AWC 「胃と壷」    時 貴斗


        
#1330/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/09/11  23:54  (187)
「胃と壷」    時 貴斗
★内容
 トーストを食べながら、私は新聞を読んでいた。その間から一枚のチ
ラシがはらりと落ちた。
 白黒の粗い写真を見た時、私は仰天した。揚台という、名の知られて
いない中国の陶芸家が作った大昔の壷だ。マニアでなければその値打ち
は分からない。百万出してもいいくらいのものが、たったの十万とは!
 まだ売れていないだろうか。ぜひ手に入れたい。
 古物商、別府ゼブルという名前をみつけた時、どこかで聞いたことが
あるな、と思った。私はパンを皿に置いたまま、広告に見入った。
 二十数年前、客の手にやけどをおわせたために引退した手品師だ。売
れっ子ではなかったが、その事件だけは覚えている。同一人物なのだろ
うか。
 明日は土曜日だ。行ってみなくてはなるまい、と思い、私は朝食をほ
ったらかしにして立ち上がった。
 ネクタイをしめる手に自然と力が入る。帰りに銀行に寄るのを忘れな
いようにしなければ。今日は学生達に、無名の芸術家の話でもしてやろ
うか。私の心は踊っていた。


 電車を乗り換えるたびに、風景は田舎になっていった。チラシに載っ
ていた場所は、高木に囲まれた豪邸だった。華やかな舞台から追放され、
今は古物を取り扱い、細々と暮らしている元マジシャンがいるのだから、
雑居ビルの狭いオフィスであるとか、そういう所を想像していただけに、
意外だった。
 自宅で商売をするとはどういうことだろうか。売るというより、自分
が持っている珍しい物を、安価でゆずってやるから取りに来てくれ、と
いった気持ちだろうか。
「あのう、広告を見てきたのですが。揚台の壷をぜひゆずって頂きたく
て」
「いやあ、よくいらっしゃった」
 にこやかに応対する別府ゼブルは、背の高い、がっしりとした体格の
男だった。白髪をオールバックにし、これもまた白い口ひげとあごひげ
をたくわえている。風貌こそ変わっているが、二十年前テレビで見た手
品師と同一人物であった。
「婆や、揚台の壷を持ってきてくれ。一番奥の右端にある、青いやつだ。
あ、それから」私の方に向き直る。「昼食はお済みになりましたか?」
「いえ、まだ」
「少し早いが、お昼にするから、それも持って来てくれ」
 控えていた老女が、一礼して出ていった。
「そんなにしていただかなくても。ただ壷を買いに来ただけなのに」
「いいんですよ。こんな田舎に引っ込んでいると、寂しくてね。店を構
えているわけでもないから、客なんてめったに来ません。あなたは大事
なお客様ですよ」
 そう言って、彼は声をたてて笑った。
「あの、昔手品師をやっていた、別府ゼブルさんではありませんか?」
「ああ、覚えてくれている人がいたとは。有り難いことです。しかし」
彼は急にまじめな表情になり、私の顔をのぞきこむようにした。「手品師
ではありません。魔術師です」
「こ、これは失礼しました」
 思い出した。別府はよく、自分のは手品ではなく、魔法だと言ってい
た。しかしそれほど大げさなものではなく、素人でもトリックを見破れ
そうな、安っぽいマジックだったような気がする。だいぶ前の事だし、
有名でもなかったので、よく覚えていない。
「おや? あなた、腕時計はどうされました?」
「え?」
 見ると、はめていたはずの時計がない。
「あそこですよ」
 指差す先、本棚の上から二段目にそれはあった。
「いやすみません」彼は微笑みながら立ち上がり、その安物を私に返し
た。
「ポケットから出したのなら、手品です。しかし、あなたの目を盗んで
あんな所に置くことなど、不可能ですよ。ではこれはどうです?」
 いつの間にかテーブルの上にワイングラスが二つ、出現していた。深
い赤色の酒が満たされている。
「私には生まれつき、不思議な魔力があるのですよ。トリックなどあり
ません。世間は信じてくれませんでしたけどね」
 別府ゼブルという名は地獄の最高君主、ベルゼブルに似ている。ヘブ
ライ語で「高い館の王」という意味だ。偉大なるソロモン王を連想させ
るために、後にベルゼブブ――「蝿の王」に置き換えられてしまう。
 そんな悪魔をきどっているのだろうか。


 運ばれてきたのは、ステーキだった。まだ昼間だし、あまり強い方で
もないので、酒は遠慮した。テーブルの端に空色の壷が置かれている。
「見事なものですなあ」
「中国を旅していた時に見つけたものです。こんな掘り出し物がその辺
の露店に、ひょい、と飾られていたのですから、びっくりしましたよ」
「ああ、いえ、さっきのやつですよ。ちょっと視線をそらせて、元に戻
すと、もうワインが並んでいる。どうやったのかさっぱり分かりません」
 この二十年の間に、相当腕を上げたようだ。きっと、舞台へのあこが
れが根強く残っているに違いない。
「どうしても手品だと思われてしまうのですね。まあ無理もありません。
常人には理解できないでしょう」
 別府はフォークを一振りした。折れ曲がっていた。
「いやはや、参りました。それだけの手さばきができるようになるまで
には、何年もかかったでしょう?」
 彼の笑顔が、一瞬凍りついたような気がした。
「私がなぜ引退したか、ご存知ですか」
「ええ、確か……」
「客の一人がいちゃもんをつけたんですよ。そんなのは魔術ではない。
そのトリックは、こうで、こうで、こうだと」別府は遠い昔を思い出す
ような目つきをした。「強情な奴でね。素人でもできる手品だと言って、
一歩も引かないんですよ。つい、カッとなってしまいましてね」
 まさか、たかがそれだけの事で?
「そいつを舞台に上げて、こう、手を握りましてね。力が入り過ぎて、
やけどをおわせてしまったんです。いえ、ごく軽いものですよ。ところ
がマスコミが騒ぎ立てましてね」
「でも、水酸化ナトリウムを使うなんて危険ですよね。倫理に反します」
「そんな薬品を使ったのではない。魔術なのだ!」
 別府がいきなりテーブルを叩いたので、びっくりした。
 彼は私を見つめた。口元は笑っているが、目の奥にどす黒くまがまが
しいものを感じ、背筋が冷たくなった。
「大学の先生はおかしなことを言う。しかしあなたの専門は薬学でも化
学でもない。考古学のはずでは?」
 どうしてそんな事が分かるのだ。
「たしか、テレビでそう言っていたのだったか、雑誌で読んだのだった
か」
「素人がよく知りもしないことを言うべきではない」
 少し腹が立った。なぜ手品ではいけないのだ。
「私だって学者のはしくれです。魔術などという非科学的なものを信用
できません。私が大学の教授だと分かったのも、何か特有の動作をした
とか、しゃべり方をしたとか……」
「あなたは、カノプスの壷をご存知ですか?」
 いきなり変な事を言う。
「ええ、古代エジプトでミイラを作る時に使われたものです。遺体の肺
臓、肝臓、胃、小腸をおさめるための、ふたが動物の形をした四つの壷
です」
「さすが考古学者だ。その四つの壷が、ほら、そこに」
 別府は鳥が翼を広げ、はばたくように両腕を動かした。ゆっくりと、
ゆっくりと。
 一瞬、めまいがした。風景が揺れた。と、いつの間にか本でしか見た
ことがないカノプスの壷が、テーブルの上に現れていた。
「偉大なる西の王よ、私の肋骨の細胞四つを捧げるかわりに、この者が
今申した内臓を壷に移したまえ」別府は奇妙な呪文を唱えた。
 まるで夢の中にいるようだった。風景が古い写真のように見えた。
「肺と、肝臓と、胃と小腸でしたかな? 今あなたのを移しました」
「バカな。そんなことがあるはずがない」
「一週間も我慢できないでしょう。あなたは再びここを訪れますよ」
 口中に残る肉の味が、すっかり消え去っていた。


 揚台の壷は、結局買わずに帰ってきた。その後がひどかった。食欲は
あるのだが、腹が満たされない。どんな料理も、あまりうまいと感じな
い。というより、味がよく分からない。なんだか砂をかんでいるようだ
った。呼吸はできるが、胸が苦しく感じる。感じるだけで、実際に苦し
いわけではない。例えて言えば、夏から秋への変わり目だ。気温は下が
りつつあるのに、暑いと思う。むしろ、生ぬるい。寒くもないし、かと
言ってちょうどいい温度というわけでもない。どういう状態だと、はっ
きり決められない。実にもどかしい。
 本当に内臓がなくなってしまったのだろうか。もしそうなら生きては
いない。それとも、食道から先が壷の中の胃につながり、小腸から体内
の大腸に通じているのか。
 三日たち、体重計に乗ると、六キロ減っていた。こんなバカな事があ
るか。
 別府は術をかけたのだ。だが魔法などではない。五日目、ついに私は
たまりかねて、休講にしてもらい、再び彼を訪れた。
「お願いです。催眠を解いて下さい」
「私が言った通りになりましたね。しかし、なぜ催眠術だとお思いで?」
 別府の目がぎらりと光った。
「他に考えようがありますか。いきなり壷が現れたのも、私の体調がお
かしくなったのも、それで説明がつきます」
「悲しいことですなあ。しかし壷は西の王に預けていますし、あなたの
内臓はその中ですよ」
 彼は眉を下げたものの、口元には嫌な笑みが浮かんでいた。
「ええ、ええ、あなたのが魔術だということは認めますから、早く元に
戻して下さい」
 別府は少し考え込んでいたが、立ち上がり、「いいですよ」と言った。
 両の手の平を私にかざし、気を送るように動かす。
「偉大なる西の王よ、私の髪の毛一本と引き換えに、預けた内臓を戻し
たまえ」
 腕をおろし、微笑む。
「これでもう大丈夫です。いや、大人気ないことをしました」
 ――だが、その後も胃腸は治らなかった。呼吸の不快感はなくなった
ものの、食べても食べても、満たされない。腹の中に真っ黒な穴が開い
て、料理が異空間へ放り出されてしまっているような、そんな感じだ。
空腹感はないが、少しずつ痩せていった。なぜなのか。別府は内臓を返
してくれたはずなのに。いやいや、催眠を解いてくれたはずなのに。
 それとも、彼とは関係なく、私は病気ではないのか? もはやそうと
しか考えられない。これは大変だ。明日にでも病院に行かなくては。そ
んなふうに思っていたら、突然別府が来訪したので驚いた。
 とりあえず上がってもらい、妻にチーズと赤ワインを用意するように
言った。
「ああ、お気使いなく。すぐに退散しますから」
「あのう、どうして家が分かったのですか」
 彼はそれには答えなかった。
「今日伺ったのは他でもありません。大変なミスをしてしまいまして」
「カノプスの壷のことですか?」
「そうです、そうです。いやあ、失礼。胃を戻すのを忘れていました」
 と言って別府はまた、意味のよく分からない呪文を唱えた。
「偉大なる西の王よ、私の脳細胞一つと引き換えに、この者に胃を返し
たまえ」
 途端に私の腹は張り、彼と初めて会った時に食べたステーキの味が舌
によみがえり、唾液さえ口中にあふれてくるのだった。
「じゃ、私はこれで」
 薄笑いを浮かべ出て行く彼を、私は呆然と見送った。


<了>




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