AWC そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香



#504/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:02  (413)
そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香
★内容
「身を守る一番の方法は、危険に近付かないこと。だけどまあ、これは土台無理という
もので、危険が向こうから近付いてくる場合を想定しなければいけない」
 柔斗の師範代だという浅田沙織(あさださおり)は、年齢で言えば純子の十ほど上だ
った。しかし、身長はほぼ同じ。さすがに肉付きは、日頃から鍛えている浅田は“分厚
い”が、太っている感じはしない。詰まっている感じだ。それでいて柔軟性があること
は、事前の準備運動で見せつけられた。
「二番目は逃げる。逃げられるのならとっとと逃げる。周りに助けを求める。これらが
できないとき、初めて相手の身体に触れて、逃げるための道を開くわけだ」
 喋り口調は男っぽいが、声の質自体は女性らしい、高いものだった。ひっつめにした
髪をまとめるのも、ピンク色のゴム。
「さて、涼原さん。聞いた限りでは、あなたにとって最も想定される危機的状況は、フ
ァンを装って近付いてきた相手が、いきなり襲ってきた場合だと思うのだけれど、ど
う?」
「どう、と言われましても」
 考えていなかった純子は、正直に戸惑いを露わにした。
「恐らく、そうでしょう」
 代わって答えたのは相羽。女性二人が私服なのに対し、彼だけ白の道着だ。靴はス
ニーカーを、相羽を含めた三人ともが履いている。道場の一角に敷かれたマットの上
で、護身術教室は進められていた。
「あるとしたら、刃物か長い棒のような物を振るってくるか、何かを投げてくるか」
 そこまで答えて、相羽は純子に目を合わせた。
「怖い?」
「怖い。けど、その対策に、護身術を習うんだから、状況を想定するのは当然て分かっ
てる」
 純子は胸の高さで、両拳をぎゅっと握った。
 浅田は頭を掻きながら、「投げてくるのは、厄介だな」と呟く。
「石のような固い物かもしれないし、液体の劇物かもしれない。何か投げられたと思っ
たら、両腕で、頭と顔、特に目を守るぐらいか。ただし、亀の姿勢になるのはだめだ」
「亀?」
 内心、怖さがいや増すのを覚えながら聞いていた純子は、いきなり飛び出した生物名
に首を傾げた。そこへ相羽がフォローを入れる。
「浅田先生、噛み砕いてお願いします」
「先生と言われると歳を取ったと実感するから、『さん』付けでいい。ついでに、君が
説明してあげて」
「――亀の姿勢というのは、地面にひれ伏して、頭を両手で抱える格好で……やった方
が早いか」
 相羽はその場にしゃがみ、爪先を立てた状態で正座をすると、上半身を前向きに倒し
た。そのまま、両手で後頭部を覆う。
「そう、これが亀の姿勢。こういう風にしゃがみ込むのはまずい。相手に距離を詰めら
れ、さらなる攻撃を受ける」
 相羽のすぐ近くに立った浅田は、蹴りを入れるポーズだけをした。
「液体なら、真上から掛けられる恐れもある」
 やはり仕種だけやってから、浅田は相羽に立つように言った。
「逃げられる内は、とにかく逃げて離れる。相手と距離を取る。近くに何か物があれ
ば、利用してもいい。傘とか椅子とか。
 ここまでは術と言うより、心得だね。距離を詰められてからが術。闘いのプロでもな
い限り、攻撃の動作はだいたい、二段階から三段階からなる。そのことを分かっていれ
ば、第一撃をかわすことはさほど難しくない」
「そ、そうですか?」
 信じられないとばかりに口走った純子。
 と、浅田はいきなり右手を大きく振り上げた。
 頭の上の手刀が振り下ろされる前に、純子は後ろに飛び退く。
「ほら。こういうこと」
「あ――理解しました。でも、毎回、うまく行くとは限らない気がします」
「そりゃあ、当てようと思えば当てられる。たとえば」
 浅田の話の途中で、相羽が突然、「あ、浅田先生!」と叫ぶ。純子はびっくりして両
手を握り合わせ、硬直してしまった。次にきょとんとした。浅田がにやっと笑って、相
羽に対して片手を上下に振っているのだ。
「分かってる分かってる」
「寸止めでもだめですよ!」
「何で」
「驚いてよろめいて、足首をくじくかもしれないじゃないですか」
「なるほど。モデルやら何やらをやっている人に、そいつはよくない、な」
 浅田は「な」を言い切ると同時に、ハイキックを放った――相羽に。
 純子が息を飲んで状況を理解したときには、浅田の右足の甲が、相羽の頭のすぐ横で
停止していた。相羽は左腕を上げてガードをしていたが、その腕とほぼ重なる位置にあ
る。
「お、反応、早くなったねえ」
 足を戻す浅田。にこにこしている。
「浅田先生!」
「だから、『さん』付けしなさいって。今のはいつまでも先生先生と言い続けた罰」
「じゃあ、浅田さん。浅田さんが靴を履いてなかったら、多分、ここまでガードできて
ません」
「かもね」
 そう言ってから、やっと純子の方に意識を向けてきた浅田。
「今やったみたいに、技を修めた者になると、一見、ノーモーションで攻撃を繰り出せ
る。完全なノーモーションは達人レベルじゃないと無理だから、一見と言ってるけれ
ど、とにかく経験者が素人に当てることは、割と容易い。でも、あなたが想定している
のはそういう空手の有段者みたいなのじゃないでしょう?」
「……」
「うん? 聞こえてる?」
「あ、はい」
「びっくりさせちゃったかしら。彼氏が蹴られそうになったのを見て」
「そ、それもありますけど。凄く、きれいだなあって」
「きれい?」
「ぴたっと止まった形がきれい。一連の動きも素早くて、目にも止まらない……美しい
流れ? そういう風に感じたから。私もやってみたいくらいです」
 純子の返事に、浅田は最初、目を丸くしていたが、やがて笑い声を立てた。
「はははっ、これはいいね。相羽君、彼女は意外と才能があるかもしれないよ」
「……もしくは、美的感覚が鋭いからかもしれませんね」
 相羽は淡々とした調子で言ってから、道場の先輩女性に微苦笑を返した。
 浅田は少し考え、ピストルの形にした右手で、純子の方を指差した。
「聞いた話だと、運動神経はいいんだよね。バク転ぐらいは楽にできるとか」
「楽じゃありませんよ〜。それにしばらくやっていませんし」
 と言うや否や、二人から五歩ほど離れた純子は、バク転をやってみた。
「あ、できた」
 よかった、と笑う純子に、浅田が感心した風に息をつく。
「その分ならバク宙だってやれそうだね。蹴りにしても、まあ威力は別として、型だけ
ならじきにできるようになるんじゃないかしら」
「あの、今日一日だけの予定なんですが」
「そうか、そうだったわね。まあ、本当にやりたいのなら、型は追々ね。では、本題に
戻るとしましょう。どこまで言ったっけ?」
 問われた相羽が「ほとんど進んでません。亀まで」と答えると、「まさしく亀の歩み
だ」と自嘲する浅田。
 純子もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは逆関節の取り方から。最初、私が相羽君を相手にやるから、よく見ておいて。
次に格好だけの真似でいいから、同じく相羽君に技を掛けてみる。いい?」
「はい。お願いします」
 浅田は相羽に対して一つ頷き、相羽も同じ仕種で応じた。それから相羽は右手を振り
かぶり、いかにも暴漢が襲ってきたような動きをする。いつの間に用意したのか、ボー
ルペンを握っていた。その攻撃を浅田は右肩を引いてかわすと、相羽の腕を脇で抱える
風にして捕らえた。総じて、ゆっくりめに行われているのは、素人目にも分かる。
「ここで肘を逆方向に極めながら、手首を内側に折り込み、得物――武器を落とさせ
る」
 相羽はボールペンを落とした。本当に極められて痛かったのかどうかは、純子には分
からなかった。浅田はすぐには解かず、続けて相羽の右手首を巻き込むように捻る。も
ちろん、形だけだ。
「肘を極めるのが無理そうなら、相手の手首を外向きに捻る。相手との距離は縮まる
が、武器を手放させるのが第一だ。そしてさらに続けて」
「ま、待った、浅田さん。ここで区切りましょう。一度に覚えるのは大変だろうし、こ
っちも怖くてひやひやものですよ」
「それもそうか。了解した」
 手をゆっくりと放す浅田。相羽は自由になった右手を二、三度振ると、先程のボール
ペンを拾い上げる。
「さてと。準備はどう?」
 純子へと向き直った相羽は、口ぶりこそ軽やかだったが、真剣な眼差しで尋ねた。
「手順は頭に入ったわ。すぐにできるとは思えないけど」
「私がフォローを入れていくから、とにかくやってみよう」
 浅田に促された純子は深呼吸をした。また「お願いします」と言って、身構える。す
ぐさま避けられる態勢を取ったのだが、それはだめだと首を横に振られた。
「あくまでも日常の中、不意に襲われたことにしないと」
 純子は当初の想定を思い出し、サイン会か握手会でもやる体で、相羽に身体の正面を
向けた。浅田の合図で、相羽が腕を振りかぶった。
 純子はさっき見たままに、右肩を引こうとした。その動きを続けながら、思わず質問
を発した。
「どうして右肩なんですか?」
「え?」
 声を上げたのは浅田で、相羽は動きを途中で止めていた。
「相手が右手に武器を持って襲ってきたら、左肩を引いた方が、避けやすい気がしたん
ですが……おかしいですか?」
「なるほど。これは本当にセンスがあるかもしれないぞ、相羽君」
「ええ」
「じゃ、先にその理屈を教えましょう。もういっぺん、相羽君が振りかぶるから、左肩
を引いて避けてみて」
 真正面、向かい合って立つ純子と相羽。相羽は同じ動作で、右手を振り上げた。
 純子は下ろされる右腕の動きに合わせ、左肩を引いた。自然と、左足も斜め後ろに退
がる。
 と、よけたと思った相羽の右腕が、まだ追い掛けてきた。ボールペンの先が、純子の
みぞおちのやや上に、ちょんと当たる。
「あ、ごめん、当てるつもり、なかったのに」
「ううん。それより、理由の方を……」
「――浅田さん、僕から言っていいですよね? まず、今みたいに、よけてもその攻撃
をかわしきれない可能性が高いこと。人間は通常、脇を開く動作が苦手なんだ。バラン
スが悪くなるというか、力を入れにくくなるというか。相手の右手による攻撃を、右肩
を引く動作でかわした場合、相手から見ればターゲットは右、つまり脇を開く方向に逃
げたことになるよね。そこを追撃しようとしても、力を入れにくいからうまく行かな
い。逆に、左肩を引いてかわすと、相手にとって脇を締める方向に逃げることになる。
だから追撃しやすい」
 純子は相羽の説明を聞きながら、自分でもやってみた。確かに、脇を開く動作の方
が、狙いを定めにくく、力も比較的入りにくい気がする。
「武器の持ち方が順手と逆手とで若干違うけれども、脇を開く方がやりにくいのは一
緒。そしてもう一つの理由は、右肩を引いてよけないと、相手の肘関節を極めるのが難
しい」
 相羽がそこまで言ったところで、浅田が手を一つ打った。
「そういうことで、さっきの動作の続き。先に右肩から引いてみて」
 純子は実際に試してみて、よく分かった。右だと逃げる動作のまま、スムーズに肘を
極められるのに対し、左ではとてもじゃないけれど無理。逆に、襲撃者から抱きつかれ
そうで怖い。
 理解したところで、何度か反復練習をし、次に反対の手で襲撃された場合も同じよう
にやる。
「無論、咄嗟の判断が間に合わなくて、逆の反応をしてしまう恐れだってある。そんな
ときは臨機応変に、相手の突き出してきた方の腕――手首と肘の辺りをしっかり握り、
相手の勢いも利用して投げる、というのもある」
 浅田の追加説明を受けて、またやってみたが、今度も怖かった。投げること自体は、
相羽の身体の重さをほとんど感じずにできたものの、手に持っているのが刃物だったら
と思うと、実践は心理的に難しそう。
「次にやるのは、相手を怯ませ、近付けないやり方になる。まあ、相手が西洋人なら、
空手のポーズをしただけで、逃げ出してくれる場合もなくはないそうだけれど、一般性
に欠けるのでやめときましょう。ということで定番中の定番、金的を」
 浅田が言った最後のフレーズを、純子はすぐには理解できなかった。

 あれは小学六年生の二月だったから四年ほど前になる。スケートに行ったときのこと
を否応なしに思い出しつつ、純子は色々な護身術を通り一遍ではあるが、教わった。身
に付いたと言えるレベルではまだなかったものの、落ち着いた状態なら問題なく技を掛
けることができる。
「じゃあ最後に、人を相手に練習するわけに行かないから取っておいたのを、言葉だけ
で説明しようかな」
 浅田が言った。純子は心中、密かに「金的だって試せません」とつっこんでおいた。
「涼原さん。目突きと言ったら、どんな風に攻撃する?」
「目付き?」
 浅田の問い掛けに対し、純子は根本的なところで単語の意味を取り違えた。
「浅田さん、無理ですよ。武術や格闘技をやっている人か、日常的に喧嘩のことを考え
ているような人じゃない限り、“めつき”と聞いて目を突くことを連想する女性は、な
かなかいないんじゃあ……」
 相羽がこう言ったので、純子も飲み込めた。浅田はと言えば、片手を頭にやって、
「だろうねえ」と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「しかし、秘訣の教え甲斐がないなあ。――涼原さん。漫画なんかで見たことないかし
ら。目を突くと言ったら、立てた人差し指と中指をこうして開いて――」
 右手で作ったVサインを寝かして水平にする浅田。そのまま自身の両目に、それぞれ
の指の先端が当たるよう、ゆっくりと向ける。
「目を潰す勢いで、突く」
「アクション映画で、何となく見た覚えがあるような気がします」
「それはよかった。で……実戦だと、二本の指を二個の目玉に当てるなんて、確率の悪
いことはしない。わざわざ二本指を立てるよりも、五本指で狙う方が当たる確率は高く
なるっていう理屈」
 喋りに合わせ、右手を開いて五本指を見せる浅田。爪のある獣のような手つきだ。
「不審者というか襲撃者に抱きつかれときなんかに有効だろうね。くれぐれも、普段の
喧嘩で使わないように」
「使いませんてば。喧嘩自体、しないし」
「彼氏とはしない?」
 もう指導は終わりという意識が出たのか、浅田は頬を緩めている。
「しません」
 相羽と声が揃った。神棚脇の壁掛け時計を見ていた浅田は不意に、くっくっくと笑い
声を立てた。
「確かに、息ぴったりだ。喧嘩なんて、口論さえしそうにない」
「い、いえ、口喧嘩ぐらいはします、するかも」
 恥ずかしさから、そんなことを口走ってしまった。相羽がどんな表情をしたのかまで
は、見る余裕がなかった。
「あははは。では、これまでのおさらいをして、締めとしましょう」
 浅田はそう言ったが、純子は気持ちを引き締め直すのに結構時間を要した。

 用意してきた服に着替えた純子は、女子更衣室を出ると、先に支度を済ませて待って
いた相羽と合流した。
「このあと、どうするの? もし時間があるのなら、どこか近場でもいいから」
 そう尋ねた純子の方は、時間があった。ミニライブで、急な要請にも快く協力してく
れた二人――星崎と加倉井へのお礼は午前中に終えていた。
「えっと。少しだけなら」
「あ、何か予定があるのなら、無理しなくていい」
「無理ってわけじゃない。ただ、そのぅ」
 言いにくそうにする相羽。純子は待った。道場を完全に出たところで、やっと答えて
くれた。
「今日は五月の第二日曜だから」
「……ああ」
 遅まきながら察した純子は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、相羽君。早く帰らなくちゃいけないわよね。自転車? 歩きだったら、呼べ
ば杉本さんが車で来てくれるかも。ここまで送ってもらったとき、このあとは暇だって
言ってたから」
「純子ちゃん。そんな心配顔、すんなって」
 思いのほか、笑顔で相羽が言った。一瞬、ぽかんとした純子の頬を、左右から両手で
軽く引っ張る。
「笑って笑って。悲しむ日じゃないでしょ」
「――それはそうだけど」
 手を放してもらって、今度は自分の手で頬を撫でる純子。
「いいの? お母さんと一緒にいなくて。お休みなんでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと言ってきたから。そうだな、一時間半は時間ある」
「いいのかなあ」
「不安なら、母さんに電話する? 『母の日ですが、ちょっとだけ息子さんをお借りし
ます』って」
「い、いえ、そこまでは」
「それじゃ、決まり。短いけどデートしよう。と言っても、何の案も持ち合わせていな
いし、荷物もあるし。あ、そう言えば君の方こそ、母の日、大丈夫?」
「え? ああ、そっか。はい、忘れてたくらいだから、何にも考えていなかった」
「もしプレゼントを買うっていうのなら、付き合うよ」
「――うん、そうする。時間もちょうどよさそう」
 この時点で二人とも徒歩だと分かっていたので、並んで歩き出す。とりあえず、駅の
方向へ。
「何かある?」
「ちょっと前に欲しがっていたのは、ミントンだけれど……何かのアンケート結果で、
聞いたことあるのよね。母の日に、家事をしなくて済むとしたら一番助かるっていうの
が多数回答だったとか何とか。ミントンなんて贈ったら、家事を頑張ってくださいと言
ってるみたいで」
「家事……今からじゃ間に合わないね。できるのは、料理を手伝うぐらい?」
「そうよねえ。まさかケータリングや出前を取るなんて、できないし。あの、相羽君は
何するか、聞いてもいい?」
「特別なことは何も。準備は前からしたけどね」
「詳しくは教えてくれないのね」
「だって、教えたら純子ちゃん、また言い出しそうだから。『早く帰らなくちゃ』っ
て」
「う。そう聞いて、今また言いたくなったわ」
 駅に着くと、程なくして目当ての電車が入って来た。今日、時間があまりない二人に
とって、非常にラッキーだ。初めて利用する駅だったので、ターミナルまでの所要時間
の目安は分からなかったが、電車に揺られつつお喋りをしていると、あっという間だっ
た。ロッカーを探し、中に荷物を預けて身軽になってから、候補の店を目指す。
「そういえば、持ち合わせは? 少しだけど協力できるよ」
「ありがとう、でも平気。元々、高価な物にするつもりじゃないから」
 やや慌て気味に断ったのは、パン屋でのアルバイトのことが頭に浮かんだから。今こ
こで少しでも借りたら、誕生日プレゼントを渡すとき、様にならない気がした。
「目当ての店、どっち?」
「新しくできたお店で、私もまだ入ったことがなくて」
 言いながら、フロア入口の壁に掲げられた案内板を見る。じきに分かって指差した。
同じフロアの端っこ。少し距離があったので、早足になる。
「あれって……ファッションの店?」
 見えてきたショップの外観から、すぐに当たりを付ける相羽。一般高校生が入るに
は、少し勇気がいりそうな、黒くて渋い店構え。ショーウィンドウを視界に捉えたとこ
ろで、有名(かつ高級)ブランドを扱っているのが分かった。
「ミントンはなさそうだ……いや、あるかもしれないけど」
 後ろの相羽が呟くのを耳にして、純子は笑顔で振り返った。
「『家事で楽をさせられないのなら、せめて出掛けるときのお洒落を!』作戦よ」
「今思い付きました感が満載のネーミング」
「実際、今思い付いたんだもの。でも、悪くないと思わない?」
「悪くない。いいと思う。そうなると、父の日にはお父さんにお出かけファッションア
イテムを贈らないとね。夫婦仲よく」
「そこまではまだ決めかねますが」
 店先でごちょごちょやっていると、店員からじろっと見られたような気がした。無
論、そんなことはないのだろうけれど、他のお客さんを入りにくくさせたとしたら申し
訳ない。
「すみません。アドバイスをしてほしいんですが、かまいませんか」
 時間がないのに加え、店員に怪訝がられぬ内にと、純子は先に声を掛けた。了解の返
事をもらってから、要望を伝える。
「母の日に、外出時のアイテム、アクセサリーを贈りたいんです。予算は――、年齢は
――、あ、それから金属アレルギーはありません」
 セレクトに役立ちそうな情報をすらすらと並べる。心得たもので、店員もカウンター
を兼ねたショーケースの上に、専用の用紙を取り出し、前もって印刷された選択肢に
次々と丸を付けていった。このときになって初めて、店員の名前が伊土(いづち)さん
だと分かった。左胸にネームプレートがあったのだが、よく見えていなかったのだ。
「――そうですね」
 記入の終わった用紙を見返しながら、伊土は言った。
「具体的に何とお決めでないようでしたら、先に色味を見てみるのがよいかもしれませ
んね。これからの季節、夏に向けてというイメージを加味すると、こちらの」
 純子達から見て右側に数歩移動し、ショーケースの一角を手で示す。
「青系統の物をおすすめします。いかがでしょう」
 言葉の通り、青系統の色を持つアクセサリーが並ぶ。指輪とブローチばかりのよう
だ。指輪が4×4、ブローチが3×4のマトリクスをそれぞれなしている。他のタイプ
のアクセサリーは、また別のところにあるらしい。
 一口に青系統と言っても、様々なバリエーションがあると分かる。ざっと見て、藍色
から水色まで、比較のしやすいように並べてあった。もちろん、同じ色合いのデザイン
違いもある。
「瑪瑙にトルコ石。あこや真珠はちょっと」
 張り込んだ予算額を伝えたせいか、結構高額な物までおすすめされていた。実際、真
珠を施した品は、どれも予算を若干オーバーしている。
(まけてくれるのかな? これと決めたわけじゃないし、聞きにくい)
 なんてことを逡巡していると、一歩退いて立っていた相羽が、呟くような調子で質問
を始めた。
「トルコ石は衝撃や水分に弱くて、特に扱いが難しいイメージがあるんですが、そうい
った普段使いの面で言えば、どういった物がいいんでしょう?」
「そうですね。まず、お断りしておかねばならないのは、宝石はどれもお手入れに手間
を掛けてこそ、本来の美しさを保ちます。この石は大変だけどあの石は楽、というよう
な大きな差は実はございません。普通に手間が掛かるか、とても手間が掛かるかぐらい
の違いとご認識ください」
「はい、分かります」
 純子も相羽と一緒になって頷く。伊土店員は、聞き分けのいい生徒を前にした教師の
ように、にこりと微笑んだ。そして若干柔らかい物腰になって、真珠には真珠の、瑪瑙
には瑪瑙のお手入れの仕方があることを簡単に説明した。
「――青系統ですと、青サンゴもありますね。天然の物と着色した物があって、お値段
はかなり差がありますが、天然物でもご予算内に収まると思います。お手入れの面を考
えると、特別なコーティングをした物がし易いとされています。ただ、強く拭くと、そ
のコーティングが剥離してしまう恐れもあります」
 青サンゴの商品も見せてもらったが、純子の想像とは違って、あまり好みの色合いで
はなかった。
「それでは……ラピスラズリはいかがでしょう」
「あ、宇宙から見た地球みたいな加工をした物を見たことがあります。私、好きです」
「君が好きかどうかより、お母さんが好きかどうかが大事なんじゃ……」
 斜め後ろから、相羽のぼそりとした声が聞こえて、瞬時に赤面したのを自覚する。で
も、店員は優しい口ぶりで応じた。リラックスさせようという心遣いなのか、より一
層、砕けた口調で。
「お母様と好みは被ることが多いですか? たとえば、服を着回しできたり」
「服はさすがにないですけど、好みは近いと思います。あー、でもそれを言い出した
ら、母の一番の好みはオレンジ色や紫色かも。青色はその次ぐらい」
 急な新情報に、伊土店員は丁寧に対応してくれた。オレンジ色ですとこちら、紫色で
すとこちらになりますという風に、流れるように商品を見せてくれる。
「ただ、衣服や帽子といったベースとなる物がオレンジや紫でしたら、同じ色では使い
にくいかと」
 念のために申し添えておきますといった調子で、伊土。純子は「そっか、そうですよ
ね」と首肯する。
(モデルをやるようになってだいぶ経ったし、デザインとかコーディネイトとか、ファ
ッションには結構自信が付いたつもりでいたのに。いざ贈るとなったら、迷っちゃう)
 時間も気になり始めた。相羽を振り返る。
「どうしよう?」
「僕が選ぶのも変だから、口は出さないよ。まあ、難しく考えすぎなんじゃないかとは
思う」
「え、そうかなあ。だって、折角の機会なんだから、ぴったり合う物を贈りたいじゃな
い」
「気持ちは分かる。でも、純子ちゃんのお母さんて、センスはとてもいいと思うよ。君
のお母さんだけに」
「……〜っ」
 むずむずするようなことをさらっと付け足さないで!と叫びそうになった。お店に来
ているのだと意識が働き、寸前で堪える。
「要するに、何が言いたいわけよ」
「母親のセンスを信じてみれば。純子ちゃんはいいと思った物を贈る。君のお母さんは
どんな物であっても、うまく使いこなすよ、きっと」
「む」
 意見を受け止め、考えてみる。母の姿を思い描こうとすると、家庭で主婦をしている
ところが優先的に浮かぶけれども、たまにお出かけするときや参観日に来てくれると
き、どうだったろう。
(私ったら、モデルや芸能人と接する機会が増えて、何て言うか一般的じゃない、華や
かできらびやかなファッションに基準が傾いていたかも。お母さんなら、ここにあるど
んな物だって、自分に似合うように使うわ、うん)
 気持ちが固まってきた。
「相羽君、ありがとう。決めた」
「え。急すぎるんじゃあ……」
「いいの」
 純子は伊土の方へ向き直った。ショーケースに改めて近寄ると、波をモチーフにした
と思しきラピスラズリのブローチを指差す。
「これが一番いい気がします」

 母の日用にプレゼント包装をしてもらって、店のロゴ入り紙袋ごと渡された。ブロー
チのサイズに比べて少し大ぶりな袋だが、包装を衝撃から守るためのものらしい。
「ありがとうございました」
 店員と言葉が被ってしまって、思わず吹き出しそうになる。でも、一層気持ちよく帰
路に就けそうだ。
「相羽君、アドバイスをありがとね」
「そんなつもりは……少しでも早く終わって欲しいとは思っていたけど」
「あ、退屈だった?」
「そうじゃなくて……残念ながら、もう時間がなくなったってこと」
「え、あ、ほんと」
 首を巡らし、駅ビル内の電光表示時計を目の端に捉え、少々びっくり。こんなに時間
が経過していたなんて。
「ごめんー! お茶を飲む時間くらいあるかなって思ってた」
 両手を拝み合わせる純子に、相羽は「いいよいいよ」と手を振って応じた。それから
片手を自動販売機に向けた。
「中途半端だけど、缶ジュースでよければ飲んでいく?」
「うう、実は少し、カロリー制限をしようと思ってて」
「へえ? 必要なの?」
 あれだけ運動しているのにというニュアンスが、言外に含まれているようだった。
「必要というか、これから必要になるかもしれないっていうか」
 笑ってごまかす。理由を話すわけにはいかないんだった。
「ねえ、それよりも少しでも多く、お喋りしたい。でも相羽君には少しでも早くお母さ
ん孝行して欲しいし」
「――分かった。では、帰るとしますか」
 相羽は詮索することなく、元来た道を戻りだした。


――つづく




#505/598 ●長編    *** コメント #504 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:03  (433)
そばにいるだけで 66−2   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:14 修正 第2版
「じゃあ、最初は慣れてもらうために、パンを並べることからやってください。こうし
て」
 店主は実際にやりながら、説明を続ける。
「まるごと入れ替えるだけ。注意するのは向きだね。こういう風に、お客にパンの顔が
見えるように置く。すると見栄えがいい」
「この、バスケットにパンを一つ一つ並べるのは、誰がやるんでしょう?」
 話の切れ目を捉えて、純子は尋ねた。すでに店のユニフォーム――三角巾にエプロン
姿になっている。髪の毛がじゃまにならないようまとめるのに、ちょっと手間取った。
抜け毛が多いようなら、透明なビニールのキャップを被るように言われている。
「今日は最初、僕か寺東さんがやるから、それを見て覚えてください。明日からは――
明日、来られるの?」
「あ、はい」
「よかった。明日からは、涼原さんが最初からやってみてください。並べ方はそんな難
しいものでないし、今日これから見ていれば分かるでしょう」
「はい」
「今のは通常の話で、人気のあるパンは臨時に補充することがある。焼けた分を並べる
んだけれど、そのとき残っている分があれば、手前の向かって右側に移す。新たにでき
あがった分は、少し間を取って並べる。お客も分かっているから、古い方が残ることが
多いんだけれどね」
「そうなんですか」
 知らなかった。お客として来ていた頃に知っていたら、新しい方を取っていただろう
か。
「まあ、お客がいるところで並べる場合でも、焦らなくていいから。ゆっくり落ち着い
て。お客にぶつからないようにする。あとは……そうそう、型が崩れたり、切れ端が出
たり、あるいは売れ残ったりした分を安売りに回すんだが、その詰め合わせを作るの
も、やってもらおうかな」
 店主がそこまで言ったとき、店のドアの開く合図――ベルがからんからんと鳴った。
「寺東、少し遅れました。すみません」
 寺東は純子が初めて会ったときよりは、幾分丁寧な物腰で入って来た。裏に回らない
のは一緒だが。
「まだ大丈夫だよ。でも準備、急いで」
 店主の言葉に頷きつつ、寺東はこちらに近寄ってきた。唇の両端をにんまりと上げ
て、凄く嬉しそうな顔になった。
「よかった。本当に来てくれたんだ?」
「え、ええ」
 純子の手を取った寺東は、「これからよろしくね」と言った。こちらこそと返そうと
した純子だったが、それより早く、「先輩として、びしびししごいてあげる」と寺東が
付け加えた。
「寺東さん、早く」
 店主が促すが、今度はその店主に向けて話し始める寺東。
「思ったんですけど、早いとこ彼女にパン作りにタッチさせたらいいんじゃないかっ
て。風谷美羽が作ったパンとして売れば、新規のお客さん獲得!」
「寺東さん」
「――はーい。分かりました、着替えてきまっす」
 奥に引っ込む寺東を見つめていた純子だったが、店主の言葉に注意を引き戻される。
「客足の傾向を言うと、今日これからの時間帯、ぼちぼち増え始めるのが通例だから。
曜日や天気もあるから、一概には言えないが、だいたい君達の年代の子が第一波で、第
二波は買い物のついでに寄るお母さん方かなあ。サラリーマンは少ない」
 ということは……純子は頭の中で考えた。
(風谷美羽を看板娘にするのって、効果が期待できないような)
 元々、本意ではないから、かまわないのだが。とにかく頑張ろう。意を強くした。
 しばらくして寺東が出て来た。ユニフォーム姿になると、少し印象が変わる。髪が隠
れるせいかもしれない。
「……うーん」
 と、横に並んだ寺東が、顎を撫でつつ、難しげなうなり声を上げた。
「店長。これって罰ゲームじゃないですかあ」
 そしていきなり、そんなことを言い出した。当然、店主はきょとんとし、次いで「何
のことだい?」と聞き返す。
「こんなスタイルのいい子と一緒に働くってことは、常に見比べられるってわけで」
 寺東は純子を指差しながら答える。
「精神的苦痛がこれからずっと続くと思うと、モチベーションが激減しちゃいそ。せ
め、て、時給を少しでもアップしてもらえたら、やる気を維持できるんですけど」
 昇給交渉のだしに使われたと理解した純子だったが、黙っていた。まだそこまで店の
雰囲気に馴染んでいない。
「……」
 一方、店主もしばらく黙っていた。怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。や
がて、呆れたように嘆息すると、右手で左の耳たぶの辺りをちょっと触った。
「寺東さんはよくやってくれてるしねえ。仕事の前後の言動や態度はちょっとどうかな
と思うことはあるけれども。いざ始まると集中してるし、熱心だし。考慮はする。が、
すぐには無理。新しく人を入れたばかりなんだから分かるでしょう」
 言い終えて、店主が純子の方をちらと一瞥。今度は、昇給を遅らせる理由付けに使わ
れてしまった。
「へいへい。気長にお待ちしまーす。さあ、がんばろうっと」

 聞かされていた通り、高校生から小学生ぐらいまでのお客の波がまずやって来た。途
切れたところで補充に動く。人気は甘い物及びかわいらしい物に偏っている。それを店
主も当然把握しており、追加で焼き上げる分の八割方はそのタイプだ。
 パンの並べ方は、簡単そうだった。全種のパンをまだ見たわけではないけれども、一
度見れば覚えられる。一方、パンを運ぶ段になってちょっとびっくりしたのは、予想外
の重さ。数が集まれば重たくなるのは道理だが、家で食べる分には軽いイメージしかな
かったから、最初は力の加減のギャップから「う?」なんて声が出てしまった。
「いらっしゃいませ」
 ドアのベルが鳴るのに呼応して、寺東と純子の声が響く。始めたばかりの純子は、慣
れるまではとマスク着用。普段の音量だとぼそぼそした声になってしまうので、気持
ち、声を張り上げた。
 その声から一拍遅れてドアの方を振り向いた純子は、入って来たお客さん――女性一
人――を見て、あっと叫びそうになった。思わず、顔を背ける。
(白沼さんのお母さん? このお店で買うんだ? もっと高級なところへ足を延ばすの
かと……って、これは店長に悪いわ。味は最高なんだから)
 などと胸の中でジタバタやっていると、真後ろを白沼の母が通った。幸い(?)、向
こうは純子に気が付いていない様子。マスクのせいもあるだろうが、こんなところにい
るなんて、考えもしていないのかもしれない。
(お仕事のこともあるし、挨拶すべき? でも、アルバイト中に私語はよくない気がす
るし……気付かれたら挨拶しよう)
 レジには寺東が立つことになっている。でも、その他の接客は、声を掛けられた方が
応じる。無論、必要が生じれば、声を掛けられなくても動かなければいけない、が。
(できることなら、アルバイトをしてるって白沼さんに伝わらない方がいい)
 そんな頭もあるため、ついつい、距離を取りがちに。
(しばらく運ぶパンはないし、トレイは片付けたばかりだり、焼き菓子の整頓くらいし
かすることが)
「おすすめはある? 甘さ控えめの物がよいのだけれど」
 突然の質問に、純子は反射的に振り返った。と同時に、意識のスイッチを切り替え
た。自分は久住淳なのだと。
「売れ筋ベストスリーはこちらにある通りですが、この中で甘さ控えめは、胡桃クリー
ムパンになります。酸味が大丈夫でしたら、ヨーグルトのサワーコロネやいちご本来の
味を活かしたストロベリーパンもおすすめです」
 低めにした声で答える。店内のポップを活用しつつ、如才なくこなしたつもり。
「そう、ありがと。どれも美味しそうだから、全部いただこうかしら」
 白沼の母は呟き気味に言って、トングを操った。どうやら純子には気付かずじまいの
ようだ。
 寺東からは、うまくやったねというニュアンスだろうか、ウィンクが飛んできた。純
子はマスクを直しながら、目礼を返した。
(それにしても、今の様子だと来店は初めてなのかしら。気に入ってもらえたらいい
な。あっ、だけど、頻繁に来られたら、じきに私だってことがばれる!)
 あれこれ想像して、頭の痛くなる純子だった。
「お買い上げありがとうございます。――八点で1300円になります」
 寺東の、対お客様用の声が軽やかに聞こえた。

(いけないと思いつつ、もらってしまった)
 午後八時過ぎ、アルバイト初日を終えた純子は白い買い物袋を手にしていた。中身は
売れ残ったパン。人気のパン屋だけあって数は多くないが、どうしても売れ残りは出
る。しかも初日サービスと言って、純子の大好物である胡桃クリームパンをわざわざ一
個、取り分けておいてくれていた。恐縮しきりである。
(これがあると聞いていたから、普段はカロリーを抑えめにしようと決めたんだけど、
だからといってぱくぱく食べていいもんじゃないし)
 自転車置き場まで来ると、先に出ていた寺東が待っていた。自然と頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜。さっきも聞いたけど、このあと暇じゃないんだよね? だったらせめて、
行けるところまで一緒に帰ろうと思ってさ。それともモデルか何かの仕事が入ってて、
絶対にだめとか」
「全然そんなことないです。いいんですけど、確か正反対の方向って言ってませんでし
た?」
「いいのいいの。興味あるから、少し遠回りしていくのだ」
 自転車に跨がり、早く早くと急かせる寺東。
「あ、別に家を突き止めようとか、芸能界の裏話を聞き出そうとかじゃないから、安心
してよ」
「はあ」
 調子くるうなあと戸惑いつつ、純子も出発できる態勢に。漕ぎ出していいものか躊躇
していると、「遠回りするのは私なんだから、あなたが先行って」と寺東に促された。
 ライトを灯しているとは言え、夜八時ともなると暗い。街灯や建物、行き交う自動車
のライトを助けに、比較的ゆっくりしたスピードで進む。
「あんま時間ないだろうから、さっさと聞くね」
「え? あ、はい、どうぞ」
 後ろからの寺東の声に、純子は遅れながら応えた。
「何であんなパン屋でバイトしたいと思ったわけ? 正直なとこ、他のことでがっぽり
稼いでるんじゃないかって思ってたけど、そうでもないとか?」
「えー……っと」
 いきなり、答えに窮する質問だ。一から説明すると長くなるのは確実だし、知り合っ
て間もない人に理由を話すのも恥ずかしい。
「言いたくなかったら言わなくていいし、他言無用だってんならそう付け加えてよ。こ
れでも口は堅いと自負してるんだ。そりゃまあ、バイト面接に来てたあなたのこと、店
長にぺらぺら喋っちゃったくらいだから、無条件に信用してくれなんて言わないけれ
ど。あのときは興奮しちゃって、つい」
 寺東の話を純子は、よく口が動くなあと感心して聞いていた。
(お店では肩の凝りそうな喋り方に徹していたから、今は解放されたってところなのか
しら。まあ、今日だけでもお世話になってるし、これくらいは答えてもいいと思う、う
ん)
 決めた。ただし、多少はオブラートに包もう。
「隠すようなことじゃないんですけど、一応、他言無用で」
「ふんふん、了解」
「お世話になっている人がいて、その人の誕生日が近いんです。プレゼントをして感謝
の気持ちを表そうと思ったんだけど、モデルの仕事とかを始めるきっかけを作ってくれ
たのがその人なんです」
「お、読めた。その人とは関係のない仕事で稼いで、プレンゼトを買いたいってこと
だ?」
「え、ええ。当たりです」
「うんうん、気持ちは分かる。私がその立場だったら、実際に行動に移そうとはこれっ
ぽっちも思わないだろうけどねえ」
 信号待ちで停まったところで、純子は振り返った。気付いた相手は「うん?」という
風に目をぱちくりさせ、次に横に並んだ。
「何?」
「質問、もう終わりかなと思って」
「お、いや、一個聞いたから、次はそっちから質問出るかなと思って。興味ないなら、
パスしてくれていいよー」
「あっあります」
 手を挙げそうになったが、信号が青に切り替わった。寺東に気付かされ、進み始め
る。
「そんで、質問は何?」
「デ、デートではどこへ行って、どんなことをします?」
「――わははは。意表を突かれた。まさかの質問だわ。いるの、彼氏? あ、言えない
か」
「今はまだ……大っぴらには」
 ごまかして答える純子。
「将来、彼氏ができるのはだいぶ先になるかもしれない。それまで全然経験がなくて、
いきなりだと、どうすればいいのか困ってしまいそうで」
「なるほどねー、分からない苦労があるもんなんだ。でも、今は自分もいないからな
あ」
「え、ほんと?」
「こんなことで変な見栄を張ったりしないよ。髪を染めるくらいだから、いると思った
とか?」
「そういうわけじゃないです。寺東さん、とてもさばけていて、男性客の接し方も慣れ
てるように見えたから……」
「それこそ接客に慣れただけ。ま、確かにちょっと前はいたんだけどさ」
「……悪いことを聞いてしまいました……?」
 声が強ばる。知り合ってまだ日が浅いのに、ちょっと突っ込みすぎたろうか。
「気にしない気にしない。別れたばっかなのは事実だけど、引きずってないから。歳は
相手が上で、まだ大学生のくせして、いっちょこ前に起業してさ。私より事業に夢中。
で、時間が合わなかったんだ。まあ、他にも色々あって、しゃあなかったんよ」
「はあ」
「風谷さん……じゃないや、涼原さんも仕事持ってるわけだから、付き合う相手を高校
で探すのは大変と思うよ、多分」
「そ、そうですね」
「そんなわけで、前彼との経験でいいのなら、さっきの質問、いくらか答えられるかも
だけど」
 上目遣いになる寺東。次の信号は青だが、スピードを落とし始めた。
「さすがにもう引き返さなきゃ。今夜はここまでってことで、いい?」
「もちろんです」
 純子も自転車を漕ぐのをやめた。信号は黄色に変わり、ちょうどいいのでストップす
る。
「その内、芸能界の話、少し聞かせてちょうだいね。今日は楽しかった」
「こちらこそ。今日はお世話になりました。しばらくの間、ご迷惑を掛けるかもしれま
せんが、よろしくお願いします」
 頭をぺこり。すると、「固いな〜」と寺東の声が降ってきた。
「普通、逆っしょ? 私が緊張して固くなるのなら分かるけど」
「生まれつき、こんな感じで……じきに柔らかくなると思います」
「うん、期待してる。じゃーねー」
 自転車に跨がったまま、器用にその場で方向転換した寺東は、手を一度振ってから前
を向いた。
「気を付けて!」
「そっちもね!」
 夜の街路に二人の声が結構響いた。

 パン屋でのアルバイトのことは当然、学校に届け出ているが、周りのみんなには内緒
にしておくつもりでいた。
(相羽君が知ったら変に思うだろうし、わけを聞いてくるに決まってる)
 だが、状況は変化した。積極的には宣伝しないとしても、“風谷美羽があそこでバイ
トしている”という噂が流れる程度に知られることで、売り上げに貢献する。本意では
ないが、そういう話になってしまったのだから。
「おばさまにも伝わっているはずなんだけど、相羽君には私の口から言いたくて」
 学校の一コマ目と二コマ目に挟まれた休み時間、純子は相羽一人を教室から、校舎三
階の屋上へと通じる階段踊り場まで連れ出した。念のため、唐沢ら仲のいい友達には仕
事の話だからと、着いてこないように心理的足止めをした。
「うぃっしゅ亭って、あのパン屋さん? アルバイトをって何のために?」
 予想通りの質問を発した相羽に、純子は前もって考えておいた答を言う。
「市川さん達との話で、演技の幅を広げるためには、社会経験を一つでも増やしておく
といいんじゃないかって意見が出てさ。だったら高校生らしいバイトをしてみたいです
ってリクエストしたら、意外と簡単に通って」
「何も仕事を増やさなくてもいいのに」
「もちろん、邪魔にならないペースで、よ。期間も短いし。じきに定期考査があるでし
ょ。その手前でやめる」
「……まあ、君が判断すべき領域の事柄だから、君が必要なことと思ったのなら、僕は
口出ししない」
 相羽がため息交じりに固い口調で言った。ここで終わりかと思ったら、続きがあっ
た。迷いの後、急遽付け足そうと決めた風に。
「でも、時間があるなら、学校の外でももっと会いたいのに――なんてね」
「……」
 相羽の(ほぼ)ストレートな恋愛表現は珍しい。嬉しいのと、本当のことを言い出せ
ない申し訳なさとで、しばし言葉を出せなくなる。
「純子ちゃん?」
「あー、ううん、ごめんね。休める日がないかと思ったんだけど、始めたばかりで、し
かも短期バイトだから言い出せないかも」
「決めたからにはやる方がいいよ、きっと。僕のことは気にしなくていいから。ただ、
学校にモデル仕事にアルバイト、三つを平行してするのは無理だと感じたときは、いつ
でも言って。母さん達に言い出しにくくても、僕が何とかする」
「うん」
 頼もしくさえある励ましの言葉に、純子の返事にも元気が戻った。そして、アルバイ
ト経験を演技に活かすという嘘も、いつか本当に変えてやろうと思った。
「ところで、僕だけを呼んでアルバイトの話をしたのは、何か意味があるのかなあ。み
んなには言ってはいけないとか?」
「あ、それはね、言ってもいいんだけど、万が一にも噂が広がることで、お店に迷惑が
掛かるといけない。例の脅しの手紙は、久住淳宛てだから関係ないと信じてるけれど、
風谷美羽でもアニメのエンディングを唄ってるから、ひょっとしたらがないとは言い切
れないし」
「……うん? 結局、言わない方がいいってこと?」
 時間を気にして戻り始めた二人だったが、すぐに足が止まった。
「虫のいい話なんだけど、ほどよく噂が広まって、それなりに売り上げアップしてくれ
たらいいなって」
 純子は舌先を少しだけ覗かせ、自嘲した。相羽はしょうがないなとばかりに苦笑を浮
かべ、
「だったら、友達みんなで行く方が早くて効果的かも。よし、そうしよう」
 と早々と決めたように手をぽんと打った。
「一度に大勢来られたら緊張して、凄く恥ずかしい気がするけど、がんばるわ」
「平日の放課後、みんなで遠回りしていくのは大変だから、土曜がいいかな。あ、で
も、純子ちゃんは土曜日、バイトよりもルーク関係だっけ?」
「ううん。そっちの方は、テストが近付いてるから、土曜どころかほぼ休み。なまらな
いように、レッスンを日曜にやってもらって。あ、あと白沼さんのところと一度、ミー
ティングがあるくらい」
「充分忙しそうだけど、まあよかった。じゃ、今度の土曜にでも。学校が終わって一緒
に行くのと、バイトに勤しんでいるところへ押し掛けるのとじゃ、どっちがいい?」
「……考えさせて」
 小さいとは言え頭痛の種を抱えつつ、今度こそ教室へ向かう。チャイムまであまり間
がないと分かっていたので、小走りに近い早足になった。

(バイトできるかどうかで頭がいっぱいになっていたけれど)
 午前の授業で出された古典の宿題をどうにかやり終え、昼休みの残り少ない時間を仮
眠――と言っても正味数分しかないので目をつむって頭を横たえるだけだ――に当てよ
うとしたき、ふと思った。
(誕生日プレゼント、何がいいんだろ?)
 宿題に集中していたおかげで、今、隣の席に相羽がいるのかどうかさえ知らない。目
をぱちりと開けて、気配を探りながらゆっくり振り向いてみた。
 いなかった。
(男子の友達はいるみたいだけど。トイレかな。じゃなければ、また先生のところと
か)
 いや、今考えているのはそんなことじゃなく。
(前に、母の日の買い物に付き合ってもらったとき、ついでを装って聞けばよかったか
もしれない。でも、あのタイミングで聞いたとしたら、誕生日プレゼントのことだって
絶対にぴんと来るはず)
 あげるのなら欲しがっている物をあげたいけれど、多少のサプライズ感も残したい。
相反する希望を叶えるには、普段から相手のことをよく見て、知っておく必要がある。
だからといって確実に成功するとは断言できないが、そうしなければ始まらない。
(ういっしゅ亭のバイトでもらえる範囲で買える、相羽君の欲しい物……)
 再び頭を机に着ける。いや、今度は腕枕を作って、そこへ額をのせて沈思黙考。
(お家にピアノがあるのなら、譜面ホルダーって思うんだけど。それ以外となると……
何にも浮かんでこない。一緒にいる時間は前より減ったかもしれないけど。基本的に相
羽君、物欲が薄いというか欲しい物を言葉にするなんて、滅多になかった気が)
 少し方針を転換する必要がありそう。
(似合うと思う服か何かを贈るのもありよね。私服の日なら、学校にも着てこられる
し。腕時計はいらないかなあ)
 予鈴が鳴った。身体を起こす。午後一番の授業の準備に掛かる。
(うーん、音楽以外に相羽君が興味関心を持っているのは、マジックと武道? 武道の
方はさっぱり分からないから、絞るとしたらマジック。マジック道具で、相羽君が持っ
ていない、手頃な商品てあるのかしら。手先の技で魅せる演目が多いから、逆にいかに
もっていうマジック道具、意外と持ってないみたいだし)
 テキストとノートを机表面でとんとんと揃えていたら、相羽が教室に入ってきた。自
身の席に駆け付けた彼は、少し息を弾ませていた。
「気付いたらいなかったけど?」
 先生が来る前にと、省略した形で尋ねる。
「宿題に夢中だったから声掛けなかったけど、神村先生のところに」
「また? 保護者が忙しいと大変ね」
 以前の話を思い起こした純子。
「うん、まあそうなんだけど」
 某か続けたそうな相羽だったが、ここでタイムアップ。始業のチャイムにぴったり合
わせたかのように、神村先生が入って来た。
 委員長の号令で、起立、礼、着席。約一ヶ月が経過して、唐沢の委員長ぶりも、よう
やく板に付いてきた。
「授業に入る前に、今日は用事があってホームルームができないから、今、三分ほども
らう。最近、中高生を狙ったカンパ詐欺が起きているそうだ。たとえば、インターネッ
ト上で『名前は明かせないが在校生の一人が妊娠した。親に内緒で中絶したいが、手術
費用が足りないので、力を貸してほしい』というような名目で金を集め、消えてしま
う」
 妊娠だの堕胎だのの単語が出たところで、教室内がざわついた。神村先生は静かにと
注意してから、話を続ける。
「集金の手口は様々で、プリペイド式の電子マネーを購入させてIDを送らせたり、代
理を名乗る者が直に集金に来たり、指定した口座に振り込ませたり。大胆なのは学校の
一角に募金箱を設置した事例もあった。金額こそ小さいが実際に被害が出ていて、まだ
一部しか解決していないそうだ。この手の犯罪は巧妙化する傾向があるから、早めに注
意喚起しておく。また、間違っても知らない内に片棒を担いでいたなんてことにならな
いように、充分に気を付けること。分かったな」
 以上、と話を打ち切って、授業に入ろうとした先生だったが、生徒の一人が挙手しな
がら「先生、質問〜」と言い出したため、教科書を戻した。
「何だ、唐沢」
「委員長なんで代表して、みんなが聞きたいだろうことを聞こうかと」
 真顔でありながら、どことなく笑みを我慢しているような体の唐沢。神村先生の表情
を見れば、嫌な予感を覚えているのが窺えた。
「前置きはいいから、早く言うんだ」
「詐欺には気を付けるけど、もし仮に、本当に中絶手術カンパの話が回ってきたら、生
徒はどうしたらいいのかなって」
 さっきとは少々異なるニュアンスで、クラスのみんながざわつく。
「まったく、何を言い出すかと思えば。みんなが聞きたいことか、それ?」
「まあ、半数ぐらいはいるんじゃないですか」
「しょうがないな。そりゃあ学校側としては、報告しろって話になるだろな。ついで
に、誰も知らないようだから教えておくと、うちの校則に、妊娠したら退学というよう
な決まりはない。生徒手帳を読め」
「まじで?」
 先生の言葉を受けて、実際に生徒手帳を繰る者もちらほら。
「ああ。明記している学校もあるが、我が校はそうではない。認めてるわけじゃない
し、高校生らしからぬ逸脱した行為を禁ずる条項があるから、それを名目に妊娠を退学
に結び付けることも可能だ。だけど、緑星学園史上、適用例はない」
「でも、そういう妊娠騒動を起こした生徒がいなかっただけなんじゃあ……」
「そうよね。進学校なんだし」
「あったとしても、表面化してないだけで」
 主に女子からごにょごにょと声が上がる。堂々と質問するのは、さすがに気後れする
様子だ。これらにも神村先生は応じた。
「個人情報に関わり得るから、そこはノーコメント。ただ、歴代校長の方針は、妊娠し
た生徒がいればできる限り学業が続けられる方向でサポートするっていうのが、慣習と
いうか不文律だ。――さあて」
 腕時計を見た神村先生は、教科書で教卓をばんと叩いた。
「三分のつもりが、五分になった。授業、始めるぞ」
 静かになった。それでも空気が落ち着きを取り戻すには、もうしばらく掛かった。

「真面目な話――」
 放課後、大掃除の時間。女子は男子、男子は女子の目を盗んで、こそこそと内緒話に
花を咲かせていた。
「学校は許したとしても、スポンサーは許さないからね」
 白沼の言葉を理解するのに、純子は十数秒を要した。
「わ、分かってるって」
 手にしたモップの柄をぎゅっと握りしめる。同じくモップを持つ白沼は、柄の部分を
純子の持つそれに押し当て、ぐいぐい押してきた。
「信頼していいの、ねっ」
「いい、よっ」
 負けじと押し返して距離を取る。と、間に入ったのは淡島と結城。
「まあまあ、熱くならない。二人とも、らしくないよ」
「熱くもなるわ。もしものことを思うと」
 嘆息混じりに言った白沼の前に淡島が立つ。
「白沼さんたら、何も妊娠だけを言ってるのではありませんね? 多分、タレントのイ
メージを気にしてのことです。恋人がいるといないとじゃ大違い」
「そう、なの?」
 先に純子が反応を示す。白沼はもう一つため息をついた。
「そうよ。友達の内では公認でも、世間的にはまだなんだから、充分に注意してもらわ
なくちゃいけないの」
「それくらいなら、弁えている。これでも何年かプロをやってるんだから」
 純子は自信を持って返した。白沼は気圧されたみたいに、上体を少しだけ退いた。
「だからってことじゃないんだけれど、相羽君とは――」
 一旦言葉を切って、クラスの中に相羽を探す純子。窓ガラスを拭いていた。周りには
唐沢達もいて、お喋りが弾んでいるようだが、相羽自身はあまり口を開いていない。
「彼とは、まだなーんにもありません」
「……そう。よかった」
 白沼は、ばか負けしたみたいに肩をすくめた。が、少し経って、よい返しを思い付い
たとばかりににやりと笑むと、ちょっとだけボリュームを戻して言った。
「さっき、友達の内では公認とか言ったけれども、私はまだ隙あらば狙っているから。
何にもないと聞いたから、なおさらね」
「うわ、それはあんまりだよー、白沼さん。板挟み過ぎるっ」
 純子も調子を合わせ、芝居めかして応じると、じきに笑いが広がった。
 何事かと、他のグループから注目されたのに気付いて、すぐに引っ込めたけれども。
その落ち着いたところへ、今度は淡島が爆弾発言をしてくれた。
「これまでのところ何もないのでしたら、私の予想は大外れになります」
「えっと、何の話?」
「てっきり、今度の誕生日にでも捧げるものと推し量っていましたが、段階を踏まずに
いきなりはない――」
「! しないしない!」
 モップを放したその両手で、淡島の口の辺りを覆おうとした。淡島はそれ以上続ける
気は元からなかったらしく、すんなり大人しくなる。反面、モップが床に倒れた音が大
きく響いた。
「そういえば、相羽君の誕生日、近かったわね」
 白沼が意味ありげにモップを拾い、渡してくれた。受け取る純子に、質問を追加す
る。
「何をあげるつもりなのかしら」
「考えてるんだけど、決めかねてて」
 また声の音量を落として、相羽の方をこっそり見やる。いつの間にか唐沢と二人だけ
になっていた。
(探りを入れてみるつもりだったのに、聞けてないわ)
 神村先生のあの話のおかげで、プレゼントをどうしようと悩んでいたことが一時的に
飛んでしまった。
「悩む必要なんてないってば。何をあげたって喜ぶよ」
 請け合う結城に、純子はつられて「それはそうかもしれないけど」と答えた。すかさ
ず、「背負ってるわねえ」と白沼から指摘される始末。この辺で反撃、もしくは転換し
ておきたい。
「私のことは散々言ってきたから、飽きたでしょ。みんなはどうなの?」

            *             *


――つづく




#506/598 ●長編    *** コメント #505 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:19  (471)
そばにいるだけで 66−3   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:16 修正 第2版
「もしかして、自分の身に降りかかるかもしれないから、聞いたんじゃないよね、あれ
って?」
 ちりとりをほったらかしにした平井はそう聞きながら、唐沢の脇腹付近をぐりぐりや
った。不意を突かれた唐沢はオーバーアクションでその場を離れ――こちらはほうきを
放り出してそのままだ――、「何がだよ」と問い返す。
「だから、神村先生にした質問。あんなこと聞けるなんて、ある意味すげーって感じた
けど、ひょっとしたら唐沢君自身がそうなんじゃないかって思ってしまったのだ」
「ばーか。そんなことあるかい」
 唐沢は普段のキャラクターをここぞとばかりに発揮する。
「俺はそんな下手は打たない。基本、広く浅く。万々が一にも深くなったとしたって、
一線は守る」
「おー、意外」
「尤も、高校に入ってから勉強に時間を取られがちなんだよなあ。あんまり遊べてない
のが悔しいし、さみしい。相羽センセーに教えてもらって、どうにか時間を作ってる有
様だから情けない」
「いや、唐沢は前よりもずっとできるようになってる」
 近くの窓を拭いていた相羽は聞きとがめ、本心からそう評した。しかし、当人は額面
通りには受け取らなかったようで。
「ばかやろー、それは以前の俺と比べてってだけで、客観的にはまだまだだろ、どう
せ。そうじゃなけりゃ、成績を維持するのにこんなに苦労すはずがない!」
「みんな苦労してるよ」
「苦労してるようには、とても見えん」
 唐沢は平井に同意を求めた。
「まあ、確かに、相羽君が苦労してるようには見えない。稲岡君みたいに年がら年中勉
強優先て感じでないのに、成績いいのは納得しがたいよ」
「だよな。その上、彼女持ちで。あ――涼原さんと特に進んでいないのは、勉強に時間
を回してるせいとでも言うのか」
「か、勝手に話を作るなよ」
 唐沢の“急襲”に、思わずぞうきんを取り落としそうになった相羽。内側を拭いてい
るときでよかった。
「お互いに忙しいし、今の時点では無理して進める必要がないって二人とも思ってるし
……」
 相羽の声が小さくなる。唐沢とは前に似たようなことを話題にしたが、他の男子には
初めてなので、言いづらい。幸い、平井らものろけを聞かされてはたまらんと思った
か、他の男子グループに呼ばれて行ってしまった。
「そういや、天文部の話、鳥越から聞いたか?」
 二人だけになったところで、唐沢がいきなり尋ねてきた。
「何で部員じゃないのに、天文部の話題を。まあいいや。それって、合宿のこと?」
「うむ。鳥越が言うには、皆既日食に合わせて、K県K市に行くという希望が、ほぼ確
実に通る見込みだと」
「僕もぼんやりとは聞いてたけど、本決まりになるなら行ってみたいな。夏休みか…
…」
 少し伏し目がちになって考え込む相羽。
「え? 何か予定あんの?」
「――ん? まさか。そんな先のことは分からない」
「だよな。今の時期に夏休みのスケジュールが決まっているとしたら、海外旅行いく奴
か、仕事のある涼原さんくらいだろ」
 そう言った唐沢が、肩越しに振り返る。つられて、相羽も純子達のいる方を向く。何
だか知らないが、モップを持って楽しげに“攻防”しているのが見えた。
「他にもいるだろ。夏期講習を受けるとか」
「嫌なことを思い出させてくれる。補習があるとしたら、皆既日食に被るんだっけか
?」
「知らないよ。まず、補習を受けずに済むように考えないと。ていうか、唐沢がどうし
て皆既日食との被りを心配するのさ?」
「おまえらが――相羽と涼原さんが行くのなら、楽しそうだから着いて行こうかなと思
ったんだ。無論、俺も天文部に入って」
「冗談だろ?」
「割と本気だぜ。まあ、夏までに本命の彼女でもできれば、話は違ってくるかもしれな
いがな」
「……他人のことに首を突っ込む気はあまりないんだけど、町田さんはどうしてる?」
 聞いてから、別の窓ガラスに移動する。
 が、唐沢の方は、その質問をスルーしたかったのか、はたまたクラス委員長として役
割をはたと思い出したのか、ほうきとちりとりを持って平井を追い掛けた。
(やれやれ)
 短く息を吐いた相羽に、背後から声が掛かった。
「ねえねえ、相羽君」
 相羽は手を止めずに、そちらに目だけをやった。湯上谷(ゆがみたに)、西野中(に
しのなか)、下山田(しもやまだ)の女子三人組。彼女ら自身、名前の共通項を意識し
ており、上中下トリオと呼ばれるのをよしとしている。相羽や純子らとは、今年初めて
同じクラスになった。
「さっき話しているのが耳に入ったんだけど、天文部の合宿に参加するの?」
 代表する形で、西野中が聞いてきた。
「うーん、多分ね」
「唐沢君の話も聞こえたんだけど、今からでも入部できる?」
「え? ごめん、僕は幽霊部員に近いから、詳しいことは分からないんだ。クラス違う
んだけど、鳥越って知ってる? あいつに聞けばいいよ」
「えー、知らない。ねえ、知ってる?」
 お下げ髪を振って、左右の二人にも聞く西野中。返事は二つとも否だった。
「悪いんだけれど、相羽君から確かめてくれないかなあ?」
「しょうがないな。どさくさ紛れに、今、行って来ようかな」
 一斉清掃だから、特別教室に回されていない限り、鳥越を掴まえて話をちょっとする
くらいは容易だろう。
「うん、お願い」
 声を揃える三人組。下山田は手を合わせてまでいる。相羽はまた密かにため息をつい
て、窓から離れかけた。が、ふと浮かんだことがあって、足を止めた。
「――思い過ごしだったらごめん。一応、聞くけど、唐沢目当てとかじゃないよね? 
唐沢は今のところ部員じゃない」
「やだ」
 三人は申し合わせたかのように、口元を片手で覆って笑った。それから湯上谷が日焼
けした健康的な肌に、白い歯を見せる。
「唐沢君も格好いいけれど、そんなんじゃないよー、私達。こう見えても星に興味ある
の――というのは大げさになるけど」
「正直に言うとね、思い出作りしたいなとみんなで話してたんだ」
 あとを受けて、西中野がわけを語り出す。
「高校の思い出作りで、何かロマンチックなことをって考えたら、天文部の合宿の噂話
を聞いて」
「噂話って?」
「何年かおきに、合宿でカップル誕生しているとか、流星群の観察で二人きりになると
盛り上がるとか」
「はあ」
 聞いた覚えないなあ、女子の間だけで広まっているのかなと思った相羽。
(いかにも唐沢が好みそうなシチュエーションではあるが、今年予定されているのは、
皆既日食だし)
 多かれ少なかれ星に興味関心を持っているのなら、入部動機に全然問題ないだろう。
好意的に解釈し、鳥越に聞いてみることにした。
 相羽は「ちょっと待ってて」と言い残し、教室後方の戸口を目指した。
(――純子ちゃんは合宿の件、まだ知らないのかな? 伝えて、参加できそうなら、早
く鳥越に教えてやろう)
 爪先の向きをちょっぴり調整し、純子のいる方へ立ち寄る。ちょうど純子達もこちら
を見ていた。

            *             *

 純子の「みんなはどうなの?」の問い掛けに、まともに反応したのは白沼だった。
「私の方から告白したくなるようなフリーの男子はいないわね。逆に前、一年生に懐か
れて困ったような、戸惑ったことはあったけれども」
 もてるアピールなのか、そう付け足した白沼。どことなく自慢げだ。
「その一年生の話、聞きたい」
 純子は意識的に食いついた。話題をそらせれば何でもいいという気持ちはあるが、白
沼に懐く(告白したってこと?)一年生男子に興味がなくもない。
 だけど、今度は白沼の反応が鈍い。その視線が、純子の肩口をかすめて、相羽のいる
であろう方に向いている。
「白沼さん?」
「相羽君、女子に囲まれているわよ」
 その言葉に、急いで振り返る。囲まれていると表現でいるかどうかは別にして、西野
中、湯上谷、下山田の三人と話している相羽の姿を捉えた。
(何の話をしてるのか、気になる……)
 日常の一場面だけを切り取って無闇に詮索したり嫉妬したりはしないよう、心掛けて
いるつもり。それでもなお、気になってしまう。純子が聞き耳を精一杯立てようとした
矢先、相羽が一人、窓際を離れた。こっちに来る。
「デートのお誘いですわね、きっと」
 淡島が適当なことを口にすると、結城が「ぞうきん片手に?」と笑いながら混ぜ返
す。
 そんな中、相羽は自然な形で輪に加わった。
「ちょっといいかな。純子ちゃん。天文部の合宿の話、聞いてる? 皆既月食観察の線
で、ほぼ決まりだって」
「ほんと? まだ聞いてなかった。日程はどうなるのかしら」
「そこまでは決まってないみたい。例年だと二泊三日か三泊四日って聞いてるし、日食
が二日目か三日目に来るようにするんじゃないかな」
「きっとそうね。うん、分かった。スケジュールはまだもらってないけれども、もし重
なっていたら、調整を頼んでみる」
 純子が期待感いっぱいの満面の笑みで言うのへ、横合いから白沼が口を出す。
「具体的にいつ? 万が一、うちの関係している仕事が入っていたら、影響あるから聞
いておきたいわ」
 質問先は相羽だったが、彼は慌てたように両手を振った。
「悪い、今すぐ鳥越のところに行かないと。純子ちゃんが知ってるから」
 言い置くと、すぐさま教室を出て行く。ぞうきんを持ったままなのは、先生に見咎め
られた際、どうにか言い逃れするためだろうか。
「そういうことだそうだけれど」
 白沼が目を向けてきた。純子が答えようとすると、淡島が「皆既日食の日ぐらい、私
でも答えられますのに」と不満げに呟いた。無意識なのかどうか、場を混乱させてい
る。純子は返答を急いだ。
「七月二十*日よ、白沼さん」
 白沼はメモを取るでもなく、二度ほど首を縦に振った。「分かったわ、覚えた」とだ
け言うと、掃除に戻ろうとする。
(ひょっとして、わざと仕事を入れてくるなんて、ないよね?)
 白沼の後ろ姿を見つめ、そんなことを思った純子。
 と、いきなり白沼が向き直った。
「安心しなさい。なるべく協力してあげるつもりだから」
「え、ええ。……ごめんなさい」
 思わず謝った純子に、白沼は左の眉を吊り上げ、怪訝さを露わにした。
「うん? 今言ってくれるとしたら、『ありがとう』じゃないのかしら」
「あ、今のは――無理をさせることになったら申し訳ないなって気持ち込みで。感謝し
てます」
 内心、冷や汗をかくも、どうにかごまかせた。
「感謝してくれるのなら、芸能人の男の一人でも紹介して。付き合いたいってわけじゃ
ないけれど、世の中には相羽君よりもいい男がいるんだって実感を持たないと、次に進
めないのよね」
 白沼は口元に小さな笑みを浮かべた。本気なのか冗談なのか分からない。
「それなら白沼さんも、蓮田秋人に一緒に会いに行かない?」
 結城が言い出したのを聞いて、純子もすぐに思い出した。
「マコ、遅くなっててごめんね。少ない伝を頼って、ご都合を伺ってるんだけれど、伝
わってるのかどうかも、ちょっと心許ない状況なの」
「いいって。確か今、映画の海外ロケのはずだし。――白沼さん、蓮田秋人は知ってる
わよね?」
「当然、知ってるけれど。結城さん、あなたって随分と渋くて年上好みなのね」
「やだなあ、タレントとして見て好きなだけで、異性の好みとか関係ないから」
「そうなの? それなら分かるけれども。蓮田秋人ね……一般人相手には線引きが厳し
そうなイメージがあるわ。大丈夫なの?」
 と、再び純子に質問を向ける。
「わ、分かんないけど、お会いしたときは、好感を持ってもらえたみたいだった」
「いやいや、あなたは素人じゃないでしょうが」
 的確なつっこみだったのに、自覚の乏しい純子は首を傾げた。

 それは三度目のアルバイトの日のことだった。
 純子は短い時間ではあるが、店番を一人で任されていた。
 経験の浅い純子がどうしてそんな役目を仰せつかったかというと、偶然が働いた結果
だった。この日、シフトでは寺東も入る予定だったが、当日になって連絡が店長に入っ
た。前日、英語教師が車上荒らしに遭い、金銭的被害は小さかったものの、アタッシュ
ケースに入れていた採点済みの答案用紙を、鞄ごと盗まれてしまった。定期考査ではな
く小テストだったが、成績を付けるには必要なものであり、再テストせねばならない。
英語教師は己の不注意を該当する生徒達に深く詫びた上で、放課後に再テストを受ける
よう求めた。求めたと言っても、生徒側には拒否権はないわけで、受けざるを得ない。
その影響により、一時間ほど学校を出るのが遅れる見込みとなった寺東は、昼過ぎにな
って遅れることを伝えてきた次第である。
 では店長はどうしたのかというと、午後三時半頃に起きた震度三の地震に驚いて、卵
を大量に床に落とし、だめにしてしまった。パン作りに重要な材料だけに、残った僅か
な個数では心許なく、アルバイトが入るのを待って急遽買い足しに出ることに。卵ぐら
いなら純子でも買いに行けそうなものだが、何でも拘りの銘柄があって、車で遠くまで
足を延ばさねばならない。よって、店長もしばし抜けることになってしまった。
(四十分ぐらいと言っていたけれど)
 時計を見ても、なかなか時間が進まないことにじりじりするだけなのに、あまり見な
いようにした。それ以上に、お客がほぼ途切れずに来るので、時刻を気にしている余裕
がなかった。レジを受け持つのはまだ二度目。手際は決して悪くないのだが、非常に緊
張する。
「――レシートと三十円のお釣りです」
 女子中学生二人組に、まとめて会計を済ませて送り出す。その次に並んでいたお客
が、「あ、やっぱりそうか」と言うのが聞こえた。
「いらっしゃいませ。トレイとトングをこちらへ――」
 マニュアル通りに喋る純子にも、相手が誰だか分かった。以前は学生服姿だったの
が、今回は私服なので気付くのが遅れたが、真正面から顔を見て思い出せた。でも私語
は極力、慎まねば。
「胡桃クリームパン好きが高じて、とうとう就職か」
 その男性客――佐藤一彦が、ややからかうような口調で言った。
「就職じゃありません、バイトです、バイト」
 たまらず、早口で答えた。パンを個別に袋に入れる動作も、いつも以上に速くなる。
「分かってる、冗談さ。ええっと、四年前になるんだっけ? あのときは、本当に悪か
った」
「そのことならちゃんと謝ってもらいましたし、もういいんですよ。――五百円になり
ます」
「ほい」
 五百円硬貨をカルトン――硬貨の受け皿に投げ入れる佐藤。角度がよかったのか、ゴ
ムの突起物の間に挟まって、五百円玉が立った。
「おっ」
「五百円ちょうどをお預かりします。――はい、レシートですっ」
 後ろに並ぶお客がまだいないことを見て取り、純子はレシートを押し付けるようにし
て渡した。悪い人じゃないのは分かっている。でも、今は早く帰って欲しいという意思
表示のつもり……だったが、佐藤もまだ他の客が並んでいないことを知っている。
「他に店の人、いないの?」
「一時的に外しています」
「そうか。じゃあ、あんまり邪魔できないな。相羽の近況も聞きたかったんだが」
 パンの入った袋を摘まみ持ち、がっかりした様子の佐藤。
(……あの頃はまだ、私と相羽君、付き合ってなかったのに)
 訝る純子だったが、敢えて聞く必要もないと黙っていた。
「過去のお詫びがてら、友達連中に宣伝しとくわ。多少は売り上げに協力しないとな」
「――あ、ありがとうございます。お待ちしています」
 自然とお辞儀していた。風谷美羽としてでなく、涼原純子としてお客を増やすのに貢
献できるとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「あ、そうだ。宣伝するとき、『涼原っていう、すっげーかわいい子がいる』って付け
加えてもいいか?」
「だ、だめです。かわいくなんかありませんっ」
 大慌てで否定する。佐藤は笑いながら出て行った。
(つ、疲れる。でも、今何をされているかぐらい、聞けばよかったかな。忘れてたわ)
 ほっとしたのも束の間、程なくして次のお客がレジ前に並んだ。
 そんなこんなで客足が途切れたのが、午後五時十分頃。あと十分ほどで店長が戻る予
定だし、二十分後には寺東も来るはず。がんばろうと気合いを入れてパンを並べている
と、ショーウィンドウの外、道路を挟んだ向こう側にたたずむ男の姿が目に止まった。
(あの人、五時になる前からいたような)
 忙しい最中でも何となく記憶していた。五月も半ばを過ぎ、ぼちぼち暑さを意識し始
める頃合いに、その男は黒い手袋をしているように見えたから、印象に残ったのかもし
れない。
(バイクに乗る人でもなさそうだし、ほとんど同じ位置に立ってる)
 道路工事を予告する立て看板の横、まるでこちらの店からの視線を避けるかのような
ポジション取り。
(――まさか)
 不意に浮かんだ悪い想像に、一瞬、身震いを覚えた。ショーウィンドウに背を向け、
カウンターの内側に駆け込む。
(脅しの手紙の主?)
 呼吸を整え、ゆっくり、自然な感じで振り返る。ショーウィンドウのガラスには、白
い文字で店名などが施されている。それが障害になって、反対側の歩道にいる人とじか
に目が合うことはなかなかない。でも警戒してしまう。
(……いなくなった?)
 目線を左右にくまなく走らせる。男の姿は消えていた。三十分近くいて、何をするで
もなしに立ち去ったことになる。
(気のせいかな? 分かんない)
 脅しは久住淳に宛てた物だった。普段の格好をしている今の純子は風谷美羽であっ
て、久住ではない。ならば、基本的に心配無用となるはずだが、ことはそう単純でもな
い。風谷もアニメ『ファイナルステージ』には歌で関与しているわけで、その線から度
を外した原作ファンから嫌われている恐れはある。さらに言えば、久住淳の居場所を突
き止めるために、風谷美羽に近付いて問い詰めるなんていうケースも、考えられなくは
ないだろう。
「用心するに越したことはない、かな」
 呟いて、護身術の型をやってみた。店のユニフォームを着ていても、案外動けると分
かって、多少は安心できた。
 と、そのとき店のドアの鐘が鳴った。型の動作を止め、急いで服のしわを伸ばす。店
長は裏口から入るはずだし、寺東が来るにはまだ早いから、お客に違いない。
「いらっしゃいませ」
 声を張ると同時に、笑顔を入口の方へ向ける。
「あれ? 相羽君」
 今度の土曜に来るはずの相羽が、何故かいた。学校からの帰り道なのか、ブレザー
姿。でも、ここまで来るには自転車じゃないと不便だろうから、一旦帰宅しているは
ず。どちらにせよ、今は一人のようだ。
「急にごめん。今、大丈夫?」
「お客さんはいないけれど、私一人だけだから……手短になら」
 どぎまぎしつつも、気は急いている。
「急用ができて、土曜日は来られそうにないんだ。だから、僕だけ今日来てみたんだけ
ど、驚かせちゃったね」
「え? え?」
 唐突な話に、すぐには思考がついて行けない。相羽の方は、言うだけ言ってパンの物
色を始めそうな気配だ。
「待って。相羽君だけ来られなくなったって子とは、他の人は土曜に来るのね?」
「うん。唐沢に言っておいた。君がここでバイトしていることをいつ教えるかが、悩み
どころで」
「そっか、まだ言ってないんだ? だったら……当日がいいのかな」
 そこまで考えて、細かいことを気にしすぎと思えてきた。事情を知る相羽が皆を連れ
て来る形ならまだしも、彼が来られなくなった現状で、友達をコントロールしようとし
ているのは、いい気持ちではない。
「やっぱり、早めに言おうかしら。そうして、来たい人は好きなときに来てくれればい
い。来たくない人や来られない人は、それでかまわない。元々、そういうもんじゃな
い?」
「君がそう言うのなら、分かった。噂が一瞬にして第三者にまで広まって、千客万来っ
てことにはまあならないだろうし」
「よかった。よし、これで少し気が楽になったわ。土曜日、緊張するだろうなあって覚
悟してたから」
 純子が両手で小さくガッツポーズするのを見届け、相羽は今度こそパン選びに専念す
る。見ていると、胡桃クリームパンの他、レーズンサンドや野菜カレーパンを取ってい
くのが分かった。出たぱかりの新作、桃ピザはスルーされてしまったけれど。
「そうだ、さっき、佐藤さんが来たんだったわ」
「佐藤さん?」
 さすがに思い出せない様子の相羽。あるいは、人口に占める比率の高い佐藤姓だか
ら、多すぎて特定できないといったところか。純子は、中学生のときのパン横取り事件
を示唆した。
「ああ、あの人。へえ、今もここで買ってるんだ」
「誰のために買っていくのかは、聞かなかったけれどね」
 トレイにパンを五つ載せて、相羽はレジに戻って来た。会計を済ませて、純子がレ
シートを渡すと、「これ、記念に取っておくべきかな」と言った。
「えー、おかしいよ、そういうの」
「そう?」
「だって、記念になることなら他にもっとあるはず。これから先、ずっと」
 純子が答えたところで、店の裏手にある勝手口の方から音が聞こえた。ドアの開け閉
めに続いて、「ただいま。少し遅くなりましたが、店番、大丈夫でしたか」という店長
の声が届く。
「はい。結構お客さん、来ました。というか、今も来てます……友達なんですけど」
 どう紹介しようか急いで考える純子を置いて、相羽は店長に目礼した。
「涼原さんのクラスメートで、相羽と言います」
「うん? 君も見覚えがある。涼原さんがよく買いに来てくれていた頃、よく、同じよ
うに胡桃クリームパンを買っていったから、記憶に残ってる。同じ高校に進学したんだ
ね」
 店長の言葉に、相羽は瞬時、はにかんだ。
(相羽君も買いに来てたなんて、知らなかった。あのとき食べて、気に入ってくれたの
かな)
「凄いですね。常連客全員の顔と好みを一致させて覚えてるんですか」
 興味ありげに尋ねる相羽。店長は首を横に振った。
「全員は無理だろうなあ。何せ、毎回違うパンを買って行かれて、好みがさっぱり掴め
ない人もいるから。おっと、こうしちゃいられないんだった」
 店長は相羽に礼を言うと、いそいそと奥に引っ込んだ。新しくパンを焼かねば。卵を
追加購入した意味がない。
「忙しくなりそうだね。そろそろ帰るよ。送っていけなくてごめん」
「あ、うん」
 もう少し待ってくれたら、寺東が来て紹介できる――そんな考えが浮かんだ純子だっ
たが、引き留めるのはやめた。寺東に相羽を紹介すれば、「なーんだ、彼氏いるんじゃ
ないの。付き合ってどのくらい?」なんて風に聞かれそうな予感があった。うまくかわ
す自信がない。
「気を付けてね」
 笑みを浮かべて手を振っていると、ちょうどお客が入って来た。慌てて笑みを引っ込
め、手を下ろした。

「昨日、言うのを忘れていたんだけれど」
 純子はそう前置きして、アルバイト中に目撃した、店の外にしばらく立っていた男に
ついて、ざっと説明した。
「うーん」
 聞き手は相羽と唐沢。ちょうど、相羽が純子のバイトのことを唐沢に伝えたところだ
ったので、ついでに話しておこうと思った。
「それだけじゃあ、何とも言えないな」
 怖がらせたくないのか、本当に何とも言えないと感じたのか、唐沢が答えた。相羽も
一応、同意を示す。
「たまたま待ち合わせをしていて、立っていただけかもしれない。急にいなくなったの
は、迎えの車が来て乗り込んだか、来られなくなったからと連絡が入って立ち去ったと
か」
「仮にそのパン屋の方を見ていたとしても、危ない奴とは限らないしなあ。『あ、かわ
いい子がいる。声を掛けたいけど勇気が出ない。どうしよう』ってだけかもしれない
ぜ」
 唐沢は茶化し気味に言った。やはり、怖がらせたくない気持ちが強いようだ。
「まあ、最初は無害でも、悪い方へエスカレートする場合、なきにしもあらずだけど」
 対する相羽は、楽観的な見方ばかり示さない。これはもちろん、脅しの手紙の存在を
相羽が知っているからであって、知らない唐沢とは差が出て当然かもしれなかった。そ
のような手紙の存在なんて、昼食を終えたばかりのこんな場所――学校の教室で、第三
者に話すことではなかった。
「気になるのは、手袋かな。指紋を残したくないから、これから暑くなる季節でも手袋
を付けている、とか」
「おいおい、相羽。何でそんな風に、悪い方へ考えるんだよ。怖がらせて楽しんでると
かじゃないよな、まさか」
 小声だが不満を露わにする唐沢。
「当たり前だ、そんなんじゃない。大事だからこそ、最悪の場合を想定するよう、癖を
付けている。それにこんなことまで言いたくないけど、純子ちゃんに何かあったら、母
さんや他の大人に、影響があるから」
「それもそうだ。納得した」
 あっさりと矛を収めた唐沢は、続いて「じゃあ、学校の行き帰りもなるべく一緒にい
ないとだめだな」と二人に水を向けた。にんまり笑って、ボディガードにかこつけての
のろけ話でも何でも聞いてやるぜという態度を示す。それは純子でも分かるくらいに明
白なサインだった。
 しかし、相羽は真面目に答えた。
「百パーセントというわけに行かなくて、困ってる。僕が無理なときは、誰か代わりに
付いていてほしいよ」
「……こっちを見るってことは、俺でもいいのかいな」
 唐沢は自身を指差し、最前のにんまり笑みのまま言った。相羽は相羽で、真顔を崩さ
ずに応じる。
「ああ」
「……まじ、なんだな。俺、腕は結構筋肉着いていて太いが、これはテニスのおかげ。
護身術なんて知らないぞ。喧嘩もなるべく避ける平和主義者だぜ」
「それでもいい。近くに男がいるだけで、だいぶ違うはずだから」
「盾になって死ねってか」
「冗談を。盾になりつつ、逃げて生還しなきゃ意味がない」
 二人の間で、やり取りを聞いていた純子は、心理的におろおろし始めた。黙って聞い
ていると、息が詰まりそう。
「も、もう、やだなあ。相羽君も唐沢君も、万が一のことについて真剣になりすぎっ。
心配してくれるのは嬉しいけど。わ、私だって、少しだけど対処法は教わったんだか
ら」
 相羽らの通う道場で護身術を習ったことまで唐沢に伏せておく理由はなかったはずだ
が、今は話がちょっと変な方向に行ってしまっている。相羽がそのことを言わなかった
のを、唐沢は不審がるかもしれない。だから強くは言わずにおいた。
「ま、すっずはっらさんを守るってのは、悪くない。護衛名目に、お近づきになれる。
相羽クンのいないところでも、な」
「……しょうがないことだ。でも、唐沢が不純な動機オンリーでやるって言うのなら、
道場の誰かに頼もうかな」
「もー、二人とも、いつまで続ける気よ。ほんとにやめてよね。居心地悪くなっちゃう
じゃない。私が大げさに心配したせいね。はい、これでこの話はおしまい。いざとなっ
たら、車で迎えに来てもらうことだってできるんだから」
「なるほど」
 唐沢は合点がいった風に、大げさに首肯した。そろそろ収拾を付けるべきだと考えた
のだろう。一方の相羽も、疲れたような嘆息をしながらも、「とりあえず、うぃっしゅ
亭に行ってくれたらいい」と結んだ。
「そうだ、涼原さんのバイトのこと、白沼さんにも言っていいのか?」
「何で気にするの」
 聞き返しつつも、純子は白沼の存在を気にした。確か、何かの委員会に顔を出さなき
ゃいけないとかで、早めにお昼を済ませて、教室を出て行った。まだ戻っていないよう
だ。
「いやほら、詳しくは知らないけどさ。白沼さんの親父さんか誰かが、仕事のオファー
を涼原さんに出してるんだろ? そんな最中に、他の仕事にまで手を出してるなんて知
ったら、彼女の性格からして怒る……は言い過ぎだとしても、不愉快に思うんじゃない
か。うちの仕事一本に絞ってよ!って」
「契約では、オファーされた期間中、他の仕事をしていいことになってて。もちろん、
被るというか競合するようなのはだめだけれど」
 純子は相羽を見た。一人で判断していいものやら、決めかねたため。
「別にいいんじゃないか。秘密にしておいて、あとで知られる方が、よっぽど決まりが
悪いよ。何なら、今日にでも唐沢が誘って、一緒にういっしゅ亭に行けばいい」
「前もって目的を告げずに、か? それ、ハードル高すぎだろ」
 片手で額を抱えるように押さえた唐沢。だが、腕の影から覗く表情は、面白がってい
る節も見受けられた。
「びっくりする顔が見たい気もするな」
「唐沢君が誘うだけでも、充分にびっくりされそうだけど」
 純子の呟きに、そうかもなと男子二人も頷く。
「あ、でも、白沼さん、店のこと知っているかもしれない。一度、白沼さんのお母さん
が買いにいらしたから」
「ははあ。その情報は……誘いやすくなったのか、逆なのか。ていうか、そもそも今
日、シフト入ってるの、涼原さん?」
「うん。なるべくたくさん入れてるわ」
「何でそんなにがんばるかねえ。絶対、コレの問題じゃないんだから」
 右手の親指と人差し指でコインの形を作る唐沢。相羽がその腕を叩いた。
「その手つき、やめ。何だか下品だ」
「じゃ、はっきり言う。お金が目当てじゃなく、体験が目的なら、そんなにいっぱい働
かなくても、充分じゃないの? 違うか?」
「それは」
 純子は人差し指を伸ばした右手を肩の高さまで上げて、答えようとした。が、相羽の
前で本当の理由を話すのは、やはり躊躇われる。無理。
「……それは?」
「ち、父の日のためよ。お父さん、表面的には許してくれてるけれど、芸能関係の仕
事、ほんとはやめてほしいみたいだから。だから、父の日のプレゼントを買うのは、ア
ルバイトで稼ごうかなって」
 咄嗟の思い付きでペラペラと答えた。心中では、予定にないことを口走って、頭を抱
える自分の姿を描いていたが。
(ああー、何てことを! これじゃあ、色々説明しなければないことが増えるし、下手
をしたら、相羽君に勘付かれる?)
 唐沢に向いていた目を、ちらと相羽に移す。特段、何かに気付いたとか閃いたとか、
そんな気配は彼から感じ取れない。ただただ、急に顔つきを曇らせ、
「純子ちゃんのお父さん、反対してるの?」
 と聞いてきた。
「え、えっと、全面的ってわけじゃなく、たまーにね。一時あったでしょ、水着の仕事
とか」
 適当な返事を続けざるを得ない。実際のところ、父が内心どう思っているかは聞いて
いないが、応援してくれているのは間違いない。ごく稀にだが、会社の上司の娘さんが
ファンでサインを頼まれた、なんてことを笑顔で言ってくるぐらいだから、悪い気はし
ていないはず。
「そんなら分かる。よし、売り上げに協力しましょう。白沼さんに声を掛けるかどうか
は別として、なるべく早く行くよ」
 唐沢が胸を叩くポーズをした。ちょうどそのタイミングで、白沼が教室に入ってくる
のが、純子の位置から見えた。すぐさま、唐沢にもジェスチャーで知らせる。
 唐沢は、胸を叩いた腕ともう片方の腕を組むと、首を傾げた。
「さて、どうすっかな」

――つづく




#507/598 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/598 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




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