
たようだ。
「死亡推定時刻は四時半から五時半の一時間。だが、血の凝固具合から云って五時より
も前の可能性が非常に高いそうだ。百田君、この時間帯にアリバイは?」
 聞くまでもない質問だろうに。僕は首を横に振った。名探偵は軽い調子で頷いた。
「だろうね。さて、僕達以外の宿泊客については、岸上氏を除くと親子連れの三名。親
子連れとは直接会えた。五十代男性と三十代女性の夫婦に、小学校中学年の女の子が一
人。アリバイは証明されていないが、外見だけで判断すればとても事件に関係している
ようには見えない。男性は足が悪くて車椅子生活、女性は男性と子供の面倒をみなけれ
ばならない上に、外国と日本とのハーフで言葉がやや不自由。子供は親にぴったり着い
て離れないという状態だったからね」
「確かに、関係なさそうです」
「アリバイの話が出たついでに、他の面々のアリバイに関して、判明していることを云
っておくとしよう。パフォーマーの五人とサポートの二人は、リハーサル中でお互いの
アリバイはある。ミーナとシーナの二人は時折、宿泊客からの電話などに応対する必要
があったが、事件発生時は僕と一緒に捜索活動していたからね。結局、五人ともアリバ
イ成立だ」
「そんな」
「残る岸上氏だが、僕から云わせれば彼こそが怪しくなってきた。誘拐事件があったと
いうのは芝居だと云い出したんだ」
「ええ? さっきの刑事、そんなことはおくびにも出しませんでしたよ!」
 自宅だったら、机をどんと叩いてていたかもしれない。怒ってみたものの、警察の捜
査では極当たり前にある手法だと知っている。
「自分は小曾金四郎から送られてきた台本に沿って、役柄を演じただけだとさ。多少変
な役だと思ったが、高額報酬につられて引き受けたんだと。小曾とは会ったこともなけ
れば、声を聞いてすらいない。それはともかく、彼が役柄として指示されていたのは、
東郷氏を通じて僕らにメモを見せ、十三号室に呼び付けるまでだった。その後は別の部
屋に閉じ籠もって身を潜め、明日の昼間に種明かしという段取りを聞かされていたらし
い。それらのことは東郷氏もパフォーマー達も承知の上だったと云っている」
「うーん、何が嘘で何が本当なのか、こんがらがりそうです。要するに、岸上氏が小曾
金四郎に化けるのもイベントの一部であり、そのことは岸上氏本人だけでなく、パフ
ォーマー達も認めている。だから事実だと見なせる……」
「それが妥当な見方というものさ。思わぬ多人数が共犯の可能性を除けば、だがね」
「誘拐がなかったのはいいことですけど、岸上氏が犯人あるいは犯行の片棒を分かって
いて担いだんだとしたら、どうして妻子を誘拐されたなんていう設定を選んだんでしょ
うか。殺人事件が起きて警察に乗り込まれたら、その嘘を必要以上に疑われるのは目に
見えてると思いますが」
「僕もそう考えた。それ故に、岸上氏が怪しいとする線で押し切れないのだ。小曾金四
郎の存在も気に掛かるしね」
「オーナーの動向に関しては、パフォーマー達も岸上氏も、全く把握していないんです
かね」
「そのようだとしか云えないな。嘘を吐いている者がいても不思議じゃない。だが、何
にしても動機が不明だ。遊戯的殺人者の線を除外すればの話だが」
 遊戯的殺人者。その言葉が出て来て、僕は内心、矢っ張りかと感じた。大げさな招待
状に軽いアナグラム、そして意味があるとは思えない密室殺人。これだけ“状況証拠”
があれば、今度の事件は冥かその一味の仕業と考えてかまわないのではないだろうか。
 冥――冥府魔道の絡繰り士を自称するという、遊戯的殺人者。殺人のための殺人、ト
リックのためのトリックを厭わない、むしろそのために人を殺す。現在、職業的殺人者
つまりは殺し屋のグループと揉めている節が窺える(らしい)。その一方で名探偵を挑
発し、試すような行動を起こすこともしばしば(らしい)。いずれも一ノ瀬和葉のお
ば・一ノ瀬メイさん――旅人であり探偵でもある――が主たる情報源だ。冥とメイさん
とで紛らわしいが、事実この通りの名前なのだから仕方がない。
「冥の仕業だと思いますか」
「大いに可能性はある。最近、一ノ瀬メイさんも冥から試されるような事件を仕掛けら
れたことがあると云っていた。だから動機は斟酌しないでいいのかもしれない。真っ当
な動機があるとしたら、殺し屋グループにダメージを与えるためとか冥の身辺に肉薄し
た探偵を始末するためとか、そういったところだろうさ」
 穏やかでない仮説だが、少なくとも僕らは冥の正体に迫ってはいないだろう。第一、
冥自身が僕らを招いておいて、招待を掴まれそうになったら殺すなんて理不尽は、激し
く拒否する。絶対に願い下げだ。
「対策を立てるなら、メイさんに改めて連絡を入れて、最新の情報を仕入れておくのが
よくありません?」
「うん、一理ある。あの人は掴まえるのに苦労させられるが、電話なら何とかなるかも
しれない。ああ、しまったな。今の僕らは携帯電話が使えない。フロントの近くに公衆
電話があるが、人の行き交う場所で話すのは躊躇われる……」
「そんなことを云ってる場合じゃないと思うんですが」
「確かに。賢明な人だから、こちらが事件のあらましを伝えたら、察して一方的に喋っ
てくれるんじゃないかな」
 十文字先輩は腰を上げると、部屋を急ぎ足で出て行った。テーブルにはほぼ空になっ
たプレート二枚が残された。

 電話をしてきたにしては、いやに早いな。五分程で戻って来た先輩を迎えた僕は、内
心ちょっと変に感じた。
「どうでしたか」
「電話はしていない。フロントにいた、ええとあれはシーナが、伝言をくれたんだ。彼
女が云うには、『一ノ瀬メイ様から先程お電話があり、十文字様に伝えて欲しい、でき
ればメールをそちらに送りたいとのことでしたので、お部屋におつなぎしましょうかと
お伺いしたのですが、時間がないからとおっしゃって。それでメールアドレスをお伝え
したところ、ほとんど間を置かずにメールを受信しましたので、プリントアウトした次
第です。つい先程のことで、お知らせするのが遅れて、申し訳――』ああ、僕は何を動
転してるんだ。ここまで忠実に再現する必要はないな。要するに、五代君経由で事件の
概要を知った一ノ瀬メイさんが、気を利かせて情報を送ってくれたんだ。敵か味方か分
からないシーナにメールを見られたのは、今後どう転ぶか分からないが、とにかく読も
う」
「はあ」
 高校生探偵の一人芝居に、しばし呆気に取られていた僕は、つい間抜けな返事をして
しまった。それはともかく、メイさんからだというのメールには、次のような話が簡潔
にまとめられていた。

・冥の仕業である可能性が高い。
・その傍証として冥が起こしたと考えられる殺しで、私は似たような謎を解いた。
・その謎とは湖での墜落+溺死で、詳細は省くが、湖内に高さのある直方体の風船を設
置し、てっぺんに犠牲となる人物を横たわらせる。それから風船を破裂させれば以下
略。
・ここまで書けば、このトリックにはさらなる前例があることに気付くと思う。繰り返
し同じ原理を用いたトリックを行使することは、冥にとって当たり前の日常的な行為と
推察される。
・それから十文字龍太郎君。名探偵であろうとして完璧さに固執せずに、弱さを認める
べきときは認めるのが肝心。

 以上だった。
 メイさんが示唆しているトリックについては、理解できた。だが、そのトリックが今
度の事件とどう結び付くのかがぴんと来ない。
「先輩、このトリックが倉庫部屋の密室に応用できるんでしょうか」
「……できる。そうか、分かったぞ」
「本当ですか?」
「うむ。君はよく見ていないから知らなくて当然だが、ワールドサザンクロスではエア
遊具的な物を多用しているんだ。ほら、商業施設のイベント用やスポーツセンターの子
供向け広場なんかに設置されることがあるだろう、空気で膨らませた強度の高いビニー
ル製の滑り台が」
「分かりますよ、見たことあるし」
「ワールドサザンクロスには、エア遊具ならぬいわばエアセットとでも呼べそうな代物
が多い。空気で膨らませたビニール製の建物や壁だね。トランポリン芸を披露するの
に、ちょうどいいんだろう。恐らく、あの倉庫部屋にも仕舞われてると思うが、空気を
抜いて小さく畳まれていれば気付かなくても無理はない」
「つまりは、メイさんが示唆したトリックを実行するための道具には事欠かないって訳
ですね」
「その通り。あの倉庫部屋に合った適切なサイズのエア遊具を使えば、密室殺人は可能
だ。想像するに……東郷氏は犯人が云うドッキリを演出する助手で、こう命じられたん
じゃないかな。百田君を意識を失わせた後に拘束して倉庫部屋に運び込み、布団に寝か
せる。東郷氏自身はその横で死んだふりをする。目覚めた君を驚かせる算段だ。ところ
が犯人の真の狙いは、東郷氏の殺害にあった。東郷氏は直前に、眠り薬の類やアルコー
ルを混ぜた飲み物を飲むよう仕向けられた。東郷氏自身は秘密の行動中だから当然、部
屋に入ったあと内側から錠を下ろす。横たわった彼はじきに前後不覚となり、意識をな
くす。頃合いを見計らって犯人はエアを注入」
「え? どこにエア遊具があるんですか」
「横たわった下だよ。これも想像だが、東郷氏が横たわる下には、床によく似せた迷彩
を施したエア遊具が設置されていたんじゃないか。そこに空気を送り込むホースは、倉
庫部屋にある足元の小さな窓を通せばよい。コンプレッサーを始動して風船を静かに膨
らませると、東郷氏は持ち上げられる。同時に、遊具の内部中央には一本の刃物が備え
付けられており、膨らみきったところで垂直に立つような仕組みになっていたんだと思
う。その状態で風船が破裂すると、どうなるか。東郷氏の肉体はすとんと落下し、真上
を向いた刃先に突き刺さる。割れた風船の破片は、小窓から回収できるだけ回収する。
残りが現場にまだあるかもしれないな。ホースももちろん片付けて、小窓を閉めれば密
室の完成だ」
「……凄い」
 僕は一応、感心してみせた。
 一応というのは、納得できない点があるにはあるから。そこまで大きな風船がすぐ隣
で割れたのに、僕は気付かなかったのだろうか。仮にじんわりゆっくり空気を抜いてい
ったとしたら、音で気付くことはないだろうけど、凶器の刃物がしっかり刺さるのかと
いう疑問が生じる。まだ他にも引っ掛かることがあるような気がするのだけれど、はっ
きりしない。霞の向こうの景色を見ようと、曇りガラス越しに目を凝らしている気分。
「無論、今云ったトリックが使われたとは限らない。だが少なくとも、密室内に他殺体
と一緒にいたから君が犯人だというロジック派は崩す余地が出てきた。そのためには物
証が欲しい。早速、警察に一説として知らせたいな」
 少し興奮した様子の十文字先輩。僕は同意しつつも、「それじゃ僕を背後から襲っ
た、壁からの手は何だったんでしょう?」と疑問を口にした。
「百田君の勘違いではないんだな?」
「壁から腕が突き出たという点は断言しかねますけど、壁を背にしていたつもりなおに
後ろからやられたのは間違いないです」
「ふむ……」
 顎に手をやり、いかにもな考えるポーズを取る先輩。その視線が、メイさんからの
メールの写しに向けられる。最初から順に読んでいるように見えた。
 そして最後まで来て、やおら口を開く。
「実は、一つだけ可能性があると思い付いてはいる」
「だったら、それを聞かせてください。決めかねる部分があるんでしたら、僕が推理を
聞くことで記憶が鮮明になって、何か新たな発見があるかも」
「うん。いや、決めかねているとか曖昧な点があるとかじゃないんだ。ほぼこれしかあ
るまいという仮説が浮かんだ。ただね、それを認めるには僕自身の問題が」
 そこまで云って、先輩はメイさんのメールの一点を指さした。
「思い切りが悪いな、僕も。こうして一ノ瀬メイさんが先読みしたように警句を発して
くれたのだから、ありがたく受け入れるべきだな」
「先輩、一体何を」
「この最後の一文さ。自分のプライドに関わるからといって、認めるべきものを認めな
いでいると、真実ををねじ曲げてしまう」
 先輩はそうして深呼吸を一つすると、まさに思い切ったように云った。
「僕は十三号室に入るとき、気が急いていた。内扉の向こうにばかり注意が行っていた
んだと思う。逆に云えば、それ以外への注意が散漫になっていた。入った直後、左右を
よく見なかったんだ。部屋の構造はどこも同じだという油断もあったと思う。下足入れ
にライトと鏡があるくらいで、その暗がりに何があるかなんて、全く想像しなかった」
「もしかして、その暗がりに人が潜んでいた?」
「恐らく、じゃないな。確実にと云っていいと思う。最初、東郷氏を含めた三人でいた
ときは鍵が掛かっていたのに、しばらくすると解錠されただろ。中に人が潜んでいた証
拠だよ。素直に考えればよかったんだ」
 こちらの方は納得できた。では、隠れ潜んでいた人物は誰?
「隠れていたのは岸上氏なんですかね。十三号室の宿泊客で、イベントに関して主催者
側だったのだから、ギャラと引き換えに命じられたら、ある程度までひどいことでも引
き受けそうですよ」
「普通の俳優がいくら仕事でも、他人を気絶させるような真似をするかね。尋常じゃな
い。まあ、だからといって隠れていた人物が岸上氏ではないと断定する材料にはならな
いが」
「他に候補はいます?」
「誰でもあり得るんじゃないか? 全く姿を見せていない者は、特徴で絞りようがな
い。小曾金四郎だってあり得る」
 十文字先輩の云う通りだ。極論するなら、影に潜んでいた人物と殺人犯とが同一とさ
え限らない。現実的には同一人物か、少なくとも共犯関係にある二人である可能性が高
いんだろうけど。
「各人の詳細なアリバイをリストアップして検討すれば、あの時刻――三時から三時半
ぐらいだったと思うが――十三号室内にいることが不可能な者はそこそこいるんじゃな
いかな。家族連れ三人組は除外できるだろうし、シーナとミーナ以外のパフォーマー達
も外せそうだ。云わずもがなだが、東郷氏も外せる」
 ここまで検討して来て、誰が有力な容疑者かを考えてみる。当然、小曾金四郎が最も
怪しいが実態がはっきりしない上、警察の捜査が入っていつまでも逃げ隠れしていられ
る秘密の場所が、この敷地内にあるとは考えにくい。一方で十文字先輩の推理したトリ
ックが殺人に使われたとすれば、その後片付けまで含めると少なくとも五時十五分、機
械の大きさによっては二十分頃までは現場周辺にいなければならないだろうから、その
後の逃走は難しそうだ。もし小曾金四郎が犯人なら、実行犯ではなく計画を立てた首謀
者なのではないか。
 岸上氏にも嫌疑を掛けざるを得ない。小曾金四郎と通じて、舞台裏をある程度把握し
ていたのは当人も認めており、平気な顔で嘘を吐き通せる。実行犯の可能性があると云
えよう。引っ掛かりを覚えるとすれば、誘拐云々という嘘。その話を聞いた僕らが強引
に警察に通報していたら、計画は失敗に終わったはず。わざわざ警察の介入を招きかね
ない誘拐を嘘のネタに選ぶ理由が分からない。
 他にはシーナとミーナも多少怪しい。十文字先輩と一緒になって僕を捜してくれてい
たというが、アリバイ工作の匂いを感じる。空中ブランコをこなすくらいなら、細身の
女性でも身体能力・運動能力は高いに違いない。
「さっきの殺人トリックって、結局、空気を送り込むコンプレッサーを駆動しておけ
ば、自動的に殺せますかね?」
「殺せるだろうね。無論、そのままにしておけないし、痕跡を消すためには色々と手間
が掛かる。目撃される恐れもある。幸運の女神ってのが犯人に味方したのかもしれない
な」
 うーん。それだと矢っ張り、シーナやミーナには難しいのか。
「さあ、いつまでも推測を重ねて、ぐずぐずしていても始まらない。警察に進言しに行
こうじゃないか」
「あ、僕も一緒にですか」
「決まってる。説得するには百田君自身の証言も重要になってくる」
 慌てて立ち上がる僕とは対照的に、先輩は落ち着き払った態度で、しかしきびきびと
次の行動に移った。

             *           *

「君にはがっかりだよ」
 一号室の会話を、車中で一人、盗聴器を通じて聞いていた冥は深く息を吐いた。警察
の人間の目に止まると厄介だからと、建物には近付けないでいたが、音はクリアに聞こ
えている。
(高校生名探偵の誉れ高い十文字龍太郎だったが、期待外れのようだね。元々、私自身
はその高い評判に疑問を抱いていたが)
 耳に装着したヘッドセットをひとまず外すと、念のため大元の機器のボリュームも落
とした。
 冥が今回の犯罪を計画した端緒は、十文字龍太郎の探偵としての能力に今ひとつ確信
が持てなかったことにある。ライバル――遊び相手にふさわしいのか見定めるために、
罠のあるテストを仕掛けた。
(こうも易々と引っ掛かるようでは、本来の探偵能力も怪しいものだ。知識ばかり先行
して、オリジナルの問題は解けないタイプじゃないかな。今回も、一ノ瀬メイからの
メールを偽物と気付かない上に、誘導に簡単に引っ掛かって、同工異曲のトリックが使
われたと信じてしまった。風船のトリックでは、死体の向きがおかしい。東郷の死体は
背中を刺され、俯せだった。風船が破裂してその下の凶器に突き刺さるのであれば、な
かなかそんな状態にはならない。破裂の弾みでそうなる可能性はあるが、仰向けのまま
である可能性の方が圧倒的に高い。もしも仰向けになったら、小窓から糸を介して鍵を
死体の懐に入れるやり口が容易になり、密室の強固さが失われるじゃないか。密室殺人
のためのトリックなのに、そんな不確定要素の大きな手段を執るはずがないと気付かね
ばいけないレベルだよ。暗示に掛かりやすい訳でもなさそうなのに……周りの人間に頼
りがちなところがあるということか。本人に自覚はなさそうなのが痛い。少女探偵団の
子達みたいに、最初からグループでやってますって看板を掲げているのなら、まだかわ
いげがあるのに、しょうがないやつだ。あの年頃にありがちな、実像以上に己を強く大
きく見せたい願望かな。調べたところでは、この四月の“辻斬り殺人”で、校内で襲わ
れた件はその後、犯人探しに力を入れていないようじゃないか。名探偵ともあろう者
が、そんな逃げ腰、弱腰でいいのかねえ)
 十文字探偵に対する感想を心の中で積もらせた冥は、しかし何故だか微笑を浮かべ
た。
(名探偵と呼ばれるが実際はたいしたことない、という存在には利用価値がある。色々
と想定できるが、実際に使えるのは恐らく一度きり。勿体ないな。まあ、別の楽しみも
あるしね。十文字に力を貸してきた周囲の連中が、なかなか優秀なんじゃないか?)
 と、そこまで近い将来図を描いていたところへ、電話が鳴った。複数所有している中
のどれだったかを瞬時に判断し、取り出す。
「小曾です」
 小曾金四郎からだった。普段の声とは息づかいが違うが、冥の耳は小曾本人だと正し
く認識した。
「私だ。定時連絡の時間には約一分早いが、ハプニングかな?」
「いいえ、順調そのものです。ただ、時計が。携帯電話の液晶がおかしいのか、読み取
れなくなりまして、それがハプニングといえばハプニング」
「腹時計で掛けてきたのかね? それはちょっと愉快だな」
「このような状況ですので、予定を切り上げて早めに脱出をしたいのですが」
「かまわない。自力で行けるかね?」
「大丈夫、何ら問題ありません」
 答えると同時に通話は切られた。冥は、使える部下の無事の帰還を待つことにした。
(そう、迂闊な見落としといえば、この点もそうだぞ、十文字探偵。小曾金四郎の本名
を気に掛けたまではよかったが、あとの詰めが甘い。小曾金四郎が芸名だったと知った
時点で、何の芸なのかを気にすべきだったのだ。那知元影という名前の方が、よほど芸
名らしく響きやしないか? これは偶然の産物ではあるが、那知元影は文字通り、名は
体を表すの好例と呼べるのだから、気付く余地はあったのだ。お得意のアナグラム……
ローマ字にしてから並び替えれば、それが浮かび上がる)
 冥は宙に指で文字を描いてみせた。

 nantaigei

――終わり




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