AWC 斑尾マンション殺人事件 3



#1070/1158 ●連載
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:10  (425)
斑尾マンション殺人事件 3
★内容
● 10

 翌朝、明子はアパートから出てくると駐車場に向かった。
 フード付きコートを着て、肩からショルダーバックを下げて、手にはお湯の入っ
たペットボトルを持っていた。これは昨夜、時ならぬ雪が降ったから、フロントグ
ラスが凍結していると予想したのだ。朝早くから暖気運動していると、ご近所様に
迷惑が掛かるとも思った。
 しかし社用のジムニーの所に行くと凍結はしていなかった。
 足元にお湯をどぼどぼと捨てる。
 今度は、この水たまりが凍結して誰かが転倒するんじゃないか、と思えてきた。
 こういう余計な心配をするから目の下にクマが出来てしまうのだ。
 車に乗り込むとルームミラーでチェックしてみた。そんなでもなかった。
 夕べのヨーグルトが効いたのかも知れない。

 車を駐車場から出して、道路に出る。
 しばらく走るとすぐに飯山市内に入った。
 車は疎らだった。時々路線バスとすれ違うと、ごとごととタイヤの音が響いてき
たが、それ以外は自分の車のエンジン音しか聞こえてこない。
 交差点で停車していると、自分の車のウィンカーの音が妙に響いてきて、辺りの
静寂さが分かる。
 何で、こんな人っ子一人いない交差点で待っているんだろう、と明子は思った。
 そんな感じで、交差点だの踏み切りを幾つか越えると、県道97号へ出た。
 やがてそれは蛇行する山道になる。

 明子が勤務するのは、マンション管理だの清掃だのを請け負う地元の中小企業な
のだが、事務所は斑尾高原スキー場直結のリゾートマンションの中にある。
 そこまで、直線距離で8キロ、走行距離にすると12キロ位だろうか。
 幾つもの峠をくねくねと上っていく。

 道路脇には、1.5m程度の積雪が続いている。
 溶けたり凍ったりを繰り返しているので、製氷皿の氷みたいな感じだ。
 その向こうには雑木林があるのだが、焼け跡の家屋の柱の様に見える。
 明子はコーナー取りをしつつ、なんだか春の気配を感じないなと思った。
 普通だったら、リスが枝の上をちょろちょろしているとか、雪解け水が小川に流
れ込んでいるとか、そんな感じなのではなかろうか。それともここら辺は長野県で
も北の端にあるので、気候風土が満州とかシベリアの様なツンドラに属する為なの
だろうか。或いはやっぱりこの前の東北大震災と福島原発の事故のせいで、本当は
美しい景色まで殺伐としたものに見えてしまうのかも知れない。
 …てなこと、考えつつ走っていると、車は左右にペンションの立ち並ぶエリアに
入り、更にそれを通り過ぎると、正面にマンションが見えてきた。
 背後には斑尾高原スキー場のゲレンデが広がっている。


●11

 このマンションの概要は次の如くである。
 世帯数は200戸である。
 間取りはリゾートマンションの為1LKから2LDKと小さ目なのだが、共有施
設が充実していて、天然温泉の温浴施設があり、スタジオがあり、フィットネス
ルームがあり、地下にはスキーロッカーもある。これは、居住者が、ここでスキー
靴に履き替えて、歩いて行ける距離のゲレンデでひと滑りして、帰って来るとひと
っ風呂浴びる、という行動を想定したものである。
 今考えると贅沢だが、このマンションが設計されたのが2000年で、ミレニア
ムだの何だのと言って、街中が青色LEDでちかちかしていた頃なので、当時の雰
囲気を反映していると言える。
 竣工は、2009年10月で 竣工と同時に販売代理店もマンション4階に開設
された。
 翌2010年春のスキーシーズン終了までに約半数が売れた。
 その後夏場は全然売れなかったが、下期になってスキーシーズンが到来したら、
又売れ出した。
 そして、この調子だったら今シーズン終了までに完売するのではないか、と思っ
た矢先、東北大震災とそれに続く福島原発の爆発が起こったわけである。
 客足はばったりと途絶えた。それどころか、震災3日後には計画停電の発表があ
り、1週間後には、今シーズンのゲレンデの営業終了が発表された。
 リゾートに来ていた客の大部分は帰ってしまった。
 残っている十数世帯は、現住所が東北地方にある事から、帰るに帰れない人たち
なのではないかと想像された。
 以上の様な事情から、販売代理店も、これ以上案内所を開けていても経費が無駄
になるだけ、と言って出て行った。
 そして、その後にこの号室に入り込んできたのが、高橋明子の勤務先である鰍`
Mであった。この会社はマンションの清掃と管理を請け負っている地元業者である。
  但し、マンションとの請負契約は直接なされているものではなく、東京に本店
のある大通リビングが元請会社になっている。大通リビングは施主である大和通商
の子会社である。
 AMという会社がこのマンションへ入居を希望した理由は次の如くである。AM
の元々の事務所は、飯山市内にあって、経営者所有の木造アパートの2間をぶち抜
いたものだったのだが、今回の地震で全壊してしまった。AMはとりあえず、事務
所の大部分を社長の自宅応接間に移動したのだが、斑尾マンションの販売代理店が
空き家になったのを知って、格安で借り受け、金子という所長と高橋明子を移動さ
せてきたのであった。
 格安にしてもらった訳は、今回の震災で起こるかも知れない諸々の事態、例えば
計画停電などに只で対応するというものだった。
 勿論そういう事でパート労働者の仕事の密度が濃くなったとしても、時給は1円
たりとも上がりはしないのであるが。

 このマンションで働いているAMのパートは次の十名である。

 チーフ管理員  蛯原敏夫(♂62歳)
         勤務時間:9:00〜18:00(火曜休み)

 コンシェルジュ 榎本恵子(♀55歳)
         勤務時間:同上(日曜休み)
 
  24時間管理員 大沼義男(♂60歳)
         斉木浩(♂50歳)
         鮎川徹(♂49歳)
         勤務時間:9:00〜翌9:00
     (一名が24時間常駐勤務を3名が交代で行う)
 
   清掃員    山城清(♂63歳)
         大石悦子(♀60歳)
         額田勇(♂64歳)、
         横田久美子(♀28歳)
         沢井泉(♀23歳)
         勤務時間:8:00〜17:00
     (日曜休み。但し午前中、浴室清掃は行う)
 あと、AMの金子所長は52歳、高橋明子は26歳である。












 マンションの平面図は次の如くである。

           サブエントランス
             ・―・
             | |
・―――――――――――――――――・―・  ・―――――――――・
|              |  | スロ―プ  |
| ・――――――――――――――・ |  |  ―――   |
| |          | |  |       |
| |          | |  |       |
| |          | |・―・       |
| |          | ||レ|自走式駐車場 |
| |          | ||エ|(屋上を含めて|
| | 居住棟      | |・―・ 4階建て) |
| | (10階建て。  | |  |       |
| |  1フロア20戸)| |  |       |
| |          | |  |       |
| |          | |  |       |
| |        ・―・ |  ・―=====――・
| |        |レ| |    リモコン式シャッタ―
| |        |エ| |   
| |        ・―・ |  ←ゴミ集積場
| |          | |
| |          | |
| |          | ・――――・
| |          | |共用棟|
| |          | |   |
| ・――――――――――――――・ |   |
|              |   |
・――――――――――――――――――――・――――・

 ゲレンデ側(南)
共用棟詳細(1階)。


・〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――・――――――――――・
|          |   |        |
|  吹き抜け    |清掃員|共用部     |
|          |更衣室|トイレ     |
|          |   |        |
・――・        ・――/―・ ・―――――――・
|エレ|              /    /
|  |       ・―――――――・――――/――・
・――・        |           |
|階段|   ラウンジ|           |
|  |       |    ボイラ―室  |
・――・    ・―・―・           |
|      |ト| |           |
|      |ン| |           |
|      |ロ| |           |
|      |フ| |           |
住居棟入口  ・―・   |           /
           |           |
|      ・―\―・            |
|エントランス|   |           |
|      |   |           |
|      |管理室|            |
|      |   |           |
|      |   |           |
・―正面玄関―・/――――・―――――――――――――――・


 ゲレンデ側(南側)

共用棟詳細(2階)。

・〜〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――――・――――――――・
|           |    |      |
|  吹き抜け     |スタジオ|フィットネス|
|           |    |ル―ム      |
|           |    |      |
・――・――――――――――――・――/――・――/――――・
|エレ|                    |
|   |        ・―――――――――――――――・
・――・         |           |
|階段|        | 浴場        |
|  |         |           |
・――・―――――・〜〜〜〜|           |
|        暖簾 |           |
|           |           |
|           ・―――――――――――――――・
| 休憩スペ―ス     |           |
|           | 浴場        |
|           |           |
|           |           |
|           |           |
|           ・―――――――――――――――・
|           |           |
|           | 露天風呂      |
|           |           |
・―――――――――――――――・――――――――――――――――・

 尚、地階にはスキ―ロッカ―がある。




●12


 さて、明子は、自走式駐車場に入ると一階一番手前に駐車した。
 車から降りると、マンション西側のゴミ集積場の前を通り、共用部脇のドアから
入館した。
 ボイラー室やらのある廊下を通って、更にもう一枚ドアを解錠してマンション内
部に入る。
 共用部トイレやら清掃員更衣室の脇を通り抜けてラウンジに出る。
 正面玄関からは日の光が入って来るが、節電の為消灯しているので全体に薄暗い。
 フロントは無人だった。本当は『ビートルズ殺人事件』を書いた管理員が居なけ
ればならないのだが、どうせ誰も通らないので、管理室内に引っ込んでいるのだろ
う。
 でも、そこからモニタで見ているかも、と思ってちらっと天井の監視カメラを見
た。
 居住棟に入ってエレベーターに乗ると、4階で降りる。
 マンションの構造は、真ん中に吹き抜けがあって、回りに通路があって、ずらー
っとドアが並んでいるという、アルカトラズ刑務所の様な感じであった。
 天井がガラスになっているので、昼間は明るい。夜間になると映画館の通路並み
に暗くなる。
 明子が廊下を歩くと、足音が響いた。居住者の大部分が居ないのでそう感じるの
だろう。一人になれば心臓の音さえ聞こえてくるのと同じだろう。
 エレベーターを降りて3件目に事務所はあった。
 その前に行くと、そこだけ人の気配がした。換気扇は回っているし、玄関の横の
窓から明かりが漏れてきている。
 ああ、居るんだな、と思って明子はドアノブを引っぱった。

●	13


・―窓――――――――――――・
|          |
|          |
|          |
|  和室      |
|          |
|          |
|          |
|          |
・――・      ・――・
|          |
|          |
|          |
|  リビング    |
|          |
|          |
|          |
|          |
・――・       ・―・
|風呂|   キッチン|
|  |       |
・―/・         |
|          |
・―/・       |
|WC|      ・―・
・――・      下駄箱|
|PS|       |
・―――――玄関――――――・

 玄関でスリッパに履き替えて、パタパタいわせながらリビングに入る。
 まずタイムカードに打刻する。ジーと音がする。
「おはようございます」
「おはよー」ノートPCから顔を上げないまま金子所長が言った。
 原発事故以来、毎日、Ustreamを見っ放しである。
 所長の机の前には応接セットがあり、部屋の隅にはFAXの複合機がある。
 部屋のあちこちにダンボールがうずたかく積まれている。これらは飯山の倒壊現
場から持ってきた物だ。その内24時間管理員にでも整理させる積もりなのか、所
長はそれらを放置していた。余震が来てもこの部屋はあんまり揺れなかったので、
崩れ落ちる心配も無かった。
 その様な足の踏み場もないリビングをすり抜けると、明子は奥の和室へ入った。
 部屋の真ん中にPCラックが設置してあり、足元には給料明細の封筒が入ってい
る紙袋が置いてあった。
  それを見て、ああ、そっか、と明子は思った。
 それらの給料明細は本来25日必着のものなのだが、今回は本社アパートの倒壊
やら引越しやらで遅れに遅れてしまっていた。
  金子所長は、天災だからしょうがない、と言ってくれていたのだが、気にし屋
の明子は気になってしょうがなかった。
 明子はクローゼットの所でコートのボタンを外しながら、何気に襖を3センチ程
開けて地上を見た。
 さっきは無人だったゴミ集積場で、清掃員がプラのゴミバケツを水洗いしている。
 冷たそうだ。
 あの人達はうるさくないのだが、パートの中には狂暴な人も居るのを思い出した。
 額に汗して最低時給で働いている人は本当に狂暴なのだ。そして給料明細が一日
でも遅れると自分にクレームを付けて来る。停電になると検針のおばさんに文句を
言う、みたいに。
 明子は、思い立った様に袋を掴むと所長の所へ行った。
「所長。これから郵便局に行ってきたいんですが」
「今、来たばっかりじゃない」PCの向こうからギョロった眼を向ける。「そんな
んじゃガソリン代がもったいないなぁ。今日の帰りにでも、持って帰ればいいんじ
ゃない?」
「そうしたら絶対に明日の朝には届かないし、そうすると私の所に文句が来るんで
すよ」
「じゃあ行ってもいいよ」あっさり言った。「その代わり、コーヒー入れてくんな
い? コーヒーでも飲めば気分が落ち着くからね。そんなに慌てていたら事故でも
起しかねないしね。それにコーヒーは血管を広げてくれるから体にもいいんだよ」
 そんな理不尽な。交換条件にコーヒー入れろだなんて、しかも、コーヒーを飲む
のはこっちの為になる、みたいな言い方をするし…そう思って所長を見ると、すご
い薬缶頭なのに気が付いた。50代だと思うのだが、コラーゲンが不足しているの
か、顔の皮が伸びきっていて、頭の形がよーく分かる。バーコードヘアから頭皮が
透けていて、整髪料でてかてかしている。エラが張っていて穀物食べてまーす、み
たいな。この人はリンゴ・スターだ。
 石臼型だ。
「なに見てんだよ」
「いや、入れます」
  言うと明子はそそくさとキッチンコーナーへ行った。
 電子魔法瓶を98度にして、天袋から真空パックに分包してあるドリップコー
ヒーを取り出して、カップにセットする。
 ちらっと所長の方を見た。
 あの野郎、女はコーヒーぐらい入れて当たり前と思っているんだな。奥さんにば
っちいパンツ洗わせているんだろう。
 コーヒーに湯を入れると、あたりに香りが広がった。
 それにしても凄い加齢臭だった。その上に床屋系整髪料を塗りたくられたんじゃ
あ、香りなんて分かる訳無い。
 リビングの応接セットにコーヒーを運ぶ。
 二人は向き合って腰を下ろした。
「一応香りがするじゃない」と言って所長がすすった。「ちょっと酸味が強いか
な」
 それはあなたの整髪料のニオイじゃない? と思いつつ明子もカップに鼻を近づ
けた。
「ん?」と小首をかしげてくんくん嗅いだ。「これって香料入ってません? これ
って100均のですよね。この前あそこで石鹸買ったらチープな匂いが漂ってくる
ので、匂いの元を辿って行ったら流しのヨーグルトのだったんですよ。コーヒーに
も香料入れるんだぁ」
 口を付けないままカップを置いた。ふと和室の障子が目に入る。
 みんな寒い思いして働いているんだろうなぁ。みんながここに来たら、自分達ば
っか暖かい部屋でコーヒーすすっている、と思われるんじゃないか。
 そう思った瞬間、キンコーンと玄関のアイホンがなった。
 ぎょっとして所長の顔を見る。
「誰だろう」と所長。
 明子は黙って立ち上がると、キッチンコーナーの壁に埋め込まれているアイホン
を覗いた。
 又しても石臼の様な頭が画面いっぱいに張り付いていた。
「清掃の山城さんですね」と言うとそのまま玄関に行った。
 U字ロックをしたままドアを開けて隙間から「なんでしょうか」と言う。
「開けてくれよ」山城は軍手をした指をU字ロックにひっかけてガタガタいわせた。
「あ、はい」と言ってドアを開ける。
 山城は 玄関で長靴を脱ぎ、持っていたモップを壁に立て掛けると、構わず上が
って来て、洗面所奥の風呂場のドアを開けた。
「こりゃあ汚れているな」と言うと液体が入った桶と大きなスポンジを浴室の床に
置く。
 それからリビングにどんどん入って行き「風呂の掃除はどうする? 今やってし
まおうか」と言った。
「いや、後で私がやるからいいよ」と所長。
 山城はテーブルの上のコーヒーカップを見付ける。「こりゃあ、おくつろぎの所
を」
「くつろいでいた訳じゃないんです。これから郵便局に明細を持って行くところ
で」
「だったらその明細を俺にくんな」と言うと軍手を外して節くれだった手を広げた。
「でも何時も郵送しているんですけど」
「そんなの2度手間だろう。清掃の分は俺によこせよ」
「でもぉ」と所長に助けを求めるような視線を送る。
「渡してあげなさい」と所長。
 明子は紙袋からこのマンションの束を取り出すと、輪ゴムを外して山城に渡した。
「はい、額田さん、大石さん、横田さん、泉ちゃん、山城さん」
「なんだ、切手が貼ってあるのか。来月からはこんなの貼らないで直接俺にくん
な」と言うとぐるり一周部屋を見渡してから、「そんじゃあ邪魔したな」と所長に
言う。
 そして、肩で風を切る様に歩いて出て行った。
 体が一体構造だから、ああなるのだ。
「なんだか威張りっぽい人ですね」
「いいんだよ、ああやって威張らしておけば。自分もパートなのに仕切ってくれる
からな」
 玄関の方を見ると、汚いモップが一本立て掛けたままになっている。
 山城の忘れ物だろうか。あれはオスのマーキングか。
 所長の床屋系整髪料もオスのスプレーみたいなものなんじゃあ…と思って所長を
見ると上体を反らし気味にして左脇腹を擦っている。
「さーてと、俺は便所に行ってくるから、君、郵便局に行くんだったら行っていい
よ」と言って席を立った。
 今のコーヒーはコーヒーエノマか。
 便所に入る所長を見て、変な音が聞こえない内に出かけてしまおうと思い、和室
に走るとクローゼットからコートを出した。
 ついでに襖を開けてあけて地上の様子を見る。
 ゴミ集積場で清掃のメンバーが一列に並んで山城から給与明細を受け取っている。
 なるほど、あれじゃあ山城に使われているみたいだわ、とつい唇をゆがめた。
 ふと目を凝らすと清掃員の一人が双眼鏡でこっちを見ている。
 反射的に身を引いて襖を閉める。
 同時に携帯が鳴った。
 びくっとして番号を見る。080から始まる知らない番号。auだろうか。
「もしもし」とよそ行きの声で言った。
「大沼やけど」今朝から24時間管理員の勤務に付く大沼だった。
「何でこの番号知っているんですか?」
「斉木君に聞いたんよ」
 管理室に電話すれば、壁に張ってある連絡先一覧から自分の携帯番号も分かるの
かも知れない。
「バスがこんのよ。自分、ここに来るって言うとったやろう」
「そんな事言いましたっけ」
「言うとったよ。木曜の朝一で郵便ポストに行くって」
「はぁ」
「来るんか?」
「行きますけど」
「そしたら乗っけてってくれんか」
「いいですけど、20分ぐらいかかりますよ」
「かまへんよ。斉木君にそう言っといて」
「はぁ」
「そんな、宜しくたのんます」
 携帯を折りたたみながら玄関に向かう。
 途中、便所の前で、「郵便局行ってきまーす」と言った。
 同時に、じゃー、と水洗の音。
 大急ぎでブーツを履くと玄関を出た。
 ドアには施錠しないまま、通路を小走りに走って行った。

 出勤してきたのと逆の順序で、明子はエントランスに戻った。
 まだ薄暗く、フロントは空のままだった。










#1071/1158 ●連載    *** コメント #1070 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:11  (433)
斑尾マンション殺人事件 4
★内容
●14  

 明子はカウンターに入ると管理室のドアをノックしてノブを引いた。
「お邪魔しまーす」
 中に入ると、家電量販店並の明るさ。
 真ん中にスチールデスクがあって、24時間管理員の斉木がPCにかじりついて
いた。
「今、日報と一緒にチクリメールを送っていたんだよ」斉木が言った。
 24時間管理員は、日々の日報を管理会社と同時に所長の所にも送ってくるのだ
が、斉木の場合、チクリメールも添付してくる。それは全て、蛯原に関する文句だ
った。
 蛯原は日中居る管理員で、主に居住者の相手をしていた。斉木らは24時間管理
員で、設備管理が主たる業務であった。
「又、何かあったんですか?」と明子が言った。
「全く蛯原って、嵐を呼ぶ男っていうか、あいつが騒ぎを起こすから仕事が増える
んだよね。
 夕べもそうだったんだけど、何が楽しくってああいう事をするんだか分らないよ。
 あれは『アビーロード』でポールが裸足になったのと同じかな。カメラマンの言
う通りにしていればいいのに」
「は?」
「いやいや。余計な事をするって事。夕べの出来事を聞かせてやろっか」言うと斉
木はPCのディスプレイに顔を近付けた。
「えーとね、昨日の夕方、マンションの裏に違法駐車があるというんで見に行った
んだよ。ワイパーにメモでも挟んでおこうと思って」と斉木は語り出した。
「そうしたら、帰りがけの蛯原がサブエントランスからしゃしゃり出てきやがって。
  ハシゴ車の駐車エリアだから、とか、消火栓の上に駐車しているから、とか言
って、早く警察に言ってどかしてもらえ、って言うんだよね。
 俺もそこで無視すればいいのに、つい電話しちゃったんだよなぁ。
 それで、110番通報したら、近所のお巡りが来たんだけれども、結局私有地だ
から駐車禁止にはならないし、呼んだ奴の免許証を見せろ、って俺の免許証をチェ
ックするし。ああやって、俺の個人情報が警察のデータベースに貯まるじゃないか、
お前のせいで、と蛯原に言ったら、
『警察を呼べなんて誰も言ってないよ。まして110番通報しろなんて誰も言って
いないよ。俺はただ所轄に連絡すればナンバーから所有者を割り出して連絡してく
れるんだから、そうすればいいのにって思っただけだよ。そんじゃあ俺は帰るよ。
おさきに』って、してやったりみたいな感じで帰りやがった。
 まあそれはいいんだけれどもね。
 夜中になってフロントでぼーっとしていたら、カサッ、カサッ、っとポストコー
ナーから音がしてくるんだよ。誰かが投函しいるんじゃないかって思って行ってみ
ると、無精ひげ生やした失業者みたいなのと、あと茶髪の元ヤンキーみたいな女が
せっせと投函しているんだよね。
 かーっとして。又俺のせいになるじゃないか。
『どこまで入れた』と俺は言った。
『え、いけないの?』
『入り口にポスティングお断りって書いてあんだろう。お前ら、どこのチラシ屋だ。
名前を教えろよ、上に報告するから』
 その時、俺はメモを持っていなかったんで、そいつらが投函したチラシを引っこ
抜こうとしたんだけど、他のチラシに引っかかって抜けな。思い切って引っ張った
ら破けたんだよね。
 そうしたら、元ヤンキーみたいのが、『人のおまんまのネタを破きやがって。こ
っちは一枚何銭でやってんだぞ』とか言ってきた。
『そんなの知るかよ。だいたい一回投函したらもうこっちの物だろう』
 そうしたら無精ひげの方が、床に落ちている民主党のビラを発見して、
『だったら民主党にもそう言えるのか』と言う。
『言えるに決まってんだろう』
『いやぁ、民主党には言えないでしょう』
『おめーよぉ、民主党はすごい、なんて思ってっから失業するんだぞ。いいから早
く帰れ。でないと警察呼ぶぞ』
『呼んでみろ。こっちはそれでおまんま食っているんだ』
『お前の境遇なんて、知らねーよ』
 とか言っている内に、何だか、こいつらが脱線したぷーたろーで、自分は制度内
にいるとでも思えてきて、そんなに聞き分けがないんじゃあ警察を呼ぶしかないな、
と又110番しちゃったんだよ。
 そうしたら、又夕方のお巡りが来て、又あんたか、ナルソックでも呼べばいいん
じゃないか、みたいに言うから、市民の生命財産を守るのはお前らの仕事だだろう、
と言ったら、それじゃあそうしてやるよ、って言って応援を呼んだんだよ。
 そうしたら、金網つきのランクルで機動隊みたいなのが4人も来た。
 やばいなーと思っていたんだけど、ヤンキーの女が機動隊に、『子供を保育園に
入れられないから夜中に働くしかない』とか『こんなリゾートマンションで贅沢し
ている奴らは死ねばいい』とか吠えてくれたんで助かったよ。
  決してむやみやたらに110番している訳じゃない、っていう雰囲気になった
んで」
  喋るだけ喋ると、斉木は背もたれに体重を預けて踏ん反り返った。
「その2番目の話は、蛯原さんと関係ないんじゃないんですか?」明子が言った。
「だって、そもそもポストコーナーの入り口に施錠しておこう、なんて言い出した
のは蛯原なんだから。ピンクチラシを入れられるから、って。そんなマンションっ
て普通あるのかねぇ。郵便配達が来る度にわざわざ管理員が解錠するマンションな
んて」言うと回転椅子を揺らした。「でも、このメール、やっぱ所長に見せなくて
いいよ。今喋ったら、そんなに大げさにしなくてもいいかなぁ、って思えてきたか
ら」
  そう言って斉木はにーっと笑った。そうすると、下顎に面の皮が引っぱられて、
頬骨の辺りが突出してくる。般若の面というか、星飛雄馬のスパイクの様な形状に
なるのだ。
 明子は、面白い顔しているなーと思って見ていたのだが、斉木のコメカミがツミ
レのように陥没しているのを発見した。「こいつはジョン=イタチ型だ」と思った。
しかし夕べ『ビートルズ殺人事件』を読んだ事は言わなかったが。
 明子はなんとなく辺りを見回した。
 正面に監視カメラや防災盤がある。そっち側からファンの音が響いて来ている。
 後ろにはNTTの盤が並んでいる。
 右手にはホワイトボードがあって1ケ月分のスケジュールが書かれている。
 左奥がキッチンになっていて、冷蔵庫だの電子レンジだのが置いてあるのだが、
パーテーションがあって見えない。
 斉木が立ち上がって、そっちに歩いて行った。
 明子も付いて行って何気に覗いてみる。
「こんな所にカビキラーがある」流しの横に置いてあるカビキラーを指して斉木が
言った。「誰がこんな所に置いたんだろう。夕べの6時からずーっと一人で居たの
に気付かなかったよ。こんなの食器にしゅーっと一吹きされたら胃洗浄だよ」
 斉木は冷蔵庫を開けてしゃがみ込むと、牛乳だの飲みかけのペットだのを出すと、
どぼどぼ流しに流した。
「えーッ。それって誰かが毒を入れたかも知れないから捨てちゃうんですか?」
「そういう訳じゃないけど。次に来るのは48時間後だしね。その間に停電がある
かも知れないから」
「でも今カビキラーがどうとか言っていたじゃないですか。職場の同僚が信用でき
ないっていうのは問題ですねぇ」
「じゃあ、これ飲む?」言うと斉木はコーラのアルミ缶を差し出した。「まだ開け
てないから。でも誰かが何かを注入したかも知れなよ。勇気があるなら飲んでみ
な」
 しかし受け取らないでいたら冷蔵庫に戻した。
 それから2人はスチールデスクの所に戻った。
「そうそう、明細渡しておきます」明子は袋から斉木分の明細を取り出した。「そ
れ、大変だったんですよ、12ケ月も遡って雇用保険、計算するの」
「おー、わりーわりー」斉木は受け取るなり破って中を確認した。
「斉木さん、辞めるんですか?」
「そうじゃないよ。停電だの色々あるから居住者の方から首にしてくるかも知れな
いから、念の為だよ」
「斉木さん、放射能が怖いから、沖縄の方に逃げるんじゃないかって、みんな言っ
てましたよ」
「どうせ逃げるんだったら、もっと遠くまで行くよ」
「ふーん」と言いつつホワイトボードの上の時計を見ると8時15分を回っていた。
「そう言えば、大沼さん、遅れるかも知れないから、そう言っておいてくれって言
ってましたよ。私がこれから迎えに行くんですけど」
「えー。あのおっさん、遅れんのかよ、残業手当なんか出ないだぜ。引継ぎの時間
だって毎回只で残業しているんだから」
「そうやって斉木さんが文句を言うだけ遅れるんですよ。じゃあ行ってきまーす」
と言うと明子は管理室の鉄扉を開けた。


●15

 外に出た途端に冷気が肌を直撃した。
  明子は慌ててフードを被った。
 これだけ寒いのに、マンション周辺の積雪に太陽が反射して眩しい。
 マンションを左手に見ながら駐車場を目指した。
 すぐにゴミ集積場に差し掛かる。さっき事務所から見ていた場所だ。
 山城以外の4人がゴミバケツの蓋を開けては閉めている。本来は水洗いするべき
ものなのだが、居住者が居ないので使われておらず、中身をチェックするだけで終
了なのだ。
 明子は「おはようございます。寒いですねぇ」とありがちな挨拶をした。
 額田という清掃員が「ちょと、あんた」と言ってきた。照り返し防止のキャッツ
アイを額にはめている。
「なんだって山城なんかに給料の明細を渡すんだよ。おらぁ、あいつに使われてい
るわけじゃないのに、あの野郎がこーんなに低い位置で」と言うと右手を思いっき
り下に伸ばした。「こんな所で渡そうとするから、こっちは自然とお辞儀をするよ
うな格好になって、丸で使われているみたいじゃないか」
「そんな事言われたって、所長が渡せって言うんだもの。所長に言ってくださいよ。
今事務所にいるから」と明子はマンションの方を見る。
 こちら側からだと日影になっていてよく見えない。
「所長の入れ知恵でやっているのかぁ」と額田が言った。「前のリーダーに代わっ
て入ってきた時にも、そんな事をしていたんだよ。誰よりも早く出勤してきて、清
掃員更衣室の床に掃除用具を出しておいて。モップだのデッキブラシだのを。そん
で自分は、パイプ椅子に腕組みをして踏ん反り返って居るんだよ。そんで、皆が、
おはようございます、って言って、清掃用具を取ると、自然と頭を下げる格好にな
るだろう。俺らを掌握する為にそんな真似したんだよ。何で同じパートなのに威張
られなくちゃならないんだい? 何で朝っぱらから深々と頭を下げなくちゃいけな
いんだい?」
  言いながら額田はだんだん興奮して来た。しまいには、うーうーと唸るような
感じになってしまい、体も上半身を硬直させて、両腕を激しく震わせて、足では地
団駄を踏み出した。
 なんだ、なんだ、これは。苦しんだ挙句、デビルマンみたいに変身するんじゃな
かろうか。
 そうだ、この人は、デビルマン、バッドマン、タックスマーン、ジョージ=ラク
ダ型だ。
「ほらほら、そんなに興奮すると、又ひっくり返っちゃうよ」と泉が言った。
「そんなになっちゃうの?」
「興奮すると、泡吹いちゃう。こーんなになって」と手足をびくびくさせて痙攣の
真似をする。
 この泉は、ポール=イルカ型だと思った。
 泉の後ろで低い声で笑っている横田は、デビルマンレディーという感じ。
 そういえばフローレンス・ジョイナーがてんかんである事を思い出した。
 やっぱ何か類型化できるな、と明子は思った。
 ふと横を見ると、大石悦子が望遠鏡でAMの事務所方向を見ている。さっき見て
いたのも彼女だろう。「家政婦は見た!」という感じである。しかし、覗いている
というよりかは、監視している感じだ。頭も石臼だ。
 こいつはリンゴ=石臼型だ。
「見える?」明子が聞いた。
「あんまり見えないねえ」
 明子は望遠鏡と取り上げると、つまみを調整してやった。
「ほら見えるよ、所長が手を振っているのが見える。所長ーーーーッ」
「どこどこ」大石は望遠鏡に目を当てるが首をかしげていた。
 明子はハッとして思い出した様に時計を見た。「いけない、こんな時間だ、私行
きます」
 明子は大急ぎでその場を後にして駐車場へ行った。
 ジムニーに乗り込み出庫すると、右手の清掃員達に手を振りながら車道へ出る。
 そして今朝上ってきた峠道を又下って行ったのだった。


●16

 約20分後、明子は、飯山駅から200メートル程度離れた路上に駐車すると、
ハザード出して車から下りた。
 歩道を横切って郵便局に向かう。入ろうと思ったが、ポストでも同じだと思い、
ポストに投函した。
 集配時刻を確認すると午前中は10時となっていた。
 これだったら今日の消印になるだろう。
 それからジムニーに戻ると大急ぎで駅に向かった。
 ロータリーの手前に停車すると、はぁ、と溜息を吐く。
「大沼さん、どこにいるんだろう」
 ハンドルにもたれかかってバス停留所の小屋を見てみた。
 それらしい人影は居ない。
 携帯を取り出して、着信履歴から大沼に掛けてみた。
「自分、見えとるでー」受話器の向こうで大沼が言った。
 明子はきょろきょろした。
「ここや 100均の前や」
 そちら方向を見ると、フィリピン人風の女性2人が、大沼に抱きついてキスして
いた。大きいコンビニ袋を持って、人目もはばからず。
 あのキスだけで、あんなに買ってもらえるのか。
 大沼は女と別れると、小走りにジムニーの方は駆け寄って来た。
 乗り込んでくるなり、酒と日焼けオイルの様な香水の匂い。
 それに、なんという格好をしているんだろう、ベティーちゃんが背中に刺繍して
ある革ジャンにブリーチしたGパン。どこで売っているんだろう。なんちゃってブ
ラザーが店員をしているヒップホップショップ?
「なんなんですか? あの人達」
「日系ペルー人や」
「何している人?」
「養鶏場で鶏の首、絞めてるんや」
「えー。なんでそんな人達と付き合いがあるんですか?」
「まぁ、ちょっとした事で知り合いになったんよ。一緒に飲む様になって、飯も作
りに来てくれるんよ、わしの夜勤明けには」
 こりゃあ何か訳ありだな。プレゼントを贈ってキスしてもらって。裏で何をして
いるのか分かったもんじゃない。
「斉木君も付き合っているんよ。彼、結婚するんと違うか」
 えっ。あの斉木が? 明子は彼の顔を思い浮かべた。
 いくら養鶏場で働いているからといって、斉木と一緒に居たいわけが無い。
「ずるいですね」と明子は呟いた。「あんなの、結婚できる男じゃないのに、出稼
ぎ労働者の弱みに付け込んでいるんじゃないんですか?」
 大沼は、ふんと鼻で笑った。「まぁ、ええから、ええから。はよ出して」
 明子は口を尖がらせつつサイドブレーキを外した。

 街を出ると、すぐに又県道97号の峠を上りだす。
 酒が残っていて吐いたりしないだろうか、と気をもんだが、
「タバコ吸ってもええやろ」と言ってきた。
「どうぞ」
 大沼は、一本くわえると窓を3センチぐらい開けて、使い込まれたライターでジ
ュポンと火をつけた。
 吸い込むとメラメラメラ〜と燃える。
 灰色の煙を吐き出す。
 煙の匂いが車内に広がった。
 これは高校生の時、遊び場の壁紙に染み付いていた匂いだ、と明子は思った。
 なんで大沼のタバコは臭くないんだろう。所長のタバコなんてプラスチックでも
燃やしたみたいにツーンとくるのに。
「仕事、どうや」
「うーん。疲れますねぇ」と明子は言った。
「仕事が増えた訳やないんやろ」
「うーん。でも、なんで疲れるんだろう」所長の顔が思い浮かんだ。眉に力を入れ
て弛んだ瞼を引っぱり上げる三角形の目。「所長がウザいから」
「あれかて俺より10も若いんやで」
 明子はちらっと大沼を見た。
 この人もジョージ=ラクダ型だ、と思った。
 フェリーニの『道』の主人公みたいな雰囲気がある。世間の約束とは関係なしに
獣道を歩いて行く人みたいな。あの映画みたいに行きずりの外人を拾ったりするの
が似合うのかも。
 でも、歳食い過ぎ。
「所長かて、雪が溶ければどっかに遊びにいってまうよ。春までの辛抱や」と言う
と、大沼は火種だけ窓の外にすっ飛ばして、吸殻を灰皿に入れた。
 そんなこんなの話している内に車はマンションに到着した。
 正面エントランスに横付けすると、大沼は「ありがと、ありがと」と言って降り
て行った。
 ベティーちゃんの刺繍を見ていて、フェリーニの『道』は褒めすぎかな、トリカ
ブト事件のスナック経営者にも似ているな、と明子は思った。


● 17

 大沼が降りてくる様子を、斉木は、フロントのカウンターから眺めていた。
 管理室の鉄扉が開いて大沼が入って来た。
 それからすぐに、コンシェルジュの榎本が、そしてチーフ管理員の蛯原も出勤し
てきた。
 この2人は、ラウンジを挟んで反対側にある清掃員更衣室で着替える。
 大沼ら24時間管理員は、ボイラー室で着替えていた。居住者の捨てたプラの衣
装ケースを拾ってきて、ロッカー代わりに使っていた。
 しばらくして、まず蛯原が戻って来た。
 Yシャツのボタンを3つぐらい外して、ネクタイをぶら下げて、ニットのベスト
を全開にし、開店前のスナックのマスターみたいないでたち。顔は北島三郎だ。
 フロントに居る斉木の前を、お前なんか居ないのも同じだよ、てな感じで、かす
れた口笛を吹きながらスルーして、管理室に入って行く。
 そしてまずデスクに携帯とタバコを置く。俺の領土、みたいに。
 それからキッチンコーナーに入って行った。あそこの冷蔵庫にはmyらっきょの
瓶が入っている。流しの横には小汚いmyタオルがぶら下げてある。
 自分で入れたインスタントコーヒー持って出てくると、タバコの横にどんと置い
た。
 こぼさないかなあ、と斉木は思った。こぼせばいいのに。そうすればPCの裏か
ら吸い込んでおシャカになる。
 蛯原はスチールデスクに半けつを乗せると、ばさっと新聞を広げた。
 ありゃ何気取りだ、カウンターから眺めつつ斉木は思う。デカ部屋の刑事コジャ
ックみたいな積もり? しかもタンソクだからつま先しか床に付いていない。だい
たい普段から誰かになり切っている感じだよな。ジェームズ・ディーンみたいなス
イングトップを着て来たり、刑事コロンボみたいなよれよれのコートを着て来たり。
 あんまり見るのは止めておこう。折角距離が取れているのに、下手にお近づきに
なったら、又厄介に巻き込まれる。夕べも設備屋から変な電話があった。あれは何
なのか聞きたいところだが、もし蛯原が何か画策しているのなら、下手に聞けば飛
んで火にいるなんとやらになってしまう。まず大沼に聞いてみよう。そして案の定、
何か企てていたとしても、全部大沼におっつけてしまおう。今は夜勤明けだ。俺は
すんなり帰りたいだけだ。
 そう思いながら顎を撫でるとじゃりじゃり音がした。
 榎本が現れた。スーツがパンパンで木目込人形みたいだ。喪服を着たら都はるみ
に似ているかも知れない。
 斉木はフロントの内側から「榎本さん、榎本さん」と呼ぶと、葉書を手渡す。
「誤配だって。居住者が持って来た。それから」と言うとポストイットの小さなメ
モを読む。「206の宅配ロッカーが荷物を出してもランプ付きっぱなし」
「はいはい。分りましたよ」
 榎本は管理室に入ると、すぐ左側のスチールのキャビネットの上に手帳を広げて
背中を丸めて亀の様に固まった。
 この狭いフロントと管理室に、9時〜6時で蛯原と一緒じゃあ堪ったもんじゃな
いだろう。
 前に、蛯原の座っている椅子の周りにぐるり一周、ファブリーズを噴霧した事が
あった、臭い、臭い、臭ぁーい、と。
 あの時には、蛯原も切れるんじゃないかと思ったが、脂汗を流しながら奥歯を噛
み締めて堪えていた。
 榎本も、ありゃあ四国出身と言っていたが、極道の妻じゃないのか、と眺めつつ
斉木は思う。清掃の山城と仲がいいから、あのオッサンを番犬にしているのかも知
れない。
 最後に作業着姿の大沼が現れた。斉木は立ち上がると、ポケットから鍵の束を取
り出して、それにつながっているビニールのスパイラル・ストラップを腰のベルト
通しから外して渡した。
 それから「ちょっと、ちょっと」と作業着を引っぱってフロントの奥に呼び込む。
「なんや、なんや」酒の残っている大沼はよろけながら引っぱられて行く。
「昨日の夜、設備屋から電話があったんだけど。管理室の外の下水管を工事するん
で、近い内に様子を見に行きたい、とか言ってたけど、なんか聞いている? 又な
んか蛯原が画策してんじゃないかと思って」と斉木は言った。
 そもそも管理員と言っても蛯原だの榎本だのは居住者相手であり、斉木、大沼ら
は設備の管理を主たる業務としていた。そしてこのマンションの設備管理で重要な
のは温泉施設の管理であった。
 その温泉について説明をすれば、ここの場合、どこか近所に活火山があって、熱
湯の温泉が吹き出していて、掛け流しで使う、というものではなくて、冷たいもの
を汲み上げて来て、直径2メートルのろ過器2台(屋内と露天)でぐるんぐるん循
環させて、途中のボイラーで暖めるという方式のものだった。そして、ろ過器の中
には湯垢やらバイ菌が溜まるから、掃除のために逆流させて排水する、という作業
を行わなければならなかった。しかし屋内風呂と露天風呂の両方をいっぺんに逆洗
すると、排水量が下水管のキャパをオーバーしてマンホールから溢れてくる。さり
とて片方ずつだと時間がかかる。だから一週間に一回でいいんじゃない、と24時
間管理員の間で勝手に決めていた。
 ところが先日保健所が来た時に蛯原が「週に一回の逆洗じゃあレジオネラ菌が湧
いたりしませんか? 毎日やった方がいいんじゃないですか?」と役人に言ったの
だった。そう言われれば役人は、そうやれと言うに決まっている。斉木としては、
「何を余計な事言ってんだ、この野郎。設備の管理は俺らがやっているんだから、
おめーが仕事を増やさなくても」と思ったのだった。
…そういう伏線があっての昨夜の電話だったので、「又何か企んでいるのでは」と
思ったのだが。
「なんも聞いとらんでー」と言うと大沼は管理室の中に入って行った。
 あいつが脇が甘いんで、蛯原に突っ込まれるんじゃないのか、と斉木は思う。
 大沼はふらふらと、蛯原の方へ歩み寄って、読んでいる新聞の一面を握り締める
と「爆発しとるでー」と言った。「斉木君、ペルーに行ったら空気がええんとちゃ
うか」
「あんまりはまらないで下さいよぉーほほほほほ」榎本は甲高く笑った。
 榎本も、大沼の日系ペルー人関係の話には興味津々だったのだが、蛯原もいる所
でその話をしたいとは思わなかった。だから中年女性特有の、笑いながら目の下が
痙攣している、という感じの返答だったのだが。
「おーい、早く引き継ぎ、やってんか」と大沼が言った。
「じゃ、やっちゃいましょう」ネクタイを締めながら蛯原が集合を掛ける。
 斉木もフロントから一歩だけ管理室に入った位置に移動した。
「おはようございます。今日は3月24日で」と蛯原がホワイトボードを見る。
「それじゃあ、斉木さんから何か」
「何もありませーん」と慇懃無礼に。
「榎本さんは」
「ありませーん」と手帳に目を落としたまま。
「分かりました、と。私の方からは、と」蛯原はホワイトボードを見る。「引越し
は無し」
 ある訳ねーだろう、と斉木は思う。
「計画停電は中止。大沼さん、仕事が増えなくてよかったね」
 おめーが増やしてんだろ。
「あと、そうそう」と思い出した様に蛯原が言った。「今日、小沢組が午前から来
て、管理室を出てすぐのマンホールのとこから水があふれるから、その工事をしま
す」
「え、何の話?」と斉木。
「両方いっぺんに逆洗すると溢れるっていうから下水管を太くするそうです」
「ちょっと待てよ。俺は何も聞いてねーぞ」後頭部のニューロンが一気に発火する
のが分かった。
「私もただ、大通リビングの工事部に言われただけだから」
「訳ねえだろう。わざわざ大通リビングが率先して銭使う訳ねえだろう。まず俺ら
に、片方ずつ排水しろとか言ってくる筈だよ。それをいきなり下水管の工事なんて、
おかしい。おめーが何か言ったんだろう」
「私はただ、保健所が毎日排水した方がいいって言っていましたよー、って。じゃ
あ何でやらないんだって聞かれたから、両方いっぺんに排水するとマンホールから
溢れて、そこが凍結して、居住者がすってんころりんして、管理会社が訴えられる
かも知れませんよー、って。それでもやりますか、って聞いたら、下水管を太くす
るしかないな、って言ってきた」
「やっぱりおめーが誘導しているんじゃないか」
「聞かれたから言ったまでだよ」
「下水管太くしたら毎日排水しなければならないじゃないか。大沼さん、なんとか
言えよ」
「あそこの配管ってこんなに細いんよ」と両手でわっかを作って見せた。
  なんの話をしているんだ、と斉木は思う。
「その向こうに避雷針が埋まっていて、こっち側にこの建物のH鋼があるんよ。そ
んでその配管が塩ビやから、それが絶縁体になっておるんよ。だから交換するんだ
ったら、変な埋め方をしたら、駄目やで」
 なにぬかしとんねん、この設備オタクが、と斉木は思う。
 しかし、どうして自分はこんなに簡単に頭に血が上ってしまうのだろうか、とも
斉木は思った。タイムカードを押して、さっさと帰ればいいじゃないか。次の勤務
日も、見て見ぬふりをしてやり過ごせばいいじゃないか。とにかく頭を冷やさない
と。それに喉もカラカラだ。
 斉木はキッチンコーナーに行くと冷蔵庫を開けた。アルミ缶のコーラを取り出す。
プシューっと開けてその場で半分位飲み干した。
 キッチンコーナーを出てくると、誰も居なかった。
 あれ、みんな何処行ったんだろう。
 フロントに出ても誰もいない。
 榎本、大沼は銭湯の券売機の精算に行ったんだろう。
 蛯原は何処に行きやがった。これじゃあ帰れないじゃないか。もう引継ぎは終わ
ったのだから帰ってもいいのだが、ちゃんとバトンタッチして帰らないとスッキリ
と夜勤明けを迎えられないじゃないか。
 畜生、何処に行きやがった、とフロントから出ると、後方の廊下から高橋明子が
現れた。
 さっき大沼を下ろしてから20分ぐらいたっている。途中のトイレでうんこをし
ていたんじゃなかろうか。
「あれ、そのコーラ、毒が入っているんじゃなかったんですか?」と明子はコーラ
を指差す。
「いやー、余りにも頭に来たんで、毒でも煽りたい気分なんだよ」と言ってから、
斉木は、これこれこういう訳で、と下水管交換の顛末を話してやった。
「それって丸でジョン・レノンのポールへの視線と同じですよ」と明子は言った。
「はぁ?」いきなりジョン・レノンって。こいつも話が飛ぶなぁ。
「ジョンは、ポールは何時でもシー・ラブズ・ユー、何かを企てている…、って言
っていたじゃないですか。斉木さんも、蛯原さんは何かを企てているって言うじゃ
ないですか。でも、ビートルズの場合には、ジョンの下衆勘だと思うんですよねぇ。
だって、今スマホで読んだんですけど、ジョンって、『アビイ・ロード』のジャケ
撮影の時にも、ポールは秘かに裸足になっていた、あいつは何時でも何かを企てて
いる、とか言っていたけれども、でも、撮影の時に一緒に居たんでしょう? 気が
付かない自分がおかしいじゃない? メガネの度があっていないんじゃないの? 
そう思いません? ジョンって思い出しちゃイマージンしているんですよ、きっと。
 だからって訳じゃないけれども、今の下水管の話にしても、おかしいのは蛯原さ
んじゃなくて斉木さんなんじゃないんですか?」というとハッとした様に口をおさ
えて「あ、変な事、喋っちゃった。私は行きます」と言って居住棟へ消えて行った。
 それから斉木はコーラを持った手をだらーんと下げて、立ち尽くしていたのだが、
今度は清掃の大石悦子が現れた。
「ちょいと。共用部の便所の電球、切れているわよ」
「俺、もう上がりなんだけれども」
「誰でもいいから、お願いね」












#1072/1158 ●連載    *** コメント #1071 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:12  (466)
斑尾マンション殺人事件 5
★内容

●18

 斉木は、空のアルミ缶を作業ズボンのポケットに入れると、共用部のトイレを見
に行った。
 センサーで反応するタイプなのだが、斉木が近寄ってみると、洗面所の片方の球
が切れているのが分かった。
 斉木は、ちっと舌を鳴らした。かったりー。
 後方の廊下を通って、ボイラー室に向かった。そこに電球の在庫が置いてあるの
だ。
 ボイラー室の扉を開けると、清掃員がパイプ椅子に座っていた。
 額田、横田、泉、大石。
 ボイラーが消えているので防寒着を着たままだった。
「山城は?」入りながら斉木が言った。
「変電室かどっかでタバコでも吸ってんだろ」と額田。
「ここじゃあ絶対に吸わせないからな。俺の勤務日には」
 言いながら斉木は、貯水タンクの下の台車を引っ張り出した。そして電球の在庫
を漁ったのだが、待てよ、と思った。勤務時間オーバーしているのに何で俺が交換
しなくちゃいけない。大沼がやればいい。でもあれもすっ惚けたオッサンだから、
その次の鮎川がやればいい。
 斉木は台車を足で蹴り入れると、天井の配管にぶら下がっている化繊ダウンを取
った。
 何時も着替えないで、作業着の上にそれを着て、そのままバイクで帰るのだった。
「俺、もう帰るわ」と清掃員に言う。
 出て行こうとする斉木に、大石が、すがる様に寄ってきた。
「ちょっと待って」
「何だよ、まだ何かあるのかよ」
「ちょっとさぁ」と困った様な顔をする。
 他の清掃員も心配そうな様子である。
「何?」斉木は眉毛を動かした。
「実はね…」
 大石が言うには、サブエントランスの裏口のドアに鳥の糞がべっとりこびり付い
ていたのでヘラでこじったら30センチぐらいの傷を付けてしまった、という事だ
った。自分らはパートと言っても請負契約社員だから、物損を出せば損賠賠償にな
るが、あんなドア、業者に塗らせたら3万も5万も取られてしまう。月に8万しか
貰っていないのに5万も取られたらもう何も買えなくなってしまう。
「週末にお父ちゃんと卸売りセンターでウニ丼を食べる積もりだったんだけれども、
それも諦めるようかねぇ、うぅーーー」
「斉木君、塗ってやれよ」と額田がパイプ椅子から言った。
「そんだったらよぉ、張り紙でもしておけばいいんだよ」言いながら斉木は清掃員
の方に歩いて行った。「雪で滑ります、とか、足元注意、とか書いて貼っておくん
だよ。それを蛯原の前でこれみよがしに書くんだよ。そうすればあいつがオスの
マーキングで、すぐにパウチの張り紙に交換するから。そうしたら又それを引っ剥
がして、又自分の張り紙をしておくんだよ。そんなの一週間もやっていれば、傷だ
らけになって元の傷なんて分からなくなるから。ガード下の電柱みたい」
「本当かい?」と大石。
「本当だよ」
 斉木はここに来て蛯原のこの習性をすぐに発見した。斉木がここに就職した頃は、
共用部の鍵など誰も管理していなかった。そこで夜中の暇な時間に、斉木が本数を
チェックし、鍵台帳を作成した。ところが次回の勤務日に来てみると、ベニヤ板に
鍵がぶら下がっているし、鍵台帳も作り直してあった。次に、割れたままの蛍光灯
のカバーがあったので、取り外して、サランラップで雨水が入らない様に養生して
おいたら、次の勤務日には、アロンアルファで直したカバーが取り付いていた。更
に、雨で滑ります等の張り紙をすると、すぐにワープロとテプラで作った張り紙に
貼り替えられる。
「なんだこいつは。犬か。小便した後に又小便を掛ける、みたいな真似しやがって。
でもこの習性を利用して何か出来ないかなって思ったんだよ、鮎の友釣りみたいに
さ。そんでこれは隠蔽工作に使えるなって。実は額田さんにもあるミッションを仰
せつかっているんだぜ」
 額田は舌を出すとデヘヘと笑った。
「何、何、それ」と女らが興味津々である。
「もうすぐミッションコンプリートだから、教えてもいいかな」
「いいよ」と額田。
 斉木は皆にそのミッションを説明した。
 それは、清掃グループの独裁者山城を追放し、自由と民主主義を回復するという
ものであった。
 このミッションは2つの作戦行動により完了する。
 まず最初の作戦は、清掃員更衣室を綺麗にするというものであった。
 斉木は、「清掃員の為にあの部屋を綺麗にする」と宣言して、小汚いモップにビ
ニール袋を掛けるなどした。
 そうすれば蛯原が真似をする、いやもっと大掛かりな事をするだろうと期待して。
 そうしたら蛯原は、まず、清掃員更衣室の清掃用具をボイラー室へ移動させた。
わざわざ大通リビングの許可を得て。それから、清掃員の為にと居住者の捨てた小
型冷蔵庫を拾ってきて、自動販売機屋からコーラを貰って入れておいた。
 この様に、一度清掃用具がボイラー室に移動され、清掃員の出入りが自由になる
と、ボイラーを焚いている時には暖かいものだから、だんだんそこに屯するように
なるし、しまいには休憩もそこでとるようになる。
「それが今のあんたらだよ」と斉木は言った。「独裁者からの解放はまず移動の自
由からだ。まあ、ここは難民キャンプみたいなものだよ。だけれども、あんたらは
故郷に帰らないといけない。それがミッションその2」言うと斉木は人差し指と親
指の2本立てた。外人みたいに。「蛯原には風説を流布する悪い癖があるんだよ。
誰々がこう言ってましたよーって。額田さんが、清掃員更衣室は寒いって言ってま
したよー、隣の農家の豚小屋にはストーブがあるのに清掃員更衣室には何もない
よー、って。そう蛯原が吹聴する様に俺が仕込んでおいたから」
「俺、そんな事、言ったっけ?」
「実際に言ったかどうかはどうでもいいんだよ。現代戦は情報操作だから。
  とにかく仕込みは完璧だから、ミッションコンプリートは近いぞ」


● 19

 フロントに戻ってもまだ誰も居なかった。
 斉木は、作業着のポケットに両手を突っ込んで、肩を怒らせて、その場をうろつ
いた。丸で人足寄せのトラックを待っている労務者の様に。
 やがて後方の廊下から蛯原がハァハァ言いながら戻って来た。
「あれ、まだ居たの? いやー、駐車場の屋上が凄い凍結だ。あれじゃあ人も車も
すってんころりん」と如何にも一仕事してきました、みたいな顔をしているが、す
っかり香ばしくなっている。
 でも、引継ぎの時にあれだけ揉めたのに、一服すれば忘れてしまうというのは、
ヒステリーの斉木にしてみれば有難くもあるのだが。
「じゃあ、俺、帰るよ」
「いいよ、いいよ」言うと蛯原は管理室を素通りして鉄の扉から出て行った。
 マンション右手に歩いていくのが正面の自動ドア越しに見えた。
 とにかくさっさと帰ってしまおうと踵を返した瞬間、カウンターの内側の電話が
鳴った。ここで出なければいいのに、やっぱり気にし屋なのでつい出てしまう。
「はい、斑尾マンション、管理センター、斉木です」
「高橋ですけど」
「なんだよ」
「事務所のドアが開かないんですよ。キンコン鳴らしても出てこないし。中で何か
あったんじゃないかと思って。ちょっと来てもらえませんか?」
 それだけ言うと、ぷちんと切れてしまった。
 何なんだよこれは、と思いつつエントランスに出て辺りを見回す。人の気配がし
ない。ちっと舌を鳴らすと「しょうがないか」と斉木は呟いた。
 しかし鍵がない。
 ボイラー室に行って額田から鍵を借りた。
  それで居住棟に入った。

 エレベーターに乗って4階へ。そして通路をちょっと行くと、AMの事務所前の
高橋が見えた。
「おーい。携帯がいきなり切れたけれども、何なんだよ」
「変な所いじっていたら切れちゃったんですよ」
「本当かよ。俺が気にし屋なのを知っていてわざとやったんじゃないの?」
 斉木はドアに張り付くと、キンコン、キンコン、キンコンとチャイムを連打する。
ドアノブをがんがん引っ張る。そしてドアをどんどん叩きながら「所長ーッ」と怒
鳴った。
 それから明子の方に向き直り「管理員だからって開けられる訳じゃないんだよ」
と言った。
 明子は斉木をじーっと見て「それはそうに決まっているけど。じゃあどうすれば
いいんですか?」
「ナルソックを呼ぶしかないね。3000円かかるけど」
「じゃあ呼んで下さいよ」
 斉木は携帯を取り出すと蛯原に電話した。これこれこういう訳で所長が閉じ込め
られている、と。
「そりゃあ大変だ。さっそく手配しないと」受話器の向こうでハッスルしているの
が分かった。
 携帯をポケットにしまいながら斉木が言った。「俺、今日は残業手当、請求する
からね。ナルソックだって飯山市内から来るんだから結構、時間食うんだから」
「所長に言って下さいよ」
「所長が死んでたら?」
「えッ」と後ずさりながらドアを見る。「これって火事とかだったらどうするんで
すか?」
「そりゃあ、いざとなれば、隣が未販売だからコンストラクションキーで入って、
ベランダの仕切りをぶち破るとか。でなきゃ上の階からロープを垂らして、『ダイ
ハード』みたいにベランダに飛び込むとか」
「ナルソックって、マスターキーみたいなの、持っているの?」
「タメ口利いてんじゃねーよ。まぁいいけど。あれだよ、管理室の壁にナルソック
しか開けられないキーボックスが埋め込んであるんだよ。もっとも管理室に入るに
は管理員が付いていないと駄目なんだけれども」それから斉木は声を潜めて言った。
「実は蛯原が、あのキーボックスを開けられないかって企んでいるんだよ。このマ
ンションを自分の家だと思ってんから」

 やがて蛯原がひょろりとしたナルソック隊員を連れてやってきた。
 そしてナルソック隊員が解錠する。
「警戒設定が解除になりました」というボーカロイドみたいな音声が鳴った。
 蛯原が開ける積もりで勢いよくドアをひっぱると、がたんとU字ロックに引っ掛
かった。
「あれ。チェーンが掛かっているぞ」そしてナルソックに向かって、「これ開けら
れる?」
「無理っすね。消防署を呼んでも大きいワイヤーカッターでばきばきばきーっと壊
すしかないんで」
「ところが斉木君が開けられる」にーっと笑って斉木を見る。
 かつて、居住者がドアの内側にあるU字ロックに帽子をぶら下げていて、自分が
出た拍子にU字ロックが掛かってしまった事があった。その時には鍵屋を呼んだの
だが、何やら特殊な道具で開けたと言うのだが、それがどんな道具なのだかを教え
ない。警察でも消防でも巨大ワイヤーカッターで壊すのに、何で鍵屋がそんな道具
を持っているんだろう…と斉木が考えに考えた末、ビニール紐で外側から外す方法
を発見したのだった。そして、鍵屋を呼べば2万3万と取られるのだから他の管理
員とも情報の共有をしておいた方がいいんじゃないか、とついうっかり蛯原にも教
えたら、居住者と廊下ですれ違う度に、「いい事を教えてあげますよ」と丸で手品
でも見せるように得意気に披露して、「これを知っておけば万一の時に鍵屋を呼ば
なくて済みますからね。まあこれは斉木から教わったんですけどね。斉木から」と
自分はあくまでも善意の第三者であるまま、シー・ラブズ・ユー方式に拡散してく
れたのであった。
「だから俺は開けないよ。泥棒被害でもあったら俺のせいにされてしまう。それに
紐も無いだろう」と斉木。
 蛯原がポケットからビニール紐をずるずると引っ張り出す。
「いやに用意がいいじゃないか」と斉木。
「俺がやってもいいんだけど、背が低いから届かないんだよ」
「でもいいや。開けても」突然斉木が態度を変えた。
 というのも、後日斉木はメーカーにクレーマー的に問い合わせをしたのだが、あ
れはあくまでも人間がドアの隙間から覗くのを補助する器具であって、鍵として使
用してもらっては困る、という説明を受けたのだった。それを思い出したのだ。
 斉木は蛯原から紐をひったくると、ドアの隙間からU字ロックに引っ掛けて、そ
の紐をドア上部から蝶番側に回すと、紐が弛まない様に引っぱりながらドアを閉め
た。
 閉まった瞬間に、パチンと外れる音がした。


● 20

 蛯原がドアを開けた。
 全員が何気に耳をすます。
「栗くせー。温泉で塩素の値が高過ぎるとこのニオイがするんだよね」と斉木。
「一番奥が和室だよね」と蛯原が高橋明子に聞いた。
 うなずく明子。
 蛯原が意を決した様に突入した。
 窓が開けられ、玄関も開け放たれているので、空気がさーっと流れて来た。
 そして、ナルソック隊員、斉木、高橋も入る。
 今や、玄関からリビングへの廊下に4人がひしめいている。
 ナルソックが洗面所に入りトイレのドアをあけた、が中は空だった。
 次に風呂場のドアを押した。
 ざーっという音が聞こえる。
 更にドアを押し開けると、所長が壁に背にへたり込んでいるのが見えた。Yシャ
ツに、スラックスの姿。両手両足を伸ばして、首をうなだれている。左手にはシャ
ワーを持っていて水が自分に掛かっている。口からは泡の様な吐しゃ物が出ていた。
 見た途端、斉木と高橋はリビングに逃げる。
「俺、グロ耐性、無いんだよ」
「私も」
 蛯原とナルソックが靴下を脱いで、浴室に入って行った。
 蛯原はシャワーのカランをバスタブに入れると「死んでんのか?」と言った。
 ナルソック隊員は首をかしげながら、しゃがんで、脚を揺らしてみる。
 蛯原も腹のあたりを突いてみた。「おい、所長。所長」と声を掛けるが返事がな
い。
「どうしたらいい?」
「もちろん119番通報でしょう」
 蛯原がその場で119通報する。「こちらは斑尾マンションです。住所は飯山市
斑尾高原**番地。目標になる公共施設等は斑尾高原スキー場のゲレンデです。こ
れは火災ではなく救急車のお願いです」とマニュアル通りの文言を言ってから、で
かい声で「とにかく救急車を出して下さい。それから、目の前で人が倒れているん
ですが、これはどうすればいいんですか。動きませんよ。口から何か吐いてます。
人工呼吸なんてやった事ないですよ。ナルソックがいるんですが」そこまで言うと、
携帯端末をナルソックに差し出した。「変われって言ってんぞ」
 ナルソックが出ると何やら指示を受けていた。
「じゃあ運び出しましょうか。そうしたら私が人工呼吸しますんで」
 2人で両脇と両足首を持ってリビングに運ぶ。
「おい、そこの防寒着を床に敷いてくれ」と言われて、斉木と高橋はソファの上に
丸めてあった防寒着を床に敷くと、今度は和室に退避した。
 所長を寝かせると、ナルソックが吐しゃ物を取り除き、ビニールのフェースシー
ルドを当てて人工呼吸と心臓マッサージを開始した。
 それを見守りつつ蛯原は「こういうのも覚えておかないといけないのかなぁ」と
誰へとも無しに言った。
 しばらくして大沼が全く緊張感なくスリッパをぱたぱたいわせながら登場した。
「所長どうにかしたんか」と見下ろす。
「風呂場でぶっ倒れていた」
「今救急車が来て、トランクルーム開けてくれ、言うてるけど、鍵どこにある
の?」
 トランクルームとはエレベータの突き当たりにある小スペースで、お棺やら救急
車のストレッチャー等を乗せる時に扉を開いて使用する。
「自分の鍵束にぶら下がっているだろう」と蛯原。
 大沼はポケットから鍵束を出すと、一個ずつ調べ出す。「はあ、これかあ」と言
いながら出て行く。
 しかし、ほぼ入れ替わりで、救急隊員が入って来た。
 そして所長をストレッチャーに乗せると運び出した。
 蛯原もナルソック隊員も一緒に出て行った。



● 21

 所長が搬送されると、斉木と高橋明子は2人きりになったのだが、いい大人が余
りにもグロ耐性が無かったので、気まずさを感じ始めていた。
「でもしょうがないよ」と明子が言った。「ジョン・レノンだって世界平和を訴え
つつも楽屋に身障者がくれば卒倒したんでしょう?
  でも、あれね、大沼さんって、メカにもグロにも強いと思ってたけれども、案
外メカには弱そうね。自分のぶら下げている鍵に気が付かないんだから。斉木さん
は案外メカに強そう。U字ロックなんて外せるんだから」
「いや、それが微妙に違うんだよ」と斉木が言った。「つーか、設備を修理するに
しても俺はナット締めが得意なんだけど、大沼はボンドとかが得意なんだよ。
 これは性格もそうで、俺は、なんか、カクカクしているんだよねぇ。話していて
も、『つーか、つーか』って区切って切り返す癖がある。
 つーか、大沼も『つーか』って切り返すんだけれども、大沼の場合には、自分の
身に迫ってきた事に関して切り返すんだよ。
 例えば、『大沼さん、最上階の手すりの外の排水口、掃除しておいてねー』
『よっしゃ、よっしゃ』と言いつつ、自分の靴紐を結んでいて、『つーか、落ちた
ら、俺、死ぬんやで』と今更気付く、みたいな。ナメクジか、おめーは、みたいな。
 でも気が付くと反応は早いんだよね。お疲れーって肩を叩くと、なにすんねん!
 と叩き返して来るから」
「えー。大沼さんってそういう反応するの?」
「反応っていうか、ボンドをひっぱたいたら、べたーっと手にくっついて来た感じ
かなぁ。粘着だな。
 まぁ蛯原も瞬間的に反応するんだけれども、あれはアスペルガーちっくって感じ。
俺の顔を見ていて、ホラー映画みたいとか言って来るよ。
 まぁ、蛯原はポール=イルカ型だな。今見ている事に反応しているのだから、オ
ンタイムではあるんだけれども。
 大沼は、ジョージ=ラクダ型だけれども、永遠の現在に粘着しているって感じで、
やっぱりオンタイムだな。
 まぁ、俺みたいなジョン型が、カクカク振り返る感じで、過去に生きるって感じ
だけれども。
 あと、石臼の反応っていうのもあるんだよね。
 これは、ボコられてもボコられても反応しないって感じなんだけれども。
 反応しないんだから、害毒がなさそうだけれども、一番たちが悪いんだよね。
 ああいうのが居ると辺りが膠着してしちゃうんだよ。
 清掃の山城がそうなんだけれども、ポール・モーリアの『Get Back』を繰り返し
聴いているから、こっちがオリジナルだよー、ってyoutubeの動画を見せて
やったら、俺はポール・モーリアのでいいって言うんだよね。
 自分が最初に見たものに正統性有りって思うんだよ。
 そういう感じで、自分の周りもの全てに関して、今のままでいいって思うから膠
着しちゃうんだよ。保守って言えば保守だけど。
 まぁ、これらは割合は、ジョン型20%、ジョージ型20%、ポール型30%、
石臼型30%って感じかなぁ。
 これは100人以上の居住者を見て判断したんだから、かなり正確だと思うけど
ね」


● 22

 しばらくすると蛯原が制服警官2名を連れて現れた。
 一人は、痩せて神経質そうな、しかし柔和な感じの警官だった。
 玄関を上がった所で、蛯原はこの警官を相手に、トイレがどうの、風呂場がどう
のと、身振り手振りで大げさに説明していた。
 その後ろには闘士型の体格をした警官が帽子を目深に被って歩哨の様に突っ立っ
て居た。更にその後ろにナルソックの隊員が居る。
 すぐにもう3名が到着した。
 長野県警とバックプリントしてある紺のウインドブレーカーを着ていて、腕には
『鑑識』の腕章をしている。
 それぞれ肩からジュラルミンのケースを提げていた。
 痩せた警官の下に行くと、あそことあそこ、みたいに指示を受けて、蛯原には目
もくれずどかどかリビングに入り、あぐらをかいて座ると、帽子のツバを後ろに回
して、耳かきの綿みたいなのでアルミの粉をはたき出した。
 蛯原は、身振り手振りで大げさに説明していたのを中断された上に、全く自分と
は関係なく捜査が進行している事に気が付いて、途端にむくれる。
「ちょっと待てよ。こんなに大げさな事なのかよ」と蛯原は言った。
「何時も協力してやってんだろう」と後ろの警官が言ってきた。
 帽子を目深に被っていたので気が付かなかったが、こいつはあの所轄のお巡りか、
と蛯原は思った。
 普段、蛯原は、ゲレンデに来た客がマンション敷地内に駐車をするのを防ぐ為に、
「違法駐車は2万円申し受けます」だの「レッカー移動します」だのの、脅しの張
り紙をしていた。と言うのも、110番通報したところで、私有地だから駐車禁止
の違反切符を切っては貰えないから。居住者にせっつかれてつい110番通報する
と、通報センターみたいな所につながって、そこから最寄の交通機動隊みたいなの
につながって、パトカーが来るのだが、結局私有地だから何も出来ない、しかし出
動したのだから、呼んだ奴の免許証を見せろだの、呼んだ側の情報だけ集めていく。
そうすると、クレーマーマンションになりかねないのだった。そういう事情が続い
ていたのだが、実は、110番ではなくて所轄の警察とか交番に電話して、困った
声を出すと、警察所有のデータベースから所有者を特定して、「じゃあ、警察から
所有者に、違法駐車で迷惑している人がいますよ、と連絡してあげる。でも相手が
出なかったらそれっきりだよ」という事をしてくれるのが分かった。それ以来、
堂々と「違法駐車は即110番通報」という張り紙に変えたのだが。それをやって
くれていたのが、このうどの大木か。
「恩着せがましい事を言うな。今日は何で来た。呼んでないぞ」と蛯原は言った。
「119番すれば110番に連動するんだよ」
「だからってこんな所にまで入ってきて粉ぱたぱたはたいていいのか。パトカーは
どこに止めた。あそこは私有地だぞ。勝手に入っていいのか」
「公務じゃないか」
「だったら駐車違反取り締まりだって公務じゃないのか。それともお前は仕事を選
ぶのか」
「まぁまぁまぁ」と、痩せた警官が割って入って「ざーっとでいいから聞かせて欲
しいだけなんですよ。最初に見付けた人は誰だとか、誰が通報してきたのかとか、
その時の様子はどうだったとか」となだめる様に言ったのだが、蛯原はその警官に
矛先を変えて、
「呼んでないのに誰が呼んだと聞くのはおかしい」とか「あの死体が目を覚ました
ら直接聞いてみろ」とか「でなければ管理主任者にきけ」などとほざくのであった。
 管理主任者とは、居住者とマンション管理契約を結ぶ際の、管理会社側の当事者
なのだが。
 痩せた警官は、はーとため息をつきつつ、鑑識らと目配せをした。
 鑑識らがあんまり出ない、みたいに首をふると、「じゃあ引き上げるか」と出て
行った。
 蛯原は、更に追いかけて行って、エレベーターの前で、「防犯ビデオだって裁判
所の命令が無ければ見せないぞ」とか「日本は法治国家だから行政の言いなりには
ならないぞ」などと言っていたのだが。




● 23

 この段階で、部屋に残されたのは、斉木、高橋、ナルソックの隊員だった。
「俺も帰ろうかなぁ」と斉木が呟いた。
「あのー、判子をもらいたいんですけど」とナルソックの隊員が言った。
「シャチハタぐらいだったら押してやってもいいよ」

 斉木はナルソック隊員を連れて管理室に戻った。
 机の一段だけ割り当てられた引き出しからシャチハタを出すと「何処に押しゃあ
いい」と言った。
「ちょっとすみません、作業がありますんで」と言うとナルソック隊員は、なにや
ら作業を開始した。
 何を始めたかというと、まず使用した合鍵の先端部をビニールで覆い、その上を
10桁の数字の書かれたシールで封印し、その番号を報告書に記入した。そしてホ
ワイトボードの後ろの壁に埋め込まれたキーボックスの前に行くと、磁気カードを
かざす。ブーっと音がして、赤いランプが点滅する。素早くキーボックスの扉を開
けて、鍵を元に戻すと、扉を閉める。もう一回ブーっと音がして、ガシャンと扉が
施錠される音がした。
 斉木は、シャチハタをついたらすぐに帰れると思っていたのに、この作業の間、
待たされたものだから、イライラのオーラ全開で、徹夜明けの充血した、文字通り
血眼の目で、ガン見し続けて、早くしろ、早くしろと念を送り続けていた。
 それが余りにも強烈だった為に、ナルソック隊員は、封印の番号を報告書に書き
写す際に間違えていたのだった。
 それは斉木も気付いたのだが、教えてやらない。
 それから警備員は、手が震える程焦りながら報告書を完成させると「あのー」と
言った。「判子もらえないでしょうか」
「判子ぉ? 何の判子だよ、今更。警察だの消防だの七人も八人も来たっていうの
に。それって、おめーがちゃんと仕事しましたーって紙じゃないの?」と嫌味を言
った後、「それに、封印の番号、間違っているぜ」と言った。
 えッ、という顔をすると、隊員は封印台帳から今使用したシールの半券を取り出
して、報告書と比べると、しまった、てな顔をして、慌てて、訂正すると斜線をひ
いて訂正印を押した。
 そういう作業の間にも、例えば封印台帳が入ったアタッシュケースを開ける為に
腰に付いているキーホルダーに手を伸ばすなどして、隊員が体をよじっただけで、
防弾チョッキの様なダウンベストにぶら下がっている警棒だの無線機だのががさが
さ音を立てるのだが、あれは何かロボコップのオムニ社の隊員の様で、クールじゃ
ないか、と斉木は思った。
 自分も紺の上下の制服を着ているが、どっちかというと菜っ葉服っぽい。
 斉木の血眼は羨望の眼差しに変わっていた。
 斉木は、起こっている事を全くオンタイムでは感じられず、眼前で起こっている
事はすべて過去の記憶を呼び覚ますトリガーでしかなかったのだが、今彼の記憶野
からは、かつて警備会社の面接に行った時の事が読み出されていた。
 それはたかがパチンコ屋の警備員の応募だったのだが、その場で採用という訳に
は行かず、一応履歴書から前職等を調べて、その後に4日間の講習があるのだ、と
言われた。
 随分堅苦しい事をするんだな、でもこれは、講習とかいう名目で、警察OBでも
講師で招いて、そうやって金品を渡しているんじゃないか、と斉木は思った。そし
て、その面接の帰りがけに、前回採用分の人達の講習風景を、ドアの羽目ガラス越
しに覗いたのだが、よれよれのTシャツに髭面の老人で、ほとんどホームレスみた
いなのが受講していたので、あれだったらいくら俺でも採用されるだろう、と思っ
たのだが、翌週、不採用の通知が届いた。何故だ。もしかして高校時代に万引きで
捕まった記録がスーパーより警察に提出されていて、今でも残っているんじゃなか
ろうか。
 とにかくその知らせを聞いた日に飯山市内を歩いていたら、偶然、靴の量販店に
警備会社のワンボックスが到着する場面に出くわした。売上金の回収に来たらしく、
警備員の一人がジュラルミンのケースを抱えて店内に入って行くと、もう一人が伸
び縮みする金属製の警棒をカシャ・カシャ・カシャと伸ばして、通行人を威嚇する
ように自分の手の平を打っていた。
 この野郎。警察でもない癖に格好つけやがって。ちょっと因縁つけてやろうか。
そう斉木は思ったが、警備会社の研修にも警察OBが来ていたので、裏でつるんで
いるんだろうと思い止めたのだが。
 それ以来、あの防弾チョッキの様なベストとか、金属製の警棒などを見るとムカ
つくのであった。
「どうもすみませんでした」とナルソックが書類を出すと、
「俺が指摘してやらなかったら、どうなっていたんだよ」とまだシャチハタを押さ
ない。「どうせこんなマンションの管理員なんて馬鹿にしてんだろう」
「まぁまぁ」と蛯原が入って来た。
 いつの間にか戻って来ていて、フロントから管理室の中を見ていたらしい。そし
て入って来ると「彼は今日はよくやってくれたじゃないか。人工呼吸もしたしな」
と言うと斉木の耳元で、「おい、ああいう耳の丸まった奴は、ひょろーっとしてい
ても柔道かなんかやっていて強いんだぜ」
「だからなによ」
「斉木君、疲れてんだろう。イライラしすぎだ。もう帰りなよ」と言うとなれなれ
しく背中をとんとん叩いた。
 時計を見るともう12時近かった。さすがに斉木も馬鹿らしいと感じ、ここで退
場する。


● 24

「徹夜明けだから気が立っているんだろう。俺がサインしてやるよ」言うと、蛯原
は引き出しからシャチハタを出して突いてやる。「ところでさあ」と言うとホワイ
トボードをがらがらーっと移動させてキーボックスを露出させた。「このキーボッ
クスって鍵自体はタキゲンとか栃木屋のだよなあ」
「さあ」
「そりゃあよく知ってんだよ。管理の仕事をしているんだから。だけれども、ぴっ
とカードをかざしたりするだろう。それが無いと開かないんだろ」
「勿論そうですよ」
「じゃあもし、停電とか、電気保安協会とか来た時にだよ、もしその時に非常事態
で居住者のドアを開けなければならない、ってなったらどうする?」
「これは普段はコンセントから110Vを取っているんですよ。でも停電になると
その防災盤のバッテリーから12Vが供給されるんです」
「じゃあ、そのバッテリーが無くなったらどうなるの?」
「そうしたらロックは解除されますが。なんでそんな事聞くんですか?」
「確認だよ。停電の時にゃぁ、どっかから電源供給されるんだろうとは思っていた
けど、どこなのかぁーと思って。だってここの安全をあずかっているんだから、居
住者様に聞かれて答えられなかったらまずいだろ。…計画停電があったら、あんた
ら大変だなぁ。信号もみんな止まるんだぞ」
「はぁ」
 ナルソックを帰してしまうと蛯原は、とにかく井上に連絡しないと、と思い、大
通リビング東京本店に電話したのだが、あいにく昼食で外出中、との事だった。
 井上というのは、斑尾マンション担当の管理主任者で、年齢は29歳である。
  通常、マンション管理会社には、工事部と管理部がある。
  工事部は、小さくは電球の交換、大きくはマンションの大規模修繕などを行う。
管理部は、マンション管理規約の作成、理事会や総会の開催や議事録作成などを行
う。
  この後者の担当者が管理主任者である。









#1073/1158 ●連載    *** コメント #1072 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:12  (432)
斑尾マンション殺人事件 6
★内容


● 25

 井上はその頃、東京本店の近所のカレーハウスにて、アイスコーヒー&カレーを
注文した所だった。
 タオル地の黄色いおしぼりで顔をぬぐってから水を飲むと、正面に座っている同
僚の女性に話し出した。
「斑尾の駐車場だけれども、何でみんな使用料を払うんだろう」
「はぁ?」
「だって、あそこの敷地権は居住者にあるんだよ。自分の土地に車を止めておいて、
何で使用料を払うんだろう。
 あそこら辺の月極駐車場の相場が4千円だからって、みんな4千円払っているけ
ど、あそこら辺のタイムスは売上の何十パーセントかは地主に払うだろう。だった
らあそこの居住者だって、4千円の何十パーセントかは戻ってくるべき、とは思わ
ないのかね。あそこの立体駐車場もマンション購入価格の一部で 毎月ローンを払
っているのだから。そうだろう。そも思わない? なんか、これは叙述ミステリー
的なトリックがあるんじゃなかろうか」
「そういうのは、正しいとか間違っているとかどうでもよくて、契約上の問題なん
ですよ。井上さん、2年連続、宅建落ちたんですって?」
「忙しくって、勉強、出来ないんだよ」
「じゃあ、宅建の練習、っていうか、契約とは何かって感じですけど。いいです
か?
 設問。間違っているものを選びなさい。
 数字の3と4では4の方が大きい」
「ピンポン」
「だから、間違っている方を選べ、って言っているじゃないですか」
「あ、そっか」
「ジャンケンのグーとチョキではチョキの方が弱い」
 少し考えてから「ピンポン」
「間違っている方を選べ、つってんの」
「そっか」
「井上さん、目が点になってますよ。もう、永久に宅建、受からないよ」
 それからアイスコーヒーが運ばれてきたので、井上はガムシロップとクリームを
入れるとストローを差して、ぶくぶくぶくーっと空気を送り込んでかく拌した。
「ちょっと、井上さん。何やってんですか。他のお客さんが見ているじゃないです
か」と言われた。
 井上は頭をかきながらあたりを見渡したが、自分が何をやらかしたのだか、よく
分からなかった。
 それからカレーライスを食べ終わったら、香辛料のせいで血の巡りがよくなった
せいか、井上は鼻血を出した。しかしティッシュもハンカチも持っていなかったの
で、止むを得ず店の黄色いおしぼりを鼻に当てた。
 どんどん血を吸って、みるみる真っ赤になってしまった。
「そんなの置いていったら二度と来られなくなるから、帰りに表のゴミ箱に捨てて
行って下さいね」と女。
「そんな事をしたら泥棒になるじゃないか」
「井上さん、やっぱりちょっと違うのかなぁ」女は呟くように言った。


●26

 社に戻って、自分の机に戻った途端、他のOLが言ってきた。「井上さーん、斑
尾マンションの蛯原さんから電話。3番でーす」
 丸でお酢でも含んだような顔をしながら受話器を取り上げると保留になっている
ボタンを押した。
「井上ですけど」
「井上さん。AMの所長、死にましたよ」いきなりズバっと言った後、蛯原は、占
有部の風呂場で倒れていた、救急が搬送した、警察が来た、病院で死亡が確認され
た、死因は塩素ガスによる吐しゃ物を詰まらせて、等の顛末の詳細を言った。
「混ぜるな危険とかやったんじゃないんですか?」
「多分ね。でもまずいことが数点ありましてね。まず第一に鍵を開けたのはナルソ
ックなんですが、U字ロックが掛かっていて、それを開けたのがうちの斉木なんで
すよ」
「ああ、あの紐で開ける方法でしょ。あれって何かまずいんですか。あれをやんな
きゃ壊すしかないんでしょ」
「まぁそれはいいんですがね。警察が高橋さんとかを、疑っている様な」
「誰ですか、それ」
「AMの事務員ですけれども」
「それってうちに関係あるの。AMの社長とかに電話したんですか?」
「しましたけれどもね。申し訳ない事をしたって言ってましたよ。
 あそこは販売のモデルルームみたいなものだったでしょう。それを井上さんのご
好意で又借りしたのに、そんな所で人が死んだんじゃあ、もういわく付き物件だか
ら売れないかも知れないし」
「ちょっと待って下さいよ。別に僕が紹介した訳じゃないでしょう」
「ですから、ですから、AMから不動産屋に連絡してもいいんですが、そうすれば
不動産屋から施主に連絡が行って、施主から大通リビングに連絡が行くでしょう。
それよりかは井上さんから施主に連絡した方がいいかと思って」
 井上はメモに関係図を書いた。宅建でも民法の問題などでちょっと複雑になると
訳が分からなくなる。







施主・大和通商    斑尾マンション管理組合
↓      ?    ↓
(販売委託)  ?  (管理委託)
↓         ? ↓
不動産屋       大通リビング 井上
↓           ↓
(転貸)       (業務委託)
↓           ↓
AMの事務所     AMの蛯原以下。
   の所長が死亡。

 施主の大和通商というのは大通リビングの親会社だ。
 井上は奥の方で肘掛け付きチェアに座っている役員連中を見た。
 ああいうのはみんな親会社から出向していきている人間だ。
 蛯原の言う通り、不動産屋から施主、そこからあの役員の耳に入るのはまずい気
がする。自分からあそこに座っている役員にほうれん草すればそれで免責になる。
「分った。僕から上司に言ってみる」
「井上さん。来た方がいいと思いますよ。大和通商の営業なんて神出鬼没ですから
ね。何時来るか分からないですよ。その時にまだ管理会社が一回も来てないという
んじゃどうかと。明後日から又雪ですから、来るんだったら今日か明日ですよ」
 井上、スマホのスケジュールを見た。
 今日明日は時間を作れない事もないな、と思った。


● 27

「分かった分かった、とにかく上司に相談します」と言って受話器を置いた後、こ
れって飛んで火に入るなんやらじゃないのか、と思った。
 蛯原の言う通りにすると、何だか知らないが騒ぎに巻き込まれる。
 そう言えばつい先月もそうだった。
 まだ地震の前で、あの頃は居住者も大勢滞在していて、風呂もにぎわっていた頃
だった。
 蛯原が言った。「居住者様の意見として、風呂上りにビールを飲めないのは寂し
いっていうのがあるんですよ。休憩スペースの自販機にビールを入れればいいんじ
ゃないかと。
 それからあそこのスタジオ、あんなところ、誰も使っていないのだから、あそこ
でカラオケが出来たら、という意見も多いんです。
 だってマイクも大型スクリーンもあるのだから、カラオケDVDだけ買ってくれ
ばいいんでしょう?
 どうしてそのぐらいの事が出来ないのか。
 何で、設備の有効利用をしないのだろうって。
 ついでに麻雀も出来たらもっといい。そんな事は公団住宅の集会所でもやってい
る事じゃないですか。
 そうやってみんなが仲良くなれば、居住者同士の交流も広がって、結果、温泉利
用者も増える、共用部の赤字も解消できる。
 これは居住者にとっても管理会社にとっても、WIN・WINの話じゃないです
かね」
「そう言われてみれば、そうですね」
「そうでしょう。設備は全て揃っているんだから、それが金を産むならやらない手
はない」
 というんで、先月の理事会に提案したのだが、一部の理事から猛烈な吊し上げを
食った。
「あの蛯原っていうのはどういう男なんだ。
 あいつ、こう言ったんだぞ。
 ここには露天風呂もサウナもあるのに、垢すりとかないのは寂しいですね。タイ
式垢すりでも、南米人のボディーシャンプーでも入れて、休憩室でビールでも飲め
れば最高なのに。
 …それって、1階がパチンコ屋、2階がサウナみたいな店の話じゃないのか。
 そのタイ式垢すりだって、タイ式マッサージだのタイ式ヘルスだのに近い感じだ
ぞ。
 その上、カラオケだ麻雀だって。
 普通のファミリーが住んでいるマンションにそんなもの作ってどうする積もりだ。
 だいたい、カラオケだの雀荘だのっていうのは、繁華街にしか作っちゃいけない
んじゃないのか。
 あなたはそういうのの専門家だろ、宅建とか。教えてくれないか」と理事会で迫
られて焦った。
 確か一番土地柄の悪いところにキャバレー、ストリップ劇場があって、その周り
に雀荘、パチンコ屋、その周りにカラオケだったような。こんな都市計画法上の用
途規制なんて覚えていられない、とその時には思った。後で調べたら、そもそもあ
のリゾートマンションは都市計画区域外なので、そんな規制は無かったのだが、あ
の場で答えられなかったのはまずかったなぁ。


● 28

 井上は、スマホ片手に、上司である出牛取締役のデスクに行った。
「ジューシさん、斑尾のマンションで事故がありました」
 それから今朝からの顛末を簡単に述べた。
 マンション管理で管理会社が責任を問われるのは、共用部の設備に関して管理員
の不手際で起こった事故、例えばマンホールを開けっ放しで子供が落っこちたとか、
の場合だけなのだが。
「蛯原が、物件がいわく付きになるんじゃないか、とか言っているですが」
「そんなの関係ないよ。でも警察が動いているっていうのはどうなんだろう」と言
うと出牛は椅子を反対側に向けて窓際にいる山田を呼んだ。
 山田は推定年齢55歳の警察OBだ。
 大通リビングではこわーい人対策に、5年に一人の割合で警察OBを受け入れて
いる。
「実はね、斑尾で死亡事故があって、警察が」なんたらかんたらと今の説明をする。
 山田はオデコにぐにゅ〜っと皺を寄せて言った。「そりゃあ一応調書を作るんだ
ろうから、誰っかしら事情を聞かれるかもしんないけど、それがその蛯原とかいう
パートじゃまずいだろう。やっは井上君、行った方がいいんじゃないの?」
「それは、あっちの警察に行けって事ですか?」
「いや、まんず、事情を掴んでおいて、顛末書ぐらい持っていないとまずいんじゃ
ないの? 俺もついていってやろうか?」
「いや、いいです」反射的に井上は断った。
 山田の顔を見ていて思ったのだ。
 ああいう初老の凸っぱちっていうのは、若者を出汁にして自分が生きがいを感じ
るに違いないのだ。
『ロッキー』のマネージャーみたいに。もっともあれは映画の登場人物だが。
『空手キッド』のミヤギみたいに。あれも映画の登場人物だが。
 リアルだったら、エディ・タウンゼントやら、マラソンQちゃんの小出監督など
だ。絶対にそうだ。だいたい蛯原もその傾向があるんじゃないのか。
「私一人で行ってきますよ。まだ斑尾は寒いだろうし」
「じゃあ俺に頻繁に連絡しろ」


●29

 30分後、井上は既に松本行き『あずさ』の車中の人になっていた。
 自由席はがらがらだった。背もたれを思いっきり倒すと、スマホで現場の人員の
チェックをした。

木3月24日 管理員:蛯原、榎本 24時間:大沼 清掃員5名
金3月25日 管理員:蛯原、榎本 24時間:鮎川 清掃員5名
土3月26日 管理員:蛯原、榎本 24時間:斉木 清掃員5名
日3月27日 管理員:蛯原のみ。 24時間:大沼 清掃員午前のみ1名

 松本駅で『しなの』に乗り換え、長野駅で飯山線に乗り換え、そして飯山駅で下
車する。
 プリウスのタクシーに乗ってくねくねした峠を上って行く。
 3時ちょっと過ぎには斑尾マンションに到着した。
 タクシーから降りると蛯原が旅館の番頭みたいに出迎えていた。
「お疲れ様。カバン、お持ちしましょうか」
「いいですよ」
 すぐ脇で、業者がマンホールに塩ビの下水管を運び入れていた。
「何やっているんですか?」
「温泉の水が溢れてくるんですよ。工事部の指示でやっているんですけどね」
「へぇー」
 管理室に入ると、ちょうどフロント側から、清掃の山城が入って来た。肩に20
キロ入りの石灰の袋を担いでる。
 ドサッっとNTTの盤の前に降ろすと、「ボイラー室に置いといたんだが、大沼
がダメだって言うんだよ。ろ過器が錆びるからって」言うと山城は出て行った。
「こんなの買ったんだ」井上はコートをハンガーに掛けながら言った。ハンガーは
パーテーションに引っ掛ける。
 蛯原がキッチンコーナーでインスタントコーヒーを入れて持って来た。
「明後日から又大雪だっていうんで居住者の歩く所だけでもまいておけって、工事
部に言われたんですよ」
「色々大変なんだなぁ」
 井上は油圧式チェアに、蛯原はパイプ椅子に座った。
  二人はコーヒーをすする。
「なーに、冬には冬の事、春には春の事をすりゃあいいんですよ」
  言うと蛯原はカップを煽って、上目遣いで井上を見る。スリや置き引きがター
ゲットを決めた瞬間に見せる狂った意志が浮かび上がる。
「そもそも雪かきなんていうのは、清掃員の仕事には含まれないんですよね」と蛯
原は言った。「規約にも自然災害、土砂等は管理には含まれないって書いてあるし。
まぁ、そうは言っても、こんな雪山のリゾートホテルですってんころりんされたら、
井上さんがお縄になりかねない。だから皆も納得してやっているんですよ。ただ、
手足が冷えちゃって可哀想ですよね。
 実は、このマンションの西に農家があるんですが、ここが建ったら日当たりが悪
くなったと言って、豚小屋にストーブを入れたっていうんですよ。そういうのは清
掃員が外周掃除の時に見て来るんですけどね。それで清掃員がね、『あそこの豚小
屋にはストーブがあるのに、ここの更衣室には何にもない。俺たちゃ豚以下だ』っ
て言うんですよ。とりあえず今はボイラー室で休ませていますけれども、俺たちゃ
豚以下だ、って迫られると私も辛いものがありますよ」
「まあ、そう連呼しないで下さいよ。夏には、『俺たちゃゴミ以下だ』と言って、
スポットクーラーを買わせたじゃないですか」
 このマンションには24時間ゴミ出しOKの屋内ゴミ置き場があって、そこには
臭い防止の為エアコンが設置されていた。
「あの時にはまいりましたよ。理事会から居住者から私の上司にまで『俺たちゃゴ
ミ以下だ』を連呼されて」
「そんなタカリみたいに言われてもなぁ。実際に清掃の皆はシモヤケ作って作業し
てんだから。ストーブなんてたった1万なんですよ」
「じゃあいいですよ、買っても。領収証もらっておいて下さいよ」
 井上は1万ぐらい安い、と思ったのだった。外部の除雪業者に頼んだら1人1時
間で1万円とられる。




● 30

「もう一杯コーヒーを入れましょうか」蛯原が言った。
「いや、もういいですよ。館内巡回して来ますよ。顛末書を作りに来たんだから」
「じゃあ、案内しますよ」
「いやいや、コートとカバンを置いていきますから、見といて下さいよ」

 井上は管理キーを受け取ると、居住棟に入った。
 エレベーター、アルカトロズ風通路を経由してAMの玄関に行くと、アイホンを
押す。
「大通リビングの井上といいますが」
 ドアの隙間から高橋が不信そうな顔を覗かせた。
  しかし明子の顔には、みるみるトキメキの表情が現れた。
 実は、これこれこういう訳で、東京から参ったんですが、と井上が言うと、
「あー、そうですか、そうですか。少々お待ちを」とドアを一旦閉めた。
 所長のローファーを足払いで下駄箱の下に押し込むとスリッパを並べて玄関を開
ける。
「このたびは大変な事で」みたいな挨拶を取り交わした後「ちょっと現場を見てお
きたいんですが」と井上が言った。
「どうぞ、どうぞ」と軒下の仁義みたいなポーズで奥へ奥へと招き入れる。「コー
ヒーでも入れましょうか?」
「いや、今飲んで来たところだから」とトイレ前に立ち止まると、「ここがトイレ
ですか。ちょっと失礼して拝見しますよ」
「どうぞ」
「ここに入っている時に出掛けたんですね」
「ええ。じゃーっと流した後に」
「よく覚えていますね」
「ちょうど大沼さんから電話があったんです」
「うーむ。じゃあちょっと写真を。顛末書に添付しますんで」言うとスマホで一枚
撮る。
 そして洗面所を挟んで反対側の風呂場を開ける。「ここで倒れていたんですね。
怖くないですか?」
「霊感ゼロですから。グロ耐性もゼロなんですよ。井上さんはグロ耐性、ありそう
ですよね」
「どっちかって言うと、そういうのには鈍い方ですね」言いながら風呂場の中を見
回す。「パイプマンにカビキラーか。みんな塩素系ですね。あの桶は温浴施設ので
すよね」
「あれは、カビキラーの中身を清掃の人が持ってくるんですよ。桶に入れて。どっ
かに業務用のが大量にあるらしくて」
「ふーん」と言いながらスマホで一枚。
 洗面所を見渡して「あ、このスイッチは常にオンにしておいて下さいね」と言っ
て、洗面台の横のスイッチを入れた。「これは下水管の換気扇のだから、入れてお
かないと、嫌なニオイがしてきますから」
 それからリビングに移動した。
「ここ、結露、ひどくありません?」
「夜間だけあれを回しておくんですよ。結露しないように」と明子は除湿機を指し
た。
「コンセントのところにぶら下がっているのは何?」
「タイマーですよ。古いやつだから、タイマー内臓じゃないんですよ」
「へー」言いつつスマホで一枚撮影。
  それから奥の方を見て、「あっちが和室ですか。ちょっと失礼して」言うとス
リッパを脱いで上がり込む。窓のところまで行くと障子を開けた。「ゴミ集積場が
見下ろせるんですねえ」
「そうそう、今朝私が出かける時、ここに所長が立っているのが見えたんですよ
ね」
「えっ?」
「今朝、郵便局に用があって出掛けたんですけど、ゴミ集積場から望遠鏡で見たら、
ここで所長が手を振っていたんですよ」
「望遠鏡で?」
「ええ。清掃の人が持っていたやつなんですけど。てか清掃の人と一緒に見たん
だ」
「へー」といいつつ障子をしめて、何気にクローゼットの横の押入の取っ手に手を
かけたが、「ここまで見なくってもいいか」と呟いた。
「はぁ?」
「いえいえ。あ、そうだ。後で聞きたい事があるかも知れないんで、一応携帯の番
号教えて貰えます?」
「あー、全然いいですよ」というと明子は自分の携帯の番号を教えた。
 井上はすぐにその番号に発信すると「それが私の番号ですから」と言った。「じ
ゃあ私はこれで行きますんで」
「そうなんですか。何にもお構いしませんで」
 玄関に行くと井上は中腰になって人差し指で靴を履きながら、「これからぐるり
一周回って、顛末書作って、なるべく早い電車で帰りたい」と唸る様に言った。
 足腰強そう、と明子は思った。
「もしよかったら、私が送っていっても…。どうせ私飯山市内に帰るんです」
「へー、何時頃ですか?」
「だいたい6時頃ですけど」
「じゃあ時間が合えばお願いしようかな。とにかく行ってきますわ」
「行ってらっしゃい」
 井上が出て行くと、明子はべたっと魚眼レンズにへばりついた。井上の背中が見
えなくなると和室に走っていって、障子を数センチ開けて見た。
 丸で家猫が野良猫に発狂するかの様であった。



● 31

 マンションの一階まで非常階段で降りると、井上はサブエントランス脇のドアか
ら外に出た。
 駐車場の西側を回ってゴミ集積場に出る。
「ふむふむ。ここから所長が手を振るのが見えたんだな。今は西日が差しているか
らよく見えるけど、朝方は逆光になって見えないんじゃなかろうか。それに距離も
結構あるので、あれが所長だ、と特定できるのだろうか」思うと井上は、高橋に電
話した。
「もしもし。先程はどうも。ちょっとお願いがあるんですけれども。さっきの和室
からゴミ集積場に向かって手を振ってもらえませんかねぇ」
 言うと同時に4階事務所の障子が開いた。早っ、と思ったが、とにかくそれをス
マホに録画する。
 それから立体駐車場に入ると、ぐるりと反対側に回って、エレベーターで最上階
に行く。
 屋根のない屋上は、全面にグリーンのウレタンが敷いてある。
 辺りを見回しながらスロープの方向へ歩いて行く。
 スロープ手前で、はめ込み式の壁の隙間から西日が漏れているのに気が付いた。
近寄って押してみると、ぐらぐらしている。
  なんだろう、と井上は思った。
  何気に足元を見ると、妙な傷が、ウレタンに付いている。人間の指ぐらいの大
きさで生爪を剥がした様に見える。
  一回剥がしたものを接着剤か何かでくっつけたのだろうか。
  そういう傷が、スロープに差し掛かった所から、壁面に向かって、左側にカー
ブする様に、点々と付いていた。
  床掃除に使うポリッシャーで掃除をしようとしたら左にそれて、壁に激突した
とか。そんな事ぐらいしか思い付かなかった。後で工事部に確認してみよう。

 駐車場を一階まで歩いて降りる。
 ゴミ集積場の前を通って、西の後方入り口から入館した。
 ボイラー室のドアがあったので開けてみた。ろ過器2機、ボイラー2機が轟々と
音をたてて動いていた。コインランドリーの大型乾燥機が空のまま回っているかの
様である。
  その手前にプラスチックの段ボールシートを敷いて、毛布に包まって寝ている
人が居る。
  24時間管理員の大沼さんが仮眠中なのだろう、と思った。
 ボイラー室を後にすると、更にドアを一枚解錠して、共用部のトイレの前に出る。
隣の清掃員更衣室のドアが開け放ってあって、清掃員が談笑しているのが見えた。
  井上が首を突っ込むと、
「今日はもう、ぜーんぶ掃除が終わったんで、時間が余ったんですよ」と額田が言
った。
「いや、いいんですけど」言いながら清掃員の雁首を見回した。4人が扇型に座っ
て居て、要の位置に遠赤ストーブがあった。
「もう買って来たんですか」
「いやあ、どうも」
「もう、俺たちゃ豚以下なんて言わないで下さいよ」
「そんな事言いませんよ」ぶるぶるぶるーっと激しく鼻っ先で手の平を振る。
 それから井上は壁でチカチカしているクリスマスの飾りを指して「あれは、なん
ですか」と聞いた。
「ありゃあ去年のクリスマスからぶら下がっていたんですよ。ストーブと一緒にコ
ンセントを入れたんじゃないの」
「じゃあ、その冷蔵庫は?」
「これも蛯原さんが拾ってきて、ベンダー屋からコーラもらって冷やしているんで
すよ。1本飲みます」言うと冷蔵庫の扉に手を掛けた。
「いや結構です。それじゃあ、火の元にはくれぐれも注意して下さいね」と言って
出て行く。
 井上が出て行くと4人は小声で話した。
  このストーブは斉木君の仕込みが実を結んだのだろうか。自分らがボイラー室
で休む様になった段階で独裁者はハブにされた様なもんだろう。今度は大通リビン
グがストーブを買ってくれたんだから、これは錦の御旗なんだから、自分らはここ
で休まざるを得ない。そうなると今度は独裁者が出て行かざるを得ない。そうして
気が付くとコーラやクリスマスの飾りが飾ってある。これは斉木君によればネオリ
ベのやり口だっていう事だよ。
 再び井上が首を突っ込んできた。「そうだ。今朝、ゴミ集積場で、AMの高橋さ
んに望遠鏡を貸した人っています?」
「私だよ」と大石が言った。
「それ、ちょっと見せてもらえます?」
 言われて、大石はエプロンのポケットから取り出すと渡した。
「これで所長が見えたの?」
「そうよ」
「これ、借りていいですか?」
「やるよ。くれる」
「どうも」と言うとスーツのポケットにしまって、その場を後にした。

 フロントに戻ると、カウンターの中に蛯原が、エントランスの床の上に榎本が立
っていた。
「ストーブ、みんな喜んでいましたよ」と井上。
「そうでしょう」と蛯原。
「それじゃあ、2階を見てきます。今、誰か温泉入ってます?」
「本日の利用者、ゼロでーす」と榎本。
「井上さん、入って来たらいいじゃないですか。自分で首まで浸からないとお客さ
んの気持ちは分かりませんよ」
「でもタオルとか持っていないし」
「タオルだったらありますよ」言うと蛯原は管理室に入ってmyタオルを取って来
た。「はい、これ。冗談ですよ。ちゃんとこっちに綺麗なのがある」と白いタオル
を出す。
「おーっほほほほほ」榎本の笑い声がエントランスの天井にこだました。










#1074/1158 ●連載    *** コメント #1073 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:13  (323)
斑尾マンション殺人事件 7
★内容

● 32

 その頃、2階の休憩スペースでは、山城がソファーに座って、見るでもなくテレ
ビを眺めていた。
 くそー。と山城は思う。
 何で俺の居場所が無いんだ。ボイラー室には大沼が仮眠しているし、清掃員更衣
室では額田以下が時間を潰している。だいたいあいつらは俺の兵隊だったんじゃな
いか。
 テレビのチャンネルは地元のケーブルテレビ局だった。飯山の新幹線新駅が映し
出される。
 山城は、腕組みを解いて身を乗り出した。
 山城はあの近所に2ヘクタールの田んぼを持っていた。
 売れば億になるが売らない。米も売らない。みんな親戚に配る。皆にそう言って
やった事があった。それで皆、俺を妬んでいるのかも知れない、と山城は思った。
 いや、あいつらそれぞれ、土地を持っているものな。
 やっかむとしたら、24時間管理員の中年ぷーたろーどもだ。
 特に斉木だ。
 あいつは、飯山から更にバイクで20分も行った原野でアパート暮らしをしてい
る。
 ああいう、持たざる者は人民主義者の扇動家になったりするんじゃなかろうか。
 そういえば、先月の今頃もそういう事があった。
 AMの懇親会も兼ねて、飯山雪祭りを見物に行ったのだが、俺と斉木が、清掃員
と管理員をそれぞれ代表して、早い時間に行って場所取りをした。俺は行きの電車
の中で、ワンカップと柿ピーで一杯やっていた。
 そうしたら斉木が「こんなに混んでいるのに、目の前に子連れの妊婦が立ってい
るのに、つーっと飲んでんじゃねえよ。丸で朝マックの時間帯に、朝刊を広げる散
歩帰りの年金生活者みたいだ」とかなんとか言ってきやがった。
 俺の方が先に座っていたのに何で譲らないといけない、と俺は思った。
 それにあの女は、豊野駅で急行から乗り継いできたので、県外のよそ者なのだ。
 それが証拠に、ガキの鼻水を拭いたティッシュをそこらに捨てて行ったじゃない
か。
 それを拾って、俺はワンカップの空き瓶と一緒に捨てた。
 すると斉木が「携帯灰皿を持っているだけで迷惑かけていないと思っている勘違
いじじい」とか言ってきやがったな。いちいち。
 会場に着くと、雪中花火大会に備えて俺はビニールシートを広げて場所取りをし
た。
 夜になるとだんだん混んできて、押すな押すなになって来た。
 後から来た奴が羨ましそうに見ていたが、あれは、俺の畑の周りに住んでいる団
地族の視線だ。
 その内、子供を抱っこしていた母親が「すみません、ちょっとここに座ってもい
いですか? 気分が悪くなって」とかなんとか言ってきやがった。
 俺は言ってやった。「あんた甘いんだよ。こっちは昼間っからここで頑張ってい
るのに、今更のこのこ出て来て座れると思ったら大間違いだ」
 そうしたら斉木が「おーい、みんな、ここは誰の土地でもないんだぞー」と言っ
て、回りに居た群衆がざーっとなだれ込んできた。
 それでも、結局、あいつら、飲んだり食ったりしたものを片付けて行かない。最
後に俺が一人で掃除したんだ。
 山城は、ふーっと憤怒の鼻息を吐いた。
 テレビを見ると、飯山の緑の田んぼに、アパート、マンションが迫っているのが
分かる。
 丸で皇居に迫る雑居ビルじゃないか。あんな奴らに俺の田んぼを汚されてたまる
か。お堀でも掘りたいよな。
 ふと人の気配を感じて暖簾の方を見ると、スリーピースを着た長身の若者が、不
動産屋みたいな営業スマイルを浮かべながら迫ってくる。
「どうもー」と言いながら井上が斜め前のソファーに座った。
「もう今日の仕事は終わったよ」チャンネルを変えながら山城は言った。
 液晶画面に韓流スターが現れた。東方神起だと? 正月に紅白に出ていた奴らだ。
「あんたこういうのをどう思う」
「は?」
「大和撫子がこういうのにきゃーきゃーしていたら面白くないんじゃないのかね」
「さぁ」
「実は泉がそうなんだ」と山城は言った。
「イズミ?」
「清掃の泉だよ。あの馬鹿は、紅白にああいうのが出るのはいい事だと言う。ああ
いうのが出ればジャニーズが独占状態のダンスボーカルの世界にブレイクスルーが
起こるとかなんとか。
 泉の小理屈などどうでもいい。
 それに、俺はいけないって言っているんじゃないんだ。紅白に出る事はないだろ
う、って言ってんだ。
 俺だって、コレアンパブでマッコリ飲みながらトロットを聴く事もある。
 だけれども鎮守の祭りでアリラン流す事は無いだろう。
 そうだ、思い出した。
 あの時、泉に説教していたら、又又あの斉木がどっからか湧いて来やがったんだ。
 そして、俺はただ単に、大和撫子から戦艦大和を連想して、戦艦大和の主砲は東
京湾から駿河湾まで飛んだ、と言っただけなのに、あの野郎は、大和の主砲で大和
撫子の貞操を守ろうってか、とか絡んで来やがった。
 斉木はガキの頃、戦艦大和は世界最大級の戦艦であり、本当はもっとでっかい戦
艦を造れたんだけれども、ワシントン海軍軍縮条約で、米英日5対5対3って決め
られていたから、それ以上でっかいのは造れなかった、と学校で教わったと言う。
そして家に帰って『コンバット』を見ていたら、サンダース軍曹がダッダッダッダ
ッーっとドイツ人を撃って居たので、帝国軍人だったらそう簡単にはやられない、
と言ったら、奴の親父が、旧日本陸軍38式は一発ずつしか出ない、と言ったとい
う。
 斉木は言う。一発ずつしか出ない? は? どういう事? 一発ずつっきゃ出な
いんだったら、外れたらどうするんだよ。いきなり降伏かよ。そんなの聞かされた
ら、ワシントン海軍なんたら条約なんて、脳内条約だったんじゃないのってと思え
てくる。考えてみりゃあ、日本なんて帝国主義と関係ないものなあ…。
  そう言うんで、俺は、ただなんとなく、日本は大日本帝国だろう、と言ったん
だよ。
 そうしたら斉木が、
 まさかそれって、日本帝国と、モンゴル帝国とかローマ帝国を一緒に考えていな
いよねえ。まさか、俺、そんな馬鹿と話していた訳じゃないよね。ねえ。
 あの野郎、最初から挑発して俺を誑しこむ積もりで誘導していやがったんだ。
 俺は、かーっとして、
 この野郎、失礼な事いってんなよ。本当に憎らしいんだから。お前気をつけろよ、
みんな言ってるぞ、俺じゃなくてみんながお前んところに行くぞ、と怒鳴ってやっ
た。
 するとあの野郎、
 そんなに興奮する事ないじゃないですか。頭、つるっぱげになる歳なんだから、
とか言いやがって」
 山城は、東方神起など観るのも不愉快という風にチャンネルを変えた。
 今度はサッカー中継だった。
「キリンカップは原発事故を受けて中止となりました。本日は、1970年代、
ヨーロッパサッカーを代表する、カイザー・ベッケンバウワー、ボンバー・ミュー
ラー全盛時代のドイツと南米サッカーの歴史をダイジェストでご覧頂きます。解説
は元日本代表の夜露死苦・アルマンドさんとホセ・愛羅武勇さんです。お二方、ど
うぞよろしく」
「サッカーは点取りゲームかね、それとも陣取りゲームかね」突然山城が井上に言
った。
「うーん。ドイツサッカーなんて、セットプレーで陣取りゲームっぽいですよね。
南米サッカーはコンビネーションプレーで点取りゲーム的かな」
「そうだよなあ。前にワールドカップを見ていたんだよ、蛯原と。勿論休憩時間中
にね。そうしたら、セットプレーに終始して、全然シュートを打たないんで、撃
てー撃てーッって言っていたんだよ。そうしたら又又どこかから斉木が湧いてきて、
絡んできやがる。
 まったくこいつらサッカーというよりかは競馬やボートでも観ている感じだな、
まくれー、まくれー、みたいな。まぁ、サッカーよりかはボクシングが似合いだけ
どな。それもファイティング原田とかジョー・フレージャーみたいに、ひたすら攻
めて行くタイプのがいいんじゃね。しかし、ああいうファイターっていうのは何で
凸っぱちで手足が短いんだろうか。それにしても、日本のサッカーって、どうして
相手がどんなんであろうとも、セットプレーを繰り返すんだろうねぇ。いくらサム
ライ日本つっても、元寇相手に、一騎打ちを臨む鎌倉武士じゃないんだから…
 とかなんとか言い出して、それから又、コンバットがどうの言い出したな。
 本当はサッカーっていうのは、『コンバット』の要塞攻めみたいなもので、足の
速いケリーはあそこの切り株まで走れ、リトルジョンは左の茂みから回りこめ、
カービーは後ろから援護しろ、みたいに、相手に応じて変わるし、仲間は有機的に
繋がっているって感じなんだけれども、日本のサッカーって、ひきこもりの詰め将
棋みたいな感じだな、
  とか何とかなんとか言っていた。
 とにかく俺は、そんな事言ったって、突っ込まないと点を取れないじゃないかっ
て言ったんだよ。そうしたら、
 もしかして、サッカーの事、点取りゲームだと思っていない? あれは陣取り
ゲームなんだよ。だからオフサイドがある。陣地を確保するまでは撃てないんだよ。
まさか知っていたよね。それを知らないんじゃあ、アウェイで日の丸振っている馬
鹿と同じだよ。
 又、こいつは最初から俺を誑しこむ積もりでいたんだな。
 それでかーっとして、
 どうしてお前は、そういう食ったこと言ってくるんだ。最初からおちょくる積も
りで言ってんだろう。一丁スポーツでもするか、表でるか、と怒鳴った。
 そうしたら、
 そんなに吠えないで下さいよ、犬みたいに、と斉木は又又嫌味を言う」
 山城は鼻の穴全開にして、鼻息を荒げている。
「斉木さんの言っている事は適当じゃあありませんね」井上が言った。「『コンバ
ット』の要塞攻めはコンビネーションプレーでも陣取りゲームだったんですよ。そ
もそも、ノルマンディー上陸作戦自体、オフサイドみたいな作戦だったから、アウ
ェイで戦うんだから、コンビネーションプレーをするしかなかったんですが。なん
でそんな事をしていたかっていうと、ソ連と陣取りゲームをしていたからなんです
よ。あれを点取りゲームとは言えませんね」
 何を言っているんだこいつは、と山城は思った。『朝までテレビ』の軍事評論家
の様な奴だ。
  俺は、ノンルマンディー上陸作戦などどうでもいいんだよ。
  そんな事より俺の田畑を守らないと、あのすばしっこいイタチから。まだ早春
だというのに、地震の影響か、ぼちぼち出てきているのだ。あんなの竹やりで突っ
ついても本当に鎌倉武士みたいなものだ。強力な薬品で、一気に駆除してやる。そ
んで、みんな隣の養鶏場に追いやってやる。あそこは、東京から来た奴がペルー人
を使って経営しているから、イタチがペルー人を食ってしまえば、一粒で2度美味
しいじゃないか。そうだ。今夜まいてやる。大々的に。
 そう思うと、山城は腰を上げた。



●33

 30分後、茹だった体にYシャツ、ノーネクタイという格好で井上は戻ってきた。
 管理室の中では、大沼が暇そうに回転椅子を揺らしていた。
「これから朝までこうしているんですか?」
「しょうがないやろ。出前でもとる?」
「そういえば、腹減ったなぁ」
「そば? 中華?」
「そばの方が温泉っぽいですよね」
「じゃあ長寿庵や」言うと引き出しから品書きを出した。「わしゃ、カツ丼や」
「じゃあ僕は」と品書きを見ながら。「カツ丼と天ぷらそば」
「食うねえ。若いから」言うと、管理室の電話で蕎麦屋に電話する。
 フロント側の入り口から私服に着替えた榎本が入って来た。
「帰りまーす」と言いながらホワイトボード横のタイムカードで打刻するとそのま
ま出て行った。
「あの人、足はあるんですかね」
「旦那が迎えにきとるんやろ」
「へー」
 すぐに蛯原も現れる。「じゃあ、私も帰りますんで」
「帰るんだ」
「何か?」
「別にいいですけど。足は?」
「私はバイクで通っているんですよ」
 蛯原もジーっと打刻した。

 同じ頃、4階の事務所で高橋もタイムカードを押したところだった。
 玄関に施錠すると、通路、エレベーターの順番で降りて行った。
 共用棟に移るとエントランスは既に真っ暗だった。
  管理室の扉が開け放たれていて、光が漏れて来ている。
 その中に入りつつ「帰りますけど」と言った。
 回転椅子の大沼と、パイプ椅子の井上が同時にこっちを向いた。
 何だ、あの頭の形は、と明子は思った。丸で、星野一義と鈴木亜久里ではないか。
ヘルメット取っても又ヘルメットって感じ。そういえば、セナもプロストもああい
う感じだった。やっぱりメカに強い人はああいう頭の格好をしているのだろうか。
「なに、見とるんや」大沼が言った。
「私、帰りますけど、井上さん、乗っていかないんですか?」
「出前、頼んじゃなったんですよ」
「泊まってったらええやん」
「しかし…」
「今から東京、帰んのんか」
 確かに言われてみるとすごいかったるく感じがした。
「スタジオで寝ればいいんや。静かやでー」
「奥さん待っているんじゃないですか?」
「え、僕って、そんなに所帯じみて見えます?」
「一人もんや。泊まってったらいいんよ。なんだったら街にでも繰り出して。冗談、
冗談」と笑う。
「じゃあ、僕、泊まってきます」
「じゃあ、私、帰ります」
  と2人を見ていて、大沼はボンドという台詞を思い出した。
  そうだ、試してみようという悪戯心が起こった。
  大沼に近寄ると、明子は「お疲れさま」と言って肩に手を置いた。
  瞬間、ブルース・リー風にあちゃーっと唸って払ってきた。
「なんの真似?」驚いて手を引っ込める。
「いや、一応、一回は一回って事で」
 信じられないと明子は思った。こいつら大人かよ。こういうのが世の中に20%
もいるのか。
 とにかく、そのまま退場したのであったが。


● 34

 2人は出前を食べ終わると、2階の自販機で買ってきた緑茶を飲んだ。
「そう言や、井上さん、顛末書の下書きって出来たの?」
「それはですねえ」
  井上はポケットからスマホを出すと擦った。「こんな感じですよ。今朝の高橋
さんの行動を振り返ると、まず所長が便所で水を流した直後に出掛けて、この管理
室を通過して、ゴミ集積場でみんなと一緒に所長に手を振って、車を出して、大沼
さんを迎えに行って、帰って来て下ろして、駐車場に車を戻して、そして4階事務
所の玄関前から管理室へ電話した、と。以上をホワイトボートに書きますと」言う
と井上は書いた。

8 : 10 大沼から着信
8 : 15 エントランスに高橋、現れる
8 : 20 ゴミ集積場に高橋。所長に手を振る
8 : 25 高橋出発。
8 : 45 高橋帰ってくる。
空白の30分超。
9 : 20 4階より管理室に電話。

 そしてパイプ椅子に戻った。
「この大沼さんから電話っていうのは証明できますか?」
「できるで」大沼は携帯を開いて発信記録を見せた。
「その次の、エントランスに現れるっていうのは防犯カメラに写っていますか?」
 大沼が監視カメラのビデオを巻き戻して時間をチェックすると、確かにその時間
に高橋はエントランスに現れていた。
「じゃあ、8時25分にここを出て45分に戻って来られますかねえ?」
「わしが一緒やったからなあ」
「マンションに帰って来てから、4階の事務所に戻って管理室に電話をするまでが
30分以上もありますよね」
「便所に入ってたんやろ。更衣室の隣の共用部の便所に」
「それはカメラに写っているんですか?」
 またまた大沼が再生して確認する。
「写っとるよ」
「そうすると時間は正しいとして。私の大胆な推理はこうです。所長は便所で死亡
した。トリックは、便所の水溜りにサンポールか何かの酸性の液体を入れておいて、
ウォシュレットのノズルの中に塩素系の液体を入れておく。そしてケツを洗った瞬
間に混ざって塩素ガスが発生する」
「だけれども流した音はしたんやろ。それで流れて証拠隠滅になるかも知らんが、
流したのは本人やから生きていたちゅー事やろ」
「じゃあ、ウォシュレットじゃなくて、便所の水溜りに酸性のもの、タンクの中に
塩素のものを入れておいて、流した瞬間にガス発生、っていうのはあり得るかな
ぁ」
「苦しいなあ。じゃあ仮にそこで死んだとしてやな、その後、望遠鏡で見とるやろ。
大石さんと一緒に。手ぇ振って。それはどう説明するんや」
「今日、ここに来る時、プリウスのタクシーに乗ったんですよ。そうしたら、フロ
ントウィンドウにメーターだのナビだのが映るんですよね」
「なんの話や」
「いや、それで思い付いたんですけど。こうやって予め所長が手を振っているシー
ンを撮影しておいて」言うと、スマホのカムレコーダーを再生して大沼に見せた。
事務所の窓からゴミ集積場に向かって手を振る高橋が映っている。そして井上は望
遠鏡を取り出すと、スマホのディスプレイにくっつけて大沼に覗かせた。「こうや
って、朝のゴミ置き場で大石さんに覗かせれば、あたかも所長が和室から手を振っ
ているように見えないですかねえ」
「ほー」
「まだあるんですよ。実は、高橋さんは、自分が出かけている間に所長が発見され
るように仕組んで行ったんじゃないかと思って」
「どうやって」
「便所で所長が死ぬでしょう。その後高橋さんが所長を風呂場に引きずって行くん
ですよ。洗面所を挟んで隣だから短時間で出来るでしょう。
 そして、自分が出かける時に玄関の鍵を120度ロックして警戒
定するんですよ。
 こうしておいて、高橋さんが市内に行っている間に警報がなってナルソックでも
来てくれれば、アリバイが成立するじゃないですか。
 じゃあ、どうやって警報を鳴らすか、っていうと、これですよ」
  言うとスマホのカメラで撮った除湿機を表示して見せた。「そのコンセントに
タイマーがぶら下がってますよね。それ、8:30にセットしてあったんですよ。
それが夜間なのか朝なのか分からないけれども、朝だとしたら…。その除湿機を見
て下さいよ。吹き出し口の所にリボンがついているでしょう、電気屋に展示してあ
るみたいに。そうすると、8:30になって、除湿機が動き出すと、リボンが舞っ
て、センサーが感知して、警報が鳴ると。ところが作動しなかった。何故なら、そ
のタイマー、50Hzなんですよ。AMの元の事務所って飯山市内にあったんです
よね。あそこって、東北電力だから50Hzなんですよ。ところが斑尾はこんなに
近いのに中部電力だから60Hzなんですよ。それで作動しなかったんじゃないか
と」
「そんなアホな」大沼は笑った。「そんな芸の細かい事、する訳ないやろ。仮に上
手く行ったって、ネタがみーんな残っとるやないか。そんな事せんでもわしやった
らなあ」大沼は自説を語り出した。「あの部屋、下水管の換気扇のスイッチ、切っ
てあったやろ。だいたい引っ越してきて2、3週間はみーんな気付かないんやけど
な。
 そんでな、ここのマンション、安普請やから便器がI社なんよ。世の中の大部分
はT社やろ。T社のは大の時には手前にレバーを引くんや。そやけど、I社は逆な
んや。そうすると大でも小しか流さんやろ。そうするとS字のところで詰まるんや。
しかも換気扇のスイッチが入っていないから、ニオイが逆流してきよる。そういう
クレームが何十件もあったんや。そんで、ニオイが入ってくるっちゅー事は、塩素
ガスも入って来るってことやろ。
 でな、あの事務所の上の階も下の階も空き室なんよ。だから、下の階で下水管に
詰め物してやなあ、上の階からまず塩化カルシウムでも入れて、それからサンポー
ルでも入れてやれば、事務所ん中に塩素ガスがたちこめるやろ。そんで、あとで詰
め物を外せば密室犯罪や。どや」
「可能かも知れませんね。まず下の階の下水管に詰め物をしておく。それからター
ゲットの部屋の水道の元栓を止めてしまう。そうすれば便所の水を流した後、S字
の箇所に水が溜まりませんからね。そこで上の階から塩素と酸を下水管に流し込む。
塩素ガスが発生してターゲットの部屋にたちこめる。ミッションが終了したら、下
の階の詰め物を外す」
「そやな。それで出来るかも知れんな」
 ラクダ頭の二人は密室トリックについて夜遅くまで語っていた。









#1075/1158 ●連載    *** コメント #1074 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:14  (398)
斑尾マンション殺人事件 8
★内容

 35


 その頃、そこから10数キロ離れた信州中野駅の出口の柱に、斉木は寄り掛かっ
て立っていた。
 化繊ダウンのフードを被って、『Can't Buy Me Love』を口ずさみながら。
  can't by meだと思っていがcan't buy meなんだな、と斉木は思った。
  ポールは何時でも他人の事を歌う、とジョンは言うが、ちゃんと環境の中で感
じて歌っている気がする。具体的な環境の中に自分が居て、相手が居て、インター
フェースは金じゃあダメ、と。ジョンの場合、自分の事を歌うと言っても、環境と
は無関係な脳内自己だからなぁ。なんだか商品に興味の無いセールスマンと話しを
しているみたいだ。
 そんな事を考えていたら、いきなり尻の肉をつねられた。
 斉木が振り返ると、カミーラが笑っていた。飯山駅で大沼に抱き付いていた日系
人だ。
 女が頬を突き出して来るので、斉木は一応チュっとやった。

 歩道を横切ると、すぐにタクシーに乗った。
 後部座席で、カミーラは財布からCDのチラシの切れ端を出した。
 小さく折り畳んであって、端っこは擦り切れていた。
  こんなもの後生大事に持ち歩いているんじゃあ本当に欲しいCDなんだろう、
と斉木は思った。
「TSUTAYAに行けばあるかも知れないよ、ラテンのCDも」
  言うとカミーラの横顔を見る。額から鼻のラインが真っ直ぐだった。
  ローマ人の末裔だね、と思う。コインに彫ってあってもおかしくないよ。
  彼女は日系人だが、色々混血していた。インディアだの西洋人だの。
 こんな女が大沼にアモルを感じている訳はない、と斉木は思っていた。
  だいたいそんなに日本語を喋れる訳じゃないので、コミュニケーションが取れ
ないだろう。ただ単に携帯をくれたり、送金したりしてくれるから、便利だから付
き合っているだけだろう。
  しかし、しばらく観察していると、これってアモルがあるんじゃないのか、と
思える場面に遭遇する事があった。例えば、何か美味しいものを口にすると、「美
味しい」と喜んで、同じスプーンで大沼の口に運ぶとか。ガムが一枚あったので大
沼が何の気なしに口に放り込んだら「どうして自分に半分残しておかない」と本気
で怒るとか。ただの便利屋だったら、そんな事するだろうか。
 斉木は、自分はローマ人の末裔に愛される訳がない、と決め付けていた。しかし、
大沼が愛されているのを見ると、あんなのは元設備屋のおっさんだろう、という事
はカミーラなんて設備屋の女じゃないか、だったら俺の方が…と思えてくるであっ
た。
  これってきっと、クラプトンが、芋ジョージに比べりゃぁ…とパティを寝取っ
たのと同じだろう、と斉木は思った。
「何、考えている」カミーラが言った。
「あぁ、あそこの店は大きいけど、でも、田舎だから無いかも知れない」
「そうしたらあなたがインターネットで買ってくれればいい」
「大沼に頼めばいい」
 カミーラは自分の肘をとんとんと叩いて「タカニョ」と言った。
 これはケチ、という意味だ。
  彼女らの生業は養鶏場の労働者だが、小遣い稼ぎに売春もしていた。潰れた映
画館の、コの字になった廊下の左右の喫煙所に布団を敷いて、一発5千円で客をと
っていた。入り口の売店横の喫煙所が置屋みたいになっていて、テーブルの上には
ウィスキーだのペットの天然水だのが置いてあった。一杯やりながら女の品定めを
するのだ。女は4、5人居た。
  ある時女がコップに紙ナプキンを被せて100円玉を乗せて、火の付いたタバ
コで穴を開けるゲームをやろうと言ってきた。
「私が負けたらキスしてあげる。あなたが負けたら千円頂戴」
「何で俺が金を払わなきゃいけないの?」斉木は真顔で言った。
  女が「タカニョ」と言って肘を叩いてきた。
 しかし斉木は、ここで鼻の下を伸ばしてそんなゲームをやったら本当に馬鹿にさ
れるだけだと知っていた。
 こいつらの前ではおまんこ泥棒に徹するべきなのだ。それでこそ一目おかれる。
マラドーナの神の手みたいなのが尊敬されるのだ。映画館では5千円は払うのだが、
あれは入店料みたいなものだ。チップを払った訳じゃない。店外デートでただまん
を決めればおまんこ泥棒は成立するのだ。Can't Buy Me Loveだ。
「これ、素敵だな」斉木はカミーラのピーコートを摘んだ。「大沼が買ってくれた
の?」
「そう」
「その方がずっといいよ。それだったら普通の留学生に見えなくもない」
 もし今夜あの立ちん坊みたいな格好で来られたらどうしようかと思っていたのだ。
 ところが留学生という意味がわからずカミーラは眉間に皺を寄せた。
「スチューデント」と斉木が言う。
 ああ、と言って彼女はにこーっと笑った。
 その表情の表れ方が、スルメを網に乗っけたぐらいの勢いだったので、表情があ
るよなぁ、と思った。これだったら西洋人からしてみれば日本人なんてアルカイッ
クもいいところだろう。
 斉木は前を向いた。
 何の積もりかカミーラが斉木の腕を抱えて身を寄せてきた。
 コートの上からでも胸の膨らみが分かる。
 ちんぽがぴくぴくっと反応した。
 CDの2、3枚も買ってやりゃあ、俺のアパートに来るかも知れない。待て待て。
そんなことして何になる。八百屋の姉ちゃんに余った野菜を貰う様なものじゃない
か。そんな事するぐらいだったらおまんこ泥棒に徹した方がいいのだ。CDは自分
で買わせて、どさくさにまぎれて一発やってやる。

 ビルに入るとエスカレーターに乗った。
  吹き抜けの向こう側の店が、年度末の決算セールとかで、キラキラと飾り付け
されていた。カミーラの目もきらきらしてきた。
 こりゃあ気を付けないとやばいぞ、と斉木は思った。
 エスカレーターを乗り継ぐ時にワゴンセールをやっていて、ちょっと油断をした
隙に、「あそこに風船が浮かんでいる」と言ってカミーラはワゴンに吸い寄せられ
て行った。
 「ちょっと、みるみる」と言って見る。ミロだのミレだのはスペイン語でも『見
る』だ。
 ワゴンの靴を取り上げて、頬ずりすると、「ああ、柔らかい。こんなにソフトな
靴はペルーには無い。お母さんが履いたらベリー・グー」
 斉木は用心した。この先は「でもまだサラリーない。あなた助ける出来ます
か?」となるんだろう。そして買ってやると、レシートも寄こせという。そして養
鶏場で誰かに転売だ。
 そうなる前に、斉木はワゴンから彼女を引き離した。
「ああいうのはみんな4月になれば半値になる。そうしたら大沼に買って貰え」
 こうやってけん制して、マラドーナが肘でけん制しながら5人抜きをするように、
タカニョの肘でけん制しながらただまんにゴールしてやる。

 TSUTAYAには南米のサルサは無かった。それどころか、ラテンのコーナー
すら無く、ワールドミュージックのコーナーに、グロリア・エステファンだのリッ
キー・マーティンだの、超ポピュラーな物が10数枚並んでいるだけった。
 それでもカミーラはしゃがみ込むと、CDの背中をなぞってみたり、唇をつまん
で考えたりしていた。
 何を考えているんだろう、と斉木は思った。養鶏場で転売できる商品はないかな
ぁ、この機会を逃したら次は何時たかれるか分からない、とか?
「無理して買わなくもいいよ」斉木はフランクに言った。「あなたの欲しい曲はイ
ンターネットでダウンロードしてきてあげるよ。その代わりその金でステーキを食
べよう」
「ステーキ?」
「そうだよ。こんなに大きなステーキが1500円なんだ。サラダバーもついてい
る。ビールも」
「ふーん」と言うとカミーラは唾を飲み込んだ。
 斉木は、カミーラの脇の下に手を突っ込んで引っ張り上げると、そのまま売場の
外に引きずり出した。
 ところが、すれ違いに田舎っ臭い男女が、入って来た。
 サルサがどうの言っている。
「あいつら、サルサなんて聴くんだろうか」と斉木は思った。
 目で追って行くと、さっき自分らが見ていた棚を見ている。
 突然斉木は、「やっぱりここまでのタクシー代を考えると、何も買わないで帰る
のは馬鹿馬鹿しい」と言い出した。
 カミーラを引っ張って行って、そいつらの横に並んだ。
  田舎者は「エステファンっていうのは亡命キューバ人を売りにしているんだよ
ねぇ。本当のクーバって言うのはブエナビスタみたいな、ソンみたいな」等々、村
上龍あたりのイベントで仕入れてきた様なネタを話していた。
「こんな所にロクなCDは一枚も無い」突然でかい声で斉木は言った。「甲府まで
行けば、養鶏場で鶏の首を落としているペルー人が沢山居て、そいつらのイベント
に行けばフェンテスのアナログ版をコピーしたのとかが手に入る」と、大沼から仕
入れたネタを、スペイン語混じりの日本語で、まくしたてた。
 その余りのテンションの高さに圧倒されて、田舎者達は退散してしまった。
 そして、対象が居なくなると斉木も白けたのだ。
 斉木は思う、「自分はジョン型だと思っていたが、てんかん気質の衝動みたいな
のも多少入っているじゃなかろうか」と。

 通りに出ると「あそこのビルにステーキハウスがある」と向いのビルを指した。
 その屋上のボーリングのピンを見て、「あれはなに?」とカミーラが聞いた。
「ああ、あれは」と脳内で説明の文章を組み立てようとしたが、なかなか上手く行
かない。
 百聞は一見にしかずだ。そう思うと斉木はカミーラの手を引いて、向いのビルに
入った。
 2階のボーリング場フロアに行くと、ボールの棚の所から、レーンを見る。
 若い男女4人組がボールを投げていた。
 斉木自身、ボーリング場に足を踏み入れるのは10数年振りだった。
 ボールがレーンを滑っていく音や、ピンの砕ける音が迫力があって、全く贅沢な
遊びをしていやがるなぁと感じた。
「あなた、これやった事ある?」カミーラが言った。
「当たり前じゃん」
「だったら私、やってみたい」
「おお、いいよ」
 フロントに行って、申し込みをすると靴を借りた。
 ボールを選びながら斉木は、スコアの計算方法を思い出していた。
 スペアだったら次のを足して、ストライクだったら2つ先まで足すんだったっけ。
 しかし、指定されたレーンに行ってみると、昔は自分で書いたものがプロジェク
ターで映し出されていたのだが、今や、ボールを投げると自動的に計算されてディ
スプレイに表示される様になっている。
 こりゃあ進化している。丸で懲役15年で出て来た奴がパチンコだの公衆電話だ
のの進化ぶりに目を白黒させる様なものなんじゃないのか。
 しかしそんな驚きはおくびにも出さず、「ボールを投げるとあそこに数字が出る。
2回で全部倒せばスペア。スペアだと…」とルールを説明してやった。「さあやっ
てみな」
 しかしカミーラはボールを抱えて、レーンの端まで歩いて行くと、その場にぼと
んと落とすだけ。後はレーンの傾斜でよろよろと転がって行き、ガーターになるだ
けだった。

 ステーキハウスでメニューを見ながら「これ、スパイシー?」とカミーラは聞い
た。
「スカイシーなのは苦手なの?」
「私はスパイシーなのは嫌いだよ」
 何故スパイシーなのが嫌いかというと、昔、ヨーロッパ人は武器をアフリカに運
んで奴隷狩りをし、奴隷を南米に運んで胡椒栽培をし、そして胡椒をヨーロッパに
持ち帰るという三角貿易をしたから、と日西英ごちゃまぜで言った。
 それは胡椒栽培じゃなくて綿花の栽培じゃないのか、思ったが。とにかくそれっ
て、豊かな商品をカミーラに見せびらかして、カミーラを田舎者に見せびらかして、
田舎者の疎外感を見て自分が喜ぶ、という三角貿易を皮肉っているのか、と思った
が、そんなに難しい事を考えられるわけないだろう。
 スパイシーではないステーキが運ばれて来ると、カミーラはそれを頬ばった。
 彼女を見ていて斉木は思う。さっきこの女を田舎者に見せびらかしたのは、ジョ
ン・レノンがジュリエット・グレコのそっくりさん、それがオノ・ヨーコだと思う
のだが、それを大衆に見せびらかした様なものだろう。でも、そんな事したって、
全く当事者感覚に欠ける。
  じゃあ何で、大沼はカミーラの当事者だって思えるんだろう。
「大沼って何なんだよ」
「恋人だよ」カミーラはあっさり言った。
  斉木はびっくりした。
「そんなわけないだろう。あいつは映画館で金を払ってお前を買っていたんだぜ」
「それはあなたも同じ」言うとジッと見据えた。
 この女、ここでそんな事を言うか、と斉木は思った。
 今は俺と居るんだから、大沼の事は棚上げにしておけばいいじゃないか。やっぱ
り、こいつもガムテープなんだな。ガムテープ同士でべっとりくっつけ。
「大沼は、タバコが好きでしょう」斉木が言った。「だから胸が悪い。後でサンタ
マリアかも知れない」サンタマリアとは死ぬという意味だ。「彼がサンタマリアに
なったらお金が入るでしょう。でも、日本人がいないとペルーにお金を持って帰れ
ないでしょう。どうする?」
「あなたが助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」

  養鶏場のアパートは、新幹線新駅の近くにあった。
  近所までタクシーで行くと斉木も一緒に降りた。
  舗装された農道を歩いていると、「アパートまで付いてくる気?」とカミーラ
が言った。
「俺のアパートはここから20分ぐらい離れているんだよ。タクシーで帰る気がし
ないから、朝までバスを待っているよ」
「こんなに寒いのに?」
「しょうがないだろう」
  それから2人は農道を歩いた。
  左手には田んぼ、右手には雑木林があった。真っ直ぐ行けば養鶏場がある筈だ
が、まだ距離があるので、飼料や糞のニオイはしてこない。空気が湿っているから
漂って来ないのかも知れない。
  湿った空気が空中で凍ってしまいそうな冷え込みだった。50メートルおきに
外灯があって光のワッカを作っていた。
  歩きながら斉木はカミーラの顔をチラ見した。これだけ寒いのに、マフラーに
包まれた顔は紅潮している。さっき食ったステーキが血になって体中を巡っている
んだろう。脇の下やおっぱいにも汗をかいるんじゃなかろうか。今ひん剥いてやっ
たら、湯気を立てるんじゃなかろうか。肛門の皺や、膣液に濡れた陰毛が目に浮か
ぶ。
「しょうがないから泊まって行ってもいいよ」彼女が言った。「でも私の部屋には
お姉さんが居るから、社長の部屋で寝ればいいよ。あそこは倉庫になっているか
ら」

  アパートの社長の部屋に入ると斉木は周りを見回した。
  倉庫といっても普通のワンルームでユニットバスもある。
  ここで一発やれる、と思った。
  壁に熊やらキツネの毛皮がぶら下がっていて、部屋の隅には猟銃が立て掛けて
あった。
「あれ、使えんの?」
「イタチを追っ払うんだよ」
「あんな所に放置しておいていいの?」
「何本もある」
 カミーラは一度部屋から出て行って、しばらくすると紅茶を入れて持ってきた。
それにたっぷりとブランデーを入れて飲んだ。
  斉木が「俺はT(tea)も好きだけれどもU(you)の方がもっと好きな
んだぜ」と言った。
「でも、I(愛)よりHが先だと順番が逆だね」
「でも、やって好きになるって事もあるだろう」と言いながらにじりよる。
「分かった、やるよ」とカミーラは言った。
 斉木は黙って服と下着を脱いだ。
「結構太いね。根元のところの絆創膏から血が出ている」とカミーラは言った。
 その太いのをずらすとカミーラは絆創膏をチェックした。
 斉木は痛さで少し顔を歪めた。そして言った。「安心しろよ。人にうつったりす
る病気じゃないから」
「でもシャワー、浴びてきて」
 斉木はユニットバスに入ると、シャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血
した。
  シャワーから出てくると彼女の姿はなかった。
  体を拭きながら待っていると、ドアが押し開けられた。
  隙間から銃身が差し込まれる。構えている奴の顔は見えなかった。
「こっちに向けるな」と斉木が言った。
 しかしそのままズドンと火を吹いた。
  驚いて身をよじると、胸からどくどくと血が流れ出した。
  斉木は衣服を小脇に抱えると、ベランダに飛び出た。そこにあったサンダルを
突っ掛けると、手すりを乗り越えて、雑木林の中に入った。
  10数分歩いて、農道に出たところで、斉木は失神した。


●36

 翌朝、高橋明子は、マンションに向かう車の中でカーラジオを聞いていた。
  ニュース解説の評論家が興奮しながら喋っていた。
「いっくらねえ、原子炉が十数センチの鋳物で出来ていようと、そっから出ている
配管なんて、原発プラントというよりは、そこいらの水道屋の技術なんだから。そ
こらへんの継ぎ目から、放射線を含んだ湯気がしゅーしゅー漏れていても不思議は
ないんですよ。NYの冬場の景色を思い出して下さいよ。道路のあちこちから水蒸
気がもくもくと漏れてきているでしょう。あれはねぇ、NYの高層ビルにセントラ
ルヒーティングの熱湯を供給している会社があるんだが、その配管があっちこちで
ひび割れていて、それで漏れてきているんですよ。それと同じ技術でスリーマイル
の原子炉を冷やしているんだから、チャイナシンドロームが起こらない訳がないん
ですよ」
『チャイナシンドローム』のジャック・レモンは凸っぱちで蛯原に重なる。
 そう言えば蛯原も、ボイラー室の配管から水が漏れている、と所長に言っていた。
「いっくら大通リビングの工事部に連絡しても動かざること岩の如しなんですよ」
「いいんだよ、そんなの放っておけば。たとえ浴槽の底が抜けて理事長が素っ裸で
落っこちて来ようと、工事部にほうれん草した段階でAMとしては免責」と所長が
言っていた。
 そうなんだ、と明子は思ったものだ。
 いくらマンションの施工や管理がずさんでも、自分の属している会社だけはちゃ
んとしているのだ、と。
 ところがその所長が死んで24時間も経つっていうのに、何の指示も無い。こっ
ちから電話すればいいのだが、そうするまで何も言ってこないというのも不安だ。
 斉木あたりが、残業代がどうとか言ってきたらどうすればいいんだろう。まぁそ
の段階で連絡すればいいのだが。
 …てな事を考えている内にジムニーはマンションに到着した。
 自走式駐車場一番手前に駐車すると、何時もの様に、ゴミ集積場前、後方入り口、
廊下の順番で歩いて行く。
 エントランスに出ると、フロントは無人だったが、開放されたドアから管理室内
の騒がしい気配が伝わってくる。
 なんだろうと思って、勝手にフロントの中に入って管理室の中に半身を入れる。
 ジャック・レモンのようにYシャツに緩めたネクタイをぶら下げた蛯原がホワイ
トボードの日付欄に何やらごちゃごちゃ書き込んでいる。
 それを見詰める作業着姿の大沼と鮎川。
 この鮎川というのは、蛯原みたいな凸っぱちなのだが、イルカほどの俊敏性はな
くスナメリみたいな感じだ。
 その手前にスーツ姿の井上も居た。
 入り口には榎本の丸い背中。
「鮎川ちゃん、大沼さん、鮎川ちゃん、大沼さんで回していける?」と蛯原言った。
 24時間の管理員は3名が交代で行うのだが、2名交代でも行けるか、という問
いかけなんだろう。
 ホワイトボードにも
3月25日金 鮎川
3月26日土 大沼
3月27日日 鮎川
 と書いてある。
「俺は平気だよ」と鮎川。
「大沼さんは」
「ええけど、限度があるで」
「どれぐらい?」
「一週間やろな」
「それまでにAMから誰かくるとしても、ド素人をよこされてもなあ」蛯原が思案
顔で腕組みをする。「そうしたら、俺が24時間に回って、井上さん、フロントお
願い出来ますか?」
「え、僕が?」
「事態が事態だからしょうがないでしょう」
 明子は最後尾にいた榎本の耳元に「何かあったんですか?」と小声で囁いた。
「ちょっと、ちょっと」言いながら、袖を引っ張って明子を連れ出すと、榎本が言
った「斉木さん、撃たれたんですって?」
「は?」
「銃で撃たれたんですって」
「えー」とそっくりかえる。
 榎本はネットのニュースを印字したもの広げると読み上げた。
「昨日、深夜0時過ぎ、大字飯山の雑木林で飯山市上境在住のマンション管理員斉
木さんがイタチに間違われて猟銃で撃たれました。斉木さんは市内の病院に搬送さ
れました。弾は肺にまで達していましたが、一命は取り留めました。銃は近所の養
鶏場の宿泊施設から発射された模様ですが、養鶏場経営者によれば、昨夜はイタチ
狩りをしていないとのことです。警察は被害者の回復を待って事情を聞く予定…で
すって」
「まさかー。それで井上さんにフロントをやらせて、あの3人で24時間管理員を
やるって?」
「もう張り切っちゃってるんですよぉ」
 明子は管理室を覗き込んだ。
 大沼、鮎川、井上を相手に、蛯原が水性マーカーを持った手で身振り手振りで大
げさに指示している。
 何であいつが仕切っているのか、と明子は思う。
 井上がホワイトボードの前で指示を出すべきなのに水性マーカーで指されて「お
前がフロントに立て」とか言われている。
 明子は意を決した様に、管理室に入ると、「井上さん、ちょっといいですか」と
背広の肩をつついた。
「何ですか?」
「ちょっと」と言うと腕を取る。
「ななな、何、何」とヨロヨロしながらも明子に引っ張られてフロントまで出てく
る。更に「何ですか、何ですか」と言いながらも、ラウンジまで引っ張られて行っ
たのだが、しまいには「何なんだ」と大き目の声を出すと乱暴に腕を振り解いた。
 井上は眉間に皺を寄せて小鼻を膨らませていて、如何にも、男の職場に女がちょ
ろちょろするな的オーラを出していた。
 あー、すっかり蛯原の超音波にやられちゃっているんだなぁと明子は思う。
「井上さん、フロントに出る積もりですか」
「いけませんかッ」
「そんな事をして、もし居住者に、あれー、どうしたんですかーって聞かれたらど
うするんですか」
「えっ」
「いやー、ちょっとうちの管理員が銃で撃たれましてね、その交替ですよ、とでも
言うんですか」
「…」
「井上さんがフロントに立つって事は、斉木が撃たれた事はもちろん、日系人と付
き合っていたとか、全部井上さんが承知していた事になるんですよ」
「日系人?」
「聞いてないですか?」
「いや、なんにも」
  なんだ、聞いていないのか。そういう事を知りつつ、蛯原に鼻づら掴まれてい
い様に振り回されているのかと思ったら、そういう訳でも無いんだな。だったら自
分が説明してあげないと、と明子は思った。
「私、見たんですよ。大沼さんが日系人とぶちゅーっとやっているのを。駅前で。
  大沼さんに聞いたら、あれは養鶏場の女で斉木さんも絡んでいるって言ってい
ました」
「え? なに?」井上の目は宙を泳いでいた。「養鶏場の日系人女性が斉木さんを
撃ったって事?」
「そこまでは分からないけれども」
「うーん」井上は床の大理石のアンモナイトを見詰めて考えた。今一状況が掴めな
かった。斉木は養鶏場で撃たれて、大沼は養鶏場の日系人と関係がある、という事
か。だったら大沼に聞いてみようかと思ったが、下手な事を知ると、善意の第三者
では居られなくなってしまう。「本店に電話してみる」言うと管理室に戻ろうとす
る。
「どこに行くんですか」
「会社に電話」
「だめだめだめ。あの管理室に入ったら蛯原の超音波にやられちゃいますよ」
「はぁ?」
「あの人のそばに行くと、おかしくなっちゃうんですよ」
「しかし、こんな所から連絡するのも」と手を広げた
「うちの事務所を使ってもらってもいいんですよ」
「AMの?」
「そう。私も昨日あんな事があったんで、一人で居るのが怖いっていうのもあるし。
それよりなにより、井上さんの耳に入れておきたい事があるんです。でもそれは蛯
原とかにも関わる事なので管理室では話せないんですよ」
「蛯原も絡んでいるんですか?」
「たぶん」
「分かりました。じゃあちょっとカバンを取ってきます」
 そして二人で管理室に一旦戻る。
 まさに舌好調という感じで、蛯原が身振り手振りで大袈裟に「今我々が考えるべ
きことは」などと言っていた。










#1076/1158 ●連載    *** コメント #1075 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:14  (453)
斑尾マンション殺人事件 9
★内容

●36

 AMの事務所に入ると明子は、電気を付けたり、カーテンを開けたり、エアコン
を入れたりした。
 突っ立っている井上に「どうぞそこにお掛けください」とソファを勧める。
 そして井上が座ると、「そこ、昨日まで所長が座っていたんですよ」
「えっ」
「大丈夫ですよ。化けて出たりしないから」
 キッチンコーナーでアイスコーヒーを入れて、それを持って応接セットに戻った。
 コーヒーを飲みながら明子が言う。「蛯原さんって、井上さんをみんなの前で使
って見せて、何かの出汁にする積りなんじゃないですかね」
「実は僕もそう思っていたんですよ」と井上が言った。
 それから、共用部2階の雀荘化計画や、清掃員に遠赤ストーブを買わされた話な
どをした。
「でも遠赤ストーブにしても何にしても、私は策士というか、首謀者がいると思う
んですよね。蛯原さんは、そんなに計画的な事は出来ないと思うから」
「誰ですか。その首謀者って」
「斉木さん」
「だって、斉木さんって撃たれたんでしょ?」
「ですからそれはちょっと話が込み入っているんで、ぐーっと遡って時系列的に話
すしかないと思うんですよ。
  さっき耳に入れておきたいと言ったのもその話なんです」
 そして明子は、ぐーっと遡って時系列的に話した。
「所長や私がこっちに来る前は、24時間管理員は、飯山の事務所に日報を送って
きていたんです。bccで。
 それを印字して所長に渡すのが私の仕事だったんですけど、斉木さんは日報以外
にも、チクリメールも送ってきていたんです。
 それは、所長には現場で何が起こっているのかは分からない、とか、蛯原に聞い
たところで、自分に都合のいいジグソーパズルのピースしか見せないから所長は全
体像を把握出来ない、とか言う愚痴メールだったんですけど。
 でも、去年の春頃だったんですけど、かなり具体的なチクリメールが来ていたん
です。
 それはどういうものかと言うと、鮎川さんの前に草津さんっていう管理員が居た
じゃないですか。あの人は結局蛯原さんにイジメ尽くされて辞めたんですけれども、
それがどういう段階を踏んでなされたかっていうものだったんです。
 で、チクリメールによると、まず第一段階としては、朝の引継ぎの時に、蛯原さ
んが草津さんにこう言うんです。『昨日の3時頃、居住者からどこどこに犬の糞が
落ちているってクレームがあった。それで俺が掃除したが、あんた、気が付かなか
ったのか?』と。
 すると草津さんは『いやあ、気が付きませんでした』と言う。
 でも、実は蛯原さんは防犯カメラを巻き戻していて、草津さんが犬の糞を見て見
ぬふりをしていたのをチェックしていたんです。
 そして、『お前、嘘つくな、ネタは上がってんだぞ』と中学生だって体育館の裏
でやる様な事を引き継ぎの場で延々とやる。
 ここまでが草津イジメの第一段階です。
 第二段階としては、この『草津は嘘つきだ』というイメージの拡散です。所長は
勿論、井上さんにも、更には、居住者との世間話の際にも『いやー、草津がすっと
ぼけて取らなかったんですよ』等々言うんです。
 そして第3弾、というかトドメなんですけど。そうこうしているうちに、イーマ
ンションの口こみ掲示板に『夜の7時とか8時とかにフロントで居眠りをしている
管理員がいる』という書き込みがあったんです。
 そこで蛯原さんは、『草津に決まっている、カメラにも写っている』と言うんで
すよ。
 草津さんは『カウンターの内側のPCをいじっていただけだ。うつむいていたか
ら寝ているように見えるだけだ』と弁明するんですけど、蛯原さんは『また、草津
は嘘をついた』と言う訳です。
 つーか、それが事の真相だ、と、斉木がチクリメールで言ってきていたんです。
 それでですねぇ、こっからが重要な事なんですけど、ちょっと頓珍漢に聞こえる
かも知れないんですけど、その斉木が、夜な夜な、『ビートルズ殺人事件』という
小説も書いていたんですよ。
 それ、ネット上で見られますから、井上さん、スマホでちょっとググってもらえ
ません?」
「え?」井上は怪訝そうな顔をした。
「夕べ殺されかけた斉木が小説を残しているんですよ」明子は強い調子で言った。
「そっか」
  井上はスマホで検索すると『ビートルズ殺人事件』を表示した。
「うん。確かにある」
「じゃあ、それ、長いですから、スッチーで検索して、スッチーの一件だけ読んで
みてくれません?」
「すっちー」
「そうそう。そこの所だけ読んでもらえません?」
「今?」
「そう今。私、コーヒーを入れてきますから、その間に読んでおいて下さい」
 明子は、テーブルの上のグラス等を掴むと、キッチンコーナーに引き上げた。
 横目でちらちら井上を見ながら、ドリップコーヒーを入れる。
 そしてコーヒーカップを持って応接セットに戻った。
「そのスッチーの件って、草津さんお件と似ていると思いません?」と明子は言っ
た。
「どういう点が?」
「まず、ビートルズの場合だったら、バーの客が、ビートルズの誰かが外している、
と言った訳ですよね。でも誰が外したのかは分からない。そこでジョンは自分だと
思われたら困るから、ポールを使ってスッチーだと印象付ける。そしてこれ以上外
したらビートルズ全体が下手だと思われるとなると、いよいよスッチーを刺す。
ポールに『50セント返せ』と連呼させて。同時にスッチーには、『50セントぐ
らいなら友達なら返す必要はない』とでも言ったんじゃないですか?
 それを草津さんの退職に置き換えると、まず居住者が、管理員の誰かが居眠りし
ている、と言う、でも誰だか分からない。そこで斉木は自分だと思われたら困るか
ら、蛯原を使って草津だと印象付ける。そしてこれ以上居眠りしていたら管理員全
体が駄目出しされそうになると、いよいよ草津を刺す。蛯原に『草津は嘘つきだ』
と連呼させて。同時に草津には『休憩時間は休めよ。夜の7時から8時は休憩時間
だろう。お前が休まないと他のメンバーも休めない』とか言ったんじゃないです
か?
 つまり私は、草津さんの件の首謀者は斉木だと思う。斉木が蛯原を使ってやった
んだと」
 そこまで話すと明子は井上の様子をうかがった。自分の話が余りにも頓珍漢なの
で笑っているんじゃないか、と思いつつ。
 しかしそういう雰囲気もないので明子は更に言った。
「実は私、所長の件も首謀者は斉木さんなんじゃないかと思っているんです。エプ
スタイン殺しの首謀者がジョンである様に」
「そんなぁ」井上は苦笑いを噛み殺す。「その、スッチーの件と、草津さんの件が
似ているというのは分かるけれども」
「もっとおかしい事があるんですよ。エプスタインも所長もマネージャーでしょう。
そして二人とも吐しゃ物をノドに詰まらせて死んだじゃないですか。
 その次にジョンと斉木でしょ。二人とも銃で撃たれたじゃないですか。
 これって偶然ですか?
 これって見立てなんじゃないですか?」
「見立て?」
「そうそう、見立てですよ。そうだとすると、エプスタイン、ジョンの後で、ジ
ョージ、リンゴ、ポールの順に死ぬ事になるんですよ。そう書いてあるんです。そ
の小説に」
 井上はスマホをテーブルに置くと「しかし」と言った。「ジョージって肺がんか
何かで死んだんでしょう? それって自然死じゃないですか。それにリンゴとか
ポールってまだ生きているし」
「だから、これはリアルビートルズじゃなくて、『ビートルズ殺人事件』の見立て
って事なんですけど」
「斉木はまだ死んでいないし」
「きっと死にますよ」
「うーん」井上は唸りながら腕組みをした。ハッと思い出した様に、背広の内ポケ
ットから懐中時計を出す。懐中時計…。「あ、こんな時間だ。会社に電話しない
と」
  スマホを持って和室の方に行く。
  数分で戻ってきた。
「なんて言ってました?」
「なんでそんな事高橋さんに言わないといけないんですか」
「ただ、どうしたのかなーと思って」
「状況を把握しておけって言われましたよ。蛯原さんにでも聞いてみるかなぁ」
「だめだめ。それをやったら蛯原に都合のいいジグソーパズルのピースしか出てこ
ないんだから」
「じゃあ誰に聞けと」
「そうですねぇ」
 言いながら明子は立ち上がった。




● 37

 リビング入り口に行くと、タイムカードの上の行先表のホワイトボードを取って、
明子は戻ってきた。。
「所長が救急車で搬送された時に、私、斉木と二人になったんです。その時にあの
人が、ビートルズの誰誰がこのマンションの誰誰に対応するとか言っていたんです
けど、それによると…、
 ジョン=イタチ型が斉木自身、
 ジョージ=ラクダ型が大沼、
 リンゴ=石臼型が山城、
 ポール=イルカ型が蛯原、って事でした。
 所長は薬缶頭だったから山城と同じ石臼型だと思うんですよね。
 そうすると、もし見立て殺人が進行しているのなら…」
 そしてホワイトボードに書いた。

 エプスタイン 所長 死亡
 ジョン    斉木 重傷
 ジョージ   大沼
 リンゴ    山城
 ポール    蛯原
「こういう順番になると思うんですよね。だから、とりあえず大沼さんに聞くべき
じゃないかと」
「いや、別にこれから起こる事件について聞きたい訳じゃなくて、今まで起こった
事について把握しておきたいだけなんですけどね」
「ぞうだとしても、斉木さん銃撃事件にしても、犯人が養鶏場の女かも知れないん
だから、そうしたら大沼さんが絡んでいるのかも知れないし」
「大沼さんか。しょうがないな。あの人に聞くのが常識的なんだろうな」と何やら
ぶつぶつ言ってから、「じゃあ、大沼さん、呼んで」と言った。
 しかし明子がフロントに電話をしたところ、大沼は既に帰宅したとの事だった。
「え、帰った? じゃぁ、しょうがないなぁ。鮎川さんにでも聞くか」
「いや、24時間同士って、あんまり接点ないんですよね、引継ぎだけで。むしろ
横山さんあたりに聞いた方がいいかも」
「横山さん?」
「清掃の横山さん。あの人は大沼さんと仲がいいんですよ。昼ごはんも一緒に食べ
ているし、ペンション村で」
「じゃあその横山さんにインタビューするか」


●38

 明子が再びフロントに電話したところ、横山はマンション外周の拾い掃きをして
いるので昼までは戻ってこない、との事だった。
  昼になって再度電話してみると、今度は横山が出たのだが「ペンション村に昼
食を取りに行く積もりだったのに」などとごねる。しかし長寿庵のカレーライスを
ご馳走するからということで納得してもらって来てもらう。
 そして井上、明子、横田の3人で食べた。
「蕎麦屋さんのカレーってカレーうどんのカレー? とろみを出すのに片栗粉使っ
てるみたい」言ってから横田は笑った。
  声はハスキーなのだが笑うとキャンと犬でも踏み潰した様な音を出す。言葉を
発するというよりは、くしゃみ、とか、あくびの様な生理現象の様である。
 最初明子は、横田を見て、デビルマンレディーみたいだと思っていた。しかし、
近くで見ると純粋なラクダ型というよりは、ラクダとイルカの混合型なのではない
か、と思う。ちょっと古いが秋吉久美子とか原田美枝子、ビートル妻で言うならパ
ティー・ボイドがこのタイプではなかろうか。魔性の女、という感じだ。
 ラクダだのイルカだのと言っても、くっきりラクダになったりする訳ではないの
だ、と思った。
 多分、ホルモンが関節や骨の形成に影響を与えているのだろうが、ジョージみた
いに関節が太いのと、リンゴみたいに全体にずんぐりむっくりしているのとでは、
頭蓋骨はともかくとして、肢体に関してどう違うんだろう。
 例えばモー娘。で言えば、

      −
 イルカ型 −イタチ型
 加護亜衣 −後藤真希      
 ―――――・―――――     
 石臼型  −ラクダ型      
 辻望美  −矢口真里      
      −
 
 だと思うが、矢口と辻だったら関節は矢口の方が太いが筋肉は辻の方が厚いって
事だろうか。
 加護、矢口のラインって、ナチュラルで下ネタOKって感じがする。
 辻、後藤のラインって、ケミカルで下ネタNGって感じがする。
 矢口って、縦ロールにしているな、と思い出した。宝塚とかゴスが好きなんだろ
うか。
 そういえばフローレンス・ジョイナーも縦ロールにしていた気がする。
 そして目の前に居る横田も、髪を後ろで束ねているが縦ロールが入っている。
 やっぱり、ラクダ型なのではなかろうか。
「横田さんって、宝塚とかゴスとか好き?」明子は思わず聞いた。
「え、何で?」
「なんとなく雰囲気が…。髪とか」
「ああ、これは」
 横田の髪型は宝塚って訳ではなくて、『カラフィナ』というマニアックな女性
ボーカルグループが好きでやっているそうだが、そのステージは劇団四季風で、宝
塚に似てなくもないという。
「へー」と明子は納得する。
「ゴスが好きなのは泉ちゃんだよ。飲み会に行く時コスプレしてるし」
「あの子、そんな事するんだぁ」あのイルカがコスプレだって?「へー。みんな、
色々趣味があるんですね」
「じゃあ、まぁお話は尽きない様ですが、そろそろ、大沼さんの話を」と井上が仕
切ってきた。
「ちょっと下ネタ入っちゃうけどいい?」と横田が言った。
 この人やっぱり下ネタOKなんだなあ、と明子は思う。
 明子は蕎麦屋のどんぶりを下げるとお茶を持って来た。
 横田は、大沼さんが言っていた事だけれど、と前置きしてから話し出した。


● 39

  かつて大沼はこう語っていた。
「去年のクリスマスイブの話や。
 中野の営業停止中のフリィピンパブの様子を見に行ったんや。未練たらしく。
  相変わらず営業停止中やったけど、路地の向こうから、通称脂すまし、という
常連が歩いてきよる。
  CPO着て背中丸めて。
「なにやっているんや」
「仕事の帰りだよ」
「クリスマスイブに仕事かい」
  近くに来ると脂すましの顔がネオンに浮かぶ。
  相変わらず、女に縁のなさそうな顔をしている。
  自分じゃあクリストファークロスに似ているとか言うが、お獅子というか、ち
ょっとダウン症みたいな顔や。
「飯でも食う?」というんで、近所の定食屋に行った。
  脂すましは豚のしょうが焼き、俺は刺身定食を食いながら「最近、どこで遊ん
でいるんや」と聞いた。
  フィリピンパブで遊んでいる頃には、テレクラで素人とやりまくっていると豪
語していたが、今は、終電後の駅前をうろついている女をナンパしているという。
「どうやって誘うの」
「カラオケ行かなーい? って」
「それで着いてくるんか」
「くるよ」
「そんでカラオケ、行くのか」
「カラオケ行ってどうするんだよ。直行だよ、直行」
「ホテルに直行か」
「他にどこ行くんだよ」
「ふーん。そんで生でやるんか」
「そんな事やって汁でも漏れたらどうするんだよ。ゴムだよゴム」
「そんで一発やって帰ってくるんか」
「そうだよ」
「金は要求されないんか」
「財布広げて、あれー2千円しかないやー、ごめんねー、又ねー、で終わりだよ」
「それ、たちんぼとちゃうんか」
「素人だよ」
「素人と思えん」
「お前、なんでそうやってケチつけるんだよ」クリストファークロスがお冷を見詰
めて言った。「そっちが教えてくれって言うから教えてやったのに。前もテレクラ
の事を教えてくれいっていうから教えてやったら、そんなにいいんならどうしてフ
ィリピンパブに居る、とか言うし。だったら聞くなよ」
「おーわりーわりー。じゃあその定食はおごったる。情報提供料や」
  脂すましと分かれてから、居酒屋で飲んで、スナックで飲んで、赤提灯で飲ん
だ。
  そうしたら11時や。
  あほらしいと思いつつも駅ビルのシャッターの前へ歩いて行ってみた。
  でも誰もおらんかった。と思ったんやが、白いパーカーを着た女が一人立って
いた。シャッターも白っぽかったんで見えなかった。
  近づいてやり過ごしてから又戻ってくる。
  日本人やない。ハーフかな。へちゃむくれた顔や。ドリュー・バリモアとか、
クリスチーナ・リッチとか。
「自分なにしてる」と俺はきいた。
「人を待っている」
「もう人来ないで。電車終わっているもの」
 女は黙って前を向いていた。
「カラオケでも行くか」と思い切って俺は言った。
「カラオケは行かないけど、裏に映画館があるからそこなら」
「もうやってへんよ」
「でも、あそこなら遊べるよ」言うて人の顔を見てにっと笑った。
  駅前のビルと隣のビルの細い道を抜けると、裏にコンビニと潰れた映画館があ
った。真っ暗で廃墟っていう感じや。こんなところで昼間やったら青姦になるんや
ろう。
「こんなところでなくてホテルに」言うていて、気が付いた「ところで幾らなん
や」
「15分で3千円」という。
  それだったらわざわざホテルに行くのもアホらしいな。
  コの字の廊下の左右の、元は自販機でもあったようなスペースに布団が敷いて
あった。
  窓ガラスはダンボールで目張りがしてあって、LEDのキーホルダーが何個が
ぶら下がっている。
  ここでやるんか。
  3千円渡すと女はそれを財布にしまって、その手でコンドームを出した。
  赤ん坊がおしゃぶりでも銜えるみたいにコンドームを銜えると、萎んだままの
亀頭に吸い付いて、吸い込む力でちんぽを伸ばしながら被せてしまう。
  しかし酒のせいか、萎んだまんまや。
  もういいと言うと、まだ時間がある、と一生懸命しごきよる。
  なんでそんなに熱心なんやろう。
「そんじゃあ話でもするか。どこからきたの?」
「ペルー」
「幾つ?」
「18」
「自分さっき、人を待っている言うてたが、あれはほんまか」
「お姉さんを待っていたの」
「どっから来るんや」
  養鶏場の名前を言うとった。
  彼女は、元々は金沢の水産加工会社で働いていたそうや。
  機械から流れてきて湯に浮いているおでんをひたすら串に刺す作業や。
  最初はきつかったがじきに慣れた。しかし慣れると経営者が機械のスピードを
上げるから又きつくなる。
  そんなの1年もやっとったらこんなになった、と言って手を出す。
  手の皮が足の裏みたいになってたで。
「だから今はお姉さんと一緒に、養鶏場で働いている」言うとごわごわの腕を引っ
込めて、白いパーカーを被ると震えた。
「自分寒そうやなあ。もう帰ったらいいんじゃないの?」
「私、お腹へったよ」
「そしたら、飯でも食いいくか。でもこんな時間やと、深夜営業のファミレスしか
やっていないよ」
「それでいいよ」
  映画館を出る時、売店横のソファにもう2人女がいたんやが、カミーラに二言
三言、スペイン語で話しかけていた。
  それからデニーズに行ったんや。
  あそこはメニューが写真やから、フィリピンの女を連れ出すんでもよく使った。
  カミーラはピザだのハンバーガーだのを食べとった。がつがつ食っているカ
ミーラに俺は言った。
「商売の時、先に金を要求すると白けるで。瞬間恋愛したいんやから」
「そんな事言っても払わない奴がいるから」
  脂すましが脳裏に浮かぶ。
「暴力をふるう奴もいるし、親指の爪を尖らせておいて、入れる寸前にコンドーム
を破く奴もいる」
「そんな奴がおるんか、大変やな」
  デニーズを出てから、結局ホテルに行ったんや。
 部屋毎に建物が別になっている、昔ながらもモーテルや。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミーラはうずくまるようにして腹を押さえるんで、何しているんやと
思ったが、Gパンのボタンを外しとったんや。ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽん
になった。
 俺もぎんぎんやった。それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、自分の首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来た。
 何をする気やと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんや。
 体が熱かったで。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音やろ。
  それから俺は考えたんや。
  危ない客が多いっていうのは可哀想や。斉木や鮎川や新聞配達なら大人しんと
ちゃうか。そやけどあいつらにやられるのもしゃくやな。あいつらには別の女を宛
がってやりゃあいいんじゃないのか。あの売店横に居たインディアの女でも。それ
にあいつら飢えているから5千円は払うやろ。2千円ピンはねしてやればええんと
ちゃうか。
 朝、彼女はシャワーを浴びていた。髪の毛を後ろでアップにして、スケベ椅子に
腰掛けて。
 それから備え付けの歯ブラシで歯を磨いていた。
 生活の無いのが惨めやった。
 それからデニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、客の件を提案した。
  彼女は目を輝かせていたよ」

「私が知っているのは、そこまで」と横田が言った。「続きは大沼さんに聞いて」
「聞くのが怖いよ。つーか、飯山に住んでいる人って、みんなそんな感じなの?」
「それって酷くありません?」明子が言った。「それって地方を差別していな
い?」


●40

 横田が帰ると同時に電話がなった。
  明子が出るとフロントの榎本からだった。
「警察が来たって言ってますよ。4人も。井上さんに話を聞きたいって」
「えっ、僕に?」
「どうします? 管理室で会います? それともここに来てもらいます?」
「うーん」と言いつつそわそわする。「とりあえず、ここに来てもらおうか」
 明子はその旨伝えた。
「いやー、困ったなあ。まだ顛末書も何も出来ていない」
「それは困りましたねぇ」言うと明子はにやにやした。「実はですねぇ、うちの所
長は、設備の業者から説明を受ける時には、必ずハンディーカムで録画していたん
ですよ。後で、このボタンを押せばいいって言った、いや言っていない、ともめる
から。
 あとパートの面接の時にも、後で言った言わないになるんで必ずICレコーダー
に録音していたんですよ。
 だからって訳じゃないけれども、私もさっきからからの会話を録音していたんで
すよね」
 言うと明子はシャツのポケットからICレコーダーを取り出して井上に差し出し
た。
「これは…。何が入っているんです?」
「だから、私が話した草津さんの件と、あと今の大沼さんの話。これを警察の人に
聞いてもらえば手間が省けるんじゃないですか」
「そうですか。実は私もですね」言うと井上はスーツの内ポケットからICレコー
ダーを出した。「インタビューの際には必ず録音しているんですよ」
「それには何が」
「昨日の夕方の山城さんとの会話と、高橋さんが話した草津さんの件、今の大沼さ
んの件」
「じゃあだぶっちゃいましたね」
  言うと明子はつまらなそうに自分のレコーダーを故金子所長の机の引き出しに
しまった。


●41

 制服警官が4人も入ってくると、部屋の狭さのせいもあるが、かなりの威圧感が
ある。
 井上がソファを勧めて4人は着席した。
 明子が日本茶を入れてテーブルに置いた。
「大通リビング、井上と申します」むにゃむにゃ言いながら井上がそれぞれに名刺
を渡した。
 警官の中の痩せていて人の良さそうなのが、「飯山南警察署の服部です」と自己
紹介した。
 所長の事故の時に来ていた警官だった。
  それから彼が他の警官の紹介もした。
「こちらが、三木警部」太っているが凸っぱちだ。50代だろうか。
「こちらが山本さん」定年再雇用って感じの初老だ。石臼タイプ。
「そしてこちらが何時もお邪魔している須藤」蛯原ともめていたうどの大木だ。
「君さあ」山本が井上に言った。「立ってないで椅子もってきて座ったらいいんじ
ゃないの?」
「えー、つーかですね、今日は勿論、斉木の事と所長の件でいらしたんですよねえ。
 その事に関しては私も色々調査しているんですが、まだまとまっていないという
か、まだ皆から聞いている段階なんですよ。それでですねえ、皆から聞いたものを
こちらに録音してあるんですが。20分ぐらいの録音が、3つ入っているんですが、
とりあえずこれを聞いて貰うって訳には行かないですかねえ」と言ってテーブルに
差し出した。
 服部が受け取って横の三木の顔色を伺う。
「いいんじゃねーの」と三木。
「じゃあ聞かせてもらいます」
「じゃあ私達はお茶でも飲んできましょうよ」明子が口を挟む。「その方がお巡り
さん達も話がしやすいと思うし」
「そ、そうなんですか?」と井上。
「とりあえずは聞かせてもらいますが」
「じゃあ、席を外していますから、用があったらそこに書いてある携帯に電話して
もらえますか」と名刺を指差した。

 そういう訳で、明子と井上は一階ラウンジで待機していた。
 夕方の5時頃、4人の警官は便所を借りに下りてきた。
  それから再び事務所に戻って、更に1時間経過した頃になって下りてきた。
「次に大沼さんが来るのはいつですか?」と服部が聞いてきた。
「今日は鮎川だから、明日の朝には」
 服部はこそこそと相談してから、「じゃあ、明日の昼頃に又連絡しますわ」と言
った。
 そして警官達は帰っていったのだが。









#1077/1158 ●連載    *** コメント #1076 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:15  (477)
斑尾マンション殺人事件 10
★内容

●42

 事務所に戻ると井上が、「あのお巡りさん達、何を話していったんだろうなぁ」
と言った。
「実はですねえ、さっき机にしまったレコーダーはスイッチが入っていたんです
よ」言うと明子は所長の机からICレコーダーを取ってきた。
 そして二人は、警察官のトークが始まる箇所から再生して聞き入った。

服部「今ざーっと聞いてみての感想ですがね。
 まずこの斉木って男ですが、戦艦大和の話をしていて、38式歩兵銃、サンダー
ス軍曹という言葉が出てきますよね。
 それから、サッカーの話題から、鎌倉武士だの、コンバットの要塞攻めだの言っ
ていますよね。
 という事は、目の前で起こっている事をそのままには感じられないで、過去の記
憶を呼び起こすトリガーにしてしまうという感じですよね。
 そして呼び出された記憶も、自己の経験ではなくて、メディアから得たものばか
りだ。
 この斉木に、このテープを聞かせたら、恥ずかしくて死にたくなると思いますよ。
それは、自分の経験でもないのに我が事の様に語っているから、つまり自己が無い
事を見破られるからなんですが。
 自己が無いって事は、出来事をエピソードとして感じられない訳ですから、絶え
ず世の中があっちに行ったりこっちに来たりして感じられる、と思うんですよね。
 例えば我々の持っている拳銃、これを見て最初は、市民を守ってくれている、と
思う、次の瞬間、今朝女房を殴ってきた事を思い出して、自分に向けられるんじゃ
ないか、と思ってみたり」
三木「うーむ。よく分かんねーな」
服部「そうですかぁ。例えばですねぇ、まあ随分前ですけどね、或る事件に関して、
長い調書を書いていたんですよ、私が。非常に興味深い事件だったんですが、全体
の4分の3位まで来たところで、突然白けたんです。何故かっていうと、終わりそ
うだ、と思ったから。その瞬間に、終わらせる事が目的になっちゃっうから、そう
すると事件に関する興味は失われてしまう訳です。
 それが世界があっちに行ったりこっちに来たりする感覚なんですが、まぁ私にも
そういう気はあるんですが、この斉木には日常的にそういう事が起こっているんじ
ゃないですかね。…そう言えば、あの事件に出て来たメンツって、このテープの斉
木、蛯原、大沼、山城に重なるなあ」
三木「なんだ、その事件って」
服部「いや、全く別の事件ですから。もう終わった事件です」
三木「なんだよ、気になるじゃねーか。言ってみろよ」
服部「まぁー、そうですか。じゃあ言いますけど、このマンションとは全く別の話
ですよ。
 やはり甲信越地方で起こった事件だったんですけれどもね、畑の真ん中に東南ア
ジア女性を使った売春宿があったんですよ。何でも常連の間では、8千円で2回や
らせるという噂があったらしいんですよ。そこである男が行き、そいつがこの事件
のホシなんですがね、そいつが行って、入り口で店員に、2回やらせるんだよね、
と確認したそうです。
 店員は、そんなのは、2回って言っても、たまたま早く終わった客が、間が持た
なくてなんとなくもう一回ってやっただけで、別に、2回を売り物にしている訳じ
ゃない、と言ったそうですが。
 じゃ、帰る、と男が、踵を返そうとしたところで、
 やっぱり2回やらせると店員が言ったそうです。
 ところが男が入るなり、東南アジア系の女性に、2回だよなーと迫ったものです
から、そこは向こうも白けてしまって、2回どころか1回もおざなりで済ませられ
た。
 そうして出てくると、2回って言ったじゃねえか、と店員に詰め寄ったそうです。
 そこで店員が、そんな事いったっけーとすっとぼける。
 それで頭にきて、その男は店への嫌がらせとして、警察に匿名の通報をしてきた
んですよ。
 そこで、仕方なく当方の生活安全課が行ってみると女が部屋で死んでいるじゃな
いですか。
 まぁ、これは男の暴力等によるものではなく、元々あった持病がコイタスの後で
悪化して死亡に至った、という事なんですが。
 ところが驚いた事に、その日の内にその男は別件でしょっぴかれてきたんですよ。
 っていうのは、その野郎は、その売春小屋の外に駐車していたんですが、駐禁の
ワッカをはめられていたんですな。
 それを、わざわざ交番に出頭してきて、自分はちゃんと30分以内に移動させて
おいた、だのなんだのごねだした。
 まあ、交番の巡査は、5分でも違法駐車になると説明したのですが、その警官が、
わざわざ出頭するからいけないんだよ、あんなワッカ、ペンチでぶったぎってそこ
らに捨てておけば取りこぼしちゃうんだから、てな事を言ったらしいんですな。
 すると男は、そんな網の目の粗い法律を作るのは不公平じゃないか、などと言っ
てきたらしいんですが。
 そこで又巡査が、法の網の目をくぐるのに、くぐれますかね、と聞いてくる馬鹿
はいない、と言ったらしいです。
 そこで男が警官の襟首を掴んで公務執行妨害の現行犯で逮捕になった訳ですが。
 あとこの事件では、検視の為、遺体を持って帰っていたんですが、その女の女衒
なる人物がふらーっと署に現れて、俺の女を返してくれ、と言ってきたんですよ。
  それからその時にたまたま店にいたこの店の常連で近所の地主にして幼稚園経
営者の男もしょっ引いたんですがね。
 さて、次に、実際に取り調べという段階になって、それぞれの個性が際立ってく
るのですがね。この妙に几帳面な客が斉木、店員が蛯原、女衒が大沼、地主が山城
に相当するんですが。
 まずホシである客ですが。
 こいつは人間を信じられないって奴ですが、そりゃそうでしょう、自己自身が無
いのだから、人間関係の情とか塩梅とか、そういうものには全くのKYなんですよ。
 となると、信じられるのは、約束だの制度だのって事になるのですが。
 そうすると、目の前に、具体的な存在として哀れな売春婦がいても、今ここで助
けようとは思わない。ただし、制度を変えなくてはいけないと思うんですな。
 実際この男は、アムネスティーだかユニセフだかに募金していると言うんですね。
しかし目の前に居る売春婦には、2回やらせるという約束を守れ、と迫るわけです。
 それは警察に対してもそうですから、駐禁の処理が適当だと、法律の運用が恣意
的だ、と切れる訳ですが。
 こういう人間は裁判においても情状酌量なんてものは求めず、裁判官と一緒に自
分の死刑判決を組み立てて行って達成感さえ感じるんですな。まあ、こいつの場合、
重罪ではないですから、死刑になどならなかったのですが。とにかく取り調べにお
いても厳密にやってくれって事だったんですよ。
 次に店員ですが。これは蛯原に相当するんですがね。
 こいつは取り調べの時に、丸で、取調官を喜ばせたいかの様にぺらぺら喋るんで
すな。
 実はこの店員には内縁の妻がおり、DVで悩んでいるという相談が署にもあった
んですよ。しかし店員の身辺を調べてみると、例えば、出入りの酒屋だの、新聞屋
だのにはえらい評判がいい。あの人はいい人だ、あの人には裏表がない、自分らの
ような下層の者にも人間同士として接してくれると。
 店の女にも評判がいいんです。女の為に、昔のコネを手繰っていって、医者だの
警官だのに助けを求めたりするんですな。
 そうすると被害者の妄想ではないのか、とも思えてくるのですが。
 どうもこの店員は、目の前にいる人間にだけ反応して、居なくなれば忘れてしま
うという男らしいんですな。
 目の前に妻が現れれば酷い事をする、居なくなって酒屋が現れれば丸で別の人間
になるという…。
 未解決の通り魔的な犯罪はこの手の輩がやり散らかしているんじゃないか、とい
う話もありましたな。何しろ現場を離れてしまえば本人も忘れてしまうのだから、
尻尾を出さない訳ですから。
 次に、女衒の男。これは大沼に相当するんですが。
 こいつらは、サーカスというか旅芸人の様な集団を形成して全国を移動していた
んですが、その中で、近親相姦はするわ、人が死ねば死体遺棄をするわ、本人らは
それを罪と思っていないわ、という、人間社会とは無関係に生きている奴らなんで
すな。
 それから、地主。こいつが山城に相当するんですが。
 ある時、この地主が店内で女衒と出くわしたそうです。
  この地主も女買いはしても、片方で幼稚園経営者という顔も持っているものだ
から、女衒など気に入らない。そこで、ちょっと説教たらしく、お前は売春を悪い
とは思わないのか、みたいに噛み付いたらしいんですな。
  すると女衒はこう言ったそうです。男が土方で体を使う様に、女が売春で体を
使って何が悪い、と。
  まぁ幼稚園経営者なんてものは人間に良心があって当たり前と思っているから、
こういう動物に出くわすとどうにもならない訳ですな。もっともこの地主とて、何
故セックスのタブーがあるのかなんて分ってはおらず、ただ、人とはそういうもの
だ、と刷り込まれているに過ぎないんですが。
  そこらへんを、ちょっとこの女衒に突っ込まれたらしいんですな。
 犬だって猫だって好き勝手にやっているのにどうして人間だけ好き勝手にやった
らいけないんだ、とその女衒に言われたそうです。
 地主は、人間は犬畜生とは違うからだ、としか言えなかったそうですが、その女
衒はこう言ってきたそうです。
 イワシでもスズメでも選挙なんてしないでもリーダーが決まる、人間のリーダー
も知らない内に決まっている、それだと不安だから、後から選挙だなんて理屈を付
けているだけだ。セックスだって同じだ。人間が好き勝手にやらないのは、ハーレ
ムのボスに殺されるからだ。しかしそれだと動物みたいだから、後から良心だの言
っているだけだ。それがお前が幼稚園でガキに教えている事だ。
 さて、以上を予備知識として、私はこの4人に面接したのですがね。
 面接に先立って私は彼らの身体的特徴をある程度想像していました。
 今日の心理学でも使われているオーソドックスな人格分類に次の3つがあるので
すが、
 分裂気質、これは痩せていて神経質な感じ、
 それから粘着気質、これは関節が太くて、愚鈍な性格、
 それから循環気質、これは肥満で、陽気な性格、というものですが。
 どうも私は、この循環気質なるものにピーンと来ないでいた。どうも、薬缶頭の
頑固オヤジタイプ、と、凸っぱちのヤンチャ坊主タイプの混同があるんじゃないか
と思っていたのですが。
 そこで私は、分裂気質、粘着気質、頑固オヤジ、ヤンチャ坊主の4種類に体格を
分類しているんですよ。
 といってもイメージ出来ないでしょうから、具体例を挙げますと、分裂気質は相
撲で言うと北の湖ですな。これは太っているから分からないが、実は体格はいいと
は言えない。
 粘着気質は、輪島みたいな関節の太い力士ですね。
 頑固オヤジタイプは、貴乃花、北天祐、など四つ相撲の力士ですね。
 ヤンチャ坊主タイプは、舞の海、朝青龍。これは非常にバランスがいいんですな。
 印象としてどうですかね。
 輪島、北の湖というと、本割りと優勝決定戦で2回連続して北の湖が負けた、し
かも同じ下手投げで、というのが印象深いと思いますが。あの瞬間「やっぱ中卒は
駄目だ」と声が上がりましたが、あれは何回やってもああなりますな。押し相撲の
力士が関節の強いのに当たっていけば。
  土俵の上ではそうなるんですが、相撲協会の経営となると、実は北の湖の方が
遥かに上手って事になる。永遠のライバルではあるんですが。
 まぁ、その後の千代の富士、大乃国なども同じですが。柔道でいえば、山下、斉
藤が相当しますね。斉藤も突っ込んで行って闘士型の韓国人選手に肘を折られまし
たが。
 さて、そういう予備知識を持って面接したところ、全くその通りの身体的特徴を
していましたよ、この東南アジア女性事件に関わった4人は。
 ですから、斉木、大沼、蛯原、山城を見れば、やはりそうだと想像しますね。
 つまり、
 分裂気質   几帳面な客  斉木
 ヤンチャ坊主 店員     蛯原
 粘着気質   女衒     大沼
 頑固オヤジ  地主     山城
 という訳ですが」
三木「うーむ。ちょっと待った。ちょっと便所に行きたいな」
服部「あそこにありますよ。それともマンションの入り口に公衆便所みたいなのが
あったと思いますが」
三木「そこ、行こう」
服部「私も行きますよ」
須藤「三木さんって、いっつも、俺が火の用心って言ったらみんなも火の用心って
言っていたら駄目で、バケツを用意するとか、夜回りをするとかしないと駄目だ、
とか言うけれども、結局服部さんがこういう感じだ、って言うから、三木さんがそ
の通りにおふれを出すって感じだな」
山本「余計な事を言うな。とにかく不良外人の犯罪に決まっているのだから。…俺
らも行くぞ」

  以上でテープの再生は終わった。
  聞き終わると明子が、「あのお巡りさん達も4種類に分類出来るの気が付い
た?」と言った。
「つまり…
 分裂気質    几帳面な客 斉木 服部 ジョン
 ヤンチャ坊主  店員    蛯原 三木 ポール
 粘着気質    女衒    大沼 須藤 ジョージ
 頑固オヤジ   地主    山城 山本 リンゴ
  って感じなんだけど」


●43

 井上は、その晩、飯山市内のホテルに泊まる事にした。
 東京に帰りたいのは山々だったが、明朝警察に大沼を引き合わせないとならなか
ったからだ。さりとてマンションのスタジオにもう一泊というのは背中が痛いので。
 ホテルまでは明子がジムニーで送ってくれた。しかし、そこで、それじゃあ又、
と言うのも悪い気がした。今日一日明子は大いに手伝ってくれたのだから。それに
一人で夕食をとるのも寂しいという気もした。そこで、一緒にディナーを、という
話になった。
 地中海風なんとかブイヤベースを肴に2人は白ワインをごくごく飲んだ。
「そんなに飲んだら運転が」と井上は心配したが、
「大丈夫です。私んちこの近所だから、車置いて行きますから」と言って明子は更
にあおった。
 しかし案の定飲みすぎて、
「少しのぼせてしまいました。井上さんの客室でちょっと休ませてもらえないでし
ょうか」と言う。
「はぁ」
 井上は、明子を抱えるようにして客室に運んだ。
 ベッドに横たわると明子は「井上さん、汗びっしょりじゃないですか。どうぞシ
ャワー浴びてきて下さい。私、少し休んでますから」
 15分後、スラックスにYシャツの姿で井上はシャワールームから出て来た。
「これ、クリーニングに出さないと」などとぶつくさ言いながらYシャツをいじっ
ている。
 明子は既に体調を回復していて、ベッドの上で上体を起していた。
「あ、お茶でもいれましょうか。酔い覚ましに」言うと井上はライティングデスク
の上に置いてあった緑茶のティーバッグを茶碗に入れて湯を注いだ。
 机の椅子をベッド方向に向けて座る。
 明子はベッドの上に座り直した。もじもじしながら衣服を整えていたら、ポケッ
トの中にICレコーダーが入っているのに気が付いた。取り出してディスプレイを
何気に見る。
「あれ。まだ再生していない録音が残っている。これ、音声感知で録音していたか
ら、お巡りさんがお手洗いから戻って来たら又動き出したんだ。再生してみま
す?」
「そうですね」
 明子は再生のボタンを押した。

服部「あの風俗店ではトップレスショーをやっていんですよ。東南アジア人女性が
全員出てきてステージで踊るんです。それを見て品定めをして、個室で買春行為に
及ぶ、というシステムだったんですな。
 それで、そのショーの見方でも、客、店員、女衒、地主では、違いがあったんで
す。
 店員と地主は最前列でかぶりつく様にして見ていて、客と女衒は後ろの方で白け
た様に見ていたというんですね。あと、聞き込みで分かったんですが、店員と地主
はオッパイ星人で、客と女衒はケツフェチだったというんですが。
 何でそういう行動の違いが現れるかというと、それぞれに求めているものが違う
からだったんじゃないか、と思われるんですね。
 地主が求めていたのは、女の体という物だったんですね。これは別に幼稚園経営
者だからペドという訳ではないんですが、老人になると女性に対しても、性愛とい
うよりかは猫の肉球でも触るような愛し方になりますよね。老人はよく盆栽とか鯉
にも興味を持ったりしますが。そういう、フェチとか収集癖みたいなものを女性に
求めていたきらいがある。
 それから店員ですが、こいつは女の体というよりかは、プレイそのものを求めて
いた感じなんですね。だから、パラで2人3人と個室に入ったりするそうです。
 几帳面な客ですが、こいつが求めていたのは、抜く事であって女の体ではなかっ
たという事です。そう言うと奇妙に聞こえるかも知れませんが、かぶりつきで見て
いる店員あたりに『お前も前にきてオッパイを揉め』と言われても、
『そんな事をして何になる。抜けないんだったら意味がない』と感じたそうです。
 一度など、個室サービスで射精した後、女がコンドームを外すのにてこずってい
たら、跳ね飛ばして自分で取った事があったという。
 女は驚いて『こんなに優しくない人は始めてだ』と言ったそうですが、その時こ
の客は初めて、『ああ、自分は女が欲しい訳じゃないんだ』と自覚したそうです。
他の常連など、個室で20分も30分も粘って店員に文句を言われるそうですが、
こいつの場合には、射精後は1秒でも早く出てきたかったそうです。 
 女衒はというと、『道』の様なものを求めているんですな。まぁこの男の場合に
は、自分が女衒ですから売る側なんですが、買春する側だったなら、店外まで、更
には売春婦の故郷にまで追いかけて行ったでしょうな。
 じゃあ、そういう彼らの行動の違いが何に由来しているのか、というと、自己の
ある・なし、記憶のある・なしで分類出来るんですな。
 まず最初に、几帳面な客ですが、このタイプは、自己が無い、しかし、記憶があ
る、というタイプですね。
 自己が無いのに記憶がある、となると、経験に根ざした記憶では無い訳ですから、
ぺっこん、ぺっこん変化する。となると、そんなものはアテに出来ない。その時に
心地良かったか、なんていう感覚はあてには出来ず、目的本来的になる訳です。2
回やらせろ、とか、法律は守れとかね。
 じゃあ、こういう男の売春婦に対する考えはどうかというと、店外デートをすれ
ば純愛になる、一歩店の外に出れば素人扱いになる、というものなんですな。だっ
て記憶はあっても経験に根ざしていないから、ぺっこんぺっこん変わる訳です。
 次に、地主にして幼稚園経営者ですが。このタイプは、自己がない、かつ、記憶
がない、というタイプですね。そうするとどうなるか。今ここ、しかないんですな。
自分の土地に被害が及ばない限りは風俗店で何をしていても構わない、その代わり
一歩自分の土地に入ったら、という感じですな。
 ですから、このタイプの売春婦に対する考えは、買春行為はしても自分の家の敷
居はまたがせないというものです。
 次に、店員ですが。このタイプは、自己があり、かつ、記憶がない、というタイ
プですね。となると、無節操になるんです。売春婦に対して無節操もへったくれも
無いだろう、と思われるかも知れませんが、この店員の場合、自分の女房を店で働
かせていたんですな、そして、「俺の女房を買ってくれ」と他の客に勧めていたそ
うです。
 次に、女衒ですが、これは、自己があり、記憶もある、というタイプです。本当
に経験に根ざした記憶があるのはこのタイプだけですな。だから、過去を晒す。そ
うすると売春婦に対する態度はどうなるのか、足を洗っても過去のあやまちを晒す
のか、というとそういう感じじゃない。女は一生において、ある時には玄人にもな
り、又別の時には素人にもなるという、病めるときも健やかなる時も、という考え
方をするんですな」
 ここでテープは止まった。
「分かった?」上目遣いで明子は井上を見た。「こういう事になると思うのよね」
 明子はライティングデスクにあったメモを引き寄せると、こう書いた。

            −
            −
店員          −几帳面な客
女房を買ってくれ    −店外デートをすれば純愛
            −
―――――――――――・―――――――――――
            −
地主          −女衒
売春婦に        −病める時も
家の敷居は跨がせない  −健やかなる時も
            −

「これって、そっくりそのままビートルズにも当てはまるんじゃないかしら。
  この客と店員って、ジョンとポールに相当すると思うのよね。
 ジョンとポールの面白い比較があるの。それは音楽じゃなくて文学に関してなん
だけれども。
 ジョンは若い時に、『小説を書きたい、でもそんな事したって、どうせ、ダヴィ
ンチに敵わないから意味がない』って思ったんだって。
  一方ポールは、『クロスワードパズルで単語を覚えたらクラスで一番難しい単
語が言える様になった』って喜んでいたんだって。
  つまり、ジョンの場合、欲望した瞬間に欠如、これを子宮と言ってもいいと思
うんだけど、それが発生するって感じ。そしてそこに、どんどん、恨み辛みを貯め
ていって、満タンになると、どぼどぼどぼーっと一気に排泄してカタルシスを得る
感じ。これってタナトスっぽいよね。ペニスというよりかはその中にあるシードの
快楽という感じ。つまりは抜く事が目的。
 一方ポールは、クロスワードパズルだから、刹那的なエピキュリアンって感じ。
シードのカタルシスではなく、射精自体の快楽って感じ。抜くのと射精自体とどう
違うのかっていうと、小説とクロスワードパズルの違いだけれども。
 あと、この地主は、リンゴが指輪を収集したりするのに通じる感じがする。こう
いう人は、ペニスが擦れる感覚を欲望していて…」
  ここまで来ると明子は、「ちょっと話が込み入ってきたから、もう一回めもに
描く」と言った。
 そしてメモ帳に以下の図を描いた。


         物質性小
           −
ス ポール(蛯原)  −ジョン(斉木)   ス
ロ 自己あり・記憶無し−自己無し・記憶あり ト
エ 射精自体     −ペニス < シード   ナ
・          −          タ
人  ――――――――・――――――――  ・
星          −          チ
イ リンゴ(山城)  −ジョージ(大沼)  ェ
パ 自己無し・記憶無し−自己あり・記憶あり フ
ッ ペニス > シード  −生まれてこの方の個体ツ
オ          −          ケ
           −          
         物質性大


「この座標の右側の様に、ポールもジョンも、女の物質性にはあまりこだわらない
と思うのよね。
 座標の左側は物質性が重要になってくる。
 リンゴだったら、処女性とか、売春婦には敷居をまたがせないとかいう事が問題
になってくる。
 ジョージの場合には、自分への執着って感じ。『i me mine』だものね。生まれ
てこの方の自分という物質性が重要になってくる。
 横軸はそうだけれども、縦軸について言えば、上の方がエロス、下の方がタナト
スって感じだな。
 どっちかというと、オッパイ星人の方が成熟している感じがする。そう言えば蛯
原とか山城はよく笑うし、ポールやリンゴもよく笑う。
 斉木、大沼は笑わないし、ジョンやジョージにもどこか影がある。
 ついでに、ミステリー作家でいうと、ジョン的なのはクリスティーって感じ。
『オリエント急行』だの、『そして誰も…』だの、狭い空間に大量に詰め込んで、
あんなの『やおい』だと思うんだよね。
 その対極にいるのがパトリシア・ハイスミス、『太陽がいっぱい』。あれはゲイ
そのものだものね。
 ところで、井上さんって、この座標で言うとどこらへんにいるの?」
「うーん」と考えると井上は座標下の左側を指差した。
「やっぱりねえ」
 それから二人はごく自然にベッドインしたのだが、座標下の左右の男女であるの
だから、体位は、69になった。


●44

 その頃、斑尾マンションの管理室では、24時間管理員の鮎川が机に向かって漫
画を描いていた。
 斉木原作の『ビートルズ殺人事件』の漫画化をしていたのだ。
 何故鮎川がそんな事をしているのであろうか。

 鮎川は草津の後に入ってきた管理員で、鮎川に新人教育をしたのは斉木だった。
2010年の春頃の事だった。
 最初、鮎川を見た時、斉木は、「こいつは、ナロードニキか何かじゃないのか」
と思った。その頃の鮎川の見た感じが、髪型は柳生博風1、9分け、顔は山本学の
弟、みたいで、インテリっぽかったからだ。しかし5分話している内に単なるボケ
と分かった。
「お前、なんでこんな仕事に応募してきた」と斉木は聞いた。
「将来、漫画家になりたいから、一人になれる仕事がいい」
「将来? お前、幾つだ」
「武藤と高田と三沢と同い年」
 武藤だのはプロレスラーの名前だ。という事は斉木の一個下という事になる。
「お前に将来なんてあると思ってんの? お前に才能が無いとかじゃなくて、発揮
する時間が無いっつーの。俺らなんて、もう老後を考えないといけない年齢なんだ
ぜ。つい先週も草津さんの送別会で、俺は2回もジジイ扱いされた」そして斉木は、
その詳細について語った。
「まず最初は、清掃の泉に、だよ。あの女って、マンションの周りで草むしりをす
る時には、ゴルフ場のキャディーみたいな格好してんだろ。だから俺は、そんなに
日焼けしたくないんだったら別の仕事に就けばいいのに、って思っていたんだよ。
ところが飲み会の時にゴスロリの格好をして来たんだよなぁ。耳たぶにピアス10
個ぐらいぶら下げて。ありゃあゴスの格好をしたいから日焼けしたくなかったんだ、
って思ったけど。
 ところで俺はよぉ、メタルロックが好きで、メタル→デスメタル→ディル・ア
ン・グレイの京、という文脈で、ゴスにも興味があったんだよ。だから、結構話が
合うんじゃないか、と秘かに期待して、ビールとコップを持って行って泉の隣に割
り込んでよぉ、ディルのアメリカツアーがさあ、とか言ったんだけれども、向こう
にしてみりゃあ、どっかのおっさんが、ナウいねと絡んできた感じだったんじゃね。
酒も入っていたし。若作りしてんじゃねーって思いっきり言われたよ。
 しょうがねえから、草津さんの所に行ってよぉ。
 これからどうやって食って行くの? って聞いたら、
 年金があるから、って言うんだけれども、そっちも年金もらってんの? だって。
 俺、まだ49だぜ。俺ってそんなに老けて見える? あれにゃあ凹んだよ。
 とにかくよぉ、俺ら、もうそんなに若くは無いんだから、お互い無益な争いは避
けて、仲良くやろうや」言うと斉木は鮎川の肩を馴れ馴れしく2回叩いた。
 ここまでが斉木と鮎川の出会った頃の話である。

 さて、それから夏になったのだが、鮎川が柳生博風1、9分けを丸刈りにしたら、
凸っぱちである事が判明した。
「こりゃあイルカだ。泉と同じだ」と斉木は思った。
 それに前後して、他の清掃員から、「泉ちゃんと鮎川は、どうも気が合うらし
い」という話も聞いた。
 途端にカリカリしてきた。
 引継ぎの時に、鮎川に、「お前、泉ちゃんと何か話したりしているの?」と聞く
と、
「オタク同士なもので」と言う。
 よく聞いてみると、オタク同士で自分の創作物、漫画やイラストを見せ合ったり
していると言う。
 鮎川の野郎、生意気だ。
「その漫画、俺にも見せろ」と斉木は言った。
 鮎川が持ってきた漫画は、村人が木に食われるとか、6次元なんとかとか、前半
水木しげる、後半石ノ森章太郎みたいな作品で、今一理解出来なかったが、それよ
りも理解できないのが、数十ページに渡る細かい漫画を、大学ノートに描いている
事だった。
「なんでケント紙に描かないんだよ。これどれぐらいかかった?」
「3ケ月ぐらいかなあ。それは中野のビルの立体駐車場の外にある、電話ボックス
ぐらいのプレハブの中で描いたんだ」
「お前、警備員をやっていたの?」
「そうだよ」
「よく採用されたな。何年ぐらいやっていたんだ」
「15年位かなあ」
「その前は?」
「自衛隊。俺、富士のすそ野で小銃を撃っていたんだ。俺、すごく上手くて大会と
かにも出させられたんだよね」
「何でそんな大事な事を言わないんだ」斉木は大声を出した。こんな野郎でも国家
に寄り添って生きていた時代があったのか、と思えたのだ。
「そもそもお前って、学校出てから何をしていたの?」
「最初はタツノコプロに就職して、そこを辞めて自衛隊に入った」
「ゲーセンでスカウトされたとか?」
「アニメージュの裏に描いてあった」
「自衛官募集って?」
「タツノコプロの募集」
「そうじゃないよ。自衛隊に入った理由だよ」
「それは親に言われて…。たるんでいるからって」
 それから色々根掘り葉掘り聞いてみると、どうも、連続幼女誘拐事件の時期と重
なる。
 なるほど、オタクの息子の扱いに困って、自衛隊に放り込んだんだろう。
「とにかく、そんなんだったら、あんな6次元なんとかじゃなくて、自衛隊時代の
事を描けばいいじゃん」
「それはもう描いたよ。コミケにも出品したんだ。それは大学ノートじゃなくてち
ゃんとケント紙に書いたんだよ。だって印刷して製本したんだから」
 この野郎、俺が盗むとでも思って、出し惜しみしていたんじゃないのか。
「じゃあ、それを持ってこいよ。俺がスキャンして、ムービーにしてyoutub
eにうpしてやるから」
 これは話の流れでそうなったのだが、内心、「泉とくっつかれるぐらいなら、俺
がそのコンテンツを牛耳ってやる」みたいな気持ちが斉木に無かった訳ではない。
それは、大沼とカミーラに割り込んで行ったのと同じ様な心理だろう。ブックオフ
でも人が見ている棚に割り込んだりする。
 しかし24時間勤務の夜中に、鮎川の『自衛隊物語』をスキャンして、ペイント
でコマごとにばらばらにして、ムービーにする、という作業をしている内に、
「鮎川に、俺の『ビートルズ殺人事件』を漫画化させて、ジャンプとかサンデーに
投稿したら漫画原作者になれるんじゃないか」と思いだしたのだ。
 そんなこんなで、鮎川にその作業を始めさせたのが、2010年の晩秋頃だろう
か。










#1078/1158 ●連載    *** コメント #1077 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:15  (372)
斑尾マンション殺人事件 11
★内容

● 45

 ここで又2011年3月26日の深夜の斑尾マンションの管理室に戻る。
  鮎川は『ビートルズ殺人事件』を熱心に描いていたのだが、机の上の目覚まし
時計が2時半になって、カチッと音を立てたので、我に返った。
 24時間管理員は、3時に新聞屋と通す為に、この時間に一度起きるのだった。
 鮎川は防犯カメラの所に行くと、駐車場屋上だのマンション外周だのを表示して、
屋外の様子を伺った。街灯の差している所だけ雪が舞っているのが分かった。
 それから鉄の扉を開けると実際に外を見てみた。既に数センチ積もっていた。
 寒みぃー。
 ぶるっとして扉を閉めた。冷気に反応してエアコンが動き出した。
 腹が減った。
 鮎川は防災盤の中に隠してあった鍋を取り出すと、キッチンコーナーでレトルト
のスパゲティ・ミートソースを温めてた。ココアも入れた。
 それらを食べながら、ネットでAKBの柏木を見る。
 大沼の紹介してくれた日系人とやればこういうのには興味がなくなると思ったが、
それとこれとは別だった。
 スパゲティーを完食して鮎川はゲーっとゲップをした。
 アイホンが馬鹿でかい音で鳴った。
 防犯カメラを見ると、新聞屋が3人、風除室のアイホンに張り付いている。
 鮎川は防災盤の所に行くと、ボタンを操作して自動ドアを開けてやった。
  自分もフロントに出る。
 入って来るなり新聞屋が怒鳴り出した。
 読売 : 一体どういう事なんだよ。
 鮎川 : 雪のこと?
 読売 : 斉木だよ、斉木。誰か知らないのか。
 毎日 : 斉木はペルー人と結婚する予定だったらしいぜ。
 読売 : じゃあ何で撃たれたんだよ。
 毎日 : 朝日が詳しい。
 朝日 : どうも斉木さん、女の写真を流出させたらしんだよ。
 読売 : ネットで?
 朝日 : いや、A4のファイルに入れて持ち歩いていたらしい。
 読売 : なんでそんな事したんだよ。
 朝日 : 自慢したかったんじゃないの? 俺はこんな女とやっているんだぜー、
みたいに。その内、当局の知る所となって、映画館が手入れを食ったって話だよ。
それで4人もたいーほされて、一人当たり300万の借金があったから3×4で1,
200万払えって言われたらしい。
 読売 : 誰に?
 朝日 : あいつらのボスだろ。
 読売 : それって男の日系人かよ。
 朝日 : そうだろう。
 読売 : そんな奴らの言いなりになっているのかよ。
 朝日 : 拒否ったら撃たれたんだろう。
 読売 : 全く、そんな奴ら、追放してやればいいんだよ。
 朝日 : そういう訳には行かないだろう。
 読売 : 何で。
 朝日 : だって、これだけ物が入って来ているんだから人だって入って来るよ。
この新聞紙だって南米の熱帯雨林から出来てんだから。
 読売 : おめー、そんな事考えながら新聞配ってんの? おめーはどうなんだ
よ。
 毎日 : 女だけなら入れてもいい。
 読売 : おめーはユニークだな。
 朝日 : とにかく早く配っちゃわないと。雪がどんどん積もるし。朝になって
固まるとワダチになるんだよ。さっきもハンドルを取られそうになった。
 読売 : 鮎川ッ。雪かきしておけよ。
 鮎川 : はい。
 そして新聞屋は居住棟に入っていった。


●46

 翌朝、明子と井上はジムニーでマンションに向かっていた。
 大粒の雪がフロントグラスに落ちると、すぐにワイパーが拭いて行った。
 歩道には真綿の様な雪が積もっていた。
 カーラジオからは天気予報が流れていた。
「日本付近は、冬型の気圧配置が緩み始めており、朝鮮半島から山陰にかけて弱い
気圧の谷が発生しています。この影響で、妙高山を越えて雪雲が流れ込んでおり、
野沢温泉地方では大雪になっています。午前8時現在の積雪は野沢温泉で52セン
チ、小谷で44センチ、飯山で37センチ」
 ジムニーをマンションの駐車場に止めると、二人は傘も差さずに正面玄関に回っ
た。
 入館すると鮎川がフロントに突っ立って居た。
 明子は、コートの雪を手袋でぱたぱた払いつつそっちに行く。
「まぁ、凄い雪だこと。鮎川ちゃん、そこの内側に、私のICレコーダーがあるん
だけれども、取ってくれない?」
「これですか」鮎川は見付けると渡してきた。
「あんがと」

 二人は、居住棟に入り、エレベーターに乗って、4階のAMの事務所に向かった。
 部屋に入ると、電気をつけ、エアコンを付ける。
「コーヒーにする? ダージリンティーもあるよ」明子が言った。
「じゃあダージリンティーで」
 2人は応接セットで紅茶をすすりながらICレコーダーを再生した。
 夜中の新聞屋の会話がそっくり録音されていた。
 テープを聞きながら、新聞にも気質があるのだ、と明子は思った。
 それはこんな感じだった。

     イルカ − イタチ
     毎日  − 朝日
    ―――――・―――――
     石臼  − ラクダ
     読売  −

 左下はサンケイだろうか、と思う。
 そんな事より、「斉木さんって、日系人のボスに撃たれたって言われているけど、
警察に言わないとまずいんじゃない?」
「そんな事をして、僕らがちくったみたいに思われないだろうか」
「ら、って言わないでくれない?」
「だって、テープを仕掛けておいたのはそっちじゃない」
「そうだけど、管理主任者はそっちなんだから」
 ふーと大きくため息をつくと、井上はソファに身を沈めた。「会社に電話してみ
よっと。警察OBが居るから」そしてスマホを出して掛けようとしたが、「今日っ
て土曜だよな。休みか」と言うとがっくり肩を落とす。
「大沼さんに聞いてみるかしかないよ。もうすぐ引継ぎが始まるから」

 フロントに下りていくと、二人は管理室を覗いた。
 引継ぎはまだ始まっていなかった。
 ホワイトボードの前で、大沼が鮎川に何やら言っている。
  日系人の話でもしているだろうか。
 榎本は何時もの様にドア付近で何事にも関わるまいと背中を丸めている。
 蛯原は居なかった。
 ほら、行ってきな、と、明子は井上の目を見ながら顎で命令した。
 井上は咳払いをしてノドの調子を整えてから、ホワイトボードの方へ進む。
「大沼さん」
「ん?」
「ちょっと言っておきたい事があるんですけど」
「なんや」
「大沼さん、日系人の女性と付き合っているらしいけど、時間外に何をやろうと勝
手ですけど、職場に持ち込まれるのは迷惑なんで、止めてほしいんですけど」
「おお、分った、分った」
「じゃあ、宜しくお願いします」
 言うと井上は戻って来た。
「それだけ?」明子は目を丸くした。「もっと詳しく聞いて、対応しないと」
「馬鹿を相手にしたってしょうがないよ」
「だってその馬鹿が今、問題を起こしているんじゃない。今のじゃあ、お互いの人
生を歩みましょう、って言って来た様なものじゃない」と言いながら明子は管理室
の中を見た。
「私が聞いてくる」言うと明子は大沼の所に歩み寄る。
「大沼さん」
「ん?」
「前に飯山の駅で抱きついていた女性なんですけど、あの人ってどういう人なんで
すか?」
「恋人や」
「恋人?」
「そうや。この歳になっても、惚れられるって分かったよ」
「は?」
「夜勤明けは、駅からアパートまで走って帰るんやで、早く会いたいから。あの気
持ちに嘘はないで」
 それから大沼は、自分が留守中に掃除がしてあるのだが本棚の本が上下あべこべ
になっている、だの、味噌汁の出汁に鶏の足を使うだの言う。
「自分の気持ちは嘘はない。もし間違っていたなら、そう思わせた世界に責任があ
るんや」
「それって、世界の中心で愛を叫ぶ、つーか、自己ちゅー? つーか、大沼さんの
気持ちなんてどうでもいいんですよ。今問題にしているのは入管法とか売春防止法
とかなんですから」
 ここで、知らない間に入って来ていた山城が言った。
「大沼さんよ、溺れちゃあいけないよ」
「なにぬかしとんねん。お前かて、あの映画館で遊んでたやないか。そんなのに、
自分ちの田んぼには入ってくるなってか」
「味噌と糞とを一緒にするなよ。米にかけていいのは塩だけだ。油で炒められてた
まるか」
「お前んちのお節料理かて、みんなペルー人が水産加工の工場で作っているんや
で」
 それを聞いていて、明子は自分が石油缶の蓋みたいに、ぺっこんぺっこんするの
が分かった。
 というのも、ついさっきまで、大沼など、例えば、チリ人妻を手引きする迷惑な
おっさん、という感じだったのだが、ここで山城が登場すると、こいつこそ、清く
清くと言いつつ汚れたオヤジ、と思えて来るのであった。
 うーん、と唸っているところに、今度は蛯原が入ってきた。
「井上さん、ちょうどいいところにいた。今、山城さんに雪かきを手伝ってくれっ
て頼んだんですけど、全然聞いてくれないんですよ。お前に使われているんじゃな
いって言って。井上さんから言ってもらえないですかねえ。これだけ雪が降ってい
るんだから。
 これ、どんどん積もりますよ。このままだと、屋上のスロープから車が滑り落ち
て、一つ下の階の車にぶつかりますよ。そんな事になったら管理会社は関係ないな
んて言ってられないですよ。そりゃあ確かに自然災害は関係ないってなっているけ
れども、ゲレンデ直結のリゾートマンションで雪対策が出来ていないんじゃあ、そ
もそも規約がおかしいって言われますよ。都内のマンションの規約を写してきたん
じゃないかって言われますよ」
「そういうのも含めて、ぜーんぶAMでやってくれないかなぁ。全部一括でお願い
しているんだから」と井上。
「そんなん、言っている間にもやってしまった方が早いん、違うか。これだけ人数
いるんやから」と大沼が言った。
「そうだなあ」言って蛯原は辺りを見回す。
 榎本、蛯原、井上、高橋、山城、鮎川、大沼が居る。
「そうしたら、あんた、誰がどこやるか、決めてんか」
 蛯原は、ホワイトボードに進み出ると、水性マーカーを取った。さっさっさっと、
マンションの周辺図を描く。
「じゃあ、正面は鮎川ちゃんがだいたい終わらせてあるから残りは榎本さん。それ
から、鮎川ちゃんと俺でマンション東南の歩道。井上さんも手伝ってくれるの?」
「いいですよ」
「じゃあ井上さん、大沼さんと、高橋さんも手伝えたら、3人でサブエントランス
周辺を。集積場は清掃がやるだろ」と山城を見る。
 じゃあ全員で取り掛かろう、と管理室から出て行くのと入れ替わりに泉ちゃんが
凸っぱちを覗かせた。
「私の事、呼びました?」
「泉ちゃん、こっちこっち」と蛯原が手招きする。そしてNTT盤の前に置いてあ
る石灰の袋を示しつつ、「あれを、駐車場屋上のスロープに撒いておかないと。そ
うしないと大変な事になるから。流しの所にバケツがあるからそれに入れていって、
撒いておいて」


●47

 大沼を先頭に、井上、高橋と、手に手に長い柄のついたプラの雪かきを持って、
サブエントランスに向かう。
 歩きつつ、明子は、人間のメモリにもタイプがあるのではないか、と考えていた。
 例えば、さっきの管理室の自分は何なんだろう。大沼を見ればチリ人妻を連想し、
山城を見れば水産加工会社のペルー人を連想する。大沼や山城がどうこうではなく
て、それぞれがトリガーになって、過去の記憶がぼろぼろ出てくる。これは丸で、
エクセルみたいなファイルでキーワード検索して、その行に書かれていた記憶が蘇
る様な感じである。
 自分に比べて大沼はどうなんだろうと、明子は先頭を歩いている大沼を見た。
 あの人は、自分の感性を疑わない、つーか、確かに自分はそう感じたんだからと、
その通りにハード、周辺機器を動かそうとする。つまり、ドライバみたいなものな
んじゃないのか。明子の記憶が、空想的なものなら、大沼のは、粘着というよりか
は粘膜という感じがする。ナメクジって粘膜むき出しでのろのろ移動して行くが、
その道だけを世界と思うなら、自分と世界とは粘膜越しに張り付いている訳だから、
リアルといえばリアルだ。
 山城のはメモリというか、プロダクトIDとかシリアルナンバーみたいなものな
んじゃないのか。大沼あたりが長い長い自己の経験から何かを言うと、山城は、そ
の経験は純正品じゃないと判定して駄目出しするという感じ。だからこの手の人が
何かを語っても、それは自分の経験ではなくて、世の中にある臭ーいものに反応し
ているだけだろう。あれも臭い、これも臭いと拒否って行って、残った箇所が彼の
求める清い部分なのだ。
 そして、蛯原は、キャッシュだな。まさに今の出来事に反応しているだけで、事
態が収束すれば全てを忘れる。
 それを図にすればこんな感じじゃないのか。

          動的
          −
小 ポール(蛯原) −ジョン(明子)   大 
は キャッシュ   −エクセル      は
量 刹那主義    −解釈学       量
の ――――――――・――――――――  の
憶 リンゴ(山城) −ジョージ(大沼)  憶
記 プロダクトID −ドライバ      記
  排他主義    −歴史主義
          −
          静的

 右上から左下へのラインが環境主義的で、その逆が解釈学的な感じがする。
 そうすると、こういう4人がコミュニケーションを取るという事は可能なのかと
も思う。だって、自分に何か言われても、エクセルシートのその行がアクティブに
なるだけだし。大沼なんて自分の歩いてきたナメクジ的足跡しか世界がないのだか
ら、例えば大沼と井上が話したとしても、お互いに紙芝居を見せ合っている様なも
ので、自分の意見やら考え方が変わるという事はない。山城に至っては家紋に向か
って話している様なものだ。そう言えば、リンゴ・スターの家には、祖父以外には
誰も座ってはならならない、何故ならそれは祖父の椅子だから、という椅子があっ
たという。格とか筋合いを大事にするのだろうか。
 あと、蛯原は話した瞬間はコミュニケーションが取れたとしても、電源を落とせ
ば消えるんだから。
 だから、そもそも人間が繋がるという事は出来ないんじゃないか、と明子は思っ
た。


●48

 サブエントランスに到着すると、先頭の大沼が言った。
「ここらへんは駐車場の影になっているやろ。西日で溶けて翌朝、又凍結するんや。
まー、今やったところで、今夜遅くまで降るっていうから意味ないが、人が歩く所
だけでもやってしまうか」
 そして、出口付近の雪かきを始めた。
 明子が井上に言った。「私、雪かきしながら、なんとなく大沼さんに聞いてみ
る」
「なにを?」
「だから、斉木が撃たれた事とか」
「ほっときゃあいいよ。昼には警察がくるし、大沼と一緒にICレコーダーを渡す
から」
「でも聞いてみる」と大沼を見る。
 柄の長い雪かきで作業をしている姿は、酪農家が牧草でもつついているように見
える。
 明子は大沼の背後に行くと雪かきを始めた。
「大沼さん」
「なんや」大沼も雪かきしながら返事をした。
「さっきの続きなんですけど、その日系人って結局どういう人なんですか?」
「だから、恋人や」
「恋人といっても日系人でしょう?」
「そうや」
「それって、怪しくありません?」
「何で?」
「だって、集団で売春をしていたり、斉木さんを撃ったりしたんでしょう?」
「斉木君の事は知らないけど、売春なんて昔はみんなやっていたんやろ」
「昔はともかく、今やっていたらまずいでしょう」
  言っている内に飯山で見たカミーラの姿が脳内に蘇ってきた。
  ファー付きダウン、きつきつのGパン、厚底ブーツ、ケバい化粧…。あんな如
何にもな格好に萌えるのだろうか。
「大沼さんって、あの人の事、好きなの?」
「愛しとるがな」
「何で?」
「いい女だから」
  いい女だから萌える、というのに明子は驚いた。
  自分だったら、飢えているから萌える、とか思うんじゃなかろうか。
  石臼だったら、みんながいいと言っているから萌える、とか言いそうだ。
  イルカだったら、そのポーズがいいから萌える、とか。
  愛が何に由来しているかをまとめるとこういう感じになるのではなかろうか、
と明子は思う。

     イルカ    − イタチ
     性行動への反応− 私の欠乏
       ―――――・―――――
     石臼     − ラクダ
     社会の欠乏  − 異性への反応

  そうに違いない、オスに限って言えば。
  明子は、雪かきを雪の塊に突っ立てると、柄に両手を乗せて大沼を見た。
  大沼が「俺がいいと思っているんだから、そう思わせるだけの何かが彼女には
あるんやでー」と言いながら振り返った。
  そして、ばさーっと両手を広げた。丸で怪人20面相がマントでも広げるよう
に。
  ところがそのまま我が身を抱きしめる様に丸まると、その場に倒れこんだ。
「うううう」とうめいている。
 「ひゃーっ。大沼さんが倒れた」明子は後ろを振り返った。
 井上が駆け寄って来る。
 何故かサブエントランスの外側からは蛯原が走って来た。
 途中でタバコを投げ捨てると、蛯原はかがみ込んで、「心臓か」と言った。
「息が苦しい」と言う大沼の顔がみるみる青ざめて行く。
「鼻からゆっくり吸ったらいいよ。しゃべるな。少しは楽になるだろう」
 大沼は微かにうなずいた。
 井上がコートを脱いで「これ、頭の後ろにでも敷いたら」と言う。
「いや、ここだと冷えるから、サブエントランスに連れていこう。二人で抱えるか。
井上さん一人で抱えられる?」
「どうやって?」
「お姫様だっこみたいに」
 井上がだっこしてサブエントランスの風除室に連れて行くと蛯原がコートを敷い
てその上に寝かせる。
 と、ここまでの一連の流れを見ていて、蛯原って頼りになるじゃん、と明子は思
ったのだが。
 しかし、蛯原が、ベルトに通した携帯ケースから、さっそうと携帯を取り出して
119番して、
「こちらは斑尾マンションです。住所は飯山市斑尾高原**番地。目標になる公共
施設等は斑尾高原スキー場のゲレンデです。これは火災ではなく救急車のお願いで
す…」
 というのを聞いている内に、又又、エクセルみたいに、かつての記憶が検索され
て、脳内に、所長が倒れた時の119番通報のシーンが蘇って来た。
「あの時の蛯原は、まるで、スーパーベルズの京浜東北線の歌、みたいな白々しさ
があった」
 そう言えば、これは榎本から聞いたのだが、福島原発の事故の当日にも、竣工以
来一回も使った事のない、全館緊急放送を使って、
「居住者の皆様にお知らせいた致します。温泉が沸きました。オンセンが沸きまし
た。本日、通常通り営業致します」と放送して、
「何か重大な発表があるのかと思えば温泉が沸いただと? ふざけるな」と居住者
に怒鳴られたという。
「もう、張り切っちゃっているんですよォ」と榎本は言っていたが、今も張り切っ
ちゃっているだけなのではないか。


●49

 救急車は約20分で到着した。隊員は大沼をストレッチャーに乗せて格納すると、
一人は運転席で病院に連絡し、一人は大沼をケアし、一人は外に突っ立っていた。
 ここまではスムースに運んだのだが、しかし、行き先がなかなか決まらない。ど
こかの病院に連絡をすると10分ぐらい待たされてから「今、他の救命救急をやっ
ているから」と断られ、又別の病院に電話すると又10分ぐらい待たされてから
「今日は呼吸器循環器の専門医がいない」と断られ。
 だんだん蛯原がいらついて来る。
 そして外にいた隊員に絡み出した。
「なんで、一箇所ずつ電話してんだ。いっぺんに電話して受け入れられる所に行け
ばいいじゃないか。
 それに、何でお前らマスクしているんだ。顔を隠しているのか。公務員には肖像
権がないんだぞ。それとも、自分だけ冷たい空気を吸わないようか。患者から病気
がうつるとでも思っているのか」
「これは、我々がハブになって感染を広げないようにしているんですよ」
「じゃあそのゴム手袋はなんだ。一回ずつ交換するのか」
「そういう訳には」
「やっぱり自分を守っているんじゃないか」
 運転席の隊員が後ろの隊員に何やら言っている。
 蛯原はとんとんとガラスを叩いて中の隊員に言った。
「おい、何時まで待たせる気だ。こんなの、心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死
んでいるぞ」
 オレンジ色の毛布に包まって安静にしていた大沼がギクッと目を見開いた。
 そして自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して「ここに連れ
ていってくれ」と言った。「何時もそこにかよっているんや」
「なんだ、診察券持っているのか。ここだとちょっと遠いけれども、普段診てもら
っているんだったら、ここに行きましょう」と救急隊員が言う。










#1079/1158 ●連載    *** コメント #1078 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:16  (394)
斑尾マンション殺人事件 12
★内容

●50

 病院まで蛯原が救急車に便乗し、井上と高橋はジムニーで追いかけた。
 病院に到着すると、救命救急センターは素通りして、病棟の個室に運び込まれる。
 処置をするからと30分ぐらい待たされてから、病室を覗いてみる。
 既に意識不明らしく人工呼吸器が付けられていた。
 中から看護師が出てきて、「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。
「違いますけど」と井上。
「どういったご関係の方ですか?」
「職場の同僚ですが」
「ご家族の連絡先は分かりますか?」
「大沼に家族なんていないよ」と蛯原。
「会社に連絡すれば、入社時の連帯保証人とかから分かるかも知れない」と明子。
「あんなの、いい加減だろう」
「これ、お渡ししておきますから、読んでおいて下さい」書類を蛯原に渡すと忙し
そうに看護師は消えた。

 ナースステーションのそばに談話コーナーがあった。
 テーブルが5、6個あって、壁にはドリンクの自販機や公衆電話が設置してある。
 3人は壁際のテーブルに座った。
 看護師の置いていった書類が、蛯原から井上へ、井上から高橋明子へと渡ってく
る。
 明子はぱらぱらめくった。
 人工呼吸器を付ける際ぐらついている歯があると気道に引っかかり危険なので、
巡回歯科医が治療する場合がある、つきましては実費200円をご負担願います
云々。治療上の必要若しくは入院患者の混み具合から差額ベッド代を負担して頂く
場合があります云々。
 こんなの渡されてもなぁ、と明子は思った。そんな事より病名が知りたい。ジ
ョージと同じなんだろうか。
 明子は前に座っている井上と蛯原を見た。
 井上の横顔がよく見えるのだが、妙にもみ上げが長いのに今更気が付いた。
 スーツもキルケゴールというか、リチャード・ブローティガンというか、腰の所
がぎゅーっと括れているスリーピースで、ベストのボタンも10個ぐらい付いてい
る。そこに懐中時計の鎖がぶら下がっている。
 今時懐中時計というのは何なんだろう、と明子は思った。
 ふと自分の腕時計に手を当てる。Gショックだ。
 井上の横に座っている蛯原は、椅子の上であぐらをかいていて、背もたれに肘を
乗せている。
「蛯原さん、おっきい時計してますね」と明子が言った。「それって、ローレック
スですか?」
「そうだよ。香港製の。山城が本物のローレックスを巻いているよ。分解掃除だけ
で8万もするって自慢していが」
 何でそれが自慢になるのだろうか。
 でも分かるけど。幾何学的な正確さに神のみ技を感じるんだろう。猫の下の歯並
びが綺麗だったりすると遺伝子を感じる様に。そういうのをメカに求めるとローレ
ックスになるんだろう。鳩山弟の蝶のコレクションも同じだと思った。
 自分も最初はそうだった。でも、ローレックスだけが時計じゃない、ラドーもチ
ソットもセイコーもある。そうやってどんどんオルタナが出てくると、もはやブラ
ンドではなく、『THE 時計』が欲しくなる。それがカシオだったんじゃないか。
 あと、懐中時計というのは自己への執着を感じる。私の時間、という感じ。『i 
me mine』とジョージは歌った。
 って事は、こういう表が描けないか。

     ポール      − ジョン
     香港製ローレックス− Gショック
         ―――――・―――――
     リンゴ      − ジョージ
     ローレックス   − 懐中時計


 脳内のこの表を見て、明子は「今一だな」と思った。「そんな事より、今は大沼
さんの病状か」。
 ふと顔を上げると蛯原が居ない。
 何処へ行ったんだろう、と見回すと、ナースステーションの前をうろついていた。
カウンターの中を覗いたりしている。
  それから廊下の方に行くと、体重計に乗ったり、身長を計ったり。終いには、
アルミの松葉杖を銃に見立てて構えてみたり。
 ありゃあガキだな、と明子は思った。水族館のイルカみたいに、鞠でも投げれば
そっちに飛んで行くんじゃなかろうか。イルカかぁ…。
 そして蛯原が戻ってくると明子は誰へとも無しに言った。
「うーん、さっきの看護師さんだけど、親族じゃないからって何も教えてくれなか
ったけれども、もし労災だったら、私が立て替えなくちゃならないんだよなぁ。コ
ンビニで下ろしてこなくちゃ。てか、社長に連絡しないと。
 労災じゃないとしても、それはそれでやっかいで、社会保険で、疾病手当金の手
続きとかしなくちゃならないんだよなぁ。もう、今月も26日だし、今月は決算で
忙しいし、来月になれば算定基礎届けもあるし、そこに大沼さんの手続きが重なっ
たらこっちが過労死しちゃう。だから少しでも早く事情を教えてくれれば助かるん
だけれども。どうせ私が社会保険に診断書を提出するんだから、病名なんて分かっ
ちゃうんだから。
 でもいいや。私がサービス残業して土日つぶせばいいんだから。はぁー」とため
息をついて立ち上がると「私、ちょっとお化粧なおして来ます」と言って廊下の奥
に歩いて言った。
 明子の姿が消えてしまうと、蛯原が立ち上がって井上に言った。
「あっしがちょっくら探りを入れてきますわ」
 そして、かすれた口笛を吹きながら、体を揺すりつつナースステーションの方に
歩いて行く。
 ちょうどさっき書類をくれた看護師がナースステーションに戻って来た所だった。
「あー、ちょっと看護師さん」と蛯原は迫って行った。
「今忙しいんですけど」
「3分だけ、2分、1分」とにじり寄る。
「何ですか?」
「大沼の病状なんですけど」
「教えられませんよ」
「そんな事言わないで、労災かどうかだけでも教えて下さいよ。でないと会計の時
に困るでしょう」
「別に払ってくれなくても後で会社に請求するからいいですよ」
「もしかして、“か”に点々?」
「かに点々? あー、がんか」
「やっぱりそっか」
「私は何も言ってませんよ」
「だって普通がんでしょう。ここは、呼吸器科なんだから」
「肺の病気は他にもいっぱいありますよ。肺気腫とか肺炎とか肺結核とか。とにか
く病名なんて絶対に教えられませんよ。本人に告知するかどうかだって予め聞いて
おくぐらいなんだから、単なる通行人に教える訳がないじゃないですか」とけんも
ほろろに言うとナースステーションに入っていった。
 今のは相手が悪かった、と蛯原は思った。
 若過ぎた。もっと、アラフィフ、つーか、上がる寸前の、『ごめんね、お母さん
も女なのよ』シリーズに出てくるようなオバサンがやりやすい。女として相手にさ
れなくなる不安から何にでもしがみ付いて来る。弱き人、汝の名はオバサン。
 蛯原は ふらふらと廊下を進んで行くと、大沼の病室を覗いた。
 見た感じ40後半の看護師が大沼をいじくっていた。
 こりゃあ、おあつらい向きだぜ。
 病室に入ると「どんな具合ですかね」と蛯原は声を掛けた。
「今、痰を吸引しますからねぇ」言うと看護師は人工呼吸器のマウスピースからチ
ューブを挿入した。
 ずずずーという音と共に、大沼が胸だの肩だのをびくびくさせた。
「それって、苦しくないんですか?」
「もちろん感じてませんよ」そしてチューブを抜くと「ご家族の方?」と聞いてき
た。
「いやあ、職場の仲間ですよ。俺ら24時間勤務のマンション管理員でね。徹夜明
けにぶっ倒れたんですよ」
「あら、大変だ」言いながら点滴などチェックしている。
「もしかして看護師さんも徹夜明け?」
「あら、何で?」
「目が真っ赤じゃない」
「ほんと?」
「でもまだ若いからどうって事ないでしょう」
「もう長いんですよ」
「じゃあ大沼も安心だ」と言って蛯原はベッドの柵を握った。「大沼さんよ、安心
しろ。いい看護師さんが付いていてくれているぞ。こいつはねぇ、元は電気工だっ
たんですよ。石綿を大量に吸い込んだのもよくなかったのかもな。あれもがんの原
因になるんでしょう?」
「うーん。むしろ体質の方が」
「体質?」
「ご兄弟にがんの方が居たとか」
「そい言えばこいつは姉をがんで亡くしているって言っていたな」
「じゃあ、がんの家系なのかも知れないわね」
「ついてねえな」蛯原は2、3回鼻をすすると目頭を押さえた。本当に涙が出てき
たので驚いた。「ちょっと失礼」と言って病室から出る。

 談話コーナー戻ってくると、蛯原は明子と井上に報告した。
「やっぱり、大沼はがんですね」
「すごーい、聞き出したんですか」
「なんたって、俺はオマワリに言って、車のナンバーから持ち主に連絡させる男で
すよ」
「そんな事、出来るんですか」
「所轄か交番に電話して頼み込めばね。ところが斉木の馬鹿はいきなり110番通
報して、自分がクレーマー扱いされたとかなんとか騒ぎ出す。今度は一転して、管
理規約に書いて無いからもう警察には連絡しないとかね。あいつは1か0かで使え
ませんよ。
  つーか、あいつはもう本当に使えないんだな。早く所長に言って人の補充をし
てもらわないと。つーか、所長も居ないんだよな。妙に人が減るなぁ」言うと蛯原
は井上の顔を見た。
 井上のスマホが鳴った。
 ディスプレイの番号を見て、「警察からだ」と言ってから出る。
「もしもし。はい、そうです。あー、大沼ですね、入院したんですよ。ええ。事故
じゃなくて病気ですけどね。意識がありませんから事情聴取は無理だと思いますよ。
詳細は病院に直接問い合わせて貰えますかね。ええ。病院は飯山市立三途の川病院、
医事課、0269…」




●51

 帰りは蛯原もジムニーに同乗して、マンションに向かった。
 雪はまだまだ降り続いていた。
 峠のあちこちで、ランクルやパジェロなどの大型4駆車が、自重でスタックして
いた。その脇を、3人が乗ったジムニーがするするとすり抜けていく。
「今日の24時間管理員ってどうするんです?」後部座席で蛯原が言った。
「まだ鮎川さんってマンションに居るんですよね。彼に昼間寝ていてもらって、連
投してもらうっきゃないでしょう。明日になったら本店に電話してみるから」
「今、電話してみればいいのに。上司の携帯ぐらい知っているでしょう?」と明子
が言った。
「電話したところで、僕が主任者なんだから、僕が決めないとならないんだよ」
「だったら今決めればいいじゃない」
「だから、鮎川さんに連投してもらうって決めたじゃない。でなければ、AMの社
長にお願いするしかないよ。高橋さんが電話してみればいいじゃない」
「つーか、そんな事を言っている場合じゃないんじゃない? もう3人も死んだり
病気になったりしているんだよ」
「それは警察の仕事でしょう」
「じゃあ、あんた、何をやるの?」明子はちらりとルームミラーで後部座席を見た。
「まあいいや。事務所で話す」

 事務所に着くなり、コートを脱ぎながらさっそく明子は「見立て殺人が進んでい
る」と言った。
「見立て?」
「だって、所長、斉木、大沼って来ているんじゃない」
 ぼーっとしているので、タイムカードの上に乗っかっている行先ボードを持って
きて表を書いた。

 エプスタイン 所長  吐しゃ物
 ジョン    斉木  拳銃
 ジョージ   大沼  肺がん

「こういう具合に、見立て殺人が進行しているのよ」
「だって斉木も大沼も生きているし」
「そうだけど、一応は関係が成り立っているでしょ」
「じゃあ、次は誰が狙われると?」
「『ビートルズ殺人事件』ではリンゴだから、リンゴに相当するのは山城さんよ」
「誰に?」
「そりゃあ分らないけど。
 ただ『ビートルズ殺人事件』ではエプスタインはジョンが首謀者でポールが実行
犯でしょう。このマンションでは、斉木が首謀者で蛯原が実行犯って感じ」
「だからその斉木は入院しているって」
「首謀者なんて居なくたって、実行犯が居れば勝手に反応するのよ。蛯原なんて、
ずーっと忘れていた癖に、クリスマスが来れば、クリスマスの飾りを思い出すでし
ょう? デスノートみたいに」
「それで、僕にどうしろと」
「だから、生き残っているのは山城と蛯原なんだから、その二人に関して調査しな
いと」
「又インタビューでもしろと?」
「そんな事したって、大沼さんは入院しちゃったんだから、そんな事したって、時
限爆弾の配線をちょん切る様には止まらないんだよね」
「じゃあ、どうする」
「飲み会でもやったら?」と明子は言った。「残りのターゲットは山城、蛯原の2
人なんだから、飲み会でもやって懇親をはかればいいんじゃないの?」
「そうだな」

 という訳で、井上は山城、蛯原の両名を飲み会に誘った。
 最初は難色を示したものの、二人とも、雪の為徒歩で出勤していたので、街まで
送って行ってあげるから、と言ったら、承諾した。
 普段は山城はチャリ、蛯原は原付で通勤していた。


●52

 明子、井上、蛯原、山城の4名は、その晩、飯山市内の居酒屋に行った。
 土間から一段高くなっている座敷に通されると、とりあえずビールで、お疲れさ
まーの乾杯をした。
「すぐにお造りがきますんで」と井上が蛯原、山城に気を遣う。
 明子は付け出しのもずくをすすった。「酸っぱい。ほっぺがぎゅっとなる」
 何気に、カウンター席の方を見る。
  天井からぶらさがっている棚にブラウン管テレビが設置してあった。
 ホリエモンが低線量被曝なんてものはそんなに心配しなくても平気だ、とか言っ
ていた。
「あの人、もうすぐ収監されるっていうのに、よく原発の心配なんてしているよ
な」つられて見ていた山城が言った。
「あの人は凸っぱちじゃないですか。ああいう人はイルカだから、目の前にある事
にしか反応しないんですよ。でも自分で考えているわけじゃなくて誰かに操られて
いるんじゃないのかなぁ」
「誰に?」
「例えばソフトバンクの社長とか。あの人ってイタチみたいなオデコでしょ。ああ
いう人って計算して色々企むんですよ」
「そういえば高橋さんもそんな感じのオデコしているよね」と蛯原。
「そんなあ、私そんなに計算したりしないですよ」
「じゃあ俺は」と山城。
「山城さんは、ホリエモンとか孫社長とかじゃなくて、もっと質実剛健な感じ。経
団連とか農協とか。まあ、IT企業で言ったら、アスキーの西って感じかなぁ。ち
ょっとマニアックですけど」
「まあ俺は昔ながらの男だからな」
「つーかね。うん」明子はビールをごくごくごくーっと飲み干した。「私が言いた
かったのは、例えばですよ、山城さんと蛯原さんが衝突したとしても、それは誰か
イタチが後ろで操っているって事ですよ」
「誰が?」
「斉木さんとか」言うと明子は蛯原と山城の顔を交互に見た。
 山城はなんの事やら分かっていないみたいだが、蛯原は何か思い当たる節でもあ
るやの雰囲気だった。
「因みに僕って今時の経営者で言ったら誰?」と井上が言った。
 ちょうどその時、店員がお造りの大皿を運んで来たので井上が受け取った。
「ワタミの社長かな」と明子が言った。


●53

 その頃管理室では、既に40時間以上も勤務されられている鮎川が、『ビートル
ズ殺人事件』の漫画化を進めていた。
 自分の描いた絵を見て、「なんだが、『ゲゲゲの鬼太郎』になってしまったな」
と鮎川は思った。
 ジョンはねずみ男、ポールは鬼太郎、ジョージはぬりかべ、リンゴは子泣き爺で
ある。
 鮎川は水木しげるを愛していた。

 かつて、斉木が「水木しげるっていうのはおかしい」と鮎川に絡んできた事があ
った。「普通だったら、戦争に行って腕とか失えば、軍部を恨むだろう。何でそこ
で、オカルトに走るんだよ。あと、『銀河鉄道999』って言うのもおかしいだろ
う」
「それは水木しげるじゃないけど」
「それは知っているけど、銀河鉄道なんていうのは無いんだよ。あるのは、西武鉄
道999とかだろう。
 俺が思うに、お前らオタクは制度内で非力だから、オカルトだの銀河鉄道だのっ
て言うんじゃないのか? そんで、制度とは関係の無い、オカルト少女だの戦闘美
少女だのに萌えるんじゃないの?」
「それは全然違うよ。自分は戦闘美少女には萌えないし」
「じゃあアンヌ隊員は?」
「アンヌ隊員は戦闘美少女だよ」
「ラムちゃんは?」
「ラムちゃんはオカルト系だよ」
「ラムちゃんには萌えるの?」
「萌える」オカルトだったら何にでも萌える。崎陽軒の醤油差しで抜けると言う。
「ふーん。って事は、アンヌ隊員に萌える奴っていうのは、まず制度内の弱者とい
う立場があって、それ故に、制服を着たアンヌ隊員に萌えるって事だな。だって、
ロハスな女だったら相手にしてくれる訳ないものな。アンヌ隊員だったらナイチン
ゲールのノリで優しくしてくれるかも知れないけど。
 そんで、ラムちゃんっていうのは、純然たる奇形って訳か。
 じゃあ、ここで話を『ビートルズ殺人事件』に戻すけれども。
 俺は前から、ポールっていうのは、世界には適応しているが要素の倒錯がある、
って思っていたんだよ。それって、絵画で言うとマグリット的だよ。
 偶然にも、アップルレコードの林檎のマークはマグリットが描いていて、あれは
ポールが所蔵していたのだけれども。
 そして、ジョンというのは、世界に倒錯を起こしていて、ムンクの『叫び』状態
なんじゃないかって思っていたんだよ。
 それから、ジョージは、倒錯というよりも疎外されていて、それはゴッホみたい
だと思っていたんだよ。
 あと、リンゴは、エプスタインと似ていて、それらの絵を買いあさる画廊経営者
みたいだなと。
 そのイメージで、ラムちゃんと戦闘美少女の分類も可能なんじゃないのか。つま
りこういう感じだよ」と言うと斉木は図に描いて見せた。


          倒錯
          −
  ポール     −ジョン
  マグリット   −ムンク       
  ラムちゃん   −アンヌ隊員
素 ――――――――・―――――――― 界
要 リンゴ     −ジョージ     世
  画廊経営者   −ゴッホ      
          −ゴス
          −
          疎外

「そうだ。これに違いない。
 この右上から左下のラインがリビドーに関わった欲動であり、その反対が超自我
に関わるんじゃないか。
 だから鮎川よ、そこらへんをよーくイメージして漫画化して欲しいんだよな」

 これはずっと前に斉木が言った事だった。しかし何の事だか分からないままに、
鮎川は『ビートルズ殺人事件』を描いていた。
 さて、鮎川は完成した漫画をスキャンすると、フォト蔵にしまった。
 それから何時もの様に、レトルト食品とココアで腹ごしらえをすると、新聞屋を
待った。
 しかし、その朝、新聞屋が来たのは予定を3時間も超えた6時だった。
 正面玄関の自動ドアを開けてやると、フロントに入って来るなり新聞屋の一人が
怒鳴った。
「鮎川ーッ。雪かきしておけって言っただろう。滑ってしょうがねえ」
 新聞屋が入館すると、鮎川は、ボイラー室からプラの雪かきを取って来て、正面
入り口から雪かきを始めた。
 既に夜は明けていて、雪はやんでいた。

 約2時間使って、やっと歩行者の通れる30センチ幅の通路を確保した。
 鮎川は空を見上げた。
 雲の流れが速く、時々切れ目から青空が見える。
 チャリン、チャリンとベルを鳴らされて視線を水平に戻した。
 山城が自転車でこっちに迫って来る。
「あれ、チャリンコで来たんですか」
「シャッター開けてくれ」と山城。
 鮎川はポケットをまさぐって、シャッターのリモコンを押した。
 山城は、鮎川を通り越して駐車場の方へ消えて行った。


●54

 駐車場に入ると、山城はバックミラーで鮎川を見た。
 又、チャリン、チャリンとベルを鳴らす。
 真っ直ぐ行って突き当たりのスロープを登ると、ぐるりと回って、エレベーター
前に到着する。
 自転車を立ててエレベータに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
 AMの自転車置場は最上階のスロープの下にあったのだ。
 屋上に降りると、一面に真綿の様な雪が降り積もっていた。まだ全然足跡が付い
ていない。
 山城は、嬉々として自転車を漕ぎ出した。
 真っ直ぐスロープには向かわずに、あちこちを旋回しながら、オリンピックの輪
の様にタイヤの跡を付けていった。
 何故か、『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出した。
 あの映画は妻と見に行ったのだった。
 妻は処女だった。雪のように白く清かった。
 『雨に唄えば』を口ずさみながら、山城は雪の上にタイヤの跡を付けて行った。
 俺だけが汚していいのだ、と山城は思った。後で、泉だの横田だのに汚されてた
まるか。あいつらほんとうに豆腐に指を突っ込むようなガキなのだから。
 散々ぐるぐる回ってから、階下に向かうスロープに向かった。
 その時になって、今日は日曜だから泉らは来ないのか、と気が付いた。同時に、
今自分が口ずさんでいるのは『雨に歌えば』じゃなくて、『明日に向かって撃て』
でポール・ニューマンがキャサリン・ロスを籠に乗っけて漕いでいる時の歌だ、と
気が付いた。
 次の瞬間に、自転車の前輪がスロープに差し掛かったのだが、突然、ハンドルを
取られるのが分かった。
 焦って斜面を見ると、積もったばかりの雪の下に薄っすらとワダチが出来ていて、
左側の壁に向かってカーブしている。
 あれッと思った時には、ずずずずーーっと滑り出していた。壁に激突する、と思
ったのだが、壁が外れて、自転車もろとも地上に転落した。
 こりゃあ死ぬぞ、ともがいている内に、自転車と自分が入れ替わり、自分が先に
背中から着地した。かなりの衝撃だったが、雪がクッションになって、助かった、
と思った。しかし次の瞬間、自転車が落ちてきて、ブレーキレバーが右腹部の肝臓
付近をざっくりとえぐった。その衝撃で自分はうつ伏せの状態になり、チャリは回
転して、脇の小道に飛んでいった。











#1080/1158 ●連載    *** コメント #1079 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:16  (451)
斑尾マンション殺人事件 13
★内容


● 55

 正面玄関で雪かきをしていた鮎川は、ぎゃっ、という短い悲鳴の後に、ちゃりー
んという音を聞いた。
 自転車でコケたのかなあ、と考えて、しばらくじっとしていたのだが、ハッと気
が付いた様に、雪かきを持ったまま走り出した。
 駐車場の真ん中を突っ走って、裏側の柵まで行く。
 舗道に自転車が落ちているのを発見した。
 植え込みの手前には、山城が卍みたいな格好をしてへばりついていた。
 鮎川は、柵の扉を開けて、山城に近寄ると、周辺をうろつきながら様子を見た。
 綺麗に雪が積もっている所に落っこちているので、もしかしたら生きているかも
知れない。
 雪かきの柄で、山城の腹部をぐーっと押してみる。腹の下から、どろーっと血が
流れ出してきた。
 フェンスの外側の松の木で、カラスがくっ、くっ、と咽を鳴らせて羽をばたつか
せた。
 鮎川は雪かきを振り回してみたが、カラスは微動だにしなかった。
 雪かきを銃に見立ててカラスを狙う。バーン、バーンと言った。
  小銃があればなぁ、と思った。鮎川は的に命中させて、同じ所にもう一発通せ
た。
 突然雪かきを放り投げると、口をへの字に曲げて頬を膨らませた。
 携帯を取り出して119番通報する。

 救急車よりも先に警察が到着した。服部、三木、山本、須藤の4人と鑑識である。
 鑑識らが、舗道にへばり付いた遺体を取り囲んだ。その中に一人白衣を着ている
のが居て、ひっくり返してくれ、と言った。
 鑑識二人で、一斉のせいでひっくり返す。その拍子に裂けた腹から内臓が飛び出
してきた。
「うわー こりゃあ又ど派手に裂けたもんだ」言うと白衣の警官は、手にはめたゴ
ム手袋を引っ張ってパチンと鳴らした。遺体の脇にしゃがみ込んで、腹の辺りをい
じったり、瞼を持ち上げてみたり、口を開いてみたりする。
 他の鑑識は、写真を撮ったり、メジャーで、駐車場壁面から遺体までの距離、そ
の他を測っている。
 救急隊も既に到着していたが、ストレッチャーの上に、オレンジ色の毛布だの、
オレンジ色のAEDのケースだのを積んだまま、待たされていた。
 4人の警察官は、駐車場の柵の近くから最上階を見上げていた。
「あそこから転落したのか」と山本が言った。それから「おい、君、ちょっとこっ
ちに来て」と鮎川に手招きする。
 そして、山本と須藤とで質問した。
「まず名前は」
「鮎川徹」
「どういう字を書きます?」
「シーナ&ロケッツの鮎川に、渡辺徹の徹」
「それじゃあ分からないよ」
 そこに、井上、高橋、蛯原が現れた。
「鮎川ちゃん、余計な事を言う必要はないぞ」柵の向こうから蛯原が言った。
 須藤巡査がぎろりと睨む。「又、お前か」
 須藤が一歩進み出ると、その隙間から、遺体が見えた。
  明子は口を押さえつつも思わず凝視してしまう。一気に口の中が酸っぱくなっ
た。一階スロープの影に走って行って、げーげーやった。
 蛯原は尚も、「べらべら喋る前に、弁護士を頼んだ方がいいぞ。その前に黙秘権
があるかどうか聞いた?」と鮎川に言った。
「別に彼は被疑者でも何でも無いよ」と須藤が言った。「単なる設備の事故なんだ
ろう?」
 井上がびくっとした。それだったら自分の責任になってしまう。
「鮎川ちゃんはフロントに行ってろ。俺が応対するから」と蛯原。
「あんたは何も知らないだろう」井上が強い口調で言った。「あんたこそ管理室に
行っていろ」
  そう言われて、蛯原は退場した。
 そうこうしている間に、遺体は救急隊員によって搬送された。
 そうすると明子も戻って来る。
  井上と共に柵の扉を開けて舗道に出て来た。
 明子、井上、鮎川、警察官4人の計7名で最上階を見上げた。
 壁面に、タタミ半畳ぐらいの穴が開いていた。
「あそこを見に行きたいんで、案内して貰えますか」服部が言った。

 7人は、2回に分けてエレベーターで最上階に行った。
 北側のスロープの所へ行って現状を確認する。
 スロープの真ん中から左側壁面に向かって、半径1.5メートルぐらいのワダチ
があった。
 壁面を見ると、はめ込みボードは脱落した訳ではなく、下一箇所のボルトでぶら
下がっているのが分かった。
「おーい、下の人。何時壁が落下するか分からないぞ」と服部が地上の鑑識に怒鳴
った。それからワダチを指し示して言う。「ここでハンドルをとられれば落下する
仕掛けになっている」
「こりゃ、一体どういう事なんだ」と三木。
 服部はワダチを見ながら首を捻った。
 山本と須藤が鮎川の両脇に付いていた。
「いっつも、山城という人が最初に出勤するのか」山本が強い調子で聞いた。
「そうです」
「その前にここに来た者は」
「居ません」
「見てたのか」
「そういう訳じゃあ」
「じゃあ何で分かる」
「防犯カメラを再生すれば分かると思います」
「カメラは何処にあるんだ」言うと山本は辺りを見回した。
「あそこにあります」鮎川は屋上南側の監視カメラを指差した。
「何日分録画してあるんだ」
「2週間です」
 やがて、下から鑑識も上がってきて、スロープやら壁面のチェックを始めた。
 そういうのを遠巻きにして見ていた明子が井上に、「もしかしたら斉木が鮎川を
使って細工をしたのかも」と言った。
「え?」
「鮎川は元自衛隊員だから、札幌雪祭りの経験からスロープのアイスバーンを削っ
たのかも」
「そうならそうでいいよ」
 今回のはマンションの設備が絡んでいる。これは、マンホールを開けっ放しにし
ておいて子供が落っこちた、とかと類似のケースだ。下手したら自分がタイーホさ
れてしまう。そんなんだったら鮎川が逮捕されればいいのだ。何れにしても工事部
に連絡しておかないと…、とここまで考えて、前回ここに来た時に見付けたスロー
プのウレタンの傷を思い出した。このワダチに重なるじゃないか。
「一昨日ここに来た時に、あのワダチのちょうど下の箇所に、ウレタンのめくれを
発見したんだよ。何か関係あるんじゃないのかなぁ」
「斉木が何かのトリックを仕掛けておいたんじゃないかしら。やっぱり見立てが進
行しているんじゃないかしら」
 しかし、井上は、『トリック』だの『仕掛け』だの『見立て』だの聞くと、子供
っぽいなぁと思えてくるのであった。
 なんでだろう。自分自身、メカやからくりは大好きなのに。
 トリックとか言うと、健康ランドのマジックショーに嬉々としている老人を連想
する。ああいうのは子供大人みたいな顔をしているよな、と井上は思った。



●56

 スロープのワダチを見ながら、三木警部が服部に言った。
「こういう小細工を見ていると、小学生並のガキの仕業に思えてくるなあ」
「ところが、そうとも言えないんですよ。うちの課にも、宴会でトランプマジック
をやる奴を軽蔑していながら、自分じゃぁ秘かにパズラーに投稿しているって奴が
居るんですよ。
 何て言うんだろう。文化人類学者が、色々分類する癖に、ある一つの事に熱中し
ている人を見ると、実験動物と言ってしまう様な感じでしょうか」
「どうも君の話は分かりづらいな。もっと具体的に言ってくれよ」
「うーむ」考えつつ、服部は壁の穴から地上を見下ろした。「あの、真っ白な雪の
上に広がった血は、カエサルのトーガに散った血に見えますな」
「なんだって?」
「いや、何でもありません。あの血を見ていて、ふと、カエサル暗殺を連想したん
ですが、どうも私には、統合失調患者のシンボル過多みたいな所があって、後で覚
めると、ストーブがいらないぐらい体が熱くなるんですよ」
「いいじゃないか、燃料費の節約になって。言ってしまえよ。途中で止めないで。
でないと、そのカエサルなんたらを言いかけた、とみんなに言いふらすぞ。全部言
ってしまえば黙っていてやる」
「うーん。そうですか。まぁ、複数犯の場合、首謀者は実際的な事を軽蔑している
場合が多い、という話なんですが。
  そういう奴が、誰かをそそのかしてやらせている、というケースが多いんです
よ。歴史的な大事件でも、最近の事件でも。
 たまたまあの雪の血を見ていて、私はカエサル暗殺を思い出したんですが、あの
場合には、『ブルータス、お前もか』のあのブルータス、あれこそ、実際的になれ
ない人で、首謀者だったんですね。
 彼は、私が前に述べた分裂気質にあたるんですが、軍事や政治に興味がもてず、
ひたすらストアの哲学を学んでいたんです。そしてカエサルに、『情熱はあるが自
分探しが終わらない厨2病』とまで言われたんですね。
 このカエサルの方は粘着気質なんです。実際にてんかん発作を起こしたという記
録もあるし、像を見ても、闘士型の体格をしています。
 このカエサルが、ガリア遠征から帰ってくる時に、武装解除しないでルビコン川
を渡ってきたんですなぁ。当時、ローマ市内に入るには、カエサルといえども武装
解除しなければならなかった。しかし大変な戦果を上げたものだから、それをしな
いで入って来た。本当にずうずうしく我が道を進んで来るナメクジ野郎って感じで
すね。
 こういうのは、秩序を重んじるブルータスにしてみれば我慢がならない訳です。
だから暗殺してやろう、しかし自分は実際的な事が出来ない。
 そこで実行犯というか実際的な面で活躍するのが、カシウスです。
 これはもう、当時のコインを見ても凸っぱちだし、エピキュロスに傾倒していた
いというから、これはもう私の言う、ヤンチャ坊主型ですな。
 この首謀者と実行犯、ブルータスとカシウスが、カエサルを暗殺する時に邪魔に
なるんじゃねえか、と気を揉んでいたのが、アントニーですね。アントニーとクレ
オパトラの。こいつはプロの格闘家並の体力があったから。
 ここの対応でも、ブルータスとカシウスの気質の差が出ますね。
 カシウスは、『それではアントニーも殺してしまおう』と言っんですが、ブルー
タスは『我々は殺人集団ではない』とあくまで秩序を保とうとしたんです。実際的
であるが故にカシウスをかっていた癖に、実際的な事を言うと軽蔑するわけです。
それがまあ、飲み会でトランプマジックをする奴と、それを軽蔑するパズラー投稿
者の違いなんですが。
 ですから、ここで話は本件に戻るのですが、このワダチに関しても、仕掛けがガ
キっぽいからといって、首謀者がガキとは限らないんですよ。もし複数犯であるな
らば」
「なるほど」と頷くと、三木はふと山本の方を見た。そして言った。「とろこで、
頑固オヤジタイプというのは出てこないのかよ」
「まあ、それを言うなら、スッラでしょうな。カエサルの前の独裁者ですが、非常
に強欲な奴で、女好きの上に男の妾もいたと言われています。最後は体に蛆がわい
て死んだそうです」


●57

 以上の会話を、スロープから東に数メートル離れた所に居た明子は、耳に全神経
を集中させて聞いていたのだが、本当にエクセルでマクロでも実行した様に、脳内
でセルの中身が、くるくるくるーーっと置換えられるのが分かった。
 それだったら、

 ブルータス=アニュトス 首謀者 イタチ ジョン =斉木 服部
 カシウス =メレトス  実行犯 イルカ ポール =蛯原 三木
 カエサル =ソクラテス 被害者 ラクダ ジョージ=大沼 須藤
 スッラ  =カリクレス 欲張り 石臼  リンゴ =山城 山本

 なんじゃなかろうか。
 ソクラテス事件とカエサル暗殺の構図は実に似ている、と明子は思った。既に誰
かが指摘しているのであろうか。とにかく、そういう構図があるのなら、このマン
ションでの連続殺人も首謀者は斉木であり、実行犯は蛯原なのではないか。それか
ら、所長、斉木、大沼、山城、蛯原という見立ても進んでいるのではないのか。
 その2点を、服部に伝えたいのだが、そんな事を言えば基地外扱いされてしまう。
 明子はスロープの方を見た。服部は三木と一緒に壁面を見てみたり、腕組みをし
て考え事をしたりしている。山本、須藤はまだ鮎川に質問している。その傍に井上
が居る。
 あそこに行って、斉木が首謀者です、なんて言っても、あの石臼の山本あたりに
一喝されて終わりだろう、そう思って、明子はじーっとしていた。
 しばらくして、服部一人が考え事をしながら、明子の方に歩いて来た。
 あの人一人にだったら言ってもいいかも、そう思って明子は、歩いてくる服部に、
にじり寄って行くと、「さっきのカエサルの話、私、聞いてしまいました」と言っ
た。
「えっ」と一瞬驚いた顔をしたが、「理解できました?」と言ってきた。
「できましたよ。つーか、同じ構図がこのマンションにもあるんです。つーか、微
妙に違うんですけれども。とにかく、この山城さんの件に関していえば、首謀者は
斉木で実行犯は蛯原じゃないかと思うんです」
 何を言ってんだこの女は、と服部は思ったが、同時に斉木だの蛯原だのいう名前
から、勝手に所長死亡事故の現場のシーンが蘇ってきた。
 蛯原と言えばあの時自分に噛み付いてきた奴だな。確かにあれは実行犯向きのお
でこをしていた。
「しかし、斉木の方は入院しているんでしょう?」と服部は言った。
「だって首謀者だったら前もって仕込んでおけばいいじゃないですか。
 それだけじゃないんです。実は、斉木はある場所で、
 所長、斉木自身、大沼、山城、蛯原が、それぞれ、
 吐しゃ物で、撃たれて、肺がんで、腹部を裂いて、そして、感電死で死ぬと予言
しているんです。
 大沼さんは昨日肺がんで入院しました。そして今朝、山城さんがこんな事に。
 これって、偶然ですか?」
「なに、なに? 所長、斉木、大沼、山城、蛯原の順番で、吐しゃ物、撃たれて、
肺がんで、腹部を裂いて、感電死で死ぬと予言していると。んー」斉木は脳内で反
芻した。「何れにしても蛯原さんには事情聴取したいんだが、今、どこに?」
「こっちです」言うと明子は服部を連れてエレベーター乗り口の建物に入って、南
側の非常階段に通じるドアを開けた。「共用棟が見えますよね。あのガラスの向こ
うがエントランスになっているんです」
 服部は、目を凝らしてみたが、距離がある上、西日よけのスモークが入っている
為、よく見えない。
 服部はスロープ方向へ怒鳴った。「おーい、三木さん、山本さん、ちょっと来
てー」
 その2人と、井上がやって来た。
「あのガラスの向こうがエントランスで管理室があるんですが、蛯原が感電して死
ぬという脅迫があるらしいんですよ」と服部。
「あそこにはそういう設備があるのか」山本が井上に言った。
「盤があるにはありますが」
「高圧なのか」
「さあ。指の太さぐらいの黒いケーブルがのたくってますけど」
「うーむ」
 唸りながら全員が共用棟を見た。
 その向こうにはゲレンデが見えた。ゲレンデの上には雪山が、更にその上には曇
った空が広がっていた。それが見ている人々の頭上にまで伸びてきている。
 嫌に遠近法を感じるのだが、これは雲が凄い勢いで流れて来ている為だろう。
 雲は積乱雲で、既に、雪山の上の辺りでは、蛍光灯の様にちかちかしていて、ご
ろごろ鳴っている。
「なんか凄い雲行きになってきたなあ」と山本が言った。
「迫力があるじゃねーか」言うと三木は、非常階段の踊り場に出て手すりから身を
乗り出した。
「三木さん、危ないですよ」と服部が言っても、
「大丈夫、大丈夫」と言って、更に身を乗り出す。
「俺も一枚撮っておこう」言うと山本はスマホを取り出して非常階段の踊り場へ出
た。
 なにやってんだ、こいつら、と明子は思ったが。
 そうしている間にも、雲はどんどん流れて来て、マンションの頭上も真っ暗にな
った。
 それを感知して、駐車場の明かりが点灯した。
 ほぼ同時に、ゲレンデの雪山に一発目の落雷があった。雲上から山肌に稲妻が走
った。雷鳴がとどろく。
 非常階段の三木は、目を見開いて、うぉー、と言った。
 山本はスマホを連写している。
 二発目は、すぐ近くに落ちた。光った瞬間につんざく様な雷鳴が響き、ごーーー
っという地響きがしたのだ。
 三木、山本は更に興奮して、チンパンさながらに手すりに捕まって体を揺すって
いる。
 なんなんだ、こいつら、と明子は思った。
 東南アジア人のトップレスショーにかぶり付いている地主と店員ってこいつらな
んじゃないのか。
 こいつら、オッパイ星人なんだ、と明子は思った。
 建屋の中を見ると、服部と井上が壁に寄りかかって何やら話している。
 こいつらケツフェチだな。
「長野県は、落雷による死亡事故が日本一多いんですよ」と服部が言った。
「それは昔の話なんじゃないですか?」と井上。
「最近の話ですよ。ほぼ毎年、死亡事故があります。槍ヶ岳が多いんですけどね」
「まぁ、ここは避雷針があるから大丈夫ですよ」
「ふむ」
 2人は壁に寄りかかったまま南の空を見た。
 次の瞬間、事故は起こった。
 どっかーんという爆音と共に、稲光がマンションを直撃したのだ。
 全ての明かりが落ちて真っ暗になった。共用棟の方から火災報知機のベルが響い
てくる。
「ここには避雷針は無いんですか」服部がでかい声を出した。
「あると思いますよ」
 ドアの外から山本が首を突っ込んで来た。「管理室を見に行くぞ」言ってから三
木と2人で非常階段をすたこら下りて行く。
 その後を服部、井上、明子、そして須藤巡査も付いて行った。

 非常階段で地上まで下りると、駐車場と居住棟の間を通ってゴミ集積場に出る。
 西側の後方入り口から入館して、更にもう一枚ドアを抜けて、エントランスに出
た。
 雲は既に強風に煽られて流れていってしまったらしく、正面玄関の自動ドアから
は、日の光が差していた。
 しかし、扉が開け放たれた管理室の内部は真っ暗で、黒煙が漂ってきている。盤
内のケーブルや機器類が焼けたらしく、プラスチックの焦げる臭いがする。
「ガスを吸わない様に」と服部が言った。
 皆、衣服の袖で口元を覆い、身を屈める。
「換気だ」山本が言った。「君、あそこのドアは開けられないのかね」住居棟入口
を指しながら井上に言う。
 井上が走って行って開けた。
「須藤、そっから出て行って表っから開けてこい」と又山本が言った。
 須藤は正面玄関の自動ドアを手でこじ開けて、一旦外に出ると、外から管理室の
ドアを開けた。
 管理室内に光が差し込む。同時に、すーっと空気が流れていった。
 皆が口元から腕を外した。屈んでいた姿勢も元に戻した。
 三木、山本、服部が管理室に入った。続いて井上、明子も入る。
 ドアの所の明かり先に須藤が突っ立っていた。
 その左側のホワイトボードが避けられた床面に、丸焦げになった蛯原が転がって
いた。
 顔は真っ黒に煤けていて、白目を剥いていた。魚類の磯辺焼きの様であった。
 壁面には、ナルソックのキーボックスがあったが、心なしか、焼死体はそちらの
方に手を伸ばしている様にも見えた。


●58

 前章をもって、事件の顛末に関しては概ね説明した事になる。
 それぞれの事件が、その後どの様に処理されたかを言うと次の如くである。
 金子所長の件は事故として処理された。
 斉木銃撃の件は、事件性はあったものの、斉木自身が「このままここに居ると狙
われる」と言って、強引に退院してしまったので、拘束する訳にも行かず、そのま
まになってしまった。
 斉木の退院に前後して大沼は亡くなった。これは自然死であった。
 山城の件は転落による事故死として処理された。
 蛯原の件は落雷による死亡事故として処理された。

 4月になると、大通リビングにも人事異動があり、斑尾マンションの管理主任者
も井上から他の者に変わった。
 斑尾マンションの管理員の欠員は、(株)AMから補充されたらしい。
 井上は最早受け持ちではなかったので関知しなかったが。
 そんな感じで、全てが風化して行った。
  春になると雪が解けて、初夏になると居住者も戻って来た。
 これは大部分がゴルフ客であった。
 マンション併設のゴルフ場では連日、クラブを振った瞬間の鞭のしなる様な音と、
かしゃーんという卵の殻でも踏み潰した様な音が響いていた。

●59

 或る日の事だった。
 大通リビング本店での昼休み時間、井上は机に突っ伏したままうたた寝していた。
 机の上には、古めのノートPCが広げてあった。以前、斑尾マンションで使用し
ていたもので、壊れたというので引き上げてきて修理に出していたのが戻ってきた
ものだ。
 それで昼休みに接続してみたのだが、その内睡魔に誘われて眠ってしまった。
 PCのデスクトップ上にウィンドウが開くと、スカイプの着信を知らせる音が鳴
った。
 井上は鎌首をもたげると、目を擦りながら応答をクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
 井上は椅子の上で座り直して、スーツのポケットからスマホで使っているマイク
フォンを引っぱり出し、PCのジャックに差し込んだ。
「斉木さん?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「ロレート」
「ロレート?」
「ペルーのロレートだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があって」ここで画面の中の斉木に、ノースリーブのワンピースを
着た女性が皿を運んで来た。女の顔は映っていない。斉木は「グラシアス、グラシ
アス」と言いながら皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、このスカID
があってんで、掛けてみたんだ。こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらな
んだけれども、俺ってどうなっているかなーと思って」
「あのまま何も言って来ないけど」
「じゃあ、あの連続殺人は事件として片付いたのかなあ」
「連続殺人?」
「所長から始まって、俺、大沼、山城、蛯原っていうやつ」
「それって、斉木さんがやったの?」
「俺がやった訳じゃないけど。まあ誘発させたって言うか…」
「誘発させたとは」
「まぁ、こういう感じだよ。
 俺が誰かを階段から突き落とせば罪になるけれども、例えば、氷点下の日に水を
撒いただけなら過失で済むだろう。更に、水を撒いたのが俺じゃなくて、俺はただ
単に、乾燥しているから水を打っておいた方がいいなーと言っただけで、それを聞
いた誰かが勝手に水を撒いたなら、俺は何らの罪にも問われないだろう。
 まぁ、そんな事したって、必ず誰かがすっ転んで、後頭部を打って死ぬ、という
訳には行かないのだけれども。
 ただ確率としては、300件ひやっとすると一件の重大事故が起こるっていう統
計があるんだよね。ハインリッヒの法則っていうんだけれども。
 という事は、ターゲットの周りに、毎日10件罠を仕掛けておけば、1ケ月で死
亡事故に至る筈なんだよね。
 まあこれは自動車工場で派遣社員をやっていた時に教えてもらったのだけれども。
 俺がこうやってべらべら喋るのも、俺が今居る所が絶対に捕まらない場所だから
なんだぜ。この前も裏山に日本人が入って行って、ヘラクレスカブトムシを採ると
か言っていたけれども、出てこないものね。左翼ゲリラに捕まって。そいつを助け
に行った地元の警察も出てこないし。
 俺が居るのはそんな所だから、今更手配したって捕まる訳ないんだよね。それに、
俺は斉木って名前で来ていないし」
「だったら、所長の件から順番に説明してよ」
「ああいいよ。別に」
 そして斉木は、所長、自分の件、大沼、山城、蛯原について、それぞれ語り出し
た。


●60

 所長の件に関して。
 まず所長の件だけれども、動機っていうのは特に無かったな。
 まぁ、常に不満はあったけれども。
 俺ら、24時間管理員は夕方6時から翌朝9時までは一人勤務になるんだよ。で、
その間に休憩時間が6時間も設定されていたんだよ。おかしいと思わない? 一人
勤務なのにどうやって休むんだよ。その時間に火災警報が鳴ったら無視していてい
いいのかよ。で、インターネットで調べてみたら、大林ファシリティーズ事件と言
うのがあって、住み込みで管理員をやっていた老夫婦が、自分らは起床から消灯ま
での勤務だと言って数十年分請求したら、犬の散歩時間以外は全て勤務時間という
判決が出たんだよね。俺なんて厳密な人間だから当然そういうのは所長に言ったけ
れどもね。勿論無視されたけれどもね。
 まぁそういう不満はあったけれども、それが動機って訳じゃないよ。つーか、今
は手口だろ、今知りたいのは。
 手口はねぇ、まず、所長らが引っ越して来た当初は風呂場はカビだらけだったっ
ていう前提がある。あれだけこびり付いていると一回じゃあ取れないから、家庭用
のカビキラーの容器を渡して、毎日やれ、って言ったんだよ。容器の半分ぐらい撒
け。中身は業務用のが大量にあるから毎日汲んで来てやると。
 そして清掃の山城に、「業務用カビキラーを桶にでも入れて持ってやったらいい
んじゃない? 毎日使うから。俺は3日に一回の勤務だから無理」と言うんだよ。
 それで山城はせっせと運び、所長はそれを撒いていた。
 ところで、あの事務所の風呂って、温泉が回ってっていたんだよ。温泉って、ス
ケール、湯の花ね、それを含んでいるんで、それが下水管にこびり付いていて流れ
づらくなるんだよ。だからカビキラーも配水管の奥の方で詰まっていたんだろうけ
れども。
 大浴場の方はスケール除去剤を温泉に混ぜて循環させていたのだけれども。ボイ
ラー室のろ過器の手前に薬注ポンプがあって、ぽたぽた注入する様になっている。
その薬品は強力な酸だから、塩素系の薬品と混ぜたら塩素ガスが発生するんだけれ
ども。
 そのスケール除去剤なんだけれども、毎回俺が薬注ポンプに補充していたので、
鮎川に文句言ってやったんだよ。何で毎回俺にやらせるんだ、次回はお前がやれよ、
って。
 同時に鮎川の勤務日に、薬注ポンプの減りがちょうど15リットルぐらいになる
様に薬の落ちる速度を調整しておいたんだよ。あと、薬注ポンプの横に風呂桶を一
個置いておくんだよ。そうすると、スケール除去剤は20リットルのビニール入り
だから補充すると余るだろう。ちょうどそこに桶があれば入れるだろう。
 そうとは知らず、山城は、「誰かがカビキラーを汲んでおいてくれたのだろう」
と錯覚して、それを事務所に持って行くだろう。
 これで、あの気密性の高い部屋に、塩素と酸が揃った訳だ。
 その後、所長がどうやって混ぜるな危険をやっちゃったかは不明だけれども。
 多分、何時もの様にカビキラーを噴霧して、温泉スケールでつまった配管にそれ
が溜まって、その後で、桶の中のスケール除去剤を捨てちゃったんじゃなかろうか。
そうすれば塩素ガス発生と同時に温泉スケールも溶けて、証拠も流れてしまうので、
一石二鳥になる訳だが。
 俺としては、あの家庭用カビキラーの容器にスケール除去剤を注げ足しちゃうん
じゃないかと思っていたが、そうはしなかったみたいだなあ。
 とにかく、あの事務所の風呂場で混ざった訳だよ。上手く行くかどうか分からな
かったけれども、こういうのを毎日10個仕掛けておけば統計的には1ケ月で死亡
事故に至るって話ね。
 事件の時、事務所の玄関に鍵だのU字ロックだのが掛かっていたというのは俺に
は分からないな。別段、開けっ放しでもよかった。
  所長が、風呂を洗っている間に賊にでも入られると思って掛けたんじゃなかろ
うか。
 しかし、今思うと、なんであんな事やったんだろうって思うけれどもね。あの頃
は日々ピンはねされていたんで、苛立っていたんだろうなあ。









#1081/1158 ●連載    *** コメント #1080 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:17  (213)
斑尾マンション殺人事件 14
★内容


●61

 次に、何で俺が撃たれたのか、何で撃たれても死なないのか、って話だけれども。
 そもそもあの映画館には大沼に誘われて行ったんだよ。
  5千円が魅力ですぐ常連になったけど。
 大沼が、新聞屋とかも誘ったので、女が足りなくなるんじゃないかと思ったけれ
ど、商売になるというのを聞きつけて、他の養鶏場の女も来たので、何時でも女が
余っている状態だったな。だから、大沼が、どんどん客を連れて来いという。
 だから俺は携帯で写真を撮って、管理室のプリンターで印刷してパウチまでして、
サウナの労務者に見せてやったんだよ。雨の日に飯場に居てもつまらないからって
来る奴らに。演歌歌手みたいな背広を着ちゃって。ロッカーで着替えた後でわざわ
ざ見せびらかしに戻ってくる奴ら。忘れ物をしたとか言って。だから俺も見せびら
かしてやったんだよ。俺は普段こういう女と遊んでいるんだぜーって。
 それが警察の知る所となって、4人もぱくられた。
 俺はそのまま放置しておいて、映画館にも近寄らないようにしていたのだが、カ
ミーラが、これが大沼の女なんだが、あの女が18歳未満で起訴できないから、自
分で家裁に行って少年審判を受けてこいって、警察を追い出されたって言うんだよ
ね。
 俺には信じられない。
 あのパスポートの18歳というのも疑わしいが、売春婦に、自分で裁判所に行け
という警察の感覚が信じられない。
 とにかく、そんなこんなで、人材派遣会社の知る所となったんだよ。養鶏場に日
系人を派遣している会社だけれども。俺はそこの事務所に呼び出された。スカーフ
ェイスの日系人が3人麻雀やっていて「一緒にやらない?」と言う。
「いや、それはちょっと」
 向こうの言い分としてはこうだ。
 ただでさえワールドカップで入国が難しくなっているのに、4人も連れて行かれ
たんじゃあ堪ったもんじゃない。彼女ら一人300万の借金が残っている。カミー
ラは帰って来たからいいとして、300かける3人で900万払ってくれ。それが
嫌ならこれだ、と猟銃をちらつかせる。
 ところで俺は胸に持病があって、前から市立病院に通っていたんだよね。
 この件の後も、何時もの様に病院に行って待合室で待っていた。
 そうしたら隣に大沼が座った。
「何やっての?」
「実はな、お前さんを、一発撃って来いって命令されたんよ。派遣会社の日系人に。
でないと連体責任だって言うんよ。あんたを殺せって言うんじゃない。脚とか腕と
か撃って来いって」
「そんで俺をここまで追いかけて来た訳?」
「そうじゃないよ。わし、肺がんなんよ」
 それから大沼はこう言った。自分はマンションを持っている。ローン2千万が残
っているが自分が死ねばそれは団体生命で支払われて、マンションの名義は親に移
る。しかし親はとうに他界している。自分としてはその名義人をカミーラにして、
彼女が売っ払って、故郷に帰ればいいと思ってる、が、カミーラのパスポートなど
信用出来ない。そこで、誰か信用出来る奴に名義人になってもらって、自分が死ん
だらあのマンションを金に換えて、彼女に渡してもらいたいのだが。もっともそん
な事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが。
「そんなの俺に聞かせて、どうするの。俺にやれって言うの? 断ったら撃つと
か」
「どっちにしても撃たないと駄目みたいやで。斉木君、どないする」
 しばらく考えて、ふと俺は思い付いた。
「俺はさあ、気胸でここに来ているんだよ」俺はシャツの間からドレーンチューブ
を見せてやった。「何回空気を抜いても脱腸みたいに飛び出してくるから今じゃあ
ずーっと刺しっぱなしなんだよ。これがこの前風呂場で抜けたんだよ。そうすると
胸に風穴が開いたままままになる。
 だから、そこに弾を突っ込んだら、派遣会社の日系人も納得するんじゃなかろう
か。
 例えば、鉄橋の下で、豚肉の塊か何かに撃って、それを俺の胸に入れて、こんな
でかい病院じゃなくて、夜間はアルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば、
撃たれたって事にならないだろうか。医者に感づかれたら逃げてくればいい。銃で
撃たれたってなったら、そういう診断書を書いてもらって、派遣会社に持っていく
よ」

 実際には、銃で撃たれたと診断された段階で、医師は警察に通報する訳だよな。
 それで、イタチ誤射事件に発展してしまったのだが。
 しかし、大沼の死後、マンションを処分して、こうやってカミーラとロレートに
来られたんだから、当初の目的は達成出来たけど。


●62

  次に山城の件に関して。
 あれは別に山城を狙った訳でもなかったのだが。
 あの冬、原チャリで走っていたら、雪のワダチにハンドルを取られて、そのまま
ガードレールに激突しそうになった。
 その時に思い付いたんだよ。マンション駐車場のスロープに半径1.5メートル
ぐらいの左カーブのワダチを作れば壁を突き破って地上に落下するんじゃないか、
って。
 どうすればそんなワダチを作れるだろうと想像したのだが。そして思い付いた事
を、こうすればそうなるんじゃないの? と蛯原に言ったらそうなったのだけれど
も。
 まず、雪の積もった後、半径1.5メートルの左カーブを残して、除雪しておく。
 そうすれば翌日には、そのカーブの箇所だけが凍結するだろう。
 そこで泉あたりに、あの凍った雪をとっておけと命令する。でも、清掃部隊の雪
かきはプラのだから、取れない。
「だったら柄の方でがりがりやれ。あそこで居住者が滑ったりしたら損害賠償10
0万円だぞ」と脅かす。
 それが効いて、泉が必死にこじったら、ウレタンがぺらぺら剥がれてしまった。
 泉は他の清掃員が帰ったあとで蛯原の所に来て、「屋上のウレタン、剥がれちゃ
った」と言ってきた。
「そりゃあ弁償かもしれないな」
「幾ら?」
「張り替えたら何十万もするんじゃない」
「えー、私知らなかったもの、ウレタンだなんて。コンクリの上に緑のペンキを塗
ってあるんだと思ったもの」
「しょうがねえなぁ。だったら俺がアロンアルファで養生しておいてやるよ。そう
やって誤魔化しておいて、春になれば2年点検があるから、そこでばれなきゃあ、
ちゃんと点検したのかよ、って言えるものな。
 だから、春になるまでは、二度とウレタンの剥がれた箇所をこじられない様にし
ないとな。
 それには雪が降る度に、塩化カルシウムを撒いておけばいい。でも、塩化カルシ
ウムにも限りがあるので、スロープ全面にまくってわけには行かない。だから、ウ
レタンがはがれている所にだけまいておきなよ」
 そうすれば、翌日には、ボブスレーのコースみたいに、1.5Rのワダチが壁に
向かって出来てる。
 ついでに鮎川あたりに、「雪が吹雪くと、あそこの壁面にも吹き積もる。それが
凍結して落っこちたら危険だろう。だから、あの枠のところに塩化カルシウムを撒
いておけ」と言っておけば、枠のボルトも錆びるだろう。
 そうしたら、ああなった。


●63

 最後に、落雷の件に関して。
 蛯原は、前から、あそこのマンションの空き室の鍵を欲しがっていたんだよ。飢
えた団地妻としけこむのに。
  未販売の部屋を使ってもよさそうなものだが、それだとコンストラクション
キーで開けられちゃうだろ、他の管理員に。だから、中古の空き室の鍵を欲しかっ
たんだよ。
 それは、管理室の壁面に埋め込まれているナルソックのキーボックスの中にぶら
下がっている。
 キーボックスの鍵自体はタキゲンだの栃木屋だのの市販品なので、簡単に手に入
るのだが、電磁式のロックみたいなのが掛かっていて、ICカードをかざさないと
開かない。
 停電になれば解除されるかも、と思って、電気保安協会の点検とか、計画停電の
時を待っていたのだが、停電になっても、どっかのバッテリーから電源供給される
んだろう。
 だったらそのバッテリーも壊れてしまえばいいんじゃないのか、という話になっ
た。
 ところで俺が勤め出したばかりの頃だけど、あのマンションに落雷があって、F
AXの基板を焼いた事があったんだよ。その時に業者が来て、避雷針から逆流して
いるんじゃないかって言っていたんだけれども。そして、避雷針の土に埋まってい
る、銅のヒラヒラした部分を確認して行ったけれどもね。
 それは管理室前のマンホールの中に埋まっているんだけれども、あのヒラヒラを
下水管のこっち側にもってくれば、落雷の時に鉄骨に逆流して、バッテリーを焼い
てくれるんじゃないかって思ったんだよ。
 その為には、毎日ろ過器を逆洗して、マンホールから湯を溢れさせて、凍結して
危ないから下水管を交換してくれと言って、その時に、ヒラヒラの位置を下水管の
こっち側にもってくればいい…と蛯原に言った。
 そうしたら蛯原が丸焦げになった。
 まあ、そういう訳だよ。それで全部だよ。納得してくれた?


●64

 なんとも性格が悪い奴だ、と井上は思った。
 何れの手口も長い時間をかけて用意されたものなのだが、その苦労が報われる瞬
間は、収穫をするというよりかは、脱糞するかの様である。
 もしかしたら、こうやって喋っている今もカタルシスを得ているのではないか。
 そう思って画面の斉木を眺めていた。
 スカイプだから鮮明ではないのだが、頬はこけ、無精ひげが生えていて、頭も薄
くなってきている。伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
 逃避行で疲れたのか、糖尿病でも患ったか。
 やがて斉木は机の上の皿から、スプーンですくってピラフの様なものを食べ出し
た。
 その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じだった。
 そこへ、さっきのノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木がペラだのプータだの声を荒げていたが、その内、ポルファ
ボールとか言って、命乞いでもする様に手を合わた。
 女が「ベンガ」とドア方に向かって言った。
 すると、機敏な動きの男2人が入って来て、椅子に座っている斉木の肩を両方か
らハーフネルソンで固めて、そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」と言うと、ぷちんとスカイプが落ちた。


●65

 午後1時近くになって、井上は昼食に出た。
 これは斉木の相手をしていたのでずれ込んだ訳ではなく、一緒に食事をする相手
と最初から1時に約束をしていたのだ。
 待ち合わせ場所の交差点に現れたのは高橋明子だった。
 近所にある大手不動産会社のスカート、ベストを着用していて、財布だけ手に握
っている。すっかり東京のOLさん姿が板についていた。
「何食べる?」と明子が言った。「中華でも食べようか」
 10分後、2人はバーミヤンで、フカヒレラーメンと半チャーハンを食べていた。
「そういえば、さっき斑尾の斉木から電話があったよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプに」
「あの人、まだ日本に居るの? てか、生きているの?」
「うん。ペルーに居ると言っていた。なんか揉め事が多いみたいだよ」
「そういえば、斑尾で一回だけ大沼さんのお見舞いに行ったのよ。あの居酒屋の飲
み会の後だったけど。そうしたら、カミーラちゃんが来ていたのよ。うん。
 ペルーに帰るけど、大沼と一緒じゃない、別の人だって言っていた。ペルーはす
ごい危険だからって心配していた。左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐事件が多発し
ているって。誘拐されるとバラバラにされてアメリカに売られるんだって。心臓と
か目とか。
 そんなんだったら旅行者保険に入っておかないと、あれに入っておけば万一の時
には保険金が下りるから、と言ったら、なんか目をきらきらさせていたなぁ。
 あの女って日本人殺しちゃうんじゃないかしら。大沼さん、行かなくて正解だっ
たよ」
 井上はフカヒレラーメンのスープをレンゲですくうと、ずずずーーッと音を立て
てすすった。
 これは、猫舌の為にこうやって冷ましながら飲まないと本当に口の中の粘膜が火
傷してただれてしまうのだ、と井上は言った。




【完】


参考文献
『ザ・ビートルズ/リメンバー』(クラウス・フォアマン)
『THE BEATLES アンソロジー』











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