AWC 斑尾マンション殺人事件 6


        
#1073/1110 ●連載    *** コメント #1072 ***
★タイトル (sab     )  17/03/18  18:12  (432)
斑尾マンション殺人事件 6
★内容


● 25

 井上はその頃、東京本店の近所のカレーハウスにて、アイスコーヒー&カレーを
注文した所だった。
 タオル地の黄色いおしぼりで顔をぬぐってから水を飲むと、正面に座っている同
僚の女性に話し出した。
「斑尾の駐車場だけれども、何でみんな使用料を払うんだろう」
「はぁ?」
「だって、あそこの敷地権は居住者にあるんだよ。自分の土地に車を止めておいて、
何で使用料を払うんだろう。
 あそこら辺の月極駐車場の相場が4千円だからって、みんな4千円払っているけ
ど、あそこら辺のタイムスは売上の何十パーセントかは地主に払うだろう。だった
らあそこの居住者だって、4千円の何十パーセントかは戻ってくるべき、とは思わ
ないのかね。あそこの立体駐車場もマンション購入価格の一部で 毎月ローンを払
っているのだから。そうだろう。そも思わない? なんか、これは叙述ミステリー
的なトリックがあるんじゃなかろうか」
「そういうのは、正しいとか間違っているとかどうでもよくて、契約上の問題なん
ですよ。井上さん、2年連続、宅建落ちたんですって?」
「忙しくって、勉強、出来ないんだよ」
「じゃあ、宅建の練習、っていうか、契約とは何かって感じですけど。いいです
か?
 設問。間違っているものを選びなさい。
 数字の3と4では4の方が大きい」
「ピンポン」
「だから、間違っている方を選べ、って言っているじゃないですか」
「あ、そっか」
「ジャンケンのグーとチョキではチョキの方が弱い」
 少し考えてから「ピンポン」
「間違っている方を選べ、つってんの」
「そっか」
「井上さん、目が点になってますよ。もう、永久に宅建、受からないよ」
 それからアイスコーヒーが運ばれてきたので、井上はガムシロップとクリームを
入れるとストローを差して、ぶくぶくぶくーっと空気を送り込んでかく拌した。
「ちょっと、井上さん。何やってんですか。他のお客さんが見ているじゃないです
か」と言われた。
 井上は頭をかきながらあたりを見渡したが、自分が何をやらかしたのだか、よく
分からなかった。
 それからカレーライスを食べ終わったら、香辛料のせいで血の巡りがよくなった
せいか、井上は鼻血を出した。しかしティッシュもハンカチも持っていなかったの
で、止むを得ず店の黄色いおしぼりを鼻に当てた。
 どんどん血を吸って、みるみる真っ赤になってしまった。
「そんなの置いていったら二度と来られなくなるから、帰りに表のゴミ箱に捨てて
行って下さいね」と女。
「そんな事をしたら泥棒になるじゃないか」
「井上さん、やっぱりちょっと違うのかなぁ」女は呟くように言った。


●26

 社に戻って、自分の机に戻った途端、他のOLが言ってきた。「井上さーん、斑
尾マンションの蛯原さんから電話。3番でーす」
 丸でお酢でも含んだような顔をしながら受話器を取り上げると保留になっている
ボタンを押した。
「井上ですけど」
「井上さん。AMの所長、死にましたよ」いきなりズバっと言った後、蛯原は、占
有部の風呂場で倒れていた、救急が搬送した、警察が来た、病院で死亡が確認され
た、死因は塩素ガスによる吐しゃ物を詰まらせて、等の顛末の詳細を言った。
「混ぜるな危険とかやったんじゃないんですか?」
「多分ね。でもまずいことが数点ありましてね。まず第一に鍵を開けたのはナルソ
ックなんですが、U字ロックが掛かっていて、それを開けたのがうちの斉木なんで
すよ」
「ああ、あの紐で開ける方法でしょ。あれって何かまずいんですか。あれをやんな
きゃ壊すしかないんでしょ」
「まぁそれはいいんですがね。警察が高橋さんとかを、疑っている様な」
「誰ですか、それ」
「AMの事務員ですけれども」
「それってうちに関係あるの。AMの社長とかに電話したんですか?」
「しましたけれどもね。申し訳ない事をしたって言ってましたよ。
 あそこは販売のモデルルームみたいなものだったでしょう。それを井上さんのご
好意で又借りしたのに、そんな所で人が死んだんじゃあ、もういわく付き物件だか
ら売れないかも知れないし」
「ちょっと待って下さいよ。別に僕が紹介した訳じゃないでしょう」
「ですから、ですから、AMから不動産屋に連絡してもいいんですが、そうすれば
不動産屋から施主に連絡が行って、施主から大通リビングに連絡が行くでしょう。
それよりかは井上さんから施主に連絡した方がいいかと思って」
 井上はメモに関係図を書いた。宅建でも民法の問題などでちょっと複雑になると
訳が分からなくなる。







施主・大和通商    斑尾マンション管理組合
↓      ?    ↓
(販売委託)  ?  (管理委託)
↓         ? ↓
不動産屋       大通リビング 井上
↓           ↓
(転貸)       (業務委託)
↓           ↓
AMの事務所     AMの蛯原以下。
   の所長が死亡。

 施主の大和通商というのは大通リビングの親会社だ。
 井上は奥の方で肘掛け付きチェアに座っている役員連中を見た。
 ああいうのはみんな親会社から出向していきている人間だ。
 蛯原の言う通り、不動産屋から施主、そこからあの役員の耳に入るのはまずい気
がする。自分からあそこに座っている役員にほうれん草すればそれで免責になる。
「分った。僕から上司に言ってみる」
「井上さん。来た方がいいと思いますよ。大和通商の営業なんて神出鬼没ですから
ね。何時来るか分からないですよ。その時にまだ管理会社が一回も来てないという
んじゃどうかと。明後日から又雪ですから、来るんだったら今日か明日ですよ」
 井上、スマホのスケジュールを見た。
 今日明日は時間を作れない事もないな、と思った。


● 27

「分かった分かった、とにかく上司に相談します」と言って受話器を置いた後、こ
れって飛んで火に入るなんやらじゃないのか、と思った。
 蛯原の言う通りにすると、何だか知らないが騒ぎに巻き込まれる。
 そう言えばつい先月もそうだった。
 まだ地震の前で、あの頃は居住者も大勢滞在していて、風呂もにぎわっていた頃
だった。
 蛯原が言った。「居住者様の意見として、風呂上りにビールを飲めないのは寂し
いっていうのがあるんですよ。休憩スペースの自販機にビールを入れればいいんじ
ゃないかと。
 それからあそこのスタジオ、あんなところ、誰も使っていないのだから、あそこ
でカラオケが出来たら、という意見も多いんです。
 だってマイクも大型スクリーンもあるのだから、カラオケDVDだけ買ってくれ
ばいいんでしょう?
 どうしてそのぐらいの事が出来ないのか。
 何で、設備の有効利用をしないのだろうって。
 ついでに麻雀も出来たらもっといい。そんな事は公団住宅の集会所でもやってい
る事じゃないですか。
 そうやってみんなが仲良くなれば、居住者同士の交流も広がって、結果、温泉利
用者も増える、共用部の赤字も解消できる。
 これは居住者にとっても管理会社にとっても、WIN・WINの話じゃないです
かね」
「そう言われてみれば、そうですね」
「そうでしょう。設備は全て揃っているんだから、それが金を産むならやらない手
はない」
 というんで、先月の理事会に提案したのだが、一部の理事から猛烈な吊し上げを
食った。
「あの蛯原っていうのはどういう男なんだ。
 あいつ、こう言ったんだぞ。
 ここには露天風呂もサウナもあるのに、垢すりとかないのは寂しいですね。タイ
式垢すりでも、南米人のボディーシャンプーでも入れて、休憩室でビールでも飲め
れば最高なのに。
 …それって、1階がパチンコ屋、2階がサウナみたいな店の話じゃないのか。
 そのタイ式垢すりだって、タイ式マッサージだのタイ式ヘルスだのに近い感じだ
ぞ。
 その上、カラオケだ麻雀だって。
 普通のファミリーが住んでいるマンションにそんなもの作ってどうする積もりだ。
 だいたい、カラオケだの雀荘だのっていうのは、繁華街にしか作っちゃいけない
んじゃないのか。
 あなたはそういうのの専門家だろ、宅建とか。教えてくれないか」と理事会で迫
られて焦った。
 確か一番土地柄の悪いところにキャバレー、ストリップ劇場があって、その周り
に雀荘、パチンコ屋、その周りにカラオケだったような。こんな都市計画法上の用
途規制なんて覚えていられない、とその時には思った。後で調べたら、そもそもあ
のリゾートマンションは都市計画区域外なので、そんな規制は無かったのだが、あ
の場で答えられなかったのはまずかったなぁ。


● 28

 井上は、スマホ片手に、上司である出牛取締役のデスクに行った。
「ジューシさん、斑尾のマンションで事故がありました」
 それから今朝からの顛末を簡単に述べた。
 マンション管理で管理会社が責任を問われるのは、共用部の設備に関して管理員
の不手際で起こった事故、例えばマンホールを開けっ放しで子供が落っこちたとか、
の場合だけなのだが。
「蛯原が、物件がいわく付きになるんじゃないか、とか言っているですが」
「そんなの関係ないよ。でも警察が動いているっていうのはどうなんだろう」と言
うと出牛は椅子を反対側に向けて窓際にいる山田を呼んだ。
 山田は推定年齢55歳の警察OBだ。
 大通リビングではこわーい人対策に、5年に一人の割合で警察OBを受け入れて
いる。
「実はね、斑尾で死亡事故があって、警察が」なんたらかんたらと今の説明をする。
 山田はオデコにぐにゅ〜っと皺を寄せて言った。「そりゃあ一応調書を作るんだ
ろうから、誰っかしら事情を聞かれるかもしんないけど、それがその蛯原とかいう
パートじゃまずいだろう。やっは井上君、行った方がいいんじゃないの?」
「それは、あっちの警察に行けって事ですか?」
「いや、まんず、事情を掴んでおいて、顛末書ぐらい持っていないとまずいんじゃ
ないの? 俺もついていってやろうか?」
「いや、いいです」反射的に井上は断った。
 山田の顔を見ていて思ったのだ。
 ああいう初老の凸っぱちっていうのは、若者を出汁にして自分が生きがいを感じ
るに違いないのだ。
『ロッキー』のマネージャーみたいに。もっともあれは映画の登場人物だが。
『空手キッド』のミヤギみたいに。あれも映画の登場人物だが。
 リアルだったら、エディ・タウンゼントやら、マラソンQちゃんの小出監督など
だ。絶対にそうだ。だいたい蛯原もその傾向があるんじゃないのか。
「私一人で行ってきますよ。まだ斑尾は寒いだろうし」
「じゃあ俺に頻繁に連絡しろ」


●29

 30分後、井上は既に松本行き『あずさ』の車中の人になっていた。
 自由席はがらがらだった。背もたれを思いっきり倒すと、スマホで現場の人員の
チェックをした。

木3月24日 管理員:蛯原、榎本 24時間:大沼 清掃員5名
金3月25日 管理員:蛯原、榎本 24時間:鮎川 清掃員5名
土3月26日 管理員:蛯原、榎本 24時間:斉木 清掃員5名
日3月27日 管理員:蛯原のみ。 24時間:大沼 清掃員午前のみ1名

 松本駅で『しなの』に乗り換え、長野駅で飯山線に乗り換え、そして飯山駅で下
車する。
 プリウスのタクシーに乗ってくねくねした峠を上って行く。
 3時ちょっと過ぎには斑尾マンションに到着した。
 タクシーから降りると蛯原が旅館の番頭みたいに出迎えていた。
「お疲れ様。カバン、お持ちしましょうか」
「いいですよ」
 すぐ脇で、業者がマンホールに塩ビの下水管を運び入れていた。
「何やっているんですか?」
「温泉の水が溢れてくるんですよ。工事部の指示でやっているんですけどね」
「へぇー」
 管理室に入ると、ちょうどフロント側から、清掃の山城が入って来た。肩に20
キロ入りの石灰の袋を担いでる。
 ドサッっとNTTの盤の前に降ろすと、「ボイラー室に置いといたんだが、大沼
がダメだって言うんだよ。ろ過器が錆びるからって」言うと山城は出て行った。
「こんなの買ったんだ」井上はコートをハンガーに掛けながら言った。ハンガーは
パーテーションに引っ掛ける。
 蛯原がキッチンコーナーでインスタントコーヒーを入れて持って来た。
「明後日から又大雪だっていうんで居住者の歩く所だけでもまいておけって、工事
部に言われたんですよ」
「色々大変なんだなぁ」
 井上は油圧式チェアに、蛯原はパイプ椅子に座った。
  二人はコーヒーをすする。
「なーに、冬には冬の事、春には春の事をすりゃあいいんですよ」
  言うと蛯原はカップを煽って、上目遣いで井上を見る。スリや置き引きがター
ゲットを決めた瞬間に見せる狂った意志が浮かび上がる。
「そもそも雪かきなんていうのは、清掃員の仕事には含まれないんですよね」と蛯
原は言った。「規約にも自然災害、土砂等は管理には含まれないって書いてあるし。
まぁ、そうは言っても、こんな雪山のリゾートホテルですってんころりんされたら、
井上さんがお縄になりかねない。だから皆も納得してやっているんですよ。ただ、
手足が冷えちゃって可哀想ですよね。
 実は、このマンションの西に農家があるんですが、ここが建ったら日当たりが悪
くなったと言って、豚小屋にストーブを入れたっていうんですよ。そういうのは清
掃員が外周掃除の時に見て来るんですけどね。それで清掃員がね、『あそこの豚小
屋にはストーブがあるのに、ここの更衣室には何にもない。俺たちゃ豚以下だ』っ
て言うんですよ。とりあえず今はボイラー室で休ませていますけれども、俺たちゃ
豚以下だ、って迫られると私も辛いものがありますよ」
「まあ、そう連呼しないで下さいよ。夏には、『俺たちゃゴミ以下だ』と言って、
スポットクーラーを買わせたじゃないですか」
 このマンションには24時間ゴミ出しOKの屋内ゴミ置き場があって、そこには
臭い防止の為エアコンが設置されていた。
「あの時にはまいりましたよ。理事会から居住者から私の上司にまで『俺たちゃゴ
ミ以下だ』を連呼されて」
「そんなタカリみたいに言われてもなぁ。実際に清掃の皆はシモヤケ作って作業し
てんだから。ストーブなんてたった1万なんですよ」
「じゃあいいですよ、買っても。領収証もらっておいて下さいよ」
 井上は1万ぐらい安い、と思ったのだった。外部の除雪業者に頼んだら1人1時
間で1万円とられる。




● 30

「もう一杯コーヒーを入れましょうか」蛯原が言った。
「いや、もういいですよ。館内巡回して来ますよ。顛末書を作りに来たんだから」
「じゃあ、案内しますよ」
「いやいや、コートとカバンを置いていきますから、見といて下さいよ」

 井上は管理キーを受け取ると、居住棟に入った。
 エレベーター、アルカトロズ風通路を経由してAMの玄関に行くと、アイホンを
押す。
「大通リビングの井上といいますが」
 ドアの隙間から高橋が不信そうな顔を覗かせた。
  しかし明子の顔には、みるみるトキメキの表情が現れた。
 実は、これこれこういう訳で、東京から参ったんですが、と井上が言うと、
「あー、そうですか、そうですか。少々お待ちを」とドアを一旦閉めた。
 所長のローファーを足払いで下駄箱の下に押し込むとスリッパを並べて玄関を開
ける。
「このたびは大変な事で」みたいな挨拶を取り交わした後「ちょっと現場を見てお
きたいんですが」と井上が言った。
「どうぞ、どうぞ」と軒下の仁義みたいなポーズで奥へ奥へと招き入れる。「コー
ヒーでも入れましょうか?」
「いや、今飲んで来たところだから」とトイレ前に立ち止まると、「ここがトイレ
ですか。ちょっと失礼して拝見しますよ」
「どうぞ」
「ここに入っている時に出掛けたんですね」
「ええ。じゃーっと流した後に」
「よく覚えていますね」
「ちょうど大沼さんから電話があったんです」
「うーむ。じゃあちょっと写真を。顛末書に添付しますんで」言うとスマホで一枚
撮る。
 そして洗面所を挟んで反対側の風呂場を開ける。「ここで倒れていたんですね。
怖くないですか?」
「霊感ゼロですから。グロ耐性もゼロなんですよ。井上さんはグロ耐性、ありそう
ですよね」
「どっちかって言うと、そういうのには鈍い方ですね」言いながら風呂場の中を見
回す。「パイプマンにカビキラーか。みんな塩素系ですね。あの桶は温浴施設ので
すよね」
「あれは、カビキラーの中身を清掃の人が持ってくるんですよ。桶に入れて。どっ
かに業務用のが大量にあるらしくて」
「ふーん」と言いながらスマホで一枚。
 洗面所を見渡して「あ、このスイッチは常にオンにしておいて下さいね」と言っ
て、洗面台の横のスイッチを入れた。「これは下水管の換気扇のだから、入れてお
かないと、嫌なニオイがしてきますから」
 それからリビングに移動した。
「ここ、結露、ひどくありません?」
「夜間だけあれを回しておくんですよ。結露しないように」と明子は除湿機を指し
た。
「コンセントのところにぶら下がっているのは何?」
「タイマーですよ。古いやつだから、タイマー内臓じゃないんですよ」
「へー」言いつつスマホで一枚撮影。
  それから奥の方を見て、「あっちが和室ですか。ちょっと失礼して」言うとス
リッパを脱いで上がり込む。窓のところまで行くと障子を開けた。「ゴミ集積場が
見下ろせるんですねえ」
「そうそう、今朝私が出かける時、ここに所長が立っているのが見えたんですよ
ね」
「えっ?」
「今朝、郵便局に用があって出掛けたんですけど、ゴミ集積場から望遠鏡で見たら、
ここで所長が手を振っていたんですよ」
「望遠鏡で?」
「ええ。清掃の人が持っていたやつなんですけど。てか清掃の人と一緒に見たん
だ」
「へー」といいつつ障子をしめて、何気にクローゼットの横の押入の取っ手に手を
かけたが、「ここまで見なくってもいいか」と呟いた。
「はぁ?」
「いえいえ。あ、そうだ。後で聞きたい事があるかも知れないんで、一応携帯の番
号教えて貰えます?」
「あー、全然いいですよ」というと明子は自分の携帯の番号を教えた。
 井上はすぐにその番号に発信すると「それが私の番号ですから」と言った。「じ
ゃあ私はこれで行きますんで」
「そうなんですか。何にもお構いしませんで」
 玄関に行くと井上は中腰になって人差し指で靴を履きながら、「これからぐるり
一周回って、顛末書作って、なるべく早い電車で帰りたい」と唸る様に言った。
 足腰強そう、と明子は思った。
「もしよかったら、私が送っていっても…。どうせ私飯山市内に帰るんです」
「へー、何時頃ですか?」
「だいたい6時頃ですけど」
「じゃあ時間が合えばお願いしようかな。とにかく行ってきますわ」
「行ってらっしゃい」
 井上が出て行くと、明子はべたっと魚眼レンズにへばりついた。井上の背中が見
えなくなると和室に走っていって、障子を数センチ開けて見た。
 丸で家猫が野良猫に発狂するかの様であった。



● 31

 マンションの一階まで非常階段で降りると、井上はサブエントランス脇のドアか
ら外に出た。
 駐車場の西側を回ってゴミ集積場に出る。
「ふむふむ。ここから所長が手を振るのが見えたんだな。今は西日が差しているか
らよく見えるけど、朝方は逆光になって見えないんじゃなかろうか。それに距離も
結構あるので、あれが所長だ、と特定できるのだろうか」思うと井上は、高橋に電
話した。
「もしもし。先程はどうも。ちょっとお願いがあるんですけれども。さっきの和室
からゴミ集積場に向かって手を振ってもらえませんかねぇ」
 言うと同時に4階事務所の障子が開いた。早っ、と思ったが、とにかくそれをス
マホに録画する。
 それから立体駐車場に入ると、ぐるりと反対側に回って、エレベーターで最上階
に行く。
 屋根のない屋上は、全面にグリーンのウレタンが敷いてある。
 辺りを見回しながらスロープの方向へ歩いて行く。
 スロープ手前で、はめ込み式の壁の隙間から西日が漏れているのに気が付いた。
近寄って押してみると、ぐらぐらしている。
  なんだろう、と井上は思った。
  何気に足元を見ると、妙な傷が、ウレタンに付いている。人間の指ぐらいの大
きさで生爪を剥がした様に見える。
  一回剥がしたものを接着剤か何かでくっつけたのだろうか。
  そういう傷が、スロープに差し掛かった所から、壁面に向かって、左側にカー
ブする様に、点々と付いていた。
  床掃除に使うポリッシャーで掃除をしようとしたら左にそれて、壁に激突した
とか。そんな事ぐらいしか思い付かなかった。後で工事部に確認してみよう。

 駐車場を一階まで歩いて降りる。
 ゴミ集積場の前を通って、西の後方入り口から入館した。
 ボイラー室のドアがあったので開けてみた。ろ過器2機、ボイラー2機が轟々と
音をたてて動いていた。コインランドリーの大型乾燥機が空のまま回っているかの
様である。
  その手前にプラスチックの段ボールシートを敷いて、毛布に包まって寝ている
人が居る。
  24時間管理員の大沼さんが仮眠中なのだろう、と思った。
 ボイラー室を後にすると、更にドアを一枚解錠して、共用部のトイレの前に出る。
隣の清掃員更衣室のドアが開け放ってあって、清掃員が談笑しているのが見えた。
  井上が首を突っ込むと、
「今日はもう、ぜーんぶ掃除が終わったんで、時間が余ったんですよ」と額田が言
った。
「いや、いいんですけど」言いながら清掃員の雁首を見回した。4人が扇型に座っ
て居て、要の位置に遠赤ストーブがあった。
「もう買って来たんですか」
「いやあ、どうも」
「もう、俺たちゃ豚以下なんて言わないで下さいよ」
「そんな事言いませんよ」ぶるぶるぶるーっと激しく鼻っ先で手の平を振る。
 それから井上は壁でチカチカしているクリスマスの飾りを指して「あれは、なん
ですか」と聞いた。
「ありゃあ去年のクリスマスからぶら下がっていたんですよ。ストーブと一緒にコ
ンセントを入れたんじゃないの」
「じゃあ、その冷蔵庫は?」
「これも蛯原さんが拾ってきて、ベンダー屋からコーラもらって冷やしているんで
すよ。1本飲みます」言うと冷蔵庫の扉に手を掛けた。
「いや結構です。それじゃあ、火の元にはくれぐれも注意して下さいね」と言って
出て行く。
 井上が出て行くと4人は小声で話した。
  このストーブは斉木君の仕込みが実を結んだのだろうか。自分らがボイラー室
で休む様になった段階で独裁者はハブにされた様なもんだろう。今度は大通リビン
グがストーブを買ってくれたんだから、これは錦の御旗なんだから、自分らはここ
で休まざるを得ない。そうなると今度は独裁者が出て行かざるを得ない。そうして
気が付くとコーラやクリスマスの飾りが飾ってある。これは斉木君によればネオリ
ベのやり口だっていう事だよ。
 再び井上が首を突っ込んできた。「そうだ。今朝、ゴミ集積場で、AMの高橋さ
んに望遠鏡を貸した人っています?」
「私だよ」と大石が言った。
「それ、ちょっと見せてもらえます?」
 言われて、大石はエプロンのポケットから取り出すと渡した。
「これで所長が見えたの?」
「そうよ」
「これ、借りていいですか?」
「やるよ。くれる」
「どうも」と言うとスーツのポケットにしまって、その場を後にした。

 フロントに戻ると、カウンターの中に蛯原が、エントランスの床の上に榎本が立
っていた。
「ストーブ、みんな喜んでいましたよ」と井上。
「そうでしょう」と蛯原。
「それじゃあ、2階を見てきます。今、誰か温泉入ってます?」
「本日の利用者、ゼロでーす」と榎本。
「井上さん、入って来たらいいじゃないですか。自分で首まで浸からないとお客さ
んの気持ちは分かりませんよ」
「でもタオルとか持っていないし」
「タオルだったらありますよ」言うと蛯原は管理室に入ってmyタオルを取って来
た。「はい、これ。冗談ですよ。ちゃんとこっちに綺麗なのがある」と白いタオル
を出す。
「おーっほほほほほ」榎本の笑い声がエントランスの天井にこだました。










元文書 #1072 斑尾マンション殺人事件 5
 続き #1074 斑尾マンション殺人事件 7
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