AWC そばにいるだけで 65−1   寺嶋公香



#494/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:43  (497)
そばにいるだけで 65−1   寺嶋公香
★内容                                         17/06/08 12:44 修正 第3版
 新学年二日目、学校からの帰り道。唐沢は愚痴をこぼしっ放しだった。「忙しくなけ
りゃ、涼原さんを指名したのに」だの、「こんなことなら、テニス部に入っておけばよ
かったよ」だのと、前の日にも言っていたフレーズをぶつぶつ繰り返す。
 今日中に決めるよう言われていた副委員長のポストを、まだ決められないでいる。先
生に頼んで、もう一日だけ延ばしてもらうのに苦労したらしい。そのため、委員長を引
き受けたこと自体を後悔し始めている。
「修行だと思えばいいじゃない」
 駅に着き、結城が笑み混じりに口を開く。唐沢、相羽、純子達と別れ、反対側のプラ
ットフォームへと向かう間際のこと。
「しゅぎょお〜?」
 どんな漢字を当てはめればいいのか分からない、という風に唐沢が聞き返す。
「敢えて苦手な人を選ぶとか、それができないなら、くじで決めるとか。そうすれば経
験値が上がるってもんよ」
「……何と不謹慎な」
 間を置いてから答えた唐沢。反論を色々考え、最適なものを選び出したらしい。
「そんないい加減に副委員長を選ぶのは、よいことじゃないなあ」
「だったら、まず、自分自身がいい加減じゃないようにしないとね。――じゃ、バイバ
イ」
 駅アナウンスが流れる中、結城はさらに上手を行く切り返しを見せた。そうして、反
対側のプラットフォームへと急ぐ。ちょうど入って来た列車に乗り込む姿が、純子達の
いる位置からも確認できた。
「うるさいのが行ってくれた」
 列車が遠ざかるのを最後まで見送り、やれやれと芝居めいた息をつく唐沢。それから
おもむろに振り返ると、相羽に対して言った。
「という俺自身も、お邪魔虫か。二人で話したいことがあるんなら、今日のところは消
えてやろう」
「別にないよ」
 相羽に続いて、純子が答える。
「そうよ。気を遣われたら、かえって話できなくなる」
 この返事に唐沢が食いついた。
「うん? 話ができなくなるってことは、したい話があるってことじゃ?」
「あ」
 口元を押さえる純子。相羽に聞きたいことがあるのは本当だが、今すぐのつもりはな
かったのだ。
 相羽を見やると、彼も純子の今の台詞に引っ掛かりを覚えた様子。どうしたのと、目
だけで聞いてくる。
「な、内緒話ってわけじゃないし。――あ、ほら。来たわ」
 結局、車内で続きを話すことに。時間帯が早いため、座席は充分に空いていた。他人
の耳をさほど気にすることなく、お喋りできる。
「昨日の朝のことなんだけれど」
 純子は左隣に座った相羽に尋ねた。本当は昨日の下校時に尋ねるつもりだったが、タ
イミングを逃し、聞きそびれてしまっていた。
「教室に来るの、遅かったよね。生徒指導室に行っていたとも聞いたんだけど、何かあ
った?」
「あ、それ、俺もちょっとだけ気になってたんだ。珍しく、叱られるようなことでもし
たのかと」
 右隣の唐沢もまた、相羽へと顔を向けながら軽口を叩く。相羽はそんな質問をされた
こと自体意外そうに、何度か瞬きをした。コンマ数秒の間を取って、口を開く。
「生徒指導室に行ったのは本当だけど、大した話じゃないよ」
「もったいぶらずに言えって。気になる」
「――みんなやることさ。進路とか受験とかの相談」
「もう?」
 声を揃えたのは、相羽の答に驚いた純子と唐沢。乗客が少なめであるせいか、響いた
ような気がする。
「いや。悪い、勘違いさせたみたいだ。二年になったら、じきに三者面談があると聞い
たから、いつ頃なのかを確かめたんだ」
「ん? 何のために」
「五月上旬ぐらいまでだと、母さんの都合の付く日があまりなくて」
「なるほど。理解した」
 声に出してうなずく唐沢。純子も納得していた。一つの疑問を除いて。
「でも、わざわざ生徒指導室でするなんて……職員室で済むのに」
「職員室は始業式で慌ただしい雰囲気だったから、『場所を変えよう』と神村先生が」
「なあんだ。生徒指導室に行ったって最初聞いたときにびっくりして、損した気分」
「そういえば、ついでのときでいいから伝えておいてくれないかと、先生に頼まれてい
たんだった」
 と、相羽が改まって見つめてくる。純子は気持ち、のけぞった。電車の微振動が不安
感を増幅させるような。
「え、何なに? まさか、呼び出し?」
「違う違う。『三者面談のとき、芸能活動について聞くから、そのつもりでいるよう
に。今後在学中の一、二年、あるいはもっと先の将来のことも含めて、考えをある程度
まとめておいてくれ』だって」
「あっ、そういうことなら」
 ほっとした。けど、別の意味でどきどきする。仕事――学校側から見ればアルバイト
――のことに触れられるのは、気が重い。
「考えをまとめるも何も、続けるんだろ?」
 唐沢が口を挟む。視線はよそを向いている(車内の女性に目移りしているらしい)の
だが、友達の会話は逃さず聞いていたようだ。
「……将来、と言われたら、迷っちゃう」
 純子の声は、その言葉通り、迷いの響きを含んでいる。少し前、事務所で市川から言
われたことも思い出していた。
「今は好きでやっていることだけれど、運がよかったというか、周りの人に支えてもら
った結果だものね。他にもしたいことあるし……。改めて考えると、難問かも」
「えー、やめないでよ。続けてほしいな。何ってたって、友達に芸能人がいたら自慢で
きるっ」
「唐沢君たら」
 冗談とも本気ともつかぬ台詞に、純子は気抜けしたような笑いをため息に乗せた。
「純子ちゃん、唐沢に紹介できるような仕事仲間っている?」
「え?」
 相羽のひそひそ声による質問、その意図が分からなくて、純子は首を傾げた。
「いたら、紹介してやって。芸能人の友達がいれば、唐沢は満足できるみたいだから」
「いっそ、唐沢君自身をモデルか何かに推薦してあげて――」
 遅まきながら察し、調子を合わせる純子。声のボリュームは、すでに通常レベルにな
っていた。
「二人とも、それは誤解だ。ボクは悲しい」
 唐沢はしっかり聞いていた。
「相羽の前で言うのも何だが、俺、涼原さんのファンだもんね。応援するし、ああいう
世界でどこまで行けるのか、見てみたい」
「今でもあっぷあっぷなのに、期待されても困るなぁ」
「いやいや。もし学校がなかったらどうよ。仕事に集中できるわけで、絶対に行けるっ
て」
「唐沢、これ以上忙しくさせてどうする。少しは考えろって」
 呆れ口調で、相羽。対する唐沢は、膝上の学生鞄を手のひらでばんと叩き、心外そう
に反論する。
「聞いてなかったのか。学校がなかったらっていう仮定の話だ。今より忙しくなるかど
うか、分からないだろうが」
「今は学校があるという理由で、セーブしてもらっているようなものなんだ。その盾が
なくなったら、忙しくなるに決まっている」
「――知らねえよ、そんなこと。知らなかったんだから、仕方ないだろ。もっと人気出
てほしいと思うのは、悪いことかい?」
 徐々に、だが確実に熱を帯びるやり取り。二人の間に挟まれた純子は、自分に関する
話だけあって、身が縮む思いを味わう。相羽も唐沢も、自分のことを思ってくれるが故
の発言。たまらなくなる。
「やめて」
 小さいがしっかりした声で、きつく止めた。その響きにただならぬものを感じ取った
か、男子二人は静かになる。
「もう。さっきまで普通に話していたのに、どうしてこうなるのよ……」
「分かった。もうやめる。――な?」
 相羽は唐沢へと目線を移した。唐沢も空気を読んだか、即座に調子を合わせる。
「ああ。こんなに仲いいんだから、安心してよ、すっずはっらさん」
 席を立ち、ハイタッチ、と言うよりも“せっせっせ”のような格好で手を合わせる唐
沢と相羽。純子は二人の間で、今度は笑い、和ませてもらった。
「さすが、委員長」

           *           *

 昼休み、電話を終えて教室に戻った白沼は、すぐさま純子の席を目指した。父から仕
事上の伝言を受け、伝えねばならない。
「――ちょっと。何寝てるのよ」
 ハンカチを敷いた机に頭をもたせかけ、顔を横向きにし、腕は下にだらんとさせた姿
勢でいる純子。その姿を見て、白沼はつい声を荒げた。正確には、純子の隣の席で、相
羽が同じ姿勢で休んでいるという理由が大きい。顔はどちらも右向き。見つめ合う形に
なっていない分、許せるものの……今日は朝一番に、精神的にちょっとハードルを越え
ねばならない出来事があったので、どうしても声が刺々しくなる。
「ん? ああ、白沼さん」
「全く。休み時間に熟睡するなんて」
「……眠るなら授業中にしなさいと?」
 本格的に寝入っていたらしく、純子は半眼のまま、ぼんやりと返事をした。
「昔に比べて、また妙に理屈っぽくなったわね。まあいいわ。仕事で忙しいんでしょう
し。パパからの伝言があるの」
「パパ……ああ、白沼さんのお父さん」
 かぶりを振り、頭の中をすっきりさせる風の純子。次いで、自らの身体のあちこち
を、ぺたぺたと触る仕種を繰り返した。
「……何をしているの」
「――あった。お待たせ」
 純子の手には、シャープペンシルと表紙が桜色のメモ帳が。
 白沼は片手を額に当て、純子が完全に目覚めていることを確認してから、用件を伝え
た。
「――いい? 変更したのがまた取り消されたから。分かったわね?」
「うん、了解しました。ありがとう……って、どうして白沼さんが、わざわざ」
 疑問を口にしつつ、純子は持たされた携帯電話のメール機能で、変更の知らせを受け
たことを関係各所に報告する。
「電波の具合が悪いところにいるのか、そっちの人が掴まらなくて、私に連絡してきた
まで。考えてみれば、学校にいる間は、こうする方が確実に伝えられるわけよね」
「じゃあ、これからもこういうこと、あるのかな」
「かもね。まあ、今日はあなた達がべたべたしていなかったから、素直に教えてあげた
けれど――」
 と、通路を挟んで逆側の相羽を一瞥し、また視線を戻す白沼。
「――見せつけられたら、どうしようかしら。教えてあげないか、嘘を伝えるかも」
「そ、そんな恐いこと、白沼さんはしないわよね」
「当たり前でしょうが。責任を持ってきちんと伝えなくちゃ、私が叱られる」
 強い調子で答えると、白沼は改めて相羽の方を見やった。この近距離で、結構声高に
お喋りしたのに、微動だにせず眠っている様子だった。
「涼原さん、あなたがちょっとでも眠ろうとするのは理解できる。でも、相羽君は何
故?」
「何故と言われても、ずっと一緒にいるわけじゃないし」
「……ずっと一緒にいられてたまりますか!」
 目元を赤くした白沼は、急いで叫んだ。“ずっと一緒”で“二人揃って寝不足”、こ
の二つからよからぬ想像をした自分を打ち消そうと、何度か首を横に振る。
「そ、そりゃあ、あなた達はもう公認の仲ですから、ええ、悔しいですけれど、そうな
んですから、いかにもなことに及んでも第三者が口出しする領域じゃありませんわよ。
ですけど、高校生に分相応な」
「白沼さん、何を言っているのか分かんない……」
「ともかくっ。彼氏のことを、把握できてないの? 学校以外で直接会う時間は少ない
でしょうけど、それでも電話ぐらい当然、頻繁にしてるんでしょうに」
「電話ならするわ。でも、頻繁なのかな……。話の中身だって、その日の出来事を互い
に伝え合うのがメインで、あとは、宿題で分からないところを聞くぐらい」
「私が言うのも変だけれど……デートの約束や悩み事の相談、していないの?」
 相羽が目を覚ましていないのを再度確かめ、白沼は聞いた。
「デ、デートは、なかなか都合が付かなくて……。悩みは、なるべく言わないようにし
てる」
「どうして」
「今の私の悩みって、仕事絡みがほとんどだから、相羽君に言っても困らせるだけと思
って。事務所の人に聞けば、だいたい解決するしね」
「なるほどね。あなたがそれだから、相羽君も悩みがあっても、言い出せないのかもし
れない」
「そんな」
「じゃあ、聞いたことあるの? 『最近、疲れているみたいだけど、どうかしたの?』
とか」
「一度だけ。『大丈夫。ピアノのことを考え過ぎたみたいだ。心配させてごめん。あり
がとう』っていう返事だった」
「……」
 二人のやり取りを想像すると、そこはかとなくしゃくに障った。なので、平静になる
ために、しばらく間を取る白沼であった。
「……そう聞いたあとも、この調子なんでしょうが。もっと、何度でも尋ねなさいよ。
心配させて悪いと思っているのなら、こんな風にはならないんじゃなくて?」
「私も気になってるわよ。でも、同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がるは
ず」
「それにしても――」
 白沼は反駁を途中でやめた。相羽が起き出すのを、目の端で捉えたためだ。彼女の目
の動きを追って、純子も相羽へと顔を向ける。
 相羽は、時計を見やると、安心したように次の授業の準備を始めた。午後最初の授業
まで、あと十分ほどある。
「ねえ、相羽君」
 白沼は、自分の存在をまるで気にかけない様子の相羽を腹立たしく思いつつ、声を掛
けた。純子の最前の言葉――同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がる――を思
い起こし、私が聞く分には問題ない、と考えたのだ。
「近頃、昼休みに眠っていることが多いようだけれど、どうかしたの?」
 相羽は白沼から純子へと視線を動かし、また戻した。瞼を一度こすって、普段に比べ
て早口で答える。
「単なる寝不足。昨日、観たい映画が深夜にあって、録画予約しているのに、ついつい
観てしまって」
「何ていう映画かしら。私も観てみたいから、教えて」
 即座に次の問いを発した白沼。映画の題名に興味がなかったわけではないが、それよ
りも、質問に対する相羽の答が、純子へしたものと異なっていたことが気になった。無
論、今日と以前とで疲労の理由が違うことはあり得るが。
「『シャレード』だよ。ただし、一九六三年の方」
 題名を復唱しかけた白沼だったが、制作年を言われたおかげで戸惑った。
「年を聞いただけでレトロって感じ。わざわざ断るということは、リメイクでもされた
のかしら」
「うん。二〇〇二年に」
 一九六三年と二〇〇二年なら、メモを取らなくても区別が付くはず。白沼は記憶し
た。主目的は、そんな映画を本当に昨日の深夜に放映していたかどうかを調べるためだ
ったが、ここまで詳しい返答があったということは、まず間違いなく放映されたのだろ
う。
「映画で思い出したけれど、この前言っていた『麗しのサブリナ』、やっと観られた
わ」
「どうだった?」
「途中で、ファッションにばかり目が行っちゃって。最初から観直すことに」
 ふと気が付くと、純子と相羽が話し込んでいる。
「なんだかんだ言って、恋人らしいことしてるじゃないの」
 小さな声で言い置き、白沼はその場を離れた。
 ――と言っても、彼女の席はすぐ近くなので、会話は続いた。
「白沼さん。今日は久しぶりに当たりがきつかったみたいだけど、何かあった?」
 相羽のその問い掛けに、白沼はさっきまでの純子とのやり取りを聞かれていたんだと
察した。
「起きていたのなら、身体も起こしておいてよね」
 抗議調かつ早口でそう言うと、白沼は恥ずかしさを紛らわせるべく、質問に答える。
「何かあったかと言われたら、あったわ。ご存知の通り、副委員長に指名されたこと。
こっちは部活してるのにねっ」
 朝のホームルームで、委員長の唐沢の指名により、白沼が副委員長に決まったと報告
された。唐沢と白沼は仲が悪いとは言わないが、価値観がだいぶ違っているのは傍目に
も明らか。故に、かなりの意外感でもってこの指名は受け止められたのだが、反面、唐
沢のいい加減な部分を補うには、白沼がふさわしいという見方もできたので、納得の人
事と言えなくもない。それでもなお、唐沢自身が白沼を選んだというのは、予想外の選
択だったが。
「元々、性格が合わないのは分かりきっているけれど、先生の方針もあるし、承知した
わ。でも、早速、引き受けるんじゃなかったと思うことがあったから」
「ふうん?」
 相羽の、話を促すような視線に、白沼は少し考え、教室を見渡した。唐沢の姿はな
い。
「二時間目と三時間目の間に、公民の先生に資料を運んでおくように言われて、二人し
てやっていたのよ。その途中、廊下ですれ違った女子と話し込んで、立ち止まったまま
なのよ、あの“色男”は」
 “色男”にアクセントを付けてやった。
「いつまでも動こうとしないものだから、放っておいて、先に行ったの。そうして引き
返して来ると、まだ話していて一歩も動いてないじゃない!」
 思わず、机をばんと叩きたくなったが、さすがに自重した。
「本当ならあいつを蹴り飛ばしてでも行かせるべきだったんだけれど、時間がなくなり
そうだったから、仕方なく、一緒に運んだわ。もう、先が思いやられる」
「お疲れ様だね。唐沢も悪気があってやってるんじゃないと思うけど」
「悪気があってたまるもんですか――と言いたいところだけれど、悪気がないのはよく
分かってるわ。知り合って四年ほどかしら。あれがあの男の地なんだってことは、骨身
に染みてる。だからこそ腹が立つとも言えるわね」
「ちょっとは気を配れって、言っておこうか?」
 相羽の折角の申し出だったが、白沼は首を振って断った。
「そんなのいいわ。我慢できなくなったら、直接、はっきり言うつもりだから。もうじ
き、そうなりそうだけど」
 答えつつも、白沼は多少、気分がよくなったことを自覚していた。純子との仲を認め
たとは言え、相羽からの優しい言葉は、精神衛生の特効薬になる。
 と、そこへ純子の声が。
「あ、戻って来たわよ、唐沢君」
 元の木阿弥になりかねない。白沼は、純子からの「今、言うの?」とでも問いたげな
視線を感じたが、吹っ切った。

           *           *

 新学年が始まって最初の日曜は、昼から春らしくない、じめじめした雨模様になっ
た。
 そんな天気の下、モデル仕事を終えた純子は、帰り支度を手早く済ませると外に出
た。途端に、目をしばたたかせて少々びっくり。迎えの顔ぶれが普段と違ったからだ。
モデル仕事の場合、相羽の母が来てくれることがほとんどなのに、今日は市川までもが
足を運んできていた。
(何かあったんだ)
 直感する。大人達の表情が曇って見えるのは、天気のせいばかりではあるまい。いい
知らせではないらしい。
 労いの言葉もそこそこに、市川が切り出す。「声優の件で、ちょっと。詳しくは車の
中で話すから」と。内緒めかした仕種、言い種に、純子は急ぎ気味に乗り込んだ。
「何か問題が起きたんですね」
 ドアを閉め、エンジンの掛かる音を聞きながら純子は尋ねた。待たされる時間が長い
と、それだけ不安も大きくなる。
「出来映えがよくないとか……」
「いや、評判はいいんだ。概ねわね」
 後部座席の隣に座った市川が、明確に答える。が、「概ね」という表現が気にならな
いでもない。その意味はすぐに明かされた。
「ただ、極一部、原作の熱狂的ファンの中には、気に入らない人もいるみたいなの」
「そう、ですか」
 声が小さくなり、俯く純子。その背中に、市川の手が素早く宛がわれる。
「落ち込みなさんな。まあ、あなたのことだから、こんな感想が出てると伝えたらどう
なるのか、予想はついていたけれども。こっちだって、落ち込ませようと思って言って
るんじゃないよ」
「じゃあ……」
 どうして?という言葉が出る前に、運転席の方から深刻な声が。
「落ち着いて聞いてね、純子ちゃん。万が一に備えての話なんだから」
「ちょっと、詩津玖。そういう前置きだと、かえって恐がらせちゃうじゃない」
「それだけ重大なことだと、認識してもらわなくちゃ。実際、恐い話だし」
 大人達のやり取りに、純子は探るように「あの」と言葉を挟んだ。幸い、二人の耳に
は届いていたらしく、すぐさま会話は収まった。相羽の母は運転に専念し、純子には市
川が応じる。
「あー、落ち着いて聞いて。隠してもしょうがないというか、知らせておかないと危な
そうなんで、はっきり伝えておくことにしようと決めたんだけど……」
 自らそう言いつつも、まだ渋っている感がありありと窺える。市川にしては珍しい態
度に、純子の緊張と不安は膨らんだ。
「は、早く言ってくださいっ」
「うむ。さっき言った熱狂的なファン、いわゆる原作信者って奴になるのかね、そうい
うのが脅かしてきた」
「脅かし……って、どんな風に」
 口元を両手で覆いつつ、冷静に聞き返した純子。自分でも意外なほどだった。かつ
て、ポスターにいたずらをされたことで免疫ができていたのかもしれない。
「封筒で便箋一枚、裏表にびっしり、赤い文字で印刷されていた。現物、ここにはない
んだけどね。もしかしたら、警察に届けることになるかもしれないから」
「警察に届けようかと考えるくらい、ひどい文章なんですか」
 この質問に対し、市川は何故か苦笑いを浮かべた。
「うーん、まあ、ひどいと言ったらひどい。お粗末という意味でね。――その様子な
ら、話しても大丈夫そうだね。最初に『声優』と書いてあって、そのあと便箋いっぱい
に『やめろやめろやめろ』って印字してあるの」
「はあ」
「で、裏返すと、今度は『おりろ』で埋め尽くされている」
「あのー、よくある剃刀とかは入っていませんでした?」
「はは、面白いことを気にする子ね。なかったわよ」
「だったら……警察に届けるまでしなくても」
「こういう手合いは放置するとエスカレートするケース、結構あるんだよねえ。それこ
そ、剃刀入りとか」
「仮にそうなったとしても、通報はそのときでも遅くないと思います。それよりも、警
察に届けたらこの件が表に出て、評判に響きそう」
「おやま。評判を気にするなんて、珍しい」
「そんな。表現は問題あるにしても、折角、私の仕事ぶりに対して意見を送ってくれて
るのに、一方的に悪者扱いしたくないなって思っただけです。こんな些細なことまで警
察に通報していたら、他の視聴者の意見が届かなくなるかも。見てる人の意見、私も聞
きたい。たとえ悪く言われていても」
「――ふふん」
 一瞬ぽかんとし、やがてにやりとする市川。
「ほんと、いつの間にやら強くなっちゃって。以前は、繊細なガラス工芸品みたいだっ
たのに」
「そ、そんなことないですよー」
「ポスターの顔写真に画鋲刺されて、えらく落ち込んでいたのはどこの誰かな?」
「大昔の話は、忘れました」
「四、五年前を昔と言われると、凄く年寄りになった気分がするわ」
 ため息を長くつくと、市川は頬に手を当てた。肌の張りを気にしているのかも……。
「ま、とにかく、だ。わざわざ嫌な話を明かしたのは、注意を促すためなの。念には念
を入れてね」
「と言われても、いまいち、意味が」
「まずないとは思うのだけれど」
 市川から相羽の母へと話し手が替わった。
「その手紙の差出人のような視聴者が、実力行使に出た場合を想定しておかなくちゃい
けない。私達の目の届く範囲なら、まだ対策の立てようがある。けれども、学校の行き
帰りやその他の日常生活までは、手が回らないのが実情なのよ。顔や名前が売れた分、
普段から気を付ける必要も高まってしまったわ」
 真剣さが声の調子からだけでも伝わってきた。ルームミラーで伺うと、相羽の母の表
情はいつもに比べて硬い。次の瞬間、はっとした純子。
「日常生活とか普段からって、もしかして久住だけじゃなく、風谷美羽にも脅迫が?」
 声の調子に緊張感が増す。答えるのは市川。
「ええ。今現在じゃなく、これまでにね。数はごく僅かで、表現も比較的大人しかった
から無視していた」
「え、そうだったんですか」
「ごめんなさい。恐がらせたくなかったし、仕事をやめてほしくなかったから」
 相羽の母の申し訳なさげな声が届く。そこからまた真剣味を強く帯びた声に転じた。
「常日頃より注意しておくと同時に、道を歩いているときや電車に乗っているときに、
少しでもおかしなことがあったら、すぐに知らせて」
「――はい。分かりました」
 純子も真剣に返事した。そのあと、ちょっと考え、相羽の母に尋ねる。
「あの、このこと、相羽君――信一君は知っているんでしょうか」
「それなんだけれど」
 今度は相羽の母が深い息をついた。
「自宅に市川さんから電話が掛かってきて、今度の件について話をしているときに、聞
こえてしまったのね。心配して詳しく知りたがったから、仕方なく教えたわ」
「そう、ですか」
 心配してくれた――勝手に綻ぶ表情を、意識して引き締める。
「じゃ、じゃあ、隠さなくていいですね」
「隠すつもりだったの、純子ちゃん?」
「だって……」
 純子は言いかけてやめ、しばらく口ごもる。冗談めかすことに決めた。真面目に言う
なんて、恥ずかしいにも程がある。
「私の口から知ったら、危ないから仕事をやめてほしいって言い出しそうじゃないです
か。そうじゃなきゃ、一日中ボディガードをするとか。あはは」
「似たようなこと、言っていたわ」
「え」
 笑い声が引っ込む。目を丸くする純子を、隣の市川が面白そうに見ていた。
「羨ましいねえ」
「さすがに、一日中護衛に張り付くのは無理と理解しているらしいわ。私達の方で、ち
ゃんとしたボディガードを雇えないの?って言ってきたからね」
「お、大げさなんだからっ」
 赤面したような気がして、両手のひらで顔をこする純子。そこへ、追い打ちを掛ける
質問が、相羽の母からなされた。
「そうだわ、前から聞こうと思っていたのよ。純子ちゃんは信一と二人きりのとき、信
一のことを何て呼んでいるのかしら?」
 えっと……質問の意図がとても気になって答えにくいです。答につまった純子は、思
わずそんな反応を口にしそうになった。
「名前? 名字?」
 ハンドルを握る相羽の母は、純子の戸惑いを知ってか知らずか、重ねて聞いてくる。
「みょ、名字に君付けです」
「やっぱり。さっきも言い掛けていたし」
 予想していたようだが、その割にほっとした様子も見て取れる。
 純子はしかし、すぐ前にいる相羽の母よりも、相羽自身のことが気に掛かった。
「もしかして、名字で呼ばれることを、何か言ってました……?」
「え? いいえ、特に何も」
「じゃあ、どうしてそんなことを」
「私が言い出したのかって? 年頃の息子を持つ親の立場としては、あなたとの仲が
今、どのぐらいなのかはとても気になる。それを測る物差しに、呼び方を教えてもらう
のがちょうどいいと」
「もしかして、恋愛禁止とか……ですか」
「え? ううん、そんなことは全く考えてないわよ」
 純子の反応がよほど意外だったらしく、相羽の母の目が一瞬だけ後ろを向こうとした
のが分かった。もちろん運転中だから、実際の時間はコンマ0何秒もなかっただろう。
 安堵する純子に対し、今度は市川が口を開く。
「本音を言えば、私はできることなら恋愛禁止にしたいよ。異性からの人気が違ってく
るだろうからね」
「そういえば、プロフィールにはどう書いてあるんだったかしら?」
 相羽の母の問い掛けに、市川は「デビュー当初に使った資料上では」と前置きをして
から答えた。
「好きな人はいる、とだけにしておいたはず。恋人だとか両想いだとかには触れずに
ね。確か、親御さん、特にお父様の強い希望で、余計な虫が付かないよう、予防線を張
ったんだわ。実態とは無関係に。その頃はまだ付き合ってなかったんでしょ?」
「全然」
 ぶんぶんと頭を振る純子。それよりも何よりも、父がそんなことを頼んでいたとは知
らなかった。多分、娘に知られるのは恥ずかしかったから、伏せていたのだろう。
「今は特に明記していないけど、いないと思われているかもしれないわね。さっきみた
いな脅しがあるくらいだから、早めに公表した方がいいに違いないんだけれど」
「名前を出すのは反対よ」
 即座に相羽の母が言った。ちょうど赤信号で停まったのを機に、市川へ振り向き、さ
らに純子へと視線を移してから続ける。
「本当にごめんなさいね。あなたにはこんな仕事をやらせておいて、自分の子供のこと
になると、できるだけ隠そうとするなんて」
「そんな。好きでやっていますし、付き合っている人がいることだけならともかく、信
一君の名前まで大っぴらにされるのは、私も嫌です。知っているのは、周りの人達だけ
でいい」
「――そういうことだけれど?」
 相羽の母が再び市川に視線を合わせる。市川は一つ嘆息してから、右の人差し指で前
を示した。
「詩津玖、前。青信号だよ」
「――いけない」
 一度慌ててみせてから、落ち着いて車を発進させる。
「まあ、今のところは、聞かれない限りは現状維持でいいと思ってるんだ。聞かれたと
きは……好きな人ならいるって言っておけばいいのかねえ。正直、うちはまだ小さい
し、歴史もないから、ノウハウに乏しくて。スキャンダルになったら、自力で押さえ込
めるのかどうか。火消しを頼むとしたら、鷲宇さんのルートぐらいしかないし」
「スキャンダル……」
 過去のあまりよくない思い出が脳裏によみがえる。あのときは、相手が一方的に悪か
ったせいもあり、世間的には大きなニュースにならずに済んだ。
「恋愛なんて興味ありませんてなふりをして、ボディガードの少年と恋仲!なんてすっ
ぱ抜かれたら、多少のイメージダウンは免れない」
「ボ、ボディガードって」
「たとえばの話だよ。さっき言っていたのを、例に取ったまで。ま、今問題なのは、あ
なたの彼氏の話じゃないわ。脅してくるような手合いの対策をどうするか。これこそが
重要」
 市川は問題の便箋が手元にあるかのように、ひらひらと振る仕種をした。
「本職のボディガードは難しいにしても、マネージャーに護身術というか護衛術を習わ
せるとか」
「……私のマネージャーさんて、誰になるんでしょう?」
「……」
 素朴な疑問に、大人達は少しの間、沈黙した。
「決まった人はいないわね、考えてみれば。杉本君を含めて、私ら三人の内、都合のい
いのが付く。あと、仕事の内容にもよるけれども」
「警護というイメージなら、男性になりそう。でも、杉本君ではちょっぴり心許ない」
 相羽母の言葉を、市川は声のボリュームを上げて否定した。
「彼では、ちょっぴり心許ないどころか、まるで頼りにならないって言った方が適切だ
わ」
 きつい表現を、純子は笑いをかみ殺して聞いていた。杉本には申し訳ないが、腕っ節
が強いようには見えないし、暴力沙汰からは真っ先に逃げ出しそうなタイプに思えた。
(でも、習えば違ってくるのかも。確か、弱い人、普通の人が身を守るための技術が護
身術なのよね)
 相羽ら男子がしていた会話を思い起こしながら、そんなことを考えた純子。そこから
の連想で、ふと思い付きを口にしてしまった。
「杉本さんだけだと心細いから、私自身も習っておけば、少しは安心できるかなぁ」
「――いいかも」
 市川が呟き、相羽母に意見を求めた。
「私はそんなにいい考えとは思えない。でも、最終手段として、身に付けておくのはマ
イナスにはならないでしょうね。モデル業に支障が出ないのであれば、習得しておくの
も悪くはない」
「それに、護身術や武道が使えたら、演技の幅が広がるわね」
 市川は話を聞きながら、計算も働かせていたようだ。次に純子の顔を見たときには、
本気になっていた。
「ちょうどいいわ。護身術、習いに行こうか」
 軽い気持ちで口走っただけなのに、一気に具体化しそうな流れに、純子は無言で首を
横に振った。
「全然、自信ないです」
「やってみないと分からないじゃない。運動、得意なんだし」
「いえ、その、モデルに支障が出るかもしれないという意味で……。怪我をするか、そ
うでなかったら筋肉が付いちゃうか」
「うーん、大丈夫じゃないの? 詳しくないけど、護身術の人って、筋肉ムキムキのイ
メージはないし、怪我は注意すれば防げるだろうし、ここは一つ、レッスンの一環のつ
もりで」
 市川は随分と楽観的だ。演技の幅を広げるという目的の前に、判断を甘めにしている
のかもしれない。
 純子は押し切られるのを既に覚悟した。こうなったら、要望を出しておこう。
「もし習うんだったら、私、信一君から習いたいです」

――つづく




#495/598 ●長編    *** コメント #494 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:48  (485)
そばにいるだけで 65−2   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:51 修正 第3版

「聞いたかもしれないけれど」
 翌月曜日の学校。純子は昼休みの時間に、相羽と二人だけで話せる機会を得た。廊下
に出て、護身術の件をすぐに伝えた。
「都合が付いたら、護身術を習いに行くかもしれないから、そのときはよろしくお願い
します」
 話の流れ込みで事情を伝え、ぺこりと頭を下げる純子。相羽は片手を自分の頭にやっ
た。
「そんなことをしなくても、僕が一緒にいれば」
「ボディガードはなくて大丈夫よ。万一に備えてのことなんだから。相羽君だって忙し
いでしょ」
「……まあ、確かにそうだけどさ。うーん、登下校は僕もだいたい一緒にいるからいい
として、問題はそれ以外のとき」
「だからそうじゃなくって」
 真顔で応じる相羽に、純子は苦笑いをなしたが、じきに気が付いた。相手が視線を外
しがちなことに。
「――相羽君、話をそらそうとしてる?」
「……いくら純子ちゃん相手でも、いや、君だからこそ、教えづらいような予感がして
まして」
「そう、かな」
「べ、別に、変な意味で言ってるんじゃなく、周りの目があるから。特に、僕らが付き
合っていると知ってる奴に見られていると、凄くやりにくい」
 情景が目に浮かんだ。これは恥ずかしい。
「でも、私達のことを知っている人って、道場にいた?」
「望月が知ってる。特段、口止めなんてしていないから、他のみんなにも伝わってる可
能性がある」
「えー、ちょっと嫌かも。誰も見てないところで、二人きりで教えてもらえたらいいの
に」
「えっと、それも別の意味でまずいんじゃあ」
「……そ、それもそうだね。あはは……」
 変な方向に走ってしまった思考を取り繕おうと、笑い声を立ててみせた。相羽も同じ
ようにする。
「と、とりあえず、決まってから考えよう。道場には大勢いるんだから、僕らがああし
ようこうしようと予め決めていたって、多分、思い通りにならない可能性が高いよ」
 純子は黙ってうなずき、承知した。
 それから、教室の方をちらりと見やって、ついでに別の話を切り出した。
「変なこと聞いてるかもしれないけれど……稲岡君て、私のこと嫌ってる?」
 純子にとって、高校二年生の春は、ほぼ最高のスタートを切ったと言える。
 好きな異性――相羽と付き合い始めて三ヶ月あまり、彼と同じクラスになれただけで
なく、席まで隣同士。クラスには仲のいい友達も大勢いるし、反りが合わなかった白沼
とも、純子のタレント仕事を通じて、仲は随分と好転した。その仕事も順調だし、クラ
ス担任の神村先生は理解のあるタイプだから安心して打ち込める。
 だったら何がどう不満で“ほぼ”なのかというと……新しく知り合った一人の同級生
の存在が少なからず気になるのだ。
 真後ろの席を占める稲岡時雄。勉強なら学年で十指、いや五指に入る優等生。学校期
待の一人と言えよう。主要科目以外に目を向けると、家庭科は人並み(男子として)だ
が、体育や音楽などもそつなくこなす。外見は、レンズが厚めの眼鏡で損をしているよ
うだが、それでも充分に整った顔立ちだ。
 さて、稲岡がいくら優等生でも、純子が気になるのは心変わりしたとかではもちろん
違う。気を遣うと表現した方が近いかもしれない。
 稲岡は、ガリ勉とまでは行かずとも、時間が少しでもあれば勉強に充てたいらしく、
休み時間も暇さえあれば参考書や問題集を開いている。そういう風にされると、周りの
者は騒ぎにくい。折角、相羽がすぐそばにいるというのに、お喋り一つしづらい。
 実際には、多少うるさくしても、稲岡が常に抗議や文句を言ってくるわけではく、ほ
とんどは黙々と勉強している。だけど純子にとって、新学年最初の日に注意をされたこ
とが、案外と重くのし掛かっているのだった。
「うん? 後ろの席にいるんだから、直接聞けば?」
 気楽な口調で相羽。純子は左右にきつく振った。
「できるわけないでしょ。だから、あなたにこうして聞いてるの。こっちは真剣なんだ
から、冗談で返さないで欲しい」
「ごめんごめん。純子ちゃんが嫌われるって、想像できないものだから、つい」
「でも、稲岡君とは全然話をしないし、たまに口を聞いても、私達がうるさいっていう
注意ばかり。そりゃあ、お喋りに夢中でうるさくしていたこともあったかもしれないけ
れど、最初に注意されてからはかなり気を付けているつもりよ。だいたい、休み時間の
ことなんだから、とやかく言われることじゃないと思うの、本来は」
「それは僕も思う。ただ、だからといって、どうして君が嫌われてるってことに?」
「この前、気付いたのよね。周りの席には私達よりも騒いでいるところがあったとして
も、そっちには滅多に注意しない。不公平に感じちゃう。ひょっとしたら、私が嫌い
で、殊更に注意してやろうと、鵜の目鷹の目でチャンスを探してるんじゃないかしら」
「ないと思うけどなあ」
「根拠があって言ってる? 稲岡君が何か言っていたとか」
「そういうのはないけれど。うるさくて勉強できないって言うなら、図書室にでも行っ
てるだろうし」
「移動時間が惜しい、とかじゃないの」
「どうなんだろ? あいつが歩きながら参考書を読んでるのを、見たことあるよ」
「歩きながら……凄い。うーん」
 それならそれで、稲岡の態度をどう受け取ればいいのか、困ってしまう。
 純子の困惑に、ある程度の答が与えられたのは、その日の午後最初のコマが終わった
あとだった。
 数学の授業を少しばかり早く切り上げると、神村先生は純子の名を呼んだ。「はい」
と小走りで教卓前まで行く。先生は、他の生徒には終業ベルまで自習を言い付けてか
ら、「ちょっといいか」と純子に廊下に出るよう促した。相羽らの目線を背中で何とな
く感じつつ、教室を出た。
 さらに、先生は人のいない場所が必要なのか、階段の踊り場まで移動した。
「時間もあまりないことだし、率直に伝えるぞ。実は今朝、稲岡の親御さんから話があ
ってだな」
「稲岡君の?」
「うむ、母親の方だ。今の席だと周りがうるさくて勉学に差し支えがあるようだから、
できれば席替えをしてもらいたいと」
「えっ」
「ああ、深刻に受け止めなくていいんだ。今は、向こうさんの言い分を伝えているだけ
だよ。その辺、涼原なら分かると思って率直に言ってるんだが」
「あ、はい、分かります」
「よかった。それでだな、僕も納得しかねたので、一応、今朝から機会があればちらち
ら見ていたんだ」
 言われてみて、思い当たる節があった。今日は授業がないときでも神村先生、やたら
に来るなあ、と。
「可能な限り客観的に見て、涼原と涼原の友達が特別うるさくしているようには思えな
かった。どちらかと言えば、稲岡からもっと離れた席だが、四倍も五倍も騒がしい連中
がいたと感じたよ。だから、この件は稲岡の過剰反応、思い込みだという気がするんだ
が……涼原は稲岡から直接、何か言われていないか? 静かにしてくれ的なこと以外
に」
「えっと」
 頬に片手を当てて、思い起こそうと努める純子。だが、何もなかった。答えられない
でいると、先生が補足する。
「言葉じゃないかもしれん。小さく舌打ちするとか、椅子の脚を軽く蹴ってくるとか」
「そんな、まさか。全然ありません」
「そうか。念のために聞いておくが、涼原は香水を付けて学校に来てはないだろうな?
 この年頃の男子はそういうのに惑わされやすい――」
「ないです!」
 心外な言われように思わず、声が大きくなった。校内での香水の使用は、原則的に校
則で禁じられている。ただでさえ芸能活動をしていることで目立つのに、香水をしてく
るなどという違反をして、目を付けられても何の意味があるのやら。
「すまん。疑っているんじゃなく、おまえのやってる仕事で使ったのが、何らかの形で
残ってしまっていたなんてことを想定したんだ」
「そういうのもありませんから。だいたい、二年の一学期が始まってから学校のある日
には、今のところ仕事を入れていません。先生も知ってるはず」
「すまんすまん。ただ、細かな可能性を、日曜に仕事で香水を使ってそいつが残るとか
の可能性を考えてしまうんだ、数学教師をやってるせいかな」
「……分かりましたけど、日曜日の匂いが残るなんて、お風呂に入らないとでも?」
 怒ってみせたが、話の脱線にも気付いているので、この辺で矛を収める。
「それより先生、稲岡君本人は何か言ってきてないんですか」
「うむ、何もない。あとで直に聞くつもりだ。案外、デリケートな問題のようだから、
より気を遣う……ああ、いや生徒の前で言っても始まらんな」
 神村先生は口元を隠しながらも、苦笑いをこぼした。
「よし、分かった。わざわざすまなかったな。戻っていいぞ。一分もしない内に休み時
間になるだろうが、静かに戻れよ」
 これに肯定の返事をしてから立ち去ろうとした純子だったが、ちょうど終業の合図が
鳴った。感じていた以上に時間が過ぎていた。
「――あ、先生。今のこと、稲岡君には言わない方が?」
「まあそうなる。でも、必要があると思ったとしたら、話すのは自由だ。止めんよ」
 去り際に尋ねたたことに対する先生からの返答内容が、ちょっと意外だった。生徒同
士で話をして決着するのであれば、それが一番よいと考えているのかもしれなかった。

 三日が過ぎた。その後、神村先生が担任として稲岡から話を聞いたのかどうか、まだ
分からない。とりあえず、また席替えをするというような不自然な事態にはなっていな
い。
(先生からはああ言われたけれど)
 背後の席に稲岡がいないことを確認してから、純子は前を向いたままため息をつい
た。
(気になるからって、稲岡君に直接聞くなんて、やっぱりできないし)
 大型連休に入る前に、すっきりさせておきたかったのだけれど、ことはうまく運びそ
うにない。
(先生に聞いたら、分かるのかなぁ。でも……席替えが行われていなということは、稲
岡君の希望、というか稲岡君のご両親の希望は通っていないわけで……)
 稲岡の側に譲歩してもらったのではないかと考えると、それはそれで気が重い。
 一方で、明るい材料もある。あれからさほど時間が経ったわけではないが、稲岡がう
るさいと注意してくることはなくなっていた。逆に、稲岡と会話をする回数は増えた
(元がほぼゼロに等しかった故、微増に過ぎないのだが)。朝夕の挨拶や、実験の授業
で分からない点を教えてもらう、その程度ではあるけれども、進展には違いない。
(相羽君は普通に話せてるみたい)
 男子と女子の違いはあるだろうが、相羽がより積極的に稲岡に話し掛けるようになっ
た結果、反応もよくなってきているようだ。
(ひょっとしたら相羽君、私が前に相談したから、稲岡君と仲よくなろうと話し掛ける
ようにしたのかしら。私も努力しなくちゃ、かな)
 頭ではそう思うのだが、忙しい身の純子。掛かりきりになれない理由があった。
 目下のところ、ゴールデンウィーク中に催されるミニライブが一番の山。テレビとは
無関係なところで、観客を入れて唄うのは初めてなのだ。しかも久住淳として、つまり
男の格好をしてとなると、より緊張感が強まるに違いない。
 次にアルファグループ関連の仕事。白沼の父が関係しているだけに、普段以上にプレ
ッシャーを感じる。そうでなくても、モデル撮影やテラ=スクエアのキャンペーンガー
ル等々、多岐に渡っているだけに、目が回りそうだ。明日もコマーシャルの撮影が入っ
ていて、今夜の内から移動しないといけない。
(連休明けに仕事が一段落したら、アルバイトをしたいと思ってたんだけど、無理か
な)
 手帳を取り出し、スケジュールを確認した純子は、さっきとは別のため息をついた。
 芸能関係の仕事で、高校生にしては充分にもらっている純子が、どうして他にアルバ
イトをしたいのか。
 純子は右隣の席を見た。相羽の姿はあるが、こちらには背を向けている。何を話題に
しているのか、他の男子達四、五人と盛り上がっていた。
(休みが終わってから誕生日まで、三週間くらい。短い!)
 五月二十八日は相羽の誕生日。当日、誕生会のような催しは無理だとしても、プレゼ
ントを直接手渡したい。そしてプレゼントを買うために、アルバイトをしたい。
(モデルやタレントは、何か違うもんね。元々、相羽君のお母さんの縁で始めたことだ
し。私の力だけでもらったお金で、感謝の気持ちを表したいな)
 気持ちは強いのだが、時間が厳しい。相羽の誕生日が過ぎれば、すぐに中間考査に突
入だ。勉強時間を確保しつつ、アルバイトできるだろうか。校則で、テスト一週間前に
はバイト禁止が原則なので、ますます時間が限られる。
(いかにもバイトって感じの、飲食店でやってみたい。もし叶うのなら、あそこのパン
屋さんがいいんだけど、短期じゃ嫌われるだろうなあ)
 三回目のため息。小学生の頃から贔屓にしているパン屋に、だめ元でお願いに行くつ
もりなのだが、いつから入れるのかはっきりしない内は言い出しにくい。タレント仕事
が、本当に連休明けにきちんと終わるのか、確実性がないのだ。定期試験が近いのは向
こうも承知しているのだから、配慮はしてくれるに違いないのだが。
(あんまりぎりぎりになってもまずいし、断られた場合も考えて、早めに動かないと)
 手帳に備わったカレンダーをじっと見据え、動ける日を選びにかかった。
 予鈴が鳴る寸前に、どうにかこうにか決められた、が。
(そうだわ。護身術を習う日も決めないといけないんだった!)

 次の日、純子は朝も早くから走っていた。
 コマーシャルの仕事はこれまでに回数をこなし、慣れたところはあった。だが、今回
のように朝が早いのはやはりつらい。
 きれいな朝日がほしいというスポンサーサイドの希望に沿って、実際の日の出に合わ
せて撮影が行われた。わざわざ本物の朝日を捉えなくても、他にやりようはいくらでも
あるが、スポンサーと撮影監督のこだわりというやつだ。ついでにロケ地にもこだわっ
た。桜の花の咲き誇る中、“文明開化”をイメージさせる橋の架かる川という、少し変
わった注文だ。
 おかげで前日の夜遅くに現地近くの宿を取り、早朝まだ暗い内に発つと、河川敷にス
タンバイ。小さな照明の中、リハーサルを何度か重ね、天気予報を信じてじっと待つ。
やり直しが利かない(無論、厳密には失敗しても別の日に再チャレンジできるが)とい
う緊張感の中、川に平行する道をダッシュし、橋を駆け抜け、通行人や飛行機などに邪
魔されることなく撮影を終えた。そして首尾よくOKが出た。
「はい、お疲れ〜」
 六時前には撤収できたが、ロケ地が遠かったため、自宅に戻るほどの余裕はない。学
校へは車で送ってもらえることになっていたが、その前に朝食をお腹に入れなければ。
車内で仮眠を取りつつ、一時間近く揺られ、早くから開いているファミリーレストラン
に到着した。
「何でも食べていいよ」
 マネージャーとして着いてきた杉本が正面からこちらに向けたメニューは、ステーキ
のページが開いてあった。
「無理」
 普段でさえ、朝から肉はまず食べない。ましてや、全力疾走をリハーサルを含めて幾
度もやった身では、見るだけでも胸が悪くなりそう。
「この、朝がゆセットがいいかな」
 記載のカロリーを確かめてから、各テーブル備え付けのタッチパネルを通じて注文す
る。
「そんなのでいいの?」
 隣に座るメイクのおねえさんが言った。彼女は先に、ミックスサンドとレモンティー
とフルーツゼリーを頼んでいた。
「そりゃあカロリーを気にするのは分かるけれど、このあと学校があるっていうのに、
若者がこの程度で大丈夫?」
「はい。折角だから、普段食べないような朝ご飯にしてみようと思って」
 そもそも、撮影の一時間ばかり前に、朝一番のエネルギー補給としてバナナとゆで卵
とチョコレートを少しずつ食べているのだ。摂ったエネルギーの大部分はもう使った気
がしないでもないけれど、全体の量を考えると今食べるのは、朝がゆくらいがちょうど
いい、と思う。
 お客が少ないせいか、注文した料理が全て揃うまで、十分も掛からなかった。尤も、
撮影スタッフ全員が入店した訳でなく、別ルートでとうに帰った者も大勢いる。
「――あ、おいしい」
 おかゆは予想していた以上の味だった。フレーク状にされたトッピングが六種類容易
されており、甘い、塩辛い、ピリ辛、ごま風味等々、どれも特長があって変化を楽しめ
る。純子が個人的に嬉しかったのは、そのどれでもなく、箸休め的に付されたコウナゴ
とクルミの和え物だったが。
 食べ終わったのが七時半で、店を出たのが十分後。それでも八時四十分の予鈴までに
は、余裕を持って学校に着けるはず――だったのだが。
「おっかしいなあ」
 杉本は思わずクラクションを押しそうになる右手を、左手で止めた。
「渋滞、ですね」
 時計と外を交互に見ながら、純子が言った。
「じ時間帯は朝の通勤ラッシュと重なってるけれども、ほ方角が違うから大丈夫のはず
なんだよ。じ実際、何度もこの辺をこの時間に走ってるけど、こんなに混雑してたこと
なんてなかった」
 焦りを如実に表す早口の杉本。普段から割と早口なので、油断すると聞き逃してしま
いそうだ。
「事故でしょうか」
「かもしれない」
 ラジオの交通情報はまだ何も言ってくれない。しょうがないので、ネットで調べてみ
る。すると今まさに進もうとしている市道の先で、車三台が絡む衝突事故が起きたばか
りと分かった。発生場所は、学校までの順路の手前で、事故現場を過ぎればスムーズに
流れている可能性が高い。
「まずいなあ。回り道しようにも詳しくないし、ナビは載せてないし」
「……ここからだと、いつもならどれくらい掛かるか、分かりますか、杉本さん?」
「ええっと。十分ぐらいかな?」
「歩きだと?」
「ええ? 分かんないけど、最低一時間は掛かると思うよ」
「そうですか……。予鈴から十分間は朝のホームルームだから、一時間目の授業は八時
五十分開始。最悪でも授業には間に合わせなくちゃ」
 独り言を口にする純子。状況任せなので計算して答が出るものではないが、一応の目
処は立てておきたい。
「ぎりぎり八時二十分までは車で進んでもらって、そこからは降りて走る。杉本さん、
これで行きましょうっ」
「君がそれでいいのなら、そうしよう。はっきり言って、判断付かないよ。くれぐれも
気を付けてね」
「杉本さんも運転、気を付けてくださいね」
 そこからは時計とにらめっこになるつもりだったが、はたと思い出したのが携帯電
話。仕事用という意識で持っているので、それ以外で使うことは頭になかったが、学校
の誰か――担任か相羽にでも電話で今から伝えておくのはどうだろう。事故渋滞で遅れ
るかもしれないと。
「電話しますね」
 杉本に断ってから、短縮ダイヤルのボタンを押そうとした。が、そのとき、車窓の外
に、道路と平行して走るレールを捉えた。
「あっ――。杉本さん、ここから一番近い駅って、行けそうですか?」
「うん? ああ、駅ね。確かすぐそこの、いや二つ目の十字路を左に曲がったらじきに
着くはず」
「だったら、そっちの方が早くないですか? 電車に乗って、最寄り駅まで行く。いつ
もとは反対方向だから詳しい時刻表は知りませんけど、多分、同じような間隔で列車は
走ってるだろうから」
「なるほどっ。その方が確実だね!」
 何だか興奮した口ぶりになった杉本は、首を左斜め方向に伸ばした。曲がる箇所の状
況を見極めようとしているようだ。
「いいぞ。行けそうだ。五分か十分で曲がり角までは行けるだろう。その先もこの道ほ
ど渋滞しているとは思えないし」
 方針をあっさり変更。
「電車賃はあるかい?」
「あ、定期じゃだめなんだ。あります」
 距離から推測して、さほど大きな額にはならないはず。
 電車を利用するという思い付きのせいか、電話のことはすっかり忘れてしまったが、
とにもかくにも近くの駅には七分半で乗り付けられた。道路渋滞とは無縁らしく、駅は
いつもと変わらぬ程度の混み具合のようだ。
「念のため、時刻表を見てきて。もしいいのがなくて、車の方がましなようだったら、
すぐに戻って来て」
「はい。五分で戻らなかったら、もう行ってくださいね。ありがとうございました」
 降りながら急ぎ口調で言い、ドアを勢いよく閉める。車は駅前のなるべく邪魔になら
ない位置に移動した。
「さあて、と」
 純子はほんの心持ち身を屈め、駅舎に歩を進めた。初めて利用する駅なので、様子を
窺うような感じになる。大きくもなければ小さくもない、ごく平均的な規模の駅だと分
かる。普段使っている最寄り駅と似ている。
「次が三分後でその次がさらに六分後」
 時刻表から壁掛け時計に目を移し、時刻を確認。早い方に乗れたとしても、学校の最
寄り駅に到着する時間は、いつもよりは約十分遅くなる。学校へは、ホームルーム中に
なるだろうか。
 と、そんなことを考えている時間も惜しい。切符を買って改札を通った。少し迷っ
て、跨線橋を渡らなくていいんだと確認した。
(こういうときのためにも、電子マネーにした方がいいのかな?)
 手にした切符の感触が、何となく久しぶりで、持て余し気味になる。取り落としそう
になったところを、宙で素早く拾い上げた。
(おっとと。危ない危ない。とにかく、無事に着きますように!)
 心の中でお願いをしてから、やって来た電車に乗り込んだ。

 学校に着くや、純子は職員室に直行した。そこで遅刻届の用紙を受け取り、記入して
から教室に向かい、担任なりそのときの授業を行っている先生なりに渡すのだ。今はま
だホームルーム中だから、担任の神村先生に渡すことになるだろう。
 職員室を出ると急ぎ足で離れ、階段を駆け上がる。誰もいないから、走りやすくはあ
る。学生鞄の角が太ももの辺りに当たって痛いが、気にしている暇はない。踊り場で方
向を転じ、またステップを上がって、二階に。教室横の廊下を行くときは、さすがに走
れない。それでも可能な限り早足で急ぎ、教室の扉まで辿り着いた。開ける前に呼吸を
整えつつ、中からの音に耳をそばだてる。まだまだホームルームの最中だ。
 先生の声が聞こえてきたのは当然だが、内容の方ははっきり聞き取れない。状況は分
からないが、緊張を強いられる場面ではないようだ。ここに来てようやく、電話をし忘
れていたことを思い出す。
「――すみません、遅刻しました」
 がらりとそろりの中間ぐらいの勢いで扉を横に引くと、こちらを見る神村先生と目が
合った。クラスメートからの視線も感じながら、純子は届けの紙を先生に差し出した。
「どれ」
 どんな遅刻理由なのかなとばかりに用紙に見入る先生。
「『寝坊しました』?」
 先生は書いてあることを読み上げ、純子の顔を改めて見た。
(あれ? 面倒だから寝坊ってことにしたんだけど、疑われてる? と言うより、仕事
だってばれてる?)
 収まりかけた呼吸の乱れがぶり返し、心臓の鼓動もペースを上げた気がした。
「目は腫れぼったくないな」
「そ、そうですか?」
「仕事だと聞いたぞ。それにさっき調べて、近くで事故渋滞が起きていることも把握済
みだ」
「え」
 今日、仕事があるとは先生に伝えていなかったから、誰かが言ったことになる。とな
るとそれは相羽か白沼しかいない。
 二人のいる方向をそれぞれ見て、白沼が言ったんだと分かった。
「すみません。少しでも早く来ようと思って、適当に書きました」
 この答は半分だけだ。もう一点、間接的に仕事のせいで遅れたということを皆の前で
言いたくなかった。
「まったく。書き直して、あとでまた出すように。さあ、席に着いて」
「わ、分かりました」
 怒られると覚悟していたが、どうやら最小限の注意で済んだようだ。
「あと、涼原、大丈夫か? 何か知らんが、結構な汗だぞ。はぁはぁ言ってるし」
「え? あ、はい。これは走ってきたからで。暑いです」
 自嘲気味に笑いながら、ハンカチを取り出して額に当てる。今日の天気予報による
と、四月にしてはかなり高い気温になるという。
「言ったことを繰り返している余裕はないので、あとで他の者から聞いておくように。
――さて諸君。このあと一時間目は僕の授業だが、ここで予告しておく。抜き打ちの小
テストをするからな」
「ええーっ!」
 純子の遅刻でざわざわしていた教室内が、これで一気に騒がしくなった。「聞いて
ねー」「先生、ずるい」なんのかんのと抗議のブーイングが起きた。
「何がずるいだ。抜き打ちテストを予告してやったんだから、感謝してくれてもいいだ
ろうに」
「抜き打ちテストを予告したら抜き打ちじゃなくなるよ」
「屁理屈をこねてないで、残りのホームルームの時間をやるから、復習でもしとけ。で
は、お楽しみに」
 にこにこ笑顔で神村先生は教室を出て行く。皆、慌てて数学の教科書やノートを机に
広げ始めた。
「散々だね。渋滞に巻き込まれて遅刻するわ、抜き打ちテストはあるわで」
 隣の相羽が話し掛けてきた。余裕なのか、焦って教科書を見ることはしていない。
「ほんと、厄日かしら。――ね、上着って脱いでもいいと思う?」
 尋ねつつ、学校指定のブレザーの襟口をつまみ、ぱたぱたさせて自身に風を送る純
子。数学の復習も気になるが、先に暑さをどうにかしないと、頭に効率的に入らない。
「別にいいんじゃないか」
「まだ冬服の季節なんだけど」
「――唐沢、委員長としての見解は?」
 相羽は唐沢に聞いた。
「あ? 問題ないんじゃねえの? 去年確か、体育のあとやたら暑かったときは、ブレ
ザーを着ずにしばらくいたぞ。そんなことで煩わせてくれるなよ。余裕のおまえと違っ
て、俺はこれから暗記せねばならんのよ」
「悪い悪い」
 相羽が再び純子の方を向き、促す風に首を軽く傾けた。純子は一応の了解を得たと捉
え、安心してブレザーを脱ぎ、自分の椅子の背もたれに掛けた。
 その動作の途中、振り向いたときに後ろの稲岡と目が合った。
「――少し静かにしてくれ」
「ごめん」
 久しぶりに言われてしまった。テストがあるのだから仕方がない。前を向くと純子
は、舌先をちょっぴり出して無理に笑って見せた。朝から失敗続きで滅入りそうになる
のを、どうにか吹っ切る。それから教科書とノートを取り出し、新学年になってから進
んだ分を見直しに掛かった。

 ちょっとした“異変”が発覚したのは、小テストの採点のときだった。
 通常のテストと違って、小テストはその場ですぐに採点が行われる。先生が一旦回収
して行う場合もあるが、今回は答案用紙を隣と交換し、先生の解説を聞いて採点する形
式が採られた。
 全問の説明が終わって、三問六十点満点での配点も示されたので、各自、隣のクラス
メートの点数合計を書いて、当人に返すのだが。
「稲岡君、これどうしたんだよ」
 純子のすぐ右後ろの席で、平井(ひらい)という男子生徒が心配げな声を上げるのが
聞こえた。気になって肩越しに伺ってしまう。
「単純な計算ミス、ケアレスミスだけど、らしくないな」
「――調子が今ひとつ上がらなかった」
「それにしたって、一つならともかく、二問も落とすなんて」
「言うなよ」
 そう答えながらも、得点を隠すつもりはないらしく、26という数字が見えた。三問
中正解が一つで二十点。残り六点は、やり方が合っていたからおまけの三点ずつを加え
たということになる。
「――稲岡君、あの」
 純子は後ろを向いて、声を掛けた。
 そのとき先生から、答案用紙を集めるようにと号令が掛かる。集めるのは、各列最後
尾の生徒の役目だ。稲岡はすっくと立つと、無言で手を出してきた。
「うるさくしたせい?」
 渡しながら、つい尋ねる純子。だが、受け取った稲岡は返事をせず、機械的に答案を
重ねた。
(わ〜、怒ってる? うるさくしたつもり、ないんだけれど……朝から遅刻騒ぎを起こ
しちゃったのもあるし)
 稲岡の後ろ姿を見送っていた純子は、頭を抱えた。と、そこへ人の気配が。相羽だっ
た。
「僕からは見えなかったんだけど、稲岡の点数、悪かったの?」
「……平井君に聞けば」
「『言うなよ』って一言を気にしたみたいで、もう言う気はないみたいなんだ」
 苦笑交じりに言って、平井の方を見やる。
 純子も稲岡の態度が気に掛かっているので、もう言いたくない心持ちだ。
「悪かったとだけ言っておくわ。ねえ、やっぱり私のせい?」
「考えすぎ。さっきだけじゃなく、このところはうるさくしてなかったじゃないか。誰
だって調子のよくないときはあるんだよ」
 教室の前方を見ると、稲岡は自分から低い点数になったことを申告したらしく、神村
先生と何やら話し込んでいた。
「そうなんだったら、気が楽になるんだけれど」
 ぶるっと震えを覚えて、腕をさすった。
「上着、もう着ていいんじゃない?」
 相羽に言われて、思い出した。汗が引いてきて、一転して寒気を感じたようだ。授業
が再開されない内にと、立ち上がってブレザーの袖に腕を通した。

「アルバイトの希望?」
「はい」
 純子がこくりと頷くと、パン屋・うぃっしゅ亭の店長――職人兼オーナーのおじさん
は、一度大きく瞬きをした。昔は鼻下に髭を蓄え、どちらかと言えば丸顔で、某アニメ
に出て来そうなイメージ通りのパン屋さんだった。今は髭がきれいに消え、少し痩せた
結果、ダンディな雰囲気に変わっている。調理帽の縁から覗く髪は、白髪が圧倒的に増
えていた。
「確か……二、三年前までよく来てくれていたお嬢さん? 胡桃のパンが好きな」
 覚えられていた。嬉しいような恥ずかしいような。そして凄いとも思う。店で対面す
るのはレジの女性がほとんどで、こちらのご主人とは数えるほどしか言葉を交わした記
憶がない。
「最近は来られないから、どこか遠くの学校に行かれたんじゃないかと、残念に思って
ましたよ」
 懐かしむ口ぶりで店長が続ける。時間帯は夕方で、ぼちぼちお客が増え始めるであろ
う頃合い。純子も後ろのドアを気にしつつ、話に乗る。
「緑星に通ってますが、自宅通学なので、来られないことはないんです。でも、ちょっ
と忙しくて……」
 あれ? 話の行き先がまずい方に向いているような。慌てて修正を試みようとする
が、接ぎ穂が見付からない。
 店長は声を立て、短く笑った。
「いいよいいよ。高校生にもなれば、色々と交友関係が広がるものだろうからね。緑星
の生徒さんだということは、制服ですぐに分かった。あそこは進学校だし、忙しいのも
無理はない。それで、その忙しい生徒さんが、アルバイトする余裕ができたと?」
「えっと。忙しいことは忙しいんですが、どうしてもこちらでアルバイトをしてみたい
んです」
「今現在、特に募集を掛けてないんだけどね。仮に採用するとして、いつからどのくら
い入れるの?」
「それが、確実に大丈夫なのは、ゴールデンウィーク明けから、五月二十七日までで、
そのあとは試験の期間に入ってしまって、試験が終わったあともどうなるか、今は分か
りません……」
 だめ元で来たとは言え、声が小さくなってしまう。それでも俯いてしまわぬよう、し
っかりと前を見る。
「正味三週間ほどかあ。うーん。一日に何時間ぐらいできそう? それと、これまでの
バイト経験は?」
「曜日によって違ってきますが、早いときは、午後四時半頃にはお店に到着できるはず
です。夜は八時か九時。父と母とで意見がぶつかっていて……はっきりしなくて、申し
訳ありません。それから」
 アルバイト経験について、どう切り出そうか、ゆっくりと始めようとしたそのとき、
背後でベルがからんと鳴り、お店のドアが意外と勢いよく開けられた。
「ちーっす。寺東(じとう)入りまーす」
「寺東さん、入るときは勝手口からってお願いしてるのにまた。それにその言葉遣い」
「いいじゃないっすか。裏まで行くのは遠回りだし、お客さんの前では直しまぁす」
 最後だけかわいらしく媚びた声色になった。振り向いて様子を窺う。細い顎ととろん
とした目が特徴的な、同い年か少し上ぐらいの女の子だった。アルバイトの人らしい
が、髪が茶色のショートというのは、純子にはちょっと驚きだった。
 と、ふと気付くと、寺東の方も何やら驚いている様子。口をぽかんと開け、純子の方
を指差してきた。
「あんた――」
 とまで言って、一度口をぎゅっと閉め、腕組みをして考え込む。肩に掛けたマジソン
バッグ風の?バッグがずり落ちた。
「こんなとこにいるわきゃないと思うんだけど」
 呟いてから、改めて純子を見た。視線を上から下まで、サーチライトで照らすかのよ
うに。頭のてっぺんから爪先まで、というやつだ。
「ねえ、あんた。いや、お客様かな。あなた、風谷美羽に似ているって言われたことは
ないですか?」

――つづく




#496/598 ●長編    *** コメント #495 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:14  (477)
そばにいるだけで 65−3   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:53 修正 第4版
 どきっとした。久しぶりにずばりと言われ、自分がそれなりに有名になっているのだ
と、今さらながら実感する。
「あ、あの。ありません。ほ、本人です」
「へ? って、へー! 信じられない。何してるの、こんなところで!」
 遠く地方で別れた旧友に会ったかのごとく、寺東は反応した。手にバッグを持ってい
なかったら、そのまま抱きついてきて、肩の辺りをばんばんと叩きそうな勢いだ。言葉
遣いも元に戻ってしまっている。
「アルバイトをここでしたくて」
「へー? バイトって、何で? いや、まあ何でもいいわ。今は聞かなくてもいいや。
店長、もっちろんOKしたんでしょうね!」
「あ、いや、まだだが。話の途中だったし」
 戸惑いの色が明らかな店長は、帽子のずれを直しながら、寺東に尋ねた。
「君はこの子と知り合いなのかい?」
「違いますよ。知り合いじゃなく、一方的に知ってるだけ。結構知ってますよ〜。私、
彼女がCMをしてるのをみて、飲み物や化粧品なんかは美生堂を贔屓にしてるんだか
ら」
「よく分からないが、こちらのお嬢さんは広告に出ているのかね」
「出てます出てます。ファッションモデルもしてるし、ドラマにも出たし、他にも色々
と。まあ、全体に露出は抑えめだから、店長みたいな男の人が知らなくても無理はない
ですけどね」
「ふ、ふーん」
 店長もまた、純子をまじまじと見つめてきた。さすがに視線に耐えきれず、下を向い
た。
「言われてみれば、きれいな顔立ちをしてるし、すっとしたスタイルだな。あんまり言
うと、ハラスメントと取られるか」
「い、いえ」
 純子は素早くかぶりを振った。横に立った寺東が、とうとう純子の手を取った。
「ほらほら、店長もそう思うでしょ。だったら雇いましょう。看板娘かマスコットガー
ルってことで、風谷美羽を目当てに来るお客が増えますよ、きっと」
 ええ? そういうのはちょっと……。
 寺東の盛り上がりに、すぐには言い出せなかった純子であった。

「あはは、そいつは傑作」
 鷲宇憲親は、純子からアルバイトを頼みに行ったときのエピソードを聞き、快活に笑
った。
「笑いごとじゃなかったんですよ、そのときは」
 マイクスタンドを握りしめ、力説する純子。姿はひらひらが多く付いているとは言
え、男物のズボンにシャツにジャケット、そしてウィグと、久住淳仕様。今いるのは、
ミニライブで使う会場のステージ上だ。開催まで日にちはもう少しあるが、本番と同じ
場所で雰囲気・空気感を掴んでおこうというわけ。鷲宇のスケジュールの都合で、今
日、土曜しかできないので集中的に取り組んでいる。
 三時間ほどレッスンを兼ねたリハーサルを重ねたあと、休憩中の息抜きに、アルバイ
トの話をしたところだった。
「結局、採用された?」
「めでたく採用していただきました。短期間で時間も不確定っていう悪い条件なのに、
寺東さんの猛プッシュがあったおかげです。だから、その意味では感謝なんですが、客
寄せパンダになるのだけはお断りしました」
「そりゃあ、ルークさんとことしても事務所の断りなしに、そんな営業めいたことをさ
れちゃあ面目丸つぶれだ」
「はい。それに、私がアルバイトをする目的って、さっき言いましたように、相羽君の
誕生日プレゼントのためなんです。だったら、風谷美羽の名前を利用するのは、避けた
いなあって」
「確かに。風谷美羽、来たる!というようなやり方なら、普段と仕事と大きな違いはな
い。わざわざアルバイトをする意味が薄まるね。相羽さんところの影響力がない、自分
自身で勝負してみたいと」
「そうなんです。でも、会って間もない人達に、そこまでの事情を話すのは躊躇われち
ゃって。寺東さん、ミーハーなところあるみたいでしたしね。一応、事務所の意向って
ことで押し切りました」
「納得してもらったの?」
「あー、それがですね。風谷美羽の名前で人を集めるような行為はしないけれども、噂
に立つくらいならいいんじゃないかっていうのが妥協点でした。気付いた人が広める分
には、かまわないという」
「凄く、玉虫色ですな」
 また笑う鷲宇。純子は急いで、「事務所の許可はちゃんともらったんですよ」と言い
添えた。
「分かったよ。それにしてもよくアルバイトまでしようっていう気になれるね。相羽さ
んと市川さんから君のスケジュールを教えてもらったけれど、かなり詰まってるじゃな
いか。明日もどこだっけかイベント広場で、握手会とか」
「あ、それ、握手はなくなりました。サインだけです。限定で先着百名、整理券配布方
式で。あとは歌」
「どっちで唄うのかな?」
「え? ああ、明日は久住淳ではなく、風谷美羽としてです。アニメ『ファイナルス
テージ』のエンディング曲だから。放送開始して間もないし、百人も来てくれるのかし
らって心配で心配で」
「甘く見ない方がいいよ。僕も昔――っといかん。こんなに時間が経ってる」
 鷲宇はお喋りをすっと切り上げ、リハーサルに戻ることを宣言した。
「次はいよいよ、お待ちかねの曲、いや、リレーメドレーを行ってみよう」
「鷲宇さんの持ち歌ですね……ほんとに鷲宇さん、一緒に出るんですか」
「何ですか、その嫌そうな言い種は」
 からかうような口ぶりになる鷲宇。純子は少しだけ迷って、正直に答えることにし
た。
「嫌ですよ。気が重い。鷲宇さんの持ち歌を、鷲宇さんと一緒に唄うなんて」
「しょうがないでしょう。ミニライブとは言え、ショーとして成立させるには曲が少な
く、話術も心許ない。そこで応援出演どうでしょうっていう市川さんからの依頼があっ
たんだ。僕は快く引き受けた。感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「サプライズとして出てくださるのには、光栄すぎていくら感謝してもしきれないって
思っています。でも、それとこれとは別です。普通に鷲宇さんお一人で唄ってくださる
のが、ファンの人達にとってもいいんじゃないですか」
 本気でそうしてもらいたい。けど、言って、聞いてもらえるとは期待していないか
ら、一生懸命練習するほかなかった。
「ばかなこと言わない。当日は久住ファンが集まるんだよ。この会場いっぱいに。大き
くはない箱だけど、一人一人の熱狂が近くに感じられるはず。それに対して全力で応え
ることに集中しなさいな、久住君」
「それはもう覚悟できています」
 力強く言い切る。
 純子のそんな様子を見て、満足かつ安心したのか、微笑を浮かべて軽く頷いた鷲宇。
「その意気込みついでに、一曲まるまる、僕の歌を唄ってみないかな」
「拷問に等しいですよ、それ」

「また寝てる」
 頭上からの声に目を開けると、白沼の手が見えた。ふと、「手だけで白沼さんだと分
かるなんて、親しくなれた証拠かな」と思った。
 それとも、声で察したのかしら等と考えながら、「何、白沼さん?」と応じる。机の
上には、携帯できるミニ枕。
「それだけ眠りたいくせに、よく授業中、起きていられるわね」
 しゃがみ込んだ白沼が、机の縁に両腕をのせて話し始める。
「授業で眠らないように、休み時間に休んでるんだよぁ」
 あくびをかみ殺しながら、身体を起こす。ミニ枕を机の中に仕舞い込んだ。
「疲れが溜まってるんじゃないの。確か、昨日の日曜はスケジュールが入っていたけれ
ど、土曜は何もなかったんでしょ」
「え、そんなこ……」
 そんなことないわ、土曜もリハーサルがあったと答え掛けて、慌てて口をつぐむ。
(危ない危ない。白沼さんには、久住淳としての活動は秘密なんだったわ。でも、レッ
スンて言うだけなら、まあいっか)
 覚醒したばかりの頭をフル回転して、それだけのことを考えた。
「何? 言い掛けてやめるなんて気持ち悪い」
「ううん、くしゃみが出そうになっただけ。で、そんなことないのよ。白沼さんの方に
渡しているスケジュールは仕事絡みだけで、レッスンなんかはほとんど省いているか
ら」
「そうなの? じゃあ、空いていると思ったら実際は埋まっている場合もあるのね」
「うん、まあ、時々は。だいたいは空いてる」
 あまり歓迎できない方向に話が進むので、純子は切り替えに掛かった。
「心配してくれてありがとう! 凄く嬉しい」
「ば、ばか。心配するわよ。パパの評価にも関係があるんだから」
「それでも嬉しい」
 純子がにこにこして見せると、白沼の方は耐えきれないという風に、横を向いた。
「変なこと言い出すから、本題を忘れそうになったじゃない」
「ということは、また仕事関係の連絡が?」
「そうじゃないわ。完全にプライベートなことよ。あなた、相羽君から何か聞いてな
い?」
「うん? 何のことやら……」
 答えながら、白沼の肩を視線でかすめて、相羽の席を見る。今は空っぽ。教室内にも
いないらしい。
「いないわよ。まだ職員室にいるんじゃないかしら」
 探す仕種に勘付いた白沼が言った。
「職員室って、神村先生のところ?」
「ええ。クラス委員の用事で職員室に先生を訪ねたら、相羽君が先にいて。何か相談事
をしていたみたいなんだけど、私が近付いたらぴたっとやめちゃって。先生が手にして
いた資料、ぱたんて閉じるくらいだから、結構個人的な話なんでしょうけど」
「成績かなあ。でも、相羽君、下がってはないはず」
「でしょ。第一、普通とちょっと違う感じなのよね。ぴりぴりしてるというか、緊張感
が高いというか」
「ふうん」
「だから、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけれど……そ
の様子だと特に何もないみたいね」
「うん……」
 ここ数日のことを思い出してみるが、これといって思い当たる節はない。もちろん、
純子が忙しいということもあるけれど、少しの時間でもあれば相羽は一緒にいてくれる
し、楽しい会話も普段と変わりない。
「そういえば、始業式の頃、相羽君が先生に三者面談の日について、お願いしたみた
い。お母さんの都合がどうなるか分からないので、この日にしてほしい、という風な感
じで」
「その話だったのかしら。あんまり詮索することじゃないから、直に聞くのもしにくい
し。涼原さん、恋人として、うまく聞き出しておいてよ。気になるわ」
「や、やってみる」
 恋人という言い方に赤面するのを自覚した。

 駅近くのファーストフード店はほどよく混んでおり、騒がしい。内緒話をするのには
うってつけと言えるかもしれない。
 相羽も純子も飲み物だけ注文して、奥の二人掛けのテーブルに着いた。
「――それじゃあ、当日の格好について。一番上に着るのは、伸びたり穴が空いたりし
てもかまわない服にすること。上下ともにね。あと、靴も」
「靴まで? 畳の上でやるんじゃないの?」
 この日の下校は、結城達や唐沢には悪いが、仕事関係の話があるからと言って、二人
きりにしてもらった。実際には、護身術を教えてもらう日を決めるのとその段取り、そ
して純子からすれば白沼から言われて気に掛けていたことを確かめるためであった。
「護身術を実際に使わざるを得ない状況になったとして、その状況になるべく近い形で
練習するのがいいんだってさ」
「なるほど。って、畳に靴で上がっていいの?」
「専用のマットを用意して、その上でやるみたいだよ。女性の指導員が付いてくれるか
ら、ちゃんと系統立って教えてもらえると思う」
「え、相羽君は?」
「補助が必要なときは協力することになってる。最初からいた方がいいのなら、そうす
るけど」
「もちろん、いてほしい」
 こんな具合にして、護身術を習う日は決まった。連休の最後の日だ。一日で完璧に身
に付けるのはどだい無理があるだろうけど、とりあえず第一歩。仕事だってその日まで
にとりあえず片付いているはず。身体の方は悲鳴を上げているかもしれないが。
「これでよし、と」
「よろしくお願いします」
 お互いにメモ帳を閉じ、飲み物のストローに口を付ける。先に飲むのをやめた純子
は、次の話題に移ろうと、軽く息を吸った。
「このあと、まだ大丈夫よね?」
「うん。何かあるの?」
「特別に何ってわけじゃなくて、もっと話していたいなあって」
「どうぞどうぞ。愚痴でも悪口でも夢でも、何でも聞きましょー」
 おどけた口調になる相羽。純子はつられて笑ってから、切り出した。
「ちょっと前から気になってたの。二年になって、相羽君、神村先生のところに行く機
会が増えてない? 今日も行ってたみたいだし」
「増えたかも」
「数学の質問、とか?」
「いや、質問に行くことはほとんどない。前に言ったと思うけど、三者面談をね。早め
にしてもらうことになりそうなんだ。こちらの都合でわがままを聞いてもらって、特別
扱いは気が引けるんだけど、凄く助かる」
「……」
 純子は短い間だが、相羽の様子を観察した。嘘を言っている風には見えない。
「へえー。普通は中間考査のあとでしょ。それを前にやるなんて、よっぽど成績がいい
人じゃないと、認められないんじゃない?」
「そんなことないって。成績とは関係なしに、先にしてくれたんだと思うよ」
「またご謙遜を」
「いや、ほんとに」
「それじゃあ、先生のところに何回も通ったのは、お願いを聞いてもらうためってわけ
ね」
「うん。こちらも事情を説明するために、証明書って言ったら大げさになるけれど、
色々と出す必要があったしね」
「わぁ〜。お母さんが忙しいと、大変だ」
「忙しいのは純子ちゃんもでしょ。休み時間になると、たいていは机にもたれかかって
寝ちゃう。みんな気を遣って、話し掛けられないみたいだよ」
「そうなんだ?」
 白沼さんは平気で話し掛けてきたけれど、と思った。でも、結城や淡島といった女子
に、唐沢までも話し掛けてこないということは、相当気遣われている。
「起こしてもらったら、いくらでも付き合うのに」
「君のやっていることを知っていたら、無理に起こそうなんて考えもしないよ」
「白沼さんは起こすわ」
「仕事関係でしょ、それも」
「そっか」
 答えてから、心の中でそっと付け加える。
(今日は違ったけれどね。相羽君も心配されているのよ、気付いていないみたいだけ
ど)
 純子はいつの間にかにんまりしていた。
「相羽君。私ね、とっても幸せな気分よ、今」
「え?」
「友達がいて、みんなそんなにも私のことを心配してくれてる。友達だけじゃないわ。
周りの人達大勢に支えられてるんだなって、改めて実感した。感激して泣けて来ちゃ
う」
「――そうだね」
 戸惑い気味だった相羽の表情がほころんだ。
「僕もその輪の中に入ってる?」
「何を言うの。相羽君が一番よ。あ、順番は付けにくいけど、でも相羽君は特別なの
っ」
「よかった。同じだ」
 顔を赤らめながら言った純子の前で、相羽がまた微笑む。
「僕も色んな人に支えられているけれども、君が一番」
 純子は相羽をまともに見つめ直し、そして安心した。相羽も、目元付近に朱が差して
いたから。

 ゴールデンウィークを目前にした、最後の学校の日。校舎内でも各教室でも、それこ
そあちらこちらで、生徒は遊びに行く話題で盛り上がっている。
「分かっていたことですけど」
 昼食の時間、集まって食べ始めるや、淡島が言い始めた。
「やはり、さみしいものです。お休みなのに、自宅に留まるというのは」
「みんなで遊びに行けないこと?」
「ああ、結城さん。折角ぼかして言っておりましたのに」
 この場にいる誰もが、ぼかしていないのでは……と心の中で突っ込んだかもしれな
い。
「ごめんね」
 いただきますのために手を合わせていた純子は、そのままのポーズで頭を下げた。
「私抜きで計画を立ててくれて、全然平気だったのに」
「そんなつもりは毛頭ございません。――ほら、結城さん。こういうことになりますか
ら」
「分かった分かった、分かりました」
 結城は面倒くさいとばかりに肩をすくめた。
「それじゃ、この話題は打ち切り?」
「いえ。一度、話題に出たからには、続けましょう。涼原さんは、いつなら暇になるの
でしょう?」
「遊びに出掛けるとなると……中間試験が終わってからかな」
「一ヶ月以上先の話!」
 結城は心底驚いたらしく、食べている物が口から飛び出さないようにと、急いで手で
覆った。もぐもぐと咀嚼してから、「やっぱり、忙しいんじゃないの」と呆れた風に付
け足す。
「一応説明しとくと、仕事の休みが全くないわけじゃないんだよ。ただ、中間考査前ま
では連続で休める日はなかなかなくて、あっても宿題や完全休養に充てたいなって」
「一つ、抜けています」
 淡島は箸を置いて、右手の人差し指を上向きにぴんと伸ばした。
「な、何が」
「デートをする日も必要なはずです」
 さらっと言ってくれる。当事者の立場からすれば、前置きなしにいきなり冷やかされ
ると、顔が熱くなる。
「い、いえそれは、まあ、ゼロってことはないけれども、相羽君の方も忙しいし。ほ
ら、ピアノのレッスンとかで。だからお互いに無理をしないで、行けるときに行こうね
って合意ができてるの」
「先は長いですから、それでも充分なんでしょう。これからの人生、思う存分に楽しむ
といいですわ」
 淡島は占いを趣味としているせいか、この手の言い種をよくする。純子はお茶を飲み
かけていたが、吹きそうになって、すぐさまコップから口を離した。それでもけほけほ
と咳き込んでしまう。
「もう、淡島さん、今日は飛ばしすぎ!」
「そのような意識は全くないのですが……自重します」
 箸を構え直し、小さな煮豆を器用に一粒ずつつまみ上げてはぱくつく淡島。
「デートって、どんなところ行くの?」
 今度は結城が聞いてきた。純子が答を渋ると、補足を入れてくる。
「根掘り葉掘りはしないからさ。今後の参考までに」
「月並みだよ。映画館とか遊園地とか。最近では、お花見」
「月並みでも幸せなんだから、いいよね。極端な話、二人でいられればどこだっていい
んじゃない?」
「それはまあ……って、そっちから聞いておいて、ひどい言われようだわ」
 純子が怒った素振りを見せると、結城はまあまあとなだめてきた。ひとしきり笑って
いるところへ、淡島がぽつりと。
「噂をすれば、です」
 廊下側に顎を振るので、つられて振り向くと、相羽と唐沢、鳥越の男子三人がこっち
に来るのが分かった。今日は学食に行っていたようだ。
「鳥越が、そろそろ顔を出してくれないと、新入部員にしめしがつかないって」
 前置きなしに、相羽が純子に言った。鳥越は天文部で、夏以降は副部長に収まる予定
だとか。相羽と純子も籍を置いているが、幽霊部員度は似たり寄ったりだ。強いて言う
なら、相羽の方が参加している。
「忙しいのは分かってるけど、そこを何とか。三十分でもいいからさ」
 鳥越は、何故か両手を拝み合わせて下手に出た。
「そんな。悪いのは私の方なのに」
 残りわずかになったお弁当を前に箸を置き、純子は両手を振った。
「気にすることはないぜ、涼原さん」
 唐沢が口を挟む。彼は天文部とは関係ないが、稀に昼の太陽観測に付き合っているら
しい。
「こいつ、今年の新入部員を勧誘するときに、モデルをやってる風谷美羽も在籍してる
よってのを売り文句に、何人か獲得したみたいだから」
「えー、まじ? 星好きにあるまじき行為」
 純子より早く、結城が反応した。続いて淡島も、彼女は無言だったが、じとっとした
“軽蔑の眼”を鳥越に向けた。
「ほ、ほんの少しだよ。入るかどうか揺れ動いてる人を、こっちに傾いてくれるよう、
ちょっと押しただけ」
 言い訳がましく、汗をかきかき説明する次期天文部副部長。
「でもその少しの人数から、風谷美羽さんはどこにいるんですかって突き上げを食らっ
たんだろ」
「ま、まあ、それに近いものはある。――こんなわけで、偉そうに頼めた義理じゃない
んだけど、近い内に一度、部室に来てよ、涼原さん」
 また拝まれた。純子は十秒ぐらい間を取って考え、そして答えた。
「行くのは全然かまわないけど。万が一、その一年生が私を見るだけが目当てだった
ら、すぐにやめちゃうかもしれないよ? 私が言うのもおかしいけれど、その子は真面
目に参加してる?」
「それは……」
 言い淀んだ鳥越。
「……凄く熱心とまでは言えないけれど、たまにさぼるのは、こっちが嘘ついたみたい
になってるせいかもしれないし……ああ、ごめん!」
 大声を出したかと思うと、鳥越は深々と頭を下げた。
「この言い方だと、涼原さんのせいみたいにも聞こえるよね。本当にごめんなさい。そ
んなつもりはないんだ」
「いいの。行かないのは、私が絶対悪いんだし。参加できないくらい忙しいのなら、最
初から入るなってことよね」
「いやそれは、誘ったのは僕らの方だし。それに、だからといって、今さら退部されて
も困るんだ」
「許されるのなら、籍は置いておきたいの。今年はちょうど夏に皆既日食があるでし
ょ? 観られる地域は限られるけれども、それに合わせて合宿をするんだったら、行き
たいなあって思うし」
「分かった。その線で合宿をするように持って行くよ」
 だから部室に顔を出して、と言いたげな鳥越だったが、言葉をぐっと飲み込んだ様子
だ。
「私、まだ先のスケジュール分からないよ? だから参加するって約束もできない…
…」
「いい、いい。たとえ不参加になっても、涼原さんの魂は現地に持って行く」
 魂って何だそれはと、相羽と唐沢、左右両サイドから鳥越に突っ込み。
 鳥越は頭を掻きながら、気持ちだけでも来て欲しいってことさと答える。そうして、
改めて純子の方を向いた。
「とにかく、さっきまで僕が言ったことは忘れて。暇なとき、活動に来て欲しいんだ。
説明するまでもないだろうけど、とっても面白くて楽しいから」
「うん。行く」
 笑顔で返事した純子。
「いついつになるって約束できないのが申し訳ないけれど、絶対に行くから」

 明日からはきゅうきゅうのスケジュールで、ミニライブに撮影にインタビュー、歌や
振り付けのレッスンと目白押しだ。休みも二日あるにはあるが、撮影の予備日に充てら
れているため、天候や進行具合に左右される。
 そういう状況なので、純子にとって今日は学校があるとは言っても、貴重な休みとも
言える。
 明日以降のために早く帰って休息を取りたい反面、友達付き合いも大事にしたいと思
う。だからというわけではないが、下校途中、みんな――相羽、唐沢、結城、淡島、そ
して白沼――と一緒にちょっと寄り道をすることに。
 元からそう決めていたのではなく、相羽が買いたい本があるのだけれど、近くの書店
にはないので、駅ビルの大型書店に寄ってみたいと言い出したのが始まり。六人で列車
に乗り、ターミナル駅までやって来た。
 書店までの道すがら、白沼に問われて相羽が買いたい本のタイトルを口にすると、唐
沢が反応をした。
「なぬ? 『トラ・慰安婦』と『ちん○は、ちん○』だって?」
 相羽はぴたりと足を止めると、唐沢の方を向いた。他の者が引き気味になる中、思わ
ず立ち止まった唐沢の真ん前で、右の握り拳に息を吐きかける相羽。
「いー加減にしろっ。わざと聞き違えるにしても、ひどい。ひどすぎる」
「わ、分かった。悪かった。茶化すつもりはないんだが、もう条件反射みたいに」
「なお悪い」
「いや、だから、今後は気を付けるって。で、もういっぺん言ってくれよ、本のタイト
ル」
 唐沢の懇願に、相羽はため息をついてから、ゆっくりはっきりと答えた。
「『マジック:応用とギミック トライアンフとチンク・ア・チンク』だ」
 純子は歩き出しながら、そのフレーズを頭の中で繰り返し唱えてみた。
(確かにひどかったけれど、唐沢君が下ネタに走るのも、分からないでもないかも)
 そう考える自分が恥ずかしくて、頬が赤くなるのを感じた。両手で覆って隠す。
「トライアンフやチンク・ア・チンクというのは、マジックの演目の名前だよ」
「どんな現象なのかしら」
 白沼が聞いた。彼女はさっきの下ネタの後遺症は浅かったらしい。
「トライアンフはカードマジックで、様々なバリエーションが考案されてるけれども、
基本は、順番も表裏もばらばらになった一組のトランプが、マジシャンの手に掛かると
あっという間に順番も向きも揃うという現象。チンク・ア・チンクはコインを使ったマ
ジックで、基本は……四枚のコインを四つの角において、手のひらをかざしていくと、
コインが一瞬にして別の角に移動し、最終的には一つの角に全部が集まるという現象、
と言えばいいかな」
「相羽君はできる、その二つ?」
「うーん、どちらも簡単なものならいくつか」
「今度見せて」
「いいよ。マットがなくても、何とかできるかな」
 相羽と白沼が話し込むのを目の当たりにした結城が、純子の脇をつついた。
「いいの? 喋らせておいて」
「え? 私、そこまで嫉妬深くないよ〜」
「それじゃあ相羽君の今言ったマジック、観たことあるの?」
「多分ね。名前だけじゃ分からなかったけれど、説明を聞いたら、観たことあると気が
付いたわ」
「そう、それならいいのかしら。随分、絆がお強いようで、うらやましい」
「うふふ」
 素直に受け取って、にやけておこう。
 と、そんな会話が聞こえていたのか、相羽が隣に着いた。
「それじゃあ純子ちゃんにも興味を持ってもらえるよう、新しいのを覚えてから、みん
なの前で披露するよ」
 目当ての書店は、意外と混雑していた。会社の終業時刻にはまだ早いだろうに、乗降
客がよく立ち寄るのか、場所によっては身体の向きを横にしなければ通れないくらい。
この光景だけを見ると、本が売れないなんてどこ吹く風だ。
「どうせ他の本にも目移りするんだろ? 俺、コミックのところにいるわ」
 唐沢はいち早く輪を離れた。結城と淡島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは淡
島。
「では、私は占いのコーナーにでも」
 皆にそう告げると、淡島はすたすたと足音を立て、でも何故かゆっくりしたスピード
で進んだ。結城は少し迷った表情を浮かべたが、同じ方向に歩き出した。
「淡島さんとはぐれたら、見付けづらそうな気がする。引っ付いといた方がいいかも」
 何となく納得する理由だったので、その役目を彼女にお願いすることに。
 残った白沼は、純子と同じように相羽に着いて行くつもりなのだ――と、純子自身は
思っていた。しかし、白沼は意外なことを言い出した。
「私は、週刊誌と写真集のところに行くわ。確か、あなたに出てもらった広告の一つ
が、週刊誌に載っている頃のはず」
「き、聞いてない」
 焦りと冷や汗を同時に覚えた。純子は、まさかと思って、続けて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、写真集というのは? 私、それこそ全然知らないんですけど!」
「写真集は写真集よ。あなた、前に撮ったんでしょ。それが今も残っていないか、チェ
ックしてあげる」
「えー、入れ替わりが激しいから、きっともうないって」
 今度はほっとすると同時に、白沼の感覚が理解できなくて戸惑った。
「本人が通う学校や自宅に近い書店なら、大量に仕入れて在庫が残ってるんじゃないの
かしら。リサーチよ」
「そんなことないって。返本するって」
 ねえ相羽君も説明してあげてよと、振り返ったが、そこにはもう相羽の姿はなかっ
た。少し先の通路にて、向こうもこっちを振り返っていた。
「多分あっちの方だから、探してるよ。どうぞごゆっくり」
 行ってしまった。人目がなければ、がっくりと膝と手を床につきそうだ。
「さあ行くわよ」
 そして何故か一緒に行くことになっているらしい。白沼に引っ張られ、まずは雑誌
コーナーに来た。
「えーと。白沼さん、何の広告だっけ?」
「『スマイティR』よ」
「ああ、美容健康食品……」
(コマーシャルだけでなく、静止画媒体向けにも撮ったんだっけ。『毎日食べてます』
っていうフレーズがなくなって、肩の荷が軽くなった気がする)
 そんな感想を抱く純子の前で、白沼は女性週刊誌を何冊か選び取り、次から次へ、ぱ
らぱらとめくっていく。手にした内の二誌で純子の出ているチラシを見付けたようだ。
一誌を純子に渡し、もう一誌は自らが見る。
「同じ物だけど、色ののりが違う感じ」
 純子の手元も覗いてから、白沼が言った。商品の魅力が上手に表現されているか、モ
デルがどう映っているかよりも、まず先に色調の差が気になるとは。広告のデザインを
決めた段階で分かりきっていることには興味ない、実際に紙面に載った広告の状態が肝
心だというわけなのだろう。
 映っている当人としては、そう割り切れるものではなく、純子は恥ずかしさを我慢
し、自らの映り具合を確かめた。
(あっ。ちょっと大人っぽく見えるかも? って、私が言うのもおかしいかな。でも、
『ハート』のときに比べたら、落ち着いている感じが出てるような。服かメイクの違い
かしら)
 ロングスカートのワンピースは、紫と群青の間のような色合いで、今までに自分がや
って来たはつらつとしたイメージに比べると、かなり大人びて見える。製品を持って微
笑んでいるだけ。言ってしまえばそれまでの広告なのに、無言の説得力が備わっている
ような気がしないでもなし。
(自分で自分の仕事を、ここまで肯定的に感じられるのって、珍しい)
 意外さから、舞い上がっているのかなと我が身を省みる心持ちになる。
「期待に応えてくれた、いい仕事をしてると思うわよ」
 心中を読み取ったかのように、白沼の声がそう話し掛けてきた。思わず目を見張った
まま、相手の顔を見返した。
「同級生の意見じゃ心許ない? 違うわよ。私だけじゃなく、会社のみんながいい出来
映えだって誉めてたんだから」
「本当に? う、うれしいよー」
 少なからず感動して、涙がにじみそうになる。ごまかすために、ちょっとおどけた声
を出した。
「あとは『スマイティR』が売れてくれればいいだけ」
 現実的な話をされて、涙は引っ込んだみたい。
「さあて、時間を取ってる暇はないわ。次、写真集よ。早く調べて、相羽君のところに
行かなくちゃね」
「見なくていいよ〜」
 置いているはずないと信じているが、もしあったらやっぱり赤面してしまうだろう
し、なかったなかったでちょっと寂しい。
 渋る純子だったが、またも引っ張られてしまった。抵抗むなしく、写真集の置いてあ
る一角に差し掛かる。
「今日は男性アイドルはお呼びじゃない、と――あら」
 横を向いていた純子の耳に、白沼の訝るような響きの声が届いた。何事かとそちらの
方を見ると、顔見知りの男子生徒が立っていた。
(稲岡君?)

――つづく




#497/598 ●長編    *** コメント #496 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:15  (494)
そばにいるだけで 65−4   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:54 修正 第4版
 意外なところで意外な顔を見た。白沼が怪訝がったのも頷ける。稲岡のイメージは、
勉強一筋でお堅くて、芸能界や女性に興味関心全くなし、だったのだ。それが今、写真
集のコーナー前に立っている。その位置から推して、女性写真集が並べてあるのは確か
だ。
 稲岡に、純子や白沼がいることを気付いた様子は全くない。と言って、写真集に見入
っているのでもない。何せ、全ての写真集は透明なビニールでパッケージされて、開く
ことができないのだから。品定めしているのか、表紙と裏表紙、そして背表紙をためつ
すがめつしている模様だ。あるいは、視力がよい方ではなさそうな稲岡だから、ビニー
ルに蛍光灯の明かりが反射して、文字がよく見えないのかもしれない。
「い――」
 名前を呼ぼうとした純子を、白沼が手で遮った。
「なに?」
「察しなさいな。あの稲岡君がこんな意外なとこにいるのだから、声を掛けたら逃げ出
しかねないわ」
「まさか」
「とにかく、両サイドから挟み撃ちの態勢を取る。声を掛けるのはそれから」
「えー」
 ひそひそ声で話したので勘付かれた気配はまだない。しかし気乗りしない純子は、改
めて名前を呼ぼうとした。
「待って。じゃあ、彼が何を手にとっているのか、それだけ確認させてよ」
 意地悪げな笑みを浮かべた白沼は、返事を聞かずに行動を開始した。白沼も成績優秀
な方だから、稲岡をライバル視していて、その相手の弱点を見付けた気になっているの
かもしれない。忍び足で稲岡の背後へ近付くと、そっと首を伸ばして、彼の手元を覗い
た。
「あっ」
 声を発するつもりはなかったのだろう、白沼はしまったという風に口元を手で覆っ
た。が、もう遅い。稲岡が振り返る。
「あ」
 稲岡も似たような反応を示して、しばらく動きが止まった。けれど、次の行動に出た
のは稲岡が早い。持っていた写真集一冊を書棚にぐいと押し込んで戻すと、俯き加減に
なって立ち去ってしまった。呼び止めるいとまのない、あっという間のことだった。
「ほらあ、白沼さんがびっくりさせるから」
 純子がしょうがないなあと苦笑いを我慢しながら近寄る。立ち尽くしていた白沼は、
その声にくるっと力強く向き直った。真正面から両肩に手を置き、言い聞かせるような
口ぶりで始める。
「涼原さん」
「な、なに」
「稲岡君が成績を落としたとしたら、その原因はやはりあなたにあるみたいよ」
「はい? どうしてそんなことが今、言えるの?」
 うるさくしたことを悪いとは思っている。しかし、そのことだけで小テストの赤点の
原因とされては、理不尽だ。
「素早く棚に戻されたけれども、私しかと見たわ。そこにあるのはあなたの写真集でし
ょ?」
「え、まだあるの?」
 白沼が指差した先に目を凝らす。何段かある本棚の中程、若干左上の隅に収まった書
籍の背表紙に、風谷美羽写真集という文字が読み取れた。
「ほ、ほんとだ。びっくり」
「私がびっくりしたのは、稲岡君がそれを手に取っていたことよ」

 相羽が目的の本を見付けて購入したのを機に、純子達六人は書店を離れた。そして白
沼の提案で、隣接するカフェに入る。普通、喫茶店に入るのは保護者同伴でなければい
けない校則があるが、そこはブックカフェという名目故。校則の適用外とされていた。
本を購入した客がすぐに読めるよう、場所を提供するのが主目的で、飲食物は極簡単な
物のみ用意されている。
「偶然じゃねえの?」
 丸テーブルに全員がついたところで、稲岡の一件を白沼が話す。すぐに反応したの
は、唐沢だった。
「あいつがアイドル写真集に興味を持つところが、想像できん」
「アイドルじゃなくて、クラスメート」
「それにしたって、なあ」
 相羽に同意を求める唐沢。だけど、そのクラスメートと付き合う相羽は、どう答えて
いいのやら、困り顔を露わにした。
「偶然なわけないわ。あの稲岡君が女性アイドルの写真集を置いているコーナーにい
て、この子の写真集を手に取っていた。私はこの目で見たのだから」
 白沼は純子の方を示しながら力説した。これを受けて、淡島が分析的に答える。
「事実として受け止めるとしましょう。つまりは、稲岡君は涼原さんに好意を抱いてし
まい、それが成績低下につながったと」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとする純子だが、あんまりうまく行かなかった。周りの賛同も得られて
いないらしい。
「おかしいわ。仮に、淡島さんの言ったことが当たってるとして、どうしてそれが成績
低下につながるのか」
「気になる異性ができて、勉強に身が入らないというのは、ありがちではありません
か。もしや、涼原さんはそのようなタイプではないのでしょうか」
「……うん、そうなのかな。えっとね、好きな相手とうまく行っていたのに、何かのき
っかけで仲が悪くなった、とかなら、何も手に付かなくなるかもしれない。でも、気に
なる人ができただけなら、それは幸せなこと、嬉しいことだわ」
「なるほどね」
 結城が腕組みをして頷いた。それから腕を解き、純子を軽く指差した。
「けれども、今の場合は、純の状況を当てはめなきゃいけない。稲岡君からすれば、彼
氏持ちの女子を好きになりかけてるんだよ。声を掛けたくてもできない。悶々としたと
しても当然よ」
「少し、分かった気がする」
 そう返事したものの、まだ不明点が残っている。つい、首を傾げた。
「私、どう考えても稲岡君からは嫌われてると思ったんだけど。嫌うって言うのが強す
ぎるのなら、避けられてる、疎まれている感じ。こんなので、実は好意を持ってますな
んて、あり得ないわ」
「小学生ぐらいなら、好きだからこそちょっかいを出すというのがあるかもしれないけ
ど、さすがにねえ。いくら勉強の虫でも」
「好意を少しでも持ってくれてるなら、席替えの希望を出すとも思えない」
 稲岡の親から席替え希望が出された経緯は、皆に打ち明けてある。
「実際に成績が下がり始めたのは、いつ頃なんだろうな」
 唐沢が問い掛けを出すが、誰もすぐには答えられない。
「はっきりと表面化したのは、この間の数学の小テストね。二十六点」
 白沼の声は、何とはなしに弾んで聞こえる。と言っても、ライバルの失敗を喜んでい
るんじゃあなく、こうして大勢で分析して原因を探るのが面白いようだ。
「あの日、起きたこと。きっかけになるような、何か特別な……」
 相羽が口元にぴんと伸ばした右手人差し指を当て、心持ち瞼を下げ、宙を見つめるか
のようにじっとした。他の者が見守る中、十秒ほどしてからつぶやく。
「あ――あった」

 学校が始まるまで待てない。それに、学校では話しにくいかもしれない。そんな考え
から、純子は白沼と連れだって、稲岡の家を訪れた。
 当初、白沼には「何で私まで」と拒まれ掛けたが、書店での目撃者として相手に知ら
れているのだからと、連れて来た。
(相羽君に来てもらうわけにいかないしね)
 稲岡宅の住所等を調べる必要があったので、出直しの形になった。そのため、書店で
稲岡を見掛けてから約一時間半が経っていた。
「案外近くで助かったね」
「近いと言っても、電車で反対方向に十分。そこから歩いて五分強。楽じゃないわ」
 角を曲がると、目的の家が見えた。
「大きいわね。私の家ほどじゃないけれど」
 付き合わされている意識がまだ残っているせいか、白沼はそんな憎まれ口を叩いた。
 家の門のところまで来ると、見上げながらまた白沼が口を開いた。
「さあて、まともに呼び出しても、出て来てくれるかしら」
「任せておいて」
 純子はインターフォンを見付けると、レンズに顔を通常よりもかなり近付け、躊躇す
ることなしにボタンを押した。
「どちらさまでしょう?」
 すぐに声がした。女の人の声だ。両親とも仕事を持っている――それぞれ病院と化粧
品メーカー勤務――ことを、事前に把握しておいたので、母親ではないだろう。稲岡は
一人っ子だし、お手伝いさんかもしれない。
「初めまして、稲岡時雄君のクラスメートです。忘れ物を届けに来ました。直に渡した
いのですが、時雄君はいますでしょうか」
「はい。わざわざすみません。しばらくお待ちください」
 お手伝いさんと思しき女性の声は、すんなりと受け入れてくれた。
 が、純子の隣では、白沼が目を白黒させている。それもそのはず、純子は今し方、男
子の声色でインターフォンのやり取りを行ったのだ。
「す、涼原さん。あなた、そんな声、出せたの?」
「うん。ボイストレーニングをやっている内に身に付けた特技」
 しれっとして答えた。本当のところは、久住淳として活動するために、低い調子で喋
る練習を重ね、その結果、今では何種類か男性の声を操れるようになった。もちろん、
喉を傷めてはいけないので、大絶叫するなど出せないトーンはあるが。
「将来、文化祭や何かの打ち上げをやるときは、それ、披露しなさいな。大受け間違い
なしだわ」
 唖然とした状態から立ち直った白沼は、どうやら本気で感心してくれたようだ。
「いざというときに取っておきたいんだけど――あ、来たみたい」
 一応、門扉の影に隠れる二人。姿を見た途端、稲岡が中に引っ込んでしまう可能性、
なきにしもあらずだ。
 門とは反対側の塀越しに、植え込みの隙間から見ていると、稲岡が靴を片足ずつとん
とんとさせてから進み出てきた。校則をきっちり守りたい質なのだろう、制服姿だ。ブ
レザーの上着こそ着ていないが、普段学校で見るのとあまり変わらない。
 門の格子を通して、その向こう側に誰もいないのを、稲岡は怪訝に感じているよう
だ。それでもやがて門を開け、外に出て来た。
「稲岡君。こっちよ」
 純子と白沼は期せずして声を揃えた。お互い、予想外のことについ噴き出してしま
う。
 一方、稲岡は口を半開きにして、呆気に取られている。これは学校ではなかなか見ら
れない、赤面した上に間の抜けた表情だ。男子が来たと思っていたのが、女子だったと
いうだけでも充分に戸惑いの原因になるに違いないが、さらに書店で見られたくないと
ころを見られた白沼と、純子が来たとなると、頭の中が真っ白になったとしてもおかし
くない。
 が、それでも中に戻らなかったのは、今、純子と白沼の二人が噴き出したおかげかも
しれない。場の空気が緩んだ。
「な、何だよ、君達。男子は?」
「ごめんね、私達だけなの。直接会って、話がしたかったから、ちょっと声色を」
 稲岡は疲れた風に片手を門柱につき、もう片方の手を自らの額に当てた。
「忘れ物というのも嘘なんだ?」
「ごめん」
 純子は再び謝罪したが、白沼は首を傾げて見せた。
「一つ忘れていたんじゃあない? 書店に、買うつもりだった写真集を置いてきたのか
と思ったのだけれど」
「……やっぱり、見られていたか」
 一瞬にして赤面の度合いが上がる。が、すぐにあきらめがついたのか、嘆息した。
「どこまで見えた? いや、それよりも、涼原さんもあの場にいたの?」
「うん」
 稲岡は額の手をずらし、顔全体を隠すようにした。それだけでは足りないと、もう片
方の手も門柱から離して、顔を覆う。眼鏡に指紋が付くだろうに、お構いなしだ。
「だめだ。物凄く恥ずかしい」
「いいじゃないの。勉強にしか興味のないガリ勉かと思ってたのが、普通の男子と変わ
りないと分かって、安心したわよ」
 白沼が気軽い調子で言った。彼女なりのエールなのかは分からないが、気まずくなる
のを避ける効果はあったようだ。
「わ、私も恥ずかしさはちょっぴりある。けれど、手に取ってくれたのは、嬉しい。フ
ァンが増えるんだもの」
 純子も調子を合わせる。ちょっぴりどころか、かなり恥ずかしい。
「だから、稲岡君からうるさいとか静かにしてくれって言われると、落ち込んじゃう。
席替えまで言われた、なおさらよ」
「ああ、いや、あれは、僕の言葉をお母さんが極端に受け取ったせいで、僕はそこまで
思ってない」
「そうなの? それなら少し救われた気分」
 手を合わせ、顔をほころばせる純子。後を引き継いで、白沼が指摘する。
「でも、邪魔になっているのは事実よね? 成績、下がったんだから」
「うぅ、あれは……」
 口をもごもごさせ、続きの出て来ない稲岡に対し、純子は「やっぱり私のせいなの
?」と尋ねる。
「君のせいというか、違うというか」
「折角聞きに来たんだから、はっきり言っておけば?」
 白沼は悪役を引き受けるつもりになっているようだ。本心を引き出すために、きつい
言葉を投げ掛けつつ、稲岡を促す。
「涼原さんを間近で見て、一目惚れみたいになったんでしょう? おかげで勉強に身が
入らなくなった」
「……いや、我慢していたんだ」
「そうみたいね。でも、小テストで悪い点を取った日は、我慢できなくなった」
「あれは別の原因が」
「隠さないでいいのに」
 白沼のこの台詞には先走りを感じた純子。急いで割って入る。
「稲岡君。突き詰めれば、私のせいなんだよね? あの日、私が遅刻してきたせい」
「え。分かってたの、か」
「ううん、分かってなかった。相羽君に言われて、気が付いたの」
「相羽が。そうか。相羽なら気付くな、うん」
 どこかほっとした様子になる稲岡。そこへ、白沼が改めて尋ねた。
「一応、確認させてもらうわよ、稲岡君。あの日、遅刻してきた涼原さんがブレザーを
脱いだことで、ブラジャーのバンドが透けて見えた。そのことが気になって、テストに
集中できなかったのね?」
「そ、そうだよ」
 また顔を赤くする稲岡の前で、純子も少し頬を染めた。
 あの日は朝から走り通しだったから、汗をかいた。結果、透けて見えやすくなってい
ただろう。加えて、撮影のときはシンプルなスポーツブラ着用だったが、終了後に着替
えて、若干華美なデザインの物に変えたことも影響したかもしれない。
(気を付けなくちゃいけないなぁ。相羽君も気付いていたわけだし)
 胸中で反省する純子。
 白沼は白沼で、双方に呆れた視線をくれてやっていた。
「去年も周りの女子には、何人か無防備なのがいたでしょうに、気にならなかったのか
しら?」
「全然。変な風に受け取らないで欲しいんだけど、涼原さんだからこそ、意識してしま
ったというか。だから、克服しようと思って、写真集を探したんだ。水着の写真があれ
ば、それを見て慣れるかもしれないだろ」
「はあ、まったく、おかしなこと思い付くものね。それで、今後どうする気よ、稲岡君
は」
「どうするって」
「これから暑くなるのよ。夏服になるのよ。ブレザーを着なくなるの。毎日、目の前で
見えるのよ」
 畳み掛ける白沼に、たじたじとなる稲岡。純子は二人のやり取りを前に、「な、なる
べく見えないように気を付けるから」と小声で訴えた。
「完全に見えなくするのは無理でしょうが。付けないわけにいかないでしょうし」
「そ、そりゃあ、私だって昔と違って」
 ブラジャーの初使用が周りの友達よりも遅かったのを思い出し、内心、汗をかく心持
ちになる。
「やっぱり、席替えしてもらいなさい」
 白沼が断定的に言った。
「クラス全員がやらなくても、あなた達二人が入れ替われば済む話よ。理由はまあ、稲
岡君、あなたの視力がちょっと落ちたってことにすればいいんじゃない?」
「……そうだね。席替えしたって言えば、お母さんも納得する」
「なぁに、そんなに厳しいの?」
「いや、厳しくはない。心配性なんだ。学校側に希望を伝えたのに、通らないでいる
と、ずっとやきもきしている」
「それなら、席替えがあったことのみ伝えれば、解決ね」
 白沼と稲岡の間で、どんどん話が進む。最初はそれを聞き流していた純子だったが、
はたと気付いた。
「ま、待って!」
「何?」
 白沼が振り向いたが、純子は稲岡の方に言った。
「席替えしてもらうんだったら、隣の平井君も説得してくれないかなあ」
 このお願いに、いち早くぴんと来たのは当然、白沼。
「ははあ。あなたが一つ下がったら、隣が相羽君じゃなくなると。それが嫌なのね」
「あ、当たり、です」
 しゅんとなった純子の背後に回った白沼は、相手の肩を上からぎゅっと押し込んだ。
「また仲よくお昼寝するつもりね」

 大型連休中、最大の仕事であるミニライブの現場は、恐らく最大となるであろうトラ
ブルの発生に、幕開け前から混乱を来していた。
「え? 来ない?」
「正確には、来られないかもしれない、だけど、見通しが立たないのなら同じことだ
ね」
 シークレットゲストとしてスタンバイしてもらう予定の鷲宇憲親が、開演の三十分前
になっても、まだ会場入りできていないのだ。飛行機の遅れだという。
「車の流れは順調みたいだから、本来の出演時刻には間に合いそうなんだけれど、最終
チェックなしにやるのは、結構リスキーだよね」
 鷲宇サイドから派遣されたスタッフの一人・牟禮沢(むれさわ)が、平静さを保ちな
がらも緊張感のある声で述べる。
「一応、間に合う前提で諸々準備を進めますが、気持ち、遅らせ気味に願えます?」
「遅らせると言われても、うちの久住はトークは無理なんですよ」
 市川が懸念を表する。その隣やや後方で、純子――久住淳も黙ってうなずいた。ハプ
ニングに、ともすれば震えが来そうになるが、どうにか堪えている。
「司会役を用意していればよかったんですがね」
 別のスタッフが言った。この度のミニライブ、もちろん歌だけでは数が足りず、つま
りは時間がもたないので、喋りも予定されてはいる。でもそれは鷲宇が舞台登場後のこ
とで、要は全て鷲宇頼みなのだ。他には短い挨拶くらいしか考えていなかった。
「演奏のテンポを1.1倍ぐらいまで延ばす、なんて荒技もありますが、余計に無理で
すよねえ」
 恐らく冗談なのだろう、牟禮沢が言ったのだが、誰も笑わない。
「それよりはましな、でもやっぱり無茶な提案が一つあるのですけど」
 市川が反応を伺いながら、小出しに喋る。牟禮沢が伺いましょうと、身を乗り出す。
可能であれば、この打開策を話し合う現状を、鷲宇本人にも携帯電話を通じて聞いても
らいたいところだが、バッテリー切れが恐いので、必要なタイミングになるまで取って
おく。
「牟禮沢さんもご存知だと思いますが、芸能人の方を何名か、お招きしたじゃありませ
んか」
「ええ。彼――久住と同世代で、多少なりとも親交のある人数名に」
(え。そうなの?)
 後方で聞いていた純子は、小さく飛び跳ねるぐらいびっくりした。聞かされていなか
った。思わず、女の子の声で叫びそうになったけれども、これも何とか我慢。
「実際に来られた方がいるはずです。その方に助っ人をお願いするというのは、どうで
しょうか」
「どうなんでしょう……たとえ親友同士でも、事務所を通すのが常識です。今から言っ
て受けてもらえるかどうか。ギャラの問題も発生する。でもまあ、だめ元で頼んでみま
しょうか。マネージャー同伴で来てる人がいれば、比較的話が早いんだが」
 打診する前に鷲宇と相談する必要があるとのことで、席を外す牟禮沢。内緒話がした
いのではなく、使っている大部屋がざわついているため、静かな場所に移動するのだ。
 三分足らずで戻って来た牟禮沢は、落ち着く前に「ゴーサイン出ましたよ」と告げ
た。
「手配は任されたが、どちら様が来てくれているかを把握しないといけませんね。さっ
き、確認に行かせたんですが、まだ戻ってこないな」
 呟いてドアの方を振り返ろうとした矢先、ノックの乾いた音が。この緊急事態に呑気
にノックするとは、スタッフではなく、訪問者だろう。
「どうぞ!」
「お忙しそうなところをすみません。控室を訪ねたら、今、こちらだと聞いたもので」
 腰の低い、柔らかい口ぶりで入って来たのは、招待した一人だった。
「あ、星崎さん」
 純子は久住として声を上げた。パイプ椅子の背もたれを持って回り込むのももどかし
く、駆け寄る。
「やあ。お招きを受けて、来てみたんだけどね。空気がざわざわしていて、知っている
顔のスタッフさんが何人も走り回っているから、どうなってるのかと心配になってさ」
「それが」
 事情を話そうとして、シークレットゲストの存在を言っていいのか、迷ってしまっ
た。星崎は芸能友達とは言え、お客さんだ。
 そこへ市川と牟禮沢が加わり、代わって説明を始めた。事態を飲み込んだ星崎は、と
りあえずは勧められた椅子に腰を下ろした。そして「鷲宇さんに貸しを作るのは悪くな
い話ですね」と、苦笑交じりに始めた。
「二人でユニットの曲も唄えるかもしれないね。ただ、事務所の許可がいるので、ちょ
っと時間をください。マネージャーに言えば、多分OKが出ると思います」
 早い方がいいので、また席を立って出て行こうとする星崎。が、「あ、そうだ!」と
足を止めて、牟禮沢に言った。
「加倉井舞美ちゃんも来てましたよ」
「ほんとですか!?」
「ええ。彼女、マネージャーさんと一緒だったから、出てくれるかどうかは別として、
判断は早いと思います。ええと、席は」
 壁に掛かる会場全体の座席表を見て、加倉井のいる位置を指し示した星崎。そのま
ま、携帯電話を取り出しながら退室して行った。
「よし、すぐにコンタクトを」
「でも、女性ってどうなんでしょう? 久住のファンが集まってるところへ同世代の女
の子が登場して、受け入れられるかどうか」
 声を小さく、低くして思案がなされる。
「そうだな。星崎さんに出てもらえると決まったら、一緒に登場することで、変な目で
見られることもないだろうが……。背に腹はかえられない。声を掛けておく」
(何だか知らないけれど、勝手にどんどん進む〜)
 再び座ることも忘れ、成り行きを見守っていた純子。開演まで十五分です!という声
に、スイッチが切り替わる。
(あー、もうっ、覚悟決めた。なるようにしかならない。最善を尽くすのみ! それ
に、このままなら、鷲宇さんの歌を本人と一緒に唄わなくて済むかも? なんちゃっ
て)
 気休めに、いいことを一つでも見付けて、肩の荷を少しでも降ろす。いよいよスタン
バイに掛かろうと、部屋を出ようとしたところへ、市川が言ってくる。
「幕が上がる前に、どう変更するかを決めたかったんだけど、無理かもしれない」
 市川の話に、黙ってうなずく。
「休憩時間までには決まるはずだから、それまでは気にせずに、段取り通りにやって。
いいね?」
「はい」
 久住になりきった声で応えた。
「久住淳の初ライブ、飾りに行ってきます!」

「えっと? サプライズゲストが来ているそうです、カンペによると」
 休憩開けに一曲、カバーソングを歌ったあと、純子は、否、久住は切り出した。
「正直に言います。僕が最初に聞いていたサプライズゲストとは違います。だから、僕
にとっても本当にサプライズになってしまいました」
 観客席からの反応が、どういうこと?という訝るものから、笑い声へと変化する。
「お待たせしては問題ですし、早速お呼びします。かつて映画で共演し、勉強させてい
ただきました、加倉井舞美さんに星崎譲さんです」
 思っていた以上に、大きなどよめきがあった。加倉井か星崎、どちらか一人ならまだ
想像できたが、二人揃ってというのが予想外だったのかもしれない。新作映画の宣伝で
もない限り、普通はない華やかな組み合わせなのだ。
 二人はそれぞれ、舞台袖の両サイドから現れた。客席から見て左が星崎、右が加倉
井。久住は順番にハイタッチしてから、女性である加倉井に真ん中を譲ろうとした。
が、やんわりと拒まれてしまい、思わず苦笑い。仕方なく、中央に収まり、三人で肩を
組む。
「何を引っ込もうとしてるの? 今日の主役は久住淳でしょう」
「そうそう。楽をしようたって、そうはいかない」
 加倉井、星崎の順に早速やり込められた。大雑把な流れしか決められていないし、聞
かされていない。手探り状態で、トークを続ける。
「そのつもりだったんですが、お二人の芸能人オーラを目の当たりにして、怖じ気づい
ちゃいました」
「怖がらなくていいじゃない。久住君のオーラだって、負けてない」
 さも、オーラが見えているかのように、指差す仕種の加倉井。つい、振り向いて背後
を見上げてしまった。笑いを取れたからOKとしよう。
「真面目な話をしますけど、本当に急な話で出演してくださって、感謝しています。加
倉井さん、星崎さん、ありがとうございます」
 深々とお辞儀。あまり丁寧だと女性っぽく映る恐れがあるので、上体を起こすときは
やや粗っぽく。
「いやいや、どういたしまして」
「真面目な話は面白くないよ。ほら、お客さんがあくびしてる」
 さすが慣れていると言うべきか、星崎が客いじりを始める。そのあとしばらくは、先
輩二人の独壇場だった――二人で独り舞台というのもおかしいかもしれないけれど。
「――あ、星崎さん、時間みたいです。一曲、歌ってもらわないと」
「ああ、そうだった。でも、お客さん、いいの?」
 星崎が耳に片手を添える。即座に、観客全員が声を揃えたのではないかと思えるくら
い大きな「いいよ−!」という答が返って来た。ここに至るまでに充分に温め、客席と
のやり取りで心を掴んだ成果が出た。
「よかった。じゃあ、何がいいかな。今日は収録がないから、何を唄っても大丈夫と聞
いたんだ。リクエストがないなら、久住君とは畑の違うところで、演歌を」
「えー? 演歌、ですか」
 イメージにないので、心の底から驚いてしまった。まあ、演歌なら比べられることも
少ないだろうから、安心ではあるけれども。
「演歌を歌う星崎さんなんて珍しい姿、ファンの人に取っておけばいいのでは」
「そんなに勿体ぶるもんじゃないよ。えっと、このところはまっているのが、『氷雨』
なんですが、皆さん、特に若い人は知ってる?」
 半数ぐらいが知っていたようだった。

 星崎が『氷雨』を朗々と?見事に歌い上げると、期せずして拍手が起こった。どちら
かといえば大人しめの容貌の星崎だから、女性になりきったような歌い方をするのかと
思いきや、芯のしっかりした男っぽい声でやり通した。
 あとを受けてマイクを握った加倉井は、「一番得意なのが持ち歌なのは言うまでもあ
りませんが、今日は宣伝に来たんじゃないし、先に星崎君に演歌なんて面白いことをや
ってしまわれると、私も何かしなくちゃいけないのかなと考えて」云々と前置きした挙
げ句、『すみれ September Love 』を振り付けありで力一杯やってくれた。星崎と違
い、独自色をなるべく消し、物真似に徹したような唄いっぷりで、これまた見事だっ
た。
「この曲も結構昔、大昔の曲だった気がするんですが」
「それが?」
 久住が話し掛けると、加倉井はほんの少し息を切らしながらも、髪を軽く振って答え
る。
「いや、加倉井さんがどうして知っているのかなって。物真似できるほど」
「カラオケの十八番の一つなの。それより、久住君だって物真似だと分かってるってこ
とは、つまり知ってるんじゃない」
「あはは、ばれましたか」
 軽妙なやり取り。ようやくこつが掴めたかなという頃合いだったが、時間の都合でそ
ろそろ切り上げねばならない。
 先に思い付いていた星崎とのユニットは、加倉井が参加してくれたことで、なしとし
た。どちらか一方を特別扱いはしたくないし、あといって加倉井と二人で唄うのも練習
なしでは難しいというわけ。
 ゲストの最後の見せ場ということで、三人で唄う。ぶっつけ本番で三人揃って唄える
ほぼ唯一の歌というと、共演した映画の主題歌になる。緊急事態の割に、意外と感覚で
記憶しているもので、まずまず聴ける物になっていた。さすがに歌詞はうろ覚えだった
ため、歌詞カードを見ながらになってしまったが。
「――では、残念ですが加倉井さんと星崎さんはここまでということで」
「もう? あら、ほんとだわ。マネージャーが時計を指差して、頭から湯気を立てて
る」
 冗談を言う加倉井の口調は、実際、まだまだやりたそうな響きを含んでいた。が、時
間切れというのも事実。星崎とともに、登場したのとは反対方向にそれぞれ下がった。
「ほんっとうに、ありがとうございました。ピンチのときは、また来てください」
 舞台袖にそんな呼びかけをすると、「次からは一人で!」と反応があった。
 とにもかくにも大きな山場は乗り切った。久住は一安心すると同時に、気を引き締め
直しもした。
(さあ、ラストスパート!)
 脳裏にこのあとの進行を改めて思い描き、切り出す言葉を考える。
「また一人になってしまいました。寂しい気もしますが、がんばります。次は――」
 曲名を伝えようとしたそのときだった。
 場内が暗転し、次の瞬間には、舞台上手にスポットライトが当てられる。ほぼ同時
に、
「寂しいと言ったか? ならばもう一人、僕がゲストになりましょう!」
 鷲宇憲親の声が轟いた。
「鷲宇さん?」
(間に合ってたの?)
 いつもなら、というか通常の状態なら、鷲宇憲親ほどのビッグネームであれば大歓声
がわき起こっておかしくないのだが、今のは唐突すぎた。声だけでは誰か分からない人
もいたようだ。
 若干外し気味だったが、鷲宇が姿を現すと一挙に空気をひっくり返した。観客に向か
って満遍なく手を振ると、次いで久住を指差した。
「え? え?」
 わけが分からない。間に合っていたのか、今し方到着したのか知らないが、これから
唄うつもりらしい。伴奏が流れ出している。
「メドレーで行くよっ」
 元々のセットリスト通りにやる、ということだ。
(急な変更の対応だけでもくたくたなのに、ここで鷲宇さんとデュエット……)
 久住は純子に戻りそうになるのを踏み止まった。力を込めて拳を握り、応じるサイン
を鷲宇に返す。
(最後まで全力で、楽しんでやる! こんな経験、普通できないんだから!)

 ミニライブの翌日は、午後から比較的負担の少ないインタビューの仕事があるだけだ
った。なので、空き時間を使って、星崎と加倉井それぞれの事務所にお礼に行くつもり
でいたのだが……身体が動かなかった。心身ともに疲れ切っていた。
 ありがたいことに、双方の事務所からは、「今は当人(星崎または加倉井)も仕事で
不在ですし、後日落ち着いてからで一向にかまいません」的な対応をしてもらった。お
言葉に甘えて、後日に回すことに。
「いいのかなあ」
 早めに迎えに来た市川は、上がり込んできて、しばらく話をすることに。
「いいのかなあって、後回しにしてもらうと最終的に決めたのは、市川さんじゃないで
すか」
 身支度を終えて、仕事モードに入る努力をしつつ、純子は指摘する。
「それはその通りで、別に心配してない。ただ、借りを作った形だからね。鷲宇さんの
方がより大きな借りだけど、だからといってこちらが頬被りしていいもんじゃない」
「助けてもらったんです。お返しをするのは当たり前です」
「それは同意。けど、ネームバリューから言えば、同じ状況のとき、久住淳がゲスト出
演したって、釣り合いが取れない」
「う。それは仕方ありません。か、数でこなしましょう」
「私は、数よりも質を求められる可能性ありと踏んでいるのよ。どうだろう?」
「どうだろうって……具体的に言ってもらわないと」
 市川がこういう喋り方をするときは、どことなく嫌な予感が立つ。経験上、当たって
いることが多い。
「思い当たらない? 何にも?」
「はあ、そうですね……」
 考えるつもりの「そうですね……」だったのだが、市川は「思い当たらない?」とい
う質問に対しての返事と受け取ったようだ。すぐに言葉を被せてきた。
「星崎君はともかくとして、加倉井さんは前に言ってたんでしょうが」
「前と言いますと、映画のとき、ですか」
「そうそう。覚えてるじゃない。彼女、あなたに――久住淳に、また共演したいって持
ち掛けてきてたじゃないの」
「あ。そうか、そうでした」
 言われるまで忘れていた。そして言われた途端、鮮明に蘇る記憶。九割方リップサー
ビスだと信じているのだが、加倉井が「久住君、まだしごいてあげるわ」なんて気でい
るとすれば、可能性ゼロではない。
「うわ−、一緒にできるとしたら光栄なんだけど、どうしよう、今から考えただけで疲
れが」
「こらこら。このあと仕事だってのに。だいたい、私の勝手な想像に対して、そこまで
思い巡らせるっていうことは、もしも話があったとしたら、受ける気満々てことじゃな
いのかな」
「うーん。分かんない」
 頭を抱えた純子に、市川は別の方向から追い打ちを掛けてきた。
「それで、お礼の件なんだけどね。ゴールデンウィークの最終日に入れちゃおうかと思
う。何だっけ、護身術の日と重なるけれども、大丈夫ね?」
「ふぁい?」
 もうどうとでもしてください……。

――『そばにいるだけで 65』おわり




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