AWC 斑尾マンション殺人事件 1 



#1068/1158 ●連載
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:08  (278)
斑尾マンション殺人事件 1 
★内容



●1

 震災から10日以上経った或る晩の事だった。
 高橋明子(26歳)は、飯山市内のアパートで、一人寂しく炬燵に丸まってテレ
ビを見ていた。
 リモコンでチャンネルをかちゃかちゃ変えてみる。
 画面には、3号機建屋爆発の瞬間とか、自衛隊ヘリの放水とか、むき出しの使用
済燃料プールなどが映し出された。
 ここ10日間、こんなのばかり見せられていて滅入る、と明子は思った。見たと
ころでどうにかなる訳でもないし、どっかで娯楽番組でもやってないだろうか。そ
う思ってチャンネルを変えても、テレビショッピング以外は全部震災関係の番組だ
った。
 しょうがないから映像の少なそうな解説番組を選んで、リモコンを炬燵の上に置
いた。
「地震酔いで嘔吐する人がいるんですよ」とテレビの中で言っていた。
「それは地震の時の恐怖を思い出して吐き気がする、という事ですか?」
「いやー、実際に揺れている時に酔うんですよ。船酔いみたいに」
「そんなに長時間、揺れが続くという事はあるんでしょうか」
「余震が頻発している地域では、そういう症状を訴える人も多いという事です」
 そんなのあり得ねー、と明子は呟いた。
 次の瞬間、ぐらっと来た。
「地震です」とテレビのアナ。「ただ今地震がありました。このスタジオでも揺れ
を感じました。各地の震度は、詳しい情報が入り次第お伝えします。えー、各地の
震度はー、長野県北部が震度5の強震、新潟県南部が震度5弱の強震、石川県の北
東部が震度3の弱震。震源が海底の場合には津波の心配もあります。えー、ただ今
長野県北部を中心に地震がありました。
 いやー、大きかったですねぇ」
 画面の下に出ている震度の数値を見ていたら、何故かゲップが出た。
 電灯の紐を見上げると、まだ揺れている。
 今の揺れで3号機の燃料プールがとうとう壊れてしまったんじゃないか、と明子
は思った。
 燃料プールを映していたチャンネルに変えてみる。さっきと同じ昼間の映像が流
れていた。
 今の様子は分からないのかも知れない、と思った。夜は真っ暗で見えないに違い
ない。明日の朝まで分からないのか。
 ネットだ。
 明子は炬燵の上のPCを広げるとスリープ状態から再開して、「福島原発 現
在」でググってみた。
 しかし何か重大な変化が起こったという情報は何処にも無かった。
 何でもなかったのかなぁー。思いつつディスプレイをぼーっと見る。
 右側の広告スペースに、ビートルズのCDやら書籍がべたべたと表示されていた。
 これは今日の昼休み、『ビートルズ殺人事件』というHPを見ていたからだろう、
と明子は思った。それは職場のパート社員が作ったページなのだが、それを見た時
にアマゾンやら楽天も開いたので、家に帰って来ても表示されるのだろう。
 その続きでも見てみようか。これ以上原発関係のニュースを追っかけてもブルー
になるだけだし、何が出来る訳でもないんだから。
 そう思って明子はそのページを表示してみた。
 黒の背景に黄緑の大きい文字で『ビートルズ殺人事件 byジョン・レノン』と
表示されている。
「おっ」明子は炬燵の布団を引き寄せると、マウスのローラーを転がしながら何気
に読み出した。


●2

『ビートルズ殺人事件 byジョン・レノン』

 今日は1967年6月3日だ。
『Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band』が発売されたのは一昨日だと思うのだ
が、ハッキリと思い出せない。
 今僕は、ロールスロイスを運転中だ。
 隣にはジョージが座っている。彼に何か話したい事があったのだがそれも思い出
せない。
 車の中からロンドンの空を見ると、どんよりとしている。これは、ロールスロイ
スのフロントグラスの上の方がサングラスみたいに色が入っているからだろう。
 いやー、やっぱり世界全体がこんなにぼやけちゃったのは、あの歯医者にLSD
を盛られてからだ。
 あの時はジョージも一緒だった。彼の妻のパティも、僕の妻も。
 パティが怒っている、とジョージが言っていた。「いくらビートルズの妻だから
って乱交パーティーなんてやりたくない。家庭はサンクチュアリなんだから」とか
なんとか。
 そりゃあそうだな。謝らないと、と思って助手席を見たら知らない男が座ってい
た。
 誰だ、この髭面のインド人は。
 一瞬ぎょっとしたがよく見るジョージだった。
「おいおい。何時から髭なんて生やしているんだ」と僕は言った。
「何言ってんだ、ジョン。自分だって生やしているじゃないか」
「何だって」僕は慌ててルームミラーを自分に向けた。本当だ。髭を蓄えている。
「おい、ジョン、運転中は前を見ていてくれよ。ポールみたいになりたくないだろ
う」
「ああ、そうだな。…えッ、ポールがどうかしたって?」
「ポールみたいに事故りたくないってこと」
「ああ、そうか。それで思い出したよ。今朝、起きた時から君に言いたい事があっ
たんだよ」と僕は言った。「よく子供の頃、夢の中で札束を握っていて、半分夢だ
って分っているもんだから、ぎゅーっと握り締めて、絶対にシャバに持って帰る
ぜーって思っても、目が覚めるとすーっと消えてしまう、そんな事、なかった?」
「あった、あった。リバプールに住んでいたガキの頃にね」
「それと同じで、いいメロディーを掴んでも、目が覚めると同時に、なーんだ、人
の曲かぁ、って思えちゃうんだけれども、それは人の曲じゃないんだよ。ぼーっと
していると人の曲に張り付いちゃうんだけれども、そうなる前にサウンドで固めて
しまえば、このシャバに持って来られるんだよ」
「その気持ちはよく分かるよ、ジョン。ポールがベッドから転がり落ちた瞬間に
『イエスタデイ』ができたなんていうのも同じ感じだろう。
 僕はLSDをやれば自由にメロディーを持って来れると思ったんだけど、そうは
行かなかったね。
 きっとポールっていうのは、自由にサウンドを掛け外し出来るんだよ。sound
(サウンド)ってsound(健全)だろう。ポールって天然的に世の中のサウンドか
ら開放されいているよ」
「お前もなー」と言おうと思ったが止めた。
「とにかく、今朝起きた時に、そのサウンドというか、時間や空間から開放されて
いたんだよ。それで…これからが君に言いたかった事なんだけど、それで、こう思
ったんだよ。昔何の気なしに言ったことが、今になって重大な結果となって襲い掛
かって来るんじゃないかって。
 それは寝起きに鏡を見て、あ、髭生やしている、なんでこんなの生やしているん
だろう、って撫でながら考えていて、ああそうか、ポールが事故って前歯が上唇を
突き破って出てきたんだっけ、それを隠すのに髭を生やしたんだよな、それで僕ら
も真似をしたんだ、って思い出したんだよ。その瞬間、頭の中で『Penny Lane』が
流れ出してきて、それで突然思い出したんだ。2年前かなあ3年前かなあ、何かの
時にポールが言ったんだ。ペニー・レインには象皮病や口唇裂の奴がいっぱいいて
気持ちわりーって。僕はそんなに具体的に言うべきじゃないって思ったんだけれど
も。あの時にあんな事を言ったものだから、『Penny Lane』を発売した瞬間にあん
な事故を起こしたんじゃないかと思って」
「まさかっ」と言うとジョージは長い歯をずらーり剥き出して笑った。「まさかそ
んな事、関係ないだろう。日本人のガールフレンドがそんな事を言っているのか
い? 因果応報とか」
「ヨーコはそんな事は言わないよ。でも、ヨーコってなんとなくベトナム人が入っ
ている感じがしない? そうすると、枯葉剤とか二重胎児とかのイメージがどんど
ん湧いてきて、もし彼女との間に子供が出来たらって思った瞬間、『ブッチャー・
カバー』のキューピー人形の肉の赤みが鮮明に蘇って来るんだよ。畜生、エプスタ
インの奴め、なんだって僕にあんな事をさせたんだ」そう嘆きながら僕はロールス
ロイスのハンドルをばんばん両手で叩いた。
 車は知らない間にスタジオの前に縦列駐車していた。
 それから僕らはスタジオに入った。ポールもリンゴも誰も来てなかった。
 そのままマリファナ部屋へ直行する。
 ジョージが手馴れた手付きで一本巻くと、さっさとくわえて火を付けた。
 深く吸い込むと、肺の粘膜に十分染み込むまで息を止めてから吐き出す。それか
ら指に持ったマリファナをくるくる回して、お香の煙でも広げるように、部屋中に
煙を充満させた。
 僕も一服決める。
「なんの話だっけ」とジョージが言った。
「だから、過去のちょっとした出来事が今頃になって祟ってくるって」
「そんな事言うんだったら、キリスト発言の方がはるかに祟るだろう」
「はぁー」僕はうなだれてしまったよ。
 それはこういう事だ、地元の新聞記者に楽屋でこう言ったのだ。イギリス国教会
よりも俺らの方が影響力があるって。そうしたらアメリカのテレビ伝道師が騒ぎ出
した。
「それにしてもムカつくのは僕らのレコードを焼いているアメリカ人のチープさだ
よ。あいつらの教会のレンガなんて鋳型から出てきた瞬間にコケが生しているのだ
から。もっとも、そんな事を言えば、丸でこっちが保守派みたいになってしまうが。
 それになんだかんだ言っても月面着陸までする国なんだから、リバプール出身の
僕らがチープだなんて言えないけれどもね」
 ジョージを見ると、片手をベルトの内側に突っ込んでいて、もう片方でマリファ
ナを摘んでいて、髭の生えた口に持って行くところ。そして煙を吸い込むと、丸で
インドの瞑想家が瞑想でもするように息を止めて、しばらくすると、煙を吐き出す。
 こいつに始めて会った時には、公立中学校でバッタの給食を食っていた。
 こんなのがロックンロールやらリズム&ブルースをやっていたらアメリカの黒人
はレコードを燃やしたくなるかもな。
「そう言えばミックが僕らの事をウィーン少年合唱団みたいだって言っていたよ」
とジョージが言った。
「何だって」
「She loves you yeah-----ってハモる所がそう聴こえるんだろう。
 それに演奏している様が、サンダーバードが踊っているみたいだって言っていた
よ。少し離れた所に濃い目のスーツを着たエプスタインが腕組みをして立っていた
けど、お前ら、踊らされているんじゃねーのって。シェア・スタジアムの写真の事
だと思うけど」
「ミックのやつ、そんなに生意気な事を言っていたのか。あいつ誰のお陰でレコー
ドを出せたと思っているんだ」
 僕はちょっとイラっとして、指先に火が付く程吸い込んだ。そしてむせたら、ジ
ョージが優しく背中を叩いてくれた。
 やがてスタジオの方から、がたがた機材をセットする様な音がしてきた。
 ジョージがおもむろに床からコーラのビンを取り上げる。そして火の付いたマリ
ファナをジュっと入れた。こちらにも向けてくるので僕も入れる。
 僕らはマリファナ部屋を後にして、天上の高いスタジオに入って行った。
 空気の冷たさが鼻腔で感じられた。脳がシャキッとするのが分った。
 それでジョージも来週のスケジュールを思い出したのだと思う。
「来週のマハリシのレクチャーだけれども、ジョンも是非とも参加するべきだよ。
その精神的な潔癖症を治す為にはね。何しろデリーじゃあ味噌も糞もみんなガンジ
ス川に流すんだから、そんなものはすぐに治ってしまうよ。でも、いきなりデリー
だときついから、前哨戦としてマハリシに会うべきだよ」
 そういうと、ジョージはポールの方へ歩いていった。
 あいつら高校の時からつるんでいる。

●3
 アパートに帰っても、「踊らされている」という言葉が頭から離れなかった。
 部屋に入るとすぐに、本棚の一番上に脚立で上って行って、写真の入ったダン
ボールを取り出して、ソファーの上に放り投げた。
  それはバウンドしたが床には落っこちないでその場に留まった。
 床に下りてそいつを持って机の所に行く。
 ライトの下で一枚ずつチェックする。「これじゃない」とトランプカードでも飛
ばすように、関係無いのは辺りに捨てた。そしてとうとうシェア・スタジアムの一
枚を見付けた。ベージュのミリタリーを着ているのだが、スタジアムの照明でオレ
ンジ色に染まっている。
 ライトに近付けてよーく見てみる。
 おかしいな、ぼけているぞ、これは一体何でなんだろう。
 メガネの度が合っていないのかと思って、メガネを外して写真に顔をくっつける。
 なんてっこった。ピントは僕らじゃなくてエプスタインに合っている。ステージ
の上で演奏する僕らはぼやけていて、その横で突っ立っているエプスタインがくっ
きりと写っている。
 これじゃ、本当に踊らされているみたいだ。
 くそー、と丸めると床に叩き付けて激しく踏み潰した。頭がくらくらしてきた。
 僕はそのままソファーに横たわった。
 天井が万華鏡みたいにぐるぐる回り出した。
  やがてそれは、リバプールのエプスタインの経営するレコード屋の天井の扇風
機に変わった。
 あそこには、色んなものがぶら下がっていたなぁ。アメリカのリズム&ブルース
のバンドのバスドラムのカバーとか、サイン入りの写真とか。
 そういうのはみんな、リバプール港の船員から只同然で巻き上げたものだ。
 他にも勿論大量のレコードがあったのだが、船の中で掛けていたものだから、み
んな傷だらけだった。
 値の張るものは、レジの前のガラスケースに入っていて鍵が掛けてあった。バデ
ィ・ホリーの使っていたカポとか、エルヴィスが映画で使ったハーモニカとその映
画のパンフレットとか。
 僕らが覗いていると、既に禿げ上がった薬缶頭のエプスタインが現れて、眉を吊
り上げて言った。「おい、ガキども。これは売り物じゃないんだぞ」
「なに言ってんだ。自分で作ったものなんて一個もないじゃないか。人の才能で商
売しやがって」と僕は言ってやった。
 あのショーウィンドーってそっくりそのままシェアスタジアムだよな。
 僕は正気に戻って、ソファーに座り直すと、しばらくぼーっとしていた。
 ふと思う。リンゴってエプスタインに重なる。頭の形が似ているのだろうか。リ
バプールの労働者階級の最下層から出てきた癖に、一丁前にロンドン郊外に家を構
えて女房子供なんて持っちゃって。ロールスロイスで突っ込んでやるか。


●4

 今日は6月20日だ。
 昨日ポールが「LSDをやってました」とマスコミに言ったそうだ。
 偶然だが、例の歯医者と昼食を取った。場所も、LSDを盛られたナイト・クラ
ブの近所のなんとか言う自然食レストランだ。
 歯医者はシーザーサラダにフォークを刺しているのだが、刺しても刺してもレタ
スが抜け落ちる。スーツの袖からシルクのシャツが飛び出していて、ヒラヒラ揺れ
ていた。チープなサイケのバンドみたいでインチキ臭い。
「最近、エプスタインだのリンゴだのが物凄くインチキ臭く感じるんだよ」と僕は
言った。「これってお前にLSDを盛られてからなんだよな。お前のせいで僕の性
格、おかしくなっちゃったんじゃない?」
「何を言っているんだよ。君が盛ってくれって頼んできたんじゃないか」
「何だって」
「ただの歯医者が天下のビートルズのお茶にLSDを混ぜる訳ないだろう。君が頼
んできたから盛ってやったんだよ。忘れたかい?」
「僕が頼んだって? 自分や妻やジョージにLSDを盛れって」
「本当に覚えていないのかい? こりゃ重症だ。
 君はこう言ったんだよ。自分がインチキ臭いって。人生の何もかもが『ごっこ』
の様に感じるって。ボブ・ディランの真似をしている自分、ブリジッド・バルドー
の真似をしている妻。こんな結婚は丸で結婚ごっこだって。
 この『ごっこ』感を拭うために、どんどん過激になるのが怖いって言っていたじ
ゃん。頭蓋骨に穴を開けようとか。
 だからもっとお手軽にリアルに接する方法を教えてくれって言うから、LSDを
教えてやったんじゃない。
 そうしたら、それを使って乱交パーティーをやりたいって君の方から注文してき
たんだぜ。覚えていないのかい?」
 メガネのレンズが、ぎゅーっと牛乳瓶の底の様に分厚くなる感覚に襲われた。
 確かに僕はそう言った。何もかもインチキ臭いと。丸で離人症の様だと。
 何で僕がディランに会おうって言うとインチキ臭く感じるんだろう。ジョージが
マハリシに会おうって言うと本物っぽく感じるのに。
 何でだろう。
 それどころか、同じLSD体験をしたって、ジョージが語ると凄い臨場感がある
じゃないか。あれをやって日光浴をするとベーコンが焼けるみたいにじゅわーっと
皮膚が焼ける感じがする、とかね。
 歯医者がナプキンで口を拭った。
 サテンの袖のサファイアのカフスがキラキラしている。
 それから彼は細いダンヒルを一本くわえるとダンヒルで火をつけた。
「さっき、リンゴやエプスタインがムカつくって言っていたけれども、それはなん
となく分かるよ」と歯医者が言った。
「何でお前に分かるんだよ」
「歯医者をやっている経験から言うんだけれども、うるさい患者っいうのは、ああ
いう薬缶頭でエラの張った顔をしているんだよ」と言うとダンヒルの甘い油粘土の
様な匂いの煙を吐いた。「それからポールみたいなのはフランス人気質っていうか、
治療中にはぎゃーぎゃー騒ぐんだが、エプロンを外す頃にはもうニコニコしている
んだな。
 あと、ジョージみたいなのは痛くないって言うからどんどん削ると、いきなり口
から泡を吹いて痙攣するって感じ。
 ジョンよ、君みたいなのはびびりだね。
 まあこれは経験的に、こういう顎関節をしている奴はこうだって思うんだけれど
も、やっぱり頭の形である程度類型化できると思うんだよ」そして彼は足を組み替
えて身を乗り出すと声をひそめて言った。「実はこういう事を専門的に研究してい
る精神科医を知っているんだよ。もし君が、リンゴやポールやジョージについて、
そして自分自身について知りたいんだったら、紹介するから会ってくればいいよ。
マハリシなんかに会うより百倍も意味があると思うぜ。なーに、LSDなんて使っ
たりしないから安心しろよ」










#1069/1158 ●連載    *** コメント #1068 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:09  (456)
斑尾マンション殺人事件 2
★内容
●5
 今日は6月27日だから、「アワ・ワールド」で『All You Need Is Love』をや
った二日後だ。
 僕は歯医者に紹介された精神分析医のオフィスに行った。
 ロンドンのクラブだのディスコだのがあるエリアから数ブロック離れた、古いビ
ルの三階に、それはあった。
 部屋に入ると窓が開いていて、車のエンジンやらクラクションの音が入ってきた。
 こんな騒がしい所で僕の心の扉を開けるんだろうか、と思ったが、医者が入って
くると、僕を長椅子に寝かせてから、遮光のカーテンを下ろしたので、静かになっ
た。
 部屋の中が暗くなると壁のランプが際立ってくる。その明りで肖像画が浮き上が
ってきた。ベートーベンとか、クラシックの作曲家だ。
 僕から見て左右と後ろの壁に肖像画があった。
 正面にはでっかい机があって、その向こうに医者が座っている。ダーウィンかダ
ビンチみたいな顔をした爺さんだ。
 やがて医者が喋り出した。思った通りしわがれた声で。
「レノン=マッカートニーというから、君が詩を書いてポールが作曲しているのか
と思ったら、そういう訳じゃないんだね。
 一昨日の番組でやっていた『All You Need Is Love』も、君が作曲したんだろう。
♪all you need is love…all you need is love…って繰り返すやつ。
 他の曲も聴いてみたんだが。『ノルウェイの森』とか、『Lucy In The Sky With
 Diamonds』とか。
♪lucy in the sky with diamonds…っていうリフレインを聴いていると、なにか、
こう、ラジオのイアフォンから漏れてくる様な高音で何かをなぞっている様な感じ
がするね。尖った針で型抜きでもしているみたいに。
 それから最近君が出版した「ア・スパニヤード・イン・ザ・ワークス」も見たけ
れども、あの漫画も尖った鉛筆で何かをなぞっている感じがしたね。
 何をなぞっているんだろう…、そう思いながらビートルズについて調べてみると、
元の名前は、quarry menっていうんだって? それって、「採石人」っていう意味
だろう。石とrockをかけているのか。だけどquarryっていったら、原石みたいな感
じだね。ふと連想したのは、フリーメーソンの祭壇なんだが、あれは左側に原石、
右側に完成した彫刻が置いてあるけれども、あれは何か具体的なエピソードを彫刻
したものではなくて、人間はこうであるべき、っていう概念を彫刻したものだろう。
真とか善とか美とか。
 君が甲高い鼻声で、♪all you need is love love love…と歌う時のloveも概念
みたいな感じがするね」と医者はここまで言うと、椅子から立ち上がって、ぐるり
と机を回って来た。僕が寝ている長椅子の前のスツールに腰掛けて、じーっと人の
額を見ていたね。
 それから「ちょっと失礼」と言うと、僕の額の眉毛の上あたりを指の腹で触れて
から、「ああ、やっぱりだ。おでこのここん所を前頭骨というのだが、触ってみる
と、かすかにへこんでいるのが分かる」と言った。そして机の向こうに戻って行っ
て椅子に腰掛けた。
「さーてと。私は趣味で、大まかにだが、音楽家を3つのタイプに分類しているん
だよ」。言うと彼から見て右側の壁を指差した。「まず第1のタイプがあれだ。あ
そこに掛けてある絵の一番上のがリスト、その下がベートーベン」。
 それから今度は部屋の突き当たりの壁を指差す。「第2のタイプはあれだ。バッ
ハにモーツアルト。シューベルトにメンデルスゾーンだ」
 それから部屋の左側を指差して、「第3のタイプがあれっ。上からシベリウス、
ワーグナー、ホルスト」
 それから僕を見据えて言った。「…どう見えるかね」
 僕は長椅子から上体を起こすと身をくねらせて左右、背後の肖像画を見た。僕の
額をチェックしたのだから、多分頭の形で分類しているのだろう、と思いながら。
 そう思って見ると、なんとなくリストだのベートーベンだのはずる賢い感じがす
るなぁ。バッハだのモーツアルトは福々しい感じがするし、シベリウスとかワーグ
ナーってフランケンシュタインみたいな感じだよなぁ。
「それじゃあ、それぞれのタイプについて、解説するよ」と医者が言った。
「まず第1のタイプ。これはリストやらベートーベンだ。私はこれらを『イタチ
型』と言っている。前頭葉がイタチみたいにぺったんこだろう。
 こういう型のアーティストが作る曲は、リストの『ラ・カンパネラ』が典型的だ
が高音での繰り返しで何かを描きだそうと…」
「ん?」。僕はかま首をもたげた。「ちょっと待った。それって僕の『Lucy In Th
e Sky…』のリフレインの事を言っているの?」僕はリストの肖像画を指差した。
「確かにあいつと僕の額のあたりの雰囲気は似ていると思うけれども、どうしてそ
れが音楽性と関係あるんだよ。それってナチスの骨相学みたいなものなんじゃない
のかい? 何か科学的な根拠でもあって言っているの?」
「科学的根拠ねえ」と言うと医者は椅子にふんぞり返った。
 ペンの様なものをへし折る様に持っていたが、机のランプが逆光になっていて、
よく見えなかった。
「私は臨床家だから、何百もの面接から得た経験から言うのだが、こういう前頭葉
がぺちゃんこで側頭葉が大きい人は、…勿論、そこには記憶野があるからなんて事
は言わないよ、ただそういう頭の形をしている人は因数分解をしながら経験を積ん
でいる感じがするねぇ。因数分解しながら学習をするのは普通の事なんだが、共通
因数に妙な意味をくっつけちゃうのだよ。
 例えば或る患者は、子供の頃にテレビか何かで電気椅子を見たんだが、それ以来、
床屋にも歯医者にも行けなくなった。恐らく『椅子』という共通因数を括り出して、
それに不安を結び付けているのだろう。
 又別の患者は、レモンをたらした牡蠣を食べて食中毒を起こして以来、オレンジ、
葡萄、チーズケーキを食べられなくなった。これもやはり、『酸味』という共通因
数を括り出して、それに吐き気を結び付けているのだろう。
 彼らが注目しているのは、『椅子』とか『酸味』といった概念と、それに結びつ
いた、不安や吐き気という症状だけであって、例えば『床屋の椅子』とか『チーズ
ケーキ』といった具体的なものは失われてしまっている。
 さて、日常生活においても、具体的な物質でありながら、ほとんど概念の様なも
のもあるだろう。例えばガス栓とか電気のスイッチなどだが。そして神経症患者と
いうのはガス栓を相手に『閉まっている、閉まっている、閉まっている』と甲高い
声でヒステリーを起こすんだよ。それは丸で『ラ・カンパネラ』のリフレインの様
なんだがね。
 この説明は不愉快かな?」
「自分こそリストとかジョン・レノンとかいう具体的な人間をすっ飛ばして、イタ
チという概念で括っているじゃないか。もしあんたの言っている事が正しいならば、
あんたの額こそイタチの筈だ」そう思って目をこらしたのだが、机の上のランプが
逆光になっていてよく見えなかった。それに僕としては、この話の続きも聞きたっ
たので、「ああ、いいよ」と鼻っ先のハエでも追い払うように手を振ったね。
「じゃあ先を続けるよ」と医者が言った。「続いて第2のタイプ。これはバッハと
かシューベルトだ。
 バッハを見てごらん。でこっぱちだろう。私はこれを『イルカ型』と称している
のだがね。イルカみたいに泳ぎながら音波を出して何かを見付けている感じ。何を
見付けているのかというと 森の中に心霊写真を見付けている様な感じだ。あそこ
にもあった、あそこにもあったと。ところが森自体も自分で作っているんだね。
コードでね。自分で作った森の上にアリアという心霊写真を見付ける。コードを変
えて又アリアを見付ける。コードを変えて又…。これがポールの『Penny Lane』だ
ろう。オーディエンスは、ベースで森を見せられながら、ポールの声で心霊写真を
発見させられている感じかな。
 じゃあ、これに科学的根拠があるのかと言われると、あんまり自信はないが、昔、
サーカスの綱渡りでロープから落下して前頭葉を損傷した患者がいたが、それ以後
その人はアリアを聴けなくなった。しかし『ラ・カンパネラ』は楽しめるんだよ。
 さあ。そして第3のタイプ。これはラクダだ。
 シベリウス、ワーグナー、ホルストなどがそうなのだが、こういう作曲家のは、
なんというか、脈絡がないんだよ。
 例えば有名な『フィンランディア』なんかそうだけれども。出だしは、嵐でも迫
ってくるような荒々しい感じ。かと思うと、鳥のさえずりでも聞こえてくるような
静かな感じ。かと思うと、突撃ラッパの様な雄雄しい感じ。一体どういう脳の構造
をしているんだ、と思わざるを得ない。丸で脳味噌を自然界に晒しているかの様じ
ゃないか。普通の人間の脳は大脳に囲まれているから、何かショックを受けると、
泣くとか笑うとか感情に変換して吸収するだろう。しかしこのタイプの人間は、丸
で脳幹むき出しでいきなりてんかん発作を起こすようではないか。と言っても丸で
科学者の言うことではないのだが。しかしクレッチマー博士の言っている通り、闘
士型の体格とてんかん発作の関係は否定出来ない。そして経験則からしてそういう
人間はラクダの様な頭をしている。
 更に第4のタイプとして、私が石臼型と呼んでいるものがある。
 これは文字通り石臼みたいな格好をしていて中身が空っぽの頭なんだね。オラン
ダの風車の中で、どんどんどんどん木槌に叩かれているあれだね。音楽で言うなら、
オーケストラの後ろの方でティンパニーを叩いている演奏者だな。ビートルズで言
えばリンゴってところだろうか。音楽の芸人ではあっても芸術家ではないから、肖
像画は無しだ。
 以上が私の音楽家の分類なんだが。どうかね」医者は回転椅子を動かしてこっち
を向いた。
「どうかねって言われても。リンゴが石臼だっていうのは分かる気がするけれど
も」
「そうかね。なんかあんまりピーンと来ていないみたいだね。この分類は、音楽家
に限らず、色々なシーンで有効だと思うんだがね。歴史上の大事件にさえ有効なん
だがね。ソクラテスの裁判とか。必ずこの4つのタイプが相互作用しているんだけ
れどもね」ちょっとムキになって医者が言った。
「そう言えば、『Paperback Writer』のPVを撮影した時に、植物園にそいつの像
が置いてあったよ。
 ミロのビーナスとか置いてあるのに、なんでこんな鼻の欠けたおっさんの像があ
るんだ? って聞いたら、それがソクラテスだって。そのソクラテスってが何をし
たって?」
「ソクラテスっていうのは、今のアテネ、アテナイという都市国家の人なんだけれ
どもね」医者は椅子を揺らしながらどうでもいい感じで喋っていた。「その人が生
きた時代は戦乱の世だったんだよ。スパルタ教育のスパルタと結託した連中に支配
されていてね。しかしアテナイ人がそいつらを追い出して民主的な国家を作ったん
だよ。その勢力の中にアニュトスという市民がいた。彼が後にソクラテス事件の首
謀者になるんだが」と言うと、医者は咳払いをして痰を切った。肘掛けに力を入れ
て座り直す。「話していて気付いたんだが、ソクラテス事件の4人というのはビー
トルズの4人と似ているなあ。似ているぞ。君、これは、ちょっと、ごちゃごちゃ
した話だが、聞く価値があるぞ」と言った。
「じゃあ、続けてみな」
「ああ、続けるとも。そのアニュトスはこう言ったんだよ。戦争時代の禍根を問う
まい、又戦争になるから、と。これをアムネスティーと言うんだがね。
 ところがソクラテスというのは、粘着な人で、自分が兵士ならばよく戦い、自分
が軍事裁判の係になれば兵士をかばう。
 まぁそれはいいのだが、粘着だから、ナメクジの様に過去を引きずっていてねぇ、
一応平和な世になったのに、昔の話を蒸し返すのだよ。
 アニュトス(首謀者)にしてみれば、何を晒してんだ、今更、折角平和になった
のに、という所だろう。かといって暗殺してしまっては自分が社会の秩序を乱す事
になる。
 そこでアホな詩人メレトス(詩人)に告発させた訳だ。
 そしてソクラテスは裁判に負けて毒杯を煽った訳だ」
 医者がここまで喋ったところで、ドアがノックされた。
 医者が許可を出すとメイドが入って来る。
 ティーポットやらカップの乗ったお盆をサイドテーブルに置くと、医者の耳元で
何やらささやく。医者は何やら指図している様だ。メイドがカーテンを開けた。し
かし窓までは開けなかったので地上の喧騒は聞こえて来なかった。
 それからサイドテーブルの上に置いた紅茶セットでミルクティーを入れてくれた。
飲み干すとお茶っ葉が底に残るやつを。
 医者は紅茶を銀のスプーンでかきまぜて一口すすると、机の上において言った。
「話の腰を折られたな。何の話をしていたっけ?」
「ソクラテスがどうのこうの」
「ああ、ソクラテスか」
「それが僕らにどういう関係あるの?」
「だから、ソクラテス事件の役どころはそのままビートルズにも当てはまるんだよ。
聞きたい?」
 そう言われれば、聞きたいと言うしかない。「聞きたいね」と僕は言った。
「まぁ、今ふと思い付いた事だから、お茶でも飲みながら聞き流してもらえばいい
んだが」と前置きしてから医者は喋った。
「ソクラテス事件のソクラテスは、ビートルズでいえばジョージだな。
 ジョージの特徴は、一言で言えばエピソードへの執着じゃないかね。言う事がモ
ロだろう。LSDをやって日光浴をするとベーコンが焼ける様だ、とか。そういう
生々しいエピソードを引きずってナメクジの様に進んで行くと、又新しいエピソー
ドにぶつかる。サンフランシスコでニキビだらけのLSDジャンキーに取り囲まれ
た、とかね。そうすると、エピソードとエピソードがガムテープみたいにびったり
へばりつくんだよ。それを、ばりばりばりーっと引っ剥がした瞬間にてんかん発作
の様になる。そして神のお告げだ、マハリシに会わないと、とか。
 何故そんな事になるのか。あの歯医者じゃないが、脳が薄いからエピソードをエ
ピソードのままで覚えているのかなぁ。というか、体で覚えている感じでもあるな。
 そういう人だから、意味の世界は全く理解出来ないだろう。『Taxman』で、税金
を払う意味が分からないと歌っているが。
 さて、ソクラテスもそういう人なんだよ。過去の生々しい記憶、ペロポンネソス
戦争の戦争体験とか、恐怖政治には命を掛けて協力しなかったとか、そういうのを
引きずって生きてきて、そして平和な世になったアテナイの愚民を目の当たりにし
て、ここで発作だ。神のお告げだ。自分が一番賢いと神が言っていると。
 そういうエピソードの世界に生きる人だから、ソクラテスも法律などは理解しな
い。
 いや、法律を守ったじゃないか、たとえ悪法でも法は法と毒杯を煽ったじゃない
か、と言われそうだが、そうじゃない。たとえ死ぬとしても、今起こっているエピ
ソードに執着する訳だ。
 それから、次は、ソクラテス事件の告発者、メレトス(詩人)だが、これはビー
トルズでいえばポールだな。ポールって刹那的な快楽主義者だろう。イルカってそ
ういう生き物だよ。イルカショーで輪っかを投げられれば突っ込んで行くだろう。
輪っかが無ければ漂っている。って事は自ら企ててやっている訳じゃないんだよ。
誰かにやらされているだけで。
 それは誰か。
 ジョンよ、君じゃないのかね。ビートルズのアニュトス(首謀者)は君、という
訳だ。
 君とはどういう人間なんだろう。
 君は、ポールは何時でもshe loves you、誰々がこう言っていたぞー、皆が噂し
ているぞー、みたいに、風説の流布をする策士、みたいに言っているけど、実は君
がそそのかしているんじゃないのかね。アニュトス(首謀者)がメレトス(詩人)
をそそのかした様に。
 君はそうやってメガネを掛けてじーっと見ているが、見ながら感じている訳じゃ
ないだろう。後で思い出すだけだ。だけれども、その時には、もう、生々しいエピ
ソードではなくなっていて、無味乾燥な概念だ。
 そういう君みしてみれば、ジョージの語るLSD体験は妙にリアリティーがある
と感じるだろう。ジョージの奥さんにも、リアリティーを感じているんじゃないの
かね。何しろ自分の女房はブリジッド・バルドーのそっくりさんだから。
 ジョンよ。君の愛は結局Love & Peaceのloveだ。具体的な対象を持たない。♪al
l you need is loveと歌いつつ楽屋を訪ねてくる身障者は嫌いなんだろう。目の前
の身障者無視。そして世界平和を求める。アニュトス(首謀者)だって秩序が欲し
かったのだよ。
 さて、これで、ジョージとソクラテス、ポールとメレトス(詩人)、ジョンとア
ニュトス(首謀者)の類似性は説明したな。
 後はリンゴか。
 これは、カリクレスというアテナイに住んでいた欲張り野郎だ。ソクラテス事件
には直接関わらないんだけれどもね。ソクラテスはカリクレスにこう言った。お前
の欲望はお前の愛人の欲望だ、とね。
 リンゴって、光物がすきだろう。指輪をいっぱいはめていない? あれってリン
ゴの欲望なのかな?
 ああいう石臼は、最初に見たものに価値あり、と思うのだよ。水鳥が最初に見た
ものを親と思う様に。だから、保守的といえば保守的なんだが、自分が最初に見た
ものの保守という訳だ」
 医者は机から受け皿ごとカップを取って、椅子にふんぞり返るとスプーンでくる
くるまわした。
「整理するとこうだ。
 社会をデザインしているのが、アニュトス(首謀者)。
 その社会の一部を見せられて、光っているからと飛びつくのが、カリクレス(欲
張り)。
 そんなのはおかしいと昔の話を晒すのがソクラテス。
 そしてそのソクラテスを黙らせようと、アニュトス(首謀者)がメレトス(詩
人)を使って罪に陥れた、という訳だ。
 つまりプロデュースしているのはアニュトスなんだよ。
 ビートルズをプロデュースしているのは、ジョン、君なんじゃない?
 君がポールやジョージを面白いと思って、それでオーディエンスに見せているん
じゃない?」
 医者はカップを机に置くと、肘掛に手を乗せて、しばらくじーっとこっちを見て
いた。そして「今日はこんなところにしようか」と言った。


●6
 帰りの車の中でも、「ビートルズをプロデュースしたのは君だ」という台詞が頭
の中でぐるんぐるんしていた。
 確かにそれは僕だった。
 リバプールに居た十代の頃、ポールとかジョージになんて、誰も見向きはしなか
った。あんなのは、リンゴ農園の息子と炭鉱夫の息子みたいなものだった。それを
僕が目を付けて、靴墨で染めたジャケットを着せて、右手にポール、左手にジョー
ジを立たせて、そうすると、ポールはぎっちょなので、蝶が羽を広げたような格好
になるのだが、そして僕が彼らの両肩に手を乗せて適当に歌った。そうしたらラジ
オののど自慢でラストまで行った。
 あれは僕がプロデュースしたのだ。
 もっと明確に企てたことがあった。
 二十歳ぐらいの頃、ハンブルグのクラブやストリップ劇場でやっていた頃の事だ。
 スッチーというメンバーがいた。
 僕もスッチーも元は画学生だから楽器なんてそもそも弾けなかった。それでも当
時やっていたリズム&ブルースなんて、ちょっと練習すれば弾ける様になったのだ
が。でも、やった事のないスタンダード・ナンバーをリクエストされたり、通りを
歩いている客を招き入れる為に、突然ノリのいい曲に変えたりする時には、手こず
った。ポールやジョージは下手ながらも歌う様に演奏できたのだが、僕やスッチー
が外す。そのうち客が、「あのバンドは合ってないなぁ」という視線を向けてくる。
でも、誰が外しているのかは分らない。そんなときに僕は「スッチーが又外してい
る」と繰り返しポールに言った。ポールはアホだからそう思う。当面そうやって自
分を守った。
 でもこれ以上外し続けたらビートルズが店を首になる、って時が来て、その頃に
は、自分は上達して即興で演奏出来る様になっていたから、ポールに「これ以上ス
ッチーが外したら命取りになるぞ。それにあいつはお前に借りた50セントも返さ
ないだろう。
 なんでそんなはした金を返さないんだよ。返さなくていいと思ってんだよ。
 お前の事をなめてんだよ。トイレから出てきてタオルが無いからお前のシャツで
拭いても構わないって思ってんだよ」と言ってやると、みるみるポールのリンゴほ
っぺが真っ赤に染まった。
「徹底的に突っ込めよ」と僕は言った。
 そしてポールは、便所でもシャワーでも演奏中でもツッコミまくり、とうとう殴
り合いになって、体はポールの方が全然でかかったから、結局追い出してしまった
なぁ。
 その時僕は思った。このイルカは使える、ってね。

●7

 8月24日、ヒルトン・ホテルで、インドの瞑想の指導者マハリシのレクチャー
を受けた。
 それが終わると早々にロビーに出て来て、僕は一服しながらポールに言った。
「今のはインチキ臭かったな。衣が白すぎるよ。ガンジス川で洗濯したらもっと茶
色くなるだろう。そう思わない?」
 しかしポールはソファの肘掛で頬杖を突いて、ぼーっと宙を見ていた。
「なあ、ポール。ポール」と呼んでも反応が無い。
 こいつはイルカの輪っか、というか、ヘフナーのベースを取り上げられると、
ぼーっとしちゃうんだな。
 そう思って、僕はそれ以上話すのは止めた。
 そしてふと思った。マハリシの格好をしてヨーコとベッドインでもすれば、受け
るんじゃなかろうか。
 ところがそう思った途端、『ブッチャー・カバー』のキューピーちゃんに巻き付
いていた肉の赤味が目に浮かんでくる。
 全くエプスタインのお陰で、とんでもない強迫神経症になってしまった。
 ところがそのキューピーちゃんの顔をよく見るとエプスタインの顔をしている。
隣に転がっているのはリンゴじゃないか。胃腸の病気で入院していた頃の小さいリ
ンゴだ。退院直前にベッドから落っこちて、手術の縫い目が裂けたと言っていた。
そこにはドレーンチューブが挿してあって、血だの体液だのがぽたぽたと流れ出て
来ていた。そうしないと腹の中で固まってしまうから。
「そっかー」僕はため息をつくと、ぼけーっとしているポールに言った。「明日っ
から、皆でバンゴアに行くだろう。エプスタインは行かないから一人で寂しいんじ
ゃない? それでゲイの仲間を集めてドラッグでもやったりするんじゃない? も
しかしたらドラッグのやりすぎで風呂で溺れるかも知れないな。或いは、誰か力の
ある奴に頭を押さえ付けられて、溺れさせられちゃうかも。その後で、ドレーンチ
ューブを喉の奥に差し込んで、ツナでも流し込めば、多分ドラッグでゲロ吐いて窒
息したと思われるんじゃない? そうした方が皆の為だと思わない? ぶっちゃけ、
彼とはシオドキって感じがしているんだよなぁ。聞いている?」
 ポールな頬杖をついたまま小指を噛んで宙を見ていた。モンティー・パイソンの
ボケ役みたいな顔をして。
 聞こえているのかなぁ、と僕は思う。


●8

 それから僕らはバンゴアへ行って、実際にマハリシから瞑想を教わった。
 瞑想から覚めて、絨毯の上で足を崩して、足首などをぐりぐり回している時だっ
た。
 隣に座っていたジョージが呟くように歌っていた。「♪i me mine  i me mine
  i me mine…
  LSDをやっている時には、ナイト・クラブの光だとか、テーブルの蝋燭だと
か、その光に浮かぶ女の顔だとか、色んなものが滲み出してきていて、あれで世界
と繋がれるって感じたけれども、あれはエゴだったんだなぁ。エゴに関係のあるも
のだけが肥大して見えていたんだ。でも瞑想をすれば本当のものが見える。宇宙の
オウムと自分が一体化するから、エゴとは関係ない本当のものが見えるんだよ」
 こりゃあ驚いた。ソクラテスが、宇宙のコスモスと人間の魂は自転車のチェーン
みたいに結ばれている、って言ったのと似ているじゃないか。
 突然僕は電話口に呼ばれた。
 電話の向こうでエプスタインが死んだと言っていた。
 ドラッグをやっていて食べ物を喉に詰まらせたと言う。
 僕は、瞑想していた部屋に戻ると、エプスタインが死んだと皆に伝えた。
 そして皆の様子を見た。
 ジョージは、まだ彼岸に行ったっきり。
 リンゴは最初から此岸にしがみついている。
 ポールは、足首をマッサージしながら庭の方を見ていた。こいつはナチュラルな
感じだ。宇宙とエゴの真ん中のネイチャーに住んでいるって感じだ。こいつは、農
場でアコースティックギターでも弾きながらマリファナを吸っているのが似合うよ。
 こんな奴がエプスタインをやったんだろうか、と僕は思った。或いは催眠術にか
かったみたいに時間が来れば自動的に動き出すのか。そうかもなぁ。スッチーの時
だって動き出したんだから。今はイルカの輪っかが無いから漂っているだけだ。輪
っかさえ投げてやれば動きだすんだ。
 多分世界中には、こういうイルカがいっぱい居るんじゃなかろうか、と僕はイ
マージンした。そいつらに輪っかを投げてやれば、皆が動き出すんじゃなかろうか。
そうだ、そうに違いない。
「なぁ、みんな。僕はヨーコとマハリシの格好をして世界平和を訴えようと思うん
だが」と僕は言った。
「いやぁー、止めた方がいいよ。その内、いかれたファンに射殺されるぞ」とポー
ルが言った。
「なんだよ、お前。僕の死を予言するのかよ。だったらこっちも予言してやる」
 そして僕は一人ずつに言ってやった。
「ジョージ。君はマリファナの吸いすぎで肺がんになる。
 次にリンゴ。君は、子供の頃ベッドから落ちて腹が裂けた様にもう一回腹が裂け
る。
 そしてポール、君はコイル工場の中庭で草むしりをしていたから、ステージで感
電死するぞ」
 皆、ぐったりと疲れた様子だった。
 これは、僕が言った事に疲れたのではなくて、塀の外には、エプスタインについ
てのコメントを求める報道陣が集まっていたので、うんざりしたのだろう。
 でも僕は前向きだった。だってあのマスコミを使って世界のイルカ達にメッセー
ジを送れるのだから。
 僕はカメラの前でベッドインするのだから。
 僕は勃起していた。

              【おわり】


 ●9

 読み終わると明子は、両手を後ろに突っ張ると、ぐーっと胸を張った。
 どきんと不整脈を打った気がして、慌てて背中を丸める。
「長かったなー。それに最後の所がいい加減だった感じがする。でも、パートのマ
ンション管理員がこれだけ書けるっていうのは凄い。それだけ夜間は暇なんだろう。
 しかし長かった。私だったら画面一枚に収められる」
 そしてワードパットを開くと以下の図をタイプした。

        マルチタスク
          −
          −
い ポール=イルカ型−ジョン=イタチ型   い
短 メレトス(詩人)−アニュトス(首謀者) 長
が   ――――――――・――――――――     が
間 リンゴ=石臼型 −ジョージ=ラクダ型  間
時 カリクレス   −ソクラテス      時
          −
          −
        シングルタスク

「うーん、こんな感じかな。
 座標の右上から左下へのラインが、良く言えばナチュラル、悪く言えば動物って
感じ」
 画面右下を見ると、時刻は11:24だった。
 ヨーグルトを食べないと、と思って明子は炬燵から出た。
 あれを食べて寝ると、朝、胸焼けがするのだが、目の周りが潤うのだった。ただ
単にむくんでいるだけかも知れないのだが。
 冷蔵庫を見ると、今日が賞味期限の4個割りのヨーグルトが3つもあった。それ
を全部持って来ると、炬燵で慌てて食べる。時刻が12時を過ぎる前に食べてしま
わないと、と思って。しかし途中で、何でそんな事をするんだろう、と思う。お腹
の中に入ってしまえば賞味期限が過ぎても平気って事?
 ふと、鏡を出して自分の額を見てみる。オデコを電灯に向けて頭蓋骨の形状をチ
ェックしてみると、眉毛の上の方に薄っすらと凹みが確認出来た。これは前頭骨の
繋ぎ目が陥没している訳ではなく、全体的に頭の両脇が万力の様なものでぎゅーっ
と締め付けた様に窪んでいるのだ。だからどっちかというと側頭葉の質量は小さい
様にも感じるのだが、実は頭のサイドの後ろの方が、大げさに言うとトリケラトプ
スの様に広がっているのだった。髪の毛に隠れていて見えないのだが。
 自分はジョン型なんだ、と明子は思った。だからグロ耐性も無いし、ヨーグルト
の賞味期限も気になる。
 明子は、高校時代から今でも付き合っている友達の事を考えた。沢尻エリカ様み
たいな凸っぱちで、将来中年男性にひっかかるんじゃないかと危惧していたのだが、
彼女に「これ、腐ってない?」と渡すと、賞味期限を見るまでもなく、くんくんニ
オイをかいで「腐っていない」と言う。
 ああいうのは、ポール型で動物的な行動なんじゃなかろうか。そう言えば、どん
ぐりの芽が出てきたから春だ、とか、夜中に虫の声が聞こえるから秋だ、とか、丸
で縄文人の様な事を言う。一方自分は結構デジタル化していて、季節の変わ目も、
お彼岸だからなどと暦で納得するのだが。
 そう言えば彼女は妙にグロ耐性がある。飼い猫が死んだ時にも、泣きながらもダ
ンボール箱にぎゅうぎゅう押し込んで市役所の人に渡していた。
 セックスやら異性に対しても鈍感で、鼻ピアスを裏返して見せたりしても平気な
のだ。
 あの鈍感力が、男女の関係を長続きさせるに違いない。
 片や自分はグロ耐性ゼロで潔癖だ。
 もしかしたら私ってお一人様になる可能性があるんじゃなかろうか。
 でも男女のペアだって、どっちかが動物だったら上手く行くんじゃなかろうか。
 ジョンはポールを操ったったと書いてあるから、ああいう動物を見付けて飼育し
てやればいいのではないか。
 しかしあの友達の性格を考えると、ボケてはいるものの、ボケツッコミという感
じで結構鬱陶しい。
 という事は、イルカよりもラクダ、つまりジョージか。ああいうのを探せばいい
のかぁ…。
「うーむ」唸りながら明子は腕組みをして、右手で顎をつまんだ。
 画面の『ビートルズ殺人事件』の最後の行に『蛇足』というのがあった。
「4人の身体的特徴がよく分かる動画」とある。
 リンクをクリックするとyoutube動画の『Your Mother Should Know』が
再生された。
 4人が音楽にあわせて階段を下りてくる。
 ポールはおでこだけではなく体もむっちりしているのが、タキシードの上からで
も分かる。階段を下りてくる足取りも軽やかでバランスがいい。
 ジョンは干物って感じで、スーツが遊んじゃっている。歩き方もよろけながらコ
ケそうになる。らりっているだけかも知れないが。
 ジョージは、農夫の様な太い関節で、がにまたで降りてくる。
 リンゴは体が一体構造になっているからか、肩で風切る様に降りてくる。
 それを見ていて、「こりゃあ、斉木の分類は案外当たっているんじゃなかろう
か」と明子は考えた。
  斉木というのはパート管理員の名前である。










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