AWC お題>かげろう       青木無常


        
#1326/1336 短編
★タイトル (EJM     )  01/08/31  18:12  (190)
お題>かげろう       青木無常
★内容
「リエ、ブルー・ゾーンて知ってる?」
 と真奈美がいいだしたとき、私はああまたか、と思っただけだった。
 そっけなくいいえとこたえると、真奈美は静かに微笑みながら話をつづけた。
「別の世界のことよ。この世と幽冥(かくりよ)との境の世界。私たちがいるのとは
まったく別の、海の底みたいに平安にみちた安らぎの国」
 有名大出で一流企業のOLでもある真奈美は案の定、おちついた、それでいてど
こか熱にうかされた口調で説明をはじめる。いわく、イギリスの高名な心霊研究家
によって名づけられた、いわく、私たちの世界に隣接するかたちでゾーンはどこに
でも存在する、いわく、ゾーンによって古今東西のあらゆる神秘現象、超常現象は
説明づけることができる。いつものお題目。
 真奈美とは子どものころ、よくいっしょに遊んだ。いわゆる心霊少女の彼女と遊
びたがる子どもはいなかったから、当時は私がほとんど唯一の友人だった。
 あまり活発ではなかった真奈美と遊ぶときはたいてい、彼女の部屋だった。
 たわいのないおしゃべりを除けば女の子らしくお人形遊び、といったところが私
と彼女との交流の主たるところだったが、ときおりはまったく違った色の時間に支
配されることもあった。
 それが超常現象に関する話だった。
 もちろん、どこそこの交差点には交通事故で死んだ子どもの霊が地縛されている
とか、駅わきの踏切は自殺者の霊の吹き溜まりでそれにとり憑かれたひとがまた自
殺するとか、そういったたぐいの話を淡々と語るのは真奈美のほうで、私はもっぱ
ら聞き役に徹して彼女の一言一句に悲鳴をあげたり身を縮めたり抱きついたりをく
りかえしていた。ふだんは気の強い私がそんなふうにおびえたり心細げにしている
姿は真奈美にとっても快かったのかもしれない。何より私自身、おびえる一方で真
奈美のそういった話を心待ちにしている自分に気づき、どこかくすぐったいような、
奇妙な違和感をともなった吸引力を彼女に感じていたのはまちがいない。
 中学にあがる直前に親の都合で引っ越してから、真奈美とは音信不通が何年もつ
づいていたのだが、去年の春にふとしたことで再会を果たす。
 大学時代からひとり暮らしを始めていたけど、就職を機にマンションをかえた。
その引っ越しさきで、ひとつおいた隣室に住んでいたのが真奈美だったのだ。
 偶然の再会を境に私たちの交流は復活したけど、ひとつだけ昔とちがったところ
があった。子どものころにはあれほど真剣にきいていた真奈美の心霊話が、いまの
私には与太話にしか思えなくなっていたこと。
 大学時代、新興宗教にはまった友人がいた影響が大きかったと思う。どう考えて
もキリスト教と仏教のよせ集めにしか思えない教義を得々と語りつつ入信を強固に
勧める友人の語る話のなかには、かつて真奈美からきかされた心霊話と共通する部
分が少なからず見受けられた。はたから見ればおとぎ話にすら劣る整合性を欠いた
教義を本気で信奉する友人の姿に恐怖すら禁じ得なかった私にすれば、再会した真
奈美の語るむかしどおりの心霊話はむしろ牧歌的にすら思えたが、かといって少女
のころのように全霊でそれを受けとめるには私は育ちすぎたのかもしれない。むか
しと変わらぬ真奈美に安堵を覚えると一方で、うとましさを感じなかったといえば
嘘になる。
 ただ、再会を果たしてからは毎日のように私の部屋をおとずれる彼女だったが、
ときおり思い出したように幽霊話をはじめることを除けば特に問題があったわけで
もなく、むしろ真奈美の存在は私にとって歓迎すべき友人であることはまちがいな
かった。だから、なかば呆れつつも彼女がそのたぐいの話をはじめたときはおとな
しく聞き役にまわるのが常だった。もっとも、むかしのように心底から彼女の話に
浸かりこんで、ともに抱きあいおびえあうようなことはなくなってしまったけれど。
 だから、彼女がブルー・ゾーンとやらの話をはじめたときも、ああいつものあれ
だな、と思っただけで格別注意を払うことはなかった。
 あやしげな宗教がらみの話だったら、私ももうすこし気をつけていたかもしれな
い。いま思えばたしかに彼女は、とり憑かれたような目をしていたし、話自体もい
つもの心霊話とは微妙にちがっていた。
 だが私にはブルー・ゾーンとやらも地縛霊だの浮遊霊だのといった話も区別はつ
かなかったし、彼女が見せていたわずかな変調の兆しにもまったく気づいてはいな
かった。
 就職して二年め、いよいよ本格的な仕事もまかされるようになって忙しく、疲れ
ていたという事実もあった。帰宅するのは終電間際という日もたびたびあったし、
そういったときは真奈美の相手をしている余裕もなくあわただしくシャワーを浴び
てベッドにたおれこむのが常で、そんな時間にもかかわらず呼び鈴が押されること
も一、二度はあったが夢うつつのままきき流していたし、元来が控えめな真奈美に
は、むしろそういった行為こそ例外的で幾度もつづくことはなく、疲労と不本意な
がらの充実にまぎれてそういったことがあったという事実さえ忘れていた。
 それが、彼女の発していた救難信号なのか――あるいは、学生時代の友人のごと
くの、楽園への勧誘のあらわれであったのか、いまとなっては私には区別がつかな
い。
 けれど――少ない機会を得て訪れた真奈美が“ブルー・ゾーン”の話をするとき、
なんともいえぬ安らぎにみちた至福の表情を彼女が浮かべていたことだけは思い出
せる。
 宗教にはまった人間が吹き出させる、あのどうしようもなく独善的でおしつけが
ましいオーラを彼女が放っていたとしたら、疲れ果てていた私でも何かおかしい、
と感じたかもしれない。残念ながら、真奈美は一度を除いて最後まで控えめだった。
 唯一の例外。そしてもしかしたら――彼女をこの現実にひきとめておけたかもし
れない、おそらくは最後の機会。
 その日私は休日にもかかわらず仕事先から急の呼び出しを受けて、無給の奉仕を
謹上する羽目となった。陽の残るうちにマンションへ帰りつけたのはいつもに比べ
ればたしかに早かったけれど、休みをまる一日つぶされての帰宅はいつもにも増し
て疲労感を助長していた。
 はっきりいってあまり機嫌はよくなかったし、せめて残された就寝までの時間だ
けでものんびりと過ごしたい、と考えていたところへ真奈美の訪問を受けた。
 どうでもいいと思いつつ請われるまま彼女の部屋を訪れたのも何かの符合だった
のかもしれない。こともあろうに真奈美は「ブルー・ゾーンがまたあらわれたの。
いま開いてるのよ、口が」などと譫言としか思えないセリフとともに私を誘ったの
だ。
 そういえば近頃は真奈美のする話はもっぱらブルー・ゾーンに関することに限ら
れていて、しかもそれが自分の身近に何度となくあらわれるのだというようなこと
も確かにいっていたな、と何となくは思い出したが、もちろんいつもの話と区別は
つかなかった。
 邪険にするわけにもいかず、かといって真剣にとりあう気にもなれず、どうでも
いいから早く終わらせてゆっくり自分の部屋の湯船につからせてくれ、などと思い
つつ、いつになく強引に私の手をとって先導する真奈美にひきずられて彼女の部屋
を訪れた。
「ほら、あそこ」
 有無をもいわせず寝室まで私をひきずっていった真奈美が、得意げにベッドの上
をさし示す。
 ブルー・ゾーンがひらいていると主張する彼女の指さす先を見ても、最初ははっ
きりいって何もないとしか思えなかった。あまりにも一途に主張する真奈美の懸命
なようすを目にしていなければ、最後まで気づくことなくもう勘弁してくれと早々
に退散したかもしれない。しかたなしに彼女のさし示す方向に目をこらし――
 ベッドの端、ちょうど彼女の枕があるあたりの壁ぎわに、それを見つけた。
 何か、ゆらめくもの。
 いわれてみれば、どこか異界へとひらいた門のように見えなくもない、奇妙なゆ
らめき。
 空気の温度差によって現出するゆらめきのごとく、少し気をそらせば見えなくな
ってしまいそうなささやかな異象に過ぎなかった。事実、炎天下の路上ででもあれ
ば単なるかげろうの一言でかたづけられるだろう。室内のベッド上で起こるにはそ
ぐわない現象だが、当の真奈美自身に危機感が欠落しているどころかむしろそれを
歓迎している事実もあって、だからどうした、という程度にしか私には感じられな
かった。
 いちおうは本気で驚き、一瞬は目を見はりもしたが、少し視線をずらせば見えな
くなってしまう程度のゆらめきだったし、見ているうちにそれもやがていつのまに
か消えてしまった。いつなくなったのかもわからない。とにかく、手でふれてみよ
うとベッドわきまで足を運んだときには、もうすでにそのかげろうじみた異象は霧
消していた。
 気のせいだったのかもしれない。まるで子どものように懸命に異界の現出を主張
する真奈美のけなげさがいつのまにか私にも伝染し、一瞬だけ共通の幻を垣間見せ
ただけなのかもしれない。
 狐につままれたような想いで何もない空間に手をふりながら、私はそう考えた。
するとそれが唯一のあり得べき可能性と思われ、ついさっき目のあたりにしたはず
の奇妙な現象そのものが、気の迷いに過ぎなかったとしか思えなくなった。
「消えちゃった」
 そこはかとない喪失感をただよわせて真奈美がそうつぶやいたとき、一瞬は賛同
の想いを抱いたもののすぐにわれに返り、かといって彼女の思いこみを合理的な説
明で封殺する気にもなれず、疲れているからといい置いてひとり自室へと帰った。
 それから彼女が私の部屋を訪れたのは二、三度だったと思う。ブルー・ゾーンが
だんだん定着するようになったの、そういったようなセリフを真奈美は口にしてい
た。それ以外はあまりものをいわず、ただ夢みるような目であらぬ虚空をながめて
いた。例によって私は忙しさのあいまをぬっての在宅で、蓄積された疲労が気分の
大半を占拠していたから彼女の話をまともにはとりあわなかった。
 真奈美が私の部屋に来なくなったことに気づいたのは、うかつにもそれから一月
近くが経ってから。
 心配になって訪ねてみると、ドアをあけた彼女はまるで寝起きのようにうつろな
目つきであらわれた。
 瞬時、あまりの異様さに言葉を失い、まじまじと彼女の顔を見つめる。身だしな
みは整っているし血色も悪くはなかった。病気で伏せっていたというわけでもなさ
そうだが――どこか病んだものを感じたのだ。
 そんな私のようすには気づかぬように、彼女はうつろな表情でかすかに微笑んだ。
「ねえ、ブルー・ゾーンはどうなってるの?」
 冗談めかしてそうきいてみると真奈美はのろのろとうなずきながら、
「うん。もうすこしで入れそうだよ」
 気のぬけた口調でたしかにそういった。
 そのとき強引にでも、寝室に押し入っておけばと悔やんでいる。
 それを許さぬように真奈美は、じゃあ、といって呆然としている私の目の前で扉を
静かに閉ざした。思い返せばこれもまた、それまでの真奈美なら決してやらなかった
たぐいの行為だ。
 もう一度ドアを叩こうとしたが、思い直したのは――彼女が迷惑そうだったから、
というのは単なる理由づけ。ほんとうのところは、恐かったからかもしれない。
 ともあれその場は、そのまますごすごと退散し、その後も忙しさにまぎれて彼女の
部屋を訪ねようとはしなかった。気にはなっていたけれども。
 一週間。
 そのあいだに何が起こったのかはわからない。
 珍しく早い時間に上がることができた夜、彼女の部屋の前で所在なげにたたずんで
何やらささやきあう二人の女性に行き当たり、いやな予感を覚えつつどうかしたのか
と声をかけた。
 二人は真奈美の会社の同僚で、二週間近くも無断欠勤して連絡もとれない彼女のよ
うすを見るために、なかば上司に強要されるかたちで訪問したのだという。呼び鈴を
幾度押しても反応はなく、かといって外から見れば部屋には照明が灯されているので
不在だとも判断しきれず、どうしようかと相談していたところだったらしい。
 動悸を抑えつつ私も呼び鈴を押し、声を出して呼びかけながら何度もノックをくり
かえしてみたが、やはりいつまで経っても応えは返らなかった。
 同僚二人は、関わりあいにならず早く帰りたい、かといってこのまま帰るわけにも
いかない、という相反した気持ちに自縛されて身動きならないといったようすで、し
かたなく管理人に電話をする。勝手に部屋をあけるわけにもいかないと至極常識的な
主張をゆずらぬ管理人と四人、困惑の時間を無為に消費し、真奈美の実家や警察にま
で連絡を入れ、ようやく禁断の扉がひらかれたのは真夜中近くになってのこと。決め
手になったのはこのままでは帰るわけにはいかないが電車がなくなってしまう、との
妙齢の若い女性二人の懇願だった。
 ひらいた部屋のなかには、生活感が欠落していた。
 わずかに寝乱れたままのベッドが唯一、ひとのぬくもりを感じさせたが、それも何
かの事件の痕跡を感じさせるほどではない。なにひとつ異常などない、ただ主の姿だ
けを欠いた空疎な部屋。
 もちろん口にはしなかったけれど、あの日垣間見た、かげろうのような“何か”も
そこには、かけらさえ存在しなかった。
 ただそこに横たわっていた女性が忽然と消失したのだとでもいいたげに、申し訳程
度にひとの形を残したベッドがひとつ。
 何が起きたか想像がついたのは、たぶん私だけだっただろう。警官や管理人はもち
ろん、会社の同僚も特に真奈美と親しかったわけではないらしい。
 もちろん――私が想像した彼女の行く末も、単なる想像に過ぎない。身近なものに
はあまりにも突発的な、それでいて世間的にはありふれた、単なる失踪事件として事
態は処理されたし、私だってなかばはそうであるのだろうと考えている。彼女の心の
なかで何が起こったのかはわからない、でも、なにもかもを捨てて行方をくらませて
しまいたい何かが、彼女に起こったのだろう、と。財布や貯金、あるいは身のまわり
のものがなくなっている形跡がないという点も、割によくあることなのだと後に警官
が語っていた。
 けれども、なくしたと思っていた私の心のなかの――そう、小昏い部分は主張する。
 真奈美は、この世界ではないどこか、明と暗の境にある私たちには踏みだし得ない
どこかで、いまでも確かに存在しているのだと。
 そこが彼女の語っていたとおり、安らぎと平和にみちた楽園であるかどうかはわか
らない。ただ私の閉じたまぶたの向こうにいる彼女はいつも、かすかな笑みを口もと
に浮かべつつ静かに寝息を立てている。
                              かげろう――了




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