AWC 金星と夏休みと異形の騎士 1   永山



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★タイトル (AZA     )  14/04/30  22:29  (462)
金星と夏休みと異形の騎士 1   永山
★内容                                         14/06/30 10:56 修正 第3版
 私には、一つの忘れがたい記憶がある。恐怖で彩られており、思い出すのも
おぞましい。
 体験したのは幼少の頃、多分、小学一年生のときだと思う。場所に関しては
判然としない。脳裏のスクリーンに再生される絵を参考にするなら、学校のよ
うでもあり、病院のようでもある。が、当てにならない。とにかく、周りの状
況よりも、目の前で展開された現象の方が、圧倒的に印象が強かった。
 その記憶の中で、私は部屋に一人で入っていく。窓の外は暗い。夜ではなく、
雨雲が低く立ちこめている感じだ。灯された蛍光管のいくつかは、もうすぐ寿
命が尽きるのか、明滅を繰り返していた。
 そんな不安を煽る光の下、長椅子もしくは寝台めいた物が置かれていた。そ
の上に、人が一人、腰掛けている。性別は……男に見える。細面で青ざめた顔
色、きっちり九十度に曲げた両膝に、両腕をついている。彼はぼんやりとした
眼差しを私に向け、かすかに、にこりと笑んだようだった。さらに、片腕をぎ
こちなく上げて、手招きをした。
 ごろごろごろ、と遠くで雷鳴が。
 私は勇気を出して、足を前に進める。ある程度近付いた――と言ってもまだ
二メートルは離れていたと思う――とき、男は不意に私とは違う方へ頭を向け
た。私もつられて見る。ちょうど私の右真横、約五メートル先だ。
 そこには、魔物めいた異形の戦士がいた。赤みがかった銀色の西洋甲冑で全
身を包み、頭部は猛牛を思わせる面相と二本の太い角、手の指からは半透明の
爪が長く伸びていた。右手は、長く重たそうな剣を握りしめている。
 と、猛牛のような戦士は剣を両手で持ち、振りかぶった。次の瞬間、椅子の
男までの距離を一気に縮め、剣を右上から左下へ、ざんっ、と振り下ろした。
 すると、腰掛けた男は、胴体を真っ二つにされた。横方向に、つまり上半身
と下半身に分かたれたのだ。下半身はそのまま残り、上半身は横滑りした形で、
長椅子の上に横たわった。男の顔はこっちを向いており、断末魔、いや、魔物
に切断された末の叫び声が、その口から迸る。
 血が激しく噴き出すものと思ったら、そうはならない。切れた服の布地がに
じむ程度に赤くなっただけ。魔物の剣がなせる業か。加えて、男はまだ息絶え
てはいない。上半身は虫のごとく這い回ろうとしているし、下半身は足が小刻
みに動き、床を叩く踵の音が、雷に混じって小さく、しかしはっきり聞こえた。
 斬られた男は、こちらに向かって「助けて、くれ。元に、戻して、くれ」と
いう台詞を繰り返している。小学生の私は、それに応えることができない。自
分も魔物の戦士に襲われるのではという恐れから、息をほとんど止めて後ずさ
りした。事実、牛の頭を持つ異形の者は、こちらを振り向いた。そして一歩を
踏み出す。私は内臓が口から飛び出しそうな心地だった。それだけ動悸が激し
くなっている。最早、後ずさる意味がない。魔物の戦士に背を向けて、一目散
に駆け出す。部屋から転がり出て、その勢いのまま廊下を逃げた。正しい方向
かどうかも分からなかったけれど、とにかく逃げた。何か叫んでいたに違いな
い。誰か大人が助けに来てくれた気もする。でも、そのあとのことはよく覚え
ていない。

           *           *

 悪夢だ。
 皆上幸代(みなかみゆきよ)は思った。
 十二、三年前に体験した恐怖が、今また起こるなんて。前回と異なるのは、
長椅子の代わりにベッドだったこと。そのベッドの縁に腰を下ろしていたのが、
見知らぬ男ではなく、知り合いの男――部屋の主・横田(よこた)という男で
あること。知り合ってまだ間がないため、下の名前は知らないが。
 フラッシュバックというやつだろうか、現在と過去の結び付く感覚を経て、
何かに追い詰められた心地になった。皆上はマンションの一室から、廊下へ飛
び出した。
 慌てているせいで、壁にぶつかるわ、靴はつま先に引っ掛けただけだわ、挙
げ句に一度転んでしまった。幸い、怪我はなく、というよりも痛みを感じる暇
もなく、エレベーター前に辿り着く。降下ボタンを押すと、うまい具合にほと
んど待つことなく、箱が来た。ドアが開くなり、中に入る。他には誰も乗って
いない。ワンフロア分下るだけなのに、やけに時間を要した気がした。
 一階に着くや、乗り込んだときと同様に飛び出て、さてどうしようと立ち止
まった。もう小さな子供ではないのだから、単に逃げればいいというものでは
あるまい。警察に通報する? 信じてもらえるだろうか。だいたい、夢か現実
なのか、自分自身ですらあやふやに感じる。さっきの部屋に戻れば、魔物の戦
士がまだいるかどうかはともかく、惨状そのものは残っているはず。あの様子
を見れば、警察も本気になるかもしれない。
 そこまで考えた皆上の眼が、管理人室の窓口を見つけた。そうだ、とりあえ
ず管理人に話せば、対処してくれるに違いない。
 思いを行動に移そうとした矢先、背後からドアの開く音がした。魔物の戦士
が追って来た? びくりとして、恐ろしいにもかかわらず、エレベーターを振
り返る。
「どうかしましたか」
 現れたのは、一人の男性で背は高いが頼りなげな細身の上、かなり若い。大
学生の皆上と同世代に見える。皆上がよほど驚いた表情をしていたのか、心配
して声を掛けてくれたようだ。
「いえ、別に」
 早口で答え、管理人室の方に向かおうとする。
「管理人にご用ですか? だったら、僕が承ります。代理の者ですから」
 意外な台詞を背中で聞いて、皆上は再度振り返った。男は志木竜司(しきり
ゅうし)と名乗った。人のよさそうな笑みを浮かべつつも、何故か言い訳めい
た口ぶりで付け足す。
「僕の叔父がここの管理人、やってるんですが、今日明日と検査入院をするか
らということで、学生の僕にお鉢が回ってきたんです。さっき、二階の切れて
いた電球を取り替えて来たんですが、ひょっとしてあなたは廊下を走って、エ
レベーターに乗り込みました?」
 見られていたのか。ほんの少しだけ恥ずかしくなった皆上だったが、それよ
りも今は、体験したばかりの惨劇を伝える方が重要だ。
「あの、二〇四号室で大変なことが。警察を呼ばないといけないわ、多分」
「二〇四号室というと、横田峰夫(よこたみねお)さんの部屋ですか。お知り
合い?」
「はい、大学の」
 皆上はそれから状況を一気に説明した。聞いていた管理人代理は、案の定、
訝しがる気配を覗かせた。あからさまではないにしても、皆上を見る目つきが、
この人大丈夫?と言わんばかりのそれに変化したようだ。
「本当なんです! 行ってみれば分かります!」
 皆上の請願に、管理人代理の志木は静かに頷いた。
「分かりました。一緒に行きましょう。あなたが言うような異常事態が確認で
きたら、通報するとします。ただ、あなたの言う魔物の戦士が本当にいたら、
私なんかでは到底太刀打ちできない訳で……」
 志木は管理人室に一旦消えると、すぐに出て来た。手にはゴルフクラブが握
られている。
「叔父が用意してるんですよ。気休めだが、ないよりましでしょう」
 手に力を込めるのが傍目にも分かる。魔物の戦士の存在を本気で受け取って
はいないが、何らかの不審者がいることは覚悟してもいるようだ。二人揃って
エレベーターに戻り、二階に向かう。
「ここの防犯システムは、一昔前の物で遅れていますからね。カメラは正面の
出入り口と勝手口、それとエレベーター内にあるだけ。しかも勝手口の方は、
死角を把握できていれば、どうにか映らずに出入りできる。非常階段を使えば、
エレベーター内の防犯カメラも関係ないし」
 叔父とやらから聞かされたのだろう、肩をすくめつつ説明した。
 じきに二階に着き、扉が開く。皆上は思わず、身をすくめた。扉のすぐ向こ
うに、あの化け物が待ち構えている。そんな絵が浮かんだのだ。
 実際にはそんなことはなく、静かなものだった。人影はないが、マンション
の外から生活音が届くため、しんと静まりかえっている訳ではない。
「二〇四号室でしたね」
 志木の口頭確認に頷く。そのまま、相手の背中に隠れるようにして、問題の
部屋に向かった。玄関ドアを閉めた覚えはなかったが、自然に戻ったようであ
る。あるいは、魔物の戦士が閉めたか。閉じたドアの前で、管理人代理は言っ
た。
「オートロックじゃないんで、もし施錠されていたら、中に誰かがいてロック
したか、もしくは鍵を使って締めて出て行ったことになる」
 状況を再確認するかのような独り言。さすがに緊張した面持ちになっている。
 男性にしては細くて綺麗に手入れされた指をノブに当てる志木。それから回
しかけて、ぱっと手放した。
「いかんいかん。こういうときであろうと、一度は呼び掛けないと」
 インターホンを押し、「横田さん、いらっしゃいますか? 管理人代理の志
木です」と呼び掛ける。返答はない。再び、住人の名を呼ぶがやはり同じこと
だった。
「それじゃ、入るとしますか。失礼します」
 右手でクラブを構えると、左手で一気にドアを開けた。
 奥へ通じる短めの廊下が見渡せるだけで、人の姿はない。気配すらない。
「ベッドはどこです?」
 志木の問いに、皆上は首を左に振って応じたが、これでは相手から見えない
と気付き、口で答え直す。
「左手の襖の部屋です」
「分かりました。あなたはここにいて。もしも、万が一、何かあったら、すぐ
に助けを呼んでください。二階の部屋の何人かは在宅のはずですから」
「は、はい」
 空つばを飲み込んだ。皆上の前で、志木は靴を脱ぎ、ゆっくりと歩いて行っ
た。襖は開け放したままだから、覗けばすぐに状況が分かるはずだ。志木は、
ゴルフクラブをいつでも振り下ろせるように構え直してから、寝室の前に進み
出た。

           *           *

 一時期、僕の目から見ても、十文字龍太郎(じゅうもんじりゅうたろう)先
輩の苦悩ぶりは手に取るように分かった。
 高校生にしてパズルの天才でもある彼は現在、名探偵たらんと日々努力し、
行動している。事件解決の経験も数多く、依頼を受けることさえあるほどだ。
そんな先輩が、先頃手がけた事件の結末に納得しきれず、真相にかかるもやを
吹き飛ばすためだと言って、ある人物の出身地その他身辺調査を始めた。が、
結果は空振り。ある人物への疑いは、一応晴れた。
 この、ある人物とは、十文字先輩のライバルだった男の姉で、名前を針生早
惠子(はりおさえこ)という。僕が想像するに先輩は多分、彼女に前々から一
定の好意を抱いているようだ。
 当初、先輩が早惠子さんに容疑を掛けたことについて、明白な理由は恐らく
ない。事件関係者と親しい人物の一人、その程度だったんだと思う。だから今、
先輩は早惠子さんを疑ったこと、そしてそういう思考をした己自身を嫌悪して
いたのかもしれない。
 それはさておくとして。
「先輩、この間話した夏休みの件、本当に大丈夫ですか」
「――百田(ももた)君、何だっけかな?」
 学校に来るなり、朝一で二年生の教室を息せき切って訪ね、先輩に問うた反
応がこれ。僕は膝から下の力が抜けそうになった。廊下の窓際の壁に寄り掛か
り、どうにかバランスを保つ。
「音無(おとなし)さんからの誘いですよっ」
 僕にとって、目下の最重要事項。同級生の音無亜有香(あゆか)は、僕の理
想に一番近い女子だ。もちろん公言している訳ではないけれど、恐らく十文字
先輩にはばれている。
 そんな彼女がかつて巻き込まれた事件を、十文字先輩が解決した。そのお礼
にと、夏休み、別荘に招待してくれているのだ。蛇足だけど、音無のこういう
義理堅いところも、好きな点の一つ。
「そういえばそうだった。全く問題ないさ。改めてわざわざ聞くから、何事か
と思ったじゃないか」
 廊下に出てきてくれた十文字先輩は、窓の外を見やりながら、何でもない風
に応じた。
「あ、そうでしたか」
 ほっと胸をなで下ろす。とりあえず、落ち込みの底辺を脱し、気分は上向き
になっているようだ。この分なら、楽しい夏休み中盤を迎えられそう。
「ただし」
 戻ろうとした僕を、先輩の声が引き留める。
「期末試験が終わったからか、一つ、依頼が舞い込んだ。それを八月頭までに
解決できなかった場合は、取りやめるかもしれないな」
「え」
 慌てて、汗も飛ばさんばかりに振り向くと、名探偵のにやにや顔が待ってい
た。
「じょ、冗談ですか」
「よく分かったね。なかなか勘がよくなってきたじゃないか。頼もしい」
 冗談を肯定するコメントそのものに、冗談ぽさを混ぜないでほしい……。
「招待を一度受けておてい、翻すような失礼はできないからね。もし不在時に
何かあったら、五代(ごだい)君に話が行くように段取りしている」
「それこそ大丈夫ですか。五代先輩は、その、探偵活動にあまりいい顔をして
ないようですが」
 僕は教室を横目で見渡しながら尋ねた。どうやら、五代先輩はちょうど席を
外しているみたいだった。スポーツ特待生扱いだから、一部授業が異なってい
るのかもしれない。
 五代春季(はるき)先輩は、十文字先輩の幼馴染み。警察一家に生まれた関
係で始めたらしい柔道の有望選手で、はっきりいって並の男では勝てないだろ
う。また、十文字先輩の探偵活動にいい顔をしないと言ったけれど、時折、大
なり小なり捜査情報をもたらしてくれるのは、幼馴染みの身を案じてのことだ
と思う。
「今回ばかりは、だからこそ、だよ、百田君。もしも警察が乗り出すべき事件
であれば、五代君が巧く処理するさ」
「でも、何か大会があるんじゃないですか。あるいは、合宿とか。十文字先輩
も五代先輩も揃って不在なら、依頼したい人がいたとしても、コンタクトの取
りようがありませんよ」
「かもしれない。そのときは……一ノ瀬君(いちのせ)君ならどこにいても、
連絡が付きそうじゃないか」
「いや、あいつは学会とかで、海外ですから、それこそ動きようがないでしょ
う」
 一ノ瀬和葉(いちのせかずは)は、僕とクラスが同じで、何かとまとわりつ
いてくる。学業成績はトップクラス、かつコンピューターのことなら何でもご
ざれの天才で、僕なんかとは比べものにならない。なのに、妙に懐かれている
のは、一ノ瀬が少々苦手としてる日本語――外国暮らしが長かったせいか――
を直してやったのがきっかけの一つかもしれない。
「ああ、そうだったなぁ。もう準備は進めてるんだろうね。確か、月末には出
発だと聞いたから」
「はい。昨日も忙しそうにしていたし、今日はまだ見掛けていない――」
 喋っている途中で、身体に衝撃を受けた。右方向から、誰かにぶつかられた
のだ。よろけながらも振り向くと、話題にしたばかりの一ノ瀬が、おでこを押
さえながら立っている。
「いたた。結構、堅いね。みつるっち、たいしたガタイじゃないのに」
 みつるっちとは彼女が付けた僕のあだ名の一つだ。本名の百田充(みつる)
から来ている、単純なもの。
「いたたって、こっちの台詞だ。もしかして、堅いとガタイのしゃれを言いた
かっただけとか?」
「おお、鋭い。そのとーり」
 一ノ瀬には、新しく言葉遊びを覚えると、しばらく続けたがる傾向があるよ
うだ。こちらとしちゃ、着いていくのが大変……別に着いていかなきゃならな
いことはないんだけど。
「忙しいのに、わざわざここまで来るとは、何か用事かい?」
 先輩が一ノ瀬に尋ねる。一ノ瀬は猫のようにまん丸く目を見開き、こくこく
と頷いた。
「お土産の交換を約束しておきましょう」
「お土産?」
「はい。学会はハワイで開催されるので、マカダミアナッツ以外に何か買って
きます」
 何となくおかしな文脈だ。しかし、定番中の定番であるマカダミアナッツを
外すというのは、ありがたいと言えるのかもしれない。
「十文字さんやみつるっちは、剣豪の別荘に招待されてるでしょ? 地元の名
物を何でもいいから買ってきてほしいにゃと」
 剣豪というのも、一ノ瀬が勝手に付けた音無のニックネーム。これまた単純
で、音無が剣道の(というか恐らく刀剣の)達人だから。
「了解した。食べ物とそうでない物と、どちらがいい?」
「どっちも」
 遠慮なくリクエストする一ノ瀬を見て、ある意味、うらやましくなった。

 音無の別荘は、K高原にある。避暑にはもってこいの場所だとは聞いていた
が……着いたその日は小雨模様で、肌寒いくらいだった。プラットフォームに
降り立つや、思わず肌をさすったほど。
「カーディガンの一枚でも持ってくればよかったかな」
 駅を出て、傘を差しながら十文字先輩は呟いた。そう云いつつ、薄手ながら、
長袖を着ている。出発の折は、袖を折って短くしていたんだと気付いた。
 かく云う僕は、用意が悪く、長袖は持ってこなかった。二泊三日の予定だが、
着替えは予備を含めて、どれもこれも半袖。
「そこいらの店で、羽織る物を買うかい?」
 駅を中心にしたテリトリーは観光地化が進んでいて、しゃれた感じの店が建
ち並んでいる。
「予算にあまり余裕がないのですが。それよりも、矢っ張り、早く着きすぎで
すよ」
 音無とは駅前で待ち合わせて、とりあえず昼食は周辺の店で摂ろうという話
になっている。問題は時間だ。約束したのは正午だというのに、先輩は見物し
たいと二時間近く早い便を選んだのだ。
「初めての土地には、色々と興味がわくからね」
「だったら、最初に音無さんに言って、合流してから付き合ってもらった方が
よかったんじゃあ」
「勝手気ままに歩いてみたいんだ。君も自由行動の方がいいだろう」
「それはまあ、男二人で歩くような土地柄って雰囲気でもないですし」
 けど、男一人で歩くような場所でもないような。目立つのはカップルか女性
のグループ。他には団体旅行客らしき集団が、ちらほら。想像していたよりは、
年齢層が若干高めだ。
「矢っ張り、記録係として同行します。音無さんが着いたときに、うまく再合
流できないとまずいですし」
「自由行動だからね、かまわないよ」
 荷物は重いというほどではなく、背負ったまま、散策を開始する。
「あ、念のため、音無さんに連絡を入れておきませんか。着きましたって」
 早めに到着することを、先方には前もって伝えていないのだ。
「任せる」
 足を止めたまま、先輩はガイドブックを取り出していた。観光する気、満々
のようだ。
 とにかく、僕は屋根のあるスペースに入り、音無から前もって聞いておいた
番号に電話した。上三桁から察するに、携帯電話の番号ではなく、別荘にある
固定電話のそれのようだ。
「――もしもし」
 二度の呼び出しのあと、つながった。声から判断して、音無本人らしい。知
らない人が出たらどうしようという緊張は解けたけれども、別の意味で緊張す
る。
「音無さんのお宅でしょうか? 僕、クラスメートの百田充と――」
「ああ、百田君。亜有香だ。まだ列車の中では?」
 下の名前を名乗った音無に、どぎまぎしてしまう。確かに、音無家別荘に電
話して、音無と名乗られても区別できない。そこを配慮して、下の名前を口に
したんだろうけど、新鮮に聞こえる。それに、何だか恋人同士の会話みたいだ
し。
「実をいうと、すでに到着してるんだ」
「え? 聞かされていなかった。いや、ひょっとすると、自分が時間変更につ
いて、聞き漏らしたのか?」
「いや、云ってなかっただけだよ。十文字先輩の意向で、早めに着いて、観光
がしたいと」
 音無の声が、申し訳なさげな響きを帯びる。僕は急いで付け足した。
「それならそうと、事前に伝えてくれればよいものを。案内をしたのに」
「その辺も、先輩の意向で」
 と答えた刹那、電話口の向こうで、第三者の声がした。若い女性、いや、女
子の声だ。多分、僕らと同世代……と当たりを付けたところで、会話の内容が
はっきり聞こえた。話しているのは二人で、「どなたからかしら」「百田君か
らみたいです」「あら。少しお早いようですけれども」等と云っている。二人
の声にはともに聞き覚えがあった。
「あのー、音無さん。他にも友達呼んだ? 女子の友達」
「う、うむ。男子だけを招くと、家族が変な風に受け取りかねない故、女子も
呼んでおいた」
 聞いてない。お互い様だけれど。とにかく、確認だ。
「誰を呼んだの?」
「百田君とも十文字さんとも顔見知りだから、問題ないと思う。七尾弥生(な
なおやよい)さんに、三鷹珠恵(みたかたまえ)さん」
 自分の耳に自信を持てる返事だった。音無が口にした二人は、ともに僕と同
学年の一年生。
 七尾さんは僕らの通う学校、七日市学園学長の愛娘だ。マジックを特技とす
る「僕っ子」で、学園長の娘であるせいか、あまり友達は多くないみたい。そ
れはともかく、保護者の信用を得るには最適の人選だろう。
 三鷹さんも学校内有名人の一人で、見た目は縦ロールの髪をしたお嬢様。そ
の実態は、機械いじり好きが高じて、工学関連の諸々に才能を発揮していると
か。僕は目の当たりにしたことがないので、よく分からないけれど、ロボット
も作るらしい。
「そっか。先輩に伝えとくよ」
「あ。それはかまわないんだが、早く着いたのであれば、今すぐ迎えに出よう
と思う。雨も降っているようだし。駅をまだ離れていない?」
「あー、離れちゃないけど、十文字さんがどう思うか……」
 電話を顔に寄せたまま、先輩を振り返る。すると、じわじわとではあるが、
すでに歩き出しているではないか。
「ごめん、最初の予定通りで行こう。もし、待ち合わせ時間になっても、姿が
見えないようだったら、まだ電話してよ」
「……しょうがない。了解した」
 残念そうに云った音無。眉間にしわを作っていそうだ。些細なことで深く考
えない方がいいよ、とアドバイスしたい。云えないけれど。
 通話を終え、少し先行していた先輩に追いつく。
「それで百田君。結局、服を買うのか買わないのか、決めたかい?」

     〜     *           *     〜

「電話は十文字さんからでしたか。噂をすれば何とやらね」
 三鷹は微笑混じりに云うと、手首を返して腕時計で時刻を確かめた。
「時間がどうのこうの、たいした用件ではなかったようですが」
「待ち合わせ時刻の確認だった」
 音無は即答してから、はたと気付き、思わず叫んでしまった。
「しまった!」
「ど、どうしたの?」
 七尾が、さっきまで遊んでいたトランプを仕舞う手を止め、聞き返す。
「昼食にはどんなジャンルの料理がよいか、聞いておけばよかった」
「そんなこと、心配する必要ないのではありませんか。会ってから尋ねれば、
すむ話のように思います」
「確かにそうだが……物事はなめらかに運びたいと考えていたから」
「音無さん。ちょっとよろしいでしょうか」
 改まった調子で許可を求めてきた三鷹に、音無は気持ち、身構えた。
「何なりと」
「今回の話を伺って、いくつか感じたことがあります。十文字さんに感謝の意
を示すために、別荘へご招待するというのは、とても素晴らしい考えです。十
文字さんには、かつての事件で、自分もお世話になりましたし、感謝していま
す。七尾さんも同じでしょう」
 急に振られ、七尾は小刻みに頷いた。三鷹はまた微笑し、話を続ける。
「精一杯、もてなそうという気持ちでいることが、音無さんからはよく伝わっ
てきます」
「そのつもりでいる」
「ただ――自分は少し疑問に感じます。十文字さんの探偵ぶりには敬意を表し
ますが、果たして名探偵と呼べるほどの能力なのかしらと」
「――なるほど。あなたも気付いていたようだ」
 音無は硬くしていた全身から力を抜いた。自然と小さな笑みが浮かぶ。
「え、っと。どういう意味ですか」
 一人置いてけぼりを食らった格好の七尾が、音無と三鷹を交互に見やった。
 答えるのは音無。
「四月に起きた事件について、皆がどの程度知っているのか、私は把握してい
ないが、未解決であることは承知していると思う」
「ええ」
「私は、警察から嫌疑を掛けられてもおかしくないところを、十文字さんに救
ってもらった。犯人は捕まっていない。それどころか、途中、十文字さんは何
者かに襲撃されて、しばらく入院した。それと事件とが関係あるのかないのか
は、あずかり知らぬが」
「他にも、十文字さんが関わった事件で、表向きは解決していても、何か曖昧
さが残っているものもいくつかあるという話は、七尾さんもご存知でしょう」
 音無に続き、三鷹からも云われ、七尾はこくりと首肯した。
「僕が実際に関わった件もそうだし、他にも噂レベルなら」
「擁護する訳ではないが」
 音無はきっぱりとした口調で云った。
「某かの事情により公にされていないだけで、内々にはきちんと決着している
のかもしれない。そもそも、今回、私が十文字さんを招いたのは、あの人が名
探偵であるからではない。ただただ、私と我が家の家宝を守ってくれたことに
対し、感謝の意を表するためでしかない。それでは不足だろうか?」
「いいえ、まったく」
 承知の上でしたら何も云いませんとばかり、三鷹は笑みで応じた。
「自分も楽しみにしてるんです。十文字さんはパズルの天才と聞き及んでいま
すから、そちらの方の話を伺いたいと」
「だったら、何か問題を作って、出題するのがいいかも。解くことを喜びとし
ている感じだから」
 七尾の提案に、音無は唇をきゅっと噛んで、考え込んだ。
「それは私も考えた。よいパズルを出題できれば、それが最高のもてなしにな
るに違いないのだから。でも、残念ながら、私の頭脳はそういった作業には向
いていないようだ。その、二人はどうだろう?」
「私達の中で、最も向いているのは、七尾さんでしょうね」
「僕? 不思議な物を生み出すことに関心は高い方だと思うけれど、マジック
に偏ってるからなぁ。問題解決能力って云うのかな? そういう観点からなら、
三鷹さんの方が」
「自分も、パズルに関しては、論理パズルの知識を多少持ち合わせている程度
で、問題作成となると、期待に添えられそうにありません。が、音無さんと同
じく、あの人にはお礼をしたいと思っていました。そこで――あるアイディア
を用意してきたわ。お二人にも協力を仰ぎたいし、前もって聞いておかない?」
 不意に砕けた言葉遣いになった三鷹。その表情は最前から笑顔だが、今はい
たずらげな色合いが加わっている。
「何なに?」

     〜     *           *     〜

 正午を一分ほど過ぎた頃に、迎えの車が現れた。多人数でも対応できるよう
にということだろうか、ワゴンだった。青みがかったグレーの車体はよく磨き
込まれ、雨粒を弾いている。
 運転しているのはもちろん大人で、初老の男性。眼鏡を掛け、角刈りに近い
髪型が実直そうな印象を与える。眼は柔和で優しそうだが、肌はほどよく日焼
けして精悍な感じ。普通のおじさんと見せかけて、実は屈強なボディガード、
というやつかもしれない。
「観光の途中だったのではありませんか」
 挨拶のあと、音無が気遣いを見せた。先輩は首を横に振り、「いや、もう済
んだ」と応じる。
 僕はこのとき、実はがっかりしていた。音無の私服姿が見られると期待して
いたのだ。でも現れた彼女は、学校指定の制服姿だった。他の二人、七尾さん
と三鷹さんは、それぞれポロシャツにジーンズ、ブラウスに長めのスカートと
私服なのに。
「懸命に歩いたから、腹ぺこだよ。早く食べに行きたいな」
「何料理がよいか、希望はあるでしょうか?」
「いや、お任せするよ。まあ、この地方の名物料理があるなら、食べてみたい
かな」
「郷土料理で、お昼に合いそうなもの……蕎麦か豚肉でしょうか、あとは、野
菜の天ぷらも」
「それじゃ、天ざるでどうです?」
 ワゴンのシート、その奥に収まっていた三鷹さんが声を上げた。本人も食べ
たいという気持ちが顔に出ている。
「いいね。行ける?」
 先輩に問われた音無は、すぐに力強く頷いた。そして運転手に声を掛けた。
「田中(たなか)さん、お願いします」
 蕎麦屋なら、今いる場所からも二軒が目にとまったが、中心街からやや離れ
たところにある店がおいしいという。車で走ること十五分弱、国道沿いにぽつ
んと建つ店に到着した。
「もしや、高いのでは」
 藁葺き屋根の立派な純和風建築を前に、思わず呟いてしまう。しんがりにい
た音無が、「心配しなくていい」と応じる。
「そうなんだ」
「何が」
「値段、高くはないんだろ?」
「基準が分からぬが、そこそこすると思う。ただ、滞在中の食事に関しては、
全て持つから」
「え」
 絶句してしまった僕に対して、音無は涼しい顔で続けた。
「当然であろう。私が頼んで、来てもらったのだから」
「しかし……十文字さんはともかく、僕まで?」
「気にする必要はない」
 店内に入る。その際にぐずぐずしたものだから、音無に追い抜かれてしまっ
た。
「ありがたい話だけど。あのさ、音無さん。もしかすると、君のところって結
構なお金持ち? 別荘を持っていて、お抱え運転手もいるし」
「また基準の分からぬ話をする。だいたい、百田君は些細なことどもに気を回
しすぎるきらいがある。そこが長所なのかもしれないが、招待を受けたときぐ
らい、全て忘れるべきじゃないか」
「――うん、分かった」
 そう答えたのと同時に、すでに席に収まっていた先輩から声が飛んできた。
「何をしている。早く座って、注文を済ませてくれ。一緒に食べられないじゃ
ないか」

――続く




#457/598 ●長編    *** コメント #456 ***
★タイトル (AZA     )  14/04/30  22:31  (468)
金星と夏休みと異形の騎士 2   永山
★内容                                         14/06/30 10:56 修正 第2版

 天ざるをメインとした昼食が一段落し、和のデザートが出てきたところで、
三鷹さんがいささか唐突に話を切り出した。
「十文字さん、パズルにはマッチ棒パズルというのがありますでしょう?」
「ああ。何本かのマッチ棒で数式や図形等を作った上で、限られた本数を加減
することにより、数式を成り立たせたり、別の図形をこしらえたりするパズル
だね」
「実は、問題を持ってきました。ここにはマッチ棒がありませんので……爪楊
枝で代用するのは邪道でしょうか」
「かまわないだろう。ただし、マッチ棒と違って、爪楊枝はパズルに使ったあ
と、元に戻す訳にいかないが」
 触りまくった爪楊枝を、店の楊枝入れに戻すのは確かによくない。
「マッチ棒なら、ここに」
 僕と背中合わせに座っていた運転手の田中さんが、遠慮がちに口を挟んだ。
一人、別のテーブルについて食事を摂っていたのだ。マッチ箱を持っているの
だが、白手袋を外したその両手は、ごつごつしたイメージが強かった。
「使ってください。折ろうが燃やそうが、お構いなく。飲み屋でもらった物で
すが、私は煙草を吸いませんし」
「ありがとう」
 席を立った音無が、腕を伸ばして受け取ると、そのマッチ箱を三鷹さんに渡
した。朱色に店名らしきアルファベットが金文字で踊るデザインは、よく目立
つだろう。開けると、中のマッチ棒の頭も朱色だった。ぎっしり詰まっている
から、数が足りないことはあるまい。
「では、お借りして……」
 細長くて器用そうな指で、テーブルの上にマッチ棒を並べていく三鷹さん。
十二本で正方形を三つ作り、それらを「品」の形に配置した。
「最初の形は何でもいいんですけれど、この十二本のマッチ棒のみを用いて、
正三角形を三つと正方形を三つ、作ってみてください。ただし、マッチ棒を折
ったり曲げたり燃やしたり、あるいは重ねたりしてはいけません。また、完成
した時点でマッチ棒に触れていてはいけません」
「――なるほどね」
 眼を細める十文字先輩。口元も愉快げだ。
「触れてはいけないとは、つまり立体的な構造を禁じることだ。まあ、うまく
燃やせばマッチ棒同士をくっつけることができなくはないが、燃やすこと自体
も禁じられているからね。正方形と正三角形を三つずつ、まともに作るとした
ら、九本足りない。折ったり曲げたりもだめなんだから、一本で二辺を兼ねる
箇所を作るしかない……」
 先輩は語るだけで、マッチ棒を動かそうとしない。頭の中で、図を描いてい
るのだろうか。だとしたら、僕には真似できない。
「三鷹さん。マッチ棒、僕にも」
 十二本、出してもらい、試行錯誤をし始める。すると、七尾さんや音無も続
いた。
「……できそうで、できない」
 適当に並べるだけでも、正方形二つに正三角形二つぐらいなら簡単に作れる。
だからか、超難問という感じはしない。でもそこからが進まないのだ。
「三鷹君。質問をいいかな」
 口元に右手を当て、目を伏せがちにして黙考していた十文字先輩だったが、
不意に視線を起こして云った。
「どうぞ」
「正三角形三つと正方形三つ以外に、何らかの形ができていてもOK?」
「問題文が全てです。つまり、かまいません」
 三鷹さんは微笑しながら答えた。極めて自信たっぷりに、というか全ては思
惑通りという顔にも見える。
「なるほど、明確だ。じゃあ、答の一例として、こういうのはどうかな」
 十文字先輩は口元から手を離すと、素早くマッチ棒を並べた。その形状を描
写するのは、少々難しいのだが、これも練習と思いやってみよう。
 まず、七本で正三角形三つを作る。上向きを二つとそれらに挟まれる格好で
下向きを一つ。残りの五本で、「田」の上辺を取り払った形を作り、さらに真
ん中の縦棒を半分の長さだけ上にずらす。その突き出た中棒が下向きの正三角
形の頂点からすっぽり収まるよう、両図形を配置する。これで正三角形が三つ、
正方形が三つできた。ただし、正方形のサイズは、大きな物が一つと、その内
部に小さい物が二つという具合になっていた。
「さすがです。正解です」
 三鷹さんは、今度はにっこりと笑った。
「解けたのは、君がフェアに問題文を提示してくれたからこそだ。禁止事項が
逆にヒントになった」
「お気に召しましたか、このパズル?」
「素直すぎるきらいはあるが、なかなかの良問だった」
 その言葉は世辞ではないようだ。先輩は満足げに首肯している。そうしてお
もむろに云った
「今度は僕から出題していいかな。オリジナルじゃないんだが」
 パズラー、特にプロポーザーとしての資質が疼いたか、先輩が云い出した。
無論、僕らに異存があるはずもない。先輩は少し上目遣いをして、何かを考え
ているようだ。やがて、「百田君、君の手元のマッチ棒をもらうよ」と、僕の
前にあったマッチ棒十二本を取り、最初から先輩の前にあった十二本と合わせ
た。
 それから急に席を立つと、通路側に出た十文字先輩。何をするんだろうと思
っていたら、マッチ棒を並べ始めた。そうか、テーブルにつく全員にとって見
易いよう、位置を変えたんだ。
「これでよし」
 数式ができあがっていた。僕らから見て、9−5+6=8と読める。各数字
は、いわゆる電卓数字表示だ。計算すると、すぐに成り立っていないと分かる。
「この数式を成立させるには、マッチ棒を最少で何本動かす必要があるだろう
か? プラスとマイナス、それにイコールの部分は触ってはいけないものとし
て考えてほしい」
「当然、ここに新たにマッチ棒を加えたり、使わないマッチ棒があってはいけ
ないと?」
 三鷹さんが即座に質問した。「そうだね」と先輩。続いて七尾さんが、小さ
く挙手して尋ねる。
「あの、プラスとマイナスを触ってはいけないというのは、全く動かしてはい
けないという意味ですか。つまり、たとえばプラスを少し斜めにして、かけ算
の記号にするとか」
「ああ、なるほどね。そういうのもなしで頼むよ」
「そうですか……。プラスとマイナスを入れ替えたら、すぐなんだけどな」
 七尾さんのつぶやきに、誰もが頷いた。プラスの縦棒を取って、マイナスに
重ねてプラス記号にすれば、9+5−6で答は8だ。でも、これはだめらしい。
「ということは」
 音無が手を伸ばし、式の一点を指さした。
「この6の左下の一本を取って5にし、取ったマッチ棒を手前の5の左下に置
いて6とする。これで9−6+5=8になる。どうですか?」
 声に合わせて指を動かした音無。ちょっと見とれてしまった。
「確かに成立するね」
 十文字先輩はそう認めたが、何故か意地悪そうな笑顔になっている。
「だが、残念ながら最少の本数じゃないん」
「ええ? 一本しか動かしていませんが」
 声の大きくなった音無。そこへ三鷹さんが、すかさず云う。
「一本も動かさずに、成立させる方法があるんですよ」
「その通り」
 にやにやとチェシャ猫のような笑みを見せた十文字先輩。
「まだ掛かるようですね? 私は一服してきます」
 運転手の田中さんが席を立ち、先輩の後ろを通った。すると不思議なことに、
先輩は笑みを消して、テーブルに身体を密着せんばかりに寄せた。まるで、マ
ッチ棒パズルを田中さんに見せまいとするかのようだ。
 それでも田中さんからは見えたらしく、テーブルの上を一瞥すると、軽く首
を傾げてから通り過ぎ、店外へ出て行った。
「おお、危なかった」
 先輩はわざとらしく云い、胸をなで下ろす。ひょっとすると、今の動作もパ
ズルのヒントではないか? そう直感した僕は、田中さんからはパズルがどう
見えたかを思い描いた。
 と、次の瞬間、「あ、分かった」と呟いていた。
「ほう。百田君、答えてみてくれ」
「一本も動かさずに式を成り立たせるには、こうすればいいんです」
 僕は立ち上がり、通路に出た。それから先輩と同じ方を向く。
「どういう意味だ?」
 音無がその瞳を怪訝さいっぱいにする。ちょっといい格好ができると気付い
て、緊張した。
「逆から見れば、この数式、そのままで成り立つ」
 そうなのだ。天地を逆にすれば、式は8=5+9−6になる。田中さんがさ
っき首を傾げたのは、何が難しいんだと思ったせいかもしれない。
 コンマ数秒後、おおーっという感嘆が起きた。なかなか気持ちがいい。
「さすがだ、百田君。僕のそばにいて、成長したのかな」
 先輩は短く拍手しながら云った。冗談なのか本気なのか分からない。
「ただ……それだけかい?」
「それだけ、とは?」
「君の答は合っている。だが、正解の一つに過ぎない」
「まだあるんですか?」
「うむ」
「しかし……一本も動かさずに、成立させる方法が他にもあるなんて」
「方法と云うよりも、解釈の仕方だね。ヒントを出そうか」
 先輩は窓の外を見てから云った。多分、田中さんがどのぐらいで吸い終わり
そうかを計っているのだ。
「お願いします」
「そうだな、電卓数字であることがヒントだ」
 出題者の言葉に、しばらく考えを巡らせる。二分経ったかどうかの頃、三鷹
さんが口を開いた。
「数を数と認識せず、形や集合体として捉えることで、解決できます?」
「小難しい表現だねえ。うん、まあそれで合っているかもしれないな」
「だとしたら、こういう解釈はいかがでしょうか」
 三鷹さんは音無と同様に、ぴんと伸ばした指でマッチ棒の数式を示した。
「各々の数字を形として見なす、すなわちマッチ棒の並びと捉えれば、9は六
本のマッチ棒からできています。同様に、5はマッチ五本、6はマッチ六本」
 面白い見方だと感じた。しかし、6−5+6では8にならない。
「さらに、マッチ棒の位置にも着目します。そう、まさしく電卓の液晶に表示
される形として。すると、9の形から5の形をマイナスする――言い換えると
取り除く、ですよね――右上の縦棒一本が残ります。そこへ6の形をプラスす
ると、右上の空白が埋まり、8の形になります」
「ご名答。複数通りの正解があるパズルは珍しくないが、本問は作者が出題時、
正解を一つしか認識していなかったんだ。予期せぬ正解が見つかることを、そ
のパズルが『パンクした』と表現するんだけど、僕がそのことを知った事例が
このパズルなのさ」
「ふうん。どっちが作者の用意していた正解だったんですか」
 七尾さんの質問に、「どっちだと思う?」と返す先輩。
「普通に考えると、より簡単に思い付けそうな答だから、逆さまに見る方?」
「それが、逆なんだ。作者は電卓文字の方を正解のつもりでいた。用意してい
た物よりも、もっとシンプルな正解を見付けられる方が、よりパンク度が高い
と言えるかもしれない。どうしてこんな簡単な答を思い付けなかったんだ情け
ない、とね」
 解説し終わったところへ、田中運転手が戻ってきた。

 思わず、声が漏れる。
「おお、凄い」
 音無の別荘は大きかった。
 事前に、コテージ風の建物を想像していたから、尚更だ。今、眼前にあるの
は、明治か大正の香りを感じさせる、洋館である。多分、二階建て。「多分」
というのは、窓のサイズが大きく見えるし、装飾が凝っているため、区切りを
判別しづらく、断言できないのだ。
 隣の家、なんて物も見当たらず、山肌に建つ一軒家といった趣だ。
「最初に伺った折に、自分も予想外だと感じました」
 三鷹さんも同感だったらしい。よかった、仲間がいて。
「音無さんのお人柄から推して、純和風の日本建築が拝見できると思っていま
した。それがこのような洋風の建物とは驚かされました」
 え、そっちの方。
「自宅が日本家屋であるから、こちらも同じにしてはつまらぬと考えた、祖父
からそう聞いている。が、正直なところ、私は自宅の方が好きだ」
 だろうな。音無は椅子に腰掛けるより、畳に正座する方が似合う。服はドレ
スよりも着物……等とそれぞれの場面を想像していると、中へ通された。
「両親は不在です。後日――二日後の昼に来る予定なので、皆とはすれ違いか、
顔を合わせるとしても極短い時間になるはず」
 音無が十文字先輩に告げるのが聞こえた。少し、緊張が解ける。
「ただ……兄は早めに来ると云っていたので、もしかすると、今日にも姿を見
せるかもしれません」
「へー、お兄さんがいるんだ?」
 音無は主に十文字先輩を相手に話しているのだが、僕は割って入った。
「ああ。云ってなかったから、知らぬのは無理もない。だいたい、積極的に紹
介したいと思える人種ではないのでな、真名雄(まなお)兄さんは」
「マナオ?」
 どういう字を書くのかと問うと、真の名の英雄、と教えられた。
「紹介したくないとは穏やかじゃない。何か事情でも?」
 先輩が尋ねる。音無はしばらく黙していたが、程なくして意を決した風に口
元に力を込めるのが分かった。
「――顔を合わせたときに驚かぬよう、前もって伝えておきましょう。兄は、
まず、髪の毛が黄色です」
「は?」
「私が前回会ったときは、そのように染めていました。音楽を、バンドを趣味
としているせいらしいです。背が190センチほどあるように見えるかもしれ
ませんが、その場合、シークレットブーツで底上げしています。実際はそれで
も185センチ近くあるはずですが。年齢は、もうすぐ二十一。まだやめてい
なければ、一応、大学生。腕っ節は強いが、気は優しい方です。少々、だらし
ないところもあります。あらゆる面で、移り気というか……」
 列挙する内に声が小さくなる音無。つらいのか恥ずかしいのか。聞く限りで
は、ちょっと変わったお兄さんて感じだけれど、音無家の家風には確かに合わ
ないとも思える。
「兄のことはこれぐらいにして、あとは来てからでいいでしょう。部屋に案内
します」
 気を取り直した風にかぶりを振って、音無はポニーテールを揺らした。彼女
自ら案内してくれるようだ。先輩と僕は荷物片手に付き従い、二階へ向かう。
階段を上りきったところで右に折れると、廊下が続いている。その左右に部屋
が三つずつ。廊下を挟んで部屋のドアが向き合わないよう、少しずらして配置
されている。
「十文字さんは一番奥の部屋、百田君はその隣の部屋を」
「ありがとう」
「鍵をお渡ししておきます。スペアはありますが、大切に扱ってください」
 革のストラップ付きのキーを受け取る。旧い代物なのか、結構、無骨な感じ
の鍵だった。
「鍵、必要かな?」
「念のためです。あ、今は開けてある」
 鍵穴にキーを差し込もうとした僕に、音無が声を掛けた。なるほど、ノブを
回すと、ドアはすっと押し開けることができた。
「テレビやパソコンはありません。どうしても必要でしたら、運び込むことも
できますが」
「いや、いいよ。ただ、ニュースや天気予報のチェックぐらいはしたいな。ど
こかでテレビ、見られないのかな」
「居間に一台、食堂に一台あります。要するに、共用ですが」
「充分だよ。それよりも、僕にはこの部屋になくて寂しい物が別にある」
 十文字先輩が目配せしながら云うと、音無は戸惑ったように眼を泳がせた。
室内を覗く仕種をしながら、「な、何が不足でしょう?」と問う。
 先輩は笑いながら答えた。
「ドアの上の方にね。プレートがあったら気分が出たんだが。そう、部屋番号
を示すプレートがね」
 何とも、名探偵っぽいジョークだ。でも、音無は真面目に受け取ったらしい。
「宿泊施設ではないので、部屋番号は付けられていません。しかし、どうして
も必要でしたら、テレビと同様、用意できると思います」
「いやいや、大丈夫。冗談だよ。音無さん、我々を緊張させまいと気を遣って
くれるのは、うれしいよ。でも、代わりに君が緊張しちゃあ意味がない。気疲
れで参ってしまうぞ」
「はい。すみません」
 まだ完全に緊張を解いた訳ではないようだけれど、率直に云われて、少しは
肩の荷が下りた。そんな感じに見えた。
「それで、このあとはどうするんだろう? 部屋で休んでいていいのかな」
「今日このあとは特段、予定を立ててませんので、自由に過ごしてかまいませ
ん。三時頃にお茶の時間を設けているくらいです。あとは夕食が七時に。ああ、
外に出るときは、声を掛けてください。連絡が取れるとは云っても、急に姿が
見えなくなると不安になりますから」
「分かった。それじゃ、早速だが、外出するとしよう。天気も雨は去ったよう
だし、この別荘の周りを歩いてみたい。おっと、案内はいらないよ。迷子にな
るようなジャングルや、危険な底なし沼なんかがあると云うなら、話は別だが」
「そんな物はありませんが、三時までに戻ってくださいね」
「了解した。百田君はどうする?」
 不意に聞かれて、即答できなかった。事件の依頼を受けたときなら、僕も成
り行き上、先輩と行動を共にすることが多いけれども、今回の旅行では音無の
近くにできるだけいたいような。
「お供しますよ」
 第一希望と違うことを口にした訳は、僕も別荘の周囲を見ておきたいと思っ
たからだ。音無の別荘に招かれるなんて幸運、次にあるとしても、何年後にな
ることやら。

 真夏とは思えぬ快適さ。雨上がりのため、多少の湿気を覚えなくもないが、
緑の中を半時間ほど歩き回ったにしては、汗はほとんど出ていなかった。
「それにしても意外でした。先輩がこんなに自然好きだなんて」
「自然が格別に好きという訳じゃない」
 ちょっとした小川、せせらぎに出て、手頃な石に腰を下ろして僕らは話をし
ていた。
「環境を普段と変えるのは、謎解きで疲れた心身をリフレッシュできるし、パ
ズルのヒントを見付けられる期待もある」
「のんびりするのなら、釣り道具でも用意してきたらよかったかもしれません
ね。さすがにそこのせせらぎじゃ小さすぎるでしょうが、適当な川か池が近く
にありそう」
「君は釣りをするのかい」
「したことは何度かあります。趣味ってほどじゃなく、ほんの遊び感覚で。最
初の頃は、釣ってやろうと躍起になっていましたが、段々と悟ったというか、
文字通り、のんびり構えるようになりましたね」
「骨休めには、なかなかよさそうだ。しかし、僕の一つ下の若い者が、そんな
老成した物言いはどうかと思うぞ」
「老成はひどいなあ。それなら先輩だって、割と時代がかった言葉遣いをする
じゃないですか」
「あれは名探偵を目指しているからさ。形から入るってやつだね。言葉遣いと
云えば、あの三人の女子も相当、特徴があるな」
「三人て、音無さんと三鷹さんと七尾さんですか」
「他に誰がいる」
「いえ、僕と先輩共通の女子の知り合いって、他にも個性的なのが多い気がす
るので」
 たとえば一ノ瀬とか。
「認める。だが、今、三人の女子と云えば決まっているじゃないか。もしや、
君。音無君のことを話題にされたくなくて、とぼけたんじゃないだろうね」
「とぼけてなんかいませんよ。そもそも、音無さんの話題を避ける理由があり
ませんたら」
「そうか? 音無君が僕に好意を抱いているように映って、気にしているんじ
ゃないのかな?」
「そ、それは……ないと云えば嘘になりますが」
「心配しなくとも、今回の招待は、純粋に彼女からのお礼だ。僕に対して音無
君が過度の緊張を覗かせるのも、彼女の性格故だろう。この二泊三日が過ぎれ
ば、きちんと礼をしたとして、普通の接し方になるはずとにらんでいる」
「でしょうか。だといいんですが。僕にとっても」
 あ――っと、口が滑った。僕の音無への好意を、先輩が察しているのは間違
いないとは云え、認めるようなことをこっちから喋りすぎると、弱い立場がま
すます弱くなる。
「どうだろう、百田君。僕に依頼をしてみないか」
「何をですか」
 不意に立ち上がった先輩を、僕は見上げた。逆光で分からないが、今の先輩
は多分、例のいたずらげな笑みを浮かべていそうだ。
「君と音無君との仲を取り持つことをさ。恋のキューピッドなんて、僕も経験
がないから、いかに名探偵でも成功の確約は無理だがね」
「……お断りします」
 先輩の能力云々ではなく、自分の力でやりたいじゃないか、こういうのって。
 と、僕も立ち上がって答えたとき、せせらぎとは反対方向から声がした。
「十文字君に百田君、そっちにいるかー?」
 呼んでいる声に、僕らは聞き覚えがなかった。顔を見合わせている間に、足
音が近付くのが分かる。じきに、少し高くなった土手の上に、茶色のサングラ
スをした男性の姿が。
「ああ、いるじゃない。君達だろ、十文字君に百田君てのは?」
「あなたは?」
 先輩が誰何する。相手は僕らより少し年上、二十歳前後くらいか。体格はか
なりいい。もちろん肉付きは分からないが、バネのある格闘家タイプのように
思える。
 男は僕らを見下ろしながら云った。
「音無亜有香の兄、真名雄だ。聞いてるよね?」
「ああ……」
 髪の毛は黄色じゃなかったが、云われてみれば兄と妹とで似ている箇所があ
るようなないような。
「迎えに来た。さっき別荘に着いたら、もうすぐお茶の時間だと云うのに、君
らが戻ってないから、探しに来た訳。車があるから、すぐだ」
「あの、どうしてここにいると分かりました?」
「あん? 適当に探したら、足跡があった。何だ、疑ってる? さすが探偵だ
なあ。ほら、免許証」
 向こうは僕らを信用しているらしく、運転免許証を投げてよこした。そこに
ある顔写真と、当人とを見比べる。髪型は全然違うが、確かに同じ人物だ。氏
名の欄には、音無真名雄とある。
「信用したか?」
「しました。どうも、初めまして」
 先輩と僕は自己紹介をした。

 別荘に引き返すと、すぐにティータイムとなった。その席には、真名雄さん
の他にもう二人、新しい顔が加わっている。ともに真名雄さんと同じ大学に通
う友人とのこと。
「高校生探偵が来てるっていうから、楽しみにしていたのよ。面白い話が聞け
そう」
 芝立香(しばたてかおる)は、やや舌足らずな物腰で云った。髪のせいで頭
部が逆三角形に見えて、ダチョウのそれを想起させるフォルムなのだが、目鼻
立ちは整っている。見慣れれば美人と分かる、そんな感じ。座ったままだけど、
多分、スタイルもよいのだろう。黄色を主としたサマードレスが似合っている。
少し寒そうだが。
「矢張り、家族や知り合いに警察関係者がいるとか? ドラマや漫画でよくあ
るみたいに」
 笹川亜久人(ささがわあくと)、丸顔で太って見えるが、喉仏が出ている身
体の方は痩せているのだろうかと想像していると、ちょうど立ち上がってくれ
た。想像通り、細い。上はタートルネックタイプの白いシャツに薄紅色のジャ
ケットを羽織り、下はパンタロンみたいな黒っぽいズボンに大ぶりなバックル
付きの革ベルトを通していた。袖から覗く腕時計は、全体が黄色をした安物の
ようだ。おしゃれが成功しているのかどうか、微妙な線。
「いるにはいます。でも、警察の捜査情報を、ぺらぺら喋ってはくれませんね」
「だろうな」
 十文字先輩は、この席で与えられた役に快く応えるつもりのようだ。
 さて、僕はと云えば、密かに喜びをかみしめていた。やっと音無の私服姿を
拝めたので。
 上は眩しい程の白いブラウスに、葡萄茶色のリボンが首元にアクセントを施
す。下は黒のスカートのようだ。少し古いドラマに出てくる、音楽教師のイメ
ージが浮かんだ。教師っぽくないのは、スカートが若干短めであること。さっ
き、靴下を直すふりをして確かめた。
「――百田君、君から話してくれないか」
「え?」
 聞いてなかったのが丸分かりの反応をしてしまった。話し掛けてきた先輩が、
やれやれと云わんばかりに肩をすくめ、もう一度繰り返してくれた。
「今までに携わった依頼の中で、話しても差し支えのないもの、さらにここに
いる皆さんが知らないようなものを選んで、君の方から話してくれないか」
「あ、はい」
 そうだった。名探偵が事件を自ら語るとは限らない。下手すると、ただの自
慢になってしまう。そういうことを十文字先輩も意識していて、普段、打ち合
わせをしていたのに忘れていた。
「僕が関わったのは、どれもまだ起きてから日が浅いですから、語れるのは少
ないですが、一つだけ……」
 そうして、僕は語り始めた。こういうときのために話せる、架空の事件につ
いて。

 お茶会は意外と長く、二時間余りも続いた。僕の語りが終わったあとも、話
題は多岐に渡り、真名雄さん達の話に聞き入ってしまった。素人の感想だけれ
ど、真名雄さんは喋りがうまいと感じた。
 お手伝いさんらしき女性が食堂に顔を出し、そろそろ夕飯の支度に掛かるこ
とを伝えに来てくれたので、それを機にようやくお茶会は終わった。
「あーあ、どうしよう。思ってもいない展開〜」
 部屋に戻る途中で行ったのは、七尾さん。
「マジックをやるつもりじゃなかったから、あんまり準備してないのに」
 夕食後、マジックを披露してくれと真名雄さんにせがまれ、押し切られてし
まったのだ。
「プロだったら、いざっていうときに備えて、常に準備しているというけれど、
僕はまだそこまでの器じゃない」
「すまない。兄はああいう性格で……本人は、頼まれてもできなければきっぱ
り断るんだが」
 音無が項垂れながらも詫びた。続いて口を開いた三鷹さんは、対照的に明る
く云う。
「よろしいんじゃないですか。ある物だけを使って、精一杯やれば」
「他人事だと思って」
「何でしたら、自分も協力を惜しみません。必要なときは声を掛けてください。
サクラにでも何にでもなりましょう」
「……考えておきますから、声を小さくしてください」
 夕食が予定されている七時まで、一時間半ほどある。それなりに見られるシ
ョー構成を考え、準備を整えるのに充分なのかどうか、僕には分からない。
「十文字さんと百田君は、先にお風呂、どうでしょうか?」
 音無に云われて、僕と先輩は目を見合わせた。
「二人一緒に?」
「一人でも、二人でも。広さは問題ないはず」
「――百田君は普段の入浴時間、何分ぐらいなんだ?」
「えっと、二十分くらいですかね」
「僕も同じぐらいだ」
 だから一緒に入ろうということなのかと、ちょっと焦った。時間がないのな
らともかく、一時間半あるのだから、一人で二十分を要しても問題あるまい。
「どちらが先に入る?」
 あ、順番を気にしていたんですか。
「先輩が選んでくださいよ。冬場なら一番風呂より、二番以降の方が暖まって
いていいと聞きますけど」
「ここの風呂は、室温の制御もできる」
 これは音無。僕は苦笑を浮かべ、頭を掻いた。
「じゃあ、先に入るとしよう。僕が入っている間、みんなで楽しく遊んでくれ
たまえ」
 そう云われて、僕は約二十分間、女子三人に囲まれる場面を想像した。
 無論、実際はそんなことにはならない。七尾さんはマジックの構成を考える
のに一生懸命だし、三鷹さんは七尾さんに頼まれたら協力する気でいるから、
落ち着けない。残るは音無だけだが、いきなり二人きりになっても何が起こる
という訳もなく。
「百田君、護身術の心得は?」
「知ってると思うけど、何もない。せいぜい、格技の授業ぐらいだよ」
「前と変わりなしか」
 応接間みたいな部屋で彼女と二人になったけれども、何故かこんな話を始め
ていた。
「十文字さん自身は、武術か何かを身につけているのだろうか」
「いやあ、聞いたことない。シャドーボクシングって云うのかな? ボクシン
グのパンチを出すポーズを、暇なときはよくやっているけれど」
 先輩自身の弁によると、シャーロック・ホームズがボクシングを身につけて
いたことに影響を受けたらしい。先輩のボクシングの腕前がどれほどのものか
は、全くの未知数。
「探偵を続けるのなら、護身術の一つでも習得しておくべきだと思う」
「同感だ」
「私が云っているのは、君のことだ。同道する機会が多いのであれば、君が十
文字さんの足手まといになってはいけない。身を挺して先輩を守りなさいなん
て、もちろん云わない。自分の身は自分で守る、これが鉄則」
「……そうだよね」
 はっきり云って、僕は先輩に半ば巻き込まれる形で、強引にワトソン役に収
まってしまった。だから、悪漢と対峙して身を守るなどという発想は、ほとん
どなかった。だが、必要を感じなかった訳でもない。実感がなかっただけで、
十文字先輩の身に降りかかったいくつかの危険を思い返せば、自分は危険な目
に遭わないなんて楽観論、とても持てない。
「ひょっとして、何か有効な剣道の技を教えてくれるとか?」
「いや、私は……。兄が格闘技をやっているそうだから、聞けば教えてくれる
と云いたいだけだ」
「ええ? 真名雄さんが格闘技って、そんなこと全然聞いてないんだけど」
「ああ。私も今日、兄の口から初めて聞いた。移り気故、どれほど続けている
のか、はなはだ怪しいが、あの体格であるし、そこそこ使えるらしい」
「教えてもらえるのはありがたいけれど、風呂の前は遠慮しておくよ」
「それはそうだ。……素人が刀剣を手にして戦わざるを得なくなった場合、一
般に有効とされるのは、突きだ」
「え?」
「無闇に振り回したり、振りかぶるよりはましという程度だが、相手が使い手
でない限り、逃げるまでの時間稼ぎにはなるだろう」
「――分かった。いざというときのために、心に留めておくよ。ありがとう」
「言葉で教わっただけでは、だめだ。練習し、身体で覚えることこそ肝要」
 厳しい口調だったけれども、心配してくれているのが伝わってきた。僕は再
度、礼を述べた。

――続く




#458/598 ●長編    *** コメント #457 ***
★タイトル (AZA     )  14/05/01  02:32  (397)
金星と夏休みと異形の騎士 3   永山
★内容                                         14/06/30 10:57 修正 第2版

 風呂から上がってしばらくすると夕食の時間になったのだが、様子がおかし
くなっていた。真名雄さんと芝立さん、笹川さんの間に変な緊張感があるのだ。
もっと云えば、空気の底を険悪なムードが漂っているような。
 何かあったに違いないのだが、高校生の僕らに聞ける雰囲気ではなく、夕食
は最初から最後まで気まずさが列をなして行進していた。
「まあ、僕は助かったと云えば助かったけれど……」
 大学生三人が別々にそそくさと食堂を出て行ったあと、七尾さんが大きな吐
息とともに云った。
「助かったって?」
「この分なら、マジックはなしでしょ」
「あら、自分は観たい」
 三鷹さんが不平そうに云ったが、これは恐らくジョークだろう。何故って、
結局、三鷹さんはマジックの手伝いをする段取りになっていたのだから。
「七尾君のマジックは、別の機会に期待するとして」
 十文字先輩は、音無の方を向いた。
「彼らの間で何があったのか、君からお兄さんに尋ねてみてくれないか」
「聞くことはできますが、ちゃんとした答が返ってくるかは、責任を持てませ
ん。兄はこういうとき、たいていはぐらかす口ですから」
 硬い表情、堅い口調で音無は言った。
「それでも、念のため、尋ねておいてほしい。タイミングは音無君の判断に任
せるよ。何だか気になるんでね」
「あ、あの、任せてくださるのなら、僭越ですが、十文字さん達は一切、兄達
に接触しないでほしいのですが。下手を打つと、機嫌をさらに損ねることにな
るかもしれないので」
「承知した。任せると云ったんだから、僕は口出ししない。果報は寝て待つも
のだ。ははは」
「ありがとうございます。……本当に申し訳ありません、十文字さん、百田君
にも、三鷹さん、七尾さんにも。招待しておいて、こんな……」
「気にするな。君のせいじゃないのは明らかだ」
 先輩に慰められ、励まされ、音無はようやくいつもの顔つきに戻った。緊張
しすぎだったり、落ち込んでいたりする音無を見られるのは珍しいが、もう見
たくない。
「気分を新たにするためにも、早くお風呂に入りたいわ」
 三鷹さんが云った。場を明るくしようとしての発言かもしれない。
「ん。他の人達は、もっとあとで入ると思うから、先に入って」
「よかった。それじゃ、三人一緒に入りましょ」
 三鷹さんは七尾さんの手をつかまえ、さらに音無に目配せする。
「しかし、私は兄に尋ねないといけないし、のんびりと湯船に浸かっている暇
は……」
「大して時間は掛からないわ。先にさっぱりして、リフレッシュした方が絶対
にいい。決まりよ」
 女子三人のやり取りを聞く内に、どことなく気恥ずかしような微笑ましいよ
うな気持ちになってきた。十文字先輩とともに、その場を立ち去ることにする。
「正直な感想を述べるとだね」
 二階への階段の途中で、先輩が呟くように云った。
「音無君と三鷹君という組み合わせは、最初聞いたときどうなんだろうと思っ
た。七尾君の方は、何ら違和感はないんだがね」
「分かります」
 七尾さんは学園長の娘だから敬遠されることはあっても、彼女自身は友達を
とても欲している。誰とでも仲良くなれるタイプだ。そんな七尾さんに比べる
と、三鷹さんはとんがった個性の持ち主だ。そしてそれは、音無にも云える。
個性がぶつかり合えば、得てしてうまくいかないものというのがセオリーだろ
う。
「でも、実際はいい友達だと見せつけられたよ。僕の勘も当てにならない」
「ですね。今日ばかりは、勘が外れてよかったと思います」
「百田君も云うようになったね」
 部屋の前まで来て、先輩にこっちに来ないかと誘われた。
「かまいませんが、何かあるんでしょうか」
「これまで関わった事件の、有耶無耶な部分に焦点を当ててみたい」
「え、ということは、新しい証拠か推理が見つかったんですか」
「そうじゃないが、何かに集中していないと、真名雄さんを直に問い質しそう
になる」
 なるほど。

 眠い。
 お手伝いさんにコーヒーをもらって飲み干したのが、何故か眠気が取れない。
 眠たさの理由は一体? 十文字先輩とのディスカッションが退屈な訳では、
もちろんない。昼間、遊びすぎて疲れたというのも当てはまらないだろう。確
かに早起きはしたが、寝る時刻を前倒しにせねばらないほどではないと思うし。
「まあ、疲れがたまったんだろう。特に心理的な。何しろ、理想の異性の別荘
に泊まるのだから」
 いきなり云われると、どきりとする。
「先輩!」
「ディスカッションはここらで切り上げよう。僕も眠気に誘われたしね」
 目立った成果は出ていなかったが、先輩が云うのなら仕方がない。
「おやすみなさい」
 そういえば、音無から明日の予定を聞きそびれたな。そんなことを思いなが
ら、寝床に入った。安眠を妨げるものはあるはずがないと、微塵も疑っていな
かった。
 ところが、数時間後、全く逆の目が出た。
「百田君! 起きてください!」
 ドアをどんどん叩く音と僕の名を呼ぶ声に起こされた。反射的に時計を見よ
うとするが、いつもの位置にない。ああ、別荘に来ているんだった。携帯電話
で時刻を確かめることもできたが、それよりもノックの音にただならぬ物を感
じた。
「――七尾さん。どうかしたのか」
 ドアを開けてから、声の主が七尾さんであると気が付いた。落ち着きの中に
も、動揺が見て取れた。
「大変なんです。男の人の手が必要になりそうなので、急いで呼びに」
「だから、一体何が」
「笹川さんが、芝立さんを包丁で刺したみたいなんです。今、このお屋敷内を
探しているんですが、見当たりません」
「え? し、芝立さんは無事なのか」
「怪我を負ったので無事ではありませんが、命に関わる傷ではないようです。
それよりも、真名雄さんが頭に来て、輪を掛けて大変なことになるかも。笹川
さんを探し出して、制裁を加えようとしているんじゃないかって」
「それはつまり」
 不意に十文字先輩の声がした。先に起こされて、身嗜みを整えてから廊下に
出て来たらしい。飛び出してこなかったのはどうかと思う反面、七尾さんの話
をしっかり聞いている辺りは、さすが名探偵。
「推測するに、芝立香さんを巡り、真名雄さんと笹川さんは争っていたのか」
「うーん、少し違います。僕もさっき聞いたばかりですが、真名雄さんの彼女
さんが芝立さんで、笹川さんは横恋慕というやつみたい。それが今夜、芝立さ
んにつれなくされて、逆恨みした挙げ句、発作的に刺したんじゃないかって」
「ふむ……」
 思案げに小さく頷き、黙考する様子の十文字先輩。だが、やがて打ち切った。
「今、どの辺りを探しているんだろう?」
「外に出たみたいです。靴がなくなっていたので」
 僕、七尾さん、十文字先輩の順で階段を降り始める。
「笹川さんが逃げて、真名雄さんがそれを追いかけており、さらに他の面々が
二人を探しているんだね?」
「だと思います」
「警察へ通報は?」
「まだのはずです。真名雄さんが何か武器を手にしていたとしても、それは笹
川さんの攻撃を防ぐためだけなのかもしれないし。音無さん家だって穏便に収
めたいに決まってます」
「しかし、笹川さんが芝立さんを本当に刺したのなら、それだけで傷害事件な
んだが……」
 降りきったところで先輩は僕をちらっと一瞥し、迷う素振りを覗かせた。
「警察と同じ行動を取っていては、探偵の存在意義がなくなる」
 名探偵はそう呟いた。
 と、三鷹さんが玄関前に立っているのが見えた。扉を細く開け、時折外を窺
っているようだ。近付くと、ドアにはチェーンロックが掛けられていると分か
った。
「どうなっている?」
「分からない。笹川さんを追って、いえ、あの人の靴がないのを見て、真名雄
さんも音無さんも外に出て行ったわ。あとは田中さんが、この別荘の周囲を見
回っている。別荘内には、私達の他には芝立さんと彼女の看病をお手伝いさん
がしているだけ」
「他に男はいないんだね?」
「そう聞きました、はい」
「真名雄さんと笹川さんと芝立さんは、真名雄さんの車でここへ来たと云って
たな。笹川さんは車を運転できるんだろうか。車を奪って逃げた可能性も、考
えねばなるまい」
「音無さんか田中さんに聞けば、分かると思いますけれど……」
「音無さんは携帯電話を今、持ってるんだろうか。ああ、持っていたとしても、
我々は番号を知らないんだった。三鷹さんか七尾さんは?」
「自分と七尾さんは、前に教えてもらいました」
 三鷹さんは云うが早いか、携帯電話で発信した。二回の呼び出しで、向こう
が出た。
 切迫した声が漏れ聞こえたが、中身までは不明だった。三鷹さんが音無を落
ち着かせ、車の有無を尋ねる。
「――うん、分かりました。くれぐれもご注意を」
 電話を切るや、三鷹さんは「車は全て車庫にあると、確認済みだそうです」
と教えてくれた。
「笹川さんは遠くには行ってない可能性が高い、と。そうなると、山か、川沿
いに逃げるか……しかしこの暗闇で。懐中電灯を持って出たとは考えにくいし、
携帯電話の類の明かりなんて、たかがしれている。危険な生物だっているだろ
うから、一番安全なのは、この別荘の光が届く範囲に、身を潜める――」
 独り言のように推理を繰り出していた先輩が、喋るのをぴたっと止めた。
「笹川さんの部屋は?」
「え、知りません」
「自分も聞いていません」
「あ、でも、一階だと云ってたような」
「確かか、七尾さん?」
「はい」
 気忙しい会話を経て、十文字先輩は玄関とは逆方向に歩き出した。早足で移
動する彼を、僕らも追い掛ける。
「三鷹さん、もう一度電話を。音無さんに聞いてもらいたい。笹川さんは一階
のどの部屋を宛がわれたのかと」
 求めに応じ、電話する三鷹さん。しかし、今度はつながらないようだ。呼び
出しはなっているのに、向こうが出ない。電話に出られないような変化があっ
たのか、単に携帯電話を落としただけなのか。
「つながりませんわ」
「仕方がない、掛け続けて」
 三鷹さんが短縮ボタンを押そうとした刹那、彼女の手にある電話が鳴った。
「あ、音無さんから。――はい?」

『笹川さんの部屋に近付かないで! ああっと、一階の四番目の部屋。いい? 
分かる?』

 三鷹さんが電話に出るなり、音無の張り上げた声が、僕らにまで届いた。
「四番目の部屋って……どれだ」
 僕は困惑した。二階と同じく、通路の両サイドに部屋がある。どう数えて、
あるいはどちらか数えて四番目なのだろうか。
「――この部屋のようだ。騒がしい」
 十文字先輩は耳ざとく、部屋を特定した。右側のドアを手前から数えて四番
目の部屋だった。
「近付くなと云われても、探偵がここで引っ込む訳にいかない。みんなは下が
っていてくれ」
 命じられるがまま、僕と三鷹さんと七尾さんは、三メートルばかり距離を
取って立ち止まる。先輩は問題の部屋の前で、ドアノブに慎重に手を掛けた。
――ノブが回った。
 名探偵は素早くドアを開け、内部に視線を走らせたようだ。部屋は薄暗く、
しかし人の気配、否、人の立てる物音がすでにある。窓が開け放たれているの
か、木々の匂いを含んだ風が、微弱ながら流れてくるのが感じられた。
 そうか。笹川さんは自室の窓を開けておき、外に逃げたと見せ掛けて、こっ
そり舞い戻ったんだ。その策略に気付いた真名雄さんと音無も、相次いでここ
へ集まったということらしい。

 先輩は次の瞬間、あっさりと中に入った。僕たち三人も、部屋までの距離を
狭めた。室内をどうにか覗ける。僕らに割り振られた部屋からは一番遠い客室
で、一回りか二回り広いようだ。
「どうして来たんですか」
 低く冷静だが、緊張感のある声で音無が云った。姿は、僕の位置からは確認
できない。
「分かったから、来るしかない。君に任せたのは会話だけだしね」
「格好付けている場合じゃないんですよ。ほら」
 音無の台詞に、僕はもう三歩ほど身を乗り出し、部屋の中全体が見通せる位
置に立った。
「あ」
 短く叫び、次いで空唾を飲み込む。
 部屋の奥の壁に沿わせる形でベッドが置いてあり、そこに、長めのポンチョ
みたいなだぼっとした服を着た男が、背を丸めて腰掛けている。笹川さんだ。
 そのほぼ正面に、足を前後に開いて立つ人影。こちらは真名雄さんだ。両手
には、何やら長い得物が握られている。そして真名雄さんと僕の視線のちょう
十文字先輩。先輩の右、二メートルほど離れて音無がいる。音無の手にあるの
は木刀のようだ。彼女から見て、笹川さんまでおよそ五メートル、真名雄さん
までは四メートルといったところか。
「十文字さん、そこをどいてください。兄はやる気かもしれません」
「何?」
 先輩が真名雄さんの方を向く。はっきり見えるはずないのに、真名雄さんの
両目は血走っているように思えた。そして手にした得物は、真剣らしかった。
もうすでに、鞘から抜かれている。
「あれは四月の事件のときの刀か?」
「確言はできません。うちには、刀剣がいくつか保管してあるので」
 音無と先輩との会話しか聞こえないが、この間にも、真名雄さんと笹川さん
はぼそぼそと聞き取りにくい声で、言葉の応酬をしているようだった。と、先
輩達の会話が途切れたことにより、笹川さんの声が聞こえた。
「俺は恨みの塊になったからな。柔な刀で斬られたくらいじゃ、死なん」
「我が家に伝わる刀まで侮辱するか。ならば本当に試してやろう」
 真名雄さんも、静かだが気迫の込められた声で返す。最前までとは打って変
わって、二人の声がよく聞こえる。
「やってみるがいいさ。たとえ斬られても、何度でも甦ってみせる」
「酔っているのか? 香を刺して、気が動転しておかしくなったか?」
「何とでもぬかせ。おまえこそ、口先だけで、実行できない輩か? その刀は
お飾りか?」
「云わせておけば」
 ぐっと力を入れて刀を構え直し、笹川さんとの距離を着実に詰めた真名雄さ
ん。「真名雄さんの剣の腕は?」
 先輩が早口で音無に聞く。返事は音量を絞っていた。
「私よりは劣るが、一通りはこなす。藁を巻いた竹くらいなら、すっぱりと」
「そりゃまずいな。君は木刀で彼を止められるか?」
「分からない。云えるのは、そこにあなたがいては不可能だということ」
「うむ。邪魔するのは本意でない」
 先輩はその視線の動きからして、下がるか前に転がるかを検討していたんだ
と思う。だが、行動を起こすより先に、真名雄さんが歩を一気に進めた。すー
っと笹川さんに接近するとともに、刀を振りかざす。最適な距離まで詰めた一
瞬後、刀を袈裟斬りに振り下ろした。
 それから――僕は信じられないものを目撃した。
 笹川さんの身体が、胸と胴体の間辺りで、二つに分かれたのだ。どうっ、と
横に倒れる笹川さんの上半身。下半身は、斬られたことにまだ気付かないのか、
足先が苛立たしげに動いて、床を叩く。上半身も、ベッドの上をとてもゆっく
りとではあるが、ずるずると這い回ろうとしていた。が、それらの動作も、段
段と弱くなり、いずれ完全に停止する――と思いきや、合図があったかスイッ
チが入ったかでもしたみたいに、急にまた激しくなった。足は床を踏み抜かん
ほどの強さで、がしがしっとテンポを刻む。上半身は両腕を突っ張って起き上
がると、下半身の上へと戻っていく。
 下半身に上半身を載せた笹川さんは、「ほうら、復活するぞ」と、にたりと
した笑みをふりまく。B級映画のモンスター役を彷彿とさせる。型通りだが、
迫力と凄みを有した笑み。
「身体が復活すれば、今度はこちらの番だ」
「――させるか」
 鋭く短い一括が聞こえるのと、音無の木刀が空気を裂いたのはほとんどタイ
ムラグがなかった。飛ぶように踏み込んだ彼女の木刀の切っ先が、笹川さんの
首筋を捉える。その一撃は、不死身の怪物のように振る舞った彼を失神させる
のに、充分な威力を持っていた。
「誰か、明かりを」
 音無の冷静な声に、僕は室内に入ると、壁にあるであろうスイッチを手探り
で求めた。すぐにそれらしき突起に触れたが、押し下げても手応えがない。壊
れているのか?
「――ははあ、そういうことか!」
 突然、十文字先輩が大きな声を張った。皆、何事かと見やる。
 そんなことにはお構いなしに、先輩は拍手を始めた。間延びした拍手だ。
「先輩? あの、十文字さん?」
 呼び掛けると、やっとまともに反応してくれた。
「百田君も拍手したまえ。まだ分からないかもしれないが、僕と君は観客だっ
たんだ。たった二人のね。言い換えるなら、たった二人のために、皆さんはと
ても骨を折って、派手な歓迎をしてくれたんだよ。
「どういう……意味ですか。僕にはさっぱり」
 判然としない名探偵の表情どうにか読み取ろうとしつつ、正直に答えた。
「だから、今し方目の前で繰り広げられた、ホラーもどきの怪現象は、音無さ
ん達の出し物なのさ。――間違ってるかい、音無さん?」
 先輩の質問に合わせて、僕は音無の顔を見つめた。
 いつもの冷静で硬い表情は消え、口元が震えている。あっという間にこらえ
きれなくなった彼女は、声を出して笑った。
「すみません、その通りです」
 認めると、音無は僕と先輩に深々と頭を下げた。そして面を上げると、この
部屋のベッドを示しながら続けた。
「感想を伺う前に、笹川さんの様子をみてよろしいですか? さっき、木刀が
思いもよらず、強く入った気がしないでもないので」

「痛いことは痛かった。気絶はしなかったけど」
 笹川さんは、首筋に貼られた湿布をさすりながら、苦笑を盛大に浮かべた。
 音無が恐縮気味に、「本当にごめんなさいっ」と謝るのを聞いたのは、これ
で何度目だ。
「さて、そろそろ、名探偵に種明かしをしてもらいたい」
 真名雄さんが十文字先輩に水を向けた。
「どこで気付いた?」
「全てが終わってから分かったのだから、自慢になりませんが」
「いいから。即座に察したってことは、ずっと前の段階で、どことなくおかし
いなとか感じていたんじゃないのか?」
 十文字先輩の空になったグラスに、液体――ジュースを注ぎつつ、解説を迫
る真名雄さん。この人の見せた剣の扱いは、練習の賜だったそうだ。真名雄さ
んも笹川さんも、そして芝立さん(無論、刺されてなんかない)も、揃って演
劇仲間だという。大小の道具を揃え、アイディアを形にしたのは、この三人の
力が大きい。
「断片的で、順序立てて話せないんですが……たとえば、音無君が木刀を手に
していた点」
「な、何か不自然さが? しかし、私は笹川さんか兄かのどちらかを止めるつ
もりで、木刀を持って追い掛けたという設定なのだから、おかしくはないと思
う……うん」
「別荘には刀が何本もあるようなことを云っていた。それなら、木刀よりも刀
を選ぶのではないかと思ったんだ。いくら実の兄とは云え、怒り心頭に発した
状態で真剣を携えているんだ。音無君も真剣を持って応戦したいと考えるの普
通じゃないか」
「それは……腕前の差があるので、木刀でも勝てぬことはありません。大きな
怪我を負う危険がありますが」
「そう気にしないで。他にも変だなと感じたことはある。えっと、真名雄さん
の車に乗ったときもだな」
「うん? 何かおかしかったっけ?」
「あのとき、あなたは別荘に着いてすぐまた僕らを迎えに出たというニュアン
スで喋っていましたよね。でも、その割にはシートに腰を下ろした瞬間、ひや
っとしたんですよ。笹川さんや芝立さんはどこに乗っていたんだってことにな
る」
「なーる。本当は、昨日の夜に来て、準備を始めていたんだ。車のシートがぬ
くくなかったのは当然だ」
 やられたという顔をして、額に片手を当てる真名雄さん。僕も内心、似たよ
うな思いを味わっていた。だって、僕は先輩と同じようにあの車に乗り、座っ
たのに、全然気付かなかったんだよ。悔しいじゃないか。
「あとは、夕食後の取って付けたような険悪な雰囲気も不自然と云えば不自然
でしたし、通報しないのも気になった。部屋の電気が点かなかったのは、あま
り明るくすると、仕掛けがばれるかもしれないから。到着時間を気にしていた
のもヒントになったかな。駅まで早く来るのはいいが、別荘に早く到着されち
ゃあ、準備が終わらない可能性があったからだとにらんでる。僕と百田君を風
呂に早々に入れたのにしても、準備の都合があったんじゃないかな。最大の引
っ掛かりは、割り振ってくれた部屋の位置。仕掛けを設置する部屋の物音が聞
こえぬようにという配慮で、最も離れた二部屋を用意したんだろうけど、だい
ぶ不自然でした。他にも空き部屋がある様子なのに、わざわざ廊下の突き当た
りの、たくさん歩かねばならない部屋を用意するなんて。窓の外を見ても、格
別に景色がよいという風な特典もないようだしね。音無君ともあろう人が、感
謝の意を示すために招待したゲストを、そんな部屋に通すはずがないと信じた
訳です」
「……誉められている気がします」
 音無がはにかんだ笑顔を見せた。
 その隣に座る三鷹さんが、「それでは、謎そのものの魅力はどうでしたかし
ら」と聞いてきた。
「満足していただけたなら、幸いですけれど」
「ああ、人体切断と復活! あれは素晴らしい。まるで魔法だった。誰が思い
付いて、どうやって実現せしめたのか、気になるよ」
「思い付いたのではなく、インターネットから拾ってきたんです」
 三鷹さんが答える。
「小学生のときに人体切断と復活を学校で体験をした人が、大人になってホー
ムページを作り、その中の記事の一つとして、昔話の形で書いていた。それを
目に留めた自分が、音無さんと七尾さんに、十文字さん歓迎の出し物にできな
いかと相談したのです」
「ちょっと気になる話だな。あんな魔法めいたことを小学校で体験したのか」
「ああ、言葉足らずでした。その人の体験した年齢が小学生の頃で、場所は定
かではなかったと思います。西洋甲冑を着込んだ牛頭の騎士が現れ、男性を一
刀両断するも復活したとか。ファンタジー映画、もしくはマジックショーのワ
ンシーンのように感じましたわ」
「そこで、七尾君に相談を持ち掛けた訳か」
「はい。彼女なら、種を突き止めてくれると信じておりました。そして見事に
応えてくれたので、この出し物ができたのです」
「三鷹さんの話し方で持ち上げられるとむずむずするから、やめて〜」
 耳をふさぐポーズの七尾さん。愛らしい仕種に、笑いが起こる。
「称えられて当然のことをしたのだから、堂々と誉められるべき」
 三鷹さんの攻勢(口勢)にストップを掛け、僕は七尾さんに直接聞いた。
「種はすぐに分かったの? 元々知っていたとか」
「いえ、知りませんでしたし、すぐには分かりませんでした。映像でもあれば
また違ってくるのですが、話に聞いただけではなかなか難しいです。でも、美
馬篠のみんなが協力してくれましたから」
「へえ、美馬篠高校というと衣笠(きぬがさ)さんや無双(むそう)さん達か。
心強い味方だね」
「ええ、本当に。マジックの知識は僕一人じゃ全然だめだから、みんなに教え
てもらったり調べてもらったりして、やっと形にできたんだぁ」
 最後の「できたんだぁ」に嬉しさがぎゅっと詰まっている。きっとそうだ。
「私が思うに、台車と服と隠れるスペース、これらが特に重要だったね」
 芝立さんが口を挟んだ。彼女こそ、マジックを実現する道具を作ったリーダ
ーだという。ちなみに、切断後の上半身は笹川さん本人が膝を抱える格好をし
て演じ、下半身は“刺されて寝込んでいたはずの”芝立さんが、ベッド下のス
ペースに横たわって熱演していたのだ。斬り付けてくる動きに合わせ、小型の
台車を利してタイミングよく跳び、切断されたように振る舞うのである。
「種明かしもいいが、さっきの元ネタのホームページが矢張り気になるな。三
鷹君、あとでいいから、そのページについて教えてほしいんだが」
 名探偵の求めに、三鷹さんは力強く請け負った。
「お安いご用。さすがに記憶はしていませんけれど、調べがついたら、すぐに
でもお伝えします」
「サンキュー。ああ、話の邪魔をしてすみませんでした」
「それはいいんだけれど。――一つ気になっていたことがあったんだ。聞いて
いい?」
 芝立さんの質問の矛先は、三鷹さんと音無のようだ。二人を等分に見つめて
から、話を続ける。
「この出し物、十文字君が早くに解いてくれたから、スムーズに種明かしに移
れたけれどさ。もしも彼が悪戦苦闘して、翌日や翌々日に持ち越すようだった
ら、どうするつもりだったの?」
「自分も密かに思っていたぞ」
 真名雄さんが主張する。芝立さんの尻馬に乗っかったのか、本当に前から思
っていたのかは分からない。
「そんな心配は全くしていませんでした」
 きっぱり、即座に答えたのは三鷹さん。彼女は音無に顔を向け、「ね?」と
いう風に首を傾げてみせた。そのボディランゲージを受けて、音無も口を開く。
「十文字龍太郎は名探偵です。さっと解いてしまうに違いない。その前提で計
画を進めればよい。そういうことです」

――終




#460/598 ●長編    *** コメント #458 ***
★タイトル (AZA     )  14/07/01  01:26  (395)
遭遇、金星と冥府の士 <下>   永山
★内容

 土砂により不通になっていた道は、予告されていた三日で無事に復旧した。
僕らは引き上げる前に、隣(といっても八百メートルほど離れていることがあ
とで分かった)の貸別荘に八神さんを訪ねたんだけれど、すでに出発したあと
だった。足腰の悪い人を含んでいれば、一刻も早く安心できる場所に移りたい
と考えるのは当然か。
 かような次第で、八神さんと再会したのは、旅行から戻って二日後だった。
 土砂災害のせいで旅程が狂ったことは、七日市学園にも伝わっていた。無事
の帰宅を改めて報せるために、十文字先輩と僕とで学校に出向いたのだけれど、
そこに八神さんも来ていたのだ。
「あのときは連絡なしに、さっさと帰っちゃって、ごめんなさい」
 学校側への報告を済ませたあと、僕らと八神さんは合流し、校内のカフェに
あるオープンテラスに陣取った。風通しがよく、ちょうど日陰になる時間帯で
もあったので、夏の昼前とは思えぬほど快適だ。学園内の店は基本的に夏期休
暇中は休みだから、何かを注文することはできない。代わりに、缶ジュースを
めいめいが買ってきた。
「僕らは全然、気にしていない。多分、音無君もね」
 先輩が些かフライング気味に請け負う。そんなことよりもと話題を換えた。
「八神君がここに入った経緯に、興味があるんだ。差し支えがなかったら、教
えてくれないかな」
「随分、ストレートな聞き方をなさるんですね。名探偵との噂を聞いていまし
たから、もっと手練手管を駆使した、巧妙な尋問をされるのかと」
「話したがっていない場合は、それもあり得る。でも、君の入学経緯は、隠す
ようなことではなかろうと判断したんだ。違ったかな?」
「隠すようなことではありませんが、プライバシーに関わる事柄ですよ。でも
ま、かまいやしません。聞くところによれば、こちらの学校では、芸能に関わ
る特待生は入学間もない時期に、全校生徒の前で特技を披露するのが伝統にな
っているようですし」
 気を悪くした様子は欠片もない。八神さんはソバージュをかき上げ、ほとん
ど表情のない顔に笑みを載せた。
「そう云うからには、八神さんは芸能関係で?」
「違います。変な言い方をして、誤解させてしまいましたね。私は普通に編入
試験を受けて、合格した。それだけです」
「そうなんだ? いや〜、四月の下旬頃に転入なんて珍しいから、てっきり、
よほどの事情があるに違いないと思ったよ」
「ご期待に添えなくて、申し訳ないです。これといって図抜けた特技はないん
ですよ。強いて挙げるなら、運動が得意なぐらいで」
「運動で思い出した」
 十文字先輩は両手を一つ打ち鳴らし、僕に視線を向けてきた。話を引き継げ
ということだろう。
「八神さんは何かスポーツをやってるの? 武道方面で」
「――音無さんが云ったんですね?」
 勘が鋭い。意表を突かれ、ジュースでむせてしまった。そんな僕が肯定も否
定もしない内から、彼女は続けた。
「音無さんなら、気付いても不思議じゃないか。慧眼ですね。私、護身術のよ
うなものを、幼い頃から習ってます」
「護身術かあ。興味あるな」
 十文字先輩が感嘆したように云った。
「名探偵に必要なものは色々あるが、言葉二つで表現するなら、頭脳と力だろ
う。頭脳労働の方は、独学でも高められる。しかし、護身術や捕縛術となると
限界がある。いずれきちんとした形で習得したいんだが、機会がなかなかなく
て」
「私が習ったのは、独学ではありませんが、我流ですので、教え方が系統立っ
ていないんですよ。それでもよろしければ、練習相手を見付けるぐらいならで
きますけど」
「こてんぱんどころか、ぼろぼろにされそうだ。一応、考えておくけど」
 苦笑交じりに先輩が云ったそのとき、僕の視界に女生徒の姿が入って来た。
一瞬で音無だと認識する。彼女も同じく報告に来て、その帰りに違いあるまい。
「おーい」とこっちが呼ぶまでもなく、音無の方から近付いてきた。やけに早
足だ。
「八神さん、お久しぶり」
「先日はお世話になりました。音無さん、ありがとう。他の人達からも、感謝
を伝えてほしいと頼まれていて……今日は持って来てないけど、菓子折を受け
取ってね」
「あ、ああ」
 戸惑う音無に、先輩がこれまでのおしゃべりの内容を伝えた。音無が興味を
示したのは、当然、護身術のこと。
「差し支えなければ、どのような術なのか、見てみたいのだが」
「競技じゃないから、見せることを前提にしていないんだけど……将来、チャ
ンスがあればご披露できると思うわ。同じ学校なんだしね」
「それはたとえば、今ここで誰かが躍りかかっても、対処できるという意味?」
 和やかに話す八神さんに比べると、音無の口調はいつも以上に固く、その内
容も少々物騒だ。
 緊張感が一気に高まる場を和ませるためには、僕が護身術の実験台になれば
……なんて考えがよぎったが、さすがに実行はしない。
「うまく対処できるか、分かりません」
 八神さんの方は、これまでにない満面の笑みを見せた。
「相手が武の達人だったり、強力で有効な武器を持っているなら恐らく負ける。
という以前に、そんなときは逃げるだけよ。私が相手を制するのは、制する必
要がある場合のみ」
「分かった。答えてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。――逆に、私が音無さんに相手してもらうというのは、
無理?」
「え?」
 云わんとすることが飲み込めない。そう感じたのは、音無当人だけでなく、
僕も、十文字先輩でさえも同様だった。
「剣道の練習試合で、音無さんと一戦交えてみたいなってこと」
 八神さんの意図を理解して、僕は唐突に無茶なことを云い出すなあ、ずっと
笑ってたけれど内心では怒ってたのかも、ってな感想を抱いた。
 でも、音無の反応は少し違った。
「練習?」
 音無は急な試合申し込み自体はスルーして、練習という但し書きに引っ掛か
りを感じたようだ。
「公式戦ではないというニュアンスよ。近く、大会がある訳じゃないでしょ? 
あったとしても、今からエントリーが間に合うはずないし、だいたい、私って
剣道の経験あんまりないの。ただ、音無さんの強さを体感してみたいのよ。そ
うしたら、悔しくて私も術で強さを見せつけてやるって思うわ、きっと」
「そういうことなら、練習試合という名目でかまわない。私も大会に出ること
を目標にしていないし。期日はいつがよい?」
「今日と明日は予定があるので、明後日。そうね、涼しい内にやりたいから、
朝九時。どう?」
「問題ない。場所は学校に申請すれば、格技場を使えると思う」
「可能であれば、場所はグラウンドがいいわ」
「グラウンドとは、ここの運動場? ……了解した」
 こんな突拍子もない要求さえ、ほんのコンマ数秒考えただけで受け入れた。
そればかりか、音無にしては珍しい、ジョークで切り返す。
「だが、面や胴着、袴は着用してもらいたい」
「それはもちろん。持っていないから、借りられるかしら」
「だったら、すぐにでも合わせておいた方がいい。早速、剣道部に話に行かな
いと」
 音無と八神さんは、席を立つと、足早に校舎の方へ歩いて行った。
 やり取りが気になり、腰を浮かたが、着いて行くほどでもないだろう。僕は
座り直し、十文字先輩に話し掛けた。
「大丈夫ですよね」
「些か唐突に試合をすることになったにしろ、喧嘩をする訳じゃないんだから。
僕は他に気になったことがある。君もそうじゃないか?」
 意味ありげに僕を見やってくる。少し考えて、「音無さんが挑戦的だったこ
とですか?」と云ってみた。
「その通り。彼女らしくない。少なくとも、僕の知る音無君は、礼節を弁え、
自己をコントロールできる。会うのが二度目の相手に挑発的な言葉を吐いたり、
試合をしようなんて云い出したりはしない」
「ですよね。一体、どうしたんだろう……」
「初対面の印象が悪かったとも思えないしね。もし悪かったなら、食料の提供
を断ったはずだ」
「断らないまでも、悪印象が態度に出るもんだと思います。今思い起こしても、
あのときの音無さんは……何か緊張していたような」
「ふむ。僕の見方は少しだけ違う。緊張だけなら、あんな災害時に初対面の人
と話をしたんだから、あり得る。あれは、驚いていたように見えた。得体の知
れないものを見た、という風な」
「はあ」
 僕より先に、しかも長く、あのときの音無を見ていた先輩の言葉だから、き
っとそれがより正しい印象なんだろう。
「しかし、八神さんのどこに、そんな驚く要素があります?」
「……分からないな」
 さしもの名探偵も黙り込んでしまった。

 二日後の午前九時。
 音無と八神さんの剣道勝負は、予定通り、七日市学園のグラウンドで行われ
ることになった。といっても、運動場の真ん中ではなく、片隅だが。剣道場と
同じスペースを確保し、地面をざっとならし、仕切り線を引いただけの、まさ
に野試合だ。
 三人の審判は、夏休み中とあって剣道部員がつかまらなかったので、剣道部
の顧問と剣道経験のある先生にお願いした。副審のどちらかがタイムキーパー
を兼ねるという。
 勝敗は三本勝負の二本先取。一本の時間は三分(高校生は通常四分だが、八
神さんの剣道歴を鑑み、短く設定したとのこと)。制限時間内にけりが付かな
い場合、その回は引き分けとみなし、攻勢の優劣による旗判定はなし。延長戦
もなしとする。
 なお、立会人という名目で、僕と十文字先輩が見学することになった。
 先に現れたのは、音無。すでに胴着と袴を装着し、右手に袋に入ったままの
竹刀を持ち、左の小脇に面を抱えている。竹刀の先には、小手が紐で絡めてあ
った。
「――草履? わらじか?」
 先輩が呟いた。それで僕は音無の足下に注目した。確かに、野外の試合で何
を履くのかは注目すべき点と云える。音無はわらじを履いてきた。履き慣れて
いるのか、特に不便そうではない。
 ところが、音無は剣道部顧問に近寄ると、質問を発した。
「先生。試合場には素足で入るべきでしょうか」
「あ、いや、それは……この場合、個人の自由ではないかと思う」
 予想外の質問だったようだ。そもそも、ルールブックにそんなことまで書か
れているのだろうか。野試合のときは履き物の着用をよしとする、なんて風に。
 ともかく、先生の返答を受け、音無は考え込む仕種を覗かせた。……こっち
は、凜々しい横顔に見とれてしまいそうになる。
 結局、どうするか分からぬまま、試合場の数歩外に敷かれたビニールシート
の上で、待機する音無。手ぬぐいを折り、頭部に巻く準備を始めた。
 その所作を待っていたかのように、八神さんが姿を現す。矢張り胴着と袴を
身につけ、面を小脇に抱えている。異なっているのは、右手に握られた竹刀が
大小二本であること。もしや、二刀流? 八神さんの嗜んでいる護身術では二
刀流が有効なのだろうか?
「スニーカーだ」
 再び、十文字先輩の声。まさかと思ったが、本当にスニーカー履きだ。おろ
したてのような白のスニーカー。
「でも、靴の中は素足みたいだな」
 これまた先輩の観察通り。成り行きを見守っていると、八神さんもまた、ビ
ニールシートの上で最後の支度を始めた。スニーカーを脱ぐと素足だった。
 双方、面を着けた。体格はほぼ互角。胴着に名前が記されている訳でもない。
それでも、後部より覗く髪のおかげで、見分けるのは簡単だ。ポニーテールが
音無で、ソバージュの名残が感じられるのが八神さん。ああ、それに一方は竹
刀を二本持っている。
 小手の装着も済み、いよいよ準備が整った。
「これより練習試合を始める。両者、前へ」

 一礼して試合場に足を踏み入れる。注目の足元は――二人とも裸足になって
いた。
 それぞれ二歩進んで、互いに礼を交わし、また三歩進んでから蹲踞の姿勢を
取る。音無が白で、八神さんが赤。こういった光景を見たことは何度もあるが、
二刀流は矢張り異様に映る。
「――始め!」
 主審の声に両者立ち、己の距離を保とうと足を運ぶ。すぐさま、音無がどっ
しり構え、八神さんがその周囲を回る格好になった。
 これはあとで知ったのだけれど、二刀流の長い方の竹刀、大刀は一刀の竹刀
よりも上限が若干短く規定されているらしい。が、このときの僕の目には、ど
ちらも同じぐらいの長さに見えた。
 試合は、八神さんが仕掛ける素振りを見せると、それに呼応した音無が前に
出る。が、八神さんもうまく引くという動きが何度か繰り返された。相手がま
っすぐ下がったなら、音無がスピードに物を云わせて一気に打ち込むはずなの
だが、、そうできないのは、八神の下がり方に理由があるらしい。ストレート
に後退するのではなく、緩やかな弧を描くような足運びをしている。右にそれ
るか左にそれるかを見極めない内は、音無も迂闊に飛び込めない。
 膠着気味だった試合が、二分あまり経過したとき、動いた。急に突進をする
八神さん。音無は用心したか、迎撃の構えを取った。互いの剣先が届こうかと
いう刹那、八神さんが意想外の動きを見せた。
「あ!」
 器用にも、大刀を順手のまま上下逆にし、地面を勢いよく突いたのだ。猫を
思わせる動作で、ほぼ逆立ちの姿勢のまましなやかに身体を伸ばしきり、音無
の真横に降り立つ。いや、降り立つ以前に、小刀で小手を打っていた――らし
い。正直云って、極短い間のことで、僕には全てを把握できなかった。あとか
ら説明されて、ようやく事態を飲み込めた。
 八神さんの気合いの声とともに、赤い旗が揚がる……主審のみ。二人の副審
は明らかに迷っていた。
 試合は中断され、三人の審判が集まって審議に入る。
 これまたあとから聞かされたことだけれど、このとき揉めていたのは、主に
二つの点について。一つは、八神さんの打突が本当に有効だったか否か。確実
に小手を打っていたが、その繰り出した姿勢から判断して、有効とは云えない
のではないか。もう一つは、残心。逆立ち状態からすぐに元の姿勢に戻ったと
はいえ、八神さんの体勢はあまりにも不利。剣道における残心の要件を満たし
ていないのではないか。これ以外にも、竹刀を落としてはいけないというルー
ルもあるそうだけど、これに関しては握らずにいた時間はあったものの、落と
してはいないとの判断で、反則に当たらずと早めに結論が出た。
 最初の二点に関し、長い審議が続き、らちがあかない。そこへ、打たれた音
無が申し出た。
「有効な小手でした。私が認めます。早く二本目を開始してください」
 審議が続く間、面を取って待っていた彼女は、顔色こそ紅潮していたが、冷
静な声でそう告げた。審判達は、困惑したが、所詮は練習試合なのだという思
いもあったのか、割とあっさり認めて、一本目は八神さんの勝ちと判定した。
「認めてくれてありがとう」
 八神さんはそれだけ云うと、さっさと面を着けた。音無から返す台詞はない。
 両者とも足が汚れていたが、音無だけがタオルでぬぐい、きれいにした。八
神さんがそのままで二本目に臨んだのは、一本目の験担ぎか?
 二本目も八神さんは二刀流で来た。今度も、距離を測り、間の制し合いが始
まる。先ほどの超変則的な動きはもう通用しまいと分かっているのだろう、八
神さんはほぼ一刀と変わらない構えに変えている。一本目と違い、二人がそれ
ぞれ動き、円を描く形になっているようだ。
 一分が経過しようという頃、この試合で初めて鍔迫り合いの体勢になった。
それも長くは続かず、両者すっと離れる。それから様子見なのだろう、剣先を
ちょんちょんと当て合う。
「八神君は見た目以上にパワーがあるようだ」
 十文字先輩の感想。僕は音無を贔屓しているせいか、同意できなかった。音
無が少し押されたように見えたのは、いなしただけに違いない。
 二本の剣先が当たること数度、試合はまたも急に動いた。
 音無の竹刀がほんの僅か、深めに相手の竹刀を払った――と思ったら、八神
さんの手から大刀が消えていた。振り飛ばされ、地面に転がる。
 八神さんの「あ」という声が、確かに漏れ聞こえた。次の瞬間には、音無の
いつも以上に気合いのこもった声とともに面が打ち込まれ、三本の白旗が揚が
った。
 再三で申し訳なくなるが、これもあとから仕入れた知識になる。このとき音
無がやったのは巻き技とかいう、難易度のとてもとても高い技らしい。よほど
の実力差がなければ普通は決まらないという。本来の剣道の実力では、音無が
八神さんを圧倒的に上回っているという証拠なのか。
「はは……これはやられたわ」
 八神さんの独り言が、耳にはっきり届いた。多分、対戦相手に聞こえるよう
に云っている。
「こうなると、礼を尽くさなければいけない」
 会ってから今までになかった真剣な語調で呟くと、八神さんは小刀を手放し
た。三本目は二刀流をやめるという意思表示。試合途中で二刀流から一刀に変
える行為が、ルールで認められているのか知らないが、音無は受けて立つ姿勢
だ。
 審判からも異議は出ない。強弱を決するべく、三本目が始まった。
 いきなり、八神さんがダッシュした。鋭い踏み込み。音無に匹敵するかもし
れないスピード。それは戦法と云うよりも、獣の本能めいていた。最短距離で
命を取りに行く、そんな攻撃である。実際、八神さんの剣先は、のどを狙って
いるとしか思えない角度を行く。音無に避ける様子は見受けられない。
 危ない!と、僕が目を瞑りかけたそのとき、音無も前に出た。
 必要にして充分な、最小限の動きによる回避。見切りというやつか、これが。
物語に出てくる剣豪そのものだ。
 相手の、敵の竹刀をかわした音無は、胴を打った。いや、斬ったようにすら
見えた。
 音は高いが圧力のある声が響き渡り、長く続いた。音無の気勢が残る内に、
彼女の勝利が宣せられた。
「やった!」
 僕はつい、叫んでしまっていたかもしれない。

           *           *

(ようやく一人になれた)
 音無亜有香は内心でそう呟いた。申し訳ない気持ちがこれ以上膨らまぬよう、
十文字と百田が曲がった方向には振り返らないでおく。
 八神蘭との剣道勝負のあと、身支度をし、彼ら二人とともに帰路についた。
少し早い昼食に誘われたが、疲労を理由に断った。実際、事前に覚悟していた
以上に疲労感を覚えている。肉体的にも精神的にも。
(八神蘭……漠然と想像していたよりも、遙かに手練れだった)
 一本目で見せたあの変則的な戦法に、護身術の片鱗が見えた気がする。同時
に、違和感もあった。あれは護身と呼べるような術なんかではなく……。
(軍隊格闘技? それとももっと目的に特化した、殺傷術?)
 そういえばと思い返す。対戦後に、八神と言葉を交わす機会をいくらか持て
たのだが、そのときけろりとした顔で云ったものだ。「砂や石つぶての利用を
考えていたのに、思った以上にきれいに整地されていたから、当てが外れた
わ」と。本気だったか否かは分からない。
 音無が八神を最初から警戒の眼で捉え、その正体――隠している何かを知ろ
うと考えたのには、理由が当然ある。音無に備わった、気まぐれな特殊能力が
働いたためだ。
(百田君に憑いているのが見えたときは、多少驚きもしたが……一人か、せい
ぜい二人の影。十文字さんに付き従って探偵活動を行っていれば、あの霊のよ
うなものが憑く可能性が高まるのかもしれない)
 そして、霊のようなものは、八神蘭の背後にも見えた。あの災害時、別荘に
現れたそのときから、今もずっと。
(彼女の場合、数の桁が違った。霊らしきものが十は憑いている。探偵の経験
があるから、では片付けられない)
 では、他に一体どんな事情が考えられる? 家の近くに葬儀場か火葬場か病
院でもある? 親しい知り合いに戦場カメラマンがいる? あるいは家族の誰
かが死刑執行の役を担っている? 空想の翼を広げてみても、納得できる答に
辿り着かなかった。納得するのを、八神の洗練された肉体が邪魔をした。
(ほんの少し触れただけだが、只者でない鍛え方をしていた)
 直感は当たっていたと、今改めて思う。
(私達の側に生きる人間ではない気がする。害をなす存在でないのであれば、
こちらも無用な関わりは避けたい。矢張り、十文字さん達にも伝えておくべき
か……。しかし、理由を問われると困る。霊のようなものが見えるとは云えな
いし、納得しまい)
 最初の悩みに戻ってしまった。これがあるからこそ、十文字や百田に事の次
第を云えないでいた。
(今の時点では、静観する外なさそうだけれども……万が一に備え、柔の術も
身に付けることも考えねばならぬか。だが、生兵法は何とやら。柔術は基本に
とどめ、剣道の腕を磨くことこそ肝要)
 音無はそう心に刻んだ。そのあと、彼女は荷物を入れるバッグに、手を当て
た。布地を通し、角張った感触が伝わってくる。
(この菓子折、どうしたものかな)

           *           *

「そうそう、思い出した」
 十文字さんのそんな声に、僕は目線を上げた。
 僕らは定食屋さんに入り、ざる蕎麦を食べていた。蕎麦と云えば、音無の別
荘に遊びに行ったときを思い出す。あのときの名店の一品とは比べるべくもな
いが、ここのざる蕎麦はコストパフォーマンスがよい。夏の最中の昼食には、
持って来いだった。
「何をです?」
「剣道勝負の興奮冷めやらぬで、すっかり忘れていたが、『異形の騎士』事件
に関して、昨日、続報があった」
 以前から馴染みの八十島刑事を通じて、尾上刑事が報せてきたという。
「志木竜司の犯行である可能性が非常に高まり、身柄確保に動いたが、すでに
姿をくらませたあとだったそうだ」
「遅かった訳ですか……」
「それだけじゃあない。志木竜司というのも偽名だった。正確には、なりすま
しだな。志木竜司なる人物が某大学に籍を置いていたのは事実で、入学から程
なくして届けを出して休学した。その約一年後に復学するんだが、外見が似た
雰囲気の男が、志木になりすまして、復学届だけでなく履修届なんかも出し、
キャンパスライフを送っていたというんだ。実家から遠く離れて一人暮らし、
家族とのやり取りもほとんどない状況でこそ、可能だったなりすましだろうね」
「しかし、確か、マンションの管理人代理というのは、本物の志木竜司の叔父
が管理人だから、お鉢が回ってきたのではありませんでしたっけ」
 箸でつまんだ蕎麦を宙に止めたまま、質問をすると、先輩は「尤もな疑問だ」
と誉めてくれるような調子で云った。
「元々、志木竜司と叔父の間の交流も、まるで活発ではなく、顔を合わせたる
のが数年ぶりという状況だったらしい。本物の志木竜司自身が、他人との関わ
りを持ちたがらない質だった節が窺える」
「はあ。犯人にとって、好都合な人間だったんですね。それで、本物の志木竜
司はどうなったんでしょう?」
「分からない。偽志木と同様、行方不明だそうだよ」
「え? ちょっと待ってくださいよ。本物まで行方知れずなら、どうしてなり
すましがばれたんです?」
 息を荒くして喋ったら、薬味の刻み海苔が少しばかりテーブル上に散ってし
まった。拾い集めるのも何なので、そのままスルー。
「不可解な流れなんだが……匿名の電話があったと。公衆電話から若い女の声
で、大学と警察にそれぞれ一度ずつ、『志木竜司は志木竜司ではない。別人が
騙っている。調べる必要がある』ってな感じに一方的に喋ったんだってさ」
「うーん、何かその女も凄く怪しいような。情報は正しかったけれど」
「怪しいね。マンションでの『異形の騎士』事件だって、管理人代理に化けて
いた男が単独で行うには、タイムスケジュールがきつすぎる感じだしね。複数
犯である可能性の方が高い。その場合、匿名電話の主は犯行グループの裏切り
者か、もしくは偽志木を蜥蜴の尻尾みたいに切り捨てるつもりか」
「動機から絞れば、ある程度の見当は付くんじゃないでしょうか。一介の学生
である横田某を殺す動機のある人物が、そんなにたくさんいるとは考えづらい
ですよ」
「その辺りの詳しい報告はなかったが、警察は綿密に調べ上げるに違いない。
近い内に、はっきりするんじゃないか」
 十文字先輩の口ぶりを聞いていると、もうこの事件には関心を薄れさせてい
る様子だ。“異形の騎士”及び動く切断死体の謎が解明できれば、あとは警察
任せにして大丈夫だろう、そんな態度である。
 僕の思いを見透かしたかのように、名探偵が口を開く。いつの間にか、蕎麦
を食べ終えていた。
「今回は、事件の最初から関わったんじゃなく、途中で僕の方から首を突っ込
んだ形だったからね。その部分的な謎解きだって、半分以上は三鷹君や七尾君
の手柄だ。これ以上、美味しいところを持って行くのは、捜査に携わる人達に
失礼というもの」
「……ひょっとして、五代さんから何か云われました? そういえば、合宿も
もう終わった頃では」
「断じて、そのようなことはないよ、百田君」
 十文字さんは探偵から高校生の顔になって、苦笑いを浮かべて云った。

           *           *

 二十数年生きてきた内の数年を志木竜司として過ごした男は、軌道に乗りか
けた新たな人生に突如出現し、己の計画を破綻に追い込んだ宿敵の顔を確認に
来ていた。云うなれば、敵情視察だ。
(あれが十文字龍太郎か。話には聞いていたが、本当に高校生だとは)
 世に知られた名探偵に看破されたのならまだしも、あのような若造にしてや
られるとは。悔しさが男の奥歯を軋ませた。
(だが、見くびってはならない存在であるのは確かだ。俺の同胞で、月曜ごと
に殺人を重ねていた、“週明けの殺人鬼”の正体を見破ったのも、あいつだと
いうからな)
 男は将来、お礼をするつもりでいた。だが、命を奪う前に、やりたいことが
ある。やらねば気が済まない。今一度、奇妙奇天烈な事件を起こし、あの高校
生に突きつけてやる。解けるものなら解いてみろ、とな!

――終わり




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