AWC 鼻親父と豆腐の美女(1)    時 貴斗


        
#5487/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/23  23:58  (182)
鼻親父と豆腐の美女(1)    時 貴斗
★内容
  やかん

 腹が減ったので、カップラーメンを食うことにする。流し台の前に行
き、水道の蛇口を見つめる。白く汚れているのを見るたび、嫌気がさす。
ガスコンロの上にはやかんが置きっぱなしになっている。ずいぶんと前
に入れた水は、そのままになっている。蓋を開けると、水に鼻親父がつ
かっていたので、私はとても嫌だった。目玉親父という妖怪がいるが、
それとよく構造が似ている。首から下は普通で――とは言ってもかなり
サイズが小さいが――頭は鼻なのである。いやいや、鼻の頭でもないし、
頭に鼻がついているでもない。頭が鼻なのである。こんなふうに頭、頭
と同じ言葉を繰り返していると、なんとなく違和感が生じてくるのは私
だけだろうか。あたま、あたま、あたまあたまあたま。あまたあまたあ
また。あったまたま。あれ、あたまでいいんだっけ? 
 鼻親父は甲高い声で、「おい、鬼太郎!」というようなことは言わなか
った。かわりにおっさんくさい低い声で、「あーあ、今日も疲れた」とつ
ぶやいた。
 もう少し水を注ぎ足した方がいいと思った私は、彼を驚かさないよう
に、慎重にやかんを持ち上げた。
 水を流し込むと、彼は「うわっとっと」という声をあげた。
「今日もラーメンかい? 骨がもろくなるよ」とけだるく言う。
「そんなこと気にしてたら、何も食えないさ。合成着色料に、合成保存
料。牛を殺して、肉を切り刻んでるんだよなあとか、魚はそのままの姿
で、焼いてるんだよなあとか、人間って残酷だなあとか、そういうの考
えてたら何も食えないよ」
「いやそういう事じゃないが、まあいい。めんどくさい」
 私はやかんをガスコンロの上に戻し、蓋をした。
「今日も今日とて桃の実を」中からくぐもった声が聞こえる。聞いたこ
ともない歌だ。「さんざん放って踊り出す」
 私は火をつけた。輪状に並んだ炎が揺らぐ。
「ラーメンの中にゴキブリがーああ、あんあ、たくさん並んでうごめく
よっと」
「いらいらするから止めてくれないか」私は抗議した。
「はーあ、疲れた」彼は憂鬱そうに言った。
 私は居間に戻り、座布団の上にあぐらをかいた。卓の上にプラスチッ
ク製の弁当箱や、空になったラーメンのカップが散乱している。捨てな
ければならない。しかしゴミ箱はいっぱいだ。だからまず、下のゴミ捨
て場に行かなくてはならない。だが外は寒い。
「タンスの中からお巡りさん、『失礼します』と進み出る」
 流し台の方から小さく歌声が聞こえる。
「麺を口に入れるとーお、途端にぬるぬる這い回る」
 嫌な奴だ。
 私は膝でにじり寄って、テレビの上に三つのっているカップラーメン
の中から一つを取り上げた。ビニールをはがし、ふたを半分開く。中の
いくつかの小袋を出し、粉末スープとかやくを麺の上にふりかけた。
 こうしてまた、卓上にゴミが増えていく。
 やかんには沸騰したことを知らせる笛がついていない。鼻親父待ちだ。
彼がいて助かるのは、その点だけだ。
 壁のしみを見つめる。だんだん人の顔に見えてきた。目をつり上げ、
口を大きく開いている。
 他のしみも見ていろいろなものを連想しているうちに、湯がわいてき
た。ごごご、という音が聞こえる。
 おや、鼻親父の歌が聞こえない。どうしたのだろう。まさか、溶けた
のではないだろうな。ふたを開けて、スープ状になっていたら嫌だな。
まあ、そんなことは今まで一度もなかったので、大丈夫だとは思うが。
 湯の音が徐々に大きくなっていく。私の不安もふくらんでいく。
「ピー! ピー、ピー!」
 突然、親父は甲高い声をあげた。私は跳ねるようにして立ち上がり、
やかんの前に行った。
 ふたを開けると、もうもうと湯気がたちのぼる中に彼の姿がかすんで
見えた。
「はーあ、いい湯だわい」
 彼は耳親父になっていた。
 私はとても嫌だった。


  風呂と爺さん

 風呂場に入ると、異様な者がいた。ユニットバスで、バスタブの横に
様式の便器があるのだが、それに見知らぬ爺さんが入っている。いや「入
っている」という表現はふさわしくない。彼はすっぽりと便器にはまっ
ているのだ。上半身と、ひざから先だけが見えている。
「よう、先に使わせてもらってるよ」
 爺さんは頭にのせたタオルを手に取ると、顔を拭き始めた。少ない毛
が濡れて頭にへばりついている。背は小さく、痩せている。
「いや……」と言いかけたが、何も言葉が浮かばず、仕方なく湯船につ
かった。
「相変わらず寒いねえ」
「ええ、まあ」私はあいまいに返事をした。
「マラソンしてきたのかい?」
「いえ、今日はしていません」
「てっ! 三日坊主かい」
 そう言われても、困ってしまう。健康のために夜走ることを始めたの
は、一年も前だ。しかし毎日というわけではない。やる気がしない時に
は無理に走らないのだ。とは言っても、三日のうち二日はそういう気分
だが。しかし私は、それを彼に説明するのが億劫だった。
「おや、湯があふれそうだけど、いいのかい?」
 言われて初めて気づいた。水かさが徐々に増してきている。蛇口から
は一滴の湯も出ていない。なぜだ。
「魚が全然売れなくてねえ」魚屋なのか? 「不景気だねえ」
 ついに湯船からあふれだした。その勢いはどんどん増していく。
「あ、そうそう、八百屋の奥さん、おめでただってよ」
 まるで滝のようだ。床に湯がものすごい勢いでたまっていく。
「あの、これ、どうなってるんですか」私は怖気づいて言った。
「次から次へと、よく作るねえ。もう八人めだぜ」
 ついに湯船が水没した。
「家計は大丈夫なんだろうかねえ。火の車だろうぜ」
 そんなことはいい。そんなことはどうだっていいのだ。
 私の体は浮き始めた。爺さんも浮いていた。便器からは抜けたようだ。
「あの、そこのドア、開けてくれませんか。早く逃げないと」
「八百屋の売上げで育てていくのは、大変だあ」
 ひょっとして、ドアの隙間から漏れ出しているのか? だとしたら台
所は水浸しだ。いやそんな事を言っている場合ではない。
「このままだと、天井に着いちゃいますよ」
 室内が湯で満たされたら、息ができなくなってしまう。こんなふうに
溺死してしまうのは嫌だ。
「しっかりしなよ。上よく見てみな」
 いつの間に開いたのか。天井には人一人が通れそうな四角い穴があっ
た。
 ついに穴のすぐ下に来た。私は腕をのばし、縁につかまった。どんど
ん水位が上がって、私は上に出た。
 そこは廊下だった。だが私が住んでいるボロアパートではない。立ち
上がり、足元を見るが、何もなかった。ただ体から滴る水が床を濡らし
ているだけだった。
 爺さんはどこに行ったのだろう。そんなことより、何とかしないと。
誰か来るとまずい。素っ裸のところを見られてしまう。私は廊下を進み
始めた。
 途中に、ドアがあった。中から鼻歌が聞こえる。爺さんの声だ。
 勢い良く開けて入ると、彼はすでに服を着ていた。赤いトレシャツに
トレパンという変な格好だ。そこはスポーツ選手が使う着替え室のよう
な部屋で、ロッカーが並んでいた。
「へっくしょい!」爺さんは威勢良くくしゃみをした。「湯冷めしちまっ
た」


  金太郎飴

 鏡に映る像はなぜ左右が逆で、上下は逆にならないのか不思議に思う
人もいるだろう。そういう人は寝転がって鏡を見ればいい。ほらね、ち
ゃんと上下が反転したでしょう?
 え、しないって? それは向かい合っているからであって、鏡に映っ
た自分と、実際に存在する自分を横に並べて見ることができたとしたら、
頭と足の位置関係が逆になっているはずだ。
 そんなことは不可能だって? そりゃそうだが。しかし、よく考える
と普通に顔だけ映った場合でも、それを横に並べて見ることはできない。
わざわざ写真でも撮らない限り。
 待てよ? すると私は、鏡に映る顔が左右反対になっていると、どう
して分かったのだろう。
 そうだ、金太郎飴だ。彼の顔を見て知ったに違いない。
 金太郎飴を製造する過程を考えるだけで、嫌気がさしてくる。目の部
分、口の部分、そういったパーツを細長く作っていく。それを職人の熟
練した技術で、正しい位置になるように他の飴で巻いていくのだ。違う
かもしれないが今はそういうことにしておいてほしい。
 その技を習得するためには、気が遠くなるほどの修行が必要だろう。
金太郎飴の職人でなくて良かったと、つくづく思う。
 ふとした疑問がわく。私が金太郎飴を見たのは、何年前のことだろう。
いや生まれてこの方、そんなものは見たことがないのかもしれないぞ。
 テレビで見たのは、おぼろげながら覚えている。しかし二つに折った
のを並べて放映したのではないのかもしれない。
 金太郎飴とは、どんな味のものなのだ。金太郎飴とはいったい、何な
のだ。
 私はどうすればいい。誰か教えてくれ!
 おおそうだ。確かめなくてはならない。熊を倒していい気になってい
る、その傲慢な面をおがんでやるのだ。
 私は近所を歩き回った。スーパー、お菓子屋、コンビニエンスストア、
そういった場所には、置いていなかった。この現代社会で、いったいど
こに行けば手に入るのか。
 電車に乗り、三つめの駅で降りた。古き良き時代の風情を頑なに守っ
ている駄菓子屋があったはずだ。一時間ほどかかって、ようやく見つけ
出した。
 その店にはお婆さんがいた。顔中しわだらけの、小さい老婆だ。金太
郎飴は隅っこの、しかも一番下の棚にあった。心の中で大はしゃぎし、
しかし表情はあくまでも平静を装い、金を払い店を出た。
 ガチャガチャがあったので、なつかしく思いながら百円を投入した。
ハンドルを回すとカプセルが出てきて、中に小さなおもちゃが入ってい
る、子供にささやかな喜びを売るマシンである。昔は十円、二十円程度
のものであった。
 この機械の呼称は「ガチャガチャ」でよかっただろうか。自分でそう
思いこんでいるだけで実は誰もそんな名では呼んでいないのかもしれな
い。
 幼少時に見たのと比べ、ずいぶんと大きなカプセルを開けると、ロボ
ットの形をしたゴム製の人形が出てきた。ロボットのくせにぐにゃりと
曲がっている。
 私は安らいだ気持ちで帰った。もはや金太郎に対する憎しみもなかっ
た。
 まな板に飴をのせ、包丁で切ろうとするのだが、うまくいかない。な
ぜ拒むのか。のこぎりを使うように引いては押しを繰り返し、最後には
刃を叩きつけてようやく切断することに成功した。
 私はやっと、金太郎と対面した。二つの顔は左右が逆に……あれ?
 彼の顔は左右対称であった。どういうことだこれは。私は慌てて鏡の
前に駆け寄った。二本になった飴をつきだした。
 そこには、二つの書類に同時にはんこを押そうとでもしているように
飴をかまえた、仁王の表情をした私の姿があった。



#5487/5487 長編
★タイトル (VBN11820)  01/10/23  23:58  (182)
鼻親父と豆腐の美女(1)    時 貴斗
★内容
  やかん

 腹が減ったので、カップラーメンを食うことにする。流し台の前に行
き、水道の蛇口を見つめる。白く汚れているのを見るたび、嫌気がさす。
ガスコンロの上にはやかんが置きっぱなしになっている。ずいぶんと前
に入れた水は、そのままになっている。蓋を開けると、水に鼻親父がつ
かっていたので、私はとても嫌だった。目玉親父という妖怪がいるが、
それとよく構造が似ている。首から下は普通で――とは言ってもかなり
サイズが小さいが――頭は鼻なのである。いやいや、鼻の頭でもないし、
頭に鼻がついているでもない。頭が鼻なのである。こんなふうに頭、頭
と同じ言葉を繰り返していると、なんとなく違和感が生じてくるのは私
だけだろうか。あたま、あたま、あたまあたまあたま。あまたあまたあ
また。あったまたま。あれ、あたまでいいんだっけ? 
 鼻親父は甲高い声で、「おい、鬼太郎!」というようなことは言わなか
った。かわりにおっさんくさい低い声で、「あーあ、今日も疲れた」とつ
ぶやいた。
 もう少し水を注ぎ足した方がいいと思った私は、彼を驚かさないよう
に、慎重にやかんを持ち上げた。
 水を流し込むと、彼は「うわっとっと」という声をあげた。
「今日もラーメンかい? 骨がもろくなるよ」とけだるく言う。
「そんなこと気にしてたら、何も食えないさ。合成着色料に、合成保存
料。牛を殺して、肉を切り刻んでるんだよなあとか、魚はそのままの姿
で、焼いてるんだよなあとか、人間って残酷だなあとか、そういうの考
えてたら何も食えないよ」
「いやそういう事じゃないが、まあいい。めんどくさい」
 私はやかんをガスコンロの上に戻し、蓋をした。
「今日も今日とて桃の実を」中からくぐもった声が聞こえる。聞いたこ
ともない歌だ。「さんざん放って踊り出す」
 私は火をつけた。輪状に並んだ炎が揺らぐ。
「ラーメンの中にゴキブリがーああ、あんあ、たくさん並んでうごめく
よっと」
「いらいらするから止めてくれないか」私は抗議した。
「はーあ、疲れた」彼は憂鬱そうに言った。
 私は居間に戻り、座布団の上にあぐらをかいた。卓の上にプラスチッ
ク製の弁当箱や、空になったラーメンのカップが散乱している。捨てな
ければならない。しかしゴミ箱はいっぱいだ。だからまず、下のゴミ捨
て場に行かなくてはならない。だが外は寒い。
「タンスの中からお巡りさん、『失礼します』と進み出る」
 流し台の方から小さく歌声が聞こえる。
「麺を口に入れるとーお、途端にぬるぬる這い回る」
 嫌な奴だ。
 私は膝でにじり寄って、テレビの上に三つのっているカップラーメン
の中から一つを取り上げた。ビニールをはがし、ふたを半分開く。中の
いくつかの小袋を出し、粉末スープとかやくを麺の上にふりかけた。
 こうしてまた、卓上にゴミが増えていく。
 やかんには沸騰したことを知らせる笛がついていない。鼻親父待ちだ。
彼がいて助かるのは、その点だけだ。
 壁のしみを見つめる。だんだん人の顔に見えてきた。目をつり上げ、
口を大きく開いている。
 他のしみも見ていろいろなものを連想しているうちに、湯がわいてき
た。ごごご、という音が聞こえる。
 おや、鼻親父の歌が聞こえない。どうしたのだろう。まさか、溶けた
のではないだろうな。ふたを開けて、スープ状になっていたら嫌だな。
まあ、そんなことは今まで一度もなかったので、大丈夫だとは思うが。
 湯の音が徐々に大きくなっていく。私の不安もふくらんでいく。
「ピー! ピー、ピー!」
 突然、親父は甲高い声をあげた。私は跳ねるようにして立ち上がり、
やかんの前に行った。
 ふたを開けると、もうもうと湯気がたちのぼる中に彼の姿がかすんで
見えた。
「はーあ、いい湯だわい」
 彼は耳親父になっていた。
 私はとても嫌だった。


  風呂と爺さん

 風呂場に入ると、異様な者がいた。ユニットバスで、バスタブの横に
様式の便器があるのだが、それに見知らぬ爺さんが入っている。いや「入
っている」という表現はふさわしくない。彼はすっぽりと便器にはまっ
ているのだ。上半身と、ひざから先だけが見えている。
「よう、先に使わせてもらってるよ」
 爺さんは頭にのせたタオルを手に取ると、顔を拭き始めた。少ない毛
が濡れて頭にへばりついている。背は小さく、痩せている。
「いや……」と言いかけたが、何も言葉が浮かばず、仕方なく湯船につ
かった。
「相変わらず寒いねえ」
「ええ、まあ」私はあいまいに返事をした。
「マラソンしてきたのかい?」
「いえ、今日はしていません」
「てっ! 三日坊主かい」
 そう言われても、困ってしまう。健康のために夜走ることを始めたの
は、一年も前だ。しかし毎日というわけではない。やる気がしない時に
は無理に走らないのだ。とは言っても、三日のうち二日はそういう気分
だが。しかし私は、それを彼に説明するのが億劫だった。
「おや、湯があふれそうだけど、いいのかい?」
 言われて初めて気づいた。水かさが徐々に増してきている。蛇口から
は一滴の湯も出ていない。なぜだ。
「魚が全然売れなくてねえ」魚屋なのか? 「不景気だねえ」
 ついに湯船からあふれだした。その勢いはどんどん増していく。
「あ、そうそう、八百屋の奥さん、おめでただってよ」
 まるで滝のようだ。床に湯がものすごい勢いでたまっていく。
「あの、これ、どうなってるんですか」私は怖気づいて言った。
「次から次へと、よく作るねえ。もう八人めだぜ」
 ついに湯船が水没した。
「家計は大丈夫なんだろうかねえ。火の車だろうぜ」
 そんなことはいい。そんなことはどうだっていいのだ。
 私の体は浮き始めた。爺さんも浮いていた。便器からは抜けたようだ。
「あの、そこのドア、開けてくれませんか。早く逃げないと」
「八百屋の売上げで育てていくのは、大変だあ」
 ひょっとして、ドアの隙間から漏れ出しているのか? だとしたら台
所は水浸しだ。いやそんな事を言っている場合ではない。
「このままだと、天井に着いちゃいますよ」
 室内が湯で満たされたら、息ができなくなってしまう。こんなふうに
溺死してしまうのは嫌だ。
「しっかりしなよ。上よく見てみな」
 いつの間に開いたのか。天井には人一人が通れそうな四角い穴があっ
た。
 ついに穴のすぐ下に来た。私は腕をのばし、縁につかまった。どんど
ん水位が上がって、私は上に出た。
 そこは廊下だった。だが私が住んでいるボロアパートではない。立ち
上がり、足元を見るが、何もなかった。ただ体から滴る水が床を濡らし
ているだけだった。
 爺さんはどこに行ったのだろう。そんなことより、何とかしないと。
誰か来るとまずい。素っ裸のところを見られてしまう。私は廊下を進み
始めた。
 途中に、ドアがあった。中から鼻歌が聞こえる。爺さんの声だ。
 勢い良く開けて入ると、彼はすでに服を着ていた。赤いトレシャツに
トレパンという変な格好だ。そこはスポーツ選手が使う着替え室のよう
な部屋で、ロッカーが並んでいた。
「へっくしょい!」爺さんは威勢良くくしゃみをした。「湯冷めしちまっ
た」


  金太郎飴

 鏡に映る像はなぜ左右が逆で、上下は逆にならないのか不思議に思う
人もいるだろう。そういう人は寝転がって鏡を見ればいい。ほらね、ち
ゃんと上下が反転したでしょう?
 え、しないって? それは向かい合っているからであって、鏡に映っ
た自分と、実際に存在する自分を横に並べて見ることができたとしたら、
頭と足の位置関係が逆になっているはずだ。
 そんなことは不可能だって? そりゃそうだが。しかし、よく考える
と普通に顔だけ映った場合でも、それを横に並べて見ることはできない。
わざわざ写真でも撮らない限り。
 待てよ? すると私は、鏡に映る顔が左右反対になっていると、どう
して分かったのだろう。
 そうだ、金太郎飴だ。彼の顔を見て知ったに違いない。
 金太郎飴を製造する過程を考えるだけで、嫌気がさしてくる。目の部
分、口の部分、そういったパーツを細長く作っていく。それを職人の熟
練した技術で、正しい位置になるように他の飴で巻いていくのだ。違う
かもしれないが今はそういうことにしておいてほしい。
 その技を習得するためには、気が遠くなるほどの修行が必要だろう。
金太郎飴の職人でなくて良かったと、つくづく思う。
 ふとした疑問がわく。私が金太郎飴を見たのは、何年前のことだろう。
いや生まれてこの方、そんなものは見たことがないのかもしれないぞ。
 テレビで見たのは、おぼろげながら覚えている。しかし二つに折った
のを並べて放映したのではないのかもしれない。
 金太郎飴とは、どんな味のものなのだ。金太郎飴とはいったい、何な
のだ。
 私はどうすればいい。誰か教えてくれ!
 おおそうだ。確かめなくてはならない。熊を倒していい気になってい
る、その傲慢な面をおがんでやるのだ。
 私は近所を歩き回った。スーパー、お菓子屋、コンビニエンスストア、
そういった場所には、置いていなかった。この現代社会で、いったいど
こに行けば手に入るのか。
 電車に乗り、三つめの駅で降りた。古き良き時代の風情を頑なに守っ
ている駄菓子屋があったはずだ。一時間ほどかかって、ようやく見つけ
出した。
 その店にはお婆さんがいた。顔中しわだらけの、小さい老婆だ。金太
郎飴は隅っこの、しかも一番下の棚にあった。心の中で大はしゃぎし、
しかし表情はあくまでも平静を装い、金を払い店を出た。
 ガチャガチャがあったので、なつかしく思いながら百円を投入した。
ハンドルを回すとカプセルが出てきて、中に小さなおもちゃが入ってい
る、子供にささやかな喜びを売るマシンである。昔は十円、二十円程度
のものであった。
 この機械の呼称は「ガチャガチャ」でよかっただろうか。自分でそう
思いこんでいるだけで実は誰もそんな名では呼んでいないのかもしれな
い。
 幼少時に見たのと比べ、ずいぶんと大きなカプセルを開けると、ロボ
ットの形をしたゴム製の人形が出てきた。ロボットのくせにぐにゃりと
曲がっている。
 私は安らいだ気持ちで帰った。もはや金太郎に対する憎しみもなかっ
た。
 まな板に飴をのせ、包丁で切ろうとするのだが、うまくいかない。な
ぜ拒むのか。のこぎりを使うように引いては押しを繰り返し、最後には
刃を叩きつけてようやく切断することに成功した。
 私はやっと、金太郎と対面した。二つの顔は左右が逆に……あれ?
 彼の顔は左右対称であった。どういうことだこれは。私は慌てて鏡の
前に駆け寄った。二本になった飴をつきだした。
 そこには、二つの書類に同時にはんこを押そうとでもしているように
飴をかまえた、仁王の表情をした私の姿があった。




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