#1097/1158 ●連載 *** コメント #1096 ***
★タイトル (AZA ) 18/01/08 21:09 (480)
百の凶器 2 永山
★内容 18/01/30 03:21 修正 第2版
「風呂を今の内から沸かせという意見が出てるんですが、大丈夫でしょうか」
「いいんじゃないの。薪を使うと言っても、案外ハイテクなんだよ、ここのは。薪の火
が途絶えそうになったら、自動的にガスに切り替わるの。女湯と男湯があるから、二つ
ともやっておいて」
「了解しました。運ぶの、少し手伝います」
「ありがと。でも、これくらい平気だよ」
メインハウスに戻り、村上と別れてから外にあるかまどに回ると、真瀬が犬養麗子と
一緒に、火を着けているところだった。と言っても、かまどの前にしゃがみ込んでいる
のは真瀬のみで、犬養は後ろに立って、覗き込んでいるだけだ。
「格好いいとこ見せてちょうだいよ」
「へいへい」
節をくりぬいた細竹を両手の指で笛のように支え、火元へ空気を送る真瀬。息が若
干、乱れている。努力の甲斐あって、順調に燃え上がったように見えた。もちろん、そ
れまでの過程を柿原は知らないのだから、今ようやく火が着いた可能性もある。
そう思って地面を見ると、マッチ棒の燃えかすが、結構な数散らばっていた。風呂焚
きには僕の分を使うべきだなと、柿原はズボンの右脇ポケットからマッチ箱を取り出
し、手に握った。
「お疲れ〜」
肩に手を当て、労いの言葉を軽い調子で投げ掛ける犬養。真瀬は一旦、両手を地面に
ついてから、改めて起き上がった。同級生の女子に「どういたしまして」と応じた彼
は、柿原が戻ったことにすぐ気付いた。
「いたのか。どうだった?」
「風呂、すぐに沸かしてもいいんだって」
「じゃ、行くか。二箇所に火を着けないといけないんだろ」
「うん。でも、手、大丈夫?」
「今のところは。痒くなる前に、せいぜい頑張るとするさ」
「マッチは擦れたんだね」
その会話を聞き咎めた犬養が、真瀬の手のことを聞いてきた。
「手、どうかしたの?」
「軍手してるから分からないだろうけど、山道に入ったとき、ウルシに触ってしまっ
た。後々、かぶれるかもしれない」
「……ウルシって二次感染するものなのかしら」
「二次感染?」
「真瀬君が素手で触ったところを、他の人が触っても大丈夫なのかなという意味」
「知らん」
真瀬は心配してくれることを期待していた訳ではなかろうが、さすがにこの犬養の反
応には、がっくりきたようだ。代わりに柿原が答える。
「僕も知らないけど、真瀬君は戻ってからずっと、軍手をしてるから」
「それなら安心していいわね」
犬養は素知らぬ体できびすを返し、屋内のキッチンに向かった。真瀬と柿原も、メイ
ンハウスから少し離れた場所にある風呂焚き小屋へ向かう。到着するなり、真瀬が口を
開いた。
「柿原がもし犬養に気があるのなら、やめておけとアドバイスするぞ」
「な? 何でいきなりそういう話になるの」
「違うのか。部活のとき、柿原が仕種から推理を巡らせないのって、犬養か湯沢さんぐ
らいのものだろ。だから、どちらかに気があるのかとてっきり。気があるからこそ、逆
に推理推測を巡らせたくないと」
「……半分、当たってるよ」
「てゆうことは、湯沢さん狙いか」
「まあ、狙ってるって程じゃない。いいなと思ってるだけ。あれこれ推理しないのは、
外れていたときにはこっちが恥ずかしい思いをするし、当たったときは向こうが恥ずか
しがるかもしれないし」
「犬養に関して、何も言わないのは理由があるのかな」
「あの人は、いわゆる令嬢だから、推理しにくい。むしろじっと観察の対象にして、
データを集めるのが吉だよね」
「今後の参考に、か。本気で探偵を目指してんの?」
「目指してるけれども、二足のわらじでもいいかと思ってる。そんなことより、真瀬君
の気がある相手を教えてよ」
「それが公平だってか。しょうがないな……教える前に、推理を言ってみ」
「うーん。推理って程じゃないけれども、関さん?」
「どうしてその名前を挙げたか、理由を述べよ」
「だって、山へ散策に行くって聞いて、自分もって言い出したじゃない。朝から登山、
午後は薪割りで身体に来てるだろうに」
「……おまえはどうして一緒に行こうって思ったんだよ」
「三人一緒なら、何があっても平気だと思って。実際は、小津部長に着いてきてもらっ
たけど。あ、それとも、僕、お邪魔だった?」
柿原は、マッチ箱を持ったままの手で、自分自身を指差す仕種をした。マッチ棒が中
でかすかに音を立てた。
「そんなことはない。ただまあ……きっかけが何かあればいいなと、淡く期待していた
が、何にもなかったな。どちらかと言えば、恥を掻かされた」
ウルシの葉を握った手を見つめ、苦笑する真瀬。
「そんなことないよ。僕も関さんも下り坂で滑ったし」
「でも、小津さんに言われたのは、俺だけ」
「それは多分、真瀬君が関さんに気があるって部長も勘付いてるから、からかったんじ
ゃあないかな」
「……」
顔を赤くした真瀬は、早足になった。
無事に風呂の焚き付けを成功させ、村上副部長が言うところのハイテクが機能してい
ることも確認できた。真瀬と柿原がメインハウスに帰ってくると、夕食のバーべーキ
ューがちょうど始まるところだった。
「天気がちょいと心配だが、予報通りならどうにか保ちそうだ。てことで、文化祭では
皆、お疲れ様!」
三年生の橋部がいるので、丁寧語を交えながらの口上を述べる小津。
「また、ここので合宿はこれが最後になる。惜しみながら、三泊四日、存分に満喫する
としよう。では――全員、コップは行き渡ってる? それじゃあ、乾杯!」
音頭とともに、初日の夕食がスタート。上下関係はゆるめのクラブであるし、下級生
が肉などを焼く係とかお酌をしなければならないなんてことはない。適度に気を遣いつ
つ、自由に箸が進み、コップを空ける。
「思っていたより、ずっと明るいね」
湯沢の横顔を遠目でもしっかり見ることができた柿原は、隣の真瀬に話し掛けた。
「ああ。電気は自由に使えないと言っても、外灯があるもんな」
メインハウスの周辺にだけ、外灯が数本立っており、暗くなると自動的に点灯した。
ここまで明かりがあるのなら、夜のトイレ時にも配慮した照明にしてくれたらよかった
のに。そんな風に思うのは、柿原一人だけではあるまい。
「橋部さん、あれ、結局どうするんです?」
ふと、小津が橋部に尋ねる声が、風に乗って聞こえた。
「うーん、どうしようか。一応、持って来てはみたが、いざ皆の顔を見ていると、どん
引きの恐れもあるなと思えてきた」
気にはなった柿原だが、真瀬には教えなかった。二人の辺りをはばかるような様子を
垣間見るに、内緒話であるのは間違いない。近寄って直接質問するのは無論のこと、聞
き耳を立てたり詮索したりするのさえ、よくないことのように思えた。もう敢えて聞こ
うとするのはよそう。
とは言え、柿原は自他共に認めるスイリスト。考えることはやめられない。
(持って来たという言葉から、今回の合宿のために用意した物で、皆にどん引きされる
恐れがあるとはつまり、その持って来た物を僕ら部員に見せる気がなくはない)
妥当な線を出したところで、邪魔が入った。いや、邪魔だなんて言えない。湯沢と関
の女子二人が、話し掛けてきたのだから。
「便利な物があるのね」
関が言いながら見つめた先は、柿原の手元。彼は片手の前腕にはめ込むタイプのプ
レートを付けていた。バーベキューなどのとき、一度にたくさんの食べ物をキープでき
る上、隅に丸く穴が空いており、そこに紙コップを入れると安定して置ける。箸をキー
プできる溝があるのも嬉しい。特に食いしん坊という訳ではないが、柿原は重宝してい
る。
「指に填めるタイプは知ってるけれど、こういうのは初めて」
しげしげと見るのは湯沢。彼女の両手は、コップと皿で塞がっている。
「サイズは男性向きという感じね。普通に私達でも使えそうだけれど」
「使う?」
柿原が笑み交じりに水を向けると、湯沢は戸惑ったように手を小刻みに振り、「いい
よ、柿原君が持って来たのを取り上げたら、困るでしょ」と少し早口で応じた。
これに柿原がさらに言葉を返すよりも早く、真瀬が横合いから口を挟んだ。柿原の肩
を叩きながら、
「こいつ、湯沢さんに気があるから、湯沢さんに使って欲しいんだ」
「え」
「ちょっ、ちょっと、真瀬君」
酒は飲んでいないはず(年齢もある)だが、真瀬のいきなりの発言に、柿原は焦っ
た。思わずプレートが傾いて、肉が落ちそうになる。姿勢を保ってそれをどうにか避け
た柿原の耳元で、真瀬が囁いた。
「次はそっちの番。ばらしてくれていいぜ、俺の気持ち」
「な」
何を考えてるんだと言いかけたが、柿原は次の瞬間には真瀬の心情を理解した。
(自分で告白する勇気がないものだから、このふざけた雰囲気の中、僕に言わせよう
と。こんなどさくさ紛れに言ったって、本気に受け取られるとは思えないけど、しょう
がないな)
柿原は、空いている右手の平で、真瀬をぐいと押し離すと、いかにも先程のお礼とい
う演技を意識しながら口を開く。
「そういう真瀬君こそ、関さんのことをいいと言ってたよね」
「おま、それここで言う?」
柿原の演技はたいしたことないが、真瀬の演技もさほど差はなかった。ただ、明かり
が乏しいおかげで、ごまかせたらしかった。関の様子を横目で窺うと、瞼をぱちくり、
瞳をくりくりさせている。ぽかんと開けた口からは、「はあ?」という声が聞こえてき
そうだ。
「何、いきなり言ってんのよ。最低限、TPOを弁えなさい」
その反応は、決して嫌がっている訳ではない、と受け取っていいのだろうか。と、関
の発言に湯沢も追随した。
「そうよ。合宿が始まったばかりなのに、冗談でもそんなことを言われたら、意識して
しまって、普通に振る舞えなくなるかもしれないでしょ」
うーん……。柿原は心中で唸った。いかようにも解釈できる反応だと思った。
「なーに、さっきから騒いでんだ」
いつの間にやら、小津がすぐ近くに立っていた。軽くアルコールが入っているのが、
匂いで分かる。橋部との会話は終わったらしく、既に遠く離れている。
「そんなに騒いだつもりはないんですが……どこから聞かれてました?」
柿原が聞くと、小津は真瀬に視線を当てた。
「おまえ達が姑息な方法で、交換殺人ならぬ交換告白をやるところから、ばっちり見て
いた」
「交換て。そうだったの?」
関が真瀬と柿原に問うが、当事者であり首謀者でもある真瀬はすぐには答えない。
「僕は、否応なしに巻き込まれただけです」
柿原が潔白もしくは情状酌量を訴えると、真瀬は一瞬、悔しげに顔をしかめた。だ
が、すぐに切り替えたのか、小津を標的にする。
「ひどいですよ小津部長。誰の迷惑にもなってないのに、ばらすなんて」
「すぐばれるような交換トリックを使うのを見ていたら、ばらしたくなった。だいたい
なあ、真瀬のやることは、見え透いてるんだよ。山に散策に入ったときだって、気を引
こうとしていただろう」
「別にそんなつもりは。格好悪いことにならないようにとは思っていたけれども……」
「いや、俺は見てたよ。隙あらば、下りで滑った関さんに手を差し伸べようとしていた
んじゃないか?」
「そりゃあの状況なら、助けようとするもんでしょう」
「下心が透けて見えるというやつさ」
何だか知らないけれどエスカレートしている、まずいなと柿原は思った。部長、絡み
酒か?
「お二人とも、やめにしましょう。そこまで」
落ち着いた調子の声で、静かに止めに入ったのは湯沢。
「小津さん、例年にないことを急いでスケジュールを組んで、大変でしたよね。ここへ
着いてからも、やることがいっぱいで。元々は、応募原稿の執筆に当てるつもりだった
んじゃありませんか」
「……まあ、それはこっち来てから暇を見て書けばいいと思ってたから、どうにかな
る」
柿原と真瀬と関は、湯沢と部長のやり取りを聞いて、あっと声を上げた。三人で顔を
見合わせてから、真瀬が一つ頷き、小津に向き直った。
「すみません、昼間、邪魔をしてしまったんですね」
「……ああ、気付かれちまったか。俺が大人げなかったのは分かってたんだが。ちょっ
と苛ついてて」
黙って頭を下げる真瀬に、小津は「もう気にするな」と手を振った。
「言ってくれればよかったのに」
関が小声でこぼしたが、小津の耳には入らなかったようだ。そのまま立ち去ると、戸
井田のいる方に行く。
「湯沢さん、サンクス。助かった」
小津の後ろ姿から視線を戻した真瀬が、湯沢に礼を述べる。柿原も同じ気持ちだっ
た。
夕食がお開きとなり、バーベキューの片付けの最中、柿原に個人的ハプニングが起き
た。右手に怪我を負ってしまったのだ。空き瓶を詰め込んだビニール袋を片手で持ち上
げようとした際、まだ熱を持っていた焼き網に手の甲が触れてしまった。火傷をするよ
うな高温ではなかったのだが、思い込みで実際よりも熱く感じた柿原は、びくっとし
て、袋を手放した。それを慌ててまた掴みに行ったところ、勢いあまって袋の中に手を
突っ込んでしまった。運の悪いことに、瓶には割れた物もあった。結果、鋭いガラス片
で右手の平や指を何箇所か切るという憂き目に遭った。
切った瞬間、柿原は低くうめいただけだったのだが、ガラスの音はかなり響いた。近
くにいた湯沢と沼田がすぐに気付いて、駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「あー、いや〜、ちょっとガラスで切ってしまったみたいで」
手のひらを隠すように握ろうとしたが、また呻き声が漏れた。意外と深いかもしれな
い。
「明かりのあるところに」
沼田が外灯の下に引っ張っていく。その間、湯沢はハンカチを取り出すと、「これ、
まだ使ってないから」と言い、傷口を押さえるようにと柿原へ渡した。
「汚れますよ、勿体ない」
「何言ってるの。救急箱か何かあるはずだから、聞いてくる」
言い置いて、きびすを返す湯沢。普段はどちらかと言えばおっとりしているのに、今
は機敏そのものだ。
外灯の明かりは充分とは言えなかったが、血がなかなか止まりそうにないくらい深い
傷であるのは見て取れた。
「メインハウスに行って、きちんと処置を受けないとだめね。あそこならライトがある
から。天気が悪かったとは言え、まだ残量は充分あるはず」
残った沼田が、傷口をざっと観察して言い切った。
「すみません、先輩に手当てさせるなんて」
「いや、私、無理だから。人の傷や血を見たら、気分が悪くなるタイプなの。今も結構
きつい」
「それは……すみません」
同じ言葉を繰り返した柿原は、じゃあ誰が手当てをしてくれるんだろう、と思った。
自分でやらなければいけないのか。
「――来た来た」
沼田が面を起こした。そちらを見ると、救急箱を持って走ってくる湯沢の姿が、暗が
りに浮かび上がった。
「湯沢さん、治療を頼むわね。メインハウス、使っていいから」
「あ、はい」
湯沢は目線を、さっさと行ってしまった沼田から、柿原の右手に移した。
「想像よりもひどそう。痛い? って聞くのも失礼か。動かせる?」
「問題ない。実は、痛みもあんまり感じてない。転んでできた傷と変わりないくらい」
外の水道で血をざっと洗い流し、湯沢が新たに持って来たきれいな手ぬぐいで、傷口
を押さえる。そのまま、手を引かれるような格好で、メインハウスに入った。カウン
ターの前を通り、いくつかある通路口から左斜め前方を選んで入る。白い蛍光灯がある
部屋だ。最初は、部屋中央の長方形のテーブルを挟んで座った二人だが、思ったよりも
テーブルの幅があった。湯沢が移動し、柿原の右隣に着席する。
ペットボトルの水を洗面器で受ける形で、再び傷口を洗うと、長さ三センチほどの傷
がはっきり見えた。深さは不明だが、ちょうど真ん中辺りが最も深いようだ。
湯沢の手際はよかった。消毒を素早く済ませ、適切なサイズに切ったガーゼに大型の
絆創膏を重ねて傷口を覆い、細い治療用のテープで補助的に留める。最後に包帯を使っ
て、柿原の右手全体を保護できるよう、器用に巻いていく。
「これでよし。一丁上がり、よ」
「あ、どうもありがとうございます」
「何でそんな敬語」
救急箱に使い残しのガーゼやテープ、消毒液にはさみ等を片付けながら、湯沢はおか
しそうに笑った。その笑いを引っ込めて、改めて柿原の右手を取った。
「血は……ああ、早くも少し滲んじゃってる。言うまでもないけれど、なるべく動かさ
ないようにね」
「うん。それよりも、ハンカチ……」
「大丈夫。気にしなくていいから、早く治してよね。合宿の間中、みんなが気にしなく
て済むくらいに」
「はあ」
テーブルに置いた赤く染まったハンカチが気になって、生返事になってしまう。それ
に気付いたらしい湯沢は少し間を取ってから、閃いたようにこう言った。
「どうしてもハンカチが気になるなら、洗って返して。それでおしまい」
「それなら。うん。了解しました」
「よかった。じゃ、柿原君は休んでいて。安静にしておかないと、傷が塞がらないわ」
大げさだなあとは思ったが、現状、役に立たない自覚はあるので、素直に従う柿原。
「みんなには私から説明しておくから、コテージに戻ってもいいのよ」
「さすがにそれは無理」
何かできることはないか考えながら、彼女を送り出した。
片付けが終わるまで、みんなの飲み干した空き缶を、足を使って平らに潰していた。
大した数ではないが、きれいに潰せるよう慎重にやっていたため、意外と時間も潰せ
た。
「怪我はどんなだ?」
橋部と村上が顔を見せ、心配してくれた。柿原は、ごくうっすらと赤が浮かんだ包帯
を見せることで、返事とした。
「もしかして、小津さんは怒ってます?」
「どうしてそんな風に思うの」
村上が、メンコのような形になった空き缶を集めながら、聞き返してくる。
「合宿初日から、怪我でお騒がせしてしまったので……。今も顔を見せてくれないみた
いですし」
「心配無用よ。来ないんじゃなくて、来られないのが正確かもね。ちょっと飲み過ぎた
みたいだったから、後片付けをする内に酔いが回ってきたらしいわ。コテージに引き揚
げちゃったのよ」
「あ、そういうことなら」
納得した体の柿原だったが、内心では、ふっと別のことが浮かんだ。
(もしかすると、投稿作品を書きに戻ったのかも。ロウソク一本あれば、書けないこと
はないはず)
この春に入学し、ミステリ研に入った柿原ではあるが、知る限りでは、部長はそんな
に酒に弱くはない。昼間の執筆予定が狂ったので、小さな嘘を吐いて早くコテージに戻
り、執筆時間を取り返そうとしても、責められない。
「じゃあ、完全にお開きなんですね?」
「そうなるわね。だから、柿原君も早くコテージに戻って、ぐっすり休んだ方がいいわ
よ」
「そうします」
「あと、十時になったら、自動的に外灯が消えるから。今ならまだ何もなしで出歩ける
でしょうけれど、それ以降は多分、マッチかロウソクの火がないと危ないから気を付け
るように」
「そうだ、聞こうと思ってたことが。もし雨が降ったら、火は消えますよね。傘、僕は
持って来てないんですが」
「それは……うまくやってとしか言いようがないわね」
苦笑を交えた返事をもらって、柿原も思わず苦笑いを浮かべた。見上げると、夜でも
重たそうな雲が空いっぱいに浮かんでいることが分かった。
早寝をした分、早起きできるとは限らないが、翌朝、柿原は六時前に目が覚めた。ベ
ッドからもぞもぞと抜け出て、まずは洗面器を覗き込む。
昨晩、湯沢から借りたハンカチをきれいにするつもりで、余分な洗面器を一つ、持っ
て来た。手の怪我のせいで、洗ったり絞ったりが多少難しいため、とりあえずお湯にで
も浸けっぱなしにしておこうと、風呂場でお湯を汲みに行った。そして出て来たところ
へ、関千夏が通り掛かり、何をしてるのと問われた。事情は伝わっているはずだけどと
訝しみつつ、訳を伝える柿原。すると、関は手を腰の両サイドに当て、盛大にため息を
吐いた。
「やっぱり。何にも知らないんだから。血液の汚れ落としに、お湯は禁物。熱でタンパ
ク質が凝固して、ますます落ちにくくなる」
「知りませんでした」
「ミステリ読みとして常識かどうか分からないけれども、生活の知恵として知っておい
ていい基本よ、これ」
「お湯がだめだとなると、何がいいんでしょう」
「ここにあるとしたら、酸素系漂白剤。洗い場にあるかも」
関が口にした商品名を柿原は暗記し、メインハウス内部の簡易キッチンに足を運ん
だ。運よくあったので、それを水に溶いて汚れたハンカチを浸しておくことにしたのだ
った。それが昨晩のこと。
「落ち、てる?」
措置が比較的早かったせいか、漂白剤は存分に効果を発揮していた。あとはすすいで
おきたい。水を求めて、ハンカチを入れた洗面器を片手に、外に出た。
ここでようやく、柿原の意識が手の傷に向いた。疼くような痛みはまだ残るし、じん
じんひりひりしている。でも、血は止まっているようだ。染みは広がっていない。
「思ったよりは浅かったかな」
と、ここで指を開け閉めしようとしたのがまずかった。瞬く間に血が滲み、包帯がじ
んわりと赤くなり始めた。
無理をして動かすと、すぐに傷口が開く程度の塞がり方のようだ。引きつる感触があ
った。あとで絆創膏を取り替え、包帯を巻き直す必要がありそうだ。が、今はハンカチ
が先である。
水道のある場所は、トイレの方が近いのだが、そこの水ですすぐのは気が引ける。ど
うせ七時にはメインハウスに集合だし、ゆっくり歩いて行くことにする。ゆっくりと言
っても、短い距離なので、すぐに到着。まだ誰もいないようだ。朝食は、昨晩の残り物
を利したサンドイッチがあるとかで、準備に時間を要さない。だから、起き出すのが集
合時間ぎりぎりになったとしても、大丈夫なのだろう。女性はまた別かもしれないが。
とにもかくにも、水ですすぎ洗いをやってみて、ハンカチの汚れがほぼ落ちたことを
目で確かめた柿原は、ようやく安堵できた。絞る方法を模索したが、いいアイディアが
浮かばないため、傷まない程度にくるくる振り回してみる。
「おいおい、乾かすのはいいが、回りをよく見てやれよ」
後ろで小津の声がした。そのボリュームから、距離はそれなりにあると推断できた
が、水滴がどこまで飛ぶかは分からないので、謝りながら振り返る柿原。
「すみませんっ、まさか早起きしている人がいるとは思わなくて」
「いや、掛かってないから。でも、女の顔に飛びでもしたら、折角の努力が水泡に帰し
ていたかもな」
「水だけに、ですか」
そのつもりはなかったと苦笑を浮かべた小津部長。その顔をよく見ると、どこかしら
元気がない。率直に尋ねてみると、小津からは快活な声で返事があった。
「そう見えるとしたら、見えないようにしないとな。昨日、しょうもないことで後輩を
からかったりして、罰が当たったのかもしれない」
「そんな合理的でないことを小津さんがはっきり言うのって、珍しいですね」
「そうか? 占いやおみくじなんかは、世間並みに気にする質なんだが。それよか、お
まえ、手の具合は?」
「いい感じに治りかけてたみたいなんですが、ちょっと動かしたら、また出血してしま
って」
柿原は用済みになった洗面器を小脇に抱え直すと、じゃんけんのグーとパーの中間ぐ
らいに握った(あるいは開いた)右手を、小津に見せた。当然、まだ包帯があるので、
直には見えないが。
「その分じゃあ、作業は無理かな。ハンカチは洗えても、薪割りの手伝いはできそう
か。と言うより、やらない方がいいんじゃないのか」
「それはまあ、やるよりはやらないで安静にしてる方がいいんでしょうけど、他にでき
ることも少ないですし、真瀬を手伝います」
「分かった。無理そうだったら、いつでも言えよ」
そう告げた小津は、メインハウスから離れ、山の方へ向かった。長靴を履いているこ
とからして、周囲を見て回るようだ。昨日の疲れが出ているのだろうか、歩幅を狭くし
てとぼとぼといった歩調だった。
朝食後、戸井田から天候についての情報があった。乾電池式のラジオで天気予報を聞
いたところ、すでに雨模様は底を打ち、回復に向かっているという。この近辺の山々に
も降ったとのことだが、幸いなことにキャンプ場への直撃は避けられたらしい。
「ついでに、忘れない内に記念写真を撮っておきたいので、このあと、庭に出てもらえ
ますか」
戸井田は両手でカメラを構えるポーズをしながら言った。丁寧な言葉遣いは、やはり
橋部がいるせいだろう。その証拠に、三年生以上がいない女性陣に対しては、
「メイクをやり直して、よりきれいになりたい人がいれば、多少は猶予を設けるよん」
と、くだけた、かつ、ふざけた口ぶりで告げた。
五人いる女性の中で、まともに反応したのは犬養一人。コンパクトミラーを左手で開
いてそのままキープ、右手は髪をかき上げる仕種に。そうして、満足げに頷いた。
「直す必要なんて、全くない」
冗談なのか本気なのか分かりにくいが、笑いが起こり、場の空気はますます和んだ。
あとを受けて、小津部長が本日のスケジュールをざっと確認していく。ミステリ研究会
らしいイベントとしては、昼食のあと、午後一時からは読書会。夜は、暗がりの中で、
マーダーゲームの一種「百の凶器」をやってみようということになっている。
「読書会は熱が籠もれば延々とやってもいいと思ってる。だから、身体を動かしたい奴
は、午前の内にやっとけよー」
小津の話に、柿原の横にいる真瀬がぼそっと呟く。
「薪割り係は、否応なしに身体を動かさないとな」
今日の分を作っておかねばならない。ストック分に昨日作った物を加えれば、今日作
った分は実際には使わない可能性が高いが、念のためだ。
「早めに済ませて、テニスでもしたいな」
朝礼?が終わり、戸井田の言っていた記念撮影も済んだところで解散となり、自由時
間に。と言ってもしばらくはやるべきことに費やすことになる。真瀬と柿原が薪割りを
するように、バーベキューの網をきれいにしたり、台所や風呂場を掃除したりと、役割
分担通りにこなす。
「テニスって、相手はいるの?」
柿原が真瀬に聞き返すと、彼はしばしの逡巡の後、「実は」と口を開いた。
「関さんから誘われたので、受けた。終わったら、運動場へ集合」
「僕は遠慮しとくよ。手がこれだし、君の恋路を邪魔したくない」
「それが他にも、橋部先輩や犬養麗子が参加するっていうから、邪魔も何もないんだ
が。橋部先輩はやたらとうまくて、左右どちらでも強烈なサーブが打てるらしい。対戦
相手になると思うと、荷が重い。犬養は昨日、ボートを漕いでみて、意外と力強いとこ
ろを見せたそうだし」
「……どちらにせよ、行かないよ。真瀬君が頑張っている間、僕は湯沢さんといられる
ように努力してみるよ」
全く宛てはなかったが、テニスに湯沢が行かないのであれば、自分は安静にしておこ
うと柿原は考えた。
「そうか。俺から湯沢さんに何か言ってみようか」
「いいって。ハンカチを返す名目があるから」
曇天のおかげもあって、ハンカチがからっと乾くのはまだ少し時間を要しそうだが。
ともかく、柿原の話を聞いて安心したのかどうか、真瀬は一人でテニスに加わること
にしたようだった。
一日経って少しは慣れたせいか、薪作りは予想より早く終わった。
柿原は、真瀬が準備をして、いそいそと出て行くのを見送ってから、さてどうするか
なと考えた。
「テニスじゃないなら、ボートの方かな。それとも、山登り? もし山なら、また小津
さんに“出馬”願うことになるから、避けたいな」
柿原が思考過程を声に出していると、何と、メインハウスの方角から歩いて来る湯沢
の姿が、視界に入った。真瀬のコテージから戻るところだった柿原は、慌て気味に推理
を組み立てた。
(えっと、ここは真瀬君と僕それぞれのコテージへの分岐点で、ここまで来たと言うこ
とは、どちらかに用事があるはず。でも、真瀬君とはすれ違ったはずだから、つまると
ころ、僕に用事があるんだ、湯沢さんは)
木の枝が邪魔をしていたのか、湯沢が柿原に気付くのは、柿原が湯沢に気付いた時点
よりタイムラグがあった。
「柿原君。薪割りしていたって聞いたけれど、手の怪我は?」
「手伝いだけだから、たいしたことはしてない。でも、ちょっとぶり返したかな」
右手の平を見せる。赤の勢力範囲が、徐々に広がっている気がする。
「包帯を巻いてから半日経つし、交換しようか」
「……お願いします」
柿原は湯沢とともに、メインハウスに向けて歩き出した。短い道中、昨日のテニスは
どうだったのと、当たり障りのない話題を振った柿原。湯沢は、橋部の凄さは無論のこ
と、沼田もうまくて、逆を突かれたときにラケットを持ち替える動作が参考になったと
語った。
「今日はしないの、テニス」
「もういいかな。私、どちらかというとインドア派だし、読書会の前に課題図書をちょ
っと読み返したい気持ちがあるし」
「ボートは?」
「そうねえ、いいと思うわ。湖面に浮かんだボートの中で、揺られながら読書するの」
流れとしては、ここでボートに誘いたいところだが、現状、オールをうまく扱えない
であろう柿原には、その選択肢はなかった。
「包帯、新しくしたら、ボート乗りに行ってみる?」
湯沢の方から誘ってきた。柿原は嬉しさよりも驚きの方が勝って、すぐには返事がで
きない。加えて、手のことがある。
「でも、漕げないよ、僕」
「私がやるから。昨日、犬養さんができたって聞いたわ。お嬢にできて、私にできない
とは思えない。最悪でも、戻れなくなるなんてさすがにないでしょ」
両手で小さくガッツポーズを取る湯沢。細腕で非力そうに見えたが、柿原とて大差は
ない。
「それならまあ……」
女性に漕がせるという点に、引っ掛かりを覚えたものの、この機会を逃すのはばから
しい。行くことに決めた。
〜 〜 〜
「意外と読みにくかったよね」
「風がでてきたせいかな」
桟橋まで無事に戻り、地面に足を着いての第一声がこれ。最初はよかったが、昼に近
付くに従って、揺れが強まった。
「寝そべったら、また違ったかも。ハンモックみたいに」
「言ってくれたら、スペース作ったよ」
「言える訳ないでしょっ。ごろごろしてるところ、見られたくない」
怒った口ぶりで、でもころころ笑う湯沢。柿原は怪我のことをも忘れて、ちょっとし
た幸福感を噛みしめた。実際、ボートでのお喋りは盛り上がったと思う。ほとんどがミ
ステリに関する話題だったとはいえ。
「それにしても、柿原君の指摘は盲点だった。『狼月城の殺人』の第三のトリック」
「おだてられると木に登るよ」
「本心から言ってるの。城の構造上、階段に隠し通路を作ることはできたとしても、向
きが合わないのは確かだと思う。一方で、作者は読者にそれを気付かれないように、巧
みに装飾した表現を使ってる気がする。恐らく、意図的に」
「そこは湯沢さんに言われて、僕も感じた」
トリックのミスを見付けた段階でストップしていた柿原に対し、湯沢はそこからもう
一歩進めて、作者の技巧――詐術とも言う――を読み取り、味わう姿勢を見せた。
ボート遊びから戻ると、ちょうど、昼食の準備に取り掛かる時間になった。来たるべ
きイベントに備え、昼は簡単に、レトルト食品を温めて済ませる。それでも火をおこす
必要はあるため、真瀬と柿原の仕事量は昨日とあまり変わりなかった。
早めの昼食が終わると、読書会までの一時間弱は、また自由だ。各人、コテージに戻
って読書会に備えるのが基本。柿原は真瀬のコテージを訪ね、例の第三の密室トリック
に関する疑問について、改めて説明をした。
ところが、当の真瀬がどこか上の空だった。それに気付いた柿原は、ぴんと来た。
「ねえ、真瀬君。テニスでいいことあった?」
「う? うん、まあな」
認めたものの、詳細は語らない真瀬。柿原も野暮はしない。読書会の話も含めて切り
上げる。
「それでは行くとしますか」
――続く