AWC 稚児の園殺人事件 1   永宮淳司



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★タイトル (AZA     )  15/12/30  22:42  (358)
稚児の園殺人事件 1   永宮淳司
★内容                                         16/01/01 14:43 修正 第2版
「姉を助けてください」
 可憐なその少年が言った。ほっそりとしているから、髪を伸ばせば少女にも見間違え
るであろう。詰め襟をきっちりと留め、いかにも真面目な印象がある。身体の大きな小
学六年生といった風貌だ。
 事務所に入って来た当初は、目に落ち着きがなく、おどおどしていた彼は、金尾幸治
と名乗った。誰も要求しない内から、生徒手帳を出してみせた。進学校として知られる
高校の一年生と分かった。
「警察は姉の話をほとんど信じてないみたいだし、弁護士さんは熱心じゃないように見
えたし、このままだと殺人犯人にされてしまうんじゃないかって思えて、心配で、どう
したらいいか分からなくて、それで僕、地天馬鋭さんの噂を聞いたから」
「分かったよ。順序立てていこう。まず、お姉さんの名前は」
 我が友・地天馬鋭は、彼にしては優しい物腰で言った。
「金尾夏江と言います。僕より八つ上で、今年二十四歳になります。私立草高幼稚園の
先生をしています」
 幸治少年はなかなか利発そうな外見をしていたが、中身もギャップがないようだ。依
頼内容に関係することを聞かれる前に話し始めた。
「草高幼稚園はどこにあるんだろう? 残念ながら僕は知らない」
「Y県の方です。詳しい住所はここに」
 と、少年はメモ用紙を胸ポケットから取り出し、開いてから地天馬の前に差し出し
た。地天馬は紙を一瞥してから、私によこしてきた。データ入力しておく。
「こちらでは報道されてませんが、だいたい一ヶ月くらい前に、この幼稚園で殺人事件
がありました」
 幼稚園で殺人とは穏やかでない。私は思わず口を挟んだ。
「まさか、子供が殺されたのかい?」
「いいえ。江内ローンという金貸しの社長が被害者です。江内省三、五十九歳と聞きま
した。幼稚園は老朽化がひどくって、その改修費用を江内ローンから借り、大変な額に
膨らんでしまったそうです」
「お金が動機と見なされているんだね」
 再び地天馬が聞く。
「だと思います。詳しくは……」
「お姉さんは幼稚園の経営にタッチしていたのかい?」
「していませんが、子供達や幼稚園の将来を思う心は、園のみんなが同じように持って
いるって……」
 姉を思い起こしたのか、しばし言葉を詰まらせ、幸治は唇を噛みしめた。若干、頬が
紅潮したようだ。色白の肌が朱に染まる。
「すみません。僕にとって、姉は母親代わりの存在だったから」
「かまわない。ゆっくり、落ち着いて喋ってくれればいいよ」
「でも、少しでも早くしたいから」
「そうか。では――夏江さんがどうして容疑者にされたのか、知っていることを全て話
してくれないか」
「それなら、警察と国選の弁護士さんから、粗方聞いています。殺人現場の状況が、姉
にしか行えないことを示しているって」
「うん。もっと具体的に。先に、状況を説明してほしい。事件のニュースはこちらでは
どうやら流れていないらしい。僕らは全く知らないんだ」
「はい。江内社長が幼稚園の庭で死んでいて……あ、洗濯物を干すロープで、首を絞め
られていて。ロープはベランダの柵に掛けてあった物で、誰にでも使える状態でした。
ううん、背の低い子供には無理ですけど」
 さすがに殺人の説明に差し掛かると、話し方がおぼつかなくなる。人から聞いた話で
あること以上に、やはりその非日常性が少年を動揺させるに違いない。
 地天馬は両肘を机につき、組んだ手の甲に顎を乗せる格好で、辛抱強く聞き役に徹し
た。
「事件が起きたのは、大雨が降った翌日の土曜でした。実は、僕も姉のアパートに行っ
ていたんです」
「え?」
 さすがに地天馬も意外に感じたのか、声を上げた。
「電話したとき、姉がとても落ち込んでいるように思えたから、金曜の夜、思い切って
行ってみたんです。泊めてもらうつもりで、あらかじめ連絡を入れておきました。土日
と休みだし」
「事件直前のお姉さんの様子に、何か不自然なところはあったのかな」
「あるというかないというか……依然として落ち込んでいる風でしたが、聞いても何も
教えてくれなくて。それ以外の話題には明るく応じてくれるんです。僕が冗談を言うと
笑うし、テレビの物まね番組で派手なかつらを被ったタレントを見て、急に姉もかつら
を引っ張り出してきて被って、おどけたり。あとで思ったんですけど、僕を心配させま
いとして、姉は無理をしてそんな振る舞いをやったのかもしれませんよね。
 結局、金曜の晩、姉は早めに布団に潜ってしまいました。それで、僕も仕方なく眠っ
たんですが、まさか次の朝、あんな知らせを聞くなんて」
 声を詰まらせる金尾幸治。我々は先を急かさずに待った。
「在来線を乗り継いでいった疲れで、僕は寝坊してしまいました。起きると八時二十五
分ぐらいで、姉が用意してくれたコーンフレークとハムサラダの食事があって、それを
食べてるとき、急に訪問者があったんです」
「お姉さんがいつ出て行ったのかは、分からないんだね?」
「はい……」
「思い出すのは辛いかもしれないが、殺人事件そのもののことを聞かせてくれないか。
他に必要と感じれば、君のことも聞くよ」
「分かりました……土曜日は朝から曇りで、地面がぬかるんだままで……そうだ、写真
を見せてもらったんですけど、水たまりがほんの小さな物ですがあっちこっちに残って
いるくらいの状態でした。そんな泥の中に、社長は仰向けで倒れて亡くなってた」
「凶器のロープはどこに?」
「遺体の首に巻かれたままだったとか。それで、ロープから指紋が……姉の指紋が出た
のが、証拠の一つにされました。でも、他の人のだって、着いてるんです。当然ですよ
ね、普段から園で使っている物なんだから」
「恐らく、夏江さんは遺体発見時にロープに触ったんじゃないか」
「そ、そうです。あの、まだ言ってないと思うんですが。姉が第一発見者だってこと
を」
 目を大きく開いて、それから瞬きを幾度もした幸治少年。一方、地天馬はわざとなの
かどうか、驚いた顔つきをする。
「ああ、推理が当たったようだね。よかった」
「推理って……」
「ロープに多人数の指紋が残っているにも関わらず、君のお姉さん一人が特に疑われる
としたら、その理由は何かと考えてみたんだ。前日、大雨に降られたんだから、それま
でに着いたロープの指紋は薄くなったはず。夏江さんの指紋だけが鮮明に残るとした
ら、事件後、ロープに触れた可能性が高い。ロープに触れるには、第一発見者でなけれ
ば難しいだろう……と」
「す、凄いですね。その通りなんです」
 見開かれていた少年の目が、ほっとした光を帯びる。地天馬に全幅の信頼を置くこと
に決めた――そんな様子に見えた。
 地天馬は椅子の上で腰の位置を直すと、次のことを付け加えた。
「ただ、第一発見者という理由だけじゃない気がする。幸治君は地面のぬかるみを強調
していたから、恐らくは事件に関係があると見たんだが、どうかな」
「は、はい。当たってます。凄い、本当に……」
「君が知っていることを言い当てても意味がない。事件の真相を射抜かないとね。さ
あ、続きを」
 地天馬に先を促され、少年は居住まいを正し、両手を膝上に揃えた。畏敬の念を態度
で示そうというのか、傍目から見ていると面白い。
「足跡が、姉のものしかなかったんです」
「ふむ。被害者の足跡もなかったのかい?」
「あ、いえ。間違えました。姉さんの他に、死んだ社長さんのもありました」
 小さな間違いでも恥ずかしいのか、うつむいて、頭頂部を地天馬に向ける格好になっ
た。ずっと「姉」で通してきたのが、初めて「姉さん」に変化したことからも、動揺が
窺える。
「気にしないで、僕にもっと教えてくれよ、事件のことを」
 私は依頼人と地天馬の様子を目の当たりにして、何だか先生が児童に接しているみた
いだな、と内心で苦笑した。
 この金尾幸治少年、今時珍しいタイプの高校生ではないか。いや、本当はいつの時代
にもいるのだが、目立たないだけなのだ。
「は、はい」
 顔を半分ばかり起こし、幸治少年は唇をなめた。詰め襟に指をやって息苦しさを緩和
し、深呼吸を挟むと、話を再スタートさせる。
「姉さんが、じゃなくて、姉が言うには、その朝七時、幼稚園に一番にやって来て、庭
で遺体を発見したとき、地面には社長さんの足跡だけがあったって。それでびっくりし
て駆け寄って、首に絡まっていたロープを外し、何度も揺さぶったけれど、社長さんは
意識を失ったまま。恐くなったけど、それでも脈とか心臓の音とかを探って、死んでる
みたいだって……警察と救急車を呼ぼうとしたら、ちょうど他の先生達が姿を現したん
だそうです。その中の一人に通報を頼んで、姉は社長さんの身体から離れて。そうした
ら急に震えが来て、その場にしゃがみ込んだって言ってました」
「幼稚園の敷地内の見取図、ないかな。君に書いてもらってもいいんだが」
 地天馬が求めるのへ、少年は慌てたように首を横に振った。
「絵は、全然駄目なんです。見取図をもらっていればお渡しするんですが、あいにくと
……」
「ん、分かった。こちらで何とかするとしよう。では、そうだな。金尾君は、直接その
幼稚園に行ったことは?」
「姉に会いに行ったとき、何度かあります。事件のあとなら、一度だけですが。そのと
き、事件の説明をされたんです。全然納得できなかった」
「結構。足跡が残らない領域が、当然あったと思う。たとえば幼稚園の建物のベランダ
や、コンクリートブロック、短い芝を植えたスペースがあれば、そこも該当するかもし
れないな。そういった足跡が付かないであろう場所と、被害者が倒れていた位置との距
離を思い出してほしい」
「あっ、ジャンプできるかどうか、ですね。それなら警察の人がすでに実験したそうで
す。まず無理だろうって。ジャンプしても届かないか、ぬかるんだ地面に足を取られ
て、派手に転ぶのが落ちだとかどうとか」
「さすがにこの程度は、警察も調べているか。ついでにもう一つ、空想の可能性を潰し
ておくか。園内にブランコはある?」
「ブランコ? 確か、箱型の四人乗りのやつが置いてあったと思います。ただ、安全面
で問題が取り沙汰されているとかいう理由で、使用中止になっていましたよ」
「ほう。その“使用中止”とは、警告だけなのかな? それともブランコ自体が動かな
いように、針金か何かで固定していると?」
「固定されてました。太い針金で揺れないようにして、さらにブランコの真下の地面に
クッションみたいな物を置いて、空間をなくしているというか……」
「クッション?」
 これは私の発言。野外に布製のクッションなんか置いたら、すぐにぼろぼろになって
しまうだろうと感じたのだ。
「あ、あの、クッションというか、空気の入った直方体のブロックみたいな代物です。
えっと、ビニール製で、そう、ビーチボールと同じ材質じゃないでしょうか。あれの直
方体版という感じです。一個が抱き枕ぐらいありそうな」
「ああ、なるほど。理解できたよ」
 正式名称を知らないが、教育テレビの幼児番組で見掛けたことがある。ビニール製の
大きな積木といった趣だった。各面が赤や青や黄色など、異なる色で塗り分けられてお
り、なかなかカラフルだったのを覚えている。
「ブランコがそんな状態では、横揺れを利して勢いをつけてのジャンプもあり得ない訳
だな」
 地天馬は真面目な調子で言ったあと、相好を崩してくすくすと笑った。
「金尾君、話してくれたことに感謝するよ。このあとは僕の方で動くから、心配しなく
ていい」
「あ、あの、地天馬さん。僕の依頼、引き受けてくださるんでしょうか?」
 不安いっぱいの眼差しで、低いところから見上げるかのように、恐る恐る、地天馬を
見る少年。
 名探偵は力強く首肯した。
「もちろんだとも。ここまで事件について聞いておきながら、何もしない訳が無いじゃ
ないか」
「あ、ありがとうございます。で、でも……僕……」
 またもやうつむいてしまう。彼は、学生ズボンの尻ポケットに手を持って行こうとし
てはやめる、という仕種を何度か繰り返した。
 もしかすると、この子は……。
 しばらく静かな時間が続いたので、私は地天馬に近付き、耳打ちした。
「地天馬。彼は依頼料の心配をしているんだよ、きっと」
「ん? ああ、そうか。仕事であるのをすっかり忘れていた」
 地天馬は席を立つと、背後のロッカーから、この間作ったばかりの木製のドアプレー
トを取り出してきた。「本日休業」と彫られた、素朴な味わいの板だ。地天馬自身はチ
ェーン部分が気に入らないらしく、他の物を買ってきて付け替えようと主張していた。
 地天馬はそのプレートを手に、一旦部屋の外に出ると、ドアノブに引っかけ、また戻
って来た。名探偵のこの突然の振る舞いに、私だけでなく、少年も一緒になって怪訝な
顔つきをした。
「なに妙な顔をしてるんだ?」
 我々の前で、地天馬は両腕を横に大きく開いた。
「金尾君。君は、休業中の探偵事務所に来て、雑談をした。その話に僕が勝手に興味を
持ち、調べる気になった。いいね?」
 ……また私を当てにする気だな。しょうがない奴。

 金尾夏江についた国選の弁護士は、我々との協調どころか、会うことさえ拒否した。
容疑者の弟からの依頼を受けたとは言え、探偵という存在は胡散臭く映るに違いない。
弁護士としての義務を遵守するなら、第三者の民間人に介入させないのは当然の態度
だ。充分に予想できる事態であり、ショックはない。
 幸い、Y県警には旧知の早矢仕刑事がいる。地天馬にとって本意ではないかもしれな
いが、彼を頼らざるを得なかった。むしろ、早矢仕刑事の存在が頭にあり、算段を立て
ていたのだと思う。
「お久しぶりです」
 駅前まで迎えに来てくれた早矢仕刑事は、短いながら顎髭を蓄え、イメージが多少変
わっていた。若々しい感じは薄れたが、代わりに精悍さを得たと言ったところか。知ら
ない人が見れば、社会人スポーツ選手と思うかもしれない。
「お世話になります」
 警察が好きでないらしい地天馬も、このときばかりは礼を尽くす。握手を交わし、お
互いに軽く頭を下げた。
「お世話と言っても、大したことはできないと思いますよ。今回、地天馬さんは我々の
見解とは異なる立場をお取りだそうですね。下田さんから聞きました」
「いがみ合うつもりは毛頭ない。真相を知りたいだけです」
「何でも、容疑者の弟から依頼を受けたとか。私も会いましたが、かわいらしい感じの
少年で、探偵に依頼を出すなんてことをするようにはとても見えなかったな。姉のため
を思って、懸命なんでしょうねえ」
 刑事の口ぶりには、同情する響きがあった。事件の構図は警察が掴んだ一通りしかな
い、と自信を持っているのであろう。
「とにかく、車にどうぞ。現場を見るにしても、資料を見るにしても」
 早矢仕刑事が示した車両は、黄色の軽四だった。記憶を掘り起こした私は、このとき
微苦笑を浮かべていたろう。
「ひょっとすると、あれは早矢仕さん自身の車で?」
「ええ。よく分かりましたね。警察車両だと、地天馬さんに文句を言われることを学習
しましたから。今回のように意見の相違がある場合、こうするしかないでしょう」
「そうなってくると、燃料代が気になるな」
 地天馬が言ったが、多分これは冗談だ。
 全員が車に収まると、早矢仕刑事はエンジンを掛ける前に、我々の方を振り返った。
「天気がよくて何よりです。で、どうします?」
「早矢仕さんはこの事件の捜査に携わっているのですか」
「無論です。携わってなければ、ここまで勝手はできません。携わっていても、かなり
冷ややかな目で見られますがね」
「お骨折りには感謝しましょう。捜査に携わっているのなら、事件のあらましの説明は
問題ないですね」
「ええ。話せる範囲で、お話ししますよ」
「では、現場に向かおう。足跡がポイントになっているようだから、早めに見ておきた
い」
 地天馬の決定に、早矢仕は黙ってうなずき、車をスタートさせた。ロータリーを出
て、ハンドルを左に切る。ビル群が少しだけ続き、程なくして風景が開けた。住宅街ら
しき区画に入る。
「近いんですか」
 私が尋ねると、「まあ、近いですね」と返事があった。
「日を指定させてもらったのは、今日明日と幼稚園が休みだからでして。心置きなく、
現場を見ることができるでしょう」
「保存状況は、期待しない方がいいでしょうね。幼稚園の運営がある」
「はあ。充分に捜査しましたし、写真などで記録も取ったので、フォローは万全かと」
 やがて草高幼稚園に着いた。事前の想像では、さほど広くない土地を最大限有効活用
した、こじんまりした施設を描いていたが、実際は違った。建物自体は確かにこじんま
りしているが、広い庭付きだ。塀は低いようだが、生垣が作られ、道路との距離を充分
に取っている。幼児を思う存分遊ばせることができるし、親も安心感を持てるだろう。
「鍵を、事務長の草高均氏から預かってきました」
 門をくぐり、足を踏み入れる。門から園舎の玄関まで、コンクリートの白い道が続く
が、我々が今目指すのはそちらではない。
 左脇に逸れると、やはりコンクリートで固められたごく緩やかな坂がある。そこを下
ると、幸治少年が言っていたように、ビニールブロックを三つ載せた箱型ブランコを真
左に見ながら、殺人現場である庭に出た。園舎の前からは、コンクリートが途切れ、地
面になる。刑事が言った。
「庭は遺体発見時の状況を再現してます。写真を元に再現したから、間違いありませ
ん。無論、足跡と遺体そのものを除いて、ですがね」
 鰻の寝床のように細長い庭だ。広くはあるが、遊具や砂場、プールなどが道路側の塀
際にまとめて設置されているせいもあり、土が露出したスペースのみを取り上げると長
辺と短辺の長さが極端に違う長方形に見える。
「江内省三が倒れていたのは、あそこです」
 早矢仕刑事は一方向を指差しながら、我々を先導する。すでに地面はぬかるんでいな
いし、足跡も残っていない。だが、それでも足下を注意してしまう。
 刑事は立ち止まると、改めて「ここです」と言った。門から見て、最も奥まった地点
と言えた。
「塀に頭を向け、足はこっちでした」
 頭の位置を示す早矢仕刑事。隣家側の塀から一メートル近く離れていた。道路側の塀
へ一メートル行くと、ブランコがあった。こちらの方は一人乗りのブランコが二つだ
が、やはり使えないように針金で縛ってあった。事故防止なのだろう。
「足跡は二種類のみ。どちらも門のところからここまで続いていた。被害者と容疑者・
金尾夏江のものです。幸いにもほとんど重なっておらず、識別は大変容易でした。他の
足跡を消した形跡はなし」
「念のため、足跡に沿って、歩いてみてくれますか」
 リクエストを、早矢仕刑事は気安く引き受けた。何度も現場に立って記憶に鮮明なの
か、迷う様子もなく二往復した。先に被害者、次に金尾夏江の足取りを再現する。
 被害者の方が、道路寄りのルートを取ったと分かる。対する夏江は、被害者の足跡と
園舎のベランダのちょうど中間辺りを通ったらしい。
「金尾の供述では、被害者の足跡を避けて歩いたのは、何となく嫌な予感がしたからだ
と。まあ、門のところに立てば倒れた江内の姿が目に入るでしょうから、不自然とは言
い切れませんがね」
「洗濯紐による絞殺だと聞いています。凶器となった紐は、どこに掛かっていたんで
す?」
「ベランダの両サイドに柵があるでしょう。その向かって右側の方です」
「そうですか。ちょっとおかしいな」
「え。な、何がですか」
 うろたえぶりが激しい早矢仕刑事。以前の事件で地天馬の探偵能力を目の当たりにし
たせいだろうか。
「紐を手に取るのに、金尾さんが歩いたルートでは、やや遠いように思える」
「何だ、そんなことですか。手を伸ばせば届かない距離じゃないでしょう。金尾夏江に
会えば分かりますが、背の高い、すらりとした美人ですよ。ああ、美人は余計でした
ね」
 安堵の息のあと、笑みを浮かべた早矢仕刑事。だがそれも束の間。
「何故、わざわざ手を伸ばしたのかな。ベランダのすぐ前まで近付いて、紐を取ればい
い」
「……なるほど。理屈だ」
 言いながら、首を捻った刑事。地天馬の見解に疑問があると言うよりも、認めたくな
かったのかもしれない。
「しかし、それだけでは覆せませんよ」
「でしょうね」
 地天馬は淡々と認めると、庭をぐるりと見渡した。
「話を先に進めますよ。塀越しに、道路からこちらに遺体を投げ込むことは、不可能で
すか」
 地天馬の問い掛けに、刑事は目を見開いた。だが、そんな驚きの表情はほんの一瞬
で、すぐに微笑を浮かべた。
「一応、警察でも考えましたよ。ダミー人形を使った実験では、よほどの怪力無双か、
あるいは重機を使うかでなければ無理との結論が出ました。機械の類を持ち込むと、近
隣で気付く人が大勢いていいはず。実際はそうでありませんでしたから」
「車高の高い、たとえば大型トラックやバスから遺体を投げ落とせば、届くのでは?」
「実験はしていませんが、そんな高さから落とせば、遺体に何らかのダメージが出ま
す。そのような報告は受けていません」
「ふむ。園舎内を通って、遺体をあの位置まで放るのも無理だろうな……。納得しまし
た。説明の続きを」
 地天馬に促された早矢仕刑事は、小さく咳払いをした。
「えー、先にも触れましたが、金尾夏江は江内を絞殺するのに充分な身長を持っていま
す。首にはほぼ平行に絞殺痕が残っており、身長の点で問題はありません。腕力の方
は、火事場の何とやらと言いますし」
「ちょっと待った。早矢仕さん、いちいちそんなことを断るからには、何かあるね。た
とえば……被害者の首が折れていた?」
「い、いえ。とんでもない。折れてはいません。わずかにひびが入った程度で、女性の
力でも充分ですよ」
「随分断定的だなあ。相手が無抵抗だったら、そうかもしれないが」
「その点はこれからお話しします。動機にも絡んでまして……さっきから、私、被害者
を呼び捨てにしてると思うんですが、江内っていう男は正直言って、いけ好かない野郎
なんですよ。金貸しというだけで悪徳のイメージがあるかもしれませんが、そういうん
じゃなく、女に手が早い。返済期限の延長を餌に、女をものにしてきたようなところが
あります」
 刑事の力説を聞いて、私はつい、聞いてみたくなった。
「被害者の年齢は割と行っていたんじゃなかったですか」
「今年で六十。周りの人間の噂によると、全く衰えていなかったようですよ。もうご想
像できてると思いますが、江内は金尾夏江を狙っていた。ここへの融資を続行し、返済
期限を延ばしてやる代わりに、自分のものになれっていうやつですね」
「草高幼稚園の経営は、そんなに苦しいんですか」
 私は幼稚園のあちこちを眺めながら、不思議に感じた。建物は多少老朽化しているよ
うだが、遊具は充実しているし、塀はまだ真新しい。全ては融資のおかげなのだろう
か。
「園長の……違った、事務長の草高均氏は他にもいくつか事業を手がけており、うち、
一つが江内金融に食い物にされている状態です」
「江内が死んだからと言って、借金がなくなる訳じゃないでしょう」
 私が指摘すると、早矢仕刑事からたしなめるような返答があった。
「ですから、江内の女癖の悪さが、本来の動機であると言ってるんですよ」
「それは分かりますが、ロープで殺すって言うのが、ぴんと来ない。計画殺人てことに
なる。これがたとえば、強引に言い寄られたのを拒絶した結果、突き飛ばして死なせて
しまったというような状況なら、まだ分からなくもないんですが」
「僕も同意見だ」
 地天馬が言った。彼と意見の一致を見ると、何故だか嬉しくなる。
「計画的犯行だとすれば、殺害場所に幼稚園を選ぶのは、論理的でない。真っ先に疑わ
れるし、園や子供達に多大な迷惑を及ぼす」
「ごもっとも」
 つぶやき、考え込む刑事。当初の自信が薄らぎつつあるのが見て取れた。
「でも、ですね。その考え方だと、幼稚園の職員は全員、犯人ではあり得なくなりま
す」
「悪徳金融業者を恨んでいるのは、草高幼稚園の人ばかりじゃないでしょう」
「もちろんですが、幼稚園の庭で死んだとなりますとねえ」
「幼稚園の関係者に容疑を向けさせるためかもしれない。江内と関係を持った女性が、
貸付先のリストを盗み見るか聞き出すくらいは、可能だと思いますね」
「あるかないかを論じれば、あるに振れるでしょう。だが警察は――私ごときが言うの
は口幅ったいですが――現実主義者です。最もありそうなことを真実として汲み取って
行く」
 論がかみ合わない。否、早矢仕刑事が故意に避けている。立場上、やむを得ないのだ
ろう。
「建物の中を見たら、ここは立ち去るとしよう」
 地天馬が言った。


――続く




#477/598 ●長編    *** コメント #476 ***
★タイトル (AZA     )  15/12/31  01:31  (413)
稚児の園殺人事件 2   永宮淳司
★内容
 園舎の内部は、いかにも園児達が喜びそうな飾り付けがされていた。折り紙や切り抜
きの動物が壁を飾り、天井から下がる音符のモールが揺れる。庭に面した大きなガラス
窓は、太陽の光を適度に取り入れ、教室を暖かくする。事件に関連しそうな代物は、ほ
とんどなかった。唯一、これら窓の施錠状態が問われたが、刑事によると、いずれもき
ちんと閉められていたらしい。玄関と勝手口も同様だった。
「これからお見せする資料に関しては、口外なしでお願いします」
 あらかじめ机上に用意されていたファイル群を示しながら、早矢仕刑事が釘を差す。
 捜査本部のある署に着くと、地天馬と私は小さな部屋に案内された。人目をはばかる
と言っては大げさになるが、あまり目立たないようにとの注意を事前に受け、どうやら
歓迎されていないらしいと分かる。
「約束を守るのは当然だ。ただし、警察の見解とは異なる真相があった場合、あなた方
警察がそれを隠そうとするのなら、僕も約束を守れない」
「……仕方ありませんね」
 早矢仕刑事は端からあきらめた風だった。地天馬のことをよく知っている。
「私一人が確約しても何の意味もないかもしれないが、真相が別のところにあるんだっ
たら、過ちを改めるにやぶさかでありません」
「OK。ご厚意に感謝します」
 地天馬と私は、一つ席を空けて、腰掛けた。真ん中に資料を置く。正面に早矢仕刑
事。
「全てをどうぞとお渡しできればいいんですが、上がよくない顔をして、ストップを掛
けられました。申し訳ありませんが、地天馬さんの方から要求をお出しください。応え
られる物だけ、お見せします」
「死亡推定時刻を」
「分かりました」
 ファイルを繰ろうとする刑事を、地天馬は手を挙げて止めた。
「覚えているのなら、口頭でかまわない。推定時刻に疑問があれば、報告書を見たいと
思う」
「そうですか。午前四時半から六時半までの二時間です。アリバイも言いましょうか」
「ほとんどの人には、アリバイがないんじゃないか?」
「はい。午前六時以降なら、はっきりしている人も何名かいますが、二時間丸まるとな
ると、誰もいません」
「誰もと言うからには、最初から金尾さんを犯人と決め付けていた訳じゃないようだ
ね」
 多少、皮肉の響きを帯びる地天馬の声。
「ええ、まあ。金尾夏江に重要参考人として来てもらった間に、他の人にも当たってみ
たという形を取りました」
「他の容疑者を列挙してもらえますか」
「容疑者というと語弊があるから、言うなれば関係者のリストになります。これはリス
トをお渡しした方が早いでしょう」
 早矢仕刑事は顔写真付きで手書きのメモをよこした。まさか、正規の印刷した資料は
持ち出し禁止で、特別に計らってくれたのだろうか。
 地天馬はそんなことに思いを巡らせる様子は微塵もなく、リストを受け取るや、目を
通し始める。私も横合いから覗き込んだ。
 トップは金尾夏江になっていた。弟とよく似た顔立ちの美人であるが、姉の方が積極
的な性格のように見えたのは、私の色眼鏡かもしれない。
 次に草高均。これまでに何度か耳にした、幼稚園の事務長で、オーナーでもある。小
太りで、福耳の持ち主。ただ、額に刻まれたしわは、苦労の多さを物語っているかのよ
うだ。
 以降三名は、草高幼稚園の職員が続く。阪口伸吾は園長で、五十キロを切るほどの体
躯に加え、その優男の風の容貌は一見頼りないが、腕力は強い。唯一の男手でもあり、
力仕事全般は彼の受け持ちだそうだ。早矢仕刑事も実際に会って、逆三角形の見事な肉
体を目の当たりにし、驚いたという。
 原田世津子は大柄の、肝っ玉母さんのイメージをそのまま具現化したような体格、笑
顔を持っているとのこと。ふくよかでよく笑う、大きな声の持ち主。
 大家心は原田とは対照的に、小柄で細身の女性。体重は四十キロちょうどぐらいで、
力仕事はもちろん、激しい運動も付いていくのが辛いほどスタミナがないが、子供の受
けはよいらしい。
「幼稚園の教職員の中で、死んだ社長に言い寄られていたのは、金尾夏江だけだったん
ですか」
 リストの途中で、地天馬が早矢仕に聞いた。
「いえいえ。江内の奴は女の好みの幅が広かったようで、全員に、その、穏やかな表現
を使えば、アプローチしていた、と。その中で本命が、金尾だったというのが背景で
す。ああ、全員拒絶していたのは言うまでもありません」
 リストの続きに戻ると、幼稚園関係者は終わって、三河章太郎という五十五の男性の
名があった。玩具店経営とあるから、店主なのだろう。江内に多額の借金があって、ト
ラブルになっていた一人。椎間板ヘルニアの手術を経て足腰を悪くし、杖を手放せない
身体になったのが商売に響き、返済に苦しんでいたようだ。早矢仕刑事の補足説明によ
ると、最近では食事も喉に通らないほど悩んでおり、体重が五十キロを切ったという。
彼が特に名前を挙げられたのは、草高幼稚園の近所に店を構えているとの理由からであ
った。
 江内の妻、江内美子も挙がっていた。言い方はよくないかもしれないが、でっぷりと
太って装飾品をやたらと着けた、成金の典型のような身なりをしている。夫の会社の副
社長に収まっており、実際にも事務的な仕事をこなしてはいるらしい。時折、夫と不仲
になることもあるようだが、殺意に結び付くほどなのか不明。ただ、江内の死で美子が
遺産を手に入れられるのは間違いない。
 最後にあったのは、手塚理緒奈という二十七になる元モデルにして、江内の秘書。も
っとも、秘書とは名ばかりで、愛人であるとの話だ。元モデルだけあって、きれいなな
りをしているが、私個人の感想を述べるなら、癖のある美人といったところか。
「この注釈の、ビニール・ゴム製品にアレルギーありというのは?」
 気になる書き込みを見付け、私は早矢仕刑事に尋ねた。
「手塚は一部の石油製品アレルギーで、少しでも触れると、その肌がかぶれたように赤
くなるんだそうです。私は見ていませんが、寝不足だったり、体調を崩していたりする
と、特に過敏になるそうで。彼女がモデルをやめた理由の一つは、これがあったみたい
ですね。水着や服の材質をいちいちチェックしなければいけないモデルとなると、使う
側が嫌うようです」
「なるほど。江内の秘書という役割は、いい居場所を見つけたつもりだったのかもしれ
ませんね。これからどうするんだろ」
 他人事ながら詮索してしまう。事件に話を戻そう。
 美子が江内と手塚の仲を知っていたかどうかは定かでない。ただ、美子も手塚も、江
内の女好きの性癖をよく知っていた。
「繰り返しになりますが、全員、アリバイなしです」
「殺されるまでの被害者の行動を、判明している範囲で教えてもらえますか」
「午前一時過ぎまでは、はっきりしています。十時過ぎからずっと、知り合いのバーだ
かキャバレーだかで、大勢と飲み明かしていた。あっ、店は閉めて、個人的な付き合い
で飲んでいたとの話です。手塚が午前〇時まで付き合っており、それ以降も多くの証人
がいます。それからタクシーで自宅に戻り、四時半頃まで仮眠。これは妻の証言しかあ
りませんし、当の美子も夫の帰りを出迎えただけで、すぐにベッドに潜り込んだと証言
しています」
「四時半まで寝ていたというのは、どうして分かるんです?」
 当然の疑問を呈す地天馬。
「仮眠を取る場合、三時間であることが常だったから、と美子は言っています。帰宅が
一時半ぐらいだったそうで」
「ふん。確実ではないと」
「そうなります。で、このあと、午前七時に出勤してきた金尾夏江に“発見”されるま
で、全くの不明。何故、朝早くから幼稚園に向かったのかも、はっきりしない。恐ら
く、金尾夏江の甘言に、ほいほいと出て行ったのだろうというのが、捜査本部の読みで
すが……地天馬さんは気に入らないでしょうね」
「金尾夏江の名をかたった手紙で呼び出された可能性はあるんじゃないですか」
「別人が金尾のふりをして江内を呼び出し、これを殺害したと」
「江内が金尾に相当入れ込んでなければ、成り立ちませんがね」
「ええ、ええ、それはありですよ。江内が金尾夏江に執着していたのは間違いない事実
ですから」
「要するに、早矢仕刑事。真犯人を捕まえなくとも、足跡の疑問を解き明かせば、彼女
への疑いは晴れる。違うかな?」
「……足跡が強力な決め手なのは、その通りですが……」
「ひっくり返して見せましょう」
 断言した地天馬。早矢仕刑事はその言葉を待っていたかのように、「ぜひ、やっても
らいましょうか」と即座に応じた。挑戦的な台詞に聞こえたが、その直後、頭を下げる
早矢仕。
「誤りがあるのなら、早めに正さねばならない。これが私の本心です。お願いします
よ、地天馬さん」
 これには地天馬も激しい反応を示した。楽しげに手を叩くと、演説口調で一気に喋
る。
「ああ。素晴らしいね、早矢仕さん! 僕の事務所に近所に引っ越してきてもらいたい
くらいだ。転勤の予定は?」
「さ、さあ? 人事のことは分かりません……」
「そうですか、残念。もしもこちらへの転勤が決まったら、知らせてほしい。よければ
歓迎会を開こう」
「はあ……」
「さて、早矢仕刑事。現場で撮った写真――足跡の写真をここへ」
 自分の前の机を、指で叩いた地天馬。早矢仕刑事は準備していたのだろう、数葉の写
真を手早く取り出し、置いた。靴の裏の模様が地面にくっきりと刻まれており、よく分
かる。
「全体を色々な確度から収めた物と、個別に足跡を撮った物、それに遺体の周りの物で
す。足跡を一つずつ接写した物もあるにはあるのですが、ここへは持ち出してきていま
せん」
「ふん。必要が生じれば頼みますよ」
 そう応えた地天馬は、早くも写真に鋭い視線を投げかけている。
「遺体のすぐそばに乱れた足跡がいくつかあるのが見えると思いますが、それは江内の
足跡です。絞殺される際に、抵抗したんでしょう」
 早矢仕の示唆に、地天馬は生返事をし、やおら質問を発した。
「意外に硬そうな地面だ。もっとぐちゃぐちゃにぬかるんだのかと思っていましたよ」
「あそこの庭の土は元々硬いんです。畑の土みたいに柔らかい物だと、子供が転んでも
安全は安全でしょうが、それでは幼稚園の外の生活において、かえって子供を危険にさ
らすという考え方だそうで。普段から、転ぶと痛いものだと教えてこそ意味があると
か」
「なるほど、結構なことです。それで、遺体発見時の地面の具合は、どうだったんで
す?」
「どうと言われても、写真にあるように……小さな水たまりがそこここにできて、全体
にじっとりと湿った感じの地面ですよ。確かに泥と呼ぶのは無理があるかもしれません
が、靴で歩けば重みでへこみ、足跡は鮮明に着く」
「おおよそ分かりました。いいでしょう。当夜、雨は何時に上がったんですか」
「午前四時十分となっています」
「ふうん。案外、犯行推定時刻に近いな。――この小さな穴は、傘の先で突いた痕跡か
な」
 地天馬が写真の表を刑事に向け、一点を指差す。刑事は身を乗り出し、目を近付け
た。
「ああ、そのようですね。杖代わりに使ったのかな。結構、数が多い……」
「被害者は傘を?」
「ええと。持って来ていなかった、ですね。自宅を車で出た江内は、十五分ほど要して
幼稚園の近くまで行き、そこから三分ほど徒歩だったようです。そう、思い出したぞ。
車の中には置き傘がありましたが、濡れていませんでしたよ」
「四時半頃に出掛けたのだとしたら、雨は上がっているから、話は合う。となると、こ
の傘の跡は犯人の物と見ていいでしょうね」
「はあ、そうなります。しかし、そんなに重要ですか?」
「犯人は午前三時五十分までに、幼稚園に姿を見せた可能性が高いと言える」
「地天馬さん、それは理屈ですが、絶対とは言い切れません。空模様を見て、ひょっと
したらまた降り出すかと考え、念のために傘を持って出たのかもしれない」
「素晴らしいね、早矢仕刑事。ますます気に入ったよ」
 嬉しそうに手もみする地天馬。
「ここで雨は一時的に忘れましょう。あなたは犯人が傘を持っていったと認めるんです
ね?」
「ん? ええ、もちろんです」
「先ほど、杖代わりに使ったのではと推測した。これも認める?」
「はい。確かにそう言いました」
「では、あなた方警察が犯人だと想定する金尾夏江の足跡の、すぐそばに傘の先で突い
た痕跡が全く見当たらないのは、どういう理由からでしょう?」
「え?」
 虚を突かれた様子の早矢仕刑事は、首を前に突き出した。唇をなめ、しばし考慮を重
ねた。
「それは……傘を差していたんでしょう。ああ、前言撤回だ。雨が降っているときに、
金尾は現場まで来た。これに変更します。これなら傘の跡は着かない」
「そう。そして、足跡も残らない」
「あ」
 思わず出たのだろう、舌打ちの音がした。早矢仕刑事は何度も首を傾げ、再び沈思黙
考が始まる。一分近く待たされただろうか。
「こういうのはどうでしょう? 金尾夏江は雨が降っているときに現場に来て、江内を
待った。途中、雨が止んだので傘を閉じ、杖代わりにして立っていた。そして江内が到
着し、犯行に至った。その後、門のところまで、後ろ向きに歩いていった」
「何のためにそんなことを?」
「自分が善意の第一発見者であるかのごとく見せかけるため、足跡を残す……あっ、だ
めですね。これだと、金尾自身が遺体のそばに居られない」
「その通り。この写真を見ると、一度着けた足跡を上からまた踏んでごまかした様子も
ない」
「困ったな。じゃあ……」
 つぶやいたきり、あとが続かない。名案は浮かばないようだ。
「もう一度、現場に戻ろう。一つ、実験を行いたい」
 地天馬が突然そう切り出した。
「も、もしや、足跡を着けない方法を思い付かれたんで?」
「大層な方法ではないけどね」
 地天馬は自信ありげに言うと、私に目配せしてきた。

「犯人は恐らく、午前四時にここで江内省三と出会う約束を取り付けたんでしょう。少
なくとも、江内を呼び出すことに自信があった」
 地天馬は手を広げ、高草幼稚園の庭全体を示した。彼が立つ場所は、ちょうど遺体が
あった付近だ。
 その庭は、水浸しになっていた。事務長に電話で断りを入れ、外付けの水道からホー
スを使って庭に水撒きをしたのである。事件当日の状況になるべく近付けるためである
ことは、言うまでもない。
「犯人は約束の十分前までに着いていた。始めから江内殺害しか頭になかった犯人は、
洗濯用のロープをベランダの柵から外した。傘を差して待っていると、しばらくして雨
が上がる。閉じた傘の先が、地面に小さな穴をいくつか作った。約束の時刻に遅れるこ
と五十分、江内が現れた」
「五十分も待つものか? いくら殺意を抱いていたとしても」
 私はつい、口を挟んでしまった。地天馬は嫌な顔一つせず、また言い淀むこともなく
応えた。
「約束の時刻が四時だとか、江内が四時半まで寝ていたというのは、あくまでも仮定だ
ということを忘れないでくれ。五十分という時間も不正確だ。ただ、真相に与える影響
はないと信じる」
「うん、飲み込めたよ。話の腰を折って悪かった。続けてくれ」
「江内は犯人に対して油断があったのだろう。アルコールがまだ残っていたのかもしれ
ないな。犯人に不用意に近寄り、あっさり絞め殺された。犯人は逃走する段階に至り、
困惑することになる。このまま門から出るには、足跡を庭に残してしまう」
 地天馬は塀の方を見やった。
「自殺に偽装したい訳ではないんだから、足跡を消しながら逃げるとか、足跡がはっき
り残らないようにすり足で逃げるとか、あるいは自分の靴を手に持ち、裸足になって逃
げる、被害者の靴を奪って逃げる等、色々な方法が考えられる。だが、犯人はそうしな
かった。多分、パニックになっていたんだと想像するよ。足跡を着けてはいけない、と
思い込んでしまったんだ。
 足跡を着けずに逃げるにはどうすればいいか。ジャンプ一番、塀を飛び越え、道路や
隣の家に逃げるのは無理がある。何しろ、塀プラス生垣の幅があるからね。雨上がりの
地面は滑るため、なおさらだ。
 同じジャンプをするのなら、ベランダに飛び移る方がまだ可能性がありそうだが、窓
の鍵が掛かっており、ガラスが割られた形跡もない。午前四時半から五時と言ったら、
微妙な時間帯だ。大きな音を立てたくなかったのかもしれない。とにかく、犯人はこの
手段も選択しなかった。
 犯人が選択したのは――それだと思う」
 地天馬は腕を真っ直ぐに伸ばし、我々のいる方角を差し示した。
「何のことだい、地天馬?」
「君の左側にある、ブランコの上に載っている物さ」
「うん? ビニールブロックしかないが」
「それだよ。一旦外に回って、持って来てくれないか。塀越しに渡してくれればいい」
 使うのなら、水を撒く前に持って行けばいいじゃないかと思った。そしてその不満を
口に出すと、地天馬は苦笑顔を横に振った。
「だめなんだ。事件後、ブロック三個がその箱型ブランコの上に移動してあったことを
確かめてもらいたかったのだ」
「移動? どこからどこへ?」
「そのブロックは元は、こっちのブランコのために使われていたんじゃないか。そう考
えるのが自然だろう」
 地天馬は、二連の一人乗りブランコへ顎を振った。早矢仕刑事が察しよく反応を返
す。
「言われてみれば、そっちのブランコも箱型と同じように針金で固定されているのに、
ビニールブロックを下に挟んでいませんね」
 私も幸治少年の話を思い出した。
「箱型の方は、ビニールブロックが多すぎるな。下に詰めるだけでいいのが、ブランコ
そのものに三つ載せてある」
「恐らく、こちらのブランコにあった物を引っ張り出し、運んだんだよ」
 地天馬の言葉に、私がビニールブロックに手を伸ばそうとしたとき、刑事から肩越し
に鋭い声をかけられた。
「ああ、待ってください! 犯行に関わっているのなら、指紋が出るかもしれない」
「いや、時間が経ちすぎている。事件以後、何人もの手が触れているでしょう」
 地天馬が大声で言った。刑事は「それもそうか」とつぶやく。
「早矢仕刑事。日本の警察は優秀だから、きっと最初の現場検証のときに調べている
さ。それに、指紋に過度の期待をしない方がいい。仮に幼稚園の関係者が犯人なら、完
璧な物証にはならない。追い詰める材料にはなるがね」
「はあ。確かにそのようで……」
 私は一応、刑事の承諾をもらい、ブロック三個を抱えた。いずれも空気を入れ直した
のか、焼き立てのパンみたいに膨らんでいる。
 慎重な足取りで門から道路へ出、前方を注意しながら進む。もうじき塀が途切れると
いう地点で、ようやく地天馬の姿を右隣に捉えた。ブロックを放ると、生垣と塀を越え
て、相手の足下に転がった。
「犯人は忍者の気分だったかもしれないな。地面を水に、ビニールブロックを水蜘蛛に
見立てた」
「忍者?」
「冗談だよ。うん、ちょうどいい大きさだ」
 ブロックの一つを手に取り、ぽんぽんと音を立てながら、回す。そしておもむろに、
地面に設置した。地天馬はそれを片足でしばらく強く踏みつけ、すぐまた持ち上げた。
「――よし。これを見てください」
 手招きをして早矢仕刑事も呼ぶ地天馬。刑事は少し迷ったあと、「足跡を着けてもか
まいませんか?」と聞き返した。
「端を通るのなら。そう、道路寄りに」
 それならばと、私も引き返し、早矢仕刑事のあとに続いて、庭を横切り、地天馬のそ
ばまでやって来た。
「ブロックを置いた跡だとは、一見、分からないでしょう?」
 地天馬は再び自分の足下を指差した。私は目を凝らし、感想を述べる。
「跡……本当だ。全然、分からない」
「うむ。わずかに、角の線がある。薄い上に、途切れ途切れで、これは分からないのと
一緒だ」
 早矢仕刑事も納得した風に言い、顎を撫でている。彼は顔を起こすと、地天馬に尋ね
た。
「もしや、そのブロック三つを順繰りに使って、犯人は足跡を着けずに門まで移動でき
た?」
「まず、このブランコの下にビニールブロックを挟んであったかどうかを、幼稚園の誰
かに確認してください。もしブロックの移動が、事件を挟んで密かに行われたのだとし
たら、犯人が使ったとしか考えられない」
 早矢仕刑事は承知すると、連絡を取るべく、外に出て行った。
「地天馬。よく思い付いたなあ。自分は全く見落としていたよ」
「まだ実験していないんだぜ。これが正解とは限らない。いや、実験が成功しても正解
とは言い切れないが」
「そうだな。刑事が戻ってくるまでに、実験しておこうか」
 私はそう言うと、ブロックを三つ集め、長い辺が自分の正面に来るように、手前に並
べていった。カラフルなビニールの橋ができる。地天馬自身がやるとはとても思えない
ので、自ら右足を乗せた。
「この上を歩き、通り過ぎたブロックを前に置いて行けばいいんだな。……おっと」
 右足に力を入れ、左足を地面から離す。ぐらついた。慌てて左足を戻す。
「靴を履いたままじゃあ、難しいようだ」
 地天馬に言い、私は革靴を脱いだ。ブロックの表面がすでに汚れているため、靴下は
どうしようかと思案していると、地天馬が何故か異論を唱えた。
「靴を履いてくれたまえ」
「どうして?」
「僕が支えるから、ブロックの上に両足で立ってみてくれないか」
「それでいいのなら、そうするよ」
 靴を履き直した私は地天馬の手を借り、一つ目のブロックの上に立った。支えてもら
っているにも関わらず、やけに揺れる。ビニール面が沈み、バランスを取るのが難し
い。
「手を離すと、転んでしまうな」
 地天馬の手のひらにも汗が滲んでいるようだ。いや、これは私の汗だろうか。
「ああ。四つん這いで行くか? 服が汚れるが仕方ない」
 しゃがみたい一心で提案してみた。
「頼む」
 地天馬の手を頼ったまま、腰を折り、膝をつく。不安定極まりない。両手を三つ目の
ブロックの上に置いたが、揺れは収まらなかった。
 さらに、私はここまでやってから、重大なことに気が付いた。
「地天馬。これだと、前進のしようがないぞ。三つのブロックに乗るので精一杯だ!」
「そのようだ。まさかブロックを縦に並べた訳でもあるまい。幅が狭すぎる」
 再考を迫られ、黙してしまった地天馬。私はふらつきながらも地面に降り立ち、汚れ
を手で払った。
 早矢仕刑事が引き返してきたのは、ちょうどこのタイミングだった。
「地天馬さん、当たりですよ! 三つのビニールブロック、奥のブランコの下にあった
んだそうです!」

「結局、体重が要だった」
 地天馬が確信溢れる口調で始めた。
「その後の検証により、五十キログラム未満の人ならば、ビニールブロックの上を楽に
渡れると分かった。これ以上だと、ビニール表面の張力の関係で、足が深く沈みすぎ、
どうしても無理だ」
「五十キロない人が犯人と?」
 立ったまま喋る地天馬と相対する形で、幸治少年はパイプ椅子に肩をすぼめるように
して収まっていた。
「だけど、それだけで犯人だと決め付けるには、無理があるような気もします。多分、
五十キロない人なんて、幼稚園に関わりのある人の中に大勢います」
「その通りだ。僕は、足跡を着けずに現場から脱出する方法を示しただけに過ぎない。
とにかく、該当者を挙げてみるとしよう」
 警察が調べ上げた関係者の中で、体重五十キログラム未満に当てはまるのは、大家
心、阪口伸吾、三河章太郎、手塚理緒奈の四名。
「この中で、大家さんは身長が低く、江内を絞殺したとすると、首には下向きの痕が着
く。実際の絞殺痕はそうではなく、ほぼ平行だった」
「……」
「念のために説明を加えると、相手の後ろから首にロープを巻き、犯人は被害者と背中
合わせになる格好で身体を背負う、いわゆる地蔵背負いというやり方ならば、身長に関
係なく、首に平行もしくは上向きの絞殺痕を残すことはできる。ただし、これには相当
の力が必要だ。小柄で細身の大家さんの体力では無理だと断定せざるを得ない。
 その点、同じ女性でも手塚理緒奈さんなら、背が高く、わざわざ背負わなくても要件
を満たす。ところがこの人は、ビニール製品にアレルギー症状を持っていると聞いた。
ビニールブロックでアレルギーが出るかどうかは、触れてみなければ分からないもの
の、そんなリスクを背負ってまで、ブロックによる足跡隠しを実行するとは考えられな
い」
「いよいよ二人に絞られましたね」
「もう長くはない。残る二名の内、三河さんは手術の後遺症により、足腰の調子が万全
でない。歩くにも杖を必要とするため、ブロックの上に乗るだけでも一苦労だろう。よ
って彼も除外できる」
「とうとう最後の一人ですか」
 少年の嬉しそうなつぶやきに、地天馬は黙って首を縦に一度だけ振った。
「ここで視点を変えてみるとしよう。江内が幼稚園に呼び出された正確な時刻は分から
ないが、午前四時から六時と見ていい。そんな早い時刻にのこのこ出て行ったのは、夏
江さんの名前で誘われたからだ。一方、地面に残る足跡と傘の先の痕跡から、犯人は江
内よりも先に現場に着いて、待っていたと推測できる。
 薄暗い早朝、幼稚園の庭の片隅に、犯人の姿を認めた江内の心理を考えてみよう。も
しそこにいるのが、阪口さんのような筋骨隆々とした背の高い男性であれば、近付きは
しまい。門のところを左に曲がって、シルエットを見ただけで分かるはず。『誰だ、貴
様は!』ぐらいのことは叫んでも、正体不明の相手にわざわざ近寄るのは愚行だ。
 にも関わらず、現実に近付いている。それは江内にとって、待っていたのが女性に見
えたからだ」
「女性? じゃあ、最後に残った一人も」
「阪口さんも犯人ではない。これでは、容疑者がいなくなってしまう。不思議なようだ
が、あと一人、関係者がいたのを思い出した。それが、君だよ」
 地天馬は無感情な口ぶりで、相手を視線で射抜いた。
「僕、ですか」
「体重を教えてくれるかな」
「え、それは、確かに、五十キロないです。四十五キロぐらいですが」
 少年の声は裏返っていた。名探偵から名指しをされ、すでに精神状態は恐慌を来た
し、耐え切れなくなったに違いない。
「僕は、でも」
 そう言った切り、口をぱくぱくと動かすだけで、小刻みに震え始めた。特に、机に置
いた腕の揺れが激しくて、机自体が乾いた音を立て始める。
「幸治君。確認したいことが数多くあるんだが、僕はもうお別れしなくちゃならないよ
うだ。警察には君自身の意志で行くんだ。付き添ってくれと言うのならそうしよう」
 金尾幸治はうなだれたまま、ゆっくりと席を立った。
 が、すぐにまたへたり込み、泣き始めた。

 以下は付け足しに過ぎない。
 地天馬の推理によって見つかった真相は、すべて早矢仕刑事の手柄になるはずだった
が、そうはならなかった。早矢仕刑事が幸治少年の自首を認めたためだ。早矢仕刑事は
事前に地天馬の推理を聞き、さらには地天馬の話を幸治少年が聞く場にも、密かに居合
わせたにも関わらず、である。
 今度の事件でよかったことは、早矢仕刑事との再会だけだったと、地天馬は言った。
 幸治少年なら髪型さえ似せれば、姉の夏江になりすませる。身長も体重も、犯人像に
合致する。何よりも、強い動機がある。
 事件前夜、姉のアパートに泊まった幸治は、姉からことの次第を聞き出していた。そ
して、土曜早朝に幼稚園で江内社長と会う約束をしたことも聞いた。金尾は眠れぬ夜を
過ごし、その時間が彼に決意を固めさせた。姉の代わりに幼稚園に行き、江内を殺そ
う、と。
 やはり夜遅くまで眠れずにいた姉の前に起きてきた少年は、喉が渇いたと言って、二
人でジュースを飲んだ。そのとき、姉のグラスに風邪薬を多めに投じた。その効き目が
出たのかどうか、夏江は眠りについたが、それだけでは安心できず、目覚まし時計の時
刻も大幅にずらした。
 それから少年は、姉のかつらを探し出し、被った。さらに、姉がよく着るという赤の
ジャージの上下を着込み、姉になりすました。薄暗い中、脳内を妄想でいっぱいにした
江内の目をごまかすには、これで充分だったようだ。
 夏江が弟の犯行を知っていたのか、あるいはそれとなく感づいていたのかは、誰にも
分からない。

――終




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