AWC 斑尾マンション殺人事件 12


        
#1079/1112 ●連載    *** コメント #1078 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:16  (394)
斑尾マンション殺人事件 12
★内容

●50

 病院まで蛯原が救急車に便乗し、井上と高橋はジムニーで追いかけた。
 病院に到着すると、救命救急センターは素通りして、病棟の個室に運び込まれる。
 処置をするからと30分ぐらい待たされてから、病室を覗いてみる。
 既に意識不明らしく人工呼吸器が付けられていた。
 中から看護師が出てきて、「ご家族の方ですか?」と聞いてきた。
「違いますけど」と井上。
「どういったご関係の方ですか?」
「職場の同僚ですが」
「ご家族の連絡先は分かりますか?」
「大沼に家族なんていないよ」と蛯原。
「会社に連絡すれば、入社時の連帯保証人とかから分かるかも知れない」と明子。
「あんなの、いい加減だろう」
「これ、お渡ししておきますから、読んでおいて下さい」書類を蛯原に渡すと忙し
そうに看護師は消えた。

 ナースステーションのそばに談話コーナーがあった。
 テーブルが5、6個あって、壁にはドリンクの自販機や公衆電話が設置してある。
 3人は壁際のテーブルに座った。
 看護師の置いていった書類が、蛯原から井上へ、井上から高橋明子へと渡ってく
る。
 明子はぱらぱらめくった。
 人工呼吸器を付ける際ぐらついている歯があると気道に引っかかり危険なので、
巡回歯科医が治療する場合がある、つきましては実費200円をご負担願います
云々。治療上の必要若しくは入院患者の混み具合から差額ベッド代を負担して頂く
場合があります云々。
 こんなの渡されてもなぁ、と明子は思った。そんな事より病名が知りたい。ジ
ョージと同じなんだろうか。
 明子は前に座っている井上と蛯原を見た。
 井上の横顔がよく見えるのだが、妙にもみ上げが長いのに今更気が付いた。
 スーツもキルケゴールというか、リチャード・ブローティガンというか、腰の所
がぎゅーっと括れているスリーピースで、ベストのボタンも10個ぐらい付いてい
る。そこに懐中時計の鎖がぶら下がっている。
 今時懐中時計というのは何なんだろう、と明子は思った。
 ふと自分の腕時計に手を当てる。Gショックだ。
 井上の横に座っている蛯原は、椅子の上であぐらをかいていて、背もたれに肘を
乗せている。
「蛯原さん、おっきい時計してますね」と明子が言った。「それって、ローレック
スですか?」
「そうだよ。香港製の。山城が本物のローレックスを巻いているよ。分解掃除だけ
で8万もするって自慢していが」
 何でそれが自慢になるのだろうか。
 でも分かるけど。幾何学的な正確さに神のみ技を感じるんだろう。猫の下の歯並
びが綺麗だったりすると遺伝子を感じる様に。そういうのをメカに求めるとローレ
ックスになるんだろう。鳩山弟の蝶のコレクションも同じだと思った。
 自分も最初はそうだった。でも、ローレックスだけが時計じゃない、ラドーもチ
ソットもセイコーもある。そうやってどんどんオルタナが出てくると、もはやブラ
ンドではなく、『THE 時計』が欲しくなる。それがカシオだったんじゃないか。
 あと、懐中時計というのは自己への執着を感じる。私の時間、という感じ。『i 
me mine』とジョージは歌った。
 って事は、こういう表が描けないか。

     ポール      − ジョン
     香港製ローレックス− Gショック
         ―――――・―――――
     リンゴ      − ジョージ
     ローレックス   − 懐中時計


 脳内のこの表を見て、明子は「今一だな」と思った。「そんな事より、今は大沼
さんの病状か」。
 ふと顔を上げると蛯原が居ない。
 何処へ行ったんだろう、と見回すと、ナースステーションの前をうろついていた。
カウンターの中を覗いたりしている。
  それから廊下の方に行くと、体重計に乗ったり、身長を計ったり。終いには、
アルミの松葉杖を銃に見立てて構えてみたり。
 ありゃあガキだな、と明子は思った。水族館のイルカみたいに、鞠でも投げれば
そっちに飛んで行くんじゃなかろうか。イルカかぁ…。
 そして蛯原が戻ってくると明子は誰へとも無しに言った。
「うーん、さっきの看護師さんだけど、親族じゃないからって何も教えてくれなか
ったけれども、もし労災だったら、私が立て替えなくちゃならないんだよなぁ。コ
ンビニで下ろしてこなくちゃ。てか、社長に連絡しないと。
 労災じゃないとしても、それはそれでやっかいで、社会保険で、疾病手当金の手
続きとかしなくちゃならないんだよなぁ。もう、今月も26日だし、今月は決算で
忙しいし、来月になれば算定基礎届けもあるし、そこに大沼さんの手続きが重なっ
たらこっちが過労死しちゃう。だから少しでも早く事情を教えてくれれば助かるん
だけれども。どうせ私が社会保険に診断書を提出するんだから、病名なんて分かっ
ちゃうんだから。
 でもいいや。私がサービス残業して土日つぶせばいいんだから。はぁー」とため
息をついて立ち上がると「私、ちょっとお化粧なおして来ます」と言って廊下の奥
に歩いて言った。
 明子の姿が消えてしまうと、蛯原が立ち上がって井上に言った。
「あっしがちょっくら探りを入れてきますわ」
 そして、かすれた口笛を吹きながら、体を揺すりつつナースステーションの方に
歩いて行く。
 ちょうどさっき書類をくれた看護師がナースステーションに戻って来た所だった。
「あー、ちょっと看護師さん」と蛯原は迫って行った。
「今忙しいんですけど」
「3分だけ、2分、1分」とにじり寄る。
「何ですか?」
「大沼の病状なんですけど」
「教えられませんよ」
「そんな事言わないで、労災かどうかだけでも教えて下さいよ。でないと会計の時
に困るでしょう」
「別に払ってくれなくても後で会社に請求するからいいですよ」
「もしかして、“か”に点々?」
「かに点々? あー、がんか」
「やっぱりそっか」
「私は何も言ってませんよ」
「だって普通がんでしょう。ここは、呼吸器科なんだから」
「肺の病気は他にもいっぱいありますよ。肺気腫とか肺炎とか肺結核とか。とにか
く病名なんて絶対に教えられませんよ。本人に告知するかどうかだって予め聞いて
おくぐらいなんだから、単なる通行人に教える訳がないじゃないですか」とけんも
ほろろに言うとナースステーションに入っていった。
 今のは相手が悪かった、と蛯原は思った。
 若過ぎた。もっと、アラフィフ、つーか、上がる寸前の、『ごめんね、お母さん
も女なのよ』シリーズに出てくるようなオバサンがやりやすい。女として相手にさ
れなくなる不安から何にでもしがみ付いて来る。弱き人、汝の名はオバサン。
 蛯原は ふらふらと廊下を進んで行くと、大沼の病室を覗いた。
 見た感じ40後半の看護師が大沼をいじくっていた。
 こりゃあ、おあつらい向きだぜ。
 病室に入ると「どんな具合ですかね」と蛯原は声を掛けた。
「今、痰を吸引しますからねぇ」言うと看護師は人工呼吸器のマウスピースからチ
ューブを挿入した。
 ずずずーという音と共に、大沼が胸だの肩だのをびくびくさせた。
「それって、苦しくないんですか?」
「もちろん感じてませんよ」そしてチューブを抜くと「ご家族の方?」と聞いてき
た。
「いやあ、職場の仲間ですよ。俺ら24時間勤務のマンション管理員でね。徹夜明
けにぶっ倒れたんですよ」
「あら、大変だ」言いながら点滴などチェックしている。
「もしかして看護師さんも徹夜明け?」
「あら、何で?」
「目が真っ赤じゃない」
「ほんと?」
「でもまだ若いからどうって事ないでしょう」
「もう長いんですよ」
「じゃあ大沼も安心だ」と言って蛯原はベッドの柵を握った。「大沼さんよ、安心
しろ。いい看護師さんが付いていてくれているぞ。こいつはねぇ、元は電気工だっ
たんですよ。石綿を大量に吸い込んだのもよくなかったのかもな。あれもがんの原
因になるんでしょう?」
「うーん。むしろ体質の方が」
「体質?」
「ご兄弟にがんの方が居たとか」
「そい言えばこいつは姉をがんで亡くしているって言っていたな」
「じゃあ、がんの家系なのかも知れないわね」
「ついてねえな」蛯原は2、3回鼻をすすると目頭を押さえた。本当に涙が出てき
たので驚いた。「ちょっと失礼」と言って病室から出る。

 談話コーナー戻ってくると、蛯原は明子と井上に報告した。
「やっぱり、大沼はがんですね」
「すごーい、聞き出したんですか」
「なんたって、俺はオマワリに言って、車のナンバーから持ち主に連絡させる男で
すよ」
「そんな事、出来るんですか」
「所轄か交番に電話して頼み込めばね。ところが斉木の馬鹿はいきなり110番通
報して、自分がクレーマー扱いされたとかなんとか騒ぎ出す。今度は一転して、管
理規約に書いて無いからもう警察には連絡しないとかね。あいつは1か0かで使え
ませんよ。
  つーか、あいつはもう本当に使えないんだな。早く所長に言って人の補充をし
てもらわないと。つーか、所長も居ないんだよな。妙に人が減るなぁ」言うと蛯原
は井上の顔を見た。
 井上のスマホが鳴った。
 ディスプレイの番号を見て、「警察からだ」と言ってから出る。
「もしもし。はい、そうです。あー、大沼ですね、入院したんですよ。ええ。事故
じゃなくて病気ですけどね。意識がありませんから事情聴取は無理だと思いますよ。
詳細は病院に直接問い合わせて貰えますかね。ええ。病院は飯山市立三途の川病院、
医事課、0269…」




●51

 帰りは蛯原もジムニーに同乗して、マンションに向かった。
 雪はまだまだ降り続いていた。
 峠のあちこちで、ランクルやパジェロなどの大型4駆車が、自重でスタックして
いた。その脇を、3人が乗ったジムニーがするするとすり抜けていく。
「今日の24時間管理員ってどうするんです?」後部座席で蛯原が言った。
「まだ鮎川さんってマンションに居るんですよね。彼に昼間寝ていてもらって、連
投してもらうっきゃないでしょう。明日になったら本店に電話してみるから」
「今、電話してみればいいのに。上司の携帯ぐらい知っているでしょう?」と明子
が言った。
「電話したところで、僕が主任者なんだから、僕が決めないとならないんだよ」
「だったら今決めればいいじゃない」
「だから、鮎川さんに連投してもらうって決めたじゃない。でなければ、AMの社
長にお願いするしかないよ。高橋さんが電話してみればいいじゃない」
「つーか、そんな事を言っている場合じゃないんじゃない? もう3人も死んだり
病気になったりしているんだよ」
「それは警察の仕事でしょう」
「じゃあ、あんた、何をやるの?」明子はちらりとルームミラーで後部座席を見た。
「まあいいや。事務所で話す」

 事務所に着くなり、コートを脱ぎながらさっそく明子は「見立て殺人が進んでい
る」と言った。
「見立て?」
「だって、所長、斉木、大沼って来ているんじゃない」
 ぼーっとしているので、タイムカードの上に乗っかっている行先ボードを持って
きて表を書いた。

 エプスタイン 所長  吐しゃ物
 ジョン    斉木  拳銃
 ジョージ   大沼  肺がん

「こういう具合に、見立て殺人が進行しているのよ」
「だって斉木も大沼も生きているし」
「そうだけど、一応は関係が成り立っているでしょ」
「じゃあ、次は誰が狙われると?」
「『ビートルズ殺人事件』ではリンゴだから、リンゴに相当するのは山城さんよ」
「誰に?」
「そりゃあ分らないけど。
 ただ『ビートルズ殺人事件』ではエプスタインはジョンが首謀者でポールが実行
犯でしょう。このマンションでは、斉木が首謀者で蛯原が実行犯って感じ」
「だからその斉木は入院しているって」
「首謀者なんて居なくたって、実行犯が居れば勝手に反応するのよ。蛯原なんて、
ずーっと忘れていた癖に、クリスマスが来れば、クリスマスの飾りを思い出すでし
ょう? デスノートみたいに」
「それで、僕にどうしろと」
「だから、生き残っているのは山城と蛯原なんだから、その二人に関して調査しな
いと」
「又インタビューでもしろと?」
「そんな事したって、大沼さんは入院しちゃったんだから、そんな事したって、時
限爆弾の配線をちょん切る様には止まらないんだよね」
「じゃあ、どうする」
「飲み会でもやったら?」と明子は言った。「残りのターゲットは山城、蛯原の2
人なんだから、飲み会でもやって懇親をはかればいいんじゃないの?」
「そうだな」

 という訳で、井上は山城、蛯原の両名を飲み会に誘った。
 最初は難色を示したものの、二人とも、雪の為徒歩で出勤していたので、街まで
送って行ってあげるから、と言ったら、承諾した。
 普段は山城はチャリ、蛯原は原付で通勤していた。


●52

 明子、井上、蛯原、山城の4名は、その晩、飯山市内の居酒屋に行った。
 土間から一段高くなっている座敷に通されると、とりあえずビールで、お疲れさ
まーの乾杯をした。
「すぐにお造りがきますんで」と井上が蛯原、山城に気を遣う。
 明子は付け出しのもずくをすすった。「酸っぱい。ほっぺがぎゅっとなる」
 何気に、カウンター席の方を見る。
  天井からぶらさがっている棚にブラウン管テレビが設置してあった。
 ホリエモンが低線量被曝なんてものはそんなに心配しなくても平気だ、とか言っ
ていた。
「あの人、もうすぐ収監されるっていうのに、よく原発の心配なんてしているよ
な」つられて見ていた山城が言った。
「あの人は凸っぱちじゃないですか。ああいう人はイルカだから、目の前にある事
にしか反応しないんですよ。でも自分で考えているわけじゃなくて誰かに操られて
いるんじゃないのかなぁ」
「誰に?」
「例えばソフトバンクの社長とか。あの人ってイタチみたいなオデコでしょ。ああ
いう人って計算して色々企むんですよ」
「そういえば高橋さんもそんな感じのオデコしているよね」と蛯原。
「そんなあ、私そんなに計算したりしないですよ」
「じゃあ俺は」と山城。
「山城さんは、ホリエモンとか孫社長とかじゃなくて、もっと質実剛健な感じ。経
団連とか農協とか。まあ、IT企業で言ったら、アスキーの西って感じかなぁ。ち
ょっとマニアックですけど」
「まあ俺は昔ながらの男だからな」
「つーかね。うん」明子はビールをごくごくごくーっと飲み干した。「私が言いた
かったのは、例えばですよ、山城さんと蛯原さんが衝突したとしても、それは誰か
イタチが後ろで操っているって事ですよ」
「誰が?」
「斉木さんとか」言うと明子は蛯原と山城の顔を交互に見た。
 山城はなんの事やら分かっていないみたいだが、蛯原は何か思い当たる節でもあ
るやの雰囲気だった。
「因みに僕って今時の経営者で言ったら誰?」と井上が言った。
 ちょうどその時、店員がお造りの大皿を運んで来たので井上が受け取った。
「ワタミの社長かな」と明子が言った。


●53

 その頃管理室では、既に40時間以上も勤務されられている鮎川が、『ビートル
ズ殺人事件』の漫画化を進めていた。
 自分の描いた絵を見て、「なんだが、『ゲゲゲの鬼太郎』になってしまったな」
と鮎川は思った。
 ジョンはねずみ男、ポールは鬼太郎、ジョージはぬりかべ、リンゴは子泣き爺で
ある。
 鮎川は水木しげるを愛していた。

 かつて、斉木が「水木しげるっていうのはおかしい」と鮎川に絡んできた事があ
った。「普通だったら、戦争に行って腕とか失えば、軍部を恨むだろう。何でそこ
で、オカルトに走るんだよ。あと、『銀河鉄道999』って言うのもおかしいだろ
う」
「それは水木しげるじゃないけど」
「それは知っているけど、銀河鉄道なんていうのは無いんだよ。あるのは、西武鉄
道999とかだろう。
 俺が思うに、お前らオタクは制度内で非力だから、オカルトだの銀河鉄道だのっ
て言うんじゃないのか? そんで、制度とは関係の無い、オカルト少女だの戦闘美
少女だのに萌えるんじゃないの?」
「それは全然違うよ。自分は戦闘美少女には萌えないし」
「じゃあアンヌ隊員は?」
「アンヌ隊員は戦闘美少女だよ」
「ラムちゃんは?」
「ラムちゃんはオカルト系だよ」
「ラムちゃんには萌えるの?」
「萌える」オカルトだったら何にでも萌える。崎陽軒の醤油差しで抜けると言う。
「ふーん。って事は、アンヌ隊員に萌える奴っていうのは、まず制度内の弱者とい
う立場があって、それ故に、制服を着たアンヌ隊員に萌えるって事だな。だって、
ロハスな女だったら相手にしてくれる訳ないものな。アンヌ隊員だったらナイチン
ゲールのノリで優しくしてくれるかも知れないけど。
 そんで、ラムちゃんっていうのは、純然たる奇形って訳か。
 じゃあ、ここで話を『ビートルズ殺人事件』に戻すけれども。
 俺は前から、ポールっていうのは、世界には適応しているが要素の倒錯がある、
って思っていたんだよ。それって、絵画で言うとマグリット的だよ。
 偶然にも、アップルレコードの林檎のマークはマグリットが描いていて、あれは
ポールが所蔵していたのだけれども。
 そして、ジョンというのは、世界に倒錯を起こしていて、ムンクの『叫び』状態
なんじゃないかって思っていたんだよ。
 それから、ジョージは、倒錯というよりも疎外されていて、それはゴッホみたい
だと思っていたんだよ。
 あと、リンゴは、エプスタインと似ていて、それらの絵を買いあさる画廊経営者
みたいだなと。
 そのイメージで、ラムちゃんと戦闘美少女の分類も可能なんじゃないのか。つま
りこういう感じだよ」と言うと斉木は図に描いて見せた。


          倒錯
          −
  ポール     −ジョン
  マグリット   −ムンク       
  ラムちゃん   −アンヌ隊員
素 ――――――――・―――――――― 界
要 リンゴ     −ジョージ     世
  画廊経営者   −ゴッホ      
          −ゴス
          −
          疎外

「そうだ。これに違いない。
 この右上から左下のラインがリビドーに関わった欲動であり、その反対が超自我
に関わるんじゃないか。
 だから鮎川よ、そこらへんをよーくイメージして漫画化して欲しいんだよな」

 これはずっと前に斉木が言った事だった。しかし何の事だか分からないままに、
鮎川は『ビートルズ殺人事件』を描いていた。
 さて、鮎川は完成した漫画をスキャンすると、フォト蔵にしまった。
 それから何時もの様に、レトルト食品とココアで腹ごしらえをすると、新聞屋を
待った。
 しかし、その朝、新聞屋が来たのは予定を3時間も超えた6時だった。
 正面玄関の自動ドアを開けてやると、フロントに入って来るなり新聞屋の一人が
怒鳴った。
「鮎川ーッ。雪かきしておけって言っただろう。滑ってしょうがねえ」
 新聞屋が入館すると、鮎川は、ボイラー室からプラの雪かきを取って来て、正面
入り口から雪かきを始めた。
 既に夜は明けていて、雪はやんでいた。

 約2時間使って、やっと歩行者の通れる30センチ幅の通路を確保した。
 鮎川は空を見上げた。
 雲の流れが速く、時々切れ目から青空が見える。
 チャリン、チャリンとベルを鳴らされて視線を水平に戻した。
 山城が自転車でこっちに迫って来る。
「あれ、チャリンコで来たんですか」
「シャッター開けてくれ」と山城。
 鮎川はポケットをまさぐって、シャッターのリモコンを押した。
 山城は、鮎川を通り越して駐車場の方へ消えて行った。


●54

 駐車場に入ると、山城はバックミラーで鮎川を見た。
 又、チャリン、チャリンとベルを鳴らす。
 真っ直ぐ行って突き当たりのスロープを登ると、ぐるりと回って、エレベーター
前に到着する。
 自転車を立ててエレベータに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
 AMの自転車置場は最上階のスロープの下にあったのだ。
 屋上に降りると、一面に真綿の様な雪が降り積もっていた。まだ全然足跡が付い
ていない。
 山城は、嬉々として自転車を漕ぎ出した。
 真っ直ぐスロープには向かわずに、あちこちを旋回しながら、オリンピックの輪
の様にタイヤの跡を付けていった。
 何故か、『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出した。
 あの映画は妻と見に行ったのだった。
 妻は処女だった。雪のように白く清かった。
 『雨に唄えば』を口ずさみながら、山城は雪の上にタイヤの跡を付けて行った。
 俺だけが汚していいのだ、と山城は思った。後で、泉だの横田だのに汚されてた
まるか。あいつらほんとうに豆腐に指を突っ込むようなガキなのだから。
 散々ぐるぐる回ってから、階下に向かうスロープに向かった。
 その時になって、今日は日曜だから泉らは来ないのか、と気が付いた。同時に、
今自分が口ずさんでいるのは『雨に歌えば』じゃなくて、『明日に向かって撃て』
でポール・ニューマンがキャサリン・ロスを籠に乗っけて漕いでいる時の歌だ、と
気が付いた。
 次の瞬間に、自転車の前輪がスロープに差し掛かったのだが、突然、ハンドルを
取られるのが分かった。
 焦って斜面を見ると、積もったばかりの雪の下に薄っすらとワダチが出来ていて、
左側の壁に向かってカーブしている。
 あれッと思った時には、ずずずずーーっと滑り出していた。壁に激突する、と思
ったのだが、壁が外れて、自転車もろとも地上に転落した。
 こりゃあ死ぬぞ、ともがいている内に、自転車と自分が入れ替わり、自分が先に
背中から着地した。かなりの衝撃だったが、雪がクッションになって、助かった、
と思った。しかし次の瞬間、自転車が落ちてきて、ブレーキレバーが右腹部の肝臓
付近をざっくりとえぐった。その衝撃で自分はうつ伏せの状態になり、チャリは回
転して、脇の小道に飛んでいった。











元文書 #1078 斑尾マンション殺人事件 11
 続き #1080 斑尾マンション殺人事件 13
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