AWC ペトロの船出 <上>   永山



#470/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/06/30  20:44  (297)
ペトロの船出 <上>   永山
★内容
 事件は拳銃自殺で片が付く気配が濃かった。
 食品会社社長の男、ノッド・シャウスキーは、社長室のデスクにでんと収ま
ったまま、こめかみから血を流して死んでいた。遺書こそなかったが、自ら命
を絶つ理由は、誰もが推測できた。老舗の菓子メーカーは、二代目となるシャ
ウスキーが継いだあとも好業績を維持していたが、ここ一年で、製品への異物
混入問題を発端に、材料に関する虚偽や疑惑まで持ち上がり、経営状態は一気
に悪化していた。責任は、対応を誤った社長にあるとの見方が、世間一般に広
まった。その矢先の死。捜査員達が自殺を念頭に置くのは、当然だろう。
 それだけではない。遺体発見当日――それはノッド・シャウスキーが死んだ
日でもある――、社長室に出入りした者は一人しかいない。社長自身である。
社長室に通じる小部屋で受付をこなす秘書および守衛それぞれの証言に、食い
違いはなかった。午前十時ちょうどに社長室にシャウスキーが入ってから、正
午半過ぎに遺体となって発見されるまで、誰も訪れなかったし、誰も出て来な
かった、と。
 しかし――サン・ルバルカンは殺人現場を十分程度観察しただけで、いきな
り言った。
「今日、この部屋にノッド・シャウスキー以外の誰も足を踏み入れていないと
いうのは、疑わしい」
「……まさか、自殺ではないと? 何を根拠に、そう考えるんだね」
 ブラウベ・フィエリオが、鼻の下の立派な髭をしごきながら問うた。肩幅が
広く背の高い彼は、貫禄充分な地元警察の署長である。国王ワムズ・フィエリ
オの近親者で、王からも民からも信頼が厚い。いずれ警察のトップに立つ人物
と目されている。そのブラウベ署長が、民間の探偵であるサン・ルバルカンを、
捜査の現場に立ち会わせるのは、署長がルバルカンの能力を買ってるためだ。
難事件や世間への影響が大きい事件には、ときに部署の領域を超えてでも、ル
バルカンを介入させるほどだ。
 そんなブラウベ署長も、今回は形ばかりの名探偵出馬になるはずと思ってい
たに違いない。ルバルカンが疑問を呈したことに、意外感を隠さず、目を何度
もしばたたかせている。
「シャウスキー社長は、自社製品のキャンディ『フェアリナス』が大好物で、
日頃からよく口にしていたと聞いたので」
「ああ、それは事実だ。いくら食べても健康を保っていられるというアピール
でもあったようだが、日に二、三十個は食べていたらしいね。それがどうかし
たのかな」
「デスクのすぐそばにあるごみ箱に、フェアリナスの個包装が、いくつも捨て
てある。掃除は毎日終業後に行われているというから、ここに入っている分は
全て今日食べたと見なせる。ところで、私は面白くも興味深い点に気が付きま
した。この十はありそうな包装の一つだけが、他と違うことに」
 言いながら、デスクに新聞紙を広げ、その上にごみを撒くルバルカン。キャ
ンディの個包装以外には、何もない。
「違いがあると言われても、分からん。私には、どれも同じキャンディの包み
紙に見えるね」
「署長、紙ではありません、個包装です」
「ふむ。それが重要なことなのかね?」
「間接的には。恐らく、包み紙であったならば、個体差は出なかった可能性が
高い」
「個体差……もしかすると、破き方が違うと言うのですか」
 少し興奮したように、署長が言った。彼もなかなか察しがよい。
「はい。今数えたところ、開封済みの個包装は、十一あります。その内の十ま
では、包装の右もしくは左肩を捻るようにして破いてある。ところが、残る一
つは、そうじゃない。丁寧に、両サイドから引っ張るようにして、開封されて
いる」
 なるほど、ルバルカンの言葉の通りだ。彼が指で示した“例外”の個包装は、
袋の形状を保っている。
「これは興味深い。シャウスキーがこれ一つだけ、丁寧に開けるとは考えにく
いという理屈だね」
「ええ。これが逆だったなら、まだあり得るかもしれません。普段は丁寧に開
けている人が、何かのきっかけで乱暴に開ける可能性は充分にある。しかし、
普段、適当に開けている人が、丁寧に開けるようなことはまずないでしょう。
特に、会社や自身の進退問題に頭を痛めている人物が」
「なるほど。ということは、部屋に入った人物がおり、そいつがシャウスキー
を自殺に見せ掛けて殺した、という目が生じる。犯人は社長を油断させるため
か、シャウスキーに勧められるままキャンディをもらい、いつものように丁寧
に開けた。そのごみはシャウスキーが受け取って捨てたか、犯人自身の手で捨
てられたかは分からないが、とにかくごみ箱に捨てられた。その後、訪問者は
犯行を成し遂げ、遺体の状況を自殺らしく偽装したが、ごみにまでは注意が行
き届かなかった……」
「無論、他のケースも想定はできます。たまたま、昨日の来客の中に、丁寧に
開封した者がおり、しかもたまたま掃除に手抜かりがあって残ったのかもしれ
ない。シャウスキー社長が自殺前に神妙な心持ちになって、人生最後のキャン
ディを丁寧に開けて味わったのかもしれない。偶然にも、中身の入っていない、
片方の口が開いた個包装だけの不良品が社長のキャンディに紛れ込み、それを
手に取った社長がごみ箱に捨てただけかもしれない」
「いずれも、蓋然性は低い。本件は殺人で、丁寧に開けられた個包装は、犯人
の遺留品であると見なす方が、ずっと理に適っているね。すると、秘書と守衛
の証言はどうなるんだろう? 怪しむべきは彼らと言うことかな」
「現時点で殺人犯であると断定できないまでも、何らかの理由で二人が揃って
嘘の証言をしたのは確かだと考えます」
「私も同意する。――よし、二人から改めて話を聴くんだ。今度は少々、厳し
くな」
 部下に命を飛ばすブラウベ署長。個包装を詳細に調べるようにとも告げた。
「今日のところは、これで私の役目も終わりということで」
 ルバルカンは署長に対しそう言うと、コートの両サイドにあるポケットに手
を突っ込み、首をすくめるようにして出て行こうとする。
「うむ、ありがとう。今回も助けられたよ。礼を弾むように言っておくので、
遠慮せずに受け取ってくれたまえ」
「それはどうも。ただ、報酬は結果が出てからでかまいやしません」
 ぼそぼそ声で応じて、退出して行く。謎が解けると、この名探偵は途端にぼ
んやりして、覇気をなくす傾向がある。見た目まで変わるはずはないのだが、
鼻筋の通った二枚目の青年から、老成した中年男にランクダウンするような雰
囲気さえあった。
「また何かあったら、頼むことになるが、いいかね」
 署長が一際大きな声を張り上げ、尋ねると、ルバルカンも疲労感のまとわり
ついた声ではあったが、「そんな大事件が起きないことを願う立場でしょう、
私もブラウベ署長も」と返事した。

 名探偵や優秀な警察署長の願いも虚しく、大事件はまた起きた。
 しかも、それはルバルカンにとって、今までに解決してきた数々の事件とは
様相を異にする、特殊なケースであった。
「――だから、何度も言っているように、私はやっていない」
 サン・ルバルカンは、机を挟み、刑事に訴えた。取調室は充分に広く、直接
聴取する刑事が二人に加え、記録役が少し離れた小机でタイプを打つ。
「最低限、状況を教えてもらえぬ限り、それしか言いようがない」
「ほう、そうですか。あなたのような名探偵の頭脳を持ってしても、この嫌疑
は晴らせぬと」
 取り調べを主導する古株刑事の名は、アブドレ・コンチオーネという。ルバ
ルカンも同じ捜査に加わったことがあるが、その当時から嫌われてた節がある。
コンチオーネは受け持つ地域は離れているが、ブラウベ・フィエリオとも面識
があり、両者はそりが合わぬ訳ではない。ただ、民間人を捜査に加わらせるこ
とについては、前々から反発していた。
「いつものように、捜査に立ち会わせてもらえるのであれば、私への疑いを晴
らし、真実を掴めるかもしれない。現状では無理だと言っている」
「容疑者であるあなたに、そんな便宜を図れるはずがない。少なくとも、私の
一存ではな。ブラウベ・フィエリオ署長を呼んでやろうか」
「……ブラウベ署長に、こちらから連絡を取るつもりはない。迷惑を掛けるこ
とになる」
「立派な心がけだ。ま、この件があの人の耳に入るのも時間の問題だろう。だ
が、そのときまでは、私流のやり方で通させてもらう。あとで告げ口でも何で
もしてくれ」
「……それが職務と信じているのなら、仕方がない。私は告げ口などしないよ」
「ますます結構。だいたい、事件の概要を知れば、署長だって匙を投げるはず
だ。ルバルカン、あんたの置かれた立場は、殺人犯以外の何ものでもない」
 コンチオーネの言葉が荒っぽさを帯び出した。
 ただ、公平に言って、彼の主張にはうなずけるところがあった。
 被害者はアニータ・ヨーステットという女性で、サン・ルバルカンの元助手
にして元妻でもある。離婚は四年ほど前で、二人の間に子供はない。ルバルカ
ンが今の職業を続ける限り、家族を危険に晒すとの理由で別れたとされる。離
婚後も交流は僅かながらあったが、ほとんどは葉書のやり取りで、顔を合わせ
ることは年に一度もなかったという。
 そんな関係だから、殺人の動機があるとは言い切れないのだが、遺体の発見
されたときの状況が、ルバルカンにとって不利に働いた。
 何せ、ルバルカンは元妻の遺体の横で、目覚めたのだから。彼自身の証言に
寄れば、夏の休暇を取り、避暑地の別荘を借りて十日ほどを過ごす予定を立て
た。同行者なし、一人で骨休めするつもりだった。避暑地に着いてから、同じ
ように休暇を楽しむ人々と言葉を交わすことはあっても、さほど深く知り合う
訳でもなく、のんびりとすごしていた。が、四日目の朝、事件が起きた。目覚
めたとき、ベッドのすぐ横の床に、アニータが俯せに倒れ、絶命していたとい
う。
 死因は分からなかったが、彼女の死亡を確認したルバルカンは、冷静に振る
舞った。まず、現地の警察に通報をしようとしたが、外界との接触を断つため、
わざわざ電話のない別荘を選んだことを思い出す。外に出て車を拾うか、近所
の別荘に電話があるのなら、借りるとしよう。そこまで考え、行動を起こし始
めたとき、ルバルカンは異変に気付いた。
 別荘全体が密室になっている?
 ドアといい窓といい、別荘内と外とをつなぐあらゆる出入り口が、内側から
ロックされていたのだ。借りる手続きをした際に渡されたキーは、二本とも手
元にある。簡単には複製できない代物だと聞いたし、そもそもキーホルダーか
ら外されたような痕跡は見当たらなかった。
 ここでルバルカンが狡賢く、どこか一箇所でいいから鍵を開けておけば、彼
が殺人容疑で即座に逮捕されることはなかったかもしれない。それだけの事件
解決実績が、彼にはあった。
 だがしかし、名探偵は――本人の主張を信じるなら――飽くまで正義の人で
あり、現場保存に努めた。
 ともかく、ルバルカンの通報により、アニータ殺しの捜査が始まった。
 警察は現場が密室状態であることをいち早く確かめ、引き留めておいたルバ
ルカンを、限りなく犯人に近い重要参考人と見なし、事情聴取に取り掛かった。
 ルバルカンは、短期間の内に合鍵が作成された可能性を指摘したが、警察の
捜査ではそれらしき鍵を持ち込んだ者は、近隣の業者にはいなかった。
「そもそも、あんたは前夜、寝床に入る前に、戸締まりをしっかりしたんだろ
う? 合鍵を作ろうにも、まず鍵を手に入れるのが大変じゃないか。戸締まり
をものともしない輩が犯人なら、合鍵を作る必要もないだろうしな」
「ピッキングで開けたのかもしれない」
「それはない。名探偵なら知っての通り、鍵穴の内部に傷一つ、擦れた痕一つ
残さないでピッキングするのは不可能だ。そして現場の別荘の鍵に、いじった
形跡はなかったんだよ」
「……無闇に人を疑いたくはないが、別荘の管理会社の関係者なら、もう一つ、
マスターキー的な物を保管しているのでは?」
「確かにそうだが、あの別荘の管理会社はしっかりしていて、キーを無断では
持ち出せない。申請書と許可のサインが必要だ。複数、確か五人のチェックが
入るので、だまくらかして持ち出すこともまあ無理だな。チェックする五人全
員がぐるなら、話は別だが」
「貸別荘なのだから、私より以前に借りた人物が数名いるはず。そのときに鍵
を密かにコピーした者がいるかもしれない。そいつが、何らかの理由で私を陥
れようとしている、という線はどうだろうか」
「よく捻り出したもんだと拍手してやってもいいが、だめだね。その説は成り
立たん。鍵は、シーズンが終わる度に、総取っ替えするんだとさ。新しい鍵と
交換することで、あんたが今言ったような合鍵をこっそり作る輩による悪巧み
を防ぎ、安全性を確保するって訳だ」
 密室に関して八方塞がりになったルバルカンは、別の角度からも証拠を突き
つけられる。凶器である。
 検死の結果、アニータ・ヨーステットの死因は、ブラキッドなる毒物による
ものと判明した。即効性に優れたブラキッドは、一般人は無論のこと、専門家
でもなかなか入手困難な代物で、仮に入手できたとしても確実に記録が残る。
ルバルカンは昔、ブラキッド絡みの事件をいくつか解決しているが、そのとき
に犯人が使い残したブラキッドをくすね、密かに所有することは可能と見なさ
れた。
「被害者は別れた奥さん、アリバイなし、現場は密室であんた以外誰も出入り
できない、入手困難な毒物を手に入れられる立場にあった。これだけ揃ってい
れば、誰だってあんたが犯人だと思うさ。あんた自身もそうじゃないのか、え
え?」
「眠っているときのことまで、完全に責任を持てと言われれば、それは誰にも
不可能だろう。もしかすると夢遊病患者のように、無意識の内に行動している
かもしれない。だが、借りた別荘に昔の妻を呼んだり、毒を準備したりとなる
と、あり得ない。私は殺していない」
「だ・か・ら、計画的にやったんじゃないのかってことだよ」
「もし仮に私がブラキッドを使って殺人を犯すなら、通報をもっと遅くする。
個体差は多少あるだろうが、ブラキッドという毒は、二日から三日で体内から
消える性質がある。消えるのを待ってから届け出れば、病死や突然死で済むこ
とが期待できる」
「そりゃあ理屈だが……奥さんの健康状態や年齢を考えれば、病死や突然死で
は不自然だ。最初からブラキッドが使われた前提で調べれば、三日経っていよ
うが、検出は不可能ではないと聞くぞ。それを知っていた名探偵殿は、敢えて
早めに通報したんじゃないか? 夏場、いかに避暑地といえども、遺体の保管
は一苦労に違いないしな」
「私が借りた別荘は、冷房が完備され、地下室もある。言っても詮無きことだ
が」
「なあ、ルバルカン。そこまで否定するなら、聞いてやる。自分はやってない
と主張するだけでなしに、他に心当たりはないのか。アニータ・ヨーステット
を殺害しそうな輩に」
「いなくはない。想定される大半は、私に刑務所送りにされた犯罪者の逆恨み
だが、そうなるのを避ける意味で別れたんだ」
「大半じゃない方を聞かせてくれ」
「……彼女と結婚すると決めたとき、ひどく取り乱した者が二人いた。一人は、
かつての依頼人で、レリー・カルマン嬢。交際を申し込まれたのだが、断った
経緯がある。もう一人は当時、私の助手をしていたカーギュラー少年。正直言
って、あのときのカーギュラー君の心理を正確には量りかねるが、想像するに、
私を父親のような存在と見ており、その父親が別の女と結婚する、と解釈した
のかもしれない」
「その二人が容疑者として、今になってあんたと別れた奥さんを殺すのは、変
じゃないか」
「……仰る通り。冷静さを欠いていたようだ」
 これを境に、サン・ルバルカンは明らかに自信をなくした。自らが巻き込ま
れた事件を積極的に検証することなく、「自分はやっていない」の一本槍で通
すしかなくなった。
 その状態は、ブラウベ署長が味方に現れたあとも変わらなかった。現場に改
めて入らせてやる、捜査で分かったことを教えてやると告げられても、間違い
を恐れてか、厚意を受けようとはしなかった。
 これでは疑いを晴らせる訳がない。裁判により有罪判決が下された。この国
では、殺人罪は被害者数とは関係なく、基本的に死刑を科される。情状酌量を
求めて、警察関係者数名が証言台に立ち、これまでルバルカンが貢献してきた
事件の数々を挙げてみせたが、効果はなかった。逆に、善人の皮を被った極悪
人との印象を持たれたようだった。

 ルバルカンが死刑囚となって八年が経過していた。
 死刑囚に対する刑の執行は、その四日前に仮決定され、三日を掛けて最後の
検討がなされる。そしてこの者の犯行に間違いがないと判定されて、初めて正
式決定となる。
 が、これは建前で、王族・政府・警察組織などの意向により、恣意的に運用
されることも多いと囁かれている。
 事実、ルバルカンの死刑を急ごうとする動きもあった。王族のブラウベ署長
がルバルカンに肩入れしていたことで、ブラウベのみならず、王族全体のイメ
ージダウンにつながると見なされたのである。
 そんな性急な動きを、ブラウベ・フィエリオは必死に押しとどめた。ルバル
カンの無実を証明するのは難しい。だが、ルバルカンの探偵としての優秀さを
アピールし、その能力をこのまま永遠に葬ることは国家的損失だという論陣を
張った。これが奏功し、サン・ルバルカンには特別な措置が執られることにな
る。
『殺人もしくはそれに匹敵する凶悪ないしは重大犯罪事件を、一年に八つ以上
解決すれば、サン・ルバルカンの死刑執行を一年先延ばしにする』
 これが、ブラウベ署長の勝ち取った条件であった。ルバルカンの死刑判決が
確定してから、四年が経過していた。
 言うまでもないが、解くべき事件は、ルバルカンが好きに選ぶのではなく、
国の機関が定める。なお、万が一にも、ルバルカンに解かせるに値する難事件
が年間で八つに満たなかった場合は、特赦により減刑される取り決めがなされ
ているが、この四年間でそのような奇跡的な事態は起きていない。
 むしろ、ルバルカンが獄中にいながら、年に八つの難事件を解決し続け、今
や三十件を超えたという実績こそ、奇跡と言えるのかもしれない。
「久しぶりだね」
 新たな事件を伝えるために、ブラウベ署長が面会に現れた。彼は時間が許す
限り、ルバルカンに事件を伝える役目を負う。ちなみに、将来を嘱望されたブ
ラウベが未だに署長でいるのは、ルバルカンの件が尾を引いているせいだと、
巷では囁かれている。
「ああ。あなたとこうして顔を合わせるのも久しぶりだし、前の事件から二ヶ
月以上が経っている。年に八つのペースから、あまり外れると少し怖くなる」
「怖さを覚えるとは、いいことだ。生への執着が、まともに機能している」
「そうらしい。四年ほど続ける内に、外で探偵をやっていた頃の感覚を思い出
したんだ。命を失うこともそうだけれど、謎に取り組めなくなることが恐ろし
い」
「そんなに意欲的になっているのなら――」
 署長が瞳を輝かせ、身を乗り出した。透明な強化アクリル板を挟んだ向こう
で、ルバルカンは若干項垂れ、頭を左右に振った。
「無理です」
「まだ何も言っていないぞ」
 ブラウベが浮かせた腰を椅子に戻す。ルバルカンは静かに答えた。
「何を仰りたいのかは、分かってる。アニータ殺しの件に取り組んでみろと言
うんでしょう?」
「ああ、その通り」
「まだ、無理です。私は、そこまでは戻っていない」
 獄中の名探偵は、片手で額を押さえる仕種をした。彼から深いため息が出る
のを聞いて、ブラウベは一応、あきらめた。
「分かった。それじゃあ、今回持って来た事件を知らせるよ。現時点での捜査
記録も用意した。追加が必要なら、あとで言ってもらいたい」
 手渡された資料に早速、視線を落とす。同時に、ルバルカンは「助手は?」
と問う。
「いつもの通り、レイ・マルタスを好きに使えばいいよ。それとも何か? マ
ルタスに気に入らない点でもあるとか?」
「とんでもない。マルタスほど優秀な人材を、また使えるとは想像していなか
ったので」
「それなら心配いらないよ。レイ・マルタス自身が希望していることだから。
ルバルカンの手足となって動くことを、光栄に思っているようだ」
「ありがたい話です。今の私から彼に渡せる感謝の印は、気持ちしかない」
「直接言ってやりなさい。無論、事件解決が最優先だがね」
 時刻を確認したブラウベは椅子から立った。
「今回も難題だが、見事な解決を期待している」


――続く




#471/598 ●長編    *** コメント #470 ***
★タイトル (AZA     )  15/06/30  20:45  (352)
ペトロの船出 <下>   永山
★内容                                         17/05/16 04:31 修正 第2版
 事件は、発生からちょうど一年が経過していた。
(解けというのなら、もっと早く回してくれた方がよいんだが)
 いつも抱く感想は飲み込んで、資料を読み進める。探偵作業に関する全ての
資料は、独房に持ち込むことを許可されており、じっくりと読み込める。
 被害者はペトロ・ロジオネスなる富豪で、造船業と運輸業で財をなしたとあ
る。ルバルカンは知らなかったが、かなり有名な人物らしい。三年前、つまり
死の二年ほど前に社長の座から退くと、経済・経営の専門家と称して、マスコ
ミに顔を出すようになっていった。そこから、ベテラン女優カリー・ドットソ
ンと面識を持ったことが、事件に発展したと見られている。
 当時、人気面では落ち目だったドットソンだが、ペトロから見れば、青年の
日にあこがれた美人女優であり、知り合えたことをこの上なく喜んでいたとい
う。どちらが積極的に誘ったかは定かでないが、二人は男女の仲となった。ド
ットソンは独身を通しており、またペトロも妻とは十年近くも前に死別してい
たため、モラル的には何ら問題のない付き合いだった。しかし、ペトロ・ロジ
オネスの子供らにすれば、内心穏やかでない。もしもドットソンと再婚したり、
彼女との間に子をなしたりしようものなら、将来入る遺産が減る。ペトロが後
継者を自分の子供の中から選ばなかった事実から推測できるように、この富豪
の三人の子ら――長男イジス、長女エルメス、次男ケンネス――は、揃いも揃
って経営の才覚を持ち合わせていなかった。それどころか、仕事に就かず、遊
び暮らす日々を送ってきた。そんな彼らにとって、ドットソンの登場は、人生
における初めての“厄介事”だった。
 それでもロジオネス家は、表面上の穏やかさを保っていた。カリー・ドット
ソンがペトロとの結婚に前向きでなかった内は。
 だが、半年後、ペトロの熱烈なアプローチに負けたのか、ドットソンは求婚
を受け入れた。
 ペトロは間を置かず、夏期休暇を利して家族が一堂に会する食事の席を設け、
婚約を皆に伝えた。機会を見て、世間にも公表するという。三人の子供らにと
っては、寝耳に水だったろう。女優が結婚に同意するとしても、何らかの前兆
があるはずと踏んでいたのに、全く感じられなかった。女優が演技していたの
ではと疑いさえした。とにかく、彼らにとって、恐れていた事態になりつつあ
ったのは間違いない。
 事件は、会食の翌々日に起きた。
 ペトロ・ロジオネスは海に関する事業で成功したこともあり、海を大変愛し
た。それ故、彼の邸宅は海に面した港に立地し、クルーザーで直接、海に出ら
れる構造を持っていた。その日は家族にお手伝い、航海士二名にケリー・ドッ
トソンを含めた九名で、二泊三日の短いクルーズに発つ予定になっていた。
 ところが、出発直前の朝八時過ぎ、ペトロは遺体となって発見された。海を
臨む彼の書斎で、肘掛け椅子に腰を下ろした姿勢のまま、毒入りのコーリーを
呷って死んでいた。
 その死に様は、一見、自殺に思えた。書斎のドアと窓は全て内側からロック
されていたためだ。しかし、遺書がなかったこと、ひいては婚約したばかりで
自殺する理由が見当たらないことから、犯罪が疑われた。
「容疑者は、前夜から邸宅にいて寝泊まりしたイジス、エルメス、ケンネスの
子供三人に、ケリー・ドットソン、お手伝いの二人に運転手、それから弁護士
の合計八人。航海士達はいなかったと。それに、邸宅には防犯カメラが設置さ
れていて、八人以外に出入りする不審者はなかったと分かっている、か」
 注釈によると、弁護士は婚前契約の諸々を考えるために呼ばれたとある。ペ
トロとドットソンは、もしも将来別れることになった場合の慰謝料に関して、
予め決めておくつもりでいたようだ。この弁護士と運転手は、クルーズには同
行しないことになっていた。
 使われた毒は青酸系の薬品で、ブラキッドほどではないが、即効性がある。
ロジオネス家との関連で言えば、メッキ工場で青酸ソーダが使われている。管
理体制はしっかりしているものの、例外的にペトロ自身が若い時分、“事業の
成功に命を賭ける”決意の証として、青酸ソーダを持ち出し、自宅で保管して
いた。その在処が、ペトロの死亡により不明となっていた。本当に自殺だとし
たら、この保管分が使われたに違いないし、他殺でも可能性はある。
 一方、ケリー・ドットソンは、二代前の元マネージャーが薬学部出身で、こ
の線から毒の入手は可能ではないかと疑われるも、元マネージャーは否定。証
拠もない。
「えっと、コーヒーカップは残っていたんだよな……変だ……」
 あることに気付き、独りごちるルバルカン。心の中で続ける。
(自殺であれ他殺であれ、自宅で保管していた毒を使ったのだとしたら、当然、
容器があるはず。その容器は、ペトロの書斎の机にでも放置されてるのが自然
じゃないか? わざわざ仕舞う必要があるか?)
 自問するも、答は出ない。だからといって、ロジオネス家に保管されていた
青酸ソーダが使われなかったとは、断定しづらい。
(女優の元マネージャーの線も薄そうだし……)
 もやもやを抱えたまま、コーヒーについての記述を読む。
 亡くなったペトロはコーヒー好きで、拘りがあった。決まった銘柄を愛飲す
るのではないが、濃いめを好んだ。他の飲み物ならお手伝いに運ばせるが、コ
ーヒーだけは自分で入れる主義だった。そのための簡易キッチンを、書斎の片
隅に特注で作らせたほどである。死んだ日の朝の一杯も、彼自身が入れた物と
推測されている。
 キッチンのゴミ入れには、入れたあとのコーヒー豆の残滓があったが、分析
しても、毒は検出されなかった。コーヒーメーカーも調べられたが、同様に何
も出なかった。殺人だったとして、前もってコーヒー豆に毒を混ぜたり、コー
ヒーメーカー内部に毒を塗布したりといった方法は、採られなかったことにな
る。
 次の項目、密室に移る。見取り図や写真付きで、ペトロの遺体が見つかった
書斎について、細かく説明されていた。
 窓は海を一望できる大きな物が一つに、ベランダに通じるフランス窓が一つ、
小窓が二つあった。この内、大きな窓ははめ殺し、小窓は小さすぎて人は出入
りできない上に、スライド式の二重ロックがしっかりと掛けられていた。フラ
ンス窓の方は、普段は、金属の細い棒を受け金に落とすだけの簡単な鍵で済ま
せていたのだが、それとは別に鍵穴があり、内側から鍵を使ってしか掛けられ
ない。遺体発見時は掛けられていた上に、鍵穴に鍵が差し込まれたままだった。
(自殺なら、普段のように掛け金だけにするか、それとも自殺だからこそ、よ
り厳重に鍵を掛けようとするものなのか)
 ペトロ・ロジオネスと接した経験が皆無のルバルカンには、全く想像が付か
なかった。
 書斎のドアの鍵は、古めかしいシリンダー錠で、ペトロがドアのデザインを
気に入っていたので、新式の鍵に取り替えることはなかったという。遺体発見
時、ここの鍵も掛かっており、お手伝いが合鍵を持って来て開けた。合鍵自体
は、金庫で保管されており、二つの暗証番号を入力しなければ開けられないシ
ステムが採られ、二名のお手伝いが一つずつ暗証番号を覚えている。換言する
と、お手伝い二人が揃わないと、合鍵を持ち出せない仕組みという訳だ。
 なお、ペトロが日頃使っていた鍵は、遺体の着ていたガウンのポケットから
見付かっている。
(部屋にはこれといった隙間もないようだし、読む限りじゃ、密室を作れるの
は、お手伝い二人が協力したときだけか。しかし、お手伝いには動機がない。
その上、主人の死によって、職を失っている。充分な手当は受け取ったようだ
が、事件で悪いイメージが付いたのか、再就職はかなっていないようだ。ペト
ロとの主従関係も良好だったとあるし、殺すのは引き合わない)
 絶対確実なロジックではないが、お手伝いは犯人ではないとの印象を、ルバ
ルカンは強めた。
(こうまで強固な密室となると、遺体発見時に誤魔化しがあったか、嘘があっ
た可能性が高い。ドアを合鍵で開けたとき、その場にいたのは――)
 書類に目を走らせる。ほしい情報はちゃんと載っていた。お手伝い二人に弁
護士、三人の子供達、そしてドットソン。
(何だ、ほとんど全員じゃないか。では、書斎に足を踏み入れたのは……弁護
士が真っ先に入り、異変を察知。女性は見ない方がいいと叫んだこともあって、
お手伝いとエルメス、ドットソンが廊下に残った。イジスとケンネスが入り、
ペトロの死を確認。ガウンのポケットから鍵を見付けたのは……警官か。とい
うことは、警察の到着まで、書斎が密室だったと意識されてはいなかったか。
そんな状況なら、遺体発見の混乱に乗じて、ポケットに鍵を滑り込ませるくら
い、訳なくできそうじゃないか。警察だって、その程度の想像はできるはず。
容疑は弁護士と息子二人に絞り込めるだろうに、一体、何に手間取って犯人を
特定できないんだろう?)
 読み進めると、じきに理由が分かった。警察が到着するまでの間に、エルメ
スとドットソンも、書斎に入り、ペトロの遺体に触れているのだ。その際に監
視の目があったかどうかは記述がないが、女性二人にも鍵をポケットに入れる
チャンスはあったと見なせる。
(それにしても、妙な事件ではある。最初っから、何となく頭の片隅に引っ掛
かっていたが……どうして犯人は、陸地で殺したんだ? クルーズに出ること
が決まっているのだから、出航後、機会を見て被害者を海に突き落とせば事足
りるのでは。確実性に欠けるというのなら、睡眠薬を飲ませてから突き落とす
か、あるいは殺してから海に投げ込んだっていい。遺体はしばらく発見されず、
事故とも他殺とも自殺とも断定できなくなるのは間違いない。
 このようなケースでは、犯人は、被害者が死んだという事実が早くほしかっ
たということが考えられる。海に落ちて行方不明となったのでは、死が確定す
るまで半年ほどかかる。それまで遺産なり保険金なりが手に入らない。関係者
の中に、早急に金が必要だった者がいるのか……)
 急いで読み進めるが、そのような注釈は見当たらない。三人の子供達もドッ
トソンも弁護士も、当座の金には困っていない。借金を抱えているとか、病気
の身内がいるとか、使い込みがばれそうだった等のドラマめいた秘密は一切な
し。
(警察が一年間捜査してこれなのだから、信用していい。他に考えられるのは
……クルーズに同行しない人物が犯人である場合だな。ガウンに鍵を戻せて、
クルーズに同行しない関係者は、弁護士だけ。動機がないが、理屈だけなら、
弁護士が犯人ということになる。あ、いや、青酸毒の入手が難しいか。ロジオ
ネス家の顧問弁護士であっても、ペトロが密かに保管していた毒の在処までは、
知らなかっと見るのが普通……。ペトロが保管場所を打ち明けるとしたら、同
じ家に住む者、特に家族相手だろう。誤って摂取しないよう、注意を促すべく、
毒だと明言しないまでも、危険物として教えることはあり得る。そしてそのこ
とを事件後、誰も言い出さないのは、疑われると分かっているから?)
 推測を重ねるのにも限界が来たようだ。レイ・マルタスの行動力を頼みとせ
ねばならない。
 ルバルカンは指示をまとめると、獄卒にマルタスへの伝言を託した。

 五日後、マルタスからの返事が届けられた。
<取り急ぎ、以下にご報告します。
 指示通り、関係者一人一人に会い、「ペトロ・ロジオネスが服用した青酸ソ
ーダは長期間、空気にさらされていたことが判明した」と鎌をかけたところ、
・その意味を解さなかったと思しき者……ケンネス、お手伝い二名、運転手
・意味を解し、ペトロの死因は何であったのかを尋ねてきた者……イジス、エ
ルメス、弁護士
 と反応が分かれました。
 さらに、意味を解した三名の内、イジスは「そんな馬鹿な」、弁護士は「ま
さか」との第一声を漏らしました。エルメスは「ふうん。それっておかしくな
い?」でした。
 次に、ペトロ・ロジオネスの化学知識ですが、彼の学生時代の友人らに尋ね
て回った結果、一般素人よりもわずかに上といったレベルだと推定します。た
とえば、「青酸毒は酸化により無毒化する」といった知識は持ち合わせていた
ようです。
 それから、ロジオネス邸はすでに売却され、人手に渡っておりましたが、ペ
トロの書斎は“著名人の亡くなった場所”として、使用されることなく封印。
実際のところ、警察の要請もあったようですが、とにもかくにも、ほぼ当時の
状態を保っている模様です。
 そこで、ブラウベ署長に、書斎の簡易キッチンの排水溝を調べていないかと
問い合わせると、否との返答でしたので、至急、調査を行ってもらいました。
それについての結果は、署長ご自身が伝えるとのことです。>
 報告は終わったが、文章はまだ少し続いていた。挨拶のようなもので、今は
とりあえず読み飛ばす。
(さすがに、この程度の鎌かけでは、ペトロが隠しておいた毒の在処を知って
いたような反応を示す輩はいなかったか。それでも充分に興味深い。イジスと
弁護士の反応は、「毒殺したつもりだったのに、無毒化していたのなら話が合
わない」あるいは「あれだけ厳重に密閉された容器に入っていた毒が酸化して
いただと?」という驚きに受け取れる。無論、他の意味にも解釈可能だが。
 それよりも困ったのは、ペトロの化学知識のレベルだ。長期間空気にさらさ
れれば確実に無毒になっていると思い込んでいたとしたら……仮説が増えてし
まう。いや、案外、これこそが本命なのか。……ブラウベ署長が早く来てくれ
ることを願おう)
 ルバルカンの願いは、半日と経たずに叶った。
 夕刻になって監獄に到着したブラウベ・フィエリオは、多少上気した顔で、
面会室に姿を見せた。
「排水溝だが、どうにか一年前の状態を保っていたようだよ」
 前置きなしに始めるブラウベ署長は口を開いた。
「青酸ソーダを液体、恐らく水に溶かして流したと思しき形跡が確認できた。
ごく微量の粉末も見付かり、酸化した青酸ソーダだと判明したものの、これが
いつの時点で酸化していたのかは特定不能だった」
「それは仕方ありません。一年が経っているのだから。ただ、一年前、事件発
生直後の段階で排水溝を調べていれば、事件の核心に迫る発見があったかもし
れない」
「その点については、弁解のしようもない。毒の入ったコーヒーが現場にあり、
毒の容器が見当たらなかったことや、コーヒー豆の残り滓などから毒が検出さ
れなかったことから、自殺ならペトロが毒を使い切った、他殺なら犯人が持ち
去った、そう思い込んで捜査を進めてしまったようだ。私の管轄ではないが、
事件の真相如何では、誰かが責任を取る必要が生じるだろうね」
「それは、警察にとってまずい真相なら、ねじ曲げてくれという意味?」
「いや、違うよ」
 ブラウベは苦笑を少し覗かせた。
「君は君の意志で結論を出してくれていい。私はそれを報告する。そしてねじ
曲げられそうになったなら、ねじ曲げられないようにする」
「分かった。安心した」
 ルバルカンも小さな笑みを返すと、再び表情を引き締めた。
「実は、二つの説を組み立てて、迷っている」
「聞かせてもらいましょう」
「一つ目は、恐らく警察も一度は辿り着いたであろう説。あ、他殺を大前提に
している。海上で殺して遺体を海に捨てるというメリットを採らず、邸宅で殺
害したのは、クルーズに同行する予定のなかった者の仕業。遺体の発見者を装
って鍵をガウンに戻す方法で密室を構成できるのは、発見時に居合わせた六人。
両条件を満たすのは、弁護士だけだ」
「弁護士には動機がない」
「法的な書類作成に関することが動機だとすれば、ペトロが死んだあと、弁護
士はどうにでも細工できる。動機の存在自体を隠せるだろう。クルーズから戻
るのを待たずに殺したのも、契約か何かで日付の都合があったと考えれば、筋
は通る」
「青酸ソーダをどうやって手に入れた?」
「弁護士は、犯罪者とも知り合う機会は多い。資料によれば刑事事件を担当し
た経験もあるから、弁護を受け持ってやった犯罪者を通じて、毒を入手できた
可能性はある」
「……なるほどと言いたいが、採用しがたいな。丸い穴に四角い物体を無理矢
理通そうとしている感じだね」
 ブラウベが正直な感想を述べると、ルバルカンも「やはりそうか」と応じた。
「ブラウベ署長、あなたは思いやりから敢えて突っ込んでこなかったんでしょ
うが、今のは他にも難のある仮説です。この事件が他殺なら、犯人は自殺に偽
装しようとしてる。なのに、毒の容器を現場に残さないというのは、手抜かり
に思える」
「確かに。死んだペトロが必要な分だけを用意し、使い切ったというのは、無
理筋だね。少なくとも、包装紙が残っていなくてはならない」
「ええ。それに、私見ですが、弁護士が密室殺人を企てるというのが、しっく
り来ない。私の知る弁護士は、程度の差はあっても現実主義に根を下ろしてい
る。そんな人種が、自殺に見せ掛けるためだからといって、密室をこしらえる
ものだろうか? 疑問、と言うよりも違和感が拭えません」
「論理的でなく心情的だか、よく理解できるよ。ではもう一つの説は?」
「もう一つの説も、難がないとは言えませんが……とにかく、話してみましょ
う。当日の朝、ペトロはいつものようにコーヒーを自分で入れた。そのとき、
仕事に対する自身の決意の表れであった、青酸ソーダの処分も行った」
「うん?」
 眉を動かして反応したブラウベだったが、それ以上は口を挟まず、続きを待
った。
「正確な年数は把握してないが、ペトロが事業で成功を収めてから、何十年も
経っているでしょう。そんな人物に、いつまでも決意の毒が必要とは思えない。
多分、ある頃から毒をさほど厳重には保管しなくなったと想像します。いや、
家人の手の届かないよう、隠していたのは確かでしょう。けれども、万が一、
彼の死後、毒を毒と理解しない者、たとえば幼子が毒を見付けたとしたら、非
常に危険である。その危険をなくそうと、容器の密閉状態を緩めた。そう、酸
化を促すために」
「まあ、子供ができたタイミングで、そんな風に考えることはあるかもしれな
いね」
「毒をさっさと処分しなかったのは、簡単にはできないことと、もしも処分し
たことで会社の経営が傾きだしたら……と想像して、捨てられなかったんだと
推察します。ともかく、ペトロは毒を無毒化させるつもりで保管しておいた。
そして、出航の朝、処分を思い立った。新たな婚約者を迎え、船旅に出る。文
字通り、旅立ちの日と呼ぶにふさわしいタイミング。今なら処分できる。そん
な心の動きだったのではないか」
「待て。つまり、何だ……ペトロ・ロジオネスは、青酸ソーダを簡易キッチン
に流すことで処分した。だが、その粉末だか固形物だかは完全には無毒化して
いなかった。しかも運の悪いことに、準備していたコーヒーに、毒が混入した
と言いたいのか、ルバルカン?」
「はい。察しがよくて助かります。あるいは、毒性がないと思い込んで、わざ
とコーヒーに入れた可能性もゼロではない」
 表面上笑ってみせたルバルカンに、ブラウベは直ちに、唾を飛ばさんばかり
に反論を開始する。
「いただけないよ、名探偵。こいつは一番目の説に劣る。何故って、容器の問
題はどうしたんだ? 君の今言った説が事実なら、容器がどこかに残っている
はずだ。容器が何製か知らんが、押し潰してごみ箱に投げ込んだとしても、書
斎にあるのは間違いない。窓を開けて、海に投げ捨てたなんて馬鹿は言わない
でくれたまえ。ペトロ・ロジオネスは海を愛する男だったのだ」
「言いません。念のため、見取り図を参考にざっと計算してみましたが、海に
投げ捨てるには、クルーザーの係留している地点まで出て行く必要がありそう
です。書斎のベランダから投げても、海に届くか怪しい。届いたとしても、問
題の容器が水に浮かぶようなら、すぐに発見される可能性大です」
「そこまで考えが及んでいながら、どうして――」
「そもそも、今までに話した第二の説だと、部屋が密室であるのは変でしょう」
「……言われてみれば、窓はともかく、ドアの鍵を掛ける必要はないようだ。
いや、窓にしたって、鍵穴に鍵を差しているのはおかしい」
「一つずつ片付けますと、まず、窓の鍵は、これから出航するのだから、きち
んと施錠していても、おかしくはない。ペトロ自身が鍵を掛けたと推定します。
ドアはどうか。コーヒーを飲むためだけに、わざわざ施錠するものか。飲んで
るときに、他に用事を思い付き、お手伝いを呼ぶとすると、鍵をペトロが開け
てやる必要が生じる。実に非合理的です。普段は、鍵を掛けていなかったと推
定します」
「うむ。あとで使用人達に聞けば分かるだろうが、その推定に異論はない。だ
が、それを認めれば、密室はなかったことになってしまう」
「事実と反するのは、何らかの理由がある。今回は、ペトロ以外の人物が関与
したと見なすのが、妥当でしょう。その人物は殺人犯ではないが、ペトロが死
んでいるのを見付け、ある細工を施した」
「それは八時過ぎに、六名が遺体を見付けたときのことを言っているのかな?」
「違います。その人物は、八時よりも前の時点で、ペトロの書斎に入り、遺体
を見付けたという想定です」
「ああ……。その段階では、ドアの鍵は開いていたと」
「何の用事だったのか、呼ばれたのか、自らの意思で出向いたのかは斟酌の必
要がない。その人物――Xと呼びましょう――が単独で書斎に入り、ペトロの
遺体を見付けたことが大事ですから。Xは遺体や部屋の状態を見て、こう考え
た。『ペトロ・ロジオネスは自殺した』と」
「え?」
 反射的に声を上げたブラウベだったが、短い間黙考し、合点した。
「そうか。机の上にコーヒーカップがあって、毒の容器があって、ペトロは椅
子に座ったまま絶命している。覚悟して毒を飲んだように見える」
「ショックが過ぎ去ると、Xは次に金の計算を始めた。そう、生命保険です。
自殺では保険金が下りない、あるいは額が少ない。そんなのはごめんだと、ペ
トロの死を他殺に見せ掛けようと、行動し始めた」
「それはおかしい。現場を密室にして、より自殺らしく見えるようにしたので
はないのかね」
「それだと、毒の容器を持ち去った理由が説明できない。Xはまずは毒の容器
を始末しようと、書斎から持ち出した。その際、他の人物に遺体を見付けられ
ることがないよう、外から部屋に鍵を掛けた」
「なるほど。そうつながるんだね。しかし思惑とは裏腹に、他殺の偽装が全く
できない内に、合鍵で開けられてしまった。やむを得ず、作戦変更。鍵を持っ
ているのがばれると、殺人犯と見なされる。そこで皆の目を盗み、鍵をガウン
のポケットに戻した訳だ」
「想像がほとんどで、物証に乏しいが、一番辻褄が合うのはこの説だと考えて
いる。どうですか」
「説得力はそれなりにある。しかし、その細工をしようとした人物、Xを見つ
け出さない限り、上を納得させるのは難しい」
 ブラウベが腕組みをすると、ルバルカンは仕切り板に片手を掛けた。
「信じて動いてもらえるのなら、多分、特定できます」
「どうやる?」
「Xは、毒の容器の始末だけはやり遂げたはず。まさか自分の身近に置いてお
くとは考えにくい。邸宅の外に捨てに行った可能性が高いんじゃないか。とい
うことは、防犯カメラにその姿が映っている。朝八時より前に」
「そうか。防犯カメラの映像なら、今も保存されている。繰り返しチェックし
たはずだが、容器の始末という観点で見ていなかったからな」
 ブラウベ署長は立ち上がると、一旦席を離れ、部屋の外に出た。ペトロ・ロ
ジオネス殺人事件の担当部署に、捜査すべき事柄を伝えてから、急ぎ足で戻る。
「どうでした?」
 ルバルカンの問いに、ブラウベは座りながら苦笑を返した。
「そんなに早くは分からないさ。だが、手応えはある。近い内にはっきりする
だろうね」
「これで解明となることを期待していますよ」
 そうして息をつくルバルカンは、頭を片手で掻きながら、再び口を開いた。
「ところでブラウベ署長。ここ最近、持ち込まれる事件に偏りが感じられるん
ですが……」
「偏りとは、一体どんな?」
 口を丸い形にし、首を傾げてみせるブラウベ。
「密室における毒死が続いている。これってもしや、私にアニータの事件を解
く気を起こさせようと、刺激を与えているおつもりでは」
「何を言い出すかと思ったら」
 肩をすくめるブラウベ。横を向き、笑いを堪えるポーズを取る。
「偶然だろう。意図的に似た事件を持ち込もうにも、私にそんな権限はない。
決めているのは、実質的に、国王なのだから」
「では、あなたが国王に口添えしてくださっているのではありませんか」
「……具体的なことは何もしておらん」
 ブラウベは真顔になり、ルバルカンに向き直った。
「ただ、サン・ルバルカンを窮地から掬い上げてやってほしいとの意見は、常
に出している。密室における毒死事件が続いているのなら、ひょっとすると、
私の意を国王が汲み取ってくださったのかもな」
「……ありがとう。期待に添えるよう、奮起に努めるよ」
 ルバルカンは小さく笑い、大きな動作で頭を垂れた。

――終わり




「●長編」一覧 永山の作品
             


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE