AWC お題>警報   寺嶋公香


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#420/457 ●短編
★タイトル (AZA     )  13/07/15  22:15  (440)
お題>警報   寺嶋公香
★内容                                         13/07/31 20:09 修正 第2版
 机の上に資料を広げ、講義の進め方を固めていたとき、携帯電話が音を鳴ら
した。いつもの呼び出し音でなく、特別に設定しているブザーだ。
 勝原隆一は息を飲み、仕事の手を止めた。念のため、携帯電話を開いてディ
スプレイを確認する。
(……間違いないな。ここしばらくは治まっていたのに)
 隆一は嘆息し、部屋を出る準備を手早く済ませた。鞄を肩から提げ、廊下に
出ると小走りになる。玄関の手前にある窓口で立ち止まり、女性の事務員に告
げる。
「すみません。例のあれが……」
「分かりました。久々ですね。気を付けてください。もし、帰りが時間に遅れ
るようでしたら、連絡を」
 文字通り、事務的な口調だが、端々に気持ちが感じられる。隆一は「お願い
します」と言って、外に出た。
 白地に青と赤で描かれたロゴを目の当たりにしつつ、塾をあとにする。自宅
まで約五百メートル。歩きでもたいした距離じゃないが、少しでも早く移動で
きるよう、隆一は自転車を使っていた。
 予報では曇り時々晴れという天気の下、自転車で疾走すること二分足らず。
自宅に到着した。“勝原”の表札を横目に、家の周囲をぐるりと見て回る。祖
母のあの足腰で、ほんの数分で遠くに行けるはずがない。だから、視界にすぐ
に入るはず。
 が、見当たらなかった。
(ということは……一旦出たが、すぐに引っ込んだか。庭かな)
 そう考え、門扉の間を通る。玄関ドアが開け放してあった。足下を見ると、
土の部分に足跡が微かに確認できた。それを追って庭に回る。
 いた。
「ばあちゃん」
 背中に声を掛ける。祖母は庭の中程でしゃがみ込み、ミニトマトの鉢植えを
なでるような仕種をしていた。
「何か見付けたか? カタツムリでも付いてたか」
「いいや」
 肩越しに振り返った祖母は、思いの外、しっかりとした声で返事した。顔を
見ると、笑みを浮かべている。
「凄く赤くなって、きれいで、おいしそうに見えた。手に取ってみたくなった
んだよ」
 そこまで答えてから、隆一の顔をじっと見つめ、「隆一、今日は早かったん
だな」と言った。
「仕事で近くまで来たから、立ち寄った。顔を見られてよかったよ。でも、あ
んまり長く外に出てると、身体に触るから。そろそろ入ろうか」
「分かった。その前に、いいやつ、摘んどきたいんだけどな。何か、指先に力、
入らなくなっちまって」
「手伝うよ。俺が摘むから、ばあちゃん、手で受けて」
 祖母が顔の前に両手のひらで作った受け皿。しわは増えたが、血色はよくな
った気がした。

(考えてみれば、本当にトマトが気になって外に出たのなら、庭にまっすぐ向
かうはずだ。警報は鳴らない。実際には鳴った。恐らく、徘徊しそうになって、
すんでのところで踏みとどまったんだな。トマトは多分、後付けの理由。これ
からも気を付けないと)
 全ては交通事故のせいだった。隆一はそう思っている。
 隆一の両親が亡くなったのが事故のせいなのは、明白な事実だ。その十ヶ月
後、祖母に徘徊癖が出始めたのも、事故とは無関係ではないんじゃないかと想
像している。いや、徘徊は違うかもしれないが、足腰が弱り、手に力が入りに
くくなった点は、交通事故に起因しているに違いない。
 祖父はもうずいぶん昔からおらず、祖母の面倒を看られる者は、身内には他
にいなかった。教鞭を執っていた隆一は、しばらくは無理を言って教職と祖母
の世話とを両立していたが、徘徊の気が出るようになってからは限界に達した。
 教職を辞し、自宅近くにある進学塾に籍を得た。近いと言っても五百メート
ルほど離れているし、そもそも、ずっと自宅を監視できるはずもない。かとい
って、家中の鍵を内から開けられないようにして、祖母を閉じ込める訳にも行
かない。体裁がよくないし、万が一の災害時に危険すぎる。やむを得ず、監視
システムを導入したのが、二年と一ヶ月前だった。
 監視という名称だが、カメラで家の中のあちこちを見張る訳ではない。祖母
が敷地の外に出たときだけ、携帯電話を通じて連絡が入るシステムだ。祖母常
用のネックレスにそのための装置が取り付けてある。何らかのタイミングで、
遠方まで出て行ってしまったとしても、GPS機能を利した追跡オプションも
あるが、今のところ利用していない。
 このように、監視と言うよりも、見守り機能なのだが、それでも近所にはシ
ステムを導入したことについて何も話していない。ただ、祖母に徘徊の気味が
出だしたことだけは、それとなしに伝えている。伝えておけば、多少なりとも
普段から注意して見てくれるのでは、という期待を込めて。
「間に合いましたね」
 塾に戻った隆一に、女性事務員が微笑みかけてきた。
「何ごともなかったですか?」
「おかげさまで」
「それはよかった」
 女性事務員も、隆一の家庭の事情をある程度知る一人だ。でなければ、勤務
中に自由に出入りすることは難しい。
「ありがとう」
 息を整えつつ、礼を述べると、隆一は与えられた部屋に向かった。

 塾は日曜日も休みではない。子供にとっては学校がない分、押さえておきた
い分野を集中的に学習できる日と言える。塾の先生は、その指導やサポートに
努める。
 そんなある日曜の午後二時半。仕事を終えた勝原隆一が、じりじりと照り焼
きにされるような暑さの中、自転車での帰途でのことだった。
 自宅を目前にした地点でパトカーが停まっていた。何かあったらしい。我が
家から二軒隣の家とその周辺に、立ち入りを制限するテープが貼られている。
 暑さのためか、人だかりはさほどではないが、野次馬はぽつぽついる。
「何かあったのですか」
 顔見知りの主婦に、斜め後ろから声を掛けた。主婦は驚いたように振り向く
と、「勝原さん、今お帰り?」と日常的な挨拶で始めた。
「ええ。でも、直進は出来そうにないなあ」
「言えば通してくれるかも。ほら、あそこに立ってる警察官に」
 彼女がそっと指さした先には、なるほど、制服姿の警官がいる。若くて生真
面目そうな外見だ。
「それで、何があったか分かってるんですか」
「よく分からないんだけれども、石井さんとこで人が死んだみたいなの」
「え?」
 一気に非日常に引きずり込まれた感を覚える。
「殺人かもしれないんだって。青いシートで見えなかったんだけど、多分、圭
さんがお亡くなりになったみたいよ」
 石井圭。今、テープを貼られている家の主だ。息子一人孫一人と同居の女性
で、歳は確か七十八か九だった。
「お元気そうだったのに。トラブルを抱えているようにも見えなかった。強盗
か何かでしょうか」
 現実感が希薄なためか、とにかく喋っていようという意識が勝手に働く。こ
んな詮索するような真似、普段の隆一ならしない。
 相手の返事を聞く内に、ふっと、祖母のことを思い出した。もしかしたら、
近所で事件が起き、一人で不安を感じているかもしれない。こんな立ち話をし
ている場合ではなかった。
「祖母が心配なので、帰ってみます」
 会話を打ち切ると、隆一は見張りの警察官の方に足を向けた。自転車を降り
て押しながら、ゆっくりと近付く。自転車のスタンドを立てると、身分を証明
する物を探しつつ、話し掛けた。
「この二軒隣が、私の家なのですが、通れますか?」
 運転免許証を手に取った警察官は、顔写真と隆一とを見比べ、さらに記載の
住所を確かめる素振りをした。
「申し訳ない、まだちょっと。できれば、遠回りできませんかね」
「奥が行き止まりですから、無理かと」
「ではしばらく待っていてくだ――」
 語尾をはっきり言わず、何やら連絡を取り始める警察官。いくばくかの時間
を要したが、許可を得たようだ。
「余計な物を落とさないよう、自転車を押してゆっくり行ってください。それ
と、石井さん宅とは反対側の端を通るように」
「分かりました」
 ようやく入れた。ほんの数メートルのことなのに緊張した。反対側の規制線
をくぐるときには、余計な汗を掻いていた。
 ともかく、家に入る。祖母に声を掛けると、返事がない。いつもいるリビン
グに向かう。祖母は、教育テレビを付けたまま眠ってしまっていた。
「平和なもんだ。しょうがないな。まあ、出歩いて恐ろしい目に遭うことも、
騒ぎを聞きつけることもなく、よかったとすべきか」
 独りごちてから、窓際の揺り椅子で眠る祖母を起こそうと肩に触れた隆一。
その瞬間、異変に気が付いた。寝息を立ている祖母の衣服の内、夏用の薄手の
カーディガンに、見慣れない赤い染みを見付けたのだ。
(……血?)
 殺人事件が近所で起きたと聞いたせいもあり、連想が直結する。
 祖母自身がどこかに怪我をしているかもしれない。染みは胸元にあり、その
上から滴り落ちたのだとすれば、頭部か顎か、あるいは鼻血か。
 ざっと見たが、特に異常はなかった。ほっとしてから、次に染みに鼻を寄せ、
匂いを嗅いでみた。
(……分からん。鉄臭い気がしないでもない。ケチャップじゃないことだけは
確かだ)
 鼻の効きがよくないと自覚している隆一は、後ろを向いた。庭に面した大き
な窓がある。今の時期、格子戸にして風通しをよくしている。祖母がエアコン
の類を嫌う質で、夏の盛りを迎えるまでは、これで過ごすことになろう。
 格子それぞれの間隔は、およそ二センチ。祖母が何ら問題を抱えていない内
は、網戸でよかったのだが、現状では防犯を考慮し、特別な格子を取り付けた。
デザインに工夫が施され、牢屋のイメージを抱かれぬようになっている。
(窓を閉めれば、匂いが拡散しなくなって、分かるかも)
 そんなことを考えた隆一だが、実行する前に、玄関のチャイムに呼ばれた。
 祖母を起こし損なったまま、玄関に向かう。ドアチェーンを掛け、細く開け
たドアの隙間から誰何すると、相手は警察の者だと言った。手帳で確認も取れ
た。
「石井さん宅の件で、少しお話を伺いたいと思いまして」
 神口という中年の男性刑事は穏やかに始めた。人手が足りないのか、二人一
組ではなく、彼一人だけだ。
「と言われましても、私はつい先ほど、帰ったばかりでして」
「存じておりますよ。見てましたから。仕事帰りだとも聞きました。で、あな
たの他に在宅の方がいらっしゃれば、話を聞きたいと」
「いるにはいますが、どうなんだろう。ばあちゃん――祖母と二人暮らしなん
ですが、祖母は何と言いますか、多少、老化が進んでまして、参考になる話が
出来るかどうか。そもそも、家に籠もりきりの生活ですし」
「はい、近所の方から伺いました。それでも、窓から何かを見たり、あるいは
音を聞いたかもしれない」
「どうでしょう。私が帰宅した時点で、祖母は眠ってましたから」
 隆一としては、協力できることがあるのならしたいと思う一方、祖母に煩わ
しい思いをさせたくないという気持ちも強い。寝ていた祖母が何かを見聞きし
ている可能性は極めて低いだろうから、このままお帰り願いたいところ。
 だが、神口刑事は粘る。
「じゃあ、直に聞きはしませんから、代わりに、おばあさんのいる部屋を見せ
てもらえますか。外での出来事を目撃する余地があるかどうかだけ、確認させ
てください。そうでもしないと、私も帰るに帰れんのですわ。上司にどやされ
ちまう」
「……少しの間なら」
 あまり強くはねつけると悪印象を与えてしまう。そう考えて、許可した。
「祖母はまだ眠ってると思うので、できれば起こさないように頼みます」
「配慮します」
 小声で請け合った刑事を、隆一は部屋に案内した。見ると、祖母はまだ寝息
を立てている。隆一はリモコンを取り、テレビをオフにした。
「失礼をします――」
 やはり小さな声で祖母に断ってから、刑事は窓際に立った。格子戸とは反対
側、通常の窓ガラスを通じて外を見渡す。
 塀代わりの生け垣は、高さはそこそこあって目隠しになっている。ただ、数
箇所ある大きめの隙間からなら、意識して覗けば向こう側が見えるだろう。
「分かりました。念のために伺いますが、おばあさんの目、視力はどれくらい
で」
「具体的な数値は覚えていません。が、よくはないですよ。コンマ一以下なの
は間違いない」
「耳はどうです?」
「年齢相応に、悪くなってますね」
「となると、やっぱり期待しない方がよさそうですな。ところで――」
 刑事は向き直ると、不意に祖母を指さした。
「この赤い染みは何です?」
 忘れていた。隆一は後悔したが、もう遅い。お引き取り願いたいのに、長居
の口実を与えてしまった。いや、もしかすると、もっと悪いかもしれない。
「――分かりません」
 一瞬、気付いていなかったふりをしようかとも考えたが、やめた。やましい
ところはないのだ、嘘をついても仕方がない。
「帰ってきて、祖母を見たら、そうなってました。もちろん、私が朝、出掛け
るまで、そんな染みはなかった」
「どこにも傷はないようですが……」
「えっと、それ以前に血なんですか、それ?」
「私の経験に照らすと、血である可能性が高いですな。ところで、これもご近
所さんから聞いたんですが、あなたのおばあさんと石井さんとは昔、一悶着起
こしたことがあるそうで」
「一悶着? 何のことか……ああ、ごみ出しの? 二年ぐらい前のことですよ。
祖母が曜日をちょっと勘違いしただけで、その場で解決した」
「他にもあるでしょう。あなたが小さな子供のときに、騒音問題で揉めたとか」
「バイオリンですか。あれは私が元々熱心じゃなかったから、やめられてあり
がたかったぐらいだ。そんな大昔の話を持ち出して、何が言いたいんです?」
「おばあさんは、ひどくご立腹されたんでしょう? かわいいお孫さんの教育
に口出しされて」
 その敬語の使い方は間違いだ。隆一は気付いたが、無論、声に出しての指摘
はしなかった。
「ほんの一時のことです。解決済みだ。刑事さん、そんなことで祖母を疑うな
んて、本気じゃないでしょうね」
「ここに上がるまでは、本気じゃありませんでした。でも、血の染みを見たか
らには、考え方を変えざるを得ない。調べさせてもらいますよ」
 刑事は、表情は初対面のときのまま、有無を言わさぬ口調になっていた。
「――刑事さん、染みを調べる前に、聞いてもらいたい話があります。祖母が
一歩でもこの敷地を出ると、私に知らせが届くようになってるんです。その動
きは、メーカーのサーバーにも記録されているはず」
「……よく分からん。詳しく聞かせてもらいましょうか」
 眉間にしわを作り、刑事は腕組みをした。その衣擦れの音が聞こえたのか、
隆一の祖母が「ううーん」と声を漏らし、目をゆるゆると覚ました。

 おかしな事態に陥っていた。隆一も捜査陣も頭を抱えていた。
 隆一の祖母、勝原常子のカーディガンに付着していた赤い染みは、血痕であ
った。間違いなく人間の血液であるどころか、殺人事件の被害者たる石井圭の
血液と一致したとの鑑定結果が出ていた。
 凶器は料理包丁と推測されたが、現場にはなかった。被害者宅の台所から、
包丁が一本消えているため、それが用いられたと考えられた。その後、勝原家
を捜索した結果、庭の隅の土に深く突き刺す形で置いてあったのが発見された。
犯人によって拭われたのか、指紋などは全くなかったが、血液は被害者の物が
検出された。
 加えて、常子のいた部屋の床からもほんの三滴、同じ血液が少量ながら出て
いた。常子の右側、窓との境目の絨毯に、小さいがはっきりとした跡を残して
いた。常子が右利きだったことから、右手に着いた血が、帰宅後に落ちたので
はないかとの見方が有力視された。
 これらの証拠から、勝原常子に容疑が向けられたのは、当然の成り行きと言
えた。
 一方で、勝原常子が事件当日、自宅から一歩たりとも出ていないことも、綜
合警備会社のコンピュータサーバーにて照会、確認がなされた。故障や改竄の
形跡はなく、常子がネックレスを外した事実もない(外すとその行為自体がサ
ーバーに記録される仕組みになっている)。
 他にも、常子の関与を否定する材料はあった。彼女の現在の足腰では、石井
家まで往復するだけでも大変で、ましてや石井圭を刺殺するなど不可能に近い
と考えられた。被害者が動けないようにした上で、体重を乗せて倒れ込むよう
に刺せば可能と推定されたが、これとて体力の消耗が激しく、起き上がること
さえ一苦労だろうと見なされる始末。返り血も大量に浴びるため、とても染み
程度では済まないという。
 様々な要素を勘案し、現時点では勝原常子の身柄は自由なままだ。尤も、警
察の監視は付いているだろうし、彼女自身、自由に動ける身体でもないが。
「またですか」
 すっかり顔なじみになってしまった神口刑事の来訪に、隆一はつい皮肉っぽ
い笑みを浮かべて応じた。
「悪く取らんでもらいたいですな」
 神口刑事は玄関に立ったまま、真顔で答えた。
「どういう意味ですか。疑いを解いていないのは知っていますが……」
「あなたのおばあさんが犯人じゃないにしても、無関係とは思えんので。犯人
じゃないのなら、真犯人に濡れ衣を着せられそうになってるということでしょ
うが。そいつはおばあさんに何らかの恨みを抱いてる奴かもしれない」
「祖母に聞いても、有益な返事は得られないと思いますよ。ご存知でしょうが、
記憶があやふやなことが多くて。証言としては、心許ないんじゃないですか」
「そこなんだが……犯人は、おばあさんについて、よく知らなかったとう場合
も考えてみたいと思いましてね。協力をお願いしますよ」
「ん?」
 今までとはいささか異なる見方を持ち出してきた刑事。隆一も気になった。
しばし逡巡し、上がってもらうことにする。
「よかった。こういう場合、近くの喫茶店にでも出向いてもらうことが多いん
だが、今の勝原さんの立場だと、おばあさんを一人にしておけないでしょうか
らな」
「短時間なら、大丈夫ですよ。近所の人も、何人かは察しているはずですし。
それはそうと……インスタントのアイスコーヒーを出すのはオーケーなんです
かね」
「賄賂になるかどうか? 茶菓子や飲み物程度なら問題ありません。まあ、建
前上、お構いなくと言っときましょう」
 隆一は自分の分と合わせ、アイスコーヒーを注いだグラス二脚を用意した。
 刑事は少しだけ口を付けると、早速本題に入った。
「最前、言いましたな、勝原さん。おばあさんの状態について、近所で知って
いる人が一部いるというようなことを」
「は? ええ、まあそうですね」
「石井圭さんを殺害した犯人が、他人に罪を擦り付けようと考えた場合、おば
あさんのような方を選ぶものだろうか。それが目下の私の疑問です」
「つまり、祖母のような高齢者を犯人に仕立てるのは、無理のある計画だと?」
「その通り。いや、少しニュアンスが違うか。足腰が悪く、徘徊の気味がある
高齢女性に濡れ衣を着せようなんて、普通なら考えない」
「ですが、この事件の犯人は、そうしたに違いないんです。祖母を犯人に仕立
てようとしている」
「個人的には、私もその線に傾いている。だから、そんなに興奮しなくても大
丈夫ですよ」
 言われるほど興奮が現れていたのか、と顔を手の平で拭う隆一。アイスコー
ヒーでクールダウンをはかってから、刑事の話に耳を傾けた。
「犯人が濡れ衣を着せる相手におばあさんを選んだのは、石井圭さんとおばあ
さんとの間でのもめ事を知っていたからかもしれない。だが、それ以前に、お
ばあさんの健康状態について、よく知らなかったためとも考えられる」
「……なるほど。知っていたら、わざわざ祖母を殺人犯に仕立てようとは思わ
ないでしょう。土台、無理があるのだから。ということは、この近隣で祖母の
状態について知らない人が容疑者に……?」
「加えて、被害者とのもめ事は把握していた人物になりますかな。あなたにお
願いしたいのは、条件に当てはまる人物のリストアップです。ああ、その中に、
石井さんと揉めていた人物がいれば、なおいいが、そこまでは求めません。凶
器を準備していなかった点から、計画的ではなく、衝動的な犯行だった可能性
も大いにあるので」
 神口刑事の方針に納得した上で、隆一はリストの作成を始めた。

 隆一の作ったリストと、捜査員らによるアリバイ確認などを照らし合わせ、
可能性のある人物は二人に絞られた。
 園山梨奈は一家三人の主婦で、この区画に越して来て間がない。少なくとも、
隆一の祖母の具合を察しているとは考えにくかった。反面、被害者と勝原常子
との間に起きた何年も前のトラブルを知っているかどうか、いささか怪しかっ
た。人の口に戸は立てられないので、噂が伝わる可能性はある。それを言い出
すと、きりがない。
 角川陽平は定年退職間近の、夫婦二人暮らし。事件当日は、元々は息子達の
誘いで夫婦共々出掛ける予定だったのが、前日になって急に体調が優れないと
言い出し、家に独り残ったという。区内では古株で、当然、過去のトラブルに
ついて知っている。一方で、勝原常子の身体の具合を全く知らないというのは、
仕事一筋で生きてきた男らしいと言えばらしい。
「リストに挙げておいてなんですけど」
 神口刑事の経過報告に感謝の意を示したあと、隆一は眉根を下げた。
「私にはどうにも信じがたいです。お二人のどちらかが殺人犯だなんて。そり
ゃあ、親しくお付き合いをしている訳じゃありませんが、園山さんのところの
奥さんはおとなしめで、人と喧嘩するタイプには見えません。角川さんにして
も、冷静沈着を絵に描いたような人ですよ」
「確かにね。我々の調べでも、石井圭さんとの接点が、いまいち判然としませ
ん。被害者との間にトラブルがあったという話も、皆目なし」
「間違えていたんでしょうか……」
 ため息交じりに肩を落とす隆一。刑事は意外そうに片目をつり上げた。
「あれあれ。あなたがそんなこと言ってどうするんです? おばあさんを犯人
と認めるんじゃあないでしょうな?」
「とんでもない!」
 隆一は首を激しく横に降った。
「私が間違えたかもと言ったのは、リストですよ。リストに漏れがあったのか
もしれない」
「ふむ。実は、それくらいは想定の内でしてね」
 隆一は、刑事が前提を覆すようなことを言い出したので、目を見開いた。
「どういう意味ですか、刑事さん」
「最初からご近所さんに限定したでしょう? あれがよくなかったのかもしれ
ない。石井さん宅に出入りする人物についても、もっと詳しく調べる必要があ
る」
「そうか……」
「が、今現在、私が気にしているのはその点ではなく……血痕の謎が問題なん
です」
「ああ、それがありましたっけ。犯人はどうやって、うちの祖母の服に血を付
着させたのか」
「包丁の方は、家の門から忍び込み、そっと置けば気付かれない可能性は充分
あります。だが、服に血液となると、勝手が異なる」
 事件当日の勝原家は、玄関や勝手口は言うに及ばず、窓も全て、内側からし
か開け閉めできないようになっていた。犯人がどうにかして入り込み、眠って
いる常子に血を付着させた後、何らかの方法で施錠した上で逃走したというの
は、まず成り立たない。
「いわゆる密室状態の家に入れないとなれば、方法は一つだけ。おばあさんを
呼び出し、隙を見て噴き掛けたとしか――」
 刑事の台詞を、隆一が強引に引き取る。
「それは絶対にあり得ません。祖母が呼び鈴を聞きつけ、応対に出られるとし
たら、正常なときです。もし正常なら、血のような物を掛けられて気付かない
はずがない。それだけしっかりしてるんです」
 力説に、神口刑事は「分かってます」と、隆一の勢いを制するように手のひ
らで押さえるポーズをした。
「何度かお話をさせてもらって、その点はようく理解できました。しゃきっと
しているときは、この上なくしゃきっとしている」
「すみません。分かっていただけているのなら、いいんです。祖母はほんと、
何ともないときは、起きてさえいれば……」
「うん? どうかしましたか」
 明らかに台詞の途中で黙り込んだ隆一に、刑事は怪訝そうに首を傾げた。
 隆一の方は、たった今思い付いた仮説を砂上の楼閣に終わらさぬよう、きっ
ちり組み立てようと、脳細胞をフル回転していた。
「――神口さん、こんなことまで教えてもらえるかどうか不安なんですが」
「何を今更。遠慮なく言ってもらいましょう。言うだけならタダ。答えられな
いようなら、はっきり断りますよ」
「被害者宅から、何かなくなった物はありませんでしたか。包丁以外で。スト
ローみたいな物かもしれない」
「えっと、確か、金目の物は手つかずで置いてあって、唯一つ……」
 メモを繰る神口刑事。じきに目当てのページを見付けた。
「あった、これだ。孫がいい歳して科学の実験好きで、大人の科学実験セット
みたいな物を、ずっと買い続けているんだそうです。その中の一点が消えてい
たとの報告が上がってますな」
 刑事の答は、隆一の顔に喜色を一挙に広げた。
「ありがとう、神口刑事。正解とは限らないけれど、思い付いた方法がありま
す。ぜひ、検証してほしい」
「伺いましょう」
 居住まいを正す刑事に、隆一は慌てて肝心の質問を発した。
「大前提として、その実験セットには、スポイトか注射器の類が入っていたと
思うのですが、いかがですか」
 この問いに、刑事はすぐに返答した。
「分かりましたよ、勝原さん。あなたが何を考えているのか」

 容疑者逮捕が報じられたのは、隆一と神口刑事がこんな会話を交わした二日
後だった。
 保田光太郎というセールスマンで、石井家には幾度も足を運び、被害者とも
親しかったという。その親しさは個人的なそれになり、保田は石井圭から投資
名目で大金を引き出していた。実際に運用していたようだが、最初に口約束し
たような利益は出せず、それどころか赤字を増やしていた。しばらくはごまか
していた保田だったが、当日、事実を突き止めた石井圭に詰問され、とっさの
犯行に及んだらしい。
 保田は被害者と親しくなる過程で、愚痴も聞かされていた。その中に、二軒
隣の勝原常子に関する話も含まれていたのだ。そいつに濡れ衣を着せられるか
もしれないと考えた保田は、石井家から凶器の包丁とともに、ちょっとした下
準備をした科学実験セットを持ち出し、目撃されぬよう、勝原家に向かった。
門から忍び込み、観察し、常子が庭に面した窓際で居眠りしていると知る。そ
っと近付くと、保田は格子の間から実験器具の注射器を使い、被害者の血液を
室内に向けて噴出させた。血は、保田の思惑通りにカーディガンに染みを作っ
たが、床にも落ちた。
 包丁も格子の隙間から投げ入れようとした保田だったが、包丁の持ち手が僅
かにサイズが大きく、通らなかった。仕方がないので、庭の隅に突き立てるこ
とにした。
 このようにして犯行を遂げた保田だったが、最後の詰めを誤った。注射器は
科学実験セットとともに、近くを流れる川に捨てたのだが、そのとき指紋の拭
き忘れがあった。
 注射器の内側に付いた指紋を、すっかり失念していたのだ。

「おかげで助かりましたよ。あのとき、勝原さんが思い付いてくれなかったら、
こんなに早く、解決していなかったかもしれない」
「それは謙遜が過ぎるってもんですよ、神口さん」
 保田が犯行を認め、起訴が固まったとの知らせを持って、神口刑事は隆一の
家を訪れていた。
「いや、本気で言ってませんね? 本気なら、感謝状と金一封を持って来てい
たっていいのに、見当たらない」
「さすがに、そこまでは」
「こちらこそ感謝しています。神口さんが、こちらの話を信じてくれて、お願
いも聞いてくれたから、祖母の無実を証明できた」
 晴れ晴れとした表情で言い、隆一はそっと後ろを見やった。目線の方角には、
壁を隔てて祖母がいる。テレビで懐メロ番組を見ていたが、また眠ってしまう
かもしれない。
「お礼と言っちゃなんですが、神口さんを一度、食事に招待したいと思ってま
す。もちろん、我が家の手料理なんてたいした物はないから、どこかのお店で」
「そりゃいけませんや」
 顔の前で手を振る刑事。
「私も含めて、警察は警察の仕事をしただけなんで。逆に、私は個人的にあな
た達にごちそうしたいくらいだ。おばあさんには、一時でも疑ったお詫びも兼
ねて」
「嬉しい話ですが、祖母が外出できるのは、タイミングが難しいんですよねえ」
 困り顔になった隆一に、神口刑事も似た表情になる。
「そうか。私もいつ休みが取れると、確約できる訳じゃないですしなあ」
 ぼやき気味に言ってから、ふっと、笑みを戻した。
「まあいいじゃありませんか。いずれ都合のいいときにということで」
「神口さんがそうおっしゃるのでしたら……」
「出掛けるときは、見守り装置の解除を忘れずに」

――おわり





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