AWC 斑尾マンション殺人事件 8


        
#1075/1158 ●連載    *** コメント #1074 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:14  (398)
斑尾マンション殺人事件 8
★内容

 35


 その頃、そこから10数キロ離れた信州中野駅の出口の柱に、斉木は寄り掛かっ
て立っていた。
 化繊ダウンのフードを被って、『Can't Buy Me Love』を口ずさみながら。
  can't by meだと思っていがcan't buy meなんだな、と斉木は思った。
  ポールは何時でも他人の事を歌う、とジョンは言うが、ちゃんと環境の中で感
じて歌っている気がする。具体的な環境の中に自分が居て、相手が居て、インター
フェースは金じゃあダメ、と。ジョンの場合、自分の事を歌うと言っても、環境と
は無関係な脳内自己だからなぁ。なんだか商品に興味の無いセールスマンと話しを
しているみたいだ。
 そんな事を考えていたら、いきなり尻の肉をつねられた。
 斉木が振り返ると、カミーラが笑っていた。飯山駅で大沼に抱き付いていた日系
人だ。
 女が頬を突き出して来るので、斉木は一応チュっとやった。

 歩道を横切ると、すぐにタクシーに乗った。
 後部座席で、カミーラは財布からCDのチラシの切れ端を出した。
 小さく折り畳んであって、端っこは擦り切れていた。
  こんなもの後生大事に持ち歩いているんじゃあ本当に欲しいCDなんだろう、
と斉木は思った。
「TSUTAYAに行けばあるかも知れないよ、ラテンのCDも」
  言うとカミーラの横顔を見る。額から鼻のラインが真っ直ぐだった。
  ローマ人の末裔だね、と思う。コインに彫ってあってもおかしくないよ。
  彼女は日系人だが、色々混血していた。インディアだの西洋人だの。
 こんな女が大沼にアモルを感じている訳はない、と斉木は思っていた。
  だいたいそんなに日本語を喋れる訳じゃないので、コミュニケーションが取れ
ないだろう。ただ単に携帯をくれたり、送金したりしてくれるから、便利だから付
き合っているだけだろう。
  しかし、しばらく観察していると、これってアモルがあるんじゃないのか、と
思える場面に遭遇する事があった。例えば、何か美味しいものを口にすると、「美
味しい」と喜んで、同じスプーンで大沼の口に運ぶとか。ガムが一枚あったので大
沼が何の気なしに口に放り込んだら「どうして自分に半分残しておかない」と本気
で怒るとか。ただの便利屋だったら、そんな事するだろうか。
 斉木は、自分はローマ人の末裔に愛される訳がない、と決め付けていた。しかし、
大沼が愛されているのを見ると、あんなのは元設備屋のおっさんだろう、という事
はカミーラなんて設備屋の女じゃないか、だったら俺の方が…と思えてくるであっ
た。
  これってきっと、クラプトンが、芋ジョージに比べりゃぁ…とパティを寝取っ
たのと同じだろう、と斉木は思った。
「何、考えている」カミーラが言った。
「あぁ、あそこの店は大きいけど、でも、田舎だから無いかも知れない」
「そうしたらあなたがインターネットで買ってくれればいい」
「大沼に頼めばいい」
 カミーラは自分の肘をとんとんと叩いて「タカニョ」と言った。
 これはケチ、という意味だ。
  彼女らの生業は養鶏場の労働者だが、小遣い稼ぎに売春もしていた。潰れた映
画館の、コの字になった廊下の左右の喫煙所に布団を敷いて、一発5千円で客をと
っていた。入り口の売店横の喫煙所が置屋みたいになっていて、テーブルの上には
ウィスキーだのペットの天然水だのが置いてあった。一杯やりながら女の品定めを
するのだ。女は4、5人居た。
  ある時女がコップに紙ナプキンを被せて100円玉を乗せて、火の付いたタバ
コで穴を開けるゲームをやろうと言ってきた。
「私が負けたらキスしてあげる。あなたが負けたら千円頂戴」
「何で俺が金を払わなきゃいけないの?」斉木は真顔で言った。
  女が「タカニョ」と言って肘を叩いてきた。
 しかし斉木は、ここで鼻の下を伸ばしてそんなゲームをやったら本当に馬鹿にさ
れるだけだと知っていた。
 こいつらの前ではおまんこ泥棒に徹するべきなのだ。それでこそ一目おかれる。
マラドーナの神の手みたいなのが尊敬されるのだ。映画館では5千円は払うのだが、
あれは入店料みたいなものだ。チップを払った訳じゃない。店外デートでただまん
を決めればおまんこ泥棒は成立するのだ。Can't Buy Me Loveだ。
「これ、素敵だな」斉木はカミーラのピーコートを摘んだ。「大沼が買ってくれた
の?」
「そう」
「その方がずっといいよ。それだったら普通の留学生に見えなくもない」
 もし今夜あの立ちん坊みたいな格好で来られたらどうしようかと思っていたのだ。
 ところが留学生という意味がわからずカミーラは眉間に皺を寄せた。
「スチューデント」と斉木が言う。
 ああ、と言って彼女はにこーっと笑った。
 その表情の表れ方が、スルメを網に乗っけたぐらいの勢いだったので、表情があ
るよなぁ、と思った。これだったら西洋人からしてみれば日本人なんてアルカイッ
クもいいところだろう。
 斉木は前を向いた。
 何の積もりかカミーラが斉木の腕を抱えて身を寄せてきた。
 コートの上からでも胸の膨らみが分かる。
 ちんぽがぴくぴくっと反応した。
 CDの2、3枚も買ってやりゃあ、俺のアパートに来るかも知れない。待て待て。
そんなことして何になる。八百屋の姉ちゃんに余った野菜を貰う様なものじゃない
か。そんな事するぐらいだったらおまんこ泥棒に徹した方がいいのだ。CDは自分
で買わせて、どさくさにまぎれて一発やってやる。

 ビルに入るとエスカレーターに乗った。
  吹き抜けの向こう側の店が、年度末の決算セールとかで、キラキラと飾り付け
されていた。カミーラの目もきらきらしてきた。
 こりゃあ気を付けないとやばいぞ、と斉木は思った。
 エスカレーターを乗り継ぐ時にワゴンセールをやっていて、ちょっと油断をした
隙に、「あそこに風船が浮かんでいる」と言ってカミーラはワゴンに吸い寄せられ
て行った。
 「ちょっと、みるみる」と言って見る。ミロだのミレだのはスペイン語でも『見
る』だ。
 ワゴンの靴を取り上げて、頬ずりすると、「ああ、柔らかい。こんなにソフトな
靴はペルーには無い。お母さんが履いたらベリー・グー」
 斉木は用心した。この先は「でもまだサラリーない。あなた助ける出来ます
か?」となるんだろう。そして買ってやると、レシートも寄こせという。そして養
鶏場で誰かに転売だ。
 そうなる前に、斉木はワゴンから彼女を引き離した。
「ああいうのはみんな4月になれば半値になる。そうしたら大沼に買って貰え」
 こうやってけん制して、マラドーナが肘でけん制しながら5人抜きをするように、
タカニョの肘でけん制しながらただまんにゴールしてやる。

 TSUTAYAには南米のサルサは無かった。それどころか、ラテンのコーナー
すら無く、ワールドミュージックのコーナーに、グロリア・エステファンだのリッ
キー・マーティンだの、超ポピュラーな物が10数枚並んでいるだけった。
 それでもカミーラはしゃがみ込むと、CDの背中をなぞってみたり、唇をつまん
で考えたりしていた。
 何を考えているんだろう、と斉木は思った。養鶏場で転売できる商品はないかな
ぁ、この機会を逃したら次は何時たかれるか分からない、とか?
「無理して買わなくもいいよ」斉木はフランクに言った。「あなたの欲しい曲はイ
ンターネットでダウンロードしてきてあげるよ。その代わりその金でステーキを食
べよう」
「ステーキ?」
「そうだよ。こんなに大きなステーキが1500円なんだ。サラダバーもついてい
る。ビールも」
「ふーん」と言うとカミーラは唾を飲み込んだ。
 斉木は、カミーラの脇の下に手を突っ込んで引っ張り上げると、そのまま売場の
外に引きずり出した。
 ところが、すれ違いに田舎っ臭い男女が、入って来た。
 サルサがどうの言っている。
「あいつら、サルサなんて聴くんだろうか」と斉木は思った。
 目で追って行くと、さっき自分らが見ていた棚を見ている。
 突然斉木は、「やっぱりここまでのタクシー代を考えると、何も買わないで帰る
のは馬鹿馬鹿しい」と言い出した。
 カミーラを引っ張って行って、そいつらの横に並んだ。
  田舎者は「エステファンっていうのは亡命キューバ人を売りにしているんだよ
ねぇ。本当のクーバって言うのはブエナビスタみたいな、ソンみたいな」等々、村
上龍あたりのイベントで仕入れてきた様なネタを話していた。
「こんな所にロクなCDは一枚も無い」突然でかい声で斉木は言った。「甲府まで
行けば、養鶏場で鶏の首を落としているペルー人が沢山居て、そいつらのイベント
に行けばフェンテスのアナログ版をコピーしたのとかが手に入る」と、大沼から仕
入れたネタを、スペイン語混じりの日本語で、まくしたてた。
 その余りのテンションの高さに圧倒されて、田舎者達は退散してしまった。
 そして、対象が居なくなると斉木も白けたのだ。
 斉木は思う、「自分はジョン型だと思っていたが、てんかん気質の衝動みたいな
のも多少入っているじゃなかろうか」と。

 通りに出ると「あそこのビルにステーキハウスがある」と向いのビルを指した。
 その屋上のボーリングのピンを見て、「あれはなに?」とカミーラが聞いた。
「ああ、あれは」と脳内で説明の文章を組み立てようとしたが、なかなか上手く行
かない。
 百聞は一見にしかずだ。そう思うと斉木はカミーラの手を引いて、向いのビルに
入った。
 2階のボーリング場フロアに行くと、ボールの棚の所から、レーンを見る。
 若い男女4人組がボールを投げていた。
 斉木自身、ボーリング場に足を踏み入れるのは10数年振りだった。
 ボールがレーンを滑っていく音や、ピンの砕ける音が迫力があって、全く贅沢な
遊びをしていやがるなぁと感じた。
「あなた、これやった事ある?」カミーラが言った。
「当たり前じゃん」
「だったら私、やってみたい」
「おお、いいよ」
 フロントに行って、申し込みをすると靴を借りた。
 ボールを選びながら斉木は、スコアの計算方法を思い出していた。
 スペアだったら次のを足して、ストライクだったら2つ先まで足すんだったっけ。
 しかし、指定されたレーンに行ってみると、昔は自分で書いたものがプロジェク
ターで映し出されていたのだが、今や、ボールを投げると自動的に計算されてディ
スプレイに表示される様になっている。
 こりゃあ進化している。丸で懲役15年で出て来た奴がパチンコだの公衆電話だ
のの進化ぶりに目を白黒させる様なものなんじゃないのか。
 しかしそんな驚きはおくびにも出さず、「ボールを投げるとあそこに数字が出る。
2回で全部倒せばスペア。スペアだと…」とルールを説明してやった。「さあやっ
てみな」
 しかしカミーラはボールを抱えて、レーンの端まで歩いて行くと、その場にぼと
んと落とすだけ。後はレーンの傾斜でよろよろと転がって行き、ガーターになるだ
けだった。

 ステーキハウスでメニューを見ながら「これ、スパイシー?」とカミーラは聞い
た。
「スカイシーなのは苦手なの?」
「私はスパイシーなのは嫌いだよ」
 何故スパイシーなのが嫌いかというと、昔、ヨーロッパ人は武器をアフリカに運
んで奴隷狩りをし、奴隷を南米に運んで胡椒栽培をし、そして胡椒をヨーロッパに
持ち帰るという三角貿易をしたから、と日西英ごちゃまぜで言った。
 それは胡椒栽培じゃなくて綿花の栽培じゃないのか、思ったが。とにかくそれっ
て、豊かな商品をカミーラに見せびらかして、カミーラを田舎者に見せびらかして、
田舎者の疎外感を見て自分が喜ぶ、という三角貿易を皮肉っているのか、と思った
が、そんなに難しい事を考えられるわけないだろう。
 スパイシーではないステーキが運ばれて来ると、カミーラはそれを頬ばった。
 彼女を見ていて斉木は思う。さっきこの女を田舎者に見せびらかしたのは、ジョ
ン・レノンがジュリエット・グレコのそっくりさん、それがオノ・ヨーコだと思う
のだが、それを大衆に見せびらかした様なものだろう。でも、そんな事したって、
全く当事者感覚に欠ける。
  じゃあ何で、大沼はカミーラの当事者だって思えるんだろう。
「大沼って何なんだよ」
「恋人だよ」カミーラはあっさり言った。
  斉木はびっくりした。
「そんなわけないだろう。あいつは映画館で金を払ってお前を買っていたんだぜ」
「それはあなたも同じ」言うとジッと見据えた。
 この女、ここでそんな事を言うか、と斉木は思った。
 今は俺と居るんだから、大沼の事は棚上げにしておけばいいじゃないか。やっぱ
り、こいつもガムテープなんだな。ガムテープ同士でべっとりくっつけ。
「大沼は、タバコが好きでしょう」斉木が言った。「だから胸が悪い。後でサンタ
マリアかも知れない」サンタマリアとは死ぬという意味だ。「彼がサンタマリアに
なったらお金が入るでしょう。でも、日本人がいないとペルーにお金を持って帰れ
ないでしょう。どうする?」
「あなたが助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」

  養鶏場のアパートは、新幹線新駅の近くにあった。
  近所までタクシーで行くと斉木も一緒に降りた。
  舗装された農道を歩いていると、「アパートまで付いてくる気?」とカミーラ
が言った。
「俺のアパートはここから20分ぐらい離れているんだよ。タクシーで帰る気がし
ないから、朝までバスを待っているよ」
「こんなに寒いのに?」
「しょうがないだろう」
  それから2人は農道を歩いた。
  左手には田んぼ、右手には雑木林があった。真っ直ぐ行けば養鶏場がある筈だ
が、まだ距離があるので、飼料や糞のニオイはしてこない。空気が湿っているから
漂って来ないのかも知れない。
  湿った空気が空中で凍ってしまいそうな冷え込みだった。50メートルおきに
外灯があって光のワッカを作っていた。
  歩きながら斉木はカミーラの顔をチラ見した。これだけ寒いのに、マフラーに
包まれた顔は紅潮している。さっき食ったステーキが血になって体中を巡っている
んだろう。脇の下やおっぱいにも汗をかいるんじゃなかろうか。今ひん剥いてやっ
たら、湯気を立てるんじゃなかろうか。肛門の皺や、膣液に濡れた陰毛が目に浮か
ぶ。
「しょうがないから泊まって行ってもいいよ」彼女が言った。「でも私の部屋には
お姉さんが居るから、社長の部屋で寝ればいいよ。あそこは倉庫になっているか
ら」

  アパートの社長の部屋に入ると斉木は周りを見回した。
  倉庫といっても普通のワンルームでユニットバスもある。
  ここで一発やれる、と思った。
  壁に熊やらキツネの毛皮がぶら下がっていて、部屋の隅には猟銃が立て掛けて
あった。
「あれ、使えんの?」
「イタチを追っ払うんだよ」
「あんな所に放置しておいていいの?」
「何本もある」
 カミーラは一度部屋から出て行って、しばらくすると紅茶を入れて持ってきた。
それにたっぷりとブランデーを入れて飲んだ。
  斉木が「俺はT(tea)も好きだけれどもU(you)の方がもっと好きな
んだぜ」と言った。
「でも、I(愛)よりHが先だと順番が逆だね」
「でも、やって好きになるって事もあるだろう」と言いながらにじりよる。
「分かった、やるよ」とカミーラは言った。
 斉木は黙って服と下着を脱いだ。
「結構太いね。根元のところの絆創膏から血が出ている」とカミーラは言った。
 その太いのをずらすとカミーラは絆創膏をチェックした。
 斉木は痛さで少し顔を歪めた。そして言った。「安心しろよ。人にうつったりす
る病気じゃないから」
「でもシャワー、浴びてきて」
 斉木はユニットバスに入ると、シャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血
した。
  シャワーから出てくると彼女の姿はなかった。
  体を拭きながら待っていると、ドアが押し開けられた。
  隙間から銃身が差し込まれる。構えている奴の顔は見えなかった。
「こっちに向けるな」と斉木が言った。
 しかしそのままズドンと火を吹いた。
  驚いて身をよじると、胸からどくどくと血が流れ出した。
  斉木は衣服を小脇に抱えると、ベランダに飛び出た。そこにあったサンダルを
突っ掛けると、手すりを乗り越えて、雑木林の中に入った。
  10数分歩いて、農道に出たところで、斉木は失神した。


●36

 翌朝、高橋明子は、マンションに向かう車の中でカーラジオを聞いていた。
  ニュース解説の評論家が興奮しながら喋っていた。
「いっくらねえ、原子炉が十数センチの鋳物で出来ていようと、そっから出ている
配管なんて、原発プラントというよりは、そこいらの水道屋の技術なんだから。そ
こらへんの継ぎ目から、放射線を含んだ湯気がしゅーしゅー漏れていても不思議は
ないんですよ。NYの冬場の景色を思い出して下さいよ。道路のあちこちから水蒸
気がもくもくと漏れてきているでしょう。あれはねぇ、NYの高層ビルにセントラ
ルヒーティングの熱湯を供給している会社があるんだが、その配管があっちこちで
ひび割れていて、それで漏れてきているんですよ。それと同じ技術でスリーマイル
の原子炉を冷やしているんだから、チャイナシンドロームが起こらない訳がないん
ですよ」
『チャイナシンドローム』のジャック・レモンは凸っぱちで蛯原に重なる。
 そう言えば蛯原も、ボイラー室の配管から水が漏れている、と所長に言っていた。
「いっくら大通リビングの工事部に連絡しても動かざること岩の如しなんですよ」
「いいんだよ、そんなの放っておけば。たとえ浴槽の底が抜けて理事長が素っ裸で
落っこちて来ようと、工事部にほうれん草した段階でAMとしては免責」と所長が
言っていた。
 そうなんだ、と明子は思ったものだ。
 いくらマンションの施工や管理がずさんでも、自分の属している会社だけはちゃ
んとしているのだ、と。
 ところがその所長が死んで24時間も経つっていうのに、何の指示も無い。こっ
ちから電話すればいいのだが、そうするまで何も言ってこないというのも不安だ。
 斉木あたりが、残業代がどうとか言ってきたらどうすればいいんだろう。まぁそ
の段階で連絡すればいいのだが。
 …てな事を考えている内にジムニーはマンションに到着した。
 自走式駐車場一番手前に駐車すると、何時もの様に、ゴミ集積場前、後方入り口、
廊下の順番で歩いて行く。
 エントランスに出ると、フロントは無人だったが、開放されたドアから管理室内
の騒がしい気配が伝わってくる。
 なんだろうと思って、勝手にフロントの中に入って管理室の中に半身を入れる。
 ジャック・レモンのようにYシャツに緩めたネクタイをぶら下げた蛯原がホワイ
トボードの日付欄に何やらごちゃごちゃ書き込んでいる。
 それを見詰める作業着姿の大沼と鮎川。
 この鮎川というのは、蛯原みたいな凸っぱちなのだが、イルカほどの俊敏性はな
くスナメリみたいな感じだ。
 その手前にスーツ姿の井上も居た。
 入り口には榎本の丸い背中。
「鮎川ちゃん、大沼さん、鮎川ちゃん、大沼さんで回していける?」と蛯原言った。
 24時間の管理員は3名が交代で行うのだが、2名交代でも行けるか、という問
いかけなんだろう。
 ホワイトボードにも
3月25日金 鮎川
3月26日土 大沼
3月27日日 鮎川
 と書いてある。
「俺は平気だよ」と鮎川。
「大沼さんは」
「ええけど、限度があるで」
「どれぐらい?」
「一週間やろな」
「それまでにAMから誰かくるとしても、ド素人をよこされてもなあ」蛯原が思案
顔で腕組みをする。「そうしたら、俺が24時間に回って、井上さん、フロントお
願い出来ますか?」
「え、僕が?」
「事態が事態だからしょうがないでしょう」
 明子は最後尾にいた榎本の耳元に「何かあったんですか?」と小声で囁いた。
「ちょっと、ちょっと」言いながら、袖を引っ張って明子を連れ出すと、榎本が言
った「斉木さん、撃たれたんですって?」
「は?」
「銃で撃たれたんですって」
「えー」とそっくりかえる。
 榎本はネットのニュースを印字したもの広げると読み上げた。
「昨日、深夜0時過ぎ、大字飯山の雑木林で飯山市上境在住のマンション管理員斉
木さんがイタチに間違われて猟銃で撃たれました。斉木さんは市内の病院に搬送さ
れました。弾は肺にまで達していましたが、一命は取り留めました。銃は近所の養
鶏場の宿泊施設から発射された模様ですが、養鶏場経営者によれば、昨夜はイタチ
狩りをしていないとのことです。警察は被害者の回復を待って事情を聞く予定…で
すって」
「まさかー。それで井上さんにフロントをやらせて、あの3人で24時間管理員を
やるって?」
「もう張り切っちゃってるんですよぉ」
 明子は管理室を覗き込んだ。
 大沼、鮎川、井上を相手に、蛯原が水性マーカーを持った手で身振り手振りで大
げさに指示している。
 何であいつが仕切っているのか、と明子は思う。
 井上がホワイトボードの前で指示を出すべきなのに水性マーカーで指されて「お
前がフロントに立て」とか言われている。
 明子は意を決した様に、管理室に入ると、「井上さん、ちょっといいですか」と
背広の肩をつついた。
「何ですか?」
「ちょっと」と言うと腕を取る。
「ななな、何、何」とヨロヨロしながらも明子に引っ張られてフロントまで出てく
る。更に「何ですか、何ですか」と言いながらも、ラウンジまで引っ張られて行っ
たのだが、しまいには「何なんだ」と大き目の声を出すと乱暴に腕を振り解いた。
 井上は眉間に皺を寄せて小鼻を膨らませていて、如何にも、男の職場に女がちょ
ろちょろするな的オーラを出していた。
 あー、すっかり蛯原の超音波にやられちゃっているんだなぁと明子は思う。
「井上さん、フロントに出る積もりですか」
「いけませんかッ」
「そんな事をして、もし居住者に、あれー、どうしたんですかーって聞かれたらど
うするんですか」
「えっ」
「いやー、ちょっとうちの管理員が銃で撃たれましてね、その交替ですよ、とでも
言うんですか」
「…」
「井上さんがフロントに立つって事は、斉木が撃たれた事はもちろん、日系人と付
き合っていたとか、全部井上さんが承知していた事になるんですよ」
「日系人?」
「聞いてないですか?」
「いや、なんにも」
  なんだ、聞いていないのか。そういう事を知りつつ、蛯原に鼻づら掴まれてい
い様に振り回されているのかと思ったら、そういう訳でも無いんだな。だったら自
分が説明してあげないと、と明子は思った。
「私、見たんですよ。大沼さんが日系人とぶちゅーっとやっているのを。駅前で。
  大沼さんに聞いたら、あれは養鶏場の女で斉木さんも絡んでいるって言ってい
ました」
「え? なに?」井上の目は宙を泳いでいた。「養鶏場の日系人女性が斉木さんを
撃ったって事?」
「そこまでは分からないけれども」
「うーん」井上は床の大理石のアンモナイトを見詰めて考えた。今一状況が掴めな
かった。斉木は養鶏場で撃たれて、大沼は養鶏場の日系人と関係がある、という事
か。だったら大沼に聞いてみようかと思ったが、下手な事を知ると、善意の第三者
では居られなくなってしまう。「本店に電話してみる」言うと管理室に戻ろうとす
る。
「どこに行くんですか」
「会社に電話」
「だめだめだめ。あの管理室に入ったら蛯原の超音波にやられちゃいますよ」
「はぁ?」
「あの人のそばに行くと、おかしくなっちゃうんですよ」
「しかし、こんな所から連絡するのも」と手を広げた
「うちの事務所を使ってもらってもいいんですよ」
「AMの?」
「そう。私も昨日あんな事があったんで、一人で居るのが怖いっていうのもあるし。
それよりなにより、井上さんの耳に入れておきたい事があるんです。でもそれは蛯
原とかにも関わる事なので管理室では話せないんですよ」
「蛯原も絡んでいるんですか?」
「たぶん」
「分かりました。じゃあちょっとカバンを取ってきます」
 そして二人で管理室に一旦戻る。
 まさに舌好調という感じで、蛯原が身振り手振りで大袈裟に「今我々が考えるべ
きことは」などと言っていた。










元文書 #1074 斑尾マンション殺人事件 7
 続き #1076 斑尾マンション殺人事件 9
一覧を表示する 一括で表示する

前のメッセージ 次のメッセージ 
「●連載」一覧 HBJの作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE