AWC お題>涙(上)       青木無常


        
#5493/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:37  (180)
お題>涙(上)       青木無常
★内容
 腐臭の底に気配を感じて、アリユスは顔をあげた。
 窓外には、眼前の惨劇に似合わぬ午後の陽光。人影ひとつ見あたらない。感じた
違和感の正体はつかめぬまま、あらためて室内の惨状に向き直る。
 かたわらで、口と鼻をおおったシェラが耐えかねた風情で上体を折った。
「だいじょうぶ?」
 同じく膝をついて少女の背中に手をかける。ごめんなさい、といいかけてシェラ
は激しくせきこんだ。
「外に出ていたほうがよくない?」
 背をさすりながらいう。少女は弱々しく首を左右にふったが、言葉は出ない。口
をひらけば充満した腐臭がなだれこむからだろう。
「待ってて」
 いいおいて立ちあがり、麗しき幻術使は結印した。口中で呪文をつぶやく。
 開け放たれた背後の扉から、びょおと風が鳴いた。吹きこんだ流れはすさまじい
勢いで縦横に逆まき、雑然とちらかされた家具類にさらなる無秩序をほどこしたあ
げく、腐臭とともに窓から外へと過ぎ抜ける。意志を持つ小さな台風のようだった。
 軽減した悪臭とひきかえに、民家の内部は文字通り足の踏み場もなくなったが、
苦情を申し立てる住人もおそらくいまい。なぜなら、かれらは臭気の源と化してい
たのだから。
「なにがあったのかしら」
 えずきのあいまにシェラがつぶやく。無論、アリユスにも答えなどない。
 室中の家具をなぎ倒しながらもがき苦しんだとおぼしき五つの屍は、どれもすさ
まじく腐敗していた。腐肉喰いの虫がむきだしになった臓器に小山とたかり、ぞわ
ぞわとうごめく。アリユスの風によって払われたはずの刺激臭がはやくも、濃密に
立ちのぼり始める。
 そして、床一面をおおった腐汁らしきもの。壁や卓上などにもかなり目につく。
汚液をしたたらせた巨大な蛞蝓のたぐいが、ところ狭しと這いまわりでもしたかの
ようだ。
 吐き気をこらえながら、異変の原因をさぐろうと懸命にあちこち視線をとばすシ
ェラに、アリユスはいった。
「出ましょう。ここにいても気持ち悪くなるだけ。何もわからないと思う」
 少女は素直にうなずく。
 開け放した扉をくぐり屋外の空気を吸いこんで、二人は同時に深い安堵の息をつ
いた。臭気は外にも立ちこめていたが、気になるほどではない。
 汚汁は小川わきの砂利道を、ずっと先へとのびている。
「里が……」
「あるでしょうね」
 眉根をよせるシェラのつぶやきを、アリユスがひきとった。
 道にできた吹き出もののごとき腐汁を追って、最初にたどりついた民家がこのあ
りさまだ。先にあるだろう人里の状況を想像すると言葉すら出ない。
 屋内の屍の腐り具合からすれば、かれらの悲劇的な死から数日は経過していると
思えたが――奇妙なのは家わきにしつらえられた竈に火が入っていることだ。かけ
られた鉄釜には野菜と香辛料を煮こんだ汁が、沸騰しながらもまだ底に残っている。
くべられた薪も余力は充分。
 太陽は中天を巡ってまもない。昼食のしたくがはやめに行われたのだとしても、
数刻と経ってはいない計算になる。
 そのあいだに、何が起こったのか。そしてたったそれだけのあいだに、平凡な田
舎家の家族とおぼしき五つの屍を腐敗させたのはいったい何なのか。
 答えは、つきまとう気配にあるとアリユスは考えた。屋内にいたときにかすかに
感じた、あの気配だ。
 幻術使は四囲をながめわたした。定かなものは何もない。
「何かさがしているの?」
 眉根をよせて少女がきいた。上の空で、ええ、とだけ答えつつ女幻術使はなおも
つかみきれぬ気配を追う。
 ぎくりとした。
 二人とも。
 シェラが幻術の弟子として、アリユスとともに旅するようになって一年ほど。多
少の術は会得したものの、まだまだ素人の域を脱していない。
 そのシェラにすら、はっきりと感じられるほどの異様な気配が、濃密に渦をまき
はじめたのである。
 そして不意に――
 二人は息をのんだ。
 眼前の路上に、もやが立ちのぼる。
 かげろうともとれるほどかすかなゆらめきが、見るまに渦をまきながら収斂し、
やがてゆっくりとひとつの形をとりはじめた。
 人の姿と思えた。
 戯画のごとき人の姿だ。
 ゆらゆらとゆらめきながら、顔かたちらしきものがひらめいては消える。定まら
ぬままにそれは音もなくたたずみ、ただ濃密な気配だけが戦慄と化して二人に吹き
つけてくるのだった。
「何か用かしら」
 アリユスが優雅な口調で問いかける。もちろん視線に油断は微塵もない。
 かげろうのようなものは――応えるがごとく、不安定なその像を前後にゆすった。
 と不意に、収斂と拡散をくりかえしていたその姿が凝結した。
 もやとも薄布ともとれる白い像であることに変わりはないが、明確に目鼻立ちを
備え、衣服まで着こんでいる。いや、衣服を模しているというべきか。
「あら」
「まあ」
 二人は同時に口にした。アリユスは感嘆、シェラのはとまどいが濃厚だ。
 さもあろう、もやのとった形は、どことなくシェラに似ていた。少女を男の子に
変えれば、こんな姿になるかもしれない。
「この波長はなじみやすい」
 白い少年は淡々とした口調でいった。シェラはますます困惑を深める。
 くすりと笑いをもらし――アリユスは真顔で少年に向き直った
「で、どういったご用向き?」
「おまえたちは何者か」
 即座に返った応答は、アリユスにも困惑を伝播した。
 頓着するふうもなく、白い少年はつづける。
「奇妙な気を放っている。人間ではないのか」
「あら失礼だこと。わたしたちのどこが人間に見えない?」
 アリユスは大げさに憤慨してみせた。
「人間にしては奇妙に気配が強い。おれは今日まで、おまえたちのような者に遭っ
たことがない」
「わたしは幻術使よ。この世界と――そう、あなたのいるそちらの世界との境目に
立って、こちらの理法を超えた力を借用するたぐいの人間、といえば理解してもら
える?」
「それは巫師のようなものか」
「ん、まあ近いわね」
 少年は――あるいは、少年の姿をかたどったものは、無表情にアリユスとシェラ
を見つめた。あげく、
「理解しがたい」ときた。「おれの知る巫の者は、何ら人間と変わるところなどな
かった。おまえたちは明らかに異質だ」
「喜んでいいのかしらね、このセリフ」苦笑しつつシェラの耳もとにささやき、あ
らためて異怪に視線を向ける。「ところで、そんなわたしたちにも教えていただけ
るかしら。あなたこそ何者?」
 淡々と少年は答えた。
「おれは神だ」
 アリユスは寸時、疑わしげに眉をひそめた。が、かたわらのシェラが心底から驚
いた顔をしているのに気づき、思わず苦笑する。
「で」やや緊張を解きつつ、あらためて問いかける。「この状況を招来したのは、
もしかして神であるところのあなた?」
「否であり、応でもある」
「あら哲学的。さすが神さまだわ」皮肉じみたセリフにも、眼前の“神”は顔色ひ
とつ変えなかった。「でもわたしたち、神さまの理解力にはとうてい及ばないの。
申し訳ないんだけど、そんなわたしたちにもわかるように説明していただけないか
しら?」
「よかろう」“神”は真顔でいった。「この所業は、わが肉体が行ったものだ」
「まあそうなの。では、あなたは何? 魂?」
「人間の言葉にあてはめれば、それがもっとも適切だ」
「じゃ、もうひとつ。あなたがその“肉体”とやらにこれをやらせているの?」
「ちがう」あいかわらず淡々と“神”はいった。だがその一瞬だけ――アリユスに
は、少年の姿をしたその者の顔貌に苦渋の色が浮かんだように思えた。「あれはお
れの制御を受けつけぬ」
「ふうん」つぶやき、アリユスはつぎの言葉を待ったが、少年の姿をしたものは真
顔で見つめ返してくるばかりなので、しかたなくきいた。「で?」
「おまえたちには、力がある。その力で、おれをおれの肉体に還すことはできるか?」
 眉間の皺をますます深めながら、アリユスは横目でシェラに視線を向けた。
 きょとんとしながらも、シェラは応諾の意志を視線にこめて見返した。ひとの頼
みを断れない娘なのだ。
 苦笑をもらしつつ、アリユスはいう。
「それは依頼?」
「依頼とは?」
「ひとにものを頼むときは、報酬を呈示するものよ。わたしたちがあなたに肉体を
とり戻させたときには、かわりにあなたは何をしてくれるの?」
「なるほど、そういうことか」口調に得心がこもった。「できることはいくつかあ
る。病を遠ざけるか? 家の不幸をとり除くか? 田畑に実りをもたらすか? 不
死や寿命の延長は、おれにはできない。子孫の繁栄も尺がながすぎるからだめだ」
「なんだかお参りの文句みたいですね」
 シェラが不思議そうに“神”に向かっていった。
 その言葉に、アリユスはハッとした。まさしくそのとおりなのかもしれない。
「あなたはこの近くに、神として祀られているのね?」
「そのとおりだ」
“神”は答えた。
 なるほど、とアリユスはつぶやく。
 土地に根づく精霊が、人間の築いた堂や社などに宿る例は少なくない。充分な力
を持ち、人間の言葉や意志などを理解できるものは、可能な範囲でその願いに応え
る場合もある。願いがかなうという評判が立てば、人々はいよいよその存在を神と
崇めたてまつる。そういった人間の意志や気を受けて、最初は小さな存在であった
としてもやがて“神”の名にふさわしいだけの風格と、場合によっては力を増幅さ
せていくこともないわけではない。
 通常、それらの存在は幻術使や賢者たちのあいだでは“地神”と呼ばれる。
 この“神”も、その地神のたぐいであろう。
「わかったわ」アリユスはうなずいた。「じゃあ、わたしたちに憑いている病のひ
とつも取り除いてもらえるかしら」
「よかろう」いって神は、つい、と手をひとふりした。「終了した。おまえには、
胃の腑によくないものがとり憑いていたのでそれをひねりつぶした。しばらくはだ
いじょうぶだろう。おまえは目に立つ病の源を持っていない。ほかの願いはあるか?」
 問いかけは、シェラに対してのものだ。
 少女はびっくりしたように目をむき、考えこんだ。あげく、
「わたしには何もありません」
「それは困る」地神は淡々と口にした。「何かないか」
 シェラは困惑しつつ、再び考えこんだ。自分の願いをかなえてもらおう、という
よりは、相手の要請に応える手段はないのかと懸命になっているのだと、アリユス
にはわかった。
 やがて、少女がおずおずと口をひらく。
「わたしの家族が、みんなで仲良く暮らせるようにしてもらえますか?」
「よかろう」地神は答え、瞑目した。が、しばらくもしないうちに再び目をひらき、
「だめだ。距離が遠い上に、おまえの家族に憑いているものはどれもひどく力が強
いか、あるいは魂に刻印された妄執が根づきすぎている。それに――おまえ自身に
も、おれには想像すらつかぬほどの存在が憑いているな」
 ハッとしてシェラは、アリユスと目を見交わした。
 ほかに願いはないか、と神は重ねる。
 少女は哀しげに首を左右にふった。
「それでは、おまえはおれの要請を受け入れることができぬ」
「だいじょうぶです」とシェラは、努めて明るくうなずいてみせた。「わたしはア
リユスの弟子だから、アリユスが報酬をもらったなら、わたしもわたしにできるこ
とは何でもします。いきましょう」
 有無をもいわさぬように、率先して歩きはじめた。
 アリユスは“神”の顔を見た。“神”は見返すことなく、すたすたと先をいく少
女の背中を追いはじめる。あわてて後に従いながら、瞬時見た横顔に困惑を見出し
たのは気のせいなのだろうか、と疑問を浮かべた。




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