AWC 腹に一物あるいは片手パズル   永宮淳司


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#424/549 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/11/29  22:24  (359)
腹に一物あるいは片手パズル   永宮淳司
★内容
「皆さんの話を聞き終わった訳ですが、つまるところ、焦点はドアノブの手型
に集約されるようですね」
 私の椅子の背もたれに手を掛けながら、傍らに立った地天馬(ちてんま)は、
静かな口調で始めた。
 ここは宿泊施設の中央センターにある会議室。周辺にはロッジを模した棟が
三十ほどあり、それぞれ二〜四名まで泊まれるという。棟にはいくつかのラン
ク付けがなされていて、学生らは一番安い、風呂・トイレなしのタイプを選ぶ
場合が多いとのことだ。
 今、会議室に集まっているのは、私と地天馬以外に五名。この五人は、同じ
大学に通う学生男一人に女四人からなる。彼らも一番安いタイプのコテージに
泊まっているが、一棟に一人ずつというから、便利さよりもプライベート空間
を重視したようだ。四年前にここを利用したことのある金山令一(かなやまれ
いいち)という男子学生が、全てとりまとめて予約を入れたそうだ。
 昨晩から今日に掛けて、施設に泊まったのはここにいる七名だけと聞いた。
 昨晩、彼らの仲間の一人・城田善治(しろたよしはる)が、コテージ内で刺
殺された。腹部を鋭利な刃物で刺されたのだが、凶器は未発見である。
 もちろん通報は速やかになされたのだが、警察の到着は遅れる見込みだった。
折悪しく、土砂災害が発生し、道路が一部通行止めになっていたのだ。どうす
べきか考えあぐねた被害者の友人達や施設の支配人は、地天馬が殺人事件を解
決した実績のある探偵だと知り、事態の一時的な収拾を頼んできた次第である。
 そして、ここが要なのだが、コテージの配されたテリトリーへの通路には、
防犯カメラが設置されており、その映像を確認したところ、昨晩遅くから今朝
に掛けて、コテージのある区画を出入りした人物は皆無。また、その通路を使
わずに、施設の敷地を出入りすことはかなわない(空を飛ぶか、地中に潜るか
でもしない限り)。つまり、殺人犯はコテージに泊まった五人、いや、厳密を
期して私達も含めると七人の中にいることとなる。
「手型って、私も見ましたが――」
 一番近くに座る都出門美(といでかどみ)が、どこか疑るような口ぶりで言
い始めた。短めのおさげ髪が第一印象を幼いものにしているが、話してみると
五人の内で最も大人びているかもしれない。
「血がべったりと付いたもので、指紋はおろか、掌紋も期待できそうにありま
せんでした。あれでも重要な証拠になるんでしょうか」
 先生に質問をぶつけるときもこんな感じなんだろうなと想像できる。私は苦
笑を忍ばせつつ、地天馬の方を見た。
「なるかならないかと問うのなら、なると断言できる。子細に観察すれば分か
るように、あの手型を着けた主――殺人犯は、手袋をしていたに違いない。そ
れもラテックス製のね。その上、ノブを捻る動作により擦れているし、指紋や
掌紋が採れないのは当然。せいぜい、手のサイズがおおよそ推測できる程度か
な」
「手の大きさが重要な手掛かりになるんでしょうか? 私達の手って、そんな
に差がないように見えます」
 都出の台詞をきっかけに、他の四人が自らの手のひらに視線を落とす。次い
で、仲間達の手元を見やった。
「注目すべきは、手のサイズではありません」
 地天馬が断言した。
「皆さんは、手型が左右どちらの手によるものか、認識していますか?」
「えっと」
 返答に窮した都出。代わって、私達からは一番遠く、出入り口のドアそばに
座る金山が答えた。
「確か、右手でした」
 背が高く、顔も整っているが、髪型と眼鏡が生真面目な雰囲気を醸し出して
いる。他のことならいざ知らず、異性にもてるかどうかという点では、損をし
ているんじゃないだろうか。
「あ、つまり、犯人は右利きだと示してるから、重要ってこと?」
 分かったとばかりに両手を合わせ、高い声を上げたのは、島谷君子(しまた
にきみこ)。仲間が殺されたというのに、しっかり化粧している。尤も、他の
女子学生も、程度の差こそあれ、お手入れは忘れていないようだ。そんな島谷
も、普段は入念に仕上げるであろうボリュームのある髪を、今朝は単に引っ詰
めにしている辺りは、落ち着かない心情が表れているようだ。
「そう言い切れるかどうか。島谷さんは左利き?」
 地天馬の質問に、彼女は首を縦に振った。
「では、ドアを開けるとき、常に左手を使うかな?」
「それは……」
 ドアを開ける仕種を、右手と左手でやってみる島本。ふと周りを見ると、金
山を除く三人の女性は、同じことをやっていた。
「分からないわ。そのときどきによるというか……ただ、今度泊まったコテー
ジから出るときは、左手を使う。それは確かよ」
 その返事に続き、「私も」「僕もです」と、金山や都出らも口々に言った。
「それが自然です。コテージ内から外に出るとき、右手で開けようとすると、
自分自身の身体が邪魔になるのだから」
 コテージのドアは、全て同じ立て付けになっている。室内でドアの真正面に
立ったとき、向かって右側にノブがあり、そこを捻って引くことで、ドアは内
側左に開く。やってみるとよく分かるが、このドアを右手で開けると、自らの
手が邪魔になり、出にくいことこの上ない。
「犯人は何故、左手ではなく右手でドアを開けたか。これは大きな手掛かりと
言える。理由が判明すれば、きっと犯人に近付ける」
「私達の誰も、そんな開け方、しないわ」
「だよねー」
 今まで黙っていた女性二人――遠藤加奈(えんどうかな)と堀幸代(ほりさ
ちよ)が、調子を揃えて言った。仲間内でも二人は特に仲がよいらしく、シャ
ツやスカート、カーディガンの柄などもとても似通っている。大きな違いは、
遠藤の方は目鼻立ちのはっきりとした、いわゆる美人の部類であるのに対し、
堀はいささかふくよかに過ぎるところが見受けられた。
「そういう開け方をする人が犯人だって言うのなら、私達の中にはそんな人い
ないと思いまーす」
「お二人さん、話をよく聞いて」
 地天馬は何か我慢したような、抑え気味の口調で応じた。
「普段の生活で、あのタイプのドアを右手で開けるかどうかが問題ではなく、
肝心なのは犯行直後、右手で開けた理由。分かった?」
「つまり、犯人にはそのとき、右手で開けねばならない理由があったというこ
とですね」
 金山が整理する風に言った。きっと彼は最初から理解していたに違いないが、
遠藤と堀にも分かるよう、敢えて口を開いたんだろう。
 その様子に、地天馬も満足げに頷く。
「もう少し、論を進めると、右手でドアを開けねばならない理由と考えると難
しい。ここは、犯人は何故、左手でドアを開けなかったか?という命題に置き
換えてよいと思う。恐らく犯人は左手を使えない状態だったとね」
「なるほど」
 いつもなら私の役目である相槌を、金山にやられてしまった。今回は楽でい
いかもしれない。反面、ワトソン役としての私の存在感が……まあ、些末なこ
とだ。今はどうでもよい。
 地天馬は改めて五人を見渡し、一際大きな声で言った。
「これから、左手を使えない理由を検討していくつもりだけれど、とりあえず、
私が思い付いた仮説を列挙していく。皆さんは、仮説に異論があるのなら、潰
すよう反論してほしい」
「分かりました」
 そう答えた都出は、居住まいを正した。彼女が一番真剣で、力が入っている
ようだ。もしかすると、被害者に好意を抱いていたのかもと想像させる。が、
予断は禁物だ。
「その前に、大前提として――ラテックスの手袋は、誰にでも入手可能だった
と見なす。実際、この施設にはそこら中にある」
 ここは、敷地内の農園で農業体験ができるのが売りの一つで、ラテックス手
袋は、農作業時に希望者が着用する。これをはめた上に軍手を重ねると、手、
特に爪の汚れ方が格段に違う。消耗品であるため、大量にストックしてあるし、
保管体制も割といい加減なようだ。
「それでは、左手が使えなかった理由の一つ目。最もオーソドックスな仮説に
なるが、犯人には左手がなかった」
「な、なかった? そ、それが最もオーソドックスですか」
 都出がどもりながらも聞き返す。金山達は唖然としていた。
「違うかな? 左手がなければ使いようがない」
「それはそうですけど」
「念のため言い添えておくと、この仮説には、片腕の人物という場合の他、両
手はあるが、どちらも形が右手であるという場合も含む」
「……」
 探偵の口から発せられた仮説の中身が、あまりに奇抜だったためか、学生五
人は少しの間、沈黙した。
「とにかく、左手のない人や両手とも右なんて人は、私達の中にはいません」
 都出が答えて、ようやく話が進む。地天馬は満足げに頷くと、論理展開を続
けた。
「次の仮説は、犯人は左手に右手よりも遙かに目立つ特徴を有していた。その
ため、痕跡を残すのなら、どうしても左手を避ける必要があった」
「目立つ特徴っていうのは、個人が特定できるほどなんですよね。何があるで
しょうか」
 金山がオーバーなジェスチャーで首を捻った。都出が呼応する。
「サイズが極端に大きいか小さい、とか……」
「悪くない。でも、仮説を構築する段階では、もっと大胆になっていいと思う」
 地天馬が言った。
「例えば、指の本数が左手だけ六本以上あるか、あるいは四本以下である、な
んて。もしも指が六本あれば手袋をはめにくくて、恐らくは使えない」
「……地天馬さんがどういう探偵なのか、分かってきた気がする」
 ぼそりとつぶやいたのは島谷。金山は早く済ませようとばかり、文字通り早
口で言った。
「左手のサイズが普通と極端に違ったり、指が通常より多かったり少なかった
りする人も、僕達の中にはいません」
「結構。第三の仮説は、左手に怪我を負っていた。これには、左手が使えない
ほどではなくても、出血量が多めで、ノブに触れると犯行現場に自らがいた証
拠を残しかねないケースも含める」
「そういう怪我をした人は……いません」
 どことなく、遠慮がちに言った金山。彼以外の女性の内、三人も何だかおか
しな雰囲気だ。言いたいことがあるが、言っていいものか、迷っている。そん
な印象を受けた。
 すると、地天馬は残る一人の女性――堀に声を掛けた。
「堀さん。あなたは左の手のひらに、絆創膏を貼っているようですね、見せて
もらえますか」
「もう治ってるわ」
 嫌そうな顔こそしていたが、特段隠す様子がなく、彼女は左の手を広げて我
我に示した。ちょうど真ん中辺りに横一線、通常サイズの絆創膏が二枚並べて
貼ってある。
「これは?」
「リンゴをむくときに、手の上でやろうとして、ちょっと失敗しただけよ」
「僕らも証言しますよ」
 金山が口を挟んだ。
「昨日、夕食のあと、持ってきたリンゴをデザートにってことで、彼女が切っ
たんです。その最中に、城田の奴が声を掛けたのがよくなかったみたいで」
「手元がおろそかになっちゃったんだよね?」
 遠藤が声を掛け、堀は黙って頷いた。
 地天馬は再度、堀の左手を子細に観察し、結論を下した。
「ふむ。血は完全に止まっている。それに、傷も極浅い。早い段階で、止血で
きていたことでしょう。よって、これは犯人が左手を使わなかった理由には当
たらない」
 探偵の言葉に、堀だけでなく、遠藤も安堵の息を漏らした。
「ついでと言っては何ですが、皆さん、左手を挙げて、開け閉めをしてもらえ
ますか」
 地天馬は例を示すかのように、左手を掲げ、グーパーグーパーを繰り返した。
「見た目は何ともなくても、動かせなくなっている可能性を排除したいので」
 そう言われて拒む者はいない。私も含めた全員が、左手を動かせた。
「皆さん、ご協力をありがとう。四つ目の仮説に移ります。左手がふさがって
いた、換言すると、手放してはならない物を持っていた」
「怪我とかなら調べようがあるけれど、物を持っていたかどうかなんて、検討
のしようがありません」
 堅い口ぶりで都出が即座に応じるが、地天馬の言葉も早かった。
「一般論で考えて、一向にかまわないんですよ。自分で出した仮説を自分で否
定することになりますが、推理に厳密さを求めるため、通らねばならない過程
ですので」
「じゃあ、もう第三の仮説はあり得ないと?」
「多分。特殊なロジックを持ち出す訳じゃない。左手で何か持っていたのなら、
どうして右手に持ち替えなかったのか。持ち替えられないような物が、存在す
るだろうか。この問い掛けに、イエスという向きは、是非とも答を教えてくだ
さい」
 会議室がしばし、静かになる。皆、一通り考えているようだ。だが、いつま
で経っても、声を上げる者はいない。
「絶対にこぼしてはいけない液体を、容器一杯に満たして、それを運んでいた
なんてことは、ありませんね?」
 地天馬が極端な例を出して、念を押す。
「そんな液体、私達には無縁です。仮に犯人がそういう危険な液体を現場から
持ち出したなら、元々は城田君が所有していたことになるでしょうけれど……
やっぱり、あり得ない」
「そうだよ。彼はそんな危険な液体を持っていたはずないし、だいたいここに
来るまでに、液体がこぼれてるはずだ」
 都出の見解に金山が同意、補強した。そしてさらに、彼は別の可能性まで考
えていた。
「地天馬さん、こういうのはどうでしょう? 左手で持っていた物を手放そう
にもできなかった」
 対する地天馬はすでに考慮の範囲内の様子だったので、代わりに私が金山に
意図を問うた。
「どういうことかな」
「文字通りですよ。何らかの物体が手に張り付いて、離れなくなったのかも。
瞬間接着剤とかのせいで」
 金山が答え終わると、地天馬は即座に見解を示す。
「その可能性も検討してみた。結論としては、可能性は極めて低い」
「え、どうして」
「犯人は犯行時、手袋をしていたはず。右手だけでなく、左手にもね。左手に
何かが張り付いたのなら、手袋を脱ぎ捨てれば済む。代わりの手袋は、いくら
でもあるんだし」
「ああ、なるほどです」
「ちなみに、君達の内、瞬間接着剤の類を持ってきた者はいる?」
「いえ、いないと思います」
「じゃあ、この仮説も却下。次の仮説は……何番目の仮説と言えばよいのか分
からなくなったな。まあいい。一応、ラストの仮説――犯人自身の体液が左手
いっぱいに付着していたため、ノブに触れなかった。でも、これもさっきと同
じ理屈で却下。自分の体液をあちこちに残す行為を避けたいのなら、すぐに手
袋を換えるはずだからね」
「あれ? 全部の仮説が、却下されてしまうんですか?」
 都出が意外そうに声を上げた。そりゃそうだろう。名探偵が説得力のある仮
説を出してくると信じていたに違いない。
「だから、言ったでしょう。一応、と」
「本命を隠しているんですね」
「ノーコメント。現時点では、君たちに考えてほしいな、他に仮説が立てられ
るかどうか」
 地天馬は椅子に収まると、テーブルに両肘を付いた。関係者である五人の学
生達を等分に、眺めている。
「他にはありそうもないわ」
 遠藤が早々と白旗を掲揚した。仲間の死にショックを受けて考えるのがつら
い、と言うよりも、面倒がっているのが見て取れた。本心は分からないが。
「例えばですけれど」
 しばらくの沈黙のあと、そう前置きして始めたのは都出。やはり、彼女は議
論に積極的だ。
「犯人は、城田君に逆襲されて、慌てて逃げ出したのではないでしょうか。刺
した直後に左腕を掴まれ、危ないと思ってすぐに現場を出た。そのとき、右手
しか自由が利かなかったなら、当然、ドアも右手で開ける……」
「ユニークな説だと思う。でも、それだと被害者は必死になって掴みかかった
ことになるね。すると、掴みかかられた方の腕には、多数の傷が付くものじゃ
ないかな。爪が食い込んだり、あるいは噛みつかれたりすることもあり得る」
「……ですよね」
 左腕に爪痕を残された人物はいない。
「それに、私の見立てでは、城田さんは刺されたあと、短時間で亡くなったと
思う。残念ながら、反撃の力はなかった」
「それでしたら、僕の思い付きもあり得ないことになるか……」
 金山が独り言のように言った。地天馬は聞き逃さず、「いや、気にしないで、
言ってみて」と促す。
「犯人は何らかの理由で、ドアに背を向けて、後ろ手で開けたんじゃないかと。
これなら、右手で開ける方が、左よりもスムースに出られるでしょ?」
「ふむ……どうなんだろう? その場合だと、左右で大差ない気がする。大差
がないということは、右手で開けるかもしれない。いずれにせよ、後ろ手でド
アを開ける理由自体が見当たらない」
「はい。城田の反撃に遭ったなら、起こり得なくはないと思ったのですが」
 肩をすぼめ、意気消沈する金山。その空気が広がったかのように、最早誰か
らも意見は出なかった。
「地天馬、そろそろ、最後の仮説を披露していい頃じゃないかな」
「それじゃ、リクエストにお応えして。これまでに挙げた説のいくつかを、組
み合わせたようなものなんだけれどね。犯人は犯行後、尿意を我慢するために
左手を使った。しかも手を離すと漏らしてしまう状況に陥った。故に、ドアを
開けるには右手を使うしかなかった」
「――えっと、尿意ってつまり、小、のことですよね?」
 またもや静かになった室内で、最初に声を発したのは都出だった。
「その通り」
「漏らすと証拠になるから、我慢するのは分かります。殺人を犯したショック
で、急にしたくなるのも何となくありそうだと想像できます。でも、左手から
右手に変えられないとは思えないんですが」
「女性ならね。押さえている手をずらして、左から右にバトンタッチすること
は可能でしょう。しかし、男性はいささか状況を異にする」
「いやいや、男性も同じですよ」
 関係者の中で唯一の男性、金山がすぐさま反論した。
「ええっと、こんなことをみんなの前で言うのはあれですけど、男が尿意をこ
らえるとき、最終的には、その……一物を掴むことになるのが普通だと思う。
あれを左手から右手に持ち替えるのは、充分に可能ですよ」
「金山君、嘘はいけない。最終的とは嘘だね」
「な、何故ですか」
「いよいよ漏れるというとき、男性には尿を貯める容積を広げる手段がある。
オブラートに包んだ表現をするなら、“皮膜”を使えばいい。テレビ番組でお
笑い芸人が語っていたし、実行可能なのは間違いない――とは言い切れないか」
 控えめに自嘲をしつつ、それでも自信を覗かせる地天馬。いったい、いかな
る過程を経てこんな奇想天外な説に行き着いたのやら。
「し、しかし」
 犯人と名指しされたも同然の金山は、意外にも、汗を額に浮かべている。否
定の材料を必死になって考えているようだ。
「――そうだっ。右手が血で汚れていたから、そのまま左手で行こうと思った
だけかもしれないじゃないですかっ? 身体や服が汚れるのを嫌って」
「手袋を用意して、凶器を持ち込んでいるからには、この殺人は計画的なもの。
返り血対策も万全だったはず。なのに、今更身体や服が血で汚れることを厭う
なんて、考えられない」
「しょ、証拠はない」
 地天馬の余裕のある口ぶりとは対照的に、金山はどもりが酷くなっている。
「確かに、ロジックは筋道が通っていても、物的証拠はない。だが、いずれ到
着する警察に、私がこの推理を伝えればどうなると思う? 多少なりとも興味
を持ち、君を第一容疑者と見て積極的に調べてくれるに違いない」
「……」
「現場のコテージを飛び出したあとの犯人の行動を想像すれば、トイレかシャ
ワーに直行しただろうね。犯人はそこに一切の痕跡を残さなかったと、確信を
持っているのかな。被害者の血液にまみれた、自身の髪の毛や皮膚片が見つか
れば、立派な物証になる」
 地天馬は顎のすぐ下で両手を組み合わせ、金山をじっと見つめた。
 ものの三秒としない内に、相手は陥落した。
「参りましたよ、探偵さん。あんなに考えて立てた計画なのに、不運が三つも
重なって……」
 金山の言う三つの不運とは何だろう? 推測するに……四年前には恐らくな
かった防犯カメラが設置されていたこと、犯行時に尿意を催したこと、そして
名探偵と居合わせたこと、か。
「地天馬さん、僕があいつを殺した理由、教えましょうか」
「別にいい」
 地天馬は挑発を手で梳くと、席を立った。そして脱力したかのように座り込
んだ金山のそばまで来て、続きの答を口にした。
「興味がないとは言わない。でも、必要ない。警察に、じっくり聞いてもらい
なさい」
 背を向け、会議室を出ようとする。
 その刹那、室内の空気に緊張が走った。畳み掛ける推理に、唖然としていた
女子大生四人が息を飲むのが分かった。
 金山が不意に生気を取り戻し、床を蹴るようにして立ち上がったのだ。逃げ
るつもりだ! 察した私は「地天馬!」と叫んだ。
 が、声が届くよりも早く、地天馬は反応した。
 金山は探偵をよほど甘く見たのか、脇をすり抜けるか、あるいは人質に取ろ
うとしたようだったが――地天馬に左腕を取られ、あっさり、ひっくり返され
た。床にねじ伏せられた金山を見下ろしながら、「逃げる気なら、拘束する」
と事務的に告げた。
 それから私に拘束のための道具をもらってくるよう頼んだ。と、次の瞬間、
地天馬が急に表情をゆがめた。
 “彼女”は金山を改めて上から睨め付け、きつい調子で聞いた。
「あんた、手は入念に洗ったんでしょうね?」

           *           *

「うーん、ぱっとしないというか、カラーが違うというか」
 私の記した事件記録を読み返した地天馬は、天井を仰いだ。
 先代から引き継いだ探偵事務所に、今は私と彼女の二人きりだ。
「そう?」
「ああ〜、何て言えば分かってもらえるのかな」
 パソコンの画面から地天馬に視線を移した私。相手は髪をかきむしった。
「第一に、私みたいな女探偵が活躍するエピソードにしては、下ネタ過ぎる!」
「しょうがないよ。事実、起きたことなんだから」
「今度からこういう解決だった場合は、推理を教えるから、そっちが探偵をや
って。うん、それがいい」
「また無茶ぶりを……」
 額に手を当て、ため息をついてやった。彼女のような探偵のワトソン役にな
って、一緒に活動するとはどんな因縁があるというのだろう。
 私はふと思い付いて、地天馬に尋ねた。
「そういえば、何で男性特有の事柄について、詳しかったのさ?」
 意地悪の意図が少々あったのは、無論である。
「男性特有って、尿意の我慢云々?」
「そう、それ」
「何にやついてるの。男から聞いたに決まってるじゃない」
「え、でも、そんなことを聞ける仲の男友達、いたっけ?」
「父のワトソン役をやっていた人から聞いたのよ」
「……え? それって!」
「そう。あなたのお父さん」
 やられた。私は両手で頭を抱えた。最早、事件簿の小説化どころではない。
 そんな哀れなワトソン役の斜め前で、地天馬は微かな笑みを浮かべている、
きっと。

――終わり





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